第二十四章 土木・公園
第二十五章 建築
第二十六章 道路・河川
本文> <章>昭和二二年八月一日、練馬区は板橋区から独立し、独自の行政を執行することとなったが、土木行政においては同年一〇月二七日午前一〇時より開催された第一回土木委員会から当時の様子をうかがうことができる。
この会合で戦後放置されたままになっている道路および橋梁の問題が取り上げられ、その結果まず実情視察から着手されることとなった。
この視察により、石神井川筋の橋梁は戦時中から資材不足による放置が続き、腐朽が甚だしいこと、千川筋では羽沢橋の落橋をはじめとする交通不能の橋があり、いずれも早急に復旧する必要のあることが確認された(
現在本区の土木費は教育費、民生費および総務費に次いで多額な予算が計上されており、五三年度についてみれば一般会計歳出決算額六六二億四六七四万五四五一円のうち九一億八七四七万二四六一円という数字となり、これは全体の一三・九%にあたる。
このように多額な費用を要し、事業も道路の改修および維持管理、下水道、公園の整備および河川・水路の維持など大が
かりなものとなっているが、土木行政が今日みられるような大事業となったのは昭和三〇年代後半以降のことである。 図表を表示表<数2>24数2>―1は練馬区独立以来今日に至る三〇年間の一般会計決算額および土木費決算額の推移を表わしたものである。この表にみられるように、二三年から二五年にいたる土木費の急激な伸びは別にして、その後の動きに注目するならば、二五年から三五年に至る一〇年間で土木費は一二・八倍に伸びているが、次の一〇年間(
本区は戦後急激な人口の集中を見、特に三〇年代の変貌には著しいものがあった。無秩序な宅地化が行なわれ、至るところに、行政の立ち遅れを見出すところとなった。道路行政においても、古くからの狭く曲りくねった「農道」を多く抱え、
早急な改善の目途の立たない間に周囲に家が建った。このため、側溝さえ無い生活道路が一般的であり、雨が降ればたちまちぬかるみとなり、住民からの苦情は日増しに増え、区議会においても「どろんこ道解消」の論議がくり返し行なわれている。こうした状勢下において道路整備問題は最優先されてしかるべき実情にあったと見ることができる。昭和二〇年代後半、特に二五年六月二八日に「首都建設法」の制定を見て以後は地方制度をめぐる論議が活発となり、二七年八月一五日の地方自治法改正の運びとなるが、このとき区で管理すべき道路(
その後三〇年代を通じて本区への人口集中は目をみはるものがあり、財政面においてもようやく明るい見通しが立ち始めた。一般会計予算についてみても三〇年代後半以降の伸びは飛躍的なものがある。合わせて三四年五月には東京でオリンピック大会が開催されることが決定された。
東京都では「首都圏整備法」が成立した三一年四月以降「首都圏整備十か年計画」が策定されるところとなったが、折から東京オリンピック大会開催決定が刺激となり、首都建設事業に本腰を入れることとなった。本区においてもいわゆるオリンピック道路をはじめとする主要都道の建設に拍車がかかるのである。以前より懸案であった放射六号線および七号線もほぼこの時期に完成している。
東京都の道路整備計画は本区の道路行政上にも大きな影響をもたらしたことはいうまでもない。
また、道路事情が日増しに変化してゆくに従い、それまでの都の管理態勢では必ずしも充分な配慮がゆきわたらず日常の住民の生活に対処するためには種々の無理があった。こうした事情を解消する意味から、三六年に大幅な都道の区への移管が行なわれた。三六年度の土木費の急激な伸びはこうした事情による。またその後四〇年にも約八〇<数2>km数2>の都道が区に移管さ
れている。東京オリンピックの年、三九年の七月一一日に改正された地方自治法による事務事業の移管もその後の土木行政にひとつの転機をもたらした。区の組織にはじめて部制が敷かれ「土木部」が誕生することとなったのである。
一方、四〇年代を迎える頃には公害問題をはじめとする環境対策が広く求められる機運が生じ、国、都をあげて環境改善施策が実施される運びとなった。大気汚染対策、水質汚濁対策および緑化推進運動などがその代表的なものである。計画道路の建設反対運動がこの頃からはじまっている。河川公害については下水道の早期実施が最良の方策であるとの見地から、鋭意努力が重ねられ、今日に至っている。また緑化推進事業も今日では欠くことのできない一大事業に進展している。
右のような事業の一端を逐次区で受け持つようになると、土木行政の内容も大幅に拡張され、複雑化するに至った。その様子を図<数2>24数2>―1によって示してみる。図は土木費中に占める主要事業費の変化を一〇年毎にグラフ化したものであり、それぞれの年次における土木行政が果してきた内容をおおよそ読み取ることができる。
画像を表示もっとも各年度における内訳の仕方については二、三注意が必要である。すなわち、二三年度および三三年度に見られ
る街路照明費は今日では道路橋梁費の中に含まれており、同じく三三年度にある掘削道路復旧費もまた道路橋梁費中にくり込まれてくる。従って二三年度では土木費の一〇〇%が道路橋梁費であったと考えてよく、三三年度においても九〇%以上が同費であったことになる。また三三年度の公共溝渠費は今日では河川費の中で扱われている。 画像を表示グラフによって注目すべきことは四三年度に大幅な増加を見ている都市計画費である。これは五三年度における緑化公園費の内容とほぼ一致するもので、すなわち緑化を主体とした環境改善費と考えて差しつかえない。すなわち近年において環境改善問題は公害対策と合わせて大きなウエイトを占めるようになり、土木事業の上にも多大な影響を与えるところとなった。
画像を表示以上見てきたように、土木行政は年とともに広範囲にわたり、また複雑化してきている。ことに四〇年代に入ってからは
その傾向が著しい。その個々の内容については以下に述べる通りであるが、こうした事業の拡張にともなう受け入れ態勢を土木部では次のように進めている。 画像を表示まず四〇年度において、道路パトロール車および小型貨物車を計七台購入。同年度、それまで借地であった材料置場用地を買収。以後土木材料置場の買収は続く(
こうして土木部の受け入れ方は徐々に整い現在に至っている。以下において主に四〇年代以降の事業の概要に触れるつもりであるが、その前に図<数2>24数2>―2によって土木費中に占める主要事業の大略を見ておきたい。
図のように四九年まで上昇の一途を辿ってきた土木費も五〇年で一旦落ち込みを見せて五一、五二年で横ばいとなる。こうした時期においても道路橋梁費は一定の上昇を保っている。また、図中の緑化公園費も目立って増えているが、この経緯については「自然保護」の項で詳細に述べられているのでここでは触れない。
道路の管理・改修・新設およびそれにともなう工事の一切と橋梁の管理・架設に関する事業費の総体をいい、区の土木行政においては常にその中心に位置づけられてきた。三〇年代以前においては土木費の大半を
道路橋梁費で占めていたことは前項で述べた通りである。しかし四〇年以降は図<数2>24数2>―3に見られるような内容の変化が生じてきている。すなわち主業務であった道路の新設改良事業が四〇年代後半からほぼ横這い状態となり、かわって公共下水道事業がはじまり、年々その率を高めていることがわかる。これは二三区中著しい遅れを見ていた練馬区内の下水道工事に練馬区が参画することとなり、都からの受託事業として四七年度から実施する運びとなったことによる。この下水道工事の詳細は「下水道」の項で述べられている。 画像を表示ここで道路新設改良費であるが、図中で明らかなように四六年度までは常に五〇%以上の高率を占め、道路橋梁費中の母体となっていた。この道路新設改良費として支出されている費用の主要な使途は図<数2>24数2>―4に見られる通り、おもに三分野に分けることができる。
画像を表示一には新認定道路の整備および私道整備事業を主体とした改修事業であり、二には舗装
事業である。さらに三として改修道路への側溝敷設事業が含まれている。道路の改修並びに舗装状況については別項「特別区道」を参照されたい。ここでは側溝の敷設状況について少し触れておくこととする。本区は古くから農業地帯として発展してきた地域である。現在の東京都に併合されてからも近年までその形跡は強く残っていた。ことに道路状況面において著しい影響をもたらしていることについては先に触れた通りである。区内の主要道路はいわゆる「農道」と呼ばれ、その両側は田や畑地であり、自然の排水を日常のこととしていた。道路上の排水が問題とされるようになったのは両側に家が建ち並び始めてからである。ことにアスファルトによる舗装道路が普及し始めた三〇年代に至って本格的に取り組まれるところとなった。それまで側溝は主に国道や都道といった主要道路に布設されていた程度で、その他の道路排水は田や畑地を流れていた水路に頼るところが大きかったのである。
側溝が一般的となってからもその形態は素掘りのまま、あるいは木柵、コンクリート板囲いによる開溝(
図<数2>24数2>―5は区内の側溝延長と構造別の状況を示したものである。年とともに開溝が減少し、かわって管渠となってゆく様子がわかる。
ここで再び図<数2>24数2>―3に戻って道路橋梁費の総体を見ると、下水道費、道路新設改良費に次いで道路維持費が目立つが、これは既設の道路の維持・修繕費であり、道路の補修事業および交通安全施設整備事業と考えてよい。
次に街路照明費および橋梁費について触れることとする。
昭和二六年度に刊行された『練馬区政要覧』によれば、昭和二二年時点で区の街路灯数は六五、いずれも一〇〇Wの電灯で、これの照明費として一か月四六八〇円を支払っていたことが記されている。五四年度現在では総数三万六九九五灯を数え、内容も螢光灯がその主体を占め、最近では水銀灯への移行が目立ちつつある。また二三区を比較して見るならば、本区は五三年時点で三万三九五五灯を有し、世田谷区の三万四五一〇灯に次いで第二位の保有数を示している。
これは区道総延長が八〇万七五六五mにおよび二三区中世田谷区の一〇三万八八三二m(
街路灯の設置についてはもともと各町会、自治会が主体となり、区はそれに補助金を提供する程度であったのだが、三四年三月三一日の区議会において街灯を町会・自治会から区に移管し、区で管理すべきだとの意見が一議員から出された。これをきっかけとして翌三五年度より五か年計画で各町会の街路灯を区に移管する運びとなり、三八年度には予定数のすべてを終了した。またこの年、道路五〇mにつき一灯の割合で全区道六一万一九八五mを照らそうという遠大な計画がスタートした。まず六か年で五八二四灯を増設しようとするものであり、三八年度は一二〇〇灯分の予算を計上した。
画像を表示一方、従来は木柱であった街路灯が三八年度においてはじめて螢光灯つき鋼管ポール八〇〇灯の新設を見た。以後今日に至る間に木柱の鋼管化が成されている。
図<数2>24数2>―6は四〇年以降新設あるいは改良された街路灯の灯数とそれに要した経費の推移である。街路灯の新設・改良灯数は年々減少してゆくが、これは完備すべき個所が徐々に少なくなってきていることを示している。ただし螢光灯にかわって水銀灯の増加が注意を引く。
次に橋梁費であるが、道路橋梁費中に占める割合いは図<数2>24数2>―3に見られる通りに全体とすればごくわずかである。区内には大河川が無く、いずれも中小河川でありそれも河口部からは遠く、従って川幅が狭いことが大きく影響している。とはいえ橋は交通上の関所であり、たとえ道路が完備されていたとしても橋が整備されていなくては何ともならない道理である。冒頭で触れたように戦後の土木事業は橋の架けかえから始まったとすらいえる。区では鋭意橋の新設、架けかえに努力を重ねてきた。ことに交通事情の悪化にともない、木橋をコンクリート橋にかえ、また河川の改修による川幅拡張に対応すべく新橋に架けかえるなど、三〇年代から四〇年代にわたる変化は著しいものがあった。この間の事情は別項「河川改修と橋」を参照されたい。
画像を表示ここでは図<数2>24数2>―7によって三〇年代初頭から今日に至るまでの橋の架けかえ、新設数とそれに要した費用を見ておくこととする。
図で見られる通りに架けかえおよび新設された橋の数の上からそのピークと思われる時期が二度あった。三六年から三八年度におよぶ三か年間と四五年から四七年度までの三か年間である。このそれぞれの時期に集中している橋建設事業の背後には次のような事情がある。前者においてはそれまで橋の主流を占めていた木橋が一般的に腐朽の一途を辿っており、悪化する交通事情に対応すべくより強度なコンクリート橋への移行が迫られていたことによる。その直接のきっかけとなったのは三三年の狩野川台風による橋の破壊であった。以後河川対策に関連して橋建設は大きな課題となった。
後者の場合には石神井川、白子川、田柄川の拡幅改修工事にともなう橋の架けかえが主体であった。区内への人口集中とともに風水害による被害が増え、河川改修事業は多年にわたる懸案事項であった。四〇年代に入ってようやく本格的な改修が施される目途が立ち、四〇年代後半に至って次々に進捗を見るところとなった。こうした事業の一環として区では橋の架けかえを行なったのである。
以後今日まで年々橋建設数は減少しているが、これはひとつには木橋のいわゆる永久橋化が一段落を見(
さて、図中における橋梁費であるが、この費用は必ずしも新設および架けかえに限らず一部年度においては維持費も含み、また部分改修費の含まれている年もあるので橋数との関係は一概に直結しないうらみはあるが、一応の目途として掲げた。また近年においては橋の材質も多様となり、その面でも単純に比較することはできない。ただ一橋を建設するための費用は年々上昇の一途を辿っており、その一例を表<数2>24数2>―2によって示しておくこととする。いずれも鉄筋コンクリートおよびそれに類する橋である。ただし五一年度における新設は歩道橋一橋のみなのであえて参考に供した。
図表を表示以上見て来たところが道路橋梁費の概略であるが、なおこの他に近年特に重要な役割を占めつつある交通安全施設費の問題がある。昭和三〇年代以降の交通事情の深刻化は本区においても大きな問題であり、それに比例して交通事故も増大の一途を辿ってきている。こうした状況に対処すべく本区では早くから道路標識を設置するなど対策を講じてきたが、三九年度よりそれまでの二割増を目標として事業を行なうこととなった。事業費も四〇年度において二五六万円であったものが、五三年度では二億一二九七万二八六二円となっている。区における都市計画の中で、今後なお一層充実を計るべき分野である。
最後にその他の道路橋梁費の中で圧倒的な数字を占めているものに「受託事業費」として扱われている掘削道路復旧費がある。これは地中における電気・ガス・上下水道工事にからむ掘削道路復旧作業費で、各企業者からの委託事業として推進されている。
土木費中に占めるその他の主要な事業費として緑化公園費と河川費があることは図<数2>24数2>―3において見た通りである。このうち緑化公園費については「自然保護」の項で触れるが、これは近年における都市環境整備事業の一環として大きくクローズアップされて来た事業分野である。ことに四六年度以降、施設建設計画の中に盛り込まれている公園新設事業等は今日なおその主流を成しており、これからの課題ともなっている。
四〇年代は住環境をめぐって社会が大きく転換しようとしていた時期である。ことに広場とみどりの問題はさし迫った住民要求として逐次取り組まれてきた。四二年度に誕生する民間遊び場はそれまで都有地あるいは区有地のみに頼っていた公園・広場に対して、新たに民間から協力を得て広場を作ってゆこうとするひとつの試みであった。また五〇年一一月一日に開設された清水山憩いの森(
こうして住民と区とが一体となって住環境を改善してゆこうとする動きが顕著に現れてきている。一方制度面においても五二年のいわゆるみどりの条例(
次に河川費であるが、河川に関する主要事業は元来東京都の仕事として理解されてきた。河川は一区のみの問題として片づかない事が多く、ことに近年における水害あるいは河川汚濁を見るに至ってその認識は深まった。
戦前および戦後の一時期においては河川を利用する住民(
こうした機運の中で本区としてもその分担事業を通し積極的な活動を行なっている。区の仕事としては公共溝渠の新設改
