東京都特別区二十三区の北西隅を占め、世田谷区、足立区につぐ面積を持つのがわが練馬区である。北東から南にかけて、板橋区、豊島区、中野区、杉並区に接し、南西から西に北多摩郡保谷町、武蔵野市との境をもち、北は埼玉県北足立郡に続いている。東西約九キロメートル、南北約四・六キロメートル、ほぼ矩形状を呈し、面積は、四七・三三平方キロメートルである。
武蔵野台地は、西から東へ向うにしたがつて少しづつ低くなる。
むさしのは 月の入るべき山もなし 草より出でて 草にこそいれ
ゆくすえは 空も一つのむさしのに 草の原より いずる月かげ
ひろびろとした一面の原、くぬぎ・けやきなどの林、台地と台地との間を流れる小流のつくつている低地、はるかかなたにうす紫の山々がかすんでいる平野、それが、かつての武蔵野の景観である。
関東平野の北と西には、かなり高い有名な山々がつらなつている。東京都は、その関東地方の南西部の細長い地域を占めている。したがつて、都の西部は山岳地帯であり、中央部はむさしのの台地、東部は川の多い低地で、全体に西が高く東に向つてだんだん低くなる地形をもつている。
東京都の西の境に雲取山という高さ二、〇一八メートルのかなり高い山がある。この附近は関東山脈の一部で一、七〇〇メートル以上の山々がならび、東京の水源地になつており、荒川・多摩川などがここから発している。
この山地を西へくだると、狭山丘陵・多摩丘陵になる。前者は、独立丘陵の形をとり、現在村山・山口の貯水池を持つ都の給水源としての重要な場所になつている。武蔵野台地はこの東に隣して、やがてさらに東に進んで低地帯となり、東に下総丘陵がある。
画像を表示東京都の特別区は、この武蔵野丘陵の東部と低地帯に位置している。いわゆる「山ノ手」と「下町」がその性格を物語つているのであり、練馬区は、山ノ手のさらに北西郊を占めている。
武蔵野台地は、それがローム土から成り立つているために、雨水による小流が谷をつくり、湧水がそれに加わつて谷を拡げ、さらにそれらは発達して支谷を数多くつくつている。これらの谷は、台地全体が東にやや低くなるので多くは、西に谷頭を持ち東に開いている。
本区の占める位置は次の通りである。これは、建設省地理調査所の好意によつて算出されたものである。
1 区の位置
A 極東 東経 一三九度四一・〇分
B 極西 〃 一三九度三四・〇分
C 極南 北緯 三五度四二・五分
D 極北 〃 三五度四六・六分
2 区役所の位置
A 東経 一三九度三九・三分
B 北緯 三五度四四・〇分
本区には、このように武蔵野台地を刻む
この川は、本区の動脈ともいうべきもので、本区を縦貫している。小流のため水運の便こそないが、古代からその谷頭は格好の住居地となり、中世には、練馬・石神井の各城がこの川筋に築かれていた。現在でも、灌漑・排水に用いられているが、風致の上に格段の美をそえていることは言をまたないところである。
白子川は、大泉の
田柄川は、田柄町二丁目附近に源を発し、仲町を経て石神井川に入る。現在は、主として排水に利用されている。
武蔵野台地の表面は、ローム層で厚くおおわれているので水を得ることができない。しかし、ローム土の下には粘土と小石の累層があつて水をふくんでいる。そうした層が谷の頭、谷の側壁、段丘の崖の下などに露出していると湧
水となる。少しの日でりでもローム土が舞い上る広野のあちこちにこうした湧き水があることは風趣を多彩なものにするものであつてむさしの野の特長である。この帯水層はいつも清く澄んだ地下水をもち、一五度前後なので冬は暖かく夏は冷い水が泉をつくり、それが池になる。本区の大小の池も武蔵野市の井の頭池、杉並区の善福寺池などとともにこうしてできた池である。 画像を表示三宝寺池 石神井川の上流三宝寺池は、池面積七、三四一坪、水深二・七メートル、湧水点は池の西側にあつて湧水量は多く清らかな水をまんまんとたたえている。池の中央に浮島状の腐植質のつみ重なつたものがあり沼沢植物が群生している。この池は石器時代から利用されており、後に中世、豊島氏がこ
こに石神井城(都指定史跡)を築いた。池の南方三宝寺はこの池の命名の由緒にもなつているが、厚い信仰の対象となつており、この池を中心とした風光が江戸の人々の足を引き、また石神井川によつて恩恵を受ける人々の信仰ともなり、好適のリクリェーション地帯として広く知られていた。この池の水を引いて池の東に細長い石神井池をつくつたので趣を一段と増し、池、池畔に群生する沼沢植物が天然記念物として指定を受けていることなどと併せ、附近約二万八千五百坪が都の風致地区として指定され、都市計画による公園として既設のボートハウスをはじめいろいろの計画が進められている。冨士見池 西武鉄道新宿線武蔵関駅の西、北多摩郡保谷町との境に近くある。池面積七、三〇〇坪、湧水による池である。昭和十三年十月西武鉄道会社所有地一三、〇〇四坪八九と地元より五三八坪九二の寄附を都が受けて、都公園として昭和十三年十月八日開園した。武蔵関公園の中心であり、不二見池ともいう。西よりに島をもち、湧水量も多い。最近、池畔の一角の林を切つて住宅が建ちならんだので多少風趣を害したが、なお、附近は林も多く、西に早大運動場をもち水の青が樹木の緑に一段とさえ、都民のよいリクリェーション地帯になつている。
