練馬区史 現勢編

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第二部

<本文>

第五章 都市計画

第六章 公害・自然保護

第七章 防  災

第八章 人  口

第九章 町の変遷

第十章 区民生活

<章>

第五章 都市計画

<節>
第一節 練馬区と都市計画
<本文>

練馬区は古くから人々が集団的に生活しており区内を流れる石神井川や白子川沿いにそうした生活を裏付ける多くの住居遺跡が分布する。律令制下では武蔵国豊島郡となり、平安期には荘園の成立もみるようになった。鎌倉、室町、江戸期へと歴史的経過の中で、練馬の生活基盤はいぜんとして農耕を中心とするものであった。とくに江戸期には江戸の大消費地に供給する野菜栽培を中心とした近郊農村地帯としての形をととのえていった。練馬大根で象徴される練馬の名も、このころ、世に広まったものといえる。明治期に入っても、練馬地域は畑の間に屋敷森で囲まれた農家が散在した近郊農村地帯としての姿は変りなかった。練馬区がこうした純農村から、都市的な姿に変りはじめたのは、大正四年の武蔵野鉄道(現西武鉄道池袋線)の開通と大正一二年の関東大震災の影響である。関東大震災は大量のり災者を生みだし、これらの人々はようやく近郊電車が開通し、道路や商店街など街としての基盤がととのいつつあった山手線の外周地域に移り住みはじめた。練馬区についても、練馬駅、江古田駅周辺や居住環境にすぐれた石神井地区などで人々の定住が始まった。

一方、東京市においては、大正時代に入ると人口の増加が目ざましく、とくに第一次大戦(大正三年〈一九一四〉~大正七年〈一九一八〉)後の産業の躍進は、都市への人口の集中を助長し、いたるところに無秩序な市街地が形成されだした。このため、大正七年には明治二一年に制定された「東京市区改正条例」を改正して、新しく市街化が行なわれだした市域周辺区までに適用を拡大し、さらに大正九年、市区改正条例を廃して「都市計画法」と「市街地建築物法」が施行された。かく

して、現在まで続いている都市計画区域や用途地域などの制度がこの時点で生みだされ、近代都市計画制度がここから始まったといえる。

こうした東京市の市街地化形成の過程のなかで、練馬区は大正期から昭和初期にかけて、五村(北豊島郡下練馬村〈のち練馬町〉、上練馬村、中新井村、石神井村、大泉村)に分かれていたが、大正一一年四月、東京市旧一五区や周辺郡部(荏原、豊多摩、北豊島、南足立、南葛飾および北多摩郡の八四町村)とともに、東京都市計画区域に編入された。この結果、練馬区域は以降都市計画の対象区域となり、都市発展の情勢に応じて、計画的に都市施設の整備をはかる地域となったわけである。

昭和に入ってからも、農山村地域から東京への人口流入は継続し、さらに関東大震災による郊外の宅地化は、東京の市街地を一層外部へ拡げる結果となった。このため、昭和七年一〇月隣接五郡八二町村を編入し、旧一五区から三五区となった。現練馬区域もこのとき編入され、東京市板橋区となった。

しかしながら、昭和一六年一二月に太平洋戦争がぼっ発し、緒戦には優勢であったこの戦争も、時がたつにつれて戦況は不利となり、一九年には本格的な空襲を受けるまでに至った。この空襲は、一七年の初襲来から二〇年八月の終戦まで、延べ一〇二回にもおよび、空襲による被害は、被災面積一九五km2区部面積の二八%)、焼失家屋七一万戸(区部戸数の五〇%)、り災者二八六万人(区部人口の四四%)までにおよんだ。この結果、東京の主要部は廃きょと化して終戦を迎えることとなった。

戦後の都市計画は、戦災復興を目的とした「特別都市計画法」の制定から始まる。この法律は、戦災復興計画の基本目標を不燃都市の建設、公園・緑地施設や交通施設などの都市の基盤整備に重点を置くとともに、都市の過大防止の一方策として、既成市街地の外周にグリーンベルトの設置を考えた。このグリーンベルトは、二一年緑地地域として制度化され、指定対象地域は約一万四〇〇〇<数2>haにおよび、練馬区域の過半がこの地域に指定された。この緑地地域は、この後数回以上にわたる地域指定の解除を経て、四四年に廃止され、以後「土地区画整理事業を施行すべき区域」へと引継がれた。

戦後の都市計画を進めるにあたって、大きな影響をもたらしたものは、民主化政策の一環として行なわれた地方自治制度の強化であった。一八年国内体制の連けいのもとに東京都制が布かれていたが、二二年に施行された「地方自治法」により国の出先機関から都民の自治機関となり、多く権限も国から委譲されることになった。また、二二年三月にこれまでの三五区が二二区に改編され、同年五月、市なみの権限をもつ特別区に生まれかわった。練馬区は改編当初、板橋区に属していたが、地元からの強い独立運動が実って同年八月板橋区から分離独立した。

二〇年代の戦後の復興期を経て、三〇年代から始まった日本の高度経済成長は、大都市とりわけ東京に過度の人口と産業の集中をもたらした。この結果、市街地の無秩序な進展、居住環境の悪化、交通混雑、公共施設の未整備、住宅の不足等多くのへい害がいっきょにあらわれた。このような大都市問題に対応するためには、単に東京だけにとどまらず、首都圏全体のなかで解決をはかる必要が生じてきた。そこで、一都七県(東京、神奈川、千葉、埼玉、茨城、栃木、群馬、山梨)を対象範囲とした首都圏構想がたてられ、これを推進するために三一年「首都圏整備法」が制定された。この法律に基づいて三三年に第一次首都圏整備計画が策定され、都内に集中する人口、産業を抑制する対策が実行に移された。第一は既成市街地の周囲をグリーンベルトとし、その外側に市街地開発区域を設けてそこに人口と産業を吸収する計画である。第二は既成市街地において、工場および大学の新・増設を制限する方策で、三四年「首都圏の既成市街地における工業等の制限に関する法律」の施行により実施された。

こうした山積する大都市問題のなかで、三九年東京オリンピック大会が開催された。この大会を契機として、競技施設の建設とともに大会運営に関連する道路・下水道等が積極的に整備された。区内でオリンピック道路と称される補助一三四号線や目白通り(放射七号線)、環七通り(環状七号線)などは、この時完成をみたものである。

四〇年代に入ると、目ざましい日本の高度経済成長とは対照に、一方では都市のひずみが深刻化してきた。産業活動、都市活動から派生するさまざまな公害が生活環境を破壊し、生命までも脅かすまでに至った。練馬区においても都市化とモー

タリゼーションによる自動車公害問題が顕在化し、放射三五号・三六号問題、環七問題をはじめ道路をめぐって多くの住民運動が展開された。また、都市計画、都市整備問題について計画原案作成時点から住民参加を求める声も大きくなった。

四三年全面的に改正された「都市計画法」によって、旧法においては主務大臣の決するところとなっていた計画決定権限が、大幅に地方公共団体に委譲され、また、地域関係住民の意向を反映する機会として、公聴会制度、縦覧制度、地元市町村への意見照会などが制度化された。

しかしながら練馬区は、東京の大都市行政の一環としての特別区であるため、四九年の地方自治法の改正をまつまで都市計画はすべて東京都によって行なわれてきた。四九年都市計画法の一部改正によって、特別区に対しても一定の都市計画決定権限が移され、練馬区が独自で原案を作成し都市計画を策定することが可能となった。

現在練馬区に関係する都市計画の決定、意見については、四七年に区長の付属機関として発足した「練馬区都市計画審議会」が区長の諮問に応じて審議し、答申をはかっている。この審議会は四七年地域地区の全面改正の際設けられたものであり、五一年七月以降新しい体制のもとに、区の重要な都市計画についての審議を重ねてきている。

<節>
第二節 主要な都市計画
<本文>
土地利用

江戸時代から明治・大正期にかけて純農村地帯であった練馬区は、大正三年東武鉄道東上線、大正四年武蔵野鉄道(現西武池袋線)、大正一四年西武鉄道村山線(現西武新宿線)など、現在の練馬区の交通体系の基幹となる三鉄道路線が開通することによって急速に市街化が進んだ。大正九年の第一回国勢調査でおよそ二万二千人であった区の人口は、昭和五年には四万二千人と倍増した。こうした市街化の過程のなかで宅地に対する需要が増加し、区内においても宅地造成事業が積極的に行なわれてきた。昭和初期から戦前にかけて、豊玉・中村地区、平和台・氷川台地区、関町地区

および旭町地区において大規模な区画整理事業が実施され、その成果は今日においても、良好な市街地基盤をととのえている。また同時期に農業振興を目的としたものではあるが、耕地整理事業が大泉学園地区や田柄地区、北町地区で施行され、その結果が整った道路形態に名残りをとどめている。また、石神井川、白子川沿いの谷底平地で行なわれた土地改良事業も、現在の都市基盤をつくっている。

このような戦前において積極的に展開された土地区画整理事業をはじめとする宅地基盤整備は、戦後になるとほとんど実施に移されなくなった。原因としてはさまざまな理由が考えられるが、まとめると次のようなことになる。

第一は、昭和二一年に指定された緑地地域制度の存続によって、総合的計画的な宅地基盤整理が行なわれなかったことである。

第二は、戦後東京の急激な人口増加のなかで住宅需要が増大し、都市基盤の整わないまま個別の宅地供給だけが先行してきたことである。

第三は、こうした宅地供給は農地の宅地転用によって行なわれ、住宅の所有形態からみると、借家、アパートが大きな比重を占めていることである。

戦後のこうした市街化の結果、私鉄駅を中心として区内のいたるところに都市基盤を欠いた市街地がスプロール的に出現し、さまざまな都市問題を生みだす原因となった。

次に宅地化の動向を農地との関係でみると戦後二二年から五二年まで過去三一年間の農地から宅地への転用面積は、公共施設用地等も含めて約一五三〇<数2>haにものぼる。これは、二一年当時の約二二六〇<数2>haの農地面積が約七三〇<数2>haとなり、およそ三分の二の農地がかい廃したことになる。

しかしながらこの農地の残存状況を東京二三区で比較すると、農地面積では二位の世田谷区(約三六五<数2>ha)を大きく引離している。農地の内訳をみると、昭和三〇年までは大部分を占めていた田・畑にかわって四〇年以降は樹園地が増加し、田

はほとんどなくなった。農地は樹林とともに、区内の自然環境を保つうえで重要な資産であるので、保全についての十分な対策を施すことが重要な課題である。

樹林については、古来よりナラやクヌギの雑木林や、農家の周囲にめぐらした屋敷林が広く区内に分布してきたが、宅地化にともなって多くの樹木、樹林が失なわれはじめた。樹木や樹林の保護対策も合わせて重要な課題である。

都市計画道路

都市の骨格となる東京都区部の道路計画は明治二一年の三一六路線におよぶ都市計画街路から始まり、さらに大正一三年、関東大震災による復興計画として、幹線五三路線、補助線一二二路線が決定された。これらの路線が決定された区域は都心区域であったため、昭和二年に区域の外側についても、幹線放射街路一六路線、幹線環状街路三路線、補助線街路一〇七路線が決定された。ここに現在みられるような東京都市計画区域全域にわたる系統的な街路網計画が樹立され、区内の都市計画道路の骨格もこの計画によって形成された。

その後昭和一八年さらに計画が追加され、幅員八~一二m級の細街路が追加され、区内にも多くの計画道路がはりめぐらされた。

二一年戦災復興計画街路として、それまでの都市計画街路を再編成し、幹線放射街路三四路線、幹線環状街路九路線、延長約五〇〇<数2>kmと補助線街路一二四路線として延長約五四〇<数2>kmが決定された。しかし、当時の国情からみて、これらの街路事業を計画どおり実施することは困難とみて、昭和二五年計画幅員を大幅に縮小し、街路の計画面積を約三〇%減少させた。

三〇年代に入って急激なモータリゼーション時代を迎えて、既存の道路計画の見直しに迫られ、三九年環状六号線の内側、四一年には環状六号線の外側地域について、都市計画道路の再検討が行なわれた。この結果、幹線放射街路三六路線(約三六〇<数2>km)幹線環状街路一一路線(約二四〇<数2>km)補助線街路二九四路線(約九〇〇<数2>km)総延長約一五〇〇<数2>kmとなり、既定の細街路一〇〇〇路線(延長約一四〇〇<数2>km)については大部分廃止された。

区内の現行都市計画道路の体系は、この計画により次のとおりとなった。

しかし、三九年、四一年の再検討以降の経済・社会情勢の変化は著しいものがあり特に都市化とモータリゼーション(自動車の大衆化)の同時進行は、交通公害、交通事故、交通渋滞を生み、大きく社会問題化した。

このため東京都では、既定都市計画道路の見直しが必要となり、①都市防災の強化 ②都市機能の確保 ③地域環境の保全 ④都市空間の確保の四つの基本目標を達成するための検討を行なった。一方、区においても、都の再検討作業とは別に区民生活優先、地域環境の保全の立場に立って区内都市計画道路再検討素案を作成し、区民参加を経て区の都市計画審議会で考え方をとりまとめた。この結果昭和四一年時点にくらべて区内の都市計画道路は、光が丘地区およびカネボウ跡地の開発に合わせて、次の三路線が追加になった。

  1. ①補助三〇一号線(幅員二〇m)昭和五四年一月決定
  2. ②補助三〇二号線(幅員二〇m)昭和五四年一月決定
  3. ③練馬区画街路一号・二号線(幅員一二~一六m)昭和五六年二月決定

地域地区

地域地区とは、土地利用計画の基本となるものであり、土地利用は建築物に最もよく現われるが、過去から現在にいたる土地利用の動向および将来にわたる見通しにたって、建築物を規制することにより、快適な都市環境及び合理的な都市構造を確保しようとするものである。

地域地区は、大正八年制定の都市計画法および建築基準法の前身である市街地建築物法によりその指定が法制化され、関東大震災後の大正一四年が最初の指定である。

その後、戦後期に入り、昭和二三年の緑地地域の指定および二五年の建築基準法制定により、住居・商業・準工業および

工業地域の四種類の用途地域と緑地地域とに区分された。この間の用途地域の特徴は、ほとんどが住居地域(区面積の三三%)であり、建築物の容積の制限が主眼におかれた。また、緑地地域(区面積の約六四%)については、道路未整備等を理由に建ぺい率一〇%に制限された。三〇~四〇年代になると、市街化が急速に進み、緑地地域が現状に合わなくなり建築申請違反も九〇%を超えた。この結果、四四年五月に緑地地域は廃止され、その代わりにより良好な市街地形成を目的に「土地区画整理事業を施行すべき区域」となり、用途地域も住居地域に指定され、区面積の九四・五%が住居地域となった。

その後、四四年の都市計画法改正により、市街化区域および市街化調整区域が設定され、練馬区は全域、市街化区域に指定された。

そして、この都市計画法改正および四五年の建築基準法改正を受けて、都は「用途地域指定基準」を定め、その目標は、土地利用の純化であり、具体的には、1、生活環境の保護改善 2、都市公害の防止 3、都市防災の強化 4、都市機能のよみがえりであり、四八年一一月に地域地区の全面改正が行なわれた。その結果、従来の四種類の用途地域に第一種および第二種住居専用地域、近隣商業地域、工業専用地域の四種類が加えられ、計八種類となり現在に至っている。練馬区では、都市計画審議会、住民説明会等を通して改正を行なった。その主な特徴点は、生活環境保護の立場から商業との混在地である住居地域を大幅に減少させ、第一種および第二種住居専用地域の積極的指定により地域の純化を図った。

その結果、第一種および第二種住居専用地域が八四%、住居地域一〇%、近隣商業および商業地域四%、準工業地域および工業地域二%となった。また、都市防災の強化のために、区面積の四三・八%に準防火地域および防火地域が拡大された。さらに直面している日照問題等の生活環境保護改善のため、四八年四月、用途地域の指定に先行して新しい高度地区が指定された。練馬区では、第一種・第二種・第三種合わせて、区面積の九九%に高度地区が指定された。そして、用途地域に連動して、日当りの良好な住みよい街づくりを目ざすため、五三年一〇月、東京都において、「東京都日影による中高層建築物の高さの制限に関する条例」が施行され、区においても、この基準に基づきながら、建築確認申請の受理に先立つ事

前審査を行なっている。

それ以来、社会経済情勢の変化等に鑑み、再検討が行なわれ、五五年三月、都は「用途地域指定基準」を策定し、具体的には、1、安全性の向上、特に不燃化促進 2、自然の保全回復と生活環境の整備 3、機能的な都市形成の三点を目標とした。練馬区では、区議会に報告するとともに、都市計画審議会に改正について諮問し、さらに住民説明会等により寄せられた地域住民の意見、要望を検討して改正を行なった。その主な特徴点は、災害に強いまちづくりを目標に、防火地域を幹線道路沿いを中心に今までの約七倍の四〇二<数2>haまで拡大し、防災のネットワークの強化を図った。また、区画整理施行区域内の第一種住居専用地域の建ぺい率三割地区のうち三〇〇<数2>haは、一応の都市基盤整備が行なわれている観点から現状に合わないとの理由で、第一種住居専用地域の建ぺい率四割地区に緩和した。

総じて、都市化の影響を受け、スプロールが進行しやすい今日において、土地利用の規制および誘導の強化はますます重要になっているが、練馬区では、区面積の八二%が住居専用地域であり、住居地域を含めると、九三%が住居系に指定されており、今後、居住環境の整備が一層望まれる。

<節>
第三節 練馬区宅地等開発指導要綱の制定
<本文>

昭和五四年一〇月一二日付の新聞各紙に練馬区が勝訴した判決内容が大々的に報道された。各紙の論調は「ミニ開発規制の区の行政指導は合法」「練馬区の行政指導を判決で認知」「ミニ開発規制は適法・狭小過密、法秩序に合わぬ」「ミニ開発への行政指導地裁、適法と判断」「区側が全面勝訴、区の指導に行き過ぎはない」となっていた。

この裁判は、ミニ開発規制に関して練馬区とA業者が争ったものでA業者は「練馬区が行政指導をもって宅地割りの拡大を要請したことで建築計画が遅れ企業として損害が生じたのでその賠償を求める」というのが訴えの主旨となっている。ま

た、その訴えのなかで最大の争点となったのがミニ開発の是非と行政指導のあり方の問題であった。

もう少し詳しく説明すると、この裁判はAという建築業者が練馬区豊玉中三丁目の三五〇㎡の土地に開発を計画したのに端を発する。開発に際し、五二年一月二六日練馬区に道路位置指定の申請をした。

しかし、区としては、この計画が道路面積を除いた敷地が二七五㎡しかなく、しかも、この面積のなかを七区画に区分して建て売りをする計画では一区画の平均面積が四〇㎡にも満たない超ミニ開発になり、防災面、街づくりの上で好ましくないので計画変更の要請という行政指導を行なったものである。しかし、A業者は計画どおりの実施を主張し、最終的に五二年五月二日に練馬区は道路の指定処分を行ない、この開発は実施された。

ところが、A建築業者は道路指定に際し、申請から処分まで長期間にわたり九六日を要した。このために土地に投下した資金の回収が遅れ損失をこうむった。その分の利息と慰謝料、合計八三万余円を支払えという損害賠償請求を訴えたものである。

区の反論としては、A業者の計画したようなミニ開発を無制限に認めると周辺の防災、日照、通風、プライバシー等、住環境を悪化させる。また、ミニ開発に対しては現行法体系のなかでは直接規制するものがなく、行政指導をもって対処せざるを得ない。更にこの行政指導の内容が建築主に対して不当なものでなく適法の範囲内であると主張していった。

これに対し判決は法律上明文がないからと言って、いかなる行政指導も許されないと考えるのは早計であり、ミニ開発に対しては、建築基準を含めた法秩序全体から判断して狭小過密な住宅建築を決して歓迎していないとし、練馬区が行なった行政指導は建築基準法の目的条項たる「国民の生命、財産の安全確保」に資したものであり、適法かつ妥当なものと積極的に評価し、A業者の主張をしりぞけた。

さらに、個人(原告業者)と公共の利益の衝突を調整、勧告、説得が行政指導の主旨である以上、相当程度の日時がさかれたからといって行政指導が違法とはいえない。原告の受ける不利益より行政指導によって実現されるべき目的の公共性、

福祉性が明らかに優先される場合、行政指導の方法、程度が原告に受認を強いるものであっても、なお、社会的妥当性をもつと練馬区の主張を全面的に認めたものであった。

この判決は社会的に大きな反響を呼び起した。新聞六紙をはじめNHKのニュースにも取り上げられた。

全国の自治体、あるいは建設省からも、練馬区に対して資料の請求が寄せられた。それでは、なぜ、このような広範な反響を巻き起したのであろうか。理由は二つ考えられる。その一つはミニ開発規制に対する評価である。実は、異常な土地価格の上昇と庶民の住宅購売欲求のはざまで、土地区画の細分化が進行していった。この土地区画の細分化、いわゆるミニ開発が種々に弊害を伴っていたのである。まず、問題点としては防災上の難点があげられる。狭小な家が接近して立ち並ぶミニ開発においては、いざ非常災害が起った場合は類焼はいうにおよばず、避難路の安全確保さえできにくい。その他、日照、通風、プライバシー侵害等、町づくりには障害となるのである。しかしながら従前の法制度においては、この点を補う明文規定が存在しなかった。このために大都市圏の自治体はその対策に苦慮していたのが実態だった。こうして各自治体は止むに止まれず何らかの行政指導をもってミニ開発の歯止めを行なってきた。このような社会状況のなかでこの判決は、ミニ開発そのものが悪であり明文規定は無いものの、土地改良法等いくつかの法体系から類推、あるいは、法秩序全体の期待からは好ましくないと明確な判断を下したのだった。このことは自治体行政に多大な自信を植えつけたものであった。

さらに、もう一つ重要な点がこの判決に盛られていた。

それは行政指導に対し従来の行政法体系上解釈から一歩踏み出し、前向きな判断を下したことである。この点は行政法の専門レベルでも大きな話題を呼んだようである。事実法律の専門誌である「ジュリスト」の特集号に、昭和五五年度の重要判例として紹介されたり、判例時報にも二回にわたり特集されている。ちなみにジュリスト特集号に付された解説の要約を記してみる。解説は東京大学の原田尚彦教授である。

<資料文>

  判決の解説

<項番>(一) 今日、都市部での地価の高騰にはいちじるしいものがあるため、新たな土地の取得者はこれをよほど効率的に利用しないと引き合わない状況にある。そこで、都市の開発にあたる建設業者らは、規制法規の限度ギリギリのところまで土地の高度利用をはかろうとするのが通例である。例えば、商業地域や工業地域のように建築基準法上、日照保護が不要とされる地域では、業者らは付近住民の日照権などお構いなしに高層マンション等の建築を計画し、日照被害、電波障害、風害などをめぐって付近住民との間でしばしばトラブルを起こしている。これに反し、日影規制の厳格な住居地域や住居専用地域においては土地を細分化し、ここにきわめて小さい住宅を建築して分譲することが多い。いわゆるミニ開発がこれで、本件事案もこうした事例の一つである。ところが、ミニ開発が行なわれ極小住宅が密集すると、防火、防災、安全、衛生、プライバシーの保護などさまざまな面で弊害がある。また、地域の住環境を悪化させ、スラム化していくおそれも強い。そこで最近都市自治体の多くは地域の快適な住環境を維持するために、ミニ開発を防止すべく行政指導に乗り出している。なかには住宅等整備指導要綱などで統一基準をつくり、かなり組織的にミニ開発の抑止を指導しているところもある。そして、こうした指導の実効を確保するために、指導に協力しない者に対しては建築確認を留保したり、本件のように道路位置の指定処分を遅らせるなどして、圧力をかけることもあるといわれている。

<項番>(二) 規制的な内容をもつ、このような行政指導は、それでは法的にどのように評価さるべきであろうか。最近、行政指導が盛んになるにつれ、行政法学界でもようやくこの点が論議されることになった。だが、現実の成行にもかかわらず行政指導に対する学界の反応は、総じていえば否定的であるといってよい。まず、行政作用はすべて法の執行であるべきで、法から自由な行政はありえないと説く、いわゆる全部留保説の論者が、法にもとづかない行政指導を否認するのは当然である。だが、通説的な侵害留保説をとる論者の中にも規制的行政指導は形式は指導であるがその実質は規制と同じで、国民の自由と財産を侵害する効果をもつから、法律または条例の根拠のもとにのみ実施すべきで、法の根拠もないのに行政機関が独自の判断で規制的行政指導を行ない、国民の自由と財産を侵害するのは、法治行政の原理を破る違法な措置であると非難するものがある。たしかに、法治行政の原理は論者のいうように、公権力の恣意的行使から国民の自由と財産を防禦する橋頭堡であり、近代行政法の一大支柱をなすものである。安易に破られてよいものではない。開発者の自由や財産といえども公権力の恣意的発動から守らるべきは当然だから、法の根拠がなければ行政権がみだり

に権力を発動して上乗せ、横出し規制を命ずることは許さるべきではないといえよう。

しかし、他面、現代福祉国家の行政とりわけ地方自治体には、住民の福祉と安全を守り住民生活のシビル・ミニマムを実現するという終局的責務が課されている。無秩序な開発による住環境の破壊から地域の快適な生活環境を防衛することも、その重要な責務の一環といわなければならない。ところが、自治体が形式的法治主義観のみにとらわれ、法の根拠がなければ一切規制的措置はとれないとして拱手傍観していたならば、どうであろうか。たしかに開発者の開発と営利の自由は厚く保護されるに違いない。だが反面、住民大衆の環境や生活利益は無謀な開発の前に押しつぶされ、都市の生活環境は現在以上に劣悪化していくことは必定である。

こうした実態よりみると、われわれは、行政指導は法の根拠に欠けるから違法だというだけでは、いかにも形式論で説得力に欠けることに気付かざるをえない。自治体の行政指導に適切な法的評価を与えるには、都市開発の現実に照らして行政指導のもたらした功罪を実質的視点から比較衡量する必要がある。行政指導の適否は、こうした実態分析を踏まえて判定されなければならない。もちろん一部の論者は、こうした利益衡量的考察方法に対して反対し、必要があるからといって安易に指導に走るのは違法である。法の補完的規制が必要ならば、指導によるのではなく、立法をまって行なうのが正道であると反論するであろう。

しかし、法は白地にいきなり制定できるものではない。法の制定には、行政指導等による先行的試行が前提となるものである。また、法を作ると、そこには必ず欠陥が現れたり抜け道が生じたりもする。そこで、生活に適合した適正な法を作っていくには、行政指導の補完機能、矯正機能、さらには先取り機能に期待されるところが大きいわけで、法ができるまでは、行政庁は規制的な指導を一切試みてはならないなどといっていたのでは、健全な法の発展は、望みえない。法は現実の要請に教えられ、行政指導等による試行錯誤を通じて自らを矯正し発展していくべきものなのである。われわれはこのことを看過すべきではないとおもう。したがって、こうした見方からすれば、新しい現代的課題に当面した地方自治体が、非権力的な行政指導を通じて福祉国家の実現に資する施策を模索、考案し、法の欠陥を補うべく努力するのは、むしろ当然のことである。この意味で、本判決が福祉国家の理念に鑑み、規制的行政指導の展開を是認したのは、実態に即した妥当な判断であったとみることができるとおもう。

<項番>(三) もちろん、このようにいうことは、非権力的な行政指導ならば、いかなる内容でもよいというのではない。指導の内容が法に抵触すれば、それはもとより違法である。

そこで、ここでは、建築基準法の規制に適合しているのに、さらに規制を強化する指導が建築基準法に違反するか否かという点を問題としなければならない。というのは、建築基準法の条文をみると、条例で規制強化をはかりうるのは法自身がその旨を授権している事項にかぎられる。それ以外の事項について条例で上乗せ・横出し規制を定めることは許されていない。そのため、世上では、いわゆる先占理論的発想にもとづいて上乗せ・横出し規制を行政指導で実施することもまた建築基準法に消極的に抵触するかのように解されがちだからである。

しかし、考えてみると、建築基準法は同法自身が明言しているように最低の基準を定めるもので、けっして必要十分な規制を定めるものではない。計画が基準法の要件に合致していても、すべての点で社会的責任を満足していると胸を張れるものではないのである。

したがって、基準法上は適法であっても、開発行為が社会的に悪影響をもたらす場合には、自治体が住民の声を代表して業者に対し非権力的な手法で自制を要請することは当然であり、そのことまで建築基準法が禁止する趣旨だとは、とうてい認め難いところである。そうだとすれば、ミニ開発に対して自治体が地域の住環境保持の観点から、地域の実情に応じて最小敷地面積の基準を定め、スラム化防止を指導したとしても、それは、福祉国家の理念と自治体の責務に適合した措置とみなしうるから現代福祉国家の法秩序に照らしてそれ自体不当な要求を含むものとはいえず、違法なものではない。

<項番>(四) 行政指導はあくまで相手方の任意の協力を要請する非権力的な措置であるから、これが強制にわたることは許されない。判例は、指導が強要にわたるときは民法九六条の強迫にあたるとするし、また、指導に服しない業者に対し制裁として水道水の供給を拒否することは水道法一五条に違反するとした判例は、もとより正当と考える。これらの先例から推して、自治体が、指導に従わなければ建築確認や道路位置指定を断固拒否したりあるいは半永久的に留保したりするとすれば、それは権限の濫用であり違法となることはいうまでもない。しかし、規制的行政指導は、元来相手方の意に反することを要請し協力を求めるものであるから、相手方がこれを嫌い反発するのが通常である。であるから相手方が一再ならずこれを拒絶したり反対することがあっても、相手方に説得に応ずる余地が少しでも残されているかぎり、ねばり強く続けらるべきものである。この点で行政指導に若干の抑制的措置がともなうことは、まことにやむをえないところである。

これを本件についてみてみると、道路位置の指定をしてしまえば、もはや指導に協力を求めることは事実上できなくなってしま

う。そこで、相手方との交渉が継続している間、行政側が道路位置の指定を留保するのはむしろ当然で、これをもって相手方を強制したとみるのはあたらないと解すべきであろうとおもう。すでに判例もこの理を認め、相手方が行政指導に誠実に対応している間、建築確認等の処分を留保しても、違法な不作為にあたらないことを認めている。

したがって、こうした規制的指導の性質からすると、処分の留保が強制的契機を帯び、違法となるに至るのは、おそらく相手方が指導を無視して計画通り工事に着手するなど、絶対に指導に応じないとの不退転の決意をあらわす挙に出ているのにかかわらず、なお行政側が執拗に留保を続けているような場合であって、これ以外の場合には、たとえ相手方が口頭で不服従の意思を表明している場合でも、ただちに処分の留保が強制にあたるとみるべきではないとおもわれる。こうした見方からすると、本件では、区が原告らに計画の変更を求めて折衝を続け、その間道路位置の指定処分を留保したため、申請後九十六日が経過しているわけであるが、この程度では、そこに違法視さるべき強制的契機を見出すことは困難であるので、結局正当というべきである。

この解説にみられるとおり、現在、自治体は法の不備を補って止むに止まれず行政指導行政を展開してきている。また、この種の行政指導を普遍化するため、指導要綱を定め、議会に報告し、広く住民に周知する等、一辺の内部指導指針という意味あいを越えた意義付けに育ててきている。

宅地開発に関する指導要綱のみを把えてみても何らかの形で要綱行政を実施している自治体は全国で三〇〇を越えるといわれている。

しかし、この判例が世に出るまでは本当の意味で自信を持って行政指導を行なってきたとはいえなかったと思う。もし、事業者が法の単一的な解釈のみで抵抗し、裁判で争うような事態に到るなら従来の行政法の解釈からみて、自治体側が敗訴するのではないかという危惧が常に内在していたのである。

このような状況のなかで練馬区に軍配があがったこの判決は、全国の自治体に多大な自信を与えたものといえる。練馬区の宅地開発に対する行政指導は現在「練馬区宅地等開発指導要綱」(昭和五三年一〇月一一日施行)に支えられて大きな実績

を上げてきている。しかし実は、この裁判の上で問題となった行政指導は「宅地等開発指導要綱」の制定以前に起きた事例である。練馬区としては、この事例に触発されて、指導要綱を育て実施した経緯があり、その面でこの事件は区にとって大きな反面、教師の役割を果したといえよう。

つぎに「練馬区宅地等開発指導要綱」の制定の背景、内容についてふれていこう。

<項>
練馬区宅地等開発指導要綱
<本文>
はじめに

昭和五二年一〇月「練馬区基本構想」が「緑に囲まれた静かで市民意識の高いまち」を目標に定められた。この構想を実現し、安全で快適な住みよいまちをつくるため、区では「宅地等開発要綱」(以下「指導要綱」という)を制定し、昭和五三年一〇月一一日から施行した。

練馬区中期総合計画(昭和五四年度~五六年度)によると昭和六〇年には現在の五八万人から六〇万人(国勢調査ペース)に達すると予測されている。練馬区は、この人口増に対処して、公共施設の整備に力をいれているが、都市施設のバロメーターともいわれる下水道、公園、保育施設、小中学校など、練馬格差と異名をもつ諸施設の不十分な面は、新たな行政需要をもたらす宅地の開発やマンションなどの建設が進めば進むほどなかなか解消されない状況である。さらに新しい問題として「ミニ開発」による生活環境の悪化や防災面からの問題などが生じてきたのである。そこで、これらの諸問題に対応し安全で住みよい環境のまちづくりを促進するため「指導要綱」を制定したのである。

「指導要綱」制定の経緯

これまでの建築紛争は日照問題を中心としてきたが、紛争のなかみにも、より広い視野に立って考えなければならないとする問題意識の変化が現われてきた。このような傾向は、多くの紛争に見られるものである。さらに最近増えている紛争に、いわゆる「ミニ開発」に関連するものがある。「ミニ開発」とは一〇〇〇㎡未満の開発を指し、都市計画法によって区長の許可を必要とする一〇〇〇㎡以上の開発と異なり、「ミニ開発」

は野放しのためにここから日照やプライバシーにかかわる紛争が発生している。そのうえ、「ミニ開発」は宅地の細分化をもたらすなど、住みよいまちづくりのうえからも多くの問題を含んでいる。「指導要綱」は、このような問題に対処するため「区に対する事業者の事前協議」を柱として定めたものである。

この「練馬区宅地等開発指導要綱」は練馬区議会、練馬区都市計画審議会で慎重な審議を重ねてまとまり、広く練馬区民に周知されて、決定されたものであった。いわば、練馬区の総力を結集して世に問うた施策であるといえよう。

「指導要綱」の目的

練馬区は、第一種住居専用地域(建ぺい率三〇~六〇%)や第二種住居専用地域(建ぺい率六〇%)といった住いの地域が全体の八四%も占める住宅地である。そして区のほぼ四分の一はまだ空地で、これからも数多くの宅地開発やマンションなど住宅建設が見込まれている。でもこのような地域では、住宅建設に必要な下水道は極めて低い普及率(昭和五三年三月末日現在四〇%)である。加えて区のほとんどの地域で公園や学校など公共施設整備が遅れており、これからも精力的に整備を進めなければならないのである。これら宅地等の開発には地価の高騰によって宅地が細分化されていく、いわゆる「ミニ開発」の問題や、マンションなどの共同住宅の建設による地域的な人口急増から派生する問題などがともない、今後区が安全で住みよいまちづくりを進める上で早急に対応を図らなければならない状況にある。そこで、これらの諸問題に対処し、無秩序な開発を防止して、公共施設との整合を図っていくため、事業者が区に事前協議を行なうことを柱とし、宅地の開発や中高層建築物の建築などに係わる指導基準や、事業規模に応じた負担と協力を定めたものが「指導要綱」である。

「指導要綱」の概要

まちづくりに大きな影響をもつ、営利を目的とする次の事業を対象とする(適用範囲)。

一、面積が四〇〇㎡以上の土地で行なわれる宅地造成などの開発事業。

二、面積が四〇〇㎡以上の土地で三階建以上の建築物を建築する場合。

三、一つの区画としてみられる土地において四棟以上の建て売り住宅や賃貸住宅を建築する場合。

区に対する事業者の事前協議の内容は次の三点である(事前協議、内容、基準)。

<項番>(一) マンションなどの共同住宅を建設する場合それによって生ずる需要と、義務教育施設等との調整。

今まで区は、特に児童、生徒の急増による小、中学校の新設や増築のため、起債などによる多額の投資を続けてきた。そしてその起債額は、この三か年で八九億円にのぼり、昭和五三年の償還額は三二億円にもなっている。マンションなど大きな共同住宅の建設は一般の住宅に比べて倍以上の児童、生徒の収容が必要でそれだけ多くの教室を作らねばならないのである。プレハブ校舎などで一時しのぎをする場合もある。そこで「指導要綱」ではマンションなどの計画戸数が一九戸を超えると一定の方式で、義務教育施設に要する費用の一部について、事業者に協力を求めるのである。ただし、オープンスペースが充分にとられている場合は必要ない。また、建設計画と義務教育施設との調整がつかないような地域は、あらかじめ公表し、建設時期を待ってもらうなど調整に協力願うことがある。なお、大規模な共同住宅の建設では、義務教育施設だけでなく、保育園や区施設が問題となる。そこで、保育園については、建設計画戸数五〇〇戸を基準として保育園一園に要する用地を区へ無償で譲ることに、三〇〇戸以上五〇〇戸未満の場合は、用地を二分の一の価額で区に譲ることに協力を求めるものである。

また、集会施設、老人や子供のための施設などについては、二〇〇戸を超える建設計画について、区が区民施設を建設するときに協力を求めるものである。その他地域施設として消防施設、街路灯等安全施設、ごみ集積施設についても設置するよう協力を求めるものである。

<項番>(二) 規模の大きい宅地などの開発や、建築物を建設する場合は、道路や公園などを地元へ還元する。

都市計画法によって、区長の許可を必要とする一〇〇〇㎡以上の土地面積の開発行為の場合は、開発の規模に応じて道路をつくることや公園の提供を義務づけたものである。特に三〇〇〇㎡以上の場合は、都の自然の保護と回復に関する条例の定める分と合せて六%以上の公園用地の提供を義務づけたものである。問題となるのは、宅地開発などしなくてもできるマン

ションなどの共同住宅の建設の場合である。そこで事業者につぎの協力を求めている。敷地面積が三〇〇〇㎡以上の場合は六%以上を公園または緑地として整備し、区へ無償で譲ること。敷地面積が二〇〇〇㎡未満と、二〇〇〇㎡以上三〇〇〇㎡未満の場合は、それぞれ一定の方式で、公園または緑地に要する費用について協力を求めるものである。また、道路についても一定基準により造成し区に無償で譲ること、排水施設についても必要な施設を整備しなければならないとしている。

<項番>(三) 「ミニ開発」や建売住宅について、宅地面積基準を設けて、適切な開発の誘導をはかる。

宅地の面積は、高い土地価格を背景に、年々小さくなってきている。ちなみに昭和四六年頃の個人取得面積からみた二三区の平均宅地面積は、約一五〇㎡であったが昭和五三年の「ミニ開発」の宅地面積をみると七〇㎡を下まわっている。練馬区の場合、建売住宅の平均宅地面積は九三㎡であった。しかし、土地つきの一戸建住宅への根強い志向が変らない限り、宅地を供給する側は、益々細分化された宅地と建物を供給することになる。土地の価格が高くなればなるほど、ミニ宅地が増えてくる。住まいの質という観点からミニ宅地は、生活に欠かせない日照の不足をもたらし、緑が育つ余地もなく、生活環境を悪化させ、防災上からも、災害に極めて弱く、スラム化につながり、増築や建替えも困難な大きな問題となるのである。現在練馬区の面積の四分の一は宅地化されていない土地である。これが現状のまま限りない細分化が進むとすれば、区のまちづくりに与える影響は大きい。そこで「指導要綱」は、これからの区のまちづくりに大きく関係のある「ミニ開発」や建売住宅について、つぎのような宅地の区画割基準を定め、適正な指導を図った。

建ぺい率面積(一区画当り)
<数2>30%の地域 宅地 一〇〇㎡以上
<数2>40%の地域 宅地  九〇㎡以上
<数2>50%の地域 宅地  八五㎡以上
<数2>60%の地域 宅地  八〇㎡以上

①面積が一〇〇〇㎡以上の土地に宅地を造成する場合は一区画の面積基準は一一〇㎡以上とすること。

②面積が一〇〇〇㎡未満の土地に宅地を造成する場合や四棟以上の建売住宅等建てる場合は土地利用に応じて下表のとおりとする。

以上が「指導要綱」の概略であり、区内における無秩序な開発を防止し、安全で住み

よい環境の町づくりを進めるため、宅地の開発、共同住宅等中高層建築物の建設について指導基準を定め、その事業者に対して関連する公共、公益施設の整備に関し、応分の負担と協力を求め、もって生活環境の整備に寄与することを目的としているのである。

宅地等開発実績
開発許可件数 118件
区域面積 297,818㎡
道路両横 58,307㎡
公園面積(24か所) 7,349㎡
宅開要綱に基づく協定件数 147件
義務教育施設負担金 574,190千円
公園及緑地負担金 102,246千円
公園面積(6か所) 2,619㎡

このように「指導要綱」は内容のユニークさと、厳しさで、建築業界、あるいは他の自治体にも、大きな影響を与えるものとなった。このことはその後、他の自治体が同種の内容を盛りこんだこの種の「指導要綱」が続々と誕生したことでも実証されよう。

建設業界も「指導要綱」制定当初は若干のとまどいをみせたが、練馬の実状と練馬区民の総意に支えられた施策として受けとめ、その後は「指導要綱」に協力する姿勢をとっていった。こうして指導要綱制定以降悪質なミニ開発は影をひそめ、数々の実績が積み上げられてきたのである。「指導要綱」制定後の町づくりに資した実績は上表のとおりである。

つぎに「練馬区宅地等開発指導要綱」の全文を掲げておく。

<資料文 type="2-32">

  練馬区宅地等開発指導要綱

(目  的)

第一条 この要綱は、区内における無秩序な開発を防止し、安全で住みよい環境の町づくりを進めるため、宅地の開発、共同住宅等中高層建築物の建設について指導基準を定め、その事業者に対して関連する公共、公益施設の整備に関し、応分の負担と協力を求め、もって生活環境の整備に寄与することを目的とする。

(定  義)

第二条 この要綱において、つぎの各号に掲げる用語の意義は、当該各号に定めるところによる。

  1. <項番>(一) 開発行為、主として建築物の建築または特定工作物の建設の用に供する目的で行う土地の区画・形質の変更をいう。
  2. <項番>(二) 三階以上の建築物、建築基準法(昭和二五年法律第二〇一号)第二条第一項第一号に定める建築物で地上三階以上の建築物をいう。
  3. <項番>(三) 建売り等住宅、一団の土地において、自己の計画または受託により販売または賃貸を目的として建築される住宅をいう。
  4. <項番>(四) 事業者、開発行為を行う事業主、建築物の建築主および自己の計画または受託により建売り等住宅の建築を行う者をいう。

(適用範囲)

第三条 この要綱は、つぎに掲げる各号の事業について適用する。

  1. <項番>(一) 面積四〇〇平方メートル以上の土地において行われる開発行為
  2. <項番>(二) 面積四〇〇平方メートル以上の土地において行われる三階以上の建築物の建築行為
  3. <項番>(三) 一団の土地において行われる四棟以上の建売り等住宅の建築行為

2 前項の規定にかかわらず、都市計画事業およびこれに準ずる事業ならびに東京都、日本住宅公団その他公的機関の行う開発行為等の事業については、この要綱の適用を除外するものとする。

(事前協議)

第四条 前条第一項に掲げる事業を行う事業者は、次表の上欄に掲げる事業区分により、同表下欄に掲げる事項について、都市計画法(昭和四三年法律第一〇〇号)その他関係法に定める申請を行う前に、あらかじめ区長と協議するものとする。

協議事項事業
  1. <項番>(一) 面積四○○平方メートル以上の土地において行われる開発行為
  1. ア 道路
  2. イ 公園および緑地
  3. ウ 排水施設
  4. エ 地域施設
  5. オ 宅地の区画割
  1. <項番>(二) 面積四○○平方メートル以上の土地において行われる三階以上の建築物の建築行為
  1. ア 道路
  2. イ 公園および緑地
  3. ウ 排水施設
  4. エ 義務教育施設
  5. オ 地域施設
  1. <項番>(三) 一団の土地において行われる四棟以上の建売り等住宅の建築行為
  1. ア 宅地の区画割

(協議内容と指導基準等)

第五条 前条に規定する事前協議の内容と基準は、つぎの各号に掲げるところによるものとする。

  1. <項番>(一) 道 路
     事業区域内の道路については、つぎの基準により事業者の負担で造成し、造成後、区長が必要と認める道路および付属工作物を区に無償で譲渡するものとする。
    1. ア 道路幅員
      • <項番>(ア) 道路幅員両端が他の道路に接続したものについては、その延長(袋路状道路に接続する道路にあっては、当該袋路状が他の道路に接続するまでの延長を含む)に応じて、つぎの表に掲げる幅員以上のものであること。
      • 延長幅員
         二〇メートルまでのもの 四・〇メートル
         二〇メートルを超え 三五メートルまでのもの 四・二メートル
         三五メートルを超え 七〇メートルまでのもの 四・五メートル
         七〇メートルを超え一二〇メートルまでのもの 五・〇メートル
        一二〇メートルを超えるもの 六・〇メートル

      • <項番>(イ) 一端のみが他の道路に接続したものについては、その延長(既存の幅員六メートル未満の袋路状道路の接続道にあっては、当該袋路状道路が他の道路に接続するまでの部分の延長を含む)に応じて、つぎの表に掲げる幅員以上であること。ただし、区長が避難および通行上の安全に支障がないと認めたものはこの限りでない。
      延長幅員
       一〇メートルまでのもの 四・〇メートル
       一〇メートルを超え二〇メートルまでのもの 四・二メートル
       二〇メートルを超え三〇メートルまでのもの 四・五メートル
       三〇メートルを超え三五メートルまでのもの 五・〇メートル
       三五メートルを超えるもの 六・〇メートル
    2. イ 道路の拡幅
       事業区域に接する既存道路の幅員が六メートル未満の場合は、既存道路の中心線より三メートルまで事業区域内に後退(セットバック)して、既存道路を拡幅するものとする。ただし、区長が拡幅の必要がないと認めたときは、この限りでない。
    3. ウ 街角せん除
       道路が同一平面で交差し、もしくは接続し、または屈曲する箇所は、角地の隅角を頂点とし底辺の長さをつぎの表に掲げる数値以上とする二等辺三角形の部分を道路に含むすみ切りを設けたものであること。ただし、区長が周囲の状況によりやむを得ないと認めたときは、この限りでない。
    4. 幅員街角せん除
       六メートルまでのもの 三メートル
       六メートルを超えるもの 四メートル
    5. エ 舗  装
      • <項番>(ア) 道路舗装は、つぎの表に掲げるものとする。ただし、袋路状道路であって延長二〇メートル未満の道路にあっては、この限りでない。
      • 幅員路盤表層
        上層下層
        通過状 五メートル未満 一〇センチメートル 一〇センチメートル 五センチメートル
        五メートル以上 一五センチメートル 一五センチメートル 五センチメートル
        袋路状 五メートル未満 一五センチメートル     ――    五センチメートル
        五メートル以上 一〇センチメートル 一〇センチメートル 五センチメートル

      • <項番>(イ) 歩道および前面取付道路(セットバック部分)の舗装は、別に定める。
  2. <項番>(二) 公園および緑地
    1. ア 事業区域面積が三、〇〇〇平方メートル以上で住宅の建設を目的とする場合
       事業者は、当該事業区域面積の六パーセント以上を公園または緑地として整備し、当該用地および付属する工作物を区に無償で譲渡するものとする。
    2. イ 事業区域面積が三、〇〇〇平方メートル未満の場合で、共同住宅の建設を目的とする場合
       事業者は、つぎに掲げる基準により公園または緑地に要する費用を負担するものとする。
      • <項番>(ア) 計画敷地面積が二、〇〇〇平方メートル未満の場合
      •  (計画戸数-19戸)×1.5㎡×(1㎡当り土地価額)
      • <項番>(イ) 計画敷地面積が二、〇〇〇平方メートル以上三、〇〇〇平方メートル未満の場合
      •  (計画戸数-<数式 type="fraction">計画面積×100/10,000)×1.5㎡×(1㎡当り土地価額)
  3. <項番>(三) 排水施設
  4. <項番>(四) 義務教育施設
    1. ア 共同住宅の建設計画が、一九戸を超えるものについては、事業者は、つぎに掲げる基準により義務教育施設に要する費用を負担するものとする。
      • <項番>(ア) 計画敷地面積が二、〇〇〇平方メートル未満の場合
      •  (計画戸数-19戸)×(1戸当り負担額)
      • <項番>(イ) 計画敷地面積が二、〇〇〇平方メートル以上の場合
      •  (計画戸数-<数式 type="fraction">計画面積×100/10,000)×(1戸当り負担額)
    2. イ 前記アにかかわらず、事業計画と義務教育施設との整合が不可能な地区については、事業者は、区長が年次を定めて行う建設時期の調整について協力しなければならない。
    3. ウ 前記イの調整を行う場合、区長は、あらかじめその地区を定めておかなければならない。
  5. <項番>(五) 地域施設
    1. ア 保育園
       集合住宅または共同住宅を建設する事業者は、計画戸数五〇〇戸を基準として保育園一園の用地を区に無償で譲渡するものとし、計画戸数三〇〇戸以上五〇〇戸未満の場合は、保育園一園の用地を確保し用地費の二分の一の価額で区に譲渡するものとする。
    2. イ 区民施設
       計画戸数が二〇〇戸を超える集合住宅または共同住宅を建設する事業者は、事業規模、地域の状況に応じて、区長が必要と認める区民施設を建設するときこれに協力するものとする。
    3. ウ 消防施設

       事業者は、事業規模に応じて必要な消防施設(消火栓および貯水槽)を設置するものとする。

    4. エ 街路灯等安全施設
       事業者は、街路灯、その他区長が必要と認める安全施設について整備し、区に帰属すべき施設は、区に無償で譲渡するものとする。
    5. オ ごみ集積施設
       集合住宅または共同住宅を建設する事業者は、必要なごみの集積施設を設置するものとする。
  6. <項番>(六) 宅地の区画割
     宅地の区画割については、つぎに掲げるところによるものとする。ただし、区長が状況によりやむを得ないと認めたときは、この限りでない。
    1. ア 事業区域面積が一、〇〇〇平方メートル以上の開発行為の場合は、一区画の面積を一一〇平方メートル以上とするものとする。
    2. イ 事業区域面積が一、〇〇〇平方メートル未満の開発行為および四棟以上の建売り等住宅の場合は、つぎのとおりとする。
    3. 建ぺい率面積(一区画当り)
      三〇パーセントの地域 一〇〇平方メートル以上
      四〇パーセントの地域  九〇平方メートル以上
      五〇パーセントの地域  八五平方メートル以上
      六〇パーセントの地域  八〇平方メートル以上

2 公園または緑地、義務教育施設の一平方メートル当りの土地価額および一戸当り負担額は、区長が毎年度定める。

(合意事項の履行)

第六条 事業者は、第四条および前条による協議の結果、区と合意に達した事項について、誠意をもって確実に履行するものとする。

(勧  告)

第七条 区長は、事業者が第四条に規定する事前協議をしない場合または前条に反して合意に達した事項を履行しようとしない場合事業者に対し、この要綱を遵守するよう勧告するものとする。

(公表等の措置)

第八条 区長は、事業者が前条の勧告に従わないときは、つぎの各号に掲げる措置をとることがある。

  1. <項番>(一) 事業者が道路法(昭和二七年法律第一八〇号)に基づく申請を行った場合、協力を行わないこと。
  2. <項番>(二) 関係機関に要請するなど必要な措置をとること。
  3. <項番>(三) 事実の公表、その他必要な措置をとること。

付  則

  この要綱は昭和五三年一〇月一一日から施行する。

<節>

第四節 カネボウ跡地開発
<本文>

西武池袋線練馬駅周辺は、戦前から区の中心地としての機能をはたしてきたが、戦後の急激な市街化の進行のなかで、とくに駅の北側は道路、公園等の市街地の基盤施設の整備がなされないまま宅地化が行なわれてきた。とりわけ、練馬駅の北側に隣接する土地は、大正年間より鐘紡工場が立地し、工場敷地によって地域が東西に分断され、その西側地域は、工場に東側を塞がれてきたことや、行政の立ち遅れなどのために、生活環境が劣悪の状況におかれてきた。

このような情勢のなかで、昭和四五年一二月鐘紡工場が閉鎖され、工場の取りこわしが行なわれた。区ではこの約四<数2>haの工場跡地を有効に活用して、将来の練馬区の核となるよう練馬駅周辺整備を進めるため、再開発構想を策定し、工場跡地の開発事業を引継いだ(株)ディベロッパーカネボウ(昭和四六年一二月設立)に対して、区の考え方を提示した。

この開発構想は、地下鉄八号線の西武池袋線との相互乗り入れ、西武池袋線の複々線高架化計画等に合せ、鐘紡工場跡地を含めての練馬駅周辺地域の再開発の進め方を、東京工業大学の石原舜介教授に依頼し、「練馬駅周辺地区再開発基本構想」としてとりまとめたものである。

その内容は、計画区域を練馬駅北側を中心として約一三・八<数2>haと設定し、一一のブロックに分けてそれぞれブロックごとの土地利用と建物利用を考え、最終的には機能、性格面から三つの地区に整理したものである。

第一地区は工場跡地西側の地域で、住宅密集地域の環境整備を主体とした住宅改良地区とする。

第二地区は工場跡地を含む練馬駅北側の地域で、将来の練馬の中心核として位置づけ、商業施設の集積が見込まれており、市街地再開発事業の導入をはかるものとする。

第三地区は西武池袋線の南側、千川通りから北側にあたり、商業施設の集積がかなり進んでいる地域である。この地域に

おいても、市街地再開発事業の適用を考える。

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なお、工場跡地北部は、住居地域および小学校拡張用地とする。

以上のような構想を具体化するため、区は東京都と一体となって、鐘紡株式会社に対して、公共用地としての譲渡を求めたのであるが、企業側独自の開発意欲が強く目的を達することができなかった。そこで区は、企業側の開発が練馬駅周辺地域にとってよりよい波及効果がもたらされるよう、開発者側である(株)ディベロッパーカネボウとの間で四八年八月覚書を交換し、相互協力のもとに跡地の開発を進めることにした。

一方、この頃鐘紡工場跡地の北、数百mのところにある中央大学総合運動場の移転の話がもちあがり、工場跡地が公共用地に取得できない事情もあって、跡地西側地域の環境改善事業に利用する目的で東京都に買収を依頼し、四九年一〇月、中央大学から生活環境改善関連用地として約五・八<数2>haの用地買収をはかった。

五二年一月に至り、(株)ディベロッパーカネボウから区に対し、<項番>(一) 現下の厳しい経済情勢の中で開発を進めることは困難である。<項番>(二) 工場跡地を今後公共用地として活用されるよう検討されたい。と開発を断念する旨の申し入れがあった。そこで区としては、区議会、地元住民をあげて東京都知事に対し、跡地の開発が周辺整備のため不可欠な拠点であるとの認識に立って、公共用地として取得するよう要請した。

これに対して東京都は、厳しい財政状況のもとでありながらも跡地の重要性を理解し、都市整備用地(生活環境改善関連)として跡地の四分の三を取得する方針を固め、一方区においても、残り四分の一の土地を全区民が有効に利用できる施設としての区民会館建設用地として取得することとして、五二年三月(株)ディベロッパーカネボウとの間に売買契約を締結した。区では跡地の本格的利用が行われるまでの間、都が取得した土地を一時借受け、区所有分と合わせ、遊び場として五三年八

月から区民に開放してきている。また中央大学グランド跡地についても、公共住宅が建設されるまでの間、運動場として、五三年六月から区民に開放している。

カネボウ跡地および中大グランド跡地の今後の開発の進め方については、「練馬駅周辺整備方針」を策定し(五五年六月)、この整備方針にもとづいて、個別計画をたて、事業の推進をはかっている。整備方針の骨子は、練馬駅北側を真に練馬生活圏の中心的な機能を果す地域にするために、カネボウ跡地、中大グランド跡地を有効に活用して次のように定める。

①住宅地の居住環境の改善 ②商業地における商業再開発および近代化 ③地域全体の防災対策、骨格道路の整備 ④区の中心施設として区民会館の建設

具体的な整備のあらましは、次のとおりである。

<項番>(1) カネボウ跡地の整備

跡地西側地域の生活環境改善および練馬駅周辺の再開発事業と整合性を保ちながら、中大グランド跡地など周辺地域と調和をとり整備を進める。

一つは、区民会館の建設、二つは、跡地内周辺道路や緩衝緑地の整備、南町小学校の拡張用地を同校南側に確保するとともに、残余の部分についても、駅前広場やその他公共用地としての利用をはかっていく。

<項番>(2) 骨格道路の整備

カネボウ跡地と中大グランド跡地間に地域の骨格となる道路を新設し、さらに大公園をはじめ練馬区の一つの核となる光が丘地区を結ぶ都市計画道路補助一七二号線と連絡する。この道路は、東京都市計画道路練馬区街路一号線および二号線として練馬区がはじめて都市計画決定したもので、日常的には、両跡地を結ぶコミュニティ空間の形成、また災害時には消防活動の円滑化、避難の安全性の確保を目的として整備するものである。道路の区間、規模などは次表のとおりである。

種別名称位置 区域構造備考
番号路線名起点終点主な経過地 延長構造形式幅員地表式区間における鉄道等との交差の構造
区画街路 練区街1 練馬区画街路第一号線 練馬区練馬二丁目 練馬区練馬一丁目 約七六○m 地表式 一五m 幹線街路補助一七二号線、練馬区画街路第二号線と平面交差
区画街路 練区街2 練馬区画街路第二号線 練馬区練馬一丁目 練馬区練馬一丁目 約四○○m 地表式 一二m ~ 一六m 西武池袋線と立体交差
幹線街路補助二二九号線、練馬区画街路第一号線と平面交差

<項番>(3) カネボウ跡地西側地域の生活環境改善

カネボウ跡地西側地域の居住環境を改善するため、中大グランドを活用しながら、生活道路、公園の整備および住宅の改善をすすめ、居住環境の整備された良好な住宅地とすることを目標に街づくりを進める。この事業を推進するため、東京都は五五年六月に「環境改善事業を推進するための特別区に対する助成方針」を策定し、さらに同年一一月、計画策定の段階から地元と行政が積極的に話し合い、練馬地区環境改善事業が円滑に進むよう地元住民代表、東京都および練馬区で構成する「練馬地区環境改善都区地元協議会」を設置した。

<項番>(4)練馬駅周辺地区再開発

練馬駅周辺地区の再開発については、昭和四六年の「練馬駅周辺地区再開発基本構想」(石原構想)以来、行政と住民が一体となって再開発問題の研究を重ねてきた。商店街は商店を営む者にとって経営のための施設であると同時に、地域住民にとっては生活施設であるという観点から、練馬の中心的機能をはたす地域にふさわしい商店街が形成できるような再開発と商業近代化を進める。この第一段階として、カネボウ跡地の東側に隣接する練馬駅北口地区商店街約〇・七<数2>haを対象に、都市再開発法にもとづく市街地再開発組合施行による再開発の準備をすすめるべく、五三年一〇月に「練馬駅北口地区市街地再開発準備組合」を設立した。

<節>

第五節 グラント・ハイツ
<項>
成増飛行場時代
<本文>
飛行場建設

昭和一八年の春、太平洋戦争「緒戦の勝利」に酔ったのもつかの間、いよいよ戦局にその激しさが増してきたある日、土支田・田柄地区の地主約五〇〇名は、板橋区役所に呼び出された。

とるものもとりあえず参集した人たちを前に、陸軍航空本部の大河内中佐は、戦局の重大さを説いたあと、帝都防衛のための飛行場建設用地として、土支田・田柄地区が最適である旨を説明した。そして半ば命令的に協力方を要請した。言い分がある者はいうようにと付け加えたが、誰も意見を述べる者はいなかった。

この年の二月はじめ、日本軍はガダルカナルから撤退を余儀なくされ、四月には、山本五十六連合艦隊司令長官は搭乗機を墜とされ戦死した。日独伊三国同盟の鼎の一足、イタリアも九月には連合軍に降伏する運命にあった。

それより先、昭和一七年に、東京府から、この辺を緑地帯にする計画があるという名目で、測量が行なわれたことがあった。付近の住民には、一朝有事の時は、ここを避難場所にするというふれこみであった。土地の八幡神社境内を借り受けて、測量事務所が建てられた。時には、発煙筒などを打ち上げて風向きを調査することもしていた。

はじめは、今の平和台・早宮地区の平坦な原を候補地にしたそうであるが、気流の関係や、高圧線が通っているので、第二の候補地である土支田・田柄地区に変更になったという話ものこっている。

さて、飛行場予定地に該当する地主は六月二四日、再び板橋区役所に印鑑持参で呼び出され、六〇日以内、おそくとも八月末日までには必ず立退くよう申し渡された。

当時の字名別の移転軒数は、

  1. 高 松                一九軒
  2. 大門山                 四軒
  3. 八丁堀                 三軒
  4. 八丁原                三〇軒
  5. 上田柄                 一軒
  6. 神明ヶ谷戸(辻庚申も含む)       九軒
  7. 合 計                六六軒
であった。

しかし、実際に移転したのは「八〇カマド(世帯)」といって、疎開者や、同居の世帯も含まれていた。

土地はすべて国の買上げで行なわれ、価格は登記の面積に対して坪当り、

  1. 田              五円
  2. 山林             五円
  3. 畑             一〇円
  4. 〃(島地しまじといって良くない所) 九円
  5. 宅地            一五円
であった。当時、田や山林は坪で三円程度であったので、軍は堂々とやみで買ってやるのだと、恩きせがましくいっていた。しかし、宅地などは一〇円で売って、いざ移転先を探そうと思っても、なかなか買えなかった。移転を余儀なくされた人たちが、六〇日間という限られた期間内に、どれほど苦労したか、筆舌につくせないものがあった。

土地代金は銀行振込で行なわれたが、離農補償や立毛たちげ補償(作物に対する補償)は全くなかった。移転料としても金銭では

一切出ずに、申請にもとづいて、現物支給された。木材は勿論、セメントから釘一本にいたるまで、資材で無償支給された。だが、配給される前に引越期限がせまって、二重の出費を余儀なくされた家も多かった。

サラ地で渡すという条件であったために、立木を伐り、住宅を壊しているそばから、飛行場建設の工事は開始されていった。

赤羽の工兵隊、中野の豊多摩刑務所の囚人、朝鮮人労務者、各種の産業報国隊、動員学徒などが、毎日数千人昼夜兼行で作業に従事した。東西に横切る田柄川付近が低地であったために、南北の高い土地をけずって整地を行なった。

しかし、設計にミスがあったのか、のちに中央の主滑走路付近に水が溢れ問題になり、軍の命令によって東側の田柄川が排水路として使われることになった。それまで、土支田の八丁堀から、田柄に至る約二〇町歩の耕作面積をもっていた田柄田圃は、このときを機に消滅の運命となった。

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こうして成増飛行場は完成した。図5―1は当時の成増飛行場の見取図であるが、このほか付近には、高射砲や探照灯の陣地も建設された。また、飛行機の格納と、緊急避難を目的とした掩体えんたい壕も築造された。簡単なもの

は、樹木で覆った程度のものもあった。堅固なコンクリート製のものは、芯に竹を使った。鉄筋よりかえって柔軟で丈夫だったそうである。

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今も、春日町五丁目に高射砲の台座が、田柄四丁目と谷原三丁目に掩体が当時の面影を残している。

飛行第四七戦隊

昭和一八年一〇月、新たに建設された成増飛行場へ、柏にあった独立飛行第四七中隊がその名も「飛行第四七戦隊」と改称され三中隊編成で移駐してきた。初代の戦隊長は下山登中佐である。第一中隊を旭隊、第二中隊を富士隊、第三中隊を桜隊と呼んだ。

帝都防衛が目的であったため、配備された飛行機は二式単座戦闘機「鐘馗しようき」七〇~九〇機であった。二式とは戦前の日本で使っていた紀元年号でいう「皇紀二六〇二年」の二年式、つまり昭和一七年、新たに設計製造された最新鋭の重戦闘機のことである。隊員は「二単」の愛称で呼んでいた。ほかの戦闘機は零戦とか、一式戦、三式戦で通っているが、二式だけは「屠竜とりゆう」と呼ばれる複座(二人乗)の戦闘機があったので、これと区別するため「二単」といっていた。

整備隊は総勢六〇〇名といわれ、飛行機の実動率九〇パーセントと、当時の飛行隊の中では、おどろくべき優秀さを誇っていた。整備のすぐれているだけ、付近住民への迷惑度もまた高かった。エンジン調整は夜中の〇時、三時と夜明けの六時の三回行なわれていた。朝から、いつなん時でも、迎撃に進発できる状態にしておくためである。エンジンの試運転がはじまると、三〇メートルとはなれていないある民家では、たまったものではない。草から、木の葉から、小さな庭木までフッとばされてしまう。鶏も卵を生まなくなるし、牛もあばれてしようがない状態がしばらく続いた。

ここに飛行場を造った目的の一つに、皇居上空に三分以内でとどくということもあった。「鐘馗」の性能は、それを充分

に満していた。とくにその上昇力、水平最大速度は、当時のアメリカの最新鋭機グラマンF6Fよりすぐれていたという。長所があれば短所があるのは止むを得ないことで、着陸に難点があった。滑走路をオーバーして先方の建物に、衝突したり、付近の民家や神社の高い木にぶつかることは、しばしばであった。

ほかの飛行隊ではあまり評判のよくなかった「鐘馗」も、ここでは訓練の成果か、関東地区防空戦隊の最精鋭という折紙をつけられていた。

翌一九年になると、米軍はマーシャル群島に上陸(二月)、ついで一〇月、レイテ島に上陸、日本本土空襲がはじまった。その頃、飛行第四七戦隊の中に、体当り専門の震天しんてん制空隊が編成された。一一月二四日、B<数2>29迎撃に勇躍、発進した隊員見田義雄伍長は、愛機「二単」の操縦桿をにぎったまま、銚子沖に散華し、体当り玉砕第一号として、翌日の新聞紙上を飾った。彼は付近住民の間でも人気者であった。若くて好男子で、若い女性には勿論だったが、男の子にも強い影響を与えたらしく、少年航空兵志願の若者たちがあとにつづいた。

隊員と付近の住民との交流は親しみの深いものであった。住民もまた戦争遂行に協力を惜しまなかった。昭和二〇年二月一五日は大雪であった。飛行機の発進は全く不可能である。土支田町、田柄町、高松町、春日町の男という男は雪かきに出動した。ひざまでのゴム長などは役に立たない。スコップとモッコだけで、翌日の夜明けまでには、飛行機の発着が出来るまでに滑走路の雪かきを終えた。

成増飛行場は、北は川越街道、南は富士街道にはさまれる、一・五km2に及ぶ面積を有していた。東武東上線成増駅に近いため、一般には「成増飛行場」と呼ばれていたが、地元では、正門が高松にあったために「高松飛行場」と呼んでいた。戦後わかったことであるが、米軍の航空写真にも“TAKAMATSUCHO A/F”と記載されている。当然のことながらB<数2>29の攻撃目標に設定されていたわけで、事実、二〇年三月九日と、四月五日の二回にわたって爆撃をうけた。隣接する民家数戸も被爆、炎焼した。

四月八日大本営陸軍部は「大本営に於ける本土作戦準備計画」なるものを策定し、

と、命令した。

飛行第四七戦隊も、その頃までには、「鐘馗」から四式戦「疾風はやて」に機種が改変され、その主力は沖縄作戦参加のため、山口県小月飛行場に移動していった。

かくして、敗戦を迎えるわけであるが、戦争遂行を強いられ、先祖伝来の土地を強制的に取り上げられた農民たちの感慨はまた、ひとしおであった。

降伏後、日ならず、八月二十四日数台のジープに分乗したアメリカ兵が成増飛行場にやって来た。そして戦いに傷ついた戦闘機にガソリンをまいて、それに火をつけた。もうもうたる黒煙が翌日まで、土支田・田柄・高松の空を焼いていた。中に、ベニヤ板で作られた模疑飛行機も何機かあった。日本陸軍に名声を博した飛行第四七戦隊震天制空隊のつわものも、かくして一片の灰となって練馬の空に消えていったのである。

<項>
グラント・ハイツ時代
<本文>
グラント・ハイツ建設

昭和二一年にはいると、一部の旧地主の呼びかけによって、飛行場跡に耕作がはじまった。食糧のなかった時代なので、大蔵省もわりあい簡単に許可してくれた。

まず、耕作組合を結成、測量も行なって、一反歩程度の単位で耕地整理を済ませ、各戸に割当てた。もちろん中央の主滑走路は、厚いコンクリートで舗装されているので、北側の補助滑走路付近がその耕作地となった。補助滑走路はコンクリートが打ってなかったとはいえ、飛行機が離着陸するのに充分なほど、地面は堅くつき固められていた。耕作にあたっては、

スコップが曲るくらいの苦労が重ねられた。

<コラム page="125" position="right-bottom">

   グラント将軍

 

占領軍がなぜグラント将軍の名をつけたのか理由ははっきりしない。おそらくグラントが世界一周をした帰りみち、明治一二年五月に日本に立ち寄った縁を考えたのであろう。しかし、日本にとっての恩人の名も現代では通用せず、多くの人がグランドハイツと呼んでいた。ひろびろとした旧飛行場の跡であるからグラウンドと思ったのも無理はない。

一八二二年四月、オハイオ州の生れ。軍人としての教育を士官学校で受け、メキシコ戦争に参加後、退役していたが、南北戦争が起こると北軍の義勇軍大佐として奮戦、つぎつぎに南軍を打ち破り、ついに北軍の総帥になり、六五年四月には南軍の知将リー将軍を降し、戦争を終結にみちびいた。六九年には共和党から推されてアメリカ第一八代の大統領に就任した。しかし、政界の腐敗事件のため二期で辞任した。

前大統領グラント一家の来訪は、維新後まだ日の浅い日本にとっては、ある意味では大事件であった。その歓迎方法について数か月前からあれこれ議論したが、欧米流にやるのが良いだろうということになって、外国事情に詳しい渋沢栄一と福地源一郎(二人ともこの前年外国にならって設立した「東京商法会議所」の会頭、副会頭である)が案を練り、宿舎は芝離宮、七月三日の横浜到着のときは、祝砲二一発を放ち、岩倉右大臣、伊藤博文以下参議各官の出迎え、東京では、昼食会、夜会、観劇(新富座)さらに上野公園での天皇臨御の上での大歓迎会など計画し実施された。

グラントは、この好意に深く感謝した。折からわが国と清国との間に琉球の帰属について論争があり、清国は琉球が古くから清国に朝貢していたことを理由に自国領を主張していた。しかし島津藩の解体によりわが国は琉球を日本の国土として考えていたので衝突したのである。グラントは日本の主張を正しいものとして清国との間にはいり、一応これを解決した。グラントは、さらにわが国の対外政策にも多くの助言をおこない、海外事情にうとい政府を激励して帰国した。

上野公園にグラント夫妻が記念に植樹したヒノキとギョクランがあり、グラントの横向きの銅版レリーフが記念碑として立てられている。像の下に「平和をわれわれに」と英文でしるされている。グラント・ハイツもその役割を果そうとしたのであろうか。

飛行場に農地をとられ、泣く泣く離農を強いられた人々、二年も三年も、あるいは五年も六年も、軍隊に、外地に、故郷をはなれて出征し、やがて復員して来た人たちにとって、忘れられない練馬の土のにおいであった。

しかし、耕作は一年程度で終止符をうってしまった。二二年春、三月頃になると川越街道から入る道路の工事がはじまったのである。まきつけはしたけれど、収穫のできる見通しのない、くたびれもうけの耕作であった。

「成増建設事務所」の看板が掲げられ、上板橋駅から旧陸軍第一造兵廠(現在の陸上自衛隊練馬駐屯地)まで敷設されていた鉄道線路が新たに延長された。終点の「ケーシー駅」は現在の田柄第三小学校の北側に設けられた。当時の地図によると、「啓志線」と漢字で記されているが、工事責任者のケーシー中尉の名をとって付けられた名称だという。

横浜の米軍物資輸送本部から、山手線外廻り経由で、直通の二輛連結車が三〇分おきに運転された。日本の大小建設会社八〇社と、延二八〇万人の労務者が動員され突貫工事で建設が進められた。使用したセメントが七〇万袋だったという。

昭和二十三年六月、アメリカ陸軍の家族宿舎が完成し、「グラント・ハイツ」と命名された。当時の規模は、米軍側の報告レポートによると次のようなものであった。

<資料文>

……東京都心の北西の飛び地にある。グラント・ハイツは第二次大戦終結直後、アメリカ軍が日本政府から没収した。

三〇〇六の施設の内訳は、総面積四四七・一エーカー(一・八km2)の土地に七三〇の建物。総床面積二二〇万平方フィート(二〇万五千㎡)。一、二八六の付属の住宅設備。八八人の収容能力を持つ四つのBOQタイプの建物。総道路延長一四・七マイル(二万三六五〇m)。学校、教会、劇場、PX、ガレージ、ドライブイン、民留地、売店、補給部隊付属供給部、将校クラブ、下士官クラブとプールがある。

第五空軍部隊は、一九五八年七月一日、所有地の支配職務移動の一環として、グラント・ハイツの管理を陸軍から引継いだ。現在の施設は陸軍時代のときと、ほとんど変らないで残っている。

           (原文は英文・カッコ内は筆者注

これでみても判るとおり、飛行場時代よりさらに広範囲にわたって土地接収が行なわれた。米軍の場合は国に対する賃貸であった。地代は坪当り二五銭。当時の貨幣価値の変動は驚くべきもので、その値上げ交渉のために、田柄地区の地主二四、五名は「グラントハイツ田柄町地主会」を結成した。地主会の総面積は約三万坪であった。数度の値上げに成功したものの、三五年特別調達局の要請で止むなく売却することとなった。当時の価格で坪当り一万一、二千円であった。

基地に分断された元の土支田町東側の人々は、しばらくの間、学校に通うのも選挙に行くのも、基地を大きく迂回しなければならなかった。そして親戚つき合いも自然と疎遠になってしまった。

練馬の中のアメリカ

ゲートと、金網のバリケードに守られたアメリカ人の国が、練馬の真ん中に出現したのである。移転してきた軍人家族は千二百世帯といわれていた。日本人従業員も最多時で五千人いたという。一戸に必ずメイドが一人つき、階級の上位の軍人家族には、ボーイや運転手がいた。通勤のメイドも中にはいたが、多くは住込みか、メイド寮に収容されていた。メイド寮は学校の校舎なみの大きな二階建の建物であった。ボーイの養成所もあって、会話やマナーを教えていた。

メンテナンスといって、施設の維持管理や、補修を行なう管理事務所にも、多くの日本人従業員が仕事にたずさわっていた。このほか、前掲の米軍レポートには記載がないが、電話局、ローラースケート場、ゴルフ練習場、陸上トラックなどの施設ができた。

川越街道からゲートのあった赤塚新町にかけて、米軍相手の商店が建ち並んでいた。カラフルな衣装や、アメリカ人好みの珍しい品々に土地の人々はただ、目を見張るばかりであった。日本人女性のいるカフェーなどもあったが、朝霞のキャンプと異なって、家族住宅であったため治安はわりあい良好であった。

子供の悪戯は今でも万国共通である。金網をぬけ出しては、付近の民家の柿の実や、草花を取って喜んでいる姿は、日本人の子供と少しもかわらなかった。家族ぐるみのつき合いをしている家も少なくなかった。誕生日の祝いとか、クリスマスとかに、招んだり、招ばれたりしていた。

消火栓や貯水槽の不完全な時代であったのに、ハイツの中は完備されており、付近の日本人住宅の火事にも、その防火施設が活躍してくれた。衛生管理も行きとどいていた。夏季の害虫駆除は、飛行機を飛ばして薬剤散布を行なった。付近の一般住宅にも、ハイツの従業員が来て作業をしてくれた。おかげで米軍のいる間は、付近に蚊や蠅が全くいなかった。ただ、

虫がいないので花をつける胡瓜、茄子、トマトなど果菜類の栽培はできなかった。

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ハイツに隣接の農家は、鶏二〇羽、豚三頭、牛一頭以上の飼育はしないよう指導されていた。人糞など不潔な肥料は、もちろん、厳禁であった。

昭和三四年の春から、ハイツは逐次、立川・横田基地へと移転していった。

同年四月、東上線上板橋駅・グラントハイツ間、六・三<数2>kmのケーシー線が完全廃止となった。建設途上の昭和二二年には延一万六〇九〇車(二万一七九二t)二三年には一万三四七五車(五万一五一四t)もの資材輸送を行なっていた本線も、住宅完成後は当然ながら、わずかに日用品を輸送するのみで、その量は大幅に減少していた(『東武鉄道六十五年史』)。

基地縮小が進むにつれて、日本人従業員の離職問題が表面化してきた。これより先、東京都ではハイツ完成後も間もない昭和二三年一二月、田柄町に「成増労務管理事務所」を設け、引き続き駐留軍従事者の管理にあたっていた。その後、この「成増労管」は「新宿労管」に吸収合併されたものの、離職者には失業保険にあたる補償や、仕度金の支給などを行なった。

練馬区でも、中高年で離職したメイドで、それまで寄宿舎や、米人家族のハウスに住み込んでおり、離職後住宅に困窮する人たちに、住宅の斡旋などを行なった。また、メンテナンスや清掃関係に従事していた人々は、離職後それぞれの特技を生かした会社を設立した。経営的には、なかなか苦しい時代もあったが、区の支援もあって現在は活発な事業をつづけている会社もある。

<資料文>

<項>
返還運動の展開
<本文>
運動の芽ばえ

昭和三五年、特別調達局の土地買上げ交渉の過程の中で、一方では土地返還運動の芽ばえがあった。一部の旧地主グループは、中村梅吉衆議院議員の紹介をもって、衆議院議長、東京都知事、練馬区長に陳情書を提出した。成増飛行場建設のための買上げの際、目的を完了したら、返還するという約束があったためである。しかし結果は徒労に終った。昔のまま畑とか、山林のままならば返還してもよいが建物が建っているので駄目だというのが理由であった。事実、埼玉県下で山林のまま返還になった例があったのである。

米軍もほとんどいなくなった広漠たる空地――しかも、一歩も踏入ることの出来ない荒れはてた広場を目の前にして、付近の住民は割切れぬ気持であった。戦争が終って十五年、悪魔の落し子のような五五万坪の土地を、今度はわれわれのために有効利用出来ないものだろうか、と考えるのは当然であった。

このような沸々と湧いてきた声なき声をうけて、三九年一二月一八日、時の須田操練馬区長は、東京都知事に会見を求め、「東京都および練馬区の発展のためにグラント・ハイツを解放し、都市計画施設の整備とその一環として、その一部を練馬区民の利用に供すること」を要請した。

しかし、四二年から四三年にかけて区長不在が四〇〇日余に及び、全く進展をみなかった。が、一方では、あれほど完璧であった衛生管理が野放し状態となったために、汚水処理施設不備による悪臭や蚊、蠅の発生が付近住民を悩ませた。四二

年頃からは降雨のたびに田柄川が溢水し、家屋の浸水などの被害がひどくなった。

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練馬区長が都知事に解放要請をして丁度四年目、四三年一二月六日米軍は代替施設の提供を条件に、グラント・ハイツの返還に同意してもよい旨の表明を行なった。

あくる四四年三月二八日、練馬区議会は、「グラント・ハイツ対策特別委員会」を設置した。国有地一八一万八〇三八㎡、都有地九一一六㎡、私有地四二六四㎡、合計一八三万一四一八㎡(約五五万坪)実に練馬区全体の面積の約四%、日比谷公園の一二倍にあたる面積――この広大な敷地に区民の夢と希望を実現させるべく、返還、解放の運動を積極的に推進させるためである。

同年八月二七日、防衛庁長官はグラント・ハイツを視察した後、記者会見を行ない次のように語った。

グラント・ハイツの返還については、米軍と原則的に話し合いがついた。現在の施設と同等の機能を持つ施設を他に建設して、移転してもらう方式をとるため、全部の移転が完了するには四か年かかる。返還についての日米間の正式合意は、昭和四四年度中に取りつける考えである。

九月二五日、片健治区長は美濃部東京都知事と会見し、返還後のグラント・ハイツ跡地を住宅用地と、震災時の避難場所、および区民のレクリエーションの場として利用することで意見の一致をみた。

区議会は、グラント・ハイツ対策特別委員会において、九月二四日ハイツ内施設の視察を実施したあと、同二九日、グラント・ハイツの早期解放と、利用計画の策定にあたっては、長い間犠牲を払ってきた地元練馬区の意見を尊重するとともに、緑を最大限に確保することについての意見書を審議した。翌三〇日、本会議は満場一致をもって、これを可決し、一〇月三日付で、総理大臣、大蔵大臣、外務大臣、総理府長官、防衛庁長官、防衛施設庁長官、東京都知事に提出した。

画像を表示 <資料文>

   グラント・ハイツ返還に関する意見書

練馬区民の多年の念願でありましたグラント・ハイツの全面返還につきましては、政府関係当局のご努力により、急速な進展をみつつありますことは誠に喜びとするところであります。

したがいまして、ここにグラント・ハイツを一日も速やかに解放して、我々区民のみならず都民のための施設を中心に緑を最大限に確保するようお願いいたします。

その利用計画については、長い間犠牲を払った経過をご賢察願って、練馬区の意見を尊重し、立案いただきますよう、要請いたします。

右、地方自治法第九十九条第二項の規定により意見書を提出いたします。

昭和四四年一〇月三日

                         練馬区議会議長 橋本銀之助

区は一一月一日付をもって総務部に「グラントハイツ対策室」を設置し、今後行政上おこるべき、国・都との連絡、交渉などを、区議会と一体で積極的に進める方針を打ち出した。

この頃になると住民の間でも跡地利用についての関心が高まり、返還運動としていくつかの署名運動や、請願・陳情がみられるようになった。その中のひとつ「練馬をよくする会」が一〇月末に行なった跡地利用についてのアンケートをみてみよう(図5―2参照)。

旭町、高松を中心とした八九五名の住民から複数項目を選ぶかたちで行なわれた。第一位は公園であるが、二位病院、三位図書館と、地域住民の切実な願いが

分るような気がする。また、都営住宅が四位であるのに対して、家賃の高い公団住宅や、公社住宅が敬遠され、庶民の偽りない気持があらわれている。

一二月一五日、東京都は総務局に、「基地返還対策室」を設置し、都・区が手を結んだ返還運動もようやく、その緒についたのであるが、問題は山積しており、全面返還への道はまだまだ遠かった。

この年九月一日、区はグラント・ハイツ全域に「光が丘」の住居表示を実施した。

返還への道のり

昭和四五年に入って、グラント・ハイツの大部分である国有地を管理している大蔵省は、この跡地を住宅公団などに売却処分し、それによって、米軍の移転工事費や整備費を捻出しようという方針を明らかにした。

そうすると、練馬区は開発整備の基礎づくりもできないまま、厖大な人口をかかえ込むことになる。

もともとグラント・ハイツは、飛行場用地として半ば強制的に農地を提供させられ、また戦後は二五年にわたって、治外法権区域として、生活や交通が分断され、加えて汚水処理場の悪臭に悩まされるなど、周辺住民の大きな苦痛と不便と犠牲のもとに成り立ってきたものなのである。

このような歴史的事実をふまえて、区議会と、区行政は、グラント・ハイツ跡地利用について次のような方針をたてた。

  1. 一、真に住民福祉の向上と、地域の発展に役立つためには、何よりもまず地元住民の意見を十分反映するものでなければならない。
  2. 二、この広さを生かした利用をはかるべきで、他の基地の跡地利用に見られるような、こま切れ的な利用は、絶対に避けなければならない。
  3. 三、グラント・ハイツ跡地のみの利用計画を考えるのではなく、ここを拠点として、地下鉄・上下水道など周辺地域の計画的な開発整備を一体的に推進することが必要である。
  4. 四、快適な住宅市街地としての発展のためにも、住民の健康的なレクリエーションの場として、また青少年の心身の健全な育成をはかる場として、各種のスポーツ施設や文化施設が配置された、緑の豊かな大公園を建設すべきである。
  5. 五、このような大公園は、単に快適な生活環境の創造ということだけでなく、今後起ることが予想される地震、台風などの災害に対する避難場所としても、絶対に必要である。
  6. 六、直接区民の生命と健康を守るため、多様な要望に対処するために、練馬区に欠けている公的総合医療機関を設置する必要がある。
  7.  

