練馬区史

<通史本文> <編 type="body">

第二編 沿革

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古代

<章>

第一章 歴史のあけぼの

<節>
第一節 はじめに
<本文>

われわれの住む練馬区の土地に、一万年以前すでに人間が住んでいたということは、案外知られていない。もちろんこのような事実は、最近の新しい発見と知識によるものである。

したがつて、練馬区の歴史をしるすのにあたつて、われわれは、一万年以前の歴史から筆をおこさなければならない。

普通「歴史」といえば、書かれた文書の出現をもつて始まるものとされ易いが、人間はそのはるか前に生活をはじめていた。(人類学者は、人間の出現を約百万年前といつている

文字の発明や普及は、土地によつて時間の差があるが、六〇〇〇年ほど前には文字ができて使われている。古代文明諸地域で、長い時をかけて工夫した結晶である。こうして、その後いろいろの記録がのこされることになつたので

ある。

日本でも、言葉は早くから発達していたが、文字を持つていなかつた。従来、「古代文字」の発見などが伝えられたこともあるが、正しいと思われるものはないといつてよいであろう。日本では紀元後数世紀たつてから、中国の文字をとり入れて使いはじめたのである。中国の文字の成立は、古代他地域に劣るものではなく、日本と中国の交渉が次第に行われるようになると、中国の使つている「文字」の便利さを日本人がひしひしと感じて、これを借用することになつた。しかし、もともと言語のなりたちのちがう異国の文字をそのまま日本語にするわけにはいかないので、長い苦労の末に、中国文字を一つ一つとりあげて日本の言葉に合せることを行い、ようやくそれが完成して日本の文字ができたのである。その後、これらの文字の一部分をとつて「仮名かな」ができ、カナと漢字とを併用して、いまわれわれの使つているような文章がつづられるようになつた。

こうして、中国の文字を日本化することができて、はじめて日本でも記録をつくるようになつた。従つて、古事記でも日本書記でも万葉集でも、一見すれば漢字ばかりがならべられている。さて、このような文字による記録のない時代の歴史をどのようにして明らかにしていくのであろうか。人の造り、使つたいろいろの品物(遺物)、住居や各種建造物の跡、ものを製造した跡、その他の遺跡を綿密に調査し研究することによつて、世界各地の文献のない時代、残されている文献の少ない時代の人間の生活が、かなり明らかにされてきた。

人間の歴史を、時期的に大きく分けて、先史時代、原史時代、歴史時代とする人々があり、しばしばそれがつかわれているが、これは「人間の歴史」という広い目を持たなかつた時代に生れた考え方を無反省につかつているので、

正しい言い方ではない(先史、原史という使い方は、歴史時代を一国、一民族の歴史とみる狭い考え方から出発している。)。先史時代とは、文字がまだ生れていないので、文献を全く欠いている時代であつて、大体「石器時代」に相当している。原史時代とは、文字や記録は多少あるが、まだ十分ではないという時代で、青銅器がつくられ、農業がはじめられたころというかなり漠然とした言葉である。(ある国の歴史という点からは「先史時代」はあり得るが

人類の誕生の日から人類の歴史がはじまつた。そして今日に至るまでの流れは、きわめて原始的状態から今の高度の文明の時代まで移りかわつてきたのであるが、およそ百万年もの長い間の大部分は、石器時代であつた。近々この一万年間に、農業を知つて食料生産段階へ入り、つづいて金属器を知り、さらに諸科学の発達をみるようになつた。ことにこの二十世紀に於けるその発展は、まことにめざましいものがあり、ついにいま、科学の発達は、それが本来目的とする人類の幸福のために、を忘れて人類が集団的対抗をすることによつて、己の集団の利益となることのみを考え、対抗者を破壊するという悪の面を表わすに至つたのである。人間の理性の発達をこえて科学が発達したともいえようし、科学の他の一つの目的「人間性の探求」がなおざりにされたためともいえよう。

われわれが、こうした歴史のさなかにいることは偶然とはいえ、遙かな将来へつづく人間の生活を、歩一歩幸福に導くために、一段と覚醒して、現実を直視し、不完全性の多い人間をみつめ、その改善を行う責任を持つものといつてもよいであろう。

<節>
第二節 旧人から新人へ
<本文>

ヒトの発生は、およそ百万年前と考えられている。地表上のどこがその誕生の土地であるかは、まだはつきりしない。しかし、五〇万年ほど前には、隣の中国にはすでにヒトが住んでいた。ペキン原人(シナントロプス・ペキネンシス)である。北京の南西郊外の周口店で一九二六年以来発見された北京原人は、老若男女それぞれの遺骨が発掘され、すでに彼等が洞窟内で火を使用したことはもちろん、石器などの道具をつくつて生活をしていたことがわかつた。この原人は、現在のわれわれと身性の異なる原始的な人類であるが、ジャワ島で一八九一年同二年に亘つて発見されたジャワ原人(ピテカントロブス・エレクタス)とともに現在わかつている世界最古の人類である。

その後、ネアンデルタール人(ホモ・ネアンデルターレンシス)の系統の人々が、ヨーロッパ・アフリカをはじめアジアにも居住していた。彼らの文化程度は、まだ旧石器時代の段階で、農業も知らず土器をつくることも知らなかつた。これらの人々をホモ・ブリミゲニウス(旧人)と呼び、われわれホモ・サピエンス(新人)とは身体形質を異にしているものと考えられている。一〇万年二〇万年もの昔のことである。

そのころ、日本の土地は、アジア大陸と陸つづきであつて、南方象(ナウマン象など)が大陸からこの土地にやつてきている。東京でも時おりそうした象の遺骸が土中から、大建築工事で地下数メートルに掘り下げる折発見されている。象などが来たのであるから、大陸に居住した旧人の人々が日本に入つてきていてもよいわけである。早稲田大学の直良信夫博士は長年の研究によつて、明石原人(兵庫県葛生くずう原人(栃木県)の存在を説いておられるが、やがて

それらが明らかにされることであろう。

五万年ほども昔、南欧に黒人系統のグリマルディ人と白人系統のクロマニヨン人とが居住していた。このころの人類は、今のわれわれにつながるホモ・サピエンスであるが、もう人種の別ができていた。しかも、ヨーロッパの天地は、はじめから白人のみの世界ではなかつたことが、黒人系統のグリマルディ人の存在によつて明らかにされたのである。

彼らの文化も旧石器時代ではあるが、このころには、文化の内容はかなり進んでいた。食料こそまだ野山に動植物を追つて集め、河湖に魚類を求める食料採集経済の段階であるが、すでに原始的宗教らしいものを持つており、女神像などをつくつていた。その以前第四氷河期のおわるころ、人々は寒さを防ぐため洞窟内に居住したが、ときに極めて優秀な動物画などを洞窟の壁面に画いたものが発見されている。アルタミラ洞窟などがそれで、野牛の動的な絵画が数万年前と思えぬような精功な筆致で多数画かれていて、見るものをして驚歎せしめている。

石器類も製作技術が進み、使用目的によつて器形を異にする斧・錐・皮はぎその他各様のものがつくられ、さらに骨角牙などをつかつて器具を製作している。

やがて、氷河も全く去り、後氷朝に入つて、天地自ら温暖に向つて、人々は洞窟を去つて平地の生活を開始した。動物植物の諸相も次第に複雑さを加え、人々の生活はいよいよ活溌になつて、新石器時代を迎えたのである。

この時朝には、土器も作られ、原始的ではあるが農業がはじめられた。動物の飼育もこのころには始められている。石器も旧石器時代のように打撃を加えてつくる打製石器から数歩前進して磨いて成形し刄をつくる磨製石器がつ

くられるようになつた。

この新石器時代と旧石器時代の過渡朝を中石器時代と呼んでいる。その後、新石器時代の数千年を経て、人類はようやく青銅器を発明するようになり、急速に文化内容が複雑化して古代文明諸国の姿を生み出したのである。

しかし、地表上のどの地域でも一様に同じ経過を辿つたのではない。未開のまま今日に至つている不幸な人々もおり、急速に高い文化に接してその中にとけ込んでいつた人々もいる。

日本は、旧石器時代から新石器時代を迎え、やがて隣接する中国・半島から高度の文化を移し植えて古代国家を形成したのであつた。

<節>
第三節 日本の古代
<本文>

明石原人や葛生原人のことは前節で触れたが、学界の定説となつている日本の土地の居住者は、土器をつくることもせず、素朴な石器をつかつていた人々から始まるものとされている。その時代は、いまから一万年よりも古い昔のことである。

戦前まで、日本の考古学の一般では、日本古代の文化を「繩文文化」とし、それについで「彌生文化」さらに「古墳文化」となり、このころようやく古代国家が成立したものとしていた。繩文文化期は、新石期時代であつて、海岸沿いには多数の貝塚がつくられ、その数千年の継続した間に、ほとんど日本各地に繩文土器がつかわれたのであつた。北の樺太から南の琉球に至るまで繩文文化の時期があつたことが知られている。

この繩文文化の実年代は、人によつて多少意見が異なるが、七、八千年前にはじまり、二千数百年前から漸次彌生文化に交替したものと考えられている。ところが、戦後になつて、繩文文化に先行する文化が日本各地に存在することが明瞭になつた。群馬県岩宿の調査にはじまるこの研究は、現在かなり進行して、その文化を先繩文文化(繩文文化に先行する文化という意味、プレ繩文文化ともいう)と呼び、土器を併つていないので無土器文化と称する人もある。

関東地方に於ける先繩文文化の遺物は黒土の下の関東ローム層といわれる赤土の中から発見されるのであつて、練馬に於ける発見例も同様である。この赤土の成立年代が一万年より前と考えられるのである。文化の内容は、僅かの素朴な石器と意識的に配列された礫石などで、また不詳な点が多い。したがつて、次の繩文文化とのつながりも明確ではない。

「繩文」という言葉は、その時代を代表する土器の多くに、繩目模様がつけられているためである。この土器は樺太から、九州・琉球に至るまで分布している。繩文土器の器形や文様は極めて変化に富んでいるので、この変化を研究して各地方別に早期、前期、中期、後期、晩期の五期に編年している。この編年は学者によつて多少の相違があるが、関東地方の編年表を次に示そう。

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さて、このような土器を使用していた時代には、金属器は全くなく、斧・錐・ナイフ・鏃などの利器はすべて石や骨・角・牙などで作られた。日々の食料は山野に獣や木の実を求め、海や川に魚介を求めた。所謂採集経済の段階である。農耕を行つたとは考えにくいが、磨製石器もあり、土器はかなり進歩しているので、明らかにこの繩文文化は新石器時代に属するものである。彼等は、南向きの水の求め易い台地の縁辺に居住した。その住居は、大地をやや堀りくぼめて竪穴を作り、堀立柱を立てて草屋根を葺いた。竪穴内には、炉も設けられている。これらの竪穴住居は、唯一戸で存在するのではなく、幾つか集まつて集落を形成していた。村の始原的な様相といえよう。しかし、繩文文化期の早期にはこのような竪穴はあまり見られない。恐らく食料を求めて、あの山、この谷と移動したため、定住することがなく、岩かげや大木のかげにほんの仮小屋を営んだ程度であつたのだろう。海や沼のほとりに住んだ人々は、自分達の食料とした貝の貝殼を一定の場所に棄てた。これが貝塚である。ここには壊れた器物を棄てたり、死体を葬つたりするので、当時の文化を知る上で重要な遺跡といえよう。

繩文文化も晩期になるとあらゆる面で複雑化して来る。その時代は紀元前二、三世紀ごろで、お隣りの中国では前漢の時代、すでに農耕が行われ、鉄器が普及している。この漢帝国の東亜全般に及した影響は大きなもので、当然その余波は島国日本にもやつて来た。やがて農耕、ことに水田耕作を特徴の一つとする彌生文化期へと歴史の歯車は廻転するのである。

繩文文化と彌生文化をくらべると、たしかに大きな差異がみられる。前者は、採集経済の段階であつたが、後者は稲の栽培など農耕の段階にまで進んでいる。また利器においても、彌生文化期になると石器の他に青銅器や鉄器を使

用するようになる。このように文化の様相に変化がみられるが、その原因は、民族の大移動とか交替というものではなく、前述したように東亜全般の大勢のもとに繩文文化から彌生文化が育ぐくまれたのであつた。

彌生文化の「彌生」という名称は、この文化を代表する赤褐色の土器が文京区彌生町において発見されたので名付けられた。彌生式土器は、文様も、器形も繩文式土器にくらべて簡素であるが、通常、前期、中期、後期の三期に分けられている。南関東においては、中期(須和田、宮ノ台)、後期(久ケ原、弥生町、前野町)がみられるが、前期に相当するものはみとめられない。彌生文化の中心は北九州や畿内であつて東日本には繩文文化の伝統が強かつたからであろう。

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彌生文化期の住居は、前代にひきつづいて竪穴住居であるが、集落の規模は一段と大きくなり、集落の周辺に環溝をめぐらすものもある。農耕も静岡市登呂遺跡のごとく大がかりな水田耕作も行われている。また、各地の彌生式遺跡から稲もみが発見され、稲作の盛んであつたことがうかがわれる。

彌生文化期の葬法として甕棺葬がある。これは主として北九州で行われた葬法であるが、甕棺によつて副葬品の有無、優劣があつて、明らかに貧富の差、階級差がみとめられるようになる。この頃の北九州の事情を記したと思われる魏志倭人伝という中国の古書があるが、それによると、すでに各地に勢力の対立が見られ、中でも女王卑彌呼の統治する邪馬台国が強大で、その様子が詳しく述べられている。

彌生文化期の実年代は紀元前二世紀ごろから紀元三世紀ごろとされている。紀元三世紀末ごろになると高塚を築く風習が行われるようになり、それが四、五世紀にはいると、かの応神天皇陵、仁徳天皇陵というような壮麗な古墳に

まで発展する。これが日本の古代国家の成立を意味することはいうまでもない。この時代を古墳文化期と称し、古事記・日本書紀にもその事情を示す記載がある。

古墳文化は、彌生文化とともに農業社会の基盤の上に成り立つているが、この時代の高塚古墳は明らかに個人或は一族のみの墓であつて、ここに豪族或は階級社会の出現がはつきりみとめられる。古墳の築造はほぼ七世紀ごろまでつづいた。古墳文化期にはいると土器の様相も変化して、彌生式土器に見られる文様は次第になくなり、器形の種類も少くなる。しかもこうした現象は全国的に見られ、土器からも古代統一国家成立の過程がうかがえるのである。このような土器を土師器はじきと呼んでいるが、南関東では、主として器形の上から上表のように編年する。

古墳文化期後半、すなわち鬼高期になると朝鮮半島から新しい土器の製法が輸入され、灰色、堅緻な須恵器すえきが生産されるようになり、次第に土師器は後退し、平安時代に入ると土師器は祭器その他として僅かに使用されるのみとなる。

古墳文化期から奈良時代にかけての人々の生活は、貧富の差がはつきりとでていたようである。貴族は家形埴輪の一部に見られるような立派な家に住んでいたが、民衆の多くは竪穴に住んだ。もちろん集落としての構成は大きくなつたが、前代の彌生文化期の竪穴と異る点は、方形となり、竪穴内にカマドが築かれたことである。

さて、仏教とそれにともなう文化の伝来は、日本の歴史を画期的に変化前進させた。仏教は六世紀中葉に、朝鮮半島を経由して伝来し、以降わが国文化に物心両面で大きな影響を与えたのである。推古天皇三十一年(六二二)には

全国に四十六ヵ所の寺院が建立された。七世紀には大陸の諸制度にならつて法制的国家の第一歩、つまり大化改新となり、古代国家が完成した。この古代国家は八世紀の後半に至るまで輝しい仏教文化の花を咲かせた。この時代を奈良時代という。八世紀末になつて都は平安京に遷つた(七九四)が、従来の律令制度は、土地制度その他の面において幾多の欠陥を示し、中央貴族、地方豪族の擡頭とともにほぼ十世紀を境として政治、文化の両面に大きな変化を見せるに至つた。この時代を平安時代というが政治の中心は天皇から藤原氏に移り、国風文化が栄えはじめ、地方武士団の発展とともに、中世封建社会への道をたどるのである。

<章>

第二章 練馬と考古学

<節>
第一節 数万年前の練馬
<本文>

地表数十糎の黒土の下には褐色粘土質の「赤土」がある。これは火山灰の堆積したもので関東ロームといつている。その詳細は「自然環境」において述べたが、一万年以前に関東地方周辺の火山、たとえば富士山、赤城山、榛名山などの山々は盛に噴火して各地に大量の火山灰を降らしていた。近年までその頃にはまだ人類が日本に住んでいなかつたと考えられていたが、群馬県桐生市の西方の岩宿において、関東ローム層の中から素朴な石器が発見されて以来、各地の洪積層中から石器が見出され、数万年以前にすでに人間の活動がはじまつていたことが判明した。幸いにして、練馬区内でも次表のように数ヵ数の遺跡が発見されている。

その代表的な遺跡について簡単に説明しよう。

北大泉町丸山遺跡は、白子川右岸のほぼ独立した丘陵上にある。地層は、約三〇糎の耕土(繩文式土器、彌生式土器の破片をふくむ)の下にローム層があるが、このローム層はさらに数層に分かれることが確認される。すなわち、ローム層上面から六五糎ほど下になると急に地層が堅くなり、さらに一米余下になると黒味がかつたローム層となる。この竪いローム層の上面から一〇糎ほど下に拳大の礫が、約一米平方に平にならべられ、その直下から石器や剥

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片が発見された。配礫はすべて赤く焼けている。石器は、長さ六・二糎、幅四・二糎、厚さ一・七糎で、石質は硬質頁岩、剥片に細部加工をほどこしたもので非常に鋭利である。

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関町五丁目富士見池南遺跡は、石神井川の左岸の丘陵上にある。地層は、丸山遺跡と同様にローム層がさらに数層に分れるが、ここでは表土下四米ほどまで調査されている。石器は三層にわたつて発見されている。地層に関しては地層図を参照していただきたい。地表下一・四米ほどから厚さ二五~四五糎の竪いローム層となるが、その中から焼けた配礫と共に安山岩、黒耀石、チャート、頁岩製の石器(ナイフブレイド、サイドスクレーパー)が出土し、地表下約二・四米の 画像を表示

厚さ約七〇糎の黒色帯から頁岩製の石器(ブレイド)、また地表下三・三米の堅いローム層中にチャート製の石器(ブレイド)が発見された。このように本遺跡においては、ローム層中に三つの石器文化が層序的にふくまれていることが確認された。他の遺跡もほとんど同じ状態である。

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遺跡の立地は分布図に見るように、川にのぞむ丘陵上にあり、殊に丸山遺跡のように、ほぼ独立した丘陵上に多 画像を表示

い。石器はいづれも打撃によつて作られ、その際に生じた鋭利な剥片が刄として役立てられ、したがつて剥離面の鋭い黒耀石、頁岩、チャートなどが主として原材となつている。このような石器を使用した人々がどんな人種で、また今日のわれわれとどんな関係を有しているかという問題、或は当時の植物相、動物相などは全くわからない。しかし、遺跡から度々発見される焼石から、彼等が火を使用したことがわかる。焼石の断面を見ると高度に熱せられたようである。彼等は川筋の展望のきく、防禦し易い丘陵上に狛猟生活を営んでいたのであろう。石器、石屑、配礫などからその場所が石器を作つたり、石を焼いたりした(何故石を焼いたかわからないが)彼等の生活の場であつたことは確かである。石器の原材については、黒耀石のように遠い産地からもたらされたものもあつて石材の交易が行われたと考えられる。

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以上のような生活が石神井川、白子川などの流域で行われたのである。その年代は地質学や地形学の成果から上部洪積世、即ち数万年前に溯るとされ、これを人間の歴史に照し合せると、旧石器時代の中期以降、中石器時代に至る段階にほぼ一致するであろう。

<節>

第二節 繩文文化期
<本文>

たとえば、石神井川や白子川をのぞむ台地上の畑を歩いてみよう。前日雨が降り、しかもその日が快晴であるならなおさら都合が良い。よく耕作された黒土に、点々と散布している茶褐色の土器の破片を見つけるであろう。そして、それらとともに石を加工して作つた斧ややじりなどをひろうこともあろう。それらの石器の中には黒い瞳のようにきらきらと露にかがやく黒耀石もある。土器を数片ひろつて観察すると表面に縄目がついていたり、或はヘラで模様をつけたり、粘土の紐をおしつけて凹凸のある模様が施されている。このような土器を縄文式土器という。もちろんはじめは、立派な壺や甕であつたが、幾星霜を経るうちに次第にこわれて破片になつてしまつたのである。これらの土器や石器が使用されたのは、今からおよそ三〇〇〇年から八〇〇〇年前とされている。

本区には繩文文化期の遺跡は非常に多い。

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以上の遺跡は、そのほとんどが石神井川、白子川流域の丘陵上に分布している。水があつて、しかも高燥の地を求めたのは当然であろう。そこには、早期から後期にかけての各土器型式が見られ、この両川の流域にくりひろげられた原始的民衆の生活を、私達はある程度知ることができる。

早期

小竹町二五二〇番地附近(井草式)、仲町一丁目立教学院グランド(井草式、稲荷台式)、南町四丁目中央大学グランド付近(井草式、稲荷台式)、北大泉町七三二番地附近〔俗称丸山〕(田戸Ⅰ、Ⅱ式)などでそれぞれ早期の土器が発

見されている。井草式土器は縄文式土器の最古のものである。これらの土器はいづれも尖底で、撚糸よりいと文や縄文がつけられている。

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前期

北大泉町、丸山南大泉町みかえり寮附近、東大泉町東映撮影所附近、土支田町西信寺などから発見されている。主として関山、黒浜、諸磯式土器である。関山や黒浜式土器は粘土の中に植物繊維を多量にふくんでいる。この時代になると竪穴住居が営まれるようになり、人々の生活は多少定着的になる。

中期

中期になると急に遺跡の数も多くなる。これは全国的な現象であり、しかも一つの遺跡においても土器の出土量が多く、かつ広範囲に散布しているのが常である。その原因としては、定住生活の確立、集落の発達などが考えられる。上石神井扇山や石神井公園、東大泉町東映撮影所附近、関町五丁目葛原石神井小学校東方台地(小中原)、豊玉北二丁目(弁天)などは標準的な中期の遺跡である。中期の土器(勝坂、阿玉台、加曽利E式土器など)は厚手大形のものが多く、把手とつてが発達し、隆起線文による渦巻文が好んで用いられ、全体的に雄大な感がある。

石神井公園ボート池南側の台地上遺跡では、加曾利E式土器を伴う

円形の竪穴住居址が五個発堀調査された。(荻原弘道、若月直「石神井公園の縄文式遺跡」西郊文化一五、一六昭三一)第一号址は、直径三・四二米、床面は平にふみかためられ、数個の柱穴があり、中央よりやや北に寄つて炉がある。第二号址は、一部破壊されているが、南北に長い円形で、東西径四・八米、壁下に巾二〇~三〇糎、深さ一四~二八糎の周溝がある。柱穴は三個あつて、床面の中央より北に土器を埋めた炉がある。第三号址は、ほとんど破壊されている。第四号址は直径五米で、中央より北に偏して炉が設けられ、黒耀石製の石鏃が一個出土している。第五号址は径五米で、南西にづれて炉があり、一〇個の柱穴がある。

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上石神井扇山遺跡は、石神井につき出した南向きの半島状の台地であつて、ここでは三つの特殊な遺構が発見されている。(矢島清作、村主誠一郎「東京市上石神井扇山の平地住居遺跡」考古学雑誌三〇の二昭一五)第一号址は、現地表下四五糎ほどのローム上に大小三十余個の敷石がある。その中央には炉があり、二個の土器が埋められ、一つの柱穴がある。報告によると、この遺跡は竪穴

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ではないので、その範囲は不明とのことである。本址からは、打製石斧・磨製石斧・凹石などが出土しているが、土器は加曾利E式土器で、他に堀之内式土器(後期)が若干混在している。このような遺構を敷石住居址といつている。 画像を表示

第二号址もその範囲は不明であるが、炉を中心として、出土遺物を包含する範囲を円で画けば、直径五米ほどの円形になる。その範囲内に、花崗岩製の長さ三八糎、長径一〇・五糎の両端を欠いた石棒が立つていたらしい。このような石棒は当地方に殊に多く、石神井神社の御神体も石棒であり、石神井の地名の起源も石棒を祀つた石神様からきている。大形の石棒は、恐らく宗教儀式などに用いられた祭器であろう。この第二号址は「まつり」の場所であつたかも知れない。この石棒の他に、打製石斧二三個が出土している。第三号址も範囲不明であるが、ローム層上に焼土や木炭片が散布し、渦文様のある小さな土製耳飾などが出土している。第二、三号址は、平地住宅址といわれている。しかし当時とて、ローム層上にはいくらかの黒土(表土)の堆積はあつたと思うから、その黒土上面からローム面まで堀り窪めたとも考えられよう。しかし、若しそうであつたとしても、黒土中に竪穴の壁面を検出することは困難なことである。

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関町五丁目葛原遺跡は、石神井川右岸の台地上にある。加曾利E式、勝坂式土器を伴つて炉址が発見されているが、耕作のため竪穴住宅址は破壊され、その全貌を明らかにし得ないのは残念である。ここからは、打製石斧・石鏃・石皿破片が多くの土器とともに出土している。

この他に石神井小中原、東大泉町東映撮影所附近、或は豊玉北二丁目弁天などにも大規模な遺跡がある。このように縄文中期は、早期、前期の文化に比して余程その内容が充実したと考えられる。

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後期

この時期の遺跡も決して少くはないが、中期にくらべればはるかに少い。しかし中期、後期の遺跡は重複することが多い。東映撮影所附近(堀の内式)、北大泉町丸山(堀の内式、加曽利B式)、谷原一丁目春木山(堀の内式)などが主な遺跡であるが、いづれも中期の土器も伴つている。土器は一般に沈線によつて施文され、薄手、小形となり、中期に見られた雄大さを欠き、繊細化してくる。精製土器、粗製土器の区別もでてきて、生活内容の複雑化を物語つている。区内では後期の土器を伴う住居址は発見されていないが、土器の量からしても他日、当然出土するであろう。

晩期

縄文文化終末の時期にあたるが、区内からは晩期の遺跡は発見されていない。

さて、以上のような文化の変遷を経て、縄文文化は彌生文化へと展開する。晩期の遺跡こそ未発見であるが、決してないのではなく、われわれの目のとどかぬ土中に埋つているのであろう。

すでに述べたように、繩文文化は、狩猟、漁撈にあけくれた採集経済の段階であり、利

器はすべて石器が使用された。人々は、石神井川や白子川の台地の縁辺に住居を営んだ。恐らく台地上には林がつづいていたであろう。そしてそこには彼等の狩猟の的となる猪・鹿・兎などをはじめたくさんの鳥獣が棲息していたと思われる。黒耀石の鋭い鏃のついた矢が、石神井の湧水を飲みに来る鹿や猪を何回となくねらうであろうし、竪穴住居の傍では、いろいろな文様のついた土器が作られたであろう。このような生活が数千年もつづいたのであつた。

<節>
第三節 彌生文化期
<本文>

彌生文化には、稲作を中心とする農耕、金属器の使用など、縄文文化にくらべて格段の進歩がみられる。もちろん、縄文文化の中にはこのような新たな段階に発展すべき素質が内包されていたと考えられるが、一方、当時の東亜の大勢、ことに半島・大陸との直接間接の接触をなおざりにすることはできない。

本区における彌生文化の遺跡は、比較的少いが、それでも相当規模の大きな遺跡が発見されている。

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春日町遺跡は、石神井川を南にのぞむ台地上にある。出土した土器は、上図及び巻頭図版のように美くしく立派なものである。昭和八年前後、道路工事によつて発見されたため、遺跡がどのような状態にあつたのかは不詳であるが、おそらく竪穴住居が群集していたものと思われる。今日ではこの土地は全く住宅地化した。

仲町一丁目立教学院グランド内では、三個の竪穴住居址が発見された。(立教大学「栗原遺跡」昭三二)一、三号址は、土師器を伴う竪穴で切断されているが二号址とともに、平面形はふくらみをもつた方形で、床面はかたくふみかためられている。一号址は、著しく破壊されているが、面積五・三坪で炉址、柱穴は不明である。二号址は、八・二坪、中央よりやや西寄りに炉址があり、四個の柱穴がある。三号址は、八坪で、前者同様に

中央より西に寄つて炉址があり、五個の柱穴がある。

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北大泉町丸山遺跡では、一個の竪穴住居址とその集落をとりまくと推定される環溝址が発見された。竪穴は長径五米、短径四・五米の楕円形で中央北寄りに炉址があり、数個の柱穴がある。炉には木炭や灰が充満していたが、米が一粒この中から発見された。また、この住居址をとりまくように環溝の一部が発見された。全部を発堀調査し得なかつたことは遺憾であつたが、巾一米、深さ一米のV字形をなしている。おそらく当時の部落の区劃をかねた排水溝であろう。(早稲田大学考古学会「古代」第二三号)その他の遺跡では、土器破片が採集されたのみで、遺跡の性格を明らかになし得ないが、いづれも当時の住居として好適地にあり、したがつて当然住居址の存在を考えることができる。

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これらの竪穴に居住した人々は、石神井川或は白子川の沖積地で水田耕作を行つていたのであろう。そして、その年代は、彌生文化期の実年代がほぼ紀元前二世紀から紀元後二、三世紀の間と考えられているので、その後期にあたるもの、つまり千七、八百年前とみてよいであろう。

<節>
第四節 古代社会
<本文>

古墳文化期から奈良、平安時代にかけて、実年代にすれば三世紀から十二三世紀末にかけての練馬の歴史は、なかなかその実体をつかみにくい。この時代はまだ文献が少なく、ことに当地方に関する文献は皆無といつてよい。したがつて前代同様に遺跡、遺物を先づ研究の対象として考察しなければならない。

この時代に主として日常の容器として使用された土器は、すでに述べたように、土師器と須恵器であるが、これらの土器は、本区では次の個所から発見されている。

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これらの土器は、すべて、丘陵端から沖積低地にかけてのゆるやかな傾斜面に散布している。立教学院グランド遺跡や丸山遺跡をのぞいては、土器は小破片となり、かつ遺跡の様相も土器の散布することから包含地とみなされるのみで詳細はわからない。しかし、長年の耕作によつて破壊されてしまつたのかも知れないが、土器の包含地は古代住居の跡と推定される。

立教学院グランドでは、土師器を伴う一五の竪穴住居址が見出された。(立教大学「栗原遺跡」昭和三二年)それぞれの竪穴は、別表のように大きさ、方向などに差異があるが、ローム層を深さ四〇糎ほど方形にうがち、壁面の一辺に粘土でカマドを構築している。この遺跡から出土した土師器は、皿・埦・鉢・壷・甕などの土器であつて、いづれも器肉がうすく、赤褐色或は黄褐色を呈し、型式編年では真間・国分式と判定される。須恵器は、堅い灰色の土器であつて、土師器にくらべて出土量はずつと少いが、皿形や長頸ながくび壷が発見されている。このほかゴトクの役目をなす土製支脚や、砥石、糸を紡ぐときに用いる紡錘車(玄武岩製)などがある。また、このころになると鉄製品も使用していて、刀子・鏃・鎌・鋸などがある。

以上の竪穴は、遺物などの様相から七、八世紀ごろのものと推定される。この台地上には、グランド整地工事中に

破壊されてしまつた約二〇の竪穴があるので、総計三〇~四〇の竪穴が、七世紀から八世紀にわたるある期間営まれていたのであつた。したがつて、いわゆる「集落」或は「村」といつた形で、練馬の一角にかかる内容をもつ竪穴群が早くも成立していたのである。このような遺跡は、貫井町の練馬第二小学校横の台地上にも発見されている。石神井川にそそぐ小さな流れがこの丘陵の南の裾にそつて北に流れているが、この低地は湧水も豊富で、また両側の丘 画像を表示

陵は縄文式土器や彌生式土器も多く散布し、古来より住居に適した場所であつたろう。調査された竪穴住居址は一軒であるが、竪穴や土器の形式は立教各院のものと同様であり床面から土製の紡錘車が炭化したクルミが出土した。このほか、武蔵野台地を浸蝕する妙正寺川や神田川、或は荒川の沖積地に面する丘陵端もまた土師器を伴う集落址が数多く分布している。すでに調査された遺跡としては、板橋区志村小豆沢、新宿区下落合四丁目、杉並区成宗矢倉台、同区方南町峯、川越市仙波などがある。それらも遺跡全体を完掘したものではないが、矢倉台及び峯でそれぞれ一四、小豆沢で二八、仙波で二六の竪穴が発掘されている。

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正倉院文書に養老五年(七二一)下総国葛飾郡大島郷の戸籍があるが、考古学的に調査された以上の竪穴群と時代的に大差がなく、ここに文献と遺跡の両面から、当時の家族、或は集落の構成を眺めることができる。この戸籍は大化改新によつて定められた戸を単位として五〇戸一里を構成するという地方行政組織を反映している。次表に見られる房戸とは、戸の標記によつて別れた家族を称し、郷戸とは、かかる房戸二、三を一括して戸主の標記でまとめられた戸をいう。ところで、各遺跡において、竪穴の大さには大小があるが、いずれもカマドを持つて、独立した家屋である。小さな竪穴は二米四方ほどのものもあつて、居住可能人口

は、恐らくつめ込んで二、三人であろう。大島郷の戸籍にすると、平均一戸につき十人以上の家族となるが、この家が更に分散して各竪穴に居住したものと考えられるので、竪穴住居こそ家族の最小単位を如実に示すものといえよう。

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さて、さて、古代の練馬を考える上で、以上の竪穴住居址のほか

に、古墳がある。

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本区における高塚古墳は、次表のようにきわめて少ない。急激な市街地の発展によつて破壊されたものもあろうが、荒川本流沿い、或は多摩川の流域にくらべて余りにも少ない。地名表には七基をあげたが、発掘調査を経たものは一基もなく、そのすべてを確実に古墳であるとは断言できない状態である。このように古墳文化を代表する高塚古墳が極めて少ないということはなぜであろうか。その理由の一つとして高塚古墳を築くだけの生産力をこの地方の人々が持たなかつたということを考えることができるであろう。

谷原町二丁目二、四四一番地横山政雄氏宅地内の高塚古墳は、現在同家の築山として利用されている。現形は実測

図で見るように東西に長い楕円状であつて、横山氏の談によれば土蔵、家屋を建築の時に、南側を削りとつた由で、したがつて旧形は直径八米ほどの円墳であつたことが想像される。また高さは前庭との比高四米ほどであるが大正十二年の震災の時、三尺ほど墳頂の土砂が崩れたといわれるから、もとの高さは五米位であつたろう。ここは石神井川の沖積地を南に見晴す景勝地であつて、地方有力者の奥津城としては格好の土地である。しかし、この高塚が確実に古墳であるということは発掘しない限り断定できな 画像を表示 画像を表示 画像を表示

い。恐らく古墳と思われるが断定は後日の発掘を待たなければならない。

上石神井一丁目芸術大学寮裏の円墳は、明治三十三年発行の「古墳横穴及同時代遺物発見地名表」所載の上神井村上石神井の円墳にあたると思われるが今日では見るかげもない。

江古田駅北側の浅間神社、南側の武蔵野稲荷社裏にも古墳といわれる高塚があるがその真疑の程はわかりかねる。

関町四丁目慈雲堂病院前の二ツ塚(大塚)や大泉学園町の一本杉塚、桜塚は完全に平になつてしまつたが、開墾に際して出土遺物のあつたことをきかない。

以上のように、本区内における高塚古墳は、数も少なく、かつまた、そのすべてが確実な古墳であるとは断言できないものを含む現状である。しかし、古墳文化期後期から末期にかけて、さらに奈良時代にも入ると思われるが、崖の側斜面に横穴を穿つて墓穴とする葬法があり、これが適当な崖の少ない場合には、平地に竪壙を穿ち、その底より更に横穴を穿つて屍体を葬むる方法が行われた。これを地下式横穴というが、このような方法が練馬区をはじめ武蔵野台地上でしばしば行われた。大泉小学校々庭や、北大泉の丸山などの例はこれである。出土遺物がないので、その実年代などは不明であるが、数少ない古代遺跡として重要である。これらの地下式横穴は、その発見が土木工事などによるので、遺跡の全貌を明かになし得ないが、大泉小学校の例では、現地表から三米ほど地下に羽子板状の墓室が設けられ、奥行三・六米、奥壁の幅一・九米、天井までの高さ一・一一・五米である。横穴にしても地下式横穴にしても単独で存在することはなく、幾つかの群をなしているが、大泉小学校々庭でもその西方に幾つかの地下式横穴が開口したということである。北大泉の丸山においてはすでに土砂によつて埋められてしまつているが、これも二つ竝

んだ状態で発見されたという。

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このような地下式横穴は、区内各地にあると思われるが何分にも発見しにくいので類似が少ない。

さて、武蔵野の開拓については、多少の文献資料もあり、論考もなされている。経津主ふつぬし命、武甕槌たけみかつち命の香取、鹿島両神宮に関する説話、天富あめのとみ命の房総開拓の伝承、四道将軍の一人、武渟川別たけぬなかわわけ命が派遣された東海道には当然武蔵の地

が入り、日本武尊の東征、景行天皇の巡狩の話がつづいている。

こうした説話は、上代の大和中央政府が、東国について大きな関心を寄せていた証拠であり、大和勢力の東漸を裏書きしているものである。事実、東国の経略は、力強く行われていた。繩文化が彌生文化へ移行した姿は、直ちにそれを中央勢力の侵入と見ることはできない。そのころは、まだ中央に確固たる政権があつたとは考えられないのであるから。

しかし、古墳文化は明らかに大和文化である。東国では、崇神天皇の皇子豊城入彦とよきいりひこ命の伝説をもつ毛野けの国(上毛野かみつけの下毛野つもつけの――群馬栃木両県地方)にすぐれた古墳文化のあとをのこしている。武蔵国は、この毛野国発展にくらべれば後進的であつたといえる。この地には、先ず知知夫国造ちちぶのくにのみやつてが崇神天皇のときにおかれたという。いまの秩父郡を指すものである。その後、成務天皇のころ、无邪志むざし国造がおかれたといい。別に胸刺国造のことが伝えられている。この二つの国造が同一のもの――のちに武蔵となる――を指すのであるか、別のものをいうのであるかについては、諸説があつて一致しない。例えば、新編武蔵風土記稿では、前者を埼玉県大宮市附近に、後者を東京都府中市附近に充てている。一方、大日本史をはじめ大日本地名辞書に至る諸書は、両者を同一のものであると断じている。

国造設置の問題を含んで以上は、多分に伝承によるものであつて、史実をそのまま示しているとは考えられない。しかし、全く根拠のないものと否定すべきものでもないので、一応記載したが、本区附近はこうした記事にあらわれる中心地とは考えられないし、現実に古墳期の遺構には乏しいのである。武蔵国の古墳分布は、多摩川流域、荒川流域に濃く、武蔵野台地の東端を占める本区を含む東京特別区一帯には特記すべき大古墳をみることができない。しか

し、古墳文化期を通じてこの地帯に人の営みのあつたことは、住居址などの発見が各所にあるので、肯けるところである。

国造設置の記事は、かならずしも設置されたすべてをのせているものとも思われないし、また誤記もあると考えられるので、現在伝えられているものをそのまま信じて判断するわけにはいかない。しかし、次第に開拓されていく東国の事情を知ることはできるであろう。

やがて、中央政府は、武蔵の地をはじめ東国各地に帰化人を置くことになつた。武蔵野の台地の広漠とした姿はことに彼らを配置するのに適すると考えられたのであろう。主なものをあげると

○天智五年(六六六)十月、百済の男女二千余人を東国においた

○天武十三年(六八五)五月、百済から帰化した僧尼俗人男女二十三人を武蔵においた

○持続元年(六八七)四月、筑紫太宰府から献じた新羅の帰化人僧尼百姓の男女二十二人を武蔵においた

○同三年、四年にかけて、新羅人を下毛野(群馬)及び武蔵においた

こうして、元正天皇霊龜二年(七一六)五月には、駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野七国の高麗人一七九九人を集めて武蔵国に移し、高麗郡をおき、さらに天平宝字二年(七五八)八月には、帰化した新羅の僧三二人、尼二人、男一九人、女二一人を武蔵国の閑地に移して新羅郡をおいた。同四年四月新羅人一三一人を武蔵国に移した記事は、この新羅郡を指しているのであろう。

中央政府の東国経営の模様は、しばしばそれが文献にのこされるほど力を入れたものであつて、東北地方に対して

も城柵の造営、将軍の派遣、民衆の移住等相ついでいる。関東住民の東北への派兵、移住もかなりあつたと思われるし、帰化人の配置とともに、広大な東国の地の開拓が次第に進められていつたものであろう。

こうした経緯のうちに、武蔵国の発展はまことにめざましいものがあつた。上毛野の勢力に比すべきもなかつたこの地帯の新興的力は、やがて奈良時代に至つて表面にあらわれた。その一つが国分寺建立の際の現象であり、他が奈良時代末の東山道離脱である。後者は、従来武蔵国が東山道に属し、近江、美濃、飛騨、信濃、上野、武蔵、下野、陸奥となつていたのは、地勢上当然でもあり、未開拓地の多い武蔵を上毛野文化に接せしめて発達させる便があつた。しかるに、武蔵国の次第の発展は、この山地を通る東山道より寧ろ海岸線に沿う東海道に属することの便を悟らしめた。こうしてついに、光仁天皇、宝龜二年(七七一)十月、改めて東海道に属せしめることになつたのである。

これより先、武蔵国の中心は、現在の府中市附近に移つていたと思われ、ここに国府が設定され、現在の埼玉の大部・東京及び神奈川の一部に亘る地域を国司が主管したのである。従つて、天平年間、全国に国分寺建立の詔が下されると、武蔵国は直ちにその全力を挙げて寺造立のことに当つた。寺地は国府の北、丘陵を北背にする地に選ばれた。いまの北多摩郡国分寺町にその遺構がある。国分寺建立は、全国一斉にはじめられたのではない。大半の国は、詔勅によつて創建したのであるが、一部には旧官寺を国分寺に引き直し(相模はその一例であろう)或は着手せずに督促を受けるという有様であり、安房国の如きは、上総との合併分離を繰り返し、ようやく後に小堂宇を建立した。

その間にあつて、武蔵は、全国に比類のない大規模な堂塔の建立に着手した。寺域にしても通常二町四方であるのが、ここでは少くも七町四方に及ぶ大型であり、七〇メートルの高さをもつ七重塔をはじめ壮大華麗な金堂・講堂そ

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の他の塔宇を天にとどけとしよう立したのである。従つて、これに要した屋根瓦の数もぼう大な量にのぼり、各郡・郷の負担する瓦、個人寄進のものなどがあり、それぞれの記銘が数多く瓦にのこされている。本区の地域は、当時豊島郡に属していたが、豊島の名はすでに仁徳紀にあらわれており、のちに大化改新後、豊島郡となつたのであろう。

豊島郡の中のどの郷名が、本区を指すのであるか明瞭ではないが(中世の項参照)「広岡」をもつてこれに充てることが一般である。大日本国郡志には、「いま、詳かならず、按ずるに練馬の地、野方領と称す、或はその地か、しばらく附して考に備う」(原漢文)とあり、大日本地理志科には、「図によつてこれを按ずるに、上練馬、下練馬、上・下石神井、関、中村、田中の谷原諸邑に亘り、石神井郷、牛込の庄と称し、野方領に属す。けだしその地なり」(原漢文)とある。吉田東伍博士の大日本地名辞書には、

今詳ならず、板橋、練馬、赤塚など、頗広平の地なればそれなるべし、再考するに板橋観明寺門前を平尾と云ふ

とある。いずれにしても、本区地域に居住する民衆がこの新興の気に溢れる全国稀な大国分寺の建立のことに直接関接つながつていたということはできよう。

さて、以下いままで述べきたつた考古学的知見に基いて古代の様相を記してむすびとしたい。

人類の文化が、河川流域に発祥し発展したという事実は、すでに明らかなことである。黄河、インダス河、チグリス・ユーフラテス両河、ナイル河は、よく東洋文化、西欧文化をはぐくみ育てた。この事実は、本区においても同様であつて、石神井川、白子川の流域に先づその営みが開始されたのである。そしてそこから練馬区の人類の歴史の幕

があく。

数万年前と推定される先繩文化の荷担者が一体どこからやつて来たかは不明であるが、噴火に噴火をつぐ関東周辺の山々の噴煙に、地鳴りにおびえつつも人々は食物を追つて川の流域を彷徨したのであろうか。やがて噴火も静まり、地形も今日の状態と大差なくなつたころ、人々は土器を作る技術を習得した。繩文文化期の開始である。それは、今から七、八千前のことである。しかし、先繩文文化期の人々の生活のあとは降りつづく火山灰によつて完全に埋めつくされていた。はじめ繩文文化人も一個所に定着することなく、川の流域を移動し、木かげや、崖の際などに仮の住居を設けて生活していたが、やがて、竪穴住居を作るようになり、次第に定住性を身につけるようになつていつた。血縁的集団が数個の竪穴住居に起居し、ここに遠く集落の起源が見られるようになつた。石神井川にのぞむ、仲町一丁目の立教学院グランド附近の台地、その対岸の板橋区茂呂町の台地をはじめ、石神井小中原の台地など、至るところに彼らの生活の跡がみられる。白子川においてもまた同様である。生産された土器の量も決して少なくなかつたろうが、繩文文化期の時間もまた長期間であつた。のちの彌生文化、古墳文化、或は大化改新以来今日に至る時間よりももつと長い数千年の時間が繩文文化にあつたのである。したがつて、文化は極めて緩漫に発展したのである。紀元前二世紀ごろ南から水田耕作を主体にする農耕技術がひろがつて来て狩猟漁撈による生産形態は農耕に置きかえられた。もちろん、この転換は急激に行われたものでなく、漸移的なものであつたろう。水田耕作は矢張り石神井・白子両川の沖積低地において行われ、農業に生活の基盤をおく集落が営まれた。立教学院グランド、北大泉丸山の遺跡は、有力にこれを物語つている。やがて、大和に中心勢力をもつ大和国家は次第に全国の統一を計り、具体的には高

塚古墳を代表とする古墳文化期であり、その反映として土器の劃一化が見られるようになる。

本区においては、この高塚古墳はほとんどみられない。その理由として貧しい生産力の問題をとりあげて前述したが、有力な集落を形成していた彌生文化人は一体どうなつたのであろうか。本区及び周辺地区の各遺跡を考えると、例えば土師器をとりあげてみても、その古い型式のものは、荒川本流沿いに多く分布し、今日の知見では石神井・白子両川の中、上流地域には古い土師器は全く見られない。また高塚古墳の分布も荒川本流沿いに濃厚にあつて、この地方が彌生文化期以来ひきつづいて人々の生活し易い場となつていたと思われる。大きな川と広大な沖積地は水田耕作の上に格好であつたとは当然であり、石神井・白子両川の狭い水田では人口の増加などによつて生産は限定されてしまう。そこで恐らく立教学院グランドや丸山の彌生文化人は川を下つて広い沖積地に移動したと思われる。そしてまたいつしか、それは七、八世紀と推定されるが、この地方に集落が営まれるようになつた。しかし、彼等の生産能力は、かつてこの地を棄てた彌生文化人よりはるかに貧しく、この狭い沖積地に満足すべき状態であつた。だからこそ彼等は高塚古墳を築き得なかつたのである。恐らくこのような生活が古代から中世にかけて行われたのであろう。

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中世

<章>

第一章 鎌倉幕府成立期の練馬

<節>
第一節 平安末期の練馬地方
<本文>

練馬区は、律令国家の行政区劃では武蔵国豊島郡の内に地域を占める。豊島郡の名は、『万葉集』廿に、豊島郡上丁椋椅部荒虫の妻宇遅部黒女の歌があり、早く史上にあらわれてくるが、練馬という名を正しく伝えている史料は、古代はもとより、中世と雖も余程年代を降らないとあらわれてこない。それならば、古代から中世にかけて、いわゆる平安時代の末期のころには、われわれの住んでいる地域は、何と呼ばれたであろうか。

十世紀ころの写本と考えられる『高山寺本和名類聚抄』によると、豊島郡には、日頭ひのかみ占方うらかた荒墓あらはか湯島ゆしま・広岡の五郷があり、また、元和三年の刊本『和名類聚抄』には、以上のほかに余戸・駅家をあげている。これら諸郷を現在地のいづれかに比定する試みは、従来少なくないが、多くは推定の範囲を出ない。たとえば、日頭を文京区小日向に、占方を舟方、または浅草橋場地方に、荒墓を三河島あたりに、または荒墓が新墓に転じ、三転して日暮里となる

として上野田端方面に、湯島を文京区の本郷湯島に、そして広岡を渋谷に、またはわが練馬方面にあてる如きである。また余戸は「よど」の遺名として淀橋をこれにあて、駅家は延喜兵部式にいう武蔵国豊島駅の所在地として豊島の地にあてる考えもある。これらの比定は、なお将来の厳密な考証を経た上でなければ確言できない所である。しかし、次のような理由によつて、『和名抄』の豊島郡広岡郷を練馬の一部をふくむこの方面にあてることも不可能ではない。

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まず、『和名抄』の広岡郷の名称からは、このゆるく起伏して広がる練馬から北部西部へかけての地域が想い出されてくるのであるが、『続日本紀』によると、宝龜十一年(七八〇)に、武蔵国新羅郡の人沙良真熊が広岡連の姓を賜つたとある。当時、賜姓には多く居地に因つて名称を賜うのが例であり、

また新羅郡は後の新座郡で、わが練馬の地の隣地でもあるから、或いは練馬から西方へかけて早くから広岡の名称があつて、沙良真熊の賜姓はそれによるものであり、それが郷名になつて十世紀以降にまで及んだとも推定されるからである。

ところで、郷というのは、人為的に定められた律令国家の最下級の行政区劃で、五十戸を以て一郷とするものである(大宝令)。だから少なくも広岡郷という以上は、五十戸を単位とする人間の生活をこの地域に推測し得るわけであり、もし、練馬方面に広岡郷をあてるとすれば、更にこの平安末期にどのような生活があつたかをも明かにしたいものである。しかし、具体的にこの時期の生活を示す資料はない。ただ前章にみたように、この区内を西から東へ貫通して荒川にそそぐ石神井川の流域や、区内の北西部を北に流れる白子川の中下流地域には、早くから人の生活があつた。そしてまたその地域には中世にも集落の存在を認め得る。従つて平安末期にも、右の地域のいずれかには人の生活もあり得たであろうと推測することができる。しかし、また広岡郷という和名抄の名は、実は名のみ残存して、そこにあるべき人々はかなり早くから、その地を逃亡し浮浪化してしまつたのではないかという推測も可能である。

このようにして、平安末期の練馬地方の人の生活については、まだ推測の範囲を出ないのであるが、地理的景観についてはその当時を偲ぶに足る資料がある。寛仁四年(一〇二〇)上総介の任期満ちて上京する藤原孝標に同行した娘が、秋九月、武蔵国の東南部を横切つた折の記行に、

<資料文>

紫生ふと聞く野も、蘆荻のみ高く生ひて、馬に乗りて弓もたるすゑ見えぬまで高く生ひ茂りて、中をわけ行くに、竹芝(芝三田台町)という寺あり(『更級日記』

と書いている。もつともこれは、武蔵でも海ぞいを通つたのであるから、やや奥の練馬地域の人の生活の有無のことはわからないのであるが、平安末の武蔵野台地の大草原地帯を偲ぶに足るものであろう。練馬地方もそのような景観の中に時代をすごしてきたに違いない。もつとも、そのような草原地帯と雖も、生活力があるか、または生活力のある人の庇護の下にあるかすれば、人々は生活をつづけることもできたであろうが、少なくも練馬地方にはそのような人の成長はみられない。むしろ練馬をとりまく周辺にこそ、そのような人の動きをみることができる。ここにして私達は武蔵各地に起つた豪族、とくには後世練馬地域の支配的位置を占めた豊島氏を思い浮べずにはいられない。

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第二節 武士団の成長と練馬
<本文>

さて、豊島氏を含めて武蔵各地に起つた豪族とは、どのような性格をもつたものであろうか。

そもそも律令国家の基盤となつた土地制度は、国家公有主義の立場にたつもので、土地の用益権を、六年一班の口分田の制度によつて人民に許す定めであつた。しかし、私有を許された例外、すなわち宅地・園地・神田・寺田の如き、或いは大功田の如く永代子孫に譲り伝える如き土地もあつたし、口分

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田と雖も大体同じ土地を幾世代も同一家系によつて用益されたから、この班田制は、制定当初から、土地私有化に向う要素を含んでいるものであつた。その土地私有化を一そう促進させたものは政府の開墾奨励であつた。宝龜三年(七七二)十月、政府は一切の制限を撤廃して開墾の自由を許したから、権門勢家はもちろん、地方の有勢な農民も競つて土地を拡張し私有化し、さらに律令政治の統制がゆるみ班田が行われなくなると、口分田まで私有化し、売買されるに至り、これらを吸収して貴族の私有地が拡大した。このような私有地は荘園と呼ばれる。もともと、神田・寺田などには租税免除のいわゆる不輸の特権があつたが貴族もその立場を利用して荘園に不輸の許可を得、やがて国司不入の特権をも獲得して荘園の私有を完成した。地方の富農もやはり私有地を拡大するが、中には自己の荘園の完全私有のために、中央の有力貴族や神社寺院を本所領家と仰いで名義上の寄進を行い、自らは開発地主として在地において、荘園の事実上の支配権を留保するようにもなつた。また信仰のための寄進を行うものもあつたが、このよう 図表を表示

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な寄進の形をとる荘園の存在が十世紀以来の全国的な傾向となつてきた。そしてこのような荘園成立の過程は武蔵国のうちでもみられる所である。

前頁の荘園表は、十二世紀前後の武蔵国関係の荘園一覧であるが、このほかに練馬の歴史に関係の深いものに下総の葛西荘(葛西御厨)があり、武蔵国豊島荘がある。もつとも豊島荘の名は、文献の上では、吾妻鏡仁治二年(一二四一)四月廿五日条にみえるのがはじめであるが、荘名からおして豊島郡内であることはもちろん、後述のように、源頼朝挙兵当時、名の著れる豊島清光の開基という清光寺(北区豊島町)の存在や、その後の豊島氏の動きから判断して、豊島氏居館は、平安末期には、今の北区豊島町から西ケ原中里辺にかけてあつたものと思われるから、豊島荘も亦そのあたりを中心に開発されていたものであろう。なお、一説にはこの荘園の本所は、京都東山の新熊野社であろうという(『板橋区史』)。また、この豊島荘の四至は不明であるから、わが練馬まで及んでいたかどうか判断し難いが、練馬区内には、このほか平安末期の荘園らしいものはなかつたようである。もつとも時代が下ると、松川庄(貫井、高松、田柄、向山、春日町をふくむ地)、永井庄(中村南、中村北、中村をふくむ地)、牛込庄(上石神井、下石神井をふくむ地)、広沢庄(小榑をふくむ地)などの名があらわれるが、立券の年代を限定する適確な証拠を欠いている(『新編武蔵風土記稿』・『妙福寺鐘銘』)。

ところで、荘園内の住民すなわち荘民と呼ばれるものについて概説しておかなければならない。いつころからか班田農民の中に、自己の口分田や、開墾、侵略によつて獲得した土地に自分の名を冠してよぶ傾向がおこり、その田を名田みようでんと呼ぶのであるが、前述の豊島荘にも犬食名というのがあつた(足立区江北町旧堀の内とも、川口市南平柳領家ともいわれている)。このような名田の主は名主であり、荘園の拡大の場合には、この名田の寄進買得によつてひろがるの

で、そうした場合には名主は荘園内では荘民となる。また、新開の墾田では開墾に従事した奴婢や、口分田を捨てて逃亡した浮浪人の荘園に流れこむものがやはり荘民となる。同じ荘民でも本来の口分田耕作者や開発地主は田堵たとと呼ばれるが、この名主・田堵という層が、律令地方政治の弛緩に伴つて武装する。名主・田堵の層にも亦階級分化があつて、名主を支配する豪族が成長し、また、より大きい兵力をもつようになる。そして、所有の名田の多数耕作者との間の従属関係を強くし、同時に兵力を強化する。九世紀ころから顕著な律令政治の弛緩は、群盗横行の現象をみせるに至つたが、荘園の所有者もこの事態に応じ、所有地安全のために在地名主らに武装を求めることが必要であつたと思われる。こうして武装した名主・田堵の弓馬の道に長じた家が武士とよばれる。これは畿内の先進地域をはじめとする一般傾向であるが、十世紀以後の武蔵国においても荘園の成長と、武士の武力練磨の時代がつづくのである。ところで武蔵をふくめて関東地方では、荘園の所有者は、一名主が開発して大名主となり、荘民を吸収し駆使して農業に従事せしめる形で、いわば開発地主がそのまま土豪として成長したものが主であり、土地の広さ、競争者の稀少さも手伝つて大領主的存在たり得たものである。武装化、寄進行為というような線は先進地区と変りはない。その経営様式は、開発地主の嫡流を惣領として、支族は惣領の支配をうけるいわゆる惣領制的経営であり、荘園住民は従者としてこれらの傘下にひきいれられ、夫役労働に使われるのであつた。

さて、中央に於いて藤原氏門閥によつて閉め出されて地方に下つた貴族や、国司の任期終了後土着してしまつたいわば古代的名族はその土地で、在地の武士層に結び勢力を扶植することができた。在地の武士層は名門の出なるが故に彼らを推戴することを喜んだであろうし、既にして土着し土豪化した貴族者流にとつては、もはや血統的な関係は

さして重要な意味をもたず、在地においての勢力利害の方が大きな問題であつたに違いない。さてまた地方では名主=武士が一族のものとともに武士団をつくるようになつてきたが、この武士団が、右のような名門出の家を推戴して武門の棟梁とした。そしてまた武門の棟梁たる家でも一族繁延して、各地に支族をひろげてゆくようにもなつた。

このような時流に乗じて関東に下つた桓武天皇の曾孫高望の土着いらい、その一流は東国に根を張つた。彼等は国衙の在庁官として国家の権威を脊景にし、自らは開発地主としての経済的基盤にたち、在地豪族とも結んでしだいに大武士団を組織した。これすなわち平氏である。平氏は、天慶年間の将門の乱、長元元年(一〇二八)の忠常の乱を契期として衰兆を示し、東国支配の主導権を忠常の乱平定の功労者源氏一流に奪われ、その嫡流(高望の曽孫維衡流)は新しく伊勢に地盤を築くことになつたものであるが、しかし、なお後に坂東八平氏といわれる程多くの支流を東国に残した。

武蔵国では、この高望の子の平良文の孫、武蔵権守将常を祖とする秩父氏(秩父郡中村郷の開発からはじまる。中村郷はいま秩父市に属する)があつて、やがて武蔵一円にその子孫がひろがる大豪族になつている。なお、武蔵国の武士団には他に武蔵七党と呼ばれるものがあり、横山党(八王子付近)、西党(関戸・多摩川中流付近)、村山党(村山付近)、丹党(飯能付近)、児玉党(児玉郡)、猪俣党(猪俣付近)、野興党(埼玉郡)、或いは私市きさいち党などがそれであるという。ここにいう八平氏とか七党とかの数字は数の多いことを示すものであつて、数字に拘泥することはない。

ところで、武蔵地方の荘園は、はじめまきから発達したという説がある(八代国治「江戸の庄」武蔵野二ノ二。及び『東京府史』)。牧のことは文武天皇四年(七〇〇)三月、諸国に牧地を定めて牛馬を放牧させたという記録があるが(『続日本

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紀』)、律令政府の官営牧場を諸国におく始めである。牧に関する規定は大宝令にも唱い、延喜左馬寮式には、甲斐、武蔵、信濃、上野で三十二牧の官営牧場をあげ、武蔵国では石川牧(神奈川県久良岐郡?)由比牧(東京都西多摩郡)立野牧(埼玉県北足立郡)をあげており、同じく延喜兵部式によると、駿河・相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・下野・伯耆・備前・周防・長門・伊予・土佐・筑前・肥前・肥後・日向に馬牛牧のあることをあげ、武蔵では、檜前馬牧(埼玉県児玉郡)神埼牛牧(南埼玉郡)があげられている。馬牛の牧場が関東の地に多かつたことがわかるが、加うるに私営の牧場もあつたから、関東が良馬を産したことを容易に諾かしめる。そしてまた、源平争乱の時代を通じて、坂東の武士が騎馬戦に長じたことは史上有名であつたから、武士と牧場とのつながりを前提として、牧の中に開墾された田畑も含まれるようになり、荘園となつていき、その荘園を基盤として武士が成長してくる、と考えられるわけである。

この考え方は、部分的にはあたつていようが、『新宿区史』が指摘しているように、武蔵の荘園がすべて牧から発達したとみるのは早計であろう。しかし、武蔵国の武士として一族も広く繁延した前記秩父氏の如きは、将常の子武基が秩父別当といわれており、これ恐らくは秩父牧の別当であつたからであろうと思われる(『尊卑分脈』一六、『将門記』)。従つて、武基当時の秩父には、牧が設定され、やがて秩父氏発展の根拠となる荘園としても拡大したのであろうと思われる。この秩父牧は『延喜式』制定(九二七)以後の牧と思われるが、牧の長官を武蔵国に限り別当と称するのである。この別当職は在庁職で(『新猿楽記』)、現地の土豪が律令政府の地方行政庁の下級職(この職に存るものを在庁という)を担当することは他にも例のあることである。

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さて、目をわが練馬に転じてこれをみれば、平安末期にはその周辺地区にこそ前述のように荘園の成立と、それを基盤とする武士団成長の動きがみられるけれども、練馬区の地域には、まだどのような領主的支配者もあらわれてはいなかつたのである。しかしながら来るべき支配者豊島氏は、すぐ隣接のところに成長しつつあつたのであるから、節を改めてそのことを述べよう。

<節>
第三節 豊島氏の興起
<本文>

秩父氏関係の系図にみられるように、豊島氏は、江戸氏・葛西氏と同じ平氏秩父の出で、豊島系図によると、秩父武基の弟武常が豊島葛西両氏の祖ということになつている。その長男近義は豊島太郎と号し、八幡太郎義家に従つて奥州の合戦に従軍したといわれる。そして、義家は征討の途次近義館にたちより、具足並びに守本尊を与えたが、義家の死後、元永元年(一一一八)近義は自ら義家、加茂二郎義綱、新羅三郎義光三人の御影を作り奉祀した。これが平塚明神で、例の具足を埋めて具足塚と号して崇敬したが、塚の形が高くないので平塚と号したという伝えがある。伝説の信憑度ははかり難いが、平塚明神の別当城官寺は付近にあり、その城官寺の辺を平塚城趾(今国電上中里西方台上)ともいう伝えがある。城趾はほぼ誤りでないから、近義館の存在もその辺りに推定してよいであろう。

この近義の弟が常家で、豊島次郎を号したが、ついで康家を経て清光に至る。康家については『千葉上総系図』に豊島太郎と号すとあげ、豊島氏の始を康家の如くし、『新編武蔵風土記稿』には、永久二年(一一一四)に豊島因幡守康家が豊島郡豊島村を領したという説を掲げている(巻十二旧家板橋氏市左衛門条)。清光は、源頼朝挙兵の当時活躍し

た人である。清光の肖像彫刻が北区豊島町清光寺に蔵されており、その寺は豊島清光開基と伝える寺で、清光寺の傍に清光館趾を推定する伝えもある。これらの事情から推せば、平安時代末には、今の北区の南半一帯が豊島氏の勢力中心地であつたことを推察せしめる。その豊島氏がいつその方面に出てきたかという年代を押えることは困難ではあるが、もつとも豊島・葛西・秩父の諸系図によると、武常が豊島葛西の祖というから、まず武常のころが豊島葛西両荘の開発地主であつたものと思われる。そして近義が義家の奥州合戦に関係ありとすると、後三年役のはじまつたのは永保三年(一〇八三)であるから、近義の父武常の生存年代は、ほぼ十一世紀の前半から半ころにかけてであろう。先述の『更級日記』の筆者が、武蔵を横切つた寛仁四年(一〇二〇)のころに、江戸荘は勿論のこと、豊島葛西の荘や土豪のことに全くふれていないことは、年代的にはこれらの荘がまだ成立していなかつたからではないかと思わせるふしもある。このように考えると、豊島葛西の荘は十一世紀の中ころにおいて開発されたということになろう。地域的にはどのあたりに葛西氏の本拠があつたかと 画像を表示

いうと、後年頼朝が安房から鎌倉への途次、大井川(江戸川)を渡つて武蔵に入つた際、最先に参上したのが葛西氏・豊島氏であつたというから、豊島氏本拠は前述の如き地であつてよいし、葛西氏も武蔵下総の国境地帯におつたと推定してよいであろう。なお、秩父氏流でも畠山・小山田・河越・江戸のような諸氏は、年代的には武常が豊島葛西荘を開発したよりは後になつて出てきたものである。練馬の近接でいえば右のうち江戸氏があるが、これは重継のときに江戸を名乗り、息子の江戸重長の時代が頼朝挙兵当時にあたるから、江戸重継が江戸荘ともいうべき荘の開発地主になつたのは頼朝鎌倉入府よりはやくても三四十年前にすぎないということになろう(『新宿区史参照』)。このように豊島葛西氏の方が江戸氏に比して東武蔵で早くから領主的地位を占めていた。そして後述の如く豊島葛西氏は終始頼朝に臣従し、これに反し畠山等がはじめは頼朝を攻撃する側に立つたことが認められるが、これは前者が、はやく源家とのむすびつきをもち、従つて源家譜代の恩顧を感じる立場にあり、後者が源義朝没落後に進出し、そのような恩顧を感じる立場になかつたからで、両者の東武蔵進出の時期の前後を裏書きすると思う。

さて豊島氏では、近義の後、保元の乱に源義朝方について活躍した豊島四郎があり(『保元物語』)、この四郎が系図上の何人かは判断しかねるが、一族と源家との深い結びつきを思わせ、やがて豊島清光に至つては最も源家に忠節であつた。そのため幕府成立当初においては本領を安堵されている。従つて彼はその後の豊島氏発展の上からいえば非常な功労者であるが、本領安堵の場合は、先祖開発以来の領主的支配権をそのまま確認されるわけであるから、相かわらず荘園内の住民を自己の従者とし、農業に従事せしめ、また、夫役労働にかりたてて暮してきたであろう。豊島一族は、鎌倉時代を通じて、源氏以後北条氏に仕えても二心なく、時に犬食名を没収されるような一族の中の失態は

あつたが(『吾妻鏡』仁治二年四月廿五日条)、凡ね右のような体制を持して領主的支配者として本領を守つてきたのである。

なお清光は、権守を称しているから、或いは在庁職をつとめたことがあるのではなかろうか。清光と頼朝との関係は次章に少しく説く所がある。清光の子の朝経は豊島氏をつぎ、清重は先祖相伝の地葛西をついで、これを伊勢皇太神宮にながく寄進し、厳重一円の神領とした。葛西御厨のはじめである。その寄進は恐らく永万元年(一一六五)以前のことであろう(檜垣文書、永万元・三)。清重は自ら葛西三郎清重と号した。朝経は治承年間には京都に勤仕して不在で、頼朝創業の挙兵当時には参加せず、後述のように父の清光と弟の葛西清重が武蔵相模の間に活躍したのである。

<章>

第二章 鎌倉時代の練馬

<節>
第一節 鎌倉時代の豊島氏
<本文>

治承四年(一一八〇)、平氏討滅の以仁もちひと王の令旨をうけた伊豆国の流人源頼朝は、その八月、近侍の武士とともに伊豆八牧の平氏家人山木判官の奇襲に成功し、武家政権確立の第一歩を印した。しかし石橋山に平氏方の東国武士と戦つて敗れ、真鶴崎から故縁の地安房に逃れるころまでは、関東の形勢必ずしも頼朝に与みするものでなかつたが、武蔵国の住人の中には早くから頼朝に心を致すものがあつた。

九月はじめ、安房にあつた頼朝は、書を武蔵の豪族、小山四郎朝政、下河辺庄司行平、豊島権守清光(『吾妻鏡』は清元につくる)、葛西三郎清重等に送り、同志を糾合して味方に参ずべきことをすすめ、また、豊島右馬允朝経は在京留守であるのでその妻女に綿衣を調進すべきことを命じている(『吾妻鏡』治承四年九月三日条)が、このような事情は、彼等がはやく頼朝に気脈を通ずる人々であつたことを示し、その理由は前章にもみたところである。

すでにして、房総所在の反抗者を押え、千葉常胤の献言を容れて、父義朝縁故の地鎌倉に居館を構えることに決意した頼朝が、武蔵国の江戸太郎重長を大井川に誘殺することを同族葛西清重に命じ、(これは果さなかつたらしい)十月二日、古利根隅田両河を渡つて武蔵国に入つた時は、精兵及び房総の兵三万余騎の軍勢が之れに随つた。武蔵で最先に参上したものは豊島清光、葛西清重であつた(『吾妻鏡』治承四年十月二日の条)。同四日には、畠山重忠、河越重頼、

江戸重長いずれも頼朝に帰服した。そして六日相模国に着したときは、畠山先陣となり千葉常胤後陣となり、扈従の輩幾千万を知らずと『吾妻鏡』は註している。清光父子も恐らくその中の一人であろう。葛西清重はとくにその後も頼朝の信頼を得、厚い待遇をうけ、またそれにふさわしい活躍をした人であつたが、ここではしばらく豊島清光とその一流の足跡を追つてみよう。まず元暦元年(一一八四)五月、志水冠者義高の一類が甲斐信濃に隠れて謀反の企てある噂がたつたとき、頼朝はこれを討つため派兵した。その信濃派遣軍の中に豊嶋輩とみえる(『吾妻鏡』元暦元年五月一日条)が、これには、恐らく清光が加わつていたであろう。また、文治五年(一一八九)頼朝は奥州平泉の藤原泰衡の背命を責めて三軍を編成発遺したが、中央軍は八月初旬阿津賀志山に敵の先鋒を破り、二十二日に平泉に入つた。その前々日、二十日先陣を承る人々の中に三浦・和田・小山・畠山と共に武蔵国党とあるが(『吾妻鏡』文治五年八月廿四日条)、この中に豊島清光も参加していたと思われる。

やがて、奥羽も平定し、建久元年(一一九〇)十一月、頼朝は第一回の上京をすることになつた。十四才にして伊豆に流された頼朝が、ここに三十年の風雪を経て再び、しかも麾下の将兵を随えての入京である。その欣快察するに余りある。十一月七日は都人士の望見する中を六波羅の新第に入る日であつたが、『愚管抄』はその行列を「三騎三騎ナラベテ武士ウタセ、我ヨリ先ニタシカニ七百余騎アリケリ、後ニ三百余騎ハウチコシテ有ケリ、紺アヲニノウラ水干ニ、夏毛ノ行騰むかばきマコトニトヲ白クテ黒キ馬ニゾ乗タリケル」と描写している。扈従の武者たちも晴れがましいことであつたに違いない。その行列の先陣卅七番には豊島兵衛尉、四十番には豊島八郎、四十五番には豊島八郎、そして後陣の四番には豊島権守の顔がみえる(『吾妻鏡』建久元年十一月七日条)。この権守は清光であろうか、または清光の孫

有経であろうか(有経は一説に朝経の弟)。有経は建久二年十月二日の条に紀伊国三上庄地頭豊島権守としてみえているので、この行列の権守を清光とは速断し難いが、いずれにしても、鎌倉幕府創業期の豊島一族の活躍ぶりがしのばれるものである。

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清光の長子朝経は、建仁元年(一二〇一)七月十日土佐の守護に補せられたが、同三年十月比叡山の堂衆蜂起して金子山にたてこもる時に、弟葛西四郎重元及び佐々木太郎重綱と共にこれを攻めて却て殺されてしまつた(『吾妻鏡』建仁三年十月廿六日条)。しかしその後、有経、朝綱の子孫よく豊島荘を守り、史上に名を残すに至つた。そして豊島氏一族は、北条氏執権政治の下においても凡ね北条氏に忠節であつた。承久の乱(一二二一)においては、北条軍に従軍して海道を攻め上つており、宇治川合戦に抜群の働きを示している一族がある(『吾妻鏡』承久三年六月条、『承久記巻四』)。そこに註されている豊島九郎太郎、豊島十郎、豊島彌太郎などの名は、系図上の誰にあてるべきか判然としないが、清光の子孫次第に繁延したことを物語る。また、仁治元年(一二四〇)八月、将

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軍鶴岳参詣の先陣の随兵十二騎のうちにみえる豊島小太郎は系図にいう重勝ででもあろうか。また、豊島荘犬食名を、賭にしたため没収された又太時光(『吾妻鏡』仁治二年四月廿五日条)など一族の名が鎌倉時代にみえてくるのである。

葛西の後裔のものもまた鎌倉末期には宮城(足立区宮城町)滝野川(北区滝野川町)志村(板橋区志村町)板橋(板橋町)の地にひろがつて氏を称し(系図参照)、赤塚氏(板橋区下赤塚に住す)亦豊島氏の有力な一族であつたと考えられる(『板橋区史』)。

ところで、『吾妻鏡』正嘉二年(一二五八)三月一日条に、将軍宗尊親王の二所大神宮進発の行列の先陣随兵の中に葛西四郎太郎、後陣随兵十二騎の中に豊島四郎太郎の名がみえ、後者は肩書によると豊島兵衛尉の跡目を相続したものらしい。その兵衛尉は系図では、有経の子経泰、その子泰友のいずれかである。この豊島四郎太郎は、系図上の何人かは不明であるが、十三世紀後半の人とすれば、系図上の泰友と同時代の人であろう。そして前記の葛西四郎太郎清高の子重高が豊島太郎と号した上に、その後裔が、宮城その他の諸氏となつて前述のように発展拡張しているから、この十三世紀後半は、豊島一流の発展の素地がつくられるときであつたのであろう。そしてまた泰友とその子泰景、景村の現れるころが、鎌倉時代も末期に近づいている時であり、また練馬地域の歴史にとつて重要なことは、豊島氏がその領主的支配の手を、わが練馬の地にまで伸ばしてきていることである。

<節>
第二節 鎌倉末期の練馬
<本文>

豊島氏のわが練馬地域進出は、石神井川流域を西に遡ることによつて行われたと思われるが、具体的なことはわか

らない。平塚から西方荒蕪の地に開発の手を差しのべてきた年代も判然とはしないが、豊島氏西進を阻むような在地土豪がいなかつたことはたしかである。伝える所によれば、前記豊島泰景が石神井城主で、元弘年間(一三三一~一三三三)弟の景村が在城するようになつたというが(『新編武蔵風土記稿』)、泰景の時代にこの石神井まで進出していたとすると、それは元弘よりは溯るわけであるが、実はかなり早く、元弘より五〇年乃至七〇年も前からこの地域には人の生活があつたのではないかと思われるふしがある。それは次の二つの理由による。第一には、練馬現存の次の数種の板碑によるのであるが、区内道場寺には、文応元年(一二六〇)の紀年のある板碑があり(現寺地付近発見と伝える。図版 図参照)、南町白山神社近くからは同じく弘安四年(一二八一)の浄土宗の板碑が出土しおり、また、大泉学園町には弘安六年(一二八三)の日蓮宗の板碑があり、三宝寺所蔵の板碑の中には正和三年(一三一四)十月の日附のある阿彌陀種子板碑があつて、現在の三宝寺西方台地から出土したと伝えていることである。このうち、文応の板碑は練馬区の板碑では最も古い年代を示しているものであるが、これら板碑(供養碑)の存在は、その地域に人の集落的生活があつたことを暗示するから、文応・弘安年間には、石神井川若しくは白子川の流域にある程度の文化があつたものと思わざるを得ない。ところで、当時荒蕪地の中に、開発を行い生活するということは、弱い孤立した人間には行い得ない所であつて、相当の開発能力をもつものか、またはその傘下にあるものでなければなし得ないことと思われる。これらの板碑を遣した人々が、そのいずれであるかは速断をゆるさないが、なお第二の理由を述べたい。

内閣文庫に通称宮城豊島文書と呼ばれる古文書集がある。これは、練馬郷土史研究会で孔版に附し豊島宮城文書と名づけて学界に提供されたもので、宮城氏・豊島氏関係の古文書である。中に不審のものもあるが、譲状の類に基い

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て作製されたと思われる上掲の所領相伝系図がある。これによると、宮城為業(四郎右衛門法名行遵)の実子小三郎宗朝が、豊島氏をついで後、石神井郷内にある宮城氏の所領を譲り渡されていることであるが、その宮城氏の所領は、藤原宇多左衛門大夫重広の女が、弘安五年(一二八二)十二月十日に父より譲られたものということになつている。その女が宮城六郎政業の妻になつて、その所領が為業、宗朝と譲られたというのであるから、弘安の初ころまでには豊島嫡流でないものの領地があり、またそこに耕作者の生活もあつたということがいえると思う。なお藤原重広が、その地の開発地主であつたのか、または、宮城氏の本所であつて、何かの事情によつて、その女が宮城に嫁し、父の所領を相伝したか未詳であるが、いずれにしても鎌倉末期も弘安以後にはこの辺りの人の生活は豊島氏とは関係深くなつてきたことを伝えるものであろう。そして、また豊 画像を表示

島嫡流の泰景らの進出に対し、何ら反抗者の形跡がないが、これは、既に宮城氏のような豊島一族によつて、進出の下地が準備されていたからではあるまいか。

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さて、鎌倉末期に於ける練馬地域の特筆すべき事情をのべたが、このころ幕府は漸く衰退の兆しをみせ、加うるに後醍醐天皇の倒幕運動は活溌化し、政治的世界は漸く複雑になつてきた。そしてまた豊島氏一族もその渦中にあつた。元弘三年(一三三三)五月上野の新田義貞が鎌倉攻略の為南下した折、豊島一族のものこれに参加し、軍馬を献納したという伝えもあり、一方、京都六波羅探題北条仲時が足利高氏に攻められて近江に奔り、遂いに近江番場一向堂前に一族郎党自刄し果たが、『蓮華寺過去帳』に、豊島平五重経、同七郎家倍の名がみえ、北条氏の為に身命を抛つたものもあつた。これより南北朝争乱の時にあたつて豊島一族の動向亦一様でなかつた。

<章>

第三章 南北朝時代の練馬

<節>
第一節 練馬地方と豊島氏
<本文>

足利高氏は、新田義貞と共に、元弘三年における北条氏打倒の最大功績者であつて、建武中興には恩賞第一位にあり、天皇の諱「尊」字を賜い尊氏と称した程であつたが、彼の望む所は北条氏に代つて幕府を再建することであり、征夷大将軍になることであつた。しかし、中興政府の下ではその望みが阻止されていたので機会をみていた。まず天皇方における最大の対立者護良親王を讒して鎌倉に幽閉せしめたが、たまたま信州諏訪に隠れていた北条高時の第二子時行が、建武二年(一三三五)七月、鎌倉を攻撃したので、鎌倉にあつた尊氏の弟直義は護良親王を殺して鎌倉を逃れた。いわゆる中先代の乱である。尊氏はこの乱鎮定に名をかりて東上し、時行の軍を東海道に破つて鎌倉を恢復し、八月十八日、時行一味を覆滅した(『太平記』)。そして十月、鎌倉によつて、新田義貞追討を宣言し、反中興政府の旗幟を鮮明にし、翌延元元年(一三三六)光明院を擁立した。同年十二月後醍醐天皇吉野に遷幸すると、ここに天下南北朝に分れて争乱の世となつたが、豊島氏再びこの争乱中にその姿を現してくるのである。

この中先代の乱における北条時行死亡の件については、『太平記』に鎌倉大御堂で宗徒の大名四十三人皆自害したが、その死体をみるに皆面皮を剥れて何人とも見分けがつかないようにしてあつたから、時行もその中にあろうと哀み痛まれたといつている。ところが実は時行は行方をくらましており、『北条系図』によれば、文和二年(南朝正平八年、

一三五三)五月廿五日に龍口たつのくちに誅されたものであつた。

この十八年間ばかりの時行の行方について、一つの伝えがある。それは、時行は武蔵に潜行して石神井城主豊島景村館に隠れていたというのである。そしてこの間時行は一子を生んだ。この景村の兄泰景には朝泰という子があり、泰景は朝泰の幼年中に死亡したので、元弘年中に景村が兄の迹をついで豊島・足立・多摩・児玉・新倉五郡を領したといわれる。練馬地域への進出のみならず相当の広範囲に亙つての進出が行われていたものと思われる。なお、後にこれらの遺領を朝泰成長後に返却したという伝えを『新編武蔵風土記稿』は記しているが、『豊島系図』では養子輝時に譲つたことになつている。輝時以後に於いて朝泰系のものにその所領が移つたとも考えられる。

さて、景村は兄の死後石神井の地に住したらしいが、その前には豊島の本拠平塚にいたのではないかと思われる。彼が、元亨中(一三二一―一三二三)に王子村に熊野若一王子を祭つたという伝えは、遮般の事情を窺わせる。右の輝時というのは、先述の時行が景村館に在宿の間に生まれた時行の子で、これを景村に子なき為養子としたもので、小太郎景秀と号した。今上石神井にある道場寺は、景秀改め輝時が広安五年(一三七二)四月十日、大岳和尚を請じて開山とし、菩提寺として建立したものにはじまると伝える(『新記』)。道場寺は明治十五年火災にあつて、古記録の大部分を失つており、新記の拠つた同寺過去帳もないから、正確なことは判らないが、延享元年ころの見取写しと思われる同寺現蔵の過去帳写しには、景村(戒名は雄照院英明秀公大居士)、輝時(戒名は勇明院正道一心大居士、永和元年七月七日が命日)、義長(戒名は万空院心西道閑大居士、応永卅二年五月一日が命日)の三人の豊島氏をあげている。景村の没年は過去帳写しでも不明であるが、生存中、南北の争乱に出会し、彼をとりまく一族は南朝に忠節をつくしたものと思われ

る。彼自身南朝に功あつたために、左近大夫に任じ従五位下に叙せられているのであるが、なお、彼の石神井生存時代に前後して、石神井地域に南朝の遵奉者がいたことを窺わせる資料がある。

現在、三宝寺所蔵の数基の板碑の中には、南北朝時代に属するものが七基ある。その六基が北朝年号を刻するに反して、ただ一基ながら南朝の正平七年三月七日の紀年を刻するものがある(別表参照)。これらの板碑は、三宝寺西方台地から出土したといつているから、石神井道場寺の附近には、南朝遵奉者の居住があつたことを証拠だてているのである。ところで、前記の宮城氏から入つた小三郎宗朝は、暦応元年すでに豊島氏を称しているから(『宮城豊島文書』)、その相続は暦応元年(南朝延元三年、一三三八)以前であろう。この宗朝は、足利氏の為に従軍しているから、彼をとりまく人々が北朝支持であるわけであるが、彼が石神井居住をした年代には、恐らく景 画像を表示

村は死去したか、いずれかへ退去した後であろう。南北相反する両人が同時に同一地域に居住したとは思われない。そして暦応ころからは既に宗朝が石神井城主であつたのではないかと思われる。前述の三宝寺蔵の板碑の中に、北朝年号の康永三年(一三四四)のもの、さらに貞治元年(一三六二)のものがあり、北朝・足利氏遵奉者の存在を示すわけである。これは宗朝一味のものであろう。そして前記正平七年(一三五二)のものはその中間を占めるので景村の死後若しくは退去後もこの石神井地域に南朝遵奉の者が少しくは存在したことを示すことになろう。

さて、景村の養子輝時も左近将監兵部大輔に任じ従五位下に叙せられているが、後には足利氏に同調したものの如く(系図書入れ図版 図)である。これも石神井城主というが、いつまで石神井にいたか不明である。暦応以来、宗朝一派のものが来つたとすれば、やはり養父と同じように当地に二者併存は考えられないから、いずれかへ退去したと思われる。その地が今の豊島園の地、すなわち練馬城でなかつたかと思われる。輝時はその地にある間、かつての居住地に道場寺を立てたのであろう。この菩提寺を興すとともに練馬郷内六十二貫五百文の地を寄進したという伝え(『新記』所載)は、彼が当時練馬にあつたことの伝承を反映するものではなかろうか。

輝時はまた応安五年九月十四日に江戸金杉の地にも造寺のことがあつたという。彼の造寺を通じての地方文化に貢献した態度が偲ばれるが、菩提寺発願のことから察すれば、この応安のころ、養父景村が没したのかも知れない。

なお、前述の義長という人の行跡、系統は不明である。やはり景村系の人で、没年から判断すれば輝時より後の人であることはわかるが、いずれにしても、景村輝時の系統は埋れて知るべくもない。現在道場寺裏庭には豊島氏の墓と伝える五輪塔及び宝筐印塔があるが、その信憑度は後考を俟ちたい。

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なお石神井城といい練馬城といい、これらの城の規模は後世の城郭建築にみられるような壮大な石垣や建築を伴うものでなく、武家の居館(いわゆる武家造の建築)を中心にして、これに土塁柵塀空濠などの要害を加えるもので、多くは天然の障害物、川、池、山などを重要な防備施設に利用して造営される。山谷を利用した高地にあるものは山城やまじろであり、後世の如く平地に人工を主として造営されるものは平城ひらじろと呼ばれるが、武蔵野の如き平地では、中世を通じて、平山城と呼ぶ形式が多い。平地の天剣を利用して、若干の人工を加えて要害とするのである。練馬・石神井両城とも平山城であるが、泰景・景村当時に於いてどの程度の城の構えであつたか不明である。居館を戦斗の必要に応じて要害を設けて城に取立てる場合もあり、一旦廃城になつたものを戦斗の為に取立てる場合もある。練馬・石神井城が最も戦斗に必要になつたのは後の文明年間のことであり、城塞またそのころには完備したであろう。なお西方の関町の地は、石神井城の関を設けた所が地名になつたと伝えている。

<節>
第二節 争乱時代の豊島氏の動向
<本文>

延元元年(一三三六)以来、南北朝対立争乱時代の豊島氏は、前述の景村らを除いては、凡ね足利氏の幕下に参じたらしい。前記板碑の北朝年号例は練馬に限らず、武蔵には多い。すでにして延元二年(一三三七)九月廿三日、奥州の北畠顕家が鎌倉に攻め入り、足利義詮らを走らせ、翌三年(北朝暦応元年、一三三八)正月顕家が、鎌倉をたつて西上するにあたり、前年鎌倉を逃れた足利方の上杉・桃井・高らの諸将鎌倉を恢復せんとした。そしてその再度の呼びかけに応じて集つたものは、武蔵を中心とする諸豪族であつた。『太平記』は次のように記している。

<資料文>

爰ニ鎌倉ノ軍ニ打負テ、方々へ落ラレタリケル上杉民部大輔、舎弟宮内少輔ハ相模国ヨリ起リ、桃井播磨守直常ハ箱根ヨリ打出、高駿河守ハ安房上総ヨリ鎌倉へ押渡リ、武蔵相模ノ勢ヲ催サルルニ、所存有テ国司(顕家)ノ方ヘハ附ザリツル江戸、葛西、三浦、鎌倉、坂東八平氏、武蔵七党、三万余騎ニテ馳来ル云々。

