第二十七章 電気・ガス
第二十八章 上下水道
第二十九章 交通・通信
第三十章 警察・消防
本文> <章>わが国の電気は、今から百余年前に生まれた。東京虎の門の工部大学校ホールで開かれた電信中央局の開業祝宴会においてアーク灯をともした時、明治一一年三月二五日のことである。この燃えないあかりは、明治一五年に庶民の前に姿をみせた。それは、翌年に創立された東京電灯会社の宣伝用のために銀座に二千燭光のアーク灯が建てられた時で、当時の銀座は、連日連夜、その明るさの魅力にとりつかれた人々で大賑わいであった。
東京電燈会社は、明治一六年二月に認可され、一九年末には麹町一丁目、日本橋南茅場町など五か所に火力発電所を建設し、翌二〇年から電気の供給を開始した。全国に先がけてのことである。しかしながら東京においても、一般庶民への電灯の普及にはかなりの時間を必要とした。費用が高価なものであったために、経済的にゆとりのある家庭でしか利用できなかったからである。その後、東京電燈株式会社、日本電燈株式会社、東京市電気局電燈部の三事業体による営業競争の時代(大正二~六年)を経て、大正一二年の関東大震災前後には、現在の二三特別区のほぼ全域に電灯が普及し終わることになった(
区内の地域に初めて電気がついたのは、大正二、三年頃のことといわれる。
大正七年には、上毛モスリン工場(
大正七年に駅の北側に鐘紡の工場ができた。その同じ年に中新井村に電燈がつくようになった。はじめの頃は一軒で一~二燈、多い家でさえ三燈であった。しかしそれまでのランプに比べれば明る過ぎてきまりが悪かった。
(
昭和に入り六年になると、改正電気事業法案が成立し、電気事業の国家統制が強められてくる。同一三年には、電力管理法、日本発送電株式会社法等が成立し、一六年には、配電統制令(
戦後の電力事業再編成は、GHQおよび政府の手によって押し進められた。昭和二三年、前年一二月に公布された過度経済力集中排除法の指定をうけた日本発送電と九つの配電会社は、解体、分割されることになり、翌二四年一一月には電気事業再編成審議会(通産大臣の諮問機関)が発足し、案が練られることになった。その後、策定された電気事業再編成法案・公益事業法案は、二五年四月二〇日に国会に提出されたが審議未了となった。そのため、GHQ最高司令官マッカーサーは吉田首相に九分割による電力再編成促進に関する書簡を送り、結局、その要請に従って同年一一月に電気事業再編成令・公益事業令(ポツダム政令)が制定をみた。
こうして翌二六年五月、全国九つの地域に、発電、送電および配電を総合的に行なう九電力会社(
次に掲げる陳情書は、二三年六月に練馬区議会議長から関東配電社長に提出されたものであるが、当時の本区の電気事情をうかがい知ることができる。
<資料文>陳 情 書
主 意
貴社豊島支社豊島営業所練馬出張所及上板橋出張所(練馬区に属する区域のみ)竝阿佐ケ谷支社管轄石神井出張所及石神井関町出張所の区域を以て左記事由に依り速かに練馬営業所を新設せられたし
事 由
当練馬区は既に御高承の通り戦時中其の惨害を蒙ること殆んどなく戦時中より引続き特に終戦を契機に急激なる人口の膨張を招来し近々数年にして人口十数万を算する商工農綜合高度都市の形態を整へるに至り遂に昭和二十二年八月一日板橋区より分離独立致した次第であり現に月数千に及ぶ人口増加を示し今や区勢は一大飛躍せんとして居る現状でありますが、区勢の発展竝に区民の実生活に最も密接不可分の関連性を有するところの配電関係機構の現状は全く弱体にして当区内の実情を調査するに出張所のみ設置とあり加ふるに昭和二十二年十月貴社における機構改革に伴ひ従来出張所扱の検針関係は営業所に移管せられ出張所にては単に小工事及び補修を処理するのみとなり更に区内を二分し豊島支社阿佐ケ谷支社の二支社の両系統に管轄を分離せしめおる上、上板橋出張所(板橋区内及同区接続地区の練馬仲町土支田町練馬北町三丁目区域を包含する)の如きは板橋区内にあり之が為同一区民にして屡々不均等なる便益を亨くるが如き事象発生する外一般区民を始め区勢振興の基盤たる工業界方面の蒙る不利不便尠なからず之に基因する実害実に莫大にして区勢の伸張発展上一大支障を招きつゝある実情であり、加ふるに貴社におかれても既に練馬営業所新設を計画せられ之が建設せられる敷地も区内官公衛街商工街中心地たる練馬警察署脇に選定せられある趣を仄聞するについて如上実情篤と御賢察の上速かに主意の通り区内各出張所区域を以て練馬営業所を新設せられたく茲に当区議会の議決を経て陳情致す次第であります。
昭和二十三年六月 日
練馬区議会議長 上 野 徳 次 郎
関東配電株式会社社長殿
資料文>本区全域の発電・変電・送電・配電などの電気事業をうけもつ、東京電力練馬支社が誕生したのは、昭和三九年一〇月のことである。
練馬支社(
東京電力の事業内容は、①国民および各種産業への電力供給業務、②電力需要に応じた発電、送電、変電、配電設備の建設と保守管理、③上記二項に関連した地域サービス等が中心といえるが、区内の支社および各SS(
主な内容は、電灯電力の新増設の申込、電気料金収入、配電施設(
図<数2>27数2>―1は、昭和五四年三月末現在の使用電力量とその構成比を表わしたものである。家庭用・公共用の比率が高いところに、本区のベッドタウンとしての性格の一端を知ることができる。なお、現在と一五年前の配電設備状況を比較すると左
のとおりである。 <資料文> 画像を表示配電設備状況
四〇年 五五年
電 線 三、七三七㎞ 六、一五四㎞
変圧器 八、九二二個 一七、七八三個
電 柱 二六、三四三基 三九、二五二基
引込線 一三九、五八九口 二三〇、五六九口
(
区内には現在、九つの変電所(
明治三年一〇月、高島嘉右衛門ら九名は、社中(
東京におけるガス事業は、東京会議所が東京府知事の許可をえて開始された、明治七年一月、同会議所は横浜のガス燈建設に当ったペルグラン技師を雇用しガス燈建設に入った。ガス街燈は京橋以南金杉橋までの間に竣工し、同年一二月一八日、東京に初めてガス燈が点火された。
その後、東京会議所の廃止に伴い、ガス事業は東京府が
明治期のガスは燈火用が中心であったが、明治三〇年に、東京瓦斯会社が一般家庭の炊事用として普及を図る方針を決定して以後は、燃料用としての需要も次第に高まりをみせるようになった。
一方、ガス燈の強敵であった電燈が、タングステン、オスラムなど金属線電球の発明によって改良が加えられ、料金も安くなると、大正四年をピークとして燈火用としてのガス需要は漸減していくことになった。これに対して燃料用ガスは、次第に供給事業の中核を占めるようになる。
戦後における都内のガス事業は、戦災による営業施設、生産および供給施設の焼失、荒廃等のため惨憺たる状況下で再出発をした。しかし経済の復興とともにガス需要も増加をはじめ、昭和二七年には、需要家件数の点でこそ戦前におよばなか
ったが、ガス消費量においては戦前の最大消費量を追い抜くまでになった。その後、二八年からはじまる東京ガスによる五か年計画(その後、本区の都市ガス普及率(
本区を管轄する東京ガスの営業所としては、四三年一一月一日に開所された練馬営業所(
家庭燃料として日常生活に欠くことのできないものとなったガスは、長い間、石炭を原料としていたが、昭和二七年からは、これに加えて石油によるガスの製造も開始された。下って昭和四四年になると、東京瓦斯、東京電力の共同でクリーンエネルギーといわれるLNG(
天然ガスの熱量(一万一〇〇〇<数4>kcal数4>/
図<数2>28数2>―1は二六年から五三年までの都水道配水管延長の状況を表わしたものであるが、三〇年代後半までほとんど進展がみられない。しかも三七年に一部の本管が敷設されるまで本区内には本管は無く、すべて小管のみであった。従って二〇年代から三〇年代にかけての上水道利用者はわずかな人々に限られており、二六年時点の利用世帯数は一九三三世帯、全世帯数の六・八%に過ぎない。残りの九三%余の人々は井戸水に頼っていた訳である。
本区内の水道は当時の砧村の水源池から昭和三年に引水された荒玉水道の、その後の拡張から一部に給水され始めたもので、荒玉水道は昭和七年の市郡合併により東京市水道の一環となった。
東京都では戦前と戦後に都市計画による水道事業の大幅な拡張工事を行なっているが、戦前のものを第一拡張事業、戦後のものを第二拡張事業と呼んでいる。第一拡張事業計画は多摩川を水源とし、村山貯水池および境浄水場の新設を加え、合わせて既設の淀橋浄水場を通じ、人口三〇〇万人に対して一日四八万
本区では主に第二拡張工事が完成されるまで、上水道の利用は極限されていたのである。表<数2>28数2>―1は二九年時点の都水道
の給水系統であるが、本区は砧上および杉並系統から一部の恩恵を受けていた程度である。特に杉並系統は地下水利用であって、利用者の不安はぬぐい去れないものがあった。 画像を表示水は生活から切り離せないものであることはいつの時代でも同じである。本区に上水道が普及されるのはほぼ四〇年代以降である。それ以前には地下水利用が大半であった。戦後の本区内への人口集中は目をみはるものがあり、ことに三〇年代は加速度的に増加している。こうした人口増大にみあう水道設備が整っていない以上、住民は井戸を掘って利用する以外に方法は無かった。個人による掘削もあったが、団地あるいは集住区域ごとに井戸を掘り、いわゆる専用水道とした例が三〇年代には多い。表<数2>28数2>―2に本区の専用水道の一覧を掲載しておく。その設置年月をみると、三〇年代が圧倒的に多い。これらの専用水道が都の上水道へ切りかえられてゆくのは四〇年代後半なのである。
こうした地下水依存の方法にはおのずと限界があり、水位の低下あるいは井戸枯れという現象を引き起した。図<数2>28数2>―2は
図表を表示 画像を表示 図表を表示 図表を表示 昭和八年から四三年に至る間に井戸枯れを生じた井戸件数の度合いを示したものであるが、中村北、羽沢、南田中町(現南田中)の六六・七%をはじめ井戸枯れの進行は全区域に及んでいる。 画像を表示 画像を表示三八年一〇月二五日、本区議会では「ガス水道誘致特別委員会」を設け、ガスとともに上水道の普及を必至のものとして、都へ働きかけることとした。上水道の本管がようやく前年に一部(
東京都ではその後の利根川系事業(
……現在の道路側溝に汚水排除をいたしておりますが、これは区民の一応常識となっておるのでございますが、しかしながら法的におきましては、あくまでも道路法に基づいて、道路溝渠の保全が目的であるのでありまして、汚物掃除法によっての公共溝渠の施設は全く顧られておらないのであります。
しかし、都にいろいろ陳情いたしますると、都はこのことにつきましては、水道局下水課で改良下水を逐次普及させておるという、かような説明で、一応のけりをつけられるようなおそれがあるのであります。当区といたしましては、下水道普及まことに結構でありますが、現在の二三区におきまして、これを一応統計を見ますれば、二割程度の普及しかしておらないのであります。今後三〇ヵ年計画は立てられましても、これを待っておることは、まことに、それはできないのでありまして、ゆえに暫定的で結構でありますから、下水道のつなぎ仕事として、地元の下水、いわゆる溝渠施設をぜひともつくっていただきたい……
(
右は昭和二七年一〇月二九日の練馬区議会における一議員の発言記録であるが、本区の当時の下水道事情の一端をうかがい知ることができる。
古くから農業地帯として発展してきた本区は、戦後もなお石神井川、白子川、田柄川の流域に多くの田畑を有し、依然産業の中心はこうした田および畑作であった。一方徐々に進行しつつあった都市化の波は、戦後の引揚げ者をはじめとする人口流入が著しくなると共に急激に区内をかえていった。空地には次第に家が建ち、民家のみならず都営住宅などの団地が相次いで建設されてゆくが、増え続ける需要にはとても応じきれるものではなかった。区では区成立当初よりこうした事情に対応すべく緑地解放運動への機運が湧き起りつつあったが、年を追う毎にその動きは活発になった。
戦後の本区はこのような背景の下に一方では産業対策上の農地問題を抱え、もう一方で住宅問題を引き受けるという、互いに共存し難い課題を背負って出発したのである。その現れは戦前に引き続き行なわれた耕地整理であり、区画整理である。前者により区内の主要河川に沿う田畑地帯には新たな農道と水路とを設け、後者によって住環境の整備を行なおうとするものである。
それぞれの工事は一部着工され、あるいは進行しつつあったが、この間も住宅は急激に増えた。その進行の速さはあらゆる公共事業の進展する速度を上回り、ここに住環境をめぐるさまざまな問題が露呈してきたのである。下水処理問題はその一典型であった。
当時、便所はすべてが汲み取り式であり、生活排水はそのまま家の傍へ放流されるのが普通であった。その水はある場合には土地が吸収し、ある場合にはドブを伝って付近の水路や河川へ流れ込んだ。道路上に自然のドブができ、それを利用していることもあった。住宅が建ち並び始めてもこうした状態は長い間続いていた。道路に側溝がある場合にはそれが下水の役目を兼ね、一部下水用に作られた溝もほとんどが地上を掘り起しただけの素掘りであった。
自然蚊や蠅の発生は至るところに見られ、悪臭に悩まされるという衛生上の問題は絶えなかった。住宅が増加するにつれて生活排水の流量も増え、河川の汚濁も目に見えて進行する一方豪雨時の水害の遠因を成す恐れさえ出始めた。河川の汚濁は田畑への影響となって現れるようになり、やがて皮肉にも耕地対策のために築造された新水路までもが下水として利用さ
れるに至るのである。表<数2>28数2>―3は昭和二五年時点の区内の下水状況であるが、これらの数値のほとんどはもともと水路であったものがやがて下水として利用されるに至ったものであり、在来下水ということばはこの間の事情を踏まえて使用されている。生活排水をめぐる諸問題がいかに早くから論議の的となっていたかについては、区成立間もない当時の区議会における活発な意見のやりとりからもうかがえる。また排水処理施設の築造を望む請願書も多く、その内の何点かが区議会で取りあげられ、都へ提出されている(
昭和二五年七月一〇日、東京都では戦前に計画され、一部施行をみたままで長年放置されてきた、旧東京市下水道・旧郊外下水道・旧隣接一二か町下水道の三計画を一本化し、新たに「東京特別都市計画下水道」の決定をみるのであるが(
表<数2>28数2>―4はその概要を示したものであるが、計画に
よれば区域面積は荒川以西の区部三万六一五五<数2>ha数2>、計画人口六四〇万人におよぶ大規模なものでありながら、練馬区は都心に近い東南部の端を除いて大部分が現地調査中であるとして計画からはずされていた。また六系統の内本区に関連する小台・落合それぞれの処理場は森ガ崎共々新たに用地買収から取りかからねばならない状態であった(右の計画は二八年一〇月一二日の事業決定および執行年割認可(
一方、下水道導入のためには緑地が解除され住居地域への指定替えが先決であったため、区では当面緑地解放へ向けて全力を注ぐこととなる。戦後の二〇年代は国をあげて復興事業が盛んな時期であり、東京都でも二五年の「首都建設法」の制定をみるといよいよ活発な復興計画が打ち出された。下水道事業も重点施策として当初より組み込まれていたが、事業資金調達に困難を極めていた。二七年一〇月、地方公営企業法が発足するとようやく事業としての目途も立ちここに大事業計画が日程に上ることとなった。
三〇年代になるといよいよ都市化は急激に進み住環境整備を望む世論も高まった。こうした世論を背景に三一年四月に「首都圏整備法」が誕生し、大幅な復興計画の見直しが計られるようになった。河川の汚濁も著しく、一方し尿処理問題もようやくゆき詰り、下水道に対する期待はことに強いものがあった。三三年の下水道法の制定をみると翌三四年一二月、都は「下水道本部」を設置した。
練馬区をはじめとする周辺区の変貌の著しさが注目されはじめたのもこの頃からの事である。都としてもようやく当初の計画を抜本的に検討し直す必要に迫られつつあった。こうした機運の中で東京都市計画審議会は三五年三月「東京都市計画河川下水道特別委員会」を設置し、当面の河川汚濁と下水対策問題を調査させることとなった。同委員会は翌三六年一〇月都知事に対して次のような報告書を提出している。