区内の池は右のほか大小多数あるが主なものは次の通りである。
豊島園内の池 石神井川の水を貯えてつくつたもの。
井頭池(
本区内台地のすべては、洪積層である。洪積層は第三紀層をおおつて、その基下部に砂礫層、中部に粘土、砂の互層があるが、もつとも特長的なのは、基上部のローム層である。低地は第三紀層上に沖積層がおおつてできている。以下主要各層について述べる。
1、関東ローム層
画像を表示武蔵野台地はじめ関東の台地をおおつている赤土を関東ロームといつている。表土である黒土を掘り下げると特長的なこのローム層に達する。この層の成因は、第四紀火山活動による火山灰の堆積であつて、上層から立川ローム層、武蔵野ローム層、下末吉ローム層、多摩ローム層に区分することができる。また板橋粘土層、江古田植物化石層もそれぞれ独立の火山灰層であつて、いずれも関東ローム層を構成するものである。本区をおおつているローム層は、厚さ三―八メートルで、立川、武蔵野ローム層からなつている。立川ローム層には、二本の黒色帯があつて、ほかの部分より炭素・窒素の量が多く化石土壌と考えられている。この立川ローム層の上部にはプレ縄文文化の石器がふくまれていることがあるので、この層のできるころ本区附近にも人が居住して
いたことが判る。武蔵野ローム層は、立川ローム層にくらべてやや粘土質で、下層に厚さ一〇―二〇センチメートルの浮石がまじつている。この浮石は、箱根火山中央火口丘の噴出物と考えられている。 画像を表示 画像を表示2、板橋粘土層
武蔵野・山手台地の一部に分布している灰色ベントナイト状の粘土で、武蔵野ローム層下、武蔵野礫層上にある。
3、武蔵野礫層
ローム層の下に重なり、東京層を不整合におおう黄褐色の砂礫層である。
4、東京層
凝灰質粘土、砂礫などの互層からなり、全般に青灰色である。下部、中部、上部の三層に区分される。下部層は、主として青灰色の凝灰質粘土からなり、ときに細砂をまじえ、また数層の砂がある。貝化石の含有は少ない。中部層は、主に砂礫粘土で、厚い灰褐色の砂礫層(
5、江古田植物化石層
石神井川、妙正寺川などの武蔵野台地内に刻まれた谷間に平坦に厚さ数メートルにわたつて堆積する植物化石を包含する層である。上半部約二メートルは粘土質、下半部は砂礫で、植物化石は上半部にふくまれている。
東京の気象は、都心とそれを離れた地区とでは多少のちがいがある。塵芥の多い混濁した空気を都心型とすれば、本区のように、清澄な空気を郊外型とすることができよう。ただ武蔵野台地の特長である風の強い日に砂塵を舞き上げて黄塵万丈とする趣きは郊外型の欠点でもある。
気象一般については、幸にも本区内の武蔵大学附属高等学校と隣接地武蔵野市在の成蹊大学附属高等学校で、連年の観測が行われているので、それらを主として述べよう。
図表を表示気温
図表を表示過去二〇年間の観測によると、平均最低気温は一月下旬であり、平均最高気温は八月上旬である。都心(
その気温は常に低く、ことに厳寒期にその差が大きい。武蔵野では、厳寒のころ零下一〇度位に下ることは珍らしくないが、都心では零下七度位である。その最高、最低気温を比較すると
図表を表示よく晴れたあけがた、ことにこの地域の気温は都心に較べて著しく低くなる。雨の日、曇の日にはあまり差がない。
このような気温差は、いうまでもなく、都心の建築物、鋪装道路、さては煤煙、塵芥による大気の混濁などの条件と田園地帯の田畑、空気の清澄の差によつて生ずるものである。一般に本区に永く居住する人々も「昔より冬が暖かくなつた、雪が少ない」と語つている。
降水量、霜・氷・雪
昭和元年から二十八年間の年平均降水量は、一五五五・一ミリである。これを都心とくらべると、年平均一・五ミリほど都心より多い。一般に、冬、降水量が少なく、夏多いが、本区では、都心にくらべて冬はやや少なく、夏はやや多い。
霜・氷は、都心より早く来て、おそくまでのこる。雪は、都心とほぼ同様であるが、積雪量は多少多いと見られて
いる。降雪後の融雪が都心よりかなりおそいのは当然のことといえる。 図表を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示風
風速の大きいのは、春三、四月である。大陸高気圧の発達によるこの風は、フェーンの現象をもつが、関東特有のものとして、赤城
風向は、冬には北西風、夏には南東風が多い。
本区に於ける動植物は、武蔵野一般を代表するものとも云える。ことに石神井、三宝寺池附近は、種々の沼沢植物