以上のような考え方から、区議会は三月二八日、満場一致をもって「グラント・ハイツ跡地利用に関する意見書」を議決し、四月一四日、大蔵大臣、建設大臣、東京都知事に提出するとともに、その実現方を要請した。

<資料文>

    グラント・ハイツ跡地利用に関する意見書

練馬区議会はグラント・ハイツが一日も早く返還され地元住民の意見を尊重した跡地利用がなされるよう、すでに意見書を提出したところであります。

このたび、昭和四十五年度政府予算案にグラント・ハイツ移転費五十億円が計上され、いよいよ返還への第一歩が踏み出されたことは、われわれ練馬区民の大きな喜びとするところであります。

このような広大な土地は、区部においては今後再び取得することが困難でありますので跡地利用計画の策定にあたっては、当面の行政施策に捉われず長期的視野から真に住民福祉の向上と地域の発展に寄与するものとなるよう次のとおり重ねて要請いたします。

  1. 一、生活環境の改善と防災機能の向上を図るため大規模な公共空地を確保し、ここに森林公園、子供の国等の大規模公園、体育館、陸上競技場、水泳場、庭球場、野球場、球技場、サイクリングロード等の体育施設、図書館、美術館、音楽・演劇ホール等の文化施設および総合病院を設置すること。
  2. 二、グラント・ハイツを拠点として周辺地域の開発整備を一体的に推進すること。特に地下鉄、上下水道等の基礎的都市施設を先

    行的に整備すること。

  3. 右、地方自治法第九十九条第二項の規定により提出いたします。
  4. 昭和四五年四月一四日

                    練馬区議会議長 橋本銀之助

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五月一九日、片区長は再び美濃部都知事と会見し、城北地区に不足している災害避難広場を兼ねた大公園の設置を、もっと強力に国に折衝してほしいと要請した。

ねりま区報は六月二〇日付(第一六六号)で、グラント・ハイツ特集を組み、いままでの経過と、この問題に一体となって取り組んでいる区と、区議会の活動状況を区民に報告した。

一方、区議会は七月一二日、練馬公民館において「グラント・ハイツ問題報告会」を開催、豊田三郎特別委員会委員長が詳細な経過報告を行なった。また、挨拶に立った片区長は「昔の練馬は緑と太陽に恵まれた武蔵野の田園風景が一ぱいであった。グラント・ハイツが解放された暁には、現在生きている者だけではなく、将来に続く私たちのあとの練馬区民や、東京都民に、五五万坪の全部を緑の空地として残しておくことが、われわれ人間の幸いになるのではないか、という夢を持っている」と語った。

ついで、来賓の第五区選出衆議院議員、中村梅吉、伊藤惣助丸、青柳盛雄が挨拶、住民代表として、町田甲彦、及川陽、市河政彦、上田明、花田文夫が意見発表を行なった。

住民レベルの運動も活発化してきた。昭和四五年後半の主な動きを見ると、つぎのようなものがある。

八月七日、練馬区青少年委員会、練馬区立小・中学校PTA連合協議会は「グラント・ハイツ跡地利用に関する要望書」を、大蔵・建設・文部大臣、都知事、都教育長、練馬区長に提出した。

八月一二日、練馬区医師会グラント・ハイツ対策委員会は、区議会対策特別委員会正副委員長および区長と跡地利用について懇談した。

九月三日、前記教育三団体の正副会長もまた、区議会および区長と懇談し、区民と一体となった対策活動を推進してほしいと申し入れた。

一二月二四日、前記教育三団体と、練馬区文化団体協議会、練馬区体育協会の五団体の正副会長は「グラント・ハイツ跡地利用に関する区民等による署名簿(約一八万人)」を大蔵大臣および都知事に提出し、建設・文部大臣ならびに都教育長に協力方を要請した。

こうして、区議会、区行政、住民の三位一体となった力強い運動によって、全面返還の日は一歩一歩近づきつつあった。

広場と青空のグラハイ構想

美濃部都知事は昭和四六年四月、二期目の都知事選挙にあたって、「広場と青空の東京構想(試案一九七一)」を発表した。その中で、グラント・ハイツ跡地整備の目標として次のように記している。

  1. 一、従来の住宅用地にみられるような孤立的、閉鎖的な開発ではなく、周辺地区とも調和のとれた好ましい環境の緑豊かな市街地として整備する。すなわち、大公園、緑のネットワーク、社会、文化、福祉などの市民施設、商業施設等も周辺地区の一つの中心となるように配置、育成する。
  2. 二、区部周辺の旧緑地地域一帯の整備の拠点として、そのよき波及効果が他の地域にもおよぶように努力する。
  3. 三、種々の階層や年令層の市民がともに快適に住める理想的な地域社会単位の形成をめざす。

そして、具体的な、施設、道路、交通、住宅、周辺整備についてもふれているが、これらは練馬区が、かねてから訴えてきた意見に基づいて作成されたものであった。

同年八月一日開催の日米合同委員会において、グラント・ハイツ住宅地区(一八三・一<数2>ha)と武蔵野住宅地区(一三・三<数2>ha

が昭和四九年三月までに全面返還されることに合意された。

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これをうけて、区議会はさらに具体的な運動を展開すべく小委員会の設置を決定した。小委員会は、区民各種団体(三二〇団体)による全区的な運動に発展させるために「グラント・ハイツ区民運動連絡会」を結成することとした。

一方、跡地利用についても、より具体的な計画の検討を重ね、次のような試案を発表した。

   跡地利用試案について

森林公園               六〇<数2>ha

運動公園               三三<数2>ha

諸施設                一六<数2>ha

交通公園    二<数2>ha  子供の国    三<数2>ha

総合体育館   二<数2>ha  美術館   一・五<数2>ha

博物館   一・五<数2>ha  演劇ホール   二<数2>ha

図書館   〇・五<数2>ha  総合病院  三・五<数2>ha

通路(サイクリングロードを含む)   二〇<数2>ha

住宅用地               四〇<数2>ha

その他                一四<数2>ha

さきに結成をみたグラント・ハイツ区民運動連絡会は、数度の準備会および幹事会を重ねたうえ、区議会と共催で、一〇月九日、区立中村西小学校校庭において、「グラントハイツ跡地利用区民総決起集会」を開催した。

この集会を機に、大蔵省のグラント・ハイツ跡地処分案決定間近しという情報を得た区議会および、グラント・ハイツ区民運動連絡会は、一一月、一二月にわたって、各政党本部、大蔵省、都知事などに対して、積極的な陳情、請願をくりかえした。第五区選出衆議院議員、練馬区選出都議会議員もまた、この動きに同調、一体となった協力の労を惜しまなかった。

この年もおしせまった四六年一二月二七日、大蔵省は「グラント・ハイツ跡地利用計画案」を発表した。

翌四七年二月二五日、第八八回国有財産関東地方審議会は、大蔵省案どおりの国有地処分方針を答申決定した。いわゆる「大蔵処分方針」である。この方針は、練馬区として、前述の試案と比較しても、とうてい容認できるものではなく、今後幾多の攻防が繰り返されることになるのである。

全面返還成る

四七年三月一日、都市交通審議会は、首都圏周辺の都市交通について、昭和六〇年を目標とする基本計画を答申した。ここではじめて、地下鉄一二号線計画が登場した。

六月一七日「グラント・ハイツ跡地開発計画会議」が設置された。構成は東京都、練馬区、板橋区、日本住宅公団、東京都住宅供給公社、以上五機関の長である。東京都では都市計画局と住宅局が、区では、グラント・ハイツ対策室がその衝に当った。

ついで七月、練馬区は、独自の「グラント・ハイツ跡地利用対策方針案」を策定、区議会の了承を経て発表した。

  1. 一、単にグラントハイツ跡地だけの開発を考えるのではなく、跡地を中心として周辺地区と一体的に、同時に開発整備を進めること。
  2. 二、跡地に建設される住宅は、周辺地区を含めて、戸数、環境、人口増による区の財政、学校なども考えに入れて計画する。
  3. 三、交通機関は、目下計画されている地下鉄一二号線の開通を、跡地建設計画にあわせて、早期実現させる。
  4. 四、区民、区議会、区が一体となって運動を進めた成果として確保できた六〇<数2>haの大公園は、住民参加を得ながら、避難場所兼用の森林公園や総合運動場として計画する。
  5.  

そして、七月三一日、練馬区民が永年の夢であったグラント・ハイツの一部二九・九<数2>haが第一次返還となった。が、この日を前に、同月二八日、片区長は四年間の任期を満了して退任した。在任中は精力的にグラント・ハイツ解放と跡地利用計画に取組み、全面返還を目前にしての勇退は各方面から惜しまれた。

グラント・ハイツに隣接した国有地に住宅公団が管理する米軍軍事顧問団宿舎睦台むつみ住宅があったが、この頃になると入居者が減少したので、住宅公団では一般賃貸住宅として「むつみ台団地」の建設をはじめ、翌四八年三月に一、二六一戸の完成をみ、入居が開始された。この団地は一〇階建三棟で、集会室三と、区立光が丘保育園(五月一日開園)が併設されている区内第一の高層団地となった。

昭和四八年七月一八日、住宅地区の第二次返還四八・七<数2>haが行なわれた。つづいて同年九月三〇日残りの一〇四・六<数2>haの返還が行なわれ、ここに念願の全面返還が成ったのである。

思えば遠い道のりであった。昭和一八年、戦争に勝ちぬくためと、旧陸軍の強制的な買収に応じ、成増飛行場建設に協力し、先祖伝来の住居、農地、墓地などを失った地主は百数十名に達した。他区や都外に移転を余儀なくされた人たちも少なくなかった。

敗戦後はそのまま米軍が接収し、関東地区における在日米軍の軍人、軍属およびその家族のための住宅用地として使用さ

れ、平和条約発効後も、日米安全保障条約に基づく提供財産としてつづいてきた。昭和三四、五年になると、米軍側でも交通事情の悪化などから立川基地や、横田基地へ通勤するための住宅として不適当であるという考えが出てきた。

練馬区では、前述したようにいち早く区民、区議会、区と三者一体となった返還運動の展開を重ね幾多の曲折ののち、ここに全面返還が成ったのである。しかし、跡地利用と開発に伴う多くの課題を今後に残しながら、新しい出発を開始することとなるのである。

時あたかも一〇月一六日、四四四日間に及ぶ区長不在に終止符を打って、田畑健介現区長が準公選によって、練馬区七代区長に就任した。

  1.  この項の前半は主として「グラント・ハイツ問題報告会速記録」に、後半は光が丘地区等対策室資料に拠った。

<項>
計画決定と今後の課題
<本文>
周辺整備の調査

昭和四九年三月一一日、東京都は跡地の一部六〇・七<数2>haを「都立光が丘公園」として都市計画決定した。施設関係についても引続きグラント・ハイツ跡地開発計画会議において、鋭意検討が進められていた。練馬区としては、その開発効果を練馬区全域に及ぼすため、極力広域的公共施設を設置、または誘致するとともに、周辺地域の環境整備を跡地開発と一体的に推進するという従来の方針はくずしていなかった。とくにグラント・ハイツ周辺地区は、跡地開発や、地下鉄一二号線の敷設等によって地区の環境に大きな影響が予想され、周辺地区の整備計画策定および、先行的整備には急を要するものがあった。

区ではまず、整備の方法を区画整理事業として、周辺地区一三五<数2>haを対象として実施することとした。そして、四八年三月より翌四九年六月にかけて、地域住民と青少年館、農協、町会事務所などで二十数回の話合いを行った。参加人員は千人にも達した。しかし、区画整理事業では、ところによって二〇%もの土地を道路に提供しなければならないなど、無理な計

画であったため、住民からの反撥はきびしいものがあった。

そこで区では、周辺地区整備計画策定の新しい手法として、周辺地区の現状を把握し、跡地開発による影響等を調査研究することとした。そして、四九年一二月、地域総合計画研究所にその調査を委託した。

翌五〇年三月、同所はその報告をまとめ、『グラント・ハイツ周辺地区整備に関する報告書』として区に提出した。

以下その概要をみてみよう。まず、調査の周辺地区として、旭町一丁目、高松四・五丁目、春日町六丁目、田柄五丁目、および谷原一丁目と田柄四丁目の一部(計七町丁)一三五<数2>haを対象とした。この地域の昭和五〇年一月一日現在の人口は一万〇六四八人、三三四八世帯であった。

入居時期は昭和四〇年以後が約七〇%を占め、谷原一丁目では約六〇%、高松四丁目、春日町六丁目では約九〇%と、比較的新しい時期に入居している。人口の増加率は四六年をピークにして以後鈍化し、現在ではほぼ頭打ちの傾向にある。職業別にみるとホワイトカラーが全体の半分を占め、農業従事者は約二%であった。

この地区の土地利用状況をみると次のとおりである。

 宅 地            四六・九%

 空 地            三七・九%

  畑  一五・三%、  果樹園 一・八%

  植木植樹九・一%、  芝地  三・八%

  荒地雑地七・九%

 道路・その他         一五・二%

中でも地区内には、倉庫、資材置場、駐車場などに利用されている面積がかなりあり、今後の宅地化が予想される。

土地所有状況の面から見ると、個人所有が約九〇%と圧倒的に多いが、特に農家の土地所有は総面積の四〇%となってい

る。町丁別では旭町一丁目は一八%と比較的少ないものの、谷原一丁目、田柄四丁目では、ともに六〇%前後、田柄五丁目では実に六八%の面積が農家所有となっている。今後の土地利用の動向については農家の意向が大きく作用していることに注目してよかろう。

この地区も他に見られるようなスプロール化――不規則に散開するミニ開発によって、農地等の中に部分的に高密度な街区が形成されはじめており、さらに今後も進行する傾向にある。

対象地区の農家は七一戸で、最高一五〇a、最低二六aの耕地を経営している。関心のある問題としては、オリンピック道路沿いの自動車の排気ガスによる農作物への被害が最大事である。ついで、日照・風通しなどの環境問題、新しく入ってきた住民とのコミュニケーションの問題などがあげられている。また、後継者難、税金問題も大きな悩みで、相続税、宅地並み課税など、農地にかかわる税金問題は、農業が存続できるか否かの問題で、多くの農家でその解決が望まれている。

周辺地域の公共施設についてみると、社会教育、文化および福祉施設は広域対象の施設ではあるが、周辺部に立地しており割合恵まれている。しかし、小学校については、過密マンモス化の様相を呈し、公園は練馬区の中でも最低である。ただ比較的多くのオープンスペースに恵まれているので、子供たちはそれらを一〇〇%利用している。

周辺部の施設水準として最も悪い条件の一つとしてあげられるのが病院施設である。病院は一か所で、一〇〇〇人当り病床数は〇・四と極めて低い。医療保健施設の充実は今後の大きな課題である。

道路の整備状況をみると、昔の農道と思われる道路が随所にみられ、消防車が通れないという防災上からも一日も早く整備を急がねばならない状況である。一方オリンピック道路、富士街道、豊島園通り、谷原交差点など、交通のはげしい地点での自動車による受傷事故はあとを絶たず、矛盾した反面をはらんでいる。

練馬区では以上の調査をふまえて、地域住民の意見や提案を組み入れながら、五三年一月「グラント・ハイツ周辺地区整備基本構想」案を作成し、今後の具体的な計画策定をすすめている。

三本柱の具体化要望

昭和五〇年九月三日、東京都は区に対し、建設を予定する戸数を一万五千―一万六千戸と提案して来た。これはさきに四七年一二月、住宅公団、供給公社、東京都住宅局、住建三者が作成した「グラント・ハイツ住宅地開発計画素案」による人口約八万人、建設戸数二万三千戸より大幅に減少したものであった。しかし練馬区はこれに対して、戸数一万二千戸、推定人口四万二千人を要請しつづけてきていた。

一方、四九年八月三〇日免許取得をしていた東京都交通局は、運輸省に対して地下鉄一二号線の第一期工事として練馬―高松町間(四・四<数2>km)の工事施工認可申請を提出した。

また、先に国から土地の処分を受けていた都立光丘高等学校が一二月一五日に着工された。

区議会は年もおしせまった一二月二五日、住宅戸数問題で進展がはばまれている施設関係の具体策を解決すべく次の要望書を議決し、東京都知事、日本住宅公団総裁、東京都住宅供給公社理事長に提出した。

<資料文>

    グラントハイツ跡地利用に関する具体策を求める要望書

グラントハイツ跡地については、すでに昭和四六年八月に全面返還の決定がなされ、その後跡地利用について、東京都、練馬区、板橋区および日本住宅公団で構成されている跡地開発計画会議において種々検討され、同四九年三月には広域避難広場を兼ねた大公園計画の都市計画決定がなされた。

ところが、その他の区民施設等については、なんらの具体的な進展をみておりません。

これは、東京都、日本住宅公団および、東京都住宅供給社が戸数決定を急ぐあまり、練馬区の要望、意見を無視し、施設の決定を遅らせているところに起因しているものと思われます。

東京都は、住宅戸数の決定を急がれるよりも、さる昭和四七年に決定した練馬区グラントハイツ跡地利用対策方針に対する具体的計画を今こそ明示されるべきであります。

よって本区議会は、次の事項につき、すみやかに具体化されることを要望いたします。

     記

一、跡地周辺整備の促進

二、全区民的公共施設の具体的計画

三、交通機関(特に地下鉄一二号)の建設

                                     練馬区議会議長  楠 直正

これが、いわゆる三本柱の具体化要望であって、練馬区としては、団地開発によって区財政を圧迫しないことを加えた四項目を今後の基本的な柱とすることになった。

昭和五一年にはいくつかの新しい動きがみられるようになった。四月五日、さきに都市計画決定をみていた都立光が丘公園計画面積六〇・七<数2>haのうち、三四・五<数2>haが建設大臣から事業認可となった。この公園建設用地は、国有地であるため、東京都が国に対し国有財産貸付の条件となっている代替面積を確保できた結果で、この年一二月二七日、事業認可された敷地について無償貸付が決定された。

この無償貸付には、<項番>(一)貸付期間は昭和五六年一二月二六日までの五年間とし、期間内に工事を完了すること、<項番>(二)貸付期間中に貸付を受けた面積と同面積の都市基幹公園を二三区内に建設すること、の二条件が付いている。

また、九月八日には区立田柄第三小学校建設用地の売買契約が締結され、直ちに着工された。田柄三小は翌五二年竣工、四月一日より開校の運びとなった。このため「むつみ台団地」をかかえた田柄小学校の過密授業がようやく解消された。これは練馬区が、都立光丘高等学校と同様、跡地利用基本計画とは別個に先行して利用できることを強く要請してきていた成果である。五一年四月、都立世田谷工業高校をかりて開校していた都立光丘高等学校の新築校舎も一二月に竣工した。

翌五二年二月、都立光が丘公園が東京都の手によって着工の運びとなった。ねりま区報は二月二一日付で、それを大々的に報じた。この公園は、グラント・ハイツ跡地の北西部に位置し、完成後には、日比谷公園の四倍の広さをもち、都市公園としても二三区中有数の規模となるものである。公園内は、西側に池と芝生の広場を作り、まわりに緑ゆたかな樹木を配し

た森林地区をもうけ、東側区域は総合運動施設用地として、体育館、プール、テニスコート、野球場(四面)、相撲場、アーチェリー、多目的運動広場、陸上競技場、等の施設が建設される。またこれらの運動施設の地下には、規模約二〇万tの上水道用の練馬給水所が建設される。

開発計画決定

かねてから懸案であった住宅建設戸数について、五二年五月一一日の「グラント・ハイツ跡地開発計画会議」において、練馬区の要望であった一万二千戸の住宅をつくることが決定した。

これに先立ち四月二〇日グラント・ハイツ跡地開発計画の総合調整を行なう東京都都市計画局は、練馬区議会のグラント・ハイツ跡地等特別委員会において開発についての基本方針を説明した。これを受けて練馬区では、かねてから東京都に対し要望していた「周辺整備」「区民施設」「交通施設」「財政」の四項目を引き続き協議していくこととし、住宅建設戸数については、一万二千戸で合意することとなった。

この年、練馬区は区独立三十周年を迎えた。敗戦間もない昭和二二年八月一日、板橋区から独立し、幾多の苦難の時をのり越え、また、これからの将来に飛躍する記念すべき年であった。もちろん、グラント・ハイツも同様の歴史を歩んできたのである。

このとき区は、長期計画のためのビジョンともいうべき「練馬区基本構想」を制定した。それは、緑に囲まれた静かで市民意識の高いまちを実現するために、

  1. 一、緑に囲まれた安全で快適なまち
  2. 二、健康と生きがいにあふれたまち
  3. 三、安定した経済生活が営まれるまち
  4. 四、情操豊かなこどもと高い文化をはぐくむまち
  5. 五、区民が主体となって区政を推進する連帯のまち

という五つの目標を設定している。

これは、とりもなおさず、グラント・ハイツ跡地開発計画に対する練馬区の基本姿勢でもあった。

一一月七日、東京都の清掃局長らは、区議会グラント・ハイツ対策特別委員会に出席、跡地内に建設される清掃工場の計画素案について説明を行った。

それは、グラント・ハイツ中央西側、旭町一丁目に隣接する広大な面積を有する位置であった。清掃工場は跡地開発の一環として必要不可欠な施設ではあったが、周辺地区の住民感情や環境上の問題はこの素案のうちから潜在していた。

それから間もなく、旭町一丁目の住民を中心とした人びとによってグラント・ハイツ清掃工場反対同盟が結成された。五三年にはいると早々、一月四日、反対同盟から決議文が提出され、二月一三日には、区長に対して陳情書が、区議会議長に対して請願書が提出された。

これをうけて、区議会は四月一七日、東京都知事宛に次の要請書を提出することを議決した。

<資料文>

     グラント・ハイツ清掃工場建設計画素案に対する要望書

わが練馬区議会は、グラント・ハイツ跡地開発について、区長を始め、地域住民と一体となり、その促進に努力をしてきたところである。

特にグラント・ハイツ清掃工場については、貴職から示された素案の中でも、開発後の大都市機能を維持する重要な施設の一つでもあり、また、面積も広く、他に与える影響も大である。

よって、貴関係理事者の説明も聴取し、他の清掃工場等の視察を行い、それなりの理解を深めてきたところである。

しかし、このグラント・ハイツ清掃工場建設計画素案は、既成市街地に近いこと、また、周辺住民の戦前・戦後を通じての有形・無形の被害を受けてきた特殊な事情は、当然考慮せざるを得ない。

よって、貴職におかれては、その意を十分に汲まれ、グラント・ハイツ清掃工場計画案に関し、位置を始め内容等についても再検討されるよう強く要望する。

                                    練馬区議会議長 内田仙太郎

それから六か月を経た九月二二日、東京都は、前年五月提示してきた東京都都市計画局素案に対し、練馬区が要望してきた事項を盛り込んだ「東京都原案」を提案してきた。

清掃工場については、従来の位置をグラント・ハイツの中心部寄りに移し、跡地周辺地域から約一五〇mの距離をとること、清掃車の搬入出路として、中心部寄りに幅員一二mの南北路を新設すること、など、いくつかの修正点をふくむものであった。しかし、清掃工場建設場所については、その後も折衝を重ね、さらに一五〇m中央寄りに移動する最終的な「東京都案」が一一月二九日提示された。反対同盟とはこの線で合意した。

この東京都案は一二月に開催されたグラント・ハイツ跡地開発計画会議、都市計画審議会等を経て、年も改まった昭和五四年一月二四日、東京都の都市計画として決定した。

決定された計画策定の方針ならびに計画の詳細は『現勢資料編』五六九頁を参照ねがいたいが、その概要と今後の課題は次のとおりである。

周辺地区の整備は、昭和五三年一月まとめられた「グラント・ハイツ周辺地区整備基本構想」案によって、跡地利用計画との調和をはかりながら、跡地と周辺地区との一体的な住みよい環境づくりをめざしている。構想案は、

  1. 一、農地・緑地等オープン・スペースの整備計画
  2. 二、市街地の基盤整備計画
  3. 三、道路交通計画
  4. 四、コミュニティー施設計画
  5. 五、防災計画
  6. 六、跡地利用対策
の六つの柱を基本としている。

つぎに、交通機関として、地下鉄一二号線が計画されてはいるが、その時期については、東京都交通局の財政再建計画との関係から当面地下鉄一〇号線(都営新宿線五三年一二月二一日岩本町・東大島間開通)を優先させている。

以上、昭和一八年旧陸軍に強制買収されて以来、米軍接収を経て、跡地利用計画決定までのグラント・ハイツ地区三十余年の歴史を見てきた。これからはじまる区、区議会、住民三者一体となった新しい町づくりと、将来展開されるであろう安全で快適な環境の創造に期待しながらこの節を終る。

<節>
第六節 キャンプ朝霞跡地開発
<本文>

キャンプ朝霞は、練馬区の北西端大泉学園町の一部と、埼玉県朝霞市、和光市、新座市にまたがる総面積三一七<数2>haにおよぶ広大な米軍基地のことである。

旧陸軍は、昭和一〇年、ここの北地区に陸軍被服廠を設置、同一八年南地区に陸軍予科士官学校を開設した。

土地買収にあたっては、成増飛行場の場合と同様、多くの農民が先祖伝来の農地を強制的に提供させられた。敗戦直後の

昭和二〇年九月二九日、米軍はここを接収し、情報部隊施設、射撃場、宿舎、病院、学校、ゴルフ場等として使用した。キャンプ内は、サウスキャンプ(南地区)、ノースキャンプ(北地区)、ネヅパーク(根津地区)の三地区にわかれていた。

昭和二九年七月一日発足をみた陸上自衛隊は、その後、三四年九月サウスキャンプを訓練場、学校等として米軍と共同使用することとなった。

それから一〇年、陸上自衛隊は引き続き米軍と共同使用をつづけていたが、四四年八月一八日、共同使用区域の一部、七三<数2>haを米軍から返還をうけることとなった。自衛隊はこれを引き続き訓練場として使用していた。

四八年一月二三日開催された第一四回日米安全保障協議委員会において、関東計画にもとづき、向こう三か年以内に南地区の大部分を返還することが合意された。

同年二月六日、東京都は返還後の跡地利用計画基本方針を決定するとともに、三月一日、東京都・埼玉県連絡会議において、返還予定の南地区跡地について、都・県の一体的利用方針を決めた。

四月一〇日、東京都議会は、練馬区住民約一万五五〇〇名から提出された跡地利用の請願を採択した。

東京都、練馬区、埼玉県、朝霞市、和光市、新座市の関係六団体は、五月一七日、国に対して基地の早期返還および、地元優先利用の実現について協力方を要請した。

そして、ついに六月二〇日、ゴルフ場を中心とした南地区の大部分九九・七<数2>haの返還が成った。練馬区の部分(三五・一<数2>ha)はこのとき全部返還された。

翌四九年一月一七日、関係六団体は、跡地の一体的利用計画を策定し、国に対して、その実現方を協力要請した。練馬区の利用計画の概要は次の通りである。

五月一六日、東京都議会は、練馬区大泉地区住民約三万〇六〇〇名から提出されていた地下鉄一二号線延伸の請願を趣旨採択した。

この頃になると、キャンプ朝霞の跡地利用について、各省庁、国の機関、住宅公団など民間団体が、払い下げを大蔵省に働きかけているということが仄聞された。区議会では、七月二九日「キャンプ朝霞の跡地利用計画に関する意見書」を可決し、八月一〇日、総理大臣ほか各関係機関に提出した。

<資料文>

   キャンプ朝霞の跡地利用計画に関する意見書

キャンプ朝霞については、すでに南地区ゴルフ場部分等の返還が実現し、貴職においても具体的跡地利用計画につき、検討されている現状にあると思われるので、当練馬区では、長年の念願である跡地利用を地域住民の生活と福祉の向上に役立たせるため、この目的にそった決定を一日も早く示してもらいたいと考えている。

そこで、この跡地利用計画についてはすでに関係地方自治体計画案により、四八年五月一七日および四九年一月二四日の二回にわたって要請したところであるが、遺憾ながら現在までのところ顕著な進展を認めることができない。

仄聞するところによると、各省庁、国の機関および民間団体より各種の跡地利用の要望が提出されているようであるが、すでに前記で要請している跡地利用計画どおり、早期に実現されるよう、つよく要望し、ここに地方自治法第九九条第二項の規定により意見書を提出する。

                                    練馬区議会議長 関口三郎

四九年八月二九日、日米合同委員会において、根津地区の全域及び北地区と南地区の一部約一八〇・五<数2>haの返還が合意され、九月と一二月ならびに五〇年八月の三回にわたって返還された。

五一年一月二〇日大蔵省は、第一回返還財産処理対策連絡会を開催、突如として「三分割有償処分方式案」を関係自治体に示すとともに、大蔵大臣の諮問機関である国有財産中央審議会に諮問した。

この方式は、今後、大規模基地の処分に当っては、

  1. 一、自治体の要望する施設用地
  2. 二、国、政府の関係機関の利用
  3. 三、将来の需要にそなえて五~一〇年間処分を保留

の三等分をするというものであった。また「有償処分」とは、その処分に当って、小・中学校用地の払い下げをすべて有償にするというものである。従来は、国が基地移転に経費を要したものについては、時価の五〇%以内の減額譲渡あるいは、児童生徒急増の地域では、五年間無償貸付という方式で行なわれていた。それがこの方式によると、今後は基地移転経費の有無を問わず時価の七五%で譲渡、あるいは、児童生徒急増の地域での学校に必要な面積の半分を時価で払い下げ、残りを五年間無償貸付のうえ、以降五〇%で払い下げるというものであった。

これは永い間、基地が存在したことによって、有形無形の被害、迷惑を被ってきた地元の住民、自治体の意向を全く無視するものであった。区議会は、直ちに同月二六日意見書を議決、大蔵大臣にこれを提出し、計画案の実現と三分割有償処分方式案の白紙撤回を要請した。

<資料文>

   キャンプ朝霞跡地利用計画に関する意見書

キャンプ朝霞については、すでに南地区のゴルフ場部分等の返還が実現し、当区は、東京都、埼玉県および和光市、朝霞市、新座市と協力して一体的利用をはかるため協議をすすめ、昭和四九年一月には、都・区案を決定し、地元計画案の実現方を関係当局に要請してきたところであります。

しかし、このたび突如、大蔵省の処分案が示されましたが、その内容はその三分の一を国関係、また三分の一を地元に、残り三分

の一は未使用地として保留するというものであります。

周知のとおり、跡地の周辺は急速に都市化が進み過密の状態にあり、広大な跡地は震災対策を含め、真に地域のために利用されることが地域住民の強い念願であります。

当区としても、跡地の自然的環境を活用するとともに人口急増等の状況の中で、都市計画上、極めて重要な公共施設用地として利用したい所存であります。

つきましては、かかる事情を十分ご理解いただき、また、永年基地の存在によって地域の整備が制約されてきたことも考慮され、大蔵省案の骨子である三分割案を撤回され、別添の都・区跡地利用計画案によりキャンプ朝霞の利用計画を実現されるとともに、処分にあたっては、学校用地等を無償で払い下げるよう、ここに強く要請する次第であります。

右、地方自治法第九十九条第二項の規定に基づき意見書を提出いたします。

昭和五一年一月二六日

                                     練馬区議会議長  楠 直正

それにもかかわらず、同五一年六月二一日国有財産中央審議会は、大蔵大臣に対し、今後の基地跡地処分に当って、三分割有償処分方式案で行なうべきであることを答申した。地方自治体にとっては計画の障害となり、財政負担も大きいこのような方式に対して、区は関係自治体とともに強く反対し、国に働きかけて行った。

このような中で、跡地のうち教育施設関係の処分条件については、昭和五三年二月、ようやく大蔵大臣と渉外関係主要都道県知事連絡協議会との間で合意をみるにいたった。そして、そのうちの小学校と養護学校用地の先行処分が、同年一〇月、大蔵省国有財産関係地方審議会で答申された。

先行処分の内容は、区立小学校用地に一万六〇〇〇㎡、肢体不自由児のための都立養護学校用地に一万五〇〇〇㎡をそれぞれ時価の半額で払い下げるというもので、練馬区教育委員会はここに大泉学園桜小学校を建設し、大泉学園小、大泉第三小の過密解消をはかることとした。

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同年七月三〇日大蔵省は東京都に対して、キャンプ朝霞国有地の処理大綱案を提示した。大蔵省が示した練馬区の区域約三三・五<数2>ha自衛隊がすでに使用している面積を除く)の案は次のとおりである。(図5―3参照

一〇月二六日東京都はこの提示を受けて、練馬区の意見も入れた回答を大蔵省に示した。これは、①南地区練馬区部分の留保については東京都震災予防条例に基づく広域避難場所に指定されているので、その扱いについては特に配慮すること、②自衛隊朝霞駐とん地南部前庭については、現状の植生の保存はもとより緑道及び公園との一体的な景観の保持が図られるよう十分に配慮すること、を掲げ、具体的な利用計画の策定に当っての東京都及び練馬区の協議を要請したものであった。

一一月一九日大蔵省は東京都および埼玉県の大綱案に対する意向をふまえて、国有財産中央審議会に諮問し、諮問案のとおり審議会の答申を得た。同一一月二六日、大蔵省はキャンプ朝霞国有地の処理大綱を受けて、かねてから各地元自治体が処分を要請していた施設用地等の処分をすべく、国有財産地方審議会に処分事項を諮問した。

この結果、東京都については昭和五三年三月三〇日に緊急処分を受けた養護学校に引き続き高校学校用地および都市計画道路用地、練馬区については、同三月三〇日緊急処分を受けた小学校用地に引き続き中学校用地の処分が答申された。

大蔵省の処理大綱が決ったことにより、キャンプ朝霞跡地の利用は、昭和四八年第一四回日米安全保障協議委員会に於いて、南地区の関東計画による返還が合意されて以来約六年、国の「三分割有償処分方針」という地元自治体の土地利用の根幹にかかわる折衝をはさみながら、具体的に全体の利用計画の実現に向けて新たな段階を迎えたといえよう。

<章>

第六章 公害・自然保護

<節>
第一節 公害の概況
<本文>
公害防止の責務

公害の恐ろしさは、人の生命維持に不可欠な空気や水を介して知らずしらずのうちに体内が侵され、自覚症状が出てきた時には既に手遅れの場合が多いという点にある。多くの人々を廃人同様の身体にしてしまった水俣病やイタイイタイ病の原因物質が、人々が日々安心して飲食していた食物や水の中に含まれていたということは周知の事実である。

それでは、私達は何によって公害の危険を予知し身を守ることができるのであろうか。その唯一の手だては、身の回りの自然環境の汚染・悪化・後退をいち早く察知し、その回復に努めることであろう。動植物が健全に生息できない環境は、そこに住む私達人間にも、何らかの悪影響をもたらしていると考えられるからである。例えば、イタイイタイ病の場合は、既に昭和一七年頃より農作物への被害が出ており、農林省も実態調査に乗り出していた。しかし、その時の調査は人体への影響を前提としたものではなかった。もしその当時、事業主をはじめ行政担当者や住民が、まず第一に人体への影響を心配していたとすれば、その後の大惨事は免れ得たかもしれないのである。

この反省は、不幸にして何らかの公害に侵され、現に病苦と闘っている人々と、まさにこれから侵されるであろう人々の共通の教訓である。

練馬区に住む私達にとっても、公害は無縁の出来事ではない。昭和四六、七年には多くの区民が光化学スモッグの被害を

受けた。環七等の大通り沿いに住む人々は、その振動と騒音に苦しんでいる。目に見えない大気の汚れによって呼吸器が侵される人々が増えている。区内を流れる石神井川などの河川がドブ川と化して既に久しい。もちろん、これらの公害のどの一つをとってみても、練馬区だけで解決できるものはない。私達が直面している公害は、日本の経済構造に係わる根の深い現象なのである。

とはいえ、近代化や戦災復興の掛け声のもとに、経済発展のもたらす豊かさや便利さをひたすら追求してきたのは、つきつめれば私達区民一人びとりでもあったのである。とすれば、私達は公害の被害者であると同時に加害者でもあるのであって、その意味において、もはや私達は身の回りの環境の変化に無自覚であることは許されないのである。

昭和四四年に制定された「東京都公害防止条例」は、その前文において私達の公害防止に対する基本的な責務を次のように示している。

<資料文>

  1. 第一原則 すべて都民は、健康で安全かつ快適な生活を営む権利を有するものであって、この権利は、公害によってみだりに侵されてはならない。
  2. 第二原則 すべて都民は、他人が健康で安全かつ快適な生活を営む権利を尊重する義務を負うのであって、その権利を侵す公害の発生原因となるような自然及び生活環境の破壊行為を行なってはならない。
  3. 第三原則 東京都民の自治組織体である東京都は、都民の健康で安全かつ快適な生活を営む権利を保障する最大限の義務を負うのであって、この義務を果たすため、あらゆる手段をつくして公害の防止と絶滅をはからねばならない。

公害発生の要因

日本における公害の歴史は明治時代に始まる。明治時代の最大の社会問題の一つとして有名な足尾鉱毒事件は、イタイイタイ病や水俣病の先駆けをなす、わが国の公害の原点ともいうべき事件であった。明治一一年初秋、足尾の山地に源を発する渡良瀬川が洪水を起こした折、銅鉱山から流出した鉱毒が鮒や鰻ばかりでなく農作物にも被害を与え、更に農民の足の指が爛れるという被害にまで発展した。

また、紡績工業の盛んであった大阪においては、動力源である石炭の煤煙に対して住民の苦情が集中し、明治二一年には「旧市内には煙突を立てる工場の建設を禁ず」という府令まで出されている。

東京においても、明治一六年頃、深川の浅野セメント工場から噴き出されるセメントの粉じんのために、付近の街は一面薄鼠色と化し、住民の中に吐血者まで発生したといわれている。

このような公害は、その後の日本の経済発展に伴って各地で発生するようになるが、戦前の公害の多くは、戦後のそれと比較すると、まだ公害発生源を中心とする限られた地域での現象であり、その被害に対しても経済上の損害として意識されていたにすぎなかった。

これに対して戦後の公害の特徴は、その被害が、農漁業などの経済的損害から、公害発生源の存在しない地域をも含む広範囲にわたる生活環境の汚染へと移り変わり、しだいに人の健康・生命への直接的侵害に及んでいる点にある。川崎の大気汚染(二五年)、横浜ぜん息(三六年)、四日市ぜん息(三六年)、東京スモッグ(三七年)、東京都新宿区柳町の自動車排気ガスによる鉛公害(四五年)、東京の光化学スモッグ(四五年)など一連の大気汚染事件は、戦後の公害を象徴するものである。

このような深刻な公害をもたらした要因は、主として石油化学工業を中心とする重化学工業の飛躍的な発展や、国土総合開発法の制定(二五年)、国民所得倍増計画(三五年)などを契機とする、大都市及び既成工業地帯への人口と産業の無計画な集中、モータリゼーションの発達などに求めることができる。

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例えば図6―1は東京都における石油系燃料販売量の推移を示したものであるが、これによればガソリン・軽油・重油の総販売量は、三六年におよそ五六八万klであったものが、一二年後の四八年にはおよそ四倍の二二五〇万klに達している。四九年には、石油ショックの影響を受け、四八年の半分に減少したものの、規制の厳しくなっている重油を除き、ガソリンと軽油は再び増加しつつある。

一方、東京都内の自動車保有台数は、終戦後間もない昭和二三年には、昭和一八年の保有台数を下回る三万九〇三六台にすぎず、普及率も一三九人に一台の割合であった。ところが、三四年頃から四四年に至る一〇年間には、おおよそ毎年一五万台以上のベースで増加しつづけ、四四年には二〇〇万台を突破し、更に五二年には二八〇万台を超え、普及率も四人に一台の割合となっている。

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練馬区においても、図6―2に示した登録・届出自動車台数の推移を見ると、五二年現在の総数は一四万七五八〇台で四〇年のほぼ三・五倍、年平均八七七六台の増加となっている。しかも、注目されるのは、

東京都全体の増加率が四九年以降横ばい状態であるにもかかわらず、本区においては依然として増加傾向にある点である。

以上のような石油消費量や自動車保有台数の急激な増加に象徴される高度経済成長の結果、本区においても有害な硫黄酸化物・窒素酸化物などによる大気汚染、工場排水や家庭排水による河川・池水の汚濁、交通騒音、日影紛争など、様々な公害現象が噴出するようになった。

練馬区内の公害発生源

本区の生活環境がどの地域でどの程度悪化しつつあるかという点については、区民から寄せられる苦情や陳情によってはじめて知ることができる。

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図6―3は、本区における公害関係の苦情・陳情件数の推移を示したものであるが、見られるように、苦情・陳情数は、四二、三年ごろより増えはじめ、区に公害対策課が設置された四四年には一挙に前年度の二・八倍(二〇五件)に増え、四五

年には、更に一四八件上回る三五三件に達した。その後は四七年の三八二件をピークとして減少し、近年は二五〇件前後で横ばい状態となっている。四四年から四七年にかけて苦情・陳情数が急増した理由としては、区に公害の窓口が設けられ、苦情や陳情が容易に持ち込めるようになったことがまず考えられるが、その背景にある、例えば光化学スモッグの発生に象徴されるような、人々の忍従の限界を越える生活環境の破壊という実態を無視することはできない。しかもそれに対し、行政の対応が遅れぎみであったため、人々の不安と焦燥が苦情・陳情という形で一気に噴出した、というところが真相ではなかろうか。

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苦情・陳情を現象別に見ると、騒音に対するものが最も多く、四四年以降は全体のほぼ五五%以上を占めている。また用途地域別では、住居地域・住居専用地域からの届け出が圧倒的に多い(「公害をなくすために」四八年)。

更に、発生源別でみると、五四年度は認可工場関係(「東京都公害防止条例」による)が七五件、指定作業場関係(「東京都公害防止条例」による)が五二件、特定建設作業場関係(「騒音規制法」・「振動規制法」による)が一一件、その他一般九七件となっている。四五年度との単純比較によれば、表6―1に見られるごとく全般的に減少傾向にある中で指定作業場関係だけが四五年度の一八件(全体の五%)から五三年度の五三件(全体の二一%)へと伸びている点が注目される。

このような経済活動に伴う生活環境の破壊を防止する方策としては、現在、

  1. <項番>(イ)工場(認可工場)を設置・変更する場合はあらかじめ区長の認可を受ける(東京都公害

    防止条例)。

  2. <項番>(ロ)駐車場・ガソリンスタンド・材料置場・畜舎など特に公害発生源となりやすい作業場(指定作業場)を設置・変更する場合は、区長に届け出なければならない(東京都公害防止条例)。
  3. <項番>(ハ)プレス機・せん断機・空気圧縮機・印刷機など著しい騒音・振動を発生する施設(特定施設)を設置する場合は、区長に届け出なければならない(騒音規制法・振動規制法)。
  4. <項番>(ニ)くい打機・くい抜機・さく岩機などを使用する建設作業(特定建設作業)を行なう場合は、作業開始七日前までに区長に届け出なければならない(騒音規制法・振動規制法)。
などの規制・監視措置がとられており、五四年度末現在、認可工場は一五四四、指定作業場は一〇九五、「騒音規制法」による特定施設は二二三、「振動規制法」による特定施設は一二五となっている。

認可工場の業種としては、食料品製造業・出版印刷関連産業・金属製品製造業・精密機器製造業・自動車整備業などが多く、その工場数は五〇年が一六一〇、五二年が一五六四、五四年が一五四四と全般的に減少傾向にある。ただその中でも自動車整備業は一六四(五〇年)、一七四(五二年)、一八七(五四年)というように増加傾向にある。

また指定作業場は、四五年が二三三、五〇年が一〇二九、五四年が一〇九五と年々増加の一途にある。ことに、自動車駐車場・自動車洗車場・ガソリンスタンドの増加が大きく、自動車整備業の増加とともに区内における経済活動の活発さを如実に示すものであるといえよう。しかし、公害という観点からすれば、これは本区の住宅地としての生活環境がまさに年々悪化しつつあることを示していることに他ならない。

また興行場・商店・学校などの一般騒音に対する苦情・陳情数の中には、一般家庭が原因となっている近隣公害に関係するものが、五三年度には一〇四件のうち二四件、五四年度には九七件のうち一五件それぞれ含まれている。

以上のごとく苦情・陳情数より窺い得る本区の公害現象の特徴は、住居地域からの届け出が圧倒的に多く、しかもその発

生源は、工場や作業場関係のものが多い。つまり、住居地域内に工場などが混在している本区の地域的なありかたが、そのまま苦情・陳情数に反映されたものと推測される。

<節>
第二節 公害行政のあゆみ
<本文>
昭和三〇年代の公害行政

二〇年代末から様々な形で表面化し、且つ地域的にも急速に拡大してきた、環境汚染とそれに伴う人身被害の問題に対し、行政の対応は必ずしも積極的なものではなかった。三一年にその存在が公表された水俣病についてみると、三四年には熊本大学水俣病研究班によってその原因がチッソ水俣工場で生成される有機水銀であると発表されたのにもかかわらず、それが法的に確認されたのは一〇年以上経過した四八年三月二〇日の熊本地裁の判決においてであった。この間、三四年一一月に原因が明らかにされた時点においても、また三七年八月にアセトアルデヒド製造工程におけるメチル水銀の発生が明らかにされた時点においても、いずれも抜本的な対策が講じられないまま、行政もまたそれを放置してきた。水俣湾内の水銀汚染が終息に向かったのは、アセトアルデヒドの製造が停止された四三年五月以降であると言われている。同時期、日本各地で同様のメチル水銀による汚染が進行し、新潟県阿賀野川流域においても、いわゆる“新潟水俣病”が発生(四〇年六月一二日公表)したことを考えると、行政が早期に原因究明に乗り出し、汚染の拡大防止策を講じ得なかったことが惜しまれる。

行政の立ち遅れは冒頭で紹介したイタイイタイ病においても同様であった。また、三五年三月に日本で最初に本格的な稼動を始めた三重県の四日市コンビナートにおいても、その当初より大気汚染のひどさについて住民から苦情が出されていたのにもかかわらず、有効な対策が講じられないまま、“四日市ぜん息”という悲惨な病苦をもたらすことになった。

このように国の公害対策は産業発展を優先するあまり立ち遅れぎみであったが、一部の地方公共団体の公害対策は、既に

昭和二〇年代から始まっていた。二四年に制定された東京都の「工場公害防止条例」をはじめとして神奈川県(二六年)・大阪府(二九年)・福岡県(三〇年)などの地方公共団体においても、この種の公害防止条例が制定された。

三〇年代に入ると、ようやく国においても前向きの姿勢がとられるようになった。三三年には「公共用水域の水質の保全に関する法律」(水質保全法)、「工場排水等の規制に関する法律」(工場排水法)という、いわゆる水質二法が制定され、また三五年頃から急速に悪化しつつあった大気汚染に対しては、三七年に「煤煙の排出の規制等に関する法律」(煤煙規制法)が制定された。さらに、東京や大阪などで進行していた地下水の採取による地盤沈下については、三一年に「工業用水法」が、三七年に「建築物用地下水の採取の規制に関する法律」が定められ、その防止対策が進められるようになった。

公害対策基本法の制定

三〇年代の後半になると、環境汚染は一層広域化し、もはや個別的な規制では十分対処し得ない事態にいたった。そこで政府は、四二年に、総合的な公害防止行政を展開するための基本原則として「公害対策基本法」を制定した。

この「公害対策基本法」の発案は、四一年に厚生省の公害対策審議会がまとめた「公害の基本施策に関する答申」によるものであり、その厚生省原案では、国民の健康保護のために企業の無過失責任を追及しようとする積極的な姿勢が示されていた。しかし、産業界から強い抵抗が示されたため、厚生省原案は後退を余儀なくされ、その結果、基本法の目的を規定した第一条に「前項に規定する生活環境の保全については、経済の健全な発展との調和が図られるようにするものとする」という、いわゆる経済発展との調和条項が挿入されることになった。ところがこの条項に対してこんどは、地方公共団体や野党から公害対策を骨抜きにするものであるとして非難が集中した。そのため、四五年末に開催された第六四国会(公害国会)において、法律の第一条の全面改正がなされ、問題の調和条項は削除されることになった。以上のような経緯で制定された現行法の第一条には次のようにその目的が示されている。

<資料文>

この法律は、国民の健康で文化的な生活を確保するうえにおいて公害の防止がきわめて重要であることにかんがみ、事業者、国及

び地方公共団体の公害の防止に関する責務を明らかにし、並びに公害の防止に関する施策の基本となる事項を定めることにより、公害対策の総合的推進を図り、もって国民の健康を保護するとともに、生活環境を保全することを目的とする。

公害法の整備と環境庁の設置

この公害対策基本法の制定を契機として、いくつかの個別公害法の整備も進んだ。四三年には「大気汚染防止法」・「騒音規制法」が、四四年には「公害に係る健康被害の救済に関する特別措置法」が、四五年には「公害紛争処理法」がそれぞれ成立し、それに伴い、硫黄酸化物(四四年)・一酸化炭素(四五年)・水質(四五年)などの環境基準も閣議決定された。更に四五年の公害国会においては「公害対策基本法」の改正の他に、「大気汚染防止法」・「毒物劇物取締法」・「自然公園法」・「下水道法」・「道路交通法」・「農薬取締法」・「騒音規制法」がそれぞれ改正され、また新たに、「公害防止事業費事業者負担法」・「公害犯罪処罰法」・「海洋汚染防止法」・「農用地の土壌汚染防止法」・「廃棄物処理法」の五法が制定された。なおこれらの公害法では、都道府県が国の規準より厳しい上乗せ規準を設定できるなど、具体的な規制や監視の権限が大幅に地方公共団体に委任されることになっている。

一方、以上の法律の整備とともに、それを実施する行政機構の体系化も進んだ。従来は、たとえば大気汚染は厚生省と通産省が、水質汚濁は厚生省・通産省・農林省・建設省・経済企画庁がと、個々バラバラな対応がなされていたのであるが、四五年には総理大臣を本部長とする公害対策本部が設置され、更に翌四六年七月一日には環境庁が設置され、ここに行政機構の一元化が図られることになった。

東京都の公害行政

東京都の戦後の公害行政は、二四年八月の「工場公害防止条例」の制定に始まる。前に述べたごとく、わが国の公害行政はまず地方公共団体の側から始まったのであるが、東京都の「工場公害防止条例」はその先駆けをなすものであった。

終戦後の復興事業は確固とした都市計画を立てる暇もなく進められたため、いたるところに住宅と工場が無秩序に混在する街区が形成された。その結果、工場の発する騒音や工場から排出される煤煙は、ただちに付近の住民に被害をもたらすこ

ととなった。そうした事態に対処するため、東京都は「工場公害防止条例」に続き、二九年には「騒音の防止に関する条例」を、三〇年には「煤煙防止条例」を制定し、工場認可制を基本とする公害対策を講じてきた。

また公害対策を実施する機関としては、三五年に、新たに発足した首都整備局に都市公害部が設けられた。それまで工場公害は建築局指導部に、騒音・煤煙問題は衛生局公衆衛生部に、水質汚濁問題は経済局農林部にと相互になんら有機的な関連もなく個々の問題ごとに担当局が分かれていたが、公害が重大な社会問題となってきたことに鑑み、対策の能率と総合化を図るため、ここに国政に先駆け公害行政が一本化されることになったのである。

しかし、その後の公害をめぐる情勢の変化は極めて激しく、新たに問題となってきた自動車公害や深夜騒音、更には硫黄酸化物による大気汚染などに対処するため、公害対策の抜本的な改革が望まれるようになった。

折しも四二年八月に「公害対策基本法」をはじめ各種の公害規制法が制定されると、それと条例との関係を整理する必要が生じてきた。そこで、四四年四月に新条例策定の準備作業が開始され、同年七月に前文及び五章六八条からなる「東京都公害防止条例」が公布された(四五年四月一日施行)。

この「公害防止条例」の特徴は、条例としては例の少ない「前文」が付されていることである。法律の条文というものは読む人の立場によって解釈を異にする場合がよくあるが、「前文」はそうした解釈上の問題を防ぐため、公害を厳しく防止し絶滅するための三原則(第一節参照)を規定し、続けて「この条例は以上の諸原則に掲げる目的を達成するように解釈し、運用しなければならない」と、法律の姿勢を明確にしている。

なお、この新条例の制定に伴い、四五年一〇月には従来の都市公害部を独立した公害局に昇格させ、その下に既に四三年四月一日に発足していた公害研究所などの各種公害対策機関を統合することになった。

これより先、四五年六月には、公害研究所が中心となって調査研究を重ねてきた成果が『公害と東京都』としてまとめられた。これは東京の公害状況を自然科学・社会科学の両面から分析した公害読本であるが、他の地方公共団体の公害政策に

も強い影響を及ぼした。東京の公害状況を示す資料としては、他に『数字でみる公害』という小冊子が刊行されており、今までに、四五年、四七年、四九年、五二年、五三年の五回発行されている。

また、具体的な公害対策は、科学的な調査結果に基づく長期的な指針である「都民を公害から防衛する計画」が策定されその方針に沿って実施されている。

公害対策課の設置

四〇年代に入って、国や東京都の公害行政が整備拡充されるようになったことに伴い、練馬区の公害対策も徐々にではあるが推進されるようになった。

既に三五年に東京都で首都整備局都市公害部が設置された折、「工場公害防止条例」関係の業務のうち小規模工場の認可事務が区に委任されていたが、四三年六月に「騒音規制法」が制定され同法にもとづく知事の施行事務の大部分が市町村長に委任されることになると、東京都でも翌四四年四月一日から、その事務を二三区長、一六市長などに委任することになった。その際、同時に都の「工場公害防止条例」や「騒音防止条例」の業務の多くも、区長や市長などに委任された。

このような区における公害対策業務の膨張に対処するため、練馬区では急遽建築部内に一課一係総勢六名からなる「公害対策課」を新設し、四四年四月一日からとりあえず補正予算を組んで業務を始めることになった。ちなみに四四年度の公害対策課の事業費は二〇五万円で、振動記録計、指示騒音計、公害パトロール車などの購入にあてられた。なお、四五年四月には、新しい「東京都公害防止条例」が施行されたが、その施行事務も大部分は区長に委任されることになった。

公害対策費の膨張

四五年七月一八日白昼、杉並区堀ノ内の住宅街にある、私立東京立正高校付近一帯を刺激性の強いガスが襲い、同校の生徒や付近の住民など数十人がバタバタと倒れ病院に収容されるという事件が発生した。同日夕刻より都公害研究所が調査に乗り出した結果、太陽光線によって自動車の排気ガス等が変質した光化学スモッグが主因であると判明した。この光化学スモッグによる被害者は、二一日午後五時までに一二区一〇市で五二〇八人に達した。

この住宅地内に突然発生した光化学スモッグは、公害―とくに大気汚染による被害―がいかなる場所においても発生しう

る段階に至ったことを都民に認識させることになった。比較的良好な住宅環境に恵まれて、公害など他人事のように感じていた練馬区民にとっては、それが隣接区であり、しかも同じ良好な住宅地区に発生した事件だけにその衝撃は一層大きかった。

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東京都では、さっそく七月二七日から光化学スモッグ注意報警報体制が施かれたが、練馬区においても独自の体制づくりが急務となってきた。九月二日に発足した練馬区公害対策連絡協議会は、当面する公害対策を総合的且つ効果的に推進させるため、建築部を中心に関係行政機関の連絡調整を密にする必要から結成されたものである。

また具体的な対策としては、七月と九月に二度、当初はまだ十分な測定機器類が区には揃っていなかったため、東京工業大学早川研究室に委託して交通公害実態調査を実施した(調査結果は「東京都練馬区における自動車の排出ガス等による大気汚染に関する調査報告書」として報告されている)。更に年度末には、機器の整備を待って、区独自の自動車排気ガス測定を、東大泉交差点など区内六地点で実施した。四五年度は、公害対策課の事業予算として三三〇万七〇〇〇円が計上されていたが、その大部分がこれら大気汚染関係の実態調査に費やされた。

なお、以上の調査結果や公害対策課の事業活動状況は、四五年以降各年度毎に「公害をなくすために」という小冊子にまとめられて公表されている。

図表を表示

四六年度は、事業費として五七五万八〇〇〇円が計上されたが、そのうち三〇七万円が、前年度に引き続き測定および分析用機器の購入にあてられ、それを基にして区独自の公害測定室が設置された。また新規事業として夜間作業等の実態調査を兼ねた夜間パトロールの実施、住民及び工場主に正しい公害知識をもってもらうための公害教室の開催、光化学スモッグ発生時の連絡体制づくりなどが行なわれた。

四七年度の事業費は図6―4に見られるごとく一挙に前年度のほぼ八倍に当たる四二七五万四〇〇〇円が計上された。その内訳をみると、およそ一〇〇〇万円が、オキシダントや窒素酸化物の測定、緊急連絡用の霧笛や無線受信器の配備など、光化学スモッグや大気汚染対策に向けられている。また四七年度から発足した、区の公害防止資金融資制度には二二一二万円の予算が計上されている。

四八年度以降の事業費は、例年四~六〇〇〇万円の事業成績を維持している。また事業内容別では、表6―2にみられるごとく、公害防止資金や大気汚染対策費のウエイトが大きく、全体の五〇%以上を占めている。

公害対策懇談会の活動

四七年度は、区の行政機構の面でも進展が見られた。まず六月一日には、区長を議長とし、助役収入役以下の関係部課長を委員とする練馬区光化学スモッグ対策会議が設けられ、光化学スモッグによる被害の情報収集、応急対策や防除対策の体制が整えられた。

また、区の公害対策上、その活発な活動が注目されるのは、七月五日に設置された練馬区公害対策懇談会である。これは、区民の意見や要望を公害行政に積極的に反映させることを目的として設けられた区民参加による公害対策機関で、一般区民一八名、東京都公害監視委員二名、区職員二名(都市環境部長、公害対策課長が議長・副議長を務める)によって運営されている。

懇談会の任務については、その「練馬区公害対策懇談会設置運営要領」に、

  1. 一、公害行政の施策の設定および施行方法等に関する意見の陳述に関すること。
  2. 一、公害に関する調査ならびにアンケート調査の実施に関すること。
  3. 一、その他公害行政の推進に必要と認められる事項。
と規定されており、区の公害対策を推進させる中心的な機関であることが窺われる。以下の年表は、その具体的な活動状況を示したものである。

「公害対策懇談会の活動状況」
開催月日会議名テーマ
四七・ 八・一〇 定例会 各委員紹介、練馬区の公害現況について
光化学スモッグ対策について
   一〇・二二 定例会 昭和四八年度事業計画について
   一一・三〇 臨時会 自動車公害について
   一二・二六  〃  <数式 type="munder"/>自動車公害防止についての関係官公署に対する要望書作成
四八・ 一・ 九  〃 
    一・三〇 臨時会 要望書提出→都知事・都公安委員会委員長・警視総監、運輸省・通産省・建設省・環境庁
    三・ 二  〃  公害防止計画の策定について
    三・二二  〃  公害行政への意見書作成
    三・三〇 定例会 意見書集約、区長へ意見書提出

    五・一五

定例会 各委員紹介、会の運営について
    六・二八 臨時会 区内公害現況視察、意見交換
    七・一五  〃  会報について
    八・二二 定例会 前年度委員との意見交換、自動車公害に対する要望書作成
   一一・一三 臨時会 要望書提出→都知事・都公安委・環境庁
四九・ 三・ 九  〃  要望書提出後の関係省庁の動向について
来年度事業計画について
    三・二九 定例会 区長・職員との懇談
    四・二四  〃  各委員紹介、懇談会要領の説明および改正についての検討
    五・二二 臨時会 区内公害現況視察、意見交換(自動車公害中心)
    六・一三 幹事会 幹事長選出、会の運営等について
    七・二二  〃  自動車排ガス規制要望書案の作成
    八・二〇 臨時会 委員の任務について、要望書案の検討
    九・一九  〃  <数式 type="munder"/>要望書提出→環境庁・運輸省・自動車四メーカー
   一一・ 七  〃 
五〇・ 一・二七 定例会 環七実態調査報告、会報について
    二・ 七 幹事会 会報(編集)について
    五・一五 定例会 委嘱式、公害対策課の事業説明、意見交換
    六・ 五 視察臨時会 区内公害現況視察、意見交換、幹事選出
    六・三〇 幹事会 会の運営方針および今後のとり組み
    七・二九 視察 環七夜間実態調査視察
    九・ 五 定例会 光化学スモッグアンケート調査報告、公害健康補償法の地域指定要望について
    九・一九 要請 要望書提出→環境庁
   一〇・二九 幹事会 公害対策課来年度事業計画について
五一・ 二・ 五 臨時会 公害健康補償法の地域指定再要望について、懇談会のあり方、会報作成方針
    二・二〇 幹事会 会報作成
    三・二三 要請 要請書提出→環境庁・通産省
    三・二六 定例会 来年度予算、その他
    五・一四  〃  委嘱式、公害対策課事業説明、意見交換
    六・ 八 視察・臨事会 区内公害現況視察、意見交換、幹事選出
    七・一九 幹事会 幹事長選出、主要幹線道路住民意識調査報告
    九・ 七 定例会 公害健康被害補償法の地域指定要望について
アセスメント条例化の促進要望について
    九・一七 臨時会 アセスメントについての学習会
   一〇・ 四 臨時会 アセスメント条例化促進の要望書の具体化
   一〇・二〇 幹事会 公害健康被害補償法の地域指定およびアセスメント条例化促進についての要望書とりまとめ
   一一・ 四 要請行動 要望書提出→環境庁長官・都知事
   一一・一七 地域集会 石神井区民館(一般区民一六名参加)
   一一・二八  〃  練馬公民館(一般区民一一名参加)
   一二・一四 臨時会 地域集会の結果報告及び検討
   一二・二一 幹事会 区内都営バス路線廃止反対の要請について
   一二・二三 要請行動 要望書提出→都知事・交通局長
五二・ 一・二八 幹事・編集委員会 会報作成について打合せ
    二・一九  〃  会報作成の具体化
    二・二六 臨時会 会報原案の検討
    三・ 八 幹事会 地域集会に基づく区長への要望書作成
    三・三一 定例会 要望書提出、公害対策課来年度事業計画、反省会
    五・一三  〃  委嘱式、公害対策課事業説明、意見交換
    六・ 七 視察・臨事会 区内公害現況視察、意見交換、幹事選出
    七・二二 幹事会 幹事長選出、懇談会の運営ほか
    九・ 七 定例会 公害健康被害補償法の地域指定、地域集会ほか
    九・二八 幹事会 地域集会の運営について
   一〇・二〇 臨時会 環境アセスメント制度、地域集会のもち方、

三点比較式におい袋法について

   一〇・二二 地域集会 練馬福祉会館(谷原・貫井周辺)参加者二九名
   一〇・二五  〃  春日町区民館(春日町・北町周辺)参加者二一名
   一一・一一  〃  練馬福祉会館(都道一三四号線予定地)参加者四四名
   一一・一四  〃  石神井農協関町支店(上石神井・関町周辺)参加者三二名
   一二・二〇 臨時会 地域集会の報告・検討、会報作成ほか
五三・ 二・ 七  〃  会報編集、地域集会のまとめ、環境アセスメント条例・公害健康被害補償法について
    二・二八  〃  公害健康被害補償法の地域指定の要望についてほか
    三・一一 環境庁へ要請 公害健康被害補償法の地域指定について(環境庁長官に面会、地元選出国会議員三氏同席)
    三・三一 定例会 区長に意見書提出、公害対策課来年度事業計画反省会
    五・一五  〃  委嘱式、公害対策課事業説明、意見交換
    六・ 五 視察 区内公害現況視察(環七自動車公害・グラハイ・白子川・石神井清掃工場)
    六・二一 定例会 会の運営、幹事選出、環七沿道民家防音工事
    七・一五 幹事会 幹事長選出
    七・一五 公害教室 環境影響評価条例案要綱について(参加者三七名)
    七・二一 臨時会 環境影響評価条例案要綱に対する意見集約
    七・二六 幹事会 同右
    七・三一 意見書提出 環境影響評価条例案要綱に対する意見書→区長・東京都知事
   一一・一〇 臨時会 土曜日の夜の大型貨物車等の通行止について
環境アセスメント条例案について
   一一・三〇 陳情書提出 東京都環境影響評価に関する条例案について→東京都議会議長
   一二・一四 臨時会 幹線道路周辺の生活環境整備法案について、都市計画道路の見直しについて、その他
五四・ 二・ 六  〃  区の公害現況、地下水揚水規制について、会報の編集について、その他
    二・二〇  〃  一年間の活動の集約と会報の作成について
    二・二六  〃  一年間の活動の集約について、その他
    三・ 七 幹事会 意見書のとりまとめ、会報の編集
    三・二九 定例会 区長に意見書提出、公害対策課来年度事業計画について、反省会
    五・三一  〃  委嘱式、自己紹介、課事業説明
    六・ 七 公害教室 窒素酸化物と環境基準およびその問題点
    六・一一 視察 区内公害現況視察(地下鉄工事現場・環七・グラハイ・関越・井頭公園)、会長選出
 
    七・一九 臨時会 副会長互選、五四年度活動計画について
    七・二四  〃  アセス問題、地域指定の問題
    九・ 六 定例会 道路問題について
   一〇・二九 臨時会 自動車公害について
   一一・二六  〃  補助一三四号道路問題について
   一二・ 七 要請書提出 補助一三四号線に関する要請書を区長に提出
   一二・一四 臨時会 要請書について区長と面談、意向を聞く
五五・ 一・三〇  〃  補助一三四号道路問題と会報の作成
    二・ 八 編集委員会 会報編集
    二・二〇  〃 
    二・二五 臨時会 会報作成および区長への意見書の件
    三・二一  〃  区長への意見書とりまとめ
    三・三一 定例会 区長との懇談及び反省会

                                     資料:「練馬区公害対策懇談会のうごき」

公害防止融資制度

四七年度の公害行政として、光化学スモッグ対策と並び特記すべき事業は「練馬区公害防止融資制度」である。

工場は自動車とともに主要な公害発生源であり、その規制は公害対策上極めて重要である。ことに練馬区のように、工場が住宅地域内に混在している場合は、工場から発生するわずかの騒音・汚水・煤煙でも周辺住民の生活環境に与える影響は大きい。しかし、そうした公害の発生を防止するためには、相当の設備の改善が必要であるが、中小企業にとって公害防止設備を完備することはかなり重い負担となる。そこで区内の中小企業を対象として、公害防止対策を助成促進させるため設けられたのがこの融資制度である。前に述べたごとく、初年度の四七年度はおよそ二〇〇〇万円の予算が計上された。また当初融資限度は一人二〇〇万円で、利息の本人負担は二%、貸付け期間は三六か月であった。

この他に東京都の制度として、三五年には「東京都公害防止資金貸付制度」が、四〇年には「東京都公害防止資金融資あっせん制度」が制定され、設備改善、移転、共同処理施設の建設など、大口資金の融資が行なわれていたが、四七年度からは区の融資制度が加わり、一層充実したものとなった。

図表を表示

なお五三年度からは、区の融資制度の限度額が二〇〇万円から三〇〇万円に引き上げられ、貸付期間も三六か月から四八か月に延長された。表6―3は四八年以降の利用状況を示したものである。

環境アセスメントへの対応

五〇年代における公害行政の最大の問題は、環境アセスメント(環境影響事前評価)の問題である。これは、大規模開発や、鉄道・道路・空港などの公共建設事業を実施する際に、あらかじめそれによって引き起こされる環境への影響を予測し、著しい環境破壊が起こらないよう計画をチェックしようとするものである。公害行政の究極の目的は、「公害対策基本法」に謳われているよ

うに、公害の発生を未然に防止することであるが、その具体的な方策については永い間模索段階にあった。この環境アセスメントの手法は、その一つの方策として、五〇年に環境庁が提示したものである。この手法は既にアメリカなど先進諸国の公害行政には大なり小なり導入され実施されているものであり、四九年にはOECDも加盟国に対し、環境の質に大きな影響を与える重要な開発事業を実施する場合には、環境影響の予測評価をし、環境破壊の防止に努めるよう勧告している。

わが国では四七年六月に、当時の大石環境庁長官が、国連人間環境会議の席上、この環境アセスメントの手法を導入する旨を公約して以来、その制度化へ大きく前進した。こうして五〇年一二月には、中央公害対策審議会の環境影響評価制度専門委員会より「環境影響評価制度のあり方について」が答申され、これを受けて環境庁は「環境影響事前評価法案」を作成し、翌五一年春の通常国会へ提出する運びとなった。しかし、政府・自民党や産業界に、アセスメント制度の法制化は時機尚早であるとする議論が強く、国会への提出は見送られた。以後五二年、五三年、五四年と同様の経緯を踏み、現在棚上げ状態にある。

一方東京都では、五二年四月、当時の美濃部都知事が、学識経験者や都民代表から成る「東京都における環境アセスメントを考える委員会」を設置し、都独自の条例化を推進する方針を示した。同委員会は、十数回にわたる検討を重ね、同年一一月一二日に「環境アセスメント制度はいかにあるべきか」について知事に答申した。都ではこれにもとづき条例案の作成に着手し、五三年六月、住民参加と資料の公開を骨子とする条例案要綱を都議会に提出した。

しかしこの条例案は継続審議とされ、その後五四年四月に鈴木都知事が誕生した後も審議が重ねられていたが、五四年一〇月、鈴木知事は美濃部原案を撤回し、案文を修正したうえ一年後に再提案すると表明した。

これに対して、不成立に終った環境アセスメント条例案を都民の手で再び議会へ提案しようという都民有志の運動が起こり、五五年一月二五日、「環境破壊をストップさせるアセスメント条例直接請求運動」が発足した。同会は直ちに署名運動

に入り、四月末までに三二万人を超える署名を得て、住民参加による環境アセスメント条例案(美濃部案)を議会に再提出することになった。しかし、七月八日の都議会で、賛成者少数をもって否決された。

練馬区ではこうした国・都の環境アセスメント制度の動向に対し、公害対策懇談会を中心としてその早期成立を要望している。

<節>
第三節 大気汚染の現況と対策
<本文>
硫黄酸化物による汚染

近年、一部の公害現象については回復の兆しが出てきたと報じられているものの、大概はなお悪化の一途にある。本区の大気汚染について言えば、硫黄酸化物の濃度は低下しているが、窒素酸化物の濃度は逆に上昇しており、集中的な光化学スモッグ発生の危険性は依然として解消されていない。

主要都市における大気汚染物質は、わが国の主力エネルギー源が石炭から石油に移った三七、八年頃を境に、それまで大気汚染の主因であった煤じんが減少し、代って石油の燃焼に伴って発生する硫黄酸化物が増加してきた(『公害白書』四四年版)。

