第二十一章 産業
第二十二章 経済
第二十三章 労働
本文> <章>“もはや戦後ではない”『経済白書』昭和三一年度版は宣言した。たしかに日本経済は、戦後十年を経て技術革新への投資を起因とする高度成長過程に入った。昭和二五年にはじまる朝鮮動乱による特需景気、二八年の基幹産業への投資拡大により三〇年代から新たな発達段階に入ったといえよう。それは本格的な産業社会の到来であり、産業構造の激しい転換の過程でもあった。
とくに二九年一一月にはじまり三一か月持続した神武景気、また三三年六月からは岩戸景気とよばれた好景気が四二か月もつづき、その間三五年には「所得倍増計画」をはなばなしく打ち出して経済第一主義を推進した池田内閣の誕生をみている。国民総生産はこの年、実に一九・一%(
三一年度から四〇年度にいたる経済成長率(
その後も一時的な調整不況期を経ながらもオリンピック景気をはじめ万博景気、イザナミ景気など四八年の石油危機にいたるまで好況は持続し、毎年一〇%前後の実質成長率を維持した。所得も経済の高度成長につれて、うなぎのぼりに上昇して「消費は美徳」と、生活も急速に変化し、電化ブームをはじめ物は豊かで多彩なものになっていった。
こうした経済繁栄の裏に、その無理やひずみが生じ、四〇年代に入って暗い面が表面化しだした。公害のひろがりと深刻
化、とくに四二年四日市大気汚染公害訴訟をはじめ各地に産業公害が頻発した。またモータリゼーションの進展にともない道路の混雑と排気ガスによる大気汚染をもたらしている。区内にあっては石神井南中学校の被害を皮切りに大泉学園中学校、豊玉中学校、豊玉南小学校など、随所に光化学スモッグが発生し、区民生活の安全が大きくおびやかされるようになった。四八年秋のオイルショックを契機に、これまで拡大をつづけてきた日本経済は大きな影響をうけた。減速経済、低成長への転換をせまられ、これまで驚異的な伸びを示した経済成長も翌四九年にはマイナス成長に落ち込み、深刻な不況を迎えることになった。それは金融・財政の面から総需要抑制策がとられた結果によるもので、その影響をまともに受けた産業界は、生産調整や雇用調整、操業短縮、企業規模の縮小など実施して対応するところとなった。
五〇年代の幕あけは、戦後最大といわれるインフレと不況が同時に進行する混とんとした状況からはじまった。高度成長から減速経済へ移行する情勢の変化は、あらゆる面で大きな影響を与えた。
昭和三〇年代からの高度成長政策によって、都心部への業務機能の集積が急速にすすみ、労働力需要の増大により東京周辺の人口は前半には一〇~一九キロ圏、後半には二〇~二九キロ圏に集中した(
本区では、この三〇年代が人口増加および農地潰廃、宅地化やその他公共用地への転用が最も激しい時期であった。わけても人口増は著しく、この間年平均一〇%台の増加率を推移し、人数にして年平均二万人を超える増加を示した。また農地潰廃面積も、三二年の一万一六八八aをピークに、三三年、三四年と一万a台の潰廃を示し、この三〇年代が最も激しい農地潰廃面積となっている(
農地潰廃の勢いは、高度成長経済の幕切れとなった四八年の石油ショックまで、高い潰廃率を維持し、四八年における本
区の農地面積は八万二九六二aまでに減じた。それは本区が独立した二二年の農地面積二二万六四四五aに比べて、実に一四万三四八三aの減少となっている。五〇年代に入ると、こうした動きは低成長を反映して急速に鈍化し、潰廃面積は三四四八a(一方事業所数をみると、昭和二九年から五三年にいたる本区内の産業別事業所数(
ついでサービス業五四〇二事業所がつづき全体の二二・一%を占め、卸売業・小売業と合せると六八・六%となり、両業種で区内産業の大半を占めていることがわかる。なおサービス業は、二九年に比べ五三年には三・四倍の増加率となっている。
そうした増加の内容を「従業者規模別事業所数および従業者数の推移(
二九年における一~四人規模は三五三七事業所を数え、同年の区内事業所総数の七九・二%を占める。それに五~九人規模の五八二事業所(
昭和五三年六月一五日現在の練馬区事業所総数は二万四三九八事業所(
五〇年国勢調査における昼間就業者を産業別にみると、その特徴がさらに顕著にあらわれている。本区では卸売業・小売業を中心とする第三次産業就業者が最も多く全体の六五・二%を占め、四五年国勢調査に比べて二・五%も上昇している。製造業・建設業を中心とする第二次産業就業者が三二・五%、前回国勢調査に比べ二・八%減、農業を中心とする第一次産業就業者は一・四%と低く、前回の国勢調査に比べ〇・三%の減少を示している。急激な都市化にともない農業就業者は下限に近いが、他区に比べると本区が最も高率であり、農業練馬の伝統を継ぐものとして注目したい。国勢調査による産業別就業人口の構成比にみるように、練馬区では製造業等第二次産業のウエイトが急速に低下しているのに対し、卸売業・小売業および運輸通信業といった第三次産業のサービス流通部門の比重が高くなってきている(
図<数2>21数2>―3は、「事業所統計調査」による昭和三二年、四一年、五三年における区内産業別従業者構成比の推移である。ここでも製造業従事者の極端な落ち込みが目立つ。卸・小売業およびサービス業の横ばいに対して、建設業、運輸通信業、金融・保険といった業種の従業者の伸びを示している。これは本区の産業が、生産機能よりも流通機能へしだいに比重を増していく、産業構造の第三次産業化を示唆するものといえよう。
戦後間もない二一年一月、今日の練馬区管内(
本区の独立を迎えて協栄会の活動も活発化されてゆく。二二年の労働基準法の制定にともない労働基準局および労働基準監督署が新設されたが、これら労働行政への協力事務の推進あるいは展示会の開催などを通して、今日みられる連合会の性格が確立されてきたのである。
三〇年代初頭には産業会館設立をめぐってさまざまな働きかけを行ない、そのためにも会の法人化が必至とされ、三五年九月、「社団法人練馬産業連合会」が誕生することになった。三六年の総会で産業会館建設が議題として取り上げられ決定をみたことから、友好団体である練馬法人会、練馬商店街連合会とともに建設実現への運動が展開され、区および区議会の支援のもとに三九年九月には会館設立の運びとなった。
産業会館の設立とともに事務所も会館内に移転し今日に至っている。現在行なわれている事務協力先および取扱い内容は次のようなものである。
池袋労働基準監督署 就業規則、適用事業報告
賃金台帳、労働者名簿
労働災害保険補償事項
安全衛生その他基準法関係
板橋社会保険事務所 健康保険、厚生年金保険
池袋公共職業安定所 雇用保険
労働保険事務組合
新宿労政事務所 労働組合関係
中小企業集団関係
なお会員は五五年一二月二日現在で五七四社に達している。
本文> 節> <節>東京の工業は、明治以来、江東から品川にかけての臨海部を中心として発展してきたが、やがて、隅田川上流や大井・大森地域、千代田・中央・港・新宿・文京などの都心地区にも工業地帯が形成されるようになった。また、戦時中から戦後にかけて、工業地域はさらに周辺部・内陸部にも拡延されるようになり、豊島・板橋・北・足立などの城北地区にも工業の進展が見られた。例えば板橋区では、荒川沿岸を中心として工業化が進み、戦後二〇年間に、工場数と従業員数は六倍以上、製造品出荷額にいたっては八〇倍を超える成長をみた(
しかし、板橋区の南西部に位置する練馬区においては、工業用水も乏しく、原材料や製品を大量に輸送し得る国鉄の通過もなく、工業地域として発展する立地条件には恵まれていなかった。そのため区の産業は主として農業に依存することになったが、加えて戦後間もなく区面積の七〇%が緑地地域に指定されたことは、区の農業以外の産業開発を大きく阻害することになった。
昭和三〇年末の調査によれば、本区の工場数は三〇二工場で、二三区(
三二年六月現在の調査にもとづく「練馬区経済要覧」によれば、工場数は、対前年比でおよそ二八%増の四一〇工場となっており、事務職員を含めた従業員三〇〇人以上の工場としても鐘ケ淵紡績(株)練馬工場(
事業所名 | 資本金(万円) | 製造品目 | 創業年月日 | 所在 |
---|---|---|---|---|
品川電線㈱ | 三、〇〇〇 | 電線 | S<数2>17数2>・<数2>11数2>・<数2>30数2> | 小竹町二五〇三 |
救心製薬㈱ | 一、二〇〇 | 医薬品 | T2・2・1 | 南町五〜六七九三 |
鐘ヶ淵紡績㈱練馬工場 | 三七三、八〇〇 | フェルト | T<数2>15数2>・4・<数2>12数2> | 南町五〜七〇〇七 |
目絆薬品工業㈱ | 八、〇〇〇 | 絆創膏・セロテープ | S9・<数2>12数2>・1 | 貫井町三二一 |
㈱工進精工所 | 三、一一七 | 鉄道車輛器具・部品 | T2・9 | 貫井町四七三 |
赤尾アルミニューム工業㈱成増工場 | 二、二五〇 | アルミニューム板・巻板・アルミ線・合金線 | S<数2>32数2>・1・<数2>15数2> | 旭町五五五 |
小田原製紙㈱東京工場 | 四、八〇〇 | 和紙・半紙 | S4・9・<数2>24数2> | 旭町五六四 |
㈱タムラ製作所大泉工場 | 一、五〇〇 | 通信機器 | S<数2>14数2>・<数2>11数2>・<数2>21数2> | 東大泉町四三三 |
東映㈱東京撮映所 | 二一〇、〇〇〇 | 映画 | S<数2>26数2>・4・1 | 東大泉町一〇三四 |
若林酒類食品㈱食品部東京工場 | 一、五〇〇 | 酒類食品 | S<数2>22数2>・6・1 | 東大泉町一〇九八 |
次に産業別の工場数についてみると、三二年六月現在では、食料品製造業が九四工場で全体(
これらの工場の多くは西武線の沿線に集中していたが、なかでも石神井公園駅付近には新東製粉や二引製麦などの製粉工場が集まっており、主としてアメリカから輸入した小麦を製粉し都内の各地に送っていた。また、沢庵漬を主とした漬物の製造は、石神井・大泉地区に多く、農家の副業として行なわれていたようである。
『東京都統計年鑑』によれば、本区の工場数は三〇年代を通じて、およそ一〇〇工場の増加にとどまったが、四〇年代に入ると大きな変動期を迎えることになった。図<数2>21数2>―4は二六年以降の工場数
の推移を示したもので、これに見られるように四〇~五〇年の一〇年間の増加数は年平均一五〇以上となっている。 画像を表示この四〇年代の急激な伸びは、三〇年代中期以降始まった日本経済の高度成長に伴う現象であるが、その影響が四〇年代に入って表われてきたのは、本区内の広範な地域に指定されていた緑地地域が、三〇年代末から四四年にかけて全面的に解除されたことによるものと考えられる。しかし、その際区面積の八五%が住居地域に指定されたため、その後の区内工業の業種は、住居地域もしくは隣接地域で営業が可能なものに限られることになった。衣服・繊維、出版・印刷、金属製品、計量器具、電気機械器具などの業種が、著しく伸びたのはそのためであろう。
一方、四〇年代は、高度経済成長のひずみが公害などの環境問題として表面化してきた時期でもある。東京都区部では、企業をとりまく社会的条件が変化
したため、工場の区部外への移転が図られることになった。その結果、東京の工業は、四〇年代末には頭打ちの状況に陥ることになった。従業者数はすでに三八年以降毎年減少傾向にあったが、折からの石油ショックの影響を受けて、四九年には工場数も減少に転じ、製造品出荷額も前年比で一三・三%増にとどまった。同年の卸売物価が三一・三%の高騰を記録したことを勘案すると、実質的には減少したものとみなし得る状況であった。 画像を表示本区においても、工場数は表面的には増加したものの、一方ではカネボウ(
四八年の石油ショック以降、日本経済は高度成長期から低成長期へ移行を余儀なくされるが、区内の工業にもその影響が顕著に認められる。
表<数2>21数2>―2によれば、工場数は四八年の一七一八工場から四九年の一五六三工場へ九%の減少、従業員数は一万八一七一人から一万五六一七人へ一四・一%の減少となっている。
また製造品出荷額の伸び率をみると、四九年〇・九%、五〇年一・〇%、五一年一七・五%、五二年三・九%、五三年一三・八%、五四年五・五%と著しく小幅増となっている。ことに四九年、五〇年、五四年は、東京都の卸売物価指数の伸び率より低く、実質的には減少であったことがうかがわれる。こうした経済の低迷状況はそのまま従業員の給与の伸び率にも反映しており、四九年六・八%、五〇年一六・七%、五一年一一・四%、五二年二・四%、五三年一三・二%、五四年二・四%と増加率は小さく、四九年、五二年、五四年は区部の消費者物価指数の伸び率をそれぞれ一五・九%、五・九%、一・一%下まわっている。
<項番>(イ)項番>工場数
五四年現在、本区の工場数は二〇六六(
区内で最も多い業種は、産業中分類に依る業種別構成を示した図<数2>21数2>―6・7をみると、衣服・繊維製品関係の三〇六工場で、全体の一四・八%を占めている。区部の構成比と比較すると、衣服・繊維及び精密機械器具の多い点に本区の特色が認められる。
地域別の工場数は、表<数2>21数2>―4に示したごとく、北町・田柄・春日町・氷川台・北大泉町・貫井の六町内にほぼ全体の四〇
図表を表示 図表を表示 画像を表示 図表を表示 画像を表示 画像を表示 %が集中している。 図表を表示<項番>(ロ)項番>従業員数
本区における工業関係の従業者数は五四年度現在一万六七一七人(
従業者数の多い業種は、電気機械器具、衣服・繊維製品、精密機械器具、出版・印刷、食料品、金属製品で、以上六業種が全体の六四・六%を占めている。しかし、一工場あたりの従業員数でみると、非鉄金属二二・八人、化学工業製品二二・三人、輸送用機械器具一五・五人、電気機械器具一二・二人と、重化学工業系の業種に比較的規模の大きなものが多いのに対して、本区に多い業種である衣服・繊維は六・八人、出版・印刷は七・八人といずれも小規模経営である点が注目される(
<項番>(ハ)項番>製造品出荷額
次に製造品出荷額等(
古くから農村地帯として発展してきた本区では商業活動の遅れは歴然としたものがある。大正四年に武蔵野鉄道が開通して(
終戦直後は物資の欠乏が著しく、物資統制も引き続き行なわれている中で、一般商店の活動はほとんど停滞を余儀なくされていた。反面ヤミ市場が盛んとなり、都心部では露店商の著しい進出をみた。本区内の各駅周辺にもそれらしいものが日用品を並べていたというが、その後の露店撤廃・整理などにより一部はマーケットを成立させて残ったとしても露店そのものは一掃されるに至った。一方二一年一一月の生鮮食品の統制撤廃をはじめとしてさまざまな物資統制が解除され、正規の商店活動が復活するきざしもみえてきたのである。
二四年には戦後初の「商業統計調査」が実施されたが、これによれば本区内での商店数は一三九六を数えている。区部総数は一〇万三九四〇店となっており、区内商店数の対区部比率はわずか一・三%程度ということになる。その内訳は一般卸売業の六六、専門品小売業の一二二八、飲食店の一〇〇および代理商・仲立業二である。大半が小売業で占められ、その比率は八九%に達している。また経営組織別にみれば、個人経営が一二七九店、法人は一一七店で個人での営業が圧倒的である。規模も小さなものが多く、従業員数○(
もっとも二五年度以降のシャウプ勧告による税制の実施にともなって、個人経営よりも法人化した方が税金が安くなるという実情から、以後商店の法人化も進められるところとなるが、その実態は二〇年代を通してほとんど変ることはなかった。しかしこの間戦後の引揚者をはじめとする人口流入が年々著しさを加えており、区内の様相は徐々に変貌しつつあった。ことに東南部においては市街地化が急激であり、住宅の大幅な進出が目立つようになった。人口の流入は三〇年代に至っていよいよ活発さを呈し、そのまま四〇年代へ引きつがれることとなるが、こうした区内の状
況は商業活動の上にも大きな影響をおよぼすところとなった。図<数2>21数2>―8は各年の商業統計調査による区内商店数の推移である。三〇年代に入って徐々に商店数も増え、三七年ではいわゆる神武景気後の反動からであろうか、一旦落ち込みをみせてはいるが、三九年には再び上昇を示し、以後四〇年代半ばまで伸び続けている。四〇年代前半は日本経済の異状なまでの高度成長期にも当り、区内ではかつての農村地帯が住宅地域へと一大変貌をとげようとしていた時期である。この間の様相がグラフの上にも的確に表われているといえよう。四〇年代後半に至ってようやくその伸びは横ばいに転ずるが、四六年のドルショック以後引き続き起った経済事象の影響を被っている結果と思われる。その後日本経済は低迷期を迎えるが、本区内の人口増加は五〇年代初頭まで続いた。これに触発されてか、四七年以降ゆるやかではあるが商店数は上向いている。ことに飲食店の増加が目立ちはじめている。二七年時点の飲食店数は一五二店であり、全商店数の七・九%を占めるに過ぎなかったが、五四年時点では二八九〇店を数え、全体の二七%を占めるに至った。 画像を表示このような商店の進出の結果、かつては二三区中最下位であった商店数も図<数2>21数2>―9にみられるように五四年時点では数の上では一五番目に数えられるまでに達している。図は三三年との比較において
図表を表示 捉えたものであるが本区はこの二〇年間で三・三五倍の伸びをみ、伸び率の上では他区を大きく引き離している。とはいえ、経営規模の上からは依然小規模のものが圧倒的に多く、その内訳は表<数2>21数2>―5の通りである。従業者数一~四人の商店は八九九一店を数え、全体の八三・九%に達している。これは区部平均の七二・〇%を大きく上回り、一店舗当りの従業者数をみればなお明白なところとなろう。区部全体での一店舗当りの従業者数は五・七人であるのに対し、本区では三・五人を示すに留まる。年間商品販売額の上でもほぼ同じことがいえる。表<数2>21数2>―6は五四年の区別商業の実態を示したものであるが、区部平均の一店舗当り年間商品販売額は三億五六〇〇万円であるのに対し、本区での一店舗当りの販売額は六一〇〇万円程である。このような傾向は都心区とは異なり、いわば住宅区として進展してきた本区での商業の特徴を表わしているものとして位置づける必要があろう。またひと口に練馬区の商業といっても地域による内容の相違は歴然としてあり、その実態を以後ひと通り見ておきたい。
図表を表示区内商業の進出の経緯はこれまでに触れたところであるが、その構成内容はどのようなものであろうか。地域別の問題に移る前に本区全体の商業構成についてみておきたい。五四年六月一日の商業統計調査によれば本区内での商店数は一万〇七二〇店、内卸売業は一三二九、小売業は六五〇一、飲食店二八九〇であった。これを対二三区比率でみるならば卸売業は二・二%、小売業五・一%、飲食店三・一%ということにな
画像を表示 る。人口比率で六・八%(五四年一〇月一日)を占めている本区からすれば商店数は全体的に少ない。この内訳を示したものが図<数2>21数2>―<数2>10数2>である。注目すべきことは小売業におけるほぼ均等化された業種の分散状況であろうか。住宅地域としての本区の実情がしのばれるところである。 図表を表示資料の都合から同時期の東京都の実情が把握できないため、前回(
そこで区内の地域別の状況であるが、図<数2>21数2>―<数2>11数2>は五四年六月一日現在の商業統計調査による全商店数の町丁別密度を示したものである。当然のこととは思われるが、密度の高い地域は西武池袋線、西武新宿線および東武東上線の各駅周辺に限られている。も
画像を表示 っとも高野台二丁目については駅周辺とはいえないが、この地域では後に触れるように商店の大半が卸売業で占められており、必ずしも駅とは関わりなく発展してきた経緯がある。また上石神井駅を有する上石神井一丁目および大泉学園駅を有する東大泉町は面積が広く、商店密度は薄められる結果になっているが、それぞれの駅周辺にも商店の密集区域はある。本区内の大半は「住居地域」に指定されており、また交通の便も南北を結ぶ鉄道路線は一本も無い。こうした状況のもとに東西に伸びる各路線に沿って商業は展開されるところとなった。また図中西武池袋線の東、練馬・桜台、江古田各駅に沿った一帯は区内の市街地化が最も早かった地域であり、今日でも多くの商店街を抱える本区商業の一中心地であることに変りはない。
以上は商店密度を基にして商店の分布状況をみたのであるが、各地域での商業活動内容にはそれなりに異なった特色が認められる。その幾つかの例を特に商店密度の高い地域を主体に町丁単位に区切った上で一覧しておくこととする。表<数2>21数2>―8は五四年の商業統計調査による町丁別商店数と商店密度を表わしたものである。先にみた商店密度図でも明らかなように各町丁目における地域差は歴然としている。ことに業種別の商店数のばらつきも目につくところである。このばらつきが地域によってどの程度の相違を示しているのであ 画像を表示
図表を表示 図表を表示 図表を表示 るか、その様子を表わしたものが図<数2>21数2>―<数2>12数2>である。 図表を表示図は商店密度(一
さて、図中において明らかに他の地域とは様子を異にしているのが高野台二丁目である。この地域は全商店数の八四・七%を卸売業で占めている。本区内での卸売業の実態はすでに触れたように商店数そのものも二三区中でようやく二・二%を占める程度のものであった。その実数は一三二九店舗であるが、このうち一〇〇店舗が同地区に集中している訳である。いわば区内唯一の市場町とでもいえようか。位置的には放射七号線に面した東京都中央卸売市場の分場を北端とする一角に各種の卸売市場が展開されている。この地域の発展は三九年にいわゆるオリンピック道路の完成をみて以後の事であった。
以上簡単に各地域と商業との関わりについてみてきたが、本編第九章の「街の変遷」中にも各町別の商業の様子が織り込まれている。
昭和四四年、本区の商業の実態についてさまざまな方面から調査を行ない、そのデータをもとに今後の商業活動への展望を見い出そうとする試みが実施された。その結果が四五年三月に「東京都練馬区広域商業診断報告書」としてまとめられている。当時は日本経済が高度成長期といわれる真只中にあり、その伸展ぶりはいよいよ歯止めの利かない状況になっていた。一方では数年後に訪れる急激な反動を招くさまざまな条件が蓄積されつつあった時期ともいえよう。こうした現実の中にあって、商業活動、ことに小売業界においては大きな変革期にさしかかったのだとい
う問題意識が生まれていた。同書はこの間の経緯を次のように表現している。 <資料文>――終戦後の一〇年間で「生存の欲望」時代から脱することができた日本の社会は、次いで「所有の欲望」「文化生活への憧れ」の段階を経て、今や、「格差をつける欲望」の時代に突入したように思われる。(
小売業も、「もの」を通して、客の趣味、嗜好、あるいは流行意識などを考え、明るさと楽しさを買ってもらう人間の心と心の関係も考えてゆかねばならなくなった。つい以前までは、消費需要の質が実質中心であったため、商店側もそれほど洗練された仕入政策や店舗構成などに努力する必要もなく、需要量にあった商品の品揃えに専念さえしておれば経営は一応安泰であり、商店街としても一定の地域の需要量にかなった商店数によって互いに存続していた訳で、これに比べて現代はまことに小売業界にとって厳しい現実がもたらされたといえる――
資料文>このような現状認識から調査は実施された訳である。報告書は本区内を幾つかの商業圏(
――小売商業は、その環境が宅地化されているより市街化、市街化しているより都市化しているほど好ましい。そして、交通面などの立地条件がさらに良い影響を与えるようになっていることが望ましい。このような状況下にある小売業は生き生きと発展し、個々の企業の生産性を高めてゆくことができる。しかし、商業環境が市場として豊かであればあるほど、企業間競争は激しさを加える。新規参入の現象が起り、大企業も店舗を構えるようになる。業種、同業店もふえる。
このようにして、新しい近代的施設は充実し、商業街区は完成されてゆくが、この段階に至ると商店は単に経営外部の要素としての「地の利」に乗ってゆくと同時に、経営内部面の合理化、精鋭化をはかってゆく必要が生まれる――