良にともなうものが大きく、ことに四〇年代は人口の増加によって宅地化が急速に進み、生活排水などの流水量が増大した。これに加えて集中豪雨による被害が多発し、こうした事態に対処すべく高台あるいは低地対策として排水路の構築および既設水路の拡張を行なっている。また四〇年代後半から五〇年代にかけてはふたかけ工事が進行しており、この間の詳細は「河川改修と橋」の項にゆずる。一方、河川防災対策としても相当な事業費をつぎ込んでおり、この内には特に近年において見られる転落防止柵の構築あるいは分水路の新設などがある。ことに四五年度、四六年度に実施された分水路構築工事は石神井川改修の一環として行なわれたものである。この時(
工事場所 | 東京都練馬区春日町五丁目地先 |
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工事規模 | 施工延長 三五八・○○メ一トル |
函渠工 (<数4>2000数4>㎜×<数4>25000数4>㎜) 三五八・〇〇メートル | |
人孔工 (内径 <数3>900数3>㎜) 七箇所 | |
U型溝布設工 (<数3>180数3>㎜×<数3>180数3>㎜) 六七五・五〇メートル | |
集水桝工(内径<数3>600数3>㎜) 二六箇所 | |
復旧工(クラッシヤーラン厚<数2>50数2>㎜)一一五三・○○メートル | |
なお、このほか五三年度には河川対策費として二一一五万五〇〇〇円が支出されている。これは水位・雨量の情報伝送処理装置を導入したことによる。同装置は都で行なっている水位・雨量等伝送処理システムからの情報受信が可能であり、同時に区独自の水位・雨量の計量もでき、今後の水防態勢に大きな期待が寄せられている。
また河川事業中には河川浚渫(年々堆積する塵芥・汚泥などの一掃を行ない流水の滞流を防ぎ、同時に河川の美観を維持する作業)、河川災害復旧(災害発生時の応急処置)などがある。
以上緑化公園費および河川費について述べたが、土木費中にはこの他にプール建設など失業対策として行なわれた事業も含まれている。ことにプール建設については四四年度の一億三三四九万一二八二円、翌四五年度の一億三九三〇万七一〇〇円がピーク時の数値となっている。プール建設を含む失業対策事業については「労働」の分野で触れるところである。
本文> 節> <節>明治六年一月一五日、太政官は各府県に対し、公園地の選定を命じた。日本における近代的な公園制定の始まりである。
この時、東京府が選定し政府に上申した場所は、浅草寺・寛永寺・増上寺・富岡八幡社・飛鳥山の五か所であった。これらの選定地からもうかがえることであるが、当時の「公園」とは由緒ある景勝地や著名人の旧跡のことで、その呼称も「遊園」が普通であった。
公園が都市生活に不可欠の緑地空間として、あるいは緊急時災害時の避難場所として認識され計画的に制定されるようになったのは、大正一二年九月一日の関東大震火災の被害に遭ってからのことである。九月一日、二日の両日に公園や広場に避難した東京市民は一五七万人に上ると言われており、公園の防災施設としての効能が高く評価されたのも当然であろう。その震災直後始まった帝都復興事業においては、浜町公園・隅田公園・錦糸公園の三大公園をはじめ、五二の小公園(
練馬区域内に公園が開設されたのも昭和一二年以降のことである。戦前戦中に開園もしくは計画された練馬区域内の公園・緑地・風致地区は以下の通りである。
<資料文>中新井公園(<数2>12数2>・4・<数2>29数2>) 武蔵関公園(<数2>13数2>・<数2>10数2>・8) 北新井公園(<数2>15数2>・<数2>12数2>・<数2>23数2>)
徳殿公園(<数2>16数2>・5・<数2>29数2>) 豊玉公園(<数2>18数2>・5・<数2>13数2>) 上板橋緑地(<数2>17数2>・1・<数2>31数2>)
石神井風致地区(5・<数2>10数2>・<数2>27数2>) 善福寺風致地区(5・<数2>10数2>・<数2>27数2>)
(「東京市公園概況」昭和二四年版)
資料文>しかしやがて戦火も激しくなり、昭和一八年に戦時特令が施かれると、これらの都市建設事業は一旦中止せざるを得なくなった。その上既成公園も、あるものは爆撃によって破壊され、あるものは食料増産のための農地に転用されて、多くは公園としての機能を全く停止してしまった。
戦争による荒廃と戦後の混乱は、公園行政を著しく後退させた。昭和一九年末以来の東京大空襲は十数万人の死者を出したが、その犠牲者の屍体は都内三〇か所の公園にも仮埋葬され、終戦後、その改葬が二五年頃まで続いたといわれている(
以上の戦争による直接の被害に加え、二一年には、自作農創設特別措置法(
練馬区においても中村南・辨天の二公園と上板橋緑地が全面解放され、また中村北・富士稲荷・学田・上練馬の各公園と石神井緑地が五年間農地として保留されることになった(
一方、戦災復興計画が推進される過程で、いくつかの大規模な公園緑地計画が机上にのぼっていた。
二〇年一二月には戦災復興計画が閣議決定され、東海道線緑地など三五〇五・
九二<数2>ha数2>にのぼる厖大な公園緑地計画が決定された。二五年三月には、二〇年の計画に再検討が加えられ、公園は一〇五か所約一六六〇<数2>ha数2>に、緑地は一九か所約一二〇<数2>ha数2>にそれぞれ計画が縮少された。二六年には、「首都建設法」(三一年四月には、「首都建設法」に代って「首都圏整備法」が公布され、すでに制定されている緑地地域を含むおよそ一〇㎞幅の緑地帯で市街地を囲繞しようとする計画が提出された。
以上の首都東京の新しい公園緑地計画は、いずれも全面的には執行され得なかったけれども、一方では三一年に「都市公園法」「東京都立公園条例」が、三二年に「自然公園法」、三三年に「東京都立自然公園条例」がそれぞれ制定されるなど、公園の建設・管理・運営に関する基本制度の整備が進んだ。ことに三一年の「都市公園法施行令」においては、住民一人当りの公園地面積を三㎡以上とする具体的な目標が示された。
公園の経営は明治以来市(
戦後においては、二二年に地方自治法が公布され、東京都に特別区制が敷かれると、区部内公園のうち八六か所の公園の管理運営(公園の改造や工作物の設置などには知事の承認が必要)が区長に委託されることになった。
ところが、さらに二四年三月に「都有境内地墓地及び特別区の管理する都有財産その他の処分に関する条例」が施行されると、先に、その管理運営事務が区に委託されていた公園などの財産が無償で区に譲与されることになり、二五年一〇月一日を期して一五五か所の公園が区有財産として登記された。これが区営公園のはじまりである。練馬区では、戦前に開設されていた中新井公園・北新井公園・徳殿公園が二五年に移管されている。
またこれ以後建設される公園については、都予算を区長が執行施行し、その竣工後に区へ移管されるという複雑な手続きを必要としていたが、三九年六月の地方自治法改正によって区長に都市計画事業の執行権が与えられたため、それ以後は区が独自に公園建設を行なうことができるようになった。
練馬区では、移管された公園を管理運営するために、三〇年一月に次のような「東京都練馬区立公園条例」を制定した。
<資料文>東京都練馬区立公園条例
第一章 総則
(目 的)
第一条 この条例は、東京都練馬区立公園(以下「公園」という)の設置及び管理について必要な事項を定めるとともに公園の健全な発達と利用の適正化を図ることを目的とする。
(公園の意義)
第二条 公園とは、区民の健康を維持増進するため、又、特に区民の憩いの場として区が設置した園地をいう。
(公園の設置、廃止又は変更等)
第三条 区長は、公園の設置、廃止及びその区域の変更等のあった場合においては、その名称及び位置その他必要な事項を告示しなければならない。
第二章 公園の管理
(公園内の行為の制限)
第四条 公園内においては、次の行為をしてはならない。
第三章 公園の使用
(使用許可)
第五条 区長は、公園の管理上支障がないと認めた場合に限り、その使用料を徴収して公園の一時使用を許可することができる。
(使用料)
第六条 前条の使用料は一坪一日につき三円とする。但し、区長が特別の事情があると認めた場合においては、これを減免することができる。
(許可申請)
第七条 公園を一時使用しようとする者は、別に定める許可申請書(正副各一通)を区長に提出しなければならない。
第四章 雑則
(退去措置)
第八条 区長は、許可を受けないで第四条第七号、第八号又は第九号の行為をした者に対しては、直ちに公園外に退去させなければならない。
第九条 区長は、第四条第一号の行為をした者又は、許可を受けないで同条第五号の行為をした者に対しては、直ちに施設若しくは土地を原状に回復せしめ又は広告物を撤去させなければならない。
(過 料)
第十条 区長は、第四条第二号、第三号又は第十号の行為をした者に対しては千円以下の過料を科する。
(委 任)
第十一条 この条例の施行について必要な事項は区長が定める。
附 則
なおこの二つの条例は、「都市公園法」(
児童遊園の初見は、大正一一年に開園された浅草区蔵前片町の御蔵前児童遊園で、これは東京市の児童に対する社会事業として設立されたものであると言われている(
練馬区では二七年七月一日に氷川台児童遊園が開園されたのをはじめ、設園数は年々増加しているが、特に四〇年代の建設数の伸びが著しい。これは都市公園の建設が急速に進む宅
図表を表示 図表を表示 地開発に対応しきれないため、小規模の児童遊園で補う必要が生じてきたためである。この他に、練馬区では、民有地を一定期間借用して子どもの遊び場に供する“民間遊び場”が設置されている。土地の提供者が無償開放した場合には、開放期間中に限り、その土地の固定資産税が減免されることになっている。なお、その管理運営に関しては、区の一定の助成のもとに地域の父母、児童・青少年地区委員、町会の方などによって構成される管理委員会が設けられ、健全な運営が図られている。五四年四月現在、区内には九三か所の遊び場が開設されている。また、この遊び場数は二三区中では練馬区が最も多く、特に民間遊び場の多い点に特徴がある(
また区の財政負担をなるべく軽減した方法で民間の樹林地を有効に保護してゆくために、区は五〇年度から“憩いの森”を設置している。これは、区が民間の樹林地を借り上げて施設整備をし、区民に開放するものである。五三年度までは一〇〇〇㎡以上の広さを有する樹林地の保護に努めてきたが、五四年以降はそれ以下の面積であっても保護の対象に加えられることになった。五五年度現在一二か所の憩いの森が設けられている。なかでも、五〇年に第一号として設置された清水山憩いの森は、都内でも珍らしいカタクリの群生地である。現在、地元の有志が中心となって“清水山のカタクリを守る会”を結成し、保護育成に当っている。
画像を表示 <資料文 type="1-73">(名 称) (所 在 地) (面 積) (借用期間)
○清水山憩いの森 北大泉町三五一九外 三、六三一㎡ <数2>50数2>・<数2>11数2>・1~<数2>58数2>・<数2>10数2>・<数2>31数2>
○井頭憩いの森 東大泉町七五外 二、八六八㎡ <数2>51数2>・<数2>11数2>・1~<数2>56数2>・<数2>10数2>・<数2>31数2>
○どんぐり山憩いの森 北町七―一二外 二、五八三㎡ <数2>52数2>・<数2>10数2>・<数2>27数2>~<数2>57数2>・<数2>10数2>・<数2>26数2>
○まつのき憩いの森 商大泉町六六外 二、六六四㎡ <数2>52数2>・<数2>11数2>・<数2>18数2>~<数2>57数2>・<数2>11数2>・<数2>17数2>
〇八の釜憩いの森 東大泉町一〇五五外 二、九三三・四一㎡ <数2>52数2>・<数2>12数2>・<数2>23数2>~<数2>57数2>・<数2>12数2>・<数2>22数2>
○たけの子憩いの森 西大泉町一八〇四の一部外 二、〇九二・六㎡ <数2>53数2>・7・1~<数2>58数2>・6・<数2>30数2>
○小榑憩いの森 大泉学園町二七九三―三外 四、九〇一・七六㎡ <数2>53数2>・7・1~<数2>58数2>・6・<数2>30数2>
○くりの木憩いの森 大泉学園町五三四 九九一・〇㎡ <数2>54数2>・7・1~<数2>59数2>・6・<数2>30数2>
○元絞山憩いの森 南田中五―六七二外 二、二五九㎡ <数2>54数2>・7・1~<数2>59数2>・6・<数2>30数2>
○稲荷山憩いの森 土支田四―八六七―一外(一部都有地) 二二、三三六・四九㎡ <数2>54数2>・<数2>11数2>・1~<数2>59数2>・<数2>10数2>・<数2>31数2>
○竹下憩いの森 関町一―一〇七一二外 一、六八二㎡ <数2>55数2>・8・1~<数2>60数2>・7・<数2>31数2>
○石庭憩いの森 東大泉七―六四三―二一外(一部区有地) 六七六・三三㎡ <数2>55数2>・<数2>11数2>・1~<数2>60数2>・<数2>10数2>・<数2>31数2>
資料文> 本文> 項> <項>二九年以降の本区における都市公園及び児童遊園の開設状況は、図<数2>24数2>―8にみられるように、都市公園数は一一か所から五四か所に増え、面積も四万一〇八二㎡から四五万七五〇三㎡にほぼ一〇倍の伸びをみた。年平均一・七二か所一万六六五六・八㎡ずつ建設されたことになる。ことに行政施設建設五か年計画が始まった四四年以降の伸びは目覚ましく、年平均三・九か所、二万八五八九・五㎡のペースで建設された。
画像を表示また、児童遊園の建設は四〇年頃より急速に伸び
ており、五四年までの一五年間に平均四・九か所ずつ建設されている。児童遊園の規模は概して小さいため(公園の建設状況を他区と比較してみると、表<数2>24数2>―5
のとおりである。四四年を一〇〇とした伸び率の指数をみると都心区に比較して江東・大田・中野・杉並・板橋・練馬・足立・江戸川などの周辺区の伸びが大きい。このことは、近年一〇年間に周辺区部の公園整備が急速に進んだことを示している。 図表を表示児童遊園についても同様の傾向が見られるが、とくに練馬区の伸びの大きいことは注目すべきであろう。園数では江戸川に次いで第二位、面積では第一位の伸びを示している。
また、人口一人当り公園面積の伸び率指数と公園面
図表を表示 積伸び率指数とを比較してみると、千代田区など都心区では一人当り公園面積の伸び率の方が大きいが、練馬などの周辺区では逆に一人当り公園面積の伸び率は公園面積伸び率より小さい。これは、周辺区の人口増加が都心区より激しいことに起因する現象であり、周辺区ではかなり公園建設が進んでいるにもかかわらず、人口増には追いつけない様子が読み取れる。 図表を表示また、予定した公園用地の買収が困難を来していることも一人当り公園面積が伸びなかった原因である。公園新設改良費(
練馬区が板橋区より独立した当時、区内には中新井・北新井・
武蔵関・豊玉・徳殿の五つの公園があった。区独立以前 〔中新井公園〕 昭和一二年四月二九日開園、二五年一〇月一日都より寄付された。面積は三五三三・六一㎡(
〔北新井公園〕 昭和一二年一二月二三日に開園、二五年一〇月一日都より寄付された。面積は三二〇八・七二㎡。桜台駅の南東約七五〇mに位置し、公園内を暗渠化された水路が貫通している。付近は住宅地域である。
〔武蔵関公園〕 この公園は、西武鉄道が沿線開発の目的で、武蔵野台地特有の湧水池富士見池を中心に開設したレクリエーション地である。大正一二年の関東大震災後、公園用地の御下賜や寄付が一時盛んになったことがあるが、武蔵関公園用地もそうした時流の中で西武鉄道と周辺住民から寄付され、昭和一三年一〇月八日、武蔵関公園として開園されたものである。その後昭和五三年四月一七日、東京都より練馬区へ譲渡された。面積四万六四三七㎡、練馬区の区立公園としては最大のものである。ボートと閑静な雑木林で区民に親しまれている。
〔豊玉公園〕 昭和一八年五月一三日開園(
〔徳殿公園〕 昭和一六年五月二九日開園。二五年一〇月一日都より寄付。面積六二六八・七六㎡。桜台駅の南方約一・四㎞に位置し、北側は中新井川(
