第十八章 学校教育
第十九章 社会教育
第二十章 社会体育
本文> <章>終戦当時、練馬地域には一七の国民学校があった。その内訳は練馬地区に九校、石神井地区に三校、大泉地区に五校である(
練馬管内の疎開児童の復帰は、伝染病発生の恐れがあったため例外的に早かった石神井東国民学校西方寺学寮の児童を除くと、昭和二〇年九月二七日から一〇月二六日頃までにほぼ完了した。
これに先立つ八月一五日、文部省は敗戦後はじめて、学校の再開に関する文部次官通牒「時局ノ変転ニ伴フ学校教育ニ関スル件」を発した。そこでは、平常の授業の復原再開を措置して、遅くとも九月中旬から授業を開始すべきこと、戦災学校についても種々の方法を講じて授業開始に努力すべきこと、教科書、教材の取り扱いについては十分注意を払い、一部授業を省略すること等が指示された。
校 名 所 在 地 設 立 年 月 日
上板橋第三国民学校 江古田町一九四三 昭和一五年四月一日
豊玉国民学校 豊玉中四丁目二ノ四 明治九年一一月一五日
豊玉第二国民学校 豊玉上二丁目一六 昭和一三年一一月二二日
開進第一国民学校 練馬仲町五丁目四七二〇 明治一五年四月一五日
開進第二国民学校 練馬南町三丁目五八六四 昭和三年四月一日
開進第三国民学校 練馬南町二丁目三七七七 昭和七年一月六日
練馬国民学校 練馬春日町二六六三 明治一〇年五月八日
練馬第二国民学校 練馬貫井町一〇一二 昭和六年四月一日
豊渓国民学校 練馬土支田町一丁目七二三 明治九年
石神井東国民学校 石神井谷原町二丁目二四一〇 明治一一年五月一八日
石神井西国民学校 石神井関町二丁目八一一 明治九年七月一〇日
石神井国民学校 下石神井二丁目一〇五五 明治七年五月一八日
大泉国民学校 東大泉町七八九 明治二五年六月一日
大泉国民学校第一分教場 北大泉町七三四 明治三〇年一一月四日
大泉国民学校第二分教場 南大泉町三四七 大正一年一〇月九日
大泉国民学校第三分教場 大泉学園町三一二二 大正八年四月一日
東京第三師範附属国民学校 東大泉町三一五 昭和一三年九月一日
画像を表示 画像を表示八月二七日になると東京都教育局より各学校に「九月一日より十月まで自由授業とするよう」との通達が出され、都内の各学校は形式的には授業の再開にふみきった。しかしながら多くの学童はなお疎開中であった。
九月一五日、文部省は、「新日本建設ノ教育方針」を公布し、一一項目にわたって基本的方策を示した。この第二項に記されていた「決戦教育ノ体勢タル学徒隊ノ組織ヲ廃シ戦
時的教育訓練ヲ一掃シテ平常ノ教科教授ニ復帰スル」ことが学童復帰の問題であった。練馬支所管内の児童は復帰した。しかし、すぐに教育が再開された訳ではない。児童が、教師がそしてそれらの家庭が疲弊、困
練馬管内の一七の国民学校のうち、校舎を焼失したのは二校、豊玉国民学校と練馬第二国民学校であった。当然両校では、教室の確保の問題が教育再開の前に立ちはだかった。両校の沿革史によれば、豊玉国民学校は、九月二〇日には、豊玉第二国民学校の二教室を借用して分散授業を行ない、翌二一年一月二六日には「校舎復興の地鎮祭を挙行」とある。
練馬第二国民学校の場合は、「昭和二十年九月 府立第四商業を借りて授業を開始す」、「昭和二十年十月二十二日 疎開学童無事帰還し翌日より四商の七教室を借りて全児童、二部教授をなす」とあるように、児童たちは間借り生活に伴う多くの不便に耐えねばならなかった。
画像を表示昭和二〇年九月二〇日、文部省は「終戦ニ伴フ教科用図書取扱方ニ関スル件」を公布し、中学校、青年学校、国民学校における教科用図書の内容中、「<項番>(イ)項番>国防軍備等ヲ強調セル教材、<項番>(ロ)項番>戦意昂揚ニ関スル教材、<項番>(ハ)項番>国際ノ和親ヲ妨グル虞アル教材」等については、「省略削除又ハ取扱上注意スベキ」ことを指示した。しかし、応急に新教科書を間に合わすこともできず、また紙資源も乏しい時代であったため、児童、生徒たちに、該当する部分を墨で塗りつぶしたり、紙をはりつけたりした教科書を使用させることになった。
施設、児童、生徒、教材の次は教授上の問題であった。敗戦による、教育理念の大転換の中における教師の混迷の程は想像するに難くない。これに対して文部省は、一〇月一五、一六日に新教育方針中央講習会を開き、一一月には都道府県別地方講習会を開催
したりして、先に公布した「新日本建設ノ教育方針」の趣旨を普及させることに努めた。しかしながら当時の行政当局の考え方は、一方で「軍国的思想及施策ヲ払拭シ平和国家ノ建設ヲ目途トシテ」(
これらの指令では、わが国の戦中、戦前における軍国主義および極端な国家主義に基づく教育方針に対して徹底的な改変がせまられていた。指令の趣旨は、後述の米国教育使節団による報告書でさらに徹底して示された。
この後、CIE(
こうして二二年三月三一日に、同会の建議を受けた文部省は、GHQと折衝をつづけ、学校教育法の制定をみたのである。これに基づいて新学制が発足することになった。
敗戦とともに旧体制のものはすべて破棄され、社会全体が虚脱感に陥っているかのような当時にあって、全国の子どもたちに、生気とうるおいを、そして夢と希望を与えたのが、連続ラジオドラマ「鐘の鳴る丘」であった。
<コラム page="967" position="right-bottom"> (古関裕而『鐘よ 鳴り響け』より)
作詞 菊田一夫
歌 川田正子・音羽ゆりかご会合唱団
主題歌「とんがり帽子」
一 緑の丘の赤い屋根
とんがり帽子の時計台
鐘が鳴ります キンコンカン
メイメイ小
風がそよそよ 丘の家
黄色いお窓は おいらの家よ
二 緑の丘の麦畑
おいらが一人でいる時に
鐘が鳴ります キンコンカン
鳴る鳴る鐘は父母の
元気でいろよと言う声よ
口笛吹いておいらは元気
三 とんがり帽子の時計台
夜になったら星が出る
鐘が鳴ります キンコンカン
おいらはかえる屋根の下
父さん母さん いないけど
丘のあの窓 おいらの家よ
四 おやすみなさい空の星
おやすみなさい仲間たち
鐘が鳴ります キンコンカン
昨日にまさる今日よりも
あしたは もっとしあわせに
みんななかよくおやすみなさい
なんという愛らしく、優しく詩情に満ちた美しい詩であろう。幼い日に不遇であり寂しさを味わった菊田さんならではの詩である。
何も知らず幼くて戦災で父や母を失った子供たちが巷にあふれ、救いたくても自分たちの食糧もまた十分腹を満たすには不足の時代だった。進駐軍も爆撃の悲惨な戦禍を目の当たりに見て、チョコレートを与える兵士も多かった。
昭和二十二年六月頃、CIEの指令で、戦災孤児、浮浪児救済のキャンペーンのために、この「鐘の鳴る丘」の放送が企画された。そして昭和二十二年七月五日に第一回が始まり、まる三年六か月の連続放送となり、昭和二十五年十二月二十九日、第七百九十回で大団円となり完了した。
最初、CIEは一回十五分間というアメリカのソープ・オベラ(主婦向けの昼間のメロドラマ)の形式をとることを命じた。わが国では、これまでの放送劇で最短時間でも二十分間であったから、菊田さんは、この指令をつっぱねたが、「アメリカでは、CM(コマーシャル・メッセージ)を入れて十五分の放送劇をしているからできないはずはない」と、強硬なCIEの指令に、ついに折れて承知した。初め、放送は毎週、土、日の二回で一年間の予定だった。音楽は予算が少ないから、できるだけ小編成で、という独活山さんと、あまり小編成では、雰囲気の表現がうまくできないという私とが対立した。
ちょうどその頃、進駐軍放送WVTRが始まっていたが、その修了番組に、ハモンド・オルガン独奏が毎晩あって、その音色が非常に多彩豊富で変化があり、幽幻な境地さえ表現できるので、私は、これを使おうと思いついた。菊田さんも独活山さんも、これに賛成。
放送局には、ハモンド・オルガンが発明された二年後、昭和十五年に一台購入してあった。時々バイプ・オルガンの代わりに使用されていた。奏者は、東京管絃楽団のメンバーであり、バイプ・オルガンも、アコーディオンも弾ける小暮正雄氏にお願いした。また一番大切なテューブラー・ベル(鐘)だけは、打楽器奏者でないと困るので、一名加えて演奏関係は二名と決まった。
さて、主題歌の詞ができ、オープニング・テーマの鐘の作曲に苦心した。単純で印象的で、この音を聞いただけで、子供たちがラジオの前にとんでくるくらい引きつけねばならない。関係者が試聴してOKとなり、歌手は川田正子さん。指導は海沼実さん。合唱は、ゆりかご会と決まった。
ナレーターは放送劇団の巌金四郎君。出演する子供たちは、巌君の友人で練馬区の小学校の先生が指導している児童劇のグループの五、六年生。大切な一番幼いミドリの役は三年生の女の子。出演の大人の役は放送劇団員であった。(以下略)
コラム>この放送は、昭和二二年頃、CIEの指示で、戦災孤児や浮浪児救済のキャンベーンのために企画された。同年七月五日に第一回の放送(
「鐘の鳴る丘」のあらすじは、一人の青年(
子ども達を指導したのは、同校の佐藤克彦教諭(
「みどりの丘の赤い屋根」の音楽が流れ出すと、道路で遊んでいた子ども達が魅せられたかのように家路を急いだ、というこの番組の与えた影響について、当時の豊二小校長木村薫氏は次のように記している。
<資料文>何しろ人気番組でしたので、各方面から各種各様の評価批判がありました。それはさておき、学校では佐藤先生は土曜日曜返上、他の先生方も共々、出演児は勿論全児童に学習のすきまやおくれが出ないよう気を配りました。放送の回が重なるにつれ「とんがり帽子の時計台」のテーマソングが全国の子供たちに歌われ、校内では児童が日に日に明るくなり、児童文化面ばかりでなく、各方面で進歩がみられました。
(
昭和二一年三月六日、GHQ(連合国最高司令部)の招請によって、わが国の教育改革の青写真を作成すべく米国教育使節団が来日した。同団は、約一か月弱の間、精力的な調査研究活動を行ない、三月三〇日、民主主義思想を基調とした教育改革のプランである「教育の機会均等」、「教育行政の地方分権」等を盛った報告書をGHQ最高司令官に提出した。序論および六章等から構成される報告書には、六・三・三制の学校体系、男女共学制、教育委員会制度(
文部省は、戦後まもなくGHQから発せられた諸指令やこの報告書に基づいて「新教育指針」を作成刊行し、全国に配布した。二一年五月から翌年二月までに四分冊に分けて発行されたこの指針は、「教育者の手びき」とするためにつくられたもので、新教育の理念、重点および方法について詳述されたものであった。この理念を実現すべく二一年八月には、
内閣総理大臣の所轄する教育刷新委員会が設置された。同会は、二一年一二月の第一回建議において早くも「教育の理念」、「教育基本法」、「学制」等について言及し、加えて新制中学校の設置を含む六・三・三・四制の新学校体系について提案を行なった。これをもとに二二年の三月三一日に制定されたのが教育基本法並びに学校教育法であった。こうして昭和二二年四月一日から新制中学校が発足をみたのである。昭和二一年四月、東京都教育刷新委員会が知事の諮問に答えるために発足すると、民主的な理念に基づいた新制中学校の構想を策定し、知事に答申した。練馬区分離独立前であった当時の板橋区では、この構想をうけて、新制中学校を発足させるための対策委員会が設置され、さらに内部に練馬管内の新制中学校設置委員会が設けられた。この委員会の実行委員会(加藤隆太郎委員長)は、練馬地域の事情等について各方面から検討を加え、板橋区全体で二五校、そのうち練馬管内に一三校を設置する旨決定した。左は当時の可決議案である。
<資料文>議案第拾参号
中学校設置の件
学校教育法第四十条に依り、区内中学校学齢生徒を就学させるため左記の通り中学校を設置する
学校名 | 位置 | 設置場所 | 通学区域 | 備考 |
---|---|---|---|---|
東京都板橋区立 練馬東中学校 |
板橋区 練馬貫井町五三〇 |
都立第四商業学校内 | 小竹町、江古田町 | |
同豊玉中学校 | 同石神井関町二ノ四一七 | 同石神井中学校内 | 豊玉町 | |
同中村中学校 | 同上石神井一ノ四〇 | 同井草高等女学校内 | 中村町 | |
同開進第一中学校 | 同練馬仲町五ノ四七二〇 | 開進第一小学校内 | 練馬北町、練馬仲町 | 同上通学区域内の二、三年生 徒は全部之に収容する |
同開進第二中学校 | 同練馬南町三ノ五九五二 | 開進第二小学校内 | 練馬南町三、四、五丁目 | |
同開進第三中学校 | 同練馬貫井町五三〇 | 都立第四商業学校内 | 練馬南町一、二丁目 | |
同練馬中学校 | 同練馬春日町一ノ二七三三 | 練馬小学校内 | 練馬春日町、練馬向山 町、練馬貫井町、練馬 高松町、練馬田柄町 |
練馬小学校通学区域内、練馬 南町一丁目~五丁目、豊玉町 中村町、小竹町、江古田町の二 三年生は全部之に収容する |
同豊渓中学校 | 同練馬土支田町一ノ七二三 | 豊渓小学校内 | 練馬土支田町 練馬高松町の一部 |
同上通学区域内二、三年生の 全部を之に収容する |
同石神井中学校 | 同下石神井二ノ一〇五〇 | 石神井小学校内 | 上石神井町 下石神井町 |
石神井地区二、三年生徒は全 部之に収容する |
同石神井東中学校 | 同石神井谷原町二ノ 二一四〇 |
石神井東小学校内 | 石神井谷原町、石神井田 中町、下石神井の一部 |
|
同石神井西中学校 | 同石神井関町二ノ四一七 | 都立石神井中学校内 | 石神井関町一、二、三 丁目、立野町 |
|
同大泉第一中学校 | 同東大泉町七八九 | 大泉小学校内 | 西大泉町、大泉学園町 | 大泉地区の二、三年生徒は全 部之に収容する |
同大泉第二中学校 | 同東大泉町三八〇 | 都立大泉中学校内 | 東大泉町、南大泉町 北大泉町 |
計二十四校(現板橋区立中学校分の一一校は省略した)
昭和二十二年四月十六日提出
東京都板橋区長 牛田正憲
昭和二十二年四月日可決(原資料のママ)
こうして新制の中学校は、昭和二二年四月一日の発足を待った。しかしながら、全国各地の中学校の開校は、校舎等施設の問題や学区域の問題、さらに旧制の諸学校からの進学者の振り分け、教員人事その他の難題に直面し大幅に遅れた。練馬管内においても例外ではなく、特に設置場所の問題では苦しんだ。当時の多くの中学校は、地元の小学校の教室を借用して
開校したが、その余裕のないところでは、練馬管内の行政職員が管内の都立校や私立校に対して校舎の借用願いのため懇請にかけめぐった。その努力が実り、表<数2>18数2>―1にみられるように都立学校の協力がえられたため、四月一九日付で一三校の各校長が任命され、新制中学校が発足されることとなった。これらの学校は、昭和二二年八月一日に練馬区が板橋区から分離独立すると、校名を練馬区立○○中学校と改称し、表<数2>18数2>―1の態勢はそのまま引き継がれることとなった。
図表を表示 本文> 項> <項>発足当初の新制中学校関係者が抱いていた願いは、独立校舎をいかにしてもつかということであった。それは現在の恵まれた教育環境に育った者には理解し難いもので、苦難の時代を体験した者のみがしる切々たる願望であった。当時、区内の新制中学校一三校の校舎は、都立学校、小学校へ間借りすることによって確保されていたが、これは借りる方、貸す方に多大の影響を与えていた。
昭和二二年当時、大泉第一中学校(
「当時私は、大泉第一中学校におりました。中学校とは名ばかりで、人数もすくなく、大泉小学校の校舎(平屋の古校舎)に間借りしておりましたが、教室不足の関係で一つの教室を二つに仕切って使っておりました。ところがその仕切りたるやつい立にすこしましな程度、上はすいていて、のぞき見自由という状態、後方の生徒は、隣の教室からの声の方がよく聞えるわけで、こういう教室で生徒に、自分の授業に耳を傾けさせるには、たいへんな苦労が必要でした」(
他方、家主に当る大泉小学校は、当時の苦労の程を「新制中学校に校舎を貸与したため、三年生以下は二部授業の窮屈な状態で、新教育のスタートをみた」(
二部授業は本区でも多くの学校、学級で行なわれていた。その形態は学校の事情によりさまざまであったが、概ね次のようであった。
<資料文>「当時(
本区における二部授業は、中学校各校が独立校舎を曲がりなりにももつことになる昭和二三、二四年以後も続き、他区に比して長期にわたった。二部授業は大田区、板橋区など周辺区に共通した現象ではあったが、昭和三〇年五月現在の区立小学校総学級数(
各校校舎を借りる側の中学校関係者の苦しみは、精神的な面と、環境的なそれとの二面があった。まず、当時の教師の心労の一端を、中村、石神井両中学校の場合を例にみておきたい。
<資料文>「私がこの中学に来た当時は八十余名の生徒に、高橋校長外三名という教師陣で細々と一か年を送り、第二年目を迎える頃であった。井草高校の粗末な教室を(
「草創期のため中学校としての校舎もなく石神井小学校に間借り生活を致す状態でした。私達は(
教育環境の劣悪さも大変なものであった。開校当時、開進第一小学校の西側にあった荒れた校舎を借用した開進第一中学校は、二年目の昭和二三年も校舎ができないため、教室不足のため再度開一小より講堂を借用し、間仕切りして四教室とした。だがその「間仕切りはベニヤ板であったので、間仕切りのそばの生徒は隣りの先生の声がよくきこえるので、非常にこまったようである」(
次に当時の様子を旭丘中、豊玉中、練馬中、豊渓中、石神井中、石神井西中の記念誌からひろってみる。
<資料文>「創設時代の旭丘中学は開進第三中学と併置され、校舎も都立四商の一部に間借りをした有様であり、教室と机はあったものの窓のガラスは殆んど破れて、土埃が吹きこむような状態の中で勉強が始められた…」(
「入学当初は、石神井高校に間借りをしておりましたが、教室に充分な机、椅子がなく板の間に座っての授業や、芝生の上で英語を学ぶという文字通り青空教室の連続でした」(
「…練馬小学校の南側の校舎に間借りしていた。職員は校長以下十名位であった。小学校から机・椅子を借用していたので、全校生徒には行きわたらず、床に坐っていた生徒もいたように憶えている」(
「長く忘れることのない想い出として、習字の教材も、叮寧に新聞紙を半紙大にして練習した。真黒になるまで、半紙は清書の時位しか使わなかった。(
「小学校に間借りしての生活の中には、すりへった畳に裁縫台を机がわりにしての座学もあったし、老朽化した木造体育館の床に、べったりと腰をおろしての学習もあった」(
「石神井高校に間借りしていた頃ですから、机も椅子もなく、教科書、ノートを床に広げて座布団に坐って勉強していました。教科書もガリ刷りで、自分達でとじて使ったように思います。ポキポキすぐ折れてなめらかに書けない鉛筆、消ゴムで消すとすぐ破れるテストペーパー。運動靴が配給制で、抽選にはいつもはずれて情ない思いをしました」(
このような状態を打開するための第一歩として、独立校舎を求める声は各中学校の父母、教師、地域住民その他心ある人人からわきあがり、各校では多くの苦労を重ねながらも次々に独立校舎を入手していった。新制中学校一二校の独立校舎取得関係の記事を、各校の記念誌等から拾えば左のとおりである(
旭丘中学校(
二二・ 八・二二 校舎建設期成会都施設課へ校舎建設促進陳情として出張
二三・ 九・一八 校舎落成祝賀式挙行
同 ・ 九・二七 都立第四商業高校生との離別式挙行
画像を表示豊玉中学校
二三・ 五・一四 新校舎敷地が現在の地に決定し起工式挙行(
同 ・ 九・ 六 二年生石神井高校より豊玉小へ移転、分散二部授業実施
同 ・一一・二三 新校舎上棟式
二四・ 四・ 一 新校舎へ移転(
中村中学校
二三・一一・二八 校舎建設協賛会結成
二五・ 八・二三 新校舎落成
画像を表示 画像を表示開進第一中学校
二四・ 六・二七 新校舎が現在地に竣工、普通教室一〇、音楽室一
同 ・ 七・ 一 新校舎に移転完了 四学級は一小残留
開進第二中学校
二四・ 五・ 二 現在地に校舎竣工
開進第三中学校
二二・ 六 校舎建設期成会結成 会長浅見平蔵氏
同 ・一〇 校地決定(
二三・ 四 新校舎起工式を挙行
同 ・ 九 新校舎落成し、練馬東中学校と共に移転開校す
二四・ 七 増築校舎三教室竣工
二五・ 四 開進第三中学校校舎建設期成会結成 会長浅見半蔵氏
同 ・ 五 校地決定(
二六・ 八 北棟十教室竣工、九月に移転開校
画像を表示練馬中学校
二三・ 九・ 七 東京都練馬区高松町一の三二六三番地に元逓信省無線電信学校講習所を買収して移転完了
二六・ 七・二四 新校舎上棟式挙行(
二七・ 二・ 八 新校舎竣工
同 ・ 二・一九 新校舎に移転(
豊渓中学校
二三・ 八・二二 校舎建設促進父母大会開催
九・二一 同陳情署名運動実施
二五・ 一・一九 旭町五一七番地に校地決定測量開始
同 ・ 七・二一 新校舎に移転、使用開始
画像を表示石神井中学校
二四・ 四・一七 校舎新築工事着工
同 ・ 七・一八 同 上棟式
同 ・一〇・三一 同 工事竣工
同 ・一一・ 二 新校舎に移転
石神井東中学校
二三・ 五・ 一 校舎として元富士見台病院を買収し、第一期改修工事に着手
同 ・一〇・ 五 南田中校舎(
二四・四・一 第一期校舎改修工事竣工
石神井西中学校
二四・ 一・二二 現校舎敷地現場で地鎮祭挙行
同 ・ 三・一三 新校舎起工式兼上棟式を現場で挙行
同 ・ 六・一一 間借りの石神井高等学校より新築校舎へ移転
画像を表示大泉中学校
二三・一〇・二五 大泉中学校現在地に発足(
教育の営みは内容こそさまざまな変遷があったが戦前戦後を通じて休むことなく行なわれていた。本区の教育活動を推進
する使命を持つ教育委員会は昭和二七年に発足したが、それ以前にも教育を担当する組織は存在していた。それは教育課で、本区が板橋区から独立する以前から独立後教育委員会が発足するまでの間、練馬、石神井の両支所においてそれぞれ執務されていた。本区における教育課および教育委員会の歴史を語る場合、制度および組織の変遷からとらえる方法と、その取り組んだ事業内容との関係でとらえる方法とが考えられる。ここでは前者の方法をとり区教育委員会の歩みを概観する。後者の方法については本章各節に多かれ少なかれ取り入れられているからである。
米国教育使節団の報告書は第三章において、戦前のわが国の教育行政を極度に中央集権化されたものとして批判し、教育行政の地方分権の実現について強く勧告している。その要点は、①文部省の権限の縮小と組織の性格変更、②教育委員会の設置、の二点であった。これらの点はわが国の教育刷新委員会(
本区の第一回教育委員選挙は、東京都各区および全国の市町村と同様、昭和二七年一〇月五日に行なわれた。選挙に先立って地方教育委員会の設置に反対する世論も盛り上りをみせ、本区においても練馬区立小・中学校校長会、練馬区立小・中学校PTA連合会、都教職員組合練馬支部などから教育委員会設置延期の請願が区議会に提出された。しかしながら曲折を
経て全国一斉設置が決まったため、本区でも選挙が実施の運びとなった。その結果、町田甲彦、宮瀬睦夫、豊島斉一、木戸田芳太郎の四名が当選し、練馬区議会から一〇月二九日に選出された豊田勝男を加えた五名が練馬区初の教育委員に就任した。第一回練馬区教育委員会は一一月一日に開催され、委員長に豊島斉一、副委員長に木戸田芳太郎を決定し、教育委員会の事務を掌る事務局組織(公選制教育委員会制度を戦前の教育行政のあり方と較べた場合、その特色が際立ってくる。即ち戦前においては、地域住民はおろか地方公共団体が、教育の内容に関する事項や教育人事に関してその意思を反映させることはほとんど困難な状態であったのに対し、戦後は、地方公共団体に教育行政の責任体としての教育委員会を設置し、これに自治体のすべての教育関係事務を執行させることとした。しかも委員会の委員は住民が直接選挙によって選任でき、公正な民意によって地方の実情に即した教育行政が行なわれるべく企図されていたのである。
しかし、教委制度が国民世論の下からの盛り上り、あるいは市町村の必要性から出てきたものではなかったため、その優れた意義は大方の理解するところとならなかった。むしろ、教委は教育に関する議決機関兼執行機関として位置づけられたため、地方自治体行政の一元化を阻害する、あるいは教委の経費が自治体財政にとって過重な負担となっている、などの点
が問題点として浮かび上ってきた。こうして教委制度の改革が論議されるようになると、昭和三〇年七月、松村文相は都道府県教委の選任方法を公選制から任命制に切りかえることをねらいとした改正の具体化を事務当局に命じた。翌三一年一月一六日、自民党文教制度調査特別委員会は教育委員会制度改正要綱を発表し、三月八日には「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」案が内閣から国会へ提出された。この新教育委員会法案に反対する世論は急速に高まり、東大、早大など東京の一〇大学長、関西の一三大学長がそれぞれ反対声明(
