昭和二十年(一九四五)八月十五日、終戦の日を迎えた都民はホツとした表情、ぼう然とした様子などさまざまであつたが、しばらくはなす所を知らずの有様であつた。やがて米軍の進駐が行われ、マツカーサー司令部よりの相つぐ民主々義的改革の指令に勇気づけられて「廃墟東京」の復興のために都民ははなばなしく活動をはじめた。
焼残つたビルや大邸宅の多くは進駐軍の接収する所となつたが、それらのビルや住宅の改修の外に集団米軍家族宿舎の新規建築事業があり、これらの事業は命令によつてすべて短期日間に完成しなければならなかつたので東京都の渉外部では特別建設事業所を設置してその設営建設に当つた。ここで一言すべきは成増飛行場跡のグラントハイツの建設である。
グラント・ハイツは戦時中の飛行場あとに建てたもので、陸軍が戦時中こうした所に飛行場をもうけたものの、特
別に使用されることもなく終戦となり、そのあとに長い滑走路が残つていた。まわりはしばらく麦畑として附近の人が食糧難を補つていたが、この滑走路を利用して進駐軍の家族住宅を作ることが自動車で通勤したりするにも便利だというのでここが選ばれたという。 画像を表示区内の旭町にあるグラント・ハイツは二十二年四月起工、二十三年六月竣工したもので、敷地面積六〇万坪、住宅四万坪(一、二六〇戸)、公共施設二万坪(小中学校、PX、劇場、電話交換室変電所、汽罐室、クラブ、教会、倉庫、従業員宿舎、消防所、管理事務所)という巨大なもので、使用したセメント七〇万袋、三〇万石、労務者延二百八十万人を動員した大工事であつた。このグラント・ハイツの新築工事のために二十二年三月成増建設事務所が設置され、約八〇の土建会社と建築会社とがめいめいその技を競つて突貫工事で完成したが、この工事で業者の間に「成増裁判」という言葉が生れた。それは大会社の下請として比較的小さな会社が仕事をしていたが、約一週間仕事のテストをやり、その業務態度、能率の点ですこしでも他社に劣るようだとただちに現場出入りを差止められることをいつたのだという。こんなに苦労してグラント・ハイツが出来たのである。都側の人々の苦労もなみなみでなかつた。
ここに労力を提供する「進駐軍労務者」の狩集めも亦大がかりなもので、早朝の池袋駅前はグラント・ハイツ行の
労務者をのせたトラツクがひしめきあい、夕方のひとときも亦大混雑をみせるといつた風景がしばらくの間池袋駅頭の名物の観を呈した。こうして練馬の一部の広大な地域に進駐軍のための一立入禁止区域が出来、それらの人々の生活がはじまると、附近の日本人達の家々にも多少の影響はあつて、板橋区側の一部には赤線地区らしいものもできていつた。
特にグラント・ハイツから出る塵芥が区内では大きな量で、あまつさえ物資豊富な進駐軍のことであるから、これらの中には家畜の飼料になる残飯や、玩具・日用品・家具などに更生できる利用価値の大きいものがふくまれていたので、終戦直後の物資不足時代にはここはいろいろの面で日本の業者達に利用され、うまい汁をすつた人々もあつたという。
ここの住宅から毎日外人が出入するのであるから、風俗その他に影響を与え、区内や板橋の住民の一部にはその生活の上にアメリカスタイルをとり入れるといつたよい点もあつたようだ。
もう一つの大きな変化は自衛隊の設立である。戦後の民主々義憲法の論議が云々されている間に、自衛隊が作られることになり、各地で問題となつたが、練馬にも昭和二十六年九月より設置された。
陸上自衛隊 練馬部隊の概要
第一 練馬部隊の位置
東京都練馬区北町二丁目一番地
画像を表示第二 練馬部隊の誕生
昭和二十六年九月二十五日工事中であつた練馬営舎の一部が完成したので第一連隊の一部が久里浜営舎より現練馬営舎に移転した。
更に同年十一月五日に至つて管区総監部及び直轄各隊が習志野営舎より、現練馬営舎に移動し、ここに練馬部隊は完全に編成を完了した。
又豊島分とん地については、昭和二十七年六月第六六五通信運用大隊が水島営舎より部隊移動し現豊島部隊が誕生した。
第三 練馬部隊の部隊数、敷地数及び人員
現練馬部隊は管区総監部を初めとして第一普通科連隊及び管区直轄各隊等合せて二十余の部隊約三千数百名が約八万坪の敷地に駐とんして日々訓練にいそしんでいる。
第四 自衛隊の訓練
自衛隊は自衛隊法第三条によつて「我が国の平和と独立を守り。国の安全を保つため直接侵略及び間接侵略に対し、我が国を防衛することを主たる任務とし、必要に応じ公共の秩序の維持に当る」ことを任務としておるので行動は常に部隊として行うもので如何なる事態が突発的に発生しても之に対応するだけの力を養うよう平素より訓練に邁進している。
第五 娯楽設備
若い隊員を沢山擁している部隊として隊内におけるレクリエーションは非常に盛んである。
野球部・排球部・卓球部・競技部・ラグビー部・籠球部水泳部・空手部・柔道部・剣道部・写真部・音楽部等の各部があり・盛んに活動している。
室内教養娯楽として図書室において図書の貸出を行い、将棋・囲碁等用品を支給し夫々の趣味に合致するよういろいろ手配してある。
又毎週定期的にニユース映画を上映する他・演芸会・レコードコンサート、のど自慢等を開催している。
なお隊外には隊外クラブを設置して安価に利用出来るよう目下準備中である。
養育院の復興事業の一つとして浮び上つつたのが養育院練馬分院となつた、旧造兵廠練馬倉庫である。
養育院では終戦後直ちに五割七分を戦災で失つた痛手を補うため板橋分室に隣接する旧陸軍第一造兵廠女子工員と大山生徒舎のかりうけ、または買収を交渉したが果さず、板橋町四丁目の同廠大山至誠寮を借受けて事業を開始したが、やがて二十一年には生徒舎の一部使用もゆるされた。
同時に陸軍第一造兵廠練馬倉庫の使用を交渉、途中米軍の接収問題があつてゆきなやんだが、甲乙丙丁戊巳地区に分れていた同倉庫の丙丁地区をとりあえず練馬分院の建設地とし、改修工事を行つて二十二年九月業務を開始した。土地六千四百三十坪、建物一千七百二十三坪、現在収容者数二百三十二名の内、男百名、女百三十一名である。
昭和十年創立以来名物的存在であつた大泉撮影所も戦時中軍需工場大泉製作所となつたりしていたが、終戦後の二十二年十月株式会社大泉スタヂオの設立と共に、再び撮影所として復活し、貸スタヂオとして映画の製作を開始するに至つた。その後自主映画の製作をもはじめ、昭和二十六年四月東京映画配給株式会社との合併によつて東映東京撮影所として再発足し、活況を呈している。
二十二年になつて、内務省令によつて町会部落会隣組などは一さい三月限りで廃止することとした。しかしこれは完全に実施されずに一部に親睦の団体の名目で温存されていたので、総司令部の指示により、五月になつてポツダム宣言受諾にもとずく政令第十五号がでて、日本の民主化のため根本的に町会隣組の廃止を命じ、それらしいものの存続を徹底的になくすことにした。こうして戦前から戦後をつうじて「上意下達」組織であつた町会・隣組は解消されることになつた。よきにせよ悪しきにせよ町会隣組が戦時中の下部細胞組織として大きな役割を果した功績は認めなければなるまい。
本文> 節> <節>終戦後の混乱、旧道徳秩序の破壊は大都会である東京に最も大きく影響を与えた。復員者、引上げ者の外、疎開か
らの復帰者が、焼け払われて住宅の乏しいこの都会に入りこんでくるだけでも大変な事なのに、更に食糧の不足という困難がまちかまえていた。戦時中は強力な統制のもとに維持されていた主食の供出も終戦と共に全く供出意欲が低下し、且つは次第におしよせるインフレの波に闇流しが行われ、東京のような大都市においては主食の遅配が行われ出した。二十一年三月政府は最後の手段として供米強権発動の断を下したが、容易に切り抜けることは出来ず、廿一年五月には都内の欠配遅配は一週間二週間は普通のこととなり、都内平均一八・九日、最高二六日といつた状態となつた。このため生産地への買出しが殺到し、麦の供出にも悪影響を及ぼすほどであつたが、特にサラリーマン達は三月ごろから食糧買出しのための欠勤が春ごろから続出し、六七月ごろには官庁の一部にも食糧買出し休暇を認める所さえあつたほどであつた。
生活は終戦直後の十一月下旬生鮮食糧品の統制撤廃を機に急激に値上りを示し、物価の高騰は米の闇値とともにどんどん昂進し、遂に政府も廿一年三月には水産品、四月には青果物の再統制を行い、三月から一般給与を五百円でおさえ、生活費とし世帯主三百円(四月から百円)家族一人について百円の封鎖支払をみとめ、他はことごとく封鎖する所謂五百円生活がはじまつた。しかし急調子に上る物価と配給の不円滑のため、このワク内で生活を維持することは不可能であつた。そのため各所に物資と衣類を交換する交換会のようなものができ、農村への買出しには焼残つた貴重な衣類が持運ばれ庭先きで米や麦と交換する竹の子生活を余儀なくされた。廿一年七月から八月にかけて配給は最悪の状態にたち至つたが、政府の努力で米軍による輸入食糧の放出が許可され、十一月からは一応この危機がきり
ぬけられるようになつたが、インフレの昂進は、活発な労働運動と相まつて、廿二年二月の所謂二・一ストにまで発展したが、この中止命令以来、逆に労働運動にブレーキがかけられるようになつていつた。しかし民主化の線は大きく農地の問題にむけられ、廿一年二月、さらに第二次としして十二月に農地の改革が行われて、自作、小作別農家の数が逆転し、はじめて自作農が多数をしめるようになつていつた。区内の農地においても大きな変転が行われた訳である。
一方社会秩序の混乱と歪曲された自由主義にもとずく道義のたい廃は、娯楽面にもエロチツクな傾向が強くなり、ストリツプの流行やカストリ雑誌の横行という一時享楽的な現象がみられたが、更にインフレの高進や生活の困窮化は戦前と比較にならぬ多数の犯罪を発生させ、わずかの金銭のために数人を殺傷する犯罪が平然と行われる状態で、椎名町に起つた二十三年一月の帝銀事件などは区民を特に驚ろかした。
しかし二十四五年頃から食生活が安定し、主食以外の統制物資が相ついで統制をとかれると共に、物資の出廻りも順調に、生活は急ピツチで豊かになつていつた。
池袋の戦後のおどろくべき発展と共に、区内に住居を求める人々が益々増加し、商店街も活況を呈してゆき、これに相応ずるかのように区内の各所で農地から宅地への転換が行われ、区内は社会状勢の安定と共に住宅をたてるノミとツチの音が林にこだまして、住宅地区としての発展をつづけるようになつた。
画像を表示 画像を表示 画像を表示 画像を表示 画像を表示 画像を表示 画像を表示 画像を表示 画像を表示 画像を表示 画像を表示 画像を表示 本文> 節> 章> <章>ポッダム宣言によつて、「民主主義の復活とその強化」ということが、わが国のあらゆる方面における最高のみちしるべとなつたのであるが、憲法改正のうごきとあわせて地方行政制度も、すべての点で、検討されることになつた。
昭和二十一年七月二日「東京都制の一部を改正する法律案」「市制の一部を改正する法律案」及び「町村制の一部を改正する法律案」「府県制の一部を改正する法律案」の四法案が、第九十帝国議会に提案され、九月二十七日に法律第二十六号乃至第二十九号として公布された。
これらの法律改正を第一次の地方制度改革と呼んでいるが、わが国の地方自治制にとつては、革命ともいうべき大改正であつて、この改革の根本とするところは、
その具体的な要点をかかげると次の通りである。
<項番>(一)項番> 選挙権の大巾拡張、選挙権は二十才以上の住民で、六カ月以上市町村に居住する者に、被選挙権は二十五才以上の者にこれを認め、特に女子にも男子と同一条件による参政権を認めること。
<項番>(二)項番> 直接請求制度を新設、これは一定数の選挙人に対し、条例、規則の制定請求、市町村長等の解職請求、地方議会の解散請求及び事務監査の請求権を認めることである。
<項番>(三)項番> 選挙管理委員会、監査委員制を新たに設けること。
<項番>(四)項番> 東京都の区の権能を拡充し、区長は住民の直接選挙によつて選任すること。
このことによつて、わが地方制度は、従来の中央集権的で官僚主義的なものから、地方分権的で、民主主義的なものに、大きくかわつていつたのである。東京都の区は、はじめは極めて簡素な自治区であつたものを、市と同じ権限をこれによつて与えられることとなつた。すなわち、法律、命令その他によつて、国や都の事務を行わせることができるとした。一方執行機関に対する議決機関である区議会の権限をひろげ、区議会、選挙管理委員会、監査委員等を設け、区長は公選にして、いわゆる「住民による、住民のための、住民の区政」が、行われることとなつたのである。
久しい以前より、広い板橋区の六割を占めていながら、行政の圏外におき忘れられて、めぐまれなかつた練馬支所管内の人々は、自らの手で自らを治める住民自治が、このようにつよくたかまつた時代の、はげしい流れの中にあつて、独立したいという望みは、ここで火のように、燃え上つていつた。昭和二十一年七月二十九日には住民を代表し
て町会長、区会議員、各種団体長が全員協議を行い練馬区設置の決議を行つている。これにうごかされて八月七日、板橋区会は、練馬区独立の動議を成立させ、自治振興委員会にこれを付託し、審議させることとなつた。その委員長報告を記すとつぎの通りである。
<資料文>去ル八月(
八月七日以来数回ノ委員会デアリマシタガ、何故ニ斯クノ如ク委員会ガ独立決定ニ遷延致シマシタカト言フコトハ御承知デモゴザイマシヨウガ、三十五区連盟ノ自治振興委員会ガゴザイマシテ、コノ自治振興委員会ガ当時第九十議会ニ提案サレテオリマストコロノ地方制度ノ改正案中都制ニ関スル条項ガ甚ダ当時ノ政治立法ノ域ヲ離レマセンノデ区ノ行政区分ニツイテ幾多ノ陳情ヲ致シマシテ、画期的ニ区ノ権限ノ拡大ヲ計ルベク、数回ニ亘ツテ衆議院ノ地方制度改正委員長中島守利氏ニ要請ヲ致シマシタ。タマタマコノ自治振興委員デアル中野代議士ガ、東京都ノ区ニ関スル地方制度改正委員中、東京都制ニ関スル委員ニナツテオリマシタトコロノ便宜ガアリマシタ為ニ、非常ニ振興委員会ノ連盟ト致シマシテ、衆議院トノ連絡ガウマク参リマシテ、全条四十八ケ条ノ修正ヲ以テ今マデ東京都ノ行政区デアツタトコロノ区モ、立派ナ完全ニ近イ程ノ自治区トナツタノデアリマス。独立区ト名称致シマシテ、コレハ大阪ニモ区ガゴザイマスガ、大阪ノハ、ヤハリ行政区デゴザイマス。全国ニ区ニオイテ自治区ニナツタノハヒトリ東京ノ区ノミデアリマス。斯クノ如ク区ノ権限拡大ヲ致シマスト共ニ、区ノ財政経済モ将来ドウシテモ独立シテユカナケレバナラヌノデアリマシテ必然的ニ生ジマシタノガ、区ノ廃置分合デアリマス。コノ廃置分合ハ各区デ選出サレマシタト
コロノ区及ビ都会議員、学識経験アル人、復興委員、コレラノ人ヲ網羅シテ東京都庁内デ区ノ分合配置ニツイテ研究致シタノデアリマス。其ノ結果東京都ノ三十五区ハ結局ニオイテ二十二区ニ配置分合サレルコトニ相ナリマシタ。コノ二十二区ニ配置スルト云フコトハ非常ニ各区ニ異論ガアリマシテ、イロイロノ、区ニオイテハ長イ間ノ伝統ヲステテ他ノ区ト一緒ニナルト云フコトニ非常ナ不平ガアツタノデゴザイマス。都長官モ自治振興委員会ニ数回見エラレ、是非共コノ際小異ヲステテ大同ニツイテ、コノ二十二区案実現ノタメニ自治振興委員会ガ努力シテ欲シイト云フ要請モアツタガ、ナカナカ各区ハソレゾレノ歴史ガアリマスタメニ、コノ二十二区案ナルモノガ非常ニ難航ヲ続ケマシテ、十二月マデニ尠クトモ二十二区案ト云フモノヲ委員会カラ報告サレテ決定セラルベキモノデアリマスニ拘ラズ、遂ニイロイロ各区ニオイテ議論ガアリマシタ為ニ、三月ニナツテ漸ク決定致シマシタヤウナ訳デアリマス。左様ニ二十二区案ト云フモノガ難航ヲ続ケテオリマストコロニ、コチラハ一区ヲフヤシテ二区ニスルノダ、コウ云フ要求ヲ持ツテユクト云フコトハ、一応時機ヲ得ナイ、コウ云フコトデアリマシテ、又仮ニ持ツテ参リマシテモ、実現ノ可能性ガナイ問題デアルカラト云フ訳デ、実ハ練馬区ノ方々ニハ非常ニ熱烈ナ御要求アルノニ拘ラズ、私共ガ御満足ノ行動ヲトルコトガ出来ナカツタト云フコトハ、実ハ東京都ニオイテ二十二区案ガ甚シイ難航デアツタト云フコトガ原因デアルト云フコトヲ練馬ノ諸君ニヒトツ御諒解願ヒタイノデアリマス。三月五日ニ、二十二区ニ対スルトコロノ告示ガゴザイマシテ、コレガ近ク二十二区案ト云フモノガ実行セラレルト云フコトニナリマシタノデ、私共自治振興委員会ハ七日ノ日ニ振興委員会ヲ開キマシテ、機漸ク、イヨイヨコレハドウシテモ練馬区独立へ是非実現ヲシナケレバナランガ、二十二区案ガ決定シタ以上、直チニヤツテ貰ヒタイ、コウ云フ申シ合セヲ致シマシテ、委員会ハ直チニ練馬区独立ヲ決定致シマシタノデゴザイマス。(後略) 資料文>この障害をつき破つても独立をという区民の願いは区民大会となつてあらわれた。
画像を表示 <資料文>宣 言
今や我が国は誤まれる軍国主義を絶滅して平和に輝く新日本建設のために、民主政治を断行する事は極めて当然であり、更に之が根底をなす地方政治に対し、地方制度を改正して相当大幅の権能を拡張する事は是又当然の帰結である。東京都に於ては此の地方制度の改正を機として区の整理統合を実行する趣なるも、他に比類なき尨大なる地域に生活する吾等練馬十万区民がその福祉増進の為に、多年に渉り、翹望する独立自治区たる練馬の設置は当局に於て未だ考慮せられぬやに仄聞するも斯くの如きは全く当地の実情を無視し、大衆の熱望を蹂躙するものにして、吾等の断じて承服する能わざる所である。吾等は練馬区設置の為に蹶然起つて如何なる障碍も難関をも突破し所期の目的貫徹を期するものである。
昭和二十一年八月八日
練馬区独立区民大会
決 議 文
吾等練馬十万民衆の福祉の為、現板橋区役所練馬支所の管轄区域を以て独立自治区とし速に練馬区を設置すべし。
右決議す。
昭和二十一年八月八日
練馬区独立区民大会
資料文>昭和二十一年十一月五日、板橋区議会は、都長官にたいして、板橋区練馬支所管内の地域を独立の区にするよう要請したところ、こえて昭和二十二年三月十二日都長官より板橋区長にあて、次のように板橋区役所練馬支所管轄区域の区新設に関して、ならびに、これに伴う財産処分について区会に提案付議するよう指示があつた。
<資料文>昭和二十二年三月十二日
東京都長官 安井誠一郎
板橋区長殿
板橋区役所練馬支所管轄区域の区新設に関する区会提案指示について
貴区練馬支所管轄区域をもつて区を分離新設することについては予てから関係方面の切なる要望もあり、左記理由によつて必要と認められるから、都制第百四十一条により、貴職より区会に提案付議せられたい。
記
一、板橋区は区域極めて広大にして然も交通機関不備なため、区民の日常生活と密接不離な関係ある区政の浸透徹底に遺憾な点が多いから、これを分離する要がある。
二、人口面積竝びに担税力において独立の資格を有する。
三、文化、公共的施設において独立の資格を有する。
四、区役所管轄区域と次の諸点につき連絡関連性なく、又共通的の利害関係薄く、従つて区民の福祉増進のため、独自の施策によつて開発を図るのを適当とする。
1、人的構成の特性
2、交通上の特性
3、都市計画上の特性
4、生活共栄圏の独立
資料文>昭和二十二年三月十二日都側より練馬区独立についての審議要求があつた。
<資料文>板橋区役所練馬支所管轄区域の区分離新設竝びにこれに伴ふ財産処分について
一、板橋区練馬支所管轄区域をもつて区を分離新設し、区名を練馬区とする。
二、板橋区の左記区有財産は新設の日、現在の人口割を以て練馬区に帰属せしめる。
記
板橋区救済基金
昭 和二十二年三月十二日
東京都長官 安井誠一郎
これを審議決定する区議会は三月十三日に開催されて、満場一致可決され、この旨が板橋区長心得小川保彦より都長官に報告された。
ここに至るまでの、区民有志の努力は涙ぐましいものがあつた。前述のように区民大会をひらいたり各関係方面へしばしば陳情を行つたり、その他ありとあらゆる方法をとつて、文字通り、寝食を忘れ、一丸となつての猛運動をおこなつたのである。
そのかいがあつて、昭和二十二年七月三十日、板橋区会は、練馬区設置の議決を行つた。
昭和二十二年七月三十日
東京都板橋区議長 林信助
内務次官殿
特別区設置に関する区議会の意見提出について
昭和二十二年七月三十日内務省東地第四一号特別区設置に関する件、依命通知に基き、七月三十日開会の区議会定例会に附議した所、左記の通りの意見に付、別紙会議録相添へ提出致します。
記
一、東京都板橋区の内練馬及石神井両支所の所管区域を以て練馬区を置かれる件、当区議会に於ては異議なく可決致しました。
なお左記の通り、付帯決議がありましたので申添へます。
附帯決議 区の境界については将来適当に補正せられたし。
資料文>ここに多年の宿望をとげて、新生、練馬区が昭和二十二年八月一日より発足することとなつたのである。
本文> 節> <節>特別区の前身である都の区は明治十一年十一月、郡区町村編成法により、旧十五区が設けられ、法人格はないが、自治区的な性格を持つていた。すなわち、区役所を置き、区長を官選にし、明治十二年一月には、十五区区会規則により、議決機関として、選挙による区会を置いた。
その後、明治四十四年九月に市制改正により自治区となり、昭和七年市郡併合のときに三十五区となつた。
昭和十八年の都制制定の際にも簡素な自治区とされていたものである。
戦後この三十五区は統合整理されて二十二区となり、二十二年の八月一日板橋区より当練馬区の分離独立があつて、二十三区となつたが、地方自治法の公布により特別区として法律で特別の地方公共団体としてあつかわれることになつた。
特別区というのは、他の大都市の区が行政区といつて、その都市の行政上の便利のためわけられた行政区画である
のと違い、その区の公共事務を行うほか、特別区のやるべき仕事として法律や都の条例によつてきめられている事務、或は従来から法令や条例によつて特別区に与えられている事務を処理する権能を認められているのである。区の意思をきめる機関である区議会がおかれ、区の一般事務をとり扱う職員には都の吏員などが配属されているが、二十七年までは区長は公選で、区民の直接選挙でえらばれ、助役、収入役、副収入役は区長が区議会の同意をえて選任することになつていた。
このように特別区は自治権を与えられているけれども、二十三区全部が旧東京市の市域であつた関係上、おいたちや地理的関係から互いに密接なつながりをもつているので、各区が勝手にめいめい自治権をひろげてゆくことは区部としての一つの大きなまとまつた都市機能をこわすことになる。そのため都は各区になるべく多くの事務を委せる方針をとつて区の自治権を尊重する建前ではあるが、全区にわたる統一的な事業たとえば交通や水道などや、二区以上にまたがつていて、分割して処理出来ない事業たとえば特に大きな道路や川や橋などの維持管理は都が直接処理している
本文> 項> <項>特別区は、都制制定前は自治区といつても、財産営造物に関する事務を処理し、あるいは、法律命令によつてその区に属する事務を処理するだけであつたから、いわゆる行政区にひとしいものであつた。都制はこれを簡素な自治区として区は官の監督を受け、その財産及び営造物に関する事務、並びに都条例により定められた事務を処理し、区長
は官吏であつた。また、都制施行直後は区会の権限は縮少されたが、区の営造物または区の事務に関する都条例を代議決することを認められていた。戦後の地方行政は憲法の地方分権主義にのつとり大きく変化したが、東京都の区は基礎的な単位団体として市と同様な権能を与えられ、その事務も、公共事務、委任事務、行政事務と広く深くなつていつた。
現行の特別区は、昭和二十六年九月、地方行政調査員会議のいわゆる第二次勧告に従い、昭和二十七年地方自治法の一部を改正し前にも述べたように市と同一の権能を有している特別区を廃して、都と区の責任を明らかに区分をした。
すなわち、都と区の一体性を強調し、特別区は都の内部的地方公共団体であるとし、法定された権能を持つている。さらに都の条例による委任事務を処理するなど制限自治区となつて今日に至つている。
従つて、特別区は、一般的な地方公共団体ではないとせられ、基礎的な単位団体ではない。然しながら、法人格は認められているのであるから、都の分立的構成分子ということができよう。
特別区としての練馬区のしごとは、つぎに述べる事務のうちで、A 国又は都に属していないものとなつている。
<項番>(1)項番> 小学校、中学校、幼稚園および各種学校を設置し、および管理し、ならびにこれらに関する教育事務を管理しおよび執行することと。ただし教育職員の任用、その他の身分取扱い、教育課程、教材の取扱い教科用図書の採択、その他政令で定めるものを除く。
<項番>(2)項番> 主として練馬区の住民の使用する公園、運動場、広場、緑地、および児童遊園を設置し、および管理すること
<項番>(3)項番> 主として練馬区の住民の使用する図書館、公民館および公会堂を設置し、および管理しならびに主として練馬区の住民に対する社会教育を行うこと。
<項番>(4)項番> 主として練馬区の区域内の交通の用に供する道路を設置し、および管理すること。
<項番>(5)項番> 樹路樹および道路の照明施設を設けおよび管理しならびに道路の清掃事業を行うこと。
<項番>(6)項番> 公益質屋、共同作業場、診療所、公衆浴場および、公共便所を設け管理すること。
<項番>(7)項番> 小売市場を設け管理すること。
<項番>(8)項番> 公共溝渠を管理すること。
<項番>(9)項番> 身分証明、印鑑証明、登録等に関する事務を行うこと。
B 前記の外都の処理していない事務。
C 練馬区にたいする委任事務
特別区のある区域では、市が処理すべき事務は特別区がやるものを除いてすべて都が処理していて、都は府県的性格と、市的性格をもつている。そのうちで特別区に委せるほうが有利なものについては、区の議会や、学識経験者の意見等をきいて、委任することができる。
D 条例の制定、起債、使用料、手数料の賦課徴収等については、市の場合と同様である。ただ地方税の賦課徴収については、都の条例の定めるところにより、都が賦課することができる税(都は特別区のある区域では、道府県税と、市町村税とをあわせて賦課することができる)の全部、または一部を特別区税として賦課することができる。
本文> 項> <項>練馬区が、東京都の特別区として制限された事務を行つているのはすでに述べた通りであるが、都と区の密接な関係はつぎのように定められている。
<項番>(1)項番> 特別区は法律で定められた事務を処理するほか、他の法律、政令の規定により市が処理しなければならない事務は都が処理する。そしてこれらの事務のうち主として、特別区の区域内に関するものについては、都は条例でこれを特別区に委任するものとし、都は特別区が処理しなければならない事務と同じような事務を行つてはならない。
<項番>(2)項番> 特別区の区長は、特別区の議会が、都知事の同意を得て選任する。そして法律や政令の定めにより市長に対する機関委任事務は、政令によつて除かれるもののほか、原則として、特別区の区長がこれを管理執行する。また都知事は、その権限に属する事務のうち、主として、特別区の区域に関するものを都の規則により区長に委任して管理執行させる。
<項番>(3)項番> 都および、特別区の執行機関である委員会又は、委員についても、事務委任、その他都知事および特別区の区長の規定を準用する。
<項番>(4)項番> 特別区の区長または委員会、もしくは委員が、国又は都の機関として、処理する事務については、都知事又は、都の委員会、もしくは委員の指揮監督を受ける。
<項番>(5)項番> 都は条例で、特別区の事務について、特別区相互間の調整上、必要な規定を設けることができる。都知事は、
都の事務の処理との調整上、特別区の事務の処理について、必要な助言又は勧告ができる。<項番>(6)項番> 都は都と特別区、および特別区相互間の財源調整上、条例で必要な措置を構ずる。
<項番>(7)項番> 特別区の廃置分合、境界変更その他、特別区の区域に関する事項は都知事が、特別区の同意を得ておこなうこと。
<項番>(8)項番> その他特別区には、区の吏員その他の職員が、若干おかれているが、大部分は都の職員であることは前述の通りである。また特別区において部課、または、支所を設けまたは廃止しようとするときは、あらかじめ都知事に届出るものとされている。
本文> 項> 節> <節>練馬区の機関は、議決機関と執行機関とに大別されている。
議決機関は区議会であり、議長の下に区議会事務局を置き、委員会制を採用して、議案の審査に当らせている。
執行機関には、区長、教育委員会、選挙管理委員会、監査委員、農業委員会等があり、これらの下に、それぞれの補助機関を置いて区の行政をおこなつている。
この関係を図示すると次の通りである。
画像を表示これら執行機関のうち、練馬区を統轄代表しあらゆる公共的な団体を綜合的に調整する権能をもつものが区長である。
他の機関については、それぞれの項でふれてゆくので、ここでは区長の職務権限とそれをどのように分担させて執行しているかについて記すことにする。
区長を補助する機関として法律に定められているのは、助役、収入役、吏員、その他の職員であつて、これらの者が区長の命により区の事務を執行するのである。
区長の事務といわれるのはおおむね次のものである。
1 練馬区の経費をもつて支弁すべき事件を執行すること。
2 練馬区の議会の議決を経べき事件につきその議案を提出すること。
3 財産及び営造物を管理すること。
4 収入及び支出を命令し、並びに会計を監督すること
5 証書及び公文書類を保管すること。
6 法律及びこれに基く政令又は議会の議決により使用料、手数料、地方税、分担金、加入金、又は夫役現品を賦課徴収すること。
7 前記の外、練馬区の事務を執行すること。
8 その他法律又は、これにもとずく政令によりその権限に属することがら。
以上の事務を助役は補佐し、職員担任事務を監督し、区長に事故あるとき又は欠けたときは職務を代理する 収入役は、練馬区の出納、その他の会計事務並びに区長、その他吏員及び各行政委員会等の権限に属する事務に関する内納その他の会計事務を掌る。
助役、収入役もともに区長が議会の同意を得て選任し、その任期は四年となつている。
以下歴代の区長、助役、収入役を記すと次の通りである。
初代区長 臼井五十三
二代区長 須田 操
三代区長 須田 操
初代助役 小林 四郎
二代 〃
三代 〃
初代収入役 原 鋲二
二代 〃
三代 〃
練馬区の事務所を練馬区役所、および練馬区石神井支所としそれぞれ次の位置に定めその下にそれぞれ出張所その他を置いてある。
練馬区役所 東京都練馬区豊玉北六ノ十二
石神井支所 東京都練馬区下石神井二ノ一二九六
図表を表示 図表を表示その他
練馬診療所 東京都練馬区豊玉北五ノ一八
練馬授産場 〃 南町四ノ六〇八二
石神井公益質屋 〃 下石神井二ノ一二一二
以上が練馬区の事務所の主なものであるがこの外にも教育委員会、或いは他の機関の事務局が、それぞれ定められている
本文> 項> 節> <節>練馬区の議決機関は練馬区議会である。区の意志は、住民に代つて、区議会によつてきめられる。区議会の定員は人口に比例して段階別に定められるが、練馬区における定数は現在三六名となつておりその任期は四年である
区議会で議決する事項は主として次の通りである。
1、条例を設け、又は改廃すること。
2、歳入歳出予算を定めること
3、決算報告を認定すること
4、法律又はこれに基ずく政令に規定するものを除く外、地方税、使用料、手数料、分担金、加入金又は夫役現品
の賦課徴収に関すること。5、法律又はこれにもとずく政令に規定するものを除く外、違法に賦課又は徴収された地方税、使用料手数料、分担金、加入金又は夫役現品の払戻に関すること。
6、基本財産又は、減債基金その他積立金穀等の設置、管理及び処分に関すること。
7、条例で定める重要な財産の取得又は、処分及び営造物の設置又は処分をすること。
8、歳入歳出予算を以て定めるものを除く外、あらたに義務を負担し、負担附寄附又は贈与を受け、及び権利を放棄すること。
9、条例で定める重要な契約を結ぶこと。
10、普通地方公共団体がその当事者である異議の申立、訴願、訴訟、和解、斡旋、調停及び仲裁に関すること。
11、法律上その義務に属する損害賠償の額を定めること。
12、普通地方公共団体の区域内の公共的団体等の活動の綜合調整に関すること。
13、その他法律又は、これに基く政令により議会の権限に属する事項
14、その他条例で定めた事項
これらのことがらを議決する権限の外に、
議長、副議長の選挙、仮議長、選挙管理委員の選挙を行う選挙権および検査権、監査請求権、意見申述及び意見書提出権、調査権、助役、収入役、監査委員、教育委員等の選任同意権および承認権、議員の資格を自ら決定する決定
権、請願の受理権、報告及び書類の受理権、懲罰権、規則制定権等の広い権能が与えられている。議会の招集は区長がこれを行い、年四回の定例会(三、六、九、十二月)のほか必要に応じて臨時会が開かれる
議会の内部機関として常任委員会及び特別委員会を置くことができるが練馬区は現在次の四常任委員会が置かれており、特別委員会は特別区制調査、国民健康保健対策の両委員会が設置されている。
画像を表示 本文> 項> <項>昭和二十二年三月十五日特別区として二十二区は発足したが、その議決機関としての区議会議員の選挙は同年四月三十日に執行された。板橋区議員として選出された区内地区出身の議員は左の一九名である。
山本 喜一 林 信助 小口 政雄 大野 政吉 梅内 正雄
豊田 勝夫 上野徳次郎 桜井 米蔵 林 亮海 本橋 芳次
篠崎 晸 工藤 武治 加藤与左衛門 宮地 貞彦 大木万太郎
本橋 修全 沼崎 六一 内田 武助 半沢 敬吾
しかし、これら議員はもちろん、現区内出身の議員であつたから、当時板橋区にあつて、盛んによびかけていた練馬区独立運動の急先峰にたつて動いたことはいうまでもないことである。
その結果、前記のように板橋区議会で可決されて、八月一日練馬区が誕生したのである。ここで、新に区議会議員の選挙が、九月二十日に執行され、練馬区として第一回の区議会議員三六名が当選をした。(同様に板橋区においても、練馬区成立と共に練馬地区の議員が減少したため、その補欠選挙が行われ、一九名の議員が選挙されている。
初代の議員は次の通りである。
須田 操 内田建三郎 田中 文一 中村 旧一 折井勘十郎
栩木 功 梅内 正雄 並木 龜吉 山下 新吉 篠田 鎮雄
塚田 洪憲 丹下 学 小口 政雄 本橋 篤三 加藤千代松
小崎 恭人 井口 仙蔵 加藤 豊治 桜井 鋹造 林 亮海
大木万太郎 一野 義純 桜井 米蔵 木野 維清 大野 政吉
上野徳次郎 工藤 武治 富岡 儀助 森井 金雄 松本 喜一
小沢 藤助 新井斧太郎 佐々木 享 豊田 勝夫 加山 峰吉
池添 清人
その後昭和二十五年十一月十日に欠員補充の選挙が行われ、次の議員が選出された。
永盛勇三郎 加藤彌平次 小峰 頼典 萩原 賢一 橋本銀之助
昭和二十六年九月十八日には、区議会議員の任期満了に伴い選挙が行われ、次の議員がそれぞれ選挙された。
小柳 信子 豊田 善吉 山瀬 鑑 山下 新吉 内田建三郎
林 亮海 井口 仙蔵 桜井 米蔵 永盛勇三郎 浜野 信次
小峰 頼典 梅内 正雄 罍修 一 上野徳次郎 中村 旧一
松本 茂 浅野 好治 今井儀平治 橋本銀之助 塚田 洪憲
一野 義純 大木龜太郎 矢ケ崎信夫 大野 政吉 池添 清人
並木 龜吉 近藤 タヱ 丹下 学 篠田 鎮雄 加藤彌平次
本橋 篤三 野口国太郎 大戸 淳三 加山 峰吉 豊田 勝夫
相原 兼吉
昭和三十年九月十六日第三回目の選挙が行われ左の議員が選挙されて現在に至つている
藤井 富雄 浜野 信次 梅内 正雄 塚田 洪憲 桜井 米蔵
小沢 藤助 上野徳次郎 小峰 頼典 林 亮海 田中 清一
井口 仙蔵 豊島 斉一 並木 龜吉 小沢 近松 加藤 源蔵
荒井 澄雄 矢ケ崎信夫 越後 幹雄 豊田 勝夫 大野 政吉
橋本銀之助 山下 新吉 原顕 三郎 松本 茂 長谷川安正
高橋 久子 浅野 好治 内田建三郎 野口国太郎 加山 峰吉
内田 庄作 罍修 一 一野 義純 榎本 喜芳 髙山 秀蔵
大戸 淳三
本文> 項> <項>歴代の区議会議長ならびに副議長は次の通りである
図表を表示 図表を表示 本文> 項> <項>区議会議員待遇者は、区議会議員として満八年以上その職にあつた者が退職したときは終身区議会議員待遇者として礼遇し、次の者が待遇者となつている。
加藤隆太郎 浅見 平蔵 小宮忠太郎 沢枝龜二郎 本橋 芳次
加藤 貞寿 折井勘十郎 矢作甚右衛門 春日初五郎 中込 文平
須田 操 佐々木 亨 新井斧太郎 加藤 豊治 森井 金雄
富岡 儀助 町田 甲彦 池添 清人 篠田 鎮雄 丹下 学
本橋 篤三 加藤彌平次
区議会の開会数その他は次の通りである
図表を表示 図表を表示 図表を表示 本文> 項> <項>区議会には、補助機関としてその事務を処理するために、条例により、区議会事務局が設置されており議長の監督下にあつて事務に従事している。
図表を表示 本文> 項> 節> <節>練馬区の執行機関として、区長、選挙管理委員会、教育委員会、農業委員会、監査委員等が置かれていることは職制の中でふれておいたが、区長、或いは監査委員のように単独で執行する機関と、選挙管理委員会、教育委員会、農業委員会等のように、合議体をなしつつ執行する機関とに別けられる。
この合議制の機関を行政委員会といい、戦後の地方行政のいちじるしい特徴となつている。
行政委員会を設けた理由は民意をよりよく反映させ、政治的には中立を保ちつつ行政を公正に執行するためであるとされている。
本文> 項> <項>教育委員会については第十章教育の項にゆずりここでは職制を記すに止める。
画像を表示 本文> 項> <項>第一次地方制度改正(昭和二十一年九月)のときに創設されたが、練馬区においては、区の独立と同時に設けられ、選挙の公正を確保し、民主的行政の目的達成につとめている。
かつては、区長の職務権限であつた選挙事務の一切を長から独立せしめて管理執行する合議制の機関で、三人の委
員と同数の補充員とから成り、任期は三年となつている。選挙管理委員会には委員のうちから委員長が選挙され、委員長は委員会を代表し、委員会の事務を指揮する。その職制は次の通りである。
選挙管理委員会―委員長―事務局
歴代の選挙管理委員は次の通りである。
図表を表示 図表を表示区内の選挙も民主々義的改革に伴う地方自治法の制定以来、日ごとに区民の関心を高め、その選挙のたびに投票率は高まつてゆく傾向を示したが、やはり地元の関係だけに区議会議員の選挙が一番棄権率は少いようである。
しかし、こうした選挙の投票の棄権を防ぐためには選挙管理委員会が設けられて、大いに啓蒙宣伝につとめる努力が実つていつたことを忘れてはならない。
