第一章 江戸幕府の成立
第二章 村の成立と構造
第三章 農村構造の変遷
第四章 幕末の練馬
第五章 江戸時代の信仰
第六章 地誌・紀行文にある練馬
本文> <章>伊勢新九郎(
天正一八年(
小田原落城後まもなく七月一三日、北条攻めの論功行賞として徳川家康の関東移封が正式に決まった。
家康が関東を領するに当って、その居城を江戸に決めたのには重要な意味があった。家康が新たに与えられた領土は武蔵・相模・伊豆・上総・下総および上野の大部分都合六か国であった。しかし、関東には当時、安房に里見氏、常陸に佐竹氏、上野に真田氏、下野に佐野氏・宇都宮氏(
江戸の旧事を質実な文章で問答体に書き、江戸初期の状況を知る上で好著とされている大道寺友山著『
秀吉卿御申候は、小田原の城中家作も只今迄の通にて明渡候はゞ、其許には其儘居城に御用ひ可有や、と被申候得ば、家康公御聞
なされ、以来の儀は兎も角も、先づ当分は小田原に在城仕る外有間敷候哉、と御挨拶なされ候得ば、秀吉卿御申候は、それは大なる御思案違にて候、愛元の儀は境目にて大切なる場所にも候得ば、御家来の内にて慥なるものに預置き、其許には是より二十里隔り江戸と申所有之よし、人の申を承候ても、絵図の面にて見及候ても、繁昌の勝地共可申処にて候間、江戸を居城に被相定可然候。 (
つまり、江戸居城を家康に決心させたのは秀吉だというのである。家康は初め、先のことは兎も角、当座は小田原を居城とするつもりであった。しかし、秀吉は小田原も領国境の城で重要だから慥かな家臣に任せて、それより、人に聞いても、絵図面を見ても、江戸は繁昌の勝地とも言うべきなので、そこを居城にしたらどうかというのである。
「繁昌の勝地」という言葉に意味があった。従来戦国の城は要害堅固を第一とし、交通の利便などより敵に攻め寄せられても難攻不落、天嶮の場所を選んで設けたものであった。しかし、秀吉には城下に多くの町人を集め、商業を盛んにする信長の智恵を学び、戦術的にも、政治的にも、且又経済的にも最も適した大阪城を自らの実践により成功させてきた自信があった。
秀吉はこのことを関東に実現させようというのである。家康もまた秀吉の勧めに同意した。七月二三日頃江戸を検分した家康の眼は、その時江戸の地は旧利根川(
天正一八年八月一日、家康は江戸城に入った。この日陰暦の八月一日は「
この家康の江戸入城を一般に「江戸御打入り」といっている。家康の入府は、六郷辺から海辺沿いに北上し二本榎(
入城当日の状況は『天正日記』など諸書によって知ることができる。『天正日記』八月朔日の条には「いちば(
両書に見るとおり、家康は午後三時増上寺(
何故家康が江戸入城の途次、増上寺に入って食事をしたか。家康が時の住持源誉存応と寺の門前で偶然に出会って食事を所望したという話もあるし(
『天正日記』ではあとの説をとっているが、思慮深い家康の行動としては、後に芝へ移転し徳川家の菩提寺として栄えた経緯からしても、江戸打入りの時にはすでに決定していたと見るのが妥当とおもわれる。
こうした家康の「江戸御打入り」は単なる城入りではなく、わずか二、三か月前まで、北条氏の勢力下にあった江戸住民に対する徳川軍団の示威的行為と見ることもできる。それだけに、この「儀式」は江戸の住民に驚異の目を以て迎えられたにちがいない。
そこで家康は入府間もない八月五日、江戸の住民に米を分け与え、まず住民への宣撫を行なった。百年にも亘る北条治下
に培われた旧領主に対する感情から醸成される旧北条氏在地勢力の反感は充分予測されるものがあった。『東京百年史』はこのことにふれ「史料的には、北条遺臣をはじめ反徳川分子の反抗はほとんど確認することはできない。しかしそれは現存史料から立証されないだけであり、実際には地域によってかなりのあつれきや争闘があったことが察せられる」としている。
その時の江戸城は長禄築城後、長享、天正の修復があっただけで北条家の城代遠山景政が小田原籠城中に開城となったのだから相当の頽廃が見られたであろう。入城当時の様子を『石川正西聞見集』(
石川
また『霊巌夜話』には、「遠山時代の城と申候は、石垣など築候所ては一ヶ所も無之、皆々芝土居にて、土手には竹木茂りあひ有之候由(
『落穂集』にも同様の記述があり、当時すでに江戸城は、のちの本丸・二の丸・三の丸の範囲がほぼあったようである。
入国と同時に江戸城の普請が始められた。大道寺友山の『落穂集』を継いで成ったといわれる柏崎
さて城下は日比谷の沿岸に千代田・宝田・祝田などの漁村が点在しているだけで、住民の生活は「郷村の百姓共の儀は、目も当られぬ有様にて、其所の名主、
練馬周辺の状況は、記録の上には全くでてこないが、おそらく同じような実状であったことは想像に難くない。「天正十八年御入国ヨリ御府内并村方旧記」(
下練馬村の儀者天正十八年庚寅小田原落城後、関八州権現様御手入極月江戸御城入、御家人御供近在百姓家を借宅、御番等御勤之由、卯年不残御引移之由、当村の義、奥州海道今の本村
とあって、入国後間もなくから、練馬の百姓家まで御家人たちの住居に借りられたことが知られる。「極月江戸御城入」とあるが、八月を筆者の記憶違いか、聞き違いであろう。あるいは、一二月頃から家臣団の知行割が進められ、下級の直属家臣が江戸付近に割当てられたので、近在の農家まで借宅することになったのを云ったのかも知れない。
いずれにしても、戦略的には重要であったかもしれないが、このような淋しい寒村がのちに世界第一の殷賑をきわめた大江戸の繁栄になろうとは誰一人として予想していなかった。
本文> 節> <節>家康が秀吉から新たに
家康の新領土と境を接して安房に里見義康(
家康は城下江戸の建設を積極的に進める一方、家臣団の知行割を行なった。まず徳川氏の直轄地(
江戸打入りから約五〇年を経て、幕藩体制がほぼ整った正保年間(
家康が何故このような基本方針をたて、しかも確実に実行したかについては、次の如き配慮があったのである。即ち、知行地はとかくその領主の経営的才覚に左右されやすく、高率の貢租を課する可能性がある。若しそれが江戸近隣で行なわれたとすれば、直ちに江戸市中の物価に影響し、江戸の住民が困窮するであろう故に、江戸市中の物価・需給を安定させるためには是非江戸付近に直轄地を置く必要があった。それと合せて有事の際に糧米を背後に備えておくという戦術的意義もあったのである。
練馬区に属している村々もその大部分は直轄領であった。『武蔵田園簿』による支配別村高は次の通りである。やや長文になるが、後述の知行地にも関連があるので、練馬地域全村の村高をここにまとめて掲げておく。
<資料文 type="2-32">一、高八百八拾六石八斗六升八合
内 三百八拾八石壱斗八升九合 田方
四百九拾八石六斗七升九合 畑方
野村彦太夫御代官所
上板橋村
一、高百三拾五石弐斗弐升六合
内 七拾九石四斗四升八合 田方
五拾五石七斗七升八合 畑方
外 米四俵八升 野米 同人給
板倉周防守知行
中荒井村
一、高七拾六石四斗六升四合
内 三拾二石九斗七升三合 田方
四拾三石四斗九升壱合 畑方
外 米弐拾四俵三斗三升八合壱勺 野米 同人給
今川刑部
中 村
一、高三百三拾弐石六斗壱升七合
内 八拾壱石六斗六升六合 田方
弐百五拾石九斗五升壱合 畑方
外 永壱貫八百弐拾九文 野銭 同人御代官
高拾五石壱斗四升三合 観音領
野村彦太夫御代官所
谷原村
一、高弐百拾弐石九斗八升八合
内 五拾五石九斗壱升六合 田方
百五拾七石七升弐合 畑方
外 永三貫百七拾九文 野銭 同人御代官
野村彦太夫御代官所
田中村
一、高三百七拾四石八斗三升四合
内 百拾石六斗四升壱合 田方
弐百六拾四石壱斗九升三合 畑方
外 永六貫三百八拾弐文 野銭 同人御代官
野村彦太夫御代官所
下石神井村
一、高四百五拾七石弐斗五合
内 百弐石三升七合 田方
三百五拾五石壱斗六升八合 畑方
外 永八貫九百九拾文 野銭 同人御代官
高拾石 三宝寺領
野村彦太夫御代官所
上石神井村
一、高百三拾四石三斗三升八合
内 拾七石壱斗六升 田方
百拾七石壱斗七升八合 畑方
外 永五貫七百九拾八文 野銭 同人御代官
野村彦太夫御代官所
関 村
一、高六百弐拾三石八斗四升壱合
内 六拾壱石弐斗六升三合 田方
五百六拾弐石五斗七升八合 畑方
外 永七貫四百四拾九文 野銭 同人御代官
野村彦太夫御代官所
土支田村
一、高千百四拾弐石八斗七合
内 弐百拾九石壱斗九升八合 田方
九百弐拾三石六斗九合 畑方
外 永拾八貫七百五拾七文 野銭 同人御代官
野村彦太夫御代官所
上練馬村
一、高千弐百弐拾六石壱斗八升四合
内 弐百九拾弐石七斗三升壱合 田方
九百三拾三石四斗五升三合 畑方
外 永拾弐貫六百文 野銭 同人御代官
野村彦太夫御代官所
下練馬村
一、高百五拾石
内 九拾石九斗四升三合 田方
五拾九石五升七合 畑方
外 永壱貫三百八拾六文 野銭 野村彦太夫御代官
伊賀衆知行
橋戸村
一、高五百四拾八石壱斗九升五合
内 弐拾九石三斗七升六合 田方
五百拾八石八斗壱升九合 畑方
外 永六貫六百八拾五文 野銭 同人御代官
野村彦太夫御代官所
小榑村
資料文>以上を見ても判るとおり、練馬の場合、知行地は中荒井村・中村・橋戸村の三か村で他の一〇か村はすべて直轄地領(
武蔵国全部の支配別石高の割合は、天領が全体の約半分、三分の一が旗本領、残り六分の一が大名領と寺社領になっている。練馬地域の幕府直轄支配が平均に比較して如何に強かったかがこれをみても知ることができる。
徳川氏は関東入国後、約一〇〇万石乃至一二〇万石といわれる直轄領支配を代官頭伊奈熊蔵
子
このときから関東郡代は勘定奉行の兼官となったが、のち寛政四年(
郡代・代官はお
郡代は四〇〇俵、代官は一五〇俵の役高を定額として給されたが代官は役高のほかに、支配地の石高に応じ諸入用と称し、規定の米金を給与された。諸入用は
手附は幕臣で譜代席と
手代は純然たる幕臣ではなく、かといって郡代や代官の家臣でもなかった。多くは地方の事務に老練な百姓やその子弟から採用された。関東郡代の伊奈氏は家来のみで手代は使わなかったという。手代の嗣子などで事務見習を代官が命じ熟達すると
このほか幕末に到って、
区内にのこる諸文書から寛政以降、幕末まで五人制代官時代練馬地域を治めた歴代代官をあげると次の通りである。
<資料文>享和四年(
文政四年(
文政一一年(
天保五年(
弘化二年(
嘉永三年(
安政二年(
安政五年(
知行地 江戸周辺の農村部は、防衛体制の確立と安定財政確立のため大部分が蔵入地と旗本の知行地に割当てられたのは前述の通りである。
旗本領は下級者ほど江戸に近く、せいぜい一夜泊りの近郊に設けられ、上級になるに従い遠方に於いて割当てられ、しかも分割して支給されることが多かった。因みに『武蔵田園簿』によって、武州における旗本の知行高をみると、五〇〇石未満が全体の七〇%を占め、五〇〇石以上一〇〇〇石未満が二二%、一〇〇〇石以上三〇〇〇石未満が七%、残りの一%が三〇〇〇石以上という数字を示している。
このように直属の家臣団の知行地を江戸近郊に集中させたのはかれらに江戸城の在番を勤めさせるためであった。入国後は取りあえず知行地の名主の家や寺院を借宅して妻子を置き、自分は単身で江戸に通勤あるいは在勤したものと思われる。前掲の「村方旧記」にあった「御家人御供近在百姓家を借宅」とは、この頃のことを言ったのであった。同じ「村方旧記」に
<資料文>天正より寛永年中迄ハ当村高六百石ニ而板倉四郎左衛門様御知行御領地ニ而御代官役御勤被成、足立豊島新倉多磨郡御支配由、爾今村々御割付御受取手形有之由、其頃御陣屋堀廻シ今中原是也
資料文>とあるが、下練馬に知行地を受けた板倉勝重(
当初百姓家などを借りていた旗本も、やがてこのような陣屋をつくって知行地支配の本拠とした。また陣屋は濠をめぐらした小さな砦ともいえ、江戸を中心として布いた領国軍事体制の一環としての役目も果していた。
直属家臣の知行形態は、ごく下級の家臣を除いては二か村以上にまたがる分散(
この例を見ても判る通り一人一村づつの支配を行なわせず、二村を半分ずつ二人に分け与えるという複雑煩瑣な知行形態がとられていたことが知れる。
因みにこの両名はいずれも八王子北条
一方上級家臣の知行地については、これら下級家臣の場合とは反対に、できるだけ遠方に配置する方針をとった。一万石以上の上級家臣団の配置は『練馬農業協同組合史』(
前掲の『武蔵田園簿』によれば正保年間における練馬の家臣団知行地(
このほか『新編武蔵風土記稿』(
板倉周防守は重宗と称し、四郎左衛門勝重(
前記「村方旧記」に板倉四郎左衛門が下練馬村を領していたと取れる記述があったが、『新記』下練馬の項には「御打入以来御料所」とあって、板倉氏知行のことには触れていない。打入直後は各地で盛んに配置替えが行なわれた時期があるので、あるいは下練馬村も一時期板倉氏の知行地であったことがあるかもしれない。
中村を領した今川刑部は、今川治部大輔義元の子孫で寛永一三年(
高家には単に高家と呼ぶものと表高家と称するものの別があった。官位を有するものを高家と言い、そうでないものを表高家と称した。高家を別に奥高家と言うのは、ただ表高家の名に対するからである。表高家は表の向きの典儀に関与することもあるが、それは本来の任務ではなく、一に高家の候補に任ずるものであった(
今川氏は義元が織田信長に討たれ、その子氏真も武田氏の攻略するところとなった。家康は名門今川氏の流落を憐み、近江野洲郡の内に采地五〇〇石を与えた。その子直房は秀忠に仕え寛永一三年一二月奥高家となった。正保二年常陸笠間に転
画像を表示 封となった井上河内守のあとを受けて、中村(橋戸村を知行していた伊賀衆は伊賀国の郷士で、功によって千貫文の禄を与えられていたが、家康江戸入府に従い徳川氏の直属常備軍の一となった。『新記』橋戸村の項に「この地は天正一九年伊賀組へ賜りしより、今も伊賀組の給地なり」とあるから打入の直後に給されたことが知れる。
伊賀衆は、はじめ勤番の際に給地から四、五里の道のりを江戸城へ通っていたが、のちに江戸四谷(
伊賀衆は服部半蔵を頭として伊賀組に属する約三〇〇名で、大縄給地と呼ばれる集団的な知行地の
以上『武蔵田園簿』所収の板倉氏(
図1のように練馬の知行形態は、江戸中期以降天領の上・下練馬、中荒井、上・下石神井、谷原、田中、土支田、関、竹下新田、上板橋(
江戸城の修築工事に伴なって、城下の〝都市計画〟が行なわれ、古くからあった寺社の城外移転が命ぜられた。家康打入当時、江戸城周辺には、増上寺・山王社・神田明神や
天正一八年秀吉軍のために灰燼に帰した小田原城下の寺院も少なくなかったが、そうした中で広徳寺・誓願寺など北条氏
広徳寺は大正一二年関東大震災後、逐次下谷から現在地桜台六丁目に移転した区内でも有数な名刹であるが、江戸移転の頃の様子を『江戸紀聞』には次のように書いている。
広徳寺は元来北條家の時城下にありし也、天正十八年氏直父子滅亡の後、其住僧江戸に来り、今の昌平橋の内松平伊豆守上屋敷、その頃はいまだ足入の沼池なりしを、とやかくして茅ぶきのわづかなる堂一宇を建たり。此住僧を希叟和尚といふ。清首座といふ僧希叟にしたがひ来り、その地の内に少しの茅庵を結び、長春院といふ。是ただ一宇塔頭として有之也。
広徳寺はその後寛永一二年、神田から下谷へ移転し、諸大名の厚い帰依をうけて、俗諺に「ビックリ下谷の広徳寺」といわれるほどの広大な寺域をもつ寺となった。
誓願寺もまた同じ頃小田原より江戸神田へ移転、その後明暦三年(
かように家康は北条氏由縁の寺院を庇護し再興をはかる一方、古来から江戸近傍にあった寺社への安堵または新領授与を行ない、新領民たちの人心安定を計っている。
入国の翌年天正一九年(
寺社名 村名 発給年 朱印高
三宝寺 上石神井村 天正一九年 一〇石
妙福寺 小榑村 同 二一石
長命寺 谷原村 慶安元年 九石五斗
愛染院 上練馬村 同 二年 一二石一斗
若宮八幡 同 同 八石
金乗院 下練馬村 同 一八石九斗
南蔵院 中 村 同 一二石八斗
資料文>朱印状は一般的には朱肉を以て印鑑を押捺した書状のことであるが、室町時代の末期頃からは武将の政務執行のための公文書を総称した。この朱印状によって外国貿易を許可された船舶を朱印船といゝ、朱印状によって所有権を確認された土地を朱印地といった。
武蔵国豊嶋郡上練馬村
若宮八幡領同所之内八石
別当愛染院領 於同村
拾弐石壱斗餘合弐拾石
壱斗餘事任先規寄
附之訖全可収納并寺中
山林竹木諸役等免除如
有来永不可有相違者也
慶安二年十一月十七日
これは慶安二年三代将軍家光が愛染院と同寺が別当をしている若宮八幡(
朱印状は一〇万石以下の大名(
区内でも末寺を多く持っていた三宝寺が二度の火災に遇い、朱印状など多くの古文書は烏有に帰したが、あるいはその中に朱印状書替一件書類もあったかもしれない。
歴代将軍のうち、七代家継は夭折し、一五代慶喜は幕末の争乱に際し短時日で大政を奉還したため、いずれも朱印状の下付はなかった。
寺社には朱印地の外に、年貢諸役を免除され、村高より除かれる除地(<圏点 style="sesame">じょち圏点>ともいう)という土地があった。大石久敬の『
つまり除地は朱印地のほか寺社境内とその所有地、或いは古来から由緒があって田畑・家屋敷等の無税証書を有するか、又は前々から検地帳外書に除地と掲記してある分に限り認められる朱印地に次ぐ特別免税地である。村々の墓地や死馬捨場
を除地と心得る者も多いが、それは縄外の時代は大部降るが文政四年(
また文政九年(
以上僅か二か村の除地を見たに過ぎないが、江戸幕府の寺社擁護の一端が窺えて興味深い。
本文> 節> <節>家康が江戸を中心とした関東における領国経営の基盤づくりを着々と進めつつある中で、日本の歴史もまた目まぐるしく変って行った。
天正一九年朝鮮出兵を令した秀吉は、失意のうちに後事を家康に託し慶長三年(
江戸城の本格的修築工事は慶長一二(
城の築造と併行して城下町の整備もまた進められた。寛永年間までに開かれた町地は約三〇〇町といわれ、古町とか草創地と呼ばれて、それ以降の新開地や町並みより由緒や格が高いとされていた。
江戸経済の面からも家康は入国後、まず小田原商人を移させ、これに従って伊勢商人もまた集った。江戸築城以後諸国の武士が続々来集することになるが、京、堺の商人等も家康の命に依り徐々に移住し、のちに近江商人も江戸に店舗を開くに至った。
更に参観交代制度や五街道整備に伴って諸侯が江戸に藩邸を置くに至ると、それに付従して移住する商人も少なくなく、商機を見るに敏な関西商人は京坂の物産を高級品即ち「
この様に江戸が都市として大いに発展した結果、当然ながら人口の集中は夥しかった。江戸の人口については同時代の諸書に数多く見えるが、いずれも町奉行支配の人数は判明していても武家の人数が判然としないから、結局江戸の総人口を正確につかむことはできない。一番多い時期は天保一四年(
これだけ江戸が発展してくると、当然市中の台所を賄う食料の供給が必要になってくる。京大坂から来る下り物では到底間に合わず、鮮度を要求する食品は江戸前(
慶長頃にはすでに神田鎌倉河岸の北側湿地を埋め立て市街地をつくり、そこに「菜市」が開かれた。明暦の大火後江戸市街の再建と再編成の結果、貞享三年(
その頃、江戸近郊の産地と名産野菜には次のようなものがあった。
<資料文>練 馬 練馬大根 多摩郡砂川 砂川ごぼう
南 千 住 汐入大根(二年子大根) 多摩郡矢口 矢口ごぼう
三 河 島 荒木田大根 小 松 川 小 松 菜
尾 久 荒木田大根 松 江 小 松 菜
荏原郡諸村 沢庵用大根・たけのこ 千 住 ね ぎ
滝 野 川 滝野川ごぼう・にんじん (
幕藩体制の整備とともに世は、戦国的な気質から平和的な気風に変りつつあった。以前は武将・僧侶など極く限られた階級の間のみでしか顧られなかった学間も、徐々に一般にも要請され、幕府や諸藩の大名もまたそれを助成する政策をとった。
一方こうした中で庶民生活の社会的な向上は著しく、経済的にも文化的にも上昇の一途をたどり、民衆のつくり出す芸術文化は
京に生れた阿国歌舞伎もこのような庶民文化の一翼をになって、のちに元禄江戸歌舞伎と称されるまで急速な進歩を遂げるのである。阿国が慶長一二年(
ここでは歌舞伎の歴史を述べるのが本旨ではないので、他の専門書にゆずるとして、練馬に少しながら関係のある
正徳二年(
この事件の発覚の端緒は、正徳四年(
この事件は江戸市民の耳目をそばだたせた出来事であったらしく「村方旧記」にもことこまかく事件の経過を記している。
武蔵野台地は北を荒川、南を多摩川に限る青梅を頂点とした扇状の洪積層台地で、自然池沼である井ノ頭池・善福寺池・三宝寺池などの湧泉を水源とするいくつかの小河川が浸蝕谷を形つくっている。
武蔵野の開発の遅れた理由に水の不足がある。この台地の表面を厚く被う火山灰からなる関東ローム層と厚層の砂礫層のため、水は伏流となって地下深く滲透しているためである。このような状態であるので中世末までは前記湧泉や河川を利用
できる地域にだけわずかに村落が開かれていたにすぎなかった。江戸時代に入るとようやくこの地域にも開発の手がのび、慶長から享保にかけて多数の新田村落が出現したが、とくに承応から寛文までのものが主体をなしている。石高の増加を基準として開発を時期的に大別すると、元禄をさかいにその以前と以後に分けられ、元禄以前の開発村落は戦国以来の在地土豪層もしくはその系譜を引く上層農民が開発人となっており、兵農分離の進行がもたらした全国的な現象であった(
承応三年(
玉川上水からはさらに青山上水(
幕府は元禄九年、湯島聖堂・寛永寺・小石川御殿・浅草御殿などへ飲用水を供給する目的で河村瑞軒の企画によって、多摩郡仙川村の徳兵衛・太兵衛の二人に工事を請負させた。千川上水は多摩郡保谷村から玉川上水を分水し、石神井川と江戸川(
宝永四年(
こうした用水の灌漑利用によって武蔵野台地の畑場は、新田開発とも相俟つてその作付反別を著しく伸ばしてゆくのである。区内では、もともと上・下石神井村、関村の
このように武蔵野の開発は家康の江戸入府と、それに伴う市街地の発展に影響されて漸時活発になってきたが、玉川上水からの分水によるとか、湧水池に恵れた地域は別として台地上の開発は長い間放置されていた。この武蔵野台地が開墾の対象となってきたのは、人口の増加とそれに伴う食糧対策、さらには都市の需要に応ずる蔬菜栽培による畑地の利用などがあげられる。享保年間に開墾された新田は多摩郡四〇か村、入間郡一九か村、高麗郡一九か村、新座郡四か村の合計八二か村に及び、これらの新田は特に「武蔵野新田」と呼ばれた。
次に武蔵野新田の村々から出された用水分水願を掲げておくが、当時の新田村の水不足の状況と、それに対する農民の切実な願いを考える上で貴重な資料といえる。
<資料文>乍恐口上書を以申上候
一此度武蔵野御新田之内江御上水より分水被仰付候ハヽ、田方出来可仕哉否之訳ヲ御尋ニ付、私共存寄申上候、御新田之内窪地其外水乗り候平地も御座候得共、軽土ニ御座候得は水持無之、大分之田方は出来兼可申と奉存候、尤野中新田砂川新田ニ而田壱反歩程宛仕付心見仕候処ニ、本田ニ而水懸候ハヽ田四五町も可仕付程之水ニ而様々壱反歩程之田水ニも足り不申候、是をかんかへ申候得は、百町歩程之田方も出来申間敷と奉存候、然共呑水被下置候ハヽ少々宛も稲作仕付度奉存候、尤右も水濕渡リ候ハヽ、末々田方も出来可仕と奉存候、依之分水被下置候ハヽ、当分出百姓之呑水ニ罷成、少々も田方出来仕候得は御救と難有奉存候、
芋久保 平左衛門
享保十五年十一月廿六日 中藤 庄次郎
砂川 伝右衛門
治右衛門
谷保 平兵衛
岩手藤左衛門様 関前 忠左衛門
御役所 境 吉之助
関の 勘左衛門
梶の 藤右衛門
野中 次右衛門
(
すなわち武蔵野新田は、軽土で水持ちが無く、他の所では田四、五町も仕付けられる程の水でもここではようよう田一反にも足りない状況であるので、取敢えず飲用の分水をもらえば徐々に水が土地に湿ってきて、ゆくゆくは田圃も出来るようになるであろうと訴えている。
この文書は五日市街道沿いの村々が主であるが、恐らく練馬を含む青梅街道沿いでも同じような状況であったことは充分に推察がつく。江戸近郊における近世村落の発展はこうした農民の苦しい水との闘いの中でかちとられてゆくのである。
本文> 節> 章> <章>昔から人びとが集まって生活を形成していた所を一般にムラといった。ムラはムレと同義で群衆が集まって棲息し、人家が群れをなして存在することをいったものだといわれている。
大化改新(
のちにこの五〇戸から成る行政単位の里を改めて
しかしその後、庄園が発生し全国に普及すると、
この制度は戦国末期までつづき、豊臣秀吉が実施したいわゆる太閤検地のあとは、庄保郷里の称は廃され、直ちに郡をもって村を統轄することとなった。
近世の村は政治上の単位であると共に、納税の単位でもあった。幕府はむしろ年貢徴収のための単位として村を統制していた。担税力に応じて割当を受けた村は、それを
ほとんどの村には氏神が祭られており、村民は総てその氏子となった。男子が出生後三一日目、女子は三三日目に初宮参りを行なう風習は、民俗学的には氏子への参加の儀式だとされている。また同一村内には同姓を有する家が多数あって、それぞれが本家を中心とした分家で纒まっており、宗家支配の下に村が形成されているといってもよい。その宗家は一村一家の場合もあれば複数の場合もある。練馬の村の草分け百姓については別項でふれるのでここでは省略する。
経済的に村は村で自給自足する方針がとられ、食料はもちろん衣料、農具その他、大体の日常品は村内でまかなえるようになっていた。村では農民以外の者の移住を極力避け、為政者側でも他国者の村内立廻りを厳しく監視するよう義務づけていた。
例えば承応四年(
これらは防犯上の意味もあるが、
五人組が村の治安維持と、共同責任の遂行に如何に重要な役目を果していたかは別にふれるが、こうした近世農村の性格は明治に至るまで長く続いた。
前出の『小田原衆所領役帳』(
すなわち各人の役高を算定する場合その基準となるのは土地であって、それを賦課の単位である貫高で表わし、地名を併記して確実性を与えたものである(
このような理由から『役帳』の貫高と、約八〇年後の『武蔵田園簿』の村高とを直接比較することはあまり意味はないが、計算上は高・反別共五倍以上の伸びを示している。
江戸近郊農村の急速な発展は、こうした後北条氏から徳川氏の関東支配という政治的変遷の中で進められたのであるが、それは単に支配関係の移行という問題だけではなく、従来土豪層に包含されていた小百姓が独立して、領主に対する直接の貢租を負うこととなったのである。
一方、兵農未分離の頃の土豪(
こういう土豪的農民と初期本百姓ならびに新本百姓などの村内融和と、年貢徴収の円滑化を図る目的で、村の中に組とよばれる小行政単位が作られていった。五人組は近世初頭に五保から生れたものであるが、この五人組がいくつか集って組が組識され、かつての部落の機能を受継ぐようになった。
組には組頭あるいは年寄とよばれる
名主の家が村内で特に擢ん出ている場合は世襲のことが多いが、同等程度の者が居るときは年番で名主を勤めるとか、
区内各村に現存する諸記録には次のような組の名を見ることが出来る。
<資料文>中荒井村 弁天組・本組・西組・中通組・北新井組(
中 村 中内村・原組・南組(
上練馬村
中ノ宮村 五兵衛組・権左衛門組・猪左衛門組・五左衛門組・長兵衛組 五組四九軒
海老ヶ谷村 伝衛門組・五郎左衛門組 二組二七軒
谷 原 村 助兵衛組 一組一八軒
田 柄 村 兵左衛門組・権兵衛組・彦兵衛組・吉衛門組・権左衛門組・弥五左衛門組・八郎右衛門組
七組六五軒
貫 井 村 権左衛門組・八左衛門組・伝左衛門組 四組四四軒
高 松 村 善兵衛組・伝右衛門組・惣右衛門組・三郎右衛門組・次郎左衛門組・角左衛門組 六組六〇軒
(
土支田村 上組・下組(
江古田村 孫右衛門組・庄左衛門組(
(
下練馬村・石神井村・関村・小榑村・橋戸村には全村の組名を明らかにする資料が見当らないので、ここでは割愛するが、判明した組頭或いは年寄については後に触れる。
右の表でも判るとおり組名は部落の名前、或いは組頭の名前を採って付けられた。表に掲げていない村にも、江戸初期から幕末までを通じて、村特有の組名が付けられていたことは古文書などに散見される。
上練馬村の二五組は延宝三年(
伝馬は高一〇〇石に付き人足二人、馬二疋と定められていたので、高一〇〇石の組を作って置くことは、伝馬に限らずあらゆる諸役の賦課を計算する上にも必要な事であった。上練馬村の村高は二六二六石余であったので一〇〇石組にすると二六組できるわけであるが、助郷高は寺方・名主方の持高を除く慣習であったので二五組となっている。中ノ宮村以下の五つの村は上練馬村の小名である。谷原村助兵衛組は隣村谷原村からの入作であろう。
土支田村は『新記』に「土人私に村内を二区に分ち上組下組と唱ふ」とあるように半ば公認の組分けであった。年貢割附状・年貢皆済目録(
この状態は幕末まで続くが、明治四年豊島郡が品川県より東京府に編入されるに際し別村の取扱いをうけ、同六年大区小区制に当って、はっきりと上土支田村・下土支田村と二村に分離された。因みに下土支田村はのちに上練馬村に合併し、上土支田は小榑村・橋戸村などと合併して大泉村となった。
江古田村庄左衛門組(
村には二つの側面があることを述べた。それは村民の生活共同体としての面と、他の一面は領主にとっての貢租負担の基本単位であるということである。貢租負担の義務を負う農民は村を生産の場、生活の場としながら幕府からの統制をうけた。
村は村方三役又は
代官役所の事務には
いきおい、村からの提出書類などは村役人の手に委ねられ、それだけ名主をはじめ村役人の事務量はなみなみならぬものがあった。検地のときの案内・立会いは勿論のこと、
また宗門人別帳の提出、村民の前年比較増減の調べ、五人組帳・夫銭帳・村明組帳などの書上げ、年貢割附状、皆済目録の収受や村民への周知徹底など一々掲げればきりがない程の量であった。これらの内容については出来得る限り後述するつもりであるが、村役人の仕事は質量共に相当事務処理能力のある者が専従しなければ消化出来ないものであったと思われる。
いま各村にのこる古文書のうち名主・年寄・百姓代三役連名のものを見ても、村明細帳、宗門人別帳、貯穀書上帳、商売家取調書上帳、
一村の
初期の名主は大体その家が決っており数代に亘って連綿とその職に就いていた。若し名主役を勤める家の当主が幼年などの場合は組頭の内か又は親族の者が後見役となり、名主の名目は幼少でもその家の当主が継いで一村を治めていた。たとえ名主家を凌ぐ大
そのため名主の威厳が保たれ村中もよく治まって名主の支配に背くものは少なかった。しかし一方、名主が何代も続くとその権威にまかせ我儘な所行をする者も中には出て来て、村のためにならないことも間々あった。
慶安二年(
一、公儀御法度を怠り、地頭、代官之事をおろそかに不存、扨又名主、組頭をハ真の親とおもふべき事
一、名主、組頭を仕者、地頭、代官之事を大事に存、年貢を能済、公儀御法度を不背、小百姓身持能仕様に可申渡、扨又手前之身上不成、万不作法に候得バ、小百姓ニ公儀御用之事申付候而も、あなどり不用物に候間、身持を能致し、不便不仕様に常々心掛可申事
一、名主心持我と中悪者成共無理成儀を申かけず、又中能者成共依怙贔屓なく、小百姓を懇にいたし、年貢割附役等之割少も無高下らくに可申渡
(
代官、地頭の命を受けて貢租を徴収することが名主の主な任務の一つであったが、村単位に賦課された貢租を村民一人一人の所有高に応じて割当てる仕事は特に公正を要求された。江古田村の小百姓が年貢諸役の割当について、高反別によって
公正に配分することを再三要求したが、名主が聞き入れないので享保九年(こうした年貢諸役の配分に絡む訴えは各地に多く見られ、享保頃より名主の一代勤め、又は年番名主と称して一村の内に名主役を勤める家柄を選んでおき、百姓の内から一年毎順に名主役を勤める制度が採り入れられるようになった。
名主が病死又は退役で跡役を決める場合はその村々の例に任せられたが、総百姓の
区内の村々のうち、半数ぐらいの村は、世襲で名主を務めていたようである。それを裏付ける文書は現在残されていないが、当然名主役の跡目を継がせたい願い出がなされていたであろう。諸家古文書から推察できる世襲の名主は次の通りである。
中荒井村・岩堀家、中村・内田家、江古田村新田・堀野家、上練馬村・長谷川家、関村・井口家、土支田村上組・町田家、同下組・小島家などで、これらの家は早くは江戸初期から、おそくとも寛政頃から幕末まで代々名主役をつとめた。
先に江古田村百姓が名主側を相手に年貢諸役の割当てについて代官所へ訴え出たことに触れたが、下練馬村でも寛政三年
(名主の報酬(
村高 一〇〇石以上 二〇〇石未満 給米弐俵
同 二〇〇石以上 四〇〇石未満 同 四俵
同 四〇〇石以上 七〇〇石未満 同 五俵
同 七〇〇石以上 一二〇〇石未満 同 八俵
同 一二〇〇石以上 一五〇〇石未満 同 十俵
同 一五〇〇石以上 右に準じて増額
天領では名主給は年貢から差引かれず、
私領である中村では天領と異り、二石の名主給が年貢から差引かれていたことが、元治元年(
名主は役目柄江戸へ出掛けることがよく有ったようで、その費用は村
このように名主は村支配の末端機構を司る一方、生活共同体としての村内を円満に運営していく能力と人格が要求されていた。
名主と組頭には
名主が何らかの都合で欠けた場合には、歎願書・請書などの署名は組頭・年寄が村役人惣代となってその任にあたった。時代が降るが明治二年(
明治二巳年
上練馬村一件歎願書
十月廿二日
乍恐書付ヲ以御歎願奉申上候
武州豊嶋郡、多摩郡、足立郡村々左之
名前之もの共奉申上候、今般上練馬村名主
又蔵、年寄源左衛門義、当巳田方御検免取
不都合之取計有之趣ニ而、御吟味中入牢被
仰付一同驚奉恐入候、然者当私共宿村之
儀、中山道板橋宿御伝馬所附属ニ御座候間
具々同所出勤罷在候ニ付、前書又蔵、源左衛門
画像を表示同職御勤之間柄ニ有之候間右始末承りおよひ