六月三〇日の文部次官通達「地方教育行政の組織及び運営に関する法律等の施行について」によれば、「新法の主眼とするところは、教育の政治的中立と教育行政の安定を確保し、教育行政と一般行政との調和を進め、教育行政における国、都道府県および市町村の連係を密にすることの三点にある」。この趣旨に沿って教委制度は教育委員の任命制ほか数々の抜本的な改正がなされた。市町村教委に対しては都道府県教委の、都道府県教委に対しては文部大臣の指導的な地位が明確化され、わが国教育行政の一元化が図られたのである。
一〇月一日、任命制の教育委員会が全国一斉に発足した。練馬区でも区長名により第一回の教育委員会臨時会が招集された。六月三〇日に既に発令されていた五名の委員が参会し、まず委員長、委員長職務代理者、議席などが決められ、ついで教育長候補者が決定された。教育長任命については都教育委員会の承認がいるため、その承認を待って同日午後四時すぎに任命が決定された。
東京都練馬区教育委員会委員長 町田甲彦(
同 委員長職務代理 今井時郎(
同 委員 那須信吾(
同 委員 岡安文江(
同 委員兼教育長 松尾周男(
事務局組織は、第二回の教育委員会定例会(
それから二四年の歳月が流れた。この間、四一年一二月には学校給食課が、四六年六月には社会体育課が、そして四八年一二月には次長並びに施設課が設置されている。昭和五五年六月一日現在の事務局組織及び分掌事務は表<数2>18数2>―4の通りである。
図表を表示 図表を表示 本文> 節> <節>本区の驚異的ともいえる人口増はそのまま児童生徒の増加を意味し、教育行政は長期にわたってその対策に苦慮してきた。教室不足の問題、二部授業の問題、学区域の問題などはいずれも児童生徒の増加と密接に関連するものであり、それらがまた各々いくつかの教育問題を生み、本区の教育史を形づくってきたのである。
戦後三〇数年間、本区の行政当局が一貫して莫大な予算をつぎ込み取り組んできた学校の教室等施設建設の歴史を振りかえってみる。
本区の児童生徒の数はどのように変遷し増加をしてきたか。図<数2>18数2>―1はそれに答えるべく作成したものである。小学校児童数は戦後急速なカーブを描いて上昇をし続けている。特に、海外からの七〇〇万人以上といわれる復員および引揚げがほぼ完了する昭和二一、二二年以後三年間にわたった、いわゆるベビーブーム期に誕生した子どもたちが、小学校に入学してくる二九年から卒業が始まる三四年までの伸びは一万人以上にのぼった。この波はそのまま中学校生徒数に及び、三五年から三七年までの勾配の上昇に表われている。三五年から数年間児童数の横ばい状態が続いたが、三九年頃から再び増加に転じている。生徒数もほぼ同様の傾向を示しているが、勾配の強さに差があるのは、区外の学校へ通学する者ないし私立学校等へ通学する者が相当数あるためと思われる。
児童生徒数の増大に伴ない教員数もそれぞれ着実な増員がなされてきた。図<数2>18数2>―2にみられるように、教員増員の軌跡も児童生徒と同様な傾向を示している。男女別では、中学校においては男女ともに漸増してきているとはいえ、一貫して男子教員が多いのに対し、小学校では四二年を境に女子教員が激増し、五四年現在で男子の二倍に迫まる勢いを示している。小・中学校を通じて女性の教育界への進出ぶりを窺い知ることができる。
画像を表示 画像を表示学校教育を成立される要件として児童生徒、教員のほかに、教場としての学校および教材をあげることができる。本区の場合、教場を確保する問題こそが、地域住民および行政当局の頭を悩ませた長期にわたる課題であった。
昭和二二年八月の練馬区独立当時、区内には一七の小学校が存在した。その後二七年まで学校増設はすえおかれ、一方で児童の増加が逐年進んだため、必然的に教室での正常な運営が不可能な事態が現出した。いわゆる二部授業の実施である。新たに発足した新制中学校へ校舎の一部を貸与した小学校(
(
…(
昭和二十六年三月三十日
東京都練馬区立中村小学校長 池 澤 一 志
同 父母と先生の会々長 松 本 操
同 副会長 菅 原 浜 郎
同 萩 原 きくよ
同 清 涼 としえ
同 元校舎建設協賛会々長 西 貝八十次郎
(
練馬区長 臼井五十三殿
練馬区議会議長 梅内正雄殿
資料文>中村小の右のような実情は決して特殊なものではなく他の多くの学校においても同様であった。もう一例、開進第三小学校の場合をあげておく。
<資料文>(
…(
昭和二十六年十二月十八日
練馬区立開進第三小学校PTA
(
練馬区議会議長 篠田鎮雄殿
資料文>昭和二六年四月一日現在の二部授業実施校数は、区立一七小学校中一〇校に及び、練馬地区で七校(
当時の教室不足は全国的な問題ではあったが、激しい戦禍に見舞われた東京都においては特に甚しいものがあった(
昭和三一年五月三一日現在、本区には二七の区立小学校が存在したが、このうち一二校七二教室が二部授業を実施し、教室が不足しているのは一二校三六教室に及んでいた(
東京都は昭和三二年度から、二部授業、圧縮学級の解消、特別教室の建設および屋内運動場の整備方針をたて、三二年度一二三八教室、三三年度一〇八三教室を建設した。その努力と三二年度からの児童数の減少が相俟って、三四年には「いちおう、二部授業は解消した」(
しかし、荒川、足立、江戸川など周辺区では二部授業を余儀なくされた学校学級が若干残り五九校三三八教室(
二部授業を何とか避けようとする場合、一学級に六〇人以上もの児童生徒を収容しなければならなかった。これを俗に圧縮学級あるいはすしづめ学級といった。都、区一体となった教室建設の努力はようやく二部授業解消にまでこぎつけたが、それは特別教室等を普通教室に転用することや、すしづめ学級を編成することによってのものであり、一方で児童生徒の増加があったため、行政当局では引き続いて校舎の建設等に追われることになる。
画像を表示都では三二年度の第一学年からはじまった児童数の減少化傾向や、三五年から三七年にかけて予想される中学校生徒数の激増とその後に予想される減少等の複雑な様相を慎重に検討し、昭和三四年度を初年度とした第三次施設整備五か年計画を策定した。その内容は、<項番>(1)項番>すしづめ教室解消、<項番>(2)項番>新学習指導要領に基づく特別教室の確保、<項番>(3)項番>危険校舎の改築、<項番>(4)項番>屋内運動場建設、<項番>(5)項番>校地取得を骨子とするものであった。
すしづめ学級の解消は一学級あたりの定数を定めることによって徐々に行なわれた。文部省は年度別に一学級の最大人員を設けたが、それによると小学校については三五年度五六名、三六年度五四名、三七年度五二名、三八年度五〇名で、中学校は三五年度五三名、三六年度五二名、三七年度五一名、三八年度五〇名であった。
本区でもこれに従って定数の減少に努めたが、この実現には学級の増設を必要とするため、引き続いて校舎の増・改築が行なわれた。ちなみに三四年と三八年(
「父母と教師の会」すなわちPTAが、戦後わが国の学校建設に果した役割は大きなものがある。もちろん本区も例外ではなかった。本区の小中学校PTAの多くは昭和二三、二四年頃発足した。元来PTAは戦後のGHQの教育改革の一環としてその結成を勧奨、指導されたものであり、教育を戦前のように行政当局や教師の独占物ではなく「国民全般の手によって行なわれる」(
練馬区教育委員会殿
‥(
明昭和三二年創立三〇周年を迎えるに当り、記念事業として全父兄児童の要望により「鉄骨モルタル、建坪百弐拾坪、工費約五百万円」の講堂を建設することに決定致しました。
本校のPTAは学校の施設の充実や教育活動全般に亘り常に最大の援助と協力を続け、最近に於ける主な事業には「教材教具の整備」「西側隣接地約二二〇坪の買収」「校庭の砕石による簡易舗装」「校庭南側に三十八間の板塀建設」「校地周囲に高さ四尺長さ三十八間の石垣工事」「正門、裏門に鉄扉の建設」「北側運動場周囲に高さ五尺長さ八十四間の石垣工事及び鉄柱金網塀の建設」等その活動はめざましいものがありました。従ってこれ等に要した経費も巨額にのぼっております。この父兄の絶大な協力と熱意をおくみとり下さいまして応分の御支援を賜りますようお願い申上げます。
昭和三十一年六月二十三日
練馬区立開進第二小学校PTA会長 木 下 英 二
同 三十周年記念特別事業委員長 渡 部 悦 雄
練馬区立開進第二小学校長 石 坂 艶 治
資料文>このような「絶大な協力と熱意」はどこの学校PTAにおいても大差のないものではあったが、捻出される経費については自ずから地域によって差があるため、PTAの集金能力によって子どもたちの教育の機会均等を欠くという矛盾した状況が現出した。またPTAが、公費で負担すべきものを税外負担することの不自然さも社会問題化してきた。昭和三五年一〇月一七日、栗林繁実教育長は当時のPTA負担の現状、行政側の対応、姿勢について次のように語っている。
<資料文>「三四年度におけるPTAの負担費の状況を申し上げますと、PTAの本来の活動、自身の運営に関する費用を差し引きまして、小学校では千四百二十九万余、中学校では七百九万余のPTA負担がございまして、合計二千百三十九万余の負担をおかけしておったわけでございます。これに対しまして区教育充実費軽減の趣旨による予算措置によりまして、小学校では千三十万、中学校では七百五十万、合計千七百八十三万を負担して参ったわけでございます。本年度におきましては、PTAの教育充実費が増額されまして、約その倍額になったわけでございます。(
しかしながら、現実にはPTA側の教育の施設内容充実への要望もまだ大きなものがあったため、PTAの負担は依然として続いた。これについて同教育長は「それぞれの学校につきまして指導の手を差しのべて、できる限り父兄の負担を軽減する考えで」あるとその姿勢を明らかにしている。
だがこの問題は容易に解消しない。昭和三八年に地方財政法が改正されると、東京都では同年七月に学校教育費の私費負担解消について厳しい通達を出した。これに対して本区ではこの趣旨の経費として八七〇〇万円を計上しているが、解消には至らなかった。そこで都教育委員会は、昭和四二年三月に再度通達を出し、学校運営に要する経費の公費、私費の負担区分を明確にしたうえで学校運営費標準を作成し、これに基づいて、四二年度を期して私費負担を解消するよう財源措置した。この通達ではPTA等からの学校後援のための寄付受領を禁止しており、こうしてPTAは、戦後の現実が要求したひ
とつの歴史的使命を終えた。各校PTAは新たな活動を本来の理念に基づいて模索していくことになったのである。不充分ながらも各学校の教室整備が進み、二部授業が解消されてくるようになると、学校関係者特に中学校の父母を中心とする地域住民の目は体育館兼講堂等の建設に注がれてきた。東京都では昭和三二年度から屋内運動場(
昭和三〇年頃、本区内のいくつかの中学校では、PTAを中心に自力で体育館兼講堂の建設を決意した。旭丘中と開進三中である。両校ではPTA、地元有志を中心に建設協賛会を結成して資金の調達に努力した。旭丘中では、昭和三一年に区教育に対して、十周年記念事業委員長名で二度にわたって陳情書を提出して補助金交付の請願をしている。関係者は「PTAは勿論、地域を挙げてこの事業の達成に努めて参りましたが何分にも多額の費用を要しますので所期の資金を調達することに非常な困難をいたして居る実情」(
開進三中の場合も問題は莫大な資金をどう捻出するかにあったが、同校および建設委員会では学校債の発行でこれに当った。四代校長富田義雄氏が「数千万円にのぼる学校債の返還は、財政的にはいうまでもないが、事務的負担においても、学校やPTAの能力をはるかにこえるものであった」(
こうして三二年五月に、私費負担による講堂が中学校二校に建設された。しかし一方、都および本区の体育館兼講堂建設
予算が全く、あるいはほとんどない時代において、本区では私費負担を極力少なくする方途として次の施策がとられた。それは、当時貧困区が共同して大井競馬場で行なっていた公営競馬の益金分配分を利用して建設しようとするもので、“公民館兼分館”として建てられた。規模はいずれも一〇〇坪ぐらいの狭小なもので、大泉中(前述したようにPTA等からの寄付の受領は、三八年以降に厳しく禁止されるようになるが、本区の体育館兼講堂は、公費によって建設されたものを含めて、この頃までにほぼ全校に及んだのである(
校舎建設が進み、体育館も多くの小中学校で保有されるようになると、学校関係者の次の目標はプール建設に移されるようになった。本区における学校プールの建設は昭和一八年頃には始まっている。このプールは空襲による火災対策のため、防火用貯水池として造られたもので、それを遊泳池として学校が利用したのである。従って規格等も正式のものではなかった。沿革史他によると旭丘小、豊玉小、開進三小、および現在地に移転する前の豊渓小にこの種のプールがあり、戦後も利用されている。
戦後の建設になる初のプールは、昭和二六年七月一八日に竣工した旭丘小のプールである。それは戦前の一八年九月三日に竣工した貯水池兼プールを改築したものであり、規模は長さ二五m、幅八mで当時としては立派なものであった。このプールは、戦時中のプールと同じく防火用水槽を兼ねており、失業対策事業として日傭労務者によって建てられた初のものである。機械化の進んでいない時代のこのプールは、半地下式であり、穴を掘る、松丸太を打ち込む、鉄筋組合せ、コンクリ
ート流し、犬走りの設置等の作業を、労力と時間をかけることによって一つひとつ造られていった。財源の乏しい時代のプール建設は大変なことであった。加えて、わずか夏季の三か月弱の期間のためにプールをつくるより、もっと必要とする事業があるとする論もあり、その道は決して平坦ではなかったのである。 <コラム page="998" position="right-bottom">建設の苦心
…プールですが、一回では無理だからということで(
区としては助成できない、そこで失業対策事業として、二千人か三千人の労力をいただいたわけです。また材料費として、五〇万円支給のところを一〇〇万円にしてもらいました。
当時はニコ四さん(
(
その後、三二年に中学校としては戦後第一号のプールが竣工しているが、本区のプール建設が本格的に開始されるようになるのは三五年度からである。この年度から東京都は、失業対策事業として各区および都下の市町村に対してプール建設を行なうこととし、以後毎年度約五〇基の配分を開始した。本区は他区と比べてプールに恵まれていなかったため三五年度においては四基の配分をうけ、三六、三七年度は各三基の配分を受けている。日傭労務者による仕事は主に能率的な面で多くの問題をかかえていたが、予算の乏しい当時にあって、教育施設建設への貢献は大きなものがあった。財政事情が好転するにつれて、徐々に区費による業者請負のプール建設もはじまり、失対事業によるもの(
昭和四七年になると、本区のすべての小中学校にはプールが整備されるようになった。だが近年急速に進んだ宅地化のあおりを受けて、かつてのように充分な広さの校地取得が困難になったため、近年の校地の狭い学校のプール建設には新たな悩みがある。校庭への設置が、運動場の広さに影響するため難しくなったのである。そこで苦肉の策として登場してきたのが校舎や体育館の上にプールを設置する案であった。昭和四九年建設の大泉北小、大泉西小、五〇年の関中は体育館上に設置されており、五三年の三原台中、大泉学園緑小、五四年の北原小は校舎上に設置されている。
どんなにボロであろうがまず独立校舎を。この発足当初の新制中学校共通の悲願も、まもなくして達成された。だがにわか仕立ての校舎は痛みも極めて早く、早速改修が必要となった。一例を豊玉中学校にとれば次のようであった。
「建築当時諸種の条件に恵まれなかった為か建物就中其の装置が極めて粗悪であって竣成直後からも夙に諸所補修の必要を見る如き状態にありましたが頃者に到り最早相当徹底的補鞏の手を加うるに非ずんば建物保存上憂慮すべき事態を醸成すべきこと火を睹るより明かな程度に到達致しておる…」 (
小学校の場合、戦災で校舎を焼失したためバラック校舎を建てた豊玉小と練馬第二小はもちろんのこと、戦災をまぬがれた戦前から続いているほとんどの学校についても、中学校と大同小異の状態にあった。
画像を表示これに対して東京都では老朽化による危険校舎改築事業を実施し、区にも毎年事業量の配分
があった。だが予算の関係でその量は極めて少なく、戦後一〇年を経過した三一年でも九教室(四代校長 小松崎 寛
ブレコン校舎はコンクリートの板で作った校舎で、箱の中にはいったような気持ちのする教室です。ゆかやろうかもコンクリートだし、かべはところどころ鋲でつないであり、くるわないようにななめに鉄のぼうでささえてありました。戦後材料のないころに建てたもので、できたころは、都の役人も見にきて、大へんりっぱだと感心したそうです。ですが、夏は三十度にもなり、冬はとても寒く、大きな地しんがあったら大変だというので、区にお願いして、今の鉄筋校舎に建てかえました。白いコンクリートの板が、鉄の大きな玉で次々にこわされていくのを、なんとなくおしい、かわいそうだという気持ちで、みんなが見つめていた姿が思い出されます。 (
三二年度に、東京都から六三制学校建物整備事業として本区に割当てられた教室数は七二あった。本区ではこのうち一八教室を鉄筋化すべく計画し、後に次の三校に初の鉄筋校舎が竣工している。
①旭丘小学校(
②開進第三小学校(
③石神井西小学校(
しかしながら、この段階ではまだ例外的で、本区の校舎鉄筋化は三〇年代の後半から漸進してくるが、本格的になるのは四〇年代に入った頃からといえる。特に昭和四七年度からは区内小中学校全校の鉄筋化をねらいとした三か年計画を実施したため、昭和五〇年には特殊事情の学校(
二三区の中でも一、二を争う人口急増区である本区は、毎年新設校の建設、教室の増設等に悩んでいたが、そのような状況下においても教育効果を上げるべく様々な試みがもたれた。そのひとつが校外の恵まれた自然環境の中で行なわれる「移動教室」「臨海学校」あるいは「林間学校」である。
画像を表示しかし、戦後長い間本区には専用の区立校外施設がないため、民間等の施設を借りうけ、希望者を対象にこれらの「教室」等が実施されていた。これは学校の計画が宿泊業者の都合に左右されたり、費用の点等で問題が多かったため、区立の校外施設を求める声が徐々に高まってきた。こうして昭和四〇年五月一〇日、浅間山ろく軽井沢高原に開設されたのが軽井沢高原寮である。本区初の校外施設である同寮は三九年三月九日に、宅地約九六九六㎡を軽井沢町より八七九万九一八〇円で買い入れ、三九年度中に鉄筋・木造・ブロック造り一部平家、一部二階建て、延面積一五一六㎡の大半を完成した。工事費は四三八〇万五〇〇〇円(
昭和四五年七月一日には下田臨海寮が開設された。同寮は、先に(
その後も続く児童生徒の増加は、二つの校外施設では対応が困難な状態にまで陥らせ、第三の校外施設の建設を要望する声が次第に高まりをみせた。こうして本年(
この施設は、約六万四六三〇㎡という広大な敷地面積の中に建てられたもので、鉄筋コンクリート造り三階建て、建築延面積三七〇五㎡を有する。建築費が六億八九五〇万円におよんだ建物は、五四年三月一四日に着工し翌五五年二月一日に完成している。
定員は三〇〇名で、施設内容は宿泊室二〇室、指導員室六室、研修室一室、体育館(
本区では、児童生徒一人ひとりが安全でよりよい教育環境のもとで勉学し、学習効果を十分に高めることができるよう学校施設の整備充実に努めてきた。校舎等の増設にはらわれた長期におよぶ教育関係者の努力については既述してきたが、それ以外でも関係者を悩ませた大きな問題があった。
それは学校用地(
教室の整備に関しては、行政当局等の必死の努力にもかかわらず、戦後の長い間児童生徒の増加に追いつかないというのが現状であった。だがそれも、大泉地区や中村・石神井地区など依然として人口の増加がみられる地区の学校を除いて、不足教室がようやくにして解消されつつある。特別教室については、当面小学校六教室、中学校一〇教室を保有目標にして、
現在一部残されている未保有校を整備中である。 画像を表示屋内運動場およびプールについては前述のように現在既に全校に設置されているが、前者については、老朽化の進んでい
るものまたは著しく狭隘なものの改築を進めている。また、四九年度から建設のものについては、社会教育施設としても使用可能なように便所、更衣室、ミーティングルーム等を備えた開放型で建設されている。このほか、公害防止対策の一環として、被害の大きな学校については空気清浄機、冷暖房機等が設置されている。さらに校庭緑化に努めている。
昭和五五年五月一日現在、本区には六〇の小学校と二九の中学校とがある。それぞれの学校にはそれぞれの児童生徒が、教師が、そして父母・PTAをはじめとする地域住民が苦しみ悩みながら築いてきた生きた歴史がある(
昭和五五年四月、旧石神井東中学校跡地(
学校教育専用施設 学習相談室、教育相談室、検査室、プレイ室、研究資料閲覧室、研究室、教材教具開発研究室
共用施設 視聴覚室、工作室、料理室、和室、会議室、講座室(
区民専用施設 談話室(
総合教育センターは、<項番>(1)項番>学校教育の質的向上、<項番>(2)項番>社会教育の充実振興、<項番>(3)項番>地域住民の相互交流、自主活動の場の提供など
を目的に開設されたもので、その事業は次にあげるように、「総合教育」の名にふさわしい多彩なものがある。視聴覚事業は従来区教育委員会社会教育課の分掌事務となっていたが、このセンター開設とともに移管された。同センターには関係者の間で長い間懸案となっていた視聴覚室や各種の視聴覚機器が整備されている。
<項番>(4)項番>地域住民の自主的活動に関すること ・相互交流、学習活動の場の提供。・自主活動等に対する指導、助言、相談および財政的援助。
児童生徒に対し特定の学校への通学を指定する試みは戦前から実施されており、戦後に受け継がれた。昭和二二年の教育基本法制定とともに教育の機会均等を実現するという観点から、小、中学校別に通学区域が設けられたが、本区の場合、小学校においては二七年まで、中学校においては三二年までその変更はみられない。新設校の建設ラッシュがはじまる以前だ
からである。小学校では二七年九月一日開校(
昭和三五年三月の「区議会議事速記録」には次のようなやりとりがみられる。
<資料文 type="1-60">「…上石神井二丁目一千番台の番地は、石神井西中学校の管轄になっております。ところがその中問には上石神井中学校がある。その上石神井二丁目の一千番台に住んでいる人たちは約三十分ないし三十五分の時間をかけて、石神井西中学校に通学することになっている。(
これに対して松尾周男教育長は「ただいまのところ変更する意思がない」とし、その理由として次の三点を述べている。
<資料文 type="1-60">①学区域の設定は、将来その区域に何校建設するかという将来計画のもとにきめている。
②現在の学区域は、それぞれ地元の学校あるいは父兄と十分に協議して決定したものである。
③この変更は、教育委員会の方針あるいは学校の運営にも影響する。
資料文>ところが昭和四〇年代に入ると、依然として続く人口増、車輛交通量の増大等によって生活環境はさらに悪化してきたため、通学区域変更への要望・陳情もあちこちから出されるようになった。当時における通学区域問題の緊急重大性の程は、上野唯郎教育長の次の答弁からもうかがわれる。
<資料文 type="1-60">「通学区域の問題でございますが、交通事情は日に増して悪化を来たしてまいってきておりますので、ぜひ早急に通学区域の変更を
しなければならぬというふうに、私どもも目下の急務であるというふうに考えております。目下検討中でございます…」(昭和四九年五月、学校関係者、委員会関係者一三名の構成で、練馬区就学対策協議会が発足した。同協議会において、本区の児童・生徒の就学に必要な事項の全般的な調査および協議が行なわれ、通学区域制度の意義、通学区域設定の考え方、指定校変更申立ての承認基準等の基本的考え方が提案された。
それによれば、通学区域の設定は、次の七点の総合的な検討を経て行なわれている。①居住地から最短距離の学校へ通学できるようにする、②地域社会の形成圏を尊重する、③通学途上の安全を確保する、④二小学校に一中学校を目標とする、⑤通学区域を判然と分り易いものにする、⑥住居表示、道路等の将来の都市計画をもり込む、⑦学校の施設規模を前提として収容児童生徒数を決定する。
今日の通学区域は、多年にわたってとられてきた決定方法を集約するかたちで提出された同協議会の提案(
しかしながら、近年になって通学区域の抜本的再検討をせまられる状況が現出してきた。それは、児童・生徒の増減に地域的な違いがあり、学校規模と在籍児童・生徒数の間に不均衡が生じていることや、交通事情が変化していること、さらには新設校用地が取得困難になってきていることなどの問題が顕在化してきたからである。
加えて第五次教職員定数改善計画に基づく「四〇人学級」実施による学級数の増加などが予想されている。また、小学校児童数は、昭和五四年に減少していく傾向にあり、中学校生徒数についても昭和五七年にピークを迎え以後減少するものと推計されており、本区においても新たな対応が求められることとなった。