有権者数の増加は人口の増加に比例して増加するが、区内の人口増加率が他区に比して緩慢であるためその増加も微々たるものといつてよい。しかし、人口の項にのべたように若い年齢層、特に二十より二十四歳台の区民が特別に多い区内の特徴は、今後の選挙に少なからぬ影響を与えてゆくであろう。
図表を表示 図表を表示 画像を表示 図表を表示 画像を表示 画像を表示昭和三十年九月十六日執行区議会議員選挙における党派別の立候補者及び得票を図示すると次の通りである。
図表を表示 図表を表示練馬区の開票区は次の通りである。
図表を表示各種議員調
区内より選出した各種の議員は次の通りである
図表を表示 図表を表示 本文> 項> <項>農業委員会は、農業生産力の発展および農業経営の合理化を図り、農民の地位の向上に寄与するため、農民の代表機関として設けられた合議制の執行機関である。詳細は第五章産業経済を参照にされたい。
練馬地区農業委員会――委員 一三名
石神井地区 〃 ――〃 一三名
大泉地区 〃 ――〃 一三名
本文> 項> <項>監査委員は、その職務上独立の権限をもつており出納その他の事務の執行を監査する機関である。
都道府県は必ず置かなければならないが、区、市、町、村は任意となつている。本区では条例で二名の監査委員を置いているが、そのうち一名は議員、他の一名は学識経験者のうちから、区長が区議会の同意を得て選任する。任期は三年である。
監査委員は、毎会計年度少くとも一回以上期日を定めて監査を行うことになつており、このほかに、議会の要求や、区民からの請求があれば、臨時に監査し、その結果については、区長や議長、区民等に、報告したり、公表したりすることとなつている。
歴代の監査委員は次の通りである。
図表を表示 図表を表示 本文> 項> 節> 章> <章>特別区は、戦後の地方制度の改革で、東京都の行政区からはじめて独立区・自治区となつただけに、はじめは財産というほどのものもなく、経費に充てる財源にも乏しかつた。また、その処理すべき事務と固有事務を除いては都の直接管理に属するものが多く、区の経費によるものはきわめて少なかつたから、財政の実態は貧弱なもので、しかも財政上からみれば甚だ自主性に乏しい制度のもとに独立区となつたのであつた。
本来特別区は市町村とは違つて、その自治権が一段と制限された地方公共団体であるから、地方自治法で大体市と同じような権能を与えられたにも拘わらず、地方税法については市町村なみの課税権が認められず、市町村税に相当するものはすべて都の権限に属し、特別区は都の条例に基づいてはじめてその一部を特別区税として賦課徴収することができるので、しかも経費についても都の算定で制限をうけるのである。
こうして、特別区の成立後間もなく、区政関係者によつて自治権拡充運動が起され、都から大巾な事務委譲を期待したが、昭和二十四年、米国税制使節団の来日により所謂シャープ勧告が出て、これを機会に市町村同様の課税権獲得の運動が強力に展開され、九月には区の用に供されていた都有財産の一切が区に譲渡され、二十五年度は区の財政
的規模は安全をみるようになつていつた。二十五年七月になつて地方税法が公布されたが、これとて特別区の要望に答えるようなものではなかつた。しかし、この間の運動で都と区の間の事務配分の調整が促進されて、都からの事務委譲がいく度か行われたことは次第に区の財政を明るいものにしていつた。またこれに伴い委譲事務に要する財源措置も講ぜられるようになつていつた。こうした特別区の状況は本区とても同じことで、昭和二十五年ごろまでは、なおまだ不安定であり、それまでの区の財政は教育の面に重点的におかれて、その占める比率は特にこの部門に傾いていたといつても過言でなかつた。
しかし、二十五年の税制改革にともなつて特別区税条例の改正があり、区の経費の大部分が区の独立税によつて賄い得るようになつていつた。
一方戦後の社会状態の急変転、社会秩序の混乱、インフレの昂進等悪条件のつみかさねによる生活苦の増大、物価の改訂につぐ改訂、これに伴う幾度となきベースアップ等、経済事情の不安定による財政需要の変転は真に目まぐるしいものがあつた。
こうした状況下にあつて、大きな未来への発展を夢みて独立の道を歩んだ練馬区理事者および区議会の苦心は容易でなく、健全財政の確保に並々ならぬ努力が払われた。
これら終戦後の区の財政事情については、地方自治法第二四四条第一項の規定に基いて制定された練馬区財政事情の作成及び公表に関する条例により、年間二回公表された財政白書にすべてがつくされているといつてよく、区の財政の一切はこれによつて明らかであるから、これを抄録して、本区の財政上の発展をたどることにする。
<資料文>昭和二十二年独立第一年の財政事情(昭和二十三年五月一日発表)
昨年八月一日板橋区より分離し、練馬区として新たに発足して以来、既に八ケ月を経、自治区としての内外の態勢も漸次整ひつつあり、まさに本格的な活動に移らんとして居るのでありますが、東京都よりの事務事業の委譲は極めて僅少にして、現在区役所に於て、取扱つて居る事務事業の大半は、都の委任事務事業にして、都費予算をもつて執行せられ居る様な実情であり、同年度に於ける区予算総額の約二倍強にものぼつて居ります。
しかも区に委譲せられた事務事業の実施に要する諸経費におきましても、その大半は、都の交付金、配布税等によつて賄われて居る為、健全なる自治区としての財源的措置は講ぜられず、区の自治権は甚しく収縮せられ、自主的な予算の編成も、財政の運営も、殆んど不可能なことであります。殊にインフレーシヨンの急激なる昂進に因つて、俸給の一六〇〇円ベースより、一八〇〇円、更に二九二〇円ベースに又諸給の大幅引上等の人件費の激増諸物価の騰貴に伴う所要物件費の膨張等の為、昨年十二月二十六日及本年三月三十一日の二回にわたり、追加計上せられましたが、その財源を捻出するということは非常に困難なることであります。
更にこれが、運営に当りましても東京都に於ける財政難のため、交付金の交付遅延、区税滞納による税収人の不円滑、金融難等により現在非常な苦しい状態に置かれております。けれども現在政府におきましても、地方財政委員会をもつて鋭意審議致して居る地方自治体に対する財政方針が確定し、地方税法及地方分与税法等の改正が行われ、東京都財政の基礎が確定するならば之に伴つて、区財政に対しても、充分なる措置が講ぜられ、従つて在来の様な都財政の依存より脱却し、特別自治区としての本来の施策を施行し、円滑なる区政の振興を図り、区民の福利増進を図ることが出来るものと思うのであります。
茲に三月末日に於ける一般会計予算の経理概要を公表して練馬区財政の現況を明らかに致す次第であります。
一、収入及支出の概況
昨年八月一日、板橋区より独立して、新たに練馬区として発足し、八月三十一日に八月より十月迄三ケ月間の暫定歳入歳出予算額六〇二八、五二〇円が編成せられましたが、十一月二十八日暫定予算を含む昭和二十二年度歳入歳出予算額一五、九〇五、八二四円が編成せられ、其の後更に二回に渉り七一七、三六二円が追加計上せられ、本年三月三十一日現在に於ては二三、〇八〇、一八六円となつて居ります。この歳人歳出予算の内容を大別すると次の通りであります。
歳入一、交付金 一七、一一〇、二四一円 七四%
二、区税 五、六七〇、六四一円 二四%
三、其の他 二九九、三〇四円 二%
合計 二三、〇八〇、一八六円
歳出一、区職員費 一一、五八五、五八四円 五〇%
二、教育費 三、四二二、一四二円 一五%
三、諸費 一、五九〇、四八二円 七%
三、庁舎建設費 三、三一七、七〇一円 一四%
五、その他 三、一四四、二七六円 一四%
合計 二三、〇八〇、一八六円
区民負担の概況、本年三月三十一日現在の区税調定額は四、〇七二、七三八円であつて本区総世帯数は二六、七三八世帯でありますから、一世帯当り平均負担額は一五二円、三二銭であり総人口、一二七、〇七〇人でありますから、一人当り平均負担額は三二円〇五銭であります。以上の世帯及人口には何れも要保護者を包合してあります。
本区の財産は次の通りであります。
授産場 一九坪 五七、〇〇〇円 職員合宿所 一三三坪 五〇六、〇〇六円
現金預託金 四四四、三九九円 有価証券 四、一一〇円
動産 一、三五八、〇〇〇円(庁用調度什器)
合計 二、三六九、五一五円
結論 以上の如く本区の財政は、健全なる財政の確立と、円滑なる区政の運行を期するため、あらゆる困難の打開に努めつつあるのでありますが、益々「インフレーシヨン」は昂進し諸経費の激増と歳入の不円滑は、区政運営上相当の困難な状態にありまして、年度収支につきましては辛うじて均衡を保ち、健全財政を維持し得る見込であります。昭和二十三年度におきましては更に相当多額の経費を、必要とせざるを得ないものと思われます。
即ち「インフレーシヨン」の昂進による人件費、物件費の増大と中小学校整備、区役所庁舎建設等相当多額の経費が必要とせられ、従来の財源のみをもつてしては、到底望み得ないことは明らかであります。
この財源を補足する為には、次の如き方策を以て収入の増加、支出の削減を計りたいと考えているのであります。
一、収入の増加としては
1、都税附加税の新設及賦課率の引上
2、独立税の新設及賦課率の引上
3、使用料及手数料の引上
4、都配付税の増額
5、収入源となる福祉事業の樹立
二、支出の削減について
1、行政機構の整備確立及職員配置の合理化による人件費の節減
2、諸経費の重点的配分による不急経費の削減
以上の諸問題に付ては、具体的方策を検討中なるも、税制の改正については、政府及び都において、目下審議中にして、近く決定の見込みでありこれに伴い区税条例の改正も行われるべく予想せられ、更に配布税の増額については、現に都区行政調整委員会において、接衡を重ねておるのであります。
これらの基本的財政具体策の決定と相俟つて区の財政方策を確立し、区政の円満なる発展を期したいと念願しているのであります。
これらの問題の具体的施行については、区民各位の深甚なるご理解と熱誠なる御援助、御協力を切にお願い致す次第であります。
資料文> <資料文>二十三年度前期練馬区財政の現状について(昭和二十三年十一月一日発表)
昭和二十三年四月一日より、九月三十日に至るまでの財政の現状と、昭和二十二年度一般会計歳人歳出決算の概要を公表し、区民各位のご理解とご協力をお願い致す次第であります。
一、収入及支出の概況
本区予算は、その財源を大部分都に依存しております。しかるに地方財政委員会による地方財政の基本的方策が未だ決定していないので、都よりも区に対する、何ら明確なる財政措置がなされず、これが為、やむを得ず、当初予算は骨格予算として編成いたしました。即ち人件費は、一、八〇〇円ベース物件費はほぼ前年度の物価により計上し、又その他各種事業費も真に必要やむを得ざるもののみ計上し、又その肉付及積極的行政経費は、迫加補正予算にまつ事と致したのであります。
その賃銀ベース引上による人件費の激増及び、物価の騰貴に伴う物件費の膨張の為、経費は急激したが、都においても、極度
の財政難のため、いまだ何ら財政的措置は講ぜられず、九月末日における経理状況は正に破綻に瀕しつつあるのであります。この歳人歳出予算の内容を大別すれば、次の通りであります。歳人一、地方分与税 二四、七三三、六一一円 八六% 二、区税 四、〇七二、七三八円 一四%
三、其の他 七一、一七五円
合計 二八、八七七、五二四円
歳出一、会議費 一、二三五、七〇〇円 四% 二、役所費 一七、六六〇、六八〇円 六一%
三、教育費 四、一一八、三六〇円 一四% 四、庁舎建設費 三、九二〇、〇〇〇円 一三%
五、その他 一、九四二、七八四円 七%
合計 二八、八七七、五二四円
以上の如く、歳入においては、区税がその大部分をしめておりますが、そのうち直接区税は、予算額、四、〇七二、七三八円収入済額三、六七八、八二九円、収入率九〇%で非常に高率をしめしておりますが、これは税制が改正されたためであります。
都より配付された地方分与税は、予算額二四、七三三、六一一円、収入済額八、五一七、一二〇円、三四%で三分の一にしか達しておりません。
使用料及び、手数料、寄附金、雑収人ははるかに予算額を上廻つております。
次に歳出につきましては、支出済額は予算額に対して六九%となつており、残額は僅かに三一%であります。これは本年度当初予算においては、人件費を一、八〇〇円ベースによつて編成したのでありますが、その後二、九二〇円ベースから更に、三、七九一円ベースと逐次改訂が行われたため、これに伴う、所要経費と、物価高騰による物件費の支出増加によるものであります。その為歳入に比し七、五八五、五三八円九八銭の支出超過となつておりますが、その不足額は繰越金三、〇九二、三〇四円
五五銭及び、都より借入金四、七二〇、〇〇〇円計七、八一二、三〇四円五五銭で賄つております。二、区民負担の概況
本年九月三十日現在の区税調定額は、五、二八五、九六〇円であつて、本区総世帯数は二六、八七八世帯でありますから、一世帯当り平均負担金は、一九六円六〇銭であり、又総人口は一一八、二三二人でありますから、一人当り負担額は四四円七〇銭であります。
三、区有財産
土地 四、五四八坪 三六三、八四〇円 建物 八三坪 七二九、〇〇〇円
現金預託金及有価証券 二、八三一円 動産 一、八〇〇、〇〇〇円
合計 三、八九五、六七一円
結語 以上は本区の財政の現状でありまして、健全なる財政の確立と、円滑なる区政の運行を期するため、あらゆる困難の打開に努めつつありますが、益々インフレは昂進し、諸経費の激増と、歳入の不円滑は区政運営上相当の困難な状態にあります。更に又、本年度後半期におきましては、人件費物件費の増大と、小中学校建設整備等のための経費は、相当多額にのぼるものと思われますが、これが財源は都よりの配付税による以外はないのであります。支出におきましても行政機構の整理再編、職員配置の合理化等により、極力経費の節減を計り、もつて財政の破局より救うべく鋭意具体策を検討中であります。
此等の問題の具体的施行に当りましては、区民各位の深甚なるご理解とご熱誠なるご支援を賜わり度お願い致す次第であります。
資料文> <資料文>二十三年度後期財政事情(昭和二十四年五月一日発表)
地方自治法第二百四十四条第一項の規定に基いて制定せられました本区「財政事情の作成及公表に関する条例により、昭和二
十三年十月一日より、昭和二十四年三月三十一日に至る間の財政の現情を公表し、区民各位の御理解と御協力をお願い致す次第であります。昭和二十三年度、当初予算の編成にあたりましては、人件費、物件費の高騰のため、尨大なる経費の需要にも拘らず、東京都よりの区に対する財政措置が未定の為とりあえず骨格予算を編成しましたが、その後地方財政に関する諸制度の改革が行われ、と同時に、都においても、特別区税条例、配付税条例の改正等の財政措置により、昨年十一月、予算の全面的追加補正を行い、これが運用には、極力支出の節減に努め又区税の賦課徴収もまた順調に進み、比較的円滑に区政を運営している次第であります。
一、収入支出の概況
昨年九月三十一日現在における歳入歳出予算額は、二八、八七七、五二四円でありましたが、其の後四回にわたりました追加更正予算を編成し、本年三月三十一日現在の歳入歳出予算額は一〇三、八三六、五〇〇円となつております。
この補正予算の概要並びに総予算の収入及支出の概況は次の通りであります。
図表を表示 図表を表示 画像を表示 画像を表示歳入につきましては、三月三十一日現在の収入率七四%でありますが、そのうち予算の大半をしめる区税は九一%で都よりの
配布税を除いては、実に一〇〇%とはるかに上廻り使用料及手数料、寄附金、繰越金等も一〇〇%を超過し、非常に良好な成績であります。 画像を表示都よりの補助金は四四%でありますが、五月末日の出納閉鎖期間迄には相当額収入を見込まれる次第であります。
次に歳出につきましては、予算額に対し、支出率は七〇%となつておりますが、支出率の比較的低い理由は収入の場合と全く同様でありまして、都支出金の未交付による予算の執行不能によるものであります。
しかし出納閉鎖期限までにはその大半を終る見込みであります。
二、区民負担の概況
本年三月三十一日現在区税の賦課総額は、二〇、九四三、三四〇円に対し、人口は一一七、五二一人(三月一日現在)世帯数は二七、二八八世帯でありますので、一人当の区税負担額は一七八円、一世帯当り七六〇円であります。
三、区有財産
土地 九、七七一坪 八〇、五〇〇一円 建物 三、八九五・六九坪 三二、五七三、三七六円
有価証券 二、八三一 動産 三、四二〇、〇〇〇
計 三六、八〇一、二〇八
当区財政の現状は以上の如くでありまして区民各位の絶大なる御協力のもとに、昭和二十三年度も幾度かの財政的危機をのり
切り、昭和二十四年度を迎えたわけであります。昭和二十三年度は涯しなきインフレーシヨンの昂進に伴う、人件費、物件費の高騰のため、財政的破局に追こまれつつも、小中学校建設、教員合宿所、区役所及石神井支所庁舎出張所等の建設或いは増設等の諸事業を完成或いは進行中でありまして、練馬区の復興も、確実なる歩みを続けております。
茲に練馬区財政の現状をご報告申し上げますと共に今後とも区民各位の深きご理解と絶大なるご協力をお願い致す次第であります。
資料文> <資料文>二十四年度上半期財政事情(昭和二十四年十一月一日発表)
昭和二十四年度当初予算の編成に当りましては練馬区が区制施行匇々の新しい区であり且つ他区に比較して自由財源が著しく貧困で自然、歳入の大半を都に依存せざるを得ない関係上自主的諸施策を樹立して、大練馬区実現のため、急速的にこれを実行化し得ないのは洵に遺憾として居るところでありますので飽く迄も積極的にかかる貧困なる財政実情を打開する方途を考究する反面、予算経理執行上の妙味を充分発揮し、効率的予算運用を図りまして、漸進、緩漫ながら、区民の福祉利便の増進のため、前年度の実績に鑑み、都財政措置に基く、骨格予算以外に区政の各部門に亘り、繰越金並に、自由財源を相当額充当して各種事業の阻害を来さないことを庶幾した次第で歳入八三、三五九、九一五円、歳出八三、三五九、九一五円、差引残金なしとなり、ついで九月に至つて、都より補正予算措置がありましたので、歳入出共、二三、四七四、九二〇円の追加更正をなし、九月三十日現在、予算額は歳入一〇六、八三四、八三五円歳出同額歳入歳出差引残金なしであります。
何卒国民各位には、絶大なる、御支援と御協力あらん事を重ねて切望いたす次第であります。
一、収入支出の概況
画像を表示 画像を表示二、区民負担の概況
本年度の区税は、配付税五三、四七〇、九七四円を除き二五、四一一、五九五円でありました。練馬区の九月三十日現在の人口、一一九、七四七人、世帯数二八、三六四世常であり予算における一人当り平均負担二一二円二一銭、一世帯当り八九五円九一銭であります。
三、区有財産
本区の財産は、従来の外、九月三十日財発第二、七二六号を以て都知事より東京都条例第二十七号、都有境内地、墓地及特別区の管理する都有財産その他の処分に関する条例第四条及び、第五条により、学校、支所庁舎、民生館、大衆浴場等の都有地及び建物並びに学校工作物の無償譲与があり、九月三十日現在の区有財産は次の通りであります。
土地 三〇、八五二坪 二三七 五、六八〇、七五四円
建物 一四、二三五坪六〇二 八七、八二八、八一五円 工作物 一、三七四、三五〇円
立木、竹石 二〇九、九〇〇円 現金 二、五一一円
有価証券 三二〇円
計 九五、〇九六、六五〇円
結語 以上が昭和二十四年四月一日より九月三十日迄におきます練馬区財政の概況でありまして歳出におきましては、日本経済安定原則の方針に則り、極力歳出の削減に冗費の除去に専心し、各款共、最少限度の必要支出の範囲に止め、歳入におきましては、徴税機構の実質的強化と、刷新を図る反面、脱税の防止と、納税意欲の昂揚に努め、収入の増大を期し、以て、健全財政の確立を期しつつありますので、区民各位におかれても区当局の意を諒とせられ、絶大なる御支援と、御協力を下さいますことを重ねて懇望する次第であります。
資料文> <資料文>二十四年度後期財政事情(昭和二十五年五月一日発表)
今般は、昭和二十四年度下半期分として、昭和二十四年十月一日より、昭和二十五年三月三十一日迄の練馬区の財政現状を公表して、区民各位のより御理解と、強力な御協力を願う次第であります。
区財政は、過去においても、屡次発表して既に充分御承知の通り、まことに貧困そのもので、これに基因して、自主的諸施策の具現化がすこぶる困難であることは遺憾としているところでありますので、財政に計画性を持たせ、もつて、区民福祉利便の
ために、財政の効率的方途を講じている次第であります。而して、地方税法の改正、地方財政平衡交付金の実施等が、実現の上は、当区の財政も相当好転するものと思惟されるのであります。
以下、昭和二十四年度下半期分の財政経理の状況を説明致します。
一、収入出支の概況
前期財政公表における予算総額は、一〇六、八三四、八三五円であつたが、その後当期におきまして、四回の追加更正により、歳入歳出共、三二、四五一、五八二円の増額となり、予算総額は、一三九、二八六、四一七円となるに至りました。
これを内訳にみると次の通りであります。
歳入一、区税 八七、八八三、七〇二円 二、公営企業及び財産収入 一〇〇、一〇二円
三、使用料及手数料 九〇〇、九七四円 四、都支出金 三七、五七三、八六五円
五、寄附金 八八九、三六七円 六、繰越金 三、六二九、七一五円
七、雑収入 八、三〇八、六九二円
合計 一三九、二八六、四一七円
歳出一、議会費 七、〇一二、五二一円 二、監査委員費 一四二、六四〇円
三、区役所費 五八、四八〇、四五八円 四、土木費 三、四六五、五六〇円
五、教育費 六一、六三〇、五四一円 六、社会労働施設費 二、〇五六、四四八円
七、産業費 一、七九六、一八九円 八、経済費 三九三、一一五円
九、地方振興費 一、〇九一、四〇一円 十、選挙費 六一五、九一一円
十一、諸支出金 一、七七六、九九八円 十二、戸籍費 三一五、九九〇円
十三、住宅対策費 五〇、〇〇〇円 十四、消防費 五八、六四五円
十五、予備費 四〇〇、〇〇〇円
合計 一三九、二八、六四一七円
二、区民負担の概況
本年度の区税(地方配付税六一、〇一一、九六八円を除く)は、二六、八七一、七三四円であり、本区の三月末日現在の人口、一二二、三〇八人、世帯数、二八、七三四世帯であるので、一人当りの区税負担額は二一九円七〇銭、一世帯当り、九三五円一八銭であります。
三、区有財産
土地 三〇、八五三坪二三七 五、五八〇、七五四円
建物 一四、三六三坪六二六 八九、一六八、八一五円
工作物 一、三七四、三五〇円
立木、竹、石 二〇九、九〇〇円
動産 一四、八四八、五五〇円
救済基金 二、八四〇円
計 一一一、二八五、二〇九円
結語 以上で、今期間の財政実体の概況を示したのでありますが、これが運営にあたりましては、常に健全財政の方針を堅持して、収入の増加を図る反面、歳出を極度に抑制して、もつて財政の蓄積を企図し、もつてこれを、区民の福祉利便の自主的諸
施策遂行に充当しもつて区民各位の御期待に応えようとしている次第であります。 資料文> <資料文>二十五年度前期財政事情(昭年二十五年十一月一日発表)
緒言 練馬区の財政の事情は、既に過去数回に亘り、その実情を公表し、区民各位のよき御了解を頂いて参りましたが、今般、昭和二十五年四月一日より、同年九月三十日迄の上半期六ケ月間の財政事情を公表致します。
昭和二十五年度本区当初予算は、編成期におきまして、地方税法改正が未決定であり、更に都区の財政調整の見透しもつかないため都の指示にもとづく、骨格予算を編成することとし、歳出におきましては最少限度の人件費その他諸経費および、前年度繰越事業費、二〇、八四三、〇三九円を計上、歳入におきましては、地方税法改正の関係上、一応区税は従前の区税中、都税附加税並に特別区民税を特別地方配付税とし、従来の独立税中特別区民税を除いたものを、特別区税として計上し、特定財源、繰越金、其他雑収入を加え不足歳入は挙げて都より分与される地方配付税にこれが財源を求めた次第で、更に都より指示せられた、補助金および、交付金を計上骨格予算を編成した次第でありまして、歳入歳出共、九四、七八五、八六一円でありまして差引残金なしであります。
前年度に比し、一一、四二五、九四六円の増額であり、其の後、昭和二十五年五月二十三日、都支出金による参議院議員選挙、首都建設法関係費二、一七三、五二〇円、同年七月二十八日都支出金による、農地委員会、参議院議員選挙、首都建設法関係、臨時保健所設置、六三制による校舎建設その他、及び、地方配付税を財源として一般経費の不足額補充等による合計一七、三五八、〇三九円の夫々追加更正予算をなし、九月三十日現在における予算現計は、歳入歳出共総額一一二、九六〇、三八二円となつた次第であります。
一、収入及び支出の概況
歳入
画像を表示二、住民の負担の概況
本年度区税は地方配付税、四九、〇八二、一一六円を除けば二四、三四〇円二四銭で、九月三十日現在の人口一二六、一八九人、世帯で区税一人当り負担額一九二円八七銭、一世帯当り八二五円五〇銭であります。
三、公営事業の経理の概況
練馬区公営大泉浴場は、従来通り、本年度においても、練馬区公営大泉浴場助成会長、加藤隆太郎と一ケ年の期間で、委託経営の契約を締結したのであります。契約金額は、六三、六〇〇円で委託事業収入として毎日、均等額納入せしめこれが維持費として、地代年額二九四〇円、火災保険料二三、五八〇円、修繕料三七、〇八〇円を計上して収入支出差引残金なしであります。
四、区有財産
土地 三六、二八七坪 六、八五五、八五四円
建物一三、九六八坪三五八 一〇三、八五六、五九五円
立木、竹石 二一四、二〇〇円
工作物 一、三七四、三五〇円
動産 一五、二七四、五五〇円 有価証券、現金 一三、九〇一、五二五円
計 一四一、四七七、〇七四円
結語 区財政確立に関しては従来より区民位の強力なご協力を懇望して参りました次第でありますが、区関係者におきましても、区議会と一体化し、常に歳計の緊縮と、冗費の節減による財源の蓄積を図り以て漸進的でありますが、区民の福利増強、利便供与実現のため、努めて参りましたが、何分にも、当区は他区に比し、財源面におきましても、著しく貧困な実体であります上、本年八月都より行政事務事業の一部が区に移管されて参り、これが主たる財源は、特別区民税であり、自然これが、円滑なる収入は、区行政運営上至大なる関係を及ぼすことでありますから、区民各位におかれましても、よきご理解と、格別なるご協力を賜わりますことを、願望してやまぬ次第であります。
資料文> <資料文>二十五年度後期財政事情(昭和二十六年五月一日発表)
区財政に関しましては前回述べた通り洵に貧困な財政の現状に鑑み、努めて冗費を除き予算の合理化を図ると共に、極力歳出の節減抑制をなし財源蓄積を企図する一面、昨年七月の地方税改正に当り、自治権の拡充と自主的財政の確立に努力した次第でありますが、特別区の存する二十三区に対する都は、他府県と異なり都市の事務事業も併せ執行し特別区は地方自治法において、市と同等の取扱いを受けているにも拘らず、地方税法其の他一部の法において一般の市と同様な権利義務を持たない変則的な存在となつている次第で地方自治行政執行上著しく都より制約を受けている実情でありまして、シヤープ勧告に基く地方税法改正による市町村税としては、市町村民税、固定資産税、自転車税、荷車税、電気瓦斯税、鉱産税、木材引取税、広告税、入浴税、接客人税、使用人税等が決定されましたが、特別区は都の条例によつてのみ課税権を附与されるため地方税法改正の機会に都より大幅な事務事業の移管とこれが、裏付財源の獲得につき強力なる要請をしたるも、シャープ勧告の趣旨である地方財政確立の精神に反し、特別区に移譲した税は市町村民税である特別区民税、自転車税、荷車税、木材引取税、接客人税、使用人税に制限
せられた次第で、地方財政の根本的改革を期することが、出来得なかつたことは甚だ遺憾とするところであります。元来当区の歳入関係は区民各位既にご承知の通り、その大半を都より分与される地方配付税及び、補助金、交付金に依存しておつた実情で自然歳出においても、自主財源の貧しいため都の一方的措置の需要額によらざるを得ない次第で、今般の地方税法改正により、区税収入は一応昨年度に比し、著しく増加をみましたが、その反面従来分与されておつた地方配付税は全額返還の上、今般移譲された事務事業の経費は、従来都費で処理されたものが、今後全額区費で賄うこととなつた外、区に代つて都が執行している事務事業に対する経費として、特別区民税調定の三割七分一厘九毛、三七、九五二、〇〇〇円を特別納付金として都に納付せしめられており、更に又都の算定に基く、歳出需要額に対し、彼此算出の結果、四〇、四七〇、七四八円の財政調整交付金の交付をを受けるなど、実質的には従来と何等変更はなく、寧ろ昨年度迄の自由財源も皆無となつたため、内容においては、従来より一歩退歩的となつたことは否めない様な次第であります。然しながら今後都依存態勢より漸次脱却し自治権の拡充、自主的財政確立の理想に到達するため、更に一段の努力を払う所存でありますから、区民各位におかれても、絶大なる御支援と、御鞭撻を念願する次第であります。
一、収入及び支出の概況
前期財政公表における予算総額は、一一二、九六〇、三八二円でありましたが、其の後四月の追加更正により歳入歳出共、一三〇、九四五、〇九四円の増額となり、予算総額は二四三、九〇五、四七六円となつた次第であります。
二、区民負担の概況
本年度の区税(地方配付税二九、三三〇、〇〇〇円を除く)は一〇七、二七〇、〇〇一円で本区三月末日の人口一二七、七四九人、世帯数三〇、〇七〇世帯であつて、一人当りの区税負担額は、八二六円七五銭強、一世帯当り三五六七円三四銭強で、前年同期に比して一人当り約三、七六倍、一世帯当り約三、八一倍であります。
画像を表示この負担の重加は、区の事務事業の膨張に伴う区税の増額徴収ということではなく、シヤープ勧告に基く、地方税法改正による従来の国税第一重点主義から、地方の自主的財政確立に転換された結果であります。
三、公営事業経理の概況
1、公営浴場事業 練馬区公営大泉浴場は、前回公表の通り、練馬区公営大泉浴場助成会長加藤隆太郎と一ケ年の期間契約で、委託経営せしめてありますが、昭和二十五年八月十五日物価庁告示第四七七号を以て、地代家賃統制令の改正が施行、同年八月一日から適用されたため、同浴場敷地地代を値上せられたので同年八月一日より昭和二十六年三月三十一日迄三、七八〇円の地
代を増額した次第で既定予算と合せ、地代年間六、七二〇円となり、浴場維持費は、総計六七、三八〇円となつたのでありまして、これが経営状況も順調であり、経理状況も適正であります。2、特別区連合競馬事業 戦災復興のため二十三特別区は、一部事務組合体の特別区競馬組合を設立して競馬事業を経営することに決定、これが設立許可申請中のところ、昭和二十五年十月六日総地指令第二十号を以て、東京都知事より許可指令があり、特別区競馬組合管理者に千代田区長村瀬清就職し、組合議会議員は二十三人を以て組織し、当区より産業委員長である大野政吉議員が、組合議会議員に就任し、第一回特別区競馬を十一月二十四日より六日間、大井競馬場において開催、第二回を十二月十五日より六日間、第三回を一月二十五日より六日間、第四回を二月八日より六日間夫々同じく大井競馬場において開催し、昭和二十五年度収益分配金として各区共平均第一回分四十万円、第二回分二百六十万円、計三百万円の分配金でありました。
四、区有財産
土地 四七、〇一九坪五二四 一二、九〇〇、二五六円
建物 一五、六七五坪〇一七 一〇五、〇七八、二五六円
工作物 一、四五七、三五〇円 立木、竹石 二三六、二〇〇円
動産 一五、二八四、五五〇円 救済基金 二、八四〇円九六銭
預金 二五、六八〇、七三八円三七銭
合計 一六〇、六四〇、一九一円三三銭
結語 以上、昭和二十五年十月一日より昭和二十六年三月三十一日迄六ケ月間に亘る練馬区財政の実情をお知らせ致しましたが、歳入中、繰越金二一、八五二、〇八〇円は殆んど前年度の教育施設、六三制による校舎建設費並に災害復旧校舎建設費であり、これが本年度に繰越された主なる原因は、補助金が年度近くでなくては容易に資金化されず、区において一時立替をする余
裕もなく、殊に、昨年六月の朝鮮動乱或いは貨車輸送の不円滑等種々な事情に基因した為であり、更に又、歳出において、本年度校舎建設費並に、一部道路橋梁維持管理費についても、前述の如き種々な悪条件が、累積して相当額を二十六年度へ繰越を余儀なくされましたが、極力これが阻害の原因を強く打開してもつて区民各位の御期待にそうよう凡ゆる手段方法を講じておりますのでこの点御諒解をお願いする次第であります。 資料文> <資料文>二十六年度前期財政事情(昭和二十六年十一月一日発表)
一、前書
本区財政事情の推移と現状に関しましては、過去数次に亘り、公表致しましたが、今回は昭和二十六年四月一日から、昭和二十六年九月三十日迄の上半期分につきましてお知らせ致します。
わが練馬区は、東京都二十三区の一環として独立以来日尚浅く、過去の公表に明らかな通り、地方自治発展の枢要な基盤である財源に乏しく、従つて予算の合理化と、冗費の削減、歳出の抑制等自主的健全財政確立のため常に財源の蓄積に鋭意努力し、其充実強化を計つて参つたのであります。
昭和二十五年七月、地方税法改正に伴い、従来都に依存して来た区財源を区税を主体とする其他の財源で賄われる事となり、此処に都から区への財源移譲は一応自主財政確立の理想に達するに至つたのであります。
然しながら、練馬区は他区に比較し、著しく財源に乏しく、年間財政需要額も、区自体の財源を以て、満し得ず、都の財政調整交付金に待たねばならず、近時諸物価の昂騰其他の原因に依り、財政需要額も、年々増大の一途を辿るのみで、之が財源との調整は、前途幾多の困難を予想されるのでありますが、此の財政現状の苦況を克服し、以て練馬区勢の進展と、区民の福利増進に努力致しておりますから、此の点区民の各位におかれましては篤とご了承戴きまして一属のご支援と御鞭撻をお願い致します。
一、昭和二十六年度歳入及び歳出の概況
本年度当初予算は、三月骨格予算を編成し一一九、二〇四、〇〇六円と第一回の追加予算、六二三、〇〇〇円を計上し、七月第二回の追加更正予算、二八、八四八、九七三円、八月に第三回の追加更正予算二〇、六五二、三九七円で、今期予算総額一六九、三二八、三七六円となつております。
画像を表示二、区民負担の概況
本年九月末現在における区税の調定額に対し、同月現在、当区の人口並に世帯数に対する、区民の平均負担額は次の通りであります。
区税調定額 一四五、〇〇四、六九七円三〇銭
人口数 一三四、七六三人 一人当負担額 一、五七五円九七銭
世帯数 三一、〇〇〇世帯 一世帯負担額 四、六七七円五七銭
三、区有財産
土地 四九、四五八、坪一三四 二一、三七二、八六五円 建物 一六、七四一坪 一六九、三六六、五〇八円
工作物 三、六五一、三五〇円 立木、竹石 二三六、二〇〇円
動産 一五、二八四、五五〇円 預金 一一、三八九、四四〇円
救済基金 二、八四〇円
計 二二一、三〇三、七五三円九七銭
結語 以上で上半期分の財政事情を明らかにしましたが、健全財政の維持確保の為には其根本問題たる区税収入にまつこと極めて大でありまして、漸く軌道にのりつつある自主行政の円滑なる運営に重大な影響を及ぼす結果ともなりますので、之が所期の目的達成の為、練馬区勢振展のため、格段の御理解と、御協力を切望する次第であります。
資料文> <資料文> 二十六年度後期(
昭和二十六年十月に、都区財政調整交付金及び納付金算定基礎に関する都よりの指示があり、これ基く区補正予算の編成を経て、本区の財政も一応その形態が漸次整備されるに到つたのであります。
昭和二十七年三月編成の新年度予算は、大体年間予算の形態をもつておるもので、昨年度当初予算に比較して、相当の増加をみておりますことは当然であります。
既に御承知の通り、地勢、環境等、本区の有します特殊性が必然的に財政面に及ぼす影響は、その結果として、極めて財源に乏しく従いまして区政振興を図るべき、諸施策の遂行に当りましては著しく不利な状況にあります。然し乍ら長期に亘る歳出の抑制をなし、もつて財源の蓄積を図りつつ十三万区民の福祉利便増強のため、鋭意健全財政の方途へ、推進せしめたいと存じますので、区民各位におかれましても、斯かる実情篤と御賢察頂きまして今後とも、格段の御協力御鞭撻の程を念願いたします。
一、収入支出の概況
本年度当初における予算総額は、上半期財政公表に明示した通り、一一九、二〇四、〇〇六円であつたが、爾後六回の追加更正により歳入歳出共、一四六、二四〇、九七七円の増額となり、予算総額は、二六五、四四四、九八三円となつておりますが、その経緯は、前期末予算総額一六九、三二八、三七六円に対し、昭和二十六年十二月第四回の補正予算で六七、二〇五、四八八円、次いで、昭和二十七年三月、第五回が、二六、七八五、二〇九円、更に同月第六回において二、一二五、九一〇円と夫々増額となつた次第であります。
三、区民負担の概況
本年三月末現在の、区税調停額に対し、同月現在練馬区の人口並に世帯数に対する区民の平均税額は左記の通りであります。
区税調定額 一六二、九一四、六七九円一〇銭
人口数 一三八、〇四二人 一人当負担額 一、一八〇円一八銭
世帯数 三一、六九三世帯 一世帯当負担額 五、一四〇円三九銭
四、区有財産
画像を表示土地 五一、〇九九坪一八四 二二、九六三、三四五円 建物 一六、七一四坪一四六 一七〇、六一六、一一六円
工作物 三、六五一、三五〇円 立木、竹 石 二三六、二〇〇円
動産 一六、一六二、五五〇円 有価証券及預託金 四二、九四一、七二八円二〇銭
合計 二五六、五七一、二八九円
結語 以上昭和二十六年十月一日から、昭和二十七年三月三十一日迄、下半期分を御知らせ致しましたが、極力思惟を重ね、新生練馬の名に相応しいところの、土木、教育、商工振興等の、重点的諸施策の樹立がのぞまれますので、それが達成に意を注いでいる次第であります。然しながらなお、区民各位の御協力にまつ所多大であり、特に区税に関しましては、洵によき御理解と御支援を得ておりますが、健全財政維持の為の重大要素であります事は否み難く、此の点格段の御力添を願望してやまぬ次第であります。
資料文> <資料文> 二十七年度前期(
一、前書
既に御案内の如く、講和後の新たな国内体制に切替えるべく、地方自治法の理念にも種々検討が加えられ、昭和二十七年七月に一部の改正をみたのでありますが、これは真の地方自治制度のあり方について大きな関心が払われつつあるあらわれとも考えられるのであります。(後略)