<資料文>東京都市計画河川下水道調査特別委員会委員長報告
報 告
本特別委員会は昭和三十五年三月二十八日開催の本審議会において調査を付託された事項につき、慎重審議をいたしました結果、市街地における下水道促進および河川汚濁の現況にかんがみ、下記のような措置を講ずべきであるとの結論に達しましたので報告します。
昭和三十六年十月十七日
東京都市計画河川下水道調査特別委員会
委 員 長 伊 藤 剛
東京都市計画地方審議会 会 長
東京都知事 東 竜 太 郎 殿
記
(資料:「東京の中小河川」東京都建設局)
資料文>文面に見られる通りにすでに久しく下水として利用されるに至ったこれらの河川を、改めて下水道幹線として計画に盛り
込もうという主旨である。区内では田柄川がそれに該当し、以後この案は徐々に具体化され今日の暗渠化につながってゆく。田柄川は、もともと農耕用の水路として切り開かれた川であった。戦後もなおこの沿岸は重要な農業地帯として残されていたが、押し寄せる都市化の波には勝てなかった。沿岸に家が建つようになると用水は徐徐に生活排水を流すどぶ川と変り、また豪雨時にはあたりの民家を浸水させ、多大な被害をおよぼす川となった。 図表を表示他の主要河川についてもほぼ同じことが言える。白子川、石神井川両河川の沿岸も三〇年代を迎える頃にはほとんど農耕不能となり汚濁も目立ち始め、大雨による被害も三三年の狩野川台風以降はことに多くの浸水家屋を数えるまでに至っている。もはや下水道導入問題は急務の的であるという風潮が区内にもゆき亘りつつあった。
折から東京都では二五年以来の計画を大幅に改正させる準備がようやく整ってき、三六年一月その改正案が庁議で議決された。新計画は二三区全域が対象とされ、人口は九五〇万人、四八年を完成目標とするものであり、
ここにはじめて練馬区全域にも下水道が導入される目途がついた。処理場も六か所から九か所に拡張され、区内においては対象外であった全域が新河岸系統に吸収されることになった。この計画は三九年二月の「都市計画決定」を経て事業化されることとなるのであるが、その概要を表<数2>28数2>―5および図<数2>28数2>―6によって示すことにする。 画像を表示一方、設計内容も前出の特別委員会の答申を受け、降雨強度を四〇㎜/hから五〇㎜/hと強化すべく検討が加えられた。三七年四月には下水道局が発足し、いよいよ事業態勢が強化されることとなった。
四二年一二月二六日に旭丘と豊玉の一部に下水道が敷設されたが、計画決定以来すでに三年余が経過しており、事業進捗上必ずしも楽観は許されないとする声が高まった。一二月の導入に先立って、区議会ではそれまであった「ガス水道誘致特別委員会」の中へ下水道を加えることを決定し、七月一一日新たに「ガス・上下水道誘致特別委員会」を発足させ、都に対する働きかけを強化することとなった。また、現状調査を行ない住民の意見を反映させるとともに今後の計画の細部に亘って研究し
てゆく態勢がここに整ったのである。以後年を追う毎に中新井幹線、練馬幹線、田柄川幹線など次々に工事は着手され、一応の進捗を見るようになった。下水道告示区域も年々広がったが、そのあらましは『現勢資料編』五八二ページに示す通りである。
しかし、一方で練馬区への人口集中は四〇年代に入っても依然衰えず、区では一刻も早い計画達成を都へ訴え続けていた。加えて河川の水質問題が取り上げられると下水道への期待は必至のものとされ、これまで以上に工事の速度を速める必要性に迫られた。
水質汚濁問題は東京都においても日増しに深刻さを増していたが、都内全域に水質基準がゆき亘るなど一連の公害対策問題が注目されるにつれて、下水道の既設区域に対する拡充とともに未設区域への計画見直しが新たな論議の対象となってきた。とは言え、都の財源には限りがあり、またひとり練馬区のみを優先させる訳にはいかない。これらの事情を踏まえて区では前出の特別委員会が中心になって、同条件の下に苦慮していた世田谷区などと共に都の関係者と善後策を協議していた。四五年暮に至って下水道工事の一部を区で受託するという協定書が取り交されることとなった。四七年度をもって実施に移される運びとなったが、その内容は以下に示すとおりである。
<資料文>公共下水道建設事務の一部委託に関する基本協定書
昭和四十七年四月一日
甲 東 京 都
代表者 東京都公営企業管理者
下水道局長 西 脇 晋 一
乙 東京都練馬区
代表者 東京都練馬区長 片 健 治
(資料:土木部提供)
資料文>工事はあくまでも幹線は都で行ない、区側では枝線を受け持つこととなっているが、とかく交通事情あるいは既設埋設物との関係もからみ遅れ勝ちであった工事に多少なりとも明るい見通しが立つようになった。一方都下水道局ではそれまで三河島にあった第二建設事務所を四七年五月二五日付けで練馬区北町に移し、城北地区を重点施策のひとつとする姿勢を打ち出した。
図<数2>28数2>―7は練馬区および二三区の下水道普及率であるが、本区の四七年以降は平均五・六%の伸び率を示している。しかし、五四年度時点においてなお区内の五二・〇%という数値は今後に大きな課題を残して
いることをも表わしている。近年下水道は河川対策問題と深い関り合いを持ち、水害の無い美しい川の現出にも大きく貢献しつつあることは広く知られており、本来の目的である汚水・し尿処理と合わせて一〇〇%実施は一日も早く望まれるところである。 画像を表示五〇年一〇月に行なわれた「区民意識調査」においても「下水道」に対する関心がいかに深いものかがうかがわれる。二、三の例を引いてみると「解決への要望が高い生活環境問題」として首位に「物価対策」があげられ、全体の二六・三八%の指示を受けており、次いで「下水・ドブ」の一九・〇九%となっている(
下水道の普及にともなう処理区域の拡大により、各家庭では私道の排水設備および宅地内の水洗化工事が行なわれるようになった。トイレの水洗化は下水道法で定められた義務であるが、工事にはある程度まとまった資金が必要である。このため都では四二年度より私道排水設備助成、四六年には水洗便所助成の制度を発足させ、一定の条件の下に工事費に対する助成を行なうことになった。
さらに区では、区民の負担を軽減し、水洗化をより促進させるために、四八年「練馬区私道下水道排水設備の助成に関する規則
(また、五二年には、生活に困っている家庭(
右の制度で区は利子の二分の一を助成しているが、非課税世帯に対しては全率の援助を行なっている。
表<数2>28数2>―6は私道排水設備工事にともなう区の助成状況であり、表<数2>28数2>―7は水洗便所改造助成および表<数2>28数2>―8は融資あっ旋の場合の利子助成状況である。注目すべき点は表<数2>28数2>―8の融資あっ旋の執行件数である。あっ旋を受けるための主要条件が撤廃された五四年度において、前年度に見られる件数の約四倍近く増えており、区民にとって水洗化への移行が必ずしも容易な問題ではないことを示している。
図表を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示 本文> 節> 章> <章>高度成長期を通じて都心部への業務機能の集積が急速にすすみ、労働力需要の増大により東京の人口は急増し、いっそう過密化した。しかし、こうした人口集中は昭和四二年を境に「社会増」(
人口拡散の波を年次的にとらえてみると、三〇~三五年段階でもっとも高い増加率を示したのは一〇~一九キロ地帯であったが、三五~四〇年には二〇~二九キロ圏に集中し、四〇~四五年には三〇~三九キロ圏になり、しだいに外周部におよんだ。四五~五〇年も三〇~三九キロ圏の増加率は三〇%にせまって最も高く、さらにその外側の四〇~四九キロ圏も二〇%台の高い増加率を示している(
こうした後背地人口の拡大にともない、都区内の輸送需要は増え続けており、いまでは交通機関の利用者は、一日あたり二三〇〇万人(
区部二三区の昼間通学者(
他県からの流入人口を県別にみると、埼玉県が六六万一〇〇〇人で最も多く、ついで神奈川県の六四万八〇〇〇人、千葉県五〇万三〇〇〇人と続き、この三県で二三区内へ流入する人口の七五・三%を占めている。
画像を表示 図表を表示区部外からの流入人口を四五年と比較すると都下市町村が六万八〇〇〇人増、他県が四二万二〇〇〇人増と、他県よりの流入者が圧倒的な増加を示している。とくに埼玉、千葉、神奈川の隣接三県がそれぞれ一〇万人を超す増加を示すとともに、さらに遠隔の茨城、栃木、山梨県などからの流入も増加しており(
一方、区部二三区内に常住して区部外へ通勤・通学する者は、三二万九〇〇〇人となっており、都内二三区を中心とした流入・流出人口は、合わせて実に二七四万人にものぼっている。これが朝・夕のすさまじい通勤・通学ラッシュをもたらしているのである。
練馬区の流入・流出人口のうごきをみると、夜間人口五五万九六六五人のうち通勤・通学者として本区外へ流出する人口は一七万九六三九人、逆に他地域から練馬区へ流入する通勤・通学者は六万八二九七人(
本区の昼間人口予測では、五五年以降ゆるやかな増加基調にあることを示しており、新たな輸送需要の増大が予想されている。西武池袋線や新宿線、東武東上線といった既存の鉄道整備による輸送改善を図るほか、新しく地下鉄の導入が図られ、昭和五七年の完成を目途に工事が進められている。一方、バスは区内にあってこうした鉄道につぐ大量公共輸送機関として重要な役割を果たしており、その効率的な運行が期待されている。しかしモータリゼーションの進展ともあいまって道路混雑が激しくなり、交通渋滞による運行効率の低下に悩まされている。このため道路混雑の緩和と効率的な運行のため、輸送効率の高い整備、改善が求められている。
練馬区をとりまく交通網および交通機関の状況、区内の道路状況と路面交通、大量輸送機関の利用とその混雑度、地下鉄の導入など本区の交通現況をみることにする。
本文> 節> <節>本区の道路網は、北東から南西に貫通する環状七号線をはじめ、東西を貫通する放射六号(
ただ、図<数2>29数2>―2で示すとおり、都市計画道路の未整備によって十分な機能を果していない現状にある。道路交通の混雑、交通渋滞の慢性化、騒音・排ガスなど自動車公害の深刻化、それに伴う生活環境の悪化と交通事故の危険性など、また細道路による防災上の問題など、さまざまな交通問題が顕在化してきている。
東京都では、このような状況に対応するため都市計画道路の再検討をすすめている。すなわち都市防災の強
化、都市機能の確保、地域環境の保全、都市空間の確保を基本目標として計画道路の見直しを行うとするもので、本区においても都の動きにならい、地域の特性を生かしながら道路網整備の検討が行われている。 図表を表示「住みよい街づくり」をはかるには、なんとしても、その基盤となる道路網の整備が不可欠のものになってくる。幹線道路、補助幹線道路、住区幹線道路、区画道路など性格的位置づけを明確にして道路の段階構成を工夫するとともに、秩序ある市街化と生活環境の保全を図らねばならない。区画整理等の街路整備の状況をみると、土地整備が行われた地域と、それ以外の地域とは際立った対照をみ
せている。土地整備の行なわれていない地区では、農道がそのまま道路に転用され、こうした細道路や曲りくねった道路に、自動車が流入し、生活環境の悪化と交通事故の危険性をもたらしている。歩道のないバス道路や災害時の緊急対策上から、道路の不足する区域も区内には数多く分布している。今後の市街化傾向をふまえ、道路整備の促進が要請されるところである。東京都区部における公道(
三三年から五四年にいたる練馬区内公道の延長数と面積の年次別推移(
つぎに道路の幅員別、延長数および面積の年次別推移(
区議会では、こうした隘路打開のため関係機関へ積極的に働きかけている。つぎの要望書は、富士街道の道路拡幅にともなう改修事業の促進をはかったもので、生活環境の保護や交通安全対策上から、また防災上の見地から道路整備の実施を求めるものであった。
道路の拡張整備に関する要望は、練馬区独立当初より行なわれており、練馬区の緊急課題であったわけである。練馬区議
会は、そうした道路の幅員狭小改善と整備、新設道路の具現を求めて、何回となく関係機関への意見書、要望書、請願書を提出している。そのいくつかを次に掲載しておく。 <資料文 type="2-29a">都道八号線(通称富士街道)の改修事業促進に関する要望書
提出年月日 昭和五一年四月三日
提出先 東京都知事
提出者 練馬区議会議長 楠 直正
都道八号線(通称富士街道)は本区にとって重要な道路でありますが、道路幅員は狭隘であり、交通安全対策上問題の多いのが現状であります。
都におかれては、この現状を認識され、昭和四九年度までに、保谷市境から石神井台六丁目までの改修事業により道路環境整備を実施されましたことは区議会としても深く謝意を表するものであります。
この改修事業については引続き、石神井台六丁目から同一丁目の都道四四四号線交叉点(石神井中学校交叉点)までの事業化する計画が示されておりますが、この計画の立案にあたっては、地元関係者への万全の対策を講ぜられた上、事業を実施されますよう要望いたします。
さらに、都道 四四号線交叉点から谷原交叉点までの区間についても石神井公園駅を擁し、交通が交錯して歩行者が危険にさらされており、また、この道路が震災時の避難道路になっている現状も考慮し、交通安全対策ならびに防災的見地からの改修事業を早期に実施されますよう強く要望いたします。
府道第二二八号線幅員拡張に関する請願書
上程年月日 昭和二三年二月二八日
提出先 東京都議会議長 石原 永明
提出者 練馬区議会議長 上野徳次郎
主 意
府道第二二八号線の内練馬区自下石神井二丁目一七八六番地至東大泉町四三二番地先の道路幅員二間を左記事由に依り速かに四間に拡張されたい。
事 由
当練馬区は昨年八月一日独立区として新たに発足し全区民は商工農綜合都市として将来又文化都市として育成発展に全力を傾注してゐるのであり、特にこれが開発の基盤をなす道路交通の現状は原始的不整備の域を脱せず、あまつさえ戦時中以来幹線道路を始め各路線悉く荒廃するに任せられて区民の不利不便尠からず、速かに之を充実整備することは区民年来の宿願であることは申すまでもなく、殊に本区内の道路は概して幅員狭隘なる悪路で諸車の交通に支障尠からず、就中府道第二二八号線の内練馬区自下石神井二丁目一七八六番地至東大泉町四三二番地先の道路の如きは東大泉、下石神井方面を連結し、中野方面へ出る管内中最も主要道路なるにも係らず幅員僅かに二間(三・六四米)にして起点部分である、石神井駅附近のみは、戦前幅員三間乃至四間に拡張せられ、当時本区間も拡張の計画のところ戦争に災せられ中絶し、現在に至ってゐる実情である。本路線は東西南北大泉町地内及隣接保谷町、片山村等の農耕者の農産物を或は肥料
の輸送路として欠くことの出来ない重要道路であって、自動車の交通の場合に於ては牛馬車は一々待避個所を見つけて待合せねばならず、この間非常な危険及び労苦と時間の浪費を余儀なくされ、延いては現下農産物の増産早期出荷等の要請にも多大なる阻害を来しおる状態に鑑み、速かに本路線の拡張整備されんことを切望して止まぬ次第であります。茲に当区議会の議決を経て地方自治法第一二四条に拠り請願致します。
都市計画路線変更並道路築造に関する請願書
上程年月日 昭和二五年七月二八日
提出先 東京都議会議長 石原永明
提出者 練馬区議会議長 小口政雄
主 意
当練馬区管内の都市計画補助路線の一部位置変更と共に当該道路築造を速かに実現せられたい。
理 由
府県道七〇号、七八号、二一八号、二七七号、二九九号の五路線が旧軍飛行場設置に伴い、遮断の運命にあった。現在では其の区域を更に拡張され、成増グラントハイツ敷地(進駐軍用住宅)となって囲い込みされていることは之れ又周知の通りである。
終戦以来を数えても既に五か年、道路交通系統は乱されて通過道路としての使命は全く失われている。
換言すれば、幅員狭小(道中二・七三―五・五米)な頗る時代離れをした府県道が迷路のまゝ存在すると言うも敢えて過言でない事実である。