こうして本区では、昭和五五年九月、通学区域の全区的な見直しを実施するために「練馬区通学区域検討協議会」を発足させた。この協議会は、行政当局関係者(
昭和二〇年八月の敗戦はわが国経済を破綻させた。国土は荒廃し、巷には失業者があふれ、消費物資の決定的な不足、インフレーションの急激な進行のため、国民生活は極度に圧迫された状態に立ち至った。とりわけ戦後しばらくの間、わが国の食糧事情は極めて悪く、栄養失調状態が一般化するような状態も現出した。
画像を表示このような状況の中で、戦時中既に栄養不良に陥っていた学童たちの健康を憂慮する声は急速な高まりをみせた。他方、学童救済のために学校給食を早期に開始する必要性は、文部省、GHQともに十分承知していた。こうして給食の準備が進められた。昭和二一年一二月の文部、厚生、農林各省連名による通達「学校給食実施の普及奨励について」は、そのような背景の中で示された。この通達が出されて間もない一二月二四日には、東京、神奈川、千葉の三都県の児童約二五万人に対して、学校給食が試験的に開始された。記念すべきこの学校給食は、ララ委員会(
脱脂粉乳
昭和二六年ガリオア資金の打切り後、一時政府が財政措置を講じて無償供与したが、二七年には有償となり、一時的に供給量の激減をみたが、その後次第に普及して、その使用量も漸増した。三八年度から脱脂粉乳一〇〇gにつき四円の国庫補助が実現するとともに学校給食の全面実施がはかられるにおよんで、使用量も急増し、四〇年度にはさらに補助が四円六〇銭に増額されたが、その後国内産牛乳の飲用量の増加に伴って次第に減少してきた。そして遂に昭和五一年度から国庫補助金は打切られるに至った。
こ の学校給食用脱脂粉乳の利用方法は、当初主として液体乳として飲用されてきたが、生乳飲用の現在は、約八二%がパン混入用、約一四%が調理用であり、飲用に供されているものはわずか四%程度にすぎない。(
ア、学校給食用脱脂粉乳の規格
外 観 光沢のある淡クリーム色を呈しはん点はなく、粒は斉一で固塊物を含まないもの
風 味 風味良好で、酸味、塩味、変質臭その他
コラム>こうして多くの機関および人々の善意によって学校給食が進められてきた訳であるが、その具体的実施の場面では、児童の父母、PTAなど地域の人々の献身的な努力があった。
<資料文 type="1-60">当時、主要食物は全く放出物資に依存していましたが、野菜などの副食物は、学校単位で都合せねばならず、貫井町の農家の人々の協力により、また、PTAの役員さんたちが音頭をとって野菜あつめに努力しました
(
本校の給食調理場は、校庭の片隅の物置小屋に、釜を一個すえ付けて、地域農家から、野菜を供出してもらい、食物を調理したもので、作業員はただ一人のみ、そこで、昭和二五年頃独立した給食場をたてた・・
(
ララ寄贈物資の中心的なものでもあった脱脂粉乳(
異臭味のないもの
滴定酸度 〇・一五%以下のもの
溶 解 度 不溶物が一・二五<数2>ml数2>/一〇g以下のもの
乳固形分 九五・〇%以上のもの
水 分 五・〇%以下のもの
乳脂肪分 一・二五%以下のもの
異 物 溶解の際異物の混入していないもの
スコーチド・パーテクル(
ディスクB以上のもの
細 菌 数 一g当たりの細菌数が五〇、〇〇〇以下のもの
大腸菌群 大腸菌群が一g当たり「陰性」のもの
(
パン、ミルク(
二五年七月になりますと、アメリカ寄贈の小麦粉で、八大都市の子どもたちに、パンとミルクの完全給食が行なわれました。練二小も、一週五回実施で給食費月額一三〇円と記録されています。ほぼ給食が定着したかに見えますが、しかし食器の洗浄や消毒、調理など人手が少なくて大変だった。だんだん専従手伝人を雇うという方向でPTAが決議し、さしあたり、一日勤務午前九時から午後二時、毎月二〇回出勤、月額一人二〇〇〇円という条件で、手伝人を二人雇いました。そのため、人件費と物価の値上りで、給食費を月二〇円値上げして一五〇円となりました。
(
本区の区立小学校各校における学校給食開始の状況を、昭和二一年度のものについて、各小学校沿革誌(
○開進第二小学校(
五月二二日 弁当調査開始
五月二五日 弁当調査集計
一、弁当持参加(
一、弁当ナシ(
一、昼食ヲ家庭デシタイ者二二九名 二二%
五月三一日 欠席児童理由調べ
一、弁当ナキタメ 〇名
二、欠食ノタメ 二三名
三、栄養失調 一名
四、買出手伝 二名
五、留守番 三四名
六、田舎ヘ食延シ 一九名
七、病気 二九名
八、其他 一二名
計一二〇 九・六%
一二月二一日 調理室清掃 ララ物資受領、給食用意整備ス
二一月二三日 第一回学校給食(
一月一〇日 第二回学校給食ヲナス
一月一四日 給食日
一月一七日 給食日
一月二四日 給食実施
一月二七日 都より給食情況調査に来る
二月一四日 給食実施 給食設備整う
三月 五日 給食実施
(
○開進第三小学校(
一二月
連合軍の好意により学校給食が行われる
○豊玉小学校(
一二月二三日
本日より学校給食実施
○練馬小学校(
一月二〇日
学校給食開始
○練馬第二小学校(
一月二〇日
児童給食開始 四商の校庭に調理室(
○大泉第一小学校(
一月二〇日
学校給食開始
○大泉第二小学校(
一二月
学校給食開始
一月二〇日
初代給食作業員として稲垣マサ子氏就任
○大泉第三小学校
昭和二一年度三学期
奉仕作業 給食用薪の運搬 石神井より二〇〇束
一月二一日(
マッカーサー司令部の好意による配給物資として(
役所より(
父兄より(
給食のねらい(
毎月二一日を定期身体検査日として行なっているが、その結果、その目的は段々と達せられつつある。
(
昭和二六年、講和条約が調印されると、従来完全給食実施の財源となっていたガリオア(
この危機は、学校給食の継続、およびそのための国庫補助実現を要望する世論の盛り上りによって一応回避され、給食は継続されることになった。政府が二七年度予算で、小麦の半額国庫補助約一四億円等を計上したためである。また、文部省は次官通達「昭和二七年度学校給食実施方針」において、物資の供給方法とともに「学校給食は教育計画の一環として実施するもの」であることを明示し、学校給食実施の基礎が固められた。
しかしながら、二七年度から学校給食の父母負担額が大幅に増加をしたため、学校給食の中止にふみきる学校および給食
実施校における給食費未納者が増加し、暗い状態も依然として続いた。こうして昭和二九年六月、学校給食法が制定公布された。同法は、三一年と三二年とに改正が行なわれ、給食実施の対象を小学校等から義務教育諸学校の全域に拡大すること、貧困児童に対する学校給食費の補助を中学校にまで拡大すること等が定められた。
学校給食の制度的基盤ができ、その重要性に対する認識が高まってくると、本区では従来にも増して給食施設の建設に力を注いだ。
本文> 項> <項>昭和三九年九月、本区は都内で最初の学校給食総合調理場(
この方式は、三六年に既に計画されているが、その背景には、
続いて昭和四二年一月には、中学校の早期完全給食を実現すべく第二総合調理場(
本区の給食センターは、<項番>(1)項番>給食施設の集中整備と調理施設の近代化により給食内容を向上させ、品質、衛生管理の適正化をはかる、<項番>(2)項番>共同調理を実施することによって給食の学校差をなくす、<項番>(3)項番>給食事務を集中管理し学校事務の負担軽減および運営による諸経費の節減を図ることを目的として設立された。
これらの目的は概ね達成され、給食センターは開設当初好評のうちに運営された。特に中学校の学校給食推進に果した役割は大きい。中学校では、第二センターの事業が開始されると同時に、区内全校で一斉に完全給食が行なわれることになった。この年(
しかしながら一方で次のような問題点も指摘された。
<資料文>
これらの指摘は、主として自校調理校との比較においてなされるもので、いずれも給食センターの利用校(
これに対して本区では、右のような問題点に総合的に対処し給食事業の効果的運営を図るため、第二給食センター設立後まもない昭和四一年一二月一日、行政組織を拡充し、従来あった学務課給食係を学校給食課に昇格させた。また四三年には、学校給食の目的を達成するために、校長、指導主事、給食主任、栄養士、調理士、事務局職員の一六名からなる「学校給食運営委員会」を設置して学校給食の効果的運営を図った。下って四六年には、本区の給食に関する情報提供、意見交換の場として「給食だより」(
改善される総合調理場
昭和四六年一〇月二〇日練馬区立第二総合調理場で中学校PTA連合会主催による勉強会が開催され、参加者は各中学校のPTAより二名、区教育委員会学校給食課及び第二センター給食センター給食関係者など約五〇名が集まった。先ず当日の給食を全員で試食したのち一問一答の形式で質疑討論に入った。(
質問 国から供給された粉で作ったパンが子ども達の口には喜ばれず、残量が多いことを国では知っているか。
回答 改善策は都に要請している。パンは二〇~三〇%位残ると聞いている。文部省の方でも知っていると思う。
質問 大阪の場合、パンにショートニングが入っているときくが、東京の場合はもっと%を上げられないか。
回答 パンの配合基準は、都で決めているので区では単独に変えられないが、都給食課に意見を伝えたい。
質問 センター調理の食数を減らす考えはないか。
回答 四六年当初から実験等して検討してきたが、可能食数は設計規模の二〇、五〇〇食の八〇%位がよいということになった。当課としては第二センターは一三、〇〇〇食、第一センターは一〇、〇〇〇食位にするのがいいのではないかという考えで、徐々に減らしてゆきたい。また内容のアップも考えてゆきたい。具体的には申し上げられないが前向きに努力したい。
(
本区における献立の目標
一、栄養のバランスのとれた献立
「東京都学校給食栄養摂取の標準」によって、一人あたりの栄養所要量と食品構成が定められています。練馬区においても、この標準にそって、一〇日または一カ月単位で献立をたてています。
二、児童・生徒が喜ぶ献立
児童・生徒の嗜好を考慮し、おいしく、きれいで、楽しい食事となるよう、「調理形態に変化をつける」「手作りの献立を多く組み入れる」「旬の食品を多用し食品の持ち味を生かす」など、工夫をこらしています。
三、嗜好の育成を図る献立
嫌いな食品でも好きになれるよう、献立・調理の工夫をしながら、健康増進を念頭におき、教育的な目標を達成できる献立になるよう配慮しています。
四、適量給食
一食分の食事として、満足感が持てるよう、一人あたりの供給量を算出し、適量給食に努めています。
(
また給食センターごとに「連絡協議会」(
なお、自校調理校については全区を八ブロックに分け、栄養士、調理士からなる「献立研究会」が各ブロックで開かれている。
前掲の記事「改善される総合調理場」(
二つの給食センターの一日当り処理能力は、第一センター一六、〇〇〇食、第二センターは二〇、五〇〇食であるから、昭和五四年現在、両センターはそれぞれ処理能力食数の約五八%、五三%で稼働されていることになる。その結果現在では、給食センターにおける半加工品や冷凍食品の使用は減少し、原材料からの手の込んだおかずや、ソース類までもが調理されており、自校調理校との間の質的な格差はかなり解消されているといえる。また“給食センターのおかずは冷えてしまう”という問題に対しても、二重構造の保温食罐を使用し対策に努めている。
これら一連の行政努力は徐々にその成果を上げてきている。次にそれを物語る山本寿満豊玉第二小学校教諭・給食主任の生の声を紹介しておく。
<資料文>七年前(
(
このほか区では衛生面においては、両給食センター、自校調理校各校、給食センター調理校各校とも、水質、食器・器具、食材料の検査、および作業員の検便を実施しており、安全衛生管理に万全を期している。
本文> 項> <項>現在、本区の学校給食は、自校調理校方式と総合調理場方式の二方式で実施されている。新設校は原則として当面自校調理校とし、二つの総合調理場については、施設、設備の改善を推進する、という基本方針にのっとって運営が行なわれている。
図表を表示本区では、この基本方針の策定にあたり、共同調理場方式について問題点が指摘されるようにな
ってくる昭和四四年から、一年有余にわたる学校給食の調査分析を行ない充分な審議を重ねた。その成果は、翌四五年一二月、「学校給食報告書」としてまとめられ、ここにおいて基本方針が定められた。 図表を表示自校調理校数(
自校調理校は、センター校の問題点(
しかし、第一点にあげた給食費の問題は表<数2>18数2>―9にみられるように、センター校と自校調理校との間に若干ではあるが格差があり、五五年度を除けば、その格差は漸増の傾向にあるといえる。
<コラム page="1022" position="right-top">=学校給食展示会を振り返って=
◎過去の展示のあらまし
◎今年の展示
戦後の学童の体位向上に大きな貢献をした学校給食も曲り角にさしかかっているのではないか――このように喧伝されるよ
うになってから数年が経過している。経済の急速な高度成長は国民の食生活を質量ともに豊かなものとし、児童生徒のこのような学校給食をめぐる状況の変化に対して本区では、過去において昭和四八年から四年間、毎年「学校給食展示会」を開催して学校給食の実態を多くの区民に正しく認識してもらう一方、区民の意見聴取に努め学校給食の向上について腐心してきた。その成果は着々と現われてきているといえるが、将来においても、区民と共に考える学校給食行政が期待されるところである。
なお、本区では五五年七月から、学校給食内容の多様化と児童生徒の心身の健全な発達に資する目的で、月一回の米飯給食を実施している。わが国の米飯給食は四六年度から六年間の実験研究期間を経て出された保健体育審議会学校給食分科審議会の答申に基づいて、昭和五一年度から正式に学校給食に導入されるようになったものである。本区ではそれを踏まえて五二年一一月より「米飯給食検討委員会」を設置し、施設設備、労働条件等実施に関わる諸問題の検討を進めていたが、同委員会の答申が出たため、それに基づき区立小・中学校において実施の運びとなったものである。
本文> 項> 節> <節>教育基本法が第一条で掲げるように、教育は「心身ともに健康な国民」を育成するところに目的があり、特に知性と人格を高めて行く際の基盤となる身体の健全な育成は重大な意義をもつといえる。わが国の学校教育行政はこのような考え方に基づいて実施されてきたが、とりわけ昭和三三年に学校保健法が制定されて以来、学校保健活動は逐年活発になっており、本区においてもさまざまな活動・対策が実施されている。
本文> <項>学校における健康診断には、①就学時に実施のもの、②児童・生徒を対象とするもの、③教職員を対象とするものがあるが、ここでは②を中心に記す。
画像を表示児童・生徒の健康管理をする上で中心的役割を果しているのが定期健康診断である。現行の健康診断方式は、昭和四九年春から導入されたもので、改正以前の方式が総花的であったのに対し、公衆衛生学的技法としてのスクリーニング方式を採用したこと、検査項目に心疾患の異常の有無や尿検査を加えたこと、さらに保健調査、検査的事項、検診的事項を経て事後措置に移行する実施手順が確立されたことなど画期的な改善がなされている。
本区では、例年四月から六月にかけて身体計測、視力・聴力検査が行なわれている。その他にも結核検査、心臓病検査、腎臓病検査、疾病検査(
食料事情の好転する昭和三〇年代半ば以降、肥満傾向の児童生徒が徐々に目立ちはじめ問題視されるようになってきた。肥満の問題は児童生徒本人の健康上の不都合のみでなく、そのことが劣等感などを生んで二次的に精神面での悪影響を及ぼす可能性があるため、憂慮すべき教育問題といえる。本区では昭和四七年度より肥満児対策にとり組んでいる。その方法は、定期健康診断時の身長体重をもとにローレル指数により肥満児童・生徒をぬき出し精密検査を実施するものである。
昭和四七年五月一二日の石神井南中学校の被害を皮切りに、その後各学校で光化学スモッグ被害が続発した。これに対して区教育委員会では、同校の全教室に空気清浄機および冷暖房装置を設置したほか、他の小・中学校の保健室に同様の装置を設置している。また、光化学スモッグが児童・生徒に与える影響を調査するため、五一年度より肺機能検査を実施している。
昭和三五年四月、日本学校安全会法が施行され同会の業務が開始された。日本学校安全会とは、①学校安全の普及充実を図るとともに、②義務教育諸学校等の管理下における児童・生徒等の負傷、疾病、廃疾又は死亡に関して必要な給付を行ない、もって、③学校教育の円滑な実施に貢献することを目的として設立されたものである。本区でも同年四月一日から災害共済給付契約を結んでいる。共済掛金は児童・生徒一人当り年額四一〇円(
四季の移り変りとそれに伴う行事などを通じて、人間生活が豊かさを増すように、学校での生活にも変化をもたせることは教育上大切なことといえる。本区で行なっている各種の校外授業は、優れた環境の中で、健康増進や生きた社会科学習、また、集団生活のなかで児童・生徒相互および教師との交流・親睦を図ることをねらいとして次の
ものが行なわれている。 図表を表示①移動教室……小学校五、六年生を対象に例年二泊三日の日程で行なわれている。宿泊施設としては区立下田臨海寮(
②臨海学校・林間学校・修学旅行……臨海学校は中学校一年生の希望者を対象に、下田臨海寮、下田学園を宿泊施設として夏休みを利用し三泊四日の日程で実施されている。林間学校は中学校二年生の希望者が対象で、夏休み期間中、二泊三日の日程で行なわれている。五五年度は軽井沢高原寮、武石少年自然の家で実施された。義務教育の最後を締めくくるのは、中学三年生の関西修学旅行(
戦後まもない昭和二一年、極度に落ち込んだ学童の体位も、食料事情の好転に伴って急速に向上してきた。この傾向は本区においても同様である。表<数2>18数2>―<数2>11数2>は、五四年現在の学童体位を約一〇年前および二〇年前の数値と比較したものであるが、体位の順調な伸長増加がうかがわれる。
しかし、一方で体位は向上したが体力(
戦後の新教育の重要な特色のひとつ、それは、特殊教育の就学義務制の原則が確立されたことである。すなわち学校教育法は、第二二条および第三九条において、保護者に対し、学齢に達した児童生徒を小・中学校に就学させる義務を規定した際、これらの学校とならんで盲学校、
ところが、就学義務および設置義務の施行期日は、学校教育法の附則によって勅令(
盲・聾学校の義務制の実施も全学年一斉に行なわれた訳ではない。二三年度は小学部の第一学年についてだけであり、その後学年進行によって逐年義務学年の範囲を広げ、二八年度には小学部全体の義務制が完成した。翌二九年度からは中学部に及び、三一年度に至ってようやく盲学校及び聾学校の義務教育が制度的に完成したのである。
区内にあるこの種の学校には、都立石神井ろう学校がある。
この学校は昭和三七年四月、都立大塚ろう学校の校舎の一部を仮校舎として開校した。同年九月には、本区の高松町六丁目一七―一番地に新校舎の建設を開始し、一二月一日新校舎に移転した。その後増改築され現在に至っている。校地面積一万三五三八平方メートルの中には優れた施設を有する鉄筋三階建の校舎のほか、プール(
同校は、高等学校にあたる高等部(
精神薄弱者、肢体不自由者、身体虚弱者を主な対象とする養護学校の設置は、義務制未施行のため遅々として進まなかった(
この間の昭和四八年には、待望の「学校教育法中養護学校における就学義務及び養護学校の設置義務に関する部分の施行期日を定める政令」が公布された。こうして養護学校の義務制は、昭和五四年度から小学部、中学部同時に実施されることになった。学校教育法にうたわれた就学義務制はようやく完成をみたのである。
五五年現在、本区内の養護学校としては学校法人旭出学園・旭出養護学校がある。昭和二五年四月に精神薄弱児のための私立の学園として豊島区内に誕生した同校は、三二年には練馬区仲町に「つくし寮」を開寮し、三五年には前述の文部省の方針に従う形で学校法人となり旭出養護学校がスタートした。五五年八月現在幼稚部一、小学部九、中学部二一、高等部二五、専攻科○の計五六名の児童生徒が在籍し三七名の教・職員(
都立の養護学校は、長く区内にはなく就学に不便な状態が続いたが、昭和五五年四月、北区の北養護学校内に仮校舎をたて大泉養護学校(
精神薄弱者、肢体不自由者、身体虚弱者等を対象とした教育施設としては、養護学校のほかに、小学校、中学校に設置されている特殊学級がある。戦前特殊学級は、特別学級、補助学級、養護学級とよばれ多数存在していたが、戦争の影響でそのほとんどが廃止されていた。戦後は昭和二二年四月、文部省教育研修所内に品川区立大崎中学校の分教場として特殊学級(
本区で初の特殊学級は、昭和二九年一一月旭丘中学校に軽度精神薄弱者を対象に設立された。これに先立つ昭和二六年、練馬区小学校教育会内部に「特殊教育研究部」が設立されると、教頭時代から精神薄弱児のための特殊学級の必要性を各方面に唱えて活躍していた鈴木武開進第一小学校長が初代部長に就任した。当時の部員は各小学校から一名ずつ参加し、池岡千代子(
1、特殊学級の性格
児童の中にはどうしても正常児についていけない児童があります。これは本人の努力が足りないのではなく、知識を受け入れる頭脳に欠陥がある子供なのです。一般にはこのような子供達を精神薄弱児と呼んでいます。
精神薄弱児は何年かかっても正常児の教育課程を習得することが不可能であるのに、基本的人権が尊重され、教育の機会均等が唱えられ、六三制の新教育が実施されている今日、尚殆んど何等の恩典に恵まれず、ただ普通の学校で正常児の仲間入りをさせられ、軽蔑と侮辱の中に終始していたずらに劣等感の堅い殻の中にとぢこもるだけであります。その上将来の生活を考えて見ますと、誠に暗澹の一語につきると思います。
一般的にいって知的障害児を知的正常にまで治療矯正する方法はないのに、それでは「特殊教育は何を目的とするか。」といえば、夫夫の児童がもっているものを十分に発揮させてやってその力相応の生活を見出してやることが目的なのです。そのためには、かれらがその力を十分に発揮出来る小社会を作ってやることが必要なのです。
それは普通学級などに較べればずっと壁をめぐらした保護された生活環境になるわけであります。そうしてその小社会の中で相当に羽根を伸して活動出来るようになったら、その壁を広くして、普通社会との交流を増して行き、できることなら普通社会に出して何とかやって行けるところまでもって行こうというのであります。
こうした目的をもって特殊児童、生徒の中でもその数の極めて多い精神薄弱児や身体虚弱児等を対象とする特殊教育のために、最も現実的な方法で着々成果を収めているのが、いわゆる特殊学級であります。
2、精薄児特殊教育の一般的効果
ヘレン・ケラーの存在は特殊教育の具体的効果を示すものとして百万言の宣伝に勝ると思います。精薄児の特殊学級に於ける教育効果も既にその成果がいろいろ発表されています。例えば青鳥中学校(
<項番>(一)項番> 行動上の変化
○非社会的(
○反社会的(
<項番>(二)項番> 知能上の変化
学力も相当にのび特に実際上の能力、会話通信、金銭取扱い、物品取扱いの成長はすばらしいものがある。
<項番>(三)項番> 父兄からみた変化
1、全体が学校へ出てから明るくなった。
2、ひどいわがままがなおって自分から仕事をするようになった。
3、兄弟げんかばかりしていたが入学してからだんだんしなくなってこのごろは殆んどしない。
これは一例でありますが、このように、かれらは僅か一年経たずしてみちがえるように明るくなり、のびのびとした行動、嬉々として夫々の力を発揮していると云うことであります。次に一般的効果を挙げてみますと、
<項番>(イ)項番> 社会に悪影響を及ぼすことを少くする。
○青少年犯罪者中に精薄児はどの位いるか。
<項番>(a)項番> 不良少年中の精薄児率(
教護院生徒 | 少年院収容者 | |
---|---|---|
人員 | 七七二名(八歳-一九歳) | 七五一名(一四歳以上) |
精神病 | 三・七% | 一・六% |
精神薄弱 | 四二・七% | 三〇・一% |
性格異常 | 二九・九% | 五五・九% |
準常人 | 一二・〇% | |
常人 | 二三・七% | 四・四% |
(b) 浮浪児の精神医学的調査(国府台病院)
診断別 | 実数 | 百分比 |
---|---|---|
精神薄弱 | 一〇八 | 五〇・七% |
性格異常 | 一一 | 五・二% |
正常 | 九四 | 四四・一% |
計 | 二一三 | 一〇〇・〇% |
右調査に示されますように青少年の犯罪者中の精薄児の数が非常に多いのであります。かれらは正しく扱われる機会を得られぬばかりに、日毎に畏縮し、人を恐れ、或いはひがみ、将来不良児、犯罪者、浮浪者その他世に害毒を流す不健全な存在となるおそれが多分にあります。これは誠に本人の不幸であるばかりでなく、社会の大きな不幸であります。