二、財政の概況
終戦後、日本経済の非常な変動期から、都は勿論、市町村におきましても、年間の基礎となりますところの、当初予算編成に当りましては、自ら数次に亘つて小刻みに補正を行つてゆくという、いわば、変則的方法によらねばならない状況にあつたのであります。
然し、この一般的現象もどうやら落着き、物価も一応安定に向いつつあるに従つて、年間収支の見透しも、ほぼ、可能になつて参りましたので、都では、戦後始めて、年間予算が編成され、本区におきましても、今年三月編成の当初予算総額二二九、七三七、六二六円はかかる見透しの下に行われました。
更に昭和二十七年四月一日より、従来都営であつた公益質屋事業が、本区にも移管され種々御便宜に資することと相成つたのでありますが、これは、特別会計としてやはり今年度当初予算編成の際、一二、六〇九、五〇〇円が計上され、爾後若干の補正を行いました。昭和二十六年に同じく都より、移管されました診療所と共に着々整備充実を期しておりますが、区民各位御承知 画像を表示
の通り、極めて財源に乏しい本区の事情から、極力冗費を除き、歳出の節減抑制をなして、予算の合理化を図る等、懸命の努力を重ねて参りましたが、今後なお、長期に亘つてこれが対策を講じてゆく必要を感ずる次第でありまして、この点充分ご理解の上よろしく御支援の程をお願い致します。区民負担の概況
区民負担の概況につきましては、今期末現在の区税調定額に対し、同日現在、練馬区の人口並に、世帯数に対する区民の平均税負担額は左記の通りであります。
区税調定額 一八二、九二六、二五五円
人口数 一四三、三五七人 一人当負担額 一、二七六円〇一銭
世帯数 三三、〇二九世帯 一世帯当負担額 五、五三八円三五銭
区有財産
土地 六四、五九六坪〇八四 二九、七八八、四四〇円 建物 一七、九七七坪〇四九 一八九、二二二、七二九円
工作物 三、六五一、三五〇円 立木、竹石 二三六、二〇〇円
動産 一八、七七八、七六〇円 有価証券及預託金 三〇、一一六、一〇二円
合計 二七一、七九三、九八一円
後書 以上をもちまして、上半期財政事情を明らかに致しましたが、区政発展と、区民の福祉利便増強のため、健全財政の建前をもつて、今後とも、更に更に、不断の考究をはらいつつ、これが合理化に専念致す所存でありますから、何卒、本区の財政事情を御認識下さいまして、御批判と、御協力を願望して止まないものであります。
資料文> <資料文> 二十七年度後期(
一、前書
昭和二十七年十月一日より、昭和二十八年三月三十一日迄の下半期財政事情について、区民各位にお知らせ致します。
本年度当初予算は、戦後初めての年間予算であり、その後において、都補助金、繰越金、手数料を財源とする、歳出諸経費を二回補正致しました結果、前期間における、歳入歳出予算総額は、一般会計、二五九、九五四、一七五円、特別会計一二、六一二、五〇〇円と相成りました次第は、既に公表に示した通りであります。
今期間におきましては、十月二十八日第三回の補正により、映画作成、区史編さん、戦歿者の追悼式経費、農産物品評会経費人件費等、一般財源による諸経費総額一二、一六七、〇一七円及、補助金と其他収入による校地買収、選挙執行経費、五、九〇九、五九一円を計上したのであります。
次いで十二月二十六日には、第四回の補正を行い、財政調整交付金一六、〇五九、五〇〇円、都補助金一四、四九五、二九〇円、公営企業収入五、五〇〇、〇〇〇円を歳入財源とする歳出予算即公民館建設費、開三小分教場建設費、教育委員会運営費等、三六、〇五四、七五〇円を追加計上。
更に三月十二日第五回の補正におきまして区税一一、一三六、〇二一円、都補助金一一、八七七、七五四円、財政調整交付金一一、六六七、二七五円、使用料及手数料、三〇三、五九〇円、雑収入一、〇五〇、〇〇〇円の歳入財源によりベース改訂、中村小学校改築、開三小分教場建設等に要する諸経費を計上したのであります。
以上による歳入、歳出合計は、
一般会計 三五〇、一二〇、六一三円
特別会計 一二、六一二、五〇〇円
となつた次第であります。
画像を表示 画像を表示区民負担の概況
区民負担の概況につきましては、今期末現在の区税調定額に対し、同日現在、練馬区の人口並に世帯数に対する区民の平均税負担額は左記の通りであります。
区税調定額 一八七、九八〇、八一二円
人口数 一四八、四〇六人 一人当負担額 一、二六六円六七銭
世帯数 三四、五二一 一世帯当負担額 五、四四五円四〇銭
区有財産
土地 六四、七三八坪六七四 三五、八七八、八一九円〇五銭 建物 一九、〇二八坪六一一 二〇九、九一九、一〇九円
工作物 三、六五一、三五〇円 立木、竹石 二三六、二〇〇円
動産 二三、八八六、〇五〇円 有価証券及現金預託金 一四、八〇三、四五三円四四銭
合計 二八七、九七四、九八一円四九銭
後書 下半期財政事情につきましては、以上明らかに致した通りでありますが、健全財政の維持確保には、鋭意収支の適正合理化を図り、財源面の苦況を克服しつつ更に進んで、区政運営上、能動性に富む諸施策の遂行を図ることこそ、理想でありまして、特に区税におきまする区民各位の御理解と、御協力は前述の目的達成の源をなすと申して過言ではなく直に区行政面に反映し、区勢進展の枢要な動力を為すものであること必然でありまして宜しく御支援、御鞭撻の程念願いたします。
資料文> <資料文> 二十八年度前期(
一、前書
練馬区の財政は、過去数次に亘る財政事情の公表に明らかな通り、毎年苦しい茨の途を辿つて参りましたが、常に区民の皆様の深い御理解と、絶えざる御協力により、独立以来、区政の伸長は、近年頓に、その成果を挙げて参つたのであります。
申す迄もなく区政の進展は、均衡財政の樹立に俟たねばならぬものでありまして、乏しい財源に制約を受ける財政政策の面に、如何にして予算の合理化を図り、健全財政の方途へ推進せしめるかは、重大なる課題でありまして、之が解決の為には、区議会と共に、全力を傾けて、万全の施策を講じて参つたのでありますが、このような練馬区の財政の現状につきましては、区民の皆様のひとしく関心をもたれておられると思います。
従つて今回は昭和二十八年四月一日より、同年九月三十日迄の六ケ月間の財政事情を御報告し、もつて区民各位の御批判と、
格段の御協力を頂き、区財政の健全なる発展に資したいと思います。二、財政の概況
昭和二十八年三月議決を経た予算は、都区間の基準財政需要額の未解決のまま、当初予算とは申し乍ら、人件費を中心とし、物件費を最少限度に見込んだ骨格予算を編成せざるを得なかつたのであります。
一般会計予算に就いては、区税収入を主たる財源とし、事業繰越金、都補助金及び其の他財源により歳入歳出一一、九三〇、九二〇円が計上されたのであります。
次で、七月八日議決を経た第一回追加更正予算も、依然として、物件費については、こきざみに予算の計上を余儀なくせられ
画像を表示一般会計予算は、都補助金、事業繰越金、一般繰越金及びその他財源により、歳入歳出予算総額三一三、二五七、一二一円、特別会計予算は繰越金を財源とし、歳入歳出予算総額一一、九六六、一二五円となつたのであります。
区民負担の概況
区民負担の概況につきましては、今期末現在の区税調定額に対し、同日現在、練馬区の人口並に、世帯数に対する区民の平均税負担額は左記の通りであります。
区税調定額 二〇九、九八二、九四四円四〇銭
人口数 一五四、七八九人 一人当負担額 一、三五六円五八銭
世帯数 三六、三三三世帯 一世帯当負担額 五、七九九円二四銭
区有財産
土地 六六、九四八坪七五四 三九、四八四、一六九円〇五銭 建物 一九、七九三坪七五一 二二六、六八六、一〇九円
工作物 三、六五一、三五〇円 立木、竹石 二三六、二〇〇円
動産 二三、八八六、〇五〇円 現金有価証券及救済基金 七、四三九、七三一円
合計 三〇一、三八三、六〇九円
結語 以上昭和二十八年度上半期の財政事情並びに、昭和二十七年度決算の概要を、明らかに致しましたが、何卒本区の実情を御認識下さいまして、明るく住みよい練馬区建設のため、御支援、御鞭撻をお願いする次第であります。
資料文> <資料文> 二十八年度後期(
一、前書
昭和二十八年度における、練馬区財政の特質は、上半期財政事情の公表により、その概要をお知らせしまして、区民の皆様の
賢明なご批判と、積極的な御協力とにより著しい区財政の運営も、諸施策の効率的執行と相俟つて、予算の合理的な執行は、一応財政の均衡を維持して参つたのであります。然しながら、区民の皆様には、すでに御承知の事でありますが、練馬区は毎年財政需要額の一部を財政調整交付金により賄われている現情でありまして、本年度当初は、基準財政需要額の未解決のまま、仮算定による調整額の交付金を受けて、その後二十三区間の度重なる会合が行われ、この間の折衡は迂余曲折最終調整もついに年度末に到り、漸く決定をみる如き、困難な経過を辿つて来たのでありまして、然もこの最終決定を現実に測した公平妥当な調整と期待していたのでありましたが、満足な結果を得られず今日に到つたのであります。
このような情勢の推移は、自ら極度の緊縮財政へと方向づけられ、之が解決の為以前に増してより強力に、諸経費の節約を図り、万全の施策を講じて、健全財政の確立に、最大の努力を傾注している次第であります。
かかる現状におきまして、今回は十月一日より、三月三十一日迄の下半期の財政事情をお知らせ致します。
二、財政の概況
昭和二十八年度当初予算と、第一回追加更正予算は、財源調整の制約のもとに、小刻みな予算の計上となり、一般会計予算三一三、二五七、一二一円、特別会計予算一一、九六六、一二五円となりました次第は、前回公表の通りであります。
昭和二十八年十一月議決を経た第二回追加更正予算は都支出金、区税、財政調整交付金、公営企業及財産収入、雑収入、寄附金、使用料及手数料を財源とし、人件費と年間所要物件費の残額、校地買収及校舎建設費、分譲住宅建設費につき、一二〇、二三四、六〇二円を計上し、次いで、三月議決を経た第三回の追加更正予算は、都補助金及び、区税収入を都算定による最大の増徴とし、その他財源により、給与ベース改訂に伴う人件費と校舎建設費、及その他諸経費につき五二、九六二、〇九〇円を計上、
歳入歳出予算額四八六、四五三、八一三円となりました。特別会計(公益質屋事業)予算は第二回、第三回とも人件費の更正
により、歳入歳出予算額一一、九六六、一二五円となりました。 画像を表示区有財産
土地 六六、三四八坪七六 七三、四九九、七一二円 建物 二〇、三四四坪二一二 二九四、九五八、九九一円
工作物 五、二四一、二七三円 立木、竹石 一、四二二、三八〇円
動産 五四、五五五、〇三七円 現金有価証券預託金 二〇、八八六、九八三円三三銭
合計 四五〇、五六四、三八六円三三銭
後書 以上昭和二十八年度、下半期の財政事情を明らかにしましたが、特別区財政調整交付金制度運営の正否が、区財政に及ぼす影響は、今期練馬区財政の直面した未曽有の困難によつても明らかな通りでありまして、かかる現状を篤と御認識下さいまして、何卒区民各位のより一層の御理解と御協力をお願いする次第であります。
資料文> <資料文> 二十九年度前期(
一、前書
練馬区の財政に関しましては、過去数次に亘り、その概況を明らかにして参りましたが今回は、昭和二十九年四月一日より、九月三十日迄の六ケ月間の財政事情を、御報告致します。
練馬区の本年度当初予算は、年間予算とは申しながら、人件費、物件費とも、最大の節減を図り、極度の緊縮予算が編成され、その後部分的な補正も行われたのでありますが、例年の通り、区財源の根幹をなす財政平衡交付金も、仮算定による交付額の一部を受けている現況であり従つて区自体の建設的事業は著しい制約を受けているのでありまして、均衡財政の樹立が、区勢の伸長に如何に重大な影響を与えるかは、言を俟たないのであります。
かくの如く、焦眉の課題を解決するには、歳出の抑制、冗費の節減等、予算の効率的執行と相まつて長期に亘る財政政策を堅持し、健全財政確立のため、区は常に財源の確保に懸命の努力を至して参ります。
区民の皆様にはかかる実情を篤と御認識いただきまして、格段の御協力と御協力と御鞭撻を念願いたします。
二、財政の概況
昭和二十九年三月、区議会の議決を経た、昭和二十九年度当初予算は、一般会計、三四五、八〇三、五五二円の年間予算でありまして、人件費、物件費とも、出来るだけの節減を図つて、健全財政確立のため、緊縮予算が編成され、その後同年六月、都補助金、手数料及その他財源による七〇、四一八、九七五円の追加更正予算が議決され、ついで、同年九月、都補助金及びその他財源により校地買収費、特殊学級費及土木費二五、二五二、一〇〇円の追加予算が計上されて、この予算総額四四一、四七四、六三〇円となりました。次に特別会計は、二つの事業会計予算がありまして、
<項番>(一)項番> 公益質屋事業会計予算は、本年三月当初予算一一、八九八、四七五円ついで同年六月、追加更正予算九六、二三一円が計上されて、その予算総額一一、九九四、七〇六円となりました。
<項番>(二)項番> 分譲住宅建設事業予算は、本年五月一〇一、〇六三、三〇〇円が計上され、順次公募が行われて建設工事は着々と施行されております。
画像を表示区民負担の概況
区民負担の概況につきましては、今期末現在の区税調定額に対して同日現在、練馬区の人口並に世帯数に対する区民の平均税負担額は左記の通りであります。
区税調定額
人口数 一六九、二三八人 一人当負担額 一、四六六円七三銭
世帯数 四一、〇〇六世帯 一世帯当負担額 六、〇五三円四三銭
結語 以上をもつて、今期の財政事情を、御報告致しましたが、区民各位の御協力により、区財政の運営は、乏しい中にも大過なく上半期を終りました。
区民各位におかれましては、区財政の充実と区勢伸展のため、尚一層の御理解と御協力をお願いする次第であります。
画像を表示 資料文> <資料文> 二十九年度後期(
(昭和三十年五月一日発表)
一、前書
練馬区の財政に関しましては、従来機会ある毎に、その概要を明らかにして参りましたが、常に区民各位の深いご理解と、積極的なご支援により、区財政の運営は、乏しいうちにも、着々とその成果を挙げて参つたのであります。
既にご承知の如く、二十九年度予算も、財源調整に困
難な本区の事情から、極度の緊縮予算が編成され、この予算の執行に当つては冗費を除き、計画的且つ効率的な支出を図つて年間予算の経理は、極めて慎重を期して参つたのであります。その後、例年の通り、難行を重ねる財政平衡交付金の問題は、数次に亘る折衝の結果、漸く九月に至り、その大要が明らかとなり、区財政の最終的な決定をみるに至つたのであります。
然しながら、年々増大する区財政の規模は伸展の一途を辿る本区の財政所要額には、到底及ばない実情でありまして、この問題の解決のため、区は常に財源の確保に、あらゆる努力を傾注しております。
区民各位には、かかる現情を篤と御認識頂きまして、今後とも、一段のご協力をお願い致しまして、財政の現状を詳述致します。
二、財政の概況
昭和二十九年度予算は、その後十二月に区税の増徴分、都支出金、平衡交付金、財産収入、寄附及手数料を財源とし、教育費、区役所費、土木費、その他各款に亘り、五三、二五一、九四四円の追加更正予算を計上し、ついで三十年一月、衆議院議員選挙及び最高裁判所、裁判官国民審査費、歳入歳出一、六三一、四五六円の選挙執行経費を計上、更に、三月、都支出金、繰越金、寄附金を財源とし教育費、区役所費、その他各款に亘り、二三、七七二、九一一円を計上、最終補正を行つて一般会計予算額五二〇、一三〇、九四一円となりました。
次に特別会計予算につきましては、
<項番>(一)項番> 公益質屋事業予算は、十二月に、二三、九五〇円、三十年三月一一、八七三円の歳出予算の更正を行つて予算額一一、九九四、七〇六円となりました。
<項番>(二)項番> 分譲住宅建設事業予算は、三十年三月、内容の組替を行つて予算額一〇一、〇六三、三〇〇円となつております。
画像を表示区民負担の概況
区民負担の概況に関しましては今期末現在の区税調定額に対し、同日現在練馬区の人口並に、世帯数に対する区民の平均税負担額は左記の通りであります。
調定額 二六〇、一二九、三〇〇円
人口数 一七四、五六三人 一人当負担額 一、四九〇円一七銭
世帯数 四二、九三四世帯 一世帯当負担額 六、〇五八円八二銭
区有財産
土地 七三、八九五坪二七 三二五、七三四、四五二円 建物 二三、三四五坪九四 三六八、三〇二、一七三円
工作物 一三、三四七、一一〇円 立木、竹石 一、七〇三、四八〇円
動産 一〇九、四二三点 八四、一二四、三八〇円 現金有価証券預託金 二八、五八八、六四〇円
合計 八二一、八〇〇、二三五円
結語 以上をもちまして、今期財政事情を明らかにしましたが、申す迄もなく、区政の伸展は、均衡財政の樹立に俟たねばならぬものでありまして、特に区税に関しましては、洵に良きご理解と、ご支援を得て参つたのでありますが、区行政の円滑なる運営を図るため、今後とも積極的な御批判と、御力添を願望してやまぬものであります。
資料文> <資料文> 三十年度前期(
一、前書
昭和三十年度練馬区の予算は、区政の進展と区民生活の安定向上を図り、全ての経費を節約して極度の緊縮予算を編成し、均衡財政の堅持に万全を期したのであります。
然して現下我国の経済情勢は、中央地方を通じて財政上の緊縮を一層強く要請している現状で、区においても、この数年来、行政運営の合理化能率化による経費の節約、及び不急不要事業の抑制等、鋭意財政の整備に努力して来たのでありますが、これらの措置も既にその限界に達している現状でありまして、然も区で最も重要な問題であり、本年十月を確定の目途とした三十年
度財政調整は、諸般の事情により本年も未確定のまま、現在に至つたのであります。然しながら今日区政は日々進展の一途を辿り之に伴う財政規模の増大は、必然的な趨勢であつて、此処において、速やかに財政の基礎を確立することは、極めて肝要なことでありまして、区は、この問題を解決し、もつて躍進練馬に盤石の礎石を確立すべく、不断の努力を傾注しております。
二、練馬区の本年度予算は、三月に当初予算を編成し、その後六月、八月の二回、補正予算が編成されました。
本年三月、議決を経た当初予算は、<項番>(イ)項番>一般会計予算、<項番>(ロ)項番>公益質屋事業予算、<項番>(ハ)項番>分譲住宅建設事業予算でありまして、
<項番>(イ)項番> 一般会計予算は、区税、財政平衡交付金、都支出金、事業繰越金、雑収入、使用料及手数料、公営企業及財産収入等を財源とし、教育費、区役所費、土木費、議会費、産業経済費、諸支出金、その他諸経費、三八〇、八〇〇、九九一円を計上し、
<項番>(ロ)項番> 公益質屋事業予算は、事業収入、繰越金を財源とし、事業費、予備費等一一、三八二、六八八円を計上し、
<項番>(ハ)項番> 分譲住宅建設事業予算は、事業収入、雑収入、繰越金を財源とし、住宅建設事業費、予備費等、一七四、九一二、八〇〇円を計上しました。
ついで同年六月、都支出金、事業繰越金、一般繰越金、その他財源により、教育費、厚生事業費、土木費、選挙執行費等、三七、一五九、二九六円を追加計上し、一般会計予算四一七、九六〇、二八七円の議決を経ました。ついで同年八月、<項番>(イ)項番>一般会計予算、<項番>(ハ)項番>分譲住宅建設事業予算の議決を経て、<項番>(イ)項番>一般会計予算は、都支出金、事業繰越金、一般繰越金、雑収入、公営企業及び財産収入その他財源により、教育費、地方振興費、土木費、区役所費、厚生事業費等、一二七、六一三、四三〇円を計上し、歳入歳出予算総額五四五、五七三、七一七円となりました。
区民負担の概況
区民負担の概況につきましては、今期末現在の区税予算額に対し、同日現在、練馬区の人口並に、世帯数に対する区民の平均
税負担額は左記の通りであります。 画像を表示区税予算額 二二二、一八六、九〇〇円
人口数 一八二、九二四人 一人当負担額 一、二一四円六四銭
世帯数 四五、四三五世帯 一世帯当負担額 四、八九〇円二一銭
区有財産
土地 七三、八九五坪二七 三二五、七三四、四五二円 建物 二二、三四五坪九四 三六八、三〇二、一七三円
工作物 一三、三四七、一一〇円 立木、竹石 一、七〇三、四八〇円
動産 八四、一二四、三八〇円 現金有価証券預託金 一一、九八一、五二九円
合計 八〇五、一九三、一二四円
以上で本区財政事情を明らかに致しましたが、何卒本区の実情をご認識下さいまして、区政進展のため、格段のご支援とご鞭達をお願いする次第であります。
資料文> <資料文> 三十年度後期(
一、昭和三十年度予算の概況
昭和三十年度一般会計予算は、当初予算及び二回の補正予算で、五四五、五七三、七一七円となり、その後第三回補正予算で区税、都支出金、寄附金、繰越金、雑収入、使用料及び手数料を財源とし、歳出二六、二〇六、六八四円と第四回補正予算で都支出金の減額更正と、繰越金、雑収入、財政平衡交付金、区税、公営企業及び財産収入を財源とし、歳出一九二、四五一円を計上し、予算総額五七一、九七二、八五二円となりました。
事業会計予算について、公益質屋事業会計予算は、当初予算一一、三八二、六八八円を計上し、第一補正予算で、繰越金、事業収入を財源とし、歳出一、九九九、五四五円と第二回で事業費(歳出)の更正を行つて、予算総額一三、三八二、二三三円となりました。
分譲住宅事業会計予算は、当初予算及び、第一回の補正予算で、二六〇、三三一、八〇〇円となり、その後第二回補正予算で
事業収入の減額更正と、繰越金、雑収入を財源とし、歳出五、五五三、三九四円を減額更正し第三回で建設事業費(歳出)の更正を行つて予算総額二五四、七七八、四〇六円となりました。 画像を表示区民税負担の概況
区税予算額 二三八、四三〇、六二五円
人口数 一八九、七五七人 一人当負担額 一、二五六円五〇銭
世帯数 四七、五三七世帯 一世帯当負担額 五、〇一五円六八銭
区有財産
土地 八七、二〇八坪五一 四八一、五一一、七一一円 建物 二四、四八六坪六一 四二八、六一四、八九八円
立木、竹石 四、五四八、七三〇円 重要機械器具 一一点 一〇、三五六、三五〇円
工作物 一九、四八三、二八〇円 動産 一〇八三六六点 九五、七五二、四七九円
有価証券及救済基金 二、七八三、〇四五円
合計 一、〇四三、〇五〇、四九三円
結語 以上財政の現況を明らかにしましたが、三十年度練馬区財政の運営は、区民各位の深いご理解と、積極的なご協力を得て、幸にして大過なく終ることができました。今後とも区民生活の安定向上と福祉増進のため、万全の努力を期してまいります。何卒格段のご指導と、御鞭撻を期待して、ご報告とします。
資料文> <資料文> 三十一年度前期(
一、前書
練馬区財政の推移については、機会あるごとに、その概要を明らかにしましたが今回は、本年四月より、九月迄の上半期財政の現況について御説明いたします。
昭和三十一年度練馬区の予算は、区民生活の安定充実と、区政伸展のため、区行政機能を充分発揮実現するに必要な施策経費
を盛込んだ年間予算編成の方針で、数年来の区財政の現状を考慮して、既定経費の膨張は極力之を抑制し、既定事務事業の整理縮減等、徹底的に再検討を加え、諸経費の節減を図り、特に人件費、並びに一般需用費の増加は厳にこれをさけるとともに、財源の捻出には、特段の工夫を講じて歳入の増徴を図つたのであります。然しながら躍進途上にある本区の現状は、将来歳出の減少を予期することは不可能であるのみならず、更に新たな区費の増加は当然覚悟せねばならず、区税の増徴のみをもつて区政の充実はもとより、歳出全体を支弁するに足らぬは明らかであり、従つて財政調整の問題は、都財政と関連して区財政の確立を図ることの急務は、言をまたないのでありましてこの問題の解決の為に区は不断の努力を傾注しております。
かかる現情において以下区財政の大要を詳述致します。
二、財政の概況
練馬区の本年度予算は三月当初予算を編成し、その後六月(一般会計、分譲住宅建設事業会計)に第一回追加更正予算を編成し、各会計別予算の内訳は左記の通りであります。
<項番>(イ)項番> 一般会計予算
<項番>(ロ)項番> 公益質屋事業会計予算
<項番>(ハ)項番> 分譲住宅建設事業会計予算
<項番>(イ)項番> 一般会計予算は本年三月、区税都支出金、財政平衡交付金、繰越金、雑収入、使用料及手数料及びその他財源により、区役所費、教育費、土木費、地方振興費、議会費、産業経済費、諸支出金、厚生事業費及びその他歳出三九九、七九七、七八八円を計上し、ついで六月、都支出金、繰越金、寄附金を財源とし、教育費、区役所費、地方振興費、及びその他歳出一七六、八二七、二六一円を追加計上し、その予算総額五七六、六二五、〇四九円となりました。
<項番>(ロ)項番> 公益質屋事業会計予算は、本年三月事業収入、繰越金を財源とし、歳出事業費、予備費、一二、六四六、七二〇円を計上しました。
画像を表示<項番>(ハ)項番> 分譲住宅建設事業費、宅地造成事業費、一六七、八二七、九〇〇円を計上し、ついで六月事業収入、繰越金を財源とし、住宅建設事業費、宅地造成事業費、一六、一六九、五〇二円を追加計上し、その予算総額一八三、九九七、四〇二円となりました。
区民負担額
区税予算額 二四七、六四七、三九五円
人口 二〇一、六七四人 一人当負担額 一、二二七円九五銭
世帯数 五〇、五八八世帯 一世帯当負担額 四、八九五円三七銭
区有財産
土地 八七、二〇八坪五一 四八一、五一一、七一一円 建物 二四、四八六坪六一 四二八、六一四、八九八円
立木、竹石 四、五四八、七三〇円 重要な機械器具 一〇、三五六、三五〇円
工作物 一九、四八三、二八〇円 動産 一〇八、三六三、点 九五、七五二、四七九円
有価証券及救済基金 二、七八三、〇四五円
合計 一、〇四三、〇五〇、四九三円
結語 以上練馬区財政の現情を明らかにいたしましたが、何卒区民各位の積極的なる、ご批判とご協力をお願いしてご報告といたします。
昭和三十二年度予算のあらましについては、つぎの通りである。
昭和三十二年度の当初予算は、東京都における行財政施策に即応しつつ、区民生活の安定向上と福祉の増進を図るとともに、当区の実状を勘案し、土木事業、教育行政等の計画的進展策を計上しました。
したがつて、従来の既定経費は、極力これを節減して前記事業の財源に充当し区民各位の要望に応えることを目標といたしま
した。新年度の一般会計、特別会計総額六億九千二百三十万余円で、一般会計においては五億八百九十九万八千八百六十一円、特別会計では公益質屋予算が一千二百六十四万六千七百二十円、宅住建設では一億七千六十五万八千六十一円となつております。
これらの支出内訳は、次のとおりであります。
一、土木建設関係
土木工事請負費は、昨年にくらべ七九%の増加、同じく原材料で五〇%の増加を行つている。さらに民有地道路の免租手続も推進させる。分譲住宅五〇戸、宅地分譲一五〇区画を建設の予定。
二、教育関係
公民館分館六ケ所を建設理科教育振興のため備品購入費増加、校庭の冬期対策の徹底。
三、産業経済関係
指導行政の強化、商工相談の外、税務相談の新設。
四、社会福祉関係
遺家族、母子家庭、留守家族、身体障害者に対する法外援助を強化し、診療所に耳鼻科を新設したほか、蚊と蝿を撲滅する運動推進のための費用を相当額計上。
五、その他
区制十周年を記念して、区史の編さんを行い、区民へのサービスを期するため庁舎、自転車置場を改修して環境を整備する外、広報車を購入して、広報活動を活溌にし、また、議会の議事堂を新設することを予定しています。
画像を表示歳入
区税 三二五、五八〇、六九八円
繰越金 七九、七三一、二一〇円
財政平衡交付金 六五、四〇〇、〇〇〇円
雑収入 一五、四五四、五五一円
使用料及手数料 七、一四四、六五五円
都支出金 一四、四五七、七六五円
その他
公営企業及財産収入 一、二二九、七八二円
寄附金 二〇〇円
画像を表示歳出
議会費 二二、五二五、八四〇円
区役所費 一九五、三〇七、一六七円
土木費 五二、七一一、八〇〇円
教育費 一八八、七二五、八〇〇円
厚生事業費 七、七八一、九六二円
産業経済費 一三、七七八、〇九六円
地方振興費 七、三六二、四〇〇円
選挙費 一、六六八、八三五円
諸支出金 一一、三〇二、五七〇円
予備費 二、五〇〇、〇〇〇円
その他
監査委員費 七四八、〇〇〇円
戸籍費 一、七九一、四〇〇円
建築行政事業費 七六七、九九一円
住民登録費 一、九二七、〇〇〇円
消防団費 一〇〇、〇〇〇円
図表を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示 資料文> 本文> 節> <節>練馬区の二十三区における財政的の位置はどのようであろうか、いま昭和三十一年度の最終予算をみると、二十三
区を合計した金額は、約二一〇億円であるが、練馬区の予算総額は六億九千万円で三%の割合となつている。このうち大田区は一九億で九%、次は世田谷区の一八、八億で八・九%、第三位は、杉並区で一三、九億、六・六%となつており、練馬区は第二十位である。
区の収入の主なものは、区税であるが、昭和二十九年度中の区の歳入予算、五億二千万円のうち、一億八千万円、三四・六%か区税収入であるが、この納税義務者は、三五、一三四人であつて、これらのうち、五、〇〇〇円未満を納める者は、二五、三四五人、七二、一%、金額にして四五、九三七、三二一円、二四、五%、一万円未満の人は五五一二人で一五・六%、金額にして三七、九五八、一九七円、二一%、五万円未満の人は、三、九四六人で、一一、二%、金額にして七六、三四三、三八〇円、四一%、五万円以上の人は三三一人で、〇・一%、金額にして二二、七二二、七六五円、一三%となつている。
このことは、五〇〇〇円未満の人が、八三%を占める足立区や、七七%の江東区、八一%の板橋区にくらべると、練馬区民の担税力が高いことがわかる。
それでは、担税額の高さはどのようであるかというと、昭和三十年四月現在では、一人当り二、二六六円を納めている港区が最高であり、練馬区は一、五〇四円で中位の数字を示している、練馬区より担税額の低い区は、八百円台の荒川区、足立区、九百円台の葛飾区の墨田区、江東区、お隣りの板橋区は一〇九四円となつていて、台東区の一一九一円より更に低い。
特別区は市町村税に相当する税を大部分、都税として吸上げられているから、この区税面から財政力を見ることは
きわめてかたよつたものとなる。そこで都税について少しくふれてみると、昭和三十年四月調べでは、都税を一九億一千万円を納める大田区が最高である。しかしながら、一人当りの担税額は三三三五円で、中央区の六万九千円、千代田区の六万一千円には遠くおよばない。練馬区は、都税総額二億七千八百万円、一人当り担税額一五二三円となつており、いずれも二十三区中で最下位となつている。
このような数字の上に立つて、練馬区をあらためて見つめると、地域的には、二十三区中第三位の面積を持つていて、しかも交通は極めて未発達である。
海もなく、大河もない所に、工業が発達する道理はないし、国鉄の駅が一つもないという所に練馬の特色がいかんなくあらわされている。
画像を表示宅地化の進度が、太田、世田谷、杉並、等の区にくらべ、非常にゆるやかなことは、さまざまな資料によつて明らかであるが、それでもここ二、三年来の発展は急上昇のカーヴを描いている。
これには種々の理由もあげられようが、まず立地条件の低劣なことは、地価が安いというこ
とに外ならないので、他区が発展し切つて地価が高くなればなるほど、地価の安い練馬区が注目されて来たのではあるまいか、財政支出面からみても事業費中に、教育費、土木費が大きな比率を示しているのは、住宅の建設にともなう、道路、下水、橋梁の整備、さらには児童の急増による二部授業解消のために、校舎の増改築、校地買収、学校の新設等のための需要がきわめて激しいことを物語つている。 画像を表示また最近、地下鉄が都心と直結して通勤距離をちぢめたが、このことも大きな影響があつたし、区内の道路整備とあいまつてバス網の発達がみられ、本区が直営する宅地造成の事業や、分譲住宅の建設が、煤煙の町や、水難の区を嫌い、武蔵野の田園に憩を見出さんとする勤労階級を、心から招いた結果であるといつて、言い過ざであろうか。
次に採録した資料は、自治体財政の確立した昭和二十五年を基点として、物価の上昇が停止した昭和二十八年を中心に、最近の資料としては昭和三十年のものを調査したものである。
画像を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示 本文> 節> <節>昭和二十五年八月一日、地方税法は大きく改正されて、区民税一本にまとめられた。課税対象の拡大や税額の大巾引あげによつて区民税は特別区収入の中心となつた。練馬区はここに自主的に課税権を行使することが出来るように
なつた。自治行政の上に大きな改革であつたといつてよい。この外区税には自転車税、荷車税、犬税、接客人税、木材取引税の六種があつたが、やはり区民税が大きな収入である。 図表を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示練馬税務事務所
画像を表示昭和二十四年、シャープ勧告にもとづき、税制改革の結果、都税と特別区税の徴収を明かにするため、新に東京都は各区に税務事務所を設け、都税の財源徴収に当ることとし、昭和二十五年八月一日、練馬区豊玉北五ノ一五番地に練馬税務事務所を設け、それまで区で行つていた税務事務の一部を分離して開設された。
練馬税務事務所の竣工移転は昭和二十六年六月九日であり、庁舎の規模は一六二、五一坪となつている。
図表を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示練馬税務署
又国税の賦課徴収については板橋税務署が担当していたが、戦後練馬区独立によつて、新たに昭和二十七年八月練馬南町一ノ三五四五に練馬税務署が設けられた。
画像を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示 本文> 節> 章> <章>板橋区時代の区内人口がどれ程あつたか、戸数がどれ位かは、昭和十年の国勢調査がよく区内の状況を示してくれる。残念ながらその後の国勢調査は十五年に行われはしたが、時局がら発表されたのは概数だけで、町別人口などが示されないため、区内の人口は殆ど不明といつてよく、板橋区全体ではいくらといえるにすぎない。それ故町別人口により正確に板橋区時代の練馬区の人口を算定するのは昭和十年のみで、その後の推計調査はあるが以降は昭和十七八年頃まで次第に増加していつたことだけは認められるにしても、正確な数字は出てこない。
その後米軍の空襲が開始されて、特に武蔵野町の中島飛行機製作所が爆撃の目標になると、その附近もまた米機のねらう所となつて、畑のまん中に大穴があいたり、連日ドカドカッと爆弾を見舞われたりしたので、次第に地方に疎開転出がはげしくなり、さきに行われた学童疎開による児童の減少とともに区内人口はめつきり減少していつた。
終戦後、敗戦という現実にぼう然としていた都民は、やがてせまりくる食糧難と戦いながらも民主日本の成立という聯合軍司令部の方針にそつて立ちあがり、人心の安定とともに当局が食糧難対策のためにとつていた転入抑制の方針が二十四年に解除されるにつれて、地方に疎開していた人々の大量の転入を見、更には住宅難という悪事情が、区
内のような畑地の多い発展のおくれていた地区に新に土地を求めて住宅を建てようとする傾向を強め、新しい人々の多量の移入があつて、区内の畑地の宅地にかえられるものは激増し、丁度震災後に中央線沿線がどんどん発展していつたように、区内至る所に新興住宅地としての発展がみられた。いま区内の人口の変動を数字の上でみてゆくと、二十年九月一日現在の調査によると、板橋区石神井支所管内(大体現在の練馬区)の人口は、
図表を表示となつている。(江古田・小竹町を含まず)これを今の板橋区管内にみると、当時、同じ板橋でありながら、この練馬地区との差がよく窺える。
図表を表示板橋区のうち当時の練馬支所管内を除けば、やはり工業都市的色彩が深かつただけに罹災現住者が当時の支所の二
・三倍に達し、戦災の度が区内よりひどかつたことを示している。壕舎や小屋がけをして生活している数の少い点も区内の被害の少なかつたことを示すものといえよう。 画像を表示こうして、終戦直後の人口減少の状況は、終戦後ともなると、みるみるうちに、ふくらんでいつた。区内の地は、戦災を蒙むることも比較的少く、爆弾の被害の方が大きな事件を生んだ位であつたから、人口の増減には、中心区のようなはげしいうごきはなかつた。
いま、区部を終戦後の人口増加の勢いの面からみてみると、二十二年までの一カ年間は台東区の五万三千がトップで、太田の四万三千がこれにつぎ世田谷、品川、墨田、新宿、港、江東が三万台、北、中央、杉並、渋谷、豊島、荒川、文京、目黒、千代田、足立の順
で、二万―二万六千位い、中野、板橋、葛飾、江戸川、練馬の順位で、当区は、最低の増加率しか示していない。しかし独立してからの練馬は見違える程活況を呈して来た。二十三年一カ年間には、台東、墨田、江東、太田、新宿、品川などが、二万五千―四万という増加に対し、荒川、豊島、北、練馬の順で、二万―二万五千の増加を示し、増加数の上で第十位にのしあがつた。ところがこれは、成増のグラント・ハイツ建設工事に伴うための流入人口が主なるものであるために、昭和二十四年にいたると、工事の終了とともに、うしおの引くように人口が流出している。これは本区にのみみられる珍現象で、他区には類例がない。転入抑制がとけてから区部は急速に人口の増加があり、特に戦災の痛手を蒙つて人口の激減した区はそれぞれ恢復の姿を示していつたが、練馬区も再び人口増加の姿を示し、二十五年一月までには一年間に六、〇七一の増加で二十三区中最低の増加数ではあるが除々に発展し、住宅が増加し、畑地が減少して行つた。
二十六年、二十七年となると、千代田、中央区などは、その発展は飽和状態に近くなり四、五千人しか増加しなくなつたのに、区内は順調に発展の道をたどり二十七年一月には六、九九九人、二十八年一月には八、六八七人と次第に増加の数を増していつたが、それでもまだ二十三区中二十位か二十一位といつた増加の状況であつた。
二十一年以降二十七年の六カ年間の総計によると二六八万という都の増加に対し練馬区は僅かに四一、三六四人しか増加していず、二十三区中の総計では最低の地位にとどまつている。大田区の十九万八千や、台東、新宿、江東、墨田、品川などの十五万以上という増え方に対し四万とはひくすぎる感があるが、この六年間の増加状況こそ、練馬区のありのままの姿を示しているもので石神井大泉地区における田園風景をみてはこれも止むを得ない状況であろう。