見舞旁同人ども宅江罷越し候処、家内ニ
罷在候老父母妻子昼夜悲歎ニ沈、寝食ヲ
打忘れ相歎罷在、老父母
之様子、殊ニ又蔵源左衛門義生質病身ニ而追々
寒気差向入牢中何様之変事出来
可申哉難計と申し家内之者共一同相歎
罷在右ヲ不忍見ルニ如何ニも不便至極ニ存候
間、御吟味中不奉恐多顧、御歎願奉申上候
何卒格別之
御仁恤ヲ以又蔵、源左衛門身分此上御憐愍
之御沙汰被成下置候様、挙奉歎願候以上
巳十月廿二日 当 御支配所
武州豊嶋郡下練馬村
役人惣代
年寄
久右衛門
惣左衛門
三郎右衛門
中荒井村 下鷺ノ宮村 中仙道板橋宿 板橋宿
役人惣代 役人惣代 御伝馬所 名主市左衛門
名主伝内 名主定兵衛 名主市左衛門 〃 宇兵衛
谷原村 小菅県支配所 市右衛門
役人惣代 同州足立郡附属 宇兵衛
年寄八左衛門 村々惣代 右宿村惣代
品川県御役所 中 村 元合村 下練馬村
官員 役人惣代 名主孫之助 名主久右衛門
岡本権少員分事 名主権右衛門 鹿浜村 中荒井村
西村権大属 葛ヶ谷村 役人惣代 名主伝
松田権大属 役人惣代 組頭庄三郎 谷原村
(
多摩郡 同州豊嶋郡上板橋村 中 村
江古田村 組頭村々惣代 名主権右衛門
名主常次郎 名主与右衛門 葛ヶ谷村
孫右衛門 年寄利 八 名主甚左衛門
片山村 下赤塚村 江古田村
役人惣代 役人惣代 名主常次郎
名主善左衛門 組頭半三郎 名主孫右衛門
この文書は上練馬村の名主・年寄の赦免を願って近隣一二か村の村役人が署名したものである。紙幅の都合で四段に並べてあるが、原文は横列一段である。
資料文>年寄・組頭の数は一定ではなく三名乃至五名位が一般的であったが、文政四年(
村方三役のもうひとり百姓代はやはり、村の大高持(
嘉永七年(
百姓代 藤助 九三石二斗二升五合
同 定右衛門 一六石八升
年寄 五左衛門 二〇石二斗二升一合
名主見習 順蔵
名主 又蔵 四二石四斗九升一合
百姓代藤助は上練馬村随一の大高持であり、定右衛門も同書記載の百姓三九四戸中二〇位の高持である。因みに名主見習順蔵は又蔵の伜でこのとき二五歳、父又蔵は五四歳であった。世襲名主家として父の隠居前に見習いという形で公文書にも署名しており事実上の事務に取組んでいる姿を見ることができる。
五人組の淵源は中古の五保の制に発したといわれ、近世に至って五人組と呼ばれるようになった。五人組制度は元々、浪人取締りと切支丹禁制の必要上その重要度を加えたものであって、寛永以後は特にこれらに関係する法令が出され、ついには五人組帳を製して村民から法令遵守の手形を取るに至った。
五人組は農工商の三階級にのみ実施せられ公家・武家および穢多・非人はこれに加えなかった。その組織は江戸市内と練馬などの在郷とはその規を異にしていた。市内では一町内の家主に限り組合に加わり月番交替で月行事を務め、名主のない町では名主代が勤めた。店借人は別に店五人組を設けていたが、寛政年間に廃された。
これに反して在郷では大小百姓以下水呑百姓、寺社門前の者に至るまで、一人の洩れもなく組合に加入した。近隣の五軒が組を作るのを原則としたが、必ずしも五家に限った訳ではなく、四人組・六人組・七人組などの例もある。
五人組には組内から一名を選んで組頭あるいは判頭・筆頭と呼び、名主などからの通知を組合の者に徹底する役目をもつ者がいた。選任の方法は、家格による者・選挙による者・役所の任命による者の三種類があった。組合員の義務としては、婚姻・養子縁組・相続・廃嫡などに立ち合い、田畑耕作の援助協力、年貢未進の場合の代納、田畑質入その他の証人、犯罪の連帯責任を負うなど、その相互関係の親密さは親戚以上のものがあった。
各村々には五人組帳といわれる帳簿があって、農民統制の諸法令が記載され、村役人はこれを毎月または年に数回村内の総百姓に読み聞かせることになっていた。五人組帳の奥書には法令を厳守する旨の文言が書かれ、名主・年寄・百姓代の村役人以下、すべての五人組構成員全員が連署捺印して正本を代官所に提出し、副本を名主の手元に保存して置いた。
最古の五人組帳といわれる承応四年(
前出承応四年小榑村の五人組帳には左の一五か条が定められている。
<資料文>一、用水管理の事 二、田畑耕作の心得 三、竹木伐採の禁止 四、他国者宿泊の禁止 五、旅行の届出 六、道橋普請の事 七、御鷹場御成の注意 八、欠落・手負者の届出 九、牛馬売買の事 一〇、博奕の禁止 一一、無職者吟味の事 一二、切支丹禁制 一三、夜行盗人火事出会の事 一四、人身売買の禁止 一四、年貢米納入の心得
資料文>以上の一五か条で、五人組帳の条数は初期のものほど簡単で少なく、時代が降るに従って条数は増加し内容もまた多岐にわたって整備されてくる。昭和三二年刊『練馬区史』所収の上石神井村五人組帳(
次に日本最古の五人組帳と対応させる意味で同じ小榑村の元文二年(
指上申一札之事
一、兼日被仰出候通、大小之百姓五人組を極置、何事ニよらず五人組之内ニ而御法度相背候儀は不及申上、悪事仕候者有之候ハヾ其組より早速可申上候、若隠置脇より申出候ハヾ其者ニハ品ニより御褒美被下、五人組之者名主共ニ曲事ニ可被仰附旨奉畏候、悪事仕候もの申上候ハヾ自然同類親類縁者
一、御年貢一件ハ不及申惣て金銀米銭無手形に取引仕間敷候事
附リ
一、御支配人添役衆惣て御家中衆中迠名主百姓ニたいし依怙贔屓御座候歟、又ハ非分成ル儀御座候ハヾ無遠慮可申上候事
一、諸役入目之儀、毎年壱村江入目帳弐冊宛御支配人より相印被御渡候間、諸役入目之品々当座銘細ニ附置名主年寄百姓致印形、名主方ニ一冊差置年切ニ勘定究其ニ無出入様ニ可仕候事
一、名主百姓印形之儀、自分ニて替申間敷、若取落シ候歟、又ハ替候て不叶儀候ハヾ、名主改候印鑑差出シ御役所江訴御帳ニ附、年寄并百姓ハ名主ニ見セ候て、名主方ニて帳ニ付其印形用可申候、并印形仕候儀其身差合不罷出節ハ、親子兄弟之外むざと判形預ヶ遣シ申間敷候事(
一、堤、川際、井堀御普請仕候人足賃銭并御扶持方被下候通、当座ニ小百姓江割渡シ帳面ニ印形取可申候、惣て従御公儀様被下置候賃銭、御扶持方之儀、諸色納物之替りニ継合勘定仕間敷候事
一、御年貢皆済不仕以前他所江米出し申間舗候、若能米と売替悪米を御年貢ニ納申候ハヾ当人ハ不及申名主五人組迠何様之曲事ニも可被仰附候、并御年貢御蔵入致候刻あく紛米無之様ニ米拵致し縄俵迠諸事御定之通念を入、郷御蔵江詰置御差図次第納可申候、勿論御蔵入之時分御支配人より相印被成、御渡候庭帳ニ附置納人銘々判形致置可申候事(
一、御年貢穀物升出之儀、郷中相談ニて相定、御法度之ごとく升目之かねを払計立三斗七升入ニ納可申候、江戸御蔵江納候義村中相談仕、才料を附一村切ニ納可申候、船ニて越候ハヾ
一、御年貢御割附惣百姓寄合拝見仕、其年々損毛引方共ニ明鏡ニ割致、則御割附之裏ニ惣百姓判形可仕候、自然名主壱人ニて割致候ハヾ当座ニ可申上候事
一、年々御年貢之内割仕候節、名主、年寄、惣百姓寄合御割附之表を以勘定相違無之様ニ割致し、勿論反歩米永之員数委細記之、名主方より皆済手形ニ押切判形致し百姓方江銘々相渡し可申事
一、郷中ニ有之郷蔵ニ御米詰置候内、郷中之者預り昼夜番仕候上、盗人又ハ米ふけ候歟、不依何事損米御座候共急度弁指上ヶ可申候、并御用之置米郷蔵より出申候節、御急ニ御座候共名主壱人ニて郷蔵戸前封を切、自由ニ取出し申間敷候、組頭、年寄、百姓立会封を切御用之員数取出し勿論右之者共立会相封致シ置可申候、自然郷蔵近所ニ火事出来申候ハヾ村中ハ不及申隣郷迠、男女ニよらず
一、御支配人并添役衆惣て御家中衆中下々迠何ニても音物一切仕間敷候、若音物之儀ニ附金銀米銭ハ不及申不依何ニ名主方より百姓共江割掛ヶ出候得と申候共、一切出し申間敷候、達て出候得と申候ハヽ其段々書附御役所之筒江上ヶ可申候、若内証ニて音物致し脇より相知レ候ハヾ何様之曲事ニも可被仰附候事(
附、御役人中江郷中借物、貸物、押売、押買又ハ無躰成ル儀御座候ハヾ是又早速書附御箱江上ヶ可申候事
一、御用ニ附御支配人添役衆其外之御家中衆郷中へ御越候節、内夫并賄之儀、所ニ有之軽キ野菜、薪、油出し其外ハ何ニても一切出し不申馳走ヶ間舗儀堅く仕間敷候事
一、在々所々悪党者有之時分ハ唱を立可申候、其時は先々之村々よりも出合召搦候ハヾ御褒美可被下候よし得其意奉畏候、若郷中ニて不出合者ハ曲事ニ可被仰附候、尤郷中ニ不審成者参候歟、悪党者堂宮山林ニかくまり居候を見出し候ハヾ名主并郷中之者相談之上、搦取候て御注進可申上
候、然上ハ品ニより江戸へ召連候、則旅路之入用御奉行所江罷出候迠諸事之入目百姓迷惑ニ不致候様ニ従御公儀様可被下之由奉得其意候、自然捕申義不罷成候ハヾ何方江も相慕ひ落着所江断之、からめ候様ニ可仕候、若見のがし欠落致候ハヾ後日ニ御聞出し候共急度御咎可被遊旨是又奉畏候、并百姓ハ不及申出家、山伏、行人、虚無僧、鉦たゝき、穢多、乞食、非人等盗人之宿を仕、又ハ同類も可有之の間常々致詮儀、あやしき義も有之候ハヾ可申上候事一、在々所々名主百姓之所江盗人入候ハヾ雑物委細書付早速注進可仕候、縦雑物ハ不盗候共其品申あげ御帳ニ附可申候、勿論無心元者有之候ハヾ親類、縁者、
一、盗人之届又ハ被盗候雑物見出し其宿有之候ハヾ名主五人組立会詮儀仕可申上候、縦如何様之軽キ者申来候共疎略仕間舗候、若致油断其盗人欠落為致候歟、雑物紛失致候ハヾ其者ハ不及申名主五人組曲事ニ可被仰附候事
一、男女ニよらず欠落者郷中江参候ハヾ押置早速可申上候、猶以先々より搆有之由届有之者ハ早速寄合詮儀致し申上御下知を請可申候、惣て怪敷者ハ不及申壱人者ニ一夜之宿も貸し申間敷候、親類、縁者、好身之者他所より浪人致参候ハヾ、何之障リ儀なく不苦者ハ名主并年寄五人組寄合穿鑿致し慥成証人手形取之差置可申事
一、手負之者他所より参候儀は不及申郷中ニて行倒相煩候者有之候ハヾ乞食非人ニかぎらず、其者之名并親類、国所、宿等承届看病致置早速御訴可申上候、尤相果候共其旨早速可申上候事
一、不依何者ニ人をあやめ立退候者有之節、所之者并隣郷之者共出合留置早速御注進可申上候、若切払逃候者候ハヾ先々之郷中よりも出合何方迠も附慕ひ落着所江渡し可申候、理不尽ニ殺し申間敷候事
一、田畑壱歩之所も荒し申間敷候、若作リ面之処余リ候ハヾ毎年正月中ニ可申上候、無其儀荒し申候ハヾ根初之通御年貢差上ヶ可申候、其上曲事ニ可被仰附候、但シ壱人身之百姓煩ニ無紛、耕作不罷成時は五人組ハ不及申一村之者共寄合田畑仕附収納仕様ニ相互ニ助合可申候事
一、田地永代売買之儀、兼て御法度被仰渡候通堅く相守永代之売買一切仕間敷事
一、田地屋敷年季を定質物ニ入、金銀等預り候ハヾ名主五人組等加判之證文取之所持可申候、勿論年季ハ拾年を限り永年ニ書入申間敷候、田地ヲ質物ニ書入候儀双方合点致候て可埓明義を名主五人組私曲を搆、證文ニ加判不仕相滞迷惑仕候ハヾ其段可申上候、名主五人組無加判相対ニて證文仕候ハヾ双方曲事ニ可被仰附事
一、小百姓致退転候跡田地を持添ニ致候事御法度之旨年来被仰附候通奉得其意候、前々より百姓壱軒分之跡ハ死失候共百姓を仕付壱軒之跡を立可申候、郷中之計ひニ不罷成候ハヾ家屋敷田地共ニ書上訴之御差図を請可申候、無其儀家をこわし取或は四壁之竹木を伐荒シ或ハ其者之田地持添致し、壱軒分之百姓跡を潰候ハヾ何様之曲事ニも可被仰附候、勿論相背申者候ハヾ五人組之内より早速可申上候事
一、古畑ニたばこ作リ申間敷事(
一、御朱印御伝馬并人足之儀少も無遅滞急度相立可申候、惣て馬継之宿々ハ従御公儀様諸事被仰附候御法度之趣相守、御定之人馬退転無之様ニ仲ヶ間ニて吟味仕人馬無遅滞相立申候、往還之衆昼夜を不限泊之節、或ハ
旅籠或ハ木銭ニても宿貸し申候上ハ、少も手丈不申候様ニ走廻リ賃銭、木銭御定之外増銭取申間敷候、勿論往還之衆江馬方慮外不仕候様ニ常々可申附候事附、御家中衆御用ニて在々へ御通之節、御役人衆手形を以人馬相立可申候、無其儀自分之断ニてハ壱疋壱人も出し申間敷候事
一、御公儀様御用之義何方より申来候共宿々ハ不及申何之村ニても縦刻付無之候共少も遅滞仕間敷候、勿論御応之配府杯先々江遅相届日附刻附違候ハヾ持送リ之者ハ不及申名主、組頭、百姓曲事ニ可被仰附候事
一、所々御立山ニて竹木伐取申間敷候旨被仰渡奉畏候、若相背猥之者有之候ハヾ其者ハ不及申名主、年寄、百姓迠何様之曲事ニも可被仰附候、惣て郷中ニ有来候古木并ニ御公儀様より被仰附候苗木等ニ至迠伐取申候ハヾ御詮議之上何様之曲事ニも可被仰附候事
一、自分之居山林亦ハ四壁之内ニても大木我儘ニ伐取申間敷候、自然伐候わて不叶儀有之候ハヾ其品申上御差図を請伐取可申候、勿論小木ニても猥ニ伐荒申間敷候
一、村々請取ニて作来候道橋毎度御觸無御座候共念を入作り可申候、就中御公儀様御掛ヶ被成候板橋大小共ニ塵芥無之様ニ常々掃除可仕候、若道橋鹿末成ル所ハ其請取之場所之名主百姓御咎可被遊候事
一、溜井ハ不及申或ハ堤用水堀土手惣て水御溜置被遊候場切落懸引自分ニ仕間敷候、若水落し候ハで不叶所ハ御訴申上得御差図水落候て跡丈夫ニ築留可申事
一、落圦掛前々之ごとく請取之村々より蘆芝土俵等無油断寄置、自然水出申候節圦之戸前立明ヶ念を入可仕候、無念致し為押切申候歟、戸前立明ヶ致延引耕作之損毛為致候ハヾ、其請取之郷中何様之曲事ニも可被仰附候事、且又落井堀懸井堀ニかけを伏、或ハ魚をかへ取候とて井堀を築留用水之障りニ成候儀致候ハヾ曲事ニ可被仰附候事
一、掛井堀、落井堀并道を狭メ田畑を仕出し作毛仕附申候ハヾ、当人ハ不及申名主五人組迠何様之曲事ニも可被仰附候事
一、博奕之儀堅く御法度被仰附奉畏候、其外何ニても賭之諸勝負一切仕間敷候、若相背候者有之候ハヾ名主、年寄、五人組共ニ何様之曲事ニも可被仰附候事
一、村中ニ火事出来申候ハヾ郷中之者火消道具を持欠着精を出し消可申候、若不出合者も有之候ハヾ御詮儀之上曲事ニ可被仰附候事
一、地借、店借リ、出居衆、前地之者指置候ハヾ念を入、請人を立、證文を取差置可申候、無其儀差置其者悪事仕候ハヾ地主家主之儀は不及申五人組共ニ曲事ニ可被仰附候事
一、男女奉公人猥ニ請ニ立申間敷候、若立候て不叶子細候ハヾ其者之国所親類等承届ヶ下請ニ取請人ニ立可申候、無下請猥ニ請人ニ立候ハヾ何様之曲事ニも可被仰附候事
一、諸浪人を抱置候儀、親類縁者又ハ不遁者ニ候ハヾ其所名主、年寄、五人組へ為申聞合点之上證人を立、手形取之早速申上御役所御帳ニ附差置可申候、勿論他所江宿替申候ハヾ其段申上御帳消し可申候、無其儀宿仕候ハヾ何様之曲事ニも可被仰附候事
一、御鷹場ニて鷹を遣候衆有之候ハヾ相改、何方迠も附慕ひ宿聞届御鷹見衆江御注進仕勿論其譯早速可申上候、縦御餌指衆ニても御法度之鳥取被申候ハヾ留置御注進可申上候事
一、在々共ニ遊女之類御法度被仰附候通堅く相守可申候、若相背者有之候ハヾ見出し聞出し次第早速可申上候由奉畏候、自然隠置脇より露顕仕候ハヾ其者ハ不及申家主、名主、五人組共ニ何様之曲事ニも可被仰附候事
一、絹紬之尺壱端ニ付大巻ニて長三丈四尺、幅壱尺四寸ニ可仕候、布木綿は壱端ニ附長三丈四尺、幅壱尺三寸宛ニ可仕候、右之寸尺より不足ニ織出し申間敷候事(
一、切支丹宗門御制禁之儀御高札之表急度相守可申候、自然不審なるすゝめ致候僧俗有之候ハヾ、郷中之儀ハ不及申他所より参候共捕置可申候、若隠置申候ハヾ一郷之者不残曲事ニ可被仰附、常々被仰附候御法度之趣無油断吟味可仕候、惣て宗門之儀店借、出居衆、地借、前地之者、召夫等迠寺請状を取置念を入吟味可仕候事
一、耕作商売をも不致、又は遠国江節々相越候者并博奕其外賭之諸勝負を好、不似合衣類を着、不審多者於有之ハ早速可申上候、若隠置彼の者悪事をなし脇より顕ニおゐてハ其者并親子兄弟之儀ハ不及申名主五人組迠御穿鑿之上科之依軽重御科ニ可被仰附候、惣て一夜之泊リニ他所江相越といふとも其行所并用事之子細名主五人組江相断可罷越候事
附、盗人之訴人ヘハ其同類より後日ニ怨をなすニ附気遣致し不罷出候由其聞候、向後御役所筒江密々ニ書附可差上候、あだを不成様ニ可被仰付旨奉畏候事
一、在々物さわがしき節ハ、あつまり能所江番屋立置夜番を致し、其郷中ハ勿論隣郷より盗人見出し声を立るニおゐてハ、早速出合捕置候様ニ名主百姓申合常々心掛ヶ油断仕間敷事
一、此以前より鉄砲御免之所ハ格別、其外於在々所々ニ鉄砲不可所持、自然相背無益之殺生致し昼夜ニ不限山野ニ住者於有之ハ可申出候、縦同類たりといふとも其科をゆるし御褒美可被下候、隠置他所より顕ニおゐてハ御穿鑿之上曲事ニ可被仰附事
一、於在々所々馬盗人有之間、昼夜不限不審成ル者馬を牽通ニ附てハ其落着所迠村次ニ送り届、其住処之名主五人組江慥ニ申断其段御訴可申上事
附、慥成口入なくしてハ馬売買仕間敷候事
一、名主百姓名田畑持候大積名主弐拾石以上、百姓拾石以上夫より内持候者ハ石高猥りニ分ヶ申間敷候旨被仰附奉畏候、若相背申候ハヾ何様之曲事にも可被仰附候事
一、御朱印之寺社領田畑屋敷質物ニ書入候共取申間敷候、縦證文慥ニ有之候迚も御朱印之寺社領田畑屋敷ハ外江取候儀難成候間、質物ニ一切取申間敷候、此段可相守旨被仰渡奉畏候、若相背申候ハヾ如何様之曲事ニも可被仰附候事
一、耕作常々精出作之間ハ男女共ニ相応之
一、祭礼、法事弥軽可執行之、惣て寺社、山伏、法衣、装束等万端軽く可仕候事
一、町人舞々猿楽ハ縦雖為御扶持人刀帯不申旨被仰渡奉畏候事
一、百姓町人衣服絹、紬、木綿、麻布、此内を以応分限妻子共可着用、此外無用ニ可仕旨被仰渡奉畏候事
附、惣て下女ハ布木綿を着、帯同前之事
一、御用達候諸町人挑灯或ハ通箱、長持ニ御紋ヲ附来候儀相止、御用と申字ヲ書附、御紋を徒附間敷旨被仰附候間、在々ニても其旨可相心得候旨奉畏候事(
一、拝借物仕候者自分之為手廻りと商人又ハ武士方出家ニ不限方々江貸し置、其手形ニ拝借金或ハ上納金之由書入之候、右之通文言ニ書入申間敷候、若上納拝借金之由書入脇より取置候手形有之候ハヾ曲事ニ可被仰附候事
一、質地取置候者年貢不出之質地ニ遣置、無田地方より年貢諸役を勤候者有之由相聞不届之至候、右之趣急度可相守由被仰附奉畏候事
一、百姓并子供を始メ軽キ侍奉公ニ出、其後在所江引込候ても其儘刀指候儀仕間敷旨被仰渡奉畏候、在所江帰罷有候節ハ屋敷方より少々之合力取候共刀差申間敷候、若密々ニて刀指申候ハヾ曲事ニ可被仰附候事
一、有来之外新規ニ在々ニて小キほこら或ハ仏像之建立堅く仕間敷旨被仰渡奉畏候事
一、百姓共并子供、耕作ハ不精ニ致し、遊事ニ掛り不似合風俗を学候儀堅仕間敷旨被仰渡奉畏候事
一、関東筋川舟之儀、川舟御役所ニて極印請候筈之所ニ極印請おくれ候船有之不届ニ候間、弥以川舟之義極印請可申旨被仰渡奉畏候、若極印不請舟有之候ハヾ持主并名主年寄共曲事ニ可被仰附候事
一、人売買之義堅く御法度之旨被仰渡奉畏候事
一、在々江役人之由申偽リ徘徊致し、ねだりがましき義申者有之候ハヾ押置早速御注進可申上候、若隠置候ハヾ名主年寄曲事ニ可被仰附候事
一、在々ニて質屋、古着屋共之儀、質物ニ取候ハヾ置主證人致吟味、為致印形質物取可申候、若不吟味致し盗物質物ニ取又ハ買取候ハヾ名主年寄共曲事ニ可被仰附候事
一、三笠附博奕重キ御法度ニ候條密々ニも右博奕致もの於有之ハ、当人ハ勿論名主年寄一村中共ニ急度御科可被仰附候間、弥以堅相守可申旨奉畏候、若相背申候ハヾ曲事ニ可被仰附候事
一、永荒地引高之内精ニ入立帰リ候様ニ可仕候、其地主
一、在々ニて神事、佛事其外何ニよらず新規之儀堅く取立申間敷候、并狂言、操、相撲之儀堅く仕間敷候、若無據子細有之候ハヾ御役所江訴上得御下知可申候、若隠置候て右躰之儀仕候ハヾ曲事ニ可被仰附候事
一、在々用水掛引井堀之儀、川中ニ樋を張水引分候仕方之儀、川下之用水不足ニも不搆手前勝手宜敷様ニ仕、或ハ両側ニ井口有之の場所、片側之井口附替候時双方不申合一方之勝手ニまかせ仕置候故及出入候、右之類双方致相対立合普請可仕旨被仰附奉畏候事
一、惣て出入申出之儀、證據無之非分之義をも
一、在々婚礼祝儀之節石打致し又ハ酒をねだり呑、其外狼藉成ル義有之由被及御聞不届ニ候、右躰之儀急度相慎可申候、若左様之儀於有之ハ被遂
御詮儀を曲事ニ可被仰附旨奉畏候事一、捨子有之候ハヾ養育致置早速御役所江訴上可申候、養育之内相煩候ハヾ是又早速訴上可申、捨子貰候もの御座候ハヾ其者之様子慥ニ承届候上、訴上御差図ヲ請遣シ可申、内證ニて遣候儀堅く仕間敷候旨被仰附奉畏候事
一、田畑質地證文ニ名主加判無之證文、又ハ名主置候質地ハ相名主、年寄、組頭等之役人加判無之證文、其外地主より年貢諸役を勤、金主ハ年貢諸役を不勤質地之類、前々より御停止ニ候処、右之通不埓成ル證文を以訴出候儀も有之間、弥質地證文相究候節念を入、右躰之儀無之様ニ可仕旨被仰渡奉畏候事
一、享保元年申年以来年季明ヶ候質地ハ年季明ヶ十ヶ年過候ハヾ御取上無之候、并金子有合次第可請返旨證文有之質地ハ質入之年より十ヶ年過訴出候てハ御取上無之旨被仰渡奉畏候事
一、公儀御仕置ニて江戸拂又ハ追放ニ成候者、御搆之場所ニ隠シ罷有候ものも有之様ニ相聞候、畢竟右躰之者と乍存囲置或ハ世話致者有之故之儀ニて不届至極候間、於相顕ニハ囲置候者も当人同前之御仕置ニ被仰附、家主、五人組、名主迠乍存差置候ハヾ御咎ニ可被仰付旨御書附出候間、此段可相守旨奉畏候事
一、御料所国々百姓共御取箇并夫食、種貸等其外願筋之儀、後訴、徒党、逃散候儀ハ堅く停止ニ候処ニ近来御料所所之内ニも右躰之願筋ニ付御代官陣屋江大勢相集リ訴訟致候儀も有之不届ニ候、自今以後厳敷吟味之上重キ罪科ニ可被行旨被仰渡奉畏候、若相背申候ハヾ名主、年寄、百姓共迠曲事ニ可被仰附候事
右御法度之惣御ヶ條之趣村中ニ写置、毎月壱度宛惣百姓共名主所江寄合為読聞被仰附候通相守可申候、若違背仕候者有之候ハヾ何様之曲事ニも可被仰附候、依之附中連判仕指上申候、如件
元文二年巳三月 小榑村
註 解読には練馬古文書研究会の協力をえた。明らかな誤字は他の五人組帳と照合し訂正した。また原文には濁点・読点がないが、読みやすくする趣旨から変体仮名を平仮名に、旧漢字を当用漢字にかえるなど、若干手を加えた。
資料文>区内現存の他の五人組帳と比較して内容的には大部分の項目にわたって異同はないが、この五人組帳にのみ見られる条目が二、三あるのでそれらについて触れておくこととする。
五人組制度は明治二年廃止となったが、これに記載された一つ一つは、長い年月の間に農村に定着し、村の風俗習慣として生き続けてきたものも少なくない。
そのような意味からも五人組帳は近世農村を研究する上で必要不可欠な資料である。
江戸時代に入って徳川氏もまた秀吉の切支丹禁制の遺策を継いで、基督教の信仰を禁止した。一方明国はじめ諸外国との通商貿易を奨励する政策もあって外教禁止の実効は仲々あがらず、耶蘇教厳禁令がしばしば発せられ、耶蘇会堂の破毀、教徒の処刑など弾圧が度重なった。しかし、かえって教徒の反発に
宗門改制度には大要左のようなものがあった(
このうち村民に直接関係のある寺請制度と宗門人別帳について触れておくこととする。
寺請証文は寺院が檀那であることを証明する文書で寺請状、宗旨手形、寺手形ともいわれ一定の書式はなかった。婚姻・奉公・移住などには必ず檀那寺の寺請証文をもって、その身を証明してもらう必要があった。すなわち村民各人が基督教信者ではなく、その仏教寺院の檀那として宗門改帳(
人別送一札之㕝
江川太郎左衛門御代官所
武州多摩郡田無村
百姓 五左衛門娘
かん
廿一歳
一、代々真言宗ニ而村内
西光寺檀那ニ御座候
右之もの義此度御村方留五郎殿、村田次兵衛媒酌を以、御村方盛蔵殿方江嫁に差遣度旨申出候付、村方人別相除申送間、御村方人別ニ御加江可被成候、依而人別送一札如件
右 田無村
名主下田半兵衛㊞
土支田村
御名主中
資料文>この人別状は田無村の百姓五左衛門の娘かんが、土支田村の盛蔵の許へ嫁に行くので、土支田村の宗門改帳にかんを加えてもらいたいと、要請したものである。
当然田無村名主半兵衛の手元には五左衛門が真言宗西光寺の檀那である旨を記載した宗門人別帳が保管されており、この時、かんの名前が削除されたのである。
宗門人別帳は寺院の僧に戸籍権が与えられ、住職は自分の檀徒の中には決して基督教徒はいないことを証明し、村役人連署のうえ役所へ提出した簿冊のことである。村民は家族の出生・死去・婚姻・奉公などには必ず檀那寺へ届け出を行ない人別帳へ記録した。宗門人別帳には檀那寺・戸主以下の全家族名・年齢・戸主の肩書と所有高が記載されているが、記載事項の細部にわたっては村によって多少の相異があった。
ここに嘉永七年(
嘉永七年
当寅宗門人別書上帳
寅二月 武州豊嶋郡
上練馬村
資料文> <資料文>一、壱季居出替時節たる間、宗門之儀入念改之、耶蘇宗門ニ無之段、請人を立相抱可申事
一、耶蘇宗門今以密々有之、所々より捕来候間、不審成もの不罷在様、無油断入念可申付事
一、郷中改之不審成者不差置、若耶蘇宗門隠置他所より顕於ハ名主五人組可為曲事之間、毎年旨趣具ニ書て手形可差出事
但耶蘇宗門御制禁之高札廃、手席文意見へかねるにおゐてハ新敷立替可申事
以上
右寛文十一亥年二月被仰出候趣を以、前々より御改之儀ハ郷中穿鑿被仰付名主、組頭、百姓下人者不及申、寺社方同宿、沙弥、道心、虚無僧、山伏、浪人等ニ至迄、地借店借壱人も不残相改候処疑敷者無御座候、若し不吟味仕耶蘇宗門脇より顕出候ハヾ名主、組頭、五人組迠何様之曲事ニも可被仰付候、為其名主、組頭印形帳面差上申処如件
嘉永七寅年二月 豊嶋郡上練馬村
資料文>前書につづいて各戸ごとにその家の持高・戸主以下全家族の名前・続柄・年齢を列記し、檀那寺ごとに人数をまとめてその寺の請印が捺してある。檀那寺は愛染院・円光院・寿福寺・高松寺・養福寺(
右ハ当村宗門人別之儀、御制禁之耶蘇宗門類族之もの決て無御座候、去丑三月より当寅二月迄出生死失
嘉永七寅二月 武州豊嶋郡上練馬村
百姓代 藤 助㊞
勝田次郎様 同 定右衛門㊞
御役所 年寄 五左衛門㊞
名主見習 順 蔵㊞
名主 又 蔵㊞
資料文>と、村役人一同が連署捺印している。この時点での上練馬村の概要は同文書によると左の通りである。
<資料文>右之寄
村高弐千六百廿六石壱斗七升六合
内 弐千五百九拾壱石壱斗四升七合 村 持
三拾五石弐升九合 入 作
外高六拾石弐斗九升壱合 出 作
御朱印地
高弐拾石壱斗余
御除地
反別弐町八セ廿七歩
惣家数四百九拾四軒
寺七ケ寺
内堂六ケ所
墓寮壱ケ所
惣人数千七百六拾五人
男九百五拾九人 牛 無御座候
内 女八百弐人 馬 八拾壱疋
僧 四人
(
また、人別帳にはさらに縁組・出生・死亡・奉公による移動も記されている、例えば
<資料文>一、私妻とめ儀同郡下赤塚村百姓源兵衛妹、去丑ノ人別後八月中貰受候ニ付当人別江差出申候 年寄 孫右衛門
一、私孫庄次郎儀は去丑人別後出生仕候ニ付当人別江差出申候 百姓 杢左衛門
資料文>などの如く、この人別帳によって江戸時代の人口動態、家族構成の変遷についても知ることができる。
本文> 節> <節>農業生産がその経済的基礎となる封建社会では、領主の生活は勿論のこと、軍事力の維持、増強を計る上でも農業生産高の正確な把握が必要不可欠なものであった。そのためには従来領主のものとも、農民のものともつかなかった土地の所有権を判然と領主のものと規定し、農民には耕作権のみを与えて、年貢納付の責任を負わせる必要があった。このことを直接実施したのが、いわゆる秀吉の制による太閤検地である。即ち秀吉は天下統一を遂げると全
国に令して検地を行なわしめた。この天正一七年(この時の検地の特長は、大化以来の制であった六尺三寸の竿を用いて一歩とし、三六〇歩を一反としていたのを改めて、三〇〇歩をもって一反とした。そして田畑とも在所の上中下に従って
徳川氏も豊臣政権に服する一大名として関東入部以前、天正一七年から翌年にかけて三河、遠江、駿河など領国五か国に総検地を実施した。その際、家康は家臣団の知行高を貫高から俵高に切替え、石高制への過渡的移行が行なわれた。俵高は定納の籾の俵数で表示したものであるが、貫高と同じ年貢高であって石高(
家康は関東入国後慶長、元和の頃より関東一円の検地を始めた。世にいう
その後享保一一年(
検地は勘定所より検地奉行を任命し、奉行の下に手代一人(
これだけの手続を経たのち、検地帳が清野帳から写される。検地帳は全村地籍の基礎となる簿冊で村民にとっては最も重要な書類の一つであった。検地帳は一名
練馬地域で最も古い検地帳は家康関東入部の翌年に当る天正一九年江古田村のものである。本帳は「天正十九年辛卯八月
武州多東郡江古田村御縄打水帳(天正十九年辛卯八月廿七日 写二
武州多東郡江古田村 印
御縄打水帳
資料文> <資料文>下 大八拾三歩 畠 むかい原 但馬主作 下 半卅弐歩 畠 同 所 新右衛門作
下 壱反歩 畠 同 所
下 壱反大拾三歩 畠 同 所 弥嶋主作 下 小八歩 畠 同 所 彦六主作
中 半五歩 畠 同 所 藤右衛門作 下 半廿一歩 畠 同 所 新助主作
中 半四拾八歩 畠 同 所 つしま主作 下 大八拾六歩 畠 同 所 兵庫作
下 壱反八拾五歩 畠 同人主作 下
下 半廿七歩 畠 同人主作 下 大七拾七歩 畠 同 所 同人主作
下 半拾歩 畠 二良右衛門作 下 壱反拾歩 畠 むかい原 つしま主作
下 半拾八歩 畠 むかい原 二良右衛門作 下 半拾四歩 畠 同 所 同人主作
下 小四拾四歩 畠 同 所 五郎左衛門作 下 壱反四拾歩 畠 同 所 りん光坊作
下 半卅弐歩 畠 同 所 同人主作 下 大九歩 畠 沼袋原 二良左衛門作
下 大九歩 畠 同 所 新左衛門作 中 大卅歩 畠 同 所 同人主作
下
下 大廿三歩 畠 同 所 新さへもん作 下 大廿五歩 畠 同 所 新助作
下
下 半廿八歩 畠 むかい原 二良左衛門作 中 大拾四歩 畠 むかいはたけ 藤右衛門作
下 半四拾四歩 畠 同 所 同人主作 上 半歩 畠 同 所 新さへもん主作
中 半四拾八歩 畠 同 所 郷さへもん主作 中 半三歩 畠 同 所 源 十良作
中 小廿五歩 畠 同 所 二良ゑもん作 消し〔下 小卅五歩 畠 同 所 図書主作〕
下 小廿歩 畠 同 所 二良左衛門作 下 小卅五歩 畠 むかい畠 藤右衛門作
上 大四十歩 畠 宮下 林光坊作 下 半卅七歩 畠 同 所 図書作
上 大八十五歩 畠 同 所 同人主作 中 半拾壱歩 畠 同 所 新助作
下 半廿八歩 畠 沼袋原 惣さへもん主作 中 大六歩 畠 同 所 同人主作
中 大九拾六歩 畠 沼袋原 図書作 中 壱反卅八歩 畠 同 所 つしま作
中 大三歩 畠 同 所 ぬひの助作 中 半四十五歩 畠 同 所 新助作
中 大廿八歩 畠 同 所 同人主作 下 廿四歩 畠 同 所 同人主作
中 半拾九歩 畠 同 所 藤右衛門作 中 大八拾六歩 畠 同 所 図書作
中 半卅歩 畠 同 所 同人主作 中 小廿六歩 畠 同 所 神四郎作
中 壱反六拾歩 畠 同 所 源右衛門作 中 大四拾歩 畠 同 所 新さへもん作
下 半四拾六歩 畠 同 所 拾左衛門作 中 小拾歩 畠 同 所 善二良作
中 大卅八歩 畠 同 所 藤右衛門作 下 壱反小弐歩 畠 同 所 郷さへもん作
中 半五歩 畠 同 所 神四良作 下 壱反四歩 畠 同 所 二良右衛門作
中 半三歩宮免 畠 宮之下 林光坊 下 半卅三歩 畠 同 所 図書主作
上 半廿五歩同免 畠 同 所 二良右衛門作 下 小四拾弐歩 畠 同 所 新さへもん作
上 小四歩同免 畠 同 所 同人主作 下 小歩 畠 同 所 十さへもん作
上 半四拾壱歩宮めん 畠 宮 下 源左衛門作 下 大廿五歩 畠 同 所 同人主作
上 大七拾五歩同免 畠 同 所 兵庫作 下 大七十歩 畠 同 所 二良左衛門作
中 小廿五歩同免 畠 同 所 ひやうこ作 上 小卅七歩宮めん 畠 宮の下 林光坊作
下 小廿歩同免 畠 同 所 兵庫作 上 小四拾三歩 畠 宮の下 源左衛門作
下 九十歩同めん 畠 同 所 二良右衛門作 上 大卅五歩宮めん 畠 同 所 源十良作
中 大廿弐歩 畠 徳出谷 十さへもん作 上 卅歩同免 畠 同 所 りん光坊
中 半四拾五歩 畠 徳てやつ 同人主作 中 廿歩 畠 同 所 林光坊作
下 大五拾七歩 畠 とく出谷 同人主作 中 廿五歩宮めん 畠 同 所 図書作
下 四拾五歩 畠 とくて谷 権左衛門作 上 小八歩同免 畠 同 所 源十良作
下 大卅八歩 畠 とくてやつ 同人主作 上 小八歩同免 畠 同 所 つしま作
下 半拾六歩 畠 同 所 図書作 上 小廿八歩同免 畠 同 所 神四良作
中 半六歩 畠 同 所 同人主作 下 小拾六歩 畠 同 所 拾さへもん主作
中 半拾歩 畠 同 所 新左衛門作 下 半歩 畠 同 所 十さへもん作
中 五拾弐歩 畠 同 所 拾さへもん作 下
中 半四拾八歩 畠 とくて谷 図書作 下 八拾七歩「当おき」 畠 同 所 十さへもん作
中 半四拾九歩 畠 同 所 新左ヱ門作 下 大六拾三歩 畠 同 所 二良左衛門作
下 小四拾歩 畠 同 所 二良右衛門作 下 半廿五歩 畠 同 所 兵庫作
下 小歩当不作 畠 同 所 十左衛門作
下 小五歩 畠 同 所 藤右衛門作 上畠 七反大九歩
下 半拾五歩 畠 とくて谷 藤右衛門作 中畠 弐町大六十九歩
下 半卅歩 畠 同 所 図書作 下畠 四町弐反八十七歩 此内壱反大廿歩当不作
下 小廿六歩 畠 同 所 新さへもん作 下畠 壱反三歩 当おき
下 小拾弐歩 畠 同 所 太良左衛門作 畠合 七町壱反大六拾八歩
下 半拾歩 畠 同 所 七良左衛門作
下 半卅六歩 畠 同 所 藤右衛門作 伊藤 小右衛門
下 大卅四歩 畠 同 所 神四良作 冠 四良右衛門
下
下
下 壱反六拾歩 畠 同 所 林光坊主作 墨付拾六枚筆
資料文>最上段の上中下は田畠の反別等級を表わしたもので、これによって斗代(
一筆の耕地を実際に耕作している百姓を
第一に考えられることは、現在は親と同居していても、やがて分家して一戸前の百姓となろうとするものが、将来自分の持ち分となるべき土地を有する場合である。もう一つは今まで主家に隷属し、身分的にも認められることがなかった
この場合十さへもんは、七良右衛門が従来隷属していた主家に当り、耕地はそれまで十さへもんのものとされていたが、実態は七良右衛門が耕作していることが判る。分附主である十さへもん自身が耕作している土地は文書中程「
「当不作」は何かの理由で当年は不作であったことを意味しており、「当おき」は以前荒地であった所を当年に起し返した畑であることを指している。この時点における上中下それぞれの畠の斗代(
四人の名は検地役人の名前である。