ろう教育が義務化されて以来、ろう者の犯罪が急激に減少した事実によっても、精薄児の教育の急務を痛感する次第であります。
<項番>(ロ)項番> 社会に役立つ人間を作り出す。
科学が向上するにつれて、仕事が分業化され、分業化された作業は単純化されます。単純化された作業に適するのは正常者よりむしろ精薄者であります。この長所を育てながら社会の共同生活が営まれるように社会性を育成し、多少でも自立出来て働ける人間を作るのが特殊学級のねらいであります。
都立青鳥中学の卒業生の八五%が就職し、中には工員で月収一万円の少年もあり、又理髪師となり兄と協力理髪店を経営しているものもあるということであります。
<項番>(ハ)項番> 六三制の義務教育を育成する。
精薄児は正常児と同一学習では到底その能力を伸すことが出来ないばかりか、他の正常児の学習の障害になっており、教育上の重大な課題になっています。特殊学級の設置により放任された精薄児を救うと同時に担任教師の負担を軽くし正常児の教育効果を高めることが出来るのであります。
<項番>(ニ)項番> 知能学科上の効果は少い。
個人としては知能学科の効果は多少上るが、正常児に追いつくことは一
般に望めません。父兄は兎角特殊教育により、正常児並になれると思い勝でありますが、特殊学級は精薄児が将来社会の厄介者にならず。多少でも自立出来て働ける人間を作ろうとするのが目的でありますので、このことは特に誤解なきよう御理解いただかなければなりません。<項番>(ホ)項番> 教育一般の推進力となる。
特殊学級の開設は収容される本人の幸福のみならず直接にはこのような不幸な子供を持つ家庭を明るくし、ひいては練馬区を明るくし、更に又区内の教育全般に対する影響から考えますとき、かかる児童の研究や、その効果的教育方法の研究は、正常児の教育全般を進歩させ、ひいては区内の教育全般を進展させる大きな原動力ともなり得るのであります。
新憲法(第二六条)ではすべての国民が、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有すると規定し、国家は精薄児をも含むすべての児童を教育する義務を負うことになったわけで、そのためには国があらゆる種類の児童を収容する教育施設を準備する責任を負うたわけであります。
そのために学校教育法では「特殊教育」という章を設け、都道府県は精薄児のために必要な養護学校を設置しなければならぬ(第七四条)とし第七五条には、小、中、高等学校には、精薄者のために特殊学級を置くことが出来るとし、更に学校教育法施行規則(第七三条の一三)には養護学級の設備編成については別にこれを定める(政令)としているが現在まで盲者、ろう者のための養護学校だけが政令によって義務づけられている現状であります。
昭和二十八年十一月精薄児教育振興大会に於て
1、学校教育法第七五条を改正して設置義務を規定すること。
2、同第九三条の養護学校設置義務の施行期日について政令を出すこと。の二法の改正措置と早急の実施方を当局に要望しています。このように全国的に義務教育制の声が起り、文部省の養護学級計画から昨二八年十一月には「精薄児対策基本要綱」が閣議で決定したのであります。遅まきながらこの着手を喜こぶと共に、できるだけ早い時期に実際の授業が開始されるよう期待してやみません。
東京都でも精薄児を教育する施設は最近年々増加してきましたが、現在の所では推定三万八千名の精薄児の中約五百三十名が三八学級で教育されているに過ぎません。当然のことにその大部分は教室の片すみに、うつろな眼で何の得るところのない時間を過し、あるいは不就学の児童となって、家庭に望みのない日を送っているのです。結局こういう放任の中で生活を建設する希望の生れる筈はなく、一生を廃人として運命づけられて行くのです。しかもこの一部は反社会的な人間となるのが常であります。先年話題となった大井映画座の殺人事件の犯人も精薄児であり、又かって世間を騒がせた京都の国宝金閣寺の放火犯も精神薄弱者であります。かれらは無反省なだけに社会にとって甚だ危険な存在であります。
都教育委員会が最近此の方面に対し極めて積極的な熱意と指導により、全精薄児を収容するには、まだまだ微々たるものでありますが、とにも角にも二三区中昭和二九年度設置を予定して準備中の教区(新宿、文京、世
田谷、荒川(五学級予定))を加えますと、殆んどの区が特殊学級を持つことになりますことは、まことに喜ばしいことであります。(未設置区は中央、港、大田区)豊島区におきましては特殊学級の重要性を理解し既に本年一月二七日三学級(小学校二学級二四名収容、中学校一学級一三名収容)開設されました。豊島区の先生方のお話によりますと、「子供達は全く見違える程明るく、朗らかになった。精薄児のために一日も早く特殊学級を作ってやるべきだ。」と強調していました。斉藤教育長は「特殊学級を開設してその必要性を一層深く理解した。親の希望も非常に多いので年々学級を増して行く考えだ」と抱負を語ってくれました。
当練馬区におきましてもかかる方面の施設の必要なことは夙に現場の教職員の間に叫ばれ、実は昨年度末に本年度開設を要望しましたが、時期尚早の故をもって未だその実現の域に達しませんでした。幸い「練馬手をつなぐ親の会」は結成されましたし、尚又本年は児童教養相談所並に精神医学研究所の専門の先生方の御支援御協力を得まして、精薄児の実態調査も略々見通しがつきましたのでその報告を致しますと共に、何卒現場教職員の真摯な叫びを諒とせられ、昭和二九年度に於いて特殊学級が開設出来ますよう請い願う次第であります。
<項番>(1)項番> 実態調査
わたくしたちは次の順序によって精薄児の実態を調査いたしました。
<項番>(1)項番> 検査者(教師)のための講習会開催
知能検査は方法的には集団検査と個別検査の二つに分けられますが、この検査はなれた人が非常に注意深くやらないと正確な結果が出て来ません。検査者が熟練していることが第一条件ですので、先ず講師を招いて検査者のための講習会を開きました。
<項番>(2)項番> 田中B式知能検査(集団)の実施
各校夫々田中B式知能検査を実施して、知能指数七五以下を抽出しました。知能指数による分類を参考にしますと(文部省基準)次の通りです。
○白痴 知能指数二五~二〇以下のもの
○痴愚 二〇~二五~五〇の程度
○魯鈍 五〇~七五の程度
○境界線児 七五~八五の程度
<項番>(3)項番> 鈴木B式個別的知能検査の実施
集団知能検査で知能指数七五以下の児童に対して、更にこの個別検査を実施し、精神遅滞の程度を精密に検査しました。この検査はなかなか面倒で児童一人の検査に約一時間を要します。
<項番>(4)項番> 児童の生育歴調査
個人検査を実施すると共に、それ等の児童の家庭を訪問し、生育歴について調査しました。児童の生育が精神の発達に密接な関連があるからです。勿論生育歴調査の様式は精神衛生研究所と児童教養相談所の御指示に依ったものです。
<項番>(5)項番> 精薄児の鑑別(精神衛生研究所・児童教養相談所)
<項番>(イ)項番> 資料による鑑別
区内小学校を精神衛生研究所と児童教養相談所の二班に分け、夫々の学
校は右資料を一括して提出、専門家の鑑別をうけました。<項番>(ロ)項番> 専門家による精密検査
資料による鑑別では困難であるものは、保護者に連絡し児童を帯同して精神衛生研究所(或は相談所)に出向き、改めて専門家によって精密検査をうけました。
<項番>(2)項番> 精薄児の実態
(表一)は北町小学校に在籍する精薄児各学年男女別の実数であります。調査人員八〇〇名中二・五%の二〇名が精薄児であることがわかりました。
(表一)北町小学校に於ける精薄児
学年 数 性別 |
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 計 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
男 | 一 | 〇 | 二 | 一 | 五 | 〇 | 九 |
女 | 三 | 一 | 一 | 二 | 三 | 一 | 一一 |
計 | 四 | 一 | 三 | 三 | 八 | 一 | 二〇 |
開進第二小学校の鑑別の結果も略々これと同様の割合でありますが、これは不思議な程文部省の全国統計や、東京都の統計、其他各地の統計に非常に似ている率であります。
北町、開二小学校の両校に続いて他校の鑑別は目下着々進行中でありますが、恐らくこれらの学校も前記二校の場合と同様であろうと思われますが、やや率を低く二・三%とみても、当区小学校に在籍する精薄児の推定を致しますと次の如くなります。 在籍児数18,300×0.23=420名
理想的に考えますと、私共は右の精薄児を収容する学級を一学級一五名定員と致しまして二八学級程を当区に、設置しなければならぬように考えますが、これは経費其他の関係で急速には実現不可能なことであります。
そこで私共はさしあたり、どうしても特殊学級に収容せねばならぬ人員はどの位であるかを調査致すため、第二段に次の調査を致しました。解答をよせられた学校は一三校一〇九名の先生からで一七五名の児童であります。私共はこれにより、特殊学級を必要とする児童の実態を知り得るのであります。
右の調査によりますと「面倒をみている」その結果うまくいっているというのが、一八名あります。これらのものは担任の先生の努力によって、普通学級内で何とか救われている児童であって、知能の程度も比較的正常児に近いものが多いようです。しかしかかる児童一人を救うために、先生の努力のなみなみでないことは想像に難くないのであります。
(表二)は「面倒を見てもうまくいかない」と答のあった児童の学年別の数であって、担任が如何に努力しても、効果のあがらぬものであります。かかる児童こそ特殊学級の必要性を如実に物語るものであります。
(表二)面倒を見ているがうまくいかない
学年 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 計 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
人数 | 一五 | 一五 | 一三 | 二九 | 三一 | 九 | 一一二 |
(表三)面倒が見たいが見られない
学年 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 計 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
人数 | 八 | 一一 | 五 | 四 | 五 | 三 | 三六 |
表三の理由をみますと学級の児童の過多、二部授業、事務多忙というような誠に当然な理由からであります。これもまた特殊学級の必要性を痛切にあらわしているものであります。
(表四)面倒を見ても仕方がない。
学年 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 計 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
人数 | 一 | 二 | 二 | 二 | 一 | 〇 | 八 |
右の理由は殆んど本人の知能があまりにも低くすぎるもので、白痴級と見られます。
表二、三の児童一四八名の中「仲間はずれになっているもの」「じゃま扱い、ばか扱いにされているもの」「おもしろくなくて休むもの」が次の如くであります。
(表五)
学年 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 計 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
仲間はずれ | 一五 | 七 | 一二 | 一三 | 一一 | 三 | 六一 |
じゃま、ばかもの扱い | 二 | 一 | 二 | 一 | 〇 | 〇 | 六 |
おもしろくなくて休むもの | 一 | 五 | 四 | 四 | 六 | 〇 | 二〇 |
これらのものは学校で実にさびしく暮していることがわかります。既に実施されている特殊学校や学級を参観して驚きますことは、かれらが実に
表五に表われた八七名の境遇に思い合わせますとき、特殊学級に収容されているものの幸福をしみじみと感じさせられます。
尚、表二に表われた児童の父兄の中教育に特に関心あるもの二八名で、先生方から報告を受けた精薄児一七五名中、担任として特殊学級に入れたいと希望している児童が一四四名あります。
精薄児を一人でも多く救いたいのが、私共の念願でありますが、二部授業の解消其他種々の事情から考察し、設置の当初といたしましては、無理がないように、又将来練馬区に精薄児教育を益々育成発展させる基礎としての、研究、調査、指導は万全を期すためにも、二九年度は一学級一五名程度の児童を収容する施設を設けることが適当のように考えられるのであります。
精薄児の教育には一般正常児の四倍乃至五倍の費用がかかると言われています。それは特殊な施設、教具を要するためでありまして、それ等の設備と、担任教師の十分な研究に基いた、児童個々にわたるゆきとどいた世話によって、不幸な子供達もやがては、社会の有益な一員となり得る素地が与えられるのであります。放任しておけば、前述致しましたように将来
国家社会に悪影響を及ぼす存在にしかなり得ないかれらが、特殊学級の教育によって、幾分でもプラスの存在となり得ることを思いますとき、現在此の施設のために多少費用が、よけいにかかりましても、惜しむべきでなく他の一般教育施設に要すると同様な、重要さを持つものであることを痛感するのであります。 さて特殊学級一学級(
教育を受ける人数に比し、莫大な金額に見えますが、この施設が出来ますことにより、将来末長く幾百人の児童が救われ、又それだけ社会にも大きな貢献を致すわけであります。
特殊教育は「その国の教育文化、教育民主化の水準を示す」とさえ言わ
何卒此の施設の重要性を十分に御理解御認識いただき、私共教師の衷心からの願いに是非とも御共鳴下され、当区に二九年度こそ、特殊学級の設置されます様切に懇願する次第であります。
終りに今回児童の鑑別に献身的に御指導御協力いただきました左記の先生方に衷心より感謝申し上げます。
練馬児童教養相談所 佐 伯 先 生
同 槇 田 先 生
精神医学研究所心理部 佐 野 先 生
同 名 取 先 生
同 梅 津 先 生
資料文>この要望書は、特殊教育に対する一般の理解が相当低い当時の実情のなかでその偏見を取り除くのに大きな力を発揮した。
本区で初の特殊学級を設立するに当って二つの案があった。一つは竹早寮(
小学校で初の特殊学級は、三〇年七月一八日、旭丘小学校に開級された。同校でも特に設置反対の動きはなかったが、施設的には旭丘中より条件が悪く教室とする部屋がなかったため、当初は隣接する旭丘中学校の廊下に床を張り、約七坪の部屋をつくってはじまった。児童八名(
何事によらず初めての事業に携わる者の苦労は、後に続く者のそれに数倍するものがあり相当の能力が要求される。本区で初の試みである特殊学級を開設するに当ってもすぐれた教師の確保は重要な問題であった。このことに頭を痛めた鈴木小学校特殊教育研究部長は二八年春に文部省の辻村特殊教育室長を訪ねた。辻村室長は都立青鳥中学校(
次に掲げる作文は、旭丘小と旭丘中の精神学級児童、生徒の作文(
旭丘小六年 (
下田で、うみにはいりました。
三、四組は、ふねで、ふかいところで、ふねからとびこみ、えんえいをしました。
一、二組はあさいところでおよいだり、りくちですなあそびもしました。
えんえいは、こわかったけれど、いっしょうけんめいおよぎました。
おもしろかったのは、一ばんさいしょの日にいった、バナナワニえんです。
ふつうのワニとか白ワニとかいろいろなワニがいました。ワニの子もみました。
池では、こいがおよいでいました。
いろんなしょくぶつみました。
むしをとるしょくぶつもありました。
さいごの日に、おきたらすぐに、にもつしらべがあります。ちゃんとにもつがないとかえれません。
わたしのと、まきのは、ぜんぶあったので、よかった。
りょうから下田のえきまであるいて、ロープウェーでねすがた山にいきファンタのみほうだいをします。
みずのないすいぞくかんにもいきました。
かえりは、いけぶくろから一人でキップをかって帰りました。
資料文> <資料文> 旭丘中三年 (
私の家の近くに、ヤマザキパンのお店があって、パンは、いつもそこで買っています。学校で、ヤマザキパンの工場へ実習にいけるとは、思ってもいませんでした。
いけるときまってうれしかったです。
はじめて工場にいって車の出入りが、多くとてもいそがしそうでした。
工場も、とても広くまいごに、なりそうでした。
じむしょでいろいろお話をきいたり注意を、うけました。
がんばろうと思いました。
着がえをして、ようがしのところに、行きました。
マスクをして、手を洗ってから、ミニマドレーヌのふくろづめを、おしえて、もらいました。
私もやってみたら、ふたつづつ入れるのが、むずかしかったそれで、ひとつづつ入れました。
だんだんなれてきて、ほかのしごとも、たのまれるように、なりました。
はこに、シールをはったり、たぬきのおかしに、はたをさしたり、しました。
工場の中は、クリームの、においやケーキのあまい、においがしました。
むこうの人にいわれました。
せなかをのばしたほうがいいよと注意されました。
はじめは、たってると、足がいたかったけどなれてきたら、いたくなくなった。
バスや電車でかようのは、はじめてなので、しんぱいで、はやめにいきました。
ながい、実習でしたが、終ってみて、またヤマザキパンの工場で、はたらきたいです。
いまも思いだしては、ミニマドレーヌを近くの、お店で買っています。
資料文>戦後の本区の特殊学級は、質量ともに充実してきている。次に種類別に特殊学級の開設年表を掲げる(
昭和五四年五月現在、本区の精神薄弱児学級は六小学校に一三学級、四中学校に八学級がある。これらの学級の中には比較的重い知恵遅れの中度学級が小学校四学級、中学校一学級ある。本区では、従来から軽度の子ども、すなわち「特殊学級の機能を充分果せる教育をすることによって、将来とも一般社会で他人の迷惑にならないで生活できると思われる能力を持つ子」(
本区の特殊学級とりわけ精神薄弱児学級は、いわゆる“練馬方式”といわれ、自分で考え、自分で行動し、自分で完成する自立した人間を目標にして小・中一貫した特色ある教育が行なわれている。方法的には身体と脳機能を向上させるために身
体運動が多くとり入れられており、マラソン、歩行訓練による体力・気力づくり、また、作業学習を通じての機能訓練宿泊訓練、集団による実地学習等が綿密な計画に基づいて実施され多大の成果をあげている。表<数2>18数2>―<数2>13数2>は、昭和五五年度の旭丘小学校精薄学級の時間割である。身体活動や情操教育の時間が多くとり入れられているのがわかる。作業時間の中には、国語、算数などの教科的内容が自然に習得されるよう計画的指導がなされている。
戦後、ろう学校は義務制となり、ろう教育も逐年充実してきた。しかし比較的軽度の聴覚障害(
昭和三七年四月、本区では他区に先がけて難聴学級を旭丘小学校および石神井小学校に各一学級開設した。同四六年度からは開進第二中学校にも一学級が新設されている。
昭和四九年度からは石神井小学校に言語障害学級が開設された。この学級は聴力は平常だが言語に障害をもつ児童が対象である。昭和五四年度は「言語訓練や機能訓練を行い、言動力やコミュニケーション能力を伸ばし、一般学級への適応力をはかる」ことを教育目標に掲げ、個人差に応じた計画的な指導が行なわれている。
昭和四八年七月二日、旭丘小学校に初の情緒障害学級が二学級開かれた。また、五三年六月一日からはさらに豊玉第二中学校にも開級されている。自閉症その他の児童生徒を対象とした本学級は通級制をとっており、在籍学級と本学級との役割を明確にし、両者の協力のもとに、特に在籍学級での学習への適応を容易にするよう努めている。
この学級は五〇年度から中村西小学校と開進第三中学校に開設(
昭和四九年四月一日に始め中村小学校内に併設された訪問学級は、五一年四月一日には練馬第三小学校内に移転され現在に至っている。また翌五二年四月一日には中村中学校にも併設された。
訪問学級は、他の特殊学級と異なり本区内に在住する病弱、肢体不自由、重復障害等のため通学不可能または通学が著しく困難な児童生徒を自宅等に訪問して開かれるもので、障害の程度に応じた指導を行ない、健康の回復、個性や適性能力の伸長に努力が払われている。
戦時中から戦後にかけての国民生活窮乏期に、各種の特殊学級の中で最も多く存在したのが身体虚弱学級であった。その後経済の復興とともに当該対象児童生徒数は激減したといえるが、現在でも喘息、肥満その他のために特別教育を施す必要のある児童生徒の数は、特殊学級各種別に考えた場合、決して少ないという訳ではない。
画像を表示本区ではこれら病弱、身体虚弱(
黒潮洗う伊豆半島の南岸、三方を自然林のうっ蒼とした山に囲まれ、太平洋を一望する地に建設された下田学園は温泉にも恵まれており養護施設として理想的な環境の中にある。広大な敷地(
開園当初の職員は初代園長片峰三雄(
同園は全寮生活のため一日二四時間すべてが教育の場として活用され、生活と直結した指導がなされている(
四季とりどりの花、夏の螢、秋の虫、のそのそ這い回る赤手蟹
など、都会にみられないすぐれた自然環境は、学習の生きた教材として大いにとり入れられて効果をあげる一方、情操教育に貢献するところが大きい。また同園では忍耐力および体力を養成するための身体運動が重視されており、児童個々の体質・体力を考慮した適切な指導が、広い運動場や周辺の丘等を利用して繰りひろげられている。 本文> 項> <項>本区の特殊教育は、昭和四八年五月以来、特殊学級運営委員会によって小、中学校一貫した運営が行なわれている。同委員会は本区の特殊学級の発展と健全な運営を図るために設置されたもので、次の者によって構成され毎学期一回の定例会が開かれている。
<資料文>練馬区立小中学校校長会会長、小学校教育会長、中学校教育研究会長、小学校教育相談部長、中学校特殊教育研究部長、特殊学級設置校校長並びに担任、教育相談運営委員長、常任相談員代表(
委員会の下部組織としては<項番>(1)項番>精薄学級部会、<項番>(2)項番>難聴学級部会、<項番>(3)項番>言語障害学級部会(
本区では現在、教育相談を次のように定義している。
何らかの原因で、成長過程にある子どもが不適応状態になったとき、その子どもの関係者(
(
こう考えた場合、教育相談には、子どもの状態(
学校で行なう教育相談の場合、どこの学校でも教育相談部や相談係が、校務分掌上位置づけられているが、学校全体からみた場合それが効果的に機能しているかといえば必ずしもそうではない。それは教師の間で、相談の仕事は相談部の担当だと考えたり、相談部と各担任との連絡関係が不十分であったりする場合があるからである。教育に右の定義にあるような教育相談の機能が厳に存在すると考えた場合、相談部がリーダーシップを発揮して活動の中核となるだけでなく、校内に職員全体が相談者であり、治療者であり、ケースワーカーであるという意識をもり上げねばならない。また、指導法研究や事例研究、教育相談室の運営方法の研究等も必要となる。
本区では、各校内における教育相談活動の有効性を高めるために「教育相談研修会」を実施している。同会は各校の有志を対象にしたもので、昭和五四年度は一五回(
学校における教育相談にはおのずから限界があり、場合によっては専門機関に診断や治療、解決をあおぐ必要がある。この専門機関には児童・生徒の状態(
本区では、昭和三三年以来専門的な機関として「教育相談室」を開設している(
◎教育相談室
◎旭丘小学校内分室
教育相談室総合教育センター内の教育相談室には、面談室三、プレイ室二(
昭和五四年度(
なお、五四年度の相談取扱い総件数(
昭和五四年度に実施された教育相談の方法・順序は左の通りである。
教育相談室では右のような相談業務のほか、電話教育相談、訪問相談(
訪問、学習の両相談は五五年度からの開設であるが、電話教育相談は五〇年五月一日より開設している。これは子どもの教育問題で悩んでいる父母の中でも、時間の関係などで教育相談室に来ることが難しい人や、子どもの教育について気軽に聞きたいという人の要望に答えて開かれたものである。開設以来五年間の電話教育相談累年件数は、五〇年度六三〇件、五一年度八七五件、五二年度九二八件と増加傾向にあったが、五四年度は五二〇件であった。相談内容項目についていえば、「雑」つまり種々雑多な問い合せが最も多い。情緒障害の相談は登校拒否が最も多く特に中学生が目立つ。その他神経症、情緒の不安定等の相談がある。進路の相談は、転勤に伴う転校が最も多く、続いて進学相談が多い。性格行動の相談は、多い順に記すと、注意散漫、乱暴、親に反抗する等である。知能学業の相談では、勉強方法、学業不振等がある。身体の相談は、言語障害、夜尿、偏食等がある。(