資料文>四〇年代の本区はいわば宅地化から市街地化への道を歩んでいた訳であるが、この間の商店数の増加がいかに顕著なもの
であったかはすでに前項で触れた。こうした実情の中で今後同業者間の競争はより激化するであろうことが述べられ、加えて大企業の進出も予測されていたのである。単に品物を揃えるだけの商業活動はすでに終ったのだとし、新規な店舗、ことに大企業の進出に対し、いかに対処すべきかを今後考えてゆこうとする本書の姿勢がうかがえる。具体的なひとつの指標として本書では消費者意識の調査を行ない、商店側の意識とのずれを指摘する。たとえば買い物をする時の消費者が店を選ぶ「理由」について、商店側は「近くて便利だから」をまっ先に上げるが、実は消費者からすれば「信用できる店だから」が第一番目の理由として述べられているなど、商店側としてはこうした意識構造のずれの再確認を要するといった精神面からのアピールが重視されている。この報告書が作成されて今日まですでに一〇年余が経過している。この間地元商店にとって最も深刻な問題となった大型店の進出があい次いで行なわれるところとなった。とかく消費者にとってはより豊富な品物を選べるという利便さ、あるいは一般小売店よりも廉価で品物が手に入るのだとする期待から歓迎されがちではあるが、地元商店にとっては切実なものがある。ひとつの大型店の進出があるたびに賛成・反対それぞれの立場から意見が持ち上り、区議会への陳情なども後を断たない。本区ではこうした実情をより正確に把握するための調査を幾度となく行なっている。
五二年三月に作成された「大型店(
まず地元商店側の調査対象者の反応であるが、「固定客の増減」に関し、小売業の六五・四%は「減少」したと答えたが、逆に「増加」したと答えた者も八・一%ある。しかしスーパー進出の影響をどう受け取っているかについては五〇〇m
圏内の小売店(そこで小売店(
さて、こうした商店側の受け取り方に対し、消費者の方はどうであろうか。当スーパー進出について「大いに賛成」三七・〇%、「大型店を待っていた」一四・八%、約半数の人がスーパーへの期待を持っていることになる。しかし「期待はずれ」だったと答えた人も一五・七%いることは注目してよいと思われる。これに「どうということはない」の三一・五%、「出なくてもよかった」〇・九%を加えれば約半数が何らかの形で当スーパーに対して消極的な見方をしていることになる。もっともこの消極的な意見の中には別のスーパーならという当スーパーの特性に対する批判が含まれている可能性もあり、スーパー一般に対する評価とはならない。しかし、一スーパーに対する期待度の表われとしては興味深いものがある。
そこで当スーパーに対する問題点として消費者があげた幾つかのことがらをみておきたい。第一に「案外に安くない」(
さて、こうしてひとつの大型店が進出するたびに一般商店あるいは消費者の受ける影響は少なからぬものがあるが、現在
区内にどの程度大型店ができているのであろうか。次に五六年五月三〇日現在の店舗面積五〇〇㎡以上を有する小売業について概略を掲載しておくこととする。開設年・月・日(昭和) | 店舗名 | 業態 | 所在地 |
---|---|---|---|
<数2>28数2>・9・<数2>26数2> | ㈱ハヤシ江古田店 | 家具専門店 | 旭丘一―七三 |
<数2>34数2>・<数2>11数2>・1 | ㈱プラザトキワ練馬店 | 衣料 〃 | 練馬一―一―一〇 |
<数2>34数2>・<数2>11数2>・<数2>11数2> | 飯田百貸店貫井町店 | スーパー | 貫井一―二二―三〇 |
<数2>37数2>・<数2>12数2>・1 | ㈱プラザトキワ富士見台店 | 衣料専門店 | 貫井三―六 |
<数2>38数2>・5・3 | ㈱西友ストア練馬北町店 | スーパー | 北町一―三七―三 |
<数2>38数2>・9・<数2>28数2> | 青楓チェンストア㈱江古田店 | 〃 | 栄町三四 |
<数2>38数2>・<数2>12数2>・3 | ㈱稲毛屋西武関町店 | 〃 | 関町北一―二三―八 |
<数2>40数2>・4・<数2>16数2> | ㈱西友ストア上石神井店 | 〃 | 上石神井一―三六二 |
<数2>42数2>・5・<数2>16数2> | 主婦の店練馬店 | 〃 | 豊玉北六―二四 |
<数2>42数2>・5・<数2>26数2> | ㈱西友ストア大泉学園店 | 〃 | 東大泉一―三七―二一 |
<数2>42数2>・9・<数2>10数2> | 協立舎㈲(協立家具センター) | 家具専門店 | 田柄二―五三―一一 |
<数2>43数2>・5・<数2>17数2> | ㈱西友ストア中村橋店 | スーパー | 中村北三―一五―八 |
<数2>44数2>・9・<数2>27数2> | ㈱東武ストア練馬店 | 〃 | 北町二―三八―一五 |
<数2>44数2>・<数2>10数2>・2 | 北海家具センター | 家具専門店 | 豊玉上二―二一 |
<数2>44数2>・<数2>11数2>・3 | ㈱西友ストア石神井公園店 | スーパー | 石神井町ニ―一三―一〇 |
<数2>46数2>・<数2>10数2>・<数2>10数2> | 協立舎㈲(協立家具センター) | 家具専門店 | 東大泉三―一七―五 |
<数2>47数2>・<数2>12数2>・<数2>15数2> | ㈱家具の島忠練馬店 | 〃 | 北町一―一一―五 |
<数2>48数2>・3・<数2>28数2> | ㈱ハヤシ大泉店 | 衣料専門店 | 東大泉一―三七―八 |
<数2>49数2>・1・<数2>25数2> | シヅオカヤ練馬平和台店 | スーパー | 平和台四―一九 |
<数2>50数2>・<数2>10数2>・<数2>23数2> | ㈱稲毛屋練馬善福寺店 | 〃 | 関町一―三三 |
<数2>50数2>・<数2>11数2>・<数2>15数2> | 練馬トーホーストア | 雑貨専門店 | 錦ニ―一九―一 |
<数2>51数2>・4・<数2>23数2> | ㈱よしや早宮店 | スーパー | 早宮三―四二―三 |
<数2>51数2>・6・<数2>18数2> | 青楓チェンストア㈱下石神井店 | 〃 | 下石神井三―一―二 |
<数2>51数2>・<数2>11数2>・5 | プラザトキワ大泉学園店 | 衣料専門店 | 東大泉一―三七―七 |
<数2>52数2>・9・2 | ㈱家具の島忠大泉店 | 家具〃 | 東大泉三―一七―五 |
<数2>52数2>・<数2>10数2>・1 | ㈱ヨーカ堂練馬店 | 衣料〃 | 中村北一―二―八 |
<数2>53数2>・3・<数2>23数2> | ㈱マルエツ大泉学園店 | スーパー | 大泉学園町二六二九―一 |
<数2>53数2>・5・<数2>12数2> | ㈱家具の島忠高野台店 | 家具専門店 | 高野台ニ―三―二〇 |
<数2>53数2>・6・<数2>17数2> | ㈱マルエツ南大泉店 | スーパー | 南大泉町九二二―一 |
<数2>53数2>・7・<数2>22数2> | ㈱ヨークマート下石神井店 | 〃 | 下石神井一―二 |
<数2>53数2>・7・<数2>22数2> | ㈱稲毛屋東大泉店 | 〃 | 東大泉六―四八―一 |
<数2>53数2>・9・<数2>30数2> | 〃 練馬谷原店 | 〃 | 谷原五―五―一 |
<数2>53数2>・<数2>12数2>・7 | 武蔵関ショッピングセンターセルボ | ショッピングセンター | 関町北四―二―一三 |
<数2>54数2>・<数2>10数2>・<数2>12数2> | ㈱稲毛屋中村南店 | スーパー | 中村南三―一六 |
<数2>55数2>・1・<数2>10数2> | ㈱サミットストア大泉学園店 | 〃 | 大泉学園町一〇〇三 |
<数2>55数2>・6・<数2>16数2> | ダイエービルディング | ショッピングセンター | 北町二―三九―三 |
<数2>55数2>・<数2>11数2>・7 | ㈱西友ストア関町店 | スーパー | 関町四―六九〇 |
<数2>55数2>・<数2>11数2>・8 | ㈱小泉屋 | 衣料専門店 | 練馬一―五―五 |
<数2>56数2>・4・<数2>29数2> | ライオンズプラザ石神井店 | ショッピングセンター | 石神井町三―一一五―二一 |
<数2>56数2>・5・9 | ㈱稲毛屋南大泉店 | スーパー | 南大兵町一七二 |
現存する大型店の進出時期は四〇年代前半に相当数を数えて以後はほとんど五〇年代に持ち越されている。五〇年代の日本経済は低成長期と呼ばれながら一応の安定を保っているかにみえる。こうした時期においてなお大型店の進出を迎えるなど、本区の商業の実態も一〇年以前とはおのずと異なった趣きを呈しているものと思われる。最後に商業の現状と今後の課題について五五年三月に出された「練馬区商業環境基本調査」から少し触れておくこととする。
本調査はその狙いを次のように定めている。
<資料文>――練馬区全体の均衡のとれた発展を考えた場合、今後の地域開発における行政課題として、区内商業拠点の機能整備を進め、魅力ある商業地を各地域に配置する必要がある。(
内容は「練馬区商業の現状と特性把握」「練馬区民の買物行動の調査」「中小業者の意識と経営姿勢に関する調査」および「大型店の動向と影響度予測」の四項目にわたり、それぞれに詳細な分析が試みられている。ここでは内容の一々について紹介するゆとりはないが、本区内の商業の特性として次のような点があげられている。
まず報告では本区内の地域購買力の区外流出率(
さて、本調査では各分野における分析の結論として次のような一文をまとめている。いささか長くはなるが今後の本区商業活動に対する一指針を示すものとして転載しておくこととする。
<資料文>まとめ
最後に、以上の分析を要約し、今後の練馬区商業の再生のために若干の展望を示しておく。
① 練馬区の中小商店の業績をみると、全体の傾向として、売上高は一~三割の増加があるものの、1日当たり平均来客数と、顔なじみ客の数は殆ど変わらず、反面経費は一~三割増加しているために、マージンは横ばいか一~三割の減少をみせている。全般に商店の業績は芳しくないが、その中でも業績が好転している商店がある。
とくに店舗改装を行った商店と行わなかった商店の業績の良し悪しは顕著である。したがって魅力ある店舗作りは、顧客吸引力が大きいといえる。
② 次に今後の店の経営方針をみると、全体の傾向として、経営全般では「店の拡張」、品揃え面では「商品の絞り込み」「商品の多様化」「高級化・専門化」、販売方面では「チラシ・パンフレットによる広告・宣伝」に取組む意欲が表われている。
<項番>(1)項番> これらの点を重視するのは次の商店である。
<項番>(2)項番> その他の方針では、消極的な姿勢を示す経営者の方が多い。しかし、
<項番>(3)項番> 今後の商店街活動をみると、全体の傾向として環境整備事業では次の項目が重視されている。
各地区が商店街活動として特に重視している項目をみると、次のようになる。
商店街の活性化は、商店会独自の力でできる場合もあれば、練馬区全体の都市計画の一環の中に位置づけて行わなければならない場合もある。とくに、最も要請の強い「自動車の交通規制」は、後者のケースに該当する。したがって区の果す役割は大き
いといえよう。<項番>(4)項番> 最後に、大型店の影響をみると、商店の七割は大型店の影響をうけており、うち七割はマイナスの影響をうけている。特にスーパーと競合する飲食料品を扱う商店で影響が大きい。
大型店が進出してきた場合の共存共栄については、半数の商店が条件つきで、大型店との共存共栄の可能性を認めている。大型店の進出反対派は三割である。しかも、大型店からマイナスの影響をうけている商店の場合でも、反対派より、共存共栄を認める人の方が多い。
さらに、商店街へ大型店の誘致の必要性については、将来現在とも誘致の必要性はないという反対派が四割、必要ありとする推進派は三割で、反対派の方が多い。共存共栄の道を半数の人が認めていたことと合わせて考えれば、進出してきた場合には、対応の余地は残されているが、さりとて積極的に呼び寄せるつもりはない、との意識が表われている。
<項番>(5)項番> 以上の要約に基づいて、練馬区商業再生のための今後の方向を示せば、次のようになる。
練馬区商業の吸引力を高めるためには、商店独自の経営方針に基づく店舗づくり、商店会活動として行われる環境整備事業、区行政の関わりの中で行われる環境整備事業がある。
なお、その際、商店、商店会、行政のそれぞれの役割と分担を明確にすることが必要である。民間部門にゆだねるべきであって、行政は援助を与える性格の問題と、行政の指導性が発揮されなければならない問題とを明確にすることである。
昭和二七年三月三日、練馬区商店街連合会が結成されたが、当時の本区は戦後の人口流入にいよいよ拍車がかかりはじめた頃である。年々宅地化が進行されてゆく中で、商業活動も活発さを加えていたとはいえ、全体的にみれば本区の商業の遅れは歴然としたものがある。戦前から活況を呈していたといわれる江古田駅周辺の商店会などは別として、桜台駅周辺あるいは練馬駅周辺の商店会にしてもその大半は戦後に至って著しい発展をとげたのである。その他の地域においてはなお未知数の状況にあった。
こうした中で今後の商業活動のあり方を模索し、その発展をはかろうとする表われが連合会の結成であった。連合会は地域の各商店会の加盟を呼びかけ、横の連絡を密にし、商業問題を広く捉え、地元商店会の発展を期すことを目的としている。当初の加盟商店会数は二五、会員数は八五〇店であった。
その後三〇年代を通じて本区の人口増加は著しく、商店街の進出にも目をみはるものがあった。連合会への加盟も逐次増
え、活動内容もより充実したものとなった。三五年度には最初の『練馬区商店街名鑑』を発行するに至った。合計二九四三店舗の一覧が掲載されているが、その巻頭で当時の連合会会長は、「往時、農業練馬とうたわれた面影もようやく消え去ろうとし、これに代って“商業練馬”が大きく表面化しこれが練馬区発展の源泉であり、かつ一大推進力が商店街である」と強調している。またその自負ゆえに「たとえば店舗の改良商品の選択、サービスの改善、そしてよりよい品をより安く区民各位に提供して平素の御愛顧に報ゆる覚悟を持つことは固より、これらを遂行するためには、何よりも区民の皆さまから“愛される商店”とならなければなりません」と商店の姿勢を確認している。この名鑑に記された商店会名および会員数は次の通りである。商店会名 | 代表店主住所 | 会員数 | 商店会名 | 代表店主住所 | 会員数 | |
---|---|---|---|---|---|---|
旭丘商栄会 | 旭丘一―七五 | 一三〇 | 練馬美観商友会 | 豊玉北五―一八 | 九二 | |
小竹町共栄会 | 小竹町一―七七 | 三七 | 桜台商業協同組合 | 南町二―三五九二 | 一〇一 | |
日大通り商店会 | 旭丘二ー四五 | 二五 | 桜台商店会 | 南町三―五九四四 | 七一 | |
江古田駅南町商店会 | 南町一―三五七三 | 一八六 | 豊友会 | 豊玉北四―五 | 二六 | |
江古田市場ミツワ会 | 南町一―三五一七 | 四五 | 豊玉中通商友会 | 豊玉中二―一三 | 九三 | |
南二会 | 南町二―三〇八 | 五六 | 豊玉商店会 | 豊玉北五―九 | 三一 | |
練馬大門通陸商店会 | 南町四―六二八 | 九一 | 中村橋商栄会 | 中村町三―六四八 | 一六〇 | |
練馬銀座本通り商店会 | 南町四―六〇八四 | 二五 | 中村東栄会 | 中村町一―七 | 三六 | |
練馬弁天通り商店会 | 南町四―六〇九四 | 一四七 | 貫井町商店会 | 貫井町一〇五七 | 一一二 | |
練馬アーケード商店会 | 南町五―七〇五二 | 二九 | 富士見台商栄会 | 貫井町四一四 | 五〇 | |
練馬駅前商店会 | 南町四―六〇八二 | 三八 | 練馬区仲町共和会 | 仲町二―一五七 | 三六 | |
丸久保五三会 | 仲町五―一六二二 | 五四 | 谷原五ツ又商栄会 | 谷原町二―二六一三 | 三六 | |
春日町商店会協同組合 | 春日町一―一八二七 | 七四 | 上石神井一丁目商工会 | 上石神井一―三六二 | 一八五 | |
春日町富士商店会 | 春日町二―二〇六三 | 六六 | 石神井公園商光会 | 下石神井二―一三〇三 | 二六二 | |
北一商工会 | 北町一―七〇 | 七四 | 立野商店会 | 立野町八九五 | 三三 | |
北町商店会 | 北町二―三一二 | 八五 | 関町商工会 | 関町三―八三三 | 一八一 | |
北町銀座新生会 | 北町二―三一〇 | 三二 | 武蔵関商工会 | 関町四―五六一 | 四三 | |
谷原新栄会 | 谷原町二―二二六五 | 二一 | 東大泉商栄会 | 東大泉町九二七 | 一八〇 | |
合計 三六商店会 会員 二、九四三店 | ||||||
最初の名鑑が発行されてから今日まで二〇年間が経過した訳であるが、この間連合会は機能の充実を計り刻々と変化してゆく経済状況に即応しながら種々の問題と取り組み、経営の近代化を促進する一方、商業環境の改善にも努力を重ねている。その一例として五六年度の事業計画(
担当部 | 事業種類 |
---|---|
総務部 | 総会、新年会、常任理事会、ブロック会、各部会の推進、練馬区関係事業協力、産業会館運営、経済時事講演会、各商店街経歴調査、新加入商店街連絡指導、照明合理化委員会推進、その他各部に属さない事業 |
事業部 | 商店コンクール、先進優良商店街調査見学の実施、各商店街売出し協力、広報車巡回活動、販売促進研究会、毎月謝恩サービスデー全店実施推進、商業まつりの推進、消費者懇談会実施、販促資材用具の斡旋 |
組織部 | 指導者講習会、地域オピニオンリーダー養成、振興組合設立促進協力・会員増強、未加入商店会との懇談及び加入の促進、商業講座の実施、店舗出店の相談 |
厚生部 | 会員慰安会、新従業員歓迎会及び定着指導育成、保険業務取扱、商店従業員福利厚生 |
広報部 | 区商連ニュース発行、区商連PR活動、区内各業種組合団体及び近隣区商連との意見交換の実施、交通防犯運動に協力 |
青年部 | 商連活動の協力、商店従業員スポーツ大会、商店従業員講座、近隣区商連青年部との交流、部員組織強化 |
大型店対策 | 都、区側との情報交換、関係商店街との意見交換及び調査研究、関係法令の研究、その他対策に関すること |
創立三〇周年記念事業実行委員会 | 練馬区商業まつり事業に関すること その他、理事会及び常任理事会において決定した事業及び全商連、都商連、商工会議所の企画に参加すること |
なお五六年度の連合会予算(
連合会加盟商店会数も五六年時点では六二を数え、会員数は三七一九店に達している。その内訳を次に記しておく。
商店会名 | 代表店主住所 | 会員数(準会員含む) | 商店会名 | 代表店主住所 | 会員数(準会員含む) | |
---|---|---|---|---|---|---|
旭丘商栄会 | 旭丘一―六八 | 一六〇 | 練馬アーケード商店会 | 練馬一―六―二 | 三五 | |
小竹町共栄会 | 小竹町一―四三 | 三六 | 練馬駅前商店会 | 練馬一―二―八 | 三四 | |
日大通り商店会 | 小竹町一―五五 | 九二 | おとり様通り商店会 | 豊玉北五―二二 | 九〇 | |
江古田銀座商店会 | 栄町五 | 四五 | 練馬駅前本通り商店会 | 豊玉北五―一九 | 三〇 | |
栄町本通り商店街振興組合 | 栄町二六 | 八三 | 練馬駅前中央通商店会 | 豊玉北五―二一 | 四八 | |
江古田北口商店会 | 栄町三二 | 一一〇 | 豊島園駅前商店会 | 練馬四―一五―一五 | 三〇 | |
江古田ミツワ商店会 | 栄町二九 | 三五 | 桜台商店会 | 桜台一―六 | 八〇 | |
練馬駅北口振光会 | 練馬一―三五―一 | 二二 | 豊南新交会 | 豊玉上二―二七 | 四三 | |
大門通り商店街振興組合 | 練馬一―二―一〇 | 七〇 | 桜台商業協同組合 | 桜台四―一 | 一〇〇 | |
練馬銀座本通商店会 | 練馬一―二五―一 | 三九 | 豊玉北中商栄会 | 豊玉中一―一〇二〇 | 二四 | |
練馬弁天通り商店街振興組合 | 練馬一―三四―一 | 八五 | 豊玉庚申通り商栄会 | 豊玉中三―一三 | 二〇 | |
中村橋駅前通商店会 | 貫井一―二―八 | 九五 | 北栄会 | 三原台一―八―四 | 三二 | |
中村東栄会 | 中村一―七 | 五五 | 豊渓商店会 | 高松六―三八―一 | 二六 | |
貫井中央商店会 | 貫井二―二一―四 | 八三 | 高松町造り商店会 | 高松六―二―一三 | 一八 | |
富士見台商栄会 | 貫井三―三―一〇 | 八八 | 豊和商店会 | 旭町七一七 | 四五 | |
富士見台本町通商店会 | 富士見台四―一七―一八 | 七四 | 旭一商興会 | 旭町一―一〇―一一 | 二三 | |
商ヶ丘商店会 | 富士見台二―四一―二 | 七一 | 土支田地蔵通り商店会 | 土支田町二―一二―五 | 二八 | |
平和台中央商店会 | 平和台四―二二―一八 | 五四 | 富士和商光会 | 石神井町二―一五―八 | 三三 | |
平和台親和会 | 平和台二―一一―一五 | 二五 | 石神井公園商光会 | 石神井町三―二〇―一三 | 一六四 | |
氷川台商店会 | 氷川台四―八―一五 | 三〇 | 石神井小関商栄会 | 石神井台八―一六―二六 | 五九 | |
練馬農協前通商店会 | 春日町六―五―八 | 五二 | 上石神井商交全 | 上石神井一―六三七 | 二〇二 | |
春日町本通り商店会 | 春日町一―一四―二 | 三八 | 関一商興会 | 関町一―一三 | 四四 | |
富士商店会 | 春日町三―三三―二七 | 一八 | 武蔵関商栄会 | 関町二―一三一 | 一二五 | |
みすず商店会 | 春日町三―三三―三七 | 一〇 | 関町商店会 | 関町四―七〇五 | 七六 | |
北一商店街振興組合 | 北町一―二五―一 | 一一五 | 武蔵関バス通商店会 | 関町北二―二四―九 | 四三 | |
東武練馬商店街振興組合 | 北町二―三八―四 | 九六 | 東大泉商栄会 | 東大泉町四九九 | 一五〇 | |
田柄中央商店会 | 田柄一―二五―一三 | 五〇 | いずみ商店会 | 西大泉町一〇一八 | 二四 | |
田柄共栄商店会 | 田柄三―七―一六 | 四五 | むさしの商店会 | 西大泉町一一七五 | 二四 | |
長命寺通り商店会 | 高野台三―七―九 | 二三 | 西大泉商交会 | 西大泉町一八九六 | 七〇 | |
谷原五ツ又面栄会 | 高野台四―一九―三 | 三二 | 商愛会 | 南大泉町四六五 | 九五 | |
谷原小学校通商店会 | 谷原二―一〇―一六 | 一五 | 大泉学園北出張所商店会 | 大泉学園町二六三二 | 五八 | |
合計 六二商店会 会員 三、七一九店 | ||||||
昭和二〇年一二月九日、連合軍総司令部(
「農地改革についての覚書」
これに先だって日本政府は、昭和二〇年一一月、農業会の戦時統制的団体の性格をとり除く最少限の法律改正を行ない、農業団体法の一部を改正した案を第八九臨時国会に提出。一二月成立を見たのであるが、農地改革についても、二〇年一二月第一次農地改革案が議会を通過、二九日公布された。自作農創設、小作料の金納化、農地委員会の民主化および強化がもりこまれてあったが、対日理事会でソ連代表から、在村地主と不在地主の保有面積を五町歩にするという地主保護に近い法案が批判をうけて、GHQに承認されなかった。
そのため第二次改革案を作成、対日理事会の検討をへて修正され、第二次改革として公布された。すなわち二一年一〇月
二一日、法律四二号をもって「農地調整法」改正公布、同日「自作農創設特別措置法」が公布された。その内容をみると
一、在村地主の貸付保有限度は平均一町歩以内に制限、不在地主の貸付地の保有全面禁止。
二、地主の所有が制限された農地は国が直接買収して、原則としてその農地を耕している農民(