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こうした中にも豊島氏の動向を探り得るであろうが、宗朝については宮城豊島文書に上掲の着到状がある。花押は、豊島系図に前大和守頼賢と注するが、参考にあげておこう。文は次の如くである。

<資料文>

   着到

    武蔵国

   豊嶋小三郎宗朝

右は吉野没落の凶徒蜂起の由其の聞あるに依つて発向の間、当手に属し忠節を致し候了んぬ、仍つて着到件の如し

    暦応元年十一月十七日

         承り候ひ<外字 alt="己+十">〓んぬ     花押

というものである。吉野没落の凶徒は北畠親房をさす。『畑田申状』にも吉野没落朝敵人北畠源大納言入道以下凶徒等云々という言葉を使つている。

この暦応元年は、前述のように正月北畠顕家が鎌倉より西上したが、彼は五月廿四日に和泉石津で戦死し、同七月二日には新田義貞が越前藤島に戦死するなど、宮方では頽色漸く濃い年であつた。そして、この秋北畠顕信らは義良親王を奉じて伊勢より海路陸奥に赴き、頽勢を挽回しようとしたのであるが、顕信の父親房もこれに同行した。しかし、天運幸いせず、上総沖で台風に遭い、一同散り散りになり、親王らは伊勢に帰つたが九月初旬には漂船連日にわたつて関東の各海岸に流れつき、漂流者の生取り誅されるもの相ついだ(『鶴岡社務記』)。親房のみは常陸霞浦東条庄に着岸することができ、神宮寺城に拠つたのである。しかし、十月五日畑田又太郎らに攻められて、阿波崎城に移り、これまた散々に打たれて(『畑田申状』)、筑波山麓の小田城に入つた。入城の日は不明であるが、やがて暦応四年(南朝興国二年、一三四一)城主小田治久が足利軍に降り、親房は関城に移ることになるのである。親房が右の小田在城中に『神皇正統記』を著したことは有名であるが、この豊島宗朝の着到状は、年月から推せば、実にこの神宮寺・阿波崎・小田城の攻防戦に寄せ手として参加していたことを示すものではなかろか。豊島氏はこの後、専ら足利氏に忠節を尽している。暫くその跡を追つてみよう。

文和元年(南朝正平七年、一三五二)閏二月、上野にあつた新田義貞(義貞の嫡子)、義宗(義貞の次子)、義治()らは

吉野の勅を蒙つて蜂起し、上州の同志をあつめて鎌倉に攻め下り、南朝の為に気を吐こうとした。十六日武州に入ると(『園太暦』)児玉党・丹党・東党・私市村山横山党らこれに従い、総勢二十万騎と号して鎌倉を呑むの慨を示した。

この間、上州野州武相の間に足利に心をよせるものもあつたが(『太平記』)、尊氏は新田軍南下の報に接し、関戸を経て北上し(水野平太致秋軍忠状『新記』所引)、二十日武蔵人見原(府中の東)に遭遇戦を展開し(三富弥太郎軍忠状『新記』所引、『鎌倉大日記』)、一旦は新田軍を支えて北へ追つたらしいが、『太平記』によれば久米河に一日滞陣したようである。この時尊氏の陣に馳参じた面々の中に豊島弾正左衛門、同兵庫助、豊島因幡守の名がみえる。尊氏は味方八万余騎を得、二十八日、小手指原(今入間郡三島村、村山の北方、金井原ともいう)に両軍の決戦をみることになつた。各々旗標はたじるしを朝風に靡かせて、鎬を削つて戦つたが(『太平記』三十一)、足利方に利あらず、新田義宗の急追の中に尊氏は石浜(浅草橋場)に逃れて一息ついた。ここに馳参じた味方に江戸・豊島の人々がいたことが『太平記』にみえる。この豊島氏に反し先に北畠顕家の西上の途次(暦応元年)にはこれに与みしなかつた坂東八平氏・武蔵七党の諸氏が、この義宗らの南下軍には参加するという現象は、南北朝争乱時の地方豪族が、いわゆる家運を一戦の間にひらかんとした時代相を物語るものであり、先述の如き豊島氏に景村と宗朝と二つの行き方があつたのもそのあらわれであろう。

蓋し足利尊氏は、はやくより関東の地を重視し、関東統制の府を伝統の地鎌倉におかんとし、延元二年(一三三六)わずか十歳の次子義詮をその地に止め、尊氏の母方親戚上杉氏を之れに輔佐たらしめた如きはその慮りであろう。そして貞和五年(一三四九)義詮を帰京せしめ、三子左馬頭基氏を鎌倉に下して義詮に代えて関東管領の位置に据え、執事には上杉憲顕、高師冬を配し、関東の武家統制の府を確立した。しかしなお、関東各地の豪族は、惣領制的な社

会構造の上にたつてその伝統的な在地の支配勢力を守ろうとし、南北の間に首鼠両端を持し、管領の支配を容易にゆるさないものがあつたが、ただ武蔵は、上野伊豆とともに執事上杉が守護に補任された国であつたから、その光被はよく国内の有勢豪族の上に及んだ。暦応以後江戸豊島氏は足利氏に味方し、管領家の為に活躍する所があつたのもその為であろう。

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関東管領基氏の妻の兄畠山国清(入道道誓)は文和二年(南朝正平八年、一三五三)執事となつて基氏を輔佐したが専恣のため人望を失い、たまたま河内和泉の間の宮方軍攻撃のため、基氏の命をうけて武蔵の軍勢を率いて河内・和泉に転戦し、延文五年(南朝正平十五年、一三六〇)八月帰東したが、その出征中の非行を非難する諸氏多く、基氏の責めによつて弟義深らと共に康安元年(南朝正平十六年、一三六一)伊豆に奔り、田方郡神益、三津、修禅寺の三城に拠つた。翌貞治元年

南朝正平十七年)基氏兵を発し(『正木文書』)、九月自ら伊豆に発向した(『神明鏡』)。国清忽ち僧となつて降参しようとしたが、この戦斗の間に、寄手のうちに豊島因幡守の名がある(『太平記』)。これは前年小手指原合戦に参戦したものと同一人を指すであろうが、また基氏花押の感状を賜つた豊島修理亮がある(『宮城豊島文書』前頁写真)。文は次の如くである。

<資料文>

  発向豆州立野城  

  期無帰国之儀致忠節云々

  尤神妙彌可抽戦功之状

  如件

   貞治二年二月六日

            <補記>(基氏)花押

       豊島修理亮殿

立野は修善寺村の東南の下狩野村の地を指すが、畠山が籠つた城は立野城とよばれていたと思われる。この修理亮を、豊島信明氏蔵豊島系図は、輝時の子景則にあてているが、景則には嗣子なく、家督を宗朝に譲つたという。

<章>

第四章 室町時代の練馬

<節>
第一節 関東管領と豊島氏の動静
<本文>

関東管領家では、基氏についで氏満がその職にあつたが、氏満の時代に、上方では南朝の後龜山天皇が神器を後小松天皇に譲り、南北合一をみて(明徳二一年、一三九二)、一応対立の時代を終つた。しかし、天下必ずしも静謐に至らず、関東に於いては管領家また京都の幕府に対して柔順でなかつた。この間、上杉氏が管領家と将軍の間を斡旋して幕府の信頼を高めていつたのであるが、氏満についだ満兼が応永十六年(一四〇九)死し、持氏の時代に至るや関東の動乱を惹起し、また、管領家に転期をもたらすに至つた。この間、練馬地域では、豊島氏相ついで支配的位置を保つていた。

さて、管領家では、応永のころから、管領を鎌倉府の将軍と称し、その人をさすに公方・御所といい、執事を管領と称するようになつていたが、上杉氏では、宅間上杉はやく勢力を失い、山内上杉と犬懸上杉の二家より執事に任ぜるようになつた。その犬懸上杉氏憲(入道して禅秀)が、応永二十二年五月管領職をやめられ、山内上杉憲基が之に代るという事件を契期に鎌倉転覆の陰謀をめぐらし、持氏の叔父満隆、持氏の弟持仲を誘い、京都の将軍義持の弟義嗣と気脈を通じた。これがいわゆる上杉禅秀の乱の発端である。公方持氏は在職中、関東の在地豪族に対しては管領の支配徹底のため圧迫を加える所があつたから、反持氏勢力で禅秀のよびかけに応ずるものが少なくなく、武蔵では丹

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党、児玉党のものがこれに答えた(『九代後記』『鎌倉大草紙』)。応永二十三年十月二日、禅秀一味は鎌倉の御所を攻撃した。公方持氏は上杉憲基の佐介谷の居館に逃れたが、たのみ切れず、小田原を経て遂いに駿河の守護今川範政を頼り、庵原郡瀬名安楽寺に入り、上杉憲基及び佐竹義憲らは越後に逃れた。

さて持氏が鎌倉を逃れると、満隆と持仲とは鎌倉に於いて関東の公方と称することになつたが、関東には、なお持氏の党も少なくなく、武蔵の与党には江戸・豊島・二階堂下総守・多摩郡の南一揆・宍戸備前守らがあり、これらが持氏味方として入間川に陣を張り、禅秀に対抗した。足利持仲はこれに対し、上杉伊予守憲方(禅秀息)を大将軍として、十月二十一日武蔵に入り、小机に陣し、二十三日瀬谷原(今世田谷の地)に両軍遭遇して終日戦つた(『鎌倉大草紙』)。この合戦に江戸・豊島の活躍が目覚しく、伊予守憲方は敗軍して、豊島範泰らの追い打ちの中を、二十五日夜漸く鎌倉に辿りつくという有様であつた。翌二十四年正月一日上杉禅秀もまた足利満隆・持仲を具して鎌倉をたち(『九代後記』)、瀬谷原に陣取り、五日には南一揆、江戸、豊島の軍と対峙したが、(『宮城豊島文書』)今度は江戸、豊島ともによく戦つたが敗北して引上げた。

これより先、今川範政の報告により(『今川記』)、室町幕府は、乱の背後にある義嗣の擡頭を憂慮し、禅秀討伐に決定し、越後及び駿河方面より持氏の援軍を送ることにした。このように幕府の持氏支持がはつきりすると、禅秀方には脱落者ができ、意気沮喪した。幕府差遣の一色詮光を大将とする越後よりの追討軍は、上杉憲基、佐竹義憲らに率いられて上野を経て、正月五日に武蔵に進み来り(『喜連川判鑑』『宮城豊島文書』)、武蔵久米川に陣を張つた。豊島氏は八日これに参加し、九日払暁、江戸、宍戸備前守の手のものと共に先鋒となつて瀬谷原の禅秀軍に殺到した。禅秀方

には寝返りをうつものがあり、散々に打破られて鎌倉に引上げた。江戸豊島宍戸の手のもの跡を追つて鎌倉に乱入し(『鎌倉大草紙』『大掾裔石川氏文書』)、西方からは今川勢また鎌倉に入り、十日満隆持仲をはじめ禅秀の一族は雪下の鶴岡八幡宮別当坊に自害し(『桂川地蔵之記』)、ここに禅秀乱は終り(『鎌倉大草紙』『九代後記上杉系図大概』)、十七日持氏は鎌倉に帰つた。

その後、豊島気は鎌倉の宿直警固に任じ管領家の守護に当つた(『宮城豊島文書』)。上掲の着到軍忠状は、この禅秀乱における豊島範泰の軍功を語るものである。文面は次の通りである。

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 着到

   豊嶋三郎左衛門尉範泰申軍忠事

 右は去る年の十二月廿五日夜、武州入間河に於いて、二階堂下総入道に同心せしめ、御敵伊与守追落し<外字 alt="己+十">〓んぬ。其の以後今年応永廿四正月五日、瀬谷原

合戦に於いて散々に太刀打ち仕り、乘馬切られ、家人数輩疵を被り<外字 alt="己+十">〓んぬ。同八日、大将御迎の為、久米河の御陣え馳参じ供奉せしむ。鎌倉御入りの期に至つて、宿直警固を致すの上は、御証判を下し給い、向後の龜鏡に備えんとす。恐〻言〻上件の如し。

  応永廿四年正月 日

   承り候ひ訖んぬ     <補記>(持氏)花押

乱後禅秀一類の没収地が諸功臣に分ち与えられたが(『九代後記』)、江戸豊島は戦功第一と称せられ、この乱を契期として豊島氏の武蔵における地位は有勢なものになつたであろう。

禅秀の乱後、足利持氏は、反対者に対して仮借することがなく、また関東のことについては幕府と意見一致せず、遂いに幕府の忌む所となつていたが、京都で義教が将軍となると共に、持氏は望みを将軍職に失い、ついに専恣の行動が多く義教の怒にふれ、幕府と鎌倉府は反目するに至つた。鎌倉の管領は憲基についで憲実(長棟)であつたが、彼は両者の間の和解につとめ、却つて持氏の恨みを買つた。幕府は憲実を信頼する所からこれを支持して兵を発し、ついに持氏をして鎌倉永安寺に、その子義久を報国寺に自殺せしめるに至つた。これが永享の乱である(永享十一年、一四二九)。

これより憲実が政務を沙汰し、やがて憲実引退して弟上杉兵庫頭清方を越後より招いて管領の座に据えた。時に下総の結城氏朝は持氏の遺児春王・安王を奉じて、永享十二年正月、公方復興の兵を挙げ、結城に籠城するに至つた。

いわゆる嘉吉の乱である。ここに、上杉清方は命をうけて上州・武州・越後・信濃の軍勢を催し武蔵国司上杉性順、長尾景仲を加勢の大将とし軍を二手に分つて鎌倉を発し、性順は苦林に、景仲は入間川に陣し、結城攻城戦を開始した。豊島郡の清方被官のものが終始上杉勢のために働いたと『鎌倉大草紙』は伝えるが、豊島氏の一族であろう。

嘉吉元年(一四四一)四月十六日結城落城にあたつて、結城方の部将小幡豊前守の首を討取つたものに上杉清方被官豊島大炊介の名がある(『鎌倉大草紙』)。山内上杉氏の被官として豊島氏はその地位を保つているわけであるが、このような間に、上杉の家老長尾氏との結びつきもできてきたであろう。

さて、嘉吉乱後幕府は、持氏の末子永寿王をとりたてて持氏の跡目相続をゆるし、関東の人心安定をはかつた。永寿王は、宝徳元年(一四四七)成氏と改名し、関東の公方の位置についたが、同時に山内上杉憲実遁世し、その子龍若が幕命によつて管領の位置につき、憲忠といつた(『九代後記』『鎌倉大草紙』)。このころ扇谷上杉持朝は家をその子顕房に譲り河越(仙波)に退隠した。憲実といい、持朝といい、いずれも成氏にとつては父持氏を自刃せしめるに至つた元凶であつたから、互に平心ではあり得なかつたものと思われる。ところで、扇谷上杉の顕房は幼少であつたから、尾越の太田備中守資清がこれを輔佐して政務をとることになつた。かくして持氏の孤児成氏に対して、山内上杉に憲忠、その背後に憲実、その老臣に長尾氏があり、扇谷上杉には顕房とその老臣太田氏があつて、鎌倉府また風雲をはらむものがあつたが、たまたま、享徳三年(一四五四)十二月、成氏が遺恨を以て上杉憲忠を誘殺すると、これが関東大動乱の口火となり、また両上杉の家老太田、長尾両氏の擡頭をももたらすに至つた。

<節>

第二節 太田・長尾両氏の動靜と豊島氏の没落
<本文>

さて、成氏が憲忠を殺すと、上杉方では、扇谷上杉持朝、長尾景仲、太田資清ら相模島ケ原に陣取つて成氏と一戦に及んだが、上杉方が敗軍して上州及び河越に引上げた。長尾は越後の上杉定昌を上州に招き、憲忠の弟房顕を大将として関東信越の味方を催し、河越の持朝とも計り、また京都の幕府にも劃策して成氏退治の計をめぐらした。翌康正元年(一四五五)正月五日、足利成氏は上杉誅罸のため鎌倉をたつて府中に軍をすすめたが(『鎌倉大草紙』)、五日には武蔵烏森稲荷に願書を納めて武運の長久を祈り(武州桜田烏森稲荷文書『後鑑』所引)、武蔵の有勢のものにも軍勢を催促した。豊島一族亦その催 画像を表示 <コラム page="133" position="left-top">

馳参御方可致忠節之

状如件

 享徳四年正月十四日    <補記>(成氏)花押

  豊鳩三河守殿

馳参御方可致忠節之

状如件

 享徳四年正月十四日    花押

  豊嶋勘解由左衛門尉殿

促をうけている(『宮城豊島文書』)。上杉方また被官の諸氏に催促し、軍勢を整えて両軍は二十一日分倍河原に合戦したが、二十四日、扇谷上杉顕房は廿一歳の若さで戦死し、上杉方敗軍となり、上杉、長尾らは常陸小栗城にたて籠つた。閏四月成氏またこの城を攻め落し、上杉方は下野へ落ちのびることになつた。

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この間豊島一族のものには成氏に加担したものもあつた(『宮城豊島文書』)。しかるに同年六月、幕命によつて今川範忠が鎌倉に攻め入り、谷七郷の神社仏閣を焼払い、鎌倉は焦土と化したから、成氏は下総古河に逃れるに至つた。一方、上杉方では憲忠の弟房顕を主君と定め、長尾景仲は野州天明只木山によつて成氏退治の劃策をめぐらしたが、成氏来つてこれを攻め下し、上杉方騎西きさいに退いた。成氏は古河に入ると共に反転して騎西の上杉を追つたから、上杉方は深谷に城を取立て、更に長祿元年(一四五七)武州五十子いかこ(児玉郡、今本圧市にふくまる)に陣を張つて古河城に拠る公方成氏と対峙することになつた。

しかし、この間京都の幕府では成氏をとりつぶしに決し、ま

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ず、渋川義鏡を関東探題に任じて上杉房顕を援けることとし(康正二年、一四五六)わらびに(埼玉県蕨町)居らしめた。また、長祿元年(一四五七)暮には将軍義政の弟政智を関東に下向せしめ、鎌倉に居館のない為伊豆の堀越に居らしめた。これがいわゆる堀越公方である。

これと同じころ、扇谷上杉の家老太田資清は家督を子資長(持資、道潅)にゆずり(康正元年、一四五五)、武州岩槻の城を取立てて移り、道灌は翌年品川の居館に於いて得た霊夢によつて江戸築城をはじめ(『小田原記』)、江戸氏を多摩郡喜多見(世田谷区)に移し(『鎌倉管窺武鑑』『系図纂要』)、翌、長祿元年(一四五七)江戸城が竣工して道灌はこれに拠つた。また、仙波の上杉持朝は城を河越城に移した(『鎌倉大草紙』)。

ここに於いて五十子・深谷・岩槻を第一線とし、川越・蕨・江戸を第二線として古河公方成氏を北関東に封鎖するの形勢が成つたわけであるが、幕府が成氏とりつぶしの線を明かにすると、関東の豪族の向背も一様でなく、豊島一族にも亦成氏退治に加担するものがあつた。長祿三年(一四五九)十月十四日上杉房顕は太田荘(岩槻・鷲の宮の間)に成氏と戦つたことがあるが、翌、寛正元年(一四六〇)四月義政よりの感状にみえる豊島彌三郎の如きその一例であろう(『後鑑』百九十五)。

去年於武州太田荘合戦之時、致忠節之条尤神妙、彌可抽軍功也

四月廿八日 御判

高埔加賀守殿

豊島彌三郎殿

長南主計助殿

さて、上杉房顕は五十子にあつて成氏と討陣すること十年、文正元年(一四六六)二月その陣中に没した。この間、成氏は下総方面にも作戦した。千葉氏一族の中にも成氏方と上杉方と両方に分れて夫々味方するものがあつた。やがて上杉氏では千葉実胤、自胤を助け市川城(市川市国府台)に居らしめ、成氏に対する抵抗線をここに設けたが、成氏が来り降すに及び、両総の勢力の大半は成氏に降つた。これより千葉実胤・自胤は上杉を頼つて武蔵に入り、実胤は石浜に、自胤は赤塚城に移つた(康正二年・一四五六・『鎌倉下草紙』)。実胤はやがて遁世して美濃に移り、自胤が赤塚に居つて、また実胤の跡をつぎ、葛西方面を領有するに至つたから、千葉自胤の勢力が荒川を狭んで強勢になつてきたが、この背後に上杉の家老太田道灌の籌策があることは蓋し確実であろう。

この千葉氏の武蔵における擡頭はまた実に豊島氏にとつても問題であつたと思われる。赤塚は、既に述べた如く豊島氏の一族の居所であるが、今やその地は千葉自胤に占められ、さらに又、豊島氏の本拠平塚は千葉氏の圧力の前にさらされることになつてきたのであるから。かくて豊島氏の脊後の拠地練馬石神井の重要性が痛感されたであろうし、また時あれば千葉氏の圧迫を排除せんものと思つたであろう。

一方、山内上杉氏では房顕の後、越後の上杉房定の子顕定をもつて山内の名跡をつがせた。顕定管領となり、なお五十子に陣して成氏との対抗をつづけ、勝敗決せず時を過したが、たまたま、文明六年(一四七四)ころのことであろうか、上杉老臣長尾景仲が病没して跡目相続の問題が起り、顕定によつて景仲の弟忠景が指命されると、景仲の嫡

子景春がこれを不快に思い、顕定に逆心を抱くに至つた。そのころ、扇谷上杉では政真が五十子に戦死し(文明五年十一月)定正が家督をついでいたが、その家老太田道灌が長尾の縁者でもあつたから、長尾はこれに逆心のことを相談した。道灌は驚いて顕定に諫める所があつたが、顕定をはじめ上杉の評定衆はこれをきかず、却つて景春誅罸すべしの声が高くなつた(『鎌倉大草紙』)。

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その後、扇谷の縁者駿河の今川家に騒乱起り、解決のため太田道灌が江戸を留守にしたが、その間に、長尾景春は鉢形城に立て籠り、古河の足利成氏と気脈を通じ、一味同志を催して上杉覆滅の態度を明かにしてしまつた。関東に又新しく戦雲漲るに至つたが、景春に同心のものに相模の景春被官のもの、また越後五郎四郎、金子掃部助、武蔵多摩郡に宝相寺、吉里宮内左衛門尉、また成氏

恩顧の千葉孝胤も呼応する所あり、東武蔵の一角からは豊島泰経及び弟泰明が呼応した。この豊島兄弟が長尾景春の挙兵に応じたのは何故であつたかはなお推測の範囲を出ないが、この一戦の間に劣勢を恢復して豊島氏伝統の支配を東武蔵に守ろうとしたところに最大の原因があるのではあるまいか。

前述の様に千葉自胤の圧迫があり、一方、江戸氏は太田道灌によつてその本城を移されるというような武蔵の伝統的な豪族にとつての屈辱がある、いま座して劣勢に甘んぜんか、不日にして豊島氏の牙城平塚は攻略されるであろうし、また赤塚と江戸の連合がなれば、平塚と練馬石神井にわたる豊島氏は東西に分断される懼れもある。ことに、平塚は江戸、河越の交通の要衝であり、太田氏の垂涎する所に違いない。豊島兄弟の決心はかくの如くにして長尾味方に決定したのではあるまいか。太田氏の江戸築城、或いは千葉氏の武蔵進出以来、豊島氏では練馬石神井両城の整備に力をいれるようになつたことも想像に難くない。

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文明九年(一四七七)正月十九日、長尾景春は遂いに行動を起し、五十子にある上杉顕定、憲房、定正を攻撃した。五十子の陣は手薄であつたから、その夜、上杉方では戦術的退却をなし、利根川を越えて上野那波庄へ引上げ、

之れに対し景春は追撃戦に移らず、味方の城固めをすることにした。豊島氏では石神井城、練馬城を取立てて(『鎌倉大草紙』)、平塚城とともに東西に三城をつらね、江戸河越の連絡を切断する作戦をとるとともに、相模の一味と呼応すれば直ちに江戸城を包囲し得る体勢を整えた。そして、兄豊島勘解由左衛門泰経は石神井に、弟平右衛門尉泰明は平塚にたてこもり、一族を集めてこの三城を固めることにした(享保二年豊島泰盈奉納の三宝寺縁起に長尾景春も立て籠つた様に記するが疑わしい)。千葉氏に領主権を奪われた板橋方面の豊島一族が来り合したことはいうまでもない。

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果して千葉自胤は上杉氏の旗下に参じ、江戸城に太田道灌、上杉朝昌、三浦介義同らと共にたて籠り、豊島氏に対抗の勢をみせたのである。戦機は三月中旬相模方面に熟し、長尾景春被官のもののたて籠る溝呂木城(神奈川県中郡)と越後五郎四郎のたて籠る小磯城(同上)とが、十八日太田道灌の手の鎌倉軍によつて責落され城将は降参した。金子掃部助の立て籠る小沢城(愛甲郡高峰村角田)はよく抵抗してなかなか落ちなかつた。武蔵横山の宝相寺、吉里らがその後詰として府中まで南下したが、河越城には上杉方の太田図書助資忠、上田上野介、松山衆が籠つていたので、背後を安全ならしめる為、矢野兵庫助を大将として河越城を押えんとし、苦林に陣取り、却つて太田上田ら城将の出撃に遭い、四月十日、勝原(埼玉県入間郡勝呂村)に打ち破られてしまつた。

かくして鉢形もしくは足利成氏よりの援軍なき限り、豊島一族は孤立し、逆に上杉方の包囲の中に曝されることになつたが、時をうつさず太田道灌は十三日、豊島氏攻撃の火ぶたを切つた。攻撃は平塚城攻から始まる。城将泰明は救援を石神井城の兄泰経に求め、泰経は直ちに石神井練馬両城の兵をひつさげて東進した。そしてその途中、平塚より江戸への帰途反転して西進した江戸城将らと江古田原沼袋に遭遇することになつた。『鎌倉大日記』は次の様に記している。

<資料文>

同月十三日道潅江戸より打て出豊島平右衛門が平塚の城を取巻城外を放火して帰ける所に豊島が兄の勘解由左衛門を頼ける間石神井練馬両城より出攻来りけれハ太田道潅上杉刑部少輔千葉自胤以下江古田原沼袋と云所に馳向ひ合戦して敵ハ豊島平右衛門尉を初として板橋赤塚以下百五十人討死す

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足軽戦法の創始者太田道灌の戦術が妙を極めたか、

太田軍の勢数倍したか、わずか一日の戦いで、弟をはじめ百五十人を討たれた豊島泰経は、残兵をひきつれてその日の中に石神井城に逃れ帰つた。その江古田沼袋の戦場にある多数の古墳を、里人は豊島塚と云い伝えたという(『豊島信明氏蔵豊島系図』書き入れ)。

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翌十四日、道灌は追撃の手をゆるめず石神井城に攻め寄せた。今、三宝寺の所在地周辺は石神井城趾で、寺の背後には城砦の土塁、空掘と思われるものの跡がある。北方には城山という地があつたといい、道灌が砦を築いた所ともいう(『新記』)。また、南方に直塘があつて、太田氏攻撃の際、江戸城への直路となさんとしたもので、道灌塘という伝えがある(『豊島泰盈奉納三宝寺縁起』)。これらをみれば石神井城は包囲攻撃を受けることになつたらしい。また、愛宕権現のある岡山に砦を構えたという伝え(『正保六年豊島奉盈奉納上石神井村愛宕大権現縁起』)もある。さすれば、今の早大高等学院所在地の丘が、道灌の陣であつたろう。いずれにしても十四日の攻撃によつて、城方では、十八日に城の要害を破却する条件で一旦降参した。しかし、これは

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偽りで敵対の様子が看取されたから、道灌は十八日中に攻撃を再開し責落してしまつた。落城の悲劇は伝説を伴つて今に語り伝えるが、城将豊島泰経の行向ははつきりしない。『鎌倉大草紙』には、翌十年正月二十五日、上杉定正と太田道灌が河越より来つて、豊島勘解由左衛門の平塚の要害へ押寄すとあるから、泰経は命を延びて、先祖伝来の地平塚を死守していたものかも知れない。その後、泰経の子康保が後北条氏に仕えて評定衆の位置にあり(前頁挿画参照)、また豊島氏の名は後にもつづいた。たとえば、天文・永祿の間、上杉景虎に従い、ついで後北条氏に与力した忍城主成田長泰の子氏長の家臣に豊島美作守(『九代後記』『関八州古戦録』)がある。また、豊島一族では、『小田原衆所領役帳』に板橋大炊助、板橋又太郎などの名があり、宮城氏では、岩槻太田氏の被官となり、その老臣として天正十八年岩槻城が陥落するまで同城にあつて活躍した宮城中務丞、四郎兵衛、美作守などがある(『宮城豊島文書』『小田原記』)から、文明年間に豊島一族が族滅したわけではなかつた。しかし、文明十年(一四七八)平塚も陥ると、平安末以来、豊島郡の一角に幡居し、その領主的支配の手を練馬にまで拡張して伝統を誇つた豊島氏は、遂いにこの地域の支配的位置からは没落してしまつた。

その後、この練馬の地は、太田氏の支配(文明・大永の間、一四七八-一五二四)、ついで後北条氏の支配(大永・天正の間、一五二四-一五九〇)を受けるようになつたが、この地域にも歴史的転換をつげる風は吹きはじめていたのであろう。それは、在地農民の成長発展ということであるが、吾々は、そのような歴史進展を物語る若干の資料をみることができるから、節を改めて説くことにしよう。

<節>

第三節 練馬地域の歴史的転換
<本文>

豊島氏が鎌倉末期から、わが練馬地域にまで支配の手をさしのべていたことは、前章に述べた所であるが、その土地経営の形式は恐らく荘民を夫役労働に使役し、農業その他に従事せしめるという直接経営の形が主であつたと思われる。

しかし、その間、弛々とではあるが、農業技術の進歩はこの地にみられるようになつたであろうし、耕作者の中には熟練者も現れてきたであろう。時恰も南北朝以後の争乱時代に遭遇して、領主豊島氏も戦斗に従事することが多くなり、しだいに武備に専念することが必要になつたことは争われない。

一般に領主がそのような必要をみたす為には、練達な耕作者に農事をまかせて、その上に座し、農民からの地代収得によつて生活し、自らは武備を完成するということが考えられる。そのためには、直接経営から下人所従を解放して彼等に名田を貸し与えて経営を請負せたり、土地を分ちあたえて耕作権をゆるすということが行われるわけである。このような現象は、鎌倉時代から室町時代にかけて一般的にみられる所であつた。解放された下人の中には隠田を切り開いてやがて名主から独立をゆるされるものもあり、土地を分ち与えられたものも同様な線を辿つてゆく。これら小規模な名主的存在のものも、また弱い農民をだき込んで、土地をひろげ、大名主になつてゆくということもあつた。大名主の中には農村の中に力をもつものもあらわれ、あわよくば一円領主となり、農村の支配者になろうとするものもあつたのである。このように農民階層に分解が行われ、それが繰返されてゆく過程には結局は独立の農民が

ふえてゆくということになるが、そこには新しい郷土的な大名主=地侍が成長してくることも見逃せない。彼等は某殿と呼ばれて、その地域での勢力と尊敬とを克ち得るようになつてくるのである。

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領主豊島氏支配の間に、この地域にそのような過程をみることができる直接の資料はないが、少なくも太田氏の支配をうけるようになつてから、右のような事情を窺わせる資料がある。なお、太田氏の当初の支配形態は正しくはわからない。しかし、太田氏は豊島氏の如く在地の領主ではないから、この地域においては、右のような郷土的な大名主の成長し得る余地は多分にあつたのであろうと思われる。

紀州熊野の『米良めら文書』の中の、永正年代(一五〇四―一五二〇)を下らないと推定されて

いる『としま名字の書立』に、「禰りまひやうこ殿」という名がみえる。この文書は、熊野の御師が関東の豊島姓の旦那を書きたてたものである。(口絵 図参照)

ここにみえる「ねりまひやうこ」とは、豊島氏没落の後、庶子のものが土着して名主的位置をしめていたものか、在地の農民の成長したものか速断はできないが、地侍として名を得ていたものであろう。今、仲町荘厳寺墓地に、慶長十六年六月十八日、同十七年六月十八日を忌日とする柄本えもと氏の建墓の施主に「柄本兵庫延英」とあるが、この柄本兵庫が、ねりま兵庫の後裔か、前記としま名字の書立の「いたはしひやうこ殿」の後裔か、いまいずれとも判定しかねるが、室町時代に地侍として登場したものが、その地域に後にまで伝統をのこしたことを暗示するものかも知れない。また、同じく『米良文書』の中に、天文三年(一五三四)に上原の雅楽助父子の名がみえる(口絵 図参照)。すでにねりま郷の名がこれにはみえるが、この雅楽助父子も地侍的なものか、若しくは相当の名主層の一人であろう。ねりま郷の一円支配の中心的位置を占めるものでないかと思われる。熊野の御師が旦那として捉える人々が一介の地下の農民であつたとは思われないからである。

ところでこのような人々の例が永正天文の間(十六世紀前半)にあらわれてくるとすれば、その発生の年代はもつと溯つて考えることができるであろう。

さて、この様な地侍的名主級のものが、この地の部分的地域で、小領主的な直接経営を行つていた期間もあるわけだが、その地侍的名主から独立して自営する更に小規模な中小名主も成立してきたに違いない。農業技術の漸進、開発の進行という背景に於いてである。そしてこの地侍的名主や中小名主が、戦乱による自衛や、入会地の用益、灌漑

用水の問題をめぐつて横に連合して結合を行うときに新しい村づくりがはじまるのであるが、前出のねりま郷という如きは、この地域の新しい村づくりの一単位であつたのではあるまいか。

さて、十六世紀の前半に練馬の地域が、右のような経過を辿つているとき、関東の政治情勢はいろいろに変化した。まず、豊島氏を屠つていらい、太田道灌は北関東に転戦して声望日に高かつたが、讒にあつて暗殺され、道灌の子源六資康が山内上杉顕定に奔り、両上杉もまた確執あるに至つた。江戸には扇谷上杉朝良の執事曾我豊後があり(『九代後記』)、明応二年(一四九三)扇谷上杉定正の死後は、前記の朝良自身が江戸にいた。ところがこれと前後して、伊豆に伊勢新九郎長氏が立ち、小田原を根拠として侵略の手をのばし、子の北条氏綱いらい関東の地に征戦を拡張し、関東また争乱の世となつた。

大永四年(一五二四)ころ江戸城には太田源六資高、同源三郎資貞が、上杉朝良の子朝興の家老として在職したが、これが江戸に進出しようとした北条氏綱に内応したので、城主朝興は河越に逃れ、江戸城は北条氏の掌握する所となつたのである。太田氏はここに北条被官となつて江戸城月亭に配置された(『小田原記』によれば、この外に本丸には富永四郎左衛門、二の丸には遠山四郎兵衛が配置されていた)。

なお北条氏では、被官のものに知行地を与える立前をとり、太田氏もその一人で、練馬の地域にもその知行地を与えられていたことは、永祿二年(一五五九)の『小田原衆所領役帳』にみえる所である。この知行地というは、まとまつた村を単位として給与されるものであるから、これによつて永祿以前にこの地域には、前記ねりま郷の外にも村結合は相当に進んでいたことが推測される。

太田では新六郎が、その後豊島郡の一円知行を念願とし、永祿六年(一五六三)に北条氏(氏康代)に謀叛を企てたが事露れ失脚した。『小田原記』によると太田新六郎を資高とするが、『新編武蔵風土記稿』が康資と訂正しているのが正しいであろう。康資は前記源六資高の子である。また、岩槻太田氏では代々上杉被官たるを誇りにしていたが、同じころその家の家老柏原太郎左衛門・河名辺越前らが小田原に内通し、城主資正(三楽斎・法名道誉)>を追い、子氏資を擁立し(『小田原記』)、やがて、永祿十年氏資戦死して男児なきため、北条氏政(氏康の子)の子氏房を婿に入れて跡目を相続せしめた。従つて、江戸・岩槻のいずれも北条氏の光被するところとなつた。そして練馬区の地域の村々にも亦新しい前進がみられるようになつてきた。前述のような地侍級の家がそのままの伝統を後世に続けたとは限らず、なかには、北条氏の支配時代以後に於いて、他所より来つて土着土豪化したものにとつて代られるものもあり、また地域によつては、新来土豪が村の中心となつて発展したものもあつたのであるが、北条氏支配以後の時代における練馬の動きは後章にゆずろう。

<節>
第四節 室町時代の世相と練馬
<項>
一 練馬地方の村落形成
<本文>

中世のころ、練馬地方の村やその営みが一体どのようであつたかについては、拠るべき史料がないので、それを具体的に詳らかにすることができない。しかし、武士団の興起や鎌倉幕府の成立、関東管領の支配、禪秀の乱などとい

うめまぐるしい歴史の変遷は、武蔵国全体に大きな影響を及ぼしたものである。そこで、当時の武蔵国を研究しながら練馬地方の村の輪郭をとらえてみよう。

練馬区内を大きく二分する白子川、石神井川の流域には、多くの遺跡を残しており、古くからの生活の営みを示しているが、中世の村がこれらの古代集落をそのままの形で継承したものであるかどうか、またその生活規模がどの程度のものであつたか、これらを明らかにすることは困難である。ただ、武蔵野が洪積層の台地であり、練馬区は図( 頁参照)に示されるように、その大部分が二〇米乃至五〇米もある地域に位している。しかも洪積層の表面は通常乾燥した地帯であるため、当時の農耕技術からみて、灌漑利用、開墾による農耕の営みや村落の形成などはほとんど考えることができない。

それは、古代集落が河川・池沼の辺縁という全く限ぎられた地域に存在しているのと同様に、中世村落もまたこれらの立地を踏襲した程度のものに過ぎなかつたであろう。

古くから武蔵野には牧が発達し、延喜式には武蔵国に石川牧・由比牧・小川牧・立野牧が設けられたことが記されている。これらの牧は現在の多摩・由木・稲城に該当する地域だろうと考証されている。平安朝中期頃になると武蔵武士団の興起によつて官牧も私牧となり、次第に開発されて荘園化してくる。武蔵七党と呼ばれる横山・猪俣・野与・村山・児玉・丹・西の武士団やこの地方に関係深い豊島氏の祖秩父氏などは、大きな勢力を武蔵国一円に伸張していつた。この当時、練馬地方は、漠然とした区劃であるが、和名抄に見える広岡郷・志木郷に広く包括されたようである。

これらの国衙領(国領)も武士団の伸張に伴い、その名称は国有地であつてもすでに荘園と大差ないほどの変質をみていたのであろう。武士国を基盤とした鎌倉幕府の成立、さらには守護・地頭の設置はこのような状態にますます拍車をかけていつたものである。守護は国毎に置かれてその国の軍事と警察権を掌握し、また地頭は各荘園に配されて土地の管理や年貢の徴収にあづかつた。この地方の豊島氏などはこれらの荘園にあつて荘司としての役割を演じながら、一方では自分の居館である王子付近を拠点にして、その周辺一帯の開拓を目論み、自領の拡大とその荘園化につとめていつたものであろう。

練馬区が当時どの荘園に該当していたか、所見する確かな史料もなく、まつたく不明の状態であるが、新編武蔵風土記稿に上練馬村一帯を松川庄と云い、中村を永井庄、石神井辺を牛込庄、小榑・橋戸付近を広沢庄とそれぞれ称していたことが伝えられている。しかし、実際にはそれを裏付ける史料がないので確なことはわからない。

鎌倉時代の豊島氏の所領として、吾妻鏡に豊島庄犬食名と見えるが、この時代の荘園の範囲は、一般的に漠然としたものであろうと思われる。古今要覧稿に述べられてあるように

<資料文>

其荘園と云は今の下屋敷別業の類にて地境広大にあらず、されど中古以来は荘園の回りに附属せし支郷をみな某荘と称し某村と称して荘官是を守りし也。

という程度のものであつたであろう。

このように荘園制下の練馬地方については、史料が乏しく想像の域を一歩も出ない状態であるが、さきに述べた河川・池沼・湧泉の地域には当時の生活の諸相を実証する板碑の分布をみることができる。

板碑については、後で詳述することにするが、それは鎌倉時代から室町、江戸時代初期にかけて、主として東国で盛んに造立された一種の塔婆であり、用材は扁平な板石を用いており、その大部分が秩父で採掘された緑泥片岩で作られているので別に青石塔婆とも呼ぶ人もある。

これらは、主として死者の追善冥福を供養するために造立されたものであるが、中には逆修といつて生存者が現世の功徳と後世の安楽を祈つて建立したものもある。従つて、板碑の出土は中世における村落の存在や生活の諸相をあらわす貴重な史料といえる。

板碑分布表( 頁参照)によつて示されるように、練馬区内では白子川・石神井川の流域や井頭池・富士見池・三宝寺池・石神井池などという河川・湧泉の辺縁には板碑の顕著な分布が見られ、かなりの村落を推察することができる。

中でも三宝寺池・石神井池畔から出土した板碑は現存三三枚もの多くに達しており、区内から出土した板碑総数の三〇%以上を占めている。しかも、年代的にみて古く、鎌倉中期の文応元年(一二六〇)から文明四年(一四七二)の室町後期に至るものが八枚、道場寺裏墓地に出土しており、また三宝寺、旧正覚院址付近から正和三年(一三一四)と銘する鎌倉末期のものが一枚、また康永三年、貞治七年、康安元年という南北朝動乱時代の北朝年号板碑が四枚、それぞれ出土している。

わけても鎌倉時代末期から文明年間の室町中期に至るまでのものが、この地域に二〇枚も存在するのは豊島氏の石神井地域の支配と相俟つて極めて興味深いものがある。

石神井川流域ではまづその水源地にさかのぼつて富士見池を中心として、関町五丁目天祖神社一帯にその分布が見られ、川を下つて上石神井一丁目・二丁目境の豊城橋付近、さらに南田中町・下山橋南西方の台地からも出土している。ここでは有名な私年号を刻んだ福徳元年の月待供養の板碑が出ている。

この地点から川ぞいにやや下つて、高松町一丁目、小橋付近から虚空堂にかけてその辺一帯に、正和年間から天文年間に至る年代を示す断碑が七枚、川向こうの貫井町、地蔵堂北裏の崖下から同じく断碑が五枚出土している。また向山町に至つて、豊島園付近にもかなりの板碑の存在が伝えられているが、現存するものが乏しいので、どの程度のものかわからない。しかし、豊島園の南東方、南町五丁目のあたり白山神社・阿彌陀寺の近くからは弘安四年(一二八一)の彌陀一尊種子板碑が発見され、ほかに八枚もの板碑を見ることができる。

仲町六丁目・早淵の地域、さらにその下流、川を挾んで北側の仲町一丁目円明院辺にも十数枚の板碑が見られる。

わけても仲町六丁目中大グランド対岸から発掘された嘉歴三年を始めとする一一枚の彌陀種子板碑は採掘現場の状況から押して、中世練馬の主要な道路を示唆するものである。このように石神井川流域には随所に板碑の分布が見られるが、一方、白子川流域にもこれに劣らぬ程の顕著な分布を見ることができる。

白子川の水源地である井頭池の東方付近には、永正二年(一五〇五)、天文十二年(一五四三)の題目板碑や文明十年(一四七八)の題目板碑が出土し、さらにこの西方妙福寺旧地付近には文安二年(一四四五)十月の日蓮題目板碑をはじめとして、年代不詳であるが十三仏板碑、種子板碑が数枚発見されている。また、北多摩郡保谷寄りの西大泉町大乗院付近には、かなり密集した分布が示され、享徳三年(一四五四)から文龜三年(一五〇三)にかけての題目板碑が

九枚出土しており、当時における集落をうかがい知るものである。

白子川を南東方に下つて、教学院の裏方に康正年間(一五四七)の月待供養の断碑や天文十六年の三尊種子板碑が見られる。また、川を下つて北大泉町中里の辺り八坂神社付近一帯には文安、文明、明応の年代を示す数枚の断碑が発掘されており、この地域における中世村落を実証づけている。

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このように、区内においては板碑の分布が、主として石神井川・白子川の両流域に沿つて帯状に見られ、しかも、南町五丁目、阿彌陀堂付近のように侵蝕谷の谷頭や井頭池・富士見池・石神井池の辺縁の地域に限ぎられている。それ以外の地域は二〇-五〇メートルの台地であつて、板碑の分布は極めて稀な状態である。従つて、本区内における板碑の分布地域は、ほとんど先史集落の所在地や先史時代の遺物の発見場所の分布と合致しているのである(遺跡、板碑分布図参照)。

さて、板碑の発見される地域が中世村落の所在地であると早速きめつけるわけにはいかないが、これらの古代遺跡

地の関係から、また板碑の性格や信仰の面からとらえてみて、少くとも当時の集落近辺一帯に板碑の造立がなされたものであろうと思われる。また、台地面において板碑が発見されない地域では当時は開発の見られない茫々たる原野か、雑木林であつたのであろう。

当時における村落の営みを実現するものとして特に月待供養の板碑に注意しなければならない。さきに述べた石神井川流域の南田中町、山下橋南西方に出土する福徳元年(一四九〇)の六地蔵板碑には地蔵尊の立像のほかに左のような文字が刻ざまれている。

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このように結衆として月待供養に参画した人々の名がそれぞれ表示されている。

当時、すでにこの地域での同族的結合、あるいは村落内での寄合い組織ができていたことを意味しており、結衆によつて供養することにより、連帯的共同の幸福が得られるという信仰に基いた、極めて根強い共同意識の高まりがみられる。

また、福徳という私年号が用いられているのも面白く、この地域の人々が、ときの年号を嫌つて私年号を勝手に用いていたことが考えられ、まことに興味深いものがある。一面、当時の政令がこの地域に行届かなかつたことがうかがわれ、同時に当時の行政区劃の中にあつて、練馬地方が全く疎んじられた地域に位しており、ただ小規模な村落形

成が行われた程度に過ぎなかつたことが推察できよう。

月待の結衆板碑は、このほか、仲町一丁目円明院付近に出土する文明十七年(一四八五)十一月のものが見られ、やや時代を後にして、同地域に文龜元年(一五〇一)十一月の月待供養板碑(断碑)が発見されている。これらは福徳の板碑と同じように、前者は助太郎・左衛門三郎・十郎太郎の人名が挙げられ、後者には真中に「奉月待供養結衆」と大きく刻まれて、その左右に馬二郎・賢栄・左衛門太郎・八郎四郎などの名が克明に記されてある。

ここに記載される人たちが、一体どのような者か想像に難いが、碑に名を刻む以上この地域においてかなりの有力者であることは疑いなく、また太郎三郎・八郎四郎の記載は或る種の血縁的な結びつきを示唆するものである。それは当時、出土地辺りを支配した地侍か、在地の小豪族の姿なのかも知れない。

以上述べてきた諸々の事柄を綜合して考えられることは、練馬地方においてかなりの中世村落の営みが予想されるが、同時に村落形成が全く限ぎられた地域だけに行われており、当時の一般的な生活技術から考えてみて、この地に営まれた農耕規模ははかりがたい程の零細なものであつたと思われる。

即ち文安五年(一四四八)十一月の米良文書「熊野領豊島年貢目録」によれば

「一貫三百五十文 石神井殿」

とあり、石神井地域においていくばくかの農耕の営みをとどめるものであるが、矢張り当時の農耕技術や村落形成の規模からみて、近世村落とはほど遠いものであつたであろう。恐らくこの規模の村落構成では在地の名主的地侍の直営地をその下人・所従が耕作した程度に過ぎないものである。

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しかし、このような下人・所従の場に過ぎなかつたこの地域にも、めまぐるしい歴史の変遷や戦乱の影響は蔽うべきもなく、彼等の意識の高まりや成長を促していつたものであろう。板碑に示された仏教の浄土宗・日蓮宗の信仰やその他熊野・伊勢信仰はやがて名主層から農民層へと滲透し、数々の民間信仰をもたらしていつた。中世末期には、十一カ寺の寺院の建立がなされており、近世への地縁的結合の場を作り上げていつたのである。

<項>
二 板碑から見た練馬の信仰状態
<本文>

鎌倉時代の中期ころから近世初頭にかけて、紊乱する世相や社会的風潮を背景にして民間信仰が芽生えてきた。わけても仏教の大衆化にはめざましいものがあり、在地の地侍層をはじめ、一般庶民層の地位の向上とともに、板碑という特異な信仰形態を生んでいつた。

板碑は俗に「ヘラ仏」あるいは「平仏」などと呼ばれており、板石で作つた一種の卒塔婆である。材料は主として秩父付近で採れる秩父青石といわれる緑泥片岩が用いられているが、一部には雲母片岩を用材としたのもある。板碑の形はその材料に用いられた石質の相違によつて多少の差異があるようであるが、多くは板石の上頭部を三角形にし、そのすぐ下に二条の横線を刻み、扁平な身部に仏種子・仏像、または仏号・題目や蓮華座を彫り、中には天蓋・花瓶・卓・三具足などを刻して、芸術的に秀れているのもある。また供養年月日や供養者の法名・経文がきざまれており、さらには造立の主旨など記されてあつて、当時における信仰の状態や庶民生活の諸相を如実に物語るものである。従つて板碑は一般の古文献と異なり、当時における特色ある資料というべきである。

板碑という名称が、一般に用いられるようになつたのは、江戸時代の中期以後のことであり、江戸期の地誌・紀行文などに盛んに使われているが、寛政三年(一七九一)に編纂された「集古十種」の碑銘の部に板石塔婆の名称で呼ばれて以来、石碑、古碑、板碑などと一般に広く称されたようである。

今日発見されている最古の板碑は、埼玉県大里郡小原村須賀広で発見された嘉祿三年(一二二七)のものであるが、以後、しだいに枚数と分布地域を拡大して、南北朝時代の頃にはその最盛期を向えている。しかもその分布は関東一円に限らず、近接する信濃・甲斐・伊豆・駿河などの地域は勿論のこと、北は津軽から南は九州の果て、薩摩地方にも及んでおり、それぞれ武蔵型・下総型・東北型・畿内型・阿波型・九州型などという各地域の特色ある型をととのえている。しかし、この板碑分布の密度さにおいては関東地方が最も顕著であり、現存数は凡そ一万枚にも達すると概算されている。秩父という用材の生産地を身近にひかえているとはいえ、これらは、関東一円における信仰の強さを端的に示すものである。これらの板碑を造立した趣旨は、一つは死者の追善を供養するものであり、他は逆修といつて生前の善業により現世の安穏と後世の安楽とを祈願して建立したのである。しかし、多くは前者の追善供養という意味で作られている。板碑の上に表現された種子や仏像・経文・法名などから類別してみると「阿彌陀一尊」が最も多く、全体の八割までも占めており、他に彌陀三尊・釈迦・大日・不動・薬師・地蔵・六地蔵・十三仏などがある。「彌陀一尊」あるいは「彌陀三尊」の種子がきざまれているのは、主として浄土教の信仰を意味するものであり、これらの種子を「六字名号」にかえて刻するものは時宗関係に多く、また、仏種子に光明真言を添えたものや大日・不動の種子を刻んでいるのは真言宗の信仰とされ、「七字題目」や「法華曼陀羅」を刻むものは日蓮宗の信仰を示し

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ている。しかし、一枚の板碑が、ある宗派の信仰を示すからといつて、一がいに何々信仰と速断することは甚だ危険なことである。中には彌陀種子と同時にとうてい同一系統とは考えられない種子が一緒に並列されている場合がある。これらは当時における融通無碍な仏教信仰の一面を物語るものであり、細密な注意さをもつて刻まれた種字・経文・法名などの検討はもとより、これらの考え方を根本において信仰形態をみていかねばならない。

さて、ここで練馬区内から発掘された板碑から当時における信仰状態を考察してみよう。

板碑の出土地や分布状態については、すでに前節で触れてみたところであるが、その殆んどが石神井川・白子川という両流域の辺縁に限ぎられて出土している。区内から出土する最古の板碑は、道場寺付近から発掘された鎌倉中期にあたる文応元年(一二六〇)のものであり、そのほかに同時代のものとして同じ地域から四枚の板碑が発見されている。また、南町の阿彌陀寺付近に弘安四年(一二八一)のものが一枚、高松町の虚空堂墓地から正和年間のものが一枚というように、石神井川を中心として鎌倉時代のものが合せて七枚も出土しており、正和元年(一三一二)の大日種子板碑を除いて、そのいづれもが彌陀一尊種子を刻むものである。これに反して、白子川流域における同時代の板碑は、弘安六年(一二八三)のものと元亨元年(一三二一)の二枚が見られ、前者は日蓮宗の信仰を示す題目板碑であり、後者は彌陀一尊種子板碑である。これらの殆んどが浄土往生の信仰を物語る彌陀種子板碑であるのに、一枚ではあるが日蓮信仰を示す板碑が発見されたことは極めて興味深いものがある。鎌倉時代の中期ころには、すでに日蓮宗の信仰が浄土教信仰と張合つて、この地域に流行したことを実証づけるものである。同時に鎌倉時代において浄土・真言・日蓮の信仰を標傍する板碑が合せて九枚も発見されるところから、かなりの中世村落の営みを予想するものである。

南北朝時代に入ると、板碑の分布はさらに多くなり、いづれも彌陀種子を刻むものであるが現存するものだけで一四枚見られる。中でも石神井地域に多く、三宝寺・道場寺付近からは康永・康安・貞治・応安の北朝年号をきざむ板碑が八枚、また南朝年号を示す正平七年の板碑が一枚出土している。その他、豊島園をとりまく付近から北朝年号のものが五枚発見されている。この期の出土板碑が石神井地域と豊島園付近に限ぎられていることは注目されるところである。当時、すでに豊島氏が石神井と練馬の居館を中心にして当地方を掌握する姿が推想され、しかも豊島氏が、動乱にあたつて足利氏を支持し、この地方の大半が北朝の制下に置かれたことを窺い知ることができる。その内、一枚ではあるが南朝年号を刻する板碑が発見されたことは、南朝遵奉者の居住を証拠だてるものであり、豊島氏一族の動向を知る上に極めて興味深いものがある。(第三章、第一節参照)

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区内の出土板碑も南北朝動乱期という全般的な板碑隆盛の風潮にならつて、この時期を契機として、ますますその数を増し、豊島氏衰頽の文明年間に至る間、最も盛んである。豊島氏から太田氏、そして小田原北条氏と転換する支配の変貌を背景に、やがて板碑による民間慰霊信仰は衰退への一途を辿つていつた。

区内から出土する板碑のうち、最も年代の新しいものは天正十八年(一五九〇)のものであるが、隣接する板橋・豊島・杉並のそれと比較して、かなり長い間の板碑信仰を示すものである。

さて、文応元年から天正十八年にわたる区内出土の板碑によつて、当時の信仰状態を見ると、その殆んどが彌陀を表示するところから彌陀中心の浄土信仰の盛行が考えられ、兜率とそつ往生、極楽往生を希う姿を髣髴するものであるが、同じ彌陀信仰であつても六字名号を刻する時宗の信仰や大日如来の種子をきざむ真言密教の信仰、また白子川流域に見られる日蓮宗の信仰など、実に種々雑多な信仰の盛行を示している。

中には彫刻芸術の秀れた造型のものもあり、石神井三宝寺現蔵の文明四年、月待供養の彌陀三尊来迎画像板碑のごときは、高さ四尺六寸、上幅一尺一寸二分、下幅一尺一寸八分という素晴しさであり、上部に天蓋を付け、本尊彌陀を陽刻に、両脇侍を陰刻にして雲に乗つて降る来迎図は仏画と全く変らぬ精巧美でさえある。その他、円明院の文明十七年、月待供養彌陀三尊板碑、文龜元年の八臂弁財天画像板碑など秀れた芸術品である。また板碑の表面に金箔をおしたものもあり、これらは当時の人々が板碑の造立に如何に熱心であり、財力を投資したか、その信仰の偉大な篤さを窺い知るものである。同時に、これらの板碑芸術の優秀さは、当時における高度な文化生活の諸相を証拠だてるものであり、区内出土一〇五枚という板碑造立の事例とともに、この地方の経済的な発展を示唆するものである。

ともあれ豊富な板碑の造立は、争奪と混乱の社会にあつて当時の人々の心のよすがであつたに違いなく、それは造立による仏の功徳、敬虔な平和の合掌であり、末期的な世の救いとしての祈りの発露であつたのであろう。

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三 練馬地方における伊勢・熊野信仰
<本文>

南北朝動乱期を境にして、室町時代における民間信仰の盛行は著しいものがあつた。

この期が示す数多い板碑造立という事例はもとより、各種民間信仰の伸展にはめざましいものがみられた。わけても伊勢・熊野の崇敬は、当時の社会構造と結びついて大いに伸展をみたところである。

これらの信仰について、一般に教理的な素地をもつていたかどうかは疑わしいにしても、これら信仰の迎合は当時の世相の一端を偲ぶに足るものである。即ち、これらの現象は在地土豪の成長と、地域農村のもたらした大きな産物とも云えよう。

伊勢信仰

伊勢神宮は天照大神を祭る皇室の氏神であり、宗廟として特別な地位にあるだけに私幣禁断の制を設け、古くから

一般庶民の近づくことを禁じていた。しかし平安朝の末期に至つて王朝勢力の衰退とともに新興勢力である武士階級の手に委ねられるようになり、やがて民間信仰として一般に流行するところとなつた。

しかし民衆は直接神宮に幣帛を上げるような正式の禰宜ができなかつたので、この間の媒介は専ら神宮団のなかから発生した御師によつて行われていた。文祿年間にはこれらの御師の宿坊が、外宮だけで一四五家もあつたことが記録にみえている。

伊勢信仰が民間にいかに迎合されたかについては明らかではないが、御師が説くところの中心が当時の世相に余りにも合致し、また受容れられる素地をもつていたからであろう。

関東地方において、この信仰はかなり早くから始まつていたようであり、建久三年の両宮神領目録には、榛谷はんがや・飯倉・大河土・橘・相馬・葛西猿ケ俣などの御厨みくりやの名が記されてある。源頼朝をはじめ関東一円の武将の信仰の篤さが神領名義地の寄進によつて窺われるものである。これらを寄進する武将から在地土豪へ、時代の変遷や新興勢力の擡頭からやがては庶民層へと浸透して、室町期に入りさらに拡大していつたものである。

各地域に神明社が祭祠され、伊勢講、神明講、大神宮講などがもたれるようになつたのも、恐らくこの期が最初であろう。

練馬区内にも、当時奉斎されたと思われる神明社が数社見受けられる。

下石神井一丁目の天祖神社付近には、古くから神明という地名が残つており、江戸時代の初期、延宝二年(一六七四)の水帳に、石神井村神明前、神明ケ谷戸の地名がみえている。また同地域に、延宝二年の庚申塔が現存してお

り、それには石神井郷神明村と刻まれてある。(写真参照)

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神明という名称は、伊勢神宮の神領地か、乃至は伊勢神宮と何等かの関係を有する土地につけられるのが通例であり、江戸時代初期において、すでにこの地域が伊勢信仰のゆかりの地であることを実証づけている。

中世における石神井郷神明村については、今後の考証をまたねばならないが、同地の開発がかなり古くから行われており、数多い板碑の造立、わけても日待供養碑の出土から伊勢の崇敬と何等かの結びつきを予想するものである。

また神明村、乃至は神明前、神明ケ谷戸という地名が近世初頭において突然生れたものとは考えられないし、室町期において関東地方の一般的な伊勢信仰の盛行に慣つて、この地域もまた伊勢信仰の策源地として神明社を奉斎し、そのころ用いられた地名をそのまゝ継承して近世にたち至つたものと思われる。

石神井神明社は江戸末期まで存在したことが新編武蔵風土記稿にみえているが、三宝寺持分とあつて、当時はかなり衰微したものになつていたのであろう。

その他、田柄二丁目から北町三丁目にかけては古くから伊勢原の地名を残しており、この地の天祖神社の創建と照

して、かなり前代にさかのぼつて伊勢信仰とのつながりを推察できよう。

また区内にある神明・天祖神社のうちには史料がないので明らかでないが、中世にみる創建もかなりあつたことであろう。

熊野信仰

熊野三山(本宮・新宮・那智)の信仰は、紀伊、那智滝の神秘感にからむ山岳崇拝に発して、霊山としてかなり古くから崇敬されていた。

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平安時代に入り、現世利益のすぐれた福音を授ける菩薩として観音が信仰されてくると、熊野地方は南海の補陀落浄土に通じるところとして篤く信仰されるところとなつた。平安中期以降、浄土信仰の盛行につれて、西方浄土に擬せられた熊野への参詣は、ますます盛況し、鳥羽法皇、後白河法皇、後鳥羽上皇の御幸をはじめとして、これに倣う各貴族やこれに準ずる人々の参詣がはげしかつた。それは「蟻の熊野詣」、「人まねの熊野詣」という諺をさえ生じさせたほどであつた。中世に至ると、それは貴族・武士・農民を含めた民

衆の信仰へと展開して幅広い層が支持するものとなつた。その参詣は室町のころには全国的な風潮とまでなつていた。(実報院旦那帳)

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このように盛行した熊野信仰は、いうまでもなく熊野の御師、先達せんだちの活躍によるものである。熊野三山では早くから御師・先達の制が発達して、各地に拠る豪族を旦那として契約することが行われていた。御師・先達というのは信徒を相手に祈祷したり、また信徒が山を参詣する場合に参詣者の宿泊の便宜をはかつたりする一種の神職集団であり、信者を獲得してそれを旦那・旦家・道者としたわけである。はじめは専ら貴族間にだけ限ぎられて行われていたが、鎌倉期を境にして、王朝勢力の衰頽と武士を中心とした新興勢力の擡頭とともに、その範囲は急速に拡大していつた。

室町のころには熊野の御師は、およそ六七十家にも及んでおり、その得意先である旦那についても一定の地盤協定ができていて、他を侵すことがなかつたと云われている(熊野三山経済史)。なかでも尊勝院・実報院は那智においてもつとも勢力が強く、政治的にも前者が平氏系とすれば後者が源氏系を表示する双壁であつたわけである。当時の

練馬地方は実報院の旦那圏に属していた(米良文書)。

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さて、こゝで練馬を中心にこの辺縁の熊野の信仰状態を考察してみよう。

元享年間(一三二一~一三二三)に豊島氏が王子権現社(現北区王子)を創建してから(新編武蔵風土記稿)熊野の崇敬は、豊島氏の伸展にともない益々拡張されていつたものであろう。

熊野信仰の伝播は血縁的な同族組織に深く根を下して、まづ各地に拠る土豪武士の惣領を足がかりとしてその庶流

やその末端土豪に至るまで旦那圏を拡大していつた。すなわち、応永二十七年の那智神社所蔵文書「武蔵国江戸の惣領の書立」によれば

「六郷殿 志不屋殿 中野殿 あさがやとの」などの江戸氏庶流と並び、「このほか庶子おゝく御入候」とあつて、その分脈に至る土豪までも旦那化されたことが明らかである。また練馬と直接関係があるものとしては、年代不詳であるが、室町中期ごろと思われる同所蔵文書「としま名字の書立」(口絵参照)には、「禰りまひようこ(練馬兵庫)」の記載がみえ、豊島氏の分脈である練馬の一土豪が旦那であることが記されている。

このように、武士の惣領を通じ、その分脈の末端である土豪に至るまで旦那化されている状況から、当時この地域が熊野信仰の盛行をみたところであることは推定できよう。

つぎに文安五年(一四四八)、熊野那智神社所蔵文書をみると

<資料文>

   熊野領豊島年貢目録

六貫五百文  広田勝ふるや  一貫三百五十文  石神井殿

三貫文    仙波殿     二百文      周防殿前野殿トリツキ

三百文    下岩ふち能満  三百文      岩ふちいねつき

五百文    たかはなとの  八百廿五文    十条作人平部

三百文    につほり妙円  一貫二百文    志みつのけうせん

三貫三百   うのききその太ろ   八百廿五文    十条郷作人三平

五百文    小石河四人   三百文      中岱殿

一貫文    性誓      三百文      別所殿

二貫八百   小具掃部    三貫三百     小塚原鏡円

(八百廿五文)消している  二百五十文    志村大炊助殿

三百文    殿      五百文      蓮沼(?)十ろ三ろ

二百文    向立庵     三百文      中岱南殿

二百五十文  山さき     一貫五百文    板橋近江

七百五十文  うたのすけとの 三貫文      了円

四貫文    竜忍寺

四貫文    ヤト隆円

文安五戊辰十一月 日     (西郊文化所収)

豊島氏の支配下に置かれたと想定される殆んどの地域が、熊野領となつており、如何に熊野の崇敬が庶流分脈のなかに浸透し、行われていたかを窺い知るものである。

本区内では「一貫三百五十文 石神井殿」、「七百五十文 うたのすけとの(練馬郷 上原雅之助か?)」とみえ、熊野へ年貢の寄進を行つていることが明らかである。ここに記載される「石神井殿」や「うたのすけ」が、どのようなものか明らかでないが、豊島氏とは何等かのつながりをもち、練馬の何れかの地域を支配したことは想像されよう。

これらの地域では、当時かなり聚落の営みも推想され、そこには熊野の福音を願う先祖の姿を髣髴ほうふつするものであ

る。

さて練馬地方では何時ごろから熊野の崇敬が行われるようになつたか、拠るべきものがないのでこれを明らかにするのは困難であるが、恐らく室町期に入つてからのことであろう。

すなわち、貞治元年(一三六二)に中野郷大宮八幡の住僧と山王宮の住僧の一団が熊野御師村松氏に提出した次のような願文がある。

<資料文>

  武蔵国願文

 武蔵国多東郡中野郷

  大宮住僧 初度 丹波暁尊(花押)

二度

 若狭阿闍梨 初度 式部良尊(花押)

 頼尊(花押) 初度 伯耆頼算(花押)

同国豊島郡江戸郷

 山王宮住僧

                初度 三河阿闍梨朝禪(花押)

                初度 兵部祐順(花押)

                初度 侍従道秀(花押)

貞治元年十二月十七日

 那智山御師

 村松盛甚大弐阿闍梨御坊      (米良文書)

これで中野郷と江戸郷の修験者が熊野へ一緒に参詣した旨が理解できよう。また七人の参詣者のうち、若狭阿闍梨頼尊を除いて、あとの六人が初めての参詣であつて、いま、この地域では旦那圏の開拓が始められたことが知られる。

貞治元年といえば室町の初期である。多摩郡と豊島郡の中心と目される両社が、未だ開拓の段階にある以上、練馬地域での熊野信仰はそれよりさらに下るものと思われる。即ち当地区では現存する熊野社が記録に一切見られず、外からの影響によるものしか考えられないからである。

前述した両社の初度僧が熊野へ参詣し、御師との関係を持帰えつて、さらに在地の人々に熊野信仰を布教し、広めたものと思われる。――練馬地方の布教はこれらの人々か若くはこれに類する人たちによつたものであろう。――

練馬地域の周辺には当時における熊野信仰の拠点とおぼしき熊野社が、数社存在しているが、わけても白子の熊野權現社、志村の熊野神社は、直接本区にまたがる旦那圏を持つていた。

白子の熊野社は新倉郷一円の中心拠点として、当時としては大いに伸展をみたところであり、区内北大泉付近はその範疇に入つていたことが、米良文書、「諸国旦那帳」に見えている。

中世の下白子の熊野宮については、拠るものがないので明らかではないが、新編武蔵風土記稿には次のようにみえている。

<資料文>

下白子村熊野宮

 滝の側にあり、村の鎭守なり、本社一間に九尺、上屋は二間三間前に鳥居を建つ鎭座の年歴詳ならず

                                           (新倉郡百三十四)

風土記稿が編纂された文化・文政のころには、熊野信仰は衰退して、当時を偲ぶ由もないが、実報院旦那帳から、また最盛期の熊野崇敬を察すれば、その規模は恐らくこの程度にとどまるものでないことが推定できよう。

志村の熊野神社の旦那圏は白子のそれとは逆に区内の東北部にわたつたものと思われる。天文三年に禰り馬の郷上原雅之助と子息孫九郎の二人が御師実報院(米良家)に宛てた願文によれば(口絵参照)、先達が志村熊野神社住僧南蔵坊であることがわかる。すでに前節で述べたところであるが、上原雅之助は練馬郷の在地土豪の一人であり、志村の熊野社に拠る先達が、在地土豪を旦那化した一つの現れである。

このように白子、志村に拠る熊野の勢力は室町時代の練馬の土豪を主体として、ますます広い範囲に伸びていつた。その崇敬は広く庶民の迎合するところとなり、盛行するが、やがて近世の新しい村造りが行われるころになると衰頽の一途を辿つていつた。

<章>

第五章 後北条氏の民政

<節>
第一節 後北条氏の関東経略
<本文>

室町中期に始まる応仁の乱(一四六七)を転機として、荘園制度は急速に崩壊の一途をたどり、大名領国制確立への歩みはいよいよ進められ、全国統一の気運がみなぎつてきた。

関東管領の滅亡の後、古河公方と両上杉の対立抗争の政治的間隙に乗じて、北条氏の初祖、伊勢長氏(のちの早雲)は擡頭した。長氏は駿河の守護である今川氏親の客将となつて興国城にいたが、延徳三年(一四九一)四月、伊豆国の掘越公方の内紛に乗じて攻め、伊豆を略して韮山城に拠つた。長氏は鎌倉幕府の執権北条氏の後を継ぐものとして自ら北条氏と称し、のちに入道して早雲庵宗瑞と号した。ついで早雲は山内上杉顕定と結んで扇谷上杉定正を討つべく、扇谷上杉に属する相模小田原城主大森藤頼を攻め、明応四年(一四九五)九月、藤頼を襲つて小田原を奪いとり、そこを根拠地として漸次関東への進出を図つた。扇谷上杉では定正が早雲を討とうとしたが、意叶わずして卒し、その子朝良が弱冠にして後を継いだ。しかし、顕定はこの隙に乗じて朝良を攻めたて、永正元年(一五〇四)両軍は多摩郡立川原(現立川市)に戦つた。早雲は扇谷上杉朝良を助けて出兵したが、越後の上杉房能の援軍が来たため、朝良方は河越城にしりぞき、籠城した。顕定はこれを包囲して攻めたが落ちず、永正二年(一五〇三)六月、ついに両上杉氏の和睦が成立し、朝良は江戸城に帰つた。

その後も両上杉は互に抗争を続けていつた。永正六年(一五〇九)山内上杉顕定は、弟である越後守護の房能が守護代長尾為景に討たれたので出陣したが戦死し、その子憲房があとを嗣いだ。憲房も、また長尾景春と対決して覇を競つた。その間、早雲はこのような上杉氏の内訌に乗じて着々とその勢力を拡大し、次第に相模から上杉氏の勢力を駆逐していつた。さらに、永正十三年(一五一六)七月には三浦半島に三浦道寸を追詰めて、滅ぼし、また江戸時代において本区関村の新田開発に大いにあづかつた忠右衛門現(現井口家)の祖井口弾正義清もこのとき破れた(井口家系図)。つづいて玉縄城を築き、三崎に城を作つて房総の里見氏に備え、早雲一代にして相模一円を悉く掌握するに至つた。

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代つて子氏網は、小田原城をその本拠としていよいよ支配を強固にしていつた。氏綱はまづ古河公方高基と姻戚関係を結んでその脅威を回避するとともに、大永四年(一五二四)正月には道灌の孫、太田資高・資貞を援けて扇谷上杉朝良の養子朝興を江戸城より駆逐することに成功した。相州兵乱記によれば、その模様をこう伝えている

<資料文>

朝興終にこらへかね、夜に入ければ城を開て同国川越城へぞ落行ける。夜明ければ、氏綱敵は早落たりと覚ゆるぞ、追払て討とて板橋辺迄勢をつかはし、落行兵を追討にこそせられける。(巻三)

上杉朝興勢が川越城に敗走し、氏綱の手兵が板橋の辺りに追つて大いに撃破したことが窺えられる。

かうして、北条氏の領域は玉繩・小机・江戸の諸城と結んで武蔵にも拡大することとなつたが、一方、氏綱は着々とその経営を進めていつた。

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その後、天文年間に入り、北条氏の関東支配は更に急進し、氏綱は朝興の子、朝定が拠る多摩郡深大寺城を攻略して松山城に退去せしめ、また千葉氏を降し、天文七年(一五三八)十月には里見氏と国府台に戦つて、これを破り、公方義明を斬り両総地方にも勢力を拡大することになつた。天文十年(一五四一)七月、氏綱が卒した後には、子氏康が代つて古河公方・山内上杉と結んだ扇谷上杉を攻めて川越・松山城を陥れ、ここに扇谷上杉氏は事実上滅亡し、山内上杉憲政は上野平井(群馬県多野郡)に退却した。

天文二十年(一五五一)三月、氏康は上野平井

にこもる憲政を攻め、これを上野厩橋城に追い。翌年には、さらに越後の守護代長尾景虎の許へ走らせた。永祿元年(一五五八)には山内上杉憲政の平井城は全く北条氏の手中に占められるに至つた。

その後、姻戚足利晴氏を古河城に攻め、これを擒にして、晴氏父子を相州波多野に移し、又氏康は長尾景虎と戦い、やがては勝利を得ることができた。その子氏政の時代には岩槻の太田氏もその配下に属さしむるなど、ここに北条氏の関東支配は達せられ、北条氏の権勢は西は富士川を境として、今川氏に拮抗し、全関東は全く小田原北条氏の支配下に置かれることになつた。

<節>
第二節 後北条氏の支配体制
<本文>

このように北条氏はその祖、伊勢新九郎(早雲)が伊豆を攻略してから漸次その勢力を拡大していつたのであるが、在世中には伊豆・相模一円を支配し、氏綱・氏康の代に至つて関東の殆んどが統一され、さらには氏政・氏直によりその支配は頂点に達した。五代九六年間にわたる後北条氏の民政をみるとき、農耕の保護、寺社への保護策、諸産業の昂揚、そこに一貫した富国強兵策は他の戦国武将の治政と比較して高く評価されるものである。

後北条氏は、支配圏の拡大にともない。まづ江戸・鉢形・川越・岩槻・深谷・忍・八王寺・松山・世田ケ谷・津久井・小机・玉繩・韮山・下田等の北条氏の傘下に降した諸氏の旧居城地に対し、新たに一族あるいは重要家臣を分封し、本拠小田原城を中軸として、これら支城との間に国内態勢の再編成を行つたのである。

当時における行政区劃はその大部分が郷とか村であり、支城はその属する地域を分権的に領して、本城小田原とは

直接には貢納の関係をもたなかつた。北条氏は支城に属する分国内に指令を徹底し、本城小田原を拠点とする支城間の政治的統一を確保するため、その連繋をさらに一層緊密にした。そのためには交通路網を拡充し、その分国経済の地域的な重要拠点である宿駅を一段と強化していつた。

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練馬区の北部を通る川越街道も小田原―江戸―川越―松山と結ぶ幹線道路として大いに拡充されたところであり、また、区内南部を走る青梅街道を井草に岐れて所沢に至る所沢道など、それぞれ本城小田原と高荻、毛呂、青梅の支域とを結ぶ民政上の主要な道路であつたわけである。

また、川越街道筋にある白子は街道上の拠点であり、宿駅として繁栄をみたところである。天正十五年には北条氏の楽市政策が実施され、練馬地方の市場として国内態勢強化をになう経済上の要地であつた。

<節>

第三節 城下町の形成と産業経済の発展
<本文>

早雲が古河氏や両上杉氏の間隙から擡頭するころは、各地に拠る武士は村落にあつては名主的地侍としての性格をもつており、その名子・所従・下人などを使つて直営地を経営していた程度であつて、そこには産業の分業化とまではいかなかつた。追々北条氏の勢力が相模から武蔵へと拡大するにつれて、各地域に点在する城を占拠して分国一城主義が徹底して行き、城下町が形成され、家臣団の城下町集中が急速に行われてきた。同時に家臣などによる商手工業が寄せ集められていつた。即ち戦国時代にあつては交通の不便さもさることながら、物資の運輸が極めて悪かつたため、自給自足の方途を講ぜなくてはならなかつた。そこで、割拠的分国的な領主は、ここに防衛と支配をかねて城を作り、城下に所属の家人を配し、同時にここに住む家人の生活物資や武具の製作に従事する商人や職人を招致して、城下町の発達を促したわけである。北条氏の拠点小田原城は「守護の政道私なく、民を撫し津々浦々の町人職人西国北国より群集し」(小田原記)とあるごとく活況した。その支城である鉢形・忍・松山・岩槻など、もつとも代表的な城下町として発展した。また、これらの支城は小田原を中心とした交通網によつて連繋、支配され、本城中心主義化によつて一層高められていつた。城下町では物々交換や売買のため一定の日を定めた市が催され、各種の製作品や物資の集散により商業の発達を促し、また諸城下間の交易により貨幣経済の隆盛が見られた。

このように城下町の発展にともない。商業は活況し、また領主は自国の富を畜積するために積極的にこれを保護育成したから、寺院の門前市や旅宿商人などの集る宿場はますます発展した。白子宿界わいは、これを機にいよいよ繁

栄していたものと思われる。

北条氏は特に経済上の重要地点を保護育成させるために楽市政策を施行し、前に触れたように天正十五年には練馬地方の白子宿は、高萩宿・荻野宿・松山宿に次いで実施されており、他の一般市場よりはるかに特権的な地位に立つていたものである。北条氏はこれを重点的に統制・掌握して、小田原を中心とする分国の支配機構を強化していつた。とくに小田原の城下は「東西南北に小路をわり、大名衆かまえには広大なる屋形作りし書院数寄屋を立て、庭には松竹草花を植えさせて(中略)町人は小屋をかけて諸国の津々浦々の名物を持来りて売買市をなす。或は見世棚をかまえ唐土高麗の珍物、京堺の絹布をうるもあり。或は五穀塩肴干物をつみかさね生魚をかぬさき、何にても売買せずという物なし。京田舎の遊女は小屋をかけ色めきあへり、其外海道のかたわらに茶屋、はたこや有(後略)」(北条五代記)という盛況を示し、これに準じて各城下町も大いに繁栄していつたのである。

<節>
第四節 後北条氏の農政と税制政策
<項>
一 農政
<本文>

小田原北条氏の諸政策の中でも、農政はもつとも力を入れた一つである。

戦国領主間の戦乱は農民から田畑を奪い、農耕はなおざりにする結果を招いた。北条氏はまづ、逃亡した領内の百姓の帰農をすすめ、農民の移動を防止し、離農を強く戒めた。

「郷中へ不ニ田能一由一段曲事候、何方ニ居候共早々押立三日中に可ニ罷帰一」との触書を出し、これに従わないものに対しては、厳重な処分を行つたのである。

次の文書は本区内白子郷の農民に対して出作による離農をかたく禁じたお触れである。

<資料文>

      改被仰出条々

一 当郷田畑指置他郷寸歩之処不可出作事

一 不作之田畠甲乙之所見届五年荒野七年荒野に代官一札を以可相聞事

一 当仰儀者自先代不人之儀至当代猶不入御証文従御公儀可申請間新宿見立毎度六度楽市可取立事

一 白子郷百姓何方に令居住共任御国法代官百姓に申理急度可召返事

一 御大途御証文併此方証文無之誰人用所申付共不走廻事

  右条々違反之輩有之付而者注交名可遂披露者也仍如件

    天正十五年丁亥年四月三日 代官

        白子郷

           百姓中

                               (新編武蔵風土記稿新座郡巻六)

また逃亡した農民を強制的に連れて帰つたり(人返し)、また逃亡した者の土地を領内の農民や、他領から自国へ招いた新百姓などにそれぞれ与え、領内の田畑の減少を防ぎ、農産物の生産につとめた。

一方、新田開発にも力をそそぎ、土豪名主層、宿場、城下町の問屋、商人という開発力のある階層に働きかけて、これを推進していつた。

次いで、用水、治水の政策も施行し、天正十二年(一五八四)二月には武蔵箕田郷で灌漑用として荒川ぞいに水堰を築いた(道祖士文書)。このほか、荒川や入間川の堤防を築造し(埼玉県史)、農業生産をより高めるために、このように積極的な政策を講じている。

<項>
二 税制
<本文>

税制政策も農政と同様、北条氏民政の主要な政策として、北条氏独自の領民愛撫や権力統制の二側面をもつて積極的に推し進めていつた。

まず、年貢米として北条氏は、地域差もあるが一反歩につきそれぞれ上田六百文、中田五百文、下田四百文、下々田三百文とし、また畑の主要作物である麦・蕎麦・大豆等の農産物には一反一六五文を年貢として徴収した。それらの年貢は生産高の四割であり、残りの六割は耕作農民が取ることができた。

このほか段銭といつて田畑一反を単位とし、始めは臨時税であつたが、後には恒久税となり、年貢の附課税として徴収された。

<資料文>

     定白子郷段銭棟別納様之事

  一 四メ五百文 反銭請取奉行 良知河内守吉原新兵衛

      此内

  一 九百文 八月廿四日ゟ同晦日迄切而可納

  一 □八百文 九月朔日ゟ同十五日迄切而可納

  一 □八百文 九月十六日ゟ同晦日迄切而可納

     以上

    五百文 江戸へ可納候

  一 九百廿二文  棟別

         請取奉行 吉田平右衛門西沢三右衛門

    此内

  一 □四百廿二文 八月晦日迄切而可納

  一 □五百文 九月晦日迄切而可納

      以上 □九百廿二文 小田原へ可納之

    (中略)

  右定所致妄付而ハ当郷小代官名主百姓頭永可被為遠島致□重科之可切頸者也仍如件

   辛未八月十九日

         白子小代官

              百姓中

                                  (新編武蔵風土記稿巻六)

このように練馬地方では、白子郷(北大泉付近)が元龜年間に段銭奉行の名をもつて徴収されている。

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また、同様に棟別銭(家屋税に相当するもの)も賦課されており、文書で明らかのように九百廿二文を小田原へ納めている。

これらの徴収は極めて厳しいものであり、定められた納税期日を一日延滞した場合は米四斗につき一升、五日延びたときは三升、十日では五升という割合でその滞納の日数に従つて水増に税を重くされた。十日以上滞納すれば担当奉行は北条氏に言上して名主・百姓ともに重く罰したのである。またそれは連帯的な責任をもつていて、郷の小代官・名主・百姓頭という村の重だつた者も、これをなおざりにした場合は島流しにされたり、あるい

は首を切られるとか様々な重刑に処せられたのである。

しかし、北条氏は由緒ある寺院などには保護策をとつており、段銭・懸銭等の附課税は免除している。

区内道場寺に残る文書に

<資料文>

武州石神井之内弘徳院門派

 道場寺分之事如<漢文>二前々<漢文>一可<漢文>レ為<漢文>二不入<漢文>一候。段銭懸銭以下一切令<漢文>二免除<漢文>一者也。

 仍状如<漢文>レ

 永祿<罫囲><補記>(虎印)五年四月一日

  禅居菴

とあり、北条氏は永祿五年四月廿一日、禅居菴にあてて、道場寺分の土地に段銭・懸銭などの附課税を一切取らないことを申しわたしている。

そのほか有徳銭(富豪に課した税)、関銭(陸上交通税)、帆別銭、船銭(水上交通税)、座役(商工業税)等々、あらゆるものを対象として課税、徴収が行われたのである。しかもこれらは、どれもが北条氏の主要な財源であつたわけである。

これら税目のほか、夫役(労働奉仕)も行われており、それは専ら土木事業や街道筋の伝馬などに用いられたようである。

それに該当する史料が区内に残存しないため詳でないが、甚だ傍証的ではあるが阿佐ケ谷の農民が江戸城修繕に賦

課されているのを中野堀江文書に見えることから、練馬の祖先も何らかのかたちで賦役されたものと思われる。

北条氏はこの夫役を銭納でも認めている。

<節>
第五節 寺社の保護政策
<本文>

北条氏は、さきに述べたように由緒ある神社、寺院などには保護策をとり、支配地の安定をはかるためこれらの社寺と結んで民衆の掌握につとめた。そのためには前代からの旧規を変えることなく、寺領を寄進したり、度々禁制を出して寺領を保護した。

この練馬区においても、寺格の高い三宝寺・道場寺では度々禁制や段銭免除の処置がとられた。

<資料文>

  三宝寺内法度事

   一、殺生禁断之事

   一、竹木剪取事

   一、狼藉之事

     右三ケ条背者有<漢文>レ之者、注<漢文>二校名<漢文>一

     急度可<漢文>レ蒙<漢文>レ仰候。就中郷中

     百姓等無<漢文>二□沙汰<漢文>一可<漢文>二走廻<漢文>一者也。仍如<漢文>レ件。

      天正弐年六月七日

                           氏秀(花押)

       石神井三宝寺                      (武州文書・三宝寺文書)

これは当地方の地方官である氏秀から三宝寺に対して出された禁制である。

寺院内での殺生を禁じ、樹木の伐採を戒め、狼藉を禁止したもので、それを犯した者は名簿に記載され、厳しく罰せられたものである。三宝寺に関する保護の沙汰としては、さらに天正十五年、北条氏直から出されている。

<資料文>

    禁制

 右於<漢文>二当寺<漢文>一、横合非分狼藉等、堅令<漢文>二停止<漢文>一事。若違犯之輩有<漢文>レ之者、可<漢文>レ有<漢文>二披露<漢文>一旨、被<漢文>二仰出<漢文>一者也。

 仍如件。

   <罫囲><補記>  (虎印)天正十五年丁亥

           十月廿日             江雪奉之

   三宝寺                             (武州文書・三宝寺文書)

江雪は北条氏配下の板部岡入道であり、恐らくこの地方の寺社奉行に相当する仕事をしていたものであろう。

このほか、道場寺では段銭免除の沙汰があり(税制参照)、これら道場寺といい、三宝寺といいこの地方における両寺の格式の高さが窺えるものである。

<節>

第六節 後北条氏民政の一性格
<本文>

北条氏が関東一円を支配するようになると、従来の古い荘園の支配権を一掃して、新たに一族、あるいはその重要家臣団に分与し、そこに小田原城を中心とする分国的、分権的な支城を結ぶ強固な政治組織を作り上げていつた。

これらの政治組織を確立していく過程においては、旧支配者や荘園領主の知行権の剥奪はもとより、寄進された神領までも侵蝕していつたのである。

<資料文>

葛西庄内ニ上故(古)神領有<漢文>レ之由、先年下向之砌承候、当家先祖当国存知以来、其例無<漢文>レ之候、但以<漢文>二神慮<漢文>一房総両国不<漢文>レ残至三干念<漢文>二本意<漢文>一者、新儀に寄進可<漢文>レ申候、条々筋目之事終而上洛、然に両国弓箭半候処、重而此御沙汰承候、不<漢文>二分別<漢文>一候、弥宜中へ不<漢文>レ及<漢文>二御報<漢文>一候。猶石巻下野守、坂部右衛門可<漢文>レ申候状如件。

  二月二十六日(虎印)

    一櫟兵庫助殿                          (檜垣文書)

この文書は北条氏から一櫟兵庫助(檜垣)に宛てた回答書である。

この文面からみると、かつて檜垣氏が葛西御厨の伊勢への年貢米について、貢納のなくなつた理由を北条氏に問い合せており、北条氏はこれについて当国にはこのような神領があるとは知らないし、先祖以来その例もなかつたと、全くしらけて断つている。また、伊勢神宮の神慮で房総・両国が残らず支配することができたら、また攻めて寄進するよう考慮すると述べているのである。