教育相談が本区の事業として開始されたのは昭和三三年度であるが、その起りは精神薄弱児のための特殊学級が開設された昭和二九年、三〇年頃と考えられる。
上述のように本区の特殊学級は旭丘中学校で七名、旭丘小学校で二名の児童をもって開始された。この数字は前掲の「精神薄弱児のために特殊学級の設置を望む」に掲載されていた北町小学校の例(
こうして三三年度から開始された本区の教育相談ではあるが、当初は今日のような教育相談室も設置されておらず、相談活動は相談員が週二回(
当時の指導陣また教育相談内容および件数は左の通りである。
<資料文>◎指導者
◎教育相談内容(
続く三四年度には豊玉小学校に事務所が置かれるようになり、翌三五年度からは教育相談分室が、豊玉小のほか石神井小、北町中にも設置されたが、この段階ではまだ恒常的な専用相談室ではなく、相談員が各校を巡回して相談活動を行なっていた。
待望の専用相談室ができたのは三六年度からである。豊玉小学校(
昭和四一年度になると豊玉小のほかに、開進二中、大泉二中にも不充分な施設ながら相談室が開設された。しかしその後、設備、相談員数、研修など各方面で教育相談は充実をみ、四三年度は豊玉小を本室として合計五校に相談室が開設された。四六年七月には豊玉小鉄筋改築のため本室が豊玉南小に移転した。四七年度には同小の他に開進二中、光和小、北町西小、大泉東小に開設されている。またこの年度には相談員数も三〇名を数えるに至った。その中には難聴関係相談員一名、精薄関係相談員一名、情緒障害関係相談員一〇名などの専門的相談員を多く含んでおり、質的にも充実をみている。「教育相談だより」の発刊もこの年度からである。
五一年度には、豊玉南小の学級増加により本室移転の必要性が生じたため、中村中学校敷地内にあった中度精神薄弱生徒のための「かしわ学級」の一室が本室となった。以後五四年度末までここに本室がおかれていたが、五五年度から新設された練馬区総合教育センターの三階に移転開設されることとなったため、五五年度にあった五つの分室は旭丘小(
練馬区立総合教育センター教育相談室事業運営要綱
一、趣旨 この要綱は練馬区教育相談室の事業の実施について必要な事項を定めるものとする。
二、設置目的 教育相談室は練馬区在住の幼児・児童・生徒が成長教育の過程で生じた諸問題の相談治療に応じ、生れつきもって
いる諸能力を十分発揮し、すこやかに成長できるように援助することを目的とする。三、設置 教育相談室は練馬区立総合教育センターに設置し、分室を旭丘小学校内に置く。
四、事業
<項番>(1)項番> 診断 幼児・児童・生徒とその保護者のインテークおよび行動観察諸検査を実施し、問題を診断する。
<項番>(2)項番> 心理治療 問題に応じてカウンセリング、プレイセラピイ、行動療法、催眠療法等の心理治療を来室相談または訪問相談として行う。
<項番>(3)項番> 学習相談 学習に遅れがちな児童・生徒の問題に応じて学習相談を行う。
<項番>(4)項番> 電話教育相談 来室できない場合や簡単な問題の場合は、電話により助言・指導、情報の提供および他機関の紹介を行う。
<項番>(5)項番> 障害学級入級相談の協力 障害を持った幼児・児童・生徒の障害児学級入級に必要な諸検査、指導を行い障害児学級入級に協力する。
<項番>(6)項番> 調査研究 教育相談の質の向上をはかるため、調査、研究を行う。
<項番>(7)項番> 研修 <項番>(イ)項番> 教育関係者を対象として、教育相談に関する教養を高めるための研修を行う。<項番>(ロ)項番> 兼任相談員を養成するための研修を行う。
<項番>(8)項番> 啓蒙 幼児・児童・生徒の保護者、関係者に対して、教育相談の啓蒙を行う。
<項番>(9)項番> その他 前各号に定めるもののほか目的を達するために必要な事業を行う。 (
区内にある教育相談機関で、本区における特殊教育に大きな貢献をしているのが練馬児童教養相談所である。同所は昭和二八年、東京少年鑑別所の付属施設として練馬区との共同経営の形で発足した。
発足当初は本区の厚生課(
昭和三四年には、区内の中学一年生全員を対象に、生徒の健全育成をねらいとした学校検診(
同相談所の優れた相談業務は広く知られており、相談者は都下全域および都外からも来所している。なお、同相談所は鑑別所に隣接して建てられているが、老朽化に伴い解体され、五五年四月に新築されている。
本文> 項> 節> <節>本区には現在(
本区では、昭和五〇年に北大泉幼稚園が設置されるまで、公立幼稚園は全く存在せず、幼児教育はもっぱら私立各園の手で行なわれてきた。戦後初の幼稚園は力行幼稚園で、戦後まもない二一年一一月に開園し、翌二二年一月一八日に設置認可されている。続いて二四年に向南幼稚園(
練馬児童教養相談活動の状況(
練馬児童教養相談所 工藤隆弘
今年は、広報活動の影響性を思い知らされた。七月一八日、某テレビ局から少年鑑別所についての放映があり、その際非行問題等について一般の人達にも相談の窓口が開かれていることの紹介がなされた。直ちに、外来相談係に電話が入った。当日だけでも電話での相談が一八件、翌日一二件そして一週間のうちに四〇件を超えた。電話相談者はほとんど母親であり、主訴は、中学生・高校生の非行等の問題であり、主な内容は、①親への反抗(
電話のみの相談助言で終わったものが二八件、来所したもの五件である。遠くは広島県からのものもあり継続相談が望ましいと思われた場合は、依頼者に近い外来相談室(
依頼者からの一方的な情報のため、即断はできないが、なかには親が過敏になりすぎていると思われるケースもあり、こうした場合はちょっとした助言で親の在り方を変えさせうるが、深刻に問題が進行していると思われるものもあり、こうしたケースはなるべく来所するように促したが、大方は子供(
さて、昭和五二年一月から一二月までの当相談所で取り扱った相談件数(
こうして「独立の園地、施設を有する若干の公立幼稚園を実験的に設置する」(
こうして区立第一号の北大泉幼稚園は、昭和五〇年五月八日に開園した。同園は四、五歳児を対象にしているが、障害児が教育の機会に比較的恵まれていない点に配慮し、障害児学級を併設している。五五年五月現在の同園の概要は左のとおりである。
画像を表示 <資料文>北大泉幼稚園の概要
・園児数 四歳児七七(
※()内は障害児数で内数
・教職員数 一一名
・敷地面積 二三〇四㎡、 園舎面積 九三一㎡、 園庭面積 九五一㎡
・所在地 大泉町二―四六―六
資料文>なお、本区では昭和五〇年四月に練馬区幼児教育協議会規則を制定し、「練馬区の幼児教育に必要な事項を調査・審議し、練馬区幼児教育の一層の発展をはかるため」、同協議会を設置した。
戦後今日に至るまで本区幼児教育に貢献してきた多数の私立幼稚園の存在。最近とみに大きくなった区立幼稚園設置の要望。そして、この五年間(
本区内には、区立学校と並んで国立、都立そして私立の学校がある。これら多くの学校が本区の教育文化の向上に果してきた貢献は大なるものがある。各校の現況については『練馬区史・現勢資料編』三四五~三四七ページに記してあるが、ここでは全体を概観する。
区内には現在二つの国立学校がある。東大泉町三一五番地に設置されている東京学芸大学附属大泉小学校と同中学校である。小学校は初め東京府大泉師範学校附属として昭和一三年九月に開校した。その後一六年三月には同附属国民学校、一八年四月には国立東京第三師範学校附属国民学校、戦後の二二年四月には同附属小学校、二四年七月には東京学芸大学東京第三師範学校大泉附属小学校と改称され、二六年四月に現校名となった。
中学校は、二二年四月に東京第三師範学校附属中学校として開校し、二五年四月の改称(
両校はともに実験研究校として、また教員養成大学の附属実習校として有意義な研究活動を積み重ねてきた実績と伝統を持っており、今後の発展が期待される。
昭和五五年三月に練馬区立中学校を卒業した生徒数は七七四五名にのぼるが、そのうちの九五・二%(
現在本区には一一の都立高等学校がある。戦前からの歴史をもつのは石神井、第四商業、井草、大泉の四校で、戦後の昭
和三〇年代後半に石神井ろう学校(都立高校の増設は、昭和三五年から中学校卒業生徒数の推移と高校への進学率の動向をにらんで東京都で計画策定されてきた。すなわち「高等学校生徒急増対策」(
区内には現在、幼稚園から大学までさまざまな私立学校が設立されている。
<項番>(1)項番>小学校は二校ある。東京三育小学校は昭和三〇年に杉並区から本区の関町一丁目一五五番地に移転・開設された。神と同胞に仕えることを最高の目標とする人物の育成、知・徳・体の調和ある発達をねらいとしたユニークなカリキュラムが組まれている。
旭出養護学校小学部は、中学部、高等部などとともに東大泉町四一番地にある。
<項番>(2)項番>中学校は旭出養護学校中学部のほか、富士見中学校(
<項番>(3)項番>高等学校は五校ある。富士見高等学校は大正一三年創立の富士見高等女学校を母体とし、戦後の学制改革で中学校と高等学校とに分かれて設立された。伝統ある女子校であり、純真、勤勉、着実を教育目標に掲げている。
武蔵高等学校は大正一〇年に設立されたもので、戦後に新制武蔵高等学校・中学校に移行した。創立以来少数教育を実施しておりすぐれた教育効果をあげている。
東京女子学院高等学校は芙蓉女学校として昭和一一年三月に現在地(
早稲田大学高等学院は昭和二四年四月に早稲田大学が新宿区に設立したもので、三一年に現在地の智山中学校跡(
他に旭出養護学校高等部がある。
<項番>(4)項番>大学は四大学ある。日本大学は、芸術学部を旭丘二丁目四二番地に置いている。同学部は大正一〇年に同大文学部内に美学科として誕生したもので、当初は神田三崎町にあった。昭和一四年四月に現在地に移転している。二四年二月の新制大学移行に伴ない芸術学部が発足した。現在、写真、映画、美術、音楽、文芸、演劇、放送の七学科が開設されている。
武蔵大学は、経済学部と人文学部の二学部を豊玉上一丁目二六番地に置いている。校地は武蔵高等学校、中学校と共用している。武蔵大学は新制大学が発足する昭和二四年に経済学部を置いて開校した。その後三四年に経営学科を増設し、四四年には人文学部(
武蔵野音楽大学は昭和四年に設置認可された武蔵野音楽学校を母体として、二四年に発足した。当初は音楽学部に作曲、声楽、器楽の三学科が置かれ、後に音楽学学科、音楽教育学科、また音楽学部第二部(
上智大学が上石神井一丁目七一〇番地にあるイエズス会神学院敷地内に神学部を設置したのは昭和三三年のことである。同学部の学生の大部分はカトリック教会の司祭になることを目指しているので、聖書学、教理神学、倫理学、典礼学、教会法、教会史、ラテン語、古代ギリシャ語、ヘブライ語などの科目が置かれている。
過去において本区の教育文化に貢献し大きな足跡を残しながらも、諸般の事情で廃校あるいは休校の止むなきに至った学校は次のとおりである。
<資料文>校名(改称名) | 所在地 | 設立認可 | 区内での開校・移転年月日 | その後の過経 |
---|---|---|---|---|
東京商科大学 (一橋大学) |
石神井町八丁目 | 明治八年 | 大正一二年 | 大正一四年二月、大学、専門部移転。昭和八 年、予科移転(小平) |
目白中学校 | 高松一―二四―一 | 明治四二年二月 | 大正一五年 | 昭和七年、杉並に移転 |
研心中学校 | 石神井町八丁目 | 昭和二~三年頃 | 昭和二~三年頃 | 生徒募集せず廃校 (校舎は石神井小に売却) |
智山中学校 | 上石神井一―二一六 | 大正一五年四月一日 | 昭和四年四月一五日 | 昭和二二年三月新制中学校。二三年三月高等 学校へ。三〇年三月廃校 |
智山専門学校 | 同右 | 昭和四年四月 | 同右 | 昭和一八年四月一日、大正大学へ合併、一九 年九月末廃校 |
力行商業学校 | 小竹町二―四三 | 昭和一四年 | 大正一五年 (海外学校教会) |
昭和一九年工業学校に改編。戦後廃校 |
岩崎学園桜台高等 女学校 |
桜台六―六三―三 | 昭和一六年 | 昭和一六年 | 昭和二四年三月一四日廃校。施設をあげて武 蔵野音大へゆずる |
練真中学校 (練真高等学校) |
練馬四―二二―八 | 昭和一七年 | 昭和一七年 | 昭和二三年三月に新制高等学校となり三〇年 廃校。幼稚園となる |
向南中学校 | 向山二―二二―三〇 | 昭和一九年 | 昭和一七年 (日本美術学校とし て) |
昭和二五年廃校 |
日本大学江古田高 等学校(定時制) |
旭丘二―四二 | 昭和二五年二月二三 日 |
同上(日大内に) | 昭和四五年四月一日休校。五一年二月二六日 廃校 |
花岡学園 (養護施設) |
旭町一―二四 | 大正一五年 | 大正一四年一一月五 日 |
昭和一八年、施設を神田区に寄付。神田区武 蔵健児学園となる。戦後廃校 |
国華女子高等学校 | 南田中六八〇 | 大正一二年 (荒川高等女学校) |
昭和三二年一二月 | 昭和四〇年四月国華高校と合併 |
国華高等学校 | 北大泉三四七九 | 昭和四〇年四月 | 昭和四〇年四月 | 昭和四四年四月以降休校 |
社会教育は、戦後になって漸く文教政策の中で学校教育と並ぶ重要施策として取上げられるようになった。昭和二〇年一〇月、文部省は学校教育局と並んで社会教育局を新設し、同局を中心に社会教育振興政策が強力に推進されてきた。また、その裏付けとしての関係法令も漸次整備されていった。
昭和二一年一一月三日に公布された日本国憲法をうけて、翌二二年三月、教育基本法が施行されると、社会教育は国および地方公共団体によって奨励されなければならないとその重要性をうたわれた(
昭和二四年六月、社会教育法が公布されたが、同法で「学校の教育課程として行なわれる教育活動を除き、主として青少年および成人に対して行なわれる組織的な教育活動(
この法は、戦前、社会教育が学校教育にくらべて軽視されていたことを反省し、社会教育の組織化と振興とを企図したものである。
さらに昭和二五年以降には社会教育法の関連法が次々と整備されていった。まず、昭和二五年四月には図書館法が公布され、続いて二六年一二月には博物館法、二八年八月には青年学級振興法、そして三六年にはスポーツ振興法が公布された。
こうして教育基本法と社会教育法およびその関連法によって構成される社会教育関係の法体系が次第に確立されてきたため、それに伴い行政も各種の施設建設や事業実施に力を入れるようになった。もちろん教育全体として見た場合、社会教育は行政の予算配当の面でも国民のその社会的意義に対する理解の点でも、戦後たえず学校教育の陰にあって進められてきたことは否めない。しかしながら、そのような制約のなかにあっても、社会教育活動全体は試行錯誤を繰り返しながら着実な歩みをみせてきた。特に、昭和三〇年代後半からの高度経済成長の急激な進展に伴って問題視されてきた過密・過疎現象、人口の老齢化現象、核家族化現象等に代表される社会構造の変化や、四〇年代初頭にわが国に紹介された生涯教育論の登場は社会教育行政の充実に一層の拍車をかけたということができよう。
本区においても時代の進展とともに、社会教育行政は徐々にではあるが年を追って充実してきた。他方これと並行して区民の自己教育や相互教育、すなわち社会教育への理解、認識も逐年高まりをみせてきている。こうして行政と区民とのそれぞれの側から行なわれてきた本区の社会教育活動は大きな発展をとげてきたのである。
昭和五五年六月現在の教育委員会における社会教育関係の事務局分掌事務は前章の表<数2>18数2>―4にみられるように多岐にわたっている。また、これに伴い社会教育関係団体(
敗戦による青年教育の虚脱状態をすみやかに克服し、青少年教育の振興をはかる。この課題をいかにして解決するか、という一点こそ戦後の学制改革論議の底流に流れるものであった。この課題は、<項番>(一)項番>義務教育の年限延長、<項番>(二)項番>教育の機会均等の保障、<項番>(三)項番>男女の差別撤廃、<項番>(四)項番>学制の単純化、を骨子とした学校教育法の制定以降、学校内での制度的対策として徐々に解決されていくことになる。
残された問題は、学校外における青少年教育の問題とりわけ勤労青年の教育の問題等であった。これらの問題に対して重点的な行政施策が行なわれてくるのは昭和二八年頃からである。すなわち、この年には東京都に青少年委員の制度が設置され、さらに都社会教育部内には青少年教育事業の主管課として青少年教育課が設置されている。また、同年八月には青年学級振興法が制定され、青年学級は区市町村の教育事業として開設されることとなった。昭和二九年には学校開放が開始され、三二年には社会教育指導員が設置された。こうして漸次充実をみた青少年教育の、本区における実相はどのようであったろうか。
新時代にふさわしい青少年および青少年団体を、どのようにして育成していけばよいのか。昭和二三、二四年頃、この課題に立ち向うべく青少年団体の幹部講習会が都や民間団体の主催で行なわれた。ところが、これらの講習会によって育ってきた青少年団体の幹部に対して継続的に指導・助言が可能な指導者は少なく、活動の拠点となりうるような施設も極めて貧弱な状況を呈していた。
当時の社会がかかえていたこのような問題のうち、青少年指導者不足の問題を解決すべく登場してきたのが青少年委員制度であった。昭和二八年、都教育委員会は都社会教育委員会の青少年指導者の充実に関する助言をうけて二六五名の青少年委員を委嘱した。二月一日のことである。続いて三月三一日には青少年委員の設置に関する都条例が施行され、この制度が確立された。
ちなみに本区における青少年団体指導者育成への取り組みは、この頃既に活発になされている。昭和二九年度には、社会教育事業として、「子供会育成協力者講習会」、「ジュニアリーダー研修会」、「バドミントン講習会」、「フォークダンス講習会」などが実施されており、さらに石神井支所管内青年団体協議会等の団体への講師の派遣が行なわれている。
昭和四〇年には区に事務が移管され、「練馬区青少年委員設置に関する規則」に基づいて四一名が委嘱された。委員は小学校学区域より各一名と、小・中学校代表各一名とが選出される。従って小学校数の増加とともに委員数も増えており、昭
和五四年七月一日現在、六一名の委員が委嘱されている。現在、各委員は日常、教育委員会や地域の団体と連絡をとりながら、グループワーカーとして子ども会・青少年団体の結成の促進、団体活動の側面的な援助など地域に根ざした活動を展開している。
画像を表示また、これら日常活動のほかにも、主として夏休みの期間を利用して、学校区域ごとまたは二、三校が一緒になって人形劇・紙芝居・紙工作・写生会・球技大会などをとり入れた子ども会を行なっている。この子ども会は、戦後まもない昭和二六年頃から実施されているもので「緑蔭子ども会」といった。当初は教育委員会主催の事業で、親の都合等のため、夏休みに旅行などに連れていってもらえない子どもたちを対象に行なわれたものである。その後、三一年頃には「葉かげのつどい」とも呼ばれるようになった。四〇年になると、地域の実状にあったものとするために、各地区の青少年委員を中心に小学校PTAあるいは町会が協力して実施されるものとなり、四九年頃から青少年委員の委託事業となって今日に至っている。
さらに、各委員は自己の研
昭和三四年、青年学級が誕生した。これは昭和三〇年六月から開放されていた青年教室を発展的に解消し、青年学級振興法に基づいて開設したものである。青年学級開設要項によると、その目的を次のように規定している。
<資料文>目的 働く青年男女の勉学の機会として、教養を高め、職業や家庭生活に、より深い理解とすぐれた技術の修得をはかり、今後の生活を豊かにするために青年学級振興法による学級を開設する。
資料文>青年学級は、区内に居住又は在勤するもので義務教育修了程度の勤労青少年男女を対象としており、毎週二~三回(
働きながら学ぶ待望の
義務教育を終了し社会に巣立った青年男女に勉学の機会として、学級を開設いたします。この学級の特徴は参加した青年期の生活課題(
(
(
青年学級開設初年度(
必修科目 一般教養
<外字 alt="◎">〓外字>時事問題――最近の動き・内外の政治
<外字 alt="◎">〓外字>人生問題――青年と職業生活、結婚観、生きる喜び、恋愛と友情
<外字 alt="◎">〓外字>文学問題――小説「○○」に表れた人間についての社会と文化、人間像等
<外字 alt="◎">〓外字>科学問題――生活と科学
<外字 alt="◎">〓外字>法規問題――労働基準、民法、危険物扱等
選択科目
<項番>(1)項番>工業コース――参加者により、機械、建築、土木、電気、化学等により分かれ、実習を含まぬ、基礎的な製図法とか各種計算、数表の見方と見学等
<項番>(2)項番>商業コース――簿記
(
<項番>(3)項番>家庭コース――栄養についての料理法(
時間配当 二〇〇時間
科 目 率 時間数
共通学科――三五%――七〇時間
コース別――二五%――五〇時間
レ ク――一〇%――二〇時間
委 員 会――一五%――三〇時間
ホーム<数式 type="munder"/>――一五%――三〇時間
クラブ
資料文>三四年度の参加人員は一二二名にのぼり、選択科目別内訳は工業コース三〇名(
学習科目に加えての、レクリエーション活動や委員会活動、ホームルーム、クラブ活動など全体の四〇%を占める諸活動は、いずれも伸び伸びとした楽しいものであり若者の活気で賑わった。
しかし、盛況であった青年学級も昭和三六~七年をピークに徐々に受講者が減少しはじめ、昭和四八年三月末で開設以来一三年にわたる活動を終えた。
本区で学校施設が開放されたのは旭丘中学校と光和小学校が初めで、昭和二九年のことである。この後三七年には施設開放が五校、校庭開放が一〇校行なわれているが、本格的な校庭開放の実施は昭和四〇年度を俟たねばならなかった。
この年度に区教育委員会は「練馬区立学校校庭の児童への開放実施要綱」を作成し、その目的を第一条で、
<資料文>区立小中学校の校庭および施設の一部を遊び場として、地域の児童に開放し地域社会における子供の余暇を善導することにより、その健全育成を図ること……
資料文> と定め、第五条では学校開放指導員の設置が、第九条では学校開放の円滑な運営を図るため開放校ごとに開放運営委員会の設置がそれぞれ定められた。この年度は八月一日より日曜(翌四一年度には二〇校が日曜、祝日、春・夏・冬休みに開放され、四三年度からは区立小学校全校である四三校開放へと拡大された。
一日平均利用人員は四一、四二年度は五四名であったのが、四三年度六〇名、四四年度五六名、四五年度五八・八名、四六年度六〇・九名、四七年度六五・五名、四八年度五九・四名、四九年度六四・六名と、七年間で約一〇名の増加をみた。
五〇年度からは進行する過密化現象と、それに伴う子どもの遊び場の相対的減少のなかで高まる区民の要望に答えて校庭開放の充実が計られた。その結果、①土曜、平日も開放の対象となり、②子どもの安全確保と遊びの指導に当っていた校庭開放指導員は、四〇年度来一名であったものが二名に増員された。さらに、③校庭開放の円滑な運営をはかるために四〇年度から設置されていた「開放運営委員会」(
このほかこの年度から実施された事業に、校庭開放指導員の研修会、校庭開放だよりの発刊などがある。加えてこの年度には校庭開放指導員手引も作られている。
その結果、五〇年度の延利用人員は前年度二九万七四〇二名に比しても大幅に増加し、五〇万〇八五三名にもおよんだ。一日平均利用人員のその後の推移は、五〇年度六三・六名、五一年度六六・八名、五二年度七三・一名、五三年度七一・三
名と着実に増加しており、区民の要望の高いことを知ることができる。昭和五二年一二月、早宮小学校において学校図書館開放が実施された。これは、学校施設開放検討委員会の答申の趣旨である「当区の学校開放を従来の“あそび”と“スポーツ”から更に一歩前進させ、知的教育の側面を加え充実をはかるべきであり、このため児童・生徒を主とした地域住民の余暇善用、情操育成をはかり、豊かな人間関係をつくるため、学校教育に支障のない範囲内で開放を進める必要がある」をうけて開始された事業で、昭和六〇年度までに一五校程度を開放する計画である。この事業は、校庭開放が、安全な遊び場、スポーツ実施の場の確保を目的としているのに対して、学校図書館(
五五年八月現在、早宮小のほか、旭丘小学校(
社会教育の重要性が次第に認識されてくるなかで、その対応として地域のボランティア(
このような状況の中で、本区では五〇年度の新規事業としてボランティア活動に関心のある区民を対象に、①おもちゃの修理教室、②こども会リーダー研修会、③青年サークル・グループリーダー研修会、を実施した。以後、年々充実したカリキュラムが組まれている。五四年度は、①ジュニア・リーダー講習会(
区が、社会教育事業の充実・発展を期すことは当然であるが、このほかに、自主的な社会教育活動を発展させるための社会教育関係団体の育成についても早くからその取り組みがなされている。