三、農地の買収、売渡しの計画作成および事務は、政府と都道府県の強力な指導の下に、各市町村農地委員会によって行なわれることになった。農地委員は、小作五人、地主三人、自作二人から構成され、その選出はそれぞれ選挙によって行なわれた。第一回目の選挙は昭和二一年一二月二七日に行なわれ、次の者が選出された。
練馬地区 石神井地区 大泉地区
小作層から選ばれた委員 内田 武次郎 豊田 孝喜 高橋 鬼八
小林 林太郎 川谷 浅之助 高橋 新五郎
小島 忠喜 井口 倉蔵 伊藤 藤一
鹿島 金蔵 本橋 助左衛門 荘 喜之助
中村 三郎 平井 清三 加藤 武男
地主層から選ばれた委員 篠金 太郎 本橋 金次郎 加藤 貞寿
山本 紋次郎 本橋 作 加藤 弥平次
篠田 鎮雄 大沢 良作 平野 多治郎
自作農から選ばれた委員 小泉 福太郎 谷治 栄次郎 加藤 彦治郎
上野 徳次郎 桜井 米蔵 加藤 富蔵
任期は二年、二三年に改選されている。この農地委員によって、自作農創設の仕事が進められたのであるが、小作人は今まで耕作していた土地を国より安く、しかも年賦で手に入れることができた。ただしその土地は創設農地といわれ三〇年間農地として使うことが約束させられていた。
図表を表示本区の場合、在村耕作地主の土地保有面積は三町二反、在村不耕作地主は七反までとし、不在地主の小作地はすべて買収された。なお山林は買収の対象からはずされたが、戦時中開墾され現状農地となっていたものは買収の対象となった。在村地主とはその農地委員会の受け持つ範囲内に住む地主をさすのであって、農地委員会の違う所は不在地主となり、自作地以外はすべて買収の対象になったので、練馬地区の農家が道一つへだてた石神井地区に貸付農地をもっていても、すべてそれは不在地主の所有とみなされ買収されたのである。なお非農家には売渡しを受ける権利がなく、その小作地は国有地となったり、地主の保有地として残された。また国有地には事業用地例えば公共用として指定された所もある。非農家の定義もあいまいであったが、戦時中供出をしたか、しないか等が有力な根拠となったようであるが、一応三反歩以上農地を所有していれば農地の買い受けができたので、一時は百人以上の「非農家の農家」も出現し混乱をした。買収価格は水田が賃貸価格の四〇倍(
こうした大変革は長い間の地主、小作という関係をなくしたのであるが、やはり感情的には問題もあって、その時期の農協設立や、支部の区分等にも影響を与え、中には親戚づきあいをやめるという結果も表われてきた。
そうした困難な状態の中で、二四年から二五年にかけ、水田五四町歩、畑七七〇町歩の買収が行なわれた。改革前まで全耕地の五一%あった小作地は一五%となり、四九%の自作地は八五%に増加している。一方農家数においても、二三年当時の区の農家数二六三一戸のうち小作農は九二八戸で全体の三五%を占めていたものが(
昭和二七年七月、自作農創設特別措置法および農地調整法が廃止され、代って農地法が制定された。農業委員会によって総合的に農民の地位向上がはかられることになった。
なお昭和二二年より二四年に至る三年間に農地委員会で取扱った件数・反別を種類別に見ると、
自作農創設や、農地の異動等について活動してきた農地委員会や、食糧調整委員会、農業改良委員会は昭和二六年三月施行された「農業委員会法」によって、一本化され、農業委員会として発足した。
食糧調整委員会は食糧の供出割当てにあたり、その方法が民主的でないとの理由で、設置されたもので(
農業生産力の発展、農業経営の合理化、農民の地位向上のために、農地法の利害関係の調整、自作農の創設維持、土地改良等による農地の交換分合等のあっせん、その他農地事情の改善等の事務を処理していた。
昭和二九年法律第一八五号により一部改正が行なわれ「農業委員会等に関する法律」となって、選挙による定数は一五名
から一〇名までの間となり、本区は三地区共一〇名と条例によって定められた。なお小作地買上げ、財産税物納、其他によって生まれた昭和四六年現在の国有地は左のとおりである。地区別 | 面積(その中の貸付地) |
---|---|
練馬地区 | 二〇、五八六㎡( 七、四三〇㎡) |
石神井地区 | 一六、七八九㎡( 三、六六八㎡) |
大泉地区 | 五九、三四七㎡(五二、一七七㎡) |
計 | 九六、七二二㎡(六三、二七五㎡) |
政府の手持米の放出やひきしめによって、米の市場価格の調整を計ってきた米穀政策は、軍需物資としての米穀の必要性と軍需景気による好況が米価の上昇をきたし、さらに昭和一四年の旱魃によって米価の高騰をきたしたため、食糧管理法が制定され、供出割当制度となり、それは戦中、戦後を通して国家による主食の管理となった。これによって今まで商品として自由に売出されていた米、麦、馬鈴薯、甘藷などは直接政府によって買上げられ、これを一定の配給基準に基づき、労働差、年齢差等を考慮して消費者家庭に配給する方法である。
この供出法は昭和二二年までは、事後割当方式であり、二三年から二五年までは事前割当方式、また二六年から事後割当制になっている。これは収穫高によって供出の割当てをするのと、作付前に供出割当てをするという方式との違いである。
作柄が悪く供出米穀が少なければ、配給も少なくせざるを得なくなり(
GHQは主要食糧についても検討を加え、供出割当方式が民主的でないとして、食糧調整委員会を設立し、その調査答申にもとづいて市町村長が民主的に割当てる事になった。
食糧調整委員会は板橋区の練馬支所管内に設けられ、板橋区石神井出張所食糧調整委員会として会長に石神井出張所長、副会長内堀仁兵衛、委員一八氏が委嘱され、供出割当ての調査を担当したが、事実は、供出を頼んで歩く状態であったという(
二二年、「都民緊急食糧家庭増産実施運動」の名で、各家庭の庭先、道路、山林、植木畑、ありとあらゆる所に、南瓜の栽培が行なわれ、さつま芋、菊芋、とうもろこし等がつくられた。主食の米、麦についても供出方法の改革を命ぜられた。食糧調整委員会の法改正と練馬区独立によって今までの委員の任務は八月五日終了し、九月五日区独自の委員が選出された。
二三年都に対して一〇〇〇石の超過供出の割当てがあり、この割当てを消化するのに苦労が重ねられた。
『都農協二十年史』の大泉農協の一節に次の文が掲載されている。
昭和二五年朝鮮戦争が勃発し、食糧補給は急を告げ、占領軍による麦の供出命令は苛酷をきわめた。この時農家は他町村を買いあさり、辛うじて割当てを果たした。農協の扱った数は一万二〇五八俵で、前後を通じ最大の量であった。
『練馬区史』(
年度 | 米 | 麦 | ||
---|---|---|---|---|
生産高 | 供出割当高 | 生産高 | 供出割当高 | |
昭和二二年 | 一四四、三三六 | 二〇、〇〇〇 | 二一八、一二七 | 二九、〇〇〇 |
昭和二三年 | 一九五、七〇〇 | 二八、五〇〇 | 三〇〇、七二五 | 三五、〇〇〇 |
昭和二四年 | 一九九、七四〇 | 三一、九〇〇 | 三一三、〇四九 | 四三、八〇〇 |
昭和二五午 | 二二八、四〇〇 | 三〇、二〇〇 | 三九二、一〇〇 | 七九、六〇〇 |
昭和二六年 | 一九二、六三七 | 二〇、五〇〇 | 統制撤廃 | |
昭和二七年 | 二一二、五二八 | 二一、〇〇〇 | ||
昭和二八年 | 一五〇、五三七 | 一〇、〇〇〇 | ||
昭和二九年 | 一八七、七七一 | 一七、六九二 |
年度 | 作付面積 | 収量 | 保有量 | 供出割当 | 補正 | 超過割当 | 任意超過 | 供出実績計 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
水稲 | 陸(雑)稲 | ||||||||
昭和二一年 | 八五一 | 二、三四一 | 五、一八六・五 | 五、一三五・〇 | 二八 | 四・四 | 二八・〇 | ||
昭和二二年 | 七一四 | 一、三九二 | 二、〇〇二・一 | 一、九九〇・〇 | 二 | 五〇 | 二 | 〇・四 | 六・四 |
昭和二三年 | 八四〇 | 一、三二五 | 三、八七九・四 | 三、八二〇・〇 | 六八 | 五一 | 〇・二 | 五二・四 | |
昭和二四年 | 八〇五 | 一、八七九 | 四、五八九・四 | 四、五二四・四 | 六五 | 三三 | 二四 | 五二・四 | |
昭和二五年 | 八一九 | 二、二七七 | 四、六六四・〇 | 四、六〇八・七 | 五〇 | 五七 | 〇・二 | 五七・二 | |
昭和二六年 | 八二六 | 一、九九六 | 三、九一二・三 | 三、八六五・三 | 四七 | 三 | 二・三 | 五二・〇 | |
昭和二七年 | 八三〇 | 二、二八六 | 四、七九六・〇 | 四、七五六・〇 | 四〇 | 三 | 四五・三 | ||
昭和二八年 | 八三九 | 二、一八七 | 二、九七四・〇 | 二、九六四・〇 | 一〇 | 一三・〇 | |||
昭和二九年 | 八〇九 | 二、一七〇 | 三、八〇八・〇 | 五、七八二・〇 | 一 | 一・一 | 二七・一 |
年度 | 作付面積 | 収量 | 供出割当 | 補正 | 超過 | 供出実績計 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|
割当 | 任意 | ||||||
昭和二〇年 | 三、一三六・三 | 四、八五〇・〇 | 六、一七三 | 一、五四九 | 四、六二四 | ||
昭和二一年 | 四、六七六・九 | 六、八一〇・五 | 七、二〇一 | 一九七 | 七、三九七 | ||
昭和二二年 | 五、〇六七・八 | 七、四一八・五 | 八、五一八 | 三〇〇 | 八、七一七 | ||
昭和二三年 | 六、七九五・〇 | 九、六一三・九 | 三、三〇〇 | 三、二三一 | 四八 | 二三八 | 三、五一七 |
昭和二四年 | 六、七四三・〇 | 八、二八六・九 | 三、七五〇 | 三、五九〇 | 七、三四〇 | ||
昭和二五年 | 七、六八六・〇 | 四、七六四・一 | 五、五三〇 | 七、九九〇 | 二、四九九 | 七、九九〇 | |
昭和二六年 | 八、六一〇・〇 | 一二、一一〇・〇 | 四、五七〇 | 統制撤廃 | 一、八三八 | 五、五八六 | |
昭和二七年 | 六、六六一・〇 | 一三、三六九・〇 | 〃 | 四、九一七 | 四、九一七 | ||
昭和二八年 | 六、四〇八・七 | 一二、七九九・〇 | 〃 | 五、六六二 | 五、六六二 | ||
昭和二九年 | 六、四六八・〇 | 二〇、九八八・〇 | 〃 | 四、五七三 | 四、五七三 |
年度 | 作付面積 | 収量 | 供出割当 | 補正 | 超過(任意) | 供出実績計 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
昭和二一年 | 七五〇 | 一九六、〇〇〇 | 一五四、七五四 | 一二、一二六 | 一六六、三六〇 | ||
昭和二二年 | 一、一〇七 | 四四〇、四五三 | 三三三、〇〇〇 | 二三九、七八五 | 七、三六四 | 二四七、一四九 | |
昭和二三年 | 一、三四一 | 六一六、六三〇 | 四二〇、〇〇〇 | 三、五六〇 | 四二三、五六〇 | ||
昭和二四年 | 一、〇八六 | 四八四、二〇〇 | 二九一、〇〇〇 | 二六八、八九〇 | 二二、七三〇 | 二九一、六二〇 | |
昭和二五年 | 一、〇一二 | 四〇四、八〇〇 | 八六、〇〇〇 | 八六、〇〇〇 | 統制撤廃 |
年度 | 作付面積 | 収量 | 供出割当 | 補正 | 超過(任意) | 供出実績計 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
昭和二一年 | 一、〇四一 | 四〇五、九九〇 | 一九〇、三六六 | 一一九、九三八 | 三一〇、三〇四 | ||
昭和二二年 | 一、〇三三 | 三九九、七七九 | 二六〇、〇〇〇 | 五、三七〇 | 二七〇、七四〇 | ||
昭和二三年 | 九五七 | 三四〇、七二〇 | 五二六、〇〇〇 | 三六〇、〇〇〇 | 二一、〇〇〇 | 三二一、〇〇〇 | |
昭和二四年 | 一、一九九 | 五八九、四七六 | 三九九、七〇〇 | 三六六、六〇〇 | 二七、七八〇 | 三九四、三八〇 | |
昭和二五年 | 一、一三八 | 四五五、四〇〇 | 四〇、〇○○ | 四〇、〇〇〇 |
供出の方法はまず作付面積の割当てがあって、収穫があると、供出の割当てがある。しかし、昭和二三年より二五年までの間は事前割当制度で、つくる前に供出数量がきめられ、それに向って精出すようになっていた。補正というのはその後の作柄その他の事情から追加や減額の割当てが行なわれることであり、その上に超過割当てがあり、また任意の供出があった。残りは保有米といって、米は一年の内の五〇%、小麦粉は一八%、バン一三%、押麦四%、等ときめられ、その日数分が自家用(保有)となった。その間配給が停止される(米穀通帳を預ける)ので、今までのように、米、麦以外は主食と考えなかった農家はついつい不足がちとなったのである。
なお二六年には統制が廃止され、事前売渡制となって約束供出の形となったが、全国的には統制撤廃によって、米作が不安となるためその反対運動も盛んに行なわれた。こうして供出強化、食糧不足が深刻となると品質は悪くとも豊産である品種の採用、甘藷なら従来の金時、大白に代って沖縄百号がつくられ、じゃが芋の種薯不足解消のため七月に種薯の芽出しをして夏植えを行ない秋収穫のじゃが芋を種芋として使う等、量の生産につとめた。
昭和二三年七月二〇日食糧確保臨時措置法による供出強化も行なわれたが、二四年四月一日、野菜の統制撤廃、同年一二月一日には芋類も供出後は自由販売ができるようになり、二四年四月一日は砂糖の統制廃止、二五年七月一日、味噌醤油の
統制廃止、二六年三月一日、雑穀の統制廃止、遂に三〇年五月七日にはその年度産米より予約買付制として、供出割当制を廃止している。その前の二七年六月一日には麦類の統制が撤廃されている。食糧の不安はなくなったが、農家は新しい作物えの切換えをしなければならなくなった。 本文> 項> <項>先に「農地改革についての覚書」を掲載したが、その中でGHQは「非農民的勢力の支配を脱し、日本農民の経済的、文化的向上に資する農業協同組合運動を助長し、奨励する計画」をつくることを、日本農業の民主化と振興につながるものとして強く要求している。
日本政府はこれに先だって昭和二〇年一一月、農業団体法の一部改正案を第八九臨時国会に提出、一二月成立、翌一月二〇日施行となった。この改正で、昭和一八年成立した農業会の役員制度の民主化、行政官庁の監督の縮小等を実施することになり、地区農業会においても理事は今までの認可制度を廃し、会員の直接選挙、業務も理事の合議ということになった。
しかしこの改正もGHQの支持を受けられず、二二年一月当時の和田農相に対しGHQは、農協法に関するメモとして、農民の自由意志にもとづく農協の設立でなければならないと告げ、その意味で農業会は農協の設立母体とはなれず、法公布の日から八か月以内に解散しなければならないとされた。農協法成立の母体としては農業会の従業員組合や民主的農民団体(
こうした背景のもとに練馬第二農業会は、昭和二三年二月一〇日、開進第一小学校講堂において解散準備総会を開き、会員数一七六五名のうち出席者一四九四名(
また石神井農業会の解散準備総会は二三年二月一四日に開かれ、大泉農業会の解散もその頃であった。
ここで各地域では新しい農業協同組合の設立が始まるのであるが、東京都の受付文書によれば、組合設立申請の第一号(
練馬農協 仲町五―一六九九(
創立総会 二三年三月二六日
設立認可 二三年五月二五日
登記完了 二三年七月一日
当時の組合員 正 九五〇名 准 一二八名
最初の出資金 四九一二口 九八万二四〇〇円
職 員 男八名 女六名 計一四名
石神井農協 下石神井二―八〇四 初代組合長 桜井米蔵
創立総会 二三年三月一七日
設立認可 二三年四月二一日
登記完了 二三年五月二〇日
当時の組合員 九九六名
大泉農協 南大泉町五一〇 初代組合長 加藤弥平次
創立総会 二三年三月二八日
設立認可 二三年五月一四日
当時の組合員 七一六名
南田中農協 南田中町三〇一 組合長 滝沢杲
石神井農業会より分離独立、駅前倉庫一棟ほかの分配を受ける(
創立総会 二三年一月一四日
設立認可申請 二三年二月四日
設立認可 二三年三月一八日
当時の組合員 六〇名、出資金一口一〇〇円、
その他、昭和二五年および二六年度の『練馬区勢要覧』に畜産関係の協同組合として次の記載がある。
・搬牛馬組合 上石神井一―二六六 代表者 高橋八左衛門
乳牛 九、役牛 一五
・大泉畜産農業協同組合 代表者 加藤武雄
乳牛 三〇、役牛 二〇
・山羊農業協同組合 豊玉北五―一〇 代表者 熊谷久吉
山羊 二三三
・養鵞農業協同組合、中村町一ノ一〇〇九 代表者 奥村栄一
鶏 六四七一 鵞 二四三一
この協同組合が正式に設立認可を受けたものかどうかで不明あるが、南田中農協のように、たとえ小規模であっても一五人以上が参加し、設立書類が整い、事業に対して熱意をもっているとみなされれば、当然認可すべきであったから、畜産組合も恐らく設立されていたのであろう。組合設立は特に創設農家といわれる人々にとっては当初の意気込みも盛んで、早くから設立の届出をした点にもあらわれている。しかし、その後の供出の強化、生産物価格の変動・統制の撤廃等から経営の行きづまりを来し、解散し、また解散同然となっているものは全国で四〇%以上に達したという。南田中農協も実質的には昭和三三年三月現在調べで石神井農協に包含されており、解散手続を取らなければならない段階になっている。
昭和二二年一一月九日成立した「農業協同組合法」(
三農協の事業の重点は、その時その時によって変っているが、昭和二〇年代では食糧増産と供出完遂、そのための多収穫栽培法および品種の研究、肥料、薬剤のあっせん等であったが、やがて統制撤廃から自由競争の時代を迎え、生産物の質の向上、副業の研究などに移って行った。この間の様子を練馬農協に例をとり次にみておきたい。
昭和二四年、米国ドッジ公使の来日により均衡予算実施、補給金廃止の政策に転換、次々と統制の撤廃が行なわれると、農産物の値段は下落、肥料は上るという状況となった。一方他の野菜生産地との間に展開されるであろう自由競争の激化も予想され、練馬農協としてもさまざまな対策を必要とした。
二六年七月、農協主催の第一回練馬夏季農産物品評会が開催されたが、その賞状授与式の時、来賓、練馬地区農業委員会長鹿島安太郎は練馬農業の現状を訴え、「都内我々そ菜生産者は絶えず地方産地の動向と消費者側の嗜好に留意して、今後ますます研鑚努力し改良に改良を加え、もって練馬農業の名声を高め」と述べている。そうした意味もあって、農業改良普及員の指導を受けながら、新しい経営、作物、栽培技術の研究のため専門部会がつくられている。
まず青年農業振興会が昭和二五年一二月に発足しているが、その後酪農部会(
その後酪農、養豚、養鶏三部会の会員数の減少もあって統合した畜産部会の誕生(
四九年二月一六日、美濃部都知事の要望もあって生鮮野菜を確保するため契約そ菜出荷事業を発足させ、その組合をつくっている。四八年秋作のキャベツの出荷契約は出荷の数量、時期等を決めることにより一定値段の確保を保障しようというもので、一一支部一三二名が参加している。練馬、石神井、大泉の三農協は五四年三月野菜流通対策推進事業協議会を設置して三農協による栽培技術や品種の改
図表を表示 図表を表示 良、販売方法の研究等をするようになった。金融・信用・共済事業は現在各農協とも、最も重要な部門で農家財産の管理、事業のための資金貸付・財産および生命に対する共済事業等大なるものがある。昭和三六年三月三日、練馬農協は貯金高全国一位、二〇億五〇二六万円となり、昭和四四年九月九日には百億の貯蓄増強を達成している。石神井農協においても三七年二月、一五億円を突破し、四三年度末には五六億七〇〇〇万円に達している。大泉農協においても四三年度末二五億円、その後の増加は画期的なものがある。
その他、三九年一〇月一〇日、東京オリンピック開催にあたり広い会場を埋めつくした菊花の提供、四〇年の大型トラクターの購入(
特に農地確保のために、防災対策としての空閑地確保、環境浄化のための緑地保全、都市農業推進のための宅地並課税反対等、大きな問題にとりくんでいる。
なお三農協発展の姿を「農協概況」および「主要勘定と事業の推移」として次に示す(表<数2>21数2>―<数2>12数2>、<数2>13数2>、<数2>14数2>、表<数2>21数2>―<数2>15数2><項番>(Ⅰ)項番><項番>(Ⅱ)項番><項番>(Ⅲ)項番>)
図表を表示 図表を表示 図表を表示 本文> 項> <項>大正一二年の関東大震災後、本区域内にも都市化が進展し、昭和初年には鉄道の周辺に宅地も増え、各地に区画整理が行なわれはじめた。
豊玉・中村地区は昭和八年より一三年にかけ全面的な区画整理を行ない、豊玉地区は昭和一五、六年頃に、中村地区は昭和二〇年の頃登記が終了して、新町名、新番地が決定している。また、石神井川沿岸は、水田耕作から野菜栽培への転換と
ともに石神井川の水害対策を兼ねて耕地整理を行なっている。昭和五年の頃、下流の氷川台、早宮地区に始まり、二一年の春日町をへて、昭和三〇年までには関の富士見池まで終了している。昭和七年には田柄川流域でも耕地整理が開始された。練馬の宅地化はこうして整理された地価の安い低地から進められたともいえる。その後昭和一四、五年から、氷川台、平和台地区の畑地にも全面的な区画整理が進められ、戦後終了しているし、白子川流域および旭町は昭和一九年の頃区画整理を完了し、その記念碑を妙安寺境内につくっている。白子川全域の耕地整理が護岸工事完成をもって終るのは四〇年度後半であるが、田柄、早宮西地区の耕地整理も三四年には終了した。
画像を表示こうして区画整理や耕地整理が進められるとともに農作業も利便さを増したが、一方では宅地化に拍車がかかる結果ともなった。以後農地の転用が盛んに行なわれるようになるが、その直接の理由としては次のようなものがあげられる。交通の発達から近郊農村としての有利さを失うに至ったこと、病虫害等から野菜の品質が低下したこと、ビニールハウス等による早期栽培が全国的に広まったこと、そ
の上地価の高騰、相続税の強化、相続財産の分割等、土地を必要とする農民にとって大きな痛手となり、労働意欲を失うに至ったことなどである。また農家の後継者はサラリーマンへの道を歩み、いわゆる三チャン農業を生むこととなった。これらの事情から宅地への転用のみならず、駐車場、作業場、残土処理場、飯場等の一時貸用地への転用が行なわれ、そのほかにも果樹園(一方「農家数」および「農家人口」の年次別推移(
農地の宅地化の原因にはいろいろあるが、農業収入にのみ頼れない不安定さ、そのために始めた副業への依存等、都市化につれて起るこうした要因も無視できず、この傾向はまず創設農家(
戦争以前よりつづいた藁ぶきの家は、都市的生活には不便極まりないので、改造や屋根の葺きかえ等も行なったが、農地を売って、モダンな農家に建てかえる風習も生まれて来た。当然農家数も減少して昭和二五年、二九七二戸(
この専業農家(
『練馬農業協同組合史』(
同書に「練馬区における不作付地の推移」という珍しい統計がのっている。「東京都農業経営基本調査報告」によるのであるが、昭和四〇年の作付けをしなかった田畑は一三・九七%に達し、特に水田には殆んど作付けをしない、七六%という状況である。これは灌漑水がなかったり、汚水となった河川の水が使えない理由もあり、また低地のため埋立中(
したがって経営面積別農家数においても、零細農家が目立ち、昭和四五年には、五〇a未満の農家六五二に対し、五〇a以上は八三四である。ところが五年後の五〇年には七二一が五〇a未満で、五〇a以上は六二一と逆転している(
『練馬農業協同組合史第二巻』(