これを人口一平方キロ当りの密度の面から増加をみれば、二十一年一月から二十七年四月までの間に最も増大を示したのは台東区の一〇、一九三―二八、三六〇(一八一六七人増)で、つづいて墨田、荒川、新宿、豊島、文京、目黒、品川、中央、渋谷、北、中野、港、千代田、江東、大田、杉並、板橋、世田谷、葛飾、江戸川、足立の順で最少として練馬区がある。一平方キロに八九八増加したにすぎぬという数字は台東区の密度一八、一六七人に比べて何という大きな差であろうか。しかしこれとて最低の密度でありながら横浜市の密度と比べ、二、九一七人に対し二、三七七(昭和二十六年六月)人で、なお勝つている位で、横浜の平均より、練馬区の密度の方が高いといえるのである。
区内の人口の増加ぶりは昭和二十九年から特に著しく、住宅の建設が、住宅金庫の融資ばかりなく、いろいろの面で活溌となり、特に中心区における土地の払底は、本区や板橋、杉並、世田谷、大田、江戸川、葛飾、足立といつた周辺区に土地を求める人が殺到する状況にあり、都営住宅、住宅協会アパート、区営住宅などが相ついで建設されつつあるため、特に経済界の安定と相まつて、区内に相つぐ人口の移入が行われた結果著しい人口増加の現象がみられるに至つた。その三十一年の人口増加の率は、二〇年現在の二・七倍という数に達している。
いま終戦後の人口増加の経過をみると次の通りである。
図表を表示 図表を表示 本文> <項>区内における各町別人口をみると別表に示す通りであるが、注目すべきは石神井と関町の急激な発展状況である。終戦後の住宅難は区内にその宅地を求めるものが殺到する有様で、特にサラリーマン階級の休息所として、ここから都心へかよう交通上の便利な条件が新たに地下鉄の池袋東京駅間の開通によつて一層倍加したといつてよい。そのためますます区内は住宅地として発展する好条件に恵まれるに至つた。都営住宅、区営住宅、区営分譲地等住宅対策が
着々うちたてられてゆくにつれて人口は増加の一途をたどり、石神井にしても関町にしても、西武池袋、西武村山両線の利用と相まつて、急速に発展をみつつあり下石神井二丁目など、三十一年には遂に一万人を突破するに至つた。しかし総体的にみればまだまだ練馬地区の方がはるかに人口が稠密であり、南町一丁目の九千人台をはじめ、同二丁目、五丁目、それに貫井町、小竹町、江古田町など、六千人以上の人口を有している。これからみても、石神井地区は住宅の増設とともに人口の増加はこれからであり、将来の区内の変化はどの町を中心にして行われてゆくか興味あることといえる。 図表を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示 本文> 項> 節> <節>人口動態のうち、出生と死亡、すなわち自然増の傾向を知ることは重要なことであるが、練馬区における出生、死亡を中心とした人口動態はどのようになつているであろうか。
いま昭和二十二年以来の出生・死亡・婚姻などの変化をみると、昭和二十八年までは年を追つて出生も死亡も減少の一途をたどつていることがわかる。
出生率の減少はいうまでもなく戦後の社会情勢の変化、受胎調節及び妊娠中絶の普及実行の影響であり、今後この
傾向は益々強くなつてゆく状態にあるから、更に出生率は減少の道をたどるであろう。 画像を表示しかし区としての統計からみれば出生数は二十九年三十年と年を追つてわずかながら増加の傾向にある。これは区内の人口の急激な増加によるものであつて、区内の人々の出生率が高くなつたわけではない。やはり出生率そのものは減少の傾向にあるのである。
一方死亡率の方も年と共に減少してゆく傾向にある。結核というかつては不治の病かの如くにおそれられた病気が、戦後のアメリカ医学の導入、新薬の進歩、看護施設の充実等のみちがえる程の改良、加えるに食生活の年を追つての安定と改善などによりその死亡率は激減し、更に老人病の研究の進歩、ガンその他の対策の向上など、あらゆる好条件がそろいだし
たために死亡率の低下という喜ぶべき影響があらわれている。 図表を表示 本文> 項> <項>区内のように大震災前までは全くの農村であつた地域においては、土地出生のものが大部分を占めていて、農業労
働力として必要な人員が他から雇傭契約によつて入つてくるとか、或は養蚕、製絲、撚糸等の女子の労働力に依存する度の多い仕事のために他地区からの女子の流入といつたこと以外に、特別に人口の流入流出する事情はなかつたといつてよい。 図表を表示しかし大震災後の発展は次第に区内の畑地を宅地化し、新しい住宅地として発展していつたから、市内や郡部からの転入ばかりでなく他県からの転入も行われ、同時にわずかではあるが市内区部や郡部、他府県への転出も行われていつた。
戦時中、疎開その他で一層この傾向は強まつたが、戦後、区内の戦災が他区に比して軽度であつたため、ここに転入してくる人員はおびただしいものがあり、人口増加の項でのべた通り、急激に増加率は上昇していつた。
昭和二十五年国勢調査によると総人口一二五一九七のうち、出生地別男女数は上表の通りである。これによると区内人口の六割三分近くまでが、練馬区を出生地とする人々であり、都内で出生したものは一分六厘、他府県出生のものは、三割三分六厘に近い数を示している。
それではこの三三%を占める他府県出生者はどこから区内に転じて来た人々か。今その生出地別をみると
図表を表示という状況を示している。
昭和二十六年十一月の調査によると、他県よりの転入者の東京都内区部におちつく人々のうち、最も転入者の多い区は太田区で九・一%を占め、三、八九一人、ついで世田谷、台東、新宿、品川、杉並、墨田、江東、北の順で、い
づれも二千人をこえている。これに反して最も転入者の少いのは練馬区で、僅か一・七%にすぎない。これによつてみても区内の市街地的発展がいかにおくれているかが推察されよう。昭和三十一年の調査によると五月と十月とに行われた調査の結果、三・四・五の三カ月間が最も転入転出の多い時で、九・十・十一月などは比較的転入転出が少いことが明らかにされた。
最も多い時の例として五月をあげてみると転入者一、二一四人、転出者五一六人を数えているが、その主な理由をうかがつてみよう。その原因は就職・転職、就学・転学等によるものが圧倒的に多いことがわかる。
図表を表示 図表を表示昭和二十四年より二十八年までの五年間の転入転出の状況をみると、都内二三区のうち、他府県との転入転出の差引増一年平均が五千人台のものは本区だけで、他の区は全部七千人台以上である。本区とよく比較される葛飾、江戸川の二区においても七千人台、足立区などは九千人台で、大田区の二万四千人台、新宿や世田谷の一万六千人台平均と比較すれば、いかに本区が転入から転出を差引いた増加数が少いかがわかろう。
いま二十四年より二十八年までの五年間の本区と他府県との人口の動きをみると左表の通りである。
東京都へ入つてくる転入出者は、神奈川県、千葉県、埼玉県、茨城県、栃木県、群馬県、静岡県、山梨県の順で、近県からの転入出者が圧倒的に多く、福島、新潟、長野の三県を除いてはきわめて他県遠隔地との移動は少い。
図表を表示これを区別にみると「都へ転入した者」「都から転出した者」の地区別人口構成は別表に示すとおりであるが、転入者は大田区が最も多く、世田谷がこれにつぎ、最も少いのは千代田区で、中央区と江戸川区がこれにつぎ、本区は僅かな差であるが少い方の第四位、二十三区中第二十位にある。
大体どの区でもいえることは、一年のうち三四五月頃に最も移動が多く、秋にはひどく移動が少い。
東京という都市が江戸の延長であつた時代から、地域的にぐんぐん広がつて、今日のような江戸時代とは全くちがつた広さをもつ大都会になると、東京のうちでも周辺地区は住宅地区、通勤通学者の寝床的役割を果し、都心地区が
図表を表示 その職場という状況になる。このため昼夜間人口差というものは地区によつては非常に大きなものとなる。都心の千代田、中央といつた区は昼間の人口は驚嘆すべき数を示すが、夜間にはそれらの人口の大部分が周辺の住宅地区へ去つていつて、これまた驚くような少い人口になつてしまう。周辺地域の区でも住宅地区として完全にひらけた区はその逆で、昼間はぐつと人口がへるが、夜間には帰宅者をむかえて非常に人口が増加する。
練馬区は後者に属するが、まだ充分に住宅地区として発展していず、農業を営んで居住する人々もかなりいるため、将来は昼夜間人口の差は年を追つて増大し、昼間人口が減少してゆくであろうが、いまはまだ昼夜間人口の差はそれ程でない。このことは過渡期の練馬区の状況をよく物語つているといえよう。しかし畑地は加速度的に住宅地となり、新しい住宅が日一日と増加して行く状況からみて、人口の増加は通勤通学者の増加となることは明らかで、今後この傾向は一層はげしくなつてゆくことと思われる。
都心三区すなわち千代田、中央、港の各区へ集中する人口移動、都市一分化を完了したビジネス・センターと住宅地域との人口交流をみると、別表の通りで、区内においても板橋区時代の流出人口八七二六にやや近いだけの人数が独立した二十二年には練馬区から出てゆき、三十年にはそれの二倍強の流出がみられる。昭和十五年頃は何といつてもまだ近距離の移動が多
く、新宿、品川、大田、渋谷、台東、杉並などから主として都心への通勤者があつたが、戦後はこの状態を一変させ、近距離の移動は遠距離移動とうつり変り、移動人口と交通機関の平衡はうしなわれ、戦後の交通地獄を現出、どしどし周辺区部から郡部、神奈川、埼玉、千葉などの近県からの通勤者が激増し、流出人口の都心へ集中する地区として神奈川県、世田谷区、杉並区、大田区、新宿区、埼玉県、品川区の順となつている。こうした点からみても、区内のようにこれから住宅地としてどんどん発展してゆき、都心への通勤者が増加の一途をたどることが明らかな区においては、恐らく、あと十年たたぬうちに、都心三区へ大量の通勤者を出す区にのしあがることであろう。この外、地域的関係から、特に板橋、豊島両区への流出はかなりの数に達し、通勤通学者の両区への交流が特に密である。
いま練馬区における、人口の交流をみてみよう。昭和三十年十月一日現在における地域別移動人口をみると、一八万六千六百余人のうち
図表を表示となつており、残留人口一三九三八八人、流入より流出の超過すること三一、三五二人である。
この表よりみても、区内から都心へ通勤又は通学する者が四万六千をこえ、通勤通学者のための住宅地区として発
展してゆく過程にあることを示している。しかし区内の特色は農地がまだまだ非常に多い。田畑山林合せて七、七六三、七七九坪、宅地わずかに三、二三六、四九二坪という現状では、田畑で働く人々がかなりある為、昼夜間人口の差が余りはなはだしくない。夜間人口において千代田、中央の二区をしのぐだけで、昼間人口においては二十三区中最下位にある。千代田、中央が昼間人口において大田についで二位、三位にあるのと比較して、余りにちがいすぎて、区といつても同一に諭ずる性格でないことがよくわかる。
図表を表示まだまだ未発展、未開発の状態であり、感じからいつたら震災後の高円寺辺といつたところである。
画像を表示 画像を表示 画像を表示それでも区内にも通勤者のここに職場をもつ者もあり、亦私立の大学や高校中学もあるから通学者の流入してくる者もある。それらの人々も一万五千余あつて、差引き、
この外、案外隣接の北多摩や埼玉県との交流が行われている。同じく三十一年十月一日の調べでは
図表を表示埼玉県、神奈川県、北多摩や武蔵野市が通勤通学とも関係が深い。又町村では
図表を表示これによると都心への通勤通学者のほか、板橋、豊島の二区へ流出する人口はかなり多く、また北多摩の保谷や武蔵野市へ出る人口も相当にある。埼玉県との交流は特に注目すべきで、東京都における本区の位置というものがそこにあらわれている。
各地区との昼間人口交流の状態を詳細に伝えると次の通りである。
図表を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示 本文> 項> 節> <節>区内の国籍又は出身地別男女の人口をみると、昭和二十五年国勢調査の結果によれば次の通りである。
図表を表示これによつてみると、他の区とちがい、本区における本邦在籍者は圧倒的多数をしめ、朝鮮国籍者さえ僅かに四六〇人、中国人、外国人を含めても総計五八三人にすぎない。区内総人口の約四%強に当る。
本文> 項> <項>区内における労働力人口は大体他の区と比率において同じ傾向を示している。
一四才以上の男女別労働力人口をみると次表の通りである。(二十五年国勢調査)
図表を表示 本文> 項> <項>区内の職業別人口をみると、男女あわせて七千五百人以上の農業従事者をもつている。二十三区中でも江戸川や葛
飾、足立と共に農業的色彩は強い区であるが、数の上では第一位を占める農業人口を有している。この点では他の職業別人口が他区と類型的になつてゆく傾向に反し、一きわ目だつ特色である。区内に工場が少いのに工業に従事するものが比較的多いのはそれだけ通勤労働者の多いことを示すものといえよう。しかし今後の傾向としては日一日と新たに増加してゆく住宅の状況からみて、所謂サラリーマン階級が一層増加してゆくことは疑いのないところである。昭和二十五年の国勢調査の職業大分類及び男女別十四才以上の就業者数をみると
図表を表示更にこの同じ条件で、産業大分類別就業者をみると次表の通りである。
図表を表示 本文> 項> <項>昭和二十五年の調査を標準として、区内の年齢別人口を示すと別表の通りである。これによると壮年では大体大正十五年頃から昭和十二年頃までに生れた人々が多いように思われる。そのうちでも昭和の五六年頃の生れの人々が特に多い。また戦後では二十二、三、四年の三年間に生れた者が多く以下は次第に減少して居ることがわかる。その後出生数は人口の増加にも拘わらず減少し、三十一年生れなど特に少くなつている。
画像を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示 本文> 項> 節> <節>従来の寄留制度から移行した事務で、区市町村においてその住民を登録して居住関係を公証し、常に人口の動態を明らかにして各種事務の適正簡易な処理に資するため住民登録法に基き昭和二七年七月から行われた事務である。
図表を表示 図表を表示 本文> 節> 章> <章>区内は戦後住宅地区として、戦時中から施行しつつあつた区劃整理事業の完成と相まつて、畑地より宅地への転換がどしどし行われ、その発展ぶりは活況を呈している。
しかし、何といつても戦時中の地域的特質は区部における農村形態を保つている地区と格づけされる土地がらであつたから、この条件からいつて、大体石神井地区は農業による食糧の供出を主とした地域、練馬地区は一部は農業地としての供出をも担当したが、多くは住宅地区として、乏しい配給をうけた地区と分けることができよう。
戦時中から戦後にかけての食糧事情の悪化はかつて区民の経験しなかつたほどのものであるが、いま当時の区内の供出状況をふりかえつてみよう。
昭和十二年日華事変が起ると、戦時的な食糧の需要が強くなり、且つは軍需工業の盛況と相まつて好況の波がただよいはじめたため、米価は上昇の一途をたどつた。そのため政府の手持米による市場価格の調整が危機にたち至つた。これは数量調整によつて市場価格を調節する米穀政策が限界に達したことを示すもので、政府も何等かの対策を構ずる必要にせまられていた。ところが、昭和十四年になると北九州や朝鮮のかんばつがはげしく収獲の上で大打撃を蒙つたため、これを契期として直接統制の段階へ一挙に飛躍して、食糧管理法の制定となつた。これを出発点とし
画像を表示 画像を表示 画像を表示 画像を表示 て供出割当制即ち国家による主食の管理が戦時中から戦後にかけて行われることとなつた。この米穀管理法によつて商品として売出されていた米麦、それに芋類を含めてのすべてが供出割当にもとずいて、出荷され、政府会計によつて買上げられ、これを一定の配給基準量にもとずいて労働差年齢差等による配給量分を消費者家庭に配給するという方法がとられた。
ただ、こうした供出が昭和二十二年まではあくまで事後割当制度であつたことで、二十三年から二十五年までは事前割当制度にかわり、更に二十六年以降は事後割当制度に戻つて今日に及んでいる。
戦時状勢が次第に変化して、食糧事情は益々悪化の一途をたどつた。日米開戦当初の好調も戦線の拡大とともに敗色が濃くなつてゆき、朝鮮や台湾よりの食糧の内地への輸入が望めなくなつてゆき、国内も応召につぐ応召で、壮年男子の農村における滅少は労働力の不足となつてあらわれ、その上に天候の不良がこれに拍車をかけたため、昭和二十年の七月には遂に主食の配給量を一割節減という非常手段をとるの止むない状態にたち至つた。
それまでの配給量は十一歳より六十歳までの標準年齢で甲三三〇グラム、乙男三九〇グラム、女三五〇グラム、丙男五七〇グラム、女四二〇グラムというものであつたのを一割減少するのであるから、これは容易なことではなく、八月十一日から大都市に実施するとことが決定された時、時の石黒農商大臣は農民の決死的精進と消費者の耐乏を要望して
今回の措置は誠に重大である。今日まで十分でないと云われた主食を更に一割節減することは主務大臣として深く責任を痛感している。大臣就任以来、機会あるごとに本米穀年度の需給事情が極めて困難なことをのべ、これを克
服するためには生産者たる農民諸君の増産供出に対する決死的精進を願うとともに、消費者たる国民諸君に対しては現在まで以上の耐乏生活に向う覚悟を要望してきた。国民諸君! 主食の面にまで及ぶこの厳しい事実に直面して少しでも戦意をそがれることなく、戦いの現段階を達観、非常の決意を固めていただきたい。(後略)
こうして決戦態勢のもとに一層供出への要望がなされている間に、八月十五日の終戦を迎えることになつた。
敗戦という悲しい日を迎えて、市民がぼう然としている間に、連合軍が大挙進駐して来た。決戦という名のもとに供出が励行されていたのに終戦による混乱は供出意欲を一挙にくじいてしまつた。国内の不安な状況と相まつて、食生活は急速に困難を加えるようになつていつた。
連合軍からはつぎつぎと命令が発せられ、主要食糧についても検討が加えられた。供出割当て方法が民主的でないから供出制度に検討を加えるよう指令された。ここで従来の農業会長、部落会長を通じて割当てを行つてきた制度を改めて、食糧調整委員会が設立され、市区町村長が民主的に割当てを行うために、この会の調査答申などを利用することになつた。
食糧調整委員会は板橋の練馬支所管内にも設けられ、「板橋区石神井出張所食糧調整委員会」として会長に石神井支所長、副会長に内堀仁兵衛、委員に十八氏を委嘱し、この供出割当の調査に役立てた。
しかし食糧は益々窮乏をつげ、戦前の状況からはるかに遠い低栄養の状態におかれ、都民の遅配欠配に対する不満はつのつていつた。
二十二年には遂に「都民緊急食糧家庭増産実施」のもとにカボチヤ、サツマ芋の緊急増産が奨励され、主食の米麦の供出方法についても連合軍により改革が命令された。そして食糧調整委員会はその改正によつて、八月五日一応解消し、新たに選挙によつて委員を選出することとなつた。九月五日の選挙が行われ、八月以来独立した練馬区の委員会がここに出発した。主食における作付面積の割当についてはまだ法律が施行されていないので法的根拠がなかつたが、割当決定は食糧調整委員会の議決によることとした。
二十三年には都に対して一、〇〇〇石の超過供出の目標が指示され、以後、区内の供出割当てに対する交渉、接しよう等は並々ならぬ苦心のうちにこれらの委員の手によつて区民との間に行われてきて、その供出を完了するよう努力がつづけられたのであつた。特に二十五年には割当量が大きく、区内農民の苦労は非常なものであつたが、どうやら供出を完了したのであつた。
いま石神井支所の供出の状況をみると次表の通りである。
図表を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示 本文> 節> <節>戦後十年、区民は漸く二十六七年頃より食生活の安定を得て、衣の方面の生産増強とともに次第に住生活方面の欠乏を除いては一歩一歩と戦前のようなおちつきのある生活をとり戻すに至つた。
しかし戦前までの生活にすべてが恢復するのは容易でなく、まだ主食の配給はつづけられている。いま戦時中より戦後にかけての配給生活に苦しんだ状況を配給物資の面よりみてゆこう。
本文> <項>食糧事情の悪化は既に支那事変の進展途上から起つた。昭和十六年四月から主要食糧の割当制が行われてきたのであるが当時の配給量は大人一人一日当り三百三十瓦(二合三勺)基準であつた。その年の十二月八日は太平洋戦争に突入し、十九年暮から始まつた本土に対する空襲が熾烈となつて食糧事情は極めて困窮して来た。ついに二十年八月からはこの危機と端境期切抜策として一割削減(二合一勺)配給を実施したが配給の中には、麦、いも、雑穀などの代替配給が十八%もあり、その後<圏点 style="sesame">いもづる圏点>、<圏点 style="sesame">どんぐり圏点>、澱粉粉なども加えられるようになつた。こうして二十年八月終戦を迎えたのであるが、またこの年は春以来の天候不順、肥料不足台風などあらゆる悪条件の重なり合いで米の実収高は明治四十三年以来の大凶作といわれた。都民は戦争中からの栄養欠乏になやみ、喰うに食なく、生きることに懸命であつた。戦後の混乱と進駐軍のあとからあとから出る命令におわれて政府はまた打つ手を知らず、あらゆる面にお
いて社会不安は増すばかりであつた。都ではいろいろ手を尽し地方米の出荷懇請を行うなどして遅配の解消に努めたので一時は小康を得たが事態は再び悪化し、二十一年一月政府がかねて総司令部に懇請していた外国食糧三百万トンの中マニラから小麦粉が一千トン到着し三月には米麦十五万石が輸入されてやつと愁眉を開くに至つた。また連合軍の余剰食糧のベーコン肉、果汁或いは家畜の飼料でしかないとうもろこし粉など配給され、胃腸障害を起した人も少くなかつた。この情勢の下にあつて都民は米ぬか、ふすま、どんぐり粉、いも類の乾燥粉などを小麦粉とこね合わせたもの或はかぼちや、いも類などを代用食として空腹を凌いだ。買出しもこうした状況では止むを得なかつた。都では人口の膨張をおさえるため転入抑制強化を図つたり再疎開の奨励をしたが形式だけ近くの町村に配給籍をおく人などが続出しこれが却つて幽霊人口の原因となつたり、また交通地獄の原因ともなつた。戦時中からの栄養不足で死亡する者またそれが原因で結核病等で死ぬ者等多数あつた。ある小学校の調べによると三食とも米飯を食べている者一、八%二食米飯の者が四二、五%全く米飯を食べない者が四二、九%もいたという。官庁や会社工場等では食糧獲得等のため欠勤する者が多くなり、ついに公然と食糧休暇として月幾日かが認められるに至つた。一般都民は食糧買出しのためリユックサックをかつぎ近県の農村に繰出してあるくので鉄道、電車、バスを問わず乗降はおろか、車内で身動きも出来ない程の超満員で全くの交通地獄を呈した。二十一年産米は条件に恵まれて六千四百万石の豊作が伝えられて十一月からは一割削減の二合一勺から二合五勺基準に引上げることに決定したが米価政策の失敗から供米成績が上らず二十二年五月には平均二十日の遅配があり遂に八月になつて遅配は二五、四日分に達した。しかも二十三年二月放出小麦粉から中野方面に中毒事件が起り患者は八
百五十名を数えついに配給を中止した。また七月には遅配の埋合せのため大量輸入したキューバ糖を主食代替で配給が行われ、消費者の怒りをかつたが豊作に恵まれ供米も順調に進んだので十一月一日から二合七勺基準に配給が改められた。この間しばしば料理飲食店業者の自粛営業、全面休業の措置がとられたりしたが、いわゆる裏口営業をする者があつていつの間にか公然となり予期した効果は挙がらなかつた。しかし終戦後の農村の復員による労働力の増加肥料の出廻り、それに加えて天候が順調を続けたので次第に米の生産が増加しそれに食糧の輸入も漸次増加するとともに三十年には歴史的な大豊作をみたので二十年七月以来廃止されていた業務米の配給を復活することが出来るようになり三十年十月から米飯提供業者へ業務用として準内地米(外米のうち良質のもの)を配給した。これによつて家庭外の食事も外食券なしに出来る事となつて食糧事情は一段と緩和された。それ以来主要食糧に対する統制撤廃の論は次第に活発にはなつてきたが未だ実現を見ない。しかし統制は次第に緩和へ進んでいる。昨三十一年十月から配給簡素化のために年令差を廃し全国一率に一人一日の配給量を三百六十五瓦とし基本配給十日分希望配給十日分他に外米一人当り月五瓩までと改めたしかし今日でも希望配給米は平均七日半、外米は二瓩位しか配給されていない。なお業務用米に内地米を配給することに改められるなど食糧事情は終戦直後に比べれば見ちがえる程明るくなつた。区内の農村地帯など戦時中から終戦後二三年に及ぶ所謂農村景気に躍つた時代からみればずつと状勢は変化して来た。しかしそれでもなおヤミ米は連日都内に入つて来ており、やはりまだヤミ米なしには東京都民全体の生活は円滑をかく状況のようである。 図表を表示 図表を表示 本文> 項> <項>本土決戦の状勢もいよいよこくなつて来た昭和十九年七月業者の共同責任制度、共同計算制度のもとに綜合配給制度を実施した。中央卸売市場の本来の機能は完全に失われ警察管区を単位に入荷をその人口に応じて割当てられ配給店鋪から隣組単位に配給された。実施当時は野菜が一人当り五十匁、魚が二十五匁位で比較的豊富の状態であつた。しかし十九年暮から激しい空襲に入つてから入荷は極度に減少し戦争末期には一人当り野菜が十匁あるいは五匁と減りしかも隔日配給となり豆、もやし、麦も配給され、二十年十一月には一世帯に対し数日分として玉ねぎ一個ということもあつた。食糧危機は言語に絶しこれを切抜けるため生鮮食料品の出廻りを促進しようとして十一月に統制を撤廃した。ところが入荷は非常に出廻つたが価格は底なしに暴騰し大根一本が五円或は二円位であつた。いわしが十四、五円と<外字 alt="○公">〓外字>の五、六倍から十倍以上にはね上がり一般の消費者は手も足も出せない状態となつた。翌二十一年一月限界価格制度を実施し暴利の取締りを発動したが闇売りや横流しが繰返されていた。そこで魚介については三月に水産
物統制会をもつて、また四月には青果物をもつて再び統制が行われた、しかし正規ルートの集荷は殆んどなく闇市場へ流れ武装警官とやみ屋の衝突も各所に起り大した効果はなかつた。二十三年に入つてからは生産の向上や輸送事情が一段とよくなり正規ルートによる入荷が増加して蔬菜は一億一千万貫で前年の約二倍、果実類は四千万貫で前年の約三倍、水産物は四千六百万貫で前年の約二倍、これで蔬菜と水産物は大体昭和十二年頃と同じ位の入荷量、果実類は五百万貫を越した。こうして二十四年四月には蔬菜が、二十五年四月には水産物がそれぞれ統制が撤廃され中央市場は戦前と同様の取引を開始するようになつた。 本文> 項> <項>昭和十七年から統制され味噌は月一人当り百八十匁、醤油は三合七勺であつた。戦争が激しくなるにつれ満州大豆の輸送が困難になり味噌にはいも類を混入し或は醤油にはアミノ酸などを代用して辛うじて配給を確保したが醤油は二十年末には一人当り月一合五勺に減じた。終戦後輸入の脱脂大豆、旧軍用大豆の放出で増産が出来たので配給を復活したが闇市には塩水に着色したいかがわしい代用醤油等が売られていて調味料に不足していた人々はこんなものにもとびついたものだ。二十五年七月統制廃止。
本文> 項> <項>支那事変といわれていた当時マツチとともに砂糖の需給が次第に不円滑となり当時の東京市が国の統制を待たず昭
和十五年六月自主的に統制を行つた。当時適当な消費統計もなく乏しい資料にもとずいて一人一月〇、六斤(九十六匁)と定めたのが国家統制の基礎となつたのである。昭和十八年十月以後は定量の配給が不規則となり十九年八月からは一般家庭用は配給停止となり、辛うじて乳児の牛乳添加用のもののみに配給が保たれた。二十三年末になつて停止されていた家庭配給が復活し一人当り月〇、五斤の配給が行われたが台湾糖が現地の事情で輸入が出来ずまた国内の製糖施設も復旧していないためキューバ糖を粗糖のまま配給していた。二十四年五月頃からは台湾糖の輸入が出来る様になつたことと国内製糖工業も復活してきたので白砂糖の配給を行つた。二十五年四月頃から砂糖の輸入が順調になり二十六年十月には業務用砂糖の配給が開始されたので菓子なども豊富に出廻り二十七年三月には全面的に統制が解除された。 本文> 項> <項>昭和十五年から配給制になつた。当時一人当り月九十瓦(五、四勺)であつたが十八年には六十瓦、十九年には三十瓦、二十年には二十瓦まで削減されて終戦翌年には十二瓦(〇、七勺)まで低下して脂肪の摂取不足からの健康保持が憂慮されるに至つた。そしてラード、ヤシ油、落花生油などの確保につとめた結果ようやく月二十瓦(一、二勺)の配給が出来る様になつた。また二十三年頃から鯨油を原料とするマーガリン工業が盛んになりその他ガリオア資金によつて製油原料の大豆が輸入されたので、これらをあわせて六十瓦(三、六勺)までふえ昭和十八年当時の配給量にもどつた。その後菜種の増産が行われるなどして二十五年には戦前平均消費量を上廻るようになつたので同年十月
には統制が撤廃された。 本文> 項> <項>人工栄養児或は虚弱幼児にとつて牛乳や乳製品はかけ替えのない食餌であるがその確保のため昭和十五年十月からまず牛乳の統制が始められた。すなわち第一順位として人工又は混合栄養の乳児一人一日最高三合、第二順位は一歳以上二歳以下の幼児で牛乳を必要とするもの一日一合、第三位は病弱者で牛乳を必要とする者としていずれも医師の証明にもとずいて配給された。十八年における牛乳必要量六百石に対して集荷は約半分の三百五十石程度であつた。二十年に入り空襲が激しくなるにつれ入荷も一日三十石程度まで低下し、人工栄養児をもつ家庭はまことに悲惨なものであつた。都ではこのため前記の重点配給が維持できなくなり粉乳、煉乳、穀粉の代用乳などを併用してようやく配給を保つた。しかし二十一年後半期から占領軍の放出乳製品もあつたのでいくらか需給事情が好転した。二十四年には連合軍から飼料の放出などあつてこのため乳牛の飼育もよくなつたので乳質も向上するとともに入荷量もふえ必要量を確保出来る様になり二十五年三月には配給統制は廃止された。
本文> 項> <項>食肉の統制は昭和十六年九月から始められた。家庭配給の方法としては二人までの世帯は三十匁、五人まで五十匁、八人まで八十匁、十人までは百匁という割当で隣組輪番制によつて行われ二十年十二月までつづけられた。
本文> 項> <項>昭和十六年正月用の酒から配給制となり、一般家庭用としては、成年男子の人員を基準として一人家庭で二合から四合位、一人を増す毎に一合の割で増配された。このほか十九年五月からは料理飲食店等の酒類を廃して「国民酒場」が開設され、酒なら一合、ビールならばびん詰一本あるいは生ビールは一ぱい位であつた。左党連中は毎日長蛇の列をなしてアルミの弁当箱でのどをうるおしたものであつた。またたばこも極度に不足して行列買が行われ各所に情実売などで問題を起したので十九年十一月から成年男子一人一日六本の割合で家庭配給が実施された。戦後はイタドリの葉を多量に混入したバツトも煙さえ出ればがまんしたものだが中にはとうもろこしの毛の乾燥したものなどをすう人もあつた。
本文> 項> <項>衣料切符制は昭和十七年二月から実施された。切符は点数制で普通切符は一人当り年百点とし十点、五点、二点、一点との小切符と、手拭、足袋、ネル布、晒布等の制限小切符の集成されたものあり、また結婚、盗難その他の災害で特に衣料品を必要とされた時は五百点まで特別切符が交付された。しかしこの切符も十八年暮頃からは現物の出廻りが悪くなり切符の使用困難となつて二十年にはついに切符の発行を停止した。二十一年には切符制を復活しようとしたが需給の見込み立たず実現に至らなかつたので、集荷の状況によつて現物配給を行つた。当時新生産品と在庫品
と併わせて年間一人二ポンドに満たず一般消費者には一年にシヤツ一枚も作れない位だつた。しかし衣料事情は漸次好転し二十二年には再び切符制が復活した。衣料切符の復活当時は現物さえ見ればとびついて買つたものだが二十四年の末ころからは切符を使う人が次第に減り、滞貨がダブついてきたので業者はこれをさばくために二十五年三月「衣料まつり」などを催して大いに宣伝したが大した効果もなかつたようである。二十七年には統制を解除した。 本文> 項> <項>家庭用燃料は昭和十五年から統制され木炭のほか風呂のある家庭には石炭、薪、煉炭などが配給された。しかし次第に労働力の不足と輸送事情が悪化し、十九年には年間一世帯当六、二俵となり、さらに二十年には三、八俵という最悪の状態に至つた、都では終戦後も引続き対策に腐心したが製炭施設の荒廃、原木や労賃の暴騰その他の要条件のため思うように成績が上らなかつた。都民は燃料に困り庭木を伐りあるいは塀をこわして燃料とする人もあつたしまた悪い電力事情下にあつて当局の警告をよそに電熱器を盛んに用い、トランスや屋内配線が燃え上るなどの事件も諸所に起つた。二十四年に入つて薪炭の生産が大幅に向上すると共に輸送も緩和したため需給状況が好転し、かつ電気ガス事情も復興したので、同年八月には薪が、二十五年には木炭の統制が全面的に解除された。
本文> 項> 節> <節>練馬区は大部分が農村地帯であり、農業を主業とし、往時は練馬大根の産地として有名な処であつた。その生産量も都内の需用を満たすに充分なまで多きにのぼつていたのである。蔬菜栽培が郊外農村に見られる現象であるように本区においても重要な農作物とされていた。
画像を表示終戦後の食糧難はすさまじいものがあり、都民は連日食糧獲得にその精力を集中する有様であつたが、区内はその点何といつても農業地区をもち、又郡部農村とも接近している関係上、野菜など入手という点では比較的恵まれた地域もあつて、都心の住民のような苦しみは、あじあわずにすんだものが多かつた。
今独立当時の農家人口を見ると
図表を表示まず農家人口では江戸川区におとるが、農業に従事している者の数では江戸川区をしのぎ、二十三区随一という八八二六人を数えた。
特に石神井支所の地区は、大泉や関町を含めて農業地区としては代表的なものであるといえる。しかし区内農業の特色は当時の如き食糧難の時代であつても、米の生産は少く、特に水田に乏しい関係上、足立区や江戸川区の比では
なく、陸稲の作付面積と実収高が区部中第一というだけで、むしろ大麦・小麦の麦類の生産に主力がおかれているのが特長である。その他甘藷、馬鈴薯の実収高の多い点では二十三区中抜群といつてよく、これらの生産こそは本区の食糧面での特色をなすもので、大根の生産の区部第一位と共に本区の姿を示しているものといえよう。 画像を表示 図表を表示今作付面積及び実収高を示すと
図表を表示 図表を表示 本文> 項> <項>ポッダム宣言の受諾による「民主主義的傾向の復活強化」の指標は、日本のあらゆる機構の分野にわたつて、人間解放ののろしをあげはじめたのであるが、そのなかで、最も特筆に値することは農村機構の徹底的な改革があげられよう。封建的な土地支配、すなわち地主と小作の関係こそ日本農村の近代化を阻む癌として古くから論議されていたのであるが、連合軍最高司令官は、昭和二十年十二月九日、日本政府へ農地改革計画に対する質疑書にもとずき「農地調整法」の制定方を要望してきた。これによつて「農地調整法」および「自作農創設特別措置法」が制定公布され、昭和二十一年二月から第一次の改革が実施されることとなつたのである。この農地の改革は、政府が、地主より小作地の強制買上げを行い、これを小作人に法定地価で払下げるものであつて、高率で封建的地代の重圧から、小作零細農民を解放せしめ農村の近代化を促進させる大きな力となつた。
農村機構の改革に当つて、この農地改革が意図した封建性の打破、階層分解の措置と併行して、農民の自主的に、結集された力をもつて、向上への道を辿らせたものに、農業協同組合運動がある。農地改革が、国家権力をもつて上
から強制した反面、農業協同組合運動はよくその民主性を発揮して積極的に盛り上がりつゝ農村機構を下部から民主化していつたが、農業協同組合については別に記した。この結果翌二十一年十月になると農地調整法の一部を改正する法律が公布されて、農地問題を処理するため政府代行の機関として、区部の一部や各市町村には農地委員会がおかれることになり、小作人、地主、自作農の三者から民主的な選挙によつて委員を選挙することになり、その第一回が昭和二十一年十二月二十七日に行われた。
此の結果初代のの農地委員として選ばれた者の氏名は左の通りである。
練馬地区
小作層から選ばれた委員 内田武次郎 小林林太郎 小島忠喜
鹿島金蔵 中村三郎
地主層から選ばれた委員 篠金太郎 山本紋次郎 篠田鎮雄
自作層から選ばれた委員 小泉福太郎 上野徳次郎
石神井地区
小作層から選ばれた委員 豊田孝喜 川谷浅之助 井口倉蔵
本橋助左衛門 平井清三
地主層から選ばれた委員 本橋金次郎 本橋作 大沢良作
自作層から選ばれた委員 谷治栄次郎 桜井米蔵
大泉地区
小作層から選ばれた委員 高橋鬼八 高橋新五郎 伊藤藤一
荘喜之助 加藤武男
地主層から選ばれた委員 加藤貞寿 加藤弥平次 平野多治郎
自作層から選ばれた委員 加藤彦治郎 加藤富蔵
この劃期的ともいうべき大改革で、小作人は多年のあこがれの的であつた農地をもつことが出来、農民としての意欲は今までになく高まつた。最初は戦時中に一時的に土地を借うけて食糧補給の意味で農耕していた人々までが三反歩以上の農地を所有していれば小作人同様土地を買受ける資格を有したため、一時は百人をこえる「農家にあらざる」農民が出現して混乱をまねいた。
本区のような農業地帯においてはこの改革は重大な問題で、区民の関心は一方ならぬものがあつた。二十一年十二月二十七日第一期の農地委員の選挙が行われて以来、同委員会の手によつて自作農創設事業が急速に進められたが、混乱した社会状勢に対しつつこの事業を推進することは容易なことではなかつた。それでも二十四年から五年にかけて大体水田五四町歩、畑七七〇町歩の買収も完了することが出来た。
改革前まで全耕地の<数2>51数2>%にあたつていた小作地が、わずかに<数2>15数2>%に減じ、<数2>59数2>%であつた自作地は此の改革により<数2>85数2>%に増加するに至つた。
農地の改革によつて区内の農家は大きな変貌をとげはじめた。今二十四年三月一日現在の区内自作小作別の農家規模をうかがうに