葛西御厨は、武蔵国の荘園制下にあつては最も古く、大きな勢力をもつていたところであるが、戦国領主の新興勢力に抗しかねて、このような神領でさえも北条氏の手に没収されていつたのである。

北条氏はこのほか、葛西御厨と同様に他の一般寺領分までも侵触していつた。

金沢称名寺は、かつて北条氏の支配下に置かれる以前には、広大な荘園をもつていたことが称名寺文書によつて知られるが、それが北条氏の小田原役帳には見えない。ただ北条氏が七十七貫文を寄進しているだけである。これから考えられることは、北条氏がこの荘園を一旦奪つてしまい、新たに七十七貫文を寄進しているということである。北条氏はこのように旧支配権をことごとく排して新たな支配権を確立していくには少しも躊躇しなかつたわけである。

しかし、北条氏の支配は一応このような強引な手段によつてあらゆる旧支配権を更新することができたが、それはあくまでも各支城間の拠点を中心とした分国的・分権的支配であり完全な支配とまではいかなかつた。各所に拠る在地の土豪などは戦乱の巷にあつて巧みに自領の拡張をはかり、北条氏支配の間隙を縫つては各地を侵蝕していつた。

区内三宝寺領も、しばしばこれらの地侍によつておかされたものである。

<資料文>

任<漢文>レ蒙<漢文>レ仰、大途御証文申調遺候。就中年来早川相押候御寺領田畠之事、昨廿一於<漢文>二御隠居様<漢文>一終日御裁許、被<漢文>レ任<漢文>二道理<漢文>一、如<漢文>二理前々<漢文>一件之地、御証文ヲ以、改而付被<漢文>レ遺候条、早々被<漢文>二召返<漢文>一可<漢文>レ有<漢文>二御手作<漢文>一候。委曲御使僧泉福寺可<漢文>レ被<漢文>二申述<漢文>一候由、可<漢文>レ得<漢文>二尊意<漢文>一候。恐々謹言。

 追啓、先以御証文此度返進申候。

  (天正十五年)    以上

  十月廿二日                  板部岡入道

                               江雪(花押)

    三宝寺

       御同宿中

                                    (武州文書・三宝寺文書)

この文書に見える早川某なる地侍が、三宝寺領を奪つて私領地にしていくので、三宝寺はこれにたまりかねて、その末寺である泉福寺の使僧をもつて北条氏に訴えたのである。

この文書は、その訴えに対しての返事であり、差出人の板部岡入道江雪は北条氏政が十月廿一日、このことについて裁許した旨を伝え、後程証文を与えるものであると述べている。

<資料文>

    一 六百四拾文 自<漢文>二前々<漢文>一為<漢文>二年貢<漢文>一被納辻。但者

           <補記>(天正十一)去未年以来、以<漢文>二横合<漢文>一田地共

            領主相押由、糺明事。

    一 八百文   無年貢之田畠。

        己上都合壱貫四百四拾文 田畠。

右於<漢文>二当寺<漢文>一、久被<漢文>レ抱来由候条、改而寄進候。此内自<漢文>二前々<漢文>一、領主へ納所之六百四拾文者、毎年可<漢文>レ有<漢文>二進納<漢文>一候。

  仍状如<漢文>レ

 (天正十五)

丁亥

                         糺明之使

       十月廿一日       (有効之印) 江雪

       三宝寺                海保

                               (武州文書・三宝寸文書)

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                                     (武州文書・三宝寺文書)

氏政の裁許はこの印判状で明らかのように壱貫四百四拾文の三宝寺分田畠は、改めて三宝寺へ寄進するが、その内六百四拾文は従来、旧領主へ納めていたと同様に、北条氏へ納めるよう云つている。

このように地侍の横行もはげしく、争い事も絶えなかつたが、その間にあつて、北条氏の治政は巧みであつたわけである。

<節>
第七節 小田原衆所領役帳と練馬
<本文>

関東一円の分国的支配がほぼ達成された永祿二年(一五五九)二月に、北条氏康は家臣太田豊後守、関部兵部丞、松田筑前守を奉行として、領内各地の普譜役高を定めた「小田原衆所領役帳」を作成した。

これには、小田原家人の所領高を克明に記載し、貫高によつて各知行の明細が地区別に明らかにされているので、当時における行政区画や行政的背景はもちろんのこと、各地名の状況を知る上に極めて貴重な資料である。

小田原衆所領役帳は、別にまた小田原北条分限帳とも呼ばれ、はじめ、高野山高室院の什物であつた。高室院は、小田原城没落の後、豊臣秀吉に追われた北条氏直の閑居したところであり、そこに残る役帳を江戸時代、元祿期に入つて北区王子権現社の別当である金輪寺第五世宥相が高野山に登つたとき、写して金輪寺に残しておいたものである。その後、高室院が焼失し、原本が灰燼に帰したのでこの金輪寺の写本が原本となつたものである。しかし、万延元年に至つて金輪寺本も焼失してしまつたので、現在に残るものはその焼失前に、さらに転写しておいたものである。

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小田原衆所領役帳に記されてある中から、練馬区と関係のある所領及び知行人を抜萃して、本区をはじめ周辺一帯の形勢を推察してみよう。

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この所領記録に見えるように、練馬区は小榑保屋を除いて殆んどが江戸乃至は江戸廻といわれた地域であつて、こ

の当時すでに江戸がこの周辺の中心部であつたわけである。

ここにみられる所領は、すべて貫高によつて表示されているが、それがどのような基準によるものであるか明らかでないが、大体定免として無理のない程度の測定をしたようである。

貫高というのは、一定の田畑に対して年貢を銭貨で収納する高を云つており、これが貢租の単位になつたのは、種々の説もあるが、室町幕府の中国との交易による明銭(洪武・永楽・宜徳の各通宝)の輸入と、その全国的流通によるものであろう。特に、永楽銭は十六世紀中頃から関東地方においては普銭として重用され、ことに後北条氏の厳格な撰銭策でますますこの傾向に拍車をかけたのである。すなわち、永楽銭が所領を測定する標準となり、貫高と同時に永高とも呼ばれるようになつたのである。

さて、一貫文が石盛にして何石に相当するか、論はまちまちであるが、房総志料では一貫文は籾にして一〇石(籾ずりは五石)であり、古事類苑によれば、一貫文は玄米で四石四斗余とみえている。また、地坪千坪をもつて永一貫文と地方凡例録では伝えている。一貫について何石ということは、地域差や土地柄によつて異なるものであるが、これらの文献から綜合してみて、一貫文について玄米五石余と考えるのが妥当のようである。

前記の表を見ると、本区内はそれぞれ金曾木、太田大膳亮、太田新太郎の諸氏やその寄子らによつて知行せられた旨がわかる。

寄子とは家臣のことであり、寄子はその主人である寄親の支配を受けたものである。寄子寄親の対句は家族になぞらえた用語であり、緊密な主従関係を意味していた。ここにみえる谷原在家の岸氏や土支田地域を領する土支田源七

郎などは、いづれも太田新六郎康資の家臣であり、太田新六郎分知行地の一部を祿していたわけである。金曾木、太田大膳亮、太田新六郎(一〇四頁参照)らの知行主はその扶持がこの地だけに限らず、他の地域にわたつてあることが役帳にみえているが、それは北条氏からの分封が、その時折の勲功や論功によつて加増貫文に相当する地域を分与されたからであろう。これらの領地には代官を置いて名主(地侍)、百姓を統制したり、或いは所領のいくらかを家臣に分与していたものである。

さて、ここで練馬区に、当時どの位の耕地面積があつたか、近世経営耕地の一応の目安として考えてみよう。

北条氏の貫高の基準が、それをどこに置いて測定したかは明らかでなく、また地域差のある貫高をそのまま算定して耕作面積を知ることは、はなはだ危険なことである。従つて、ここに比較的信憑性のある後北条氏による検地の貢租率から田畑を換算して当時の経営農地を考えてみたい。

天正十六年に行つた北条氏虎による検地帳によれば、田一反につき五〇〇文、畑一反について一六五文の貢租率であることが杉並の永福寺分検地書出(武州文書三下)によつて知られる。

この貢租率でもつて区内所領の貫高を田畑に換算してみると次のようである。

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ここに示される地域がどのくらいの範囲によつたものか、またどの程度の経営規模であるか解らないが、この貫高の計算によつて示される田畑は江戸時代、正保の頃の武蔵田園簿やその後に出てくる各村々の検地帳に記載される田畑と比較して極めて零細なものである。

これは恐らく在地の名主的地侍の直営地をその下人・所従が耕作した程度のものであろう。

北条氏が土地開発に大きな努力を払つたにもかかわらず、当時この地方においてはまだまだ開発が遅れており、未開拓の土地の多くを残していたのである。

しかし、このような零細な生産規模の営みしか考えられない村落にあつても、戦国諸相の移り変りや支配の変貌は絶えず農民層の意識の高まりや地位の向上をうながしていつたものであろう。ことに、北条氏支配の小田原本城と各支城間を結ぶ交通網の拡充、それにともなう宿駅の整備や市場の繁栄は、直接本区にまたがる青梅街道・所沢道・川越街道、白子宿の繁栄を意味していた。また、これらの影響は蔽うべきもなかつたであろう。街道を中心とする凝形集落の形成、宿駅や市場を通して新しい息吹の注入は、やがてこの地方に地縁的共同体の新しい村造りをもたらすのである。

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以上 九三一貫三八四文

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 以上四七八貫五〇〇文(〔編〕四八九貫九〇〇文)

新六郎自分知行高辻

 合一四一九貫九〇〇文

  此内

  自前々致来知行役 五〇〇貫文

  今度改知行之員数 九一九貫九〇〇文

<項>

中世年表
<本文>
西暦年号将軍執権執事管領関東管領関東及び練馬関係重要事項参照事項
1180 治承四年
9.3
源頼朝は石橋山の戦に敗れて房総に逃れ豊島右馬允朝経 (在京不在)の妻女に綿衣を調達すべきことを命じる。(吾妻鏡)
8.<数2>17
賴朝兵を伊豆に挙げる
(源平合戰はじまる)
<数2>10.2
源頼朝、大井川隅田川を渡り武蔵国に入る。豊島権守清光、江戸重長、葛西三郎清重らこれに従う。(吾妻鏡)
1184
1・8任
源義仲
1・<数2>20退
<数2>10・6任
大江広元(別当)
建仁2・3・8退
源頼朝が鎌倉に公文所・問注所を設ける
1185
平家滅亡(壇浦の戦)守護地頭設置
1189 文治五年
7.<数2>19
頼朝が奥州藤原泰衡追討のため鎌倉を出発、豊島清光、葛西清重らこれに従軍する。(吾妻鏡)
1191 建久二年
<数2>10.2
豊島有経は年貢抑留の訴えにより八条院領紀伊国三上庄の地頭職を追われる。(吾妻鏡)

1192 建久三年
7・<数2>12
源頼朝
正治1・1・<数2>13退
頼朝が征夷大将軍になり鎌倉に幕府を開く
(武家政治が始まる)
1199 正治元年
1・<数2>26任(家督)
源頼家
1・<数2>13
頼朝死ぬ(五三歳)
1・26
頼家家督を継ぐ
1201 建仁元年
7・<数2>10
豊島右馬允朝経が土佐国の守護職に任ぜられる。(吾妻鏡)
1202 建仁二年
7・<数2>23任(将軍)
源頼家
建仁3・9・7退
7・<数2>23
頼家将軍となる
1203 建仁三年
9・7任
源実朝
承久1・1・<数2>27退
9月 任
北条時政
元久2・7・9退
<数2>10・<数2>26
 豊島朝経(清光の長子)は京都比叡山の僧兵がたてこもる金子山を攻め葛西四郎重元(弟)佐々木太郎重綱と共に戦死する。(吾妻鏡)
実朝将軍となる
1204 元久元年
7・<数2>18
北条時政が源頼家を伊豆修善寺に殺す
1205 元久二年
7・<数2>19
北条義時
元仁1・6・<数2>13退
1219 承久元年
7・<数2>19
藤原頼経
(鎌倉入り)
源実朝が公暁に殺される(源氏滅亡)

1224 元仁元年
6・<数2>28
北条泰時
仁治3・6・<数2>15退
1226 嘉禄二年
1・<数2>27
藤原頼経
寛元2・4・<数2>28退
1242 仁和三年
6・<数2>15
北条経時
寛元4・3・<数2>23
4・<数2>25
豊島又六郎時光は博奕と喧嘩のとがめを負い武蔵国豊島庄犬食名の所領を奪わる(吾妻鏡)
1244 寛元二年
4・<数2>28
藤原頼嗣
建長4・4・1退
1246 寛元四年
3・<数2>23
北条時頼
康元1・<数2>11・<数2>22
1252 建長四年
4・1任
宗尊親王
文永3・7・4退
1256 康元元年
<数2>11・<数2>22
北条長時
文永1・7・3退
1260 文応元年
<数2>11
弥陀一尊種子板碑が作られる。(道場寺蔵)
1264 文永元年
8・<数2>11
北条政村
文永5・3・5退
1266 文永三年
7・<数2>24
惟康正
正応2・9・<数2>14退

1268 文永五年
3・5任
北条時宗
弘安7・4・4
長全法印が教学院草創と伝う。(新編武蔵風土記稿)
1274 文永十一年
<数2>10~<数2>11
文永の役
1281 弘安四年
8
弥陀一尊種子板碑。(南町白山神社付近出土)
弘安の役
1282 弘安五年
妙福寺草創と伝う。(新編武蔵風土記稿武蔵通志)
<数2>12
宮城六郎妻が石神井郷を父より譲られる。(豊島宮城文書)
1283 弘安六年
1
日蓮題目板碑。(妙福寺旧地出土)
1284 弘安七年
7・7任
北条貞時
正安3・8・<数2>22
1289 正応二年
<数2>10・9任
久明親王
延慶1・8・4退
1301 正安三年
8・<数2>22
北条師時
応長1・9・<数2>22退
1308 延慶元年
8・1任
守邦王
元弘3・5・<数2>21
1311 応長元年
<数2>10・3任
北条宗宣
正和1・5・<数2>29退

1312 正和元年
6・2任
北条熙時
正和4・7・<数2>12退
1315 正和四年
7・<数2>12
北条基時
<数2>11・<数2>20退
1316 正和五年
7・<数2>10
北条高時
嘉暦1・3・<数2>13退
1321~1323 元享年間
豊島氏が王子に熊野權現を勧請すると伝う。(江戸志、飛鳥山碑、武蔵通志)
1326 嘉暦元年
3・<数2>16
金沢貞顕
3・<数2>26退
4・<数2>24
北条守時
元弘3・5・<数2>18退
1331~1333 元弘年間
豊島景村が石神井城に在城する。(新編武蔵風土記稿)
1333 元弘三年
5
鎌倉幕府の滅亡
1336 延元元年「建武三年」
高師直
貞和5・6・<数2>15退
足利尊氏が謀叛
後醍醐天皇吉野に潜幸
南北両朝の対立抗戦始まる
1337 延元二年「建武四年」
貞和5・9・9退
足利義詮
9・<数2>23
奥州の北畠顕家が鎌倉を攻め、足利義詮らを走らす。(太平記)

1338 延元三年「暦応元年」
8・<数2>11
足利尊氏
延文3・4・<数2>30退
<数2>11・<数2>17
豊島小三郎宗朝が北朝側に忠節、北畠源大納言入道討伐のため足利氏に従軍。(豊島宮城文書着到状)
1346 貞治二年
2・6
豊島修理亮が伊豆立野城攻略に戦功あつて足利基氏より感状を貰う。(豊島宮城文書)
1349 貞治五年「正平四年」
6・<数2>20
高師世
8・<数2>25退
9・9任
足利基氏
貞治6・4・<数2>26退
8・<数2>25
高師直
観応2・2・<数2>26退
1351 観応二年「正平七年」
<数2>10・<数2>21
仁木頼章
延文3・5退
1352 文和元年「正平七年」
3・7
弥陀種子の南朝板碑)。三宝寺付近出土)
2・<数2>20
足利尊氏が武蔵国人見原(府中東)で新田義興(義貞嫡子)と戦う。
このとき豊島弾正左衛門、同兵庫助、同因幡守ら尊氏の陣に馳せ参じる(太平記)
1357 延文二年
良弁が大乗妙典を中村の塚に納める。(新編武蔵風土記稿)

1358 延文三年
<数2>12・8任
足利義詮
貞治6・<数2>12・7退
<数2>10・<数2>10
細川清氏
康安1・9・<数2>23退
1362 貞治元年
7・<数2>23
斯部義将
貞治5・8・8退
1367 貞治六年
<数2>11・<数2>25
細川頼之
康暦1・4・<数2>14退
5・<数2>29
足利氏満
応永5・<数2>11・4退
1368 応安元年
<数2>12・<数2>30
足利義満
応永1・<数2>12・<数2>17退
1372 応安五年「文中元年」
4・<数2>10
豊島輝時が道場寺を創設する。(武蔵通志、新編武蔵風土記稿、道場寺過去帳)
1375 永和元年
7・7
豊島輝時歿す。(道場寺過去帳)
1379 永和五年
4・<数2>28
斯波義将
明徳2・3・<数2>12退
1392 元中九年「明徳三年」
6・5任
斯波義将
応永5・4・<数2>23退
南北朝合一
1394 応永元年
<数2>12・<数2>17
足利義持
応永<数2>30・3・<数2>18退
権大僧都幸尊が三宝寺を草創する。(四神地名録、新編武蔵風土記稿)
1416
1417
応永二三年
二四年
応永<数2>30・3・<数2>18
足利義量
応永<数2>32・2・<数2>27退
応永<数2>19・3・<数2>16
細川満元
応永<数2>28・7・<数2>29退
応永<数2>16・6・5任
足利持氏
永享<数2>11・2・<数2>10退
上杉氏憲(禅秀)の乱に豊島氏は関東管領足利持氏に味方して功があつた。(鎌倉大草紙)

1448 文安五年
嘉吉3・7・<数2>23
足利義政
文明5・<数2>12・<数2>19退
文安3年任
細川勝元
宝亀1・<数2>10・5退
<数2>11
熊野領豊島年貢目録に「一貫三百五〇文石神井殿」と見える。(米良文書)
1449 宝徳元年
<数2>10・5任
畠山持国
享徳1・<数2>11退
1月 任
足利成氏
康正1・1・<数2>21退
古河公方 関東管領
1455 康正元年
享徳1・<数2>11・<数2>16
細川勝元
寛正5・9・<数2>12退
この年より
古河公方(成氏)
明応6・9・<数2>30
1・<数2>21
上杉房顕
文正1・2・<数2>12退
1・5
足利成氏が豊島氏に催促状を出す。(豊島宮城文書)
1456 康正二年
1・<数2>29
下総、市川城が攻略されて城主千葉自胤は赤塚に居を構えた(鎌倉大草紙)
太田道潅が品川の館で得た霊夢によつて江戸城の築城をはじめる(小田原記)
1457 長禄元年
4・8
太田道潅が江戸城を竣工する
1467 応仁元年
1・8任
波義廉
応仁2・7・<数2>10退
文正1・6・3任
上杉顕定
永正7・6・<数2>20退
応仁、文明の乱が起る

1477 文明九年
文明5・<数2>12・<数2>19
足利義尚
延徳1・3・<数2>26退
<数2>12・<数2>25
畠山政長
文明<数2>18・7・<数2>19退
4・<数2>13
太田道潅が豊島左衛門尉泰明の拠る平家城を攻める。
石神井城主豊島勘解由左衛門尉泰経(泰明の兄)は弟泰明を援けようとし途中江古田沼袋で太田道潅の兵と遭遇戦、豊島氏は惨敗し、泰明ら一五〇人が戦死する。(鎌倉大草紙)
4・<数2>18
石神井城、太田道潅によつて落城する。(鎌倉大草紙)
1469~1486 文明年間
太田道潅が愛宕社を勧請する(新編武蔵風土記稿)
1482 文明十四年
足利義政が京都東山に銀閣寺を建立
1486 文明十八年
7・7任
細川政元
8・1退
太田道潅が扇谷上杉定正に謀殺される。(九代後記)
8・1任
畠山政長
長享1・8・9退
1490 福徳元年(延徳二年)
7・5任
足利義材
明応2・6・<数2>29
7・5任
細川政元
7・6退
六地蔵板碑。(南田中出土)
1493 明応二年
<数2>11・<数2>15
近江国徳政一揆を平定する

1495 明応四年
明応3・<数2>12・<数2>27
足利義高
永正5・4・<数2>16退
明応3・<数2>12・<数2>20
細川政元
北条早雲が小田原を攻略し相模一円に不動の地位を築く
1504~1521 永正年間
永正5・7・1任
足利義尹
大永1・<数2>12・<数2>25退
永正5年任
細川高国
大永5・4・<数2>21退
永正9・6・<数2>18
足利高基
天文4・<数2>10・8退
永正7任
上杉顕実
永正<数2>12年退
南蔵院が草創される。(新編武蔵風土記稿)
永正<数2>12年任
上杉憲房
大永5・3・<数2>25退
1524 大永四年
大永1・<数2>12・<数2>25
足利義晴
天文<数2>15・<数2>12・<数2>20退
北条氏綱が江戸城を攻略す
1534 天文三年
享禄4・9・2任
上杉憲政
永禄4・3・4退
4・<数2>22
練馬之郷上原雅之助、孫九郎の父子が熊野權現に願文をたてる。(米良文書)
1559 永禄二年
天文<数2>15・<数2>12・<数2>20
足利義輝
永禄8・5・<数2>19退
天文<数2>21・2・<数2>26
細川氏退
永禄6・<数2>12・<数2>20
天文<数2>21・<数2>12・<数2>12
足利義氏
天正<数2>11・1・<数2>21退
2月
北条氏康は領内各地の普請役高を定めた「小田原衆所領役帳」を作成する。(東京市役所編集註小田原衆所領役帳)
1562 永禄五年
永禄4・3・<数2>16
上杉謙信
天正6・3・<数2>13退
4・<数2>21
道場寺が後北条氏から免租の虎朱印を受ける。(道場寺分文書)
1573 天正元年
永禄<数2>11・<数2>10・<数2>18
足利義昭
天正1・7・<数2>19退
7・<数2>19
室町幕府の滅亡

1574 天正二年
6・7
後北条氏より三宝寺の保護のために禁制が出される。(武州文書)
1587 天正一五年
高萩、荻野、松山の各宿場につづいて白子宿に楽市政策がとられる。
<数2>10・<数2>21
北条氏政より三宝寺に対して寺領の印判状が下る。(武州文書)
1506 天正一八年
後北条氏の滅亡
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近世

<章>

第一章 江戸幕府の成立

<節>
第一節 徳川氏の江戸入府
<本文>

延徳三年(一四九一)、北条早雲が伊豆に蹶起してから、関東管領の威令が全く行われなくなつて、北条氏は小田原を中心に南関東一円を領有した。早雲・氏綱・氏康・氏政・氏直と五代約百年にわたつて優秀な人物が輩出し、すぐれた民政をもつて南関東に根強くその勢力を養つた。わが練馬区の地方も、その支配下にあつたわけである。しかし、秀吉の招きに応じなかつたことは秀吉を怒らせ、天正十八年(一五九四)、秀吉は天下の大軍をもつて小田原城を包囲した。籠城三カ月、世に「小田原評定」のそしりを残して、七月五日秀吉の軍門に降つた。徳川家康も、秀吉配下の一大名として、この小田原征伐に参加していた。

家康は、三河国岡崎城主松平広忠の間子として生まれたが、当時、松平氏は織田氏と戦つていたので、今川義元の援を受けるため人質としてやられた。今川義元が大挙西上する際家康もこれに従つていたが、義元が桶狭間で敗北す

ると家康は岡崎に入り、間もなく信長と和して堅い同盟を結んだ。その後、領内の一向一揆を鎮め、三河を統一して徳川と称した。さらに武田信玄と結んで小田原の北条氏の狭撃をはかり、遠江に入つて浜松城に移つた。姉川の戦で信長と共に、朝倉義景・浅井長政を破つたが、その後、間もなく武田信玄と三方原に戦つて大敗した。信玄のあとをついだ勝頼が侵入してくると、これを長篠の戦に大敗せしめ、武田氏滅亡の因をつくり、駿河を与えられた。やがて、家康の上洛饗応が因で、信長が明智光秀に討たれると、直に岡崎に帰り光秀攻撃の態勢を整えようとしたが、秀吉に先を越されて、これ以後、その下風に立たざるを得なくなつた。しかし、秀吉の覇権の下では、駿河・三河・遠江・甲斐の四カ国および信濃の一部を領する強大な大名となつていた。

天正十八年(一五九〇)の秀吉の小田原征伐に従つて功のあつた家康は、北条氏滅亡後、東海地方から変つて関東八州の地を与えられた。しかし、関東には当時、安房に里見氏、常陸に佐竹氏、上野に真田氏、下野に佐野氏・宇都宮氏(のちの蒲生氏)・那須氏等の大名がいたので、徳川氏の所領は、安房・常陸・下野を除き、武蔵・相模・伊豆・上総・下総および上野の大部分であつた。

慶長三年の大名帳によると、領地の石高二、四〇二、〇〇〇石で諸大名中第一位であり、次位の毛利氏の一、二〇五、〇〇〇石の倍に当る。この所領の中、蔵入地は、豆相武三カ国に最も多く、その他の国の分を併せて約百万石といわれる。蔵入地を除いた所領は、三河時代以来の勲功をもつて大名に取り立てられた家臣に配分され、その他多くの家臣が各地で知行を給せられ、その土地を支配することになつた。しかし、家康の家臣の中には、この東海地方からの転封を、秀吉の家康敬遠策として憤る者も少なくなかつたが、家康はそれをなだめ、秀吉の言葉に従つて、ここ

に他日天下に令する基礎を築いたのであつた。

家康が、関東を領するに当つて、その居城をどこにするかということは重要な問題であつた。その領内には、北条氏の拠つていた所で、城下の繁昌が当時の京都にも劣らないといわれた小田原もあり、さらに、源氏の血統と称される徳川氏にとつては因縁の浅くない鎌倉幕府の旧地の鎌倉もあるのに、家康が太田道灌の築城以来地方の小城地に過ぎない江戸を選んだことは、全く世人の意表をつくものであつた。

これは、秀吉のすすめによるものと伝えられている。秀吉は小田原城攻撃中、家康に北条氏の領土である関東八州を与える旨を漏らし、かつ、居城として江戸を推薦したようである。もつとも、秀吉が家康を関東に封ずる旨を公表したのは、落城後の七月十三日であつたが、前からの内意があつたので、家康の方でも予め諸般の準備を整えたとみえ、早くも八月の朔日に江戸入をみるに至つている。

これまでの城は、要害堅固をもつて第一の要件とし、交通の利便などよりも、敵勢が攻め寄せてきた時に防禦に適した天嶮の場所を選んで設けたものであつた。しかし、戦国時代以降、領地全体を防禦地域と考えるようになり、出入口を堅固に防ぎ、領地全体を統制する中心に居城を築き、その城下に多くの町人を集め、商業を盛んにするようになつてきた。近世の城下町の発展はこれによるものである。秀吉はこの築城の変遷に留意し、防禦的にも政治的にも経済的にも、最も適切な場所として江戸を勧めたものであろう。彼自身が関西で経営した大坂を関東に出現せしめるべく、家康に勧めたのに相違なく、そして、家康がそれと同意見であつたと解すべきであろう。

いずれにしても、家康の慧眼は、江戸の地が利根川の河口に近い海湾に臨み、海陸交通の要衝に当つており、日本

一広大な関東平野を背後にもつ形勝の地であつて、単に関東八州の城下町としてのみでなく、やがて海内を統一した時の都市を造るのにも最も優れた土地であることを、早くも見抜いていたものと思われる。その着眼のすぐれていたことは、その後の江戸から大東京への発展のあとが何よりよく示している。

それまで江戸城は、北条氏の家臣遠山氏が城代としていたが、小田原籠城の時は、城代の遠山左衛門佐景政が小田原城にこもり、江戸城はその弟の川村兵部大輔秀重と甥の遠山丹波守が留守を守つていた。しかし、家康の家臣真田幸孝は丹波守と通謀し、兵部大輔を追い払い、小田原落城より前に、江戸城は戦わずして徳川氏の手に降つてしまつた。

家康は、江戸を居城と定めるや、旧領より諸臣を率いて江戸城に入つた。小田原落城して未だ三旬を出でず、その迅速さにはさすがの秀吉も舌をまいて驚いたと伝えられている。時に天正十八年(一五九〇)八月一日のことで、家康は齢四十九であり、太田道灌が江戸城を築いてから百三十五年目のことであつた。「岩淵夜話別集」に、家康入府前後の事情や、当時の江戸付近の情景をよく描写した叙述があるので、ここに参考として少しく引用して置きたい。

<資料文>

関八州家康公御りやうちとなり候へども、御在城の儀はいまだいづかたとも仰出されず、さるによつて御はた本の諸人のつもり、十人に七八人は相州小田原とすいりやう仕、その内二三人も鎌倉にて御ざあるべきかなどと申衆も有。しかる所に秀吉公と御相談のうへにて、武州江戸を御居城と仰出さるるに付、諸人手を打て、是はいかにとおどろく。子細はその時代までは東の方平地の分は、ここもかしこも汐人の芦原にて、町や侍屋敷を十町とわり付べきやうもなく、さて又西南の方はびやうびやうと萱原武

蔵野へつづき、どこをしまりといふべきやうもなし。御城と申せば昔より一国ともつ大名のすみたるにもあらず、上杉の家老太田道潅斎初めて縄を張とりたて、その後北条家の遠山住居せしまでなれば、城もちいさく、堀の幅もせばく、門塀のていまで中々あさまなるやうすなれば、関八州の大守の御座城となさるべきやうだいには、人々ぞんじよらざるもことはりなり。

とにかく家康入府ごろの江戸は、道灌全盛ごろの江戸とは異り、見る影もない田舎であつた。北条氏時代の江戸城は、小田原の一支城として規模も極めて狭小なもので、後の江戸城からみれば、ほんの一部分に当る位のものであつた。城といつても、本丸・二の丸・三の丸はあるにしても、城内の建物はこけらら葺の古屋で、その上北条氏の城代遠山氏が久しく手入れもしなかつたため、屋根は腐つて雨が漏り、玄関には式台もなく、舟板の幅の広いのが三枚並べてあり、城壁といつても石垣は一ヵ所もなくみな土手で、その上に竹木が生茂り、また海岸へ出入する所に数ヵ所の木戸門があり、その中の一番大きい扉なしの小田原御門は、後の外桜田門の位置にあつた。城下は町といつても、茅ぶきの家が百軒ばかりで、城の東の方の平坦地の辺りは到る所が汐入りの茅原で、武家屋敷や町屋を十町と割りつけるだけの場所もなかつた。一方、南西の台地も茅原が武蔵野丘陵に連つて、どこを締りといいようもなかつたという。諸書の伝えるところや地勢から察してみると、現在の日比谷から馬場先門辺りまで、入江が湾入し、日本橋から京橋・銀座・築地の辺りは洲をなしていたのであろう。

江戸に対して、他にどれ程の村があつたかは明かでないが、もちろん、浅草は江戸に対するほどの集落をなし、他に橋場・鳥越、或いは牛込・小石川や桜田・飯倉・三田付近にも村落があつたのであろう。

家康は、荒凉たる江戸城に入り、道灌の築いた城のほとんど全部を本丸とし、応急の修理を加えたであろうが、間

もなく文祿・慶長にわたろ二回の朝鮮の役が起り、家康は肥前の名護屋に在陣することとなり、従つて留守中の江戸はさしたる進歩をみなかつたであろう。秀吉の死去により朝鮮在陣の諸将は引揚げたが、それから二年目に関が原の戦いがあり、天下の形勢は一変し、家康は天下の実権を握り、三年後の慶長八年(一六〇三)二月には征夷大将軍に任ぜられた。家康が幕府を江戸に開くことは、すでに関が原の戦後胸中に定まつていたらしく、問題なく実現した。一大名の城下町であつた江戸は、今や名実共に日本全国の政治的中心となつたのである。

<節>
第二節 江戸の発展と武藏野の開発
<本文>

天正十八年(一五九〇)八月の家康の入府は、江戸の都市計画の基礎を築いたものといつてよいであろう。家康は入府に先だつて、手腕ある部下の天野康景を町奉行にして江戸につかわした。康景が間もなく八王子城受取りにつかわされた後には、板倉勝重と彦坂元正が町奉行となり、同時に伊奈忠次が関東郡代となつて村方を支配、福島為基が地割小屋奉行となつて設営につくした。

当時、城そのものの築造よりも、先ず城下町を経営する計画に重点がおかれたことは、入国後九年目の「別本慶長江戸図」によつてもうかがうことができる。旧領地から移つてくる家臣を一時小屋に収容し、ついで屋敷を割り与えること、集まつてくる工商の町人のために市街地を設けることは、当時第一の急務でもあつた。家康は、家臣のうちで大祿の者を遠い所に、小祿の者を近くに居住させる方針をとつた。しかし、前述のような江戸の状態なので、堀を掘つて溜水を流し、掘りあげた土で埋立地を作り、堀には橋をかけるなどの土木工事を急いだ。家臣を移しおわる

と、土着の民をも安んじさせるとともに、旧領地の町人や小田原の町民を、家康はどんどん江戸へ入れた。京都その他関西方面からも来た。招いた者もあり招かず来た者もあり、利にさとい商人たちを自ら集め、江戸は新興都市の活気を帯びはじめた。

城の周囲には、現在の千代田区の代官町や番町をはじめ、処々に集団的に武家屋敷を置いてその警備とし、日本橋付近は新しく町割をして町人の住地とした。こうして、幕府が開かれるまでの十三年間に開発された市街をみると、東部は日本橋通、西部は外濠以内、北部は神田橋付

近に及んでいる。南部は日比谷付近までなお海が入りこんでいる状態であつた。

城は、貧弱なものであつたけれども、当座は修理を施した程度であつた。まだ、秀吉の生きている中は、いつまた転封されるかわかからないし、朝鮮の役など多事な時で、家康も西国にいることが多かつたから、江戸城拡張の必要性がうすかつたのであろう。江戸城の改築は、開幕の後、徳川氏の権力が漸く確立された慶長十一年(一六〇六)三月から翌年へかけて行われた。この時、本丸・二の丸・三の丸および西丸はいうまでもなく、内曲輪や土居や濠までも立派に完成し、塁壁はみな石垣となり、濠は掘広められ、五層の天主、二十基の櫓、いわゆる三百の大名八万の旗本を登城せしめても、一向差支えのない程度に修築されたのであつた。各大名は城普請のために、伊豆から大石を船で運んだ。船数三千艘、一艘ごとに百人持の石二個宛を入れ、一カ月に二度ずつ江戸へ往復したと伝えられている。

入府五十年後、江戸は都市的構成の整備とともに、その市街区域も大いに拡張された。「寛永江戸図」によると、市街は西は外濠に限られてはいるが、東は隅田川川岸に及び、北は神田川に沿い、南は日比谷付近を埋立てて、新橋付近に及んでいる。すなわち三代将軍家光の時代は、参観交代制の実施によつて諸侯が競つて江戸に壮大な屋敷を構えたのであつた。その邸宅も上屋敷・中屋敷および抱屋敷等を有するものも少なくなかつたので、当時の江戸市街の大部は、武家屋敷の集団によつて構成され、付近にはそれらの需要に応ずる小商業地域の点在がみられるようになつた。

四代将軍家綱時代の「寛文江戸図」をみると、中山道に沿う本郷、甲州街道の四谷、東海道の品川筋へも市街はのび、江戸の都市的発達が、次第に外延的発展をとげてきたことがうかがわれる。さらに、五代将軍綱吉時代の「元祿江戸図」によれば、「寛永江戸図」にはみられなかつた外濠の外側に、著しい市街の発達が認められ、隅田川以東の本所・深川方面にも市街の延長がみられる。それは明暦の大火後の著しい特徴である。

このように、江戸が都市として大いに発達した結果、人口の集中はおひただしかつた。江戸の人口については、同時代のいろいろな書物に出てくるが、いずれも町奉行支配の人数はわかつても、武家の人数が判然としないから、総人口は結局はつきりしない。延享以後は寺社門前地の人口が加わつているから、町奉行の届書には必ず町方支配場町人惣人数何程・寺社門前町町惣人数何程と二口に分けて人数を挙げてあるが、天保十四年(一八四三)に至り、さらに、出稼人の一項が設けられることとなつた。この三口を合計し、いちばん多い時が、天保十四年(一八四三)七月の五十八万七千であつた。これに約五十万を出なかつたと推定される旗本御家人およびその家族と在江戸諸藩士とを合せて、百万を出るか出ない位だつたと考えられている。また町数も、初め八百八町であつたが、正徳年間には九<外字 alt="判読不能">〓三町、享保年間には一六七二町、天保年間には二七七〇余町に及んだと伝えられている。

このように江戸の都市的発達は、面積の上からも人口の上からも町数の上からも、まことに著しく、〝将軍さまの

お膝もと〟は、文字通り海内一の大都市であつた。十一代将軍家斉の天明八年(一七八八)に、御府内の区域について評定した伺書に、

<資料文>

品川板橋千住本所深川四ツ谷大木戸より内を御府内と相心得可申候哉奉伺候

とあるのをみても、当時江戸の都市としての行政区域が、前述の四代将軍の寛文期と較べて、著しく拡大されているのがわかる。

江戸も、享保以後は、市街の若干の拡張をみたが、その後は、むしろ内容の充実に向つた。町の自治組織、問屋仲間の整備充実、儒学・蘭学・文学・絵画・演劇などにわたる発達が著しかつた。その頂点は文化・文政の十一代将軍家斉の頃である。これが江戸の壮年期であつた。しかし、既にこの頃から、諸国の窮乏した農村から人々が江戸に集り、浮浪化する者少くなく、また徒食する武士の下層者には困窮者が多くなつた。幕府の政策全般にも緩みが生じ、江戸も幕末の老年期をむかえるに至つた。

前節で、江戸を政治の中心地と定めた家康の慧眼について触れたが、近世の城下町の立地条件として、最も多く利用されたのは、江戸と限らず、台地や丘陵の突端であつた。大坂・名古屋・熊本・浜松・仙台など、いずれも江戸と類似した地形を利用している。江戸を含む武蔵野はその中でも、面積において、背景とする関東平野との関係において、最も恵まれたものの一つである。関東平野は一種の大きな盆地構造をなしている。丘陵性の房総半島と三浦半島が太平洋側を囲い、その中間に湾入した奥に江戸が位置を占めている。江戸はそれだけ関東の幾何学的中心に近いわけである。江戸城はその武蔵野が湾に臨む崖端に造られた。太田道灌は一わが庵は松原つづき海ちかく富士の高嶺を

軒端にぞ見る」と詠じ、松林を通して海を眺めて終つたが、家康はこの海を埋め、城下町を開き、海内の大中心地を造りあげた。いずれにしても地形を巧みに利用した功績は讃えられなければならない。

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前述のように、江戸は武蔵野の東端に位置した。江戸の発展にともなつてその後背地としての武蔵野の存在が、江戸の歴史の蔭に寄りそつて大きくクローズアップされるのは当然であつた。江戸の発展と武蔵野の開発は比例する。とくに水の問題は、この両者の関係を密接不可分のものとしたのであつた。――武蔵野というが、それは地域的にどこを指すかといえば、常識的に、南は多摩川、北は入間川、東は隅田川、西は奥多摩の山麓で限られた広大な地域だといえよう。近世の江戸市中もいうまでもなく武蔵野の内に包含されている。しかし、いつ頃か判然としないが、江戸市街は武蔵野から区別され、

本郷も兼康かねやすまでは江戸のうち

と川柳に詠まれているように、本郷でさえ三丁目までが江戸で、それから先の赤門辺りは武蔵野に属していたものらしい。町家の尽きるところで江戸市中は終つて、その先に大名屋敷などが散在していても、武蔵野と呼称したものと察せられ、主として山の手方面に近い地点が、江戸と武蔵野の境界線であつたと思われる。

武蔵野が諸書・記録に散見されるのはかなり古い。奈良朝の初め元正天皇の頃、高麗人一八〇〇人ばかりを当国に移して高麗郡を置いたという記録のほか、「万葉集」第十四巻東歌の部に、九首の武蔵野に関する詠草が出ている。「江戸名所図会」には、「武蔵野の古歌は、万葉集をはじめ、代々の撰集其余歌合及び家々の集等にあまたあれども枚挙にいとまあらず、ただ世に耳なれたるもの其百がひとつを記しはべるのみ」と付記して、武蔵野に関する多くの古歌を引用している。さらに、中世の鎌倉時代に入つて鎌倉が政治の中心地となると、隣接する武蔵野とくにその南部は重要性をもつに至り、しばしば武蔵野の争奪戦が展開されるところとなつた。そして、いわゆる武蔵七党や関東八平氏等の占拠によつて、部分的に開拓されたことは容易に想像される。「吾妻鏡」によると、承元三年(一二〇九)に武蔵国荒野開発の命や、仁治二年(一二四一)に武蔵野水田開発の命がみえている。しかし、江戸時代に入つて江戸が幕政の中心地とたるまでは、依然として開発は遅れ、草木ぼうぼう十里無人のいわゆる武蔵野の原野をなしていたと考えられる。

武蔵野の開発の遅れた一の理由に用水の不足がある。この台地の表面を厚く被う火山灰からなろ関東ローム層と厚層の砂礫層のため、水は伏流となつて地下深く滲透しているためである。従つて、どこでも自由に村を拓くというわけにはいかなかつた。江戸時代になつて最初は、川の流れについて汲み、あるいは質を利用して谷川の水を引くこと

によつて、人は住みついたものであつたろう。そして、次は地下水の露頭の探索である。その最大なものが井之頭池であり、これがやがて江戸を大都市にする背後の力となつたのである。こうした稲を養う水の不足と、燐酸などの栄養分に乏しい関東ローム層の土質は、その後の武蔵野に於ける農業の歴史を、畑作農業に決定づけた。今日、東京都下の田畑の割合をみても、二・三対七・七の割合で、畑池が圧倒的に多い。

徳川氏は、江戸に幕府を開くと、この武蔵野を決して等閑には附さなかつた。同じ江戸の近くの原野でも下総野は全部を挙げて牧場としたが、武蔵野は荒地を開いて人々を移住させる抜本的計画を立てた。中山道・甲州街道はいうまでもなく、青梅街道のような立派な道をいくつか開いた。そして、中世以来この武蔵野の中心部とも目される川越には、酒井・松平のような親しい家来を置き、その他の村々には、幕府麾下の士を多く土着させて、月々江戸に勤めさせた。有名な長坂血鎚九郎とか横田尹松など、いずれもこの野中の人となつた。島原の乱に勇名を馳せた板倉重昌も石谷貞清も、その後に行つた松平信綱も、みなこの野に知行や領地や郷貫をもつていた人である。また江戸の窮民をこの野に移しては、財産平等の新村落を営ませた。さらに、八代将軍吉宗の時代に至ると、猫の額大の地をも余さじと新田の開発を奨めたのである。

こうした幕府の保護奨励によつて、この時代に武蔵野の開発は著しく進渉するのでがある長い間の未開発地であつた武蔵野が、幕初より著しく開発された原因の一は、何といつても用水の利用にあつた。承応三年(一六五四)六月二十日、多摩川上流羽村堰より武蔵野を横断して江戸市中に至る玉川兄弟の苦心になる玉川上水の竣工は、武蔵野の開発の輝かしい黎明であつた。上水が完成するまでの武蔵野は、前述のように砂川の一部などの他は、見渡す限りの

荒野であつた。ところが、武蔵野の最も高い地帯を水が流れ、分水を引き、上水の水が使えるようになると、明暦年間(一六五五―一六五八)に、砂川・小川・国分寺と相次いで飲用水として村内に引かれ、水車小屋も建てられ、動力源としても利用されるようになつた。さらに、前述の吉宗の享保七年(一七二二)の新田開発令は、武蔵野の開発を促進させ、享保年間(一七一六―一七三六)だけでも、殿ケ谷・野中・中藤・榎戸・平兵衛・鈴木・梶野・関野の各新田に分水が引かれ、武蔵野新田のほとんどは享保から元文にかけて検地がおこなわれている。これらの新田は二三の場合を除いて、いずれも周辺の村から分村してできたものであり、出身親村の村名や、開墾の中心人物の名を上に冠して何々新田と称した。深井戸を掘る技術の進歩とともに、青梅街道・五日市街道などに沿つて、これら新田村は群立したのである。これら新田村の生活は非常な労苦を伴い、経済的に窮迫し、逃村現象さえ生じた。多くは麦・稗・甘藷等を栽培したが、青木昆陽の甘藷栽培法が非常な貢献をなし、川越藷の名を天下に馳せたのは興味深い。

また、玉川上水の完成は、武蔵野の開発に役立つたばかりでなく、江戸市民に豊富な飲用水を供給して大きな貢献をなしている。江戸の山の手では、井戸または崖端から湧出する泉を用いることができるが、莫大な人口に供するには足らず、下町では水質が良くなかつた。徳川氏は江戸入府と同時に大久保主水などに命じて武蔵野の中央に湧く泉列のうち、井之頭の水を江戸川に導き。小石川関口で堰止め給水したり、別に赤坂溜池を上水としたが、江戸の上水の完成は玉川上水の竣工をまたなければならなかつた。この上水を市中の西端である淀橋付近から自然流下させたのである。配水には木管石樋を用い、町々では井戸形の汲み場が設けられた。しかし、玉川上水が完成されて後、江戸の人口増加で飲料水の需要が増大する一方なので、さらに青山上水(万治三年(一六六〇)開鑿)・三田上水(寛文四年(一

六六四)開鑿)・龜有上水(だいたい同時期開鑿)・千川上水(元禄九年(一六九六)開鑿)の四上水が建設された。このうち龜有上水以外は玉川上水の分水であるが、享保七年(一七二二)には、これら四上水すべてを廃止し、千川上水だけは安永八年から天明六年(一七六八―一七八六)の間、本郷・湯島・浅草にかけて給水された。千川上水はわが練馬と関係深いが、それについては、補説・千川上水の歴史によられたい。

このように武蔵野の開発は家康の江戸入府と、それにともなう市街地の発展に影響されて漸次活溌になつてきたが、玉川上水よりの分水によるとか、湧水池に恵まれた地域は別として台地上の開発は長い間放置されていた。「武蔵野の端々野土のいか程ありても、さして御用に立てず」(民間省要)といわれた武蔵野台地が開墾の対象となつてきたのは、人口の増加とそれによる食糧対策、さらには都市の需要に応える蔬菜栽培による畑地の利用などがあげられよう。前述のごとく享保年間に開墾された新田は、多摩郡=四〇か村・入間郡一九か村・高麗郡=一九か村・新座郡=四か村の合計八二か村に及び、これらの新田は特に「武蔵野新田」と呼ばれている。(新編武蔵風土記稿

<章>

第二章 支配組織

<本文>

江戸時代の全国の土地は、皇室御料を除いて、将軍家の直接支配する幕府領(天領・御料等と呼んでいる)と諸侯に宛給する大名領(天領に対して私領と呼ぶ)に大別される。

幕府領は直接勘定所の支配下にある代官領と諸侯に支配権を委任する私領預とに分れる。幕領の重要部分は関東地方で二百万石余に達した、したがつてここの経営には、もつとも力を入れ、天正十八年(一五九〇)入国の時、伊奈忠次を関東郡代として任命した。以来寛政まで伊奈氏が十二代二〇〇余年の間、この職を世襲して治績をあげた。武蔵野をはじめ広大な関東平野の開拓が進んで、新田の開発、村落の増加が著るしかつたのは、主として幕府の権力をもつて当代の治水土木技術の粋を集め、多大な労力と資材とを使うことができた結果である。

練馬区に属している村々もその大部分が幕府領であつた。三代将軍家光の治世である正保年間(一六四四~一六四七)の「武蔵田園簿」によれば練馬区に属する諸村の支配別村高は次のようである。

<資料文 type="2-33">

一、高八百八拾六石八斗六升八合

  内三百八拾八石壱斗八升九合 田方

   四百九拾八石六斗七升九合 畑方

           野村彦大夫代御官所

                 上板橋村

一、高百三拾五石弐斗弐升六合

  内七拾九石四斗四升八合 田方

   五拾五石七斗七升八合 畑方

  外米四俵八升 野米 同人納

       板倉周防守知行

            中新井村

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一、高七拾六石四斗六升四合

  内三拾二石九斗七升三合 田方

   四拾三石四斗九升壱合 畑方

  外米弐拾四俵三斗三升八合壱勺 野米 同人納

           今川刑部知行

                 中村

 

一、高三百三拾弐石六斗壱升七合

  内八拾壱石六斗六升六合 田方

   弐百五拾石九斗五升壱合 畑方

  外永壱貫八百弐拾九文 野銭 同人御代官

   高拾五石壱斗四升三合 観音領

           野村彦大夫御代官所

                 谷原村

 

一、高弐百拾弐石九斗八升八合

  内五拾五石九斗壱升六合 田方

   百五拾七石七升弐合 畑方

  外永三貫百七拾九文 野銭 同人御代官

  野村彦大夫御代官所

                 田中村

 

一、高三百七拾四石八斗三升四合

  内百拾石六斗四升壱合 田方

   弐百六拾四石壱斗九升三合 畑方

  外永六貫三百八拾弐文 野銭 同人御代官

           野村彦大夫御代官所

                 下石神井村

 

一、高四百五拾七石弐斗五合

  内百弐石三升七合 田方

   三百五拾五石壱斗六升八合 畑方

  外永八貫九百九拾文 野銭 同人御代官

  高拾石 三宝寺領

  野村彦大夫御代官所

上石神井村

 

一、高百三拾四石三斗三升八合

  内拾七石壱斗六升 田方

   百拾七石壱斗七升八合 畑方

  外永五貫七百九拾八文 同人御代官

           野村彦大夫御代官所

                 関村

 

一、高六百弐拾三石八斗四升壱合

  内六拾壱石弐斗六升三合 田方

   五百六拾弐石五斗七升八合 畑方

  外永七貫四百四拾九文 野銭 同人御代官

           野村彦大夫御代官所

                 上支田村

 

一、高千百四拾弐石八斗七合

  内弐百拾九石壱斗九升八合 田方

   九百弐拾三石六斗九合 畑方

  外永拾八貫七百五拾七文 野銭 同人御代官

           野村彦大夫御代官所

                 上練馬村

 

一、高千弐百弐拾六石壱斗八升四合

内弐百九拾弐石七斗三升壱合 田方

 九百三拾三石四斗五升三合 畑方

外永拾弐貫六百文 野銭 同人御代官

           野村彦大夫御代官所

                 下練馬村

 

一、高百五拾石

  内九拾石九斗四升三合 田方

   四拾九石三斗六升八合 畑方

  外永三貫六百三拾六文 野銭 野村彦大夫御代官

           伊賀衆知行

                 橋戸村

 

一、高五百四拾八石壱斗九升五合

  内弐拾九石三斗七升六合 田方

   五百拾八石八斗壱升九合 畑方

  外永六貫六百八拾五文 野銭 同人御代官

           野村彦大夫 御代官所

                 小榑村

   (東京市史稿市街篇第六附録武蔵田園簿)

<節>

第一節 直轄領
<本文>

「武蔵田園簿」によれば幕府直轄領に属する村は、上練馬村・下練馬村・上石神井村・下石神井村・土支田村・関村・上板橋村・谷原村・田中村の諸村と後半開発された竹下新田である。

前述の如く関東入国後直轄領支配にあたつて徳川氏は郡代・代官をおき伊奈氏が寛政初年まで歴任したが、郡代・代官は勘定奉行に属し旗本から任命された。代官はそれぞれの役所として陣屋をもち、(伊奈氏の陣屋は日本橋馬喰町にあつた。)手付、手代、書役などの属吏を従え、検見、割附、収納、廻米、川除普請をはじめ人別改、五人組などの差配や地方一般の行政および治安・検察に当つた。

御取箇郷帳・御年貢可納割附・御年貢皆済目録の基本帳簿(村方三帳)をはじめ村方明細書上帳・宗門人別書上帳など代官役所が取扱うものであつた。「武家厳制録」に収録されている上方関東御代官条目の一部を引用して代官の職分をみよう。

<資料文>

一 御代官衆中仕置念を入、奉為大切に存知、御役くらき儀不仕、毎度苗木之種をふせさせ、山林竹木を植立、郷村も次第なくなり候様に可被申付事。

一 毎物正路にいたし、奢りもなく心の及所、才覚を出し、御用無滞調之、御勘定引負不仕候様に常づね可被相嗜事。

一 御代官所之内は、私之借物、竝諸商売停止之事。

一 御年貢米、下知なくして其所にて払之間敷事。

一 関東方は、口米御納三斗七升八一俵ニ付一升宛、口銭は永百文ニ付而三文宛、上方之分は御納壱石ニ付三升宛也。御勘定之外不可取之事。

一 毎年納方割附総百姓不残見せ、加判致させ以来迄無出入様に可申付之事。

一 御年貢米入念、升目高下無之様ニ可申付之事。

一 御代官所中、公事有之時は、能々致穿鑿済候儀は勿論可被申付之、若落著難成儀は、証拠取集奉行所江指越可申事。

                                              (武家厳制録二十一)

土支田村にのこる諸文書から同村の歴代の代官氏名をあげれば次のようである。

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第二節 知行地
<本文>

前掲の「武蔵田園簿」によれば、区内の私領は伊賀衆知行の橋戸村・板倉周防守の知行の中荒井村・上新座村・今川刑部知行の中村であつた。橋戸村を領した伊賀衆は伊賀国の郷士で功によつて千貫文の祿をあたえられたいたが、家康が幕府を興すや召されて仕えたもので、江戸四谷の伊賀町などは彼等の集団住居地であつた。伊賀者といえばしのびの者をいうが、伊賀国の者を主に用いたのでこの名がついたものである。板倉周防守は重宗と称し、板倉伊賀守勝重の長子である。父四郎左衛門勝重は、家康に重く用いられ駿府奉行を勤め、家康が江戸に移るや釆邑千石を賜わり、江戸町奉行の重職を経て京都所司代に補せられ、一万六千余石を領した人物であり、重宗の弟重昌は寛永十四年(一六三七)島原の乱の際、追討使として赴き、戦死した人物である。

板倉周防守知行の地は、中荒井村一三五石余・上新座村五百石余・中台村二〇三石余・志村一四二石余で併せて九八二石余を領した。

中村を領した今川刑部は、今川治部大輔義元の子孫で、寛永十三年(一六三六)奥高家となり侍従に任ぜられ、中村七六石余・上鷺ノ宮村一四二石余・井草村一〇五石余など三四四石余を領したものである。

<節>
第三節 寺社朱印地・除地
<本文>

徳川家康は、関東入国にあたつて、古来からの由緒のある寺社に朱印地をあたえ、年貢諸役を免除した。区内の寺院の朱印地は次のとおりである。

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三宝寺と妙福寺が家康入国の翌年である天正十九年(一五九一)に朱印地をあたえられ、他は慶安二年(一六四九)の朱印である。

年貢諸役を免除され、村高より除かれた土地の中で朱印地の外に除地よけちがあつた。「地方凡例録」では次のように述べている。

<資料文>

除地ト云ハ、御朱印地ニツヅキ重キ事ニテ、寺社境内、並免田畑居屋敷等無年貢ノ御証文アルカ、亦前々検地帳外書ニヨケ地トシルシアル分ハ、タカ有無トモヨケ地ニテ、其外ノ無年貢所ハ見ステ地ト云

除地は、朱印地と同じく寺社の所有する境内田畑・屋敷地などで免税地して認められた土地である。

区内の諸村の寺社のうち、その大部が多少の除地を認められていたようであるが、史料によつて判明しうる土支田村・上練馬村・下練馬村・関村等について次表にまとめた。

図表を表示 図表を表示 図表を表示

<節>

第四節 村の行政
<本文>

領主にとつて、村落のもつ意味は貢租負担の基本単位であることである。貢租負担の義務を負う農民は村を生活の場として、きびしい統制をうけた。各村には名主・組頭・百姓代などの村役人があつて村民を支配し、さらに五人組がしかれ、領地行政は常に村を対象としておこなわれて、貢租は村宛に割当てられ、村で責任をもつて納入した。訴訟・契約・貸借も村が主体となつておこなうことも少くなかつた。

村民は村の重大事件につき協議し、村役人の選出にある程度の自治制を営むことを許され、神仏事・祭礼・農事などに生活共同体としての機能を果した。

<項>
一 名主
<本文>

名主は地方によつては庄屋・肝煎とも呼ばれている。慶安御触書(一六四九)には、名主について次のように述べている。

<資料文>

一、公儀御法度を恐れ、地頭・代官之事おろそかに不<漢文>レ存、扨又名主・組頭をは、真の親とおもふへき事。

一、名主・組頭を仕者、地頭・代官之事を大切に存、年貢を能済、公儀御法度を不<漢文>レ背、小百姓身持を能仕様に可<漢文>二申渡<漢文>一、扨又手前之身上不<漢文>レ成、万不作法に候得は、小百姓に公儀御用之事、申付候而も、あなとり不<漢文>レ用物に候間、身持をよくいたし、ふへん不仕様に常々心かけ可<漢文>レ申事。

一、名主心持、我と中悪者成共、無理成儀を申かけす、又中能者成共、依怙贔屓えこひいきなく、小百姓を懇比ねんごろいたし、年貢、割役等之割、少も無<漢文>二高下<漢文>一、ろくに可<漢文>二申渡<漢文>一、扨又小百姓は、名主、組頭之申付候事、無<漢文>二違背<漢文>一、念を人可<漢文>レ申事。

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代官、地頭の命をうけて貢租を徴集することが名主の主要任務であつたが、村単位に賦課された貢租を村民一人一人に所有高に応じて割当てる仕事は特に公正を要求された。

乍<漢文>レ恐以ニ書付<漢文>一御訴訟申上候

<資料文>

一、武州多摩郡野方領江古田村小百姓御願申上候。高反別面々無<漢文>二御座<漢文>一候ニ付、十七ケ年以前子三月名主孫右衛門方へ組頭小百姓其不残参り願申候ヘハ、孫右衛門申候義ハ大分手間入用等多クかか(り)急ニ者不<漢文>レ成由ニ申候而書貫相渡シ不<漢文>レ申候間、其以後度々願申候得者ハ、又々九年以前申年、筆紙等遣シ申候ハハ書ぬき可<漢文>二相渡<漢文>一シと申候ニ付、右之品々買調組頭以遣シ申候得共、今ニ相渡不<漢文>レ申難義仕乍恐御訴訟申上候。

  同村相役太左衛門方十弐年以前己ノ年、小百姓共願申候ヘハ早々書ぬき相渡シ申候所ニ、孫右衛門儀ハ心得不<漢文>レ仕相渡シ不申候。年寄組頭頼度々願申候得共今ニ書渡シ不<漢文>レ申候。

一、御年貢ハ不<漢文>レ及<漢文>レ申、村入用出銭等迄名主申かけ次第ニ差シ出申候、難儀ニ及申候。

一、下板橋御伝馬役之儀、大役ニ御座候ヘ共、大小之百姓おしならし相勤申候而小百姓共難儀仕候。乍<漢文>レ恐御願申上候。

一、御年貢御割附之儀前々ゟ年寄組頭小百姓ハ不<漢文>レ及<漢文>レ申、相聞候儀ハ一切無<漢文>三御座<漢文>一候。名主方へ御割附被<漢文>レ下候節ハ不残相聞セ御上納仕候様、乍<漢文>レ恐御訴訟申上候。

  右通相違無<漢文>二御座<漢文>一候。連判以<漢文>二御訴訟<漢文>一申上候。被<漢文>二仰付<漢文>一被<漢文>レ下候ハハ、有難奉<漢文>レ存候。以上

   享保元年                   江古田村

                           辰八月 小百姓共

御代官様                                           (関口家文書)

江古田村の小百姓が、年貢諸役の割当について、高反別帳によつて公正に配分することを再三要求したが、名主側が聞き入れないので領主に訴えたものである。こうした年貢諸役の配分にからむ訴状はかなり多い。

土地の売買証文にも名主が奥書・裏書をした。

<資料文>

       質物手形之事

一 去午ノ御年貢ニ払方ニ相詰リ金子五両借用申候。為此質物今神前ニ而下々かや野壱反拾弐歩此高壱斗四合之所相渡シ申所実正也。但シ年季之儀は未ノ三月ゟ子ノ三月迄五年季ニ相定申候。此畑御年貢御役等其方ニ而相勤手作可被成候。年季極り右之本金返進申シ候ハバ無相違御返可申候。相返進申儀成兼候ハバ此証文ニ而何年も手作可被成候。此畑ニ付外ゟ一切構無御座候。為後日仍而質地証文如件。

                                 今神村地主 吉右衛門㊞

    寛延四年未三月                        五人組 又七  ㊞

                                   同   利左衛門㊞

                                   同   清三郎 ㊞

                                   組頭  久兵衛 ㊞

                                   五人組 源四郎 ㊞

                                   名主  作左衛門㊞

                                   同   久右衛門㊞

           本村庄兵衛殿

名主の選任について、「地方凡例録」では次のようにのべている。

<資料文>

上方筋遠国ノ庄屋ハ、家極リ数代連綿シ、若右ノ役可<漢文>レ勤モノ幼若ナレバ、組合ノ内カ又ハ親類ノ内ニテ後見相立、庄屋ノ名目ハ其家ノ主幼少タリトモ継<漢文>レ之一村ヲ治メ、縦大高持豊饒ナル百姓タリトモ、其家ニ非レバ名主役勤ルコトナラズ、依<漢文>レ之庄屋ノ威

光重ク村中能治リ、庄屋ノ下知ヲ負クコト少シ、尤世々連続シ勢有ニ任セ、我儘ナルコトモ多ク百姓ノ為ニナラザル儀モアリ、関東モ昔ハ名主ノ家定リ有シ由ナレドモ、前書ノ趣ニテ百姓ノ為ニ宜シカラザル事多キ由ニテ、享保ノ頃ヨリ一代勤又ハ年番名主トテ、一村ノ内名主役可<漢文>レ勤家柄ヲ撰ミ、百姓ノ内ヨリ一年宛順番ニ名主役ヲ持、依テ百姓仲間ユエ役威嘗テ無之トノ示シ不<漢文>二行届<漢文>一、村中不取締ノ儀モ多シ、両様ノ内何レカ是ナランヤ難<漢文>レ

はじめは、名主の家柄がきまつていて名主役が世襲であつたが、権威をかさにわがままなことが多く百姓のためにならないので、享保の頃より一代勤め又は年番名主として村内から名主役の家柄を選び、交替で勤務するようにしたが、名主の役威がなく、世襲と交替と「いずれが是ならんや」と述べている。

また場合によつては百姓全部で願いでることもあり、惣百姓の入札によることもあつた。

<項>
二 組頭・年寄
<本文>

組頭・年寄は名主の補佐役で、名主の仕事を助け村務を処理する役である。「地方凡例録」では組頭について次のように述べている。

<資料文>

組頭ト云ハ元来五人グミノ頭分ヲ致シ、今は百姓ノ内算筆等致シ人品宜高モ相応ニモチ、可<漢文>二用立<漢文>一者ヲ村ノ大小ニ由テ五人三人宛入札カ、又ハ惣百姓相談等ニテ極置、名主ノ下役ニシテ、公儀地頭ノ用并邑用ヲ勤ム、病気カ或ハ何ゾ子細有テ退役イタサセバ、又外ノ者ヲ見立勤サスル、組頭ハ給米無<漢文>レ之村多シ、引ダカハ十石マタハ五石八石位アレドモ、組頭引ダカノ儀ハ、公儀御定御触ナドシ、遠国ナドノ年寄長百姓モ組頭同然也、尤組頭役ハ不<漢文>レ及<漢文>レ願、ムラ方ニテ取締役所ヘハトドケヲ出スコトナリ

組頭は年寄・長百姓ともいつて人品もよく財産もある人物から選ばれた。練馬地方では組頭・年寄のどちらも用いられているが、一部にいわれる如く組頭と年寄の職掌が特にちがつていたとは思われない。江古田村の安政年間の年寄磯右衛門は慶応年間の文書には組頭磯右衛門として署名している。年貢皆済目録などでも名主・組頭・惣百姓宛となつているもの、名主・年寄・惣百姓と宛てているものなどまちまちである。

名主が何かの都合で欠員になつた場合には、歎願書・請書の署名は、組頭・年寄が村役人惣代としてその任にあたつた。

時代が下るが明治二年(一八六九)の上練馬村一件歎願書の村役人惣代の署名をみよう。

<資料文>

    乙十月廿二日

      当御支配所武州豊島郡下練馬村

            役人惣代 年寄 久右衛門

                 同  惣左衛門

                 同 三郎右衛門

      中荒井村  役人惣代 名主 伝内

      谷原村   役人惣代 年寄 武右衛門

      中村    役人惣代 名主 権右衛門

                 (以下略)

                                       (江古田片山総攬)

年寄組頭の数は一定でなく三名乃至五名が一般的であつたが、文政四年(一八二一)の上練馬村の五人組帳の署名を見ると、年寄は実に二十二名の多きに及んでいる。

<資料文>

         (前書略)

    文政四年巳二月

        名主   利左衛門

        年寄   吉左衛門  年寄 五右衛門

        同    五右衛門  同  孫右衛門

        同    五左衛門  同  太左衛門

        同    五郎右衛門 同  伝三郎

        同    平左衛門  同  権兵衛

        同    半右衛門  同  八左衛門

        同    四郎兵衛  同  伊兵衛

        同    武兵衛   同  長左衛門

        同    文左衛門  同  源左衛門

        同    八郎兵衛  同  吉兵衛

        同    甚右衛門  同  喜兵衛

        百姓代  藤  助

        同    定右衛門

<項>

三 百姓代
<本文>

百姓代は農民側の代表者で一流の高持ちから選ばれて、村費その他の割賦に立会い村役人を監督する立場にあつた。「地方凡例録」では次のように説明している。

<資料文>

百姓代ト云ハ、名主ノ外其ムラニテ大タカモチノ百姓一人究置、尤ムラニヨリ二人三人有モアリ、是ハ名主、組頭ヘ百姓ヨリノ目附也、村入用其外諸割賦物ナドノ時立会、大ダカヲモチタル農家承知ノ上ハ、小ダカノ者申分無之也、百姓代ハタカモチノ役ニテ勉ル故、給米引ダカナシ、右ノキハメ成トモ、ムラニ寄テハ組頭同様タカノ多少ニモ強テ不<漢文>レ抱、其一人ヲ撰ビ惣農家ヨリ頼ミテ、百姓代ニイタスモアルドモ、是ハ当ラザルコト也、名主、組頭、百姓代ヲ村方三役ト唱ル、

嘉永七年(一八五四)の上練馬村の百姓代二名についてその所持高をみれば、一名は九三石余で他の一名は一六石余で村内有数の高持百姓である。(宗門人別書上帳による

名主・組頭(年寄)・百姓代は代官領主の支配のもとに実際の村政にあたつたのであるが、彼等は村役人と呼ばれ、幕府支配機構の最末端の機関でこれらを地方三役ともいう。村役人は領主の命によつて村政をまかされたが、村の規約、申合せの創案者にもなり、訴状歎願書の案文の起草、その他に村民の利益代表者となることが多かつたが、反面前述の江古田村の場合のごとく、村民の要求から離反して排斥を受けることも少くなかつた。

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<項>

四 五人組制度
<本文>

近世の村は貢租納入の責任を村全体として、負わされていて、年貢未進の者があれば、村として完納しなければならず、つぶれ家があれば、その田畑は総村として耕作し、貢租を納めなければならなかつた。

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五人組制度はこうした貢租の完全徴収を目的としたもので、あわせて治安警察の機能を果した。

浪人取締、切支丹禁令の徹底などにもこの制度は大いに利用されたのである。その組織は近隣の五家が組をつくるのを原則とするが、必らずしも五家に限つたわけではない。次の上石神井村の例でも四人組・七人組などが見られる。

<資料文>

    組頭 吉右衛門 ㊞     組頭 文 治 郎㊞

       庄   助㊞        熊   蔵㊞

       喜 平 治㊞        甚 之 丞㊞

       勘右衛門 ㊞        八 三 郎㊞

       杢 之 介㊞        六右衛門 ㊞

       清 治 郎㊞        善   蔵㊞

    頭組 文 五 郎㊞     組頭 五郎右衛門㊞

       半右衛門 ㊞        弥 四 郎㊞

       新右衛門 ㊞        市右衛門 ㊞

       半 四 郎㊞        定右衛門 ㊞

       勘   助㊞

       伝   七㊞

       仁右衛門 ㊞

             (以下略)

                 (天明五年上石神井村五人組帳)

名主などの通知を組合員に徹底する役目をもつ長が組頭で判頭・筆頭とも呼ばれた。

その選任にあたつては、家格、選挙、役所からの任命などの方法をとつた。組合員の義務としては、婚姻・養子縁組・相続・廃嫡などに立会い、耕作の助力、貢租未進の場合の代納、田畑質入売買証文の連印、犯罪の連帯責任を負うことなどがあつた。

五人組には五人組帳があつて、農民統制の諸法令が記載され、村役人はこれを毎月または年に数回村内の総百姓に読み聞かせ、その奥書に法令を固く守ることを誓わせて、名主・年寄・百姓代の村役人以下五人組員が連署捺印して代官所に提出したものである。

穂積陳重編の「五人組法規集」には穂積博士が蒐集した五人組帳中の最古のものとして、承応四年(一六五五)の

武州新倉郡小榑村の五人組帳の前書が収録されているので、区内のものとして興味深いので全文を左に引用しよう。

<資料文>

      差上ケ申所々五人組之事

一、正月十一日より井堀河よけ関堤之普請無油断入念新関新手樋可仕場於御座候者毎度申上御指図次第可仕候事

一、田畑壱畝壱歩成共荒間なき様に作に念を人可仕候若少成共百姓情分に而も不罷成荒可申様に御座候はは得御下知を可申候油断仕荒申候者曲事に可被仰付候事

一、竹木むさと伐取申間敷候百姓家作杯仕候者御手代衆迄御断可申候我ままに伐取申候者如何様之御法度にも可被仰付候事

一、御衝不知他国之者牢人商人乞食たりと云とも一夜之宿をも借中間舗候事

一、所之者他国へ参年久敷罷有又所へ罷帰度と申か同聟いせきに参候共庄尾五人組に断先々迄断置可申候事

一、道橋本道之儀は不及申に脇道迄も念入毎日作可申候

上様 御成之場は砂をしき致付芝成程念人御馬之足少も入不申候に被仰付候間庄屋五人組に而断作可申候若油断致悪敷所有之候者何様之曲事にも可被仰付事

一、御成之時分は如御法度之何者成共道中壱人も通申間敷候事

   附犬猫念を人つなぎ可申候

   此外御鳥見衆被仰付候御法度之趣少も相背申間敷事

一、欠落手被之者候者隠なく可申事

一、牛馬売買仕候者先之出所を改請人立五人組江断致売買可申候不伝成馬買申ましき事

一、博奕並賭之諸勝負一切仕間敷候

一、郷中に作も商不致我職なくして罷在候者致吟味御披露仕御差図を以其村を払可申事

一、切死丹てれんいるまん御法度之宗門郷中に一人も無御座候若他所より右之宗旨之者参候者押置可申上候油断いたし脇より訴人御座候はは何様之御法度も可被仰付候事

一、其所之儀は不及申近所之村にても夜行盗人火事と啼を立候者急出合可申事

一、人之売買如御法度之拾年季之外は売買仕間敷事

一、御年貢米糠藁小米無之様に縄俵如御差図之念人御刻付之通納可申候若郷中に而未進仕欠落杯仕候者郷中にて弁納可申事

右之通五人組に被仰付候間念人致吟味五人組仕上ケ申候若御仕置を相背におゐては其もの之儀は不及申組中之者不残何様之御仕置にも可被仰付候少も御恨に存間敷候

                              武州新倉郡小榑村

  名主承応四乙未年                         名   主

    宛   所

右の五人組帳前書から用水管理のこと、田畑荒しの禁、竹本伐採の禁、他国者宿泊の禁、旅行の届、道橋普請のこと、御鷹場御成のこと、欠落者の届、牛馬売買のこと、博奕の禁、無職者吟味のこと、切支丹宗門の禁、夜打盗人火事出会のこと、人身売買の禁、年貢米納入のことなどの諸規定をうかがうことができる。

五人組の法規は初期のものほど条数は簡単であるが、時代がくだるにしたがつて条数が増加するとともに、内容も整備していつた。

右の小榑村の五人組帳前書は僅かに一五カ条であるが、天明五年(一七八五)の上石神井村の五人組帳前書は六一カ条になり、さらに文政四年(一八二一)の上練馬村の五人組帳では七三カ条にのぼる。

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また天保七年(一八三六)の代官山本大膳の五人組帳は全編一四七カ条で、五人組帳のうちでもつとも完備しているものである。当地方のものとして上石神井村の五人組帳前書の全文を次にあげよう。

<資料文>

      天明五年

     己五人組帳

      三月

             豊嶋郡

               上石神井村

      条々

一 前々従公儀被仰出候御条目之趣者勿論自今以後被仰出候御法度之旨堅ク可相守事

一 御鷹場村々之儀前々ゟ被仰出候通り右御用向大節ニ相守可申候事

一 五人組之儀家並最寄次第五軒宛組合借地店借り寺社門前下人等ニ至迄諸事吟味仕悪事無之様可仕候事

一 切支丹宗門之儀御制禁之条不審成ル者有之ハ可申出候若不審成者隠置後日ニ顕候ハハ五人組共ニ急度可申付候事

一 常々無油断耕作ニ精入仕百姓ニ不似合遊事何ニ而も仕間敷候作物不精成者有之ハ随分致異見於不用ハ可申出候事

一 父母孝行夫婦兄弟親類む津ましく可仕候若諸親類と不和ニ而異見をも不用不孝不義之輩有之ハ名主組頭五人組致吟味可申出候事

一 兼而被仰出候通り捨子堅ク仕間敷候惣而便りなき老人幼少之者有之は其所ニ而介抱いたし其上可申出候事

一 其村々之内鉄炮之儀前々吟味之上預ケ置候外所持仕間敷候。若持主之外他人ハ不及申親類たりと云共堅ク貸シ申間敷候事

一 人売買御制禁之条堅ク可相守召仕男女抱候節宗門相改慥成ル請人手形取司差置事

一 捨馬之儀不仕前々之通相守可申候 自然はな連牛馬有之ハ名主組頭立合養置早速可申出候事

一 御年貢米江戸廻シ之節積船之儀二年三年舟ヲ限古船又者船具不足出船に積申間敷候事

一 御年貢米之儀前々之通り随分念入可申候。尤縄俵等迄名主組頭立合吟味可仕候事

一 御朱印伝馬并往還之次人馬先規勤来り候儀人不及申伝馬宿之外在々たりといふ其御用ニ而通り候衆有之ハ昼夜風雨をいとわす人馬無滞出シ可申候、尤御朱印之外定之駄賃請取継送り可申候。若囚人通り候節ハ無油断人馬出シ大切ニ可仕候事

   附り往還之対旅人不作法成ル儀仕間敷候事

一 押売押買仕間候他所ゟ来り候対旅人不作法不仕縦軽キ者ニ而も加路しめかさ津成儀仕間敷候事

一 田畑永代売買頼納売買并八重質之儀御制禁之条堅ク可相守縦年季質物ニ人候共不可過拾ケ年尤名主組頭五人組加判ヲ以証文取替シ可申候事

   附り名主組頭加判無之証文取上ケ無之事

一 名主加判無之証文出事

一 名主置候質物ハ相名主又者組頭等之役人加判無之証文之事

一 拾年季越候質物証文之事

  右三ケ条之儀并田畑永代売買又ハ地主ゟ年貢諸役等勤金主ハ年貢諸役を不勤質物之類前々ゟ御停止ニ而村方五人組帳ニ記シ有之所右之通り不埒之証文ヲ以訴出候儀有之候自今五人組帳名主庄屋等ゟ大小之百姓江渡々為読聞不致忘却様可仕候事

一 享保元申年以来年季明ケ候質物ハ自今年季明ケ拾ケ年過訴出候ハハ取上ケ無之事

一 金子有金次第可請返旨証文有之質物ハ質入之年ゟ拾ケ年過訴出候ハハ取上ケ無之事

   右二ケ条自今拾年之内訴出候ハハ取上ケ裁断有之候右年数過候分ハ取上ケ無之事

一 所々ニ而跡々ゟ有来候造酒屋之外自今以後新酒屋仕間敷候事

  附り前々御免高酒造り米之外造酒仕間敷候事

一 火事喧𠵅其外不依何事不慮之儀於有之にハ早速注進可仕候事

  附り火之元五人組切ニ常々致吟味大切ニ可仕候自然村中之儀ハ不及申隣村出火之節早速火之元江駈付火を消し可申候、諸道具等曽而綺申間敷候事

一 前々ゟ荒地之場所随分地主精入速々立帰り候様ニ可仕候若地主力ニ不及程之儀ニ候ハ、百姓仲間助合起シ帰候様ニ可仕候事附り起帰り場所有之ハ不隠置早速畝歩書付可差出候事

一 御年貢米御蔵ニ詰置候節ハ番人付置大切ニ相守可申候、若村之内出火有之ハ百姓駈付火を不移候様ニ随分防可申候事

一 御伝馬宿出火有之ハ高札焼失不致様ニ早速は津し取可申候事

一 旅人ニ一夜之宿貸シ候共名主五人組江可相断無拠儀有之翌日も逗留仕におみてハ名主五人組立合吟味之上留可申候。尤怪敷者一夜之宿成共貸シ申間敷候事

   附り旅人何ニ而モ取落シ候ハハ早速追欠為持可遣候

一 旅人相煩候歟又者酒酔有之ハ名主組頭立合所持之晶々相改在所縦名承届ケ介抱いたし置本復之後右之品々可渡遣候重キにおゐてハ可申出候事

一 従他所手負候者来り候ハハ名主組頭立合致介抱置委細承届ケ可申出候事

一 倒死候者有之ハ名主組頭立合委細相改所持之雑物相封付置死骸者所不替番人付置早速注進可仕候尋来者有之ハ出所等承届ケ是又可申来候事

一 欠込者有之節追手之者慕ひ来り其届ケ於有之ハ早速村中之者共駈集り随分取逃シ不申様致置可注進候事

一 博奕之諸勝負一切停止尤宿堅ク仕間敷候若相背者有之ハ其科重かる遍き事

   附り常々人之妨をなし或酒狂口論好族有之歟耕作商等家業不致者有之ハ名主組頭吟味之上可申出尤用事なくして出人之者有之ハ五人組心テ付可申出候事

一 三笠附之儀堅ク仕間敷候尤点者杯仕候者有之歟外ゟ右躰之者参り宿等相頼候共一夜之宿ニ而も貸シ申間敷候、右之段五人組切ニ相改常々心ヲ付怪敷者候ハハ早速可申出候事

一 喧𠵅口論有之ハ聞付次第出合取押江可申候人を対立退候者有之ハ押置可注進若取逃シ候ハハ跡を慕ひ落着所を見届ケ預ケ置可注進候事

   附り喧𠵅口論取押江候江候節飛道具持不罷出尤加勢不可致候事

一 堂宮山林ニ怪敷者不罷在候様ニ常々吟味可仕候惣而行衛不知もの差置中間敷候事

一 郷中番屋之儀如有来番人差置不審成者有之ハ声を立可申候自然盗賊人候ハハ番人不及申所定者共不残駈付捕可申候、尤むさと殺し中間敷候、不出合者有之ハ可為越度候事

一 新規之寺社不可建立井念仏塚庚申塚ほこら等有来候外不可致候事

   附り住寺神主替目之節ハ可申出候事

一 神事祭礼有来通相勤新規之祭礼仕間敷候事

   附り仏事追善分限ゟ軽之可致候事

一 勧進能相撲狂言芝居其外諸見物類可為停止事

   附り遊女歌舞妓類不可差置候事

一 不依何事徒党がましき儀仕間敷候惣而公事出入之儀有之ハ名主組頭五人組立合取扱之不相済儀ハ可申出候事

   附り荷担致者有之歟又は公事をエミ出入する族有之ハ科重もかる遍き事

一 境論無之様ニ常々念入可申候事

   附り古荒地川欠ケ場所并新開有之ハ隠なく申出遍し尤開発ニ可成所有之ハ其趣可注進事

一 用水之儀先規之例ヲ以兼而相定置渇水之節争論無之様ニ可仕候事

一 川通り村々堪水之節名主組頭惣百姓罷出川除井堰溜池等切不申候様ニ随分防可申候勿論常々無油断御普請所不及大破様可相心得候事

   附り用水溜池等毎春浚可申候事

一 往還之道橋ハ不及申脇道ニ而茂常々無油断繕之人馬通路無難儀様ニ可仕候事

   附り有来道田畑江切込申間敷候事

一 川船渡船運賃之儀古来定之通り不可違乱事

   附り御域米積候船不及申不慮之破船有之ハ近在之者共早速罷出相働尤荷物紛失無之様ニ可仕候事

一 公儀御林ハ不及申山林并四壁竹木猥ニ伐荒之申間敷候事

   附り御林并往還通並木風折木等有之ハ当分通路障リ無之様ニ仕置早速注進可申候事

一 村次之廻状不限昼夜先々江相届ケ手形取置可申候事

一 質物之儀能致吟味慥成請人ヲ立可取之事

一 百姓家作之儀分限相応ゟ軽ク可仕候、目立候普請不可致衣類之儀名主妻子たりといふ共布木綿之外着申間敷候惣而京織巻物類ゑり帯等にも不可申候事

   附り男女共ニ乗物并乗鞍馬停止候、惣而奢ケ敷儀不可致尤改なくして力ヲ不可指事

一 毎年百姓夫可成ニ食類貯置凶年之節夫食等相願不申様常々心懸ケ可申候事

一 田畑譲候節高拾石ゟ以下之者分申間敷候若無拠子細有之ハ可申出候事

一 聟取養子取組之儀名主組頭五人組立合能々念を入重而六ケ敷儀無之様ニ可仕候事

一 不依何事他所ゟ引越候者有之ハ出所致吟味請人ヲ断其取可申出候事

   附り所生たりと云共年久敷他所<外字 alt="判読不能">〓罷在立帰り候ハハ其断可申出候事

一 他所江罷越一宿可仕者名主組頭江申合其外之者共五人組江相断帰候ハハ其断可仕候事

   附り江戸并何方ニ而も用事有之罷出候ハハ其事相済次第早速罷帰り永逗留不可致候事

一 跡式之儀兼而書置仕名主五人組立合致加判死後出入無之様可仕候事

   附り跡目無之者不慮ニ死失候ハハ所持之品々名主組頭五人組立合相改可申出候事

一 独身之百姓著長癒杯シ耕作成兼候節ハ五人組として助合田畑荒シ不申様可仕候事

一 訴訟其外不依何事申出儀有之者五人組江断名主組頭を以可申達候、百姓我儘いたし名主組頭之申付をも不承引者有之ハ吟味

之上可申出候事

一 町在共諸事御用ニ付手代差遣申候節賄之儀御定之木銭雑用代可相渡候間請取之所ニ有合候物を以相賄馳走かましき事一切仕間敷候并召仕之者仲間小者迄右同事ニ相心得可申候勿論木銭酒肴衣類諸道具何様之軽キ物ニ而も、物堅ク仕間敷候尤金銀米銭当分たりといふ共借り貸し一切仕間敷候事

   附り手代召仕者迄非分之儀申者有之ハ早速可申出候事

一 毎年御年貢割付出候ハハ惣百姓出作之者迄為致被見無相違様割合可申候。尤御年貢皆済無之以前穀物等猥ニ他所江不可出候事

   附り御年貢米金名主組頭請取之儀手形取替シ置重而出入無之様可仕候事

一 村々御普請人足扶持米其外被下物之類当座割合可申候尤年中村人用懸り物之儀其時之名主組頭年寄百姓立合帳面ニ記シ致判形置無相違様割合重而出入無之様念入可申候若不吟味之儀有之申出候ハハ詮儀之上名主組頭越度候事

   附り継合勘定之儀一切仕間敷候不依何事合点之上判形可仕候事

一 名主組頭印形替候ハハ判鑑を以可申出其外之者共名主方迄判鑑可出置候事

一 寛文三年午正月被仰出候百姓共願訴訟之儀ニ付大勢相集り徒党強訴仕候儀ハ御停止之処若此上ニ而も右躰之儀有之におゐてハ重キ御科可被仰付旨御書付之趣奉拝見急度相守可申候事

  右之条々堅ク可相守若違背之族有之ハ当人者不及者品ニ寄親類縁者名主組頭五人組迄可為曲事者也

  右御条目之趣大小之百姓其外水呑等迄村中之者共不残承知奉畏候、常々無油断吟味仕候若違背仕候者御座候ハハ当人者不為申親類縁者名主組頭五人組迄何様之曲事ニも可被仰付候、為其村中相談之上五人組相極連判指上ケ申候 仍而如件

天明五年巳三月

                       豊島郡上石神井村

                           年寄 仲右衛門㊞

                           同  利兵衛㊞

                           同  又兵衛㊞

  飯塚常之丞様                   同  市兵衛㊞

    御代官所                   同  伝四郎㊞

                           同  長十郎㊞

                              (金沢家文書)

<項>
五 宗門改
<本文>

江戸時代にはいつてキリスト教の布教は厳禁され、島原の乱後は特に取締りは厳しくなり、その方法として仏寺が利用された。キリスト教徒の根絶に手を焼いた幕府は寛永十七年宗門(一六四〇)改役をおいて直轄領内の宗徒の摘発につとめ、寛文四年(一六六四)には諸藩に至るまで、各戸の宗旨調査、宗徒の検察をおこなつた。

その方法は寺請制度と宗旨人別帳の作製である。第一の寺請制度はキリシタンでないことを証明させることで、婚姻・奉公・移住などにはかならず檀那寺の証明を必要とした。

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<資料文>

        人別送之事

                              米津越中守領分

                                 武州新座郡小榑村

                                    百姓牛松娘

                                      た つ

                                       当廿弐拾弐歳

 右者儀親手許ニ差置農業手伝居候処、今般貴御村百姓文五郎伜九十郎妻ニ差置度段申出候ニ付当村人別相除候間、当三月ゟ貴御村人数ニ御差加不被成候。尤宗旨之儀は代々日蓮宗ニ而寺は当村大乗院旦那ニ紛無之候。依之人別送一札如件

                               右小榑村

                                名主御用他行ニ付

                                  代 兼

                                  組 頭

                                   半太夫㊞

 嘉永六丑年三月

    土支田村

      上組

      御名主中

          人別請取之事

         な津 壱人

       一、人別送り 壱通

         右之通り慥ニ請取申候 以上

                     下保谷村

        文久元酉年三月廿八日    名主見習

                         源蔵㊞

           土支田村

             名主

              綱五郎殿 (町田家文書)

