神社は、古来、村落集団の信仰の対象となつており、共同生活体の中心をなすものであつた。神社の維持、社殿の修理、祭礼の執行などに要する一切の経費は、その神社を崇敬する村落集団が共同で負担していた。
画像を表示明治維新以前は神仏混淆であつたので、ほとんどの神社が寺で管理され、仏像を神体とし、神前に梵鏡、仏具類を置き、鰐口を懸け、ときに水盥に「まんじ」の紋を付けたり、社頭に「八幡大菩薩」「牛頭天王」「白山妙理大権現」「三十番神」など、両部習合の神号を書いた扁額を掲げた。明治維新の際、神仏分離の運動が起り、遂に戊辰(
一、中古以来、某権現或ハ牛頭天王之類、其外仏語ヲ以テ神号ニ相称候神社不少候、何レモ其神社ノ由緒委細ニ書付早々可申出候事、
但勅祭之神社、御宸翰、勅額等有之候向ハ、是又可伺出、其上ニテ御沙汰可有之候、其余之社ハ裁判鎮台領主支配頭ヘ可申出候事、
一、仏像ヲ以テ神体ト致候神社ハ、以来、相改可申候事、
附本地抔ト唱ヘ、仏像ヲ社前ニ掛、或ハ鰐口、梵鏡、仏具等之類差置候分ハ早々取除キ可申事、
資料文>この達に次いで、同年四月十四日に、神祇官より更に左の達が出された。
<資料文>一、今度諸国大小神社ニ於テ神仏混淆之儀ハ、御廃止相成候ニ付、別当、社僧之輩ハ還俗ノ上、神主、社人等之称号ニ相転シ、神道ヲ以テ勤仕可致候、若亦無拠差支有之、且ハ仏教信仰ニテ還俗之儀不得止之輩ハ、神勤相止立退可申候事、
但還俗之者、僧位、僧官返上勿論ニ候、官位ノ儀ハ追而御沙汰可有之候間、当分処官服ハ、風折帽子、浄衣、白差貫着用勤仕可致候事
資料文> 画像を表示これによつて従来の神仏混淆が禁止せられ、神社は完全に寺院の支配下から分離された。その結果、一部の神主社家社人などは勢に乗じて廃仏毀釈の運動を起し、各地で寺塔を焼き、仏像仏具経典などを廃棄した。そして、従
来、八幡大菩薩、白山妙理大権現、牛頭天王、三十番神などと唱えた称号を止めて、八幡大菩薩を八幡大神、白山妙理大権現を白山神、牛頭天王を八坂大神、あるいは祇園神と改めた。「三十番神」は、仏徒が日本の神祇を三十日秘仏の例に基き、それぞれ三十日に割り当てて秘仏と同じ類のように教え示したものであつて、日蓮宗では、これを法華守護神として、寺域の内、または、その近くのところにまつつていたが、神仏分離の際、寺域の近くにまつられた三十番神は、土地の鎮守、または、氏神とし、祭神はたいてい三十日に配当された神祇の一柱を撰び、その神祇の名を神社の名としたようであつた。新編武蔵風土記稿によれば、今の練馬区内にも、その頃、三十番神があつたことが記載してあるが、神仏分離の後はその三十番神を次に示す社名に改め、土地の人たちは氏神と定めた。(
関村 三十番神 村の鎮守なり本立寺持 関町五丁目 天祖神社、祭神、大日霎貴尊
土支田村 三十番神 村の鎮守なり妙延寺持 東大泉町 北野神社、祭神、菅原道真公
小榑村 三十番神
こうして独立した神社は、明治四年五月、太政官布告によつて社格が制定せられ、官社と諸社に分けられた。官社は、神祇官の直轄で、官幣社と国幣社となし、諸社は崇敬範囲を基準にして、府社、藩社、県社、郷社、村社に区別された。けれども、村社は、神社として独立の資格がなく、幾つかの村社が郷社に属していたのであつた。その頃今の練馬区にある神社は、東京の神社組合に属していた。藩社は、明治四年七月十四日に列藩が廃せられた際になくなり、府社、または、県社となつた。その後、制度の改革により、村社は郷社から分離され、それぞれ独立した神社と
し、それ以外の神社を無格社と称した、村社や無格社は、その数が非常に多かつたので、明治三十九年八月九日に内務省は通牒を出して神社の合併を奨励した。それによつて当時この辺にあつた各村々の部落持の神社は、ほとんど村の氏神に合祀された。明治末年から大正初年の頃にかけて合祀された区内の神社は、昭和八年七月に北豊島神職会で刊行した北豊島郡神社誌によれば次の通りである。関町、村社、天祖神社に合祀せられた神社
字、溜溂甲四四八 無格社 厳島神社(明治四十一年十二月十七日合祀)
字、竹下乙一四九 同 厳島神社(大正二年三月四日合祀)先に稲荷神社を合祀、
東大泉町、村社、北野神社に合祀せられた神社
字、下屋敷九七〇 無格社 稲荷神社(明治四十二年六月十五日合祀)
字、中 村五六九 同 稲荷神社(同年六月五日合祀)
字、井 頭一九四 同 稲荷神社(同年六月十日合祀)
北大泉町、村社、氷川神社に合祀せられた神社
字、愛宕下 無格社 愛宕神社(明治四十年十一月七日合祀)
字、中 耕七三五 無格社 稲荷神社(明治四十年十一月七日合祀)
字、富士下一二四二 同 浅間神社(同)
西大泉町、村社、諏訪神社に合祀せられた神社
字、経 塚五二三 無格社 稲荷神社(明治四十四年五月六日合祀許可、以下同じ)
字、榎 戸八九五 同 稲荷神社
字、西中前新田四六九 同 稲荷神社
字、前新田二四五 同 稲荷神社
字、大前新田一二七 同 稲荷神社
字、中島後二〇一三 同 稲荷神社
字、水入久保上一八九八 同 稲荷神社
字、西新田一六一三 同 稲荷神社
上石神井二丁目、無格社、厳島神社に合祀せられた神社
字、観音山一一二 無格社 稲荷神社(明治四十一年十二月十六日合祀)
字、観音山二二二 同 愛宕神社(同十二月二十六日合祀)
字、立 野六一五 同 稲荷神社(同)
字、西 村一一七〇 同 御嶽神社(同十二月十六日合祀)
字、沼 辺一四三五 同 稲荷神社(明治四十二年九月二十九日合祀)
字、小 関八五七 同 稲荷神社(大正五年四月十八日合祀)
明治時代の制度によつて各神社に附けられた社格や礼遇は、昭和二十一年神道指令により一切消滅した。従来の神社の中で、延喜式の神名帳に記載せられた神社を「式内社」と称し、それに対して神名帳に記載せられない神社を「式外社」と称した。また、六国史に載せられた神社を「国史現在社」、または、「六国史所載社」と呼んだ。それ等
の神社や国神名帳に記された神社は、いづれも古社である。そのような古社や、神祇官直轄の官社は、今の練馬区の地域には、一社もなかつたが、徳川時代に幕府から御朱印を賜つた神社は一社あつた。上練馬村(この社は、慶安二年(一六四九)十一月十七日に社領八石の御朱印を附せられた(
中荒井村
氷川社 村の鎮守なり例祭九月十八日正覚院持 末社、牛頭天王、天神、稲荷 ○弁天社、二、一は正覚院一は村民の持 ○稲荷社 四 何れも村民持
中村
八幡社 村の鎮守なり南蔵院持下持同じ ○稲荷社、○天神社、弁天社 ○水神社、○三峯社、○金毘羅社
谷原村
氷川社 村の鎮守なり長命寺の持下同 ○稲荷社、三 一は国広稲荷一は金山稲荷と称す
〔長命寺内〕三社宮 大神宮八幡春日三神を安す
〔南光院内〕天神社
田中村
稲荷社
〔宝蔵院内〕 稲荷社
上石神井村
氷川社
〔三宝寺内〕八幡社、稲荷社
下石神井村
石神井社
〔道場寺内〕白山社、〔禅定院内〕八幡社
関村
三十番神社
竹下新田
弁天社
土支田村
三十番神
上練馬村
八幡社
〔円光院内〕天神社、〔寿福寺内〕十羅刹女社
下練馬村
神明社 清性寺持 末社、稲荷○白山社
〔金乗院内〕八幡社、牛頭天王社、〔清性寺内〕天神社、〔円明院内〕稲荷社、弁才天社、〔荘厳寺内〕神明社、牛頭天王社、〔光伝寺内〕天神社、〔威徳院内〕天神社、〔松林寺内〕氷川社 村の鎭守なり 稲荷社、疱瘡神社〔高徳寺内〕天神社、〔東林寺内〕弁天社
小榑村
三十番神社
橋戸村
天王社
氷川社
弁天社
天神社
また、区内旭町小島兵八郎氏所蔵の、享和四年子二月、豊嶋郡土支田村、村方之儀明細書上帳下書を見ると、土支田村所在の社について、
<資料文>□御除地八畝□ □
<補記>
一 番神壱ケ所
一 御除地五畝歩 本
<補記>
<補記>
<補記>
<補記>
<補記>
<補記>
<補記>
<補記>
<補記>
<補記>
<補記>
<補記>
古之外御除地無御座候
資料文>と記し、更に別に
<資料文>御<補記>
天神
但小社ニ付縁起等無御座候
<補記>
右同断
<補記>
一権現
八郎右衛門持
資料文>と書いてある。この記載から推測すれば、この辺の村々には、新編武蔵風土記稿に記された社以外に数多の神祠が存在していたと思われる。それ等の神祠は、神仏分離の後、教部省よりすべて最寄の神社へ合併、または、移転すべき旨の達が出されたので、それにより大部分が村の氏神や部落持の神社へ合併された。しかし、中にはまた、個人の屋敷神としたものや、その際、廃止した祠もあつて、一応整理され、その数が大いに減少した。そしてまた、その後部落持の神社も前に述べた神社合併奨励の趣旨に従つて、ほとんどが村の氏神に合併されたので、神社の数は更に少くなつたのであつた。明治維新以来、神社は、その構えの大小、社格の如何にかかわらず、すべてが公けにわが国の神祇をまつつた場所として認められ、一般に府県社郷社村社は氏子区域を有し、その氏子区域内に居住する者に対し、氏神たるの関係をもち、土地の人々からは産土神として篤く崇敬されていた。この神社と氏子との関係は、終戦後、氏子制度が廃止されるまで継続し、その後は一種の講社組織としてその関係を存続している。区内の神社は従来の氏子を講社組織に改め、昭和二十六年以来、宗教法人法による宗教団体として儀式行事を行い、教化育成に努めてきた。その神社の祭神、由緒、沿革、神事、境内社、氏子区域などは次の通りである。
旧社格、郷社(明治五年十月十九日列格)
祭神 須佐之男命 配祀 伊邪那美命
由緒 不詳、社伝によれば、当社は、もと、石神井川の辺、御浜井戸にあつたが、いつ頃か、今の地に移したという。往昔、石神井川の川上から漂流した御神体を一村民が拾い上げてまつつたと伝える(
御除地
氷川大明神
一、社地屋舗壱反四畝弐拾歩
此高四斗六升六合七勺
神主
風祭伊予守
明神宮
御除地
一、免中萱野弐反歩
此高四斗
右
風祭伊予守持
御除地
一、免下萱野弐反五畝拾八歩
反別合六反八歩
此高弐石弐斗五升七勺
右
同人持
氷川大明神
御除地
一、社地屋舗下萱野壱反壱畝六歩
此高
別当
松林寺
資料文>と記してある。但し、この最後に載せた「氷川大明神」は、北町三丁目にある氷川神社であろう。
神事 当社の神事行事については、年中行事の項で述べた通り、毎年四月九日の春祭の日に、祭祀の云い伝えによつて、旧地お浜井戸まで神幸渡御行列が行われる。この神幸渡御行列を「お里帰り」と称している。行事に
たづさわるものは、土地の旧家といわれる、柄本、風祭、奥津、篠の四苗のものに限られ世襲であり、その行列の順は次の通りである。 <資料文>氷川神社『お里帰り』神幸渡御行列順序
画像を表示 資料文>神幸渡御行列の途次、供奉のものは扇子を拡げ口元に当てて唱え言を順次繰り返す。前の供奉者が一句唱えると後の供奉者がそれを復唱する。(
その唱え言は神幸渡御行列の途次、道中を五区に分けて一区ごとに一節を唱えるのである。お浜井戸では祭典執行の後「鶴舞」の行事が行われる。(
境内社
(
須賀神社 須佐之男命、菅原道真公、保食神、天児屋根命
稲荷神社 宇迦之魂命、大物主命
大国神社 大国主命
日枝神社 大山咋命
北豊島郡誌に「本殿の東に末社四宇を駢べ置けり、疱瘡神などいえるもあり、この神新風土記稿にも載せられて由緒あるらし、をかしき事と思う」と書かれたのは、この境内社である。
氏子区域は、旧練馬村の一部で、今の北町一丁目、三丁目、仲町、一丁目、四丁目、南町一丁目五丁目の地域である。(
旧社格、郷社(明治五年十一月村社に被定、同七年四月列格)
祭神 須佐之男命
由緒 社伝によれば、応永年間の創建という。北豊島郡誌には、「別当三宝寺往年炎上して記録は凡て焼失し、縁起を伝えざるは惜むべし。但現今社殿の後方に旧石燈籠の断片ありて、豊島左衛門尉云々の文字明に判すべし、当社が豊島氏当年の古社なることは明か也」とあり、また、昭和八年七月北豊島神職会刊行の北豊島郡神社誌には、
<資料文>(
と記してある。
神事 当社の例祭神事については、江戸名所図絵に、「例祭九月十九日なり、江戸芝の神明宮より社人巫女等来りて神楽を奏す是旧例なり、又同じ二十日にも神事修行せり」と記載している。しかし、芝神明宮より社人巫女が来て神楽を奏することは、いつの頃か廃絶した。
境内末社
(
北野神社 菅原道真公 八幡神社 誉田別天皇
御嶽神社 少彦名命 三島神社 大山祗命
須賀神社 素盞鳴命 稲荷神社 倉稲魂命
以上六社の中で、北野神社は、新編武蔵風土記稿記載の氷川社末社、「天神」に当り、須賀神社は「天王」稲荷神社は「稲荷」であつて、この三社は江戸時代からの末社であつたという。
氏子区域 当社の氏子区域は、新編武蔵風土記稿に「氷川社、上下石神井、関、田中、谷原五カ村の鎮守なり」と記され、また、江戸名所図絵にも「氷川明神祠、上下石神井村及び田中関谷原等以上五箇村の鎮守とす」と書いてある。北豊島郡神社誌には、「而シテ石神井郷ハ谷原、田中、上下石神井、関ノ五カ村即チ現在石神井村ノ全区域ナリシガ、維新ノ際、谷原、田中、関ノ三カ村ニ各鎮守ヲ有シテ、分離シタルヲ以テ当社ハ大字上石神井下石神井ノ鎮守ト定ムルニ至レリ。サレド当社ガ石神井郷総鎮守タリシハ、現存セル水盥ノ銘及新篇武蔵風土記稿其他ニ明記セラルル所ナリ」と記し、そして、氏子区域については、「石神井村大字上石神井全部(
旧社格 村社
祭神 須佐之男命
由緒 北豊島郡神社誌によれば
<資料文>武蔵国足立郡大宮宿一ノ宮、氷川神社御分霊ノ社ト伝ヘラレ創立年代ハ不詳ナルモ、境内樹木ノ樹齢其他ヨリ按ズルニ、今川時代ノモノナルベシト云ハル、猶、以前ノ社殿ハ文化八年九月十七日再建ノ棟札ヲ存シ、現在ノ社殿ハ昭和二年十月
ノ改築ニ係ル。 資料文>とある。当社は江戸時代には正覚院持であつた。
境内末社
(
須賀神社 須佐之男神 稲荷神社 宇気母知命
北野神社 菅原道真公(
氏子区域新編武蔵風土記稿には「村の鎮守なり」と記し、北豊島郡神社誌にも「中新井村大字中新井全部(板橋区中新井町全部)八百五十戸」と書いてある。
旧社格 村社(明治七年四月被定)
祭神 応神天皇
由緒 創立年代不詳、新編武蔵風土記稿に「村の鎮守なり、南蔵院持」とあり、江戸時代より中村の産土神として厚く崇敬された。
神事 当社には祭礼の時、湯立神事があつたが、今は廃絶した。社頭に当時の様子を描いた額がある。
境内末社
(
須賀神社 須佐之男命 御嶽神社 日本武命
北野神社 菅原道真公 熊野神社 伊邪那美神
秋葉神社 火産霊神
氏子区域 江戸時代より中新井村大字中全部の地域であつた。北豊島郡誌には、「氏子百二十戸許」と書いてあり、北豊島郡神社誌には「中新井中全部(
当社の社頭には神仏混淆当時の遺物である「まんじ」をつけた水盥がある(
旧社格 村社
祭神 伊邪那美命
由緒 北豊島郡神社誌によれば
<資料文>本社ノ創建年代ハ、明治初年、祝融ノ災ニ依リソノ由緒書及村内ノ記録等焼尽セラレテ詳細ヲ知ルニ由ナシト雖モ、現存セル遺物又ハ天然物等ニヨリテ推定スルニ遠ク、源家ノ興隆時代ニ創立セラレタルモノナルコト想像ニ難カラズ(
と書いてある。仲町一丁目加藤源蔵氏所蔵の文政九年二月、武蔵国豊島郡下練馬村御割附之写に、
<資料文>白山大権現
(御除地)
同断
一、社地上畑四畝拾弐歩
○○
惣兵衛持
一、御供免
一、下々畑壱反弐拾四歩
反別合壱反五畝六歩
此高壱石
右同人持
資料文>と記されたのは、この社である。
境内末社
(
稲荷神社 猿田彦命 保食命 大宮比売命
三峯神社 伊邪那岐命 伊邪那美命
氏子区域は、「練馬町字谷戸山、谷戸、出頭、谷戸前、栗山ノ一部(板橋区練馬南町五丁目全部及同四丁目一部)
五百戸」と、北豊島郡神社誌に書いている。旧社格 村社
祭神 天児屋根命、面足之命、菅原道真公
由緒 北豊島郡神社誌に
<資料文>当社ハ凡ソ百二十年前祝融ノ災ニ罹リ、古文書古器物等神社ノ創立及沿革等考証ノ資タルベキモノヲ尽ク焼失シタルヲ以テ創祀詳カナラズト雖モ、古老ノ伝フル所ニヨレバ、工藤左衛門尉祐経ノ孫、祐宗ノ創立セルモノト云フ。按ズルニ祐宗ノ藤原鎌足ノ末裔タルト其ノ天児屋根命ヨリ出タルト、(
とある。この社は十羅刹宮と称する由云い伝う。
境内末社
(
稲荷神社 宇迦之御魂命 三峯神社 火産霊神
氏子区域 「上練馬村字海老ケ谷戸、中ノ宮、西中ノ宮、下練馬村宮ケ谷戸、原全部、三百戸」と北豊島郡神社誌に書いている。
旧社格 村社(
祭神 誉田別命
由緒 当社は、もと神明春日を相殿とし、別当は愛染院で、幕府より社領八石の御朱印を附せられた。創建年代は不詳であるが、北豊島郡神社誌に、
<資料文>当社創建ノ年暦不詳ナリト雖モ、古老ノ伝フル処及繁茂セル樹木等ヨリ按ズルトキハ、凡ソ七百年前ノモノタルコト信ヲ置クニ足ルベシ。(
と記してある。
境内末社
(
熊野神社 伊邪那美命 稲荷神社 宇迦之御魂命
高木神社 高皇産霊神 須賀神社 須佐之男命
春日神社 天児屋根命 御嶽神社 櫛麻智命
氏子区域「上練馬村大字上練馬字、若宮、西組、原、大門山、東貰井、貫井、田島、中通、向山ケ谷戸全部、四百戸」と北豊島郡神社誌に記している。
旧社格 村社(明治七年村社ニ被定)
祭神 菅原道真公、相殿誉田別天皇
由緒 創立年月等不詳、当社の社名は、もとは「天神社」と称した。新編武蔵風土記稿や、区内旭町小島兵八郎氏所蔵の江戸時代の土支田村下組明細書上帳写および土支田村下組村差出書上帳などにも「天神、または、天神社」と記され、大正七年に北豊島郡農会から発行せられた東京府北豊島郡誌や、昭和八年に北豊島神職会で刊行した北豊島郡神社誌には、いづれも「北野神社」となつており、土地の人も古くからこの社を「俵久保の天神さま」と呼んでいる。社名を「土支田八幡宮」と変更したのは、昭和十年以降のことで、その際、祭神を相殿神であつた誉田別天皇を主とし、菅原道真公を相殿としたのである。当社を中世以前の古社の如く最近の社記に記せど、それについては何等徴する資料がない。北野誌によれば、祭神は、菅原道真公大日孁貴命、倉稲魂命、誉田別天皇とある。
境内末社
(
稲荷神社 倉稲魂命 御嶽神社 少彦名命
八雲神社 須佐鳴男命
氏子区域 「上練馬村大字下土支田全部(
旧社格 村社(明治七年四月被定)
祭神 大日孁貴尊、相殿狭依姫命、稲蒼魂命
由緒 創立年代不詳、当社はもと「番神さま」と呼ばれた。新編武蔵風土記稿関村の条に載せられた「三十番神社」はこの社であつて、神仏分離の際に祭神を大日孁貴尊となし、社名を天祖神社としたという。
境内末社
(
稲荷神社 倉稲魂命 八幡神社 誉田別天皇
八幡神社は若宮八幡と称し、もとは当地、若宮池の辺にあつた社で、この社は本社よりも創建が古いと伝えられている。
氏子区域 「石神井村大字関全部(
旧社格 村社
祭神 須佐之男命
由緒 創立鎮座ノ年月不詳、社伝によれば江戸時代初期の創建という。幕末の頃、長命寺持であつたことは、新編武蔵風土記稿に記されている。
境内末社
(
春日神社 天児屋根命 天祖神社 天照大御神
八幡神社 応神天皇 稲荷神社 宇気母知命
氏子区域 北豊島郡神社誌によれば「石神井村大字谷原全部(
旧社格 村社(
祭神 菅原道真公 相殿稲蒼魂命
由緒 古来「番神さま」と呼ばれた。創立年代等は未詳であるが、「三十番神」の名は新編武蔵風土記稿に記され、また、区内旭町小島兵八郎氏所蔵の天保二年卯正月、豊嶋郡土支田村明細帳写に、
<資料文>三十番神社
一、御除地壱反弐畝拾五歩
と書いてある。当社は村始の百姓加藤加右衛門の祖先が家の側へ鎮守としてまつつた社と伝え、その子孫の家を「宮脇」と称し、子孫は代々、宮の鍵を管理しており、毎年正五九月の祭礼には、氏子のものが「宮脇」の家に集り、そこで食事を共にして神社に参詣する慣例であつた。同家(
一、武州土支田村之儀寛文三卯九月御検地御水帳三十番神免地下野壱反弐畝拾五歩と在之御社地之内三十番神社有之同所加右衛門と申者年久敷見守仕宮之鍵をも加右衛門預り罷在候云々
資料文>とあり、更に同文書に「加右衛門先祖之者共宮守来候段無紛相聞<外字 alt="え">〓外字>候云々」と書いてある。なおまた同家所蔵の文政十二年八月十五日の議定一札に「明暦三酉年其元地内え建立為致候由云々」とあるので、江戸時代の初頃から存在したことが察せられる。別当は妙延寺であつたが、明治維新に神仏分離の際、祭神を菅原道真公として、社名を北野神社と改めた。当社の社名は北野誌にも記してある。
境内末社
疱瘡神社、稲荷神社
氏子区域 北豊島郡神社誌に「大泉村大字上土支田全部(
旧社格 村社(
祭神 素盞鳴尊
由緒 創立年代等未詳、社伝によれば橋戸村の旧家荘氏の祖先が鎮守として創建したという。新編武蔵風土記稿には「祭神は、在五中将なり云々」とある。
氏子区域 北豊島郡神社誌に「大泉村大字橋戸全部(
旧社格 村社
祭神 建御名方命、宇迦御魂命
由緒 創立年代等不詳、古来、「三十番神」といわれ、新編武蔵風土記稿に記載されている。明治維新に神仏分離の際、祭神を信州諏訪神「建御名方命」として、社名を諏諏神社と改め、神紋を「梶の葉」と定めた。神社には「三十番神」と呼ばれた頃の神額がある。(
神事 正月に「お諏訪さまのおびしや」と称し、射弓が行われたが、今はその神事は絶えた。
境内末社
稲荷神社 宇迦御魂命
氏子区域 北豊島郡神社誌に「大泉村大字小榑全部(
祭神 応神天皇、菅原道真公
由緒 不詳「口碑ノ伝フル処ニヨレバ、当社ノ創祀ハ後冷泉天皇ノ永承年間ニ在リシト云フ」と北豊島郡神社誌に書いてある。
境内末社
御嶽神社 櫛麻智命
崇敬者 三十四戸「北豊島郡神社誌記載」
祭神 建速須之男命
由緒 不詳、江戸時代には松林寺の支配下で、氷川大明神と称した。
境内末社
御嶽神社、稲荷神社、富士神社
崇敬者 七十戸「北豊島郡神社誌記載」
祭神 建御名方命 配祀保食命
由緒 不詳
氏子区域 「練馬町字今神全部(
祭神 保食神
由緒 不詳、古来「高稲荷」と称し土地の農民が崇敬した。
崇敬者 練馬町字南北二軒在家の二字、五十戸「北豊島郡神社誌記載」
祭神 迦具突智尊
<資料文>由緒 当社ハ吉田孝平氏ノ祖先弥五衛翁慶長年間ニ山城ノ愛宕大明神ヲ勧請シタルニ創ル、元来中田柄郷ノ鎮守トシテ現神苑ノ外、幕府ノ朱印地三町八反ヲ領有シタルモ、明治維新ノ際之ヲ上地シ御神体ヲ仮ニ別当職家ニ遷ス、後社殿朽破シタルヲ以テ明治十年之ヲ再建シタルモ、御神体ハ依然トシテ仮床ニ在ルコト五十年、大正十年偶改築ヲ議リ翌十一年十一月工事竣功シ、十一月五日別当吉田市郎右衛門ノ孫直次郎氏ノ神床ヨリ本殿ニ遷座ノ式ヲ行ヒ越テ七月落成奉告祭ヲ挙行ス
資料文>と北豊島郡神社誌にあり、新編武蔵風土記稿の上練馬村のところに「愛宕社」とあるはこの社と思われる。
境内末社
須賀神社 須佐之男命 稲荷神社 宇迦之御魂命
市杵島神社 市杵島比売命
崇敬者 三十戸「北豊島郡神社誌記載」
祭神 天照大御神
由緒 北豊島郡神社誌によれば、
<資料文>当社ハ往昔神明宮ト称シタリシガ、里老ノ説ニヨレバ慶長三年四月五日、上野伝五右衛門等伊勢神宮へ参詣シ分霊ヲ請ヒ
テ帰郷シ、邸内ニ奉安シタルヲ、後村民相図リテ社殿ヲ造営シ、神明ケ谷戸一円ノ産土神トシテ崇メタルモノナリト伝フ、而シテ天保五年社殿腐朽ニ帰シタルヲ以テ村人協力シテ之ヲ改造シ次デ明治五年四月五日天祖神社ト改称スト云フ 資料文>とある。新編武蔵風土記稿に載せた「神明社」は、この神社であろう。
境内末社
御嶽神社 櫛麻知命 稲荷神社 宇迦之御魂命
崇敬者 六十戸「北豊島郡神社誌記載」
祭神 稲蒼魂命
由緒 未詳、旭町小島兵八郎氏所蔵の享和四年二月豊島郡土支田村、村方之儀明細書上帳下書に記載された「稲荷社長弐間横八尺」とあるのはこの社であろう。
崇敬者 約三十戸「北豊島郡神社誌記載」
祭神 国常立尊
由緒 不詳
崇敬者及講中 一千六百戸「北豊島郡神社誌記載」
祭神 大日孁貴命、須佐之男尊
由緒 不詳、当社の附近に神明前と呼ばれる地名があり、社の前にある延宝二年の庚申塔には石神井郷神明村という村名が彫りつけてある故、古くからここに神明祠か伊勢の遙拝所があつたと思われる。
崇敬者 百二十戸「北豊島郡神社誌記載」
祭神 稲蒼魂尊、建御名方尊
由緒 不詳
崇敬者 四十戸「北豊島郡神社誌記載」
祭神 稲蒼魂尊
由緒 「社記ニ京都伏見稲荷ノ分社ナル由伝フ」と北豊島郡神社誌に書いてある。当社は和田稲荷と称え、渡辺家の鎮守と云い伝え、渡辺家が代々神主を勤めたという。
境内末社
荷田神社 荷田東麿
氏子区域 「石神井村大字下石神井字和田全部(
祭神 少彦名尊
由緒 不詳、当社は古来「石神さま」と称えられて、その名が知られていた。神体は一個の石剣といわれたが、実は石棒である。(
下石神井村、この村に石神の神社と号せる僅なる小社あり、神体は神武より以前の石剣なり、(
と記され、新編武蔵風土記稿には「是村名の由て起りし社なり」と書いてある。(
崇敬者 百八十戸「北豊島郡神社誌記載」
祭神 狭依姫命 相殿 香具槌命、倉稲魂命、国常立命
由緒 創立年代不詳、新編武蔵風土記稿に記す「弁天社」は当社である。当社は庶民の崇敬篤く、三宝寺所蔵の文政十丁亥年三月の弁財天巳待万人講列名簿を見れば、それを推測せられる。明治維新に神仏分離の際、厳島神社とした。昔は傍に神楽堂があり、祭礼日は賑かであつたという。
崇敬者 四百戸「北豊島郡神社誌記載」
祭神 宇気母知命、大穴牟遅神、少名毘古那神
由緒 不詳「徳川時代ノ創立ニシテ、世人ノ崇敬厚ク、近郷ノ豊多摩郡、埼玉県等ヨリ参詣スル信者多ク以テ今日ノ隆盛ヲ見ルニ至レリ」と北豊島郡神社誌に記してある。
崇敬者 三百五十戸「北豊島郡神社誌記載」
祭神 宇気母知命、大日孁貴命
由緒 不詳
氏子区域 南田中町、北田中町百二十戸「北豊島郡神社誌記載」
祭神 建速須佐之男命
由緒 不詳、口碑によれば、当社の側にある「いんきよさま」の祠が元神であつて、本社鎮座の以前にまつられたという。新編武蔵風土記稿には「天王社」となつている。(
境内末社 稲荷神社、浅間神社、御嶽神社
氏子区域 「大泉村大字小榑中里、全部四十戸」と北豊島郡神社誌に記してある。当社の氏子は、古来胡瓜を作らず、また、これを食へば神罰を受けるよし云い伝えた(
祭神 宇賀御魂命
由緒 創立年代等未詳、当社は俗に「四面塔稲荷」と呼ばれた。新編武蔵風土記稿には「村内円福寺持」と書いてある。
崇敬者 四十戸「北豊島郡神社誌記載」
以上の神社は、昭和八年七月に北豊島神職会から刊行された北豊島郡神社誌に載せられた神社であるが、区内にはこの外に次の神社がある。
祭神 木花開耶姫命(
当社は、「江古田冨士」と呼ばれ、冨士道者に崇敬された。人造冨士の山上に冨士山の熔岩を納めた石祠があり、拝殿には冨士道者身祿の木像や信者奉納の大刀の額がある。
祭神 須佐之男命 (
祭神 市杵島姫命 (
祭神 倉稲魂命 (
祭神 倉稲魂命 (
祭神 倉稲魂命 (
祭神 倉稲魂命 (
祭神 倉稲魂命 (
祭神 倉稲魂命 (
祭神 木花開耶姫命 (
祭神 菅原道真公 (
江戸時代には本覚寺持、天神社と称した。新編武蔵風土記稿には記載がないが、旭町小島兵八郎氏所蔵の土支田村明細帳には、その名が記してある。
祭神 菅原道真公 (
祭神 倉稲魂命 (
祭神 大日孁貴命 (
祭神 日本武尊 (
祭神 日本武尊 (
これ等の神社は、いづれも由緒は未詳であるが、中には新編武蔵風土記稿に記載された神社もある。北豊島郡神社誌に記された由緒は疑わしい記載が多いけども、参考までにここに引用した。しかし、その由緒の如何にかかわらず、神社はすべて、前に記したように村民の精神生活と常に密接な関係をもつて今日まで存在したのである。
本文> 節> <節>寺院は、神社と共に古来わが国民の生活と密接な関係をもつていた。元来、寺は精舎ともいわれ、僧、尼が止住して仏道修業をする道場であつたが、後には檀家の戸籍を予り、家々の先祖代々の位牌を置いて頓証菩提を弔うところとなり、また、地蔵講、観音講、念仏講、大師講、燈明講、報恩講などの仏教信仰によつて結ばれたさまざまの講を通じて、その講衆が親睦をはかる機関ともなり、そして、お寺詣りが民衆に精神的な大きな慰安を与えた。江戸時代には奉公人の請書や、諸国霊場巡拝の往来手形など、重要な証文類には寺が必ず宗旨の証明をした。その頃は、寺と檀家との関係は、ある意味において絶対的なものであり、檀那寺、あるいは、菩提寺と呼び、寺に対して従属の関係を保つていた。この菩提寺は、宗旨の如何にかかわらず、檀家衆の社会生活や精神生活の根基となつた存在であつた。
仏教がわが国に仏来したのは、六世紀の中頃であつて、その後、聖徳太子が仏教興隆のために力を尽され、聖武天皇の天平年中には鎮護国家のため諸国に令して国分寺と国分尼寺を建て、仏教はますます国内に拡まつた。その頃行われた仏教は、主として、三諭、法相、成実、倶舎、華厳、律の六宗であつて、それ等はいづれも唐の仏教がそのまま伝わつた伝来仏教で、貴族を中心とした平地仏教であつた。仏教の興隆に伴い、神主仏従的な神仏一体の習合思想があらわれ、主な神社の境内や、その附近に神宮寺が建てられた。平安京に遷都の後、間もなく遣唐学問僧であつた最澄(
天台、真言の二宗は、貴族を対象とした仏教で、本来の教義とは別に加持祈祷の法を修せられ、共に山体信仰を加味した山嶽仏教であつた。それ故、その寺院は概ね山岳に建立せられ修業道場的性格を帯びていた。これらの山岳型寺院は、鎌倉時代に行われた浄土宗、浄土真宗、法華宗、時宗、禅宗などの庶民的仏教が各地にひろまり始めると、やがて、荘園を基礎にして土豪を中心とした地域経済と結びつき、新しい型の平地型寺院に移行し、庶民仏教化して次第に檀徒集団の形成をはかるようになつた。近世村落の開発に伴い、各宗の僧は競つてその方面に教線の拡張をはかり活溌に動き始めた、その結果、檀徒の分布が場所によつて極めて複雑な様相を呈し、そして、平地型の村落寺院が各所にあらわれた。その等の寺院は、土地の開発者や土豪の勢力によつて開かれたものがすこぶる多い。
江戸時代の頃から今の練馬区の地域に存在した寺院は、ほとんどがそれに類する平地型村落寺院であつて、その開基年代は、いくつかの寺院を除いた外は、概ね中世末期から近世初頭の頃までの間である。宗派は真言宗と日蓮宗の外、浄土宗、曹洞宗、時宗があり、その教線を地域的に見れば、真言宗は、石神井川沿いの村々や、その周辺地域に大きく教線を伸展げて部落部落に檀徒集団を形成した。その地域の中に、曹洞宗、浄土宗、時宗の教線が、わづかに入りこみ、それに対抗して、その寺院機能をはたしてきた。日蓮宗の教線は、豊島郡と新座郡との境界をなす白子川
沿いの地域に帯状に拡がり、他宗の教線を遮断して北方から南方に延びている。この教線の一部に、天台、真言の二宗が割りこみ、互いに相対しながらそれぞれの教線を確保しつつある。この辺に仏教が行われたのは、いつの頃か、その年代についは、確証すべき資料がないので、それを知ることができないが、南大泉の妙福寺が、もとは、慈東山大覚寺と名づけた天台宗の道場で、開基は天台座主の慈覚大師と寺伝にある。それを信ずれば平守時代の初め頃となる。妙福寺がもと天台宗であつたことは、寺伝の記録ばかりではなく、他にも多少それを証するものが寺に伝えられているが、当時の堂宇の規模その他については不明である。中世のところでも述べてある通り、区内各所から真言天台日蓮浄土各宗に属する板碑が相当に発見されているので、中世の頃には、この地区に仏教が相当盛んであつたことは、それによつて知られる。天台宗の教線がこの辺にどのように展がつていたかは一切わからないが、今の埼玉県北足立郡大和町白子にある天台宗の瑞応山地蔵院地福寺(
新義真言宗智山派
新編武蔵風土記稿の記載によれば、
<資料文>新義真言宗、亀頂山密乗院と号す、無本寺なり。古は鎌倉大楽寺の末なりしと云、本尊不動傍に聖徳太子の作の正観音を安す、