硫黄酸化物のうち二酸化硫黄(SO2)は、主として重油や石炭などの化石燃料中の硫黄分が燃焼することによって発生するもので、気管支炎・喘息など呼吸器系の傷害の原因となっている。有名な四日市の喘息はこの気体によるものである。ある調査によると年間の平均一時間値が〇・〇五ppmを超える地域の慢性気管支炎症状の発生率は、汚染の生じていない地区のおよそ二倍であるといわれている(『公害辞典』)。またこの気体は太陽の紫外線を受けて酸化し三酸化硫黄(SO3無水硫酸)となり、更に空気中の水分と結合して硫酸となる。それが霧状で存在しているものを硫酸ミストという。硫酸ミストは極めて強い刺激性物質である。

画像を表示

図6―5は、東京都庁前と練馬区内における硫黄酸化物の年度平均値の推移を示したものである。

これによれば、硫黄酸化物は、四一、二年をピークとし、それ以後は減少傾向にある。近年は都心も周辺区である板橋や練馬も、いずれも〇・〇三ppm以下に落着いている。その原因としては、四八年より始まった燃料規制の効果や、石油ショックを契機とする首都圏の事業活動の停滞などが考えられている。

窒素酸化物による汚染

窒素酸化物もまた石油・石炭の燃焼に伴って発生する。燃焼時は主として一酸化窒素(NO)として放出され、大気中で酸化して二酸化窒素(NO2)となる。一酸化窒素は刺激性は無いが血液中のヘモグロビンとの結合力は一酸化炭素の一〇〇〇倍であると言われている。一方二酸化窒素は粘膜刺激性をもつ物質で、且つ一酸化窒素と同様血液中のヘモグロビンとよく結合し、それが高ずると血液中の酸素が欠乏して中枢神経の麻痺を生ずる。またこれら窒素酸化物は太陽光線のもとで炭化水素と結合し、光化学オキシダントなど

一層強い被害をもたらす物質を二次的に生成する。

一酸化窒素の濃度は、図6―6に見られるごとく、都庁前の測定では、四六年度に〇・一ppmを超える高濃度を記録したが、以後減少傾向にある。

本区においては、四八年度に区役所前で〇・一一ppm(ザルツマン係数〇・八四の場合に換算)という高濃度を記録した。その後は、四九、五〇年度に急減し、五四年度は〇・〇四八ppmまで減少している。一方石神井図書館における濃度は〇・〇二~〇・〇三ppm程度におさまっており、交通量の多い道路に面した地域と、緑の多い住宅地域とでは、一酸化窒素による汚染度には大きな開きが認められる。本区における窒素酸化物による汚染が、主として自動車排気ガスによるものであることは、この点からも窺える。

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次に二酸化窒素による汚染状況をみてみよう。図6―7に見られるごとく都庁前でのデータによれば、四九、五〇年度は〇・〇四ppmを超える高濃度を

記録したが、五一年度は〇・〇三八ppmまで減少し、五二年度はそのまま横ばい状態となっている。しかし四〇年度の〇・〇一五ppmと比較すると、およそ二・五倍に増加したことになる。

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練馬区内のデータを見ると、区役所前の濃度は、四九年度に〇・〇三四ppmを記録したのち減少に転じ、五一年度には〇・〇二二ppmまで低下した。しかし翌五二年には一挙に二倍近く増加し、不安定な状態を示している。また、石神井図書館での濃度も、五〇年以降〇・〇三ppm前後で横ばいとなっている。

なお二酸化窒素の環境基準は、測定方法の変更に伴い五三年七月に「〇・〇四ppmから〇・〇六ppmまでのゾーン内又はそれ以下であること(環境庁告示第三八号)と改訂された。区役所における測定結果では、環境基準の〇・〇六ppmを超えた日数は、五三年度は四〇日(測定総日数の一一・九%)であったが、五四年度は一二日(同三・四%)に減少している。

オキシダントによる汚染

オキシダント(OX)は、自動車などから排出される窒素酸化物や炭化水素が太陽の紫外線を受け、光化学反応によって二次的に変成されたオゾンなどの酸化性の強い汚染物質のことをいう。この物質は、強い酸化作用があるため、濃度が高くなると目やのどに刺激を与えたり呼吸困難をひきおこしたりする。

またこの物質に侵されて植物が枯れることもある。光化学スモッグは、主としてこれらの光化学オキシダントによって構成されているもので、その緊急報は光化学オキシダントの濃度を指標として出される。現在、都ではオキシダント濃度が〇・一二ppmに達すると注意報を、更に〇・二〇ppmに達すると警報を出すことになっている。

汚染状況は、図6―8によると、都庁前のデータでは、四八年に〇・〇四ppmを超えたが、その後はほぼ〇・〇三ppm前後である。練馬区の区役所前や石神井図書館でのデータはともに五一年以降年々減少傾向にあり、五三、四年は〇・〇二ppmを下回っている。

なお、区内のオキシダント濃度は南風との関連が強く、主として南方の都心及び工業地域に発する一次汚染物質が、移動の過程でオゾンに形成され本区に達するという調査結果が出されている(「公害をなくすために」昭和五〇年五月)。

画像を表示
光化学スモッグの発生

本区における大気汚染による被害で最も深刻なものは、光化学スモッグによる被害である。

光化学スモッグは、四五年七月に杉並の立正高校で集中発生をみて以来、その被害は全都に及び(『現勢資料編』四七三ページ参照)、表6―4にみられるごとく、四五年度の被害者は一万〇〇六四人にのぼった。更に、翌四六年には、警報の発令こそなかったものの、注意報の発令は三三回を数え、被害者数も一

万八二二三人に達した。

図表を表示

ことに練馬区においては顕著な現象がみられた。四五年度の被害届出者数は二〇九人であったが、四六年度は一挙に一万〇三七六人を数え、しかもその数は都全体の五七%を占める結果となった。

翌四七年度は、被害者数については都全体も練馬区も前年度の半数以下であったが、石神井南中の被害に見られるごとくその被害の内容は極めて深刻なものとなった。

なお四八年以後の被害者の届出数は減少傾向にあるが、四九年度、五一年度、五三年度の被害状況にみられるごとく、練馬区の被害者数の都全体数に占める割合は依然として高い。石神井南中の周辺は、窒素酸化物など汚染大気の通路にあたるとも言われており(「毎日新聞」四七年七月二日)、練馬区は光化学スモッグの発生しやすい環境にあると言えよう。

石神井南中学の被害

四七年五月一二日、石神井南中の女生徒八名が授業中に呼吸困難、身体の硬直、頭痛などの症状を訴えて倒れるという事件が発生した。保健所の調査によれば、当日何らかの身体的な異常を感じていた生徒は全校生徒のおよそ六三%にあたる四八五名に達したという。この光化学スモッグによる被害は、その日以降連続的に発生し、五月二七日(土)までに重症二一名の入院者を含む延べ八五〇名に及んだ。たび重なる被害に直面した学校当局は、これ以上被害者を出さないため、二九日から六月一日まで三日間の臨時休校に踏み切った。しかし被害は休校が明けてからも依然としておさまる気配はなかった。表6―5にみられるごとく、石神井南中の保健室で手当を受けた生徒数は六月二日から七月四日までの一か月間で延べ四四四人に達した。

図表を表示

その被害者の症状については、七月の区議会に提出された以下の報告書によってそのおおよそを知ることができる。

 
 
 
 

<資料文 type="2-33i">

  石神井南中学光化学被害実情記録(氏名は略称)

 実情記録<項番>(1)                2年 Y・S(女子)

五月一二日 午後一時頃体育のあと、教室で具合が悪くなった。顔色青白く、唇がふるえ、手足がつめたくなり、つぎに硬直状態になり、歩こうとしても、脱力状態で足がもつれ歩けなかった。学校からの連絡で、かけつけて、家へつれ帰った。家では食欲なく、疲れた様子でよくねた。

五月一三日 朝、頭痛がしたが、登校。
一時から東大三上先生の検査をうけた(血液検査)。
学校で具合悪く、熱三七度五分、三上先生の指示で薬をもらう。

五月一五日 注射のあと手がひどくはれていたむ。冷湿布する。学校欠席。

五月一六日 学校欠席し、個人医院にいき、薬をもらう。

六月 六日 頭痛ひどく欠席。荻窪病院へいく。

六月一三日 東大三上先生に個人的に診察をうけた。<数式 type="munder"/>

六月一九日        〃   (基礎代謝)  

六月二七日        〃 (血液、尿検査)  

     この間、頭痛ひどく、階段のあがりおりに動悸ひどく、疲労もはげしい。

欠席した日 <数式 type="mover"/>六月 一五日、一七日、二〇日、二四日、二八日

       七月 四日

 現在も疲れやすく、学校から帰るとすぐねてしまう。入院しなかった生徒の追跡検査を、都の医師団につよくお願いいたします。

 

 実情記録<項番>(2)                3年 K・F(女子)

五月一二日 多少の目の痛みを感じ二、三度目を洗った。
その後もやはり目はチカチカと痛み、毎日の様に痛かった。

五月二六日 二時間目の体育の持久走をしていて、目が痛み、その上に息苦しくなった。授業を受けていたが、次第に息苦しさを増し、

呼吸は荒く、熱は三七度五分に成り、吐気もした。その後回復はおそく診察の結果午後七時すぎについに入院と決った。病院のベットで落着いたのは何と夜の一一時すぎ。朝食後、何にも食べなかったので体は疲れ切っていた。

五月二七日 病院では一日中検査であった。

五月二八日 一〇時頃回診が一度あっただけ。

五月二九日 午前中は検査、午後になって一応退院であったが、検査の結果は何にも分からず帰った。

五月三〇日 ただ体がだるいので一日中寝ていた。

五月三一日 食欲がないので個人病院で診察をしてもらい食欲の出る薬をもらった。二日分。

六月 一日 多少の食事を取る様になった。

六月 二日 体のだるさがとれず一日中寝ていた。

六月 三日 退院後始めて東大の三上先生に診察してもらった。

六月 四日 寝たり起きたりしていたがやはり頭の痛みと体のだるさは取れない。

六月 五日 始めて学校に行ったけど授業は受けられず早退した。

六月 六日 六日から三日間学校休んだ。

六月 九日 学校に行ったけど一時間授業をすると次の時間は体が疲れ保健室で休んだ。

六月一二日 一二日から一七日まで学校に行ったけど毎日保健室で休んでいた。

六月一九日 良くならないので東大でもう一度診察してもらった。薬七日分もらった。

六月二六日 検査の結果があまり良くなかったのでもう一度検査をした。薬七日分もらった。

六月三〇日 検査の結果、大体回復したがまだ体を休める様にと言われた。

七月 四日 一〇時三〇分頃、手足がしびれ、関節が痛く、呼吸困難になった。回復するまでには三時間位続いた。

七月 六日 また手足がしびれた。

七月 七日 午後一時三〇分頃豊島病院に再検査に行った。着くのと同時に手足がしびれ、関節が痛く、呼吸困難になった。先日と同様三時間位続いた。学校に七時一五分頃帰って来たが気分が悪く保健室で寝ていた。良くなったので七時三〇分自宅に着いた。その後一時間位たって二回目の手足のしびれ、又呼吸困難関節が次第に痛く、自身が失神状態、ついに救急車を呼び再度豊島病院に入院した。

 

 実情記録<項番>(3)                2年 K・O(女子)

四六年   夏より原因不明の関節炎のため、石神井整骨院へ度々通院加療。

八月    心臓痛及呼吸困難のため富士見台四丁目の石原医院へ通院。

八月    新宿の心臓研究所へ、呼吸困難のため精密検査に行く。

九月頃   なお肩・腰の痛みのため武蔵境の桜町鍼灸院へハリに行く。

四七年五月 度々手足のしびれをうったえた。

五月二七日 全身けいれんで学校で倒れ、同日午後、都立豊島病院に入院。二九日退院。

六月中   手足のしびれ、呼吸困難、関節炎のため保健室に休養したのが一〇回。自宅において呼吸困難をうったえたのが夜中二度。

七月三日  全身けいれんのため、発作を起し、保健室にて休養、同日夜一一時呼吸困難となる。

七月四日  学校を休み、自宅療養、手足のしびれ。

七月七日  豊島病院にて検査、帰宅後すぐ午後八時、全身けいれん、呼吸困難のため、救急車で豊島病院に入院。現在加療中。

 以上が最近における娘の病状でございます。一日も早く原因の究明と適せつな診療がなされます様、御配慮下さる様にお願い申し上げます。

 

 実情記録<項番>(4)                3年 Y・O(女子)

五月二六日 二時間目の授業(体育)見学、三時間目にけいれんの発作、身体の硬直、発熱、脈数速まる。頭痛、目の痛みあり、午後九時近くまで保健室に居り、自動車で都立広尾病院に収容される。

五月二七日 広尾病院から外泊を許され午後八時ころ学校にもどり帰宅。

五月二九日 検診のため午前九時広尾病院に行き午後三時ころ退院。

六月 三日 東大病院から医師が検診に来校、検診を受ける。当日再び発作を起す。

六月 八日 在校中発作。

六月一二日  <数式 type="munder"/>東大病院において受診。

六月一九日   

六月二六日 在校中発作。

六月二七日 東大病院において受診。

六月三〇日 在校中発作(午前一〇時、午後一時ころ)。蓑島病院(外科)に収容されたが、同院においても三度目の発作が起きた。同日午後五時三〇分ころ救急車にて豊島病院に収容、入院となり、現在入院加療中。

 

 実情記録<項番>(5)                3年 K・F(女子)

五月二六日 貧血のため倒れ、学校より呼出し、学校に車で迎えに行く。

五月二七日 様子がハッキリしないので医者にて診察を受ける。少し落着いた状態であったが注射。薬をもらい、休養する様に注意を受ける。
 これ以降、連日貧血のためか、顔色悪く、食欲、根気がまったくない。六月三日より又医者の薬をもらってのませはじめてから、多少食欲は出た様な感じである。

六月中旬  再度、学校で倒れた為、呼出しあり、五月二六日の状態と殆ど同様。肩など関節の痛みをうったえる様になったので、部分的にシップする。

 毎日の体調、食欲など様子を見ているが、どの様な方法で治療して良いのか見当もつかない為、途方にくれている。しかし、受験を目の前に控えて何とか早く原因をハッキリして、善後策を考えてほしい。

図表を表示

また被害者は、石神井南中以外の学校や一般区民、練馬区以外の区や市でも発生していた。公害対策課が石神井南中付近の石神井一丁目一帯(世帯数一九四二)で実施したアンケート調査によれば、四月から六月七日までの間に三五七世帯、延六六〇人が被害を受けていることが明らかとなった。表6―6はその被害の調査結果である。一方七月一日までに都内で届け出のあった被害者数は累計で五四七〇名に達したという(「区議会議事速記録」四七年七月)。

心因説問題

これら一連の被害の原因については、事件発生以来都の「東京スモッグ対策研究プロジェクトチーム」の医師数名によって究明作業が続けられていたが、その中間報告が六月五日に発表された。しかし、その内容は光化学スモッグによる症状も認められるが連鎖反応と思われる心因的な症状もみられる、という歯切れの悪いものであったため、かえって被害者の父母の間に、学校や行政に対する疑惑と不安を拡大することになった。

一方これより先、五月二九日に、石神井南中のPTAは、当面の緊急対策として次のような要望書を区と東京都に提出している。

<資料文>

 要望書

今回(五月一二日、二五日、二六日、二七日)光化学スモッグと推定される公害が石神井南中学校をおそい、多数の被害者(入院者を含む)を出した事件は、生徒の教育と健康に責任をもつ私たちPTAにとっても極めて重大な関心事であります。

したがって、私たちは当面の緊急な対策として、つぎのような措置が直ちにとられることを切望し、この旨申し入れる次第です。

           記

一、教室のガラス・カーテンの補修

一、各教室にクーラーを備えつけること(空気清浄装置)

一、衛生室の拡充

一、入院費用の負担(後遺症が出たときは、その費用も含む)

一、医師の学校常駐をおねがいします。

一、原因究明をすみやかにおねがいします。

一、車の規制をおねがいします。

一、光化学スモッグ研究費の国庫補助をおねがいします。

 昭和四七年五月二九日

                                 練馬区立石神井南中学校PTA有志

また六月一二日には、区議会でもこの問題を重視し、「光化学スモッグに関する緊急施策等を要請する意見書」(『現勢資料編』四九八ページ参照)を関係機関に提出し、次のような一四項目にわたる要請をした。

<資料文 type="2-29">

  1. <項番>(1) 緊急時における救急体制の早期確立。
  2. <項番>(2) 光化学スモッグ多発区の測定体制の強化(人員と機材)。
  3. <項番>(3) アルデヒド類の測定できる測定器の開発および各校に簡便な測定器の配備。
  4. <項番>(4) 被害生徒・住民の後遺症を含む医療費の全額公費負担および療養体制の確立。
  5. <項番>(5) 防災方法の研究と周知。
  6. <項番>(6) 防災対策費の負担。
    1. イ 被害校を含む全小学校・中学校の防止施設。
    2. ロ 測定器の設置。
    3. ハ 測定車の配備。
  7. <項番>(7) 自動車の交通規制の大幅な強化と範囲の拡大。
  8. <項番>(8) 公害発生工場等の操業の規制。
  9. <項番>(9) 石油混入物、特に芳香族類の実態調査と規制強化。
  10. <項番>(10) 自動車全種にアフターバーナーの取り付け義務制。
  11. <項番>(11) 無公害車の早期開発。
  12. <項番>(12) 光化学スモッグ災害を災害救助法に基づく災害として認定。
  13. <項番>(13) 光化学スモッグ注意報発令基準の引き下げ。
  14. <項番>(14) 被害を受けやすい練馬区の地理上、気象上の特異性の早期解明。

しかし、これらの要望はなかなか現実のものとはならなかった。

やがて、被害の恒常的な発生を防止する有効な対策も講じられないまま、七月の定例区議会を迎えた。そこでは、当然のことながら、この光化学スモッグ対策に論議が集中し、石神井南中の災害に関しては、汚染された現場に被害者を長時間にわたり酸素吸入器も用意せず留めたこと、救急車を呼ばずパトカーで病院に運んだこと、教育委員会はじめ学校当局者が積極的に被害の実態を把握しようとせず、むしろ他の教室や学校に被害のあったことを知らせない「秘密主義」的な傾向が見られたことなど、現場での対応に問題のあったことが指摘された。

被害者の父母も「光化学被害者親の会」を結成し、この区議会に重ねて陳情書を提出している。

こうした折、七月二一日、一連の被害の最終的な臨床所見が、半蔵門の東条会館で発表された。その内容は、大気汚染物質の影響の可能性は否定できないが、頭痛・倦怠感などの全身的症状は、度重なる事故の発生による不安、緊張も関連して呼吸調節障害が生じたことによる、という主旨のものであった。次の文書は、その時配布された報告書である。

 〔石神井南中学の事故例について〕

<資料文>

五月十二日以来、二十五日、二十六日、二十七日と相次いで発生した事故について、臨床医学的にその病態の解明にあたってきたが、その中間結果はすでに六月五日に報告したとおりである。

六月二日学校再開後は、入院した生徒のうち、男子については顕著な自覚的訴えはなかったが、女子の多くは、全身的訴えを反復していた。これらのその後の経過をみるため、七月七日に都立豊島病院において入院した生徒を中心に検診を実施したが、その結果の概要は次のとおりである。

一 耳鼻咽喉科所見

二 眼科的所見

三 内科的所見

臨床経過のまとめ

大部分の症例は運動の後、粘膜刺激症状、咳、息切れおよび頭痛、倦怠感、不快感などの全身症状を呈し、臨床的検査の結果でも、上記のような症状、徴候が認められた。それらの臨床的症状、徴候の多くは恢復している。

眼などの粘膜刺戟症状等の発現に関しては、大気汚染物質の影響の可能性は否定できないが、六月二日以後の訴えは主として頭痛倦怠感などの全身的症状が中心であり、これは呼吸機能検査結果によれば、肺胞におけるガス交換障害の認められないことなどから、度重なる事故の発生による不安、緊張も関連して、呼吸調節障害に起因した血液の酸、塩基調節異常が生じ、これが全身症状をもたらしたものではないかと考えられる。

従ってこれらの病態生理学的変化の十分な理解のうえに立ち、今後の指導、予防、治療を考えてゆかなければならない。

この発表は「心因」という表現は避けているものの、その実は六月五日発表の「心因説」とほぼ同じ見解であったため、被害者の父母をはじめ多くの世論の反発を買うことになった。その結果翌四八年三月五日、都知事は都議会において「臨床班の結論は、第一次的には何らかの刺激物質があったが、全身症状などの被害は第二次的な心因によるといっているのだが、結果的にすべての被害が心因のように受けとられ誤解をまねいた。都としては心因説をとらない」(「毎日新聞」四八年三月六日朝刊)と答弁し、心因説を否定するにいたった。

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大気汚染防止対策

大気汚染防止対策としての第一歩は汚染の実態を正確に把握することにある。練馬区における大気汚染の測定は、四四年九月に区役所庁舎の屋上で始まった。最初は観測器材もまだ不備であったため、風向・風速・温度・湿度など通常の気象観測の段階に留まった。四六年には公害測定室が設けられ、四七年八月にはその年の五月から激しさを増した光化学スモッグに対処するため、オキシダントの測定が区役所と石神井南中で始まった。四八年からは更に硫黄酸化物・窒素酸化物・浮遊粒子状物質の測定が加わり、区役所と石神井図書館における観測体勢が整った。その後徐々に測定地点と測定内容が拡大充実され、現在は表6―7に見られるように区内には都の測定室三か所と、区の測定室三か所が設けられている。また五〇年から自動測定機も導入されている。

大気汚染防止対策の具体的な方策としては、自動車や工場などからの排出量を規制する「排出規制」と、使用される重油などに含まれている硫黄酸化物の量を規制する「燃料規制」とがある。「排出規制」とは、煙突などの排出口から大気中に出される二酸化硫黄の濃度を規制するものであり、排出口が地上から高ければそれだけ高濃度の二酸化硫黄を排出してよいことになっている。その排出基準は年々強化されているが、それでも、工場又は事業場が集合している地域では、排出濃度基準のみによって大気の環境基準を確保することが困難であるため、国はこうした地域を総量規制地域に指定し、一定規模以上の特定工場などに対しては総量規制基準を、またそれ未満の工場などに対しては、燃料の使用基準を定めることになった。

総量規制方式は、四九年六月に「大気汚染防止法」が改正された際に導入されたもので、汚染物質の濃度ばかりでなく、排出量をも考慮に入れて、汚染物質の絶対量を規制してゆこうとする方式である。

本区の公害対策課では、基準に従い三〇〇l/日以上の重油燃焼ボイラーをもつ工場や指定作業場を対象として、「燃料基準」及び「排出基準」に合致しているか否か、立ちいり検査を行なっている。

被害者の救済

大気汚染による被害としては、呼吸器系の疾病が多い。そのうち慢性気管支炎・気管支ぜん息・ぜん息性気管支炎・肺気しゅについては、四七年に都の「大気汚染に係る健康障害者に対する医療費の助成に関す

る条例」が制定され、一八歳未満の都民に対して医療費面の救済措置がとられることになった。図6―9はその認定状況を示したものである。

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本区における認定者数は、毎年増加しており、四八年以降、ほぼ年平均六八人ずつ増えていることになる。

ところで、二三区の総認定数は四九年度に一万二三九一人に達したが、五〇年度からは急減している。これは、四八年一〇月に「公害健康被害補償法」が制定されたことに伴い、翌四九年と五〇年にかけて、二三区のうち練馬区・中野区・杉並区・世田谷区を除く一九区が補償の対象地域に指定され(五四年一二月現在二万四九一六人)、その結果条例の指定を受ける者が減少したことによる。したがってこれは被害者の実数が減少したことを意味しない。また、本区の場合も、この数値はあくまでも一八歳未満の者を対象としたものであるから、被害者の実数がこれをはるかに超えていることは容易に予想されるところである。

「公害健康被害補償法」は、公害による健康被害者の迅速かつ公正な保護を図ることを目的として、四八年に制定され、翌四九年九月一日から施行されたもので、これ以前における被害者の救済は、まず地方公共団体によって医療を中心とした救済が行なわれていた。水俣病(三三年より)・四日市ぜん息(四〇年より)・新潟水俣病(四〇年より)に対する医療補償はその

早い例である。続いて国においても四四年に「公害に係る健康被害の救済に関する特別措置法」が制定され、事業者からの寄附による納付金と公費を財源として医療費などの給付を行なうことになった。しかしこの制度は、被害者の生活保障についての措置が講じられていなかったため、被害者や地方公共団体から総合的な救済措置を講ずるよう強く要請されていた。折しも四七年には、「大気汚染防止法」と「水質汚濁防止法」の一部が改正され、事業者の無過失責任が規定されることになり、被害者救済に向けて大きく一歩が踏み出された。「公害健康被害補償法」は、こうした背景のもとに制定されたのである。

しかし、現在、二三区中では練馬区・中野区・杉並区・世田谷区の四区だけがこの補償法による認定を受けていない。その原因は補償法の指定基準が、主として硫黄酸化物を汚染指標としているためである。しかし四区はともに光化学スモッグの多発地帯であり、その原因物質である窒素酸化物の濃度は都心区並に高く、しかも年々増加しつつある。現在の都市における大気汚染が複合汚染であることを考えると、窒素酸化物などを汚染指標からはずしていることには問題があるとして、本区では公害対策懇談会が中心となり、補償法の地域指定を関係当局に要請している(『現勢資料編』五〇一ページ参照)。

<節>
第四節 騒音・振動の現況と対策
<本文>
環境騒音・振動の現況

本区における公害に関する苦情・陳情の中で最も多いのは騒音に関するものである。その意味では、本区の公害の典型であるといえよう。その苦情・陳情数を騒音の発生源別に見ると表6―8に見られるごとく工場・指定作業場・建設作業場に係るものが全体の五〇%以上を占めている。

しかし、ここに集計された苦情・陳情数は、あくまでも、公害対策課で把握しえたものに限るため、公害の実態を正確に反映しているとは言えない。例えば、交通機関関係の騒音に関する苦情は一件も寄せられていないが、具体的な環境騒音の

実態調査によれば、本区における騒音源の元凶はむしろ自動車であることがわかる。

図表を表示 図表を表示

本区における騒音・振動に関する実態調査は、公害対策課が発足した翌年の四五年から行なわれている。まず四五年には、夜間の騒音について調査が行なわれ、表6―9に見られるように、住居地域で九三ホン、住居専用地域で八九ホンという高騒音を記録した。また、平均値でも夜間の規制基準を住居地域で一〇・五ホン、住居専用地域で一二・五ホンそれぞれ

オーバーしていた。

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四六年度は、住居・商業・準工業などの地域が隣接し合っている中村橋駅付近で調査が行なわれた。

四八年度は、都の公害研究所から環境騒音の調査依頼があったため、その機会に、今までより調査地点をふやし、昼間一八八地点、夜間一一地点で調査が行なわれた。

五〇年以降は、豊玉・中村地区四八地点において同一地点の経年調査が続けられている。表6―<数2>10はその調査結果の経年変化を、また表6―<数2>11は五四年度の調査結果を示したものである。

なお、その調査結果によると、夕方(一九時~二三時)の中央値が六〇ホンを超えた地点は、四八の調査地点のうち、五二年度では一六地点、五三年度では一三地点、五四年度では一五地点となっている。五四年度では、このうち半数の八地点が第一・二種住居専用地域と住居地域によって占められている。六〇ホンを超える騒音下では、会話が妨害され、怒りっぽくなり、気が散って仕事に身が入らなくなるなどの情緒不安定をもたらすと言われており、まして夜間であれば安眠を妨げていることは明らかである。

また、その現象騒音の発生源についてみると、自動車の通行に関するものが圧倒的に多く、五四年度の調査では、環境基準値を超過

図表を表示

図表を表示 した地点での支配的音源のうち昼間では七三%が、夕方では八二%が自動車音の影響によるものであった。ちなみに表6―<数2>11によれば、自動車騒音がなくなれば環境騒音は八ホン程度低減されるものと予想されている。

自動車騒音による被害

練馬区には、目白通り・オリンピック道路・関越自動車道路・環状七号線・川越街道・青梅街道・新青梅街道などの幹線道路が貫通しているが、その夥しい交通量に伴って発生する排気ガス

・騒音・振動などによる被害は、本区における最も深刻な問題となっている。

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ことに環七沿線の騒音は、四七年の調査(小竹町)によると、最低の深夜でも七〇ホン以上を記録しており、道路が開通した三九年以来、被害を訴える声は絶えることがない。

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赤ん坊は眠りが浅く不機嫌である。子供達は夏でも騒音のため昼間から窓を閉め切った部屋ですごしている。テレビは振動のため座ぶとんを敷かなければよく映らない。電話もよく聞きとれないため、自然と声が大きくなり、家庭内がトゲトゲしくなっている。壁は落ち、タイルは割れる。庭木が枯れる。花や実をつけない奇形樹が目につく。泊り客はとても眠れないため、二度と来ようとしない。等々……(「公害をなくすために」四八年版)。

また四七年一二月に練馬保健所が実施したアンケートによる被害調査によると、沿道住民の被害率は、五〇m以上奥の後背地住民の被害率の一〇~五〇倍に達していることが明らかになった(「公害をなくすために」四八年版)。

このような、生活全体が破壊されつつある状況下におかれた沿線住民は、四七年七月に「環七を考える会」を結成し、区・都・国に対し抜本的な自

動車公害対策を要求する住民運動を開始した。区の行政においても、こうした状況に対処するため、同年公害対策課内に自動車公害部会を設置し、その対策に前向きに取り組むことになった。

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その後区では毎年独自の自動車公害調査を実施しているが、五三年五月~六月には杉並・中野・世田谷・練馬の四区が共同して環七の自動車公害実態調査を実施した。図6―<数2>10・表6―<数2>12は、本区豊玉中二一八地点における調査結果である。

表6―<数2>12にみられるように、騒音は「公害対策基本法」の規定する環境基準を朝は一八~二〇ホン、昼は一二ホン、夕方は一四~一五ホン、夜は一七ホンそれぞれ上回っており、「騒音規制法」の規定する要請基準については、昼と夕方は基準を満しているものの、住民の生活に最も影響を与える朝と夜は基準を超えている。しかも、図6―<数2>10に見られるごとく、騒音は、早朝の五~七時頃が最も厳しくなっている。

自動車騒音対策

自動車騒音を低減させる基本的な方策は、交通量を減少させることである。環七の交通量は許容量の一〇倍以上であるという報告(「公害をなくすために」四九年版)も出されているように、文明の利器を公害の元凶にしてしまったのはこの過剰さによる。

前に述べたように、四七年に行なわれた環七の騒音実態調査の結果は、深夜でも七〇ホンを超えるものであった。この騒音レベルは、「騒音規制法」の定める要請基準(知事が公安委員会に対して交通規制を要請できる基準)を一〇ホンも超えるものであったため、区は東京都公安委員会に対し、交通規制を要請した。これを受けて警視庁では、四八年三月末か

ら、いわゆる環七方式として、夜間(午前〇時~午前五時)に限り、大型車を中央車線に寄せ、外側車線に小型車を走行させる車線制限と、走行速度を全車五〇<数2>km/時にする速度制限とを実施した。この結果若干のレベルダウンをもたらすことができたが、要請基準以下におさえるまでにはいたらなかった。

そこで同年七月に区は、二四時間にわたる交通総量の削減、夜間(二二時から六時)における大型車の通行禁止、全線バス専用レーンの設置などを含む意見書を東京都に提出した(『現勢資料編』五〇〇ページ参照)。

また区は、これらの陳情・請願活動を続ける一方、四九年には環七問題プロジェクトチームを設置し、被害者住民にルームクーラーを貸しつけるなど、独自の被害者救済措置を講ずることになった。

その後、都においても民家に対する防音工事の助成や学校の教室に防音工事を施すなどの対策がたてられている。また、五三年一〇月からは、土曜日の夜一〇時から翌日曜日朝七時まで大型貨物車の環七内側への乗り入れを規制する措置も取られるようになった。

<節>
第五節 水質汚濁の現況と対策
<本文>
河川の汚濁状況

練馬区内を流れる石神井川・田柄川・白子川・貫井川などの主要河川が、魚の棲息し得ない下水道と化して既に久しい。一級河川である石神井川と白子川については、五一年に国が指定した「生活環境による環境基準」によって、表6―<数2>13に示した類型のうち、最も水質の悪いE類型以下に評価され、五年以内のうちに可及的速やかにこのE基準を達成するという目標が示された。いつ頃からこのように汚濁がひどくなったのか明らかでないが、記録によれば、白子川流域で稲作が行なわれなくなったのは、昭和四二、三年頃であるといわれているから(『練馬農協史』)、少なくともその頃までは、白子川の水はまだ農業用水として利用できたのであろう。

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また石神井川は、四二年時点の東京都衛生局の水質検査結果によれば、隅田川口における生物化学的酸素要求量(BOD)は、既に二七・七ppmという魚の生息できる限界(五ppm)をはるかに超える汚濁状況にあった。表6―<数2>14は、石神井川の汚濁状況を上流の小平市から隅田川口までの間の八地点で調査したものであるが、見られるように、汚濁濃度は下流ほど希薄になっている。これは、石神井川の水が主として生活排水や雨水が流れ込んだものであるため、下流ほど流量が多くなり希釈されるからである。同様のことは、図6―<数2>11に示した溜淵・栗原両地点の流量の差(下流の栗原の方が流量が多い)によっても確認できる。このことから推測すると、四二年頃の区内の河川の水質は、白子川ばかりでなく、石神井川も既に相当汚れていたものと思われる。

その後の石神井川の汚濁状況については、濃度が回復した兆は全く認められないが、溜淵橋(石神井川が区内に流入する付近)と栗原橋(板橋区へ流出する付近)における流量及びBOD負荷量の経年変化を示した図6―<数2>11に見られるように、流量が年々減少しているため、汚濁負荷量(河川に排出される汚濁物質の総量。一般的には、汚濁負荷量=排水量×水質で求められている)も減少傾向にある。特に注目される点は、溜淵・栗原両地点の流量の差がわずかながら縮まっていることと、五〇年頃より両地点の汚濁負荷量にほとんど差がなくなってきていることである。これは、溜淵橋から栗原橋に至る間において、つまり練馬区域内において石神井川に排出される汚水が大幅に減少していることを示している。その原因は、豊玉・中村・貫井・練馬など石神井川流域の下水道建設が四八、九年頃から急速に進んだことによる(上下水道の章、及び『現勢資料編』

五八二ページ参照)ものと推測される。

ところが、下水道の整備は河川の汚濁を防止する上で欠くことのできない施策ではあるが、石神井川のように他に水源を持たない河川の場合は、下水道が完備されることによって、同時に水の供給も絶たれ、川自体の死滅をまねくことになりかねないという心配が生じてきた。そこで区は、こうした事態を救う方策として、下水道を分流方式にして降雨時に雨水を川に放流する方法、他の水源から水を導入する方法、河川の上流に下水処理場を設置し浄化した下水を再び川にもどす方法などを早急に講ずるよう都に請求している(「きれいな石神井川の確保についての要望書」四九年。『現勢資料編』五〇〇ページ参照)。しかし、これらの方策は、どの一つをとっても膨大な財源が必要なため具体的な実現の見通しは立てられていない。

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図6―<数2>12は、石神井川における浮遊物質量(SS)・溶存酸素量(DO)・の経年変化を示したものである。SSは水中に浮いている不溶性の物質で、川底に沈澱したり魚介類に付着したりする。「生活環境による環境基準」のE類型では、ゴミ等の浮遊物が認められないことと規定されているが、コイやフナ等の魚介類が棲息し得る濃度は二五ppm以下であるとされている。DOは水中に溶けている酸素の量のことである。「生活環境による環境基準」のE類型では二ppm以上と規定されているが、魚介類が生存するためには最低五ppmが必要であるという。図6―<数2>12に見られるように、SS・DOともに基準よりはるかに悪い。しかし経年変化をみると、SSは濃度・負荷量とも減少傾向にあり、DOも、五三年度のデーターを除外すれば(五三年度は一月二五日、五月二四日、八月二三日の三回分の平均であるため年間平均値としては不適当)一応回復に向かっているとみなし得る。

次に白子川・貫井川・田柄川の水質をBODについてみてみよう。図6―<数2>13に見られるように、三河川とも濃度は四〇ppmを超えている。ことに貫井川は一〇〇ppmを超えており、完全に下水道と化している。貫井川と田柄川は流量も少なく、現在は暗渠化され、自然河川としての機能を果していない。

白子川のBOD濃度は、石神井川とは対照的で、明らかに悪化しつつある。また流量と負荷量も増加している。その理由

としては、白子川流域の下水道建設がほとんど進んでいないこと、人口増に伴い白子川に流れ込む生活排水量が増えていることなどが考えられる。水質の回復には下水道の早急な整備が不可欠である。

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池水の汚濁状況

練馬区内には三宝寺池・石神井池・富士見池・井頭池という比較的大きな四つの湧水池がある。別名弁天池とも呼ばれる井頭池は白子川の水源池でもあり、富士見池(不二見池)・三宝寺池・石神井池の水は石神井川に流入している。

これらの池は、以前は清浄な湧水を満々と湛えていたが、近年は生活排水等の流入によって汚れが目立ってきている。図

6―<数2>14は三宝寺池・石神井池・富士見池の水質をBODについて経年変化をみたものである。これによると三池とも魚介類の生存条件である五ppmを越える汚濁を示している。ことに近年は、日によっては二〇ppm前後に達することもある。

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このように池水の汚濁が近年進行しつつあるのも、河川の場合と同様生活排水を処理する下水道建設が、三池の位置する区西部にはまだ及んでいないことによると思われる。

水質汚濁防止対策

水質汚濁を防止する抜本的対策としては下水道の普及以外に有効な手だてはないといわれている。しかし、下水道が完備するまで現状を放置することは、流域の生活環境を一層悪化させることにつなが

る。そこで区は、都に対し早急に下水道を完備するよう請願をくりかえすと同時に、区の「基本構想」に「河川を浄化して清流をよみがえらせる」ことを行政目標として明文化するなど、積極的な姿勢をみせている。

区内河川の汚濁は、主として家庭排水によるものであるが、工場からの排水も無視できないものがある。ことに、「公害対策基本法」で「人の健康の保護に関する環境基準」として規定している、シアン、カドミウム、ヒ素などの重金属物質は、工場排水に含まれているものである。区内河川では、流域に工場の多い貫井川や白子川においてこれらの物質が検出されており、区では、これらの物質を排出する可能性のある工場に対し、重点的に立入り調査を実施し指導を行なっている。

<節>
第六節 緑の実態
<本文>
宅地開発から緑の保護へ

練馬区の自然景観は、戦後三〇数年の間に著しく変貌した。緑豊かなかつての武蔵野の田園風景は、わずかに残る屋敷林にその面影を偲ぶことができるだけである。表6―<数2>15は固定資産税評価面積の推移を示したものであるが、見られるように、農地・山林・原野・池沼などの緑被地に相当する面積は、昭和二六年には区面積の六四・四%(三〇二六・六三<数2>ha)を占めていたが、五四年にはわずかに一六・一%(七五五・五二<数2>ha)を残すのみとなった。これとは反対に、宅地面積は、二六年には区面積の一三・六%(六四〇・七一<数2>ha)程度であったが、四二年には農地(田畑)面積を上回り、五四年には区面積の五四・三%(二五五二・二七<数2>ha)に達している。この数値からも窺えるように、練馬区はこの三〇年程の間に農村地帯から住宅地帯へ大きく変身をとげた。

特に三〇年代の変化が著しい。農地の転用(農地から他の用途地目への変更)状況を示した図6―<数2>15によれば、二二年から五四年までに転用された農地は、およそ一三九三・七五<数2>haにのぼるが、その約半数の七一九・三一<数2>haが三〇年から三九年までの一〇年間になくなったことになる。これは、三〇年四月に実施された用途地域の変更によって、区内の緑地地域のう

ち四六三・三二<数2>ha一四〇万四〇〇〇坪)が解除をうけ住居地域へ変更されたことにより、誘発されたものである。

図表を表示

ところで、このような三〇年代の急激な宅地開発とそれにともなう緑地の減少は、練馬区だけの特別の現象ではなく、経済の高度成長にともなう人口と産業の過度に集中した、首都圏や全国の主要産業都市に共通してみられる現象であった。しかもその開発の多くは産業優先の無秩序なものであったために、前に述べたごとく一方において公害など深刻で多様な社会問題を生み落す結果となった。自然の大切さが見直され緑の保護が行政の重要課題として採り上げられるようになったのは、その公害対策の一環としてであった。四五年一二月の第六四国会(公害国会)において、「公害対策基本法」(昭和四二年八月制定)が全面的に改正された際、次のように自然環境保護の姿勢が明確に規定された。

<資料文>

練馬区においても、このような社会の変化や区民の要望に従い、四五年頃から緑の保護を区政の基本方針とするようになり、五二年には緑の憲章とも言うべき「みどりを保護し回復する条例」(以下「みどりの条例」と略す)も制定された。またこの「みどりの条例」の制定に先だち、四九年には樹木・樹林の調査を主体とする緑の実態調査が行なわれ(日本EDP株式会社へ委託)、その調査結果は五〇年二月に『練馬区緑の現況調査報告書』として公表されている。またこの調査結果をふまえた

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『練馬区緑化計画策定のための調査研究報告書』(首都圏総合計画研究所へ委託)が、同年一二月にまとめられた。

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「みどりの条例」制定後の実態調査としては、『練馬区緑の実態調査報告書』(日本林業技術協会に委託)が五三年一一月に報告されており、五五年二月には、『練馬の樹林における自然環境調査報告書Ⅰ』(練馬区土木部公園緑地課)がまとめられている。

以下、これらの調査報告書に基づき、区内の緑の現況を概観してみることにする。

樹木・樹林の現況

練馬区内のいわゆる緑被地面積は、表6―<数2>16に見られるごとく、五二年度現在一六〇七・六<数2>ha緑被率=区総面積に占める緑被地の割合は三四・二%)あるとされている。その内訳をみると、畑地等の草地が八六八・二<数2>ha、緑の典型である樹木被覆地が七三九・四<数2>haとなっている。しかし、樹木被覆地のうち公園緑地等の公共地の占める割合は僅か一〇・八%にすぎず、その大半が低層住宅地域(三六八・六<数2>ha)畑地(一三〇・六<数2>ha)・山林(九三・八<数2>ha)等の私有地に依存しているため、その存続は極めて困難な状態にある。

樹木数及び樹種についてみると、四九年度の調査によれば、表6―<数2>17に見られるごとく練馬区には直径三〇㎝以上の樹木が二万〇一〇六本あった。その内容を用途別にみると、屋敷林など一般住宅地内の樹林や独立樹

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が全体の八六・九%を占めており、樹種別では武蔵野の代表的な在来樹種であるケヤキが五二一八本で最も多く、全体の二六%を占めている。他の市区の樹木構成比との比較でも、ケヤキ・シラカシの割合が多く、武蔵野らしい特徴が色濃く認められる。

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また直径一二〇㎝以上の巨木も四九年度現在一二本あったが、表6―<数2>18に見られるようにそのうち七本はケヤキである。中でも白山神社のケヤキは直径二九〇㎝もあり、樹齢は七〇〇年以上(推定)に及ぶ巨木中の巨木で、昭和一五年に国の天然記念物に指定されている。

次に区内の地域的な樹木数についてみると、図6―<数2>16~<数2>17に見られるように、単位面積(一〇<数2>ha)あたりの樹木数では西南部が多く、人口一〇〇〇人あたりの樹木数では西北部が多くなっている。他の市区と比較してみると、本区の単位面積(一km2)あたりの樹木数は四二八本で文京区の六六二本や田無市の四九二本より少ない

が、公園等の上位二〇位の樹林帯を除くと単位面積あたりの樹木数は練馬区の方が多く、練馬区の三六七本に対し、文京区が二八〇本、田無市が二五四本となっている。これは本区の一般市街中の緑の量が比較的多いことを示している。なお市街中のみどりの代表である生垣は、四九年度の調査によれば長さ一〇m以上の生垣が五七二八件あった。またそのゾーン別分布状況では、東大泉(六〇一件)・関町(五八四件)・桜台(四六三件)など比較的早くに開発された西武新宿・池袋両沿線が多くなっている。

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緑被地の現況

次に、樹木・樹林・畑地を含む全体的な緑被地の現況をみてみよう。

三〇年代に練馬区を襲った宅地開発の波は、四〇年代の末になって漸く落着いてきた。航空写真による緑被地調査(表6―<数2>16)によれば、四六年から四九年までの三年間に失われた緑被地は一九八・五<数2>haであったが、次の五二年までの

三年間に失われた緑被地は八〇・五<数2>haと前三年間の半分以下におさまっている。

その原因としては、四八年の石油ショック以後の地価の高騰や五〇年から導入された総合課税制などによって、土地の購入が困難になったこと、農家が土地を手離さなくなってきたことなどが考えられる。

しかし、四六年から五二年にかけて、区全体の緑被率は四六年四〇・一%、四九年三五・九%、五二年三四・二%と減少し続けており、更に町丁別緑被状況を見ると図6―<数2>18に示したごとく緑の後退は区の全域で進行し、四六年度に五九あった緑被率四〇%以上の町丁数が五二年度までに三〇に減り、他方二〇%未満の町丁数が二四から四四に増加している。ことに、北町一丁目・栄町・豊玉北一丁目・同五丁目・中村北一丁目などのような、一〇%に満たない都心区並の町丁が増えている点は看過できない。

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次に、土地利用別の緑被状況をみてみよう。表6―<数2>16にみられるごとく、ベッドタウン練馬区の緑の主要供給源は、畑地と低層住宅地である。四六年時点では、畑地内の緑被地は七三四<数2>haで総緑被面積の三八・九%を、低層宅地内の緑被地は七七九・九<数2>haで総緑被面積の四一・三%をそれぞれ占めていた。しかし、五二年までに畑地内の緑被地は六二四<数2>ha一五%減)に、低層住宅地内

の緑被地は五〇四・四<数2>ha三五・三%減)にそれぞれ減少している。この間における畑地自体の減少率は一八%程度であるから、畑地内の緑被地の減少は畑地の減少に相応するものであった。一方、低層宅地の面積も、四九年から五二年にかけておよそ九九・七七<数2>ha減少している。ところが、『練馬区緑の実態調査報告書』の説明によれば、この低層宅地面積の減少分にはグラントハイツ跡地内の使用済施設住宅のとりこわし分約一六三<数2>haが含まれているため、五二年の低層宅地面積は実際には六三<数2>ha程増加したことになるという。低層宅地面積は増加しているにもかかわらず、その内の緑被地が三五%も減少したということは、宅地開発が次第に敷地の狭少なものになってきたことを物語るものであり、この傾向は、住宅の建て替えや市街化の進展に伴い、今後も一層顕著になると考えられている。

樹林における自然環境

以上のように、年々減少しつつある緑の実態を生態的に把握するために、五三年度から樹林地内の自然環境の調査・研究が進められてきたが、その調査結果が、五五年二月に『練馬の樹林における自然環境調査報告書Ⅰ』として公表された。

この調査は、対象地として、カタクリの自生地である清水山憩いの森のコナラ林、環状七号線に面した氷川神社の境内林、早宮三丁目の内田市五郎氏宅の屋敷林の三地点を選定し、そこにおける土壌・植生・昆虫・土壌動物について調査したものであるが、その調査の評価によれば、三樹林地の生態系は、現段階では一応健全な状態にあると報告されている。

<節>
第七節 風致地区制度と緑地地域制度
<本文>
風致地区制度

身の回りの自然環境が保護育成されるべきものとして人々に強く認識されるようになったのは、前節でも述べたごとく四〇年代に入ってからのことである。それ以前は、自然の保護よりもむしろ自然を積極的に開発して人々の生活の用に役立てることが、一般の要求でもあり、行政の重要な任務でもあった。

しかし、四〇年代以前に自然保護の施策が全く講じられなかったわけではない。例えば風致地区制度と緑地地域制度は、自然保護を直接の目的とした制度ではなかったが、その練馬区の戦後の開発に与えた影響は無視できないものがある。

風致地区制度は、大正八年の「旧都市計画法」の発足以来、用途地域制度とともに都市計画の主流をなしてきたものであり、都市における良好な自然環境の維持保存がその目的であった。風致地区内においては、工作物の新築、改築、増築もしくは除却、土地の形質の変更、木竹の伐採など風致の維持に影響を及ぼすおそれのある行為は、知事が建設大臣の認可を受けて定める規則により禁止し又は制限することができるとされ、戦前においては厳しく運用されていた。

しかし、太平洋戦争末期に施行された戦時特令によって、都市計画上の規制は廃止され、風致地区制度も一旦効力を失うことになった。終戦後まもなくしてこれらの制度は復活されたものの(「東京都風致地区規程」昭和二二年五月二日都令第五一号)、風致地区は公園緑地のごとく強い公用制限が加えられないという限界があったため、戦後期の混乱に乗じた無秩序な開発の進行に有効に対処することはできなかった。そこでその後は、規制力を強化するために風致地区内に都市計画公園が設定されるようになった。

練馬区域内においては、昭和五年一〇月二七日に、杉並区の善福寺池に隣接する石神井・立野町地区(六〇・三九<数2>ha)と、三宝寺池を中心とする上石神井二丁目・下石神井一~二丁目・南田中町地区(九三・九三<数2>ha)が、また昭和八年一月二四日には、八坂神社・氷川神社などの神社境内林の点在する大泉学園町・東大泉町・北大泉町・土支田町地区(三五九・五九<数2>ha)がそれぞれ指定を受けている(「練馬区区勢概要」)。

緑地地域制度

優れた現況の風致を開発との調和を図りつつ維持保存しようとする風致地区制度に対して、市街地を緑地帯で囲繞することによって、その無制限な拡大やスプロール化を積極的に防止しようとする緑地地域制度が戦後制定された。

この制度は、都市における戦災復興を円滑に推進させるため、二一年に制定された「特別都市計画法」によって設けられ

た制度である。二三年八月一五日に、まず区部を対象として一万四〇一五・七〇<数2>ha建設省告示一七号、昭和二三年七月二六日)が指定され、練馬区内でも区面積のおよそ六八・六%(「区議会議事速記録」昭和二四年)が指定され、その後の区の発展に大きな影響をもたらすことになった。

東京における市街地の拡大とスプロール化は、戦前から既に重大な都市問題となっていたため、戦災復興にあたってそれを未然に防止しようとして導入されたのが緑地地域制度である。特別都市計画法の母体である「帝都復興計画概要()」には、 <資料文>

とあり、またその具体的な方策として、 <資料文> と述べられている。緑地地域とは、この都市と都市の間に確保される農業地域のことで、この地域内の建築行為は、建ぺい率一〇%未満のものに限るというような厳しい規制を受けることになった。

現時点からすれば、都市計画としては極めて斬新で、その完全実施がなされ得なかったことは惜しまれるが、しかし当時としては、地域の発展を望む住民にしてみれば受け入れ難いものであった。そのため、指定段階から抵抗があり(『現勢資料編』五六三ページ参照)、更に指定されても早々に変更を余儀なくされた。練馬区でも、既に二四年一一月の区議会において、緑地及び用途地域の変更のことが論議され、次のような請願書が都知事宛に提出されている。

<資料文>

    意見書・請願書

 主意

練馬区内に設定せられたる緑地及用途地域を左記事項により速かに一部変更賜りたい。

事由

当練馬区の管轄区域は古来武蔵野の一部として農業地でありましたが、近隣都市の膨張に伴ひ、漸次中小商工業が発達して参り、特に交通機関の発展と共に所謂外郭都市として住宅は急激に建設せられ、愈々都市的形態を整ふるに至ったのであります。之に加ふるに戦時中に勃興した商工業は幸いにして殆んど戦災を蒙らず、戦後復興の大翼として真に目覚しい活動を続けつつあり、人口又終戦後特に増加し現在十数万を算し爾今益々激増を辿る趨勢にあります。全地区の約二割に当る区画整理地区内は家屋連甍し諸官公衙及び其の施設・金融機関・会社工場の形態は漸く整備し今や一大飛躍をなさんとして居り、其の将来は期して隆々たるものがあります。即ち昭和二十二年八月一日板橋区より分離し練馬区制が施行されました所以も又むべなりと云ふべきでありまして、今や区民挙って真に其の発展を計り、これが実現に邁進しつつあります。然るに四十六平方粁の厖大な面積を有する区内に指定されました緑地並に用途地域は、当区の現状より著しく遊離したものであると云はざるを得ない次第で、今後におきます本区の都市計画の基盤たることに想を致す時、或ひは又練馬区の財政的見地より考察するも、本区の一大発展を著しく阻害するものであります。即ち本区面積の実に六割九分に及ぶ緑地の指定でありまして都としての観点から一応大泉、石神井両風致地区は止むを得ないと思料せられますが、文化住宅地帯として将又商工業地域としての今後の期待は全く絶望に近いと断言せざるを得ないのであります。故に茲に生活の根源をなす住宅と生産能率の増進を目途とする工場及其の中核をなす産業を発展させる為に各地域の一大変更を必要とすることは、自明の理でありまして伸張発展せんとする当区にありて極めて焦眉の急務であり、自治権拡充の上からも絶対に欠くことの出来ない事は多言を要しない処でありますから、如上実状と、御賢察下され別図の通り当練馬区緑地及用途地域を速やかに変更賜ります様茲に練馬区議会の議決を経て地方自治法第九十九条第二項に拠り意見書提出致す次第であります。「茲に当区議会の議決を経て、地方自治法第百二十四条に拠り請願書提出致す次第であります」。

 昭和二十四年十一月

                                      練馬区議会議長 桜井 米蔵

東京都知事      安井誠一郎 殿

東京都議会議長    石原 永明 殿

緑地地域変更の要求はその後数次にわたって続けられ、二九年には周辺区が連合して当局に迫っている。こうした区側の要望を入れ当局は漸次変更を重ねてきたが、二九年五月二〇日に「土地区画整理法」が制定されると、これに伴い翌三〇年三月には区画整理を行なうことを条件として大幅な緑地解除が実施された。練馬区でも四六三・三二<数2>ha一四〇万四〇〇〇坪)が解除され、住居地域に変更された。その結果残存緑地地域は区面積の約四七%に減少したが、区はその後も更なる解除を求めて請願を継続した。

こうした練馬区の姿勢は、当時教育委員会が刊行した『小学校社会科資料集』(昭和三〇年刊・三二年改訂版)に次のような記述で紹介されている。

<資料文>

(略)区の三分の一を占める住宅地域には工場や映画館等は建てられない。また三分の二に近い緑地地域は建築面積の制限が最も厳しくて、敷地の一割以内である。公共営造物にも二割以内の制限があり、農林畜産に関係をもたない工場は建設出来ない。このため住宅地区としては大変結構であるが、区の財政はまことに貧困であって遺憾である。区民は生産区となることを希望してやまないところである。

以上のごとく、緑地地域制度は、区の発展にとっては大きな足かせではあったが、それだけに、現在の緑地を残し得た意義は大きい。

しかし、その後、緑地地域指定区における人口膨張や建ぺい率違反建築の増加などによって、緑地制度は形骸化し、もはや所期の目的を達することができなくなってきた。

こうした実情から、緑地地域制度は、その維持が困難であるとの判断が強まり、四三年の「都市計画法」の改正に伴い全面的に廃止され、新たに「土地区画整理事業を施行すべき区域」として都市計画の指定を受けることになった(四四年五月八日)。

新用途地域の指定

この四三年の「都市計画法」の改正に続き四五年に「建築基準法」が改正されると、四八年までに新しい用途地域地区が指定されることになった。

練馬区では、四七年六月一四日、住民代表一一人、学識経験者五人、区議会議員九人、区職員五人から成る練馬区都市計画審議会が設けられ、区の将来を展望した新用途地域指定の区案作成にとりかかった。

新用途地域は、<項番>(イ)東京都市計画の一環として、区部における文化的・近代的な高度のベッドタウンとしての機能を果たす、<項番>(ロ)各地域社会における住環境の高度の維持につとめる(「ねりま区報」二三〇号。四八年一二月二五日)という二点の基本方針に基づいて検討され、四七年一一月二四日答申、一二月区試案決定を経て、四八年一一月二〇日に告示された。

区の発展を阻害する要因とされてきた緑地地域の取り扱いについては、<項番>(イ)土地区画整理事業未施行地区は第一種住居専用地域で建ぺい率三〇%、<項番>(ロ)耕地整理事業等により街区整備された地区は建ぺい率四〇%、<項番>(ハ)土地区画整理事業等により、道路・下水道・公園などの住環境が整備されて、住宅を中高層化すべき地区は、第二種住居専用地域に、それぞれ指定されることになった。

この新しい地域地区の指定によって、練馬区は区面積の約六三%が第一種住居専用地域に指定され、新ためて住宅地として位置づけられることになったのであるが、これに伴い良好な住環境の整備が区の重要な課題となってきた。

<節>
第八節 自然保護への動き
<本文>
自然保護制度の充実

三〇年代に始まった目覚ましい経済成長は、日本の各地に自然環境の破壊や公害などの深刻な社会問題を排出した。四〇年代に入る頃には、経済の発展も、もはやこれらの生活環境の問題を無視しては考えられなくなり、自然の保護・回復が漸く国政レベルでとりあげられるようになった。

四二年八月に制定された「公害対策基本法」には、当初「生活環境に係る基準を定めるにあたっては、経済の健全な発展との調和を図るように配慮しなければならない」(八条二項)という、いわゆる経済との調和条項が規定されていたが、四五年の公害国会において削除され、生活環境の保全も無条件に要請されることになった。

また、四六年七月一日には環境庁が発足し、公害と環境に関する行政が一元化されることになり、四七年には「自然環境保全法」と「東京における自然の保護と回復に関する条例」が制定をみた。

「自然環境保全法」の第二条には、自然保護に対する基本理念が次のように述べられている。

<資料文>

自然環境の保全は、自然環境が人間の健康で文化的な生活に欠くことのできないものであることにかんがみ、広く国民がその恵沢を享受するとともに、将来の国民に自然環境を継承することができるよう適正に行なわれなければならない。

また、同法は、自然保護の責務は国にあるとし、「国は、自然環境を適正に保全するための基本的かつ総合的な施策を策定し、及びこれを実施する責務を有する」(第四条)と規定している。「東京における自然の保護と回復に関する条例」においても、知事の基本的な責務として「知事は、あらゆる施策を通じて、自然の保護と回復に最大の努力を払わなければならない」(第四条)と規定している。自然保護問題に対する当時の積極的な姿勢が窺われる。

公園課・緑化係の設置

国や都において自然保護行政がようやく始まったことに伴い練馬区における緑化事業も四八年頃より本格的に推進されるようになったが、既に、四二年前後頃より都市化に相応する公共緑地の拡充が要請されていた。そこで、四四年度から行政施設建設五か年計画が実施され、それまで遅滞ぎみであった都市施設の建設が進められることになると、その一環として、四五年四月より土木部に公園課が新設され、公園や児童遊園の建設が推進されることとなった。

ちなみに、四五年に実施された区民の意識調査によれば、区民の望む練馬区の将来像は「純住宅地区」と出ている。また区政に望む事業としては、公園施設の整備を望む声が全体の一三・三%に達し、上・下水道の普及(二五・九%)、交通安全

の強化(一六・五%)についで三位に入っている。

次いで四七年一〇月には、都の「自然保護条例」が制定され、自然保護に対する区市町村の責務が明確にされることになったが、それを契機とし、翌四八年四月一日、区民部環境保健課に緑化係が新設され、苗木配布・区民農園設置・緑化啓発などの緑化事業が推進されることになった。しかし同年一二月には組織改革によって、緑化係は土木部公園緑地課の管轄下に統合され、従来区民部、土木部がそれぞれ推進してきた緑化事業を一本化することになった。

練馬区基本構想

練馬区における緑化事業が、内外の要請を受け、ようやくその歩みを始めた同じ四七年には、行政施設建設五か年計画(昭和四四年度―四八年度)に続く、四九年度以降のまちづくりの基本理念である基本構想と、それを実現するための長期計画の立案作業が進められていた。

四七年九月に実施された「長期計画策定のための区民意識・意向調査」もその一環として行なわれたもので、これによって区民の緑の環境に対する要望が四五年度の調査と同様きわめて強いことが明らかとなった。その行政施策に対する要望調査によると、一三の調査項目のうち公園・緑化に関する要望が六位に入っており、また公共施設に対する要望調査によると、四五年度の調査では三位であった公園に対する要望が二三項目中二位になっている。緑の問題が区民にとって切実な関心事になっていることが窺える。

こうした基礎調査にあらわれた区民の意向は、四八年一二月に作成された「練馬区基本構想(素案)」において、まちづくりの基本目標“緑に囲まれた静かで市民意識の高いまち”として実を結んだ。

基本構想は、その後石油ショックに始まる社会経済情勢の激変や特別区制度の改革の動きなど、客観情勢が変化したため、一時成案化作業が中断したものの、五一年二月に至って再開され、五二年四月に「草案」を作成し、修正を経て、五二年一〇月の第三回区議会定例会において可決承認された。

その間、“緑に囲まれた静かで市民意識の高いまち”という基本目標は一貫して変更されることがなかった。また、基本

構想の中では、その基本的な課題の一つとして「緑におおわれたうるおいのある生活空間をつくる」ことがあげられ、次のように述べられている。

<資料文>

  1. <項番>(1)緑は、自然の象徴として、人間生存の基盤をなすものであり、区民が健康で快適な生活を営んでいくうえに欠くことのできないものである。区民と区はたがいに協力して、緑の保全と回復につとめ、自然環境と調和のとれた生活空間を確保する。
  2. <項番>(2)公共施設の緑化をすすめ、あわせて民間施設の緑化を奨励する。
  3. <項番>(3)自然の林を残し、公園をつくり、街路樹を植えるなど、緑の豊かなまちをつくる。

練馬区における緑化事業は、ここに、区政の基本姿勢として位置づけられることになったのである。

<節>
第九節 みどりを保護し回復する条例
<本文>
条例制定の経過と主旨

四九年に実施された緑の実態調査の結果は、翌年二月『練馬区緑の現況調査報告書(樹木・樹林実態調査)』として公表された。この調査は、四九年に始まる基本構想を主軸とした長期計画・実施計画(昭和六〇年代達成目標)の一環として、区の公園緑地課が中心となって企画したもので、調査項目は、樹木調査(樹木の本数、分布状態)、樹林調査(林の状態・管理状態)、オープンスペース調査(畑や空間地の状態)、街路樹調査、樹木の健康調査、生垣調査、航空写真の解析による緑の実態把握等広範囲に渡るものであった。続いて五〇年一二月には、この実態調査にもとづいた『練馬区緑化計画策定のための調査研究報告書』が企画部によってまとめられ、その中で、居住環境整備に関する条例の制定を含む、緑化推進施策への提言が示された。「みどりを保護し回復する条例」はこの提言を受けて制定されたものである。

条例が制定された経過を簡単に追ってみると、まず五〇年一〇月に、庁内に環境保全対策検討委員会が設置され、山積す

る公害や緑化などの環境問題に練馬区がどう対処すべきかについて検討が重ねられた。会議は翌五一年九月まで七回開催され、ここにおいて、緑の条例の制定を含む基本的な施策案が作成された。会議では、当初、公害や緑化を含んだ総合的な環境保全条例を制定することも検討されたが、条例の実効性を期してまず「みどり」に絞って条例を制定することになったのである。ここで作成された施策案は、その後、区議会の総合計画特別委員会で、五一年九月から五二年二月にかけて三回にわたり検討された。また五一年一二月には、緑の保護と回復に対する区の基本姿勢と条例制定の主旨が区民に公表され、同時に、区民に緑化施策全般にわたる提案を募集した。ここに寄せられた区民の意見や要望は、学識経験者(三名)・住民代表者(三名)・団体代表者(四名)・区職員(五名)から成る「練馬のみどりを考える会」(五二年一月設置)において検討され、条例に反映された。

こうして条例は、五二年二月に案文が提出され、区議会の総合計画特別委員会の審査と、本会議の可決を経て、三月二九日に公布された。また五四年には『みどりを保護し回復する条例の手びき』も刊行されている。

このような経過―いわば区民参加―を経て制定された条例は、その前文において、区が自然保護に取り組む基本理念、目的及び施策の基本姿勢について次のように宣言している。

<資料文>

前文

人間は、自然から離れて存在することはできない。

みどりは、自然の象徴として、人間生存の基盤をなすものであり、私たちが健康で快適な生活を営んでいくうえに欠くことのできないものである。

しかし、おし寄せる都市化の波は、美しい武蔵野の雑木林と田園を破壊し、私たちの住む練馬を、アスフアルトとコンクリートのまちに変えようとしている。

今こそ、私たちは、このことに思いを致し、お互いの連帯のもとに、残されたみどりを守り、失われたみどりを回復し、自然環境

と調和のとれたまちづくりをめざさなければならない。

「みどりに囲まれた静かで市民意識の高いまちづくり」は、私たち練馬区民共通の目標であり、その実現と後世への継承は、現在に生きる私たちの厳粛な責務である。

成否は、まさに私たち区民一人ひとりのみどりに対する理解と努力にあることを自覚し、みどりの保護と回復を積極的に推進することを決意して、ここにこの条例を制定する。

ここに謳われている「みどりに囲まれた静かで市民意識の高いまちづくり」という目標は、四八年以来、基本構想(素案)の基本目標として主張されてきたテーマであった。この条例は五二年一〇月に決定された「練馬区基本構想」とともに、練馬区のまちづくり行政の指針とされて今日に至っている。

「みどりの条例」の構成と施策の体系を整理すると表6―<数2>19のようになる。

緑に対する責務

条例は、練馬区民共通の目標である「みどりに囲まれた静かで市民意識の高いまちづくり」を実現するために、区長(第二~六条)、区民(第七条)、事業者(第八条)、国・公共団体(第九条)の責務を明らかにしている。

区長に対しては、あらゆる施策を通じて、みどりの保護と回復に最大の努力を払わなければならない(第二条)という基本的な責務の他に、五年ごとに緑の実態調査を行ない、緑の保護と回復に関する計画を策定し、区民に公表する義務(第三条)、広報活動・教育活動を通じてみどりの保護と回復に関する知識を普及し、区民の意識の高揚に努めるとともに、苗木の供給や技術指導など具体的な措置を講ずる義務(第四条)が課せられている。また、区民からの提案や意見を尊重し(第五条)、区民の自発的な緑化団体を援助し育成すること(第六条)も区長の重要な責務とされている。

区民の責務としては、区民が自らの手で緑を守り育ててゆくよう努めなければならない(第七条)という努力義務が示されているが、より積極的な区民参加を実現するために、後述するような緑化委員会や緑化協力員の制度が設けられている。

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開発行為を行なう事業者に対しては、その事業活動を行なう場合、緑を守りふやしてゆくことに十分配慮し、区が行なう緑の施策に積極的に協力しなければならない(第八条)と規定されており、その開発の規模が三〇〇㎡以上となる場合には、事前に次のような事項を記載した緑化計画書を作成し、区長の調整を受けなければならない(第二六条・規則第一四・一五条)と規定されている。

<資料文>

  1. (緑化計画書の内容)
  2. 一、事業者の氏名および住所(法人にあっては、名称、代表者の氏名および主たる事務所の所在地)
  3. 二、行為の規模
  4. 三、行為地の地名、地番および地目
  5. 四、行為地の現況および付近見取図
  6. 五、行為地の緑被面積および樹木数
  7. 六、緑化完了予定年月日
  8. この緑化計画書には、敷地、建物の配置および植栽位置等を記載した緑化計画図を添えなければならない。

なおこの緑化計画書を提出せずに開発行為を行なった場合や、緑化計画書を提出し調整を受けてもその履行を怠っている場合、開発行為が終了していても緑化計画書の内容が履行されていないことが明らかになった場合には、開発行為等の中止勧告や緑化計画履行勧告ができることになっており(第二七条)、この勧告に従わなかった場合には、その事実を練馬区公報に登載したり、広報紙などへ掲載して区民に広く周知させ、社会的な制裁を加えることができるとされている(第三九条)。

緑化委員会・緑化協力員

練馬区の“みどり”の特徴は、緑被地の約八〇%が畑地や宅地等の私有地によって占められている点にある。したがって、緑化施策の中心は、当然これら私有地に属する緑被地の保護育成に絞られるのであるが、その施策を効果的に推進させるためには、どうしても区民の積極的な参加が不可欠である。条例

は、緑化事業への参加は区民の責務であると規定するとともに、その具体的な参加の場として緑化委員会や緑化協力員の制度を設けている。

緑化委員会は、区長の付属機関として、区における緑の保護と回復に関する重要事項を調査審議することを目的として設置されたものであり(第一〇条)、その審議事項の範囲は、以下のように規定されている。

<資料文>

  1. 一、みどりの保護と回復に関する計画の策定に関すること
  2. 二、緑化推進地区及びみどりの保全地区の指定及び廃止に関すること
  3. 三、モデル地区の指定及び廃止に関すること
  4. 四、保護樹木及び保護樹林の指定の解除に関すること
  5. 五、条例違反者の公報への公表に関すること
  6. 六、その他、みどりの保護と回復に関する重要事項

また委員会の組織は、区民(一一人以内)・学識経験者(一二人以内)・区職員(二人以内)によって構成され、任期は二年となっている。なお、委員会が専門的な立場から調査審議を行なう必要があるときは、一つの案件に限り、特別委員をおき、意見を求めることができるようになっている。

緑化協力員は、地域の緑の現状などを日常的に継続して把握するとともに、地域の核として緑化に関する地域活動を担うことによって区が行なう緑化施策の実効性を確保するため設置されるもので、その役割は、以下のように広範囲にわたっている。

<資料文>

  1. 一、地域における樹木樹林の伐採の実態や、その他みどりの破壊行為の実態の把握
  2. 二、区民の、みどりの施策に対する要望など情報の収集と区への伝達
  3. 三、みどりに関する各種団体との連絡
  4. 四、樹木、草花の育成管理の研修と地域での実践活動の展開
  5. 五、樹木などの健康度調査のために設けられた標本の観察
  6. 六、その他、みどりの施策の推進に必要な活動

なお、緑化協力員の配置は、以上の責務内容を実現させるために、一平方キロメートルあたり二人程の配置とされている。

<節>
第十節 緑を保護する施策
<本文>
樹木・樹林の保護

第一節で概観したごとく、練馬区には、まだ比較的多くの樹木が残っているけれども、その大半が私有物であるため、今後の開発によって失われる可能性が極めて高い。

そこで「みどりの条例」では、樹木・樹林の所有者や管理者に対して、その保存と、やむを得ず伐採した場合における植栽とを義務づけるとともに、①地上高一・五mにおける幹の直径が三〇㎝以上の樹木や、②面積が一〇〇㎡以上の樹林を伐採する場合には、伐採しようとする日の三〇日前までに、その旨を区長に届け出なければならないとしている。

更に、より積極的な保護策として、①地上高一・五mにおける幹の直径が五〇㎝以上の樹木や、②面積が一〇〇〇㎡以上の樹林、あるいは、③その他特に保護する必要のある樹木・樹林を、保護樹木・樹林に指定し、その伐採や移植を禁止する制度を設けている。五四年度現在、この保護指定を受けている樹木は九三件三三八本、樹林は一九か所七万八四七一㎡である。表6―<数2>20はその指定状況を示したものである。

この保護樹木・樹林の指定および指定の解除は、所有者の意向を尊重して決定されるため、必ずしも拘束性の強い制度ではない。しかし、所有者には、樹木・樹林の維持管理に必要な経費の一部―樹木は一本当り年間三〇〇〇円、樹林は一㎡当り年間三二・五円(五三年度)―が助成されることになっており、さらに、保護指定の解除を区が認めない場合、所有者は区に

当該土地の買い取りを請求できることになっている。これらの規定は、保護指定制度を実効あるものとし、且つ練馬のみどりの現状凍結を目指した区の積極的な姿勢を示したものとして注目される。しかし、土地を買い取るには、多額の経費がかかるため、一区の財政で賄うにはおのずと限界がある。そのため五二年に、区は都に対して、樹林地保全のための特別財政措置を求める次のような意見書を提出している。

図表を表示 <資料文>

樹林地保全のための特別措置を求める意見書

   議決月日……五二年三月二五日

   提出先……東京都知事

   提出者……練馬区議会議長 横山繁雄

急速な都市化の進行に伴う自然環境の破壊のなかで、今日残されている都市の緑は、住民共有の資産として、単に、自然景観上の価値だけでなく、住民の健康と安全のためにかけがえのないものである。

練馬区には、約百へクタールの樹林地が武蔵野の面影をとどめている。この貴重な樹林地が地価の高騰や現行の土地税制の矛盾によって、消滅の一途をたどろうとしているが、区政がこれら樹林地を保全し、良好な生活環境を形成することは、焦眉の急務である。

本区は、このたび、みどりを保護し回復する条例を制定し、区民の協力のもとに、その保全に積極的に取り組み、権限と財政上の制約を受けながらも、都の強力な都市政策の実施を期待し、条例の実効性を確保する決意である。

貴職におかれては、これらの実情をご賢察のうえ、当面左記事項について積極的に実現されることを強く要望するものである。

       記

  1. 一、区が条例で指定した樹林地に係る固定資産税について、都税条例第一三四条の減免規定の対象とすること。
  2. 二、東京都における自然の保護と回復に関する都条例の積極的運用を図り、当区など周辺区に残る樹林地の買上げを促進すること。
  3. 三、都区財政調整における公園財源を拡充し、樹林地の買取り財源として措置すること。
  4.  右、地方自治法第九九条第二項の規定により意見書を提出する。

農地の保護

既述したごとく、二三区の中で農地が最も多いのは練馬区である。農業委員会の調査では、五四年度現在の農地面積は七〇二<数2>haと算出されている。これは区面積の約一五%に当たる。また「緑の実態調査報告書」(昭和五三年)によれば、練馬区の緑被地の三九%が畑地である。

したがって、現存する畑地を保護することは、樹木・樹林の保護と同様、練馬区における緑化行政の差し迫った課題であるといえよう。ことに、四六年に市街化区域内の農地に宅地並みの固定資産税及び都市計画税が課税されることになってから、市街化区域内における農業経営は著しく困難になってきている。既にA農地については四八年から宅地並み課税が実施されており、またC農地についても五六年度まで据え置かれることにはなっているものの、宅地供給増大を要求する一般世論も強く、今後の農地保護は困難を極めることが予想される。ちなみに、練馬区の昭和五四年度現在のA農地は八〇<数2>ha、C農地は六二二<数2>haとなっている。

三〇年代から宅地開発を推進してきた練馬区においても、生鮮食料品の供給地としての都市農業の意義や、環境や防災など都市機能上に占めるオープンスペースとしての重要性が認識される中で、この農地の宅地並課税制度に対する区の態度が問われていたが、五〇年には、既に実施されているA農地に対する宅地並課税の適用除外とC農地に対する課税の中止を求めて次のような意見書を関係機関に提出し、区の姿勢を明らかにした。

<資料文>

市街化区域農地に対する宅地なみ課税の根本的再検討に関する意見書

   提出月日……五〇年一〇月二七日

   提出先……内閣総理大臣、大蔵大臣、自治大臣、農林大臣

   提出者……練馬区議会議長 楠  直正

市街化区域農地の宅地化推進を目標に昭和四八年度より三大都市圏のいわゆるA・B農地に対し、宅地なみ課税が強行され、さらに拡大されようとしております。

このことは、市街地における農地が宅地なみに評価され生鮮食料供給地としての都市農業を破壊し、計画的な都市づくりまで不可能にするおそれがあります。

このため、市街化区域にある農地を環境の保全ならびに、防災という都市的機能を有したオープンスペースとして確保し、食料等の生産者として農業者の健全な育成をはかるため、次の措置をこうぜられるよう強く要望いたします。

       記

  1. 一、いわゆるC農地等に対する宅地なみ課税は行なわないこと。
  2. 二、すでに実施されている三大都市のA・B農地に対する宅地なみ課税についても、根本的に再検討し、現に農業の用に供する農地については適用除外すること。
  3.  右、地方自治法第九九条第二項の規定により意見書を提出いたします。

この市街化区域農地を保護する姿勢は現在も堅持され続けており、そのための具体的な施策も次のようにいくつか講じられている。

<項番>(イ)減額農地・農業緑地・生産緑地  四六年に宅地並課税制度が制定されると、東京都は農家の税負担を軽減し農業経営の安定を期するために、固定資産税・都市計画税の差額分の三分の二を減額する減額農地制度や、同じく二割の奨励金が助成される農業緑地制度を制定した。また四九年には、国の施策として、生産緑地制度が発足した。

図表を表示 図表を表示

この生産緑地制度は、四九年六月一日に制定された「生産緑地法」によって生まれたものである。都市計画法上では農地として存続しえない市街化区域内の農地を、公害や災害の防止など生活環境の保護を目的とし、一定条件のもとで、例外的に農地として存続を認めようとする制度である。生産緑地に指定されると、その区域内における建築物の新築、宅地の造成、水面の埋立てなどの開発行為については、市町村長の許可を受けなければならないなど、土地利用上一定の規制が加わるが、固定資産税と都市計画税が農地並に軽減されるという特典がある。

しかし、生産緑地に指定されて一〇年(第一種生産緑地)ないし五年(第二種生産緑地)経過した時点、又は、農林漁業の主たる従事者の死亡など農林漁業の継続が不可能になった時点で、生産緑地の所有者は、市町村長に対してその土地を時価で買い取るべき旨を申し出ることができることになっており、その場合市町村長は、申し出があった日から起算して一か月以内に買い取るか否かを所有者に通知しなければならないとされている。はたして区がどこまで買い取りに応じきれるかが今後の課題となっている。

<項番>(ロ)相続税納税猶予農地  宅地並課税や地価の高騰は、農地の相続税にも反映し、都市近郊地帯では、重い課税のために

農地を売り払わないと納税できない状況が発生している。その為、相続税を軽減することによって離農を抑止しようとする相続税納税猶予農地制度が五〇年に発足した。練馬区においては、五四年現在六八件(二五・一<数2>ha)が指定を受けている。表6―<数2>21は、以上の諸制度の五四年一月一日現在の実施状況を示したものである。