転業の回答は一一二件で不動産関係が第一位で三六・六%、その内アパート、貸家、マンション経営が約四分の一を占めている。そして商店経営がそれにつづいている。兼業の第一位はやはり貸家、貸駐車場等で、四三%、次が商店経営の一三・五%、工事関係八%、農業技術を生かした造園、植木、園芸やきのこ栽培等は七・四%、勤め人は六・六%で、回答者は一三五人である。
農業を今後つづけるかどうか即ち後継者の決定についても、まだ未決定の農家が多く、昭和四三年の都農業経営基本調査でも、区内全農家一六〇五戸の内、決定四四〇戸(
以上練馬地区における農業の将来はさびしいがなおその三割は希望にもえる毎日を過しているのである。
本文> 項> <項>昭和五六年三月池袋サンシャイン劇場で、ある劇団が「練馬に大根がなくなった日」三幕を上演した。戦争、病虫害、住宅地化というあらゆる困難を克服して練馬大根を作ろうとする主人公の物語りであるが、事実練馬大根の将来はいろいろな点で苦しいと言ってよい。
しかし練馬農業の象徴とも言うべき大根がなくなった時はやはり練馬の農業の滅びる日であるという気がする。たとえ大根のかわりのものがつくられても、片隅に幾さくかの大根がつくられていると思うからである。
練馬大根は江戸、明治、大正、昭和の四代にわたってその名を全国にとどろかせ、その種子、沢庵漬の生産も高められていった。その作柄のよしあしは練馬の農業の盛衰をきめたと言ってよかった。練馬大根の中でも、沢庵漬用の練馬尻細大根について「東京都特産農作物について」第Ⅰ輯に次のように記している。
画像を表示 <資料文>練馬尻細大根は根身細白、長大で中央部がやや太く首部及根端部分は次第に細まっている。葉は概して淡白で葉長の割に葉の幅が広く、葉片も大きく葉片数も多く、且つ欠刻が深く、生育の最盛中は最下葉部は横繁して地上をはう。生育途中には葉が立つが、収穫近くなれば再び横繁する。肉質締まり水分少なく、皮薄く色白く、極めて乾き易いため干大根として最も良品で沢庵用として実に
秋の王者である。 資料文>八月末より九月始めにかけて播種、一一・一二月に収穫、干大根にして漬込みをする。一一月始めまだ大根が畑にあるうちにその間作として麦まきをする。麦の間に陸稲、きび、さつまいも、ごぼう、とうもろこし。麦の後作に人参。そして八月収穫の終った畑に大根をまく。こうしたくりかえしが練馬の農業であったのであるが、昭和八年大旱魃の際、バイラス病に襲われ、種々の対策にも効果をあげられず、昭和一五年の大旱魃で、更に痛手をうけ、大根にかわるべき作物への転換、大根品種の改良や耕作法の改善等が試みられた。
まず病菌に強い品種の育成については、練馬大根の純粋さを失う欠点はあるものの、次の品種が奨励された。
次に沢庵用としてはむずかしいが病菌の出る以前に大きくしてしまう早生系の採用である。これには夏大根系の美濃大根がある。
病害虫駆除に薬剤の使用、戦後は種々のものがあったが、効果的ではなかった。病害虫に強い三つ葉や、陸稲の
こうした状況の中で、区内の漬物業者は、近県から大根を確保・加工していたが、近年工場を大根産地に移転したり、他の漬物に転向したりしている。
長い間、練馬の名を高からしめた大根はこうしてその名残を留めるばかりになったが、昭和一五年、この練馬大根の名を後世に伝えるため、東京練馬漬物組合員一四九名は、「練馬大根碑」の建立を企画し、町会や有志の賛助を得て、練馬大根の育成者と伝えられる鹿島又六の菩提寺、春日町の愛染院の入口に丈余の石碑を建てた。その台石には組合員各自がもちよった多くの沢庵石があてられた。昭和三六年一二月三日、練馬農協はこの碑の前で、大根の追善供養を盛大に行なっている。その碑文は次の通りである。
<資料文>
蔬菜は人生一日も欠き難き必須の食品たり、特に大根は滋味豊潤にして、営養に秀て、久しきに保ちて替る所なく、煮沸干燥或は生食して、各種の調理に適す、若し夫れ沢庵漬に到りては、通歳尽くるを知らず、効用の甚大なる蔬菜の首位を占む、今や声誉中外に高き我が練馬大根は、由来甚だ久しく、徳川五代将軍綱吉が館林城主右馬頭たりし時、宮重の種子を尾張に取り、上練馬の百姓又六に与へて栽培せしむるに起ると伝ふ、文献散逸して拠るべきもの乏しと雖とも、寛文中、綱吉が再次練馬に来遊せしは史籍に載せられ、当時の御殿阯なるもの今に存するを思へば、伝説に基く所ありて直に斥くべきにあらず、爾来地味に適して栽培に努めしより久しからずして優秀なる品種を作り、練馬大根の称を得て主要物産という、疾く寛政の頃には宮重を凌きて日本一の推賞を蒙るに至れり
抑も練馬の地たる鎌倉時代の末葉に当り、豪族豊嶋景村来住せしより、文明中、太田道灌の攻略に遭て亡ぶるまで、世々其の一族
の守る所として知られしも、其の名は大根に依りて始て広く著はる、而して輓近国運の伸長は歳と共に其の需用を増し、加ふるに沢庵漬として遙かに海外に輸出さるるより、競ふて之が栽培を計り傍近数里殊ニ盛なるものありと雖とも、尚且つ足らさるを感ぜしむ、昭和七年十月東京市に編入の事あり、都市計劃の進程に伴ひて耕耘の地積徐に減退を告げ、其の栽培の中心ハ傍近の地に移るの余儀なきを覚えしむ、現時沢庵漬の年産額八万余樽に達せるは最高潮と称すべきか、茲に光栄輝く皇紀二千六百年に当り奉賛の赤誠を捧げて、崇高なる感激に浸ると共に、東京練馬漬物組合員一同相胥り、地を相して、各自圧石を供出して基壇に充て、其の旨を石に刻して後昆に遺さんと欲す、偶々其の記を予に嘱せらるるも不文敢て当らず、予や尾張の出にして居を此地に営み大根の由来を稍々相似たるものあるは多少の縁因なきにあらず奇と云ふべきか、辞するに由なきより乃ち筆を呵して其梗概を記す昭和十五年十一月
柴 田 常 恵 撰
練 月 山 亮 通 書
資料文> 本文> 項> <項>昭和二四年の主要作物の生産は『区政要覧』二六年版によれば
肥料も二五年八月までは統制下にあり、自由な購入もできなかったから、堆肥、厩肥、鶏糞、糠、灰を使い、下肥を東京都から買ったり、こやし汲みに行って、野菜でお礼をしたり、その近くで野菜売りをする農家もあった。運搬は主に大リヤカー(
下肥の汲取制度は昭和二四年五月一日より公営となり、たばこ屋等で一樽一〇円の汲取券を買い、それと交換に都清掃局員に汲取ってもらう方法に改められている。農家はその下肥を買うようになった。
また適地適作というか、同じ品種でもよくとれる種子をえらび、自家とりの種子も多く、この土地にあう品種の摘出にも骨を折った。
昭和二六年二月一一日、練馬農協では青年農業振興会をつくり、青年の、農業後継者の農業に対する心構えと、技術研修に力を入れている。三三年その会員によって作られた「練馬の農業」には先祖より伝わる練馬の農業技術を伝え、新しい技術を広げようとの意図がうかがわれるが、その中で振興会長は次のように述べている(
社会環境のはげしい変化の中では、新しい経営と、新しい技術を考えねばならない。古来農民はエゴイズムで、隣の農作物の不作を喜ぶ風があり、篤農と呼ばれ精農とよばれる実態は非公開であり、先駆けであった。それでなければ競争に勝てないと思いこんでいた。
欲農から篤農へ、技術の公開、相互の研さんこそこれからの農業の行き方である。そこに多収穫、多収益の願いが達せられる。農業協同主義の精神はそこにある。
とその目標とする所が明示されている。働いている農民が自分の作った野菜を目の前にして書いた栽培技術の本であると言える。しかし、その時載せられた大根、人蔘、牛蒡、胡瓜、
昭和三八年になると、作付けも大分変って来たが多い順からいえば、甘らん、麦類、米、じゃがいも、人蔘、大根、ごぼう、さつまいも、小松菜、きゅうり、里芋、白菜等で、甘らんが一位となり順序が変っただけで、大きな変化でもない。
図表を表示四五年頃には(
茶の栽培については区の統計にはないが、昭和二九年の『東京都統計年鑑』に、練馬区として六町四反九畝(
昭和五五年「世界農林業センサス」の統計では、農地の減少は、昭和四〇年の半分以下の五万九二八二aであるが、作付面積では、キャベツ、二万五四六五aと一番多く、次が花木、芝の一万七〇七三a、次に馬鈴薯の二七七二a、大根の二一五七a、人蔘一一三〇a、ほうれん草一二六五a、結球白菜一一〇五a、すでにトマト、胡瓜、茄子の果菜類は地方の良質のものに押され、栽培、収穫、荷づくりに人手がかかり、現在の練馬の農家では採算のとれない作物になっているのである。そうした中で花木、芝、苗木、盆栽、花卉等、温室やビニールハウスを使っての栽培に切り換えをしている農家が多く、統計的には数字に出ないが、専業農家の新しい行き方であろう。
家畜飼育については、農家の副業として、野菜穀物屑を飼料とし、厩肥や鶏糞を目的とする経営が多かったのであるが、本格的な牧場が、大泉や石神井にもあった。牛乳、豚肉、鶏卵、鳥肉等の需要が非常に多い所から、生まれたのであるが、飼育環境の変化は、現在ではその飼育がむずかしくなっている。即ち、区民の居住地と農地と混在している現在では家畜の糞の臭い、鳴声、厩肥や小屋に集る蠅等の問題は付近住民の反対を受け、移動、転業せざるを得なくなったのである。
牛飼育は昭和三五年の頃、養豚養鶏もその頃、あひるや山羊は昭和二〇年代の後半にピークに達し、以後漸減の現象である。昭和五一年の統計でも飼育農家は、牛六、豚九、鶏一〇戸で、練馬農協だけでも酪農部会一一六戸、養豚部会一六戸、養鶏部会六四戸であった最盛時に比べると時代の推移を感ぜざるを得ない。
今後の農家の新しい傾向として盛んになったのは観光農業即ち、いちご、ぶどう、梨、栗等のもぎとり、さつま芋、じゃ
が芋の掘りとりである。土に恵まれない都会人にその場を与え、収穫の喜びを味わわせるものであるが、その延長として一坪農園の貸出、いちごのように長期間収穫のある作物では、なり始めから終りまでの期間の収穫等いろいろな方法が講ぜられている。また住宅の多い地区の農家では、野菜の直売を無人スタンドで行なっている農家もあって、買出しの主婦をよろこばせている。終りに人手不足解消の方法と、農業の機械化を進める近代農業の花形である農機具等の実状を『練馬区史』(
電動機 | 一、二〇九 | 動力製粉機 | 五七 | 動力製繩機 | 二二 | 畜力砕土機 | |
石油発動機 | 一八六 | 動力精米麦機 | 三三〇 | 足踏製繩機 | 一二八 | 耕転機 | 三二 |
動力脱穀機 | 一、二六八 | 動力噴霧機 | 一八 | 畜力カルチベーター | 六 | ||
足踏脱穀機 | 一三九 | 人力噴霧機 | 一、五三五 | 畜力 |
一 | ||
動力籾摺機 | 三六二 | ダスター | 二一 | 動力製筵機 | 一 |
また昭和四三年度の農業施設の状況は次のようである。
動力噴霧機 | 動力散粉機 | 大型耕転機 | 小型耕転機 | 搾乳機 | カッター | チョッパー | 農用自動車 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
練馬区 | 三六五 | 四一 | 六三 | 七九一 | 一四 | 五〇 | 七 | 七六〇 |
板橋区 | 四五 | 一〇 | 三三 | 一五四 | 一一 | 一一 | 七 | 二三一 |
温室 | ガラス室 | ビニール舎 | 堆肥舎 (20㎡以上) | 畜舎 (33㎡以上) |
鶏舎 (33㎡以上) | サイロ | ||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
ハウス型 | トンネル型 | |||||||
練馬区 | 五、六三一㎡ (一九戸) |
七七三㎡ (九戸) |
一、四一四㎡ (一六戸) |
二五〇㎡ (二戸) |
一、四九七㎡ (五〇戸) |
五、三一八㎡ (三五戸) |
一五、四五六㎡ (二八戸) |
一一㎡ (四戸) |
板橋区 | 七四二㎡ (六戸) |
一三二㎡ (二戸) |
五八三㎡ (九戸) |
― | 六三㎡ (二戸) |
四、〇八一㎡ (一九戸) |
一五九㎡ (二戸) |
一五㎡ (八戸) |
農協および農業者個人の農業振興への努力は、つづけられているが、人口の増加は農地の間に分譲住宅、建売住宅の建設をもたらし、交通の便もよくなり、農地は縮小せざるを得なくなっている。しかも昭和四四年の都市計画の施行、宅地並課税の実施、相続税の問題、さらに農家の人手不足等から農業維持は困難な状態になりつつある。区においても、練馬の緑の保存、防災対策等の立場から、練馬・石神井・大泉三農協と力を併せて、生活緑地保全育成事業や野菜供給確保対策を推進している。
農家に対する施策としては、
また練馬区は地元農協と共に次のような事業を行ない農業生産品の向上、生産意欲、技術の向上等に尽力している。
練馬農協史によれば昭和二六年七月一四日より、農協会議室で開かれている。これを第一回として農協では毎年開くようになって来たが、出品数は麦類、各種そ菜、加工品および鶏卵等三二五点であった。区の主催は昭和二三年を第一回として毎年一一月に行なわれている。また花卉展示即売会も一〇月頃行ない、区民に緑化の普及をしている。
農業技術改善講習会、農事研究集団幹部育成研修会(
また農業共済組合への助成(
都市の急激な膨張による影響をうけ、大きな変動を招き、農業を混乱におとし入れたが、近年安定化の方向に進み、再び
そ菜等の農園芸の進展を見るに至った。市街化の中にあって都民に生鮮食料品を提供し、かつ緑と憩いの場を与えている。練馬区農業の存在意義はまことに大きい。そして、そ菜、花卉、畜産、農地の減少、労力の減少、農業志向と兼業志向、営農環境等よりその問題点と、解決策をあげ、最後に現在練馬区の環境から来る問題点を次のように分析している。
利点
不利な点
こうした農業継続困難な状況の中に、維持するためには、練馬農業株式会社を設立して、経営の合理化と、労働者の確保をはからねばならない時でもある。
本文> 項> 節> 章> <章>戦後の復興期をのり越えた日本経済は、三〇年代を迎えて高度成長過程に入った。神武景気、岩戸景気に総称される好況によって急成長をとげるが、四〇年代に入ってますます加速された。「いざなぎ景気」とよばれる好況である。それは四一年から四五年にいたる五七か月におよぶ未曾有の長期好況であった。この好況に支えられて、さらに飛躍的な伸びを示している。すなわち四一~四五年度の平均経済成長率は一一・八%、名目では一六・七%と著しい伸びを示して、物とサービスの豊かな経済社会をもたらした。
だが、一方において高度成長のひずみ現象が現われはじめた。消費者物価上昇の高まりや公害をはじめとする生活環境の悪化である。三〇年代以降の量的拡大の交錯する中で、異常インフレ、狂乱物価とよばれる異常な物価高をまねくことになった。また、モータリゼーション、石油化学工業の発達等による排気ガスやプラスチックなど廃棄物の増加、PCB等の有害物質の処理など新しい都市問題を生み出した。
四五年ころは日本経済にとってひとつの時代の節目とみられる時期であった。四六年度版『経済白書』には「工業化促進と輸出立国のための政策は、昭和四〇年代初めの長期好況と国際収支黒字の両立のもとで一応の総仕上げの時期に到達した」と記しており、それは高度成長から次の新しい時代への転換を示唆するものであった。こうした情勢の中で、対外面からドルショック、オイルショックにより長く続いてきた高度成長時代に終りを告げることになった。経済成長率は石油ショ
ックの四八年度には六・四%に低下し、翌四九年度にはついにマイナス〇・二%と、戦後初のマイナス成長を記録した。五〇年度は三・四%、五一年度は前年度の景気回復傾向を受けついで五・八%、五二年度も五・五%と低い成長率ながらプラス成長を示し、減速経済への移行、いわゆる低成長時代の新たな安定成長への道を歩みはじめた。こうした経済情勢下における区民経済の動向についてみることにする。区内の金融機関本支店数をみると、昭和五五年三月末日現在、総数は七五店舗を数える。内訳では都市銀行二一店、地方銀行四店、相互銀行七店、信用金庫二二店、信用組合八店、農業協同組合一三店となっている。それを高度成長がはじまる三〇年の本支店数をみると、総数一三店、内訳では都市銀行一店、地方銀行三店、信用金庫三店、農業協同組合六店と非常に少ない。この二五年間における急増振りが知れよう。
戦後の急速な都市化にともない、とくに三〇年代以降の高度成長により産業と人口の集中をもたらした。区内における事業所数の増加と人口増につれ、金融機関の設置は飛躍的な伸びを示している(
本区内の事業所数は「事業所統計調査」(
こうした中小企業における経営上の最大の関心事は金融問題である。資金調達の条件が大企業にくらべてきびしいことである。拘束性預金が条件づけられたり、金利負担が高く、しかも償還期限が短かかったり、また物的担保や保証人など金融機関からの借入条件がネックとなって中小企業の資金調達が困難になっている。中小企業向け金融機関として設置された相互銀行、信用金庫、信用組合も区内において順調な業績を示すが、制度的には中小企業の専門金融機関でありながら都市銀
行と同様にはげしい競争下にあって中小企業に対する貸出はきびしい状況にある。中小企業向け資金がこうした民間金融機関だけでは需要が満されないところから、民間の金融機関を補完するものとして政府関係中小企業金融三機関、すなわち中小企業金融公庫、国民金融公庫、商工組合中央金庫が設置され、政府関係機関による中小企業向け資金源を増強する融資対策がとられている。
図<数2>22数2>―1は、区内における「国民金融公庫普通貸付状況」である。高度成長期の四〇年以降の年次的推移であるが、四六年ドルショックにはじまった景気の鎮静化、さらには石油危機、貿易外圧の影響が顕著にあらわれた四九年から年を追って貸付申込金額の伸びが目立っている。輸出の不振と民間設備投資、消費需要の冷え込みを原因として経済は低迷の度合を深め、低成長への転換を余儀なくされた。国民金融公庫をはじめ中小企業専門金融機関の利用度は、低成長期に入って急速にそのウエイトを高めてきている。
〈信用保証協会〉
政府関係中小企業金融三機関とならんで、中小企業者に対する金融の円滑化を図ることを目途に信用保証協会が設置されている。これは中小企業者が銀行その他の金融機関から貸付を受けるのにあたって貸付金の債務を保証することを業務とするもので、戦前に創設されたものであるが装いを新たに昭和二八年信用保証協会法の制定を行ない、その後改正を経て現在にいたっている。
信用保証を受けたい中小企業者は、信用保証協会(
表<数2>22数2>―1は最近一〇年間における信用保証実績を示した「東京信用保証協会事業状況」である。
経済活動はオイルショックに端を発して高度成長から低成長への移行期に入った。保証の利用もこのような経済情勢を反映して、四九年より急速に伸び、保証承諾金額一〇〇億円台、代位弁済金額一億四〇〇万円台を超えている。五〇年代にはいって当初回復のきざしのみられた景気もしだいに不況の度合いを深め長期不況の様相を帯びていった。こうした動きを敏感に反映して、東京信用保証協会の保諾件数は停滞して横ばいとなり、また同金額も低伸張になっている。これに対して代位弁済の件数およびその金額は急速な増加をみせているのが注目されよう。
昭和四〇年代のはじめから、消費者物価と卸売物価は並行して急上昇を続けてきたが、四八年のオイルショックは、これに拍車をかけた。エネルギー危機・異常な物価高騰・モノ不足は深刻の度を増し、区民の日常生活は日々圧迫された。このような情勢の中で、区は、早急に区民の生活を守るため、昭和四八年一二月二六日、「区民生活防衛緊急対策本部」を設置した。
区民生活防衛緊急対策本部は、区長を本部長として助役・収入役・教育長・各部長を構成員としているが、全庁的規模で物価対策などに取組むことを目的としている。考え方の中心となったのは、当面の緊急対策、四九年度以降の今後の対策、および国・都への要請の三つであった。
第一回の本部会は区民生活防衛緊急対策本部設置と同時に開かれ、とりあえず当面の緊急対策についての検討がなされた。
具体的な施策内容は、全般にわたることと個別的なことにわかれている。全般にわたることには、区役所内部における節約運動を実施し、庁有車の使用制限、マイカー通勤の自粛、暖房・燃料・電力の節約を行なうこと、行政サービスの低下を防止し、学校用燃料・給食資材の確保、公共事業の遅延防止を行なうこと、区政モニターや区内在住の区議会議員によって、区民生活の実情を調査すること、区民生活相談所を設け、生活相談や電話による情報の提供を行なうこと、小売業者と消費者との集会など、問題別に対話集会を開くこと、商店連合会・住民団体などと緊密な連絡・積極的な話し合いを行ない、協力を要請することがあげられる。
また、個別的には、生活保護世帯に現物、あるいは引換券を給付すること、重度心身障害者福祉手当を受けている人に臨時に給付金、または現物を支給すること、老人福祉手当を受けている人に同じく給付金または現物を支給すること、学童クラブのオヤツ代補助を増額すること、区立保育園の文具類・給食用雑品費を増額すること、無認可保育園・家庭福祉員に運営費を補助すること、公・私立保育園の乳幼児に対する給食費を増額すること、応急小口資金貸付限度額を引上げるとともに返済期限の延長を行なうこと、公益質屋の貸付限度額を引上げること、食肉の産地直送を行なうこと、中小企業に対し緊急に融資枠を拡げることなどがある。
以上の当面の諸策の外に、経済情勢の推移・区民の要望などによって、長期的な対策を漸次実施することとした。
区民生活防衛緊急対策本部が設置されてから間もない、昭和四九年一月二九日一連の緊急事態に対処すべく、区議会臨時会が開かれた。「区議会議事速記録」によると、区長は臨時会で次の所信表明を行なっている。
<資料文>
区長(田畑健介君)本日ここに昭和四十九年第一回練馬区議会臨時会が開かれるにあたりまして、今日の経済社会の異常な事態に
対処し、区民生活を真剣に防衛する緊急対策につきまして、私の所信の一端を申し述べ、区議会及び区民の皆さまのご理解とご協力をお願いする次第であります。あらためて申し述べるまでもなく、私は昨年の第四回区議会定例会におきまして、政府の高度経済成長政策の失敗に基因するインフレーションの進行が、きわめて危険な段階に達し、また石油問題に端を発しました消費物資不足のパニック的状況により、区民の生活を、まことに深刻な事態におとしいれようとしていることを指摘いたしました。
そして、このインフレーションは、貧しい者から富める者へ、弱い者から強い者へと、所得を逆に再配分するいわゆる社会的不公正を生み出す作用を持つことを、あわせて強調し、その悪影響を最も強く受けやすい生活保護世帯、重度心身障害者、寝たきり老人など、苦悩の最も深い方々に対して、緊急にあたたかい手を差し伸べることをお約束してまいりました。
その後の情勢は、不幸にも私が懸念したとおりの危機が進行し、物価の高騰は、いまや破局的段階に到達しております。
さらに、生活必需品物資と原材料等の不足は、区民の日常生活はもとより、区民生活に必要な公共施設の建設計画にも重大な支障をもたらすとともに、政府の一方的な金融引き締めと相まって、区内企業の大部分を占める中小・零細企業を深刻な経営難に追い込んでおります。また、福祉、教育、あるいは区民サービスなど、区政のあらゆる面にわたり、行政水準の低下が憂慮される事態に立ち至っております。
一方、このような情勢の中で、住民にとって最も身近な地方自治体のあり方が、あらためて問い直されてきているのであります。いうまでもなく、地方自治体は住民の暮らしと安全を守ることが本来的な責務であります。その意味で、たとえ法的権限がなくとも、あるいは財政基盤が脆弱であろうとも、最大限の努力をすることこそ、今日の事態において地方自治体が選択すべき道であると、私は強く確信するものであります。
以上の観点から、現行の権限、制度を乗り越えて、区民生活を危機に追いこんでいる現在の事態に対処するため、昨年十二月二十六日、私は、私を本部長とする練馬区区民生活防衛緊急対策本部を設置いたしました。
もとより私はこの緊急対策本部の設置によってすべての問題が解決するとは毛頭考えておりません。問題の根本的解決のためには、政府が高度経済成長政策の誤りをいまこそ率直に認め、生活第一、福祉優先へと政策転換を行うことこそ必要なのであります。
当区の区民生活防衛緊急対策本部といたしましては、発足と同時に当面の考えられる緊急施策について検討を続けてまいりました。ここに、その具体的内容をご提案、ご報告申し上げる次第であります。