又将軍地蔵を置り、是は村内愛宕社の本地にして世に希なる古仏なり、年を追て朽損せしかば慶長十一年檀越尾崎出羽守資忠住僧頼融と謀り修理を加へしと云、其後賊にあひて全体は失へり、寺伝を閲するに当寺は応永元年権大僧都幸尊下石神井村に草創する所にして、同き五年三月九日寂す、後屡戦争の災に罫て頗衰たりしに、文明九年太田道潅豊島氏を滅せし後、その城跡へ当寺を移せりと云、かかる古刹なりしかは天文十六年元の如く勅願所たるべきの免状を賜ひ、永禄十年現住尊海を大僧正に任せらる、又北条氏よりも寺田を寄附し、制札等を与へて帰依浅からさりしかば、御当代に至りても先規に任せられ、天正十九年寺領十石の御朱印を賜はれり、寛文二年正保元年大猷院殿御放鷹の序当寺へ御立寄あり、例歳二月十五日三月二十一日の二度に常楽会を執行す、近郷の末寺配 画像を表示 役して是を勤むと云 資料文>とある。当寺所蔵の享保二年十月、豊島泰盈奉納の縁起にもそのことが詳しく見えている。当寺には幾多の文書記録が蔵されていたが、新編武蔵風土記稿にもある通り、境域はしばしば兵火に罹り、さらに、明治の初年迄に二回の火災に遇つたので、その際多くの什宝記録の類は烏有に帰してしまつた。けれども、その文書の一部は新編武蔵風土記稿に記載してあり、また、古文書の写や江戸時代の文書記録などは数多く当寺に伝えられている。当寺の寺宝は、紅頗梨色阿彌陀仏や、来迎三尊仏画像板碑など(
当寺は、もとは、真言律宗であつたが、永享元年本寺の大楽寺が焼失して間もなく廃寺となつたので、無本寺となり、江戸時代には、四十三カ寺本地常法談林所となり、門末六十二カ寺を有し、智山に因縁寺院として、智山学徒を
特に申渡された十カ寺の内の一寺であつた。当寺の教線は相当広範囲に及び、関村、上石神井村、下石神井村、田中村、橋戸村など周辺地区より日蓮宗の教線を越えて多磨郡、新座郡の辺にまで拡がつていた。上石神井村の正覚院、関村の最勝寺、田中村の長光寺はいづれも三宝寺の門末であつたが、廃寺になつたので明治の初に本寺の三宝寺へ合寺された。また、竹下新田にあつた修験江戸青山鳳閣寺配下の大学院も当寺に合寺となつた。新義真言宗智山派旧三宝寺末
新編武蔵風土記稿に、
<資料文>照光山と号す、願行上人の開きし寺にて、本寺よりは古跡なりと云、本尊不動、側に閻魔を安す、是は元は別堂にあり、境内に明応四年二月八日妙慶禅尼と彫る占碑あり、
資料文>とあり、十方庵遊歴雑記には、
<資料文>禅定院は三宝寺の東二三町にして路傍にあり、門内の右に鐘楼ありて銘及び施主の名号月日悉くみな平仮名にて鍛付置たり此鐘形は尋常なれど撞座の上に蓮花一本と又少し上に丸鐘の中に古銭にひとしき梵字数多鋳付たり中古作りし撞楼なれど世に鍛し鐘なれば爰に図し置もの也(
と書いている。この鐘は、第二次世界戦争の際に金属回収のため供出された。(
新義真言宗智山派旧三宝寺末
今は寺名を観蔵院とする、新編武蔵風土記稿に「新義真言宗上石神井村三宝寺門徒、慈雲山と号す本尊不動」と書いてある。檀徒集団は旧田中村の地域にあつた。
新義真言宗智山派旧三宝寺末
この寺は、もと同村の寺山と呼ぶところにあつてたという。新編武蔵風土記稿によれば、
<資料文>境内除地一町四方、村内にあり、新義真言宗、豊島郡石神井村三宝寺の末、西円山と号す、文永五年長全法印開山す、中興開山は良賢法印と云へども、其時代は詳ならず、本堂八間に五間、本尊観世音を安置す、
資料文>とある。当寺には足利期の作と思われる木像の延命地蔵菩薩像がある。今の本堂裏から板碑が出たこともある。檀徒集団は、今の北大泉町および東大泉町の一部の地域に展がつていた。
この寺はもと橋戸村字精進場にあつた。いつの頃か廃寺となつて教学院へ合寺された。新編武蔵風土記稿には
<資料文>境内四段、村の西にあり、是も新義真言宗、三宝寺の末、愛宕山と号す、本堂三間に四間、開山栄長法印承応三年十二月寂すと云、教学院所蔵の過去帳には、この寺の開山宗識と見えたり、この栄長のことにや
資料文>と書いている。この寺は尼寺であつたとも伝える。
画像を表示新義真言宗豊山派旧初瀬小池坊末
東高野山、または、新高野山と呼ばれて民衆に親しまれた長命寺は、新編武蔵風土記稿によれば、
<資料文>新義眞言宗大和国初瀨小池坊末、谷原山妙楽院と称す、本尊不動、古は薬師を安すと云、境内大師堂の縁起に拠に、増島勘解由重明なるもの当村に住し、仏心深く兄重国か第四子重俊に家を譲り、剃髪染衣して慶算と号し紀伊国高野山に登り木食勤行すること年あり、或日大師の夢想に因て讃岐国弥谷寺に至り、師自作の木像を感得し速に当村に帰り、高野山に擬して一院を営む、かの像を安置す、今の大師堂是也、又云慶算元和二年六月十二日寂し、重俊其志を継諸堂及大猷院殿御石塔等を建立す其規制一に高野山に傚ふ、因て東高野山と呼、又新高野とも云、寛永十七年小池坊住僧正秀推挙して長命寺と名づけ一寺となせり、是より仏燈弥興隆す、因て正秀請て開山とす、正秀は同き十八年十月十六日寂せり、其後慶安元年境内観音堂領九石五斗の御朱印を賜はれり。金堂十一面観音を安す、立像長三寸許行基の作なり、両脇に大神宮春日明神を安す、此堂は重俊大和国初瀬に傚て建立する所と云、大師堂、奥の院と称す、弘法大師は木の坐像長二尺余、建立の意趣は既に上に弁せり云々
資料文>とある。当寺の縁起には、開基は蓮中庵慶算阿闍梨で、慶算阿闍梨
は「北条早雲の子、重徹の孫に当る人で、天正年中北条氏政の弟、美濃守氏規に属して伊豆国韮山に居た増島勘解由重明と名乗る良将であつて、北条氏没落の後、戦国相奪のあさましさを厭い、決然武門を棄てて谷原の里に隠世し、感ずるところあつて家を弟に譲り仏門に帰依した」と記し、草創は、「慶長十八年」とし、妙楽院長命寺と号したのは初瀬の大本山小池坊秀算と伝えている。当寺は万治元年災火に会い堂舎什宝記録等を悉く焼いたので、重俊の男で当時幕府の勘定役を勤めていた平太夫重辰が資を投じて再建に努め、寛文元年に観音堂が落慶し、元祿の頃に漸く旧態をしのぶ程度に復した、明治維新の後、関東有数の霊場として寺格が準檀林となつたが、明治三十年一月、再び本堂庫裡長屋門等が焼失した。現在の本堂庫裡は、その後再建したものである。当寺は府内八十八カ所霊場第十七番の札所で、四国八十八カ所霊場第十七番の札所阿波国名東郡南井上村井戸にある井戸寺を模した寺であつて、江戸時代から、江戸の人士は勿論、演劇関係者の信仰が殊に篤かつた。四月二十一日の奥之院弘法大師の御開帳は近郷近在をはじめ、江戸市中の人々が境内に集り賑やかであつた。(この寺は廃寺となり、長命寺へ合寺となつた。新編武蔵風土記稿に「長命寺末、天神山菅原寺と号す、本尊彌陀」と記してある。
新義真言宗豊山派旧御室仁和寺末
開基年代は未詳であるが、初めは今の豊島園裏の石神井川に面した辺りにあつたが、後に現在の地に移されたと伝える。新編武蔵風土記稿によれば
<資料文>練月山観音寺と号す、本尊愛染を安す、中興尊智正保三年三月二十四日寂す、寺領十二石一斗の御朱印は慶安二年十一月十七日賜はれりとあり、また、四神地名録には、
練月山愛染院観音寺真言にて御朱印十二石若宮八幡宮の社領八石愛染院別当寺なる故に都合二十石の御朱印地也本尊愛染明王にて開慶の作仏という、観音は春日乃といいし仏師の作也、宝物は焼亡し一品もなし此寺の火災は度々の事のよし土人もなへて物語る事にて焼亡し侍るということは虚説なし云々
資料文>と記している。
この寺の檀徒集団は、江戸時代末の宗門帳を見ると、ほとんどが上練馬村の地域であつた。鐘楼に元祿十四年鋳造の梵鐘がある。
この寺は、愛染院へ合寺されて廃寺となつた。新編武蔵風土記稿に「雙林山と号す、本尊薬師を安す。開山栄俊延宝三年十一月十九日寂す」とある。いづれの寺の末寺であつたか、未詳である。元、高松寺にあつたと伝える祐天上人の剣先名号が土地の旧家に所持されているので、初めの宗旨は真言でなく浄土宗であつたと思われる。
この寺も廃寺となつて愛染院へ合寺された。新編武蔵風土記稿に「宝樹山和光院と号す、本尊阿彌
陀の石像を安す、開山長空万治二年三月二十二日寂す」とあり、今当寺の石像阿彌陀仏は愛染院に安置してある。この寺も廃寺の後、愛染院に合寺せられた。新編武蔵風土記稿に「長松山地蔵院と号す、本尊阿彌陀、開山宥海慶安五年四月十六日寂す」とある。
新編武蔵風土記稿に「不動を本尊とす」とのみ伝えて開基については未詳である。廃寺の後、愛染院へ合寺された。以上の四ケ寺は愛染院の門徒と伝える。
新義真言宗豊山派旧愛染院末
新編武蔵風土記稿に「南池山貫井寺と号す、本尊不動、開山円長天正十三年六月十一日寂す」とあり、同書によれば子権現社はこの寺の持となつている。子権現は古くからその名が近郷近在に聞こえ、区内の各所に参詣者に便を与えるために道標がある。境外仏堂に鎌倉期の地蔵菩薩を安置する。この仏像は、寛政の頃、今の新宿区下落合の中井から移されたものである。当寺は、二月初午の日に「馬かけ」が行われたが、この土地に馬持の者がいなくなつて廃止となつた。この寺の檀徒集団は、主に貫井、谷戸の一部に展つていた。
新義真言宗豊山派旧愛染院末
当寺は、愛染院の隠居寺と伝える。新編武蔵風土記稿には「同院(愛染院)門徒(中略)、大林山寂勝院と号す、薬師を本尊とす。開山秀信万治二年十二月寂す」と記している。檀徒集団は上練馬の一部にあつた。
新義真言宗豊山派旧愛染院末
新編武蔵風土記稿には「瑠璃山医王寺と称す、慶安二年薬師堂領十二石八斗の御朱印を賜へり、縁起を閲するに、永正年中僧良弁(良弁僧正とは異なり)諸国の霊場へ法華妙典を納め、志願畢りて後当寺に錫をととめ、妙経を埋て一箇の塚とす、今、村の中程に良弁塚と称するもの是なり、然してより此寺にありて修法怠らさりしかは、其功空しからさるにや、或日薬師の像を感得せり、よりて堂宇を興隆し其像を安置すと云、今の本尊是なり、秘仏とし、三十三年に一度龕を開て拝せしむ、又当寺より白龍丸と云薬を出せり、曾て良弁か夢中感得せる霊法の薬丸なり、諸病に験ありと云」とある。良弁塚のことに就いては、同寺の所蔵する経筒の内部に収められた記録によれば、延文二年と伝えており、その経筒は良弁塚より出土したもので寺宝としている。この寺は府内八十八カ所霊場十五番の札所である。
新編武蔵風土記稿には、「紫雲山阿彌陀院と号す、本尊阿彌陀」と記してある。廃寺の後、大日堂と共に南蔵院へ合寺された。南蔵院の檀徒集団は中村の地域に展つていた。
新義眞言宗旧中野宝仙寺末
新編武蔵風土記稿に「天満山観音寺と称す、本尊不動、中興開山契裏宝暦元年十月二十五日寂」とあり、その他は未詳である。檀徒集団は、主として中新井村であつた。
新義眞言宗豊山派旧初瀬小池坊末
新編武蔵風土記稿に「如意山万徳寺と号す、本尊愛染を安す、又不動を置り、こは古の本尊と云、寺領十八石九斗余の御朱印は慶安二年十一月十七日賜へり、開山行栄元和三年五月二十七日寂す、開基を木下大炊介と云、慶長十七年八月二十四日死し、法名光明院台法道厳と号す、子孫世々当村の農民なりしか後年廃家となり、今其分家作左衛門と云者残れり」と記してある。鐘楼に元祿十一年七月鋳造の梵鐘があつたが、第二次世界戦争の際に供出した。
この寺はもと荘厳寺末であつたが廃寺されて金乗院へ合寺した、新編武蔵風土記稿には「金乗院末(中略)神明山観音院と号す、本尊不動は弘法の作、長一尺二寸立像なり、法流開山快遍宝暦八年二月二十七日化す」とある。
金乗院門徒、新編武蔵風土記稿に「西光山と号す、本尊彌陀」と記している。この寺も廃寺され金乗院へ合寺となつた。
この寺も金乗院の門徒で、廃寺の時、金乗院へ合寺された。新編武蔵風土記稿に「明王山と号す、本尊不動」と記してある。
新編武蔵風土記稿に「瑠璃山と号す、本尊薬師」とあり、廃寺の後、金乗院に合寺せられた。
新編武蔵風土記稿に「薬王山と号す、本尊薬師」とあり、廃寺の後、金乗院へ合寺となつた。当寺の弁天社に安置した弁才天像は、天長七年七月七日に弘法大師が江島弁才天へ参籠し、一万座の護摩を修し共灰燼で作つた秘仏である、と伝える。
新義真言宗豊山派旧金乗院末
新編武蔵風土記稿によれば「医王山不動院と称す、本尊不動、開山良仁天正二年二月三日寂」とある。この寺は、もとは、古義真言の安祥寺流の法流を受けた寺で、江戸湯島霊雲寺開山浄厳律師が止住されたことがある。浄厳が当寺に止住した証としては過去帳にもその記載があり、また、寺に所蔵の無量寿仏でその頃つくられた仏像が今日まで寺宝として伝来しているのでそのことが知られる、文政九年二月で練馬村の御朱印御除地寺社書上によれば
<資料文>真言宗 醫王山不動院 同所
御除地中畑弐反五畝二十二歩
一、境内七百七拾坪
中畑弐反五畝二十二歩 高壱石五斗四升四合
真言宗
御除地八畝十八歩
一、境内弐百五十八坪
屋敷八畝拾八歩 此高八斗六升
真言宗
御除地五反五畝拾四歩
一、境内千六百六拾四坪
屋敷五反五畝拾四歩此高五石五斗四升六合七勺
真言宗
御除地上畑弐畝歩
一、屋敷弐畝歩
上畑弐畝歩此高壱斗六升
資料文>とある。江戸時代には、この寺が金乗院の触頭をしていた。以前は檀家の中に光伝寺、または、長源寺と両檀家のところもあつて、この寺を男寺と称し、両檀家のところでは、男が死亡の時、この寺で弔う習慣があつた。鐘楼に、天和二年二月鋳造の梵鐘があつたが今はない、現在の本堂は、宝暦十三年の建築で、その棟札が現存する。
新義真言宗豊山派旧金乗院末
新編武蔵風土記稿に「恵日山西光寺と号す、本尊不動開山行真と云」とあるのみで開基の年月を伝えない。寺伝によれば、開基は、賢栄阿闇梨と伝え、賢栄阿闍梨の名を刻した文龜二年の板碑が当寺にあり、また寺宝として同年号の弁才天像線彫の板碑がある。
新義真言宗豊山派旧金乗院末
新編武蔵風土記稿によれば「大明院無量院と号す、本尊不動法流開山教恵宝暦十年十二月十二日化す」とある。この寺は、はじめ、円明院と共に荘厳寺末であつた。荘厳寺の男寺と呼ばれるのに対し、当寺は女寺といわれていた。鐘楼に享保十一年鋳造の梵鐘があつたが今はない。檀家は荘厳寺と両檀家のところもあつた。
下練馬村には浄土宗の長源寺という寺があつたが、江戸時代に駒込に移転してしまつた。けれども檀徒はいくらか残つている。下練馬村の寺院は、古くから寺院附近に居住した旧家を中心に檀徒集団を形成していたようである。
新義真言宗豊山派旧西新井総持寺末
新編武蔵風土記稿に「夏雲山広原院と号す、本尊不動開山源心承応二年三月二十一日寂す」とある。
もと小竹にあつたという。廃寺の後、金乗院に合寺した。両眼院は上板橋村の長命寺の門徒であつた、新編武蔵風土記稿に「本尊不動を安す、出羽国秋田の僧快伝房延宝八年開基すと云」とある。
禪宗曹洞宗旧世田ケ谷勝光寺末
新編武蔵風土記稿に「豊島山無量院と称す、本尊阿彌陀又行基の作の薬師を安す、元は別堂にありしものなり、当寺は石神井城主豊島左近大夫景村の養子、豊島兵部大輔輝時応安五年四月十日此地において菩提寺を起立し、豊島山道場寺と号し僧大岳を延て開山とし、練馬郷の内六十二貫五百文の地を寄附す、其頃は済家なりと云、輝時は北条高時の子相模次郎時行の長子なり、其家滅亡の後景村養ひて豊島の家を継しめしとなり、事は過去帳に詳なり、輝時永
和元年七月七日卒す、勇明院正道一心と謚す、中興開山、観堂慶長六年五月二十六日寂す、此時今の派に改む、時の開基徳翁宗隣は小田原北条氏に仕へし石塚某の子にて、幼より仏心深く遂に剃髪して僧となり、観堂と力を戮せ堂宇を再建せり、慶長十年八月朔日寂す」とあり、寺宝として永祿五年四月の段銭懸銭免除についての文書がある。法華宗旧下総中山法華経寺末
新編武蔵風土記稿に「信光山と号す、本尊釈迦。開山日宜慶長三年七月寂す、開基豈性院日安は今の名主彌四郎か本家の祖にて、加藤作右衛門と称し、寛永十五年二月終る」とある。檀徒集団は土支田上組の一部であつた。
法華宗旧下総中山法華経寺末
新編武蔵風土記稿に「村の東豊島郡土支田村より入口にあり、法華宗、下総国葛飾郡中山法華経寺の末、法種山と号す、弘安五年法華経寺第二世日高聖人草創の地なれども、後住める僧もなかりしを、又かの寺の三祖日祐聖人再建し、一七日の説法ありしに村内天台宗修験大覚寺の住持日延聖人も此法筵に至り、深く其宗意を帰依し、遂に改めてこの宗となれり、日祐も日延聖人の智識、よのつねならざるを知り当寺を聖人に譲れり、今は日祐上人を開山とし、日延聖人を帰伏開山と称す、日延は永和二年十一月十一日に寂す、後天正年中御朱印地二十一石余を賜りしが、後回祿に罹り寺も衰へしに、二十一世明了院日教聖人堂宇を再造せしゆへ、是を中興開基とす、この聖人は享保十一年十一月十三日寂せり、本尊三宝を本堂に安す、往古大覚寺の本尊は嘉祥三年創建の時、開眼の(釈迦金仏坐像)今もこ
の寺に収め置たりといふ」とあり、このことは、同寺所蔵の文政八乙酉六月、寺附明細改帳にも詳しく記してある。もと慈東山大覚寺と称せしことは、寛文四年鋳造の当寺梵鐘の銘にもあらわされ、改宗のことについては、寛永二十年九月十七日に中山二十八世日養聖人が、住持東光院日逍聖人に授興した曼荼羅に、 画像を表示 画像を表示 <資料文>当寺□□日延聖人者受本山第三祖日祐師之化改天台宗帰伏吾宗祐師感其深志雖授与聖人号之本尊当寺炎焼時失之、予見於本山輪番第七祖日慈聖人親拝覧彼本尊之証文、今亦授与之、当住持東光院日逍聖人其外当寺代々之住持聖人号并漫茶羅在処判形之証文多之、当門流真俗不可有猶予者也
寛永二十大歳癸未歴九月十七日
授与之武州小榑法種山妙福寺住持
東光院 日逍聖人
資料文>と傍書してある。当寺住持には、下総中山の住持より、代々由緒を記し聖人号をつけて曼茶羅を授与された。当寺は西中山とも号し、多くの塔頭があり、近郷近在に檀徒集団を有していた。前にも述べた通り初めは慈覚大師の開基と伝える天台宗の寺院であつた。当時の旧地が今でも寺の近くに残されており、東陽房と名づけ、妙福寺奥光院と称している。当寺鬼子母神堂に安置せられた鬼子母神は、日蓮聖人平日の看経仏であつたと伝えられる。寺宝に、日蓮聖人真蹟涅槃経釈文断簡、天正十三年在銘祖師木像、鋳造釈迦仏、日高聖人筆板曼茶羅、経巻一部、釈迦涅槃図をはじめ、山制などがある。庫裡は元祿年間の建築で俗に「からかさ造」と称する構造である。
法華宗旧妙福寺末
新編武蔵風土記稿に「塔頭、大乗院、新井山円福寺と云、村の西にあり」とある。文政八年六月に書上げた妙福寺本末、寺附明細改帳に
<資料文>御当家何様巳来御除地相知不申候
境内一反分 但 間口東西三十間奥行南北六十間 領主 米津伊勢守殿
一、寺草創起立㕝度々所替而相分不申候
一、当寺開祖巳来歴世ノ㕝並霊宝己下一切無御座候
開祖日讃上人 号字未詳永徳二壬戍六月廿六日
(中略)
一、寺附田畑 高二十四石
上畑一町七反一畝廿一歩
中畑一反九畝十三歩
下畑二町二反廿六歩
下野七反九歩
一、祈願且家 久世大和守殿 自先規祈願相務申候由緒之儀ハ相知不申候
資料文>などと記してある。この寺は、大宣坊跡と伝えられ、妙福寺末の触頭である。小榑村の一部に檀徒集団があつた。
法華宗旧妙福寺末
新編武蔵風土記稿に「善行院、山号寺号等なし、法性院の側にあり」とある。妙福寺所蔵の文政八年寺附明細改帳
には「寺草創者法種山看坊二世日応上人閑居ノ地没後一宇ノ坊跡ニ相成候様ニ伝聞仕候」と記し、なお開基は善行院日応上人となし、法興山妙典寺と称せし由を伝えている。法華宗旧妙福寺末
当寺は加藤山実成寺という。新編武蔵風土記稿に「村内東の方にあり、加賀阿闍梨日正聖人、天正年中創建なり、加藤山実成寺と号す、この寺は往古より村内妙福寺末にて、法性坊と唱えしが寛政五年十七世日慈聖人の時、妙福寺の本山法華経寺の末となり、院号を免許せられ、今は法性院と云ふとあり、文政八年六月の寺附明細改帳には、「寺草創者天正二乙酉年阿闍梨日唱受加藤氏施開発ス開祖加賀阿闍梨日唱聖人天正三丙戍十月十三日寂」と記してある。
妙福寺の塔中本応院は廃寺となつた、この寺は寺伝によれば、延文二年安楽坊日信大徳の開基という。
法華宗旧妙福寺末
画像を表示新編武蔵風土記稿に「法耀山と号す、本尊三宝祖師を安す、開山日誉寛永二年寂す、当時名主を勤めし政右衛門と云ひしもの開基せりと云」とある。文政八年六月の寺附明細改帳には「開祖真如院日誉上人 法種山十一祖 慶安二巳子四月十八日寂、開基人清光院日耀贈大徳俗名井口忠兵衛年月日未詳」と記し、また、「且頭ト申者自先々取極無御座候開基人井口忠兵衛跡政右衛門ト申者御座候」と書いてある。本立寺は福寿坊と号した。
法華宗旧下総中山法華経寺末
新編武蔵風土記稿に「境内八畝九歩、小名中嶋にあり、本堂五間に七間半、了光山と号す、開山日勇上人文録二年三月二十日に寂せり」とある、しかし寺伝では同寺の開基を天正十八年と伝える。関村に檀徒集団があつた。
法華宗旧駿河蓮永寺末
新編武蔵風土記稿によれば、
<資料文>長久山と号す、本尊釈迦、開山日雄は元和元年九月寂す、当寺は板倉阿波守の先祖四郎兵衛と云ものゝ開基なり、此人寛永二年八月卒し、法名決山源英と号すと云、按に板倉家譜に、伊賀守勝重少名四郎左衛門と称す、寛永元年四月二十九日卒し、法名慈光院傑三源英と見ゆ、是年月、法号とも異同あれど略年代等相似たれば、若くは勝重がことにして寺伝たまたま誤れるにや
資料文>と記してある。
法華宗旧雑司ケ谷法明寺末
新編武蔵風土記稿に「法光山と号す、開山日円元和三年十月化す、開基法光院常蓮俗称を小島兵庫と云、慶長元年八月十一日死す、本尊釈迦」とある。
時宗「もと、品川長徳寺境外仏堂」
当寺は、もと品川長徳寺の阿彌陀堂であつたが、昭和二十五年八月に寺号公称して一寺となつた。
以上の寺院は、いづれも、江戸時代から存在した寺院であるが、大正十二年の関東大震災以後に次の寺院がこの辺に移転して来た。
古義真言宗東寺派
十善戒寺と称す、明治二十七年、雲照律師開基、もと近江石山寺の塔頭、移転後目白僧園と称した。
臨済宗大徳寺派
広徳寺別院と共に当所へ移転、二軒寺と云う寛永二十年十月、円照院殿華陽宗月大士開基。
日蓮宗旧稲付法真寺末
久遠山と号し俗に山寺と云う、正保元年十一月十九日、本涛院日宜上人開基。
浄土宗「もと、田島山誓願寺塔中」
(
誓願寺別院と称す。文祿元年翁誉文公和尚開基。
慶長年間、本蓮社正誉秀覚和尚開基、西褄院と合寺。
寛永年中迎蓮社求誉古閑和尚開基。
誓願寺塔頭の中、土井家、三浦家、刈谷家の宿坊、文祿四年三月、一蓮社音誉春察上人。開基。
慶長年中、蓮誉台休和尚開山、長壽院を合寺、中興法蓮社性誉眞如海阿靜源和尚。
寛永中、称西和尚開基。
元和元年龍誉得生和尚開基。
慶長二酉年本蓮社心誉祖源和尚開基。
常念佛道場として創建、寛文六年未二月二十五日、清蓮社久誉接阿和尚開基。
寛永年中淨蓮社清誉上人光阿円授老和尚開基。
寛永年中、林宗和尚開基。
この寺を総称して俗に十一カ寺と云う。
真宗高田派
(
元和年間房総之守里見家の臣作内義政八男某法名宗雲開基。
浄土真宗西本願寺派
開基開山不祥、昭和三年三月奈良県吉野郡より釈最勝が現地に移転。
浄土真宗本願寺派
(
明暦年間林西開基。
宝華山と号す、寛永十八年吉川元玄によつて江戸青山に創立、專称寺と号し万治年間築地に移転、延宝の頃現在の寺名に改称。
白雲山と号す、文明年間、願浄開基、武州金杉に一寺創立、明暦年間京橋築地に移る。
以上を俗に三カ寺と称する。
真宗大谷派
開基開山不詳、本尊阿彌陀如来、昭和六年三月山梨県東山梨郡八代村栄照寺を移転、寺号改称
開基は玄正と称す、徳川家旗本近藤政信の三男にして本願寺第十三代宣如法主に帰依し入道となり正保三年武
蔵国豊島郡江戸本町に一宇を創立し法融寺と号す、明歴三年の江戸大火(振袖火事)に遇い浅草本願寺境内に移る、後大正十二年九月一日関東大震火災に焼失後、本堂庫裡再建復興せしも昭和二十年三月の米軍大空襲により戦火を受け、現在地に再度移転す。現住職は法融寺第十三世にして開基以来三百十二年を閲す。尚当寺宝物として次のものを伝う。
本尊
(以上同縁起による)
これ等の寺院は終戦後本末関係が断たれ、すべて、本山直末となつて宗教活動を営み、それぞれ寺院機能を発揮している。
本文> 節> 章> <章>石神井城址は、上石神井町二丁目にある。北は三宝寺池の谷、南は石神井川の低地、その間にはさまつた、西から東へ舌状をなした幅の狭い丘陵の上である。北の三宝寺池の方は、一〇メートル位の断崖をなし、南の方石神井川の谷は緩傾斜であるが、現在、田や石神井小学校の運動場になつている所は、もとは沼沢地であつたから、城濠の役目を十分に果して、自然の要害となつていた。それ故、東西の方面だけに人工で防禦施設をすれば、事足りるのであつた。そのために構築された空濠と土囲とは、今も一部ながら、なお残つており、往時の形勢をしのばせるものがある。
略図のAの部分は、西方の遺構で、昭和二十八年まで残存していたものである。土囲は崩れて二メートルに足らず、空濠は埋れてわずかに深さ一メートル位に過ぎなくなつていたが、長さは南方へ直線で道路に添つて六〇メートル位はあつた。なお、昔時に於いては、さらに南方の石神井川の低地まで延び、北方も三宝寺池畔に達していたものであることは確である。
Bは東方の遺構で、土囲の最も高い部分は五メートル位もあり、空濠の幅は五六メートル程もある。北は池の崖端
から起つて、南下して、さらに東に折れて、約一二〇メートル程残つているが、これは明治時代までは、東に折れる所で西にうねり、ずつと南の低地まで延びていたという。今、三宝寺太師堂裏手Fに、低いけれども土囲らしいものが、わずかに残つているのが、その面影である。そして、南北線の中間に、一つの屈曲を持つていることは、築城の技術上注目すべき点である。 画像を表示なお、氷川神社表参道の西側にも、空濠があつたというが、これが果して城濠であつたかは、軽々に断定はできない。現状から推して、往昔の模様を考えることは、非常に困
難になつてしまつたが、大体三郭または四郭に分れていたものと思われる。そして、氷川神社のあるあたりに、館があつたという人もあるが、東土囲の東方Cが、いわゆる本丸で、中心の館があつた所と推定する。もちろん氷川神社や三宝寺の辺にも、家臣の邸など、いろいろの建築物のあつたろうことは想像に難くない。従つて東の防禦構築は、今、広い道路に改修されているD―Eの線にもあつたと考えられる。また地形を見るに、丘陵の幅の最も狭くなつている所は、三宝寺と道場寺との間で、現在栗原氏門前の切通になつている所である。この現切通は、最近開鑿したものではあるが、その以前に、ここに空濠があつたのではあるまいかと、考えられないこともない。そうすれば、この線が城の東の防禦線であつたろうという考えも成立つわけである。しかし、ここに空濠のあつたことを記憶する古老もないし、「東京府史料」に載せている明治初年の見取図にも、空濠は画かれていないので、これも一つの推察に止るものである。 画像を表示この城は、鎌倉時代の末期に築いたものと思われる。豊嶋氏の本拠は古くは石神井川の下流地域にあつたのに、この石神井に築城したことは、その勢力範囲が西方に拡張されたことを物語つている。そして、文明九年四月二十八日太田道灌に攻略されたことも、既に述べたとおりで、その後は廃城となり、その一郭に、太田道灌によつて三宝寺が移建された。
現在では、氷川神社及び道場寺、三宝寺の境内、小学校の敷地の外は、畑、山林及び住宅地となつており、大正八年に、東京府の史跡に指定され、石神井風致地区の一部となつている。
本文> 節> <節>石神井城址から南方七〇〇メートル程の距離で、石神井川の谷を距てた崖上(上石神井町一丁目)一帯を愛宕山の砦址という。そこには、もと愛宕権現の社があつたからである。
太田道灌は、江古田、沼袋原の戦で、豊嶋勢を打破ると、敗残兵を追うて来り、ここに砦を設け陣を布いて、石神井城を攻撃した。その時、道灌が愛宕の神を勧請して、勝利を祈つたと伝えている。
ここは、石神井城と相対して、これを観望するには、確に最好の場所であるが、現在では、何ら砦の遺構らしいものを残していない。しかし、江戸時代には、幾分でも砦のあつた様子がうかがわれたのであろう。「江戸名所図会」には次のように記載している。
画像を表示 本文> <項>同所西南の林岡にあり。東西百五十歩、南北百余歩。相伝、太田道灌の城址
なりと。土人は字して城山と唱う。前に関川を懐き、後に練馬城址は、豊嶋城址ともいい、向山町(向山ケ谷戸)にあつて、石神井川右岸丘陵の上で、東西二つの侵蝕谷の間にある。従つて北は七八メートルの急崖の下に迫つて、石神井川が流れているので、そのまま自然の城濠をなし、東西は侵蝕谷を濠に利用できる。それ故南の一方だけに、人工の防備をすればよい形勝の地である。
画像を表示今では、南方にあつたと思われる土囲、空濠は、その跡を詳にしないが、北方崖端に接して、東西一〇〇メートル、南北八〇メートル程の土囲を回らした矩形の平地が見られ、ここが当時、館のあつた所と思われる。南の方の土囲の中央が切れていて、もとは馬出のような址が見られたという人もある。
現在ここは豊島園内に取入られて、館址は花壇となり、南東隅には洋風の建造物も造られた。また東の堀は池に利用され、西の堀にはプールが造
られたが、地形には大きな変化はない。北東隅、稲荷の小祠のある小高い所は、おそらく櫓の址であろうといわれている。全体にまだ城地としての様子を、しのべる程度に保存されているのは幸いである。この城は、鎌倉末期に、石神井城とほぼ同時代に、豊嶋景村によつて築かれたものと伝えられている。景村の嗣が絶えた後も、部将が引続き在城したと思われ、かの江古田、沼袋原の合戦の時には、ここの城兵も泰経に従つて出陣した。そして文明九年四月石神井城の陥落と、その運命を共にしたものと思われる。それ以来、主のない廃城となつたが、またこの構造から見て、戦国時代に、手が加えられたものと考えている説もある。後、江戸時代になつて耕地に開かれ、近年主要部は豊島園の敷地となり、その南方は住宅地となつた。
本文> 節> <節>東高野山長命寺の創建その他については、別項記載のとおりである。その規模は、紀州高野山に摸したものと云われ、東国衆生結縁の霊場となり、それ故に東高野山と称せられた。境内全域、江戸初期草創当時の面影を、今もよく保つているが、特に奥院の付近一帯は、幽邃で、由緒深い江戸時代の庶民信仰の霊場たる趣は、都内では稀に見るところである。
画像を表示御廟橋標石 一基 嘉永七寅年六月吉日
当山二十一世泰英代 橋修覆之 北八講中
燈籠 二基 慶安五年九月廿一日
奉献石燈籠二基 武州豊島郡谷原村 施主 増島八郎右門重俊
燈籠 十本 慶安五壬辰天四月廿一日敬白
奉寄進石燈籠十本内 増島八郎右衛門重俊
現世安穏後生善所也
地蔵尊立像(舟型後背付)一体 天和元辛酉十月廿八日
法印定誉不生位
宝篋印塔 十基 慶安五壬辰天四月廿一日
増島八郎右衛門重俊
聖観音(舟型後背付)一体 享保十七壬子年四月二十八日 雲上開光法印
聖観音(舟型後背付)一体 明歴元年九月廿一日 施主 増島八郎右門重俊
為台含妙真禅定尼頓証菩提也
馬頭観音(舟型後背付)一体 明歴元年七月十日 施主 増島八良右門重俊
為権大僧都法印円巖菩提也
地蔵菩薩立像 一体 延宝五年十一月十四日 法印権大僧都定昌
十王、十三仏、六地蔵石仏 承応三年八月十五日
右志者為三界万霊有縁無縁菩提也
宝塔 四基
大猷院殿供養塔 慶安五天四月廿日敬白
聖観音(舟型後背付)施主 大橋甚右衛門
如意輪観音(舟型後背付)
千手観音(舟型後背付)
御廟橋付近から、参道の両側、奥院及び十三仏の安置されている地域にわたつて、面積三〇、五七一・二五平方メートルが、都の史跡として、昭和三十年二月に指定された。
本文> 節> <節>石神井川の中流、豊島園から下にわたつて、板橋区に連る両岸には、川の流をはさんで桜が植えられており、四月の花時には、桜花のトンネルとなつて見事である。
画像を表示この桜は、皇太子殿下の御誕生を奉祝し記念のために、沿岸の人の
手によつて植えられたもので、大正時代から戦時まで、花の名所として知られていた千川の桜が亡びた今日では、城北随一の花見場所となつた。区でもこの川の沿岸を、名勝地として公園施設を計画しているので、その完成の暁には、練馬区の持つ誇の一つとなるのであろう。 本文> 節> <節>三宝寺池は、上石神井町にあつて、井頭の池(練馬区東大泉町)善福寺池(杉並区善福寺町)井之頭池(武蔵野市・三鷹市)新川丸池(三鷹市)などと共に、武蔵野を縦走している五〇メートル等高線に沿うた池の一つである。その特長として大体杓子のような形をしているのは、武蔵野台地の地下水が湧出した谷頭に水が湛えられたものだからである。
画像を表示江戸時代の地誌によると、三宝寺池は、東西三、四町、南北二町余と記されているが、追々周囲が埋つて、今では二万四千平方メートル程になつてしまつた。水深は、最も深い所で二・八メートルに達し、前記の池の中では一番深いのであるが、大部分は二メートル位で、東の流口に近い方はずつと浅くなつている。