<項番>(ハ)優良集団農地・登録農地  この他に、農業経営の安定を図る施策として、農業用施設費の五〇%以内の助成が行なわれる都の優良集団農地制度が四八年度から、一〇a当たり一〇万円以内の営農助成が行なわれる区の登録農地育成事業制度が五四年度からそれぞれ実施されており、五四年度現在優良集団農地として四五団地(四六八<数2>ha)、登録農地として一五団地(七・五<数2>ha予定)が指定を受けている。

<項番>(ニ)区民農園  区民農園は、区が農家から農地を借り受け、これを区民に無償で解放する農園のことで、四八年に発足した。これは将来農家に後継者がいなくなった場合に、農地を維持してゆく一つの有力な方法であると言えよう。「みどりの条例」(第三八条第二項)にも、「区長は、区民農園等の設置を図ることにより、農地の保全に必要な措置を講じなければならない」と規定されており、今後の拡充が望まれる。

四八年から五四年に至る区民農園の実施状況は表6―<数2>22に示すごとくである。

緑化推進地区とみどりの保全地区

第一節で考察したごとく、練馬区の緑被率には地域的に大きな差が認められる。五三年の『練馬区緑の実態調査報告書』によれば、緑被率が六〇%を超す町丁もあれば、一〇%にも充たない町丁もある(図6―<数2>18)。したがって緑化事業を推進させるにあたっては、緑の著しく乏しい地域では主として緑を増加させることに、また比較的多い地域では主として維持保全することに注意を向け、それぞれの地域の緑の実態を考慮したきめ細かな緑化対策が要求される。

そこで「みどりの条例」では、緑被率三〇%を基準として、区の全ての地区を緑化推進地区とみどりの保全地区のいずれかに指定して、その対策を立てることにしている。緑被率三〇%未満の緑化推進地区は計画的に植栽を行なうなど積極的な緑

化を図る必要のある地区であり、旭町・小竹・羽沢・栄町・豊玉・練馬・中村・北町・貫井・富士見台の地区が該当する。

更に以上両地区の中で、緑化推進や緑の保護の必要性が特に認められ、今後の緑の施策の拠点となる地区――街路で囲まれた概ね五〇〇〇㎡程の狭い地区――にモデル地区を指定できるとしている。その基準は緑化推進モデル地区は地区内の緑被率が二五%未満、みどりの保全モデル地区は地区内の緑被率が三五%以上となっている。モデル地区が指定された場合には、区長と区民がみどりの推進協定を結ぶことになっている。推進協定は、相互に協力して緑化に努めることを規定の書面を以って明確にした契約であり、「都市緑地保全法」や都の「自然保護条例」にもみられるが、これらの規定は協定の当事者が住民どうしであって、本区の条例のように区長と区民という関係ではない。区長を協定の一方の当事者とすることによって、苗木の供給、生垣の設置・改修など緑化に必要な物的援助を十分に得ることができるため、「都市緑地保全法」や都の「自然保護条例」よりも実効が有るとされている。

しかし、モデル地区に指定されている地域は今のところ五三年一一月八日に指定された向山三丁目のみどりの保全モデル地区だけである。向山三丁目の一番地から七番地までと二一番地から二四番地までの合計六・五<数2>haの面積である。この地区は、大正一三年に城南住宅組合を結成し、当時より組合契約に基づき、地域の緑化や生垣などの工作物についての一定のとりきめを設け、良好な居住環境の保全に努めてきた地区である。

<節>
第十一節 緑を回復する施策
<本文>
緑化事業の推移

練馬区において緑化事業が本格的に始まったのは四六年以降である。第二節で触れたごとく、経済の高度成長に伴い増加してきた公害や種々の環境破壊の問題は、人々が身の周りの生活環境を見直す契機となった。四〇年代に入ると環境の保全を求める世論は一層高揚し、行政当局に「公害対策基本法」「自然環境保全法」「東京

における自然の保護と回復に関する条例」などの法制度の制定にふみきらせた。

こうした社会状況の流れの中で、比較的緑の多い練馬区においても、公園課(四六年)・緑化係(四八年)・都市環境部(四八年)などが次々と新設され、緑化事業の体制が整えられてきた。

画像を表示

図6―<数2>19は本区の歳入歳出決算報告書から四一年以降の緑化・公園費を抽出して示したものである。公園新設改良費には用地の買収費を含むため、年度によって変動が大きい。特に五〇年の落ち込みは、税制改正(昭和五〇年以後、分離課税から総合課税になっている)に伴い用地の買収が停頓したことによるものである。しかし総じて、緑化・公園費が大幅に増加してく

るのは四六年以後であるといえよう。

図表を表示

経費面でみる限り緑化事業の主体は、公園や児童遊園の建設である。これは、農地の多い本区では、それを買収して公共緑地とすることが要求されているからで、この傾向は今後も続くものと思われる。

しかし、既に市街地化した緑の乏しい地域では、新たに公園などの用地を確保することは不可能にちかい。したがってこのような地域においては、街路や公共施設内への植樹が最も大切な仕事となる。緑化推進事業とは、このような諸施設への植栽を主とする事業を言う。「みどりの条例」及び「施行規則」は、区と区民の行なう植樹の具体的な努力目標をおおよそ次のように規定している。

<資料文>

  1. <項番>(一)、事務所・学校等の公共施設……敷地面積(学校・幼稚園・保育園などの運動場を除く)の三〇%以上を緑被面積とする
  2. <項番>(二)、公園・児童遊園……敷地面積の五〇%以上を緑被面積とする
  3. <項番>(三)、幅員二・五m以上の歩道をもつ道路……街路樹または植樹帯を設置する
  4. <項番>(四)、幅員三・五m以上の歩道をもつ道路……街路樹および植樹帯を設置する
  5. <項番>(五)、敷地三〇〇㎡以上の民間施設並に個人住宅……敷地面積から建ぺい率分の面積を控除した面積の三〇%以上を緑被面積とする

苗木配布

以上の基本方針に従って区が行なっている緑化事業の一つに苗木の無償配布がある。これは四七年以降実施しているもので、一般区民への配布の他に、結婚や出生の慶事に恵まれた区民へも記念樹として配布し

ている。また五〇年からは、新設の区立幼稚園・保育園・小中学校に、開校記念樹として、区の花木である“つつじ”と“こぶし”を配布することになった。四七年以降の苗木配布事業の成果は表6―<数2>23のごとくである。

図表を表示

なお、区民へ配布するこれらの苗木を養成するために、五〇年には独自の区営苗圃を設置している。

街路樹

日本における街路樹(並木)の歴史は古く、その原初的なものは天平時代にまで遡ることができると言われているが、都市における施設として組織的に植栽されるようになったのは、明治七年に京橋・新橋間の赤煉瓦歩道に桜・黒松・楓などが植えられたのが最初である(『東京の公園百年』)。その後、大正一二年九月の関東大震火災を契機として、街路樹に対する防火保安上の評価が高まり、以後、被害を受けた街路樹の復旧と新たな植樹事業が急速に進んだ。第二次大戦中は、再び少なからぬ被害を受けたが、二三年度以降順調に整備が進み、今日にいたっている。

街路樹の管理は、明治三年の東京市役所の開庁に伴い東京府から市に移管されていたが、戦後二八年にいたり、特別区の長に管理が委任される形がとられた。その後三六年には特別区道が設置されているが、その街路樹の管理が区に移管されたのは四〇年に地方自治法が改正されてからのことである。また国道の街路樹管理は段階的に国に移管され、今日では道路の管理者が、街路樹も管理することになっている。

練馬区における街路樹の植栽状況は、表6―<数2>24に見られるごとく、五四年一月三一日現在およそ五三五五本となっている。樹種で比較的多いものは、国道ではエンジュ・プラタナス、都道ではプラタナス・エンジュ・イチョウ・トウカエデ・アカシア・ケヤキ、区道ではサクラ・ケヤキとなっており、全体ではプラタナス(スズカケ)が最も多い。樹種の選択については、近年地元の区民から、花や実をつける樹種を含む混栽の要望があり、環七の豊玉陸橋付近やみのわ橋付近などでは、どんぐりや、秋に赤い実をつけるクロガネ、白い花の美しいユリノ木などが混栽されるようになった。

緑道(緑地帯

緑道とは、河川を暗渠化した公共溝渠の上部や軌道用地跡など、道路交通法上の道路には属さない地域に設けられた、植栽のある遊歩道のことで、都の事業では公園に準ずる扱いをしている。

練馬区では、四三年から河川の暗渠化が始まっているが、当初は、その上部を緑道として利用する計画はなかった。四三年から四五年にかけて事業化された江古田川の中新井橋(豊玉南一丁目)から千川上水口(豊玉北六丁目)にいたる、延長一九二〇・五mの区間がそれである。これは、江古田川を公共下水道幹線(中新井幹線)とする工事であって、その上部の利用方法については明確な方針は立てられていなかった。ところが、東京都の中期計画(四七年)の中で、都市緑化事業の一項目として緑道が位置づけられたことに基づき、練馬区でも四八年以降緑化事業の一環として緑道の整備が行なわれるようになった。四八年三月の区議会において、一議員から次のような提案がなされている。

<資料文>

最近、他区においては緑道計画が発表されておりますが、本区においてもこのような計画をお立てになって、家族が一日を有意義に安心して生活を送れるような計画を策定すべきであると思いますが、区の考え方はいかがでありますか、お伺いいたします。

私はここで提案をしたい。練馬区の東西に流れている石神井川をもとの澄んだ川にとり戻し、両側を桜並木の緑道にする計画であります。現在この川は、生活用水や下水の汚染排水で(汚れ切っており)、夢のような提案かもしれませんが、区がその気になれば可能であると思います。このような緑道を区の基本構想に取り入れるべきだと思うが、理事者のご計画はいかがでありますか、お伺いいたします。 (区議会速記録

四八年度より始まった緑道建設は、五三年度末現在で総延長が一二・六<数2>kmに及んでいる。新たな緑地用地の買収が極めて困難になっている現在、このような公共用地の高度利用はますます必要になってこよう。

広報活動

以上のように、緑を守り保護する活動は多方面で展開されるようになった。またその緑化事業の効果を上げるために、区民に緑化事業の必要性を訴え協力を呼びかける広報活動も積極的に行なわれている。その代表的な活動としては、まず区の花と木の募集が挙げられる。本格的な緑化事業が始まって間もない四六年三月に、緑化事業を普及し啓発することを目的として、区民に区の花と木の募集を呼びかけた。当時の区報には、「自然を愛し、区民の心の象徴とし、将来は町に緑と花をいっぱいにして、生活に潤いを……」という文面が見える。公募の結果、同年五月には“つつじ”と“こぶし”が区の花と木に決まり、四七年にはその図案も公募によってできあがった。更に区民へのPR用として、つつじとこぶしの絵葉書も八万三〇〇〇組程作成された。また、この年からこぶしなどの苗木が区民に無償で配布されている。

更に四八年には緑化事業の一環として緑化に関する作文・論文の募集が行なわれた。これは、当時区政が直面していた公害をはじめとする環境問題対策や、作成中であった基本構想などとの関連で企画された事業である。公募の結果、作文三一通と論文六四通が寄せられ、その中から、作文では中学三年生の松下美緒さんが、論文では塩沢勇さんがそれぞれ入選ときまった。以下は入選の二作品である。

<資料文>

        練馬の緑

                                           小竹町一丁目 松下 美緒

私は小さい頃、緑に包まれた練馬で伸び伸びと育ってきた。家の近くには、畑や、どこまでも限りなく続いているような広い野原があちらこちらにあった。そのような場所で思いっきり走り回ったり、ころげたりした事を今でも、はっきり思い出す。

そんな自然の中で育ったせいか、現在、宅地化され、緑の少なくなった練馬を見ることは非常につらい。何か大事なものを奪いと

られてしまったような気がしてならない。

しかし、今のこの世の中ではこのような状態があたりまえになっている。

宅地化され、大きな道路が次々とできて車の量は日ごとに増し、緑は消えて行く……。このような現実の中で、緑を求める事はぜいたくなのだろうか。無理な注文なのだろうか。

私は、緑や自然というのは、人間の心の寄り所とでも言うものではないかと思う。私たちは生まれた時から自然を求めて生きている。現代のように、どんどん近代化され、自然が失なわれている時代だからこそよけい求め慕うのかもしれない。

とにかく緑は私たちに安心感を与えてくれるのだ。高層ビルが建ち並び、味わいのない景観の中で、緑は心のゆとりを私たちに与えてくれる。ごみごみした世の中に住んでいたために、狭くなり、汚れてしまった心をきれいに洗い流してくれるもの、そのうちの一つが緑であり、自然であると思う。

緑が減りつつある今日だが、私は緑を求め、広い心を持とうとする考えを捨てたくはない。少しでもよいから緑をふやしたいと願い続けているのである。

人口がふえ、都市化が進んで自然がそこなわれて行く。それは当然な成行きかもしれない。しかし、自然との調和はどうしても私たちにとって必要なのである。 (旭丘中学三年

<資料文>

        緑化をみんなの手で

                                           春日町六丁目 塩沢 勇

七月十四日付の新聞に、日光の太郎杉が残ることになったと報道された。かけがえのない文化的価値への認識と、生命への畏敬の心に根ざした、この処置は何にもまして尊いものである。

たしかに現代は、人口の増加、産業の発達、都市化の急速な進行等により、人間環境の保全は難しい状況にあるが、地球上の水も空気も緑も、全人類の共有の財産であり、われわれの生命の源泉であることを考えなければならない。

今こそ私たちは、経済優先の考えを改め、科学技術に対する反省を、その使い方を再吟味し、生命尊重の精神をひとりひとりの心の中にとりもどさなければならないときである。そのためには、行政面、教育面における火急にして積極的な取組みが必要である。

  1. <項番>(1) 社会教育の一環として、区民へ「正しい自然観、価値観を高める」環境保全教室を開設し、緑化施策を普及する。
  2. <項番>(2) 既存の森林に、保護林指定制を設け、環境の美化浄化をはかる。保護林の管理維持等の費用は区費で負担する。
  3. <項番>(3) 保護林の樹木の枯死、伐採については、それと相当数の植樹を区が行なう。
  4. <項番>(4) 空地には植樹を奨励し、街路樹をふやし、既存の公園は、森林と子どもの遊具を調和的に配し、うるおいのあるものにする。
  5. <項番>(5) 学校教育の、理科、技術家庭、クラブ活動等における、自然保護教育をさらに推奨し、特にクラブ活動については、社会教育との提携をはかり、緑化への具体的活動を盛んにする。
  6. <項番>(6) 学校圏を中心とする学校の緑化をもり上げ、生徒の家庭や周辺地域に対する緑の供給源としての役割を果たす努力をする。
  7.  私たちの求めているものは、緑につつまれた健康な練馬である。
  8.  いますぐ、みんなができることから行動してみることではなかろうか。                     (教員
  9.                                    (『ねりま区報』二三二号 四九年二月一日より

この二作品をはじめとする入選作品は、四九年の『ねりま区報』に掲載されているが、そこに込められている緑化に対する決意は、今もなお新鮮な響を持っている。

自然との調和はどうしても私たちの生活にとって必要なのである。

<章>

第七章 防災

<節>
第一節 災害対策のあらましと防災計画
<本文>
防災計画の策定

戦後の復興を急ぐ東京都は、二二年九月のカスリン台風、二三年九月のアイオン台風、二四年八月のキティ台風と連年の大型台風によって相当な被害を被った。こうした台風の被害は全国各地にもおよび、ことに三〇年代に入ってからは狩野川台風(三三年九月)、伊勢湾台風(三四年九月)などによる各地の被害は甚大であった。一方地震による被害も無視できないものがある。二三年六月の福井地震(M・七・三)、二七年三月の十勝沖地震(M・八・一)、三五年五月のチリ地震津波(M・八・五)などはことに大きかった。

このような自然災害の脅威に加えて、都市火災の発生はその後の災害対策に大きな教訓を残すところとなった。当時の大規模な火災としては二七年四月の鳥取市大火、三〇年一〇月の新潟市大火、三一年三月の能代市大火などがある。

戦後の災害は都市およびその近郊への人口集中と都市構造の複雑化とが相俟って大規模な被害をもたらす場合が多く、こうした災害への基本的な対策が早くから望まれていた。このような背景の下に三六年一一月一五日、「災害対策基本法」が公布され、以後災害に対する具体的な措置が広く講じられるようになった。この法律に基づき、本区では三八年七月六日、練馬区防災会議条例を制定し、地域防災計画の策定に着手することになった。なお、同日「練馬区災害対策本部条例」が公布され、具体的な組織態勢が明文化された。

災害対策基本法第四二条①には、市町村防災会議(会議を設置しない市町村はその長)はその市町村の地域に係る地域防災

計画を作成し、適宜検討修正しなければならないと定められ、同時に市町村の属する都道府県の計画に抵触するものであってはならないとされている。また、同条②には計画されるべき内容事項について述べているが、内容の概略については後述したい。なお、東京都の条例は、一年前の三七年一〇月一六日に「東京都防災会議条例」として制定されている。

練馬区防災会議は三九年中にほぼ素案をまとめ、翌四〇年二月に最初の「練馬区地域防災計画」を発表した。

水災から震災へ

計画は防災に対する一般世論の高まる中で区内の情勢を適宜調査・研究しつつ、何回かの修正を加えて今日に至っているが、その都度、より新たな対策が盛り込まれ、一層充実したものに生まれ替わっている。その足跡をみる時、計画が対象としていた主災害の姿が時と共に変化している事実も読み取ることができる。四〇年二月の当初計画が掲げた計画目標は「台風による風水害を基本とし、あわせて地震、火災その他の突発災害に対処し得るもの」となっており、「仮想災害」の筆頭は台風であった。これに対し、五五年三月に出された修正版には次のようにうたわれている。

<資料文>

「災害の類型は、原因により二つに大別し得る。第1の類型としては、暴風雨、豪雨、地震、その他すべて異常な自然現象によるもの、第2の類型としては大規模な火災または爆発その他放射性物質の大量の放出等大規模な被害の発生を伴うすべての人為的事故によるものとに分けることができる。そして計画の目標は地震災害および台風等による風水害を基本とし、あわせて大火その他の突発災害にも対処し得るものとする」

このように災害の概念は年々広域なものへ、あるいは複雑なものへと移行しつつあり、自然災害の面では「地震」が筆頭に上げられるようになった。震災が世論の注目を集めるようになったのは、関東地震の「六九年周期説」の公表された(三九年)前後からである。ことに四〇年八月の松代群発地震、四三年二月のえびの地震、同年五月の十勝沖地震など相次ぐ大型地震の発生は関東地方の住民に多大な不安を植えつけた。

広域災害への対処

東京都が震災対策に敏感であったのは関東大地震の教訓もあるが、それよりも日本の首都として戦後の急激な人口の集中と都市構造の複雑さとを余儀なくされた結果でもある。大震火災を前提とした防

災対策への取り組みは早く、ことに消防庁では三〇年代初頭からさまざまな調査研究が進められていた。四〇年代にかけて次々に対策方針が打ち出されたが、中でも四六年五月の「大都市震災対策推進要綱」はその後の広域災害対策への大きな足がかりとなった。

東京都では同年一〇月二三日、「東京都震災予防条例」を制定したが、この中で危険地域、避難場所、避難道路などの概念が明確化され、都民による防災組織の重要性、あらゆる関係機関の協力態勢がうたわれた。地域防災計画にもこうした考え方は全面的に取り入れられ、今日見られる大規模なものへと発展してきた。本区では三〇年代の人口膨張がそのまま四〇年代にも引き継がれ、加えて四〇年代後半以降は四階建て以上の建物が進出しはじめ、都市火災の危険性もとみに増加した。

災害対策の具体化は逐次行なわれ、ことに四七年度以降は消火器の設置、地下貯水槽の整備(「練馬区災害対策地下貯水槽整備基本要綱」・四七年三月二四日)、市民消火隊の結成(五四年四月に区に移管、『現勢資料編』六六〇ページ参照)、防災住民組織の編成(『現勢資料編』六五九ページ参照)、備蓄倉庫の設置(『現勢資料編』六六二ページ参照)など次々に実施されている。

またこうした対策のほかに、実際に被害を被った人々に対する援護を目的とした措置も講じられており、現在適用されている主な条例・要綱には次のようなものがある。

「練馬区災害弔慰金の支給および災害援護資金の貸付けに関する条例」(四九年一〇月一五日、その後五〇年七月二日に改正

「練馬区災害見舞金支給要綱」(現在のものは五〇年四月一日から適用

広域災害への対策が年々進捗を見ている折から、五三年六月一二日に宮城県沖地震(M・七・四)が発生した。東京都ではこの時の被害を重視し、「第二次東京都震災予防計画」を策定したが、以後市民消火隊の区への移管、小型防火水槽の設置などにともなう本区の業務もさらに活発なものとなった。特に中高層建築物の実態把握(「建築」の章参照)、民間コンクリートブロック塀の調査など、都市災害対策としての事業は年度計画として広く行なわれている。

<節>

第二節 練馬区地域防災計画
<本文>

現在の計画は五四年中に修正され、五五年三月に公表されたものが適用されている。以下この最新の計画の概要を記す。

総 則

計画の目的としては次のようにうたわれている。

<資料文>

この計画は、災害対策基本法(昭和三六年法律第二二三号)第四二条の規定に基づき、練馬区防災会議が作成する計画であって、区・都・指定地方行政機関、指定公共機関、指定地方公共機関等の防災機関がその有する全機能を有効に発揮して、練馬区の地域に係る災害予防、災害応急対策および災害復旧を実施することにより、練馬区の地域ならびに住民の生命、身体および財産を災害から保護することを目的とする。

なお、総則には計画の性格と範囲、目標、必要に応じての修正などがうたわれているが、おおむね前節において述べたとおりである。

ここでは各防災機関の業務大綱を掲載しておくこととする。

<資料文 type="1-73">

   防災機関の業務大綱

一、練馬区各部

機関の名称通常事務所属名事務または事業の大綱
企画部 区長室
企画部
  1. 1 被災地の相談所開設に関すること
  2. 2 災害に関する広報および公聴に関すること
  3. 3 報道機関との連絡に関すること

総務部

総務部
職員研修所
選挙管理委員会事務局
監査事務局
  1. 1 本部長室および部長会議の庶務に関すること
  2. 2 警報の発令および伝達の事務に関すること
  3. 3 東京都災害対策本部および関係防災機関との連絡に関すること
  4. 4 各部との連絡調整および統括に関すること
  5. 5 本部の通信網の確保および情報の収集に関すること
  6. 6 被災状況の調査の報告および情報の公表の総括に関すること
  7. 7 本部の職員の動員およびその給与に関すること
  8. 8 災害対策関係予算および経理に関すること
  9. 9 災害対策に必要な物品、資材等の調達に関すること
  10. <数2>10 車両、舟艇等の輸送機関の調達および配車船に関すること
  11. <数2>11 他部の応援に関すること
  12. <数2>12 前各号に掲げるもののほか災害対策に必要な事項で他の部に属さないもの
施設部 施設部
  1. 1 避難所、収容施設等の建設、設営および整備に関すること
  2. 2 庁舎等建造物の防災および応急整備に関すること
  3. 3 応急建築資材、および労力の調達ならびに運用に関すること
区民部 区民部
(農業委員会事務局)
  1. 1 被災地および被災者の調査に関すること
  2. 2 応急食糧等の調達確保に関すること
  3. 3 商工農業者の災害応急対策に関すること
厚生部 厚生部
  1. 1 被災者の避難誘導および収容に関すること
  2. 2 義援金品および救援物資の受領ならびに配分に関すること
  3. 3 被災者に対する応急小口資金等に関すること
児童部 児童部
  1. 1 被災乳幼児の救護および応急保育に関すること
  2. 2 孤児および保護者不明児の収容救護に関すること
衛生部 衛生部
保健所
  1. 1 関係医療機関との連絡調整に関すること
  2. 2 医療施設の保全に関すること
  3. 3 緊急救護所の開設および医療、助産救護に関すること
  4. 4 災害救護用衛生資材の確保に関すること
  5. 5 災害地住民の防疫(保健衛生)に関すること

都市環境部

都市環境部
  1. 1 災害地の防疫(消毒)対策に関すること
  2. 2 応急給水に関すること
土木部 土木部
  1. 1 水防活動に関すること
  2. 2 通路、河川、公共溝渠、橋りょう等の点検整備および応急復旧に関すること
  3. 3 障害物除去に関すること
  4. 4 応急土木資材の確保ならびに労力の調達および運用に関すること
  5. 5 死体の収容に関すること
教育部 教育委員会事務局
  1. 1 被災児童および生徒の救護ならびに応急教育に関すること
  2. 2 被災児童および生徒の学用品等の調達ならびに供給に関すること
  3. 3 避難所(学校施設)の設営管理に関すること
  4. 4 文教社会教育施設および文化財の防災対策に関すること
出納部 収入役室
  1. 1 災害時における通貨の円滑な供給の確保および支払事務ならびに物品の出納に関すること
議会部 区議会事務局
  1. 1 災害時における議員の地域活動の連絡等に関すること
石神井
方面部
石神井区民館
総務課 調査統計係
納税課 納税第二、整理係
区民課 区民第二、戸籍第二係
経済課 農産係
住居表示課
国民健康保険課 整理第二係
収入役室 出納係
石神井福祉事務所
  1. 1 各部の石神井地区での円滑な災害活動が行えるためのサービス業務に関すること
  2. 2 石神井地区での情報の収集および本部長室への情報の伝達に関すること
  3. 3 庁舎の保全管理および利用者の保護

二、東 京 都

建設局第四建設事務所
  1. 1 河川および橋りょうならびに道路の保全に関すること
  2. 2 河川および道路等における障害物の除去に関すること
  3. 3 その他災害対策に必要な事項
清掃事務所(練馬・石神井)
  1. 1 災害地の清掃に関すること
  2. 2 その他災害対策に必要な事項
水道局北部第二支所
  1. 1 水道施設の保全および応急給水に関すること
  2. 2 その他災害対策に必要な事項
下水道局西部管理事務所
  1. 1 下水道施設の保全に関すること
  2. 2 その他災害対策に必要な事項
下水道局第二建設事務所
  1. 1 下水道施設建設中の保全に関すること
  2. 2 上記についての災害対策に必要な事項
警視庁第五方面本部および警察署
(練馬・石神井)
  1. 1 災害地の警備情報に関すること
  2. 2 被災者の救出および避難に関すること
  3. 3 災害時の交通規制に関すること
  4. 4 災害時における犯罪の予防および社会秩序の維持に関すること
  5. 5 その他災害対策に必要な事項
消防庁第五方面本部および消防署
(練馬・石神井)
  1. 1 水火災、震災その他の災害の予防、警戒、防ぎょおよび調査に関すること
  2. 2 人命救助に関すること
  3. 3 救急業務に関すること
  4. 4 消防設備等の設置、維持、管理上の指導監督に関すること
  5. 5 社会公共施設等の保全のための指導に関すること
  6. 6 危険物、火気使用設備器具の取締りおよび高圧ガスならびに火薬類の安全のための指導監督に関すること
  7. 7 防火帯の設定に関すること
  8. 8 住民の防災知識の普及および防災行動力の向上ならびに事業所の自主防災体制の指導に関すること
  9. 9 消防団に関すること
  10. <数2>10 その他災害対策に必要な事項

三、指定公共機関

日本電信電話公社
(東京豊島地区管理部)
  1. 1 電信電話施設の建設および保全に関すること
  2. 2 災害時における通信の確保に関すること
  3. 3 その他災害対策に関すること
東京電力株式会社練馬支社
  1. 1 電力施設の安全に関すること
  2. 2 災害時における電力の確保および需給に関すること
  3. 3 その他災害対策に関すること

四、指定地方公共機関

東京ガス㈱練馬営業所
  1. 1 ガス施設の安全、保全に関すること
  2. 2 災害時におけるガスの需給に関すること
  3. 3 その他災害対策に関すること

五、公共団体

練馬区医師会
  1. 1 災害による救急医療に関すること
  2. 2 医療関連事項
防災予防計画

第一編には防災に関する調査研究の事がうたわれ、各関係機関は毎年危険区域の調査を行ない、成果および資料の交換をして総合的に計画の整備を推進させるものとしている。

次いで第二編には電気・ガスおよび上下水道・通信など都市施設の防災計画が述べられ、各関係機関がこれに当る。

建築物・危険物

第三編では建築物、第四編では危険物に対する計画がうたわれているが、災害にはこれらの状況が気になるところである。本区には表7―1に示すとおりに木造建築物が多く、(表は本計画書より転載、以下の表も同じ)従って出火の際の類焼の危険が多い。これを予防するための査察業務その他適切な指導を要する。危険物については比較的少ないが、それでも表7―2にみられるような状況である。これ以外にも高圧ガス等の製造所七か所(表7―3)、

図表を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示

図表を表示 毒物・劇物製造業一五か所(表7―4)があり、また本区には放射性同位元素を保有する施設一か所(表7―5)があって、これらの各施設の取扱い状況の把握、自主的災害予防態勢の確立が必至とされる。

応急対策資器材

災害発生時の場合には、資器材の購入が一時麻ひ状態となることが予想され、このため平時の資器材貯留および水利の確保などを次のように行なう(第五編)。

地下貯水槽は四七年度から設置され、五三年一二月現在では六八基を数えている(『現勢資料編』六六三ページ参照)。その全体計画は九三基で、現在の進捗率は七三・一%である。一〇〇%達成は五六年度の予定である。

備蓄倉庫については五〇年度から設置されてきており、五四年度末までで五倉庫、延床面積五七〇㎡の実積を上げている(『現勢資料編』六六二ページ参照)。全体計画は一二〇〇㎡を目途にしており、これにより約三六万人の被災者に対する応急物資を最低限度まかなえるとしている。

消防水利の現況は表7―6のとおりである。

図表を表示
住民の避難

災害時における避難計画が第六編に述べられている。

四七年七月に東京都では二三区を対象とした一二一か所の避難場所を設置した。また四九年四月には避難場所への道路(避難道路

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が指定された。本区の避難場所および避難道路は図7―1のとおりである。図中の町名は各避難場所を利用する地域割を示すものである。

各避難道路沿いには付近住民によって組織された市民消火隊が配置される。市民消火隊は四九年度および五〇年度に消防庁により配備されたものであるが、五四年度からは区に移管され、今日では東京都震災予防条例第三八条に定める「震災の発生時に都民を避難場所に安全に避難させるため必要な道路の確保に努める」ための組織の一環として位置づけられている。市民消火隊の配置状況は図中①から㉛までに示すとおりである。なお『現勢資料編』六六〇ページに一覧を掲げてあるが、図中の番号の①から㉑までが一覧表の石神井地区第一から第二一番に該当し、㉒から㉛までが練馬地区第一から第一〇番に当る。

以上の各計画の他に第七編では「防災知識普及計画」、第八編では「訓練計画」が定められているが、訓練計画については後節の「総合防災訓練」を参照されたい。

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災害応急対策計画――震災編

区内に災害が発生した時、またはその恐れのある場合に適用される計画であり、区災害対策本部の設置および区職員の配置状況、都その他の区市町村ならびに各防災機関との協力態勢が第一編から第三編にわたり詳細に規定されている。

注目されるのは第四編の民間協力計画および第五編の通信連絡計画で、まずこの二点を紹介しておくこととする。

(民間の協力と通信システム)民間協力団体としては次のとおりである。

農業協同組合、防犯協会、交通安全協会、防火協会、商工会、青年団、婦人会、町内会、自治会、建設業協会、アマチュア無線家による協力団体。

その協力業務内容の主なものを次に示す。

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  1. ・異常現象、災害危険か所等の関係機関への通報。災害に関する予警報等の区民への伝達、広報公聴活動への協力。
  2. ・避難誘導、り災者救助、炊出し、救助物資の配布・輸送等への協力。
  3. ・り災証明書交付、秩序維持、被災状況調査への協力。
  4. ・医療・助産活動、水防活動、建設活動に関する協力。
  5. ・初期消火、その他の応急対策業務への協力。

特に災害時における通信系統の途絶などが心配されるため、アマチュア無線の活用が期待されている。そのあらましは図7―2のとおりである。また、東京都全体の通信網のしくみを図7―3に示しておく。

(その他の計画)第六編では情報および予警報について、第七編では災害広報について述べられ、被害の状況報告、区民への情報伝達のことが定められている。第八編の輸送計画では車輛の調達、配車方法に触れ、第九編では労務需給計画として奉仕団、工作協力隊、労務者傭い上げ、その費用等について規定している。第一〇編は消防計画であり、第一一編に食品給与計画がある。

この計画によれば、米穀、乾パン、生パン、副食、調整粉乳などの購入を行ない、その集積地として豊玉小学校、光和小学校、高松備蓄倉庫が指定されている。また同時に一人当りの給食基準も定められており(災害救助法施行細則による)、災害救助法適用前は一人一日三五五円以内、適用後は東京都知事の指示に従うものとされる。

第一二編は生活必需品について、第一三編は給水計画である。表7―7にそのあらましを示してあるが、飲料水の必要量は一人一日三ℓとしている。

図表を表示

この後は医療(第一四編)、防疫・保健衛生(第一五編)に続いて住宅対策計画(第一六編)がある。応急仮設住宅の設営である。その基準は、「全壊、半壊または流失等の被害を受け、対象となる世帯数の三割以内の範囲で、一戸当りの面積一三・一㎡(四坪)建設費五四・八万円以内」とされている。

以下一七編の障害物除去計画から二四編の警備計画までの間はここでは割愛する。簡単ではあるが以上が「震災編」のあらましである。

風水害等編

この計画は台風、集中豪雨などによる風水害対策として定められたものである。計画は第一編に水防計画、第二編に風水害避難計画が収められ、その要点は次のとおりである。

水防計画としては表7―8に示す区域を警戒か所として定め、河川の巡視、防ぎょ活動、雨量・水位の観測および通報その他水防作業等について規定が設けられている。

図表を表示

雨量の観測場所としては次の四か所がある。

なお、水防作業については本区では水防法第六条の「水防団」はおかず、もっぱら消防機関がこれに当っている。

風水害避難計画は、事前避難の必要性を説き、警察、消防、自治会等による情報の伝達、老幼・婦女子・病人等の避難指導その他避難所設置について規定している。避難所については付近の小・中・高等学校および公共施設が当てられているが、詳細は『現勢資料編』六六六ページを参照されたい。

<節>
第三節 防災訓練
<本文>
区報が記した防災訓練の足跡

本区の区報(二八年五月「練馬区広報」創刊、以後四五年四月「ねりま区報」となる)が防災訓練の記事を大きく取り上げたのは三九年一二月一七日の第八一号紙上での事である。この年本区では最初の地域防災計画が策定されており、災害に対する世論がようやく高まりをみせ始めていた。ただ記事はいわゆる総合防災訓練ではなく、「防火演習」であり、想定は建てもの火災であった。その内容は当時まだ竣工して間もない庁舎(現第一庁舎)から火災が発生したものとし、来庁中の区民の避難誘導を行なったほかは消防車一五台、はしご車一台、救急車一台の協力を得た消防訓練である。実施日は一一月二六日であった。

当時はまだ今日のような地震を主体とした広域災害への認識は薄く、従って総合的な防災訓練への動きはみられない。こ

の頃の区報が区民に対して警戒を呼びかけていた災害の第一は台風であり、次いで火災であった点にも当時の災害認識のあり方がうかがえる。

しかし、同じこの年の九月一日、消防団では関東地震を想定した参集訓練が行なわれた。練馬消防団の「沿革誌」(日々のでき事を記した日誌)の中で最初に登場する「地震」への取り組みである。以下この日の記録を参考までに掲載しておく。

<資料文>

昭和三十九年九月一日 本日午前四時五八分関東地方一円に大地震が発生し多数の家屋が倒壊し、交通、通信、電力、水道の各施設はじん大な被害をこうむり各所に多数の火災が相次いで発生したとの想定にて参集訓練を実施した。

参集人員場所分団摘要
三六名 南町小学校 第一分団
七三〃   〃   第二〃 団本部員三名含む
二五〃   〃   第十〃
六三〃 石神井出張所 第五〃 本部(二名)
五八〃   〃   第七〃
四八〃   〃   第九〃
四六〃 仲町出張所 第三〃
九〇〃 田柄 〃  第四〃 本部(一名)
四三〃 大泉 〃  第六〃
五七〃 関町 〃  第八〃
計五三九〃

今日では毎年九月一日の関東大震災の日を期して行なわれる防災訓練の、これが本区におけるはしりであったとみることができる。その後区役所では四二年一一月二七日にも火災予防を目的とした消防演習を行なっているが、この時には「消防

フェスティバル」と題してさまざまな行事を催し、広く区民に防火を呼びかけた。

四三年七月一五日の区報(第一三六号)に十勝沖地震義援金募集の記事がみえる。この地震は同年五月一六日に発生したもので、以後本区では義援金の募集を行ない、区民への協力を呼びかけていた。区報ではすでに一九二万七二二五円が寄せられている旨を報じている。

この直後の八月一五日の区報(第一三七号)で「台風・地震に備えよう」と題する警報記事が掲載された。台風に並んで「地震」が登場したのである。記事は地震の際の身の処し方を記し、デマに迷わず確実な情報に従って行動するよう呼びかけている。また避難の時には所持品は最少限にして、帽子やヘルメットをかぶるよう細かい注意を忘れていない。なおこの時の避難場所は台風の場合と同じとされている。

翌四四年八月五日、「総合防災訓練」が行なわれているが、この時の記録は残っておらず詳細は不明である。ただ写真によれば水防訓練が主体であった。震災対策としての防災訓練はむしろ翌四五年以降に活発さをみせる。四五年八月一五日の区報(第一六八号)には九月一日を期して「総合防災訓練」を実施する旨の記事が掲載された。九月一日を「防災の日」と定めたのは三五年であった。この間一〇年を経て、防災の日は総合防災訓練の日となり、以後毎年総合防災訓練は九月一日に実施されるのが慣例となっている。この年の内容は谷原小学校付近、グラント・ハイツ内、自衛隊第一師団グランドを避難場所とし、警察、消防、その他区内官公署のほかに米軍第五空軍の協力を得ている。

これより前、五月一九日、区長は都知事宛てに災害避難場所兼用の大公園設置の要請を行なっているが、翌年一〇月に制定された「東京都震災予防条例」に、危険地域、避難道路とともに避難場所の規定が定められ、以後広域災害対策は年とともに充実がはかられ、今日みられる大規模なものへと発展した。

区報でも「地震」に対するアピールが次第に重視されてゆく過程がわかる。四六年八月一五日(第一八五号)紙上では「<圏点 style="sesame">地震や台風に備え災害対策を万全に」とうたい、四七年八月一五日(第二〇〇号)では「日頃から心の準備を!」として

「東京は地震にもろい」と呼びかける。四八年になると「いま、大地震がおきたら、そのときあなたは……」(九月一日、第二二二号)と切迫した叫びとなっている。

そして四九年には「あなたの地震対策は」(九月一日、第二四九号)とたずね、区内では六月に避難道路が指定されたことを伝え、その他の防災施設が着々と整いつつある現状を紹介している。

もちろんこの間九月一日の防災訓練は続けられ(雨で中止の場合もあるが)、年を追うごとに規模も拡大され、ことに五〇年代を迎えて、より本格的な様相を呈するまでになった。五四年九月一日には「東京都・練馬区合同現地震災総合訓練」を含めた総合防災訓練が実施され、参加人員は延べ三三万六〇一四人とされている。未曽有の規模となったこの防災訓練の模様を以下「東京都総合防災訓練実施要綱」から一覧しておくこととする。

五四年九月一日

この日「東京都総合防災訓練」と称する大規模な訓練が多くの練馬区民をも同員して開催された。その目的を実施要綱は次のようにうたっている。

<資料文>

目的「この訓練は災害対策基本法、東京都震災予防条例、東京都地域防災計画等に基づき、大震火災時における住民の救助活動、初期消火、避難、医療救護活動等に重点をおいて、都、区市町村及び防災関係機関が一体となった訓練を行うことにより、機関相互の協力体制の緊密化及び防災計画運用の習熟化を図るとともに、あわせて都民に対しては、意識の啓蒙段階を脱し、訓練の実際活動への参加をとおし、主体的に行動する「災害に強い都民」像の確立を図ることを目的とする」

このように「目的」はすでに都民の意識の「啓蒙」段階にはなく、実際活動への「参加」を目ざしている。訓練の総合的なあらましは次の通りである。

①東京都・練馬区合同現地震災総合訓練

  1. ・総合訓練(旧グラント・ハイツ跡地
  2. ・密集市街地訓練(九か所
  3. ・避難路及び緊急車輛通行確保訓練(旧グラント・ハイツ周辺の川越街道
  4. ・災害医療救護訓練(旧グラント・ハイツ跡地ほか

②震災発動訓練

  1. ・本部開設及び本部運営訓練
  2. ・図上訓練
  3. ・通信訓練

③各局実働訓練

④区市町村訓練

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このうち②および③は東京都または関係機関による訓練であり、④はおおむね①に準処している。従ってここでは①の現地総合訓練の状況を記すに止める。なお図上演習によって想定された今回の地震はマグニチュード七・九、最大震度六(烈震)、震源地は東京の西南約五〇㎞の相模トラフ上であった。

現地震災総合訓練は同日午前九時三〇分から午後一時三〇分の予定で行なわれた。参加者は練馬区の各町会、自治会など三一団体、板橋区から二町会、東京都議会、練馬区議会、市民消火隊、板橋区、警視庁、東京消防庁、陸上自衛隊、東京都医師会、東京電力株式会社、東京瓦斯株式会社、日本赤十字社東京都支部、日本放送協会、(社)東京都トラック協会など総計三三団体、三九機関を数えている。

この現地震災総合訓練中、総合訓練と医療救護訓練は午前八時の広報活動によってスタートが切られた。各機関の指揮および都災害対策本部は航空機等によって現地への進出が指令される。この間に密集市街地訓練が九時三〇分のサイレン、花

火、ヘリコプター、広報車等の発災合図で開始され、各家庭、事業所、学校等で火の元の一斉点検、一時退避、非常持出品の点検等を実施。一時集合場所への集合、住民、市民消火隊および消防団による初期消火活動が展開される。一方避難路および緊急車輛の通行確保訓練が警視庁、消防庁の手で行なわれ、住民の一時集合場所から広域避難場所への誘導が実施される。陸上自衛隊では炊飯車を利用し、地元町会、自治会の参加の下に非常炊出しを進めている。

こうして被災状況が判明するに従い、医療救護活動、応急仮設住宅の設営、傷病者等の搬出、通信施設の応急復旧、救助物資の輸送配分、緊急血液の搬送、防疫、住民による大規模初期消火などの訓練が展開される。

総合防災訓練はほぼ予定通り全課程を終了した。

<節>
第四節 災害対策実態調査
<本文>
地震による危険度測定

「東京都震災予防条例」第一七条に定める地域別危険度の科学的測定結果の公表、および第一八条、一九条に定める「危険地域」、「特別危険区域」を明らかにすることを目的として、四七年度から四八年度にかけて調査が行なわれた。調査方法としては地域を五〇〇m×五〇〇mの区域に分割し、それぞれの区域内における「危険度」を次の五要素から判定する。

  1. 1 木造建物総合危険度
  2. 2 地域特殊性危険度
  3. 3 総合出火危険度
  4. 4 延焼危険度
  5. 5 避難距離からみた危険度

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各要素ごとに「危険度」0から4までの五ランクを設け、その数値から地域別の危険度を割り出そうとするものである。こうして示された数値を合算した総合危険度のランク別分布状況を図7―4に掲載する。本区では危険度「4」の地域は無く、「3」がわずかにある。練馬駅周辺および江古田駅の南部である。次いで「2」の地域については、これはかなり広く分布していることがわかる。しかも東南部に多く、本区では最も市街地化が著しい地域である。また富士見台駅周辺、上石神井駅の南部などにも目立つ区域があるが、駅周辺の建て込み状況は年々繁雑化し、防災対策上の大きな課題となっている。もっとも富士見台駅周辺は区内では数少ない準工業地域となっており、中小の工場を保有している。

図中には示していないが、その他の区域における危険度は決して「零」ではなく、大半が「1」にランク付けされている点に注目すべき

ものと思われる。

防災に関する世論調査の地域別比較

東京都では五二年二月に、「災害に強い街づくり」を目ざす一環として、島部を除く都内全域にわたり災害に関する世論調査を実施した。内容は①地震のイメージと不安、②地震に対する日常の心がけ、③消火、④情報、⑤危険物防除、⑥避難場所・防災活動拠点、⑦防災対策への要望の七項目について、二〇歳以上の男女個人一五〇〇人に対する訪問面接聴取法によった。この際地域を左のように分類し、全体と地域比較とを行なっているが、以下城西地区を中心に「防災に関する世論調査」のまとめを一覧しておくこととする。

<資料文>

集計分析に用いた地域区分は次のとおりである。

  1. ○都心地区(千代田・中央・港区
  2. ○山手地区(文京・豊島・新宿・渋谷・目黒区
  3. ○下町地区(台東・墨田・江東区
  4. ○城東地区(足立・葛飾・江戸川区
  5. ○城西地区(練馬・中野・杉並・世田谷区
  6. ○城南地区(大田・品川区
  7. ○城北地区(板橋・北・荒川区
  8. ○多摩近郊地区(三鷹・武蔵野・調布・東村山・府中・小平・小金井・国立・国分寺・田無・保谷・狛江・清瀬・東久留米市
  9. ○多摩郊外地区(立川・町田・八王子・青梅・昭島・日野・福生・武蔵村山・東大和・多摩・稲城・秋川市・その他五町一村

まず「地震」と聞いて何を思い浮かべるかについては、「火、火災」に関する事項を答えた人が全体の六四%いる。これは地域差に関りなく一様のイメージとして捕えることができる。また大地震が起った時の心配としてひとり三項目選択法がとられているが(従って全体数値は三〇〇%が満点)、これによれば「火災」がトップであり、ほとんど地域差が無い。しかし、二位以下は地域において明らかな差が生じている。「多摩郊外」の人々は「家の倒壊」(五五・九%)、「家族との連絡」(五一

・三%)を上げるに対し、「城西」地区では「人が混乱すること(パニック)」(四五・六%)を指摘している。これは「多摩近郊」の四六・九%に次ぐ数値で、「城北」の四四・八%、「都心」の四三・六%をしのいでいる。本区の人口集中と道路の狭さは今後の都市計画上も大きな課題であり、この調査による限り、住民の「パニック意識」は都心部よりもむしろ周辺区部の方が高いと見ることができる。

次いで注目すべきことは、消火のそなえとして「消火器」を用意していると答えた人は「城西」地区が最も少なく(五四・四%)、「都心」の七四・四%、「多摩郊外」の六九・七%に比べて「災害意識」の割には用意の上でいささか楽観的な面がある。これに関連して、防災訓練の経験の有無については、「訓練した」と答えた人が「多摩近郊」に次いで少なく、二六・六%という数値である。これは最も多い「下町」の六三・五%と比較して著しく低い。こうした傾向は二三区を対象とした「避難場所の確認」の面にも表われ、確認したことのある人は「城西」では二九・〇%で、「下町」の二五・九%に次いで低位である。最も高いのは「山手」の五四・三%が上げられる。

以上概観したように、この調査による限り、本区を含む「城西」地区では災害に対する意識は高い割に対策への実態の点で必ずしも万全とは言い難く、今後の方策に待つところである。

民間コンクリートブロック塀調査

(調査実施への経緯)現代における都市構造の複雑さは年々その度合いを深め、災害に対する危険性は極度に増大しているといえる。東京都では五二年一〇月、都議会に「震災対策特別委員会」を設け、震災対策への見直しをはかることにした。翌五三年六月には東京都防災会議が過去の調査研究をまとめ、東京都区部の被害想定を発表した。また同月「大規模地震対策特別措置法」が制定されている。そして、この六月一二日に宮城県沖地震が発生した。

都市型災害として全国の注目を集めたこの地震は以後多くの教訓を残したが、中でも宮城県内における死者二七名中一〇名がブロック塀の下敷きになったものであるという事実は関係者に大きな衝撃を与えた。倒壊したブロック塀の実体は、建

築基準法に規定された建築方法を無視したものが多く、その原因として、ブロック塀は素人でも容易にでき、また業者のうちでも不良工事をしていたものがあった点などがあげられる。

東京都防災会議ではこうした経緯を重視し、同年一二月、「東京都震災予防計画(昭和五三~五七年度)」を公表したが、その中でブロック塀、石塀の安全対策指導の強化を訴えるとともにブロック塀の実態調査を行なうこととしている。その全体計画の要点は次のとおりである。

本区では区民のブロック塀に対する不安感が高まっていた矢先でもあり、区議会では計画をより一層充実させた方向で捉え、検討を重ねた結果、総計一万四四三八か所にわたって綿密な調査を行なう旨の決定をみた。

調査は第一期と第二期とに分けて行なわれることとなり、第一期は練馬地区の七二一七件を五四年五月七日から九月三〇日にかけて実施し、第二期は主に石泉地区の七二二一件を同年九月一日から翌五五年一月三一日にかけて実施する運びとし、それぞれ予定通りに完了した。この間の調査委託費は総額三五八〇万円であった。

図表を表示

五五年三月には結果が「民間コンクリートブロック塀の最終報告(都市環境部建築課)」としてまとまり、以下この報告書にそって調査の概要を記すこととする。

(調査方法)表7―9は調査の範囲を示した

ものであるが(表は同報告書より転載、以下の表も同じ)、この表中の調査件数の対象となっているものは高さ一・一〇m以上のブロック塀、万年塀および大谷石塀である。ブロック塀の高さについての制限根拠は、文部省発表(五四年四月)の「五三年度学校保健統計調査」による六才児童(小学校一年生)の平均身長から割り出した危険限度であり、また宮城県沖地震の際の倒壊においても一・一〇m未満のものはほとんど人身事故に影響を与えてはいなかったとされる。

建築基準法施行令第六二条の八にブロック塀の建築規定が定められているが、調査はこの規定を根拠として次の諸観点から聞き取り調査、外観調査、鉄筋探査器による配筋検査、基礎状態調査、写真撮影その他各種の調査方法を駆使して行なわれた。

<資料文>

調査観点

  1. 1 材料、施工上の不良
  2. 2 控壁の不備
  3. 3 補強鉄筋の不完全
  4. 4 基礎の欠陥
  5. 5 使用上の不適切

図表を表示

こうして得た結果を特A、A、B、Cの四ランクに分けて判定し危険度測定の目安とした。判定ランクの内容は表7―<数2>10に示すとおりである。(調査結果)表7―<数2>11は総合結果である。一目して特AおよびAの「危

険度」とされるものが圧倒的な数を占めていることがわかる。図7―5はランク別にみた構成比率を示すものであるが、「危険度大」は全体の八六・五%に達している。すなわち本区内のブロック塀の対震強度は著しく低い事実が判明したのである。以下各分類内容別にその状況を一覧しておくこととする。

小学校通学路沿いについては富士見台小、大泉第四小、大泉第二小、大泉第一小、光和小などの通学路に対象となったブロック塀が多く、件数は順に四八二、四八二、四七四、四四六、四一七である。従ってこれらの区域には危険性も大きく、ちなみに「危険度大」の占める比率はそれぞれ八五・一%、八三・二%、八五・四%、八二・一%、八五・四%といった実情で、いずれも危険度は高く、それだけ件数の多少が「危険性」の有無に関わっているとみなすことができる。表7―<数2>12に各小学校通学路別の判定状況を示しておく。

図表を表示 画像を表示

図7―6は避難道路別の調査状況である。最も塀の多い道路は目白通りであり全体の二六・九%を占めている。次いで中杉通り、青梅街

図表を表示

道の順となるが、いずれも「危険度大」の占める比率が高いことには変りはない。また図7―7は本区内で地域危険度「3」とランク付けされた二か所(練馬駅、江古田駅各周辺)の調査状況である。この地域で「安全度大」とみなされた塀はただ一件のみであった。

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表7―<数2>13は町別にみた判定ランク別件数である。件数の最も多いのは西大泉町(八九四件)、春日町(六七四件)、練馬(六六四件)、南大泉町(六五九件)、北大泉町(六四一件)の順で、少ない地域としては立野町(七〇件)、羽沢(七一件)、平和台(七二件)などがあげられる。もっとも件数の多い地域のうちで大泉地区は面積も広く、その点春日町および練馬の各町については特に注意する必要がある。

このほかさまざまなデータが寄せられているが、中でも高さ別にみた内訳が興

味深い。表7―<数2>14によってそのあらましをみれば、塀の高さで最も多いのは一・四m~一・六mのものである。次いで多い一・六m~一・八mの高さのものを加えれば全体の五八・四%に達する。これらの高さは普通のおとなの目の位置を考慮したものであることがわかり、塀は単に区域の設定、侵入防止のみならず、プライベートを守るためのカーテンとしての役割を大きく担っているもののようである。それだけに子供の身長からすればはるかかなたに塀の頂点が位置し、一旦崩れを生 図表を表示

図表を表示 じた場合にはその危険性は致命的なものがある。自らのプライベートは守り得ても他人の生命の保障は成し得ない、このような塀の存在は今後一考の余地がある。こうした観点から本区では広く区民の協力を呼びかけている次第である。

(その後の措置)判定ランク中の特AおよびAの「危険度大」に該当する塀について、本区ではその所有者、管理者あてに「ブロック塀改修のおすすめ」を配布し、協力を依頼した。またこうした施策を推進させるため、住宅修築資金融資あっせん、震災対策用の苗木配布(「練馬区震災対策用苗木配布要綱」・五四年六月一日)、フェンス、ブロック塀等に関する相談(「練馬区外構(フェンス・ブロック塀等)相談運営要綱」・五四年五月一日)、その他の適切なアドバイスなどを通し、区民の要望に広く答えてゆこうとしている。

<章>

第八章 人口

<節>
第一節 東京都人口の動き
<本文>

東京都の人口は、昭和五四年一〇月一日現在で、一一四二万八六八九人(住民基本台帳)を数える。対全国比では一〇・一%を占めている。人口密度は一平方キロ当り五三二七人と高く、全国平均三〇六人に比べて過密状態にある。

このうち区部(二三区)人口は、八二四万二九〇三人で都人口の七二・一%を占め、区部の人口密度は一平方キロ当り一万四一八五人に達している。区部別にみると世田谷区(七七万〇九一五人)を筆頭に、大田区(六六万二七二九人)、足立区(六一万八六四七人)につづいて練馬区が五五万七一四一人で、二三区中四番目に位置している。また人口密度では、区部平均より低い一万一八五四人を示し、二三区中一七位にある(図8―1・表8―1)。

都人口の推移

東京都人口の時系的推移(表8―2)をみると、終戦の年の昭和二〇年一一月一日現在、三四八万八二八四人(人口調査)であった東京都の人口が、海外からの引揚者や出生の激増、いち早い経済の復興と職を求める人たちの流入によって二五年には六二七万人台となっている。とくに同年の朝鮮動乱にはじまる特需を契機に、産業と人口の集中をもたらし、昭和二八年には七四六万八九〇七人に達して戦前の最高を上回っている。とくに昭和三〇年代における経済の高度成長にともない、大幅な増加を続けて三七年には、ついに一〇〇〇万人の大台を超えた。さらに四二年には一一一〇万人を超す増勢をつづけ、四八年には一一六〇万人台に達したが、その後横ばい状態がつづき、五四年に至ってもこの水準にある。とくに四九年以降は、対前年増加率において〇・二%~〇・一%の低率を示し、五三年には増加率がゼ

ロ、人数において一二二三人の増加にすぎなくなった。そして五四年には、増加率がついにマイナスに転じ、対前年人数では九一五一人減となり逆に減少傾向をみせている。これは市部や郡部および島部を含めた東京都全域にわたる数値で、区部二三区では早くからその傾向を示していた。

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表8―3「東京都区部別人口の増減率」は国勢調査に基づく五年毎の対前回比の増減を示すものである。区部二三区における二五年~三〇年の平均増加率は二九・四%であったが、三〇年~三五年は一九・二%、三五年~四〇年には七・〇%に低下し、四〇年~四五年には△(マイナス)〇・六%と、ついにマイナスに転じ減少にむかった。四五年~五〇年には△二・二%になり、さらに減少率をひろげている。

しかし、区部の中でも都心区と周辺区とでは、かなり様相が異なっている。都心区である千代田・中央・港の三区は、二五年~三〇年の段階で増加率の伸びが低率で、すでに人口の頭打ちがみられ停滞期にあることを示している。一方周辺区にあたる練馬区をはじめ江東区、大田区、板橋区は五二・三%~三九・六%の高い増加率を示している。しかしこの段階では周辺区であっても葛飾区、江戸川区、足立区はまだ二〇%を少し超す程度にとどまっている。逆に副都心区である新宿区、豊島区、渋谷区が四一・五%~三四・三%の高い増加率をあらわし、都心に準ずるこの地域が、この段階において人口急増期であることを示している。

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三〇年~三五年では、練馬区の六四・五%を筆頭に板橋区三二・六%、葛飾区二八・一%にみるように、周辺区が急増しているのに対し、都心区およびそれに準ずる区部が低下している。また増加率の対前回比で上回るのは二三区中、練馬、葛飾、江戸川の三区にすぎなくなった。ただ周辺区の場合、一様に二〇%前後の増加率ながらまだ人口増加の傾向にあることがわかる。

つぎに三五年~四〇年では、練馬区の増加率四二・二%を最高に、二〇%前後の増加率を示すのは江戸川、足立、葛飾といった周辺区で、他はほとんど低い増加率にかわり、逆に人口減少区が千代田、中央に続いて港、文京、台東、墨田、品川、荒川の八区に増えてきている。人口の静止ないしは頭打ち現象が、だんだん都心区から周辺区に及んでいく過程を明ら

かにしている。

図表を表示

つぎの四〇年~四五年になると、増加率最高の練馬区にもかげりを生じ、二一・三%と前回の増加率に比べて半減し、足立、江戸川両区も同様に、それぞれ一一・一%、一〇%と前回の増加率の半分にも満たない低下を示し、しかも減少区は前回の二倍にも増えて区部二三区中一六区におよんでいる。区部平均では、ここではじめてマイナス〇・六%の数値を示した。なお都心部の千代田、中央両区はいぜんとして高い減少率にある。

昭和四五年~五〇年になると減少傾向はさらに顕著にあらわれてくる。減少区は区部中一七区となり、増加区はわずか六区となった。いままで周辺区の中でも比較的増加率の高かった練馬、足立、江戸川の各区も一桁台の六・五%~六%に落ち込み、板橋区五・四%、そして世田谷区二・三%、杉並区の一・四%と微増加にとどまり、近い将来減少区に転じることを示唆している。

昭和五四年一〇月一日現在の住民基本台帳人口では、増加率の最も高かった練馬区が前年に引続いてマイナスに転じている。

都の人口動態

ところで東京都区部において人口増が急速に低下したのは何によるものであろうか。一般に人口増加の要因には自然増加(出生と死亡の差)と社会増加(転入と転出の差)の二つがある。人口は出生と他地域からの転入によって増加し、死亡と他地域への転出によって減少する。これまで東京の人口増加の大半はこの転入超過による社会増であった。他府県との転入、転出の差である。東京は政治、経済、文化の面で、あらゆる諸機能が集中しており、よりすぐれた雇用機会、より高い所得水準など人口吸引力として作用し、全国各地から大量の人口を受け入れている。このため増加人口のうち七〇%台を転入超過による社会増加が占める時期もあった。

ところが図8―2・表8―4により「社会増」の推移をみると、都の人口増加は「社会増」が昭和四二年を境にマイナスに転じ、以来「社会増」のマイナスがつづいている。昭和四一年までは転入超過による「社会増」であったが、四二年から、ついにマイナスを示し転出超過となった。

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これに対して「自然増」は三六年以降の推移では増加基調にあり、四三年を最高に不規則な動きをみせている。全体としてはゆるやかな下降線をたどり低下傾向を示すが、しかし、この「自然増」が東京都人口の増加要因となっている。

「自然増」は出生と死亡との

差である。表8―4・図8―2に明らかなように、四四年以降の死亡数は五万人~五・五万人を推移し安定しているのに対し、出生は四六年をピークに年次漸減しており「自然増」が、だんだん減少してきている。そのために都の人口増加のペースが急速に縮小している。しかしこの「自然増」が都の人口を支えているわけである。だが五四年には転出超過分を「自然増」がカバーしきれなくなり、ついに増加人口のマイナスを引き起している。

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東京都の人口増加を抑えているのは、転出超過による「社会増」のマイナスであるが、区部における人口の過密、地価の高騰、住宅難、公害の発生など大きな要因となって転出人口が転入人口を上回る、いわゆる転出超過による「社会減」をまねいている。最近では生活環境の悪化に加えて、都に転入してきた人びとも隣接地域へ移住する傾向があり、年ごとに都心部の空洞化が進行し、周辺部への人口拡散が続いている。そして職・住の距離を、ますます遠ざけている。

このような東京における人口増加の停滞と減少、とりわけ区部人口の減少に対して都下市町村部や隣接する埼玉・千葉・神奈川各県の人口増加は著しい。

図表を表示

表8―5により都と隣接三県の人口の動きを昭和四六年以降についてみると、東京都では同年のドルショックや四八年のオイルショックも手伝って、人口集積の高い経済成長期の段階でも人口の増加が急速に鈍化しており、低成長期に入るとさらに顕著にあらわれてきている。五一年からは五〇〇〇人台前後の微増加にとどまり、五四年にはついにマイナスに転じている。それに対して隣接三県の人口は二〇万人台~一〇万人台を推移する増加人数を示して、三県に流入していることがわかる。しかし神奈川県では四七年から、埼玉県・千葉県では四九年から人口増加数が漸減して低下傾向にあり、いまでは隣接三県をこえて、さらにその周辺県(茨城・栃木)にまで拡散の輪が広がっている。これは都内における人口の過密、地価の高騰をはじめとする過大都市化によって生じるさまざまな要因によるものといえよう。隣接三県およびその周辺部にドーナツ化現象の環が外側に拡大しているところから、それは東京都の行政区域をこえて広域な範囲の遠心的分散ともみられ、いわば東京大都市圏のいっそうの拡がりを意味するものと思われる。

さて、こうした東京における常住(夜間)人口の拡散による減少傾向に対して、逆に昼間人口は年々増加する傾向にある。昭和五〇年国勢調査による他府県から都内へ流入する人口は、一九九万八一二二人であるが、全体の九五・五%(一九〇万八一五〇人)は隣接三県(埼玉・千葉・神奈川県)からの流入である。昼間人口の増加は、年々

増大する東京都の活動的な産業部門による人口吸引力のあらわれであり、今後ますます伸びる傾向にある。

<節>
第二節 練馬区人口の動き
<本文>
区人口の推移

昭和五四年一〇月一日現在における練馬区の住民基本台帳人口は、五五万七一四一人で前年に比べて五七八人(〇・一〇%)の減少を示した。前々年の減少、二三七人(〇・〇四%)につづいての記録である。

東京都二三区内で最高の増加率を示していた本区の人口が、人口減に転じるまでの人口の動きについて触れてみることにしよう。

練馬区が板橋区から分離独立した昭和二二年の食糧配給台帳人口は、一一万七二一八人であり、翌二三年に一八三七人の減少を示したほかは、二八年までは経年的にゆるやかな増加基調で、とくに目立った動きはみられない。これは、かつて「光が丘」に立地した成増飛行場の跡地利用、とくに米軍グラント・ハイツ建設工事にともなう日本人従業員の一時的な流入・流出による「社会増・減」によるものであるが、さして大きな影響はみられなかった。ところが、東京都の人口が二八年には七四六万八九〇七人に達して戦前の最高を上回り、さらに三〇年代の高度成長下にあって大幅な増加をもたらし、三七年には一〇〇〇万人を超え、四八年には一一六〇万人台に達するにおよんだ。とくに都心部の人口が飽和点の様相を帯びて、過密さが人口の減少をひきおこす事例が顕著になるにつれ、都心区から農地・緑地をのこす周辺区に人口が集中するようになった。

練馬区では二九年以降、四五年までの各年の増加人数は、昭和四〇年の増加数二万七五六四人をピークに二万人台から一万人台を推移しており(表8―6)、他区に比べてかなり高い数値を示している。

国勢調査による「東京都区部別人口の増減率」(表8―3)では、本区は昭和二五年~三〇年の段階で四八・四%の増加率

を示して、江東区の五二・三%についで第二位。三〇年~三五年では六四・五%の増加率で、二三区中最高位を占め、二位の板橋区に対して約二倍の増加率であった。三五年~四〇年段階では四二・二%、他区が一桁台の微増加にとどまり、あるいは減少区に転じる中にあって、異常なほどの急増である。本区と同様に周辺区にある江戸川区(二七・九%)、足立区(二五・九%)に比べても際立った高い増加率を示している。つぎの四〇年~四五年になると増加率一位の本区も、しだいにかげを落し、前回比において半減して二一・三%にとどまった。他区もおしなべて低下している。減少区は二三区中一六区を数えており、区部平均も△〇・六%と、この段階ではじめてマイナスを示した。

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四五年~五〇年では、区部で最も高い増加率を示していた本区が、ここでは六%の微増加にとどまり、首位を他区に譲り近い将来減少区に転じることを示唆している。

五一年以降年次的にその増加数および増加率を住民基本台帳(表8―6)でみると、五一年五〇〇二人(〇・九一%)、五二年四一七八人(〇・七五%)、五三年△二三七

図表を表示

人(△〇・〇四%)、五四年△五七八人(△〇・一〇%)と年次漸減しており、五三年には増勢をつづけていた練馬区が、ついにマイナスに転じている。五四年も引きつづきマイナスを示した。

こうした増勢の鈍化、区人口の頭打ち傾向は昭和四四年から顕著に現われはじめており、増加数・増加率がしだいに低下している。

人口増加の要因は社会増加と自然増加であるが、練馬区の人口増加は四五年までは他地域からの転入超過による社会増加であった。ところが東京都心部からの転入が、練馬区を飛び越えて都下市町村や隣接県へ流入することにより、転入者が少なく転出者がそれを上回る結果、いわゆる「社会減」となった。これが人口増加の頭打ちの主因となっている。本区では四六年以降、社会増加のマイナス基調がつづき、自然増加がそれを埋め、区の人口増加を支えていたが、五三年ついに、支えきれなくなり、人口減少区に転じている。このような現象は、東京都区部における周辺区の一般的傾向であり、増加人口に対する社会増の占める割合が年を追って低下し、自然増の割合が高くなってきている。

人口過密、地価の高騰、住宅不足、交通の混雑、都市公害の発生など生活環境の悪化は、都心区から周辺区におよんでいる。これらが要因となって転出超過による社会増加のマイナスを生み、隣接地域への人口拡散の輪が年を追って広がり、東京都区部以外の地域に人口集積がさかんになる、いわゆるドーナツ化現象の進行と広域化が目立っている。

世帯数の推移と核家族化

昭和五四年一〇月一日現在、住民基本台帳上の練馬区世帯総数は二〇万五一〇一世帯で、前年に比べ一四三一世帯(〇・七%)増加した。表8―7「地域別世帯数の増加数・増加率および一世帯人員の推移」に示すように練馬区の世帯増加数は四六年以降、年次漸減してはいるものの、その増加率において東京都および区部二三区平均に比べて高い数値となっている。とくに高度成長下の四六年、四七年、四八年には、区部二三区の増加率が〇・六〇~〇・〇二%を推移しているのに対し、練馬区では二・九〇~二・五五%を推移し、異常なほどの高率を示した。

図表を表示

人口増加率も同様に、区部平均より高く四六年(一・二一%)、四七年(一・三二)、四八年(一・三六%)=(表8―6)を示しているが、世帯数増加率(表8―7)の伸びがこの人口の伸びを上回るために、一世帯当りの人員が減少している。このことは一世帯の規模が、しだいに小さくなってきていることを示すもので、単身世帯化、核家族化の進行を意味するものといえよう。

こうした世帯数の増加、世帯構成の小規模化は東京都全般にみられる傾向であるが、そうした推移を練馬区独立当初の昭和二二年から国勢調査および住民基本台帳の数値に基づいて、その特徴をみることにしよう。

練馬区世帯数は、二二年の臨時国勢調査から五〇年の国勢調査にいたるまで、経年的に人口の伸びを大幅に上回って増加してきている。

表8―8に示すように、昭和二二年~二五年人口増加率一一・九九%に対して、世帯増加率一二・五七%。二五年~三〇年人口四八・四二%に対して、世帯五〇・三四%増。三〇~三五年人口六四・四八%増に対して、世帯九三・二五%増。三五年~四〇年人口四二・二四%増に対して、世帯五六・五一%増。四〇年~四五年人口二一・四四%増に対して、世帯三二・一四%増。四五年~五〇年人口六・〇一%増に対して、世帯一三・八〇%増となっている。

とくに三〇年~三五年は、大都市に産業と人口の集中をもたらす高度成長期の幕開けであり、練馬区ではこの段階が最も大きな影響を受けており、人口、世帯において人口六四・四八%増、世帯九三・二五%増の驚異的な増加率を示

図表を表示 画像を表示 図表を表示 している。これをピークに次の段階三五年~四〇年、四〇年~四五年、四五年~五〇年といずれも増加率は低下し、しかも加速度的に半減する数値に落ち込み、人口と世帯数の頭打ちを示唆している。さらに五〇年以降を住民基本台帳によって年次を追ってみると(表8―9)、人口および世帯増加率はいずれも漸減し、とくに人口増加率は五三年よりはじめてマイナスを示した。世帯増加率も低下して

図表を表示

一%を割る落ちこみである。だが経年的に、この世帯増加率は人口増加率を上回っており、このことは世帯構成が年々縮小していることを示している。

練馬区一世帯当りの人員は、昭和二二年より五〇年段階まで、国勢調査において二二年(四・五八人)、二五年(四・五六人)、三〇年(四・五〇人)、三五年(三・八三人)、四〇年(三・四八人)、四五年(三・二〇人)、五〇年(二・九八人)=(表8―8)を推移し、各回毎に減少しており世帯の細分化、いわゆる核家族化傾向が強まりつつあることがわかる。こうした平均世帯人員の縮小をひき起す要因は、出生率の低下(平均出生児数の減少)や家族員の流出、単身者の流入増加、結婚による世帯分離、伝統的な家族意識の変化による三世代世帯の減少などによるものである。

区部二三区の平均世帯人員も、昭和三〇年を境に年次漸減して核家族化傾向にあるが、練馬区は区部一世帯当り人員に比べ、各回の国勢調査においてそれを上回っている(表8―8)。また、「昭和五〇年国勢調査による東京都の世帯と人口」(表8―<数2>10)により区別の一世帯当り人員を比較してみると、足立区の一世帯当り人員三・三〇人が最も多く、つづいて中央区の三・二二人、千代田区および墨田区の三・二一人、江戸川区三・一七人、江東区三・一五人、葛飾区三・一二人、台東区三・一一人、荒川区三・〇五人の順となり、練馬区が二・九八人で第一〇位を占めている。こうした高位置にあるのは、専用住宅が多く、単身世帯が少ないといった本区の住宅地としての性格をあらわす特徴的な側面を示すものといえよう。

さらに五一年以降を「住民基本台帳」により一世帯当り人員を追ってみると、五一年(二・七六人)、五二年(二・七六人)、五三年(二・七四人)、五四年(二・七二人)と漸減し、減少傾向にあることを示している。

町丁別の一世帯当り人員(五四年一〇月一日住民基本台帳・表8―<数2>14)では、南東部の豊玉上、豊玉中、豊玉南、豊玉北地区で二・〇五人~二・八七人と低く、北部の土支田一丁目~四丁目で三・三六人~三・〇九人と高く、また北西部の西大泉町三・二〇人、北大泉町三・二二人や南西部の上石神井二丁目三・四三人と高数値を示しており、西高東低の世帯構成人員の分布をみることができる。都心への交通の利便性、アパートの立地から単身世帯の集中が南東部にみられるとともに、鉄

道沿線から離れて多少交通の便が悪くても地価の点から、また居住環境の面からも、一戸建および専用住宅が比較的得やすい地域の北西部に、世帯構成人員が多いことが読みとれよう。

世帯構成の内容

次に世帯構成の内容についてみることにする。区部や練馬区ではすでに触れたように経年的に平均世帯人員が減少をきたし、とくに練馬区では三五年国勢調査で四人を割ってから低下をつづけ、五四年住民基本台帳(一〇月一日)では、ついに二・七二人となった。これは練馬区へ若年の単身者が転入して一人世帯を形成したこと、出生率の低下、すなわち一夫婦あたりの平均出生児数の減少、また伝統的な家族意識がくずれ夫婦と子供という核家族化の進展が顕著であったことなどによるものである。

こうした動きを昭和三〇年・四〇年・五〇年の各国勢調査に基づいて、東京都区部(二三区)および練馬区の世帯構成をみることにする。

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世帯は普通世帯と準世帯からなっている。普通世帯は住居と生計を共にしている人の集まり、または一戸を構えて住んでいる単身者をさし、準世帯は㋐普通世帯と住居を共にし、別に生計を維持している単身者、または下宿屋などに下宿している単身者。㋑住み込みの営業使用人の世帯で六人以上の住み込みの営業使用人(五人以下は雇い主の世帯に含める)。㋒学校の寄宿舎および会社や官公庁などの寄宿舎・独身寮などに、起居を共にしている単身者。㋓病院・療養所に三か月以上の入院

患者。㋔老人ホーム、し体不自由者更生施設などの入所者。㋕自衛隊の営舎内または船舶内の居住者。㋖矯正施設の収容者など準世帯に区分されている。

普通世帯が世帯総数に占める割合は、三〇年国調では区部平均九二・三%、練馬区九三・二%。四〇年国調では区部平均九一・八%、練馬区九三・三%。五〇年国調では区部平均九五・六%、練馬区九六・五%となっている。

練馬区は各回調査において、区部平均より高く、準世帯の減少と対照的に普通世帯の増加基調が目立っている。

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図8―5<項番>(Ⅰ)・<項番>(Ⅱ)・<項番>(Ⅲ)は、三〇年・四〇年・五〇年における東京都区部(二三区)の世帯構成グラフである。普通世帯において二人世帯および三人世帯が各回とも横ばいで推移しているのに対して、一人世帯は三〇年(五万九三七九世帯、総世帯数に対する割合三・八%)、四〇年(三八万九四六〇世帯、総世帯数に対する割合一五・一%)、五〇年(

二万七七八〇世帯、総世帯数に対する割合二七・〇%)と国調の各回毎に急増し、しかも総世帯数に占める単身世帯の割合はしだいに大きくなってきている。五〇年国勢調査では準世帯(下宿人・住み込み営業使用人・寄宿舎独身寮入居者など)の一人世帯(一〇万九二一九世帯、三・六%)を加えると、実に総世帯の三分の一が単身者世帯で占められている。これは東京のもつ強力な人口集積力、活動的な産業部門による人口吸引力のあらわれであり、わけても若年層労働力の吸引が単身者世帯を増加させた大きな要因といえよう。

図8―6<項番>(Ⅰ)・<項番>(Ⅱ)・<項番>(Ⅲ)は、昭和三〇年・四〇年・五〇年の各国勢調査における練馬区の世帯構成グラフである。

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普通世帯が総世帯数に占める割合は、九三・二%(三〇年)、九三・三%(四〇年)、九六・五%(五〇年)を推移し、増加傾向にあるが、その家族類型をみると五〇年国調では普通世帯一八万〇五六四世帯のうち、親族世帯(世帯主と親族関係にある世帯員のいる世帯)は一三万七七六四世帯、百分比において七六・三%を占

めている。東京都平均七三・九%に比べてわずかに高くなっている。また親族世帯中、核家族世帯は一一万七二五一世帯でその大部分を占めており、さらに核家族世帯を内訳別にみていくと、夫婦と子供から成る世帯数が八万六一七九世帯と最も多く、次いで夫婦のみの世帯数が二万一二二三世帯とつづいている。女親と子供から成る世帯数八五四一世帯、男親と子供から成る世帯数一三〇八世帯となっている。

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非親族世帯、すなわち世帯主と同居人、家事使用人または営業使用人などの非親族の関係にある者によって構成されているいわゆる混合世帯数は、七四〇世帯と低く、普通世帯の中で占める割合はわずか〇・四%にすぎない。単独世帯つまり一人世帯数は四万二〇六〇世帯、普通世帯に対する割合は二三・三%、さらに総世帯数に占める割合は二二・四%となっている。

つぎに普通世帯における一人世帯の推移を図8―6によりみてみよう。

一人世帯は、三〇年(一一六八世帯、総世帯数に対する割合二・八%)、四〇年(一万四六四〇世帯、総世帯数に対する割合一一・七%)、五〇年(四万二〇六〇世帯、総世帯数に対する割合二二・四%)と急増し、練馬区も単身世帯の急速な増加傾向を示しているが、一人世帯の総世帯数に対する割合は、各回の国勢調査において区部(二三区)平均に比べ、かなり低い数値にある。また二人世帯もわずかではあるが、各回とも区部のそれを下回っている。ところが三人世帯、四人世帯、五人世帯となると区部平均を各年次において上回り、三〇年では三人世帯~五人世帯の総世帯数に対する割合は五二・五%を占めてい

る。四〇年では五五・四%を占め、また五〇年には五三・四%の数値を示した。練馬区世帯構成の過半数は、この三人世帯~五人世帯によって占められていることになる。こうした世帯構成は、いわば練馬区の特徴ともいえよう。

つぎに練馬区の準世帯であるが、三〇年(二八二六世帯、総世帯数に対する割合六・八%)、四〇年(八四三一世帯、同六・七%)、五〇年(六五二七世帯、同三・五%)の推移でみられるように、準世帯数および総世帯数に占める割合は、数値が低く、ともに減少傾向を示している。