図表を表示終戦後二十四年三月までに増加した貸付田畑面積は七九件で一九町八反三畝にすぎないのに、減少した貸付田畝の面積は三〇六件二八六町三反に及んでいるがこの減少した大きな理由は何であろうか。
区内農地の変化の上で一番大きいのは政府に買収された土地が二八六町三反のうち二〇五町六反四畝もあることで、政府買収足立区の八〇六町九反三畝、江戸川区の二八三町三反九畝につぐもので、板橋区は五九町七反五畝にす
ぎない。こうした政府に買収された土地の外貸付田畑の減少の他の理由は財産税が現金で納入出来ず、田畑で納入するといつた状況にあつたものが一一件あり、又今まで貸付けていた農家がこれを返還して貰つたものが二五町以上あることも注目に価しよう。今終戦時と農地改革の行われた後の二十四年三月現在における自作小作別農家数を比較してみると
図表を表示以上の表にみるように、二十四年に新に農家となつたものが百戸もある。これは戦時中から食糧難を補うために土地をかりて畑作などをやつていた家庭菜園に毛のはえた程度の耕作者達が、やはり農地の改革により、農地として譲り受けたもので、純農家とみることは勿論できない。それらの人は他に職をもつていること故、食糧事情の安定にしたがつて次第に農耕をやめ、これを貸すか売るかしたためであろうか、二十八年、二十九年にみるように自作農家が百
戸以上も二十四年より増加している。さらに昭和二十五年になつて、九月にポツダム政令にもとずく強制譲渡令が公布施行されて、自作農創設が一層推進された結果、前記の表にみるように、二十八、二十九年度において自作農がはるかに増加したのであつた。
しかし、この改革が終了した頃、社会秩序はすつかり恢復にむかい、生活におちつきをみせるようになつていつたため、二十七年七月、従来の自作農創設特別措置法及び農地調整法がともに廃止されて、新たに農地法が制定された。
これまで農地改革が行われてから、それぞれの分野で農民の代表機関として活動して来た農地委員会や、食糧調整委員会、農業改良委員会が、昭和二十六年三月施行された「農業委員会法」によつて一本にまとまり、新たに農業委員会が設置された。農業委員会は農業生産力の発展及び農業経営の合理化、農民の地位向上等をはかるための総合的な単一農民代表機関として設けられたものである。農業委員会は、委員によつて組織され、一地区におけるその定数は、選挙により選出されるものが一五名、選任による者三名、計十八名となつている。本区は広汎な地域を有する関係上、練馬地区、石神井地区、大泉地区の三地区に分れ、五十四人の委員が置かれていた。委員会は、それぞれの区域内で農地法の利用関係の調整及び自作農の創設維持、土地改良法による農地等の交換分合のあつ旋、その他農地事情の改善等の事務を処理することになつている。昭和二十九年法律第一八五号により農業委員会法が一部改正され、その標題も「農業委員会等に関する法律」とされ、選挙による委員の定数等が、十人から十五人までの間で条例で定められることになつた。本区の定数は条例で十人となつている。
図表を表示農民の協同組織の発達を促進しもつて農業生産力の増進と農民の経済的社会的地位の向上を図り、併せて国民経済 画像を表示
の発展を期することを目的として昭和二十二年十一月法律第一三二号により農業協同組合法が公布された。本区においても、この法律により昭和二十三年七月一日、練馬地区・石神井地区・大泉地区の三地区にそれぞれ農業協同組合が設立され、指導・信用・販売・購買等の事業が行われ、農民に大いに利用されている。
本文> 項> <項>農業戸数と農家人口は、年を追つて減少してゆく情勢にあり、練馬区もいわゆる郊外農村の共通性である農村後退の現象をあらわしている。
図表を表示今昭和三十一年二月現在における農村構造を少し分析してみよう。
まず農家数及び農家人口は
図表を表示純農家数の多い点では足立区についで区部において第二位であり、ほぼ八王子市のそれに近い数である。しかし八王子市においては兼業農家は二倍以上の数を示して次第に都市化しつつある状態にある。江戸川区は工場の発展に伴い、練馬区よりは一歩さきに都市化の傾向にあることを兼業農家数が示している。最も練馬区に近い姿を示しているのは足立区ということが出来るが、この二区は本区が高燥農地帯の代表、足立区が低湿農地帯の代表として、東京都区部の最も発展のおくれた姿を示していることは非常に興味あることといいたい。
この両者の種類別耕地面積をみると
図表を表示このうち、農家二、三一三軒中、全く農業のみを以て生活をたてている者は一三五二軒、残りの九六一戸は兼業農家であつて、その兼業農家のうちでも農業を主とするもの四三八戸、兼業の方を主とするもの五二三戸である。
昭和二十八年と三十一年の専業兼業別農家を比較してみると、農家数では六五戸の減少となつているが、専業農家は二六四戸の大きな数字を示して減少している。それと反対にかえつて兼業農家は一九九戸も増えており、そろそろ兼業を主にする傾向が多くなりつつある過渡期にあることがわかる。また兼業農家のうちでも、兼業を主とする農家自体がふえている。
図表を表示しかし純農家一、三五二軒という数は、足立区その他に比し、別表のような状況にあることを示している。
図表を表示一方は田が多く、本区は畑地が多い。ここにも両者の差があらわれているが、区部において畑地の最高は本区であり、田の第一位は足立区である点も農村地帯としての両区の差をうきぼりにするものといえる。
東京周辺の農村ばかりでなく、これは全国的傾向だが明治初年以来小作化傾向が非常に強くなつていつたのが、大正六年頃を転機としてゆるやかな自作化傾向になつていつた。しかしこの自作家傾向は終戦まではきわめて微弱であつた。ところが終戦以来、直接又は間接に農地改革によつて規定されて自作化の過程が急速に進行するに至つたが、農地改革において、不在地主を除き「在村地主保有小作地」を全国平均一町歩みとめたため、全面的な解放が行われるに至らなかつた。今区内における終戦時と昭和二十四年を比較してみると
図表を表示このように、小作農をなくすための農地改革といつても、なお小作兼自作、小作の両者は減少したといつても半数近く存在しており、その自作と自作兼小作が増加しているのはわかるにしても、依然として多かれ少なかれ小作地にしばられているものが相当あることは認めねばならない。それ故戦後の自作化傾向は単純な自作農化でなく、自作農化とともに自作兼小作農化が進展している所にその特色を見出すことが出来よう。なお総数が一〇〇戸増加しているのは、戦前農家でなく、戦時中に食糧補給の目的で耕地を借りて野菜或は麦などを作つていたのが、戦後の農地改革で、耕作権の確立したいわば「非農家の農地」といつたものが、形の上で一〇〇戸増えたにすぎない。そのため、これら一〇〇戸の人々はやがて食糧事情が好転し、物資の出廻りが好調になるにつれて、これを農家または兼業農家へ譲り渡すという現象が起つてきた。
「自作と小作」という言葉は農地改革後もなくならない。大地主で懐手していても小作料だけで暮してゆけた地主というものはなくなつたにしても、やはり雇傭されて小作している人々はいる。
画像を表示 画像を表示 図表を表示農村地帯と俗にいわれる練馬、足立、江戸川、世田谷の四区を比較してみると
図表を表示となり、小作数は江戸川が特に多く、自作と自作兼小作とは大体どこも似たりよつたりである。小作兼自作の数は区内が特に少い。
図表を表示東京都の区部、市部、町村を通じて、本区ほど大根の作付面積の多いところはない。四三、三〇六畝という面積はとびぬけた数であり、第二位にある八王子市ですら一四、二〇二畝にすぎず、あとは板橋の九、一四四畝がこれにつぐだけで、いかに本区が大根の名産地としてのかがやく伝統を維持しているかが察せられよう。
その他では、陸稲、大麦、小麦が主力をなしている。<圏点 style="sesame">ごぼう圏点>や、<圏点 style="sesame">きやべつ圏点>が、<圏点 style="sesame">さつま芋圏点>より多く作付されていることは、東京都民への提供という面でよりよい収入になることを示している。
昭和二十三年まで大豊作をほこつた大根は、翌二十四年板橋一帯に急激に蔓延したバイラス病の影響のため、収穫を急減し、品質また低下を来して市場価値を次第に失う処となり、農業会を中心にこの防止に必死の努力を払つているが、薬剤撒布其の他いろいろの手段をつくしても効果はなく、一部では板橋区の農家と歩調を合せて大根からキヤ
ベツ類へと切替を行つて、この伝統ある練馬大根を一時中止しても経済的負担を軽くしようとする人々も少くない。こうして板橋区とともに名物の大根は区内から著しくその姿を減じて、隣接の三多摩や埼玉県へと、その作付が移行しつつあるのである。この外、特に一言すべきは製茶で、区部としては本区があるのみだが、製茶場は十七、うち機械製茶場一、半機械製茶場一、手もみ製茶場一五となつていて、その製茶高は総数一、二一〇貫、玉露一九〇貫、普通煎茶六〇〇貫、玉緑茶三〇〇貫、番茶一二〇貫となつている。
この外農家に欠くことの出来ぬものに牛と養鶏がある。
画像を表示牛については、特に近時乳牛の飼育が盛んになつてきている。昭和二十七年には三宅島、昭和二十九年には北海道などから大量に乳牛を輸入しており、農業協同組合なども酪農部などを設け、酪農について盛んに奨励をしている。しかし牛は全部が乳牛として飼育されているのではなく、僅かだが役肉用牛として飼育されているのもある。
乳用牛 農家数 九七 頭数 三〇九
役肉用牛 農家数 三 頭数 三
以上の外、めん羊一四、山羊五二で豚は八二六頭の多数にのぼり(兎も三四匹)区内の家畜の飼育は、かなりの数であることがわかる。
さらに養鶏は都下は勿論区部でも一部に盛大に行われている事業であるが、主要なる地区と数量をあげると別表の如く
図表を表示となつている。区部では練馬区は世田谷区についで第二位を占め、都下では八王子市についで第三位となる。農村地帯における養鶏業は本区の如きは東京都においても重要地区をなしていることが判る。
画像を表示 画像を表示また農産加工として漬物があるが、流石練馬大根で名声があるだけに漬物は盛であつて、本区の重要な産業の一つになつている。
戦後の農家は全く変つてきた。生活や収入の面ばかりに変化があつたの
でなく、生産ということをより科学的に進めようとする意志が強くなつている。特に農機具などは動力を使用する農家がどんどん増加していつた。農機具使用の農家数をみると、農家総数二、三一三戸に対して、次表に示すような数量が出てくる。 図表を表示これによると約半数強が電動機をもつており五四%強が動力脱穀機をもつている。反面人力噴霧機さえまだ一、五三五戸しか所有してないという矛盾した所もある。練馬、足立、江戸川は農家戸数においても大体近似しているが電動機数においても足立一、二九九、江戸川一、二九三と近似性をみせており、動力脱穀機も足立区一、二二三、江戸川区一、一七一とこれも類似数を示す。しかし人力噴霧機においては江戸川区が一、五八〇と本区に近い状態なのに、足立区は九七七とはるかに少い。この点では足立区農家が低位にあることを示している。
区内の農地が次第に減少して、住宅地に変つてゆく状況について三十二年四月九日付の毎日新聞には「好景気が響いてこのところ都内では個人住宅の建築が盛んだが、これにつれて農地の宅地転用が目立ち、いちばんはげしい練馬区などは二十年後には農地が姿を消すだろうといわれている。地価もそのあおりで、三四年前の二倍半から四倍ぐらいにハネ上つている。」とある
住宅を都心近い土地で高層不燃化にしようという掛声は高いが、個人住宅は安い地価を求めて都の周辺地区に建てられてゆく。二十五年ごろから都内の農地転用は二〇%位づつふえてきており、特に世田谷、足立と本区の三区の転用がはげしい。練馬区では足立区と共に三十一年には四十町歩という、いままでの倍近い農地の転用が行われた。区内でも豊玉南町、春日町、貫井町、仲町一丁目、関町など西武、東上両私鉄沿線の交通の便利な地区ではここ二、三年で農地はすつかりつぶされて市街地にかわつてしまう情況にある。
地価もウナギ上りに上つて、東上線東武練馬駅附近など三年前に坪五千円程度がいまでは一万―一万二千となり、区内の西武線の各駅から二三十分もかかるような所でも坪三四千円から七千円もするという上り方である。区内で家を建てようとすれば、どうしても畑地の多い地区、ことに本区のような所が選ばれるのは当然のことで、池袋から東京駅の地下鉄開通、更に銀座への延長という点からみて、都心との交通は一層便利になり、練馬、桜台あたりからでも一時間以内に勤務先の都心にゆけるためますます住宅地としての価値がみとめられ出したこと、住宅が付近にたつにつれて、農地の収穫もおち、割のよい宅地に変えた方が農家にとつて得策である点などから一層住宅地に変化してゆく状勢にある。三十二年一月以来、一日に五百人もの転入者がある時もあるというから、恐らくここ二、三年でみち
がえる程急激な変化をとげるであろうとは区民のだれもが予想している所である。 本文> 項> 節> <節>戦災をまぬかれた郊外には疎開者が多く入りこんで、一つの家屋に幾世帯も同居しているため、郊外住宅地の人口は著しく増加したと同時に広汎な土地を有している本区では、戦後の住宅建設等も目覚ましく、それに附随して、日用品供給の小商人の増加も目立つてきた。特に区の中央を横断している西武鉄道沿線を中心とした駅周縁の商店街の発達は目覚ましく、江古田駅附近、桜台駅附近、練馬駅附近、富士見台附近、石神井駅附近、大泉学園駅などなど人々の集散のはげしい場所へ、戦後急速に現われた露天商的な小売商人が、日用品などをならべて店を開き、これが漸次拡大されて、商業発展の先駆をなしたともいえる。
これらのマーケツト式露店の膨張と、昭和二十五年の統制解除による従来の商店の復活と自由営業への移行とが現在本区の中心的商店街を構成しているのである。
画像を表示 本文> 項> <項>昭和二十九年九月の商業統計調査の結果によると、二十三区中商店数、従業員数の最も少い区は練馬区であつて、江戸川区や葛飾区などにも及ばないのである。どんなに練馬区がまだまだ発展の余地のある地域であるか、農村地帯として残存している地域が多いかがわかろう。純住宅地区として二十三区中特色をもつ目黒区にさえ商店数は及ばないのである。今二十三区中本区と比較する意味で、主要対照区の商店数と常時従業者数を示してみると次の通りである。
図表を表示このように商店としてもまだ独特の商店街をつくつて、他の区の区民をまで呼びよせるだけの吸引力も持たない区内の商業は、その分類別の上からはどんな割合になつているであろうか。同じく前記の調査によると
図表を表示 図表を表示以上区内の商店の中分類によつて大略知られるように二、一二一店のうち約半数の一、〇〇七店を食料品販売店がしめている。いかに商店が住宅地の発展につれて繁華になつてゆくかの過程は住宅地区に関連する食料販売店の増加率によつてわかるといわれているが、区内の如きも小部分の地区にこうした現象がみられる。
この外、衣料販売店の多いことも注目されるが、「その他の分類に属するもの」が五四八軒あるのも、この区の一つの特徴で、花及び植木、農具販売、荒物、薬、化粧品、ラヂオ、書籍、写真機、眼鏡、時計、煙草、中古自転車、セトモノ店などいろいろのものがこの中に含まれているのである。畳、建具などもここに入れてある。それ故ある点では植木屋の多いこととか農具店などというものは商店街としては存在しなくても区内の農業地帯に点在するという点で一つの区の性格を示しているといえよう。
以上のうち二十九年九月の調査によると法人組織の商店は七四一店あり、それらの詳細なる調査がある故、一例として左に掲げる。
図表を表示 図表を表示 図表を表示従業者による規模別商店数を見ると、個人にあつては、一人から四人までの商店数が全体の八一、七%、法人においては七二、一%であつとう的に多く、本区の商店規模いまだいかに小さいかがわかる。次に売場面積の規模別商店数を見ると、従業者による規模別商店数と同じく全体が小規模にかたよつておりすなわち個人、法人ともに三坪から五坪までが最も多く、次が六坪から九坪までであり十坪以上は急減している。
図表を表示 図表を表示商店街連合会
本区は他区に比し商業の実体は著しく弱体不振な状態にあるが、その商店街の健全なる発展策を講じ、中小商業経済の円滑なる発達をはかるため、その解決策として連合会を組織し、各商店街の横の連絡を強化緊密にする必要から、昭和二十七年三月三日、練馬区商店連合会が結成された。所属商店街名は次のとおりである。
練馬区商店街連合会 事務所 南町二の三五九一 会長 伊藤仁八
(
会名 事務所 会員数
桜台商栄会 南町二の三、五九一 五二
練馬美観商友会 豊玉北五の一八 一一〇
江古田駅南町商店会 南町一の三、五一八 九八
石神井公園商光会 下石神井二の一、二一一 三〇
中村橋商栄会 中村町三の六七一 五五
大門通り商店会 南町四の六、一一八 二二
関町商工会 関町三の八三五 四二
江古田商栄会 江古田町二、一八五 二六
江古田市場商店会 南町一の三、五一七 二一
東大泉商栄会 東大泉四九八 八五
会名 事務所 会員数
小竹町共栄会 小竹町二、三七三 二二
日大通り商店会 江古田町二、二四〇 二二
南二会 南町二の三、八一二 八
桜台商栄会 〃三の三、〇二〇 三三
豊友会 豊玉北四の一一 一三
仲町共和会 仲町二の一五六 一二
北一商工会 北町一の七〇 二一
北町商店会 〃二の三一二 三〇
北町銀座新生会 〃二の三一〇 一九
春日町本通り商店会 春日町一の一、八二五 一三
春日富士商店会 〃二の二、九九五 七
春日町学校前商店会 〃二の二、〇六三 一二
富士見台商栄会 貫井町四一六 三五
上石神井一丁目商光会 上石神井一の四二九 三〇
武蔵関商店会 関町六の二八七 三二
資料文>これらのうち、江古田駅を中心とする、江古田駅南町商店会、江古田商栄会、江古田市場商店会、小竹町共栄会、日大通りなどによる一ブロツクが戦前から商店街として活況を呈しており、これについで桜台駅を中心とする桜台商栄会、桜台商店会、それに豊友会の一ブロツクがその華やかな売出しなどで新しい発展を示している。練馬駅を中心とする練馬美観商店会は商店の数においては多い。商店街としては西武線の各駅の外、西部村山線の武蔵関や上石神井の商店街も今後の発展が期待される。
区内の中小商工業者に対し、事業経営に必要な資金を融資して、経済的窮況を打開し、もつて自立態勢の確立をはからせることを目的として、昭和二十八年十二月「練馬区産業融資資金運営要綱」なるものを制定しこの産業融資金制度が発足した。発足当初都内においてはわずか新宿・杉並・豊島・台東・港・中野・板橋の七区のみであつたが現在は都内二十三区がその名称、内容等若干ことにしているだけで全部が実施している。
練馬区では、区において七百万円の融資資金を金融機間に預託し、金融機関は、その倍額の一千四百万円を中小工業者に融資している。
つぎに各金融機関別の融資貸付状況をしるしてみよう。 (
区内の中小商工業者に、その企業経営の改善、金融対策、経理会社、工場店鋪、開業、転業税務・取引等その他全般にわたつての相談に応じ、解決に協力して、その健全な発達をはかつているものである。その種別利用状況から考察して見ると、金融面の相談が圧倒的に多くいかに中小商工業者が金融面で苦労しているかがうかがわれる。
本文> 項> 節> <節>区内の工業といつても、漸く農村地帯から変形して住宅地帯に移行しようとしている過渡的の現況にあつて、全く未発展の状況におかれているといつてよい。三〇年末現在において僅かに工場と呼べるあらゆるものをひつくるめても三〇二工場にすぎない。これをもつて区内の工業を論じても、それは都の区部において最少の工場数であり、二十三区中最下位にあることを物語るだけである。
画像を表示三〇年末現在、東京都の製造業の事業所数は四七、三一三で全国の一一%を占めている。ことに従業者四人以上の事業所の占める割合は三人以下の零細企業より高く、全国の割合と反比例して、東京都の大工業地区とし
ての特色を示している。地域的には最も工場の多い墨田区から荒川区、台東区、大田区、品川区、江東区、葛飾区、足立区、港区、北区、江戸川区、中央区、板橋区といつた東京湾と荒川、隅田川及び中川の沿岸に面した地域が都全体の七三・六%を占めて分布して居り、これを臨海河川工業地域とすると、その他に属する地域は市部八市の六・八%郡部三郡の一・九%、島の〇・三%計九%を含めても二六・四%にすぎず、区部のみでは一七・四%を占めるにすぎない。ましてや本区のごときは僅かに〇・六%を占めているのみで、東京都の工業として論ずるほどのものではないことが明らかである。この点については農村としての歩みから現在に至る区内の沿革を知れば、その未発展の当然の理由が判明しよう。 図表を表示 図表を表示さらに東京都の工業従業者の数と割合をみると次表の通りである。
図表を表示 図表を表示これをみても東京都の区部においては最低の従業者数である練馬区が、八王子市はもちろん三鷹市や青梅市、府中市にもおとる従業員数しか示していないことがわかる。わずかに武蔵野市をその従業員数でしのぎ、工場数の上からも三〇二に対する武蔵野市の二三二とこれをかなり引はなしているが、ほとんど武蔵野市と同型の状況にあることが知られるのである。
本文> 項> <項>区内の工業が、まだ未発展の状況にあることは、二十三区中工場数最低という別表工場数比較図によつて明らかである。
現在の二十三区中、周辺地域の区が急速に今次大戦の影響をうけて工業地帯として発展したことはいうまでもなく板橋区などその代表的なものといえる。しかし、本区においては農地として大きな部面を占めており戦時中もなお住
宅地として発展したのもごく一部の地区にすぎず、将来の住宅地としての発展にそなえて昭和十年頃より行つていた土地区劃整理事業も多くは完成をみたのは昭和十六年以降のことであり、十七・八年以降は食糧増産も亦大きな任務であつたため、農地はほどんとそのままに推移して、工場地帯として転化する余裕がなかつたといつてよい。大工場といえるのは鐘紡工場位なもので、あとは貫井町辺に一小地域や、工場地区らしき集団地帯がある外、白子川流域の区境の低地部にわずか工場地帯らしいものがあるだけで、特別にとりたてていうほどのものはない。
本文> 項> <項>区内の工場三〇二のうち、従業者四人以上の工場一九一、三人以下の工場一一一という数からみても、いかに工業方面においては未発達の状態にあるかが推察できよう。杉並区は二十三区中では本区についで工場の少い、純住宅地区であるが、それでも工場四九九のうち三四七工場は四人以上の従業員をもつている。区内が工場地区として発展する可能性はあるにしても、まだまださきのことといえよう。
最近の調査によれば、区内の工場増加率は少い上にその増加の速度がゆるみつつある現象を示していて、この状態では、工業の発展には程遠い感をいだかせるものがある。
図表を表示これは工場の開設年別の表であるが、終戦後開設した工場数は二十四年までと、二十八年までの数がかなり平均されていて、二十八年までに四人以上の従業員を有するもの一一三工場、三人以下のもの六〇工場、計一七三工場が開設されている。
区内の工場は五〇〇人以上の従業員を有するものは一工場もなく、僅かに練馬の鐘紡工場が三百人以上の従業員を有する工場として存在するのみである。三〇二工場のうち
図表を表示となつていて、その三分の一強が従業員三人以下の工場である。
区内の工場の産業分類別の数をみると、次のようになる。 (三〇年末現在)
図表を表示 図表を表示この三人以下の工場については工業規模形態の上で、特にとりあげることはない。練馬区の工場といつても、少くとも近代化した工場として取上げるなら四人以上の従業者を有するものをとりあげるべきであろう。
今区内の従業者四人以上の工場をあげると二六年には一八三、二七年一七七、二八年一七六、二九年一七五、三〇年一九一となつている。
三〇年の現況を示すと、次表の通りである。
図表を表示 図表を表示東京都の区部においても、従業員三百人以上を有する工場は、そうざらにあるものではない。今これをみると次表の通り。
図表を表示この表によると三百人以上の従業員をもつ工場の全然ないのが中野区で、練馬区はこれにつぎ世田谷渋谷の両区と同じく一工場を有している。これをみると区部で大工場地帯と呼ばれる地域は墨田、江東、港、品川、大田の江東京浜工業地帯と、戦時中から急速に発展した北・板橋地区であることがわかる。
練馬区が板橋区から分離した地域でありながら、全く工業地帯にならないのは、板橋区が荒川沿いの地帯に工場地域ができ、それが異常な発展を示しているに対し、これと同じような河川がないことが大きな原因をなしている。白子川や石神井川では輸送の面からみても大工業地帯になる条件は欠如しているといえよう。
今三〇〇人以下の従業員をもつ工場を規模別に各区を一覧してみると次表の通りである。
図表を表示 図表を表示これによると、隣区板橋についてみると、板橋の特色は三人以下が少く、四人以上の工場数の方が逆に多くなつてゆく状況にあること、つまり、手工業や家内工業まがいの工場はごく少く、ちやんとした工場的規模のものが多くなつていること、荒川区においてはこれに反して飛びぬけて三人以下の工場が多く、墨田区、台東区と共にこの類型にあるが、練馬区の立地条件からして全く板橋区型の大工場地帯に発展することはむずかしく、そうかといつて荒川区や墨田区型になることも困難であり、今後の発展を予測することは不可能としても農地が次第に減少して住宅地区となり、それに伴う幾多の商店街ができるとしても、今の杉並区や中野区のような型に入るものとなり、せいぜい発展しても目黒区的な型になるとみるべきではなかろうか。
<資料文 type="2-30">練馬産業協栄会
神山製綿工場 豊玉北五の三
昭和精機(株) 南町一の三、四五一
永和工業(株) 豊玉北四の一一
榎本撚糸工場 東大泉町九六七
(株)工進精工所 貫井町四七三
(限)東武精機製作所 北町二の七八九
(株)日辰電機製作所 南町一の三、四八一
豊伸産業(株) 豊玉北五の二四
二引精麦(株) 下石神井二の一、三〇一
保土ケ谷化学工業(株) 江古田工場 江古田町二、一二九
(株)久野製作所 〃二、一〇八
品川電線(株) 小竹町二、五〇三
大戸自動車工業(株) 南町二の三、七〇七
鐘紡(株)練馬工場 〃五の七、〇〇七
中村屋産業(株) 〃三の六、〇一一
石田自動車工業所 豊玉北五の一四
東信糧穀(株) 中村町三の七四四
暁産業(株) 豊玉北五の三
日絆薬品工業(株) 貫井町三二一
(株)大泉製作所 〃四一〇
竹内化学工業(株) 〃四五〇
小田原製紙(株)東京工場 旭町五六四
東京理器(株) 北町二の二三六
山善精麦(限) 谷原町一の二〇四
新東製粉(株) 下石神井二の一、五〇二
西武鉄道上石神井検車区 上石神井一の三四二
若林酒類食品(株)食品部東京工場 東大泉町一、〇九八
(株)タムラ製作所 〃四三三
安井製作所 江古田町二、〇五三
日都製パン(株) 南町一の三、四九六
新日本印刷(株)平版工場 〃一の三、五五三
東京練馬病院 江古田町一、八〇〇
練馬浴場組合 南町一の三、五一〇
坂井捺染工場 仲町二の四、一一八
内田木材(株) 南町五の七、〇六二
救心製薬(株)練馬工場 〃五の六、七九三
北泉化学工業(株) 豊玉北六の二〇
練馬青果(株) 〃六の五
(株)精密医科電機製作所 中村町三の六六〇
愛国自動車(株) 豊玉北四の五
練馬旅館組合 〃上二の二六 金栄閣内
特殊精工(株) 貫井町三七五
東亜化学工業(株) 〃四〇八
(限)富士製陶所 〃四二九
(資)湖月庵 春日町一の一、八二五
(限)関口精麦所 土支田町二の一、一五九
(資)大木製作所 北町三の九三五
(株)田口製作所 〃一の二六
谷治製粉工場 南田中町八二〇
(株)八幡屋商店 下石神井二の一、三〇五
(株)矢口製作所 関町四の七〇〇
福島製綿所 〃四の七〇四
見米藤撚糸工場 東大泉町四五四
不二自動車工業(株) 〃四三〇
田端豊香園 〃三六六
(株)豊島園 向山町一、六一五
(株)木屋製作所 北町一の一一五
東映(株)東京撮影所 東大泉町一〇三四
練馬産業協栄会 豊玉北五の一六
資料文> 画像を表示 本文> 項> 節> 章> <章>第二次世界大戦の結果、建物の強制疎開、または焼失により、その損害は甚だしく、都においては、戦前七百三十万の人口に対して百三十七万戸の住宅を有していたのが、終戦直後の住宅戸数は、約六十八万戸に過ぎず、その半数以上を失つたのである。
戦後十年を経過して、都における一般建築物の建設状況は、まことに著しいものがあるが、住宅の復興状況は、急激に増加する人口に対応できず、今なお約四十六万世帯が依然として住宅難にあえいでいると推定されている。
これに対し、都では緊急住宅対策として、応急簡易住宅の建設をはじめ、公営住宅建設の努力が続けられてきたが、人口の急増は、昭和二十八年にはすでに戦前と比肩し、昭和三十一年三月末には約八百十一万人に及んでいる。しかも、資材の不足と高騰があり、公営住宅の建設、住宅金融公庫融資による住宅建設など、まだまだ需要を充すまでには至つていない。
そして、都の戦後の住宅事情の特色は、その絶対数の不足はもとより、居住人員一人当り畳数や住宅の所有関係からみても明らかである。戦後の物価騰貴と国民所得の低下から庶民階層の住宅供給は、個人による貸家経営を不可能
として、戦前は持家三、貸家七の比率であつたのが、戦後逆に持家六、貸家四となり、かつ居住人員一人当りの畳数は、戦前の平均三、六畳が戦後は二、八畳とはるかに下廻つている状態である。本区においては、昭和十九年十二月三日の空襲を皮切りにして、前後十数回の空襲により罹災者六千六百人、死傷者二百人、罹災家屋敷千余で都内では最も被害が少なかつたのであるが、それだけに戦後の転入居住者の激増は、全く他に例をみない程で、いわゆる社会増による住宅不足は、相当深刻なものとなつている。
ところで、その戦災による区内の住宅状況は、前述したように他区と比較してそれほどはげしくはなかつたので、戦前の住宅がかなり残されているのであるが、次表のとおり、修理を必要とするものや、修理を不可能とするものが相当数あるので、これは、人口の激増とともに住宅難に拍車をかけていることになつている。
図表を表示現在、本区においては、区が金融公庫より特に融資を受け、公庫一切の手続、土地の買収、設計等のいずれも区が代行する分譲住宅建設事業を実施して一般の便を図つている。
又広汎な土地を有する関係上、本区は、住宅地としての環境が最適であるため、昭和三十年以来、土地分譲等の事業を試み、今後本区発展のため、大いに力をそそいでいるのである。
ところで、昭和二十八年度の調査によると農家の二%以上のある区は、足立、葛飾、江戸川、板橋及び本区の五区で、杉並区のごときは、一%にすぎない。このうち、農家の他の建築物に対する比例をみると、別表の如くで、いかにその建築物中に占める農家の数が区内においてとび抜けているかがわかろう。文字どおり農業地帯が区内における一特徴をなしていることを示している。
図表を表示次に、区別の住宅戸数をみると、昭和三十年一月一日現在十万戸以上あるのは大田、世田谷の二区のみで、杉並の八万戸台、品川、新宿、北の三区の七万戸台がこれについでいる。区内の住宅は、増加したという声が高いが、実際には千代田(二四、八〇〇)、中央(三二、六〇〇)をしのぐのみで、二十三区中、二十一位の三万三千七百戸にすぎない。
二十年八月 一六、九七四戸 二十三年八月 一八、六一七戸
二十六年十一月 二二、〇六一戸 二十八年九月 三〇、〇〇〇戸
三十年一月 三三、七〇〇戸
年次別の住宅戸数の増加は、前表のように終戦当時の約二倍に増加している。
しかし、本区の人口増加は、この住宅増加と正比例して上昇してゆくのであつて、住宅の建設が、人口増加の問題とともに区の発展に大きな関連を持つていることが知れよう。
図表を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示 画像を表示 本文> 節> <節>昭和二十一年に特別都市計画法が施行され更に臨時防火建築規則(昭和二十三年)、臨時建築制限規則などが施行されて、建築物の粗製濫造が法的に規制をされたのであるが、昭和二十五年に至つてそれらの綜合的な建築法規として建築基準法が施行され、従来からの市街地建築物法その他一連の関係法規は廃止された。
そして、この建基法に基いて新たに防火地区などの指定、その他それまで前記の市街地建築物法によつて指定されていた用途指定地域なども、それぞれ一部改正されたのである。
戦後は、幾多の悲喜劇を続出した社会問題とまでなつている現状で、その頂点は、終戦直後であつた。戦災で住宅を焼失した罹災者は、焼トタンの小屋をたてたり、あるいは戦時中の防空壕を利用したりするものが至るところに溢れ、政府はこれに対し住宅建設対策本部を設けて、応急な処置として公共団体、住宅営団をして応急簡易住宅建設事業にあたらせた。
しかしながら、これらの建設した簡易住宅くらいでは、とうてい住宅難の緩和は望むべくもなかつた。
その上、戦後大都市への流入人口が激増し、増々食糧難、住宅難に拍車をかける結果となつた。そこで、その対策として、昭和二十一年二月主として六大都市への転入抑制令が施行されたのである。
他方、社会情勢の常態に伴つて、自力による商工業、一般住宅の再建が着々進められ漸増の傾向を示した。
このように旺盛な復興意欲にかかわらず、建築事情は中々好転せず、しかも昭和二十四年にはいわゆるドッヂラインと呼ばれる経済九原則による金融引締があつて、資金活用の困難さは、いよいよ住宅難を深刻なものとした。
これに対して、昭和二十五年五月には、庶民住宅の建設促進を図つて、住宅金融公庫法が公布された。
そしてこれは多くの一般住宅建築に貢献しているのであるが、それでも融資を必要としながらも、経済的諸条件に制約されて、本当の庶民のための措置としてはほど遠いものである。
一方、都営住宅は、終戦直後の応急住宅から恒久的な住宅へと移行し、戦後都が昭和二十八年までに都内全域に建設した数は、鉄筋コンクリート建三、一六〇戸、コンクリートブロック建三〇〇戸、木造建二〇、三二一戸となつている。
図表を表示二十五年から二十九年に至る区内の土地における都営住宅用地の取得率は、他区をぬいて、府中や立川と共に集中していることがわかる。
図表を表示 本文> 節> <節>戦後年とともに増加の傾向にある本区の人口は、その殆んどがいわゆる社会増とよばれる流入人口によるもので、従つてその住宅の問題は、戦災にあつた区内の家屋数は約一千戸という他区より比較的少なかつたにもかかわらず、相当深刻な問題として行政面にも大きな影響を及ぼしたのである。
社会機構の近代化と農村の自立困難さは、地主が土地を切り売りする結果となり、これを放置すると公共的な諸施策、特に土木行政教育行政あるいは保健衛生行政の上に大きな障害となることは明らかであるので、前節にのべた昭和二十五年の建築基準法による用途指定地域などの励行と、その他本区の諸施策を並行して勘案した幾多の独特の建築行政を行つてきたのである。
その一つが昭和二十八年度から実施された特別会計による区営分譲住宅の建設である。
これは、前述の人口の社会増による建築物の無計画な乱立に伴ういろいろな弊害を防ぐとともに、他方、健全財政、自主自立財政を標榜する本区の税収の増加を見込んでの練馬区としてはまことに遠大な画期的な大事業であり、大英断であつたのである。
しかも、昭和三十一年度からは、宅地造成事業も始め、いよいよ区の建築行政は軌道にのつたといえる。
本文> 節> <節>その将来の本区発展を考えるとき、それは同じく別表の人口密度をよく検討すると、その趨勢はおのずから明らかとなるのである。
すなわち、概観していえることは、区内を練馬地区と石神井地区に区分して後者が一平方粁に二千五百人余というまことに低い数字を示していることからみて、石神井地区の今後の発展は、まさに期待し得るものであろう。
そして二十三区の平均密度からみると、それを上廻つている地域は、本区には、ほんのわづかしか見当らないことからも、前述のように石神井地区ばかりではなく、練馬地区も今後まだまだ発展することが約束されているということが分るのである。
図表を表示本区の住宅申請件数は次表の通りであるが、二八年が最高で三〇〇〇戸近くの住宅が建てられている。
戦災にも他区のように痛手をうけることの少なかつた本区に終戦後このように住宅が増加していることは、いかに住宅地区として本区が発展しつつあるかを示すものといえよう。
図表を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示 本文> 節> <節>昭和二五年五月住宅金融公庫法の施行により、国の資金による住宅建設に対する融資の道が開かれたが、東京都区部と本区に近接する北多摩郡における二五年五月以来三〇年三月末までの公庫住宅地域別建築状況をみると次の通りである。
図表を表示 図表を表示公庫発足以来三〇年三月末までの公庫住宅竣工状況はこれによつてうかがえるが、世田谷・大田・杉並・新宿・北多摩・中野の順になつているが、本区のようにまだまだ土地の宅地になる部分を多数にもつている所は、今後北多摩郡と共に漸増の傾向が強い。
図表を表示 画像を表示 画像を表示 本文> 節> 章> <章>本区はその面積において、四七、三三平方粁の広汎な土地を有し、二十三区中第三位を占めている。その道路も実に延長七四九、八八二米に及んでいる。
いま、その内容についてみれば、世田ヶ谷区と共に砂利道の多い点では、二十三区中一、二位という芳ばしからぬ成績である。すなわち、本区における砂利道は、その延長六三八、一六四米、全体の八七%に及んでいる。
これに反してセメントコンクリート、アスファルトコンクリート道路等の剛質鋪装に簡易舗装道路などを含めて、十三%程度に過ぎず、都及び区が鋭意道路の改修を行うものの、前途はなお遠い状況にある。
鋪装道路は、別表のとおりである。
図表を表示 本文> <目> <目見出し>都道目見出し> <本文>昭和二十七年六月、道路法が全面的に改正されて一級国道、二級国道。都道府県道、市町村道の四種に分類された。
この改正によつて府県道が都道府県道と改められたので、都制施行以来、都が府道として維持してきたものをすべて都道と称するようになつた。
最近ではこの都道を三種類に分類して主要地方道、一級都道、二級都道と称するようになつた。本区内には主要地方道は三路線があり、南より数えて二号東京青梅線(放六)、区役所前の二一号松井高田線(放七)、五号東京川越線(放八)の三線でその延長一五、九六九米、道路幅員は何れも二十五米級であつて、元の府道中でも最も重要視され