二五年度 〔豊中公園〕 昭和一八年二月一七日、内務省告示第二八〇号によって東京都市計画中通公園として決定され、二五年四月一日に開園された。二七年四月一日に区に移管されている。練馬駅の南東約六〇〇mにあり、周囲は住宅地である。
画像を表示〔上練馬公園〕 二五年四月一日、都立公園として開園されたが、二七年四月一日区に移管された。東武東上線成増駅から約一㎞南方にあり、旧グラント・ハイツの北側に位置する。付近には旭町小学校・豊渓中学校があり、また北側には妙安寺があって、環境は良好である。
二七年度 〔中村公園〕 二七年四月六日都立公園として開園され、二八年四月一日区に移管された。面積は一六五二・八九㎡(
二八年度 〔富士稲荷公園〕 二八年四月一日開園、同日都より寄付。面積六一一・五七㎡。この公園は練馬駅の南方約一㎞にあり、中央に位置する富士稲荷神社を囲むようにコの字形をしている。また園内には富士稲荷公衆便所が設置されている。
二九年度 学田公園・高稲荷公園・豊玉中公園の三か所が開園されており、三〇年一月二六日には、「練馬区立公園条例」および「練馬区立公園附属運動場使用条例」が公布された。
〔学田公園〕 この公園は二八年度特別選定事業として建設されたものである。三〇年三月一日開園、同日都より寄付。面積は一万〇八四四・七六㎡(
〔高稲荷公園〕 昭和三〇年三月一六日開園。四八年一月二七日、都より寄付。面積は、一万三二九七・二七㎡(
三〇年度 〔豊玉中公園〕 三〇年四月二七日開園。同年一〇月一日都より寄付。面積二七八四・〇九㎡。練馬駅から南西約六〇〇mに位置し、道路をはさんで北側に練馬図書館・練馬公民館があり、南側には豊玉小学校がある。付近は閑静な住宅地域である。公園は三面
のテニスコートから成り、有料施設として一般開放され、平日でも婦人のテニスクラブなど区民の利用者は多い。三一年度 四月二〇日に「都市公園法」、一二月二七日に「東京都立公園条例」が公布された。三一年度の都市公園の新規開園はない。
三二年度 〔上板橋公園(
三三年度 この年新たに「練馬区立都市公園条例」が制定された。
画像を表示〔牧野記念庭園〕 我が国が生んだ世界的植物学者、故牧野富太郎博士が大正一五年より居住し、「我が植物園」としてこよなく愛された学問の聖地である。博士が九六歳の天寿を全うされた(
〔石神井公園〕 三宝寺池を中心とするこの一帯は、昭和五年に風致地区に指定され、自然景観の保護対策が講じられていた。その後昭和一七年に石神井緑地として計画決定されたが、事業の執行中に終戦となり、さらに農地改革によって総面積一七万五〇〇〇坪のうち五万八六二九坪が農地として解放された。しかし、三二年には都市計画決定され、数次の用地買収を経て、三四年三月開園されることになった。当初面積五万四二一〇㎡。野外ステージ・野球場などの施設が併設されている。公園内の三宝寺池は、天然記念物に指定された貴重な沼沢植物の群生地として有名である。また四七年四月一日には併設された野球場の夜間使用が開始されたが、その照明のため野鳥の生活環境が破壊されるとして、野球場の移転を考慮して貰いたい旨の申し入れが地元区民から出されている。
三七年度 〔東大泉公園〕 三七年七月三一日開園。四三年八月二三日、東京都より寄付。面積三〇八六・三四㎡。大泉学園駅の北東約八〇〇mに位置し、周囲は都営住宅である。
三九年度 四月九日、「練馬区立児童遊園条例」制定。
画像を表示四〇年度 〔大泉井頭公園〕 昭和四〇年四月一日開園。四八年一月二七日、東京都より寄付。当初面積六三四六・六三㎡(
四二年度 四月一八日、「民間遊び場」をつくるための対策本部設置。一一月、「民間遊び場」一五か所開設。
四三年度 〔上石神井公園〕 四三年五月一日開園。同年八月二三日東京都より寄付。面積一八二五・八二㎡。上石神井駅の西北約九〇〇mにあり、周囲は都営住宅である。また南側に石神井川、北側に青梅街道が走っている。
〔富士見公園〕 四三年三月三〇日、都より六四一・六九㎡を寄付され、四四年一月一〇日開園した。富士見台駅の南西約六〇〇mにあり、周囲は都営アパートおよび住宅である。
画像を表示四四年度 〔向山公園〕 昭和四三年二月二七日、林錠太郎氏より土地購入。面積三五五七・四七㎡。四五年三月一日開園。豊島園駅から約六〇〇m西方にあり、付近はみどりに恵まれた住宅地域である。
四五年度 四月一日、土木部に公園課設置。
〔田柄中央児童公園〕 昭和四四年三月二七日、上野幸太郎氏・橋本福五郎氏・上野弥一氏・上野直氏より畑地二四七九・三四㎡(
〔西大泉公園〕 四四年三月二九日、田中正一氏より畑地二四八〇・〇九㎡購入。四五年五月一日開園。大泉学園駅の北西約一・二㎞に位置し、その西側には区立大泉保育園などもあり、緑に恵まれた一角である。
〔大泉学園公園〕 四四年三月二九日、小美濃源蔵氏および市川安太郎氏より畑地・宅地計二六一八・〇七㎡購入。四五年五月一日開園。本区ではもっとも北寄りに位置する公園で、大泉学園駅からは約二・七㎞、キャンプ朝霞跡地は目と鼻の先である。整然と区画整理された住宅地域の一角にある。
四六年度 〔やくも公園〕 四五年三月三一日、篠鉄五郎氏より畑地一四四〇・二七㎡を購入。翌四六年五月二〇日に開園した。江古田駅の北東約六〇〇mにあり、本区では最も東寄りに位置している。周囲は住宅および農地である。
〔北大泉くれはし公園〕 四五年三月二三日、加藤ミツ氏および加藤幸夫氏より畑地二〇八二・六六㎡を買い入れ、翌四六年五月一日に開園した。大泉学園駅の北東約一・五㎞、関越自動車道に接している。周囲は住宅地域で環境は良好である。
四七年度 〔上石神井東公園〕 四六年三月二〇日、高橋威司氏より畑地二〇三六・三八㎡を購入。四七年五月一三日開園。上石神井駅の北東約四〇〇mに位置し、東側に都立井草高校を控えている。
〔貫井公園〕 四六年一〇月二一日、本橋豊吉氏ほか四氏より畑地二一四九・五三㎡購入。四七年五月二四日開園。富士見台駅の北方約四〇〇m、南側には老人ホーム「すずしろ園」がある。
四八年度 この年、国においては「自然環境保全法」(
〔北西大松児童公園〕 四六年一二月七日、相原たけ子氏および相原こう氏より畑地二〇八五・〇六㎡を購入。四八年四月一〇日に開園された。東武東上線下赤塚駅の南東約六〇〇mにあり、周囲は住宅地で環境は良好である。
〔土支田公園〕 四六年一一月二日、中井川栄一氏より畑地二二七九・八五㎡を購入、四八年四月一八日に開園した。
石神井公園駅の北方約一・六㎞にあり、周囲は住宅あるいは芝生地である。近くには三原台温水プールなどの公共施設がある。
〔たけした公園〕 四六年一〇月三〇日、高橋一男氏より畑地二二〇六・五二㎡を購入、四八年五月二五日に開園した。上石神井駅の南西約八〇〇mにあり、本区内では最も南に位置している。周囲は住宅地で、杉並区境いに近く、善福寺公園もすぐである。また北側には千川通りがある。千川はすでに大部分が暗渠となっているが、最近ではその一部に遊歩道ができ区民の散歩道となっている。この公園の付近である。
〔下石神井坂下公園〕 四七年三月二八日、本橋成夫氏より畑地二三二〇㎡を購入、四八年五月三一日に開園した。石神井公園駅の南方約一・一㎞にあり、周囲は住宅地である。
四九年度 本年度より交通公園建設事業が開始された。
〔早宮児童公園〕 四七年一一月二〇日、小泉善太郎氏ほか一名より畑地および墓地二三一四・〇六㎡を購入、四九年四月一日に開園された。練馬駅の北方約二㎞にあり、道をはさんで東方には都立練馬工業高校がある。
〔富士見台公園〕 四九年一月一一日、大野喜三郎氏ほか一名より、宅地一六三〇・七三㎡を購入、四月一日に開園した。
富士見台駅の北西約一・一㎞にあり、区の中央部に位置している。すぐ北側には目白通りが走っており、関越自動車道とのつながりもあって、この道路の交通量は多い。
〔南田中公園〕 四八年四月一六日、斉藤氏および福嶋氏より畑地二五〇〇・〇二㎡を購入、四九年四月一日に開園した。
石神井公園駅の南東約八〇〇mに位置し、北側は都営住宅、南側は南田中児童館および敬老館の建物に接している。
〔大泉公園〕 四六年一一月一六日に畑地九九二六・三一㎡を、四八年一二月二七日に同じく一九八三・八五㎡をそれぞれ妙福寺よ
り東京都が購入、四九年六月一日開園された。五〇年三月二七日に区に移管。大泉学園駅の北方約二・四㎞にあり、西側はすぐ新座市である。周囲は住宅地域であるが、緑に恵まれた環境におかれている。五〇年度 〔けやき児童公園〕 四八年一〇月一六日、池上正男氏より畑地一九八三・四八㎡を購入、五〇年七月二日に開園した。東武東上線下赤塚駅の南方約二㎞にあり、北側には都立練馬高校、その西側に陸上自衛隊がある。
画像を表示 画像を表示〔西大泉中央児童公園〕 四九年一〇月二八日、平野忠右エ門氏より畑地二六〇三・二二㎡を購入、五〇年七月二日に開園した。
大泉学園駅の北西約一・六㎞にあり、環境は良好である。
五一年度 〔谷原児童公園〕 四九年一二月九日、横山繁雄氏および横山宗一氏より畑地二四〇四・三五㎡を購入、五一年四月一日に開園した。石神井公園駅の北東約一㎞にあり、南側は目白通りに近接している。
〔平和台児童公園〕 五〇年一月九日、内田喜作氏および内田松太郎氏より畑地二四七九・三三㎡を購入、五一年四月一日に開園した。東武練馬駅の南方約一・三㎞にあり、付近には都立練馬仲町授産場がある。
〔わかば児童公園〕 四九年一二月九日、浜中金吾氏および浜中ツル氏より畑地二四九六・六八㎡を購入、五一年四月一日に開園した。武蔵関駅の南方約八〇〇m、武蔵野市境に近い一角である。
〔長光寺橋公園〕 五一年一〇月八日、宅地三六四九・一六㎡を東京都より譲り受け、一二月二七日に開園された。石神井公園駅の南東約一㎞の石神井川長光寺橋のたもとにある。
〔大泉交通公園〕 四八年七月三〇日、内堀清氏ほか六名より畑地八七七四・八七㎡、四九年三月二〇日、高橋伊佐吉氏より同じく畑地七三九・七七㎡を購入、その後同年五月三一日、国より二三一・九六㎡を譲与され、交通公園の建設に取りかかった。五二年一月一日に開園されたが、特に子供に対して遊びながら交通ルールを学んでもらおうとする区の姿勢が大きく評価されるところである。
五二年度 〔八坂台児童公園〕 五〇年一二月二三日、加藤喜八氏より雑種地二三五二・〇四㎡を購入、五二年四月一日に開園した。和光市境に近く、付近には土支田八幡宮、八坂神社などがあり、自然環境に恵まれた位置にある。
〔池淵史跡公園〕 池淵遺跡で知られる一角で、古代の遺跡保存の目的で設けられた。五二年四月一日に開園されたが、園内は遊歩道化されている。石神井プールが隣接し、付近には石神井図書館がある。北側は石神井公園となっており、区民の憩いの場として区内の名所の一に数えられている。
〔練馬一丁目公園〕 四九年一二月二七日、ディベロッパー・カネボウより宅地九九一・七三㎡を購入、五二年四月一日に開園した。西側は旧カネボウ工場の跡地で、現在区民会館の建設が予定されている。また区民祭の会場にもあてられ、練馬駅北側の広場として区民に親しまれている。
〔こぶし公園〕 五二年七月三〇日に都によって設置され、同年八月三日譲与された。面積は、九五八・七九㎡。
富士見台駅の西方約九〇〇mにあり、西武池袋線に接している。周囲は都営住宅であるが、もともとこの公園は都が都営住宅の建て替えにともなって設置したものである。
〔たがら公園〕 都営住宅の建て替えにともない、五二年七月三〇日、都によって設置されたが、同年八月三日区へ無償譲与となった。二五七二・〇四㎡。東武東上線下赤塚駅の南西約二〇〇mにあり、周囲は都営住宅、西方にはむつみ台団地がある。板橋区境も近い。
五三年度 〔高野台中央公園〕 五二年三月七日、増島一男氏より畑地二四二二・五八㎡を購入、五三年四月一日開園した。
〔東大泉弁天池公園〕五二年一二月一四日、加藤智司氏および加藤つる氏より田・山林合計一七九五・〇五㎡を購入、五一年一一月一日に開園した。大泉学園駅の北東約八〇〇mにあり、周囲は都営住宅で、すぐ脇を白子川の流れが走っている。
〔わかみや公園〕 五二年九月二八日、宮本力雄氏より畑地および宅地一一八八・二〇㎡を購入、五四年二月一日に開園した。
〔あおい公園〕 五二年一二月七日、徳川宗敬氏より畑地一六九九・〇五㎡を購入、五四年二月一日に開園した。
五四年度 〔こんにちわ公園〕 五二年九月一六日、鹿島勝蔵氏、長谷川武範氏より畑地および宅地一七〇六・一九㎡を購入、五四年四月一日に開園した。
〔はやいち公園〕 五二年一二月六日、市川ふみ氏ほか九名より一六三七・二一㎡を購入、五四年四月一日に開園された。
本文> 項> 節> 章> <章>昭和二五年の「国勢調査報告書」から当時の住宅世帯数(
同時期の区内の地目別土地面積を見れば、全体面積三四〇九町四反八畝(
このことは後に練馬区が有数の住宅保有区として今日のような変貌を遂げる上に無視できない要素である。すなわち区内には農業以外にこれといった産業は無く、進展する都市化の中で年々農耕が不能となってゆくことは区の存立に関わる重大事であった。また人口集中を余儀なくされている都心部の隣接地帯に位置していた練馬の農地は、そのまま住宅地帯としての可能性を常に背負っていたことにもなる。練馬区は農地の跡を農業に対抗する産業で埋める代わりに、社会の動向に押され、むしろそれを先取りする形で宅地化への道を歩んで来たのである。
従って、昭和二一年四月二六日の「人口調査」時点でまだ一〇万人に達していなかった人口の、その後の急激な膨張はそのまま住宅の進展として捉えることができる。その足取りをここに追ってみることとする。
本文> <項>戦災による東京都の焼失家屋は七一万戸といわれ、これは昭和一六年時点における住宅数一三三万二九四九戸に対して実に五三%(
家を焼かれ生活の拠点を失った人々は、当面バラックあるいは掘立小屋などを建てて住むことを余儀なくされたが、外地からの引揚げ者の流入を見るようになると、もはや住宅対策は東京都をあげての緊急課題となった。
練馬区では一九年一一月二四日のいわゆる東京大空襲以来一〇度におよぶ空襲に見舞われはしたが、農地が多く住宅の密集地が少なかったことなどから、他区に比べてさほど大きな被害は受けなかった。しかし、このことがかえって多くの引揚げ者をはじめとする人々の招致につながることとなり、深刻な住宅問題が生まれるきっかけとなった。区独立間もない二二年一一月一一日の区議会において早くも次のような発言が成され、練馬区としての住宅問題の口火が切られることとなった。
<資料文>――次に緊急動議に移ることに致します。第一に区内の引揚者、又戦災者の住宅問題であります。引揚者、戦災者の住宅問題は、実に吾々の想像に余りあるものでありまして、私の実際に見ました所でも、或者は家族十人でまるで板の間の便所の如き所に住んで居るのであります。又或者は六畳一間に八人の家族が居る。或者は六畳二間に四世帯も住んで居るような有様で、まことに涙なしには見られない状態であります。此の際一日も早く是等の住宅問題に付て真剣なる対策を講じてやることが何よりも緊急問題であると信ずるのであります。―― (資料:「区議会議事速記録」二二年版)
資料文>ちなみに東京都の戦後の住宅事情の悪化は、一六年の一戸当り畳数一八・二三畳に対して、二三年の一五・〇五畳、一人当り畳数で見るならば一六年の三・五九畳に対して二三年の二・七九畳という数値の上にも表われている(
練馬区としては応急住宅などの改善を都に対して要請する以外には当面の対策とて無かったが(
緑地解放運動に見られるように区の方針はすでに住宅招致(
区で行なった分譲住宅と、その一環として三〇年度より開始された分譲宅地事業は終息されたとはいえ、こうした区の姿勢は一般住宅建築の上に多大な影響をおよぼすこととなった。図<数2>25数2>―1は区内における三〇年代以降今日に至るまでの新設住宅数の推移を表わしたものであるが、その数値は概して二三区の平均を大きく上回り、ことに三〇年代前半と四〇年代後半においては著しい差となって現われている。この各年に見られる数量の大きさは、例えば、三一年には一位が大田区の五七四四戸、二位が世田谷区の三五九二戸、練馬区はこれに次ぐ第三位の位置を占めており、三二年には世田谷区の四八八三戸に次いで第二位となっている。しかも第三位の大田区四一〇〇戸、第四位の葛飾区三九九一戸、そして第五位の板橋区三七〇九戸と共に他区を大きく引き離している。こうした傾向は当然世帯数の上にも反映し、二五年の国勢調査時点での区内全世帯数二万七四六五であったものが、三〇年には四万一二九〇、三五年となると七万九七九六という数値を示すこととなる。すなわち三〇年時点からの五年間ではほぼ二倍の伸びを見ているのである。もっとも三〇年代後半から四〇年代前半