西部の谷頭部には、数カ所のつぽがあつて、絶えず清冽な水が湧き出ているが、その他の側壁からも、また水がにじみ出ている。これは、他の池と同様、武
蔵野台地下の滞水する砂利層から湧き出すもので、夏でも底部の水温は一五度位に冷く、表面さえ二四度を昇らない。冬はまた七度よりは下らないので、決して凍結するようなことはない。湧水量も相当多いので、冬の渇水期にも、また夏のどんなひでりでも、涸れるようなことはない。この水は溢れて小流となり、石神井川の重要な水源の一つとなつている。水の湧口近くでは水温が低いので、水藻が生育しないが、その他の谷頭部は、セキシヨウモで一面に覆われている。流出口近くになると、水温も昇るので、ヨシなども生ずるようになつている。東部には、腐植質の積重つた浮島状のものが大小二個あつて、これに湿地性の植物が繁茂して、この池特有の景観を呈している。
水の乏しい武蔵野にあつては、これらの池は、あたかも沙漠のオアシスにも例えられるような存在で、昔の人たちには飲料水を供給し、また水田開発のために、非常に貴重な使命を持つていた。これは、今の人の想像の遠く及ばぬところであつたことは、どの池にも、みな弁才天が祀られて、水利に感謝の誠を捧げていることでも知ることができよう。三宝寺池の中島にある弁才天は、江戸時代には有名で、参詣人も非常に多く、特に巳待の夜には賑つたものである。この弁才天を信仰する者の講は、三宝寺に残る文政十年の「巳待万人講列名簿」によると、石神井川の恩恵を直接蒙つている沿岸の村々ばかりでなく、板橋と王子との堰によつて分水され、一方は稲付、十条、赤羽村方面から、一方は遠く下谷、浅草地方に至る村々、その外江戸府内の馬喰町のような市中にも亙つて、実に四十余カ町村に、存在していたことがわかるのである。
このようにして、三宝寺池は実利の上からも、また信仰の上からも、昔の人には大切にされたので、周囲の樹木は
うつそうとし、池中に水草類が蔓るにまかせられ、八百余種にのぼる植物が自生し、近年まで武蔵野の自然の姿を保つていた。特に池の周囲や、浮鳥の湿地には、種々めずらしい植物が繁殖していたので、昭和十年十二月には、国有地九八六坪の地域を「三宝寺池沼沢植物群落」として、天然記念物に指定された。ここは、「杜若で被はれ、ミツガシワ・ミクリ・テンツキ等の湿草発生し旧時の武蔵野中の著しい沼沢植物群落の一部が、今日に残つたものとして重要である」と公示されているが、その外、この池特有のシヤクジイタヌキモが発見されたことも、特記すべきことである。しかし、現在では指定以来、その保護のよろしきを得なかつたため、甚しい変貌を来していることは、まことに歎かわしいことである。また、池の周囲は古来禁猟地であつたから、種々の鳥類も安心して棲息していたが、戦後ここで発砲した者があつたため、カモやオシドリの類は、ほとんどその渡来を断つてしまつたのは、残念なことである。鳥類の外、魚類には巣を営むトゲウオのような珍奇なものもおり、両棲類も豊富で、武蔵野にすむものは、あらかたここに生育している。特に昆虫類は、その種類三千余と数えられた程である。
このように三宝寺池及びその周囲は、実に自然科学研究の宝庫ともいうべきところで、都市の中にありながら、長く自然の状態を保つて来たことは、まことにありがたいことである。昭和五年に内務省は、この付近一帯を風致地区に指定して、心ない人によつて荒されることを防止しているが、ここが単なる都民の遊覧地になつてしまうことなく、武蔵野の自然の美しさを永く保存する場所として、特異な存在とすべきである。
東京都でも、池の周囲を石神井公園として、着々計営を進めているが、また三宝寺池から流出する水を堰止めて、
幅五〇メートル長さは七〇〇メートルにも余る人工の石神井池が作られ、ここには貸ボートなどが浮び、都民行楽の場所として、親まれている。なお池のほとりには、わが国唯一の「蝉類博物館」のあることを特記して置く。
画像を表示 画像を表示 本文> 節> <節>豊島園は、大正十五年に藤田好三郎氏によつてはじめて経営された
ものである。その後幾多の変遷を経て、今日のように都下随一の隆盛を誇るようになつた。総面積十万余坪あり近代的大総合遊園で、園内には練馬城址、ボート池、トラツク、小鳥園、動物舎、温室、劇場、ウォーターシュート、空飛ぶ電車、ユネスコ列車、ムーンロケツト、アースウエーブ等の施設があつて、子供にも大人にも喜ばれる所として知られている。なお豊島園ホテル等の設備もある。 本文> 節> 章> <章>広徳寺は、台東区北稲荷町にあつて、臨済宗大徳寺派に属し、江戸時代以来、東京屈指の大寺でる。加賀の前田家をはじめとし、諸大名を檀家として、広大な寺域に諸堂完備し、都下稀に見る壮厳であつた。
大正十二年の大震災による区劃整理に当つて、南町三丁目の当地に、別院を建て、墓地は大正十四年三月以降、順次ここに移転したのである。
立花宗茂は、高橋紹運の子、はじめは統虎といい、立花家を嗣ぐ。若くして筑後国立花山城主となり、島津義久と戦つて豊臣秀吉に認められ、天正十五年、柳川の城主として十三万二千石の領地を与えられた。天正十八年には、小田原城を攻めて功あり、文祿の朝鮮役には、平壤において祖承訓を破り、碧蹄館では明の将李如章の大軍を撃破して、勇名を海外に挙げた。慶長二年の再征には、蔚山に籠城した加藤清正、浅野幸長の危急を救つた。
秀吉がかつて、「天下一双の勇将は、独り鎮西の立花宗茂と、東国の本多忠勝とのみで、自余は勁果を以つて、自ら許すものである」と評したという。
画像を表示 画像を表示 画像を表示 画像を表示慶長五年、関カ原の戦には、石田三成に組して、伏見城を抜き大津城を占領したが、石田軍敗ると聞いて領地に帰り、鍋島勝茂と戦つた。黒田孝高、加藤清正に勧められて、東軍と和し、島津を討つため出陣したが、その降参により戦わずして引上げた。戦治つて孝高、清正が、家康に請うて、ようやく許され、奥州棚倉に移されて、僅かに一万石を与えられた。その後大坂の陣における功により、元和六年本領柳川を復し、十万九千六百石を領した。
このように、武将として有名であるが、またよく民政に留意し、善政を布いたので、領民にその徳を慕われた。
寛永十九年(一六四二)十一月二十五日歿、年七十四、或は七十六という。大正四年に、生前の功によつて、従三位を追贈された。
大円院殿松隠宗茂大居士。
柳生家は、菅原道真の子孫で、中世以来、大和国柳生荘を本貫の地として、柳生を氏とした。宗厳の時、豊臣秀吉のために、領地を奪われたが、その子宗矩の時、徳川家康に仕えて柳生の地を復した。
宗矩は初め新左衛門、又右衛門といい、但馬守と称した。
宗矩は、父祖伝来の兵法を伝え、新陰流の剣法を以つて、徳川家光の師範役となつた。家光は、宗矩から単に剣法の指南を受けたばかりでなく、人格完成の師としてこれを仰いでいたという。寛永十四年に、島原の乱の勃発した時、家光は板倉重昌を遣わして、これを鎮圧しよとした。宗矩がこれを聞いて、重昌では、諸侯の兵を動かすことが出来難いので、やがてまた他の者を任命せねばならなくなり、そうすれば重昌は面目を失して、命を完うすることが
できなくなるであろう。あたら有為の士を失うことは惜しみても余りあることであるとて、家光謁して、これを止めようとしたが、時既に遅く及ばなかつた。結果は彼の予言のとおり、重昌は苦戦の末、松平信綱の島原に来る二日前に原の城門近くで戦死してしまつた。もとよりこれは俗説であるが、宗矩の見識の一端を察することは出来よう。正保三年(一六四六)三月二十六日歿、年七十六。
前但州大守贈従四位大道宗活居士(
柳生三巖は宗矩の長子、幼名七郎、十兵衛という。父と共に剣法に勝れ、諸国を遍歴し、その名は広く世に知られている。家光の厚遇を得て、父から八千三百石を譲受けた。剣法の書「月見集」を著した。
慶安三年(一六五〇)三月二十一日歿、年四十四。
長巖院殿金甫宗剛大居士。
宗矩の第三子、父から四千石を分ち与えられる。剣法奥義を極め天下無比と称せられた。兄三巖の死後は、その遺領を併せ、徳川家光、家綱、綱吉の三代にわたつて、その指南役を勤めた。
延宝三年(一六七五)九月二十九日歿。年六十三。
前飛州大守法岩勝公居士(
域内には四代宗春以下の代々の当主の墓碑もある。
画像を表示菊池五山は讃岐(
当時の漢詩は専ら明朝風のものが広く行われていたが、五山はこの時流に抗して、大窪詩仏等と共に、宋詩の風韻を尊んで、この風の普及に努めた。これによつて詩名大いに世にあがり、画の文兆、書の鵬斎と共に、当時芸苑の三絶と讃えられるに至つた。坊間ではこの三人に加えるに芸のお松、料理の八百善を以つてした。如何に大衆にまで、その名が膾炙していたかを知ることが出来よう。また五山は書もよくし、特に五の字を太く書いたので、文晁が晁の字を太く書くのと並び称して、頭五山尻文晁といつたという。
文政頃から仕えて讃州高松藩の儒官となつた。「五山堂詩存」「五山堂詩話」等の著書が多い。
嘉永六年(一八五三)六月二十七日歿。年八十一。
五山菊池無弦居士、
菊池五山の門から出た学者、文人も数多くあつたが、その子晋或は武広も父の業を継いで、儒者として知られている。晋は秋峯、或は秋浦と号し、字は漢之といい、通称を新三郎といつた。
明治十九年四月十九日歿。年七十四
法証院秋峯日乗信士。
大内熊耳は奥州三春(
「熊耳文集」「熊耳遺稿」等の著書がある。
安永五年(一七七六)四月二十八日歿、年八十
敬心斎義山紹勇居士。
当寺の墓域は約七千坪にわたり、古きは慶長時代に遡る諸大名の墓石が見られる。下谷の墓地には、加賀前田家の松の御殿、梅の御殿と称して一郭数百坪の広さを有するものさえあつたが、今は、これは金沢に移されてなく、他の諸大名のも、移転に当つて、皆整理をして縮少されたが、なお巨大な墓石が林立しているのは、人目を驚かすに足りる。その中から主なものを挙げてみる。
近衛家
前田家 越中国富山藩(一〇〇、〇〇〇石)
前田家 加賀国大聖寺藩(一〇〇、〇〇〇石)
松平家 岩代国会津藩(二八〇、〇〇〇石)
立花家 筑後国柳川藩(一一九、〇〇〇石)
立花家 同 三池藩( 一〇、〇〇〇石)
織田家 丹波国柏原藩( 二〇、〇〇〇石)
小出家 同 園部藩( 二六、七一一石)
細川家 常陸国谷田部( 一六、〇〇〇石)
小笠原家 播磨国安志藩( 一〇、〇〇〇石)
秋月家 日向国高鍋藩( 二七、〇〇〇石)
森家 播磨国赤穂藩( 二〇、〇〇〇石)
柳生家 大和国柳生藩( 一〇、〇〇〇石)
松浦家 肥前国平戸藩( 六一、七〇〇石)
蜂須賀家 阿波国徳島藩(二五七、九〇〇石)
酒井家 羽前国鶴カ岡藩(一七〇、〇〇〇石)
松平家 伊勢国桑名藩(一一〇、〇〇〇石)
小笠原家 豊前国小倉藩(一五〇、〇〇〇石)
市橋家 近江国西王路藩( 一八、〇〇〇石)
関家 備中国新見藩( 一八、〇〇〇石)
真田家 信濃国松代藩(一〇〇、〇〇〇石)
小堀家 近江国小玉藩( 一〇、六三〇石)
加賀爪家
本文> 節> <節>浄土宗、誓願寺は江戸の初期小田原から、江戸神田に移建し、さらに明歴三年の大火後、浅草田島町に移つた。朱印三百石を与えられた大寺で、また檀家には札差青地氏、金座御用後藤氏、呉服御用後藤氏等豪商が多かつた。
大正大震災の後、誓願寺は多摩霊園前に移転し、塔頭の
○
前田夏蔭、通称は健助といい鶯園と号した。清水浜臣の門人となり、国学者として著書が多い。その中で「鶯園文叢」「鶯園歌集」「木の芽の説」等が主なものである、
元治元年(一八六四)八月二十六日歿、年七十二。
古槐院清凉夏蔭居士。
大久保忠光は大久保家五代の当主である。この人の時、浄土宗に改宗したので、西慶院を菩提寺とし、六代以下ここに合葬せられている。西慶院は、明治維新後九品院に合併した。
享保四年四月二日歿。
持名院殿実蓮社真誉忠証皓然居士。
初代大久保忠行は、天正十八年に、井之頭池の水をひいて、これを江戸の市中の飲料水に供した。これが神田上水である。江戸の下町は、元来海水の湛えていた所、または沮洳地であつたから、良水を得ることがすこぶる困難であ
る。神田上水が、下町の発展に寄与したことは多大なものがあつた。よつて忠行は将軍から○
小野蘭山は京都の人職茂の子である。名は
幼少の時、「秘伝花鏡」(
年と共に名声四方に聞え、門に入るもの全国から集る程になつた。この講義の筆記を編集した「大和本草会議」「秘伝花鏡記聞」を著し、また明の李時珍の「本草綱目」及び宋の鄭夾際の「通史昆虫草木略」を校訂した。
寛政十一年、年七十一歳の時。幕府の召聘により、江戸に来て、浅草向柳原にある幕府の
蘭山の著書には「飯膳摘要」「薬名考」「耋筵小牘」「本草啓蒙広参説」「本草綱目弁誤」「衆芳軒雑録」「詩経
名物弁解記聞」「巻懐食鏡記聞」「爾雅註疏記聞」「薬性知源」等毎挙に暇ない程であるが、その中で「本草綱目啓蒙」四十八巻は、彼の主著として知られているものである。これは享和二年(一八〇二)の冬に、孫の安部子徳と門人岡村春益とが、蘭山の講述を筆録し、蘭山が自ら校訂して出版したものである。これは「本草綱目」の啓蒙的解説書として編纂されたものであるが、広く古今和漢の典籍を参考とし、更に自らの実地研究による結果を併せたもので、実に当時に於ける本草学の最高権威書であつたばかりでなく、今なおその価値を失わぬ程のものである。孫の子徳は家学を継いで本草学の大家となつた。文化七年(一八一〇)一月二十七日歿、年八十二。
明治四十二年、その功によつて従四位を追贈された。
救法院顕現道意居士。
墓地は、もと台東区浅草田島町にあつた時、大正十三年二月五日、史蹟として東京府知事の仮指定を受けたが、現地へ移したため、昭和四年五月に指定解除となつた。
なお、同地域内に、小野蕙畝その他一族の墓碑も建てられている。
植村淇園の名は正直といい、字を希波といつた。太宰春台の門より出で、儒学者として知られている。
寛政元年(一七八九)十二月二十九日歿。
植村正路は萩屋主人と号し、国学者である。
文化十四年(一八一七)五月十七日歿。
岡部覚彌は、筑前国(
大正七年九月九日歿、年四十六。
智徳院泰山射石居士。
○仁寿院
松井源水の元祖は、玄長といい、越中国戸波の人で、霊薬反魂丹を売出して知られ、二代道之の時富山に移つた。江戸で売りはじめたのは延宝天和の頃といわれる。
浅草観音の境内で、人を集める手段として、曲独楽を行つたが、これが江戸の名物となつて全国に喧伝せられた。享保十一年十一月には、将軍吉宗がここへ来た時に、独楽と枕の曲とを見物して、御成御用の符を与えたので、益々有名となつた。また独楽の外、見物人の中の齲歯を手際よく抜いて、人々をアツといわせたりした。後には、売薬よ
りも、芸が本業のようになつたが、江戸から東京へと、代々継承して、十七代目に至つて断絶したのは、実に大正時代のことである。宗家松井源水の墓として、合葬されている。
○
小沢卜尺は江戸本船町(
寛文十二年九月、父得入の許へ、初めて江戸に下つた芭蕉が草鞋をぬいだ。それ以来、卜尺は芭蕉の友となり、輔佐となつてこれを大成せしむるに力をいたした。彼もまた延宝二十歌仙の一人に選ばれる程になつた。
春ごとに松は
寛延四年九月三十日歿。
○
一世馬場存義は江戸の人で、はじめ三浦氏に仕えた。初名は泰里、号は李井庵、古来庵、有無庵などといつた。
服部南郭の門に入つて儒を学んだが、名をなすことの不可能なのを悟り、儒学を捨て、春来泰室に就いて、俳諧に専念した。やがて、俳諧師として大家となつた。
天明二年(一七八二)十月晦日歿、年八十。
有無庵存義無一居士。
「間をおいて また聞ゆるや 雪の鐘」の句が刻れている。
馬場家合葬墓。
千金斎春芳は狂歌の号で、本名は千野半兵衛といい、万屋といつた。
弘化四年(一八四七)四月十一日歿、年八十六。
専願浄生信士。
合葬墓である。
○受用院
池永道雲、名は栄春といい、一峯とも号した。江戸の商人であつたが、書道を学び、ついに書体一家なすにいたつた。また、一方では、我が国に於いて、篆刻の祖といわれ、不出世の名人であつた。「篆髄」「一刀万篆」の著がある。
元文二年(一七三七)七月十九日歿、年七十三。
蓮邦道雲居士。
昭和七年七月、東京府の標識保存史蹟となつた。
初代沢村宗十郎、俳名は訥子、高賀という。京都で宮家に仕える士三木若狭守の三男として生れ、本名は藤吉郎といつた。
はじめ沢村長十郎の弟子として染山喜十郎と名乗つて初舞台を踏んだ。享保二年大阪で「国姓爺」の和藤内を勤め、ようやくその伎を認められた。同三年に名を惣十郎と改めて、江戸の森田座に出演、同六年春の十郎祐成等で好評を博し、以来年毎に名声を挙げ、同二十一年には、総巻頭となつて、総巻軸の二世市川団十郎と相対する位置を占めるに至つた。後、大阪及び京都に上り、愈々声誉を高め無類の位に進み、延享四年三世長十郎を継いだ。同年、初代瀬川菊之丞と二世団十郎と共に、中村座に出演したので、世人は三千両の顔見世といつて、賛美したという。また団十郎と江戸両輪の名人とたたえられた。宝歴三年、助高屋高助と改め、俳優として絶大の栄誉を担うた。
彼は団十郎と違つて、如何なる役でも、それぞれ見事にこなすという人であつたが、大星由良助、曾我十郎、狐の女郎買、平清盛等数多い当り役で、特に和事、実事に長じていた。
さらにまた、彼は狂言も作り、書をよくし、俳句に勝れ、茶の湯の伎にも精通する程に、すこぶる多芸の人であつた。
宝歴六年(一七五六)正月三日歿、年七十二、或は六十九。
高龍院一徳月助信士。
二代沢村宗十郎は、俳名は龜音、曙山、訥子、家号を紀伊国屋という。歌川四郎五郎といつて中村座に出ていた時、初代宗十郎に認められて、その養子となつた。寛延二年のことである。その伎益々上達して、明和六年には至上上吉に昇つた。
当り役は十郎祐成、左金吾頼兼、小野道風等多かつた。はじめは和事をよくしたが、後には実悪を得手とした。
明和七年(一七七〇)八月晦日歿、年五十八。
宝林院得誉宗空居士。
三代沢村宗十郎、俳名は遮莫、曙山、訥子という、家号は紀伊国屋と称した。二代宗十郎の次男で、二代助高屋高助の弟、幼名を沢村田之助といつた。
宝歴九年に中村座で初舞台を踏み、明和八年、父の後を襲つて三代宗十郎を名乗り、立役となつた。以来京阪にも上り、江戸の名優として令名をはせた。寛政時代随一の立役として、和事、実事、所作等いずれも行くところ佳ならざるはなかつたが、特に父と同じく和事を長所としていた。千本桜の忠信、名古屋山三等の時代、紙屋治兵衛等の世話、共に当り役であつたが、晩年には専ら並木五瓶の作を演じ、五大力の源五兵衛も当り役の一つであつた。また大
星由良之助は、その妙伎実に古今無双と、今も語り草になつている。若くして死んだので、深く世人に惜まれた。享和元年(一八〇一)三月二十九日歿、年四十九。
遊心院頓誉西天居士。
最近改葬して、一家の合葬墓となつた。
前記のように、初代沢村宗十郎は晩年に、助高屋高助と称した。二代助高屋高助、俳名は中車、初代の孫で、三代宗十郎の兄である。幼名を沢村金平といい、後瀬川雄次郎と改めたが、明和八年に三代の市川八百蔵を継いだ。文政元年(一八一八)十二月六日、旅興業中福島で歿した。
嶺松院高誉凌寒居士。
(
文久三年(一八六三)九月十五日歿、年五十七。
源誉暹月沢村信士。
画像を表示○称名院
佐脇嵩之は、初名を道賢といい、字は子嶽、一水と号したが、その他東宿、果々観、中岳堂、一翠斎、幽篁亭などの別号があり、甚内、或は甚蔵とも称した。
英一蝶について学び、狩野家の画意を変じて、その作るところ浮世絵に近しといわれた。浅草観音堂に奉納した、老人と子供と虎の絵額は、当時世人の賞賛したものであつた。
明和九年(一七七二)七月三日歿、年六十六。
果々観嵩中子岳念的居士。
佐脇英之は嵩谷の娘、また嵩雪の娘ともいう。画を父に学んで一家をなした。
寛政三年(一七九一)六月三日歿。
松月英之信女。
佐脇嵩雪は、嵩之の子で、通称は倉治、字は貴多といい、伃止楼、中岳斎と号した。
幼より父に学び、その画法を継承して、父に劣らぬ声名があつた。
文化元年(一八〇四)十一月二十二日歿。年六十九。
群山嵩雪居士。
以上佐脇家の三人の遺骨は、中井金之助墓所に合葬してある。
○林宗院
奈良安親、本名は土屋彌五八、後に東雨と号した。神田龍閑町に住した。
奈良辰政の弟子となり、当時第一の彫金の妙手といわれ、その風利寿に似て同じからず、奇を好んで自然の妙域に至つた。後年贋作が多く出たが、庸手ではその神髄を真似ることが出来なかつた。
延享元年(一七四四)九月二十七日歿、年七十五。
国瑞元家信士。
燕栗園千寿、本名は山田屋佐助といつて、狂歌師として聞えている。
安政五年(一八五八)八月十七日歿、年五十五。
慈念端守信士。
合葬墓。
岸本由豆流、或は弓弦、伊勢国朝田村(
村田春海の門人となり、国文の研究に努め、博学多識で、蔵書は三万に達したという。家業を長子に譲つて後は、専ら古典の註解等の著述に従事した。著すところ実に三十余種に上つたが、「土佐日記考証」「契沖雑記考証」「鳴門中将物語考証」「多武峯中将物語考証」「𣑊園類纂」「𣑊園儲蔵志」等は、その主なものである。
弘化三年(一八四六)潤五月十七日歿、年五十八。
遊林院弦誉覚於𣑊園居士。
菊岡
数多い著書の中で、「江戸砂子」は江戸の地誌の白眉として珍重されている。
延享四年(一七四七)十月二十四日歿、年六十。
米山翁沾凉居士。
菊岡光朝は沾凉の男。通称は利藤次といい、彫金を以つて一家をなした。
文化十年(一八一三)四月二十二日歿、年三十八。
常光明摂信士。
菊岡氏の墓標は、所在が明かでない。なお次の石田父子の墓碑も存否詳かでないが、後日のため掲載しておく。
石田未得、また求得は、通称を又左衛門といい、乾堂と号した。江戸神田鍋町に住し、後両替町に移つた。松永貞徳の門に入り、俳名を挙げ、世に江戸俳諧宗匠五哲の一人に数えられた。また、一方狂歌をもよくし、貞徳門下の半井ト養と並び称せられ、狂歌集「吾吟我集」を著した。
寛文九年(一八〇八)七月十八日歿、年八十三。
自性院未得。
その子は未琢といい、艮堂と号し、同じく狂歌を以つて世に知られている。
元和二年三月二十日歿、年七十。
隆法院未琢。
真竜寺 真宗本願寺派。(
三縄桂林は江戸の人。名は維直、字は縄卿、通称は準蔵といつた。安達清河の門より出で、儒家として知られた。「桂林詩集」「桂林遺稿」「桂林文集」「詩学解蔽」「正始余音」等の著がある。
文化五年(一八六五)一月二十八日歿、年六十五。
宝林寺 真宗本願寺派(
羽田雲堂は当宝林寺第九世の住職で、書をよくし、諸侯へ能筆として奉仕した。
慶応元年(一八六五)五月十一日歿、年五十三。
釈専暁
羽田子雲は、雲堂の子、当寺第十世の住職である。若き頃鎌倉に於いて僧隆に就いて学び、会読にては、同輩の及ぶものがなかつたという。幼少より画をよくしたが、南画家岡本秋暉について修業し、大成した。殊に孔雀を描いては、他の追随を許さなかつた。
明治六年、召出されて宮内省出仕絵所詰となり、閑院宮妃殿下、九代目団十郎、三遊亭円朝等はその門人であつた。「子雲画集」の著がある。
大正七年一月二十三日歿。
釈専譲
父子一族合葬墓となつている。
道場寺 曹洞宗(
豊嶋泰経は、石神井城の最後の城主で、文明九年四月廿八日、太田道灌に攻められて、戦死したと伝え、ここに彼及び一族の墓と称する三基の石塔がある。
柴田常恵は愛知県の人、東京大学にあつて、日本に於ける人類学、考古学の基礎を築いた功労者の一人として、学界に重きをなしていた。慶応大学に人類学を講じ、内務省に入つては国宝、重要美術品の指定保存等に尽力し、また文部省の文化財専門審議会専門委員でもあつた。著書に「日本考古学」編書に「埼玉県史」「埼玉叢書」等がある。
昭和二十九年十一月一日歿、年七十七。
考古院常恵居士。
阿彌陀堂(
千川上水を開さくした功労者、千川氏のことについては、別項で詳細に述べてあるので、ここでは省略するが、千川家は三代源蔵の時に下練馬へ移住したので、以下代々の墓が阿彌陀堂の墓地にある。寺が戦災を受けて、記録等を失つたので、明細を欠くが、現在ある墓石の主なものは次のようである。
真喜院顕明道儒信士 明和四年十二月四日(
真照院覚阿道賢信士 天保五年四月四日(
真光院千山真光道喜信士 天保八年四月二十日(
真冷院秋観浄知信士 天保十一年八月九日(
真建院寿松速善居士 明治二十七年四月九日(
大沢家墓地(
大沢家は中世以来、甲冑師として聞えた
覚知道法信士 嘉永五年六月初一
江戸明珍 二代目先祖 俗名新三郎
江戸甲冑師 施主 明珍房造
法融寺(
会津八一は、明治十四年八月一日新潟市古町に生れた。新潟中学校を経て三十五年早稲田大学(
昭和二十三年早大名誉教授、二十六年新潟市名誉市民となつた。昭和三十一年十一月二十一日新潟にて歿。戒名は自ら渾齋秋艸道人と名づけた。
本文> 節> 章> <章>今日の農村は、或る時代の生活目的を対象として発達して来た協力的社会集団であつて、その集団の成員をなす農民は、生活体制を維持するため、すべて、過去に於ては原則的に利害を均くして、自然的諸条件を基礎として成立した生活伝統を不文律のうちに保持したのであつた。農村の生活伝統として残存した多くの制度、慣行、習俗は、彼等の生活意識の表現であつて、それは極めて多岐にわたつている。故に、農民の生活を繞る衣食住の制度や日常生活の慣習、年中行事などは農村の社会形式の根底に存する風習であつて、それを伝承した目的は、それ等の慣行習俗を本原的活力として共同態的生活を擁護するためであつた。長い歳月に農民の間に発生した慣行習俗はおびただしい数であろう。その中には、もはや消滅して痕跡を留めないものや、既に変化して当初の状態とはよほど異つたものも少くない。
およそ、農民の慣行習俗は、すべて彼等の原始共同態の内部に於ける集団現象より派生した文化系統に属する生活技術の延長であつて、それ等は発生当初より農民の生活諸相となつて現われ、それが、更に、地理的事情、社会的環境および時流の反映などによつて、それぞれ地域的な差異を生じたが、いずれも前代と密接なつながりをもつて、次
々と後代の農民社会に伝承されたのであつた。今日の農民生活の中心をなす衣食住の制度慣習、労働組織の慣行、年中行事、冠婚葬祭、民間信仰などの習俗は、いずれも、前代からの生活共同態の遺風を継承したものが多い。
それ等の慣行習俗は、合理化された今日の社会生活の中で、周囲のあらゆる生活条件に支配されつつも、なお、相当の社会的勢力を有し、そして、未だに農民社会の秩序を性格付けている。わが国民の生活は、彼の第二次世界戦争の時に規制せられて以来、大きな変化を来した。
終戦後はアメリカの指令によつて伝統的な家族制度は崩潰し、国家的祭祀行事は禁止され、教育制度の大変革が行われて、わが国民は民主主義の理想のもとに再建の第一歩をふみ出した。封建制が強かつた農村も民主化の風に吹きまくられて、因襲と伝統が破られ自由と平等との声が高まつて民主主義の法則に適合した新生活運動が提唱せられ、従来、生活の軌範となり指針となつていた種々の慣行に厳しい批判が下され詳しく検討が加えられた。
その結果、旧来の伝統的慣例が相当に整理せられ、廃止、または、簡略せられたものも少くなかつた。これに反して、新たに復活せられたものや、盛大になつたものも幾つかあつた。終戦後間もなくレクリエーシヨンとして各地で毎年盛んに行われる、夏の夜の盆おどりは、その一例である。昔の慣行は、封建制の強い農村によく保存せられ伝承せらた、それは、農村に住む人たちが保守的であつて、古い「しきたり」を大切にしたからである。農村地帯に都会人が住居をもとめて数多く住むようになつて、農村は次第に都会化して、その土地に残存した古い慣行習俗は逐次影をひそめた。終戦後の練馬は急激に住宅地化して農村としての性格は年々に失われ、農村慣行の共同性や集団性もす
たれて都会慣行の影響をうけ、農民の生活慣習は都会化した。けれども、物がたい農家では、未だに古来の農民生活の慣習をわずかに保持し、その伝統を見まもつている。区内に残された農民の生活慣習の伝統などについては、各項についてそれぞれ詳しく述べてあるが、社会生活が複雑になるに従つて、そうした過去の生活伝統は、次第に形を変えるであろう。しかし、それが形を変え、そのあらわれかたがちがいながらも、区内に農地がある限り、どこまでも伝統的な農民の生活慣習は保持せられるであろう。 本文> 節> <節>人の生活で、もつとも重要な部分は衣食住である。衣食住は、悠遠な過去の時代から現在に亙つて、人類と深い関係をもつて存在した。その中で衣、すなわち、「きもの」は、人類が種族保存の本能的要求に根ざす装飾的観念にもとずいて考え出したもので、それを着用する本質的意義は、保身、保健、あるいは、羞恥感情のためといわれる。衣類生成の時代は、これを証する何ものもないので詳かにすることはできないが、未開民衆の風俗から類推すれば、採集経済時代の古代人は、木の葉や木の皮を綴り合せたもの、または、獣皮などの自然物を身にまとつていたように思われる。人智が進歩して、やがて手近で得られる植物性の靱皮繊維を原料として、布がつくり出されたので、人類の経済的欲望と美的要求がそれにむけられ、それを利用して衣(きもの)がつくられた。時の移りかわりと共に染色技術が発達し、また、絹の利用や裁縫技術の進歩によつて衣(きもの)は次第に複雑なものに変化し、それと同時に、階級、職業、年令、着用の目的などの社会的生活要件が加わつて、儀容を整え、品位を保ち、美的価値を高めるというよう
な文化的意義をもつたのである。わが国の古代の農民衣服については詳細な記録はないが、古事記と日本書紀を通じて、当時の庶民の服装を推測すれば、男子は、上部に衣(きぬ)を着し、下肢に褌(はかま)を穿ち、女子は、上部に衣(きぬ)を着して下に裳(も)をつけていたことが知られ、そのありさまは、埴輪人物像にあらわされている。また、魏志倭人伝によれば、三世紀頃の日本人の衣は、一枚の布の中央に穴をあけたような形をした貫頭衣と名づけたものを着ていたと記してある。埴輪によつて古代の衣服を考えると、上部に着た衣(きぬ)は単衣(ひとえ)であつたらしく、その形には男女の別なく筒袖で、裄(ゆき)は手頸のところまであり、丈は腰丈ぐらいに短かくておくみがなく、襟はあげくびと垂りくびとがある。これを着るとき、合せ方は左袵(ひだりまえ)で、合せ目につけた胸紐を結んで垂れ下げた。下肢に穿いた褌(はかま)は、中世の頃の男子が用いた袴とあまり差異がないようで、ゆつたりとした股引(ももひき)に似た形をしており、これを穿いた時には脚結(あゆい)と呼ばる紐で膝の上のあたりを縛つた。女子が用いた裳は、腰から下にまとつた衣で、ひだをつけた腰巻衣であつて、今のスカートのようなものであつたろう。このような服装は、常識的に考えて、常に山野で自由に立働く人たちに適した労働着と思われる。それ故に、それは古代の農民衣服の一種であつたに相違ない。
奈良、平安時代の頃の農民衣服については資料が乏しいので、これまた、詳しく知ることができないが、その形態は、だいたい埴輪に見られる服装をうけついでいたのであろう。しかし、奈良時代の日本は大陸との交渉がはげしく、従つて、その影響が漸進的に国内の生活様式にあらわれて、庶民の服装にも幾分改良が加えられたと想像され
る。続日本紀を見ると、巻八の、日本根子高瑞浄足姫天皇(元正天皇)養老三年(七一九)二月壬戍の条に「初令<漢文>二漢文>天下百姓右<漢文>レ漢文>襟職事主典巳上把<漢文>一レ漢文>笏」と記してあつて、この時以来、襟(えり)の合せ方は従来の左袵(ひだりまえ)を右袵(みぎまえ)に改められたことが知られる。また同じ年の十二月戊子の条には婦女の服制が定められたことが書いてある。中世時代の農民衣服は、一般に肩衣(かたぎぬ)を用いたようであつて、布肩衣を着た姿が「法然上人行状図絵」の中に描かれている。それを見ると、布肩衣(ぬのかたぎぬ)は膝丈ほどの短い衣で、原始服に近い形をなし、奈良時代には、貧しいものたちの衣であつたらしく、万葉集の巻五に載せられた山上憶良の貧窮問答歌に「寒之安礼波麻被 引可賀布利 可多衣安里能許等其等伎曾倍騰毛」とあることから察すれば、その当時、貧しいものたちは、あるだけの肩衣を身にまとつて、冬の寒さをしのいだものとおもわれる。さらに、その歌の中に「綿毛奈伎 布可多衣乃美留乃其等 和和気佐我礼流 可可布能尾 肩爾打懸布勢伊保能」とあれば、布肩衣(ぬのかたぎぬ)は粗末な単衣(ひとえ)であつたと思われる。近世になつて、農民衣服は、労働着、外出着、式服などの区別が生じた。徳川家康が江戸に幕府を開いてから間もなく、商業は一段と発達して町人の経済的支配力が増大し、その結果、彼等の生活が著しく向上して服装の上にもそれがあらわれた。そして、その影響が農民階層にまで及んで、農民衣服に大きな変化をもたらしたのである。しかしその農民衣服の中で、常に農民が着用した労働着だけは、従来の伝統的な筒袖、細袴の上下二部よりなる農衣の型式として普遍的な「きもの」がうけつがれていた。この農衣は、農民の通常着であつて、男女とも、上衣は、丈が膝丈ぐらいに短い筒袖の「はんてん」「こしきり」「しりきり」「みじか」などと呼ばれるきものであり、男子は下肢に股引