第二の宗旨人別帳は寺の僧に戸籍権があたえられ出生・死亡の際は檀那寺へ届出をさせ、寺の住職は自分の壇徒の中には決してキリスト教徒はいないことを証明し、村役人連署のうえ役所へ提出した。この帳簿を宗門人別帳といつて、当時の戸籍台帳の役割を果した。

宗門人別帳には檀那寺・戸主以下の全家族名・年齢・戸主の肩書と所有石高が記載されているが、記載事項の細部にわたつては地域によつて若干の相異があり一定していない。

ここに嘉永七年の上練馬村の宗門人別書上帳を参考にあげてみよう。

<資料文>

       嘉永七年

     当寅宗門人別書上帳

       寅二月                        武州豊嶋郡

                                    上練馬村

一、壱季居出替時節多る問、宗門之儀入念致之、耶蘇宗門ニ無之段、請人を立相抱可申事

一、耶蘇宗門今以密々有之、所々ゟ捕来ル間、不審成もの不罷在様、無油断入念可申付事

一、郷中改之不審成者不差置、若耶蘇宗門隠置他所ゟ顕るおいて者名主五人組可為曲事候間、毎年旨趣具ニ書手形可差出事

   但耶蘇宗門御制禁之高札廃、手席文意見へ可年るにおゐてハ新敷立替可申事

  以上

右寛文十一亥年二月被仰出候趣を以、前々御改之儀者郷中穿鑿被仰付、名主組頭百姓下者不及申、寺社方同宿沙弥道心虚無僧山伏浪人等ニ至迄、地借店借壱人も不残相改候処、疑敷者無御座候、若シ不吟味仕耶蘇宗門脇ゟ罷出候ハハ、名主組頭五人組迄、何様之曲事ニ茂可被仰付候、為其名主組頭印形帳面差上申処如件

                                 豊嶋郡上練馬村

  嘉永七寅年二月                           上練馬村

                        高六石壱斗壱升壱合

                          年寄    吉左衛門㊞

                                  当寅六十弐才

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                                女房 里   代

                                  同 五十八才

                新義真言宗愛染院旦那       伜 政 五 郎

                                  同 二十五才

                              同人女房 き   く

                                  同 三十四才

                                 娘  と   里

                                  同 弐十四才

                                 孫  弥 壱 郎

                                  同 十壱才

                             〆六人内 男三人女三人

                            高七斗弐升九合

                                百姓 五郎右衛門㊞

                                  当寅三十弐才

                同 寺

                                 弟 金    蔵

                                  同 弐十八才

                             〆男弐人

 

                          高五斗弐斗九升三合

                                百姓 次郎右衛門㊞

                                  当寅三十六才

                                女房 と   み

                                 同 弐十八才

                同寺               母 ち   よ

                                 同 六十四才

                                祖父 林   蔵

                                 同 八十三才

                             〆四人内 男弐人女弐人

                                高八石弐斗弐升壱合

                                百姓 惣 九 郎㊞

                                 当寅三十弐才

                                女房 可   津

                                 同 弐十七才

                                 妹 ゑ   き

                                 同 弐十七才

                同寺               同 と   代

                                 同 弐十壱才

                                 弟 勇 次 郎

                                 同 十七才

                                 伜 長 五 郎

                                 同 弐才

                             〆六人内 男三人女三人

                             高四石七斗四升三合

                                百姓 勘右衛門㊞

                                 当寅四拾四才

                同寺              女房 な   津

                                 同 四十壱才

                                 伜 安 五 郎

                                 同 四才

                             〆三人内 男弐人女壱人

 

                            高拾四石九斗九升六合

                                百姓 杢左衛門㊞

                                 当寅六十二才

                                 伜 九 十 郎

                                 同 三十壱才

                同寺            同人女房 は   奈

                                 同 弐十七才

                                 伜 銀   蔵

                                 同 弐十五才

                              同人女房 ゑ   い

                                 同 弐十三才

                                 娘 は   け

                                 同 十三才

                                 孫 林 太 郎

                                 同 五才

                                 同 ほ   の

                                 同 四才

          去丑人別後出生仕由ニ付当人別より同差出申侯 同 庄 次 郎

                                 同 弐才

                             〆九人内 男五人女四人 馬壱疋

 

                            高三石六斗壱升

                                百姓 権 四 郎

                同寺              後家 多   き㊞

                                 当寅四十七才

                                 娘 と   代

                                 同 弐十壱才

                             〆女二人

 

          (中略)

右者当村宗門人別之儀御制禁之耶蘇宗門類族之もの決而無御座候。去丑三月ゟ当二月迄出生死失都而出入之者壱人別取調候処、書面之通相違無御座候 以上

 

                            武州豊島郡

  嘉永七寅年二月                      上練馬村

                                百姓代  藤  助㊞

                                同    定右衛門㊞

                                年寄   五左衛門㊞

                                名主見習 順  蔵㊞

   勝田次郎様                         名主  又  蔵㊞

    御役所

右の宗門人別書上帳によれば、上練馬村の檀那寺は、村内の愛染院・円光院・寿福寺・高松寺・養福寺の五カ寺と谷原村長命寺・土支田村妙安寺・下赤塚村松月院・下練馬村金乗院となつている。

いま、これらの諸寺について檀那寺別に檀家数を示すと次のとおりである。

図表を表示

人別帳にはさらに縁組・死亡・出生・出稼奉公による移動も詳細に記されている。二三の例を示そう。

縁組入人分

一、私妻とめ儀同郡下赤塚村百姓 年寄 孫右衛門

源兵衛妹、去丑ノ人別後八月

中貰受候ニ付、当人別江差出

申候

出生人分

一、私孫庄次郎儀は去丑人別後出 百姓 杢左衛門

生仕候ニ付当人別江差出申候

奉公人入分

一、豊島郡田中村百姓勘蔵兄多重郎 年寄 孫右衛門

儀去丑ノ三月ゟ当三月迄、壱

季奉公抱候ニ付、当人別江差

出申候

右の例は増分のみであるが、減分の記載も同様になされており、この人別帳によつて江戸時代の人口動態、家族構成の変遷についてもうかがい知ることができる。なお家族形態と農業の関係については後述する。

<章>

第三章 村落

<節>
第一節 近世村落の成立
<本文>

村が、一般行政の単位として成立するのは、戦国末期以後のことであり、検地施行以後のことである。もちろんそれ以前に何らかの地域的結合ができていたことは考えられ、それは郷とか庄とか呼ばれる結合であり、練馬地方においてもすでに室町時代において、石神井郷の存在が明らかにされている。(豊島宮城文書・米良文書

豊島氏中興の祖景村が石神井城主になつたのは鎌倉末期であり、豊島・多摩・新倉・足立・児玉等の南武蔵一円を支配していた。こうした事実は単に南武蔵の名門豊島氏の居城としての意味のみではなく、その背後に石神井地方の何らかの開発を予想することができる。しかし、その規模は、微々たるもので豊島氏に隷属する下人・所従の生活の場であり、練馬地方の大部分は無人の茫々たる原野であつたことであろう。こうした下人・所従の生活の場であつた練馬地方も豊島氏の滅亡と共に、そのまま近世村落への発展をたどることなく、新しい村落の形成されるためには別の政治力を必要としたと考えられる。この政治力こそ後北条氏の関東経営であつた。

北条氏の九〇年にわたる支配は、旧領主権力を駆逐して在地土豪層=在地武士を解体して、本拠小田原を中軸として、江戸・玉繩・鉢形・川越・忍・岩槻・松山・韮山・下田等を拠点とするその支配機構は、練馬地方の開発にあず

かつて力があつたと考えられる。この練馬地方も北条氏の家臣団に知行地として分与された。

「小田原所領役帳」によると、中新居・練馬・石神井・谷原・土支田・小榑等の在名がみえている。ここに表現される地域がどの程度の規模であるかは想像しがたいが、貫高表示による田畑は、そこに大規模な村落構成を考えることはできない。

察するところ在地の小土豪層に使役される下人などの隷農を包含する程度の村であつたと考えられる。それは、地縁的連契によつて保持された生活単位としての近世村落とはほど遠いものであつたにしても、決して近世練馬の村落形成とは無縁のものではなく、そこには貢租負担の単位としての村造りへの一歩が萠芽的に見られる。(武州文書・天正十六年武州江戸廻永福寺分検地書出

天正十八年小田原落城による北条支配変貌のうちに、小土豪層の支配下にあつて耕作労働に従事した下人等の隷農が次第に独立成長して行き、このような隷農の地位向上はそこに新たな村造りの営みをもたらしたことであろう。

後北条氏から徳川氏の関東支配という政治的な変遷は、この間に練馬地方の近世村落の形成を強行していつた。(天正十九年武州多東郡江古田村御縄打水帳

今までは土豪層に包含されていた小農民が独立して、領主に対する直接の貢租負担者となつてきたのである。後北条氏から徳川氏への支配関係の移行は単に練馬地方の支配者を据え変えた程度のものではなく、小農民を封建領主の貢租負担の単位として組織していつたのである。後北条氏支配下の貢租負担者としての「百姓」という意味は、下人所従などを包含するところの在地武士をさすものであるが、いわゆる太閤検地以後の「百姓」は、これら下人・所従

の独立した小農民を内容とするものであつた。天正十九年(一五九一)八月すなわち徳川家康関東入国の翌年の「江古田村御繩打水帳写」(堀野家文書)五冊に登録されている人名は五四名におよび、総町歩三七町五反歩であるが、三〇年程前の永祿二年(一五九五)の「小田原所領役帳」には江古田の地は、太田新六郎の知行が五貫文あり、寄子衆恒岡某の配当分であつた。

これを田一反歩につき田租五〇〇文、畑租一六五文として計算すると、田にして一町歩畑にして三町余となるが、三〇年程の期間に小農自立による急速な村落発展をうかがうことができる。

この変動のうちにあつて、農村に介在した小土豪層=在地武士は、支配関係の交替にもまれて没し去るか、或は土着していく方向をたどつた。

関村の開発名主である井口氏の先租三浦弾正義清は、北条早雲と鎌倉で戦つて敗北し、その後豆州走水荘井口郷に隠棲していたが、徳川氏が関東を支配するや、元和年間関村に土着して、それ以来武蔵野新田の開発にしたがつた。(井口家先祖書

また戦乱に荒廃した石神井の地を開墾したという高橋・尾崎・田中・桜井・元橋某もいずれもこの時期に土着帰農したものである。(新編武蔵風土記稿

永祿二年の小田原役帳にでてくる練馬地方の知行地は、江古田にしても中新居・練馬・石神井・谷原・土支田・小榑のいずれにしても、どの程度の地域をさすものであるか明らかでないが、こうした地域を中軸として漸次村落は形成されていつたものと考えられる。

天正十九年(一五九一)の江古田村検地帳、寛永十六年(一六三七)の関村検地帳などから見られることは小農民自立の傾向はかなり早くから進んでいることであり、少くとも家康の入府当時には、練馬村・石神井村・谷原村・中新井村などの成立が考えられるのではあるまいか。

寛永年間(一六二四~一六四三)に検地をうけている村は関村・谷原村・上下石神井村・中荒井村・上練馬村などであるが、正保年間(一六四四~一六四七)の武蔵田園簿にすれば上下練馬村・上下石神井村・土支田村・中新井村・中村・関村・谷原村・田中村・小榑村・橋戸村・に分れており、増加村の検地はすべてが寛文、延宝期(一六六一~一六八〇)におこなわれている。(新編武蔵風土記稿

林野地を含むこれら練馬地方の諸村の開発は、寛文・延宝期に至るまでに著しく進み、村高はおよそ二倍に伸びて、江戸時代における村落の規模はこの時期に決定ずけられたといえる。これらの村々はその大部分が幕府直轄領として代官支配下におかれていた。次に節をあらためて、江戸時代における各村の状態をのべてみよう。

<節>
第二節 村の状態
<項>
中荒()井村
<本文>

小田原所領役帳に「森新三郎買得十四貫五百文江戸廻中新居、元吉原知行」とあり、北条氏の支配下においてその

臣森新三郎の知行地であつた中新居は正保の武蔵田園簿においては、板倉周阪守知行、中新井村として村高一三五石余の村であり、当時田七九石余、畑五五石余で練馬地方では珍らしく畑より田の方が多い村であつた。

「新編武蔵風土記稿」には「日本橋より三里許、民戸百六十二、…………東は上板橋村、西は中村、北は下練馬、南は多摩郡江古田村なり、東西十六町、南北八町余……」と記されている。

検地は寛永八年(一六三一)寛文六年(一六六六)の再度で、元祿の武蔵郷帳では、三八五石余で、この頃から幕府直轄領となり幕末に至つている。

村の南端、多摩郡との境を中荒井川が流れ、その左右に水田が開け、また千川上水は北部を清戸道に沿つて流れて田用水として利用されていた。

<資料文>

          入置申一札之事

 一、米六斗六升八合

右者去戍年水口料之内書面之通り去戍霜月中迄ニ急度上納可仕所ニ段々及延引候所一言申訳ケ無御座候。依之先達而文左衛門茂左衛門両人者共参上仕以日延願仕、弥々来ル霜月中迄ニ村方取立急度相済可申候。為念如此一札人置申候。仍而如件。

  明和四亥年八月                       中荒井村

                                 名主 伝左衛門㊞

                                 年寄 文左衛門㊞

  下練馬村                           証人 茂左衛門㊞

    千川源蔵様                               (千川家文書)

右の文書は水料米遅滞について一札であるが安永三年(一七七四)の千川水料石高控によると中荒井村の水料石高三石五合であるから、一反=三升の割合で一〇町余を千川上水によつて経営していたと思われる。

<資料文>

          入置申議定一札之事

一、此度我等配下内字向田年々旱損而巳打続甚以難渋仕候。右ニ付先規ゟ引取樋ロ往古ゟ六寸四方之樋ロニ而引取罷在候へ其本田在用水廻リ合宜少々、等も有之候ニ付、我々共勝手ヲ以て、右往古ゟ六寸四方之樋ロ四寸之樋ロニ分合相談残リ弐寸ヲ以て右之向田へ相懸ケ度趣、小前之者共申聞候ニ付、御両人方へ申出候処、全分合之内ニ而用水引取之儀ニ付御承知被下寄分候。然上は弐寸之樋ロゟ聊たり共猥リニ水引申間敷候。猶又猥ケ問敷儀致し候歟、又は流末村方ゟ二ケ所引取ロ之処、譬存合之内たり共三ケ所ニ引取ロ相成候而は難渋之由ニ付万一公訴ニも相成候節ハ元形ニ致シ元樋六寸四方ニ相直し新規引取樋ロハ元形ニ相埋メ用水引取申間敷候。若又右議定通リゟ猥ケ間敷用水引取貴殿ゟ御差当有之節ハ何時たり共新規ロ之事故、御差図通リニ無異議致し可申候。為後日議定一札入置申候所依而如件。

  安政三辰年四月                        武州豊島郡中荒井村

                                     伝左衛門㊞

                                     文  七㊞

                                     惣左衛門㊞

                                     勝右衛門㊞

                                     七郎右衛門㊞

                                     正覚院㊞

  前書之通リ毛頭相違無御座候ニ付奥印仕差出申候 以上

                                  名主代年寄

                                      喜右衛門㊞

   千川善蔵殿

   千川平吉殿

                                       (千川家文書)

千川上水の中荒井村分水口が以前より六寸四方の樋口のところ、字向田が年々旱損で難渋するので六寸を四寸と二寸に分け二寸の樋口をもつて向田へ引水することについての一札である。

千川上水取入樋口の内法については極めて厳重に監視されており、石神井村・長崎村の二カ所に置かれた番人の主要な任務がこの取入口の不法盗水の監視であつた。

千川上水流末の滝野川村や巣鴨村などでは普通でも「右村之義流末ニ付夏分ニ至り候而は用水行届不申候ニ付田地荒地ニ相成リ候」と述べている如く用水行届かず困難しているところへ、更に引取口を一カ所増設することについては流末村々の反対が当然予想されることであつた。もし、流末村々の訴えがあつた場合には元形の六寸樋口に復すと述べている。

村内の小名は、本村・徳田・神明ケ谷戸・原・北荒井・中通で、高札場が神明ケ戸にあつた。(新編武蔵風土記稿)

諸史料にあらわれた村役人は次のようである。

図表を表示 <項>

中村
<本文>

新編武蔵風土記稿に「民戸六十・東は中荒井村・西は田中村・北は上練馬村・南は多摩郡上鷺の宮村也。東西十町余南北八町程、御入国の後は井上河内守の領地にて正保年中は今川刑部の知る所にして、今其子孫今川刑部大輔に至る」とある。

正保の武蔵田園簿によれば村高七六石余で練馬区に属する諸村では最小の村であつた。元祿の武蔵郷帳では七二石余となつている。正保年間から元祿年間までの間に武蔵野諸村の新田開発が急速に進んで、村高にして二倍以上の増加がみられるが、この中村は増加どころかむしろ減少しているのが特徴である。しかし、幕末の天保頃には石高一五〇石、或は二〇〇石に達したといわれる。

田用水として千川上水を利用し七町余を経営していた。今川刑部の知行地は中村と他に多摩郡井草村(後に上、上井草村に分れる)鷺の宮村があつた。

諸史料に見える村役人は次のとおりである。

図表を表示 <項>
谷原村
<本文>

新編武蔵風土記稿によると谷原村は「日本橋より五里、民家百十、東は上練馬村西は下石神井村、南は田中村北は土支田村、東西十二町南北十町許、用水は石神井川を沃けり」とある。北条役帳に「太田新六郎知行寄子衆配当一貫七百文、石神井内谷原在家岸分」と見えているので石神井郷に属していたものであろう。

この地は、徳川氏の江戸入府後、増島左内に賜わつたが、慶長年中以来幕府直轄領となつた。正保年間の武蔵田園

簿によれば水田八一石余、畑二五〇石余で、総村高三三〇石余であつた。元祿年中の武蔵郷帳では八六一石余と増加しており、この間の開発をうかがうことができる。

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村内の長命寺は、新義真言宗東高野山或は新高野山といわれ、庶民的信仰によつて繁栄したこの地方の名刹である。

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小名は箕輪・西原・北原・中通り・蕪ケ谷戸・七子竹などである。(新編武蔵風土記稿

<項>
田中村
<本文>

田中村は、北東に谷原村・南多摩郡井草村、西は下石神井村に接し、東西一町、南北一町余の小村である。南端多摩郡との境には千川上水が流れている。日本橋から

四里許りの里程で、文政年間の民家七二戸であつた。

谷原村と同じく江戸時代の初めは増島氏の知行で、慶長年中より幕府直轄領となつた。ここも畑の多い地で、正保年間の「武蔵田園簿」によれば村高二一二石余で、そのうち田は五五石余、畑は一五七石余で全体の七四%を占めていた。その後開墾が大いに進み、前記谷原村と同じく延宝年中検地があり、それ以来村高五三九石余に増加した。正保以来約三〇〇石の新墾地があつたわけである。

村内の小名は、薬師堂・供養塚・塚越・上久保に分れていたが、享保・元文の頃、谷原村の北に新田を開き、飛地として田中新田と称した。

図表を表示 <項>
上石神井村
<本文>

文安五年(一四四八)の熊野領豊嶋年貢目録に「一貫三百五拾文 石神井殿」(米良文書)記されている。鎌倉時代末期に豊嶋氏は石神井川をさかのぼつてこの地に石神井城を築いて累世居住の地とした。豊嶋氏滅亡後、管領上杉氏の領地となり、上杉氏滅びるや小田原北条氏の支配するところとなつた。

永祿二年の小田原役帳には「太田新六郎知行十七貫五百文江戸石神井」とあり、後の田中・谷原など石神井郷に包

含されたものと思われる。徳川氏の支配に入つてからは幕末まで直轄領であつた。

新編武蔵風土記稿では「……田宅荒廃せしを御入国の頃、高橋加賀守、同主人、尾崎出羽守、田中外記、桜井伊織、元橋主人等来て開墾せりと云」と記されている。

もともと上下石神井の区別なく一村であつたが正保の改めには、既に上・下二村に分れて記載されている。上石神井村の村高は四五七石余で、田一〇二石余、畑三五五石余であつた。元祿の郷帳では総村高一三六九石余と急激な増加を示し、幕末まで表高については変動がない。

江戸日本橋より五里余、東は下石神井村、西は関村、北は土支田村、南は竹下新田および多摩郡遅野井村と入り組んで接していて、青梅街道が南端を過ぎり、村の北を大山街道が横断している。用水は石神井用水および千川上水を引いていた。宝永年間の千川上水の田用水許可より千川用水組合村に属し、関村分水口から関村および上・下石神井村に引水したもので、樋口内法は五寸四方であつた。

水田総町歩一五町二反歩高一三八石の内千川上水をもつて経営している水田は四町五反歩でこの水料米が一石三斗五升であつた。(千川家文書

千川家文書の中から上石神井村に関係のある二、三の文書をあげてみよう。

<資料文>

           一札之事

一、千川堀ゟ当村江掛渡申候分水口之儀、去寅年百姓心得違ニ而、右分水口差留申候得共田作生立不申候ニ付、当年ゟ前々之通分水致申度候。然ル上は此度如何様之儀有之候共永々水引可申候。勿論水料米之儀も先規相定之通急度差出可申候。為其一

札仍而如件

  明和八卯年三月                    上石神井村

                              年寄 又 兵 衛㊞

    千川茂兵衛様                    同  伝 四 郎㊞

    同 善 蔵様                   百姓代  七左衛門㊞

    (註 明和八年(一七七一)

当村千川分水口を百姓共が心得違いをして閉鎖したため、田作が成りたたなくなつたので、従前通り分水口再開することについての一札である。

<資料文>

           一札之事

一、此度渇水ニ付田場掛水無之千川用水堀江少々関ヲ以畑畦江洩水致候段、全ク心得違之儀御差当ニ預リ何様申訳も無之、以来は右様之十儀急度相謹可申候。依之御詑一札差上申処仍而如件。

  天保十亥年七月                      上石神井村

                                覚右衛門

                               同村年寄

   千川善蔵殿                        金左衛門

   (註 天保十年(一八三九)

千川上水の盗水、洩水については上石神井村と長崎村の二カ所に水番小屋がおかれ厳重に取締られていたが、この場合は上石神井村のみならず下石神井村に大関二カ所が張られて、密かに引水していたもので、両村から同様の詫状

が出されて、なお、水番人与八郎も職務怠慢によつて一札取られている。

<資料文>

           一札之事

一、千川用水に付、日々相見廻リ不埓之儀無之様ニ相守可申旨貴殿方ゟ平日御申渡被成候所、此節非相見廻旨奉恐入候。此度格別之以御慈悲御勘弁成被下候所難有仕合ニ奉存候。尚又厳敷御申渡被成候ニ付、田場掛水渇水之節は勿論平日相見廻り不埓之儀無之様用水路大切ニ相守可申候。為後日入置申一札仍而如件。

  天保十亥年七月                      水番人

                                 与 八 郎 ㊞

                               証 人

                                 市 五 郎 ㊞

    千川善蔵殿

    千川金七殿

また、千川上水にはたびたび溺死人があつたようで、これに関する文書もある。

         覚

<資料文>

一、金両也

右は此度当村地先千川用水堀中ニ溺死女有之、御検使御見分御願申上、右ニ付諸入用内助金として前書之金子御渡し被成、慥ニ請取申候。依之為念如此御座候。以上

  (文政元年か)

    寅正月                          上石神井村

     千川善蔵殿                    名主 平     蔵㊞

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天保十年二月にも「昨十三日玉川分水千川堀之内上・下石神井村境水中ニ年齢三十七、八才位之男水死ニ罷在候」という届が出されている。

助郷役は、中山道板橋宿に勤めた。文政頃に戸数二一〇戸で村内の小名は城山・大門・沼辺・西村・小関・立野・覧音山・池淵・出店などに分れていた。当村は名刹三宝寺を有し、石神井城址等の古蹟に富む所であるが、それらの詳細については第四編を参照せられたい。

区内を貫流する石神井川は村内の三宝寺池を主なる水源とするものであるが、この池について「武蔵野話」に次のような記事がある。「東西六十間余、南北五十間、狭き所四十間程、東へのながれ百六十間ほど、池と称すれども湖水なるべし。この流れ数村を過て用水となり(中略)末は荒川へ合流す。いかなる旱にても涸ることなく下流の村々この水にて大いに益ある湖水なり。」

図表を表示

<項>

下石神井村
<本文>

東は田中村、西は上石神井村、北は土支田村、南は多摩郡遅野井村にそれぞれ接し、東西十町余、南北十八町余で全期を通じて幕府直轄領であつた。正保年中の石高は三七四石余で、田が一一〇石余、畑が二六四石余であつたが、元祿年間には村高一〇六三石余と著しい増加をみた。検地は谷原村・田中村・上石神井村などと同じく寛永一六年、延宝二年の両度におこなわれた。用水は、石神井用水および千川上水を使用していた。千川上水による水田は四町九反歩余で水料米一石四斗八升であつた。引取口は上石神井村と同じく関村分水口であつた。

文政の頃の戸数一六二戸で、小名は、伊保ケ谷戸・上久保・根川原・坂下・下久保・和田・北原・池淵などであつた。(新編武蔵風土記稿)延宝弐年の「武州豊嶋郡下石神井村寅御縄打帳」に記載せられた小字名をあげると次のようである。

諏訪下。和田前、秀月、御蔵前、道場寺前、禅定院前、伊保ケ谷戸、供養塚、上久保薹、久保薹、仏堂、小中原、神明前、梯道西久保、前久保、境畑、向薹、久根ノ内、観音山、松ノ木薹、屋敷添、屋敷前、上久保、石川山、鍛治屋敷、橋戸道西、小榑道西、浄野井久保、和田後、和田上、和田久保、屋敷内、田無道北屋敷後、土支田道西、神明ケ谷戸、田中前、坂下、石橋、御鷹番前、小榑道東、上久保

徳川将軍は、江戸近郊にしばしば狩猟しているが、ことに三代将軍家光は寛永年間から正保年間にかけて板橋方面

に数回猪狩・鹿狩をしている。(徳川実紀)これらの狩猟のうちでも大規模のものとして、正保元年(一六四四)の石神井野鹿狩がある。この狩猟は小園猪山・柿木山で行われた。小園猪山は遅野井山で上井草村を遅野井村と唱えているので上井草村付近をさすものであろう。柿の木山は下井草村の中央に柿の木という小名があるので、この付近をさすものと思われる。なお幕末(明治初年か)の頃と推定される下石神井村絵図(豊田勝夫氏所蔵)には村の概況が次のように記載されている。

  1. 一、村高千百五拾三石四斗九升弐合 此反別弐百町三反九畝拾八歩
  2. 一、家数百四拾八軒 人別八百四拾人内 男四百五人女四百三拾五人 牛無御座候馬拾弐疋
  3. 一、土地生産之品ハ大麦小麦稗黍蕎麦外青物ハ大根牛旁茄子、但農業之間余業稼ニ而作出候品無御座候。
  4. 一、耕地之儀ハ武蔵野新田長窪続ニ而至而水損之村方ニ御座候。
  5. 一、用水掛之儀ハ玉川□口之分水関村溜井江落送大溜井ヨリ押来リ候水相用兎角水難ヲ請候村方ニ御座候。但上石神井村池ゟ湧出候水ニ而も耕地用水相用申候。
  6. 一、倍養ハ第一糠灰ヲ多ク相用申候。耕地之下菌干鰯之類相用申候。

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図表を表示 <項>

関村
<本文>

関村は東は上石神井村および竹下新田、西は新座郡保谷村、北は新座郡小榑村、南は多摩郡吉祥寺村および西久保村にそれぞれ接している。道法日本橋まで五里余で東西南北各々一二町余、全期を通じて幕府直轄領であつた。

関村について新編武蔵風土記稿では次のように述べている。

<資料文>

古へ京都より奥州筋への街道掛り、豊嶋氏石神井に在城せし頃関を構へし所なり、今も大関、小関の等の小名あるは其遺跡なりと云、古道は定かならず

村の旧家、井口家の先祖は相州三浦の平ノ一丈入道で、三祖三浦禅正は平ノ義清といい永正十三年(一五一六)上杉顕定、憲房父子に味方し、北条早雲と鎌倉で戦つた。後上杉家離散と共に平ノ義清は豆州走水荘井口の郷にかくれ、元和年間武州豊嶋郡関村に土着したといわれている。(井口家先祖書

四祖井口源治信重は元和元年五月の大阪夏の陣に従軍して戦死したがその際の送り状(戦死通知)が井口信次氏によつて保存されている。

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  井口源次信重

元和元年卯五月七日 □

   大阪戦死也

   金之さい      取次家来

   ひおとしのくそく  志らた庄右衛門

   くさそり三間是送       持参

                 (井口信次家所蔵)

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村の開発者、井口家の六祖八郎右衛門の代である寛文年間には、関村周辺の武蔵野新田の開発が進められている。(武州多摩郡関前村井口忠左衛門家文書、高井戸札野新田御請之覚)多摩郡蓮雀前新田・西久保新田・蓮雀新田・松庵新田・大宮前新田・高井戸新田・関前新田・上荻窪新田・下里村・入間郡上新井村・下新井村など八郎右衛門の開発になるものである。

関村は武蔵田園簿によれば畑高一一七石余、田高一七万余、計一三四石余の小村であつたが、元祿の武蔵国郡郷

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帳では、村高五二七石余と一躍して正保年間の四倍になつている。

享保五年(一七二〇)の関村明細控帳による村高も元祿郷帳の村高と相異がないが、土地柄が記されているので左にあげてみよう。

<資料文>

               享保五年 組頭井口忠左衛門事

             武蔵国豊島郡関村明細控帳

                    会田伊右衛門様上ル控

               御拳場    定

             一、高五百弐拾七石四升八合 高辻

                此反別百三拾八町四反九歩

                 但シ高百石ニ付弐拾六町弐反四畝六歩余当ル

               内田方四町三反四畝拾弐歩 此高三拾壱石三升四合

                畑方一百三拾四町五畝廿七歩 此高四百九十七石三斗七升四合

                此訳ケ

             石盛九ツ 中田八反十壱歩

                   分米七石弐斗三升三合

             石盛七ツ 下田弐町七反九歩

                   分米拾八石九斗弐升壱合

 石盛五ツ 下々田八反三畝廿二歩

       分米四石壱斗八升六合

 石盛十ヲ 上々田六反四畝四歩

       分米六石四斗壱升三合

 石盛八ツ 上畑八町九畝十五歩

       分米六拾四石七斗六升

 石盛六ツ 中畑廿町五畝拾九歩

       分米百廿石三斗三升八合

 石盛四ツ 下畑五拾町六反十九歩

       分米弐百弐石四斗弐升六合

 石盛二ツ 下々畑弐拾六反拾九歩

       分米四拾弐石六斗九升五合

 石盛十ヲ 屋敷壱町六反廿七歩

       分米拾六石九升

 石盛一ツ 林畑弐町五反六畝廿五歩

       分米弐石五斗六升八合

 石盛二五 上萱野壱町壱反壱畝壱歩

       分米弐石七斗七升六合

 石盛二ツ 中萱野五町七反八畝九歩

       分米拾壱石五斗六升六合

 石盛一ツ五 下萱野拾町三反八畝廿四歩

       分米拾五石五斗八升弐合

 石盛一ツ 下々萱野拾壱町八反五畝拾壱歩

       分米拾壱石八斗五升四合

     小以分米合五百廿七石四斗八合

           (井口信次家文書)

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僅かに全体の三%に過ぎない水田も上田が無く下田・下々田が多く、畑地にしても中畑・下畑が多く決して恵まれた土地柄ではなかつた。用水村内の溜井を関村および上下石神井村・田中村・谷原村の五カ村組合で石神井用水と唱えて使用していたが、別に千川上水を引水して上下石神井村と共に使用した。千川上水関村取入口の樋口内法は五寸四方であり、関村水田四町歩余の半ばである二町三反歩(水代米六斗九升)に給水されていた。

千川家文書)戸口は、享保五年に家数九八軒、人数四八四人(村明細帳)であつたが、文政年間には九三軒と減少している。(新編武蔵風土記稿)百年程の間に戸口が増加することなく減少している理由は、中間の史料を欠くため明らかでないが、すでに享保五年に七七軒の本百姓と二一軒の水呑百姓に分化していることなど考慮にいれれば、下層民の離村によることもあながち考えられないこともない。

因みに、天明四年(一七八四)の竹下新田の開発にあたつては、関村から一三名の出百姓があつたことが記録されている。(井口(忠左衛門)家文書

助郷は、甲州道中高井戸宿の助郷村であつた。高井戸宿助郷三五カ村は街をはさんで南北二組に分れ、南組一二カ村、北組二三カ村であり、関村は北組に属し、豊嶋郡では関村一村で他はすべて多摩郡であつた。なお、南北両組の勤役は、月の中の一〇日は南組で前後の二〇日は北組で勤める定めであつた。(井口忠左衛門家文書

村の小名には、大関・小関・本村・関原・葛原・銕炮塚・三ツ家新田・北野・二ツ塚・小額などがあつた。(新編武蔵風土記稿

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<項>

竹下新田
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ここはもと、上石神井村・下石神井村・関村三村の秣場であつたが、天明四年(一七八四)に浪人の竹下忠左衛門が幕府に願い出て開墾した土地であると伝えられる。(新編武蔵風土記稿

享保五年の関村明細控帳には御林として次のように記載されている。

<資料文>

一、御林  弐ケ所

  内長 三百拾間  遅野井山

   横 百三拾六間  御林壱ケ所

   長 三百拾間  関山御林

   横 百六拾間   壱ケ所

新編武蔵風土記稿では「東西十町南北三町許此余関村を越て新座郡の境に東西四町南北二町の飛

地あり」と記されてあるが、右の御林が開墾されたものであろうか。

安永四年(一七七五)の「関村・上、下石神井村御林請地出百姓並年割渡惣名前帳」によるとこの竹下新田の開発には、次の諸村から出百姓があつた。(武蔵野市上

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関村・上石神井村・遅野井村からの出百姓が二八名をしめているが、この中に町人が二人ふくまれている。これによれば安永四年の開墾とあるが、「浪人忠左衛門云々」と共に天明四年の開墾とする新編武蔵風土記稿の記事とくいちがつている。

日本橋より五里、西は関村・北は上、下石神井村、東南は多摩郡遅野井村に接し村内を青梅街道が貫ぬいている。開墾以入幕府直轄領であつた。小名は久保・千川付・前野・淵崎などである。

<項>

土支田村
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小田原領役所帳には「太田新六郎知行寄子衆配当六貫五百文・江戸土支田源七郎分」と記載されているが、これが土支田の名が出てくる最初である。正保年間の武蔵田園簿では村高六二三石余であつたが、元祿の武蔵郷帳では約二倍の一三三七石余と増加して幕末まで変化していない。

幕府が、新編武蔵風土記稿の編纂の資料として村方から提出させたものと思われる「地誌調上書帳」によつて土支田村の概況を見よう。

<資料文>

   文政六年 未癸拾月

地誌調御改書上帳

                          平岩右膳御代官所

                            武州豊島郡土支田村

     一、野方領郷庄之儀は相知<漢文>レ不申候

     一、村名之起リ開発之年代相知<漢文>レ不申候

     一、江戸日本橋迄里数五里余

     一、土地伝来之古図

     一、家数弐百拾九軒

     一、東西南北之里数 西東 三拾弐町余南北 拾壱町余

     一、村四隣 東方 練馬     西方 小榑

           赤塚

           南方 石神井    北方 小榑

           谷原           橋戸

           田中           白子

     一、田畑之多少 田 拾壱町九反五畝歩余

             畑 三百六拾五町弐反歩余

     一、水旱之場所 窪地水冠之場所 五町歩余

             旱損之場所 三百拾五町弐反歩余

     一、土地ニ応セし産物 粟、稗、芋、牛房、大こん、飼葉之類

     一、往還並古海道 無御座候

     一、農間之稼 男ハ縄をなひ、薪木ヲ取

            女ハ木綿ナリ

     一、村内いわれ有伝 無御座候

     一、市場町場 無御座候

     一、古ゟ古キ代官

           細井九郎左衛門 清野与右衛門

           池田喜八郎   万年長十郎

           小宮山杢之進  松平九郎左衛門

           野田三郎左衛門 鈴木平十郎

           芝村藤右衛門  上坂安左衛門

           日野小左衛門  伊奈半左衛門

           大貫治右衛門  大岡源右衛門

           平岩右膳

     一、村鎮守 三拾番神 御除地壱反弐拾五歩

           天満宮 御除地弐反六畝廿歩

     一、寛文三卯年 稲葉美濃守様御検地

       寛文六午年 伊奈半十郎様御検地

     一、古水帳 焼失仕無御座候

     一、新田並持添新田 無御座候

     一、飛地 無御座候

     一、高札場在所 村中字甫村

     一、小名字 井頭 甫村 下屋敷 南原 三丁目 俵久保 八丁堀 土橋

     一、山 無御座候

     一、川 土支田村小榑村境ニ三反歩程溜井御座候、此流川巾六尺余

     一、小橋三ヶ所 長サ壱間半 堤無御座候

     一、用水 溜井流ニ而用水仕候 悪水

     一、城迹陣屋敷 無御座候

     一、屋敷跡 九ヶ所

     一、御蔵壱ケ所 但百姓普請ニ御座候

     一、古跡寺跡 無御座候

     一、塚古碑 無御座候

     一、旧家 無御座候

     一、穢多 無御座候

     一、孝行奇特者 無御座候

     一、神社 祭神 神躰 作リ縁記 古鰐口 合殿之神末社御朱印年月 無御座候

     一、古キ北条家杯之朱印物・棟札・神宝無御座候

     一、鎮守 三拾番神 妙延寺

     一、寺院 下総国中山法花経寺末

          武州豊嶋郡土支田村

          日蓮宗信光山妙延寺

          慶長三戍年七月十一日

    本尊釈迦如来 開山 日宜上人

          開基 寛永十九年午二月七日

             景性院殿 日安

             俗名

               加藤作右衛門

    駿河国 貞松山 蓮永寺末

      武州豊嶋郡土支田村

          長久山妙安寺

    本尊釈迦如来 開山 日雄上人

            元和元年卯九月九日

             山源英居士

           俗名 板倉四郎兵衛勝久

              寛永二年八月八日

     一、堂□    無御座候

     一、修験  武州豊嶋郡雑司ケ谷法明寺末

              法光山 本覚寺

               元和三年十月寂

     一、本尊釈迦如来 開山 日円上人

              慶長元年八月十五日寂

            法号 法光院常蓮

             開基 俗名

              小島兵庫

            豊嶋郡上石神井村三宝寺末

               真言宗

                八幡山万福寺

     一、本尊大日如来開山開基相知不申候

土支田村は、寛政期の史料に土支田村下組という記載があるが、これ以降の諸史料によると上、下に分れており、年貢割付状・年貢皆済目録も上、下別々に下付されており、村明細帳にしても文化・天保・嘉永等に下組のみのものがある。新編武蔵風土記稿によれば「土人ひそかに村内を二区に分ち」とあるが、いかなる理由によつてか明らかでない。

村高一三三七石余のうち上組高七五八石余、下組高五七八石余であり、村役人も上、下別々であつた。

村柄は享和四年(一八〇四)の村方之儀明細書上帳によると次のようである。

<資料文>

           寛文三卯年稲葉美濃守様御検地

           寛文六午年伊那半十郎様御検地

              大貫次右衛門御代官所

                武蔵国豊嶋郡野方領

                      土支田村

       一、高千三百三拾七石四斗八升三合

          高百九石弐斗四升    江戸日本橋道法五里余

          田拾壱町九反五畝拾七歩 上石森拾壱 中石森九ツ下森七ツ 下々石森五ツ

             但両毛作一切無御座候

          内壱畝弐拾壱歩四町九反三畝拾弐歩 午砂入引前々不作場永取

          残七町拾弐歩

           此取米三拾五石八斗三合

         高千弐百弐拾八石弐斗四升三合

          畑三百六拾五町弐反六畝弐拾五歩 石森   上六ツ 中四ツ半下三ツ 下々壱ツ半

            内壱反九歩 午石砂入引

          残畑三百六拾五町壱反六畝拾六歩

            此取永百六拾四貫三百八拾八文五分

           高千三百三拾七石四斗八升三合

         小以田反別拾壱町九反五畝拾壱歩

           畑反別三百六拾五町弐反六畝弐拾五歩

             外

       一、野三拾九町八反弐拾七歩

           此取永九貫百五文八分

             (以下略)

貢租は、米及び永によつて納められており、標準収穫量である石盛は上田を一石一斗とする二つ下がりで畑は上畑を六斗とする一つ半下がりであつた。練馬地方の他の村と同じく生産力の低さを示しており、特に畑地においては、練馬地方の村の中でもさらに低くなつている(他村の上畑石盛八に対して当村は六である)。助郷は、中山道板橋宿に勤め、加助郷を川越街道白子宿に勤めていたが、土支田村に残る文書の多くが助郷歎願書で占められていることからも、助郷課役が農民生活を窮乏に追いやつたことがわかる。

土支田村の字名を寛文三年の土支田村田畑検地帳・野帳によつて次にあげてみよう。

<資料文>

稲荷わき 稲荷下 稲荷こし 天神下 天神前 天神外 天神際 八幡前 番神宮下 宮の内 宮わき 塚の前 石塚 石塚畑かのへ塚 寺屋分 寺の脇 寺の前 寺後 鳥居先 本屋敷 屋敷上やつ 下屋敷前 古屋敷前 古屋敷 前原先代官屋敷 屋敷前寺前 屋敷添にし 屋敷原わき 屋敷面 屋敷添 屋敷後 屋敷わき 門畠 大門山こし 門先 堂谷戸 大門こし 練馬境 上練馬境 白子境 白子境道南 白子境山の内 小榑前 石神井境 谷原境 赤塚境 北原赤塚境 ごあん境 北原 八丁堀道添八丁堀天神前 八丁堀山 八丁堀の内 ごぼう境 御坊境丸山 三丁目 三丁目くぼ 三丁目後 三丁目道添 前窪の台 前窪 柳久保 西久保 久保 三丁目北窪 三丁目大門山脇 なしの木 梨の木畠 榎前 こぶの木の下 桑の木畠 俵久保境 清戸街道ばた 道上 石神井道 道下 むれ道 道ばた 前道添 道添 街道ばた 東道添 道向 野火除 野火除台 かぎ田 堀ばたくめかいど 馬洗所 道明関 森分 溜の上 池頭 池頭窪の台 谷のうち 道添 熊野山 東やつ 滝川原 後やつ 前やつ 下の谷 谷のきわ 石橋 たきかわら 川ばた 池の上 山下 坂下 清水山 大山 こぶき山 月の山 はたし山前 とうか山とうか後 とうかわき 竹原 丸山 せと せどのくぼ 南原 出頭 横町 高山 堀上嶋 わださかい 山添 西のわき 上の

原 東の原 中嶋前 東わき 東台 後原 みその 東の台 こしまき 丸田 とぶ とぶの上 ていがしら 中の町 下の町 丸嶋 大拍子免 東わき 中山の内 ひがし 大畑 内畑 後畑 田の中 下の田 前畑 橋場 東前 長畠 前畠 四枚畠 薮添 長畠の末 惣左衛門前 脇畠 八丁堀天神山内 御林 くろうすの 東道添 なか畑 すみ畑 稲荷林の内

右の字名は、検地帳に記載されているものを大小を問わず残らず収録したものであるが、この中には単に数軒で便宜的に用いているもので一般化していないものもあり、果して字名といえるかどうか疑問であるが、失われつつある字名の変遷について何らかの示唆を与えるものであろう。

新編武蔵風土記稿では「井ノ頭 甫村 下屋敷 前原 以上上組にあり 三丁目 俵久保 八丁堀 土橋 以上下組にあり」の小名をあげている。

因みに大正七年の北豊嶋郡誌では次の小字をあげている。

上土支田――井ノ頭 前原 中村 宮本 久保 下屋敷 三丁目 元橋戸 外山

下土支田――八町原 八町堀 庚塚 後安 西大町堀 俵久保 小三丁目 塚前 三丁目

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図表を表示 <項>

上練馬村
<本文>

南武蔵に覇を唱えた豊島氏が、石神井城・練馬城を築いて、石神井川上流の練馬地方に勢力を拡張したのは、鎌倉時代の末頃であるが、練馬地方の聚落は鎌倉時代末期から室町時代にかけて漸次形成されてきたものであろう。熊野那智神社所蔵の米良文書に「練馬兵庫」なる者の名が見えるが、いかなる素性の者か明らかでない。小田原北条氏がこの地方を支配するや中村平次左衛門などの知行地が練馬にあつたが(小田原衆所領役帳)、上、下練馬村の内であろう。正保年間の「武蔵田園簿」では上練馬村と下練馬村の二村に分れているが、江戸時代初期までは一村であつたと思わ

れる。

新編武蔵風土記稿では村の概況を次のように記している。

<資料文>

日本橋より四里、戸数四百八十軒、東は下練馬村西は下谷原村南は中村北は上下赤塚の二村なり。東西南北各二十五町許、用水は石神井川を引沃けり。此地蕪蘿葡を名産とす。当村に多摩郡青梅への間道係れり。御入国以来御料所なり

検地は寛永十六年(一六三九)延宝元年(一六七三)と宝暦十一年(一七六一)の新田検地で村高は「武蔵田園簿」では一一四二石余で田が二一九石余畑が九二三石余であつたが、延宝元年の検地高は二六二六石余であり(長谷川文書)、「武蔵国郡郷帳」では田畑合せて二六四六石余に増加し、たいした変動もなく幕末に至つている。嘉永七年(一八五四)の宗門人別書上帳による村高および家数・人数は次のとおりである。

<資料文>

村高弐千六百廿六石壱斗七升六合

 内弐千五百九拾壱石壱斗四升七合村持

  三拾五石弐升九合 入作

外高六拾石弐斗九升壱合 出作

御朱印地高弐拾石壱斗余

御除地 反別弐町八畝廿七歩

惣家数 四百九拾四軒

  内 寺七ケ寺

    堂六ケ所

村人数千七百六拾五人

  内男九百五拾九人 牛無御座候

   女八百弐拾人 馬八拾壱疋

   僧四人

                                   (愛染院所蔵文書)

江戸時代全期を通じて幕府直轄領であつたが、幕末の村役人を諸史料によつてあげておこう。

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助郷役は板橋宿に勤めた。「武蔵田園簿」によつて知られる如く水田は僅かに二〇%で、練馬地方の諸村と同じそ

の農業経営は畑に依存していたが江戸の発展にともない、蔬菜供給地として、わけても名産練馬大根の名で知られるようになつた。元祿年間(一七〇〇年前後)には「江都近郊最<漢1>モ美<漢1>ナル者<漢1>ノ多<漢1>シ就<漢文>レ根利間ネリマ板橋浦和<漢1>ノ産為<漢文>レ勝<漢1>タリト」(本朝食鑑)と記されている。また寛政年間古河古松軒はこの地を視察して「練馬村産物大根を以て上品とす。僕按に世に尾張大根を称誉す。然れども大いなるというのみにて味い美ならず、此地の大根は味ひ至てよく、且大い也。大根においては日本第一といふべし」(四神地名録)と練馬大根をたたえている。

上練馬村の概況は、嘉永三年(一八五〇)・安政七年(一八六〇)両年の村方明細書上帳(長谷川文書)に詳しい。また上練馬村丑之御繩打高組帳というものがあり(長谷川文書)、これによつて延宝元年(一六七三)の村の状況がわかる。それによると、延宝の竹村与兵衛の検地当時の上練馬村の名主は、又兵衛という人で、彼の持高は、九二石八斗二合の多きを数えている。また寺は、

  • 愛 染 院  高拾石七斗三升壱石  養 福 寺  高六石六升七合
  • 寿 福 寺  〃五石五斗四升四合  円 光 院  〃三石三斗九升壱合
  • 高 松 寺  〃弐石八升壱合    泉 蔵 院  〃壱石壱斗四升弐合
  • 成 就 院  〃七斗八升

以上七カ寺が数えられ、二六二六石余の村高に対して、名主分と寺方分の八八石余は、諸役免除高であり、諸役を賦課される村役高は、二五三七石余であつた。これを標準百石一組の高組に分けて、合計二五組の組を編成したのが、上練馬村之御繩打高組帳(長谷川文書)である。この百石組は、

  • 中ノ宮村  五兵衛組・権左衛門組・猪左衛門組・五左衛門組・長兵衛組 五組             四十九軒
  • 海老ケ谷村 伝衛門組・五郎左衛門組 二組                             二十七軒
  • 谷原村  助兵衛組 一組                                      十八軒
  • 田柄村  兵左衛門組・権兵衛組・彦兵衛組・吉衛門組・権左衛門組・弥五左衛門組・八郎右衛門組 七組 六十九軒
  • 貫井村  権左衛門組・八左衛門組・伝左衛門組・半右衛門組 四組                  四十四軒
  • 高松村  善兵衛組・伝右衛門組・惣右衛門組・三郎右衛門組・次郎左衛門組・角左衛門組 六組      六十軒

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以上合計二五組二六七軒である。この高組帳を詳細にみると、赤塚・谷原からの入作が相当数見られるが、中ノ宮・海老ケ谷・貫井・高松・田柄の本来の上練馬村の高請百姓は、延宝元年には、それでも二四三軒の多きを数えることができる。

上練馬村の江戸末期の状況は、上述の二つの村方明細帳に詳しい。今その要点を列記して見ると、次のようになる。

<資料文>

一、検地 延宝元丑年 竹村与兵衛

     宝暦十一巳年 伊奈半左衛門

一、村高 弐千六百廿六石壱斗七升六合

一、惣反別 五百三拾五町弐反八畝拾分半

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一、郷蔵 一ケ所

一、惣家数 四百八拾軒

一、医師 一人

一、瞽女 一人

一、水車並質屋渡世  一人(名主又蔵)

一、醤油造等     一人(百姓代藤助)

一、酒酢醤油等商ひ  六人

一、着物等小物商ひ  三人

一、刻煙草等小物商ひ 三人

一、質物渡世     二人

          (年寄長左衛門 百姓清兵衛)

一、菓子商ひ     二人

一、紺屋渡世     一人(年寄孫右衛門)

一、屋根葺渡世    七人

一、樋屋職渡世    二人

一、大工職渡世    四人

一、木挽職渡世    一人

一、木伐職渡世    五人

などが記され、産物としては、大麦・小麦・栗・稗・大根などであり、米は少く、しかも中稲・晩稲であり、貧窮のものの多い村であると書上げている。

寺社は、鎮守八幡宮・鎮守十羅刹官・天神宮・稲荷社・子権現・第六天宮・六所権現宮・飯綱権現宮・神明宮・愛宕大権現・金山権現宮および愛染院・円光院・寿福寺・高松寺・養福寺・泉蔵寺・成就院が書上げられている。

なお「新編武蔵風土記稿」によると小名には海老ケ谷・中ノ宮・高松・貫井・田柄などがあつた。

<項>
下練馬村
<本文>

「新編武蔵風土記稿」によつて村の概況をみよう。

<資料文>

日本橋より三里許、民戸四百二十六、東は上板橋村西は上練馬村南は中荒井村北は徳丸本村及脇村なり。東西二十八町南北一里程、ここも蘿蔔を名産とす。当所は河越道中の馬次にして上板橋村へ二十六町、新座郡下白子村へ一里十町を継送れり。道幅五間、此道より此に分るる道は下板橋宿へ達し、南へ折るれば相州大山道への往来なり。御打入以来御料所にて今も然り。

地形は、平坦で一帯に丘陵性をおび、ただ村中央部を貫流する石神井川付近と北部の田柄川近傍に低地があるのみで、上練馬村と同様に主に畑作経営に依存する村落であつた。

道路は、板橋宿で中山道から分岐した川越街道が北端を東西に横断して新座郡に入つている。小江戸と称された川越から江戸へ上下する旅人によつてここには練馬宿がおかれて、上宿・中宿・下宿に分れていた。また、大山街道は本村で川越街道から分岐して本村を横断して上練馬村へ続いていた。(補説「練馬の道」を参照

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村高は、正保年間に一二二六石余で、元祿郷帳では、二六四六石と二倍余に増加している。前記の上練馬村と並んで豊島郡の中で屈指の大村であつた。検地は、延宝元年と、宝暦一一年に新田が改められ、幕末まで幕府直轄領であつた。

文化文政頃と推測される御年貢割附状と御年貢皆済目録によつて下練馬村の村柄を見よう。

<資料文>

                                     申之御年貢可納割之事

                                 当申ゟ寅迄七ケ年定

                            一、高弐千六百弐拾七石五斗三升六合

                              此反別五百五拾町三畝拾歩

                              高三百六拾三石三斗五升四合

                                四拾四町六畝壱歩 田方

                              高弐千弐百六拾四石壱斗八升弐合

                                 五百五町九反七畝九歩 畑方

                              高壱石七斗九升八合

                              内六反七畝拾壱歩 年々引

                              高弐千弐百六拾弐石弐斗八升四合

                               残五百五町弐反九畝廿八歩

                              此訳

                              上田六町五畝拾三歩 拾壱

                              中田拾七町八反六畝拾七歩 九

                                内訳

                                拾四町弐反八畝拾五歩 田柄

                                 三町五反八畝弐歩

                              下田拾五町六反九畝拾九歩 七

                                内訳

                                拾三町九反壱畝拾歩 田柄

                                 壱町七反八畝九歩

                              下々田四町四反四畝弐歩 五

                               内訳

                                三町三反拾弐歩

                                壱町壱反拾八歩 田柄

                                壱町弐分 起返

                              上畑八拾四町七反六畝九歩 八

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                               内訳

                               八拾四町七反三畝拾歩

                                弐畝歩 当中屋敷成反ニ永百文

                                弐拾九歩前々河欠落地起返取分

                              中畑八拾八町八反五畝廿壱歩 六

                              下畑百四拾三町四反三畝拾歩 四

                              内弐反弐畝拾六歩 前々溜井敷堀敷引

                               残百四拾三町弐反弐拾四歩

                              下々畑百廿三町七反三歩 二

                              内四反四畝廿五歩 前々溜井舗引

                               残百弐拾三町弐反五畝八歩

                              下畑芝地 弐反壱畝廿六歩 四

                              下々畑芝地壱町三反七畝廿四歩 二

                              林畑弐拾壱町壱反五畝拾歩 一

                              上萱野三拾壱町五反七畝拾歩 二五

                              中萱野八町三畝壱歩 二

                              下萱野五町六反弐拾弐歩 一五

                              下々萱野壱町七反九畝廿弐歩 一

                              中萱野芝地弐反壱畝弐拾四歩 二

                              下萱野芝地壱町八反壱畝拾弐歩 一五

                              下々萱野芝地五反弐畝五歩 一

                              上畑屋敷成七畝弐拾歩 八

                              中畑屋敷成七畝廿七歩 六

                              下畑屋敷成壱反四畝廿六歩 四

                              下々畑屋敷成六畝五歩 二

                              屋敷拾壱町五反壱畝拾八歩 十

                              米九拾六石六斗五合

                              内米壱斗弐合 定切替去増

                              取永弐百九拾六貫百三拾九文四歩

                               内永四文畑屋敷成去未増

                                  宝暦十一巳高入 同所新田

                               右同断

                            一、高壱升弐合

                               此反別下々畑拾八歩

                               此取永三文 去未内

                              取合米九百九拾六石六升五合永弐百九拾六貫百四拾弐文四分

                              卯

                              永四拾文

                              米壱石五斗七升七合 御伝馬宿人用

                              米五石弐斗五升五合 六尺給米

                              永六貫五百六拾八文八歩御蔵米入用

                              御林壱畝拾五歩半 壱ケ所

                            納合米弐百弐石八斗九升七合永三百弐貫七百五拾壱文弐分

右は定メ当申御取箇書面之通り相極条村中大小百姓入作之者迄不残立会無高下割合来ル極月十日限り急度皆済可令者也

                               大貫治右衛門

                                            名 主

                                            年 寄

                                            百姓代

 

                             酉ノ御年貢皆済目録

                                  武州豊島郡下練馬村

                            一、高弐千六百弐拾七石五斗四升八合

                            一、米百九拾六石六斗五合   本途

                              此斗立弐百七石弐斗六升九合

                            一、永弐百九拾六貫百五拾文九分同断

                            一、永四拾文        小物成

                            一、永八貫八百八拾五人七分  口永

                            一、米五石六斗弐合

                              此斗立五石九斗弐升弐合

                              代永七貫弐百七拾五文六分

                            一、米壱石五斗七升七合 御伝馬宿入用

                              此斗立壱石六斗六升七合

                              代永弐貫四拾八文    同直段

                            一、米五石弐斗五升五合  六尺給米

                              此斗立五石五斗五合

                            一、永六貫五百六拾八文八分御蔵米入用

                            一、細餅米五斗七升三合    石代

                              代永壱貫六百八拾四文 但 金壱両ニ付三斗四升壱合

                            一、太餅米七斗七升三合 石代

                              代永壱貫六百六拾九文五分 但 右同断四斗六升三合

                            一、同籾八斗六升四合 石代

                              代永壱貫四拾三文五分 但 右同断八斗弐升八合

                            一、稗六石七斗八升七合 買納

                              此斗立七石壱斗七升五合 石代

                              代永弐貫弐百七拾七文八分 但 右同断三石壱ゟ五升

                            一、高弐千六百弐拾七石五斗三升六合

                            一、大豆五石弐斗五升五合 石代

                              此斗立五石五斗五升五合

                              代永四貫六百六拾八文壱分 但 右同断壱石六斗九升

                            一、菜種弐合六斗弐升八合 買納

                              此斗立弐石七斗七升八合

                              代永三貫八百五文五分 但 右同断七斗三升

                               子年ゟ年迄廿八ケ年賦

                            一、永壱貫四百九拾壱文弐合六里六毛

                                         夫食代返納

                            一、米拾五石壱斗五升四合四夕

                            一、合米弐百弐拾七石九斗七升八合四夕永三百三拾七貫六百四文五分六厘六毛

                                此払

                                      三割増有

                            一、米弐石三斗三升壱合四夕  餅米籾代米

                            一、米壱石四斗三升五合    稗代米渡し

                            一、米弐石七斗七升七合五夕 大豆代米渡し

                            一、米壱石三斗八升九合菜種代米渡し

                            一、米四拾五石壱斗五升四合四夕

                            一、納合米百七拾四石九斗三升壱合壱夕永三百拾七貫六百四文五分六厘六毛

                             外ニ

                             永弐百七拾六文三分

右は去酉御年貢本途小物成其外書面之通り皆済ニ附小手形引上一紙目録相渡条重而小手形指出候共可為反古物也

                            大貫治右衛門

                                                 名 主

                                                 年 寄

                                                 百姓代

石盛(標準収穫高)は、田においては上田を一石一斗とする二つさがりで、畑は上畑を八とする二つさがりで、田の平均石盛一石一斗からみるとかなり低い石盛であつた。田は僅かに八%で、その大部分が中田以下の地味で、水田としては劣悪な土地柄であつた。これらの水田の大部分は、田柄用水、石神井川を利用するもので他に千川上水が用水として利用されていた。

千川上水は元祿九年(一六九六)将軍御成御殿及び江戸市内に給水の目的で開鑿せられたが、宝永四年(一七〇七)に上水沿いの諸村から歎願によつて田方用水として利用することを許されて、下練馬村も三町九反歩を千川上水によつて経営してきた。(補説「千川上水の歴史」を参照

<資料文>

一、此度天水田、年々旱損致ニ付、則水代米田壱反歩ニ付三升ニ相極メ米出来之時受取水遣シ申候。依之羽木せき下も一同ニ水引度由、御組下百姓衆一同願ニ付、貴殿と相談之上水遣ス筈ニ相極メ申候。水年貢之儀ハ右定之通り田壱反三升ツツノ勘定ニ而証文取置水代米五斗九升四合六夕宛、年々十月中請取可申候。対貴殿所持之分ハ、総御世話ノ代ニ私方ゟ相除置申候。

   此儀ニ付末々至迄此方ゟ少も出入申分無御座候。巳来何年も入用次第水遣可申候。為後日一札入置申所仍而如件。

     享保十三年申四月三日

                                  千河徳兵衛伜

                                     千河長左衛門

       下練馬村年寄

         伊右衛門殿

                                       (千川家文書)

右の文書は今迄天水で耕作していた水田に千川上水を引くことについて、田一反歩につき水代米として三升宛を上水取締役である千川徳兵衛に納めるという取替し証文である。

なお文化一三年(一八一六)の「水料出方覚」によつて千川上水による村内水田の経営状態を見てみよう。

<資料文>

                               文化十三子年

                              当子年練馬水料出方覚

                                  十二月 吉日

                                      元地主 伝左衛門分

                            一、弐升九合壱夕 木村喜平次

                               関上九畝廿壱歩

                                      元地主 羽沢卯兵衛分

                            一、三升三合     同所 九左衛門

                               関上壱反六歩

                               関下五畝廿六歩

                                      元地主 宿 八三郎分

                            一、壱升六合     同所 惣兵衛

                               関下壱反八畝廿七歩

                            一、壱升三合六夕 同所 九兵次

                               関下壱反六畝廿歩

                            一、壱升三夕     同所 次右衛門

                               関上壱畝拾三歩

                               関下七畝 三歩

                            一、五升壱合五夕   同所 孫右衛門

                               文化十三子年穿鑿致し候処左之通り

                               関上一反七畝弐歩

                            一、七合弐夕 丸久保 源左衛門

                               関下七畝弐歩

                            一、三升四合九夕 前滋化味 伊右衛門

                               関下五反壱畝拾壱歩

                            一、弐升八合三夕 同所 善兵衛

                               関下三反三畝拾六歩

                            一、弐升弐合 同所 十郎左衛門

                               関上四畝拾九歩

                               関下九畝拾八歩

                            一、八合弐夕 羽沢 甚右衛門

                               関下九畝廿弐歩

                            一、九合弐夕 羽木 源三郎

                               関下壱反廿八歩

                                      元地主 善太郎

                            一、六合五夕 羽沢 佐兵衛

                               関下七畝廿弐歩

                                文政元寅年十二月廿七日改此分

                                当寅年分 本村善右衛門ゟ出ル

                            一、壱升八合九夕 卯右衛門

                               関下弐反弐畝拾弐歩

                            一、壱升壱合七夕 甚平

                               関下一反三畝拾歩

                                文政元寅年十二月廿七日改

                                当年ゟ本村喜兵次ゟ出ル

                               一、七合三夕 庄蔵

                               関下八畝弐拾歩

                            一、七合三夕 勘左衛門

                               関下六畝弐拾八歩

                               関上 拾四歩

                            一、弐升四合三夕 庄厳寺

                               関上五畝拾歩

                               関下八合三夕

                            一、四升八合弐夕 今神 奥右衛門

                               関上壱反六畝廿歩右 両人ゟ出ル

                                文政元寅年十二月廿七日改

                                右四升八合弐夕 奥右衛門壱人ニ而出候由国銀之丞相頼候

                                      元地主 次五右衛門

                            一、四升七合弐夕 文四郎

                               関上壱反五畝廿弐歩

                            一、壱升四合 清左衛門

                               関上四畝廿歩

                            一、三升三合六夕 庄兵衛

                               関上壱反壱畝六歩

                            一、壱升弐合 市三郎

                               関上四畝歩

                            一、八升九夕 宿 九右衛門

                               関上弐反五畝廿九歩 七升七合九夕

                                外ニ宿滋化味分三合 壱畝

                            一、弐升三合八夕 同所 利右衛門

                               関上四畝拾弐歩 壱升三合弐夕

                               関下壱反弐畝拾五歩壱升六夕

                            一、三升壱合 同所 長松

                               関上八畝拾九歩 弐升五合九夕

                               関下六畝拾八歩

                            一、壱升六合八夕 同所 孫八

                               関下壱反九畝廿六歩

                              〆六斗四升七合三夕

                                  右武左衛門殿

                                      取立ノ分

 

                                  覚

                              宿滋化味三郎兵衛取立ノ分

                               宿滋化味

                            一、壱升五合     三郎兵衛

                            一、四升弐合 同所前滋仕味之地主惣吉

                               関上壱反四畝歩 長十郎

                                       元地主 藤八

                            一、五升六合六夕 同所 勘兵衛

                                      元地主 甚五兵衛三郎右衛門

                            一、六升 同所 六右衛門

                            一、四升九合 同所 太郎左衛門

                               右者此分一反ニ付三升ツツ

                              〆弐斗弐升弐合六夕

                                    三郎兵衛取立ノ分

                            右関上之分 壱反ニ付三升宛

                             関下之分 壱反ニ付八合四夕四才

                                       (千川家文書)

関上、関下によつて水料米は異なり、関上が一反につき三升、関下が一反につき八合四勺四才と定められていた。この関()は羽木の堰をさすものであろう。

西の皆済目録によれば、貢租は一七四石余を米納で永三一七貫余が金納であつたが、貢租を貨幣で納入している事実は、そこに当然相当に広範な蔬菜類の販売による商品貨幣経済の進展を想像することができる。練馬大根に限らず、銭にかえられるものは江戸の市場に持ちこまれたことであろう。新編武蔵風土記稿による小名は、今神・湿化味・三軒在家・早淵・田柄・宮ケ谷戸・谷戸・宿・本村などである。

図表を表示 <項>

小榑村
<本文>

小榑村は、次に述べる橋戸村とともに練馬区内に属する他の旧村がほとんど豊嶋郡に所属していたのに対して、新座郡に所属していた。「新編武蔵風土記稿」には

<資料文>

小榑村は広沢庄と称し郷名は伝えず、郡の東南の隅にありて江戸を隔ること五里余、東は上白子村及白子川を隔て豊嶋郡土支田村に隣り西は本郡下保谷村南は豊嶋郡関村及郡内上保谷村に堺ひ北は中沢辻両村に接し、上白子村の西方より土支田村の境白子川の流にそひ斜に西の方へかけ入り其形半月の如し、故に北によりたる所は東西一里余南の方は纔に十町許南より北へは五町もあるべし、人家三百二十軒

とかなり詳細な記載がみえている。

永祿二年(一五五九)の小田原北条家所領役帳には「小榑保谷九十八貫八百六十文 太田大膳亮知行」とあり、白子川の流れに沿つて早くから聚落が発達していた所と推定される。江戸時代に入つて寛永三年(一六二六)頃まで板倉氏の知行地であつたが、ついで幕府直轄領となつたが、さらに寛文年間(一六六一~一六七三)に稲葉美濃守正則の

所領となり、約二十年にして再び幕府直轄領となつたが、元祿十六年(一七〇三)米津出羽守の所領となり幕末に及んだ。

ここも畑地の多い村で正保の武蔵田園簿によれば、村高五四八石余で、そのうち田は僅かに二九石余で畑地が五一八石余をしめていた。その後、開発進み、元祿郷帳では一躍して村高一四六八石余となり、以後幕末までたいした変化がなかつたようである。

村内の小名は、堤村・榎戸・水溜・小作・中島等があつた。

図表を表示 <項>
橋戸村
<本文>

新編武蔵風土記稿に

<資料文>

「橋戸村は新倉郷、広沢庄に属す、此地は天正十九年、伊賀組へ賜はりしより、今も伊賀組の給地なり、江戸を隔ること四里半、白子村の内にあり、人家三十軒、其居住の地、及び神社仏寺等の敢在する所のみ此村にて、其余は皆上白子村の地なり、其地は元橋戸村なりしか、後白子の地広まりしままに自ら橋戸も其中に入りし故、別に白子村の名も出来しならん、既に土人は上白子村の一名を橋戸とも心得たり、されど村民庄忠右衛門が所蔵の慶長元年の文書にも、橋戸の名をも載せたり、又正保元禄等の国

にも、橋戸白子の村名なること、其証明なるは、既に白子村に弁ぜり。」

と記されている。

正保年間の武蔵田園簿によれば、村高一五〇石のうち水田は九〇石余で畑が五九石余となつている。その後、元祿の武蔵国郡郷帳では総村高二八二石余と記されている。「正保年中改定図」によれぼ橋戸村と白子村は別々の村に記載されているが、安政二年の人別送り状に署名している橋戸村の名主善兵衛は、安政七年の人別送り状では上白子村名主善兵衛として署名している。両村の関係については今後の研究をまちたい。

図表を表示

<章>

第四章 貢租

<節>
第一節 検地及び斗代とだい
<本文>

検地とは、土地を測量し、反別等級を定め、斗代(石盛こくもり)をつけ、石高を決定することで、竿入・縄打などともいう。検地によつて農民の土地所有高及び村高、さらに国高が確定され、この石高を基礎にして田畑租・諸役が決定されるのである。旧来の荘園制の破壊を目的とした戦国諸侯にとつて、複雑な荘園制を廃棄して領国制を確立するため、その領国内の検地を行う必要があつた。戦国諸侯によつて行われた検地をうけ継ぎ、これを統一し、近世封建社会の基礎を確立したのは豊臣秀吉の検地、いわゆる「太閤検地」である。

秀吉によつて、今迄まちまちであつた諸制度は一定した方法、形式をもつに至つた。文祿三年(一五九四)の規定によれば次の如くである。

  1. 一、六尺三寸の棹を以、五間六拾間三百歩一段と相定事
  2. 一、田畠並在所之上中下、能々見届斗代相定事
  3. 一、口米一石ニ付弐升宛、其外役米一切不可出事
  4. 一、京升を以年貢可<漢文>レ致致納所、売買并可<漢文>レ為<漢文>二同桝<漢文>一
  5. 一、年貢米五里として可<漢文>二相届<漢文>一、其外者代官給人をして可<漢文>レ被<漢文>レ持事

秀吉の検地による最大の改革は、一反歩の面積の確定である。秀吉は、六尺三寸をもつて一歩とし、三百六十歩一反の大化以来の制を改めて、三百歩をもつて一反とした。そして田畑とも在所の上中下にしたがい斗代(一反歩の平均収穫米)を定めたのである。

江戸幕府の検地では、一歩を六尺一分と改めたほかは秀吉の制度を継承し、慶長七年(一六〇二)以来伊奈備前守・大久保石見守等によつて行われ、次第に整備された。

練馬地方の検地実施年代を新編武蔵風土記稿によつて次表にまとめてみた。

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検地の結果を記帳した帳簿が検地帳で、水帳・御縄打帳などとも呼ばれる。いまの土地台帳にあたるもので、これを基礎にして年貢・諸役が賦課された。練馬地方で最も古い検地帳は江古田村の家康の関東入国の翌年である天正十九年(一五九一)の検地帳であるがその一部を示そう。(堀野家文書

<資料文>

                    天正拾九年辛卯八月廿五日

                  武州多東之郡江古田村

                        御縄打水帳

              下畠 壱反小拾弐歩  とくん 又二郎作

              下畠 壱反小四拾八歩     徳三郎作

              下畠 大廿四歩        志やうけん作

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              下畠 壱反大三拾弐歩     七郎右衛門

              下畠 四拾五歩 当起     七郎右衛門

              下畠 壱反大九拾五歩     三 衛 門

              下畠 小歩          七郎右衛門

              中畠 壱反歩  ミやの下   志やうけん作

              中畠 壱反小歩        ぬいのすけ作

              下畠 大七拾九歩       同人作

                    (中略)

              下畠 壱反大卅六歩      兵 庫 作

                       此内壱反小歩当不作

              下畠 小卅五歩        甚 四 郎

              下畠 半歩          対   島

              下畠 大四歩         兵 庫 作

                中畠壱町八段六拾弐歩

                下畠七町五段拾弐歩

                    此内七反大卅三歩当不作

                下畠弐段小六弐 当起

              畠合九町五段半廿三歩

                          伊藤小右衛門

                          冠四郎右衛門

                          筆沼上伊与池上作蔵

右にあげた天正の検地帳は五分冊になつているその一部である。地方凡例録に「一、大半小歩之事」として次のような記載が見える。

<資料文>

天正文禄ノ頃迄ノ検地ニハ、大半小歩ト云テ、一反三百歩ヲ三ツニ分ケ小割有、永高ノ比ヨリ石タカニ移ル迄モ行<漢文>レシコトト見エ、古ヘノ検地帳所持ノ村方ニハ大半小ノ附タル水帳今モ有<漢文>レ之、尤上古ヨリノ事トハキカズ、其肇メ時代不<漢文>二相知<漢文>一、大半小ノ小割如<漢文>レ

  一反三百歩 大歩二百歩 三分二也 半歩百五十歩半分也 小歩百歩三分一也

区内の検地は、寛永年間の検地が最も早く、八年には中荒井村、ついで十六年には谷原村・上石神井村・下石神井村・上練馬村・関村の諸村の検地がおこなわれている。これらの検地帳は散佚して、今日そのほとんどが保存されていないが幸いに寛永十六年の関村検地帳が一部残されているので次にあげよう。(井口信次家文書

<資料文>

                寛永十六年卯八月八日

               武川豊嶋郡野方領関村御検地

                          水帳

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                          三帳之内 案内立 忠兵衛

                                  仁左衛門

                                  市之助

                        上畠壱反廿三分 仁左衛門

                          卅六分入

                        拾三間 七  間 中畠三畝壱分 市之助

                        拾三間拾四  間 上畠六畝弐分 同人

                        拾  間拾三間半 上畠四畝拾五歩 仁左衛門

                        拾弐間半拾壱間  中畠四畝拾七歩 長三郎

                                                 (中略)

                        四拾八間廿  間 下田三畝六分 忠兵衛

                        拾六間拾三  間 下田五畝廿六分 同人

                        五拾弐間五  間 下田壱反壱畝廿六分 同人

                          九拾六分入

                        七  間八  間 下田四畝八分 孫右衛門

                          七拾弐分入

                        八  間六  間 下田壱畝拾八分当不作 助左衛門

                        弐拾六間八  間 下田六畝廿八歩当不作 小兵衛

                        弐拾間 八  間 下田八畝四分  同断 市之助

                          四拾五分入

                        弐拾四間八  間 下田八畝廿壱分 同断 茂兵衛

                          六拾九分入

                        拾  間六  間 下田弐畝分   同断 次右衛門

                        弐拾九間六  間 下田六畝九分  同断 同人

                          拾五間入

                        五  間九  間 下田壱畝拾五分当不作 助左衛門

                          下田四町弐反九畝歩

                           内三反五畝拾五歩 当不作

                          上畑弐町八畝拾壱歩

                          中畑壱町弐反七畝廿六歩

                          下畑拾壱町壱反五畝七歩

                          下々畑壱町七反壱畝廿四歩

                           内壱町四反六畝拾壱歩 当不作

                       弐反五畝拾三歩 当発

                    田畑合弐拾町五反弐畝八歩

                                   宮井十兵衛㊞

                            墨付弐拾壱枚 永田九兵衛㊞

                                   大橋次衛門㊞

                                   無藤五兵衛㊞

右今度御検地水帳之写御縄打之処、本帳とよミ合  被<漢文>レ致候間、我々如<漢文>レ此加判致御中ニ指置候者也。仍而如<漢文>レ件。

  寛永拾六年                           永田八兵衛㊞

   卯八月十三日                         宇野兵衛 ㊞

                                  高橋衛門 ㊞

右の関村検地帳から一筆ごとの田畑の面積、上・中・下の品位、直接耕作者である農民の名前が一目でわかる。さらに、この一帳のみでは全体を知るすべもないが、田畑合せて二十町五反二畝八歩のところ、水田は四町二反九畝歩で畑地の優位性を示しており、下田・下畑が圧倒的に多いことは、この村の生産力の低さを物語つている。このことは、単に関村に限らず練馬地方の村に共通していることであつた。

寛文三年(一六六四)には、土支田村の検地が行われたが、この検地帳(小島家文書・町田家文書)によれば総田畑の町歩は次のような割合を示している。

<資料文>

                            田畑都合三百五拾弐町弐反四畝八歩

                             此訳

                           田方拾壱町八反九畝拾四歩

                             内

                            上田五町四畝拾八歩

                            中田三町弐反五畝四歩

                            下田三町八畝弐拾弐歩

                            下々田五反壱畝歩

                           畑方三百四拾町三反四畝弐拾四歩

                             内

                            上畑三拾五町六反九畝拾壱歩

                            中畑四拾四町壱反三畝拾弐歩

                            下畑弐百七町五畝壱歩

                            下々畑四拾八町七反壱畝弐歩

                            屋敷四町七反五畝弐拾八歩

ほかに野地として七拾三町六反四畝九歩があり、その品位別構成は次のとおりである。

<資料文>

                           野都合七拾三町六反四畝九歩

                             内

                              上野拾弐町九反七畝拾七歩

                              中野弐拾八町壱反五畝七歩

                              下野三拾弐町五反壱畝拾五歩

畑地は全体の九六・六%をしめ、しかもそのうち七五%余が下畑・下々畑であることによつても土地がらの低さをうかがうことができる。

斗代(石盛

生産力の問題にふれて、斗代(石盛)について一言しよう。斗代は練馬地方では石盛とよばれているが、耕地及び屋敷地の品位に応じて平均石高をきめることである。一反歩の平均収穫米と考えてよい。普通には、田畑を上中下に分け、上田について坪刈つぼかりを行い、一坪に平均一升あれば、一段に三石、これを五合摺にして米一石五斗をえて、石盛一五という。以下は二つ下がりで中・下田は一三(一石三斗)一一(一石一斗)下々田は九(九斗)となるが、勿論地方によつて異なり、上田の場合最高一八から最低一一、上畑の場合最高一三から最低六位であり、江戸時代の標準石盛は上田一石五斗・中田一石三斗・下田一石一斗・上畑一石・中畑八斗・下畑六斗と見なして差支えなかろう。それでは練馬地方の石盛はどうだろうか。

<資料文>

                         安政三丙辰年三月

                        田畑反取書上帳 下書

                          武州豊嶋郡

                            土支田村下組

                                武州豊嶋郡

                     高五百七拾八石八斗弐合 土支田村下組

                      此反別百七拾壱町六反壱畝廿八歩

                     一上 田石盛 拾壱 反米五斗三合六夕八才

                     一下 田同 七ツ  反米三斗五升三夕八才

                     一下々田同 五ツ  反米三斗壱合九夕八才

                     一上 畑同 六ツ  反永七拾壱文五分

                     一中 畑石盛 田半 反永六拾壱文五分

                     一下 畑同 三ツ  同 四拾六文五分

                     一下々畑同 壱半  同 三拾壱文五分

                     一上田畑成八畝拾六歩盛 拾壱   反荒地取分永弐拾五文

                     一中田畑成六反九畝拾七歩盛  九 右同断

                       内壱反五畝歩      反永四拾七文

                        五反四畝七歩     反永廿五文

                     一下田畑成壱町八反四歩盛   七 右同断 反永同断

                     一下田々畑成五反弐歩盛    五

                       内四反七畝廿田歩       同 断  反永廿五文

                        弐畝八歩          同 断  反永四拾七文

                     一上 畑壱反壱畝六歩盛 六    右同断  反永廿七文五分

                     一下畑拾四町九反三畝九歩盛  三

                     内七町八畝壱歩          右同断反永三拾文五分

                     七町八反五畝歩         反永廿六文五分

                     一下々畑六町三反壱畝廿八歩盛壱半

                       内三町七反弐畝拾八歩   右同断反永廿七文五分

                        弐町五反九畝拾歩     反永廿六文五分

                     一畑成屋敷石盛 上畑 六ツ中 畑 四半反永九拾壱文五分

                             下畑 三ツ下々畑 壱半

                     一屋敷 石盛 拾       反永九拾文

                     右者田畑反取御調ニ付奉ニ書上一候処相違無ニ御座一候 以上

                         安政三辰年三月

                                       右村

                       小林藤之助様         名主 八郎右衛門

                           御役所        (小島家文書)

土支田村の場合は、上田=一一、中田=九、下田=七、下々田=五の二つ下りで、畑は上畑=六、中畑=四ツ半、下畑=三、下々畑=一ツ半の一ツ半下りとなつており、屋敷地は石盛一〇で高額である。散見する資料によつて他村の場合をこれに比較してみると、下練馬村は、田については変らないが、畑は上畑=八、中畑=六、下畑=田で土支田村より高い(加藤(源蔵)家文書)。関村についていえば、田は前二村と同じく上田=一一の二つ下りで、畑は下練馬村と同様の上畑=八の二ツ下りである(井口(信次)家文書)。

こうして見ると、練馬地方の村は全国の標準石盛よりずつと低く田の場合最低の一一であり、畑においてもこれまた最低に近い。

<節>
第二節 田畑租
<本文>

江戸時代の農民の負担は、田畑にかかる基本的な租税と、田畑以外にかかる雑税とに分けることができる。若し年に豊凶がなく、土地からの収穫が石盛に一致するならば、石盛に租率を乗じて年貢を決定することができる。例えば課税率五〇%(五公五民)の場合、練馬地方を例にとれば次のように租米を割出すことができる。

上 田租米=上 田石盛(一石一斗)×租率(〇・五)=〇・五五石

中 田租米=中 田石盛(  九斗)×租率(〇・五)=〇・四五石

下 田租米=下 田石盛(  七斗)×租率(〇・五)=〇・三五石

下々田租米=下々田石盛(  五斗)×租率(〇・五)=〇・二五石

ところが実際には、年の豊凶によつて収穫が一定でなく、右の方法によつて租額をきめることは不合理である。そこで検見取けみどり法と定免法じようめんという。二つの方法が用いられた。

検見取法

検見取法は、毎年秋になつて田地の坪刈を行い。実際の出来高を調べて、その結果にしたがい課税する方法である。この方法は年々の豊凶によつて課税するので比較的公平な方法であるが、実施にあたつては検見に手数がかかるだけではなく弊害が多かつた。いつの時代にもあることだが検見役人は賄賂を求め、その多少によつて租額は上下され、若し贈賄をしなかつたならば、百姓は苛酷な負担を強いられその生活はおびやかされた。生活を支えるために賄賂は必要悪であつたのだ。大宰春台は次のように検見役人の腐敗ぶりを言葉鋭く批難している。

<資料文>

視取は甚しく民に害あり、子細は代官の秋成を視るを、今の俗に毛見といふ。代官の毛見に行くとき、其処の民数日奔走して、供具を営み、道を除ひ館舎を酒掃し、前日より種々の珍膳を調へて其来るを待つ。当日には庄屋、名主など云ふ者、人馬肩与を牽て境迄出迎ふ。館舎に到れば、種々の饗応をなも、其上に種々の進物を献じて其歓楽を極め、手代等は云に不及、僕従の至て賎き者迄も其品に応じて夫々に金銀を贈る。如斯する其費幾許といふことを不知、若少くも彼等が心に満ぬ事あれば、さまざまの難題を以て、其民を図頼ねだりで苦しめ、其上に毛見するに及で、下熟を上熟なりとて免を高くす、若し饗応を厚くし、進物を重くし、従者の賎き奴まで賂を重くして、彼等が心に満足すれば、上熟をも下熟といふて免を下くする也、是に因て里民万事を閣て代官の悦ぶ様に計る。代官の毛見に行く其利甚多し、従者迄も許多の金銭を取る。是皆上の物を盗む也。(経済録

こうした弊害や不便をただすために検見取法にかわる方法として定免法が採用された。

定免法

定免法とは過去数年間の収穫の平均によつて貢租率を定め、それより先数年間(三年から七年くらい)は検見することなく、定額の租税を徴収する方法で江戸時代の中期頃からおこなわれた。この期間中は、豊凶にかからず検見は行わないのであるが、甚だしい凶作の場合は村方の願出に応じて検見取によつて減税せられた。これを破免はめんという。練馬地方の村方文書にも破免願(減税願)が散見される。

破免についての規定は、享保年中に幾度かの改正をえて、三分以上損毛の場合に破免を許すという規定が江戸時代を通じて行われた。この破免の規定は一村全体で三分以上の損毛の場合に限られているから、たとえ自分の所有地が三分以上の損毛をうけても、村全体が三分に達しなければ検見は行われず、ある場所で損毛があつても他所で補うことができる富農に対して、零細な土地所有者である小農民の困窮は解決されなかつた。

<節>
第三節 高掛物・小物成・国役・夫役
<本文>

江戸時代の租税の基本になるものは、田畑にかかる租税であつたが、この本年貢のほかに高掛物たかかかりもの小物成こものなり国役くにやく夫役ぶやくがあつた。高掛物は、天領(幕府直轄領)は御伝馬宿入用米・御蔵前入用金・六尺給米の高掛三役と呼ばれるもので村の石高を基準として課せられた。小物成は本年貢(本途物成)・高掛物以外に百姓の定納する永久的租税でその大部分は、山林・原野・河岸などに課せられる収益税である。種類は雑多であるが、その一部をあげてみると、山年貢

・野年貢・草年貢・茶役・萱野銭・御林下草銭・河岸役・池役など農民が収益を受けていると思われるものに課税されている。国役は、日光法会・朝鮮人来聘・河岸普請などの費用にあてるために、ある特定の国に割当て臨時に徴集する租税である。

夫役(人夫役)は以上の諸掛が米又は金銀銭で上納されたのに対して農民の労役による負担であつた。その重なものは助郷役であつた。助郷とは、宿駅の人馬の不足を助ける郷村の意味で、これには常置の定助郷と臨時に人馬を提供する義務をもつた大助郷とがあつた。

練馬地方の諸村の助郷については、関村が甲州街道高井戸宿の助郷を勤め、下練馬村上練馬村・下石神井村・上石神井村・下土支田村・上土支田村・竹下新田・中村・中荒井村・田中村・谷原村は中仙道板橋宿の助郷村であつた。文久元年の和宮下向の際には板橋宿の大助郷として・橋戸・小榑の両村が勤めている。今日に残る江戸時代の文書に少からざる助郷歎願書を見るにつけても、季節を問わず人馬を徴用する助郷制度がいかに荷重であつたかを推測できる。

定免法・検見取法のいずれの方法によつてでも租額が決定されると、年貢免状(割符わつぶ・年貢割附)と呼ばれる徴税通知書が村方に下附され、村役人から各戸に高に応じて年貢が割当てられる。村方から年貢が上納されるとその度に小手形こてがたという請取がだされ、完納すると最後に皆済かいさい目録が渡される。土支田村の場合について徴税の実際をみよう。

<節>

第四節 租税徴收法
<本文> 画像を表示

領主の財政的基礎は、農民の上納する租税である。それゆえ租税を確保するため郷村の連帯責任を利用し、租税上納の義務を郷村の連帯責任とした。だから租税賦課も、個々の百姓を対象とせず、村を単位としておこなわれた。もちろん実際に租税を負担する者は個々の農民であるが、割当額の年貢を完納する義務は総百姓にあつたのである。