寛永九年(
同年以降区内各村に実施された検地の年代を纒めてみると次のようになる(
寛永 八年(一六三一) 中荒井村
同 一六年(一六三九) 上練馬村
寛永一六年 関村
同 年 上石神井村
寛永一六年 下石神井村
同 年 谷原村
寛文 三年(一六六三) 土支田村
同 年 小榑村
同 四年(一六六四) 関 村
同 年 橋戸村
同 年 江古田村(
同 六年(一六六六) 中荒井村
同 年 土支田村
延宝 元年(一六七三) 上練馬村
同 年 下練馬村
同 二年(一六七四) 上石神井村
延宝 二年 下石神井村
同 年 谷原村
同 年 田中村
同 年 関 村
同 年 上板橋村
元禄 三年(一六九〇) 橋戸村
同 九年(一六九六) 江古田村(
享保 六年(一七二一) 橋戸村
享保二〇年(一七三五) 関村新田
宝暦一一年(一七六一) 上練馬新田
同 年 下練馬新田
天明四年(一七八四) 竹下新田
資料文>このうち検地帳の現存するものは寛永一六年の上練馬村(
寛永以降の検地帳は前掲天正一九年の検地帳と比較して記載様式に若干の異いがあるので、次に寛永一六年関村と、寛文三年土支田村の検地帳のそれぞれ冒頭部分と末尾部分を紹介することとする。
<資料文>寛永十六年卯八月八日
武州豊嶋郡野方領内関村御検地水帳
三帳之内 案内者 忠兵衛
仁左衛門
茂兵
市之助
小兵衛
資料文> <資料文 type="2-33"> (中略)
下田四町弐反九畝歩
内三反五畝拾五歩 当不作
上畑弐町八畝拾壱歩
中畑壱町弐反七畝廿六歩
下畑拾壱町壱反五畝七歩
下々畑壱町七反壱畝廿四歩
内 壱町四反六畝拾壱歩 当不作
弐反五畝拾三歩 当発
田畑合弐拾町五反弐畝八歩
墨付弐拾壱枚
宮井 十兵衛 ㊞
永田 九兵衛 ㊞
大橋弥次右衛門㊞
無藤 五兵衛 ㊞
右今度御検地水帳之写御繩打ヲ以本帳とよミ合究判被致候間、我々も如此加判致郷中ニ指置候者也、仍如件
寛永拾六年
卯八月十三日
永田 八兵衛 ㊞
宇野 八郎兵衛㊞
高橋 与左衛門㊞
資料文>この検地帳は表紙にあるとおり三冊の内、現存するのはこの一冊である。練馬における寛文・延宝期の検地に先行する近
世村落成立期の状況を知る上で貴重なものである。天正の検地帳に比べ土地の表示方法がより具体的になっている。すなわち竪横を間数で表わし、大半小を改めて畝の単位を用いるようになった。ただしどの一筆をみても竪横だけの矩形で表わされているが、実際の土地の形状は必ずしもそうではない。例えば上図のような不定三角形の場合でもさきの検地年表に見るとおり練馬地方の多くの村は寛文・延宝期に検地が実施されている。そのことは練馬における近世村落の成立時期を大略この時代においてよいと考える。
画像を表示このような意味で、小島兵八郎家に現存する寛文三年(
寛文三年癸卯九月十四日
武蔵国豊嶋郡土支田村田畑検地帳写
資料文> <資料文>土支田村
前畑上畑 弐拾間拾五間 壱反歩 市郎右衛門
同所上畑 拾七間拾三間半 七畝廿歩 同人
同所上畑 拾五間半拾弐間 六畝六歩 半右衛門
同所上畑 拾四間半拾三間 六畝九歩 六左衛門
前畑中畑 拾五間半拾三間 六畝廿二歩 与次右衛門
道明関中畑 拾七間拾弐間 六畝廿四歩 半右衛門
道明関上畑 廿弐間半八間 六畝歩 六左衛門
同所中田 弐拾五間八間半 七畝三歩 市郎右衛門
同所中田 拾三間拾壱間半 五畝歩 与次右衛門
同所中田 拾九間六間 三畝廿四歩 半右衛門
(
田畑合百八拾七町九反六畝弐拾壱歩
此訳
田方五町七反六畝八歩
内
上田弐町三反弐拾四歩
中田弐町四反拾九歩
下田壱町四畝弐拾五歩
畑方百八拾弐町弐反拾三歩
内
上畑弐拾弐町七反五畝拾壱歩
中畑三拾壱町拾五歩
下畑九拾八町三反九畝弐拾壱歩
下々畑三拾町四畝弐拾六歩
右卯八月廿八日より同九月十四日迄検地仕候
寛文三癸卯歳九月十四日
佐野与右衛門
長屋孫左衛門
岡太郎右衛門
大塚杢右衛門
鈴木重兵衛
田口権左衛門
倉林市右衛門
高浜喜兵衛
資料文>寛永一六年関村検地帳と比べてみるに一筆の記載方法に若干の上下がある(
本帳の面積も矩形によって表示されているが、これは前に述べたとおりの計算で記載された。しかし寛永一六年帳では小数点以下の端数を切捨てにしていたが、本帳では切上げている。
その後幕府は享保一一年(
検地帳で見てきたように田畑には上・中・下・下々などの品位が付けられる。それは耕地の状況・土性の善悪などによって検地の際認定されるのであるが、これに対して
石盛は普通次のようにして決められた。まず同じ上田でも場所によって稲の作柄に善悪があるのは当然なので、三、四か所の異る田を選び坪刈りする。坪刈りの結果一坪に平均して
上田の石盛が十五と決められると、それより以下中、下、下々は
石盛に当っては、実際の稲を刈って決めるので、その稲の作り手の精不精、巧不巧によるのは勿論、百姓の貧富による肥料の施し方、手入れの優劣によって、上田でも良くない場所があり、中下田でも良い場所があった。それらを作為的にやる村方もあったらしく、石盛を決める役人は、村民を納得させながら相応の増収をはかるために、知識的にも、技術的にも巧者でなければならなかった。
作柄は田によって異るとともに地方によっても大いに異った。全国的にみて上田の石盛は最高十八から最低十一、上畑の石盛は最高十三から最低六ぐらいであった。関東における石盛は田の場合はこの数値が大体標準であるが、畑の場合は上畑一〇(
では練馬地方の石盛はどうであったか、小島兵八郎家文書の中に耕地屋敷の石盛を一覧できる安政三年(
安政三
田畑反取書上帳 下書
武州豊嶋郡
土支田村下組
資料文> <資料文>高五百七拾八石弐合 武州豊嶋郡土支田村下組
此反別百七拾壱町六反壱畝廿八歩
一、上田 石盛 拾壱 反米五斗三合六夕八才
一、下田 同 七ツ 反米三斗五升三夕八才
一、下々田 同 五ツ 反米三斗壱合九夕八才
一、上畑 同 六ツ 反永七拾壱文五分
一、中畑 石盛 四半 反永六拾壱文五分
一、下畑 同 三ツ 同 四拾六文五分
一、下々畑 同 壱半 同 三拾壱文五分
一、上田畑成八畝拾六歩 盛 拾壱 荒地取分反永弐拾五文
一、中田畑成六反九畝拾七歩 盛 九 右同断
内壱反五畝歩 反永四拾七文
五反四畝拾七歩 反永廿五文
一、下田畑成壱町八反四歩 盛 七 右同断反永同断
一、下々田畑成五反弐歩 盛 五
内四反七畝廿四歩 同断反永廿五文
弐畝八歩 同断反永四拾七文
一、上 畑壱反壱畝六歩 盛 六 右同断反永廿七文五分
一、下 畑拾四町九反三畝九歩盛 三
内七町八畝壱歩 右同断反永三拾文五分
七町八反五畝八歩 反永廿六文五分
一、下々畑六町三反壱畝廿八歩盛 壱半
内三町七反弐畝拾八歩 右同断反永廿七文五分
弐町五反九畝拾歩 反永廿六文五分
一、畑屋敷成 石盛 上畑 六ツ
中畑 四半
下畑 三ツ
下々畑 壱半
反永九拾壱文五分
一、屋敷 石盛 拾 反永九拾文
右者田畑反取御調ニ付奉書上候処相違無御座候 以上
安政三辰年三月
右村
名主 八郎右衛門
小林藤之助様
御役所
資料文>本書で見るとおり土支田村の場合は上田十一、中田九、下田七、下々田五の二つ下がりで、畑は上畑六、中畑四ッ半、下畑三、下々畑一ッ半の一つ半下がりとなっている。
ここで土支田村と練馬の他村の石盛とを比較してみると次の表のとおりである。
<資料文>上田 中田 下田 下々田 上々畑 上畑 中畑 下畑 下々畑
土支田村 一一 九 七 五 六 四・五 三 一・五 前掲文書
下練馬村 一一 九 七 五 八 六 四 二 文政九年下練馬村御割附之写(
関村 一一 九 七 五 一〇 八 六 四 二 享保五年関村明細控帳(
小榑村 一一 九 七 五 七 五 三 一・五 宝暦四年小榑村村柄様子明細書(
中村 七 五 三 五 四 三 一・五 年不詳中村高反別書上(
私領である中村を別として田については各村とも同じであるが、畑については多少の異同がある。いずれにしても練馬の村は全国の標準石盛より大部低く田は最低であり、畑もまた最低に近い。
江戸時代の農民の負担は大別して年貢と諸役に分けることができる。年貢は田畑にかかる本年貢または
年貢が実際にどのような形で割附けされ、また上納されるのか、土支田村の文書によって見ることとする。引用する文書は小島兵八郎家文書のうち嘉永三年(
酉より卯迄七ヶ年定免 武蔵国豊島郡
一、高五百七拾八石八斗弐合 土支田村
此反別百七拾壱町六反壱畝廿八歩
高五百七拾八石八斗弐合
下組
内
田高弐拾五石三斗八升三合
此反別弐町四反拾五歩
内高八升五合
前々砂入引
此反別壱畝廿壱歩
残高弐拾五石弐斗九升八合
此反別弐町三反八畝廿四歩
畑高五百五拾三石四斗壱升九合
反別百六拾九町弐反壱畝拾三歩
内高六斗壱升八合
前々砂入引
此反別壱反九歩
残高五百五拾弐石八斗壱合
此反別百六拾九町壱反壱畝四歩
此 訳
高弐拾三石八斗九升五合
上田弐町壱反七畝七歩 拾壱
高壱石壱斗三升六合
下田壱反六畝七歩 七
高三斗五升弐合
下々田七畝壱歩 五
一、米拾壱石六斗七升弐合 本 途
斗立拾弐石三斗三升九合
一、永七拾六貫八百四拾五文六分 同 断
一、永六貫百三拾六文 小 物 成
一、永弐百八拾弐文
一、米三斗三升三合
斗立三斗五升弐合 口 米
一、永弐貫四百九拾七文九分 口 永
一、米三斗四升七合
御伝馬宿入用
斗立三斗六升七合 但
代永四百八拾弐文三分
掛高四百六拾九石壱斗弐合
外高 百九石七斗 助郷高免除
一、米九斗三升八合
六尺給
斗立九斗九升弐合
一、永壱貫百七拾弐文八分 御蔵前入用
掛高五百七拾八石八斗弐合
一、菜種五斗七升九合
正 納
斗立六斗壱升弐合
掛高右同断
高八升五合
砂入引
内 壱畝廿壱歩
高弐斗六升七合
残五畝拾歩
高九斗三升九合
上田畑成八畝拾六歩
高六石弐斗六升九合
中田畑成六反九畝拾七歩 九
内 壱反五畝歩 反永四拾七文
五反四畝拾七歩 反永弐拾四文
高拾弐石六斗九合
下田畑成壱町八反四歩
高弐石五斗三合
下々田畑成五反弐歩 五
内 四反七畝廿四歩 反永弐拾四文
弐畝八歩 反永四拾七文
高七拾八石五斗三升九合
上畑拾三町九畝歩 六
高六斗壱升八合
砂入引
内 壱反九歩
高七拾七石九斗弐升壱合
一、大豆壱石壱斗五升八合 石 代
斗立壱石弐斗弐升四合
代永壱貫九百七拾四文弐分 但
一、細餅米三升八合 同 断
代永百拾九文九分 但
一、太餅米三升三合六夕 同 断
代永七拾八文 但
一、同籾四升七合壱夕 同 断
代永六拾壱文弐分 但
一、永弐百弐拾五文
米拾三石六斗八升三合
合 菜種六斗壱升弐合
永八拾九貫八百七拾四文九分
此 拂
米壱斗弐升三合六夕
米三斗六合 菜種代米渡
米六斗壱升弐合 大豆代米渡
小以米壱石四升壱合六夕
米拾弐石六斗四升壱合四夕 定 買 納
残拾弐町九反八畝廿壱歩
内 拾弐町八反七畝拾五歩 本 免 壱反壱畝六歩
高七拾四石九斗弐升三合 午卯免上反永弐拾六文五分
中畑拾六町六反四畝廿八歩
高三百拾弐石八升四合
下畑百四町弐畝廿五歩 三
八拾九町九畝拾六歩 本 免
内 七町八畝壱歩 午卯免上反永弐拾八文五分
七町八反五畝八歩 午卯免上反永弐拾五文五分
高四拾五石三斗弐升七合
下々畑三拾町弐反壱畝廿四歩 壱 半
弐拾三町八反九畝廿六歩 本 免
内 三町七反弐畝拾八歩 午卯免上反永弐拾五文五分
弐町五反九畝拾歩 午卯免上反永弐拾四文五分
高七斗四升弐合
上畑屋敷成壱反弐畝拾壱歩 六
高弐斗壱升四合
中畑屋敷成四畝廿三歩 四 半
高壱斗三升
下畑屋敷成四畝拾歩 三
納合
永八拾九貫八百七拾四文九分
外永七拾四文九分 包 分銀
一、永弐貫八百八拾七文壱分 川々国役
一、籾七斗九升八合 貯穀廿分一御下穀
都合永九拾四貫百三拾九文
右者去戌御年貢本途小物成其外共
書面之通令皆済ニ付小手形引上
一紙目録相渡上者重而小手形
差出候共可為反古もの也
嘉永四亥年正月 勝 次郎㊞
右 村
名 主
組 頭
百姓代
高三升
画像を表示下々畑屋敷成弐畝歩 一 半
高拾九石壱斗壱升
屋敷壱町九反壱畝三歩 拾
取 米拾壱石六斗七升弐合 去同
永七拾六貫八百四拾五文六分 去同
外
一、永五百八拾弐文 上 野 銭
此反別壱町九反四畝歩
一、永四貫百弐拾六文 中 野 銭
此反別拾七町壱反九畝四歩
一、永壱貫四百弐拾八文 下 野 銭
此反別九町五反壱畝廿弐歩
一、永弐百八拾弐文
一、米三斗四升七合 御伝馬宿入用
掛高四百六拾九石壱斗弐合
外高百九石七斗 助郷高免除
一、米九斗三升八合 六尺給米
一、永壱貫百七拾弐文八分 御蔵前入用
画像を表示納合 米拾弐石九斗五升七合
永八拾四貫四百三拾六文四分
右者当戌定免御取箇書面之通候條
村中大小之百姓入作之もの迄不残立会
無甲乙割合之来ル極月十日限急度
可令皆済もの也
嘉永三戌年十月 勝田次郎㊞
右 村
名 主
組 頭
惣百姓
資料文>割附状一行目の高は土支田村下組の総村高であって、三行目の「内」以降に記されている田高と畑高の合計である。「此反別」も同様である。田畑共若干の「砂入引」があるが、これは、山沢川端などで荒砂が田畑に交り、検地の際願い出て無位の石盛
反別 石盛 高 反米 取米
町反畝.歩 石斗升.令 斗升.合 石斗升.合
上田 217.<数式 type="fraction">7/30数式>×11= 2389.5 取別×50.368=1094.2
下田 16.<数式 type="fraction">7/30数式>×7= 113.6 反別×35.038= 56.9
砂入引残
下々田 7.<数式 type="fraction">1/30数式>×5= 35.2 5.<数式 type="fraction">10/30数式>×30.198= 16.1
計 240.<数式 type="fraction">15/30数式> 2538.3 1167.2
資料文>田高は前述したようにそれぞれの反別に石盛を乗じて計算し合計された数字である。反米は反当り上納米で、前出安政三年土支田村下組田畑反取書上帳に記載されている。これに反別を乗じた石数が年貢米として上納される取米であって、割附状末尾の方に取米一一石六斗七升二合と記されている数字に合致する。普通天領では五公五民といわれ村高の半分が年貢米として上納されるのが例であるが、土支田村の場合は、これで見るように、上田では半分以下、下田、下々田では半分以上、平均で約四六パーセントの貢租率である。
畑高の割附についても田同様の計算が成り立つが、畑の場合は貨幣納であるので反永すなわち反当り永銭で計算される。反永は上畑の反当り七一文五分から上田畑成などの取下げ場二四文まで約一〇階段になっており、計算はやや複雑であるが取永の合計は七六貫八四五文六分になる。平均の反当り永は四五文四分強である。
以上が
次に
御伝馬宿入用は五街道の問屋本陣給米のほか宿駅の費用に充てるもので、村高百石に付き米六升が定めであった。土支田村下組の場合は村高の内一〇九石七斗分が板橋宿の助郷に割当てられているので、この分を免除し残り高に対して百石に付
七升四合の割合になっているが、実は定法どおり総村高百石に付き六升の計算になっている。以上個々に計算された米は米、永は永を合計して最後に納合の米高と永高が記され、その年の一二月一〇日までに皆済するよう命じている。
これに対してすべて割附通りの上納が済むと皆済目録が出される。この場合は本途、小物成(
本途にも口米にも
御伝馬宿入用は前述のとおり助郷高を免除した残高に課すのが定法であるが、当村の場合は総村高に対して百石に付六升の割になっている。そして、米納ではなく石代を金納しており、その相場は但書にあるとおり御張紙(
以上の定納物のほかに、皆済目録には菜種・大豆・餅米など臨時の上納物が記されている。いずれも金納であって、その種代、籾代は米に換算され年貢米から差し引かれる。
つぎに夫食代拝借返納として永二二五文がある。夫食拝借は天変地異など非常の災害を蒙ったとき村民の請願で金穀を貸与する制度であって、一人一日分の貸与制限は男一人米なら二合、麦なら四合、稗なら八合、女はその半分であった。許可になると勘定所から三〇日分位が代金を以て支給された。返済は無利息で通常、五年賦であるが、当村の場合は二二年賦の長期に亘っている。
此拂小以(
国役は川々普請や朝鮮使節来朝の際などに割当てられるものであるが、幕末になると御台場普請などの名目もあって、毎年定額の二貫八八七文一分が国役として課せられていた。
幕府は凶年その他非常の予備として郡村に米粟などを貯蓄させ、これを
また年貢は一度に納めるのではなく、何回かに分けて差し出し、その都度請取小手形が出されていた。小手形は半紙半截をたて半分に切ったほどの大きさであるが、この小手形と引きかえに皆済目録が出されるので小手形は村方に残ることは全くない。小島家文書の中にはこの小手形と同じ大きさの買納石代の請取が十数通含まれており、定買納の様子を知ることができる。
以上で年貢割附状と皆済目録についての説明を終るが、毎年代官より勘定所に進達される官簿に
練馬地域で最古の年貢割附状は寛永一六年(
五公五民とか四公六民といわれた年貢の貢租率は普通
検見取法は毎年秋に田地の坪刈りを行ない、実際の出来高を調べ、その結果によって課税する方法である。この法は年々の豊凶に依って課税するので比較的に公平な方法であるが、実施に当っては検見(
これに対して定免法とは過去数年間の収穫の平均によって貢租率を定め、それより先数年(
前掲「戍御年貢可納割附之事」の第一行目に「酉より卯迄七ヶ年定免」と記るされている。この文書は嘉永三年のものであるので酉より卯とは嘉永二年(
「乍恐以書付奉書上候」と題し「酉より卯迄七ヶ年定免明、当辰より戍迄七ヶ年定免願」となっている。以下前割附状と同様の形式で村高、反別、田畑別取高を記しているが、取米を「一一石六斗七升二合外ニ切替ニ付一合増」としたうえ
右は酉より卯迄七ケ年定免被仰付、当辰年季明ニ付、増米跡請可奉願旨、御触之趣奉畏候得共、一躰当村之義は至而辺鄙土性悪く、田方用水之義は隣村小榑村溜井より引入候得共、旱損之節は行届不申、雨天之年柄は右溜井より当村田耕地江悪水押入、数日相湛水腐内損多、殊ニ近村高免之村方ニ而、何分格別之増米難行届候間、何卒以御慈悲前書増米を以、当辰より戌迄七ヶ年季跡請定免被仰付被下置度奉願上候
と願い出ている。前季より多少でも増米して願い出るのが慣習であったようであるが、当村の場合は困窮しており、格別の増米は困難なので前書増米で赦して貰いたいと願い上げている。前書増米とはわずか一合であって、本当の形式的なものであった。
これに対して同安政三年一〇月の割附状では「取米拾壱石六斗七升四合、内米弐合定免切替去卯増」とあって、一合増米の願い出は二合増の決定となった。
また同じ年、土支田村上組でも定免の継続願いが出されている(
村が一般的に行政単位として成立するのは戦国末期以後、いわゆる太閤検地施行後のことであるが、それ以前にも郷とか庄と呼ばれる何らかの地域的結合がなされており、練馬地域に於いても既に室町時代に、石神井郷の存在が明らかになっているのは前述したとおりである。
天正一八年小田原落城によって五代一〇〇年にわたる後北条氏の関東支配は完全に終り、代って徳川氏の入部によって、練馬地域の近世村落の形成は急速に進められた。後北条氏から徳川氏への支配関係の移行は単に練馬地域の支配者を変えたということに留まらず、小農民を封建領主の貢租負担の単位として組織していった。後北条氏時代に小土豪層の支配下にあって耕作労働に従事していた下人などの隷属農民が次第に成長し、いわゆる百姓として独立してゆくのである。
例えば江古田の地は『小田原衆所領役帳』によれば、太田新六郎の知行五貫文で、寄子衆恒岡某の配当分であった。これを天正一六年の「武州江戸廻永福寺分検地書出」に記載された田租一反歩に付五〇〇文、畠租同一六五文によって単純に計算してみると田にして一町歩、畠にして三町歩余となる。これが約三〇年後の前出「江古田村御縄打水帳」五冊には総町歩三七町五反となり、登録された人名は五四名に及んでいる。
このようにわずかな期間の中で農村に介在した小土豪層は支配関係交替によって没し去るか、或いは土着して農民化して行く方向を辿り、小農自立による急速な村落発展が促されたのである。
以下現存する古文書、地誌、記録類によって現在の練馬区に属する各村の江戸時代における状態をみて見るが、当然村によって資料に多寡があり、記述に精粗があることを了知されたい。練馬地域の全村は武蔵国に属し、その郡分けは次図の通りである。
練馬区の東南部現在の小竹・旭丘地区に相当する地域である。
画像を表示上板橋村は家康入国以来の御料所で、文政六年(
小竹・江古田は村の最南端に位置し、近世初頭はおそらく茫漠たる原野であったろう。江古田は始め多摩郡江古田村の新田として開墾された。堀野家文書慶安五辰年(
はじめは江古田村本村の農民が隣接するこの付近の開墾を行ない逐次耕地を広げていったもので「庄左衛門組、江古田村辰之新田」として年貢の割附けが行なわれたのは村方文書によると検地の実施された翌年寛文五年(
庄左衛門組
江古田村巳之御年貢可納割附之事
一畑方三拾弐石六斗弐升七合
此分ケ
上畑弐町九畝七歩
此取壱貫五百六文 但七拾弐文代
中畑三町四反九畝拾五歩
此取壱貫九百九拾弐文 但五拾七文代
下畑弐町三反弐畝弐拾壱歩
此取九百七拾七文 但四拾弐文代
屋敷壱反四畝拾弐歩
此取百七拾三文 但百弐拾文代
取永合四貫六百四拾八文
外
一永四百五拾弐文 野銭
右之通大小之百姓立合無高下
致内割 来霜月中可有皆済
若其過令油断者譴責を以
急度可申付者也
寛文五年
巳十月廿八日 野彦太夫㊞
右名主
中
百 姓
(
ここには「江古田村新田」と明記されていないが、寛文八年(
この村高および反別は元禄二年(
庄左衛門組の組名は元禄八年の割附状を最後に、同一三年の割附状からは「江古田新田太左衛門組」と組の名前が替わる。太左衛門は庄左衛門家の一族であるが、如何なる理由で組頭が交替したのか詳かでない。
太左衛門組は元文二年(
江古田新田には前出割附状にもある如く一反四畝一二歩の屋敷地が見えるところから、すでに寛文頃から幾戸かの農家があったことは推測に難くないが、いずれにしても行政上の独立性は乏しく、この一紙割附状の出された寛政八年頃を境いに豊島郡に属し、上板橋村の小名「江古田」となった。しかし貢租は従来通り多摩郡江古田村の太左衛門組の名主が取扱っていたと考えられる(
現在江古田駅北側にある茅原浅間神社は『新編武蔵風土記稿』に「能満寺持富士浅間社」として記載されており、天保年間築造といわれる富士山(
江戸時代の中荒井村は概ね現在の豊玉地区にあたり、明治に至って中新井村となった。『小田原衆所領役帳』に「森新三郎買得拾四貫五百文元吉原知行江戸廻中新居」と載すところからみて、中世より村落の形成がなされていたことが知れる。
中荒井村は正保年間の『武蔵田園簿』によれば、板倉周防守(
天正一八年家康入府以来豊島、新座二郡に約千石の知行を賜った板倉勝重は、以来二、三代にわたって中荒井村を知行していたが、寛文九年(
中荒井村の北端下練馬村との境いに清戸道に沿って千川上水が流れている。元禄九年(
年代 水料高 水田面積 此高
安永二年(
寛政四年(
元治元年(
(
元治元年の水田面積一七町五反余は明治七年『東京府志料』記載の水田耕作面積と同じであるところから、中荒井村の水田はすべて千川上水の恩恵を蒙っていたことになる。
現時点における唯一の中荒井村近世村方文書は一杉政吉家(
「年季手形」には名主はじめ数名の年寄・組頭が連署しており、それによって大方の村役人の名を知ることができる。
<資料文>宝永六年(
享保一七年(
寛延三年(
天明八年(
寛政四年(
同一〇年(
文政二年(
同一〇年(
弘化二年(
嘉永五年(
これで見るように伝右衛門・伝内(
村には本村、徳田、神明ヶ谷戸、原、北荒井、中通の小名があった。明治に至って本村は本村および東本村に、徳田は弁天前および於林に、北荒井と中通はそのまま北新井と中通および弁天に、原は上新街・下新街・宮北となった。原は西側に中村の原が隣接しているところから両村を通じて割合広範囲な台地(
『新編武蔵風土記稿』に当村は往古多摩郡に属して中鷺宮村と唱え、同郡上・下鷺宮村と併び称されていたが、いつの頃か鷺宮の名がとれて中村となり豊島郡に属することとなった。しかし正保年間の改定図にはすでに豊島郡に属し中村と記され、地理的にも上下鷺宮村の中間には位置していないところから、この説は伝承の誤りであると記されている。同じ正保の
『武蔵田園簿』にも中村、村高七六石余今川刑部知行となっていることを見ても『新記』の考証は当を得ていよう。中村の村方文書は、江戸時代を通じほとんど世襲で名主役を勤めた権右衛門(
「今川家文書」は家に関する文書・記録・書簡などに関する文書約七〇点と、采地の年貢割附・年貢皆済などの貢租関係約七〇点から成る。うち中村に関連する村高帳・反別書上・年貢関係は二三点である。次に「武蔵国豊島郡中村高反別書上」を見てみる。
画像を表示 <資料文>武蔵国豊嶋郡
一高六拾三石 中村
外込高百三拾八石弐斗三升六合四夕四才
合高弐百壱石弐斗三升六合四夕四才
此反別五拾五町七反三畝六歩四
内七町壱畝廿五歩 田方
四拾八町七反壱畝拾壱歩四 畑方
此訳
高拾四石七斗七合
上田弐町壱反三歩 石盛七
取米八石六斗五合弐夕八才 反米四斗九合五夕八才
高拾石七斗三升八合三夕三才
中田弐町壱反四畝廿三歩 石盛五
取米八石三斗六升六合八夕八才 反米三斗八升九合五夕八才
高八石三斗九合
下田弐町七反六畝廿九歩 石盛三
取米拾石三斗七升四合六夕壱才 反米三斗七升四合五夕八才
高六石八升
屋敷畑六反廿七歩 石盛拾
取永六百九文 反永百文
高五拾弐石九斗三升八合三夕三才
上畑拾町五反八畝廿三歩 石盛五
取永六貫八百九拾弐文五分七厘 反永六拾五文壱分
高三拾八石壱斗九合三夕三才
中畑九町五反弐畝廿弐歩 石盛四
取永五貫弐百四拾九文五分六厘 反永五拾五文壱分
高五拾六石七斗三升九合五夕
下畑拾八町九反壱畝九歩五 石盛三
取永八貫五百弐拾九文八分四厘 反永四拾五文壱分
高拾三石六斗壱升四合九夕五才
下々畑九町七畝拾九歩九 石盛壱五分
取永三貫百八拾五文九分 反永三拾五文壱分
取合 米弐拾
永弐拾四貫四百六拾六文八分七厘
一畑三拾八町壱反四畝拾壱歩五 反高場
内六反八畝六歩 堀敷引
残三拾七町四反六畝五歩五
取永拾四貫七百六拾九文 反永三拾九文四分二厘
一米七斗八升壱合三夕四才 口米
一同壱石五斗六升弐合六夕七才 延米
一永壱貫百七拾六文五分五厘 口永
納合 米弐拾九石六斗九升七夕八才 永四拾貫四百拾弐文九分五厘
資料文>右は年代不詳ながら他の皆済目録などに照して元治、慶応期のものと思われる。
これで見るように当村は練馬地域の他村に比べ、上田石盛七から下々畑石盛一・五と村柄はあまり良くなく、しかも、江古田新田・竹下新田などの新田を除いて村高が最も少ない。『旧高旧領取調帳』によれば「今川従五位知行 二〇一石二斗四升四合、南蔵院領 一二石八斗二升六合」となっている。
今川刑部は知行地として当村の外、多摩郡上、下鷺宮村、井草村、近江国野洲郡長嶋村等に表高一〇〇〇石、職禄一五〇〇石を賜る足利時代以来の名家、高家二六家の一であった。高家衆はいずれも表禄高は低いが格式は高く、万石大名と同じ格式であったという。そのため勝手元は苦しく年貢の増徴に追われる知行地の百姓は後述するように天保七年(
中村の名主はほとんど世襲で権右衛門(
時代 名主 年寄 百姓代 史料
安永三年(
寛政元年(
文久三年(
元治元年(
慶応元年(
同二年(
同三年(
明治元年(
記載の年寄は文書署名の者のみであるが、実際には村全体で数名の年寄がいたことは確実である。
現在の北町・錦・氷川台・平和台・早宮・羽沢・桜台・練馬に相当する地域で江戸時代では豊島郡の中でも屈指の大村であった。村の北端を板橋宿で中山道から分岐した川越街道が東西に走り、次の新座郡白子宿に至っている。川越は当時から小江戸と称され、中世の城下町から発展した商業の中心地で、川越・江戸の間を往来する旅人のために、ここに下練馬宿がおかれていた。宿は東から下宿・中宿・上宿と分れていた。また、下宿で川越街道から分岐した大山
村の地形はやや平坦で土地は肥沃にして陸田に富み、村の中央部を貫流する石神井川と、北部の田柄川沿いの狭少な低地に僅かな水田が営まれていた。
村高は正保年間に一二二六石余、「元禄郷帳」では二倍強の二六四六石余に増加し幕末に至っている。文化・文政頃の年貢割附状と皆済目録が昭和三二年刊『練馬区史』に掲載されているので、ここでは省略するが、畑方五〇五町余、田方四四町余、村高二六二七石余となっている。
『新記』には家康入府以来幕府直轄領ということになっているが、「村方旧記」(
検地は延宝元年(
下練馬村では寛保元年(
この寛政三年の訴訟事件以後、村では年番名主制となったが、次に木下家文書によって村役人の移り変りを見てみよう。
<資料文>時代 名主 組頭(
寛保元年(
寛延三年(
明和九年(
天明元年(
寛政三年(
同四年(
同一〇年(
文化二年(
文政六年(
天保七年(
同一四年(
嘉永四年(
文久三年(
村内御殿と称する所(
現在の早宮一丁目開進第一中学校の西南方に俗称「犬小屋」という地名があったが、中野の犬小屋に収容しきれなくなった犬は付近の農村に命じてその世話をさせていた。「村方旧記」元禄一〇年の条に次のようにある。
同十丁丑護国寺建、館林様御殿当村有之候を引移建。
中野犬小屋出来移、野犬小屋余りをり豊嶋、多摩、新座郡百姓へ御預、扶持米代金壱両壱分ツヽ被下置候事、取次人下新倉次太夫、右宝永之頃迄。
これによれば、音羽の護国寺は、当村にあった館林公(
次に中野犬小屋から溢れた野犬は豊島・多摩・新座などの近傍各村へ預け、その扶持米代金(
概ね現在の田柄、春日町、向山、高松、貫井に相当する地域である。
検地は寛永一六年(
村高は『武蔵田園簿』では一一四二石余、田方二一九石余、畑方九二三石余であったが、延宝元年の前記「丑之御縄打高組帳」では二六二六石余となり、「元禄郷帳」では田畑合せて二六四六石余となっている。その差二〇石余は愛染院と八幡社の朱印高で、そのまゝ幕末まで至っている。
嘉永七年(
村高弐千六百廿六石壱斗七升六合
内弐千五百九拾壱石壱斗四升七合 村持
外 三拾五石弐升九合 入作
高六拾石弐斗九升壱合 出作
御朱印地高弐拾石壱斗余
御除地反別弐町八畝廿七歩
惣家数 四百九拾四軒
内 寺七ヶ寺 堂六ヶ所 墓寮壱ヶ所
村人数 千七百六拾五人
内 男九百五拾九人 牛無御座候
女 八百弐人 馬八拾壱疋
僧四人
資料文>旧上練馬村の名主長谷川武範家(
同家文書によって上練馬村の戸数、人口、馬数の推移を見てみると次の通りである。
年代 戸数(
寛永一六年(
延宝元年(
文政四年(
嘉永元年(
元治二年(
明治二年(
これによると江戸初期の戸数が一九世紀前半の文政、嘉永頃には三倍以上となり、江戸近郊農村として最も盛運な時期であったことを窺うことができる。また上練馬村は第三章第三節「変わりゆく農村形態」でのちに記述するごとく割合多くの商人、職人、行商人が在村していた。例えば文政四年の明細帳には六四人の商人、職人、さらに慶応三年のものには七一人の商人、職人、行商人らが在村していた旨記されている。上練馬村の産物は「当村之儀大麦小麦粟稗並大根等、米ハ少なくなく御座候」(
村明細帳にみる村役人は次の通りである。
<資料文>年代 名 年寄 百姓代
延宝元年(
文政四年(
天保三年(
嘉永三年(
元治二年(
慶応三年(
(
現在の旭町、土支田、東大泉および三原台と大泉町の一部に相当する地域である。
江戸時代は元来一村であったが、寛政以降上組と下組に分れ別々に年貢割附状、年貢皆済目録が下付されるようになった。『新記』に「
村高は正保期の『武蔵田園簿』に六二三石余の記載があり、その後元禄期の「武蔵郷帳」では約二倍の一三三七石となった。組別では上組の高七五八石六斗八升一合、下組の高五七八石八斗二合であり、以後幕末まで変化なく続いた。
寛文三年(
前記「検地帳」ならびに「村明細帳」「小島家文書」から田畑の推移を調べてみると次の如くである。
<資料文>時代 田 畑
寛文三年(
享保四年(
天保二年(
これで見る限りでは寛文三年から享保四年に至る一四〇年間に田の増加は六畝歩余であるのに比べ、畑の開墾は約八〇町歩に上り、この間における畑の開発が盛んに進められた様子が判る。
なお、享和四年の「村明細帳」は二月に書上げたものであるが、同年は二月一一日に文化と年号を改められたので当然改元直前の様子であって、その翌月の文化元年三月「田畑荒地取調帳」(
土支田村で田作が多少でも盛行するようになるのは明治初年、上練馬村上野長左衛門、土支田村小島八郎右衛門等の尽力によって玉川上水分水田無用水を引水した田柄川用水が竣成してからである。
それ以前の田用水は享和四年の「明細書」によれば「用水之儀田反七町歩余之処、新座郡小榑村土支田村境ニ字いがしらと申所三反歩程之溜井御座候而用水引申候、干照之節者用水無之候」と現在の井頭公園の溜井から湧き出る僅かな流れのみであった。この水の恩恵で、畑と成らずに幕末まで残った七町歩余りの田が経営されていたのである。
寛文三年の「検地帳」による農民の土地所有状況は次のようになっている。
<資料文>一〇町歩以上 四軒
五町――一〇町 一四軒
三町――五町 一七軒
一町――三町 四五軒
五反――一町 一一軒
五反未満 九軒
資料文>即ち一町から三町の田畑を耕作している農家が半数近くあり、時代は降るが、文政期に十方庵敬順が『遊歴雑記』の中で訪ねている土支田村平右衛門のような裕福な経営をしている農家も少なくなかった。因みに名主小島家では寛政三年(
現存する古文書によって判明する両組の村役人はおおむね次の如くである。
<資料文>時代 名主 組頭(
上組
文化二年(
天保一二年(
安政五年(
慶応元年(
下組
宝暦六年(
享和四年(
文化一一年(
天保二年(
天保九年(
嘉永三年(
上組では天保一二年、一部小前百姓による名主金次郎、年寄文五郎を相手取った訴訟出入があり、金次郎はその責任をとって名主役を忰綱五郎に譲った。このことについては後述する。