因って、其の被むる処の苦痛は街路の代用さるべきものゝない農業地域だけに特に著しいので、地元有志は種々画策する処があったが、昨今の経済状態では改善の打開策も空しかった。
先般告示された都市計画補助線一三四号線の実現の暁は先に列挙した障碍五路線を略〻集約的に代用するとも思われる。誠に結構な必要線である。然し遺憾なことは路線の一部が進駐軍住宅地内を通過する関係上、これが実現の見透しは極めて困難な実情にある。
待望の道路実現促進のためには、添付図面に記する如く前各既設道路(何れも幅員九米)を利用せられ一日も速かに路線の位置変更と共に、これが築造に御理解と絶大なる御援助を得て交通の不便を解消して行きたい。
本件に就いては、先に区長名を以て陳情懇請致した処であるが、既設路線の修理に重点がおかれ、新設拡張は見送られた。然し本件の如きは修繕すべき道路が中断と共に無くなったのである。是れ程辛き実情を忍んできた。今般都市計画路線の告示を好機とし、此の線より当局の深い御同情を得て速かに新設道路の具現を図りたく茲に本区議会の議決を経て地方自治法第一二四条に拠り請願致します。
道路拡張に関する意見書
意見書「請願書」
主 意
府県道第二号(特別都市計画街路幹線)線道路幅員一一米を二五米に拡張せられたい。
事 由
本路線府県道第二号(放射第六号)道路は東京、青梅間を結ぶ重要路線にして本区の西南を東西に貫通し其の交通量は戦後富みに増大、一般通交諸車及、駐留軍の立川・東京間を往交する自動車等の頻度は誠に驚歎に値するものであります。
而し乍ら本路線は杉並区内迄道路幅員二五米に完成されて居りますが練馬区内は在来通り一一米の狭隘な幅員でありますので此の為警視庁調査に依りましても年間に生ずる大きな事故だけでも二〇数件に達し交通保安上誠に憂慮に耐えないものがあります。尚当地域は最近殊に発展地として利用度が増し、住宅の建設戸数及人口の増強は想像に余りあるものがあります。
従いまして本路線の重要性を了とせられ既定計画通り幅員二五米道路に拡張整備せられます様、茲に当区議会の議決を経て地方自治法第九九条第二項により意見書を提出する次第であります。
茲に当区議会の議決を経て、地方自治法第一二四条により請願書を提出する次第であります。
昭和二八年三月一二日
練馬区議会議長 梅内 正雄
東京都知事 安井誠一郎 殿
都議会議長 斉藤 清亮 殿
放射第六号路線拡張整備方に関する意見書
意見書「請願書」
主 意
放射第六号(特別都市計画街路幹線)線路幅員一一米を二五米に拡張せられたい。
事 由
標記に謂う路線は昭和二八年一月二六日付をもちまして貴議会に対し之が拡張施行方請願したる処、二八年度においては、施行不能なる貴建設局よりの回答に接し善処方の御努力を賜っていたのでありますが、既に一ケ年を経過本路線の交通頻度一段と増大し益々其の拡張の必要性に迫られ再び請願致す運びと相成った次第であります。試みに前回議題に基く事由を別紙の通り添付し、速やかに本路線拡張整備方御配慮賜はり度く当区議会の議決を経て地方自治法第九九条第二項により意見書を提出する次第であります。
当区議会の議決を経て地方自治法第一二四条により請願書を提出する次第であります。
昭和二九年二月二六日
練馬区議会議長 井口 仙蔵
都 知事 安井誠一郎 殿
都議会議長 佐々木恒司 殿
資料文>現在、練馬区において都市計画決定されている道路は、図<数2>29数2>―2に示すとおりである。これを「都市計画道路の整備状況」(
一方道路の舗装状況(
自動車保有台数は経済活動の活発化につれ、また国民所得の向上等により増加の一途をたどっている。しかし保有台数の増加につれて都市の機能は重大な脅威を受けるようになった。昭和二九年を初年度とする第一次道路整備五か年計画以来、つぎつぎに道路の新設や拡幅に積極的に取組んだ結果、それがかえって大量の自動車を都心とその周辺に呼び込むこととなり、混雑と環境の悪化がさけられなくなってきている。
練馬区の自動車保有状況は、人口増加とほぼ対応して増加傾向をみせている。表<数2>29数2>―5は、区内における全車種の自動車
図表を表示 図表を表示 保有台数を、昭和四〇年から五三年にいたる年次別推移で示したものである。 図表を表示昭和四〇年において、登録自動車総数二万一六一一台であったものが、五三年には一二万一〇五二台を数え、その間五・六倍の増加となっている。とくに高度成長期のピークに当る四三年~四五年の増加は著しく、対前年増加率が二〇・四%~一九・〇%を推移し、この時期に際立った増加を示した。ところが景気にかげりをみせはじめる四六年、四七年にはやや増加が落ち込み、四八年の石油ショックを境に増加率が急速にダウンし、四九年四・八%、五〇年二・五%、五一年七・〇%と微増にとどまっている。五二年は景気回復の兆しを背景に、需要が増大して一二・二%の増加率となったが、五三年は再び微増にとどまり、また省エネルギーの影響をうけて、軽二輪車・小型二輪・原動機付自転車の伸びが著しい。それぞれ順に一九・一%、二〇・八%、一八・七%の高い増加率を示している。
こうした登録自動車台数の年次別推移をみて、各年次により伸び率に高低がみられるものの、逐年漸増していることがわかる。とくに乗用車は四〇年に普通車と小型車を合わせて一万〇六五九台であったものが、五三年には八万〇四七八台となり、
図表を表示 実に七・六倍の伸びを示した。他車種に比べて乗用車の著しい増加が特徴的である。全車種自動車の増加五・六倍に比べて、この乗用車の伸びは大きく、増加率において年々増加の傾向にある。四五年以降は他車種に比べ、際立った増加率を示し、しかもこの乗用車のほとんどが自家用であり、産業用、業務用から、通勤用、レジャー用といった一般家庭向け需要のモータリゼーションの進展をうかがわせている。このように区内の自動車保有台数は、マイカーを中心に急激な増加を続けており、これが道路交通量の激増を生み、道路の整備の立遅れから道路交通の需給がいっそう不均衡になってきている。
つぎに交通量についてみよう。都内の主要交差点一四六か所における一日当り(
練馬区内の主要交差点における一日交通量の推移(
区内の交差点では、目白通り豊玉交差点がとびぬけて多く、一日当りの交通量が四八年の一一万一一九一台をトップに、四六年以降平均八万台を推移している。区内においては環状七号が最も激しい交通量であることがわかる。次いで放射七号の谷原五差路、同じく放射七号の豊玉北六丁目(
先に触れたように区内交差点にみる交通量は、ここ二年間総じて漸増傾向を示すが、数字の上ではさして大きな増加はみられない。しかしながら東京都首都整備局の昭和六〇年時点の交通量予測では環状八号、外郭環状および放射三六号が完成しているものと想定し
て、区内の環七、放射八号、放射七号、放射六号の容量不足が著しく、環七、放射八号で、実用可能容量の一〇割以上、放射七号で七割以上、放射六号で四割強のオーバーフローとなることを予測し、また環状八号もほぼ満杯の状況であり、もし外郭環状線ができなければ環七、環八の過負担はさらに大きくなるとされている。環七については、環状六号線上に計画されている首都高速中央環状線も、多少その負担を、軽減するものと考えられが、放射七号については関越自動車道と連結することによって、さらに負担が増すことが予測されている。こうした道路交通量の激増に対して、道路整備の立遅れが目立ってきている。交通処理能力の遅れは、やがては渋滞となってあらわれてくる。主要な幹線道路から道幅の狭い生活ゾーンへの自動車の乗入れであり、そこには勢い交通事故の発生要因が生じるとともに、大気汚染、騒音など生活環境の悪化をもたらす結果となろう。とくに本区では南部の東西方向と、中央部の南北方向の交通量が多く、早急な対策がのぞまれる。道路率を引きあげて道路を供給するばかりではなく、不要な車の増加を抑え、道路への重圧を軽減する交通手段の選択も同時に要請されるところである。
本文> 節> <節>都内のバス事業は、陸上交通事業調整法に基づいて都営バスおよび民営バス九社が、それぞれの事業圏をもって輸送にあたっている。
練馬区内を運行するバスは、公営の都バスのほか、民営の西武バス、国際興業バス、関東バス、京王バスの四社であり、その路線は六七系統にのぼっている(
区内を走るバスは、西武池袋線、西武新宿線、東武東上線といった鉄道輸送につぐ大量輸送として、いわばこれらの補完交通機関として大きな役割を果たしている。とくに、鉄道ターミナル駅と結び、区内の南北交通を担っている。しかしモー
図表を表示 タリゼーションの進展、道路の不整備等が相乗して、慢性的な交通渋滞を引きおこし、バスの運行に大きな影響をおよぼしている。バスは区民の足として通勤、通学、買物など、住民の生活交通手段として利用度は高いが、交通渋滞の激化に伴い運行速度の低下をきたし、これがバスの定時性の確保を妨げる結果となり、区民のバス離れを助長している。したがってバスの輸送人員は伸び悩みの状況にある。 図表を表示現在、その対策として昭和四六年の運輸政策審議会答申に基づいてバス輸送改善対策を策定し、バス輸送力の改善、バスの定時性確保による信頼性の回復、バスの乗り継ぎ機能の強化が図られている。とくに区内にあってはバス路線網の再編成、練馬駅・石神井駅前広場の再開発等によるバス、鉄道の乗り継ぎという、他の交通機関相互の有機的連携が計画され、ターミナル機能の増大が期待されている。
バスの運行状況をみると、鉄道輸送に比べて輸送人員は総じて減少をたどり、路面交通のゆきづまりをみせている。バス輸送の隘路打開のため、昭和四六年一二月一日から路線バス運行の優先が制度化され、都区内に優先レーンや専用レーンの指定路線が設置されたほか、専用道路を設けてバス運行の円滑化がはかられている。
区内における優先レーンは制度化された当初、まず青梅街道、川越街道の一部に設置され、翌四七年七月一五日には目白通りの一部が加えられた。
画像を表示「青梅街道(
「川越街道(
「目白通り(
つぎに区内の専用レーンの指定路線をあげると、「放射七号線・関越国道」側道を設定区間とし、道路幅員二〇mの上り方向〇・一二㎞に、終日設定している。この専用レーンは四六年一二月二一日から開始された。
専用道路は「大泉学園通り(
つぎに区内のバス事業、都営バス、西武バス、国際興業バス、関東バス、京王バス各社の練馬区内における運行の現況をみよう。
区内を走るバスの運転系統数は昭和五四年八月現在、六七系統であるが、都バスの六系統を除いてすべて民営の事業圏下にあり、とくに西武バス、関東バスの路線系統数が際立って多い。
図表を表示西武バスの区内における運転系統数は二五路線系統(
車両数や輸送人員は四一年~四三年をピークに、逐年、減少傾向を示しており、最盛時の四一年度年間輸送人員が四五五六万人であったのに対し、五三年のそれは二九九八万人に減少している。走行キロ数においても、最盛時の四一年度一〇〇八万㎞に対して、五三年度の年間走行キロ数は五八一万㎞に減じた。これはモータリゼーションの急速な進行と道路の不整備、市街地のスプロール化がバスの運行に大きな影響をもたらした結果といえよう。バスの運行速度の低下、不定時性が区民のバス離れとなってあらわれてきており、その信頼性回復に努めている。
したがって従来の都心に向かう遠距離路線もおいおい改められて、四三年九月一九日石神井公園駅~東京駅間の運行を廃止したのを皮切りに、しだいに都心から撤退して四五年には、都心乗り入れ系統は皆無となった。現在では循環ないしは近距離輸送に切り替えられている。
区内における西武バス大泉営業所・練馬営業所は、近距離輸送区内サービス強化のため、四二年一一月三〇日には大泉営業所を現在の上石神井営業所(
関東バス路線は一九系統が運行されており、西武バスについで多い。区内で運行される運転系統(
営業区域は城西地域に延び、とくに国鉄の三鷹駅、西荻窪駅、荻窪駅、阿佐ヶ谷駅、高円寺駅、中野駅といった中央線の主要各駅と、区内を東西に貫通する西武池袋線の大泉学園駅、石神井公園駅、中村橋駅、練馬駅、江古田駅や西武新宿線の武蔵関駅、上石神井駅など各駅を南北に結ぶ大量輸送機関として、大きな役割を果たしている。
表<数2>29数2>―9は、昭和三〇年度から五三年度に至る五年毎(
運転系統数においても、また走行キロ数や輸送人員においても四〇年度をピークに、ここでも減少が目立っている。交通渋滞による運行速度の低下、定時性の困難さからバス輸送機能の低下を余儀なくされている。バス利用者の流動に対応したバス路線の大幅な再編や合理化が行われ、車掌要員の不足と輸送力強化の面からワンマン路線の拡充がすすめられ、輸送効率の高い運行がはかられている。
区内で運行される当社路線バスの運転系統は、表<数2>29数2>―7に示すとおり、一六系統が運行されている。とくに西武池袋線の石神井公園駅、桜台駅、練馬区役所(
つぎに国際興業バスの区内における走行キロ数および輸送人員の年次別推移(
中央線中野駅と西武池袋線練馬駅を結ぶ一系統のみ、区内で運行されている。一日当りの運行回数は一四〇回、区内にあっては関東バス中村橋~阿佐ヶ谷駅間の一五八回につぐ運行回数になっている。区内にお
図表を表示 図表を表示 図表を表示 ける京王帝都バスの年次別運行回数は、表<数2>29数2>―<数2>13数2>に掲げるとおりである。三〇年以降路線の改廃がすすんでいることがわかろう。四八年の中野駅~練馬駅間一五五回、練馬車庫~中野駅間(往)一六回・(復)三一回をピークに、しだいに減少傾向を示している。 図表を表示表<数2>29数2>―<数2>14数2>は、京王帝都バスの区内営業路線の走行キロ数の五年毎の推移である。四五年を頂点に、ここでも漸減していることがわかる。一日平均の乗車人数は、五四年において七二七八人となっている。
本文> 節> <節>練馬区内の交通機関は、鉄道ターミナル駅と結んで区内の南北方向の輸送を担う都バスおよび民営四社による六七系統のバス輸送と、東西方向の輸送を担う私鉄の三路線である。
東武東上線は大正三年(
首都圏における人口のドーナツ化現象の進展につれて、沿線をとりまく後背地人口の急増により、西武鉄道・東武鉄道の旅客輸送量は年々増加の傾向を示している。このように増大する輸送需要に対処して、運転間隔の短縮や車両編成の長大化
など輸送力増強策が積極的にとられているが、既設路線ではすでに頭打ちの状況にあるといえよう。こうした中にあって、区内では五七年秋の開通を目途に、新たな路線の敷設工事、営団八号線の地下鉄工事が現在すすめられており、その分岐点である向原(つぎに練馬区内における鉄道輸送、西武池袋線、西武新宿線、東武東上線、営団地下鉄の現況についてみることにする。
都心部における中枢管理機能の集積、それにともなう人口集中により周辺部にある西武鉄道沿線の外延化が年毎に進んでおり、これが都心部と周辺部を結ぶ通勤を主体とする輸送需要の増大に拍車をかけている。
画像を表示西武鉄道では昭和五四年度の輸送人員が延べ五億五五三一万人、一日平均の輸送人員は一五二万人(
練馬区を東西に走る池袋線および新宿線は、副都心池袋・新宿と首都圏西部地域を結ぶ多量輸送の動脈となっている。
営業路線は、池袋を起点として吾野までの池袋線(
練馬区をみると、区内各駅(
区内各駅において最も乗降車人員の急増が目立ってきたのは、人口増の激しかった昭和三〇年代から四〇年代にかけての時期であった。区内各駅の一日平均乗降車人員、定期・普通別の推移(
さて、ここにみる乗降車人員とは、乗車すれば必ずいずれかの駅に降車するところから、乗車一人降車一人で数えられ、したがって利用者一人につき乗降車人員は二人という表示になっている。西武鉄道における五四年度一日平均の利用者は一五二万人、乗降車人員は三〇四万人の表示となる。本区内の駅別一日平均乗降車人員をあげると、江古田駅六万七〇〇六人、西武全線八八駅中の順位は第七位にある。桜台三万三一〇四人、順位は二六位。練馬四万六六四〇人(
ところがこうした主要駅において、ここ数年利用客の減少が目立ってきた。五年前の比較はすでに記したとおりであるが、対前年度(
つぎに列車運行状況についてみよう。昭和五四年度の車両走行キロ数は九二九三万㎞、一日平均車両走行キロ数は二五・四万㎞を示し、一〇年前に比べて約一・五倍にも達している(