にかけて、練馬区の数値は区部平均ラインまで近づき、ほとんどその前後を往復するようになるが、これは以下のような理由からである。 画像を表示三〇年七月に日本住宅公団が設立されたが、その主旨とするところは、産業の集中する大都市へ通勤する人々の住宅対策として、より良質な住宅を大量に供給しようとすることにあった。こうした風潮にも現われているように、今や住宅の絶対数の不足と質の改善とは住宅対策上必至のものとされた。東京都では福祉住宅対策などに力を入れる一方、三一年四月に制定された首都圏整備法にもとづき、同年一一月住宅建設一〇か年計画を策定した。その目標とするところは「一世帯一住宅」および「土地高度利用」などであり、翌三二年度より実施される運びとなった。この結果都心区においても高層建築による住宅数の増加が見られるようになり、練馬区など一戸建ての多い区域と数量的にはほとんど差異の生じない傾向が現われた。この傾向に拍車をかけたのが民間において行なわれたいわゆる
練馬区では三六年時点で一〇六〇棟、四一年時点で二七四三棟(
都営住宅について見れば、四一年度に建設着工された南田中アパートの一八〇四戸に代表されるような中高層建築による団地の出現によって、その数量も四〇年の五八六九戸から四五年には八八一一戸と増え、五〇年には九〇七一戸を数えている。
また、アパートの増加についても、四五年には七五九二棟(
こうした賃貸住宅の建設は再び新設住宅数の著しい伸びとして現われることとなった。図<数2>25数2>―2は持家・借家別に見た新設住宅数の推移であるが、四二年~四七年では、持家がゆるやかな上昇カーブをしているのに対して、借家は急激な上昇を示している。
また、図<数2>25数2>―3は住宅世帯数とその種別の推移を示したものであるが、四五年には借家が持家をしのいで全体の四九・四
二%に達し、その大部分が民営借家である。これは住宅世帯全体から見ても大きな比重を占めている。ちなみに民営借家の全体に対する比率は四二・六%である。以後この傾向は一段と進み、五〇年時点では借家が五〇%を超え、持家の比率はなお減退するに至る。このとき民営借家は全体の四四・三%でなお増えているのである。また同図でもうひとつ注目されることは、「間借り」世帯の動向で、二五年時点で一七・八%を占めていたのが、その後実数そのものが減り、五〇年になると全体のわずか一・一%を見るのみとなった。これは一世帯一住宅を指向する社会的な風潮と照し合わせて注意すべきことと思われる。 画像を表示 本文> 項> <項>三〇年代後半、東京都では水質汚濁、大気汚染、騒音などの公害問題が次々と取り上げられることとなり、四〇年以降住環境をめぐる世論が活発となった。都心区ではすでに人口の社会増は減少の方向に転じており、四〇年前後を境に区部全体でもマイナスを記録するのである。これはより住み良い環境を求めて隣接県へ転出してゆく人々の存在を示している訳であるが、しかし住宅数においては減少することなく、なお増加の一途を辿っている。
この結果、四三年の住宅統計調査によれば東京都の普通世帯三〇四万七六六〇に対して住宅個数は三一三万九〇〇〇戸を数え、事実上世帯数よりも住宅数の方が上回るという現象を引き起こしている。一世帯一住宅の理想はここに実現されたかのようであるが、その実態は核家族化による世帯人口の分散とそれを誘うこととなった狭小賃貸住宅の激増に負うところが大きいのである。こうした状況の下に住宅問題は新たな議論を呼び起こすこととなった。四三年一一月、都はいわゆる「シビルミニマム」の考えに則って新たに中期計画を策定し、ここに経済事情を考慮した「実現可能」なローリングシステムをとった三か年計画がスタートすることとなった。『練馬農業協同組合史』によれば、練馬区の農業のうち水田がこの頃を境に終息されることになり、また畑作も急激に衰退し、かわって住宅の密集区域を多く見出すこととなった。四四年には緑地地域がすべて解除され、区全体は「市街地」とみなされた。
都心区においてすでに人口の社会増がマイナスに転じて久しい期間を経ているにもかかわらず、練馬区はなお増加の一途を辿っており、それはとりもなおさず住宅の激増という形で現われるところとなる。折から経済の高度成長期ともからみ合い、区内の住宅建設は過去三〇年を通してのピーク時を迎えることとなるが、この傾向は地価の高騰に拍車をかける結果となって現われている。四五年より、四九年にかけて連年うなぎ上りとなっており、この四年間でいずれも公示価格において二倍以上にはね上っている。地価の高騰は宅地の面積を狭め、いわゆるミニ開発を引き起す原因となり、今日の都市再開発
問題で大きく取り上げられるに至るのであるが、先に述べた民営借家の進出と合わせて区内各所に世帯密度の高い地域を現出させている。 本文> 項> <項>戦後経済が安定し、やがて急成長するとともに住環境に対する認識も高まった。東京都では住宅数の増設につとめる一方、内容の質的向上にも力を注ぐところとなり、三六年度以降床面積の拡充など、広さと近代化を目ざした政策が次々と打ち出された。
画像を表示このような風潮は一般住宅の上にも見られる。とくに、「持家」世帯においては著しい変化を遂げた。図<数2>25数2>―4は「広さ」の面における目安として一世帯当りの畳数の推移を表わしたものであるが、持家の三五年以降の伸びは顕著である。これは近時の土地入手の困難さにともない敷地面積が狭小化された反面、建坪を敷地一杯にとる住宅が増え、また「平家建て」に代って「二階建て」が一般的となった傾向による(
しかし「借家」についてみれば今日なお狭小なまま横這い状態を辿っていることが分る。その原因は数量的に圧倒的な位置を占める民営借家の狭小さにあり、四五年から五〇年にかけてやや向上しつつあるとはいえ公営借家との隔たりは明瞭である。
このような区内の住宅事情は区民ひとりひとりの意識の上にも
微妙に反映しており、そのあらましを「練馬区民意識意向調査報告書(調査対象者の現況は以下の通りである。
〈住宅の所有形態〉 最も多いのが「土地つき持家」の四九・五%。次いで「民間賃貸アパート」の一四・八%。以下「借地持家」の八・五%、「公共賃貸住宅」の七・〇%の順。地域別に見れば、「土地つき持家」は区内の北西部、谷原・土支田・大泉方面に圧倒的に多く(
〈空間〉 「部屋数」で最も多いのが「二部屋」の二〇・四%。次いで「三部屋」の一九・九%。以下「四部屋」の一七・五%、「五部屋」の一四・三%の順。
〈設備〉 台所の「専用」が九四%。便所の「専用」が九一・四%。風呂の「有る」が七九・四%である。
〈家賃〉 「一戸建借家」では「三万円台」が最も多く三一・〇%。以下「二万円台」の二六・八%、「四万円台」の二三・九%の順。「民間賃貸アパート」では最も多いのが「二万円台」の二八・七%。以下「三万円台」の二八・二%、「一万円台」の一七・二%と続くが、「四万円台」も一三・二%ある。
これに比べ、「公共借家」は「一万円未満」が六一・五%。「一万円台」が二五・三%である。
〈入居時期〉 「土地つき持家」では「三〇年代」が最も多く三二・四%。次いで「四一~四五年」が二四・九%の順。「民間賃貸アパート」では「四九~五二年」の間が圧倒的で四八・九%。「給与住宅」も「四九~五二年」で五一・九%。
こうした状況を区民はどのように受け取っているのであろうか。
〈満足度〉 まず、現在の住宅に満足しているかどうかについて「満足している」と答えた人は四一・一%。これに対して「不満」あるいは「大変不満」と答えた人は全体の五二・五%で過半数に達している。その主な原因としては「住宅が狭
い」の五三・五%。次いで「日当り、風通しが悪い」の二四・一%、「設備が不完全」の二三・三%の順である。〈移転希望〉 現在のところに永住する意志があるかどうかについて、「永く住むつもり」と答えた人は五五・六%で半数以上を占めてはいるが、「永く住むつもりは無い」と答えた人も四一・六%おり、移転希望を無視することはできない。また移転先は「練馬区内」にしたい人が五〇・八%で、問題は土地柄よりも、住宅事情にあるらしいことが先の〈満足度〉と照し合せることによって分る。
〈持家と借家〉 家は無理をしてでも個人で持つ方がよいかどうかについて「持つ方がよい」が八二・八%で圧倒的に多く、その理由としては「家は財産となる」が三一・三%。次いで「家賃を払っていくのと同じだから」の二四・八%となる。しかし、大都市において一戸建てが可能かどうかについては、「不可能」とする考え方が六六・八%を占め、住宅の共同・集合化を止むをえないものとする傾向が見受けられる。
〈住宅政策〉 そこで、大都市における住宅問題は個人で解決すべきか、国や自治体で対策を講ずるべきかについては「国や自治体で」とする考え方が七一・四%の高さに達している。
〈これからの練馬区〉 練馬区にはまだ農地や空地が相当にあるが、今後宅地化される傾向にある。こうした事実について「無秩序に宅地化されなければやむをえない」が五一・六%を占め、「空地や農地は残し、緑の保全に努めるべき」とする考え方の三八・一%をしのいでいる。また、現在グラント・ハイツ跡地に大規模な団地が計画中であるが、これを知っている人が六八・四%。このうち「関心を持っている」人が五七・〇%ある。
以上見て来たように区民の「住宅」に対する関心は深く、今後の住宅対策への課題を多く残している。ことにグラント・ハイツ跡地「光が丘」開発、およびこれにともなう周辺地域の整備、地下鉄一二号線の建設など、今や練馬区はその姿をさらに一新させようとしている。この新たな展開によって区内の住環境はどのように変化してゆくのであろうか。広く注目されるところである。
本文> 項> 節> <節>昭和二五年五月に公布された住宅金融公庫法による融資制度は、区内の住宅建築の上に大きな影響をおよぼしてゆくこととなる。
区では無計画な建築物の乱立に頭を悩ませていた矢先であり、同時に健全な自立財政を打ちたてるためにも住宅の増設は必至とされていた時期である。ここに公庫法の融資制度を取り入れ、設計、施行、および公募に至る業務を肩代りするという区独自の方法が実施されることとなった。二三区で初の区営分譲住宅(
二八年度に春日町一丁目(
表<数2>25数2>―1は区営分譲住宅・宅地の最終予算の推移であるが、ピーク時の三三年度には二
億円を超える予算を投入している。これは当時の区一般会計予算の総額一二億五三四七万余円にくらべていかに練馬区が住宅建設事業に熱心であったかを読み取ることができる。 図表を表示分譲住宅の実体はすべて平家建て一棟一戸の独立形式で、広さは二九年度では平均敷地面積八七坪、建坪は一四坪というものであり、応募も多く三〇年度の成果実績は九三%の分譲済み戸数を数えている。
このように区では非常な力を入れ、また入居者も相次ぎ、事業は成功しつつあるかに見えてはいたが、反面土地の需要が増えるに従って地価の高騰が続き、次第に土地入手が困難になってきた。また事務に携わる担当者の上にもかなりの無理があり、三一年一二月二〇日の区議会予算審査報告の席上で次のような警告が早くも発せられている。
<資料文>分譲住宅について
当区単独事業として他区に魁けて実施されている分譲住宅建設事業は誠に当を得た事業であり広く江湖の絶賛を博し区民は勿論都民
にも感謝されていることを仄聞している。深く敬意を表すものである。然しながら昭和三十年度予算執行状況よりみるに幾分計画倒れに終ったうらみがある。即ち分譲住宅一九〇戸の建設と宅地分譲一三〇区画の造成計画は現在の建築課人員よりして稍無理な計画ではなかったかと思われる。それは分譲住宅建設は稍その目的を達したとはいえ、宅地造成において計画の七四%が執行不能に終っていることによって明らかである。今後は予算編成に充分注意を促したい。 (資料:「区議会議事速記録」三一年版)
資料文> 画像を表示加えて金融公庫からの融資にも限度があり、自己負担金が相当額を占めている実情から、分譲住宅を購入できる人々の層がおのずから限定され、必ずしも住宅難にあえいでいる人々の困難解消につながってはいないのだとする非難も一部にはあった。ちなみに入居しようとする者がまず支払わなければならない頭金の額が約一三〇万円(
こうした背景のうちに事業は押し進められていったが、土地入手の困難は年とともに深刻となり、予算がうなぎ上りとなる反面計画戸数が追いつかず、一部見送りあるいは次年度繰越しなどが慢性化する事態となってきた。ことに宅地分譲において実績は思わしくなく、三二年度計画一五〇区画のうち実施は一三七区画、三三年度には計画一五〇区画中一一三区画の実績を見るのみとなった。広さの上にも影響は現われており、通年平均九〇坪の敷地面積を計画していたのであるが、二九年度に八七坪の実績であったものが三三年度では七〇坪近くにまで落ちている。
地価高騰とあいまって建築費、ことに宅地造成工事費の値上りも無視できない問題であった。三三年度の当初予算では平均一区画工事費八万五〇〇〇円を計上していたが、水道・ガス施設設計完了時点で平均一四万七五〇〇円の工事費がかかることになったとされている(
区は三四年度をもってついに事業を一時中断することとした。三五年三月一七日の区議会で、一議員から、今後は鉄筋コンクリートの四階、五階のアパートを建てて安い費用で多くの人に貸すこととしたらどうか、との提案がなされたが、この席上で区長は次のような答弁を行ない、事実上の住宅・宅地分譲事業の終息を告げている。
<資料文>宅地分譲でありますが、これは助役が説明申し上げましたように、現在の姿の宅地分譲建売建設は、今の住宅公庫の方針といたします庶民住宅、庶民宅地としての考え方から申しますと、本区の地価の高騰から思わしくないということで、本年度行いました住宅地につきましても、すでに金融を拒んだのであります。これに対してようやく御了解がつき、十六宅地の実施をいたしたのであります。これに対する庶民を対象とする住宅金融公庫の融資によって、鉄筋の高層な建設によって大衆に貸したらどうかということでありますが、現在のいわゆる貸家にするほどの建築は都は行なっておりますが、二十三区いずれの区も貸家の計画はしておりません。本区としてもこの面は一応今回宅地分譲建売住宅等は打ち切りたいと考えておるのであります。建売住宅、宅地分譲につきましては、二十三区中本区が一番大きく今まで仕事をして参ったのでありますが、遺憾ながら当局の方針にふさわしい土地の獲得ができませんので、遺憾ながらこの面はやめる考えであります。 (資料:「区議会議事速記録」三五年版)
資料文>その後三九年七月八日および九月二八日の区議会で、区営住宅建設の提案が議員よりなされているが、区長は「区営の賃貸住宅」はいずれの区でも行なわれていないこと、また「分譲住宅」は公団から坪二万円以上の土地では公営住宅としての資格無しとの見解を得ていることをあげ、結局右提案を拒絶している。
今日、なお条例のみは廃されないであるが(
東京都では戦災により焼失した家屋七一万戸、その他取り壊し家屋を加えると七六万戸余の家を失った。終戦直後の二〇年九月、閣議で「三〇万戸罹災都市応急簡易住宅建設要綱」が決定され、次いで同年一二月「住宅緊急措置令」の公布をみて、国庫補助による住宅建設が地方公共団体の手で広く行なわれるようになった。
都では応急簡易住宅の建設、兵舎などの住宅への転用等を実施したが、なお引揚者対策として外地引揚者定着寮を設ける一方都営住宅の約三〇%を引揚者に優先的に割り当てた。
当時はまだ東京の郊外的な位置にあった練馬区では戦災による被害は比較的軽微であった。しかし引揚者をはじめとする区内への転入者に対する処置はまだ何もとられていなかった。当時の区内の都営住宅数は次のようである。
20年 | 120戸 |
21年 | 114戸 |
22年 | 150戸 |
23年 | 154戸 |
24年 | 226戸 |
25年 | 158戸 |
右に見られる通りに増減と呼べる程の数値の移動は無い。この頃都心区においては二二年一〇月、港区芝高輪に戦後初の鉄筋コンクリート造りの都営住宅一八八戸が着工されており、翌二三年四月には新宿区の戸山アパート一〇七二戸、同年一〇月には同じく戸山ハイツ一〇五二戸が着工を見ている。