が自生していて昭和十年、天然記念物に指定されているので有名である。以下昭和十六年同所に石神井理科教材園を建てて理科の自然観察の資とされた加藤昆虫研究所の加藤正世氏による報文(同氏が、昭和十年から十六年までに採集したトンボ類は五五種の多きに達し、その中には日本で始めて一匹とれたというメガネサナエモドキがあり、またハネビロトンボのように主として熱帯に多く日本では四国九州の南部でみられる珍種があり、さらにマルタンヤンマのように珍らしいと言われているものが多数いたという現象を呈している。チョウは六〇種を数え、モンキアゲハ(
水棲昆虫は広い水域にたくさんの種類がいて、コバンムシ、ナベブタムシ、ミズムシなどの稀種が加藤氏によつて採集されているし、珍種ヒメコマツモムシの大発生したことについても同氏は報ぜられている。野鳥もここにむれ、或は飛びすぎ七二種、魚類一六種、貝類一七種が報文にのせられている。
植物は、ことにこの地が、池沼と台地によつて構成され、湿地、林、草地と変化の多いために、まことに多種多彩であつた。(
加藤氏は報文の結びに今後の保護策について貴重な意見を述べられている。本区としても重要な地帯であるだけに今後の善処が望まれている。
本文> 章> <章>八百五十万人という世界第一の人口と規模をもつている東京。昭和二十二年三月十五日、それまで三十五区にわかれていた区域の統合を行つて、
千代田 中央 港 台東 文京 新宿
渋谷 目黒 品川 大田 中野 杉並
世田谷 豊島 北 荒川 板橋 江東
墨田 江戸川 葛飾 足立
の二十二区とした。これは、二十一年両院を通過した地方自治法が、二十二年四月十七日公布、五月三日新憲法施行と同時に施行されることになつていたための準備としての改組であり、地方自治法施行後の区は特別区として、行政権限が拡大された。
これより先、大正十二年九月一日の関東大震災後、当時の東京十五区に隣接する郊外の発展はまことにめざましく、勤めは都心、すまいは郊外の形がはつきりし、朝夕の混雑はラッシュ・アワーの名で呼ばれるほどになつてきた。この間の事情は次表によつて明らかである。
図表を表示こうした現実に即応させるために、昭和七年十月一日、旧市に隣接する五郡八十二町村を併合して、大東京市が誕生した。旧市域十五区、新市域二十区計三十五区、面積では旧市の七倍(計五五三・九七平方キロ)人口五六六万人という世界有数の首都となつたのである。
本区の地域は、このとき板橋区の半部として新市域に改まつた。すなわち、板橋町、上板橋村、志村、赤塚町、練馬町、上練馬村、中新井村、石神井村、大泉村で板橋区をつくつた。しかし、その地域はまことに広大で、三十五区中最大であるばかりでなく、旧十五区の全区域を合した面積に近いという状態であつて、これを一区として区劃することにはかなりの無理があつた。そこで、練馬と石神井の二方面地域に区役所の派出所を設けて区役所の事務を一部分掌させ処理してきた。ところが、この両地域のその後の発展の状態から言つてこうした措置は円滑な行政事務の処理を妨げ、区民一般の不利不便も増加するので、果然分離独立運動がおこり、さきに結成された練馬区設置期成会を中心に活溌な動きが展開された。
しかし、戦争に突入してから戦時非常措置令のため行政区画の廃置分合が一時停止され、その代りとして昭和十九年五月一日、支所の制度が布かれ、区役所と同様の行政事務を執行することになつた。その後、敗戦になり、すべてに旧規を脱する気風がおこり本区独立の気運も熟して、昭和二十二年八月一日、ここに練馬区が誕生したのである。
日本全体が全く打ちのめされた敗戦、その混乱の収まらないときではあつたが、区として独立した本区は、水を得た魚のように生き生きとして発展の道を歩きはじめた。戦時中のアメリカ軍の空襲による被害も、住宅工場の少ない本区にとつては、他区ほど大きなものではなかつた。かえつて農家にとつては、他の生活必要物資の不足はあつても
食料だけはなんとか補い得たので比較的安泰であつたともいえよう。東京自体も、関東大震災(
戦後の経済民主化運動の一つとして、本区に関係する重要なことは農地改革である。区独立前の二十一年二月、十二月行われた改革は、戦前の農地所有形態を根本的に打破して自作小作農家数の比を逆転させた。(
世界有数の人口を擁する東京は、その都心部に公私のビルが林立し、日々おびただしい人間をそれらが呑吐している。くもの巣のように張られ、網の目のように細かい各種の交通機関がその人々を、住宅地帯から都心に向けて運ぶ。本区は、住宅地としてめざましい発展をなしつつある。従つて、こうして都心部が昼間多数の人口をもち、夜間にそれが数十分の一に減少するのに対して、本区では、昼間人口より夜間人口の方が三万人ほど多くなつている。都
立大学の磯村英一教授の調査によると、昼間から宵の口の雑踏時にかけて銀座のある瞬間に、四丁目の交差点を中心とした周囲六八ブロックの町の中に三〇万人が居るとのことである。銀ブラの男女、買物、遊び、そしてそれらの為に店で働く人々などすべてを集めた数字だという。その三〇万人が夜にはわづか三千人になるという。米こく通帳をもつている人の数である(こうした勢は、すでに大正末から現われている。「東京五百年」(