だから領主にとつては、領内の個々の百姓に年貢未進があつても、それによつて損害をうけることはなかつたのである。

年貢割附状が村役人あてに出されると、割附わつぶに記載される額の租税を総百姓に割りつけるのであるが、次に示した割附状によつてその内容をみよう。

<資料文>

                            卯御年貢可納割附之事

                      酉ゟ卯迄七ケ年定免          武蔵国豊嶋郡

                                             土支田村

                      一、高五百七拾八石八斗弐合            下組

                                            板橋宿助郷

                       此反別百七拾壱町六反壱畝廿八歩

                        此 訳

                      田高弐拾五石三斗八升三合

                       此反別弐町四反五歩

                        内八升五合    前々砂入引

                        此反別壱畝壱歩

                      残高弐拾五石弐斗九

                        此反別弐町三反八畝廿

                      畑高五百五拾三石四斗壱升九合

                       此反別百六拾九町弐反壱畝拾三歩

                        内高六斗壱升八合 前々砂入引

                        此反別壱反九歩

                      残高五百五拾弐石八斗壱合

                       此反別百六拾九町壱反壱畝四歩

                        内百四拾四町六反六畝拾二歩 本免

                         弐拾四町四反四畝廿弐歩 寅ゟ午迄五ケ年季

                                      取下

                        内 訳

                      高弐拾三石八斗九升五合

                       上田弐町壱反七畝七歩     拾壱

                      高壱石壱斗三升六合

                       下田壱反六畝七歩        七

                      高三斗五升弐合

                       下々田七畝壱歩         五

                        高八升五合

                        内壱畝廿壱歩     砂入引

                        高弐斗五升七合

                        残五畝拾壱歩

                      高九斗三升九合

                      上田畑成八畝拾六歩       拾壱

                                     荒地取下

                                     反取弐拾五文

                      高六石弐斗六升九合

                      中田畑成六反九畝拾七歩      九

                      内壱反五畝歩   右同断反永四拾七文

                      五反四畝拾七歩  右同断反永弐拾五文

                      高拾弐石六斗九合         七

                      下田畑成壱町八反四歩 右同断反永右同断

                      高弐石五斗三合

                      下々田畑成五反弐歩        五

                        四反七畝廿四歩   右同断反永右同断

                       内弐畝八歩     右同断反永四拾七文

                      高七拾八石五斗三升九合

                      上畑拾三町九畝歩         六

                       高六斗壱升八合

                            右同断引

                       内壱反九歩

                      高七拾七石九斗弐升壱合

                      残拾弐町九反八畝廿壱歩

                        拾弐町八反七畝拾五歩    本免

                       内

                        壱反壱畝六歩   荒地取下反永弐拾七文五分

                      高七拾四石九斗弐升三合     四五

                      中畑拾六町六反四畝廿八歩  本免反永六拾壱文五分

                      高三百拾弐石八升四合

                      下畑百四町弐畝廿五歩       三

                      八拾九町九畝拾六歩       本免

                       内七町八畝壱ト 荒地取下寅免直反永三拾文五歩

                        七町八反五畝八歩    荒地取下反永弐拾六文五分

                       高四拾五石三斗弐升七合

                       下々畑三拾町弐反壱畝廿四歩  壱五

                         弐拾三町八反九畝廿六歩  本免

                        内三町七反弐畝拾八歩  荒地取下寅免直反永弐拾七文五分

                         弐町五反九畝拾歩   右同断反永弐拾六文五分

                      高七斗四升弐合

                      上畑屋敷成壱反弐畝拾壱歩     六

                      高弐斗壱升四合

                      中畑屋敷成四畝廿三歩      四五

                      高壱斗三升

                      下畑屋敷成四畝拾歩        三

                      高三升

                      下々畑屋敷成弐畝歩       壱五

                      高拾九石壱斗壱升

                      屋敷壱町九反壱畝三歩       拾

                       取米拾壱石六斗七升弐合

                        永七拾七貫弐百弐拾弐文四歩

                       外

                     一永五百八拾弐文

                      此反別壱町九反四畝歩      上野銭

                     一永四貫百弐拾六文

                      此反別拾七町壱反九畝四歩    中野銭

                     一永壱貫四百弐拾八文

                      此反別九町五反壱畝廿弐歩    下野銭

                      永弐百八拾四文亥   亥ゟ卯迄五ケ年季   水車運上

                      米三斗四升七合         御伝馬宿入用

                      懸高四百六拾九石壱斗弐合

                        外高百九石七斗 助郷高免除

                      一米九斗三升八合        六尺給米

                      懸高  外高 右同断

                     一永壱貫百七拾弐文八歩     御蔵前入用

                        米拾弐石九斗五升七合

                      納合

                        永八拾四貫八百拾五文弐歩

右者定免当卯御取箇書面之通候条村中大小之百姓作入之もの迄不残立会無甲乙割合之来ル極月十日限急度可レ令ニ皆済一もの也

    安政二卯年十月                 小林藤之助㊞

                                        右村

                                          名主

                                          組頭

                                          惣百姓

土支田村は、正保の武蔵田園簿でも、後年の新編武蔵風土記稿によつても一村であるが、村内は上下両組にわかれ、それぞれ村役人がおかれた。貢租賦課にあたつても、別々に割附状がだされている。ここにあげたものは土支田村下組の割附状である。始めの数字が下組の総石高と町歩で、この石高から諸引といつて、事故その他で貢租の対象とならぬものを差引いている。この差引残高に対してかかる田畑の租税が本免である。江戸時代の文書に「免」という言葉が多く見られるが、免とは税率の意である。

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取下は、地味が劣等のため租額を低減することで、もとの地味に復するまで年季がつけられている。内訳は上・中・下・下々の品等別に田・畑・屋敷地の石盛と租額が記されている。

野銭・水車運上は雑税で、水車運上は営業税にあたるものである。次の御伝馬宿入用、六尺給米、御蔵米入用は高掛物三役とよばれるもので、御伝馬宿入用は五街道筋の問屋・本陣の給米および宿場費用にあてるために徴収され六尺給米は、江戸城中の台所に使役する六尺という人夫の給米で村高百石につき二升づつ徴収された。御蔵米入用は浅草御蔵の諸入用にあてるために徴収されたものである。

本免と小物成、高掛物のあとに総租税額が記されて割附はおわつている。

年貢納入にあたつてはその都度小手形という請取が領主から出されるが、完納したときに一年分をまとめて出される請取が年貢皆済かいさい目録である。同年の土支田村下組の皆済目録を次にあげよう。

<資料文>

               卯御年貢皆済目録

                          武蔵国豊嶋郡

        高五百七拾八石八斗弐合           土支田村

                                下組

        一、米拾石六斗七升弐合

           斗立拾弐石三斗三升九合          本途

        一、永七拾七貫弐百弐拾弐文四分         同断

        一、永六貫百三拾六文              小物成

        一、永弐百八拾四文        亥ゟ卯迄五ケ年季       水車運上

        一、米三斗三升三合               口米

           斗立三斗五升弐合

        一、永弐貫五百九文三歩             口永

        一、米三斗四升七合           御伝馬宿入用

                        卯冬御張紙直段三両増

           斗立三斗六升七合    但米三拾五石ニ付

           代永四百四拾文四分    金四拾弐両替

        掛高四百六拾九石壱斗弐合

         外高百九石七斗助郷高免除

        一、米九斗三升八合              六尺給

           斗立九斗九升弐合

          掛高外高 右同断

        一、永壱貫百七拾弐文八分         御蔵米入用

          掛高五百七拾八石八斗弐合

        一、菜種五斗七升九合              正納

           斗立六斗壱升弐合

          掛高右同断

        一、大豆壱石壱斗五升八合            石代

          斗立壱石弐斗弐升四合        但金壱両ニ付七斗七升

          代永壱貫五百八拾九文六分

        一、細餅米三升八合               同断

          代永百八文九分              但三斗四升九合

        一、太餅米三升三合六夕 同断

          代永七拾文七分              但四斗七升五合

        一、同籾四升七合壱夕              同断

          代永五拾五文五分             但八斗四升九合

        一、永弐百弐拾五文          辰ゟ丑迄弐拾弐ケ年賦   夫食代拝借返納

          米拾三石六斗八升三合

        合

          菜種六斗壱升弐合

         永八拾九貫八百拾四文六分

          此 払

         米九升五合壱夕            餅米籾代米渡

         米弐升八合五夕           右同断三割増米

         代永三拾七文五分          石代渡

         米三斗六合            但金壱両ニ付七斗六升

                              菜種代米石代渡

         代永四百弐文六分            但右同直段

         米六斗壱升弐合             大豆代米石代渡

          代永八百五文三分           但右同直段

           米九升五合壱夕

         小以

           永壱貫弐百四拾五文四分

          米拾三石五斗八升七合九夕          定 買納

        納合    但代永拾八貫三百八拾九文壱分壱石ニ付 代壱貫三百五拾三文三分四厘弐毛

          菜種六斗壱升弐合            但金壱両ニ付 四斗九升

          代永壱貫弐百四拾九文

          永八拾八貫五百文拾九文弐分

              外永七拾三文八分         包分銀

        一、永弐貫八百八拾七文壱歩         川々国役

        一、籾七斗九升八合         貯穀廿分一御下穀

          都合永九拾弐貫七百七拾九文壱分

右者去卯御年貢本途其外共書面之通令皆済ニ付小手形引上一紙目録相渡上者重而小手形差出候共可レ為ニ反古一もの也

    安政三辰年正月               小藤之助㊞

                                        右村

                                           名 主

                                           組 頭

                                           惣百姓

田畑租は、特定の場合を除いて、米納が原則であつた。一俵の米量は三斗七升で、それに附加税ともいうべき口米が一俵につさ一升であつた。口米は、本来租税徴収の任にあたる代官の給与であつたが、享保十五年(一七三〇)口米を代官給とすることをやめて幕府の収入とした。

前に述べたとおり、租税は村を単位として徴収し、徴収された租米は一時村の郷倉に保管された。寛政四年(一七九二)の下練馬村絵図によると、下練馬村の郷倉は北町一丁目の大山街道沿いの地にあつた。郷倉から租米は浅草御

蔵へ運ばれるのであるが、関村の場合「関村ゟ浅草御蔵江馬付ニ而御座候」(享保五年関村明細控帳)とあるように馬で浅草まで運搬されたもので、区内南部の諸村は青梅街道を利用したものであろう。

又土支田村では「御城米津出シ西台岸ニ而舟積」(享和四年明細書上帳)とあり、西台河岸より船で運ばれたものと思われる。武士階級の基礎は土地にあり、その財政的基盤は農民の上納する租税である。江戸時代には租税のことを「年貢」といい、「物成」「取箇とりか」「成箇なりか」も同じ意味である。幕府や諸藩のとつた農民政策の多くは租税の完全徴集を目的としたものである。農民の移動を禁ずる土着策や永代売買の禁止・分地制限なども租税確保の目的にそうものであつた。農民の年貢未納やそのための欠落かけおち逃亡)は領主の財政収入に直接影響を与えるものとして極力防止し、決して損失をこうむらないような方法をとつた。若し未納、欠落の者があれば郷村または五人組の連帯責任としての年貢の弁納を要求した。しかしながら未納百姓や欠落百姓の年貢を負担することは決して容易ではなかつた。それゆえこの対策として惣(総)作という方法がとられた。年貢未納の者の田畑や欠落の跡の田畑を官に取り上げて村中で耕作させて年貢を納めさせるのである。このほかに年貢完納以前に米穀を処分することに対しても制限を加えて、租税の確保に細心の注意をはらつている。

<章>

第五章 交通と運輸

<節>
第一節 川越街道・青梅街道
<本文>

関が原の戦いの勝利によつて、徳川氏の地位もほぼ確定し、江戸が名実ともに日本の中心となると、徳川氏は江戸城普請の大工事と同時に、慶長八年(一六〇三)、江戸市街の発展に備える海岸線の大埋立工事を行なつた。この工事は大名に賦課せられて、十三組七十人の大名が、千石高といつて千石につき一人の割合で人夫を出すことに定められたが、実際にはもつと多く出された。埋立てたのは豊島の洲といわれたいまの中央区の南部一帯で、堀を縦横に掘つてその揚げ土を用いたほか、神田山を掘りくずしてその土をもつて埋立てた。この埋立で開かれた市街地は、北はいまの日本橋浜町付近から、南は新橋付近までであり、この時掘りくずされた神田山、すなわちいまの駿河台台地の南側の辺りは、平地となつて市街が開かれた。新市街が開かれるとともに、それまで江戸城の西側を通つていた東海道も、中央を貫いて通るようになつた。いまの銀座から京橋・日本橋の電車通りである。そして市街の中心となるものが日本橋であつた。

翌、慶長九年(一六〇四)、いわゆる五街道がこの日本橋を里程の起点として整備されるに至つた。

<資料文>

     東海道 品川より守口迄 佐賀路共

     中山道 板橋より守山迄 美濃路共

     日光道中 千住より鉢石迄 例幣使道壬生道、並御成道其外水戸佐倉道共

     甲州道中 内藤新宿より下諏訪迄

     奥州道中 白沢より白川迄

                                   (「書留」)

東海道は、品川より大津に至る五十三次で、さらに京都・大坂間の伏見・淀・枚方・守口の四宿も、この延長とみるのが妥当であろう。中山道は板橋より守山までの六十七宿、草津・大津を加えると、江戸・京都間は六十九次となる。日光街道は千住から鉢石(日光の町名)の二十一宿。奥州街道は千住から宇都宮までの十七宿は、前記の日光街道と重複するが、厳密にいえばそれより白沢から白川までの十宿である。甲州街道は江戸・甲府間が俗説となつているが、下諏訪にて中山道と合するので、「書留」の如く江戸・下諏訪間とすれば、四十四宿が数えられる。これらの街道には、一里ごとに一里塚を設け、榎を植えて目じるしとした。都内でも、板橋区の志村坂上の中山道と、北区西カ原の岩槻道に、いまも史跡として保存されている。岩槻道というのは日光御成街道とも称し、本郷追分で中山道と分れ、北方に走つて駒込・滝野川を経て王子に出、稲付・岩淵宿を通り、荒川を渡つて川口に入るもので、これより鳩ガ谷・岩槻に至り、さらに幸手さつてで日光街道と合している。岩槻城との連絡路として、また奥州街道(日光街道)の裏街道として重要なものであつた。将軍日光社参の時、将軍たちの一行は必ずこの道によつたので、人々は御成道と称したのであつた。

これら五街道をはじめとする主要街道は、幕府の中央集権的な支配を助けるものとして道中奉行の支配下においた。街道には宿駅を置き交通の便をはかつたことは周知の通りであるが、五街道の宿駅には問屋場(伝馬所)があり、人馬引継の事務を行い、人馬を供給するほか、公用の書状および荷物を逓送した。常備の人馬には規定があり、東海道では百人百匹、中山道では五十人五十匹であつた(本章第四節参照)。伝馬には、公用の朱印伝馬のほか、大名その他の特権者が一定賃金で使用する賃伝馬があり、さらに駄賃馬といつて、相対によつて定める賃銭を定め、公用継立に差支えない限り、商業その他一般の私用に継立した。また各街道の宿場には、旅行の人々の宿泊休憩のための旅籠屋があり、大名や公用役人などの宿泊する旅館を本陣といい、その他予備のための旅館が定められて、これを脇本陣といつた。

さて、中山道は日本橋を起点として北行し、神田川を昌平橋で渡つて本郷の台地へ上り、赤門前を通つて追分に至る。ここで前述の岩槻道(日光御成街道)を右に分ち、西北方に走つて巣鴨を統て、板橋にこの街道の首駅を置いた。ここで西方に後述の川越街道を分岐し、志村に出て清水坂によつて荒川流域の低地に下り、戸田の渡しで荒川を渡つて第二駅の蕨宿に向かうもので、草津までの全行程百三十二里であつた。

板橋の地名は、いまの板橋町八丁目と板橋本町との間を流れる石神井川に架けられた十余メートルの橋から起つた。橋の名が地名となり、村の名、宿駅の名となり、現在では広く区名となつている。当時、宿駅としての賑わいもこの橋が中心で、上宿・中宿・平尾宿に分かれ、町並の延長は十五町四十九間に及び三宿併せてこれを板橋宿、或いは川越街道の上板橋宿に対して下板橋宿ともいつた。大木戸を設け(その址は不明、上宿の中央、岩の坂上ともいわれる)、安

藤対馬守の家臣が固めていた。江戸追放とはこの木戸から追い出されることである。問屋場(伝馬所)は現在の八丁目、坂上醤油工場の付近、ここに道中奉行支配の役人や村役人が詰め、公用の伝馬や人足を定置(五十人五十匹)して、公用の荷物の逓送に当つていた。宿には大名宿泊用の本陣・脇本陣、一般旅客用の旅籠屋、休憩用の茶屋・料理屋などが軒を並べていた。そしてこれらの旅籠屋には、飯盛女と称する遊女がいて、旅人の旅情を慰めていた。

<資料文>

  板橋駅

中仙道の首にして、日本橋より二里あり、往来の行客常に絡繹たり、東海道は川々の差支多しとして、近世には諸候を初め往来繁ければ、伝舎酒舗軒端を連ね、繁昌の地たり、駅舎の中程を流るる石神川(マヽ)に架する小橋あり、板橋の名ここに発るとぞ、板橋は上下に分てり、此地を下板橋と称す、上板橋は練馬通道にして、此地よりは西南の方の通路をいう

「江戸名所図会」十三

川越街道は、この板橋の平尾宿で中山道から左へ分岐し、武蔵野台地を西北に走つて川越に達するものである。「新編武蔵風土記稿」下板橋宿の条に、「平尾 江戸の方より入所なり、ここに西の方に分れ道あり、上板橋への往還なり」とみえている。川越は古くから武蔵国の中心で往古の「伊勢物語」に三芳野の里と称され詩歌にも名高く、関東でも重要な所であり、室町時代には扇谷上杉持朝の城下町として栄え、江戸時代に入ると、常に徳川氏重臣の封ぜられる所として、重要な城下町であつた。江戸・川越間は十三里、五街道ほどではないが、脇街道として重要なものの一つに数えられていた。川越から江戸への交通としては、本章第三節で述べるように新河岸川・荒川のいわゆる川越夜船も大いに利用されたであろうが、陸上のこの街道も或る程度の交通量を示していたと考えられる。当時この

街道を利用して参覲交代する大名は、川越の城主のみであつた。

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この街道の首駅として上板橋宿が置かれた。「当所は川越道中の馬次にて日本橋へ二里半、下練馬村へ二十六町の継立をなせり」(「新編武蔵風土記稿」)。前述の下板橋宿に比較すれば、極めて小規模なもので、文政六年(一八二三)の書上には宿内の人家九十戸と記録されている。

上板橋宿の次はわが練馬に入つて、下練馬村に当街道第二の宿駅が置かれた。「新編武蔵風土記稿」下練馬村の条に

<資料文>

当所は河越道中の馬次にして、上板橋村へ二十六町、新座郡下白子村へ一里十町を継送れり、道幅五間

と記載され、また「日本実測録」(道街)には、

<資料文>

 従<漢文>二中山道板橋<漢文>一歴<漢文>二川越<漢文>一至<漢文>二熊谷<漢文>一

武蔵国豊島郡板橋宿平尾 二十町四十一間 上板橋村 二十五町三十七間 下練馬村至 金乗院六丁十二間 一里五町五十四間 新

座郡白子村………

とみえている。しかし、板橋宿の町並の比ではなかつたことはいうまでもあるまい。もちろん宿である以上、本陣のようなものも指定されていたであろうが、現在では全く不明である。また一般の旅客の通過も余り多くはなかつたので、宿としての経営は、なかなか困難であつたろうと想像できる。しかし宿は上宿・下宿に分かれ、街道に沿つて僅かながら街村の形態をなし、旅人相手の休憩茶屋や料理店もあつたであろう。上宿(現在、北町二丁目一〇八番地)の大木寛氏の祖先は代々名主であつたともいわれ、、兼ねてそこに問屋場が置かれてあつたと伝えられている。

下練馬宿の次は新座郡に入つて、下白子村に白子宿が置かれていた。「新編武蔵風土記稿」下白子村の条に、「白子宿 村内河越街道入口の宿なり、此宿は天正の末より置しと見ゆ、郡内橋戸村の民庄忠右衛門が所持せる天正十九年の文書に新宿を見立て毎月六次の楽市をなすべきと云ことあるは此処なり、近き頃御代官所より糺しありし時此文書を証とし古来よりの市なること分明になりしかは、今も毎月五十の日を以市をなせりと云」とみえている。区内の旭町の西北端、新川越街道で白子川を渡り埼玉県に入つて、大和町郵便局の処を右に折れた一帯が旧川越街道の白子宿があつた辺りである。いかにも古い宿場町のたたずまいが、現在でもそちこちに残つていて、感懐深いものがある。

青梅街道については、補説「練馬の道」に詳細な説明があるから、参照せられたい。内藤新宿で甲州街道から分岐し、現在の新宿区・中野区・杉並区の旧各村を連ね、現練馬区内に属する竹下新田・上石神井村・関村を少しくかす

めて、西方の上保谷村。田無村を経て青梅村に達するものである。青梅村から先は間道となつて、柳沢峠・大菩薩峠を越えて、甲斐国塩山付近で再び甲州街道に合している。甲州裏街道とも称される所以である。この街道は慶長十一年(一六〇六)に江戸城修理のために必要な石灰を、青梅付近の成木・小曾木村などから運ぶことを目的としてひらかれたものと伝えられている。

<節>
第二節 大山街道と東高野山道
<本文>

大山街道は、富士街道または行者街道ともよばれ、信仰上の道として、近世の練馬はもちろん、近在の庶民たちと甚だ関係の深い道であつた。その詳細に関しては、補説「練馬の道」を参照せられたい。

大山とは俗称で、正式には相模国中郡の阿夫利山である。この山の頂上の阿夫利神社には、太古の石剣を神体として大山祗命が祀られているのであるが、神仏混淆の当時のこととて、これを不動明王と同一体として、この社は大山不動明王石尊大権現とよばれていた。江戸時代の中期ごろから、関東ではこの石尊山詣(大山詣)がさかんに行われ、それはほとんど総てが講中の団体として行われた。

この道は下練馬村(現在の北町一丁目一三〇番地)の旧川越街道から左へ分岐して、下練馬村・上練馬村・谷原村・下

石神井村・上石神井村・関村と練馬の旧村を南西へ走つて、柳沢・田無・府中を経て相模国の大山に達していたのであつた。白衣を着した講中の人々が陸続としてこの道を通つて行つたその当時の名残りが、いまなおこの沿道の各所に見ることのできる石標である。さらにこの大山詣の山嶽信仰は、山嶽信仰の大宗である富士詣を兼ねてする者も多く、当地方からは富士へ参詣するのにも多くこの大山街道によつたので、富士街道の名も発生し、大山富士道と記された石標も多い。

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この大山街道は、江戸市中でもごく北部の人々や、中山道・日光御成街道沿道の人々が専ら利用したと推定される。江戸市中より南部の大山道者たちは、江戸から東海道をとり、藤沢から右へ折れて山麓まで達する道を選んでいたからである。板橋区志村二丁目の旧中山道の清水坂上で西の方へ一路を分岐しているが、そこに庚申塔と道標の石柱が一基づつ立つている。それはそれぞれ次のように刻まれている。

(道標の方には寛政四年(一七九二)三月吉日の造立年月日がみられる)

   <庚申塔>左側面

          練馬<外字 alt="え">〓一里

是より

富士山大山通 柳沢<外字 alt="え">〓四里

          府中<外字 alt="え">〓六里

   <道 標>正面

     大山道 ねりま 川こえ みち

この道はそこから旧中山道と分かれ、逆川の窪地を降つて上り中台を経て、川越街道が大山街道を分岐する五十メートルほど板橋寄りで、北の方から川越街道と合していた。また、日光御成街道の王子稲荷付近および現北区稲付町五丁目から旧中山道方面へ入る二つの道があり、この二つの道は姥ケ橋付近で合し、現在の清水町付近で旧中山道をよぎり、前野を経て中台で前述の清水坂上から来る道と合していた。この両道は、それぞれ中山道・日光御成街道方面から大山街道へ入る近道と考えられ、大山街道の延長路と見做し得るであろう。

大山へ詣でる江戸つ子たちは千垢離と称して、両国付近の大川の水を浴び、身心を浄めてから出発するのが例となつていたが、この付近の人々はわざわざ両国辺まで出向かずに、近くの湧水や小滝のある点を選んで精進場としたようである。板橋区下赤塚町の滝不動や、清水町の逆川の源となる清水の湧く出井などはその例で、出井には十坪ほどの広場に大山不動の碑が立つている。

谷原村の長命寺は、当地方における屈指の名刹の一つである。新義真言宗で東高野山または新高野山と称した。北条早雲の曾孫に当る勘解由重明が、天正十八年(一五九〇)小田原落城の後、この谷原の地に退き農を業としていたが、老後剃髪して慶算と号し、紀州高野山にこもるうち、弘法大師の夢の告げにより、帰り来つて一庵を起し、大師の像を祀つたのが寺の起源であるという。慶長十年(一六〇五)のことと伝えられている。その後、弟の重俊が高野

山の規模にならつて堂宇を造立したので、東高野山の名が遠近に高くなつた。なお、この寺の詳細に関しては、第四編文化遺産神社仏閣によられたい。

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江戸時代に、江戸市中の人々は、一日の行楽をかねて神仏に詣でて歩くことをさかんに行なつた。八十八カ所巡りと称して、江戸内外の弘法大師を祀つた寺々は、巡拝する人々で賑わつた。現練馬区内の寺々では、三宝寺が第十六番、禅定院が第七十番、この長命寺が第十七番、南蔵院が第十五番と、それぞれ八十八カ所巡りの中におりこまれていた。今日区内のそちこちに東高野山と記した石標が立つているのは、そうした八十八カ所巡りの人々の便を計るとともに、この名高い堂塔伽藍の長命寺に参拝する多くの人々の案内としたものであろう。

長命寺へ向かう道は、東西南北の四方からそれぞれ想定される。しかし江戸市中からの関係もあつてか、東の方から入る道に、今日でも東高野山の道標が圧倒的に多く残存している。上練馬村旧清戸道から長命寺への道を分岐する地点(現貫井町七七六番地、練馬第二小学校筋合い関口自転車店前)には、二基の石の道標が現存している。いずれも寛政十一年(一七九九)の年号が読まれ、二基とも現貫井町七七五番地関口藤助氏の先祖が造立されたものと伝えられている。向かつて右側のものは、高さ一・四二メート

ル、幅〇・六メートルの石碑で、

<資料文>

                     (正面)

                         維碑立斯用此鏡石

                       東 以臨以照爾心其赤

                       高 我行左旋進歩九百

                       野 輪焉煥焉伊霊之宅

                       山 霊降自天敢度以<外字 alt="斁">〓

                         周示行道明明赫赫

                            東野孝保建并書

                     (右側面)

                       右 □□(欠損)ちちぶ道

                         寛政十一年巳未四月

                     (左側面)

                       左 東高野山十八丁

                                 都鄙講中

                           武州豊嶋郡貫井村

                          発願人 関口藤助延義

と刻まれ、左側のものは高さ〇・七五メートルの角石柱で、

<資料文>

                     (正面)

                        左

                         東高野山

                     (右側面)

                       寛政十一年巳未三月

と刻まれている。

幅三メートル許りの細い道ではあるが、この道はここから谷原村に入り、後述する千川上水筋から入つてくる東高野山道と合し、石神井川を渡つて(現在の大橋)長命寺門前へ上りつめている。他方、千川上水筋から入る道は、現在の富士見台駅前を通る道で、田中村と谷原村の境(現在南田中町七八二番地、ドブ川を越えて魚屋と八百屋が並んでいる四つ辻)までだらだら坂を下り、北折して御岳社の所で、前述の清戸道から入つてくる道と合している。この東の方から入る両道に、合わせて七基の東高野山の道標が現存しているのは、いかにこの道が多く利用されたかうかがうことができる。

その他、南の方から入る道として、八成橋から千川上水筋を百メートルほど東へ寄つた所に東高野山の石標が現存している。此処は当時多摩郡下井草村との境であり、青梅街道・五日市街道方面の現杉並区内に属する旧各村から長命寺に参詣する人々は、おおかたこの道によつたのであろう。また旧川越街道の土支田村・白子村境の南へ一路を分

岐する地点にも石標があり、これは北の方から長命寺へ入る道と想定され、当時の長命寺の存在の大なることをうかがうことができる。

<節>
第三節 荒川の舟運
<本文>

荒川は、関東山脈の三国山より発し、秩父盆地の水を集めて北流し、長瀞の景勝をつくりながら関東平野に出て、埼玉県中央部を東南流し、さらに埼玉県南部と東京都北部との境界を画し、さらに南折して隅田川となつて東京湾に注いでいる。その途中、入間川・黒目川・柳瀬川・白子川・石神井川等を併せ、総延長一七七キロメートル、わが国でも有数の大河である。その名の示すように、洪水の多い川であつたが、現在では北区志茂町地先に岩淵の水門を設けて、高水をここから放水路に導くことになつて、東京の下町は水害を免れ得るようになつた。

荒川は、江戸時代に入るまで現在の水路と異り、熊谷付近から東南に進んで、岩槻を過ぎ越ケ谷付近から東方に転じ、大相模村で利根川に合流して江戸湾に落ちていた。従つていまの荒川の水路は、往年の入間川の流路であつた。荒川の流域は地味肥沃の冲積層土であつたが、氾濫の害が少なくなかつたので、寛永年間(一六二四~一六四三)幕府は伊奈忠治に命じ、熊谷の南部より南東へ、和田吉野川・市川の水路を利用して開鑿し、比企郡の東南端に於いて入間川に注がせた。こうして入間川は現在のように荒川の一支流の観を呈するようになつてしまつたのある。また幕府は、現在の古利根川・江戸川の流路を通つて江戸湾に注いでいた利根川を、下総国関宿(向河岸)付近から東進させ、銚子に落す一大治水工事を施行したことは周知の通りである。

江戸時代における荒川の舟運は、いま考えるよりずつと重要なものであつた。そしてそれはとくに川越との関係をぬきにしては考えられないものであつた。川越は、室町時代には扇谷上杉持朝の城下町として栄え、江戸時代に入ると、常に徳川家重臣の封ぜられる所として重要な城下町であり、小江戸と称されるほどに栄えたのであつた。江戸時代初期に武蔵岩槻からこの地に転封になつた松平伊豆守信綱は武蔵野開発の第一人者としても著名であるが、彼は、川越が関東平野の中央にあつて交通の不便なのに思いを致し、水路によつて川越と江戸とを結ぶ計画をたてた。

そこで取上げられたのが、川越城下の東の伊佐沼から発する新河岸川であつた。この小流は武蔵野台地の東縁に沿つて南流し、引又(現在の埼玉県志木町)の東の新座郡下内間木村にて荒川に落ちている。「新編武蔵風土記稿」下内間木村の条に、「新河岸川、村の南境を延亘し東流して荒川へ落入、川幅二十間余」とみえている。寛文二年(一六六二)この新河岸川を改修して通船のできるようにした。この土木工事は二十四年の歳月を要した大掛りなものであつたと伝えられている。舟の発着地は、川越城下の南の新河岸がさかんに利用された。新河岸(入間郡高階村)は上下に分かれ、ここに発着する荷物を扱う問屋、旅客のための船宿などが十軒もあつて、なかなか盛大なものであつたと伝えられている。川越はもちろん、武蔵北部や上州方面の物資や旅客までも、ここを仲継として江戸と連絡することになつた。川路は江戸まで二十里許り、それでも十三里の川越街道を歩くよりは楽だつたので、早船とか川越夜船といわれてさかんに利用されたことは、おそらく現在では想像できないほどであつたろう。(なお、荒川と新河岸川との合流点より下流にも、現在荒川の南側に新河岸川が流れ、岩渕の水門にまで至つているが、これは荒川の改修工事に伴い、人工で掘割り、所によつて荒川の旧河道を利用して開鑿した極めて新しい存在である)。この川の船は七十石積を普通としたが、中には百石積

程のものもあり、普通定期便は貨客混乗であつた。

上述のような川船の発達と、そのはげしい舟運とは、当然この川の下流の沿岸付近各村の利用をうながさずにはおかなかつた。新河岸川が荒川の本流に入つてから江戸前の海に注ぐまでの間に、渡し場とともにいくつかの船着場がつくられ、江戸への貨客の舟運に一役を果していたことはいうまでもない。いま「日本実測録」によつて、当地方と関係深いと考えられる船着場を挙げてみたい。

画像を表示 <資料文>

……下笹目村早瀬 一里一十一町四十五間 下戸田村渡船場 一里二十一町一十八間川口宿三里八町二十八間至ニ本木村ニ里一十九丁四十三間半 千住掃部宿……

右のうちで、わが近世の練馬ととくに関係が深かつたのは、早瀬であつたと考えられる。早瀬は、上練馬村に北接する上赤塚村と荒川を挾んで位置する足立郡下笹目村早瀬である。「新編武蔵風土記稿」上赤塚村の条に、「荒川 北の方足立郡界にあり、幅二十五間、作場渡あり、対岸早瀬村に司れり」とみえるように、対岸の早瀬河岸と当方の赤塚河岸との間に、俗称早瀬の渡しがかかつていた。補説「練馬の道」にも述べられているように、練馬区内の旧村からこの早瀬の渡しへ通ずる埼玉道があつて、区内旧村の北部の村々では、貢米や大根・漬物等の特産物が、この早瀬の渡しの赤塚河岸に運ばれ、そこから船に積込まれて荒川を下り、浅草御蔵や花川戸付近まで廻送された。江戸からは、

積んで来た塩・灰・糠・肥料などを荷揚げしたであろう。

早瀬赤塚河岸の上に新倉河岸、下に西台河岸の船着場が存在していたらしい記録は、第三章第二節土支田村の項で紹介した小島家に伝えられる土支田村明細帳の中に散見される。すなわち、享和四年の村明細帳の中に、

  1. 一、御城米津出し西台岸ニ而舟積(後欠)
と記載されているのや、同じく天保二年の村明細帳に、
  1. 一、御城米津出し新座郡下新倉     積仕候右河岸迄道法凡壱里半
とみえているのは、いずれも荒川を利用した証左であろう。

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赤塚河岸や西台河岸を下つて中山道と交叉する処に戸田河岸があつた。対岸の戸田村の名によつてよばれたものである。練馬の村々とはだいぶ縁遠い存在であつたかも知れないが、それでも北東部の下練馬村の一部ではこの河岸を利用していたかとも考えられる。現北町一丁目六一番地先板橋区との境をなす道の傍に、文化十二年(一八一五)の年号のみえる庚申塔と馬頭観音が並んで立つているが、両方の左側面にそれぞれ、左 戸田渡道・左 戸田道の道しるべが刻んであるのは、この面での一つの考証に役立とう。

戸田の一つ下は小豆沢河岸(浮間河岸)、その次が日光御成街道の左岸が川口、右岸が岩淵河岸で、ともにかなり賑わつていたが、もう練馬とは関係が薄い。

<節>

第四節 助郷
<本文>

助郷とは、宿駅における常備人馬補充の目的をもつて、力役を賦課された近傍の郷村という意であり、その課役を助郷役といつたが、転じてその課役を助郷というようになつた。この制度は、最初は臨時補充的のものであつたが、参覲交代制が確立してから、交通が頻繁化してくると人馬需要の増加にともなつて、寛永十七年(一六四〇)、各宿駅の常備人馬を東海道は百人百匹、中山道は五十人五十匹、日光・奥州・甲州の各街道は二十五人二十五匹に引上げる一方、宿駅付近の郷村に対して次第に恒常的に助郷を指定するようになつた。しかし幕府は助郷を設定する際、同一の封領または国郡を限界としたために、往々にして交通の渋滞、宿駅の困惑を招いたので、元祿二年(一六八九)この方針を改めて、新たに宿駅付近の郷村を選んでその所属を定め、元祿七年(一六九四)には、高百石につき二人二匹とした。このように常時宿駅補助の人馬を出すものを定助郷といい、諸侯の参覲交代や臨時の大通行に対して、五六里から十里内外の諸村が臨時に賦課されるものを加助郷(大助郷)と称した。享保六年(一七二一)の定めに

<資料文>

助合村へ人馬当之定は無之候得共、大概百石に付、三、四疋人足五、六人迄は定助計ニ而相済、夫より多く人時は大助村相触、尤宿ニ寄不同之事(「五駅便覧」

とみえている。

助郷の負担は、上述のように元祿七年には高百石について馬二匹人足二人であり、享保六年には右のように

三、四匹、五、六人となつたが、しかし交通量の激増は宿駅の疲弊を一層顕著にしたため、幕府は享保十年(一七二五)、両者の区別を撤廃して一律に定助郷並みにし、三役の高掛りを免除するかわりに課徴人馬の数を増加することとなつた。

こうして助郷課徴の強化、課徴範囲の拡大の傾向は時代の推移とともに甚だしく、一役に往復数日を要するような遠隔地に及び、幕末に至つて人馬継立における宿駅・助郷の地位は全く逆転してしまつた。その間、金銭代納が一般化して一種の租税となり、助郷農民の経済生活を著しく圧迫した。夥しい人馬の課役によつて、青壮年は家業に励む暇なく、農事は婦人または老幼者に任せたので、耕地は多く荒蕪地と化し、収穫は減少し、人々は離散して潰家となるものが次第に多くなり、農民の窮乏と農村の疲弊の大きな原因となつた。これに対して郷村はしきりに軽減方の愁訴歎願を行なつたが、幕府は交通政策維持のためこれを強行したので、明和元年(一七六四)の東武百姓一揆をはじめ、しばしば一揆を引起すに至つた。

この助郷の制度は、慶応三年(一八六七)十月に至つて廃されたが、また明治元年(一八六八)に復活し、維新後は暫定的にこの制度を用いた。しかし明治五年(一八七二)正月に各地に陸運会社が創設されることにより、長年農民の悩みであつた助郷制度は、ここに完全に撤廃されたのである。

次に当地方に関する助郷の状態を、最初に中山道板橋宿、ついで甲州街道高井戸宿についてうかがつてみよう。五街道のうち、中山道・甲州街道の二つの街道に挾まれた形の当地方は、この両街道の宿駅に助郷を出していたことが、現存するいくつかの記録によつてもうかがわれる。

板橋宿は、本章第一節で述べたように、中山道の首駅で、江戸日本橋から二里、つぎの蕨宿まで二里十町の間の人馬継立を行なつていた。諸侯の参勤交代には、江戸入りの前日ここに宿泊するものが多く、一泊の上、心身を整えて、それからゆうゆうと江戸入りをしたと考えられる。それはちようど江戸に対する品川宿の関係を、板橋はもつていたわけである。東海道の品川宿は、長途東海道を西から下つてきた人が、そこで一泊、旅塵を洗い落し、時には浅酌低唱のひとときも味わつた上、翌日さわやかな面持で江戸入りしたということで繁盛したのであつたが、品川宿ほどでないにしても板橋宿が、そういう役割を帯びていたことは疑いない。通常の場合、この宿を通過する諸侯は、日本一の大大名加賀金沢の前田氏をはじめとし、その分家である大聖寺および越中富山の前田氏、越後は全部で、糸魚川・高田・長岡・与板・椎谷・黒川・三日市・村松・新発田・村上等の諸侯がここを通過し、また信州は伊那・諏訪の二郡を除いて、松本・松代・上田・飯山・田野口・小諸・岩村田・須坂等の諸侯はみなここを通り、さらに上州の諸侯の大部分と下野の足利・武州の忍侯等もここを通過し、遠くは美濃の加納および苗木侯もここを通つた。

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単にそれのみならず、江戸・京都間を往来する勅使その他の使者等の往復通過する者も少なくなかつた。とか

く東海道は諸川が洪水等のために差支えを生ずることが多かつたから、関西方面の諸侯の中にもここを通過するものもあつて、板橋宿は東海道の品川宿には及ばなかつたが、甲州街道の新宿、奥州街道の千住宿に比較すれば割合に繁昌していた。

前述の如く中山道各駅の常置人馬は五十人五十匹であつたが、この常備人馬が不足の時は、近村に人馬を課した。これが助郷であるが、この人馬を課せられたことを「伝馬があたつた」といつた。元祿年間から助郷は一定されて何々村は何々駅に付属するというようになつた。

文化三年(一八〇六)の「板橋伝馬助郷高書上」(相原家文書)によると、板橋宿助郷高及び村名は次のとおりである。全部で四七カ村で助郷高一五、六一三石五斗となつている。

<資料文 type="2-33">

    板橋伝馬助郷高(文化三年)

助郷高     村名

(石)

  五三七    下鷺宮村

  一三五    上鷺宮村

   六三    中村

  一三五    中荒井村

  二二二    江古田村

  六〇四    成旨村

  五九六    田端村

助郷高 村名

(石)

  六七八    間橋村

   六一    上高田村

  三九九    和田村

   九三    大久保村

  三〇〇    高円寺村

  一二〇    下落合村

   三五    諏訪村

  二一四    上落合村

  二六一    戸塚村

  二二五    神谷村

  二〇一    前野村

  一〇三    新田堀之内

  一三〇    金井久保村

  二一四    谷川村

  一三〇    滝ノ川村

  一一四    小豆沢村

   五二    中丸村

一、〇〇〇    徳丸村

  三一四    徳丸脇村

  一七〇    西台村

  二〇〇    長崎村

一、三五〇    下赤塚村

  二五三    土支田村

  一七六    下石神井村

  五一八    上新倉村

  二一七    沼袋村

   五一    新井村

  五七四    豊嶋村

  一五〇    梶原村

  三〇五    上尾久村

  三二〇    池袋村

  二一〇    西ケ原村

   八四    上中里村

  二一六    下新倉村

  二〇〇    成増村

   八四    葛ケ谷村

   三八    片山村

  八五三    谷原村

  四四七    下石神井村

  (二、六二六 上練馬村)

計 一五、六一三・五 四七

 (下練馬村は除かれている)

区内の諸村では、中村・中荒井村・土支田村、下石神井村・谷原村・上練馬村などが記されている。助郷高は村高を標準として、さらに各村の諸事情を考慮して決定されたものであるから村高必ずしも助郷高ではない。

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助郷の負担は最初元祿七年(一六九四)高百石馬二匹、人足二人であり、享保六年(一七二一)に三・四匹、五・六人となつたが、次第に増加していつた。

幕末の文久三亥年の「下板橋助郷村々規定連印帳」(小島家文書)に記されている助郷勤高及び助郷村は次のとおりである。

<資料文 type="2-33">

下板橋勤高之分(文久三年)

助郷高 村名

  (石)

   七二五   馬橋村

 一、〇七〇   西台村

 一、〇〇〇   徳村本村

助郷高 村名

   (石)

   三一〇   徳村脇村

   七七一   上練馬 高松組

            中野宮組

   七九六   田柄組

   四九六   貫井組

   九六〇   上赤塚村

   二〇七   長崎村

   二〇〇   成増村

   二一六   下新倉村

    二四   谷戸村

   二一〇   西ケ原村

    八七   上中里村

   三〇五   上尾久村

   一五〇   梶原村

   五七四   豊嶋村

   二二六   神谷村

   八五三   谷原村

   六二三   下石神井村

 一、四三五   上土支田村

 一、〇九七   下土支田村

   一二五   下落合村

   五一八   上新倉村

    八四   葛ケ谷村

   二二九   江古田村

   一三五   中荒井村

    六三   中村

   一三〇   上鷺ノ宮村

   五三七   下鷺ノ宮村

   一三四   金井久保村

   三二三   池袋村

    五二   中丸村

   二六一   戸塚村

   五二四   源兵衛村

   一三〇   滝野川村

   二一四   上落合村

    九三   大久保村

    三五   諏訪村

    六一   上高田村

    五一   荒井村

    三八   片山村

   三〇〇   高円寺村

 一、三九六   田端村

   六七七   新田堀之内村

   七〇四   成宗村

前野村

   一一四   小豆沢村

<資料文 type="2-33">

   加助郷之分

   一六〇   千駄ケ谷村

   五〇〇   田中村

一三、五六九   上石神井村

   二〇五   上白子村

 一、一一〇   小榑村

   六一三   下保谷村

 一、〇〇〇   上保谷村

練馬区に属する村では、上練馬村が高松組・中野宮組・田柄組・貫井組と四組別に記され、中荒井村・中村・谷原村・下石神井村・上土支田・下土支田村の諸村と更に加助郷分として田中村・上石神井村小榑村などが記されている。

明治二年(一八六九)五月、東京駅逓役所からの通達によれば板橋宿助郷は七二カ村であり(板橋区史)、区内の村では、上練馬村・下練馬村・上石神井村・下石神井村・谷原村・田中村・中荒井村・中村・上土支田村・下土支田村・竹下新田などがあげられている。

助郷制度は、農村困窮の一原因として挙げられるほど農村にとつて過重な負担であつたが、現存する歎願状のそのほとんどが、助郷役免除に関する願いであることから推しても、助郷役がいかに農村を苦しめたかが窺われる。

文化年間の著述といわれる「世事見聞録」も助郷負担の過重なることにふれて次のように述べている。

<資料文>

其上殊に難儀なるは国役伝馬役人足なりといふ…………又伝馬役人足役の事、役辺は日光道中・奥羽の道中例幣使街道など往来多の場所ゆゑ、何れか宿駅助郷を勤むるに、是又村高へ割付る事にて、百姓十人二十人ならではなき所へ三十人も四十人も当り馬五疋ならではなき所へ十疋も十五疋も当る故、無拠宿駅場へ賃銀を出し雇ひ上て役を勤るといふ。全体宿々人馬の入用も古来より倍増いたし弥増難儀の重なるゆゑ、堪へ兼ねて段々離散し荒地潰家出来るといふ。尤もの事なり。

土支田村は「御伝馬之義ハ川越通リ白子村定介ケ仕候」(宝暦六年明細書上帳)とある如く、川越街道の白子宿定助郷であつたが、板橋宿定助郷高円寺村(多摩郡)が「追々困窮相募難相続」という理由で、休役を願いでたので、その代りとして土支田村・成宗村・田端村・馬橋村・和田村の五カ村に対して助郷役を指定された。これについて助郷役免除歎願書が土支田村から出されたが、助郷課役にたいする農村疲弊の実状を訴えるものとして、左にその全文を引用してみよう。

<資料文>

        乍恐以書付奉願上候

一、武州豊嶋郡土支田村名主年寄百姓代奉申上候、今般中山道板橋宿定助郷多摩郡高円寺村体役御免奉願上候ニ付私其村方外五ケ村差村仕依之村柄為御糺内田宇八様市川二三郎様被成御越候而村柄御見分奉請候難渋之始末左ニ奉申上候。

一、当村之儀は御挙場并御両郷様御借場村方ニ御座候、御両郷様出御之砌は所々江追勢子人足御道具持送り持返し人馬御場所拵□□類持送り人馬無之尾州様御鷹場隣村ニ御座候得は当村御道筋ニ御座候 出御之砌は道普請等仕是又人足相勤申候。当村助郷川越道中白子宿御通行仙波御宮御用其外大小名様移多御通行大人馬相勤申候、且当村之儀は外村々与違前々ゟ困窮之村方ニ而則御割附之面相乗り候通り田畑荒地御取下ケ場所都合八拾町余御座候間殊ニ武蔵野同様之悪田地之場所ニ御座候得は

諸作江養多分不被仕候而は諸作実之法程悪敷候ニ付江戸表ゟ下肥其外糠灰等買上仕人度奉存候而茂凡道法五里余御座候得は自養不足ニて諸作実法之儀悪敷年々夫食等ニ茂差支難儀仕殊ニ近年は年増ニ人別減少ニ相成皆畑之村方ニ御座候得は此上荒地出来可申与奉存程ニ人少相成且当年は世上一流麻疹流行致其上痢病等ニ成当年書上候人別帳面ゟ六拾五人程病死仕村内江互ニ助合候得共諸作手おかへ色々相成申候、然所延等享年中右板橋宿定助御村方ゟ差村ニ罷成候処村柄御糺之上御免被仰御候、其後宝暦十辰年外村ゟ差村々相成候所村柄御糺之上板橋宿御高札場ゟ当村御高札場迄里数御改被成候所道法三里半余付座候故御免被仰付候、又候天明四辰年源兵衛村外弐ケ村ゟ致差村村柄御糺之上道中御奉行様江被召出重キ御裁許ニて辰ノ三月ゟ年々寅二月迄拾ケ年之間右村方代り助郷被仰付候、難儀ニは奉存候得共御裁許ニ而被仰付候故御請印形差上相勤申候、年季中度々休役御免奉願上候処差村致□□旨被仰渡候儀も御座候得共難渋之儀は何之村方ニ而茂同様之儀御座候故差村不被仕年季中漸々相勤メ申候、右宿方迄は道法三里半余御座候得共一日之御伝馬役勤勤候ニは二日宛相掛り誠ニ困窮仕潰百姓茂出来候而御年貢御上納御日限延引罷成御咎等被仰付候儀も度々有之難儀至極仕九ケ年以来寅二月休役仕候而御年貢御上納も両三年以前ゟ年皆済仕処又候差村罷出一同奉驚入候。

  此上若右村代り助郷被仰付候ハハ又候御年貢未進等出来殊ニ人少候は荒地等茂出来致一村退転仕相続出来兼可申候、大小之百姓一統相歎き御出訴申上呉候様日々相歎キ候ニ付何レ被仰付茂無之差越之御儀ニは奉存候得共前書申上候通一統相歎キ候故不願恐多奉願上候、何卒御憐愍御慈悲ヲ以此般右村代り助郷之儀御赦免被成下候ハハ大勢之者相助り広大之御慈悲奉願上候。以上

                                  武州豊嶋郡土支田村

                                    名主 八郎右衛門

           享和三亥年八月                  同  岩治郎

                                   百姓代 吉三郎

   道中

    御奉行所様

この歎願は、結局取り上げられることなく、歎願書を提出した翌年の文化元年八月には高円寺村が「困窮之段相違無御座候」として助郷役のうち過半を免除され、その分を土支田村外前記の四か村で割合い代助郷を勤めることになつた。

土支田村は助郷高二五三石五斗を割当てられ、そのうち上組一四三石八斗、下組一〇九石七斗を負担することになつた。

<資料文>

      差上申一札之事

中仙道板橋宿助郷武州高円寺村之儀追々困窮相募難相続先達而助郷免除奉願御吟味中依願御取上可有之筋ニ無之段相弁御吟味御下ケ之儀奉願願之通り願書御下ケ被成下候処今般外様御用度御代官宇川八郎左衛門様手附上野四郎三郎様両御手代中被差越差村一同村柄御糺之上高円寺村困窮之段相違無御座候ニ付是迄助郷勤高之内過半御免除被成下右之分上支田村外四ケ村江割合左之通代り助郷被仰付候

                       三百石是迄之通可相勤分

                      内

                       四百八拾壱石当子八月ゟ御免除被仰付候分

                        右代り

                      村高千三百三拾七石七斗八升余

                                土支田村

                                      名主 八郎右衛門

                       一助郷可勤高弐百五拾三石五斗

                                      年寄 岩次郎

                      村高三百拾八石九斗余 成宗村

                        内高壱斗五升新田無地高除之 名主 弥五左衛門

                        掛り高三百拾八石七斗余

                       一内高六拾石四斗

                      村高三百拾四石四斗余 田端村

                       一内高五拾九石六斗 名主 織右衛門

                      村高三百五拾八石余 馬橋村

                       一内高六拾七石八斗 名主

                      村高弐百八石八斗余 和田村

                       内高七升堀敷引除之 名主

                       掛り高弐百八石七斗余 小四郎

                       一内高三拾九石七斗

 

                       合助郷可勤高四百八拾壱石

                        当子ノ八月ゟ代り助郷被仰付候

右之通り被仰付候間老人若輩(虫喰)等差出宿方ゟ解当次第人馬遅参不参等不致正路ニ可相勤旨被仰渡一同承知奉畏候、若相背候ハハ御科可被仰付候、依而御請証文差上申処如件

 

    文化元年八月

   道中

    御奉行所様

板橋宿助郷のうちで近郷村々が大動員されたのは、何といつても和宮降嫁の大行列の中山道通過であつた。

幕府権力の危機を公武合体によつて、なんとか喰いとめようとする努力は、有栖川宮熾仁親王へ降嫁のきまつていた皇妹和宮を、将軍家茂の御台所として降嫁させ、政略結婚によつて一時的にも活路を見出そうとした。

この計画は井伊直弼が桜田門外にたおれて、一時的に中絶したが、岩倉具視等の周旋によつて遂に裁可があり、和宮降嫁の行列は、文久元年十月二十日京都を発輿し、中山道を経て十一月十五日に江戸へ着いた。

途中の道筋に対する警戒は厳重をきわめたが、十一月板橋宿木戸取締出役から発せられた「和宮様御下向御道筋御

取締場所心得方」をみてもそのものものしい警戒ぶりがわかる。

<資料文>

  酉十一月

 和宮様御下向御道筋御取締場所心得方

   宿内取締并野間閑道江道筋心得方

一、宿内前後木戸之儀は御警衛向御目付方立会ニ而取締いたし候

  着輿後直ニメ切通路差留候ニ付若出人之儀申もの有之候へは出役ゟ御用次第名前等承り御目付方ゟ申立通路為致可申事

  但宿内之もの并宿助郷人足其外合印印鑑等持参之ものハ其儘相通可申事

一、宿内横道并メ切之内通路有之候処ハ見廻り助郷人馬并下宿出入之者其外ハ一切通路差留厳重取締いたし可申事

一、宿内夜廻り之もの鉄棒ヲ為率無怠為相廻其時宜ニ寄出役差添可申事

   但時半ニ拍子木ヲ為打惣而物静ニ為相廻可申事

一、火消人足諸所時々見廻りかさつ等無之様申付精々取締方可心得付事

一、宿内家店往還共見苦敷所は手人又は掃除等人念申付、御通輿之節御目障不相成様可心得事

一、御締外御廻り道野間閑道之儀は御警衛向ニ而取締いたし候得共出役ニおゐても厳重見廻り石仏其外都而御目障ニ可相成ものは兼而葭簀囲いたし置候得共万一損所有之候へば早速手入為致可申事

一、往還筋竹木枝葉又は閑道等草深き所は為刈払置候得共猶前以心付若見苦敷所は手入為致可申事

一、往還筋家居取散し居候処は為取片付掃除等入念可申付事

一、御通輿前々通り御先払参り候ハハ出役ハ物蔭ニ潜ミ居可申候得共其時宣ニ寄平伏罷在候而も

一、御道筋盛砂往来不差障様片寄盛置せ候様可申付事

一、御道筋家居、屋根疵廻り共見苦敷所は早々取締セ可申事

一、御通輿之節往還並之家二階は戸をメ紙ニ而メりを付居宅裏不見透様見せ明置家内之もの女子供は通り又は上間ニ平伏為致十五歳以上之男之分ハ物蔭ニ潜ミ居御目障りニ不相成様可申付事

一、商人家其外葭簀等ニ而孫庇仕付往還江出張候分は為取払掛看板掛行燈之類持片付可申事

一、御休泊所最寄寺社時鐘鰐口鈴太鼓其外唱物差留可申事

一、葭簀張り水茶屋喰物商ひ小屋往還ニ出張候分為取払往還並ニ而不見苦分ハ其儘ニ差置商ひ為致御通輿之節商人は為引払売物は葭簀又は板戸等ニ而為囲可申事

一、御旅行三日以前ゟ往来留板橋宿は御通輿相済御供方一同出立相成候ハハ御当日一日江戸之方江相越候旅人差留可申事

一、雨天之節通行之もの御締木戸笠冠り候而も不苦、御旅館前は遠慮可為致申事

一、桶川宿ゟ継来り候宿助郷人足御着輿前京方締木戸江洩来り候ヘハ高田道人足会所江立戻り候様急度 可申事

右之通り相心得下役江取締向之儀申聞手様掛り一同申合可取計事

   酉十一月

                                   板橋宿前後木戸取締出役

                                         辻 壮一郎

                                         関弥 八郎

                                         野村 与一

                                         柴田優一郎

しかし、何よりも練馬地方農村にとつて、和宮通行が重要であつたのは、助郷負担であつた。

<資料文>

和宮様御下向ニ付

中山道板橋宿江加助郷一条請書之写

和宮様

御下向之節宿継人馬多入間左之村々中山道板橋宿迄当分助郷申付候条問屋方ゟ相触次第人馬遅参不致無滞差出相勤可申候尤当時年季休役中之分茂今般御用ニ限リ是又可相勤もの也

                                  酉九月廿五日

                                  武州新座郡 五ケ村

                                  同州豊嶋郡 九ケ村

                                  同州足立郡 四十ケ村

                                  同州埼玉郡 二十二ケ村

                                  同州多摩郡 五十一ケ村

                                  同州荏原郡 二十五ケ村

                                  同州都築郡 十二ケ村

                                  同州橘樹郡 三ケ村

                                        (井口忠左衛門家文書)

右によつて板橋宿に対して新たに一六七カ村という大規模な人馬動員が行われたことが知られるが、実際になされた人馬動員は、「和宮様御下向に付御当日御継立人馬仕訳帳」(井口家文書)によれば、二一八カ村という厖大な動員数

であつた。

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上述のように、練馬諸村は大部分が中山道板橋宿の助郷であつたが、関村のみは多摩郡の諸村と並んで、甲州街道高井戸宿の助郷であつた。

甲州街道高井戸宿は、元祿年間に内藤新宿がひらかれるまで、甲州街道の首駅として江戸日本橋に直通していた。甲府は幕府の甲州郡代の所在地として重要な処で、そこからさらに信州伊那方面にも通じていたから、この甲州街道は幕府の役人の交通に多く利用されていた。しかし、街道としては東海道・中山道に比較すれば、交通量を少なく宿駅の設備も劣つていた。また、参覲交代にこの街道を利用する諸侯を少なく、わずかに信州の高嶋藩・高遠藩・飯田藩の三侯に過ぎなかつた。

高井戸宿の助郷高は「五駅便覧」による一二、二五四石と見えるが、幕未の文久年間には上下高井戸宿助郷三五カ村、惣高九、二五四石に減少している。(関前村井口

忠左衛門家文書)

街道をはさんで南北両組にわかれ、南組は高二、六四三石一二カ村で、北組は高六、六一一石で関村を含む二三カ村であつた。この両組の勤役は、月の中の一〇日は南組で、前後二〇日は北組で勤める定めであつた。(前掲井口家文書

関村の文久三年(一八六三)「御伝馬人馬減勤歎願書写」(関村井口信治家文書)をみると、道中奉行の「深谷遠江守様」宛に高井戸宿の助郷減免歎願を外一五カ村と共に差出している。

<資料文>

  乍恐以書付奉歎願上候

一、甲州道中上高井戸下高井戸両宿定助郷之内御料私領給之弐拾三ケ村役人惣代武州多摩郡関前村名主忠左衛門外壱人奉申上候右弐ケ宿定助合高九千弐拾石右之内高弐千六百三十七石は同郡世田谷村外拾壱ケ村ニ而南組より唱高六千三百八十三石は私共弐十三ケ村ニ而北組と唱先々より示談之上月々日数九日は南組日数二十一日ハ北組御伝馬役人分ケ相勤来候処去ル文化度宿方難渋ニ付御定人馬之内余荷相勤呉候様助合江相願候ニ付其節双方示談之上宿柄立直り候処御定人馬弐十五人二十五疋之内六人三疋定囲引去残十九人弐十二疋之内十二人八疋宿方ニ而立払七人十四疋助合ニ而余荷相勤罷奉候処天保九戍年中深谷遠江守様道中御奉行御勤役中右余荷休役奉願上同十三寅年正月より御定人馬不残宿方ニ而立払罷有候処弘化ニ巳年四月中久須美佐渡守様道中御奉行御勤役之節同年五月より去申四月迄中十五ケ年之間御定人馬之内四人四疋は上保谷村外六ケ村江増助合七人十疋は助郷村々余荷勤被仰付去申年四月中年季明ニ相成候得共今以宿方相続仕法不相立難渋之旨申之ニ付定助合之間柄難懸止猶又同五月より来ル戍四月迄中十ケ年之間馬十疋加合ニ而余荷可遺旨□着いたし、御国恩相弁相対ヲ以余荷之儀取極尤助合村々連々之難渋余荷ニ付□役を限以来助郷江余荷勤申入間敷含儀定為取替御継延御差支無之様大切ニ相勤罷有候然

処去申年九月中 紀州御役人中様方御通行被遊候ニ付文政十二丑年九月中十ケ年季被仰付候振合を以改而当申より来ル巳迄十ケ年間二三四并八九十月都合六ケ月間は一月人馬三十八人馬十三疋之積人馬融通遺之儀御聞届ニ相成宿々より御請書奉差上候段承知仕元来私共二十三ケ村之儀は御挙場村々ニ而御成御用残場原御場□并勢子御用人足高田中野筋御場□御用人足御道具持出し持返御焚出し賦人足両御丸様御小納戸御広敷御膳所御用杉之葉松桃之葉螻虫海老蔓虫松虫鈴虫其外虫類<外字 alt="手偏+宗">〓草類御用御上納品向□方御撰定厳重ニ相成右品先々より村々軒別ニ取集方申触来ル処且は御場内之右品取尽し払底ニ相成御場外<外字 alt="判読不能">〓里三里相隔候所迄一同相□ニ罷越□之仕御鷹野御役所江御上納被仰付右持送り御用人足等夥敷右様品々重々役相勤其上西国中国筋御大名薩州様熊本様福岡様柳川様芸州様長州様因州様雲州様佐賀様岡山様福井様久留米様平戸様秋月様淀様小堀様鹿嶋様岡山新田様其外諸家中衆先前当道中御通行ニ無之処近来多分御往通有之弥々増助合人馬勤方相嵩困窮ニ陥加之北組私共二十三ケ村ハ武蔵野新田続至而地味悪敷薄地少難渋之上土柄諸作物ハ別而<外字 alt="屎">〓肥等養人不申候而ハ収納無之殊ニ御府内手遠之場所ニ而下<外字 alt="屎">〓等相用候もの稀ニ有之大体糠灰〆粕油絞粕等専一之菌類相用候儀之処近年は右品の値段引上ケ以前之四倍増之相場に相成候ニ付連年作附<外字 alt="屎">〓養方不行届殊更引続不陽気之由諸作損毛夥敷年多弁納難渋之折柄雑諸色高価ニ相成素々不順気品払底故之□ニ而既ニ当春村雑穀夫食融通いたし今日積り仕候処麦作取人迄日程三十日余を引足不申当日営兼候もの不少殊ニ近年馬持百姓追々相減候ニ付御伝馬人馬勤方差支助合一同別段儀定取極等いたし候得共猶当節諸色高直之場ニ至リ迚も麦稗大豆等馬飼料ニ可相成程之品実以可買求手当無之馬持百姓ハ馬飼相成兼銘々後日を案夫々所持之飼馬売払無拠ニ駄牽三駄曳等之小軽営いたし逼迫因窮之中当諸作荷仕附<外字 alt="屎">〓類買人不行届自然秋作熟実不相成候ハ眼前付柄立直り候儀ハ勿論馬持百姓相続可出来□無御座必至と当惑之余り北組私共村々一同相談仕候処一体上高井戸下高井戸両宿前後宿々江は道筋平地流川無之往還ニ付御乗□御□御乗掛け荷物之外駄荷御荷物継立方□□三駄積之小事補理御継立□外手余無之太少は人馬之助ニも相成附卸等弁利宜敷且は□□紀州御役人衆様御通行人馬融通遣被仰付宿方御定人馬之内余荷年季中旁以西国中国筋御大名御家

様方而も打込御家中様多分之御通行ニ付御伝馬勤方而巳ニ打込大小之百姓農事相続相成兼候程之儀此儘ニ而は可及潰退転ニ様成行不遠亡村之基と一同深ク相歎心痛罷有何共歎敷奉存候間不顧恐多御愁訴奉申上候何卒御憐愍前書□□重之役難渋之始末御賢察被成下西国中国筋諸家諸大名様方御家来衆当道中御通行不被遊上下高井戸両宿馬附御荷物之分以来小国ヲ以御継立相成候様被仰付被下置度奉願上候右願之通聞済被成下置候ハバ村々一同相納慶太之御慈悲と難有仕合奉存候

前掲の関村井口家文書によると「和宮様御下向」について加助郷として甲州街道高井戸宿助郷三五カ村が動員されているが、その総助郷高九、二五四石、人足二、〇三五人、馬八一匹に及ぶもので、そのうち関村は助郷高五二七石、人足一一六人馬五匹の割であつた。全体から勘案すれば、およそ石高四・五石につき人足一人、石高一一四石につき馬一匹の割合となる。

百石につき二〇人余で、これを前記板橋宿加助郷二一八カ村についてみれば、和宮通行に際しての厖大な人馬の動員に驚かざるをえない。けだしこの行列は中山大納言・菊亭中納言・千種少将・岩倉具視少将の四人と殿上人八人、其の他幕府の御迎役人、宮附の役人相当の有資格者四百人、下方及人足は京都側約一万人、江戸側一万五千人、通しの雲助四千人計三万人の伴であつた。江戸出発から京都到着まで、前後を警衛するもの十二藩、道中筋を堅めるもの二九藩で、中山道初めての大通行であつた。

<章>

第六章 農民の生活

<節>
第一節 農民の地位
<本文>

農民=百姓は、田畑の耕作者であるとともに領主の立場からは租税負担者であつた。「胡麻の油と百姓は、絞れば絞るほど出るものなり」(西域物語)「百姓共は死なぬ様に生きぬ様にと合点し、収納申付くる様」(東照宮御上意)という言葉は農民の租税負担者としての性格をよく説明しているものである。

農民の地位はこのような性格から規定されている。農民統制策の代表的なものとして知られている「田畑永代売買禁止令」にしても、「百姓分地制限令」にしても、農民の所有地が減少して貢租の負担能力がすくなくなることを恐れたものにほかならない。また農民の移動の自由、職業の自由をうばつたのも、土地にしばりつけ、農耕に専念させて農民の身分を固定することにより貢租の確保をはかつたのである。領主の干渉が農民生活の細部にわたつて及んだことは五人組帳の前書や御触書などにうかがうことができるが、農民統制のもつとも詳細をきわめたものは慶安二年(一六四九)のいわゆる慶安の御触書である。全文を引用することは紙面の都合でひかえるがその一部を参考に示すことにしよう。

<資料文>

一、酒、茶を買、のみ申間敷候、妻子同前之事

一、百姓は分別もなく末の考もなき者に候ゆへ、秋に成候へは、米雑穀をむさと妻子にもくはせ候。いつも正月、二月、三月時分之心をもち、食物を大切に可レ仕候に付、雑石専一に候間、麦、粟、稗、菜、大根何にても、雑石を作り、米をおふく喰つふし候はぬやうに可レ仕候。

一、(前略)百姓は衣類之儀、布木綿より外は、帯、衣裏にも仕間舗事。

一、たはこのみ申間敷候(後略)

検地によつてそれぞれの土地を耕作する農民が決定され、これらを高持百姓とか本百姓とよんだ。すなわち検地帳に名をのせられている農民が高持であり本百姓であつた。これに対して検地帳に名前がでてこない農民が無高百姓、水呑百姓とよばれる。

享保五年の関村の明細帳によると家数九八軒のうち本百姓七七軒、水呑二一軒となつており、水呑百姓が全体の二一%余を占めている。このような無高百姓の増加は田地永代売買の禁止や分地制限によつて発生したもののみではなく、経済的発展による階層分化の結果ででもある。このような本百姓と水呑百姓との相異は、そのままに生活面の身分差となつてくる。本百姓の中でも、名主、組頭、年寄などの村役人層に代表される上層農民と平百姓とにわかれ、これがそのまま経済的な力関係をある程度示している。

すなわち寛文の頃の土支田村の名主八郎右衛門は十二町八畝余を持ち村内有数の土地所有者であるし(寛文三年検地帳)、幕末に近い嘉永七年(一八五四)における上練馬村の四〇石以上の高持百姓三名は名主・年寄・百姓代によつてしめられている。(嘉永七年「宗門人別書上帳」

このような村内の階層性は、婚姻関係或は祭りなどの村内の諸行事を規制しているのである。

<資料文>

  土支田村居座敷証文之事

一、我等六人之者村始之百姓ニ御座候ニ付、居座敷之儀、従ニ先規一段々極り居来り申候得共与ニ証文無レ之候故、此度六人之者致ニ相談一与ニ証文取引仕候。在居之次第ハ右之上座加右衛門三右衛門ハ各年ニ御座候。六兵衛三番座敷ニ御座候。左之上座次郎左衛門二番座敷八兵衛三番座敷金左衛門如此在居候儀相極り申候間、子々孫々迄与ニ無ニ相違一居可レ申候。若六人之座敷様申者御座候ハハ六人之者一同急度申合少も不足等申間敷候。但シ六人之内相違儀も於有之は鎮守之御罰可蒙者也。祭礼等一所ニ可レ仕候。為其証文仍如件。

  元禄三年庚午四月四日

                                   山口三右衛門

                                   見米次良左衛門

                   加藤加右衛門殿 加藤八兵衛

                                   関口金左衛門

                                   山口六兵衛

                                     (加藤(儀平)家文書)

右の文書は土支田村の草分け百姓(村の開拓者)である加右衛門・次郎左衛門・三右衛門・八兵衛・金左衛門・六兵衛等六人の者が宮座の席次について取替した証文である。「我等六人之者村始之百姓ニ御座候ニ付、居座敷之儀、従先規段々極リ居来申候」と述べて左右の上座・二番座・三番座の席順をきめている。こうしたことは単に宮座にと

どまらず、水利権その他村落慣行に村落内部の階層性はそのまま反映されている。

<節>
第二節 農家経済の收支
<本文>

江戸時代の農民は、どれほどの田畑および石高を所持していたのであろうか。幕府は、農家の所持田畑の配分相続制限令を出し、一般の百姓には田畑面積で一町、石高にして十石を最低額として、それ以下の面積、石高の田畑を配分することを禁じた。(分地制限令

幕府がこのような法規を設けた理由は、貢租負担者としての農民をして、再生産可能な農家、少くとも一町-十石以上の田畑を所持する自作農たらしめようとするにあつた。

もちろんこれは標準であつて地域差があることは当然のことであるが、練馬地方の場合の農家の土地所有形態はどうであろうか。

寛文三年(一六六三)の土支田村検地帳によつて土地所有の形態をみよう。

検地帳の名寄によつて集計したものであるが、一町から三町が全体の約半数をしめていることがわかる。標準保有地の一町以上の農民は全体の八〇%に近い。しかしながら、練馬地方の生産性は極めて低く、平均収穫米(石盛)は上田一石一斗とする二ツ下りで、畑は上畑を六斗とする一ツ半下りであつた。しかも地味悪く下田・下畑が多く、一町以上土地所有者が八割をしめるといつても、生産の低位性を考慮にいれるとき、同じ一町歩でも江戸時代の標準石高である十石をはるかに下廻るものであるとみて差支えあるまい。

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幕末における資料であつて直ちに比較できないが、上練馬村の場合の農民の所有石高を示そう。

ここでは、石高表示であるので所有地はわからないが、十石以下の農民が全体の八五%をしめていることは、幕末の階層分化を示すものであろうか。

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江戸時代の農民生活は「百姓と言物・牛馬にひとしき辛き政に、重き賦税をかけられ、ひどき課役をあてらるるといへど、更に云事ならず、是が為に身代を潰し妻子を売り、或は疵を蒙り命を失ふ事限りなしといへど、不断罵詈打擲に逢ふて生を過す」(田中丘隅「民間省要」)というようにその生活を窮迫したものであつた。もちろんすべての農民が困窮していたわけではない。江戸時代中期の元祿時代あたりを境にして貨幣経済の滲透とともに自給自足による自然経済が崩れてきたのは全国的傾向といえるが、農村への貨幣経済の導入は大都市をひかえた練馬地方では蔬菜栽培などによる商業的農業の発展をあげることができる。こうした商業的農業をある程度おこなつている農家経営として安政二年(一八五五)大久保仁斉の「富国強兵問答」に練馬地方の農家経済の収支を示す例がある。

<資料文>

爰ニ農家ノ恒産ヲ論ズルニ、僕先ニ聞ケルコトアリ、曰ク、良農夫一人、妻一人閙キ時ニハ日雇一人ヲ頼ミテ、都テ三人ニテ、田一町ヲ耕スベシ、而シテ種一斛ヲ蒔テ、穀四十斛計リヲ穫スベシ、是ヲ摺テ米二十斛モ有ルベシ。御年貢諸掛リ五斛ヲ納メテ、残リ十五斛計リモアリトシテ、其内五斛ハ田ノ地主ヘ納メ、全く十斛計リガ作得ナルベシ。

又畑五段計リヲ転シテ、大根二万五千根ヲ得ルトス。但シ一段五千根ノ積リナリ、是ヲ売テ銭百卅五貫計リニナルヘシ、但シ

一根五文二分ノ積リトス。此内糞代五十貫ヲ引キ、又江戸ヘノ舟賃二両二分、運送ノ駄賃四十貫ヲ引キ、残リ廿八貫七百五十文計リガ全ク得分ト知リ玉フベシ、扨又五段ノ内三段計リへ麦ヲ作リテ六斛計リモ得ベシ、御年貢三貫程ヲ上納シテ残リ廿五貫七百五十文計リニ充ツベシ。此金四両計リトス。然ラバ米十斛麦六斛ヲ一夫一婦一年ノ辛苦料トシテ、是内ヨリ夫婦ノ食ヒ扶持、麦三斛六斗米一斛余ヲ引キ、又日雇ノ食ヒ扶持米五斗麦一斛八斗ヲ引キ、正月ノ餅米三斗余と種穀一斛を引キ、又子供アレバ其食料一人ニ九斗リト積リ、又親属故旧ノ会食二斗計リヲ引キテ、米七斛二斗計リヲ残スヘシ。此金七両余ニ充ツベシ、畑ノ得分ト相合シテ十一、二両ニハ過グベカラズ。

扨又此内ヨリ塩、茶、油紙ノ費ヒ二両計リ、農具ノ価ヒ家具ノ料共ニ年三両計リ、薪炭ノ料一両余リ夫婦子供ノ衣服共ニ一両二分余リトナシ、春ヲ迎ヒ歳ヲ送リ、魂祭年忌仏事の人用二両余り、日雇の給分一両二分余リ、親属故旧ノ音信贈答一両計リトナシテ都テ十両余ヲ引キ、残ル処僅カニ、二三分ニ不過、故ニ風寒暑湿ニ侵サレ、一、二月モ怠惰スレバ収穫ニ損アリテ医薬ノ料ニ事欠クベシ、豈酒色ニ耽楽スルノ余財アランヤト、

武州豊嶋郡練馬辺ノ老農ガ談ナレドモ未ダ其一ヲ知テ其他ヲ知ラザルノ会計ナリ。抑々練馬ハ大都近郷ニシテ、其産スル処何是レトナク利潤ヲ得ヤスク、是ヲ以テ民生自ラ怠惰シ安ク、ヤヤモスレバ商業ノ業ニ因循シヤスク、反テ家産ヲ失フ者多シ

夫婦(子供一人)で、忙しいときは日傭一人をいれて田一町畑五反を耕すが、ここでは田より二〇石の米をとり、貢租五石小作料五石を出し七石二斗の米を七両で売る。裏作に麦六石をとり、畑では大根二五、〇〇〇本をとり、これを銭一三五貫で売る。畑で三貫文の貢租を納めるが、その外に肥料代銭五〇貫、船賃二両二分、駄賃四〇貫の支出があつて、純収入は四両(二五貫七五〇文)となる。田の場合は農具家具に三両、日傭給料一両二分、種籾米五斗の支出があつて、純収益は米二石八斗、麦六石、金四両二分となる。これと先の四両とによつて一家の生計を立てることに

なる。この生活面への支出は、食料として主食に米二石三斗と麦六石、塩茶油紙に二両を要し薪炭に一両、衣服費一両二分、交際に一両、神事仏事に二両を支出することになつている。

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右の例では小作料・人雇の給金そのほか日用必需品や交際費を支出してなお僅少ではあるが金二・三分の黒字になつている。むろん病気そのほかの臨時の支出があつたり、凶作等にあえばたちまちにして赤字になる。「あに酒色に耽楽する余財あらんや」と述べているが酒色どころではあるまい。

「富国強兵問答」の著者は「そもそも練馬は大都市の近郷であるから、その生産するものはすべて利潤を得やすく、これによつて農民は怠惰におちいり、ややもすれば商業の業に因循しやすいので、かえつて家産を失う者が多い」と一つの解釈をしている。

<節>

第三節 家族形態
<本文>

古代の家族形態は郷戸と呼ばれるもので、その家族員数は正倉院文書などによれば、二十人から五十人程度の大家族が一般的に見られる。その家族構成は傍系血族や奴婢などの非血縁のものを含めたものであつた。

こうした大家族制も時代が降るにしたがつて漸次くずれて中世以降になると長子単独相続をとるようになり、次男三男は分家するようになつた。

江戸時代には、飛騨白川郷のように大家族制の残存していた地方もあつたが、大体夫婦子供の二、三親等以内の家族構成をもつ五、六人の小家族が普通であつた。

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幕末の史料である嘉永七年(一八五四)の上練馬村の宗門別書上帳を中心にして、練馬地方の家族構成について考察してみよう。これによると上練馬村の場合、家族員数三人から六人までの家が全体の六八・八%をしめている。

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練馬地方の他の二、三の村について平均家族員数を見ると、関村四・九人(享保五年、明細控帳)土支田村四・一人(享和四年、明細書上帳)江古田村四・四人(明和八年、村鑑帳)そして上練馬村の場合が五・一人で時代のずれはあるが、大体四人から五人位の家族からなつている。

さらに上練馬村で十人以上の家族員数をもつ七家の家族構成を示すと上表のとおりである。

右によれば祖父母、父、母子、孫・曾孫の血縁家族と非血縁家族の奉公人からなつており、大部分が二組以上の有配偶者をもつていることがわかる。

家族員数は、また家の経済状態とも関係をもつており、この関係を次表に示した。

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石高一石以下の平均家族員数は、三・四人で、一石-五石、四・四人、五石-十石、五・四人、十石-二十石、六・八人、二十石-三十石、七・八人で、三十石以上が九人で、概して石高の大小と家族員数の多少との関係は正比例しており、当然のことながら石高の大小は扶養能力を示しているものと思われる。

幕府は、分地制限令などにおいて、一町=十石を再生産可能な標準百姓と定めたが、江戸時代の標準家族五・六人を扶養していくためには、矢張五石-十石程度の石高を必要としたであろう。

「慶安御触書」ではこのことにふれて特に次のように述べている。

<資料文>

身上成候者は各別、田畑をも多く持不レ申身上なりかね候ものは、子とも多く候はは、人にもくれ、又奉公をもいたさせ、年中之口すきのつもりを、能々考可レ申事。

小百姓で子供の多くある者は、人にもくれ、奉公させて口を減らせというのであるが、幕府は出稼ぎ・奉公をすすめたわけではない。むしろ農民の離村については「耕作を怠り一村の厄介となり、而も猥りに他所へ出ずる百姓あらば、急度曲事に申付くべし」(寛永十二年八月・「郷村触書」)と離村を制限したが、江戸の発展と農村の貨幣経済化に

よつて、困窮した小農民は江戸或は近在の宿駅に出稼ぎ、奉公にでる者が増加した。幕末に至つては離村の制限も空文化してしまつた。

<資料文>

近来在方村々之者共、耕作を等閑に致し、却て困窮等之儀申立、奉公稼に出候者多く、所持之田畑を荒置候類有之由相聞、不埒之至に候。以来村高人別割合何人迄は奉公に出候ても、残り人数にて耕作は勿論、村方之差支無之哉否、村役人共相糺、実に無拠子細にて、奉公に出度旨相願候者有之候はば、右割合之人数迄は、村役人共承届、年期を限り奉公に出候様可致候。若村方之差支も不顧奉公に出、持田畑を荒候儀等有之候はば、当人は勿論村人共越度たるべき者也。

右之通御料は代官、私領は領主地頭より可相触候。             (安永六年五月「徳川禁令考」第五帙

農民の他出を制限した目的は、農民をして農業に専念させ、年貢諸役を完納させることであつたから、農民の他出を抑制できなくなると、農業に支障をきたさない範囲において農民の出稼ぎ、奉公を認めたものである。

しかるに農民の離村による農村人口の減少と荒地増加はますます深刻化していき、天保十四年(一八四三)には「人返令」を発布して農村出身者で江戸出稼ぎ中の者に帰農を命じた。この布令のなかで「向後死亡、出生、嫁娶並出稼奉公稼えもの共巨細に相改当人印形取之」と出稼ぎ奉公人の調査を命じている。

上練馬村の宗門人別書上帳によると同村の嘉永七年(一八五四)の奉公人の移動数は二六名で、そのうち入人分として一四名が記載されているが、半数の七名が名主・年寄の村役人層に雇傭されている。因みに同村の奉公人二〇名についても、雇傭者は十石以上の百姓である。(表参照

出人分についてはやはり江戸市内への奉公が多く二二名のうち半数をしめ宿駅への出稼ぎ奉公がこれについでいる。

図表を表示 図表を表示

おわりに縁組について一言しよう。縁組範囲については大体近村であるが(表参照)、人別帳の記載の関係で村内縁組については明らかでないが、弘化年間(一八四四~一八四七)より幕末までの人別送り状によつて土支田村の場合をみると、次表のように四二名のうち村内縁組は六名で一二%弱で思つたよりすくない。

江戸時代の封鎖的な村落社会にあつては、縁組関係は村内で結ばれたことは当然であるが、時代が進むにつれて交

通運輸の発達と経済圏の拡大によつて、その範囲は隣接村に同心円的にひろがつていつたものと思われる。

図表を表示 図表を表示

<節>

第四節 農間渡世
<本文>

江戸の経済的発展に影響されて、近郊の練馬地方の自給自足経済も漸く崩れつつあつた。農村の内部に穀屋・酒屋・質屋があらわれてきたのはかなり古くからであるが、文化・文政(一八〇四~一八二九)の頃から荒物屋・豆腐屋・醤油屋・菓子屋などから煮売屋なども街道筋に発生してきた。農間渡世者-百姓で商売をしたり、職人であつたりする者-の調査がたびたび行われたが、その目的は農民がこのため奢侈に流れることを禁止することにあつた。

天保十二年(一八四二)次のような触書がでている。

<資料文>

宿村々取締方之儀ニ付而は前々被仰出候御触は勿論追々支配ゟ申渡候趣並五人組帳前書ニ有之処当座同様ニ心得候族も有之哉ニ而、分限不相応衣類を着し花美之家作を構、新装之着物仕拵ひ又は相求五穀ニ宜地を費し時節ニ無之初物等作付奢を極、古風を失ひ候事共多く終ニ困窮ニ陥候次第所々不筋之儀茂被行候趣ニ相聞、今般厳敷被仰渡有之間第一物事正路ニいたし質素倹約相守小前之ものは木綿麻布等を着し村役人共も小前之手本ニ相成候様成丈麁服着用慎身いたし新装着物相用候儀は勿論初物不作出都而享保寛政度ニ相復候様小前末々迄不洩様申渡請印取立夏成御年貢納之節可差出候、尤右之通用渡置候上ニ茂不用もの有之ニおゐては密ニ廻リ之もの差出見掛次第差押遣吟味条兼而得其意此廻状村名主之請印刻付順達後当村可相返もの也

   丑五月廿五日 山大膳□印

前書御触之趣小前末々迄不洩様一同承知奉畏候、仍之連印仕奉差上候処如件

  天保十二年

    丑五月廿五日 下練馬村

             本村

              喜平次

右の触書は農民の生活向上-奢侈-に対する警告であるが、さらに余業調査をおこない、湯屋・髪結・酒屋・小間物商を良民の風俗をそこなうとの理由で禁止した。このような事情で農間渡世の書上は実際よりはすくなく報告しているものと思われる。

天保十二年(一八四一)の土支田村の商売家取調書上帳によつて、農間渡世の実際をみよう。天保年間には、水野越前守忠邦によつていわゆる天保の改革が、同十二年(一八四一)に行われたのであるが、農間渡世の調査は、天保九年・十二年・十四年と三回行われている。

画像を表示 <資料文>

 天保十二年

商売家取調書上帳

 丑八月 武州豊嶋郡

       土支田村下組

一、升酒醤油    穀商ひ    権兵衛事  政八

   其外小間ケ敷物

一、古着渡世    新治郎事  勘左衛門

   紙多ばこ蝋燭等之類

一、古着渡世    清八事 奥右衛門

   並質物

右之者共寛政度以前ゟ農業之間商ひ渡世仕候

一、塩、醤油紙蝋燭附木等之類 平七

一、豆腐屋渡世      浅右衛門

右之者共寛政度後農業之間渡世仕候

一、高拾七石弐合九夕 質物渡世

  人別六人       平八

一、質物渡世 高拾弐石四斗弐升九合

           人別九人 奥右衛門

右者御糺ニ付村方取調候処、書上候通り相違無御座候 以上

   天保十二年丑年八月        武州豊嶋郡

                     土支田村下組

                       名主見習

                         午之助

                       年寄

                        勘左衛門

                       百姓代

                        茂兵衛

 山本大膳様

    御役所

穀屋・酒・醤油屋・豆腐屋それと質屋などの商売が記されていて、一面では農民の生活の向上を示しているが、銭がなくては生活ができなくなるような貨幣経済の発展は、他面で農民の生活を一層苦しくもしていつたのである。質屋の発生はこうした農民層の貨幣経済化の過程での貧窮化を語るものではないだろうか。次にあげた慶応三年(一八六六)質屋仲間の訴状によると練馬地方の質屋渡世の者五十八人と述べている。

<資料文>

  乍恐以書付奉申上候

武州豊嶋郡板橋村組合小惣代下練馬村年寄久右衛門同州多摩郡中野村組合小惣代阿佐ケ谷村名主喜兵衛大久保村同理兵衛一同奉申上候。上板橋村組合内村々農間質屋渡世之もの五拾八人中野村組合六拾壱人有之勿論御料私料寺社料共当御出役様方御差配受御趣意向且組合内議定相守渡世罷在候。尤新規相始メ度有之節は居村ハ勿論最寄同渡世之もの江示談之上故障無之候ハハ組合惣代ヲ以当御出役様江申立御聞済之上渡世仕来候。然ル処私共組合隠シ渡世仕居候下練馬村百八五郎中荒井村百姓五郎作外七八人之もの共不正之稼方致候ニ付村役人ゟ差留候処、今般右之者共申合御取締組合ニ不抱御支配御役所江申立過分之冥加永上納右渡世新規相始メ候由相談中之趣粗及承万一右様組合議定破却仕来候而者組合一統不平且は御取締筋ニも相闇候ニ付右之者共渡世相始度候ハハ是迄仕来通村内は勿論隣村故障有無相糺シ差合無之候ハハ村役人並惣代連印ヲ以当御出役様方江奉願御聞済之上正路ニ渡世相始メ候様仕度奉存候。依之此段御役人衆迄奉申上候。以上

    慶応三卯八月廿三日

              武州豊嶋多摩両郡

                寄場惣代

                  阿佐ケ谷村

                   名主

                     喜兵衛

                  大久保村

                   名主

                     理兵衛

                  下練馬村

                   年寄

                     久右衛門

  関東御取締

    御出役衆中様

<節>
第五節 備荒貯穀
<本文>

農業生産に全面的に依存していた江戸時代では、領主にとつて、その豊凶は重大な関心事であつた。そのため凶年に備えて貯穀が奨励された。

慶安御触書にも「飢饉の時を存出し候へは、大豆の葉・あつきの葉・さゝけの葉・いもの落葉なと、むさとすて候は、もつたいなき事に候」と記され、五穀のほかおよそ食用となるものは草の根・樹の実までも貯えさせたのである。