たものである。これにつぐ一級都道はおおむね元の府道に属し、その路線数は十三、延長五二、六〇四米であり、二級都道は元市町村道から昇格したものである。昭和二十七年九月、地方自治法の一部改正によつて、国又は都の管理に属しない、特別区の区域内の主として居住区民の交通の用に供しているところの道路に対して、その設置及び管理が区に移管された。その結果、区議会で特別区道として路線の認定を議決し、その維持管理等についてはすべて、区が行うこととなつた。
図表を表示 本文> 目> 項> <項>道路の延長及び良否が、いかに大きく区の発展に影響を及ぼすかということは、いまさら論をまたない。本区においては、こうした見地から土木行政は、区の基本施策として鋭意力を注いでいる。すなわち道路の整備にたいしては、区内主要幹線道路は勿論、狭隘道路にまでおよんで、その維持修繕、新設改良等の工事には区の予算の約一〇%、五二、七一一、八〇〇円を計上し、区役所費、教育費に次ぐ莫大な費用をついやしている。
図表を表示失業者の救済は、すでに終戦後における政府の重要施策の一つであつて、昭和二十四年より緊急失業対策法にもとづいて施行されたものであるが、依然として就職難は緩和されず、都内各所の公共職業安定所には求職申込者が相当数に上つている現況である。本区は公共職業安定所から毎日、登録日雇労務者の紹介割当を受け、道路の補修、改修、簡易鋪装、公園整地、道路清掃等の作業に直接就労させている。
図表を表示 図表を表示区内の土木事業のかなりの部面が失業対策事業として行われていることは注目に値しよう。三十一年度において次のようにこの事業の旅行によつて完成をみている。
練馬地区で砂利道五一八・で米、石神井地区で三三五三米が完成した。
練馬地区で三二五九米、石神井地区で二八三八・一米、他に排水工事も行われた。
練馬地区で一二七四・六米、石神井地区で一二七〇米が完成した。
練馬地区で三八七米完了した。この外都営住宅団地整理や校庭整地、あるいは公共空地整備事業などがこの失対事業として行われた。
道路本来の目的は交通機能の十分なる発揮である。従つて道路がその本来の目的以外の特別な目的で継続的に使用することについては、道路管理者は大きな関心をもつのである。昭和二十七年九月、地方自治法の一部改正により、特別区道の路線の認定、維持管理等が区に移行された結果、特別区道路占用の許可については必然的に区で行うことになつた。本区においても昭和二十八年七月「練馬区道路占用料徴収条例」を制定し、管内の警察署と緊密な連絡を保ち、公共上、交通上、衛生上支障のないものに限つて道路占用を許可し、且つ使用料を徴して、その
占用許可に遺憾なきを期している。最近における道路占用許可件数は次のとおりである。 図表を表示都市緑地化事業の一環として街路樹の植樹が行われている。本区では放射第七号線(十三間道路)練馬二叉交番より豊島区境まで二〇〇〇米、放射第八号線(川越街道)北町一丁目の板橋区境より旭町の埼玉県境までの三五〇〇米、都道第二二八号線(大泉学園駅前より朝霞ハイツに至る埼玉県境まで)三、〇〇〇米の間にそれぞれ街路樹が植えられている。街路樹総数は一、二九〇本で、その内容は次のとおりである。
すずかけ木 三一三本 えんじゆ 四四三本 そうまつ 一五本
いちよう 一一七本 とちの木 七四本 山もみぢ 八〇本
桜 二四八本
都市の道路は舗装と相まつて、完全なる照明設備がなければ完全とはいえない。
しかも近来夜間の交通量の激増にともない、交通安全上、又防犯上ますますその感をふかくしている。現在区所管の街路灯は総数三九八灯で、街路照明は、未だ不充分であり、区民からも街路灯設置の要望がつよく、時としては請願、陳情の形で表面化されることが多くなつて来ている。
本文> 項> <項>東京都の都市計画は、明治二十一年勅令をもつて始められたが、時運の発展に伴つて時代の要求に応じ得られないので、大正八年都市計画法が制定せられた。これらの法律も時代の変遷と共に改正を重ね、現行の都市計画法となつて運営されているのである。
本区に関連のあるものは、昭和六年三月より昭和九年十二月にかけて、内務省告示をもつて、それぞれ細道路網路線の決定をみ、今日に至つている。
この細道路網路線の計画幅員は何れも十一米以下のもので、これらの中で極めて小数の路線が耕地整理や区画整理組合等により実現されているが、現情勢下においては路線の再検討を要する段階にあり、三十三年度には恐らくその
決定を見るに至るであろう。幹線街路については、昭和二十一年三月戦災復興院告示第三号をもつて、また補助線街路については、同年四月戦災復興院告示第十五号をもつて、それぞれ決定されている。その後昭和二十五年三月二日、建設省告示第百十二号をもつて、前記幹線街路及び補助線街路計画は改正され、いわゆる最終決定として現在に至つているのである。
本区に関係ある幹線道路は次のとおりである。
イ、放射第六号線(青梅街道)
図表を表示本区間は、練馬区関町一丁目より関町四丁目北多摩郡保谷町境までの延長二、七〇三、六米幅員は、十一米なので、現在関町一丁目地区より二五米に拡張工事が行われている。
ロ、放射第七号線(十三間道路)
図表を表示本区間は豊玉北一丁目六番地先中野区境より西大泉町北多摩郡保谷町境までで、現在は練馬区役所前まで昭和十八
年に完成されているが、引続いて昭和三十年度より五ヶ年計画により、貫井町を通つて谷原町二丁目に達する三、二四〇米の拡張工事が進められている。ハ、放射第八号線
図表を表示本区間は、本区北部の一部を横断しているもので、北町一丁目板橋区境より北町三丁目の板橋境までその延長約二、四七五米で、既に巾員拡張等完成されている。
ニ、環状第七号線
本区間は、小竹町板橋区境より豊玉南二丁目中野区境までの間で、現在失業救済事業として江古田武蔵大学側より豊玉中二丁目にいたる延長一、〇二八米の間の工事を実施中であり、同地区より豊玉南二丁目中野区境までの七五〇米の区間は、昭和三十二年度分として計画されている。武蔵大学以北は板橋区の中仙道まで十カ年計画の前期(四カ年)で完成させる計画が決定している。
図表を表示ホ、環状第八号線
図表を表示都市計画審議会において計画され環状第八号線として板橋区志村町、練馬北町、春日町、高松町、谷原町、南田中町を経て杉並区へ結ばれる路線で、実現の見通しは甚だ遠い。
本文> 項> 節> <節>練馬区における河川は、河川法による準用河川として、石神井川、白子川及び田柄川があり普通河川として、千川江古田川、田柄川(上流部分)などがある。
区の中央を東に流れる石神井川の水源は、北多摩郡の小平町附近より発している。すなわち、その地方一帯の狭長な低地に滲透した地下水の集積したものであつて、田無町、保谷町を経て練馬区に入つており、富士見池や三宝寺池で湧出し、板橋区、北区を経て隅田川に流れている。
本区内における石神井川の延長は関町五丁目四四九番地先より仲町一丁目茂呂堰にいたる一一、四五三米で、その
間に、三宝寺池の湧水などが三宝寺川(石神井川支流)として石神井川に合している。(妙正寺川支流)は、豊玉北六丁目と中村町境を南に下り、中野区境を東に流れており、本区内での、その延長は二、六八〇米に及んでいる。著しい水源はなく附近の低地に滲透した地下水であつて、妙正寺池の湧水から源を発している妙正寺川に中野区内で合し、神田川へと注いでいる。
練馬区の西北部を西から北東に流れている白子川の水源は、石神井川と同じように北多摩郡保谷町附近から本区南大泉町に続く低窪地より発しており、白子、赤塚の中間を通つて荒川に注いでいる。本区内における白子川の延長は、南大泉町三二五番地先より旭町五七五番地に至る五、七七五米である。
これらの河川改修工事については、東京都建設局河川部が直接工事を担当する場合と、区が都から委任されて執行する場合とがある。
次の表は東京都建設局河川部が昭和三十一年度に行つた区内の改修工事一覧である。
図表を表示 図表を表示その端を北多摩郡保谷町玉川上水分水口に発している千川上水は、練馬区内での延長は実に一〇、五三〇米に達しており、区内中心主要道路と西武鉄道池袋線に沿うて流れているにもかかわらず、上水敷設当初の素堀のまま放置されていた。このため市街発展を阻止されているばかりでなく、降雨期には、沿線家屋は毎年溢水
の災害をこうむる外、幼児の水死等悲惨事を惹き起することがあつたので、昭和二十五年に、区、地元関係者によつて千川暗渠工事期成会が設置され、上水暗渠工事実現に積極的に邁進する体勢がととのえられた。昭和二十六年度において、正式に予算化され、第一期工事として練馬、豊島の区境より江古田二又交番までの延長七四四米三八の区間が計画され、同年三月二十六日歴史的な着工式が挙行されたのである。次に千川上水暗渠工事経過をしるしてみよう。
図表を表示以上で、延長四、二三六米三三、総工事費五三、八四〇、六〇〇円で練馬地区管内の暗渠工事は殆ど終了したのである。
本文> 項> <項>道路の延長としての橋梁は、道路同様我々の生活に直結し、重要な結びつきをもつている。
本区は前述したように石神井川、白子川、田柄川、等が主で、したがつて、他区に見られるような大きな橋梁はなく、中でも代表的なものは石神井川にかかつている正久保橋、羽根木橋、新大橋、中之橋、長光寺橋、螢橋等である。最近徳殿橋及び一本橋が完成している。いづれも橋長は十米前後で有効幅員は、平均七米位である。
図表を表示 本文> 項> 節> <節>下水道法にもとづく下水道は本区にはないが、新市域の下水道については、昭和五年三月二十九日内務省告示第六五号で、東京都市計画郊外下水道が発表された。市郡併合後幹支線の統一計画などのため実施の上に多少の変更が加えられたが、その内容は次の通りである。
第一、下水排除区域は城東区、中野区及荏原区の各全部と、江戸川区、向島区、足立区、荒川区、滝野川区、王子区、板橋区、豊島区、淀橋区、杉並区、渋谷区、目黒区、品川区、大森区及び蒲田区の各一部にして、総地積約一四一三九ヘクタールの区域とす。但し地勢の関係により本区域内に流入する関係区町村の一部の下水は之を収容する計画とす。
第二、下水排除量は全区域の人口を約三百万と予想し、一人当り平均一六七リットルの半量を八時間内に排除するものとし、雨水量一時間最大降雨量を五〇ミリとして之を定む。
第三、下水排除方法は合流法に依り、雨水及び汚水を同一管渠に収容し、高地区域の下水は自然流下に依り低地区域の下水は喞筒を用いて各汚水処分場に導水す。
第四、下水処分は、合流法に依り雨水は適所に雨水吐を設け、河海に放流するも、汚水は総て処分場に導き処理したる後、東京湾及び荒川に排水す。但し最大汚水量に達するまでの雨水は汚水と共に之を処理す。
第五、下水管渠の構造は雨水吐、墜道等の外は暗渠式とし、排水量の多寡に応じて陶管、鉄筋コンクリート管、鉄筋コンクリート暗渠の三種を使用す。
第六、地勢により下水排除区域を砂町系統、三河島系統、石神井系統及び羽田系統の四系統に分劃す。
これによつてほぼ
建設省計画局は昭和三十二年六月三日全国都市計画主務課長会を開催し、都市計画事業十カ年計画(三十二年度を初年度とする)資料作製要領案を提示し、都にこれが作製提出方を求められた。その内、下水に関しては建設省の
この方式によつても総工事費はほゞ一五億円を下らずと推定される。都心部の水洗便所使用を思い浮かべるとき甚だ不平等な感に堪えないが、その発達の歴史をかんがえればなお年月をかすべきであろうか。しかし汚雨水を流下せしむると云う基本的な人生生活要素は、卑屈に我慢してはならない。とまれ切望する十カ年計画の第一歩が果して三十二年度において印するや否や、今や区を挙げて実現のためへの努力を欠いてはならない。
いま区内の現状をみよう。
本文> <項>本区の下水管は川越街道(放射八号路線)や区役所前(放射七号路線)等の幹線道路の一部に雨水の排除を目的に築造されたものである。勿論流末処理施設はなく付近の河川、水路等に放流されている。従つて系統的に計算計画されたものではない。かような実情で家庭、工場の汚水はその大部分が汚水溜を造り滲透させたり付近に撒水されており、道路側溝が普及されている部分は、かろうじてこれに便乗排除しているのが現況である。現在側溝の普及率は道路総延長に対して一一・六%であり、この流末は又未改修の公共溝渠や水路に放流している。
本文> 項> <項>往時の田畑の間にあつた用水路が人家の激増に従つて汚水の流水路、すなわちドブやミゾと化し、このドブやミゾは在来下水と称されてきたものであるが、昭和二十八年四月以降は一米五十糎以下の在来下水は公共溝渠と称して、河川に準じた取扱いをしている。
本区における公共溝渠は次表の通りである。
図表を表示 図表を表示 図表を表示 本文> 項> 節> 章> <章>戦前の本区は、郊外田園都市として、静かな明け暮れにあつたので、道路も、せまく、まがりくねつてはいたが、さして不便を感ずることはなかつた。しかし都への人口集中は戦後いちぢるしく、ために本区の変り方も激しかつた。
会社、工場、商店、学校、それの主力をなす住宅が、田園をむしばんで野放図に伸び出す頃、まことにさしさわりのあるのは曲りくねつたせまい道である。本区土木事業は真剣にこの解決を図つているが、とても追いつけない現況にある。それでは本区においてどの位い狭い道が問題をなげかけているか次表をみよう。(表は三十年四月現在、単位は米である)
これによると、足立区の三五〇、三五六米を筆頭に二九〇、七三三米の本区が第二位という有難くない状態にある。世田谷区は広い割合に、自動車交通不能道路の延長数は本区より少く第三位である。こうしてみると、本区の発展のために、まだまだ拡張しなくてはならぬ道路が相当数残されていることがわかる。西武線の沿線に沿つた主要道路や川越街道などには大型バスが通つていかにも交通機関が発展しているようにみえるが、一歩わき道に入ると、
せまい道路が多い。 図表を表示 本文> 節> <節>本区内を通過する電車は、区の中央を東西に横断する西武鉄道池袋線、南部の上石神井及び関町地区の一部を通過する西武鉄道新宿線、北部の北町地区の一部を通過する東武鉄道東上線の三線がある。
中でも区の中央を横断している西武池袋線は、大正四年四月、池袋―飯能間に開設され、当時は武蔵野鉄道と呼ば
れて、東京の中心部へ出る唯一の乗物であつた。それだけに現在でも池袋線は、区内交通の根幹をなしていると云つてもよく、区民の殆んどが利用している。朝夕のラッシュアワーは、乗客が混雑するので、その緩和のため、練馬駅―池袋駅間には、急行電車を走らせ又折返運転など、行つている。 画像を表示 図表を表示 図表を表示 本文> 項> <項>現在区内の交通は軌道路線が中枢をなしているが、その間を「バス」が、都心又は主要幹線と連絡して、区民の足
として、かくことのできない重要な補助交通網をなしている。今区内を通るバスには、都営バスを始めとして西武バス、国際興業バス、関東バス、京王帝都バスがあり三十有余の系統にも及んで区内を縦横に走つている。
図表を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示 本文> 項> <項>区内の自転車は別表の示すように昭和三十二年二月現在では三四、八六九台、原動機付自転車は二、一二五台というように区民に利用されている。まだ農家が多い関係もあつて、自転車が交通機関に利用されることは非常に多い。
西武線の石神井駅前をみると、朝の自転車預り所のいそがしい風景がきわだつている。かなり遠方から自転車にのつてきて、この預り所に預け、西武線で池袋から都内方面に通勤通学する姿をまざまざと示している。いずれは住宅地区となり道路が完備されバスが発達すればこうした風景は次第に珍らしいものとなつてゆこうが、まだこの現象は大泉駅などにはそれほど目立つてないから、やがて石神井駅のこの現象がおとろえる頃は大泉駅にこの現象がみられ、さらに保谷駅方面に及んでゆくことであろう。
図表を表示 図表を表示 本文> 項> <項>昭和二十九年の春と秋の二回、警視庁管下で交通量の多い場所を選んで一斉に交通量の調査が行われた。この表は秋の分で区内では東大泉町の交叉点と、石神井関町交叉点で行われた。
1、自動車
両地点を比較すると、関町の方が多く、約一六倍である。時刻の動きでは関町は午前八時―九時午後二時―三時が頻繁で東大泉町ではその頃は少く、午前十時―十一時、午後一時―二時、三時―四時と頻繁の波がやつてくる。
2、諸車
自転車、モーターバイクは、関町の方は二、四倍であるが、荷車、牛馬車、大車は東大泉町の方が五、八倍で、両地点の特色が現われている。時刻の動きは大体同じような動きをみせ午前十一時―十二時が頻繁で、午後一時―二時が少く夕刻また繁しくなる。
3、徒歩者
東大泉町では朝六時―七時に約千三百人、通勤者と予想される人の動きがある。午後一時―二時及び三時頃から夕刻にかけて頻繁となり、商店街の特色を物語る。関町では朝から昼にかけて頻繁の度が下向のカーブをえがき、午後十二時―一時頃からゆるやかに上昇して頻繁の度を加えている。この交通量の調査は方向の調査までされてい
て、大泉駅方面から朝霞方面へ或は保谷方面から朝霞方面へ等の実際の動きを詳細に知ることが出来る。(練馬警察署交通係による) 図表を表示 図表を表示 図表を表示 本文> 項> 節> <節>練馬郵便局 練馬区豊玉北六の四
石神井郵便局 練馬区下石神井二の一、三〇一
この二局が集配を行つている区内における二大郵便局である。練馬局は、大体練馬区役所管内を、石神井局は、ほぼ今の石神井支所の管内の郵便を集配している。
集配方法
普通郵便物は、毎日午前九時と午後二時の二回取集めを行つている。
一日平均取扱数
図表を表示本区内の郵便局は、前述の現在集配普通局二の外無集配郵便局九、それに分室二(特殊郵便局)それに板橋区にありながら区内一部地域を担当する無集配局二、合計十三の特定局をもつている。
図表を表示 図表を表示これらの郵便物の配達は練馬地区内が二十五地区、石神井地区内が十二地区に分れていて一区劃に一人一台の配置をしてあるが、練馬地区のうち一ノ一より一ノ五地区は一日一回の特別区域になつている。いまその地区をあげると次の通りである。
図表を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示 本文> 節> <節>区内における電信や電話は日本電々公社(電信電話公社)の手によつて行われて居る。
図表を表示電話局と電報局の所在地は次の通りである。
住宅地区として発展してくるにつれて、中心部との電話回数は益々増加の一途をたどつているが、まだまだ他の局に比して取扱い件数は少く今後の発展が期待されている。
図表を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示配達
受信→着信検査→交付係→方面区分→配達票を持つて局を出発→
電話通達
電話加入者には、内容により電話で知らせる。但し親展、送金、銀行、慶弔は避ける。
一国の文化の程度は、その国の保健衛生状態の良否によつて判断されるとさえいわれている。
終戦により著しく低下したわが国の保健衛生は、その後十年を経た今日、関係法令の充実、機構、制度の是正、先進国アメリカの指導、更に国民全般の保健衛生思想の向上等によつて漸次改善されてきた。
東京都においては、現在五十一保健所、二保健課、三出張所と清掃事務所三十六ヶ所、清掃事業所八ヶ所等が中心となつて、保健衛生に関する各般の行政を推進している。
本文> 節> <節>北豊島郡時代より伝染病対策には著しい関心がよせられ、町村組合立の病院をもつたほどであるが、板橋区として華々しく発足した後も、衛生施設の不備や、下水道の不完全、水道その他の不充分な点などから伝染病はたえなかつた。
今次大戦中は、区民は相つぐ戦時態勢へのきりかえ命令によく対処して、かえつて伝染病は減少を示すに至つたが、空襲がはげしくなるにつれて、衣類の洗濯も思うにまかせずそのため虱の発生による発疹チフスの蔓延という事
態が起つた。終戦後連合軍の進駐をみると、直ちにD・D・Tの交付が行われ、この撲滅運動が徹底的に行われ、浮浪者、浮浪児の収容と相まつて、効果は目にみえてあらわれ、東京における発疹チフスの恐怖は、漸く去つたが、総司令部よりの防疫事業に対する強い要望もあり、昭和二十二年九月公衆衛生のための施策、防疫行政の推進を企図した保健所法が発布 図表を表示 図表を表示
されて、区役所の衛生課と従前からあつた保健所とを併合して昭和二十三年十月練馬区から離れ、都衛生局の事業としての練馬保健所が開設されて、ここに区民のための一切の衛生行政を行うこととなり、食品衛生、環境衛生、母子衛生の指導、結核性病その他の伝染病の予防、衛生上の試験検査など、区民の保健衛生に大いに活躍している。その後、昭和二十九年六月になつて地域的に余りに広範囲にわたるため、石神井地区は別に独立した分担を至当とするというので、石神井保健所が設立された。
練馬保健所 豊玉上二の二二の二
石神井保健所 下石神井二の一二五九
保健所の機構
画像を表示一般公衆の利用する旅館、興行場、公衆浴場、温泉、墓地、火葬場、理容師、美容師等については、それぞれの法規にもとずいて、環境衛生監視員を置き、指導取締りに当つている。昭和二十六年四月には、公衆衛生の危害防止のため、公衆浴場、興行場、旅館の衛生措置の基準等の改正が行われ、指導取締りが大幅に強化された。
特に本区の如きは、いまだにその殆んどが農村地帯であるため、その保健衛生に関する諸施策も特に強力迅速に推進されることが要望されている。
図表を表示 図表を表示戦後、戦争病とまでいわれて大流行した発疹チフスと痘そうおよびその他の各種の伝染病は、公衆衛生の進歩により多少落ちつきをとり戻してはいるが、いまだ油断のできない段階にある。
本区内に発生した伝染病の年次別数は概ね次のとおりである。
図表を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示狂犬病の発生と、その<圏点 style="sesame">まん圏点>延を防止し、更にそれを撲滅することにより、公衆衛生の向上および公共の福祉の増進をはかるため、昭和二十五年八月狂犬病予防法が施行された。
これに基く畜犬登録は、毎年四月中に登録更新をすることになつているので、五月にはこれら未登録犬に対し一斉登録を行つているが、更に完璧を期するため一斉取締等をも行い、多大の効果をあげている。
図表を表示 本文> 節> <節>練馬区の未発展を示す好例に病院と診療所数がある。
ここで病院と云うのは患者二十人以上の収容施設のあるものをいうが、この病院の少い区をあげると上表のように
なるが、それでは練馬は数において八で江東や目黒の両区より多いようであるが、実際にはそうでない。それは目黒区や江東区の病院数六は、いずれも普通病院で、一般の人がいざ火急の場合処置をうけることのできる病院である。江戸川区の八のうち七は普通病院、一が結核病院である。しかし練馬区の場合は残念ながら普通病院はたつた四、他の四は精神病院三、結核病院一で、この点、普通病院の数からみたら区部二十三区のうちの最低である。 図表を表示また診療所の数(三十年未現在)をみても、本区は一四四で最少数で千代田、大田、世田谷、杉並の四百台、中央、新宿、中野、豊島の三百台と比べて、大きな差が感ぜられる。
図表を表示 図表を表示 図表を表示 画像を表示 画像を表示 画像を表示 図表を表示 本文> 節> <節>東京都の調査した昭和三十年未現在の報告によると、理容所、浴場など区民の生活に関係ある施設や、その地区の発展の一つの目標にもなる旅館、下宿などの施設において、本区は、次表に明らかなとおり何もかも二十三区中最低であるという事実をみせつけられる。ホテルと称するほどのものは、もちろん一軒もなく、旅館二二、下宿一という数字、あるいは理容所の一三三、美容院八七、浴場三八など驚くほど少い数字である。千代田区や中央区など表通りだけみては浴場などないようにみえるが、それでも四二、六七という数を示している。
この点からみても、広汎な面積と急激な人口増加に伴つて、本区はまだまだこれから伸びる土地であつて、今はさしずめ発展の序曲といつたところである。
図表を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示 本文> 節> <節>明治三十三年三月八日汚物掃除法が公布され、清掃事業の基礎となつた。そして、同法施行規則に例示された汚物を処理するのが清掃事業の内容である。
すなわち、同法施行規則には、汚水の範囲を塵芥、灰燼、汚泥、汚水、屎尿とし、都はこれらについて別段の義務者のある場合の外これを清掃し、かつ清潔にする義務を負つている。
ところで、都では汚物中、汚泥は建設局、汚水については水道局が所管し塵芥、尿屎の清掃は河川清掃、路面の洗滌と共に清掃局において掌理しているが、一般には、これを清掃事業と称している。
東京都練馬清掃事務所 練馬区豊玉上二の二十二
その主な仕事の内容をみると次の通りとする。
<項番>(1)項番>ごみ、燃えがらの収集運搬及び処分 <項番>(2)項番>ふん尿の汲取運搬及び処分
<項番>(3)項番>犬、ねこ等の死体の収集運搬及び処分 <項番>(4)項番>大掃除の実施
<項番>(5)項番>し尿浄化槽の届出並びに検査 <項番>(6)項番>請負汲取作業の代執行
<項番>(7)項番>戸口調査 <項番>(8)項番>汚物積換所、同処理場及び公園内の公衆便所の掃除
<項番>(9)項番>汚物取扱業者の作業監督 <項番>(10)項番>ごみ、燃えがらの排出量査定
<項番>(11)項番>その他清掃作業にすること。
図表を表示 図表を表示塵芥の処理は、区民の保健衛生上一日もゆるがせにできない問題である。震災までは、全くの農業地帯で、区内の各町村は塵芥の処理に悩むなどということは少しもなかつた。震災後、急激に隣接町村が発展していつても区内のような遠隔の地においては、その影響は遅々たるものであつたから、昭和七年十月板橋区成立後、汚物掃除法準用区に指定され市の義務において、手車、牛車あるいはトラツクによつて塵芥の集収を行つた。
しかし、満洲事変、日華事変と時局の変化につれて戦時体制がととのえられるに従つて塵芥の量は減少して行つたが、応召や徴用による人員の不足を補うため、且つは戦時下の物資活用のため、市では昭和十六年以降、塵芥有用運動を起し、隣組単位に<項番>(1)項番>金物、ボロ類、<項番>(2)項番>木葉等の燃料物資<項番>(3)項番>台所の厨芥<項番>(4)項番>土砂、瓦、煉炭灰などの四種に区分し、<項番>(1)項番>は再生<項番>(3)項番>は家畜飼料<項番>(4)項番>は空地にうめて処理する方針をたて、塵芥処理を大いに軽減す
ることができた。しかし、終戦後の社会秩序の混乱は、塵芥処理の上にも乱雑な状態を呈したが、清掃事業部の出張所が、昭和二十二年八月より区内豊玉上二の二十二に設立されて再び厨芥、塵芥にわけてその処理のための蒐集が行われることになつた。
図表を表示 図表を表示 画像を表示 図表を表示 図表を表示農業地帯から急速に住宅地区として発展して行つた新市域、今日の周辺区部においては、本区は最も発展の度のおそかつた地域ではあつたが、それでも板橋区当時、西武電車の江古田、桜台、練馬辺は住宅地として変化して行つた。
それらの住宅地においては、石神井や大泉のように農家との間にし尿の汲取の契約が行われていて少しもその処分に困らぬ地域とは異り、やはり市の汲取制度の厄介になる必要があり、昭和十一年十一月一日から市営の汲取処理を実施することになつた。新市域のうち、足立、江戸川の各一部を除いて全部市営汲取制度が行われたが、板橋区においても今の練馬の大泉や石神井地区を除いて汲取りが実施された。
しかし、板橋区時代の今の本区の地域は、汲取問題については、背後に農業地帯をひかえているだけにその処理に大騒ぎをするといつたことはなく、無事に処理されていた。一日一人平均五合五勺というし尿量の処理は、農家の全くない地区では大きな問題であつたが、この点は安心できた。請負で汲取る人が個人的にも多く存在していたからで
ある。やがて、時局は容易ならざる段階に達し労働力が国をあげての増産に向けられたため汲取人の不足は、おびただしいものがあつたが、食糧事情の悪化とともに、自家農業をやり出す者が多くなり、この点でも区内のこの問題は、比較的解決が楽であつた。
昭和十九年末から二十年春にかけての米軍の大空襲は、都内一円を焼野原と化したが、区内の一部は、軍施設の存した関係もあつて農村風趣でありながら、空襲の被害をこうむつたものが少くなかつた。焼失を免れた区民焼跡の再建を努力する区民は、ともにその後を襲つた食糧難に対して、家庭菜園を各々経営し、野菜栽培から麦の増産或いは芋類など必死の努力を払つて主食、副食の補給に努めた。
その結果、区内の如き農業地では普通でさえし尿を肥料として利用しているのに自家栽培に使用する人々が多くなつて、むしろ肥料としてのし尿の汲取りに血まなこになつた有様で、その汲取人の減少によつてし尿処理に悩むというようなことは逆になくなつて行つた。
しかし、終戦後一時凄じかつた食糧事情の悪化も本区独立頃より次第に、好転した。一部の区民が家庭菜園を中止しだしたため、屎尿を肥料として使用する人々が減少し、区内に再び屎尿処分の問題を云々する声が起つてきた。同時に終戦後、練馬区誕生以来、住宅地区として残されていた地域だけに、ここに居を求める人が急激に増加し、その発展ぶりは目ざましいものがあつた。
都においても、昭和二十四年五月一日より再び公営による汲取制度を区部の地域に実施することとなり、その方法
図表を表示 図表を表示 は、受益者負担の意味で汲取量に応じて一樽十円の割で、汲取券を納付するという形式をとつた。本区でも塵芥処理同様、清掃事務所が昭和二十年七月一日に改称設置され、大泉地区の如き農村地帯を除き、汲取制度が行われて現在に及んでいる。
図表を表示 図表を表示 本文> 節> <節>近代都市における公園と運動場の必要性はいまさら多言を要しないであろう。本区においては幸いにして、いまだ空地多く、したがつて区立の公園、児童遊園は比較的人家の密集地に設けられている。また三宝寺、富士見地を中心にして都立石神井公園、同武蔵関公園が本区内にあつて、広く東京都民のいこいの場所となつている。また区営の運動場をはじめ各学校、会社などの運動場も設置されている。(第十章教育第五節参照)
図表を表示 画像を表示 画像を表示 画像を表示 画像を表示 画像を表示 画像を表示 画像を表示 画像を表示 本文> 節> 章> <章>終戦後の教育界は、連合軍総司令部の命により、新しい民主々義の原則に基いて改革されることになつた。二十二年三月米国教育使節団の報告によつて学制改革が行われることになり、教育基本法、学校教育法の制定につづいて、七月教育委員会法の公布、さらにそれぞれ施行規則、施行細則が附帯され、実施をみるに至つた。画期的ともいうべき改革で、六三三制とか六三制といわれる学制である。小学校六年、中学校三年、高等学校三年、さらに大学四年以上の課程を設けたもので、小学六カ年と中学三カ年は義務制をとり、すべての児童が容易に教育の普及の恩恵をうけることとなつた。
最初の出発に当つては、中学校校舎の問題が大きな悩みの種で、一部は小学校の校舎を利用するとか、その対策には非常に苦労したようである。本区の中学校では開進第一中学校、豊溪中学校、大泉中学校などは、それぞれ開進第一小学校、豊溪小学校及び大泉小学校に同居して授業を行い、旭ケ丘中学校(当時練馬東中学校)、開進第三中学校は都立第四商業高等学校に間借りし、また豊玉中学校、石神井西中学校は都立石神井高校の一部校舎を借り受けて発足した。さらに中村中学校は都立井草高校に、大泉第二中学校は都立大泉高校に同居するといつたように、変則的なしかも無理なかたちをとつて出発した。(旭ケ丘中学校長松本和三郎氏談)
その後、次第に社会状勢の安定、物質の出廻りとともに、施設の充実をはかつて、この新しい教育制度が推進され
画像を表示 てきた。 本文> <節>教育の目的は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値を尊び、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。(
教育委員会制度は、教育の民主化、教育行政の地方分権化、教育行政の自主的確立をその目的として誕生した。これまでの教育は中央集権的で国家の手で全国一律の教育が行われていたから、国民の意志や希望を十分教育の上にあらわすことができなかつた。そこで教育委員会は、教育が一部の人の不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行わるべきであるとの考えから、住民の公正な意志によつて地方の実情にそつた教育を行う目的で設けられたのであつた。東京都教育委員会は、二十三年十一月一日に設置されたが、ついで二十七年
十一月一日には独立区や他の市町村にも及んで設置されることになり「練馬区教育委員会」も他の区と同様、同日に発足した。これによつて従来都もしくは都知事、又は区、区長の権限にあつた教育、学術及び文化に関する事務を教育委員会が引継いで行うことになつた。その事務は教育委員会法第四十九条に列挙されている。高等学校以下の学校、その他図書館・教育機関万般の設立、改廃、運営管理から校長・教員の人事研修、教科内容、教科書の採択、社会教育、児童保健、教育予算の事務などを執り行うのである。区の教育委員会は、公選による委員四人、区議会議員中から区議会で選挙するもの一人、計五人の委員によつてはじめ構成された。その後、昭和三十一年十月の改正により、委員は区長の任命となり、区議会の賛同を得て就任することに改められた。 図表を表示教育委員会には、事務局が置かれ、委員会に属するすべての事務を処するために、教育長及びその他の職員が任命れさている。
二、学校教育
画像を表示 本文> 節> <節>昭和三十年五月現在区内の小学校は二三校、全部公立で、私立はない。教員数は五六七人、児童数二一九三八人、教員一人について児童三八人強の割合で、となりの板橋区の九八五人に三九六〇五人、四二人強に一人という比からみれば恵まれているといえる。しかし、千代田や中央の両区のように三四人に一人というようにまでなるには、就学児童数が急激に増加している本区ではなかなか望めそうもない。それでも二十六年四月の一七校、教員三九六人、児童一五九九八人、教員一人に児童四四人という割からみれば、かなり良くなつてきていることがわかる。僅か五年間の増加でこれだけになつたことは、学校教育の面で区内の施設が充実に向いつつあることを単的に示すものである。
区内の中学校は、設立以来当事者達の熱心な努力でかなり施設が充実してきた。
二十六年においては私立中学が五校あつたが、それが三十年には三校に減少した。公立においては学校数は一二校であるが、教室数が増加し、教員は一・五倍、生徒は一・七倍という数を示している。
児童数からみると、三十年五月現在小学児童二一、八六三人、千代田、中央の都心部を除けば最も少い人員で、千
代田、中央のような区と根本的に性格のちがう本区にあつては、今後ますますその児童数は増加してゆくことと思われる。男子一一、二八二人、女子一〇、五八一人で僅かながら男子が多い。これを学齢別にみると
図表を表示この表によると現在一、二年在学の児童が最も多く、これが中学に入る頃には、中学校自体の増設か、教室数の増加のやむを得ないことが推察できる。
それなら現在の中学校はどうか、総数は九、一五一人で、千代田中央の六千人台よりは多いとしても、二十三区中二十一位にあり、渋谷区の九、九〇七とともに、なお一万をこしていない。
図表を表示しかし、これは区内の児童と生徒数である。区内から他区へ通学する者がかなりあることは人口の項でのべた。それらの通学者はこの数字に含まれてない。
画像を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示区内のように住宅地区として、農地が宅地化して住宅がどしどし建つといつた特色をもつ地区では、生徒数の激増という現象はさけられないことで、宅地の不足という東京都の現在の状態においては、最もかがやかしい未来の発展を条件づけられている練馬区として、この問題には大きな将来性ある計画が必要となつてきている。あとからあとから建つてゆく住宅、同時にふえてゆく就学児童、それに対する教室数の増加が当然必要になつてくる。
しかしはじめのうちはこれに応ずる施設が充分でなく、どうしても二部教授がさけられなかつた。
昭和二十五年九月現在の区内学校数は、公立学校数、小学校十七、中学校十二、高等学校四の三十三校であつた。このうち小学校・中学校は戦災校の復興のみでは到底新しい状勢に対処することが不可能であつたが、小学校と中学校を分離することが理想であつたのに拘らず従来の小学校を中学に併用するの止むない所もできた。さらには一方に戦後急激に練馬が住宅地区として変貌をきたしはじめた。それらの理由から、二部教育のやむない状態がしばらくつづき、鋭意中学の独立校舎の設置、小学校の級数増加を補う増設に努力したが、二部授業を解消することは容易なことではなかつた。
二十六年一月末の調査でもなお区内では次表の通り
図表を表示小学校八十九学級、中学校七学級が二部教授を行つていた。その後次第に社会状勢のおちつきと戦後の復興の進渉によつて、学級の校舎学級数の問題も解決に近づいて、二部授業は漸次減少しつつあるが、就学児童数の増大は、年と共に練馬区の発展につれて増加しつつある。
図表を表示昭和三十年五月現在、区内小学校二三校のうち二部授業を実施している学校は一二校、学級数四四一のうち二部授業を行つている学級が一三九となつている。次第に住宅街として変貌しつつある練馬区の姿をこれによつてある程度知ることができる。
図表を表示学校数からいえば、二部授業を行つている学校が一〇校以上の区は上表に示す通りで、周辺区における住宅街の発展、人口の増加、それに伴う就学児童数の漸増という現象は、一つの共通した特徴をなしている。都心地区の人口の飽和状態、就学児童の漸減傾向にあるのが終戦後の産児制限の普及などの影響と相まつてこれも共通現象であるのといい対比をなしている。しかし、学級数からみると、二部授業学級数の最も多いのは大田区、次いで板橋、世田谷、北、次に本区となつていて、二部授業の解消が容易でないことがわかる。さらにおどろくことは、学級数と二部授業を行つている学級数との比をとつてみると、二十三区中で本区が一番高い率でついで大田、板橋、北の順になつており、次に江東区がくるのは戦