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五〇年国調における練馬区の準世帯数は区部二三区中第七位に位置し、準世帯人員は二万一五九八人を数えて二三区中第六位にある。内訳で主なるものをあげると、会社など寄宿舎居住者八七二一人を筆頭に、一人の準世帯人員五〇八五人、ついで病院・療養所患者二二三五人、学校寄宿舎一五二五人、自衛隊一一一五人とつづいている。

人口密度

練馬区の人口密度は、昭和五四年一〇月一日推計人口では一平方キロ当り一万二〇八六・八人になっている。区部二三区平均一万四五三八・四人に比べると低く、順位では第一七位に位置する。

図8―7、表8―<数2>12で明らかなように、練馬区の人口密度の推移をたどると、独立当初の昭和二二年臨時国勢調査で二三六二・〇人/km2であったものが高度経済成長期に入った三〇年ころから人口が急増し、三五年国勢調査には六五〇一・三人/km2と飛躍的な伸びを示した。四〇年、四五年と騰勢はつづくが、人口のすう勢と同様に五〇年段階になると騰勢が鈍化し

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て横ばいを示している。

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昭和二二年、二五年、三〇年、三五年の国勢調査では、本区の人口密度は各回とも二三区中二三位を占め、東京都区部においてもっとも低密な地域にあったが、四〇年国調で二一位、四五年国調では一九位、そして五〇年国調にいたって一七位に位置し、順位がしだいに上がってきている。しかし区部全体に比べて数値は低い。図8―8は五四年の「住民基本台帳による区別人口密度」であるが、本区はいぜんとして低密地域に相当し、今後に人口集積の余地をのこしている地域といえよう。

それに対して都心区の千代田区・中央区、港区は、二二年国調でそれぞれ一五位、三位、一四位と比較的高密度であったものが、三〇年国調をピークに(港区は三五年国調)、しだいに減少を示し、五〇年国調では千代田区二三位、中央区二二位、港区二〇位となっている。また五四年推計では順に二三位、二二位、二一位と低密度で並んでいるのが注目される。それはこの地域が、三〇年~三五年の時点で、すでに居住地域と

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しての限界を示し、人口の飽和点にあることを示すとともに、過密さが人口の減少をひきおこす事例ともみられている。

本区の人口集積は西武鉄道に沿って南東部から北西部に向って進行している。人口密度も各地区によって地域差があることが明らかである。これらは区内における交通機関の利便や地価、住宅階層などが大きな要因になっている。

「昭和五〇年国勢調査による町丁別世帯と人口」(表8―<数2>13)により人口密度の分布をみると、一平方キロ当り三万人を超える過密な町丁は、旭丘一丁目(三万二六三六・八人/km2)ほか、わずか二地域にすぎない。それに準ずるものとして北町二丁目(二万八五一二・五人/km2)がつづき、同じく二万人/km2を超える町丁は、栄町(二万六九六〇・〇人/km2)、豊玉中一丁目(二万四一五三・八人/km2)、豊玉中三丁目(二万七九五三・八人/km2)、豊玉北四丁目(二万二九〇七・一人/km2)、豊玉北五丁目(二三、五七一・四人/km2)、豊玉北六丁目(二万二八〇〇・八人/km2)、桜台一丁目(二万一三八五・〇人/km2)、桜台四丁目(二万四八〇〇・〇人/km2)、練馬一丁目(二万二二四二・九人/km2)、練馬三丁目(二万〇四二一・四人/km2)、貫井一丁目(二万四四二五・〇人/km2)、貫井二丁目(二万三八八二・四人/km2)、北町一丁目(二万二四二八・〇人/km2)、富士見台二丁目(二万一二二一・七人/km2)、となっている。いずれも西武池袋線や東武東上線の沿線に集中しており、世帯構成人員分布とは対照的に、東高西低の分布をみせている。

さらに五一年以降の人口密度推移を「住民基本台帳」によってみると、区人口の頭打ちが顕著にあらわれて、五三年には人口増加数がついにマイナスに転じ、減少区の仲間入りとなった。五四年も引続いてマイナスを記録し、したがって人口密度も人口減にともなう低密傾向を示している。区内において高密な旭丘一丁目も「五四年住民基本台帳」では二万八四四五人/km2を示して、五〇年国調(三万二六三六・八人/km2)よりかなり低くなっている。北町二丁目も二万五九四三人/km2と五〇年国調より一平方キロ当り二五六九・五人も低くなっている。人口増加数の対前年比(表8―<数2>14)は総じて減少しており、また五〇年国勢調査において人口密度二万人/km2を超える町丁の大半が、「五四年住民基本台帳」では人口減少に転じて低密傾向を示しているのが注目される。

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それとは逆に北西部の大泉学園町や北大泉町、隣接する土支田二丁目、同三丁目の低密地域では、五〇年以降急速な人口増で、人口密度の変化に目立った動きを示している。しかしいぜんとして一万人/km2以下の低密地域として人口集積の余地をのこしている。

図8―9は、「昭和五四年住民基本台帳による町丁別人口密度」である。東高西低の分布に変りはないが、人口密度の高い南東部の地域には、すでに人口減少および人口増加の停滞がみられ人口密度の横ばいないしは低密化が顕著である。これに対し、区の中央部から北西部にかけての地域には人口が増加しており、とくに中央部の人口密度が低密度において四四七三人/km2高松五丁目)を頂点に、一平方キロ当り一万人以下の地域であり、また北西部の人口密度が五五四六人/km2土支田二丁目)~九六〇〇人/km2北大泉町)と低密地域であるところから、練馬区の今後の人口分布に、より大きな影響がみられる地域といえよう。

練馬区の人口動態

人口増加の要因は「社会増」(転入と転出の差)と「自然増」(出生と死亡の差)である。練馬区の人口増加は、独立当初の二二年から四五年までは主として転入超過による社会増であった。ところが四六年、都内間の移動による増加人口の極端な落ち込みから、また四四年よりつづく他県との移動による転出超過から社会減に転じている。

以来社会減は各年次にわたってつづいており、自然増がそれを埋めて本区の人口増加を支えてきた。しかし、それも五三年に至ってついに支えきれなくなり、ここに初めて人口の減少を記録している。全体の増加人口のマイナスを示し、人口減少区の仲間入りとなったわけである。

こうした動きを顕著にあらわした四〇年以降の練馬区人口移動の推移をみることにしよう。

表8―<数2>15・図8―<数2>10は昭和四〇年から五三年に至る各年次の「社会動態」と「自然動態」を示したものである。

まず社会動態からみると、四三年までは都内間の移動および他県との移動において転入が転出を上回り、いわゆる転入超

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図表を表示 画像を表示 過の社会増をもたらしている。これが本区の人口増加の主因であった。ところが四四年、他県との移動において三三〇九人の転出超過に転じてからは、各年次とも五〇〇〇人~七九〇〇人の転出超過で推移している。一方練馬区と都内間の移動についてみると、四〇年~四二年には一万三〇〇〇人前後の転入超過であったものが、四三年には八〇〇〇人台と急速に落ち込み、また四六年以降は三〇〇〇人~四〇〇〇人台を推移し、五三年

にはさらに下回って、わずか一三九九人の転入超過に過ぎなくなった。すなわち転出入口が漸増から横ばいないしは停滞気味に推移しているのに対して、転入人口は減少傾向を示し、とりわけ他県との移動による四九年以降の漸減と都内間の移動における四六年の転入人口の急速な低下で、ついに「社会減」をまねいた。以後、各年次にわたって社会増人口のマイナスがつづいている。

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こうした数値の経緯をみると、四二年までは練馬区が首都圏の遠心的な人口移動の位置にあって、区部二三区中もっとも人口集積がさかんであった事情がわかる。また四五年以降は、ドーナツ化現象の環が練馬区よりも外側の地域に拡大して、むしろその地域へ練馬区から人口を流出する位置に変った事情が、表8―<数2>15の都内間の移動および他県との移動にみえる数値によって読みとれよう。

つぎに自然動態(図8―<数2>11)についてみると、出生は四一年の丙午による出生低下の数値を別にして、四〇年の八二〇〇人台から逐年増加して四五年には一万人を超えており、四九年まで一万人の水準を推持している。五〇年以降は急速に減少しはじめ五三年には七五八三人に漸減した。死亡に関しては四〇年の一〇八〇人から四五年の二一六八人へと五年間で倍増したが、四五年以降は二二〇〇人前後の横ばいで推移している。したがって自然増は、出生減の影響をうけて四六年の八八九〇人をピークに、しだいに減少して五三年には五三一〇人に低下している。こうした自然増の減少が、いままで補ってきた社会増のマイナスをカバーしきれなくなって、ついに全体の増加人口減をきたし、練馬区の人口減少となった。練馬区独立の昭和二二年以来はじめての現象である。

昼間人口

人口のうごきを示す指標として、昼間人口について練馬区の特徴をみることにする。

昼間人口とは、昼間に存在する人口をいうが、夜間人口(常住人口)と対比される。つまり夜間人口に、他

の地域からの通勤、通学の流入人口を加え、本地域から他地域への通勤、通学の流出人口を差引いたものである。

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就業者や通学者の流入出人口を基に集計するため、従業地人口とか通学地人口と呼ばれるものであるが、国勢調査ではこれを昼間人口といっている。この場合、商用、買物、行楽、娯楽その他の一時的な用務によって流入出する人口は含まれない。

昭和五〇年国勢調査により、昼間人口を区部二三区別(図8―<数2>12)にみると、千代田区が九二万二三四〇人と最も多く、ついで世田谷区六九万二九三六人、大田区六九万一二一四人、港区六七万〇四一二人、中央区六六万〇七九〇人、新宿区六五万一八三〇人、足立区五三万六〇三九人、板橋区四六万六〇四〇人とつづき、練馬区は四四万八三二三人となっており、第九番目に位置している。前回の四五年国勢調査に対する昼間人口増加数は三万〇一九二人、増加率は七・二二%を示し、渋谷区(一三・五二%)、港区(一二・四〇%)、新宿区(一〇・二一%)、千代田区(九・四九%)といった都心区や副都心区にならんで、五番目の増加率にある。それに対して従来昼間人口の集積が高かった荒川区や墨田区、江東区、台東区という下町地域が一様に前回より減少していることが目立っている。

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表8―<数2>16は、東京都区部および練馬区における昼間人口と夜間人口の推移を示したものである。

本区では昭和三〇年以降の十年間に人口が急増している。まず夜間人口をみると、三五年国勢調査では対前回増加数は一一万九八一四人、四〇年国調では一二万九〇九三人の対前回増加数を示し、この時期が最も人口集積の高かったことがわかる。経済の高度成長に伴い、都心部を中心とする産業の集中・集積は、周辺区を中心に後背人口の急増を促し、とくに本区の場合、この時期において、都心への通勤人口の住宅地としての性格を決定づけた。しかし、こうした人口の急増もかげりを生じてきた。四五年国調では対前回増加数九万三二一〇人、五〇年国調では三万一七三四人増と、しだいにかげりをおとし増加数は減少、鈍化しつつあることが明らかとなった。とくに四八年のオイルショック以降は、急速に人口移動の減少を生じ、高度経済成長期の終焉を迎えている。

一方、昼間人口は、夜間人口の増勢に平行して、三五年国調八万五〇八一人増、四〇年国調九万九八八三人と増加するが、この段階をピークに増勢は鈍り、四五年国調七万

八七〇五人増、五〇年国調三万〇一九二人増と各回ごとに増加数の漸減をみせている。

これを夜間人口対比でみると、三〇年(八三・一)、三五年(七八・四)、四〇年(七八・一)、四五年(七九・二)、五〇年(八〇・一)の昼間人口指数を示しており、東京都区部平均の昼間人口が各年とも一〇〇を上回って推移するのに比べ、本区は各回国調において一〇〇を割り、低い数値となっている。練馬区は、夜間人口が昼間人口を上回る、流出超過の典型的なベッドタウンといえよう。

本区と同様に、五〇年国調で昼間人口指数一〇〇を下回る地域は、杉並区(七六・八)をはじめ、中野区(七八・二)、世田谷区(八六・〇)、葛飾区(八七・六)、足立区(八八・〇)、江戸川区(八八・六)、北区(八九・八)、板橋区(九三・五)、目黒区(九六・五)、荒川区(九八・七)の順に、区部一一区におよんでいる。そのいずれも周辺区であることが共通項になっている。

これに対して、中枢管理機能の集中する都心区には、昼間人口がふくれあがっている。千代田区(一四九五・九)の昼間人口指数をトップに、中央区(七三三・四)、港区(三二〇・〇)、新宿区(一七七・五)と続き、都心区および副都心区が、夜間人口の一五倍弱~二倍弱の数値を示している。このほか文京区(一五二・〇)、台東区(一七一・〇)、墨田区(一一五・七)、江東区(一〇六・五)、品川区(一一三・一)、大田区(一〇〇・〇)、渋谷区(一六四・五)、豊島区(一一五・七)の一二区が一〇〇を上回り、流入超過を示している。

昼間人口密度

昼間人口密度では五〇年国調において千代田区の八万〇〇六四人/km2を筆頭に、中央区六万五七五〇人/km2、新宿区三万六一三二人/km2、港区三万四四一五人/km2といった中枢管理機能の集中する都心部ないしは副都心部の業務地を中心に、高密になっている。しかも先に触れたように、この地域では三〇年代半ばを境に夜間人口の伸びがとまり減少傾向にあるのに対し、昼間人口は年ごとに増加する傾向にある。今後ますます昼夜間人口の格差は広がるものと予想される。

一方、昼間人口密度の低密地域は、区部周辺区にわずかにのこる程度になってきた。江戸川区が九三〇九人/km2で最も低

く、ついで練馬区九五三九人/km2となっている。区部二三区の中で一平方キロ当り一万人を下回る地域は、この江戸川区と練馬区の二区に過ぎなくなった。区部平均の一万八四三一人/km2に比べて、かなり低密な地域といえよう(図8―<数2>13)。これは本区の特徴にもなっており、練馬区に常住する人口の圧倒的な流出超過によるものである。つぎにその流入出人口のうごきについてみよう。

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流入出人口のうごき

昭和五〇年国勢調査により本区の昼夜間人口の流動をみると、練馬区の夜間人口(常住人口)は五五万九六六五人を数え、そのうち一七万九六三九人が通勤(一三万八六六二人)・通学(四万〇九七七人)者として区外へ流出している。これに対して、練馬区外からは六万八二九七人が通勤(五万三〇二二人)・通学(一万五二七五人)者として流入しており、差し引き一一万一三四二人が流出超過になっている。したがって練馬区の昼間人口は四四万八三二三人となり、昼間人口指数(夜間人口=一〇〇)は八〇・一を示している。区部平均の昼間人口指数が

一二三・八であるのに対して、かなり低い数値にあるといえる。これを区部地域別にみると、杉並区七六・八、中野区七八・二につづいて、本区は区部三位の低い夜間人口対比となっており、杉並、中野と並んで周辺区の代表的な住宅地域であることを示している。

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これは流出超過によるものであるが、その流出先をみると、流出人口一七万九六三九人のうち、一五万五三七四人(八六・五%)が区部二三区への流出である。とくに千代田区一五・七%、新宿

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区一〇・八%、豊島区九・一%、中央区八・四%、港区六・六%と、過半数が都心三区および新宿、豊島の副都心区に集中している。都下市町村(六・三%)、他県(七・二%)への流出は少ない(表8―<数2>17)。

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これに対して本区に流入する人口は六万八二九七人であり、うち二万七九七六人(四一%)が区部からの流入である。その内訳をみると、板橋区六一五四人で最も多く、ついで中野区三八七四人、杉並区三七七七人、豊島区三三七七人と順につづき、これら隣接区からの流入だけで区部から流入する人口の六一・四%を占めている。都下市町村では保谷市二五八一人、東久留米市二三二一人、清瀬市一七〇三人、東村山市一五五二人となっている。また他県からは二万五四七二人(三七・三%)の流入人口を迎えるが、うち二万〇九七五人は埼玉県からの流入である。神奈川県二二〇二人、千葉県一四九五人に比べて、本区に隣接する埼玉県からの流入が目立っている。昭和五〇年国勢調査による練馬区の流入・流出人口の地域的な動きは、図8―<数2>15に示すとおりである。

つぎに本区の流入出人口の推移についてみよう(表8―<数2>18)。

区外へ流出する人口は、各回国勢調査ごとに増えつづけているが、とくに三〇年~三五年の増加数四万四八七三人と三五年~四〇年の増加数五万〇一五七人は際立った増加数値を示している。もっともこの十年間は、本区において常住人口の急増期であるが、これに伴う通勤・通学人口の急増がうかがえる。以後四〇年~四五年二万六四三九人増、四五年~五〇年一万一七四四人増とつづくが、増加数は前回に比べて加速的に半減する数値を示している。

一方、本区に流入する人口は、三〇年~三五年一万〇一四〇人増、三五年~四五年二万〇

九四七人増と漸増するが、この段階を頂点に、増勢は鈍化しはじめ、四〇年~四五年一万三一〇八人、四五年~五〇年九〇二八人と増加人数が漸減している。

こうして本区の流入出人口は、それぞれ増勢の鈍化を示しながら推移するが、練馬区は圧倒的に流出人口が多い。昭和三〇年以降、各回の国勢調査において流出人口が流入人口を上回り、流出超過となって、典型的なベッドタウンの特徴をみせている。

流出超過人口は、三〇年国調三万一三五二人、三五年国調六万六〇八五人、四〇年国調九万五二九五人、四五年国調一〇万八六二六人、五〇年国調一一万一三四二人と各回ごとに増加しているが、四五年国調からその増勢は鈍化しはじめている。

すなわち流出超過人口の増加数は、三〇年~三五年三万四七三三人、三五年~四〇年二万九二一〇人であったものが、四〇年~四五年の段階から急速に落ちこみ一万三三三一人となり、さらに四五年~五〇年には、わずか二七一六人増にすぎなくなった。「東京都昼間人口の予測」(東京都総務局統計部)では、練馬区の流出人口は都区部・都内他地域・埼玉県等隣接地域を含めて昭和六〇年をピークに六五年、七〇年に向って漸減することを示している。また流入人口も都区部からは六〇年を境に横ばいないしは減少傾向を予測し、都内他地域からは六五年を頂点に下降し、他府県とりわけ埼玉県からは、五五年以降漸増することを示している。したがって本区の流出超過人口は、五五年一一万四六〇〇人(対前回増加数三二五八人)、六〇年一一万六〇〇〇人(対前回増加数一四〇〇人)を頂点にして減少傾向を予測し、六五年一一万〇六〇〇人(対前回増加数△=マイナス五四〇〇人)、七〇年一〇万二七〇〇人(対前回増加数△七九〇〇人)と漸減数値を示している。練馬区の場合、流出人口が流入人口を上回る傾向は、いぜんとして続くが、流出超過人口は六〇年を境に下降しはじめ、六五年には、その前回増加数が始めてマイナスとなる。七〇年も引きつづいてマイナスを示し、しかもマイナス幅を広げて流出超過人口の絶対数を下げている(表8―<数2>19)。

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本区の昼間人口予測は、こうした動きを背景に、五五年四五万八五〇〇人、六〇年四六万四二〇〇人、六五年四七万〇六〇〇人、七〇年四七万八四〇〇人と、ゆるやかな増加傾向を示している。区内産業部門の拡大と機能の整備につれ、また西武池袋線・新宿線や東武東上線に加えて地下鉄八号線の乗り入れなど、交通機関の発達による利便性の向上とあいまって、新たな人口吸引力を高めることが予想されよう。

産業別構成

練馬区の昼間人口は、ゆるやかな増加基調にあるが、本区の産業特色を投影するものとして、昼間人口における就業者の産業別分布をみることとする。表8―<数2>20・表8―<数2>21は、それぞれ昭和四五年・五〇年の昼間人口における産業別就業者数を示したものである。

昼間人口における就業者数(昼間就業者)とは、夜間人口における就業者数(夜間就業者=残留人口の就業者数)に流入超過就業者数(流入就業者数から流出就業者数を減じた値)を加えた数値である。本区の場合は五〇年の農業部門を除いて、他産業がすべて流出超過になるのでマイナスとなり、夜間就業者数から流出超過人口を差し引いた数値になる。

昭和五〇年、練馬区昼間人口は四四万八三二三人を数えるが、そのうち三七%にあたる一六万五七三七人が昼間就業者であり、この割合は前回の四五年昼間就業者三六・三%に比較して〇・六%増加している。また夜間就業者二五万一三七七人に比べて昼間就業者は八万五六四〇人も少ないことになる。四五年も夜間就業者に比べ昼間就業者は八万七七五五人も少ない。これは区内諸産業部門の活動に大きな変化がみられなかった事情によるものであろう。

五〇年昼間就業者を産業別にみると、卸売業・小売業を中心とする第三次産業が最も多く、全体の六五・二%がここに集中している。中でも卸売業・小売業二六・〇%、サービス業二一・五%がその大半を占めている。これを四五年の同産業六二・七%に比べると二・五%も上昇している。ついで製造業を中心とする第二次産業に三二・五%が集まり、うち製造業一六・九%、建設業一五・六%となっている。前回(四五年)の同産業三五・三%に比べ二・八%減を示した。農業を中心とする第一次産業は一・四%と低くなっているが、都市化の波で農地の潰廃が進み、区内の農耕地が少なくなっていることか

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らみて、この数値は当然の現象といえよう。だが本区の場合、区部平均〇・三%に比べて一・一%も高率であることに注目したい。

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前回の四五年昼間就業者の産業別分布とそれぞれ比較してみると、第一次産業就業者二六一二人(一・七%)に比べ、五〇年は二二九七人(一・四%)と差引き、三一六人(〇・三%)の減少をみせている。五五年以降の第一次産業就業者推計(表8―<数2>22)では、二〇〇〇人を推移し、傾向としてはおよそ下限に近くなってきていると見なしている。反対に第三次産業の占める割合は、前回に比べて二・五%も上昇しており、本区では製造業等第二次産業のウエイトが低下し、相対的に卸売業・小売業を中心とするサービス流通部門が増え、都市化の進展にともなう産業構造の第三次産業化が目立ってきている。表8―<数2>22は五五年以降七〇年に至る産業別昼間就業者数の推移を推計したものであるが、四五年・五〇年国勢調査における昼間就業者産業分布の比較にみえる傾向を、そのまま延長したかたちで予測している。

人口構成・年齢別人口

図8―<数2>16は、昭和三五年(表8―<数2>23)と昭和五五年(表8―<数2>24)住民基本台帳をもとに、練馬区の人口を性別・年齢五歳階級ごとに区分して作成した人口ピラミッド図であり、両年を対比するために重ね合わしたものである。

練馬区の人口構成を年齢階級別にみると、三五年では二〇歳から二四歳、五五年では三〇歳から三四歳の階級が最も多く、この二一年間に首位を入れ替えている。これは若い年齢階級人口の縮減にかわって、中高年齢階級人口がしだいに増大するという、練馬

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区の中高年齢化の特色を如実に示すものといえよう。

二〇歳~二四歳の年齢階級人口数を年次別にたどると、三五年が三万三三五三人、四〇年が五万〇三六二人、四五年が六万四六二七人と漸増し、四七年の六万九七二九人をピークに、しだいに減少しはじめて四八年には六万五一〇九人、四九年は六万〇九三五人、五〇年は五万六〇三二人と漸減し、とくに五〇年にいたり、いままで続いていた同年齢階級のトップを二五歳~二九歳階級に譲り、順位を入れ替えている。五一年以降もさらに漸減を続け、五四年には四万九七五三人となり、三〇歳~三四歳階級と順位を入れ替え第三位に低下した。五五年には四万九七七一人で数値は前年の横ばいを示している。練馬区人口総数に対する年齢階級比は八・九%となり、三五年の同階級比一一・七%に比べてかなりダウンしていることがわかる。

それに対して二五歳~二九歳年齢階級人口は、三五年三万一八五六人、同年齢階級比一一・二%を占めて第二位、三六年以降も増加基調で第二位を推移するが、五〇年にいたり五万九九七五人、同年齢階級比一一・〇%を占めてトップに立った。五一年六万二二九一人、五二年六万二八〇八人と増勢がつづくが、この段階を頂点に五三年五万九二四一人と減少に転じた。五四年五万四六四七人、五五年五万〇〇四五人と漸減し、同年齢階級比九・〇%となって首位から転落して第二位、代って三〇歳~三四歳年齢階級がトップに躍り出た。

三〇歳~三四歳年齢階級は、三五年の段階では二万七八九〇人、同年齢階級比九・八%で第四位にあった。ところが三八年には三万七四五一人、同階級比一〇・六%を占めて第三位、以来同階級の人口増勢に支えられて三位を推移するが、五四年四万九八九九人、同年齢階級比八・九%と急速に伸びて第二位となり、五五年には同年齢階級人口が、ついに五万一四四三人を数え、年齢階級比九・二%を占めて首位についた。現在この年齢階層が最も多くなっており、ついで二五歳~二九歳階層、そして二〇歳~二四歳階層の順になっている。こうした年齢階層別の年次別推移から練馬区の中高年齢化の過程をみることができよう。

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これを東京都区部(表8―<数2>25、<数2>26・図8―<数2>17)と比較してみると、五五年では三〇歳~三四歳階級が最も多く、同年齢階級比が九・七%でトップ、ついで二五歳~二九歳階級比九・五%、二〇歳~二四歳階級比九・三%の順となっており、本区に比べて順位は同じだが、年齢階級比においてわずかに高い数値を示している。また三五年では、二〇歳~二四歳階級がトップで同年齢階級比一三・二%、ついで一五歳~一九歳階級がその階級比一二・二%を占めて第二位、そして二五歳~二九歳階級が一一・三%で第三位とつづいている。三〇歳~三四歳階級は同年齢階級比八・七%で五位とたいへん低い位置にあっ

た。本区に比しても低く、それにしても五五年には同年齢階層が最も多くなっていることに注目したい。若い年齢階層から中高年齢階層への移行が目立ち、ここに高齢化の傾向が読みとれる。

人口ピラミッドの変化

つぎに練馬区および区部の昭和三五年と、昭和五五年における人口ピラミッドの変化についてみよう。

図8―<数2>16は、練馬区の三五年と五五年の人口ピラミッド対比であるが、五歳階級別の年齢構造係数であらわしたものである。この年齢構造係数は総数を一〇〇とする年齢別割合であり、練馬区の場合、練馬区総数に対する男女それぞれの五歳階級の構成比になっている。

昭和三五年に比べて、昭和五五年で人口の増えている年齢層は、三五歳~三九歳階層以上であり、とくに四〇歳~四四歳階層(年齢構造係数七・九%)、四五歳~四九歳階層(同七・五%)、五〇歳~五四歳階層(同六・〇%)の増加がいちじるしい。三五年の年齢構造係数は、順に五・五%、四・九%、三・九%であり、五五年では各階層においてかなり上回った数値を示して人口構成の老齢化をうかがわせている。これに対し二五歳~二九歳階層以下は、三五年に比べて各階層とも減少を示しているのに注目したい。三五年では二〇歳~二四歳階層の年齢構造係数が一一・七%(男六・七、女五・〇)でもっとも多く、ついで二五歳~二九歳階層が一一・二%でつづき、一五歳~一九歳階層一〇・一%の順につづいている。若年齢層の係数が際立って多いことがわかろう。高度経済成長下における若年労働力吸引の激しさを示している。この段階での練馬区への転入者の大部分が青年層であることによるものである。しかしながら、しだいに転入人口の年齢構成が相対的に壮年層に移行し、また転出人口の中心が若年層であるという転入出人口の年齢構成の変化に加えて、出生率の低下による年少年齢階層の比率は低下している。三五年において〇歳~四歳階層の構成比は八・六%、五五年では六・三%となっており、五歳~九歳階層では三五年八・二%、五五年七・八%、一〇歳~一四歳階層では三五年九・二%、五五年七・七%と落ち込んでいることがわかる。また、老年人口の死亡率低下の傾向など、少産少死型の人口構成になってきている。

昭和三五年の人口構成のピラミッドは、二〇歳~二四歳年齢階級、構成比一一・七%を最大幅とする「スペード型」になっている。この時期の人口増加の中心が一五歳~二九歳(構成比三三%)の若年層によって占められていることを示していよう。それに対して昭和五五年の人口構成ピラミッドは、人口の停滞と相まって年齢構成が壮年層に移行し、三〇歳~三四歳階層は構成比九・二%で最大幅になっており、その前後の年齢階層が、二五歳~二九歳階層九・〇%、三五歳~三九歳階層八・五%の構成比で接近しているところから、「ツリガネ型」ないしは「ツボ型」へと転形していることが明らかである。年少年齢階層の減少、生産年齢階層の横ばい、老年層の増大など人口構造のバランスに大きな変化をきたしつつある。

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図8―<数2>17は、東京都区部(二三区)の三五年と五五年の人口ピラミッド対比である。練馬区と、ほぼ同型の人口構成と変化を示しており、練馬区の「ほそいスペード型」に対して「太ったスペー

ド型」、すなわち一五歳~二四歳階層の構成比(二五・四%)が練馬区の同年齢階層の構成比(二一・八%)を上回っていることから多少の差違はみられるが、この「太ったスペード型」から五五年の「ツボ型」へと転形している。五五年における区部の二〇歳~三四歳年齢構造係数(構成比)は二八・五%を示し、練馬区の同年齢の構成比二七・一を上回って、本区よりも高い若年層の吸引力をあらわすとともに、この階層が太くなり、しかもその前後にある一五歳~一九歳階層(構成比六・八%)、一〇歳~一四歳階層(構成比六・七%)や三五歳~三九歳階層(構成比八・四%)、四〇歳~四四歳階層(構成比七・四%)が練馬区の同年齢構成比を下回って、ほそくなっているところから「ツリガネ型」より、むしろ「ツボ型」になってきている。

練馬区五歳階級別構成比推計(表8―<数2>27)および同構成推計(表8―<数2>28)=(企画部「練馬区の人口フレームに関する調査報告書」)では、昭和六〇年から七〇年にかけて、区部と同型の、「ツリガネ型」から「ツボ型」へと移行すると想定している。

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「人口フレームに関する調査報告書」では、昭和五五年から七〇年までの五か年ごとの人口ピラミッドの推計結果(図8―<数2>18)を示した。それによると、従来の「スペード型」の人口ピラミッドが、昭和五五年以降の人口停滞ないしは減少期になると「ツボ型」になることを推定しており、学生や単身勤労者といった若年層の居住地としての性格を残して大幅な減少はしないものと想定されるが、二五歳~二九歳年齢階層が結婚や出産等の時期に当るところから、この年齢層の転出を予想している。また逆に、四〇歳後半から五〇歳代の年齢層が、一戸建住宅や分譲マンションなどの持家層として、相対的にその比重を高めてくるものと想定している。

年齢三区分別人口の推移

表8―<数2>29は、昭和三五年から五五年にいたる五年ごとの、練馬区における年少人口(〇~一四歳)、生産年齢人口(一五歳~六四歳)、老年人口(六五歳以上)に分けられる年齢三区分人口と従属人口(年少人口・老年人口)の生産年齢人口に対する指数、いわゆる特殊年齢構造指数を示したものである。

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年少人口が五〇年をピークに、ゆるやかな減少傾向を示しているのに対して、老年人口は各年次ごとに増加基調にある。対前回の増加人数は、四〇年四四四二人、四五年六三〇八人、五〇年五九八四人、五五年八一五一人と各回年次において数値の高低はみられるが、増加している。年齢別予測人口(表8―<数2>30)では、昭和七〇年には練馬区の老年人口が六万一三〇〇人になることを予測しており。五五年に比べて二万五二二八人も増加することを見込んでいる。それに対して生産年齢人口は毎回年次において増加基調にあるが、増加数は各回ごとに減少している。すなわち、四〇年の対前回増加数は九万三六二七人であったが、四五

年は七万四八九七人の増加、五〇年は一万八八一九人増、五五年は一万二六六八人の増加を示し、各回年次において増加人数の漸減が目立っている。

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さて、つぎに特殊年齢構造指数であるが、この生産年齢人口に対する年少人口および老年人口の、それぞれの比率(指数)と従属人口(幼年人口と老年人口を合計したもの)の指数をあらわしたものである。これは生産年齢人口に対する比率であって全体の構成比ではない。生産年齢人口一〇〇人が何人の子供や老人を養っているかを示す数値であり、働いている人が働けない人びと、つまり年少人口や老年人口を扶養負担する程度を測る一つのものさしといえる。

本区の年少人口指数をみると、三五年三六・九を最高に、四〇年には三二・五と四・四ポイント急速な低下を示したが、四五年〇・四ポイント、五〇年〇・六ポイントとわずかながら上昇に転じた。しかし五五年には再び低下し、三〇・三の数値となり、前回比三・二ポイントの大幅なダウンとなっている。四〇年以降は横ばいないし低下傾向を示しているといえよう。

一方、老年人口指数は、四〇年のみ前回比において〇・三ポイント低下するが、四五年六・〇(前回比〇・七ポイント増)、五〇年七・二(前回比一・二ポイント増)、五五年九・〇(前回比一・八ポイント増)を示しており、四五年以降の指数が急速な伸びをみせている。

次に、こうした老年人口指数と年少人口指数を合わせたいわゆる従属人口指数、すなわち生産年齢人口に対する従属人口の割合をみると、三五年から五五年にいたる各回年次において四〇%前後(四二・五~三七・九)を推移していることがわかる。本区に隣接する板橋区(四二・〇~三五・五)も同様の数値をたどっており、また区部の中で本区と比較的類似点の多い

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足立区(四七・一~四〇・一)、葛飾区(四五・〇~三八・二)、江戸川区(四五・五~三八・二)といった周辺区など多少ポイントが上回るにしても、ほぼ同一歩調をとっている。全国平均の従属人口指数は、昭和四三年以降上昇してきて、五三年には四八・四となっている。練馬区はこの平均値より下回る数値を示す。これはアメリカの五四・二、スウェーデンの五五・八と比較して、かなり低い数値といえよう。現在のところ欧米諸国の人口高齢化は、日本に先行しており、いずれその水準に追いつき追越すことは確実なものと、予測人口では想定している。

つぎに老年化指数だが、老年化の傾向をみる上でたいへん興味ある数値といえる。これは年少人口に対する老年人口の割合(老年人口÷年少人口)で示されるが、三五年の指数一五・二の数値は、四〇年には一六・四に上昇して一・二ポイント増、四五年の対前回比は一・七ポイント増、五〇年対前回比は三・四ポイント増、五五年には実に八・三ポイントも増加するが、ここに急速な老齢化の進行をうかがわせるものがある(表8―<数2>29)。

人口の老年化を表わす老年化指数は、年々急速な上昇をつづけており、数値においては東京都平均(五〇年二七・七、五五年三五・八)より下回るが、対前回の増加比では本区の方が高くなっている。人口の老齢化が加速度的に進んでいることがわかる。

表8―<数2>30年齢別予測人口では、昭和七〇年の練馬区老年人口は六万一三〇〇人を想定しており、五五年住民基本台帳(一月一日現在)の老年人口三万六〇七二人に対して、二万五二二八人も増加することになっている。

急速な高齢化社会を迎えるにあたり、活力ある福祉社会の実現をめざして、その対応が要請されるところである。

年齢三区分別人口にみる区部と練馬区

表8―<数2>31は、昭和三五年と昭和五五年における、東京都区部(二三区)および練馬区の年齢別人口をそれぞれ年少人口(〇歳~一四歳)、生産年齢人口(一五歳~六四歳)、老年人口(六五歳以上)に三区分したものである。

練馬区の年少人口は、区部に比べて三五年二・四ポイント、五五年一・九ポイント上回った比率を示し、それが本区の特徴にもなっている。しかし構成比において、三五年二六・〇%を占めていたのが、五五年には二一・八%と急激な低下をみ

せており、生産年齢人口や老年人口が、三五年に比べわずかながら上昇しているのに対し、この年齢階層のみ落ち込んでいる。年少人口の推移については、すでに記述したように昭和五〇年をピークに、ゆるやかな減少傾向を示し、「練馬区の人口フレームに関する報告書」の五五年~七〇年の推計では、引続いて漸減ないしは横ばいを想定している(表8―<数2>32・図8―<数2>21)。生産年齢人口に対する年少人口の比率、いわゆる年少人口指数は、三五年の三六・九を最高に漸減し、四五年、五〇年とわずかながら上昇に転じたが、五五年には再び低下し、低下傾向をうかがわせている(表8―<数2>29)。

生産年齢人口は、その構成比において区部に比べ、わずかに下回るが、ほぼ接近した数値となってきている。生産年齢人口の推移(表8―<数2>32・図8―<数2>20)をみると、四〇年以降逐年増加をつづけ、昭和六〇年(四三万二七三〇人=推計)までは、ゆるやかな増加を示し、この年次をピークに、六五年は横ばい、七〇年には減少する動きが想定されている。

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すでに昭和五五年人口構成ピラミッドで触れたように年齢構成が壮年層に移行し、三〇歳~三四歳階層が最大幅となっており、生産年齢人口の中でも、こうした壮年階層から五〇歳~六〇歳台の初老階層に、しだいに比重が増大することが予想

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される。これに対し二〇歳台、三〇歳台の年代の年齢階層の減少が顕著になってきている。

出生率、死亡率の急激な低下で、人口の伸び率が鈍化するとともに、人口構成の急速な老齢化が進んでいる。練馬区の六五歳以上の人口は五五年に至って急速に増加し、三万六〇七二人を数え、三五年に比べ三倍強の伸びを示した。練馬区総人口に占める割合は六・四%、構成比においても三五年の四・〇%に比べて大きく上回っている。区部においては、練馬区に比べて対三五年の増加数、構成比とも大幅に上回り、老齢化のスピードが、より急速であることを示していよう。

年齢別(三区分)人口の推移と推計(表8―<数2>32)では、練馬区の老年人口は昭和六〇年四万五二五〇人、六五年五万三〇三〇人、七〇年六万四二〇〇人へと急増することを想定しており、こうした要因として老齢層の死亡率の低下傾向を指摘するとともに、三五年~四五年にかけて、練馬区での人口急増期に転入してきた当時の壮年層が、一挙に老齢化する結果によるものとみられる。

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男女別人口構成(性比)

練馬区の人口を男女別にみると、昭和五四年一〇月一日現在の住民基本台帳では、男は二八万二五九〇人、女は二七万四五五一人で、その比率は女一〇〇に対し男一〇二・九になっている。

一般的に性比といって女一〇〇人に対する男の割合でその構成比が比較されるが、練馬区の男女別構成比のうごきをみると、男性の割合は、国勢調査において昭和二二年(一〇九・一)、二五年(九八・九)、三〇年(一〇五・八)、三五年(一〇四・四)、四〇年(一〇五・〇)、四五年(一〇五・〇)、五〇年(一〇四・三)を示しており、二五年国勢調査を除いて各回とも男性比が高い。またこの数値は、東京都二三区平均に比べて二五年・三五年・四〇年のほかは、各回とも上

回っている。

男性比が高いのは、大都市の特色とみなされており、東京のもつ人口の吸引力、とくに転入人口が若年男子によって占められた結果によるものである。しかし最近では必ずしもそうとは言いきれなくなった。昭和三五年における東京都区部の性比一〇七・五(国勢調査)をピークに、しだいに男女比率が接近する傾向にある。これは練馬区においても同様な傾向を示しており、五一年以降の男性比を、住民基本台帳(各年一〇月一日現在)でみると、五一年(一〇三・七)、五二年(一〇三・四)、五三年(一〇二・二)、五四年(一〇二・九)とわずかながら男性の割合が漸減している。また五四年は横ばいを示す。こうした男性人口の横ばいないしは減少傾向に対して、女性人口は全般に減少の度合が男性より低く、また地域によっては増加傾向をあらわしている。これらの現象は東京都二三区に共通しているもので、それは人口の吸引力がほぼ飽和点に達して、すでにUターン現象や隣接地域への人口拡散が活発になっていること、また女性の就業率の上昇にともない、東京に転入してくる女性も年々多くなっていることなどのあらわれとみられる。練馬区の場合も転入する人口のうち女性の占める割合がしだいに大きくなってきている。それは就業、とくにサービス業従事の女子人口の転入のほか、婚姻による転入が要因としてあげられよう。

外国人登録人口

昭和五四年八月三一日現在、区内の登録外国人数は三二七一人(男一七五九人・女一五一二人)であり、その国籍は四七か国におよんでいる。

こうした外国人の登録事務は、在留する外国人の居住関係や身分関係を明確にし、外国人の公正な管理に資することを目的として、昭和二七年四月に施行された「外国人登録法」に基づく事務である。この法律に基づいて外国人が日本に入国したとき六〇日以内に、また生まれたときは三〇日以内に、その居住地の市区町村に登録を申請するものである。このことにより、その身分関係や居住関係が把握され、公正な事務管理が行われている。

表8―<数2>33は練馬区において、昭和二九年から五四年にいたる国籍別登録外国人数の推移を示したものである。

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二九年以降、逐年増加を続け、四六年に三三〇七人を記録してから五二年三三三三人を除いて三二〇〇人台を推移し、横ばいないしは減少傾向を示している。

国籍別にみると、朝鮮および韓国の登録者が他国に比べて圧倒的に多い。五三年次では外国人登録者総数に対する比率が七五・四%を占め、五四年次も七五・一%を占めて断然高いことがわかる。それは各年次にわたって他国を圧し、二九年の七八%をトップに、各年多少の増減はあるが、おおむね七〇%前後を推移している。ついで中国人がつづき、五三年次は一〇・五%、五四年次には一〇・三%を占め、四三年の一六%を頂点に一〇%台を推移する。第三位にあるのはアメリカ人の登録者で、五三年次四・九%、五四年次五・二%を占め、各年次とも五%前後で推移しており、順位も上位三か国が固定している。

<章>

第九章 町の変遷

<節>
第一節 町名・地番整理と住居表示
<本文>

現在我々の住む土地の表示は練馬区○○町○丁目○○番地となっており、住居や建物の位置は○丁目○○番○号となっている。これは住居表示といって、町名、街区符号、住居番号から成立っているのである。

○町○丁目は昭和七年の市郡合併の折、今までの町村を廃してつけられたもので、旧大字を基準としたり、道路や、部落等を斟酌したりして区域がきめられ、三〇年代に至った。

その間、中新井、中村地区の全面的区画整理(昭和一五年)や仲町、北町、南町、春日町、貫井町、田柄町、土支田町、旭町、関町等に河川改修や耕地整理、区画整理が行なわれ、それにともない部分的に地番の変った所もあったが、豊玉、中村、関町の如く殆ど全地域にわたって整理が行なわれた地区は町名も新しく変った。

地番の変った地域では新番地のみの町は別として、新番地の所が旧番地の中に存在するようになった地区もあり、例えば石神井川の低地のみ新番地になった地区には同じ地番の所も台地上にあるわけで、町名が違えば区別もできるが、もし同じなら全く区別がつかない。同じ番地が二か所あることになり混乱をきたすことになる。

加えて、道路の新設、住宅地の分譲や賃貸によって、土地の区画が縦横に分断され、書類上、手続上にも非常に混雑して来たので、全面的な地番変更を町名変更と共に行なうことになり、まず最も必要性の高かった江古田町、小竹町の方から実施することになった。

地番整理

昭和三三年四月練馬区町界町名地番整理要綱が出されるや、区は地番整理係をおいて、これに着手した。その主な仕事は、

  1. 一、各町の区域を面積七万坪前後とする。従って一三万一二八五坪の江古田町と、一五万三六七〇坪の小竹町はそれぞれ二つに分け、一、二丁目にしたい。
  2. 二、町の名称は在来のものを重視するけれども混同しやすい地名が他にあった時は、できるだけ他の適当な町名にしたい。
  3. 三、地番は旧番地にかかわらず丁目ごとに一番から始める。
  4. 四、以上の変更登記は費用も含めてすべて区役所で行なう。
という事で地元折衝に入ったわけであるが、地番変更はやむを得ないとしても、長年使われた町名の変ることについては異論も多く、区との間に長い折衝が行なわれている。小竹町は一、二丁目に分けるだけでもよいが、江古田町にはすぐそばの中野区に江古田一~四丁目があるため非常にまぎらわしい事から、町名変更の必要性が強かったわけである。

翌年一月二七日江古田町においては江古田会館に町民を集め、説明会を開き、変更の趣旨説明の後、新町名のアンケートをとっている。その結果を三五年二月一七日付で区長に提出している。それによると、

  1. 一、地番変更について
  2. 二、町名を変更するとすればどれがよいか

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以上が江古田町会(一三〇〇世帯)と江古田東町会(三三〇世帯)計一六三〇世帯のアンケート結果である(区資料による)。

なお、町名をかえるなら江古田の駅名も変更するよう西武に交渉することを要望している。

いかにこの事業が困難であり、一度固定した地名の変更がむずかしいかを感ずることができる。結局江古田町は変更せざるを得なくなり、二二年以来使われている小学校の名、旭丘をとって、三五年六月七日都に届出られ、六月一八日、都公報に告示されたのである。旭丘一、二丁目、小竹町一、二丁目の誕生である。

その間実に二年余りが経過している。

次の南町一、二丁目は昭和三五年度より始まり、三七年三月一日実施までやはり約二年を費やしている。栄町、羽沢一、二、三丁目、桜台一、二、三丁目の誕生である。その間、準備手続として地域の実情調査、整理原案作製、町区域・町名地番の決定、(勿論その間に地元との折衝を重ねて)地籍図作製、現地調査(住民・家屋について)、関係者への周知徹底その他を行なっている。

こうした事業は都市化の進んだ地域では最も必要な事業であるが、それだけにまた困難な事業で、その進行は遅々としたものであった。練馬区全域を実施するとすれば、約二〇年を費やす計算となる。

住居表示の発足と経路

こうした時に、昭和三七年五月一〇日、「住居表示に関する法律」が成立して地番整理を待たず、住居に番号をつけて表示する方法をとることになったのである。住居表示整備事業要綱にも、その目的の中で、「現行の地番のままで放置することは地方行政の円滑なる運営を害するばかりでなく、住民自体の実生活においても多大の不便を与えるものである。ここにおいて、地方公共団体本来の設立目的たる住民福祉の増進を期し、同時に法の主旨にのっとり、合法的なる住居表示事業を遂行することにより、将来における区発展に則する理想的なる行政区画の設立を目的とするものである」と記している。

「住居表示に関する法律」によれば、住居の表示には、都道府県名、市区町村名町又は字名、街区符号(道路、鉄道、河川、水路等によって区画された区域につけられる符号)、その区域内にある工作物につける番号(住居番号)を使う街区方式と、京都のように道路によってつける道路方式の二つの方法を示し(第二条)、またその実施手続(第三条)、住居表示の義務(第六条)、また住居表示の実施にともなっておこる公簿、公証書類の訂正の手数料無料のことや、表示板の設置、台帳の変更等について規定し、また街区の詳細等については、条例で定めるとしている。

第三条には、実施にあたりその趣旨の徹底をはかり、その理解と協力とを得て行なうよう努めること、第五条では町名はできるだけ読みやすく、かつ簡明なものにすること等があって、便利さと理解とを強調している。

また、経過規定では市町村は市街地の住居表示の実施を昭和四二年三月末までに行なうよう規定し、五か年間の期限としている。

これにもとづき区は次の条例や、実施要綱をつくり早速準備にとりかかっている。

  1. 1、練馬区住居表示整備事業実施要綱(昭和三七・八・二四
  2. 2、練馬区住居表示に関する条例およびその施行規則(昭和三八・七・六公布)『現勢資料編』二六六ページ参照
  3. 3、練馬区住居表示審議会条例(昭和三八・七・六施行
  4. 4、同    施行規則(昭和四〇・四・一施行
  5. 5、区役所に住居表示係をおく(昭和三九・七・一

区は条例制定に先だち実施要綱によって、その準備を始めたのであるが、法第三条の「議会の議決を経て、市街地につき区域を定め、住居表示の方法を定める」という一項の決定を練馬区区議会は昭和三七年一〇月三一日に行ない、「市街地の区域は区の区域とし、住居表示の方法は街区方式とする」ときめている。

即ち全区を対象に街区方式で行なうことをきめたのである。

南町三、四、五丁目の地域について町界、町名の変更、街区符号、住居番号の決定、告示通知、表示板設置、住居表示台帳およびその写しの作成等を終って、桜台四・五・六丁目、練馬一・二・三・四丁目として二七三街区の施行をしたのが昭和三八年二月一日。実に三か月というスピードであった。法律が制定されてからでも僅か八か月で、町名、地番整理の準備が始まっていたとは言え、その迅速さは驚くばかりである。

これによって区は昭和三八年七月六日条例および施行規制を定め、実施要綱の一部改正を行ない、以後毎年、各地域の住居表示を実施しているのであるが、その方法や、住居表示審議会の運営等について、住居表示整備事業実施要綱や住居表示審議会の運営等について若干の実例をあげて、その概要を述べることとする。

住居表示整備事業実施要綱には当初に町界町名街区の設定基本方針(目的、沿革)を述べ、施行範囲と順序を述べている。以下追って見ると、

①施行範囲は区全域、地番の錯乱の甚だしい地区から実施。

②町割は街画式、やむを得ない時のみ結合式。

③町の境は道路、河川水路の中心線、鉄道等ではその一方の側線、また、恒久的な施設や地物を使う時もある。

④町の規模はほぼ次のようにする。

用途別面積戸数
商業を主とする地区 ○・一2(三万坪) 八○○
住居を主とする地区 ○・一七2(五万坪) 一○○○
工業を主とする地区 ○・二七2(八万坪) 四○○

もちろんこの組合せそのままの地区は少なく、貫井三丁目の如く商、工、住の混在する地区で面積〇・二七km2、世帯一六七〇等、規模通りにならず、また、田園地帯では戸数が基準の一割にも達しない所もあるが、将来の人口増を考えてのことであろう。

⑤町名は次のことを配慮して定め丁目をできるだけつけ、四、五丁目位までにしたい、という事は、〇・三km2位の広さを単位として町名をつけ、これを二つ以上に分けて、丁目とし、その配列方法も規定している。

町名について留意する事として、

  1. 1、なるべく簡明なもの        2、歴史上由緒あるもの
  2. 3、親しみやすいもの         4、語調のよいもの
  3. 5、都内に同一町名、類似町名がない  6、当用漢字を用いる
等をあげている。

⑥街区割は町の境に準じて行なう。私道も恒久的なものは境として使ってよく、大きさもある程度一定するために、大き

い街区は二つに分け、小さい街区は合わせる方法もとれることにしている。また、街区符号はその起点を都心または地方的中心地点において、右側から付し、配列は連続蛇行としている(説明図参照 図9―1)。

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⑦住居の基礎番号として街区の周辺を一五m間隔に切って右廻りに番号をつけ、その間に建物の入口、あるいは建物に通ずる通路があれば番号を付し、その建物の住居番号とする。

⑧その他団地や中高層建物の住居表示の方法も規定している。

この実施にあたって住居表示審議会の仕事があるが、その所掌事項として同条例第二条に区長の諮問に応じ区内の町区域およびその名称の整理に関すること、町区域内の街区の設定、実施に関しその他必要な事項をあげている。また委員構成は

区長の任命・または委嘱した二三人以内として、その内訳を学識経験者一八人以内、区職員五人以内とし、会長を助役とすること、なお特定の区域に関しては、区長が任命委嘱する臨時委員をおくことができるとしている。また、会は委員の半数以上の出席で成立し、出席者の過半数で決し、同数の時は会長が決するとなっている。また、同施行規則で、委員となる役職名等こまかに規定している。

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次にこの会の活動状況を仲町地区の会議録によって述べてみると、

1、四〇年一月二〇日より仲町地区自治会長訪問(計一九人

2、一月二〇日より北町一丁目第三部会より旧境界を生かすよう要望がある。

3、二月三日地元関係区議との協議会。

4、二月六日、Aブロック町名選定会議開催 各町会より希望町名をもちよる。

仲町一丁目自治会より 一、暁町、二、緑丘、三、境町

北町一丁目第三部会より一、栄町、二、錦町、三、緑町、四、幸町

北町団地自治会より、一、百合ケ丘

その他富士見丘自治会が参加している。

これを錦、緑丘、百合ケ丘にしぼって、各町会に持ちかえり検討の結果、意見が分かれ投票の結果三月二日錦と決定、区長に答申している。

5、Bブロックでは仲町一丁目町会、鑑別所ひばり会、ひばり睦会、三丁目自治会、仲三睦会、仲町二丁目自治会が集合し、氷川神社の名にちなんで氷川の名をつけたいと三月一日氷川台に全員賛成。

6、Cブロックは二月九日に仲町三丁目第二住宅、仲町三丁目町会、若葉会、仲町五丁目自治会、仲五さつき会、三丁目睦会、仲町二丁目町会、仲五会から一八人の代表が集っている。持ちよった町名は次のようであった。

仲五会―寿町、富士見町、長住町、亀住町、武蔵町、練馬台、平和台

若葉会―若葉町

仲二町会―須賀

仲三第二住宅―氷川台、緑ケ丘、開進

さつき会―豊、錦、五月

仲三睦会―本村

仲五町会―開進、稲荷、中原、緑町、平和台、若樹、本村町、富士見町

で、その中から、寿、長住、平和台、本村にしぼり、結局平和台が八票で本村の四票を押えて決定している。

7、Dブロックは、仲町三丁目、仲町五丁目、仲町四丁目、仲町六丁目各町会、仲町三丁目住宅親和会が集り、二月二六日、アンケート結果を集計した結果。

桜川(一二二票)、双葉(六二票)、早宮(五四票)、鈴代(三五票)、宮早(一五票)、氷川(一三票)、早淵(一七票)、開進(三八票)等となったが、この中で桜川は板橋区にあり、鈴代は読み方が多く、氷川は氷川台と同じようだし、早淵の淵は当用漢字になく、開進は書きにくい、という所から残った分のうち、早宮が圧倒的多数で採用された。早宮とは早淵、宮ケ谷戸から一字ずつとったものである。

こうした町名決定について論議も多かったが特に旧町名をそのまま使っても差支えない所、それを二つに分ける所等では一部旧町名を使い他を他の町名にする等では町名のとりっこもあって中々結論が出なかった。他にもある春日町や、北町の広さ、大泉等問題が多く、そのため住居表示の決定が著しくおくれ、二年から三年かかっている地域もある。

また、町界の決定もいろいろな問題をかかえ、道路、河川等の変遷によって飛地的な地区になった所は、どうしてもその近隣の地区に入らざるを得なくなり、町内会等の組織・出張所の管轄の変更等大きい問題となった地域もある。

土支田地区の如きは四三年以来、六年間の地元折衝の結果漸く五〇年一月に施行にこぎつけている。この地区では特に東大泉町より土支田に編入される地区が、従来石神井支所管内のため、それが練馬区役所管内になるためにおこる生活上のいろいろな問題を解決しなければならないことから起っている。漸く区議会の議決を経て、東大泉出張所の区域として特に残すということになり決着を見たのである。

この時は土支田、上石神井一丁目、関町地区の住居表示を行なったのであるが、その審議会の委員構成をあげると、

  1. ○常任委員二三名(区長が任命する学識経験者一八人、区職員五人
  2. ○臨時委員 二三名(特定の区域に必要な時
となっている。

その後の手続きとして実施要綱等には、

  1. 1、東電及電話局に電柱用街区表示板取付申込
  2. 2、住居表示台帳作製
  3. 3、住居表示旧新対照表作製
  4. 4、地域内各世帯主あて通知書作製
  5. 5、区各施設の設置条例の位置変更通知
  6. 6、広報活動
  7. 7、表示板及住居番号表示板の作製掲出
  8. 8、各世帯あて通知書、住居表示設定通知の葉書配付
  9. 9、東京都公報の告示
等の処理が行なわれ、実施となるのである。

こうした実施上の難点を抱え、五か年の時限立法ではむずかしく、昭和四二年八月一〇日、法律の附則 2、「住居表示の実施に関する経過規定」の内、昭和四二年三月三一日までの期限を廃し、期限を設けず、「速に」という抽象的な表現に

改正している。

二三区住居表示状況によれば、昭和四一年六月一日現在で練馬の実施率二三・六%、四三年三月一五日現在、三〇・九%となっているが、それから十数年をへて漸く終末に近づいている。

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図表を表示 <節>

第二節 地区別町の変遷
<本文>

練馬区は昭和二二年八月一日に誕生した。その前は昭和七年一〇月一日に誕生した板橋区の中に入っていた。さらにその以前は北豊島郡に属し、中新井村、練馬町、上練馬村、石神井村、大泉村の一町四か村に分かれており、各町村には町村長、町村会議員がいて、各町村の政治が行なわれていた。この沿革の詳細については『現勢資料編』一〇八九ページの町名沿革に詳しいが、この項を記述するにあたり、現町名を一区域としてとり上げた。ここでは左表によって簡単に明治一一年以来の変遷のあらましを記しておく(三六一ページ参照)。

即ち村の合併、東京市編入、町名および区域の変更、練馬区独立、区画整理等による町名地番変更、住居表示の実施等によって土地の表示は幾多の変遷をへている。そしてそこに住む住民もまた、新しく転入した人々を含めて、いくつかの地区の団体に加入し、その生活環境の改善や、生業、年中行事、冠婚葬祭、趣味娯楽および治安の一部も担当して、生活の向上を目ざしている。

地区諸団体の主なものとしては、町会、神社の氏子、寺院の檀家、学校PTA、宗教活動、老人クラブ、商店会、農業協同組合、生活協同組合、消防団、交通安全協会、防犯・防火協会、赤十字奉仕団、防災組織等をあげることができるが、こうした協力団体のいくつかに所属して、それぞれの活動に参加している。

現在その組織は戦時中のように一体化され強制されたものでなく、ほとんどが設立も加入も自由で、地域的な統一は少ない。各地域における中心的な存在である町会でさえ、その発足の過程によっては、新しい町や丁目に関係なく、従前の町や丁目によって設立されたままのものや、その中の集合住宅の住民のみによって別の町会(町内会)を組織する等多種多様である。そうした練馬区の変遷、現状を各地区ごとに記述する事は困難なことであるが、一応行政面における住居表示の町の区域を単位として記載することにした。

各村から連合村へ、そして東京市編入という過程の中で、徳川時代以来の生活協同体である村は一応解体しているが、旧部落(大字おおあざあざ)を中心とする私的組織も残存し、古来の文化遺産を伝えているところもある。そうしたあらゆる面にふれることはできなかったが、地名や建物の変遷、現状を中心に、各地域の様相を概説した。ただ農耕地や樹林、地形の変化等については統計によらざるを得ないが、地域の変動等もあって範囲にうつり変りがあり、統計数量の把握が困難なため省略した所が多い。なお人口については「食糧配給台帳」および「住民基本台帳」によった。

明治一一・七
(郡区町村編制法)
明治二二・五
(市制・町村制)
昭和七・一〇
(市郡合併)
板橋区になる
昭和一五~一六
区劃整理による〇印
昭和二四・一
(練馬区独立後)の変更
住居表示
 地番整理◎印
上坂橋村(一部)
 (江古田、小竹)
上板橋村(一部)
 (江古田、小竹)
  • 江古田町
  • 小竹町
  • 江古田町
  • 小竹町
  • ◎旭丘一・二丁目
  • ◎小竹町一・二丁目
中新井村 中新井村
  •  
  •  
  • 中新井町一~四丁目
  •  
  •  
  • 中村町一~三丁目
  •  
  •  
  • ○豊玉上一・二丁目
  • ○豊玉中一~四丁目
  • ○豊玉南一~三丁目
  • ○豊玉北一~六丁目
  •  
  • ○中村一~三丁目
  • ○中村南一~三丁目
  • ○中村北一~四丁目
  •  
  •  
  • ◎同上
  •   (住居表示未実施)
  • 中村一~三丁目
  • 中村南一~三丁目
  • 中村北一~四丁目
  •  
中村
下練馬村 下練馬村
(昭和四・四 練馬町)
  • 練馬南町一~五丁目
  •  
  •  
  •  
  • 練馬仲町一~六丁目
  •  
  •  
  •  
  •  
  • 練馬北町一~三丁目
  • 南町一~五丁目
  •  
  •  
  •  
  •  
  • 仲町一~六丁目
  •  
  •  
  •  
  • 北町一~三丁目
  • ◎栄町
  • ◎羽沢一~三丁目
  • ◎桜台一~三丁目
  • 桜台四~六丁目
  • 練馬一~四丁目
  • 錦 一~二丁目
  • 氷川台一~四丁目
  • 平和台一~四丁目
  • 早宮一~四丁目
  • 北町一~八丁目
上練馬村 上練馬村
  • 練馬向山町
  • 練馬貫井町
  • 練馬春日町一・二丁目
  • 練馬高松町一・二丁目
  •  
  • 練馬田柄町一・二丁目
  • 練馬土支田町一・二丁目
  •  
  • 向山町
  • 貫井町
  • 春日町一・二丁目
  • 高松町一・二丁目
  •  
  • 田柄町一・二丁目
  • 旭町
  • 土支田町
  • 向山一~四丁目
  • 貫井一~五丁目
  • 春日町一~六丁目
  • 高松一~六丁目
  • 光が丘
  • 田柄一~五丁目
  • 旭町一~三丁目
  • 土支田一~四丁目

下土支田村

谷原村 石神井村
  • 石神井谷原町一~二丁目
  •  
  • 石神井南田中町
  • 石神井北田中町
  •  
  • 下石神井町一~二丁目
  •  
  •  
  • 上石神井一~二丁目
  •  
  •  
  • 石神井立野町
  •  
  •  
  • 石神井関町一~二丁目
  • 谷原町一~二丁目
  •  
  • 南田中町
  • 北田中町
  •  
  • 下石神井町一~二丁目
  •  
  •  
  • 上石神井町一~二丁目
  •  
  •  
  • 立野町
  •  
  •  
  • ○関町一~六丁目
  • 谷原一~六丁目
  • 富士見台一~四丁目
  • 高野台一~五丁目
  • 南田中一~五丁目
  • 三原台一~三丁目
  • 下石神井一~六丁目
  • 石神井町一~八丁目
  • 一部 未実施
  • 石神井台一~八丁目
  • 一部 未実施
  •  
  • 未実施(立野町)
  •  
  • 一部未実施(関町一~四丁目)
  • 関町北一~五丁目
田中村
下石神井村
上石神井村
竹下新田
関村
上土支田村 明二四・六 
大泉村
  • 東大泉町
  • 北大泉町
  • 南大泉町
  • 西大泉町
  • 大泉学園町
  • 東大泉町
  • 北大泉町
  • 南大泉町
  • 西大泉町
  • 大泉学園町
  • 東大泉一~七丁目
  • 大泉町一~六丁目
  • 未実施
  • 未実施
  • 未実施
橋戸村 榑橋村
小榑村
上新倉村(一部)
(長久保)

なお、この調査は昭和五四年の頃から一年半ばかりにわたっているので、その間における変化が記述されない所が多いが、昭和五〇年代の前半までの様相として理解して頂きたい。

各地区の記述についての文献としては記入を省略したが、練馬区および区教育委員会の刊行物、練馬農協史、下練馬郷土誌、中新井村誌、石神井村誌、大泉今昔物語、練馬区版航空住宅地図帳等を参考とし、実地調査を省略した所もあって正確

を期しがたい面があることを御了解頂きたい。

旭丘地区(一丁目―二丁目)

面積 〇・三九八km2
人口 八三五四人(密度 二万〇九九〇人)

この地区は旧上板橋村江古田の地域で、板橋区時代は江古田町と称していたが、昭和一九年練馬支所開設の際北となりの小竹町と共に、支所管内に編入され、そのまま区独立の際練馬区となったものである。交通の便や位置から言って練馬区の方が便利であったからであろう。

区独立の時の板橋区議会議長林信助もこの地の出身である。江古田の地名は、中野区江古田の北方の新田の一部が、上板橋村に分属したからではないかと言われる。地名のいわれとしては、「えごの木の多い丘の下の田」からと言われるが、確実なものではない。

永禄二年(一五五九)の小田原衆所領役帳では江戸江古田恒岡分としてあるが、その範囲はわからない。駅名は「江古田えこだ」と読んでいるが、その理由もわからない。現中野区江古田は新編武蔵風土記稿には多摩郡江古田村として「エコタ」と仮名が振ってある。それがなまって「エゴタ」になったのかも知れない。

千川用水が掘られるまでは、石神井川、中新井川に注ぐ小川の水によって、小さい集落もあったが、千川用水、千川通り(清戸道)が通ってからは、半農半商の家が出来、開墾も行なわれて来た。

能満寺は一七世紀の半ば源心僧都によって開かれたと言われ、夏に雪が降ったことから夏雪山とつけたと言う。村の境にあるため、争いもあるが、その時は必ず「夏雪が降る」という江古田方が勝ってその言い分を通したという。江古田駅は大正一一年(一九二二)一一月から始まる。武蔵高等学校が開校した半年後である。同駅は長く乗降客区内第一を誇った駅である。

能満寺の北側一帯には旭丘小学校、旭丘中学校、日本大学芸術学部、練馬病院と、線路の東側にならんでいる。旭丘中学

校の敷地は豊山中学校(現在の日大豊山高校)の運動場のあった所である。

江古田町は町名地番整理によって昭和三五年七月一日、旭丘一、二丁目となったが、この旭丘は小学校の校名からとったものである。旭丘小学校は昭和一三年一月一五日、開校して板橋区立上板橋第三小学校と称したが、練馬区が独立してこの地区が上板橋から分離すると、校名変更の必要が生じて旭ケ丘小学校と昭和二二年一〇月一五日に変更(一般父兄より公募と学校沿革史にある)。また、初め練馬東中学校と称していた中学校も二六年九月一日に現校名旭丘中学校に変更したのである。

昭和三五年七月、地番整理の際、江古田は中野区にもあり、まぎらわしいのでやめてこの校名からとったわけである。

日本大学芸術科は昭和一四年三月本郷から移転して来た。校地は一万坪(三万三〇〇〇㎡)であった。しかし戦時色の濃くなった昭和一八年には専門部の整理統合、芸術科的色彩の払拭という事になったために写真、映画工業科として日本大学専門部板橋工科としたが、終戦後の二一年四月再び芸術科にもどって内容もますます充実してきた。

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江古田駅の東踏切近くにある江古田文化劇場は昭和二五年一〇月より開設され、娯楽の少なかった区民、特に青少年に名画を提供していた。区内の小中学校も午前中の団体割引を利用して映画鑑賞を行ない戦後の荒んだ世情の中に情操陶冶を行なった。江古田駅から千川通りに出た所にあった大正四年(一九一五)一一月建設の「千川堤植桜楓碑」は今浅間神社境内に移してある。また三叉路の所にある三菱銀行江古田支店は練馬で二番目の銀行で昭和一六年一二月一八日、政府の貯蓄増強策から生れたもので板橋支店江古田出張所から一九年六月一日支店に昇格したものである。そこから南、区境までの間に西武百貨店配送センターがあり、豊川稲荷の赤鳥居があり、武川産業KK、日本シート協会がある。西武配送センターは、昭和一九年六月東京都大達長官の要請によって、鉄道がつくった都内の糞尿を近郊(清瀬、東久留米方面)農村に輸送する集積場の

あった所で、引込線も入っていた。その後終戦後の食糧不足や輸送難の時にも使用され、二八年の頃までつづいたが、漸次輸送の好転と共に廃止され、昭和二九年には西武青果綜合食品KKとして再出発している。近在の野菜を始め他府県からの野菜、また総合食品や氷の卸売市場となっていたが、都の方針によって昭和四二年高野台に移り、その跡地が配送センターとなったのである。

武川産業は明治一五年(一八八二)一月の創業で、春日町のシート工場も経営していた会社で長い歴史がある。

集合住宅は中野区との境い千川にそって江古田第二アパートが立っている。昭和三三年の建設で、鉄筋、八八戸である。

商店街には旭丘商栄会がある。

小竹町地区(一丁目―二丁目)

面積 〇・五〇〇km2
人口 八一六六人(密度 一万六三三二人)

旭丘と同じ旧上板橋村の小字である。練馬区独立の際、特に練馬支所管内としての実績から、そのまま練馬に編入された。能満寺前と浅間社裏(寛政八年の大山不動尊があった)から流れ出す小川の他は台地で、散村であった。小竹町は最初「ヲタケ」と呼んだこともあったが、現在は小竹こたけである。会津藩主保科正之の実母の出生地は板橋の在、竹村となっている所から、この地ではないかと言う人もいるが確証はない。

江古田駅のすぐ北の富士浅間社は以前能満寺の守護神であったが、江戸中期以後この付近の富士信仰の中心であったことは、多くの石造物がこれを物語っている。昭和五四年五月二一日、国の重要有形民俗文化財に指定され、その保持に力を入れることになった。また、千川堤植桜楓碑(大正七年・一九一八)が南の千川沿いの所から移されている。神社の縁日は九日であったが今はほとんど店が出ない。

この東に隣接して社会福祉法人錦華学院があるが、大正一二年(一九二三)明治天皇の御愛馬錦華山号の埋葬地二〇六三坪(六七〇八㎡)を宮内省から下賜され、その名をとった青少年の感化厚生の施設であったが現在は総合的な養護施設となって

いる。北隣には聖恩山納骨堂がある。

町の中心に力行会がある。明治三〇年(一八九七)島貫兵太夫によって設立された東京労働会の後身で、大正一五年ここに移って来た、「国民の力行的精神作興を図り兼ねて開拓者及一般子弟の教師指導援助をなす」ことを目標とする財団法人である。昭和一〇年力行高等海外学校となり、一四年力行商業学校として生徒募集を行なった。昭和一九年国策によって工業学校となり昭和二〇年度で廃校としたが、地元の要望により二一年一部の校舎で戦後練馬区で最初の幼稚園を開園した。現在はその他に日本力行会本部、力行海外協会国際学寮があり武蔵野音大の寮もある。

北隣の八雲神社は、江戸初期小竹町二六二七(現・小竹町二―一三)宝蔵院の境内にあった守護神で、明治一〇年(一八七七)現在地にうつった小竹町の氏神である。

小竹町の人口は昭和一二年二〇九四人で、区独立の時は四一三四人、約二倍になっており、三二年には六三一七人、駅の近くで戦後急激な発展をしているため道路網の整備が十分とは言えない。また、江古田駅北口の開設は大きな利便となっているが、その狭隘さはやはり将来の問題となろう。環七通りは昭和三九年完成して、この地区の北を通過しその利用度は高いが、出口の道路が不備である。また、この地下では桜台まで地下鉄工事が進められている。品川電線株式会社は、昭和一七年一月現在地に創立され、三〇〇人の従業員が働いている。

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都営住宅は、小竹町第一(一七戸)第二(一五戸)で、昭和三二年に都住宅公社の小竹町住宅が二〇〇戸完成している。商店会は小竹町共栄会と、日大通り商店街である。この地区の小竹小学校校庭下には現在、公団地下鉄八号線の工事が行なわれているが、ここから池袋方面は複々線となり、西武線桜台駅方面に分岐線を出す場所にあたるため、地下は交通の重要拠点となり、いずれその影響は開通以後地上に表われて来るのであろう。

栄町地区

面積 〇・一四七km2
人口 三七六〇人(密度 二万五五七八人)

下練馬村の東南端、羽沢前の地域(出崎の一部を含む)であり、普通には江古田新田とよんでいた。南、江古田町につづく地域としてよばれていたのであろう。旧南町一丁目の南部で、江古田駅に近い地域である。昭和二七年三月地番整理によって、町の分離、町名変更が行なわれた所である。栄町の名は練馬の表玄関としての繁栄を願ってつけられたのであろう。明治九年の下練馬村地図によればこの地域には一〇軒ばかりの家が散在していたようである。やがて、明治四五年(一九一二)五月七日武蔵野鉄道が設立され池袋から飯能まで汽車が通ることになった。開通は大正四年(一九一五)四月一五日であった。東長崎駅から練馬駅の間に駅がなかったが、大正一一年(一九二二)に今の武蔵野稲荷(割れ塚は古墳の説がある)の方に、枕木を井桁に積んだ仮の駅ができたのが江古田駅の始まりである。武蔵高等学校(現武蔵大学)が豊玉にできた(大正一一年)のがきっかけであろう。そして大正一四年(一九二五)電化、昭和の初めには江古田駅から西、桜台にかけての北側一帯が高級住宅地として売り出され、人口もふえた。武蔵高等学校、武蔵野音楽学校(昭和四年設立)の設立により江古田駅も現在地にうつり、駅前からふみ切りをこえ、氷川台早宮方面に出るバス道路には商店街もできてきた。

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昭和一九年、戦局の進展にともない、江古田駅周辺にも建物の強制疎開が命ぜられ、生徒や隣組の奉仕による家こわしが行なわれた。しかし終戦後は復興がはやく、バラック建のマーケット等が軒を接して建てられていった。南口にもそうした店が並んでいた。江古田市場(一七店、昭和二三年開設、武蔵野百貨店は一一店、昭和三〇年開設)等である。

昭和二四年日本大学芸術学部も旭丘にできて、江古田駅の乗降客は一日合計(昭和三五年)五万三〇〇〇人にも達している。

練馬税務署は昭和二五年一一月豊島園東方の練真中学校の仮建物から現在地に移動している。

商店街には江古田銀座商店街、栄町本通り商店街振興組合、江古田ミツワ商店会、江古田北口商店会等がにぎやかな商戦を展開している。また武蔵野稲荷の縁日は毎月三日であったというが、今はない。

羽沢地区(一丁目―三丁目)

面積 〇・四五九km2
人口 五四〇五人(密度 一万一七七六人)

旧下練馬村南・北羽沢、羽木はねきの地で、市編入時の練馬南町一丁目の中・北部にあたる。羽沢は羽根沢といわれた所で、鶴が多く渡来し羽が沢山たくさん落ちていたのでつけられたという。南は台地、北は練馬区で一番低い所で、長い間水田であった。西は千川からの引水の流れる低地である。明治の頃一三戸の農家があったが、江古田駅開駅後は、栄町につづき住宅地がふえて行った。昭和三七年栄町と共に地番変更が行なわれ、羽沢一・二・三丁目になった。昭和三八年の人口は四五一四人で、二〇年後に近い五五年には約一〇〇〇人の増で、その発展の速度はおそい。

       (三八年一月)  (五五年一月

羽沢一丁目   一六二二人    一五〇八人

 〃二丁目   二三九六人    二七〇〇人

 〃三丁目    四九六人    一一八八人

 計      四五一四人    五四〇五人

三丁目の人口が特に少ないのは、長い間水田でその後緑地帯となったため開発がおくれ、そのため開進四中や都立大山高校(校庭分が区内)ができ、工場、駐車場の敷地にもなっているためである。

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都営住宅は次の通りである。

武蔵野音楽大学は昭和四年二月二六日創立、三月二五日現在地に校舎落成して開校した武蔵野音楽学校の後身で昭和二四年に大学として発足したものである。

豊玉上地区(一丁目―二丁目)

面積 〇・三三四km2
人口 四六八二人(密度 一万四〇一八人)

豊玉地区は昭和七年一〇月一日の東京市編入まで北豊島郡中新井村大字中新井であった。即ち明治二二年(一八八九)の町村制実施までは中村とは別に村をつくっていたのである。

そしてこの地域は東京市板橋区中新井町一丁目―四丁目となっていたが、大正元年(一九一二)に一八八〇人であった人口は、昭和一二年七三〇二人、昭和二五年には一万三八九五人と急激にふえている。勿論関東大震災による近郊の都市化のためであるが、本格的な町づくりの必要性が起ってきた。昭和二年決定された放射七号、環状七号は幅員二五mでこの地区を縦様、横様に走るようになったので、他村がそのままに放置して交通上の混乱を起した前例に鑑み、前車の轍をふまないためにも、この大動脈を根幹として地区の再編成と道路網の建設の必要性を痛感した。

そこで森田文隆、金子定七、磯村権作諸氏等の努力によって五〇〇町歩(一五〇万坪・四九五万㎡)におよぶ広範な地域の区画整理が実現することになった。

昭和七年三月中新井町第一土地区画整理組合が西北の部分三〇万坪(一六五万㎡)の土地整理のため発足し、さらに南部一帯を中心に、中新井町第二土地区画整理組合が、昭和九年一一月設立され、町の東、武蔵大学付近には昭和一〇年、第三組合が設立された。ここに前記環状線を始め、中央を東西に貫通する町村細道路網第二号線(幅一一m)を始め網の目のような道路ができ上った。

こうして昭和一六年全地域の換地処分を終えて、新しい地域に新しい地名をつけることになった。それが、明治九年、中村の南蔵院を仮校舎として発足した豊玉ほうぎよく小学校の名をそのまま町名とすることにした始まりである。

豊玉とは北豊島の豊と、東多摩の多摩からとったもので、当時この学校は、北豊島郡の中新井村、中村、谷原村、田中村と東多摩郡の江古田村、片山村、上鷺宮村、下鷺宮村の八か村の連合によってつくられたので、豊玉ほうぎよくと名づけられていたが、分離後もそのままの校名がつけられ、地名変更後「とよたま」と呼ぶようになったという。

昭和一五年から一六年にかけて実施された地番整理によって生まれた豊玉上一―二丁目は、その中、東北部を占め、千川通りと、十三間道路にはさまれた地区である。旧字を北於林、北新井、弁天、下新街と言い、練馬区の中心地の一部にあたる。

中央に武蔵大学が二万五〇〇〇坪(八万二五〇〇㎡)の校地にその威容をほこり、その西を環状七号が走り、地区を二分している。東部は狭いが、西部は桜台、練馬の両駅に近く、区役所、警察、消防の官庁にも近く、区における商業の中心ともなり、第一勧業銀行、池袋信用組合、巣鴨信用金庫の支店等もあるが、西武池袋線の複々線工事の予定等から、千川通りの北側にまだ空地もあり、発展が足ぶみ状態となっている所が見られる。都交通局の練馬自動車営業所や、練馬保健所、練馬清掃事務所もある。西の端に、千川にかかる矢島水車があって、付近農家の米つき、製粉精麦の便を図っていたが、現在その跡地の一部に消防署等が建っている。武蔵大学と環七道路との間に、昭和四四年に建てられた桜台コーポは一四階建の高層ビルとして最初の頃のものである。千川通りには豊南新交会千川通という商店会がある。