まず初めに、条例の一部改正及び補正予算案の提案でありますが、これは社会的、経済的弱者を守ることを中心とした施策であります。
そのおもな内容は、生活保護世帯、重度心身障害者及び寝たきり老人に対しまして、ささやかながらも、生活に役立つ物資を贈ることにいたしたいと存じます。
なお、保育所の給食水準の維持、応急小口資金貸付制度の拡充、公益質屋事業の充実についても、できる限りの措置を講じてまいりたいと存じます。
これらの内容につきましては、後ほど助役からご説明申し上げますので、私の意のあるところを十分おくみ取りいただきまして、ご審議くださるようお願い申し上げます。
次に、生活防衛緊急対策を推進するにあたりまして、執行機関のなし得る範囲ですでに活動しております幾つかの施策について、ご報告申し上げます。
まず第一に、庁内の対応姿勢として、石油、電気、事務用品等の節約運動を全庁的に展開したことであります。
また、区民サービスの低下防止をはかるため、必要な資材の確保につとめるとともに、公共事業の請負工事における工事の遅延及び質的低下を防止すべく、特別緊急措置の具体的な検討を進めております。
第二に、区民の日常生活に必要なあらゆる情報を収集し、的確な情報を提供するため、いわゆる生活一一〇番として、広聴電話を設置し、区民の消費生活相談の機能を強化することといたしました。
第三に、業者に対する要請活動であります。昨年来、区内の石油業者に対し、児童生徒の給食用燃料の確保について、その協力方の確約を取りつけ、また先日も、洗剤会社に対して、地域社会への放出を求め、量的にはわずかではありますが、善意の提供を受けましたので、これは生活保護世帯及び寝たきり老人に配布することにいたしております。
以上の施策は、まだ実施の途上にありますが、これを機会に、さらに精力的に推進してまいる所存であります。
さらにまた、国及び都に対し、地域の実情に見合った実効性ある対策の実施を強力に要請してまいる所存であります。この点につきましては、議会と十分ご協議の上、消費者団体等区民のご協力をも得て進めてまいりたいと考えております。
以上、当面の緊急対策について申し述べてまいりましたが、今後の対策については、昭和四十九年度予算に向かって、総合的かつ積極的に検討を行ない、五十四万区民のご期待にこたえてまいりたいと存じます。
今回ご提案申し上げた各議案につきまして、何とぞ十分にご審議をいただき、原案どおりご可決賜わりますようお願い申し上げます。
(「区議会議事速記録」四九年一月二九日)
資料文> <コラム page="1258" position="right-bottom">(練馬区)
一九七四年の地方自治体の課題
一九五〇年代後半以降展開した重化学工業を中心としたわが国の経済の高度成長政策は、資本と労働力人口の大都市地域への急激な集中を促進することによって、都市の一層の過密化と、一方で農村の過疎化を進めた。
しかも、もともと社会資本ストックの乏しいわが国で、大気汚染、水質汚濁等の外部不経済の費用を負担する仕組みが市場メカニズムに組み込まれないで工業化が急激に進展したため、生産活動に伴う社会的費用は、環境破壊という形で住民が負担することとなった。
その結果、国民総生産が、自由主義諸国第二位の規模に達し、国民の私的消費生活が豊かになったといった“みせかけの繁栄”の裏で、住宅難、公害などの都市問題が深刻化し、大都市地域のぼう張と比例して住民の生活環境は悪化の一途をたどりつつある。とくに、地価、物価の高騰にみられるようなインフレーションの進行は、アラブ石油削減に端を発した資源問題により極めて深刻な段階に達した。
この「石油問題」は、はからずもわが国の経済構造の問題を露呈させ、また皮肉にも、国民の生活必需品買い占めと業者の便乗値上げは、国民の政府に対する不信感の強さを証明することとなった。まさに、国民の生活環境の犠牲のうえに成り立ったわが国の高度経済成長政策はアラブのひと押しでもろくも破たんしたといえる。
このような情勢のなかで、住民にとってもっとも身近かな地方自治体のあり方が、あらためて問い直されなければならない。
自治体は、一方で国家権力の末端機構としての役割を負わされているが、もう一方では住民の住民による住民のための政治機構でもある。従って、地方自治体は、行政面で国と地方の財政、権限の再配分の問題はあるが、それにとどまらず地域住民の利益のために、住民の力を背景として総力をあげてとり組む決意と体制を確立しなければならない。
国の高度経済成長政策のひずみを、生活環境の破壊という形で一番まともにこうむり、いまだインフレーションの波のなかで日常生活を圧迫された住民の怒りは最高潮に達している。
いまこそ、地方自治体にとっての最重要課題は、国の従来の政策に対して抵抗し、生活優先の福祉政策へ転換させるべく全力投球することであり、さらに、自治体と住民との間で基本的な住民自治確立を指向することである。また、当面の課題として、インフレーションの荒波のなかで、不安な毎日を送っている住民の生活を守るため、その総力をあげて総合的な諸施策を、緊急かつ強力に推進することである。とくに、インフレの影響を強く受け易い社会的、経済的に弱い人々に対しては、暖かい手をさしのべ生活権を守ることは、行政の担うべき基本的責務である。
区民生活防衛緊急対策本部の設置
練馬区は、区民の長い間の自治権拡充運動の過程において、一つの成果として実現した準公選条例に基づき、昨年一〇月一六日、中野、品川に次いで三番目の革新区長が誕生し、一年余の区長不在に終止符が打たれた。新区長の就任と同時に、革新区政を推進するための体制づくりがいち早く行なわれた。
革新区政は、住民参加による住民に開かれた区政を柱として、区民本位の諸施策の具体化を進めているが、昨年一二月二六日「物価の異常な高騰および生活物資の不足が、区民の生活に重大な危機をもたらしている事態に対処し、区民生活を防衛するための緊急対策を講ずるため……」(要綱第一条)いち早く「練馬区区民生活防衛緊急対策本部」を発足させ全庁をあげてその具体的な対策の検討を進め、その実現をはかることとした。二三区中でははじめての試みである。
この緊急対策本部は、次第に速度を加えつつあるいわゆる悪性インフレから区民生活を防衛するためには、従来の縦割り組織では対策を講ずるまでに手間がかかり、情勢の変化に対応できないとの判断に基づき、区長を本部長として助役、収入役、教育長および各部長を本部員にまた幹事として関係課長をあて、全庁的な規模でとり組む横断的な組織として設置された。
そして、本部の運営にあたっては、区として当面緊急に対処すべき対策と、昭和四九年度以降実施すべき対策に分け、具体策を検討することとなった。
緊急対策のあらまし
現在、とりあえず昭和四八年度中に実施すべき当面の緊急対策を実施に移すため、具体策の検討を進めている。
この主な対策は別表のとおりである。
以上の緊急対策を早急に実施するため月末に臨時議会を招集して議会側の協力を求めると同時に、補正予算等の措置を講ずる予定になっている。
緊急対策本部の設置をめぐって
このように、昨年暮区長の指示により年末のあわただしいなかで緊急対策本部が設けられ、全職員の参加を得て当面の緊急対策がほぼまとまり実施に移されようとしている。
これは、区民の革新区政に対する期待に対し、これにこたえるための職員の意欲が、区行政の限られた権限のもとで、区民サイドに立って精力的に進められた結果とみることができよう。
すでに昨年末には、区長が直接区内の燃料業者に会い、区民に対して、また公共施設への燃料の確保について要請を行なった。また燃料業者から五〇%の削減通告を受けた学校給食用プロバンガス問題も、業者の協力が得られ解決をみている。さらに、国、都の対策の立ち遅れによる情報不足のなかで、日々の住民からの相談に対して、職員の自主的な情報収集により解決されたケースもみられる。従来の行政の姿勢が、権限がない、人手がない、金がない、といういわゆるお役所仕事から脱皮して推進されつつある。
革新区政として区民本位の区政の実現のためには、現行の行財政上の制約条件をのり越えて対処しなければ、区民の生活を防衛することはむずかしい。このためには、職員がその点を十分自覚し、障害となっているのはなにか、隘路はどこにあるのかなど現行地方自治制度のメカニズムを区民の前に明らかにし、それを打開していくために区民の支持を背景に対処していかなければならない。
『都政』(練馬区企画部企画課長 塩谷博)
コラム>この臨時会で、区長の提案した各議案は可決され、議会に生活防衛のための特別委員会が設置され、区・区議会は一体となって異常事態に対処することになった。
さらに、翌四九年二月二三日、区及び区議会は、区民とともに生活防衛を考えるため、練馬公民館で「練馬区生活防衛区民集会」を開催した。当日、七〇〇名の区民が参加し、日本消費者連盟の竹内直一氏の講演、問題提議、区民各層八名による意見表明等、オイルショック以後の異常事態に対処するための意
見交換が行なわれた。次いで、区と区民が一体となって、生活防衛に立ちあがるための、五項目の決議文を満場一致で採択した。その決議文の内容は、国会および政府は、つくられた経済危機の真相を明らかにし、すみやかに適切な措置を講ずること、企業の不当値上げと便乗値上げをおさえることなどの五つである。同年三月二六日、決議文は代表によって国会・政府・都・各党本部などに手渡された。昭和四九年七月の「区民意識調査」中間報告によると、区政への要望の第一位は物価対策であった。これは、区民の大部分が、オイルショック以来、狂乱物価・悪性インフレによる影響を受けていることの証左ともいえる。区の施策に対する要望の第一位は、産地直送事業の拡充であり、物価監視員の設置・消費者団体の自主的活動への助成がこれに続く。また、消費者センター建設の要望も高かった。同報告では、物価問題に対する最大の責任は国にあるとしながらも、区民の区政に対する期待の大きさがうかがえる
こうした区民の要望を受けて、四九年八月二三日、区議会議長名で、「物価安定に関する要望書」が内閣総理大臣宛に提出された。要望書の内容は、一連の公共料金の値上げが諸物価の
高騰を惹起することから、政府は今後の公共料金値上げを極力抑え、国民生活安定のための有効適切な物価対策を早々に講ずべきだというものである。その後、五〇年一〇月二一日、区議会議長名で、「都の公共料金値上げに関する意見書」が都知事宛に提出されている。この意見書は、都が都議会に提出した都立高校授業料・分娩料・国民健康保険料などの公共料金引き上げは、都民の生活を守る上で容認できないとするものであった。
オイルショック以来、区・区議会・区民をあげて、区民生活防衛に対処している。
本文> 節> <節>昭和四八年秋の石油危機を契機に、わが国の経済は戦後例をみない程の不況を経験した。その後、五〇年初頭を境に回復過程に入り、いわゆる低成長時代を迎えることになったがこの過程のなかで企業倒産が相つぎ、中小企業は苦境に立たされることになる。
本区内には二万四三九八の事業所があるが、そのうちの約九
割は従業者数一〇人未満のものであり、中小企業とそこで働く勤労者への対策は本区行政の大きな課題となっている。以下、区の微細にわたった対策を記してみる。
本区の中小企業者を対象とする融資制度は昭和二八年一二月八日、「練馬区産業融資資金運営要綱」の制定をみて発足することとなった。その目的は条文によって示すと次のとおりある。
<資料文>第一条 この要綱は、練馬区内の中小企業者(中小企業基本法第二条の規定による)およびこれらの者が組織する団体(以下「団体」という)の事業経営に必要な資金を融資することにより、中小企業者の公正な経済活動を確保し、経営の安定をはかり、もって本区産業の振興発展に寄与することを目的とする。
資料文>本区の制度は二三区中では八番目に誕生しているが企業のほとんどが中小企業であるだけに本区にとってその意味は大きいといえよう。
画像を表示制度の仕組みは毎年度の区予算から一定額を定め、それを区で指定する金融機関に預託し、利用
者に貸し出す。実際の貸し出し総額(
預託額そのものもほぼ毎年度増額され、当初の五〇〇万円が、五三年度では四五〇〇万円に達した。この背景には物価の上昇などの社会的な動向もからんではいるが、それ以上に年々利用者が増加しているという実情に対処するための拡張であった点を見落す訳にはいかない。図<数2>22数2>―2は最近一五年間における貸付数と貸付額の推移であるが、三九年度に比較して、五三年時点ではまさに八倍の利用者を数えていることになる。
貸付の内容も年を追うに従ってより多くの種別が設けられ、限度額も拡張されてきている。以下に各資金別の性格と内容のあらましを記しておくこととする。
区内に主となる事業所を有し、一年以上継続している事業主を対象に行なわれているもので、二八年当初はこれ一本であった。限度額も一率に二〇万円以内とされていたが、三四年以降は貸付内容が運転資金および設備資金の二本立てとなり、それぞれ二〇万円、三〇万円以内とされた。以後年を重ねるとともに適宜限度額の幅が拡張され、五五年度では運転資金が四〇〇万円、設備資金が六〇〇万円となっている。また貸付期間も延長され、当初は六か月であったが、五五年度では運転資金は四二か月(
区内に主たる事業所を持ち、一年以上の継続者であり、かつ従業員数が五人以下の事業主(
区内に団体の事業所を有し、その三分の二の構成員が区内に事務所を持ち、かつ貸付対象業種であることとされ、四五年度以降業務が開始された。当初は一〇〇〇万円が限度であったが、五五年度では法人で二〇〇
〇万円、任意団体で一五〇〇万円となっている。期間は八四か月(従業員であった者が事業を開業しようとする場合の貸付で、区内では同一事業所に五年以上、区外では八年以上勤務し、いずれも区内に事業所を開業しようとする人に対して行なわれる。四五年に「従業員独立開業資金」として開設されたのがはじめである。当初は二〇〇万円以内、期間は六〇か月以内(
区内に一年以上主となる事業所を有し、従業員五人以下の法人あるいは個人(
限度額は五五年現在で六〇〇万円、期間は六〇か月(
具体的な商店街の近代化を進めるため区の指定した商店街に対し、特別貸付け、講座、診断等の助成を行なっている。特別貸付けは五三年度から五五年度にかけての中期計画として行なわれているもので、今後の商店街の方向性を見い出そうとする試みである。内容は二種類あり、モデル商店街環境整備資金貸付け(
東武練馬商店街振興組合(
北一商店街振興組合(
栄町本通り商店街振興組合(
練馬弁天通商店街振興組合(
富士見台本町通商店街(
石神井公園商光会銀座会(
次に、本区の産業融資状況の二八年度からの推移を示し(
近年、全国的規模で大型小売店舗が、その資本力に物をいわせて各地に進出している。大都市のみならず、かなりの遠隔の地でもこうした大型小売店舗を見ることができる。本区における人口増加は、消費購売力を高めるとともに各種中小商業店舗の誕生をも促した。さらに中小の地元商店は、区内各所に多くの商店街を形成してきた。しかし、こうした消費購売力の増強は大型小売店舗進出の背景ともなった。
昭和五四年五月六日現在の区内小売業をみると、従業員規模九人以下の店舗が全体の九〇%以上を占めている。卸売業についても小売業とほぼ同様のことがいえる。つまり区内の商業活動は、多くの経営規模の小さな店舗によって営まれているのである。これらの地元の小型店舗にとって、大型小売店舗の進出は死活問題である。当然のことながら両者の間に紛争が生じることになる。
大型小売店舗の進出に関しては賛否両論あった。一般に賛成者は消費者の立場に、反対者は小型小売店舗の経営者の立場にある。消費者の側に立てば、大型小売店舗は流通過程を短縮した安価な商品、それも一店舗内で多くの種類の商品を供給してくれるからその進出を歓迎する。また、大型小売店舗の進出はその進出地域の発展に貢献するというのも、消費者の賛成理由として多い。昭和四八年のオイルショックによる狂乱物価、モノ不足は現在もその影をのこしており、区民の消費生活を圧迫し続けている。こうした状況下における大型小売店舗の進出は、消費者にとって一層意義深いことといえる。一方、区内の小型小売店側に立てば、大型小売店舗の進出は、小売店の経営者の家族の生活を圧迫するばかりかその存立をも
脅かすことになり、その進出を容認しがたいのが通常である。大型小売店舗の区内進出に関する賛否両論には双方の主張に一理あり、そこに問題解決の難しさがある。これに対して本区では、消費者および中小企業を守る立場から各種の対策を実施してきた。五二年度には区民部経済課に特別商業問題担当主査を設置し、大型小売店舗の区内進出にともなう地元商店との紛争を、当事者の要請により調整を図ってきた。その後、「大規模小売店舗における事業活動に関する法律」が改正され(
また、区議会においても「大規模小売店舗の出店から区内中小零細商店を守るための意見書」を議決(
練馬区内に区外から出店したスーパー大型店は、三四店を数え、練馬区内の零細商業者の営業を圧迫し、その存立と生活をいちじるしく脅かしている。
今後、さらに練馬区に、区外から出店を計画しているスーパー大型店は、二〇数店にのぼるといわれ、練馬区内の中小零細商店、六〇〇〇店、三〇、〇〇〇人にのぼる家族は、きめわて大きな不安を感じているところである。
よって、練馬区議会は、区内の中小零細商店の保護育成のため、スーパー大型店の出店の規制に関し、次の事項を要望するものである。
一、商業活動調整協議会の審議にあたっては、調整四項目に環境問題を加え、十分配慮すること。
一、大規模小売店舗における小売業の事業活動の調整に関する法律第三条の届出の受理にあたっては、地元小売業者が対応策を立てる時間的余裕が得られるよう行政指導をすること。
資料文>なお、区では消費者意識の変化、大型店の出店等により区内商業をとりまく環境は急速な変化をもたらしている。この現状に対処するため、五四年度には商業環境基本調査が実施されている。
本区では区内の中小企業が近年の複雑な社会情勢の変化に対応できるように、商工業講座、先進商店街見学、商店街診断、商工団体補助、経営実地指導、商店コンクール、従業員レクリエーション、商工業従業員表彰等の各種対策を実施している。
商工業講座では、買いよい店、愛される店を実現するため、企業経営者を対象とした指導的講座を開き、近代的な商店経営の育成をはかっている。
先進商店街見学では、都市の開発と並行しながら、商業地域の開発の理解を深めるため、テーマを設定して先進商業開発地と商店街の組織運営等を見学し、積極的な企業経営の向上をはかっている。
商店街診断では、理想的な商店街の在り方を総合的に診断し、新しい時代に対応し得る機能的な街づくりをしていくための助言や指導を行なっている。商店街診断の結果は、商業活動を営む者にとって大きな関心事となっている。なお、年度によっては広域的な地区診断も行なっている。
商工団体補助では、商業団体である商店街連合会、工業団体である産業連合会等各団体の組織運営の強化と、振興組合の設立や充実をはかることを目的に各種の補助金を出している。さらに昭和五二年度からは、新たに「練馬区商店街装飾灯設置補助金交付要綱」が設けられている。
経営実地指導は、専門の中小企業診断士が直接区内の店舗や工場を訪問して行なっている。指導内容は、店舗改装・レイアウト・新規開業・立地条件・転業・業界展望・仕入れ・在庫管理・販売促進・労務管理・経営方針・経営計画等の多岐にわたっている。経営実地指導の申込は、区民部の経済課商工係で受け付け、申込のとき都合のよい日時を指定することになっている。
商店コンクールは、中小企業診断士と消費者代表から成る審査員がコンクール参加商店を巡回審査するものである。審査基準となるのは、経営状況、商店内・外の装飾、商品の品質、サービス等である。商店コンクールの目的は、審査を通して
商店経営者がその経営近代化の意欲を助長することにある。また入賞者には表彰状と楯が贈られ、さらに、上位三位までに入賞した店舗は、東京都のコンクールに出場することになっている。従業員レクリエーションおよび商工業従業員表彰は、いずれも区内商工業従業員の勤労意欲の増進と定着性を高めるために実施されている。
区では中小企業の経営改善のため、相談窓口を設けて相談・指導を行なっている。内容は税務記帳等の税務相談、開業・店舗・経営計画・レイアウト等の経営相談、失業保険・労務災害・給与・就業規則等の労務管理相談など経営に関する一切のものである。
本区では、勤労者の福祉の向上を図るという観点から次の施策を実施している。
<項番>(1)項番>中小企業勤労者生活資金貸付は、勤労者の生活の安定と福祉の増進を図ることをねらいとしたもので、結婚、出産、就学等に要する資金を、一世帯三〇万円を限度に貸付けている。
<項番>(2)項番>労働問題の基礎的な知識を普及するため労使を対象とした労働講座を実施している。講座では、関係資料が作成、配布されている。
<項番>(3)項番>労働問題全般について、毎月一回、労働相談を実施している。
<項番>(4)項番>昭和五四年二月、大企業との労働環境、福利厚生等の格差是正を図るため勤労者福祉共済会が発足した。同会では、区内中小企業に働く人々の福利厚生の充実をはかるため、給付金の支給、豊島園・プロ野球の割引、ボウリング大会、バスハイクなどの事業を実施(
戦後の高度経済成長政策の推進を背景に、生産技術や生産能力が著しく向上したことによって、一般庶民の日常生活は大きく変わり、さまざまな種類の製品やサービスに取巻かれることになった。物質的豊かさは、戦前や戦後の貧しかった時代と比較されることによって、生活水準の向上を強く人々に印象づけることとなった。
しかしながら、氾濫する商品のなかで、庶民すなわち消費者の置かれている立場は、生産者(
本区ではこのような状況に対処するため、事業者が消費者の利益をそこなわないよう指導する一方、消費者の活動に対しても後述のさまざまな援助を行なっている。また、区をこえたレベルの施策を展開する必要があるという観点から、区ではこれまで国、都に対し消費者行政の推進を要請するとともに、他区に先がけていわゆる産地直結や共同仕入による生鮮食料品の提供、日常生活用品交換市、流通機構の実態調査、計量・表示の適正化などを行なっている。なお、昭和五四年には、消費者行政の拠点として、区立消費生活センターも開設されている。
消費者行政の一環として四七年六月から実施されており、地元生産者および区内の小売業者の協力のもとに食料品を一般市価よりも安く消費者の手に渡るよう配慮されたものである。具体的に毎月定期的に一定物品を産地から直接区内の小売店に輸送し、その輸送経費を区で負担するなどの方法がとられ、各小売店では当該物品を廉価販売する。一般流通経路を経ないというだけでも値段は安くなり、品物によってはほとんど卸値と変わらないものもある。
四七年六月一七日、魚商組合の協力のもとに塩鮭を釧路より仕入れ販売したのが最初である。以後毎月第三土曜日に実施される運びとなり、扱う商品もえびやいか、にじます(
四八年のオイル・ショック以降は事業に対する区民の期待も高まり、区では四九年三月に至って小売店の理解のもとに豚肉の値引き販売を実施することとなった。毎月第二土曜日を指定日と定め、以後四九年一〇月にはハム、五〇年には豚肉使用のポーク・ウインナー、五二年一〇月には無添加ウインナー、さらには五四年四月からはベーコンの割引き販売が実施されている。
またこの間、五〇年一二月からは青果物を、五三年九月からは沖縄から和牛肉を直送販売するところとなった。青果は毎月第二土曜日、和牛肉は第二金・土曜日に割引販売が行なわれている。これらの産地直送販売の店頭には黄色地に産直の内容を記したのぼりや横幕が掲げられており、利用者の識別の便に供されている。
こうした事業を積極的に推進させる一方、区では五三年四月以降区内の生鮮食料品を中心に小売価格動向に関する調査を開始した。消費者や商店に必要な情報を提供することにより、消費生活や区の経済行政に役立てることが目的で、調査は毎月一回区で委嘱した五〇名の区民の手で進められ、その結果を翌月の「ねりま区報」紙上で紹介している。調査対象となっているのは区内の専門小売店およびスーパーである。またこうして集められた情報を整理分類して、一年間の動向としてまとめた「練馬区の物価」が毎年発行されることとなった。