現在の概ね谷原、高野台、富士見台に相当する地域である。
『小田原衆所領役帳』に「石神井内谷原在家」とあるところを見ると、古くは石神井郷に属していた。徳川時代の最初は増島氏に賜られたというが、慶長年中以来幕府直轄領となりその儘幕末まで続いた。
増島氏は北条早雲の庶子勘解由重胤の子次郎右衛門重興が始めて増島氏を名のり、その子勘解由重明は北条氏に属し、天正一八年の役には北条氏規に従って伊豆韮山に籠った。小田原落城後徳川氏の世となって重明は谷原村に移り農を業とした。が、子供がないので家を弟重国の子重俊に譲り剃髪して慶算と号し高野山に登りのちに長命寺を開いた。重俊の子平太夫重辰は幕府に召されて勘定役を勤めた。以上は重辰四代の後裔信道の代に、江戸の儒者井上金峨が撰文し、今も長命寺本堂前に現存する長命寺碑によったが、『新記』にはまた別の増島氏系図を引いた記述がある。それは重明・重國の兄弟が逆になっており、兄左内重国は小田原北条氏の族士であったが、小田原没落の後家康に謁し谷原村と隣村田中村を賜った。後また加増となって六〇〇石を領したが、慶長年中近江国の代官であった時、不正に連座して改易となった。その時、子重俊は未だ幼年であったので、弟重明が谷原村に住して重俊を養育し成人の後、家を譲って出家したというものである。また重辰の名を重光としている。信道は幕府の御書物奉行を勤めるほどの学者であったが、その子信行も通称金之亟、
谷原村は前記の如く御打入直後増島左内重國に賜り、慶長年中収公せられて御料所となった。正保の『武蔵田園簿』によれば水田八一石余、畑二五〇石余、総村高三三二石余で、近村と同様ここも水田が少なく畑の多い村柄であった。元禄年中の「武蔵郷帳」では八六一石余と増加しており、この間の開発を窺うことができる。
古文書の所蔵者は田中幸太郎家(
長谷川家文書「地誌調写置」谷原村の項(
村内の長命寺は増島氏によって開創された新義真言宗の寺院で、東高野山または新高野山といわれ、江戸の庶民信仰によって繁栄したこの地方での名刹である。詳しくは別章でふれるのでここでは省略するが、文化・文政頃盛んにここを訪れた江戸の文人たちが残した紀行文を巻末資料に収録したので参照されたい。
谷原村の名主は現在残っている古文書類によって寛永一六年(
時代 名主 年寄 百姓代
文政六年(
現在の南田中および三原台の一部に当る地域である。
谷原村と同じく江戸時代の初めは増島氏の知行であったが、慶長年中より幕府直轄領となった。正保年中の『武蔵田園簿』によれば水田五五石余、畑一五七石余、村高二一二石余でやはり畑地の多い村柄であった。その後大いに開墾が進められ、谷原村と同様延宝年間に検地が行なわれて以来、村高は五三九石余と四〇年余りの間に三〇〇石以上の新墾地が出来
た。享保・元文の頃、谷原村の北に飛地として新田を開き田中新田と称した。勿論村高の増加があったに相違ないが、付近の各旧村と同様表高には変化はなく幕末に至っている。田中新田は明治に至っても本村の新田として一行政区域であったが、昭和七年板橋区編入に際してはじめて石神井北田中町と称し独立した。新田の開発には本村の草分け鴨下・榎本家などが分家して多くそれに当っている。文政六年(
小名に薬師堂、供養塚、塚越、上久保がある。『新記』に註記として「昔し堂ありし所と云」とある薬師堂はその時点で宝蔵院(
村方文書の現存はなくわずかに「地誌調写置」によって名主安左衛門、年寄林蔵、百姓代滝右衛門が知れる。この時より約六〇年遡る天明二年(
今では些細な事であるかもしれないが、当時としては、練馬中の村を挙げての大事件であった。
概ね現在の石神井町と下石神井に当る。
元は上石神井村と一村で石神井郷と称した。古くは文安五年(
鎌倉時代末に南関東の名族豊島氏は石神井川を遡ってこの地に石神井城を築き、累代居城としたことは前述の通りである。豊島氏滅亡の後は管領上杉氏の領地となり、上杉氏滅びるや小田原北条氏の支配するところとなった。
家康入府の頃は「此辺戦争の衢となり、田宅荒廃せしを御入国の頃高橋加賀守、同主水、尾崎出羽守、田中外記、桜井伊織、元橋主水等来て開墾せりと云」(
正保の『武蔵田園簿』には上下の石神井村に分れ、下石神井村の石高は三七四石余、田一一〇石余、畑二六四石余となっている。その後、元禄の調べでは村高一一六三石余と著しい増加をみた。検地は谷原村、田中村、上石神井村と同じく寛永一六年(
天祖神社(
徳川将軍家は江戸近郊にしばしば狩猟を行なったが、特に三代将軍家光は寛永から正保年間にかけて板橋、中野、石神井方面で猪狩や鹿狩を盛んに行なった。そのうちでも正保元年(
下石神井村の家数は文政年間の「地誌調写置」(
一、村高千百
一、家数百四拾八軒 人別八百四拾人内 男四百五人 牛無御座候
女四百三拾五人 馬拾弐疋
一、土地生産之品ハ大麦、小麦、稗、黍、蕎麦、外青物ハ大根、牛旁、茄子 但農業之間余業稼ニ而作出候品無御座候
一、耕地之儀ハ武蔵野新田長窪続ニ而至而水損之村方ニ御座候
一、用水掛之儀ハ玉川
一、倍養ハ第一糠灰ヲ多ク相用申候、耕地之下<外字 alt="屎">〓外字>(
用水については、関村の溜井から流出する水を用いているが、玉川田無口分水の落水が押来り、兎角水難を受け易い村だとしている。これは前の田中村で述べた田無村水車人との出入訴訟にも符合しており注目してよい。
村の南、多摩郡遅野井村(
下石神井村に関する近世文書の現存は少なく、前記豊田家と本橋家(
年代 名主 年寄
享保一〇年(
安永三年(
文政六年(
慶応四年(
概ね現在の石神井台と上石神井一・二丁目(
村の東は下石神井村、西は関村、北は土支田村、南は竹下新田および多摩郡
石神井の地名の起りには諸説がある。『四神地名録』などは里人の言い伝えとして、井を掘った折、地中から出た石棒を石神井社の神体として祭り、村名を石神井村と称したというものである。『武蔵野話』では秩父郡大滝村の項で村民の所持する石棒について触れたあと「又豊島郡下石神井村に石神井の神
一方『新編武蔵風土記稿』では上石神井村の項で石棒の出所を三宝寺池とし、里人はそれを神体として一社を営み石神井社と崇め祀ったことから神号をもって村名としたが、社は今下石神井村にあると述べている。
いずれにしても石神井の地名の起りはこの
三宝寺池は江戸時代から文人墨客のよく杖を引く景勝の地として有名であった。釈敬順の『遊歴雑記』、村尾正靖の『嘉陵紀行』、太田南畝の『三宝寺遊記』などがある。これらの文には江戸からの道順、往還の様子、三宝寺、三宝寺池、石神井城址の景観などが詳しく記されているので、巻末掲載資料を参照されたい。
石神井城址についても諸書に多く紹介され『四神地名録』『江戸名所図会』など絵入りの地誌・紀行も少なくない。「地誌調写置」では上石神井村の項に「豊島勘解由左衛門城跡 東西六、七丁、南北三丁、後ニ池有、西ニ空堀之跡有」とあり、下石神井村の項にも同城跡として「上石神井村より当村江少々相掛り入合申候」と記されている。『新編武蔵風土記稿』では上石神井村道場寺の解説でそれを敷衍して述べている。
三宝寺池から湧出する本流は、関村溜井(
千川上水の水料は田一反に付玄米三升宛の定めであった。安永二年(
文政六年(
これら五人組帳を含め現在判明する村役人を列挙すると次の通りである。
<資料文>時代 名主 年寄 百姓代
享保一〇年(
安永三年(
天明五年(
文政六年(
慶応四年(
現在の関町、関町北および立野町に相当する地域である。天明四年(
寛永一六年(
またこの時の年貢割附状と思料される同年十月の「卯年関村御年貢可納割〔附之事〕」(
その後正保の改めでは畑高一一七石余、田高一七石余、計一三四石余となり、延宝の検地を経て元禄の改めでは村高五二七石余と一躍正保年間の四倍になって幕末まで至っている。元禄改めの約二〇年後の享保五年(
また同文書には家数九八軒、人数四八四人とあったも
のが、一〇年後の享保一五年「関村村差出帳」(竹下新田は元、上・下石神井村、関村三村
竹下新田の天明四年八月開発説は「地誌調写置」ならびにそれに基づいて編纂されたと思われる『新編武蔵風土記稿』によるものであるが、一方それに先だつこと九年、安永四年(
『新編武蔵風土記稿』には竹下新田の民戸一九戸とあるが、この一九戸全員の連印による寛政六年(
表 紙
寛政六寅年
二 月 武州豊嶋郡竹下新田
資料文> <資料文>蓮印一札之㕝
一、此度御検地被仰付候所、右検地之義者拾ケ年以前奉請候所又々此度被仰付候得者、小前一同難義至極ニ奉存知候間、此趣御代官様江奉願上度奉存候間、此一件ニ付入用等何程掛リ候共小前一同承知仕候間、依右之通リ義定仕一札差上申候、依如件
寛政六寅年二月 (
この後に三五名の記名があり、そのうち一九名が連印をしており竹下新田の戸数一九に符合する。寛政六年から一〇年前は丁度天明四年に当たり、この年に検地をうけているということは前述の開発年月に一致することになる。正式の検地を受ける以前から入植のための出百姓があったことは当然で、安永四年頃すでに開発に取り掛っていたのであろう。
因みにこの文書は、検地に際しては百姓が難儀をするので費用はどれ程掛けても差支えないから代官所にその旨働きかけて欲しい、という村役人への百姓達の切実な願いが汲み取れる文書である。
前出享保五年ならびに同一五年の関村明細帳には官林と思われる
八郎右衛門の二男に関前新田を拓いた井口忠左衛門がいるが、同名の竹下忠左衛門との関係など後考を俟つほかはない。
古文書に見える村役人は次の通りである。
<資料文>時代 名主 年寄
関 村 享保 五年(
天明 四年(
文政 六年(
竹下新田 文政 六年(
現在の大泉町(
正保の改めでは村高一五〇石のうち水田九〇石余、畑五九石余となっており、中荒井村と共に、練馬地域では数少ない田方が多い村柄であった。この村高一五〇石はすべて伊賀衆知行地になっており、外に永一貫三八六文の
幕末の旧高旧領取調では橋戸村の村高二八八石余が代官支配地とのみ記され、旗本領(
橋戸村に関する近世文書は少なく、荘半蔵家文書(
よってここでは時代が大部降るが明治一〇年(
幕藩時代にもこの田畑反別はそう大きな差がなかったことは想像に難くない。前記郡村誌にも「橋戸村は地味其質悪く稲梁に稍適すれども水利不便にして時々旱に苦しむ」とあるところから、その大半は下田あるいは下畑であって石盛三乃至五の位附であったに相違なく、これを其準に計算すると旧高旧領調の二八八石に近似の値となる。
前述した如く近世文書の現存が少ないため村役人の名を明らかにすることは困難であるが、荘家文書安政二年(
橋戸の名はすでに古く慶長元年(
現在の西大泉、南大泉、大泉学園町の区域を包含する大村であった。
家康入国後、初めは板倉氏の知行地となり次いで幕府直轄領となった。正保の改めには練馬の他村と同じ代官野村彦太夫の支配として田二九石余、畑五一八石余、村高五四八石余の地であった。後寛文年中(
元禄一六年(
田 畑 計
直轄領 2町3反1畝14歩196町9反7畝27歩199町2反9畝11歩
米津領 2 3 6 27 196 2 1 08 198 5 8 5
計 4 6 8 11 393 1 9 05 397 8 7 16
資料文>明細書による田畑の反別は上表の通りである。
天領、私領とも田は上田が全体の四五%、中田、下田が夫々二七、八%で田作の位附としては決して悪い村ではなかった。また畑作では下畑が全体の四七%、次いで下々畑が二一%、上、中畑は夫々一四、五%にすぎない。田畑の土性は同書に「土地之儀者田方黒土、畑方ハ赤土ニ而土目不宜之村ニ而御座候」とあり、田方は黒土で土性もさして悪くはないが、畑方は赤土で良質の土地とは言えない。また「
水利は村内の溜池(
同書に家数は宝暦四年(
小榑村は橋戸村と共に江戸時代を通じて尾張候の御鷹場であった。
享保一四年(
時代 名主 組頭
享保四年(
享保一五年(
寛政六年(
弘化二年(
嘉永六年(
米津領は代々高橋覚左衛門が名主役を勤めた。覚左衛門家は寛永の頃より尾張候御鷹場の鳥見頭として名字帯刀を許され、志木、所沢方面に至る迄、隠然たる支配力をもっていたという。領主米津氏も覚左衛門を重く見て知行地の支配をほとんど委ねていたことが窺われる。
米津氏は藤原の流れをくむ嫡々の三河武士で
村の開発が進み農村としての形態が次第に整ってくると、村の住民の中は自ずと社会的、経済的地位によって幾つかの階層に分れてくる。それは一般的に、中世からの土着郷士層、独立の農民層、従属的農民層、その他のものの四階層と見ることが出来る。
郷士は古来からの家系が認められた土地の名族などで、名字帯刀を許され村内での威望も高く大地主である場合が多い。新田開発や水利工事などに盡力した功で郷士に取り立てられたものもある。
独立の農民とは草分け、高持ち、
従属的農民とは一般に第二節の「検地帳」の項で述べた
水呑百姓を小作人の別称のようにとることがある。水呑百姓は勿論土地を所有せず、小作をする場合もあるが、実は小作人より更に低い階層のもので、主に日雇いなどで耕作の手伝いをしたり、野山で薪木や秣取りをして生計を立てていた。その村の水を飲むことから名付けられたという。
以上のほか、寺院の僧侶、神社の神官、農業に関係する職人、
中世末期練馬に土着したと思われる郷士には、谷原村の増島氏、石神井郷を開発した高橋加賀守外五名の武士たちがいたことは前節で述べた通りである。
また『小田原衆所領役帳』にある太田新六郎の
『新編武蔵風土記稿』では古文書等を所持し由緒の明らかな草分けと目される「旧家者」として谷原村の伝左衛門、関村の弥兵衛、橋戸村の忠右衛門を特に取り上げている。
谷原村の伝左衛門は増島氏で代々村内に住し専ら耕作を事としているとある。増島氏が谷原村に土着した経緯については前節谷原村の項ですでに述べたとおりである。
関村の弥兵衛は井口を氏として名主を勤め、先祖は伊豆国伊東より出、鎌倉没落の後子孫当所に住すとしている。井口家系図(
井口氏三代玄幡頭義政並びに長子源次信重は元和元年(
井口氏のこの地方土着の経緯については未だ不明の点も多いが、関村井口氏に先立ち小榑村井頭にすでに別系の井口氏が定住しており、関村井口氏がこれを頼ってこの地に来住したとする見方も有力である。
五代忠兵衛の子、六代八郎右衛門は寛文一二年(
その後八代八郎右衛門は多摩郡連雀前新田・西久保新田・連雀新田・松庵新田・大宮前新田・高井戸新田・関前新田・上荻窪新田・下里村、入間郡上新井村・下新井村、豊島郡関村の関組一二か村を支配して年貢割元役を勤めた(
同人はまたその子甚蔵と共に関山および遅野井山の開発を志し、その払下げを幕府に願い出たが彼の存命中には遂に実現は出来なかった(
一〇代井口玄幡時重は仲々の事業家であったらしく、天明初め青梅方面からの石灰運搬事業を計画し、通称玄幡山に馬二〇〇頭を飼育した。しかしこのような大規模な事業は当時の政策として幕府に伺いを立ててから実施すべきであった。が、玄幡はそれをどういう訳か無届けで進めていた。天明四年(
この年から関村名主は分家の孫兵衛家および銀右衛門家(
橋戸村の忠右衛門は庄氏なりとある。庄氏は武蔵七党の内児玉党の一族とされている。武蔵七党系図には庄氏は児玉庄太夫家弘から出ている。子を庄権ノ守弘高と云い、またその子庄太郎家長は東鑑、保元物語等にも事蹟が顕われている。
「
鹿王院雑掌申武蔵国豊嶋郡赤塚郷用水事、庄
加賀入道善壽構新儀、号井料就及違乱直施行
之趣案文令到来畢、雖然尚未休云々、甚無謂
厳密止其妨可被全寺家所務之由所被仰下也、
仍執達如件
文安六年三月九日 右京大夫
上椙右京亮殿
資料文>即ち赤塚郷(
赤塚郷用水ノ事とは如何なる事件であったか詳かではないが、赤塚は白子川の流末に当ることから上流白子郷を所領していたと思われる庄加賀入道がその水料に関し、事を構えたことは充分考えられる。
時代はずっと降るが天文年間(
しらこ庄 庄
賀雅助 中務丞
資料文>と記されている。特に庄賀雅助には「しらこ」と肩書きされているのは明らかに同氏が新座郡白子郷の在地領主であったことを示している。賀雅助は加賀介に通じ加賀入道善寿の流れであると見て差支えなかろう。
では、庄氏はいつ頃この地に来たのか。
埼玉県
荘氏は武蔵七党児玉党に出で、荘権守弘高、荘太郎家長等、源義朝、頼朝に仕へ高名あり、家長五代の孫四郎泰家、五郎為久、泰
家の子太郎弘長等、亦建武中興の際新田義貞に従ひ勲功ありしも南風競はず即ち新座郡橋戸村に退きて郷士となる 資料文>とすると庄(
戦国の世に及んで弘長三代の孫秀俊は永享一〇年(
その後庄氏は小田原北条氏の家宰として天正に至るが、小田原の役に敗れ越畑城を退き旧地新座郡橋戸村に再び移るのである。庄氏が初めてこの地に居を構えてからすでに二百四、五十年を経ているが、その間、一族庶流が多くこの地方に
荘本家(
谷原の増島氏、関村の井口氏、橋戸村の荘氏は『新編武蔵風土記稿』に「旧家の者」として記載されているものの練馬の草分けには他にも多くの本百姓を見ることができる。
「天正十八年御入国ヨリ御府内并村方旧記」(
上原兵庫、木下大炊之助、内田河内守、吉野善右衛門、川嶋藤右衛門、並木九左衛門、細川嘉左衛門、漆原太郎兵衛、大木源左衛門、高橋惣兵衛、加藤、榎本、奥津、篠、風祭、嶋野、石山、粟飯原
原文書執筆の内田氏は板倉周防守家臣の出自をもち早く下練馬村に住していたし、寛永一九年(
上練馬村では寛永一六年(
同様土支田村の名主小島氏もその墓地に慶長元年(
小島氏は代々八郎右衛門を名乗り歴代土支田村下組の名主を勤め、四代八郎右衛門は寛文三年(
土支田村上組に元禄三年(
このほか土支田村には上組名主町田氏・榎本氏、下組の加藤氏、五十嵐氏などがいる。
中村には昔から「中村
中荒井村の旧家には岩堀・一杉・矢島などの各氏がある。矢島氏は中村にもあって、天正一九年豊臣秀吉の奥州平定後出羽国由利郡矢島(
出羽の矢島氏が何らかの縁故を求めて当時すでに多摩郡沼袋、豊島郡中荒井方面に相当繁栄していたと思われる別系矢野氏を頼ったとする見方もある。中村のいわゆる五名の人たちから別扱いされたという矢島氏は、単に後から移住しただけではなく、何かそこに出自の差があったためと考えるのが妥当である(
このほか練馬地域の草分本百姓には前節各村の項でもふれた谷原村の横山・田中氏、田中村の鴨下・榎本氏、関村の井口氏のほか田中氏、竹下新田の橋本氏、上石神井村の高橋・栗原氏、下石神井村の豊田・本橋・渡辺氏などがあるが、いずれも定かな出自を持たない。
新座郡のうち橋戸村には荘氏のほか萩野・見留氏らが、また小榑村には高橋・小美濃氏のほか加藤・鈴木・田中・滝島・内堀氏らが草分け本百姓と目されている。なかでも加藤氏は多く、その出自は加藤
いずれにせよ大泉地区には橋戸村の荘氏、小榑村の高橋、小美濃、加藤氏など墓石に大形の五輪塔や宝篋印塔を建立、草分け百姓としての格式を保ちつづけて来た旧家が多いことは他村に余り見られない例である。
練馬の各村も江戸時代となり各地に開墾が進むと、草分け本百姓と従属的農民即ち分附百姓とか家抱・庭子などとの間で加速度的に階層分化が進展し始める。江戸開府から一三〇年を経た享保五年(
一方上練馬村では時代は降るが天保三年(
次図は嘉永七年(
小榑村では宝暦四年(
一、百姓壱町歩以上 所持之者 七拾弐人但し越石共
一、百姓八反歩より壱町歩迄 所持之者 三拾四人但し越石共
一、百姓六反歩より八反歩迄 所持之者 十八人但し越石共
一、百姓四反歩より六反歩迄 所持之者 弐拾八人但し越石共
一、百姓弐反歩より四反歩迄 所持之者 弐拾人但し越石共
一、百姓壱反以下 所持之者 拾六人
資料文>これを表に纒めると次のようになる。
一反より二反迄の記載がないが、該当する者が居らなかったものと思われる。
前二村に倣って四反以下の比率を見ると、一九・五%とやはり高率を示している。一町以上のものが三八%を占めるが、この階層がおそらく草分け本百姓と呼ばれる村の上層階級であったであろう。
<資料文 type="345">反別 人貝 %
1町以上 72人 38
8反~1町 34人 18
6反~8反 18人 9.5
4反~6反 28人 15
2反~4反 20人 11
1反以下 16人 8.5
計 188人 100
資料文>農業における労働力の需給はまた極めて重要で且つ深刻な問題であった。当時はほとんどの農家が主として家内労働であって、雇人を置く家は余程高持ちの限られた階層であった。むしろ持田畠が少なく収量に見合わない大家族を抱えた家では二、三男や娘を奉公に出すこと
が通常の例であった。 画像を表示 画像を表示上図は両村の世帯構成人員数を表わしたものであるが、上練馬村の一世帯当り五人強に対して土支田村下組の人員は六・五人になっている。両村を数字の面のみで比較すると、田畠所有反別の少ない割に家族数の多い土支田村下組では、貧窮者の多いとされた上練馬村より更にその度合いに深刻なものがあったであろうことが推察される。
次に両村村民の年齢別構成を見てみることとする。一瞥して判るように年齢別人口分布の型としては最も古い型の三角形を示しており、これは現在、後進国によく見られる型である。同時代の近隣農村のものとして、両村の生産年齢人口・老年人口・幼少年人口を百分比で比較すると次の通りになる。勿論男女共生産労働に従事したと見て数値は男女合計の数によった。
<資料文>老年人口(
上練馬村 一〇% 六〇% 三〇%
土支田村下組 一〇% 五五% 三五%
資料文> 画像を表示 画像を表示因みに最近(
また最近、平均寿命の延長が喧伝されているが、比率の上では昔の方が僅か乍ら高い数値を示している点は興味がある。
本文> 節> 章> <章>農業の歴史は弥生時代に遡るが、この農耕技術の発明によって人類は次第に縄文時代の食料を自然物にたよる生活から定住生活に入り、一方飢えの脅威からも解放されて文化的生活を生んできたのである。
農業専門家はこの間の欧州を中心とした農耕の歴史的段階を、生産手段を基準に次のように時代区分してる。即ち(一)
手鍬農業生産は手で動かすことの出来る簡単な道具で容易に利用し得る土地の一部を給肥を施さず、従って地力が衰耗すれば捨てて耕地を変える農業であった。
犁鍬農業生産は家畜に牽かす犁を以て耕作を行ない、定住が進むに従い土地はやゝ永久的に利用され動物の飼育と相俟って穀物を主とした作物がつくられるようになった。
封建的私的農業生産時代は農業が支配的地位を占め、新たに発生した手工業との間に交換が行なわれるようになり、輪作農業から作物の種類が多種多様となって農業収益は高まった。
商品的市場生産時代の農業は市場を目的とした生産となり需要者の要求に応えるべく農業技術も異常な進歩を見るに至った。
日本での農耕の歴史は必ずしもこの経過そのままではないが、江戸時代には未だ封建的農業時代の域を出でず、幕末に至ってようやく市場生産の時代に入ったと見るべきであろう。
練馬を含む南関東は武蔵野特有のローム層の土質で、土にねばりがなく作物の成育には多量の施肥を必要とした。同じ南関東でも江戸東郊の水田地帯と西郊の畑作地帯とでは自ずとその生産形態が異り、従って村落の構造や農民の生活にまで影響することは論を俟たない。練馬を含む江戸西郊を畑作地帯と言っても、すでに見てきたように水田が全く無いということでなく、その大部分が畑であるという謂で、石神井川、白子川、中新井川の自然流水および千川用水、田柄用水流域の低地には水田稲作が当然営まれてきた。
古河古松軒はその著『四神地名録』の中で「練馬村といふは、上下にて高五千二百余石、地面は高よりも広大にて、東西三里余、南北一里或は一里三丁、五丁の所も有り、されども<圏点 style="sesame">畑在所にして田方一分ばかり、且風土すぐれず圏点>」(
土性もほとんどの村で「至て悪地の場、土地柄宜しからず」(
そのため給肥にはなみならぬ努力が払われていた。当時肥料には苅敷・草木の灰・塵芥・厩肥・人糞尿などが用いられたが、肥効性の高い人糞は勿論自家のみでは賄いきれず、他から購入を余儀なくされた。特に蔬菜を中心とする農作物の市場性が高まり商品としての生産が発達してくると、肥料の需要は更に強まってくるのである。
江戸近郊農村ではその入手が比較的容易ではあったが、しかし需要の増加と共に下肥の価格は騰貴する一方で、零細農家
の経営を圧迫する状態となった。練馬では実際にどのように肥料が用いられていたのであろうか。次に村明細書などに表われる各村の様子を見ることにする。上練馬村では田畑共に下肥・灰を用いているし、土支田村では田方は下肥・荏油
小榑村では肥料として田畑一反に付、下肥五
関村の享保五年および同一五年(
田畑こやし之儀、江戸より下こひ買附、萱草・馬やこひニまぜ用申候
下こひ 七駄二貫百文
田一反ニ 灰 一駄 四百文 乄銭三貫五百文
馬やこひ五駄 一貫文
下こひ 四駄一貫二百文
畑一反ニ 灰 一駄 四百文 乄銭二貫六百文
馬やこひ五駄 一貫文
(
これで見ると下肥のみではなく灰・
下肥の需要の増加は本来無価値であったものに価値を生み、その供給地である江戸市中の武家屋敷、商家などと近郊農村との間に特殊な権利関係を生じ、仲買人の介入や競合を醸成した。
下練馬村名主木下作右衛門宛に下村の佐兵衛が出した文政五年(
松平家の如き大名ではないが、次に紹介する文書は下肥の汲取代金と沢庵漬の代金を相殺で納入しようとするもので、練馬ならではの興味ある文書の一つである。
画像を表示 <資料文>御請書一札之事
一、此度御屋敷様下掃除被仰付候而者、為御掃除代一ヶ年金弐両差上可申候、右者沢庵大根千五百本被仰付候為代、被下置候筈奉畏候。然ル上者年々大根定直段ヲ以、沢庵附込差上可申候、尤壱樽ニ付拾四匁ッ、十五樽乄金三両弐分、右之内御掃除代金弐両引残金
壱両弐分者七月十二月両度ニ御渡被下置候旨奉畏候、仍而御請書如件天保十二丑年二月
豊島郡土支田村
金次郎
親類 藤五郎
大沢修理大夫様御内
永井権太郎様
小池助三郎様
(
つまり下掃除代一年二両のところ、大根一五〇〇本を沢庵に漬込み一〇〇本一樽として代銀一四匁ずつ計一五樽で金三両二分(
この下掃除はいずれも年間契約で支払われたものであるが、その代金は屋敷の住込人数に関係するのは勿論、武家屋敷の場合、
練馬といえば大根、大根といえば練馬といわれるほど、当時でも練馬大根は文字通り人口に膾炙されていた。『新編武蔵風土記稿』でも豊島郡の総記で産物の筆頭に練馬大根をあげている。即ち
<資料文>また『四神地名録』の著者古河古松軒はその中で、江戸の文人大橋方長はその著『武蔵演路』で、僧十方庵敬順は『遊歴
雑記』の中でそれぞれ練馬大根は日本第一なりと絶賛している。練馬の土地に応じた主な産物のうち大根については別に詳述されるので、ここではこれを省き、大根の他にどのような農作物が栽培されていたか村明細帳を中心に見てみることとする。
まず文政年間、『新編武蔵風土記稿』編纂のために各村から提出させた「地誌調写置」(
上練馬村 蕪・大根
土支田村 粟・芋・大根・稗・牛房・飼葉類
中村 大こん・いも・
上練馬村文政四年(
上練馬村文政三年(
生大根 二五〇〇駄 代銭 一七五〇貫文(
干大根 二七五〇駄 代銭 四六七五貫文(
牛房 八一七駄 代銭 二〇四二貫五〇〇文(
茄子 二四〇〇駄 代銭 一六八〇貫文(
合計一万五百六十三貫五百文
千五百七拾六両余 相場両六貫七〇〇文
資料文>また土支田村では享和四年(
下石神井村では同村絵図(
小榑村では麦・粟・稗・いものほか米を作付していた。米は三月中旬(
関村の場合、米は田一反につき種一斗二升を四月に<圏点 style="sesame">つみ圏点>付けた。関村では
土支田村でも「田方仕付時節、八十八夜より苗間蒔付、尤過半つみ田ニ仕、残り候分は植田ニ仕、惣て中稲・晩稲作り付申候」とあり田の半分以上がつみ田で、苗代を作る植田はわずかであった模様である。
練馬の米は惣じて
では実際の農家経営の状態はどうであったろうか。ここに安政二年(
爰ニ農家ノ恒産ヲ論ズルニ僕先ニ聞ケルコトアリ、曰ク良農夫一人妻一人
又畑五段計リヲ転シテ大根二万五千根ヲ得ルトス、但シ一段五千根ノ積リナリ、是ヲ売テ銭百卅五貫計リニナルベシ、但シ一根五文二分ノ積リトス、此内
扨又此内ヨリ塩・茶・油・紙ノ費ヒ二両計リ、農具ノ価ヒ、家具ノ料共ニ年三両計リ、薪炭ノ料一両余リ、夫婦子供ノ衣服共ニ一両二分余リトナシ、春ヲ迎ヒ、歳ヲ送リ、魂祭・年忌・仏事ノ入用二両余リ、日雇ノ給分一両二分余リ、親属故旧ノ音信贈答一両計リトナシテ都テ十両余ヲ引キ、残ル処僅カニ二、三分ニ不レ過、故ニ風寒暑濕ニ侵サレ、一、二月モ怠惰スレバ収穫ニ損アリテ医薬ノ料ニ事欠クベシ、
武州豊嶋郡練馬辺ノ老農ガ談ナレドモ未ダ其一ヲ知テ其他ヲ知ラザルノ会計ナリ。抑々練馬ハ大都近郷ニシテ、其産スル処何是レトナク利潤ヲ得ヤスク、是ヲ以テ民生
これを表にまとめて見ると次ページの通りとなる。年貢・小作料・日雇の給料その他日用必需品や交際費を支出して尚僅かではあるが黒字になっている。無論病気や他の臨時的支出があったり、凶作等に遭えば忽ち赤字になるのは必定である。「
ただこの著者が「そもそも練馬は江戸の近郊であるから、生産するものはすべて利潤を得やすく、ために農民は怠け心をいだき、ややもすれば昔からの習慣を固執して進取の気質に欠けるから、かえって家の財産を失う者が多い」と戒しめてい
るのに注目してよい。この収支勘定は「文政年間漫録」(いずれにせよ江戸時代の農民生活は、牛馬にひとしい辛い政治と重い年貢の
田畑の得分 田七両+畑四両=一一両
支出 日用品・農具など △三両
薪・炭 △一両余
衣服 △一・五両余
冠婚葬祭 △二両余
日雇の給分 △一・五両余
音信・贈答 △一両 この計一〇両余
差引残高 〇・五~〇・七両(
人類の文化が河川流域に発生し発展していったという事実は世の通説で、ここ練馬地域でも石神井川・白子川・中新井川の流れを挟んで古代から人々の住む所となったのは、そこに分布する遺跡群で判然とするところである。
時代は降って平安末期から鎌倉初頭にかけ、西ヶ原台地の中心平塚(
練馬にはそうした二、三の川が西から東へ、南から北へと流れている。こゝではそれらの川々が特に江戸時代、農民たちとどのような関わり合いをもっていたか夫々について考えて見ることとする。
まず『新編武蔵風土記稿』豊島郡の総記に次のようにある。
石神井川并王子川 郡の西上石神井村三宝寺池より流出す、又関村溜井の下流も此川に合して一条となり、下練馬村に掛りて近村の用水となり、下板橋宿字根村と云所に堰枠を設け、北の方に引分ち、十条村に達する一条を根村用水と号し、十条・神谷・稲附・岩淵・下村・板橋六村に注ぐ。本流は根村より東北に流れて滝野川村に入、夫より王子金輪寺峡下にて石堰を構て三派に分つ、一派は南流して二十三ケ村組合用水、一派は北流して豊島・十条・王子三村用水となる。本流は東の方梶原・堀之内・豊島にかゝりて荒川に入。此川路凡四里、川幅五間より七八間又は十二間の処もあり、此川王子村にては王子川と称す。
こうしてみると石神井川は練馬の地域では一条の小さな流れであるかも知れぬが、少なくとも四〇か村を超える村々に農業生産の上で欠くことの出来ない用水を供給する大いなる母の川であった。
昭和の初め高橋源一郎はその著書『武蔵野歴史地理』の中で興味ある「石神井川論」を展開している。それによれば石神
井川は板橋の中宿から上流、練馬地域を含めて三里たらず、両岸に開かれた水田の幅平均二丁あるとしている。これを反別になおして流域の総水田面積二四〇町歩、この辺の田は一反平均二石位の米を産する割合であると見て、全体で四八〇〇石の産米があるはずである。日本人の米の消費高平均一人一石と見れば四八〇〇人の人口を養い得る。即ち石神井川のこの流域だけで四八〇〇人の人々が生存し得られる訳である。そして結論として「此川はなかなか大なる効益を人間に与えて居る」と言っている。学者らしい推論であるが、果して江戸時代に石神井川流域でこれだけの水田経営がなされていたかどうかは疑問である。村に残る古文書から判明する水田は、下練馬村四五町歩、上練馬村三六町歩、石神井村一五町歩の合計九六町歩にすぎない。しかし上練馬村を例にとって、下練馬村境いの中ノ橋から、谷原村境いの境橋まで距離約二〇〇〇mを高橋式計算で反別を推測すると四三町歩になる。この付近は流域の谷が狭いので割引して考えると文政四年「上練馬村村方明細書上帳」にある田方反別三五町八反余に近くなる。もう一つ石神井川で着目すべきことは、この川の流域沿岸に氷川神社の多いことである。上石神井村・谷原村・下練馬村・上板橋村・下板橋村といずれも村の鎮守となっている。氷川神社は本来出雲国
昔からこの地方の農民が石神井川に対して如何に多くの恩恵を受け、旦尊敬の念を払っていたかはこの一事を見ても窺い知ることができる。
練馬の氷川神社は石神井川を挟む谷の台地上に建てられている。石神井川の流路は迂曲し奥が深いため、水量は比較的に多く、しかも緩急の流れが著しく、両岸は広い氾濫原をかかえ、時に沼沢となり、時には大乱流する。この川の流量を減少させ沿岸を整備することによって莫大な耕地が開拓できると考えたのは豊島氏であるとする説がある(
石神井川の流路は曲折しつゝ、王子の台地に突当るが、その洪積層の台地を削切貫流するだけの流力は川自体にはない。上流は奥が深くても概ね平坦で水力がないからである。今日音無橋(
かように練馬地域のみで優に一五〇町歩を超えるであろうと推定される水田を持つに至った石神井川水系は、勿論灌漑用水としての役目を果しつづけた。更に、江戸時代後半から特に明治近代化の波に乗っては、水車利用という別の面の恩恵をも流域村々に与えて呉れたのである。
白子川は『新編武蔵風土記稿』豊島郡の総記に「郡の西北新座郡小榑村と当郡土支田村の界、井頭より出、郡界を流れ、下流上赤塚村内にて荒川に入。水路凡一里半余、川幅二間より四、五間に至れり、下流成増村、赤塚村の辺にては矢川と呼ぶ、此川赤塚郷中の用水に引注ぐ」とある。
白子川流域沿岸には旧石器時代からすでに人が住んでいた。それは西岸の大泉学園町遺跡・丸山遺跡・橋戸遺跡、東岸の北大泉遺跡・比丘尼橋遺跡など夙に知られるところである。