区内においては次の二四年度から所々に都営住宅の進出を迎えるところとなるが、いずれも木造平家建て一〇戸から三〇戸程度のものが多い。ちなみに木造都営住宅は三六年四月に建設廃止となるが、練馬区では三二年度まで大半が木造平家建てである。現在見られる都営住宅の中で最初にブロック造り二階建てとして誕生したのは豊玉仲町第3住宅四〇戸である。二八年度のことであり、これより四年前の二四年三月に墨田区錦糸町では戦後初のブロック造り都営住宅の着工を見ている。昭和二六年六月「公営住宅法」が制定され、公営住宅建設事業が明文化されるとともに計画的な推進がはかられることになった。都ではこれを受けて「第一期公営住宅建設三か年計画」を策定し、二七年度から二九年度にかけて三万戸の建設が計画された。
区内では初めて一〇〇戸以上の規模を有する都営住宅が二七年九月に着工される運びとなった。下石神井住宅(
二〇年代後半から三〇年代にかけては、区内の市街地化が著しく、農業が後退し、田畑が宅地に変ってゆく時期である。流入人口が着実に増え、区独自の施策として分譲住宅の建設に乗り出すなど、住宅確保が積極的に推進されようとしていた。都営住宅建設への期待もまた大きかったのである。
一方、東京都では二〇年代前半までは都心部にある旧軍用地、その他の国有地、都有地、民有地などの確保につとめたが、後半に至って地価の高騰を見、特に民有地の入手は極めて困難となった。こうして次第に周辺区へとその舞台は移されてゆく。また二六年の公営住宅法の制定により、都営住宅の使用料に制限(
また、同法によって入居資格も定められたが、その収入基準は次の通りである。
第一種住宅 収入合計が使用料の六倍以上一五倍以下(
第二種住宅 〃 (
第三種住宅ほか 〃 (
都営住宅がようやく練馬区へ進出し始めた理由は以上見て来た通りであるが、しかし三〇年代を通じて第4練馬北町三丁目住宅の一九四戸を上回る「団地」は出現しなかった。三〇年代の練馬区は持家率が大きく、土地を手放す側も公共用地として放出するより、民間へ売却する方がより利便であった。住宅に限らず、区内での公共用地確保は次第に困難さを増してきた。
この間三〇年七月に「日本住宅公団法」が公布され、いわゆる公団住宅が建設されることとなった。日本住宅公団は大都市への人口流入と核家族化の進展しつつある時期に誕生し、地域性を超えて、かつ水準の高い住宅を供給するという目的を掲げてスタートした。当初より耐火性の集団住宅を志向し、創設以来二〇年を迎えた昭和五〇年度には全国で一〇〇万戸を数える大事業となった。
しかし練馬区内では五四年四月現在二〇五二戸の賃貸住宅と四九〇戸の分譲住宅を数えるのみである。二三区中では江東区の賃貸一万一二九三戸、分譲一二三〇戸が最高であり、次いで足立区の賃貸一万二二七五戸、北区の賃貸一万一四〇四戸、分譲二七五戸の順となっている。もっとも、五五年度現在旧米軍宿舎であったグラント・ハイツ跡地の開発が進められており、完成すれば大幅な増加が見込まれるところとなる。とりあえず、表<数2>25数2>―2において五五年度当初の区内の住宅公団住宅の一覧を示しておく。
図表を表示また、現在の東京都住宅供給公社住宅が区内に進出したのは三〇年代初頭であったが、これも数量的にはごくわずかであり、五五年八月現在の内訳を表<数2>25数2>―3に示しておく。同公社は二五年八月に「東京都住宅協会」として発足し、三五年九月「東京都住宅公社」と名称変更、さらに四一年四月に現在の「東京都住宅供給公社」として組織替えしたものである。
さて、第一期公営住宅建設三か年計画は実質一万三八三九戸の成果を上げるに止まった。翌三〇年四月には第二期として新たに二万三〇〇〇戸の建設をやはり三か年で推進させるという計画がスタートすることになった。折から日本経済は急速な成長をとげており、人口の都市集中は目をみはるものがあった。東京都の住宅事情はいよいよ厳しいものとなり、三三年の住宅統計調査によれば、狭小過密居住世帯数が三〇万余を数えている。首都建設問題は新たな展望のもとに取り組まれなくてはならない機運となっていた。
図表を表示こうした中で三一年四月には「首都圏整備法」が誕生し、これを受けて都では三一年一一月「住宅建設一〇か年計画」を策定するに至った。いわゆる一世帯一住宅のことばに象徴される数量の確保と不燃高層化とをねらった新計画であった。都心部では住宅の密集にともない保安・防災上の問題の多い区域が増加しており、住宅地区の改良が叫ばれ始めていた。この後三五年五月には「住宅地区改良法」が制定されるに至る。都の計画はこうした背景を見越したものであり、以後各所に高層団地の出現を見るのである。
画像を表示区内においてもようやく鉄筋の四階建て以上の住宅が誕生することとなり、また一〇〇〇戸を超える団地の進出を見るところとなった。三九年度から四三年度にかけて建設された上石神井アパートの一〇九〇戸、四一年度から四五年度の南田中のアパート一七一四戸などはその代表的なものである。
画像を表示しかし、この後は区内への新設住宅は停滞し、もっぱら建て替えが中心となり、現在進行しつつあるグラント・ハイツ跡地の建設を待つところとなっている。図<数2>25数2>―5は三〇年代後半から現在に至る都営住宅のうち公営住宅の推移を示したものであるが、総数においては四六年度以降は横這いである。木造は徐々に減少し、四五年度からは耐火造りが上回るようになった。
四〇年代は都心区においては人口の社会増は減少の方向に傾いており、代わって周辺地域に人口集中を見るところとなっ
た。練馬区では五〇年代に入るまで依然人口増は続き、この間地価の高騰とあいまって持家率は減少し、民間アパートの乱立を見た。公共住宅は横這いであり、自然住宅地区としての質は低下する一方であった。東京都では四三年、最初の中期計画「一九六八」を策定し、「シビルミニマム」確保をうたい上げた。以後質の向上を目ざすとともに周辺区部における大団地建設方針を打ち出し、江東防災拠点構想に見られる新たな試みが行なわれている。また区部をはるかに通り越した多摩ニュータウンその他の新開地への進出も積極的に進められてはいるが、練馬区への建設はグラント・ハイツ跡地に待つ他はなかったようである。
この結果五四年四月一日現在では都営住宅総数は九八〇九戸に止まっており、区部最高の足立区三万〇六四三戸、第二位の江東区一万八三九〇戸などに比して大きく後退していたことになる。ここで区内に現存する都営住宅の一覧を五五年四月現在の資料から見ておくこととする。なお建設年度は「新設」のほかに「建て替え」も含まれている。
図表を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示 本文> 項> 節> <節>昭和二五年に制定された建築基準法に定められた建築物の最高高さ三一m(
図<数2>25数2>―6は区内における四階以上建てものの階数および戸数の動向であるが、三七年について見れば五階建てが最高であり、その数
もわずか一四を数えるのみであった。練馬区に一〇階以上の建てものが建設されるのは四四年以降であり(「住宅」の項で触れたように練馬区は都心に近い住宅地域として発展して来た区であり、それも持家の比率が高く、従って平家あるいは二階建ての建てものが大半を占めていた。
「長期計画策定のための基礎調査・研究」によれば、四五年の区内の建てもの平均階数は一・六階で二三区中最低となっている。ちなみに同資料によって区内の土地利用構成を見れば、寺社・宅地の占める面積が全体の六九・五%に達しており、さらに宅地内の利用構成中住宅は五九・七%を占めている。
また戸数の面から当時の建築物を用途別にひろってみるならば、総数八万五五〇二戸の内、住宅は八万〇九七八戸で全体の九四・七%にのぼっている。その他では工場の八五三戸(
こうした練馬区内の状況をよそに、建築行政の分野ではいよいよ超高層化時代に対するさまざまな方策が講じられつつあった。防災上においては幾多の実験が重ねられてきたが、東京消防庁によって実施された四三年四月一四日の霞が関ビルの排煙実験などはその後の高層ビル建設上に大きな教訓を与えるところとなった。
表<数2>25数2>―5は五三年六月現在までの都内超高層建築物のあらましである。
画像を表示一方日照問題がクローズアップされて来たのも超高層建築物が出現しはじめてからであり、直接にはマンションの乱立に代表される生活空間への高層ビルの進出にあった。四〇年代前半から後半にかけてさまざまな紛争があった中で五〇年には
行政的な規制を必要とする見解が打ち出された。五一年一一月四日には「日影規制」を盛り込んだ建築基準法の改正となる。東京都では五三年一〇月一二日より「東京都日影による中高層建築物の高さの制限に関する条例」が施行される運びとなった。 図表を表示区内においても四〇年代後半に至ってようやくマンションをはじめとする中高層建築物の進出が目立ちはじめた。こうした事態に対応すべく四九年三月一日には「練馬区中高層建築物に関する指導要綱」が制定され、今日まで適切な指導が行なわれてきている。
五四年度において、建築課では区内における三階以上の建てものの棟数および利用状況の調査を行なった。その階数別棟数の内訳をみれば、練馬区では一四階建てが最高である。それもわずかに六棟のみであり、一〇階建て以上を数えても三七棟に過ぎない。ちなみに五三年一二月時点の区内の建築物数(
主要用途別にみると、総数三一四四の内、住宅が一七一〇棟を数
え、全体の五四%を占めている。階数が増すごとにその比率は上昇し、九階以上においては、一一階の事務所一棟を除いてすべてが住宅用に建造されたものである点にも大きな特徴がある。すなわち、練馬区は典型的な都市周辺住宅区として発展して来た地域であり、今や中高層建築物の上にもその性格が顕著に現われているといってよい。地価が年々高くなり、個人宅地を入手するには、もはや不適当となりつつある区内においては、むしろ当然の成りゆきでもあり、今後の方向を示す指針にさえなっている。
図表を表示表<数2>25数2>―6は用途地域別にみた階層別の建築物数である。区内のほぼ全域が住居あるいは住宅専用地域に指定されている関係もあるが、建築物の大半が住居および住宅専用地域に散らばっている。商業・近隣商業地域と準工業地域に占める建てものは全体の三〇%弱に過ぎない。それもすでに見たように、九階以上のほとんどは住宅なのである。
こうした区内の中高層建築物の実態を町別に表わしたものが表<数2>25数2>―7である。前調査のデータを区史編さん室で独自に集計し、作成したものであるが(
また、区内での町丁別人口密度(
昭和一九年五月一日、「東京都区役所支所規程」によって板橋区の「練馬派出所」が支所に昇格をした。この時の執務場所は現開進第三小学校の講堂(
しかし、早急に独自の庁舎を建設する必要があり、同年一〇月二三日の区議会で庁舎建設に関する「建議」が行なわれ、都への働きかけがなされている(
二四年一月、庁舎竣工とともに開進第三小学校より現在地(
三三年四月二八日、それまで土地の賃貸借契約を行なっていた清水氏より三五四坪余の購入を済ませ、同じく四月三〇日には両森田氏分一四四七坪余の買入れを行ない、庁舎敷地も区有のものとなった。
その後、人口の急激な膨脹にともない、区の仕事が拡張されるとそれまでの庁舎が狭くなり、また木造建物自体の老朽化も進んでいたことなどから、三八年、改めて新庁舎を建て替える運びとなった。
新庁舎は建坪四六一・二〇坪(
以後今日まで新たな土地買入れ、譲与などを経て敷地面積も五二年一月二〇日現在で九一三七・六三㎡(
区の業務は年々増大する一方であり、都からの移管事業も増えるにつれて、これまでの庁舎ではなお狭く、各所に臨時庁舎を作るなどしていたが、このほど当庁舎の増設が実現する運びとなった。
五五年五月一五日に完成を見た新庁舎は、それまで単独であった庁舎(
この庁舎建設については幾多の経緯を経ているが、その最初は四一年一二月一六日の「区民会館建設特別委員会」の誕生にはじまる。すなわち区制二十周年記念事業の一環として区民会館の建設を行なうことが決定されたのである。しかし、その後四四年九月三〇日には区役所敷地内に区民会館ならびに庁舎の建設が予定され、翌四五年四月一三日の区議会においてそれまでの「区民会館建設特別委員会」を「区民会館および庁舎建設特別委員会」と名称変更、内容も区民会館とともに庁
舎建設にも主眼がおかれることとなった。四七年七月一九日の区議会において基本構想の承認を得、同二九日には「庁舎等建設準備室」が総務部に設置された。しかし同年一一月三〇日に行なわれた地元説明会以後多少の経緯があり、翌四八年一二月一三日、庁舎と区民会館とを分離し、区民会館建設を先行させる案が特別委員会で決定、翌日の区議会で承認されるところとなった。
以後庁舎建設計画と区民会館建設計画とは別途の経緯を経る訳であるが、区民会館は用地問題がからみ(
五一年三月二六日、「第二庁舎建設基本構想案」が区議会で承認され、五月一七日、六月二日および一二月二日に関係住民説明会が開催されている。この時の構想は地上一〇階地下二階、延べ床面積一万七〇〇〇㎡(
五三年一月二六日、基本設計が開始され、ここに現第二庁舎の建設が実現する運びとなったのである。工事着工は一〇月四日であったが、道路位置および形態について付近住民より訴訟が起り、一〇月二六日、工事はいったん中止された。しかし、その後くり返し話し合いが行なわれ工事内容の一部変更が成され、住民の仮処分申請は取り消された。こうして工事も一一月二四日に再開されることになった。
五三年中で既設庁舎の一部および倉庫等の取り壊しは終り、五四年一月からは杭打工事に取りかかった。以後工事は順調に進捗し、五五年五月一五日の完成を迎えるに至った。
六月一四、一五の両日にわたり事務所の移転が行なわれ、より便利で親しまれる庁舎としての第一歩を踏み出したのであ
る。昭和一九年五月一日に「練馬派出所」が支所となったと同時に「石神井派出所」は「石神井出張所」となり業務を継続した。その後、二二年八月一日の区独立によって「石神井支所」となったが位置は当時の下石神井二―一二九六、すなわち現在の石神井庁舎のあるところである。
建物は木造瓦葺の二階建て、建坪九九・五〇坪、当時の価格で六三万円余のものであった。この時はまだ東京都の有する建物で、区に移管されたのは二四年一〇月一四日のことである。
土地は三並貞三氏からの借地であったが、三〇年一月九日、三並氏より二一八坪を九九万九九三六円で買入れたのをはじめ、三四年七月八日には豊田靏吉氏より五三〇坪、四二年二月六日には豊田保之亟氏より三四三坪余を買入れ、区有地となった。
四〇年四月一日、自治法改正により区の業務が大幅に拡張されたが、これにともなって石神井支所は「石神井庁舎」と名称変更、仕事も増え、庁舎改築の必要を生じた。
四四年九月一七日から一年間の工期で、鉄筋コンクリート、地下一階地上五階建て、四、五階を区民施設とする計画が着工されることとなった。建物延面積四二七一・〇六八㎡(
建物は四八年、五一年に一部に改廃はあったが、主建築物には異動はなく、敷地も四二年二月六日に一部寄付受入れがあった他は変動がない。現在の敷地面積は三六〇七・三一㎡(
桜台一―二二―一(
昭和四四年三月三〇日、株式会社東京ハウジングより九六二・三〇㎡(
早宮一―四四―一九(
昭和二四年九月二〇日、それまで都の所有であった現在の平和台三―二二―一一にあった木造瓦葺二階建ての建物を寄付された。この建物は明治四五年ころに新築され、昭和一二年ころに一部増築されたもので、三五年に取り壊されるまで使われていた。建坪は三五坪、敷地面積は二〇四坪であった。三三年三月に篠氏より新たに土地を買い入れなどし、三五年一月一二日、建坪三六坪の新築木造庁舎の誕生を見た。
その後、四八年一二月二五日、現在地(
北町二―二六
昭和四〇年一〇月一日に北町二―二一―四に土地を借り受け、同年一一月二二日、木造平家建て、一三・六三㎡(
現在のものは五〇年一二月二六日に大木氏ほか一名より宅地八九二・五七㎡(
貫井一―九―一(
昭和二四年四月一日、現在の中村北四―二―八の地に木造平家建て五七・八五㎡(
三四年三月三一日に建物は木造二階建てに改築され、敷地面積も七〇・九五㎡(
新築建物は鉄筋コンクリート、地下二階地上三階建て、延面積四七七二㎡(
春日町五―三〇―一(
昭和二四年九月二〇日、当時の春日町二〇六三―四および二〇六四―四の都有地(