大正一〇年ころでも郊外電車の一日の総乗客数は二十万程度にすぎなかつた。それが一二年の大震災後は市民の郊外定住が勢いを加え、周辺町村の異常な人口増加となつた。大正一四年の私鉄の一日の総乗客数は三五万内外、昭和五年のそれは七〇万を越える激増ぶりで、約三〇万の通勤通学者が市内と郊外を往復していた。それらの多数は東京駅や有楽町駅を中心とする官庁会社街への通勤者であつて、麹町区の場合、昭和五年には人口五四、四九五人に対し、昼間人口一六一、五八六人で、約三倍という数字を示した。私鉄の発展とともに省線もその後、神田・上野間が開通、東北、東海道両線の連絡がなり、江東の発展につれて総武線も電化し、京浜線は大宮、中央線は浅川まで延長され、朝夕通勤時の混雑がラッシュ・アワーの呼び方で表わされたのもこのころからである。
資料文>出勤時の朝のひととき、大きな波が都心に向つて四周から集り、夕の退勤時には逆にその大波が住宅地のある周辺地区へあらゆる交通機関とともに退いていく。この姿を周辺区部から見れば、朝の駅入口にあとからあとから吸い込まれて行く人々、それが夕には、一日の仕事から開放された喜びを秘めて家路へ急ぐ顔々になる。本区の各駅が朝夕示す表情もそうである。
この住宅地の増加、つまり農地の宅地化は、本区従来の風趣である田園風景を年毎に失わせて行く。本区の課題の大部がここから出発しているのである。
本区に於ける人口の動態は、大都市に於ける住宅地域の特長をまことに遺憾なく発揮している。昭和二十年の
世帯数 一九、九三六 人口 七五、五六五人
に対して、三十一年には
世帯数 五六、一二七 人口 二〇五、四八九人
人口増加指数昭和二十年一〇〇に対して三十一年二七一と三倍近くに増加した。しかも一方、一世帯当り人口は、昭和二十七年以後減少の傾向を示し、同年四・三五に対して三十一年には三・六六となつている。これは、最近の考え方が「少なく生んで優秀に育てる」という産児計画となつているためともいえる。東京全体に例をとると図のように、戦時中(
ところで、本区に於ける一世帯当り人員減少の主な原因は、この自然増加率の下降よりも寧ろ次のような点にあることに注目しなければならない。それは二十年約二万世帯が、三十一年に五万六千世帯と増加したその増加分三万数
千世帯の年令平均の低下である。一地区に於いて世帯数が急激に増加する場合、大土木工事その他の建設事業のための集団的移動の場合を除けば、通常一世帯当り人員は減少するのが当然である。それは老年者が年少者に入れ替る自然の理に基くものであり、移動の可能性は若い世帯にあることからもそれがいえる。 画像を表示しかし、本区の場合、その世帯人員の減少は急激である。現在の世相では、結婚独立によつて一世帯を構えても一軒の住宅を使用することはかなり困難である。集団住居としてのアパート建築が次第に増加するのはそれの解決のためでもある。本区
における住宅建築の申請数は表の通りで、到底世帯数増加に追いつくものではない。独立した世帯は、多少とも余裕のある生活に入りたいので、新天地を求めて周辺区部に移る。こうした若い世帯の人員は夫婦又は子供の一人という程度であり、既住の世帯のきわめて徐々に若がえるのに対して、急激に一世帯人員を減少させ且つ本区構成人員の平均年令を引下げるのである。 図表を表示このように、人口の著しい増加を、比較的世帯員の少ない若い家族の転入によつておこされたものとみたとき、本区の課題の一つは、この若い年令層の新居住者と従来からの居住者(
前述のように、世帯数増加と新建築数とは一致しない。最近、都心に近い各区住宅地に鉄筋コンクリート数階建の高層アパートが相ついで建造され、その勢が本区にも及んでおり、一方、公私による集団住宅が年ごとに建てられているが、住宅の不足は、都自体としてなやみの種であり、年間不足三十数万戸といわれている。ただ、今日の状態では、建てることに重点がおかれているために、外観はかならずしも優れたものとはいえない場合が多く、将来、一戸一戸をより高次のものにするとともに周囲との調和を計り、或いは新環境をつくり上げる熱意をもつて、公私の努力が払われなければならないであろう。
図表を表示なお、本区では、区が斡旋して区民のために土地を分譲する便宜を計つている。これらも極めて好評であつて、区発展のために資するものといえる。以下にその根拠及び概況を示しておく。
<資料文>東 都練馬区住宅分譲条例
昭和二八年一二月三日 条例第十号
(目的)
第一条 この条例は、住宅金融公庫法による融資分譲住宅の譲渡について、必要な事項を規定して、都民の生活安定と、社会福祉の増進に寄与することを目的とする。
第二条 分譲住宅とは、区が一団の土地に建設し、第四条に定める資格を有するものに譲渡する住宅をいう。
第三条 分譲住宅の譲渡は、その敷地とともに行うことを原則とする。