(ももひき)、女子は下部に「こしぬの」「たつつけ」「まえだれ」などと名づけた一種の袴のようなものをつけたのであつた。外出着や礼服は、上下一部式の長衣であつて、それには、単衣、袷、綿入の種別があり、各々季節的にその着用種別が定められていた。このきものは、丈が、いずれも着丈で、おくみがあり、袖丈を長くしてたもとにした、殊に女子のきものは、振袖と名づけてたもとを長く仕立てた。外出着や礼服を着用の際は、男子は一般に、肌着下着を重ねた上に、この長衣を着て帯をしめ、更に羽織を着たのである。女子は、男子よりも念入りであつて、じゆばん、胴着下着を重ねた上に長衣を着て、丈の長い広帯を締めて後結び(うしろむすび)とした、帯の結び方は、年令や時と場合に応じて、いろいろと形が異つたが、一般的な結び方はおたいこむすびであつた。男子の外出着は、主として、下着の上に地味な綿縞織物の着物と羽織が用いられた。礼服は、下着の上に黒木綿の紋付着物と羽織を着して袴をつけたが、しかし、また、中には、黒紋付の着物の上に麻裃(あさかみしも)をつけたものもあつた。女子の外出着や礼服(晴衣)は、家の格式、境遇、年令などの異いによつて、衣服の布地、色柄文様など、それぞれ一様でなかつた。女の礼服の中で生涯の晴衣とされた嫁入衣裳は、緋縮緬(ひちりめん)の長襦袢の上に白無垢(しろむく)を重ね、その上に絵画の妙技をこらした花鳥文様を染めた美しい色縮緬振袖の長衣を着て、金襴絲錦の丸帯を、「お立矢(おたてや)」や「末広型」に結び〆めた、また、凶事の際には、女子は喪服として、白無垢、黒紋付などを着て、黒の丸帯を縫目を下にして〆め、帯揚、帯留などは白いものを用いたのである。常民のきものの中で女子の着衣は、江戸時代以降、民衆の好みを巧みに和して美しくなり、それが、近世の日本の服飾史の上に一つの特色を示している。
従来、わが国のきものの材料として一般につかれたものは、動物の毛皮、または、蚕の糸で織つた絹布のような動物性材料と、藤、葛、楮、苧麻その他いろいろな草木の靱皮繊維でつくられた布地であつた。奈良時代の頃には、麻布が多く用いられたことは万著集の巻七に載せられた藤原卿作の羇旅歌の中に「麻衣着者夏樫木国之 妹背之山二麻蒔吾妹」とあつて、それで推測せられる。綿がわが国に伝わり、国産の木綿が国内にひろまつて、常民の衣料材料にそれをつかわれるまでは、麻が衣料材料として一般につかわれていたようである。
享保二年に江戸の駒谷散人槇郁が輯した合類大節用集、服食部に「紵布(あさぬの)、麻布」の名が見え、また、文政の頃、喜多村信節が著した嬉遊笑覧にも「布子はもと麻をいふなり」とあるので、衣料材料にひろく麻が用いられていたことが知られる。しかし、その頃、麻は、裃(かみしも)や夏のきものとした帷子(かたびら)の外は、たいてい労働着につかわれ、外出着や礼服など晴衣には、絹や木綿が多くつかれた。当時の農民は、いずれも、一部の衣料の自給自足をはかつて、女子は農業の余暇に麻糸を撚つたり、または、絲繰(いとくり)をなし、綿をつむぎ、それを染めて機を織り、着物に仕立てた。
農林省の昭和九年の調査によれば、三五部落の農家一〇五一戸の中で、綿その他の材料で布を織り、衣料の一部を自給自足していたところが、一七部落において七〇戸であつた。今日では余り見られなくなつたが、以前は、農家でたいては藍を植えていた。その頃、村には幾軒かの紺屋(こうや)があつて、藍を買いとりそれを染料として、農家から依頼された布を紺、または、浅黄色に染めたのである。
農民衣服については、時代によつていろいろの制約があつた。江戸時代には、士農工商の階級がやかましく、幕府
の施政方針は監督総掌主義を専らとした。それ故、儒教を中心とした道徳を守り、正直勤倹を旨として四民各々職を励む可きことを、それぞれの法度令条の中に提示し、更に幕府の干渉は、服飾、食料、日常の調度など、一身一家の私事にまで及んだ。特に農民に対しては、他の職業境遇にある者との釣合などは構わず、幕府は「百姓の奢りは破滅の原因だ、心掛けが悪いとすぐ乞食になる」というような意味を含めた令達をしばしば下した。また、各藩領でも、村方倹約の訓諭や命令が絶えず出されて、農民に粗衣粗食を勧め、倹約の義務を負わしたのである。きものに人間の美的要求がむけられる心情は、昔でも人情の常であつたであろう。それに対して幕府は、先ず、寛永五年二月九日の定に、 <資料文>一、百姓の着物之事、百姓分之者ハ布木綿たるべし、但名主其外百姓之女房ハ紬之着物迄は不<漢文>レ漢文>苦、其上之衣裳を着候之者。
可<漢文>レ漢文>為<漢文>二漢文>曲事<漢文>一漢文>者也。
資料文>と、規定し、次に、寛永十九年五月に倹約令を下して、郷村諸法度に「男女衣類之事、此巳前より如<漢文>二漢文>御法度<漢文>一漢文>、庄屋は絹紬布木綿を着すべし、脇百姓は布もめんたるべし、右之外はゑり帯にても仕間敷事」と再び定めた。それに次いで、慶安二年二月二十六日に再び倹約令を下し、「百姓ハ衣類之儀、布木綿ヨリ外は帯衣裏ニモ仕間敷事」と諸国郷村へ仰せ出された。また、寛文六年十一月十一日関東御領所下知状にも「衣類等モ従<漢文>二漢文>公儀<漢文>一漢文>、御法度之通相<漢文>二漢文>守之<漢文>一漢文>、名主ハ妻子共ニ紬絹木綿、百姓ハ布木綿可<漢文>レ漢文>着、染色紫紅梅可<漢文>レ漢文>為<漢文>二漢文>停止<漢文>一漢文>此外ハ何ニ而モ可<漢文>レ漢文>為<漢文>二漢文>心次第<漢文>一漢文>事」とある。このような制限は、当時、百姓ばかりではなく、町人もまた同様であつて、慶安二年に町触が出され、町人が絹布を着し「らしや」の合羽を用いることを禁じられた。天和二年二月の御触書では、百姓町人の衣服に対して、
またまた制限を加え、 <資料文>一、百姓町人之衣服絹袖木綿麻布、以<漢文>二漢文>此内<漢文>一漢文>応<漢文>二漢文>分限<漢文>一漢文>妻子共ニ可<漢文>二漢文>着用<漢文>一漢文>之事。
一、総而下女はしたハ布木綿可<漢文>レ漢文>着之、帯同前事。
資料文>と定めた。幕府は開府以来、質素倹約を旨として、すべての政策を打ち樹てて来たが、五代将軍の綱吉の元祿の頃は、泰平に順れて、武士の気風が漸く剛壮を脱して豪華に移り、慓逸より放縦に流れ、華美を競う奢侈の風が世間に流行した、泰平の余沢に巨万の富を貯えた町人たちは、富有にまかせて飲食衣服の善美をつくした。この影響が江戸近郊の農村に及んだことは当然であろう。それがため、元祿元年十二月に、町人、女子の衣服の制限を厳命せられ、その後また、寛延元年三月には女羽織を禁じ、その年の八月には、町人の三枚重の草履、塗下駄及び日傘の使用を禁ずる令達があつた。文政十年十月朔日には、旅人宿に対し「百姓共著服之儀に付族人宿之申渡」という達書が出され、その中に、
<資料文>(前略)百姓共着服之儀、木綿之外決而不<漢文>二漢文>相用<漢文>一漢文>、村役人共ハ時ニ寄、絹紬太織等迄ハ着用致候筈追々申合候趣ニ相聞候、然処近年在方ヨリ出候公事人共、木綿之外絹布を著、或は縮緬羽織抔相用ひ候も有<漢文>レ漢文>之候間、以来奉行所其外之吟味筋等ニ而罷出候節も、村役人共並百姓ニ而も百石以上所持之もの、又者苗字帯刀免許之者は格別、右之類に而も縮緬抔は著間敷儀に付、右体之者並小前百姓共絹布を著罷出候もの有<漢文>レ漢文>之候ハバ、江戸宿共差留、右次第を専改替させ候様可<漢文>レ漢文>致候、尤右申渡之趣書記、旅人共見候所之張出置可<漢文>レ漢文>申事。
資料文>とある。天保十三年九月には勤倹を令し、「村々風俗其外之儀に付」。御触書が出され、
百姓之儀は粗服を著し、髪も藁を以つかね候事、古来之風儀に候処、近来奢に長じ、身分不相応之品著用いたし、髪も油元結を用ひ候而巳ならず、流行之風俗を学び、其外雨具も簑笠のみを用候事に候処、当時傘合羽を用ひ、其余之儀万端是に准じ、無益之費多く、先祖より持来候田畑も人手に渡し候儀、歎ケ敷事に候(下略)
と示達した。そして、その後、嘉永六年十月十八日には「華美高価之品停止之儀御書付」が出されたのである。なおまた、五人組帳の前書には、
<資料文>一、百姓町人衣服、絹、紬、木綿、麻布此内を以分限に応じ妻子共に着用、此外無用に可<漢文>レ漢文>仕旨被<漢文>二漢文>仰渡<漢文>一漢文>奉<漢文>レ漢文>畏候事。附、惣じて下女布木綿着シ、帯同前事。
資料文>とある。
自由民権が叫ばれ、個人の自由が認められた明治大正の頃でも、農村では生活改善の立場から村内の申合により、日常の衣服や礼服着用についてしばしば規制されたことがある。昭和十四年(一九三九)に第二次世界大戦が起ると間もなく、政府は男子の服装として、国民服の甲号と乙号を定め、そして、女子にはもんぺを奨励したことも、また服装の規制であつた。
古代から中世の頃にかけて、練馬区の辺に住んだ人たちのきものについては、文献記録も口碑もないので、それを明かにすることはできないが、さきに、練馬区の地と隣接する地域の古墳から発見せられた埴輪の破片によつて推測すれば、前に述べた古代の農民衣服と同じく、男子は衣と褌、あるいは布肩衣を用い、女子は、衣と裳(も)を着けていたであろう。江戸時代のはじめ頃の農民衣服についても、この地区には何の文献も記録も残されていないので明
かでないが、埼玉県の川越図書館にある「榎本彌左衛門万之覚」という写本に、寛永二十一年六月十六日死亡した姉の着物の寸法と思われるものが記してあつた。それによれば、 <資料文>一、絹綿入 はふたへ同
たけ 三尺三寸五分
ゑり 五尺一寸
袖下 一尺一寸五分
袖口 五寸
身ノ方 八寸二分
ゆき 一尺六寸五分
袖方 八寸三分
ゑりかけ 四寸
但上の方へそりのすみ能
一、紙子紬 うら付
木綿ぬのこともうら 二品同本也、但つむきうらも同
たけ 三尺四寸五分
ゑり 五尺一寸
袖下 一尺二寸
ゑりかけ 四寸 上の方へそりのすみきりこと
袖口 五寸
ゆき 一尺六寸五分 身八寸二分、袖方八寸三分
一、絹あはせ
木綿あはせ 二品同
たけ 三尺四寸
ゑり 五尺一寸
袖下 一尺一寸
ゆき 一尺六寸五分 身八寸三、袖方八寸三
ゑりかけ 四寸
袖口 五寸
資料文>となつている。この辺の女子のきものも、おそらく、右のようであつたと思われる。この記録に見える「絹、羽二重、紙子紬、木綿布子」などは、寛永十九年の郷村諸法度で、その頃、庄屋に許された衣料であつて、普通の百姓たちには、布木綿の外は、一切禁じられていた、けれども、五人組帳の前書にある通り、時代によつて、その中から分限に応じて妻子共に着用を認めたこともある。
江戸時代に行われた農衣の規制は、全国一律であつて、もちろん、その頃の練馬地区も同様であつた。それについて今日区内に遺された資料を探ると、仲町三丁目の内田喜作氏所蔵文書の中に、天保十二年五月の「質素倹約被仰渡御請証文連印帳写」というのがある。それには「質素倹約相守小前のものは木綿麻布等を着し、村役人共も小前の手
本ニ相成候様成丈廉服着用慎身いたし新製之着物相用候義は勿論、初物不作出云々」とあつて、相当に喧しかつたことが察せられる。当時の農衣については、目下のところ、区内には、これ以上を知る資料がないが、故老の談によれば、幕末から明治時代の頃までの農民は、至つて淳朴で、旧来の農民の分限に満足して、粗末な麻衣や綿衣を用いるものが多かつたということである。農家では、労働衣すなわち日常の仕事着を
女子の野良衣は、一般に、木綿の紺絣か、あるいは、遠州縞と呼ばれた綿縞織物でつくつた丈の短い長袖の着物であるが、また、それと同じ布地で仕立てた長衣もあつた。年若い女子は紺絣の野良衣を着て、下に白、または、淡色の腰巻衣をまとい、半幅帯を〆めて赤いたすきをかけ、腕には紺木綿でこしらえた「うでぬき」と呼ぶ覆いをして手甲(てつこう)をつけた。そして、脛には、紺染木綿の
はばき(脚絆ともいう)をつけて地下足袋を履き、頭に手拭をかぶつた。中年以上の女子は、たいてい、遠州縞の野良衣を着て、白の腰巻衣をまとい、地味な色のたすきをかけ、腕にはうでぬきをはめた、しかし、手甲をつけるものは少い。また、長衣の野良衣を着た時はたくし(裙を端折ること)をとる習慣があつた。農村の女子が、野良仕事をする際、手拭を冠るのは、埃を除けたり、女の長い髪が労働の妨げになるのを防ぐ必要からでもあつたが、それがまた、女のたしなみとなつたのである。 画像を表示雨天の時の野良仕事には、雨具として、男子は蓑笠を用い、女子は茣蓙(ござ)に紙合羽(かみかつば)を取りつけた「しよいた」と呼ぶものを背につけて菅笠をかぶつた。菅笠は雨天の時ばかりではなく、炎天の野良仕事にも用いた。
この辺の農民の日常の着衣は、もとは、格別に粗末なもので、「わしたちが、小さい時には、形もないようなきもん(着物)を着せられて、まるで、みんなしぎようにん(六十六部回国巡礼者)のような、かつこうだつたよ……」と語る八十二歳の或る老人の思い出から察すれば、それは、さながら、前に掲げた万葉集の貧窮問答歌の中に「綿毛奈伎布可多衣乃美留乃其等 和和気佐我礼流可可布能美」と詠まれたそれに似て、破れちぎれたつづれを継はぎにした、俗にいう「千枚継」の衣を着ていたものが多かつたと思われる。
そのような粗服を用いた貧しい農民は、晴衣にも木綿がつかわれ、婚礼の時でも特別な衣服を着なかつたそうである。そのころ、普通の農家では、男子や老人は、一般に遠州縞や盲目縞(めくらじま)の木綿の着物を外出着としており、女子もまた、縞木綿や綿絣、あるいは、柄模様の綿布の着物を外出の時に着した。そして、礼服や晴衣は、家によつて、絹が用いられた。
土地で「おだいじん」といわれた富有な農家では、晴の外出着や礼服には、多く絹を用い、殊に、年若い女子の晴衣には華やかな色模様の絹布がつかわれた。このような家では、娘を嫁にやる際には、おのおの分限に応じて外見を飾り、振袖、留袖、「ひつかえり」、「ほうもぎ(訪問着)」、お召着物その他さまざまな衣裳を幾通りもこしらえて先方に持参させた。
画像を表示中産階級の農家では、婚礼の式服は、男子は絹羽二重の黒紋付の着物と羽織に袴を用い、女子は花鳥文様色縮緬の振袖長衣に金襴絲錦の帯を〆めさせた、また、凶事には、女子は喪服を着した。子供が生れた時は、麻の葉模様の胴着を着せた、模様の色は、男は青、女は赤であつて、胴着の裏にはうこん染の木綿をつけた。この土地では、これを「しよんべんぎもの」と呼んでいる。麻の葉模様の胴着の上には、犬張子の文様をつけた誕生着物を着せた、また、「おびやあけ」の時は、男児は黒羽二重熨斗目文様の晴衣(はれい)、女
児は友禅熨斗目花鳥文様の晴衣を用い、子供が成長して「おびとき(ひもときともいう)」の日を迎えると、男女とも晴衣を着せて、龜甲文様の帯を〆めさせた。子供たちの日常の着物は、男女児とも木綿であつて、男児は絣か、または、縞織であり、女児は色柄木綿が多くつかわれた、子供の着物は肩と腰に縫上げをして、帯の高さの部分につけ紐をつけた、そして嬰児の着物には、必ず、背中に紅白の糸、または、五色の糸で飾り縫をした。この飾り縫を背守縫(せまもりぬい)と名づけた、嬰児から四、五歳位までの子供たちには、寒くなると、俗に「ちやんちやんこ」という袖無の羽織を着せた、この袖無羽織は、また、老人の防寒衣としても用いられた。この辺で一般に用いた防寒衣は、袖無羽織の外に羽織と絆纏があつた。羽織には、単(ひとえ)袷、綿入の種別があるが、冬の季節に着るのは、袷と綿入であつた。けれども、従来は農民の身分では、普通は羽織を着るものはなく、外出着や礼服を着用したときに限られている。絆纏は羽織に似ているが、仕立てが異つており、丈は羽織よりも短く、そして、襟を折り返さないで半襟をかけたもので、単、袷、綿入、刺子などの種類があり。それを男女職業の別によつて、それぞれにつかいわけた。農民は冬になると、野良衣の上に、袷、または、綿入の絆纏を着た。絆纏の中には、幼児を背負つた上から着る特別なものもある。それを子守絆纏という。子守絆纏には袖無と広袖とがあつて、袖無のものを、この土地では俗に「かめのこう(亀の甲)」と名づけ、広袖のものは、ねんねこ、または、「ねんねこはんてん」と呼んだ。
農民は野良仕事の際、履物を履くものは少く、たいてい跣足(はだし)であつたが、時には草鞋、草履、石底の地下足袋などを履いた、石底というのは、足袋底を糸で刺子(さしこ)にして丈夫にしたもので、ゴム底足袋が流行するまでは、一般に、それを多く用いた。冬の寒さを防ぐためには、普通は紺木綿の紐付足袋を穿いたが、晴衣を着た
ときは、こはぜ付の足袋を穿くものもあつた。外出の時には、男女とも下駄を履いた、下駄には種類が、はなはだ多く、雨の日には高下駄が用いられた。また、漆を塗つた塗下駄もあつたが農民はそれを履くものは少なかつた。足袋草鞋、草履、下駄は、その起原が古く、それ等はすべてわが国独特の伝統を有した履物である。農民が古くから衣料の一部を自給自足したことは、既に述べたように、ほとんど、いづこの地方でも同じであつて、この辺の農民も、やはり、衣料の自給自足をするようにつとめた、それについて現存する資料を調べると、旭町の小島兵八郎氏所蔵の文書の中の、享和四年子二月「武蔵国豊島郡土支田村村方之儀明細書上帳下書」に、「農業之間男ハ縄をなひ薪木ヲ
さらにまた、それを証する唯一の物的資料となる糸撚車や手織機などの民具の類を、最近までもつていた農家が区内に幾軒かあつた。農家で木綿を織つた頃は、各々自機木綿(じばたもめん=自分の家で織つた木綿のことをいう)を土地の紺屋(こうや)へ頼んで紺色に染めさせた、紺染の原料としてつかわれた藍を区内で栽培したことについて、故老にたづねれば、その起源は明かでないが、明治の中頃まで作つていたということである。
きものは、常に人間が身にまとうものである。それ故、古来、きものには、いろいろな禁忌や俗信があつた。わが国では子供が生れると、一般に
また、この地方で、犬張子文様の着物を誕生着物として麻の葉模様の胴着の上に着せるのは、犬張子が魔除けとなると信じたからであろう。幼児が虚弱で育て難い場合には、三十三軒の家から小布を貰い集めて、その小布を接合せ(はぎあわせ)て下着をこしらえ、それを着せると、子供が丈夫になるといわれた、集めた小布は「三十三とくぎれ」と呼び、それで仕立てた下着を「三十三とくきもの」と名づけた。子供の着物を洗濯した時、戸外にそれを夜干(よぼし=夜間に干しておくこと)すると、子供が夜泣きすると云い伝えて、どんな場合でも、干しておかなかつた、その理由は、お産のために死んだ女が化けた「うぶめ」と称する怪鳥が夜中に飛んで来て、子供の着物を血で濡らすと、その子供が驚風(きようふう)を起し、疳(かん)をわずらうからだということである。着物を洗濯して干す場合、着物の前を北に向けることは、この辺でも一般に忌まれていた。衣服裁縫のことは拾芥抄に載せてあるが、それによれば「裁<漢文>レ漢文>衣吉日」として「男<漢1>ニ漢1>吉、乙丑、丁未、乙未。乙卯、女<漢1>ニ漢1>吉、辛未、辛巳、辛亥」とあり、凶日として「凡<漢1>ソ漢1>戊巳、丙丁辰申、凶 会坎日、不<漢文>レ漢文>可<漢文>レ漢文>裁<漢文>レ漢文>衣云々、又戊己、庚辛、不<漢文>レ漢文>裁<漢文>二漢文>男衣<漢1>ヲ漢1><漢文>一漢文>、申ノ日不<漢文>レ漢文>裁<漢文>レ漢文>衣、身<漢1>ヲ漢1>被<漢文>レ漢文>傷必有<漢文>二漢文>焼亡<漢文>一漢文>、又癸<漢1>ノ漢1>日、不<漢文>三漢文>洗<漢文>二漢文>濯衣<漢1>ヲ漢1><漢文>一漢文>、有<漢文>二漢文>凶殃<漢文>一漢文>、又婦人月水并産未<漢1>タ漢1><漢文>二漢文>百日<漢1>ナヲ漢1><漢文>一漢文>勿<漢文>二漢文>裁<漢文>レ漢文>衣洗濯<漢1>スルコト漢1><漢文>一漢文>令<漢文>レ漢文>人兵死<漢1>シ漢1>凶<漢1>ス漢1>」とある。この辺の農家でも、「申の日に着物を裁つと、やけッこげ(焼焦げ)する、巳の日に裁てば身を切る」と称して、暦の上で申巳に当る日には決して衣服を裁たなかつた。また、片袖をつけて縫うことを止めれば「そでないことをする」といわれ、外出の際、ほころびを縫えば「出針すると出先で恥をかく」と称して、それ等のことをきらつた。以上の外、衣服に関す
る習俗、俗信は、調査すれば、まだ、かなりある。きものについての俗信は、いずれも単なる語呂によつたもの、あるいは、陰陽道の思想から発したと思われるものなどが多く、科学的な根拠を有するものはほとんどない。大正七年十月に出版された東京府北豊嶋郡誌の上練馬村のところに、
<資料文>本村は東京を距ること、稍遠きを以て都門華美の風襲ひ来ること遅く、村内農馬を飼ふもの三十二戸、闔村今も旧農民の分に安んじ綿服麁食、天を楽むの美風あり、従て人情淳厚、勤勉力に富む。日常米食するものは全村の三割以下、肉食の風少く、洋服着用者は教師と警官のみ(中略)小学校の児童は女児は多く袴を穿つ、雨天に蝙蝠傘を携ふるもの少くして是また全数の一割以下なるべし、燈火は全村石油燈を用ふ。
資料文>と記載してある。また、同書の下練馬村のところには、
<資料文>平時は綿服を用ふ、洋服着用者十五人許あり、学校の女生徒は過半は袴を穿てり、村立小学校の児童中雨天に蝙蝠傘を携ふるもの七十五人、紙傘を携ふるもの七百人許なり。
資料文>とあり、大泉村のところには、「綿服を着け、麦飯を食う、上下みな然り、洋服を着るものは教員と巡査のみ」と記し、また、石神井村のところには、
<資料文>衣は綿服を常とす、平素は勿論外出にも絹衣するものは少数上流者のみ、小学校の児童は男女とも筒袖にして多くは袴を穿てり、雨日蝙蝠傘を携ふるもの少くして全数の二割位なるべし。村内にて洋服を着用するものは教員を主とし其数凡四十名許あり。
資料文>と書いてある。その頃の練馬附近の人たちには、洋服姿は珍らしがられたことであろう。故老の談によれば、「背服広を着た人はほとんどなく、教員では校長先生の外は、たいてい、「つめゑりの」服を着ていた、式の日には、校長先生は、フロツクコートを着て来られた。女の先生は、みな、髪をハイカラに結い、和服を着て、えび茶や青の袴を
つけていた、小学生は、女子は、ほとんど袴をつけていたが、男子は、式の日以外は袴をつけなかつた。」ということである。小学生の和服姿は、昭和十年頃まで続き、それから洋服を着るものが次第に多くなつた。第二次世界大戦は、わが国民の生活に非常な影響を与え、衣服に大きな変化を起させた。今まで和服姿であつた農民衣服は、洋服となり、野良衣が、パンツと洋服にかわり、女子は、すべて作業にもんぺをはくようになつて、男女とも服装が極めて簡素化された。今では、洋服を持たない男子は、ほとんどなく、女子も日常生活に洋服着用のものが多く、従来の長衣は一般には、家に居る場合の服装として用いるだけとなつた、しかし、中年以上の女子の中には、常に、長衣を着ているものが未だに相当にある。今の衣服の特色は、階級的な相違が、ほとんどあらわれなくなつた点であるが、これは、戦後発達した民主主義の影響と、最近いちじるしく改良せられた優秀な化学繊維が比較的安価に大量供給される結果からであろう。
本文> 節> <節>人類の生存欲求の中で、「食」は最大のものであつて、それは、肉体の必要成分を維持する物質的生活資料として一日も欠くことができない。食物には、常食と救荒食すなわち非常時食とがある。今日までに知られている食物の類は、およそ一千余種の多数にのぼり、それを大別すると、植物性食物と動物性食物とに分類せられる。従来、わが国で常食としたものは、その中の約四百種程であり、それ等の食物の調理方法、食べ方などは、われわれの精神生活と極めて密接な関係をもつていた。
文字の上で食物といえば、一概に食べる物であるが、食物は、非常に複雑な社会的背景から成立したものである。現在行われている個人の交際や社交などのはじめは、お互の融和をはかり、協同してあらゆる困難に打克つ力を得るために、同じ火で炊かれた食物を分け合つて共に食べることであつたであろう。古代人は食物の力に対して敬虔な信仰をもつており、常に食物を通じて神や祖霊との間に、目に見えない繋りをつくつて現実に生きたのであつた。他人と食を共にするのも、その食物の力によつて魂を交流させ得ると信じてなされたのに相違ない。このような食生活の精神的部面は、時の流れに従つて旧来の生活に新しい改革が行われると同時に、全くその本義が忘れ去られた。
しかし、今日でも、他人のもてなしや晴の日の行事には昔の作法がそのままに守られ、それが家々の儀礼的慣習となつて、われわれの日常生活の中にその名残だけはとどめている。
「たべもの」にも、衣(きもの)や住居と同じく、民族性や伝統があつて、食品の種類や調理の方法、食事の慣習など、一切の食生活の方式は決して一様でない。地方地方には多種多様の郷土食があり、それに伴う食慣行がある。それ等の郷土食は、主に農民食として地方に於ける食生活の中枢をなすものであつて、その多くは、社会的経済的政治的理由にもとずいて成立し存続してきたのであつた。
わが国は、古来、瑞穂国といわれ、「日本人と米の飯とはつきもの」という言葉が普遍的に民間に伝わつているが、昔でも、日本人の全部が、常時、米を主食として生活していたとは考えられない。昭和九年の農林省の調べによれば、農家戸数一〇〇〇戸の中で、米を主食とした家は、僅かに一五〇戸であつて、残りの農家は全部が混合食や雑穀だけを主食としていたことが知られ、米の生産地帯でも、農民の多くは米を主食としなかつたことが明かにされた。
わが国の農村には、地域的に農業経営の規模や生産力の相違があつて、それに従う食生活の伝統や内容、食慣行が、それぞれあつたが農民が雑穀や混合食を常に食べることは、全国的に共通していたようである。今日の食生活の伝統をたどると、それは、はるか石器時代の昔にさかのぼるものと思われる。長い間続いた石器時代の食物採集の生活から脱して、彌生式文化がもたらした水田の設営耕作の業が開かれてから、食生活は大きな変化をきたして、米・麦・粟・稗などの穀物食が主食としての地位を占めると同時に、それが、農民食となつたのであろう。
わが国では彌生文化期に水田耕作がはじめられたが、農民であつても、米ばかりを食べているわけではなかつた。続日本紀の巻九、日本根子高瑞浄足姫天皇(元正天皇)の養老六年秋七月、戊子の詔の中に
和名類聚抄巻十七、稲穀部には、「稲類、米類、粟類、豆類、麻類」の項目をあげ、その各項にさらに種別を記して註がつけてある。それによれば、<外字 alt="槏">〓外字>
また、同書に、「芋類」の項があり、その中に、芋
中世の頃の農民食もまた、前代同様に粗末なものであつただろう。この時代には農業技術が一段と進歩して生産力が上昇し、一部では、田で米麦の二毛作や、畑で麦、大豆、蕎麦の三毛作が行われるようになつた。しかし、農民の常食は、主に、粟・稗・黍などの雑穀類に、大豆・小豆・ささげなどを加えたものか、または、蕎麦などであり、そして、蔬菜、味噌などを副食にしたようである。真宗本願寺の中興第八世、蓮如の弟子、空善が、師僧蓮如の言行録を書いた空善記の中に、蓮如が奥州地方に下向した時、農民の家で稗粥をすすつて、彼等と共に一夜を語り明したことが記してある。稗粥は、その頃、関東東北地方の農民食として普通のものであつたように思われる。
江戸時代には前時代の下人層を解放して夫婦中心の家族労働による自給的経営の五反百姓が保護育成されたので、農民は次第に向上した、けれども、当時、普通の農民は雑穀食を中心としており、黍粉の雑炊や、麦・粟・稗などの「まぜ飯」蕎麦・芋などを常食としたようである。また、副食物は自給的な蔬菜が主であつて、それに、塩、味噌などが調味料としてつかれていたのであろう。
一般の農民は、このような粗食に甘んじながら、その日その日を過したが、一方都では、元祿の頃から食物調理の法が発達して、明和安永以後には、その極点に達した。この影響をうけた一部の富有農民は、美食を好んで食事を大いに整えるようになつた。しかし、貧しい農民の食生活は、とうていそれに及ばず、晴の日の食事の外は米の飯を食うことができず、従来の雑穀混食をつづけた。この雑穀混食は、明治大正の頃でも相変らず農民食となつていた。
今日、われわれは食事といえば、朝・昼・夕の三食を常識的に考えている。けれども、わが国の古い食慣習としては、朝食と夕食の二食であつた。喜多村節信の瓦礫雑考の、巻之下の「飯(いひ)」のところに、「節信又按ずるに。いにしへよりあさげゆふげといひて。ひるげということ聞えず。中飯は後世の事なるべし(中略)。およそ人間は。わかきもひききも一日に両度づつの食なれば、これをたんれんせずということなし云々」と記してあり、また、太田南畝の一話一言に「西土の故実はいまだ考えず、皇朝にて治乱の差別なく、さだまれる食事は上一人より下万民まで一日に二度なり云々」と、食事の回数について南畝が屋代弘賢に質問したその答を載せている。これを見ても、古来は三度の食事をしなかつたことが、だいたい想像せられる。
なお、一話一言に載せた屋代弘賢の答の中には、「児玉郡の風俗、常は三度なり、其上に長日に小昼飯を用、永夜
には夜長といひて食することあり、これ朝夕二度の外はみな臨時に設くる意なるべし」と書いてある。これによつて考えると、当時でも農民は朝夕の定つた食事以外に、日に三回四回の食事をしたと思われる。この食慣行は農民の労働がはげしいところからはじまつたもので、今日でも一般農民の間では、一日に三度の食事の他に適当な間食が普通に行われている。わが国には古来、節句その他晴の日の食事は先ず、神や祖霊に供えた後、家長を中心として家族一同が共に食べる習慣があつた。これは神と人との共食を意味するものである。また、遠く旅立つた人のために蔭膳(かげぜん)を据えたり、死人の霊前に食物を捧げる風習や、出産、婚礼、葬儀などの際に他人と食事を共にしたり、あるいは、他人に食物を与える習慣がある。これ等はいずれも、前に述べたように、食物に何か偉大な力があると信じたことがもととなつて発生した食慣習である。
食膳の座席は、どこの家でも家長が中心となつて上座に席を占め、その左側の場所に主婦が坐つた。家長の右には老人か、または長男が坐り、それに続いて家族一同が座を占めた。農家では、従来、食事の時に各自が小さな箱膳をつかつたが、(後出、写真参照)今では、それを用いるところはほとんどなくなり、共同の食卓で食事をする風が次第に多くなつた。食事をつかさどる者は、主婦であつて、すなわち、これが主婦権の中でも重要な一つの権利であつた。この主婦権は、農民の食慣習と深い関係をもつていた、主婦権は「しやもじの権利」、または「へらの権利」ともいわれ、主婦が嫁に権利をゆずる、「へら渡し」が済むまでは、嫁は食事の一切をつかさどることを許されなかつた。しかし、主婦が病気その他の都合によつて炊事に差支えを生じた際に限り、主婦の命を受けて嫁がその代理をつとめた。
区内の農民の食慣習は、一日三度の食事の外、午前と午後の二回に「お茶」と呼んで臨時の食事をした。晴の食や、出産、婚礼、葬儀旅立の際の食慣習、食膳の座、主婦権などについては、前に記した風習とだいたい同様である。農民の朝の食事は、麦飯に味噌汁、漬物と、いつ誰が決めたでもなく、また、命令されたでもなしに、自然とそうした慣習が、いつからか生れたのであつた。