従来より毎年一回、社会教育関係団体の調査をしてその実態把握につとめ社会教育事業実施の際の基礎資料とされてきたが、昭和五〇年度から各団体の一層活発な運営や活動を助成することをねらいとして指導者の研修会が行なわれた。この年度はPTA指導者育成研修会と婦人学習グループ研修会が行なわれている。翌五一年度にも、PTA指導者と婦人学習グループリーダーに対して講座が開設されている。五二年度には前年度の内容に加えて、小・中学校PTAの会員を対象に一六ミリ発声映写機操作技術講習会が実施された。
五三年度からは、本区の社会教育関係団体の活動を側面から援助するために講師派遣制度が実施された。この制度は、各団体が招請した講師への謝礼の全部または一部を区が負担するもので、五三年度は四九団体に、翌五四年度は六〇余団体に対して実施されている。
なんらかの障害をもつ人々に対しても、福祉的な施策と並行して十分な教育が保障されなければならない。特に義務教育終了後の教育については、十分な機会が保障されていない現状にあるため、行政の対応が待望されていた。
このため区教育委員会では、昭和五二年度から区内在住、在勤の青年を対象に青年学級を開設した。設置にあたっては、各団体の要望をもとに企画運営委員会を設置して検討を重ねた結果、他区にも例がない中度・重度の障害者を対象にした青年学級が開設することになった。学級は当初より二学級である。ちえおくれの人を対象にした「ともしび青年学級」は各種の学習やスポーツ・レクリエーションを通して仲間づくりをすすめ、日々の生活をより豊かにすることを目的としている。「あすなろ青年学級」は肢体不自由者の学級で、陶芸・油彩画・水彩画などの作品を自ら制作することによって生活を豊かに
図表を表示 することを目的としている。昭和五四年度の実施状況は表<数2>19数2>―1のとおりである。 本文> 節> <節>昭和三五年、東京都は各区に青年館を建設する方針をたて各区への補助金を予算に計上した。これは当時の東京都の世論であった、社会教育施設を要望する声、青少年の健全な育成を強調する声、年少労働者に対する社会福祉的、社会教育的施策を要望する声に対する都行政の対応的施策といえる。これをもとに各区において青年館の建設が開始され、一〇年足らずでほぼすべての区に青年館の建設がなされた。
本区では、昭和三九年八月一日、練馬青年館が南大泉町三二五番地に開館した。約一五八八㎡(
開館当時の練馬青年館は区教育委員会社会教育課の下部組織に位置づけられていた。発足当初より社会教育課長が青年館
長を兼務し、他には係員、用務員が各一人ずつの少人数でスタートした。これらの職員は主として管理運営方面に従事し、館が主催する事業は行なわれていなかった。昭和四一年度の団体別利用状況をみると、社会教育課主催事業であった青年文化教室(昭和四五年一月二八日、春日町四丁目に春日町青少年館が一部開館した。一九八三・四七㎡の敷地面積に鉄筋コンクリート造り、地上三階、地下一階、暖冷房完備のこの建物は、青少年教育の殿堂的役割と区民の大きな期待を担って登場した(
区立青少年館条例(
これらの事業の企画・運営等に携わる職員の数は、四五年四月一日の全館開館時には、館長以下六名(
練馬青年館は、同条例施行に伴って春日町青少年館分館となり、名称を南大泉青少年館と変更した。
本文> 項> <項>昭和五四年度末現在の青少年館事業としては次のものがある。以下個々について、その沿革と現況をみてみる。
四五年度から、春日町青少年館で小学生を対象にした絵画教室と気象教室が開設された。翌四六年度には加えて昆虫教室、生物教室(
会場は主として春日町青少年館であるが、南大泉青少年館でも絵画教室(
五一年度になると少年各種教室として以上の事業に加えて天文教室、写真教室(
五四年度は継続的な学習を通して物事の考え方・研究心等を高め、養うことを目的に春日町青年館では一六の教室が、南大泉青少年館では六の教室が左のように開設された。
<資料文>春日町青少年館教室名
南大泉青少年館教室名
青年学級の人員減少が進行するなかで、その対策への模索として、短期青年学級が練馬青年館(
昭和四一年度、短期青年学級は発展的に解消し、その名も新たに青年文化教室が練馬青年館で開催された。この教室は、①短期間でさらにコース別に学習課題を設けたこと、②趣味的技能の向上をねらったこと、③社会生活での余暇活動に役立つ内容などに特色があり青年のグループづくりへの発展が指向されていた。
初年度の実施状況(
区では初年度の成功を踏まえて年を追ってコースを増設していった。四一年度六だったコースは翌四二年度には一一、四三年度には一三となった。ただ四四年度では八となっているが、翌四五年に春日町青少年館が開設すると一一のコースが開設され、南大泉青少年館(
五〇年度には二〇コースに加えてプレ・ミセス専科が開設され一七回(
五四年度の春日町青少年館における青年文化教室実施内容は左のとおりである。このほか南大泉青少年館では五教室が開設実施されており、また結婚前の女性を対象にプレ・ミセス講座が一二回(
青年文化教室(
昭和四五年度に、毎日の食事づくりや健康づくりに役立たせることを目的に料理教室が春日町青少年館で開催された。青年のうちでも主として若い女性を対象に、季節物を使った家庭料理などの調理法に加えて食事のマナーその他が指導された。この年度は年間を三期に分け、一期八回、年間で二四回開催され計一二二名の受講者があった。
画像を表示以後の年度間開催状況は、四六年度三〇回・一三五名、四七年度三〇回・一一五名、
四八年度三一回・一〇八名、四九年度三〇回・一〇八名であった。五〇年度になると南大泉青少年館においても年間二期、計二〇回が開催され受講者は計四〇名を数えた。加えて春日町青少年館の教室も一期一〇回が増設され、年度間四期三九回が開設され一四四名の受講者があった。
五一年度は翌五二年度と同じく春日町、南大泉の両館あわせて六期六〇回が開催され二一六名が各年度に受講した。五三年度からは青年文化教室の中に吸収されて実施されており、五三、五四の両年度は各六〇回開かれている。
春日町、南大泉両青少年館では、現在、レクリエーションホールを次の企画のために積極的に開放している。各企画にはそれぞれ専門の指導員が配置されており利用者の便宜をはかっている。
<項番>(1)項番>スポーツ教室……昭和四五年度、春日町青少年館において開設されたこの教室は、スポーツ愛好者が自主グループ活動を行なえるようになることをねらいとしたものである。この年度はバレーボール、バドミントン、バスケットボールが開設され、計八九名の受講者が基礎から中級程度の技術習得までの系統的な指導を受けた。四六年度はバスケットボールにかわって卓球が行なわれた。四七年度には再度バスケットボールにかわった。四八年度になるとこれら四種目(
南大泉青少年館では施設条件の都合で卓球のみが四八年から実施されている。
<項番>(2)項番>一般開放……比較的運動の機会にめぐまれない青少年ならびに成人を対象に、スポーツ実践をとおして健康の保持と日常生活に役立て、さらには自主的にスポーツを実践する能力の育成のためにレクリエーションホールの一般開放が行なわれている。四六年度以降毎年開放されており、五三年度は一般区民が個人でも参加できるよう毎週土曜日、年間をとおして実施しており、バスケット、バレーボール、バドミントン、卓球の各専門指導員が指導に当っている。
<項番>(3)項番>小・中学生ホール開放……昭和四九年度から、比較的遊び場および運動の機会に恵まれない小・中学生を対象に、健康
の保持と体力増進に役立てるためにレクリエーションホールが開放された。 画像を表示五四年度は毎週月・金曜日の午後三時から五時まで開放され、指導員がバドミントン、卓球、トランポリン等の技術指導および安全管理に当った。
なお、このほかのホール開放関係事業としては「こどもの日」の催しが毎年五月五日に両青少年館で行なわれている。この日は両館の施設が全面開放され、青少年委員の指導のもとに、軽スポーツ、映画会、紙工作、フォークダンス模範演舞等(
また一月一五日には、青少年館事業参加者ならびに常時使用している青年団体が日頃の成果を発表する場として「成人の日」の青年のつどいが盛大に実施されている。
昭和四五年度、青少年グループの中心的存在として活躍しているリーダーを対象に、その資質を高めることを目的として青少年グループリーダー研修会が開設された(
レクリエーション指導者研修会は、昭和四六年度、青少年館の文化教室修了者で発足した各グループの指導者等を対象に、各グループ間の交流とレク・指導者の向上発展の場として実施された。春日町青少年館のレクリエーションホールには七グループ五七名の青少年が集まり、社交フォークダンス中級のステップ、ゲーム、コーラス、リーダーの心得など指導者としての必要な知識、技術、方法について研修を受けた。四八年度は、レクリエーションの中心をなすフォークダンス指導者研修会が行なわれた。
四九年度からは合宿を含めた充実したカリキュラムが組まれてレクリエーション指導者研修会が実施されている(
昭和四五年、春日町青少年館開館と同時に、三階に読書室、親子コーナー等が設けられた。地域住民の要望や読書熱にこたえるために設けられたこれらの施設はかなりの人気を呼び、四五年度の使用人員は読書室一万九九六一名にものぼり、親子コーナーも一万〇〇四七名を数え、その後もこれらの施設の利用頻度には高いものがある。五四年度現在では三階の読書室(
読書室は自由席(
幼児から小学生までの図書を備えて自由に利用できるように設けられた親子コーナーは、児童や親子連れで連日賑わっている。
南大泉青少年館には昭和五二年より読書室(
本区では日本と外国の青少年間の国際的な交流を深め、相互理解と国際親善、世界平和に貢献することを目的に、民泊引受事業、渡航費補助、海外事情の紹介等を行なっている。
昭和四五年度、ドイツ青少年代表団員三八名の民泊引受が区民の協力をえて行なわれた。この年七月三一日には、区立福祉会館において日独親善交歓レセプションが盛大に開催された。以後、この種の交歓会は事業実施のたびに行なわれ今日におよんでいる。またこの年度には、海外研修に出かける二名の青少年に対し、各五万円が助成された。
画像を表示四六年度はドイツ青少年代表団員二四名の民泊引受が行なわれた。海外交流経費助成は三名の青少年に対し各五万円が支給された。また、海外交流帰国者の報告会や外国事情紹介のための講演会・映画会などが行なわれている。四七年度も、ドイツ青少年代表団員二四名の民泊引受、四名への海外交流経費助成(
四八年度は、ドイツ青少年代表団員一九〇名の民泊引受事業と二名への海外交流経費助成が行なわれた。以後四九、五〇の両年度は交流する訪日外国青少年団体がなかったため事業を中止したが、四九年度は海外交流経費助成が二名に対し行なわれた。
五一年度はアメリカ・アーリントン市より青少年代表団員一七名が来日し民泊引受事業を実施した。五二年度はオーストラリア(
本区における民泊引受事業は(
初めて青少年海外交流事業が実施されてから一〇年の歳月が流れた。この間に来区したドイツ、アメリカ、オーストラリアの青少年や、彼らとの友情を培った本区の青少年が学び得たものははかりしれないものがあろうし、所期の目的である国際親善への貢献も大きなものがあったといえる。しかし、これからの国際社会の中で充分に活躍しうる世界的視野をもった
青少年の育成という行政に課せられた課題を考えた時、外国青少年の引受けという従来の事業の枠を越えて本区青少年団の海外派遣等の積極的な内容を含んだ行政施策が待望されるところである。 本文> 項> 節> <節>青少年対策という言葉には、青少年教育と異った響きがあり、歴史的にも別個の歩みをみせてきている。青少年対策という場合、青少年を健全育成するという面と、非行を防止するという面があり、国家行政のレベルでは法務省や総理府などの所管する事業・運動であった。
本区では、昭和四〇年の部制実施以前は区民課厚生係や石神井支所庶務課厚生係が所管していたが、以後は区民部区民課や管理課の各係がこれを担当してきた。本年度(
本区史では、対象が青少年であることから、本節を社会教育の章で扱い、読者の便を図った。
戦争による最大の犠牲者は戦争の何たるかを理解し得ないままにその渦中におかれた子どもたちであったとみることができる。ことに肉親を失った子どもたちの上に戦争の傷跡は深く残されてゆくこととなった。
戦後の社会不安と物資不足の中でとかく秩序は乱れ、犯罪の多発を招いたが、このような風潮に引きずられてゆく子どもたちも決して少なくなかった。昭和二六年五月五日に制定された児童憲章は正にこうした恵まれない子どもたちの救済を広く世界に訴える警鐘であった。
以後我が国では、「社会を明るくする運動」あるいは「青少年を守る運動」などを通して青少年問題を社会的に捉えてゆこうとする際の足がかりとしてきた。社会を明るくする運動は、二六年から、法務省の主唱により毎年開催され、今年(
青少年を守る運動は、総理府の主唱により三八年から実施されたが、四一年以後は「青少年とともにすすむ運動」として継続されてきた。その一環として「全国青少年健全育成強調月間」を設け、五五年度は一一月一日から三〇日までをその期間とした。その主旨は「青少年が自らの役割と責任を自覚し、広い視野と豊かな情操を培い、心身ともに健やかに成長することは、国民すべての願いである」との考え方から、青少年の社会参加、地域活動を促進させ、合せて健全な家庭生活を普及させることとなっている。
本区ではこうした運動に極力参加し、その都度関係諸機関との協力のもとにキャンペーンを張る一方、日常活動の組織作りにも鋭意努力を重ねてきた。二八年七月二五日の「青少年問題審議会及び地方青少年問題協議会設置法」の制定にもとづき、三一年一月一〇日「練馬区青少年問題協議会条例」が公布施行され、ここに青少年問題協議会の発足をみた。
協議会は、区議会議員六名、学識経験者一五名、関係行政機関の職員六名、区職員七名の計三四名をもって構成し、必要に応じて開催される。なお会長には区長が任じている。
一方、東京都では三〇年九月に「青少年問題に関する地域組織活動強化および補導体勢の整備強化要綱」を制定し、各地域の協議会の下部組織として「補導連絡会」と「地区委員会」を設けるよう勧奨した。その後、三二年一一月には「地区委員会設置基準および運営要領」および「地区委員会会則基準」を示して全都的に地区委員会の設置を勧めた。こうした機運
から本区でも両組織をもって青少年問題協議会の下部組織とした。補導連絡会は警察署の所管単位ごとにおかれ、その構成員は民生委員、保護司、社会福祉主事、児童福祉司、生活指導主任、警察署少年係、少年補導員、青少年係長その他関係行政機関から成っていたが、その後五三年四月に青少年対策連絡会が新たに協議会の下部組織として設置されるに至り、補導連絡会は解消された。
現在の連絡会はその目的を「青少年の健全な育成をはかり、その非行化を防止するため、青少年関係団体および関係行政機関が協力して各種の情報の交換ならびに事例研究等を行う」こととし、年四回以上の開催が規定されている(
またその構成員は次の通りである。
地区委員会の経緯については改めて後述するが、その実体は民間のボランティア活動であり、方針その他一切が委員会の自主的な運営にゆだねられている。むしろこうした運動は民間諸団体の協力無くしては成立し得ないものであり、この意味で地区委員会の活躍は現在大きく評価されている。
以上概観してきたように、青少年対策は社会の急務とされながらも、その取り組みにおいては多分に中央機関からの呼びかけを待って行なう趣きがあり、地域活動はその下部組織としてみなされがちであった。しかし、三六年以降の地区委員会の独自な歩みに代表される地道な地域活動は、その後の運動の方向性を示す大きな指針となった。
現在、本区には、本区独自の運動を標榜しようとする声が日増しに高まってきている。五五年九月には小・中学校長会、小・中学校PTA連合協議会および青少年委員会から「子どもたちを健やかに育てる運動」実施についての要望書が青少年問題協議会へ提出された。
その主旨は学校、家庭、社会が一体となって健全な青少年を育成するため、全区民の運動を展開しようとすることにあり、具体的な提案事項として次の四点があげられている。
本区ではこうした民間からの意見や要望を重視し、関係機関との調整をはかりながら青少年対策運動を充実させてゆこうとしている。
三〇年九月の東京都による「青少年問題に関する地域組織活動強化および補導体勢の整備強化要綱」の制定にともない、本区では三一年一月発足の青少年問題協議会の下部組織として青少年育成地区委員会を誕生させた。しかし当初は協議会の下部組織としての連絡調整機関とされながらも、実践活動団体としての趣を含んでいる部分もあり、東京都の示す構想にあいまいな点があった。こうした矛盾から、東京都は改めて三六年七月、「地区委員会運営指針」および「地区委員会規約基準」を示した。
これによれば、地区委員会は連絡調整を本来の目的とする以外に実践活動をも成し得る自主的な機関として規定されている。これ以後、地区委員会は青少年問題協議会から独立し、独自な活動を展開するに至っている。
その目的は、「青少年の健全育成をはかるため地域社会の力を結集しつくられた自主的組織」をもって、「青少年をめぐ
る社会環境の浄化につとめるとともに地域社会における青少年の健全な育成をはかる」ことにあるとされる。組織構成は次の通りである。
図表を表示
また主な活動内容としては次の諸点があげられる。
<資料文>
本区の地区委員会事務所は区役所の各出張所内におかれており、その所在地および構成人数は表<数2>19数2>―3の通りである。それぞれの地区委員会では青少年を対象としたキャンプ活動、スポーツ活動、ラジオ体操、ハイキングなどの身体育成のための行事や、絵の作品展、チャガ馬講習会、映画会、その他の講演会やつどいなどの文化的な催しものを通して広く地域の子供たちとの交流を深めている。また、社会浄化運動の面では、最近の例として不健全図書自動販売機撤去運動を推進させている。
本文> 節> <節>本区の社会教育の歴史は、そのまま練馬公民館の歩みであるといっても過言ではない。
昭和二三年、教育課(
――公民館設置までの経過――
(
昭和二六年七月には早くも都下青梅市および吉野村公民館の視察となり、いよいよ積極的な研究活動にはいり、昭和二七年一月には区議会に公民館建設特別委員会が設置され、梅内議員がその委員長になり須田区長以下区職員と一体となりこれが建設に鋭意邁進し、全国の優秀公民館といわれる北区、仙台、石巻、福島、飯坂、塩釜等の各公民館の設計、備品および運営状況について見聞し、一方予算面においては、文部省をはじめ都関係方面と折衝を重ね、更に昭和二八年五月、区民、区議会、区役所が一体となって公民館建設協賛会を組織し、公民館の性格を広く認識せしめると共に五〇〇万円を目標とする募金運動を展開し、区内のみならず区外においても多大の協力を得、予期以上の成果を収めるにいたった。
現在公民館にあることごとくの備品、調度品は各方面から寄せられた尊い御厚意の賜である。(
(
関係者の必死の努力によって建設された公民館は、当時の練馬区としては堂々たる近代的建物であった。これに対する一般の風評は、待望する声の多い一方、“閑古鳥が鳴くのではないか”、“果して住民が使いこなせるだろうか”といった声もありさまざまなものであった。
しかし、それらの危惧も次第に影を潜めていった。それは、社会教育課の全職員が公民館の開館とともに公民館業務を兼任し、精力的な努力を行なったからである。その間の事情を初代館長岩波繁次氏は次のように語っている。
<資料文>その当時は、都市公民館はどんな運営、事業をやったらよいか悩んだものです。
職員も実によくやってくれました。毎日十時以前に帰ったことがないくらいでした。区民も公民館に期待が強く、また議会、役所側でも応援してくれましたので私は非常に幸福だったと存じます。
(
また、当時の職員であった梅地幸子社会教育主事は、開館当時のエピソードを次のように記している。
<資料文>公民館建設に当っては、協賛会組織を通じて全区的に何千人という方々からのご協力をいただいており、披露を兼ねた落成をどのようにするかが頭をかかえた難問の一つであった。結局、式典の外に連日五日間にわたり、朝・昼・夜にわけて一二種類の催しを組み、多くの方をお招きする方向でアトラクションが落着いた。
一つ一つの催しをごらんになった方の眼にはどう受けとめられたことか。楽屋裏では大汗のかき通し、たくさんのハプニングがあった。
このような大行事を組んだ経験がないので職員の気のつかいようは又一人。
こけら落しで、先代坂東三津五郎丈の「三番叟」の素踊りに使う新品の所作台もすべりをよくするには、イボタ粉で磨いておかねばならない事を知ったのが式典前日。あわてて職員総がかりで夜までかかって磨きあげ何とかスベリ込み。
又、ステージ正面のどん帳(
当時は裏庭が広かったのでボクシングの試合の会場に貸してくれとか、グラントハイツにむかうアメリカのヘリコプターが道に迷って裏の空地におり、身振り手振りの会話でも結構話が通じたことなど、たくさんのエピソードが思い出される。
(
開館翌年にあたる昭和二九年度の事業は特別講座、成人学校、母親講座、講演会、趣味講座、講習会、料理研究会、映画鑑賞会、レコード鑑賞会、その他の集会などさまざまなものが多くの参加者とともに実施された。
このほか、館内には図書室(
利用総人数は約一四万人(
こうして公民館は、名実ともに区社会教育行政の拠点として活動を開始することになった。そしてそこでの努力は、開館三年にしてはやくも報われた。昭和三一年、練馬公民館は準優良公民館として国から表彰をうけたのである。
なお、公民館の各種事業については、社会教育法の規定に基づき設置された「公民館運営審議会」(
現在の主な公民館事業は一一を数えることができる。
昭和二九年、生活の余暇に、日常役立つ知識や技能および教養を身につけようとする人々のために開設された。以後毎年二、三回(
五四年度の科目は、楽しい盆栽づくり、陶芸入門、手づくりのおもちゃ(
昭和三九年秋、高齢者を対象とした「寿教室」が開設された。二三区で初めてというこの試みは、お年寄りに大好評で迎えられた。四二年からは、事業の実績、区民の要望に基づいて内容の充実を図り、名称も新たに「寿大学」として開設され現在におよんでいる。
画像を表示昭和四〇年からは、毎年二期(
昭和五二年七月、この講座は、寿大学以外でも年間を通して学習を希望する受講生(
豊玉地区に建設された公民館は、本区の周辺部に位置している。そのため、公民館への来館が難しい遠隔地域の区民から批判的意見が沸き起ってきた。このような人々に対して、出張して行なわれた事業が「移動公民館」である。
当初は会場不足のため、学校、寺院、神社などで行なわれるといった状態であったが、各地域で好評を得て、盛況を呈した。この歴史は、昭和二九年度のおわり、すなわち三〇年の春に遡ることができる。
画像を表示昭和三一年度の事業実施状況をみると、料理講習、ふとん綿の入れ方、ビニール編講習、マッサージ講習、季節ものの中華料理、手芸、子供のしつけについて、家庭療法、版画のつくり方など一七回の講習が行なわれ、参加延人員は一三七八名におよんだ。五四年度は、スケッチ入門、着付、文章の書き方について、関、旭町、石神井の各区民館で実施された。
昭和四五年、社会の急激な変化に順応できずに孤独感におそわれている人々に対して、生きがいをもったり、余暇利用などに取り組む能力を高める必要があるという観点から、婦人を対象にこの講座が開設された。
五四年度は、料理、華道、茶道、着付、手芸・編物の講習会が、春、秋、冬季に合計三八回行なわれ二八二名が受講した。
児童合唱は、児童・生徒が合唱をとおして新しい仲間づくりと、情操の純化をはかることを目的として行なわれている。
昭和四四年創立以来、高瀬新一郎氏他によって指導されてきた児童合唱団は、毎週土曜日に二時間の練習を行なっているほか、夏には区立軽井沢高原寮で合宿をしている。五四年度は春秋の文化祭、定期演奏会等に出演した。
昭和三〇年に始まったこの事業は、児童の情操の純化、知識を広めるなどをねらいとして、視聴覚教育の一環として毎月一回(
過去に上映された作品は、劇映画、マンガ映画、教育映画などさまざまであるが、いずれも厳選された優良作品である。昭和五四年度の映画は一五回(
昭和五〇年、急激な社会変化の中で、区民の教養を深め、広い視野を身につけ、区民を取りまくさまざまな生活課題の解決に役立てることを目的として本講座が開講した。内容は人文・社会・自然の各科学分野にわたっており、講師には各界の専門家が依頼されている。
図表を表示五四年度の実施状況は前表<数2>19数2>―6のとおりである。
昭和五〇年、変動する世界・社会情勢の正しい理解の一助とするために本講座が開催された。各界の専門家による講演の内容は次のとおりである。
五〇年度……「現代社会における婦人の生き方」、「不況下の日本経済」、「これからの子どもの教育」