(譲渡人の資格)
第四条 分譲住宅の譲り受けることのできる者は、住宅金融公庫貸付業務取扱規程第十一条に規定する他、東京都内に勤務を有するか、又は居住している者でなければならない。
(以下略)
資料文> <資料文>東京都練馬区宅地分譲条例
昭和三〇年九年一〇日 条例第六号
第一条 この条例は、住宅金融公庫法による融資を受けた宅地の譲渡について、必要な事項を規定し、現在の宅地事情の融和を図り、以て住民の福祉増進に資することを目的とする。
第二条 この条例で宅地(以下「分譲宅地」という。)とは、住宅金融公庫宅地造成資金貸付業務取扱要領(以下「要領」という。)第五条の条件を充す一団の土地を区が取得し、公庫宅地造成基準に従い造成並びに分割を行い、第三条に定める資
格を有するものに譲渡する宅地をいう。第三条 分譲住宅を譲り受けることのできる者は、当該宅地上に公庫の貸付金により住宅を建設するために宅地を譲り受けようとする者で、公庫貸付業務取扱規程第十一条に規定する者でなければならない。
(以下略)
資料文> 図表を表示 図表を表示 図表を表示 図表を表示こうした人口の急激な増加は、義務教育である中・小学校児童の数を年々増加せしめており、施設の拡充とかけ足で競争しているといつてもよいであろう。毎年教育費は区の予算の中で半に近い額を占めていたが、三十一年度には五二・三六%と半分以上に達している。しかも、才入中区税の占める額を上廻るものであることに注目しなければならないであろう。
区のこうした努力に拘らず、教育施設は未だ満足すべき状態に達したのではなく、今後もさらに大きな力をこの面に注がなければならない。これは義務教育就学児童を多く持つことに起因するのではあるが、前述のようにこの若い力こそ本区の将来に明るさを加える原動力といつてよい。いわば若木のようにすくすく伸びて行く本区の希望に溢れた姿である。
学校の問題についてさらに述べなければならないのは、戦後、都心にある大学その他の学校が争うように郊外へ移転したことである。なかには、全校を挙げて移るものもあり、またなかには、その一部を移し或は新設する。さらには、運動場等の施設をつくるという現象である。
これは、各校の発展に対して、旧地附近ではそれに応ずる拡張が困難であるためが主であり、さらに田園的環境内に十分な敷地を持つて教育の効果を挙げようというねらいによるものである。
従来、本区から他区へ通学する高校生、大学生の数は、通勤者の数とともに多かつたものと考えられるが、こうした大学の本区への移建増設は、本区の環境の良さがしからしめたものであると同時に、本区の将来指向するところを語るものともいえよう。
東京各特別区の特長なり進路なりは、それぞれ異なつてよいものであり、立地により違うのが当然である。中央・千代田の官庁・商店街、江東各区の工場街に対して、旧市内各区は住宅地としての特長を持つていた。しかし、都の人口膨張は、戦災の甚だしい被害とともにそれらの地区のみをもつてしては、住宅を消化し切れず、ここに交通機関の発達・道路の整備と相俟つて、本区をはじめとする郊外区を急速に住宅地化しているのである。われわれは、この必然に対して十分認識し、万全の対策を講じなければならない。
区の文化センターとしての公民館も、昭和二十八年十月開設され、後記のように数々の行事を重ねてきているし、最近これをさらに増築して、商品をはじめ本区の特色を一覧し得る資料の常設展示をしたらどうかという意見さえ出ている。もし、その計画が実り、また、さらには第二の文化センターが、例えば石神井地区にでもできるということになれば、一層の光彩を添えることであろう。
戦前のドイツには、小市街にいたるまで郷土博物館が建てられて、美術・歴史・博物その他の専門博物館(これらを併せて約三〇%である)と合して、一九三〇年に一五三六館あつた。首都ベルリンのみで六〇に及び、全国では、一〇〇〇平方キロメートルにつき、三・二、人口約四万一千に一館の割合になる。アメリカ合衆国でも、大小一五〇〇ほどの各様の博物館があり、スエーデンでの博物館運動は、郷土愛の発露による主として農民の社会活動といつてよく、小町村に至るまでそれを持とうとした。
こうした諸例は、必ずしも経済的ゆとりのある場合にのみ、こうした文化施設の充実に力を入れるのではないことを、われわれに示している。幸い、日本でも最近、博物館運動が次第に擡頭しているし、本区の如く、貴重な文献を
はじめ各種資料が残されている地区としては、さらにこの面に区民の目を向けられることを期待したい。次に、区内の文化に関する各種団体で登録されているものは、次の通りである。(
種別 団体数 会員数
青年会 二九 約一、三五〇
婦人会 二七 約六、〇〇〇
子供会 一四五
体育レクリェーション 一七