封建時代の農民の生活は決して恵まれたものではなかつた、江戸時代になつて大名制が確立してからは、大名は広い領地を一円に支配するようになつて、各藩割拠の自給自足が行われた、大名は藩経済を維持する必要から、気候地味の適不適をかえり見ないで、必要物資の生産をすすめたり、人為的に人口増加の制限をさせることさえあつたのである。幕府の政策はまた、収奪主義であつて、農民に対しては、「百姓は生かさぬよう、殺さぬよう」とか、「胡麻の油と百姓は、絞れば絞るほど出るものなり」ということば通りの酷なものであつた。このような趣意で幕府は、農民の食生活にも制約を加えた、先ず、寛永十九年五月の郷村諸法度に「在々百姓食物之事雑穀を用い米多くたべ候わぬ様ニ可レ被二申付一候事」という布令を出し、さらに、翌寛永二十年三月の「在々御仕置之儀ニ付御書付」には、
明治大正の頃には、農民の食事は割合に自由であつた、しかし、農村に経済恐慌を来した時は、村々で申合事項を定めて、麦飯芋飯など、混食が奨励され、部落部落でなるべく粗食するようにつとめた。昭和十四年(一九三九)にわが国の経済は、戦争のために危機に陥り、食糧問題が深刻化し、政府は、それの対策として、米類の強制買上を行う
べく供出制度を設けた、そして、翌昭和十五年に、「小麦粉、米穀配給統制規則」を公布して、国民の米食に対し極度の制限を加え、次いで、魚や野菜なども統制して配給することにしたのである。繩文のころ、今の練馬区の辺に住んだ人々は他の地方の人たちと同じように、山野河沼から天然食物を採集して、それを煮たり焼いたりして食べたのであろう。長い間続いた食物採集の時代が過ぎて、この辺に彌生文化が拡がり、白子川や石神井川の流域に水田の設営耕作がはじめられて以来、人々は、それぞれに自分たちの手で栽培した穀類をも食物としたのであろう。
中世の頃、この辺に住んだ人たちの食生活については、資料を欠くがおそらく前に述べたような雑穀混食や、または、空善記に見える稗粥などを食べていたと想像される。江戸時代には、近世編で述べてあるように、村の形態が次第に整い、相当の農地があつて穀類の収穫はあつたが、前にあげた通り、幕府より度々の布令で、農民の食生活が極度に規制せられたため、この土地の農民もそれに従つて粗食に甘んじたことはもちろんであろう。前の衣のところにあげた仲町三丁目の内田喜作氏所蔵文書の中の、天保十二年五月の「質素倹約被仰渡御請証文連印帳写」に見えるように「初物不作出云々」という仰渡によつても、そのだいたいの状態を察せられる。これも前にあげた旭町の小島兵八郎氏所蔵の享和四年子二月「武蔵国豊嶋郡土支田村村方之儀明細書上帳下書」を見ると、その中に、
文化元年九月 貯穀書上帳 土支田上組
文化二年二月 貯稗穀書上帳 (同右)
丈化十一年九月 貯稗穀取集帳 (同右) 「以上三点東大泉町、町田家文書」
天保五年三月 雑穀書上帳写 土支田下組 「旭町、小島文書」
天保十二年六月 稗石貸渡小前書上帳下書 土支田上組 「東大泉、町田文書」
安政二年四月 貯穀代金積立通帳 「関町、井口彌兵衛文書」
文久四年三月 貯穀稗代取立覚帳 「北町、大木文書」
右によれば、稗の持寄りは決して現物とは限られていない、場所によつては、金銭を出し合つて購入代金に充てるために貯えたところもあつた。農家では、稗を稗穀(ひえこく=俗に「へいごく」と発音する)と呼び、稗櫃(ひえびつ)
と名づけた大形の木箱に入れて貯えた、この箱は、上から稗を入れ、使用の分を下部より除々に取り出せる装置になつていたのである。明治時代になつてからも、稗は農民の常食となつていた。そのことは、土地の故老たちから、たびたび聞かされたが、旭町の小島家文書の中にある「明治九年、第八大区八小区下土支田村明細書上帳」に、大正七年十一月北豊島郡農会で発行した北豊島郡誌によれば、上練馬村のところに「闔村今も旧農民の分に安んじ綿服麁食、(
村内上流者と雖も平素は麦飯を用う、但混用麦の量、上は二三割、中は五割、下は七八割の区別あるのみ、副
食物は野菜類を主とし豆腐油揚の類を多く用う、一般に朝夕二回味噌汁を取る。食時には家族各自に食膳を擁するもの多く其数五百戸にも及ばんか、卓を囲み団欒して喫食するは二百六十戸位なるべし。と記され、大泉村のところには「麦飯を食ふ、上下みな然り」とあり、中新井村のところには、
食は平素白米飯を喫するものは上流四十五戸に過ぎず、中下流は麦その他の穀類を交へ用ふ、家族各目に旧来の食膳に就くもの二百二十五戸、卓を同ふして食するもの四十五戸なり。
と書いてある。また、石神井村のところには、「食は日常米のみを取るもの全数の一割以下とす、多くは麦米混用を喫す、混合歩合上中下各相違あり、副食物は蔬菜豆腐等を第一とす、肉食の風未だ盛ならず、食事には全村殆ど九割までは各自に食膳を用う、食卓に着く風行われず」とある。この記述と前の故老の談とを較べると、この辺の農民の食生活は僅かな間に、かなりの向上をしたことが察せられる。
画像を表示前にも述べた通り、農民は一日の労働が激しいので、朝昼夕の三食以外に午前午後の二回に必ず間食をする習慣があつた、土地の農民は、午前の間食を「十時茶菓子」または、「十時茶(
農家では、毎年一月になつて寒に入ると、どこの家でも餅搗をした、その時に搗いた餅を寒餅(
晴の日の食物は、前に述べたように、米の飯で、副食物には、魚、野菜、豆腐、油揚など、時によつていろいろな食物を食べた。仲町に住む島野伝五郎氏の調査によれば、旧下練馬村附近の晴の日と、その時の特別な食事は次の通りである。(
一 月 一日 正月(三ケ日毎朝) 雑煮、おせち料理(野菜のうまに、黒豆煮付、数の子、ごまめ)
四日 大番 すだこ、かまぼこ、だてまき、魚の切身
七日 七草 七草粥
十一日
十五日 小正月 小豆粥(だんごをいれる)
二十日
二 月 四日(
八日(夜)
二 月 初午
三 月 三日
十八日 彼岸の入 まんじゆう、団子、おはぎ、あべかわ餅
二十一日(春分)彼岸の中日 うどん、まんじゆう等
二十四日 彼岸のあけ ごもく飯
四 月 八日 花まつり 草だんご
九日
二十一日 大師さま (朝)草だんご、(昼)うどん
五 月 五日
七 月二十四日 あたごさま おまんじゆう、うどん
八 月 七日 七夕 まんじゆう、うどん、米飯
十三日
十四日 お盆 うどん、米飯
十五日
十六日 やぶいり ごもく飯
二十四日 うら盆 変りものを作る
九 月
十九日 彼岸の入り おはぎ
二十三日(秋分)彼岸の中日 おまんじゆう、うどん
二十六日 彼岸あけ ごもく飯
十 月 五日
七日 おかぼ刈込 (夕)ぼたもち、または変りものを作る
二十日 えびす講 頭付魚、うどん
三十一日 荒神さまのおたち 小豆粥
十一月 十 日 麦蒔きあげ うどん、おはぎ
十五日 七五三 おこわ
三十日 荒神さまのおかえり 小豆粥
十二月二十二日 冬至 かぼちや(「とうなす」ともいう)
三十一日 大晦日 そば
以上は、今の仲町附近の農家で従来行われていた一年中の晴の日の食事であるが、区内でも、晴の日の食事や、それに伴う食慣習は土地柄や家々の伝統があるので一様でない。正月は、たいてい、どこの家でも三日間は朝の食事に雑煮を祝つた。しかし、家の仕来で雑煮を祝わず、蕎麦を食べたり、米飯を食べる家もある。雑煮は、家によつて多
少異いがあり、里芋を下盛にして、その上に餅を入れる家や、大根里芋などの野菜を煮付けて汁をこしらえ、それに餅を入れたりする家もある。汁も味噌汁にするところとすまし汁をつかう家とがある。正月七日の七草粥も、餅になづな、大根を入れる家と、昆布、するめ、大根、かぶら、なづな、こまつな、餅など、いろいろなものをいれた雑炊をこしらえる家もある。初午には、どこでもたいてい、赤飯を炊き、必ず塩いわしや豆腐を食べる習慣があつた。屋根葺や、農繁期などの手間借の場合は、焼酎と豆腐を出して、その労をねぎらい、「しのぎ」と称して、うどんを食べさせた。うどんは、冠婚葬祭の時などにもよく用いられた。婚礼の時に出す「しのぎ」は餅吸物であつた。餅吸物というのは、醤油のすまし汁の中に餅を入れたものである。婚礼の祝儀膳には、鯛の塩焼、赤貝、たこ等の酢のもの、野菜煮付、汁、赤飯、桜湯などがつかわれた。汁は吸物と呼び、その中には、はまぐり、かしら付小鯛、はんぺん、さよりなどのうち、どれか一品を選んで入れ、それに、青味として、せり、または、みつばを添えた。
子供が生れると、三日目に「三ツ目のぼた餅」と称してぼた餅をこしらえた。また、その時の祝いの膳には、いしもち、かながしらなどの魚を用いた。おびやあけ、食初め、誕生祝、七五三祝、還暦、喜の字祝など、すべて生れてから死亡するまでの間に迎える祝いごとには、たいてい、赤飯と魚が祝いの膳につけられた。
凶事の際の食事は、従来は一切動物性材料を用いないで、蔬菜、豆腐、豆などの植物性食品を調理した精進料理であつた。死者を納棺した時は、「一生の別れ」と称して、一升の酒と豆腐を八つ切にしたものが出され、湯灌にたずさわつた者たちが、出された酒を呑み、その豆腐を食べた、その豆腐は八丁豆腐と呼ばれた。通夜の時は集つた近
親の者に「しのぎ」と称して、豆腐、人参、牛蒡、大根、里芋、油揚などを、ごつた煮にした「けんちん」と名づけたものを出した。凶事の膳には、白飯、焼豆腐、がんもどき、長芋の煮付、賽の目豆腐の味噌汁、香の物などが付けられた。また、引出物として、まんじゆう、または、あんこ餅を用いた。婚礼や凶事の時に出される本式の膳部をこの辺の人たちは「ほんぱん」と呼んでいる。(「晴の食の項」古来わが国では、二つの食品を同時に食べ合せると、中毒症状を起し、その結果、生命を危くすると伝えて、それを「食合せ」と称した。鰻と梅干、蟹と氷水、蕎麦と田螺、焼酎と奴豆腐など、一般に食い合せとして伝えられたものは、その数が非常に多い。しかし、それ等は科学的根拠に乏しく、要するに一種の迷信であり、その、ほとんどが俗説である。けれども区内の農家では、未だにその俗説を相当に信じている。食合せに次いで一般的な俗信は「初物食」や、食物の禁忌、禁厭食(
「初物を食べると百日生きのびる」ということは、農家の人からよく聞かされる。牛頭天王を信仰している家では、胡瓜を作らず、また、それを食べない。その理由は、胡瓜を輪切にした形が天王様の神紋に似ているから、という。しかし、縦に切るか、斜めに切つたものだけは食べる場合もある。北豊島郡誌(
次に、この辺では餅を搗いた日には「餅が泣くので、ついたり焼いたりするな」と称して、その日のうちは決して
餅を焼かない家がある。これもまた、食物禁忌の一種である。禁厭食とは、ある食物の力を信じて、それを食べることによつて招福除災の霊験ありと伝えた食物である。「十八粥を食べると蜂に刺されない」と称して、正月十五日の小豆粥を十八日までとつておいて食べることや、冬至の日に、中気のまじない、ととなえて、とうなすを食べたり、節分の豆をとつておき、初雷が鳴つた時に食べるなどは、いずれも食物の力を信じてなされたのであつて、それ等の食物は、すなわち、禁厭食に類するものである。雛人形をかたずける際に、永く保つようにと念じて、うどんを供えたり、結婚式の際に縁が続くようにという意を含めて膳部にうどんを差出す風習なども、単なる縁起かつぎの迷信からではなく、そのはじまりは禁厭食としてうどんが微妙な力をもつていると信じたからであろう。どこでも、農家ではたいてい調味料にする味噌は自分のところでつくつたが、その味噌は普通に三年目でないと食べなかつた。味噌は、冬至の頃から苗代をこしらえる前までに必ずつくり、五月になつて苗代をこしらえてからは、「苗みそがつく(
第二次世界大戦が終つて間もなく、昭和二十年(一九四五)十二月九日に連合軍総司令部より農地改革の指令が発せられ、わが国の農民は、すべて小作農の生活から脱却して自作農となつた。けれども、その耕作面積は、全国平均一戸当り田五反、畑三反二畝という零細なもので、そこから得る米の収穫高は、充分に米食をする余裕があるとはいえ
ない。故に、農民食は雑穀混食を普通としているが、この雑穀混食の農民食は、生産関係や経済事情にのみよつて行われたものではなく、それは、土に育くまれた農民生活の根強い伝統によるものであろう。戦争以来、極度の食糧不足のため、都市農村を問わず米を常食とすることは困難となり、日常の調理法や食事の作法も変つたが、長い伝統をもつた食慣行は依然として続けられている。特に農民の食生活は近代生活に適合しないものが未だに相当に多いようである。 本文> 節> <節>石器時代の遺跡が、生活に必要な飲料水をもとめやすい河岸段丘や、湧泉池沼地帯に接続した台地の端または、斜面などに多く見出されるのは、その時代に居住地として好適な立地要件が備つていたからであろう。無土器文化の時代から縄文文化の時代にかけて、数万年の長い間続いた原始的な採集経済の生活から脱して、彌生文化がもたらした水田農耕が支配的生産手段となり、経済生活の基礎が農耕生産に移行した頃、血族単位に結ばれた集村形式の集落が固定化して、住生活に日本的なものが芽生え、農本住居が発生した。
その頃の集落立地の第一要件としては、水田耕作に適する水利の豊かな地点が選ばれ、住居は、農耕生活に便利なように造られた、住居の構造、建築技法、様式などは、その風土環境に順応して生み出され、材料は周囲で簡単に得られるものが利用されたようである。わが国の古代の家屋が楣式建築(
農本生活には、家の中に土間を必要とすることは、昔も今も変らないであろう。そして、家の周囲に農作物の始末などをする広い屋敷地をもつたことも同じであろう。古来、農民は、すべての生活の基礎が土地にあつた、住居も単なる家庭生活の本拠ではなく、農業生産を対象とした作業場として重要な存在であり、農民の社会生活と深い関係をもつていた。この農民の住居と屋敷構とが、農村社会の生活を形造る基本である。近世農民の屋敷構については、徳川時代に或る老農が書き残したと思われる「百姓伝記」に、
住居の位置は、そのほとんどが、武蔵野の東部にある一般の農民住居と同じく、北と西の部分を屋敷林で囲んだ日当りのよい南向となつている。この辺は、春から夏にかけて季節的に南風がかなり強く吹きつけるので、それを除けるために、家屋の前方にかしの木を植えたところもある。この風除の樹木と、住居との間につくられた僅かばかりの空地をうちにわ(
今日の農民住居は、長い間の伝統によつてつくられたもので、それは、自然環境から生れた農民の文化的背景による生活感情の結晶である。それだから、農民の住居は、近代都会人の設計によつて自由に建てられた文化住宅とは、その趣きが異り農業生産を対象とした作業場の一部として、自然的条件と、それに伴う生活要件に目標が置かれ、さらにまた、地域的伝統や政治経済的事情などを加味されて建てられている。
江戸時代には、農民の家造(
このように家造が厳しく規制せられていたので、農民の住居は地域的には、それぞれ多少の差異があるが、その基本様式に於ては、だいたい制約された条件のもとに全国的に著しい共通性をもつたのであろう。それ等農民住居の特質は、簡素な構えを生活の本居として、それをめぐつて、経済的に自給自足を立前とした種々の施設を抱擁している点である。
近世の農民住居は、黒木の柱に草葺屋根で、土間一室を住居の本体とした古代の農民住居とは、およそ比較にならない構えで、外見は粗末でも、内部は、都の建築様式をとりいれて合理的に改良された部分が多い。今の一般の農民住居は、土間と床間(
わが国では、気象その他の関係から農耕生産の作業の上に、特に、土間は必要な場所であつて、雨の日や夜間の農事作業がここで行われた。農本住居の一部である床間は、中世の頃、都の住居構の影響によつて、従来の土間の一部
が板敷につくられたもので、そこは、寝間として安眠休息の場所に当てられた、原始的な土間住居から、一歩前進して改造された農本住居は、はじめは広い土間と区分のない床間だけであつて、大黒柱の側に囲炉裏がつくられ、そこを常住の座と定めていたようである。時の流れに従つて移り変る社会情勢に対応して、生活の様式が改められ、床間の部分が十字型に区切られて間取を四つにして、従来の常住の座が、伝統的な囲炉裏を囲んで家長を中心とした家族団欒の構となり、また、それとは別に、在来の形式的な儀式作法の伝統の要求によつて招客の構が設けられた。このように間取をつくると、それぞれの部屋を孤立させるために、固定した間仕切りをつける必要が生じ、各部屋の境界として厳重な板戸が立てられて部屋分けを明瞭にせれらた、部屋分けが出来ると、やがて、板戸の代りにふすまや明障子(
武蔵野の農民住居は、だいたい、国分寺と所沢、人間川を南北につなぐ線を境界にして、屋根の形態、部屋割などによつて、西武蔵型と東武蔵型とに分類されるが、建築形態の分布から観れば、共に、関東系の一地域を占めるものである。
この建築形態は、古くから日本建築の標準となつた奈良京都を中心とした関西系
画像を表示 画像を表示 の建築と比較すれば、すべて、木割が太く、屋根は勾配が急で、目立つて大きく、その比例均衝を失つているが全体の構造は極めて堅固に見え、何となく重厚粗野な感じをうける。このような建築構造は、今までに幾度も、この地方に大きな被害を与えた震災暴風雨など、不可抗力的な自然の迫害に耐えるために工夫されたもので、関東地方の地相、気象などが住民に及ぼした精神的影響によつて表現された特性である。 画像を表示区内の農民住居も、季節的にこの地区に襲来する強い野風や暴風雨の被害に耐えるよう十分に工夫をこらし、都の住居のように木割を細くしてきれいに見せかけるよりも、木組には太い材をつかい、そして、家の周囲は壁の部分を多くして、下見板を張りつめ、そのつくりを頑丈にした。家の形態は東武蔵型に属し、屋根は、藁や萱で厚く葺いた平凡な四注造か、入母屋造が多く、切妻造はほとんどない。一般に棟の部分は、簡単な簀の子巻にしたり、瓦を伏せたり、トタン巻にしたり、または、箱棟などであつて、それ以外の特別なものは見かけないが、その棟の頂に換気装置を施した小屋根をつけたところもある。この小屋根は、トタン、または、板で葺いてある。この辺にある入母屋造の破風(
屋根を葺く材料は、従来、主として萱がつかわれていた。もとは、村々に萱を採る共有の萱刈場があつて、年々順番を定めて、そこの萱を刈り採り、結の衆(
住居の内部は、一般の農民住居と同じく、土間と床間(
床間(
「でい」は対面の間で、この部屋は、招客の構につくられた。即ち、客座敷である。南側に明障子がはめられ、家によつては、北側の部分に床の間や押入がつけてある。特別な客のもてなしには、この部屋を用いるが、日常はこの部屋が主人夫婦の寝室に当てられている。「ざしき」は、一般に家族の者たちの寝室であるが、また、招客の構を兼ね
ており、普通の客との応待には、この部屋がつかわれる。この部屋には、神棚と仏壇とがあり、そしてまた神棚の横の鴨居には、たいていお札板(「かつて」は、たいてい、板床にござやむしろが敷かれ、畳を敷いたところはほとんどないが、稀には、その一部だけに畳を敷いた家もある。この部屋は、土間に張り出した板間に続いており、部屋の片隅にある大黒柱の側には囲炉裏が切つてある。農家で火鉢や炬燵の使用が盛んになり、生活が近代化するまでは、この囲炉裏のある部屋が家族団欒の構であり、ここが農民の家庭生活では大切な場所であつて、食事、休息、団欒、親しい客との応待などには、一切このところがつかわれ、常に囲炉裏を中心として秩序ある一家の統制がとられていた。
それ故、囲炉裏の周囲の座席には、わが国古来の封建的な家長制度のあり方を示した作法や、それに伴う習慣があつて、家長、主婦、家族、客人などの座が厳然と定められていたのである。家長は常に、土間から見て、囲炉裏の奥正面のところに座を占めた、そこを、「よこざ」と名づけ、この席は、一般には冒しがたい座として、どんな場合でも、家長以外の者をこの座席に坐らせることは、決してなかつた。しかし、家長の地位にある父親が不在の時だけは長男が、その席に坐ることは許された。故に、家長が息子に家督を相続させて隠居すれば、その日から直ぐに「よこざ」をあけ渡す習慣となつていた。主婦は、「よこざ」から見て、「かつてもと」に近い左側のところに座を占めた、その座は、「かかざ」と呼ばれた、「かかざ」の後にあたる「かつてもと」には、大黒棚を設け、そこには恵比須大黒の像を置くこともある。主婦の座は、家長が息子によこざをゆずり渡すと同時に、「よこざ」をうけついだ息子の嫁にゆずられた。嫁が主婦の座を引継ぐまでは、主婦が一切のしんしよまわし(
囲炉裏の火は、近世の中頃まで、炊事、煖房、照明などに用いられ、その火の管理は、主婦、または、嫁に負わされた重い役目であつた。囲炉裏に焚木をくべる場所は、「よこざ」の向う側にあたる土間よりのところで、そこは、「きじり」と呼ばれた。「きじり」は、嫁や、作男、作女などが坐る場所とされており、そこに坐つた者は囲炉裏の火燃しをしたのである。この座は、家長の座である「よこざ」に対して一番下(しも)の位置にある故、「しもざ(下座)」とも呼んだ。
炉端は、元来、日常生活の中で、家族たちを本位とした団欒の場所として、古来わが国の常民の間に伝承されたところであるが、日頃親密な間柄で、くつろいだ客だけは、炉端へ通して談笑するのが常であつた。その場合、客の座席は、主婦の座(かかざ)と相対する入口に近い場所であつて、その座を「きやくざ」、あるいは「きやくのざ」と名づけた。客がない時には、この「きやくざ」に、老人や子供たちが坐つたが、客が来れば、それ等の者は、座をあけて「よこざ」と「かかざ」の間のところか、または、「よこざ」と「きやくざ」との間の隅の場所に座ることとなつていた。
囲炉裏は、土間に作られた地炉が改良せられ発達したもので、古くはひたき(
囲炉裏の火で炊事するには、梁から自在鈎を吊り下げて、その鈎に鍋をかけて飯を炊き、あるいは、汁を煮たが、別にまた、かまどを設けて、そこで炊事が行われた。従来の農家のかまどは、新しい住宅のかまどとは異つて、粘土
で築かれた粗末な構のものが多く、その位置は、北側または、東側の壁ぎわに近いところにあり、その傍には、火を慎しむために「火の用心」と書いた紙が貼られ、そして火の神、竈神がまつつてある。家の代名詞として「かまど」と云う語は広くつかわれ、分家することを「かまどわけ」、破産することを「かまどをかえす」と唱えて、古来、「かまど」が家の象徴と考えられた。
炊事の構でかまどと共に大切なところは「ながし」であつた。常民は、ながしには「ながしの神」が存在すると信じてここでも、いろいろな禁忌作法が守られた。「ながし」の位置は、この辺の農家では、ほとんど、どこでも、北側の壁ぎわにつくられ、その傍に大きな水かめがおいてある。そして、ながしの前方には、明りとりのために、小さい窓をつけ、その窓には、よろい戸をはめたところもある。ながしの上部には、炊事道具や日常使用する食器などを載せておく簀の子棚が設けられ、また、その左方の板床の隅のところには、食物や、日常余り使用しない食器類を入れておく戸棚や箱がおいてある。その場所を、俗に「かつてもと」、あるいは「おかつて」と呼んだ。区内の農家の炊事の構は、たいていこのような構である。
農民の住居は、どこでも炊事煖房用として屋内の囲炉裏やかまどで、常に焚火が行われ、そのため、烟が部屋の中に立籠るので、なるべく空気の流通をよくして烟を屋外に排出させるようにした。在来の農民住居に天井をつけなかつたのは、換気通風を考えてのことと思われる、そればかりではなく、天井は、小屋組や二階の床組(ゆかぐみ)などをかくして、室内の美を添える目的で、中古以来、部屋の上部に取りつけられたものであるから、粗末な農民住居では無用であつたであろう。けれども、藁や薪などを貯蔵したり、養蚕のために、屋根裏の空間利用が考えられてか
らは、竹や樹枝、割板などを十文字に幾本も桁の上に横たえて、更に、その上にむしろなどを蓋つた簡単な天井が一般につけられ、農民住居が立体的に利用されるようになつた。区内の農民住居でよく見かける土間の上部にある中二階(ちゆうにかい)と呼ばれたところは、すなわち、この屋根裏利用の一例である。近頃の農民住居は都会の住居にならつて、「でい」「ざしき」など、人目にふれるところは、たいてい板張天井がつけてある。 画像を表示土間が、農耕生産の作業上重要な役割をもつていることは、既に述べたが、武蔵野の農民住居では、この土間の東の隅の部分を厩に利用していたことがある。今では、農家で馬を飼わなくなつたので、その場所を物置などに改造したところが多い。故老の談によれば、「大正の頃までは、区内の農家でも、相当に馬を飼つていて、土間の東の隅を厩にしていたが、馬を飼わなくなつてからは、そこを改造して、夜間に鶏を入れる鶏舎(とや)にしたり、物置にしたり、あるいは、そこへ据風呂をおいて、風呂場にしてしまつた、」ということである。しかし、その場所を、よく注意して見れば、以前に厩であつたことがあきらかに知られる。この辺の農家は、風呂場にたいてい据風呂を用い、その位置は、鬼門、裏鬼門の方角を避けて、なるべく人目につきにくい土間の片隅を選んで風呂桶を据えつけている。
井戸は、どこでも、住居の前庭(まえには)の隅に掘られた、その位置は、ほとんど一様に住居の辰巳(
便所は、俗に「せつちん」とも呼ばれ、たいてい、住居の前庭(まえにわ)の東側につくられ、その建物は、小さくて粗末なものが多い、井戸と同じく、鬼門、裏鬼門の方角を避け、常民は、便所には、便所の神がいる、と信じて、ここでもまた、いろいろな禁忌作法が守られた。以前には、便所を小屋の片隅につけたところもあつた。
農民住居には、家族団欒の構と招客の構、それと、農耕生産に必要な作業の構の一部分を含めた主屋(
この辺の農民住居では、主屋(
区内でも養蚕が盛んな頃には、別に養蚕小屋を建てた農家もあつたが、養蚕が廃れて以来、その建物は取壊したり、物置などに改造してしまつたので、今は、全くなくなつた。これ等の建物以外に、農家では、牛や豚、鶏などの家畜を飼育する家畜舎や、家財道具、穀物などを保管する「ぬりや」、土蔵などをもつたところもある。「ぬりや」と土蔵とは、その用途に於ては、ほとんど同じであるが、その構造が異つており、「ぬりや」は壁の外部に柱があらわれているが、土蔵は柱を全部壁に塗りこみ、屋根を二重屋根とし、入
口には頑丈な板戸の外に、さらに、厚い壁の扉がつけてある。この辺では、「ぬりや」は、たいてい、普通の農家にあるが、土蔵は中流以上の生活をしている農家でないと建てなかつた。「ぬりや」や土蔵は、一般に主屋(また、区内の農家の中で、本家分家の序をあらわし、家の格式の象徴として、本家以外に、分家では腰高の明障子(
人間が一生涯を通じて、個人が手がける造作物の中で、もつとも大きな空間を占める構造物は家屋であろう。家屋
は、住居の本体であつて、日常生活の本拠となるところであるから、いつの時代でも、家屋をつくるには、誰もみな、周囲の状況、住居の適不適について、あらゆる条件を慎重に考慮して建築に取りかかるに相違ない。それだけに住居と俗信とは、かなり古くから深い関係があつた。陰陽道が、わが国に伝つて以来、陰陽五行相剋の理に基いて、十干循環の法により吉凶を判断して、方位金神の説などがたてられ、家の方位、間取、設備、自然環境などが吉凶禍福を司ると考えた家相の俗説や、五行の組合せによつて生じた家屋をつくる時には、従来、暦の上で吉日と伝えた、天赦日(
以上は、今日まで区内で行われていた神道の法式による地まつりであるが、区内では、この外、修験の法式による「地まつり」も行われた、その場合には神籠(
棟上げの式は、新築を祝う儀式であるが、それと同時に住居の安全を咒する行事でもあつた。棟木に破魔弓、破魔矢をつけるのは、魔除けの咒としてなされたのであり、祭壇に墨指し手斧曲尺を配しておいたのは、火難除けの咒であると伝えられる。それについて、徳川時代に書かれた随筆「塩尻」に
工匠の棟上するを見しに墨指しを第一に置き、手斧を次に置き、終りに曲尺を置いて祝す、其故を問へば、是水の字なりと云し、是亦俗風なれども和漢家作りに水を用ひ侍る事、屋上に鴟尾を置き、内に天井をまふけ、或は、藻を描き、竜を図するもみな水物を製して火災を厭うわざなれば工器にて水の字をつくる同意なり、
と記してある。火難を恐れる人間の心理は、その時代や場所を問わず、いささかも変りがない。この辺の農家で、藁葺屋根の棟の左右の、俗に「小びら」と呼ばれるところに、草書の「水」の字や、「龍」の字を切りこんであるのを見かけるが、これは、火難除けの咒として付けられたものであり、また、天井裏の棟木のところに、古びた神仏の護符を束ねて吊しておくのも、住居の安全、即ち、火難除けのためになされた一種の咒事である。
農民が家屋を建てるには、以前は、だいたい、どこでも、その大部分を村人の協同作業によつてし、部分的に専門の大工やその他の工人が参加してつくられたのである。ことに、屋根葺作業は、前に述べたように共有の萱刈場から村で定めた順に従つて、萱を刈り採り、結の衆(
農民住居は、そのつくり方から見て、旧慣がよく保持され、古い伝統を示しているが、その中で、二百年三百年の年月を経過した古い家屋は極めて稀である。区内の農民住居を調べると、江戸時代の中期頃までに建てられた家は少く、江戸時代の末期から明治の中頃位までに建てられた家屋が多いようである。
その頃、この辺では、一般に農家の副業として養蚕がはじめられ、それがため、従来の農民住居は、その一部が改革されて、曲り家、二階家などもつくられた。最近は、農民住居も、屋根葺材料としてつかう萱が手近で得られなく
なり、また、熟練した屋根葺職人も少くなつたので、屋根の修理費用や火災予防の点から考えて、屋根をトタン葺、瓦葺などに葺きかえたところが多くなつた。そして、また、近代住宅に比較して、全体的に通風が悪く採光が不十分な農民住居の欠点を除くために、北側に窓をつくり、「でい」の西側にも縁側をつけて、そこに明障子(人類が、ある地点に定着して、聚落を形成し、その付近に水田の設営耕作をはじめてから間もなく、労働協力の方法が確立された。それ以来、労働力は、農業経営の上に必要な一要素として、村の組織、農業生産の面など、日常生活に於ける農民の経済的活動に対して大きな影響を及ぼしてきたのである。従来の農民は、生産の手段にしても、経済機構にしても、個人主義的生活を理法とするには、余りにも多くの矛盾があり、彼は生きるために協同的連帯性をより以上に必要としたのであつた。それ故、農の根幹の大部分を稲作におくわが国では、労力的にもつとも繁忙な五月(
一、我等六人之者、村始之百姓ニ御座候ニ付、居座敷之儀、従先規段々極り居来り申候得共、与ニ証文無之故、此度六人之者致相談与ニ証文取引仕候、在居之次第ハ右之上座加右衛門三右衛門両人ハ各年ニ御座候、六兵衛同三番座敷ニ
御座候、左之上座次郎左衛門同二番座敷八兵衛同三番座敷金左衛門、如此在居候儀相極り申候間、子々孫々迄与ニ無相違居可申候、若六人之座敷様申者御座候ハバ六人之者一同急度申合少も不足等申間敷候、但シ六人之内相違儀も於有之は鎮守之御罰可蒙者也、祭礼等一所ニ可仕候、為其証文仍如件、 い上元禄三年庚午四月四日
山口三右衛門㊞
見米次良左衛門㊞
加藤八兵衛㊞
関口金左衛門㊞
山口六兵衛㊞
加藤加右衛門 殿
右上座二番座敷加右衛門三右衛門㊞
両人各年ニ居可申候
資料文>とある。この証文に記された苗字は、いずれも「隠し苗字」と思われるが、その六人の者たちは、それぞれ土地の旧家であつて、中でも加右衛門は「宮脇(
大正年代になつてからも、農民は協助の目的で組合をつくり、労働交換、肥料の共同購入、冠婚葬祭の際に客膳の共同使用をしていたところもあつた。
本文> 節> <節>年中行事とは、一年中の定まつた日に年々繰り返される定つたことをする慣習をいうのであつて、それには国家的