走行キロ数には列車走行キロ(
それは輸送力増強に際して列車本数の増発がこれ以上のぞめず、したがって運転間隔の短縮がすでに限界にあることを意
味するとともに増強の主力はこの車両の増結、いわゆる車両編成長の増大に依存していることが、車両走行キロ数の年次別数値の伸びで読みとれよう。とくに朝のラッシュ時の輸送緩和策として運行密度を増すことが期待できない状況の中で、西武鉄道では逐年車両増結をはかり、昭和三八年一一月一日には他社に先がけて池袋・所沢間に私鉄最初の一〇両運転の実施をみている。新宿線では西武新宿・新所沢間に五〇年六月二日に運転された。以来車両編成の長大化が続いており、またそれにともないホームの延長や施設の拡充が行なわれている。 画像を表示五三年度における最混雑一時間の列車編成両数は、池袋線(
表<数2>29数2>―<数2>15数2>により区間混雑率の推移をみると、ピーク時の区間通過人員は池袋線、新宿線とも年を追って増加を示すが、輸送力(
西武鉄道では抜本的対策として、池袋線において五七年秋の開通を期して地下鉄8号線の相互乗入れを行う工事がすすめられている。だが通勤・通学は片道輸送であって特定の時間帯に集中し、他の時間帯は乗車効率が悪く、落ち込む場合が多い。表<数2>29数2>―<数2>15数2>にみえる混雑度はラッシュ時に比べてかなり落ち込みを示して八〇%台を推移し、定員を割る乗車効率になっている。輸送力の増強にともない本格的な車両増と設備拡充が図られても、大半が特定の時間帯以外に遊休化する問題もあり、私鉄が抱える公共性と企業性という二律背反的な面の悩みは大きい。
画像を表示車両数と冷房化率の推移(
西武鉄道では五二年度~五六年度における第五次五か年計画を策定し、輸送力増強および旅客サービスの向上につとめており、初年度には新宿線上り準急一〇両化を新所沢・西武新宿間に実現した。またホーム拡幅や構内改良も行ない、同年には練馬駅構内の整備も行なわれた。策定ではホーム
東上線は、池袋駅・寄居駅間七五・二㎞を結ぶ路線で、本区の北縁部を東西方向に走っている。大正三年(
第一次世界大戦後、異常な物価騰貴のあおりを受けて路線運用の営業費がかさむところとなり、経費の節減や車両の効率的運用、諸設備の改善など合理化が求められた。東上鉄道は、創立当初から東武鉄道とは密接な関係にあったところから、
大正九年(沿線周辺の開発にともない路線も延伸し、大正一四年(
沿線周辺の急速な都市化によって東上線の輸送人員は年ごとに増加を示している。本区に関係深い区間成増・池袋間(
この時期が成増・池袋区間沿線の最も激しい人口急増期であったことを裏付けている。とくに定期輸送人員の伸びが著しいことから、この地域が都市部集中型の流動特性を示す典型的ベッドタウン化であることがわかる。四一年以降オイルショックの四八年にかけて、年間輸送人員は八〇〇万人~四〇〇万人増と、三〇年代後半の伸びに比べて増加数が鈍化しはじめ、低成長期を迎えた五〇年代には二〇〇万人増と低く、また逆に対前年比が一〇〇万人減(
つぎに東武練馬駅における一日平均乗車人員の推移(
五三年度同駅の一日平均乗車人員は二万七六八三人、対前年比は一四八人減とはじめて減少に転じている。高度成長期の三五年~四五年における急増に対して、低成長期を迎えた五〇年代は微増から横ばい、そして減少を示している。それは沿線後背地人口の外延化にともなう変化とみられ、東武練馬駅以遠の沿線各駅は着実に増加しつづけており、東上線全体の輸送需要は年々高まってきている。したがって遠距離輸送も年ごとに輸送人員を増し、池袋・坂戸間(
つぎに東上線列車運行状況についてみよう。表<数2>29数2>―<数2>17数2>は、昭和二五年度から五二年度における列車走行キロ数お
よび車両走行キロ数の推移をあらわしたものである。列車走行キロ数は各列車が走行したキロ程の累計であり、車両走行キロ数は各車両が走行したキロ程の累計である。表で明らかのように列車走行キロ数の伸びに対して、車両走行キロ数の伸びが著しい。それは輸送力増強に際して、列車の運行本数がすでに過密であって多くを期待できないことから、車両の増強という車両編成の長大化によって増強された事情によるものであろう。こうした車両編成長による車両走行キロ数の伸びにもかかわらず、最混雑時における輸送状況はいぜんとして緩和されていない。
図表を表示表<数2>29数2>―<数2>18数2>は、東上線池袋・北池袋間のピーク時および終日の輸送状況を、三〇年度から五三年度にいたる年次別推移を示したものである。ラッシュ時の混雑率は、四〇年度の二六二%を最高に五二年度二一四%と高い混雑率(
東武鉄道では、その抜本的解決策として東上線志木、和光市から営団地下鉄<数2>13数2>号線への乗り入れ、さらには8号線とも一部で接続がはかられており、これが完成すれば混雑はかなり緩和されることになる。朝のラッシュ時には二六二%~一九六%の高い混雑率
を示す反面、この時間帯以外の時刻には定員に満たない状態になっている。終日の混雑度をみると四五年以降定員の六〇%台を推移し、定員を大きく割る乗車効率であることがわかろう(人口拡散にともなう周辺部の外延化により、年ごとに職住の距離が遠ざかっている。都心部への求心性はいぜんとして強く、輸送距離も長距離化の傾向をみせており、しかも既設鉄道路線を中心とした集中型交通体系から朝夕のラッシュを招くことになり、有効な手段が求められた。
運輸大臣の諮問機関である都市交通審議会は昭和四二年一一月一三日、これらの抜本的対策として諮問第6号「東京及びその周辺における高速鉄道を中心とする交通網の整備増強に関する基本計画の再検討について」を答申した。ついで四三年四月一〇日答申第<数2>10数2>号において、昭和五〇年を目標とする基本計画について中間答申を行ない、さらに同六〇年を目標とする基本計画について四七年三月一日答申第<数2>15数2>号を答申している。それは区部二三区内の都市計画路線を修正、追加するとともに、新たに都心部から東京に隣接する神奈川、千葉、埼玉三県にわたる都市高速鉄道路線の敷設をはかり、さらに既設鉄道の複々線化を計画する内容のものであった。年々増大する輸送需要に対処して、区内を走る西武・東武鉄道既設路線の整備改善が行なわれて車両の増発や車両編成の長大化、車両の大型化など積極的な対応を示すが、しかしもはや在来線の輸送力増強だけでは処理できず、ラッシュ時の輸送はすでに飽和状態にあるといえる。
こうした手づまりの既設路線の大量輸送に対して都市交通審議会の答申から、大量かつ高速の輸送力をもち、交通公害の発生の少ない高速鉄道を計画的に整備することが要請されるところとなった。ここに新たに地下鉄の建設がはかられ、昭和
五八年六月には区内に初めての地下鉄が開通する運びとなった。 <資料文>第<数2>13数2>号線(西武8号線・営団有楽町線)
保谷━中村橋━練馬━向原━池袋━護国寺━飯田橋━市ヶ谷━永田町━有楽町━銀座━明石町━月島
━豊洲━┳辰巳━湾岸……海浜ニュータウン(注……の区間は経由地を留保したものである)
┗東陽町━千田町━住吉町━錦糸町━押上━亀有(保谷━練馬間は西武池袋線の復々線化)
「都市交通審議会答申第<数2>15数2>号」
資料文>本区内にかかわる都市高速鉄道の第一歩は、都市交通審議会答申第6号(
さらに昭和六〇年を目標とする都市交通審議会答申第<数2>15数2>号では、表記の路線のごとき整備計画をみた。この第8号線と同じく、第<数2>12数2>号線および第<数2>13数2>号線もそれぞれ表記の路線で答申されている。
既述したように西武池袋線椎名町・池袋駅間のピーク時一時間における混雑率は、五二年度二三〇%、五三年度二三二%、五四年度二三四%と微増ながら上昇傾向を示しており、その輸送にあたって混雑時一時間に急行一〇両、緩行八両の長大編成列車を二八本も運転するが、すでに運転回数の増発は見込めず、既設路線の運行だけでは限界にあるといえる。西武沿線における後背地人口の増加やこれからますます増え続けていく将来の輸送需要に対処するため、これら既設路線の輸送強化が期待できない以上、新たな路線の建設が急がれていた。ここに都心への直通乗入れをはかる都市高速鉄道8号線の設置が要請されるところとなり、完成時には西武・営団相互乗入れ運転が予定されることになった。
画像を表示8号線の一部はすでに営団有楽町線として池袋・銀座一丁目間(
この有楽町線池袋以西の延伸工事は現在、区内において初めての地下鉄工事として進められている。有楽町線池袋駅から西武池袋線練馬駅に接続する区間のうち、池袋・向原(
第<数2>13数2>号線(営団地下鉄)
志木━和光市━成増━向原━池袋━東池袋━目白東━諏訪町━西大久保━新宿
(
8号線の分岐線向原・成増間は区内では小竹小学校から正久保橋を経て氷川台、平和台をとおって成増に向い、東上線和光市駅と結び、さらには東上線志木駅まで延伸する。一方都心へは向原・池袋・新宿・渋谷間を結ぶ独立した路線として<数2>13数2>号線に計画が変更され、新宿、渋谷方面への直通となる。さらに8号線(
またこうした既設路線をつなぐ東京圏都市高速鉄道網の完成は、西武池袋線と東武東上線にはさまれた区内の交通過疎地にとって、大きな開発効果をもたらすとともに、乗り換えなしに都心と結ぶことになり、区内の交通はいちだんと便利なものになる。
<資料文>第<数2>12数2>号線(都営地下鉄)
新宿━西大久保━柳町━春日━御徒町━蔵前━森下町━清澄町━門前仲町━月島━浜松町━麻布━六本木━青山一丁目
━信濃町━代々木━新宿━東中野┳━西落合━練馬━豊島園━高松町(
護国寺━目白東━目白━━━━━┛ 「都市交通審議会答申第<数2>15数2>号」
資料文>都市交通審議会の答申には、都心部と乗り替えなしに結ぶ練馬―豊島園―高松町に至る都営地下鉄<数2>12数2>号線の計画が示され、さらに高松以西の延伸、大泉方面への路線が検討されている。とくにこの地域は区内にあっては交通過疎地と目され、西武池袋線と東武東上線の間が四~六㎞におよび交通事情はきわめて劣悪である。通勤、通学の不便はもとより日常生活にも著しく不便を被っている地域でもある。練馬区議会では早急に実現化を要請するところとなり、四七年三月二七日運輸大臣、東京都知事等関係機関宛緊急に整備するよう意見書を提出している。本区では将来グラント・ハイツ跡地利用にともなう大団地の建設から人口の急増が予想され、今後ますます輸送需要の増大、交通混雑が懸念されている。当区議会では再度、同路線の早期着工に関する意見書を提出し、早急に区内における交通過疎地域の解消を都知事および都交通局長に要請した。
また地下鉄建設における国の大幅助成を推進するよう要望している。 <資料文 type="2-33a">地下鉄一二号線早期着工に関する意見書
議決年月日 昭和五一年一二月二四日
提出先 東京都知事、東京都交通局長
提出者 練馬区議会議長 横山繁雄
都営地下鉄一二号線は、昭和四七年三月都市交通審議会より答申がだされて以来、未だ着工のきざしすらみえず、一方では都市化の進行とともに人口は著しく増加し、通勤・通学はもとより日常生活にも不便を蒙っている本区にあっては、その早期完成が強くさけばれております。
周知のとおり、本区は南端に西武池袋線、北端に東武東上線が運行されるのみで、両線の間隔は著しく離れており、その上南北道路の不備、交通渋滞等から路面交通は行き詰まり交通事情は極めて劣悪であります。
さらにグラントハイツ跡地を利用して大団地建設計画があり、急激な人口増が予想され、今後ますます交通混雑が激しくなることは必定であります。
以上の観点からして、この地下鉄一二号線は本区にとって極めて重要な路線であり、都内全体からみても最優先されるべきものと考えられます。
従って路面交通の行き詰まりを打開する役割を担う大量輸送機関としての地下鉄の重要性と前述した本区の交通事情の劣悪さを打開するために、次の事項を早急に実施されることを強く要望いたします。
記
1 都営地下鉄一二号線を早期に着工すること。
2 地下鉄建設における国の現行助成制度の大幅な拡充をはかるための働きかけを強力に推進すること。
右、地方自治法第九九条第二項の規定により、意見書を提出いたします。
資料文>なお<数2>12数2>号線については、東京都交通局が高松町・西新宿間の路線免許を取得(
戦後、いち早い経済の復興と高度成長を背景に、情報通信部門とくに電信電話やデータ通信といった電気通信、コンピュータなど、急速な発展を遂げ、情報化が進んだ。今後ますます情報や通信の役割が比重を増すとともに、情報化の進展はい
っそう高度化されていくものと思われる。通信は、郵便、電話等の一対一の通信、いわゆるパーソナル通信と、テレビ・ラジオ等に代表される一対多数のマス通信に分けられる。これらの代表的なメディアの練馬区内での普及状況および利用状況についてみよう。
<コラム page="1571" position="right-bottom">練馬における郵便局のあゆみ
練馬に今日のように銀行の無い時代、僅か五十銭、一円と貯蓄を夢見て、庶民の財産を預って呉れた村の郵便局の存在と発展を、何故か忘れ勝である。胸ときめかして恋文を出した人、楽しい便りを受取った時の郵便の有難さも、現代のダイレクトメールや宣伝文書の氾濫で忘れかけて来た。戦後、電話の普及で電報も余り必要なく、全逓ストの悪名で、庶民に身近な郵便局の役割の重要さも感じが薄れ勝な時もあった。農家のサツマと沢庵でのお茶飲み時に来合せた郵便配達さんは、どこの家でも一緒にお茶を飲み乍ら、いろいろと村中の情報を話してくれた長閑な平和な時代は遠い昔となった。
局長自身こつこつと貯金の勧誘に廻り、又小学校一年生になると十銭記入の通帳をいわって呉れたので、時々お小遣が貯金になった思い出もある。村に信用組合が出来たのは昭和初期で、活動は地味で購販売が主力であった。借金は農工銀行で、大衆の貯蓄機関としての役割は村の郵便局が一番多かった。
又村で偉い人と云えば村長、校長、郵便局長、駅長、お医者さんである。中でも局長は村有数の資産家でなければ開局出来なかったから、信用や徳望も村一番であった。大泉の加藤源蔵氏が昭和七年、開局にあたって五二五〇円の資金が必要だった(局舎の外)。勿論資金源は土地である。今日の価格で換算すると、五億円の計算になるから、誰にも出来るものではなかった。(中略)
明治四年駅逓事務として郵便役所が設置され、各街道宿場又は必要な町村に作られた。練馬地区の人々は板橋宿の現上板橋郵便局を利用し、又大泉地区の白子川以北の人々は大和田郵便局(新座市)を利用した。明治二十年郵便局が一、二、三等に区分され、三等郵便局が同三十八年練馬北町に、時の村長の息子、大木金兵衛が始めて開局した。当時は交通上、商業上重要な位置を占めて居り、歴史的にも練間氏発祥の地であり、大木氏は江戸時代より名主で指導的役割を演じ、又家柄と財産、人才共に揃った人物だった。
大正十年、練馬駅前に横山氏が谷戸郵便局を開局し、十一年石神井に集配局、十二年谷戸郵便局は集配局となり、その後集配特定となり後に普通局となった。特定局は現桜台郵便局に移り、局長も三代交替したと云う。石神井局も昭和三十九年現在地に移り、特定局は分れて石神井公園駅前局となった。
昭和初期より生活文化の向上と共に必要性も高まり、江古田駅附近一、桜台駅二、中村橋駅一、上石神井駅一、武蔵関駅一、大泉学園駅一と開局したが、昭和十九年を最後に大戦、戦後に架けて十五年間一局もつくられなかった。
戦後の復興も終り人口増加と経済成長期を迎え、宅地開発の激増に依り住民の要望に従って、昭和三十四年のオリンピック大会までの六年間に二十一局、その後九年間に二十三局と急成長を遂げた。
局の配置は駅近傍が割合多く、保谷駅三、関駅四、上石神井駅二、江古田駅一、桜台駅二、東武練馬駅四、大泉駅四、石神井駅六、富士見台駅三、中村橋駅三、練馬駅六、そのほか周辺地区に設置されている。三十年以降は、発展地区の人口密度に比例して増加したが、練馬地区の駅周辺等、交通至便の地の純粋なベッドタウン的住民は他所で営業又は生活する人々も増加し、必ずしも人口密度に比例しないのであろう。
ポスト 赤い円塔型のポストは戦後姿を消し現在角型となり石神井局区内一三三カ所、練馬局区内一三〇カ所ある。一回の集結に各六―四台の小型車で行う。その量もって知るべしである。