この他にも届出のないもので活動しているものが多数あるであろうし、文芸の会、音楽演劇等芸能に関する会、体育の団体等の活動がしばしば見受けられる。中でも練馬郷土史研究会のように、学術の分野できわめて顕著な活動と業績をのこしている会があることを忘れることができないし、練馬区美術家協会の美術展、練馬区体育協会の各種体育行事も特記する要がある。
<資料文>練馬区郷土史研究会 昭和三一年一月発足した。それまで公民館で「練馬の歴史を語る集い」が開かれていたが、その中の有志によつて本会が成立した。事業は、練馬の史料の紹介、刊行、古老を招いて座談会、講談会、展示会など活溌である。
資料文>さて、このように、都に於ける文化のにおい豊かで静寂閑雅な住宅地帯として発展しようとする本区の実態及び整備計画はどうであろうか。
先ず、交通であるが、道路は日進月歩のいきおいで整備され、近代化されつつある。区の南東端から入り西進する放射第七号路線は、通常十三間道路と呼ばれ、現在は中村北一丁目までが完成、つゞいて谷原町二丁目までを目下建設中である。(首都圏整備法により、昭和三十一年より三十四年の四年計画)、将来、予定にしたがつて、北田中町、東大泉町を通り区境まで完成すれば、本区を横断する最も主要なものになり、起点である千代田区九段一丁目から幅員二五―三〇メートル、区界まで延長一八四〇〇メートルの堂々たる道路になる。
放射街路第六号路線(
しかし、日本の道路全般が未完成の状態であるとおり、本区の道路についても将来を待たなければならないものがまことに多いことは当然である。
十三間道路の美しさは、時に随筆などにあらわれてくる。下落合からこの道を練馬に向うと、次第に人家が少なくなり、坦々たる大道は悠々と田園風景の中を西にのびている。交通量がまたさほど大きくないこともこの道ののどけさを助けているであろうが、麦の色の濃いこの道もやがては都大路の風格を持つようになるのであろう。しばらくはこのまゝにしておきたいと思う心は、単なる感傷にすぎないともいえる。たくましく而もつつましく発展する練馬区のシンボルのような十三間道路。
大正のはじめ、大根畑のみわたす限りつづいていた池袋を起点にして、武蔵野鉄道がひけたころ、沿線は近代化の第一歩を持つた。二時間に一本、日中だけという鉄道は、ときには追いかけても追いつくのではないかとさえ思わせたと、古老は笑つて語つてくれる。いまこの鉄道は、西武鉄道池袋線として、まことにめざましい躍進をつづけている池袋から多数の客をのせて、区を東西に横断して川越方面に向つて走つている。
その南に平行して、西武鉄道新宿線が走り、区の南西部を横切り、区の北東へりには、東武鉄道東上線が運行している。
バスの発達は、現代日本の一つの特色ともいえる、区内でも縦横にバスの走るのを見ることができる。乗物による区内の交通は隔世の感があるといえる。
しかし、このような発展の姿がめざましい一方、上下水道、ガスなどはまだ〳〵将来に望まなければならない有様であつて、この方面への努力が期待されている。
さて、この交通網の発達は、土地の開発に大きなつながりをもつものであつて、鉄路の敷設、バス路線の設定が現状の必要から起るものであるとともに、それらの開通が直ちに土地の発展となる因果関係をもつている。古くは大小街道がそれを果してきたものであり、本区にも補説で述べているように大小の古道をみることができるのである。最近数十年間に発行された地図類を比較すると、土地用途の変遷と交通関係がきわめて明瞭であつて興味の深いものがある。
本区における農商工の実態については、現勢編に詳説してあるので重複を避けるが、明日の本区を考えるとき、われわれは、最近に於けるこれらの変遷を十分に承知して、優れたそして最も適した方案を樹てなければならないであろう。東京の都市計画は、つねに現実に追われながらつくられている。一面から言えば東京の発展はそれほどめざましいのであろうし、他面から見れば経済力をも含めた各面に於ける貧困が理想を追求する前に現実として大きく立ちはだかつているのだともいえよう。しかし、少なくも今日の計画は、かつて大正十一年に決定されたような東京駅を中心とした半径一六キロ圏内の都市計画というようなものではなく、東京周辺の衛星都市との関連をも含め、国土計画の一環として樹てられたものである。戦災の手痛い被害―東京の主要部の大半を灰じんにしてしまつたこの災害の後、首都としてふさわしい東京をという復興計画は、やがて昭和二十五年六月、首都建設法の公布となつた。この法律は、東京全域を対象として一国の首都として名実ともに備わる東京を建設しようというところに目標をもつていた。しかし、大東京の動態はけつして東京都という狭い範囲で終始するようなものではない。隣接近接する地域とのはげしい交流は計画をたえず動揺させる。到底、都という行政区域で処理すべき問題ではない。しかも、首都建設委員会の権限は計画の作成を主としているのであつて、どのような理想的計画であつても実施にうつされなければ単なる紙にすぎない。