年中行事と民間年中行事とがある。従来行われた民間年中行事は非常に多く、特に農民は、農耕の関係から、年毎に繰り返される行事をもつて一年の生活に於ける重要な区切りとしていた。それは、彼等農民が、生存の必要から、生活の上に築きあげた長い間の生活体験の結果、生活を安全に導く指針として保持して来た伝統的な慣例であつた。それ等の慣例は、いずれも、神事や仏事、暦の思想などと深い関係があり、その、ほとんどが農民の信仰によつて支持せられた。わが国では、明治五年に暦法が改正せられ、それ以後、太陰暦は廃止となり、一般に太陽暦が用いられた、けれども、農民は、農作物の関係から、旧慣を墨守して、所謂民間暦として、従来の旧暦を用い、そして、更に、四季の移り変りを示す二十四節気に従つて農耕作業を営んだ。二十四節気の最初は立春であるが、この日は、今の暦では、二月四日頃となる。立春の前日を節分と称する。立春から数えて八十八日目を「八十八夜」と呼び、俗に「八十八夜の別れ霜」といわれ、この晩に最後の霜が降ると伝えられている。八十八夜は、毎年五月三日頃に当り、農民はこの頃より稲の播種や養蚕の掃立てなどで、繁忙期に向う、その外、春秋の彼岸、二百十日、八朔、梅雨などは、いずれも農耕生活にとつて重要な時季である。また、朔日、十五日、五節供(区内の年中行事に関する資料は、乏しく、時代によつて廃絶復活がはげしかつたので、古いことはわかりかねるが、故老の談や残存する一部の行事によつて、昔のありさまを察することは出来る。大正七年十一月に、北豊島郡農会で発行した東京府北豊嶋郡誌によれば、上練馬村、下練馬村、大泉村、石神井村、中新井村各村ともに「暦は月送り」を用いていたことが記してある。しかし、下練馬村では、「追儺、彼岸だけは月送りでなく、普通に行つていた」と同書に載せている。故老の談によれば、この追儺と彼岸だけは、他の村々も月送りではなく普通に行つたということである。年中行事については、郡誌によれば
<資料文>上練馬村
(前略)正月の諸行事すべて近村と相同じ、秋季大根のころ各戸多く沢庵漬を作り、市に出すこと盛にして、村内金融よろし、(中略)其他特に記さんほどのもの無し。
下練馬村
(前略)十一月、中新井村との地境なる往還の両側に酉の市を開く、附近よりの人出夥しく夜を徹して雑踏するを例とす。年の暮に餅を搗くこと一般の習俗ながら、本村の如きは殊に盛にして普通二三石多きは四五石を搗く、細民と雖も尚ほ一石内
外を費すの例なり、寒詣、初庚申、梅見、二十六夜待、お会式、紅葉狩、柚子湯、聖誕祭、年の市等殆ど無し、其の余一般の俗に同じきを以て略す。大泉村
毎年一月一日村内有志等相集まりて年賀会を開くの例あり、十五夜には団子の外に豆腐を供ふ。十月十九日西中山妙福寺のお会式賑ふ。
石神井村
正月には節句と称して親戚故旧を招き簡単なる宴を開くもの多し、七草粥は行はれず、七夕祭行はる。春秋とも彼岸には各戸必ず墓参りを為す、十月村内法華宗本立寺にて盛なる御会式を行ふ、夷講とて親戚知人を招じて小宴を張るもの多し、毎年酉の市に出でて熊手を購ひ来ること村内普通なり、十一月十五日女子七歳の祝を為す、俚俗之を帯解と称し、盛装して氏神へ参詣す、当日祝餅を搗く、年の市は村内本立寺に開く、年賀状は大抵暮の中に出す、其数村内を通じて八千位なるべし。暮の餅は多量に搗き貯ふるを例とす、普通毎戸二石位なるべし。
中新井村
本村は日蓮宗の信者少き土地柄なるを以てお会式に集ふもの等是なし、十一月の酉の市は村内大鳥神社に開く、農具植木などの露店も出で盛に賑ふ、年賀郵便物は少き方にて、着発を合して一村三四千枚に過ぎざるくし。
資料文>と書いてある。年中行事と農耕生活について故老の談をまとめると次の通りである。
区内の農民は、農耕の都合から一ト月後れで、いろいろの年中行事を行つた、けれども中には月送でなく行われた行事もあつた、この辺では、以前はすべての行事が旧暦で行われていたが、それは、次第に廃れて新暦に改められた
ということである。一月は、新暦でいえば、年の始めで正月であるが、旧暦では十二月の節に当る故、農家では、この月を暮の月としていた。五日頃に寒に入る、八日を「どようか」、または、「しはすようか」と称し、この日に、一ツ目小僧、あるいは、鬼を追うために、目籠や篩を竿の先につけて門口に立て、「悪病」(
二月は、月送の正月である。旧正月の元日は、たいてい一月の下旬か二月の上旬の頃に当るが、区内の農家では、月送で正月を行う故、二月一日を元日として、この月にすべての正月行事が行われた。元日から三ケ日は、どこの農
家でもゆつくりと休んで正月を楽しんだ、この三ケ日の間は「としおとこ(三月の三日は「雛まつり」であるが、農家では、それを月送で行つた。「おびしや」は、この月の初午の日の稲荷祭の際に行われたが、その日が丙午に当れば、二の午の日に行う習慣となつていた。稲荷祭も、また、丙午の日は避けた。初の庚申供養もこの月に行われた。この月は「彼岸月」で、麦の手入、さつま芋の床ふせ、じやが芋の植付、牛蒡の種まき、などが始められ、これから愈々野良仕事の繁忙期となるのであつた。彼岸は十八日に入り二十一日が春分で彼岸の中日に当り、二十四日が彼岸明けである。この期間に祖先の墓参をなし、追善供養をした。
画像を表示 画像を表示四月の三日には月送の雛まつりが行われた。この日を「桃の節句」といわれた。四日頃から「ねえまごしらえ」(
五月の一日には、男児のある家では、鯉のぼりをたて、五月人形を飾つて端午の節句の準備をした。八十八夜は、二日、または、三日の日で、その頃、苗代に「稲の種おろし」が行われた。五日は端午で、端午のことを、また、「しようぶの節句」とも呼んだ、家々の軒端に「しようぶの屋根ふき」と称し、「かや」と「しようぶ」を差した、この日、柏餅を食べ、「しようぶ湯」に浴する風習がある。九日頃から田植の準備にかかり、二十日頃から手間借をして田植がはじめられた。この時期は農家にとつて目の廻る程の忙しさで、家には、老人子供などが留守居をして働ける者は全部野良仕事をした。「きうり、茄子、とまと」などの蒔付、さつま芋の植付はこの月に行われた。
六月は、五日頃から麦刈が始まり、十一日頃から入梅に入る。この頃を麦秋といわれ、雨の晴間に、麦こなしを行い、また除草や人参の種まきなどもした、養蚕をしていた頃には春蚕の飼育で忙しい時期であつた。田植が終れば、「田植正月」と称して一日だけ仕事を休んだ。二十三日は夏至、三十日は大祓で、この日に形代を持つて鎮守の社に参詣した。
七月は一日が「山開き」で、富士の信仰者は附近の浅間神社に参詣に行つた。この月は、「お盆の月」で、寺々で施
餓鬼が行われた。農家の「お盆」は月送である。二十日過に土用に入る。土用に入つてから三日目を「土用三郎」と称し、その日の天候が農作物の豊凶に深い関係があると信じられていた。土用の丑の日には、悪病を除けるために、「あじさい」(八月は月送の「盆月」である。上旬の頃、旱魃が続けば雨乞が行われた。雨乞には、たいてい、村持、あるいは組持の弁才天の祠の周囲にある池の、「池さらえ」をしたが、また、井ノ頭池や御嶽山(
九月の一日は「八朔の節句」で、この日は野良仕事を半日間休んだ、二百十日は、その頃に当り、二百二十日とともに農家では、この両日を厄日と称した。その頃が丁度稲の開花期である。陰歴の八月十五日は、中旬の頃で、こ
の日は「十五夜」と称し、また、「芋名月(十月は、稲の取入月であり、農家にとつては忙しい時期である。五日頃から村々の鎮守の秋まつりが始まる。陰歴九月十三日は、十三夜と称する。十三夜は「後の月」、「豆名月」、「栗名月」ともいわれ、十五夜と同じく、「すすき」、芋、豆、栗、だんごなどを月に供えた。十六日頃から麦まきが始められ、二十日頃から、さつま芋掘が行われた。二十日は、「えびす講」で、家々では「えびす 大黒」の木像を机の上にまつり、「うどん」、頭付の魚、神酒などを膳の上に載せて供え、その傍に財布を置き、また、桝に銭を入れて、その前で振つて音をたてた。このようにして「えびす 大黒」をまつれば、財を増殖して呉れるといわれた、二十九日三十日の両日には「荒神まつり」が行われた。この日を「荒神さま
のお立ち」と称して、荒神棚に馬のじんめ(十一月の上旬には、麦まきを終り、その頃の酉の日には、中新井、石神井の大鳥神社は「酉の市」で賑つた。また、亥の日には「いのこ」と称して、この日に万病を除けるために餅を食し、そして寒さの用意に囲炉裏開きをした。十三日の夜は、田柄の大師堂で、講中の人たちが集つてお十夜の法会が行われた。十五日は七五三の祝で、三歳五歳七歳の子供が美しく着飾つて親に伴れられて鎮守に参詣した。この日は親しい人たちを招いて宴がひらかれ、或は、それ等の人たちのところに赤飯が贈られた。この辺では「お会式」をこの月に行つた。十九日二十日の両日が、南大泉の妙福寺のお会式で、十九日の夜は近郷近在から講中の者たちが万燈を点じ、団扇太鼓を打ちならし、先頭の者が纏を振つて勇ましく行列をつくつて寺の境内に集つた。二十日には、この辺で新しくお嫁入した人たちが、花嫁姿で姑と共に参詣した。この日は、寺の附近に農具や日用品を売る商人が店を出して境内は賑やかであつた。下旬には、大根干が始められた。三十日は「迎え荒神」と称して荒神まつりをした。この日は「荒神さまのおかえり」と唱え、にわとりのじんめ(
十二月は、新暦では年の暮である。この辺の農家では、野菜の売り出しや沢庵漬などで、この月は忙しい時期であつた。それ故、沢庵漬の最盛期には夜中まで働くことは珍しくなかつた。沢庵漬には、二升五合、三升、五升、七升など塩加減によつて差異があつた。二升五合の沢庵は正月から二月にかけての期に食べられ、三升沢庵は三月四月頃、五升沢庵は五月六月頃、七升沢庵は七月八月の盛夏の候から翌年にかけての食用に供されたので、その漬方や取
扱いなどは、それぞれ吟味せられた。九日十日の両日は、関町本立寺のお会式で、この日は境内や寺の附近に年末の用具や農具、日用品、衣類などの市がたつた。中旬から下旬にかけて庚申の日に「庚申まつり」をした。二十二日頃が冬至で、この日病気のまじないとして、柚子湯に浴し、「かぼちや」を食べた。また、北町の富士神社で火渡行事があつた。三十一日は大晦日の祓の行事が鎮守の社で行われた。 画像を表示(
以上は大正の末期頃まで、この辺で行われていた年中行事を中心とした農民の生活と習俗のあらましである。その中には既に廃絶したり形をかえたものも相当にある。最近は、それ等の年中行事に代つて新しい年中行事があらわれた。夏の盆おどり、七月二十四日に石神井で行われる燈籠流し、九月八日に貫井町で行われる柴燈護摩供養、その他所々で月々定期的に行われている縁日などがそれである。
本文> 節> <節>江戸時代の農民は、休養や慰安にまで為政者の酷しい干渉をうけたのであつた。各地の五人組帳に「休日は盆、正
月鎮守の祭礼以外、一切休むまじき事」とあるが、これによつて、当時の農民が休養も慰安の期も自由に与えられない窮屈な生活をしていたことが察せられる。前に述べたように、農民の生活制度は、すべてに於て極度に規制せられたので、農民はその心境を卑屈にし、彼等の生活感にその影響があらわれて、「遊び」とか「休み」「趣味、娯楽」などと云えば、彼等はそれを道楽的行為と考え、一種の罪悪的感情をさえ抱くに至つた。そうした感情に基いて培われた生活理法と、農村特有の生活事情とが合致して、農民の慰安娯楽は季節的に制約された。従来の農村年中行事が月送で行われたのも、農村の生活事情に則して定められたからである。秋の村祭は、穀物収穫の感謝と喜悦の感情をあらわした意味の祭りであり、正月行事は改暦の祝儀であつて、その際行われた「物作り」は豊作の願望や、これを約束する神の意を外形にあらわしたものである。春の祭は農作の豊凶を占う神事であるとともに五穀豊穣を祈願する祭であり、盆の精霊会は、祖先追慕の切実な感情のあらわれであつた。このような祭りや節句などの年中行事は、農民の慰安娯楽と密接不離の関係があつた。農民は、正月、祭、盆、節句などを「もの日」と称して遊びの日とした。昔から農村は町に較べて慰安娯楽の施設が至つて乏しかつた。従つて、「もの日」には、神社や寺院の境内に集つて、力競べや踊、あるいは、素朴な村芝居、または草相撲などが行われた。力競べは、単なる競技だけのものではなく、多分に呪術的な意味が含まれていた。区内の社寺の境内や民家に遺る「力石」は、力競べの際に用いたものである。盆の 画像を表示 踊りは、感謝と秋の収穫の全きを希う切実な感情の発動であつた。江戸の近郊農村では江戸時代の末頃、農民の慰安として、里神楽や囃子が奨励せられたので、鎮守の祭礼には必ずそれを演じた。区内では、中新井、下練馬、谷原、石神井、北大泉、関などの村々にそれぞれ囃子が伝えられている。村の若者たちによつて組織された若者組は、そうした娯楽的な催しに当つて常に重要な役割を果していたのである。単調な農村生活では、そのような機会が何より楽しい時であつたであろう。また、大師めぐり、富士大山まいり、御嶽まいり、なども日頃の信仰からだけではなく、精神的安泰と愉悦を希うために行われたのであろう。日常生活に於ては、気心の知れた者同士が共に働くことによつて、労働の苦痛を忘れ、さまざまな農民歌が唄われた(俚謡の項参照)その歌詞は彼等の感情が脈々と流れたもので、それを唄うことは、単なる憂さ晴しではなかつたであろう。彼等にとつては、それが僅かの慰安であつたに相違ない。以上の外、野謡、武芸なども農民の間にたしなまれ、それが一つの慰安娯楽となつていた。明治の頃には谷原の長命寺の縁日には、村芝居、「のぞきからくり」などの見世物が小屋をかけ、村人たちはそれを見ることを何よりの楽しみとしていた。 画像を表示 本文> 節> <節>人間が生れてから死ぬまでの間に、幾度か行われる折目の儀式を冠婚葬祭と称し、その慣習は、ところによつて多少の差異があつた。江戸時代に於けるこの辺の冠婚葬祭の慣習については、詳しいことはわからないが、明治の中頃から大正年代にかけて行われていた慣習は次のようである。
〔産育〕妊婦は五ケ月目の戍の日に腹帯を締めた。腹帯は紅白の綿布を用いた。出産に際して、昔は入院して産をするということは無かつたので、産室には藁を敷き、産婦の両脇と背後に「お産蒲団」を置いて身を支えた。安産祈願のために、桝の隅に飯粒をつけて庚申に供え、それと一緒に粥を炊き産婦の食事とした。産後三日目に「三ツ目」と称して祝つた。名をつける時は、いくつかの名前を半紙に記し、一つ一つそれを折りたたんで、その中から一つをひきあてて定めるか、または、神主僧侶などに依頼して名付親となつて貰うこともあつた。原則として名付役は男がなつた。嬰児の誕生着は嫁の親元から贈る習慣があつた。男親が厄年の時に子供が生れると、お七夜前に嬰児を箕に入れて四辻に捨て、近所の人に拾つて貰う風習の家がある。初孫の分娩は、嫁の実家でなし、お七夜の日に姑が孫を抱きに行つた、その際、姑は祝いの膳について孫抱唄を唄つた。孫抱唄は「初うせ」ともいわれた。生後十一日目には、嬰児に「おむつを」かぶせ、母親が抱いて井戸と便所へ詣つた、産婦は、その日まで、井戸と便所の使用を禁じられていた。「おびやあけ」は、男児は三十一日目、女児は三十三日目で、この日に宮詣をした。宮詣は嫁の母親が嬰児を背負つて嫁と共に鎮守の社へ行つた。初孫の場合は、その帰りに親籍や媒酌人の家へ挨拶に立寄り、その夜は実家で泊つた。生後百日を経過した時、「喰初め」が行われた。初孫が生れて始めての正月には、親類、媒酌人などを招待して酒宴を催した。その際にも「孫抱唄」を唄われた。誕生後の初の正月には男児には「弓破魔」女児
には「羽子板」が贈られた。また初節句には、男児の場合は親類から五月のぼり、または、武者人形が贈られ、女児の場合には雛人形を贈られた。誕生前に嬰児が歩き出せば、「親を倒す」と称して餅を搗いて背負わせた。「おびとき」は「ひもとき」とも云い、男女七歳の時の祝であつて、名付役は、その時に着物などを祝つた。七五三については東京府北豊嶋郡誌の下練馬村のところに <資料文>七五三の祝の内にて長子女の七歳祝を鄭重にし他は略式にすること一般の風習とす、祝日は概して十五日或は二十八日とす、共前に親族知己より服装品を贈る、児の家にては餅を搗きて之れに返礼す、当日は親族知己を招き祝児は母の実家より贈られたる祝衣を第一に着し盛装して親族に擁せられて、氏神に参詣す其際酒肴を携へ行き社地に集まれる者一同に饗し、又餅密柑等を撒きて一同に与ふるを例とす、次で帰宅後祝宴を開く、
資料文>と記してある。
〔婚礼〕結婚の際には、仲人が間に立つて話をまとめた、媒酌人は、酒肴代を定め、貰方から嫁の家へ行き、「口がため」が行われ、結納、式の日取りなどが決められた。結納は、以前は品物で納めたが、明治末から大正年代の頃にかけて、金納するものが多くなり、それ以来は品物で納めるものはほとんどなくなつたと云う。結納の時は、吉日を撰び酒を入れた「いだる」(
〔葬式〕死者があれば、二人の者が一組となつて親類縁者に知らせに行つた。使いの者が帰ると、その者たちに酒と飯とを出し、親籍の者が駈けつけた時には「しのぎ」を出した。納棺は死人の寝ていた部屋で行い、その際、畳、床板をはがして、近親者の手で湯灌がなされた。棺を運ぶ時は、家の格式や貧富の差によつて四人担ぎ、または二人担ぎの輿が用いられた。墓穴は、組合の者たちによつて掘られた葬式が終つた日の夜、念仏講中の人たちが念仏を唱えた、但し日蓮宗では題目講中の者たちがお題目を唱えた東京府北豊島郡誌の下練馬村のところに
〔葬歛〕近親者先ず屍に湯灌を行いて之を納棺し、寺僧を招して読経焼香等を了り、墓地に送る、会葬者には酒食を饗す、葬列の先頭に炬火を持し、会葬者異口同音に真言を唱うるを例とす。
とあり、また、石神井村のところには、「葬歛は殆ど全部埋葬にして、野送には会葬者声高に真言を唱えつつ進む」と載せている。冠婚葬祭に用いられた衣食については、「衣」「食」の項で)は既べた述べた通りであるが。時の流れと共に、その慣習は次第に変化し消失して今日では形式的にその一部が遺されているだけである。
本文> 節> <節>信仰は人間の精神生活の中で大きな支配力をもつている。昔の練馬は農村であつたから一般に農村としての信仰が
あつた。農村の信仰は多岐にわたつているが、中でも代表的地位にあるものは農の神の信仰である。古来、農の神は、いろいろあるが、もつとも一般的なのは稲荷神であつた、稲荷神と云えば、豊川稲荷とか、伏見稲荷と云われるが、豊川稲荷は白晟狐王菩薩(びやくしんこおうぼさつ)であり、伏見稲荷は、食稲魂命(うがのみたまのみこと)、猿田彦命(さだひこのみこと)、大宮女命(おおみやのめのみこと)、田中神(たなかのかみ)、四大神(しおおかみ)をまつつた京都伏見の稲荷神社の分霊である。この他に稲荷神としてまつられているのは、保食神(うけもちのかみ)、御饌都神(みけつのかみ)などがある。倉稲魂命、保食神、御饌津神は、一切の食物を主宰する神として古くから信仰された。この神を稲荷と称したのは、仏者の作為と、稲荷を稲生(いなり)の義とする解釈の結合から生じたといわれる。稲荷神は、農家ばかりではなく、民間信仰の随一の神としてその信仰が全国的にひろまつていた。「いなり」の語が「いなり(居生)」に相通じるので家敷神としてもこの神がまつられ、鎮宅神として信仰せられたのである。また白晟狐王菩薩、即ち、吒枳尼天(だきにてん)は、七難即滅七福即成の災禍除厄神として民衆の信仰を集めた。二月、十月の午の日のまつりは、即ち、稲荷祭で、この辺の農家では二月の初午の日に「おびしや」の行事を行つた。江戸時代には、稲荷社と八幡社の外は建立がやかましかつたので部落の社や屋敷神は多くこの神の名を公称していた。新編武蔵風土記稿によれば区内の稲荷社の数は次の通りである。 画像を表示中荒井村 五、(
中村 一、
谷原村 三、
田中村 二、(宝蔵院持)
上石神井村 四、(
下石神井村 三、(
関村 一、(最勝寺持)
竹下新田 一、(村民持)
上練馬村 七、(
下練馬村 三、(
小榑村 一、(円福寺持)
また、北豊島郡神社誌によつて調べれば、稲荷神は、そのほとんどの神社にまつられている。稲荷神の他に農の神として信仰せられた神は、御嶽、榛名、三峯、大山など、山の神があり、また、水の神、宇賀神、弁才天、氷川神、諏訪神、地蔵菩薩、馬頭観音などがある。御嶽には、信州木曾の御嶽と武州御嶽、甲州御嶽の三系統があるが、この辺では
信州御嶽と武州御嶽とが信仰の対象となつており、共に家内安全を祈願せられたが、武州御嶽では毎年正月三日に太占(ふとまに)まつりが行われ、稲その他二十余種の農作物の豊凶が占われるので、農民は特に信仰が篤かつた。榛名、三峯、大山の信仰は嵐除と盗賊除が主であつた。御嶽、三峯では、狼を大口真神(おおぐちのまがみ)」と称しているが、それは、初歩の天然崇拝の階級に在る動物崇拝であつて、自然的宗教の名残である。水の神の信仰は龍蛇信仰と密接不離の関係があり、宇賀神、弁才天も、それと一脈の関連がある。氷川の神は、元来、水の神であつたが、武蔵国では、大宮の氷川神社が一宮であつたから、一宮の神の分霊、または、その遙拝所として各地に社が設けられ村人の信仰の中心となつた。諏訪神も嵐除の信仰があるが、練馬では、この神の信仰は至つて少い。地蔵菩薩も農耕の神としての信仰がある。けれども、その信仰は、この土地ではほとんどないようである。馬頭観音は、馬の神と信じられ、馬持の農民はこれを信仰した。わが国の民間信仰や行事は、農耕と関連を持つものが多い。地蔵菩薩の信仰は、稲荷信仰と同様、古くから、この辺にも盛んであつたらしい。路傍に建てられた数多の地蔵菩薩の石像を見れば、その信仰が如何であつたか 画像を表示 を知られる。地蔵菩薩の誓願は、六道の世界に往来してよく極悪深重の衆生の罪悪を浄化して救済されることにある。地蔵菩薩の姿は、現図曼荼羅には、菩薩形、肉色、左手には蓮華上に如意宝珠を建てたのを持ち、右掌に宝珠を載せて胸に当て、赤蓮華上に坐する像が図してある、しかし、今日、路傍で見かける地蔵菩薩の像は、右手に錫杖を持ち、左手の掌上に宝珠を載せた形相で、この形相は、後世、延命地蔵経が流布せられてから一般にあらわされた姿である。地蔵菩薩の石像を村境に立てたのは、地蔵菩薩が冥界と現実界との境に立つて守護せられるという伝えと境の神の観念とが習合して生じた信仰によつたのであろう。地蔵菩薩は、延命長寿や子育の祈願の対象となつており、延命地蔵、子育地蔵と名づけられた地蔵菩薩が、この辺にも相当に存在する。それ等はすべて、人間の自己保存の願望と種族保存の欲求のあらわれである。昔から地蔵菩薩と子供との関係は非常に深く、それに関する俗説も多く、賽の河原で幼児を救う仏として嬰児を失つた親たちに信仰せられ、子供の冥福を祈るために死んだ子供の帽子や涎掛、衣類などを地蔵菩薩の石像に著けた、そして、その前に小石を積んで供養をした。地蔵菩薩の功徳は、「一には女人は産泰し、二には身根具足す、三には衆病悉く除く、四には寿命長遠なり、五には聰明にして智慧あり、六には財宝盈溢れ、七には衆人に愛敬せらる、八には穀米成熟す、九には神明の加護あり、十には大菩提を証る」と延命地蔵経にあるが、これが、民衆の実生活の中に侵透して、地蔵菩薩が諸人に敬愛せられ、広く信仰せられたのである。古くから民衆の間に及んでいた愛宕信仰もまた、地蔵信仰の一であつて、地蔵菩薩の変身である炎羅諸天王を勝軍地蔵と称したが、この勝軍地蔵が愛宕権現の本地であつた。愛宕権現は火防の神として一般に信仰されていたが、武将は、勝軍地蔵の勝軍という名によつて特に厚くこれを崇敬したようである。地蔵信仰に次いで区内にもつとも普遍的な信仰 は庚申信仰と観音信仰であつた。庚申信仰は、六十年目、あるいは六十日ごとにめぐり来る庚申の時に、特殊な禁忌を要する信仰で、その思想は支那から輸入せられた道教の説にもとづくものである。その説によれば、「人間の身体の中には三尸虫(さんしちゆう)と称する霊物が潜在して居て、常にその人の言動を監視しており、庚申の夜、人の睡眠中に身体より脱出して天に昇り、天帝に其人の罪過を告げる、天帝はそれにより、病気にするか、あるいは、生命を奪わしめ早死させる」と伝えた、それ故、庚申の夜は睡眠を避け、三尸昇天の機会を与えないように努めた。それが即ち「守庚申(まもりこうしん)」であつた。その「守庚申」の物忌みが庚申待と呼ばれた。庚申信仰がもつとも盛んになつたのは、江戸時代の元祿の頃から文化文政頃までで、その頃に立てられた庚申塔は今日区内の各所に多く遺されている。庚申の本尊は、日吉山王二十一社の本地仏であつたが、後には、阿彌陀如来、釈迦、大日如来、地蔵菩薩、観音菩薩、不動明王など、さまざまな仏菩薩を本尊に当てた、しかし、江戸時代中期以降は、金剛夜叉明王を以て本尊とした。金剛夜叉明王は五大尊の一であつて、本地は釈迦であり、顔面が青色である故、青面金剛ともいわれ、五尊配置には北方に安置する。その形相は三面六臂の忿怒形であるが、普通は、三目六臂としたものが多い。けれども、「陀羅尼集経」の儀軌によれば、青面金剛は三眼四臂が原形である。庚申塔にはたいてい猿が付いているが、猿は、山王の神使であり、庚申は「かのえさる」であるから「さる」を付けたともいわれる。不言不聞不見の三猿を配した 画像を表示 のは、儒仏思想によつたと解される。日蓮宗では、帝釈天の縁日を庚申の日と定め、帝釈天信仰と庚申信仰とを結合した。観音菩薩の信仰は、かなり古くから盛んであつた。民間信仰の中で、前に述べた地蔵信仰と観音信仰とは一対をなしており、観世音菩薩は慈悲の仏として民衆に親しまれた。常に、観音の名を心に想い、その名号を唱えれば、火難、水難、風難、剣難、鬼難、国難、賊難などの七難を免れ、現世の安穏を得られ、人間の現実的な真劒な欲求が満足出来ると信じられた。それ故、現世利益を希う人情から福徳円満求子育児の願をかけるようになつた。その中で特に求子育児の子安神としての観音信仰は普遍的であつた。子安神は、富士浅間神社の祭神である木花開耶姫(このはなさくやひめ)をさすのであるが、本地垂跡の関係で、子安神と、妙法蓮華経の経意に因つて発生した子安観音とが同一不離のものとなつた。経典の上では、観音は、観世音菩薩または、観自在菩薩と称え、七種の異れる観音を生じ、尚また、三十三種に化現することが説いてある。その経意によつて、七観音の信仰や三十三観音の信仰が生じたのである。七観音というのは、聖観音、十一面観音、千手観音、如意輪観音、馬頭観音、准胝観音、不空羂索観音の七種の観音であるが、その中で不空羂索観音または、准胝観音を除いて六観音としても信仰せられた。六観音は、いづれも、これを六道に配して六地蔵信仰と同一の信仰をもつていたのである。区内に於ける観念信仰は、石像などから見れば、聖観音の信仰が多く、それは浅草寺の観音に対する信仰と関連している、六観音、七観音の信仰があつたこと 画像を表示 も、石製造立物によつて知られる。聖観音の信仰と共に盛んであつた観音信仰は馬頭観音の信仰であつた。馬頭観音は、三面八手頭上に馬頭を冠載した忿怒形の観音で、他の観音とはその形相を異にしている。この観音の慈悲利益の甚深なことは、馬のただ水草を念うて余地を顧みざるに譬えてあらわしたのであるが、その名が馬頭と称せられ、頭上に馬頭を冠するところから、これを馬の守り本尊と考え、遂に牛馬家畜一切の供養のために、この観音を念ずるようになつた。今日では区内から姿を消したが、以前には、貫井の円光院や、石神井の三宝寺で、観音の縁日である午の日に、土地の馬持連中が、それぞれの持ち馬を寺に索きゆき、馬の安全を祈願した「馬かけ」という行事があつた。大町桂月の東京遊行記に、三宝寺の馬かけの模様を次のように書いている。 画像を表示 <資料文>物売る露店あり、可成りの人出ありて、成る程お祭りなり。寺内には楽隊の音す、馬頭観世音の石像の周囲に、竹柵を、めぐらし、入れかはり入れかはり馬を三つも四つも入れて、ぐるぐる走らんするもあり。ふざけて小天狗の面をかぶれるものも見受けたり。平生は、しをしをと肥料車を引くになれたる馬も、今日はうるはしく飾られ、鈴をぢやらぢやら鳴らし、威勢よく春風にいななく。馬と馬と相接せむとして接せず。後を気づかいて、後脚、時に空しく砂を蹴上ぐ。みるもの柵外に満ち、岡の上に溢る。近村の馬こぞつて、馬頭観世音に参詣するつもりなるべし。
資料文>この記載によれば、三宝寺の馬頭観世音のまつぢが賑やかあつたことと、この辺の馬持の農民が馬頭観世音を馬
の守り本尊として崇信していたことが推察せられる。区内に現存する馬頭観世音の供養塔は江戸時代から明治大正の頃までのものが相当にあるが、その中には道しるべを兼ねた供養塔もある。交通に馬が重要な役割を果していた時代に、馬の安全を守る意味で、道しるべに馬頭観世音の像、または、名号を彫りつけたのであろう。観世音に次いで、この土地で多く信仰せられているのは不動明王である。不動信仰は、真言宗の中心的な信仰で、真言宗に属するたいていの寺院の本尊は不動明王である。不動明王は大日如来の化身であつて、五大明王の中央に位し、その形相は青黒、大忿怒の相を大火焔の中に現じ、磐石座上、または、井桁座上に住し、右手に利劒を持ち、左手に羂索を執つている。降魔の利益を授くるといわれ、信仰する者が多い。御嶽信仰、羽黒出羽湯殿の三山信仰、大山信仰とも深い関係をもち、それ等の山へ登る場合は、必ず精進潔斎して不動明王に祈念を籠めた。石神井川の流域に石の不動明王を立てた場所があるが、そこは、この辺りの農民が神聖な登山に先立ち水垢離をしたところである。不動信仰に次いで根強い信仰は、薬師信仰であつた、薬師は、薬師瑠璃光如来と称し、衆病悉除に利益ありとして庶民が深く信仰した。区内の南蔵院、宝蔵院薬師堂にまつられた薬師如来は、古くから土地の農民をはじめ、世人に崇拝せられていた。薬師如来の外に悪疫退散のためにまつられたのは、午頭天王であつた。午頭天王は、天竺の北、九相国の吉祥院の王で祇園精舍を守るといわれ、わが国では、これを八坂ノ神として素 画像を表示 盞鳥尊となし、午王と呼ばれて熊野信仰と深い関連をもつていた。この辺には午王をまつつた小祠が相当にあり、それを「天王さま」と呼んで崇めている。練馬には以上の外、子育祈願、息災祈願の対象とされた鬼子母神、呑龍上人子権現、石神などの信仰があつた。鬼子母神は、羅刹が釈迦の教化によつて仏命を奉じ、一切女に無畏の益を施すべきことを誓つたという理由で、密教では訶梨帝母(農家では、住の項や年中行事の項で述べたように、竈の側に荒神をまつり、台所や神棚に「えびす大黒」の木像を安置して招福祈願をした。正月の「あぼ、ひぼ」、「まゆ玉」などの「物作り」や、神棚に「目なし達摩」を置いて、
それに目を入れる風習などは、農作物豊穰の願望成就を呪する行為としてなされたものである。 画像を表示「まじない」はもつとも一般的に行われる招福除炎の手段であつて、その方法は無数にある。「五月の節句に、しようぶ湯に入れば悪病にかからない。」「鼻血が出たときは、頭の毛を三本抜けば止る」ということなどは、「まじない」の一例である。「まじない」や「禁忌」「占い」などは、迷信的なものが多いが、農民の日常生活の中に深く浸透して多方面にわたつており、それ等は、たいてい農民の信仰と結びついて今なお生活の上に大きな支配力をもつている。農家に於ける神棚の構えは、既に住の項で述べたが、従来、そこにまつられた神は、団結心を育む部族神、国神、郷神などと、生活の安全を希う災防招福の神であつた。また、この神棚の外に、農家には屋敷神の祠がある。屋敷神は鎮宅神であつて、この辺の農民は、稲荷神や弁才天をまつつたが、稀には、霊神をまつつたところもある。家々に設けた神棚に関連して伊勢神宮や村々の鎮守の信仰があ 画像を表示
り、家の祖霊崇拝に関連して寺院の信仰があつた。それ等社寺の信仰は、いづれも村落生活の中心をなしていた。区内で養蚕が盛んに行われた頃には、蚕神の信仰があつたが、養蚕が廃れて以来、その信仰は遂に絶えてしまつた。区内の農民の信仰は、だいたい以上のようで、他と比較して見て特別に変りはない、信仰のための会合として庚申待や日待などもあるが、今は余り盛んではなく、形式的な社交的存在として僅かに残されているだけである。 本文> 節> 章> <章>練馬という地名は、どういう意味か。これには次のような伝説がある。その昔、練馬のあたりが、武蔵野の草深い所であつた頃、どこからか篠某という野武士が来て、方々の牧場から馬を盗出し、これを訓練して馬市に出してもうけていた。馬を馴すことをネルといつたので、この地方をいつかネリマと呼ぶようになつたという。その馬を馴した所は、今の北町一丁目金乗院の門前だという。その後、同類がおい〳〵集つて来たが、これらの者が土地を開墾して農業を営むようになり、文字通り草分け百姓になつて、練馬村がはじまつたというのである。