保険 昔は養老保険、今は簡保と呼ばれ郵政省のドル箱である。死を目標とする生命保険と異なり、健康で満期受取り(死亡時にも支払う)で、生きているうちに、有意義に利用してもらうのが本旨であるところから庶民の加入が多い。石神井局五百億円、練馬局八九六億円の契約高を誇ると云う。
又簡保旅行会もあり、保障と貯蓄を兼ね一部割戻金を積み置、二年に一度親睦旅行を行うもので、練馬地区は会員壱万人に達し日本一である。石神井地区は組織も違い発足も遅いため四百余名である。生活環境や定着の古い人達は練馬が故郷となっているからだろう。月十万円積立ての人達は海外旅行もあるし、すっかり大衆に定着した保険である。
貯金 取扱量は駅近くの古参局が一番多く、一年度十億円を超す所も数局の由、新規(周辺地)でも五億円と云う。なお、古参局は切手売捌人を十人以上も所管し、職員も八、九人いる由。貯金や保険の利用額は住民の定住年数の長短、従って富の蓄積の長短になるが、人口密度に比例し練馬地区が多く、新規移住者の多い石神井地区がすくないのであろう。一人で億単位も預金する農協は別だが、銀行の攻勢にも不拘、静かなプームを呼び、貯金の取扱量も年間三百億円にのぼり、引出しによる残存額は年二百億円位だろうとのこと、蓄積預金は推定だが二千億円を越しているだろう。
低成長時代を迎え庶民の地道な堅実生活と変化した今日、町の郵便局の活躍と信頼は益々高まることだろう。
(「練馬郷土史研究会々報第一四二号」加藤惣一郎同研究会委員)
コラム>練馬区内の郵便局は、集配普通局が練馬、石神井の二局、無集配特定局が五四局を数える(
練馬局および石神井局の普通局(
会経済活動の基盤をなす郵便事業に多大な影響を与えた。郵便利用の約八〇%を占める事業所の不振と、通信手段として順調に発展してきた郵便事業に対して、時代の要請に応えるデータ通信、電信電話等の普及により相対的に、その地位の低下をきたしたわけである。
本区内の郵便局施設数の推移(
つぎに郵便局施設数(
次に練馬区普通郵便局における郵便物取扱数の推移(
東京の郵便物は、昭和五二年度一年間の引受数でおよそ三五億七〇〇〇万通(
全般に通常郵便物の利用状況には、事業所(
しかし郵便需要の減少傾向とはいえ、取扱う郵便物は厖大な量にのぼっており、とくに文化情報やダイレクトメールの増加は著しく、先に触れたように郵便物取扱総数の約八〇%が会社・官公署・商店等の事業所から出されている。わが国の国民一人当りの年間郵便利用数は、平均一二一通(
さて、練馬区内の郵便物は、区内五四局の特定郵便局を除く二普通局(
練馬郵便局では、昭和四九年四月一二日に郵便物自動選別取揃押印機が稼動開始され、翌五〇年一一月一日には郵便番号自動読取区分機が設置されて稼動するとともに、五二年三月一九日には郵便貯金自動支払機、同八月九日には簡易保険オンラインシステム用端末機が稼動開始された。石神井郵便局においても昭和五二年一〇月二九日に郵便物自動選別取揃押印機が設けられ、翌五三年三月一三日には簡易保険オンラインシステム用端末機の稼動が開始された。また五五年六月一六日には郵便貯金自動支払機が設置されて、局内作業の効率的な運用に役立っている。
とくに郵便番号自動読取区分機は、手書きの郵便番号を機械が読みとり、一時間に二万四〇〇〇通もの郵便物を区分けすることができ、厖大な量にのぼる郵便物を確実に、しかも迅速に処理する。この区分機が郵便物自動選別取揃押印機、つまり郵便物を自動的に選別整理し、消印を押す機械の連結により一層の効果をあげ、郵便処理の能力を飛躍的に高めている。その前提となる郵便番号制度が昭和四三年七月に実施されて以来、すでに一〇年を経過しているが、その間郵便番号の記入も、いまでは区民の生活に定着して郵便番号記載率九六%(
練馬区における集配作業は、広い区域と人口の急増、市街化のスプロール化に加えて交通の激化などにより著しく悪化し、三〇年代に入っていっそう顕著となった。郵便物の遅配が目立って多くなり区民生活に多大な影響をおよぼすことになった。練馬区議会では、このような情勢にかんがみ、郵政大臣ほか関係責任者宛、三三年一〇月一〇日付「練馬郵便局管内郵便物の正常配送促進に関する意見書」を提出し、つぎのような遅配の解消を陳情している。
<資料文 type="2-33i">練馬郵便局管内郵便物の正常配送促進に関する意見書
主 意
練馬郵便局管内郵便物の配送を、至急正常化していただきたい。
事 由
練馬郵便局には、開局以来郵政事業の一翼をにない広大なる局区と急激なる住居の増加にもかかわらず日夜御尽力賜り、深く感謝いたしておる次第であります。
然しながら、本年六月頃より郵便物の遅配が眼に見えて多くなり、特に九月になり早くて三日、最も遅い場合は一週間を要する事態となり、近来著しくスピード化されている現代社会生活が求める郵便配送の迅速性は根底からくつがえされ、これによって受ける弊害は諸種の時限をきられた会合通知等はもとより、就職試験関係通知の遅配にいたっては、一個人の将来を決するものであるだけに、計り知れない深刻な打撃を受けるに至っているのであります。
因に練馬区内練馬および石神井両郵便局を対比してみると昭和三三年九月一日現在では次の通りであります。
郵便局名 | 面積 | 人口 | 世帯数 | 配達区域数 | 配達人員 | 配達員一人当り受持世帯数 | ||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
練馬 郵便局 | 二二・四九 |
一六〇、〇五八名 | 六五% | 四四、〇八一世帯 | 六五% | 三二 | 三二 | 一、三七七・五世帯 |
石神井郵便局 | 二四・八四 |
九〇、五九三名 | 六三% | 二三、六四八世帯 | 三五% | 三〇 | 三〇 | 七八八・二世帯 |
現在、石神井郵便局管内には遅配少く、練馬局管内にそれが多いのは右実情で明らかな様に配達人員の不足が最大にして決定的原因であります。更に九月よりの労使間の争議がこれに拍車をかける結果となり、普通便で一週間の遅配と云う曾つてない最悪の事態となったのであります。
然し、これら部局内での実情は、一般住民として直接的には何ら関知するところでなく郵便遅配が社会生活に及ぼす弊害のみを憂い、憤り、ただひたすらに郵便事業の正常なる運営を請い願っておるのであります。
幸にして最近に至り、労使相協力され、これを平常に復すべく御尽力下され、郵便小荷物の滞貨は一掃されたと聞き及んでおります。
練馬区は年々住宅地として眼覚しく発展しておりますが、本区の、特に年間三万人、五千世帯に及ぶ激しい人口増加と云う特殊事情を充分に御賢察下され、この際根本的対策を講じられ、速に正常にして円滑なる本来の郵政事業の運営に復されるよう衷心より切望して止まないのであります。
右、練馬区議会の議決を経て地方自治法第九九条第二項により陳情致す次第であります。
昭和三三年一〇月一〇日
練馬区議会議長 梅内正雄
郵政大臣 殿
郵政局長 殿
練馬郵便局長 殿
資料文>以上のように遅配解消策として配達人員の増員と郵政労使間争議の解決をあげて、郵便事業の正常な運営を要請している。翌三四年一一月にも区議会は、練馬・石神井両郵便局管内郵便物の配達正常化を訴え、郵政責任者に抜本的対策を講じるよう要望しており、郵便局職員数の不足、局舎の狭隘、労使間争議を指摘して一日も早い解決を迫った。しかし郵便物の遅配はいぜんとして続き、慢性化の様相を呈しはじめ、区内の集配作業は深刻な事態になってきている。さらに三〇年代後半には、高度経済成長の波に乗って区内に事業所が増加し、しかもこの時期を境に従業者数三〇〇人以上の事業所数が急速に増えてきており、それにともない建築物の大型化や高層化がすすみ、また郵便物の数量もますます増加して配達作業が困難になってきている。三六年六月の郵便規則の改正により、三階以上のエレベーターのない建物には郵便受箱の設置を義務づける一方、マンション等高層化した建築物についても集合受箱の設置や一括配達の勧奨を推進している。最近では二階建アパートなどへの集合受箱の設置を呼びかけており、とくにこの二階建集合住宅の配達は全配達の五〇%以上を占めるもので、集合受箱の設置により労力と時間の省力化がはかられることになる。また昭和三七年に法制化され新たに実施されている住居表示制度は、番地に替えて一戸ごとに住居番号が付けられ、配達地域の住所の表示に序列性が得られるなど、配達作業の環境改善といった点で画期的なものになっている。本区では石泉地区の一部を残してほとんど実施された。
郵便事業は、情報の一翼を担ってこうした郵便業務を行なうほか、郵便貯金や簡易保険など区民の暮らしに直結した業務を展開している。
表<数2>29数2>―<数2>23数2>は、練馬区における「郵便貯金・簡易保険・郵便年金取扱状況」を、昭和三九年度より三年ごとにまとめたものである。
身近な金融機関として利用されている郵便貯金は、低成長期の昭和五〇年代を迎えて他の都市銀行に代り、動きがいっそう活発になった。金利等の有利さも手伝って受入・払出の口数や金額が共に上昇しており、不況に強い郵便貯金を印象づけている。しかも利用者の七八%がサラリーマン家庭(
簡易保険は国営の保険として区民に親しまれ発展している。表にみえる本区の保険歳入歳出金高は、ある意味では保障力のバロメーターといわれるが、年を追って加速度的な伸びを示して安心度の高い保険になっている。表<数2>29数2>―<数2>24数2>・表<数2>29数2>―<数2>25数2>は昭和五二年度の練馬局と石神井局それぞれの郵便貯金、簡易保険、郵便年金の取扱状況を表わしたものだが、保険の受入金額、払出金額が対前年度比において、他の業務項目に比べ高い伸び率になっている。
保険業務のオンライン化は、練馬局では昭和五二年八月、石神井局においては五三年三月に「簡易保険オンライン用端末機」が設置され、稼動が開始されている。こうしたオンラインサービスシステムにより、加入者は郵便局での事務処理が迅速に行なわれるとともに、手軽に利用できるようになった。
本区の郵便事業は、他区と比べ事業所数が少なく、逆に一般住宅やアパートが多いという典型的なベッドタウンとしての性格から、個々に配達する郵便物の多いのも、特色の一つになっている。そうした業務がスムースに遂行されるため、区内には郵便協力会が練馬、石神井において結成されている。それぞれの地域で町会連合会、産業連合会、商店連合会、金融機関を主体に郵便協力会がつくられており、通信利便の増進と相互の理解を目途に区内郵政事業の発展に協力しようとする任意団体である。
主な活動内容をあげると、(一)郵便番号記載励行の促進運動 (二)郵便受箱、表札の掲出勧奨運動 (三)優良局員の表彰および激励 (四)住居表示実施地域のあて名の完全記載などについて区民への周知を図る など、以上の運動を積極的に進めている。
練馬区における二普通局(
なお、練馬区における郵便局の歴史については、「練馬郷土史研究会々報第一四二号」記事を参照されたい。
練馬郵便局の沿革
<資料文>年 月 日 記 事
大正一〇・一二・一六 練馬駅前郵便局(無集配三等局)として開局。
〃 一三・一一・一六 練馬郵便局と改称(集配局となる)。板橋局の管轄範囲縮小。
〃 一四・一二・ 一 局舎改築。
昭和一二・一一・ 一 二等局となる(現在の普通局)。郵便分室を設置。
〃 一六・ 四・ 一 保険分室を設置。
〃 二二・ 八・ 一 行政区が変更となり練馬区が誕生した。
〃 二二・一二・一一 庶務課、通信課、貯金保険課に分課。
〃 二三・ 九・一六 郵便区変更(板橋郵便局管轄であった練馬区江古田町、小竹町が練馬郵便局の管轄に組替えとなる)。
〃 二四・ 二・一一 郵便課、電信課、貯金課、保険課に分課。
〃 二四・ 三・一四 田柄分室をグラント・ハイツ内に設置。
〃 二四・ 六・ 一 逓信省が二省(郵政省と電気通信省)に分離。二省分離にともない電信課は分離し、練馬郵便局は普通局となる。
〃 二五・ 二・二一 庶務課を庶務会計課と改称。
〃 二七・ 九・二〇 自衛隊内分室を陸上自衛隊練馬駐とん地内に設置。
〃 三五・一〇・ 一 局舎新築のため仮局舎を設置。
〃 三五・一一・ 一 集配課設置。
〃 三七・ 三・一八 局舎落成移転。
〃 三九・ 四・ 一 自衛隊内分室廃止。
〃 三九・ 七・一〇 次長配置局となる。
〃 四二・ 五・一五 田柄分室廃止。
〃 四二・一〇・一六 郵便事務室増築。
〃 四五・ 九・一二 局舎増改築のため仮局舎設置。
〃 四六・ 七・二一 集配課を第一集配課、第二集配課に分離。
〃 四七・ 四・ 一 局舎落成移転。
〃 四七・ 四・一六 日曜休配実施。
〃 四九・ 四・一二 郵便物自動選別取揃押印機稼動開始。
〃 五〇・ 八・二〇 集配課を第一集配課、第二集配課、第三集配課、第四集配課に分離。
〃 五〇・一一・ 一 郵便番号自動読取区分機稼動開始。
〃 五二・ 三・一九 郵便貯金自動支払機稼動。
〃 五二・ 八・ 九 簡易保険オンラインシステム用端末機稼動開始。
資料文>石神井郵便局の沿革
<資料文>年 月 日 記 事
大正一一・一〇・二七 石神井郵便局(無集配三等局)として、石神井公園前に開局。
〃 一三・一一・一六 郵便物の集配業務を開始する。
〃 一四・一二・ 一 下石神井一三一五番地に新築移転する。
昭和 二・ 五・ 六 電話通信事務を開始する。
〃 二・ 五・二一 電信事務(配達を含む)を開始する。
〃 二・ 九・ 六 電話交換事務を開始する。
〃 七・一〇・ 一 東京市域拡張にともない板橋区に編入。
〃 一二・一一・ 一 二等局に改定。
〃 一六・ 二・ 一 官制改正により、普通郵便局となる。
〃 二二・ 八・ 一 東京都区制改正により練馬区誕生。
〃 二二・一一・ 一 下石神井二丁目一二一七番地に電話分室設置。電話交換方式を手動式に改める。
〃 二四・ 二・二一 分課設置。庶務課、業務課、電信課の四課となる。
〃 二四・ 六・ 一 郵政省、電気通信省が発足。電信電話事務を電気通信省に引継ぎ分課改定。庶務課、業務課となる。
〃 二五・ 二・二一 分課改定。庶務会計課、郵便課、貯金課、保険課の四課となる。
〃 二六・ 八・一四 下石神井二丁目一三〇一番地に新局舎を建設、移転する。
〃 三五・一二・ 一 下石神井二丁目一三六五番地に分室を設置、郵便業務を取扱う。
〃 三六・一〇・二四 分課改定。庶務会計課、郵便課、集配課、貯金課、保険課の五課となる。
〃 三八・ 八・ 二 石神井台三―三―七に局舎新築工事を起工。
〃 三九・ 七・一〇 新局舎落成。
〃 三九・ 七・二七 新局舎に移転、業務開始。
〃 四六・ 七・二一 分課改定。庶務会計課、郵便課、第一集配課、第二集配課、貯金課、保険課の六課となる。
〃 四八・ 四・一六 局舎増改築のため、石神井町七―一八七六の仮設局舎へ郵便窓口、郵便業務移転。
〃 四九・一一・三〇 局舎増築部分完成。
〃 五〇・ 二・二二 旧局舎改築工事のため、石神井台三―四の仮設局舎へ庶務会計課、保険課(窓口を含む)移転。
〃 五〇・ 八・二〇 旧局舎改築工事完成。
分課改定。庶務会計課、郵便課、第一集配課、第二集配課、第三集配課、第四集配課、貯金課、保険課の八課となる。
〃 五〇・ 九・ 八 新局舎業務開始。
〃 五〇・一〇・一九 日曜休配実施。
〃 五二・ 四・ 一 祝日休配試行的実施。
〃 五二・ 七・ 一 新住居表示にともない町名変更になった「土支田町」を練馬局へ移管。
資料文> 本文> 節> <節>練馬区における電信・電話業務の施設と概況についてみよう。区内には練馬・石神井の二電報電話局と、北町・大泉・関町・西練馬の四電話局および他区所在地にあって、練馬区の一部地域をそれぞれ受け持つ落合・南板橋・成増の三電話局が設置(
昭和五四年三月三一日現在、練馬区内の加入電話施設数は一八万六七九二台に達し、その内訳は単独電話一八万四六一七台、構内交換電話一二四八台、共同電話九二七台となっている(
このうち一般家庭の単独加入電話が全体の九八・八%を占めて最も多く、また住宅用電話の比率が年々増加してこれが本区の特徴にもなっている。五三年度における加入電話の販売数は二万二四五一台を数え、逐年増加の傾向を示している。こ