そこで、全く新しい構想による計画が求められ、三十一年四月、首都圏整備法が公布されるに至つたのである。首都建設法に於ける不備は一切ここでは排除され、そこで考えられた長所のすべてが盛られて、首都圏整備委員会が発足したのである。圏の字が示すように、東京駅を中心にして半径約一〇〇キロ、隣接各県のみならず北関東、山梨、
静岡の一部にまで及ぶ範囲を含む綜合的計画が樹てられ、実施されようとしているのである。さて、眼を本区に転じてながめると、都における本区の位置から考えて、性格を知らなければならないが、緑地の占める範囲の極めて大きいことが先ず目につく、区面積の四四・七%と半数に近い。緑地地域に建築することのできる建築物の主なものは次の通りである。
この緑地地域の存在は、一方に於いて、本区を大東京の静寂閑雅な地域として残すという良い点を持つているとともに、すでに発展しはじめている地域を制約し阻止する面をもつているために、区自体の問題として取上げ、一部の解除が望まれ、昭和三十二年四月二十七日区議会全員協議会に次の案が提出されている。(練馬区等が集まつて「九特別区緑地変更促進同盟会」が結成されてそれぐ各区に於いて運動を展開している。)区のみの立場から言えば、発展に向う地点を正常に商店街化し、周辺住宅地との調和と便益を計るのが当然であろう。その発展はあくまで将来を見通した計画の下になされなければならないが。
緑地地域廃止、変更理由案
1、北部は田柄川改修に伴い耕地整理施行済である。都道百八十七号落合白子線以西は未開発であるが、土地区画整理事業候補地として、大団地計画の容易な土地である。南西部は放射街路七号線の事業決定をみ、又旧農事試験所跡に瓦斯調圧場も実施されるので、都道四十一号田無白子線(富士街道)沿道の発展も期せられる。この範囲の廃止を希む。
2、放射街路七号線沿道の発展状況と、都道七十八号田無白子線及び補助街路百三十四号(計画)沿道の発展に伴い、宅地化が促進されつつあり、東部は公営住宅団地も含まれ、中央部は個人住宅集団(自衛隊員)等もみられる。この範囲は最終的に地域指定が希ましい。
3、都道四十一号田無白子線(富士街道)沿道の発展は、放射街路七号線の事業決定に伴い促進される。補助街路百三十四号(計画)線沿道との中間であり、宅地化もかなりみられるから、地形上としてもこの範囲を廃止したい。
4、大泉学園駅を中心とする商店街及び住宅地は次第に伸びつつあり、白子川をこえて土地分譲も行われている。東部は理由2の接続地域として、東映撮影所前より成増駅に向う沿道の発展を予想し、西部は保谷駅北方の土地発展状況からみて、この範囲の地域を拡張し、将来に供えるものである。
5、北部妙福寺周辺より大泉第二小学校に至る集落附近、みかえり母子寮周辺の宅地化もあり、南部は未開発であるが、地元の土地提供意欲等あり、大団地計画も考慮されるので、都道六十五号中野桃園所沢線の範囲を劃し、地域指定の上開発いたしたい。
6、吉祥寺駅より大泉駅に至るバス道路沿道の発展は著しく。都道百七十一号吉祥寺大和田線による交通も至便である。都立石神井高校、野球場等あり、都道百四十一号(富士街道)を劃して住宅地の発展に供したい。
7、補助街路七十六号線計画の主旨もあり、附近の発展に伴い道路拡幅工事中である。早稲田高等学院(旧智山高校)南部の宅
地化は著しく、西部修道院に至る石神井川南部の台地を劃して住居地域の拡張を希む。8、千川上水以北は集団住宅あり、附近の住宅建設は増加している。立野町南部の既成住宅地は飽和状態に達し、この地区にかけて発展しつつあり。中央部は未開発であるが、団地計画も容易であるから、この残された緑地地域を廃止いたしたい。
9、北部吉祥院周辺は緑地地域指定後においても住宅地として発展しつつあり、西部都立井草高校附近は上井草駅に至便であり、天祖神社方面及び荻窪―石神井公園間バス道路沿道にかけて発展しつつある。都道百二十二号板橋吉祥寺線、六十五号中野桃園所沢線及び補助街路百三十四号(計画)沿道集落周辺の発展は注目されるので、石神井川南側台地を劃して地域指定を行いたい。
<数2>10数2>、石神井以東の台地の一環として土地分譲も行われ、既指定地の公営住宅団地に接続している。地勢上からも住居地域といたしたい。
図表を表示練馬区面積(四七・三三平方粁) 一四、三一七、三二五坪……一〇〇%
廃止、変更案面積 三、四〇一、一〇〇坪……二三・八%
現行緑地地域 ……四四・七%
廃止、変更案施行後 四四・七~二三・八……二〇・九%
(備考 各数字は概略を示す)