武蔵野地方には、古来牧場が多く、牛馬を飼うことが盛に行われていたことは「和名類聚抄」などにも見られるところで、馬・牛・駒などのつく地名が、今も各所にあるのは、昔、牧場のあつた名残であるとよくいわれている。しかし、単にそれらの文字のつく土地が、必ずしも牧畜関係の所であるとは言いきれない。例えば、駒という文字が使われていても、その中には、武蔵野開拓に従つた高麗人と、関係があつたかと、考慮しなければならぬ土地もあ
る。また、牧馬や駅馬などを盗んで売却する、盗賊のあつたことは事実で、中世には特に甚だしかつたらしい。それで、練馬の馬盗人の話も、江戸の人にたやすく信じられるようになつたもので、幕府の編纂した「新編武蔵風土記稿」も、この話を採録しているから、広く世間に伝わるようになつてしまつた。けれども、この盗賊説は、決して確固たる史実があつてのことではない。元来多くの土地には、自然発生的な呼び名があつて、それに、後に適当な漢字を当てたのであるが、一度漢字が固定すると、逆にその漢字から、地名の意味を解釈しようとすることが、至る所でよく行われる。練馬もその例の一つで、いわゆる地名説明伝説に過ぎないのである。それ故、他の一説では、豊嶋氏の城が、今の豊嶋園の所にあつた頃、その重臣志野某が、栗山にいた。この人は馬術の名人で、家臣たちに盛に乗馬の訓練をしたので、練馬という地名が起つたともいう。新田義貞が上州から、鎌倉に攻上つた時に、豊嶋氏は、その馬を献納して、大いに手柄をたてたとも語られている。この方が、前の説よりも新しく、後に合理化し改変されたものであることは、推察に難くない。
練馬の地名は、文明の「道灌状」にも見え、永祿の「小田原分限帳」にも出ているが、それには練間の文字も使われている。これから見ても、練馬が馬に関係があつたかどうかは、疑わしくなるし、その伝説の起原が、案外に新しい時代ではないかとも考えられるのである。
そこで、全然考え方の違つた他の一説をあげてみると、それは菊池山哉氏の提唱するもので、上古から武蔵の国府と、下総の国府とを結ぶ官道に、豊嶋、乗瀦という二つの駅があつたことは正史に見えるが、古来、その駅の位置に
ついては、議論の多いところで、未だに決定をみない。その上、乗瀦は読方にさえ両論があつて、乗は剰の略字と考え、アマヌマと読み、今の天沼(むかし、村の人が井戸を掘つたところ、地中から青い石の棒が現れた。この辺には、あるはずのない不思議な形の石であつた。村人はこれを神とあがめて祀り、小祠を建て石神様といつた。これが、今、下石神井町二丁目にある石神井神社で、これによつて、石神井の村名が起つたという。
この伝説は有名なもので、「武蔵野話」など江戸時代の地誌紀行にも書かてれいる。長さ六〇センチメートル、太さ三〇センチメートル程のものであるとて、体操用の棍棒を太くしたような見取図を掲げているのもある。
また「新編武蔵風土記稿」には、その出現の場所を、三宝寺池だとしている。(
諸国を巡釈していた弘法大師が、練馬へ来た時、このあたりの村人が、飲み水にも困つていた。大師はこれを憐んで、手に持つていた釈杖で地をつくと、そこから、こんこんと清い水が湧き出した。
これがこの地方を貫井村と呼ぶようになつた起りで、泉の湧いたのは、貫井町の西武線に接した、小さな侵蝕谷の
中である。この泉の水によつて、村の人は、飲料水も得られ、また水が集つて池となり、それから田に引いて、稲作をすることもできた。村人は、弘法大師の恩恵に浴したことに、永く感謝をささげて来た。
画像を表示夏は冷く、冬は温い水の湧いたその泉も、近年は、あたりも開けて、山林も無くなつたせいか、いつか水が涸れてしまい、池のあとも、今はわずかに残る葦によつて、それと知られるばかりになつた。
画像を表示 本文> 項> <項>つきの井は、谷原町二丁目にあつて、これも石神井川の水源の一つとなつている小湧泉である。前記の貫井と同様、弘法大師が、杖或いは筆の軸で地をついた所から湧き出したものと伝えている。
こうした小さい池は、ここの外各所にあつて、水の少い武蔵野では、人々
に尊重されたものである。その自然の水の恩恵に感謝し、また水の豊富を祈るために、こうした池には、たいてい弁才天が祀られている。ここにもつきの井弁天といつて小祠がある。 本文> 項> <項>南大泉町、井頭池の東岸の丘の上を、俗に「がらんど」という。これは、そのむかし、大覚寺という天台宗の大寺の伽藍があつた跡だからと伝えている。
大覚寺は、後に日蓮宗に改宗し、妙福寺となつて、現在の地へ移転したということである。
また、ここからは、大きな石がたくさんに発掘されて、これは大昔、富士山が噴火した時に、降つたものだという。この辺一帯は、石器時代の遺跡であるから、或は、敷石住居の跡でもあつて、石のないこの地方では、めずらしかつたので、こんな話が生れたのではなかろうかという考えもある。
本文> 項> <項>練馬の大根か、大根の練馬か、とにかく、かつての日には、大根は練馬の代表物であつたことは確である。その大根が、どうしてこの地の名物になつたか。普通にはこう言われている。
徳川五代将軍綱吉、といつても、延宝五年というから、まだ将軍にならぬ以前のことである。彼は脚気にかかつて、いろ〳〵治療に手をつくしたが、はか〴〵しくなかつた。そこで陰陽師に占をたてさせると、その名の右馬頭に
因んで、馬という字のつく所へ出養生すればよいという。そこで、江戸の付近で、馬の字のつく土地をさがすと、いくらでもある。荏原郡では馬込、馬引沢、多麻郡では馬橋など。その中で、豊嶋郡の練馬が、方角もいいということになつた。早速練馬村に、御殿を建てて転地した。昔から、脚気ははだしで、土を踏めばなおると云われているが、田舎に来て、自然の土を踏むようになつたせいか、網吉の病気も、おい〳〵よくなつた。そこでたいくつしのぎに、尾張から大根の種子を取寄せ、近所の百姓に作らせてみた。ところが地味が適していたのであろう、その秋になると、長さ三尺、重さ二貫というようなすばらしい大根ができた。さつそく食べてみると、その味もまた、すこぶるよかつた。これはとりまき連のお世辞だけではない。綱吉はここにいること四年、延宝八年になつて、病気は全く癒えて帰城し、その年、思いがけぬ拾物をして五代将軍になつた。その後も、村民に大根の栽培を命じて献上させ、諸大名にもこれをふるまつて、御自慢の鼻をうごめかせたという。これから、だん〳〵村民も作るようになつて、やがて日本一の大根村たる名声を博することになつた。これが練馬名物大根の由来であるが、この事は、幕府の記録にも地誌にも出ていない。全く事物起原伝説の一種である。従つて綱吉のいた御殿址という所が、旧下練馬村の北部本村の近くにあり、練馬大根発祥の地は、そばの桜台といつた所だと伝えているが、その真偽の程は、せんさくするまでもないことである。
本文> 項> <項>豊嶋氏の名を、鎌倉幕府の正史の上に止めた清光から、十三代の孫に当るものを泰経といつて、石神井・練馬両城
の外、平塚城(北区上中里町)に拠つて、隠然たる勢力を南武蔵に張つていた。この東西を連ねる線に対して、扇カ谷上杉氏の家宰太田道灌は、河越・岩槻両城と、新に築いた江戸城とを結ぶ、南北の一線を画したので、ここに二勢力は豊島郡の地で十文字に交叉した。旧勢力豊嶋氏と、新興太田氏とは、必然的に相闘うべき運命に置かれたのである。
山内上杉氏の老臣長尾景春は、主家に叛いて旗を挙げた。景春と縁者である泰経は、太田氏を討つ好期到来と、長尾方に加担し、三城を固めて、道灌の兵站線を断切つてしまつた。時は文明九年春四月のことである。
道灌は、この報を聞くや、ただちに兵を出して、先ず平塚城を攻撃した。平塚には泰経の弟泰明が、城兵を指揮してよく防ぎ戦い、さすがの道灌も攻めあぐんだ。そこで城下に火を放つて、一旦引上げた。この時、石神井にあつた泰経は、平塚の後詰をしようと、石神井・練馬両城の兵を挙つて出撃した。道灌は、その矛を返して、これを江古田・沼袋原に迎え、両軍はここに龍虎相撃ち、天をとどろかす矢叫びと共に、流るる血潮は、時ならぬ花と武蔵野を彩つた。邀戦数刻、泰明をはじめ、板橋、赤塚等、宗徒の面々枕を並べて討死し、泰経は辛じて血路を開き、石神井城に逃げ籠つた。しかし、ここもまた道灌に追撃されて、城の命脈も今はこれまでと見えた。この時、泰経は、雪をあざむく白馬に、家に伝わる重宝、さん然と輝く黄金の鞍を置いて打跨り、誇らかに勝鬨を挙げる太田勢を尻目にかけて、ゆう〳〵と城を出で、背後の丘に登ると見るや、はつしと馬に一鞭当て、そのまま三宝寺池の水底深く、人も馬も沈んで、たちまちその姿は見えなくなつてしまつた。
それ以来、星移り物変つても、池の岸の老松の梢に登れば、水草の緑濃かな池底には、未だに黄金の鞍が、さん然
と輝いているのが見えるという。 画像を表示 画像を表示いつの世にも、慾張の種子は尽きない。この池をかいぼりして、黄金の鞍を取ろうとした智慧者があつた。果して黄金の鞍はあつたか無かつたか。湧水が多くて、乾しきれなかつたことだけは確かである。これは、大正時代、海の底に、黄金の延棒を積んだまま沈んでいる筈の船から、その宝物を引揚げようとすることが、各所ではやつた時のことである。
本文> 項> <項>三宝寺池の北岸に、わずかに名ばかりの塚が残つている。黄金の鞍の伝説の主人公、豊嶋泰経の遺骸を葬つた塚であるという。もとは、しるしの老松が植えられてあつたが、戦後伐られてしまつた。
本文> 項> <項>石神井城の落城した時、城主泰経の娘照姫は、父母の最期を見て、悲歎のあまり、その
後を追うて池に入水してしまつた。その骸を埋めて築いたのが、この姫塚で、殿塚のすぐそばにある。上に小祠を置いて、小円墳状をしている。 本文> 項> <項>前記の姫塚は、また照日塚ともいわれて、別な伝説を持つている。
三宝寺第六世の住職定宥は、所用あつて京に上つていたが、折から催された八月十五夜の月見の御宴に侍した。雲の上人たちは、皆それ〴〵に、得意の詩歌を詠じ、お互に披露して興じあつたが、定宥もまた、発句をよくするとの誉が聞えていたので「是非一句を」と、皆から所望された。そこで、彼はおもむろに筆をとつて、さら〳〵と書いたのを見れば
月は無し
人々は、あつと驚きの目を見張つた。この満月の良夜に「月は無し」とは何事ぞ、と。誰も心にいぶかつた。人々の驚愕、小さなざわめき。そんなことに頓着なく、彼はまた静かに、墨を加えて、次へ筆を運ばせた。
照日のまゝの今宵かな
再び驚きの声は一時に起つた。
月は無し照る日のまゝの今宵かな
今宵の秀逸、これに過ぎるものなしと、そのまま叡覧に供えたところ、御感のあまり、照日上人の号を下されたとい
う。この塚が照日塚と呼ばれるのは、上人の墓と伝えられるからである。
本文> 項> <項>この大欅は、南町五丁目白山神社の境内にある。源義家が、奥州へ出陣する時に、この地を通つた。その際、白山神社に戦勝を祈り、欅の苗を奉納した。
画像を表示それから歳月は流れて幾百年。武蔵野は気候風土が適するので、苗の欅は、いつか天を衝くように雄大に育つた。しかし、やがて老齢となつて、追々に枯れたが、なお明治時代までは数本残つていた。現在では、わずかに二本を残すばかりであるが、樹高二五メートル、周囲一〇メートルに余り、都下有数の老樹として昭和十五年七月、天然記念物に指定された。
本文> 項> <項>谷原町二丁目長命寺墓地の北西隅に聳えている大杉で、もとは二本の樹幹に分れていた。古来、天狗がすんでいるというので、里人に恐れられていた。
昭和二十四年秋の台風で、一本が吹き倒されたが、手をつけると、崇があるとて、始末をするのに困つたという。
本文> 項> <項>長命寺奥院の前にある。非常に深い井戸なので、のぞくと昼でも、星の影が見えるという。また、のぞいて見て、自分の姿が、はつきり映ればよいが、もし、薄くてよく見えないようならば、これは死期が近いのだと信じられていたものである。
本文> 項> <項>栗山(南町四丁目)あたりに、大蛇が棲んでいた。といつて、その大蛇を見たものは誰もない。しかし、大蛇の通つたあとがはつきり見えるので、大蛇がいることを疑うものはなかつた。
そして、その大蛇の出ない年は必ず凶作だというので、農家の人たちは、姿の見えぬ大蛇の出現を喜んだものであつた。
本文> 項> <項>南町三丁目の高稲荷は、石神井川に臨んだ台地上の、景勝の地にあるが、その下は、むかしは大きな沼になつていた。その頃、そこには、主の大蛇がすんでいた。練馬村のある若者が、この大蛇に見こまれ、ついに沼の中に引き入
れられてしまつた。それは篠氏の一族の者だともいうが、その霊をなぐさめるために祀つたのが、高稲荷だともいわれる。 本文> 項> <項>三宝寺池の水は、地底で遅野井の池(杉並区善福寺町にある善福寺池)と通じているという。こちらの池の中に投じたものが、他日あちらの池に浮び出たというような話もある。
また、この池にいる魚の中には、頭に鳥居の形の付いたものがあるという。この池は、古来魚鳥類を捕ることは、堅く戒められていた。たまたま、この禁を犯して、魚鳥を捕るものがあれば、たちまち打倒れて傷を蒙り、両眼痛み、腰膝を悩んだ。そのため後悔して、三宝寺住職に依頼し、修法をして貰えば、やつとその苦痛を免れることができたという。
このような伝説もあつて、この池は古来禁猟地となつていたので、水中には、各種の魚類などもすみ、各種の水鳥も浮び、また周囲の森林や草むらには、幾多の鳥獣も安穏に生活していたのである。
本文> 項> <項>三宝寺境内の北西隅、石神井城址の土囲と思われる上に、小さな稲荷の祠があつて、これを火消稲荷と呼んでいる。
むかし、三宝寺の住職が修法をしていると、老狐が出て来て、しきりに叫びながら、寺の周囲を、三回、四回と走
りまわつた。何か事ありげなその様子を見た人々は、皆不思議に思つたが、その吉凶は判じかねたので、一重に神慮を祈つた。その夜のことである。寺に火災が起きたが、誰もが何事かあると、気を配つていたので、たちまち消すことができて、大事に至らなかつた。そこで、人々は、前日の老狐の不思議な行動は、この災厄を予め知らせたものと思い当つた。これから、この小祠を火消稲荷というようになり、一層信仰を高めた。
この稲荷の神体は、妙石で、里人の口碑では、そのむかし、一本の石であつたが、中央から折れたので、その頭部が、この祠の神体となり、下部は、下石神井北原の石神社に祀られてあるという。
本文> 項> <項>三宝寺池には主がいるという。その主は蛇体であると伝える。明治時代にも、釣にいつて、松の木が池畔に横わると思つて、それに乗ると、動き出たしたので、青くなつて逃げ帰つたという人もある。
三宝寺には、明治八年に、その主の姿を見た人の、記憶画が奉納されている。それを見ると、うなぎに耳の生えたような、奇妙な姿をしているものである。その軸の裏書には、次のように記されている。
「此龍ハ石神井三宝寺池ニ現ハレタル者ナリ。
一、明治八年秋九月池ニ動声アリ、依テ某シ、池辺ニアリテ、之ヲウカゴウニ、忽然トシテ、一ノ大龍現ル。依ルテ其形チヲ書シテ、後来ニ伝ント云爾。山養」
画像を表示この龍の図を掛けて祈れば、如何なる旱天にも必ず雨が降ると信じられている。
本文> 項> <項>明治何年かのことである。稲付村(今の北区稲付町)静勝寺の付近から、若い女の客を乗せた一台の人力車があつた。いわれるままに、富士街道を一散に走つて、練馬村を横断し、谷原村を経て上石神井村まで来た。そこで街道から離れ、三宝寺池のほとりまで来ると「ここで結構」といつて女の客は車から降りた。そして「お礼にこれをあげますが、家へ帰るまで包を開いてはいけません」といいながら紙に包んだ銭らしいものを渡した。
その頃の三宝寺池のほとりは、男でも気味の悪いくらいさびしかつたし、何かその女の客も得態が知れぬので、車
夫は不思議とは思つたが、そのまま足早に帰途についた。しばらくいくと、うしろで大きな水音がした。はつとして、思わず振向くと、さつき乗せて来たあの美しい女が、見るも恐しい大蛇になつて、今正に池に沈んだところであつた。車夫は、もう夢中で、ひた走りに走つて逃げた。
稲付村静勝寺の下には、龜カ池という大きな池があつたが、だんだんにその水が浅くなつたので、そこにいた主が、水の清い三宝寺池へ移つたのだと、車夫の話を聞いた人々はいいあつた。
三宝寺池へ、よそから龍が移つて来たという話は、この外にもある。
徳丸村(板橋区徳丸町)の北野神社付近に池があつたが、年毎に水がかれて小さくなつていた。
或る年のこと、練馬村の馬子が、川越の方から、一日の仕事が終つて、空の荷馬車をひいて、伊勢カ原(北町)あたりまで来た。もう夕暮のことである。そこへ、どこから湧いて出たかというように、若い美しい女が現われた。そして、疲れているところですまないが、どうか上石神井まで、その荷馬車に乗せていつてくれないかと頼むのであつた。そういわれると、馬子はどうしてもことわることができず、いわれるままにその女を乗せて、村道を上石神井に向つた。
やがて、三宝寺の近くまで来ると、もう家はすぐそこだから、といつて車から下り、厚く礼をいい、紙に何か包んで、馬子に渡し、「きようの駄賃にこれをあげます。必ずあけるのではありません。あけなければ、あなたはきつと幸福になります」こういつて、その女はすた〳〵と、池の方へいつてしまつた。「何か変んなことだ」と思つていると、池にとび込んだような水音がした。馬子が思わず振返ると、大きな蛇のようなものが、池の中に見えた。
馬子は、夢中で家へ逃げ帰つたが、女のくれた紙包、あけるなといわれたその紙包が、気にかかつてならないので、とう〳〵いましめを破つて開いて見た。中には、大きな鱗が三枚はいつていた。
白子村(埼玉県北足立郡大和町)の熊野神社の池には、夫婦の龍が住んでいた。どうしたことか、夫婦けんかをしたあげく、雌龍は池をとび出した。そして女の姿になつて、街道にいた馬子に頼んで、馬の背に乗せてもらい、三宝寺池へ移つてしまつた。馬子はお礼にもらつた、おひねりをあけてみると、中には三枚の鱗がはいつていた。
この馬子の家が川越屋といつて、雌龍を馬に乗せたせいで、代々女の子ばかりが生れるようになつたとも伝えている。
本文> 項> <項>大泉学園駅から保谷駅へいく西武電車沿いの道が、白子川の谷を渡つて、東大泉町から西大泉町へ入つた所に、形ばかりの小さな塚がある。塚の上には、小さな石の祠があつて、これを土地の人は、お松様と呼んでいる。むかしから、嫁入の行列は、決してこの前を通らないことにしている。それは、ちようど中山道板橋宿にある縁切榎と同じように、この前を通つていつた嫁は、必ず不縁になると信じられているからである。
それはなぜか。村の娘は、村の若者が管理している時代があつた。結婚は村人同志で行われるのが原則で、娘が他の村へ出ることを非常に嫌つたので、そうする場合には、事前に、若者たちに何程かの償いをして、その了解を得なければならなかつた。もしその了解を得ないままに、娘が他村へ出るようなことがあれば、若者たちは、ただでは置
かなかつた。何等かの手段で報復しなければ止まない。祝言の席に暴れ込んで、酒肴を強要したり、石の地蔵様を担ぎ込んだりしたという話は、至る所に聞かれた。このお松様の塚のある所は、むかし土支田村と小榑村との村境で、ものさびしい場所で、村から出ようとする、嫁入の行列を、若者たちが襲うには、屈強の場所だつた。そこにたまたま松の大木があつたので、お松様の前を通ると、不縁になるというような話だけが、そうした事実の行われなくなつた後までも、伝わつたものと思われる。 画像を表示そして、また、江戸時代の半頃には、そこに、どこから流れて来たとも知れぬお松という老婆が、小屋掛して住んでいた。ある時、嫁入の行列が、そこを通ると、お松は何を思つたか、物に狂つたように、花嫁におどりかかつた。あまり不意だつたのでお伴の人々も、あわてて、なすところを知らなかつたが、やつと泣叫ぶ花嫁を救い出した時には、もう、一生に一度の晴と着飾つた衣裳は、ずたずたに裂切られていた。嫁の災難は、これだけでなかつた。このことから、ついに破談となつてしまつたのである。こんな事が、その後も、度々重つたので、村人は嫁入の時には、遠廻りしても、ここを通らないことにした。
そのお松婆の死んだ後、葬つたのが、この塚であるというような話が生れた。
本文> 項> <項>大泉学園町の道端に「馬頭観世音」と彫られた石がたつている。裏面を見ると「天保十一年庚子年九月、加藤惣兵衛建之」と読まれる。ちよつと見たのでは、どこにもある馬頭観音の石塔と別段変つたこともないが、これには、こんな話が語られている。
小榑村の百姓惣兵衛は、江戸牛込のある武家屋敷へ、下肥を取りにいつていた。ある日、その屋敷の主人は、惣兵衛が力持であることを、かね〴〵聞いていたので、それをためしてみようと思つた。そこで、惣兵衛を庭の中に呼入れ、傍にあつた庭石の一つを指して、これを持上げてみよ、といつた。もし、それができたら、その石をやろうといわれたので、惣兵衛は、もろ肌をぬぎ、満身の力をこめて、何十貫ともあろう、その重い石を、見事に高々とさし上げて見せた。これには、まさかと思つていた主人も、大変驚いたが、約束通りその大きな石を与え、その上なにがしかの鳥目さえほうびとして取らせ、大いにその力持をほめた。
惣兵衛は、面目をほどこし、おまけに思いがけぬ銭を貰ので、大喜びで、その石を馬の背につけて、意気揚々と、
わが村さして帰つて来た。しかし、牛込から小榑村までは、四里余もあるのだから、重い石をつけた老馬は、やつと、わが家の森が近く見える所まで来ると、とう〳〵力尽きて、石を背負つたまま、がくと前へのめつてしまつた。そして、もう再び起上ることはできなかつた。惣兵衛は、今までの喜はどこへやら、わが子のように永年かわいがつていた、この老馬の死を見て、今さらのように、いらざる力わざを、人前で誇つたことを悔いたが、どうしようもなかつた。泣く〳〵馬の骸を葬つて、その上にあの石を立て、愛馬の冥福を祈つたのが、この馬頭観世音の塔であるという。
本文> 項> <項>今の大泉地区の北方を、昔は広沢原といつて、原野林叢が多かつた。そしてそこには猪も多くすんでいた。その頃近くの村の人たちは、子供が生れると、お七夜には赤飯をたいて祝うが、その時には、必ず原にいる猪にも赤飯を供える習慣になつていた。
ある家で、吉例として、赤飯を原の猪に供えて、家に帰ると、どうしたことか、今までねていた赤子が見えなくなつてしまつた。狂気のようにさがしたが、どうしても見つからなかつた。今は生きた心地もなく悲観していると、夕方のこと、縁側に、何かものを置いたような音がした。何事かと不思議に思つて、家の者が出てみると、うれしや赤子は無事で、そこに置かれてあつた。
庭さきには、大きな猪のうしろ姿が見えた。祝の赤飯を供えられた猪が、報恩のために、赤子を拾つて届けたに違
いないと、村人が語り伝えている。 本文> 項> <項>仲町の氷川神社の御神体は、石神井川を流れて来たものであるという。それを、お浜カ井戸の辺で、風祭氏の先祖の人が、拾い上げて、今の地に奉祀したものと伝えている。
それ故、春の祭には、お里帰りという行事が行われる。
この御神体は、谷原町二丁目にある氷川神社のものであつたが、或る年この村に疫病がはやつてやまないので、石神井川に流したものだという。
本文> 項> <項>良弁塚は、中村町三丁目にあり、良弁という僧が、入定した所であるといわれている。しかし、そこにある碑によれば、延文二年丁酉三月二十一日に、桑門良弁が、大乗妙典を奉納した所である。
良弁は、武州の住という外、その伝を詳にしないが、南蔵院の縁起によれば、全国を行脚して、各所に妙典を奉納
し、最後に、ここにもそれを埋めて塚を築き、止宿して南蔵院を中興したということである。また碑文によれば、元文五年に、ここから金筒一基を得た由を記しているが、それは経筒で、今は南蔵院に寺宝として納められている。その経筒は、長さ約三寸、径約一寸五分の小さなもので、表面の文字は、はつきりしないが、大体次のように読まれる。
この外、区内には春日町二丁目にも入定塚があつて、耳の病のものが祈れば癒るという俗信がある。また北大泉町にも、六部の入定したという話がある。
本文> 項> <項>長命寺奥院の裏に、十王の石像群が安置されている。その中で、一番奥の小高い所にある像が、この身替焔魔と呼ばれるものである。
いつの時代か、寺を再建していた時、大きな材木が、突然倒れて、あわれ、一人の大工が、その巨木の下敷になつてしまつた。すわ一大事と、仲間のものたちが駈けよつてみると、打ちひしがれたかと思つた大工は、木の下にあつて、身にはかすり傷一つ負わず無事だつた。全く奇蹟である。これは不思議と、よく見れば、かたわらにあつた、石
の十王像が、身替になつて、倒れかかつた材木を受け止めたのであつた。 画像を表示こうして、大工は助つたが、身替になつた十王像は、大きな負傷をした。その傷のあとは、今もはつきりと残つていて、この伝説を目のあたりに見せている。また、盗賊に斬られようとした人の、身替になつたのだともいう。
本文> 項> <項>誓願寺がまだ江戸浅草田島町(台東区)にあつた時代のことである。浅草広小路に尾張屋という蕎麦屋があつた。ある晩、夜更た頃になつて、姿の端麗な一人の僧がに来たので、仏心の深い主人は、自ら一椀の蕎麦を供養した。僧は、その蕎麦をうまそうに食べ、厚く礼をいつて帰つていつた。その次の晩も、また同じ時刻になると、きのうと同じ僧が来て、蕎麦を乞うた。主人は、また快く蕎麦を与えた。その翌日も、またその翌日も、同じ僧はやつて来た。はじめのうちは、誰も気にしなかつたが、それが続いて一ヵ月にもなると、店のものは、一体あの坊さんは、どこの寺の人だろうと不思議に思うようになつた。そこで、ある晩、主人は、その僧に、お寺はどこですか、と尋ねてみた。すると、その僧は、もじ〳〵していて答えようとしなかつたが、重ねて聞くと、困つたような顔をしていたが、やつと、田島町
の寺、といつただけで、逃げるように帰つていつた。「あの坊さんはどうもあやしい。狐か狸の化けたのではあるまいか」
店のものはこんなことをいつて、こんど来たら、つかまえて、化けの皮をひんむいてやろうなどといきまいた。主人は
「まあ待て、間違えて本当の坊さんに失礼なことをしては大変だから」
と、若い者を押えておいた。
その次の晩も、また例の僧は来た。何くわぬ顔をして、いつもと同じように一椀の蕎麦を供養した。僧は帰つていく。その後を、主人はそつと見えがくれについていつた。それを知るや知らずや、僧は誓願寺の山門をくぐり、塔頭西慶院の境内に行く。主人が、ああ、やはり本当の坊さんだつたのかと思いながら、なお見送つていると、不思議や、その坊さんは、地蔵堂の前に立つたかと見ると、扉も開けずに、そのままお堂の中へ消えてしまつた。あつと、主人は驚いたが、そのまま一散に家へかけ戻つた。
画像を表示その夜、主人が寝ていると、夢ともうつつとも知れぬ境に、一人の気高い僧が現れて、
「われは、西慶院地蔵である。日頃、汝から蕎麦の供養を受けた報には、一家の諸難を退散し、とくに悪疫を免れしめよう」
というかと思うと、その姿は消えてしまつた。それ以来、蕎麦屋の主人は、毎日西慶院の地蔵様の前に、蕎麦を供えて、祈願を怠らなかつた。ある年、江戸に悪病が流行して、倒れるものその数を知らぬ有様であつたが、この蕎麦屋の一家は、誰も無事息災であつた。そこで、その由来を聞いた人々が日毎に参詣に来て、門前市をなす有様であつた。そして、願望の成就した人は、御礼として蕎麦を奉納したので、いつか蕎蕎喰地蔵と呼ばれるようになつた。
西慶院は、明治維新後同じ誓願寺の塔頭、九品院に合併し、その九品院は、今南町五丁目に移転したので、蕎麦喰地蔵も同院の境内に安置されている。
本文> 項> <項>土地の人の首継地蔵と呼ぶ石地蔵が、中村三丁目にある。これは護国寺地蔵講の熱心な信者守屋某と、当時美術院長であつた正木不如丘とが、同時に、地蔵尊が現われて、首がころりと落ちるという変な夢を続けてみた。そこで、どこかに首の落ちた地蔵はなかろうかと話し合つたところ、守屋某は、札所順拝の折、中村の道端に、首の欠けた地蔵のあつたことを思い出した。そこで、さつそく二人で、そこへ行つて見ると、何と、二
人が夢でみた地蔵尊と、そつくり同じ地蔵の石像が立つていた。この時、ふと正木の思い当つたのは、以前家に出入している画家が、酒代を借りに来て置いていつた包の中に、地蔵尊の首があつたことである。「もしや、あの首が」と気がついたので、大急で、その首を持つていつて、胴の上に乗せると、ぴつたりと合うのであつた。二人は、驚き且喜んで、その首を胴に継ぎ、厚くこれをまつつたという。これは昭和七年のことである。以来誰いうとなく首継地蔵と呼ばれて、信心する人が多くなつた。
その後、正木氏はこの首継地蔵の由来を、豪華な絵巻物二巻として南蔵院に献納した。
本文> 項> 節> <節>目出た〳〵が三つ重なれば
庭によう〳〵鶴と龜、五葉の松
枝も栄える、木の葉もしげる (
× ×
五葉は目出たの、若松様よ
枝も栄える、根も葉もしげる (
× ×
今年や世がよい、豊作年よ
稲に穂が咲き、穂に穂が咲いた (
× ×
ここのおかみさん いつ来て見ても
銭のたすきでかね計る (
× ×
桝じゃまだるい 箕で計る
箕ではまだるい たるだめし (
× ×
松になりたや 有馬の松に
上り下りの 富士の松 (
× ×
これの これの館は 目出たい館
奥じゃ三味弾き 茶の間じゃ語る
お台所じゃ 餅搗いて騒ぐ
× ×
娘したがる 其の親たちは
させてみたがる 針仕事
× ×
娘島田と 新しい舟は
人も見たがる 乗りたがる
× ×
富士の白雪 朝日でとける
溶けて流れて 三島におちる
三島女郎衆の 化粧の水
女郎が化粧して 客をひく
客がなければ お茶をひく
× ×
お江戸今朝出て 板橋着いて
わらび昼食 桶川泊り
同じはたごなら 桶川およし
駒を進めて 鴻巣泊り (
× ×
お江戸今朝出て 板橋越して
蕨昼食 桶川泊り
同じ泊るなら 桶川よしな
駒を早めて 鴻巣泊り (
× ×
えびす柱が 産をすりゃ
大黒柱が そばで腰だく
出来た その子が 床柱
× ×
娘十七 おはぐろつけて
笹にふる雪 はをかくす (
× ×
山谷土手から 仲町を見れば
高尾 花魁 将棋の駒よ
金銀飛車角 桂馬の横飛び香車
あの歩がたたぬ あの歩がたたぬ
× ×
これがこの家の おさめの臼よ
臼も御苦労 杵もろともに
それに続いて 板前さんも
御縁ござれば また来年も
おめでとう (
× ×
これがこの家の 納めの臼よ
臼も御苦労 杵もろともに
それに続いて 皆さんも御苦労
御縁あったら また来暮も
宿へ戻つて 宜しく頼む (
以上区内各所で行われる餅搗唄の数種をあげてみた。まず、目出た〳〵と、祝い唄からはじめる。その唄も、大体各所とも同様であるが、多少の相違はある。もちろん、唄の前後、また中間にもいろ〳〵とはやしことばがはいる。
誰にもすぐ気のつくことは、これらの唄はほとんど餅搗固有のものばかりでなく、各種の唄のまざつていることと、また各地の唄の移入されていることである。そしてこれは、練馬地方ばかりでなく、付近一帯で唄われたものである。
練馬地方の農家では、大正期には、一家で何石という程、多量の餅を搗いた。それは春から夏にかけての農繁期の主食として、水餅にして樽に保存したのである。暦が月おくりであつたから、餅搗は一月末に行われたので、寒
の水に漬しておけば、腐敗しないと信じられていた。多量のことであるから、近隣の家、親戚の者などが、相互に助け合つた。多人数で、夜を徹して、唄をうたいながら、非常に賑かなもので、若者はこれを楽しい年中行事の一つとしていた。
蒸した餅米を大きな臼に入れると、細い杵をもつた三人乃至数人で、これをこねながら、唄をうたつて臼の周囲を廻るのである。そして、相当こねられた時、調子を合せて搗くのである。この千本杵で搗くのは、この地方の餅米の多くは、陸稲であつたから、よく搗かねばならぬ必要から、起つたものと思われる。
この盛な餅搗も、今ではあまり行われなくなつたので、従つて餅搗唄もめずらしいものになつてしまつた。