五一年度……「国際政治入門」、「日本経済を考える」、「家庭教育を考える」、「庶民の戦災史」
五二年度……「教育におけるゆとりと緊張」、「中国では今」、「文化財保護運動」、「地震と防災」
五三年度……「子どもの現実と児童文学」、「消費者の利益を守るために」、「食生活をかえりみて」、「子どもと音楽の関わりを求めて」
五四年度……「子供の本当の幸せとは?」、「野鳥と自然環境」、「オーストラリアの生活と風土」
この会の歴史は古く昭和二九年に遡る。「過去に名画として賞讃された作品を上映し、区民文化の向上をはかる」という当初の目的は、テレビの普及に伴う名画の放映も多い昨今の文化的情況の中で一層達成されやすくなったといえるが、公民館では根強い区民の要望に答えて、幻の名画といわれ、鑑賞の機会の少ない作品などの上映を続けている。
昭和五四年度は、「灰とダイヤモンド」(
昭和三一年秋、初めての文化祭が教育委員会主催で開催された。以後毎年秋に実施されていたが、三七年春に、文化団体協議会主催、区教育委員会後援の文化祭が開催されるに及び、この年以降、年二回、春と秋に実施されることになった。
区民文化祭は春、秋ともに、土曜、日曜に、公民館を中心に開催されている。昭和五四年度は表<数2>19数2>―7のように春秋各一二の行事が行なわれ、合わせて一万名以上の入場者があった。なお、この事業は以前は区教委社会教育課の担当する事業であったが、五一年から公民館事業となっている。
図表を表示昭和四八年、アマチュア美術愛好者を対象に、野外写生を通じて自然美を表現する能力の養成と芸術的感覚を身につけるために区民野外写生会が実施された。この年は四五名が参加し、八月二六日から一泊
二日で榛名湖において実施された。五四年度は四五名が参加し、八月二六日から一泊二日で妙義山、軽井沢で行なわれた。指導は、区美術家協会の画家が担当している。なお、五一年から主管が社会教育課から公民館に移っている。
画像を表示公民館で開催された各種講座の受講生は、講座終了後に、自主的にサークルを結成し活動をはじめた。これらのサークルは昭和四七年、日常活動の成果を発表する場としてサークル成果発表会を開催した。以来毎年一回開かれている。五四年度は第八回目で、舞台発表の部と展示の部とに分れて行なわれた。
五五年九月一日現在、六五のサークル、二〇〇〇余名の会員が有意義な活動をしている。
画像を表示昭和五二年、野外活動のリーダー養成を目的として、区民キャンプ教室が開設された。正しい野外活動実施のため、基礎的な知識と経験が習得できるよう各種のカリキュラムが組まれている。
五四年度は、五日間(
国際連合は一九七五(
これに答えて、昭和五二年二月、国では、婦人問題の総合計画として「国内行動計画」を発表し、東京都では、五二年一一月、さまざまな婦人問題の解決を図るために「婦人問題解決のための東京都行動計画」を策定・発表した。
また、昭和五二年度からは、各区市町村で実施されている婦人学級・家庭教育学級への補助率、補助金が上昇、増額され、同年一〇月には国立婦人教育会館も開館されている。
しかし、昨今のこのような婦人問題・婦人教育への行政的取り組みの高揚を俟つまでもなく、本区における婦人教育への
婦人学級の前身は母親学級にある。昭和二一年には母親のみを対象に母親学級が開設されていた。これは、戦後、文部省が、主婦として母親としての人格および教養の向上、家庭生活の科学化、公民としての識見を高めることなどをねらいとして各都道府県に対し母親学級の開設を委嘱し、奨励したことによる。翌二二年には、男女平等の立場からこれを一般成人を対象とした社会学級と改めた。ところが、二五、二六年頃から再び婦人のみを対象とする学級開設のきざしが現われ、三一
年、文部省は全国二三〇〇の市町村に婦人学級開設の研究を委嘱した。これを受けて東京都二三区では、荒川区に社会学級が、続いて足立区に婦人学級が開設された。本区の婦人学級は、昭和三二年一〇月から一二月にかけて、旭丘中学校を会場に開設された。この年の大テーマ(
昭和三二年にはじめて開設されて以来今日まで二〇年を越す歳月が流れた。この間の学習の内容は、子どもの教育の問題、婦人の自立の問題、社会とのかかわりの問題、婦人の生き方の問題など多岐にわたっている。開設当初から、婦人学級終了後も引き続いて活動するような自主グループを誕生させるための技術的な内容にも留意されていたためか、今までに数多くの自主グループが誕生している。
四三年には、婦人学級から育ったサークルからなる「婦人学習グループ連絡会」が発足した。参加グループ数も当初三〇余りであったものが、五三年度現在五四を数えるまでになっており、婦人の自立的な活動の広がりは逐年大きくなっているといえる。
婦人学級の大テーマは、毎回新たに掲げられ、第二回(
四〇年度以降の大テーマの推移を示すと左のとおりである。
<資料文>四〇年度 「みんなのしあわせを考えよう」
四一年度 「こどもの教育」、「女性のあゆみ」、「家庭と社会」
四二年度 「婦人のこれからの生き方はどう変わるか」
四三年度 「主婦の座を考える」
四四年度 「日本の教育問題を考える」、「主婦として現代をどうとらえるか・民主主義を考えなおしてみよう」
四五年度 「七〇年代をどう生きるか」
四六年度 「昭和の婦人作家」
四七年度 「昭和の文学」、「福祉を考える」、「現代日本の社会を考える」
四八年度 「戦後経済と公害」、「社会福祉を考える」、「戦後の文学」
四九年度 「婦人のあゆみこの三〇年」、「戦後文学作品の鑑賞」、「豊かな老後の生活をもとめて」、「婦人と人権」
五〇年度 「明治の女流作家 一葉・晶子」、「社会福祉を考える」、「婦人問題を考える」、「おかあさんの勉強室」、「都市問題を考える」、「女性と社会」、「私の生活記録」
五一年度 「日本史 貴族社会から封建社会へ」、「婦人問題 主婦の座を考える」、「生活記録」、「文学 夏目漱石」、「女性史近代女性のあゆみ」、「くらしの経済」、「婦人問題講座 平等と自立をもとめて」
五二年度 「自然主義文学 藤村・花袋・秋声」、「生活記録 わたしの歩いた道」、「経済 今のくらしこれからのくらし」、「女の生き方をさぐる 近代文学作品より」、「生活のなかの女性史」
五三年度 「子どもの詩・生活の詩」、「現代文学に描かれた女性像」、「文学」、「女と老後」、「歴史の中で女はどう変ってきたか」
五四年度 「日本文学(
年度別の参加者数は、開設学級数(
子どもをどのような人間に育てるか、ということは、単に個々の家庭内だけの問題ではなく、遠く社会の運命を左右する社会的課題であるといえる。家庭教育学級は、昭和三九年度から国の提唱によって始められたもので、父母、祖父母の家庭教育に関する学習の機会を拡充し、もって青少年の健全育成に貢献しようとの観点から企図されたものであった。
画像を表示本区では、昭和三九年にまず五学級が、北町西小、上石神井小、大泉東小、中村西小、南町小を会場に各七回開設された。この年は「家庭の移り変りとこどもの生き方」という共通のテーマを掲げ、各小学校のPTA会員を中心に熱心な学習等が行なわれた。総参加人数は二一七名であった。だが全体として見た場合、開設当時はこの種の社会教育事業に対する一般の関心も薄く、職員が人集めに奔走しなくてはならない状況であった。しかしそれも、徐々に行政の姿勢が理解されてくるに伴い次第に参加者の数が増え、開設後数年にして、多くの参加者が学習内容の編成に参画するまでに発展した。
学級の開設主体は、当初から小・中学校のPTA会員、地域の母親・サークルなどと区教育委員会とが協力して行なう場合が多く、その活動は年を追って活発になってきている。
開設学級数の推移をみても、四〇年には「小中学生のこどもをもつ親の学級」として六学級が、「三・四歳児のこどもをもつ親の学級」として二学級が開設され八九四名の参加をみた。以後、四一年七学級、四二年一二学級、四三年一三学級、四四年六学級、四五年五学級、四六年七学級、四七年八学級、四八年一〇学級、四九年一〇学級、五〇年一三学級、五一年一四学級、五二年一三学級、五三年一六学級と逐年増設充実されてきている。
五四年度の各学級開設状況(
現在では図書館とは、当該本館だけではなく、自動車図書館(
本区においても、昭和三七年に練馬図書館が開館して以来現在まで、次のようなさまざまな事業が実施されてきた。図書貸出しの充実、レコードおよび録音テープの貸出しの実施、点字図書および視力障害者むけ録音テープの貸出しと対面朗読の実施、児童室および児童コーナーの設置等による児童サービスの充実、動く図書館・移動図書館の開始と充実、出張所文庫の開設、資料の予約制度の実施、図書館相互の資料貸借システムの実施、資料相談、資料調査の実施、郷土資料室の開設、地域文庫活動に対する援助、視聴覚室および会議室の設置とその活用、新刊および新着図書等の紹介業務の実施など多様な事業が行なわれ、図書館の充実がはかられてきたのである。
しかしながら、五五年三月現在の地区図書館数は四館であり、区人口五六万八千人(
これに対して本区では、既に、練馬区中期総合計画(
区民待望の第一号区立図書館は、昭和三七年八月一日からその一部を開館した。この時既に建物は完成されていたが、当時、区役所庁舎が新築工事中であったため、図書館の二階と一階の一部が仮庁舎として使用されることになったのである。
画像を表示図書館の建物は鉄筋コンクリート建て、地階一〇五㎡、一階四〇〇㎡、二階四〇〇㎡、屋上三五㎡、計九四〇㎡で、閲覧室一階・三八席、二階・一五八席、書庫は約三万冊配架可能で、その他視聴覚室、レコードライブラリー室、事務室、新聞・雑誌閲覧室等が設けられた。
練馬図書館は当初、新しい時代にふさわしい図書館資料の選定、収集・整理・保存などに留意し、図書約二五〇〇冊が収集された。蔵書目標は、五か年計画で三万冊の予定がたてられた。この計画は見事に達成され、五年目の四一年には三万二一四二冊となった。
昭和三九年一〇月一日、全館が開館した。この際、貸出し方法を従来の閉架式から自由開架式に改め、貸出しシステムもイギリスの公共図書館でひろく行なわれているブラウン方式が日本で初めて採用された。また、貸出しは一人二冊二週間を限度として行なわれ、従来用いられていた記名式の入館票にかわって無記名式の入館札が採用された。ブラウン方式は、貸出し・返却の手続きが簡単で、本を返却すると貸出し記録が残らないため、読書の秘密が守られるなどの特徴をもち当時としては画期的なものであった。この結果、本館の三九年度以後の一日平均貸出図書数は急激な増昇をみている。この方式は石神井図書館においても四五年開館以来採用されている。なお、平和台図書館(
四二年には別記のように移動図書館が開始され、また同時に、予約制度が始まった。この制度は、図書館でその場で提供できない資料について予約を受けつけておき、その資料が揃った段階で予約した人に提供する制度である。現在本区では各図書館とも常時行なっている。
四六年になると、一月に児童への貸出しが開始され、七月一五日からは石神井図書館に
続いて児童室が開設された。四七年一月一六日からは、中学生以上を対象にクラシック、ポピュラーなどのレコード貸出しが区立図書館で初めて開始された。四八年六月には、紙芝居貸出しが、四九年二月には紙芝居・読みきかせの会がそれぞれ石神井図書館で開始された。五〇年になると、四月に石神井図書館で開館以来採用されていた入館札が廃止されたのに続いて、本館でも七月に廃止されている。昭和四二年五月より、本区では五人以上の団体を貸出しの対象とした移動図書館が開始された。これは図書館へ行くには遠い、暇がない、あるいは話し合いの場がほしい、グループで読書したい等の区民の要望にこたえて図書館が区内各所に出張して行なう団体貸出しの業務であり、当初、石神井ハイツ、東大泉都営住宅、上石神井都営住宅、関出張所の四か所が配本所として開設された。
昭和四三年七月、移動図書館専用車みどり号(
四七年七月には、石神井図書館にも同専用車こぶし号(
五五年二月に大泉図書館が開館されると同時に同専用車いずみ号(
なお、みどり号は、五四年七月から一五〇〇冊積載の新型車と交替したため、図書選択の幅が拡大し喜ばれている。
<コラム page="1115" position="right-bottom">「手作りの図書館」
金沢 茂雄
「目が見えなくても、普通の人と同じように本を読みたい」という、視覚障害者の切実な要求が適い、昭和四七年、石神井図書館にこのサービスが開始されました。この種のサービスはあまり手を染めていなかった中で、石神井図書館は画期的な図書館と言えます。乏しき人員、予算の中で大変前向きに取り組んで下さいました。
私達は「社会福祉法人日本点字図書館」を利用しています。名前は厳しくても、皆様の寄付と国や都の補助により運営されている民営の図書館ですが、点字図書は、ここしか貸してくれませんでした。
全国に利用者がおりますから、本が手に届くまで、かなり時間がかかり、不自由でした。目の見える人は、本を自由に買うことができるのに、私達にはそれがないのです。
点字図書は、普通の書籍より大きく、嵩張り、しかも、一冊ですむ物は殆どありません。値段も高価でスペースもとるので、個人で購入するのはなかなか大変です。英語の辞書などは、一八冊にもなります。私は、石神井図書館を、我が本箱と思い、専門の針・灸関係、辞書、社会福祉の本等、必要を生じるとすぐ貸していただき、とても調べものが早くできるようになりました。
コラム>昭和四五年一二月一日、練馬図書館同様、開架式・ブラウン方式を採用した本区で二番目の石神井図書館が開館した。当初の貸出しは一人二冊二週間を限度に行なわれた。白亜の美しい建物は地上三階、地下一階の鉄筋コンクリート造りで、建物延面積は二一九二㎡ある。これは五五年三月現在、区内にある四つの区立図書館のなかで最大規模であり機能的にも中央図書館的機能を有している。現在の施設内容は、概ね次のとおりである。
画像を表示 <資料文>一階(
二階(
三階(
地下一階(
最近は、病気や事故により、人生半ばに失明する人が増えています。そういう人達は特に「テープ図書」を利用しております。
私も、小説類はテープに朗読された物を聞いております。この図書館では、オープン・テープを使っている時、逸早くカセットテープに吹き込みました。又、私達の希望を入れ朗読者を募集し、独自のテープを作るようになりました。これによって、今読まれているベストセラーズを時を移さず録音し、貸出ししていただけるようになりました。私も、電話で何冊もお願いし、その度に、朗読していただきました。
私は、歴史物が好きで、特に司馬遼太郎の作品を多く聞かせていただきました。
「人生は、夢をもつことなのだ。それが破れても希望に向う姿こそ尊い」と教えられました。失明などにくじけてはならないと思えるのです。
その他テープには、落語や漫才、小鳥や虫の音、音楽など、楽しい娯楽物も用意してくれております。やはり、ケースに六本、郵送して下さいます。
石神井図書館は「手作りの図書館」と言えるでしょう。これからも、もっと、もっと利用者を増やし、発展して下さることを、希望いたします。 (点訳、石神井図書館)
コラム>充実した各室のなかでも、本区初の児童室には大きな配慮がなされている。じゅうたんを敷きつめた室内は約一五〇㎡の広さをもっており、絵本約二万一〇〇〇冊、紙芝居約一〇〇〇点が備えられている。開架式書庫は開館当初八二席を有する閲覧室であったが、蔵書冊数の増大に伴って徐々に椅子等が撤去されている。
レコード室には、レコード、レコードプレーヤー(
本館の特徴としては、第一に、区内四八の地域文庫(
本区では、早くから住民の自発的な文庫づくりが盛んで、昭和三〇年代に三文庫、「練馬地域文庫読書サークル連絡会」が発足した四四年には一〇文庫を数えていた。以後、次第に新しい文庫が発足、加入し、五五年現在四四に至っている。このほか「連絡会」未加入のものを入れると、五五年三月現在、約六〇の地域文庫・読書サークルがある。これらの地域文庫活動は、子どもの文化的環境を改善し彼らの健全育成に大きく貢
献をしてきた。これに対して石神井図書館では、四九年から、各文庫の構成員一人につき一冊の割合で、一文庫あたり一〇〇冊を限度として希望図書の助成(第二の特徴は、視力障害者のための点字図書やボランティアの作成による録音テープの貸出しを行なっていることである。四七年に開始されたこのサービスがどんなに意義深いものであったかは、利用者の一文(
昭和四五年一二月、郷土資料室は石神井図書館地階に開室された。当初は図書館業務の一環として運営されていたが、昭和四八年四月に、その充実をはかるため担当主査制度となった。五四年度からは社会教育課・郷土資料室として位置づけられている。
画像を表示本室の中心的業務は、文化的遺産である郷土資料の収集、調査、整理、保存を行なうことであるが、さらに、昭和四六年以来、年に一~二回、テーマをきめて特別展が左記のように開催されている。
また昭和四七年度以来、特別展の資料をもとに更に詳細な調査を行ない、その結果をまとめ“祖先の足跡シリーズ”として出版物を刊行している。現在までに、「庚申塔」(
その他の資料集等としては、「特別展示特集」(
本室所蔵資料としては、民俗資料四八五点、石造物一九点、古文書(
昭和五一年七月一日、練馬、石神井の両館に続いて平和台図書館が開館した。本館の建設に先立つ四九年六月、「仮称・平和台図書館建設懇談会」が発足した。この会は小・中学校関係者(
建物は地上三階、地下一階の鉄筋コンクリート造りで、建物延面積は二〇七七・六五六㎡(
本館の特徴としては、第一に、身体障害者への高度な配慮が施されている点があげられる。車椅子でも来館利用ができるように玄関や一階にスロープが設けられており、また車椅子のまま利用ができるエレベーター、専用トイレ(
第二に目の不自由な方への朗読サービス等を行なっている。本館でも石神井図書館と同様に点字図書や録音テープ等の貸出しを行なっているが、希望する本が点字図書、テープなどになっていないときなどのために朗読サービスが対面朗読室で行なわれている。また視力の弱い方や高齢者のために拡大読書器が備えられている。
第三は調べもの相談に応じるレファレンスカウンター(
第四に特徴的なのは、個人貸出しの方法にブラウン式の返却手続きをさらに簡略化した回数券方式が採用されている点である。これは、希望する本・レコード・テープを書架から自由に選び出して、借りる数と同じ枚数の回数券をカウンターへ出すだけで借りられ、返却は返却ポストに入れるだけという簡便な方式である。
館内事業としては区内図書館では初の文学講座(
なお、本館での貸出しは開館時から一人四点三週間を限度に実施されているが、その際に、練馬・石神井の両館の貸出し期間も三週間に延長されている。
図表を表示昭和五二年一〇月、三つの出張所に、大泉西文庫(
昭和五二年二月一日、区内で四番目の図書館として大泉図書館が大泉学園町二二四五に開館した。本館は、平和台図書館に続いて、地域住民と行政との協力によって建設された。
昭和五一年一一月、「仮称・大泉図書館建設懇談会」が発足し、同時に第一回の会合がもたれた。以後五五年一月まで、一八回にわたってさまざまな意見の交換が住民各層、各団体の代表者と行政側代表者との間で行なわれた。その結果、「住民の誰でもが使いやすい図書館」の理念を具現化した優れた特徴をもつ図書館の現実となったのである。
地下一階、地上二階、鉄筋コンクリート造りの本館の外壁は、落ちついたクリーム色に包まれ、建物延面積は一九七五㎡を有している。建物の裏側には木陰で本を読んだり、散策できる庭があり、入館者の心にやすらぎの場となっている(巻頭グラビア参照)。
施設内部の特徴としては、<項番>(1)項番>からだの不自由な方のために入口の平面化、車椅子のまま利用できるエレベーターや専用トイレの設置、書架の間隔の拡大等が配慮されている。<項番>(2)項番>目の不自由な方のためには、点訳図書およびテープの貸出しや対面朗読室での朗読サービスが行なわれているほか、視力の弱い人のために拡大読書器も備えてある。<項番>(3)項番>子どものためには児童コーナーが設けられ約一万六〇〇〇冊の児童書が揃えられている。<項番>(4)項番>中学生、高校生のためには読書の場、いこいの場、交流を深める場としての青少年コーナーがある。<項番>(5)項番>本館には地域の情報文化センターにふさわしいように近代的な設備を備えた視聴覚室(
本館は館外施設としてブックポストを五か所に設置している。これは利用者が図書を返却しやすいように設けられたものである。貸出し方法は、回数券方式で、一人四点三週間の貸出しが行なわれている。レコード、カセットテープの貸出しは中学生以上の方のみに行なわれている。団体貸出しも行なわれており、区内にある事業者、サークルなどで五人以上のグル
ープであれば三か月三〇〇冊まで借りることができる。なお、本館には、移動図書館専用車いずみ号が配備されている。 本文> 節> <節>昭和二三年、アメリカは、千余台のナトコ映写機(
ナトコ映写運動は、まず①映画を通して視聴覚教育の何たるかを人々に教え戦後の社会教育活動の新しい流れを創出した。②さらに映写機の操作技術や映画学習の方法の普及をとおして、視聴覚教育の理論に対する関心を高めた。加えてこの運動は、③視聴覚教育を促進するための行政の体制を整備し、④全国各地にフィルムライブラリーを設置させるきっかけともなった。このような運動の生み出した歴史的な意義は、本区においても次のような事業の継続的な実施によって受けつがれている。
本区におけるフィルムライブラリーの発足は、昭和三四年四月のことである。この年、豊玉第二小学校において業務が開始され(
四二年二月、社会教育と学校教育の一体化という観点から、本格的機関としての練馬区視聴覚ライブラリーの設置準備委員会が発足した。この会は練馬区視聴覚ライブラリー運営要綱等を制定し、この年の五月、練馬図書館の視聴覚室において練馬区視聴覚ライブラリー(
保有状況(
一六ミリ発声映写機 三台
八ミリ映写機 一台
一六ミリフィルム 五九一本
(
八ミリフィルム 六五本
貸出し状況
一六ミリ映写機 四三回
八ミリ映写機 二回
一六ミリフィルム 一九六六本
八ミリフィルム 一五本
その他 二五回
資料文> 図表を表示区分\年度 | 五〇 | 五一 | 五二 | 五三 | 五四 |
映 写 機(台) | 二〇〇 | 一九二 | 一七五 | 一六一 | 一六五 |
一六ミリフィルム(本) | 三六八九 | 三一二九 | 二二八八 | 二二九六 | 二三五六 |
それから一二年、区民の視聴覚教育に対する関心は年々高まっており、視聴覚機材の貸出し件数の増加には著しいものがある。表<数2>19数2>―9は五五年四月現在の視聴覚機材・教材の保有状況および各年度の貸出し状況である。近年、科学
技術の急速な進歩に伴って、新しい視聴覚機材等が次々に開発されその種類も多くなってきている。このような現状のなかで予測される区民の多様な要望に答えるべく、区では、視聴覚ライブラリーを五五年度より区立総合教育センターに移設し充実を図っている。この講習会の歴史も視聴覚ライブラリーと同様に古い。昭和五四年度も例年と同様、地域社会において一六ミリフィルムが教材として有効に活用されるよう講習会を実施した。講習の内容は映写機の構造と理論、映写機操作、故障発見と修理などで、一八歳以上の方で一般または団体役員が対象である。五四年度は一般および教職員等を対象にそれぞれ三回、一回が実施された(
本区では、区内の映写機所有者を対象に、毎年一回、映写機の登録検定(
区内には多くの芸術家が居住しており、また住民の芸術活動も早くから他区にくらべて活発である。さらに、珠算・囲碁・将棋等の活動も盛んである。このため、これらの芸術活動や実用的・趣味的技術の向上、活発化をはかることを目的に展
覧会、各種大会を開催している。第一回練馬区美術展覧会は練馬公民館で昭和三〇年五月一八日から二二日の五日間開催された。出品者は練馬区美術家協会の会員で、この年は洋画五三点、日本画一三点、彫刻一六点、工芸一〇点が展示された。
その後四三年になると、一般区民の美術愛好者を対象に「アマチュア美術展」が大和銀行会議室で開催された。この年以後、前記の美術展とあわせて二つの美術展がそれぞれ実施されている。
五三年度は、美術展が二四回目、アマチュア美術展が一一回目を数え左のように実施された。アマチュア美術展出品者のうち優秀者に対しては、練馬区長賞、練馬区教育委員会賞、奨励賞、努力賞などの各賞が授与され愛好者の励みとなっている。
<資料文>◎美術展(
◎アマチュア美術展(
第一回大会は昭和四二年一二月三日に公民館で開催された。簡単で便利で安価な計算器・ソロバンの技能をより多くの人が身につけ、社会に役立たせることをねらいとして行なわれたもので、小学生の部一三三名、中学生の部六二名、高校一般の部三二名、計二二七名が参加した。以後毎年度一回実施されているが、参加者は年々増加している。