のほか公衆電話五五二九台が設置されている。電話は、通信技術の革新や経済成長、それにともなう生活水準の向上などの要因によって急速に普及しており、いまでは企業活動や日常生活において欠くことのできない通信手段として利用されている。
電信・電話業務の変遷をみると、明治二二年に取扱いが開始されて以来、着実に発展してきたが、とくに戦後において飛躍的な伸びを示した。昭和二四年六月、行政改革によって従来の逓信省が廃され、新たに郵政省と電気通信省が設置されたことにより、電信電話業務は電気通信省に管轄された。このため、いままで郵便局で扱われていた電信業務は郵便事業と切り離されて、独立した業務が開始された。二七年八月には電気通信省は公共企業体としての日本電信電話公社に改組され、翌二八年電電公社では、第一次五か年計画を発表して設備拡充に着手した。その後の需要の増加にともない、第五次にわたる設備拡充計画の遂行によって、申込んでも付かないという積滞電話の解消は、ほぼ達成されている。
つぎに電話の普及状況(
つぎに電話加入数を区部二三区別にみると、本区の加入数は五三年三月三一日現在一八万一五三四台を示し、二三区中九番目に位置する(
しかし電話の普及につれ、とくに住宅用電話の比率が年々増加している傾向を反映して、一加入一日当りの電話利用回数は年々減少の方向をたどっている。図<数2>29数2>―<数2>11数2>は、電電公社のまとめた四二年度以降五二年度にいたる一加入一日当りの利用回数を図示したものであるが、年を追って一台あたりの利用回数が減っており、設備拡充実施にあたって、事業収入の伸び悩みが
大きな問題点となっている。練馬区内における電話局別加入電話の年次別推移および加入電話の五四年三月末現在における区内町丁別一覧は『現勢資料編』六一六~六一八ページを参照されたい。
画像を表示電信事業は、明治三年(
表<数2>29数2>―<数2>27数2>は、練馬区における電報取扱数の推移である。本区での取扱数は国内や国際間において発信・着信・中継のいずれも年次ごと、その取扱数に増減の波がみられても、全体として減少傾向を示していることがわかる。電報事業は、こうした利用数の減少に加えて、配達にともなう人件費の増大により大幅な赤字を生んでおり、いまでは電電公社の事業経営上の隘路になっている。
加入電信は一般にはテレックスと呼ばれ、任意の相手方と五〇<数3>b/s数3>の符号伝送が可能な交換網である。加入者が印刷電信機を用いて電話と同じようにダイヤルで相手を選び、メッセージや伝票類など送受するもので、三一年にテレックスが開始されて以来、企業における情報化や合理化指向に適合して需要が増加してきたが、しかし最近では他の便利な通信手段、すなわちファクシミリやデータ通信に代替されて頭打ちの状況にある。一般的傾向として、五二年度以降の加入電信申込み数は年々下降線をたどっており、区部において練馬区のほか、板橋区、北区、豊島区、文京区と新宿・中野・足立三区の一部地域を管轄する「電電公社豊島地区管理部」では、高度成長期に加入電信台数一二〇〇台を推移していたものが、五五年八月末日現在には、一〇三八台に減少している。練馬区の加入電信台数は同年八月末日現在で一〇〇台となっており、今後しだいに減少することが予想されている。
電電公社が提供しているデータ通信は、データ通信回線サービスと、データ通信設備サービスの二種類がある。
データ通信回線サービスは公社が通信回線を提供し、利用者がその通信回線に電子計算機を接続してデータの伝送と処理とを一体的に行なうものであり、国鉄「みどりの窓口」に座席予約システムとして登場したのが最初のシステムであった。その後四六年の公衆電気通信法の一部改正により、制度的基盤が形成されてから順調な発展をとげている。プッシュホンやデータ室内装置が用いられ、練馬区内においても、こうした電話計算サービスやみどりの窓口電話予約サービスが受けられるプッシュホンの普及は、ここ数年において急速な伸びを示している。
図表を表示表<数2>29数2>―<数2>28数2>は、区内主要電話局管内におけるプッシュホン数の五二年度・五三年度・五四年度の推移である。
各管内とも年ごとに着実に増加している状況がわかる。データ
通信が家庭生活の中にまで入って、単に電話としての通話機能だけでなく、コンピュータ利用に大きく役立つものとして、身近な存在になってきている。一方データ通信設備サービスは、公社が用意したシステムを共同で利用したり、あるいは特定の企業や団体などの注文に応じて公社がシステムを設置し、販売管理や在庫調べ、公害監視、金融等の業務に役立っている。とくに全国銀行データ通信(為替通信)システムや気象庁地域観測データ通信システムは、その代表的なもので、こうした通信業務はこれからの情報化時代に対応するメディアの一つとして需要が増えて、都市を中心とする情報化社会の要請から、年々飛躍的な成長を続けてきている。四三年にデータ通信設備業務が開始されてより、社会経済の発展と国民生活の向上にともなう情報量の増大とともに、このデータ通信に対する社会的要請は、ますます高まってきている。
区民生活の中で得る情報のほとんどは、テレビ放送やラジオ放送といった放送系マス・メディアか、あるいは新聞・雑誌など出版系のマス・メディアによってもたらされている。量的側面からみるとテレビ・ラジオの情報流通の占める割合は大きい。そこで練馬区におけるマス・メディアの普及、利用の状況を放送系マス・メディアを中心にみることにしよう。
図表を表示表<数2>29数2>―<数2>29数2>は、本区におけるラジオ・テレビ契約数の推移を示したものである。昭和三〇年代初めの段階ではラジオがその主流を占めていたが、三四年を境に徐々に下降線をたどりはじめ、三八年以降は急速な減少を示している。それは昭和二八
図表を表示 図表を表示 年にテレビの本放送が開始されてから、しだいに普及率が高まりテレビがラジオに代替していく事情によるものであるが、とくに三四年の皇太子御成婚を契機に、テレビの普及は飛躍的な伸びを示した。以来年を追って加速度的に増加し、四三年の保有台数は九万七九〇三台、普及率六五・五%に達した。その後もテレビの保有台数は増えつづけ、これにカラーテレビも加わって、五四年には契約総数一三万八八九八台、普及率七一・七%、うちカラーテレビ一一万六一三九台、普及率六〇・〇%となっている。これを区部二三区の区別テレビ契約数(表<数2>29数2>―<数2>30数2>)に比較してみると、本区の普及率は、ほぼ平均的な位置にあることがわかる。 本文> 節> 章> <章>東京の近代警察制度の幕あけは、明治七年の警視庁の創設にあった。明治維新体制の始動期にあって、当時八〇余万といわれる人口を抱えた首都警察の出発である。当初は東京府下を六区の管轄区域に分け、それぞれに警察の出張所、屯所等を設置したが、政治、経済、文化のめざましい発展と、人口の増加にともなうさまざまな事件や事故の多発を招くに従って、警察事務も複雑なものとなった。
明治一四年、東京府下を四〇の警察管轄区に分かち、それぞれに警察署を設置する新たな体制が整った。以後幾多の変遷を経て、昭和の第二次大戦終了後警察制度は大きく転換するところとなった。
戦後の基本的な理念は、ポツダム宣言によってうたわれ、やがて日本国憲法の柱となった「民主主義」と「基本的人権の尊重」とに負うべきものとされた。昭和二〇年一〇月に特高警察の解消、治安維持法の廃止等の措置がとられ、政治的、宗教的自由に関する制限が撤去されることとなった。しかし終戦直後の混乱はさまざまな犯罪と結びつき、社会不安はつのる一方であった。こうした社会状勢に対処するため、警視庁においては翌二一年に少年課、捜査三課などを設けるなど、治安維持に新たな態勢を整えた。とはいえ、敗戦による民心の動揺、生活必需物資の欠乏、これにともなう社会の混乱などに加えて、各種警備事象、凶悪犯罪の多発はその後も尾を引き、戦後の傷跡を残すところとなった。
こうした時期に「警察法」は誕生した。二三年三月に施行された同法によって、国家公安委員会が管理する国家警察と、
人口五〇〇〇人以上の市町村の公安委員会が管理する自治体警察とが発足する運びとなった。東京都では二三区を管轄する「警視庁」が自治体警察として新たに誕生することとなったが、こうした二本立てによる仕組みは治安維持上にさまざまな支障をきたし、また市町村の中には財政上の苦しさを訴える声も多く、早くも二三年中に国家への返上の機運が高まった。しかし警察力の地方分散を強く要望するGHQ(当時の警視庁の陣容は、警視庁本部一、方面本部八(
なお五四年度現在の組織は、総務部、警務部、交通部、警備部、警ら部、公安部、刑事部、防犯部の八部制であり、方面本部八、警察署九四およびその他の諸機関、諸隊を含んでいる。
明治一四年の警察組織改革により、現在の練馬・板橋両区域を管轄とする板橋警察署が誕生した。その後幾多の変遷を経て昭和を迎えたが、この間特に関東大震災以後の本区の発展はめざましいものがあり、ことに東南部では宅地化が進み、近郊農村から近代都市へと大きく変貌しつつあった。
こうした時代の推移の下に昭和一二年一二月、練馬警察署が板橋警察署から分離独立し、ここに本区全域を対象とする警察署が発足することとなった。現在の練馬警察署の前身である。場所は豊玉北五丁目二番地でその後位置の変更はない。当時の勢力は署長以下警部補四、巡査部長一一、巡査七七、その他五、施設は本署一、巡査駐在所二六、巡査派出所三であった。駐在所および派出所は次のとおりである。
名称 | 名称 | 名称 | 名称 |
---|---|---|---|
中新井町一丁目巡査駐在所 | 土支田町 巡査駐在所 | 中村町 巡査駐在所 | 関町 巡査駐在所 |
中新井町二丁目巡査駐在所 | 春日町 巡査駐在所 | 練馬貫井町 巡査駐在所 | 東大泉町 巡査駐在所 |
中新井町三丁目巡査駐在所 | 高松町 巡査駐在所 | 練馬北町二丁目巡査駐在所 | 北大泉町 巡査駐在所 |
練馬南町一丁目巡査駐在所 | 谷原町 巡査駐在所 | 練馬仲町 巡査駐在所 | 南大泉町 巡査駐在所 |
練馬南町二丁目巡査駐在所 | 南田中町 巡査駐在所 | 練馬田柄町 巡査駐在所 | 西大泉町 巡査駐在所 |
練馬南町三丁目巡査駐在所 | 石神井駅前 巡査駐在所 | 練馬駅前 巡査派出所 | |
練馬南町四丁目巡査駐在所 | 下石神井町 巡査駐在所 | 江古田 巡査派出所 | |
中村町 一丁目巡査駐在所 | 上石神井町 巡査駐在所 | 石神井 巡査派出所 | |
太平洋戦争の終結は国の行政機構に一大変革をもたらし、警察制度も大きくかわった。二三年に自治体警察としての「警視庁」が発足し、練馬警察署も新たな組織の下で、戦後の混乱期における区内の治安維持に当ることとなった。この時の組織は警察署長の下に次の八係がおかれ、総員は三〇六名であった。以下係と主な職務内容を記す。
<資料文>○警務係 人事、会計、通信、体育、厚生など庶務関係
○警備係 災害時の警備、雑踏の整理警戒
○交通係 交通の指導・取締り
○保安経済係 風俗・火器・まやく等取締り、その他密売等経済取締り
○捜査係 犯罪の捜査・検挙
○少年係 少年の非行防止・補導
○防犯係 犯罪の予防と取締り
○警ら係 派出所・駐在所を通じての警ら、犯罪の予防検挙
資料文>なお当時の派出所・駐在所等は合計三七あったが、そのうちの二二か所は常駐巡査一名の駐在所であった。この頃の区人口は今日の五分の一であり犯罪なども少なかった。しかし、二〇年代後半から三〇年代を通じ、人口流入が活発となり、ことに三〇年代前半の伸びは加速度的なものがある。この間犯罪発生件数も飛躍的に増加している。
こうした区内の情勢に対応すべく警察力の強化がはかられることとなった。三六年四月、石神井警察署が新設され、以後区の東半部を練馬警察署、西半部を石神井警察署がそれぞれ管轄し、現在に至っている。また駐在所から派出所への移行も行なわれ、五四年度末現在では練馬警察署管内に派出所一五、駐在所二、石神井警察署管内に派出所一六、駐在所三となっている。なお、それぞれの管轄区域については『現勢資料編』六三九ページを参照されたい。
現在各警察署には署長の下に、警務課、交通課、警備課、警ら課、刑事課、および防犯課の六課があり、それぞれの分掌事務に従って警察業務の推進に当っている。とりわけ警ら課に所属する派出所、駐在所は昼夜にわたり治安の維持に専念しており、地域との結びつきは深い。
また、最近の犯罪のスピード化に対応して、本区内には一〇台のパトロールカーが常時巡回警戒に当っており、諸願届や事件事故の早期処理に機動力をフルに活用し、大きな効果を上げている。ちなみに五四年中に区民からの一一〇番通報で出動した回数は二万〇九二二件にのぼり、これを一日平均にすれば五七件となる。
本文> <項>最近の東京都における刑法犯認知件数はここ数年来漸増の傾向を示し、五三年には戦後最高の二三万件にのぼった。翌五四年にはやや減少したが、それでも二二万一六九八件を数えている。その特徴としては高
齢者や年少者の犯罪の増加、行きずり犯罪の激増などが挙げられる。これらの犯罪は、高齢化社会の進行、犯罪の低年齢化、都市化の進展など、現代の世相を反映したものとして注目されている(本区内での五四年中の刑法犯認知件数は九二四九件であった。前年の五三年が九〇九一件であるところから、本区ではやや増加したことになるが、この五三年中の本区の二三区中における位置を概観すれば図<数2>30数2>―1のようになる。
画像を表示本区は世田谷、大田、足立の各区に次ぐ人口保有区である。その対二三区構成比は六・八%に達している。しかし犯罪件数は図にみられるとおりに比較的少なく、この年の二三区の総数一八万八三四七件に対して本区の九〇九一件は四・八%に当る。世田谷、大田、足立の各区は人口に比例して犯罪件数も多く、新宿、豊島、台東の各区は人口に関わりなく、高い数値を示している。犯罪が人口の多少とは必ずしも相関関係になく、地域性の問題を多く含んでいるものである点がうかがえる。
しかし、同一地域内においてみる限り、人口の増減は犯罪件数の上にもそれなりの影響を及ぼしているといえる。本区の場合にはことに顕著であった。『現勢資料編』六二九ページに本区の過去三〇年間の犯罪発生件数を掲載してあるが、その動向を人口との関連でみたものが図<数2>30数2>―2である。一覧して分るように本区の人口は戦後加速度的に伸びた。四〇年代後半
以降はようやくおとろえはしたものの、五〇年代初頭まで増え続けてきた。こうした人口の伸長に対して犯罪件数もほぼ同じ速度で伸びてきているのである。 画像を表示二二年から二四年にかけて異常に高い時期があるが、これは戦後の混乱期に当っており、本区のみならず東京都全体に犯罪が増加した時期であった。ちなみに二四年中の警視庁管内の犯罪総数は三五万五三八二件であり、本区内は二七一四件、比率にすれば〇・八%弱である。また四五年を境に一旦低下する時期があるが、その後再び激増している。こうした動きに対応すべく当局は取締りに全力を傾け警察力も強化された。その一例を四〇年代後半以降の派出所数の増加(
五四年版の『警察白書』によれば、五三年中の全国の刑法犯のうち窃盗犯は八五・〇%を占めていたとされ、犯罪の中では最も多い罪種である。本区の場合でも例外ではなく、五四年中の犯罪件数九二四九件のうち八一九七件が窃盗犯であり、その比率は八八・六%に達している。
窃盗犯は侵入盗(
本区の侵入盗犯による被害家屋となっているものは特にア
パート、マンションが多いとされる(その他の犯罪としては粗暴犯、知能犯、凶悪犯などがあるが、本区の場合にはいずれも少ない。それぞれの内訳は『現勢資料編』六二九ページに示す通りである。粗暴犯(
ただ知能犯(
なお暴力団犯罪については、警察の継続的な取締りによって、現在では街頭における犯罪は激減している。しかし、暴力団は資金獲得のため、会社その他の企業、事務所、飲食店などへの功妙な食い込みをはかっており、この種の犯罪防止には区民の暴力排除意識を一層高揚させ、合わせて警察の強力な取締りを推進させることが望まれている(