災の痛手が大きかつたのと、埋立地に工場地帯が拡張されてゆき、職工の社宅などが増えて、就学児童を収容しきれずにいる特別な理由によるのであろう。こうしてみると、練馬区はまだまだ住宅街が出来、人口は増加し、就学児童数が増してゆく傾向にあるから、その二部授業学級数と総学級数との比が他区より下るのは、学校も増え、学級数も増加するということが毎年行われなければ解消できないことになる。こうした所に、伸びゆく本区の大きなつらい悩みがある。区内公立小学校・中学校の生徒児童の体格の向上については、戦後十年を経て、戦時中から終戦直後にかけての体格に比較して見違えるような改善ぶりであるといつてよい。
空襲また空襲でその日その日を送り、一部の児童は学童疎開の疎開地で食糧に苦労するといつた苦しい日の連続から、漸く終戦を迎えたとはいえ、そこにまちかまえていたのは一段とひどい食糧不足であつた。学童も父母のもとにいる安心感はあつても、体格の方は貧弱になつて、戦前の平和な時代の身長や体重がしきりに比較されるといつた一時期があつた。二十三年頃からようやく食糧事情がよくなり、ことに米軍による粉ミルクの放出は低下した学童の体格を次第に改良していつた。加うるに教育の革新は小学校児童に給食という所にまで一歩前進したため、カロリーが研突され、学童の体格はぐんぐんよくなつていつた。次第に世の中が明るくなつてゆくにつれて、スポーツは戦前にもまして盛んになつてゆき、女子の身長はぐんぐんのびていつて、むしろ体格の上では戦前をしのぐといつた状況にまでなつてきた。区内の地域はその上、都心とちがい、まだまだ樹木にうるおいのある住宅地区である。こうした条件のもとに児童の体位の向上するのは当然のことといえよう。
今区内小中学校児童の体格をあげれば次の通りである。
図表を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示内の小学校の三十一年四月修了者の中学校への就学状況については三十一年五月現在で別表に示す通りである。
図表を表示義務制であるから、勿論完全に進学しているが、私立の中学校へ進学する生徒の数の三〇五は二十三区中最低で、江戸川区の三二九人よりおとつており、他の区はすべて四百人以上を数えている。
中学校の卒業生となると、その行く進路についてはさまざまで、その差異が一つの区の姿を示しているともいえる。
三十一年四月の卒業者中の進路をみると別表の通りである。
図表を表示約六割が高等学校その他へ進学し、二十六%近くが就職し、九%強が就職の上夜学へ進学している。
図表を表示戦後における小学校教育の上で、視覚教育の外に特に目新しい事象は、学校給食の実施であつた。
敗戦後の社会的混乱と戦時中の食料事情の悪化は、学童の体位に悪影響をみせ、戦前に比較して体位約一カ年の低下を来し、小学校二年生が戦前の一年生程度といつた惨たる状態におかれた。明治時代の児童の体位に逆戻りといつた状況に、昭和二十一年十二月G・H・Qより改善への協力があり。ララ委員会が積極的に援助してくれた。これに基いて政府は速かに児童体位の低下を改善するため食生活の合理化を企図し、全国小学校に学校給食を実施し、二十二年九月よりは一段とこれが改良されて、政府懇請による脱脂粉乳一二、〇〇〇トンが放出され、東京都においても特別配給物資の活用によつて学校給食の充実に努力することができた。はじめは、毎週二回以上副食物による給食実施であつたのが、次第に回数を増し一週四回以上の給食を励行するようになつた。こうして次第に学童の体位は改善され、食糧事情の好転とともに、東京都は政府配給物資のみに依存することなく、野菜その他加工食品などによつて給食材料の総合配給につとめ、やがては各校が独自の給食体制を確立するようになつていつた。
給食委員会 児童一人に対する食物の栄養必要量(副食物の場合は大体熱量一八〇カロリー蛋白質一五グラム程度)の目標を連日確保する為、機構の改正が行われ、学校給食委員会が成立をみた。練馬区学校給食委員会は学校給食に関する必要事項の調査及び指導、物資の調達、管内給食についての事項処理などいろいろな面で学童の体位向上のために努力して活動を行つている。
図表を表示 図表を表示生徒の体位がこれによつてどの位向上したか多くの父母がこの学校給食ばかりは文句ねしに喜んでいるのをみてもわかろう。
学校給食の歴史は随分古く、記録によると明治二十二年に山形県の鶴岡市で貧困児童を対象として給与されたようである。恐らくこれが最初のものと思う。昭和十五年に「学校給食奨励規定」が公布されてから給食が普及されるようになつたが、なんといつてもそれが画一的になつたのは昭和十九年の六大都市の児童を対象とした米、味噌等の特別配給である。四月から実施され、御飯と味噌汁だけの献立が児童の食膳を賑わした。それは喰べざかりの子供達にとつて十分なものでなかつたが、戦時下のもつとも食糧中情の悪いときだけに、生徒も父兄も大喜びであ
つた。しかし味噌汁の中味は学校側で需給せねばならず、野菜集めに一苦労であつた。終戦後学童の体位が非常に低下したので、昭和二十一年十二月十一日付文部、農村、厚生の三省の次官通達によつて東京、神奈川、千葉の三百校三十万人の学童に連合軍総司令部、ララ委員会の放出物資によつて給食が行われた。二十二年一月から全国の児童に、さらに昭和二十五年七月からアメリカ寄贈の小麦粉で八大都市の一、八五〇校(約一三五万人)の学童にパンとミルクを主とした完全給食が行われた。当時は十分な給食調理室や内部設備がなく、小使室の湯沸場を利用したり、校庭の隅に天幕を張つたりしてはじめたものだ。又燃料や副食調達に苦労するのは勿論のこと、まず子供達の食器から心配せねばならなかつた。各自めいめい家庭から持参させ大小さまざまの食器を前にしてその取扱いに大変苦労した。又衛生上からも心配で、無理をして同一の食器を求めたが今度はその食器の洗浄や消毒がまた大変な仕事になつてしまい、作業員だけではとうていまにあわないので、職安の労務者の応援までも煩わしたものである。 池沢一志氏談(
学校給食は戦時中から行われていたが、それが本格的なものになつたのは昭和二十二年、アメリカの放出物資による完全給食からである。
小麦粉、脱脂ミルク、ビーフ等の罐詰が配給された。向うのものはその管理がむづかしく、また放出物資の横流しなど極度に警戒して、空罐の一つ一つを厳重にしらべたものだ。ときに空罐を見失つては右往左往したのも記憶に新しい。
当時、主要食物は全く放出物資に依存していたが、野菜などの副食類は学校単位で都合せねばならず、最寄の農業
会や実行組合にはかつて現地調達の道を講じた。練馬区が都内とはいえ比較的農業経営者の多い地域であり、土地の理解も手伝つて野菜集めに事をかかなかつた。しかし魚、肉類は放出物以外に殆んど入手することができず、あるだけのもので我慢し毎日の食事を工夫しながら賄つた。このような給食に対して農家の家庭では余り歓迎せず、弁当持参の農家子弟の姿がみられたが年を追つて充実する給食で、いまは全く順調に行われているといつてよいだろう。 山本留吉氏談(
戦前教育会が教育の助成機関として、区内の教育推進のために果してきた役割は、大きなものがあつたが、戦後、民主々義的改革のもとに親(父兄)と教師による民主的教育の育成機関として結成されたものがP・T・Aで、昭和二十二年より各校に組織され、練馬区誕生以来、二十七八年頃までには全小学校中学校に設立をみ、学校教育の進展のためにめざましい業績をあげている。
通学区域は小、中学校別に設けられている。小学校二十九区域中、面積の大ねるものは、大泉第三、練馬、小なるものは豊玉第二であり、中学校十三区域中面積の大なるものは大泉、練馬、小さなものが、旭ヶ丘となつている。近年人口の急激な増加に伴つて通学区域にも種々な事情が生じている。それは区域の分れるところに人口が殖えて、通学距離の差が甚しくなつたことと、区域外通学が殖えたことである。
図表を表示 図表を表示 本文> 節> <節>区内には、区立の小中学校の外、大学三、高等学校八、私立中学校四、各種学校一一及び私立幼稚園二六が存在している。
区内の中学高校については、三十年五月現在次の通りである。
図表を表示この外、高校へ通学するため、区内を出る生徒もいるから、実際にはこれより生徒数は多い訳である。なお、智山専門学校、高校、中学校が廃止されて、その後へ早稲田大学の高等学院が改築移転し、三十一年九月より開校したため、高校の生徒は今まで早稲田へ通学していた生徒が全部、石神井に集まることになり、人数の上では約千八百名多くなつた訳になる。
図表を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示 本文> 節> <節>現在、区営によるおもな体育施設としては学田公園野球場、(
区民の健康の増進と社会教育の普及、奨励を趣旨として、昭和三〇年四月新しく開設されたもので、以後本区唯一の体育センターとして区民に広く解放し、利用されている。
図表を表示その他区営以外の体育施設として、各学校特設グランド、また各官公社運動場など、年を追つて漸次増加し、体育の振興、生活の向上が図られている。
図表を表示 本文> 節> <節>終戦後の民主々義的改革の社会教育の面に及ぼした影響は極めて大きい。公民館を中心にした文化活動、或は学校を単位とした視覚教育の発展、成人教育、図書館等々そのひろがりの大きさは年と共に増加して行きつつある。
社会教育の機能を十分に発揮する社会施設の必要は、終戦後民主々義教育の発展と共に重視されることになり、二十一年七月五日の文部次官通牒「公民館設置運営のしおり」によつてその設置を奨励され、昭和二十四年六月社会教育法が出て、その目的が明確化された。
市町村その他一定区域内住民のために、実際生活に即する教育、学術及び文化に関する各種の事業を行い、もつて住民の教養の向上、健康の増進、情操の純化を図り、生活文化の振興、社会福祉の増進に寄与すること
と規定された。こうして各区に公民館が設置されたが、練馬公民館が竣工したのは、少しおくれて、昭和二十八年十月二十日であつた。敷地一、五〇〇坪、建物総坪数四二四・六二六坪で、三階建である。公民館は区内の文化活動の中心として、社会教育を目的とする会合、講座、集会、講習会、研突会、展示会等等に利用される外、特にサークル活動の育成につとめ、各種団体や機関等の連絡に当るなど、練馬区文化活動の本拠として大きな役割をはたしている。
その活動に対しては、昭和三十一年度第九回準優良公民館として、東京都二十三区唯一の文部大臣賞の栄に浴しており、都市における公民館運営の困難さを克服しながら益々社会教育の実を上げている。
<コラム page="1103" position="right-top-nw">第九回準優良公民館表彰理由
東京都練馬区練馬公民館表彰理由
住みよい楽しい「私達の区」を目標として区民の与論により昭和二十二年八月誕生した新しい区であり、人口約二十万総面積四七、三三キロメートル、東京都の西北に位する。練馬区は昭和二十八年木、鉄筋造の三階、四二四坪の練馬公民館を新築したのであつて、特に相談室、連絡室、教室、調理室などは整備されている。
公民館の運営目標をよりよい人間形成の場、社会形成の場たらしむべく定期的事業を中心とした綜合的な行事計画によつて事業が実施され地域団体との提携もよく、公民館の地区活動の推進に努めている、特に都市の公民館としてサークル活動が活溌である。成人学校、婦人、料理講座などが盛んに行われ、なかでも青年教室は非常に喜ばれている。また相談室を中心とした結婚、法律、商工、服飾、手芸相談などの利用も目立つている。視聴覚教具は特に整備されていて、各種の事業に活用している。館具類も充実している。蔵書数約二、五〇〇冊である。
職員は専任七名、兼任九名、昭和三十年度決算額三、三九四、八七七円、昭和三十一年度予算額三、二九八、二八六円区費総額に対する公民館費は、〇・六%であり、人口一人当り年一九円となつている。特に成人、青年教育に約一、一〇〇、〇〇〇円が支出されている。
コラム>本区の公民館は教育委員会のもとに館長がおかれ、常勤職員があつて、その運営に当つている。
図表を表示 図表を表示区民に対して、組織的な学習の機会を提供する成人学校は東京都が開設している成人学校の外に、各区でその教育委員会がそれぞれ独自に開設している。大体成人学校は申込順にうけつけ定員で締きるという方法をとつているので受講希望者と定員との割合は、はつきり数字にはあらわれないが、申しこみ受付開始後間もなくで定員に達する場合が多いところをみると、かなり区民の中にこうした受講希望者のあることが察せられる。区内の三十年度成人学校を例にとると、開設数三回、開設科目数一三、受講者合計四五四人、婦人が圧倒的に多く、男二五・八%に対し、女七四・二%を占めている。
こうした成人教育が盛んになつてゆくのはまだまださきのことであろうが、とにかく社会教育費中三十年度八・六%を占めて活躍していることは記憶されてよかろう。いろいろ実用的な技術の講習などが、趣味や生活に結びついてグループの数々が生れてゆくことも社会教育の発展の上に大いに役立つことである。
戦時中の青年団体は翼壮といつた国民精神総動員のワクの中に内つて、国家の戦時体制にその一翼を握つて活躍する団体になつてしまつたが、戦後新に組織された青年会はそれ自身が民主主義的な線にそつた親睦又は共同の利益のための研突や教養の向上といつたものを目標とする団体となり、社会教育の上に大いに貢献しようと努力している。
図表を表示終戦後の民主化運動は、戦時中一本にまとまつていた愛国婦人連盟といつたものを解消させたため、バラバラに分れた地域婦人団体が各所に成立をみるようになつたが、婦人団体とよばれる団体の性格がまちまちであり、一人がいくつもの婦人団体に所属している人も相当に見うけられ、又その反面どの婦人会にも属さない人々もあるといつた状況である。
いわゆる地域婦人会をその主たるものとして、母の会とか町内会的な自治会の婦人部、或は防犯協会婦人部とか、生活協同組合家庭婦人会とか、日赤奉仕団、有権者同盟その他さまざまな種類の婦人の組織がある訳で、社会教育の対象として考えた場合、それらの団体活動を通じて家庭の婦人が社会性をたかめ、積概的に社会改善の推進力となることが今後期待される所である。
昭和二十三、四年頃できた婦人会が、戦前の看板のぬりかえにすぎなかつたり、一部の人によつてある意図をもつて組織されたりしたものもあつたに反し、その後にポツリポツリと結成された婦人会の多くが地域地域の婦人達の必要から生じたものが多く、単位も小さく、グループ的活動を行つているものが少くない。こうした団体の活動が地域の社会教育的な面での文化的推進に役立つて、旧い悪慣習をなくしたり、家庭の改善などに一歩前進しつつある。
また更に練馬区婦人団体連絡協議会も結成され、単位団体の活動が活溌になるにつれて、協議体の必要性をみとめて綜合的な事業に同一歩調をとるなどの働きを行つている。地域団体としてはその目的は大体、教養向上、趣味、社会事業、保健衛生、生活改善、リクリエーション等さまざまである。
図表を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示 本文> 節> <節>区内の社寺は、江戸時代以来、区民との密接な関係をもつて存続してきたが、やはり大震災後次第に人口が増加して、発展の一途をたどり、市街地化する部分ができてくるにつれて、新しい他地から来住した人々が多くなると、その人々のうちにもそれらの社寺に関係をもつ人々と全く関心を示さぬ人々とができて来て、江戸時代のように生活に密接に関係をもつということは薄れてきた。
図表を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示 本文> 節> 章> <章>昭和二十一年十一月に公布された新憲法は、主権在民の理念を基調として、その第二十五条に「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」と規定され、民主主義における新しい社会福祉事業の理念が明らかにされるとともに、社会福祉事業が一部の人々に対する救貧にとどまることなく防貧さらに広く積極的な社会全般の福祉の増進を図ることとなつた。
その年十一月に公布された新憲法の理念と、この覚書に基いた措置を立法化したのが生活保護法、児童福祉法、身体障害者福祉法ならびに社会福祉事業法等の一連の社会事業ないしは社会福祉に関する法規である。
さて、ここでこれら社会福祉事業が制度上はどのような経緯により発展したかを概観してみよう。
大正六年五月岡山県に設置された済生顧問制度が社会福祉事業の近代における制度上の始まりであり、翌大正七年十月に大阪府に設置された方面委員制度が今日の民生委員制度の母体になつていることは、すでに周知のとおりである。この岡山県と大阪府に設置された二つの制度は、いずれも当時の不安定な社会情勢下にあつて生活困窮者があまりにも多い実情に鑑み、これを防止しあるいは保護しようとする必要から生れたものであるが、当時社会的な救済手段が殆んど講ぜられていなかつたために、まことに時宜に適した制度として非常な成果を収め、やがてそれは各地方
の注目するところとなり、逐次他の府県においてもこれを範とし、しかも各地方のそれぞれの実情を参酌した類似の制度が次々と設置されるようになり、制度創設後十年にして昭和三年頃には全国各府県ことごとくこれを設置していないところはないまでに発達したのである。元来これらの制度は、始めは各府県市が自主的に任意の制度として設置したものであるが、これが漸次各地に普及発達してやがて全国的な制度となるに従い、これを統一的な制度としようとする気運がたかまり、殊に昭和四年救護法が制定され、その補助機関となつてからは、その必要が急速に促進され、昭和十一年十一月遂に方面委員令が制定されて、ここに任意制度に始めて法的規制が加えられ方面委員制度は新たな発展段階に入ることとなつたのである。その後この制度は、母子保護法、医療保護法等の実施について補助機関としてその運営に当つてきたのであるが、殊に戦後においては困難なる社会状勢下にあつて生活保護法の補助機関となり、又児童福祉法に定める児童委員となるなど社会福祉行政の末端運営に参画して民生安定に大きな力となり、その間昭和二十一年には前述のように名称も方面委員から民生委員となり、更に昭和二十三年には民生委員法の制定となり、ここに全く法律上の制度として発達をとげるに至つたのである。
こうして民生委員制度は、創設以来今日まで四十年わが国社会福祉事業の発達に大きな役割を果してきたが、この間において具体的な活動の分野や方法等は、あるいは時代の要請に応じ、あるいは又社会の動きにつれて幾度か変つたことは事実であり、しかもそれは当然のなりゆきではあるが、しかしながらこの制度の中に一貫して変らないものがあるのは看過することができない。それは現在の民生委員法にもうたつてある「社会奉仕の精神を以て保護指導の
ことに当り、社会福祉の増進につとめる。」と言うことである。ところで、東京都におけるこれらの制度の発達の状況はどうかというと、まず大正七年五月すなわち大阪府の方面委員制度に先だつこと五カ月、現在の東京都社会福祉協会の前身である東京府慈善協会内に始めて救済委員が設けられたのであるが、大正九年十二月に東京市方面委員制度が設置され、下谷、深川の両区に十方面四十三名の方面委員が置かれ、その後各区の熱烈な要望によつて漸次拡大され、特に大正十二年の大震災時においての犠牲的活動によつていよいよその真価が認められ、大正十三年には三十方面四百名に拡げられ昭和七年には概ね全市に普及されるに至つた。そしてその間、前記の救済委員制度は、方面委員制度の普及に伴い、発展的解消をとげたのである。
なお、東京府における方面委員制度は、比較的遅れて、昭和五年九月東京市近接の五郡五十四カ町村に設置されたのに始まり、府下全域に設置を完了したのは昭和十一年である。
本文> <節>戦前民生事業の第一線にたつて活躍していた方面委員の活動拠点である方面館や方面事務所は、戦争が激化するにつれて廃止される運命となつて、その事務は区役所で統合処理されることとなつた。
しかし、敗戦の結果は、食糧難に加えてインフレの悪影響により、巷には浮浪児、浮浪者があぶれ、遺家族などの生活困難をつげるものが続出したため、これに対処する民生安定の方策として、各種保障制度が活溌に実施されることになつたので、これらの事務を担当するための方面事務所の復活が要望され、昭和二十一年民生委員制の実施とと
もに名称も民生館、民生事務所と改められ、当時板橋区であつた区内にも民生委員がおかれるとともに民生事務所が設けられた。そして、昭和二十二年八月練馬区が独立するとともに練馬区内にも次のとおり民生事務所が設けられた。
図表を表示こうして、戦後の荒廃した世相に苦しみあえぐ人々に温かい手がさしのべられたが、その後生活保護法・児童福祉法などの民主主義的改革の線に沿つた社会福祉の対策としての諸法令が制定され、それにもとずく第一線業務はもとより、乳幼児対策、青少年の補導など民生事務所が区民のためにつくした点は少くなかつた。
昭和二十六年十月生活保護法の改正が行われ、更に社会福祉事業法の施行によつて、都の出先機関である練馬福祉事務所が開設されて民生事務所は廃止された。
区役所においても、当時の民生課を厚生課と改め、福祉事務所と密接な関連を保ちつつ、他方では区独自の厚生事
業を推進することとなつたのである。昭和二十六年三月社会福祉事業法の制定により公私にわたる社会福祉事業の体系が完備された。同年九月になつて東京都の区域に福祉地区を三十四にわけ、その地区を区域とする福祉に関する事務所を設置することとし、十月一日から前述のように練馬福祉事務所が開設をみたのである。二十三区、三郡、三島、五市合計三十四カ所で、このうち昭和二十八年一月には、三郡三島の福祉事務所が廃止された。
福祉事務所は、いわゆる生活保護、児童福祉、身体障害者福祉の社会福祉三法の援護、育成、厚生事務のほか、災害救助の協力、引揚援護、社会福祉のためのあらゆる啓蒙と増進、社会福祉団体の連絡、社会福祉協議会の育成指導等の業務を推進して区民のために活躍をしている。
図表を表示 画像を表示地区別管轄地域
中新井地区
本所 豊玉中四の一三 中村町一、二、三丁目、中村南一、二、三丁目、豊玉中三、四丁目、豊玉南一、二、三丁目、南町五丁目、豊玉北五、六丁目、南町四丁目、豊玉上二丁目、豊玉北三、四丁目、豊玉中一、二丁目
上練馬地区
上練馬出張所 春日町一の二、六六〇 貫井町、向山町、高松一、二丁目、旭町、土支田町、田柄町一、二丁目、春日町一、二丁目
南地区
南出張所 小竹町二、二五五 豊玉上一丁目、豊玉北一、二丁目、江古田町、小竹町、南町一、二、三丁目
北地区
北出張所 仲町三の四、四七七 北町一、二、三丁目、仲町五丁目、仲町一、二、三、四丁目、仲町六丁目
石神井地区
支所 下石神井二の一、〇五二 北田中町、谷原町一、二丁目、南田中町、下石神井町一、二丁目、上石神井町一、二丁目、関町一、二、三、四、五、六丁目、立野町
大泉地区
大泉出張所 大泉学園町二、三三九 東大泉町、西大泉町、南大泉町、北大泉町、大泉学園町
練馬地区民生委員児童委員名簿 (昭和三一・一二・一現在)
中新井地区
武田万次郎 池田政太郎 矢吹長久 菅原友治 小泉善次郎
浅見ハツ 深野テル 大石ちよ 松本佐太郎 中村重子
神山操 舟波みち 平野やす子 宮下カヨ 奥山太郎
清水米子 宮城隆真 住本スギ 山本紋次郎 原秋
関口義一 西島ひさ 高橋マサ 西貝喜之助 川本トノ
南地区
久野恭次郎 林信助 中里ミツ 小宮信太郎 本田良子
新井斧太郎 杉山文子 飯島時子 山田国之助 高橋久長
大野春枝 川合かふ 児玉与志 佐野常子 山崎つる
永田隆一 米山源一 田中周一郎
北地区
高橋富三郎 池田サチ子 島野五一 武内盛次郎 漆原静子
塚田憲識 内田かづ 渡辺雄司 大木なか 大木政次郎
田中米吉
上練馬地区
沼田鯛子 加瀬直衛 岡和男 清水せん 植松鉄五郎
伊勢原辰五郎 相原信明 上野信孝 増田久蔵 宮本一雄
川尻継松 小野沢ミツ子 加藤信次
石神井地区
伊藤武次郎 小林きよ 横山孝子 谷治繁雄 島崎彦太郎
本橋栄助 富岡勝次郎 西村五郎 本橋金之助 島崎ひさ
橋本クメ 尾崎丑松 尾崎寅吉 小倉佐平太 尾崎藤開
金子健次郎 近藤久枝 斎藤英一 田中亮一 井口又右衛門
岡上敏子 桜井秀雄 井上カナメ
大泉地区
山田海潮 樋沼まつ 榎本重治 加藤林之助 関口鉄五郎
平野忠右衛門 神戸美代 高橋政清 田中浄識 加藤義久
医療扶助審議会委員
山中太郎 金井進 豊島斎一 宮島続 小松栞
青木秀次郎 沼田至 花岡信男
身体障害者福祉法による指定医
菅谷考(眼科) 岸田英一(眼科) 青木馨(耳鼻咽喉科)
永井虎二(耳鼻咽喉科) 野村守 (外科) 濃野垂 (内科)
田村リツ(眼科) 高井幸雄(外科) 菅原高弘(外科)
山下千秋(外科) 矢崎尚 (内科) 山口亀吉(内科)
伊藤国男(外科) 船波康行(外科)
社会福祉施設
①助産施設
宮内助産院 南町一の三、五五三 川部助産院 江古田町二、二二八
村上助産院 中村町一の二〇
②更生施設
みかえり大泉寮 東大泉町一四五 白菊寮 南田中町一四五
③宿舎提供施設
暁星寮 東大泉町一四五
④保育所
所在地 定員 所在地 定員
都立豊玉保育園 豊玉中四の一三 七〇 私立練馬隣保館 南町五の六、七〇八 八五
私立中村保育園 中村町一の一、一七八一 一〇 私立南町保育園 南町一の三、四二三 八〇
私立練馬和光保育園 南町四の六、一〇一 九三 私立練馬仲町保育園 仲町二の九〇の二 七〇
私立富士見台保育園 貫井町九二五 七〇 私立石神井保育園 南田中町五〇三 一三〇
私立大泉保育園 東大泉町三三二 七〇 私立奎徳保育園 東大泉町一二九 八〇
私立マーガレツト保育園 大泉学園町七七八 五〇 私立妙福寺保育園 南大泉町七六〇 三四
私立練馬平和保育園 中村南二の二四 四六
⑤養護施設
錦華学院 小竹町二の二、五六五 五二 石神井学園 上石神井二の一、七〇〇 四五〇
⑥精神結核施設
慈雲堂病院 関町四の甲七二三 五九九 大泉病院 大泉学園町七四八 二〇三
富士見丘静風荘療養所 谷原町一の五二六 三二
⑦母子寮
都立練馬母子寮 豊玉南三の三二 三二
⑧乳児院
育秀会乳児院 南町二の三、八一三 三八
本文> 節> <節>社会福祉事業法の規定により、東京都は、条例で、福祉地区ならびに福祉事務所を設置することになつた。
福祉地区とは、地方第一線において、公的保護を中心とした社会福祉事業行政の現業事業を最も能率的、経済的に行うための効果的な行政単位で福祉事務所の所管区域である。
当福祉地区は、東京都区中第三位という広い地域の全面積のうち田畑が約四九%で都の増加人口のはけ口をなし、毎年約一万人づつ増加しつつある現状である。
そして、その殆んどが都心に通勤する公務員、会社員で、居住人口の四〇%を占めている。
これらの特色をもつて練馬の社会福祉、民生安定の施策は、どのように推進されているであろうか。
以上それらを、事業所別に、すなわち、福祉事務所と区役所とに分けて、それぞれ扱つている事務事業の実績を数字を上から考察してみよう。
そして、それを便宜上次のような区分により本節と次節とをみるとき本区の社会福祉、民生安定の施策の内容と程度が概観されるであろう。
福祉事務所の所管事務事業……………福祉事業
区厚生課の所管事務事業………………厚生事業
もちろん、この区分は、飽くまでも一応の便宜的なものであるので、この両者は、常に密接な関連性を持ち、そのすべての事務事業は、決して一つづつ切り離して考えられるべき性質のものでないことは当然である。
図表を表示 図表を表示時代の要請に応じて発足してから既に五年の歳月を経た練馬区社会福祉協議会は、その事業面において年々向上の一途をたどり、着々成果を挙げているが、いまだ完全な解決をみていない困窮者援護、戦歿者遺族身体障害者等の更生、未亡人の問題等これら真に福祉更生の実現のために今後ますますその活躍が期待されている。
画像を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示 本文> 節> <節>憲法で保障されさいるとおり我々国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有している。
しかしながら、敗戦により必然的にもたらされた国民生活の不安定と困難さは極度の生活苦となつて我々の頭上をおおい、それに基因する痛々しい社会悲劇が続出した。昨今に至り漸くこの悪環境、悪現象からどうにか抜けだし、国民生活も次第に落ちつきをとりもどし始めている。本区に於ても、昭和二十六年六月に制定された社会福祉事業法に呼応して、同年十一月、当時の民生課を厚生課と改め、都知事のもとに運営されている福祉事務所と密接な関連を保ちつつ他方では区独自の厚生事業を推進してきたのである。
昭和二十七年四月には都営であつた公益質屋が区に移管され、更に同年六月戦傷病者、戦没者遺族等援護法の国会通過による弔慰金、年金の請求交付事務が扱われ、また従来からの戸籍に関する事務と人口動態を把握するための住民登録事務が三者完全一体となつて区民の健全な日常に寄与せんとしているのである。以下区で扱つている厚生事業を概観する。
生業資金は、一般金融機関から融資を受けることが困難な庶民層を対象として、独立の生業を営むに必要な小口資金を融資するもので、都の生業資金は、昭和二十四年度に第一次、昭和二十五年度に第二次の貸付を行つたが、一世帯一口として第一次は五万円、第二次は三万円を限度とした。償還方法は、第一次は一年据置四年返済、第二次は一
年据置三年返済である。区においても昭和二十九年に第一次を行い翌三十年に第二次、三十一年に第三次を行い一世帯一口として五万円を限度で貸付を実施した。償還方法は、据置期日六カ月を含み、五年以内となつている。利率は、都も区も日歩二銭五厘である。なお、この生業資金貸付の適正かつ円滑な運営をはかるため条例により区長の附属機関として生業資金貸付審査委員会を設けている。委員は次の通りである。
会長 小林四郎(区助役) 委員 大戸淳三(区議会議員)
副会長 小泉市蔵(区厚生課長) 〃 林信助(民生委員)
委員 罍修一(区議会議員) 〃 田中浄識(〃)
〃 加藤源蔵(〃) 〃 上野唯郎(区石神井支所長)
〃 榎本喜芳(〃) 〃 等々力龍雄(福祉事務所長)
図表を表示東京市時代、市の直轄のもとに各区に一軒づつ開設され、庶民金融機関として好評であつた。終戦後、めまぐるしく変化する社会情勢に対処して、この存在は大きな力をなしたが、地方自治法の改正後しばらくたつた昭和二十五年になつて、都知事はこの事業を各区に管理させることとした。
区内には下石神井二丁目一二一二番地に一カ所あつて、区内の人々のための手軽な金融機関の役割を演じている。
利用方法は、米穀通帳と印鑑を持参すると質屋の台帳に籍が登録される。衣服や、貴金属、カメラあるいは株券などが入質の主なもので、炊事道具まで入れるなどという例は区内には殆んどない。
貸出し金額は一般の質屋とちがい無制限でなく、最高金額が区の状況により規定されていて、当区は八千円が限度である。新宿区が一万二千円まで認める例とくらべると、当区の大体の姿が推察される。
公益質屋は、一カ月三分の利子で入質の日から満四カ月で流れる。一般質屋の一カ月九分の利子、三カ月で流れるのに比べれば、民生事業的な存在価値がわかるのである。
公益質屋の流れ品は、民生局の指示で昭和二十五年からは区役所で業者に入札させる方法がとられている。
図表を表示 図表を表示複雑化した現在の社会状勢下にあつて、生活のすべての面に関し、区民のよき相談相手となるために、昭和二十八年四月一日から無料法律相談が開設された。
相談日は、毎月第一、第三、第四水曜日の午後一時から四時までで公民館で行つている。
担当弁護士は、次の諸氏である。
森 武喜、国分友治、伊地知重厚、池田清治、藤原繁次郎、石井錦樹、高橋銀治、飯沢重一、副島義礼
図表を表示一国の将来は、現在の児童を如何に育成するかによつてきまるものである。
敗戦の混乱から生じた幾多の悲劇の中で、巷に溢れる浮浪児、戦災孤児、不良児童は、早急に対処しなければなら
ない最も重要な問題であつた。そして、それら児童の保護収容と教化指導が強く叫ばれたのは当然のことであつた。昭和二十二年十二月児童福祉法が制定されたのも、保護者、国、公共団体、国民が協力して積極的にこれらの児童を心身ともに健全に育成しようという目的からで、東京都においても翌二十三年六月に児童相談所規程を定め、従来の保護所は児童相談所と改名して、保護育成に努めつつ現在に至つている。
しかし、本区にはこの児童相談所がないので昭和二十八年七月二十八日に仲町二の一三八に区営の児童教養相談所を開設した。
児童福祉に関するすべての相談に応じ、児童およびその家庭について必要な調査ならびに各種相談に応じている。
すなわち一般家庭教育相談から読書、学校きらい、わがまま、乱暴、うそつき、盗み等の児童の相談、進学進級、職業の適正等の相談を受け、児童のために積極的にその福祉をはかる機関になつている。その他環境に恵まれない児童とか、精神、身体になんらかの障害のある児童の相談も受付けて、必要があれば施設に入所させたりする行政事務も取り扱つている。毎週火、木曜の午前九時から午後三時までで、相談担当者は東京都中央相談所派遣の児童福祉司で技術担当者は東京少年鑑別所技官が行つている。
図表を表示行旅中歩行に堪えず、療養の途がなく、かつ救護者のない病人や、行旅中死亡したが引取者のない死体を処理する等、公共の福祉のため明治三十二年行旅病人及び行旅死亡人取扱法が制定され、また精神障害者の医療および保護を行い、かつその発生の予防に努め、国民の精神的健康の保持および向上をはかるため、昭和二十五年精神衛生法が施行された。
これらの法律に基いて、病院等に収容保護したが、身許不明のもの、あるいは身許は判明したが引取人のない病人
は、入院保護をすることになつており、また死亡人で焼骨をまつたが引取人のないものは、東京都多摩霊園納骨堂に安置してある。葬祭は、人生における最後の儀式であるから厳粛鄭重なものでなければならないが、従来はとかく形式偏重の風が
あつて、経済的にも大きな負担となる傾向にあつたので、新生活運動の一環として、徹底的に形式を簡易化し冗費を省き、弊風の改善に努めるために都民葬儀券を発行している。 図表を表示都民葬儀券取扱業者
練馬地区
内田金太郎 今井儀平治 石山 隆祥
石神井地区
小沢 長幸 藤間美代志 吉川 勝久
図表を表示この理想を具現するために昭和二十三年に人権擁護局が設けられ、人権を侵された事件を調査し、情報を収集し、民間の人権擁護運動を助長し、人身保護、貧困者の訴訟援助、その他もろもろの人権擁護等の仕事をすることにな
り、わが国人権史に画期的な第一頁を踏みだしたのである。そして更に、この外に市区町村に人権擁護委員をおき、委員は、国民の基本的人権が侵されることのないように監視し、若し侵されたような場合には、その救済のため速やかに適切な措置をとるとともに、常に自由思想の普及昂揚に努めることを使命としている。
本区においては、森 時宣、竹内松次郎の二氏が人権擁護委員として法務大臣より昭和二十九年十一月に委嘱されて今日に及んでいる。
区民に診療の便を与え、健康の保持と増進をはかるために昭和二十六年十月一日に区立の診療所が豊玉北五の一八に開設された。
これは、従来都(当時は市)が昭和十五年十月に板橋診療所として設置したものが区に移管されたものである。
診療科目は、内科、外科、眼科、歯科である。
次に昭和三十一年における区民の利用状況をみてみよう。
生活困窮者を対象として、技術指導とともに内職のあつせんをし、収入を得させるために南町四の六一〇一に授産場が設置されている。当場経営の前身は、練馬区中新井民生館福祉係の事業であつた。昭和二十四年八月に現在の建物、旧町会事務所の無償提供を機に民生館と独立して区立練馬授産場として発足したのである。
図表を表示 図表を表示昭和二十六年講和条約の発効を期として、長い間国民の念願であつた戦傷病者戦没者遺族等援護法が施行されて終戦後殆んど放任されていた遺族援護が実施され、遅まきながら光明を見出したことは喜ばしいことである。
本区においても二千百余の戦没者を数え、年金、弔慰金の請求事務を取扱つている。
図表を表示 図表を表示戦後全国民が熱望した在外抑留同胞の帰還は、昭和二十四年春に再開され、その後昭和二十八年三月に中共地区引揚者の第一陣が帰国するまで一時杜絶されていた。そして、この問題は全世界の注視を浴びて国際問題にまで発展した。
本区では、毎年留守家族慰安激励大会を開いて区内在住の留守家族の慰安激励につとめている。
図表を表示第二種住宅とは第一種住宅の使用料を支払うことのできない低額所得者に使用させる低家賃住宅をいう。
すなわち、入居者全員の毎月の収入の合計から扶養家族一人につき千円を控除した額が一万六千円以下であつて住宅に困窮している者が資格がある。
図表を表示戦後青少年の不良化および犯罪化の傾向が増大し、年々その数は増加の一途を辿つてきたのであるが、昭和二十五、六年頃を頂点として一応下降のきざしをみせたにもかかわらず、二十九年に至つて再び増加に転じ、しかも以前に比
して質の悪化を加えつつある。これに対処するために国においては昭和二十八年に「青少年問題協議会設置法」を制定し、青少年の指導、保護、育成およびきよう正に関する綜合的施策の樹立について必要な事項を調査審議するとともに、その適切な実施を期し、必要な関係行政機関相互の連絡調整をはかるため、中央青少年問題協議会を設置するとともに、各都道府県、区市町村に対して協議会の設置を勧奨し、青少年対策の整備強化をはかつている。
都においては、昭和二十三年以来青少年不良化防止対策連絡協議会を設置し、関係各機関相互の連絡調整をはかつてきたが二十五年青少年問題協議会を設置し、さらに二十八年に至り、前記の法律に準拠して協議会条例を制定公布し、各般にわたる施策の推進的役割を果してきた。
本区においても、昭和三十一年一月条例第一号の東京都練馬区青少年問題協議会条例によつて本区の青少年問題協議会が設置され、区長の附属機関として区の特殊性に即応した青少年の指導、保護、育成および<圏点 style="sesame">きよう圏点>正に関する諸施策の推進に当つてきたのである。
尚、この青少年問題の重要性に鑑み、この協議会の下部組織として次の如き各機関が存在して、その完全な連絡運営をはかつている。
<資料文 type="2-30">練馬区青少年問題協議会員名簿 (
所属職名 氏名
練馬区長 須田操
所属職名 氏名
練馬区助役 小林四郎
練馬区議会厚生経済委員長 小沢近松
〃 〃 副委員長 橋本銀之助
〃 〃 〃 田中清一
〃 文教委員長 林亮海