白子川の水源、
白子川の水流は井頭溜を発してそのまま北行し、小榑村中島付近で下保谷村より東流して来た別流と合する。ここは上土支田村と小榑村の境するところで、また豊島郡と新座郡の郡境ともなっている。両村にまたがる大きな氾濫原には相当の水田が営まれていた。
流れはその後、教学院付近で大きく曲折し橋戸村に入る。下土支田村と境するこの付近はまた最大幅五〇〇mに及ぶ氾濫原をもち橋戸村・上白子村の豊富な田場地帯を形成していた。
白子村に入った流れは一時急を増すが、まもなく城山・市場・吹上の台地下では荒川氾濫原から食い込む全長二〇〇〇mに及ぶ平坦な谷戸を形成し、吹上観音下からいっきに広がる荒川南岸の大穀倉地帯を貫いて荒川に合流する。
白子川水系には文化一三年(
中新井川は中村と中荒井村の境、南蔵院の東側(
この溜池のことは地誌調写置(
中新井川の全長は池から合流点まで約三㎞、川幅は上流で一m、下流で二m程度である。流れは中荒井村の西本村・
ここで江古田の地名の語源について一言すれば、この付近にエゴの木が簇生していた、古くから水田が開けていたので古
田と呼んでいた、そこで江古田の語源を地勢的に考察してみると、この付近は寺山・天神山・和田山・片山などが形作る複雑な谷が入りくみ中新井・妙正寺の両川がその谷合をぬって迂余曲折しているのであるが、そのような地形即ち、山の凹地など谷合へ水の流れ込んだ所を訛言で<圏点 style="sesame">いご圏点>又は<圏点 style="sesame">えご圏点>と呼ぶ。柳田国男がその書『地名の研究』でいうように、日本の地名はその処の地形から名付けられる場合が最も多い。江古田の場合も植生・産物からの命名よりも、地勢的な解釈の方がより自然であるといえよう。即ち<圏点 style="sesame">えご圏点>に開けた田という謂でこの付近を江古田と呼ぶようになったと見るべきであろう。
さて、中新井の池は江戸時代末期には、池の水は殆ど涸れ沼沢化したらしく、後にふれる千川用水から中新井川へ三つの分水が引かれるようになった。一つは池を真北に延長した中荒井分水、一は桜台(
この三分水の助けを借りて中新井川は中村・中荒井村・江古田村の流域三か村の水田を潤すに足る豊富な水量が確保できるようになった。
この中新井川が、流域の農民にとって、昔から感謝の念でむかえられていたことは、この川の流れに沿って中新井村本村と、江古田村寺山の両氷川社が祀られていることでも知ることができる。
天正一八年(
その後なおも発展しつづける江戸市中に対し、飲料水を供給する目的で万治三年(
このうち、千川上水は最も新しく元禄九年に河村
千川上水の起立ならびにその変遷については「千川上水起立之義」「千川上水古記録上申」「千川上水路履
千川上水は元禄九年五代将軍徳川綱吉の時代に老中松平甲斐守・加藤越中守の命によって道奉行伊勢平八郎掛りでその開発が行なわれた。設計は当時有名な土木家河村瑞軒の手によって、新座郡上保谷新田地内より玉川上水を分水豊島郡巣鴨村まで五里廿四丁余に亘って新規上水路を堀立てることとした。工事は徳兵衛・太兵衛の両人が協力してその施行に当った。「千川家系譜」によると上水の工事は始め久右衛門が拝命したが、その直後死去したので常陸出身の徳兵衛が久右衛門の未亡人に入婿して仕事を引継いだという。また太兵衛は一書に多兵衛とあり、久右衛門・多兵衛は多摩郡仙川村の出身とも言われている。
上水は玉川上水より三尺四方の水門を以って分水し、江戸小石川御殿・湯島聖堂・上野東叡山・浅草寺の四か所に飲料水として引くのが主な目的であった。なおその余水は土井大炊頭・酒井雅楽頭・阿部伊勢守・松平加賀守・小石川水戸御殿をはじめ神田上水以東の小石川・本郷・湯島・外神田・下谷・浅草辺までの大・小名・旗本・寺々町家に至るまで飲料水として掛渡した。江戸市街地のほゞ三分の一に当る地域を潤したこととなる。
工事は幕府の見積った費用では当然足りず、両人が私費を投じて完成させた。両人はその功により名字帯刀を許され、千
川の姓を賜ると共に小石川指ヶ谷町に役宅を拝領し、千川上水路取締役を仰付けられた。その一一年後、宝永四年(
宝永四亥年、右千川上水堀通左右村々百姓申合、徳兵衛・太兵衛江相頼申候ハ右村方田場天水場ニ而年々難儀仕候ニ付、右御上水を用水ニ少々宛分水仕度奉存候間、此段相願呉候様申候ニ付、則此儀承届其節御懸リ御奉行高林又兵衛様・松下権兵衛様・小宮山庄五郎様・荒川八兵衛様右御懸リ江奉願上候処、御糺之上御上水吐水ヲ以村々田場用水ニ被下置候、依之田壱反歩ニ付為水料と米三升宛年々村方より右両人之者共江請取、此為冥加御上水堀通ニ御入用ニ而相建候御高札拾六ヶ所御座候内八ヶ所新規修覆共請負人共より永々仕立差上可申段奉願上候処願之通被仰付候(
こうした歎願の末ようやく許可となり夫々の村に分水口を設けて給水を開始した。田用水の供給をうけた二〇か村(
千川家は三代源蔵の時、それまで江戸の町中に住まって居たが、それでは千川の管理維持の仕事に滞りが出来るというので元文二年(
千川から水を引いた水田面績は凡そ百町歩に及んだといわれ(
中荒井村 田 一一町一反六畝六歩 此高八六石余
中村 田 五町五反歩 此高四九石余
下練馬村 田 二町九反歩
左ニ奉申上候三ヶ村ハ千川用水組合村ニハ有之候得共、其所之有水ヲ以田場仕付、千川用水ハ当時引入不申候、且又植付不残相済申候
上石神井村 下石神井村 関村
資料文>この間、千川上水は正徳四年(
幕府は玉川上水の水量が減少したときは、その減水の程度に従い、各用水の
享保一七年(
練馬村分水口之儀、百姓共申来候ハ今日中ニも水相懸リ不申候ハヽ最寄之水を以田場少々も相仕付申由申候、左候得ハ入用も殊外相懸申候間、千川水料米差出候義ハ相成不申候由申来候、右之通ニ御座候間何卒御慈悲を以水口明候様御願奉申上候 已上
(
元樋口は半
上水から各村々への配水は分水口を以ってなされた。宝永頃の千川文書では練馬地域の分水は次の三か所であった。
一、関村水口
一、中村水口 内法三寸四方 此水口より上鷺宮村江相懸申候
一、中荒井村水口 竹戸樋
その後幕末までに下練馬村用水および中村と中荒井村境の分水が開かれ計五か所となった。
かように各所に分水口があったため、わずかな引水制限でも水
千川の水料は先にふれたように田一反に付米三升の取決めであった。安永二年(
翌三年から増水口運上金(
かくて千川上水は専ら農業用水としての役割(
すでに見てきたように練馬を含む武蔵野の開発は寛文・延宝期に盛んに進められ、元禄年間に於ては各村とも正保期の二倍以上の村高を記録するに至った。
その後享保八年(
こうして限られた土地で生産効率の高い農業を遂げる方法としては作付品種の選定と購入肥料の問題が考えられるようになった。
肥料の問題は、開発によって秣場としての入会地が消滅すると、馬糧の取得が困難となり勢い馬匹の飼養が減少して厩肥の供給難から購入肥料(
江戸時代の農業経営において肥料のもつ重要性は今更言うを俟たないが、購入肥料が多く用いられてくると、そこに商品流通による貨弊経済の発展を促すこととなる。練馬の場合は主として蔬菜類の生産販売という形で商業的農業の伸長を見つつ貨弊経済の渦中に捲き込まれてゆくのである。
江戸時代に於ける武蔵野地方での基本的な購入肥料は下肥と糠であったといわれる。下肥は既述の如く主として農家自身が各自の得意先と年間契約をもって農作物と代価相殺の形で購入していたが、糠は江戸の糠問屋から仕入れていた。江戸中期以降になると練馬の村々から馬を引いて江戸市中に農作物を売りに出掛け、戻りの馬に下肥や糠をつけて帰る姿が見られるようになる。清戸道(
こうした農村における農業生産の様態の転換があった一方で江戸市中においてもその食生活に変化が見られた。その一つに白米の需要増がある。江戸へ入荷する米は多く玄米であった。江戸時代中期以降江戸では白米食が一般的になると
また江戸の食生活の変化のもう一つに元禄頃より
斯様な米の精白、小麦・蕎麦の製粉などの需要が高まりつつある状況の中で、人力をはるかに凌駕する効率をもった水車による精白・製粉業が武蔵野の諸水系沿線に発生し、次第に発展していった。
「上水記」(
練馬ではそれより大部遅れて文化四年(
乍恐以書付御届奉申上候
一、早川八郎左衛門様御代官所千川用水組合村豊島郡中荒井村名主伝内
一、同御代官所同郡上石神井村百姓勝五郎
右者共千川用水堀ニおゐて水車仕度目論見当時組合村ニ懸合仕候趣ニ御座候、此儀懸合相済候ハヽ当御役所様江御願ニ罷出可申哉と乍恐奉存候間、此段為念御届奉申上候 以上
文化四卯年三月四日
千川善蔵
御普請方 千川金七
御役所様
資料文>この願いは結局千川上水では天明以降水車の新設を許可しない役所側の方針に基づいて却下された模様であるが、その裏には水下組合村々の強い反対があったことが想像される。即ち
<資料文>乍恐書付ヲ以御届奉申上候
一、当三月四日ヲ以御届奉申上候中荒井村伝内、上石神井村勝五郎水車之儀、右車仕立候而者用水差障ニ相成候段、組合村方より私共江申聞候ニ付此段為念御届奉申上置候 以上
文化四卯年五月四日
千川善蔵
御普請方 千川金七
御奉行様
資料文>この事があって更に二年後の文化六年、今度は中荒井村の百姓五郎作と上練馬村の百姓左内から同様千川上水への水車取
建願が出された。千川家では用水への新規水車を取止めるよう再三説得したが、本人たちは不承知で代官所宛に直接出願したというものである。その間の事情を知る上で興味深いので全文を次に掲げる。 <資料文>乍恐書付ヲ以御届奉申上候
一、此度千川用水組合村浅岡彦四郎様榊原小兵衛様御預リ所中荒井村百姓五郎作と申者、千川用水路ニおいて新規水車取立度旨申来候ニ付、此儀者去年五月中当御役所様より私共江被仰渡候ハ千川用水路ニ而以来新規水車ハ不相成候間、此段可相心得旨被仰渡奉畏候ニ付、此趣右五郎作江申聞、殊ニ用水路水車ノ多分有之候而ハ田方用水差障ニ相成候故、水車願出候儀者相止メ可申由申聞候得共、承知不仕一応御代官所様江願上度由相答申候
一、此度同用水組合村之外大貫次右衛門様御代官所上練馬村百姓左内と申者、千川用水路ニおいて新規水車仕立度、先月中御支配御代官所様江願出候由此節相届来候、此儀も願出候已前ニ申来候ハヽ差止メ可申候得共、最早願出候後申来候儀ニ御座候、右用水通リ此後水車出来候而ハ田方用水差障リニ相成候間何分御勘弁奉願上候
右両人共水車之儀、当御役所様江御願可奉申上哉と奉存候ニ付為念此段御届奉申上候 以上
文化六巳年四月五日
千川善蔵
御普請方 千川金七
御役所様
(
このように千川上水への新規水車設立は厳しく規制されており、遂に明治に至るまで、この水系での水車稼は見ることが出来なかったが、白子川水系では間もなく土支田村利左衛門水車が設立されることとなるのである。
千川上水における水車設立が問題となっている頃、白子川水系では文化一三年(
乍恐以書付奉願上候
御拳場
当(
武州豊島郡
新規 土支田村
一 水車壱ヶ所
さし渡 壱丈
一 武州豊島郡土支田村 組頭 利左衛門
奉申上候当(
然ル上ハ相当之冥加永被仰付次第御上納仕候、別麁絵図面相添奉差上候、何分ニも御憐愍ヲ以右願之通御聞済被下候ハヽ難有仕合奉存候
豊島郡土支田村
文化十三子年 願人 組頭 利左衛門
(
利左衛門水車も開設に当って下流白子村農民の反対を受けたらしく、同家文書の中に白子村との間で次の約定がなされてはじめて承諾を得た経緯がある。即ち、取水の堰を高くする場合は白子村側の意向を聞きその通りにすること、出水の節には堰を取払いなるべく田畑への差障のないようにすること、川筋が変わったり崖崩れが起きたりした時は竹木や
同じ頃石神井川にも水車が一か所置かれていたことが文政四年(
両水車の規模は土支田村利左衛門水車は挽臼二、舂臼五であり、上練馬村利左衛門水車は挽臼二、舂臼一〇と上練馬の方が規模は大きかった。
水車稼には租税の一種である運上金が課せられていた。土支田村利左衛門は頭初永二八二文、後に二八七文(
米壱斗 搗立四時間 米壱斗 舂賃 金五厘
麦壱斗 搗立三時間 大麦壱斗 搗賃 金四厘
粟壱斗 搗立四時間 粟壱斗 搗賃 金五厘
小麦搗立 壱柄ニ付 十二時間 小麦八斗
此挽賃小麦壱斗ニ付 金三銭五厘
資料文>水車製粉業の実態は付近百姓からの依頼による賃挽・賃搗のほか、小麦とか蕎麦などの原料を近在農家より仕入れ、製粉して小麦粉・蕎麦粉として江戸へ直売する営業も行なわれていた。こうしたことは江戸の麺類渡世人仲間で問題となっており、天保五年(
――仲ヶ間之もの共蕎麦并小麦
訴えられた水車稼人一八名の農民は田無村を中心に保谷・白子・赤塚・高井戸などの百姓が含まれ、中に下石神井村の百姓勝右衛門の名も見える。この問題はその後幾多の変遷を経て安政三年(
翌安政四年水車稼人らは粉の直売権利を守ると共に、利益の確保維持を目的として水車人仲間を結成した。南は玉川、西は府中、北は川越街道に至る広範囲に亘るもので水車稼人九五名が加わった。組合は南北二つに分けられ、夫々はまた幾つかの組合に分かれていた。白子組行事(
これら水車稼人の階層は練馬の三名を見ても判るように土支田村の利左衛門は組頭、上石神井村の仲右衛門と上練馬村の又蔵はいずれも名主であり、開設までには至らなかったが先の中荒井村伝内もまた名主である如く殆ど村の上層階級の者で占められていた。それは水車開設に当って相当の資本が必要であったのは勿論、水車設置後の経営維持にも莫大な資金を要
したためである。斯くして武蔵野の水車稼人たちは仲間同士の堅い結束と、江戸商人との強い連携を保ちつつ江戸地廻り経済の一環を担いながら明治維新の近代産業発展の段階にまで及ぶのである。その過程については別の章でふれる。なお、水車稼の成立より展開についての論考には練馬区教育委員会『練馬の水系』、渡辺猛「江戸を中心とした水車稼の発展」(
江戸中期以降となると農村の中の構造に顕著な変化が表われてくる。高持百姓は一層その持高を増してゆく反面、零細農民層は更にその貧窮度を深めてゆくのである。こうした貧富の差の増幅は田地永代売買の禁止や、分地制限によって起きてきたもののみではなく、経済的発展による階層分化の結果でもある。
先に引いた享保五年(
幕末に近い嘉永七年(
江戸中期以降の貨幣経済の波は次第に近郊農村部へ波及し、村内に二つの階層を形成して行く。一方の極に位置する富裕な上層農民は村内の有力者としての地位を利用して商品作物の販売により、或いは水車稼・質屋・古着屋・酒屋・穀屋などの農間余業により益々富裕化の進度を早めて行った。他方、下層の貧しい農民は
貨幣経済の中で土地の永代売買は幕府から堅く禁止されていたが、実際には質入れという形で富農の手に兼併されて行くのである。練馬でも元禄頃よりこの質地証文が多く諸家に残されており、事実上の土地売買の様子を見ることが出来る。
次に掲げるのもその一例である。
画像を表示 <資料文>質地證文之㕝
一金壱両者 但し質地本金也
右者当辰御年貢相詰リ金子壱両慥ニ借用申所実正ニ御座候、但し為質物中畑壱反六畝歩之所致し書入、尤年季之義者当辰年より来ル申年迄五ヶ年季ニ相定年季之内本金返済仕候ハヽ右之畑無相違御返し可被成候、尤利足之義者金拾五両ニ壱分之割合を以年々相済可申候、此畑ニ付脇より少も構無御座候、六ヶ敷申者御座候ハヽ加判人埒明貴殿江少も御苦労ニ懸ヶ申間敷候、為後日質地證文仍而如件
天保三辰年十二月
中荒井村
地主 嘉兵衛
證人 清兵衛
年寄 文三郎
同所
利平殿
(
寛永二〇年(
この史料は天保三年(
宝暦四年(
小榑村の質入値段は田は一反に付金一分二朱より二分、畑は一反に付一分より一分二朱となっているが、関村では中田一反に付一か年金二分程、上畑一反に付一か年金一分程で、下・下々田、中・下・下々畑などは夫々に応じて質入価格が定められるとしている(
しかし田畑の所有権を失った農民たちとて仕事を続けないことには一家の生活が成り立たない。一部には出稼とか
小作とは農地の所有者が自己の農地を自ら耕作経営せずに、農地の所有権を自分の手に留保しておき、その用益権のみを一定条件の下に他人に委ねて耕作経営を行なわしめる制度のことである。元来江戸時代以前の地主は主として荘園所有者或いは社寺等であって、その小作関係は極めて租税的であった。然し江戸時代に至って漸く百姓の存在が支配者によって認められ、その土地所有権も安定してくると、百姓の中で資力のある者は先に述べた方法などによって土地の保有を拡大していった。田畑永代売買禁止令以来再三繰返された土地の売買禁止の法を潜って、これら富農層は他人の土地を漸次兼併し、その結果全部を自耕自作することが出来ずに、不可避的にこれを他人の耕作に委ねるに至った。
斯くて江戸時代の小作制度はそれ以前の室町期の小作制度とは異なった独自の身代隷属的小作形態をとったと考えられ、中小農民による中小小作が広く滲透して行ったのである。これらの小作関係は単なる契約関係ではなく寧ろ従属的身分関係であり、従って小作人は地主に隷従せざるを得ない極めて悲惨な状態に置かれていた。この状態は明治時代に入るに及んで更にその深刻さを増してゆくのである。
農民は農事に専念するのを建前とした。各村の書上を見ても概ね「農業之間男女共ニ薪ひろい候」(
これが文化・文政の頃となると江戸の経済的発展に影響されて農家の自給自足経済が崩れてきたことは前述した通りである。そうした中で
練馬で酒屋・小間物屋・質屋などが現われてきたのはかなり古くからである。享保五年(
天保年間にはこうした農業の傍、商売をしたり職人であったりする農間渡世人の調査が度々行なわれた。その目的は農民がこのため奢侈に流れることを制止することにあり、湯屋・髪結・酒屋・小間物商など良俗を害する虞れのある職業を禁止した。このような事情で以後の調査には農間渡世人の人数を実際の数より少なく報告している面もあるが、次に掲げる表は主として村明細帳による農間渡世の商人と職人の数である。
上練馬の場合、文政四年を限って酒類販売業が半減したのはこの業種の禁止令によるものであろう。また元治以降に至って出稼ぎの商人が出て来たのは興味がある。恐らく江戸あるいは近在の祭礼などに際して屋台店を商う小商人たちであろう。医師は専業であって農間稼とは言えぬが参考のために入れた。文政四年には「本道仙亭」と名前が記載されている。本道とは漢方医学でいう内科のことである。この医師は天保三年に「無御座候」と記されて嘉永三年に至って再び一名載るが、この時は名前が記されていない。
農間渡世人の数は幕末に至る程増加の傾向にある。また、小榑村など辺鄙な所程その数が少ないのは需給関係から当然なことであろう。貨幣経済化の進行過程で下層零細農民層の困窮化を物語るものの一つに農村における質屋の発生がある。質
図表を表示 物によっての金融が一生業として起ったのは遠く室町時代に溯るが、江戸時代も初期頃までの質屋は上方・江戸を通じて市中の武士・町人を対象とした刀剣・書画・骨董・美術品などを取扱う極く限られた商売であった。農村部では富農たちの手によって田畑を質物として金銭を貸す位いで、生業と言う程のものではなかった。享保八年(
前表中文政四年上練馬村明細帳に質物商と明記してあるのは二軒に過ぎないが、土支田村下組天保一二年の商売家取調書上帳(
この頃になると練馬方面でも質物を商う農民が増え、中には組合に加入せず隠れて質物を扱う者も居ったらしく、次の慶応三年(
乍恐以書付奉申上候
武州豊島郡上板橋村組合惣代下練馬村年寄久右衛門、同州多摩郡中野村組合惣代豊島郡中荒井村名主伝内奉申上候、上板橋村組合農間質屋稼之もの五拾八人、中野村組合六拾壱人何れも相当之冥加永上納稼来候
武州豊島多摩両郡
卯八月廿三日 寄場組合惣代
下練馬村
松村忠四郎様 年寄 久右衛門
御役所 中荒井村
名主 伝 内
資料文>この文書によると練馬方面の質屋は下練馬を含む上板橋村組合に五八軒、中荒井村を含む中野村組合に六一軒、計一一九軒の質屋があったことが判る。この訴状によって取調べられた下練馬村百姓平右衛門と八五郎、上練馬村の百姓七郎左衛門、中荒井村の百姓五作郎の四名は、この年二月に隠し質屋稼が差留められ、その後は稼を一切行なっていない。もし始めるときは定法通り村役人に届け出て組合へ正式に加入してからにするという趣旨の請書一札を夫々代官所に入れて結着した。斯様に貨幣経済の発展に伴う農間渡世特に質屋の発達で一面では農民の生活が向上したと見られる反面苦しい農家経営を強いられる矛盾を包含しつつ農民は日々の暮しを続けていったのである。
本文> 節> <節>江戸初期の鷹狩り
徳川家康は性来鷹狩りを好んだが、それと同時に武士の訓練と、各地の地勢を察知し、民情を探り、人心の
彼は、晩年、川越・浦和・越谷・戸田方面で、しばしば鷹狩りを行なっている。特に川越の遊猟は、天正一九年(
二代秀忠もさることながら、三代家光は家康に似て狩猟を好み、主として江戸近郊および西部郊外の王子、中野、杉並、練馬、武蔵野の他、
家光は、鷹狩りを行なうばかりでなく鷹狩制度の整備に意を用い、寛永五年(
『立川市史研究』(
『大宮のむかしといま』によれば「寛永五年に公儀鷹場を指定した幕府は、御三家、家門連枝、大藩主、幕閣重臣にも鷹狩を奨励し、御借場と称して鷹場を一時的に使用させることもあった。(
一橋・田安家の御借場が土支田村に、また上練馬村付近には南部侯の抱地があり、狩猟が行なわれていた模様である。したがって、現練馬区域内には純然たる公儀御鷹場(
公儀御鷹場・御借場
『江戸図屏風』という豪華な屏風には、江戸内外の寛永期から正保期ごろにかけての風景などが、詳細に描かれている(
その中に、池のまわりで鹿狩りをしている情景が描かれ、池の近くに「三宮司の御猪狩」と記された貼り紙がある。猪狩りとあっても、屏風には鹿しか描かれていない。鎗持ちなど供の者たちの居並ぶ前に、傘をさしかけた将軍家光らしい人が
おり、そこに当時は猪と鹿とは、共にシシといった。「石神井の猪狩」の中で、萩原龍夫氏は、三宮司とは石神井を指しているものと解されている。
この屏風の下方には、持仏堂らしいものを右手に置く寺院とみられる建物や、池端に松の大木と小さな神社が描かれているだけである。従って、この池を三宝寺池とは断定し難いところである。
この石神井の猪狩りを裏付ける記録として、『徳川実紀』に、正保元年三月二二日、「小園、猪山、柿木山にて猪狩あり。御先へ阿部対馬守重次まかり、供奉は阿部豊後守忠秋つかふまつる。猪十六頭のうち、一頭は御みづから御鎗にて突留給ふ。この日北条新蔵正房は歩行頭の営中当直たりといへども、別の仰により歩行士三十人、雑卒二百人をひきつれ狩場にいたる。石神井旅館にて御やすらひあり、戍刻還御なる。御旅館へ紀邸より使もて杉重のしをさゝげらる。石神井の僧侶四人へ銀十枚、小袖二づゝくださる」とある。
小園、猪山とは遅野井山のことで、上井草村を遅野井村と称したという。また、柿木山とは下井草村の小名でもある。恐らく善福寺池の付近にて狩猟がなされたものと考えられる。『新編武蔵風土記稿』中、下井草善福寺池の項に「往古は二ケ寺ありしが、いつの頃か廃絶して、今はその跡さへ知れず。其中善福寺は、当向ひの小高き丘の上にありしにや」とある。その後、地震によって破壊したため移転したのだという。
しかし、旧井草村(
将軍家光が休憩可能な格式の高い寺院を擁する村落であれば、かなり発達し整備されていると考えられる。従って、三宝寺池近辺が狩猟場にふさわしい原生林をどの程度抱えていたか疑問である。
ここまで検討してくると、三宝寺池付近で猪狩りが行なわれたとするのには、無理がありそうに思えてくる。
恐らく石神井を拠点とした善福寺池付近の猪狩りであったと解したい。
金乗院は綿二丁目にあって、川越街道のすぐ南に位置する。『練馬区の歴史』(
しかし、家光は、慶安二年のころは、主に高田とか品川辺に多く出猟していて、板橋や練馬に出かけた記録は見あたらない。『徳川実紀』の正保三年三月一二日の項に「板橋辺に狩し給ふ(
享保一三年(
『東福寺の御膳所』によれば「吉宗の二子田安宗武は、吉宗の性格に酷肖して、謹厳な性格で学問を好み、
この両卿の鷹場については、『新編武蔵風土記稿』上井草村の項に「此辺近き頃、田安・一橋両家の御鷹場にあづけら
る」と記され今川氏の所領が、両卿の御借地となっていた。また、「享和三年土支田村板橋宿助郷免除願」(
上井草村(
『練馬の伝説』の中に「元禄の始め頃である。南部侯が、このあたり(
当家は南部さまとか、南部下屋敷と呼ばれ、今でも赤門というかやぶき門や、南部下屋敷の一部を移築したというわらぶき家のたたずまいがあって、奥州盛岡の南部大膳大夫との関係が深いことを示している」とあり、また享和四年(
さて、この伝承によると、元禄の頃、当地で南部侯が鷹狩りを行ない、隣接地の公儀御鷹場を犯したということになっている。村明細帳には御抱地とあるので、南部侯は、己れの所有地内で狩猟をしたものと思われる。
ところが、当時は鷹狩の範囲が定められており、たとえ自領であっても、勝手に狩りを行なうことはできないはずである。その点疑問が残る。
公儀鳥見役が置かれて御拳場を支配し、野鳥の繁殖状況や、鷹狩りに伴う農民統制をつかさどった。つまり、鷹狩りの際の案内とか禁令の励行、鳥追、鉄砲、案山子、水車、家作の許可などが含まれている。
各村々では、毎年八月に鷹場法度証文を鳥見役に提出して、禁令の遵守を誓約させたという。弘化二年(
以上の外にも、まだかなりの規定があり、農民は殊の外厳しい制約を受けていたものと考えられる。
一方農民に課せられた負担もたいへんなものであった。享和三年(
また、中野村や落合村の御成りの道筋中、石神橋、尾滝橋、淀橋掛け替えの時は、材木を深川木場より馬にて運搬したりした。
文久三年(
「――
別ニ取集方申触来候処、且は御場内ニ右品取尽し、
とあり、けらとか、えびづる虫、松虫、鈴虫などが、御拳場内の村々における租税の対象になっていた。すでに取り尽したため二、三里外まで出かけて採取するのはたいへんな負担であったと思われる。
『文化財をたずねて』(
尾張家御鷹場
前述の如く、寛永一〇年(
文政四年(
つまり、多摩、入間、新座三郡にわたる広大な地域で、寛政四年(
小榑村一四四七石のうち、約半分の七三一石が、米津氏の所領で、現在の西大泉を中心とした地域であった。
練馬区内では、この一角だけが尾張家の御鷹場に編入されていたのである。現在、大泉第一小学校内に現存する尾張家御鷹場の石杭には、「従是南北尾張殿鷹場」と刻されている。この境杭は、昭和初期ごろまで現大泉町の北端、旧押上に建てられていたものであるという。内野家文書安政六年「御鷹場御境杭控帳」によると、この石の境杭は、六九番新座郡下白子村字押上にあり、杭は午未(
鷹場の管理のため、御鷹方役所が江戸の尾張藩邸に置かれ、御鷹場吟味役と称する役人を置いた。
また、御鳥見衆と呼ばれる鳥見役については、『立川市史研究』によって、その職掌を簡単に記すると次のようである。
などを上げている。これらの目的を果すため、鳥見役を鷹場内の各地に分散して、豪農や旧家に長期間にわたって宿泊させた。
また、鳥見役の一部が、三郡下に設置された鳥見陣屋に常駐することもあった。
これら鳥見役の指揮を受けて、御鷹場御預り御案内役と呼ばれる村の惣代名主の者に、鷹場の管理の末端の仕事を担当さ
せた。『大和町史研究1』によれば、
御案内役を五地域に分け、各地区に一人ずつ置かれた。寛政四年(
地域 | 鷹場預り氏名 | 身分 | 預り村数 |
---|---|---|---|
狭山丘陵周辺 | 小川 東吾 | 小川村名主 | 五三 |
新座郡及び野方領周辺 | 高橋 覚左衛門 | (小榑村名主) | 三九 |
所沢周辺 | 粕谷 右馬之助 | 下清戸村名主 | 四三 |
川越領南部地域 | 船津 太郎兵衛 | 北永井名主 | 二四 |
拝島領地域 | 村野源五右衛門 | 砂川村名主 | 二三 |
右の表に見られる高橋覚左衛門とは、小榑村(
三十番神や八坂神社などを造営するなど代々繁栄したが、現在では絶家となっている。
御鷹野のための御殿を、最初は入間郡扇町屋(
寛永一〇年(
また、「源敬様御代御記録廿六」寛永一七年(
さらに、同年秋の一〇月七日にも再度野老沢に出向き、「膝折村、高麗彦左衛門宅御止宿、右ニ付、彦左衛門江銀子五枚被下之」とある。膝折(
その後、野老沢に休泊し、同一〇月九日には中清戸(
以上の資料からも、江戸初期より当地は鷹狩りと称して、しばしば尾張藩主の御成りの道筋になっていたことが理解されよう。
正保元年(
やがて、延宝四年(
「尾張藩主事蹟録抄」中に「享保四年(
宝暦三年(
この頃になると、鹿はほぼ取り尽くされたようだが、猪はまだかなり出没していたといわれる。
清戸の御殿が廃された年代が明確でないが、『新編武蔵風土記稿』によれば、「中清戸村此辺すべて尾張殿の鷹場なり、明和の頃までは、かなりの御殿など云もありしと云」と記されている。おそらく安永期(
以後、天明期(
平和台の内田家文書「天正十八年御入国より御府内並村方旧記」によれば「安永七戊戌(
次に「御鷹場御用留」北永井、船津家文書から、天明期の御鷹野の記録を抄出してみる。
<資料文>天明三年卯五月十三日、溝沼村(
天明三年卯十二月十一日、溝沼御成、御少休下練馬村光伝寺、御膳所溝沼村泉蔵寺、御野先田嶋村名主庄右衛門、御先騎取田孫左衛門殿、御部屋御用人五味織部殿、市ケ谷ゟ光伝寺迠弐里十四、五丁、夫ゟ溝沼迠弐里十二、三丁余り、
天明四年壬辰正月十三日、小榑村(
元文年間に鳥見陣屋が取り立てられ、以来藩主の御鷹野の時などよく休憩している。
鷹場内の村々では、その鷹場を維持していく上で、かなりきびしい生活上の制約を受けたが、さらに次のような負担が義務づけられていた。
以上が主な仕事だが、境杭の管理や、鷹役人の接待などの出費も馬鹿にならなかった。「尾州様御鷹場内惣村高帳」文政四年(
次に負担の実際について、一、二紹介してみよう。まず、荷物の運搬として、牛山家文書「御鷹場御用留」天保十一年(
また、連絡用の廻状の送達として、同牛山家文書、文久二年(
この高橋良三郎とは、高橋覚左衛門の孫に当る。覚左衛門―民右衛門―良三郎と三代御案内役を勤めた。
区内を横断する清戸道は、かつては鷹野に出向くための重要な道筋だったのである。中でも、尾張藩主の往来が最も多かったため、尾張家の鷹場外の村々でも、その道筋にある場合は、御成り時は道路や橋などの普請を課せられたり、また人足の徴発に応ぜざるを得なかったという。
本文> 節> <節>「みち」の起源は古く原始「けものみち」に初まるという。鹿が水を求めて通う路、人がその獲物を求めて追う道、こうした「こみち」から、人類が定住し共同生活を営み、原始的な物々交換や協業の末「みち」は自然と発達してきた。
既に古代の
鎌倉時代は幕府の軍事、警備に参加する通路として鎌倉みちがあった。区内には白山神社(
慶長八年(
伝馬のある本街道を指して往還といい、本街道に対して副道のような関係にある街道を脇往還といった。五街道は総て幕府の道中奉行が直轄していたので伝馬宿は領主と道中奉行の二重支配を受けていた。
練馬にはこれら本街道はなく、あるのは川越街道・青梅街道・大山街道・清戸街道・所沢街道などの脇往還のみである。脇往還はその土地の領主支配であった。
江戸時代の陸上交通特に街道の整備や制度の発達には参観交代と伝馬制度が大きな影響を与えた。参覲交代は幕府が諸大名に課した義務の一つで、原則として隔年交代に石高に応じた人数を率いて出府し、江戸屋敷に居住して将軍の直接統帥下に入る制度である。初め期限は定まっていなかったが寛永一二年(
伝馬制度は慶長六年(
中山道第一の宿駅は板橋宿である。宿には問屋場が置かれ、それを主宰する役人を問屋役といった。問屋役の下に年寄役があって問屋役を補佐し、更にその下に
江戸と川越を結ぶこの街道は中山道の首駅板橋宿平尾より分岐し、大山・上板橋宿を経て下練馬村に入る。下練馬宿は現在の区内に於て唯一の宿駅が有った所である。新編武蔵風土記稿に「当所は河越道中の馬次にして上板橋村へ二十六町、新座郡下白子村へ一里十町を継送れり、道幅五間、此道より北に分るる道は下板橋宿へ達し、南に折るれば相州大山道への往来なり」とある。
川越街道は此処から左に大山街道を分ち、石観音を右に見て、下練馬村の最北端を西へ、上練馬村北辺下赤塚村との境を通り上赤塚村から白子村を経て、膝折・大和田・大井と、川越へ至るのである。
下練馬は板橋宿ほどの規模はなかったが、宿駅であるので本陣・脇本陣が置かれていた。本陣・脇本陣は大小名公家などの支配階級が宿泊する旅館であるが、これらの者の宿泊がない時は、罪人を除いて一般民衆も宿泊させた。本陣・脇本陣の数は宿の規模によって異るが、下練馬宿の場合は夫々一軒が置かれていた。本陣は当初木下家が、後に大木家が勤めた。脇本陣は内田家であった。
画像を表示下練馬宿は
川越は室町時代扇谷上杉持朝の城下町として栄え、江戸時代に入ると常に徳川家重臣の封ぜられる所として重要な城下町であり、小江戸と称される程に栄えた。川越からは更に上州や秩父にも連絡していたので川越街道は脇往還としても重要なものの一つに数えられていた。さらに秩父三十四観音札所が江戸時代に繁栄すると、川越・所沢から吾野越えの正丸道が利用されるようになり、下練馬宿は秩父札所の順礼姿や大山詣の道者姿の人たちが往来した。
下練馬宿で川越街道と分岐した大山街道(
大山は別に阿夫利山ともいい山頂の阿夫利神社には太古の石劔を神体として大山祗命が祀られているが、神仏混淆時代のことで、これを石尊大権現と称し、
また大山街道は中山道をはじめ川越街道・青梅街道・五日市街道・甲州街道をほぼ直線で結ぶ間道でもあった。であるから大山・富士への信仰の道として大事な街道であるばかりでなく、中山道から直接甲州街道を連絡する商用の道としても価値と意義のある街道であった。