本文> 項> <項>八十八夜も事なく済んで
あかね襷の ねえさんが
お茶の茶の茶の 茶の木の下で
お茶も摘まずに おのろけ話
もめよもめ〳〵 もまなきゃよれぬ
もめば古葉も お茶となる
もめよもめ〳〵 とまして置いて
後であげ師が 楽をする
お茶師するせいか 新造がほれる
これじゃお茶師も やめられぬ
宇治の銘茶と 狭山のこ茶と
出合いましたよ 横浜で (
× ×
お茶を摘むなら 下から摘みな
上の棒芽は 誰も摘む
もめよもめ〳〵 もまなきゃよれぬ
もめばもむ程 こ茶となる
お茶師でんぐりもめ 小腕の毒よ
もませたくない うちの人 (
練馬地方で茶を作ることが盛になつたのは明治以後のことで、大正期までは相当重要な生産業であつた。ほとんど全農家で、自作の生葉から茶を手製したので、ここに茶もみ唄がうたわれるようになつた。しかし、これらの唄も、製茶業の移入と共に、他地域から伝播したものと思われ、練馬固有の唄というのは無いようである。
近年製茶業が衰え、茶樹を栽培している農家は、今でもかなりあるが、自家で製茶することが、ほとんどなくなつたので、茶もみ唄も、農家から聞えなくなつてしまつたのである。
本文> 項> <項>唄上げなされ どなたでも
上げたら 後をば 共につけましょ
目出たや この麦うちは
天気よく 風出で
のげを立てたい
十七八の 麦うちは
くるり棒が 折れるか
のげが折れるか
大山先の雲立ちは
あの雲がくれば
雨か 嵐か
お前さんとならば どこまでも
親を捨て この世が 闇になるとも (
お江戸名所 金がふる
あさましや 田舎にゃ楢の実がふる
お江戸にはやる 紅しぼり
おれも欲しや田植のたすきに (
畑の耕作が、農家の主な仕事である練馬の地区では、刈取つた麦を、こいで、庭で乾し、それをクルリ棒で打つて粒にするのであつた。初夏の太陽を浴びて、重いクルリ棒を使うことは、なか〳〵の重労働であつたから、その苦痛を慰め忘れるために、人々は棒に調子を合せて、唄をうたつたのである。多く向い合つた人が、一節ずつ交互にうたつたものである。右にあげた唄も、その中の一例で、他の労働唄が、みなそうであるように、その場で、適当なものを取入れては、笑興じるような唄を即興で作つてうたつた。
田園の情緒ゆたかな、この穂打ち唄も、脱穀がすべて動力化した今日では、もはや聞くことが至つて稀になつてしまつた。
本文> 項> <項>臼ひくたびに 思い出す
甥と姑や姉御は 江戸の粉屋に
男は高き峰の松 浅ましや 生藤
目出たきものは 芋で候
芽さに良きゃ 橋ろくのあまたに
石臼をひくことも、また単調で辛い農家の仕事であつた。多くは二人が向い合つて、一つの臼を廻転するので、唄もその廻転の速度に調子を合せて、ゆるやかに、一節ずつ交互にうたうのが普通であつた。これも今ではほとんどうたわれなくなつてしまつた。
臼ひき、穂打ち、餅搗等の労働唄は、その詞は共通のものが多く、ただその仕事の調子によつて、唄にも緩急をつけ、またそのはやし詞にも相違を生ずるのであつた。
本文> 項> <項>四海波静かにて国も治むる時津風枝もならさの実を垂れや
おいに相生の松こそ 目出たかりけり げにや 仰ぎても事もおろかや
かかる世に住める民とて 豊かなる 君の恵みぞ ありがたき 君の恵みぞ ありがたき
所は高砂の 尾上の松も、年ふりて 老いの波えも 寄り来るや
木の下蔭の落葉かくなるまで 命永らえて なおいつまでが 生きの松 それも久しき名勝かな それも久しき名勝かな
高砂や この浦船に 帆を上げて 月もろ共に 出でしよの 波の淡路の島かげや
遠くなるおの沖過ぎて 早や住江に着きにけり 早や住江に着きにけり (
× ×
如何に奏聞申すべき事の候 毎年の嘉例の如く鶴龜を舞わせられ その後月宮殿にて
舞楽を奏せられうずるにて ももかくも計い候 龜は万年の齢を経 鶴も千年をや 重ぬらん 千代のためしの数々に 千代のためしの数々に 何を引かまし 姫小松の
緑の松も 舞い遊べば 丹頂の鶴も 一千年の齢を君に 捧げ奉り 庭上に参伺申しければ 君も御感のあまりにや 舞楽を奏して舞い給う。 (
これさまは 初にあがりて 七重の御馳走にあずかりて お肴は たいに ひらめに すずきに ほうぼうに かながしら 吸物は こいの筒切り お酒は 江戸の銘し酒 お酒は お江戸の銘し酒
× ×
十七の もちたる手ぬい 紺屋へやりて なか染めて よすまには 紫竹の篠竹 中には殿御と寝たところ 中には殿御と寝たところ (
× ×
十七が 初の身もちで 何やらかやら 食べたがる
六月の雪か氷か 霜月師走の竹の子か
× ×
これ様の初にあがりて
歌短冊を ぬす(
われ〳〵は 田舎そだちで
歌の様子も 知らないが
左様なれば うたいましょう
お笑いなさるな 御座の衆
さしのお笑いなさるな 御座の衆
× ×
天竺の 火事の娘が
月に九反の 機を織る
織り上げて 練りて晒して
紺屋へやりて 染めました
紺屋なれば 染めも染めます
お型はなんと 付けますか
背中に獅子に おみこし
兎のはねたる そのところ
帯の地には 瀬田の唐橋
むかぜ(
植えてぞ よむくそのところ
うわんまえ(
したんまえ(
しさしのものぞ かけるそのところ (
× ×
鎌倉御所の前で 十三の小女郎が 酌をとる
酒より肴よりも 十三の小女郎が 目についた
目につかば 連れて御座れや 江戸 芝 品川の果てまでも 江戸 芝 品川の果てまでも (
はつうせは、初瀬とも書き、また孫抱き唄ともいう。最後にあげた鎌倉小女郎の唄は、はつうせの中核をなすもので、東京都府中市を中心として、玉川糸晒しの女子によつて、かなり古くからうたわれたもので、その作詞の動機が、時の将軍の御台所と関係があり、恋歌であるところに、その重点があつた。そして非常に広く流行したもので、布晒に関係のない、遠方の麦搗き唄などにもうたわれている(
近世では、もはや最初の唄の意義は全く失われて、練馬地方でも、単に冠婚などの際に、祝儀唄として、また雛の節供などにうたわれていたのである。なお、この唄を別名孫抱き唄ともいうのは、初孫の生れた時、姑が嫁の実家に行き、はじめて孫を抱く時に、祝い唄としてうたつたからである。
このはつうせは、他の労働唄よりも、非常に節がむずかしいので、現在では、古老たちによつて、僅に命脈を保つている有様である。
本文> 項> <項>ちょいと乗り出す 若姫様が
さきで殿御が 待つなえし
こうらほい
こうらほい 〳〵
可愛いこの娘はよう
あの森の蔭さよう
森が見えます あの家へ(
行けばよう 石の土台の腐るまで
こうらほい 〳〵 (
嫁入の道具を、娘の家から婚家へ運ぶ時にうたつた唄の一つである。最初のは、荷を担いで家を出る時にうたうもので、途中では、何の場合にもよくうたわれる「めでた〳〵の若松様よ」というのや、また「箱根八里は馬でも越すが」というような馬子唄や駕籠かき唄を、適宜にうたい続けた。そして、婚家の近くなつた際に、後にあげたのをうたうのを普通とした。もちろんトラックで荷を運搬する現在では、ほとんど聞かれなくなつた唄である。
本文> 項> <項>貧々寒々道場寺
白水流しの三宝寺
あってもくれない禅定院
ちょろ〳〵かけ出す長命寺
いつも不吉な福蔵院
なんでもあるのが南蔵院 (
第一句は「貧たり寒たり道場寺」第四句は「小僧逃げだす長命寺」ともうたつた。
子供のうたう唄のようであるが、そこにうたわれた道場寺は下石神井、三宝寺は上石神井、禅定院は下石神井、長命寺は谷原、福蔵院は南田中、南蔵院は中というように、寺の所在地の範囲が、村の子供の生活にしては、大分広過ぎるので、或いは最初は大人によつて作られたものではないかとも考えられる。何かによつて、寺を巡つて歩く人が寺から受ける印象を端的にうたつたものではあるまいか。これによつて、昔の寺々の性格なり、経済なりが、その一端を示しているようで興味がある。
本文> 項> <項>びっちょ投げろ 御道士
播かぬ 種子は はえねえよ (
大山街道(
今の子供は、昔のようにまりをついて遊ばなくなつたので、大正時代までは、よくうたわれたまりつき唄も、今はほとんど聞かれなくなつた。「北豊島郡誌」が採録したものよりも、やや古く、明治時代までうたわれたまりつき唄の一つを、あげておくことにする。
あの山に 光るものは
月か星か ほおたる(
月なれば 拝みましょ
ほおたるなれば 手に取りて
手に取りて 袋に入れて
裏のお稲荷さんに
納めましょ 納めましょ (
一、さかきばんや まつかや なみの追風さほい風 やよがりょそんよ
一、すみよしんの たちばがそでの 追風さほい風 やよがりょそんよ
一、あれをみんの としまが沖で この舟は ゆけとうがこがね ああそびとっくるけし やよがりょそんよ
一、とっとふんみかまだんが橋の下よくんわこいやふなか ああやのこどもか やよがりょそんよ
一、かわぎしんの めじろのやなぎ ああらわれにけり やよがりょそんよ (
仲町二丁目に鎮座する氷川神社の祭礼の時、お浜カ井戸へ渡御の神輿に供奉する氏子たちによつて、唄われるものである。非常に詞がくずれて、意味は通じなくなつてしまつた。大正七年に、「北豊島郡誌」の編纂者が採録したものと比較しても、そこにかなりの相異が見られるのである。
画像を表示 画像を表示 本文> 項> 節> 章> <章>石神井、三宝寺本堂に安置されている阿彌陀如来坐像は、孔雀座上の蓮座に定印を結び結跏跌坐する姿の木彫の像である。宝冠の上から膝まで二尺三寸五分。直径三尺の光背を付している。この像が優れた作であり且つ仏身が赤色の漆で塗られていることなどから故鳥居龍蔵博士は、ことに興味をもたれて、「金剛頂瑜伽中略出誦経中の阿彌陀仏像に就て」(
氏は、この仏像について次のように述べている。
この像は製作頗る優秀であつて、その容貌の如き柔和の相を現はし、顔の輪郭は柔く、眉間には白毫があり、眼は細く下を向き、眼球は貝殻を入れてゐる。眉は三日月形、鼻は日本人風に高く、口元はしまりがあつて、顔面との調和がよい。
以上の容貌は口辺に巻いた仏相としての薄鬚があるけれども、これを熟視すると、まさしく女性的であつて、頗る柔和慈悲の相を示してゐる。その他、頸辺から肩、胴、手等に至る彫線はまた柔かい所を表現してゐるやうである。そしてこれが孔雀の背上に結跏してゐる有様は、実に美しく調和してゐて、少しく離れてこの尊像を拝すると、何だか美的感想をひき起さしむるものである。
鳥居氏は、この像を紅頗梨色阿彌陀とみ、さらにそれが孔雀座の背にあるところから「金剛頂瑜伽中略出誦経」中
金剛界五仏のうち西方彌陀孔雀座に結跏するとの文からそれに相当する彌陀の尊像とされた。そう考えると大日、阿閦、宝生、不空成就の四仏が共に在つたことになる。この金剛界の五仏が果して関東の地にあつたものか? 鳥居氏は、慈覚大師が下野の出であることを重視され、また三宝寺が古くは鎌倉大楽寺の末であつたことに注目されている。しかし、その後、鳥居氏の投げた疑問を解決する資料を発見することはできない。
本文> 節> <節>○貫井町地蔵菩薩像
貫井の地蔵堂(
体内に蔵されていたという文書は朽損がはなはだしいが、多くの人名をしるしており、
○妙福寺木像銘文
法種山妙福寺戒名堂に安置される木像を調査した高野進芳氏は次のように報ぜられている。この木像は高二五、膝幅三六、胸幅一九、首部高九、額面六糎で、次の墨書銘がある。
区内の梵鐘はいずれも江戸時代以降のもので谷原長命寺鐘が、慶安三年で(一六五〇)最も古い。石神井の禅定院鐘は、元祿十六年(一七〇三)であつたが、昭和十八年二月十三日戦時物資供出の際に供出して今はない。
○長命寺鐘銘
奉鋳造霊鐘一口
形象麗麗 音韻鍧鍧 器量小窄 徳用大宏
問鐘岐公 聴楽伶郷 気多響泰 内空律身
先獻三寶 次廻四生 暮約緩杵 哀入獄征
晨要急打 競出定令 魔旬對治 魁催旗旌
佛陀來臨 倶倡鈴鉦 蘭盆設會 作詣向迎
安居説法 發猒欣情 子驚戯夢 午休勞耕
卯起俗事 酉念真營 <外字 alt="れん">摙外字>槌延撃 應吒王請
瓦棺剖像 合縣主盟 寶僧撞默 乗侶和鳴
化功隠詐 歸本顕誠 誰土邑者 得所積名
惟增嶋氏 有能施聲 悪焼鑪炭 善錬鎔鐺
瞋火忽滅 愛水自澄 當初齊武 景陽告鎗
即今重俊 豊嶋釣鯨 體殊貴賤 志岡重輕
父母叔伯 妻子弟兄 他作自愛 自得他成
一天風靜 四海波平 君仁政徹 臣智謀明
郡癈諫鼓 国蔵諍兵 農民野抃 商人市禎
見現在操 知後生程
谷原山茂長命寺榮
于時慶安三庚寅暦九月廿一日長命寺定昌時代
武州下足立小川口村
治工 矢沢次郎右衛門
吉重
○禅定院鐘銘
日域東方君子國武州豊嶋郡下石神井村之
衆民十人庚申講之衆錢并道俗男女以奉
加之助成梵鐘一口造立為現當二世安楽也
厥庚申者半夜凌睡眠離生死長夜七時凝精
進到不退浄剥一唑待之身躰堅固而保万歳
齢兩禮之子孫繁昌而誇花月栄幸乃至
横十方竪三世平等化度無着救護而巳
願諸賢聖 同入道場
願諸悪趣 倶時離苦矣
厥鯨鐘鋳作之諸施主貴賤道俗男女觸二六
時中妙音頓驚煩悩暗夜之夢忽翫佛性明朗
之月者耶音聲之功徳無大於鐘經曰若打鐘
時一切功徳悪道諸苦並得停止矣乃至鱗角羽
毛同破四生苦輪飛沉走躍共到四徳楽岸敬白
于時元祿十六癸未歳九月大吉祥日
本寺龜頂山三寶寺 住持法印日宥代
照光山禅定院 法印隆俊
法印隆嚴
願主 禅定院 宥俊 慶誉 遊心
本橋平八 同武兵衛 同徳兵衛 豊田半右ヱ門 豊田源右ヱ門
本橋磯右ヱ門 同武右ヱ門 豊田又四郎 本橋勘四郎 同宇平
同傅五右ヱ門 石塚庄兵衛 本橋奥右ヱ門 根本新右ヱ門 本橋長右ヱ門
根本角平 加藤五郎兵衛 根本小平 佐太右ヱ門 半兵衛
妙焔 仁平 於たん 於ちよ 谷木佐兵衛
願主
本橋安右ヱ門 同分右ヱ門 同権左ヱ門 新倉茂右ヱ門 時塚山三郎
本橋新五右ヱ門 同友右ヱ門 小泉勘兵衛 本橋五兵衛 同金右ヱ門
願主
豊田勘五右ヱ門 長之助 同重兵衛 同養四郎 本橋伊兵衛
同養兵衛 豊田宇平 同徳兵衛 同庄八 同喜右ヱ門
本橋佐五右ヱ門 勘三郎
願主
本橋八郎右ヱ門 小河八兵衛 本橋七郎右ヱ門 小河市兵衛 深野淺右ヱ門
小菅権三郎 加藤長右ヱ門 同久四郎 本橋杢右ヱ門 同五右ヱ門
願主
本橋源五右門 同与兵衛 八方道玄 新倉久右ヱ門 本橋惣右ヱ門
本橋角右ヱ門 小泉重右ヱ門 同次右ヱ門 同次郎右ヱ門 本橋甚五右衛門
願主
石塚次右ヱ門 山下忠右ヱ門 同養太郎 石塚六右ヱ門 同三右ヱ門
本橋庄三郎 山下伊左ヱ門 加藤市右ヱ門 石塚傅助 山下次兵衛
渡辺源左門 同次右ヱ門 同安兵衛 本橋源内
渡辺傳三郎 長谷川次郎衛 飛流間次右ヱ門
渡辺作右ヱ門 六右ヱ門 常夏 於ゆ<外字 alt="す">〓外字>
法印秀海 常念 芳源 宗夢 於万
法印俊秀 渡辺甚助 豊田源八 本橋庄之助 同新之亟
法印良傅 於さ<外字 alt="た">〓外字> 寿永 於源 妙慶
法印尊清 妙誉 於長 宗春 於亟
法印賴栄 貞宗 市之助 貞心 於万
法印圓誉 妙鏡 宥源 妙元 妙貞
法印隆智 本橋七郎兵衛 同彌五右ヱ門 妙閑 傅三郎
圓意於たよ 本橋加右ヱ門 竹内六兵衛 常眞矢嶋甚兵衛 本橋次郎兵衛 お弥ひ 定段
治工於武城 片岡伊右ヱ門殿 高照
本橋五右ヱ門 小林作十郎
斉藤久七 忠兵衛 豊田清右ヱ門 渡辺権右ヱ門
加藤下与兵衛 同三郎兵衛 同加右ヱ門 同源右ヱ門
於たね 市兵衛 斉藤長兵衛 同助右ヱ門 妙玄 常安 妙安 海眼
於志<外字 alt="な">〓外字> 於たん 於よめ 於万 於きく
於とめ 於<外字 alt="う">〓外字>り 於都屋 於たね 於たつ
佐兵衛 七右ヱ門 慈貞 道観 於たる
高橋利兵衛 金子佐兵衛 加山七郎兵衛 於万 於ぬい
新倉傅之亟 妙仙 本橋八右ヱ門 谷沢四郎兵衛
本橋忠兵衛 妙慶 本橋佐五右ヱ門 同伊兵衛 道圓
本橋伊右ヱ門 同清右ヱ門 同五郎兵衛 同忠兵衛 道盛
石塚次兵衛 妙誉 常充 道仙 妙寿
豊田又兵衛 本橋惣兵衛 小河傅右ヱ門 小林又十郎
名主渡辺傅兵衛 本橋兵右ヱ門
本文> 節> <節>良弁塚の由来は、別記したが、現在同塚は同所の武田藤吉氏が日夜お守りをして清浄になつており、附近の庚申塔などもここに移され保存されている。中央に一石碑があり、次の如く刻されている。
(正面)
延文二丁酉歳 武州之住
種子(釈迦) 奉納大乗妙典日域廻国所
三月二十一日 桑門良辨
(右側面)
其書誌所如面武州豊嶋郡中村郷
瑠璃光山第九世住法印知公再注焉
(左側面)
従来號良辨塚有古木枯朽
石碑半片得 元文五庚申春金
筒一基
この金筒(経筒)は現在南蔵院に収められている。高野進芳氏の調査によれば、この経筒は、長さ約三寸、径約一寸五分、金銅製、蓋に雲形文が彫られていて、中に四枚の板札がある。
経筒には次の刻文がある。
十羅刹女 武州之住良弁
種子(釈迦) 奉納大乗妙典 六十六部聖
三十番神 当年今月吉日
板札四枚には次の記銘がある。
壹枚 (表)
延文二丁酉歳 武州之住
種子(釈迦) 奉納大乗妙典日域廻国所
三月二十一日 桑門良辨
(裏)
於良辨塚従古来板石有㕝元文元辰年
内田兵三郎咄付相尋得半片石碑此
石之年月日金筒ト同物為末代今
新石碑造立焉 當寺第九世知公
壹枚 (表)
當院中興良辨良厳良栄
良秀良養良盛(
(
(裏)
従来号良辨塚有古木枯朽石碑
亦得元文五
書誌所如左武州豊嶋郡中村郷
瑠璃光山住第九世法印知公再注焉
(同横)
三宝寺血脈分明
壹枚 (表)
當寺
上座下座之諍論有之御奉行迄罷出
古来之通
仰付首尾能相済
(裏)
円光院辨隆代當村中村新五衛門弟
従御公儀退院被仰付當寺第九世
知公代愛染院ハ盛長代
壹枚 (表)
弘化三丙午天
種子(薬師) 奉再興薬師如来宮殿
十月八日開扉供養
(裏)
當山第十七世祐恵代
惣旦家施入世話人拾二人
画像を表示
いま、塚に作柄のよい観音石幢が建てられている。これは数十米東方から移したものというが、二重台石(四七糎)上に立つもので、総高二五二糎。写真にみるように作柄は良く幢身を七面に面どりし、各面に種子と観音像をおき、銘文に刻んでいる。文は
光明真言
准提 拾五万遍妙隆
為二世安楽
十一面 元文五
十月吉旦
馬頭 本願主
内田治良左衛門
勢至 講中
拾六人
千手 願主
西貝三良左衛門
聖 講中
三拾九人
如意輪 村中寄進
とあり、元文五年(一七四〇)の造立であることがわかる。台石は道しるべになつており、次の字がみられる。
此方なかのみち 此方たかいど
東 西
目ぐろみち 大山みち
武州豊嶋 此方禰りま
南 北
中村里 川口みち
このほかに、附近から集めた次の庚申塔がある。
このうち56は道しるべを兼ねている。
本文> 節> <節>石のもつ神秘性――竪固さと永遠性が、石器時代から石を尊重する風を生んだ。その石器が後世再び神秘的な価値を生んで祀られる。石神といわれるものの中にはそうしたものが多くみられる。本区でも石神井の名のおこりである石神は石器時代の石棒である。石は金属にくらべて安価にしかも比較的容易に手にはいる。そのため記念物的意味をもたせたり、長く後世にのこしたいという場合にはそれが使われる。今日の墓の大部は石でつくられている。石は装
飾的効果にもすぐれている。庭石などにとりどりの石が運ばれてすえられる。こうした石を材料にした造立物の主なものを挙げる。先ず中世の板碑について述べなければならない。中世を通じて関東一円の一つの特長として板碑を造立する風があつた。主として秩父産の緑泥片岩を用いているが、これはこの石の性質上板状にはがれ易いためと秩父に多量にあるためであつて、一部では他の石を用いている。本区の板碑については第二篇沿革、中世の項に詳説してあるのでそれによられたい。
江戸時代に入ると、石による造立物の数は全く多くなる。産地からの運搬が容易になつたことと、講などを結んで小額の浄財を集めて一本とすることが多くなつたためであろう。江戸時代の石製造立場を次に分類することができる。
1、宗教に関するもの
2、装飾、観賞用としてのもの
3、記念物的意味をもつもの
4、道標など
宗教に関するものは圧倒的に多い。前代から引つづきで、五輪塔、宝筐印塔などが造られたほか墓石などもつぎつぎと建てられている。古い寺の墓地には数十基の江戸時代の墓石が竝んでおり。仏菩薩の像も多く造られている。
谷原山長命寺の石仏群(
それらの中で第一に谷原の長命寺奥の院に竝ぶ造立物群をあげなければならない。東高野山とも新高野山ともいわ
れ、江戸時代から善男善女の参詣で賑わつたこの寺の石製造立物は正に偉観であり、力強い迫力を感ずる。これらは、いずれも江戸時代の作であつて、中心は四基の石塔をもつ地蔵十王十三仏の石像群である。承応三年(一六五四)八月十五日、三界万霊有縁無縁菩提のための大供養を修したときに建てられたものである。十王の石仏はすべて坐像で、中心の像は高さ一メートル、背部に次の銘が刻まれている。
承応三年
右志者為三界万㚑有縁無縁大菩提也
八月十五日
画像を表示九体は高七〇センチメートル、別に「身がわり焔魔」といわれている石像がやや離れた台上にあるが、十王中心像と同形、銘文も「承応三申午年」とあるほかは無縁を无縁、菩提に略字を用いて他は同様である。(
庚申塔
庚申待は、江戸時代にはかなり盛んにかつ広く行われた信仰であつて、本区にも庚申塔ののこされているものがかなり見出される。この行事は遠く奈良時代にさかのぼるのではないかと三輪善之助氏は述べているが、平安時代に、庚申の遊びと称して、歌宴を開いたり琵琶を弾じ琴に興じたことが記録されている。庚申の本体は、古代中国の考で、道教によれば、人体にひそむ三戸虫という霊物が、その人の行為を監視し常道を踏みはずさぬようにする。それが庚申の夜、天に昇つて上帝にその人の行動を告げる。もしその人に非行があれば上帝その罪を問うて命を絶つというのである。その三戸虫の昇天を防ぐために、庚申の夜に徹宵睡眠をしないという。上代の庚申は歌管法に時をすごすという風になつていたようである。
江戸以降の庚申待は、青面金剛を祀り、供物を供え、人々会して夜を徹するのであつたが、多くの場合、酒食談笑のうちに時をすごしたものであつた。山中共古氏はその著「共古随筆」中で、幼年のころ(
この行事に集まる人々は、相集まつて一つの講をつくつていた。講中の人々は、この庚申の日をむしろ心待ちにして、その夜は酒食を出して観談親睦したようであつて、一種の娯楽的意味をも持つ社交行事であつた。この庚申待
(庚申塔の形式は、種々雑多である。その表面に表わされるものも、単に文字のみを誌したものから画像に至るまであり、文字には庚申塔と簡単に書いたもの題目を誌したものなどがある。画像には、大日、釈迦、彌陀、観音、地蔵、不動、帝釈を刻んだもの、山王権現、青面金剛を表わしたもの、猿田彦を彫つたものなどがあり、道標を兼ねたものも多い。本区には、現在なお多数の庚申塔が残存しており、形式的には各種のものをそろえている。そのうち数基をあげる。
○仲町三丁目二一一五所在 駒形、塔身約八五、幅二八糎、上部に日(左)月(右)雲形を配し、中央に「庚申塔」右に「天保五年」左に「四月吉日」下に横に「江戸屋」とある。台石には横書きで「当村東講中」としるしている。この塔は道標を兼ね右側面に「北下ねりま□とだわたし道」左側面に「南ぞうしがやたかたみち」とある。
○貫井町八九六所在 笠付角形、地上総高一三五糎、(台三九、塔身七一)正面幅三〇糎、正面に青面金剛立像、
右側面に
奉造立庚申像二世安楽祈所
元禄十三庚辰十月廿五日
左側面に
武州豊嶋郡上練馬之内貫井村
□衆十三人
○谷原町一丁目五六九所在 笠付角形、塔身高さ七八、正面幅三二糎、正面に青面金剛立像、銘文は
画像を表示 (正面)
奉造立青面金剛現当二世祈所
宝永六巳丑天十月吉祥日 願主 観照院
(左側面)
庚申講講元二十二人
(右側面)
判読できない
○北町一丁目一三〇所在 地上総高二一〇糎の丈高いもので、上部に火焔の光背をもつ坐像を置き高い角柱の下に横五〇糎の台石をつけている。角柱には次の銘文が刻まれており道標になつている。
(正面)
天下泰平 内田久右衛門
従是大山道 願主
国土安全 並木 左衛門
(右側面)
武州豊嶋郡下練馬村
講中四拾八人
(左側面)
宝暦三
田なし 三里
府中江 五里
○下石神井所在庚申塔 石神井中学校長石山謙一郎氏の報文(同校教育研究会論「研究集録」所収、同氏「下石神井の庚申塔より見たる村民の結合状態について」)によると下石神井に現存する庚申塔は次の九基である。
造立年代 月日 所在地 塔型
一、延宝二年(一六四七) 十二月吉日 下石神井一丁目(上久保) 屋根付角型
二、元禄四年(一六九一) 十一月十六日 下石神井二丁目(根ケ原) 屋根付角型
三、元禄七年(一六九四) 十一月七日 下石神井二丁目(和田墓地内) 屋根付角型
四、元禄九年(一六九六) 十一月二十六日 下石神井一丁目(向三谷) 駒型
五、元禄十一年(一六九八) 十一月十一日 下石神井二丁目(北原) 駒型
六、元禄十三年(一七〇〇) 十月廿八日 下石神井一丁目(向三谷) 駒型
七、享保十二年(一七二七) 六月吉日 下石神井一丁目(伊保ケ谷戸) 青面金剛立像
八、延享三年(一七四六) 十一月吉日 下石神井二丁目(道者街道一里塚)屋根付角型
九、明治十年(一八七七) 四月 下石神井二丁目(和田墓地内) 駒形
以上、本区に於ける庚申塔については、精査がおわつていないが、年代的には江戸期を通じて、明治に及び(
石山謙一郎氏は、庚申塔にある銘文を分析して、部落の民衆の生活を復原することに努力されている。しばしば願主の名のほかに講中一同の名をしるしたものがあつて、その地域の民衆の結合の状態が判り、家の消長を知ることができる。庶民的史料として貴重なものでもある。数人数十人が結集してこれらの塔を造り、ときにはそれに道しるべなどを附して、道の傍にうち立てたときの喜びを知ることのできるだけでも棄てがたいものがあるといえるであろう。
馬頭観音、石地蔵その他
馬頭観音の造立は、江戸時代の農村にとつて重要な役割を果した馬に対する愛情から生れている。元来、これは六観音の一で、馬を頭に戴く形で表わされる。愛馬の冥福を祈り、また愛馬の守護のために樹てられ、道標を兼ねて交通の安全を願つている場合もある。
○北町一丁目二三九四所在 高六〇糎の角柱の上に馬頭観音坐像をおく。総高一七五糎。頭光をもつ光背、像は三
面八臂。角柱に次の文を刻んでいる。 画像を表示 (正面)
寛政六甲寅天 今神講中
武州豊嶋郡下練馬村
九月吉日 二拾六人
(左側面)
西ふしみち
(右側面)
北とだわたし道
前記、北町一丁目一三〇所在庚申塔の傍に高さ一一〇、幅二三糎の角柱型道標がおかれ、
左東高野山道
是より壱里余
とあるが、次のものも庚申塔とならべておかれている。
○北町一丁目六一所在 角柱型、高五九糎、正面に「馬頭観音」と大きく刻み、左側面に「左戸田道下練馬願主」右側面に「右いたばしみち」とある。この傍に庚申塔一基が竝んでいる。無笠の角型、上縁に丸味をもたせたもので塔身高六三糎、正面に青面金剛立像、左右側に次のようにしるしてある。おかれている場所は、板橋区との境、道路の中央に小祠にしてある。
(左側面)
左 戸田渡道 吉野長八
風祭 角右衛門
文化十二□□□吉日
(右側面)
右 王子道 願主円 □□
内田 久左衛門
地蔵尊像も数多く道立された。舟形光背に浮彫りのものが多いが、大形のものは丸彫りになつている。その作柄は精粗さまざまである。
○金乗院境内一光六地蔵 舟形光背に六地蔵立像をレリーフしており、総高一九八、塔身長一四五、幅六九、二一糎の蓮座の上に立つている。全体に調和のとれた石彫で、画面上部に雲上の日月、中央に次の銘文がある。
武州豊島郡下練馬本村御日待衆
種子(地蔵) 奉新造立六地藏大菩薩二世安楽所
干時明暦二年丙申九月十五日
地蔵の下に横に次のように造立者の名を連名している。
真鏡坊 門真房 長四良 半三郎
清三郎 次良作 久五郎 長五郎
源次郎 長三郎 半四郎 善四郎
清四郎 久三郎 彌吉 庄次郎
画像を表示 画像を表示最下の台石は宝暦二年の銘のある他の石を利用したものである。
○愛染院六地蔵 愛染院境内には二群の六地蔵がおかれている。本堂横のものは高松町から移したもので作柄は良い。総高一五一糎、蓮座の上に九六糎の立像をのせている。蓮座下の方柱に次の銘がある。
(正面)
願主四人
奉造立六地蔵
講中百余
画像を表示 (左側面)
元文四竜次巳未
十月廿四日
武州上練馬村
他の一群は、墓地の中にあつて、丸彫り仏身長七一糎、銘は
明和五歳戍子十月吉日
奉建立六地蔵
武州豊島郡上練馬村内
○荘厳寺地蔵 寺門前におかれている丸彫り立像である。総高一七八、仏身長一一二、一八糎の蓮座の上に立つている。元祿十五壬午年十月十三日の銘がある。持物は、右に珠数、左に宝珠である。
○谷原一丁目所在 小径の傍に二躯の石地蔵が祀られている。右は舟形光背を持つ立像、台石を除いて総高一二〇糎、次の銘を刻んでいる。
武州谷原村同行二十七人
貞享五年戍辰二月吉日
左の尊像は、丸彫りの立像、台石の上に角柱をのせその上に蓮座にのる石像をおく。下の台石を除いて総高一七〇糎、銘文は角柱にある。
(正面)
武州豊島郡谷原村右ハ田中
為二世安楽願主七十人
…………………左ハ石神井
(左側面)
大沢□右衛門
大沢定右衛門
………………
○北町一丁目「石観音」 旧川越街道の傍に祠を設けて数体の石仏群が祀られている。中央祠の正観音坐像は、高三一糎の蓮坐上にあつて身長一〇七糎、右手に蓮華を持ち、左手は施無畏印である。蓮座の下に一三〇糎ほどに台石、蓮座をおいて総高二七〇糎に及ぶ。光背背面の銘文は次の通りであつて天和二年(一六八二)の造立であることが判る。(
武州河越多賀町隔夜浅草光岳宗智月参所
奉新造立正観音為四恩奉謝也
<外字 alt="山+日">〓外字>天和二壬戍歳八月吉辰日願主敬白
この観音は古くから「石観音」として通行の旅人の参詣したところであつて、いまでも香華が供えられている。本尊の祠堂の前に仁王の小門を造り、石像の仁王を安置している。総高一二三糎ほどで作は上作ではないが、次の銘が背に刻んである。
画像を表示天和三癸亥年
今立之施主光岳宗智
三月七日
生国武州八王子
年三十五
道標
庚申塔、地蔵尊像などを道しるべとした例は上述のように多いが、単独の道標も旧道のあちこちにのこされている。多くは方柱である。
○南町五ノ七〇九七所在 方柱上部方錘、地上総高一〇七、正面幅二九糎台石付、
(正面)
□□
奉□□坂東百番供養塔
秩父
(右側面)
右
(左側面)
文政七甲申年四月吉日
施主
山崎…………………
これは供養塔であつて道標を兼ねたものである。
○北町一丁目一三〇所在 方柱、地上総高一一四、正面幅二二糎、台石はない。
(正面)
左東高野山道
川越街道の大山街道入口に庚申塔と竝びその左側に立てられている。
○貫井町四三〇所在 二寸乃至三寸二分の面をもつ六角柱、総高八〇糎、西向きの面に「左 長命寺道」としるす。
明治三十九年七月造立。
○貫井町七七三所在 地上高七六、正面幅一九・五糎の角柱、
(正面)
左 東高野山
(右側面)
寛政十一歳巳未二月再(以下地中)
(左側面)
(磨損)
この道しるべの傍に自然石の表面を磨いてつくた碑一基があつて次のようにしるしてある。地上高一三八・五、碑面幅六〇糎、
(正面)
維碑立斯用比鏡石
以臨以照爾心其赤
我行左旋進歩九百
輪焉煥焉伊靈之宅
靈降自天敢處以<外字 alt="斁">〓外字>
周示行道明明赫赫
(右側面)
右所さハちゝ<外字 alt="ぶ">〓外字>道
寛政十一年己未四月
(左側面)
右高野山十八丁
都鄙講中
武州豊島郡貫井村
発願人 関口藤助延義
その他
画像を表示○仲町六丁目四八一九先の路傍に、榛名社の造立物がある。方桂の台石に「講中安」と全刻み、その上に「榛名神社」と彫つた扉をもつ桂状の石をおき、扉の中に神札を収めている。笠石を最上部にのせていて総高一三五糎、側面の銘は、
(右側面)
大正五年四月吉日 北早淵中
(左側面)
発起人 小泉五右衛門
世話人 武内□□□
この榛名社は現在も信仰がつづけられている。
これらのほか特記すべきものとして、農神一躯が北大泉にあるのが珍らしく、高松町虚空堂墓地に一基の石塔があり、上部を欠失しているが、明かにキリシタン燈籠である。
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