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豊玉中地区(一丁目―四丁目)

面積 〇・五〇四km2
人口 九八七四人(密度 一万九五九一人)

豊玉北地区の南に東西に広がる一帯である。中央に環状七号が横切り、東西の中心線に、町村細道路網第二号線幅一一mの道路がある。

地番変更は昭和一五年九月一〇日、一六年八月二一日に施行され、旧中新井村の南於林、弁天前、中通、宮北、本村、東本村と言った所である。人口は昭和二六年に二八七八人で、現在はその三・四倍に達している。著しい増加である。西本村には中新井村役場、豊玉小学校等があり、村政の中心であった。

都営住宅も多く、豊玉仲町第二、第三(昭二八年、計五〇戸)、第四(三〇年、二六戸)、第五(三〇年、四三戸)、第六(三〇年、四二戸)、第七(三〇年、四九戸)、第八(三二年、一二戸)、第九(三二年、四戸)、第十(三二年、四四戸)、第十一(三四年、四〇戸)、豊玉仲アパート(鉄筋、三六年、三二戸)、豊玉仲町三丁目アパート(鉄筋、四六年、四五戸)、豊玉仲一丁目アパート(鉄筋、五〇年、三九戸)と計四二六戸に達している。

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  村役場その後 1

 

中新井村役場

 場所 練馬区豊玉中四―一三

    (旧中新井村大字中新井一八一四)

現在の豊玉小学校の敷地内にあった村役場は昭和四年一二月学校校舎増築のため取りこわされ、道路をへだてた西側に建てられていたが、昭和七年一〇月一日、東京市編入と共に、中新井民生館(俗に方面館と言った)となって民生事業行政の中心となった。昭和二四年九月三〇日、都より移管され、昭和二六年一〇月一日、都練馬福祉事務所となって、昭和四〇年四月一日までつづき、同日練馬区に移管された。昭和五五年六月区役所第二庁舎竣工と共に、そこに移って、その後は国勢調査の事務取扱室となり、完了後は一般区民に開放しているが、一階は改造中である。二階は経済課分室区商店街連合会事務所となっている。

中新井村誌によれば大正一二年(一九二三)、大震災の際、財団法人同潤会が、罹災者救助の目的から中新井に豊島住宅を建設してその救助にあたり、その後払下げが行なわれたと記して

いる。

豊玉小学校は前記の通り、中新井村外七か村の連合村立として明治九年創立された古い学校であるが、初期の学校は敷地一九五坪(六四四㎡)とあるから、その後の拡張は大変なことであったと思われる。現在は一万一四四四㎡と一八倍近くに拡張されている。

豊玉南地区(一丁目―三丁目)

面積 〇・四四四km2
人口 五八二五人(密度 一万三一一九人)

豊玉中地区の南、中新井川をへだてて、中野区に接する地帯である。旧字名は東本村、池下で、西本村と弁天前の一部も含まれている。中新井川はこの中を東西に貫流しているが、水源も少なく、千川の水を貰っていたが、水はけが悪く、湿地帯となっていた。徳殿とくでん公園は、そうした土地を開墾して無税地をふやしたため、徳田とくでんと言った場所の名残である。また、豊玉南三丁目に学田がくでんの名があるが、これは明治一八年(一八八五)、豊玉小学校の学田として開墾許可を得、これを村が開墾して水田として、その小作料をもって、学校の資金にしたという明治初期の義務教育達成の苦心を物語るものである。

南の低地を望む台地上は景色もよく集落も集り、村の鎮守の氷川神社、正覚院、富士稲荷等がまつられている。

昭和二六年の人口は一二一七人で現在人口はその四・八倍にも達し、その都市化の著しさを示している。

都営住宅は豊玉南第一(昭二九、二八戸)、同じく第二(昭三〇、二〇戸)また豊玉南三丁目に四八年五月都住宅供給公社の高層分譲住宅(一四階建)一棟ができ、一一八四戸の入居があった。

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氷川神社の祭は九月六、七日に行なわれ、神輿みこしをかついで田んぼの中を暴れまわるので、天王様の「あばれ神輿みこし」と言われた。境内にある須賀神社のお祭りである。天狗杉の伝説がある。

正覚院は太田道灌が自分の陣屋に建てた天満宮のそばに、その別当として建てた寺であると伝えられ、千代田城築城の際、その外堀(市ケ谷付近)内にいた矢島庄兵衛が移され、正覚院の開基檀徒となったと言われる。しかし境内の墓地には、正徳四年(一七一四)中興法印契衷とあって、以前のことはわからない。明治の廃仏毀釈によって、当時の名主神道信者岩堀満房は住職を追った為、無住となって、本尊も他にあずける程になったが、明治一〇年代(一八七七―一八八六)に漸く存続の許可を得たという。そのため墓地には神道墓地も見られる。

富士稲荷神社は殿山(古代遺跡あり)の近くで、富士の見える稲荷から名づけられたと言い、御神木楠の巨木は有名である。

豊玉北地区(一丁目―六丁目)

面積 〇・七六三km2
人口 一万五六四七人(密度 二万〇五〇七人)

豊玉上地区の南に、東西に帯状に広がっている地域即ち練馬の大動脈である放射七号線の両側を占める一帯で、この道路に沿って区役所、練馬郵便局、練馬電報電話局がならび、千川通りとの間に練馬消防署、警察署、税務事務所、区役所の南に公民館、図書館、福祉事務所等行政官庁の建ちならぶ官庁街となっている。昭和七年の市編入以前は中新井村字南於林、中通、宮北、上新街と呼ばれた地域である。その後中新井一丁目から三丁目を南北に二分した形の北半分に該当する。区画整理が終り、昭和一五年九月一〇日、昭和一六年七月一日に各地域地番整理が行なわれ、豊玉北一丁目より六丁目として登場したわけである。昭和二五年の四月一日の人口は七四五〇人で現在の半ばに過ぎない。

大正一二年(一九二三)の震災後徐々に住宅地化が進み終戦後は交通の便もよくなり、会社、銀行の寮、都営住宅等も多くでき、一面の畑は忽ちのうちに住宅地となった。

この地区を斜めに横切る新井薬師道は昔ながらの風情の中に商店が立ちならび、豊玉商店会を形成している。なお千川通りより南に入る小路には商店が立ちならび、大鳥商店街、中央通り商店街があって、にぎやかである。千川通りには埼玉銀行、大和銀行、三井銀行や、証券会社の支店が建ち、一般商店もビル化し、二階以上を貸しビルにして、土地の高度利用を

はかるようになった。

大鳥神社は、正保二年(一六四五)鶴三羽が飛来した所から和泉国の大鳥神社の分神を勧請したという。境内に石薬師があり、病気治癒祈願が行なわれていた。一一月のとりの日は、お酉様で、千川通りから十三間道路に至る道路はすべて車の乗入れが禁止され、何百軒もの露店、出店がならび大にぎわいである。大鳥市場は区内でも古いマーケットである(昭和二六年一一月)。

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その南の東神社は品川区から移転して来た「心道きよめ苑」という宗教団体である。この東南に昭和三〇年秋の頃、「ムービーネリマ」という映画館があった。

共栄信用金庫は中新井地区の区画整理の資本金準備の必要上、昭和九年に生まれた営利を目的としない法人であったが、目的達成後は、普通金融機関として、区内各地に支店をつくっている。昭和五五年に森田医院北に地上五階の大ビルをつくり、移転を終る。

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  埼玉銀行練馬支店

大正一一年(一九二二)七月三日、浦和商業銀行練馬支店として現在の加志和屋陶器の所に開店、大正一二年第八十五銀行に合併、更に戦時統制により昭和一八年埼玉銀行に合併された練馬における一番古い銀行である。

豊玉北の都営住宅は、豊玉北第二住宅(昭三〇年、一七戸)、豊玉北アパート(昭三二年、四八戸)、北第三アパート(昭三二年、一一〇戸)、北第三住宅(昭三二年、三六戸)、北第四住宅(昭三二・三三年、四〇戸)、豊玉北母子アパート(鉄筋、昭三四年、二五世帯)、北三丁目アパート(鉄筋、昭五〇年、一〇戸)と数も多い。

また、豊玉団地は三三年七月に完成した六棟(二三六世帯)の団地である。

北新井の弁天さま(市杵島神社)では、雨乞いの行事も行なわれていたが、水源の泉もなくなり、唯密集する住宅地に緑の一隅を残しているだけである。練馬郵便局の南に、昭和二六年か

ら昭和三九年まで、青果市場(新宿青果分場)があり、付近農家はリヤカー等で出荷していた。現在は高野台に移っている。

中村地区(一丁目―三丁目)

面積 〇・四七五km2
人口 七九五六人(密度 一万六七四九人)

江戸時代中村は独立の村であって、家康江戸入府の時は井上河内守領となり、正保二年(一六四五)今川義元の孫高家衆刑部直房の領となり、明治までつづいた。その点では天領の多かった練馬各村とは違っていたので、当然行政、年貢にも差があったから、幕末に小前騒動のような百姓一揆に近い事件も起ったわけである。正保年中(一六四四―四八)、中新井村高一三五石余に対し、中村は七六石余であったから小さな村であったのである。

昭和七年一〇月一日東京市編入、板橋区の時代に入り中村町一・二・三丁目となったが、昭和一二年三月、中新井町の区画整理につづいて、中村橋駅付近の地区に、中村町第一土地区画整理組合が設立され、一三年一月にはこの南の地区から中野区鷺宮にかけ中鷺土地区画整理組合が設立され、全域の整理が終り地番整理が行なわれたのは、北部で昭和一五年九月、中南部で戦争末期の昭和二〇年三月である。住居表示は昭和四七年九月一日に実施されている。

この中村一―三丁目は旧中村の中央帯をなし、寺原、新屋敷、中内、南、西原の一部を含む地域である。千川からの引水(中新井川の主な水源となる)と練馬城から杉並大宮八幡に至る鎌倉古道が中央を通っている。

西武池袋線と新宿線の間にあって、長く田園風景の残された地区であったが、電電公社や国際電信電話(株)の社宅等の大きな建物が近年建てられている。その中に緑を添えるものは、古いお寺である南蔵院と中村小学校、八幡神社の森であり、所々に残る農家の屋敷森である。

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南蔵院は延文二年(一三五七)良弁僧都によって開かれたといわれ、良弁塚や薬師堂にからむ伝説がある。三代将軍家光より、眼病治癒の礼として十二石八斗の御朱印を賜ったという。鐘楼門は珍しい建物である。

この西方にある良弁塚は良弁僧都が諸国の霊場に法華妙典を納め、最後にこの地に留り、その妙典を納めた所と言われる。七観音の石幢等がある。

昭和三二年の人口は七八〇一人で、昭和二〇年代の発展が目ざましかった事を示している。電電公社(昭三三、四〇戸)や国際電信電話(株)(昭三三、七四戸)の社宅等もある。また住宅協会中村橋住宅(昭三二、六六戸)もある。

商店街は中村一丁目に中村東栄会、三丁目に中杉通り光栄会とあるが、地域的には南と北にも連なるものである。

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   中村で育った「五つ子」

昭和五一年一月三一日、鹿児島市立病院で「五つ子」が生れ、未熟児ながら元気に育っているニュースは、一斉に新聞の第一面で報道され暗いニュースの多いその頃に温かさを与え「どうか丈夫で育ってほしい」の気持ちは、全国民の願いとなっていた。山下福太郎、寿子、洋平、妙子、智子と命名され、順調に育った「五つ子」は昭和五一年五月一二日、父母、祖母に抱かれて、本区中村一―八―一一に移って来た。勤先のNHKの社宅である。それから五三年一〇月一三日大田区へ移るまで二年五か月の間練馬区の住民であったわけである。全国の話題をさらって毎日新聞紙上をにぎわし、一月の牛乳代しめて三万円等の報道もされている。

中村南地区(一丁目―三丁目)

面積 〇・四七九km2
人口 六八七八人(密度 一万四三五九人)

昭和一三年の区画整理によって新しく編成されたこの地区は地番変更が昭和二〇年三月一日に行なわれた。昭和二六年の人口は、一六四五人であったから、それから約二五年間の増加は著しかったのである。住居表示は昭和四七年九月一日に実施された。

南蔵院の南に、大正一二年の震災に家を失った人々のため建てられた簡易住宅は百軒長屋と言われたが、今は改築されて

いる。この地区の小字は精進、籠原、南、西原で、南蔵院に関連があると思われる精進と共に、中新井川周辺の原野の様子を想像することが出来る。

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八幡神社は中村の鎮守で、境内神の御獄神社では一月、五月の一八日には古式に則り探湯式が行なわれている。卍印の御手洗は神仏混淆の名残りを示している。若者が力くらべをした力石もある。

ここから北にぬける小道の終りに「首つぎ地蔵」が立派な御堂の中に安置されている。以前この西側にあった西光寺跡の林の中に「首なし地蔵」が立っていたが、夢のおつげで首が見つかり、ここに再建された。以後首のつながるのを願う退職間近い方々の尊崇を得ている。

区立中村中学校は戦時中の安田生命の運動場を買収して建てられたもので、広い校地をもっている。区画整理された整然とした耕地には今、郵政省の官舎や日本電電、国際電信電話(株)、群馬銀行、安田生命、兼松江商、第一家庭電器等大会社の寮が立ち並んでいる。町の南は新青梅街道で、その南中野区に接している。

中村北地区(一丁目―四丁目)

面積 〇・三五二km2
人口 七一六四人(密度 二万〇三五二人)

西武池袋線中村橋駅に近く、千川通りに面する一帯である。中村橋駅は大正一三年(一九二四)六月一一日開駅。富士見台駅は、大正一四年(一九二五)三月一五日開駅で最初貫井駅と言っていた。最初はみかん箱をおいて台にして乗り降りをする程度であったという。

村の時代には、東から原、北原、城山と言い、北の端に千川用水が流れていた地域で、千川用水が掘られるまでは、水に恵まれない山林、原野であった。

富士見女子高等学校は、そうした原の真中に大正一二年(一九二三)に建てられた学校

で、開駅は一三年四月の開校に間に合わなかったわけで、女子生徒として通学の不便は大変であったと思われる。そのため寄宿舎もあって、婦徳の教育が行なわれた。

昭和二九年に出来た円形校舎は日本最初のものである。

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その後駅や学校を中心に商家が出来、中杉通りも完成して、商店街ができて行った。中村橋中杉通り親交会によってまとめられている。

東・豊玉につづく地帯は、練馬区の仮庁舎(教育委員会、土木部、選管)や水道局の北部第二支所、東京電力練馬支社や変電所がならび、中村橋駅近くには住友銀行、協和銀行、東京信用金庫、練馬農協の支店がならんでいる。地区の南には第一勧銀、住友銀行、住友生命、開発銀行、協和銀行等の社宅や寮がある。

豊島園より西武線を横断して杉並に向う古道には千川通りを横切る所に、昭和三一年の頃まで「がらぎっちょ」の大樹があった。徳川時代、上納の対象となった「さいかちの実」が鈴なりになっていた。今はそのあたりに都住宅供給公社の中村北団地六六戸がある。

この西、千川通り内のグリーンベルトに、不動様がまつられているが、ここから千川の分水がとられ南蔵院の西南に流れ、中新井川の源流となっていた。

昭和三六年の中村北地区の人口は六九八五人でその後の増加は殆んどない。この地区の住居表示は昭和四七年九月一日に行なわれている。

桜台地区(一丁目―六丁目)

面積 一・三四三km2
人口 二万二三六五人(密度 一万六六五三人)

旧下練馬村の中での相当広い地域で、南町二・三丁目、小字では熊野山、正久保、西羽沢、正久保台、宿湿化味しゆくじつけみ、出崎、

宿化味しゆつけみ、出子谷、南三軒、向早淵、西原、西原前にあたり三七年三月まず南町二丁目が地番変更で桜台一・二・三丁目となり、三八年二月南町三丁目の住居表示が行なわれ、桜台四・五・六丁目になった。

昭和三二年一月には人口は一万四四八八人で、現在より約八〇〇〇人程少ない。江古田駅は大正一一年(一九二二)一一月にでき、桜台駅は昭和一一年七月に開設された。震災後漸く郊外に居をうつし、また武蔵野鉄道の無料パスや住宅地開発等で江古田、桜台の中間にも文化住宅ができてきたのである。軍人や文化人の住宅であったが、最初は大正九年(一九二〇)頃作物がとれず砲兵工廠住宅が進出してきた結果である。

桜台の名は昭和一一年七月に駅ができた時につけられたもので、当時は千川用水堤の桜が東京の名所の一つに挙げられた程なので、最も桜台の名にふさわしい所であったのであろう。しかし古来桜台という小字は現在の北町四丁目陸上自衛隊付近であったのである。

北東の正久保には、水車廃止後も電力による精米・精麦・製粉場があり、その上流に氷川神社の神体が上ったというお浜井戸、またその西に高稲荷神社の高台があり、高台をめぐる石神井川の急流、西の方練馬城址(豊島園)を望む眺望はすばらしく、昭和の初め高稲荷公園と称し、その周囲の社有地を住宅地として開放した。現在の公園は昭和三〇年の開園である。正久保にはまた戦後新宿青果市場の分場が出来、付近農家の野菜出荷もあったが後倉庫となり農協の桜台支店となった。

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広徳寺は箱根湯本の早雲寺の子院として、北条氏房が小田原に建て、後家康が神田昌平橋にうつし、その後下谷にうつり、大正一二年(一九二三)の震災後、都市計画の上から、別院として移ってきたもので、墓地は土地の発展に障害があるとのことで村民大会等の反対もあったが、既に売買がすんだことなので、順次移転が行なわれていった。「ビックリ

下谷の広徳寺」といわれた程の大寺で、大名家の菩提寺にもなり、柳生、立花、前田、会津松平、織田、小出、秋月、細川(谷田部藩)森、松浦、真田、小堀家等の墓がある。その西を南北に通る早淵新道(田柄早淵前道)は大正一五年(一九二六)の頃、広徳寺の三〇〇坪(九九〇㎡)をはじめ約五〇名の農家が土地を寄付して、つくった道であり、田柄、早宮、練馬駅を結ぶ近道である。その記念碑は早宮二丁目早宮公園に残されている。

桜台六丁目の武蔵野音大付属幼稚園は昭和二五年五月開園したが、旧園舎は昭和一六年開校した私立岩崎学園桜台高等女学校の校舎であった。戦後生徒数の激減から廃校とし幼稚園となったのである。

開進第三小学校は昭和六年一二月に分校として開設され、七年九月独立した学校である。桜台、栄町地区に新しい住宅地商店が出来たためであるが、「練馬の学習院」と呼ばれていた。昭和二一年板橋区役所練馬支所がこの学校の講堂に設置され、やがて昭和二二年八月一日練馬区独立によって東方の写真学校(現在阿部医院)と共に練馬区役所となり、二四年一月に現在地に引越すまでつづいた。現在「練馬区独立記念碑」が校庭に立っている。

桜台地区の人口の動き
桜台1丁目 4,632 3,857
  2   3,625 4,282
  3   2,559 3,798
  4   3,937 3,297
  5   2,907 3,843
  6   2,183 3,288

桜台五丁目の開進第二小学校は明治七年(一八七四)彰義隊士松山為三郎によって設立された私立松山塾の後で、明治一九年(一八八六)四月開進小学校の分教場として発足、昭和三年四月独立開校したものである。

桜台駅は昭和一一年にでき、戦争のため二〇年二月休駅したが、戦後の二三年四月一日復活しており、現在乗降客は一日三万四〇〇〇人である。

商店街には開進第三小学校の付近に開三通り商店街、開進第三中学校付近に桜台中央商店会、桜台通りでは駅の南に桜台商業協組、北口に桜台商店会があり、早宮方面にまでその商圏をのばしている。

人口増加の状況は上表の通りであるが、桜台駅周辺の人口減少は、交通の便から、銀行、

事務所等の進出があり、住宅地はやや離れた所にうつったからであろう。

都営住宅は次のようである。

練馬地区(一丁目―四丁目)

面積 〇・八一三km2
人口 一万四〇六七人(密度 一万七三〇三人)

旧下練馬村の西南、練馬駅より豊島園にかけての一帯の地域で、旧字では糀屋、栗山下、栗山、栗山大門、谷戸山、谷戸、出頭にあたる。昭和七年東京市編入の際は、板橋区練馬南町四・五丁目となり、現在は昭和三八年二月一日に行なわれた住居表示の実施によっている。

練馬駅の西北は練馬でも最も早く集落が出来、現在までつづいている地域で、平義家が奥州征伐の時戦勝を祈ったという白山神社の大欅、阿弥陀寺の元弘の板碑等はそれを物語っており、泉湧く低地を囲む聚落が目の前に浮んで来る。従って、この西方には鎌倉街道の名が残っている。実に練馬の発祥の地ということが出来よう。

西北にあたる現豊島園には鎌倉末期に豊島景村によって練馬城が築かれ、石神井城と共に豊島氏の領土拡張の様相を示している。その出城が栗山にあり篠某によって守られ、馬の調練で名をあげ、練馬の名称もここから起ったという説も残っている。

景村は新田義貞の鎌倉攻めに参加し、その後も南朝方として働いたと言われる。現在栗山城址には開進第二中学校と練馬区第二総合給食調理場があるが、以前松山と呼ばれ、松の生いしげる山林であった。老人クラブ松山会の名にその名残りをとどめている。

駅付近にはその後千川用水がひかれ、清戸道(現在の千川通り)に江戸へ野菜を運び、帰りに下肥を運ぶ人馬が通るまでは水の便に恵まれない山林であった。清戸道は清瀬三郷から江戸の西北へ通ずる近道になったのである。

この地区の集落では明治から大正にかけて草履表(しゅろ表)の製造が行なわれ、村の重要な産業であったが、昭和二年にも六戸が従事していた。

武蔵野鉄道が開通し、練馬駅が出来たのは大正四年(一九一五)四月であるが、その後の農村の疲へいと鉄道営業の困難さは沿線の開発に目をむけさせた。武蔵高等学校や冨士見高等女学校ができたのもそれであるが、練馬駅の北側では、工場誘致として、大正八年(一九一九)から大日本紡績工場の建設にかかり敷地一万二〇〇〇坪(四万㎡)、社宅地三〇〇坪(一〇〇〇㎡)、工員五、六〇〇人を募集して、一〇月一〇日操業を開始した。恐らく煉瓦づくりの工場は当時としては近代工場であったのであろう。練馬駅には引込線も入り、原料製品、燃料の輸送の便を図った。

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しかし大正一二年(一九二三)の関東大震災には工場が崩れ、九人の犠牲者を出した。その供養碑が錦町の円明院にあるが、その時会社は上毛モスリン練馬工場と称している。また東洋モスリンと称した事もある。正午に工場でならすサイレン(ポーと呼んだ)は田畑で働く農民にお昼を知らせてくれた。

この会社の従業員を対象に、千川筋には商店が出来、映画館もできた。日の出座と練馬館がそれである。労働争議で赤旗のふられた時もあったという。戦争中昭和一六年七月鐘紡の経営にうつり、戦争末期には鐘紡練馬兵器工場として小銃弾の薬莢をつくっていた。私立豊島岡女子青年学校が工場内につくられ、戦時下における女子工員の教育につとめた。幸い戦災を逃れ、戦後は綿紡からフェルト製造にうつり、一時発展したが、四五年には閉鎖することになり、ディベロッパー鐘紡

(D・K)の経営にうつされたが、練馬駅周辺地区再開発の一環として、都区で交渉、遂に五二年D・Kはその開発構想を断念したので、都区で敷地を買収(都二万九七〇〇㎡、区一万〇三〇〇㎡)、現在道路その他の周辺整備ができるまで、広場として暫定的に開放されている。

なお、駅北口に区の自転車置場が設置されているが、一五〇〇台から二〇〇〇台を収容している。練馬駅西方の踏切はその出口として昭和五四年に竣工したが永年の念願がここにかなえられたことになる。再開発までの間、区民祭の会場として使われている。五六年度より区民会館の建設が始まる予定である。

中央大学グランドは昭和五年から始まった石神井川流域の耕地整理が昭和七年に終り、畑地化が行なわれた際できたものである。この付近は深田で、田の底に丸太をおいて仕事をする始末であったから、畑になっても低湿地として作物がよくできなかった所である。そこで中央大学運動場としての話が出て、買収が始まり、一五年頃には運動場が完成、学生寮もでき、その後多くの名選手を育てていた。戦中戦後、体力検定会場、連合運動会、連合演習、閲兵式等、区民もまたその恩恵に浴した。昭和四八年、中央大学運動場移転の意向を聞き、都に陳情してその買収を昭和五二年三月までに終り、区がそれを借りて練馬駅周辺地区の再開発の代替用地として使うようになった。今暫定的にそのまま運動広場として使っている。面積五万八〇〇〇㎡である。

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その西南側台地に十一ケ寺がある。

大正一二年(一九二三)の震災で焼失した浅草田島町の誓願寺の塔中が昭和二年この地に移って来た一一の寺の総称である。この寺も小田原にあったが徳川家康より神田豊島町に一万坪(三万三〇〇〇㎡)の地を賜わり移ったが、その後火事にあい浅草田島町にうつり、また大正一二年の震災にあったわけである。墓地には徳川十人衆と言われる御用

商人および蔵前の札差青地家、三浦氏等の大名、沢村宗十郎、池永道雲、小野蘭山等の文化人の墓が多い。誓願寺は現在府中市紅葉岡一丁目一四―四に移っている。

この寺の北に練真幼稚園があるが、ここは昭和一七年小石川から移って来た宗教法人練真道設立の練真中学校のあった所で、学制改革で高等学校となった。昭和三〇年廃校となり、現在幼稚園である。

この前を通る道は埼玉道といい、成増・春日町から、清戸道に出る近道である。この道路の下に昭和一七、八年頃、石神井川の水を千川用水に揚水した暗渠がある。千川用水の水を王子の造兵廠等の軍需工場で使っていた関係でその水不足対策として、豊島園東の中の橋東(現、西早宮橋付近)より揚水して、この道の下を通り大踏切西から千川通りにぬけ、合流していたのである。

千川通りは、昭和二〇年四月一三、一四日の空襲で焼けたが、戦後の復興も早くアーケード街は昭和二四年結成された練馬本町通り商店会から発展して、千川の暗渠化を機に、両側歩道、電線、下水、水道、ガスの共同溝渠、街路灯設置と進み、遂に三四年七月アーケード設置のための諸手続を終って、その年一二月一八日落成したと、「商店会の沿革」の中に述べている。雨の日、猛暑の日の利便は絶大で練馬区唯一のアーケードであるが、また、その実現の困難さもあったわけである。

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千川通りの一の日の縁日は日川地蔵の縁日で、二、三年前までつづいていた。一の日商店会にその名をとどめている。

商店街には、その他、練馬駅前商店会、練馬北口振興会、練馬銀座本通り商店会、大門通り商店街振興組合、弁天通り商店会、また、豊島園駅前商店会等多くの商店がならんでいる。北口には昭和三二年練馬市場(食品マーケット)が開場した。

清戸道を西へ行くと、渡辺製粉がある。明治三三年(一九〇〇)から谷原の地、千川上水にかかる水車で米つき、粉ひきを

していたが、大正一三年(一九二四)二月、火事で焼失、その年電力による製粉工場を現在地につくったとの事である。

豊島園は練馬城に大正一五年(一九二六)にできた都下有数の遊園地であるが、駅は昭和二年一月一五日にできている。その間の一年間は徒歩とバスが主な交通機関であった。呼物はプールとウォーターシュートとボート。それに音楽隊と言ったブラスバンドの演奏であった。トラックでは大運動会も行なわれた。

都営住宅は、次のようである。

また中の橋から豊島園正門前を通り中村にぬける鎌倉街道と呼ばれる道路が、西武線・十三間道路にあたる所の東側に、共同住宅新練馬荘がある。以前警官住宅と言われた所で、五階建四棟一五〇戸、三階建一棟一八戸があり、その北に呉羽化学工業のアパート呉羽荘がある。

向山地区(一丁目―四丁目)

面積 〇・七三三km2
人口 八八一一人(密度 一万二〇二一人)

豊島園は文明九年(一四七七)太田道灌によって落とされた豊島氏の城址で、大正八年(一九一九)藤田好三郎の所有となり大正一五年(一九二六)遊園地として開園された。石神井川をへだてた春日町の台地の南面を含めて一〇万余坪(三三万㎡余)、当時府下有数の遊園地である。石神井川は向山町側の台地をえぐり、その台地上に城址、くいこむ谷間に大きな滝をもつプールができ、練馬で初めて完備されたプールとして、小学校の夏季施設としても利用され水泳大会等も行なわれた。ウォーターシュートが南の丘の上から石神井川の上を通り、ボート池の端にかけてあった。ボート池には大きな緋鯉や真鯉がかわ

れ、まかれる餌を待っていた。

北の丘の上に音楽堂があり、豊島園養成のブラスバンドが演奏していた。野外劇場、トラック、テニスコート、ぶどう園、小動物園等農村には珍しいものばかりであった。

この地は矢の山と言われ、文明九年の落城の時城主の娘が入水したという嬢ケ淵のたたりか、幽霊が出て持主が全滅するという噂で、この土地の持主は幾度か変ったとのことである。

この向山の地区は北向山、東向山、向山ケ谷戸、西向山、向山に北貫井の一部で、昭和七年の東京市編入の際練馬向山町となり、昭和四〇年四月一日、住居表示の実施により十三間道路の北側の貫井町の一部を加えて向山町一―四丁目になった。

十三間道路は清戸道を整理、拡張したもので準工業地帯として沿道には工場の進出があった。山海食品工業、川島製氷冷蔵、マルホ材木、村上木工挽物等、貫井町につづく工業地帯がある。

豊島園の南に、昭和五五年五月開園された区立向山庭園がある。浜口内閣時代の江木逓相の邸址といわれ、木造平家造り二があって、茶室、和室、談話室、あずまや等区民に開放されている。

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この周辺は五三年一二月一日、練馬区との間に「みどりの保全モデル地区」として、調印が行なわれ、第一号に指定された城南住宅地区である。

人口密な東京市内では大正の初めより市域の郊外進出の気運が強まった。まず中央線沿線に始まり、やがて西武線(当時武蔵野鉄道)沿線に目がむけられてきたが、汽車は二時間に一本という不便さに、中新井、中村とあがった候補地も食指が動かなかった。

大正一二年(一九二三)大震災直後この向山の地との交渉が始まり、地主一二名との間に迂余曲折はあったが大正一三年

一九二四)七月、二万余坪(六万六〇〇〇㎡)借用の件が締結された。借地人は、その年二月、本郷東片町万金楼での創立総会をへて成立した同志四〇余名を糾合した城南田園住宅組合である。そして六月二八日臨時総会で組合規約を決定、その後地代、組合費、入会金等を決定している。組合が徴収して地主に払った地代は月、一坪拾銭であった。しかし電灯もなく、すぐ家屋をたててうつり住む者もなく、土地利用は、農園として家庭菜園的な方法であったが、広大な土地には道路さえわからぬ程草が生えて、東長崎の牛屋に餌として刈ってくれないかと交渉する程であった。この草のため野菜は草に埋もれ、また害虫に食われ、三尺の苗木さえ枯死する始末と回想している。結局甘藷栽培が一番よいことになって、いもほり会が毎年行なわれることになった。その後電灯敷設、武蔵野線延長の交渉、道路砂利ひき等行なわれ、また倶楽部と称する事務所をつくり中に小さな売店を開き、管理人、農夫をおくことにする。大正一四年(一九二五)五月、生垣完成、電灯も入り、一五年(一九二六)一〇月倶楽部に電話開通(一夜で電線が盗まれたという)、昭和二年一〇月豊島園迄電車開通して漸く家もできてきた。

その組合の規約の中に、建築様式、垣根、井戸、下水、道路、便所、汚物の位置構造、植樹、警備、借家人等について組合細則をつくり、当初の環境を保全するため努力を誓いあった。こうした事が、「緑の保全モデル地区」を希望する素地となったわけである(『創立十周年記念組合沿革概要』)。

都営住宅は、向山四丁目の七戸のみであるが、集合住宅はいくつか存在する。

日本美術学校向南幼稚園は昭和二五年九月開園されているが、二六年五月には一時練馬都税事務所がここを借りて開所されている。この学校は昭和一七年新宿区戸塚より移転してきたもので、昭和一九年から二五年までは、向南中学校が併設されていた。

豊島園の西には区立向山公園がある。その西の田中の森も長らく目じるしとなっていた。

昭和二〇年の人口一一六四人、三二年六三〇六人でその後の増加も少ない緑の地区である。

貫井地区(一丁目―五丁目)

面積 一・〇五二km2
人口 一万八八六三人(密度 一万七九三一人)

中村橋駅(大正一三年六月開駅)と富士見台駅(当初、貫井駅、大正一四年三月一五日開駅)の間にはさまれた地帯で南は千川をへだてて鷺宮に接している。

南池山貫井寺円光院の伝説に、昔弘法大師が、この地を通りかかった時、干ばつで飲水がなく苦しんでいるのを見て、杖で地をついた所清水がこんこんと湧き出し、大きな沼になったので、貫井の名がついたと言われる。今は沼は埋立てられているが、本、東、北、中、西、南の貫井に東田と田島が入るだけで、いかにも円光院中心の町であることがわかる。

円光院は永禄七年(一五六四)円長法師によって開かれ、足痛治癒祈願のひじり観世音も祀られている。豊島八十八ケ所、第十一番の札所である。円光院の東に弁天さまと言われる厳島神社があるが、もっと南方にあったのである。

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貫井町の人口は昭和二〇年二一五九人で五年後も三〇一八人、三二年には六三〇六人、四二年には一万六五九八人とその増加は著しい。住居表示は昭和四〇年四月一日に行なわれた。

大正二年(一九一三)の工進精工所、西武鉄道富士見台変電区、昭和二年の二幸、昭和九年の川島製氷所、一八年の関東缶詰食品KK練馬工場等、工場の進出が多かった。戦後も準工業地帯として酒悦を始めとする漬物工場、日絆薬品工業(昭和九年一二月創立)、富士見製作所、東亜化学工業(昭和二二年)、アジアカラー、大泉製作所ができ、その社員寮等もできた。また、大林組富士見台寮、電電公社中村橋アパート、富士見台マンション、ファミリーマンション、三菱レイヨン中村橋アパート等もできている。しかし、低地埋立てや無計画発展によるせまくまがった道路は、車の出入が不便で、工場の移転も多

く、酒悦の跡地は貫井中学校庭に、日絆の跡地は練馬第三小学校、その北には中村橋区民センター(心身障害者福祉センター、消費生活センター、地区区民館)が生れた。ここは昭和六年頃平井学院という感化院があった所である。日絆跡地の残りには中高年齢労働者職業福祉センター(全国で六番目、五六年二月開設予定)、区民文化館、図書館ができる予定である。その他の工場移転後はそうした措置によって、生活環境の再編が行なわれる予定である。

都営住宅は貫井町(昭和二四年)九戸、貫井町第二(昭和三〇年)二六戸、第三(昭和三一年)一六戸、第四(昭和三一年)二〇戸、第五(昭和三一年)二九戸、都営貫井一丁目アパート(昭和五二年、鉄筋、二七戸)である。

商店街は、中村橋駅前通り商店会、とうあ通り商店会、貫井中央商店会、坂下通り中央会、富士見台商栄会等である。

都立第四商業高等学校は富士見台境に昭和一五年四月一日開校した府立第四商業学校の後身である。

富士見台駅前には富士銀行、東京相互銀行、大同信用組合等の金融機関がある。駅の東南中野区に入るが千川上水の北に、都富士見台ナーシングホーム、中野区練馬区富士見台ケアセンター、武蔵野療園が五五年五月より発足、身体障害者の訓練施設等になっている。

錦地区(一丁目―二丁目)

面積 〇・三四五km2
人口 五二八九人(密度 一万五三三〇人)

旧下練馬村の東端即ち御殿、今神、東本村の一部で旧北町一丁目の一部、および仲町一丁目の北半、小区域であるが、昭和四〇年四月一日住居表示の実施によって生れた。

川越街道の南、田柄川の下流一帯の地区である。ここで目立つのは二丁目の金乗院と一丁目の円明院、その後方には、昭和一四年に始められ戦後完成した区画整理の土地が広がっている。

田柄川は現在は上流から暗渠になっていて、現在この地区まで暗渠化がすすんでいる。

金乗院門前通りの商店街以外は落ちついた住宅地である。くるみ商店街の「くるみ」の名は金乗院内に昭和二六年に開園

した幼稚園の名をとったものである。

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この地区の西北を御殿と言い、五代将軍綱吉がまだ将軍にならない頃脚気を患い、療養した所といわれ、練馬大根発生の地といわれている。真言宗金乗院には鷹狩りに立寄った三代将軍家光のお手植と言われる大銀杏がそびえ、墓地には下練馬村旧名主であり、下練馬宿の本陣木下作左エ門、その後の名主内田久右エ門の墓所を始め、この地方の名家の墓所が多い。

渡戸の南が今神で、円明院はこの地区にある。この裏山の洞くつから文亀元年(一五〇一)の弁財天板碑が発見され、発見当時、穴守弁天として参詣祈願をする者が大変多かったという。また、墓地整理の際、開山行真の宝筐印塔下から座禅姿の白骨と永楽通宝とが発見された。墓地には大正一二年(一九二三)の関東大震災において建物の崩壊により圧死した練馬駅北側にあった上毛モスリン従業員の慰霊碑がある。

金乗院の西北に隣接して、日本住宅公団錦団地が昭和三四年四月にでき、七棟二四〇戸ばかりが木立ちの間に建ち、周囲は公園や植込みにかこまれ、新しい住宅地の様相を呈している。都営住宅は次のようである。

氷川台地区(一丁目―四丁目)

面積 〇・七五km2
人口 八一六六人(密度 一万〇八八八人)

旧下練馬村字今神前、東西湿化味しつけみ、宮宿、宮久保の区域で北、田柄川、南、石神井川にはさまれた区域である。昭和七

年、東京市編入の際は板橋区練馬仲町一丁目、二丁目、三丁目となっている。住居表示は昭和四〇年七月一日に行なわれた。湿化味しげみ、久保の名があるが、この東の両川の合流点に向って台地が突出している所にあたる。その台地の東端が、都立城北中央公園で、戦時、戦後と家庭農園として開墾されていたこの地が、昭和三一年一二月立教大学グランドとして建設される際、古代遺跡の発掘が行なわれた。多数の住居址、遺物を出した栗原遺跡があり、現在公園内に奈良時代の住居を復元している。

この下茂呂堰と上流羽木橋との間は終戦後しばらくボート遊びの場となっていた。その西方一帯は北の平和台地区と共に昭和一四年から区画整理(練馬第一土地区劃整理組合)の行なわれた所で、それ以前の武蔵野特有の散村、台地周縁の連村は全く趣を異にしてしまった。石神井川の北岸地域は畑作に転換していたが、近年、作業場、資材置場、駐車場がふえ、正久保の地下鉄駅開駅の頃には、そこが住宅となりマンション、商店街となってゆく準備時期と思われ、既に駅付近には金融機関等が進出している。石神井川の水を利用していた染物工場、漬物工場は既に姿を消しつつある。

この地域の名称氷川台のもとと思われる氷川神社はこの付近一帯の尊崇を集め、春四月のお浜井戸渡御と田遊びは、石神井川沿岸の桜の開花と共に有名であるが、近年共に保存の必要性が説かれるようになった。

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神社の東北は、ひばりが丘住宅といわれる団地で昭和一九年、旧市内の疎開、戦災対策として、また軍需工場の従業員住宅として建設されたもので、三〇〇戸にもおよんでいた。その後付近の住宅化も行なわれ、氷川台商店会も形成されている。都営住宅は次のようである。

その東、東京少年保護鑑別所は、戦時中善隣高商のグランドであった所で、その敷地に昭和二五年一〇月竣工したもので、杉並和田堀及葛飾金町から男女の保護鑑別を必要とする少年少女がうつり、その後も同措置者が短い期間であるが、収容されている。刑務所同様と考えて地元の反対も多かったが、近くに練馬区児童教養相談所の設置、その運営協力等の条件で、完成した。「練鑑ブルース」という替歌が流行したのもこの頃である。開進第一中学校裏門の門柱に大成建設寄贈の記名があるが、その時の『地元へ何か還元したい』という気持ちのあらわれで鑑別所工事を請負った大成建設の寄贈である。

この北方に、都立練馬児童学園がある。昭和五五年三月区に移管され、練馬区立生活実習所となっているが、昭和三七年四月児童福祉法による精神薄弱児通園施設として開園したもので重度の障害児が、六〇名ばかり通園していたとのことである。その後障害児の義務教育化に伴い、一五歳以上の生活実習機関となり、二〇数名の者が、通園バス等によって通園。清掃、農園、紙工、食事等の作業を通して生活体験のつみ重ねにつとめている。

その他は整備された道路網を利用して、住宅、工場、倉庫等が、畑の中に点在している。

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  (当時こんな歌がはやった)

  練鑑ブルース(早宮篠俊一氏の記憶から)

一、こんな淋しい 世の中に こんな地獄が

   あろうとは 夢にも知らない しゃばの人

    それでは俺等が 教えよか

二、身から出ました サビゆえに いやなポリ公に

   ぱくられて 手錠かけられ 意見され

    ついた処が 裁判所

三、検事 判事の お裁きに ついた罰名が

   窃盗罪 廊下にひびく 靴の音

    地獄極楽 別れみち

四、青いバスに 乗せられて ついた処が

   練馬区の その名も高い 鑑別所

    新入室へと 通さるる

五、新入〳〵と 馬鹿にされ 便所掃除や

   床掃除 三度の食事も ばくさりて

    喰っちゃ寝〳〵の 鑑別所

六、星のきれいな夜でした 写真片手に

   目に涙 こんな良いスケ ありながら

    一人で寝る夜の 淋しさよ

七、三年三月の 刑終へて 勇んでしゃばに

   出て見れば 好なスーチャンは 他人ヒトの妻

    そこで俺らは 男泣き

平和台地区(一丁目―四丁目)

面積 〇・七一三km2
人口 八六三八人(密度 一万二一一五人)

旧下練馬村重現、東西本村、丸久保、御殿の区域で、西から東へ小さな二条の溝をもつ平坦な台地である。

本村の名がどのようにしてつけられたか、はっきりしないが、この東、田柄川に近い地域に慶長年間、江戸入府の頃板倉家の家臣内田家が屋敷をつくってこの地の政治にあたったとの伝えもあるので、そこから本村の名が出ているのかも知れない。

昭和七年東京市編入の際の練馬仲町二、三、五丁目の各半分ずつをとって、四〇年七月一日住居表示の実施によって名づけられたもので、平和台の名は、古い地名と全く関係なく平和を願う町民の願いからであろう。

北町との境に富士街道が通っているが、現在二五mに拡幅されて、環状八号線となり、その延長拡幅工事が要望されている。

平和台地区の人口変化
平和台1丁目 2,479 2,963
 〃 2丁目 3,003 2,695
 〃 3丁目 763 1,607
 〃 4丁目 889 1,373

昭和四一年一月の人口調査は、上記の通りであるが、平和台一丁目は、田柄川の低地の宅地化からであり、二丁目は昭和一九年頃からの陸軍省兵器行政部官舎、志村沢藤、各和製作所等の軍需工場職員の宿舎、戦後罹災者対策としての都営アパート、仲町第四都営住宅等の建設による急激な住宅地化による増加である。

都営住宅は、

であるが、その後の増加はほとんど見られない。

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  村役場その後 2

 

下練馬村役場(練馬町役場)

 場所、練馬区平和台三丁目二二―一一

    (旧練馬町重現一六九九)

明治四五年頃建てられた下練馬村役場の役目は昭和七年一〇月一日、町が東京市板橋区に編入された時点で終っているが、木造瓦葺二階三五坪の建物は、東京市の管理に属して、まず板橋区役所練馬派出所として、赤塚、上下練馬、中新井地区の行政事務の一部を担当していた。そして昭和一九年五月一日、開進第三小学校内に区役所練馬支所が出来るまでつづいている。

二階には昭和七年一〇月一日東京市農会練馬出張所(河田所長)が設置され、昭和一九年三月三一日解散、四月一日練馬農業会になり、昭和二一年五月練馬第二農業会の設立を見て、使用された。そして二三年八月一四日解散、既に二三年三月二六日、同所に設置されていた練馬農業協同組合に吸収され、同農協は、昭和二五年一〇月春日町に店舗を新築移転した。

尚東京市編入後練馬方面事務所が、同所に設置されていたという記録があるが、終戦後氷川台の第一区画整理組合事務所のあとへ入ったようである。

旧村役場の二階は次の機関が、使っていた。

一、練馬地区農地委員会(任期二年)昭和二一年一二月二七日選出され、昭和二六年七月二〇日、三地区農業委員会(任期三年)として、区役所に移転するまで、

二、農産物穀物検査所練馬出張所。昭和一〇年四月に村役場に入る。当初農業会と同室。二三年食糧事務所となり、昭和三四年五月練馬三丁目の練馬食糧商事株式会社内に移るまで、

三、農林省作物報告事務所練馬出張所。(作報と略称していた)二二年一二月二九日に置かれ、世田ケ谷、杉並、北、板橋、練馬、中野の六区の作物統計を担当していた。二八年五月二五日、城西出張所と改称、二九年四月春日町旧村役場内に移った。

練馬区役所の第二出張所は、昭和二四年九月二〇日、再びここに開設されたが、三五年一月一二日改築(一階、一一九㎡)五〇年三月三一日、早宮一丁目に新しい建物を建ててうつり(現出張所)、五〇年五月二七日用途廃止となった。その古い建物には五四年七月から練馬福祉振興会の「たんぽぽ福祉訓練事業所」が使用している。

三丁目、四丁目地区は、下練馬村の中心として長く村役場、駐在所等もあったが、付近一帯は一時間に一回バスの通る程度で交通の便も悪く、農地として野菜の供給地となっていた。近年農家の人手不足、税金攻勢、自家用車の普及等から、貸家、アパート、マンションが増加し、駐車場、作業場等も増加した。しかし補助第七八号線沿線は、大宮バイパス開通のおくれから、地下鉄開通(昭和五七年秋の予定)の見通しがあるにもかかわらず、本格的住宅地化の様相がまだあらわれていない。営団地下鉄第一三号線(和光市―池袋)は、既にこの地区の建設を終了している。

平和台二丁目親和会、ひばり中通り商店会が東にあり、中央部に、平和台中央商店会がある。また、いくつかのスーパーマーケットができている。

早宮地区(一丁目―四丁目)

面積 一・一六六km2
人口 一万三二三八人
(密度 一万一三五三人)

旧下練馬村の北三軒、細神、東西北各早淵、中原、早淵、北

宮、中宮、南宮の地域である。

昭和七年東京市に編入の際、練馬仲町四、五、六丁目となった所である。住居表示は昭和四〇年七月実施されたが、早宮の町名は早淵、宮ケ谷戸の小字名からとったものである。

東は昭和五七年頃開通する営団地下鉄の上を通る補助七八号線、北は富士街道、南が石神井川、西は上杉謙信が小田原攻めの際、通ったと考えられる南北の古鎌倉街道付近の古道によって囲まれた地域である。

明治以後村の中心地として、村役場に近く、小学校等ができた地域であるが、交通機関に恵まれず、いつまでも北部は緑地帯として、建ぺい率三割地区である。石神井川沿岸の低地は昭和の初め耕地整理を行ない、水田を畑地とし、しばらく、トマト、ナス、キュウリ等の栽培地であったが、やがて豊島区池袋の西方(千早町)の住宅地化にともない、そこにあった盆栽が、うつり住み、盆栽村を形成した。現在でも増加した住宅の中に、高価な盆栽を沢山ならべ、各地に出荷し、またお客を待っている姿が多い。早宮盆栽村の看板がある。

この東部に戦争中、女子経済専門学校の農園があったが、その後農地として解放されている。昭和四年御大典記念として植えられた石神井川の桜並木は花の名所であるが、洪水対策として川幅拡張工事のため近く伐採される運命にある。

豊島園近くの宮ケ谷戸地域は区最後の耕地整理地として昭和三四年八月に完成したが、近年住宅地への転換が見られるよ

うになった。この地区の都営住宅は次のようである。

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以上の三住宅は現在取りこわしが終り、改築高層化の準備が進められている。その他には、

がある。スーパーマーケットも豊島園通りや練馬新道にできている。

早宮地区の人口増
1丁目 3,504 4,330
2丁目 1,320 2,180
3丁目 2,742 3,985
4丁目 2,047 2,743
9,613 13,238

明治一五年開校の開進第一小学校に、戦後できた開進第一中学校、都立練馬工業高等学校(三八年四月開校)も地区の東部にあって、富士街道付近にはゴルフ練習場もある。

開進第一中学校の校地は戦時中、私立川村女子学園の農場があった所であるが、戦後農地解放の渦中に学校用地として買収されたのである。中学校の西にある空地は現在銀行所有地であるが、東大泉の旭出学園が昭和三九年九月移転するまでこの地にあった。小中高の学校や諸施設をつくるのに狭いため、東大泉の銀行所有地と交換して、東大泉に総合施設をつくったのである。

練馬工業高校のある中原の地は、富士街道と高田街道に出口をふさがれた窪地で、台地上にありながら大雨、長雨の時には大きな水たまりとなり、その排水路がなく、一週

間たっても水はひかず、畑はうんで、膝位まで入ってしまう。どこからともなく、豊島園の大きな鯉が上っている事もあったり、卵を産んでそれがかえり、稚魚となって泳いだりする。子どもたちは、畑の作物が、とり入れをひかえて全部くさってしまって無収入となっているのも知らず、たらい等にのったり、水ぎわで遊んだりする。たまり水の底には所々あぜっぽがあって急に二m以上の深さになっている。そこへ落ちて山寺(本寿院)付近でなくなった子どももいた。

<コラム page="397" position="right-bottom">

  墜落飛行機の話

昭和二、三年の頃、雪の降る二月一一日(戦前の紀元節)、午前一一時頃、観兵式に参加した所沢飛行隊の複葉飛行機が一機、不時着して、早宮一丁目で田の畔にぶつかり転覆した。大さわぎになって村の人たちが大勢見に行ったが、警官や憲兵が周りをかこみ、そばへよれなかったという。

こうしたことから、この水はけは富士街道を切って田柄川の支流に流すことにして、富士街道の下に暗渠をつくったが、それがうずまって、切り開くのにまた大変であった。完全に水の心配のなくなったのは、練馬工業高校ができ、下水道ができた三八年頃からである。

この付近本村、中原から春日町にかけての一帯は家が少ないので、戦時中飛行場の候補地にあげられたが、西に走る送電線のために、飛行場は現光が丘にきまったと伝えられる。工業学校南にあった消防の望楼には氷川台の荘厳寺の半鐘が使われていたが終戦後盗まれてしまった。享保年間の作のため供出するのが惜しく残した半鐘だという。

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春日町地区(一丁目―六丁目)

面積 一・七五七km2
人口 二万一三九四人(密度 一万二一七六人)

上練馬村は、明治二二年(一八八九)町村制施行の際上練馬村と下土支田村が合併成立した村であり何れも大字となっていた。村の中心は中宮即ち現在の春日町で、村役場、

小学校をはじめ、東京法務局練馬出張所、農林省東京統計調査事務所もあった。

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  村役場その後 3

 

上練馬村役場

 場所 練馬区春日町三丁目三五

    (旧春日町二丁目二〇六三・四)

頭初増田藤助方にあった村役場は、中の宮十字路の南東角に移って、昭和七年を迎える。市郡合併後は、東京市板橋区土木出張所となって、この方面の土木工事の中心となった。

昭和二四年九月二〇日練馬区の第四出張所となって、この方面の区民の便をはかることになり、二五年九月二〇日都より建物が移管されている。

第四出張所敷地は、借地であったので三六年三月九日、一一三・六八㎡を買収、以前の半分になっている。三八年に改築され、一四年経過の後、五二年七月一八日、改築された春日町五丁目都営住宅団地内に移った。その建物には昭和五二年九月一二日より、中の宮学童クラブが置かれ、南の敷地は昭和四〇年四月一日より区立中の宮児童遊園になっている。

尚旧村役場の建物は一時的には次のように使用されていた。

一、板橋区練馬支所職員寮、更に練馬区役所職員寮、戦後住宅事情から、村役場の二階を昭和二五年の頃より約一〇年間ばかり使っていた。

二、農林省統計調査事務所城西出張所

昭和二九年四月、第二出張所より移転、昭和四二年六月一日、新橋の東京統計区部出張所に統合されるまで設置されていた。

尚同敷地内には昭和四年に建てた表忠碑がある(明治一〇年の役より第一次世界大戦まで)。

上練馬村全体の大正元年(一九一二)の人口は四三九四、昭和二二年練馬区独立の年は、一万一四四四人(密度一二九〇・七人)である。

その年春日町は、一八一八人(密度<数3>100㎡に付一〇六人)で農村型である。昭和三二年、五四七七人、四二年一万九〇六九人と三・五倍となっている。更に五〇年には二万一九三四人で増加率は低くなってきた。昭和四六年にこの地区の畑は、四六・四<数2>ha『現勢資料編』一二七ページ)であるが、五二年には、三八・六<数2>haで耕地の減少が目立つ。

その間昭和七年一〇月一日板橋区春日町一、二丁目となり、昭和四二年一月一日、住居表示により一丁目から六丁目に分れた。春日町は、鎮守である春日神社の名からとったわけである。字名は中ノ宮を中心に、東・西・南・北中ノ宮、それにした久保、海老ケ谷戸、東原、中原、尾崎おさき、新場である。

尾崎には昭和五五年の発掘により旧石器時代より江戸時代に至る長い間の遺物、遺跡が発見され、一躍新聞紙上をにぎやかした。特に「ひきりうす」という発火器の発見や、中世の井戸

・用水路、愛染院の故地と思われる遺構の発掘は価値が高いと言われる。その地には現在春日町小学校の建設が始まっている。

この北方に、上練馬村名主長谷川家の名主役宅が現存する。入口の薬医門の壮重さ、箱棟づくりに入母屋の玄関をつけたかやぶきの壮大な家である。文化文政の頃(一八〇四―二九)の建物と伝えられる。貯金高日本一となった練馬農協本店はその東南である。

更に東南に幼稚園を経営する寿福寺と春日神社があり、遊園地豊島園も石神井川をはさんで広大な土地を占有している。

春日神社は古来十羅刹と言われ、現在隣地の寿福寺内に十羅刹を祀る小祠がある。工藤祐経の孫祐宗の創立と伝えられ、藤原氏の流れをくむものとして春日の神を祀ったものであろう。多くの力石と絵馬が現存する。東隣の寿福寺は、豊島八十八ケ所第十九番、愛染院の隠居寺と言われ、薬師如来を祀り、天保六年の筆子塚がある。

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この付近は海老ケ谷戸と言い、戦国の頃海老名左近の屋敷があったという。

豊島園は向山町の地区で述べている(三八五ページ)。中之橋上流の石神井川は、昭和二九年改修工事が終了して、水害の心配が少なくなったが、豊島園内を暗渠で流れる分水や、中之橋上流の堰等の問題はしばらく続いた。

富士街道は春日町の北部を東西に走っているが、道幅がまだ狭く、交通量が多く、交通遅滞が激しく拡幅が待たれていたが、昭和五六年以後一部着工の見通しがついた。

その東に近く一里塚地蔵がある。富士街道の目じるしになった所である。その西に北町

から移ったシート工場の広場があったし、練馬大根の栽培者として伝えられる鹿島又六名主の屋敷があったという地域である、中ノ宮の十字路の東に愛染院の参道がある。入口に練馬大根の碑と鹿島安太郎翁の顕彰碑がある。愛染院は五四年三月より改築にかかり一年半ばかりで全面的な工事が終った。総額八億五千万円という。永享九年(一四三七)の開山であるが寛永年間(一六二四―四四)に、この南尾崎の地から、中ノ宮に移ったという。豊島八十八カ所第二六番の札所で、長谷川名主の墓所もあり、慶長一八年(一六一三)の墓石がある。

練馬小学校は昭和三八年六月西方に移って、そのあとに区立青少年館と、都民銀行支店ができている。この南旧上練馬村役場は府市土木出張所をへて区の第四出張所、現在は学童クラブとなっている。

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  東京法務局練馬出張所の沿革

明治一九・一二・二 下谷治安裁判所下板橋登記所発足(板橋中宿五二に設置)。

明治二三・八・二一 下谷区裁判所下板橋出張所となる。

明治二六・六・一三 下板橋出張所より下谷区裁判所上練馬出張所設置(現練馬区春日町三ノ三五)。

明治二九・一二・二五東京区裁判所上練馬出張所と改称。

昭和一七・五・一 東京区裁判所練馬出張所と改称。

昭和二二・五・三 東京司法事務局練馬出張所となる。

昭和二四・六・一 東京法務局練馬出張所となる。

昭和五〇・一一・ 練馬区春日町五ノ三三に新築移転。

 なお、事務範囲は昭和一九年より練馬区全域及旧赤塚村の区域となり、現在も同じ。

練馬小学校は明治一〇年(一八七七)開校した学校で、当時の校舎が近くの上原方の物置として残っている。明治二六年(一八九三)六月開かれた東京法務局出張所も五〇年一一月西に移り、司法書士土地家屋調査士の事務所が三〇軒程をつらね

ている(別表沿革参照)。

春日町の北部には、北豊島園自動車教習所、都立練馬高等学校(昭和三九年四月一日開校)、区立練馬東中学校がある。

この付近沢庵漬製造からの発展としての漬物工場が見られる。

農地の多かった土地柄のため戦後の都営住宅も多く、都営練馬春日町第一住宅(昭和二四年、二六戸、現在鉄筋)、春日第二住宅(二六年、三三戸、現在鉄筋三階に改築中五棟)、第四住宅(二七年、五五戸、現在鉄筋)、春日町五丁目第三住宅(二七年、六〇戸、現在改築中)、春日町第五住宅(二八年、二八戸)、第六住宅(二八年、二九戸)、第七住宅(二八年、八戸)、第八住宅(三〇年、四一戸)、春日町一丁目住宅(三〇年、一八戸)、第一〇練馬春日町住宅(三一年、二四戸)、第九練馬春日町住宅(三一年、四二戸)の木造住宅と、春日町五丁目アパート(鉄筋八階―三階、五〇―五二年、六九戸)、三丁目アパート(鉄筋三階、五二年、四二戸)、四丁目アパート(鉄筋三階、五二年、四八戸)、五丁目第二アパート(鉄筋三階、五二年、三四戸)の合計五五七戸であり、近年木造家屋を取りこわし、鉄筋化が始っているので更に増加のようである。

民間のアパート、鉄筋マンションも多く、緑地の中に住宅地化が目立つ。

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広い地域なので商店街も多く、農協付近に練馬農協前通り商店会、その東に春日町本通り商店会、長谷川名主家よりの西に入ってニコニコ商店会、中の宮の富士街道付近に、富士商店街、みすず通り商店会、その東に富士街道商店会、練馬高校への道に幼稚園通り商店会がある。

高松地区(一丁目―六丁目)

面積 一・三三七km2
人口 九九六一人(密度 七四五〇人)

旧上練馬村の若宮、宮本、中・南・西・前・東高松、平松、中ノ台、西ノ台、大門、大門山、大門附、下土支田の小三丁目の地域であるが、板橋区時代即ちグラント・ハイツ建設以前には現在の光が丘の地域の北高松を始めとして光が丘の三分の一位を含んでいたのである。昭和四四年九月一日住居表示が行なわれて、高松五、六丁目を光が丘の西の方にせまく突出させるという特例をつくっている。その以前は高松町一、二丁目と称していて、面積も一・九二六km2で、現在より〇・五八九km2多かったが人口は昭和二〇年で二一八人、二六年でも一五八六人である。住居表示実施後昭和四五年一月には七二七七人で約六倍になっている。この地区の西を南北に通るオリンピック道路(補助三四号、幅二五m)と、放射七号(目白通り、幅二五m)の建設による住宅地化によるものである。

石神井川の低地を臨む村社八幡神社の一帯に集落があり、その北方に武蔵野特有の防風林をもった農家が散在していたのであるが、この真中を東西に富士街道が、南に清戸道が屈曲しながら、また八幡神社の西を通る長久保道が、北大泉の方にのびていた。

神社の前の石神井川の分水には佐久間水車がかけられ、付近農村の便をはかっていた。石神井川を越えるあたり、宮田橋はその敷石供養碑に、また道楽橋は橋をつくるのに長い間かかったので道楽でつくっていると悪口を言われたともいう橋の名にその苦労をしのぶ事ができる。

台地上に散在する農家では殆ど沢庵漬を副業として行なっていたが、その名残りとして、現在でも大きな倉庫や多くの沢庵石をもち、また、漬物工場として他より材料を仕入れて製造を行なっている所もある。

高山商店、宮本商店(昭和一〇年より)、小沢食品(昭和五年より)、宮本食品(昭和一八年より)等がそれである。また、座敷ほうき製造がこの付近を中心に行なわれ、昭和三二年には八戸を数えた。畑には箒もろこしの栽培が目立っていたが、現在は区内

でも二戸が残るのみとなった。更に撚糸よりいと工場や製粉業等も行なわれ、現在も操業している所がある。農家の中には温室園芸を行なったり、ゴルフセンター、テニスコート、野球場等を経営し、幼稚園経営も行なっている所がある。

区立練馬中学校は、旧目白中学校(昭和七年、杉並へうつる)の敷地にある。目白中学の校舎を引ついだ鉄道学校や無線通信学校は昭和一八年一〇月、全国の私立無線学校の閉鎖・国有化によって、てい信省無線電信講習所東京第一支所となり、一九年四月、板橋支所に、二〇年四月には板橋無線電信講習所に昇格、二一年三月再び中央無線電信講習所板橋支所となり、二三年三月末同所廃止で、練馬小学校に間借りしていた練馬中学校が入り、昭和二三年九月移転完了したと言われている。西の八幡神社の所有地が多く、近くに太平洋炭鉱の社宅もある。

高松小学校裏の御嶽神社には高松寺(現在愛染院に合併されている)にあった伊賀の忍者服部半蔵幸隆寄進の仁王石像があり、低地の虚空蔵堂には切支丹燈籠と思われる燈籠の一部が保存されている。昭和三〇年三月石神井川の改修工事の時に出たと言う。

この西、ガスタンクに近く、五四年まで吉川青果市場があった。トラック一台にまとまらない野菜の出荷に便利。場所も近く夜市専門で簡単に出荷ができたのである。

この地区の西北に道灌山学園付属高松幼稚園(昭和三五年五月開園)、いすゞ自動車技術研究所およびその教育研究所、都立石神井ろう学校(三七・四・一開校、現生徒数九五人、高等学校と専修学校がある)ができている。

商店会はオリンピック道と高松町通りに豊渓商店会がある。

北町地区(一丁目―八丁目)

面積 一・六km2
人口 二万四二六三人(密度 一万五一六四人)

旧下練馬村の北端にあって、川越街道の宿場であった下宿、中宿、上宿を中心に、西の方馬喰ケ谷戸、大松、久保、その南の農作地帯であった池ノ端、田柄谷、池ノ上、伊勢原。大山街道の北側になる御殿、桜台、庚申塚、大山、富士山、田柄

前等の区域である。

川越街道は江戸と川越とを結ぶ重要な道路で、既に鎌倉時代からあったようであるが、中仙道とは板橋宿でわかれている。板橋から上板橋へ。上板橋宿から下練馬宿まで二六町、ここから白子宿まで一里一〇町という。

大名行列はそう通るわけではなかったが、老中職をとる大名の配置された川越藩と江戸との連絡は多く、現在の西友ストアー付近には本陣木下作左エ門、その周囲に脇本陣、問屋場もあり、千川上水支配の千川屋敷、宿場らしく宿屋が六軒、料理屋酒屋三軒、下駄屋三、木挽三、かごや一、やね屋一、わたや一、染物屋二、かじや一、荒物屋二、呉服屋一、ほうきや一、油や、棒や、車引、車大工二、いかけや、だんごや二、せんべいや、しょう油屋等、農家も一二軒程数えられた。維新後宿はさびれたが、付近の商店街として半商半農の生活がしばらくつづき、明治一三年(一八八〇)から川越街道にも一日二回の乗合馬車(白子馬車という)が通るようになったが乗る人はそう多くなかったという。

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東京川越間乗合馬車賃金

 (明治二三年三月出版、日本全国改正鉄道時間運賃表による)

万世橋発毎日午前六時半

      午後二時

下板橋    八銭    大和田   二四銭

上板橋    十銭    ふじ久保  二八銭

練馬    十二銭    大井    三〇銭

赤塚    十四銭    かめ久保  三三銭

白子    十六銭    ふじま   三〇銭

膝折    二〇銭    川越    四〇銭

野火止   二二銭

明治四四年(一九一一)東上線が認可され大正三年(一九一四)五月池袋・田面沢たのもざわ間が開通したが、上板橋駅の次は成増駅で、駅や鉄道のできることにそれ程積極的でなかった為、この町の発展は遅々たるものであった。かえって機関車の出す煙の火の子のため、東武練馬付近の農家のわら屋根に火がうつり、全焼してしまったり、枕木が燃え出す等、その経営不振と相まって余り評判がよくなくて、結局大正九年(一九二〇)に東武鉄道と合併することになった。昭和四年一二月に電化、その二年後昭和六年一二月に東武練馬駅がやっとで

き、昭和九年現在の都立北野高校が徳丸に開校され、乗降客も多くなった。

川越街道の昔を偲ぶものは、駅前の石観音と浅間神社、清性寺、それに阿弥陀堂、千川家の墓碑、大山不動の道しるべのみである。

昭和の初め頃、田柄川の沿岸は干害のため田植のできない年もあって、荒地になってしまうこともあったので、地主の中には農作をやめて、土地を貸したり手ばなしたりした。シート工場(タールを塗った布を広げ天日で乾かす)や脳病院、巻尺工場ができたのもこの頃である。

東武練馬駅の南にあった大木伸銅所は大正一四年(一九二五)の創業で好景気と国内需要の増加によって、拡張の一途をたどり、駅の北方徳丸の地に大工場を建て移転している。そのあとは駅前のため商店の密集地帯となり、東武ストアー始め沢山の商店ができている。その他古い工場としては練馬で初めての鉛筆工場(大正六年・一九一七、並木定五郎、豊島徳藤の経営による)や東京理器(現在板橋区中台にあるバリカン工場、大正一四年・一九二五創業、昭和二一年巣鴨より)、三信味噌(三信食品工業、大正一三年五月より)等があるが、現在は廃業したり、他へ移転している。川越街道旧道の交通事情や商店街形成上の問題からであろう。またこの西下赤塚近くの久保に明治三五年(一九〇二)五月練馬大根種子販売合資会社が設立され、本格的に練馬大根種子の販売に乗り出した様子がわかる。

富士街道は江戸時代中期頃から盛んになった富士信仰・大山信仰の行者・信者が通った道であるが、中仙道とは志村坂上で分れ、川越街道の北方を並行して西南進し、北町一丁目の<圏点 style="dot">しやかいで川越街道に合し、下宿と中宿の途中を南に折れる。そこに宝暦三年(一七五三)の不動様が建っていて、「従是大山道」の道しるべがある。ここから田柄川のたな橋を渡り、御殿をへて西、石神井、田無の方へ向かう。途中長命寺もあるので江戸の北部から、長命寺、大山、富士へ詣でる道として名高く、道者街道の名がある。

北町が大きく変ったのは、まず昭和七年東京市編入前田柄川の河川改修を含めた耕地整理を始めた事であり、その終了後昭

和一五年陸軍第一造兵廠練馬倉庫が一万坪(三万三〇〇〇㎡)の土地にできた事である。その頃には昭和一二年の都市計画によって計画された川越街道新道が、一六年には開通。陸軍第一造兵廠練馬倉庫および朝霞の士官学校に通ずる道路として重要となり、倉庫敷地も拡張して行なった。

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  動く小さなたばこやさん

引込線にヒントを得たのか、北町のたばこやさんで、レールの上にたばこやの屋台をのせ昼は街道ばたに、夜は、奥へ下げて、駐車場の出入口として使っている、珍しい風景もあるが、町の一挿話となろう。この西の浅野輪業は明治四五年(一九一二)創業という区で一番古い自転車店であろう。

上板橋駅より倉庫まで引込線を敷いて貨物輸送も行なわれるようになったが、そのため昭和一九年以後、米空軍の本土空襲が行なわれた時には、この地区は空襲の対象となり、二〇年四月一日、三日から一四日にかけB<数2>29一五〇機の空襲で区内各地に被害を出した。軍倉庫もそのために火災を起し、その余波は中宿(北町一丁目の西半)を中心とした民家におよび、多数の焼失家屋を出した。なお敵機撃墜の目的でこの地区の南、丸久保付近には高射砲陣地が設けられていた。

昭和二〇年八月一五日終戦となるや、軍倉庫の物資中、戦時中献納した金属製の用品等野積みの状況であったので、その発掘等が盛んに行なわれ、屑金属拾いが殺到する時期もあった。

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やがて成増飛行場址に、米軍家族の宿舎グラント・ハイツの建設がきまると、引込線は延長されて二一年三月よりガソリンカーや汽車がグラント・ハイツの物資を運ぶようにな

った。

その線路は上板橋駅より分れて南へ、丁度区境が川越旧街道と合する所へ出て、それから御殿へ、倉庫の南を通って、田柄川の南を並行してグラント・ハイツに入ったわけである。旧倉庫敷地内にはその後北町小学校(三七・九・一開校)、練馬北町電話局、都立養育院の練馬分院(昭和三六年三月東村山へ移転)、国際興業のバス車庫等ができ、やがて昭和二六年九月警察予備隊(現在自衛隊)が久里浜より倉庫跡に移転、西の方松山付近まで拡張して八万坪(二六万四〇〇〇㎡)になった。田柄川の辺には自衛隊の官舎(二〇棟)もでき、都営住宅が、三か所ばかりできて、商店街も活気を帯び、自衛隊員対象の飲食店が多くなってきた。

昭和三三年頃から、北町中学校、車検場(東京都陸運事務所練馬支所)等ができたが、田柄川はまだ時々大水を起し、南北の交通を遮断したり、橋を流したりした。そのため分水をつくって水を落とす必要が生じ、昭和四二年、北町二丁目富士見橋から分水して暗渠で石神井川の湿化味橋の所へ落とす工事が完成し、大水の害が少なくなった。全長二<数2>km径一・五mの鉄管を埋めたものである。

人家が密集してくると、井戸水が枯渇して毎年、水道車の補給を受ける様になった。

各地で掘抜井戸による私設水道建設の動きがあるや、北町一丁目(三〇年四月)、北町二丁目(三〇年一二月)、北町五丁目(三三年九月)、七丁目(三八年六月)、八丁目(三三年一一月)の地区に水道組合ができた。中宿では都水道局に交渉して、末端ではあるが上板橋から水をとった。末端であるため水量が少なく、とてもまともな給水ができなかったので、地下水槽をつくり、その中へ水を使わない夜間に入れて貯え、水道タンクに押上げて昼間の給水を行なうという形式をとる事とした。

北町二丁目の水道記念碑は浅間神社(練馬のお富士さん)境内に今は使わない給水塔(私設水道用)と共に立っている。

その後引込線は廃止され、二六年六月に撤去された。三〇年代の後半には川越街道の新道に倉庫や作業場ができ、駅の付近には銀行、信用金庫等も進出、マーケットも多くできて、近隣からの買物客が殺到して、川越旧道は一時雑踏を極める。

北町六丁目は丸久保山と言われた所で、富士街道と高田街道(江古田―下赤塚間)の交叉点にあたる丸久保には古くから四軒長屋があり、背後は戦争中高射砲をもった防空陣地のあった所である。その北東部一帯は都営第四、第五、第三住宅がある。地下鉄工事と住宅政策から、第四、第五住宅は鉄筋化が進んでいる。

北町西小学校の西どなり成増興業はグラント・ハイツ建設の際の離農者を中心に、ハイツおよび自衛隊の残飯処置による養豚事業から出発した会社であり、付近農家の養豚とり入れに影響を与えたものである。

高田街道の西、北町六丁目の地はこの付近一帯と共に長く農村地帯であったが、除々に住宅地となっている。丸久保の西富士街道と高田街道、田柄新道にはさまれた所に、株式会社東京木材相互市場があって一万一〇〇〇㎡の敷地の中に各地、各国の木材を集積している。昭和二七年板橋一丁目に設立されたが、その後三か所をへて昭和三七年ここに移転して来た関西の競売せりうり式による材木会社で、近くに新建材を扱う日栄住宅資材もある。大宮バイパスの開通と環状八号線(現富士街道)の拡幅を見越し、環状線周辺に市場を移動して、物資輸送の便を計り都心への貨車進入を少なくしようとした都の方策にのったものと言われる。

地区の最西端にある東京電力田柄変電所は昭和三六年一一月に開所した所で戸田と練馬の中継点となっている。鬼怒川からの送電線は大正一五年(一九二六)一二月に完成。飛行場建設に差支えがあるとのことで飛行場は高松にできたという。

徳丸から丸久保へぬける大宮バイパスは、土地買収がむずかしく、まだ開道していないが、昭和五〇年に着手した地下鉄は既に成増―下赤塚―丸久保―正久保間の工事が終りをつげ、現在正久保―要町間を工事中で、二、三年後には、本区におけるはじめての地下鉄として登場することになる。

現在の北町一丁目~八丁目の住居表示は四一年六月に実施され、その以前は板橋区として東京市に編入した時の練馬北町一丁目から三丁目の地名であった。区独立によって昭和二四年一月一日練馬の二字を削除した地名である。その中川越街道新道の南側の旧北町一丁目三部といった地域は昭和四〇年四月一日分離され、錦一、二丁目に、その年七月一日に北町一丁

目の一部が平和台一丁目となっている。北町四丁目は全部自衛隊練馬駐屯地でその人口は男子一〇六四人に対して女子僅かに二一人と、如何にも男の国自衛隊の様子をあらわしている。

地域的には戦後急激に住宅地化が進み、公団や都営住宅の数も多いが、列挙して見ると次のようである。

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  1. 建設年度 団地名             所在地      戸数 構造  
  2.  昭二四 北練馬             北町二―一七、  一二 木造平家
  3.  〃二五 練馬北町一丁目         北町一―八、    八  〃  
  4.  〃三〇  〃  二丁目第二       北町二―二七、  一八 簡易平家
  5.  〃三〇  〃  三丁目第一       北町八―三一、  三二 木造平家
  6.  〃三〇 練馬北町三丁目第二       北町六―二三、  六四 木造平家
  7.  〃三一 第三北町三丁目    五一年  北町六―一、   六七 木造平家
  8.  〃三二 第四北町三丁目    より、<数式 type="mover"/> 北町六―一八、 一九四  〃  
  9.  〃三二 第五北町三丁目    鉄筋改  北町六―一七、  六六 簡易平家
  10.  〃三二 第六北町三丁目    築中   北町八―三〇、  五六 簡易二階
  11.  〃三四―三五 第七北町三丁目      北町八―二九、  五五  〃  
  12.  〃三四 練馬北町アパート        北町八―二九、  六三 鉄筋四階
  13.  〃三五 練馬北町母子アパート      北町三―三、   二五  〃  
  14.  〃三五 〃 民生アパート          〃      二四  〃  
  15.  〃四〇 練馬北町二丁目アパート     北町二―九、   二八  〃  
  16.  昭四一―四三 練馬北町二丁目第二アパート 北町二―一二、    一八四  鉄筋四階
  17.  〃五一―五五 練馬北町六丁目アパート   北町六―一、八、一七、四九四  鉄筋三、四、五階(尚改築中
  18.  〃五二    練馬北町八丁目アパート   北町八―三一、     一八  鉄筋三階
  19. 日本住宅公団賃貸住宅
  20.  昭三八 東武練馬団地        北町一―三七、四五  鉄筋(西武ストアーの三階以上
  21.  〃四八 練馬北町一丁目市街地住宅  北町一―二、一七六  鉄筋(島忠家具センター上
がある。

こうした住宅の急激な増加によって商店やマーケットの数もふえて、北一商店街振興組合、東武練馬商店街組合、北六商店会、すずなり商店会、ハッスル商店会等、マーケットには、北町百貨店(三一年一二月)、マルニストアー(三二年二月)、有山総合食品市場(三二年四月)、練馬ショッピングセンター西友、東武練馬センター、東武ストア等があって買物客で殷賑いんしんを極めている。

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田柄川は現在暗渠となり、遊歩道の施設があって利用されている所が多い。

田柄地区(一丁目―五丁目)

面積 一・六〇八km2
人口 二万〇七九二人(密度 一万二九三〇人)

旧上練馬村の西北にあたる東・南・西・北・中田柄、上田柄、前田柄、田柄谷、田柄久保に神明ケ谷戸を中心に北神明、前神明、神明ケ原、愛宕原、それに西部の萱原を加えた地区である。昭和七年板橋区新設の時、練馬田柄町一、二丁目となっていたが、昭和四二年一〇月一日、新住居表示の実施によって、旭町の一部即ち旧土支田町一丁目の一部(八丁原の地)を含めてできた町名である。

田柄川という水源に乏しい川の流域にあるため、水不足と、大雨時の氾濫とが毎年くりかえされた地帯で、広大な平地にもかかわらずその開拓は進まなかったようであり、住民の不安は田柄川の北に愛宕社、神明社、飯綱権現社を祀るようになったと思われる。明治初年石神井、土支田、下練馬の各村と共に田柄用水建設の議おこるや、その中心としてその開通に努力したことは、天祖神社にある水神宮の碑に明記されている。