大山街道は信仰の道にふさわしく沿道には不動尊・地蔵尊・馬頭観音・或いは庚申塔や廻国供養塔など数多くの石仏が現存している。平和台四丁目に建つ馬頭観音塔には田無・府中・八王子など十数か所への里程が刻まれており、その方面への交通の要路であったことを窺わせる。また春日町二丁目には古くから通称一里塚と呼ばれる地名が残っており、子育地蔵尊と六十六部供養塔が祀られている。此処から川越街道の分岐点までは半里程しかなく、一里まで延長すると中山道清水坂に
達する。であるから大山街道は中山道清水坂上から始まると見ることも出来る。つまり中山道沿いの人々が大山参りの場合の里程を此処から測ったことが推測される。次の一里塚は此処から丁度一里の石神井町七丁目にあって、延享三年(大山街道と谷原村で交差して練馬のやや中央部を東から西に横断している街道を
今日でも清瀬市に清戸という地名が存するが、この道の終点は清戸である。この清戸道を此処清瀬市から逆に東へ辿れば、下保谷村(
「清戸道」という名称から終点が清戸であることに異論はないが、道は小榑村の西端四面塔稲荷で二俣に分かれる。清戸村は志木街道に沿って上清戸・中清戸・下清戸の三部落から成っており、更に下清戸の北に清戸下宿がある。四面塔稲荷で分岐した清戸道の一つは下清戸を経て清戸下宿に至り、他の一つは上清戸・中清戸に向う。何れを主とし、何れを従としたか今は詳らかでないが、『練馬の道』で若干その考察を行なっている。
近世の練馬は江戸時代も中期以降、消費地江戸へ大根その他の農産物を供給する近郊農村として発展して行くのである
が、その輸送のためにこの清戸道は専ら利用された。大根や蔬菜を満載して往った手車や馬の背には、帰路に町奉行支配下の江戸西北部の武家や町家の下肥を積んでこの道を再び戻って来るのである。こうした伝統は明治大正まで続いていた。別名「おわい街道」という有難くない名前を冠せられていたこの清戸道も練馬の農民にとっては江戸と練馬を結ぶ経済上不可欠の道であった。江戸時代を通じて小榑村・橋戸村以西は尾張藩の鷹場であった。尾張藩の鷹場御殿が延宝四年(
青梅街道は慶長一一年(
この青梅街道は甲州裏街道と呼ばれる以前、即ち甲州街道が整備されるまではむしろ甲州への主要道路であったが、甲州街道の整備と共にその往来は少くなり、石灰を運ぶ必要が出来たため産業道路として再び整備されたともいわれている(
この道は甲州街道の内藤新宿から分岐して中野宿・田無宿・箱根ケ崎宿を経由して青梅村へ至るのであるが、区内では竹下新田・上石神井村・関村を通過している。青梅街道本来の目的である石灰輸送に際しては伝馬送りが盛んに行なわれ、元
禄年間には「御普請為御用、白土武州上成木村・北小曾木村より江戸竜の口御普請小屋迄六十駄宛二十八度付届候」(関村には青梅街道第三の一里塚があったと言われ、また上石神井村には
青梅街道はこのような産業道路としての役割のほかに武州御嶽詣の人々の参詣路でもあった。天保五年(
関村には宿泊する者もいた模様で、関所の関を引喩して閉さぬ関と昼夜の賑いを謡っている。今も街道沿いに関のカンカン地蔵が昔時を物語るかのように立っている。
練馬と江戸を結ぶ主要道の外に、その幹線道路を結ぶ間道や、練馬と更にその奥の村落を結ぶ小道などがある。例えば上、下石神井村を通過する
また小榑村本照寺東脇から北へ、現在の大泉学園町を通り新座郡新倉村へ通ずる
区内には古鎌倉道の伝承をもった道がある。例えば青梅街道の関村付近(
中荒井村の清戸道から分岐(
この外、区内に現存する石造物・道標などには堀之内道・片山道・膝折道・牛旁道・白子道・子ノ権現道・戸田渡道等々の名前が見えるが、開発の進む現在ではこれらの道も名称のみを残して古い歴史の中に埋没してしまいそうである。
参覲交代の制度ができ、江戸と地方との交通が頻繁になり、人や荷物を輸送、中継する人馬が不足してくると、その補充のために宿駅付近の郷村を選んで所属を定め、常時宿駅補助の人馬を出させるようにした。このように賦課された村を
元禄二年(
江戸五街道の第二位といわれる中山道の各駅は常置人馬「五十人五十疋」と定められていた。板橋宿から二、三里の範囲内にある本区の大部分の村々はこの宿の助郷に指定されている。文化三年(
中村 六三石
土支田村 二五三石
谷原村 八五三石
中荒井村 一三五石
下石神井村 六二三石
上練馬村 二、六二六石
資料文>六か村の合計は四五五三石となる。助郷高は村高を標準として、更に各村の事情を考慮して決定されたものであるから村高必ずしも助郷高ではなかった。下練馬村は板橋宿に最も近い位置にあるが、川越街道下練馬宿を抱えているため板橋宿助郷には含まれていない。
助郷の負担は当初高一〇〇石に付人足二人、馬二疋であったのが享保六年(
上練馬村 高松組中野宮組 七七一石
上練馬村貫井組 四九六石
下石神井村 六二三石
下土支田村 一、〇九七石
中村 六三石
上練馬村田柄組 七九六石
谷原村 八五三石
上土支田村 一、四三五石
中荒井村 一三五石
加助郷之分
田中村 五〇〇石
上白子村 二〇五石
上石神井村 一、三六九石
小榑村 一、一一〇石
資料文>右のように約五〇年間で村数、勤高共二倍以上に増加した。その後明治二年五月東京駅逓役所からの通達(
土支田村は宝暦六年(
板橋宿助郷のうちで近郷村々が大動員されたのは何と言っても文久元年(
前述のように練馬の諸村は大部分が中山道板橋宿の助郷であったが、関村のみは多摩郡の諸村と共に甲州街道高井戸宿の助郷であった。甲州街道高井戸宿は元禄年間に内藤新宿が開かれるまで甲州街道の首駅として江戸日本橋に直通していた。甲府は幕府の甲州郡代の所在地として重要な地であると共に、そこから更に信州伊那方面へも通じていたので、この甲州街道は幕府役人の交通にも多く利用された。しかし街道としては東海道・中山道に比較すれば交通量も少なく宿駅の設備も劣っていた。また参覲交代の諸侯もわずかに信州の高島藩・高遠藩・飯田藩の三侯に過ぎなかった。
高井戸宿の助郷高は当初一万二二五四石四斗であったが、天保以降幕末には総高九〇二〇石に減少し、助郷村は三五か村
で甲州街道を挟んで南北二組に分れていた。南組は高二六三七石で世田谷村外一一か村、北組は高六三八三石で関村外二二か村であった。組高の相違で月々南組は九日間、北組は二一日間を勤めることとしていた。又高井戸宿は上下高井戸村二か村一宿の定めであって、月の前半一五日は下高井戸村、後半一五日は上高井戸村で継立てることになっていた。常備の人馬数は人足二五人、馬二五疋であった。甲州街道の宿駅には高井戸宿の江戸寄りに内藤新宿があった。内藤新宿は元禄一一年(
甲州街道内藤新宿古来助郷
高壱万弐千弐百七拾九石 村数弐拾四ヶ村
武州豊嶋郡
高 六拾四石 板橋宿 加助 中村
高 五百参拾九石 板橋宿 加助 田中村
高 五百弐拾七石 高井戸宿 加助 関村
高 千百五拾三石 板橋宿 加助 下石神井村
武州新座郡
高 千四百四拾五石 板橋宿 助郷 小榑村
(
このように内藤新宿へも五か村が出役しており、しかも一宿の助郷だけではなく、他にも加助郷などの名目で出役を命じられていた村々であった。
関村では文久三年(
北組二三か村は元来御
斯様に助郷制度は街道によって生じ、街道は助郷農民の犠牲によって維持整備され、その機能を発揮することが出来たのである。しかし助郷の出役は主要街道のみで、脇往還に出ることは極く稀れであって、まして裏街道や間道などは全く助郷とは無関係であった。練馬の農民は助郷出役に喘ぎつつも僅かな出役非番の日に生活を支えるための農作物に全力を打ち込み乍ら村内の農道や生活道を守ってきたのである。
本文> 節> <節>寛政四年(
乍恐以書付奉申上候
一、郷蔵 壱棟
但 梁間 弐間 桁行 三間半
右者兼而被仰付候貯穀郷蔵今般名主綱五郎後見父金次郎一手之出金ヲ以、同人居屋敷内江書面之通取建此節中塗迄出来当月中上塗其外共皆出来仕候筈、尤蔵敷御年貢之義者綱五郎弁納仕候、依之此段御届奉申上候 以上
武州豊島郡土支田村
午三月廿日 上組小前惣代
百姓代 藤五郎
村役人惣代 名主 綱五郎 後見
父 金次郎
大熊善太郎様 御役所
覚
御加
一、籾 九斗九升五合四勺 天明八年申より寛政二年戌迄三ケ年分
一、稗 四拾四石三斗八合同申より午迄拾壱年分
右者書面之貯稗穀之儀者寛政十一年未年、麦作不作ニ付一統夫食ニ差支難儀仕候ニ付、御下ケ穀奉願上候、格別之御慈悲ヲ以、御下
ケ穀被仰付難有奉頂戴候、尤去々亥年より五ケ年ニ請戻シ被仰付候間、亥年分去子九月三日、御普請役藤井信五郎様御見分奉請候処相違無御座候一、稗 八石八斗六升壱合六勺 亥年分
此俵拾八俵 但五斗入拾七俵三斗六升壱合六勺入壱俵
一、稗 八石八斗六升壱合六勺 但し子年分
右同断 拾七俵
同 壱俵
残弐拾六石五斗八升四合八勺 是迄ニ積戻シ候分
右者書面之通相違無御座候以上
文化二年丑二月 豊島郡土支田村上組
年寄岩次郎
年寄利左衛門
百姓代 孫市
大貫治右衛門様、御役所 (
また豪農の中には、自家用の稗蔵もつくり、「へーくら」と呼ぶ小さな小屋がいくつかあったという家もある。
慶安御触書にも「飢饉の時を存出し候へば大豆の葉、あつきの葉、ささけの葉、いもの落葉等、むさとすて候は、もったいなき事に候」とあり、穀物以外でも食用となるものは草の葉、根、木の実までも貯えさせたことがわかる。「吹塵録」でも「村々貯穀之事」と題して次のように記している。
<資料文>勘定方をつとめしものの話に曰く、徳川氏領内村々貯穀と唱ふるは囲米・詰米の外にして人民に属するものなり。其の貯品は米麦雑穀其外土地の宜きに随ひ貯蓄せしめ、代官之を管理し凶荒にて糧食欠乏の時は貸与し、年賦を以て詰戻さしめ、平年には腐損せざる前に新穀に交換す。其損失費用等村方にて負担す。其倉廩を郷蔵と称す。郷蔵の改築は村費なりといへども、其木材は官林より恵
与するを例とす。此貯穀年々十二月晦日の有高を各地方より届出しめ、勘定所にて総額を計算し、勘定奉行の一覧に供する事なり。其大数及び賦課の方法に至りては記憶に存せすといふ。 資料文>以上の記事によれば、郷蔵をつくる費用や土地は村持、毎年定められた量の貯穀をなし、俵のいれかえをして、虫くい、腐敗等で不足の時は補充してその貯蔵量を報告する。もし不作があって困窮の時は、小前百姓に割渡されるが、その分は年賦で返納してゆき、常に一定量の貯穀がしてあるようにする制度である。
こうした一連の方法を証する文書が板橋区の安井家(
こうした幕府の政策も、当時の流通の悪さ、悪徳代官や商人の跳梁等もあって不十分であり、不作は武士にとって一番大切な年貢納入の妨げとなるので、何とかして納入年貢の確保をしようとした苦肉の策とも言えようが、農民にとっていざという時の準備として大切なものであり、毎年同じ量を積立てる苦労もまた大変であった。
農作にとって一番大切な要素は天候である。練馬区内の場合四筋の河川と、一本の用水、その他は台地という地形上水田は少なく、また下田が大半で、米作はそう期待はできない。灌漑用水も川をせきとめて、その水を分流させ台地の縁辺に用水堀を通す(
「武江年表」によって徳川中期以後の関東一帯の大雨、大風をひろってみると、
<資料文>享保一七年(
同一八年(
寛保二年(
延享二年(
寛延二年(
宝暦七年(
明和七年(
同八年(
安永元年(
同八年(
天明三年(
同年(
天明四年(
同六年(
同年(
同七年(
寛政三年(
同五年(
同一一年(
文化五年(
八月、雨繁く降り大雨二回、洪水。
同六年(
同八年(
文化一一年(
同年(
文化一四年(
文政四年(
同五年(
文政六年(
同七年(
天保年間(
幕府はこの他に破免と言う実収高による年貢の割当法、種貸、肥料貸等を行なっていたが、困窮した農民の救いになる程のものではなかったと言えよう。明日食べる物もない有様では、そうした方法は役に立たず、ありとあらゆる食用可能のものを食べるより仕方がなかったわけである。
野草の葉、莖、根を粥にまぜて食べるもの、主食である米、麦、雑穀に代って山芋、さつまいも、わらび、竹の実、葛の根、むかご等、ほかに、糠、ふすま、かしの実、どんぐりの実、栃の実等を粉として食べ、また貯蔵した。幕末から明治にかけての飢饉の際、下練馬村の新井水車では、楢の実(
羽沢の奥津家に伝わる書類の中に「餓ヲ除方」「毎歳風ノ吹年、不吹歳ヲ知ル法」というのがあって如何にこの事について苦労していたかを知ることが出来る。
天候予知の法としては、
こうした事のため石臼は大切なものであった。雑殼以外でも屑さつまいも、屑大根、屑人参の切干、大根の干葉、芋がら、ずいき、等は立派な食料であった。
しかし、気候不順や災害への対処を怠ったわけではなく、農家の各種行事にはほとんど、災害除け、豊作を祈らないもの
はない程である。年中行事としては正月の氏神まいりに始まり、初荷、節分、初午、繭玉、春祭り、麦の刈上げ、植付け祝い、雨乞い、七夕、雨ふり正月、お盆、粉ばつ、十五夜、十三夜、村祭り、稲の刈上げ、麦まきしまい、荒神さま等は農事に関連をもつ行事であり、天候や病虫害に対しては大山、榛名、武州御嶽、木曾御嶽、富士、弁天、水神、氷川、八坂、第六天、秩父、稲荷神社等の信仰があり、江戸時代から講の組織も確立している。農家にとっては更に病魔におかされることは労働、助郷、年貢にさしつかえる第一であるから、身体健康、家内安全の祈願は各地で行なわれ、庚申信仰や、絵馬信仰、地蔵信仰、念仏講や題目講等、神仏にすがる以外に方法のなかった農民生活を示していると言えよう。 本文> 節> 章> <章>江戸の尨大な需要を対象とした蔬菜生産は江戸近郊農村の重要な産業になって行ったが、その増産には、肥料特に金肥の必要性を来し、江戸市中への下肥汲取り、糠と灰の購入が必要となった。結局、練馬の農村も貨幣経済にまきこまれ、次第に中農がなくなり、地主と小作人という二つの階級になってゆく。肥料を現金で買えない貧農らは、肥料商人の前貸しに頼って、農作物をつくるのであるが、その生産物は貢租の上納と、肥料代にあてられ、赤字になることも多かった。作物の出来不出来、価格の変動は安定した生活を保証することが出来ず、
そうした状勢のなかで、農民の騒動も多くなり、練馬においては、唯一の大名領小榑(
こうした幕府のお膝元―関八州の治安の乱れに対し、幕府は無関心ではいられず、江戸市中では「火付盗賊改め」を置き、火事場泥棒、火付け、盗賊、博徒への警戒や検挙にあたっていたが、江戸の拡張につれ、その範囲は広がっていった。しかしそれは当然外縁部のみで、近郊農村では鳥見役人の巡廻、また穢多非人などに手当を出して、軽犯罪の取締りにあたらせたが、とても百姓一揆のような大集団には対抗することが出来なかった。
享保一九年(
寛政四年(
文化文政の頃、関東の状勢がさらに悪化すると、出役の一〇人では間に合わず、村々では自衛のため浪人を雇う一方で、村人が武芸を習う等も行なったが、もともとこれらは禁止事項であった。文政九年(
取締組合村の設置は悪人を逮捕する人数の確保、費用の負担等をその組合村全体で高割にして農民の負担平均化をはかるのが目的でその編成は、領主に関係なく、隣接町村で編成し、約四五か村をもって大組合とし、その中を、村の大小、村高の多少によって三か村から六か村のグループに分け、小組合とした。村高の多い中心的な村を
大惣代 | 小惣代 | 小組合村 | |
---|---|---|---|
上板橋村 | 徳丸本村 | ― | 下赤塚村、徳丸脇村、西台村、上赤塚村、四ツ葉村 |
蓮沼村 | ― | 前野村、中台村、根葉村、志村、小豆沢村 | |
下練馬村 | ― | 上練馬村、土支田村上組、同下組 | |
長崎村 | |||
雑司ケ谷村 | ― | 下戸塚村、早稲田村、池袋村、中丸村、新田堀之内村、中里村 | |
上板橋村 | ― | 金井窪村 |
これによって、東部の下練馬・上練馬・上下土支田村が、上板橋組に入った事は、以上のように徳丸本村名主「安井家文書」によって明白である。
その他の村々がどの組合に入っていたのかは明確でないが、『中野町誌』や『東久留米市史』にのせられた資料によってまとめると次の表となり、その大要を知ることができる。
また、天保一一年(
組名 | 村数 | 石高 | 家数 | 一給村数 | 二給 | 三給 | 四給 | 五給 | 六給 | 七給 | 八給 | 九給 | 不明 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
中野 | 四〇 | 一二、一八一、一四六石 | 二、七四七 | 三二 | 六 | ― | ― | ― | ― | ― | 二 | ― | ― |
田無 | 四〇 | 一九、三一〇、〇三〇石 | 三、一七三 | 三七 | ― | ― | ― | ― | ― | ― | ― | ― | 三 |
上板橋 | 二六 | 一九、二五九、三三七石 | 三、一八三 | 一四 | 五 | 二 | ― | 三 | ― | ― | ― | 一 | ― |
大和田 | 三三 | 一二、三〇〇、六二五石 | 二、五六五 | 二八 | 五 | ― | ― | ― | ― | ― | ― | ― | ― |
また各組合村の内訳は次の通りである
<資料文>中野村組合村 四〇ケ村 大惣代 中野村
豊島郡(
多摩郡(
田無村組合村 四〇ケ村、大総代 田無村
豊島郡(
新座郡(
摩多郡(
組合村は、従来の領、筋等の行政区画や鷹場組合等を分割、再編成し、大惣代、寄場役人を八州廻りに直結させ、関東全域の農村に対する幕府の強力な一元的支配を目ざしたものであるが、文化一二年(
享保九年(
上練馬村(
「大泉今昔物語」には享保一四年(
乍恐書付小榑村百姓御訴願申上候
数年御年貢并諸掛小物割合名主源右ヱ門此度去申年段々不届成致方にて困窮之百姓共身上相江不申候付無拠当三月十九日池田喜八郎様御役所江御前書の通御訴状を以て御訴願申上候 (
名主源右衛門の時、他の実力者との勢力争いがあって、年貢割当て等に不正があるとの訴えである。その後九月一三日
「覚文」、一〇月「乍恐書状」、明一五年五月一日と三月、六月と「乍恐書状」がつづき、六月に名主対反名主双方により内済となった旨の口上書が残っている。九月一三日の「覚」によれば、畑方御年貢納め過ぎの分、御拝借金三両も必ず分配返金する、田方割合も来月五日迄にすませる旨の念書を名主方は出しているが、その後も代官地と米津領との田畑混在、上田六畝に関して検見水帳と申告面積の相違があるとか、再吟味の際名主が病気で出頭せず引のばしを計ったとか、いろいろあったが、結局は名主を二名制にすることで解決している。こうした紛争は、練馬区においては天領で見られる傾向で、その後も下練馬村や上土支田村に起っている。享保の改革は幕府の財政の建て直しと人心の一新のため、農業の方面でも新田開発、河川改修、産業振興等に力を注いだが、自給自足の経済を基礎におく秩序は、土地生産力の行詰りと貨幣経済の発達によって破壊して来たわけで、農民の間に現状打破の動きがあらわれて来たわけである。下練馬村の出入訴訟一件も同様の原因で起こり、更に新しく小前百姓代表の村政参加が認められるようになって行く過程とも考えられる。寛政三年(
しかし下練馬村出入訴訟一件は、その年の一月晦日、同村今神願人百姓より出された「入置申頼証文之事」から始っている。この文書は同村名主作左衛門、伜加藤次(
寛政三年 下練馬村・村役人小前百姓出入証文
(
乍恐以書付御訴詔奉申上候
豊嶋郡下練馬村
百姓弐百拾五人惣代
百姓 安右衛門
訴詔人 甚五兵衛
〃 源五右衛門
〃 源兵衛
権威強私欲押領仕候出入
同村
名主 作左衛門忰
相手 嘉藤治
年寄 久兵衛
〃 四郎兵衛
〃 弥右衛門
〃 孫右衛門
〃 三郎兵衛
〃 伊右衛門
〃 九兵衛
〃 甚五右衛門
〃 権兵衛
右訴詔人百姓弐百拾五人惣代
安右衛門甚五兵衛源五右衛門源兵衛奉申上候、名主作左衛門義及□裏ニ六七ケ年以来同人忰嘉藤治義名主役御用向村用共諸事取斗来り候得共、右加藤治義平日権威強小前相掠其上年寄共と馴合私類押領仕候始末左ニケ條ヲ以願奉申上候
一 去戌十月中村々夫食種麦籾代農具代不作夫食代不作之節拝借被仰付候所近年不作打続返納難義之趣被及御聞之由ニ而格別御救之思召ヲ以右返納残之分不残去ル戌年ゟ一統三拾ケ年賦返納被仰付去々酉年より納返相成候分者去戌十月中御役所様ゟ村々江御割返シ被成下之趣今般及承リ重々難有仕合ニ奉存候、尤隣村組合村々義者其節早速小前江御割返シ有之候由承知仕、然所当村之儀も不作之節先達而夫食籾種代御拝借仕罷在候処、去々酉年分返シ上納仕候ニ付当村之儀茂外村同様御割返し可有御座候と奉存候処、今以小前江一向割返シ無之候ニ付村役人共江得割返シ呉候様再応懸合候得共如何相心得候哉名主年寄一同馴合彼是申紛シ今以一向割返呉不申甚難心得奉存候、此段御吟味之上早速小前江割返シ候様ニ被仰付被下置度奉願上候事
去戌十二月十五日百姓安右衛門義御年貢御皆済仕度名主方江参リ納辻相分り不申候間御割付拝見仕度旨申入候所、御割付者拝見不為致候ニ付、尚又百姓代惣左衛門甚兵衛右両人ヲ以申入候得共六七ケ年以来御割付小前之者共得者一向為相見不申其上右之義を
一 御成之節御用人足前々ゟ我等共義相勤来リ年々御扶持米頂戴仕難有仕合ニ奉存候。然所去酉戌両年分前之通御用人足相勤候得共右両年分御扶持米小前江割渡不申全村役人共割合私欲押領仕候儀者甚歎敷奉存候。此段御吟味奉願上候事前書之通り少茂相違不申上全躰嘉藤治儀平日役儀之権威ヲ以無謂小前相掠其上年寄共馴合諸事取斗ひ方難心得義共数多有之候ニ付惣百姓一統可奉出訴処、名主年寄親類身分之者数多有之大村之儀一同之願早速ニ者相決不申左候ニ者銘々村内治り不申殊ニ悪例年初ニ而騒動之基ニ候と一同歎敷奉存候間、仍之私共弐百拾五人惣代ヲ以無是非今般御訴詔奉申上候何卒以御慈悲ニ前書相手之者被召出御吟味迄御上様ゟ被下置候品者早速小前江割返シ以来右躰之儀不仕正路ニ相勤村内無難ニ相治り候様奉存候、尚亦委細之始末御尋之上乍恐口上ニ而奉申上候 以上
武州豊嶋郡下練馬村
百姓弐百拾五人惣代
寛政三亥年 百姓 安右衛門
二月 〃 甚五兵衛
〃 源右衛門
〃 源兵衛
伊奈右近将監様
御役所
(
更に三月一六日、前湿化味の徳兵衛、宿湿化味の三郎兵衛、今神の宇右衛門、早淵の五右衛門、宮ケ谷戸の長五郎が加藤次について訴え通りであると証言している。
七月四日、一〇八人の総代、安右衛門、甚五兵衛、一〇七人総代源五右衛門、源兵衛の追訴願で、誰が何処に集って相談、連絡したかの問いがあったが、これに対してはそういう事実はなく、各人申し出る所、同じ内容でもあるし、ひとりひとりの訴えは禁止されているので二四三人の総代として申し出ただけでだれかが中心となったということでは絶対ない、どうか横暴な村役人をやめさせ、納めすぎの金を一同に返してほしい、と申し出ている。
七月四日、戍年お成りの時のかかり六両二朱銭八四貫一二六文の取戻しが出来た。また種籾代一六両三分、永三七文七分の取戻しが可能となった。米四四俵二斗一合、細目糯、細荏、大豆、荒稈代米は名主から取戻せることになった。小前
から掠めたものは全部返してほしいと申し出ている。九月二二日、甚五兵衛の出頭通知に際し、病気のため出席できない。私安右衛門が代理出席する。何でもお答えする。
一〇月過納取立の分は嘉藤次弟儀平次に渡すとのことであるが、安心出来ないので、二四三人の分は一件落着まで私共へ直接渡してほしい等、こまかな願書も出されている(
このあとすぐ、伊奈家は没落するのであるが文面から見れば解決の方向に向ったことがわかる。平和台の内田家文書には、その「村方旧記」の中に、「寛政三亥、重見安左衛門願出ニテ作左衛門并嘉藤次年寄九人相手取出訴いたし、村中騒動に及び、長々出入の所、内済となり作左衛門隠居、年寄の内孫衛門、四郎兵衛、三郎兵衛、孫右衛門、年番名主組頭となり、半よりは長五郎、早淵権兵衛が年番名主となる」と記している。この頃より関東郡代の弱体化もあって関東各地が騒然として来るが、天保三年(
米津伊勢守政武は、徳川一六将の一人藤蔵常春の一族であるが、段々と加増され、父出羽守
天保三年(
欠所事件から四年、天保七年(
今川とは桶狭間の戦いで織田信長に討たれた今川義元の子孫である。義元の孫範秀は殿中の儀式、典礼、朝廷との交渉、日光・伊勢の代参等を司る奥高家衆になっていた。正保二年(
天保七年(
「文政十年以来、度々御用金を借りあげられるが、少しも返済がない。その上、天保二、四、五年と三回も凶作がつづき全く余裕がない。免除してもらうか、延期してもらうかどちらかにして貰うよう皆でお願いしよう」ときまって、各村に同調方をひそかに呼びかけた。直訴となれば天下の御法度、重大事であるが、四村の小前百姓は遂に立ち上った。
天保七年、四月六日、小前百姓一同は江戸小川町雉子橋通りの今川家に押しよせ、御用金免除の事をお願いした。驚いた今川家では一まず「一村三人ずつ来るように」と言って帰したが、農民たちはその帰途高田馬場で代表者選出の会議を開いた所、皆のために犠牲になって死を覚悟しなければならないだけに、なり手がなかったので、結局くじ引きで上井草の源兵衛以下一二人をきめて、翌七日今川家に出頭、願い筋を申し出た。
四月一四日より、内藤隼人正の出頭命令があり吟味が行なわれた。その後の経過はわからないが、古老は、取調べは観泉寺の境内で行なわれ、縄つきで連行されて行ったと話している。座敷牢、村預りの様子である。
取調べは勘定奉行公事方関東取締役が用人や代官を指揮して行なったようで、もし今川家に落度があれば、今川家も罰せられるところから、何とか穏便にということになって、
しかし天保九年(
天保一二年(
天保一二年一二月二〇日、百姓庄次郎以下一五名のものが、百姓代幸左衛門、年寄四人を訴訟人として名主金治郎、年寄文五郎を山本大膳御役所宛に訴えている。その概要を記すと、
天保一二年一一月二四日、御役所出訴に先立って、上石神井村仲右衛門、平蔵、上白子村忠右衛門(
以上の事がきめられたなら、金治郎は老齢でもあり、退役して、跡目の名主役は村方一同で相談、入札で高点の者が来年まで勤め、それから順に勤めるようにする。もし三分の二(
として上組の一五人を代表して百姓代幸左衛門、年寄二人代表三左衛門、同村名主金治郎、年寄文五郎、小前八〇人代表百姓代利八郎名で差出している。何故こうした文書を隣村名主に出したものかわからないが、恐らく隣村にもお調べや影響があるかも知れないという配慮からであろうか。訴訟上敵味方となる者が何故連名して出しているのかわからない。訴状は一二月に入って出され、百姓代幸左衛門を中心として、年寄四人(
尚年寄文五郎はどうしても連印しない。これは金治郎と馴合いの者と思われるので一同是非なく訴えたものであると申し出ている。
そして、一二月二五日には御役所の山本大膳より翌一月五日罷出て対決すること、不参の者は「越度」とするという書状が届いている。
その後の経過はわからないが、二年後の天保一四年(
こうして天保一四年七月五日には村を二分した騒動は幸左衛門方一七人、文五郎方八〇人の間に和談が進み、内済の証文が「差上申済口証文之事」としてまとまっている。しかし経過としては、金治郎名主退役の後、年寄文五郎、常次郎が一〇日毎に帳面を預る筈の所を、文五郎方に引きとめ、名主役後任の入札をすべき所、引きのばし双方争っていたが、双方から
名主役を一人づつ出し、年番で勤めることとし、金治郎方は忰綱五郎(なお、その証人引受人として田無村名主半兵衛(
この出入一件は村政の発展のために効があったと思えないが、村役人に対する不平不満が原因であり、ある点については小前百姓一同の願いがこめられている。寛政三年の下練馬村出入一件と類似の点もあり、下練馬村の出入証文が東大泉の加藤家にも残されている所に何か関連があるかも知れない。他村の成功例を参考にした一件であったかも知れない。各村ではこうして村役人の入替や諸入費の取扱等に小前百姓の発言力が高まってきた事を示している。
松平定信の寛政の改革も結局は、土地生産力の行詰りと貨幣経済の発達によって充分の効果は上げられなったが、さらに文化文政の腐敗、混乱を経て、新しい制度を望む声は次第に多くなり、江戸近郊である練馬の農村でも例外ではなかったことは前述の通りである。
それでも幕府は最後の望みをかけて、老中に水野忠邦を起用して天保の改革を行なった。
「御改革の儀、御代々之思召は勿論之儀、取分享保、寛政之御趣意に不違様思召候に付何れも厚く心得可相勤也」と天保一二年(
今般御料所御改革之儀被仰渡品々御世話も有之候ニ付、当田方検見は勿論定免村々並荒田畑取下流作場等見分之上、追々小前帳村
絵図村人用為取調手附手代共差出自分も廻村致し候得共、右は素ゟ御改革と申新規ニ御法を建無謂一概ニ御取箇を取増候様之筋ニは決而無之畢竟近来百姓共奢侈ニ超し身元相応之ものは花麗風俗を好、結構之住宅を補理、無益之諸道具を集右ニ准シ小来之風俗ニ立戻り安穏ニ永続致シ候様ニと之難有御趣意ニ而且又田畑一筆限耕地小前帳ニ引合荒地取下場等も可成丈本免ニ復し候様可致は勿論之処畢竟支配致役所之世話も不行届故畝畔紛乱致し荒地等出来又者起返し候而も有躰不申立其儘ニ相成居候哉之趣ニ付、右様之場所は相改尤地所不相当ニ高免之場所は引下ケ候様ニも被成下、いつ連ニも上下明白夫々村柄、地味相応之御取箇ニ相成候様ニと之是又難有御沙汰ニ而無躰ニ御取箇を増可申訳ニは曾而無之万端不行届之段は支配ニおいて恐人候儀何事も有躰申上候得は是迄之不束は格別之御宥免も有之、元来切添切開と申も事実は隠地ニ而至而重き不届ニ有之其訳は天下之御地面を内証ニ而作取ニ致し或は荒地等起返候も申紛し隠置候は無勿躰事ニは無之哉、一躰百姓は国之元ニ付町人ゟも身分上ニ立、町人は奢候而及零落候共潰次第ニ候得共、百姓困窮致し候得者御手当被成下又は貯穀其外凶年不作之節者夫食農具代拝借等被仰付、前末々迄もうまき物をたべ、よき衣類を着し男女共髪飾等ニ心於用ひ近在は別而江戸風儀を見習ひ都而農家不似合之躰ニ成行如乱驕り候而者村人用も多く相懸り自然懶惰と申なまけものニ相成農業を嫌ひ田畑山林之手人も等困ニ相成候故、作徳薄く御取箇も減村柄衰ひ困窮致シ終ニ潰百姓も出来上下衰微之基ニ付、流弊御改革とは右様之風儀を改免候事ニ而質素淳朴と申古へは布木綿之外不着、わらを以髪をゆひ候程之ものに付何事もつゐへをはふき、村人用を減古品々相続之御世話も有之候処、前書之通、不正取斗致し置たとへ不顧候共上を掠免不届之徳分を以其身は勿論子孫末々ニ迄繁昌永続可致道理は無之其所を能々弁別いたし此難有御時節何事も正路ニ申立取調請候得は国百姓可為難儀之筋は毛頭無之候条右之通申聞候上ニも心得違致し不正之取斗有ミニおゐては支配ニ而茂公儀江御□□儀致し百姓をかはひ候様ニは難成候間無拠上向江申立厳重ニ御沙汰ニ可相成其節ニ至里何程先非をくやミ候而も無詮事ニ付小前未々迄公得違無之様壱人別厚申聞此廻状村役人宅江急度張出し置可申もの也。 (
卯
八月九日 大 善太郎
(
「今般御改革の儀により、検見等のため各村を廻るけれども決して税を多くかけようというものではない。近来百姓共奢侈に流れ、身分相応の者は華美な風俗を好み、結構な住居に入り、無益の諸道具を集めている。これに準じて小前以下の者までうまいものを食べよい着物を着て男女共髪かざりに心を使い、近在の者は江戸の風儀を見習い、すべて農家のようでなくなり心おごっているので、村入用も多くかかり、自然なまけるようになり、農業もきらい、田畑山林の手入れも怠り、作も少く収穫もへり、村が衰えてつぶれ百姓等も出来て、上下衰えの基となっている。御改革はそのような風儀を改め質素淳朴とし、昔は布木綿の外は着ず髪はわらで結ぶ様であったが、それにならい何事も費用を省き村入用もへらし、昔の風にかえれば安穏であるという有がたい御趣意から、質素倹約をするようにしたのである」と、改革の有難さを強調しているが、時代の流れである農民の生活向上をおさえ、最低生活をおしつけたものであった。
貨幣経済の波にまきこまれた農村にはこうした法令も効果は少なく、かえって反感を高めるばかりであった。
本文> 節> <節>嘉永六年(
嘉永七年二月にこの方面に出された「浦賀表異国船渡来ニ付」の文書に対する村々の請書は次の通りであるが、幕府の村々に対する指示の様子がわかる。
<資料文>差上申一札之事
今般浦賀表江異国船渡来ニ付宿村々為御取締被成御廻村左之通
被仰渡候
一 異国船渡来候而も海防之義者厳重御手当有之候間一同安心いたし諸事平穏ニ農業家業精を出し勿論宿村内昼夜役人共見廻リ火之元念入自然無宿悪党之もの等立入候節召捕押方兼而手配リ申合役人ゟ合図次第壮健之もの共出会捕押早々御役所江訴上若手余リ候ハゝ打殺候而も不苦候
一 役人共者不及申小前末々ニ至迄御用又者要用者格別猥ニ他行致間敷異国船見等ニ罷出候義者猶更不宜義ニ付此段相慎可申候
一 穀屋其外之もの共心得違ニ而米買メ等致候而者以之外成事ニ付右様之義無之様役人共ゟ時々申諭高持百姓共作徳米所持いたし候にも其者丈之夫食手当又者村内窮民共救之ため除置候者格別其余売払可然分者早々売払米穀囲持不申様可致候尤役人共方江米穀所持高出穀入穀高等時々為相届猥ニ直段不引上様厚申諭万一不入分之米穀買入候歟又者囲持候もの有之候ハゝ其子細相尋其もの名前早々可申上候
右者追々御役所ゟ御触達も有之候へ共今般御廻村厚御教諭ニ付小前末々ニ至迄不洩様申達心得違之もの無之様可仕候依之御請印形差上申所如件
嘉永七年寅二月十五日 下板橋宿
上板橋村
下練馬村
上練馬村
上赤塚村
下赤塚村
徳丸本村
同脇村
西台村
右村々
下板橋宿江罷出候
勝田次郎様御手附
岡本孫一郎様 御廻村先ニ而差上
(
江戸市中はペリー来航で緊迫し、動揺・混乱の末、流言もとび、諸物価が急騰した。いざ戦争かというわけで武器をととのえ、米も梅干も二倍の値段になり、また住居移築等のため左官、車力、かごかき、舟宿等が忙しくなったという。
<資料文>太平の眠りをさます じょうきせん たった四杯で 夜もねられず
具足より利足のたかい世の中に 御手当どころかすねあてもなし
よくきたな アメリカさまと
歯がいいと 草葉のかげで
―『東京百年史』より―