「緑地」が法的根拠をもつたのは、昭和十五年三月の都市計画法の改正によるのであるが、すでに明治年間以降、都市に於ける緑地として公園の設置がなされ、大正を経て、昭和に入り七年十月、内務省の都市計画東京地方委員会の中に東京緑地計画協議会が生れ、十年には都市計画区域内及びその周辺における緑地計画についての案が成り、逐次その機が熟してきたのであつた。当時東京府は、紀元二千六百年記念事業の一として、都心より約二〇粁の範囲で環境の好適の地域、一カ所二〇万乃至六〇万坪の緑地六カ所一九一万坪を都市計画事業として買収している。砧(二四三、〇〇〇坪)神代(二一三、〇〇〇坪)小金井(二七三、〇〇〇坪)舎人(三〇三、〇〇〇坪)水元(五〇七、〇〇〇坪)篠崎(三七二、〇〇〇坪)がそれである。そのころ、東京市は、市外自然公園の設置を計り、昭和十三年四月村山貯水池附近約七万六千坪を公園化し、翌年五月伊豆大島に大島公園一、六五三、五〇〇坪の内約三七万坪を開園した。本区では、昭和十三年十月、西武鉄道株式会社及び地元寄附の富士見池周辺一三、九〇〇坪を武蔵関公園として開園、三宝寺池を中心とする石神井公園も都市計画公園となつている。
一方、風致地区は、大正十五年九月、明治神宮内外苑八万三千坪を指定したのが始めである。本区としては、昭和五年十月、石神井地区が洗足、善福寺、江戸川とともに指定され、八年には、大泉地区が、多摩川、和田堀、野方とともに指定されている。
次に、本区で問題となるのは、駐留軍用地である。区の中央区部に広大な軍住宅地グラント・ハイツがあり、大泉地区の北部に埼玉県朝霞軍用地の一部がはいりこんでいる。グラント・ハイツはかつて戦時中、飛行場用地として多くの都民の勤労動員による汗が流された地であり、それ以前は武蔵野の面影をのこす平和な農村であつた。この広大
な地域にアメリカ軍による将校住宅が建ち竝び近代的住宅地の観を呈しているが、いつかは返還になるものであろうし、その際の処置如何によつて区に影響するところ極めて大なものがある。
悠久数万年の昔、すでにこの地に原始的な人々が食を求めて移り住んだ。東京の土地がまだ十分に今日のような姿になつていない頃のことである。石神井川、白子川のように生活用水の豊富な場所で彼らは噴火する山を望みながら生活したものと思われる。その後数千年の繩文文化の石器時代を通じて人の居住はつづいていた。大陸から稲作農業と金属器がはいつてきて、西から彌生文化にかわると、この地区もやがてその文化の中に移つていつた。
大和に中央政府が確立され、仏教を中心とする文化が広く全国をおおうころ、武蔵の行政・文化の中心は山寄りにおかれた。そのため、ここを含む東京の地は新文化の片隅に置かれたとみてよい。しかし、このころは各地交流もかなりはげしく、或る程度の交通路も考えられるし、部落も徐々に成長していつた。そうした部落の中から新しい勢力が生長した。中央での貴族政治の末ころ、平氏の系統の多かつた関東に、やがて源氏の鮮新な力が魅力になつて、頼朝の征覇となつた。鎌倉が政治の中心になつた武家政治が日本の歴史の上に展開される。両上杉の争い、その中から太田道灌の名が浮び上つてくる。江戸と名づけられた土地はここを含まなかつたであろうが、その名を冠した江戸太郎の活躍は道灌より古いものである。江戸市にかわつで道灌が江戸に城を築いた、その着手が康正二年(一四五六)であるのに基いて、昭和三十一年江戸開都五百年祭が盛大に行われたのである。城は翌長祿元年四月に完成した。この
江戸氏の活躍していたころ、それよりもはるかに強い力で豊島氏が本区をはじめ広く近傍を併せて大を誇つていた。家康の江戸入城は、江戸の面目を全く一新した。江戸城も道灌のときとは打つてかわつた大城廓になり、都市計画も周到に行われた。日比谷から日本橋へかけての海岸と砂洲を整理して神田山の土で埋立て、今日の下町をつくり、城下町としての実態を整え、武家屋敷を江戸城を中心に各所に構えさせ、交通路も整備し、巨大な江戸城とともに天下に冠たる江戸市街が実現したのである。元祿から享保のころの江戸人口百万以上という数は、当時の地球上では稀な都市であつた。
この江戸期を通じて、本区の地域は、農村として江戸市街への農産物の供給地になつていたと同時に近郊遊歩地としての役割も果していた。御府内八十八ヵ所にあらわれる寺院に杖を引いた多くの善男善女の姿も忘れることのできないものである。
明治から大正の初期を通じて本区の地域はやはり近郊農村としての立場に終始していた。しかし、第一次世界大戦後の好景気によつて東京に集まる人の数はおびたゞしく、旧市内は全く飽和状態になり、その勢は隣接郡部に延びていつた。それが、関東大震災によつて都心部が壊滅すると、一層近接町村へ居を移す者の数がふえた。本区が次第に静閑とした農村から大東京の一地域としての実態をそなえはじめたのはこのころからといえる。第二次大戦後の状態は、東京へ集中する人口と交通機関の縦横に走る便とを併せ背景として、区独立を前に完全に大都会の一部としての使命をもつことになつた。
いま、本区はその進むべき方向が決定して、力強く歩み出したのである。武蔵野の面影をまだとどめている地区を
もつているとともに、新しい建設の響が建築の面でも土木工事の面でも各所で起つている。新興の気に満ち満ちている本区。商業、工業の盛大を誇ることは他区に譲つても、高次の文化地帯、清新な住宅地帯、そして大東京の中における緑の地帯として本区の発展が近い将来に約束されているといつてよいであろう。