〃 副委員長 加藤源蔵
〃 〃 浅野好治
練馬区保護司会代表 塚田洪憲
児童福祉司 結城武夫
練馬防犯協会代表 汐川尚
教育委員会代表 今井時郎
小学校長会代表 島崎学
中学校長会代表 松本和三郎
区立小学校PTA連合会代表 町田甲彦
区立中学校PTA連合会代表 藤森賢三
青少年委員代表 山下誠
婦人団体代表 衣川須寿子
青年団代表 大竹恭麿
練馬警察署長 根本末之助
練馬防消署長 梶原義男
練馬福祉事務所長 等々力竜雄
練馬保健所長 永光銀之助
石神井保健所長 本間博
東京少年鑑別所長 鰭崎轍
保護観察官 栗原広
練馬区収入役 原鋲二
練馬区石神井支所長 上野唯郎
練馬区厚生課長 小泉市蔵
練馬区教育委員会教育長 松尾周男
練馬警察署次席 志牟田松雄
練馬消防署次席 古沢正信
練馬福祉事務所厚生課長 関綾二郎
練馬保健所総務課長 梅内金次郎
石神井保健所総務課長 佐藤健蔵
練馬区石神井支所庶務課長 宮田千春
練馬公民館長 寺本静雄
練馬警察署防犯係主任 両角杉衞門
練馬消防署総務係主任 柳沢幸吉
練馬福祉事務所児童係長 小池まつ
練馬保健所総務係長 森貴重
石神井保健所総務係長 福原八十八
練馬区厚生係長 筑田秀雄
練馬区戸籍係長 宮沢睦
練馬公民館主事 吉野豊
石神井支所厚生係長 豊田玉
資料文>終戦後しばらくは社会秩序が混乱していた上に食糧難、物価の変動とインフレにゆすぶられて、巷に失業者はあふれてはいたが、それらをどうするという処置も容易にとれなかつた。それらの人自身もヤミ屋として正式の職業につくより何とかやつて行けたから潜在失業者として暮す人が多かつた。しかし次第に社会情勢がおちついてくるにつれて、就職難が表面化し、失業労働者の救済が急務になつてきた。
公共職業安定所が設置され、そこで就職の<圏点 style="sesame">あつ圏点>旋をするようになつたが、失業救済事業は昭和二十四年五月施行された緊急失業対策法に基いて実施された事業で、失業して収入の途のない者が職業安定所に求職の申し込みをすると安定所では失業対策事業に就労させる資格の有無を調査し、資格ありと認めれば民生委員の証明する身上調査を参考とした上で就労させる。
その事業の主なものは次のとおりである。
1、(道路整備事業)簡易鋪装、道路排水工事道路改修、街路築造工事、ペイント・コート工事、砂利道補修工事等
2、(河川、排水路整備事業)築堤護岸工事、排水管埋設工事、排水路改修並浚渫等
3、(公共空地整備事業)校庭整地工事、公園整備、その他公共空地整地など
図表を表示 図表を表示 図表を表示 本文> 節> <節>東京少年鑑別所の創立は、昭和二十四年一月一日である。(昭和二十二年十二月十七日法律第一九三号、法務庁設置法第十三条の規定に基く。昭和二十三年十二月三十一日、政令第三九八号、少年観護所令及同日政令第三九九号、少年鑑別所令による。)
当初は、東京少年観護所並びに東京少年鑑別所として、杉並区和田本町八七二番地所在の旧多摩少年院東京出張所
の施設を、庁舎及び寮舎にあてて発足し、主として男子を収容していた。昭和二十四年三月十二日、庁舎及び寮舎の大部分を火災により焼失し、一時収容を停止した。同年八月、焼け残つた寮舎、庁舎を改造して再び約二十名の男子少年を収容し、鑑別業務を開始した。
そして、同年六月、葛飾区金町二丁目一二九七番地所在の旧民間保護団体二葉学院の施設により、東京少年観護所分所二葉女子学院として女子部を開設した。
昭和二十五年四月十五日、東京少年観護所並びに東京少年鑑別所と改称された。
昭和二十五年三月、練馬区仲町二丁目一三八番地に新営工事を起し、同十月、一部施設の竣功するに及んで杉並区の施設を撤収し、ここに本所を移転した。
昭和二十六年一月、葛飾区の二葉女子学院の分所を廃止し、女子部を本所に移した。
同年八月、一般少年鑑別のための施設として外来鑑別室新営工事を起し、翌二十七年四月より開室した。
そして翌二十七年八月一日、東京少年保護鑑別所は東京少年鑑別所と改称された。
昭和二十八年七月から区の厚生課主管の下に児童教養相談所が開設され、鑑別所と緊密な連絡を保ちつつ、事業の強化推進がはかられた。
本文> 目> <目> <目見出し>二、任務目見出し> <本文>少年鑑別所は、少年法の目的である少年の健全育成を期する、いいかえれば少年たちを悪から護り、その精神を健全に育てて行くための科学的な資料を提出する科学的技術官庁であり、国家によつて設立され、法務大臣が管理して
いる。少年法を個々の少年に適用するに当つては、鑑別所は個々の資質、すなわち身体ならびに精神の状態をできるだけ精密に診断するが、この科学的資料に加えて、家庭裁判所の少年審判部では環境調査などをし、その上で少年一人一人をどうすれば悪から護り、健全に育てて行くことができるかについて具体的な方策がたてられ、少年審判が適正に行われるのである。
少年法でいう少年とは満二十歳以下の青少年をさしており、実際には満十四歳以上、二十歳未満というところで、特に十九歳、十八歳、十七歳が多く、女子は約一割強で、男子が圧倒的に多くなつているのが現状である。
次にどんな種類の少年が鑑別所へくるかについて少年法の条文に照して述べると次のとおりである。
ところで、それら鑑別所の対象となつた少年たちに具体的にはどんなことをするかというと、それはいうまでもなく、鑑別診断、すなわち内科、外科、眼科、ヒフ科、泌尿科、婦人科等々の肉体医学の立場から検査診断し、また精神医学、神経病学、臨床心理学などの検査診断を個々の少年に対して行い、さらに少年を実際に取扱い、その間の経過観察をした上で少年の資質を綜合診断するのである。
少年鑑別所の行う鑑別は大きく分けて二つになる。
一つは外来鑑別で、一つは収容鑑別であるがいうまでもなく、鑑別の根拠になるものは犯罪のあるなし、あるいは重さ、非行の重さによるものではなく、少年の資質による検診と一定の処遇にもとずいての観護経過などの科学的な判定が鑑別となるのである。
本文> 目> 項> <項>遠く明治十八年十月、本院の創立者高瀬真郷氏は、東京本郷区湯島称仰院内に私立予備感化院を開設した。これが現在の錦華学院の母胎である。
その後、本日に至るまでの経過を概観すると次のとおりである。
○明治十九年一月より神宮教院の補助を受けるに及び神宮教院感化院と称したが、その補助金は同年十月限り廃止されたので東京感化院と改称し高瀬氏独力にて之を経営
○明治二十二年五月、本郷区駒込曙町に地をトし、生徒寮、工業所、教授所等を新築
○明治二十六年三月、南豊島御料地の一部市外渋谷羽沢<外字 alt="判読不能">〓外字>開谷の内に於て七千百八十二坪の敷地を四十カ年無料拝借を受け新築移転
○大正三年五月、内務大臣より財団法人東京感化院設立の認可を得る
○大正十二年四月、宮内省より現在の敷地六段八畝二十三歩御下賜された
○大正十二年六月、財団法人寄附行為変更及び錦華学院と改称の件が内務大臣より認可を受けた
○大正十三年五月、現在地に移転、表門は、賀陽宮家より下賜を受けた
その後、いくたの経緯をえて、昭和二十四年四月、法制の変革に従い、少年保護団体を廃止し、児童福祉法による児童福祉施設に転換して収容を開始した。
○昭和二十七年五月、社会福祉法人となる。
所在地 小竹町二二五六番地
建 坪 延 三四七坪
敷地面積 二、四五二坪
家庭的愛情を主軸とし整頓されたよい環境の中で子供を護り、社会の一員として重んぜられるよう育成することをその大方針としている。創立以来収容保護した実人員は三千五百七十一名でその延人員は実に八十七万五千二百九十六名の多きに上つている。
本文> 項> <項>明治五年十月養育院が創始されて、貧窮浮浪者孤児の収容救済にのりだしたが、その後いくたの変遷をへて、孤児達のための事業は明治四十二年六月大塚の本院より分れ、東京市養育院巣鴨分院が開設された。昭和時代に入つて、社会事業の発展は著しく、近代的な施設に改善されるようになつた。
そして、その巣鴨分院も約三十年を経て、建物も腐朽してきたので昭和十七年三月二十四日、それまで巣鴨にあつた分院を当時の板橋区の上石神井に移し、東京市石神井学園と改称し、二十七日には全児童の移転を完了し、十八年一月より各寮舎に児童を配属して、家庭的愛育に力を注ぎ、都にひきつがれた後も巣鴨分院時代の院外通学制を踏襲し、院内幼児のために、幼稚園を開設している。
終戦後の社会情勢の急転と、戦災、食糧難等は、幾多の戦災孤児、浮浪児の発生をみたが、児童福祉法の公布、東京都の児童対策の充実などにより、従来の収容孤児とは違つた児童を収容した関係もあつて、非常に明るい社会事業の施設となつた。
所在地 上石神井二丁目一七〇〇番地
建 坪 延一、八二八坪五、九〇五
敷地面積 一三、一三四坪三二
本文> 項> <項>東大泉一四五にある浮浪母子の更生施設である。昭和八年四月建部順氏を理事長として労働護国会が創立されたが、終戦後、戦災や引揚等により夫や父を失つた母子達が職もなく家もなく市街をうろつく姿に、その婦人部の事業として収容施設をつくることを決心し、台東区浅草今戸町所在の元東京都公益質屋鉄筋コンクリート二階建焼失ビルを東京都から借り受け、昭和二十二年十二月一日生活保護法による浮浪母子収容施設の認可を得、当初三十名近くを収容したが、年と共に社会状勢の激変にたえかねた母子の入寮希望者が増加し、収容しきれぬため、二十五年七月一日区内大泉町にある都経済局所管の大泉帰農訓練所の一部が民生局移管になつたのを機に、これを借受けて分寮を開設した。二十七年三月同訓練所が廃止となつて、全部民生局に移管されるとともに、全部を借受け、二十七年五月生活保護法による施設の認可を得て、浅草寮と共に約五百名の母子を収容する程の状況に発展した。その間、施設の改善につとめ二十七年五月社会福祉法人の組織を認可され、更に大泉寮は、二十八年七月保育園、二十九年二月診療所等の併置にまで進み、更生事業施設として大きな役割を果している。
敷地面積 二、〇七二坪 建坪 五四六坪
木造瓦葺平家建 七棟(六棟住宅・一棟炊事場)
収容定員 四六〇名 職員二十九名
画像を表示 画像を表示 本文> 項> 節> 章> <章>純農村としての練馬区内が町型に移行し、東京都の都心地区に通勤通学する人々の住宅地と化して急速に発展しつつある状況、いわゆる「都市化」現象については、いままでくどいほどに述べてきた。こうして発展して来た現在、練馬区の区民が東京という巨大都市の周辺地区にあつてどのように文化的生活を受入れ、どのようにその生活をエンジョイし、且つ合理化しつつあるかを、ここにいくつかの日常文化生活を営むために関係の深い水道やガス・電気、或は新聞・ラジオ・テレビ・映画などをとりあげて、区民生活へのとり入れられ方、利用されている状況をみてみよう。それは住宅地区としての区民生活の現状と将来に何かを見出すに役立つであろう。
本文> <節>現在区内の一部を通つている水道は、東京都の水道であるが、もともとこの水道は、東京市の水道、いわゆる多摩川の水ではなく、荒玉水道の拡張によつてひかれたもので、荒玉水道は、豊多摩郡の五カ村、北豊島郡のうち八カ村を給水区域として昭和三年十月一日より給水が開始されたものである。昭和七年十月市域拡張により東京市の経営に移り、市の水道となつた。
旧十五区には明治末までに改良水道が完成したが、郡部は井戸のみが市民の給水源であつたので、独自の水源をもつ水道を作り、給水しようとする計画は、大正初年に各郡の一部にあつたが、大正六年末になつて新宿、王子二水道の布設の認可があつた。しかし、結局実現をみずに終り、大正十一年になつて豊多摩、北豊島両郡長等が組合組織により水道事業の公営を計画、震災後万難を排して実現に努力することとなり、同十三年四月より両郡関係町村連合協議会がそれに当つた。
この間、中島工学博士に調査設計を依頼することなどがあり、同十四年一月組合設立が許可され、同年十二月砧村水源地で盛大な起工式が行われた。
工事の概略は、砧村喜多見地先多摩川本流河底に集水埋渠を構築し、同河畔浄水場内低掃喞筒井戸に導入し、豊多摩野方高地、及び上板橋大谷口高地に設けることとなつた給水場内配水塔に送り、これより自然流下によつて、
豊多摩郡 中野町、野方町、和田堀町、杉並町、落合町
北豊島郡 板橋町、巣鴨町、滝野川町、王子町、岩淵町、高田町、西巣鴨町
の区域に配水する計画で、昭和三年九月に完成をみ、同年十月一日よりこの区域に通水をみるに至つた。
しかし、区内の地は、なお全くの農村に近く、荒玉水道給水圏外におかれ、井戸水のみによつてその生活を営むより他に方法がなくやがて、昭和七年十月市域拡張と共に、板橋町や上板橋、赤塚などと共に板橋区となつた頃から次第に今の西武電車の江古田、桜台、練馬あたりが住宅地として発展しだし、それらの一部発展地の区民の間から水道をひく要望が強く起つたのである。
図表を表示昭和二十六年の都の調査によると、区内の水道井戸使用別住宅数は次の通りである。
図表を表示右の表によれば水道を使用しているものは一割にもみたず、僅かに六分六厘である。世帯数からいつても、ほぼ同率の六分八厘に当る。残りのうち井戸を使用している住宅や世帯数はいずれも九割三分に当り、圧倒的大多数が井戸水にその生活の毎日をゆだねているわけである。このように区内の水道は、まだほんの一部に通水をみたという程度
に過ぎない。終戦後水道局の努力で各区の水道施設は恢復し、ぐんぐん伸びて行つたが、区内にはいまだに配水本管が通つていない。二十三区中で配水本管の通つていない区はこの練馬だけである。相も変らず井戸水に頼るよりほかはない。井戸の水の出が悪くなつたりすればそれこそ一大事である。水道とて同じことで、天気が続いたり、夏の暑さに都民の水道使用量が給水量を上廻つたりすると、本管の通つていない悲しさ、忽ち水の出が悪くなつて生命の問題だと大騒ぎして陳情ということになる。都営アパートや区営住宅がどんどん建設され、東京都の住宅地区として発展しようとしている本区にとつて、一日も早く本管が通り配水小管が縦横に通る日が待望されているのも、まことに無理のないことである。区内の水道の給水状況をみると次のとおりである。
図表を表示 図表を表示 本文> 項> <項>広い地域と急増する人口の割に、水道本管が全く敷設されず、配水小管の総延長もまたきわめて微々たるもので、区民の大半は、今だに殆んど井戸を利用している現状である。
画像を表示従つて、前述したように、一寸雨が降らなかつたり、使用水量を増したりするとたちまち渇水の危機に見舞われてしまう。
この数年来、特にそのような事態が多くなつているが、中でも北町、仲町方面の渇水はその日の炊事にも事欠く有様である。
区は給水車による配水作業によつて急場を補つてはいるものの、これは大きな社会問題であり、保健衛生の点からみても由々しい一大事であるので鋭意関係方面と折衝中で、急速な解決策を夫々に要望推進中である。
因に、従来区で行つた給水の実績は、概ね次のとおりである。
図表を表示 図表を表示 本文> 項> 節> <節>ガスが我が国ではじめて使用されたのは明治五年横浜においてであるが、東京のガス事業は明治六年六月仏人ペレゲレンに委託して、東京府ガス局の手で、七年十二月十八日京橋新橋間にガス燈を点火したのが最初である。その後明治十八年ガス局は民間に払い下げられてこれが東京ガス株式会社となつて現在に及んでいる。
画像を表示ガスの原料炭は北海道、九州、仏印等から千住、大森、末広、鶴見の製造所へ運び、高庄輸送によつて滝野川、目黒、淀橋の供給所に導入、低圧供給法(圧力を適当に下げる方法)によつて各地区及び家庭に供給される。
はじめは燈火として使用されたガスは後電燈の利用と共に熱量として使用度を高め、今では家庭ではなくてはならぬ熱の供給源となつている。
ガスはしかし本区においては残念ながらまだ普及利用状況がきわめてひくい。区民はガスの家庭使用を強くのぞんで居り、住宅が日一日と増加してゆく現在、需要家件数が増加の一途をたどることは必然の状況にもかかわらず、導入管の位置や、供給管の敷設費に高額を要することなどのため、昭和三十年末においては次表のように貧弱な数字を示している。
図表を表示 図表を表示 図表を表示 本文> 節> <節>我が国にはじめ電燈がつけられたのは明治十一年で、東京電燈株式会社のできたのは十六年二月のことで、区内に電燈のつけられたのは震災前後のことといわれている。
戦時中配電統制が行われ、十七年関東配電が設立された。戦後昭和二十三年二月日本発送電会社及び各配電会社は過度経済力集中排除法の指定をうけ、二十五年十二月電力事業再編成に関するポツダム政令の制定をみた。
画像を表示昭和二十六年五月一日発電送電及び配電を一貫して行う各独立の電力会社が全国九地域に誕生し、従来の発送電、配電各会社は解散し、関東一円をブロツクとする東京電力株式会社が設立され、東京の送電、配電の仕事はここが担当しているのである。
この電燈の配電経路をみると、我々が日常使用する電気の供給系統は電源と消費地を直結し、配電の一貫経営の趣旨から、関東地区会社には多くの地域外電源を所有することがゆるされている。発電所より一次の高圧送電が行われ、一次変電所に送られ、ここから低圧の二次送電によつて二次変圧所へ送られる。更に配電線によつて各工場や家庭などに入るようになつている。また第一次変電所を結ぶ外輪線と二次変電所を結ぶ内輪線が各送電系統を連結し、部分的に故障を生じても他より送電できるようになつている。(
区内における電力需用については次の二カ所が管轄分担して居り、停電その他の故障の修理等区民へのサービスに努めている。
図表を表示 図表を表示 本文> 節> <節>ラジオがわれわれの日常生活に寄与するところの大きいことは、新聞と共にその直結性に於て全く他に例を見ないほどである。
時事、文芸、社会、教養その他われわれに最も密接にしかも速やかに報道するものとして、今日の社会に必要不可欠のものとなつている。
大正十四年三月に愛宕山の東京放送局に端を発し、現在の日本放送協会に至るその発展の状況は、まことに驚くべきものがある。
その上、近年、更に直接的報道として著しい普及をみているテレビも、その技術向上と共に今後の日常生活がより文化的に経済的に進歩していくことを約束するものとして大いに注目に値するものであろう。
ラヂオの普及は、戦時中の東部軍管区情報をきく人々にとつて、生活必需品からさらに生命をまもるものという感じになつたが、戦後の民主化の一つとしてラジオがとりあげられ、大いに大衆化につとめ、民間放送が、ラジオ東京、文化放送、日本放送と三局も設置されたため、一層その普及の度をまして、これが一部ではかえつて騒音問題として云々されるところさえ出るほどになつた。
区内の昭和二十二年から三十年末までのラジオの聴取契約数をみると次表の通り。
図表を表示これによると、一〇〇世帯に六七・三という普及率は、意外にも二十三区中では杉並区、品川区とともに十六位を同率でしめている。何でも最低か最少のような数字しか出ない本区の面白い現象で、このラジオだけからいえば文化度はそんなに低くないことになる。
図表を表示 本文> 節> <節>昨今急激に発展しているのではあるが、まだまだ全体的にみると農村地帯を完全に脱皮していない本区は、現在でも区民の娯楽機関は満足な状態にはない。それが、一つには昔からの色々な風習が根強く残つて、幾多の伝説的行事が今日も行われ、更には冠婚葬祭等が必要以上に盛大な理由であろう。
一日中、野良仕事に汗をだす農民達にとつてそれがいかなる性質のものであれ、近隣相寄つて話合うということは、まことに得難い憩いのひとときであり、酒肴は質のよしあしにかかわらず、一椀の酒とみずからの手による一片の大根の漬物は、その日までの労働の疲れをいやし、明日の作業への最大の源泉になつたであろうことは想像に難くない。しかし、それはとにかくとして、現在の区内の娯楽機関は、まず貧弱であるといえる。
池袋の戦後の発展、特に映画館等の急増も本区のそれら施設が伸び悩んでいる大きな理由の一つであろうが、この広大な練馬区に名実共に劇場と呼べるものが――収容定員の上からいつても――一つぐらいは欲しいものである。
区内の映画館は昭和三十一年末には次の七館がある。
江古田文化劇場 江古田町二、二三七 練馬映画劇場 南町五の七、〇五一
石神井映画劇場 下石神井二の一、二九八 大泉映画会館 東大泉町八一二
上石神井映画劇場 上石神井一の四一五 八光座 東大泉町五〇六
ムービイネリマ 豊玉北五の一五
収容者、五百人未満の館のみで、五百人以上を収容する館は一つもない。その他に演劇、演芸についてのものは一つもなく、まれには野天、或は小屋がけの「小芝居」が時おりかかる田舎的風景があるだけである。
区内の人は西武電車、或はバスで池袋や新宿に出て映画をみる人が相当にあり、映画をみに区内の映画館に入場するのは「ほんとの商人か農家の人々で、若い学生や娘さんは池袋や新宿までいつて見る人の方が多い」という土地の古老の人の話もある程度真実である。西武電車の各駅ホームに張られた映画のポスターの大部分が池袋の映画館のものである点に、まだ区内娯楽機関の未発展状況が示されている。
図表を表示 図表を表示 本文> 節> <節>現代は、その社会生活において高度にスピード化し、複雑化しているといわれている。
われわれが意識すると否とにかかわらず、また好むと好まざるとにかかわらず、その日常は、社会全体との関連において、政治的、経済的そして社会的に幾多の規制をまぬかれることはできない。
国と国との関係において、人と人との関係において、われわれは一刻も他を見過すわけにはいかない。生存競争の深刻さ、はげしさは一面からみて今日ほど急を告げているときはないともいえる。
個人々々が常に正しく社会現象を理解する必要性がここに存するのである。
そして、この理解の対象をわれわれに与えるのが多くの大小の報道機関であり、その中でも、最も現実的でしかも速度をもつものが前述のラジオと共にこの新聞であろう。
遠く徳川初期の「読売瓦版」あるいは、家光時代の「和蘭風説書」に端を発した幕末の「官版バヤビヤ新聞」「官版海外新聞」が、維新後の国際関係の急激な発展によつて、新聞の発刊は、著しい進捗をとげた。
そして明治三年の「横浜毎日新聞」を嚆矢とする日刊紙は、その種類、発行部数、更に技術とまさに長足の進歩を示しているのである。
前述の日刊新聞とは別個に、区の諸行政、諸施策、区内の社会事象を、更に区民の生活感情を直接、間接に反映させるものが区内新聞である。
区民生活を反対し、区民感情を反映し、区民の声を代表して区行政と区民福祉の媒体となつている意味においてその役割は重大であるといえる。
練馬新聞社 南町四の六、〇八四 前田英寿
東京区民新聞社 中村町一の一、〇〇一 上村幸作
東京都内各区別の都民新聞購読者数は、その概数はなかなかつかめない。各新聞社の販売拡張合戦がたけなわの現在それを知ることは困難である。しかし昭和二十七年一月調査による東京地区新聞事務所の統計をみると、不明ながらも現在の状況を推定することが出来る。それによると都内は、東部、中部、西部にわかれ、区内の地は中部に入つているが、むしろ板橋や北、荒川などは一つグループに入るべきもので、この分け方は妥当とはいえぬが、区内の一世
帯購読部数平均比率は板橋をしのぎ、江東、江戸川、足立、荒川、葛飾よりも上位にあるということは注目さるべきことである。
図表を表示この数字は、区内の新聞講読者層が一応平均一世帯に一新聞はとつている。新聞のとれない世帯はないといいうる立場にあることを示している。荒川区や足立区の人口密度の高まりつつある家内工業地帯に貧困による新聞購読不可能世帯がかなりあるに比して、農村地帯といわれ、二十三区中最も発展のおくれているかのように思われがちな区内の状況が、新聞購読の面からみて堅実な生活への道をあゆんでいることがみとめられるといえよう。
現在の新聞販売店は二十九で、毎日、朝日、読売、東京、日経、産経の各新聞が主として購読されている。
本文> 節> 章> <章>終戦後、漸く敗戦の痛手からたち上つた都民も、そこに待ちかまえていた食糧難や生活物資の欠乏に打ちのめされるような打撃をうけ、道義の頽廃や巷にあふれるヤミ屋、不良、浮浪児などにまつたく無秩序的状態におかれ犯罪もこれに伴つて激増の一途を辿つて行つた。
この治安維持の任に当る警察は、戦前においては中央集権的で、官僚的機構の下におかれていたが、終戦後は、この警察制度を徹底的に解体し、国家権力からこれを分離し、独立したところの自治体警察として新生させた。新警察のあり方としては、新憲法に示す人権の尊厳を最高度に確保し、個人の権利と自由とを保護し、社会秩序を維持するという新しい理念を基礎としたものであつた。一時明治初年、自治体警察として「番人」の制度が設けられたが二、三年で廃止されてしまつた。それ以来久しくみなかつた自治体警察として誕生したその組織は、地方公共団体の各市および人口五千以上の町村に、それぞれそれを設置し、その自治体によつて維持され、その運営管理は、市町村公安委員会によつて行われた。
自治体警察のおかれない地区に対しては、都道府県国家地方警察がおかれ、都道府県公安委員会によつて運営管理された。
中央には内閣総理大臣所轄のもとに国家公安委員会がおかれ、国家地方警察の行政管理を行う外、警察関係の維持管理を行つた。
この改革で、東京都の特別区の存する地域には、市町村公安委員会に相当する特別区公安委員会が設けられ、警察本部として警視庁がおかれ、警視総監が自治体警察の長として任命された。
従前まで警察行政の一環として行われてきた治安維持に関係のない建築、公衆衛生等の事務はすべて警察行政事務より分離して、地方公共団体の事務として移管された。
この新制度は、昭和二十三年三月より施行され、終戦後の警察民主化の線にそつて大きな効果をあげ、警察が都民の守りとしてはるかに近ずき易いものとなつたが、昭和二十九年七月一日改正されて、自治体警察、国家地方警察の二本建は廃止されて、都道府県単位に一本となり、都道府県公安委員会が設けられ、その管理のもとに警察本部がおかれた。
この組織の上にこれを指揮監督する国家公安委員会が中央機関として存在する機構である。
次にそれを図示する。
画像を表示 図表を表示 本文> 項> <項>明治四年十一月、板橋町下板橋宿乗蓮寺内に始めて邏卒屯所が設けられたが、これが今日の練馬警察署の発祥である。
そして、明治十四年に板橋町大字下板橋六九五番地に板橋警察署が設置せられ、本区の全域は、その管轄下に置か
れたのである。当時の陣容は、署長一、警部一、巡査一〇四書記四となつていた。
その後、いくたの変遷をへて、昭和十二年十二月、現在の豊玉北五の二番地に始めて練馬警察署の名で発足したのである。
㊀ 当時の陣容 練馬警察署発足当時の陣容は警視警部一、警部補四、巡査部長一一、巡査七七で構成されその他に一般職員三、技術吏員二がいた。
㊁ 当時の派出所等
図表を表示㊂ 現在の陣容 練馬署の職員は二二五人警察吏員は二一一人、警視警部四、警部補一五、巡査部長一一、巡査一
七七人で構成され、その他に一般職員一三、事務吏員五、技術吏員二、雇員三傭員四がいる。(三一年一二月末現在)これが練馬区の治安に努力している人々の数である。
図表を表示警察署、派出・駐在所一覧
図表を表示 図表を表示 本文> 項> <項>千代田区とか中央区のような中心部における終戦後の自動車の交通量は、戦前と比較にならぬ程圧倒的に多いが、
区内のようにまだ充分に市街地化してない地域にあつては自動車の交通量は、中心部程でないにしても、そのための交通事故は、なかなか馬鹿にできない数を示している。街路の狭い処に大型のバスが走り、オートバイやスクターが自動車と競争で走つている状態では事故を防止することは容易なことではない。人間の寿命が次第にのびてきているのに交通事故で一命を失うなどということは愚かなことで、警察でも交番に事故の件数を知らせたり、交通道徳を普及したりして交通事故の防止に努力しているが、その減少は容易なことではない。交通事故の統計を示すと次の通りである。
図表を表示 図表を表示東京都交通事故発生件数 (昭和三一・一〜三一・一二)
件数 一九、五九三件
死者 七六六名(一日平均二名)
傷者 一五、四六九名(一日平均四二名)
本文> 項> <項>終戦後、社会道徳の混乱によつて、世の中は一時無警察にも等しい状態であつたが、今では都民の生活にもある程度余裕ができ、好況と相まつて戦前にもまさるともおとらぬ生活が楽しめるようになつてきた。従つて、警察の制度もととのつてきて、都内の治安は、終戦後の二、三年に比べれば比較にならない程よくなつた。
しかし、一度乱れた社会道徳は、たやすくは改まらない。犯罪といつても戦前は凶悪犯罪などそう度々は起らなかつたのに、終戦後は、ガラリと様子が違つて、人を殺すことなど何とも思はぬような犯罪が相ついで起り、僅かの金銭を得るために人を殺すなどということが連日の新聞紙面を賑わし、都民も次第になれてしまつて余り驚かぬという 図表を表示
憂うべき状態であつた。今日といえどなおこうした犯罪がたえないことは、意外に少年の犯罪が多く、それらが戦後の社会悪を身につけて育つた点にあるというので、道徳教育の問題が提示されている程である。犯罪の発生件数からいつても、昭和二十二年あたりから二十五、六年へかけて漸増の一途を辿つているのである。
本区は、昔からその殆んどが農村地であつたため、江戸時代には消防組織と称するほどのものはなく、火の番小屋が置かれた程度で、制度上には殆んど記述すべきものがない。
実質的に改善されたのは、明治二十七年二月一日の「消防組規則」公布以後であるといえる。同年五月警視庁令第二十六号により消防組規則の施行規則が定められると、明治初年以来一部の町村に非公認ではあつたが結成されていた火消組が廃され、新たに消防組が各町村に結成された。同三十七年五月警視総監の訓令に基ずいて、各町村とも管内を三部から五部に分け、各部ごとに一組の消防組が組織されたが、大正三年十一月警視庁訓令によつて、各町村の区域をもつて一組とした。
当時町村内大字またはこれを二、三併合したものに部を設け、組には組頭、副組頭をおき、各部には小頭をおいてその指揮監督にあたり腕用ポンプ・梯子・鳶口・旗・刺又・提燈・纏・消札などの器具を常備し、また火之見・梯子器具置場・火之番小屋が各要所に設置されることとなつた。その後大正七年に蒸気ポンプが自動車ポンプに改められ、大正十一年十一月には各警察署管下に消防組の統一をはかるために消防聯合協議会が開かれ、種々消防の改善発達に寄与した。
その後各町村とも、消防業務の充実をはかるとともに、その組織器具なども漸次整備されていつたが、昭和七年市郡併合となり、板橋区創設と共に、板橋五丁目九百十八番に、板橋消防署が設置せられ、初代署長に松橋酉之助氏が就任し、従来の町村消防組は、消防署長の指揮下に入つた。
昭和十一年の整備状況は
本署 一ケ所・機関員派出所 二ケ所・消防組員派出所 九ケ所・消防器具置場 五十四ケ所・がそれぞれ設けられ、
配置機具として自動車ポンプ四輛・ガソリンポンプ十台・腕用ポンプ四十九台が備えられ、署長の下に曹長三名放水長二名、消防手十八名、書記二名、従前の町村消防組はここに編入されて九消防組に分れ組頭、副組頭各九名、小頭五十二名、消防手九百八十一名で板橋区の防火と消火にあたつたのである。かくして漸次消防施設は充実され、機械器具は改良されて、近代消防へと進展した。
やがて、戦争に突入して、防空、防火は国民の最大関心事となつた。
昭和十四年、従前から組織されていた板橋防護団は消防組と合体して板橋区警防団と改称し、民防空、民防火の指導的立場より町会傘下の防火郡を誘掖して、官設消防の補助機関として活動することになつた。
当時の民間消火器具としては、警防団各分団毎にガソリンポンプ、各防火郡毎に二人用あるいは四人押しの腕用ポンプを整備し、随所に貯水池を設け、各家庭には貯水槽とバケツ、火はたき、とび口、シヤベル、砂嚢、藁莚を整備して非常に備え、他方では防火郡長を先導に消火訓練に寧日なかつた。
しかし、戦局いよいよ苛烈の度を加え、空襲の被害は、農村地である本区の地域にまでおよび、官設消防、警防団、隣組の相協力しての必死の防火、消火も、近代科学戦においては全く無能にひとしく、却つて犠牲者を増す結果となつたといわれているが、当時の社会情勢からみて、これもやむをえなかつたのである。
昭和二十二年四月三十日、消防団令が発せられ、各市区町村消防団を設置しなければならないこととなり、同年十月十一日にすでに板橋区から独立していた本区にも始めて、練馬区議会において練馬消防団設置条例を可決し従来の警防団を解散して新たに練馬消防団を組織し、消防署の補助機関として発足した。
これより先、昭和二十一年八月十五日区内豊玉北五の一に従来の板橋消防署練馬出張所が昇格して練馬消防署と改称され、設けられることとなつた。
本文> 項> <項>前述のように昭和二十一年八月に昇格した練馬消防署管轄の警防団は、同時に板橋警防団から練馬警防団として新発足をした。
初代署長 浅見普一
当時の状況
消防職員 九二名
消防車 本署 三台(指揮車を含む)
図表を表示石神井出張所 二台
北町出張所 一台
関町出張所 一台
管轄区域
小竹町、江古田町、豊玉全部、南町全部、北町全部、向山町、中村町全部、貫井町、春日町、田柄町、高松町各全部、旭町、土支田町、谷原町全部、北田中町、南田中町、大泉町全部、大泉学園町、下石神井、上石神井全部、関町全部、立野町
さて、昭和二十一年九月に消防署処務細則の一部改正により各消防署に予防係が設けられて、火災予防の事務の強化がはかられた。
昭和二十一年十一月に消防署外廓団体として防火思想の普及昂揚をはかる目的を以て、練馬防火協会、練馬産業防火協会がそれぞれ結成発足した。
そして、昭和二十二年八月一日板橋区から練馬区が独立して、練馬消防署の管轄区域は練馬区一円となつた。
それと同時に旭町(旧成増飛行場跡)に米国駐留軍宿舎(現グラントハイツ)を建設するため消防施設の必要に迫られ、関東財務局の要請により当局所有の現在地田柄町一の五六五八番地の庁舎を練馬消防署田柄出張所として使用、業務を開始した。
昭和二十三年三月七日消防組織法の施行により従来消防事務は、警察行政の一環として実施されていたのであつたが、警察より分離独立し、新たに自治体の機関として発足することになつた。そして、それに伴い、消防職員も従前は警視庁官制に基く官吏であつたのが、地方公務員となり都民の公僕として発足することとなりその職階および名称は、次のとおり改称された。
図表を表示昭和二十三年八月一日消防法が施行され、消防行政を確立した。その主たる目的は火災その他の災害による被害の軽減を図り、国家の安寧秩序を維持し、社会公共の福祉の増進をはかるものであり、その利益を受けるものは国民であり、国家であるからこの法律を尊重し、努力しなければならないものとされた。
ところで、消防活動は、火点中心に喞筒車を出動させて指揮命令を行うため昭和二十三年九月一日から消防地区隊制の実施となつたので、従来のように管轄区域が川や鉄道を考慮して定めるために、行政区画とは一致しないので、
予防事務の処理および警防団、防火協会等の運営には、それまで相当困難も伴い、複雑な関係も生じたということも地区隊制度により解消されることになつた。この制度の実施に伴い、従来から練馬消防署の管轄区域であつた北町全部、仲町一、二丁目が板橋消防署所属となり、関町全部、立野町、上石神井全部、下石神井一丁目が荻窪消防署管轄となり、関町消防所は荻窪消防署所属となつた。更に、中野消防署管轄であつた中野区の江古田一、二、三、四丁目、沼袋町、鷺の宮全部が練馬消防署の管轄となり、江古田消防所及び鷺の宮消防所は練馬消防署の所属となつた。
尚、喞筒車の中隊制及び大隊制が実施され練馬消防署は、第四地区隊に属し、第二十三大隊と称し、十一ケ中隊を擁し、各出張所は、消防所と改称された。
その編成は、次のとおりである。
本 署 E一三五中隊・E二五一中隊
石神井消防所 E一三六中隊・E二五二中隊
鷺の宮消防所 E一一三中隊 江古田消防所 E一一四中隊
田柄消防所 E一三九中隊 予備中隊 四ケ中隊
その後、昭和二十四年九月前節にべたように消防団令により消防団が結成されたのである。
更に、昭和二十六年三月一日、消防機構の改正が行われた。これは、消防事務の円滑を期するため実施されたもので、特に練馬においては、前述の消防地区隊制実施とともに、管轄区域と行政区域が一致していないので、事務の連
絡運営には相当の支障があり、この点を是正するためのもので、本区の北町一、二、三丁目、仲町一、二丁目、下石神井一丁目、上石神井一、二丁目、関町一、二、三、四、五、六丁目、立野町が練馬の管轄となり、中野区の江古田一、二、三、四丁目、沼袋町、鷺の宮一、二、三、四、五、六丁目は中野消防署の管轄となつた。従つて、北町、関町消防所は練馬の所属となり、江古田、鷺の宮両消防署は中野消防署の管轄となつた。
そして、練馬消防署は、第二十三大隊として次のような編成となつた。
練 馬 本 署 E一三五中隊・E二五一中隊
石神井 消防所 E一三六中隊・E二五二中隊
田 柄 消防所 E一三九中隊 北町 消防所 E一三七中隊
関 町 消防所 E一三八中隊 予 備 隊 三ケ中隊
図表を表示なお、職階と現員については、
昭和二十八年三月消防機構の改革が行われ今までの地区隊制を廃止して、方面制に改正し、それに伴つて練馬は第五方面に属し、名称は、第二十三大隊が練馬大隊に、消防所が消防出張所に変更になつた。その後いろいろと整備を
強化して現在に至つている。練馬消防署管内の現況は、次のとおりである。
図表を表示消防機構
大 隊 本 部 指揮車 一 ・ 予備車 二
練 馬 本 署 第一中隊・第二中隊・救急隊
石神井 出張所 第一中隊・第二中隊
田 柄 出張所 田柄中隊
北 町 出張所 北町中隊
関 町 出張所 関町中隊
消防水利
公設消火栓 三三四 私設消火栓 五 貯水槽 一一七
貯水池 五二 防火栓 九二 プール 一二
井水 五 河水 八二 マンホール 四八
図表を表示 本文> 項> <項>次表にみられるように火災件数が漸次増加いていることは、練馬区の人口、家屋の増加にしたがうものとも解されるが憂うべきことである。
画像を表示 画像を表示 図表を表示東京都の火災状況(三一・一〜三一・一二)
件 数 五、〇四五件
焼失坪数 二八、二三六坪
損害見積額 二、五四九、〇〇〇、〇〇〇円
死 者 四八人
負 傷 者 八九三人
図表を表示 図表を表示消防団運営委員
運営委員長 須田操
運営委員 大村 仁道 矢ケ崎信夫 宮瀬 睦夫 塚田 洪憲
神山 廉作 原 顕三郎 小口 政雄 加山 峰吉
藤森 賢三 梶原 義男 小川 一郎 浅見 平蔵
上野徳次郎 並木 龜吉
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