資料文>こうした落書に江戸の混乱を見ることが出来る。また六月一〇日、回向院に国府阿弥陀如来の御開帳があって、一〇月まで延六十余日つづいた。「異国船渡来につきとして剣難よけと鉄砲玉に当らない護符を出し大あたりした」と武江年表に記している。当然市民の疎開騒ぎもあって、江戸近郊の農家の座敷を借りるものが出て、座敷代が急に上ったというが、こうした伝承は練馬では聞いていない。しかしこうした騒然たる世の中に盗賊も横行するので、警戒を厳にし、もし手に余れば打殺しても仕方がない。米の売惜しみ等せず仕事に精出すようにとの触書がまわり、その請書が各村から出されたわけである。
泰平の世を大変にゆりかえし 上もゆらゆら 下もゆらゆら
と、開国にふみ切るまでの混乱を諷した落書もあるが、幕府、諸大名は新しい時代に対処するため、特に軍事技術の導入をはかり、政治の改革を始めた。講武所の設置、槍術、剣術、砲術、銃隊練習等が行なわれ騎兵隊も整備された。運動会でよく行なう騎馬戦というのは、人の馬にのって、風船割りとか、帽子とりをするのであるが、この頃よく行なわれたのは、白赤の源平に分れた騎馬兵が甲胄に似せた竹具足を着て、兜の前立てに
安政四年には西洋銃(
蕃書調所の軍艦教授所の開設、造船所の建設、大砲、火薬の製造も行なわれる。火薬製造は人里はなれた郊外で行なわれる事が多く、不なれのため事故も起しやすい。安政元年だけでも、一〇か所近くで大爆発を起している。米つきのための水車が慣れない火薬つくりに転向したためである。
こうした中に、安政五年(
こうした時に時局拾収の奥の手となったのが、公武合体論であり、皇女和宮の将軍家茂への降嫁問題である。既に有栖川宮への婚約が整っていた和宮にとっては意にそわないものであったが、朝権の回復と攘夷の断行という長年の希望が達せられるという約定によって国内統一の捨石として降嫁の勅許が下されたと解している。
この和宮降嫁は幕府の人質政策として流布され、東下の行列を途中襲って、宮を奪還しようとする計画もあるとされ、出発時期もおくらせ、路も中仙道を通ることになった。文久元年(
練馬地方の村々はこの行列の中仙道通過によって板橋宿助郷は豊島、新座、足立、多摩、埼玉の各郡二一八か村、数万の農民に及び、八月九月の農事の最も忙しい時期の道普請をはじめとしてさまざまな仕事を命じられた。七八五六人、馬二八〇頭の空前の大行列は、一一月一四日板橋宿到着、一泊の後、九段の清水邸に入るというこの前後にはさらに、数万の農民が動員されたわけである。この婚儀は翌年文久二年二月一一日に行なわれている。
こうした幕府の強行策は、尊攘派の浪士を刺激して、各地にテロ事件も発生した。外国人殺傷事件の頻発や坂下門外の老中安藤信正襲撃事件等がこれである。
攘夷を唱える武士たちは、開港による物価の高騰に不平をもつ豪農、豪商、神官、国学者等と結びついてその行動は活発化し、遂に東禅寺事件(
文久三年(
諸藩武士の国元への帰郷が続き、江戸屋敷は縮少され、浪士は増加し、失業下級武士もまた増加する中で物価の著しい高騰が続き江戸市中は不穏さを増していた。特に暴利をむさぼる商人に対して「天誅」という名の襲撃が行なわれたのもこの頃である。襲撃者の中には市中警備の新徴組等の名を使った者が多く、また当の新徴組にしても実際には浪士を募集してつくった隊であるから、その隊士中からも該当者が出る有様で、このため諸大名の家士の手で、市中巡邏、諸門取締り、夜間の無灯火通行厳禁等の処置も行なわれたが有効なものとはいえなかった。江戸市中のみならず、江戸近郊においても、浪人無宿者は容赦なく召捕ることとし、手こずれば斬捨て差支えなし、鉄砲使用も時には差仕えがないとされた。『渋谷区史』には、下北沢、豊沢・角筈の三組では一〇人ずつの組をつくり、竹槍を用意し、壮健なものを選んで目印、手槍、もぢり等を支給して非常時にそなえる等、村の警備は村人で当る方針も打ちたてられたと記している。「文久三年二月将軍上洛留守中ニ付取締方触書同廻状」が板橋区の安井家にあるが、関東取締出役より各村に出された触書である。その時の惣代は下練馬村の久右衛門名主である。北町に「まんじう目あかし」というよび名をもつ農家があるが、そうした時期に村の密偵をつとめたのではないかとも考えられる。
公武合体派の抬頭によって窮地に陥った長州藩は、藩主の弁護嘆願のため上京し、蛤御門の変を起している。幕府はその罪をとがめて追討を決定し、江戸藩邸も没収、とりこわしとなった。そして元治元年(
上金書上帳
土支田村上組
乍恐以書付奉申上候
一 金八拾三両也
武州豊島郡土支田村上組
百姓藤蔵
外六拾八人
右者今般
御進発ニ付御用途金之内江上金仕度奉存候間何卒以 御慈悲願之通御聞済被成下置候ハハ難有仕合奉存候 依之乍恐段以書付奉申上候
以上
慶応元年五月
右村百姓代 権蔵
名主 綱五郎
松村忠四郎様 御役所
資料文>九月二一日将軍家茂は参内して長州再征の勅許を受けたが、九月一六日四国連合艦隊の代表は九隻を率いて大坂湾に入り、兵庫開港、条約勅許、課税軽減の要求を朝廷と幕府につきつけて来た。二つの大問題をかかえて条約勅許の承認をうけ、兵庫は開港せずの了解を得た幕府は、六月七日長州藩に対して戦闘を開始したが、薩長連合の成立によって薩摩藩はこれに加わらず、広島藩もまた参戦を拒否する等、動員兵力の減少と、長州藩の藩士と民衆による強力な抵抗に、幕兵は敗走、幕府
方の小倉城も落城の始末となった。しかも大坂城の将軍家茂は慶応二年(慶応二年(
練馬の近辺では引又村(
彼等の要求とは何かというと、
一、豪農層に対しては村方に施米、施金や質地、質物の返還など、豪農の蓄財の放出を承認させ、世直しの成果をあげる。
二、村方に対しては村民が一体となって積極的に世直しに参加し、周辺の諸村に世直しを拡大する義務を負うことによって、豪農層よりの蓄財を享受する。
従ってその方法は、指導部(
この武州一揆は小規模ながら、開港による欧米資本主義の収奪に対抗する民族的な反抗運動ということが出来る。そこでその攻撃目標は当然、物価の値上りの元兇とされる横浜貿易に従う生糸商人たちであるが、その他にも高利貸等の悪徳商人も対象となり、これらの屋敷は徹底的に破壊し、一揆の要求を入れ実行を確約するものには請書を出させ、あくまでも合法的な手段を通して実行させる。もしこれを拒否した場合でも、徹底的な打ちこわしのみに止め、放火略奪や人身への危害を加えることは厳重に禁止していて、村の制裁として受けとられるようにした。
六月一六日、一撥の勢いが、練馬区域内に及ぼうとし、既に先ぶれが現在の土支田、北町あたりに現われる時になって、幕府は陸軍奉行配下の歩兵頭に三個中隊をつけ、北方の警備を令し、また、川越・高崎両藩にも鉄砲・大砲による応戦をさせた。しかし武蔵野地方でこの鎮圧に最も成果を上げたのは、「武州農兵」又は「江川農兵」と呼ばれる田無村、五日市村、日野宿、八王子宿、駒木野等の農兵隊であった。富有な農民(
この農兵隊は、伊豆韮山の代官江川太郎左衛門の嘉永二年(
農兵隊は村の治安維持のために出来たのであるが、一方には自家の防衛の気持も強かったわけである。一五日、江川太郎左衛門より「一揆の鎮圧のため出兵せよ。もし出あったならば遠慮なく打ち殺せ」と命令が出、最初は空砲でおどかした
が、さらに向って来るのでついには実弾を撃ったと言われている。こうして一七日には全地域において鎮圧され、一揆指導者の検挙が始まるのであるが、豪農は出来るだけ団結して、一揆勢との約束を破棄しようとしたが、約束の一部である施米は何とか実行して農民の反感を弱めようとしている。しかし一揆方の反感はくすぶって、豪農層に対するゲリラ的反抗としてつづいていたと言う。夜袋だたきにあった等はこれである(
練馬区域内における一撥の記録は見つからないが、農民隊については、慶応四年(
そして、その使用、取扱いについて、こまかく指定している。隊員の肩書が多く名主や年寄の子弟となっているのでもその性格が判断できよう。
<資料文>差上申御貸筒拝借証文之事
当代官所
武州豊島郡上石神井村
年寄兼吉
一、ケウヱール御筒 壱挺
附胴乱壱 背負革壱
管人壱 剣指壱
御筒廿挺之内
玉取五ツ 三ツ俣五ツ
万力 壱鋳形壱
鋳鍋壱
一、同壱挺 年寄市兵衛
附右同断
一、同壱挺 同伝吉
附右同断
一、同壱挺 百姓茂兵衛
附右同断
一、同壱挺 同綾次郎
附右同断
一、同壱挺 年寄金次郎
一、同壱挺 同長十郎
附右同断
一、同壱挺 同伝四郎
附右同断
一、同壱挺 名主仲右衛門伜銕太郎
附右同断
一、同壱挺 当御代官所下石神井村
附右同断 百姓勝五郎
一、同壱挺 同寅右衛門
附右同断
一、同壱挺 同吉五郎伜甚五郎
附右同断
一、同壱挺 百姓伝五郎
附右同断
一、同壱挺 同安五郎伜安兵衛
附右同断
一、同壱挺 同次郎吉伜栄五郎
附右同断
一、同壱挺 年寄安五郎伜岸三郎
附右同断
一、同壱挺 同忠七伜忠蔵
附右同断
一、同壱挺 年寄惣右衛門
附右同断
一、同壱挺 百姓本橋勝右衛門伜
附右同断 国蔵
一、同壱挺 名主弥市弟仙蔵
附右同断
右者今衛農兵御取立相成候ニ付、書面御貸筒並附属之御品共御貸渡相成、難レ有仕合ニ奉レ存候。然ル上者出精稽古仕、無益之生殺堅ク仕間敷事。
一、御貸筒預り主之外他人者不レ及レ申、組合親類兄弟好身者ニ御座候共、決而貸渡申間敷旨被ニ仰渡一奉レ畏候事。
一、異変之節者格別、平日稽古之外猥りニ鉄炮堅ク打申間敷、都而平常身分相慎善悪共互ニ不ニ附合一、越度無レ之様可仕様事。
一、私共組合村々之内者勿論、最寄村ニおゐて万一異変も御座候ハハ御沙汰次第早速出張仕、御差図受レ申事。
右之趣相背御貸渡鉄炮ヲ以悪事仕候ハハ、本人ハ不レ及レ申、名主五組迄何様之曲事ニ茂可レ被ニ仰付一、依レ之一同連印一札差上申処、如レ件
武州豊嶋郡上石神井村
百姓茂三郎㊞
慶応四年正月日
親類組合惣代 与八㊞
同綾次郎㊞
同豊吉㊞
年寄兼吉㊞
同市兵衛㊞
同伝吉㊞
同長十郎㊞
同金次郎㊞
同伝四郎㊞
名主仲右衛門伜 銕太郎㊞
右村役人惣代
年寄長十郎㊞
名主平蔵㊞
同州同郡下石神井村
百姓勝五郎㊞
親類組合惣代 仙之助㊞
百姓寅右衛門㊞
親類組合惣代 鉄五郎㊞
同吉五郎伜 甚五郎㊞
親類組合惣代 万五郎㊞
(
(
慶応四年(
武州一揆は失敗に帰し、かえって農民二層の対立を来す結果とはなったが、幕政の衰えと共に各地に農民の結果が行なわれ、反抗することも多くなっている。
慶応三年(
この時京都においては将軍の大政奉還が行なわれていたわけである。
慶応三年(
一方「討幕の密勅」を手にした薩摩・長州・芸州の三藩はその準備に着手し、一〇月二一日の「しばらく延期」の御沙汰書も間に合わない状勢で、一方会津・桑名両藩および新選組の動静もあり、民衆の間には「ええじゃないか運動」が展開してきた。
一二月九日、小御所会議によって、慶喜の官位辞退、所領返納がきめられ、慶喜は紛争を避けて兵を率いて大坂に退いた。王政復古の大号令が下ったわけである。
この事を夢想さえしていなかった江戸では、将軍から見はなされたと考え、将軍をここまでにした薩長等の奸計をうらみ、大混乱に陥った。また薩摩方浪人と称する一隊が各所に集り、騒擾を起した。江戸市中の強盗も火つけも多くなり、その本拠地は薩摩藩邸となって一二月二四日に、その攻撃が庄内・上ノ山・岩槻・鯖江の四藩によって行なわれた。その報が大坂に届くや幕軍の士気が高まって、ますます討薩斬奸を迫るようになった。
本文> 節> 章> <章>原始の昔から科学の進歩した今日に至ってもなお、人類と自然との係わりようは深く、地水火風の中にあって、人類は時にそれらに平伏し、時に反逆して生活し続けて来た。
武蔵野の曠野に住みついた人たちは、晴れた日には東北に筑波嶺を、西に富士の山を仰いで、その嶺や山を神の宿った神体そのものとして拝んだ。麓の筑波神社や浅間神社が参拝の対象となり、神格の付されたのは、仏教が伝来後の二次的な事で、もとはといえば、峰そのものに無限の力を感じて心ひかれたのである。日本一の広大な原野を生活の舞台とした武蔵野人の、それでは礼拝した神の社には、どのようなものがあったであろうか。
平安時代の初め、氏姓制度の紊乱を正す目的で『新撰姓氏録』が作成せられ、それら氏の奉斎する神々の社を調べて延喜五年(
こうした武蔵国二一郡中にあって式内社のある郡一五、ない郡が六もあり、豊島・新座の二郡に所属していた練馬区域は
その無い六郡中に入るのである。このことは往古の練馬区域内には、式内社に斎ぐほどの神を持つ有力な集団がいなかったことと無関係ではない。それにしても区内には既にいくつもの縄文・弥生時代の住居址や遺物が発掘されて居住集団のあったことが確認されている以上、人と祭祀のあったことも確かである。武蔵野の曠野が河畔から拓かれて人口が増えるにつれ、まず氏神が祀られ、やがて共通の祭神として社に鎮座させる小社が増えた。この頃からではなかろうか、性器崇拝を意味する石棒が作られたのは。時を経て、たまたまその一つが土中から掘り出されて石神井神社のご神体となっている。信仰というものは、概ねこのような土俗的な生活に即したものが本来ではなかったろうか。
最初蕃神(
(
氷川社村の鎮守なり例祭九月十八日正覚院持 末社 牛頭天王 天神 稲荷 ○弁天社二一は正覚院一は村民の持 ○稲荷社四何れも村民持
中村
八幡社村の鎮守なり南蔵院持下持同じ ○稲荷社 ○天神社 弁天社 ○水神社 ○三峯社 ○金毘羅社
谷原村
氷川社村の鎮守なり長命寺の持下同 ○稲荷社三一は国広稲荷一は金山稲荷と称す
田中村
稲荷社村の鎮守なり宝蔵院持
上石神井村
氷川社上下石神井・関・田中・谷原五ヶ村の鎮守なり、例祭九月二十日三宝寺の持下三社同し 末社 天神 弁天 天王 第六天 稲荷 ○弁天社三宝寺池の中島にあり 神楽堂 ○水天
宮池ノ側にあり ○愛宕社小名城山にあり、略縁起に據に、文明中太田道灌豊島氏を攻るの時、当社を勧請して勝利を祈しと云 ○稲荷社二一は火消稲荷と称す、当社の霊験により三宝寺火難を遁れし事あり故に名つく、同寺持、一は村民の持にて雷斧を神体とす長二尺五寸許
〔三宝寺内〕八幡社、稲荷社
下石神井村
石神井社是村名の由て起りし社なり、神体は則上石神井村三宝寺池より出現せし石劔なり事は同村に辨す、三宝寺持 ○神明社持前に同し、村の鎮守なり ○諏訪社禅定院持 ○稲荷社三一は道場寺一は禅定院一は村民の持 〔道場寺内〕白山社 〔禅定院内〕八幡社
関村
三十番社村の鎮守なり本立寺持 ○稲荷社最勝寺持 ○弁天社当村多年水災に困めり、近き頃御勘定武島菅右衛門巡見の頃深く是を憐み、己か尊崇せし辨天の木像を與へけるにより、かの溜井の側に安置し水難を祈りけれは、その擁護にやよりけん今は其患にかかること稀なり
竹下新田
弁天社村の鎮守なり谷原村長明寺の持 稲荷社村民持
土支田村
三十番神村の鎮守なり妙延寺持 ○天神社妙安寺持
上練馬村
八幡社村の鎮守なり、社領八石の御朱印は慶安二年十一月十七日附せらる、神明春日を合殿とす愛染院持 ○稲荷社六一は円光院、一は愛染院、一は高松寺、一は養福寺、二は成就院の持 ○愛宕社 ○金山権現社 ○神明稲
荷合社己上村民の持 ○子権現社円光院持 ○第六天社二共に愛染院持 ○六所権現社寿福寺持 ○飯綱権現社養福寺持 ○神明社泉蔵寺持 〔円光院内〕天神社 〔寿福寺内〕十羅刹女社
下練馬村
神明社清性寺持 末社 稲荷 ○白山社 〔金乗院内〕八幡社 牛頭天王社 〔清性寺内〕天神社 〔円明院内〕稲荷社
弁戈天社 〔荘厳寺内〕神明社 牛頭天王社 〔光伝寺内〕天神社 〔威徳院内〕天神社 〔松林寺内〕氷川社村の鎮守なり
稲荷社 疱瘡神社 〔高徳寺内〕天神社 〔東林寺内〕弁天社神体は秘仏にして、天長七年七月七日弘法大師江島辨才天へ参籠し、一萬座の護摩を修し其灰燼をもて作と云
上板橋村の一部(
富士浅間社二一は能満寺持、一は西光寺持 稲荷社五二宇は安養院、三宇は長命寺、能満寺、西光寺等の持
(
天王社除地一町、小名中里の耕地にあり、三間四方の社、村の鎮守なり、鎮座の年歴知らず、当村忠右衛門か小榑村角左衛門のもち 氷川社村民庄忠右衛門が宅地の内にあり、小祠、祭神は在五中将なり、其家にては中将東国下向の時、庄春日江古田と云三人のもの慕ひ来りて、此地に祭りしと相伝れども信ずべからず 弁天社一間に二間、村内真福寺の側にあり、村民の持 天神社東辺にあり前辺に鳥居建つ
小榑村
三十番神社村の鎮守なり、小名中島にあり、本照寺の背後にあたれり 稲荷社小名堤村にあり、鎮座の初詳ならず、九尺に一間許の小祠、前に鳥居あり、村内圓福寺の持なり、 〔妙福寺内〕三十番神堂二間半四間半、祖師堂に向て左にあり、 七面妙見相堂二間半に四間半、祖師堂の背後山上雑木茂りたる間にあり、堂の前山下に鳥居を建つ、 天神社七面堂に向へば左なり、九尺に二間、前に鳥居あり、 鬼子母神堂祖師堂の丑寅にあり、三間四面、この鬼子母神は法華経寺に安せる像の本体なり、往古日蓮聖人平日の看経仏なりしを、日祐聖人へ伝はり、ついに当寺へ納めたり、本寺には却て摹刻の像を安せり、嘗て賜はる処の御朱印も、この鬼子母神へ寄附せしと云、
図表を表示これを各所有別、神社系統別にまとめて見ると、表4のようになり、武州一宮の氷川神社系が非常に多い。村の鎮守を調べると、石神井五か村の総鎮守となっている氷川神社のごとく、その中の各村鎮守と重複する所もあって、的確な数字はつかめないが、重複の際は各村鎮守だけとして集計すると、氷川社三、三十番神社三、八幡社二、神明社一、稲荷社一、弁天社一、天王社一、計一二である。鎮守とは一定の地域を守護するために祭られる神で土着神の時もあるが、その地域を開いた氏族の氏神の場合が多い。
しかし時代の推移によって交代も起り得るので、真の産土神を探すことはむずかしい。そしてこの表からつかめることはほとんどの社が寺院持で、農業の神稲荷社の多いことであり、水の神の信仰も多い。学問の神天神が多いのは、御霊信仰も入っているのであろうか。農民の現世利益の信仰をあらわす神々が小祠としてまつられているのも、当時の様相を伝えるものであろう。
以上のようであるが、各村内にはこの外にも多数の小社が祀られていたようで、例えば前記のように土支田村には三十番神と天神社としか見えないのに、小島兵八郎家蔵享和四年二月の「村方之儀明細書上帳 下書」には番神社、稲荷社の外に、万福寺を別当とする八幡宮、神明社、天神社、稲荷社や、氏子持妙延寺別当の番神社、稲荷社三、別当持白山権現社、稲荷社、本覚寺別当の天神、稲荷、村民八郎右衛門持の鬼(
本区内には例えば後述するように、かなり多くの板碑の存在が明らかにされており、仏教信仰は中世頃から唱題、念仏が盛んであったようだが、寺院の建立は近世近くからでなければ見られな
かった。それも日蓮宗と真言宗のものが圧倒的に多い上に、その分布が一つは白子川流域で妙福寺を筆頭にした日蓮宗に、もう一つは石神井川流域の三宝寺・長命寺を始めとする真言宗の二つになっていることは、教線拡張過程を考える上に重要な示唆を与えるものというべきである。もう一つ注目すべきは板碑に記されている年号と基数とを見るに北朝年号では康永三年2、貞和元年1、文和年間4、延文年間5、貞治・応安年間<数2>15数2>・永和二年1、康暦年間6、永徳元年1、至徳年間4、康応・明徳年間3と計四二基も数えられるのに比べ、南朝年号は正平七年(こうした状勢の中で、各村落には、氏神と共に小堂もつくられ、旅の僧侶が、幾日かを過し、祖先や死者の供養も頼まれれば行なったであろうと思われる。神仏習合時代には当然神社の中にも仏像が安置されることもあったと思われる。練馬に伝わる伝説の中にも霊験によって難病を克服したために、祈願仏をまつったという寺の創立由緒が数多くあるが、こうした状況をあらわしているものと思われる。
先に板碑の項において、真言宗と日蓮宗の進出が多いことを示したが、練馬区文化財総合目録によれば阿弥陀板碑一四一基、題目板碑七六基、釈迦如来板碑五基、大日如来板碑四基、六地蔵板碑一基、文珠菩薩板碑一基、弁才天板碑一基の計二二九基で、断然阿弥陀信仰の多
かったことを示している。『新編武蔵風土記稿』の各寺院の記事を見るとその創立について記されていたり、開基、開山の没年等が記されているので、それを時代別に整理して見ると、一番古い寺院としては嘉祥三年(
題目板碑の最も古いのは弘安六年(
練馬の寺院がいつの頃創立されたか。はっきりしない寺院もあるが『新編武蔵風土記稿』や各寺院由緒等によって見ると、
江戸時代、仏教寺院が織田信長や豊臣秀吉の勢力下に入る事を余儀なくされる過程の中で、寺院の統制をいかにすべきかが問題であった。中世の大寺院は宗教的な一大政治権力であったから、時の権力者にとって大きな障害となっており、守護使不輸不入は耐えがたい事であったろう。
本末関係は室町幕府と密接な関係にあった寺院を五山、十刹とした臨済宗寺院の統制や、日蓮宗や真言教団では、本山→有力寺院→寺院→末寺道場→有力門徒という強い線によって全国に広がり結ばれてきたのであろう。しかし全国を一本とするこの強力な本末関係は幕藩領主にとっては非常に厄介な存在となるので、これを分立、分散させることが必要であった。即ち、本山を複数とし、更に東西に分ける等、統一行動のとりにくさに重点をおいたと考えられる。慶長一八年(
これを手始めとして各宗派に本末規則を及ぼし、元和二年(
本寺が末寺に規定した掟としては、本寺の祭礼、法会には末寺は必ず役をつとめること、新築、修復は本寺の命によること、他山、他寺への出仕はしないこと、後住・弟子の契約は絶対にしないこと、本寺にことわりなく山林竹木を伐採しないこと等であるが、この制度は本山を頂点とする階級制度であるために、末寺の本寺に対する礼金や手数料は莫大であったようである。例えば末寺の住職が交代する際は継目料という相続税まがいを収めさせていたようで、その金額についてはたと
えば昭和四七年に刊行された『アジア仏教史』日本編に次のような一文がある。 <資料文>下総国中山法華経寺(
色衣寺
本院弐両 院家弐両 寺中弐両
黒衣上
本院壱両 院家参歩 寺中参歩
黒衣中
本院参歩 院家弐歩 寺中弐歩二朱
黒衣下
本院壱歩二
院号上
本院弐歩 院家八十
院号中下
本院壱歩 院家四十
一代色衣之礼金
本院金子拾両 補任井袈裟料弐両 院家四両 寺中五両
本院近習壱両 寺中若徒壱両
永代色衣許礼金
本院金参拾両 補任井袈裟料五両 院家拾四両 寺中拾六両
本院近習弐両 寺中若徒弐両
と、それぞれ定められている。つまり中本寺の中山法華経寺は、末寺の住職が交替するときに、寺格(
開祖開山の法会にもすべての末寺から寄付金を集め、寺院の諸用具も本山から買うという有様になっていた。こうした状況は本寺の収奪がいかに大きなものであったかと言うことを示すと同時に、寺院がそれに耐え得る収入のあったことを示すことにもなろう。
従って本寺、末寺の争いは多かったと思われる。乏しい練馬区内の史料の中に寛永一九年(
再び『新編武蔵風土記稿』によってその本末関係を示すと次ページの表のごとくである。
この中で日蓮宗実成寺は妙福寺の末寺法性坊であったが、寛政五年(
『新編武蔵風土記稿』の妙福寺の記事によって本区内に日蓮宗が広められた過程を知ることが出来る。この寺は弘安五年(
本末関係一覧
画像を表示 資料文> 本文> 節> <節>仏教は信長・秀吉の天下統一の成就過程の中で、苦難の道をたどったが、一方ではこうした時代のすう勢から大きな幸運を得ることもあった。
天文一二年(
切支丹弾圧はまず慶長一七年(
この鎖国はキリスト教国の植民地侵略の野望を砕き、またキリスト教徒の封建体制批判を封ずることにあったと言われるが、結果的には幕府の貿易独占を達成し、
宗門改めの実施の目的は前述の通り禁圧にあったのであるが、究極は幕藩体制に庶民を順応させる政治的意図にあったこ
とは明白であった。 図表を表示まず切支丹の信奉者であるか、ないかは五人組に調べさせ、その五人組帳を利用して寺請をさせたようで、全国的にはその時期、方法に若干の相違がある。寛永一二年(
一、壱季居出替え時節たる間、宗門之儀入念改之、耶蘇宗門ニ無之段、請人を立相抱可申事
一、耶蘇宗門今以密々有之、所々ゟ捕来ル間不審成もの不罷在様、無油断入念可申付事
一、郷中改之不審成者不差置、若耶蘇宗門隠置他所ゟ顕るにおいて者、名主五人組可為曲事候間、毎年旨趣具ニ書<補記>
但耶蘇宗門御制禁之高札歴年序、文字見へ<補記>
右寛文十一亥二月被仰出候を以、前々御改之儀者郷中穿ゟ被仰付、名主組頭百姓下者不及申、寺社方同宿沙弥道心虚無僧山伏浪人等ニ至迄、地借店借壱人も不残相改候処、疑敷者無御座候、若シ不吟味仕耶蘇宗門脇ゟ罷出候ハハ、名主組頭五人組迄、何様之曲事ニ茂可被仰付候、為其名主組頭印形之帳面差上申処如件
豊嶋郡上練馬村
嘉永七寅年二月
高六石壱斗壱升壱合
年寄 吉佐衛門 ㊞
当寅六十弐才
女房 里代
同 五十八才
<外字 alt="○愛">〓外字>㊞
新義真言宗愛染院旦那 伜 政五郎
同 二十五才
同人女房 きく
同 三十四才
娘と里
同 弐十四才
孫 弥壱郎
同 十壱才
<外字 alt="○愛">〓外字>㊞ 乄六人内男三人女三人
高七斗弐升九合
百姓 五郎右衛門 ㊞
当寅三十弐才
同寺<外字 alt="○愛">〓外字>㊞ 弟金蔵
同 弐十八才
<外字 alt="○愛">〓外字>㊞ 乄男弐人
高五石弐斗九升三合
百姓 次郎右衛門 ㊞
当寅三十六才
同寺<外字 alt="○愛">〓外字> 女房 とくみ
同 弐十八才
母ちよ
同 六十四才
祖父 林蔵
同 八十三才
<外字 alt="○愛">〓外字>㊞ 乄四人内男弐人女弐人
高八石弐斗弐升壱合
百姓 惣九郎㊞
当寅三十二才
女房 可津
同 弐十七才
妹ゑき
同 弐十七才
同寺<外字 alt="○愛">〓外字>㊞ 同 と代
同 弐十壱才
弟 勇次郎
同 十七才
伜 長五郎
同 弐才
<外字 alt="○愛">〓外字>㊞ 乄六人内男三人女三人
高拾四石九斗九升六合
百姓 杢左衛門㊞
当寅六十二才
伜 九十郎
同 三十一才
同寺<外字 alt="○愛">〓外字> 同人女房 は奈
同 弐十七才
伜 銀蔵
同 弐十三才
同人女房 ゑい
同 弐十三才
娘はけ
家数弐百六拾八軒
人数千百弐拾七人 内男六百拾八人女五百九人
右者代々拙寺旦那ニ紛無御座候 若御法度之耶蘇宗門疑敷申者有之候ハハ何方迄茂罷出申披可仕候 依之宗判差上申候以上
京都御室御所末
新義真言宗 愛染院 ㊞
住職 隆阿(
(
家数六拾六軒
人数弐百九拾五人 内男百五拾八人女百三拾七人
右者代々拙寺旦那ニ紛無御座候 若御法度之耶蘇宗門疑敷申者有之候ハヽ何方迄茂罷出申披可仕候 依之宗判差上申候以上
愛染院末
新義真言宗 圓光院 ㊞
住職 信隆(
(
家数三拾七軒
人数弐百五人 内男百拾九人女八拾六人
(
愛染院末
新義真言宗 寿福寺 ㊞
無住ニ付
愛染院兼帯
(
家数七軒
人数三拾六人 内男拾四人女弐弐人
(
愛染院末門徒
新義真言宗 高松寺 ㊞
無住ニ付
愛染院兼帯
(
家数三軒
人数拾壱人 内男五人女六人
(
愛染院門徒
新義真言宗 養福寺 ㊞
住職 隆因(
(
家数拾壱軒
人数五拾八人 内男弐八女三拾人
(
和州小池坊末
新義真言宗 長命寺 ㊞
住職 泰英(
(
家数弐軒
人数拾四人 内男七人女七人
(
駿州口松山蓮永寺末
日蓮宗 妙安寺 ㊞
住職 日勝(
(
家数壱軒
人数四人 内男弐人女弐人
(
上州白井双林寺末
禅宗 松月院 ㊞
住職 魯衷(
(
家数弐軒
人数八人 内男五人女三人
(
和州小池坊末
新義真言宗 金乗院 ㊞
住職 永応(
(
孫林太郎
同 五才
同 ほの
同 四才
在丑人別後出生仕由ニ付当人別より差出申候 同庄次郎
同 弐才
乄九人内男五人女四人 馬壱疋
右者当村宗門人別之儀御制禁之耶蘇宗門類族之もの決而無御座候、去丑三月ゟ当二月迄出生死失都而出入之者壱人別取調候処、書面之通相違無御座候以上
武州豊島郡
上練馬村
嘉永七寅年二月 百姓代 藤助 ㊞
同 定右衛門 ㊞
年寄 五左衛門 ㊞
名主見習 順蔵 ㊞
名主 又蔵 ㊞
勝田次郎様
御役所
資料文>以上見るようにこの上練馬村の宗門人別帳には、村内の檀那寺の愛染院、円光院、寿福寺、高松寺、養福寺のほか谷原村
の長命寺、土支田村の妙安寺、下練馬村の金乗院や下赤塚村の松月院までが入っていて、寺と各戸との結び付きが知られる。紙面の都合で略したが、杢左衛門家の例で庄次郎の頭に「去丑年(人別送之事
米津越中守領分
武州新座郡小榑村
百姓 牛松娘
たつ
当丑弐拾弐歳
右者儀親手許ニ差置農業手伝居候処、今般貴御村百姓文五郎伜九十郎妻ニ差置度段申出候ニ付当村人別相除候間、当三月ゟ貴御村人数ニ御差加不被成候、尤宗旨之儀は代々日蓮宗ニ而寺は当村大乗院旦那ニ紛無之候、依之人別送一札如件
右小榑村
名主御用他行ニ付
代兼
組頭
半太夫 ㊞
嘉永六丑年三月
土支田村
上組
御名主中
これに対し、「人別請取事」という書状があり、その一例を掲げる。
人別請取事
な津壱人
一、人別送り 壱通
右之通り慥ニ請取申候 以上
下保谷村
文久元酉年三月廿八日 名主見習
源蔵 ㊞
土支田村
名主
綱五郎殿
資料文>このような手続きを踏んで、上練馬村では次に表示するような嘉永癸丑(
人口移動内訳 | 〈増加分〉 | 〈減少分〉 | ||||
---|---|---|---|---|---|---|
計 | 男 | 女 | 計 | 男 | 女 | |
縁組 | 七 | 一 | 六 | 一二 | 一 | 一一 |
出生 | 二六 | 一二 | 一四 | 死失 一四 |
九 | 五 |
奉公 | 一四 | 七 | 七 | 二二 | 九 | 一三 |
計 | 四七 | 二〇 | 二七 | 四八 | 一九 | 二九 |
要するに、前述のように庶民の五人組、村役人、檀那寺、役所等との緊縛関係が知られるが、特に宗門人別改帳を通じて各人の檀那寺、名字、年齢、戸主の身分と年収までが知られるので、寺院側にも役所側にもたいそう好都合な、換言すれば、檀家帳にも、司法、行政上の台帳にも使用できる重要書類ともなった。かくして庶民は「年忌志等も仕、聴聞の為参詣仕候而法儀相守り申候、子々孫々ニ至り法儀替申まじ」き寺檀関係に組み込まれて、檀家として若し励行しなかった時は寺から檀家としての証明が得られず、証明が得られなければ耶蘇宗門と見なされ、厳罰という制裁が次に待っているだけでなく、縁組、出稼ぎ、旅行等に際して必要な証明類の交付まで絶たれ、公民的活動が停止するという不都合にも立ち至るのである。そしてその監視を五人組をして行なわせたのであるが、お盆に住職が各檀家を廻って棚経を誦して歩くのは、人別帳に誤りがないかどうかの確認でもあったと言われる。
こうした中で寺院が檀家に要求することは檀那寺に対してふだんの勤めを怠らず、即ち祖師忌、仏忌、盆、彼岸、先祖の命日等には必ず参詣し、また先祖の年忌には僧侶の読経をうけ、歓待すること等であって、檀那寺の命令に従わず寄進にも応ぜず、先祖の供養を他寺で行なうもの等は邪宗門であると規定し、寺請手形を書かず幕府に報告して処罰を受けることになるとしている。寺の要求は、法会はなるべく華美にし、寺の新築、改築には費用を寄進し、その寺の経営を積極的に支える。もしこれを拒否すれば切支丹呼ばわりされ、寺請状をもらえず村八分にもされてしまう。従って寺のいいなりになることが保身の道であったのである。こうして寺に有利な制度となって、葬祭こそ寺の本務とし、その他の宗教活動(
ここで練馬区内におけるかくれ切支丹についてふれておくと、はっきりとした遺跡、伝説があるわけではないが、石神井禅定院(
この言葉が適切かどうかわからないが、ある一族では、男子(
この実態については前区史において高野進芳氏が報告しているが、全国にはいくつかの実例のあることが報告されている。
滝善成氏は民俗学関係からの報告として「漁村の古い戸籍から」「半檀家に関連して」「男女別墓制及び半檀家について」「半檀家制について」「加賀藩の宗旨人別帳について」「寺檀制度の成立過程」等をあげ、各地の男女別半檀家制を提示しているが、練馬区については最上孝敏氏の「半檀家制について」の中に「東京都練馬区氷川台の半檀家制について興味ある伝説を伝えている」と前置きして島野一族の男女別檀越の様子を記している。
宗門人別帳によって、農民をある時に登録する制度がきびしく行なわれた時代に珍しいことではあるが、事実は事実としなければならない。まずその島野家(
島野一族は現在九家となっているが、いずれもこの制度に関係していて、男子(
家 真宗戒名男子(
A 六 二
B 九 三
C 五 二
○D 六 一
E 五 三
F 八(一) 〇
○G 三 三
○H 一 一
○I ? 一
資料文> 画像を表示 画像を表示この事について伝承を頼りにその理由を探して見るに大会山長源寺は寛永年間(
慶安二年(
寺院と神社が、幕府の統制下に組織され、小祠小堂をふくめて、その分担が定まって来ると、その寺社維持のための年中
行事や祭典が盛んとなり、人生儀礼や葬式等に重点がおかれ、「講」は平常の生活の中で、農作であるとか、安穏とか、健康、安全、蓄財、幸福等を求める心の寄合いであったが、それはまた、村落一同の心でもあったので、そうした神仏を求めて集団をつくり、村落神の境内や寺院内にその
また平安中期から浄土信仰が盛んになるにつれて、西方浄土に擬せられた熊野への参詣が盛んとなったが、特に戦国の時
代になると、参詣は不自由となり、熊野神社は御師、先達によって各地の武士や土豪の間に信徒をふやして行った。元亨年間(その後江戸中期から、こうした信仰として練馬の地にも流行して来たものに、大山・富士信仰、御嶽信仰(
現在少くなった個人墓地や、古いままの(
墓所のついでに区内の入定塚についてふれておく。入定塚は死期を知り、死によって「即身成仏」をなしとげようとした行者が、生きながら穴中に入り、念仏等己れの信ずる経文を唱えながら断食成仏した墓である。富士講の五代食行身禄が、享保一八年(
練馬区内で入定塚の伝説をもつものは次の四か所である。
前記神代氏はその「練馬の信仰集団」の中に、「念仏講」の一項を設け、念仏を唱えることによって現世と後世の安楽を願う信仰集団をあげている。念仏は浄土宗、真宗、時宗のみでなく、他の宗派の間にも行なわれていた。江戸時代にはどのようであったかを調べるため、次の石造物をあげている。
<資料文 type="2-32">1 桜台六丁目 地蔵像 寛政五年 念仏講中