「吹塵録」には「村々貯穀之事」と題して次のような記事がある。

勘定方をつとめしものの話に曰く、徳川氏領内村々貯穀と唱ふるは囲米・詰米の外にして人民に属するものなり。其の貯品は米麦雑穀其外土地の宜きに随ひ貯落せしめ、代官之を管理し凶荒にて糧食欠乏の時は貸与し、年賦を以て詰度さしめ、平年には腐損せざる前に新穀に交換す。其損失費用等村方にて負担す。其倉廩を郷蔵と称す。郷蔵の改築は村費なりといへども、其木材は官林より恵与するを例とす。此貯穀年々十二月晦日の有高を各地方より届出しめ、勘定所にて総額を計算し、勘定奉行の一覧に供する事なり。其大数及び賦課の方法に至りては記憶に存せすといふ。」

右の記事によつて貯穀の大体を知ることができるが文化元年(一八〇四)の「貯穀書上帳」によつて土支田村上組の場合をみよう。

<資料文>

    文化元年

  貯穀書上帳

   子九月三日 豊嶋郡土支田村

              上組

             大貫治右衛門御代官所

一、稗四拾四石三斗八合    武州豊嶋郡

                  土支田村上組

一、御加籾九斗九升五合四夕 但五斗入壱俵四斗九升五合四夕壱俵

     此俵弐俵

天明八申年ゟ寛政十午年迄拾壱ケ年分貯稗四拾四石三斗八合貯置候所去申年麦不作ニ付奉願小前江割渡尤五ケ年賦積戻被仰付候壱ケ年分

 一、貯稗八石八斗六升壱合六夕

          但 五斗入拾七俵三斗六升壱合六夕入壱俵

   御俵拾八俵

   但年寄利左衛門持蔵江囲置申候

 外ニ稗三拾五石四斗四升六合四夕

        当子年ゟ卯年迄

        四ケ年ニ詰戻シ可申積

右者当村御下ケ穀貯稗共書面之通少茂相違無御座候以上

  文化元子年九月三日

                土支田村上組

                  年寄名主代 岩次郎 ㊞

    藤井信五郎様        同   藤兵衛 ㊞

                  百姓代 五右衛門 ㊞

天明八年(一七八八)より寛政十年(一七九八)までの十一年間に貯えた稗四十四石余を去る寛政十二年(一八〇〇)の不作にあたつて、小前百姓に割渡されたが、そのため四カ年賦で返納されることになつたものである。なお、貯穀

には保存にたえるため稗が用いられた。このほかに凶作の対策として幕府がとつたものに、破免、夫食貸、種貸、肥料貸などの制度がある。

<節>
第六節 農民の結合・信仰・慰安
<本文>

五人組制度が地方の治安維持を五人組の共同責任においておこなわせることと、貢租徴収を確実にすることを目的として、領主の支配体制強化のための組織であつたのに対して、五人組制度の始まる以前から村には共同作業の必要から「ゆい」とか「講」とかよばれる集団があつた。

「ゆい」は結う、結ぶ、結合、共同を意味する言葉で組内部での労働交換である。練馬地方では「手間借てまがり」ともいわれて、数軒が組を作り、屋根葺替、棒打ち、餅つきなどに労働力の交換をしていたようである。

初午の日に行われるびしや行事は、組中の者が頭屋とうやの家に集り、組持の稲荷の神を祀つて、農作物の奉饒を祈り飲食を共にするものであつた。この時に組内農家の労働交換の順序、屋根葺替の家などについて相談した。

「ゆい」が労働交換の必要から発生した組であるのに対して、「講」は信仰を同じくする者が集つている組である。講を組織している者を講中と呼んでいる。

宗教上の目的をもつ講には、伊勢講・熊野講などあり、また御岳講・成田講・大山講・富士講・三峯講などの山嶽信仰や特殊の霊験をもつ社寺信仰によつて発達した講などその数も夥しく多方面にわたつている。

区内を横断する大山街道(富士街道・行者道ともよぶ)の川越街道との分岐点には「従是大山道」と記された石標が立

つている(補説「練馬の道」参照)が、これらの石標も大山詣・富士詣などの講中の造立によるものである。

このほか民間信仰によつて結成されている講で、庚申講・甲子講・日待講などがあり、講中によつて造立された庚申塔は雑草に埋もれて路傍の随所にのこされている。下練馬村字重現の願主安右衛門の庚申塔納加帳によつて庚申塔造立の経緯をうかがうことにしよう。

画像を表示 <資料文>

    庚申塔納加帳

各様方御機嫌能御座被<漢文>レ成候段、大慶ニ至極ニ奉<漢文>レ存候。随而私父東光院儀、天保十一亥年中ゟ当所重現ニ置而、庚申塔建立仕度旨之真願ニ有<漢文>レ之候得共、不行届病死仕候。今年迄最早七ケ年程相成候所、来三月朔日之儀ハ庚申日ニ御座候間、為<漢文>二追善<漢文>一之道者案内書印、父心掛之通り庚申塔建立、右日限迄ニ是非仕度奉<漢文>レ存候。然共私義も不仕合相続身力不<漢文>二相叶<漢文>一、依<漢文>レ之当村方中之御助力を以、建立仕度存寄、尤御加入之儀ハ金壱朱ゟ御清銘等切付可<漢文>二申上<漢文>一心懸ニ御座候間、当二月十五日迄ニ何卒以<漢文>二御真心<漢文>一御名々御寄扶之程奉<漢文>二願上<漢文>一候。以上

  (弘化三年)

  寅正月  日     当村字

             重現

             願主

              安右衛門

           世話人

              五人組中

元組

 宿湿花味中様

                                       (篠家文書)

亡父の志を継承して庚申塔を造立するにあたつて、安右衛門のみでは資力が足りないので、寄付を求めたもので、加入者については金一朱より氏名を塔に刻むというのである。

庚申の信仰は、六十年或は六十日ごとに廻つてくる庚申の日に特殊な禁忌を要求するものである。庚申の日は夜眠らずに過さなくてはならないとされて、夜を徹して語りあい酒食を共にすることがおこなわれた。

頼母子たのもし講のように一種の金融の目的をもつ講もあつた。民間信仰と農民の慰安は密接な関係をもつており、五穀の豊饒を願う神祭の行事や、日待ち・月待ち・庚申の集りも、それぞれの該当する日に終夜会食、談合したもので農民の慰安をもかねたものである。(民俗篇、信仰、慰安の項参照

<章>

第七章 農業生産の発展

<節>
第一節 灌漑用水と新田開発
<本文>

武蔵国は、家康の入府以来、市街地の膨張発展とともに急速に開発が進められ、太閤検地の際、総石高は六六万七千余石であつたのが、正保年間(一六四四~一六四七)には九八万二千余石となり、それからおよそ四〇年程下つた元祿年間(一六八八~一七〇三)には一一六万七千余石に達した。村数についても正保と元祿の間に三九八カ村増加している。正保頃の「武蔵田園簿」と元祿の「武蔵国郷帳」によつて、区内の諸村の石高の推移を見ても、この間に全体的にはほぼ二倍の増加がみられる。

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正保年間の「武蔵田園簿」によれば水田は僅かに全体の二四%に過ぎず、貢租が一般的に米納であつた江戸時代にあつては、水への関心がいかに切実なものであつたか、想像に難くない。

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それ故に区内を流れる石神井川・白子川・田柄川・中新井川などの利用はもちろんのこと、いかなる小湧水池といえども利用されつくし、天水で仕付けられる水田も少くなつた。

元祿九年(一六九六)に千川上水が多摩郡上保谷新田から玉川上水を分水して、江戸湯島聖堂・東叡山・小石川御殿・浅草御成御殿をはじめとして、江戸市街地北部への給水を目的として開発されるや、十年後の宝永四年(一七〇七)に上水沿いの村々二十カ村が歎願して田方用水として使用することを許されたが、この二十カ村組合の内には関村・上石神井村・下石神井村・中村・中新井村・下練馬村の諸村があつた。

補説「千川上水の歴史」参照

前掲の表に見られるように、元祿頃までの村高の著るしい増加によつても、正保以後の開墾が盛んに行われたことが想像される。久保新田・小榑新田或は江古田新田などいずれも小字としてその名残りをとどめている。こうした新田開発の対象となつた土地は、まず村内に散在した林野地であつた。例えば土支田村の場合、寛文三年(一六六三)の「武蔵国豊嶋郡土支田村野帳」によれば、全部で七三町六反四畝九歩で

あつた野地が、宝暦六年(一七五六)の「明細書上ケ帳」の場合には二八町六反四畝二四歩に減少している。こうした野地の減少が何に因つたかは明記されていないが、おそらくは新田開発によるものと思われる。

竹下新田は元来関村・上石神井村・下石神井村の秣場あつたが天明四年(一七八四)に開墾されて竹下新田となつた。(第三章第二節、竹下新田の項参照)この開墾に従事した者は全部で四〇名であつたが、そのうち上石神井村六名、土支田村一名、関村一三名の計二〇名が区内から出ている。(安永四年「関村・上、下石神井村御林請地出百姓並年割渡惣名前帳」

これのみでなく、関村の豪農井口氏は多摩郡札野新田の開発にも従事している。札野新田は武野新田の一部を呼んだもので、ここは以前「御札茅場千町野」或は略して単に「札野」といつて幕府御用の茅場であり、その高札があつたところからおこつたといわれる。

地域としては、現在の武蔵野市関前・西窪・吉祥寺や三鷹市連雀杉並区の大宮前・高井戸・松庵などが含まれていた。

<資料文>

    高井戸札野新田御請之覚

一、私とも新田ニ御請負申上候御札野かや野の外芝間共相改通分ニ反歩増無之三ケ年之御運上金増可申候由其砌茂御埋りニ付今度私ともニ内改被仰付候間改仕候御用かやかり場三拾四町ノ外三百九拾四丁余御座候廻芝間五拾町余今度改ニ入申候此外唯今迄有来道筋除申候右之町歩少茂偽り之儀無御座候私とも瓜畑ニ人中反歩御座候若町歩隠置候ハ私とも越度ニ可被仰付候。

一、壱ケ年金弐百七拾両ツツ三ケ年者指上新田三百五拾町余と申上候得共不見候間御金増之由御意御座候右惣野ニ而申上候間御金増之儀迷惑存上申候御かり次第金増シ御請可仕候。

一、新田百姓壱人ニ付居屋敷表弐拾間裏五拾間則畑者屋敷之そハ五ニ丁四丁三丁割ニ可仕候唯今迄者新田も右之通ニ御座候。

一、居村の儀ハ大宮前ニ而一村武蔵野境ニ二村三ケ村ニ被成可被下候。乍去御見合次第ニ可仕候。当亥より畑ニ開木苗植立家作

り百姓移申度奉存。

一、寺宮地一村ニ寺壱ケ寺氏神地壱ケ所ツツ御立可被下段ハ□□反歩三丁ツツニ可仕候御差置も御意次第可仕候。

右之通新田之者請取申度由ニ御座候通里御手袋一両人被遺御割渡可被下候。乍恐書付ニ而申上候。以上

  寛文十年                        関村  八郎右衛門㊞

  二月八日                        同   杢右衛門㊞

                              同   喜兵衛㊞

野村彦太夫様                        高井戸 九郎兵衛㊞

                                   (井口(忠左衛門)家文書)

札野諸新田の開発にあたつて、土地は一切均等に各百姓に分配された。このようにして広漠たる武蔵野の原野も豪農豪商の資本投入によつて新田が開発されていつた。関村の井口氏開発当初よりおよそ六十年間に、関村九町八反五畝歩、大宮前新田九町八反五畝歩、上連雀村九畝八反五畝歩、関前村拾八町五五畝歩、西久保村六町歩、下連雀村六町歩、計五拾九町六反歩という広大な土地を収めた。

その後、享保二十年(一七三五)には関村新田が、宝暦十一年(一七六一)には下練馬新田、上練馬村新田がそれぞれ検地をうけている。(「新編武蔵風土記稿」

このようにして農民の手によるたゆまざる開墾は、その後も着々と進められたが、開墾の対象となつた林野地の減少によつてその規模も元祿以前のような大規模なものではなく、たとえば、宝暦十一年(一七六一)高入となつた下練馬村の新田は僅かに下々畑十八歩であり、文久三年(一八六三)高入になつた同新田は下々畑一畝二十一歩の猫額

大の畑地であつたことによつても、もはや中期以後においては、新田開発による生産高の増大を望むことが困難になつてきたのである。その結果は、生産力の向上を農業技術面の改良にもとめざるをえなくなつた。

<節>
第二節 商業的農業の発展
<本文>

江戸の経済的発展の影響をうけて、わが練馬地方も江戸中期頃から貨幣経済の中に捲きこまれていつた。もちろん、以前にも貨幣は使われていたが、ここでいうのは貨幣なしには生活がなりたたなくなるような貨幣の使われかたである。地形的諸制約のもとで、畑作に依存せざるをえなかつた練馬地方の村々にとつて、畑年貢はすべて金納で、何らかの方法で作物を貨幣にかえねばならなかつた。村明細帳にもこうした事情をもの語る記述を発見することができる。

<資料文>

一、畑方作付者大麦小麦粟稗も(ろ)こしお(か)ほ芋牛房茄子苅豆大豆荏蕎麦大根作り申候。

一、御年貢手当之儀者右作付品物之内御府内江持出シ売揚代銭を以御上納仕候。

                               (嘉永三年「土支田村村差出明細帳」

貨幣の流入は、こうした農作物の販売を通して行われたが、江戸時代も中頃になると、貢租納入のための作物栽培から、都市の蔬菜需要にこたえて、売るための作物を栽培するようになつてきた。自給自足経済が部分的にくずれはじめてきたのである。「すべて江戸近郊の百姓は、畑作を好で田作を悦ばず」という傾向が顕著になつた。時代が下るが安政三年(一八五六)の江古田村「産物類売出し高書上帳」によつて、練馬地方の作物の商品化の傾向を見よう。

<資料文>

      御調ニ付奉ニ申上一候

一、当村之儀者武蔵野新田続ニ而皆畑同様之村方ニ付、重々粟稗大麦等蒔付候得共、百姓夫食ニ用候間売出し不申候。

一、菜種小麦蕎麦大豆胡麻等の品ハ御年貢之手当ニ蒔付申候。凡壱ケ年ニ売出し高金弐拾両程

一、大根牛房芋茄子瓜飼葉草ほうき等之品者肥代並村入用之手当ニ蒔付申候。凡壱ケ年ニ売出し高金三拾五両程

一、粟之儀ハ凡壱ケ年ニ売出し高金五両程

一、小細工もの翫物之類無一御座ニ候

右者今般御調ニ付奉一書上候通相違無ニ御座一候。 以上

 安政三辰年十二月                    武州多摩郡江古田村

                                  百姓代 権右衛門㊞

                                  年 寄 杢左衛門㊞

小爽藤之助様                            名 主 常治郎 ㊞

   御役所                               (江古田片山総攬)

菜種・小麦・黄麦・大豆・胡麻・荏の類から大根・牛蒡・茄子・瓜等の蔬菜類、さらに草ぼうきに至るまで広範に販売されている。

右のうち、大根はすでに元祿頃において「練馬大根」の名声をひろめた商品作物の本命ともいうべきものであるが、ここで草ぼうきについて少しくふれてみたい。草ぼうきは、江戸北西部の農村の副業として重要なものであつた。

天保七年(一八三六)、日本橋小網町の御用商人菊池屋佐兵衛の請負人柏木成子町の家持彌左衛門を相手取つて上石

神井村等豊嶋郡・多摩郡四十八カ村が草ぼうきに関する訴訟をおこした。

ことの起りは、彌左衛門は佐兵衛の請負人として草ぼうきの買取りを引受けていたが、たまたま自宅に新規に会所をたて、村々より買取つた草ぼうきに「御用」絵符をつけて、村々よりの直売を禁じた。また値段も勝手気儘に支払い取扱いも疑わしい点が多かつた。このままでは、村々では直接草ぼうきを江戸に売出すことができず、生活をおびやかされることになるので、会所をとりやめ、村々より直売できるよう命ぜられたい、というのが訴訟の概略である。

吟味の結果「村々より持ちだしの草ぼうきに御用絵符をみだりにさし込んだことは心得ちがいである。以後は従来通りにして村民に難儀をかけないこと」という証文をとりかわして事件は落着した。ここに双方でとりかわされた済口証文の全部を示そう。惣代として上石神井村名主平蔵の名前が見える。

<資料文>

  差上申済口証文之事

武州豊嶋郡多摩郡両郡四拾八ケ村、小前村役人惣代山本大膳御代官所豊嶋郡上石神井村名主平蔵外壱人ゟ、柏木成子町家持弥左衛門江奉出訴、当六月二日御差日御裏書頂戴、相附候処、相手方ゟも返答書差上、為引合小網町三丁目五人組持店佐兵衛被召出、当時御吟味中ニ御座候処、懸合之上、熟談内済仕候趣意、左ニ奉申上候。

右出入訴訟方ニ而申立候ハ、当村之儀は野方領ニ而、土地柄悪敷諸作実法不宜候間、草箒其外前菜種ニ作付、御当地江持出し、売捌又は肥料取替来候処、此節相手弥左衛門宅江、新規会所相立、上郷近村江出越居、村々ゟ持出し候草箒、荷毎ニ御用と書記し候紙絵符を差込み、同人宅江引取、在々ゟ御当地江直売不為致、殊ニ価之儀も、勝手儘ニ相払、或は内渡等ニ而、取扱向疑敷訴訟方村々難儀至極仕候間、新規之儀相止メ貰度、及掛ケ合候処、右は受負人菊地佐兵衛下細工所ニ付、新例ニ候共、相止メ候儀難成旨、及挨拶左候迚、此儘成行候而は、草箒御当地江持出不相成、村々相続ニ拘り、乍併御用御差支ニ相成候而は奉恐人候

ニ付、草箒類其外御用之品は、何品によらず訴訟方村ゟ直納ニ仕度候間、新規之儀は相止メ候様、被仰付度旨申立、相手弥左衛門方ニ而は、都而菊地尾佐兵衛ゟ申付候間、村々ゟ買上ケ御用絵符差込、同人宅江相送り候儀之旨申立、引合人佐兵衛ニ而は、草箒御受負仕候処、近来草箒払底ニ付、買取方手段弥左衛門江申付候処、心得方行違ゟ右体之次第ニ成行候旨申之、当時御吟味中ニ御座候処、弥左衛門、佐兵衛儀、佐兵衛は草箒御受負致、弥左衛門は佐兵衛下受負仕候共、在々ゟ持出候品無躰ニ買上ケ、御用絵符猥ニ差込ミ候段、心得違之旨相弁、以来草箒類訴訟方村々ゟ持出候節、前々仕来候通ニいたし、此末権威ケ間敷儀申、無躰ニ買取申間敷、都而熟知ニ相対を以売買可致筈、然上は此以後荷物買取方之儀ニ付、相手、引合人方ニおいて、如何取斗有之節は、早速御訴可申上筈取極、双方無申分熟談内済仕、偏ニ御威光と難有仕合ニ奉存候、然上は右一件ニ付、重而双方ゟ御願筋、毛頭無御座候、為後日連印済口証文差上申処如件。

                                   山本大膳御代官所

                                     武州豊嶋郡上石神井村

                                     (以下略)

                             右 四拾八ケ村小前村役人惣代

                                   山本大膳御代官所

天保七申年八月                              同州豊嶋郡上石神井村

                                      名主 訴訟人 平蔵

                                   中村八太夫御代官所

                                     同州多摩郡大宮前新田

                                      同 同 八郎左衛門

                                   柏木成子町

                                      家持

                                      相手 弥左衛門

                                      五人組 善兵衛

                                    名主 紋右衛門代喜兵衛

                                   小網町三丁目

                                 五人組持店

                                        引合人 佐兵衛

                                        同   又兵衛

                                      名主 伊兵衛代政次郎

御奉行所様

                                   (新宿区史史料編所収堀江家文書)

江戸時代を通じて、百姓一揆らしいものは一件もなく、一見平穏無事に見えた練馬地方の村々においても、後年になると下肥値段引下げの動きや、ここにのべた「草ぼうき一件」のごとく貨幣経済の進展とからみあつた事件が目立つてくる。

農産物の商品化が進むとともに、これに対応して購入肥料が用いられてくるが嘉永三年(一八五〇)の土支田村・村明細帳の下書には田畑の肥料として次のような記載がある。

<資料文>

一、田方肥之儀者壱反ニ付下肥拾駄ゟ拾弐駄迄入申候。但下肥壱駄代御府内ゟ買揚駄賃共銀五匁

一、畑方肥之儀ハ壱反ニ付下肥六駄なかはゟ三駄、灰五斗入三俵人申候。下肥壱駄銭六百文位、灰壱俵代御府内買揚駄賃共銭弐百四拾八文位

江戸時代の農業経営において、肥料のもつ重要性は従来からしばしば指摘されてきたが、このことは農業技術の進歩ということだけではなく、封建体制の基礎である自給自足の農業経営を土台からつきくずしていくことを意味しているからである。肥料に購入肥料が多く用いられている場合、そこに商品流通による貨幣経済の発展を想像することができる。練馬地方の購入肥料の使用は、特に大半が下肥であることからみても畑作依存による商品作物(蔬菜類)の栽培に対応するものであるといえよう。(本章第三節参照)。練馬地方の商業的農業の発展は、蔬菜類の生産販売というコースをたどり、貨幣経済の渦中に捲きこまれていつたのである。当地方の作物構成を示す資料が少ないので、僅かに村明細帳の記述にたよるほか仕方がないが、これとてもその記述はごく簡単で、例えぼ土支田村の村明細帳の記述も「当村之義者米は少々、麦、稗、粟之外格別多く作出候物無レ之」とある程度で、この地方の作物構成にまで立入つて見ることは困難である。ただ幕末と大した変りがない状態を示すものとして、明治三年(一八七〇)の土支田村下組の産物書上帳があるので、これによつて農産物の生産量をみよう。

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右の産物書上帳によつては販売についての具体的なことは何もわからないが、販売量ではないが商品化の傾向を知りうるものとして明治九年(一八七六)の「明細書上帳」があるので参考にしたい。

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右の二表に従えば、土支田村の場合の作物構成は蔬菜類に重点がおかれていることがわかる。村方からの書上などにも、「土地に応ぜし産物・粟・稗・芋・牛蒡・大こん・飼葉の類」(文政六年・土支田村地誌調御改書上帳)というような記載があるが、麦・大豆・粟・稗・黍・蕎麦などの雑穀とともに、大根・牛蒡・人参・芋類などの蔬菜が優位にたつていた。

明治九年の書上をもつて、そのまま幕末の状態と見ることはもちろん危険であるが、蔬菜類の大部分は、一部の自家消費を除いて東京へ売却されている。商品作物の生産は、大都市江戸を四・五里にひかえた練馬地方においては、蔬菜の栽培であつたことは、くりかえし述べてきたが、蔬菜栽培において、より重要なことは肥料使用の問題である。次節においてこの関係を述べる。

<節>

第三節 蔬菜栽培と肥料
<本文>

安政二年(一八五五)刊の「富国強兵問答」によれば、練馬地方の田一町歩畑五反歩を経営している農家で大根二万五千本を栽培して、その販売によつて銭百三十五貫を得ているが、肥料()代として銭五十貫が支払われている話が載つているが、ここでは肥料代が大根収益の三七%をしめている。享和四年の土支田村「村方之儀明細書上ケ帳」によれば、肥料について次のような記載がある。

一、肥之儀田方者下肥荏油絞り糟刈草等畑方者下肥糠灰下水等相用申候。

図表を表示

元祿年間(一六八八~一七〇三)の「農業全書」に記載されている若干の作物に応ずる肥料をあげれば次の如くである江戸の周辺農村に於て肥料として重要な意味をもつものは下肥である。この地方の百姓はそれぞれ江戸の武家屋

敷・町屋敷の下掃除(下肥汲取)を請負つて下肥を得ていたのであるが、この取引は、はじめは、都市衛生上からみても百姓側に有利であつたようであるが、蔬菜類の商品化の進行と共に、下肥の需要が増大し価格が高騰して下掃除請負の競争がはげしくなつてきた。

<資料文>

      差上申御請書之事

一、此度御屋敷様、下掃除被<漢文>二仰付<漢文>一、難<漢文>レ有奉<漢文>レ畏候。然ル上者月々御差支無<漢文>レ之様、人馬共差出、御間欠候様成儀仕間敷候。万一不調法等の儀有<漢文>レ之、思召ニ不<漢文>二相叶<漢文>一節者、如何様被<漢文>二仰付<漢文>一候共一切可<漢文>二申上<漢文>一儀無<漢文>二御座<漢文>一候。御屋敷様内御子様方下々迄粗略仕間敷候。依<漢文>レ之御請書差上申処、仍而如<漢文>レ

 天保十二亥丑年二月                         豊嶋郡土支田村

                                        金次郎

大沢修理太夫様                              同村 藤五郎

    御役人中様

                                    (町田家文書)

右の文書は土支田村の金次郎・藤五郎が下肥汲取について大沢家に差出した請書である。

画像を表示 <資料文>

     御請書一札之事

一 此度

 御屋敷様下掃除被<漢文>二

 仰付<漢文>一候而者、為<漢文>二御掃除代<漢文>一 一ケ年金弐両

 差上可<漢文>レ申候 右者沢庵大根千五百本

 被<漢文>二仰付<漢文>一候為<漢文>レ代、被<漢文>二下置<漢文>一候筈奉<漢文>レ畏候。

 然ル上者年々大根定直段ヲ以、沢庵

 附込差上可<漢文>レ申候。尤壱榑ニ付、銀十匁ツツ

 十五榑メ金三両弐分、右之内御掃除

 代金弐両引、残金壱両弐分者、七月、

 十二月両度ニ御渡被<漢文>二下置<漢文>一候旨奉畏候。仍而

 御請書如<漢文>レ件           豊嶋郡

天保十二丑年 土支田村

    二月 金次郎

                 親 類

                  藤五郎

大沢修理大夫様御内

   永井権太郎様

   小池助三郎様       (荘家文書)

右の文書によれば「下掃除を仰付けられた代金として金弐両を納めるかわりに大根千五百本上納すること、但しこれは毎年定直段をもつて沢庵に漬けて上納する。もつとも一樽について十四匁として十五樽で金三両二分であるから、残金一両二分は七月、十二月の両度に支払われること」としている。

次の文書は下肥汲取代として上納している沢庵について「正味宜しからず」とて、御屋敷よりお叱りをうけたので、栗山某を介して今後は特に念入りに漬けて上納することを誓い、詑をいれて貰うための依頼状である。

<資料文>

       頼入申一札之事

一、貴御地頭桜井庄之助様下掃除之儀、私

  先年ゟ頂戴仕来候、去未年納之沢庵当

  申年相納候処、御正味不宜趣当御屋敷

  様ヨリ貴殿方へ御差当有<漢文>レ之、右ニ付外へ

  下掃除御頼ミ可<漢文>二相成<漢文>一之趣御懸合被<漢文>レ下附

  而者仕来リ通り当年ゟ者格別入<漢文>レ念沢庵其

  外共御上納可仕候、何卒御屋敷様へ御

  詑之儀幾重ニ茂御頼ミ申上候、依<漢文>レ之一

  札差出申処仍而如<漢文>レ

                        土支田村

    嘉永元年七月九日               綱五郎

  栗山伊右衛門殿

                            (町田家文書)

前掲の請書にも見られる通り、土支田村の町田家の場合においては、下掃除代として一カ年に金二両と定められているが、実際には貨幣でもつて支払われることなく、沢庵の上納をもつて充当されていたが、金納にしろ物納にしろいずれにしても下肥の或る程度の市場価格の成立を知ることができる。

さて、肥料の反当投下量はいか程であつたろうか。享保五年(一七二〇)の「関村明細控帳」によれば、次のように記されている。

<資料文>

一、田壱反 下こひ七駄銭弐貫百文

      灰壱駄 四百文

      馬やこひ五駄壱貫文

一、畑壱反稗蒔申候ニ下こひ五駄

      銭一貫五百文入用掛り申候

一、畑壱反ニ下こひ四駄銭壱貫弐百文

      はい 一駄 四百文

      馬やこひ五駄壱貫文

      〆銭弐貫六百文入用掛り申候

下肥一駄三百文、灰一駄四百文、馬やこひ一駄弐百文の割合である。享保十年(一七二五)「江古田村村鑑帳」では「田畑こやし壱反ニ付、代金弐分弐朱余」と記されている。この下肥値段が百姓による直接江戸屋敷から購入する値段か、それとも仲買的業者の手を経ての価格であるかは不明であるが、いずれにしても、農民にとつて肥料購入のための支出となるので、下肥そのものは決して安価ではなかつた。

蔬菜栽培のためには肥料を購入しなければならず、さらにまた肥料購入のための貨幣支出にたえるためには蔬菜類の販売が必要であつたのである。

安政三年(一八五六)の江古田村の「産物類売出し高書上帳」の中にも「一、大根牛蒡芋茄子瓜飼葉草ほうき等の品者肥代並村入用之手当ニ蒔付申候凡壱ケ年に売出し高金三拾五両程」と記されている。さらに購入肥料への依存は新田開発による草刈場の減少も影響しているともいわれている。こうした肥料の需要の増大、それにともなう価格の高騰は農民の生活をおびやかすまでに至つた。下掃除代金引下げの動きはこうしたことを背景にして、寛政年間(一七八九~一八〇〇)において切実な問題となつた。

寛政二年(一七九〇)下掃除代金の高騰に対する引き下げと糶取糶落禁止の歎願書が武蔵下総一〇一六カ村の連名でだされた。

この問題の経過についてはあきらかでないが、同じ頃の江古田村の議定書によつて見ると歎願の目的は大体において達せられたもようである。

その後天保年間(一八三〇~一八四三)に至つて肥料の高騰甚だしく豊作による米価の下落とともに農民の生活は苦

しくなつてきた。ここで多摩郡・豊島郡八十カ村の村役人が連署して、肥料値段の引下げを歎願することになつた。右の願書はその案文であるが、きわめて興味深い事実を知らせてくれる。

<資料文>

      乍恐以書付奉願上候

御当地近在、何ケ郡何百何拾ケ村惣代左之名前之者共一同奉申上候。近来諸国豊作打続、追々米直段下落仕候得共、諸色之義は高直ニ而、世上一統難儀仕候ニ付、諸品とも米穀を元として売買可致旨、御触御趣意之段、在々迄行渡、難有仕合ニ奉存候。然ル処下肥之儀ハ、米穀其外諸作作出候第一ニ御座候得とも、私共領内村々之儀は通船無之、至而不弁之土地柄ニ而、土性悪敷、殊ニ田畑之内畑場勝之村々故、岡穂、大麦、小麦、稗、蕎麦、粟其外少々之前裁仕、肥は重ニ糠、灰、ふすま、干鰯、〆粕之類而己専一ニ遣ひ、作付仕候処、近在村々ニ而、右品之内、糠灰等仲買いいたし商ひ仕候者多在之、在方江売出候ニ付追年右品之類至而直段引上ケ候間、之方ゟ買請度存候得とも、遠方村々ニ而は直仕人相成兼、難渋至極仕候。且諸肥直段引上リ候而己ニ無之、作奉公人召仕候者ハ、男女給金以之外高金ニ而、一季ニ相抱支候ニ茂差、家内不人又は貧窮ニ而、日雇手伝相頼候者茂、雇賃銀高ク、当時右相場之儀者金壱両ニ付、米壱石五六斗位、大麦四石余、小麦壱石七八斗、其外雑穀右に準シ、至而下直ニ御座候処、近来糠壱俵ニ付銀壱メ三百文位、灰壱駄ニ付銭壱貫文位、ふすま壱俵ニ付銀五匁ニ而、麦作蒔付之頃は右躰之直段ニ年々引上ケ、何程粉骨を尽、出精仕、耕作仕候而茂、御年貢諸役肥付ニ引足リ不申、暮方ニ差支、追々農業差控、田舎柚稼又は真木麁朶之類御当地江持出シ、車力其外種々之外渡世仕、不足を繕ひ、漸々今日を相営ミ罷在候仕宜ニ御座候得は、男女給金、日雇賃、下肥、糠、灰、ふすま、干鰯、〆粕等高直段ニ而、穀物直段ニ引競候得は、一向利潤無之、下肥は勿論、糠、灰仕人難相成、年々作方不足仕、自ら荒地出来、困窮之百姓及潰候外無御座、右姿ニ而は、往々村柄立直候儀無之、苦心仕候甲斐更ニ相見へ不申、明和、安永の頃は、糠八斗人壱俵ニ付銭六百文位、ふすま五斗人壱俵ニ付銭三百文くらへ、灰六俵付、駄ニ付銭四百文位、下肥壱ケ月三拾駄附ケ之場所は壱ケ年金六両位ニ御座候処、近年之直段大造之不相当ニ而、諸費高直とハ乍申、米、小麦之本石

と引合候得は、就中下肥、糠、ふすま、直段一倍余引上リ、小高之百姓は、自力ニ不及、小作を相止、高持之百姓は、御田地を持縊り、高金之肥類を買、中々以手広ニ作付難相成、追々困窮差募、地面質人ニ差出シ候而茂、質地ニ取候者無御座、村々大小之百姓御田地養も難相成必至と当惑難儀至極仕、誠ニ歎敷奉存候間、何卒格別之以御慈悲、右始末被為聞召訳、可相成御儀ニ御座候ハハ、村々一統御触被成下置、諸肥直段引下り候様御憐愍之程偏ニ奉願上候。右願之通被仰付被下置候ハハ、大小之百姓共、夫々相当之肥買人行届、不作之場所無之、御田地相続仕候様挙而奉願上候。右御聞済被成下置候ハハ、広太之御救と、難有仕合ニ奉存候。 以上

                                   (中野区史所収 堀江家文書

右の願書によれば、練馬地方を含めて豊島郡・多摩郡の江戸近郊農村においては、肥料として主に糠・灰・ふすま・干鰯ほしか・〆粕の類を用いていた。これらの肥料の多くは問屋と在方を結ぶ仲買商人によつて農民の手に渡つたものであるが、彼等は需要の増大につれ価格を引上げていつたので、肥料の価格は明和・安永年間から天保年間までのほぼ五〇年間に二倍高に値上りした。

図表を表示

これに加えて日雇賃銀の高騰があり、そのうえ近来の豊作で米価の下落ときて、まさに弱り目にたたり目である。

このままでは農民の困窮はいよいよ募り、田地は荒れる一方であるから、何とぞ諸肥値段を引下げるようお願いするというのが願書の趣旨である。

一般に下肥は干鰯などと異なり自給肥料と見られるむきがあるが、都市近郊農村の商品生産に対応する下肥利用の場合においては、一定額の貨幣が支払われていることから明らかに購入肥料としての性格を持つもので、干鰯などの金肥と異るものではない。

ともあれ江戸から四・五里の行程を人背・馬背によつて下肥を運搬する労苦は並大抵のことではなかつたであろう。

<節>
第四節 農民層の階層分化
<本文>

享保五年(一七二〇)の「関村明細控帳」には「家数合九拾八軒、内七拾七軒本百姓、弐拾壱軒水呑」と記されている。江戸時代の土地台帳ともいうべき検地帳に登録されて貢租を負担する一人前の百姓が本百姓で、山林原野の入会権や用水権をもち村の構成の主体であつたが、これに対して水呑は田畑を所有しない無高百姓である。

こうした水呑百姓の存在は「第一は近世初頭検地の際、分附百姓あるいは帳はずれとして検地帳に記載されなかつた隷属農民の系統をひくもの、第二は分地制限令などのため土地をもちえなかつたもの、第三はとくに元祿・享保(一六八八~一七三五)以降の商人・高利貸資本の農村侵入と貢租重課のために土地を喪失したもの」(郷土史辞典)などである。

前記関村の水呑百姓は、二割余をしめており、他の地方に比してやや高い階層分化を示しているが、これは関村が甲州裏街道として発展した青梅街道に沿つて展開した村であることから、比較的早くから商品貨幣経済の波に洗われる機会が多かつたものと思われる。

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同村の馬数五二疋は、全戸数の五三%をしめており、土支田村の家数二二三馬数二八(享和四年)、上練馬村の家数三九四馬数五九疋に比較して特に多いことは、農間渡世としての駄賃稼ぎがおこなわれていたものであろう。

関村と同じ青梅街道沿いの小川村の文化四年(一八〇七)の「村明細帳」には「農業之外男は江戸表江炭薪附出し駄賃取申候。馬持申さず候ものは賃日雇取或はくつわらんし等作り渡世仕候」

「小川家文書」)と述べている。田畑を持たない水呑百姓は多く小作人となり、出稼ぎ奉公、日傭稼ぎなどによつて生計を維持したのである。

寛文三年(一六六三)の「土支田村検地帳」から農民の土地所有状況を調べてみると上表のようになり、一町―五町の層が全体の六二・二%で、最大の経営をおこなつている者が一三町余、一二町~一三町の者が二人、一〇町以上の者が三人である。五反以下の者が九人で全体の九・二%で階層分化はそれほどはげしくない。土支田

村の土地所有の変遷を示す資料をもたないので、幕末の土地所有状況を知りうるものとして嘉永七年(一八五四)の上練馬村の「宗門人別書上帳」によつて江戸時代後期の階層分化を考察してみよう。

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石高二〇石以上の所持者八戸(全戸数の二%)の持高は三三九石で総石高の一二・九%を占めており、これに対して自作地のみでは生活困難と思われる五石未満の戸数二〇一戸(全戸数の五一%)で、相当広範に地主小作関係が存在したことが像想される。川崎宿の宿役人であつた田中丘隅の著書である「民間省要」では、享保の頃の江戸周辺の地主小作関係について次のようにのべている。

  • 国土の田地と云物、人々其持主の自手作すといふ事は、十にして漸一二ならではなき物也と知べし。(中略)百姓の田地二十石以上百石余の持高の者、十が一にも自分の地を手作するはなし、人を抱へ馬を求て中々作りしてあふ物にあらず、小作に預けて他の手より米をとり其内にて年貢諸役を勤るなり。総て小作作りと云物は、其所の水呑、又は地かり店かり、日雇を取て生を渡る者の類なり。

二〇石―一〇〇石余の地主が生じるが、彼等の中で自作する者は十中の一・二といつている。地主手作りの困難になつた理由として、「人を抱え、馬を求めて」は採算があわないとして、肥料・農具・労賃の高騰をあげている。

天保年間(一八三〇~一八四三)に高円寺村以下多摩郡、豊嶋郡八〇箇村が肥料値段引下げ方を歎願したが、この中で肥料・労賃の高騰について次のように述べている。(第三節に全文掲載

<資料文>

肥は重ニ糠、灰、ふすま、干鰯、〆粕之類而己専一に遣ひ、作付仕候処、近在村々ニ而、右品之内、糠灰等仲買いたし商ひ仕候者多在之、在方江売出候ニ付、追年右品之類至而直段引上ケ候間、元方ゟ買請度存候得とも、遠方村々ニ而は直仕入相成兼、難渋至極仕候。諸肥直段引上り候而己ニ無レ之、作奉公人召仕候者ハ、男女給金共以之外高金ニ而、一季ニ相抱候ニ茂差支、家内不人又は貧窮ニ而、日雇手伝相頼候者茂、雇銀高ク(中略)高持の百姓は、御田地を持縊り、高金之肥類を買、中々以手広ニ作付難ニ相成一、追々困窮差募、地面質入ニ差出シ候而茂、質地ニ取候者無ニ御座一、村々大小之百姓御田地養も難ニ相成一、必至と当惑難儀至極仕、誠ニ歎敷奉レ存候

ここでも肥料の値上り・男女奉公人の給金の高騰から地主の手作経営が小作地経営へ移行していく傾向を指摘している。

こうして貨幣経済の波はしだいに村内に二つの極を形成して行つた。一方の極に位置する富裕な農民は、村内の有力者としての地位を利用して、商品作物の販売により、或は質屋・古着屋・酒屋・醤油屋・穀屋などの農間余業により益々富裕化し、小農民の土地は富農の手に集中するようになる。

もう一方の極にある貧しい農民は、銭を使わずにはおれないような生活のなかでいよいよ生活困難におちいり、土地を質入れして一時的に急場をしのごうとするが、結局は借金の返済はできず土地は流れて質物小作人となる。

こうして貧農の土地は富農に兼併されていくのである。形式的には永代売買は禁止されていたが、実際には土地の

売買は盛んで練馬地方でも江戸時代中期の元祿頃から多く土地質入証文や売渡証文を見ることができる。

かくして富農と貧農の差は益々深まり、小作農は高額の小作料の負担にあえぐのである。嘉永三年(一八五〇)の村差出明細帳に記載された土支田村下組の質地値段と小作料について次にあげよう。

<資料文>

一、質地値段

  上田壱反ニ付 金弐分弐朱ゟ壱両位

  中田壱反ニ付 金弐分弐朱ゟ三分位

  下田壱反ニ付 金弐分ゟ弐分弐朱位

  下々田壱反ニ付 金壱分弐朱ゟ弐朱位

  上々畑壱反ニ付 金壱両ゟ壱両三分位

  上畑壱反ニ付 金壱両ゟ壱両三分両

  中畑壱反ニ付 金三分ゟ壱両壱分弐朱位

  下畑壱反ニ付 金三分ゟ壱両壱分位

  下々畑壱反ニ付 金三分ゟ壱両位

  林畑壱反ニ付 金壱分弐朱ゟ弐分弐朱位

一、田方小作米上・中・下・下下壱反ニ付米五斗七升ゟ三斗位迄段々但場所ニ寄小作入一切無御座候。

一、畑方小作銭上々・上・中・下・下下壱反ニ付銭八百四拾八文ゟ四百四拾八文位迄段々但場所ニ寄小作人一切無御座候。

実際の収穫量は明らかでないが、標準収穫量である石盛がわかつているので、これによつて田の場合を見ると上田

=一石一斗・中田=九斗・下田=七斗・下々田=五斗であるから五斗七升より三斗位という小作料がいかに高額のものであるかは推して知ることができよう。すでに述べてきたように貨幣経済の滲透は、地主による手作経営を解体させるとともに、一方では小農民を質物小作人に追いやり寄生地主化の方向を推し進めるようになつた。今日、旧家に残されている土地台帳や、小作台帳がいく度かの名儀人の書きかえによつて朱で汚れているのを見るとき、土地移動の烈しさをまざまざと知らされる思いである。こうして一部の富農を除いて貢租の過重・雑税の増加、更には助郷制度などの夫役によつて農村生活は一層疲弊していつた。

<章>

第八章 幕末維新と練馬

<本文>

幕藩体制の基礎は、三代将軍家光の頃までに確立した。その後、きびしい大名統制・牢人取締(慶安年間の諸牢人改・三宝寺文書)の方針が漸次緩和され、封建制度の整備と安定の時代にはいつた。

練馬地方の検地の多くは、寛永・寛文・延宝年間に行われ、本百姓自立による近世村落が整備されるのもこの時期である。

綱吉の治世である元祿年間(一六八八~一七〇三)には農業生産力が発展し、練馬地方の村高も四・五十年前の二倍にも増加してきた。江戸の発展にともない蔬菜供給地として貨幣経済の中に引きいれられていく時期である。また練馬大根の名称が天下に知られる時期でもある。

元祿時代も綱吉の晩年になると、幕府の財政は窮迫し、政綱はゆるみ、政治上、経済上の諸矛盾が表面化してきた。農業もようやく停滞しはじめ、農民生活は困窮が増し(練馬地方にも元禄年間の田畑売買証文・質地証文が多く見られる)武士生活の経済的基盤を不安にした。

こうした幕藩体制のゆるみを引締めたのが、八代将軍吉宗の享保の改革である。幕政の改革をはじめ、新田開発、河川の改修、産業の振興などに力をそそいだ。しかし、享保の改革も根本的に封建制度の諸矛盾を解決することなく、単に一時的防止策に過ぎなかつた。

この諸矛盾とは、自給自足の自然経済に基礎をおく封建体制と貨幣経済の発達による封建体制の侵蝕である。幕府権力の基盤であるところの土地に基礎をおく秩序が土地生産力の行詰りと貨幣経済によつて破壊されつつあつたのである。いわゆる田沼時代の政治の腐敗、財政の混乱、天災飢饉、百姓一揆の頻発など潜在的な破たんは公然と露呈されてきた。

老中松平定信は吉宗の政治を理想として、寛政の改革を行つたが、その保守的政策はもはや享保時代より一層激化した幕府の衰勢を阻止することはできなかつた。

幕府が封建体制の維持に最後の努力を傾けたのが、老中水野忠邦による天保の改革である。

御改革之儀、御代々之思召は勿論之儀、取分享保、寛政之御趣意に不違様思召候に付、何れも厚く心得可相勤候。

と改革令(天保十二年)の冒頭にのべたこの改革の目的は幕府を始め諸大名・旗本・御家人の財政難の救済と農村の困窮の打開にあつた。改革法令から見られる改革の諸政策は、風俗の矯正、質素倹約、低物価政策、人口政策、旗本救済政策などにわたつている。

天保の改革が、農村に対してはどのような法令となつてあらわれたかを示すものとして、天保の改革の一環として天保十四年(一八四三)八月代官大熊善太郎からだされた質素倹約令をみよう。

<資料文>

今般御料所御改革之儀被仰渡品々御世話も有之候ニ付、当田方検見は勿論定免村々並荒田畑取下流作場等見分之上、追々小前帳村絵図村入用為取調手附手代共差出自分も廻村致し候得共、右は素ゟ御改革と申新規ニ御法を建無謂一概ニ御取箇を取増候様之筋ニは決而無之畢竟近来百姓共奢侈ニ超し身元相応之ものは花麗風俗を好、結構之住宅を補理、無益之諸道具を集右ニ准シ小

来之風俗ニ立戻り安穏ニ永続致シ候様ニと之難有御趣意ニ而且又田畑一筆限耕地小前帳ニ引合荒地取下場等も可成丈本免ニ復し候様可致は勿論之処畢竟支配致役所之世話も不行届故畝畔紛乱致し荒地等出来又者起返し候而も有躰不申立其儘ニ相成居候哉之趣ニ付、右様之場所は相改尤地所不相当ニ高免之場所は引下ケ候様ニも被成下、いつ連ニも上下明白夫々村柄、地味相応之御取箇ニ相成候様ニと之是又難有御沙汰ニ而無躰ニ御取箇を増可申訳ニは曽而無之万端不行届之段は支配ニおいて恐入候儀何事も有躰申上候得は是迄之不束は格別之御宥免も有之、元来切添切開と申も事実は隠地ニ而至而重き不届ニ有之其訳は天下之御地面を内証ニ而作取ニ致し或は荒地等起返候も申紛し隠置候は無勿躰事ニは無之哉、一躰百姓は国之元ニ付町人ゟも身分上ニ立、町人は奢候而及零落候共潰次第ニ候得共、百姓困窮致し候得者御手当被成下又は貯穀其外凶年不作之節者夫食農具代拝借等被仰付、前末々迄もうまき物をたべ、よき衣類を着し男女共髪飾等ニ心於用ひ近在は別而江戸風儀を見習ひ都而農家不似合之躰ニ成行如乱驕り候而者村入用も多く相懸り自然懶惰と申なまけものニ相成農業を嫌ひ田畑山林之手入も等困ニ相成候故、作徳薄く御取箇も減村柄衰ひ困窮致シ終ニ潰百姓も出来上下衰微之基ニ付、流弊御改革とは右様之風儀を改免候事ニ而質素淳朴と申古へは布木綿之外不着、わらを以髪をゆひ候程之ものに付何事もつゐへをはふき、村入用を減古品々相続之御世話も有之候処、前書之通、不正取斗致し置たとへ不顧候共上を掠免不届之徳分を以其身は勿論子孫末々ニ迄繁昌永続可致道理は無之其所を能々弁別いたし此難有御時節何事も正路ニ申立取調請候得は国百姓可為難儀之筋は毛頭無之候条右之通申聞候上ニも心得違致し不正之取斗有ミニおゐては支配ニ而茂公儀江御□□儀致し百姓をかはひ候様ニは難成候間無拠上向江申立厳重ニ御沙汰ニ可相成其節ニ至里何程先非をくやミ候而も無詮事ニ付小前未々迄公得違無之様壱人別厚申聞此廻状村役人宅江急度張出し置可申もの也。

(天保十四年)

   卯

      八月九日         大善太郎

農民生活困窮の理由を農民の奢侈(農民の生活向上)にありとして「近来百姓共奢侈に(長)し、身元相応のものは花麗風俗を好、結構え住居を補理、無益之諸道具を集、右ニ准シ小前末々迄もうまき物をたべ、よき衣類を着し、男女共髪飾等に心於用ひ、近在は別而江戸風儀を見習ひ、都而農家不似合之躰ニ成行如、乱驕り候而者、村入用を多く相懸り、自然懶惰と申なけものニ相成、農業を嫌ひ、田畑山林之手入も等閑に相成候故、作徳薄く御取箇も減、村柄衰ひ困窮致し、終ニ潰百姓も出来、上下衰微之基」とあげており、さらに「御改革ゟは右様之風儀を改免候事ニ而質素淳朴ゟ申、古へは布木綿之不着、わらを以髪をゆひ候程之ものに付、何事もつゐへをはふき、村入用を減、古来之風俗に立戻り安穏ニ永続致し候様ニゟ之難有御趣意」と質素倹約を強調しているが、この改革のありがたき御趣意も農民の生活向上を抑止し最低生活をおしつけることにあつた。

貨幣経済の波に捲きこまれた農村にこうした法令がいか程の効果をあげえたかは想像できよう。

天保の改革に傾けた努力も空しく、幕府・諸藩の財政難、武士生活の窮乏、農民の困窮、百姓一揆は幕府権力をおびやかしつつ、天保期から慶応三年(一八六一)までの二十余年間は一歩一歩衰亡の過程をたどつていくのであつた。

幕藩体制の急速な崩壊の諸相は、幕府のお膝元の練馬地方に直接間接の影響をもたらした。

文久元年(一八六一)の和宮降嫁の行列の中仙道通過による板橋宿助郷は練馬地方のすべての村を含む、豊嶋・新座・足立・多摩・埼玉郡などの二百余カ村に及び、京都から江戸に至る一三〇里は塵一つない道となつたといわれる。この助郷には数万の農民が動員され、八月九月は道普請のため農業は妨げられ農民の困窮はこの上もなかつた。(第五章第四節参照

次いで元治元年(一八六四)八月には将軍家持による長州征伐のため、東海道品川宿への助郷が動員され、再度の長州征伐にあたつても上納金の賦課があつた。(町田家文書

<資料文>

    上金書上帳

       土支田村上組

      乍恐以書付奉申上候

             武州豊嶋郡土支田村上組

一、金八拾三両也            百姓 権 蔵

                    外 六拾八人

  右者今般

  御進発ニ付御用途金之内江上金仕度奉存候間何卒以、御慈悲願之通御聞済被成下置候ハハ難有仕合奉存候、依之乍恐段以書付奉申上候 以上

  右村百姓代

 慶応元年五月                権 蔵

                    名主 綱五郎

松村忠四郎様御役所

次に、石神井村の農兵設置について一言しよう。海防のために農兵を設置することを主張したのは、伊豆韮山の代官江川太郎左衛門であつた。嘉永二年(一八四九)には「農兵之儀申上候書付」を幕府に提出して、海防の中核に農

兵を取建てて、農業の合間に訓練させ、非常の際に役立てることを建議した。

文久三年(一八六三)に至り、幕府は内外の情勢の急迫から農兵設置の可否を関係役人に諮問した。

<資料文>

平常は農業其外渡世百姓並にいたし、非常之節取締筋は勿論防戦とも為<漢文>二心掛<漢文>一、御料組又は在組杯と唱、農兵立置候はは費も無<漢文>レ之、非常備ニ可相成奉存候。(羽田十左衛門

後害無く第一の良策とする積極的意見に対して、有力な反対意見は、もし農民を武装させるようなことがあれば、やがて反抗する者も生じて、幕府を危くするとおそれるのであつた。しかし、どこまでも農兵設置に反対するというのではなく、身元のよい者の子弟で実直な者を選んで武術の訓練をさせ、まず代官陣屋のまわりに農兵を取立てようというのである。

右のような討論の末に、幕府は御料一体の農兵取立てを命じたが、その意図したところは、本来農兵設置論が説いたところの対外防衛のためではなく、全国的にたかまりつつあつた百姓一揆に見られるような下層農民の反抗をおさえるためのものであつた。

慶応二年(一八六六)は幕末の百姓一揆件数の頂点をなすほどに、百姓一揆のはげしく捲きおこつた年であるが、幕府の拠点である関東においても下層農民の反抗は燃えひろがり、その一つに武蔵国秩父郡名栗村の窮民による打こわしがある。(慶応六年窮民蜂起打毀見聞録

慶応二年(一八六六)六月十三日村内の窮民七八十人によつておこされた打こわしは、翌十四日には一万余の大部隊となり、襲げきを受けた村々は、武州高麗郡・入間郡・新座郡・多摩郡にわたる三十カ村に及び、わが練馬境の新

座郡引又村(志木)、白子村にまで拡がつた。引又村では商屋九軒が打こわしを受け、又同村内の高崎侯の陣屋が破壊された。

この打こわしの対象が、米穀商や酒商・質屋などの豪商、豪農にとどまらず、封建支配者に向けられていたことは注目すべきことであろう。

あなどり難い一揆の勢力に狼狽した幕府は、その鎮圧に農兵をもつてした。田無村農兵隊・五日市村農兵隊・日野宿農兵隊・八王子宿農兵隊・駒木野兵隊などが鎮圧の主体であつた。六月十八日には、一揆は全く鎮圧されてしまつたが、幕末の内外危機に対応して設置された農兵は、対外防衛の戦いでなく、封建支配者の重圧に反抗する農民とまずたたかわねばならなかつた。

慶応二年の一揆にあわてた幕府は、御料地の村々に対して、農兵を設置することを命じた。一方武州荏原・橘樹郡五十三カ村の村役人は農兵設置を願いでて許されているが、その理由としたことは、前述の秩父領におこつた打こわしであつた。貧民徒党をくみ不穏の形勢にあるので、農兵隊を組織して村々の防衛にあてたいというのである。

こうした情勢のなかで、石神井村の農兵も設置されたのであろう。

<資料文>

      差上申御貸筒拝借証文之事

                      当御代官所

                        武州豊嶋郡上石神井村

                              年寄 兼 吉

一、ケウヱール御筒 壱挺

    附胴乱壱 背負革壱

     管入壱 劍指 壱

     御筒廿挺之内

      玉取五ツ 三ツ俣五ツ

      万力 壱 鋳形壱

      鋳鍋 壱

一、同 壱挺    年寄 市兵衛

  附右同断

一、同 壱挺    同  伝吉

  附右同断

一、同 壱挺    百姓 茂兵衛

  附右同断

一、同 壱挺    同  綾次郎

  附右同断

一、同 壱挺    年寄 金次郎

一、同 壱挺    同  長十郎

  附右同断

一、同 壱挺    同  伝四郎

  附右同断

一、同 壱挺 名主仲右衛門伜 銕太郎

  附右同断

一、同 壱挺 当御代官所下石神井村

  附右同断    百姓 勝五郎

一、同 壱挺    同  寅右衛門

  附右同断

一、同 壱挺    同吉五郎伜甚五郎

  附右同断

一、同 壱挺    百姓 伝五郎

  附右同断

一、同 壱挺    同安五郎伜安兵衛

  附右同断

一、同 壱挺    同次郎吉伜栄五郎

  附右同断

一、同 壱挺    年寄安五郎伜岸三郎

  附右同断

一、同 壱挺    同  忠七伜忠蔵

  附右同断

一、同 壱挺    年寄 惣右衛門

  附右同断

一、同 壱挺 百姓本橋勝右衛門伜

  附右同断       国   蔵

一、同 壱挺    名主 弥市弟仙蔵

  附右同断

右者今衛農兵御取立相成候ニ付、書面御貸筒並附属之御品共御貸渡相成、難<漢文>レ有仕合ニ奉<漢文>レ存候。然ル上者出精稽古仕、無益之生殺堅ク仕間敷事。

 一、御貸筒預り主之外他人者不<漢文>レ及<漢文>レ申、組合親類兄弟好身者ニ御座候共、決而貸渡申間敷旨被<漢文>二仰渡<漢文>一奉<漢文>レ畏候事。

 一、異変之節者格別、平日稽古之外猥りニ鉄炮堅ク打申間敷、都而平常身分相慎善悪共互ニ不<漢文>二附合<漢文>一、越度無<漢文>レ之様可仕候事。

 一、私共組合村々之内者勿論、最寄村ニおゐて万一異変も御座候ハハ御沙汰次第早速出張仕、御差図受<漢文>レ申事。

右之趣相背御貸渡鉄炮ヲ以悪事仕候ハハ、本人ハ不<漢文>レ及<漢文>レ申、名主五人組迄何様之曲事ニ茂可<漢文>レ被<漢文>二仰付<漢文>一、依<漢文>レ之一同連印一札差上申処、如<漢文>レ

                        武州豊嶋郡上石神井村

  慶応四年正月日                     百姓 茂三郎㊞

                          親類組合惣代 与 八㊞

                              同  綾次郎㊞

                              同  豊 吉㊞

                              年寄 兼 吉㊞

                              同  市兵衛㊞

                              同  伝 吉㊞

                              同  長十郎㊞

                              同  金次郎㊞

                              同  伝四郎㊞

                         名主仲右衛門伜 銕太郎㊞

                        右村役人惣代

                              年寄 長十郎㊞

                              名主 平 蔵㊞

                        同州同郡下石神井村

                              百姓 勝五郎㊞

                          親類組合惣代 仙之助㊞

                              百姓 寅右衛門㊞

                          親類組合惣代 鉄五郎㊞

                          同 吉五郎伜 甚五郎㊞

                          親類組合惣代 万五郎㊞

                               (以下略)

                               (東京府民政史料)

右の「鉄炮拝借証文」によれば、鉄炮の貸与を受けた者は、上石神井村名主仲右衛門忰銕太郎以下九名、下石神井村名主彌市忰仙蔵以下十一名の合計二十名の者であつた。そのうち十一名が名主・年寄の村役人であつて、村内の上層農民である村役人と身元よき平百姓がえらばれて農兵の主体となつたことがわかる。

  1. 一、鉄炮は預り主の他は誰にも貸さないこと
  2. 一、異変の場合はとりわけ、平日稽古以外には、みだりに鉄炮を打たないように注意すること
  3. 一、組合村々の内はもちろん、近かくの村で万一異変がおこつた場合は、命令があり次第ただちに主張し、差図をうけること

拝借証文の内容は大体右のようであるが、この時期の打こわしの影響をうけての農兵設置であることが充分うかがわれる。

幕府倒壊の直前、江戸近郊においても農民の反抗的機運がたかまつてきた。

慶応三年(一八六七)十一月、幕府は徳丸原を練兵場とするため附近の農地の取上げを強行した。これに反対して農民は土地の取上げは死活にかかわるものとして、一同申合せ、竹槍その他のえものをとつて、役人がきたならば突き殺そうと待ちかまえた。そこへフランス人教官が別手組と鳥猟にきたので、農民はほら貝太鼓で合図をして多数で彼等を取りかこみ、フランス人は危うく難をのがれたが、別手組の四人は村民側の捕虜となつた。その後も三千余の

農民が集つて気勢をあげ、代官の引渡要求にも応じなかつたという。(井上清著「日本現代史Ⅰ」明治維新

徳川幕府のお膝許がこのさまでは、当時の幕府の無能ぶりが想像できる。それだからこそ積極的に富農層を代官のもとに武装させ、下層農民の反抗鎮圧に利用しようとしたのである。

長州再征の失敗、将軍家茂の死、次いで慶応元年(一八六五)十五代慶喜の将軍就任となつたが、倒幕の大勢は動かし難く、遂に平和的な解決の方法として慶応三年(一八六七)十月十四日大政奉還となつた。二六〇余年にわたる徳川幕府は滅び、幕藩体制はここに瓦解したのである。

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最近世

<章>

第一章 東京の誕生と練馬区

<節>
第一節 明治維新による変貌
<項>
一、明治維新と彰義隊の変
<本文>

慶応三年十月、徳川慶喜が大政奉還をおこない、十二月王政復古の大号令が発せられ、ここに二五〇年政権の座にあつた徳川氏は倒れ、幕藩体勢に最後の時が訪れた。世は維新を迎えることとなつたが、なお幕府側と京都方との暗流はつづいた。慶喜は、鳥羽伏見の戦に破れて、江戸に帰り恭順の意を表したとはいえ、有栖川宮を総督とする東征の軍は東海道を下り、次第に江戸にせまつていた。勝海舟や山岡鉄舟達の江戸を砲火から救おうという努力はむくいられ、西郷と勝安房との会談により慶応四年四月十一日、遂に無血江戸城明け渡しが行われた。この日こそ江戸が東京へと変転する一つの分岐点の日であつたといえよう。家康入城以来二七八年目であつた。

この江戸城明渡しにより、京都方と幕府方との正面衝突は回避されたが、五月に行われた徳川氏の処分方法、駿河、遠江、陸奥合せて七十万石というこの処置に、旗本達の不満はつのり、抗戦論者達による彰義隊が、上野の東叡山にたてこもつて官軍に反抗した。

江戸を平和に明け渡した勝や山岡等の苦心も水泡に帰するかのように、五月十五日討代軍の砲火は山内から山下一帯に及び、江戸は家康入国以来はじめて兵火に見舞われた。もちろん彰義隊は近代的装備の官軍の敵ではなく、一敗地にまみれて、敗戦に痛ましい姿でおちて行く彰義隊の人々の姿は中仙道や川越街道にもいくらかみられたという。練馬の医師森田氏が会津の武士の負傷しておちてきたのをかくまつて治療してやつたというのもこの時のことである。

明治維新当時の事件で一番区内の村人たちに困惑を与えたのは彰義隊の事件であつた。どの程度であつたかは知れないが、幕末農兵としての訓練をうけ、一応幕府のために働く組織が作られていた区内農民達は、野菜の江戸市民の食膳への供給という生活上必須の条件も加わつて、幕府の存在そのものに好意的であつたことは否定できまい。そうした時に江戸城明渡しが平穏に行われて江戸は戦火から免れるかと思つた矢先に彰義隊事件がもち上つたのである。むしろ村民の一部には彰義隊に江戸旗本としての最後の抵抗といつたものを感じてひそかに喜んでいた者もあつたかも知れぬ。上野山下一帯が焼け、山内の大伽籃が灰燼に帰すると共に彰義隊の逃散が奥羽東北方面を主にして行われた。江戸の全市街を手中におさめた官軍は、直ちに附近の村々に命じて、死体の取片付けや、焼あとの整備などのために、人夫としての割当て出勤を命じた。徴用のようなものであつたらしい。

これを聞いた村人は、官軍に何を命ぜられるのかわからないとし、或は幕府に好意的であつたから出動すると生きてかえれないとかいろいろなデマも飛び、村人のうちの壮丁にあたる若者たちはもちろん一般男子は皆森や林に逃げかくれて、これを逃がれようとし、官軍への恐れか、徴用への忌避か、いずれにしても割当て出勤命令に従わず、村の女たちは、逃げかくれている夫や忰のために握り飯などをひそかに運んで、あくまで表向きは不在をよそおつたのだという。

こうして彰義隊の事変がおさまると、江戸は全く維新政府支配のもとにおかれた。江戸の広さの六〇%を占めるといわれた武家地は武家階級の崩壊によつて荒れるに任せる状況におかれ、これに物資を供給して栄えていた町人達も、その最大の顧客を失い、生活に見込もなくなり、市民は四散し、さしもに多数をほこつた江戸の人間も急速に減少して江戸は全くみる影もなくさびれはててしまつた。

<項>
二、東京の誕生
<本文>

しかし、維新政府は前島密や江藤新平、大木恭任等が、江戸が遷都に適する条件をそなえていること、市民が永い間江戸の幕府から特別手厚い保護をうけていて、いま遷都することによつて江戸市民を救わなければ、江戸は全くあれはてた武蔵野の原になつてしまうことなどをのべたので、東西二京併立政策によつて江戸を東の京とすることが上層部の一致した意見となり、元年七月十七日

<資料文>

「江戸ヲ称シテ東京トセン」

との詔勅が出て、ここに東京が誕生し、江戸幕府に代つて維新政府の政権所在地となつた。

明治天皇は、元年九月京都発、十月十三日東京着御、江戸城を改めて東京城とし、いつたん京都還幸の後、翌二年三月二十八日再び東京に着御、東京城を改めて皇居とし、そのまま東京にとどまられたので、東西二京併立による東京は事実上の首都となり、西の京の京都は以後一地方都市という形になつてしまつた。これによつて、東京は新しい都として出発し、一時減少した人口も年と共に恢復し、再び大江戸の昔にまさる大都会となる機運にめぐまれるに至つた。

都市江戸は、このようにして東京として再生したが、その周辺地域では、一時の江戸の衰亡が大きな打撃を与えた。江戸市民の食膳に供する野菜作りによつて、各藩制下の農民とは全く異つた特別の収益をあげていた隣接農村の農民たちにとつては、市民が四散し、武士が途方にくれ、武家地が荒れはてるに任せるとなつた時、肥料としての糞尿は減少し、その食膳に供する野菜の売行きの不振が大きな影響をもち、区内の農民たちは近接農村の人々と同様急激な不況を味わされた。

しかし、やがておいおい江戸が東京と改まつて恢復してゆくにつれて、この不況は解消して、再び東京市民への野菜供給地としての特殊業務地帯として繁栄をつづけることができるようになつた。

<項>
三、戸籍法の公布
<本文>

明治二年戸籍編成法が実施を見、それにより四年四月五日新に戸籍法が公布された。その第一則に

<資料文>

一、戸籍旧習ノ錯雑アル所以ハ、族属ヲ分ツテ之ヲ編成シ、地ニ就テ之ヲ収メザルヲ以テ、遺漏ノ事アリトイヘドモ、之ヲ検査スルノ便ヲ得ザルニヨレリ、故ニ此度編製ノ法臣民華族士族卒、祠官僧侶、平民迄ヲ云、以下準レ之其住居ノ地ニ就テ之ヲ収メ、専ラ遣スナキヲ旨トス。故ニ各地方土地ノ便宜ニ随ヒ、予ジメ区画ヲ定メ、毎区戸長並ニ副ヲ置キ、長並ニ副ヲシテ其区内ノ戸数人員生死出入等ヲ詳ニスル事ヲ掌ラシムベシ。

とあつた。これこそは、従来同一地域内にあつても別支配となつていた華士族、祠官僧侶、平民など一切を同一地域内の住民として取扱うことになつた革新的の法令であると共に、これに基づいて、行政区劃の上での武家地、寺社地、町地、百姓地等の区別をとりのぞく第一歩となつた。

この区劃を定めることに関しては、第一則に、

<資料文>

一、凡ソ区画ヲ定ムル、譬バ一府一郡ヲ分テ何区或ハ何十区トシ、其一区ヲ定ムルハ四五町モシクハ七八村ヲ組合スベシ、然レドモ其小ナルモノハ数十ニ及ビ、大ナルモノハ一二ニ止マルモ、都テ其時宜ト便利トニマカセ妨グナシ、華族士族住居ノ地、従前武家地屋舗地ト唱ル類モ同様タル素ヨリイフヲ待ズ

   但、急ニ区画ヲ定メ難キ所ハ、仮ニ便宜ニ従ヒ一村一町ニテ検査セシムルモ妨グナシ、官ノ学校兵隊屯所等又ハ大社大寺ノ別ニ区域ヲナセシハ、其宮司ノ吏員其社ノ執事等ニシテ戸長ノ事ヲ扱ハシムルモ妨ゲナシ。

この戸籍法によつて、各府県は新しく区劃を定めることとなり、四年十一月、府下を六大区に分ち、各大区を十六の小区に分けた。こうして東京の地には大区小区をもつて呼ぶ行政区劃が発足したが、本区内の地はまだこれに属しなかつた。従来の名主にかわる戸長、副戸長任命制の成立もまたこれによつた。

明治四年七月、廃藩置県を断行、十一月東京府は一旦廃されて、新に東京府が即日成立し、その後の荏原、豊島、

足立、葛飾及び多摩の一部を包含する広い区域を管轄することとなつた。

標札

今では、どこの家でも住所姓名を記した標札を出してあるが、標札はいつ頃から出すようになつたのか明らかではない。明治五年、四年四月に出た戸籍法によつてはじめ、「壬申戸籍」簿ができたが、この戸籍簿の作成に当つて一般に苗字を用いることを許され、同一姓を名乗つたりする混乱が一部にあつたりしたが、その後、標札をかかげる家々ができたようである。

しかし、はじめのうちはまちまちだつたので明治九年になつて、東京府より「戸籍札更に一定候様、別紙標札心得書相示候条、来る明治十年一月三十一日限り標出可レ致」との布達が出て、標札を一定することとなつた。この「達」によると、宅地番号札ならびに戸数点検札は、区務所において貼布したが、戸主の名札は各自が標出することになつており、宅地番号札は用材を松杉檜の何れかと示し、大きさは縦七寸に横二寺五分、書式は「東京府第何大区、何小区、武蔵国何郡何村何番地」という具合で、戸主名札は用材や寸法に指定はないが縦五寸横二寸厚さ二分より小さいものはいけないことになつた。書式は氏名の肩に華士族平民の別を記することが定められた(東京府の方でやる戸数点検札は縦二寸五分、横一寸の板に「第何戸」と書込むこととした。

こうして標札が定まつてきたが、これはむしろ戸籍調べの上に便宜的な意味で布達されたもののようである。

<節>
第二節 行政区域の変化
<本文>

明治四年七月に廃藩置県の令が出て従来の府藩県の制を廃し、新しく全国を三府四十三県に分けることになつた。

この時、今までの小菅県や品川県、浦和県が廃されて、東京府も改変され、府の行政管轄区域が拡大し、大体今日の東京都の区部に当る部分を全部管轄することになつた。

<項>
一、大区小区時代
<本文>

明治四年十二月五日、廃藩置県の結果生じた管轄地域の変動により、品川県に属していた旧松村忠四郎支配所の内一七三町と外に新宿大縄場七町九段三畝一七歩が東京府に編入された。この時今の練馬区に属する各村々もはじめて渋谷や落合大久保などの村と共に東京府に編入された。今この時の反別をあげると

中荒井村     反別八拾九町参反七畝弐拾壱歩     (高参百八拾五石壱斗参合)

砂利取場跡新田  反別壱町六反参畝弐拾四歩       (高九石八斗五升)

田中村      反別百町五反八畝弐拾九歩       (高五百参拾九石弐斗八升四合)

谷原村      反別百七拾八町五畝弐拾歩       (高八百六拾壱石九斗七升七合)

上石神井村    反別弐百四拾七町四反九畝参歩八厘   (高千参百五拾八石九斗七升三合)

下石神井村    反別弐百壱町五反八畝拾弐歩      (高千百六拾石六斗壱升四合)

上練馬村     反別五百参拾九町壱反弐畝弐拾五歩五厘 (高弐千六百四拾六石二斗七升六合)

下練馬村     反別五百五拾五町六反六畝弐歩     (高弐千六百四拾六石五斗四升九合)

土支田村     反別百七拾壱町六反壱畝二拾八歩    (高五百七拾八石八斗弐合)

同村       反別弐百五町六反拾四歩        (高七百五拾八石六斗八升壱合)

関村       反別百参拾九町五反五畝弐拾四歩    (高五百参拾壱石四升二合)

竹下新田(辰高入)反別四拾弐町参反弐畝弐拾四歩     (高百六石九升弐合)

中村       反別五拾八町壱反五畝五歩       (高弐百拾四石七升)

なお、このとき現在の板橋区に属する村々は小菅県から編入された。維新の際には板橋、上板橋、志村、赤塚などの地は、いずれも小菅県に属していたのに反し、本区内の地はほどんと全部が品川県に属して、その所属が全くことなつていたことは記憶さるべきことであろう。それまでの区内の地は、むしろ地域的には、杉並区や中野区などのグループに入つていたのであつた。

この改革によつて、新に東京府に属した地方は、さきの戸籍法の定めにより旧所属県の区劃番号が附されていたが、東京府に所属した後も暫くはそのまま区劃の番号を用い、方面により品川口、新宿口、板橋口、千住口と大別して各大区に属させているにすぎず、大区小区にして分類することはしなかつた。本区内の地は大体第三大区二十二小区新宿口に属していた。

ところがこれでは不便だというので、明治六年から七年にかけて改正を行い、府内を朱引内と朱引外とに分け、旧江戸の朱引線よりややせまい範囲に朱線をひき、朱引内を六大区七十小区、朱引外を五大区三十二小区、合せて十一大区一〇二小区とした。そして末端行政の長である戸長、副戸長にはなるべく旧来の名主を任命した。

ここではじめて朱引外にあつた区内の地にも大区小区の制度ができ、区内の地は八大区の七小区八小区に属した。

特に注意すべきは、七小区のみは豊島郡に属した区内の地に、多摩郡の上鷺之宮、下鷺之宮、江古田、片山の四カ

村が加わつたことで、今日の区内に江古田の町名の残つているのは江古田が後に分離した時に一部の地域がこちら側に残存したためといわれている点などから、この時の区わけが大きくひびいていることがわかろう。

今その区域をみると、

<資料文>

第八大区七小区

 豊島郡 中新井村、下練馬村、上練馬村、谷原村、田中村、中村

 多摩郡 上鷺之宮村、下鷺之宮村、江古田村、片山村

 同  八小区

 豊島郡 下石神井村、上石神井村、関村、竹下新田、上土支田村、下土支田村

こうした大区小区をもつてよばれる時代が、その後区域に変更があつたとはいえ、明治十一年の郡区町村編制法による大変革の時まで継続していたことを知るべきである。

<項>
二、郡区町村編制法と十五区六郡の成立
<本文>

自由民権の思想が盛んになり、府県によつて民会を開き、また総代人の制が設けられるなど政治方面における近代化も急速に整備されていつたが、内務卿大久保利通は、西南戦争によつて維新政府の政権の基礎が固まつたのを機会に、地方自治の上に大きな改革を加え、新しい地方行政を確立しようとした。この結果生れたのが世にいう三新法である。

明治十一年七月二十二日、郡区町村編制法(太政官布告第十七号)と府県会規則(同第十八号)地方税規則(同第十九号)が公布された。これが三新法である。

東京府においてもこの郡区町村編制法により、従来の大区小区の区劃を廃して、新しく十五区六郡に分けることになつた。この区分方法はもちろん府下の地理的関係によつて改編されたのであるが、十五区の地は俗に江戸府内といわれた地域で、戸数は非常に多く、市街地であり、当時八十万といわれるほどの人口があつた。府税も総額は郡部の十倍であつた。郡部は概して田園の地で、戸数は十五区の四分の一程度にすぎず、土地は広いから地価の総額は区に譲らぬほどであるが、府税の額は僅少であつた。こうした両者の経済的な差が郡区を分つに関係のあつたことは否定できない。

こうして東京府管内は、麹町・日本橋・京橋・神田・芝・麻布・赤坂・四谷・牛込・本郷・小石川・下谷・浅草・本所・深川の十五区と東多摩・南北豊島・南足立・南葛飾・荏原の六郡に分れた。郡部の方は荏原郡は別として他は神奈川県にも多摩郡、千葉県、茨城県には葛飾郡、埼玉県にも足立郡があるといつた工合で、混乱の生じることが明らかなため、各隣接県と打合せの末、東西南北を郡の上に冠することとした。(このうち南豊島と東多摩の両郡は明治二十九年合併して豊多摩郡となつた。

十一年十一月、十五区六郡は成立し、東京府何々区、東京府何々郡と称することになり、区役所・郡役所の位置も定まつて、東京府のもとに官選の任命区長と郡長ができて、地方自治の一つの基礎が固められた。

区内の地は、大区小区時代の関係ではむしろ東多摩郡に属すべき地理的条件にあつたが、この時の区分けで、はつ

きり北豊島郡の村々のグループに編入されることになつた。この時成立した北豊島郡は、板橋・巣鴨・西巣鴨・滝野川・日暮里・南千住・王子・岩淵・志村・上板橋・赤塚・上練馬・大泉・石神井・中新井・下練間・長崎・高田の十八カ町村より成り、下板橋宿六十八番地に郡役所をおいて、その事務をとることになつた。

<項>
三、町村制の出発
<本文>

大区小区の区分によつてわかれていた東京府の各村々はこの十五区六郡の成立により、はじめて地方自治への第一歩をふみ出した。

<資料文>

明治十一年十一月二日

東京府甲第四十九号

本年太政官第十七号公布ニヨリ従前ノ大小区劃ヲ廃シ、区郡名称区域別冊ノ通相定候条、此旨布達候事

との布達が出て、本区内の村々はすべて北豊島郡に入つた。

図表を表示

こうして、新に北豊島郡に入つた区内の各村々は、行政的には大きな変化はなかつたが、これらの新しい村々が、

単独で行政機能を発揮したのではなかつた。このうちの何町かが、(一部には単独の村もあつたが)連合して一つの戸長役場をもつことになつた。

図表を表示

明治十一年十一月の改正によつて決定した北豊島郡中の区内の組織をみると

となつており、或る程度の戸数、人口に満たないと二つまたは三つの村々で一つの連合戸長役場をもつて行政事務をとるといつた方法が執られたのであつた。

聯合町村制というのは、明治十一年十一月二日北豊島郡成立役、町村制施行の明治二十二年年に至る十一年間、各村毎に二、三カ村を聯合して、戸長役場をおき、比較的小村を統合して行政事務執行に便しようとしたものである。

区内の諸村においても、下練馬村、上練馬村、下石神井村は独立して一村役場をもつたが、他は

<資料文>

中新井村中村連合、谷原村田中村連合、上土支田村、下土支田村連合、上石神井村、関村、竹下新田連合

に分れていた。

こうして色々な小事件はあつたにしても、農村として殆と見るべき変化もなく、ただ村々が新たに養蚕をやり出して、それによつて一時大いに村の活況を呈したということがあつた位のことで二十二年の町村時代に入るのである。

<節>
第三節 地租改正
<本文>

明治初年、全くの農村であつた区内諸村にとつて、一番大きな改革は地租改正の問題であつた。

江戸時代においては、土地の制度は検地によつて土地の面積等級を定めて収穫高を算定し、検見けみによりその年の作柄を見て、その推測によつて年貢高を定めたが、四公六民から五公五民が標準であつたとはいえ、諸藩差があり、幕末その比例は多大な開きをみせた。維新政府が樹立されると、この不均衡を是正し、且つは政府財政の安定をはかる上にも米納制の不安定等の弊害を除く必要が急務とされ、地租改正の要望が高かつたので、四年十二月二十七日、東京府下に地券発行を布告、その第一歩をふみ出した。

<資料文>

東京府下従来武家地町地ノ称有<漢文>レ之候処、自今相廃し、一般地券発行、地租上納被<漢文>二仰付<漢文>一候条、此旨可<漢文>二相心得<漢文>一

この布告を転機とし、五年二月には土地永代売買の禁をとき、近代的土地所有を制度化すると共に、全国一般の地租改正にのり出し、六年七月二十八日地租改正条例が発せられた。

<資料文>

今般地租改正ニ付旧来田畑貢納ノ法ハ悉皆相廃シ、更ニ地券調査相済次第土地ノ代価ニ随ヒ百分ノ三ヲ以テ地租ト可<漢文>二相定<漢文>一旨被<漢文>二仰<漢文>一出候条、改正ノ旨趣別紙条例ノ通可<漢文>二相心得<漢文>一。且従前官庁並郡村入費等地所ニ課シ取立来候分ハ、総テ地価ニ賦課可<漢文>レ致、尤其金高ハ本税金ノ三ケ一ヨリ超過スベカラズ候。

此旨布告候事

これにより江戸時代の賦課と全く異つた租税体制が整えられ、維新政府の「富国強兵・殖産興業」への前進が行われた。

<資料文>

      地租改正条例

第一章 今般地租改正ノ儀ハ不<漢文>二容易<漢文>一事業ニ付、実際ニ於テ反覆審按ノ上調査可<漢文>レ致、尤土地ニ寄リ緩急難易ノ差別有<漢文>レ之、各地方共一時改正難<漢文>二出来<漢文>一ハ勿論ニ付、必シモ成功ノ速ナルヲ要セズ、詳密整理ノ見据相立候上ハ、大蔵省ヘ申立允許ヲ得ルノ後、旧税法相廃シ新法施行イタシ候儀ト可<漢文>二相心得<漢文>一

但一管内悉皆整理無<漢文>レ之候共、一郡一区調査済ノ部分ヨリ施行イタシ不<漢文>レ苦候事

第二章 地租改正施行相成候上ハ、土地ノ原価ニ随ヒ賦税致シ候ニ付、以後仮令豊熟ノ年ト雖モ増税不<漢文>二申付<漢文>一ハ勿論、違作ノ年柄有<漢文>レ之候トモ減租ノ儀一切不<漢文>二相成<漢文>一候事

第三章 天災ニ因リ地所変換致シ候節ハ、実地点検ノ上、損隤ノ厚薄ニヨリ其年限リ免税又ハ起返ノ年限ヲ定メ年季中無税タルベキ事

第四章 地租改正ノ上ハ田畑ノ称ヲ廃シ総テ耕地ト相唱、其余牧場山林原野等ノ種類ハ其名目ニヨリ何地ト可<漢文>レ称事

第五章 家作有<漢文>レ之一区ノ地ハ自今総テ宅地ト可<漢文>二相唱<漢文>一

第六章 従前地租ノ儀ハ自ラ物品ノ税家屋ノ税等混淆致シ居候ニ付、改正ニ当テハ判然区分シ、地租ハ則地価ノ百分一ニモ可<漢文>二

定<漢文>一ノ処、未ダ物品等ノ諸税目興ラザルニヨリ、先ヅ以テ地価ノ百分ノ三ヲ税額ニ相定候得共、向後茶煙草材木其他ノ物品税追々発行相成、歳入相増其収入ノ額二百万以上ニ至リ候節ハ、地租改正相成候土地ニ限リ、其地租ニ右新税ノ増額ヲ割合、地租ハ終百分ノ一ニ相成候迄漸次減少可<漢文>レ致事

第七章 地租改正相成候迄ハ、固ヨリ旧法据置ノ筈ニ付、従前租税ノ甘苦ニ因リ苦情申立候トモ格別偏重偏軽ノ者ニ無<漢文>レ之分ハ一切取上無<漢文>レ之候条、其旨可<漢文>二相心得<漢文>一、尤検見ノ地ヲ定免ト成シ、定免ノ地無<漢文>二余儀<漢文>一願ニ因リ破免等ノ儀ハ総テ旧貫ノ通タルベキ事右之通相定候条、猶詳細ノ儀ハ大蔵省ヨリ可<漢文>二相達<漢文>一

  明治六年七月

これにもとずいて、明治七、八年の頃から、各地共各村別にその掛りを選び地租の改正に着手した。東京府下一円でもこれが行われ完成をみたのは明治十三年頃であつたという。

地租改正によつて土地証券として地券が発行されたが、一挙に解決したのではなく、六年から二十二年まで行われた。

耕地とか宅地とかいういいかたのできたのはこれからで、地租は当分地価の百分の三と定められていたが、明治十年一月になつて西南戦争後の処置としてこれを一〇〇分の二・五に引下げた。その後、十七年三月に至つて、政府は地租条例を発布して、地押調査を行つて地租の制度を確立したが、その後幾度かの改正が行われた。

<節>
第四節 選挙制度の起り
<本文>
総代人選挙

地租改正によつて金納の制が確立すると、政府は明治九年十月「各区町村金穀公借共有物取扱土木起

工規則」という法令を出して、区が金穀を公借したりするには、正副戸長のほか、各町村の総代二名づつのうち、六分以上の賛成連印がなければならぬとした。このため府も九年十一月総代人選挙を行つた。町村総代人の被選挙権のあるものは、二十一才以上で、価格五百円以上の土地を管内にもつもの、選挙権のあるものはその町村内に本籍があつて、管内に不動産のある者とした。定員は三名で、隔年に半数改選とした。自由民権思想が普及してきた点もあるが、上意下達ばかりになれていた村民達にとつては大きな改革であつた。

この町村総代人が集つて小区の区会を組織し、その小区総代人が集まつて上級の区会を作るというもので、地租を中心として地主階級だけが選挙の資格をもち、土地所有者以外のものを一切しめ出した点に維新政府の性格がみられる。しかし、一応地方自治的な色彩をもつた総代人という地方行政に参与する人を選出したことは自治の第一歩をふみ出したものといえよう。

府会議員の選挙

三新法の一つである府県会規則により、十一年七月、東京府は郡区の大小によつて、戸数の比から選挙すべき議員の数を定めて、府会議員の選挙を行つた。

議員の資格は、満二十五歳以上の男子、地租一〇円以上を納めるもので、府内に三年以上居住しているものでなければならず、選挙権者は満二十歳以上、地租五円以上を納めるものとした。総代人選挙と同じく地租中心主義で、土地所有者のみがこれに参与できる資格をもつていて、他をしめ出した点に明治維新政府の特色がうかがえる。

町村会と選挙

明治十二年一月になつて区会規則、町村会規則が定められた。

三新法の施行順序の中に「三府及其他市街ノ区及各町村ハ、其地方ノ便宜ニ従テ町村会議又ハ区会議ヲ開キ、及ビ

地方税ノ外人民叶議ノ費用ハ地価割戸数割又ハ小間割口割歩合金等其他慣習ノ旧法ヲ用ユルコト勝手タルベシ」とあるにより東京府では明治十二年一月二十三日、府下十五区会規則と六郡町村会規則とを布達し、さらに十三年四月に大政官から区町村会法十条を布告した。各区町村はこれに従つてそれぞれ区会町村会規則を定めた。これは自治制上重要な規則で、不十分ながらも、ここに区会や町村会の規則は一応整備されたのである。一例をあげると、

<資料文>

    北豊島郡下練馬村々会規則(明治十三年八月廿一日

       第一章 総則

 第一 条 村会ハ通常会ト臨時会トノ二類ニ分ツ、其定期ニ於テスルモノヲ通常会トナシ、臨時ニ開クモノヲ臨時会トナス。

 第二 条 臨時会ハ其特ニ会議ヲ要スル事件ニ限リ、其他ノ事件ヲ議スルヲ得ス。

 第三 条 通常会臨時会ヲ論ゼズ会議ノ議案ハ戸長ヨリ之ヲ発ス。

 第四 条 通常会ニ於テ村内公共ニ関スル事件及其経費ノ支出徴収方法ニ付議員ヨリ意見書ヲ出ス時ハ、戸長ハ之ヲ取捨シ、当ニ議スベキ意見ト認ムルニ於テハ之ヲ会議ノ議案ト為スベシ、但シ意見書ヲ出スハ少ナクモ開会ヨリ三日以前タルベシ。