愛宕社は中田柄の鎮守で、七月二四日の金魚市は有名である。水神である市杵島神社も祀られている。

天祖神社は神明ケ谷戸の産土神で、慶長三年(一五九八)、上野氏が伊勢参宮のみぎり、その分霊を請うて、邸内に安置したのに始まるという。明治二六年(一八九三)の玉川上水分水紀念碑がある。

八幡北野神社の創建は永承年間(一〇四六―五三)と伝えられるが古来飯綱権現即ち「いずな様」と崇められた社である。

天祖神社の近くに豊島八十八ケ所、四二番泉蔵寺がある。今、愛染院に合併して墓地を守る弥陀堂があるだけであるが、上野一族の墓地がつづいており、練馬区議会初代議長上野徳次郎氏の顕彰碑がある。

地区の西南に「南部さま」と言われる相原家がある。この西に下屋敷という地名もあってこの西北一帯は、奥州南部大膳大夫御抱地であり、その管理をしていた相原家には、下屋敷のかやぶきの薬医門や、屋敷の一部を移築したかやぶきの居宅が残されている。また南部四代重信以下三代の位牌、門再建時の棟札(南部御用人、目時隆之進の記名あり)他、南部侯下賜の品々を所蔵している。相原家の墓所はこの東方の不動堂墓地にあるが、大阪落城の際豊臣家守護の不動像を背負ってこの地に逃れ、不動堂にその像を祀ったという。

南部家御抱地はその後も明治の頃までつづき、旭町の小島兵八郎家にその売買契約書が残っている。

川越街道に近いけれど、わずかに明治初年は白子馬車で、その後は人力車が通るだけで、宿場のたまりにいて客引きをしていたという。バスが走ったのは震災後の大正一四年(一九二五)四月、池袋から成増まで池袋乗合自動車が通ったのが初めという。街道筋の吉田金物店は明治四年(一八七一)の創業と言われる古い鋳かけ屋である。

東上線下赤塚駅ができたのは昭和五年一二月というから、その頃までの発展には見るべきものがなかったのであろう。

東京市編入は昭和七年であったが、昭和二〇年の旧田柄町二・〇八〇km2の人口一一一〇人で五年後でも二倍になっていない。農地改革後の農業の盛んな時代であったのである。

昭和一八年成増飛行場の建設によって、飛行場の排水をよくするため田柄川の改修工事の必要が起り、また、それに付随して、耕地整理が行なわれることになり、一八年から二〇年頃までかかって行なわれた。

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飛行場周辺として滑走路の方向にあたる地域の大木のきりつめ、飛行機掩体の設置、防空陣地の設置等、急変した戦況に備えるためであった。また、飛行場敷地から転居して来た農家の数も多かったわけである。

戦後いちはやく飛行場の開墾に従事した引揚者もあったが、やがてここは進駐軍家族の住宅地(グラント・ハイツ)として使われることになり、北町の軍倉庫(現在自衛隊)まで来ていた東上線の引込線をグラント・ハイツ迄延長(昭和二一年三月)。啓示線と言って、これによって住宅建設の物資等が運ばれていた。完成・入居後はガソリンカー一〇輛が三〇分ごとに運転され、人員物資の輸送が行なわれた。昭和二六年六月、目的を達してこの線は閉鎖され、やがて廃線撤去の運命をもつことになる。

昭和三五年の田柄町の人口は六四四九で、一〇年後の四五年には一万八三一〇、そして五三年には二万人を超えていて、四〇年代からの発展は著しい。

田柄三丁目の陸上自衛隊豊島分屯隊(当時警察予備隊という)は普通通信隊と呼ばれ昭和二七年六月、水島兵舎から移って来た第六六五通信運用大隊である。

都営住宅は、田柄二丁目アパート(鉄筋三・四・五階)一二七戸であるが、この付近に田柄住宅団地もできている。

商店街は北町との間に、すずなり商店会、東田柄橋商店会(ハッスル通り)、田柄坂下商店会、農協通り田柄中央商店会、地下鉄下赤塚駅前商店会、通信隊裏の田柄共栄商店会等がある。田柄川は暗渠となって、軽自動車なら通行もでき、地域の便をはかっている。

光が丘地区

面積 一・八三六km2
人口 三九二二人(密度 二一三六人

昭和一七年四月一八日東京は突然米軍航空機の爆撃を受けた。虚をつかれて日本は驚き、その対策が急がれ、戦況も不利となったので、首都防空の飛行場建設が急がれた。首都周辺に調布、成増、所沢、松戸、柏等の飛行場と高射砲陣地が急ぎ建設された。成増飛行場(高松飛行場とも言う)の工事は昭和一七年の秋、測量から始まる。昭和一八年一月飛行場敷地として決定され、六月二四日二か月の間に転居、作物の取入れ、立木の整理等申し渡された。アッツ島の玉砕もあって、工事は急ぎに急がれ、刑務所の囚人まで使われた。秋、台風のため大洪水を起こし、飛行場が水たまりとなって飛べないため、下流の改修を急拠することになり、また大雪の時には滑走路の雪かきに多数の人が動員された。

その後の戦況はますます不利となり、飛行場への爆撃も行なわれ、付近家屋の焼失するのも出てきた。

終戦後は農林省の許可を受けて開墾も行なわれたが二四年進駐軍家族の住宅建設のため、接収されることになった。そんな空気の中に、土地ブローカーが動き出すので、グラント・ハイツ田柄町地主会をつくり土地買いしめに対抗した。

やがて一五〇〇世帯の住む宿舎ができ、メイド、ボーイ、運転手等五千人の日本人が使われることになった。付近住民には一長一短で、近火の時は米軍の消防車がすぐ消してくれるし、消毒殺虫剤の撒布を飛行機でしたりしたが、衛生上、家の畜数は、制限された(鶏一〇羽、豚五頭、牛一頭以下)。

米軍の残飯、廃品を処理する会社等も生まれた。

昭和四八年、日本に返還され、都区の跡地利用計画がつくられた。既に震災時における近辺区民六〇万人のための避難地となり、そのための飲用水や食糧保管の準備が行なわれるようになった。都水道局練馬給水所の建設がそれである(地下式で二〇万3貯蔵。地上は運動場、野球場、テニスコート等のある都立公園になる)。

全体面積一八四・二<数2>haの中に公園、道路、学校、住宅(一万二〇〇〇戸予定)、将来の人口四万二〇〇〇人と試算している。既に都立光丘高等学校も生まれ、都立田柄高等学校の建設も決定している。

この地域は北高松・平松・大門山、大門・大門附・土支田の庚塚、八丁原、八丁堀と呼ばれた所で、お玉ケ池、主なし等の名も残っている。

最初治外法権が行なわれていたため、他の町から分離し、昭和四四年九月、住居表示の実施で光が丘となったのである。

現在その建設が行なわれているが、以前返還された東北隅にむつみ台団地(一二六一戸)、南成増団地、電電公社社宅等、今後の姿を想像することができる。

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昭和四四年の人口は二三〇人であるが四九年には三四三六人となっている。

今後は通勤のための交通機関をどうつくるかが課題であろう。

旭町地区(一丁目―三丁目)

面積 〇・七四四km2
人口 九九五一人(密度 一万三三七五人)

「練馬のチベット」と言われる所がある。毎年四月の教員異動で練馬区に配属となった教員が西武沿線の学校のつもりでいた所、この近辺の学校ということで、なげいた時によく使われた言葉である。この旭町と西に連なる土支田地区のことであ

る。区役所のある練馬駅付近に出るのには、交通の便がわるく、板橋・東上線沿線に出る方がはるかに都合がよいのであるが、区の中心に出るには大変である。幕政時代には土支田村の下組として上、下組で一つ村をつくっていたが、やがて明治二年(一八六九)分れて独立し、明治二二年(一八八九)の町村制施行にあたり、下土支田は上練馬村に、上土支田は石神井村に編入された。昭和七年、市編入時には土支田町一丁目とし、昭和四三年一〇月一日、住民表示の実施によって高松町二丁目の一部を併せて旭町となったわけである。旭町の名は昭和三二年四月開校した旭町小学校の名をとったものであろう。

この地区は白子川に沿って北方に細く突出し、埼玉県の和光市と板橋区、さらに練馬区光が丘に囲まれた半島状の地帯である。旧小字名は北から後安、甲子、庚塚、八丁堀、西八丁堀に大門つきの一部が入っている。東上線成増、川越街道に近く、最北端には川越街道の新道(放射八号線)によって、北に分けられた小さい地域もあるが、細長い地域であるため、南北二㎞、東西一番幅広の所で〇・八㎞である。その中には旧白子村飛地後安の地もふくまれる。

小田原所領役帳に「太田新六郎知行、寄子衆土支田源七郎分六貫五百文」とあるが、江戸時代に入っては幕府直轄領となった。この近辺一千石が板倉四郎左衛門勝重の領となっている所から、勝重、日頃尊崇する静岡蓮永寺の日雄上人を開基としてここに一大殿堂を建立して、長久山妙安寺としたという。その後火災等により変遷もあったが、今も境内は森林におおわれ荘重である。この北に出世稲荷という稲荷が補助一三四号線(幅一五m)のそばのがけの上にあるが、川越藩主柳沢吉保の無類の出世ぶりにあやかりたいとの願いから、あつい信仰が捧げられたという。妙安寺門前にこの地区の区画整理紀念碑があり、昭和九年から十年間かかって完成させたことが記されている。総面積一七万〇一八六坪(五六万一六〇〇㎡)である。この北の台地は板橋区であるが、戦後まで太平洋中学校があった所で、近年古代住居址の発掘が行なわれた。

川越街道や成増駅の南方、現在の豊渓中学校のすぐ北、白子川に流れこむ小川の一帯には、大正末期に根津嘉一郎によって遊園地兎月園が開かれた。池にのぞむ茶店、桜やつつじ、藤等の花見、トラックを使っての運動会、草競馬、自転車競走等行なわれ、小学校の遠足等も多くなったが戦時色濃厚となっては、園も農地や住宅地に変わっていった。今は明電舎の成増

アパートや豊渓中学校の校地になっている。石神井三宝寺の長屋門は勝海舟邸のもので、この兎月園に移され、更に三宝寺に移ったという。北町一丁目、旧川越街道筋の藤棚園の藤の古木も、乞われて兎月園に移り、更に練馬東小学校の校庭に植えられたという。

この南、牛房に近く、グラント・ハイツの汚水処理場跡の付近に「花岡学院」という養護学園があった。大正一四年(一九二五)、花岡忠雄によって創立され、虚弱児童を対象とする宿泊のできる施設で、自由時間や校外学習を多くし、肝油の服用や太陽灯の照射等を行なって、健康を回復した児童は上級学校へ進んで行ったという。夏休みは児童がいないので夏期施設として都心の学校の林間学校となった。湧き水利用のプールも完備されていた。都内最初の養護学校と言ってよい。

しかし戦争の激化と共に、食糧不足や、疎開の関係で、児童数もへり、遂に神田区に寄付され、神田区の健児養成所となったが、戦後は廃園となって、荒れるにまかせ、今は住宅地となっている。

その南に連なる谷間付近を南部山という。田柄にあった南部侯御抱地の北端ということになろう。八丁堀という堀が八丁つづいていたという場所に、旧名主小島家、北野神社と日蓮宗本覚寺があり、その北に株式会社後楽社という農園があった。

後楽社は昭和七年、日本郵船の各務社長によってつくられた一〇町歩(一万㎡)余りの西洋式農園で、無農薬、無公害、新鮮さを売物に、自家用農園としてつくられたもので、牛、山羊、豚、温室、果樹、養鶏、養蜂、花卉、茶畑から、ベビーゴルフ等、バター、チーズ、ベーコンの製造も小規模ながら行ない、付近農家から農民を傭い、失業救済の役目を果し、また新しい農業技術の導入もしたのであるが、その頃はまだそうした農法の普及には至らなかった。戦後の農地解放で廃園となった。

本覚寺および北野神社は、神仏混こうの姿が残って鳥居のそばに題目碑があり、寺社の間に境もない。本覚寺は以前光が丘の方にあったが火災にあい、ここに移って来たという。練馬区教育委員会発行の「練馬の寺院」によれば、法光山、開山日円

元和の頃)、開基小島兵庫(小島名主家の祖)品川長徳寺の境外仏堂で、後独立して一寺となり、江戸中期の頃ここに移ったと伝えている。長徳寺はやはり練馬区の練馬一丁目の時宗阿弥陀寺の本寺でもあるから、日蓮宗になったのはいつか、開山から言えば初代からと言うことで疑問点でもある。入口に「日蓮五百遠忌(安永二年)題目講中」の碑に下土支田の小嶋、本橋家の他江戸本寿院浄円日量を始め商家の屋号多数ある中に、土州御屋舖御局として浜崎、理佐、浦野、三好、<外字 alt="と">〓見の名が見える。江戸とのかかわりあいが考えられる。北野神社は「八丁堀の天神さま」と言われていた。

この南に浄土宗仲台寺がある。戦災をうけ、また滝野川第七小学校復興のために境内を提供したこともあって、後楽社の跡であり、牧場となっていたここに昭和三六年移転して来たのである。雷雨除の阿弥陀如来が本尊である。この南、低地となった所に田柄用水が流れ光が丘を横断して、田柄町に流れてゆく。今は殆ど暗渠となっているが、この田柄用水はこの付近低地の灌漑を助けるため、明治四年(一八七一)、田無、上保谷、関、上石神井、下石神井、田中、下土支田、上練馬、下練馬の一〇か村によって玉川上水の分流として掘られたもので、富士街道の南を道路ぞいに石神井庁舎まで流れ、それから北にまがって三原台、土支田町を通ってここに出る。途中いくつかの水車をまわすようになっていたのである。

この事については、小島名主家の墓地にその次第を記した墓碑があって、その功をたたえている。

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白子川の低地には、板橋区に連なる下流の地域から工場ができ、本区域の北端にも、川越街道の交通の便と、白子川の水と排水路により小田原製紙株式会社東京工場が昭和四年九月に出来た。最初はキレー紙製紙株式会社と呼んでいたようである。更にその南に赤尾アルミ成増工場が昭和三二年に出来た。その南牛房付近には昭和一〇年頃、煙火製造所があったが、爆発火災によって移転したとのことである。

狭長で起伏の多いこの土地であるが都営住宅も旭町(昭和二八年、一二戸)、練馬旭町第四都営(昭和三八年、二八戸)、旭町二丁目アパート(昭和四三年、五七戸、鉄筋三階)、旭町二丁目第二アパート(昭和四四―四六年、一〇二戸、鉄筋三階)を始め、人事院旭宿舎一七戸等社宅、倉庫等の数が多い。オリンピック道路が人家の少なかったこの地区に出来た頃に比べ、発展は目ざましく、昭和二五年三三〇二人が、三五年に五二二七人、四五年、一万〇一三七人。その後の増加は余りない。商店街には、旭一商興会、旭町一丁目商店会がある。

南部山の東、旧グラントハイツに近く、日本科学技術情報センター情報資料館が昭和五五年七月一日より開館された。千代田区永田町の科学技術情報センターにあったものを拡充整備したものという。敷地四二〇〇㎡。閲覧自由である。

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土支田地区(一丁目―四丁目)

面積 一・四三八km2
人口 一万〇四一八人(密度 七二四五人)

旧練馬土支田町二丁目と若干の周辺地区を含んで昭和五〇年一月一日、住居表示実施によって生まれた。小田原北条の頃は土支田源七郎分とあるので、この頃既にこの地名があったのであろうが、土師器をつくる者が住んでいた村とも「ときた」の意で、神・仏に奉るしときをつくっていた田のあった所という学者もいる。

昭和二四年一二一八人、昭和三二年八九二人、昭和四二年四九〇六人、昭和五二年には九八七三人とここ二〇年間に約一〇倍になっているが、まだ緑地も多く、畑四八・二八<数2>haに山林一一・八三<数2>haを加えると面積の四一・八%にあたる(昭和五三年)。従って、他の地区に余り見られない大根や人蔘の産も多い。農産物栽培や経営に関する研究も盛んである。この耕地の多くは田柄用水の灌漑地域およびその周辺である。用水はこの地区で三つの蛇行をもち、その灌漑地域を広げている。白

子川流域は左岸が埼玉県のため狭く、八坂小学校、中学校の二校でその半ばを占めている。この地区の旧字名は俵久保、塚前、小三丁目、西八丁堀、稲荷山、三丁目(上土支田)である。

この地区の東はオリンピック道路で、東北から西南にかけ、斜めに重要なバス道路があって、成増から石神井公園駅の方へ、バスが走っている。また、この道路に交叉して東南、西北の方向に長久保道があって、北大泉から大泉学園町の方へ通じている。

地域の中心は旧豊渓小学校付近であったが、旭町を分離すれば中心は西にうつり、現豊渓小学校あたりになる。小学校あとは、昭和三九年三月三一日、区第一総合調理場となって、四〇年九月七日給食を開始した。一時は一万五〇〇〇食の調理もしたが現在八二〇〇食の昼食をつくり各校(現在一〇校)に配送をしている。

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豊渓小学校は明治六年六月加藤政八の私塾として発足、同九年六月七日豊渓小学校となったが、明治三六年から昭和三七年五月まで半世紀の間は現給食センターの地にあった。その間、昭和一九年飛行場建設のため軍隊が入ったこともある。その北に大正九年味噌屋創業の加藤宅がある(現在質屋)。

土支田八幡はその西北にあたり、俵久保の天神さまと呼ばれていたが、昭和一〇年の頃、八幡神社と言うようにした。拝殿の右手に伊賀の松の古株があるが、元弘の昔、新田義貞が太田の金山に旗上げをして鎌倉攻めの折、分倍河原に北条軍と戦い、敗れて、家臣篠塚伊賀守に命じてこの社に戦勝を祈願した時の植樹という。

一時南極探険日本隊の雄、島義勇が神官をしていたという。その西の山林中に番神さまの碑がある。この東北にある曹洞宗法音寺は昭和三六年に港区六本木から移転してきたお寺である。

この下白子川のふちに加藤水車(山八)がある、現在は電力で米つき、製粉をしている

が以前の大きな水車が保存され、訪ねる人も多い。一丈八尺(五・四五m)の水車である。田柄用水にも蛇行の基部に水車をつくり、その排水を次の川筋に向って暗渠で落すやり方で水車をまわしていた所があったという。

交通の便の悪いこの地区にはまだ田園風景が残っているが、豊和商店会、土支田地蔵通り商店会がある。

富士見台地区(一丁目―四丁目)

面積 〇・九二四km2
人口 一万四〇三〇人(密度 一万五一八四人)

旧石神井村の東南にあたり、昔の字で千川、東原、西原、仲道、西仲道、堀北の地を含み、石神井川はその西北辺を流れて、南田中および高野台との境になっている。昭和三九年一一月一日住居表示変更が実施され、独立当時の谷原町一丁目全部と二丁目、南田中町の一部と共に富士見台となったもので、御嶽神社あたりの台地から西、石神井川の低地をへだてて富士山を望むすばらしさからつけられたのであろう。

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  旧石神井村について

現在の富士見台、南田中、高野台、谷原、三原台、石神井町、石神井台、下石神井、上石神井、立野町、関町、関町北は明治二二年五月一日の町村制施行までは、谷原村、田中村、下石神井村、上石神井村、関村、竹下新田という村に分れていた。それは江戸時代以来つづいていた村であった。それが明治二二年の町村制施行で石神井村という一つの村に統合され、昭和七年板橋区になった時、また、元の区域をそのままに石神井谷原町一・二丁目、南田中町、下石神井一・二丁目、北田中町(旧北田中新田)、上石神井一・二丁目、石神井立野町、石神井関町一・二丁目となった。練馬区独立時に、上の石神井をとって、昭和三九年谷原町から始まる住居表示の変更を迎えることになる。広い地域であるため各丁目ごとに町名がきまり、たとえば谷原町一丁目が富士見台、二丁目が高野台、谷原の三つに分かれるようになった。

この入口にあたる富士見台駅は、大正一三年(一九二四)五月一日貫井駅として業務が始められ、昭和一四年九月一日富士見台駅と改められている。それは、富士見台分譲地という名で住宅地分譲を行なった頃であると言われるが、近郊住宅地としての発展をはかるため、武蔵野線もまた通勤通学の電車として発展するため沿線各地を分譲住宅地として開発し、駅名もまたそれにふさわしいものにしたのである。昭和八年三月一日石神井駅を石神井公園駅に、東大泉駅を大泉学園駅に改めたのもそ

の為である。富士見台の名は近くの富士見高等女学校の名が参考になったかも知れない。

昭和一二年の旧谷原町一丁目(〇・七八六㎡)の人口が六八七人、二五年には一四四七人で密度は二五年でも一八四一人であった。それが三五年に五五一二人と三倍になり、四五年には一万二二八八人と増え、密度も一万三二九九人となっている。四〇年四月に南光幼稚園が発足し四八年四月、富士見台小学校が生まれたのもこうした人口増が背景になっている。

都営住宅も八箇所を数え、谷原町一丁目第一住宅(昭和二五年、一一戸)南田中第二住宅(昭和二五年、二七戸)昭和二六年には谷原一丁目住宅および谷原一丁目第四住宅計五六戸。二九・三〇年度に谷原一丁目第五住宅(二八戸)、三〇年度に第六谷原一丁目住宅(一三戸)、練馬富士見台アパート(昭和四一―四六年度、鉄筋四階、三二戸)、富士見台三丁目アパート(昭和四六・四七年度、鉄筋三階、一一一戸)、その他にも富士見台一丁目に鷺宮第五都営住宅(鉄筋五棟)ができ、住宅地化が急速に進んでいる。昭和一二年にできた結核療養所、富士見台静風荘(一五〇床、昭和一一年一一月、皇太子の入学を祝し下賜された高松宮の住居を移して療養所としたもの)はまだ人家のまばらな頃の開設である。

南光幼稚園は明治の初めまでこの付近にあった長命寺末天神山南光院菅原寺の名をとったものであり、この付近にも長命寺の道しるべがある。近くにテニスコートもある。

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低地にある富士見園というつり堀も最初石神井川の水を利用したレクリエーション施設である。

商店街には駅前通りに富士見台本町通り商店会、その西につづくみのり商店会、南田中小学校に通ずる所の南ケ丘商店会等があり、道路はせまいがにぎやかである。

南田中地区(一丁目―五丁目)

面積 〇・九三四km2
人口 一万〇四一九人(密度 一万一一五五人)

石神井川と千川上水にはさまれた地区で、富士見台の西にあたる。旧大字田中の原、下

久保、上久保、塚越、本村、下長光寺、それに下石神井の向三谷、和田前の地域である。住居表示は昭和四八年八月一日に行なわれた。

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故 小林辰五郎氏の話より

最初石神井東中学校の校舎になった病院の建物は大正末期、谷田小学校の校舎であったものを払下げを受けたものである。そこへ昭和二二年石神井東中学校が創立されたのである。

補助二二九号千川通りの南に育英工業高等専門学校がある。昭和八年カトリック・サレジオ修道会によって創立された学校で初めは東京育英工芸学校と称していた。印刷、洋服の二科をおき、さらに一三年にはイタリアの教師によって、木材工芸科も設置された。

環状八号線は現在工事が進められているが、完成時には当地区を分断する形になる。

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東部に石神井東小学校がある。昭和二二年五月一日、新制中学の発足により、この地にあった病院に石神井東中学校が入り、三一年三月長命寺の近くにあった石神井東小学校と校地校舎の交換が行なわれ、現在に至っている。

長光寺橋を渡った右手の台地に昭和二五年から近年まで積田牧場があり乳牛(牡牛一、牝牛三〇、仔牛二)の飼育が行なわれていた。長光寺はこの辺にあった寺院であるというがはっきりはしない。地名として上下長光寺、薬師堂等の名を残している。

この南に南田中の名主家である榎本家の長屋門が見える。

観蔵院は文明年中、三宝寺の塔中としてここに移ってきたものである。薬師堂に日出薬師がまつられている。息災延命助長納寿の霊験があるとして詣でる者が多い、西北に稲荷神社(田中稲荷)がある。もと田中村の鎮守で、八成のお伊勢さんもここに移したので、天照大神も合祀されている。この北一帯が、石神井川低地に拡がる団地、都営南田中アパートである、鉄筋五階、一七一四戸分、四一年~四五年にかけての大団地であるが、石神井川沿岸地域の河川改修と道路整備を行なった

際、都にまかせられた土地である。その他都営住宅として第三南田中(昭和三一年、二三戸)がある。

南田中小学校の西、十善戒寺は昭和一八年、目白僧院を吉祥院と改めてこの地に移転、農家であった鴨下家の主屋をそのまま本堂に使うという珍しい寺院である。二三年保育園を開設。更に二七年寺号を十善戒寺と改めている。真言宗東寺派の石山寺を本山とする。なお大泉妙福寺にある福徳元年の六地蔵図像の板碑は、この付近の山林の中から出たものであると伝えている。私年号の板碑で六地蔵の図像と共に有名である。

聖体礼拝会(聖家族寮)は古い教会であり、その西の方には喜楽園というつり堀があり、その水は暗渠となって富士見台駅の北の方へ流れてゆく。

高野台地区(一丁目―五丁目)

面積 〇・八八八km2
人口 九四六四人(密度 一万〇六五八人)

この地区には御府内八十八箇所第十七番、豊島八十八箇所第十七番、東高野山として有名な谷原山妙楽院長命寺、本尊十一面観世音菩薩がある。板橋区発足当時、以前の村名谷原をとって谷原町二丁目となり、昭和四〇年四月一日住居表示の実施により谷原の名を他の区域にゆずり東高野山の名を残して高野台としたものであろう。

旧谷原村の小字、東郷、中郷、北耕地、南耕地、本村、本脇に田中村の北薬師堂、下石神井の和田の地域を含んでいる。

長命寺は慶長一八年(一六一二)、北条早雲の曾孫増島勘解由重明によって開かれた大師堂から始まると伝えられる。増島重明は天正一五年(一五八七)、豊臣秀吉の関東制覇にあたり、小田原方として北条氏規と共に伊豆韮山城に立籠ったが、落城後、谷原の地に隠退、農を事としていた。甥の新七郎重俊に家をゆずって、仏道に入り紀州高野山で修業して、弘法大師自作の木像を感得して、谷原に帰り一堂を立てたと言われる。その後寛永一七年(一六四〇)長谷寺を総本山として、十一面観音をまつり、慶安五年(一六五二)には、奥の院が完成。江戸近郊の高野山として信仰を集め、五百羅漢像、木やり地蔵、鳥居清長の芝居絵額等、当寺の信仰を物語るものが多い。殆どの建物が再建されている中で、寛文年間の仁王門のみ古

さを残している。毎年四月二一日の開帳は花嫁市として有名であるが、現在は植木市、縁日として人出が多い。明治一一年(一八七八)五月一八日、谷田小学校(谷原と田中の名からとる)が創立され、この長命寺の一部に仮校舎をおいた。俗に長屋学校と言われたこの学校も明治一七年(一八八四)、校舎新築、明治三五年四月石神井東小学校と校名を改める。その後、昭和三一年三月石神井東中学校と校舎を交換して中学校となる。昭和五二年に至り、西武線および学校の東を削って開通する環状八号線の騒音問題等から、再び学校の位置がこの東方に変り、昭和五五年より学校施設は、区役所出張所、区教育センターおよび社会教育施設として再出発をしている。その有為転変は人の一生の如きものか。

この東、石神井川は蛇行して流れていたが石神井川耕地整理組合によって、昭和二一年から三〇年にかけ、河川改修、道路整備が行なわれ、「谷原たんぼ」は畑地化して行った。

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中央卸売市場淀橋市場練馬分場の変遷

二一年六月、桜台三丁目正久保(現練馬農協桜台支店)に設立

二六年、豊玉北六の五に移転(現アイカ工業KK東京営業所

三九年現在地へ移転

昭和四〇年、東京オリンピック開催準備のため建設された放射七号線によって、この地区へのトラック乗入れが便となるや、昭和三九年一〇月二九日に都中央卸売市場淀橋市場練馬分場・東京新宿青果株式会社練馬支店という長い名称の市場が、豊玉北六丁目の区役所の東南から移転して来て、周囲一帯は、関連会社の問屋、倉庫で埋まることになった。都内交通事情から、トラック及大型車の旧市内乗入れ規制措置の関係もあって、市場卸売関係を周辺地区に分散した結果である。その主なものを上げて見ると、東京練馬西武青果地方卸売市場、西武青果総合食品、昭和産業練馬荷捌所、松坂屋流通倉庫、花王石鹼流通センター、城北食品流通センター、アサヒビール練馬営業所、金城製菓、練馬鶏卵販売所、八洲輸送KK、大

崎運送KK等一大問屋街を形成している。その中に練馬区立福祉会館(昭和四二・八・一開館)練馬区医師会医療センター等のサービス機関がある。

この低地の西に広がる台地には長命寺の森を始めとして、農家の屋敷森の間に畑が開けていたが、昭和三〇年代の後半から人口増加が目ざましく、その大動脈たる環状八号線は昭和五八年秋の開通を目ざしている。

長命寺の西に区立高野台運動場(旧毎日新聞社員クラブ。テニスコートおよび野球場あり、五一年七月二〇日設立)富士街道沿いに石神井ローンテニス等の運動施設がある。

都営住宅は高野台一丁目アパート四棟(鉄筋五階、九〇戸)。その他に石神井公園マンション、太陽神戸銀行石神井寮、国際電信電話(株)高野台寮等ができている。

商店会には谷原五ツ又商店会がある。

谷原地区(一丁目―六丁目)

面積 一・〇七五km2
人口 八八九一人(密度 八二七一人)

高野台の北につづく一帯で放射七号線と大泉街道の北になる。前記谷原町二丁目と高松、土支田、北田中の一部を入れて、昭和四〇年四月一日住居表示実施の結果生まれた町名である。村当時の小字東箕輪、西箕輪、新田、本村、西新田、中原、北原を含み、それに上練馬村の中ノ台、西ノ台、田中の東、下土支田の三丁目が加わっている。谷原五ツ又と言われる関越道路から都心に入る放射七号線と環状八号線の交る所、丁度練馬区の中心とも言える所に位置しているが、近年まで周囲は畑の多い所であった。

旧谷原町二丁目の人口は昭和二五年で二〇七一人、三五年には六一七三人、四〇年には九四三二人。住居表示実施後の谷原一―六丁目では、四一年に五六〇六人、四五年には六七四二人、五〇年に七六六六人である。五二年の畑は二八・八二<数2>ha、四六年には三九・二九<数2>haであった。緑地の他に、石神井自動車教習所、ゴルフ場や中古自動車置場、建設会社の作業場

も多いが、東京ガス総合研究所・練馬整圧所(ガスタンク)は都農事試験場跡地に昭和三四年にまず二基、その後四基増設してふえる需要にこたえようとしている。

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五ツ又に近く区立総合体育館は四七年六月一日に完成した施設で、各種屋内競技場やスポーツ相談室、トレーニング室等が完備されている。

谷原六丁目には東京都石神井清掃工場がある。昭和三三年八月から操業を開始し(第五清掃工場)、四〇年四月まで一日八時間一八七トンとして操業、その後公害等の原因を排除して改造、四四年三月よりごみ焼却能力一日六〇〇トンとして再操業したものである。また、四八年煙突の高さを八〇mから一〇〇mにしている。この余熱を利用して三原台に温水プールや敬老館ができている。そのすぐ南、関越道路との間に三軒寺がある。大正一二年(一九二三)の関東大震災後の区画整理によって、昭和三年築地本願寺の寺内から移転して来た真竜寺、宝林寺、敬覚寺の浄土真宗の三寺である。真竜寺は文明年間に金杉に建てられたものと言われ、その後何回か火災にあっている。江戸の学者三縄桂林(文化五年没)の墓がある。宝林寺は明暦年間創立されたが何回かの火災に焼失した。有名な振袖火事にも焼失している。第九世住職羽田雲堂、子子雲はそれぞれ書家、画家として名高い。敬覚寺は寛永一八年七月、青山に創立され、火災の後、築地に移った寺である。冠木門が珍しい。

商店街には谷原小学校通り商店会がある。

都営住宅は谷原二丁目住宅(昭和三〇年、四一戸)、谷原二丁目第二住宅(昭和三一年、四七戸)、第三住宅(昭和三一年、四三戸)、第四谷原二丁目住宅(昭和三一年、四二戸)等である。

三原台地区(一丁目―三丁目)

面積 〇・四九六km2
人口 六五二五人(密度 一万三一五五人)

谷原地区の西につづく地区。旧北田中町を中心に東大泉町、土支田町の一部を加えた地域で、旧字名は大字田中の東、西、韮久保、大泉の下屋敷、下土支田の三丁目である。

昭和四六年八月一日、住居表示の変更によって三原台となった地域で、三つの原即ち北原、中原、西原が近くにあり、名づけられたものと考えられる。この地域の中央を関越道路が通っていて一、三丁目と二丁目をわけている。

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この付近中心は稲荷神社で、北田中の稲荷と言われ、富士浅間神社が境内にある。低くはなっているが、富士塚である。

この神社の東方二〇〇mの所を南北に流れていたのが田柄用水で、この地区に鴨下水車(いりぬか屋)があった。約一二尺の落差のある韮久保に水を落してその水力を利用したのである。そのあとは関越下をぬけて、谷原六丁目と三原台二丁目の間を流れて、土支田町に入り、水車をまた一つかけていた。

北栄会という商店会がある。庚申ストアー付近の商店街である。

三原台温水プールは五三年四月一日開設されたもので、谷原六丁目にある都石神井清掃工場の塵芥焼却場の余熱を利用した二五mプールである。

石神井町地区(一丁目―八丁目)

面積 一・七八〇km2
人口 二万二四一〇人(密度 一万二五九〇人)

下石神井地区と共に下石神井村即ち明治二二年合併して石神井村大字下石神井になった地域である。石神井村の中心として、現在の石神井農協の北には村役場があった(現在白百合福祉作業所の場所)。部落名では、和田、和田前、池淵、小中原、北原、それに谷原の南郷、上石神井の大門、上土支田の前原の一部を加えている。南は石神井川、北は大泉街道(清戸道)、東、長光寺橋から富士街道みどり湯に出て都営住宅を二分して清戸道まで、西は石神井中学校の東を南北に走る道路である。

真中に西武池袋線が走り、石神井公園駅がある。この駅は鉄道開通の大正四年(一九一五)四月一五日に同時に発足した駅で最初石神井駅とよんでいた。その事は駅前広場の一隅にある「石神井火車站之碑」にも記されている。昭和八年三月、石神井公園駅と改称した。駅の北口は昭和五三年九月一二日に漸く開かれたが、貨物駅の縮小によって漸くその場所が得られた程で、バス等との連絡も悪いが、踏切を渡らなければならない不便は解消した。現在一日の乗降客六万七〇〇〇人で大泉学園につづいて二番目である。

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  石神井に飛行機墜落

大正一四年商大予科の剣道場に飛行機が落ち大さわぎになったという。

富士街道は鉄道と駅の西で交叉する。その踏切の少し西、消防器具庫の所は、春日町の一里塚から約一里にあたり、一里塚改築記念碑があって、一里塚という名のあったことを示している。練馬区における西半分の役所の中心である石神井庁舎はこの富士街道の南側にある。

住居表示実施は昭和四五年一月一日で主に旧下石神井二丁目の区域について行なっている。

明治四年(一八七一)に掘られた田柄用水は富士街道の南側を西方より流れ、一里塚の付近を北にまがり新東製粉株式会社(昭和二二年開業)の北の小道を東へ更に北に流路をかえて途中速見水車を通って三原台鴨下水車(現精麦所)へ向って流れる、現在は勿論暗渠になっている。

この北方に少彦名尊をまつる石神井神社があるが、石神井という地名発生の伝説の生れた所として有名であり、井戸の中から石神(石棒らしい)が出て来たというのでつけられたと伝える。

この西側一帯は大正一二年(一九二三)の震災後急遽、仮校舎を建てて一三年五月五日移って来た東京商科大学の旧地であ

る。校地二万五〇〇〇坪(八万二五〇〇㎡)、建物一五四八坪(五一〇〇㎡)、生徒六五〇名、教員四八名となっている。その後一四年二月、大学および専門部が北多摩郡谷保村に移り、予科のみ昭和八年小平に移るまであった所である。その後は一万六〇〇〇坪(四万二八〇〇㎡)が糖業協会の手にわたり、グラウンドに野球場二面、四〇〇mトラック・フィールド、テニスコート一〇面等がつくられた。戦時中は一部畑として耕作が行なわれたが、昭和二七年都に移管され、都営住宅が建てられた。都営下石神井住宅一七五戸である。昭和五三年一一月、この商大予科に学んだ者五六〇人は二二八万円を出しあって、記念碑をつくり、地主豊田銀右衛門持であった石神井稲荷神社の境内に建て、心のふるさととして、昔日を偲んだのである。現在もその頃下宿をやった話等が残っている。

石神井神社の東南一万坪(三万三〇〇〇㎡)の土地に研心学園がつくられたのもこの頃であるが、詐欺にあって土地校舎共人手にわたってしまったとの事である。石神井小学校ではその校舎を買って増築したという。

西武線の北側は駅に北口がなかった等から開発がおくれ、石神井消防署が出来たのは昭和四〇年、光和小学校は昭和三〇年で、下石神井第二都営住宅(昭和二八年、一四戸)、下石神井第三住宅(昭和三〇年、五四戸)、下石神井第四住宅(昭和三一年、二六戸)、第五住宅(昭和三一年、三六戸)、第六下石神井住宅(昭和三一年、六八戸)、第七住宅(昭和三二年、一八戸)、第八住宅(昭和三二年、二八戸)と都営住宅が多くできている。大泉街道に近く福室漬物工場があるが、その中にある昭和初期から二万点も集めた野球資料館は知る人も少ない。

商店街は富士街道沿いに富士和商光会があり、駅の南には石神井公園商光会石神井銀座がある。昭和二五年の頃には区石神井庁舎の近くに石神井映画劇場もあった。昭和二七年、時代の要求によって生れた石神井公益質屋の利用数は昭和三〇年代をピークにやや減少している。駅前商店街の裏に大鷲神社があり、一一月の酉の日には、熊手を始め露店が多く、にぎやかである。第一勧銀、埼玉銀行、拓殖銀行の支店や大正一一年(一九二二)に開設された石神井郵便局(二等)等もあって、経済の一中心となっている。

駅の南方一帯の台地は石神井池に臨み、松林に囲まれた絶好の住宅地で、現在も自動車が入らぬよう砂利舗道のままを守っている。名士の住宅が多い。そうした中に和田稲荷や、渡辺名主家の笠松墓地があり、富士街道沿いには石神井警察、練馬区役所石神井庁舎、少し離れるが新築された石神井保健所や、石神井電報電話局等がある。

都立石神井公園は石神井台の三宝寺池一帯につづく景勝の地で、石神井池のボート、チビッコ釣場、中之島、それをとりまく柳、桜、野外ステージ等都民憩いの場所である。また、喜楽園つり堀もつづいている。その南豊田公園は石神井公園内の一施設として開園されているが土地の名家、豊田銀右衛門の庭園で一般に公開していたが、戦中戦後、荒廃した。近年都の手によって整備が行なわれ、昔の面影を再現している。その南に照光山禅定院がある。五三年本堂庫裡の改築が終ったが、山門および鐘楼はそのままである。三宝寺の末寺であるが、本寺より古いと言われている。境内に寛文十三年十月朔日(一六七三)と彫ったキリシタン燈籠があり、応安(一三六八~七五)、至徳(一三八四~八七・何れも北朝)等の板碑もある。明治七年(一八七四)豊島小学校(現在の石神井小学校)が設立された所であり、練馬最古の公立学校である。

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この西方には住友銀行石神井運動場があり、区立遺跡公園・プールへとつづいている。

遺跡公園は昭和四七年九月区の運動施設建設のため発掘され、縄文早期の遺構、条痕文土器片、縄文中期の住居跡一六か所、土器、石器等多数発見、また、先土器時代の尖頭器、礫群等が発見され、公園として保存の方途がとられたのである。

となりの区立石神井プールはその時つくられた施設である。その南方に旧石神井村役場があった(別記参照)。

石神井農業協同組合はその南石神井川との間にあって、旧石神井村一帯の農業経営の指導、および金融機関として盛況を呈している。石神井川に沿って都営南田中アパート一七一四戸があるが、石神井町内は二二棟、鉄筋五階建である。

石神井台地区(一丁目―八丁目)

面積 二・〇三〇km2
人口 二万四三九六人(密度 一万二〇一八人)

石神井川の北、富士街道をこえて東大泉まで、西は大関、小関まで、旧上石神井二丁目と下石神井、南大泉町の一部を加えた地区である。小字名は大門、沼辺、西村、小関、に下石神井小中原の一部、大泉の小榑東原である。住居表示は昭和四五年七月一日に行なわれた。

この地区は石神井風致地区の中心である三宝寺池をはじめ、道場寺、三宝寺、氷川神社、日銀グラウンドによって名高い。旧下石神井村名主栗原家もこの中にある。

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  村役場その後 4

 

石神井村役場

 場所、練馬区石神井町五丁目一三―一〇

    (旧石神井村大字下石神井二ノ一〇五三)

昭和七年一〇月村役場は廃止され、板橋区役所石神井派出所(四一〇㎡)となり、昭和一九年五月一日石神井出張所(現在の石神井庁舎)に移るまでつづく。

尚昭和二二年四月石神井民生事務所がここに入り、(昭和二四年九月三〇日、都より移譲)昭和二六年改築までつづき、改築後は都民生局石神井福祉事務所となって、昭和四〇年四月一日まで、同日、練馬福祉事務所石神井支所となって昭和四三年石神井庁舎にうつるまでつづく。

その後はしばらくあいていたが、昭和四四年一〇月一日白百合福祉作業所が入って、その活動が行なわれている。

村役場の裏には、倉庫があったが、昭和四四年プレハブが出来て、四建出張所として、また材料置場として一〇年ばかり使われていた。現在は他にうつって駐車場になっている。

鎌倉時代の末元弘(一三三一―三四)の頃、豊島泰景によって築かれた石神井城は三宝寺池と石神井川にはさまれ、東西に濠をめぐらした堅城で、流石さすがの太田道灌もこの城攻めに約一週間をついやし、和議の一瞬を利用して落城に追いこんでいる。それは元弘から一五〇年程後の文明九年(一四七七)春四月の事である。この落城の悲話は殿塚、姫塚の伝説として名高い。この落城後、この東禅定院近くにあった三宝寺を太田道灌は城跡に移して、戦死者の霊を弔っている。また道場寺は、初代の城主泰景の死後、幼君を助けて一時豊島氏を率い、天皇方として働いた弟景村の養子輝時の創立と伝えられる。輝時は北条高時の遺児時行の子で、以後北条の名跡をつぐものともされ、小田原

の北条氏康からも段銭懸銭免除の寅朱印を拝領している曹洞宗の寺である。昭和四五年より本堂を始め三重塔、庫裡等の改築が行なわれ、面目を一新した。その東にあった石神井小学校は明治七年(一八七四)豊島学校として禅定院内に設立され、一二年創立の豊石小学校と明治三五年(一九〇二)三月合併したものが、四三年(一九一〇)ここに移って来たのであるが、校地狭隘のため昭和三六年、道路をへだてた校庭に鉄筋校舎を増築してこれにうつり、その間を跨道橋で結んでいた。三八年には全校舎南にうつり、その故地には区立石神井図書館ができ、四六年一二月開館している。その時の跨道橋は今も道路上にかかっている。道場寺庫裡の玄関は旧石神井小学校の玄関をそのまま移築して使ったもので、校章が嵌込まれている。

三宝寺は真言宗智山派で石神井落城後ここにうつり天文一六年(一五四七)勅願所となる。小田原北条の帰依も浅からぬものがあったが、天正一九年(一五九一)将軍家より一〇石の御朱印を受け、また寛永二年(一六二五)、正保元年(一六四四)には、三代将軍家光の猪狩りが行なわれ、その時の休憩所となったので、三宝寺でほうびももらっている。山門を御成門と言い守護使不入の禁札等、そのいわれがあるわけである。現在の長屋門は勝海舟邸のもので、旭町の兎月園より移したものという。火消稲荷や、四国八十八ケ所のうつしは有名である。この三宝寺は江戸八十八ケ所十六番、豊島八十八ケ所の十六番でもある。

三宝寺から西に、区役所の資材置場がある、昭和二九年まで都女子師範学校の石神井林間教場のあった所で、昭和八年一一月、林間および農業栽培教育の必要上つくられたものであるが、戦後戦災を受けた教職員の住宅になっていた所である。

その西北、石神井城の二の丸跡にある氷川神社は豊島氏が応永年間(一三九四―一四二八)大宮の氷川神社の御分霊を城内にまつり、城の守護神としたと言われる。三宝寺が小中原に開創された頃の事である。石神井郷の総鎮守として郷社となっていた。本殿左右の石燈籠は元禄一二年(一六九九)に豊島氏の子孫である旗本泰盈、泰音によって奉納されたものである。今上天皇が皇太子の頃、おしのびで来駕、その御乗馬をつないだ松(駒繋松)があるが二代目である。

このまた、西北、鳥居をくぐり石段を下りると池につき出て厳島神社がある、石神井弁天と言われた社で、江戸市中から

の参拝も多かった。穴弁天は手前の丘にある。天皇御手植松がある。東方の小祠は末社の水天宮である。

都立石神井公園は昭和三四年三月開園された面積一四万㎡ばかりの大公園である。渇水時に備えて掘抜井戸が設置され、水の補給が行なわれ、昔日の風景をよみがえらせた。しかし天然記念物シャクジイタヌキモは見られない。この北の練馬最古のプールは、つり堀となり、広いグラウンドもある、富士街道際には石神井中学校と日銀グラウンドおよびプール、バスケット、バレー、テニスコートがある。

富士街道の北側には大正一一年(一九二二)開設の石神井二等郵便局や日本住宅公団石神井団地二二棟の大きなアパートがある。その他都営住宅が三か所、計八六戸分がある。

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  不発爆弾処理

区立石神井中学校では四一年三月二八日と四七年一月二一日、校庭の不発弾処理をしている。生徒、付近住民を立のかせ自衛隊の処理班によって地下深く発掘、弾頭の信管をとりはずし、発掘した。その際校舎の下にあったため一部校舎の取こわしを行い鉄筋校舎に改築した。こうした事は区内に何か所かあり、その度に付近住民は避難して発掘の無事終了するのを待っていた。昭和二〇年米軍爆撃機によって投下された爆弾である。      (同校沿革史

その西大泉学園駅から上石神井駅に向う道路の東側に福祉施設、都立石神井学園がある。明治五年(一八七二)にできた養育院の巣鴨分院として、昭和一七年三月に業務を始めた施設で、親または扶養者のいない子供たちを収容した施設である。戦後は戦災孤児の増加から拡張もしたが、現在の学園児一四〇人、職員一〇七人という。そのすぐ北に東京都練馬保育学院がある。昭和二三年九月一日。墨田区緑町に発足した東京都江東保母学院が、二五年七月港区麻布こうがい町に、四一年四月一日練馬区石神井台にうつり、四三年一二月二一日、校名を練馬高等保母学院とし、保母養成にあたった。五二年、男子学生の募集もすることになり現院名に改めたので

ある。現在学生数は一部(二年制)二八二人(内男九名)、二部(三年制)二一八人(内男二一人)で、幼児保育の資格を目ざして勉学をしている。その東に昭和三五年三月より日本住宅公団石神井団地一〇棟、三三〇戸ができている。

大山富士街道の南は一、二、四、五、七、八丁目で、新青梅街道がその南を通っている。

上石神井北小学校の西に小泉牧場があって、住宅も日本生命石神井荘三棟、上石神井ハイム四棟、都営上石神井アパート二五棟と集合住宅が多い。

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この北方一帯の台地は扇山遺跡の地で何回かの発掘で縄文弥生の遺跡が多数発見された。この地に東京医科大学の寮や昭和九年に建てた小説家文藝春秋社長菊池寛の別邸もある。

また、明治一二年(一八七九)に開校した豊石小学校はこの付近にあって明治三五年(一九〇二)までつづき豊島小学校と併合して現在の石神井小学校になっている。

釈迦本寺は昭和三三年三月創立の釈尊教会に始まる日蓮宗のお寺である。付近に六の日植木交換会所があって、如何にも都市の中の緑地の感がある。

商店街には上泉えびす通り商店会、石泉ショッピング会がある。また、松の湯通り商店会がある。

上石神井地区(一丁目―二丁目)

面積 一・四七〇km2
人口 一万八一一九人(密度 一万二三二六人)

旧上石神井村の石神井川以南、千川上水までの地区を言い、新青梅街道と西武新宿線が、東西に走っている。小字は観音山、立野と大門の一部で、昭和七年一〇月一日板橋区として町名が生まれた。現在まだ住居表示が行なわれず上石神井一丁目の全部と二丁目の一部ということになる。

上石神井駅は大正一一年(一九二二)一一月設立された西武鉄道株式会社の村山線(昭和二七年三月二五日より新宿につながり新宿線という)の一駅で、昭和二年四月一六日の開駅である。この頃はまだ畑地も多かったので、駅の構内も広く乗務所、電力管理所、信号通信管理所、広告分所、電車整備所、車輛修理部等もできて、鉄道の心臓的役割も果している。その東北に都営上石神井第二住宅(昭和二八年、一六戸)、更にその北方に上石神井一丁目住宅(昭和二四年、一六戸)がある。

地区の北、石神井川の南に愛宕山がそびえているが、現在は早稲田大学付属高等学院の校舎が建っている。文明九年(一四七七)の昔、太田道灌がこの北方石神井城の豊島氏を攻めた時、城攻めの指図をした所といわれ、愛宕神社が祭られていた。

新編武蔵風土記稿には愛宕社(城山にありという)、愛宕山正覚院(本尊不動)観音堂の記載があるが、現在は三宝寺にうつされている。早稲田高等学院は、昭和二年にこの地に設立された智山中学校および、昭和四年京都および港区芝から移って改称した智山専門学校の跡地を譲り受け、昭和三一年早稲田の地より移転して来た大学付属高等学校である。敷地六万㎡、その緑に囲まれた環境は新しい早稲田の森である。その東に上石神井一丁目都営第二住宅一一戸(昭和二六年)がある。

早稲田高等学院の東、石神井川の低地が、蛇行によって南の台に大きく入り込んでいる所は、昭和三〇年頃耕地整理を行ない、水稲もつくられたが、あげ堀がないため水が入らず、畑としてはかたい土で、ブルドーザーも中へ入らない程であったので、住宅公団がその開発を引受け、昭和四二年九月石神井公園団地九棟、四九〇戸ができた。

この南の台地上に東京芸術大学石神井寮があるが、これは昭和三五年の頃からで、その前昭和二〇年の頃には上石神井電波兵器学校があり二月一六、七日の空襲をうけ、戦後国立外国語大学の寮となり更に芸大寮となった所である。また、文部省寮もその南にある。

新青梅街道はその南を通って、石神井台に入っている。その西方の石神井川南岸は労働省の所有地となり、労働省上石神井庁舎があって、労働市場センター、労災保険業務室、労働保険徴収機械業務室、労働研修所等、昭和三九年より業務を開始している。

労働省施設の南に智福寺がある。浄土宗の寺であるが、最初桜田本町にあり、その後元和九年(一六二三)かくれキリシタン原主水等の処刑が行なわれた刑場跡の札の辻にうつり、更にがけくずれと、東京空襲の被害を受け、昭和四〇年七月、この地に移転したものである。境内の「塩上げ地蔵」は何事も願をかなえてくれるといわれ有名である。

その西方は石神井川整理の際都の持分となって、都営住宅上石神井アパート(昭和三九~四二年建設、鉄筋、八棟、石神井台を合せ一〇九〇戸)と都営母子アパート(三九年、五階、六二戸)ができている。

その西に上智大学神学部研究室、イエズス会黙想の家、更にその西南に大学神学部、イエズス会神学院がある。西道路をへだてた関町二丁目の東京カトリック神学院と共に、明治四年(一八七一)日本に出来た司祭教育機関が転々と移り、そして質量の向上をはかり、やがて昭和四年(一九二九)この地に移り、東京カトリック大神学院と称したに始まる。昭和二〇年の空襲で崩壊した学び舎の再建は、昭和二三年上智大学を経営するイエズス会が引きつぎ、昭和三〇年には上智大学神学部となって司祭養成研究伝導の指導が行なわれている。

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新青梅街道と西武線との間には東から都立井草高等学校(昭和一八年二月、第十八高等女学校として発足)があり、区立上石神井小学校(昭和二九年一一月開校)、上石神井中学校(昭和三四年四月開校)と学校が多い。西端には関町電話局がある。

西武新宿線の南には上石神井駅の南、千川通りに面して田中製粉所がある。千川上水が流れ、電力の供給が不十分であった頃、昭和四〇年の頃迄水車をまわしていて田中水車、とか観音山水車とか言われていた所である。文化四年(一八〇七)上石神井村百姓勝五郎の名で設立願いが出ているが、用水を田水に使う組合村より異議が出て許可はすぐに出なかった模様である。

そのすぐ西に都営上石神井一丁目第三住宅がある。(昭和二七年、一八戸)、第四住宅(昭和三九年、二四戸)、また上石神井

駅線路沿いに都営上石神井住宅二〇戸(昭和二六年)がある。昭和二四年から三〇年頃にかけ上石神井映画劇場が駅の近くに出来、いろいろな興行で客を集めていた。

千川上水の内、成増―吉祥寺間のバスが通る立野橋から新青梅街道の水道端まで約五〇〇mは開渠のままで昔の面影を残していたが、昭和五四年暗渠となり、上は道路とはなれた南に、狭いけれども憩いの道・遊歩道となっている。

青梅街道に面している所は約二〇〇mであるが、その東の出店と言う所に伊国屋という旅宿があったことが、「御嶽菅笠」に記されていて武州御嶽への道であったことがわかる。現在の高橋医院の地であるという。

旧上石神井一丁目(面積一・四三〇km2)昭和一二年の人口は一六五五人。二五年に二七四〇人。三二年に七三六三人、三五年には一万人をこえている。そして四二年には一万五四一九人、都営アパート始め、住宅地化の様相がうかがえる。

商店会には、上石神井団地商店会と駅前通りの上石神井商交会がある。

下石神井地区(一丁目―六丁目)

面積 一・二五二km2
人口 一万四九一八人(密度 一万一九一五人)

この地区にはまだ住居表示が行なわれていない下石神井一丁目の一部が含まれている。即ち新しい下石神井一丁目が地区の東南部にあり、まだ住居表示が行なわれず、旧町名のままの下石神井一丁目が、西南の方へ突出しているわけで、将来下石神井の住居表示の実施と共に、その地区に入る予定であろう。千川上水の南にあたり、上井草駅の西南方一帯で下石神井としては半島状に突出した地区である。旧下石神井村の南の部分にあたり、石神井村当時は大字下石神井字向三谷、上久保、坂下、原久保、伊保ケ谷戸、それに旧田中村の本村を道路の関係で含んでいる。独立当時の下石神井一丁目に南田中町の一部を加えた地域で、昭和四八年八月一日住居表示が行なわれている。

北は石神井川、東が石神井川の山下橋から千川通りの八成橋、南は千川通りで、西は石神井農協本店の南から昭和三〇年の頃完成した井草通りを千川まで、それにその西南の旧町名のままの下石神井一丁目の部分が入るわけである。

地区の中心は当然石神井町に近い北西部であったが、西武線上井草駅の開駅、新青梅街道の建設以来、南の部分の住宅地化が進んで来た。この地区に略々一致する以前の旧下石神井一丁目の人口を見ると昭和三二年三四〇八人が、年々一〇〇〇人から五〇〇人余り増加して、一〇年後の四二年には九〇〇〇人を超え、現在一万五〇〇〇人になっている。終戦直後は一五二三人であったから、この三〇年間に約一〇倍になっている。石神井川南岸の低地は、昭和三四年耕地整理後山下橋、根ケ原橋間を土地業者に、その上流を住宅公団に譲ったので、それぞれの開発が行なわれてきたわけである。

地区の中心にある天祖神社は、新編武蔵風土記稿に三宝寺持神明社と記され、村の鎮守になっている。この付近に鍛冶屋敷、屋敷前、御蔵番等いう地名が残っているとか。由緒ある社であろう。

この参道前に安政年間の丈余の燈籠が聳え、その奥に消防の火の見櫓が最近まであった。この前の道はまがりくねっているが古い道である。

向三谷には大山阿夫利神社大小二個の燈籠立の行事が行なわれている(七月二六日―八月一六日の間)。

千川通りに近く石神井南中学校があるが、昭和四七年五月区内で始めて光化学スモッグによる被害が出て、関心が高まり、空気清浄機・冷暖房機の設置がされるようになった。その後全国的にこの問題が発生し、その対策が論議された。

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新青梅街道の南、千川までは四丁目であるが、東、住宅地の中に「いわさきちひろ絵本美術館」がある。昭和四九年死去した童画家の自宅を解放してその遺作七〇〇〇点を順次展示していて、訪れる人も多い。西、井草通りに面して御嶽神社があるが、元禄の頃中仙道板橋の伊藤弥兵衛の主宰した木曾御嶽講に参加した当地の石塚平左衛門が分霊を祀ったものという。その子孫石塚忠明は一山講を組織、一山忠明教会を創立している。毎年冬至には例祭が行なわれ、戦前まで火渡りの行

事が行なわれたという。

西武新宿線上井草駅の南一帯は都の上井草野球場等のある広いレクリエーション施設(杉並区)であるが、本区はその北西にあたり、三菱信託銀行総合グランドの一部に含まれている。

その西、旧町名のままの下石神井一丁目は、上石神井駅の南にあたるが、まだ静かな住宅地である。

商店街には所沢通りの栄商店会、天祖神社前通りの石南商業会、石神井南幼稚園通りの下石神井昭和通り商店会、井草通り商店会がある。

立野町地区

面積 〇・二五一km2
人口 三二五八人(密度 一万二九八〇人)

練馬区の最西南にあたる町で、上石神井村の飛地である立野から、明治二二年石神井村大字上石神井字立野となり、昭和七年の東京市編入で関甲の須崎を含め石神井立野町となり、独立で練馬区立野町となった地区である。住居表示はまだ行なわれていない。

北を千川上水が走り、東は関町一丁目(竹下新田)、西、南は武蔵野市、吉祥寺となっている三角地帯の小さな地区である。

昭和一二年の人口二四九人に対し、二五年には六五四人となっているが、昭和三二年、一一七九人。二〇〇〇人を突破するのはそれから七年後の三九年、三〇〇〇人突破は四七年である。

昭和三七年四月に漸く立野小学校の創立を見た程で、千川上水に近い北部は広い畑の中に屋敷森がぽつぽつ見えるだけであった。

昭和二九年、立野町第二都営住宅一八戸ができている。中央大学の野球場(昭和一〇年四月より、五五九三㎡)、法政一高のグランド(昭和二六年より、約一万㎡)、国際電信電話の武蔵野寮、武田薬品の立野荘、関東石油の武蔵野桃山寮等の宿舎が散在する。商店会は南住宅地帯の中に、立野町商店会がある。

関町地区(一丁目―四丁目)

面積 〇・九八八km2
人口 一万六三六八人(密度 一万六五六七人)

石神井台、上石神井の西の地区にあたり、西北は関町北地区になっている。住居表示が行なわれていないため、非常に屈曲の多い境をもっている。明治一一年の郡区町村編制法当時の竹下新田、関村の内地蔵裏、三ツ塚にあたる。明治二二年の町村制施行の時は石神井村大字関甲および乙と言われたが、昭和七年板橋区になると石神井関町一、二丁目となっている(二丁目は半部分)。この地区は住宅地化が遅れていたが新青梅街道の周辺にあたり、近年の開発はめざましい。

関町一丁目は南東に突出した部分で、杉並区の善福寺池をとりまく一帯の外周になっている。竹下新田と言われた所で、天明四年(一七八四)竹下忠左エ門によって開墾された所という。新田村の鎮守は弁天社(長命寺持)、大学院(修験道)であったが、今はない。

南に関町一丁目アパート(昭和五一年、鉄筋三階、六三戸)、都営関町一丁目住宅(昭和二四年、一二戸)があり、その北に都営第三関町一丁目住宅(昭和三一年、四二戸)がある住宅地である。この中に旧地名をとった竹下公園がある。千川上水に近い北の部分には関町球場、ゴルフセンター、駐車場や畑地も見えてくる。東京三育小学校は昭和二四年四月、杉並区に設立され、昭和三〇年移転して来たキリスト精神による知徳体の三育教育の学校であり、千葉県にある中学校、高校、短大へとつながっている。

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東端に東京精神医学研究所、青葉病院(昭和二八年創立)があり北に田中商事株式会社がある。商店会には、関一商興会がある。

この西北が関町二、三、四丁目になっている。

武蔵関の東方一帯は二丁目で、上石神井地区で述べた通り、キリスト教関係の学校、教会、修道院が多い。昭和四年番町から東京カトリック神学校(日本中央大神学校)が移転してきているが、当時は麦畑の中に白亜の校舎、高い教会の建つ風景が西欧を思わせ、文化住宅地のイメージを与えたものである。現在は駅に近い関係もあり住宅地として空閑地もないが、西武新宿線の南に真宗法融寺がある。旗本近藤政信の三男玄正が正保三年(一六四六)創立した寺で、その後江戸の大火や大正一二年(一九二三)の大震災にあい、更に昭和二〇年の東京大空襲にあい浅草本願寺内から、ここ関町に移転した寺である。この墓地に歌人会津八一の墓と歌碑がある。警視庁公舎三棟もあるが、南青梅街道の付近には芝生等も見えている。都営住宅には二六年関町住宅(五〇戸)、二七年関町二丁目第二住宅(二〇戸)、第三住宅(二四戸)があり、商店会には武蔵関末広会がある。三、四丁目は青梅街道の南、千川上水までの区域で、まだ若干の空地が見られる。

千川上水の北側には東から石神井西中学校、慈雲堂病院、武蔵野グリーンタウンマンション六棟、国際電信電話(株)研修所、日本電信電話公社関町アパート二棟、同じく関町職員宿舎一〇棟、都営関町北裏住宅(昭和三〇年、二四戸)、同第二住宅(昭和三一年、八戸)、関町四丁目第六住宅(昭和三一年、五二戸)、第七住宅(昭和三二年、一六戸)等があって、一大住宅地になっている。

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商店街には、関町商店会がある。

関町北地区(一丁目―五丁目)昭和五三年一月一日住居表示実施

面積 一・五八四km2
人口 一万三八一一人
(密度 八七一九人)

青梅街道から富士街道に至る一帯の地区であるが中心は武蔵関駅である。駅の北に石神井川が流れ、駅入口が南にある関係から、南口を中心に発展してきている。

武蔵関駅の開駅は、昭和二年三月で、昭和一一年六月一日、この南一帯の土地改良が行なわれている。この時、土地改良の是非について南北ではげしく争ったという話が残って

いる。昭和八年、武蔵野郷土向上会発行の石神井名所案内には「南丘の続く限り区画整然と碁盤の目なりに道路網が青梅街道まで張らる。昭和三年より八万円の巨費を投じて完成された石神井区画整理組合の分譲地域である。関町一、二、三丁目に渉り二〇万坪(六六万㎡)、西武電車の無賃乗車の特典年賦の便あり」と記している。

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石神井川の低地の整理は昭和二一年から三〇年の間に石神井川耕地整理組合によって、富士見池まで行なわれたが、その低地に住宅ができると、豪雨の時に一時に増水して、下流への水はけが悪く、水害を起こした事が多かった。

南、青梅街道は江戸時代より青梅の石灰を江戸へ運ぶ道として、また、武州御嶽信仰の道として人馬の往来も多く、宿駅に近い様相であったが、中央線、西武新宿線の開通によってその中間にあるこの地区は自動車の発達まで一寸さびれたが、明治初年からしばらくは乗合馬車が新宿から田無まで走り、また、歩くことを労としなかった時代でもあったので、目立つ程ではなかった。大正七、八年(一九一八―九)の頃を記録した田中亮一氏の調査には街道筋の家数六六で、商家に足袋屋、鳥屋、ろくろ屋、桶屋、くつわ屋、籾糠もみぬか屋、染物屋、魚屋、たばこや、車や、馬方、時計屋、油屋、炭屋、ほうき屋、団子屋、とび職、小間家、棒屋、草履ぞうり屋、米屋、木挽こびき、酒屋、養蚕等がある。

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  青梅街道の軽便鉄道

大正三年(一九一四)の頃、荻窪から青梅街道に西武軌道という軽便鉄道が敷かれた。関町の中途まで敷いて、車も通らないうちに、中止となり、レールも撤去された。枕木はそのまま埋めてしまったので、青梅街道に下水道の工事等をする時支障となったが、邪魔になる枕木の一部を切り落して工事をしたと古老は伝えている。工事の中止は第一次世界大戦の勃発によるのではなかろうか。

地区の東南隅、青梅街道に面して区立石神井西小学校がある。明治七年(一八七四)五月、豊島学校の分校として開設、九

年からは関町二丁目の最勝寺の所を校舎として独立、旧名称の豊関小学校となり明治一三年(一八八〇)に現在地に移転した古い学校である。

武蔵関駅前は商店街を形成して、北海道拓殖銀行、三井銀行、大生相互銀行等金融機関の各支店があり、武蔵関本通り商店会、同駅前通り商店会、武蔵関バス通り商店会、武蔵関商栄会があり、都営住宅も西武新宿線の南に七か所もあり、二七年の建設から五一年の関町北三丁目アパート(鉄筋三階六三戸)までその数が多い。駅の西に富士見池を中心とする区立武蔵関公園がある。古来溜井と言い石神井川の水源にあたる。昭和一三年都立として開園され、昭和五〇年区に移管された公園で広さ四万六〇〇〇㎡、水不足を補うため千川の水をひいた事がある。現在天祖神社に合祀されている弁天社は、この付近が水害になやむ時、御勘定武島菅右エ門が巡見して、己の尊敬する弁天社を溜井のふちにまつって祈った所その難を逃れることができたと言われる弁天社である。この池の東南、都営住宅の改築にあたり古代遺跡の発掘が、昭和五五年度に行なわれている(溜淵遺跡)。その東の天祖神社はもと、本立寺の三十番神社であったが明治維新後分離して、村社となり、竹下新田鎮守の厳島神社(弁天社)、若宮八幡を合祀している。八幡は武蔵国関塞守護神という。その東に井口稲荷がある。

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この付近の古地名は小額こびたい、地蔵裏、葛原、宮地、関山、上竹下、溜淵である。石神井川にかかる橋に長者橋があるが、「朝日、夕日が長者」の伝説によった名であろう。

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  関のかんかん地蔵

石神井西小学校より東約二〇〇mの街道ぞいにたたけばかんかんという石地蔵があり、新編武蔵風土記稿にものる有名な石仏である。寛永・正保の頃の造立と思われる。

西武新宿線の北は四、五丁目で、新青梅街道が、その境として東西に走っている。大関、小関、川北、葛原、溜淵の一部にあたる。

本立寺は駅の西北台地上にあり、江戸初期三浦氏の一族井口忠兵衛の開基、日誉上人の開山と伝える。この付近の日蓮宗の中心である。本尊は出世開運の旭日蓮大菩薩、また一二月九日のお会式、ぼろ市は有名である。

この西に私立東京女子学院高校がある。昭和一一年、芙蓉女学校として発足、その後高等女学校となり、昭和二四年現校舎となっている。昭和四八年に新校舎と共に建設した温水プールが有名である。

その西北、都立石神井高等学校は昭和一五年四月一日、府立一四中として発足、二三年より現校名となっている(校地面積三万二四七八㎡)。新青梅街道に近く閻魔堂墓地と関中学校がある。墓地には筆子塚が残っている。富士街道沿いに早実グランドがある。昭和一一年一〇月より使用を開始した二万三〇〇〇㎡の広さをもつ野球場と合宿所があり、幾多の名選手がここから育っている。

都営住宅は関町五丁目第三住宅(昭和二八年、九戸)、第四住宅(昭和二八年、一二戸)、六丁目第五住宅(昭和二九年、三二戸)、六丁目第六住宅(昭和三〇年、二八戸)、第七住宅・第八住宅(昭和三一年、計四一戸)があり、関町二丁目につづいてキリスト教関係のコンベンツァル聖フランシスコ関町修道院もある。

商店会には武蔵関北商工会、北口商店街、北大通り商店街がある。

大泉町地区(一丁目―六丁目)旧北大泉町

面積 一・九三三km2
人口 一万八九七一人(密度 九八一四人)

昭和五五年一月一日北大泉地区に住居表示が行なわれ、大泉町一丁目から六丁目までとなった。その際上土支田の三丁目、下屋敷の一部即ち東大泉町の一部が道路の関係でこの地区に入り、大泉学園町および東大泉町との間にも道路および白子川の関係でこの地区から分れた所がある。

現在北大泉町という旧名で残されている所が、〇・一六五km2残っているが将来大泉学園町と共に住居表示の行なわれる地域である。ここの人口は昭和五五年一月で一七四七人、密度は一万〇五八八人である。

新編武蔵風土記稿によればこの橋戸村は新倉郷広沢庄に属し、天正一九年(一五九一)、一五〇石を伊賀組に賜わり、その余を代官支配としたが、田園簿には伊賀組給地二六一石、天領二七石計二八八石余りと記されている。小字名は富士下、中里、越後山、八ヶ谷戸、愛宕下、中耕、北原、広沢原、中丸、宮久保、谷、前田、外山、打越、影山それに小榑飛地である。明治二二年五月(一八八九)小榑、橋戸村が合併して新座郡榑橋村となり、二四年六月東京府に編入上土支田を併せて北豊島郡大泉村となり、昭和七年一〇月板橋区北大泉町となって区独立後もそのままであった。

この地はよく「忍者の里」といわれるが、本能寺の変の折、泉州堺に居た徳川家康が明智光秀の探索を逃れて三河に帰る途中の嚮導警護の役を買った伊賀の忍者服部半蔵以下の功を賞して、三河を指呼の間に望む伊勢白子ケ浜にたどりついた喜びをそのままに、白子にちなんで上白子の地を与えたのがこの地であったと伝えられている。白子川の支谷が入りこみ地形が複雑で、いかにも忍者の里にふさわしいが、橋戸八軒と言われ、この八軒が八戸即ち橋戸の地名のおこりとも言われている。こうした地形の中に戦国の落武者や周囲の村々から入植者が入ったのであろう。児玉党の荘氏も比企郡方面からこの地に来て有力者(名主)になっている。その由来は氷川神社の境内に石碑として残されている。

教学院は真言宗で鎌倉時代の文永年間(一二六四―七五)開山され、正平九年(一三五四)武蔵野合戦後、荘弘寿、弘朝父子が土着して有力な檀徒となり、現在も壮大な墓所がある。有名な人頭石塔があり、豊島八十八ケ所四六番の札所である。維新前までこの東に愛宕山真福寺があったが、今はない(愛宕社は弁天池と共に氷川神社にうつされている)。

氷川神社は、荘氏の先祖が守護神として宅地内にまつったと言われ、在五中将在原業平をまつると言われるが、祭神は素盞鳴尊に愛宕、稲荷、富士の神々である。境内に真福寺から移された弁天池、庄氏の由緒碑、嘉永二年(一八四九)伊賀忍者一〇八人が再建したという稲荷社(水舎にその旨を刻る)等がある。東方富士下の地にある八坂神社は「天王さま」と言われ、その氏子は神紋に似ている“胡瓜”を食わないという。稲荷、浅間、御嶽の小祠もあるが、中里富士と言われる人造富士は雄大である。登山口にある道祖神の石碑は区内唯一のものである。

別荘橋の南に「清水山憩いの森」があるが、この雑木林は、春四月カタクリの花の満開でおおわれ、新しい練馬の名所となっている。ここにはこれを守る人々の苦労があるからである。また、この一隅に行人塚があって、入定成仏の伝説を残している。また、この西に動物墓地の西信寺別院がある。浄土宗の寺であるが、明治四一年(一九〇八)大塚に動物愛護供養会ができ、昭和四年にここに大泉霊園として発足したもので、多くのペット諸君が眠っている。

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大泉第一小学校は大泉村誕生のあと、その時の約束でもあるかの如く明治三〇年(一八九七)に橋戸分校として複式二学級で発足、そのまま昭和二一年一二月までつづいて、そこで独立という分校としては長い歴史をもっている。そのことはこの地区の人口が長い間増加しなかったからで、昭和一二年の人口六一六人、二五年には八九〇人。三五年、一四五八人、四五年一万二九三二人。そして五五年には二万人に達している。従って学校も、大泉北小学校(昭和四九年四月)、大泉北中学校(昭和五三年四月開校)、それに土支田境に八坂小学校、中学校が昭和四六、七年に出来、橋戸小学校も昭和五二年に開校した。大泉第一小学校校内にある「尾張殿御鷹場是より南北」というお鷹場の碑は、以前大泉学園町の北端にあったものを、士官学校設立の際ここへ移されたものといい、おそらく上白子村七本、小榑村六本のうちの一であろうと思われる。

都立大泉北高等学校は第三学区の高校進学希望者の急増対策として、昭和五三年にできた学校である。

関越自動車道(昭和四六年一二月二〇日開通、幅員三五m)と放射七号線(昭和四一年四月工事告示。昭和五二年度大泉農協まで開通)はこの地区の南部を横断して建設され、静かなこの地区も交通が便となり、同時にまた公害の声を聞くことも多くなった。しかしまだ緑地は多く芝生、造園、ゴルフ場も多く、五三年の緑被率表にもこの地区は、四〇%以上とある。第一小学

校の北には牛舎もある。

交通の便が悪かったため都営住宅に適さず昭和二三年の北大泉住宅一二戸だけである。しかし、陽和病院や全薬工業大泉工場も出来、東京木材センター、都民自動車練習所、区立北大泉野球場(昭和五二年)等もあって、これからの発展はめざましいと思われる。

商店街は北大泉商栄会、みすず商店街とあるが、集中的なものではない。

東大泉地区(一丁目―七丁目 五五年八月一日、住居表示実施)

面積 二・五六五km2
人口 二万七八一七人(密度 一万〇八四五人)

この地区は江戸時代豊島郡土支田村上組と称した所で、明治二年(一八六九)一月には品川県上土支田村となり、明治四年(一八七一)東京府に編入、第八大区第八小区時代を経て明治一一年(一八七八)七月郡区町村編制法により、北豊島郡上土支田村となった。明治二二年(一八八九)の市制町村制施行により石神井村に合併、同二四年六月榑橋村が大泉村となるや、その地区内に入って、大泉村大字上土支田となる。以後東京市編入の昭和七年には板橋区東大泉町となり、練馬区独立時にもその地区を引きついだ。五五年八月住居表示の実施により、そのまま東大泉町一丁目~七丁目となった(北大泉町と上石神井二丁目の一部をふくむ)。

大泉村は小榑、橋戸両村の合併した榑橋村と上土支田村の併合によって生まれたのであるが、大泉の地名の元になった泉(最初小学校は明治二五年に創立され、大正四年まで泉小学校と称した)は、この地区の南、現在の大泉井頭公園内にあった弁天池の泉から出たもので、旧三村が何れもこの泉から流れ出る白子川(小井戸川ともいう)の恩恵に預っていたという事で一致した村名であった。初め小榑の小をとって小泉とし、オイズミと読ませるべく府に届けた所、誤りやすいから大泉にしたらということで出来た村名であると言われる。

この地区の小字は三丁目、下屋敷、外山、久保、中村、宮本、前原、井頭で、井頭には大泉弁天池(井頭池、井頭溜とも言う)と

呼ばれる二〇〇〇坪(六六〇〇㎡)にも及ぶ池があり、豊かな泉であったので、村名にとられたのであるが、その後湧水が少なくなり、遂に一条の暗渠を通せば足りる状態となった。今はないが、ここの弁天はよく焼けたので焼け弁天と言われ、今この川にかかる橋を名づけて火之橋という。現在は大泉井頭公園となっている。四〇年四月一日都立として開園、四八年一月一七日区に移管された。

地区の最南端に旭出学園がある。昭和二五年精神薄弱児のための学園として豊島区目白の徳川邸に開園された。その後、練馬区早宮一丁目の地にうつり、更に東大泉の銀行の土地と交換して三〇〇〇坪(約一万㎡)の土地を得て、三九年九月全学園の移動を終る。社会福祉法人大泉旭出学園、学校法人旭出養護学校(小学部、中学部、高等部)寄宿舎、旭出生産福祉園と「生活することのできる人」を目ざし、障害をこえた教育、職業指導を行なっている。

その北に大泉南小学校(昭和三四年創立)、大泉第二中学校(昭和三二年創立)、学芸大学大泉分校付属中学校(昭和二二年四月開校)、同付属小学校(昭和一三年九月開校)と学校がつづく。この学校は昭和一三年に大泉師範学校(一万二〇〇〇坪)として発足、東京第三師範学校となって、学芸大学に統合され、付属小、中学校のみとなったのである。更にその東に都立大泉高等学校が昭和一六年四月一日開校(当初府立二〇中)されて、学園都市は南に移った感がある、世界的な植物学者牧野富太郎博士の旧宅とその庭園、植物が、昭和三三年一二月一日一般に開放され、牧野記念庭園となって、この北にあり、訪れる人も多い。

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この付近は温室による花卉栽培が盛んで植木、芝生も多い。バナナ工場、洋蘭栽培、牛舎等もあり、近代経営の先端を行なった様子を見ることができる。事実町田彦太郎氏は大正六年(一九一七)七〇頭の乳牛を導入して、羅浮園と名づけ加工販