2 練馬一丁目 地蔵像 享保一四年 念仏講中
3 中村北二丁目 地蔵像 文化一三年 念仏講中
4 中村一丁目 地蔵像 享保九年 念仏講中
5 高松三丁目 地蔵像 明和四年 念仏講中
6 谷原一丁目 地蔵像 安永四年 念仏講中
7 石神井台六丁目 地蔵像 宝永三年 講中
8 高野台一丁目 地蔵像 延享五年 講中
9 春日町四丁目 地蔵像 享保一七年 講中
<数2>10数2> 上石神井一丁目 地蔵像 元禄五年 念仏同行
<数2>11数2> 石神井町七丁目 観音像 貞享四年 念仏道行
<数2>12数2> 錦一丁目 石灯籠 元文二年 寒念仏講中
<数2>13数2> 石神井町七丁目 石灯籠 寛政一〇年 念仏講中
<数2>14数2> 旭丘二丁目 供養塔 享保三年 念仏講中
資料文>念仏講中は大体月一回集って、仏を拝して後大きな数珠を回しながら百万遍やその他を唱和し、そのあと食事や雑談をして過すのである。「念仏」と称して、埋葬のあとや法事供養の際、念仏講中が集って一同念仏を誦する事は戦前までは盛んに行なわれていた。
日蓮宗の信者が月一回位集って、「まんだら」の軸をかかげ、お題目を唱和してその後食事雑談に時を過すのである。お会式にはまとい万灯を先頭に団扇太鼓の行列を組んで、妙福寺への参詣も行なっている。題目供養碑として
<資料文 type="2-32">1 東大泉町 題目塔 文化三年 題目講中
2 東大泉町 題目塔 文久四年 十二日講中
3 東大泉町 題目塔 文化六年 題目講中
4 西大泉町 題目塔 享保元年 講中
5 旭町一丁目 題目塔 弘化三年 講中
資料文>等をあげているが、現在のお会式の「連」と深い関係のあるものと考えられる。
江戸時代の信仰の諸相はいろいろであるが、各社寺は縁日、開帳、勧進等の行事を行ない、境内仏や境内祠の御利益を吹聴し、その隆盛をはかったもので、練馬の社寺の中にもそうした傾向が見られる。江戸市中や各村からの善男善女がお詣りがてら露店等に集まる。長命寺の植木市、花嫁市、妙福寺のお会式、本立寺のぼろ市や、各鎮守の祭礼等、今もつづく行事がある。
神仏の加護、御利益についても、つくり話から始まるものもあったであろうが、とにかく抜苦與楽を願い、御利益を求める民衆にとっては、「溺れる者藁をもつかむ」気持だったのであろう。
土中から出てきた仏、大火にももえなかった木仏等を不思議な力のあるものとして信仰の対象とし、はやり仏として一時的でも参詣者が列をなしたのである。そうした信仰の一例を示すと、
こうした民衆の信仰心は、現在に至るまで、種々の信仰の姿を見せている(
参考までに、内田家文書の「天正十八年、御入国より御府内并村方旧記」の中に、当時の豪農が、信仰を兼ねて諸国に出かけた様子が伺える文があるので載せておく。
以上のようであるが、交通不便な遠隔の地へも出かけている。特に文化年間に入っては箱根、江の島へ家族、友人をともなっての旅行が多くなって来て、信仰と遊山の様子を伺うことができる。
本文> 節> 章> <章>江戸は元来、武家の町であった。将軍直属の旗本や御家人、およびその家族は勿論のこと、参覲交代による諸大名や、その家臣達で江戸の町は溢れていた。
江戸開府後約一世紀、それまで武家の日常必需品を賄ってきた主に近江・伊勢・三河などの商人たちの江戸
しかし、こうした店も当初は、その出身地から雇入れられた単身赴任者だけの男世帯ばかりであった。ところが、一八世紀も半ばをすぎて、創業から一〇〇年も経つと、親・子・孫の三代目には、江戸生れ、江戸育ちの生粋の江戸っ子町人が出現し、やがて典型的な江戸町人が経済の実権を握るようになる。
そして、基本的には武家の町である江戸も次第に町人の町としても発達して行くのである。寛文頃約三〇万といわれた町人人口は享保頃には五〇万を超え武家人口を凌駕した。必然的に市街地も拡大し、町奉行支配地は元禄年間約七〇〇であった町の数が、約二〇年後の正徳年間に約九五〇町、それからさらに三〇年後の延享年間には二倍以上の二〇〇〇町近くにも発展した。こうした江戸市中は、地方の農山村地帯では想像をも出来ないような大都市として繁栄し、恐らく当時としても世界第一の過密都市であった。
泰平の
必然的にそのための案内書が多く
この種の
一八世紀中頃になって江戸を中心として地誌類の刊行が盛んとなり、一日の行楽には若干
例えば、馬場文耕が著した実録もの『
この蛍は王子辺の石神井川から獲ったものらしいが、いずれにしても、当時の石神井川は、宇治川の清流にも似た景勝の地があちこちに見られた。今も道場寺の南に蛍橋がある。
著者文耕は江戸中期の講談師で、宝暦六年(
喜多村
この書は、天明元年(
著者信節は
『武江年表』は幸成(
この『増訂武江年表』には「長命寺の譲木」の外、練馬とその付近の記事が二、三載っている。例えば嘉永六年の条に
「十月八日より七日の間、上練馬村円光院『武江年表』は天正一八年八月一日家康入府以来の江戸地理の沿革から風俗の変遷、巷間の異聞などを編年体に編集したもので、材料の豊富なこと、考証の正確なことで、定評がある。
幕府で勘定奉行を勤めた根岸
これも予、留役の節まのあたり見聞きける事なり。安藤霜台掛りにて、
(
博奕容疑で捕縛された病身の老父のため身替りを申し出た三人の息子に、天道も感じ給うと涙を流すのは少々表現過剰であるが、一面当時の検察官吏の人間性が窺われて興味深い。
三笠附は雑俳の一種で、宗匠が最初の五文字を題として出し、これに七五の句を付けさせ、三句一組にしたので「三笠附」の名があった。これは懸賞金が賭けられて賭博化したため、享保年間(
練馬から丸の内まで一日がかりの行程を、いかなる理由があったのか箱訴に出掛けた人間も、訴えられた老人も、孝子といって役人たちに涙を絞らせた三人の息子たちの名前も、今はもう尋ねるすべがない。
『遊暦雑記』(
寛政十三年辛酉六月十三日、板橋宿のうら通千川の堀にて、怪物をとらへたり。先その形黒く長さ頭より尾迄三尺四五寸もあるべし、背中は黒き内にブツ〳〵と一際黒く、蟇の肌の如し、頭は鯰に似て平く大きに、目は長くして至て細し。口の大さ壱尺ばかり、前の両足は指四本、後の両足は指五本なり、腹は白く薄赤くしてまだらに、凡て惣身ぬめ〳〵として、いかにもなめらか也。しかはあれど、頭は甚堅くして、通例の物にては刺事成かたし。此怪物千川の水中に蟠居せしをしらずして両岸の草を刈ルもの見出し、驚き騒ぎて、人夫を催し勢ひ込て鳶口をもつて、怪物の頭上打込て引上たり。則、此辺御代官飯塚伊兵衛役宅へ申出、見分の砌、いろいろに打返し見れども、甚柔和にして怒て
(
千川上水は元禄九年(
寛政一二年(
〔中新居村〕今中新井と云、ぞうしがや西南壱弐里にあり
〔石神井村〕上下村あり、石神の社と云あり、別当三宝寺、神代の石剣也と云、三宝寺池と云あり、此下流、王子村の方へ流る、しかし、此図にては今の水筋とは少したがへり
〔練間村〕今練馬と書、上下二村あり、江戸より三里余、大根名産とす
〔谷原在家〕今谷原村、ねりまに隣れり、○長命寺真言仏閣あり、是東の高野と云、紀南高野をうつせし境なりしが、今其かたち変たり (
また、嘉永六年(
『江戸往古図説』の著者大橋方長はこのほか、多くの地誌類を著しているが、そのうちの『武蔵演路』については後述する。
一八世紀末から一九世紀初頭文化・文政頃にかけて江戸随一の文人と言われていた太田南畝は、その著『一話一言』の中で練馬の村々の様子を他書を引用しながら述べている。南畝は名を覃、通称直次郎といい、四方山人、四方赤良、寝惚先生、杏花園等の号があり、蜀山人の名は最も知られている。本書のほか、多くの狂歌・狂文集や、随筆『仮名世説』『南畝莠言』『俗耳鼓吹』『半田閑話』『
本書は安永八年(
その三四巻に「武蔵国豊島郡の事」として、「上石神井村」「同村(
ただ「豊島家譜」の項は『四神地名録』にないので、次に記しておく
<資料文>豊島家譜〔親常追加〕
元享年中武蔵国足立郡、多摩、児玉、新倉、豊島五郡領主豊島郡石神井城主豊島左近太夫景村
資料文>なお、豊島氏のことについては、酒井忠昌の『南向茶話』、志賀理斉の『理斉随筆』、著者不詳の『望海毎談』などに、また、石神井村と
同じ太田南畝の著に『武江披砂』がある。早稲田大学蔵写本の序に「文政とあらたまりぬるとしの冬のなかば……」とあるので、その頃の完成と思われる。この書には、『異本武江披砂』と名づける同種異巧の別本があり、その中に「石神井三宝寺遊記」と題する一条が記されている。
<資料文>石神井三宝寺遊記
大久保百人町の西木戸を出で右へ行く事数町にして、上落合橋を渡り、西にゆけば右に浅間塚あり、ゆき〳〵て右に寺あり、無縁山法界寺といふ、日蓮宗にして馬場下妙泉寺の末寺なり、こゝは茶毘所なりといふ、左の方へ二曲りして新橋あり、左右打ち開きたる田間をゆけば、石橋あり、沼袋村を過左に庚申塚あり、鷺宮村を経て左に八幡宮稲荷の社あり、別当を福蔵院といふ、岐路あり、左へゆくに石表あり東高野道といゑれり、上鷺宮を過ぎて又岐路あり、右は小径なり、左は井草村道なり、この道をゆけば石の地蔵たてり、石神井道に入りて小流あり、石橋を渡りて石神井村なり、又岐路あり、庚申塚あり、小き石橋を渡る水なし、下石神井村を過て石橋を渡れば、左右ともに広き田野なり、この左の方に、照光山禅定院道場寺あり
上石神井村亀頂山三宝寺 新義真言宗
守護不入の札を建 御朱印十石
三宝寺に歴代を記せる碑あり(
簡単な地図が挿入されているが、大略、現在の新青梅街道を通って、八成橋から所沢道を入って行った。文中禅定院と道場寺を一寺のごとく記しているが、これは著者の誤りである。
別に三宝寺の縁起について著したものに『三宝寺旧事記』(
三代将軍家光が鹿狩の際、三宝寺に立寄った一件に付いて『縁起』は、「寛永乙丑二年夏冬両度、再正保元甲申年共三箇度也」と、割合簡略に記しているが『旧事記』では
<資料文>一、家光公当寺御成之事
寛永二年乙丑卯月十一日
同年十一月廿九日
住持 俊誉法印之代
御代官 須田平左衛門
同正保元年甲申
住持 宥鑁法印之代
御代官 守屋佐太夫
同 熊沢彦兵衛
資料文>と、月日ならびに時の住職および代官の名を記している。『旧事記』はここで終っており奥書も何もないが、豊島泰
一九世紀にはいって化政期、即ち、江戸文化の爛熟期になると江戸とその近郊にある社寺に対して、武士・文人・上流町人など、いわゆる知識層にある者たちの関心が次第に高まって来た。
そのような中で、江戸近郊の寺社縁起をまとめたものに、松平冠山の『四神社閣記』がある。冠山は名を定常といゝ、因幡新田二万石池田家を襲い、藩主を継いだ。『江戸名所図会』(
この書は、江戸近郊を青竜、白虎、朱雀、玄武の四方角四巻に分けて編集している。成立は序文、奥書を欠くが、文中、山口観音の項に「今より文化乙亥十三年前に開帳ありしと也」とあるところから、文化乙亥(
他書と若干異同はあるが、要領よくまとめてある。妙福寺の項に尾州御鳥目役高橋覚左衛門の名が見えるが、前述したように小榑村名主覚左衛門(
本書は次の古河古松軒自筆の前書によって、その成立過程を知ることができる。
<資料文>此書ハ、寛政六年甲寅ノ春二月、御府外ノ地理井寺社ノ事跡名所旧地、可相糺旨奉命、御普請役柏原由右衛門、御小人目附室田富三郎案内者トシ、二月十三日江戸発足シテ、八月下旬迄ニ巡村相済、地名録二部、地理図二枚、十一月廿五日迄ニ清書シ、同廿八日御勘定所江呈上セリ、地名録一部、地理図一枚、戸田采女頭様御手本ニ止リ、御覧ウヘニテ、公儀御文庫ニ納リ、残テ一部一枚ハ御勘定所ノ御扣ヘトナリシ也、地理ノ図ハ御城辺ノ事ニ候之間、他見ヲ堅ク可禁旨柳生主膳正様、久世丹後守様ヨリ被仰渡、艸稿迄モ残リナク指上シ也。
干時寛政七年卯春三月 六十九翁古松軒辰(
古松軒は、名を平次兵衛といゝ、正辰とも称した。早く長崎で蘭学を学び、寛政政革に際し、老中松平定信に召されて江戸に下った。著書にはほかに九州地方を巡って書いた『西遊雑記』七巻、奥州・蝦夷の巡見記『東遊雑記』一〇巻などがある。江戸近郊の地誌としてはこの『四神地名録』ほど、他書にも引用され、有名になったものはない。
寛政六年(
豊島郡上下、多摩郡上下、荏原郡上下、葛飾郡上下、足立郡および付録の一〇巻から成っており、自序に次のようにある。
<資料文>あめつちひらけ初しより、かく明らけき 御代はさらにきゝも伝へず、四つの海浪しつかに、日出る国のひかりは、見ぬこまもろこし、知らぬ千嶋のはて、遠ふつ国を照らし、天長く地久して土厚く、万代かけてうごきなき四神の地、名にしおふむさし野、曇りなき玉川の渡り、きよらなるすみ田川の流れを探り、四神地名録と題し、拙き筆記を奉り侍るも、無学の誤りなからん事をおそれみ〳〵ふしてさゝくものならし。
干時寛政六つのとし夏六月 黄薇山人古松軒辰謹誌
資料文>練馬に関係する村は、上、下石神井村、関村、谷原村、中村、上、下練馬村の七か村で三宝寺および三宝寺池付近と、練馬城趾の挿絵が入っている。原文は巻末に関係部分を抄録してあるが、ここに二、三注釈を加えておきたい。
上石神井村三宝寺の項に「小田原北条氏康、氏政の書簡有りと云」とある。文政九年成稿の『新編武蔵風土記稿』(
関村の項に「水の
下石神井村の項で神代の石劔を神体とする
練馬の語源には幾つかの説があるが、その中で一番人の口に膾炙されているのは馬調練説である。篠某という者が馬を盗んで来ては、その馬を練り、売っていたと言うもので、江戸幕府官撰の地誌『新編武蔵風土記稿』にも堂々と記載されている。この説を一番早く取り上げたのは本書である。
また、下練馬村の項で、「此村中に小手さし原の旧地有りと云へども実跡あらず」と記している。『太平記』に見える小手指原は普通、所沢市の西部旧小手指村付近とされているが、『
国立国会図書館に、文政四年(
全巻に古跡古碑の絵を多く挿入しており、練馬では石神井城趾と練馬城趾の鳥瞰図が画かれている。『四神地名録』のそれと比較すると若干の相異があり、実写か、模写か判断に苦しむところである。『東鑑』『鎌倉大雙紙』『四神地名録』の引用が多い。上練馬村の條では『東鑑』を引いて、奥州征伐祈祷のため鎌倉から武蔵の慈光山に下された愛染明王の尊像はあ
るいは愛染院の本尊ではないかと推考している。しかし『武蔵野話』、『川越松山之記』(先に述べた『江戸往古図説』の著者大橋方長はまた、幕命によって官撰の地誌とも云うべき『武蔵演路』を編纂した。
自ら書いた序文に次のようにある。
<資料文>やすらかになかきこゝのつのかのへねのとしといふはつふゆの空、おん江都を発し草にはてしなき武蔵野の広き叢をおしにかけ、たま〳〵川のなかき流れをしたひ、あさ紫のか浅きこゝろより堀かねの井の深きをもとめかね、こゝかしこに見しまゝをたゝにかきあつめたる武蔵演路といふ
古歌に
いかにせん昔しのあとをたつねても およはぬ道をなをなけきつゝ
武陽豊嶋県江都東下街 大橋方長編輯
資料文>刊行は、「<圏点 style="sesame">安圏点>らかに<圏点 style="sesame">永圏点>き<圏点 style="sesame">九圏点>つの
その大略は次のごとくである。
<資料文>第一巻 武蔵国名義 国界 管郡 田租 国造 国府 古駅古道 旧跡 武州路程里数 官道 間道 名所 廃城
第二巻 豊島郡 第三巻 荏原
第四巻 橘樹 綴喜 久良岐
第五巻 多摩 第六巻 新座 入間
第七巻 高麗 秩父 男衾 大里 比企 横見 第八巻 足立 葛飾
○間道 川越路
自江戸二里十町 小石川金井窪 大塚 上板橋廿八丁 下練馬一リ十八丁 赤塚新倉 白子一リ 此間原 膝折一リ 野火留 大和田一リ半
中ノ村 藤窪 大井二リ半
○豊嶋
野方領中新井村 野方領中村 野方領練馬村上下 野方領土支田村 野方領谷原村 野方領田中村 野方領石神井村上下 関村(
○野方領 板橋辺近在
○新座
野方領新倉 保屋上下 小榑 野方領根岸 野方領白子(
○白子村 町在 川越道中下練馬より壱里十丁白子村より膝折迄壱里
資料文>本書と『四神地名録』を比較して見ると、本書成立の方が先立つこと十数年であるところから、『四神地名録』の著者は本書を参考にしていたことが充分考えられる。また本書は昭和四九年練馬区教育委員会編『練馬の道』によって、はじめて活字化され、練馬に関係する部分が収録された。
江戸の俳人独笑庵立義は、文化一五年(
立義は、それほど富家ではなかったが、旅を好み、暇を得れば旅装を整え、地図、地誌類を携へ、行先ではこれらを繙いて実査し、書留めたものを家に戻ってから更に文献に徴して浄書したという。巻中所々に地図や挿絵を加えており、世に多い紀行文とは全くその趣を異にして、当時の状況を知るには甚だ貴重な書と評価は高い(
立義は本書のほか、日光・鹿島・杉田・百草・高尾山・御嶽山・秩父など各方面の紀行文を著書として残している。
地誌にせよ、紀行にせよそれらは記録として極めて貴重なものであるが、更に挿絵の入ったものは所々の情景なり、遺物の様子なりを直接見る者に彷彿させる。その様なものの中に余り知られていない『武蔵野古物』がある。原本は詳かでないが、写本が東京都公文書館と西尾市立図書館岩瀬文庫などに収蔵されている。江戸とその周辺の社寺、遺跡などの境内図や金石文を淡彩を施して記述してある。恐らく著者が暇に任かせて神社仏閣を訪ね、見るまゝ聞くまゝに筆記している様が紙背に窺える。絵も画家のそれではなく、記述も学問的な史論考証はないが、実際に足で歩いて書いたという強味がよく感ぜられる。筆者・成立年共不詳であるが、文中「豊嶋村清光寺」の条で貞治二年(
武蔵の地誌で見逃すことのできない一冊に本書がある。著者は斉藤
本書は前編と続編の二編から成り、前編の刊行は自序から文化乙亥(
前編は刊行の翌年筆禍で当局の忌諱に触れ絶板となった事でも話題となった。それは、一つに秩父郡の武甲山は付近に「
鶴磯が前編刊行後、二〇年間住みなれた所沢を去って、再び江戸に戻ったのも、そうした事情によるものかもしれぬ。また、続編は鶴磯の記述に相違ないが、序文は松平冠山が撰し、門人岡部静斉の校訂ということで上梓されている。
著者の寓居が所沢であった関係からか、入間、多摩、秩父三郡の記述が豊富である反面、練馬周辺の豊島、新座両郡の紙数は少なく、豊島郡は続編で上石神井村、下赤塚村の二か村についてふれているに過ぎない。資料として別載するまでもないので、ここに収録しておく。豊島郡の部は上石神井村から筆を起している。
<資料文>上石神井村に亀頂山三宝寺とて真言宗にて守護不入の標木を建置て
これより先前編秩父郡の部日野村、
又豊島郡下石神井村に石神井の神
豊島郡の部はこのあと、下赤塚村大堂の暦応三年(
小榑の榑の字は、旧字の專が現在当用漢字で専となってさらに紛らわしくなった。鶴磯は他でも村名の起源や、由来を考証しており、本書の引用書目を見てもその学識の深さを知ることができる。
小榑村の項のすぐあとに比企郡
文治五年六月廿九日奥州泰衡征伐の為
(
冒頭にも書いたが、江戸時代も半ばとなると泰平の世がつづき、市中には精神的にも、経済的にも余裕のある階層が増加してきた。特に高級武士、僧侶、豪商、富農などは、いわゆる物見遊山にたびたび出掛けては、四季折々の風物を楽しんだ。が、中には単なる行楽ではなく、行った先々の神社仏閣や史跡名勝を克明に紀行文として記している者も、今まで見てきたように決して少なくない。
敬順は、本姓津田氏、名は大浄、織田信長の遠裔だという。三河から江戸、
現存する『遊歴雑記』は初編から五編まで各編上中下の三巻に分け、全一五巻から成っている。文化一一年(
練馬に直接関係のある九章の外に、第三編下の巻第五として「練馬台宿金之亟が林泉」という一章がある。記述にも「武州豊島郡下練馬村の往還は、川越の街道也、爰に台宿といふ処は、ゲトウ橋の西弐町
また四編下の巻第二九に「武州の内遊歴市の定日」というのがあり、江戸近傍でも辺鄙な所へ行くと、宿もないし、昼食をとる店もないと警告している。このような所へ行くには市の日に限ると、武州一国在町の市の定日と寺社の縁日を六〇か所連記している。その中に「十月九日十日 土支田村妙福寺市」と「十月廿八日廿九日 関村本<補記>
さらに五編下の巻第二六「諸方国産好悪の判談」には、武蔵一円の牛旁・葱・大根・生姜・蓮根・芋類などの農産物について著者が直接口にしたその品質や、風味の
以下、載録した本文について若干の註を加えておく。
まず、「石神井村三宝寺の池水」の条末尾に豊島左衛門<圏点 style="sesame">清光圏点>とあるが、これは著者の誤りで泰経が正しい。
次条「<圏点 style="sesame">善乗院圏点>の異紋の撞鐘の銘」は文中にある通り、禅定院のことである。この鐘は元禄一六年(
「練馬の号将監嘉明が宅地」にいう練馬将監の説は、他の史書に全く見られないものである。貞治年間(
「下練馬の
「高松村服部半蔵の墳墓」にある高松寺は廃寺となって愛染院に合併された。著者の見た仁王尊は現在も高松三―一九御嶽神社境内にあるが、図示した服部半蔵の墓と思われる五重の石塔は今は無い。合併の際にでも散逸したものか極めて残念である。
最後の二条は、文政六年(
末尾の「人に
『遊歴雑記』の著者十方庵敬順とほとんど同時代で、やはり江戸近郊を歩き、貴重な紀行文多数を残した人に『嘉陵紀行』の著者村尾正靖がある。
正靖は、名を源右衛門、
その著書『嘉陵紀行』の自筆稿本は『江戸近郊道しるべ』(
村尾正靖とはどのような人物であったか、『嘉陵紀行』巻一の跋文で堀江誼翁は彼を評して次のごとく言っている。
右に文、左に武、職務を鞅掌し、少しの余暇あれば、山を尋ね水を索め、吟哦頗る富む、其の境に至り、其の概を記し、捜索探討、杖履の触るる所、目捷え接する所、藹々焉、漠々焉、而して其の雄なる者……。
先の敬順は酒を一滴も嗜まず、酒飲みをあまり心良く思わなかった様子が『遊歴雑記』の諸所に窺われたが、この正靖は酒を好んだようである。出掛ける時は、いつも
正靖は清水家の用人を勤めた程なので、学問的な教養は相当深かったことは、この紀行文の随所から充分推察がつくところである。
本書の特徴の一つに詳細な行程図が挿入されていることがある。原文は巻末資料を参照されたいが、彼は文化一二年(
そこから正靖の行程図は、ほゞ今の千川通りを江古田・練馬と通り、貫井の円光院前を通過して東高野山みちに入る。東高野山みちは、現在の練馬第二小学校の先を、左手に入り、迂曲しながら富士見台三丁目御嶽神社の下を通り、石神井川を渡って長命寺の東門に至る道をそういっていた。
清戸みちとの分岐点には、寛政一一年(
また長命寺境内(
正靖は長命寺を訪ねた七年後の文政五年(
この章の欄外に「重考」としてある「豊島権次は東鑑に見ゆ……」以下の文は誤りが多く、正靖自身が記入したものかどうか疑わしい。
いずれにしても、この『嘉陵紀行』と前述した『遊歴雑記』の二つは、江戸文人の紀行随筆として、練馬にとっては他にあまり纒まったものがないだけに、極めて貴重な資料的価値があるものと認められる。
『新編武蔵風土記稿』(
そもそも『新記』は林大学
と、体裁や、記述の方法に統一性が欠け、郡によりその内容に精粗の差があって、完全なものとはいえないから、いずれこれを資料として完全なものを作ってもらいたいと、述べている。
練馬区は、本書の豊島郡と新座郡にすべて包含されているので、それぞれの郡の編集課程を同じ首巻から見てみると次のとおりである。
<資料文>豊島郡は文政九年成、
即ち豊島郡は江戸府内と府外、つまり朱引の内と外が入り混じっていて、判然としない所がある。はっきり朱引内と判っている町並みの記述は別の『御府内備考』に譲って本書には採収していないが、どちらともつかない所は、本書に入れたり、入れなかったりしてあるので見る人は、それを不審に思っては困る。『新記』と『御府内備考』を合わせて覧て欲しいという意味に受けとれる。幸い本区関係は、はっきりと朱引外なので、すべて本書に採録されている。
また新座郡については次のごとくある。
新座郡は久良岐に
新座郡の巻は、文化七年起業の始め、試みに作られた久良岐郡につづいて、ほとんど同時に編集が開始された。が、翌文化八年(
『新記』の編纂に当っては、現地に臨んだ実地調査も行ったであろうし、古史籍を渉猟し史料を蒐集したのであるが、根幹になったものはおそらく各村に令して村の概要を報告させた「地誌調書上」であったろう。
区内には旧上練馬村の名主であった長谷川武範家(
この「書上」を「村明細帳」(
『新記』はまた、この「書上」を重用な参考資料として採用した外に、沿革の項では『小田原所領役帳』などによって追
記を行なったり、三宝寺文書や、橋戸村庄氏文書のような古文書も多数採録している。このように『新記』は江戸地誌の根本資料として万人の認めるものではあるが、前述したように全く瑕瑾のない書とは言いきれない。
例えば、「土支田村明細帳」にある八幡・神明・天神・稲荷四社除地一町九反余の別当万福寺(
いずれにしても、今後『新記』ならびに、「地誌調書上」「村明細帳」「寺社明細帳」などとの相互比較検討を加えた研究を俟たねばならない。
『江戸名所
斉藤家は江戸神田雉子町の名主を勤める家柄で、名を代々市左衛門と称した。
まず初めにこの『図会』の著述に手をつけた幸雄は、勤めの傍ら江戸近郊の名所旧跡を訪ね、それを克明に記録していた。彼は松濤軒長秋とも号して文章も好んでいたので、それらの草稿が積って、やがて『図会』の骨子となるものが着々と進んでいた。しかし、上梓の計画はあったものゝ未だ完成に至らないうちに、寛政一一年(
幸雄の子幸孝は父の遺志を継いで、その草稿に自ら増補訂正を加え完成を期したが、彼もまた文化元年(
幸孝の子幸成は、
前述した冠山松平定常(
この『図会』の魅力は、著者の斉藤三代と画家の長谷川二代のいずれもが実際にその足で訪ね、その眼で現状を見て叙述しているところにある。江戸期にも往々にして机上で書き上げたと思われる随筆の類いも無いではないが、本書はそれと全く異り、絶対的な正確さと、写実的な精彩さが現代のわれわれでさえ見る者を魅了させずにおかない永遠の光を投げかけているのである。
幸成(
先に『四神地名録』の項で、下練馬村に小手指の地名が伝承としてあったことを述べたが『図会』にもこのことが書かれている。入間郡小手差原の項の註で「豊島郡下練馬村に小手指原の旧地残れる由、其土人云伝ふといへども、証となしがたし」と『四神地名録』と同じ見解を示している。
『図会』に小榑村妙福寺が書かれていないことに一沫の淋しさを感じる。
弘法大師霊場四国八十八か所参りの写しとして、江戸にそれが出来たのは詳かではないが、斉藤月岑の『東京歳事記』によると宝暦頃(
天保一〇年(
四国八十八ヶ所ハ弘法大師之霊場也、右写宝暦五年浅間山上人本願ニて東都ニうつさせ玉ふ、一度巡拝の輩ハ其年乃悪事を除せ、難病を治し、再拝の輩ハ家運繁栄子孫長久福徳円満成せ玉ふ御誓願也
とあり、道順をたどると次のようになる。
(一)高輪 正覚院 (二)大久保 二尊院 (三)角筈 多聞院 (四)行人坂 高福院
(五)広尾 延命院 (六)麻布 不動院 (七)下渋谷 宝泉寺 (八)目黒 光雲寺
(九)青山 浄性院 (一〇)千駄谷 聖輪寺 (一一)幡ヶ谷 荘厳寺 (一二)中野村 宝仙寺
(一三)霊岸島 円覚寺 (一四)鷺宮村 福蔵院 (一五)中村 南蔵院 (一六)石神井村 三宝寺
(一七)谷原村 長命寺 (一八)四谷 愛染院 (一九)愛宕 円福寺 (二〇)愛宕 金剛院
(二一)四谷 東福院 (二二)牛込箪笥町 南蔵院 (二三)市谷 薬王寺 (二四)四谷 三光院
(二五)四谷北寺町 和光院 (二六)四谷南寺町 文珠院 (二七)芝 円明院 (二八)湯島 霊雲寺
(二九)牛込 千手院 (三〇)高田 放生寺 (三一)牛込弁天町 多聞院 (三二)湯島 円満寺
(三三)巣鴨 真性寺 (三四)本郷 三念寺 (三五)切通し 根生院 (三六)牛込原町 報恩寺
(三七)市谷八幡 東円寺 (三八)砂り場 金乗院 (三九)四谷 真成院 (四〇)亀戸 普門院
(四一)浅草新寺町 密蔵院 (四二)谷中 観音寺 (四三)浅草 成就院 (四四)四谷 顕性寺
(四五)御蔵前 大護院 (四六)本所二ッ目 弥勒寺 (四七)上中里 城官寺 (四八)市谷 林松院
(四九)谷中 多宝院 (五〇)両国 大徳院 (五一)鳥越 長楽寺 (五二)戸塚 観音寺
(五三)谷中 白性院 (五四)目白 新長谷寺 (五五)谷中 長久院 (五六)田端 与楽寺
(五七)谷中 明王院 (五八)上高田 光徳院 (五九)西ヶ原 無量寺 (六〇)浅草 吉祥院
(六一)浅草 正福院 (六二)浅草 威光院 (六三)谷中 観智院 (六四)谷中 加納院
(六五)三田寺町 大聖院 (六六)田端 東覚寺 (六七)愛宕 真福寺 (六八)富岡町 永代寺
(六九)三田寺町 宝生院 (七〇)谷中 西光寺 (七一)小石川 玄性院 (七二)浅草 不動院
(七三)猿江町 覚王寺 (七四)深川 法乗院 (七五)赤坂 威徳寺 (七六)音羽 西蔵院
(七七)三田寺町 仏乗院 (七八)東上野 成就院 (七九)小日向 専教院 (八〇)三田寺町 長延寺
(八一)魚藍坂 真蔵院 (八二)浅草 竜福寺 (八三)四谷 蓮乗院 (八四)三田 明王院
(八五)三田 泉福院 (八六)小石川 常泉院 (八七)音羽 護国寺 (八八)白金 高野寺
これは『東都歳事記』とも、次に述べる『御府内八十八ケ所道しるべ』とも若干の異同がある。また明治九年にも『御府内八十八ヶ所道順独案内』なる地図が出ているが、これとも相違している。明治九年のものには第七十番に石神井村禅定院が、谷中の西光寺に代って入っている。
両図とも十五番中村の南蔵院から十七番谷原村の長命寺に行くあたりに「此へん茶やも無之、至て不自由ニ御座候、長命寺門前にて支度可被成候か、弁当持参被成候、其外一向無之候」とわざわざ注意書が記入されている。また長命寺の脇には「此御寺ニねがひこへば、御とめ被成候、しんこうやといふ」とも書かれている。
さて、『御府内八十八ケ所道しるべ』(
以下区内の三か寺について全文を掲げておく。
画像を表示 <資料文>十五番
此辺四か寺参詣之節ハ弁
当御持参可被成、近辺ニ茶や等も無之、当寺ニて昼飯可被成、是より谷原村迄ハ道のりはるかあり、若行くれ候節ハ大師様御こもりと御願被成候ハヾ一夜の御聞済相成候間、其御心得ニて御参詣可被成候
雑司ヶ谷通在中村 一リ半
瑠璃光山医王寺 南蔵院
御宝末
本尊
不動明王
薬師如来
弘法大師
御朱印
并境内三町三反五畝十三分
年貢地惣高三十六石六斗
九升九合六勺六才
(
是より長命寺ヘハ、表門より右へ行、六地蔵より右へ行地蔵尊へ突当り左りへ行、右へ行、水道の
願主 両国吉川町
桐山まさ女
(
養山金立院国分寺と云ハ
聖武天皇詔して、丈六之釈
迦二菩薩を作り大般若を
写し天下一国ニ一ヶ寺ツヽこん
立し玉ふニより国分寺と号
此寺本尊薬師如来、御丈ヶ
壱尺五寸作者志らず
うすくこく
わけ〳〵色を
そめぬれバ
あきの もミち 葉
資料文> 画像を表示 <資料文>十六番
(
石神井村 一リ九丁
亀頂山密乗院 三宝寺
どくれい
不動明王
義新 本尊正観世音菩薩
弘法大師
御朱印拾石余 四十三ヶ寺本地常法談林所
(
是より福蔵院ヘハあとへもとり、寺の前を右へ田の中道を行水道のはしをわたりて行と右に石地蔵あり夫より左りへ
願主 尾張町壱丁目元地
松田ちか女
わすれずも
くわんおんじ
さいほう
せかい
ミだの
じやうどへ
資料文> 画像を表示 <資料文>十七番
やはら村 廿町
谷原山妙楽院長命寺
和州長谷小池坊末 境内四丁余
奥院弘法大師
新 本尊 薬師如来
慈覚大師御作
義 本尊十一面観世音 行基菩薩御作
御朱印九石五斗余 三ケ寺之本地
是より三宝寺へハ表門を出右へ行四ツ辻を左りへ行三ツ又大松之下へをり左
願主 尾張町壱丁目元地
鳶之頭取
源太郎
(
阿波国名東郡井戸村瑠璃山真福いん明照寺聖徳太子御建立といふまた行基ともいふ大師あそひ玉へ本尊薬師如来御丈五尺両脇士并ニ四天王を作り安置す鎮守八まん楠明神
おもかげを
うつして
見れバ
井戸の水
むすへバ
むねの
あかや
おち
なん
(
当寺ハ慶安四かのとの卯年
○阿闍梨ハ伊豆の国の
○観音堂之本尊十一面観音ハ行基之作也
谷原
長命寺
新高野又ハ
東高野山
とも
いへり
願主
も組
源太郎
資料文>江戸俳諧を大成させた松尾芭蕉の没後、その流れを汲んだ服部嵐雪と榎本其角の二人の活躍はめざましかった。芭蕉には随筆はないが、其角には俳句を交じえた随筆『
其角の没後(
有名な彼の選句集『誹風柳多留』は明和二年(
この江戸川柳の中から、いくつか練馬に関係のある句を拾ってみようと思う。
まず、練馬といえば大根、大根といえば練馬といわれるほど、当時既に、練馬と大根は切っても切り離せない代名詞のようなものになっていた。
踊り子のあとへ練馬のせなあ乗り
夏の間、踊り子を乗せて涼み客を楽しませた大川(
川一は練馬の客が乗納め
資料文>この句も前句と同じ趣向のもので「川一」は川一番という意味でつけた当時大川で代表的な屋形舟のことである。
鎌倉の時代ねりまの鞭を出し
『曾我物語』巻の六に、弟の五郎
練馬の国の住人と名乗て出
冬ごもり味方と頼む練馬武者
『徒然草』第六十八段に、筑紫の押領使がある時、館の内に誰れもいない隙を計られ敵に襲われるが、いずこともな
この句では、その大根の化身の武士を「練馬武者」といい、また「練馬の国の住人」と名乗って出て来たろうと想像している。
こうした物語・戦記物は川柳の好題材であったが、歌舞伎・色街の話題も少なくない。練馬四丁目、十一か寺の中の受用院墓地に、江戸歌舞伎の名優沢村宗十郎累代の墓がある。
宗の字に娘かんざし打直し
前ざしにまでも田の字の紋所
宗十郎びいきの娘が、かんざしの紋を彼の紋に打直すほどの気の入れようを詠んだものである。三代目宗十郎は幼名を沢村田之助と呼んだので、のちに初代田之助と称したが、後の句も田之助の紋をかんざしにまでつける当時の人気を詠ったも
のである。桜よりくわん菊娘ねだるなり
この句も、花見より田之助の芝居をねだる娘の心理を言ったものであって、「
ふんどしが訥子に化ける柳原