五三年度は一一月に行なわれたが、小学生の部五七二名、中学生の部二九四名、一般の部三五名の計九〇一名が参加しており、コンピューター時代にも珠算の人気は健在といえよう。
区民将棋大会は昭和五〇年度から、同囲碁大会は五一年度から実施された事業である。年一回開催されるこれらの大会には、多くの同好者が集まって平素培った実力を競い、同好者の交流をはかっている。参加者に対しては、各級ごとの優秀者に賞状を、また参加者全員に参加賞を贈呈している。
五三年度の参加者数は、将棋大会で、小学生の部三一名、中学生の部一八名、一般の部五〇名、囲碁大会で、小学生の部二名、中学生の部二名、女性の部二四名、一般の部八一名であった。
本文> 節> <節>昭和二五年、奈良県法隆寺金堂の火災を契機に文化財保護法が制定された。文化財は、同法第三条にあるように、わが国の歴史、文化等の正しい理解のためには欠くことのできないものであり、また、将来の文化の向上発展の基礎をなすものである。この趣旨を受けて、国および地方公共団体は数多くの文化財を指定し保護するようになった。
本区では、激しい人口流入とそれに伴う宅地造成あるいは道路拡張などのため、区内の歴史的価値の高い遺跡の破壊や文化財資料が散逸する危険性にさらされていた。この現状を憂慮した区では、文化的遺産の保存および保護活用を図るため、昭和四〇年度にはじめて文化財調査員を委嘱し調査を開始した。
しかし、当時の区の社会教育課文化係にはこの種の事業に専心従事する職員もおらず、また、調査員も四人と少ない上に予算も僅少なため活動は思うにまかせなかった。そうしたなかで、四〇年度末の四一年二月一一日には「練馬区の文化財」(
四二年度には区制二〇周年を記念して郷土史展が開催された。この際区では、一五〇余点にのぼる出品物の説明文と併せ
て史跡など二三か所に説明板を設置し保存活動に努めた。その後、木製の説明板は破損の程度に応じて順次立替えが行なわれ、特に四六年度以後は金属製になっている。また無形文化財の調査も行ない、練馬の習俗、年中行事、伝統技芸を写真や映画に収録している。以下、新事業を中心に行政のあゆみをたどる。昭和四三年度になると「ふじ大山道」が出版された。これは、区内にわずかに残る遺物や遺跡を収録紹介することによって、郷土の歴史、郷土への関心を深める一助になればとの考えから編集出版されたものである。この試みは翌四四年から“郷土史シリーズ”と命名され、左のように今日まで継続して出版されている。なお、昭和四六年度には「練馬の史跡案内」が出版されているが、これは先人の残した文化財をたずねたりする際の手引として利用できるように編集されたものである。
<資料文>郷土史シリーズ
第一集 ふじ大山道(
第二集 清戸道(
第三集 練馬の寺院<項番>(1)項番>(
第四集 練馬の寺院<項番>(2)項番>(
第五集 練馬の神社(
第六集 練馬の記念碑(
第七集 練馬の民家(
第八集 練馬の古木と屋敷森(
第九集 江戸時代の練馬(
第一〇集 豊島氏の興亡(
第一一集 古老聞書Ⅰ(
昭和四八年度には社会教育課に文化財保護係が設置された。秋には第二次池淵遺跡発掘調査(
昭和四九年度から、区内に多数存在する未だ調査記録がなされていない文化財について調査を行ない、「練馬区文化財総合目録」(
四九年度にテストケースとして実施された「区内史跡散歩」は大好評で、定員の三倍強の申し込みがあり、また昭和四〇年頃から実施されていた「史跡めぐり」も実に定員の五倍という申し込みがあった。しかし、区民のこのような文化財に対する意識の高まりとは別に、交通事情は悪化し大型バスによる史跡めぐりは困難になった。このため五〇年度には、区内史跡散歩を春秋二回実施するとともに、区内の史跡などを訪ねる道しるべとして「史跡散歩コース」(
昭和五一年度になると、バスによる区内史跡めぐりに一応のピリオドがうたれ、それにかわるものとして、「文化財講座」が開設され、講演とマイクロバスによる史跡見学の講座が春と秋に実施された。またこの年度には、前年度に作成された史跡散歩コースを改訂し、説明とイラスト入りの略図による一層親しみやすいものとして六コースを設定している。
五三年度における文化財保護・保存事業の概要は左のとおりである。
<資料文>文化財講座……郷土の歴史と祖先の残した文化遺産等について、正しい理解と関心を高めるため、専門家による講義と区内史跡見学を内容とするもの。春・秋年二回開催した。
区内史跡散歩……区内に点在する文化財を講師とともに巡るもの。石神井コースと大泉コースの二コースを実施した。
郷土史シリーズ第一一集「古老聞書Ⅰ」を発刊した。
史跡案内の作成……区内の史跡、遺跡等主なもの二九か所を写真入りで解説したパンフレットを三千部印刷配布した。
史跡散歩コースの作成……北町コース、豊玉・中村コース、練馬コース、大泉コース、高松コース、石神井コースを、イラスト入りで解説している。
文化財記録スライド「石泉地区の寺院」を記録・保存した。
文化財説明板の設置……立替え(
なお、本区史『歴史編』で埋蔵文化財について通覧編集することにしているので、参考にされたい。
本文> 節> <節>本区では中期総合計画において、社会教育施設を充実させるために図書館の建設のほかに、<項番>(1)項番>社会教育会館の建設と、<項番>(2)項番>区民会館の建設を計画している。
<項番>(1)項番>社会教育事業実施の場、社会教育関係団体の交流の場としての社会教育会館については、昭和六〇年度までに、既存の練馬公民館、春日町青少年館を含め五館とする計画がたてられた。昭和五五年度はじめに開館した総合教育センターはその第三館目に位置づけられている。本センターは旧石神井東中学校跡地を利用して建設されたものである(
<項番>(2)項番>仮称・区民文化館は、旧ニチバン跡地(
なお、本区では社会教育事業に対し理解と協力を得るために、区民・職員を対象に「今月の社会教育」(
これまでのわが国のスポーツは行事中心に展開され、ややもすると施設、社会体育団体、指導者などがばらばらに存在する傾向が強かった。行事、特にチャンピオンを目指す競技会などは、技術水準が高くなればなるほど少数の人のための行事になりがちで、他の多くの人々はもっぱら観衆者の側か、無関心層へと追いやられがちとなる。これに対して保健体育審議会は「体育・スポーツの普及振興に関する基本方策について」(
わが国の社会体育行政施策は「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とする憲法第二五条を根幹とし、社会教育法(
しかしながら最近における行政の社会体育への取り組みは、その実効性・将来性において注目すべきものがある。文部省、自治省、経済企画庁など六省庁およびいくつかの自治体が中心となってコミュニティ・スポーツの振興を強調したり(
本区でも、大筋においてわが国社会体育行政と同様の歩みをたどってきており、区民の側からみた社会体育行政は決して満足するまでには至っていなかった。しかしながら昭和四六年六月の区教育委員会社会体育課の設置、翌四七年六月の総合体育館開館を契機として区の社会体育行政は質量両面において飛躍的な充実をみることとなった。以下は本区社会体育の現況とその歩みである。はじめに社会体育施設を図示すれば図<数2>20数2>―1(
本区では「いつでも、誰でも、どこでも」気軽にスポーツに親しめるよう、必要な条件整備をすることが社会体育行政の任務であるという観点から施設の整備、指導者の養成、スポーツ団体の育成、魅力あるプログラムの作成に鋭意努力を重ねてきた。本節では施設の整備、指導者の養成、スポーツ団体の育成について現状をみてみる。
昭和五五年五月現在の本区の公共体育施設は表<数2>20数2>―1のとおりであるが、この数字は区人口を考えると決して満足すべきものとはいえない。そこで本区では、練馬区中期総合計画にそって体育施設の建設、整備
をすすめている。昭和五五年度中に地域体育館一館の設計を行ない学校体育館の開放校を三校増設している。<項番>(1)項番>体育館開放 昭和五一年度より、住民の身近なスポーツ活動の場として、学校体育館開放の事業が開始された。「練馬区立学校体育館開放に関する規則」(
五五年度からは、この事業を一層地域の人々に密着した有意義なものとしていくために「体育館開放運営委員会」が設立された。管理運営は地域および学校関係者に委ね、地域の特殊性や実情に合わせたものにしていく方針であり、区民の積極的参加が期待されている。
画像を表示<項番>(2)項番>プール開放 昭和四八年夏、区内六つの小学校のプールを初めて開放し、「母と子の水泳教室」が開設された。これは、各地域住民のプール開放の要求に対して、衛生上等から生じた困難な問題を区が前向きに取り組んでこれを処理し、また、体育指導委員がこの事業を引き受けたことによって実現をみたものであった。対象は、当初は、大泉第四、高松、豊玉第二、田柄第二、石神井西、泉新の各小学校の児童およびその母親ということであったが、その後定員を上回る申し込み者のある学校がでたために超過した母子への配慮から、現在では「区内在住の母親と小学生」が対象とされている。
プール開放校数は四九年も前年に引き続いて六校であったが、五〇年からは一〇校となった。昭和五三年度は区民の健康保持、体力増強、水泳人口の拡充等をねらいとして豊玉第二、旭丘、北町、田柄第二、高松、中村、石神井西、南田中、泉新、大泉西の各小学校で、各七日間「母と子の水泳教室」(
このほか一般区民を対象としたプールの一般開放も昭和五三年度から行なわれている。これは地元有志で構成される運営委員会によって運営されており、この年度は豊玉小学校、旭町小学校、関中学校の三校で、五四年度は大泉第四小学校が加わり実施された。
昭和五四年三月、本区では区内に二つのランニングコースを設置した。これは近年、健康管理や体力づくりの観点からランニングやジョギングをする人々が増えてきた現状に対応して、愛好者の自主的活動
の助長に資するために、実施されたものである。その後一一月に一コースが増設されたため、現在次の三コースがある(
なお、いずれのコースにもワッペンで距離が表示されており、コースの管理は地元の愛好者による管理運営委員会が行なっている。
昭和三六年にスポーツ振興法が施行されると、その一九条第二項で、体育指導委員の任務を「当該市町村におけるスポーツの振興のため、住民に対し、スポーツ実技の指導その他スポーツに関する指導、助言を行なうもの」と定義した。運動する「場」の確保とならんで、社会体育を推進していく上で不可欠な要件である
「人材」の確保をねらいとしたこの制度の法制化によって、社会体育行政は逐年全国的に充実をしていったのである。 図表を表示本区の体育指導委員制度の発足は、正式には、教育委員会規則第一号「練馬区体育指導委員に関する規則」が制定された昭和三七年三月二日である。しかし、実質的な開始は、昭和三二年四月二五日付の文部省事務次官通達「地方スポーツの振興について」を受けて、同年一二月に東京都教育委員会規則第三四条によって東京都体育指導委員が設置され、翌三三年一月に練馬地区担当の委員一四名が委嘱された時に遡ることができる。その後、委員定員数は三九年二五名、四三年三〇名、四七年四八名、五一年五五名、五二年七六名と漸次増員された。五五年四月一日現在、六四名が委嘱されている。
現在、本区の委員はそれぞれの分担する地域または事項(
なお、委員は自らの資質を高め、区外体育指導委員との交流をはかるため例年研修会を行なっており、また区外研修会にも参加している。
この講習会は、五一年度の終りに開設された。これは、本区におけるスポーツ指導者がその量と質において充分とはいえない状況にかんがみ、専門家を講師に依嘱し、地域住民の多様なスポーツ欲求に応じられる、資質の高い指導者の養成をねらいとして実施されたものである。五四年度現在では、講義と実技の各種内容の講習会が実施されたが、五五年度からは指導の対象と講習修了後の役割等によって「スポーツ指導員養成講習会」と「スポーツリーダー養成講習会」の二種類が実施される予定である(
昭和五二年六月一日、「練馬区スポーツ指導者バンク設置要項」が施行された。ここでいう「スポーツ指導者バンク」とは、前述のス
画像を表示 ポーツ指導者養成認定基準要綱に基づき認定されたスポーツ指導員およびスポーツリーダーの登録、および要請に応じ適時紹介する制度である。昭和五五年五月一日現在の登録者数内訳は表<数2>20数2>―4のとおりである。スポーツ指導員およびスポーツリーダーの位置づけを区民、社会体育事業との関係で示せば図<数2>20数2>―3になる。昭和五一年六月一日、「練馬区社会体育団体認定基準要綱」が制定された。これは、区民が、自主的で健全なスポーツ活動を定期的に行なうことができるような、社会体育団体の育成に寄与することを目的としたものである。社会体育団体の認定基準は、構成員が一〇名以上でかつ過半数が区内在住者であること、定期的にスポーツ活動を行ない営利を目的としていない団体であること等が条件となっている。
図表を表示認定を受けた団体は、登録により、学校体育館開放校を利用できるほか、区立学校、区立総合体育館および区立三原台温水プールをスポーツ活動に利用する場合に便宜がはかられている。昭和五五年五月一日現在の社会体育団体および認定数は表<数2>20数2>―5に掲げるとおりである。
本文> 節> <節>スポーツが人々の生活にもたらす利益には大きなものがある。スポーツすること自体に含まれている「楽しさ」、スポーツをした結果としてあらわれる「健康」等に代表されるように、スポーツを行なうことは、人々が明るく豊かに生きるためには極めて有意義なものといえる。
このような観点から、本区では、スポーツ人口の拡充とスポーツ実践者の資質の向上とをねらいとして「スポーツ教室」を開催している。この教室は、各種目別に一定期間継続して実施され、スポーツ活動の理論と実践が体系的に指導されている。また、総合体育館では一二種目について教室が開催され、初心者から中級までの参加者について、そのレベルに応じた系統的な指導を行なっている。昭和五四年度のスポーツ教室の実施状況は表<数2>20数2>―6のとおりである。
なお、本区において、スポーツに関する各種「教室」、「講習会」等が開かれていたのはかなり古いが、「スポーツ教室」と銘打って各種事業が開かれるようになったのは昭和四〇年度からである。この年度は、初心者のための講習会として水泳教室、軟式庭球教室、第一回スキー教室、民謡教室が、多少の経験者のためのものとしては第二回スキー教室が開催された。このほか、バドミントン指導技術講習会が行なわれ、これら事業を総称して「スポーツ教室・講習会」としている(
その後、スポーツ教室は毎年継続実施されていたが、昭和四七年六月に総合体育館が開館すると、従来のスポーツ教室に加えて、体育館事業としてのスポーツ教室も実施される
図表を表示 図表を表示 ようになり一段と充実をみている。 本文> <項>区教育委員会社会体育課で実施されている各種の野外活動は、野外の素朴な自然環境の中で相互の連帯と親睦をはかることや、野外での身体活動の楽しさとマナーの体得などをねらいとして実施されている。また、そこでの体験が余暇生活においても自主的に生かしうるように指導、奨励が行なわれている。
昭和四七年五月二七日、多摩湖畔周辺で五五歳以上の健康な人一〇〇名を対象に、初めての区民歩行会が実施された。これは、緑の環境の中を「歩く」ことによって、ともすれば“非行動的”あるいは“隠居的”になりがちな中高年齢の人びとに、運動の楽しさと健康で活動的な生活の素晴らしさを体験してもらうことをねらいとして行なわれたものである。
以後、昭和四九年まで毎年一回行なわれていたが、五〇年からは、春秋二回実施されている。
昭和五四年は、五月(
昭和三八年七月二〇日から八月一七日にかけて、毎週土・日・月曜の各三日間、初の「区民キャンプ」が行なわれた。神奈川県津久井郡志田山の清正光キャンプ場は、野営活動を楽しむ多くの人で賑わいをみせた。以後現在まで毎年夏に実施されている。この一〇年間の実施状況は左のとおりである。
「家族ハイキングの楽しさを認識させ、家族ぐるみのスポーツ意識を高揚させる」ことを目的に、親子ハイキング事業が実施されたの
は昭和四九年である。この年は五月一九日に天覧山、多峰主山(以後、東武東上線・東武竹沢、宮ノ倉山(
昭和四二年一〇月一〇日、区内在住・在勤の勤労青少年ならびに三〇歳から六〇歳までの男女を対象に、「体力テスト」が、豊玉小学校において初めて実施された。
この試みは、人々の日常生活における身体運動が不足しがちな状況の中で、その片寄りを各種の運動テストにより発見し、各人が是正できうるように指導を行なうことによって、区民の健康づくりに貢献しようと企画されたものである。
四六年から、三〇歳以上六〇歳までの男女のみを対象とするようになったため、翌四七年から「壮年体力テスト」と呼ばれている。テスト種目は、当初から変らず、反復横とび(
昭和五四年度は光和小(
昭和四七年、総合体育館に開設された保健講座は、翌四八年から現在名に改称された。
健康講座は、体育分野からの健康問題を主眼とし、健康への正しい理解と認識を深めることを目的として開設されたもので、四七年以後、毎年、二、三期(一期は四~六回)実施されてきた。各期には大テーマと、回数と内容に応じたテーマがつけられ、専門の講師によって学習が進められている。
現在までの大テーマは左のとおりである。
一〇月一〇日は「体育の日」とされ、広く国民が「スポーツに親しみ、健康な心身をつちかう」ようにとの趣旨で祝日に定められている。昭和五三年度から本区では、この意義ある日に総合体育館を開放し、区民の健康や体力の保持増進の助けとなるよう各種事業を実施している。五五年度には、加えて中央大学グランド開
放も予定されている。 本文> 項> <項>本区では、区内に広く活動している数多くのスポーツグループや個人の交流をはかり、健全なスポーツ活動を普及振興させるために各種の大会を実施(
昭和二二年の春、第一回の都民体育大会(
本区で初めて行なわれた区民体育大会は、非公式には昭和二三年秋の「運動競技会」であると思われる。この大会は小竹町、江古田(
区民体育大会は、回数の調整が途中で行なわれたため都民体育大会と同じになっており、五四年度は第三二回となっている(
昭和二四年、全国の警察および防犯協会は少年不良化防止策の一環として少年野球大会を開催した。以後、少年野球は急速な勢いで全国に普及し、規模も年々大がかりなものとなってきた。練馬区においては昭和四〇年代後半に入ると、警察および防犯協会でこの大会を主催することが諸般の事情から困難となってきた。当時本区の青少年委員をしていた小宮太郎氏を中心に少年野球連盟結成のための準備活動が行なわれ、四七年二月に「石泉少年野球連盟」が六チームで結成された。翌三月には「練馬区軟式野球連盟」が二一チームで結成された。またこの年関係者の努力によって、主催者であ
る警察・防犯協会の受け皿として区教育委員会の翌年からの肩代りが約束されることとなった。こうして昭和四八年から、区内少年のスポーツ振興の一環として区教委主催の少年野球大会が開催されている。この大会は両連盟でそれぞれ予選を行ない各ベスト一六チームを選出し、次にその三二チームによってトーナメント方式で優勝を競っている。昭和五四年は、五月から七月にかけて学田公園野球場ほか六か所で第七回大会が行なわれた。参加チームは一二八校であった。
なお、両連盟では、このほかにも数多くの大会を実施している。
バレーボールと卓球からなる「母親スポーツ大会」は、昭和四七年、総合体育館の開館とともにはじまった。大会のねらいは、母親が気軽にスポーツを楽しむことを通して親睦を深め、体力を増進し、さらに家族の明朗化および健全なスポーツ活動の育成をはかることにあるが、同様の趣旨ではやくから行なわれていた大会があった。それはこの大会の前身といえる「母親バレーボール大会」である。昭和四二年七月に初めて行なわれたこの大会には、区内在住の母親で構成された一八のチームが参加した。その後、区内小中学校のPTA会員を中心に愛好者の数は次第に伸び、昭和五四年三月にはPTAチーム三三、クラブチーム三七からなる練馬区家庭婦人バレーボール協議会が発足するまでになっている。
一方、卓球の母親大会としては、四七年の母親スポーツ大会がはじめである。当時と現在(
魚釣を通して区民相互の親睦および連帯を図ることをねらいとして、現在、春秋二回実施されている。この大会の歴史は古く、二三年頃から毎年春には
昭和四七年六月一日、練馬区立総合体育館が谷原一丁目七番五号に開館した。鉄筋コンクリート造り地下一階、地上二階の建物で建築延面積は約五八一〇㎡である(
開館に先立って次のような運営基本方針が立てられた。それは、区民の健康増進を図るため、区民の間において行なわれるスポーツ・レクリエーションに関する自発的な活動に協力することができ、かつ一般区
図表を表示 民が気軽に利用できる社会体育施設とすることである。 図表を表示この観点から、従来の体育館運営が陥りがちであった選手養成あるいはチャンピオンシップ競技を中心とするような傾向を改め、区民が気軽に利用できる場所の提供を行なうとともに、特に初心者向けの各種教室が開設されることになった。なお、営利を目的とする興行および集会等の利用は遠慮してもらう方針もたてている。
総合体育館では現在、次の各種事業が行なわれている。
①スポーツ教室……開館以来実施されており、初心者が、初歩の技術から系統的に学習し、運動することの“喜び体験”やそれを通しての健康な身体づくりがねらいとされている。
②個人利用と団体利用……利用方法に二種類がある。個人利用の場合、費用は一人一回一〇〇円(
③体育館開放……個人やグループが自由にスポーツを楽しめるよう、一定時間帯に施設を無料で開放している。自主的スポーツ活動への発展をねらいとしたもので、希望者には指導者が指導、助言にあたっている。
④トレーニング説明会……トレーニング室は区民がいつでも気軽に体力づくりをするための場として開放されているが、トレーニングの安全性および有効性の観点からこの説明会が行なわれている。事前に説明会を受講した者にトレーニング室の会員資格が与えられる。五四年度の説明会開催数は三六回で、参加者数は八一七名、トレーニングルーム利用者数は一万
一〇六三名であった。⑤スポーツ相談室……スポーツを通しての健康な生活が送れるよう相談室を毎週土曜・日曜(
⑥健康講座(
総合体育館の事業別利用の推移は表<数2>20数2>―9にみられる通りであるが、総利用人員は順調な伸びをみせている。区ではさまざまな形の利用希望者の要望にこたえるため、年度当初に週間予定表を作成しているが、団体利用の枠などはかなり早い時期に予約され常時満杯の盛況ぶりである。ただ種目によっては、普及度等の関係で団体の成員数が少ない場合もあるので、その施設のより効率的な利用を図ろうとする場合には一考を要するであろう。個人利用人員の上昇も注目されるが、気軽さという点が影響していると思われる。なお、健康講座の五四年度利用人員が落ち込んでいるのは、五三年度までは、何回
(本区で初の区立プールである。昭和四九年七月、石神井町五―一二―一六に開場した。当初、この敷地付近はプールのほかに野球場二面を含む区民運動場の設置が予定されていたが、その工事が開始されて間もない四七年八月、整地作業中に埋蔵文化財が発見され、その調査のために約六か月間建設工事が中止されることとなった。その間に埋蔵文化財を保護する立場の区民と、青少年を育成する体育施設をつくるべしとする立場の区民からの請願、陳情活動が活発に展開された。区では、各方面と慎重に審議を重ね、四八年三月、最終的に、当初の計画方針を変更することにし、①プールのみを建設し、野球場は代替地を取得して建設すること、②野球場建設予定地の部分は史跡公園とし、埋蔵文化財の住居跡を復元保存すること、の二点の方針が決定された。こうして四九年に竣工した石神井プールは、毎年夏季に多くの区民に利用されている(
〈石神井プールの概要〉(
昭和五三年四月、三原台二―一一―二九に開場したこのプールは、石神井清掃工場の還元施設として工場のゴミ焼却の際に発生する余熱を利用しているため、年間を通して泳げる温水プールである。開
場以来、初心者を対象とした水泳教室を、幼児、小・中学生、婦人、一般の対象別に年二回ずつ実施しているほか、水泳救助員資格取得講習会が実施されている。五四年度は、加えて水泳救助員研修会が実施された。プールの規模は石神井プールに比して小さいが、利用者数では通年開場の関係もありほぼ同数である(
〈三原台温水プールの概要〉(
昭和五五年四月現在の本区の屋外運動施設(
なお、表<数2>20数2>―<数2>12数2>は屋外運動施設の利用件数、利用人員の推移を表わしているが、利用状況の年度別比較考察をする場合、その年の天候を考慮しなくてはならないであろう。
画像を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示 本文> 項> 節> 章> 部> 編> 通史本文>