昭和四六年一一月一三日から三日間にわたり、石神井庁舎五階展示室において、第一回「消費生活展」が開催された。その目的は、区民が消費生活をより自主的かつ合理的なものとし、商品に関する知識の増大と関心を深めることにおかれており、次のような内容であった。
第一回の内容は、各種コーナーの設置と講演会の実施とにわかれる。各種コーナーとしては、計量器検査コーナー、生活設計コーナー、テストコーナー、くらしと栄養コーナー、電気の知識コーナー、消費者相談コーナーが設置された。
計量器検査コーナーでは家庭用計量器の検査を消費者に呼びかけ、無料検査・修理を行ない、生活設計コーナーでは、コンサルタントが家計簿の記帳法、収入と支出のバランスのとり方を指導し、テストコーナーでは、食品添加物・着色料・螢光剤のテストと実験を実施し、くらしと栄養コーナーでは、栄養士がカロリーの取り方、体力づくりなどを指導し、栄養相談、体力測定も行なった。電気の知識コーナーでは電気の取り扱い方、屋内配線の方法を指導するとともに、東電電化相談員が電気についての相談に応じた。また、消費者相談コーナーでは、商品の品質やサービスに関する消費者の質問に解答した。一方、講演会は専門の講師を呼び二回実施され、第一回目は「経済変動の物価と家計におよぼす影響について」、第二回目は「保健薬を考える」と題して講演を行なった。
第二回消費者生活展は、四七年一一月一一日から三日間にわたり、石神井庁舎五階展示室で実施された。第二回消費者生活展の各種コーナーには、第一回のそれ以外に、新たに電話のコーナー、お米のコーナー、くらしと公害コーナー、保健衛生コーナー、日曜大工コーナー、消費者コーナーが設置された。
電話のコーナーでは、各種電話器を展示するとともに、正しい電話のかけ方を指導した。さらに同コーナーには、友人や故郷に自由に電話できるように「声のたよりコーナー」も設けられた。お米のコーナーでは各種お米の展示を行ない、ふくろの表示の問題が取り上げられ、くらしと公害コーナーでは公害測定器が展示され、実験も実施され、保健衛生コーナーでは、ネズミ・ゴキブリ・ハエ・カなどの駆除方法についての相談に応じ、日曜大工コーナーでは、ふすまのはりかえ方、大工道具の使い方、ペンキの塗り方などの指導がなされた。消費者コーナーは、消費者が直接参加、運営するコーナーで、区内消費者グループの活動状況・調査報告が発表された。また、消費者講座も二回開催されている。
第三回消費者生活展は、四八年一一月一〇日から三日間にわたり石神井庁舎五階展示室で実施され、ここでは、ガスコーナー、クリーニングコーナーが新たに登場した。四八年にはオイル・ショックが起こり、その影響による急激な諸物価の高騰やモノ不足は消費生活展の意義をよりいっそう高めていった。第四回以降の消費生活展では既述の内容をさらに充実させ
るとともに多彩な催し物が行なわれている。消費者の意志反映の場である消費生活展は五三年末までにすでに八回実施されている。これまで、区内で自主的に活動を続けてきた多くの消費者グループは、積極的に消費生活展を利用し、その学習・研究成果を発表している。
四〇年代後半の相次ぐ経済不況は区民の生活に大きな不安を与えてきた。区では四六年七月に経済課の中に消費経済係を設置し、以後生鮮食品産地直売事業などに代表されるさまざまな施策を行なってきた。いわゆる消費者行政の積極的な展開をみるのであるが、五四年八月一日に設置された消費生活センターの誕生は区民生活防衛のための最大の拠点と目され、同時に新しい時代に向けての消費者行政の展開の場として大いに注目されているところである。
その基本的な考え方は消費者の権利確立を目ざそうとするものであり、具体的には「東京都生活物資の危害防止、表示等の事業行為の適正化及び消費者被害救済に関する条例」に示された消費者の権利防衛を眼目としたさまざまな試みを展開してゆくための施設である。
同条例に示された消費者の権利とは次のようなものである。
1 生命および健康を侵されない権利
2 適正な表示を行なわせる権利
3 不当な取引条件を強制されない権利
4 不当に受けた被害から公平かつ速やかに救済される権利
5 情報を速やかに提供される権利
消費者センターの設置への動きは、四九年一一月の区民からの陳情によって開始された。五〇年一月には設置のための準備会が発足したが、その足跡は以下に記すとおりである。
<コラム page="1276" position="right-bottom">
昭和五四年八月一日施行
(目的および設置)
第一条 区内消費者の権利を守り、消費生活に関する知識の習得および自主的活動を促進するため、練馬区立消費生活センター(以下「消費生活センター」という。)を、東京都練馬区貫井一丁目九番一号に設置する。
(運営)
第二条 区長は、消費生活センターの運営にあたっては、消費者の参加を積極的に進め、民主的に行うものとする。
(事業)
第三条 消費生活センターは、第一条の目的を達成するため、消費生活の安定、充実および向上に資する事業を行うものとする。
(施設)
第四条 消費生活センターは、次の各号に掲げる施設を設ける。
(開館時間および休館日)
第五条 開館時間および休館日は、練馬区規則(以下「規則」という。)で定める。
(利用手続等)
第六条 消費生活センターを利用しようとする者は、規則で定めるところにより区長の承認を受けなければならない。
2 つぎの各号の一に該当するときは、区長は、前項の利用を承認しないことができる。
(使用料)
第七条 消費生活センターの使用料は、無料とする。
(利用権の譲渡禁止)
第八条 利用の承認を受けた者(以下「利用者」という。)は利用の権利を譲渡し、または転貸してはならない。
(利用承認の取消し等)
第九条 つぎの各号の一に該当するときは、区長は、利用の承認を取り消し、または利用を停止することができる。
(原状回復の義務)
第十条 利用者は、施設の利用を終了したときは、利用した設備等を原状に回復しなければならない。前条の規定により承認を取り消され、または停止されたときも同様とする。
(損害賠償の義務)
第十一条 利用者は、施設等に損害を生ぜしめた場合は、その損害額を賠償しなければならない。ただし、区長がやむをえない理由があると認めるときは、その額を減額し、または免除することができる。
(委任)
第十二条 この条例の施行について必要な事項は、規則で定める。
コラム> <資料文>練馬区消費者センター設置のための準備会のあゆみ
昭和四九年一一月 「消費者センター設置に関する陳情」を、区内の消費者・婦人団体が提出。建設予定の身障者センターの中へ併設されることに決定。
五〇年 一月 練馬区消費者センター設置のための準備会が発足。区内二九の消費者・婦人団体が参加。
五〇年 二月 準備会、区長との対話集会を開催、「消費者センターへの住民参加、区の消費生活行政のあり方」などを話し合う。以後、準備会と区長との話しあいを円卓会議と称し、定期的に開催することに決定。
五〇年 四月 区議選立候補予定者ヘアンケート調査、消費者センターの設置に議員個人がはたす役割などについて質問。
五〇年 七月 消費生活相談窓口(消費者コーナー)が開設、「センター開設への第一歩、消費者活動のトリデ」獲得を祝し、記念集会を開催。
五〇年 八月 区内のつけもの類中のサッカリン含有量の試買テスト。区内のつけもの三三点中、二
七点からサッカリンを検出、うち七点は、規制値をオーバー。五〇年 九月 「サッカリン追放の意見書」を区へ提出。区は「厚生省に安全が確認されるまでの使用を禁止する措置をとるよう要請する」と回答、区長の「疑わしきは使用せずの立場に立って」が、以後、練馬区の消費生活行政のバックボーンとなる。
五〇年一〇月 「サッカリン使用禁止を求める意見書」を区議会も満場一致で採択。
五〇年一一月 青空市(区主催)へ参加。
五一年 二月 消費生活展へ参加。五二年度より、実行委員会方式に改め消費者主導とした。
五一年 四月 「学校給食のプラスチック(ボリプロピレン)食器を廃止し陶磁器または金属食器にかえる件」についての陳情書を区議会へ提出。
五二年 二月 ポリブロ食器切りかえの陳情、区議会で採択、五三年度よりステンレス食器へ切りかわることとなる。
五二年 五月 天然ガス転換問題について「安全性の確
資料文> <資料文>認、工事予定の公表、公聴会の開催」について、区長へ要望。
五二年 七月 「カビ防止剤OPPに関する意見書」を区長へ提出、「学校給食にOPPかんきつ類を使わない、国にたいしてOPP禁止の意見書を提出」などを要求。
五二年一二月 消費者センターの青写真の説明会。センター内へ、料理室、保育室の設置を要望。
五三年 三月 センターへ、テスト室、グループ連絡室の設置を区長へ要望。
五三年 四月 横浜市と羽村町の消費者センターを見学。
五三年 六月 杉並区消費者センターを見学。
五三年 七月 アメリカ産サクランボの残留農薬(臭化メチル)を試買テスト、国産品からは検出されなかった臭素七ppmを検出。「学校給食に使わない、国や都に残留実態調査の実施と基準の制定を求める意見書の提出」などの要望書を区長へ提出。
五三年一一月 区内の輸入レモンに使われているOPPの残留量のテスト。全品から基準内のOPPを検出。
五三年一二月 区内のたくわんのサッカリン使用量をテスト。基準オーバーのもの一、基準すれすれのものがかなりあった。町田市消費生活センターを見学。
準備会を、練馬区消費生活センター運営準備委員会へと変更。消費生活センターの運営方法、条例、規則、要綱などを検討することとする。
資料文>五四年八月一日、消費生活センターの設置にともない運営連絡会が発足することとなった。その事業内容は次のとおりである。
1消費者に対する啓発活動に関すること 2生活物資の商品テスト、調査研究、その他実習に関すること
3消費生活に関する資料の収集および展示に関すること 4消費生活に関する諸問題の検討、および調整に関すること
5消費者だよりの編集、発行に関すること 6集会室を利用し、事業をおこなうこと
7実習室を利用し、事業をおこなうこと 8テスト室を利用し、事業をおこなうこと
9運営連絡室の利用に関すること <数2>10数2>印刷室の利用に関すること
<数2>11数2>展示コーナーを利用し、事業をおこなうこと <数2>12数2>準備室の利用に関すること
<数2>13数2>その他、目的達成のために必要な事項(
なお、運営連絡会が行なってきた諸行事等は以下に記すとおりである。
<資料文>練馬区消費生活センター運営連絡会活動状況
昭和五四年 七月 一六日 連絡会発足 四七名二二団体が参加 会長に竹内直一氏を選出(七月二七日 豊玉北五―一八 区民相談所内消費者コーナー四年間の任務終え閉鎖)
八月 一日 消費生活センターオープン
各専門部会の活動始まる
広報編集部会 消費者だよりの責任編集
実験テスト部会 テスト実習、課題研究、講習会の計画及び実施
資料展示部会 資料コーナー、展示コーナーの運営、パネル作成
啓発研修部会 教養講座、料理教室の計画及び実施
消費生活問題検討部会 消費者問題の検討
九月 八~九日 センター開設記念の集い
パネルディスカッション 東大教授篠原一、日消連竹内直一、元東大講師高橋晄正、練馬区長田畑健介の各氏講演会 高橋晄正氏 三分間男性クッキング 竹内直一氏 ほか催物
参加者 延二五〇名 主催 運営連絡会
消費者だより一八号発行 ~特集~パネルディスカッションの報告、灯油のはなし、大気汚染ほか
一〇月 一三~一五日 第九回屋内消費生活展開催
実行委員会一五団体により主催 延二〇〇〇名が参観、盛会となる
一五日 滋賀県琵琶湖富栄養化防止条例可決成立について祝電
二〇日 練馬区長に要望書を提出
内容一、消費者だより編集権の連絡会委譲について
二、開所式の際のパネル無断撤去の抗議について
一一月 三日 練馬区民祭に参加
一二月 三日 講座「くらしの中のエネルギー」灯油のはなし 日消連 竹内直一氏 一八名参加
一〇日 料理「手づくりの正月料理」栄養士 国分知子氏 参加三〇名
一九日 区長対話集会
内容一、一〇月要望書についての回答
二、五五年度センター運営経費の要望
二〇日 料理「和風料理のつくり方」料理研究家 久世千代氏 参加三〇名
消費者だより一九号発行 ~特集~「正月料理の点検」、合成洗剤をやめよう、産直のはなしほか
五五年 一月 二九日 テスト講座「合成洗剤と石けんの比較」(メチレンブルー法)参加一五名
石神井保健所 只川京子氏
二月 一日 新春記念講演「八〇年代の消費者運動」野村かつ子氏 会員参加
一二日 テスト講座「洗剤の点検」石神井保健所 只川京子氏
一四日 料理「デコレーション寿司とあえもの」料理研究家 三宅喜久氏 参加三〇名
一八日 講座「食品添加物の問題点」女子栄養大学 細見祐太郎氏 参加二二名
一九日 テスト講座「石けんのつくり方」連絡会 植田美紀子氏 参加一五名
三月 七日 講座「合成洗剤を考える」合成洗剤を考える会 蔵園正枝 参加二〇名
一二日 料理「お茶と手づくりお菓子」紅茶の会 篠原てるい 参加三〇名
一八日 練馬区長あて陳情書を提出
内容一、公共施設から合成洗剤を追放し、石けん使用に切替えて欲しい
二、一般家庭での石けん使用を区報などを通じPRして欲しい
三、スーパー、小売店でも石けんが買えるよう行政指導をして欲しい
一九日 講座「草の根研究室から」体験をとおしての消費者運動レポート
増尾清氏 参加二六名
二二日 消費者五つの権利パネル完成
二三日 第三回屋外消費生活開催(区主催、連絡会協力)
於石神井公園 参観者四五〇〇名
消費者だより二〇号発行 ~特集~「子供のお弁当」、食品添加物のはなし、産直ほか
四月 運営連絡室に電話器架設
二四日 消費者だより特集のため、部員によりバン作り(臭素酸カリの問題)
五月 七日 講座「手づくりミソと減塩梅干のつくり方」増尾清氏 三五名参加
一二日 連絡会全体会議 新年度第一回
事業計画、予算、活動内容、新会員募集ほか
六月 消費者だより二一号発行 ~特集~「手づくりパンてん末記」、無リン洗剤、カップめんの添加物ほか
一一日 講座「子供のおやつと安全性」
一六日 料理「手づくりおやつのつくり方」
資料文>本区では、これまで生鮮食料品産地直送事業や消費生活展のほかに、消費者保護対策として、日常生活用品交換市、消費者講座、消費者教室、消費者見学会、消費生活相談、消費者情報の提供などを実施してきた。また、これら一連の消費者保護の施策・行事と共に消費者の自主性をそこなわない範囲でこれを援助するのみならず、消費者の利益を守るよう区内の事業者を指導している。
日常生活用品交換市では、どこの家庭にでもある使っていない使用可能な物品、あるいは新品のままで死蔵されている品物をお互いに出し合って、必要としている人に譲渡し、消費者がムダな商品を購入しないという合理的な生活観を身につけることをねらいとしている。出品物の受付場所は区民部の経済課消費生活係であり、対象は商行為を業としない一般区民となっており、出品物の範囲は動物・植物・医薬品を除く物品一般である。ただし、持ち運びのできないものと、出品者の希望価格が一万円以上の品物については、目録を作り、別にあっせんしている。出品点数は原則として一人五点以内とし、価格は出品者の希望する価格としているが、できるだけ低価格にするよう望んでいる。
消費者講座では消費生活上の諸問題をテーマとして、専門の講師を招き、正しい知識の体系的学習につとめている。また、消費者教室では、区内で活動する消費者団体(
日常生活の中に入ってくる商品のなかには、欠陥商品、不良商品、危険な製品、有害食品、不当表示など問題のあるものが少なくない。消費生活相談では、専門のコンサルタントを配置し、このような諸問題について消費者の相談に応じ、消費者の立場に立った問題解決につとめている。また、消費者情報の提供としては、「消費者だより」、「くらしの豆知識」などを発行して、消費者間に正確な知識の普及をはかっている。これは、一方的な企業情報に対処するものでもある。
本文> 節> 章> <章>太平洋戦争が終わってから三五年、日本経済は戦後復興から高度成長期を経て減速期に移行し、安定成長をめざす時代に入っている。これにつれて、わが国の労働問題、雇用問題も激しく揺れ動いてきた。とくに昭和五〇年代には企業の減量経営、省エネルギー化の努力なども影響して、労働需給関係が様がわりを見せている。また、女性の進出、高齢化社会への進展といった社会構造の変化にともなう新しい問題――女性、中高年齢層、身障者の雇用など、いわゆる縁辺労働力への対応が大きな課題となっている。
わが国で、民主的な社会に欠くことができない構成要素として労働・雇用問題が取り上げられ、労働組合の存在が法的に十分保障されたのは、戦後になってからであった。昭和二〇年一〇月、GHQが労働運動の自由を認め、労働組合の結成をうながしてから、全国的に労組結成の動きが起こった。昭和二一年から二二年にかけては、いわゆる労働三法――労働組合法、労働基準法、労働関係調整法――が制定され、その後の労働運動のレールがしかれた。
この新しい労働運動は、数多くの混乱と騒ぎを生みながらも、わが国の各企業の労働条件改善、賃金引き上げ、正しい労使関係の確立をうながした。これは、一方で労働者の地位を改善し、他方では労働生産性を高め、企業の活力を強めることによって、戦後の日本経済の復興と繁栄をもたらす大きな原動力となった。
また、戦後は大企業だけでなく中小企業においても、労働条件のいちじるしい改善が行なわれた。さらに、政府だけでなく各地方自治体においても、民主的な労働運動の育成、労使関係の確立、雇用問題の解決、勤労者の福利厚生をめざす各種
の方策がとられたことが、戦後の大きな特徴だった。以下、わが国の経済、労働情勢の動きの中で、東京都および練馬区の労働問題の流れを探ってみる。 本文> <節>「戦後は終わった」という言葉が、人びとの口にのぼり始めたのは昭和二〇年代の末頃からだった。日本経済も、戦後十年の復興期を終えて三〇年代に入ると、高度成長の時代を迎えた。
高度成長の“けん引力”は、重化学工業化と技術革新のための投資だった。この時代、わが国の産業構造は根本的に転換し、まさに高度産業化社会に変貌した。それは都市化の時代と言ってもよく、農村の労働力が都市の巨大な労働力需要に吸収されていった時期でもあった。
三〇年代のわが国の経済成長率は、年平均九・八%を記録した。それは欧米先進国の年率平均四~五%を大きくしのぐものであった。この高度成長は当然、労働市場での労働力不足を招き、とくに新規学卒者や若年労働者の不足が目立った。全国の労働力需給関係は三〇年代には供給過剰の状態が次第に変化して、三八年にはついに逆転し、供給不足となった(
経済成長は四〇年代に入って、さらに加速された。その間、高度成長がもたらすインフレに対応して賃金上昇が続いた。その上昇率は年間一〇%を超えている。
一方、若年労働者の不足に苦しんだ中小企業は大企業に対抗するため、初任給の大幅引き上げを行なった。この中小企業の賃金引き上げは、壮年層にも及んでいる。その結果、企業間の規模の大小による賃金格差が大幅に縮小された。
また、三〇年代から四〇年代にかけて流通、情報、サービス部門などの第三次産業の比重が大きくなってきた。このため
図表を表示 第一次産業から第二次産業への労働力の移動が、さらに第三次産業へと流れていく傾向が強まった。大企業と中小企業の賃金水準の接近、ならびに第三次産業への労働力移動は、四〇年代のわが国の労働情勢の大きな特徴と言ってよい。しかし大企業と中小企業の間では、とくに福利厚生面の施設や制度で中小企業が立ち遅れており、その格差はちぢまっていない。また、社会環境の変化によって労働者の意識と欲求が多様化し、週休二日制の問題、オートメ化への対応など、最近の労働問題がこれまでになく複雑になっていることも見逃せない。
わが国の高度成長は四八年秋の石油危機で大きくつまずいた。三〇年代から驚異的な成長を続けてきた日本経済も、四九年にはついにマイナス成長を記録した。石油製品の値上がりを“起爆剤”とした狂乱インフレ、戦後最大と言われる不況、さらには円高が重なって、五〇年代の日本経済は減速と安定成長への転換を迫られたのである。
この転換は労働情勢にも深刻な影響を与えた。企業は減量経営を強いられて操業の短縮、一時帰休、賃金カット、人員整理、配置転換、希望退職者の募集など、さまざまな雇用調整が試みられた。企業倒産も激増したが、とくに不況は造船、繊維などの産業に大きな打撃を与えた。倒産は中小企業にとどまらず大企業にも及んだ。その結果、労働力需要は二〇年代以来の伸びがとまって、五一年以後は漸減傾向をたどっている(
その後、五三年後半から経済情勢も若干の明るみを戻して雇用者が増え、完全失業者も減少して、五四年の雇用状況は、厳しいながら緩やかに明るさを増した。五四年九月の完全失業者は一〇八万人で、前年同月に比べ一七万人(
賃金の動きを見ると、五三年の全産業労働者の全国平均給与額は二三万五三七八円を示した。これは五二年に比べ七・一
図表を表示 %増であり、この賃金伸び率は四年連続して前年より低くなっている。部門別に見ると、建設業だけが九・一%増で、前年の伸び率を上回った。しかし金融・保険業では七・八%増、不動産業七・七%増、製造業六・九%増、卸・小売業六・七%増など、いずれも前年の伸び率を下回った。企業の規模別に見ると、五〇〇人以上が六・九%増、一〇〇人――四九九人が七・三%増、三〇人――九九人が七・七%増となって、企業規模による賃金格差縮小の傾向はいぜん続いていることを示している。東京都の賃金の動きは表<数2>23数2>―3、4、5のとおりである。労働時間は、五三年の全産業の月間平均が一七五・二時間で、五二年より〇・三時間増だった。
労働災害は、昭和三六年をピークとして減少傾向をたどっていたが、五〇年を境に増加傾向に転じた。五三年の全国の労働災害による死傷者数(
戦後の労働需給を眺めると、昭和二〇年代は労働力過剰と就職難の時期であった。復員軍人や外地からの引揚げ者、軍需産業が放出した失業者たちが街にあふれていた。しかも戦争で破壊された日本経済は、その失業者を吸収する力を持っていなかった。
三〇年代に入ると、復興から成長へと移行するにつれて、後半には労働力過剰の時代から不足の時代に入った。しかし、その過程では、たとえば炭鉱労働者の大量失業問題など産業構造の転換にともなう失業対策、雇用対策に迫られた時期でも
あった。四〇年代も、前半は労働力供給の不足がさらに激しくなった。池袋公共職業安定所の管内(
池袋職安の管内でも、四八年を頂点として新規求人数が四九年には激減し、五〇年には再び求人数が求職者数を下回ることになった。さらに五二年には、求人数が四八年のわずか三九%にまで落ちた。
しかし、五三年には景気の回復にともなって求人数がやや増えて求職者を上回った。この傾向は五四年も続いているが、それでも求人数は四九年の水準にまだ戻っていない。こうした状況から見ても、このあと労働需給関係がさらに好転して四〇年代前半のような労働力不足の状態になることは、もはや期待できない。世界の先進国に、共通の不況と物価上昇とが並存する深刻なスタグフレーション、アメリカならびに欧州共同体(
もうすこし細かく調べてみると、この十数年、東京都ならびに練馬区でも、若年労働者は供給不足であるのに対し、高年齢層は供給過剰になっていることがよくわかる。
東京都の例で見ると、昭和四〇年から五〇年までの一〇年間に、完全失業者が七万八七〇〇人から一四万三六七八人と約一・八倍に増えた。ところが五五歳以上の完全失業者数は、一万〇二〇〇人から二万七九九九人へと、約二・八倍に増えている。とくに六五歳以上では四倍以上に激増している。これにくらべると、一五歳から二四歳の若年層は、二万六二〇〇人から三万三七九八人へと、わずか一・三倍増にとどまっている(