少年はいつの時代でも社会の風潮を最も鋭敏に体現させる役割を負ってきた。その意味で少年犯罪の動向は社会のあり方を問う最も大きな鍵であり、犯罪少年の出現は社会の責任でさえある。
「警察白書」(
さて、本区の犯罪少年検挙の実情は、二三区中では一八位で(
最近の新聞紙上には女子高生の暴力事件などが報道され、広く社会の注目を集めているが、女子非行の顕在化は今後の課題となりそうである。また図中における補導少年の男子にみられる三八年前後の高い数値はその大半が「喫煙」をしていた少年の補導である。
本文> 項> <項>東京都では四四年をピークに交通事故は減少し、五四年時点では件数三万〇七八三件、死者二七七名を数えるに止まった。四五年と比較すれば件数で四七%、死者数で三七%にまで下降したことになる。本区の場合もほぼ同じ傾向にあり、四五年を一〇〇とすれば、五四年現在で発生件数は五四、死者数では二八という数値になる。ただ前年と比較して件数の上で二四件、死者で四名の増加をみている点が気になるところではあるが。
画像を表示図<数2>30数2>―4は二三区別にみた五四年中の交通事故発生状況である。本区は第五位の位置にあり、全体の六・一%を占めてい
る。これを四五年と比較すれば、当時は第一〇位であり、全体に占める割合も三・八%に過ぎなかった。この一〇年間の変化が注目されるところである。また図中に高位を占めている足立、大田、世田谷、葛飾の各区は練馬区同様いわゆる周辺区に位置し、最近の交通事故の特徴を暗示しているもののようである。また同年における本区の交通事故を類型別に示せば次のとおりである。
人対車 三一四件(二三%)
車対車 一〇二七件(七五・三%)
車両単独 二二件(一・六%)
このうち人対車の二三%については、歩行者が直接の被害者となっている訳であるが、年間死者一一名のうち六名がすなわち歩行者であった。
車対車の発生状況は次のとおりである。
四輪の自動車(
二輪車 一七・〇%
自転車 一五・七%
画像を表示最近では特に二輪車、自転車の事故が増加の傾向にあるといわれ、これは近年のバイコロジー運動、省エネルギ
ー思想の普及およびバス路線の立ち遅れによる二輪車、自転車の利用増加に起因するものとされる(五四年中における区内の交通事故による死傷者一五九二名のうち、中学生以下の子どもが三二〇名を占めている。これは全体の二〇・一%に当る数値で、同年の東京都全体での子どもの死傷者率一五・七%に比してはるかに大きな比率を占めているといえる。
図<数2>30数2>―5は子どもの内訳別にみた過去一〇年間の死傷者の推移である。幼児・小学生・中学生のいずれにおいても区部平均を大幅に上回っている。ことに小学生の場合には四〇年代初頭以降に差が開き、五〇年では倍近い開きとなってあらわれた。ちなみにこの年の小学生死傷者の対二三区総数に対する本区の構成比は九%に達している。二三区平均が下降をたどっていた四〇年代後半にあってもなお横ばいの状態が続き、その後やや低下の傾向にあるとはいえ不安定さはぬぐい去れない。
<コラム page="1608" position="right-bottom">
開進第四小三年
古川じゅん一
ぼくが、日ようの朝おきると妹が「おとうさん、こうえんにいこうよ」といいました。おとうさんが「おにいちゃんといってらっしゃい」といったので、ぼくは、しかたなく妹といっしょにいきました。
家のまえの広いどうろをつきぬけたところのこうえんです。はじめにぶらんこにのりました。それからかいだんをのぼりきった上のこうえんであそびました。
しばらくあそんでからつまらなくなり、家にかえろうとして、こうえんの出口までくると、トラックがきて、ぼくと妹は、わかれわかれになってしまいました。トラックが出口でとまったので「あや、はやくおいで」とぼくがよぶと、あやは、あるきだしました。あやはぼくのほうを見てわらってるみたいなかおしてて、とことことことあるいてきたときです。きゅうにトラックはうごきだして、妹はトラックのしたじきになって、左タイヤにしたじきにされました。ぼくはびっくりしてあやをだきあげました。ちだらけのあやを見て「おかあさん、あややられたよ」と大声でよびました。おかあさんが走ってきてあやをだきました。すると、ちがながれて地面がまっかになりました。ぼくは、おそろしくなりふるえがとまりませんでした。
あのときからもう十一カ月がすぎました。
七月十三日金よう日はおぼんなので、あやのおはかまいりにいきました。おぼんには、てんごくにいったあやが家にかえってくるというのでみんなでむかえにいったのです。おはかに、あやのすきなものを、いっぱいおそなえしました。ぶつだんにも、おぼんのものをいっぱいおそなえしました。
ぼくはおはかにおまいりをしたとき、妹のこうつうじこのことを思いだしてむねがいっぱいでした。
よるになってあやのすきだった花火をやってあげました。そのばんぼくは、あやとあそんでいるゆめを見ました。だからあやが、かえってきたのだなあと思いました。
――「ねりま区報」昭和四九年四月一日版――
コラム>これに比較して幼児の場合には明らかな減少を示し、区部平均の下降に比例した動きをみせている。近年幼児の交通事故防止を訴え続けてきた当局の努力が報われているところである。こうして以前には圧倒的な数値を示していた幼児の死傷者が減
少した結果、小学生の位置とほとんど近接し、区部においてはすでに入れかわっている。このことからも今後の子供の交通事故対策の課題は小学生対策にあるといえよう。 図表を表示子供の交通事故の原因(
五四年版の『警察白書』によれば子供の交通事故が発生
する時間帯は午後二時から六時までが集中的に多く、小・中学生の下校時以後に当っている。ことに最近では学習塾などが増え、自転車での塾通いをする生徒も多い。自転車による交通事故の危険性はほとんど日常化しているのである。五三年五月に道路交通法の大改正をみたが、その中に自転車横断帯の設置、自転車の交差点への進入禁止対策が盛り込まれるに至っている。 本文> 項> <項>昭和二四年一月、杉並区の多摩少年院東京出張所の施設に「東京少年観護所・東京少年鑑別所」が発足した。同所は、同年から施行された新少年法および少年院法によって設置された法務府(
ところが、この頃法務府では同所を氷川台の現在地に移転新築することが決定された。この決定に当って地元と区当局への事前の連絡がなかったため、設立予定地の住民を中心とする強力な反対運動が巻き起った。この問題は区議会においても議論されるところとなり、設置反対の意見書が法務府総裁に提出された(
その後、一年間にわたって、少年保護鑑別所反対期成同盟あるいは区議会内に設けられた少年保護鑑別所設置反対実行委員会(塚田洪憲委員長)と法務府との間でいろいろなやりとりがあったが、結局、次のような覚書をとり交すことで妥協をみることになった。
<資料文>覚書
昭和二十五年九月十一日
法務府 刑政長官 草歴鹿 浅之介㊞
東京少年保護鑑別所長 成 田 勝 郎
練馬区長 臼井五十三殿
実行委員長 塚田洪憲殿
資料文>こうして、翌二六年一二月に建てられた文化施設が外来鑑別棟、すなわち練馬児童教養相談所である。同所は、区民のための児童相談機関として設立されたもので、以後今日に至るまで一般の家庭や学校の子どものことなどに関する問題に応じ、必要な診断や治療を行なっており、その活動は高く評価されている(
関係施設の建設は、昭和二五年三月に現在地に新設工事が起工されると、一〇月にまず女子寮が、翌二六年一〇月には中央舎が、続いて前述の外来鑑別棟が竣工した。五一年からは全体の改築工事が開始され、新庁舎(
この間二五年四月には、名称が「東京少年保護鑑別所」と変更された。また、二七年八月には中央官制の改正によって、矯正保護局が矯正局と保護局に分離独立したのに伴ない、同保護鑑別所の業務は保護観察所と鑑別所に分かれて行なわれることになった。そのため同保護鑑別所は「東京少年鑑別所」と改称され、新たに出発することとなった。少年鑑別所は、二
四年の法務府令によって全国各都道府県に一か所ずつ設置されるように定められており、都内唯一の施設が本区内のこの鑑別所である。東京少年鑑別所には、大体一四歳以上二〇歳未満の罪を犯した少年、罪を犯すおそれのある少年、そして一四歳未満で刑罰法令に触れる行為をした少年が、家庭裁判所の決定によって収容(
ここでは、少年の非行の原因、更生の方法等を、医学、心理学、社会学、教育学などの専門的知識や技術によって科学的に解明している。その結果は家庭裁判所に送られ、審判の重要な資料となっている。
本文> 項> 節> <節>昭和七年の市郡合併以来板橋消防署の管轄であった練馬出張所は、戦後の二一年八月一五日に練馬消防署として独立するに至った。
農業とともに発展して来た現練馬区一帯も、関東大震災以後人口の増加が目立つようになり、戦前には特に東南部での著しい市街化が見られた。当時の練馬区域は板橋区に属しており、その郊外的な地域として理解されていた。しかし市街化の進展につれて区独立への動きが活発となり、二二年八月一日、ようやく練馬区の誕生を見たのである。これに先立って行なわれた練馬消防出張所の消防署への昇格は地元有志の輿望をになって推進されたものであり、練馬消防署の誕生は区独立を目ざす人々への大きな光明ともなった。
消防業務の重要さは戦後日本を占領した連合軍総司令部(
GHQは戦後の日本民主化政策を断行したが、その重要な一環として警察制度の改革に着手した。この時、消防は警察事項として扱われるべきではないこと、また消防活動は発生した災害への対処(
こうした時期に練馬区は独立し、練馬消防署は区一円を管轄することとなった。なお一年前に署として昇格した時に所属した石神井・北町・関町の各出張所はそのまま練馬消防署に属すこととなった。練馬消防署誕生当時(
区内には戦前に整備された成増飛行場があったが、戦後連合軍に接収され、二二年三月三日「グラントハイツ」となり、以後米軍の家族宿舎が建設されることになった。これにともない消防出張所が当時の田柄町一丁目五六五八番地に新設され、同年一〇月一日から事務が開始された。田柄消防出張所である。なお消防力はポンプ車一台であった。
ちょうどこの頃中央においては新たな消防制度をめぐる動きが活発に展開されていた。その第一の表われは、戦前から活躍して来た警防団の廃止である。代って二二年四月三〇日の勅令第一八五号として公布された「消防団令」により、新しく市町村管轄の消防団が誕生することとなった。八月一日に独立を迎えた本区では、急拠これに対応し、一〇月一一日の区議会で「練馬消防団設置条例案」を可決、翌二三年一月一三日練馬消防団が結成される運びとなった。当時の消防団の構成は九個分団、七一〇名であった。
なお、この「消防団令」も、二二年一二月二三日に公布された「消防組織法」に基づいて翌年三月二四日新たに公布された「消防団令」(
戦後の消防構想をめぐる中央の動きはこの間も試行錯誤をくり返していたが、「消防組織法」の公布を見て、ようやく一定の方向に歩みはじめることとなった。二三年三月七日の施行日を前に東京都では当時の警視庁消防部が最初の人事発令を二月一一日に行なっている。同法施行と同時に「東京消防本部」が誕生し、ここに自治体(
その典型といえるのが「火災予防部」として組み込まれた一連の業務である。GHQは災害は未然に防止されるべきであるとして「予防」の重要さを明らかにし、消防機関がこれに当ることが理想であるとした。以後この考えを受け、建築物や危険物の査察、および建築同意事務など建築行政への参画をはじめ、火災原因および損害の調査にもたずさわることとなった。翌二四年一月三一日には各消防署所に「予防事務所」が置かれ、予防行政の実際に当る体制がとられた。
一方、GHQは当時ニューヨークなどで実施されていた消防システムを土台とした地区隊制の導入を指示していた。その骨子は二三特別区内を六地区に分け、さらに現有する消防署を大隊とし、数も二九に整理しなおし、それぞれの地区隊に所属する大隊同士の協力、さらには地区隊同士の協力の下に消防活動を広域的に推進せしめようとするものである。なお、地区隊長および大隊長は二名の隔日交替制をとるとされた。
この制度は地区隊の区画が一般行政区画と合致しないこと、また当時四四を数えた消防署が大幅に削減されることなどから、反対する地域住民の声も多かったが、結局大隊を三四とする条件の下に二三年九月一日実施されることとなった。
練馬消防署は第二三大隊となり、第四地区隊に編入された。また、この時関町出張所は荻窪消防署に、北町出張所は板橋
消防署に配属替えとなり、代わりに中野消防署の江古田および鷺宮の両出張所と板橋消防署の成増出張所とが練馬消防署の所属となった。しかし、二六年三月一日には警防事務のみを残して、再び消防署制は復活され、異動を見た各出張所もそれぞれ旧に復した。とはいえ警防面に残された地区隊制は、連合軍による占領終結とともに採用されることとなる消防方面本部制への大きな教訓となった。二九年三月三日実施された方面本部制は消防庁管内を七方面に分ち、それぞれに方面本部を設け、本部長一名制で事務を執る。各消防署は同時に大隊を兼ね、署長は大隊長としての任務を帯びることとなった。この時練馬消防署は練馬大隊として第五方面に編入されたのである。なお、その後三六年四月一日の機構改革で第八方面本部が新設され(
二〇年代後半から三〇年代にわたって、練馬区はそれまでの農業地域から住宅地域へと大きく変貌しつつあった。人口もとみに増し、災害発生への確率も高まる一方である。こうした実情に対処すべく消防勢力の充実に力が注がれた。まず、二六年四月二日に石神井出張所の改築移転(
また、車輌面からの増強としては二八年一一月二〇日、本署へ初の救急車が配置されたのを手はじめに、三六年一二月、北町出張所がポンプ車一台配置出張所から二台配置出張所へ昇格、三七年八月三一日、初の高圧(
消防庁では、三四年三月七日の新庁舎落成(
四〇年四月一日、区内の消防力の強化という面では最も意義の大きい、石神井出張所の消防署への昇格が実現した。これにより大泉・関町両出張所は石神井消防署の管轄となり、従来の練馬消防団のうち、五・六・七・八分団が石神井消防団として新生した。当初の消防勢力は、職員一一〇名、消防団員三七〇名、ポンプ車六台、救急車一台、指揮車一台の陣容であった。石神井消防署の前身は昭和七年一〇月一日の市郡合併時に当時の石神井谷原町二丁目二一一二番地にあった消防組の屯所を引き継ぎ、第一〇方面板橋消防署石神井消防所として誕生したものである。石神井消防署の開設(
四〇年代は都心部を中心に中高層建築物の進出が著しく、練馬区内においてもようやく四階建て以上の建てものが一般化されようとしていた。四七年四月二五日、まず練馬消防署にはしご車が配置され、四九年三月一日には石神井消防署に同じく配置された。しかし石神井消防署のはしご車はその後五三年一一月二〇日小石川消防署の空中作業車と交換され現在に至っている。消防力の増強と相まって一方では、複雑多岐にわたる消防の行政需要に対応するため四七年四月一日から練馬消防署、四九年四月一日から石神井消防署が二級事業所として格付けされた。
震災による広域災害が心配され始めたのも四〇年代以降である。三九年六月一六日の新潟地震(
以後震災に対する認識が広く普及されることとなるが、東京都では他府県に先立って四六年一〇月二三日、「東京都震災予防条例」(
四七年度からは避難道路周辺地域の都民を主体とした市民消火隊が結成されることになり、五二年度までに六六五隊を整備したが、五二年度以降特別区においても防災市民組織の必要性が叫ばれ始めたことから、五四年四月、市民消火隊は特別区に移管された。練馬区では五四年一〇月現在練馬地区一〇隊、石神井地区二一隊の合計三一隊の市民消火隊が結成されている(
このように年々広域災害への恐れが拡大されるとともに、防災の「専門家」である消防機関への一方的な依存ではなく、徐々に地域住民と一般行政機関、それに消防あるいは警察による全体の防災協力態勢が要求され、一部に実現しつつあるのである。
一方消防署においても四〇年代から今日に至る勢力増張には余念がなかった。四六年一二月に現在の練馬消防署庁舎が完成を見たのをはじめ、四九年六月七日には貫井出張所(