 第五 条 村会ノ議決ハ戸長之ヲ施行スト雖ドモ猶施行十日以前郡長ヲ経テ府庁ニ報告スベシ。

 第六 条 通常会期中議員ノ内村内公共ノ利害ニ関スル事件ニ付、府庁ニ建議セントスルモノアルトキハ之ヲ会議ニ付シ、可決シタルトキハ議長ノ名ヲ以テ建議スルコトヲ得。

 第七 条 村会ハ府庁又ハ郡長ヨリ村内ニ施行スヘキ事件ニ付意見ヲ問フコトアルトキハ之ヲ議ス。

 第八 条 村会ハ議事ノ細則ヲ議定シ戸長ノ認可ヲ得テ之ヲ施行ス。

 第九 条 村会ハ議員ノ内招集ニ応セズ、又ハ事故ヲ告ゲズシテ、参会セサルモノヲ審査シ其退職者タルヲ決スルヲ得。

    第二章 撰挙

 第十 条 村会ノ議員ハ二十五名トシ、其撰挙ノ部分ヲ定ムル左ノ如シ

  一ノ部 議員三人 下練馬村字上宿下宿

  二ノ部 議員二人 同村字下田柄

  三ノ部 議員二人 同村字本村

  四ノ部 議員二人 同村字今神

  五ノ部 議員二人 同村字前湿化味

  六ノ部 議員三人 同村字南三軒在家 北三軒在家

  七ノ部 議員三人 同村字宿湿化味

  八ノ部 議員二人 同村字南早渕北早渕

  九ノ部 議員二人 同村字宮ケ谷戸

  十ノ部 議員一人 同村字羽沢

 十一ノ部 議員三人 同村字谷戸

第十一 条 議長副議長ハ議員中ヨリ公撰シテ戸長ニ報告スベシ。

第十二 条 議長副議長及議員ハ俸給ナシ、書記ハ議長之ヲ撰ビ、庶務ヲ整理セシム、其俸給ハ会費ノ内ヨリ之ヲ支給ス。

第十三 条 村会ノ議員タルヲ得ベキモノハ満二十歳以上ノ男子ニシテ村内ニ本籍住居ヲ定メ村内ニ於テ土地ヲ有スル者ニ限ル。但左ノ各款ニ掲クル者ハ議員タルコトヲ得ズ。

  第一款 風癲白痴ノ者

  第二款 懲役一年以上及国事犯禁獄一年以上実決ノ刑ニ処セラレタル者、但満期後七年ヲ経タル者ハ此限ニアラズ。

  第三款 身代限リノ処分ヲ受ケ負債ノ弁償ヲ終ヘサル者

  第四款 官吏教導職

  第五款 府県会ニ於テ退職者トセラレタル後四ケ年ヲ経ザルモノ

第十四 条 議員ヲ撰挙スルヲ得ベキ者ハ満二十歳以上ノ男子ニシテ、村内ニ於テ土地ヲ所有シ、本籍住居ヲ定ムル者、及ヒ満三年以上間断ナク寄留スル者ニ限ル、但前条ノ第一款第二款第三款第五款ニ触ルル者ハ撰挙人タルコトヲ得ズ。

第十五 条 議員ヲ撰挙セントスルトキハ戸長ハ少ナクモ十日以前ニ撰挙会ヲ開クコトヲ公告シ、役所ニ於テ投票ヲ為サシムヘシ、但便宜ニヨリ役場外ニ於テ撰挙会ヲ開クコトヲ得。

第十六 条 投票ハ戸長ヨリ附与シタル用紙ニ撰挙人自己ノ住所姓名及ヒ被撰挙人ノ住所姓名ヲ記シ予定ノ日之ヲ戸長ニ出スベシ。但投票ハ代人ニ托シ差出スモ妨ゲナシ。

第十七 条 投票ハ撰挙人ノ面前ニ於テ戸長之ヲ披閲シ、最モ多数ノ者ヲ以テ当撰人トシ、同数ノ者ハ年長ヲ取リ、同年ノモノハ䦰ヲ以テ定ム。

第十八 条 披票披閲終ルノ後、戸長ハ撰挙人名簿ニ就テ投票ノ当否ヲ査シ、又被撰挙人名簿ニ就テ当撰ノ当否ヲ査ス、若シ法ニ於テ不適当ナル者アルカ或ハ当撰人自ラ其撰ヲ辞スルトキハ順次多数ノ者ヲ取ル。

第十九 条 当撰人ノ当否ヲ査定スルノ後、戸長ハ其当撰人ヲ役場ニ呼出シ、当撰状ヲ渡シ、当撰人ハ請書ヲ出スヘシ、但当撰人請書ヲ出シタル後、戸長ハ其姓名ヲ村内ニ公告スベシ。

第二十 条 議員ノ任期ハ四年トシ、二年毎ニ全数ノ半ヲ改撰ス。但第一回二年期ノ改撰ヲ為スハ抽籤ヲ以テ其退任ノ人ヲ定ム、

第二十一条 議長副議長ハ議員ノ改撰毎ニ之ヲ公撰スベシ。

第二十二条 前二条ノ場合ニ於テハ前任ノ者ヲ再撰スルコトヲ得。

第二十三条 議員中第十三条ニ掲クル諸款ノ場合ニ遭遇スル者アルカ、村外へ転任スルカ、其他総テ欠員アルトキハ更ニ其欠ニ代ルモノヲ撰挙ス。

       第三章 議則

第二十四条 議員半数以上出席セサレバ当日ノ会議ヲ開ク事ヲ得ズ。

第二十五条 会議ハ過半数ニ依テ決ス、可否同数ナルトキハ議長ノ可否スル所ニヨル。

第二十六条 戸長若クハ其代理人ハ会議ニ於テ議案ノ旨趣ヲ弁明スルヲ得ルト雖モ決議ノ数ニ入ル事ヲ得ス、但第四条ニ掲クル議案ノ旨趣ハ意見書ヲ出セル議員之ヲ弁明スルコトヲ得。

第二十七条 会議ハ傍聴ヲ許ス。但戸長ノモトメニ依リ又ハ議長ノ意見ヲ以テ之ヲ禁スルヲ得。

第二十八条 議員ハ会議ニ方リ充分討論ノ権ヲ有ス。然レトモ人身上ニ付テ褒貶毀誉ニ渉ルコトヲ得。

第二十九条 議場ヲ整理スルハ議長ノ職掌トス。若シ規則ニ背キ議長之ヲ制止シテ其命ニ順ハサル者アルトキハ議長ハ之ヲ議場外ニ退去セシムルヲ得、其強暴ニ渉ル者ハ警察官吏ノ処分ヲ求ムルヲ得。

       第四章 開閉

第三十 条 村会ハ毎年五月十一月ニ於テ之ヲ開ク、其開閉ハ戸長ヨリ之ヲ命ジ、会期八十日以内トス。但戸長ハ会議ノ衆議ヲ取リテ其日限ヲ伸ルコトヲ得ルト雖ドモ、直チニ事由ヲ郡長ニ報告スベシ。

第三十一条 通常会期ノ外会議ニ付スベキ事件アルトキハ臨時会ヲ開ク事ヲ得、但戸長ハ該会ヲ要スル事由ヲ直ニ郡長ニ報告ス。

これが下練馬村々会の規則であるが、他の村においても大体同様のものが(多少違いはあるにしても)明治十三年七月

中に設けられたようである。

ただ選挙される議員の数は、各村々で相違していたようで、上練馬村では貫井五人、中の官五人、高松五人、田柄五人の計二〇人、中新井、中村では中新井一〇人、中村五人の計一五人、谷原村、田中村では、谷原の字千川、西仲通、堀北で三人、谷原の字新田、南郷、東郷で三人、田中の字下久保上薬師堂、本村で四人の計一〇人、上土支田、下土支田両村では上土支田七人、下土支田八人の計一五人、関村、上石神井村では関村六人、上石神井村八人計一二人、下石神井村では一五人となつている。このうち被選挙者選挙者の資格についてはその後改正されたが、とも角、こうして自治の第一歩ともいう村会が不完全ながらも出発したことは劃期的なことといえよう。

<節>
第五節 町村制時代
<本文>

昭和七年十月、板橋区誕生までの長い間、区内の地は、上練馬、下練馬、中新井、石神井、大泉の五町村で終始したように思う人も多いが、この五ヵ村の成立をみたのは市制町村制の実施された明治二十二年からのことなのである。

<項>
一、市制町村制の施行
<本文>

市制町村制は、発布の翌二十二年四月一日から地方の情況とにらみあわせて順次施行されることになつていた。東京府でもこれにより市町村制施行順序取調委員を設けてその準備調査に取りかかつた。ただ今までの町村は小さい規模で、新町村制の下に独立した町村として立つて行くだけの経済的力のないものが多かつた。そのため「本制ハ町村

ノ分合ニ就テ詳細ナル規則ヲ設ケズ。各地ノ情況ヲ斟酌スルノ余地ヲ存スルナリ。唯十分ノ資力ヲ有セザル町村ハ比隣相合スベキノ例ヲ設ク。此ノ如キ町村ハ独立ヲ有タシムルコトヲ得ザルヲ以テ、仮令其承諾ナキモ他ノ町村ニ合併又ハ数個相合シテ新町村ヲ造成セザル可カラズ」と市町村制理由書にも記しているように町村の合併統合は不可避であつた。

東京府では、従来の一五区を東京市の区域とし、郡部の六郡の町村に町村制を施行する方針をきめ、新しい村の組織は地租一〇万円の範囲を標準にすることになつた。そのため多くの村々は、地租一〇万円にはほど遠い所が多かつたから、この線にそつて合併されることになつたが、従来からの土地的関係や種々の利害から何村と何村を合して何村になるということは容易に決定しなかつた。

「市制町村制理由」の中に、この二十一年四月の市制町村制公布の理由とその精神が明かにされている。

<資料文>

「国内ノ人民各自治ノ団結ヲ為シ政府之ヲ統一シテ其機軸ヲ執ルハ国家ノ基礎ヲ鞏固ニスル所以ナリ、国家ノ基礎ヲ固クセントセバ地方ノ区画ヲ以テ自治ノ機体トナル以テ其部内ノ利害ヲ負担セシメサル可カラズ。現今ノ制ハ府県ノ下郡区町村アリ区町村ハ稍自治ノ体ヲ存スト雖モ未タ完全ナル自治ノ制アルヲ見ズ。郡ノ如キハ全ク行政ノ区画アルニ過ギズ府県ハ素ト行政ノ区画ニシテ幾分カ自治ノ制ヲ兼ネ有セルカ如シト雖モ是レ亦全ク自治ノ制アリト云フヘカラズ、今前述ノ理由ニ依リ此区画ヲ以テ悉ク完全ナル自治体ト為スヲ必要ナリトス。即府県郡市町村ヲ以テ三階級ノ自治体ト為サントス、此階級ヲ設クルハ分権ノ制ヲ施スニ於テモ亦緊要ナリトス。蓋自治区ニハ其自治体共同ノ事務ヲ任スヘキノミナラズ一般ノ行政ニ属スル事ト雖モ全国ノ統治ニ必要ニシテ官府自ラ処理スベキモノヲ除クノ外之ヲ地方ニ分任スルヲ得策ナリトス。故ニ其町村ノ力ニ堪フル者ハ之ヲ其負担トシ、其力ニ堪ヘザル者ハ之ヲ郡ニ任シ郡ノ力ニ及ハサル者ハ之ヲ府県ノ負担トス可シ、是レ階級ノ重複スルヲ厭ハズシテ却テ利益ア

リト為ス所以ナリ。」

「本制ニ制定スル市町村ハ共ニ最下級ノ自治体ニシテ市ト云ヒ都鄙ノ別ニ依テ其名ヲ異ニスルニ過ギズ、其制度ヲ立ツルノ原質ニ於テハ彼是相異ナル所ナシ、元来町ト村トハ人民生計ノ情態ニ於テ其趣ヲ同クセルモノアリテ細カニ之ヲ論スレバ均一ノ準率ニ依リ難キモノナキニ非スト雖モ、本邦現今ノ状況ヲ察シ旧来ノ慣習ニ依テ之ヲ考フルニ都会輻湊ノ地ヲ除クノ外宿ト称シ町ト称スルモノ施政ノ大体ニ於テ村落ト異同アルコトナシ、故ニ今之ヲ同一制度ノ下ニ立タシメントス。其施治ノ細目ニ至ラバ或ハ多少ノ差異ヲ見ルコトアルベシト雖モ此等ハ制度ノ範囲内ニ於テ執行者ノ処分斟酌宜キヲ得ルト否トニ在ル可キモノトス。」

<項>
二、特別市制と町村制実施
<本文>

市制町村制は、明治二十一年四月二十五日をもつて公布され、これに基いて東京市が二十二年三月公布された市制特例にしたがつて、今までの府の一五区を以て特別市制を施行、府知事が市長を兼務する変則的な東京市が成立をみた。

一方、東京府下の各町村は、この町村制施行に当つて相当の難渋が伴つた。これは町村制の実施と共に町村の自治力を充実する必要上、標準を定めて旧町村の廃置分合を断行したことが大きな原因で、この一定の標準というのは自治資力に富む町村は個々に独立した町村として再出発するが、そうでない町村は大体三〇〇戸乃至五〇〇戸の見当で併合を行い、合併の町村は新規の名称を附けることになつていた。

しかし、永い間の部落感情や部落財産の処置問題或は種々の利害問題を中心として、所々で合併上の支障が起つた

が、二十一年末にはどうやら統合も終り新しい町村制のもとに出発することとなつた。このうち下練馬のみは一村独立の制をとつたが他の村々は統合を余儀なくされた。

<資料文>

 

     上練馬村 下土支田村

 右合併 上練馬村

合併ヲ要スル理由

右両村ノ資力戸口ハ別ニ取調ベタル如クニシテ上練馬村ハ本郡中ノ大村ニテ稍独立自治ニ堪ユル資力アルモ、下土支田村ニ至リテハ独立スル能ハサルノミナラズ、地形悪ク村界錯雑シ官民ノ不便尠ナカラズ。学区ハ上下土支田村ヲ以テ一区トナスト雖モ通学生徒便利ノ為メ既ニ上下校舎ヲ分チ経済ヲ異ニセシニ付支障ナキハ勿論、人情風俗ニ於テモ因ヨリ異ナル所ナキヲ以テカクノ如ク合併スルヲ要ス。

 

     上石神井村 下石神井村

     関村    上土支田村

     谷原村   田中村

 右合併 石神井村

合併ヲ要スル理由

右村々ノ資力地域戸口ハ別ニ取調ベタル如クニシテ独立自治ニ耐エ難ク、然レドモ村界等ノ錯雑ヲ見ス、只関、上下石神井、谷原、田中ノ五ケ村ハ石神井川用水組合ノアルアリ、清戸道ハ谷原村ヨリ上下石神井ヲ貫テ関村ニ出、所沢道ハ東多摩郡ヨリ入、田中、下石神井ノ村界ニ沿ヒ上下石神井、関ノ三村ヲ経テ埼玉県ニ出ツ、其他関村ノ南端ニ青梅街道アリ、各道路ニ沿ツテ民衆

聚合シ、民情風俗等ニ於テハ異ナルコトナシ、学区ハ四区ニ分チ其中ノ一区ハ上下土支田村(下土支田村ハ此新村ヲ分離ス)ニ跨ルト雖モ、既ニ通学生徒便宜ノ為メ分校ヲ設ケテ経済等モ異ニシ来レバ支障ナカルベシ。実ニ此新村(石神井村)ヲ造成スルハ各村資力ノ薄弱ト地域ノ狭少ナルニヨリ、此ノ如ク合併ヲ要ス。

 

     中新井村 中村

 右合併 中新井村

合併ヲ要スル事由

右村々ノ資力地域戸口ハ別ニ取調ベタル如クニシテ独立自治ニ耐エ難ク両村ヲ合併スト雖モ、尚未ダ自治ノ資力ニ充テリト云フベカラズ、然レドモ此両村ノ如キハ狭少ナルカ上ニ隣郡東多摩ニ突出シ、本郡他村ト間絶シ、自然交通ノ疎遠ナルニヨリ民情モ亦随テ異ナリ、故ニ村民挙テ此地ニ合併スルヲ望マズ、道路水路等ノ関係ニ於テモ支障無キニ付、従前一役場所轄ノ区域ヲ以テ始リ一村トナシ置カバ学区等ノ異動モ無ク分合ノ苦情ヲ見ス、却テ静穏ニ帰センコトヲ信ズ、爰ヲ以テ単ニ此合併ヲ要ス。

  埼玉県武蔵国新座郡

                 白子村飛地字後安

一、畑反別九反壱畝弐分

一、戸口無レ之

 右東京府北豊島郡下土支田村へ組替ヘキ分

   埼玉県武蔵国新座郡

                 小榑村飛地字外山

一、林反別弐町三反七畝九歩

一、戸口無レ之

                 橋戸村飛地字外山

一、反別壱町五反六畝八歩

  内訳 田反別弐反四畝弐拾八歩

     畑反別六反四畝三歩

     宅地反別壱反六畝歩

     林反別弐反九歩

     萱生地三反弐拾八歩

一、戸口無<漢文>レ

                 橋戸村飛地字溝野

一、田反別弐反六畝弐拾弐歩

一、戸口無<漢文>レ

 右ハ東京府北豊島郡上土支田村へ組替ベキ分

この飛地組替については二十二年三月許可となり、白子村、小榑村、橋戸村の一部が区内に編入された。

<項>

三、榑橋村の編入(大泉村の成立)
<本文>

小榑こぐれ村と橋戸村は、明治三年十月品川県に属し、六年六月入間県に移り、明治八年十二月熊谷県に属した。郡区町村編制法により十一年より埼玉県新座郡に入り、小榑、橋戸、下保谷、上保谷、上保谷新田の五ケ村をもつて連合の戸長役場を置いた。

明治二十二年町村制施行に当つて橋戸と小榑の両村を合して榑橋村と称したが、明治二十四年九月、新に新倉村の一部の字、長久保の地と共に東京府の区域に編入されることとなつた。

この変化により、今まで石神井村に属していた上土支田を分離し、これに榑橋村と長久保の地を合して一村とし、大泉村と称することなつた。

このように橋戸村も小榑村もまた新倉村も、明治三年十月に品川県に属し、明治六年六月入間県に、明治八年十二月熊谷県に属した。明治十一年埼玉県に属し、十一月二日各郡役所の設立をみて以来、町村制施行までの十一年間小榑、橋戸、下保谷上保谷、上保谷新田の五カ村聯合の戸長役場をおいたようで、小榑、橋戸の両村が埼玉県に属しながら、利害関係の上で石神井や土支田と接近する傾向にあつたことは、明治初年以来の東京府の文書などをみてもわかる。二十二年橋戸、小榑を合して橋榑村となつた時も、新倉の一部を合して二十四年東京府の管轄に移つたのも、上土支田と合して大泉村となるまでに、石神井や土支田、或は練馬と色々村人達に関係が深く、水車の利用とか、農地の問題などでも、むしろ今の練馬区内の村々との方が接触が深かつたためであろう。

<項>

四、区内の町村と諸経費
<本文>

明治二十二年、町村制施行当時より町制をしいたのは、北豊島郡において板橋、南千住、岩淵、巣鴨の五町だけであつたが、大正時代にはいつて、二年に滝野川、日暮里、七年西巣鴨、九年三河島、十二年尾久、昭和三年練馬と順次発展して町制をしいた。

所が、現在区内に属する各町村は、練馬が昭和三年になつてはじめて町制をしいたのみで、昭和七年市域拡張の当時においても村制そのままで、北豊島郡内では

志村、赤塚村、石神井村、上板橋村、中新井村、大泉村、上練馬村

の七カ村を数えている。これらの村は後に全部板橋区となつた地域である。当時北豊島郡内でいかに他の地区に比して区内の地が未発展の状況にあつたかが知られよう。

こうして、昭和七年十月一日、板橋区として東京市三五区の一となつて出発するまでの三五年もの間、下練馬、中新井、石神井、上練馬、大泉の一町四カ村、下練馬村のみは昭和三年に町制を布いたから、一町四カ村になる。これらは久しい間町政をとり行つて来たのであるが、この間の町村の各役場は左の通りで、各町村とも多少位置に変動があつたようである。

練馬町役場 下練馬村におかれた。昭和三年練馬町となつて町制をしいた後も町役場となる。

中新井村役場 大字中新井(字宮北)一八一四、木造瓦葺平家造リ建坪二十一坪、明治四十二年六月改築

石神井村役場 大字下石神井(字小中原)一〇五二、二階建総建坪三十八坪五合、明治三十四年建設

上練馬村役場 明治三十年大字上練馬二〇六四に移転

大泉村役場 本照寺にはじめ設置、のち明治四十四年大字小榑一二三四に移転

歴代町村長

練馬町

 下練馬村長 1 大木泰孝 2 新井七三郎 3 矢作久松 4 阿部広吉

       5 大木金兵衞 6 島野栄次郎 7 大木金兵衛

 町長 昭和三年 大木金兵衛

上練馬村

 村長 1 増田藤助 2 篠田藤八 3 上野伝五右衛門 4 保戸塚岩藏

    5 小島俊嗣 6 上野伝五右衛門 7 小島善太郎 8 宮本広太郎

中新井村

 村長 1 森田文超 2 一杉平五郎

石神井村

 村長 1 豊田勝五郎 2 高橋平蔵 3 豊田勝五郎 4 田中文五郎

    5 山下仙蔵 6 加部清三郎 7 田中文五郎 9 栗原謙三

大泉村

村長 1 鈴木政和 2 榎本常三郎 3 加藤実 4 今村清太郎

   5 町田治助 6 見留勝 7 町田彦太郎 8 見留勝 9 井口金之助 

   <数2>10 加藤銀左衛門

昭和七年併合前における区内の各町村別町会村会議員は次のとおりである。

練馬町会議員(定員十八名)

 市川延寿(接骨師)    漆原万兵衛(藍仲買商)

 沢枝亀二郎(石材商)   小泉福太郎(農業)

 並木荘吉(下駄表商)   福井竹次郎(農業)

 吉田知吉(無職)     中村玉次郎(雑貨商)

 相原常吉(農業)     清水金太郎(下駄表商)

 西村真吉(浴場業)    大木金兵衛(醤油業)

 矢作甚右衞門(金融業)  新井源三郎(地主)

 望月清(会社員)     風祭甚作 (地主)   (一名欠員)

上練馬村会議員

 関口角太郎(農業)    関口六蔵(農業)

 関口儀三郎(農業)    篠田鎮雄(自動車運輸業)

 長谷川光範(銀行員)   篠田長右衛門(農業)

 篠田寿朗(箒製造業)   鹿島貞之助(農業)

 宮本由五郎(製粉業)   佐久間勘衛右門(製粉業)

 相原茂太郎(農業)    吉田万五郎(農業)

 上野伝五右衛門(農業)  加藤利左衛門(製粉業)

 小島兵庫(農業)     加藤八十八(水車業)

 加藤甚左衞門(農業)

石神井村会議員(定員十八名)

 谷治藤三郎(農業)    桜井甚之助(農業)

 高橋鐐蔵(農業)     小林辰五郎(農業)(補)

 栗原鎌三(農業)     田中半左衛門(農業)

 桜井平助(工業)     金子平一(醸造業)

 田中貞之助(農業)    鴨下義次(醸造業)

 小林角太郎(農業)    本橋清(自動車業)

 橋本忠三郎(農業)    井口弥兵衛(商業)

 本橋篤三(商業)

中新井村会議員(定員十二名)

 橋本銀之助(飲食店)   中木博智(養蚕業)

 北島虎吉(白米商)    白井金三郎(農業)

 一杉平四郎(農業)    船波泰通(医師)

 山本紋次郎(農業)    内田初五郎(農業)

 一杉政吉(農業)     小宮金太郎(農業)

 桜井斎吉(無職)     須田操(酒商)

大泉村会議員(定員十二名)

 加藤栄三郎(農業)    井口相三郎(農業)

 加藤銀右衛門(農業)   井口金之助(農業)

 内堀仁兵衞(農業)    浅野平五郎(農業)

 加藤隆太郎(社員)    榎本又右衞門(米商)

 梅沢藤太郎(医師代診)  加藤泰蔵(農業)

これらの議員達は、町長、村長等と共に市や府へしばしば陳情、嘆願、或は抗議、申入れと協議につぐ協議で活躍し、町役場から市へ区への引継ぎ問題の処理などもあつて困難な中を一本にまとめあげたのであつた。

こうした町村時代の経費はどんなであつたろうか。当時の資料が乏しくよく判明しないが、各町村の歳入出といつても明治時代にはまことに微々たるもので、人口が次第に増加しだしたのは明治も末になつてからのことである。そ

の後、大正時代に入つて欧洲大戦の勃発によつて好況時代をむかえ、次第に東京市の隣接町村が発展してゆくにつれ、区内の町村も多少はその影響をうけるようになつていつた。いま大正六・七年当時の各町村の経費をみると次の通りである。

図表を表示

やはり村々の経費としては、今日の規模とは比較にならぬものであつたにしろ、教育方面にかなりの重点がおかれていたようである。

諸税負担 こうした当時の村人達が負担していた租税の額についてはよく判明しない。市域に編入される頃の各村の租税負担額と人口一人当りの率を示すと次表の通りである。

図表を表示 図表を表示

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図表を表示 <節>

第六節 板橋区時代
<項>
一、市域へ編入の機運
<本文>

いまの北区から板橋区へかけての地域を中心に、明治の末から大正にかけて軍の施設が旧市内より移転してきて、砲兵工廠、火工廠、被服廠、兵器廠などとよばれる一群の軍関係工場が広大な地域をしめて、多くの職工を収容するようになつてゆくにつれ、いまの区内などの純農村の人々のうちには、二男三男をこれらの工場に通わせて働かせる

ものもでき、次第に村としての生活のたたずまいに変化を生ずるようになつてきた。このような発展状況から北豊島郡内の諸村も農村から町型にならうとしているとき、大正十二年九月一日関東一帯が大地震に見舞われた。特に旧東京市十五区の被害は甚大で、火災によつて大打撃をうけたが、多くの市内の人々は郊外に逃れ、一時隣接町村に住居を求め、これを転機として郊外にそのまま住みつき、東京市内に通勤するという形をとる市民が非常に多くなつた。隣接町村はこのために一挙に人口が増加するに至つた。

こうした大震災後の市民の急激な郊外への発展は、東京市旧十五区に接する四十カ町をはじめ村々を都会化し、市街の発展状況は旧市内とほとんどかわらぬ町さへ出現した。渋谷・大井・品川・五反田・新宿・中野や高円寺、池袋・大塚・南千住などが大いに発展した。こうして両者は社会生活の上に経済生活の上に密接不離な関係を生じた。しかも郊外の人々は多くは旧市内に通勤通学し、そこが生活の根拠であり都市的施設の恩恵をうけていて、市民と何ら異るところがないのに拘わらず、行政区が違うという理由で市政にタツチできず、各町村と市との間には二三の例外を除いて何等連絡がなく、各種事業は不統一に行われて、あらゆる施設が不完全不徹底といえるような状態であつた。こうした不平不満が市域編入を要望し、都市的施設の恩恵に浴させよとの声となつていつた。市と呼応した都市計画を行うためにも市域の拡張を行う方がよいと隣接町村はそれぞれ政府をはじめ府や市に働きかけ、市も国と府との二重監督という不合理解消の前提として合併に賛成で、三多摩郡は別とし、残りの五郡全部が東京市に編入されることを希望して、それぞれ各町村の意見や希望を調節折衝することがあつて、昭和七年十月一日遂に待望の大東京市が成立をみるに至つた。

この併合で、五郡八十二カ町村は、品川、目黒、荏原、大森、蒲田、世田谷、渋谷、淀橋、中野、杉並、豊島、滝野川、荒川、王子、板橋、足立、向島、城東、江戸川の二〇区となり、旧十五区とともに三十五区となつた。

こうして東京は、世界第二位の五六六万の人口を擁する巨大都市となつた。

このような大東京の一区として板橋区は現在の板橋と練馬両区を合した大きさをもつて、いわば城北の未発展の地域ともいうべき姿で登場した訳である。その広さは旧十五区にほぼ匹敵した。いかに当時の板橋区が広かつたかが察せられよう。

昭和七年市域拡張により板橋区が成立をみるに至るまでの各町村の発展概況は、六年十一月東京市が行つた現状調査によく示されている。

<資料文>

中新井村

 本村ハ元来農村ナリシモ、土地極メテ平坦ニシテ全村住宅地ニ適シ、且武蔵野鉄道西武鉄道ニ依ル交通ノ便多キヲ以テ市内ヨリノ移住者漸ク多キヲ加へ、大正九年二千余人ナリシ人口ハ昭和五年国勢調査ニ於テ七千余人ニ達ス。従来農産物ヲ以テ主要産物トナセシモ、近年人口ノ増加ト共ニ諸商工業起リ、漸次市街化サレツツアリ。

練馬町

 「由来本町ノ土地ハ蔬菜ノ裁培ニ好適セルヲ以テ、純農村トシテ発達シ来レルガ、鉄道ノ開通以来、戸口ノ増加年ト共ニ著シク、遂ニ昭和三年町制ヲ執行シテ練馬町ト改称ス」(沿革より抜萃)

 本町ハ大東京ノ西北部ニ位シ、本町南部ニ武蔵野鉄道、北部町界近ク東上線開通シ、交通至便ナリ。土地ハ概ネ平坦ニシテ近時住宅地トシテ発展シ、大正九年人口五千三百人ナリシモ昭和五年国勤調査ニ於テ一万三千百四十五人ヲ算スルニ至レリ。

上練馬村

 本村ハ近接町村中比較的都心ヲ遠サカル地ニシテ元来農業ヲ以テ主要産業トシ、隣接町村ノ急激ナル都市化ヨリ取リ残サレシ観アリト雖モ近時本村ノ南端ヲ通過スル武蔵野鉄道及北境ヲ馳ル東武鉄道東上線アリテ、漸次都市化スルノ域ニ向ヒツツアリ。然レド諸施設概シテ見ルベキモノナク、只本村内ニアル豊島園ハ近時東京市民ノ散策地トシテ有名ナリ。

石神井村

 本村ハ武蔵野平野ノ一部ヲ占メ、土地一般ニ平坦ニシテ、昔ヨリ全村殆ト農業ヲ事トセリ、又地理上ヨリ見ルモ、北豊島郡中最モ遠隔ナル地位ヲ占メ、為メニ近代文化トノ接触ヲ欠キ、依然トシテ平和ナル一農村ニ過ギザリキ。

 然ルニ近年ニ至リ武蔵野鉄道、西武鉄道ノ開通其他諸交通ノ発達ニ加フルニ商大予科、其他諸学校ノ設立ト相俟チ、昔ノ農村ハ今ヤ市街地化セントシツツアリ。従テ住宅及一般家屋ノ増築相次キ、為メニ最近人口著シク増加セリ。由来本村ハ農業地ニシテ、其ノ面積全村ノ大部ヲ占メ、全体トシテハ今尚農村ノ域ヲ脱セズト雖モ、最近田畑地ハ次第ニ減少シ、宅地ハ累年増加シツツアルノ現象ハ、本村ノ住宅地トシテノ発展傾向ヲ指示スルモノナリ。

大泉村

 近時武蔵野鉄道ノ開通ト東京市ノ膨張トニヨリ人口漸次増加ヲ示シツツアルモ、今尚純農村ノ域ヲ脱セズ、而シテ現今一般経済界ノ不況ニ伴フ農産物価格ノ激落ハ農村没落ノ運命ヲ招来シツツアル状勢ニアルヲ以、之ガ対策トシテ本村ハ村農会ヲ確立シ、農村経済ノ局面打開ヲ期スヘク、鋭意努力ノ結果農業状勢モ亦自ラ一変シ、穀菽蚕業ノ業ハ蔬菜ト変リ、今ヤ西瓜及練馬大根ノ名産地トシテ、其ノ額多額ニ上リ、本村ノ主要産物トナレリ。

以上にみたように、中新井、練馬、石神井はこの市域拡張ごろまでにかなり市街地化の傾向が促進されたようであるが、上練馬と大泉はまだまだ農村で、わずかに上練馬村の豊島園が遊園地として市民の愛好をうけるようになつて

きた状態であつた。

<項>
二、板橋区の成立事情
<本文>

市域編入の問題は震災後の復興事業が一段落した昭和四年頃からはじまつた。

昭和四年の市会で特別市制に関する調査委員会設置の建議が可決され、五年十二月都制に関する実行委員が三多摩・八王子市の視察を行い、翌年六月には隣接五郡を歴訪した結果、三多摩はしばらくおき、隣接五郡の町村合併がとりあげられ、六月三十日、隣接町村合併に関する建議及び隣接町村合併促進に関する建議の二案が市会に提出されて可決された。この具体的工作のため七月東京市に臨時市域拡張部が設置され、一方郊外町村においても同一歩調で合併実行にうつり、六年六月には都市計画区域全町村から選出の府会議員・町村会議員をもつて隣接町村合併促進同盟会が発会した。こうして、六年七月から七年四月にかけて、各町村ではそれぞれ町村会で併合意見書や議決書を正式に議決し、その間種々の紛糾はあつたにしても、五郡八十二町村は全部がその区域を東京市に編入することに賛成したのであつた。

東京市の作成した案の基準となつたのは、拡張区域と旧十五区との間には境界変更を行わない、新区の区域は当時の郡界により、だいたい当時の町村界をそのまま踏襲する。人口は一四万乃至二〇万位までを基準とする。既存行政区域や交通機関、その他沿革風習などを考慮することなどで、旧十五区の人口一区平均十四万人を基準に各郡を割つて区の数を出すこととなつた。北豊島郡は、この結果六・二となり、六区案が最初もち出されたが、当時の北豊島

郡は、南千住・日暮里・三河島などを中心に東南部の町に人口が集中していて、板橋方面の練馬・大泉・石神井など西部方面は面積の広大な割合に人口が稀薄であるという事実が、六区案を否定して、(荏原郡の如く平均五・七の割合なのに六区を割合てられたものもあつたのに反し)、五区しか割合てられなかつだ。

こうして、四月二十六日永田市長から府知事に東京市案が報告された。それによると、

 区      区域                                  区の名称

 第一区 高田町、西巣鴨町、長崎町                           池袋区

 第二区 巣鴨町、滝野川町                               滝野川区

 第三区 日暮里町、三河島町、南千住町、尾久町                     三河島区

 第四区 王子町、岩渕町                                王子区

 第五区 板橋町、上板橋村、志村、中新井村、練馬町、上練馬村、赤塚村、石神井村、大泉村 板橋区

第五区をもつて板橋区を作る案の説明をみると

図表を表示

<資料文>

板橋町、上板橋村、志村、練馬村、中新井村、赤塚村、石神井村及大泉村の二町七村を以て板橋区を編成す。

此の地方の東部は徳川時代における中仙道交通の枢要地として往来繁かりし地なり。近来工業の発達と共に東部に岩渕王子等の工業地帯を控え、北部に工業地域内甲種特別区域たる志村を有し、板橋町及上板橋村は漸次住宅地として進展を示しつつあり、本地の西部は古くより川越街道によりて育まれ土地概して平坦一望の武蔵野平野にして未だ農業地たるの域を脱せざれども、練馬町、中新井村、石神井村等の都市化は頗る顕著なるものなり。

板橋町は郡役所の所在地たりしのみならず往昔より宿駅として繁栄し、現在に於ても当地方の社会的中心たり、其の地位は南足立郡における千住町の如く北豊島郡西半地方の中心たり。

交通機関には東部に東北線あるのみなるも将来、東京郊外鉄道、大東京鉄道、東武鉄道、東京西北鉄道、未成線完成後は板橋を中心とする交通の便極めて多かるべし、又東上線は川越街道に沿ひ本区の中央を横断し又南部には武蔵野鉄道及西部鉄道の横断するありて区内交通の幹線をなす。

区内における乗合自動車の発達は極めて著しく板橋を中心に、王子、巣鴨、池袋、赤塚村、志村、豊島園等に到るものあるのみならず、区内各地を連絡するもの相当多し。

都市計画路線の修築着々として進捗を見、中仙道川越街道環状第六号等の竣成利用を見つつあり、如レ斯本地方は古来中仙道及川越街道沿道として気脈相通じ、其発達過程を一にし来れる地方にして、又交通関係においてもよく統合せられ、現在に於ては板橋町を中心とする有機的一体を構成するを以て、地域広大なりと雖も当分の内、特に合して一区となすを適当なりとす。

東京市が板橋区案について府に内申した理由書は、あくまで「地域広大なりと雖も<圏点 style="sesame">当分の内特に合して一区となす」を適当と認めたにすぎず、いずれは、いつか板橋区内が発展した際には一区でなくてもよい、との意味を含んでいた

のである。

こうしたことは各町村にもみられ、市域の拡張は希望するが、町村併合には意見があるという町村が少なくなく、最後にきてだいぶ色々のもめ事や陳情が行われ、東京市の臨時市域拡張部は、連日これら各町村の陳情団の陳情ぜめにあい、一部の町村の陳情団のうちには、昂奮のあまり常軌を逸する態度に出たものがあつて、日比谷警察から取締りに出動するといつた事態さえあつた、練馬や石神井、大泉などの人々は、板橋区として板橋町と一緒になることには別に異議はなかつたが、実際にはあくまでいまの練馬区の範囲位で別に一区をたてたいという気持は強くもつていたようである。この点は、いずれも他日考慮するということで、とりあえずは板橋区を成立させるということでおちついたのであつた。

北豊島郡内では、郵便行政上からの逓信局長の意見が強く反映して、目白区が豊島区に、滝野川区から日暮里、巣鴨の両町を除き、巣鴨を豊島区に、日暮里を荒川区に編入することで最終決定となつた。

<資料文>

内務省東地第一九一号                        東京府知事

  昭和七年五月二十三日申地第一八五号禀請新ニ品川区、目黒区、荏原区、大森区、蒲田区、世田谷区、渋谷区、淀橋区、中野区、杉並区、豊島区、滝野川区、荒川区、王子区、板橋区、足立区、向島区、城東区、葛飾区、及江戸川区ヲ設置スルノ件許可ス

    昭和七年五月二十四日                 内務大臣 鈴木喜三郎

内務大臣の許可令をうけた府知事は、これを東京市に通知すると共に、十月一日より一五区に加えて新たに二〇区を

設け、東京市に編入する旨を布告した。

こうして、震災以来長い間隣接町村民の要望であつた東京市への編入が行われ、あらゆる面で旧一五区なみの施設や待遇をうけるチヤンスがきた。板橋区としていまの区内の地と板橋区の地を合せた広大な地、旧一五区にも匹適する大板橋区が十月一日より発足したのである。

<項>
三、練馬区分立の運動
<本文>

これよりさき、前述のようにいまの練馬区の範囲より少し広い地域の八町村を以て一区独立したいという考えが、一部に起り、この間に猛運動が展開された。

<資料文>

      陳情書

東京市域拡張ノタメ八十二ケ町村併合ニ件フ新行政区劃ノ編成ニ就テハ既ニ当局ニ於テ十分慎重ナル考究ヲ重ネラレ最モ妥当ナル措置ニ出デラルルコトトハ相信ジ候ヘ共、従来本郡内ニ於テ志村、上板橋村、練馬町、赤塚村、上練馬村、中新井村、石神井村、大泉村、以上八ケ町村ハ土地ノ情況殆ト相酷似セルモノアリ、従ツテ自治行政ニ於テモ渾然融和同一歩調ノ下ニ相提携シテ今日ニ至リタルモノニ有レ之候。故ニ今回市域ノ拡張ト共ニ新行政区劃ノ編成ニ当リテハ一面従来ノ歴史ニ鑑ミ、一面将来ノ円満ナル自治発展上ヨリ考察シテ以上ノ八ケ町村ヲ以テ一行政区劃ヲ編成スルハ最モ賢明ニシテ且ツ正当ナル措置ト相信ジ申候。依テ此際板橋町ヲ断然他区ニ編入シ、以テ吾人ガ正当ナリト信ズル方針ニ変更セラレ、其実現ノタメ邁進セラレンコトヲ懇願仕候。更ニ事由ヲ附記スレバ

<項番>(一) 以上八ケ町村ハ現在大部分農業地帯ニ属シ共ノ生業殆ト同一ノ情態ニ有レ之候。此ノ未ダ農村タルノ域ヲ脱セザル地域ヲ一行

政区劃トナスハ之ヲ行政上及ビ将来ノ施設上ヨリ観察シテ最モ便宜且ツ妥当ノ処置ト相信ジ申候。

<項番>(二) 現在ノ農業地帯モ近時交通機関ノ整備ト共ニ住宅地帯トシテノ発展目ザマシキモノ有レ之候。然シ現在ニ於テハ面積ノ広汎ニ比シ人口稀薄ノ感有レ之候モ将来ノ包容力ニ於テハ既ニ発展ノ余地ナキ近接町村ト比較スベクモアラズ、将来ニ於テハ戸口ニ於テ他区ヲ凌駕スルニ至ルヤ一目瞭然タルモノ有レ之、実ニ前途洋々ノ感有レ之候。

  依テ此ノ八ケ町村ヲ一行政区劃ノ編成地域タラシムルハ理ノ当然ト相信ジ申候。

  以上ノ意見ニ就テハ直接当面セル問題トシテ八ケ町村ハ夫レゾレ緊急町村会ヲ開会シ、同一歩調ノ下ニ意思表示ノ決議ヲ経タル次第ニ有レ之候。何卒吾人ノ意ノ存スル点ヲ諒セラレ更ニ慎重審議ノ上其ノ実現貫徹ヲ期セラレ度、茲ニ連署ヲ以テ事情ヲ具シ、謹デ及ニ陳情一候也

    昭和七年五月十一日

                              中新井村長  内田喜太郎㊞

                              石神井村長  栗原 謙三㊞

                              赤塚村長   鈴木 義顕㊞

                              志村長    大野作次郎㊞

                              大泉村長   加藤銀右衛門㊞

                              練馬町長   大木金兵衛㊞

こうして農村地帯だけで一区を形成しようという運動はかなり活溌に行われたが、実現をみるに至らず、一応板橋区としてまとまり、農村地区の問題は後日に譲るということでおさまつた。

これらの統一問題には、各町村をあげて大変なさわぎであつたが、これをまとめるに至るまでの町村会議員の努力も亦なみなみならぬものがあつた。

<項>
四、板橋区の成立と町会整備・町名変更
<本文>

市郡併合の実現に際し、東京市は「町界町名地番整理委員会」を設けて、新に市域に編入される二〇区の町村に対し、町村界が錯綜して複雑をきわめ、行政上の不便も少くないので、町村界や町名地番の整理を断行して、東京市の区として新区をすつきりした形にしようと計画した。旧一五区が震災復興事業による区画整理の施行で町名地番が整然としたものになつたのに反し、新市域となる地域では、多くは大字小字の広狭、地番の統制などが乱れ勝ちであつたので、この併合を機に整備して、旧町村界は鉄道軌道または道路河川によつて区分統合し、町名はなるべく旧称や慣習を尊重するという大方針のもとに委員会の手で土地の現況に応じて適宜処理はみとめるものの大体次のような方針細目を決定した。

<項番>(イ) 通し地番の町界整理 小字の区域をもつて新町とすること、小字の区域過小なものは適当に一町を構成すること。

<項番>(ロ) 通し地番町村の町名整理 小字名に町村名を冠記したものを新町名とする。但し小字名の代りに丁目をもつてすることもある。又数個の小字から成る一町は適当の小字名または「丁目」もしくは新しい名称に旧町村名を冠して新町名とする。

<項番>(ハ) 大字をもつて地番区域とする町村整理 大字の区域あまりに広く、一般に小字名を使用しているもの、または数小字を総称する地方のあるときは、小字または数小字の区域をもつて新町とすること。袋地または準袋地をなす独立大字で、五十筆未満のものは隣地大字に合併し、五十筆以上のものは独立一町とすること。大字の一部が他の大字内に散在し、または他町村に飛地せる場合は前項になろう。

<項番>(ニ) 大字をもつて地番区域とする町村の地番整理 大字名に旧町村名を冠したものを新町名とするが、大字名だけで旧町村名を想起し得らるるものは冠称を略し、大字名の冗長のもの、呼称至難のもの、同一区内に同一の名称あるときは、他の一方適度に変更すること、大字内の一個もしくは数個の小字区域によつて「丁目」に分別すること。大字名を新町名とすることは前項と同じで、「丁目」によることは困難なときは、代表的小字名または総称地方名を採ること。

<項番>(ホ) 小字をもつて地番区域とする町村の町村界整理 小字の区域をもつて新町の区域とすること。

<項番>(ヘ) 小字をもつて地番区域とする町名整理 小字に旧町村を冠したものを新町名とすること。

この方針により町界町名及び地番の整理が行われたが、なかなかその通りに実行することは不可能で、<項番>(一)現に耕地整理中の大字の分合をなさず、そのまま新町とすること、その町名は大字名に旧町村名を冠すること、<項番>(二)地番区域の境界甚だしく不整形、錯雑して区画の定め難いものは現大字区域をそのまま新町の区域とすること、その町名は大字名に旧町村名を冠して新町村名とし、小字名を附記することという例外を認めないわけにはゆかなかつた。

こうして、板橋区として十月一日発足するまでに、いまの区内の地域にもこの整理が行われて、町名の改称、町界

地番の整備は完了した。これらは終戦後多少町名の変更も行われたが、大体今日の区の町名として引続き使用している新しい町名となつている。一部の老人達にはいまでなじんで来た町村とわかれて新しい町名を使うことに不満をもつものもいたが、間もなくこれになれて、その後増加する新しい区民たちにはこの町名が当り前のようになつていつた。(別表、町名一覧参照のこと

<項>
五、板橋区と練馬派出所
<本文>

昭和七年十月一日、板橋区は成立をみて、華々しく出発したのであるが、区長は市長の命ずる任命区長で、上田房吉が初代の区長に任ぜられた。

しかし、成立した板橋区は旧一五区に匹敵する大きさをもつ区であるから、この広さに対する行政ということは容易なことではなかつた。まず区役所の位置に問題がおきた。町村時代でも役場の位置というものは常に町村民の問題となることで、区になつても、区民の間にこの問題がもち上つたのも当然のことといえよう。

板橋区設置は決定をみたが、区役所の位置をどこにおくかが、板橋区の地域が余りに広いため問題となつた。しかし、板橋区においては、板橋町が古くよりの宿場であり、中心的市街をなしているとして板橋区役所を板橋町におくべしとの説が圧倒的であつたが、旧北豊島郡役所をもつて板橋区役所とするとの決定がなされるまでには、なかなか反対があつて紛糾を続けたのであつた。

練馬町は、まずこれに反対し、板橋町以外の六カ町村を語らつて、区役所獲得の運動を続けるなど活溌だつたが、

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練馬及び石神井に「新設区役所との交通に特不便なる地に暫定的に設置すること」の標準を適用して、新に派出所を設け、板橋町には区役所をおくことで妥協が成立をみた。

東京市告示第三百六十二号

昭和七年十月一日ヨリ設置セラルヘキ新設区当分ノ内左記ノ通区役所派出所ヲ設置シ同日ヨリ其ノ事務ヲ取扱フ

昭和七年九月三十日 東京市長 永田秀次郎

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こうして一応、練馬と石神井に派出所がおかれたことは、区内町村民の意向が汲みとられた形になつた訳で、地域的に余りに広すぎる板橋区の行政措置としては当然のことといえるが、或る意味で行政的に練馬区が板橋区から分離するきつかけは、この時すでにはじまつたといい得るであろう。

昭和七年、板橋区成立当時の区内の状況を概観してみよう。「区勢総覧」によると

<資料文>

石神井川に沿ふて練馬町に来ると、上板橋により近代的色彩を加へた街の様子だ。此地方は元来は農村地帯の中心であるべき筈であるが、大正十五年練馬城跡が藤田好三郎氏の手で遊園地豊島園とされてからは来遊の都人士相手の商家は年と共に増加し、昭和三年には町勢を布く勢いとなつた。現在では区内(板橋区のこと)で板橋町につぐ商業及住宅地区であるのみならず、交通の至便は将来区の中心的繁華地たるべく最も要望視されている。

中新井はかなり農村的色彩の強いものがあるが、武蔵野電車の開通は近来漸次住宅地出現の結果を斎しつつあり、この状勢に伴ふて商業者の漸増も見逃せない現象であろう。

石神井は農家の数も多いと同時に、武蔵野電車石神井駅の附近には商家密集し、商業者の数亦板橋、練馬についで多数を占めている。半農半商地区と言うべきであろう。大泉(赤塚)上練馬が構成する区の西北部の地帯は、区内で最も農村的色彩の強烈な所で、未だ往昔武蔵野の面影を想はせるに十分である。

<項>
六、区役所と区議会
<本文>
区役所

区役所が板橋町に設けられ、練馬、石神井に出張所がおかれる機構で板橋区は発足した。

この「東京市の区」は、明治四十四年四月七日に制定された市制第六条によるいわゆる法人格を認められた区であつて、他の市にみるような単なる行政区ではなかつた。独立した議決機関としての区会をもつて、自己の財産及び営造物を維持する性質をもち、一方、大正三年三月法律第一三号の「地方学事通則」により設けられた学区をも兼ねていた。同じ法人区の中でも自治団体としての資格をもち、理事機関に区長、議決機関に区会を有していたのは他に例

をみない所で、しかも、法規と実際との関係が明確であり、且つ統一的であつたことは、学区の兼備とともに区行政の特異性を示すものといえる。

区の執行機関

区の事務執行機関には、その長に区長をおき補助機関として吏員、雇員その他を置いていた、これは、いずれも市の有給吏員で市長が任命した。区長は、市長の命をうけ、または法令の定めるところによつて区内に関する市の事務及び区の事務を掌り、その外、国や府、国や府、公共団体及び地方学事規則に基ずく学区の事務を管掌した。区が所管する事務は、市制第六条に規定され、固有事務として私法上の財産権の外に営造物を経営して使用料を徴収し、委任事務としては、学事、兵事、戸籍、、租税、衛生、土木救護等の直接区民に関係深い事務を取扱うことになつていた。

この外区に収入役があり、区の出納機関として出納その他会計事務を掌り、区長に対し独立の権限をもつていたが、昭和七年十月の市域拡張を期に、区長や収入役の職務権限は可なり拡大された。

こうして区役所は、区民のため、あらゆる面で市の区としての事務を行つていつた。

板橋区時代の区長は次の通りである。

     初代 上田房吉   自昭和 七年 十月至昭和 八年十一月

     二代 中野浩    自同  八年十一月至同  九年 六月

     三代 児玉益治   自同  九年 六月至同 十一年 十月

     四代 福島正守   自同 十一年 十月至同 十二年十二月

     五代 渡辺徳三郎  自同 十二年十二月至同 十四年 六月

     六代 藤原誠    自同 十四年 六月至同 十八年 六月

昭和十八年七月一日、東京都制が施行され都の区となつたが、その後の区長は

     七代 河原田覚次郎 自昭和十八年 七月至昭和十九年 六月

     八代 丸山貞二   自同 十九年 六月至同 十九年 十月

     九代 竹内虎雄   自同 十九年 十月至同 二十年 九月

     十代 鈴木嘉寿一  自同二十 年 九月至同二十一年 三月

    十一代 牛田正憲   自同二十一年 三月至同二十二年 三月

区議会

昭和七年十月一日、板橋区が成立すると、十一月二十七日初の区会議員選挙が行われて定員三六名が選出され、区の議決機関として、旧町村会に代つて区会が開設されたのであつた。

当時の区会の権限は、旧一五区の区会の規定が準用され、区会は、区に関する事件について議決する権能を有すると同時に、他の特殊な事件に関する争議の決定、選挙、監査、意見提出の権限をもつものであつた。

いまの練馬区から選出された議員達も勿論板橋区のために活躍したものではあつたが、ここでは、いまの区内選出の議員のみをかかげておくことにする。

なお、当時の区会議員はすべて市の名誉職であつて、任期は四カ年であつた。

<資料文 type="2-32">

 昭和七年十一月二十七日~昭和十一年十一月二十六日

篠猪之松     橋本忠三郎

宮本由五郎    野沢幸作

八木田誠橘    加藤隆太郎

篠田鎮雄     本橋清

小宮忠太郎    矢作甚右衛門

沢枝亀二郎    本橋芳次

加藤貞寿     加藤源太郎

浅見平蔵

 昭和十一年十一月二十七日~昭和十五年十一月二十六日

橋本忠三郎    須田操

沢枝亀二郎    町田甲彦

小沢小十郎    本橋芳次

浅見平蔵     関口理三郎

加藤源太郎    内堀仁兵衞

漆原万兵衛    篠田鎮雄

加藤隆太郎    舟波泰通

 昭和十五年十一月二十七日~昭和二十二年四月二十九日

浅見平蔵     平林武

町田甲彦     早川与作

豊田勝夫     加藤弥平次

加藤隆太郎    上野徳次郎

中込文平     舟波泰通

桜井米蔵     大木万太郎

本橋芳次     沢枝亀二郎

須田操      春日初二郎

 昭和二十二年四月三十日~昭和二十二年七月三十一日

工藤武治     桜井米蔵

内田武助     林信助

大木万太郎     加藤与左衛門

山本喜一     本橋修全

大野政吉     豊田勝夫

林亮海      宮地貞彦

本橋芳次     上野徳次郎

梅内正雄     小口政雄

半沢敬吾     篠崎晸

沼崎六一

<項>

七、町会と隣組
<本文>

町会は、古くから慶弔などのため、或は親睦機関として、地域地域で自然に結成されていたものを、昭和十三年頃から各区の区政上の重要な機関として整備する準備が進められ、大陸の戦局が容易ならざる世界的戦争の様相を呈するに及んで、十六年五月、強化改新されて、配給や防空防火のための隣組の組織が完備され、町会の細分組織として、かつての五人組の如き統一ある組織ができた。文字通り上意下達の機会として、隣組ごとに町会事務所から伝達をうけた事項を毎月の常会で相談するといつたものから、次第に命令をあくまで遂行するための組織の完成に努力がつづけられていつた。「とんとんとんからりと隣組」などの歌までできて隣組の制度ははじめは明るい話題をまいていたが、特に十八年には大改正が行われ戦時体制が整備されて行き、空襲必至に備えての防火群としての任務が日を追つて強化され、あけてもくれても配給と訓練とに日を送るようになり、ゆとりのない生活が続けられた。

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第七節 練馬区独立への第一歩
<本文>

板橋区の町として着々と近代的市街へ衣がえしつつあつた本区内の町々にも、満洲事変から日華事変、さらには昭和十六年十二月の日米開戦と、時局は大きく回転し、国内戦時態勢の確立、更にその強化と戦時色がみなぎるようになつてきた。

行政的にもここに戦時体勢に即応する必要から東京都の成立となり、その活動に便する為の練馬区の半独立的形態が生まれ出ることになつた。

<項>

一、東京都制の施行
<本文>

従来から、東京市は一般都市と同じく府と国との二重監督下におかれていて、これの不合理をつき、その解放をさけぶこと久しかつたが、都制の施行が実現をみるに至らなかつたのは、都長官選という官治主義に反対していたからで、府と市を一つにすることは政府としても賛成する立場の人も少くなかつた。第二次大戦勃発後、東条内閣は緊急国策の一として、地方制度の改正をとりあげ、十八年七月一日、東京においては府と市を合体して待望の東京都制が実現され、都長官選による東京都の成立をみた。

二重行政から解放はされたが、都制が戦時立法として登場し、都長官々選であるところに問題は残されたが、従来の府の区域が全部都の範囲となり、三十五区、三郡、島とを含んで、戦時下の首都の守りに万全の体制がととのえられた。

板橋区も、都の区として新しい気分のもとに戦時生活下の区民のための仕事に努力が続けられた。職員も官吏のような身分に切りかえられた人が多く、その点で多少従来とちがつた官僚的な臭いが濃くうち出されていつた。

<項>
二、練馬支所と石神井派出所
<本文>

昭和十九年五月一日、この日こそは練馬区の板橋区からの分離を運命ずける意義ある日であつた。

板橋区は、前記の如く面積実に八万平方キロ余、ほぼ東京市旧十五区の地域に匹敵し、併合当時一二万の人口は十

九年四月一日推定人口三〇万に達する程の発展を示したが、区役所は旧宿場の関係で区の東北隅に偏在し、練馬派出所、石神井派出所の地域に居住する区民は日常生活の上に不便が尠くなく、時局がこうした決戦態勢にある以上、もつと活動に便するよう、板橋区を二分して、練馬石神井地区をもつて一区を形成して貰いたいとの要望が盛んにおこり、都への陳情が再三行われる状態であつた。

都としても、これに対して種々対策を協議したものの、時局下これを分区することはかえつて戦時体制下の行政区画に混乱を呈するというので、分区の要望はこれを否決し去ることとなつたが、しかし、実現不可能な分区問題を一歩解決に近づける為、練馬派出所を支所とし、石神井派出所を石神井出張所と改め、昇格することによつて、区役所事務のうち徴兵事務と自治事務を除き、一切区役所的な事務をとらせ、これによつて区政の能率的運営を高め、区民の便益を計ることになつた。

この結果、四月二十七日東京都訓令甲第九十二号により「東京都区役所支所規程」が設けられ

第一条 区長ノ事務ヲ分掌セシムル為、区役所支所ヲ設クルコトヲ得、其ノ位置、名称及管轄区域ハ別ニ之ヲ定ム

との規定により、練馬南町二丁目の改進国民学校講堂に五月一日より練馬派出所が昇格して支所と改め、開所したのである。

支所長は、都長官の任命する事務官で、総務課(総務、教育、会計三係)税務課(徴収、賦課二係)民生課(振興、戸籍、厚生三係)経済課(産業、配給二係)防衛土木課(防衛、土木二係)の五課十二係をもつて発足したのであつた。その管轄区域は

<資料文>

豊玉一―六丁目、同上一、二丁目、同中一―四丁目、同南一―三丁目、中村町一―三丁目、練馬北町一―三丁目、同仲町一―六丁目、同南町一―五丁目、練馬向山町、同貫井町、同春田町一、二丁目、同田柄町一、二丁目、同土支田町一、二丁目、同高松町一、二丁目、江古田町、小竹町、石神井谷原町一、二丁目、同北田中町、同南田中町、下石神井一、二丁目、上石神井一、二丁目、石神井関町一―三丁目、同立野町、東大泉町、西大泉町、南大泉町、北大泉町、大泉学園町

以上の町々で、ここにやや半独立体制的な形が成立した。しかし、この練馬支所の範囲はこれでも余りに広い地域で、更にこれを分割して区役所事務を処理する必要があつた。なお、この練馬支所の問題ばかりでなく他にもこうしたケースがあるので、それらを一括して、東京都訓令甲第九十三号により、区役所派出所処務規程を改正し「区役所・支所出張所規程」を設け、五月一日より施行することとなつた。この規程により、区役所又は支所の派出所を出張所とし、庶務、戸籍、戦時生活の三係をおき、主として貯蓄、増産、配給衣料切符、徴用援助等の事務を全般にわたつて取扱うこととなり、調布(大森)玉川(世田谷)石神井(練馬支所)新宿(葛飾)葛西、小岩(江戸川)の七出張所がそれぞれ地域的に広い区・支所に設けられることとなつた。(告示第四百五十八号

練馬支所の石神井派出所は、ここに五月一日より、出張所と改めて、下石神井二丁目一二九六番地ノ二に開所した。その管轄区域は前記支所の管轄区域のうち

<資料文>

石神井谷原町一丁目、二丁目、石神井北田中町、石神井南田中町、下石神井一、二丁目、上石神井一、二丁目、石神井関町一、二、三丁目、石神井立野町、東大泉町、西大泉町、南大泉町、北大泉町、大泉学園町

である。昭和二十二年練馬区独立まで、こうした行政機構にあつたことは忘れてはなるまい。

<項>

三、中野区板橋区境界変更
<本文>

戦時態勢がますます強化されて、米軍の空襲必至の状態に、区民は防空に、隣組常会に連日いそがしく走り廻つている十九年の五月になつて、板橋区と中野区に境界の変更を行うことが告示された。昭和十年頃から努力しつづけた区劃整理事業がようやく実を結んで、将来の住宅地区としてはずかしからぬものに完成した結果、別記のように町名変更が行われたが、同時に板橋区と中野区の一部の町の区域を交換、境界をかえることとなつた。

十九年五月十三日都告示第二二号を以て土地区劃整理に伴う両区の境界を変更し、六月一日より施行する旨の発表があつた。その区域は次の通りである。

   区名     町名       地番    地目    地積

                                反

   板橋    豊玉南一丁目    五ノ一   畑      ・一一七

   同     同         五ノ二   同      ・三一五

   同     同        一五ノ一   同      ・〇〇二

   同     同        一五ノ二   同      ・六一二

   同     同        一五ノ三   同     一・三二二

   同     同        一五ノ四   同      ・七一九

       小計                      三・二二七

                                坪

   同     中新井四丁目   一      宅地   四九・〇五

   同     同        二      畑     反・〇一三

   同     同        三      同      ・七〇九

   同     同        四      同      ・〇〇四

   同     同       一二      同     一・一〇七

   同     同       一三      同     一・三〇〇

                                坪

   同     同       一四      宅地   三六・〇〇

                                反

   同     同       一五      畑     四・三二五

                                坪

      小計                 宅地   八五・〇五

                                反

                         畑     七・五二八

            坪      反

     合計  宅地 八五・〇五   畑 一〇・八二五

            反      反

         道路  四・八〇六  水路  ・〇一四

                        ・八五

           反               

      総計   一六・〇一〇

             ・九

   右中野区ニ変更

 

   区名

                                反

   中野   江古田町四丁目  一七二二    畑      ・五二四

   同    同        一七二三    同      ・三一四

中野      江古田町四丁目  一七二四    畑      ・四一八

同       同        一七二四ノ二  同      ・〇〇八

同       同        一七二五ノ一  同     一・二〇二

同       同        一七二五ノ二  同      ・〇二〇

同       同        一七二五ノ三  同      ・一〇一

同       同        一七二六    同     二・〇二六

同       同        一七二七ノ一  同     一・三一四

同       同        一七二七ノ二  同      ・三一八

 合計                      同     六・五二五

                         道路    三・八一〇

                                ・二五

            反

   総計     一〇・四〇五

            ・二五

右板橋区ニ変更

こうして、中野区江古田四丁目の一部が板橋区に編入され、練馬支所の独立態勢とともに支所管内に入つたのである。豊玉南一丁目の一部と中新井四丁目の一部が中野区に入り、両区の境界が変更になつたことは畑地であつた点から比較的知る人も少いが、記憶さるべきことである。

<章>

第二章 人口の漸増

<本文>

いまの練馬区内を時おり歩いている古老の言によると、道ゆく人の顔をみても、昔からの土地つ子の人が少くて、知らぬ顔が多くなつたこと、知つている人でも大方は東京市になつてから区内に入つてきた人だと思う連中ばかりになつてきているという。東京都二十三区中で一番発展のおくれているという区内にしてこのような有様である。他の発展の盛んな変化のはげしい区ではどれほどこうした現象がはげしいか想像もできぬ位であろう。

しかし、こうした状態になつたのは昭和も戦時体勢に入つた十四五年頃からのことで、他の町のように震災後急に発展し出したのではない。

それまでの内村々はまことにのんびりした農村で、人口の増加も牛の歩みのように遅々としていたのである。

<節>
第一節 明治大正の人口
<本文>

明治五年、いわゆる戸籍法の発布による壬申戸籍の調査が実施された。それまでの人口の調査は江戸時代は人別帳といつて、代官支配の村々では連年書上げて代官所へ提出する仕来りになつていた。この壬申戸籍による人口は、大体明治七年編集の東京府志料に記載されている。区内のように純農村地帯で人口の動きのほとんどなかつた土地では、これが幕末当時の区内各村の戸数人口を示していると見てよい。

この戸数人口は次表の通りであるが、寄留人口一名もないという点が、区内諸村の未発展のままの姿を示している。

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明治十一年郡区町村編制法が施行されて、北豊島郡の村となつてからは、次第に人口が増加していつたが、やはり他の旧十五区の地域に隣接した町村とはことなり、その増加の度は実に低いものであつた。毎日毎日を農耕にくらし、名物の練馬大根の作成ということに収入の望みが大きくかけられていた区内の各村々にとつては、特別に人口が増加するような事業も起らなかつたようである。ただ、明治十五六年頃から、養蚕をやり出して、石神井と下練馬に製絲工場ができたのが、他から人々を村にいれた人口増加の大きな原因をなしたようである。

明治三十一年と四十一年との十年間の戸口を比較してみると

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以上にみる十年間の変化で、上練馬村・石神井村と中新井村が戸数が減少しながら、人口が増加しているが、この現象がどういうことを意味するのか一寸わからない。出産による増加は別として恐らく東京へ出るとか、他村に転ずるとかという事態が起つたのであろう。

こうして少しづつではあるが人口が増加していつたが、純農村のこととて、移入人口が拡大するような要因をなす

ものは何もなかつた。

いま、明治四十一年より大正六年の十年間における人口増加の情勢をみると、左に示す通りである。

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この当時の北豊島郡他町村をみると、西巣鴨町の如きは十年間に実に三十七割九分、約四倍に達する人口増加を示し、三河島や日暮里など二十四割以上、約二倍半の増加ぶりである。これに対して区内各村は「その発展遅々として進まず」と当時評されたように

<資料文>

中新井村 一割八分 石神井村 一割六分

下練馬村 一割五分 大泉村  一割五分

上練馬村   四分

というまことに他町村と比較にならぬほどその増加の度は低い。板橋でさえ三割六分、長崎村でも二割三分の増加を示しているのに、十年たつてもほどんと人口の上で差のない区内諸村の姿こそ、純農村と規程づけられる点であつ

て、第三章において農村としての姿を明治大正時代を通じ特にいろいろの角度よりとりあげて観察した理由もここにあるのである。大正に入つて武蔵野鉄道が開通してからでも駅まで歩いて行く往来の人をどこの誰さんとすべて指摘できたほどで知らない人などほどんとなかつたという古老の話も亦この当時の区内諸村の姿を示しているといえる。

西巣鴨や滝野川、日暮里などの郡内各町では発展の度が著しく、他所より入りこむ人々が多数であるため、大正六年の寄留人口の本籍人口に対する比率は、西巣鴨二・七、滝野三二・四、日暮里二・五という数字を示すのに、区内の諸村などは本籍人口に対する寄留人口は微々たるものであつた。(大正六年末現在

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この表のように、ほとんど本籍人口が圧倒的で寄留人口など他町村に比べると問題にならないが、それでも石神井村や下練馬村には他から入りこんで来た人がかなりあり、農家の副業や使用人として従業していたことがわかる。大泉村にも他から寄留するものが四七一人もいることは、ここでも養蚕などの事業に人を使い出したからである。ただ養蚕や製絲関係のものが行われる村では女手を必要とするので、女子の人口の多い場合が多く、大泉村など僅かであるが女子が多いのはそれを物語るものといえよう。明治末年と大正中期の本籍、寄留を比較してみると次表の通りで、石神井、下練馬両村に特に他から移動した人が多いことがわかる。

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これによると一戸平均の人口が比較的多い。まだまだ純農村的姿を保つていて、労働力を必要としていた関係から

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一戸平均の人口が多いのであろう。大体この欧洲大戦中を一つの基点として、北豊島郡内においても豊多摩郡内においても少しづつではあるが農村からの変転の姿が見えて来た。大正九年に行つた国勢調査によると、年齢別人口、職業別人口は次表の通りである。

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震災直前の大正十一年末における区内諸村の人口をみると次表の通りである。

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震災前の大正十一年において、各村はこういう状況にあつた。大泉村のみ男女の差がわずかながら女子が多いのはやはり養蚕をやる点で女手を必要とした関係であろう。密度の点からみて、すでに下練馬村が他を圧している点、震災後における人口の漸増と相まつて、この頃よりすでに町型に転じる傾向にあり、昭和三年他村にさきがけて町制をしいたのも、すでにこの大正十一年の統計が示すように、この頃からそうした情勢にあつたことを物語つている。

<節>
第二節 大震災後から板橋区時代の人口増加
<本文>

こうして、次第にゆるやかにではあるが、区内諸村にも人口増加の傾向が強まつてきつつあつた。

大正十二年九月一日に起つた関東大震災に旧東京市は市中を焦土と化して、甚大な打撃を蒙つたが、附近の町村も焼失こそしなかつたけれどかなりの被害をうけた。しかし、これが転機となつて、郊外諸町村はわざわい転じて福となるの機会にめぐまれた。多くの旧十五区に住んでいた市民達が、郊外へとのがれてそこに定住をはじめ、通勤という形をとつて旧市内へ通いはじめたからである。

近郊の発展はめざましいものがあり、特に中央線沿線の発展はすばらしかつた。

区内の諸村までは急速な発展という影響がなかつたけれども、いま、明治末年から震災後の発展状況を比較してみると、

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という状況を示しており、また、大正九年以降の漸増の状況をみると次の通りである。

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このような人口増加の状況を他の町村に比べてみると、この大正九年より昭和五年の十年間に、荏原郡の荏原町の如きは大正九年には八千五百二十二人が昭和五年には十三万二千余と十五倍の激増を示し、北豊島でも尾久町の約九倍、長崎町の七倍半といつた驚異的増加率を見せている。

これに反して区内の如き全くその増加率は緩慢というより遅々たる状態にあつたということができる。

しかし、こうした大正九年国勢調査以来、市郡併合の年まで、人口増加の比較的緩漫であつた町村に対しては、二つの区別がなさるべきである。一つは、旧東京市に接続して早くより市街地化し、その人口も、大正九年頃すでに飽和状態に達していたか、或は飽和状態になりつつあつたもので、荏原郡では品川、大崎、豊多摩郡では渋谷千駄ケ谷淀橋、大久保、戸塚、北豊島郡では巣鴨、南千住、日暮里、高田、南葛飾郡では隅田町などがそれで、市の接続町がこの部類に属する。これに反して、他の一つは旧市域に接すること遠く、交通機関の未発達或は人口の増加は自然増が主をなすという大東京の外縁地帯で、大体農村地帯と一口によべる地域であつた。北豊島郡では赤塚村・上練馬村

・大泉村・石神井村が、南足立郡の江北・舎人・綾瀬・東淵江・花畑・淵江或は南葛飾郡の葛西・鹿本・篠崎・水元の各村と同じく、これらは一つの農村としてのグループに入る。しかも練馬区内に属する各町村は練馬町といえどもこのグループに入るべきものに属する程で、市域編入当時においては最も人口増加の少い町村二十五カ町村のうちにことごとくが入つていた状況である。

この人口増加の趨勢をみると、大震災までの区内各町村は、その増加の率も知れたもので、たいして発展のあとはみられず、相もかわらずの農村であつたことが、大正九年の人口によつて、よく示されている。

しかし、大正十二年の大震災は、さらでだに飽和状態にあつた旧市内の人々を郊外に追いやり、近郊の急激な人口増加、それに伴う市街地化を現出した。これが、農村の代表地区かのようにいわれた区内などの発展しはじめるそもそものきつかけをなしたのであつた。

中央線沿線、特に中野、高円寺、阿佐谷、荻窪などはめざましい発展をとげ、これと同時に池袋辺も多くの市民を定着させて発展し、武蔵野線沿線では東長崎、椎名町などが住宅街として、どしどし畑が宅地となつて、いわゆる文化住宅がたつて発展していつた。日本建築に洋風の応接間、赤い瓦の屋根といつた和洋折ちゆうの建物が続々と建ち、その影響は練馬や中新井に波及していつた。昭和十年頃からは武蔵野線という交通の便が、東上線という交通の便をもつ板橋志村などとともに、練馬中新井から石神井などを次第に発展させ、住宅地があちらにもこちらにも見うけられるといつた変貌を呈しはじめた。もちろん長崎や椎名町の発展が除々におしよせて来たので、他の旧市内隣接地区のように急激には発展せず、全体からみれば農村地帯の感はあつたが、それでも地価は練馬や石神井においては

鰻上りとまではゆかぬにしても、昔日の何倍かにはね上つて時ならぬ地主景気を現出した。それまでは中学校へいくのがせいぜいで、大学などにゆくことは稀だつた農家の子弟が、ふところに大金をもつて、ぶらぶら遊んでくらすといつた珍妙な姿も一時みられた。

もちろん、こうして宅地化し、住宅が増加し練馬や石神井に商店ができて新しい町型を形成してゆく地区もあつたが、それは区内全体からみればごく一部のことで、ひつくるめて区内をみれば広々とした畑に森、雑木林などが変化をつけ、その間を縫うように幾筋かの川や道路、線路が走り、道路沿いに人家が二列に走り、その間、ごく所々に密集地をみるといつた状態にすぎなかつたのだ。

昭和五年国勢調査をみると、次表のようになつており最も発展度の著しい板橋町に比較して区内の状況みをると、いろいろの点で、その差がよくわかろう。一世帯当り面積からみても有租地面積からみても、板橋の百坪台からみれば、大泉の四千坪台はいかにまだ農地や森林が多いかを示している。区内で開けたという言葉のいえるのはまず中新井や練馬、せいぜい石神井までであろう。さきの人口増加の状態からみても震災後の中新井・練馬の激増がとびぬけて著しい現象であるのも武蔵野線という交通機関に負う所が大きかつたようである。

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一例を震災直後の動態にみよう。当時の区内近辺の婚姻、離婚をみると、大正十四年現在で

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この表によると、Aの部は震災後急激に発展し、大正十四年末現在一カ年に一五〇から六五〇に及ぶ婚姻と一〇から五〇に及ぶ離姻数を示すほどの状態になつていた。A級のうち板橋のみは、他の町々と比較して、まだ人口増加の

状況が急激に上昇したとはいえ農村的な、それより一周り周辺に位するB級の村々に近いことを物語つている。B級は全部村で、震災後の市民の郊外への異常発展がそこまでは進出をみるに至らず農村的面影を残している所である。このうちでも長崎村や井萩村のように(和田堀内村や高井戸などもそのグループに属するが)A級へ近づく気配を示す所もある。こうした婚姻離婚の面からいつても、区内の村々は全くまだ「震災後の近郊町村の異常発展」という言葉で呼ぶことのできないそうしたグループに属さず、一歩遅れて農村地帯としてとどまつていた様がうかがえるのである。

昭和十年、漸く発展しはじめた頃の国勢調査に基いて各町別人口をみると次の通りで、中新井三丁目と練馬南町一丁目がとびぬけて人口増加を示し、その他練馬地区が人口が多いうちでも、西武電車の沿線にそつた町々が住宅地区として発展していることがよくわかる。

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昭和十二年頃より、東京はますます戦時色が濃厚になり、板橋区内にも軍需工場がどしどし建てられ、特に志村から戸田橋辺にかけて畑は急速に工場地帯に変化していつた。若い職工達が続々入りこみ、工員のための住宅が後から後からと建つて、住宅地区としての発展もいちじるしかつた。こうした他府県から入りこむ人々を加えて、東京市の人口は激増の一途を辿り、昭和十一年五九二万人を少しこしていたのが、昭和十五年には遂に六七七万八千という驚異的数字を示した。板橋区も昭和十一年には一五万四千であつたのが、昭和十五年十一月には二三三一一五人という激増ぶりであつた。こうして、板橋区は工場地帯として新興の勢にのつた発展が行われたのであるが、戦時態勢が一層強化されるにつれ、昭和十五年国勢調査が詳細な発表をみることなく、第二次大戦に突入したため、今の区内の地域がどの程度に人口増加が行われたか明らかではない。もちろん板橋区といつても、旧板橋町や志村辺が盛んに発展し

たので、いまの区内は当時その影響で住宅街としての発展が著しかつたことは推察できる。江古田、桜台、練馬、石神井の西武線四駅を中心にその線にそつた部分に急速な人口の増加が行われた。

昭和十一年の調査によると、中新井三丁目が飛びぬけて発展し、九五一世帯、四二三四人という数字を示し、ついで練馬南町が九一〇世帯四二七〇である。いま主な人口多数の町々をあげ、昭和八年と比較してみると、

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大体、昭和十一年に一町に二千人以上の人口をもつのは以上の町々で、これからみても西武線の沿線でも池袋によつた方が住宅地区として発展し、池袋から遠い石神井・大泉地区では下石神井二丁目が群をぬいて人口が多かつた以外は、まだまだ練馬地区に比べると発展がおくれていたことを示している。

しかし、昭和十六年十二月の日米開戦以後、戦時態勢が強化されるにつれて応召徴用相つぎ、更に疎開の問題がおきたりして区内の人口は次第に下り坂となり、ことに十九年十月末からはじまつた米軍の大空襲が、武蔵野市にある中島飛行場をねらつたため、区内にも爆弾の被害が多く、どんどん疎開するものができて、石神井練馬の住宅地は空家だらけとなり、昭和十五年を頂点とした人口の増加も、すつかり逆に人口減少の一途をたどり、戦災を蒙つた地域も一部にあつて、二十年六月末には板橋区内の人口九万七千人(推定)と全く激減してしまつた。

<章>

第三章 農村としてのあゆみ

<節>
第一節 農村としての練馬区の位置
<本文>

江戸時代の項で述べたように、江戸に隣接する村々は、江戸市民の食膳に供する野菜作りに全力をそそぐことによつて、地方の農村における農民とは比較にならぬ恵まれた生活(といつても地主や自作農についてのことで、小作は依然としてみじめな生活に終止したのではあつたが)をつづけることができたのである。明治維新における彰義隊の事件や、武家の崩壊による社会階層の一変によつて、新しい首都となつた東京も一時はみる影もなくさびれはてた。武家屋敷も新政府の役所や要人の邸に接収された外は荒れるに任せる有様で、市民は四散し、人口の激減によつて、江戸市民の食膳に新鮮な野菜を供給することによりその副業を本業化していた隣接農民は、供給の道を一時たたれて大きな打撃を蒙る者も少くなかつた。

維新政府は、東京の急激な衰退を補うために朱引内の隣接町村との境界に桑茶を植え市内の一部を農村化することによつて救済してゆこうと考えたほどであつたが、新政府の東京における勢力の確立してゆくにつれて、そうした事は紀憂にすぎないことがわかつた。東京は発展の一途を辿り、隣接の村々は新東京の市民のために野菜を作つて食膳に供することにより、その生活の道をたてられるように再びなつていつた。

では、蔬菜栽培地域は何故都市に接近した郊村に行われるのであろうか。北豊島郡内でも王子、滝野川、赤羽、板橋、赤塚などと共に区内は有数の蔬菜栽培地であり、江戸川、足立、葛飾などの低湿地農業地帯に対する乾燥農業地帯として、東京市民の蔬菜供給の上に大きな役割を演じた力は何であつたか。

都市とは、大消費地を意味していることはいう迄もないことである。蔬菜栽培地域は、この大消費地に接していることが先決の条件である。接近しているということは、新鮮な蔬菜の短時間による供給という必須の条件をそろえていることになる。蔬菜が遠方からくる場合は第一に新鮮さを失つてしまう。江戸ツ子が東京ツ子にうつり変つても、江戸ツ子の初物食いのぜいたく心、見栄坊といつた気持にはかわりがない。それには初物を一日も早く供給しうる近接地という条件が必要である。その次に運賃、運送等の条件が近接していればいるほど有利である。江戸ツ子が常に初物に高価な値をつけて食することを自慢するのをいましめる法令が出ていたが、この気持は、東京と改まつても変りはなかつた。だから近接農村はこれをやめられぬ訳がそこにあつた。この外に肥料の問題がある。蔬菜栽培は、多経営のため土地の消耕度がはげしい。そのために多量の肥料を必要とする。この肥料として特に必要な人糞、尿屎は大都市が人口を多数かかえている関係で常に供給しうることになる。こうした相互関係が、区内のような近接農村を特に蔬菜作りの農村地として存続させる第一の原因であつたのだ。

江戸時代以来この都市東京の隣接町村における蔬菜栽培に大きな一つの立地条件があつた。それは、地質との関係、土性という問題である。

杉並や世田谷などと共に練馬、板橋、瀬野川などは高燥な関東ロームの土地であつてその点からも好適といえるの

である。

赤羽や、王子、袋、荒川の尾久、千住、あるいは江戸川や葛飾の俗にいう葛西地方はこれと異り、粘土と砂礫を含んだ沖積層である。こうした砂や粘土で作られた多湿地帯では葉菜類が主で、ねぎや菜類がその特産で、根菜類では根の短いものが適し、そこに練馬大根を代表とし、にんじん、ごぼうなどを特産とする練馬板橋地帯と根本的に相違を示している。

古老の話に「荒川が大水だとか、雨が多いといつた気候の年は、練馬の農家の人々は、今年は葛西の連中はだめだが、私達の村は大豊作だ」といつて喜ぶ、「荒川ぞいの村々の人や古利根川地帯の人々が大豊作だといつてよろこぶ年は、練馬方面は日でりつづきで野菜は不作、向うの人々にざまあみろなどといわれた。」などと一年中対立的な感情をもつていたという。こうしたことが区内の東京市民への蔬菜の供給に一つの特色をもつていたといえよう。

<節>
第二節 明治時代の農業
<本文>

明治初年の区内農業、江戸時代の区内の農村のすがたは、前述のように江戸市民からの肥料の供給、それによる蔬菜の栽培、市民の食膳への生産物の提供という形をとつて発展して来たのであつた。

しかし、明治維新において区内の一部農家は大きな打撃を蒙つた。それは肥料を大量に特権的に提供をうけて来た武家屋敷が、武家階級の崩壊、国許への一時引上げ、旗本達の四散というみじめな変転を示したからである。一時、江戸が東京と改まつてしばらくの間は新政府の軍政下にあり、武家屋敷は主人を失つて荒れるにまかせる有様で、一

般町家の人々のちにも家財道具をたたんで他へ転ずる人もあり、御府内一二〇万といわれた人口も三〇万代にへるという減少ぶりで、さびれにさびれた。ここで肥料である糞尿の汲取りに支障をきたしたことはいうまでもない。この危機をどうして切り抜けたのかは、史料に乏しく判明しないが、江戸をとりまく村々にとつては大きな問題であつたろう。

沢庵漬を大量におさめる武家屋敷や漬物問屋なども一時取引を中止したろうし、その方面での混乱もあつたであろう。しかし、こうした大きな変化であつたのに拘わらず、その間のいろいろのいきさつは判明しない。

明治天皇が十月東京に着かれ、一たん京都にお帰りになつたが、二年三月再び東京にお出になつたまま帰られなかつたために東京は事実上の首府となり、政府諸機関の整備とまつて次第に人心の安定、秩序の回復をとり戻し、年と共に新しい人々による新しい東京=たとえはじめは地方出の官員さんが圧倒的に巾をきかせていたにせよ、文化生活慣習の上では江戸をうけついだ所の東京=が発展の途をたどつたから、再び市民への蔬菜供給は活溌となり、区内の村々も一時の混乱など忘れたように農産物の生産、出荷にいそしむことになつていつた。

いま、明治六年から七年にかけての資料を記載した「東京府志料」によつて、明治初年の区内各村の状況をみると、次の表の通りである。これが、大体幕末からのほとんど変らぬ区内村々の姿であるといえる。

別表1に示す各村の状況は、江戸時代における幕末区内各村の姿とほとんど差のないものと断定してよかろう。郡制のしかれるまでの区内においては、戸口において上練馬、下練馬がとりわけ大きな村であつた。田畑においても、それはもちろん同様のことがいえよう。

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水田よりは畑作が多く、この外、麦などが農家経済の中心であつたことはいうまでもない。江戸時代から市民に好

評を博した練馬大根の沢庵漬は、副業というより経済面では主力をなすものであつたようである。

幕末の区内の農家には、かなり運搬用のため馬が飼育されて上練馬、下練馬が九九、九八と四一七戸、五五〇戸に対して二割四分、一割八分近くに当つている。大体、他村の比率もそんなに高い比率ではない。農車は、農家経済の上に重要なもので運搬用として各村々で市場へ産物を出すために持つていたようで、小作と自作地主の比は明かでないが、市民の食膳に供する野菜の運搬や肥料としての糞尿を運ぶためには必需品的性質を帯びていた。上練馬の四一七戸このうち八割五分が純農家としても一一五九の農車を所蔵していることは、当時の農村として村の規模がどんなに大きかつたかを察することができよう。ただ上石神井村が一七五戸のうち馬一〇、牛二頭をもちながら農車の記録がないのは一寸不思議で、この理由は理解に苦しむである。自作小作の比が大体六対四という明治十八年の上練馬の記録によつて他村を推すことは危険であるが、中新井、谷原、田中、下練馬、上下石神井、関、上下土支田の各村々が、畑が一戸平均一町歩以上にあたることは、勿論大きな地主があつたにしても可なり農家としては他の村々より一家平均の田畑面積が大きいことを示しているといえよう。

別表2の示す明治初年の区内産物をみると、名物の沢庵漬は、上練馬、下練馬の両村と中新井村が主力をなしており、中村がこれにつぎ、大きな農村でありながら上下両石神井村が問題にならない数量なのは、干大根がほとんど作られない状況とあわせ考えても、まだ沢庵の生産が石神井方面には好条件をもたらさなかつたとみてよかろう。それと距離的に石神井が東京より遠距離になる為、やはり練馬両村や中新井などとは生産物の重点のおき方がちがつていたことがわかる。(年がたつにつれて、次第にこれが石神井方面に及んでいつた。)

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いずれにしても、このような農業生産の毎日がくりかえされて明治時代が経過したことが推察される。ただ、養蚕が一時明治十年以降区内の村々にも影響を与え、これにかなりの力をそそぐ村々も出てきたが、「まゆ」に対する市況の変化の影響をうけて収入額が常でない点が本格的な養蚕の村にしなかつた理由のようである。

渡辺府知事が明治十八年府下を視察した時、北豊島郡役所より提出の概況報告には、当時の状況を次の如く記している。

<資料文>

本郡農家生計ノ概況、明治十年以前ニ在テハ地税法二百年前ノ旧制ニ拠リ縄延又ハ地税法地(味良地ナルモ税厚ケレバ売買上価低ク、粗悪ナルモ税薄ケレバ価昂シ、<外字 alt="判読不能">〓ニ地税厚薄ニ因リ価ヲ定ムルモノノ如シ。)不平準村費ニ定限無リシモ、改租整理ノ後十二三年ノ交ニ至リ納税ノ手順簡易明確施テ地方税町村費ニ至ル迄会議ノ決定ヲ経テ賦課スルニ付、無算蒙昧ノ納税者ニ至ルモ自ラ算出シ易ク、故ニ少ク資力アルモノハ土地ヲ需ムルニ傾向シ、是時ニ当テ流通紙幣頓ニ増加シ、連年豊穰収穀益多ク物価弥騰リ農家ノ僥倖多額ノ金銭ヲ収得セシニ付、民心漸ク奢侈ニ傾キ衣食住ハ華美ヲ好ミ、自ラ開化人ト称シ農業ヲ迂遠ナリシトテ商業ニ移ルモノ多ク、或ハ農家第一ノ宝ハ土地ナリトノ通慣ヲ固守シ、利益ノ厚薄ヲ算セズ、競争地所ヲ需メシヨリ原因シテ非常ノ高価ヲ来セシナリ。十五年中ヨリ漸々物価低落シ、サキニ商業ヲ起セシモ若干ノ損害ヲ来シ、農産物ハ東京ヘ販売スルモ価低落シテ旧年ノ半額ニ至ル、小民ハ豪民ニ憑拠シテ生計ヲ立ツレバ村落ノ常態ナルニ豪民倒シテ小民ヲ庇廕スル能ハズ、然シテ中農ハ依然旧態ヲ変更セズ、是迄時ノ概況ナリ。又土地価額ノ昂低ハ地方ノ盛衰ヲ来スルニ足ル、故ニ左表ニ掲ク、然レトモ十三四年ノ騰貴ハ前項ニ述ル如ク人気軽躁ニシテ競争セシナリ。近時ノ低落ハ着実ニ帰シテ沈定セシモノナリ。