次に、練馬区を管内とする池袋公共職業安定所の域内を見ると、昭和五三年一〇月現在の就職率平均は六・二%だが、一九歳以下の若年層は一二・〇%と、ずばぬけて高くなっている。これに対し、五〇歳以上は三・九%という低さであり、いわば「若高老低」という現象を浮きぼりにしている(
池袋職安管内での中高年齢層の就職状況を経年別に調べてみよう。昭和四〇年代の就職者数は二〇〇〇人から三〇〇〇人のレベルにあり、四六年には三
八八〇人に達している。この時期は就職率も二〇%から二六%前後を記録している。ところが、石油ショックを境に、中高年齢層の就職状況は年毎に悪くなってきた。就職者数は二〇〇〇人を割り、就職率も一〇%台になってしまった。とくに女性の落ち込みが激しく、五〇年代の就職者数は最高を記録した昭和四一年の四分の一程度になっている。石油危機後の不況の影響は中高年齢層の就職を非常に難しくしており、とくに中高年女性に深刻なシワ寄せがきていることがよくわかる(一方、若年層の就職状況は五〇年代に入ってからも、いぜん求人数が求職者を上回っている。これは池袋職安管内の昭和五五年三月卒業者の就職状況(
こうした中・高校卒業生の求人充足率が低いのは、都市化現象やサービス産業の拡大で若年労働者の需要が増えているの
図表を表示 図表を表示 に、中・高校生の大部分が進学の道を選ぶようになったためと思われる。このため、中・高校卒業生は今後もいわゆる“金の卵”であり続けることになろう。このような若年労働者の不足は大学生や高校生のアルバイト、主婦のいわゆるパートタイマーがおぎなっている。なお、池袋職安管内の産業別の求人充足状況は『現勢資料編』二四八ページ第<数2>36数2>表のとおりである。また、昭和五三年八月と五四年八月の職業別職業紹介状況は、表<数2>23数2>―<数2>10数2>に示されている。これを見ると、五四年八月に求人数が求職数を上回ったのは、専門的・技術的職業、販売および類似の職業、技能工・生産工程の職業、運輸通信・公益供給の職業である。つまり、なんらかの専門技術・技能を身につけた人の方が就職しやすい、という実情をよく示すものといえよう。
本文> 節> <節>わが国の失業率は戦後の一時期を別にして、欧米先進国にくらべてはるかに低い水準を記録している(
戦後の雇用安定と失業救済対策の基盤となったのは、昭和二〇年代前半に制定された失業手当法、失業保険法、緊急失業対策法、職業安定法などの諸法だった。また、東京都でも独自の立ち場から簡易職業紹介の業務を開始した。二五年四月には二三区に臨時簡易公共事業部が設置され、区立小・中学校の校庭整備、プール建設のほか、道路の補修、交通安全施設などの土木工事が失業対策事業に組み込まれた。
その後、三二年には知識層の中高年層を対象とした日雇事務補事業の設置、高齢者や婦人失業者のための臨時早朝清掃事業に着手した。続いて三四年には婦人失業者を対象に、公立小学校児童の登下校の交通安全をはかるための指導員制度を創
設した。いわゆる「緑のおばさん」の誕生である。 図表を表示 図表を表示この「緑のおばさん」は、四五歳以下の都内の未亡人、母子世帯主の失業者を対象に一日一六〇〇人の範囲内で実施された。その後、昭和三八年六月からは交通安全指導員を交通擁護員という名称に変え、非常勤職員として採用することになった。所管も都労働局の婦人層救済事業としての「児童擁護事業」から、都立・区立学校のための「教育事業」として、都の教育委員会に移管された。続いて、四〇年四月からは、区部二三区に勤務する交通擁護員に身分を切り替え、各区の職員とすることによって身分の安定がはかられた。昭和五五年九月現在、練馬区には約一三〇人の通称緑のおばさんが活躍している。
昭和三〇年代後半から四〇年代には、若年労働力の不足と、中高年齢層の就職難が、新しい問題となってきた。若年層については、
新規学卒者に対する、いわゆる“青田買い”が問題となった。このため、すべての新規学卒者の求人は公共職業安定所に申込むことにした求人確認制度や、早期選考防止のための統一選考期日を厳守する措置などがとられた。中高年齢層の雇用については昭和四六年の中高年齢者等雇用促進特別措置法などが制定されたが、これらについては節をあらためて説明したい。練馬区の失業対策事業を振り返ってみよう。本区の失対事業種目およびその就労人員の年次的推移は表<数2>23数2>―<数2>12数2>に示すとおりである。また、失業対策事業が組み込まれた練馬区内の区立小・中学校のプール建設事業は、表<数2>23数2>―<数2>13数2>に示すとおりである。昭和四〇年以降のプール建設における失対事業の概要および事業執行状況がしれよう。
図表を表示失対事業の経費は年々上昇しているが、これはインフレにともなう失対事業賃金ならびに期末手当の引き上げが一つの原因となっているが、その推移は『現勢資料編』二五〇~二五一ページ第<数2>38数2>・<数2>39数2>表に示すとおりである。こうした経費の増大は練馬区にとっても大きな財政負担であり、区財政をかなり圧迫する要因であったことは否定できない。このため、練馬区議会は、そうした財政負担の軽減ならびに失対事業の改善と確立を求めて何回となく政府ならびに東
図表を表示 図表を表示 画像を表示 京都への意見書、要望書を提出している。この意見書、要望書は、それぞれ提出された時期の失業対策事業がどのような問題に直面していたかを知るうえで参考になるので、そのいくつかを次に掲載しておく。
提出年月日 昭和三十五年三月十六日
提 出 先 労働大臣、自治庁長官、東京都知事
提 出 者 練馬区議会
東京都の失業対策事業については、その事業の大半を特別区の区長が都知事の委任を受けて執行しておりますが、同事業に使用する労働者に対し従来慣例として夏期及び年末に支給していた給与金の額は累次増加の一途をたどり、最近の実績をみるとき、都により財源の拘束を受けている特別区としては、もはや財政上放置を許さぬ現状であります。
他面これら労働者に支給せられる賃金は、一般労働者に通常支払われる額より低く定むべしとする法律の規定により、例年極めて低額に定められたために、労働者の勤労意慾を阻害しさらには本人の生活向上の精神をも失わせる結果となっていることは想像に難くないところであります。然も近時一部労働者は作業能率も向上し、或は相当高度の技術を要する作業をも消化している現状よりして、ある程度の待遇の改善を考慮すべき時期に至ったものと思考致します。
以上各般の事情を勘案して、政府においては、この際これら労働者の賃金等の給与につき根本的に検討を加え、賃金の増額或は期末手当の法定を図り、もって事業の能率化を期するとともに、事業主体等の関係地方公共団体に法定外の財政負担を及ぼさぬよう所要な措置を講ぜられたい。
右地方自治法第九十九条第二項の規定により意見書を提出いたします。
提出年月日 昭和三十七年十二月二十一日
提 出 先 内閣総理大臣、労働大臣、東京都知事
提 出 者 練馬区議会議長 梅内正雄
失業対策事業は昭和二十四年に緊急失業対策法の制定のもとに実施され現今に至ったものであるが、目的は当初多数失業者の一時的救済のため、提起された臨時措置であった。
その後我が国経済事情の飛躍的発展に伴い、若年層の失対従事労務者の大半は一般産業界に就労し、他はそのまま残存、建設事業等に固定化し年齢層も老化現象を生じたとはいえ、事業の拡大、伸長により労務者数は必ずしも減少せず、そのため地方財政に強い圧迫を加え自治体固有の事業推進に大きな支障を及ぼす結果となっている。
これは我が国社会保障制度の不備と完全雇傭態勢の確立が未だ樹立されておらない結果によるものであり、従って今、政府に於いて企図されておる緊急失業対策法の全面改正によって失対制度を打切ることなく且つ、地方財政上の圧迫排除のための失対労務者賃金については、大巾な改善を加えられるよう強く要望するものである。
右地方自治法第九十九条第二項の規定により意見書を提出する。
提出年月日 昭和四十三年十二月十三日
提 出 先 内閣総理大臣、労働大臣、東京都知事
提 出 者 練馬区議会議長 小柳信子
(
提出年月日 昭和四十六年十月七日(即決)原案可決
提 出 先 労働大臣、東京都知事
提 出 者 練馬区議会議長 塚田洪憲
提出年月日 昭和五十一年四月三日
提 出 先 内閣総理大臣、大蔵大臣、労働大臣、自治大臣
提 出 者 練馬区議会議長 楠直正
深刻な不況を反映し、雇用・失業情勢は悪化しており、総理府統計局が二月二十八日に発表した昭和五十年の労働調査報告では、完全失業率一・九パーセントと昭和三十四年以来の高率となり、状況のきびしさを浮き彫りにしております。
このように、完全失業者が増加する一方、有効求人倍率は極端に落ち込み、このため、失業すると再就職は極めて困難となり、特に中高年齢者の滞留傾向は著しく、これら増加を続ける失業者の生活安定を図ることが緊急かつ重大な課題となっております。
政府におかれては、かかる事情をご賢察のうえ、失業対策制度の再検討にあたっては、左記事項を早急に実現されるよう要望いたします。
記
一、雇用保険失業給付金、職業転換給付金の改善を図るとともに緊急失業対策法の制限条項を撤廃し失業対策事業および公共事業に失業者を吸収できるようにすること。
一、特定地域開発就労事業の制限を緩和すること。
一、地方自治体が実施している就労対策事業に対し、国で財政措置をとること。
一、失業対策諸事業の賃金、労働条件を大幅に改善するとともに、事業種目の選定・運営等について、地方自治体の自主性を尊重し、住民本位に活用されるようにすること。
一、失業対策諸事業の事業費単価を実態にあわせて大幅に引き上げるとともに国庫補助率も引き上げ地方自治体の負担の軽減を図ること。
一、高年齢者に対する社会保障対策(年金等)の抜本的な確立を図るとともに、失業対策事業に就労している高年齢者については、その対策が確立するまで、引き続き就労を保障すること。
(
提出年月日 昭和五十二年三月二十五日
提 出 先 内閣総理大臣、大蔵大臣、
労働大臣
提 出 者 練馬区議会議長 横山繁雄
雇用・失業問題の緊急対策確立を求める要望書
提出年月日 昭和五十三年四月十七日
提 出 先 内閣総理大臣、労働大臣、
東京都知事
提 出 者 練馬区議会議長 内田仙太郎
長期にわたる不況を反映し、連続して高水準を維持している完全失業者の増大は、雇用・失業問題を解決するための抜本的対策の確立が緊急の課題であることを示している。昨今の円高によって、事態はいっそう悪化している。
現行雇用保険の枠内での対策や不況業種といわれる特定業種の対策だけでは、今日の深刻な事態を解決することにはならない。
よって、当面の緊急対策として、下記事項を実現するよう要望する。
記
一、事業転換や雇用調整による解雇を制限し、労働時間の短縮、定年延長等によって、労働者の雇用保障を確立すること。
二、臨時、日雇、パート等不安定就業労働者の差別的雇用を規制し改善するとともに、中高年齢者、障害者、婦人の雇用機会を確保するための措置を強化すること。
三、就職指導手当、訓練手当など職業転換給付金を大幅に引上げること。
四、雇用保険の全面適用をただちに実施するとともに、給付日数を一律一八〇日延長し、給付率八〇パーセントに引上げること。また、季節・出稼ぎ労働者等の給付を九〇日に改善し、日雇給付の受給資格要件を緩和し、五段階に改めること。
五、失業者、職安登録日雇労働者および失対労働者の雇用・就労機会の拡大と対策を強化するため、ただちにつぎの施策を実施すること。
<項番>(一)項番> 「中高年雇用促進特別措置法附則二条」を撤廃し、失業対策諸事業を制度的に再確立して、地域の生活環境整備等住民要求にあわせて実施すること。
<項番>(二)項番> 「中高年雇用促進特別措置法」を改善し、年齢・所得制限の撤廃、求職手帳発給要件の改善、特定地域開発就労事業の単価をひきあげ、枠を拡大し、通年就労を保障し、六十五歳以上の就労者の排除を撤廃して、特定地域での失業対策を強化すること。
<項番>(三)項番> 公共事業に対する優先的就労を保障し、吸収率を義務づけること。
六、高年齢者の雇用対策を抜本的に拡充、改善するとともに、「中高年雇用促進特別措置法」にもとづく措置を強化すること。また、高年齢者の雇用・就労機会を拡大するため、高齢者就労事業をただちに実施し、地方自治体が実施している高齢者就労事業にたいして、国が補助金を出すこと。
資料文> 本文> 節> <節>石油危機を境に、日本経済は安定成長をめざして転換せざるを得なくなった。とりわけ雇用の安定をはかることは、その転換を成功させるのに必要な条件であり総合的で多面的な雇用政策が求められている。
その一つとして昭和五〇年四月には、従来の失業保険法が改められて新しく雇用保険法が制定された。これまでの失業保険制度は、戦後三〇年にわたり失業問題の解決に大きな役割をはたしてきたが、経済情勢と社会構造の変化に対応するため根本的な改正に迫られたのである。
新しい雇用保険法は、たんに失業者の生活の保障をはかる失業者給付だけでなく、総合的な制度を作りあげようとしている。それは景気後退期の失業予防のための雇用調整給付金や高齢者対策のほか、雇用改善、能力開発、雇用福祉といった、いわゆる雇用三事業の実施を打ち出している。全般的な雇用安定だけでなく、失業予防を制度化するとともに来たるべき高齢化社会に備えたものといえる。
また、具体的な実施にあたっては各地の公共職業安定所の意見を吸い上げ、各地の実情と実績を考慮することになっている。さらには心身障害者や中高年齢層など、いわゆる縁辺労働層と就職困難な層への対策、保険事務の簡素化など、きめの細かいシステムをめざしている。そうした点から見てこの雇用保険制度は、新しい雇用・失業対策の中軸として大きな役割をはたしている。
図表を表示昭和五四年三月末には雇用保険法の全面適用により東京都の適用事業所数は一七万六七一三事業所にのぼり、被保険者は四五二万七五一六人に増えた。しかし、零細事業所のなかには未加入の事業所も多く、その加入促進が今後の大きな課題となっている。この雇用保険は、労働保険事務組合制度という制度を新設している。これは保険事務の処理に不慣れな中小事業主にかわり中小企業の事業の協同組合、商工会などの団体が、国の認可を得て、それを処理することを認めたものである。この新しい制度による事務組合数は、昭和五三年末で九三〇組合に達し、これらの組合が五万三〇〇〇事業所の雇用保険事務を代行している。
練馬区でも、失業保険ならびに雇用保険の制度は失業者の救済、雇用の安定、雇用の開発に大きな役割を果たしてきた。練馬区と豊島、板橋区を担当する池袋公共職業安定所の管内での雇用保険適用事業所の数は、昭和五一年三月末に一万一八三三事業所だったが、五四年三月末には一万四一三八、五五年三月末には一万五三〇三に増えている。被保険者数も、五一年の二五万六〇九五人から五四年は二六万八九五八人、五五年二八万三八六四人と順調に増えている。しかし、規模別に加入率を調べると、従業員一〇〇人未満の事業所のうち雇用保険を適用しているのは、五一年が一八%、五四年が二〇%に過ぎない。これに対し従業員一〇〇人以上の事業所では、五一年に六七%、五四年に七七%の事業所が雇用保険適用となっている。これから見ても、零細企業の雇用保険適用はきわめて低い水準であり、その適用促進が今後に残された課題である(
また、失業保険・雇用保険の支給状況は表<数2>23数2>―<数2>15数2>の通りである。受給者人員、保険金給付額とも雇用保険法が制定された昭和五〇年を境にして、飛躍的に増加していることは注目されてよい。
なお、この雇用保険制度の一環として、昭和五二年一〇月一日から雇用安定事業が発足した。これは経済情勢の変化により事業活動の縮小、事業活動の転換などを余儀なくされた場合、失業を防ぎ、雇用の安定をはかるのを目的にしている。その内容は特定不況業種の離職者雇用、事業転換に対する雇用調整、職業訓練などからなっている。
図表を表示そのほか、雇用保険制度とも関連する各種奨励金の種類は次の通りである。
雇用改善事業(
これら奨励金のうち、昭和五二年頃からは高齢者雇用奨励金、継続雇用奨励金、寡婦等雇用奨励金などの給付増加が目立っている。これは五〇年代の雇用状況を反映したものといえよう。
本文> 節> <節>わが国の人口高齢化は急速に進んでいる。昭和五四年には、平均寿命が男子七二・九七歳、女子七八・三三歳に達した。これはスウェーデンと並ぶ数字であり、日本は世界の最長寿国の一つになった。
人口構成を見ると、昭和三〇年には一五歳未満が三分の一を占め、老年人口は五%程度だった。四五年には老年人口が七%を超え、五三年には八・五%に達して、日本も老人国に仲間入りした。この老年人口は昭和六〇年には九・七%、七〇年には一二・七%にのぼるとみられている。
画像を表示これにともなって、当然、労働者の年齢構成も高齢化してきた。労働力人口のうち四五歳以上の人が占める割合は、昭和四五年は全体の三割程度だったが、六〇年には四割以上になると推定されている(
労働力人口が高齢化するにつれて中高年齢勤労者の雇用を確保し、安定させることが労働問題の重要課題となってきた。とくに石油危機以後の経済不況の中で、中高年齢勤労者は苦しい立ち場に追い込まれた。企業の減量や雇用調整にあたって中高年齢勤労者はどうしても不利になり、いったん離職すると再就職は非常に難しいものとなった。
図表を表示中高年齢層の求人、求職状況を調べてみよう。まず、東京都内の公共職業安定所で取り扱った四五歳以上の中高年齢者の求人状況を見ると、昭和五二年一〇月の有効求人数は八九四三人だった。これは前年同月の一六・五%減であり、求職者の増加とあいまって、求人倍率は〇・二四倍から〇・一九倍に落ちた。中高年齢層の求人倍率は昭和四九年以来、はっきりと低落傾向をたどっているのである(
年齢層別に見ると、年齢が高くなるほど求人倍率は低くなっている。定年年齢とされる「五五―五九歳」「六〇―六四歳」の五三年では、それぞれ〇・二九倍、〇・一五倍と前年より多少は求人倍率が好転しているものの低い数値にとどまっている。
一方、求職状況は、四五歳以上の新規求職者数が、昭和五二年には月平均七七八四人で前年比八・六%増となっている。有効求職者(
なお、五三年の求職者総数に占める四五歳以上の中高年齢者の比率を見ると、新規求職者では二五・一%だが、有効求職者では三六・〇%となっている。これは中高年齢者の場合、就職が若年層にくらべてはるかに難しいため、再就職するまでの期間、つまり失業滞留が著しく長いことを物語っている(
次に中高年齢層の就職状況をみると、五二年は月平均一五三八人で前年の一五一六人から横ばいであり、就職率も前年と
同じ三・四%を記録した。石油危機の四八年以後の動きを振り返ると、四八年の就職率は七・九%だったが、五〇年には三・五%へと大きく落ちている。五一年以降は就職者が若干のプラスに転じたが、有効求職者数も増えているため就職率はいぜん低迷を続けている(年齢別の就職率も年齢が高くなるほど低下している。また、女性の就職率は年齢を問わずに男性を下回っており、中高年齢層の女性の就職はきわめて厳しい状況になっている。
中高年齢層の職業別の就職状況はどうなっているのだろうか。昭和五二年八月の状況を見ると、男性では年齢が高くなるほど、販売、技能、生産工程の部門の比率が低下している。これにかわり用務員・雑務・倉庫夫など単純労働の職業、守衛・監視員など保安部門、清掃員などサービス部門の比率が高くなっている。女性は事務的な仕事の比率が下がり、用務員・雑務などの単純労働、清掃員・寮母・賄婦などサービス部門の比率が高くなっている。また、男女を問わず、これら中高年齢層の就職比率が高い職業は、いずれも賃金指数が低いことが大きな特徴となっている(
次に池袋公共職業安定所の管内(
こうした厳しい情勢に対し、政府ならびに各地方自治体は中高年齢層の雇用促進策を積極的に展開した。まず昭和四六年には中高年齢者の雇用促進に関する特別措置法が成立、この問題との本格的な取り組みが始まった。四九年六月には池袋職安を含む都内七つの公共職業安定所に高年齢者相談室が設けられ、さらに四九年から各地に高齢者事業団が創設され、練馬区では五二年七月に設置された。これらの法律や機構による中高年齢層雇用対策には次のような措置や事業が含まれている。
〔中高年齢者雇用開発給付金〕
①公共職業安定所が紹介する中高年齢者(
〔定年延長奨励金〕
画像を表示 画像を表示定年を労働協約または就業規則によって定めており、その定年年齢を五六歳以上に引き上げた事業主への奨励金。定年を延長された労働者(
〔継続雇用奨励金〕
定年年齢を六〇歳以上とした企業で、定年退職者を退職後七日以内に再び常用労働者として採用し、一年以上雇用した場合の奨励金。再雇用労働者(
〔高齢者事業団の事業〕
一般の雇用にはなじまないが、健康で働く意欲のある高齢者を対象に、その希望、能力に見合った仕事を確保し、その活動を通じて生きがいと社会参加を図る団体。地区事業団は区と市単位に六〇歳以上の高齢者が会員となり、都の助成、区市の援助のもとで自主的に運営する。公共団体や民間企業などから高齢者に適した仕事を契約し、会員はその希望にもとづいて仕事に従事している。
練馬区では、昭和五二年七月に創設され、会員数は五五年九月現在で一〇四八人になっている。年間契約の件数と金額は五三年が九三八件―五四五二万円余、五四年が九九二件―七〇〇七万円余と順調に伸びている。
このほか練馬区は、中高年齢者対策の一環として、昭和五三年以来、東京中高年齢労働者職業福祉センターの誘致に努力してきた。その結果、五五年三月から建築工事を開始、五六年四月一日に開館の運びとなった。
このセンターの設置場所は練馬区貫井一丁目三六番一八号で、施設は地上三階、総面積二四六五㎡である。センターの施設内容は別掲の通りで、職業相談や職業講習を行なうほか、健康維持、教養、趣味、娯楽のための便宜を供与する。センターの建設主体は雇用促進事業団であるが、完成後の管理運営は練馬区(
このセンターは、たんに練馬区だけでなく東京都全体の中高年齢層のセンターとして、雇用・福祉の改善、向上に大きな役割をはたすと期待されている。
図表を表示 図表を表示 本文> 節> <節>わが国の労働組合数は、昭和五三年六月末で七万〇八六八組合、組合員数は一二二三万二六一四人となっている。五二年に比べると組合数は〇・三%増えたが、組合員数は〇・五%減である。
組合員数はこれで連続三年減っているが、石油危機後の大企業を中心とした人員削減が大きな原因になっている。
図表を表示また、推定組織率(
東京都を見ると、同じ五三年六月現在で労働組合数が八九三一組合、労働組合員数は一九九万三六八六人だった。前年に比べ、組合数は五六組合(
全国に占める東京都の組合数の比率は一二・六%、組合員数の比率は一六・三%であり、いずれもここ数年同じ傾向で推移している(
さらに、東京都で昭和五二年に発生したストライキなどの労働争議は七五三件だった。これは前年の一〇一八件に比べて二六五件も減っており、三年連続の減少である。これにともない、争議の参加人員も二三万八二〇七人と、前年より一三万九八五五人も減っている。争議発生件数を企業規模別に見ると、五二年は従業員数「一〇〇―二九九人」が一九三件(
東京都の労働経済局は、労使ならびに一般都民のため、賃金、労働時間、労働組合の結成、労働安全衛生などの労働問題についての相談を受けている。昭和五二年度の相談件数は二万〇九一八件で、初めて二万件を突破した。相談項目数は三万
四九五二項目で、これも過去最高の記録である。前年度に比べると、件数は一八〇四件(労働相談を企業規模別に見ると、相談者の八割近くが従業員三〇〇人未満の中小企業の労働者または使用者だった。なかでも三〇人未満の事業所関連の相談が七六九四件で一番多く全体の三六・八%にのぼっている。また、相談の内容別項目数は表<数2>23数2>―<数2>20数2>の通りで、労働条件に関する相談が最も多く、全体の六三・九%に達している。注目されるのは、労働福祉に関する相談が、前年に比べ六〇・九%も増えている。これは保険関係の相談が増えたためである。また、雇用に関する相談も前年に比べて二〇・九%も増えている。
このように、保険や雇用についての相談が急激に増えているのは、不況がもたらした雇用不安の反映と言ってよい。また、中小企業の争議件数や労働相談件数の比率が高まっていることは、中小企業での正しい労使関係の確立や勤労者福祉の向上が、これからの労働問題の重要課題であることを示している。