売も行なっていた。昭和二二年モヤシ業になり、昭和三八年にはバナナ加工業になっている。以上は「大泉今昔物語」によるが、次々と変る時代の要求をつかむことが出来る。自動車教習所も出来、逐次住宅地化がすすみ、東京学芸大学大泉公務員宿舎一一棟および大泉学寮を始め、多くの集団住宅ができた。

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とその数も多い。

井頭公園の東北(東大泉町一四五)、現在は住宅がならんでいるが、昭和一〇年の頃には満州開拓の志に燃える若人の養成を目的とした労働訓練所、更に満蒙開拓者の花嫁を養成する目的の花嫁学校があった。そしてここから勇んで大陸に渡った青年男女がいたわけである。

悲惨な敗戦の後には母子寮となって、浮浪の戦災犠牲者が五〇〇人も入って農業や工場の手伝い等をしていた。現在は世田谷に移っているとのことである。

大泉学園駅の南口の開設は、北口よりおくれ、昭和一三年大泉師範誘致の決定を見てからである。師範誘致の運動は功を奏して、生徒の出入が始まるわけであるが、既に新興キ

ネマが仕事を始めており、その俳優と乗降駅が同じでは風紀上よろしくないとの事で学校創立に反対のむきもあったので、改札を分けることで了解されたといわれ、駅および駅前広場の一〇〇坪(三三〇㎡)は地主の寄付によったという。

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  大泉の映画館

人口の増加著しい大泉にも映画館が生まれた。清戸道に沿って東に大泉名画座(昭和二五年)、西、大泉小学校の南に八光座(昭和三一年)ができたが、やがてテレビ等の影響でなくなった。

そうしたことから、商店街の形成もおくれている。井の頭通り商店会、学芸大前通り商店会、富士見通り商店会がある。

大泉学園駅は東大泉駅として、大正一三年(一九二四)一一月に開駅、昭和八年三月一日に現駅名となった。鉄道開通の頃、駅が置かれなかったため開発がおくれた。昭和一一年、大泉学園町の地に一七万㎡の山林の住宅地化の計画が進み、住宅地の分譲が行なわれ、明治大学や商科大学誘致の話や、そのため、支線を大泉学園町までつくる話等も出たが、当時まだ交通が不便で、駅からは乗合馬車が通る位であったから、その住宅地化は進まず戦後までもちこされた。

その後の北口の発展は目ざましい。昭和一六年、朝霞に陸軍士官学校ができ、その表口として大泉学園駅より東北にのびる道路ができると、駅近くに商店街がつくられ、戦後は都営住宅、分譲住宅等の建設が盛んで、駅の一日平均乗降客数は、昭和三一年の一万八二二一人に対して昭和四〇年には五万九六二四人に達している。これは練馬駅の四万九二三一人より一万人も多い。

しかし白子川の北方、大泉学園町までは距離もあって交通の点から住宅地化は進まず、工場や集団住宅も東大泉の地区内にできる程度であった。昭和一八年一二月のタムラ製作所(通信装置製造)や、昭和二六年四月の東映株式会社東京撮影所等は、そのさきがけをなしたものと言ってよい。その南に昭和三二年新宿から移って来た東映動画スタジオはテレビ等の全盛時代に入って、その需要はますます高い。また、テレビ劇画製作の東映製作所も昭和四二年にできている。

撚糸工場も明治の中頃から発展し、大正六年(一九一七)に電燈が入って、昭和二、三年頃には動力が入り、石神井電話局

から電話もひけた。大正一三年(一九二四)には、加藤仙右エ門を組合長とする撚糸組合が出来た。殆ど農家の兼業で昭和三三年には七工場(区全体で一九)となっている。工場法が出来、監督が厳しくなると経費がかさみ、苦境に陥り廃業も出て来たが、昭和一〇年組合は共同調理場をつくり、栄養食の給食を始めたが、三年位でやめたという。一〇年頃また盛んとなり一八年物資統制でまた不振となり、戦争末期に入った。現在操業中のものは二工場である。また忠勇株式会社東京食品工場のように沢庵漬盛んな時代の名残と考えられるものもある。

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  東映撮影所

昭和九年秋より買収がすすみ、新興キネマができたが、やがて軍需工場に買収されて航空機部品をつくった。そして空襲もはげしくなり昭和二〇年には焼失した。終戦後、貸しスタジオとして発足し、昭和二六年東映東京撮影所となった。何回か火災を起している。昭和五六年三月「二百三高地」で日本映画優秀賞が授与された。

都営住宅は次のようである。

東大泉第三住宅  昭和二四年  三五戸

 〃 第四〃   〃 二四年  二四戸

 〃 第六〃   〃 二五年  三一戸

 〃 第七〃   〃 二五年  一八戸

 〃 第一〇〃  〃 二八年  一八戸

 〃 第一二〃  〃 二九年  二二戸

 〃 第一四〃  〃 三一年  五二戸

 〃 第一五〃  〃 三一年  七八戸

 〃 第一六〃  〃 三一年  五八戸

それに鉄筋四、五階の母子アパート(昭三七、三九戸)、民生アパート(昭三七、一二六戸)、東大泉アパート(昭三七―四三、二二

六戸、一四棟)が地区の北部白子川の低地にできて、この頃から、大泉の発展は目ざましい。この南に湧泉地があって弁天をまつる弁天池となり、東大泉弁天池公園が昭和五三年一一月から開園している。

昭和一二年の東大泉の人口は、一九七五人であるが、二五年には五九三九人、三二年には一万二一一九人、三五年一万七二〇四人、四〇年二万六七〇一人、四五年三万二三六三人、と一〇年毎にほぼ一万人ずつ増加している。最近は世帯がふえて人口が減少している傾向であるが、全体として西武線の南部に若干の空地、畑地が見える程度である。

駅を中心として東西南北にのびる道路は駅のためその連絡が十分とは言えないが商店が多く、金融機関も多くなっている。代表的なものとして、北側に都民銀行、大泉農協(昭和二三年)、富士銀行、共栄信用金庫(昭和三二年)、三井銀行、三和銀行、日本生命、西友ストアー、丸井林店等、商店街には駅前の仲町銀座商店街をはじめ東大泉商栄会、東映近道通り商店会、共栄商店会、七店会等があって盛況である。こうしたにぎやかな町並の中に、古い北野神社(妙延寺の三十番神、江戸時代番神さまという)、妙延寺(慶長の頃、加藤氏の先祖によって開かれた日蓮宗のお寺)、があり、大泉小学校もまた古い学校である。明治二五年(一八九二)五月開校の泉小学校は、明治五年(一八七二)の学制公布以来、橋戸小学校、小榑小学校、豊西小学校、小保戸小学校、榑橋小学校等次々と各地にできた学校が村の統合によって大泉村になると、学校もまた統合されるに至った。初め泉小学校と言っていたが、大正四年(一九一五)村名と同じ名をつけることになったのである。

大泉中学校は昭和二二年五月、六・三制の発足によってできた区立中学校で、最初は大泉第一中学校といい大泉小学校内にできた学校で、その後二三年一〇月第二中学校を併せて現在地に大泉中学校として独立校舎をもつことになったのである。大泉東小学校は昭和三一年地区の児童数増加によって生れた。

南大泉町地区(南大泉一丁目―五丁目

五六年八月以降、住居表示実施予定) 面積 一・六四二km2
人口 一万七八一八人(密度 一万〇八五一人

旧小榑村の南部にあたり、小字は西原、片町、大前新田、東原、前新田、南溜上、中前新田、水溜、西中前新田、経塚、

東中前新田、北溜上、南上手、東上手、西上手、榎戸という地域である。明治二二年(一八八九)五月埼玉県新座郡榑橋村大字小榑となり、明治二四年(一八九一)六月東京府北豊島郡大泉村となった。その後は昭和七年に板橋区南大泉町、昭和二二年八月一日練馬区となる。

南は富士街道、東、白子川、北は妙福寺裏までの地域で、北部を西武池袋線が横断している。駅は大正四年(一九一五)四月一五日開かれた保谷駅の方が近い。

この南大泉町は旧小榑村の面積六・五七五km2の中、その四分の一にあたるが、その三分の一が西大泉と共に竜ケ崎米津領であった。他は天領である。米津領はその後竜ケ崎の飛地として明治四年(一八七一)一一月までつづくことになる。その後は天領と共に入間県新座郡の小榑村である。

地区の南部、富士街道沿いはまだ緑地の中に住宅群が点在する状態で、都営住宅も昭和二七年の南大泉住宅六戸のみである。人口も昭和三二年二二四五人が九年目の昭和四一年に一万〇八一九人と一万を突破し、その後一〇年の五一年には一万七一一五人で、稍々頭打ちである。その中に三菱商事南大泉社宅二棟、渡辺自動車研修所、石泉スポーツセンターグラウンド、また農家の副業として始めた高橋撚糸工場(大正一四年二月創業)、高橋製糸工場(昭和二〇年創業)がある。畑の中には温室等、近郊農村らしい風景が目立っている。大泉第二小学校は大正元年(一九一二)の分校であるが独立は昭和一八年である。

清戸道は大泉小学校の所から北へまがるが、目白通りはそのまま西へ、途中西武池袋線をこえて保谷駅(大正四年四月一五日開駅)の南口に向かう。駅の手前一〇〇mまで練馬区である。東大泉駅の開駅がおそかったため、保谷への依存度は高かったが、その頃までの住宅地化は遅々として進まなかった。尚、保谷駅付近には三菱銀行保谷支店が区内にあり、武蔵野信用組合支店、私立保谷幼稚園も区内である。駅前には商愛会という商店街がある。区の分譲住宅一二戸は昭和三一年のものである。

白子川川西の台地上を南に通ずる所にいずみストアー商店会がある。白子川の火之橋、松殿橋はそれぞれ伝説のある橋名である。

線路の北ではすぐ妙福寺が目につく。白子川の西岸に幼稚園を経営する寺で、仁王門、本堂、祖師堂、三十番神堂、鬼子母神堂、からかさ造りを残している庫裡等有名である。弘安五年(一二八二)中山法華経寺の日高聖人によって開かれたと言われるが、その後住職もなかったのを日祐上人の頃、天台宗修験大覚寺の日延上人の帰依があって日蓮宗となったという。日延全身不散塚はその旧跡にある。前述(四二三ページ)の私年号の福徳の板碑(月待供養)が保存されている。お会式が盛んに行なわれ、参詣の万灯の数も多い。

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この西北には昭和四五年六月開校の大泉第六小学校や西大泉境に区立大泉交通公園、保谷境の商泉会(商店街)がある。交通公園は五二年一月一日開園された公園で八一三二㎡、遊び場があり児童用乗物、例えば自転車やゴーカートが多数が配置されている。

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西大泉町地区(一丁目―六丁目

五六年度住居表示実施予定) 面積 一・九五〇km2
人口 一万九七七一人(密度 一万〇一三九人

旧小榑村の中島前、唐沢前、荒井前、荒井後原、野寺上、西小作、久保前、久保新田、久保後、少納言久保西、達出し、北堤、東堤、登戸、丸山、下道、水入久保上、唐沢、水入久保、中島後、中島、下経塚の地域で、元禄一六年(一七〇三)米

津政矩がこの地を領してから、明治四年(一八七一)廃藩置県までつづく。米津氏は武蔵久喜の藩主で一万一〇〇〇石、その中にここの七〇〇石ばかりが含まれる。その後出羽長瀞一万五〇〇〇石(寛政一〇年)、常陸龍ケ崎藩(明治三年二月)と移ったが、ここの所領も変らず、旧高旧領取調帳には小榑村郡代松村忠四郎支配所七三〇・五六六石、竜ケ崎藩領分七三一・六五五石となっている。

昭和七年一〇月一日東京市編入の際西大泉町となり、区独立後もそのままであった。

この地区の真中を清戸三宿に向かって清戸道が走り、四面塔稲荷から下清戸、上清戸行きに分かれ、やがて中清戸行きに分かれる。江戸に向かう農民の姿が見られたが、大正七年(一九一八)の交通量の調査でも、一時間平均二八九人、荷車一〇六、荷馬車二三、人力車九、自転車五八となっている。

本照寺は天正一八年(一五九〇)の日勇上人の開基とされ、中山の隠居寺であるという。天正一〇年(一五八二)の日蓮顕目板碑は区内出土では一番新しい。「神泉絵馬の会」の中心となって、絵馬の創作が行なわれ、また、絵馬の蒐集も行なっている。

この北にある諏訪神社は小榑の鎮守であった神社で、明治以前には「三十番神」と呼ばれていた。また、稲荷神社もあって、狐の大根とり入れの絵馬が有名である。

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大泉西中学校の北に本区で一番高い五〇・七mの三角点がある。

大乗院は地区の西にあって、新井山と号する。二百年程前には円福寺といっていたが、十三世日進上人の法号をとったものと言われる。妙福寺の末寺頭として、久世大和守の祈願所となっていた。帝釈天、鬼子母神堂もあって、信者の尊崇があつい。この北方の都立練馬厚生園は昭和四五年六月一六日に開園された身体障害者の更生援護施設である。大泉第四小学校は昭和四二年四月開校、大泉西中学校は四八年四月、大泉西小学校は四九年四月開校で、四〇年代以後の急激な発展を見ることができる。四面塔稲荷は円福寺(現大乗院)持とされ、堤四

〇戸持であった。明治の寺社統合の際、統合に反対した堤の氏子によって守護されている。四面塔と言われる題目碑のある所から名づけられている。

商店会は各所に散在する住宅集団の中にある。むさしの商店会は、西北に、その南大乗院付近にいづみ商店会、本照寺付近に西大泉商交会がある。

この地区に古文書以外特にそれを物語るものはないが、欠所事件という農民一揆があった。小大名である米津の台所も他と同様苦しかったので、領地の農民に御用金を課していたが、天保三年(一八三二)にまたまた御用金の命があったので、妙福寺の南にあった本応院に集まって領主の要求を拒んだ。要求とは領主が、芝増上寺から借金した時、この村の全員で保証する事になり百姓代半之亟が保証印を押していたが、その証文の書きかえに対して、また保証印をつかせようとしたのを拒み、他の農民が応援したわけである。米津伊勢守怒って、半之亟らの農民を諸法度違反のかどで、謹慎、欠所所払の重罰にした。土地家屋を取上げられ、他国に追放されたわけであり、遂に他国に死した者も出て来た。大乗院の滝島家の墓に「若クシテ農民ノ為ニ尽クシ身ヲ犠牲ニシテ」の一文がある。

飛地問題は、明治以後各地にあったが、昭和に入って交換も行なわれ略々解決した。しかし現在になってもなお解決しない場所が、西大泉の西北にある。西大泉町一一七九番地、一八六〇㎡の土地である。周囲は埼玉県新座市、片山二丁目で、九戸建てられている。住民登録は西大泉に登録されているが、住宅の大部分は新座市の土地に建てられ、練馬分は庭である。水道も新座の水道を使っている。区は住宅が区の飛地内にないことを理由に片山市への登録換えをしようとしたが、学校その他の関係から、既得権を主張して譲らず、一部については未解決のままであると言われている。行政の一方的な措置が出来ない所に問題が残るわけである。

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大泉学園町地区

面積 二・九八三km2
人口 二万五〇五二人(密度 八三九八人)

大泉学園の名は昭和の初め、地区の北部雨沼久保、少納言久保、御朱印前、山守山、西上の地にあった妙福寺山林約五町歩(五万㎡)を大泉風致協会(会長 前田米蔵)と東京市農会(会長 牛塚虎太郎)が一〇年の契約で借地とし、野遊地および市民農園とした事から始まる。この契約は昭和九年二月になされている。そして風致協会は更にこの付近の荒地を開墾した一〇町歩(一〇万㎡)を甘藷栽培地とし、毎年秋には旧市内の学校、幼稚園、住民等を誘致して訓練競技や芋掘り等を行ない、また、西武池袋線(当時武蔵野線)がこの地を学園都市として開発しようとしたことから、昭和八年三月一日まず駅名を東大泉から大泉学園と名づけた。

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この野遊地の名残りに昭和四九年六月開園の大泉公園(一万二四九五㎡)がある。

大正一三年(一九二四)九月、箱根土地会社の堤康次郎社長による開発が行なわれ、その面積五二万七〇〇〇坪(約一七三万㎡)、一ツ橋商科大学や明治大学誘致の運動等を行ない、鉄道の支線建設の案もでたという。

まだ、当時は交通が不便で、田舎のほこり道を馬車やバスにゆられての往復は敬遠されるばかりであった。会社で建設したモダンな洋館三〇戸ばかりも松林の中に淋しく立つという状態で、戦時中は食糧増産のため開墾され、戦後は小作地として自作農創設に一役買うことになった。

大泉学園町は旧小榑村の北半を占め、南部の本村、畑中、栗林あたりが米津領で他は

天領である。明治二四年(一八九一)上新倉村の長久保(昭和四年、長久保の氏神として、氷川神社をまつっている)が加わり、大泉村となっている。雨沼久保は名の通り湿地帯でトンボ、水すましの生息地であったが、ここもやがて農地となり、隣接の箱根土地会社の影響をうけ住宅地化も早かった。

昭和二二年の人口は三六九世帯、一六三八人であったが、昭和四〇年には一万二〇〇〇人に達し、現在二万五〇〇〇人である。

昭和一六年、士官学校が朝霞にできるやその表口として、大泉学園の駅からの道路には将校の乗馬姿が見られ、将校宿舎もできた。

士官学校は終戦後キャンプ・ドレイクとして、駐留軍が入り、更に自衛隊に引きつがれるが、駅よりこの地に向う道は更に東京オリンピックの射撃競技場となった朝霞への道として使われている。関越自動車道が、昭和四六年一二月にできてこの地区の発展は新しい段階を迎えたことになる。

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地区の南に善行院と法性院の二寺がある。何れも日蓮宗の寺院でこの土地の加藤氏により建てられ、三〇〇年以前の寺である。現在は鉄筋コンクリートに建てかえられている。

大泉農協本店も将来の発展を考え、現東大泉支店から現在地に移り、昭和四〇年一一月移転している。

吉井式和裁早縫学校は昭和二九年四月一日各種学校として認可され、昭和五一年四月一日専門学校となっている。高等学校卒業生の入学で短大相当と認められ、研究科、師範科に専攻科、研究室とあり在校生一五〇名余り、地方分校四〇〇という。従って卒業生も万を数える程との事である。

区立大泉図書館はその西方にあって、昭和五五年二月に開館され、大泉第三小学校は大正七年(一八九一)分校、昭和一九年四月独立と、地区の発展の遅々としていたことを証明している。

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  村役場その後 5

 

大泉村役場

 場所、練馬区大泉学園町二三三九番地

    (旧大泉村大字橋戸二三三九)

明治三〇年、村役場が生れ、昭和七年一〇月までつづく。その後村役場の建物には、明治三二年一月に生れた大泉村農会が、市農会大泉派出所となって、ここにうつり大正一〇年四月その隣りに設立された大泉村信用購買組合と共に昭和一八年七月大泉農会となって大泉学園駅の北(現大泉農協東大泉支店)にうつるまで使用された。

その後昭和二三年よりは特に使用されなかったが、昭和三〇年区土木資材置場、失対詰所となり、四四年八月一二月、区労協事務所となって、五三年一二月までつづき五四年取りこわしとなった。

昭和四七年敷地の一部が、大泉中島児童公園となり、建物取りこわし後は全域公園となる。

現在地には大泉村役場建築記念碑(大正一一年一一月三〇日)、大泉村役場跡碑(一九七〇年)、平和記念之碑(昭和四六年)が建っている。

地区の西南端、中島橋の北に中島児童遊園があり、入口に大泉村役場建設記念碑があって村の中心であったことを物語る。

関越自動車道の下をくぐると、発展著しい北部地区に入る。まず大泉学園中学校は昭和三七年四月に、大泉学園小学校は昭和四三年四月に大泉学園緑小学校は五三年四月に開校している。

学園都市の中に入ると道はやや狭いけれども碁盤の目のように縦横につくられた街路は緑の多い住宅と共に別天地のようである。

この中は個人住宅が多いが、地方史および伝記社誌類の蒐集五万冊という伊藤文庫や、天理教都大教会(明治三三年設立、昭和三一年一〇月七日移転)、宗教法人湯殿山本部、大泉病院、自衛隊宿舎等がある。また、都婦人保護施設いずみ寮は昭和三一年売春防止法の成立により、都においても婦人保護施設の建設を進めていたので、社会福祉法人デテスダ奉仕女・母の家では昭和三三年この地に施設をつくり、プロテスタントとして献身する奉仕女によってその仕事を継続している。設立者は、深津文雄で「館山かにた婦人の村」を設立した人である。外部工場で働く者、施設内工場で働く者とあるが、約四〇人の人々の意義ある生活の場である。また、地域との結びつきもよく付近住民特に老人との交流も盛んである(事務長藤巻三郎氏談)。

この地区の最北端にキャンプ朝霞の跡地の一部があり、国・都に対してその使用計画について交渉中であったが、西端から都立大泉学園高等学校(昭和五六年四月一日開校)、大泉学園桜中学校(昭和五六年四月一日開校)、大泉学園桜小学校(昭和五五年四月一日仮校舎で開校・九月一日完成移転)、都立大泉養護学校(昭和五五年四月一日、北養護学校内に開校、昭和五六年一月一日移転)と各学校の建設がきまっている。大泉学園の名にふさわしい条件もそろいつつある。

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広い地域なので駅から北にのびる道路を除いては中心となるべきものもないので商店街も分散している。

大泉北出張所付近の北出張所商店会、その北に大泉マルエツ周辺商店会、その北に都民農園通り商店会があり、大泉学園公園の近くにニコニコ商店街がある。いずみストアー商店会、丸金商店会は新座市との境界辺にある住宅群の便をはかっている。

<章>

第十章 区民生活

<節>
第一節 生活環境の変遷
<本文>
土地の移りかわり

練馬区は江戸時代から永い間、東京の近郊農村として、市中への農作物の供給を主ななりわいとしてきた。明治、大正時代になっても、その姿はほとんど変らなかった。

ちなみに、旧中新井村(現在の豊玉地区と中村地区)の人口を例にとって、その推移を見てみよう。

ところが、大正一二年の関東大震災によって、市中からの人口が大量に流入しはじめ、昭和七年板橋区ができる直前の国勢調査によると同じ中新井村は七三一一人に増加した。実に数年間で三・二倍強の膨脹である。もちろん、区内の他の地区も同様であった。増加のカーブは戦後急速に上昇し、昭和二二年、練馬区が板橋区から独立した時点での区人口は一一万余になった。しかし、今から見ればわずかな数で、一km2当りの人口は二三〇〇人強、現在の東京都区内をさがしてもどこにも見あたらない。しいていえば、夜間人口の減少に悩む千代田区の半分にも満たないほどであった。

それが現在では人口五五万余となった。この間われわれ区民の生活環境はどのように変ってきたのだろうか。

まず、地目別土地面積の推移を見てみよう(『現勢資料編』二三ページ第一表参照)。昭和三〇年、固定資産税の対象となる評価面積の中に占める宅地の総面積は二八・三%、田、畑、山林などは六三・六%であった。それが、四〇年代前半には五〇%ずつとなり、五三年には宅地七三%、農地二一%となった。面積の実数からみると、宅地は二・五倍の増加である。

これは人口の推移からもうなずけることで、『現勢資料編』一五九ページ第一〇表「国勢調査による世帯と人口」によると昭和三〇年、四万一二九〇世帯であったものが、昭和五〇年には一八万七八〇一世帯と、四・五倍強になっている。

このように、人口増加と、宅地化の面から見た練馬区の伸展は、東京近郊部全体についてもいえることであるが、都市環境の整備や、公共施設の完備にさきがけてもたらされた市街地化という点で、多くの問題を含んでいる。

さきに旧中新井地区の人口を例にとったが、ここはすでに、昭和八、九年頃、地域の住宅地化をみこして区画整理事業が行われた。区内では、そのほかに旭町、関町の一部でも実施されたが、大部分の地区が未整理のまま、農地が宅地化されてきたのである。

それも、大規模な計画的開発でなく、「スプロール化」と呼ばれる無秩序な虫くい状態で宅地化が進められてきたのである。とくに、四四年、緑地地域指定解除にともなって、区の総面積の約半分に近い二一・一六km2にのぼる地域に土地区画整理事業の計画が決定されたが、地価の高騰などで計画は少しも進まず、ますますスプロール化がはげしさを増してきた。

三〇年代の庭をゆったりとった一戸建住宅から、最近はミニ開発とよばれる、小規模な建売住宅を主とした過密住宅が多く見られるようになった。

三九年、東京都が行った『東京都所得分布調査報告』による給与所得の地域格差分布を見てみると、一位杉並区、二位世田谷区、三位目黒区で、練馬区は四位にランクされている。これは当時ドーナツ現象といわれた都区周辺部への人口移動の結果、高額給与所得者が率先して城西区部へ集中した結果である。

しかし人口の急激な増加にともない、住宅地は四〇年を境として低層化、高密度化していった。

『現勢資料編』五六〇ページ第一六四表は最近五年間における個人宅地の所有状況である。これを見てもわかるとおり、五三年を例にとると、個人で一五〇㎡(約四五坪)以下の所有者が全体の六〇・七%を占めているのに、その面積は、全部で一九・三%にすぎない。わずか五年間を見るだけで、地目別土地面積のうち宅地化されたすべての土地が一五〇㎡以下の宅地になったといっても過言でない。

図表を表示

表<数2>10―1は練馬区の用途別地域地区面積とその構成比率である。この指定は、都市計画法、建築基準法の改正に伴い、区では都市計画審議会を設置、区民の意見を反映しながら、数次の改正を重ねたうえ、四八年一一月、東京都都市計画として制定されたものである。総面積の八四%が住居専用地域であり、住居地域を含めると九四%が住居系に指定されている。こ

れは練馬区における一つの特長である土地利用規制といえるが、その反面、農地の宅地並み課税という別の問題をも包含している。農地問題については別の章でふれるので、ここでは省略するが、市街化の進む練馬区の現状を把握する意味で重要である。

宅地の細分化を進めた最大の原因は、なんといっても地価の高騰にある。これは三〇年代における高度経済成長がもたらした結果であるのには論をまたないが、さらに、四八年のドルショックがそれに拍車をかけ、地価の狂騰をきたしたためである。

建設省が四九年五月一日付の官報で公示した全国の標準地の価格(四九年一月一日現在)は、前年の価格に対し三二・四%の上昇となり、地価公示制度はじまって以来の最高といわれた四八年の上昇率三〇・九%をはるかに超え、二年間で二倍近い値上りとなった。

『現勢資料編』九九六ページ第二七四表は、区内一九か所の土地公示価格の変遷を表にしたものである。四八年を一〇〇とすると、公示の発表のあった六か所で、いずれも二〇~三〇%の上昇があったことがわかる。しかも、四九年になると軒並み四〇%前後の高騰がみられ、四七年対四九年で比較すると、正に二倍近い数字を示している。

次に土地の所有状況を見てみよう。昭和三八年、練馬区の総面積四七km2に対して、民有地の面積は、三七・九四km2八〇・七%)あった。のこりの約二〇%は、固定資産税の課税対象外の土地で、区や、都、国の公有地と、学校法人、宗教法人などの非課税地である。

この民有地の面積が、四九年には三四・三九km2七三・七%)になり、以後五三年までほとんど変らずにきている。これは学校や公共施設、公園等の建設で当然の結果ではあるが、民有地の減少分三・五五km2、区総面積の七%は決して小さな数字ではない。

区内の宅地需要は、その後も依然根強いものがあり、景気後退とはうらはらに、土地売買の取引はさらに活発化してきて

いる。特に五五年に入ると、東京圏の住宅地公示地価は、一八・三%と石油ショック当時の「地価狂乱」に迫る勢いで急騰した。この公示地価は実勢価格の半分というのが常識で、区内の実際の地価の上昇率は軒並み三〇%、高いところでは五〇%にもなるといわれている。

国は、「地価狂乱」以後、投機的な土地取引を防止する一方、宅地供給を促す施策を講じてきた。土地を手放す地主に譲渡益課税を優遇したり、一方、市街化区域農地に宅地並みの重い課税を課したりするアメとムチの施策もその一つである。それにもかかわらず、根強い宅地需要に供給が追いつかないという宅地不足からくる地価高騰、加えて、高金利、資材値上りの三重苦は、庶民のマイホームの夢をますます遠くに追いやっている。

住まい

前項で、練馬区の土地について、特に、その所有状況や、地価の動きについてみてきた。

つぎに、その土地がどのように利用されているか、すなわち、建物について見てみよう。建物といってもその用途によって住宅、アパート、事務所、店舗、工場等に分類されるが、区民生活の面から主として住宅とアパートについて記しておきたい。

まず、建物がどのように増加したのであろうか。表<数2>10―2は、昭和四〇年と五一年の建物の床面積の比較である。一目して判るように練馬区はだんぜんトップの二・四倍という数字を示している。木造と非木造(鉄筋コンクリート建など)との構成比においても七九対二一と、二三区内では一番木造建物の比率が高い。

これを住宅・アパートについて見ると次ページ下表の通りである。全建物の二・四倍が、そのまま住宅・アパートの増加率を表わしており、その伸びの著しさがよくわかる。またこの表から一世帯あたりの面積を計算してみると、四〇年に六四㎡あったのが、五一年には六七㎡になっている。二三区全体の平均では、五一年、五二㎡であるので、練馬区の一世帯あたり面積は、十年前から大部分ゆとりがあることがわかる。

土地利用という面から容積率はどうであろうか。容積率とは、固定資産税の対象となる民有建物の延床面積を民有宅地面

図表を表示
単位千㎡
練馬区 3,798 8,951 2.4
足立区 4,820 8,396 1.7
杉並区 6,750 10,673 1.6
世田谷区 9,363 14,153 1.5
大田区 8,089 12,532 1.5
積で除して算出した率である。高層建物の事務所・店舗も含まれるので、その占める割合の高い都心や副都心では高い容積率であるのは、もちろんである。例えば、千代田区三六五%、中央区三三一%、台東区一七三%、港区一五九%、新宿区一二九%、渋谷区一一八%など、いずれも一〇〇%を超えている(東京都政策室『土地関係資料集一九七八年度』に

よる)。区部平均で五〇年七四%、五三年八一%であるのに、練馬区では、四〇年二六%、五〇年四一%、五三年四五%と二三区中最も低い容積率を示している。

以上の二点から考えてみると、練馬区は、土地利用の効率という点では、もっともおくれているが、緑と青空の生活環境では、二三区中一番すぐれている環境にあるといえそうである。

<節>
第二節 区民意識
<本文>
四人に三人が永く住む

戦後三十五年、焦土の中から立ち上った都民は、その後、高度成長期に代表される好況と、オイルショック後の慢性不況の波に翻弄されながら、自己の生命と財産を守りつづけてきた。一面はなやかな東京を、都民はどう感じているのだろうか。ここに興味ある数字を示してみよう。東京都民生局による「都市生活に関する世論調査」(昭和五二年一二月実施)からである。

まず、東京のメリットとでもいうべき点、あるいは住んでよかったと思っていること。三項目まであげているので合計の%は一〇〇を超えている。

次に、東京のデメリット、つくづくいやだと思っていることは何だろうか。

東京における都市問題の二重性をうかがえる興味深い調査結果ではないだろうか。

敗戦の焼跡から、公共施設、公園、下水道などが未整備のまま、表面だけ急成長を遂げた東京の悩みがここにある。西欧では百年も前に解決しているこれらの問題をかかえた東京は、技術革新や大量消費時代(ゴミ戦争)に加えて、公害という新たな問題にぶつかっている。

東京で一番新しい区、練馬区に住むわれわれ区民はどのような生活意識をもっているのだろうか。

まず、練馬区民の居住時期について見てみよう。数字は五四年二月に、区内に居住する満二〇歳以上の男女一五〇〇名に

ついて行われたアンケート調査によるものである。

無回答が〇・三あるので一〇〇%にならないが、これでみると昭和四〇年以前からの居住者が約五〇%であることがわかる。いいかえると四〇年を境にして、新旧区民が分かれることになる。もちろん地域によって差があるが、おおまかな傾向として、区の東南部は旧区民が新区民を上回り、西北部ではその逆の現象になっている。その他の地区は大体、半々とみることができる。

同じ調査で定着性の指標として永住意思の有無を問うたところ、

と、四人に三人は永く住むつもりと答えている。地域的には、東南部で七〇%をきっているほか、いずれも七〇%以上の永住性を示している。区東南部、具体的には、豊玉、中村、旭丘、小竹町、栄町、羽沢、桜台、練馬、向山、早宮は、四〇年以前から居住している旧区民が比較的に多いが、ここはまた流動性に富むアパート居住者も多いところなので、「永く住むつもりはない」と答えた人が三二%ある。

これを住宅種別でみると、給与住宅居住者の七八%、間借り・下宿・寮・住込の人の五七・一%、民間の賃貸アパート居住者の五五・一%が、それぞれ永く住む意思がないといっている。反対に永住意思が高いのは、借地持家居住者が九六・五%、土地つき持家居住者が八七・九%、公共借家居住者(公団・都営住宅など)が七六・五%、民間の分譲マンション居住者が六六・七%となっている。

定着性の高まりとともに、地元意識が強まるのは当然で、永住意思と地元意識には相関関係がある。地元意識の問いに対して、

となっており、永住意思のある人の八五・三%が地元意識をもっており、永く住むつもりのない人の六九・六%は仮り住まい意識となっている。

年齢別では二〇代前半では、地元意識より仮り住まい意識の方が上回っており、六〇代以上では、ほぼ一〇〇%近くが地元意識をもっている。ただ、この場合は単に永住意思だけの問題ではなく、若い世代の地元離れといった一般的風潮も、これに輪をかけているという見方もできる。

住宅種別でみると、永住意思の割合が高かった持家や、分譲住宅居住者に地元意識が八〇%以上と高く、永住意思の低かった民間賃貸アパートや給与住宅居住者などに仮り住まい意識が六〇%以上と強まっている。

さて、この定着性と地元意識が約十年前にどうであったかを比較してみよう。四五年五月、一二〇〇名を対象に行われた区民意識調査による結果は次の通りであった。

この時点での被調査者の四分の三に近い人は昭和三一年以降に区民となった人であるが、永住意思を有するのも、やはり四分の三である。九年後の五四年調査とほとんど同じ結果を得ている点に注目してよかろう。

職業別では事務系、技術系の一般勤労者に転居予定者が多く、その勤務先は他区市町村、都心の順に多いことと関連し、当時話題になっていた、いわゆる職住近接の要求を示すものであったと思われる。

同じ四五年の調査で居住地を選ぶとき、もっとも重視するものは何かという設問に対し、

となっており、交通の便がもっとも高く、ついで、自然の環境によるとなっているが、これは住居を選定するにあたり、能動的に対応しているものである。第三位に住宅の事情があるが、これは地価、家賃、間代等から止むを得ずといった心情が

作用していると思われ、前向きの能動的対応とはいえないものが多い。第四位の仕事に対する適否は住より職を重視する志向である。

同じ頃行われた二三区全体調査では、この調査と相当異なった結果がでており、住宅の事情、仕事の都合が多く、環境が良かったからとするものは、わずか五・七%に過ぎなかった。この比較では練馬区に住居を求めた人の中で自然環境を条件としたものが二〇%以上に及んでいることは着目してよいと思う。

便利さと快適さと

四七年九月、区は長期計画策定のための区民意識・意向調査を行った。練馬区に居住する二〇歳以上の男女、二〇〇〇名を選挙人名簿より無作為に比例抽出し、個別面接聴取法で行われた。

多項目にわたる調査であったが、そのうちから特に生活環境についての項目をみてみよう。

この生活環境に関する設問項目は、国連の保健委員会が挙げている次の四つの指標によって、それぞれの質問が設けられた。

全区を一五地区に分け、質問に対する評価は、非常に良い、良い、普通、悪い、非常に悪いの五段階評価とした。

図表を表示

表<数2>10―3は項目毎の各地区の生活環境評価をまとめたもので、地域的な生活環境の特徴をみることができる。

全区域平均でみると、安全性、利便性、保健性についてはとくに問題は感じられず普通であり、かなり快適な街という印象を与えている。これを地区別にみると、九地区、一二地区、一三地区では、いずれの項目も平均を上まわり、全体として環境のよい地区といえる。また逆に、四地区、五地区、七地区では、いずれの項目も平均を下まわり、評価の低い地区となっている。

住民の居住地区に対するイメージとしての総合評価では、九地区、一五地区の評価が高く、最も評価の低いのは七地区である。区西南部の八・一一・一二・一三地区は平均よりやや上まわり、東北部の四・五・六・一〇地区はやや下まわっている。東南部の一・二・三地区と一四地区は平均に近い。

以上、いくつかの住民意識調査の中から、区民の生活環境に対する意識・意向を見てきた。練馬区は大都市東京の中にあって、ありとあらゆる都市問題が渦まいている区であると同時に、将来に大きな可能性を秘めている若い区でもあるといえよう。

<節>
第三節 消費生活
<本文>
日本経済の動きと国民生活

戦後の混乱期をぬけ出した日本経済は、昭和三〇年代に入ると、急テンポの発展をとげはじめた。昭和三〇年の『経済白書』はその中で、「戦後は終った」と高らかに謳いあげた。事実、当時の日本銀行が発表した「本邦経済統計」などを見ると、たしかに、工業生産は大幅な増加を示し、しかも諸物価は安定して、二〇年代のような上昇は全くみられない状況であった。

新聞などは「神武景気」という言葉を使い、日本建国以来の好景気だと表現した。二九年には電気洗濯機の爆発的な普及

をみ、三三年の皇太子御成婚によるミッチーブームには、テレビの普及率が一気に二〇%を超えた。それを裏付けるように、『国連統計年鑑』によると、日本の鉱工業生産と輸出金額の伸び率は先進諸国をぬいて世界第一位の増加を示している。

一方、国民の暮しはどうだったろうか。消費者物価は比較的に安定してきたと述べたが、生活水準はまだまだ戦前の域を脱していなかった。戦争や戦後のインフレーションをくぐりぬけてきた物価や、料金はいずれも、戦前の三〇〇倍にもなっていた。総合的な指数で、昭和二九年、三〇二倍という数字が出されている。戦前、一〇〇円の収入があったものが三万円の収入がなければ、同じ水準の生活ができないということになる。その頃、流行語となった「一万三千六百円」の初任給では、とても、人並みの生活は困難であった。

このような好況も順調には伸びず三一年・三二年は上昇、三三年には下落して「なべ底不況」の言葉がはやった。しかし三四年後半から再びもちなおし、「神武景気」に対比して「岩戸景気」と呼ばれ、輸出量も戦前の水準に回復した。

三〇年頃まで割合安定していた消費者物価は、高度成長期には、卸売物価の下向にもかかわらず、高騰に転じ、三六年には、三〇年に対して一二・三%の上昇となった。

なかでも住居費の高騰は三五・八%に及び最もはなはだしく、次いで、光熱費、雑費がそれぞれ一七%前後の上昇を示した。光熱費と雑費の多くは公共料金であるが、これは所得が増加して生活が向上するとふえる傾向にある。それが高騰するということは、生活の向上が抑制されるという結果となった。

四〇年代に入っても高度成長はつづき国民総生産(GNP)は、三〇年を一〇〇として、三六年一六八、四〇年三三八、四五年には六七三、つまり、一五年間で、六・七倍の成長を示した。

それに伴って、工業生産も、輸出も四〇年から四五年の五年間に倍増するほど、この一五年間における日本経済の成長は世界各国から驚異の目をもって見られた。

四〇年代高度成長期における国民の暮しを一人当り国民所得の面から見てみよう。

『経済白書』や『国民生活白書』で使われる“一人当り国民所得”とは、国民に分配される総所得を人口で割ったもので、その国の富を表わすバロメーターになっている。この一人当り国民所得も、国民総生産に比例して、世界的に異常なほど高成長を示していることは事実で、二七年には一四五ドルだったのが、三二年には二五三ドル、四〇年には六八〇ドル、四三年には一一二二ドルとなった。しかし、その絶対額はまだまだ低く、アメリカ人の三分の一に過ぎず、日本人は富んでいるとは、とてもいえない状態であった。一九六八年(昭和四三年)版『国連統計年鑑』によると、千人当りの乗用車台数で、アメリカの八分の一、イギリス、西ドイツの四分の一にすぎず、一人一日当りの食事のカロリーでは、アメリカ、イギリス、フランスの七〇%に足りない。摂取蛋白質では日本人七七gに対して、フランス人、アメリカ人は一〇〇gをとっている。また居住室数についてみれば日本人は平均して一人一室にみたないが、欧米では一人で一室以上の部屋をもっていることになっている。

こうしてみても、日本人の衣食住は、欧米にはとうてい及ばず、エコノミックアニマルと嫌われながら、日本はまだまだ貧乏な国で、世界の一流国への仲間入りには、ほど遠かった。

「アメリカがくしゃみをすれば、日本は風邪をひく」と、よくいわれた。昭和四六年八月、アメリカは、突如ドル防衛対策を発表した。いわゆるドルショックである。日本政府は、対ドルレートの変動相場制を採用することとなり、事実上の円切り上げとなった。

この頃になると、まだわれわれの記憶にも、新しいところである。日本経済が内外の需要急増によって、過熱気味となった景気状況を襲ったのが、昭和四八年末の石油危機である。いわゆるこのオイルショックは国際収支の赤字と、インフレを大きく加速し、四九年には、卸売物価、消費者物価とも前年度に比べ、二〇%も上昇するという二桁インフレを経験した。トイレットペーパー、洗剤、砂糖の買いだめに主婦が血眼となった、あの状況はまだ記憶に生々しく残っている。

経常収支、総合収支とも大幅な赤字となった政府は、総需要抑制策を強行し、収益の低下した企業は、きびしい減量経営

に転じたことから雇用情勢も悪化していき、消費者も守りの姿勢に転じて、消費性向を低下させた。ここに、インフレ、不況、国際収支赤字のいわゆるトリレンマ(三重苦)が出現することになった(経済企画庁編『図説経済白書』)。

不況による輸入減少によって、均衡化した経常収支は、輸出産業の合理化努力と相俟って、黒字が増えはじめたところに登場したのが五二年後半からの円高である。

五一年秋頃からやや上昇気味であった円レートは、五二年に入り急速に上げ足を速め、年初には一ドル二八九円であったのが、一〇月にはこれまでの最高水準であった四八年七月末のドル二六三円を突破した。さらに、五三年四月に二二〇円、七月には二〇〇円を割った後、八月一五日には一八二円を記録するに至った(五三年版『国民生活白書』)。

こうして、円高と国民生活の関係は切りはなすことのできないものとなり、われわれの暮らしは、意識の面でも国際化してきた。

五四年後半から五五年にかけて、世界の先進国経済は高インフレ、高金利の悪循環が強まる様相をみせ、日本も、石油危機以来五年ぶり二桁台の物価高騰をよぎなくされた。

練馬の物価

練馬区では、昭和五三年四月から、翌五四年三月までの一年間、毎月一回生鮮食料品を中心に、日常生活用品価格等調査として、区内の価格動向調査を実施し、その結果をその都度「ねりま区報」に公表してきた。

その調査品目の標準規格と、価格の推移をみると次の通りである。

                                         安値        高値

<項番>(1)塩さけ(甘塩、切身一切八〇g程度のもの、一〇〇g)              二二〇円(四月)――二四五円(七月

<項番>(2)いか(するめいか、身二〇<数2>cm程度のもの、一〇〇g)               一〇六円(四月)――一四六円(七月

<項番>(3)えび(冷凍大正えび、無頭カラつき、体長八<数2>cm程度のもの、一〇〇g)       三一二円(一一月)――四〇二円(六月

<項番>(4)あじ(まあじ、鮮魚丸、二〇<数2>cm程度のもの、一〇〇g)              一五三円(四月)――二三四円(八月

<項番>(5)豚肉(国内産、上又はロース、スライスしたもの、一〇〇g)           一六二円(三月)――一八五円(七月

<項番>(6)牛肉(国内産、中肉又はカタ肉(カタロースを除く)スライスしたもの、一〇〇g) 二九六円(七月)――三二四円(六月

<項番>(7)ロースハム(スライスしたもの、一〇〇g)                   二四五円(一二月)――二六〇円(四月

<項番>(8)とり肉(モモ又はムネの正肉、一〇〇g)                    九六円(六月)――一一二円(一〇月

<項番>(9)玉ねぎ(L玉、一個一九〇g程度のもの、一<数2>kg)                 八九円(六月)――一七九円(一月

<項番>(10)キャベツ(M玉、一個一・二<数2>kg程度のもの、一<数2>kg)                七八円(六月)――二二二円(四月

<項番>(11)じゃがいも(男しゃく、L玉、一<数2>kg)                      一三一円(八月)――一七五円(五月

<項番>(12)鶏卵(M玉、一パック一〇個入り、一〇個)                   一六〇円(二月)――二〇一円(一二月

 

魚介類は、冷凍技術が発達したとはいえ、季節的な魚獲量によって、小売価格に相当影響している。いか、あじは四月に安値、七、八月に高値を示し、三五~四〇%のひらきがある。えびは、比較的安値で推移したが、これは円高により輸入価格が下がったためと考えられる。こうした季節変動を除いても、魚価はやや上昇傾向にあった。

肉類は、比較的安定した価格で推移した。牛肉は隔月に上下動したが、おおむね横ばいであり、豚肉、ロースハムは七月に一時上がった後、次第に安価になった。とり肉は六月に最も安く八月以降、ほぼ横ばいであった。

鶏卵は、一二月までは、とり肉と同じ値動きを示し、一月以降下がってきている。

青果物は、季節的影響を最も受けやすく、貯蔵のきく、じゃがいもが比較的安定している。キャベツは、七、八月が高く以後、かなり安くなった。反対に、玉ねぎは、秋から冬にかけて相当値上がり、以後高水準をつづけている。

次に、練馬地域と石泉地域の価格を比較してみよう。練馬区のやや中央を南北に分けた、旭町、土支田、高松、貫井以東を練馬地域、谷原、高野台、富士見台以西を石泉地域とした。面積比では石泉地域が広く、人口・世帯数では練馬地域が多

い。また鮮魚店は石泉地域が、食肉店、青果店は練馬地域が多い。

月別では、地域的な価格差が若干みられるものの、一年間を通してみれば、それ程の差はみられない。強いていえば、鮮魚店の少ない練馬地域で魚介類がやや安く、食肉店の少ない石泉地域で肉類がやや安いといえる。しかし、価格差といっても、年間平均で、魚介類が三~八%、肉類が一~四%程度で、目立った格差とはいえない。

小売店とスーパーとでは、どうであろうか。ここでは、品目によりやや価格差があることが認められた。生鮮食料品は、規格、産地、鮮度などによって、価格にかなりの相違があるものであるが、ごく平均的な価格の比較をしてみると、野菜類は平均一〇~二〇%程度スーパーの方が小売店より高いことがわかった。やや安いものは、いか、ロースハム、とり肉、鶏卵の四品目で、三~一〇%程度の価格差であった。

安さを売りものにしているスーパーであるが、それ程、安いというわけでなく、むしろ、青果物では、小売店の方が安い傾向がみられた。スーパーの特売品、目玉商品はたしかに安いが、一般商品の価格は、品質、鮮度などを考慮に入れれば、小売店の方が割安だと、いえそうである。

丁度同じ頃、東京都民生局価格調査部で、都内の平均小売価格を調査した。規格がほぼ一致している一〇品目について七月以降の価格を比較してみると、次の通りである。

この比較では、練馬区は、肉類をはじめとして、全般に都内平均よりやや安いということがいえそうである。

 (この項は、「ねりま区報」および区民部経済課流通対策係の資料によった)

<節>

第四節 生活協同組合
<本文>
区内の生協

生活協同組合の歴史は古く、一九世紀のはじめ、イギリス・マンチェスターの実業家、ロバート・オウエンによって創始された、といわれている。

日本では大正一〇年四月に賀川豊彦らの手によって創立された神戸購買組合が嚆矢のようである。賀川豊彦は、その呼びかけの中で、大要次のように述べている。

<資料文>

いたずらに見栄を飾って、食うものもろくろく食わずに、着物や、化粧道具に金をかけて、台所をそっちのけに、飛び回るモダンワイフの群は、決して良き主婦ではあり得ない。(中略)小売商人もそうした、わけのわからない主婦の多く集っていそうな処をあてに、競争して店を出す。買い手も盲滅法なら、売り手も盲滅法である。(中略)製造家も無鉄砲である。買い手があるか、ないか、わからない品目をドシドシ作って行く。そして、その結果はまったく売れないで、作った品物を投売しても買ってくれないような破目に陥る。多くの富が浪費せられる。失業者が街に群る。その失業者のうちに、わけのわからない主婦たちの夫がいる。(中略)もしも、家庭の主婦たちが大いに眼醒めて、台所経済を根本的に改良する工夫を立てるならば、それこそ社会は一大改造をみる。このまちがった考えを脱却するのは、自分の手で“商売”をやっているものが一番早い。そして自分の手で“商売”をやるということが、消費組合運動の第一の使命である。

現在の流通機構と、高度成長によって浪費癖のついた主婦に対してなんと耳の痛い言葉ではないか。当時生協のことを購買組合又は消費組合と呼んでいた。

こうした消費組合運動は、進歩的であったがために、支那事変勃発後は受難の道をあゆみつづけ、敗戦を迎えるのである。

そして、戦後の混迷の中で生協運動が徐々に復活してきた昭和二三年七月、消費生活協同組合法が施行された。この法律は、「国民の自発的な生活協同組織の発達を図り、もって国民生活の安定と生活文化の向上を期することを目的とする」とうたわれている。

区内には次の四つの一般生活協同組合と、二つの職域生活協同組合がある。

以下、順を追って個々の組合について、その事業の概略を述べておく。

練馬生活協同組合

この組合は、昭和四六年六月一三日、区内旭町に、組合員数三八〇名、出資金額四〇万円をもって、設立認可された。その後、四七年九月、事務所、倉庫を大泉学園町に新築移転し、四九年一月には、従来から春日町にあった「ともしび生協」(組合員数三〇〇名)と組織合同を行った(「ともしび生協」については、あとでもふれる)。四六年から五〇年にかけて、オイル・ショック前後は、生協運動の全盛期であった。物価高、公害問題(有害商品)と相

俟って、毎年、倍々の事業高をあげていったのも、この時期である。

四九年八月には、本部事務所と共同購入倉庫を現在地に新設し大泉学園町の旧事務所をマーケットとして、大泉店を開店した。

しかし、同年一二月、新築間もない本部事務所、倉庫が火災により全焼した。翌五〇年八月には、再建新築し、五二年、新たに高松に共同購入センターを新設、さらにマーケットとして、三原台店、高松店を開いた。

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この組合は――どの組合も大体同じだが――「協同互助の精神に基づき、組合員の生活の文化的経済的改善向上を図ること」をその目的としている。そして、組合員は、一口(一〇〇〇円)以上の出資をすることになっており、決算時には、組合員個々の一年間の利用分量に応じた割りもどしを行っている。

取扱商品は、米、たばこ、医薬品を含む組合員の生活に必要な物資一切となっているが、生鮮三品といわれる肉、魚、野菜が全供給高の四五%、米が一五%と大半を占めている。

商品の供給は、小グループによる班単位の共同購入と、店舗(三店舗)販売の二つの方法によって行われているが、供給高は五〇%ずつということである。

機関紙「練馬生協ニュース」が月刊で発行されている。

表<数2>10―4は本組合の事業実績の推移である。

東京都民生活協同組合

この組合の誕生は、昭和二八年九月、興安丸で中国から集団帰国した二〇〇世帯が、北区赤羽の引揚者住宅に落ちついたときに始まる。八名の有志が、二七万円余を元手に、引揚者住宅の一隅に仮設店舗を作って、生活必需品の販売活動を始めたのがそれである。

その後、昭和三二年に桐ヶ丘団地が完成、入居者約三〇〇名の出資で発展的にその名も桐ヶ丘文化生活協同組合として設立認可された。

団地建設がすすみ、人口が増加する中で、周辺に医療施設が全くないため、住民の間から診療所設置の要望が高まってきた。生協では、この要望に応えて定款を改正し、診療活動を事業目的に加え、三五年七月に、医師を含め職員四名、七・五坪(約二五㎡)の診療所を開設した。また、この年、店舗も広げて改装し、団地ストアーと名付けて、十円牛乳の供給を始め、一〇月の第三回総会で「桐ヶ丘団地生協」と改称した。診療活動と十円牛乳が、当時の住民の暮しと健康を守る上で果した役割は大きく、団地内に生協運動を定着させ、今日の都民生協の基礎をきずいた。

三〇年代後半から四〇年代前半にかけて、桐ヶ丘団地の拡張造成にともない、移転問題などがおこり、幾多の経緯ののち、四四年一月、第一号店舗の開店をみるに至った。

昭和四七年、組合員六〇〇〇名、事業高八億円、四店舗まで成長した「桐ヶ丘団地生協」は東京全域に生協運動を展開していくのにふさわしい名称として現在の「東京都民生協」と名称を変更した。

練馬区内では、五一年六月に、共同購入組織をつくり供給を開始、同年一二月に第一二号店として関町店を、翌五二年三月に第一三号店として石神井店を開店した。いずれも二階建五〇〇坪(一六五〇㎡)の店舗で、五三年八月には、石神井店に、組合本部を移転した。

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今日、都民生協は、七万七〇〇〇余人の組合員と、都内一〇区市にまたがる一三店舗、一共同購入センターで運営されている。

以上は『都民生協二〇年のあゆみ』によったが、同誌は最後に次のように結んでいる。

全国的な生協運動の高揚、発展に対してこれを規制する動きが大きくでてきています。又、流通業界も激烈な競合時代に入っています。まさにこれからが、都民生協の真価がためされる時です、と。

表<数2>10―5は本組合の事業実績の推移であるが、練馬区のみの抽出は、事務的に困難であるという理由で、組合全体の数字を示すこととした。

図表を表示 <資料文>

いずみ医療生活協同組合

本組合は、昭和四九年二月、比較的に医療施設の少ない大泉地区の住民の声を反映し、区民自身の健康と暮しを守る地域医療を進める目的で、生協設立の準備を開始した。

地域医療を充実させるためには、自分たちの手で、誰でも、いつでも、どこでも、医学の進歩の成果を反映した十分な医療を受けられる仕組みと、施設を作ることが望ましい。

一年にわたる準備の結果、五〇年二月、東大泉町一〇七四番地(現東大泉二―二五)に「東大泉診療所」がまず開設された。診療所は、“病気になったら利用する診療所”という従来の観念から一歩前進した、地域住民の幸福な家庭生活を、病気によって破壊されることのないように、平生の健康管理を行い、また、そのための相談所というところに重点をおいた。すなわち、いい古されたが、実行のむずかしい「予防は治療に勝る」という原則を運営の基本としたのである。

その間、医療生協としての認可申請が行われ、翌五一年一月二七日、「いずみ医療生活協同組合」が正式に設立認可された。

診療科目、職員数は次の通りである。

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当初三〇〇名の組合員をもって発足したのであるが、四年間における事業実績は表<数2>10―6の通りである。

昭和五三年度の決算においては、若干の損金を計上しているが、すでに、最新のレントゲン設備の導入と施設の整備なども終え、一層充実した地域医療活動の基盤は成って、五四年度以降におけ

る安定経営が期待されている。

この組合は、組合員外の利用にも差別はなく「地域の主治医」として、住民により親しめる診療活動に努め、機関紙「いずみニュース」の発行、健康講座、座談会などを行っている。

生活クラブ生活協同組合

この組合は、昭和四〇年、世田谷区松原六丁目界隈の主婦に対する「安い牛乳を飲みませんか」という、若い青年たちの呼びかけから始まった。

「生活クラブ」の結成後、牛乳の共同購入を開始して一か月、市価より三円安い一五円牛乳の購入を申し込んだ世帯は三〇〇軒ほどに増えた。三〇〇本の牛乳の共同購入という、ささやかな活動から始まった生活クラブは、昭和四三年一〇月一八日、正式に「生活クラブ生協」として発足した。参加組合員数は一〇〇〇世帯であった。

この組合は、発足以来“班別・予約共同購入”方式を採用し、店舗(スーパーマーケット)は全くもっていない。それは、共同購入なら単品に購買力を集中して大量購入することができ、それによって安い仕入れも可能になるし、在庫をもつ必要もない。資金力がまだ充分でなく倉庫の余裕もない生協には共同購入方式が最適であるという考えからであった。また、班をつくることにより、少ない職員でも班に接触するという形で、個々の家庭と連絡をとる労力を五分の一、十分の一に軽減することができた。

昭和四五年までの「生活クラブ生協」の組合員は、赤堤に建てられたセンターを中心とした世田谷区の一部に限られていた。しかし、四四年度一七九一人だった組合員の数は、四五年度に、二六四〇人に達し、前年比四七%余の増加をみた。つづいて四六年には、五三〇〇人、四七年には、八三〇〇人、四八年には、一万五一三七人と、倍増を積み重ねる実績をあげていった。

というのも、四五年度までは世田谷区内の地域に限られていた活動が、四六年度から練馬・板橋地区への拡大がはかられたためであった。練馬への進出には「ともしび生協」との業務提携が、そのきっかけとなった。

ともしび生協は、昭和四四年に、練馬の主婦たちが、灯油の値段の不明朗が問題化したのを機に、灯油の共同購入を目的につくった生協組織であった。名前もそれで“ともしび”とつけられていた。

ともしび生協は、灯油の季節が去ると、洗剤や食品の公害問題にも関心を広げ、徐々に運動を拡大してきていた。主婦連や、その他の市民運動などにも全く関わりのない、あくまで練馬だけの素人の主婦たちの組織として、それでも四四年度だけで灯油の扱い高は二八五万円という実績をあげていた。

この「ともしび生協」と「生活クラブ生協」は、四六年一月より、共同購入物資の仕入れや、供給について業務提携をすることとなり、同年一一月、組合員一二三〇世帯は、発展的に「生活クラブ生協」の練馬支部を結成した。このとき中村南二丁目に練馬配送センターが建設された。

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それ以後、旧「ともしび生協」の主婦たちを主体とする練馬支部の活動や躍進ぶりには、目をみはるものがあり、一年後の四七年一〇月には、組合員数四二〇〇名に達し「生活クラブ生協」のなかで最大の支部となった。

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練馬に拠点をもった「生活クラブ生協」は四七年一一月、大泉・保谷地区を対象に北多摩第三支部を結成、四九年六月には大泉地区を独立させて大泉支部を結成、五一年一〇月に大泉センターを建設した。

同年三月には、関町と早宮の両支部が結成され、五一年度の練馬区の組合員数は七六三〇名を数えるに至った。各支部では、それぞれ支部員の手による

機関紙が発行されている。練馬支部「ねりま」、大泉支部「泉」、関町支部「せき」、早宮支部「すぎな」と名付けられている。

表<数2>10―7は生活クラブ生協の練馬区における組合員数、出資金、事業高の推移である。

三〇〇本の牛乳の共同購入から始まった「生活クラブ生協」は、今では、東京・神奈川・埼玉・千葉・長野にそれぞれ生協組織をもち、直営工場四、組合員六万五〇〇〇世帯、出資金一二億七〇〇〇万円(五四年三月現在)、供給高一一〇億円(五三年度実績)という大組織に発展した。

五二年七月一〇日実施された東京都議会議員選挙に際して、練馬区から立候補し、一万票余を獲得したが、落選した婦人候補者は、「生活クラブ」の組合員の推せんによるものであった。また、五四年四月二二日の練馬区議会議員選挙には、同じ「生活クラブ」推せんの片野令子が立候補、三六六〇票を得て初当選した。

職域生協

区内にはこのほか、武蔵大学・武蔵高等学校の教職員・学生・生徒を対象とした「武蔵学園生協」と、タムラ製作所従業員を対象とした「タムラ製作所生協」があるが、原則として一般住民の利用がゆるされていないので、ここでは、昭和五四年三月現在の概要を記すことにとどめる。

  1.           認可年月日    組合員数    出 資 金     事 業 高
  2. 武蔵学園生協    昭和四三年九月  三、〇〇〇  三四、〇〇〇千円  一三五、〇〇〇千円
  3. タムラ製作所生協  昭和四一年七月    八九〇   二、三五六千円   七六、三一三千円
  4.  (この節は、各生活協同組合提供による決算書、事業案内、機関紙、各種パンフレット、ならびに出版物などによった

また、区内には練馬・石神井・大泉の三農業協同組合があって、それぞれ組合員に対して、物資供給などの事業を行っているが、農協については他の章で詳述されるので、ここではすべて省略した。

<節>

第五節 住民運動と区民祭
<本文>
住民運動

戦後、民主主義の浸透にともなって、活発化した市民運動は、昭和四二年、美濃部都政の誕生とともに、さらに助長された。市民運動や住民運動といっても、その内容は、公害問題、福祉問題、教育問題など多岐にわたっており、地域的にも、一市区町村の地域に限定されず、全都的にまたがるものもある。

当時、美濃部知事は、住民運動は仮に、地域エゴがもとになっていても、その相剋のなかで何とか住民同士の共通の利益を見出そうとするものであるべきだ、といっていた。そしてなかには、保育所や、福祉施設の建設に反対する運動や、初めから取引によって、ゴネ得をしようという運動さえ見うけられた。

練馬区では過去に、区長公選問題、グラント・ハイツ返還運動、豊島園場外馬券場問題、目白通り・環七交通公害問題、西武池袋線高架問題、地下鉄八号線問題など、特筆すべき住民運動が展開され、なお現在継続中のものもある。

昭和五四年三月の東京都都民生活局参加推進部の発表によると、都内の住民運動団体は全部で一七九〇団体あり、そのうち区部に一二三七団体がある。

練馬区は一五九団体(八・九%)で一番多く、世田谷区の一四三、大田区の一四〇とつづいている。

ここでいう住民運動団体とは、住民によって、地域的に組織された団体であって、地域の日常生活に関する問題について、対外的に自己主張(要望、提案など)を行い、行政、企業などに継続的に働きかけを行っているもので、内容的には実に広範囲にわたっている。区内の一五九団体を運動対象・目的別に見ると次のようになる。

この一五九団体すべてを列挙することは紙幅の都合でむずかしいため、どのような内容のものがいま練馬区の住民運動として取り上げられているか、おおまかな姿を把握する資料として、いくつかの団体を掲げておく。

<資料文>

以上、わずか全体の五分の一の団体を紹介したにすぎないが、ご覧のように、区内全域にわたって、各種各様の意見、要望を、行政や企業に働きかけている。

区民祭

昭和四八年暮の石油危機と、それに触発されたモノ不足から一〇か月、四九年一〇月一日からは、米価、国鉄運賃などの公共料金も一斉に値上げになり、区民の日常生活はますます苦しさを増してきた。

区では、この間、区民の生活を守るため、「区民生活防衛緊急対策本部」を設置して、各種事業に取組んできたが、その事業の一環として、この年一〇月一九日、二〇日の両日「くらしを守る練馬区民青空市」を開催することとした。

この青空市は、区内の商業者団体、農業者団体、消費者団体と区が一体となって組織した実行委員会の手によって計画・実行された。場所は、西武池袋線練馬駅北側隣接地のディベロッパーカネボウ用地があてられた。実行団体の手による生活物資が市価の二~五割安という安値販売と、生産から消費までを考えるパネル展に、五万㎡の広場はごった返した。

二日目の二〇日は「五四万・人間ひろば」と名付けられたお祭で賑わった。山村正雄実行委員長は挨拶でこう述べている。

<資料文>

  1.  私たちのまち、練馬には五四万余りの人が居住していますが、諸個人の時間、空間が分断されて、地域としてのまとまりが希薄な

    ねぐらのまちになっています。また、私たちの生活は、近代化され、非常に便利になりましたが、諸個人の創意や工夫を生かした創造的なものが希薄なオーダーメイドの生活になっています。

  2.  そんな風潮からの脱皮を求める者が集い一つの試み、「練馬区民祭、五四万・人間ひろば」を企画しました。
  3.  そのひろばは、私たちの新たな人間関係を創出するための心と心の出会いの場でありたいものです。
  4.  そのひろばは、私たちの個性や創造力が生かされた新しい社会に飛翔する出発の場でありたいものです。
  5.  そのひろばは、私たちの一人一人が担い手となり、まちの主となっていく自立の場でありたいものです。
  6.  そのひろばは、圧倒的な楽しいにぎわいの中で、みんなの喜びを共有する歓喜の場でありたいものです。
  7.  そして、そのひろばは、その日だけ用意されるものでなく、いつでも私たちのまちに実現させていきたいものです。
  8. 「練馬区民祭、五四万・人間ひろば」は、そんな私たちの想いをこめたまちづくりの第一歩になればと願っています。
と。何から何までズブの素人がやった、このお祭り広場に練馬区民の五人に一人、一一万人が集り、大成功裡に終った。

翌日の朝日・読売・毎日・サンケイの各紙は、都内初のこの催しを写真入りで大々的に報道した。

第二回、練馬区民祭「五四万・人間ひろば」は、翌五〇年九月一三日と一四日の二日間にわたって開催された。練馬名物の「人間ひろば」は東京名物になろうとしていた。

初日の一三日は「道と街と心のふれあい」をテーマに、第一会場となった練馬駅南口の千川通りで、多くのパレードやアトラクションが催された。一方、練馬公民館では、昼の部を敬老アワーとして楽しい催しを、夜の部はヤングアワーとして、のど自慢や有名芸能人による多彩な演芸が行われた。

二日目の一四日は、第二会場の南田中団地で、「美しい川と空と人間」をテーマに、おもに、パレードが行われた。第三会場の石神井公園周辺では、「緑と水と人間の調和」をテーマに、おまつりひろば、ふるさとひろば、ふれあいひろばなど、楽しい趣向をこらした催し物がくりひろげられた。

一回、二回と続いた練馬区民祭「人間ひろば」は、住民の自発的意志で、実行委員の献身的な奉仕のもとに計画され実行されてきた。

しかし、実行委員の多くは、本業をもっている人たちで、企画から出展交渉、開催地の折衝、区との連絡など、手弁当でやるには限度があった。区民の多くからおしまれながら、五一年と五二年は、ついに開催できなかった。

区では、“心と心の出会う広場”という区民の自発的な運動から生まれたこの新しい「まつり」を、区民と行政が協力してつくるユニークな行事として注目してきた。

そこで、第三回練馬区民祭は区主催として五三年一一月三日、場所も同じカネボウ跡地とその周辺で開催することとなった。

<コラム page="494" position="right-bottom">

練 馬 音 頭

 

            練馬区文化団体協議会制定

            春川一夫作曲・佐藤川太編曲

 

一、 ハアー

   昔ァ武蔵野    すすきの月がヨー

   今じゃネオンの  海に出る

   都東京の     北から西へ

   風もみどりの   らが街

     「笑顔練馬で まんまるく

     踊りゃ輪になる 気もそろ

     シャンシャンシャラリト シャンシャントネ」

                 (以下囃子同じ)

 

二、 ハアー

   花を見るなら   石神井堤ヨー

   乙女ざくらか   ミツガシワ

   鶴の舞なら    氷川のまつり

   市は花嫁     長命寺

 

三、 ハアー

   映る青葉の    三宝寺池にヨー

   浮ぶボートも   夢ごこち

   清水清水    汲めどもつきぬ

   かける情けは   なおつきぬ

 

四、 ハアー

   明けりゃ朝星   暮れれば夜星ヨー

   見たか図星ずぼしの   街造り

   富士と筑波つくばを   両手にながめ

   ほんに住みよい  俺らが街

天候は快晴、いつもは車であふれる千川通りを、一八団体八〇〇名のパレードによって、区民祭の幕は開かれた。中央会場となったカネボウ跡地には、おまつり牧場、きしゃポッポひろば、ふるさとひろば、くらしのひろば、買物ひろば、ふれあいひろば、などなどが、くり広げられた。そのほか、南町小、開進二中、中大グランド跡地、公民館でも各種催しが行われた。

当日の参加者は、実行委員会の発表によると一二万八〇〇〇余名であった。

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この区民祭に対する区民の反響はどうであったろうか。第三回(五三年一一月三日)の終ったあと、五四年一月に行われた「区民意識意向調査」に、区民祭についての項目があるので、それを見てみよう。調査対象は区内在住の満二〇歳以上の男女、一五〇〇名についてである。

この調査の結果によると、練馬区民祭への参加者は一四・二%である。本区の人口のうちで二〇歳以上の男女は、約四〇万人であるので、当日の参加者一二万八〇〇〇人のうち、五、六万人は二〇歳以上の人であることがわかる。

地域別にみると、中央会場となったのが練馬駅前ということもあって、区東南部が三〇・四%と多く、距離的にもっとも遠い西北部では七・〇%となっている。

年齢的には二〇歳台の人の参加が少なく、三〇歳以上の人の参加率は一六%前後である。男女別では、男性一二・九%、女性一五・六%で女性の方が若干多い。家族構成などの観点からみると、新旧住民、定着性、地元意識などあまり関係なく、むしろ未就学児・小学生等がいる家庭の方に参加率が高いことがわかった。

催し物の評判では次のような数字がでている。

多項目選択なので合計は一〇〇%以上になる

不参加者の行かなかった理由については、「都合が悪かった」五七・七%、「知らなかった」三一・八%、「おもしろくないと思った」が八・五%であった。

では、参加した人も、しなかった人も含めて、区民祭を毎年開催することについての賛否はどうであったろうか。結果は「賛成」が八七・一%、「反対」が七・三%と圧倒的に賛意を示す人が多かった。反対している人の理由についてみると、「税金のムダ使い」というのが主な理由であった。

区ではこの点に関して説明がつけば、区民祭を毎年開催することについては、区民のコンセンサスを得られると結論を見出した。

以上の調査結果をふまえて、翌五四年、ときも、ところも同じ、一一月三日、カネボウ跡地とその周辺施設で第四回(区主催では第二回)練馬区民祭が開催された。この日も天候は快晴であった。オーストラリア大使夫妻、田畑区長同乗のオープンカーを先頭に、前年にも増した二二団体、一六〇〇名参加のパレードによって開幕された。

前年好評だった「かいものひろば」、「ふるさとひろば」、「ちびっこひろば」、「くらしのひろば」、「ふれあいコーナー」に二一万八〇〇〇余名の人びとが集り、練馬音頭の輪は幾重にも幾重にも広がっていった。

区民祭実行委員長でもある三浦助役は、祭りの終ったあと次のような感慨をもらしている。

<節>
第六節 町会自治会一覧表 (昭和五四年一月現在
<本文> <資料文 type="4-11">

1 練馬区旭丘東町会

2 旭丘一丁目町会

3 都営江古田第二アパート自治会

4 旭丘二丁目町会

5 小竹町会

6 羽沢町会

7 羽沢都住自治会

8 栄町町会

9 桜台町会

<数2>10 桜台一丁目町会

<数2>11 桜台二丁目清風会

<数2>12 桜台親和町会

<数2>13 桜台二・三丁目町会

<数2>14 桜台四丁目南町会

<数2>15 桜台自治会

<数2>16 桜台六丁目団地自治会

<数2>17 豊玉第一町会

<数2>18 豊玉北都営住宅連合自治会

<数2>19 三田桜台第二コーポ自治会

<数2>20 イトーピア桜台マンション

<数2>21 豊玉北四丁目自治会

<数2>22 豊玉第三町会

<数2>23 豊玉第二町会

<数2>24 豊玉中一丁目アパート自治会

<数2>25 豊玉第四町会

<数2>26 豊玉中都住豊友会

<数2>27 豊玉中第三都住自治会

<数2>28 豊玉南住宅自治会

<数2>29 豊玉南第五町会

<数2>30 豊友会

<数2>31 練馬中央自治会

<数2>32 練馬本町通り自治会

<数2>33 練馬一丁目原町睦会

<数2>34 練馬一丁目西睦会

<数2>35 練馬二丁目町会

<数2>36 九一自治会

<数2>37 練馬二丁目都住みどり会

<数2>38 練馬荘自治会

<数2>39 練馬三丁目西町会

<数2>40 練馬三丁目町会

<数2>41 交友会

<数2>42 練馬三丁目新和会

<数2>43 練馬三丁目交有会

<数2>44 練馬四丁目町会

<数2>45 豊島会

<数2>46 錦富士見ケ丘町会

<数2>47 仲一自治会

<数2>48 錦団地自治会

<数2>49 錦一・二丁目町会

<数2>50 仲二町会

<数2>51 氷川台ひばりが丘睦会

<数2>52 平和台一丁目町会

<数2>53 仲三睦会

<数2>54 平和台二丁目若葉会

<数2>55 平和台二丁目町会

<数2>56 平和台二丁目さつき会

<数2>57 都営第四練馬仲町五丁目住宅自治会

<数2>58 仲町五丁目町会

<数2>59 早宮一丁目自治会

<数2>60 早宮三・四丁目町会

<数2>61 北町一丁目一部町会

<数2>62 北町一丁目二部町会

<数2>63 幸和会

<数2>64 練馬北二自治会

<数2>65 北町二丁目町会

<数2>66 双葉自治会

<数2>67 北町三丁目町会

<数2>68 第三住宅親睦会

<数2>69 北町六丁目第四・第五自治会

<数2>70 練馬北町西町会

<数2>71 北町第七住宅自治会

<数2>72 むそみ会

<数2>73 第六練馬北町都営住宅自治会

<数2>74 都営北町第一住宅自治会

<数2>75 中村東町会

<数2>76 中村西町会

<数2>77 貫井第二都住自治会

<数2>78 貫井町会

<数2>79 向山町会

<数2>80 向山西町会

<数2>81 春日町町会

<数2>82 高松町会

<数2>83 都営田柄自治会

<数2>84 田柄町会

<数2>85 日本住宅公団むつみ台団地自治会

<数2>86 土支田町緑会

<数2>87 土支田清和自治会

<数2>88 町和会(解散)

<数2>89 土支田町会

<数2>90 旭町一丁目町会

<数2>91 旭町睦自治会

<数2>92 旭町二丁目町会

<数2>93 旭町三丁目町会

<数2>94 富士見台町会

<数2>95 練馬区高野台町会

<数2>96 谷原二丁目第三住宅自治会

<数2>97 谷原町会

<数2>98 三原台町会

<数2>99 南田中町会

<数3>100 都営南田中団地自治会

<数3>101 河北睦町会

<数3>102 六日会

<数3>103 石神井町一丁目自治会

<数3>104 石神井和田町会

<数3>105 親和会

<数3>106 石神井町池淵町会

<数3>107 白百合会

<数3>108 石神井ハイツ自治会

<数3>109 石神井町会

<数3>110 下石神井千川町会

<数3>111 石神井会

<数3>112 下石神井上久保町会

<数3>113 下石神井坂下町会

<数3>114 豊島橋町会

<数3>115 螢ケ丘親交会

<数3>116 共栄会

<数3>117 あやめ会

<数3>118 下石神井本睦町会

<数3>119 石神井台東町会

<数3>120 いずみ会

<数3>121 石神井団地自治会

<数3>122 都営上石神井団地自治会

<数3>123 石神井台中央町会

<数3>124 聖朗会

<数3>125 二石会

<数3>126 石神井小関町会

<数3>127 上石神井一丁目町会

<数3>128 町を明るく住みよくする会

<数3>129 立野町会

<数3>130 星ケ丘自治会

<数3>131 関町一丁目町会

<数3>132 関町郵政会

<数3>133 すずしろ自治会(解散)

<数3>134 第三関町一丁目都営住宅睦会

<数3>135 みすじ会(休会)

<数3>136 関町二丁目自治会

<数3>137 関町二・三丁目町会

<数3>138 関町南北町会

<数3>139 電々公社練馬関町職員宿舎自治会

<数3>140 関町北三丁目町会

<数3>141 関町北四・五丁目町会

<数3>142 泉ニコニコ町会

<数3>143 若葉町会

<数3>144 東泉町会

<数3>145 みのり町会

<数3>146 第十七東大泉住宅自治会

<数3>147 東大泉町中村町会

<数3>148 東大泉町第十六都営住宅自治会

<数3>149 東大泉町和泉町会

<数3>150 東大泉町井頭町会

<数3>151 東大泉富士見町会

<数3>152 むつみ会

<数3>153 長月会

<数3>154 宮本南町会

<数3>155 大泉住宅共栄会

<数3>156 宮野町会

<数3>157 東大泉仲町会

<数3>158 東大泉団地自治会

<数3>159 東大泉東町会

<数3>160 第十四都営住宅泉会

<数3>161 東大泉一丁目町会

<数3>162 第一生命住宅第一団地自治会

<数3>163 一新町会

<数3>164 もくれん会

<数3>165 西大泉町会

<数3>166 白樺自治会

<数3>167 西大泉緑泉町会

<数3>168 清流会

<数3>169 諏訪の台町会

<数3>170 西大泉第二町会(解散)

<数3>171 西大泉住宅泉会

<数3>172 西大泉北部町会

<数3>173 南大泉つくし町会

<数3>174 南大泉南泉町会

<数3>175 みなみ町会

<数3>176 南睦町会

<数3>177 泉ケ丘町会

<数3>178 南大泉弁天町会

<数3>179 南大泉町会

<数3>180 大泉学園町東町会

<数3>181 大泉学園町西町会

<数3>182 大泉学園町西新町会

<数3>183 大泉学園親交会

<数3>184 好友会

<数3>185 泉会

<数3>186 大泉学園緑台町会

<数3>187 大泉学園町仲町会

<数3>188 大泉学園南町会

<数3>189 大泉学園中央会

<数3>190 大泉学園東自治会

<数3>191 大泉学園町長久保地区町会長栄会

<数3>192 北大泉みすず町会

<数3>193 みつはし自治会

<数3>194 こぶし自治会

<数3>195 北大泉さつき町会

<数3>196 のぞみ会(解散)

<数3>197 双葉自治会

<数3>198 小町町会

<数3>199 北泉会

<数3>200 北大泉町会

<数3>201 練馬区北園町会

<数3>202 北泉町会

<数3>203 大泉学園長久保町会

<数3>204 上石神井公社住宅自治会