その後三六年三月九日、誉田氏より宅地一一三・六八㎡(
土支田二―三二―八(
昭和三三年一二月一日、当時の土支田町九八九―一の土地に木造モルタル平家建て、六六・一一㎡(
これより先、四七年一〇月二九日、現在地を五十嵐山三郎氏より畑地二六四五・七九㎡(
旭町三―一一―六(
昭和二四年四月一日、当時の旭町五二七の土地四七坪を見米貞右衛門氏より借り受け、同日新築を見た木造セメント瓦葺平家建て、一三・五坪の建物が第六出張所の前身である。
同建物は三一年に取り壊され、同年五月二〇日に建坪一五坪の木造瓦葺平家建てに改築された。その後、四五年三月一日、現在地一三九〇・五四㎡(
田柄二―六―二二(
昭和二五年四月一日に当時の田柄町二―六四〇九の地を借り受け、延べ建坪一八坪の木造二階建てを使用したのが前身(
土地は三八年五月二七日に吉田富五郎氏より二三一・四〇㎡(
現在のものは鉄筋コンクリート三階建て、延面積一三〇四・〇二㎡(
なお土地は四六年七月三〇日に上野栄光氏より六五八・九八㎡(
高野台三―一―一〇(
昭和三二年三月三〇日建造の平家建て、三四・七一㎡(
現在、総合教育センター(
関町北一―七―一四(
昭和三四年一月二七日、当時の関町三―甲一〇〇の地へ木造モルタル平家建て、建坪二六坪の建物が新築された。土地は三四年三月二〇日付けで宅地として一〇三坪を菅忠義氏より買い入れた。建物は三七年にコンクリートブロック造りの書庫、三八年に木造モルタルの集会室を増築したが四六年に現在のものに移転。
四六年二月一六日、現在地の一部、三〇五・二五㎡(
現在一階部分を出張所、二階は関敬老館、三階は関区民館として使用されている。
上石神井一―三六四(
昭和三五年八月一日に田中市五郎氏より借り受けた土地にあった木造モルタル二階建て、建坪四九・二七㎡(
四七年三月三一日に改めて高橋威司氏より八三三・七五㎡(
現在一階部分に出張所、一階の一部と二階に上石神井区民館、二階の一部と三階に上石神井児童館が開設されている。
東大泉町八〇六(
昭和三五年一〇月一九日に加藤仙太郎氏より二九一万六五五〇円で買い入れた東大泉町五〇六の土地一六四・二三㎡(
その後四八年に現在地八七一・七二㎡(
現在東大泉区民館(
南大泉町八六九(
昭和三六年七月二五日、南大泉町七〇六―三の地七六二・九四㎡(
現在のものは四七年一二月七日、平野多治郎氏より一〇〇〇㎡(
大泉学園町二六七三(
昭和四四年一〇月九日、加藤新作氏より畑地六二一・二二㎡(
区民館
新しい住民サービスのあり方として、各地域に直結した多目的施設をつくり、住民活動の拠点としたいとする考えのもとに四四年度以降各種の施設が出張所に併設されることとなった。区民館もそのひとつで住民の学習や話し合いの場として重要な役割を果している。
最初に計画されたのは四四年度の石神井庁舎の改築および第六出張所・大泉北出張所の建設計画にともなう「区民集会所」としてであった。
翌四五年九月に石神井新庁舎が完成すると同時に石神井区民館も誕生し、一〇月一日に開館の運びとなった。以後今日まで合計一二の区民館を数えている。建物については「出張所」の項で触れているのでここでは各区民館が併設されている出張所名を記すに止める。
桜台区民館 桜台出張所
早宮区民館 第二出張所
春日町区民館 第四出張所
土支田区民館 第五出張所
旭町区民館 第六出張所
田柄区民館 第七出張所
石神井区民館 石神井庁舎
上石神井区民館 上石神井出張所
関区民館 関出張所
東大泉区民館 大泉東出張所
南大泉区民館 大泉西出張所
大泉北区民館 大泉北出張所
本文> 項> <項>児童から老人に至るまで広く多目的に利用できる施設として、五二年以降地区区民館の建設が進められ、区民生活の向上と地域住民の福祉増進に役立っている。日曜・祝日および夜間は地域住民に集会所として管理をゆだね、自主運営が可能な施設として親しまれている。
五二年五月一日に開設された豊玉北地区区民館以来五四年度末現在七館が誕生している。
豊玉北三―七
五一年度に計画され、翌五二年五月一日に開設された。土地は豊玉北三丁目都営住宅内で、公園面積七六〇㎡(
桜台三―四〇
五二年度に計画され、翌年度への継続事業となった。敷地面積一八〇〇・〇四㎡(
高松三―二四
五三年八月七日、鉄筋コンクリート二階建て、延面積一二七八㎡(
北町二―二六
五二年度に計画され、翌年度への継続事業となった。五三年九月四日、鉄筋コンクリート三階建て、延面積一二六一・八五㎡(
早宮四―一四―五
五〇年三月二五日、内田氏ほか八名より畑地一四九九・九九㎡(
貫井一―九―一
五四年六月二一日に現在の心身障害者福祉センターおよび第三出張所の建物が完成され、地区区民館もここに併設された。建物については「第三出張所」を参照されたい。内容はホール、レクリエーションホール、和室、浴室、図書室、学童クラブ室、会議室、準備室などであり、開設は八月一日である。
下石神井六―八
五一年六月一六日に保育園用地として、二六八七・〇四㎡(
練馬区の現代文化の発祥地とも言うべき公民館の建設は区の独立間もない頃からすでに日程にのぼっていた。
昭和二六年五月一日、蛭川英吉氏より当該用地として七七二八・九二㎡(
木造モルタル二階建て(
この間一方では母子寮建設への動きが盛んとなり、区では用地獲得に心血を注いでいたが、折から東京都との間に土地交換の話が持ちあがった。都の提供する豊玉南三―三二―一、九八九坪四六の公園予定地と、蛭川氏より買収した内の豊玉中四―一―一の土地八四二坪との交換である。区ではこの交換によって都からの提供地を母子寮に充てる考えをまとめ二八年三月一二日の区議会で了承された。同日公民館建設の具体案が可決、請負者との間に正式に契約が取りかわされることとなった。建築請負い金額は一九〇〇余万円に達するものである。
二八年一〇月一日、サロン、日本間、日本間控室、教室、会議室、講堂、調理室から成る公民館が開設される運びとなったが、これに先立ち、ピアノ、映写機、図書、机、椅子その他の備品、調度品費にあてるための費用五〇〇万円を一般区民から募金した。一〇月二〇日には予定額に達し、ここに区民と区が一体となって建設された公民館の誕生を見ることになったのである。
現在は当初の敷地内に練馬図書館の建設を見、なお四八年一二月七日には国からの土地譲与三二〇・六七㎡(
豊玉北六―九
社会教育施設拡充事業として、区立図書館の建設が日程にあがったのは昭和三五年であった。敷地は公民館用地として確保した一角一八五五㎡(
三五年度には地下室(
鉄筋コンクリート二階建て、一部地下の延面積九四〇㎡(
石神井台一―一六―三一
昭和四四年三月八日、現在地三四八六・七〇㎡(
平和台一―三六―一七
昭和四八年八月三一日、内田賢治氏より畑地一六九二・九〇㎡(
大泉学園町二二四五
大泉地区住民に対して図書、資料を提供する情報文化センターと成す目的で計画された区内第四館目の図書館である。
五〇年一二月二四日、加藤進氏ほか一名より畑地三三〇〇・一〇㎡(
関町三―八二〇
関町地区に図書館を建設する目的で現在計画中である。五四年三月三一日に大正海上火災保険株式会社より宅地二〇〇〇㎡(
谷原一―七―五
区民の体育およびレクリエーションの場を設け、同時に社会体育の振興を目ざす目的から計画された施設である。
昭和四二年一〇月二〇日、横山美恵子氏ほか八名から一万〇七四二・五㎡(
南大泉町三二五
青少年の文化的教育を高めるための施設として現在地に誕生したが、当初は「練馬青年館」と称した。
昭和三九年三月二四日、宅地一五九三・一二㎡(
春日町四―一六―九
四二年三月三一日、宅地一九八三・四七㎡(
熱海市下多賀一三四
区民の健康、文化向上に寄与することを目的として開設が計画された。
場所は熱海から、伊東線で一四分の網代駅で降り、徒歩三分のところにあった網代第一ホテル所有の建物に決定された。
四八年四月八日、土地一〇三九・九九㎡(
第一回目の利用者受付けが七月六日に練馬公民館において行なわれ、以後今日に至るまで広く区民に利用されている。
本文> 項> <項>埼玉県秩父市大字浦山三〇四
バンガロー六畳大三棟、同一二畳大一棟、テント六人用七張、管理棟、炊事場二か所、便所からなるキャンプ場で、働く青少年に保養施設を提供しようとする目的から開設されたものである。
四八年二月から五月にかけて神村産業株式会社ほかから山林・畑地・原野合せて二万八五七三・四二㎡(
静岡県下田市須崎一一七〇
区立小学校、四、五、六年のうち、病弱・虚弱児童の体力回復、学力の向上を目ざして、年間を通じ養護学校および夏期臨海学校として利用されるための施設である。
昭和四〇年三月二五日、伊豆急行株式会社より、現在地一万一二七四・二〇㎡(
その後四五年九月には木造の寄宿舎、五〇年五月には鉄筋コンクリート三階建ての寄宿舎が増設された。さらに五二年度には延面積四七四・九三㎡(
長野県北佐久郡軽井沢町大字長倉字借宿五四五六
小学校五年生、中学校二年生の生徒を対象に、高原の気候、風土、史跡および社会経済の学習を二泊三日の予定で行なうための施設として計画された。
昭和三九年三月九日、宅地九六九六・〇六㎡(
開設は四〇年五月一〇日。定員は一九〇名、施設内容は児童・生徒室、保健室、管理人室、食堂、浴室などである。
静岡県下田市須崎七三
臨海学校としては、先に建設された下田学園があったが、区内の生徒数が増えるにともない学園だけでは収容しきれない状態となった。そこで新たに臨海寮が建設されることとなる。
土地は四〇年三月二九日に二八一三・九一㎡(
長野県小県郡武石村大字上本入二四三八
良好な自然環境の中で学習と集団生活を行ない、児童・生徒の情操を高めようとする目的から計画された施設である。
土地は敷地面積六万四六二九・八五㎡(
鉄筋コンクリート三階建て、延面積三七〇四・六七㎡(
建築費六億八九五〇万円の建物が完成したのはその後五五年二月一日であった。内容は宿泊施設および体育館などである。
本文> 項> <項>石神井町五―一二―一六
区民の体育活動への認識が高まる反面で環境のよごれが目立ち、ことに川の汚染は深刻で昔のようにそこで水泳を楽しむという訳にはいかなくなった。こうした問題を少しでも解消したいとの考えからプール建設への動きが活発となった。
四七年三月八日、一万四七八九・八七㎡(
三原台二―一一―二九
石神井清掃工場地元還元施設として計画されたものである。具体的には近くの清掃工場でごみ焼却の時に生ずる余熱を温水プールまで送り込んで利用するという、省エネルギー時代と呼ばれる現代にははなはだ時宜を得たシステムといえる。
五〇年一月七日、畑地四五四〇・三九㎡(
向山三―一
練馬区の文化を象徴すべく建設された施設である。
五一年一一月二六日、二六一三・六四㎡(
純日本風な庭園で、自然に恵まれた地理的条件が生かされており、湧き水を利用した二六〇㎡(
貫井一―九
消費者への情報提供、消費生活相談、あるいは商品テストの実施などを通して消費生活の改善を行ない、また消費者意識を高め、広く消費者生活を推進させるための拠点として建設が計画された。
五三年度に開設される予定であったが工事が遅れ翌年度への繰越事業となった。建物は第三出張所、心身障害者福祉センターおよび貫井地区区民館が併設されており、概要は第三出張所で述べた。当センターは二階の一部五二七・〇九二㎡(
戦後の本区には多くの人口が流入するところとなったが、それにつれて建てもの建設の風景が至るところでみられるようになった。終戦からの立ち直りを象徴するかのような建設の槌音は物資不足の厳しい社会情勢下から湧き起り、資材統制が緩和されるに従っていよいよ高いものとなった。
図表を表示『練馬区政要覧』の二六年度版から終戦直後の建築状況がうかがわれる(
すでに「住宅」の項で触れたように、本区はベッドタウンとして発展してきた。こうした実情から建てもの総数のうちに占める住宅数が多いことは当然として、その割合はどの
程度に達しているのであろうか。『現勢資料編』五五二ページに用途別の建築物数(このような状況を抱えた本区での建築行政は、すなわち住宅対策にあったとみても誤りではなかろう。無計画な住宅建設から生じたスプロール化の問題、地価の値上がりにともなうミニ開発、建てものの高層化によって発生する日照問題など、今日では広く都市計画の一環として取り組まれることとなった(
現在東京都の二三区には建築基準法にいう、「特定行政庁」が置かれ(
いずれも建築主からの申請を待って行なわれるものであるが、本区内での二三年度中の件数は一二一一件で、以後三二年度の四三八五件に至るまでほぼ毎年上昇の一途を辿った。しかし三三年以降は下降期に入り、四二年から再び上昇に転ずる。この間の状況を二三区平均との比較においてみるなら図<数2>25数2>―7のようになる。
二三区平均数値は三〇年代を通して下降し、そのまま横這
い状態を保ちながら四〇年代を過ぎた。しかし、本区の動きは大きく異なっている。これは本区における建てものの大半が住宅で占められている事に関連しているものと思われる。都心区では三〇年代に人口の流入は止まり、以後の人口増はマイナスに転じている。しかし本区では四〇年代に至ってもなお増加し続けた。一方ではこの間核家族化が進行し、人口がマイナスに転じた都心区であっても住宅数は増加の傾向を示していた。本区の場合核家族化が進むのは四〇年代に入って、いわゆる木賃アパートが乱立し始めて以降である。人口の流入がなお衰えをみせず、一方で急激に核家族化が進行したことが四〇年代以降の動きとして表われているもののようである。 図表を表示 図表を表示建築確認には一般審査(
五〇年四月に東京都で行なっていた建築基準法による道路判定事務が区に移管された。これにともない、区では五一年度より五か年計画で私道実態調査にとりかかり、現在なお進行中である。これまでに施行された区域は表<数2>25数2>―9のとおりである。
また本区では住宅金融公庫を利用して住宅建築を行なう建築主に対し、公庫からの委託に基づき、設計審査申請書、現場審査申請書の審査を行なっている。最近の七年間における審査の受付状況を表<数2>25数2>―<数2>10数2>によって示しておく。
本区では建築法令に反する建築物について取締りを行なっているが、環境問題が広く区民ひとりひとりの問題として認識された今日では、より一層厳しい目が必要となっている。
本区には戦後多くの住宅が進出したが、こうした住宅建設に対する計画といったものは皆無であり、そのためスプロール化を現出し、土地の値上がりにともなうミニ開発を誘引することとなった。三〇年代から四〇年代にかけて違反建築物の建造が目立ち、また四〇年四月には都から大幅な事務事業の移管があって、建築行政の大半が区の仕事となった。違反建築取締り業務もそのうちのひとつであり、区では四一年二月一日、パトロール車による違反建築摘発に乗り出した。
画像を表示四〇年代を通して違反件数は目に見えて減少したが、今日なお皆無ではない。図<数2>25数2>―8に近年の違反件数と処理状況を示してあるが、四〇年代後半以降は横這いのままである。
違反内容の最近の傾向は建ぺい率制限に関わるもの、高度制限に関わるもの、および道路位置に関わるものなどが上げら
れる。このうち高度制限に関する問題については、五一年一一月に施行された改正建築基準法に「日影による中高層建築物の高さの制限」が加えられることとなり、いわゆる日影規制がスタートした。違反建築物の現出は付近住民にとっても迷惑である。とかく建築紛争を引き起しかねない。本区ではことに中高層建築物が建設され始めた四〇年代後半から建てものをめぐる紛争が絶えなくなった。こうした実情から四九年には中高層建築物に関する指導要綱を制定したが、日影規制が法定化された後は日照等に関わる問題を除いて新たに五三年一〇月、「練馬区建築物の建築に係る紛争の予防と調整に関する条例」を定め、建築紛争に対処することとなった。またこれより先の四七年一二月には建築紛争相談室も設けられ、弁護士、学識経験者、建築行政経験者による指導、助言が行なわれている。
本文> 節> 章> <章>昭和五四年四月一日現在区内には総延長八〇万七五六五mにおよぶ区道があり、これは二三区中では世田谷区の一〇三万八八三二mに次ぐ長大さを示している。区の面積が世田谷、足立の両区に次ぐ第三位であるところからこの数値は相応に高いものであることが分る。しかし区道の総面積についてみれば、練馬区は四〇一万三七二九㎡であり、世田谷、足立、大田区についで第四位、しかも第五位の江戸川区、三九一万三八七一㎡と大差ない位置にある。このことから本区における区道の実態をおよそ知ることができる。