次に練馬区の状況に目を向けると、昭和五〇年以来、労働組合数は横ばいだったが、五四年にはかなり増加して一二八組合となった。組合員数も、四七年以来、一万八〇〇〇人から一万九〇〇〇人台を上下していたが、五四年には八年ぶりに二万人を上回った(
五五年六月末現在の区内労働組合は次のとおりである。
(組合名) | (所在地) | (電話) | (代表者名) | (組合員数) | (生産品又は事業内容) | (加盟上部団体名) |
---|---|---|---|---|---|---|
西武バス労組 | 豊玉北五-二三-七 | (九九四)八七七一 | 藤井 昭二 | 一、六九八 | 旅客バス | 総評、私鉄総連 |
忠勇労組 | 三原台三-八-二 | (九二二)〇六八六 | 渡辺貞次郎 | 五一 | 漬物、清酒製造販売 | 同盟、全食品同盟 |
日本映画放送産業労組 | 富士見台二-三〇-五 虫プロダクション内 |
(九九〇)四一五三 | 高橋 佑次 | 九七 | 映画テレビ技術者 労務供給 |
映演共闘 |
三笠製薬労組 | 豊玉北二-三 | (九九二)〇一四一 | 後藤 節雄 | 三一五 | 製薬 | |
練馬区労働組合協議会 | 中村北四-ニ-八 | (九二六)九二五一 | 湊山 勉 | 一四、四九六 | 労働団体 | |
練馬地区民主的労働組 合懇話会 |
中村北一-一二 | (九二六)六一一一 | 渡辺貞次郎 | 七八八 | 〃 | |
全金同盟東京地方金属 伊藤製作所支部 |
北町二-三二-三 | (九三四)一一三三 | 上村 辰男 | 三三 | 時計ガラス | 同盟、全金同盟 |
東京都保育所労組エシ ゼル保育園分会 |
田柄二-三七-八 | (九三八)六四〇一 | 鈴木 直江 | 一五 | 保育所 | 練馬区労協 |
東京自動車教習所労組 大泉教習所支部 |
東大泉六-三四-三 | (九二二)二九一七 | 岡崎 徳治 | 三五 | 自動車教習 | 自交総連、練馬区 労協 |
大泉病院労組 | 大泉学園町七四八 | (九二四)二一一一 | 蒲生 弘 | 八二 | 病 院 | 同盟、一般同盟 練馬民労懇 |
オールセーフーユニオ ン第一支部 |
栄町三四 | (九九三)七二四六 | 大阪 忠雄 | 五三 | チェーンストア | 同盟、全セン同盟 |
兼松江商工作機械労組 | 桜台一-一-四 | (九九三)三八一 | 山田 豊 | 一四六 | 機械販売 | 全商社 |
全港湾建設支部川寿分 会 |
豊玉北六-一四 | (九九一)〇七七三 | 岡田 秀夫 | 六 | 測量および土木設計 | 総評、全港湾 |
関東電気保安協会労組 東京北支部 |
上石神井一-四三八 田中ビル |
(九二八)六三一一 | 内田 正巳 | 九三 | 電気保安業務 | 電労協、練馬民労懇 |
関東配管労組豊玉支部 | 豊玉北五-一-七 | (九九二)七一二一 | 塩川 二郎 | 八二 | ガス配管 | 同盟、一般同盟 |
関東バス労組青梅街道 支部 |
関町一-四八 | (九二八)二一二一 | 田中宗太郎 | 一七八 | バス旅客 | 総評、私鉄総連 杉並区労協 |
〃 青梅街道観光支 部 |
〃 | 〃 | 竹内 孝 | 九二 | 〃 | 〃 〃 |
東京自動車教習所労組 北豊島支部 |
春日町四-三七-一〇 | (九九〇)一一七六 | 荒川 敏雄 | 四八 | 自動車教習 | 自交総連、練馬区 労協 |
全商業労組東京支部教 宣文化社分会 |
豊玉北二-二一-一 | (九九四)六一〇三 | 大高 正義 | 四七 | 梱包、発送 | 全商業、練馬区労 協 |
日本社会福祉労組東京 支部錦華学院分会 |
小竹町一-六〇 | (九九四)九七六〇 | 西郷 厚子 | 八 | 社会福祉事業 | 練馬区労協 |
東京私教連幼稚園支部 くるみ幼稚園分会 |
錦二-四-二八 | (九三五)一二五六 | 字野 暁美 | 三 | 幼稚園 | 総評、日教組、練 馬区労協 |
京王自動車労組練馬支 部 |
氷川台三-一一-七 | (九三四)二五七二 | 水津 美文 | 一五五 | タクシー | 総評、全自交、練 馬区労協 |
健康文化会労組練馬第 一診療所支部 |
平和台四-二〇-一六 | (九三三)八九五七 | 三友 賢 | 六 | 診療所 | 総評、日本医労協 練馬区労協 |
〃 練馬第二診療 所支部 |
練馬一-六-一六 | (九九一)四六七〇 | 荒岡 英議 | 五 | 〃 | 〃 〃 |
弘済整備労組西武事業 所分会 |
上石神井一-三六二 上石神井駅検車区内 |
(九二〇)一七〇一 | 金子 千一 | 二九 | 清 掃 | 全掃労 |
全金東京地本工進精工 所支部 |
貫井三-一二-三 | (九九九)一一一一 | 川手 勇 | 七八 | パンタグラフ自動車部 品 |
総評、全国金属 |
国際興業労組練馬支部 | 北町一-一三-二八 | (九三四)一一二三 | 古谷 秀男 | 一六七 | 旅客バス | |
全金東京地本国産螺旋 管支部 |
東大泉二-一-三六 | (九二一)四四一一 | 小林 茂伸 | 六七 | 特殊螺旋管 | 総評、全国金属、 練馬区労協 |
運輸一般東京地本清掃 合同支部三幸運輸分会 |
土支田一-二四-一五 | (九二五)四一七二 | 坂口 浄吾 | 一三 | 清掃運輸 | 〃 運輸一般、 |
東京出版合同労組三友 社分会 |
南田中五-二四-二一 | (九九七)五一三一 | 戸田 明 | 四 | 出 版 | 出版労連、練馬区 労協 |
品川電線㈱労組 | 小竹町一-八 | (九五五)一一七一 | 原 四思治 | 一三一 | 電 線 | |
品川自動車電線㈱労組 | 小竹町一-八 | (九七二)九八五一 | 小林 惟正 | 四〇〇 | 自動車電線加工 | |
商工組合中央金庫職組 事務センター支部 |
豊玉北三-二一 | (九九四)一一一一 | 小林 一夫 | 一九七 | 金 融 | |
自動車労連民間統合労 組東京第一地区昭芝製 作所支部 |
小竹町一-四三 | (九九五)三一七六 | 川島 昌彦 | 九〇 | 自動車エアークリーナ ーオイルクリーナー |
同盟、自動車労連 板橋区労協 |
シルバータクシー労組 | 関町四-六八八 | (九二〇)四一四八 | 渡辺 征之 | 一一四 | タクシー、ハイヤー | 自交総連、練馬区 労協 |
真和タクシー労組 | 氷川台二-七-八 | (九三四)二八〇七 | 須藤 勝 | 一七一 | タクシー | 総評、日本医労協 |
慈雲堂内科病院労組 | 関町四-七二三 | (九二八)六五一一 | 片沢 君子 | 六〇 | 病 院 | 練馬区労協 |
西武鉄道労組西部支部 | 上石神井一-三六二 上石神井駅 |
小林 義久 | 一、五七八 | 旅客運輸 | ||
西武バス労組上石神井 支部 |
上石神井六-一六-一 | (九二二)〇三一五 | 中尾山誠一 | 一九七 | 旅客バス | 総評、私鉄総連 |
〃 練馬支部 | 南田中一-一三-五 | (九九七)七一八五 | 老川 守 | 一八二 | 〃 | 〃 |
セコニック労組 | 大泉学五五八 | (九二一)五四〇〇 | 駒崎 元庸 | 一七三 | 雷気露出計 | 光学労協、練馬区 労協 |
全配管労組池袋支部 | 錦二-一六-七 | 大野 旭 | 四六 | ガス配管工事 | 総評、全国一般 練馬区労協 |
|
〃 四谷支部 | 中村北三-五 | (九七〇)三四六六 | 箕田彦五郎 | 三三 | 〃 | 〃 〃 |
大学生協東京事業連合 労組 |
石神井町四-一-三 | (九〇四)二六一一 | 小林 光雄 | 六〇 | 団体職員事務 | 生協労連、練馬区 労協 |
第一相互銀行従組氷川 台支部 |
氷川台四-五〇-三 | (九三七)〇七一一 | 山崎 功 | 一九 | 金 融 | 相銀全労 |
タケダ理研労組練馬支 部 |
旭町一-三二-一 | (九三〇)四一一一 | 中沢 史郎 | 一五〇 | 電気計測器 | |
全金太陽ステンレスス プリング支部 |
石神井町二-八-六 | (九九六)四一一一 | 林 昌宏 | 六八 | スプリング | 総評、全国金属 練馬区労協 |
運輸一般清掃合同支部 大洋分会 |
大泉町四-五-一七 | (九二五)五一七七 | 上山和之進 | 二四 | 清掃運輸 | 〃 運輸一般 〃 |
運輸労連東京都連東京 合同労組多田自動車運 輸支部 |
氷川台四-三五-一〇 | (九三四)五三三五 | 小瀬川 洪 | 五 | 運送、自動車修理 | 運輸労連、練馬区 労協 |
全たばこ配送労組東京 地本板橋分会 |
中村南二-五 | (九九れ)〇五三〇 | 大久保国彦 | 二九 | たばこ配送 | 〃 |
タムラ製作所労組 | 東大泉一-一九-四三 | (九二五)一一〇七 | 西田 享 | 四八一 | トランス | 同盟、全食品同盟 練馬民労懇 |
忠勇労組東京支部 | 三原台三-八-二 | (九二二)〇六八六 | 渡辺貞次郎 | 一一 | 漬物販売 | 総評、全国一般 練馬区労協 |
全国一般東京地本北部 地域支部東ア分会 |
貫井一-一三-一七 | (九九〇)五八八五 | 高木 貞治 | 一二七 | 写真現像 | |
東映契約者労組 | 東大泉二-三四-五 | 堀 美臣 | 五 | 映画製作 | 中立労連、映演総 連、練馬区労協 |
|
東映東京撮影所契約労 働者組合 |
〃 | (九二五)四一三三 | 森 光正 | 二一 | 劇映画製作 | |
東映東京撮影所労組 | 〃 | (九二二)〇六〇一 | 江川 宗夫 | 一〇六 | 劇映画、テレビ映画製 作 |
東映新労連 |
全東映労連東映労組東 京撮影所支部 |
〃 二-三四-五 | 〃 | 保谷 弘 | 六七 | 劇映画テレビ映画製作 | 中立労連、映演総 連、練馬区労協 |
東映動画労組 | 〃 二-一〇-五 | (九二一)六〇五一 | 葛西 拾 | 一〇九 | アニメーション映画製 作 |
〃 |
東映テレビプロダクシ ョン従組 |
〃 二-三四-五 | (九二一)三二三七 | 清水 文雄 | 一七 | テレビ映画製作 | 〃 |
〃 労組 | 〃 二-三四 | (九二五)七一五七 | 山口 一喜 | 三一 | 〃 | 中立労連、映演総 連、練馬区労協 |
東京ガス労組練馬支部 | 錦二-一八-一五 | (九三四)五一三一 | 伊藤 保 | 三八〇 | ガス供給 | 中立労連、全国ガ ス |
全国一般北部地域支部 東京基準寝具分会 |
貫井三-四一-一 | (九九八)一一八九 | 忠村 文雄 | 一〇〇 | 病院寝具貸出し | 総評、全国一般 練馬区労協 |
東京コカコーラボトリ ング労組練馬支部 |
錦二-二一-一一 | (九三四)一五四一 | 山田 誠治 | 七〇 | 清涼飲料水販売 | |
自交総連東京地連東京 コンドルタクシー分会 |
桜台三-九 | (九九二)〇一九一 | 橋本 寿 | 二 | タクシー | 自交総連 |
東京コンドル労組 | 〃 | 〃 | 祐川 義照 | 一八一 | 〃 | |
東京精機労組 | 貫井二-一一-七 | (九九八)四四二一 | 地徳 三男 | 二二 | 計量器 | |
東京西部建設労組練馬 第一支部 |
下石神井五-一一-三 | (九九六)四九一七 | 桜井松五郎 | 一九三 | 大工、左官、トビ職 | 中立労連、全建総 連 |
〃 練馬第二支部 | 関町三-四三 | (九二〇)三三四九 | 佐藤 仁郎 | 一九一 | 〃 〃 〃 | 〃 |
東京電力常傭職員労組 東京第四支部練馬分会 |
中村北一-一二-七 | (九二六)六一一一 | 猪本 茂 | 六一 | 電力供給 | 同盟、全国電力検 集労連練馬民労懇 |
東京都左官職組合連合 会練馬支部 |
田柄一-三-一四 | (九三八)七八五〇 | 納谷 作市 | 一四〇 | 左官 | 日本左官職組連合 会、全建同 |
東京土建一般労組練馬 支部 |
中村一-三-四 | (九九〇)四三四六 | 常盤 寛治 | 一、六四〇 | 土木建築 | 中立労連、全建総 連、練馬区労協 |
東京菱和自動車労組城 西支部 |
豊玉北二-四 | (九九三)三一三一 | 工藤 和幸 | 三四 | 自動車販売、整備 | 同盟、全国三菱 自動車販売労組連 合会 |
東都自動車労組大泉支 部 |
大泉学園町四六〇 | (九二四)一一五一 | 矢作 孝一 | 一五〇 | タクシー | 自交総連、練馬区 労協 |
〃 練馬支部 | 旭町一-八-一〇 | (九三〇)二九三三 | 菅 光晴 | 一六七 | 〃 | 〃 |
全金東京地本特殊バネ 文部 |
貫井一-二六-一 | (九九九)四五四五 | 田場 正男 | 一八 | バ ネ | 総評、全国金属、 練馬区労協 |
都民生協労組 | 石神井町四-一-三 | (九〇四)一二一一 | 伊藤 博通 | 二四〇 | 生活協同組合 | 生協労連 |
中泉労組東京支部 | 氷川台三-七 | (九三二)五一八一 | 末 裕二 | 四五 | 酒類、食品販売 | |
東京私教連幼稚園支部 中里幼稚園分会 |
大泉町一-一九-六 | (九二二)〇〇九五 | 古賀 早苗 | 五 | 幼稚園 | 総評、日教組、練 馬区労協 |
永岡書店労組 | 豊玉上一-七-一 | (九九二)五一五一 | 本田 保通 | 一五 | 出 版 | 出版労連、練馬区 労協 |
成増興業労組 | 北町七-四-八 | (九三二)八一六一 | 島田 公市 | 二九 | 清掃運輸 | 下請清掃労協 |
日緬労組 | 豊玉北一-二六 | (九九四)八二一一 | 岡本 直人 | 一二 | 繊維製品製造販売委託 加工 |
|
日産生命外務職組練馬 支部 |
石神井町三-一六-一九 石橋ハイム内 |
(九九六)四一七八 | 菊間千枝子 | 二七 | 生命保険 | 中立労連、商サ事 務労、生保労連 |
全金東京地本日本電業 工作支部 |
旭町二-二-七 | (九三〇)四一七一 | 大西 啓祐 | 七二 | 業務用アンテナ製造工 事 |
総評、全国金属 練馬区労協 |
全国一般東京地本北部 地域支部日本橋文明堂 労組東京支部 |
豊玉北一-一二-三 | (九九四)〇〇〇ニ | 長谷川 清 | 一四 | 製 菓 | 〃 全国一般 |
東京自動車教習所労組 練馬教習所支部 |
豊玉南三-二七 | (九九九)〇二六一 | 吉岡 諒二 | 五二 | 自動車教習 | 自交総連、練馬区 労協 |
練馬自動車教習所労組 | 〃 | 〃 | 沼口 昌夫 | 一六 | 〃 | 総評、全日交 |
練馬交通労組 | 中村南二-二 | (九九〇)八四四一 | 小林 昇 | 七〇 | タクシー | |
練馬生協労組 | 石神井町八-五一-二一 | (九九七)七一七一 | 小林 五郎 | 二一 | 生活協同組合 | 生協労連、練馬区 労協 |
練馬総合病院医師労組 | 旭丘二-四一 | (九九二)一〇〇一 | 向田 甫 | 九 | 病 院 | |
練馬病院職組 | 〃 | 〃 | 野村 忠昭 | 一八六 | 〃 | |
不二音響労組 | 羽沢三-三二 | (九九三)一三九一 | 大橋 真一 | 四二 | 音響機器製造販売 | |
双葉商事労組クラモチ 支部 |
富士見台四-四三-一七 | (九九八)八二八二 | 宇山 豊 | 二三 | 菓子卸売 | |
平和生命外勤従組練馬 支部 |
豊玉北五-一二 | (九二三)六六四六 | 橋本十三江 | 三五 | 生命保険 | 中立労連、商サ事 務労、生保労連 |
〃 内勤従組 〃 | 〃 | (九九一)三八〇八 | 吉田 和子 | 七 | 〃 | 〃 |
マツダ労組 | 豊玉南二-二〇-一 | (九九三)三三〇一 | 飯塚 進 | 四三 | 貴金属回収精錬 | 同盟、一般同盟 |
松田産業労組 | 〃 二-二〇 | (九九三)二二一一 | 田口 秀男 | 六五 | 食品卸売 | 〃 全食品同盟 |
三笠製薬労組東京支部 | 豊玉北二-三 | (九九二)〇一四一 | 肥沼 肇 | 六〇 | 製 薬 | |
武蔵学園教職員組合 | 豊玉上一-二六 | (九九一)一一九一 | 阿部 清 | 一八一 | 教 育 | |
武蔵野音楽学園教職員 組合 |
羽沢一-一三 | (九九二)一一二一 | 上参郷祐康 | 一〇二 | 音楽教育 | 総評、日教組、東 京地区大学教職員 連合 |
映産労虫プロダクショ ン分会 |
富士見台二-三〇-五 | (九九〇)四一五三 | 諌川 弘 | 一五 | アニメーション製作 | 映演共闘、映産労 練馬区労協 |
全矢崎加工労組南関東 支部 |
旭町二-四二-二一 | (九七五)〇一一一 | 西岡 良行 | 三三 | 精密計測器 | |
安田生命月掛労組東京 北支部 |
豊玉北五-二九 | (九九三)一二七一 | 斉藤 裕子 | 二一一 | 生命保険 | 中立労連、商サ事 務労、生保労連 |
〃 東京西支部 | 関町北一-一一八 | (九二〇)八六八六 | 緒方くみえ | 一七〇 | 〃 | 〃 |
八洲輸送労組 | 谷原一-三-八 | (九九七)二一二一 | 日沼喜美夫 | 一四〇 | 貨物運送 | |
山崎学園富士見中学高 等学校教職組 |
中村北四-八 | (九九九)二一三六 | 池亀 貞雄 | 八一 | 教 育 | 総評、日教組、東 京私教連、練馬区 労協 |
全国一般東京地本陽和 病院労組 |
大泉町二-一七-一 | (九二四)六六四六 | 小林 民夫 | 八二 | 病 院 | 総評へ全国一般 |
菱電運輸労組練馬支部 | 土支田一-一五-一四 | (九二四)〇三三〇 | 瀬尾 健 | 一九 | 貨物運送 | 運輸労連 |
和田製本労組 | 北町三-三-一九 | (九三二)七一一五 | 竹村 正 | 一六 | 製 本 | 総評、全印総連、 練馬区労協、板橋 区労連 |
全電通東京豊島支部大 泉電話分会 |
東大泉二-九-四 | (九二五)九〇〇八 | 半間 健三 | 一〇二 | 電信電話 | 総評、電通労連 練馬区労協 |
〃 北町電話分 会 |
北町一-一二-一 | (九三一)九〇九〇 | 秋山 和彦 | 一三二 | 〃 | 〃 |
〃 石神井電報 電話分会 |
石神井町二-一四-一三 | (九九五)九〇一三 | 江口 晃 | 一二〇 | 〃 | 〃 |
〃 関町電話分 会 |
上石神井一-七〇一 | (九二〇)九〇一四 | 高橋 和義 | 七六 | 〃 | 〃 |
〃 西練馬分会 | 貫井一-二五-八 | (九九〇)九〇〇六 | 野沢 峻志 | 九九 | 〃 | 〃 |
〃 練馬電報電 話分会 |
豊玉北三-一八 | (九九四)九〇一二 | 西村 文夫 | 一一二 | 〃 | 〃 |
全逓労組東京地本石神 井支部 |
石神井台三-三-七 | (九九五)六七四六 | 太田 英雄 | 二一七 | 郵 便 | 総評、練馬区労協 |
〃 練馬 支部 |
豊玉北六-四 | (九四八)一六九六 | 石井寿三郎 | 二一二 | 〃 | 〃 |
全郵政石神井郵便局支 部 |
石神井台三-三-七 | (九九五)九七六四 | 波田 進 | 四三 | 〃 | 同盟、全官公、練 馬民労懇 |
〃 東京西北支部 | 下石神井三-七-一 下石神井三丁目郵便局内 |
(九九七)二七〇七 | 穴山喜美男 | 一七〇 | 〃 | 〃 |
〃 練馬郵便局支部 | 豊玉北六-四 | (九九四)〇四二八 | 竹倉 実 | 一〇 | 〃 | 〃 |
東京交通労組自動車部 練馬支部 |
豊玉上二-七 | (九九三)〇四三三 | 原 忠臣 | 一七五 | 旅客運送 | 総評、都市交通 練馬区労協 |
(全)東水労北部第二支 部 |
中村北一-九-四 | (九九九)三一二一 | 藤谷 弘 | 三六〇 | 上水道 | 〃 全水道 |
〃 北二配水支 部 |
〃 | 〃 | 狩野 清貞 | 一五六 | 〃 | 〃 |
〃 第二下水道 建設支部 |
北町三-一〇-一六 | (九九九)五二四一 | 中本 文三 | 二一三 | 下水道建設工事 | 〃 |
東京水道労組北部第二 支部 |
中村北丁一-九-四 | (九九九)三一二一 | 吉田 好明 | 一六 | 上水道 | 練馬区労協 |
〃 高野台支 部 |
高野台五-一-一 | (九九五)五三一一 | 大平大五郎 | 七 | 〃 | 〃 |
全国税労組東京西支部 練馬分会 |
栄町二三 | (九九三)三一一一 | 坂本 良雄 | 一二 | 国税 | 総評、国務労連 練馬区労協 |
国税労組練馬税務署支 部 |
〃 | 〃 | 盛田 昭二 | 一八九 | 国税 | 同盟、全官公 練馬民労懇 |
東京都教職員組合練馬 支部 |
豊玉中四-二 | (九九三)四四六一 | 青井 傑 | 一、八一一 | 教育 | 総評、日教組、練 馬区労協 |
東京都練馬区職員労組 | 豊玉北大六-一二 | (九九三)一一一一 | 遠藤 直栄 | 四、三四〇 | 地方事務 | 〃 自治労 |
そうしたことから練馬区の区民部経済課では、さる昭和四九年一〇月に零細企業の勤労者福祉に関する基礎調査を行ない、その報告書を五〇年三月に発表した。この調査は、区内の従業員「五人―四九人」の事業所五〇〇を抽出して、その事業主と従業員を対象にしたもので、練馬区内の零細企業の実態を明らかにしている。調査結果のいくつかを紹介しよう。
このほか、本区の調査は、区の勤労対策全般について自由意見を集めている。そのなかから主要な意見や要望をひろってみると、次のようなものが出ている。
〔事業主の意見・要望〕
◇製造業関係(
◇卸・小売業(
〔勤労者の意見・要望〕
男子◇二九歳以下(
◇三〇歳代(
◇四〇歳代(
◇五〇歳以上(
女子◇二九歳以下(
◇四〇歳代(
〔労働組合の意見・要望〕(
以上のように、中小企業では事業主も従業員も、従業員住宅の建設、定期的な健康診断、共済制度の確立、レジャー施設の建設と利用など、生活と福祉の向上を強く求めている。これらは、いずれも大企業ではかなり解決されている問題だが、中小企業ではまだまだ遅れたままとなっている。とくに中小企業では法律や制度で決められていても、資金不足や時間的、人的な余裕がない、施設がない、といったことから、なかなか実施に踏み切れない場合が多いだけに、きめ細かな対策が必要であろう。
図表を表示そうした実情から練馬区では、中小企業で働く事業主と勤労者のため、区独自の共済制度をつく
ることになり、昭和五三年四月から具体的な準備に入った。その後、区内の勤労者、事業主、勤労者福祉団体ならびに区職員で構成する「練馬区中小企業勤労者の福祉制度に関する懇談会」が設置され、五回にわたる調査と検討が行なわれた。その結果、五三年一〇月に「練馬区勤労者福祉共済会」を設立することを決め、第一回の発起人会を開いた。さらに五三年一二月には、区議会で共済会への補助金交付が認められ、五四年二月、発足の運びとなった。
この共済会はファミリーパックという愛称で親しまれ、中小企業で働く人びとの福利厚生の向上に大きな役割をはたしている。共済会に加入できるのは①区内の従業員三〇〇人以下の企業で働く従業員と事業主②区内在住で、区外の従業員三〇〇人以下の企業で働く従業員となっている。五四年二月の発足当初、加入会員が一六一社、九四四人だったが、同年一二月には、六九四社、三一三五人に達し、増加計画の目標を突破した(
共済会の会費は、一人について入会金二〇〇円、毎月の会費が四〇〇円となっている。練馬区は共済会の管理運営費などに、五四年度は四八〇万円、五五年度は九八七万八〇〇〇円の補助金を交付している。
共済会の事業としては「小さな力でも、みんなが集まれば大きな助けになる」という合い言葉のもと、大企業なみの福利厚生制度をめざして、つぎのような事業を行なっている。
図表を表示
練馬区の勤労者福祉共済会は、この種の制度としては区部二三区で最初に実施されたものである。その点からも、この共済会は、中小企業で働く人々の福利厚生の向上をはかるうえで、画期的な試みとして各方面から注目されており、事業の拡大と充実が期待されている。
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