また人口のその後の増加にともない消防職員数も増員されるに至っている。練馬消防署発足当時が九二名、それが四〇年
では二六六名となり、五三年には五〇九名に達した。もっとも職員数は区の総人口に対して決して多いとはいえず、四六年時点では区民二〇三七人に対してひとりの職員が配されていたのであり、以後逐次増員された結果、五三年には一〇九七人に対してひとりの消防職員が配される形となっている。現在における消防力のあらましと各消防署および出張所の管轄区域とを図<数2>30数2>―6に表示しておくことにする。なお、練馬・石神井両消防署の五五年八月一日現在における組織は次の通りである。
画像を表示 画像を表示 <資料文> 資料文>(
昭和二一年八月一五日に練馬消防署は誕生したが、翌二二年に発生した火災件数は二五件、焼損面積は六八三㎡というものであった(
二二年当時の区の人口は一一万七二一八人、世帯数は二万五七八一世帯(
図に見られるとおりに二三区の人口は
四三年をピークに減少しており、それにつれて火災件数(練馬消防署誕生後の第一号の火災は昭和二一年九月三〇日に発生した。同日一二時一三分、当時の板橋区豊玉北二―一番地(
――「ねりまの火災」より――
コラム>一方練馬区の人口はだいたい上昇の一途をたどり、火災件数もうなぎ登り。四一年にはついに二三区平均を上回って、以後はほぼ平均を越えている。
従って被害世帯数および損害見積額の面からも同一の傾向を読み取ることができる。(
もっとも火災は単に人口の増減のみでは把握し得ない多種多様な要素を含んでおり、特に地域性の問題は無視できない。東京都は住宅および事務所などが密集している関係上火災の大半は建物火災となって現われている。ちなみに昭和三〇年中に起きた火災のうち建物火災は七一・七%を占め、以後四〇年には六四・六%、五〇年では六四・七%である(
本区では三〇年以降五三年までの火災総件数は六六〇八件で内建物火災は三九五九件におよび、その比率は五九・九%である。特に本区は住宅火災の占める割合が高く、ことに東半部では顕著である。練馬消防署の調べによれば署管内(
図<数2>30数2>―8は昭和二六年から五三年に至る間の火災による練馬区および二三区平均の死傷者数の推移である。この図からまず注目すべき点は二三区の死傷者がピークとなったのは三九年であるのに対して本区の場合には九年後の四八年がピークとなっていることである。二三区の場合、その二年前からひとつのヤマができているとも思われるところから、本区は区部全体からみれば約一〇年間の開きをおいてピーク時がきたのである。この間の事情は前項で触れた火災件数と関連させてみることができる。そこでもうひとつの特徴としてあげられることは区部平均に対する本区の数値である。四四年時点で区部平均に達するまで常に低位を保ち、四五年以降も四八年を除いてだいたい区部平均を上下しているに止まっている。これは五〇年の国勢調査ですでに区部第五位の人口を抱えていた本区の実情からすれば、人口とのかね合いからみる限り、本区での火災による死傷者数は比較的少なかったと言える。
しかし、死傷者〇を目標とする理想からすれば大いに遺憾とするところであり、ことに死者一六名を数えた四八年は記憶すべき年となった。表<数2>30数2>―2は同年以後における死者の出た火災のあらましを記したものである。一見して気づくところは死者の大半が六歳以下の幼児と六〇歳以上の老人であり、ことに身体不自由な老人の死は社会的にも大きな問題を投げかけている。
図表を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示さて四九年以降死者数は一〇人以下に減少するが、五四年に至って一件で六人が焼死するという火災が発生した。全焼一戸(
『東京都統計年鑑』によれば、過去二〇年間を通して最大の発火源はやはり、たばこ・マッチでこれはどこでも変っていない。次いで持ち運びの可能な発火器具(
表<数2>30数2>―3のように三二年では油を使った器具(
次に最近の行為別原因について本区の場合をみるとたばこの投げ捨て・放置、弄火(
表<数2>30数2>―4のように練馬・石神井両消防署それぞれにおける出火原因上位五位を並べてみると、やや地域による相違が現われていることに気づくが、表中無視できないのは何といっても放火件数であろう。
前項において死者の出た火災の一覧を掲げたが、その中にも自殺による放火が意外に多かったものである。自殺による放火を含めて放火は現代都市の抱えた新たな内患であるとする考え方は当を得たものであると思われる。それだけに対策も講じ難く、今後の大きな課題のひとつとなろう。ここでは過去練馬区内に発生した放火(
昭和五四年一一月二八日、豊玉北一丁目の店舗併用住宅(
一階に二人、二階に四人の家人を発見したがいずれもすでに焼死していた。六時四一分に同家屋延面積一〇三㎡を全焼して鎮火。原因は一階部にあった石油ストーブ上にハンガーにかけて鴨居につるしてあった洗濯物が落ちて出火。一階に寝ていた老人が気づいたが、ひとりで消火に当たろうとし力尽きて倒れたため二階の住人に知らせることもできず、一家六人の焼死者を出す惨事となった。
なおこの火災は住宅構造の見直しを迫る契機となり、練馬消防署では消防庁予防部調査課とタイアップして詳細な調査が進められ、翌年二月に経過報告書が作成された。この報告書は消防の機関紙を通じて全国に警告を発するところとなった。
コラム> 図表を表示 画像を表示東京の消防活動の中に救急業務が取り入れられたのは昭和一一年一月以降のことである。当時はすでに交通事情の悪化が取り沙汰されるようになって久しく、年々交通事故による死傷者が増えつつあった。
業務開始当初の救急車は六台、用員は六六人であった(
練馬消防署には二八年一一月二〇日に救急車の第一号が配置され、石神井消防署の誕生時には石神井消防署に一台が置かれることになった。以後時代の移りかわりとともに増強され、五四年末現在では練馬消防署管内には三台、石神井消防署管内にも同じく三台が配置されている。
本区の救急内容の実情は図<数2>30数2>―9に見られるとおりであるが、都市化の進展とともに救急件数も上昇の一途をたどってきた。その内訳は三〇年代では交通事故によるものが大きな比重を占めていたが、四〇年代に入ると急病が著しく増えてきている。交通事故そのものは近年減少の方向を示しつつある一方で、急病者の発生の確率は人口増加とともに高まってゆくのは否定できないところである。五〇年代に入って横ばいに転じたのも本区への人口流入がようやく落ちつきをみせ始めたことに深い関わりがあるといえよう。
本文> 項> <項>昭和二二年四月三〇日、勅令第一八五号による「消防団令」が公布され、それまであった警防団にかわり、新たに市町村単位の消防団が発足することとなった。本区では同年一〇月一一日の区議会で「練馬消防団設置条例案」を可決、ここに練馬消防団の誕生をみた。はしなくもこの日は練馬区独立後最初の区議会開催日に当って
いた。条例第三条に定員が定められており、団長一名、副団長二名以下総員七一〇名である。区議会では引き続き同月二三日に区議会議員から消防委員六名を選出したが、その氏名は次の諸氏である。
中村旧一、並木亀吉 佐々木享 小澤藤助 田中文一 加藤千代松 (
一〇月二五日、区長、練馬消防署長、および練馬警察署長の三者による合同会議が開催され、ここで学識経験者六名を消防委員に決定している。以下その氏名を記す。
浅見平吉 清水昌光 鹿島万嗣 石川行 小林辰五郎 小泉福太郎 (
こうして消防団編成への具体的な準備も着々と整い、一一月六日には初代団長を決定する選挙が行なわれた。投票者は当時の警防団の各分団から代表者五名、団本部から一名の計四六名であった。結果は浅見平蔵氏の二五票、須田操氏の二一票となり、浅見氏が初代団長に就任することとなった。なお副団長は小川一郎、藤森賢三の両氏に決定(
翌二三年一月一三日午前九時、豊島園において東京都知事、警視総監臨席の下に結成式が挙行され、ここに名実共に練馬消防団は誕生したのである。
二二年四月の勅令による消防団令は、消防組織法の制定(
二三年七月二四日、消防組織法一部改正により、政令による消防団令の廃止、消防団の基本的事項の法律化が行なわれ、以後は消防組織法に組み込まれることとなったが、設置に関してはなお市町村長の一任とされた。東京都では当局と消防団
長および消防庁による折衝が重ねられ、二四年七月一六日「特別区の消防団の設置等に関する規則」が制定された。以後、消防署が設置されるごとに消防団も設けられる方針が取られた。二六年三月の消防組織法改正にともない、都の規則も改められたが、この消防団に関する権限について以下の事項が確認された。都知事 消防団の管理および消防団関係条例の発案、規則制定。
区 長 消防団推薦にもとづく団長の任免、団員の任免の承認、表彰、運営委員会の主宰。
消防総監 消防団の警防行動の所管、訓練。警防事務に関する団、団員の表彰、予算の編成・執行。
消防署長 消防団の警防行動の所管、指揮、訓練。
消防団長 区長の承認を得て団員の任免、事務統轄。
その後消防団の設置および名称・区域については三八年七月二五日に制定された「特別区の消防団の設置等に関する条例」により、条例制定事項となった。
前項において述べた二四年七月一六日の東京都の「特別区の消防団の設置等に関する規則」および「特別区の消防団員の定員、任免、給与、服務等に関する条例」の制定により、練馬消防団では定員を七九〇名(
当時の装備は警防団が使用していたものをそのまま引き継いだ。『東京の消防百年の歩み』によれば二四年時点で全消防団の所有していた装備は手引動力ポンプ四〇五台、腕用ポンプ二四〇台であった。その後腕用ポンプは次第に姿を消し、動力ポンプが主流となる。練馬消防団には二六年五月末時点で一六台の動力(
消防団の活動は災害時には消防隊と共に出場し、分担任務に就くが、その出場区域および任務は時とともに変わってきている。発足当時は一般出場と通常応援出場とに分れ、一般出場の場合は自己分担区域内の災害に対処するものとされた。そ
の後各消防団間の協力態勢が重視され、ことに震災の恐れが生ずるようになるとより計画的な出動が要求され、今日では普通出場(過去における消防団の活躍は枚挙にいとまがないが、三三年九月二六日の台風二二号時および四一年六月二八日の台風四号時の出動は記憶されるべきものであった。練馬消防団は前者においては消防総監より表彰状を、後者においては練馬区長から感謝状を受けている、ことに四一年の台風の時には田柄川に転落した幼児の救出に成功している。
昭和四〇年四月一日、練馬消防署から石神井消防署が分離独立したのにともない消防団も二分されることとなった。練馬消防団では改めて九分団を編成し定員四二〇名とした。これに対し石神井消防団では八分団を編成、定員三七〇名である。
五四年末現在練馬消防団は一二分団の四一三名、石神井消防団では一一分団の三七〇名で、それぞれ分団数は増えたが定員の上では異動がない。練馬区全体としても発足当時の定員七九〇名は変化していないのである。
広域災害の認識が高まっている今日、民間における防災態勢が広く要求されているのではあるが、その意味からも消防団の存在性は今後見直されてゆくべきものと思われる。
他に仕事を持ちながら災害時には急拠出動し、危険に身を挺する。その代償としては左記に見る通り誠にささやかなものである。
報酬 (
団 長 二九、〇〇〇円
副団長 二二、〇〇〇円
分団長 一六、五〇〇円
副分団長 一三、五〇〇円
部 長 一〇、〇〇〇円
班 長 一〇、〇〇〇円
団 員 九、五〇〇円
もっとも公務災害補償は定められているが、こうした処遇にも関わらず消防団が運営されてゆく根本には「自らの街を自らの手」で災害から守ろうとする基本姿勢が支えとなっている事実を認識しない訳にはいかない。
現代では何事も細分化され、それぞれの分野の専門家任せにしがちであるが、災害においても消防あるいは消防団への一任としかねない。しかし消防団の実態は以上見て来た通りであり、その立脚点は我々民衆の側にあるのである。
画像を表示昭和五二年一一月二六日、練馬消防少年団が発足し、五四年五月二六日には石神井消防少年団が誕生したが、その前身は少年消防クラブであった。この少年消防クラブは、消防や火災のことについて興味をもつ少年少女が余暇を利用して自由な形で
研究をすすめ、これを日常生活の中に生かし、火災のない町づくりに協力する目的で二五年六月に結成されたものである。このときの東京消防庁初の結成が練馬少年消防クラブであり、他のさきがけとなった(昭和三六年には小学校三校、中学校五校の参加を見、団員も六八七名を数えたがその後学校との協調がむずかしくなり、徐々に減少し、四六年には一七九名となった。こうした活動には民間の協力を不可欠とするため東京都では五四年五月に民間の自主的団体としての「東京消防少年団連盟」を設立し、地域単位での新たな出発を期した。その組織は上のとおりである。
画像を表示目的は、それぞれの団則にうたわれている「少年少女に防火防災に関する科学的知識・技術の安全教育を行い、団体生活の規律をとおして社会人としての責任感を養い合わせて社会に奉仕すること」となっている。
入団した団員は「七つのちかい」の下に団結し、土曜日あるいは日曜日を中心に毎月二~三回の活動を通してさまざまなことを学んでいる。
その「七つのちかい」とは、
1 私は、火の用心につとめます。
2 私は、礼儀正しくします。
3 私は、約束を守ります。
4 私は、自分のことは自分でします。
5 私は、すなおにします。
6 私は、たがいに助け合います。
7 私は、つねに感謝の気持を忘れません。
というものであり、約束の遵守、すなおさの回復、助け合いの精神などはむしろおとなの側が率先して学んで行かなくてはならない事柄でさえある。
団員の対象は年齢九歳(
つつじ隊 一班渋谷敬子
十一月二十四日、わたしは、はじめて体験調査に参加しました。
体験調査とは、指定ひなん道路を歩いて、道においてあるきけんなものなどを調べながら、五キロの道をグラントハイツまで歩いていきました。
わたしはこの中で、トランスを藤原さんと二人で調べました。
まず、トランスは電しん柱の上にあり、もし、地しんがおきてひなんしている人々の上に落ちたら、大けがをするのではないかと思います。そのほかに、もっともっと、きけんなことがあると思います。
わたしは、指定ひなん道路を歩いてみて、広い道もありましたが、せまい道路も多かったので、多ぜいの人が、いっぺんにひなんすることになると、けが人も多くなると思いました。
わたしの思うには、みんながいちど指定ひなん道路をとおってみて、体験してみることがいちばんいいのではないでしょうか。
わたしたちは、帰りはバスで帰ってきましたが、よく日、わたしは足がいたかったです。
(
ここで石神井消防少年団の五四年度中の活動状況を二、三紹介しておくことにする。
七月一四日 一一九番のかけ方、通報要領、緊急通報のしくみ学習と映画「消防のおじさん」鑑賞。およびゲーム
八月 八日 水泳時の心得、人工呼吸法を学習
八月二二日 ハイキング「秩父方面」
九月二三日 一般知識、応急手当法学習
一〇月一三日 ロープの扱い方学習
一二月 二日 火災予防運動に参加、パレード
五五年一月六日 東京消防庁出初式に参加、東京消防庁災害救急情報センター他見学
二月二四日 消火法学習、およびソフトボール大会
三月 九日 火災予防運動に参加、およびゲーム
三月二四日 一年間の学習成果確認と反省会
<コラム page="1637" position="right-bottom">=東京消防少年団歌=
石本美由起 作 詞
古関 裕而 作・編曲
一、瞳あかるく 今日もみる
青空に 幸せの 太陽を
ああこの平和 このやすらぎを
みんなの努力で あしたへつなごう
素晴らしい仲間たち
僕ら消防少年団
二、いつも願いは ただひとつ
火事のない 世の中を つくること
ああ集い合い 育てる夢よ
大きくひろがれ 大きくはばたけ
素晴らしい仲間たち
僕ら消防少年団
三、こころ結んだ 団結の
力こそ 防災に つくすもの
ああ手をつなぎ 誓いを守り
元気に進もう 未来に向って
素晴らしい仲間たち
僕ら消防少年団
コラム> 本文> 項> 節> 章> 部> 編> 通史本文>