図<数2>26数2>―1は二三区別の区道率(
本区は農業地帯としての歴史が古い。区内の道路は農業とともに生まれ、発展してきた。農業がすたれ今日見られるような市街地化が進むにつれて逐次道路の拡張、新設が行なわれるようになったが、なお旧態を脱し切れずに現在に至ってい
る。その第一の理由は急速な市街地化(昭和二七年九月の地方自治法改正によって区で管理すべき道路(
戦後東京都では首都整備事業の一環として道路の新設・改良事業に取り組むところとなったが、たとえば昭和二七年度を初年度とした「首都建設緊急五か年計画」そのものが財源の不備によって低調に終ったように、全体として事業推進上困難を極め、住民の意向が都に反映されなくてはならないという理想からは程遠い感があった。その後三一年四月に「東京駅を中心とし、半径五〇㎞を首都圏」とする新しい首都圏構想にもとづいた「首都圏整備法」が成立し、首都圏一〇か年計画が打ち立てられ、続いて三四年には東京でオリンピックが開催される(
三六年四月、それまで都道としてあった道路の五二%が区に移管された。引き続き四〇年四月にはさらに八〇㎞におよぶ都道の移管を見て、ほぼ現在の区道の原形を成すところとなった。その主要路線は六五を数えており、後に掲げる現在(
三〇年代後半からは砂利道に代って簡易舗装が普及されることとなり、また私道の公道化が推進されてゆく。以後四〇年代を通じて区道は着実に増えており、道路幅員もわずかながら増している。図<数2>26数2>―2は区道の延長と幅員の推移を示したものである。幅員が増しているとはいえ、冒頭で触れたように、区内の道路はあいかわらず狭い。図<数2>26数2>―3は二三区の区道の幅員状況を表わしたものであるが、四四年時点では足立区に次いで狭隘であったことがわかる。一〇年後の今日では平均五m近くまで達してはいるが、なお二三区中では低位である。もっとも周辺区は一様に狭く、本区だけの性格とは言い難い。
むしろ、練馬区の性格として言い得ることは私道が今なお多いという点であろう。図<数2>26数2>―4は二三区別の私道率を表わし
画像を表示 画像を表示 画像を表示 図表を表示 たものであるが、本区は二・九八%で第一位の座を占めている。私道はとかく放置されがちであり、都市計画上多くの問題を残すところとなる。またその整備については個人の負担も大きく、推進され難いのが実情である。こうした現状から本区では私道対策として、四六年三月三一日に「練馬区私道整備の助成に関する規則」を設け、私道整備事業を行なってきた。表<数2>26数2>―1はその実績内容である。 図表を表示一方、都市再開発問題に象徴される都市としての全体計画を見直す上からも、区は私道の公道化(
区内の道路はいわゆる農道から発展してきたものである。その農道も戦前と戦後の一時期に当時の中新井地区(
昭和二七年以降は特別区道として区で維持管理すべき道路が決定され、これに対応すべく区では舗装整備用の一〇トンマカダム型ロードローラを翌二八年に購入している。区議会においても道路に関する議事は活発に行なわれ、三一年三月一二日にはどろんこ道の解消について盛んなやりとりが見られた。この席上で当時の土木課長は以前の「九尺道」が建築基準法などにより四m幅を必要とするまでになった事、このための予算だけでも相当な財源を要する事、また舗装用の砂利がとても間に合わないなどの理由をあげ、今後どろんこ道の解消には何十年かかるか分らないと苦衷を訴えている。昭和三〇年代は区内の住宅事情が一変しようとしていた時期である。戦後の人口集中が都心区においてはすでにピークとなり、周辺区に波及しつつあった。練馬区にも年々住宅が増え、また区の方針としても住宅の増加は大いに歓迎されるところであった。緑地地域も徐々に解除され、今日みられる住宅区としての第一歩を大きく踏み出していた。とはいえ実情は区の方針よりもはるかに急激に住宅は建設されていたのである。
こうした状況の中で道路への関心は深まり、区としても年々事業の拡張に力を尽してきた。昭和五〇年代を通じて砂利道の簡易舗装化が進行し、一方では簡易舗装道の中級舗装化が着手されつつあった。簡易舗装道の標準は地表より一三㎝から
画像を表示 二〇㎝を掘り起し、底部に粒度調整砕石と呼ばれる石を置き、上部をアスファルトで固定した最も簡単な舗装方法であり、今日では主に四m幅以下の道路に適用されている。中級舗装とは地表以下三〇㎝から四〇㎝を掘り起し、底部にクラッシャ砕石をまき、その上に粒度調整砕石を置いてアスファルトを敷く方法で、今日では幅員四・五mから七mの道路に実施されている。またその後普及しつつある高級舗装については、地表から五〇㎝ないしは六五㎝程度を掘り起して、底部よりクラッシャ砕石、粒度調整砕石の順に散布して、アスファルト処理を二重に施した強力舗装のことをいう。図<数2>26数2>―5は四〇年代から今日に至る道路舗装状況の推移である。簡易舗装が四七年をピークにして年々減少し、かわって中級舗装が著しい伸びを見せている。これは簡易舗装道の中級舗装化にともなう結果であるが、合せて新設道路が当初より中級舗装道として完備されてゆく傾向にある点も見のがせない。また四五年以降は高級舗装が行なわれるようになり、主要道路には適宜実施を見ている。 画像を表示以上のように区道は近年に至って着々と整備されてきてはいるが、他区と比較した場合はどうであろうか。図<数2>26数2>―6は都心区である千代田区、副都心の新宿、さらに周辺区から江東、大田、世田谷、杉並の各区を選びそれぞれの区の状況と練馬区とを比較したものである。昭和四四年においては千代田区を除き、いずれも簡易舗装道が目立つが、中でも練馬区は杉並区と並んで全区道の七〇%以上を占めている。また砂利道は練馬区が最も多く、逆に高級舗装道はゼロである。一〇年後五四年には全般的に中級以上の舗装道が大幅に増えているが、練馬区は杉並、世田谷両区とともになお簡易舗装道が半数を占めている。
こうした状況の相違は交通量の問題あるいは道路幅員の広狭に大きく左右されるところであり、それぞれの角度から捉えてゆく必要がある。
本文> 節> <節>昭和三三年九月二六日正午、紀伊半島沖に接近した二二号(
二六日、区役所に東京都災害救助練馬区支隊が設けられ、仲町小・北町小・豊玉小および自衛隊への避難者に対し給食が開始された。午後八時災害救助法が発動され、約二万人の区民が付近の小・中学校、寺院などへ避難した(
戦後の復興期である二二年から二五年までの間に、東京都はカスリーン台風をはじめとする大型台風に毎年見舞われ、各方面の復興作業は困難を極めた。その後三二年までの七年間は比較的に風水害による被害も少なく、ひと息ついたかに見えたが、狩野川台風のあった三三年を契機に再び大きな台風の襲来を見ることとなった。表<数2>26数2>―5は戦後の東京都を襲った台風の四〇年代初頭までの被害状況であるが、三三年の三つの台風の後、三四年、三八年、四一年と毎年もしくは数年おきに、多大な被害をもたらした台風および低気圧が記録されている。
本区においてもこの間の被害は大きく、三八年八月三一日の集中豪雨時には北町・春日町・向山町(
本区はその地形上低地が多く、早くから畑地対策を主とした用排水問題が叫ばれてはいたが、昭和二〇年代後半以降は新たに人口の急激な集中という事情も加わり、各地に都市化を前提とした水害対策を望む声が起ってきた。こうした問題は区議会でも逐次取り上げられ、東京都への陳情が相次いで行なわれている。次にその一例を掲載する。(
意見書「請願書」
主 意
本区下石神井二丁目(
事 由
高燥にして清浄なる本区に多数の都営住宅が建築せられつゝあります事は現下住宅難緩和のためは勿論、本区発展の見地よりするも、誠に当を得たる措置と関係御当局に対し深甚なる敬意と感謝を捧げるものであります。
然し既に御高承の通り広大なる面積を有する本区は未だ下水道は完備せられておらず御当局の御明断に俟たねば区民の被る被害惨状は解決し得ぬものであります。わけても、下石神井二丁目都営住宅(
「茲に当区議会の議決を経て、地方自治法第百二十四条により請願書を提出する次第であります」
昭和二十八年 月 日
練馬区議会議長 梅 内 正 雄
東京都知事 安井誠一郎殿
都議会議長 斉藤清亮殿
(資料・「区議会議事速記録」)
資料文>本区に下水道が布設されるのは、昭和四二年以降であり、それ以前の区内における排水の便は公共溝渠(
本区への人口集中は四〇年代に入っても依然衰えず、河川改修事業はこの間幾度か軌道修正を加えたが、なお充分な効果を現わすまでには長い時間を要している。
図<数2>26数2>―7は四八年三月に本区から出版された「長期計画策定のための基礎調査・研究」による、昭和四六年時点の区内の河川、内水の浸水危険区域を示したものである。図によれば石神井川の流域がなお浸水危険区域を多く残し、町別にみれば関町北・石神井台・石神井町・富士見台・貫井・向山などが危険区域内に入っている。白子川では東大泉に、田柄川では錦にそれぞれ浸水危険区域が残されている。
画像を表示その後、今日に至るまでに白子川の護岸工事、富士見
図表を表示 図表を表示 池の石神井川洪水調節池化など大幅な河川改修工事が相次いで進捗をみているが、改修事業の詳細は「河川改修」において述べられているのでここでは省略をする。河川改修と並んで下水道整備の問題は水害対策上からも急務を要するものではあったが練馬区は都心区と比べて大幅に立ち遅れており、四二年に至ってようやく一部に導入された。以降年々普及されてゆく一方世論も急激に高まり、区議会においても四二年七月一一日の「ガス・上下水道誘致特別委員会」設置に引き続き、四六年七月九日には特に下水道を切り離し、河川問題と一本化した「下水道、中小河川対策特別委員会」の成立を見ている。下水道の普及状況も徐々に加速され(
こうした一連の施策が推進される一方、四〇年代後半以降は特に大きな台風の襲来も無く、水災による被害そのものは明らかに減少しているが、決して皆無という訳ではない。表<数2>26数2>―6・表<数2>26数2>―7および表<数2>26数2>―8はそれぞれ四九年、五一年、五三年に起った集中豪雨による被害状況である。この内五一年のものは台風一七号による被害で、九月九日未明から降り出した雨は四時間で一七〇㎜に達し(
本区には石神井川、白子川、あるいは江古田川(
昭和初年頃までにおける河川問題はまず農耕にまつわるものであり、田畑の用排水などに関する古くからあった問題をそのまま引き継いでいた。しかし、年を追う毎に東南部では都市化が進行し、河川の汚れも目立ち始め、特に水田の経営に影響を及ぼすこととなった。間もなく水田の畑作への切り替えなどが広く行なわれるようになり、また一方では田畑をつぶして宅地とすべく区画整理事業も進められた。こうした事業の中で水路の改廃が行なわれ、石神井川、田柄川などの河川も次第に手を加えられていった。
その後戦時下に入るとともに水路や河川の管理は覚つかなくなり、加えて戦災による破壊が続出し、水の流れない個所が至るところに見られるまでになった。また護岸などの荒廃も目立ち、一旦降雨に見舞われると溢水や決壊を引き起し、水害
対策上からも放置しておけない状態になっていた。戦後はこれら損傷個所の復旧から手が付けられることとなるが、当時の物資不足などの社会事情に加えて、二二年九月のカスリーン台風をはじめとする連年の大型台風による被害が重なり、改修事業は思うに任せない実情であった。
当時の河川の護岸状況を見れば、そのほとんどが自然(素)掘りのままであり、石積みなどによる不朽護岸は区内全体でわずか七四〇m、木柵等を入れても五㎞に満たない状態であった(
この間一方では都市化の波も急激に押し寄せており、住宅の建設が進むにつれて新たな河川問題が湧き起りつつあった。ひとつには生活排水の増大によって河川の汚れが著しく進行したことであり、もうひとつには低地に家が建ち並んだために水害時における浸水被害家屋が続出するに至ったことである。河川の汚れという点では千川がすでに致命的な打撃を被っており、戦後間もなく農耕は断念され、交通対策上の必要からも暗渠化が計画されて地上からその姿を消してゆくこととなった。水害時の浸水被害家屋の面では、石神井川の下流あるいは田柄川の沿岸等にその例は早くから見られ、ことに新興住宅地である石神井ハイツなどでは建設当初より問題とされていた(
世論のきっかけとなったのは三三年九月二六日の狩野川台風であった。狩野川台風については本編「水災」の項で詳しく触れられているのでここでは省略するが、以後の河川対策において常に教訓とされたのがこの台風であった点を見てもその猛威の程がうかがえる。
東京都ではこの年から河川改修事業を首都圏整備事業として取り上げ、三六年からは長期計画の一環として推進されるこ
ととなった。区内においてもそれまで行なわれていた河川改修事業に加えて、改めて都市化対策としての施策に強い関心が向けられることとなった。河川事業はとかく莫大な費用がかかりがちであり、都では当初より予算計上の上で苦慮していた。年々その額も向上しつつあったが、都市化の進行速度にはとても追いついてゆけない状況にあった。そこで国への働きかけを一層強める必要性を痛感していた。折から本区をはじめ周辺区市のことに変貌の著しい地域での都に対する期待は日増しに高まり、さまざまな折衝が行なわれ、三八年一〇月二九日「東京中小河川改修促進連盟」の発足を見た。当初の加盟団体は練馬・大田・世田谷・中野・杉並・豊島・北・板橋の八区と、武蔵野・三鷹・調布の三市、計一一団体であり、これらの区市が主体となって都とともに国への働きかけを行なってゆこうとするものであった。
連盟は毎年一回、関連区市の公会堂、区民会館などを利用して総会を開き、政府関係者、国会議員、都関係者等を招いて活発な意見のやり取りを行なっている。第一回総会は三八年一一月二八日豊島公会堂で開催され、以後回を重ねるごとに内容も充実された。加盟団体も第六回目には新宿・文京の二区ほか八市六町の新たな参加を得たのをはじめとして適宜増加し、五四年八月一日の第一七回を数えるまでに合計一一区二〇市三町一村の大世帯となっている。本区では五三年五月二五日に総合体育館で開催されたのが最初である。この時のスローガンとして「水害のない住み良い環境の実現」、「都市排水対策の促進」などが掲げられ、同時に五四年度の改修費を五〇〇億円以上計上するようにとの要望が行なわれている。
こうした連盟の活動は大きな効果を上げており、その後の河川改修事業の上で重要な役割を果してきた。なお連盟の名称は五〇年七月四日をもって「東京河川改修促進連盟」と改称され今日に至っている。名称変更については河川問題を中小河川に限らず大河川をも含め広域的に捉えてゆこうとする機運の現われを示している。
さて、右の連盟が結成された三八年、東京は八月三度にわたって強い集中豪雨に見舞われたことから、都では一〇月「中小河川改修緊急三か年計画」を策定し、河川の改修速度に拍車をかけることとなった。この時の集中豪雨は区内にも相当な
被害をもたらし、以後河川災害に対する世論は急激に高まった。翌三九年には「練馬区地域防災計画」が策定されたが、ここで問題とされている災害の第一は「水災」である。ちなみに四一年に修正された同計画には区内の水防警戒か所として図<数2>26数2>―8に示す通りのものがあげられている。図によれば田柄川、石神井川の沿岸に警戒区域を多く残しているが、その後田柄川は大がかりな改修工事が行なわれ、下水道導入とともに暗渠化されてゆくこととなる。河川対策への世論の高まりは区議会にも反映し、四〇年一〇月六日に「中小河川改修促進特別委員会」の誕生を見ることとなった。委員会では適宜河川の実態調査を行ない、具体的な対策方法を検討し、都に対して改修の立ち遅れている個所の早期着手と、より大幅な工事実施などの要望をくり返し行なっている。
折から四一年六月、東京地方は台風四号のためにまたしても多大な浸水被害を被った。都では復旧工事と合わせて、これまでの改修事業をさらに前進させるべく、翌四二年二月「東京都中小河川緊急整備計画」を策定し、四二年度より五か年計画で事業を進めることとなった。区内では石神井川などの工事が以後本格的な進展を見るのである。
四〇年代に入ると河川問題はその様相をさらに一変させる事態に立ち至った。年々進行していた河川の汚れが国で取り上げられ、水質基準が徹底され始めたことによる。区内の場合を見れば、最後の稲作地帯として残されていた白子川沿岸の水田が、四二年を境にその姿を消してゆくのである(
区内に初めて下水道が導入されることになった四二年を期して区議会には「ガス・上下水道誘致特別委員会」が発足した。以後下水道に対する期待は急速に高まり、河川を浄化させるためにも下水道普及は必至であるとする考え方が定着した。四六年七月九日には、こうした機運の下に区議会において、河川と下水道とを一本化させた「下水道・中小河川対策特別委員会」が誕生している。行政面においても四四年四月に新しく「公害対策課」が設けられ、また四六年には「公害測定
画像を表示 室」の設置を見た。以後河川汚濁は大気汚染と合わせて区内の公害問題として大きく取り上げられていった。河川の管理が強化される一方下水道の普及も徐々に広まり、河川改修工事も進捗を見るようになると、ようやく総合的な見地から将来の河川への展望が開けはじめた。四〇年代後半から五〇年代にかけて設計内容も一段と拡充され、これまで一応の整備を見ていた区域も降雨強度一時間五〇㎜の本改修へ徐々に移行され始めた。また下水道の導入によって将来は美しい水を流すであろう河川に対し、その景観の上からも河川敷などの設計には細心な配慮が施されるようになった。東京都では五二年度に「行財政三か年計画」が策定されたが、以後の河川改修はこの計画にそって行なわれている。
河川改修事業が今日に至る間にその姿を地中に没してしまった川や水路も多い。千川に引き続いて田柄川と江古田川(
千川はそのはじめ江戸府内を潤す六水道の一として元禄九年に開設された人工河川である。その後上水のみならず農耕用水としても利用されるようになり、むしろ区内においては後者としての価値が高かった。また水車を動かすためにも使用され、明治初年以降は工業用水としても利用されるなどその用途は広い範囲におよんでいた。
画像を表示しかし、大正から昭和のはじめにかけてその水はとみに汚れ、飲用水として不適当となったばかりでなく、徐々に水田用水としても問題が生ずるようになった。ことに日常捨てられるゴミなどは年々量を増し、川ざらいや河川管理の強化に務めてもすでに追いつかないありさまになっていた。加えて沿道の交通量もだんだんに繁くなっており、また橋も少
なく対岸に渡る時の不便さは付近住民の恨みの種になっていた。さらには幼児が川に落ちて死ぬなどの事故が重なるにつけ、ここに千川暗渠工事が着手される運びとなった。 画像を表示工事は板橋区より下流域はほぼ戦前に進捗を見たが、練馬区内は終戦後の混乱もあってしばらくは着手されないままであった。地元区民はこれを不服として二五年五月、工事促進の請願書を区議会へ提出、区議会ではこれを取り上げ都当局へ請願におよんだ。都では二六年度中に具体的な予算化がなされ、二七年三月二六日をもって第一期工事が着手された。工事は豊島区との区境から開始され、年を追う毎に上流部へと移って行った。図<数2>26数2>―9は工事の進捗状況を表わしたものであるが、四五年度にはほぼ全面的に千川は地中にその姿を没してしまったのである。
さて、千川管理権の問題であるが、冒頭で述べたように千川は明治・大正期を通じてその用途目的は多岐にわたるようになり、水利権者もさまざまであった。時代による紆余曲折はあるが、戦後にまで持ち越されたものに、東京都水道局、同建設局(
資料・1
事務引継書
昭和二十七年三月三十一日千川上水管理に関する事務別紙のとおり引継候也
昭和二十七年 月 日
元千川上水管理者
東京都板橋区長 渋 谷 常 三
新千川上水管理者
東京都知事 安 井 誠一郎
引継目録
千川上水路
自 北多摩郡保谷町玉川上水分水口
至 北区内 石神井川
延長 二二、〇五〇メートル
巾員 自五、五メートル 至一二、八メートル
一 付属工作物 壱弐
但し前記のうち北区滝野川二〇七七番地先分水点
下流地下施設物は各水利権者に於いて施設管理に属するものなり
以下略(焼失)
コラム>都では戦後、千川の特殊事情を考慮して、行政事務の能率化を図るため直接建設局で管理をすることとし、管理事務の取扱いは第四建設事務所長が行なう運びとなった。二六年一一月一日のことである。なお事務引継ぎは翌二七年三月三一日に行なわれている(
四一年六月、それまでの取入口を廃し、下流武蔵野市関前一二七七先(
しかし、翌四二年千川利用者のひとつであった六義園では、都営地下鉄の工事によって引水が不可能となり、以後は井戸水に切り替えた。その後善福寺池においても千川からの水が届かなくなり、現在では井戸水に頼っている。ここに至って長年月にわたりさまざまな経緯を見た千川の水利用の歴
史にも一応の終止符が打たれたもののようである。四四年四月には管理事務も、北区滝野川分水点より下流は大蔵省、同点より上流北区管内は第六建設事務所、北区・板橋区境より練馬区・武蔵野市境(
石神井川は、その源を小平市鈴木新田(
区内においては、関町北三丁目の溜淵橋より入り氷川台一丁目の城北中央公園南側を北東に抜けるまで、その延長一一・六五㎞におよぶ、長さ幅員ともに最大の川である。川沿いには古代人の住居跡が何か所かから発掘され、早くから開けていたことが知られており、また水田地帯としての歴史も古い。その水は明治・大正期を通じてなお農耕用水として重要な役割を果し、また水車を動かすための原動力としても利用されていた。
しかし、昭和期に入るとともに区の東南部では都市化が進行し、河川の汚濁も著しくなり、水田としての機能が果せなくなった。そこで水田を畑作に切り替え、排水路を整備し、また曲折の多い川筋をまっすぐに直すなどの大がかりな工事が行なわれた。これが昭和年代における石神井川改修事業の最初であった。
以後三〇年代に至るまで広く行なわれた改修工事のほとんどは、こうした耕地整理の一環として実施されたのである。
この間一方では都市化が急速に進行しており、住宅が増えるにともなって生活排水の量
を増し、また道路舗装が進むにつれて路面の吸水性も失われ、降雨期の瞬間的な増水が問題とされるようになった。折しも三三年に襲った狩野川台風が契機となって、石神井川も防災対策面から大きく見直されることとなった。三六年一月の都市計画決定にともない田無市富士見橋から隅田川口までが計画区間に織り込まれた。工事は隅田川口部より順次行なわれつつあったが、三八年の集中豪雨、四一年の台風と引き続き大被害に見舞われたことから、都では「中小河川改修緊急三か年計画」(これらの計画内容は一時間五〇㎜の強雨に耐えられることを目的としており、川筋は幾つかの区間に分けられ、それぞれの流量を考慮した上で川床の深さおよび川幅が設計されている。また工事は河口部の整備の都合から二段階に分れ、まず第一次計画から施行されてゆくこととなっている。区内の各区間における設計内容は表<数2>26数2>―<数2>10数2>の通りである。この計画を本改修と称しているが、本改修はあくまでも下流域より行なわれるため、練馬区内にさしかかるまでには相当な期間が経過するはずであった。そこで四二年の五か年計画が策定されるに当って、当面の応急処置が施されることとなった。これを暫定改修と言い、一時間に三〇㎜の降雨に耐えられることを目的とした。
暫定改修は翌四三年度より部分的に着手され、以後年を追って延長されてゆくこととなった。ただ豊島園内については本改修が予定され、四五年度には一応の進捗を見
た。図<数2>26数2>―<数2>10数2>は暫定改修の年度別施行状況である。五四年度現在なお進行中、あるいは未着工の部分が残されているが、近年中にはすべて改修されることとなる。またこの間に富士見池の遊水池が四六年度より整備され、現在は河川部分の工事が進捗している。 画像を表示一方、先に述べた本改修も四八年度には板橋区の東武東上線鉄橋付近までさしかかり、いよいよ練馬区内の一部が日程に上ることとなった。四八年六月六日、板橋区小茂根五丁目(
しかし本改修を実施するについては用地問題などを含んだ住民との話し合いが必要であり、都では同年七月二八日開進第四中学校で説明会を開いた。以後住民との交渉も頻繁に行なわれ、用地買収も適宜進められ今日に至っている。五四年度現在で工事はすでに羽根沢橋付近まで進行する予定であり、いよいよ区内での工事も本格化されようとしているのである。
一級河川としての白子川は、現在東大泉の七福橋から北側を言い、井頭公園を抜けて芝谷橋から和光市へ出、旭町三丁目付近で再び練馬区に接し、さらに北上して以後は板橋区と和光市との境を北東に流れ新河岸川に合流している。区内の延長は七福橋から芝谷橋の間六五〇〇mである。
白子川は練馬区内では最も遅くまで水田に利用されていた(
一方、両岸の宅地化は急激に進んでおり、三八年、四一年の集中豪雨時には浸水被害に見舞われる家も多く出て、今後の河川対策が改めて問題とされた。三〇年から四〇年にかけて行なわれた工事は平均川幅五・五m、深さ一・五mで、全体としても小規模であったところから、これを川幅八・五m、深さ三mの川に改修すべく新たな計画が立てられることになった。四二年に策定された「東京都中小河川緊急整備計画」による暫定改修である。これは埼玉県境より上流、泉橋に至るまでの区間の河川拡張とともに両岸をコンクリートブロックで護岸するというもので、四三年度より実施されることとなった。今日の白子川はこの工事によって作りかえられたものである。工事は芝谷橋から上流に向かって行なわれ、四九年度で予定区間の改修を終えた。図<数2>26数2>―<数2>11数2>は工事の進捗状況を表わしたものである。
ところで、四九年四月一一日付建設省告示第五六〇号によって一級河川の区域変更が行なわれ、泉橋から七福橋まで約六〇〇m区間が新たに白子川として延長されることとなった。また最近になって下水道普及にともなうより新たな改修事業の必要性が生じ、都は建設省および埼玉県と具体的な方法を検討していたが、ほぼ計画もまとまり、一部実施に移されることになった。計画は埼玉県の白子川改修に対する緊急性が低く、また用地買収に多くの経費と年月を必要とすることから、これまでの拡幅による工事をひかえ、洪水調節池と河川敷内の河積拡大を中心として行なわれるものである。図<数2>26数2>―<数2>12数2>はその計画の概要を示している。
五四年度は北大泉地区の調節池用地二万㎡の一部を買収する予定である。
画像を表示 画像を表示田柄川は明治のはじめに水田用水として引かれた人工河川で「田柄用水」あるいは「水道」などと呼ばれていた。現在は光が丘(
田柄川の改修工事は、戦前から戦後にわたり広く行なわれているが、いずれも耕地整理組合による農地対策事業の一環であった。これらの事業によって田柄川水域に開けていた水田は畑地となり、やがて宅地化されていったが、もともと湿地帯であったところに家が建ち並ぶこととなり、降雨時の家屋浸水被害が続出する原因となった。ことに川筋が大きく湾曲している自衛隊付近、あるいは錦一丁目付近は三三年の狩野川台風など集中豪雨があるたびに甚大な被害をこうむった。
当時の川幅は、平均三・六mの狭さであり、また河床も浅かった。護岸状況も悪く、ほとんどが土あげを行なっていた程度であり、一部に施されていた板柵も、増水対策としての効果は薄かった。そこで当面の応急対策として四二年度には北町五丁目(
一方、都では「東京都中小河川緊急整備(
四三年度には今神橋(
翌四六年九月からはいよいよ下水道としての田柄川幹線工事が開始されることとなり、ここに田柄川も地中にその姿を没してゆくのである。工事内容は鉄筋コンクリートの短形渠で最大五m×四・五mの大がかりなもので、以後年度を追って進められている。各年度ごとの延長および予算は表<数2>26数2>―<数2>11数2>のとおりである。
なお、区では緑化対策の一環として緑道整備計画が進められてい
る(昭和二八年七月二八日に制定された「練馬区公共溝渠管理条例」は「公共溝渠」について以下の通り定義している。
<資料文>第二条 この条例において「公共溝渠」とは、溝渠及び堤塘、護岸、土揚敷その他これに附属して一体をなす施設(
その実態はもともと農耕の便のために田畑の間に設けられた水路のことである。農業が後退するとともに本来の役割は失われてゆき、かわりに新興住宅から流される排水を処理するドブと変った。条例が制定されるまで在来下水と呼ばれていたゆえんである。
性格上、石神井川、白子川、田柄川等主要河川の流域に集中しており、特に戦前から戦後にかけて行なわれた耕地整理によって新たに整備し直されて今日に来っているものが多い。長年月の間にドブとしての機能さえ失い、地中に埋没されてしまったり、個人に占用されてしまうなど、その実態は把握され難く、かねてより実情の調査が懸案となっていた。
画像を表示五二年五月、区では一連の調査結果をまとめここに公共溝渠の全体が明らかにされた。図<数2>26数2>―<数2>14数2>は現在判明している公共溝渠を示したものであるが、石神井川、白子川、田柄川それぞれの流域に見られる碁盤目状あるいは梯子状の区域は、以前に行なわれた
画像を表示 耕地整理の名残りである。また往時は河川あるいは用水であったものが三六年四月以降公共溝渠として扱われているものに白子川の上流端(これらの溝渠もあるいは暗渠となり、あるいは道路となるなど人目につき難くなっている場合が多く、田柄用水のように暗渠でない部分もふたかけによって覆われているものもある。表<数2>26数2>―<数2>12数2>はこの実態を数字で表わしたもので、現在なお地表に露出している部分は三八六七・〇六m、全体のわずか三%に過ぎない。
画像を表示また、区では現在緑化対策の一環として緑道整備を行なっているが、公共溝渠はこの計画の中で生まれかわろうとしている。表中の緑道化というのがそれで、五五五五・八六mとなっているが、今後なお広範囲に進められてゆく予定である。
最後に二三区の公共溝渠の延長を図<数2>26数2>―<数2>15数2>に示しておくことにする。都心区ではほとんど皆無に近く、周辺区において多いことがわかる。また練馬区は農業が盛んであったとはいえ、水田が比較的少なかったこともあり、二三区中では七番目の位置を占めている。
昭和五四年度現在練馬区には一〇九の区橋と二四の都橋および三一の歩道橋がある(
区内では豊玉陸橋(
橋の歴史は河川の変遷と無関係ではなく、ことに区内の中小河川の移り変りは激しく、その都度新設あるいは改廃が行なわれてきている。図<数2>26数2>―<数2>16数2>は河川別に見た橋の改廃状況であるが、昭和三三年以降の二〇年間に石神井川・白子川それぞれの橋は増設されている一方、江古田(
こうした事情が大きく影響して、区内の橋総数は図<数2>26数2>―<数2>17数2>に見られるように減少の一途を辿っている。もっとも三〇年代後半から四〇年代を通じて、交通事情の深刻化にともない橋の新設も多く、その分だけ減少度は緩和されている訳である。
河川改修による影響は数の上のみならず、川幅の拡大にみあう橋長の面にも現われてくるのであるが、ここに交通量の増大という社会事情が加わり、橋の架けかえにともなう質の変化が生ずることとなった。図<数2>26数2>―<数2>18数2>はそのあらましを示したものであるが、二六年時点には約半数が木橋であったものが以後急速に姿を消し、三九年度では二三、五四年度には石神井川のつたや橋と栄橋の二橋を残すのみとなった。このふたつの橋も五四年度を最後に架けかえられるのである。
代りにコンクリート橋が大半を占めるようになるが、そのコンクリート橋自体も年々改良され、強度の備わったいわゆる鉄筋コンクリートとなる。一方橋の自重をより軽減し、その上頑丈さを誇る鋼橋の出現を見るまでになり、五四年度時点で区橋一二、都橋三の合計一五を数えている。
画像を表示右のような架けかえにより、橋の規模も増大した。二五年度で一橋当り平均橋長四・五九m、面積二一・二一㎡であったものが、三三年度には同じく平均四・九七m、二四・三五㎡となり、四三年度には九・〇三m、四四・七九㎡、さらに五三年度になると区橋だけでも一〇・九〇mの平均橋長に達し、面積は六九・〇三㎡となった。
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