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以上土地によつて多少の差はあつても、大体北豊島郡の農村地帯の状況はこのようなものであつたろう。ただ、区内の地が他に比して最も純農村的であつたとはいえよう。ついで郡内の特産物をあげているが区内の特産として

<資料文>

【茶】本郡製茶ノ沿革安政年間横浜開港以前ニ在テハ茶ヲ播種スルモノ無シ、唯王子村西ケ原村ニ於テ旧江戸茶商ノ試植園僅々アルノミ、貿易交通以後、此近傍板橋巣鴨中里田端十条ノ諸村ニ蕃殖セシハ王子西ケ原ヨリ伝播セシモノナリ、此反別ハ、拾五町歩、又石神井村、関、土支田、練馬、谷原、中新井ノ諸村、貿易以後始メテ播種シ、狭山(神奈川県製茶有名ノ地)ノ製造ニナラヒ、有志者ノ誘導ニ拠リ、漸々繁殖シ、此最寄ノ茶園八拾町ノ多キニ至ル、昨今両年共(十七、十八年)初夏霜害ニアヒ収量減セシノミナラズ相場低落旁該業退歩ノ姿ナリシモ茶業組合規則相立シニ付、漸次改良進歩ニ趣ク可キト信ス

【蚕絲】本郡蚕絲ノ沿革横浜開港以前ニ在テハ関、石神井、土支田等ノ諸村ニ於テ僅々養蚕者アルモ各自ノ着料ニ過ギズ、貿易交通以後奮テ桑樹裁植シ、且ツ有志者ノ誘導ニ拠リ田中、谷原、練馬、中新井村及ビ荒川沿村成増赤塚徳丸四ツ葉及東多摩郡村々へ伝播シ、大ニ進歩ノ状況ナリシモ、十五六年ノ交ヨリ製絲家巨多ノ損害ヲ来シ、ヒイテ養蚕進歩ノ勢ヲ挫キ、且蚕業日尚浅ク其養法充分ナラズ、旁以カタハヲテ養蚕ノ業退歩ノ景況ナリ、然レドモ今回蚕絲組合設置準則ノ領布アリシニ付、此機会ヲ失セズ改良回復ノ手段期望スル所ナリ。

と記してある。農村として蚕業は一時不振の時代ではあつたが、この頃が区内の農村などが比較的うるおつていた時代だつたようである。

明治十八年七月渡辺府知事の巡見記録は区内の当時の状況を窺うことができて興味深いものがある。以下列挙してみることとする。

<資料文>

     下練馬村                       戸長 大木泰孝

午後四時四十分下練馬村戸長大木泰孝宅ニ至ル。

同村田畑比較田ハ畑ノ十分一、地価ハ九万八千円、惣反別六百町歩ナリ。

一等畑ノ地価壱反三拾円位、其売買ハ最上等ニテ二十七八円、通例二十五円、下等地十五円、田ハ五十円位ナラン、田ノ地価モ亦五十円程ナリ、村内田少キ為メ其割合畑ヨリ高シ、

食物ハ挽割麦ヲ交ヘ、麦八分米二分位ナリ、魚類等ヲ食スルハ五日間ニ一度位、干物目指(差)鰯等ヲ食スル位ナリ、蘿蔔ダイコンハ土地有名ノモノト雖モ、当今之ヲ裁培スルモノ甚少シ、シカシテ現今其之ヲ盛ニスルハ上下十条村(現北区)辺ヲ最トスルコトトハナレリ、当地ハ芋甘藷ヲ作ルモノ多シ、一日ノ中一度ハ必ス芋ヲ常食トスル習慣ナリ、

戸数六百余、其内旧穢多百戸アリ、是ハ従前ノ習慣ニテ竹皮細工ヲ事トス。近来此輩大ニ貧困ニ陥リ路傍ニ乞食スルモノアルニ至ル、郡長及戸長ニ於テ懇篤説諭スルモ其当時ハ幾分改悛ノ形迹アルモ忽チ又再ビ之ヲ為スニ至ル。右百戸中乞食ヲセザルハ僅々五六人ニ過キズ、又一体此人種ハ学校ニ入レントスルモ、他人之ヲ忌嫌シ、当局者ハ甚之ニ困却セリ、地所ヲ持ツモノハ百戸ニテ拾二三町ノ所有アル迄ナレバ、土地ヨリ生ズル所ハ僅ニ幾分ノ食料ニモ足ラズ。

旧来ノ人民ハ皆農ヲ営ム、近来此辺ノ景況甚宜シカラズ、養蚕ハ甚少ク、茶ハ少々アレドモ余リ利益ナシ、地面ヲ多ク持ツモノハ概ネ小作ニ出ス、村内ニテ小作直作ノ割合ハ小作四分直作六分ナリ、村民ノ労働ハ充分之ヲ為ス。東京ヘノ運送ハ皆車運ナリ。

産物ハ昔時ニ比スレバ遥ニ増殖セリト雖トモ、諸品廉価ノ為メ儲蓄等ヲセシモノナシ。然レドモ一体歳計ニ不足ヲ告ルモノハ

少シ。農業ノ仕方ハ従前ト異ルコトナシ。海産ノ肥料ハ田ニハ之ヲ使用スルモ畑ハ大概下肥ヲ使用ス。下肥ハ東京ヨリ来リ、之ニ交ユルニ糠ヲ以テス。馬ハ近来其数ヲ減シ、当今拾頭バカリトナレリ。公証ヲ為セシ借金ハ昨年ニ比スレバ少々減額セシナレドモ、売買ハ余程増殖ス。其売買モ多クハ村内亘ノ間ナリ。抵当ノ金ハ東京ヨリ来ルモノ多シ。借金ノ高ハ現在三千円程ナラン。一体質素ノ村柄ニテ、明治十二三年頃世間物価騰貴ノ際急ニ奢侈ニ移リシモノナク、蝙蝠傘ヲ所持シテ出歩行アルク如キモノ至テ少ナシ。

右物価騰貴ノ際他借シテ田畑ヲ買入レタル等ノモノアリ。此輩ハ現今田畑価格下落セシニヨリ困難セリ、地方税協議費迄ニテ合テ二千六百円程ノ出金ナリ。

     上、下土支田村                 上土支田村戸長     加藤源三郎

田畑ノ比例、畑多シ、養蚕ハ三四年来余程開ケ人民モ追々勉強シテ之ニ従事ス。一旦此業ニ就クトキハ其利益米麦ノ上ニアルヲ感ジ、年々増殖スル場合ナリ、蚕種ハ信州辺ヨリ来ル、又間ニハ土地ニテ製スルモノモアリ、三、五年以前ハ村内ニテ飼養スルハ四五枚位ナリシガ目今五拾枚位掃立ルコトトハナレリ、其販売方ハ繭ニテ売却スルモアリ、又製糸ニテ売払フアリ、繭ニテ売ルモノハ村内甲乙互ニ之ヲ取引スルコトアリ、製糸ハ八王子辺ヨリ商人来リテ之ヲ買集ム。村内ニ繭ナラビニ桑ヲ売買スル場所即チ市場ノ如キモノアリ、従前共進会等ニ出品セシモノモアリ。

製茶モ近年追々増殖ス。

畑作ハ小麦ヲ多シトスレドモ、其収穫ハ茶桑ニ及バズ、其他農業ハ只衣食ノ資トナス迄ノ収利ニ止リ、誠ニ望ミナキ姿ナリ。本年(明治十八年)ハ秋作ノ豊穰ナルタメ、幾分カ年来ノ負債ヲ償却セシモノアリ、秋作ハ陸、稲、藍、芋、甘藷等ナリ、陸稲ハ一反ニ付収穫一石ヨリ八斗位ノ間ニアリ、水稲米相場差違ハ目今一円ニ一升五合程ナリ。

地価田ハ一反四拾円位、畑ハ廿円ヨリ廿五円位ナリ、本年陸稲甚ダ利益アリ、該村ニ水冠ノ地ナシ、陸稲ハ麦ト二作スルナ

リ。麦ハ一反普通三俵(五斗入)又ハ四俵ノ間ナリ。大麦ハ食料トシ、小麦ハ売買ス。大麦ノ方割合ヨロシトノコトナリ。

     小グレ村   (当時は埼玉県に属していた)

夫ヨリ埼玉県ニ至ル、此所ハ小水流(註白子川)ニテ界ヲ為シ、上下土支田村ト新座郡小榑村トノ境ナリ、此辺ノ桑畑ハ二三年前ノ植付ニ係レリ、地味能ク桑ニ適スト云フ。

     上石神井村                   戸長 田中伝吉

(村の概況の記載がなく三宝寺池、三宝寺見学の後栗原仲右衛門の製絲工場興就社見学の記事となる)

夫ヨリ興就社製絲場ニ至ル、此場ハ明治十二年ノ創立ニシテ示来引続営業ス。寒中ノ外休業スルコトナシ。繭一升ニ付平均製糸八匁ヲ得ル、生繭ノ時節ハ九匁十匁ニ上ルコトアリ、工女ハ食料ヲ社ニテ支弁シ、一ケ月月給最上ハ三円五拾銭、下ハ壱円五拾銭ナリ、最モ不熟練ノ者ハ壱円ヲ給スルモアリ、食料ハ一人平均凡ソ六七銭ヲ要ス、故ニ上等ノ工女ニテ一日拾七八銭ヲ要スル計算ナリ、目下工女五拾人アリ、製糸ニ使用ノ蒸気器械ハ五馬力ヲ有シ、一日松薪三拾壱二把ヲ要ス。此相場目今弐拾把ニテ壱円五拾銭位ナリ、繭ノ相場ハ壱円ニ付弐百匁、升ニシテ六升程ナリ。是ハ生繭ノ節ニテ当今ハ四升五合位ナリ、製糸ノ相場目今五百枚位故ニ一円ニ三拾三匁五分ニ当ル、其利益上ヲ計算スルトキハ夏ノ繭ハ相当利益アレトモ当今ノ繭ニテハ却テ不利ナリ、又一駄ノ糸売捌済迄ニ要スル入費ハ五百円ナリ。外ニ売口銭トシテ千円ニ対シ拾円ヲ要ス。又生糸一個ノ売代金弐百七十円程ナレバ壱駄ハ即チ千百円程ニ相当ス。該社資本ハ最初金壱万円ナリシガ、建築等ノタメ費用シ、当時運転資本ハ四千円程ナリ。サキニハ維持困難ノタメ休業セントセシモ、工女ノ困難モアリ、旁ラ労働時間ヲ増シ、休業セザルコトトシ、二十日程以前ヨリ朝ハ四時ヨリ始業、タハ点灯シテ従業スルコトトセシヨリ、工女ハ近村ノモノナシ、皆東京中ノ辺鄙ヘンビノ場所ヨリ来ル、近村ノ者来ラザルハ婚嫁ノ後業ヲ為ス能ハズトノ故ヲ以テナリ。

午前第十一時二十分右興就社々長栗原仲右衛門方へ着午饗ヲ喫ス。

関村、下石神井村 下石神井村戸長 豊田勝五郎

関村、下石神井村戸長出頭ス。此村々ハ余リ悪カラヌ村々ナリ。

田畑ノ釣合ハ畑多ク林モ亦多シ、田ハ僅少ナリ、関村連合ニテ戸数三百二十戸、地価六万円、物産ハ茶、糸其他雑穀小麦等ナリ。借金ハ二万円程アリ、其内運転スルモノト費消セシモノトノ歩合ハ折半位ナラン。抵当物ヲ売リ、又ハ返済シタルモノアリテ十七年ニ比スレバ余程減少セリ。桑茶ハ益々盛大ノ傾キアリ、貸借ハ村内限リ甲乙流通スルモノヲ多シトス。

下石神井村ノ借金ハ追々減少セリ。該村ニテハ維新以来新事業ヲ起シタルモノ多キガタメ財産ヲ消費セシモノ少ナカラズ。然レドモ該村及近傍村々ニ於テ桑茶ノ進歩セシコトハ他ニ比類ナカルベシ、養蚕ノ季合殊ニヨロシ、蓋シ其効能ナラン。

     谷原村、田中村   (概況の記載なし)     戸長 横山 富右衛門

     中新井村、中村                 戸長 森田文超

中新井村戸数百三拾戸、中村戸数八十戸共ニ農業一方ナリ。畑多ク田至テ少シ、養蚕并製茶等僅々ニテ数フルニ足ラズ。従来両村人気ハ至テ不レ宜、戸長ノ煩ヒナルコト数回アリシトカ。近頃大ニ静穏トナレリ。村内生活上困窮スル者ナキニ非サレドモ其今日ノ衣食ニ差支ルモノノ如キハ稀ニ見ル所ナリ。

中村ハ一体訴訟ヲ好ムノ村ニテ、結局戸長ノ煩ヒナルコト多カリシガ、近来ハ著シク其数ヲ減シタリ。

以上にみる通り、日清戦役頃までの区内は純農村であつて、上石神井、下石神井に製絲工業(後述)があつたのみという状況である。こうした農村としての姿は殆んど変貌することなく大正期にひきつがれたもののようである。

地主と自作小作との関係状況が資料に乏しくよく判明しないが、大泉、関村などに当る地域(関、上下土支田)などでは自作が非常に多くその土地に地主があつて、同村内の小作が耕地を借用して耕作していた所もあつたようだ。

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上下石神井から練馬方面にかけては埼玉県側に大地主があつて、その小作として区内の村に住む人々が耕作していた所も少くなかつたようで、ある地域ではまことに零細な土地にしがみついて農業を営むといつた毎日かくりかえされていた。

<節>
第三節 大正時代の農業
<本文>

大正三年、欧洲の天地風雲急をつげ、サラエボに起つた皇太子暗殺事件に端を発して、独墺対英仏伊等の連合軍の間に戦闘が開始され、ついで米国の参戦によつて大きな波紋をまき越し、日本も日英同盟のよしみによつて連合軍に加盟して、青島に出兵するに至つた。

しかし、日本としては専ら輸出による貿易の利を得、輸送による利潤の獲得につとめた。日本資本主義の発展は、この第一次大戦を契機として目覚ましいものがあつた。

いま「北豊島郡誌」にのせてある、大正六、七年頃の区内農村の概況を示そう。こうした一般状況にもかゝわらず当時の区内がまだ農村の姿を保つており、多少商業を営む家ができていた程度であつたことがわかる。

<資料文>

 練馬村

本村は下練馬村と共に天下に著れたる大根の産地にして全村殆と之が耕作に従事す。(中略)また村内水田少きを以て水稲の産額多からざるも、陸田の作物は品種も多く、果も佳良なり。但帝都を距ることや、遠きを以て蔬菜の搬出容易ならず、農家の努力実に意思の外に在り、下練馬村と同じく下駄表の製産また尠からず。

 下練馬村

本村総面積六百三十四町歩余の中耕地は五百十一町歩に達す。即ち全土の約八割なり。また農作に従事するものは全村八百九十戸につき七百戸以上を算す。実に農業は本村の主要生業なりとす。但地勢水田に乏しく、耕地の九分は畑地なるを以て米麦の如き主要農産に重きを置く能はず、主として帝都の需用に応ずべく蔬菜裁培に全力を傾倒するに至れるまた自然の勢なりとす。蔬菜中本村の特色にして天下に著聞せる練馬大根に関して、既に記載せり。(後略

この両村の特徴とするところが、あくまで東京市民の台所に直結する野菜の生産にあつたことは、いう迄もないことである。

この外、下駄表の生産が両村の主要産業であつたことも注目に価しよう。

 石神井村

本村は地味膏腴にして農業に適す。畑作は大麦、小麦、陸稲、蘿蔔ダイコンを主とし、是につぐに黍、稗、芋、甘藷、牛蒡、胡瓜、茄子、胡蘿蔔ニンジン、豆類、菜類、馬鈴薯等の産額をあぐべし、就中蔬菜類は東京市中に販出さるるを以て年々作付反別を増加するの勢あり、又た大根は沢庵漬として売出すもの多し。近年蔬菜類に亜で、養蚕、製茶等の副業著しく発達し来れるは注目すべき現象なりとす。

左に最近の調査にかかる農産物年産額を掲げん。

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 大泉村

村内二三の小売営業を除きて、他はみな農業に従事し、少許の宅地と山林と官用地等を除きては、全土みな耕地にして、実に七百五十町歩に達せり。従て米麦蔬菜の収穫多く、郡内屈指の大農村なりとす。(後略)(北豊島郡誌)

このように作物の変遷に従つて、一番減少の傾向をたどつたのは、穀菽類では稗・粟・大豆、特用作物類では桑・茶及び藍である。

特に、稗の減じたのは農家の常食が米麦に転じたことと、かつこれを飼料とした馬の飼養が荷車の利用で減少して

稗をさほど必要としなくなつたこと及び幕府時代代官支配地における備荒用として稗をたくわえておく制度が維新後改正されたことなどによるものといわれている。

区内のような水田の少い土地では、陸稲と大麦とは益々常食として作付反別が増加していつた。ことに、大麦はその収穫期が小麦の収穫期より十日前後早いため、蔬菜の栽培が区内諸村にとつては重要な「畑作」である関係上、この期間が小麦より早いという点が活用されて、野菜栽培の上から大麦の作付面積が増加していつた。

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桑と茶の減少は、その収益が野菜生産額に比して遠く及ばないためで、特に、欧洲大戦の好況時代においてすら、桑園一反歩より産する桑葉三百貫で飼養した蚕種一枚から、わずか繭十貫目の売価四十円を得るにすぎなかつたという。絹織物の衰退は、大正大震災後特に近郊農村の発展と相まつて、桑園をなくし、養蚕を中止させていつた。

野菜を例にとつてみると、欧洲大戦の好況時、きゆうり一反歩の売上げは百円に達し、その上冬作として麦が作付できて、その一反歩の売上げは三〇円を得たというのであるから、桑園というものが減じてゆくのも当然のことで、ここに大正時代以降の区内農村のすすむべき道がはつきりと示されていた。

茶も次第に上下練馬や石神井地区から時とともに大泉地区に移つてゆく傾向を示し、さらにこれが三多摩地方へと移行してゆく進路を示した。茶は自家の飲料用としての製作は別として商品としては割合に収入にならず、労銀の高くなるにつれて生産の収益がはかばかしくないため次第に中止されてゆき、大泉地区のみが大正の末から昭和へかけても栽培を行つていく状態となつた。

下練馬などを例にとると、明治十年頃までは稗や粟や<圏点 style="sesame">そばも作り茶も製し、養蚕もいとなんでいたという。(府志料六・七年の状況参照)それが、欧洲大戦当時にはもうすつかりこうしたものは生産されなくなつていつたという点からみても、練馬地区特に下練馬ではこの頃より次第に東京市との結びつき――町型化の傾向があらわれはじめたとみるべきであろう。

大正時代になつて、農家の収入の七割を野菜に負うという状態になつたということは、東京市民の食膳への野菜の供給が、いかに区内農村にとつてかくべからざる関連になつていたかを示すものである。

しかし、大泉村などでは明治初年から中期にかけては穀類――特に陸稲や麦が主であつたのが、日清戦争から日露戦争へかけての好況と、東京市の発展による人口の増加、食膳に供する野菜の需要の高まり、或は交通の発達に伴う道路の改良などに影響され、大正に入つてはむしろ重点は上練馬・下練馬のように野菜の上におかれるように変化していつたという。

そうした点から区内の各農村はその経営方針を集約的にすると共に、労力が一家族で供給できる範囲内での経営反別にしてゆこうとする傾向が目立つようになると共に、一部には大地主として資本の投入によつて大規模な商業本位

的な経営を考える者もあつて、面白い対照をなしていたという。勿論春秋二季の農繁期には前者においても埼玉・栃木・群馬・新潟方面からの人を臨時に雇入れて労力を補う方法をとつたが、後者においては年ぎめの契約で奉公人を多数使い、小作人と協力させるという方針をとつていた。

いま、標準農家として耕作反別二町の大正六・七年当時の下練馬村における池田長次郎氏の経営をみると(「帝都と近郊」所載)次の表の通りになる。

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区内には水田が少いので、この標準に示したのはやや区内としては特殊な形であるが、一般的にはこうした経営が近郊農村として東京への野菜の供給という点からみて、一番妥当な形であろう。

しかも、これには冬作の麦が省略されているから、この点はこの経営に麦を加算しなければならない。大麦、小麦がかなり作られたことは前述の通りである。

「北豊島郡誌」には、すでに大正六、七年頃の北豊島郡のうち旧市域に近接する町村の市街地化の傾向を記して「農業年を追ふて衰退し、或は既に全く農作地をあまさざるものあり」とのべ、純然たる農村の形態をとどめているのは郡の西部地域、石神井、大泉、上下練馬、赤塚、志、上板橋、中新井、長崎等の諸村のみといい、「以上の農村すら、土地の宅地又は工業用地に変換するもの年々少からず、林野の開墾によつて、若干の新耕地を起し、僅に田畑の積を維持するの現状に在り」と発展は遅れてはいるが次第に変貌しつつある区内農村地帯の姿を描いている。

一時的にしろ、欧洲大戦によつて好況をむかえた市況は、その終了と同時に不況の声におびやかされるようになつた。関東の大震災は大正九年の不況騒ぎを一時延命したかの感があつたが、やがて昭和二年のモラトリアム以来世界的の不況の波がおしよせた。東北農民などの苦しみにくらべれば、本区のような純農村地帯は都市東京をひかえ、市民の食膳にのぼす野菜の栽培出荷によつてはるかに収入もあつたし、また東京市に近接した練馬などでは畑地が震災後の郊外の発展人口増加の影響をうけて、どしどし宅地に変つていき、地主達は懐手していて値上りした土地の代金が入つてくるという状態であつたが、小作人や或は自作小作をとわず二男三男の職業問題は、こうした好況の農村地帯である本区などの深刻の悩みの種となりつつあつた。

<節>

第四節 震災後の変化
<本文>

昭和時代になると、まず大正大震災後の郊外の発展という大きな変動のために、区内の地に減反の状況が著しくなつた。畑地が減少して宅地にどしどし変つてゆく傾向が生じたため、区内もその影響をうけて練馬町などでは特に市街地化がはげしくなつていつた。このため、区内の特色を示す大根の生産も、その元来の名の起りの上・下練馬地区から次第に影をうすくしていつて、むしろ大泉や石神井にその主力が移つた。耕地の住宅地化はこうして練馬区内の各町村に農業の衰退現象を示したが、昭和七年の市域拡張による板橋区の誕生の頃となると次第にこれがはげしくなつていつた。しかし、日支事変から今次の第二次世界大戦へと時局が大きく転換するにつれて、再び食糧増産の目標のもとに農地の増加が要求され、区内もそのため一時かなり農業生産の面が活況を呈するようになつた。

市郡併合、板橋区誕生当時の区内の主要農産物はきゆうり(豊島)、南瓜(縮面)西瓜(大和)越瓜(奈良漬)茄子(山茄)(真黒)トマト、大根(練馬長)(美濃早生)にんじん(大長)ごぼう(滝ノ川)瓜哇薯、里芋、らつきよう、結求白菜、玉蜀黍となつており、特に練馬大根採種が練馬町の特産物としてあげられている。このほか、植木及び盆栽がかなり商業的目的で行われていた。

しかし、これらの生産物も次第に都心に近い方の区域が市街地化し、住宅街となり、宅地がどしどし増加する状勢となると、耕地面積は減少につぐ減少といつた変化をみせ、練馬町や中新井などの農業は影がうすくなつてゆき、石神井や大泉地区にむしろ区内農業の主力がおかれるようになつていつた。

大正十五年の調査をみると、震災後養蚕は急速におとろえ、近郊農村の宅地化、市街地化とともに荏原郡では世田谷町のみ、豊多摩郡では井萩と高井戸の二町、北豊島郡では志村、大泉、石神井、下練馬の四村のみが養蚕農家のある村としてあげられているにすぎない。しかも飼養農家は世田谷八、井萩八、志村九、下練馬一などという少数であり高井戸町も三四戸にすぎず、僅かに区内の大泉村一七三戸、石神井村三一七戸が養蚕をやる村というに足りる状態である。いま区内三村の繭産額をみると春蚕の方が飼養する戸数は少し多いが、大体春蚕を飼養する家では夏秋蚕もやるというのが通例であつたようだ。しかし、その後次第に人口の増加、農村の変化――宅地化への転換がはじまつてゆくにつれて、養蚕をやるということが野菜作り以上に女手を要することや、その割に繭の安いこと、野菜の収入の方が利益になることなど、いろいろの条件で、区内の諸村は養蚕をやる農家が急速度に減少していつたのである。

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震災後の区内農家の経営に大きな変化をもたらしたのは、都市計画による道路の整備であつた。府及び市の手によ

つて、都心から郊外へつなぐ一連の路線が大きく改良された。このことは農業組合の指導と相まつて、トラックによる市場への共同出荷ということを可能にした。収入の点にも大きく影響したことはいうまでもない。練馬などの沢庵漬を専業とする家では、個人でトラックを利用する大量出荷が可能になつていつた。道路の拡げられたことが、どの位区内の農家に利益をもたらしたか計り知れぬものがある。大根ばかりか、大泉などでは西瓜の栽培がトラックによる共同出荷と相まつて一つの村の特産となる程だつたのである。

ところが、いま迄田畑を耕すこと以外に経済方法を知らなかつた区内村民の頭をグラツカせて来たのが、日清日露両役を転機としての商工業の勃発であつた。赤塚、上練馬、大泉のように東京市へ割合に遠かつた方はそうでもなかつたが、その他の村村では、祖先譲りの田畑を金に代えて慣れぬ商工業の資金につぎ込んだ人も大分あつたとか。武士の商法が成功しなかつたように、農民のそれも好結果を斉らす筈はなく、あたら生活の基礎を台なしにしたものだ。ところでこれと反対に、時代を見る明がなかつたのか、それとも先見の明があつたのか、この商工業勃興の機運にも所謂自重して田畑を耕していたお蔭で、関東大震災を契機として東京市民の居住生活が郊外へ溢れ出し、田畑が戸毎に住宅地に姿を変えられるようになると、地価は鰻上りとまでゆかなくても、昔日の何倍かにせり上げられ、時ならぬ成金を生んだ。今日此の頃、板橋や石神井、練馬さては志村等によく見受けられる広大な板塀囲いの門構へのうちから、未だ百姓家然とした家屋が姿を見せている家々は多くそれである。之と同時にぬけめのない資本家が曰く何々土地株式会社といつたものを起しての農民達の上前をはねようとしたのは当然で、区民の中には、会社の悪辣な手段にひつかかつて、あたらチヤンスを失したものも尠くなかつたという。

関東大震災は都市東京の膨脹力をその郊外へ溢出せしめるに至るの契機となつた。昨日の桑園は今日の工場敷地或は住宅地となるの現象が此の地にも漸次見られるようになつた。

区内における民有有租地段別をみると、昭和五年調査では次のようになる。

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板橋区成立当時、田畑其他を合した、所謂農村風景を示す地域は五九四七町六一で、これに対する宅地(といつても尚農村風景に属する部分もあるが)は僅に六九六町七七を示すにすぎない。

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板橋区時代においてすら、昭和七、八年頃ではまだ宅地が一一%にすぎなかつたのだ。

<節>
第五節 農家の姿
<本文>

区内の農家では、大概の家が野菜を作つて市場へ運んだ。こうしなければ米や麦だけの生計が補つて行けなかつた。というよりそれが米や麦の生産よりも農家に収入をもたらす重要な仕事であつた。大根作りなどは副業どころかそれが主たるもので、それが生活の支柱だつた。

市場へ行くのは、夜の十二時頃におきて、提灯をつけて出発する。いまとちがつて、東京は坂が多く、道がわるく大変な苦労だつたようだ。

目白へ出て、音羽から江戸川へ出る。水道橋を通つて、京橋の大根河岸へ行つて市場で野菜を売つてもらう。大体この頃で八時か九時。その市場の<圏点 style="sesame">せり売が終つて「仕切り」と呼ぶ売上げ金を貰うのが昼頃で、この間は納屋などをかりてごろりと横になつて休む。いくらか寝たと思う頃は昼で金を貰つて帰る。家につくのは一時か二時頃だつたという。江戸時代は馬を運搬用に使つたが明治に入つて十四五年頃から逆に馬が減少した。荷車の普及しないうちは天びんでかついでかよつたという。荷車が使へるようになつてからは野菜を車につんで市場に行くが、市場にゆく途中道がわるいので、一台だけで行くと道わるにはまりこんで動けなくなる時もあるので、多くは二台三台とつづいていつて、一台が道わるにはまつて動けない時は、協同してこれをおし出すといつた工合であつた。

その途中の坂にも泣かされた。坂の急なのは目白の坂で、立ん棒がいて一台一銭とか二銭で後押しをした。

こうして市場へ多くの野菜が運ばれていつたが、ついには朝鮮牛を飼い、牛車にひかせて運ぶようになり、労働力の負担はよほど軽減されていつた。

普通の野菜は一日おきだが、大根の盛りには二十本一まるきにしたのを十か十一把のせると、これをつんで毎日市場へもつていつた。大根は、特に毎日運ばないと中にすのあいたのが出る恐れがあつたからで、こうなるとその労働ははげしく、連日夜中におきて市場へ行き、(大根河岸の市場と限らず人によつて、いろいろの市場に出したが、遠いのは本所の一つ目の市場まで通つた例がある。)一時か二時頃に帰りつくとまた畑へ出て仕事で、夕食後は市場へゆく準備と急がしい日を送つて、重労働であつた。

その労働力は、農家家族の外に若い者を雇傭したようで、シーズンになると桂庵(私的な職業紹介業者、口入れ屋)というのに頼んで、何人かの人を傭い入れて農業を手伝わせる。一人が大体二年の契約で、大いに働いた者は再契約されるものもあつた。大根のシーズンのいそがしさは全く話の外で、その外に夜なべをする時期秋冬の間もあつて、寝る時間は少いくらいであつたという。農作雇男、雇女の賃銀は年ぎめであつた。

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明治の十二年頃からの郡部の農家で雇い入れる賃銀は大体右表のようで、区内は北豊島郡の値段と思えばよかろう。

農家といつてもその中には地主もあり、自作農、小作農と分れてもいるが、練馬区の農家のうちには小作が非常に多く、埼玉県あたりの農家の大地主が、区内の土地を大量にもつていて、その小作をやつている人々が多かつたという。区内諸村の自作小作別はよく判明しないが、明治四十二年一月現在の資料をみると

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となつており、大泉村は小作地が特に畑地において自作農と相匹適する程の畑地が小作地であるほかは、案外自作農地が多く、石神井村の小作地と八対二の比率にあるほかはその比率はぐつと少ない。区内の諸村は田作りの地は少いが、労働力の関係もあつて、割合に小作に出す量が多かつたようである。大正六年現在石神井村九六〇戸のうち、石

神井村内に土地を有するもの僅かに百七十九戸、

<資料文>

五反未満    八〇人     一町未満 三二人

五町未満    三一人     十町未満  六人

二十町未満    三人

という状況である。もちろん、他村に土地を有するもの、他町村のもので石神井地内に土地を有するものもあつてのことであるが、九六〇戸中、残りの七八一戸のうちかりに一部に商業、工業、無職があつたとしても、いかに多数のものが土地をもたざる者であつたかが察せられよう。

農家の間では一町百姓といつて「一町田畑」をもつ農家になるのが理想であつた。大体、長男だけがあとをついで農業をやり、次男三男は養子にゆくか、或は東京へでて他に職業を身につけて他町の住居人になつてしまうかであつた。次男三男に土地をわけて分家をさせ、農家をやらせるということはできなかつたようで、いずれもが小地主か、わずかの土地を自作する程度の人であつたようで、そのことが区内の農家経済の根幹をなしていたといつてよい。

明治から大正へかけての村の変化を示す次の言葉をよく味わつてみよう。

<資料文>

今(六正六七年)より四十年前の農業の経営が、今日に比して甚だ粗放なりし事は「逃げ作り」の一語によりて明かなり。即ち当時は畑半分山半分の割合なりしが故に、畑には周囲の林の根が入込み易く、薮が畑地に蔓り易かりし、されど戸口少なく労力乏しかりし当時に於ては、之を放任して他を耕す所謂「逃げ作り」の状態なりしかば、畑一反と云つても、実際耕作せし地積は甚だ少なく、従つて麦作の反当収穫の如き今日に比して少額なりし。 (上練馬村役場吏員上野氏談「帝都と近郊」所載)

大正時代の中農の住居は、大体上練馬村あたりで一五〇坪から三〇〇坪ぐらい。建坪は三、四十坪といつたところで、これが更に農村としての周辺地区大泉村にゆくと、住居地の広さは、平均四五〇坪から五〇〇坪、建坪は四〇坪位というのが標準であつたようである。

その生活の基礎をなす間取りは、大農や中農の程度に差があつて一がいに言えないが、大体いずれも南面してその前庭に干場があり、住宅の中部以東を座敷とし、西側の広い土間を炊事場・調製場等にあて、これに続いてときに東の端に厩がある。井戸は、どこでも大体南西方にあり、肥料小屋が井戸の附近にみられるのが普通である。しかし、これは大体のことで、収納小屋なども干場をへだてて住宅の南側に設けられるものが多い。しかし、土地の広い家と狭い家では多少相違もあり、また道路にそつて、他に別に職業がある兼業農家の場合はこれと違つてくる。

さて、練馬区内の農家の肥料はほどんと人糞が主であつたといえる。葛西地方の様に干鰯ほしかを糞尿にまぜて使用するということは、あつたにしてもごく少数の農家に限られていた。

肥料については、江戸時代の項で詳細にのべたから、ここでは簡略にするが、明治初年からしばらくは、江戸時代の延長のような形で糞尿の汲取りに市中の特約した所へ出かけていつたのであるが、大量に必要な大農家では使用人を汲取りにやるほか、特に肥料の必要な時季には特定の中介業者から糞尿の買取りまでやつたらしい。

面白いことには明治のはじめ頃にはその肥料の運搬は、昼間は許可にならなかつたようで、夜中に出ていつて夜のあけるうちに汲取つて帰つて来たらしい。

谷原町二丁目の横山氏所蔵の文書に、父の半蔵氏が明治二十一年十一月警視庁に糞尿の昼間運搬を許可して貰いた

いとの願書を出し許可になつた事が記されている。その横山氏の話によると、新しい桶には「官許」の判を押したそうで、今日の肥桶はその時の桶の形式を踏習しているといわれる。いずれにしてもそれまで、夜間でなくては糞尿運搬が許されなかつたとはウソのような話である。

<資料文>

      昼間糞尿運搬願

              北豊島郡下板橋八百八拾八番地

一、官許第十号容器武田長太郎製造

  右容器を以昼間糞尿運搬仕度候間、御許可被<漢文>二成下<漢文>一度、製造人連署を以此段奉<漢文>レ願候也。

                      北豊島郡谷原村二千四百四拾壱番地

                                 横山半蔵㊞

                                 武田長太郎㊞

                            警視総監 折田平内殿

朱書印刷

    書面之趣聞届

    明治廿一年十一月廿四日

                            警視総監 折田平内

                                (谷原町 横山政雄氏文書

下肥値段の変化は、明治の末から大正にかけて著しかつたようで、「帝都と近郊」の著者は、

我東京市の戸口は年々増加せる結果、今日(大正六七年頃を指す)に於ては、市及其隣接町村を合せて約二百五十万に達したり。今一人一箇年三荷の糞尿を排泄するとすれば、其総量七百五十万荷を計上すべし、かかる肥料の豊富は、為に其価格の下落を来たし、明治二十八年頃には大人一箇年三十五銭小人一箇年十七銭五厘の下掃除契約が、大正四年には大家一箇年一円、小家一箇年五十銭の割に下落したり。殊に之を需要すべき農村に於ては、比較的近き隣接町村が都市化せる結果、之を得るの便益々多くなれり。本地域に近き山ノ手の諸区に対しては農家は一箇月一人に就き掃除料二銭を払ふも、東京市の中心たる日本橋・京橋区等は掃除人乏しき結果、却つて下掃除料を出すの傾向あり。

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練馬区内の人々にとつては、目白まで出るのが電車のない頃の普通のコースで、下肥などは主として旧市内の最寄りに求めたから、牛込小石川本郷あたりが多かつたようで、人によつては神田までくみにいつたという。下肥は、多くは市場にいつたかえりを利用して汲んできたが、車のないころは天びんで両わきに下肥のおけを下げてかついで帰つて来たので、牛込辺からにしてもそれは大変な労苦だつた。

下肥は、江戸時代の引つづきで、何軒かの店をあずかつている差配の大家のような人に頼んで、その権利を貰い汲ませて貰う。一軒につき半年にいくらと金でおさめ、盆暮には、野菜ものなどと一緒にお礼にもつてゆくという形式がふまれており、大正の八、九年頃には次第に市内の下肥の処置に困り出したのと、科学肥料の出廻りで下肥の需要量がいくらか減少したため、汲取り料がただという時代がしばらくつづいた。

こうして肥料として糞尿は次第に金銭的には農家の負担から除かれていつた。ことに、欧洲大戦後の好況による人口の発展につれて、市中の糞尿の処置に困り出し、後藤市長の英断で大正九年より汲取りを市がはじめ、料金をとるようになるにつれて、状勢は昔と逆転していつた。練馬の農家の人達もそれなみに料金をとつて汲取りを行うことになつた。江戸時代からの金を出して汲まして貰う慣習が、人口の激増とともに逆になつて、全く金をとつて汲んでやるという風に変つてしまつた。

車が使えるようになつて来たころは、一番華やかな頃で、はるばる市内から汲んで来た下肥を一荷いくらで下肥下肥不足の農家に売る下肥屋さえできた位だつたという。

それがすつかり逆になつた震災後のことを考えると全く今昔の感にたえない気がする。

<節>
第六節 区内の農産物
<本文>

区内の地が、江戸時代からの農村の姿を最もよく残している地ということは、いつまでも純農村として変化せずにいたということであるが、その特色は、米麦の生産ということより、江戸市民への食膳に供する新鮮な蔬菜類の提供という点にこの農村の真の生きてきた道があつた。それ故、都心へ遠距離という弱点を補つて沢庵漬という干大根の好条件を生かしたのであつたが、いま私達は、漸く農村の姿がくずれ去りつつある時、過去の農産物についての色々の記録を残しておく過渡期におかれている。この点からも、明治大正期における農産物の製作の面からの農業の姿をとどめておこう。

昭和三年になつて、古老達に命じて、府は各村々より農産に関する主として技術の面からの報告を求めた。それによると、区内各村よりの特色あるものとして提出されたのは次の道りである。

<資料文>

小麦           「白皮チクタ」方言 (上石神井村報告)

○蒔着並採収

  秋土用前播種、翌年六月半ニ採収

○培養並施糞

  蒔着ケ前畑ヲ耕シ置キ、積肥(藁糠灰人糞馬糞ヲ調和シ一反歩ニ十荷)ヲ施シ種ヲ蒔芽ヲ出シテヨリ畦ヲキリ立春ノ頃ヨリ度々踏付ケ畦ヲキリ又春彼岸過ヨリ畦ヲキリ(二番作トイフ)一番肥ニ積肥十荷ヲ施ス。引肥(人糞ニ水ヲ和セシモノ)八荷ヲ施スモ可ナリ。畦ヲキリ踏付ルモ七回迄ハ過ルトセズ

○蒔着並採収

  六月下旬播種十月下旬採収

○培養並施糞

  春彼岸ノ頃麦作ノ間ヲ耕シ置キ、麦ヲ苅上ケテ直チニ畦ヲ切リ積肥(人糞、藁糠、灰馬糞ヲ調和セシモノ一反歩廿荷)ニ種子ヲ交和シ摘蒔ツミマキニシテ土ヲカケ踏付置芽発シテ廿日許ヲ過キ畦ヲ切リ又三十日程ヲ過キ間引キ掻込カキコミト唱へ手ニテ根元へ上ヲ寄セタダチニ畦ヲ切リ二番肥ハナサズ、早年ヲ好シトス。又黍稗ト同シクヅイ虫ト云フ、害虫穂元ヨリ生ス、除キ難シ、蔓延セサル様抜去ルヘシ。

○貯蓄

  穂ヲ干シ揉ミ取リ莚ノ上ニテ連耞カラサオニテ打篩ウチフルヒニテフルヒヒ、干アゲテ貯

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この写真は昭和になつての保谷の農家の姿であるが、明治大正時代の練馬の姿を大体示しているといえる。かつての練馬の姿は遠心的に北多摩方面へと移行しているのである。

蕎麦            「鴈花」方言(上石神井村報告)

○蒔着並採収

  夏土用明ケ十日程ヲ過ギ播種七十日ヲ経テ採収

○培養並施糞

  畑ヲ耕シ積肥ツミコエ藁ノ腐熟ニ糠人糞ヲ調和ス)ヲ十荷施シ種ヲ肥糞コエノ上ニ蒔キ土ヲ薄ク覆フ、芽生シテ二十日許ヲ経テ一番耕ヲナシ、又二十五日許ヲ経テ草ヲ去リ之ヲクサキル、白露ノ季ニ至リ熟ス

○貯蓄

  苅取リ実ヲ落シ篩ニ掛ケ塵芥ヲ去リ、颶扇トツミニテ扇揺シ、尚能乾曝ホシカワカシ俵ニ入貯フ。

大豆            (下石神井村報告)

○蒔着並採収

  八十八夜十二三日ヲ過テ播種八月中旬ニ至リ採収

○培養並施糞

  麦作ノ間ヲ耕シ、積肥(人糞ニ藁ノ腐熟セシト灰ヲ調和ス)ヲ一反歩ニ十五荷施シ、少シク土ヲ掩ヒ種ヲ下シ、上ヲ掛ケ生シテ後麦ヲ苅取、直ニ之ヲクサキリリ、又二十日許ヲ経テ再ヒ之ヲ耘リ、草ヲ去ル

○貯蓄

  実熟シタルヲ乾曝シ、連耞カツサオヲ以テ打チ殻ヲ去リ貯フ

蘿蔔ダイコン      大長根細 方言秋ツマリ大根 (上練馬村報告)

○蒔着並採収

  夏土用明ケ十日程ニ播種十二月迄ニ採収

○培養並施糞

  六七月中畑ヲ深ク耕シ置キ播種前又耕シ畦ノ幅二尺許ニ縄ニテ土ヘ筋ヲ付(方言蠅スリトイフ)其線ヲ踏ム、足踏ノ間凡一尺五寸(方言足コブミト云)積肥ヲ一反歩ニ凡十三荷ヲ施(藁ノ腐熟人糞糠藁灰ヲ調和シタル也、或ハ干鰯ヲ用ルモヨシ)土ヲ少シカケ其脇へ凡種十粒許ヲヒネリ蒔(種肥ニ接スレバ大根ノ根ニ割レヲ生ス、心ヲ用フヘシ)肥種凡一反ニ株数三千五百多キハ四千トス。播種ヨリ五六日許ヲ経テ発生ス、夫ヨリ凡廿日ヲ経テ一株ニ一本ヲ残シ、間引(コレヲ揉大根ト唱ヘ販売ス)根本ヘ手ニテ土ヲヨセカケ苗ノ動カサルヤウニナシ置、四五日経テ引肥ヲ施ス(下水ト人糞ヲ和シタルモノナリ但積肥ニシテ搾粕(シメカス)ヲ入ルモヨシ)十一月ヨリ漸次ニ抜採ル、種ヲ採ニハ冬至頃抜取リタルヲ別ノ畑ヘ横ニ植着ケ、寒前ニ施糞シ(水肥ニテモ積肥ニテモ適宜)春ニ至リ八十八夜ニ花咲キ梅雨前ニ採収シ、釣リ置テ乾曝シ実ヲ揉落シ又ヨク乾テ貯フ

  九日蘿蔔ダイコン

○蒔着並採収

  秋蘿蔔ダイコンヨリ十日早ク播種(凡夏土用ニ五日カケテ蒔ク)九月下旬ニ採収

○培養並施糞

  秋蘿蔔ダイコント同ジ

二年子蘿蔔ダイコン 三月大根トモ云

○蒔着並採収

  年ヲ越ル故ニ二年子ト云、秋彼岸ニ播種、翌年三月採収

○培養並施糞

  畦ヲ深クキリテ播種肥料其他秋蘿蔔ダイコンニ同ジ

  夏蘿蔔ダイコン

○蒔着並採収

  八十八夜ヨリ廿日前ニ播種七月採収、又早キハ三月十八日頃ニ蒔、遅キハ五月十五日頃ニモ蒔随意ナリ。

○培養並施糞

  秋蘿蔔ダイコント同ジ

               牛蒡ゴボウ早熟         白畑方言(上練馬村報告)

○蒔着並採収

  四月十日前後ニ蒔着夏土用中ヨリ採始メ秋彼岸迄ニ採収

○培養並施糞

  麦ノ作間ニ畦ヲ切リ藁人糞糠灰ヲ和シタルヲ一反歩ニ十二荷元肥ニ施シ播種シテ土ヲカケ、軽ク踏ツケ置トキハ凡十二三日許ニテ生ス、又十日許ヲ経テ引肥ヲ施シ、苗二寸許ニナリテウロヌキ一本宛ヲノコシ株ノ廻リヲ手ニテ土ヲ揉ミ、根際ニヨセカケ、麦ヲ苅上ケテ直ニ積肥十荷ヲ施シ、畦ヲ切ル、該品ハ雨年ヲ好ムモノナリ。種ヲ取ルニハ秋彼岸後ニ堀テ別ノ畑ヘ横ニ植着ケ施糞ス、其後手入レナシ春ニ至リ芽ヲ生ズ、夏土用前後ヨリ花開キ土用ヲ明ケ十五日許ヲ経テ苅取リ、釣ルシ置キヨク乾シ、小槌ニテタタキ種ヲ揉取ル、年柄ニヨリテ虫ノ付クコトアリ、花開ケハハナシベニ喰込ムナリ。形チ長ク色薄黒ニシテ羽ナシ、俗ニ言フ尺取リ虫ニ似タリ、手ニテ取ルノ外、除ク法ナシ。

蕪菁(かぶら)           (下練馬村報告)

○蒔着並採収

  夏土用中ニ種子ヲ下シ十月ニ至リ採収ス、種ヲ取ニハ菜菔子ダイコンタネヲ取ルガ如ク十月ニ植替ヘ翌年六月ニ種ヲ採収

○培養並ニ施糞

  先畑ヲ夏土用前ニ耕シ置キ、土用ニ入リ藁灰人糞ヲ混和シ、一反へ凡十荷元肥ニ施シ、種子十粒許ヲ其際ヘ蒔、薄ク土ヲ掛ケ、六日許ヲ経テ発芽ス。又十二三日ヲ経テウロ抜キ、一本立トナシ、二番肥ニ摘肥八荷ヲ施シ、直ニ一番耕ヲ北ヨリス。(日向作ヲキル)六日間ヲ過テ二番耕ヲ南ヨリス。草ヲ一度去ル、十月ニ及ヒ根肥太コエフトリテ採収ス、又種ヲ取ニハ、其期ニ日向キヨキ地へ植替へ、翌春四月ニ一反歩ニ人糞八荷ヲ引肥ニ施シ、春土用前ニ<外字 alt="判読不能">〓タウスキンテ開花ス、後サヤヲ生ジ、六月ニ及ビ茎共ニ刈リ取リ能ク乾シ、連耞カラサオニテ打チ篩ニテ莢茎サヤクキヲ去リ、アフリ団寸ニテ塵ヲ去リ貯蓄

                 (関村報告)

○蒔着並採収

  春彼岸ニ床ニ蒔着、夏土用ニ刈取ヲ一番トシ、八月下旬又長スルヲ刈ル、之ヲ二番トス。種子ヲ取ニハ植着ノ儘十一月頃迄残置、実熟スルヲ待テ採収ス。床ノ拵方ハ幅二尺五寸許、竪五間許(作ノ多寡ニヨリ間数定リナシ)能耕シ元肥ヲ施シ、フルイニテ土ヲ薄ク、筱ヒナラシ、種ヲ下シ又土ヲ薄クカケ其上ヘ藁或ハ莚ヲ敷キ十五日程過テ取除ケ、四五寸程高ク蓋ヒヲナス。苗二寸五分許ニ伸タル頃、本畑ヘ移植ル

○培養並施糞

  麦作ノ間ニ畦ヲ作リ積肥ヲ置、五本ツツ植着十五日程過キ畦ヲキル(一番作ト云)、又廿日頃程過キ施糞シ、畦ヲキル(二番作ト云旱年ヒデリトシヲ好ム。

○貯蓄

  苅上タルヲ一日畑ニテ乾曝ホシカワカシ採入レ、又二日許乾シ連耞カラサオニテ打チ俵ニ入レ貯フ、二番刈モ同シ。

以上は、大正末期の古老の報告を府が集めた書類にあるもので、大体大正から昭和のはじめの農産技術の面を示す

ものといえよう。

そのほか、区内各村で作つていた主なものについて概要を摘記すると大体次のようなことがいえるであろう。

胡瓜(きゆうり)

馬込半白とか針ケ谷胡瓜、豊島サス成胡瓜など代表的なものが、東京府下に栽培されたのはかなり古くからのことで、江戸時代の項でのべた如くであるが、区内では、豊島サス成が代表的な胡瓜である。

青胡瓜ともいわれ、栽培の起源は未詳であが、尾久村より明治二十年頃から栽培され、三十年頃より販売用として次第に栽培されたといい、明治時代には、滝野川とか長崎町、落合町等で栽培されたものが、大正時代よりそれらの生産地では畑の減少、人口の増加と共に耕地を失い、ことに大震災後は旧岩淵町、上板橋、練馬、上練馬、大泉、石神井、赤塚等の各町村にその栽培がうつり、戦後は、特に区内などの地にその特色を示している。サス成種は、品種は馬込半白に比しても劣らないが収量がやや少い欠点がある。区内のような洪積地の土質深く腐植質に富んだ火山灰質の壌土には胡瓜の栽培は最も適している。

胡瓜は、連作をきらう。前作物は、一般に麦類で、予め二畦毎に一畦宛畦を作つておく、「抜き作」という。温暖な苗床内で育てられ、大体練馬では、五月三日から十日頃迄、石神井では、十二日から十五日頃迄が定植期とされており、通路四尺、畦巾二尺、株間一尺二寸の距離で反当苗二千五百本内外を植える、摘心は、雌花を生じない前、六七枚目で一回行い肥料や病蟲害除けに苦労する。豊島種は、収穫がおそく八月下旬に及ぶ。それ故豊島種は、他のものと違い市場に出るのが晩いから市場価が安く収入が比較的少い。

茄子(なす)

なすといえば駒込なすと一口に江戸時代いわれ、江戸ツ子の喜ぶ所であつた。江戸時代そのほか、砂村丸茄、蔓細千成は今の江東区砂村の名産であり、山茄が中野方面や滝野川などの名産として江戸時代から知られていたことは、前記の通りであるが、明治以降は、北豊島郡においては、多くは山茄が生産され、明治初年、滝野川一帯から附近にひろまり、十五年頃より区内の地などでも栽培されるようになつていつた。このほか、俗に真黒というのが明治二十五年頃より埼玉県から入つて、漸次広まつて盛んに生産されるようになつた。

区内のような洪積地といえる所では、大体良品を産出する。古くは連作を忌む風習があつたが、今は殆んどそんなことはない。大体、苗の作り方は胡瓜に準じ、本圃にうつして定植するのは五月十日から十五日頃で、一般に畦巾四尺、株間二尺位が普通とされている。肥料は練馬町では、戦前米糠一八貫、藁灰一七貫、堆肥五〇貫、〆粕六貫、人糞尿一〇〇貫の割で作つていた。追肥は、藁灰一〇貫、堆肥五〇貫〆粕一〇貫、人糞尿五〇貫で、茄子は、大体加里を多く要求するから、木灰や藁灰を用いて病害を防いでいる。収穫は、反当り二万六七千個から六万個以上に及ぶ所もあり、一様にはいえない。なるべく夕方、或は早朝露の乾かない間にとり、色の濃厚さを保つのがコツといわれている。

葱(ねぎ)

ネギといえば、千住といわれた程江戸時代末期には千住方面一帯の名物だつたが、もとは、今の江東区の砂町だつたらしく、船着の便利な場所だつた関係で、砂町方面へは色々の種子が各地より入つたようである。一説には、荵が

砂町で栽培されたのは文化文政の頃といわれている。それが北千住方面にひろがり、千住市場で取引されたため、千住ネギの称ができたという。元来、ネギは植質壌土や火山灰質植土にむくので、区内の地の如きも、板橋区と共に明治中期以後盛んに栽培するようになり、大正初年頃には非常に盛大になり、特に練馬地区では、赤柄といつて春まきに適するものが一般に生産された。ネギには、赤柄の外黒柄、合柄があり、両者とも寒気に強く秋まきに適している。大震災後の郊外の発展は、次第にネギ畑を減少し、区内などがむしろその主な産地となつてきている。はじめのネギは、白根の部分が長くなく三四寸位であつたものが、明治の牛肉流行などと共に白根の長いのを市民が喜んだため、改良に改良が加えられて、白根の部分が長くなつていつた。

区内などでは、春まきのときは、前作は大体胡瓜、菜豆、麦などで、後作は麦ときまつていたようである。大体、三月下旬から四月上旬に播種を行い、三合から五合位まく、人によつては一升もまく、厚まきにして間引を行つた方が結果がよいと信ぜられたためである。

区内では苗床の畦巾は二尺五寸位、株間は一寸から二寸(三本指の巾)で、軽い土質であるから深く植付けるのが特長で八寸位深くする人もある。定植期は、六月下旬から七月一杯で、夏の土用中かれる位のとき植付けたものが成績がよいとされてる。他の地方では、三回も追肥する所があるが、板橋練馬地方では二回で、十月中頃以後は追肥しない所が多い。大体、春まきは定植後一二〇日位で収穫され、十一月中旬から三月下旬位までで、収かくは、六百貫から一〇〇〇貫に及ぶものさえあつた。

にんじん(人蔘)

江戸時代滝野川人蔘といえば、江戸市中になりひびいたものであるが、いずれも享保年間八代吉宗の時、江戸近郊に諸国から集めた種子を試作させたうちの一つが名物になつたといわれる。

もちろん、江戸時代も末となれば、北豊島郡一帯はいう迄もなく、近在いずれもこれを栽培するようになつたが、大正中期より滝野川町など旧市内の人口が飽和状態になり、隣接町村に激増の傾向をみせ、市街地化が行われたため、次第に耕地の宅地化となりり、原産地滝の川町地方は、全く住宅地となり、産地は、上練馬や赤塚、中新井等にうつり、大震災後の郊外の発展から市域拡張となり、ますます発展のため耕地は狭少となり、むしろ区内の地の如きが滝野川人蔘の名産地となつている。このほか、区内には札幌種を栽培する所もある。三寸人蔘が葛飾・江戸川・大森の如き肥沃な沖積土の適度に湿気のある地に適するに対し、滝野川や札幌人蔘は、区内や世田谷のような耕土深く腐植質の多い火山灰土に良品ができる。連作すると反つて良品ができるというので、区内では連作をやつている。播種は、七月十日前後で毛付のもの反当り三升まく、(古い種子は葉茂らず、年内に擡頭することなく、根身の生長が早いといわれている)肥料は、元肥追肥ともにやり、播種は、整地後縄ずりを行い、畦を東西に一尺二寸に足で浅く作立をして基肥を施し、足で土を覆い、株間一寸に種子十四五粒をまいて足でふみつけ、十日位で芽を出したら、その後二十五日たつて本葉三四枚のとき第一回の間引をし追肥をやる(人糞尿五割位)その後、苗成長と共に二三回間引き、九月下旬から十二月上旬にかけて収穫する。大体、水で洗い二十五本位を一束として出荷する。

ごぼう(牛蒡)

ごぼうも滝野川が有名で、元祿時代から栽培、江戸近郊に種子をうり、市民の食膳に好評をもつてむかえられた

が、明治以降、北豊島郡のいたる所この牛蒡は、滝野川の名で迎えられ生産されていた。しかし、明治時代以降、北豊島郡内では、南千住方面を除きいたる所で作られるようになり、特に板橋、練馬の二区に当る地方で栽培され、大正期に入つて、滝野川の市街地化と共に、むしろ本家は板橋か練馬にうつつた感があつた。上板橋・練馬・中新井などが急に盛んになり、大震災後、郊外の大発展と共に、さらにこの現象は一段と奥に進んで、昭和八九年頃にはむしろ上練馬や赤塚方面に特に多く栽培されるようになつていつた。一部区内には、滝野川の改良種で中の宮ごぼうか栽培されているが、これは極く早生で、上練馬の中ノ宮氏が改良したものといわれ、市場早出用として理想的優秀品といわれている。

練馬地区では、前後作物は春まき、秋まきによつてことなるが、大体、秋まきのときは前作は陸稲か南瓜、後作は大根、春まきのときは前作は麦の間作、後作は麦の移植で、早く収めた後は大根類とされている。一例を春まきの中の宮ごぼうにとると粘質な土地のときはていねいに深耕して畦を作り、前作が大麦であつたときは三寸五分位の深さの中耕程度でよく、反当り三合の割で、畦巾二尺一寸の畦を立て、基肥をやつて土を二寸位かぶせ株間一尺前後、肥料の直上に五六粒をまき足で土をふみつける。大体、三月下旬から四月上旬位の間に行い、七月中旬から八月下旬までに収穫し、堀り取つたものはよく洗つて、大中は十本を一把、小さいものは五本位を一把としてたばね出荷する。

滝野川牛蒡も、大体これと同じで、播種の時期は、四月十五日から五月上旬にかけてで、収穫期は、九月中旬から十月中旬まで、収穫したら大中小にわけ、十本を一把として出荷する。

越瓜(しろうり)

大泉や石神井地区では、奈良漬用としての越瓜、東京大越瓜と称せられるものが特に多く栽培される。もちろん「早生きりしま」もできるが、何といつても東京大越瓜が知られている。はじめ、大正五、六年頃旧豊多摩郡の野方地区で栽培されたのがきつかけで、次第に今の杉並区地方に及び、大正十年頃は盛に栽培された。北豊島郡当時の練馬町、上練馬村、上板橋村等もこれにならつて栽培をはじめた。しかし、大正十二年の大震災後旧豊多摩地方の発展はめざましく越瓜の産地は大部分住宅化されて次第に減少し、北豊島郡においても主産地だつた練馬町や上練馬町が次第に発展するにつれて、なお、未発達の地区であつた大泉や石神井村などにその主産地が移り、昭和七年の市郡併合後はますますこの傾向をつよめていつた。

埴質壌土の土地が多いから、砂質壌土の所より栽培期間が長い欠点が区内にはあるが、連作さえしなければ区内には適したもので、陸稲の後に麦を作り、その間に下種するのがよいとされている。大泉や石神井では、大体四月二十五日から二十七日頃種をまき(反当り一合二勺位)麦の間に軽く中耕して六、七寸の穴を作り、畦巾八尺三寸から九尺位株間一尺五寸位に直播法でまく。下肥に菜灰米糠それに過燐酸石灰をまぜ下肥とし、施肥は第一回は下肥、第二回は米糠下肥堆肥、〆粕、第三回も同様にそれを行う。収穫は、七月上旬――七月下旬、大体一本から十五、六とることができ、反当り区内では八〇〇――一、〇〇〇貫をあげている。

トマト

トマトは、明治初年頃旧荏原郡下に所々試作されたのをはじめとし、四十年頃から大正に入るに及んで府内の諸郡でも試作し出し、区内でも練馬町は板橋区の志村地方と共にかなりの栽培をするようになつていつた。しかも栄養学

だのヴィタミンだのといわれるようになつた大震災後は、特に東京市民の歓迎する所となつて、ボンテローザの如き大形のものからベストオブオール、デリシアスなど次第に栽培するものも変化しつつある。

志村や練馬では、大体三月十日から彼岸前までに種をまき苗床で苗を養成、二回の移植をへて、五月十日から十五日頃定植する。摘芽、摘花、摘果と管理を十分にし、青枯病や黒斑病、モザイク病などの害から防ぎ播種後百日から百二三十日位で収穫となる。大体反当り九〇〇貫から一、〇〇〇貫を普通としているが、収穫時季により出荷時期の差が収支に影響を与えるといわれている。

藍(あい)

藍の栽培もなかなか盛であつた。農家では葉をつくるだけで、その葉を買つて歩く商人が村から村を歩いていたようである。大体、農家では二月頃まいて七月頃刈取つて天日で乾燥させる。それ迄が農家としての主な仕事で、商人或は仲買がこの乾葉をあつめて土蔵などで積み拡げ、時々適当量の水を注いで数日放置すると次第に醗酵するようになる。これをかきまぜて一定の水を与えると八十日目位に染藍ができる。これを臼に入れて少し水をまぜ搗き固めて玉藍とする。大泉地区や石神井地区が盛であつたようだ。

藍は、染料の作物でその種類も唐藍、蓼藍等の数種があり、世上に知られたものは、阿波の上粉百貫、小丸粉百貫、小丸葉千本等である。

区内の地は、古くから葉藍の生産が行われていたが、維新後、インヂゴの輸入が盛んになつて、各地とも当業者は非常な恐慌に直面した。しかし、一時おとろえた葉藍の栽培も欧洲大戦以来染料の市価が暴騰し、従つて藍作の利益

が再び認められようになると、区内の各所で藍の栽培が盛大に行われるようになつた。石神井、上練馬、下練馬、大泉いずれもこれに手を出したが、葉藍を作るだけで、あとは仲買に葉を売り、それ以上の工程にたずさわることは大体なかつた。

かぼちや

かぼちやは、市民の食膳の副食物として比較的大衆に迎えられ、また作り易い点もあつて、いづこの農業地においてもこれを作つたが、明治から大正にかけては、農家経済の面でもそれ程重い位置をしめていたわけではない。かぼちやが生産額を問題とされたり、品評会などの競争の対照になり出したのは、昭和十年以降、特に時局が容易ならざる段階に達して食糧問題の解決が重大となり、食糧難を補う意味で政府は勿論、東京都においても必死でこれの増産を奨励し出してからである。殊に十七年以降時と共にかぼちやの都民の生活にしめる位置は重きを加え、食糧の代用品的な意味を持つて甘藷・馬鈴薯と共に戦時下の主食級となつた。

このため、区内のような農村地では、極力これの増産につとめた結果、南瓜の作付面積の増大と共に収穫量の増加が競争で行われた。大体、南瓜には白皮南瓜(白皮砂糖南瓜)や鶴首南瓜が作られたが、西洋種の中村早生や栗南瓜、デリシャス南瓜なども作られ、ことに中村早生は多く作られた。

大根

大震災後の郊外の発展は、耕地の住宅化となり、かつ区内の如き名産の名をほしいままにする地では三百年来の長い間の連作の結果モザイツク病のような病害の発生等のため、主要生産地であつた練馬地区から大泉や石神井方面に

その主産地が移動し、さらには保谷、小平、久留米、田無等の都市東京の中心部に対して遠方地域が盛んに栽培面積を増加して、むしろ区内から滅少化が著しくなつて来つつある。区内の大根としては、いう迄もなく練馬大根とよばれる練馬尻長大根と練馬秋止大根であるが、その他にも美濃早生大根ももちろん生産されている。

練馬尻長大根は、沢庵大根として知られ、東京の市場にある沢庵の大根の殆んどはこの品種で、秋大根の王者とも称すべきもの。葉は緑色で横繁しやや上方に向つて生長する。根身長大で二尺五寸から三尺に及ぶことがある。昭和十年十一月練馬地方の調べによれば、頸元直径一寸三分、中央二寸二分、重量四三〇匁内外あつた。首は細く中央部太く下部はやや急に細り、尻がとがつているので尻尖大根ともいわれている。肉質緊り水分少く皮薄く色は白く、乾き易いため、干大根として最良とされている。

練馬秋止大根は、東京における煮大根として有名であるが、肉質最も軟く美味で、糠漬にも適する。早晩二種あつて、早生のものを早生詰りとよび、晩生のものを晩生詰りと呼んでいる。世田谷区や杉並区の地方で晩生丸と呼ぶ大根は、改良種で晩生詰りりである。

早生詰りは、葉は淡緑色、横繁するが尻長大根より一層上向する。葉柄の断面は半月形で軟かく、根身は円筒形で頭が少し細く、二尺二寸位長さがある。重量は四〇〇匁内外とされ、地上に露出し彎曲し易い。

晩生詰リは、葉は緑色、横繁して地上を匐う、葉柄はその幅広く扁平で、根身は円筒形で上下殆んど同じ位の大きさ。長さ一尺九寸前後が普通で、五〇〇匁位のものが多い。地表に出ることは少く、形は正しい。

両者とも肉軟かな上よくしまつて水分甘味にとんでいる。

美濃早生

夏から秋にかけ、他の秋大根に先んじて市場へ出荷されるという有利な点が喜ばれ、元来は土地のものでなかつたのに区内などでも一部に盛んに栽培されている。

大根には、このほか聖護院とか、細根二年子・徳利・時無・龜戸などがあるが、前者は南多摩地方、後者は足立江戸川葛飾などの方面に主として栽培されている。

    沿革

練馬尻長大根 尾張大根長系より変化したもので、五代綱吉将軍が脚気で下練馬村に転地療養した時、なぐさみに尾張から大根の種子を求めて試作させたもので、綱吉は病気全快後、江戸城に帰ると旧家の大木金兵衛に命じてこれを栽培させ、以後年々これを献上させたのが練馬大根といわれるはじめといわれているが、一説には、東海寺の沢庵和尚に命じて貯蔵の方法を講じさせたので、沢庵は上意を奉じて塩と米糠と混ぜて漬物にしたので沢庵漬というようになり、村の主産物となり、附近の村々またこれを栽培して、沢庵づけとし、江戸市民の食膳に好評をもつてむかえられた。それから年々数千樽を産するようになつたといわれている。

練馬秋止大根 何時頃より栽培されたものか不明で、尻尖大根と共に徳川時代より栽培されたことは知られている。

美濃早生 幕末文化文政頃とも、それ以前ともいわれるが、岐阜の美濃早生大根の原種が、旧岩淵町(北区)の袋地方に伝わりこれを栽培した所、時季的によいので好評を博し次第に各所で栽培するようになつた。

大根は、大体すずしく湿潤な気候を好むので、気候としては幾分しめり勝ちな年に豊産といわれている。しかし、余りに雨天つづきの多い年には腐敗病におかされ易く、また旱魃の年には蚜虫の発生があり、苦味が生じ易いといわれている。

練馬地方は、大体土質は火山灰質埴土か埴質壌土で、大根の栽培に適し、特に区内老農達の話では火山灰質埴土のものは、外皮滑沢で外観の美しい大根ができるといわれている。このほか、砂質壌土や壌土など、いずれも肥沃で排水のよい表土の深い土質に美味なものができるという。

農家の言葉に「馬鈴薯跡はわるい」という呼び方があるが、馬鈴薯のあとに栽培するとサルハムシの被害が多いためといわれ、麦や玉蜀黍、甘藍、南瓜或は胡瓜などのあとに大根を栽培する。収穫後には大体大麦や小麦を作るのが多い。

昭和十年の調査で、旧練馬町を対照とし栽培法と収穫及び収支計算を調べた資料をあげておく。旧時は練馬以外の地も大体同一であつたとみてよかろう。

    練馬尻長大根

 整地  播種の十数日前位に鍬で八寸内外の深さに丁寧に耕起し、土塊を砕いておく。

 播種期 八月上中旬 煮食用大根より早播が必要であるという。早播をしないと色が悪いのである。

 播種量 反当四合―七合を播いている。

畦幅   二尺一寸―二寸

株間   一尺五寸―六寸

播種法  縄ズリを行い条を作り足跡をつけ、かかとの所に基肥を施し、種子を一カ所に五六粒宛播くのである。

 (このときは四合で足りる)がやや厚播をして後に間引くのがよい。一株に十粒宛播くときは七合の種子が入る。四五分の厚さに土を覆う、下種するとき種子は基肥より一二寸離して行うのである。

肥料   基肥(反当) 下肥 五〇貫、米糠 四〇貫、藁灰 一五貫、〆粕 五貫

追肥   第一回は、播種後二週間目位のとき下肥三〇〇貫を施す。第二回は、第一回施用後約一週間で下肥二〇〇貫を施している。

間引   旧練馬町の一例は、本葉七枚(播種後二十日内外)の時一回の間引で一本立としている。旧大泉村の一例をあぐるならば第一回の間引は、本葉三枚のとき(発芽後十日)一カ所二本としている。第二回の間引は、第一回の間引後七日乃至十日で五葉のとき行い一本立としている。

中耕、土寄つちよせ   間引の後、第一回施肥を行い後、南より北に土寄せをしている。日蔭切という。其の後、十日で日向切といつて北より南に土寄せを行う。頸元の緑変しないように土を左右によせかけるのである。また周囲より土を株元に盛り手で圧し根身を真直に生長させるよう努める。これを手直しという。

病虫害  病害の主なるものは、露菌病と黒腐病とモザイツク病とである。モザイツク病は、旧練馬町附近が被害最も多く、新しい産地に行くに従い割合に少くなつている。反対に露菌病が多い。北多摩郡の久留米村・保谷村(昭和十年当時)等では一農般家は薬剤撒布を行つていないようである。モザイツク病などではすつかりあきら

めているのである。これは長い間一つ土地に大根に次ぐ大根で連作を行つた結果、しかも大根の肥料と云えば、いや練馬地方の肥料といえば殆んどが下肥のみで、有機質肥料の使用は少なかつたので、土壌中に有機質が欠乏したからといま一つは、大根が所謂土地にあいた為である。三尺位深耕するときは、割合に被害が少ないということである。

害虫には、サルハム、キスヂノミムシ、ハイマダラノメイガ、紋白蝶、夜盗虫等があるが、あまり被害は大きくないようである。除虫菊木灰や砒酸鉛の撒布をしている農家もある。

  練馬秋止大根

播種期  八月下旬

播種量  反当三合

畦幅   二尺

株間   一尺四寸

作条の方向 東西が普通

肥料   元肥 下肥 五〇貫、馬壌 五〇貫、米糠 四〇貫、〆粕 五貫、過燐酸石灰 一五貫

  よく混合して練る。ドロドロした半流動体なとつているものを、一株に一握り宛撒布している。こうすれば、製造量の約半分で足りる。残り半分は、第一回の追肥として用いる。

追肥   第一回の追肥は基肥と同様のものを施している。第二回は、下肥二〇〇貫を施している。

播種法  縄で畦の幅に条を作り一定の間隔で足跡をつけて基肥を施用し、七八粒点播をし五六分の厚さに覆土をしている。

間引   間引のことを俗に「ウロヌキ」といつている。本葉三枚出たとき一回の間引を行う。この時、間引くものは葉色の淡いものである。葉色の濃緑なものは成るべく残すようにする。また葉は細く小葉で、殊に葉柄の細いものが良いからこれを残し、一回のとき一株に三本残している。(この三本はできるだけ良苗を残すようにする)第二回の間引は、第一回の間引後四五日で行い二本立としている。第三回は、六七葉のとき行い一本立としている。

土寄   間引後直ちに土を高さ三寸位心葉の埋らない程度に被土している。

追肥中耕 間引土寄せ後直ちに第一回の追肥を行い、後に中耕をしている。其の後、十日位で第二回の中耕を行い、収穫十数日前に第二回の追肥を行う。肥切の如何をとわず施すときは、大根の表皮を大変滑かにし外観をよくするという理由からである。

病虫害  新葉一二枚が出れば直ちに砒酸鉛を撒布している。一週間おきに数回撒布して夜盗虫、さるはむしの害を防いでいる。又蚜虫の駆除として硫酸ニコチンを朝露のある間に撒布している。(硫酸ニコチン一封度を一石の水に溶かしたもの)

収穫   播種後七十日で成熟するもので、浅漬用は七十日以上の成熟したものを使用するし、煮食用は六十五日から七十日位のもので、時期は大体十一月初旬から十一月下旬までである。

その他、秋止大根栽培で特に注意している点をのべると

 一、大根畑になるべく立入らぬよう注意すること、地を固めることを忌むのであろう。大根に限らずどの作物も同じであろうが、大根は特に忌むものである。

 二、肥料になるべく加里質を多く施用すること、大根の表皮が滑らかで、光沢が出てくるのである。

 三、前作物に玉蜀黍を栽培すれば、大根の表皮は滑で光沢を生ずるというので前作に玉蜀黍を栽培している向が少くない。

美濃早生大根

整地   早魃のときは、耕起せずに播種している。又軽く耕して下種している。但し晩播(七月―八月)は、播種の直前に全部一尺位の深さに耕起している。

播種期  五月上旬より八月中旬までで、普通は七月上旬、採種用のものは八月下旬に播いている。

播種量  反当三合―四合

畦幅   一尺八寸

株間   一尺四寸―五寸

播種法  練馬大根に準ずる。早播は井戸水に浸してこれを播く、晩播は人糞尿で浸しこれを播いている。

肥料   旧練馬町の例

元肥   米糠 二四貫、藁灰 四〇貫、乾鰯 六貫

追肥   播種後、四十日を経て下肥三〇〇貫位を施す所もあるが、全然追肥を施さない所が多い。旧練馬町では追肥は施さず、元肥に十分に施すにとどめる。

管理   発芽後二十日位で間引を行い、一本立としている。間引後直ちに土寄せを行う。

病虫害  恐るべきものは、キスヂノミムシの幼虫の加害で、大根小蕪菁の肌又は内部迄入り喰害しあたかも葉潜蛾が葉肉組織を穿孔し蠕形的に喰害するのに似ている。俗にこの被害を「嘗メ」と称しているのは、丁度何物かに嘗められているような状態を示すからである。被害大根は、商品としての価値が減退しこれを販売しても価額は普通のものの三分の一或は五分の一にすぎない。農家で注意している点は

 一、下肥を過用するとき所謂「嘗メ」が多いからなるべくこれをさける。元肥として米糠と木灰とを施用し追肥に硫安を用いている農家があり、加害をまぬかれている。

 二、木灰を生育中時々撒布している。施用すれば忌避剤となり、成虫も喰害せず「嘗メ」も少いといわれている。

 三、播種前(元肥を施すとき)石灰窒素を施すと「嘗メ」が少い。

 四、整地を行わない畑には、被害が少ないと農家はいつている。

収穫   収穫期は、播種後四十五日から五十日位経たときで早いものは五月下旬から順次秋まで収めている。収穫後は、丁寧に洗い五本一杷として市場に出している。収量は反当り四、五〇〇本乃至五、〇〇〇本位である。

この外、くわい、らつきよう、とうもろこしは、区内の農産物の主なもののうちに人るであろう。

<節>
第七節 農家の副業
<本文>

農家における副業とは、田作畑作物以外のどれまでをいうかで人によつて異なるが、ここでは養蚕などを副業に加えずにみて行こう。

練馬区の農業は、もちろん明治以来畑作が主で、稲も陸稲が大部分をしめ、水稲はごく一部にしかみられず、蔬菜作りが主力をなし、東京市民の食膳への供給が唯一の目標であつた。養蚕は、明治中期頃好況にのつて一時振つたが十七八年頃より不況に見舞われ、それ以来積極的に行われるまでにいたらず、何といつても表看板の沢庵漬とらつきよう漬などが副業の範囲をこえる程の大きな部面をもつていたのであつた。震災後、次第に一部地域の住宅化が行われて、名物の沢庵漬なども練馬より石神井や大泉で盛んに行われるといつた遠心的移動の形がみられ出したとはいえ、もし、これらも副業というなら、それがやはり圧倒的な部分を占めていたといえよう。

沢庵漬は、大正の初年には豊多摩・北豊島二郡において特に盛んで、北豊島の志・下練馬・赤塚・石神井・上練馬・上板橋・長崎・大泉、それに豊多摩の野方・杉並・井萩・中野・高井戸・落合などの大概の農家はこれを副業として経営していた。

そのため、納屋の廂なども、ずつとさしかけを長く出して漬桶を備つけておくのに便利なようにしていたという。

大正六七年頃の話に、野方村が沢庵漬では一番大規模にやつていたようで、副業というより主業といつた方がよい

家もあつたという。大正七年一カ年における製産高をみると次の通りでまだ石神井や大泉は少なかつた。

  1野方村    七九、四〇〇樽   2下練馬村   三六、〇〇〇樽

  3志村     一七、〇〇〇樽   4杉並村    一五、四〇〇樽

  5石神井村   一五、〇〇〇樽   6井萩村    一四、八〇〇樽

  7赤塚村    一四、三五〇樽   8中野町    一四、〇〇〇樽

沢庵漬の就業季節は、大根の収穫とともにはじまるが、十月から十二月に及ぶ。甘塩と辛塩との二種類を製造する。其一樽の重量は約十六貫であるから、運搬に要する労力は相当なもので、やはり運搬機関が便であるか否かでその生産地がのびるかどうかが非常に密接に関係がある。

練馬大根の主産地である区内にも、大正になつて、その販路の開拓は交通機関の発展とともに大いに拡張されたようである。

近年交通機関の開けし為、大に販路拡張せり、生産三万六千樽の中、村内の消費量は二千二百五十樽にして、残りの三万三千七百五十樽は内地においては秋田・宮城・新潟より鳥取岡山の諸県、海外においては清国及米国に輸出せらる。 ――下練馬村報告

以前は乾蘿蔔ほしだいこんにて埼玉県川越町及所沢町方面へ主として販出せしも、近年に至り沢庵漬として東京市及埼玉県へ輸出するもの多く、将来益々盛大となる見込なり。 ――大泉村報告

この区内二村の報告が示すように、東京府のうちでも、区内の諸村や野方村などは道路の改善や鉄道の開通がその

発展を助長したことは明らかで、区内では、特に大正四年の武蔵野農業鉄道が池袋から開通したことが東京ばかりか諸県へ送り出せるようになり、日本の鉄道の発達は国内に練馬の沢庵漬の販路を拡張してくれた。トラックの普及は一段とこれを円滑にし、その上更に海外にまで輸出できるようになつていつたのである。(野方村の加藤氏が当時最も盛大に沢庵漬を営んでいて、一戸で数万樽の産額を示し、ハワイをはじめ、外国に生活する日本人の多い地にはどしどし輸出していたというが、やがてそれは練馬や石神井、大泉にもめぐまれてくる運命であつたのである。)

こうして、欧洲大戦の好況に伴い、ますます発展の道をたどり、関東大震災後の近郊の発展は、中野や野方から次第に大根の作付を周辺地区に追いやつたから、練馬、石神井大泉などは沢庵漬をもつて主業となす程の発展をとげた。

市郡併合直前における昭和五年末の調査によると、区内の主な副業としては次のようなのがあげられている。

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促成栽培 促成栽培以外に従来の藁囲苗床にかえて硝子フレームを使用し、同時に半促成をするものが次第に増加

し、東京府全体では大正九年には、総温床百一框であつたものが大正十一年末には二千五百三十框に増加するというすばらしい発展ぶりであつたが、主としていまの世田谷区内と杉並区内が多数をしめ、北豊島郡一帯はこうした方面ではずつとおくれていたようである。区内の大泉はこれによる西瓜栽培で有名だつた。

府の農業便覧によると、大正十三年頃北豊島郡一帯では

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郡内においては、区内がガラスフレームをを使用している数は多いが、多いといつても僅か八軒しか行つていない点は注目すべきで、全く野菜を作ること一点ばりの農民が圧倒的多数であつたことを物語つている。

<節>
第八節 農業会の結成と活躍
<本文>

東京府の農会組織のはじめは、北多摩郡役所の御用掛で物産振興に努力していた川崎平右衛門が郡内の有志をあつめ、明治十七年頃産業開発のため農工講話会を組織したのがその第一歩であるといわれている。

明治二十四年には各町村毎に町村農会、郡には郡農会をおき、二十六年までに三多摩地方ではこの農会の組織が進んでいたが、二十六年四月三多摩地方が東京府に編入になつたため、こうした気運が府内にも強まつた。翌二十七年大日本農会が主催となり、全国農事大会が東京市に開催されたが、その時農事改良上第一に着手すべきものは何かという議題に、系統的農会の組織の必要を決議し、農会法の制定を政府ならびに貴衆両院に建議した。当時東京府としても農会設立についての法令のよるべきものがなかつたので準則の発布を希望し、二十八年十一月この準則が発布された。そこで篤農有志達の集会となり、三十一年十一月四日東京府農会の設立を奨励し、それが各郡町村数の過半数に達した時郡農会を組織し、郡農会数が全郡の過半に達した時、府農会を組織する方針で進んでいたから、三十一年までには北豊島郡の町村にはすべて各農会が組織され、ひいては郡農会も設立されていた。

こうして農事改良のためのいろいろの事業が企てられたが、特に欧洲大戦の勃発以来、産業振興の声が盛んになり、農会についても大正七年東京府郡町村産業奨励要項によれば、次のような施設方針を決定している。

<資料文>

      市町村農会

 府下市町村農会ハ従来市町村農事開発ニ関スル万般ノ施設ヲ実行シ、農家ノ幸福ヲ増進スルノ目的ヲ有スルニ拘ラズ、相当ノ活動ヲ為セル市町村農会ハ極メテ少ナク、例ヘハ市町村農会ノ経費予算ハ大正六年度最高千円普通三百円内外ニ過ギザルガ如キ農会技術員ノ数府下ヲ通ジテ僅々三十名ニ達セザルガ如キ不振ノ一斑ヲ窺フニ足ル。故ニ将来ハ必ス左ノ方法ヲ実行シ農会ノ活動ヲ促サントス。

一、市町村農会ヲシテ市町村ノ農事改良方針ニ基キ、必ズ区域内ノ農事開発ニ関スル実行計画ヲ樹テ年中行事ヲ定メテ之ヲ実行セシムルコト。

二、市町村農会ニ於テハ必ス基本財産蓄積ノ方法ヲ講シ、且農会費ノ増徴ヲ実行シテ事業ノ振興ヲ図ルコト。

三、市町村農会ニハ一農会一名以上ノ技術員ヲ設置セシメ、府下ヲ通ジテ技術員設置ヲ必要トスル約百十三箇市町村農会ノ七割即チ九十箇町村ニ対シ、九十名以上ヲ設置セシムルコト。

四、市町村農会ノ事業ハ之ヲ凡ソ技術的方面、並ニ経済的方面ニ大別シ、各分担ヲ定メ町村ノ実行委員ト連絡ヲ保チ、生産ノ改良増殖ヲ図ルト共ニ販売購売組織其ノ他一般農家経済ノ改善ニ努力セシムルコト

これを基本として大正八年府農会は郡市町村農会に七、二〇〇円の補助を行い、これにより郡市農会は十人、町村農会は五十人の投術員を設置、ここに農会は活溌な行動運営を行うようになつて発展していつた。

大体北豊島郡内の農会は区内の村々を含めて技術員設置、農産物品評会、各種立毛品評会、園芸品評会農事講習会病害蟲防除、漬物組合助成、農事調査、出荷組合助成、副業奨励、園芸奨励などの事業を行つた。

大震災後、益々これら組合の組織は整備されて、各方面に相当の実績をあげるようになつていつたが、いま昭和五年における区内の大泉、上練馬の農会の事業についてみると別表のような事業を行い、農村の振興改良のために努力している点がうかがえる。

<資料文>

       昭和五年「東京府農芸要覧」

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第九節 商工業の進出
<項>
一、商業の発展
<本文>

震災後の発展は、次第に商人の農村地域進出を企図する者を続出させ、区内にも西武線、当時の武蔵野線の沿線特に池袋に近い江古田や桜台方面に次第に商店街を作り出すようになつていつたが、もちろん、明治時代においても、村に何軒かの商店があり、何でも屋として村民のための雑貨を商うといつたことはいう迄もないが、それらが一軒ふえ二軒ええて、次第に何でも屋の業種が分れるようになつたのは、明治の末から大正のはじめにかけての事であつたらしい。

田畑をたがやして、小作料をおさめることしか知らないといつてよかつた区内の多くの農民は、東京が次第に発展してくるにつれてますます野菜物が旧十五区市民の要求する所となつて、野菜物作りに全力をつくす有様であつたが、日清戦争後の好況は、そろそろ、こうした東京からみて北豊島郡としても一番はずれの区内の村々にも影響をみせてきた。郡内でも商工業が南千住とか・日暮里など一部の地域に盛大になる傾向を示して来た。欧洲大戦ごろから

半農半商形式を脱して、商業だけで生活をたて村民の需要をたよりに生活する人ができて来てはいたが、それらは村のどこそこの家といつたように個々の商店として村民達に知られていて、今のような一つの商店街を形成していたのではなかつた。それが震災後、何軒かの商店が街道に沿つてでき、次第に増加して、そこが中心の通りといつたような風になつていつた。

ただ、欧洲大戦の好況時代には、養蚕が練馬大根や大麦小麦の収穫高よりも高い値になつた時代があつたため、区内の村々なども大いに好況の波にのり、一時活況を呈したため、それらの金融機関として下練馬村に「銀行」とよばれるものができた。

練馬興業株式会社 大正五年七月設立 資本金五万円 代表社員 佐久間助右衛門

がそれである。こうした小銀行の設立は次第に商店が各村々にできゆく一つの過程にどこにもみられる現象なのであつた。

区内の村々はこうして大体大正の中期ごろにはたとえ非商店と入り交つていたにせよ、一応は半農半商的な意味での商店街らしいものができていつた。区内の地が漸く発展の第一歩をふみ出したのは、関東大震災後のことといつてよく、それまでは全くの農村であつた。買物をするにも池袋や中野だのへ出ていかねばならぬものもあつたという。

関東地方一帯は、大正十二年九月一日十一時五十八分突如として大震災に見舞われた。旧東京市内は水道の破壊されたため、その後に起つた大火災によつて灰燼に帰し、大打撃をうけ廃墟と化した。区内の地も亦、農村とはいいながら大震災の被害を蒙つた。

震災後の人口の増加は、練馬や石神井に住宅が次第に増加してゆき、「新町」と呼ばれる地域を作つていつたが、それでもまだいまの豊島区などのように旧市内に近くないため、その発展はむしろ遅い方であつた。

住宅が増加して、新しい町ができてくると物資を供給する商人の活躍の舞台が生れる。次第に商業を営む専門店ができて、震災前のような半農半商の店や「何でも屋」を駆逐していつた。こうして、区内の商業は徐々にではあるが発達してゆき、商店街らしいものの形成、いわゆる旧町村内での「目ぬきの通り」ができていつた。当時の商店についての営業状態その他は資料がなくてよく判明しない。

商業従事者数

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昭和五年の国勢調査と大正九年のそれとを比較して、商業人口をみると農村地帯としての区内に商業が発展してゆく状態がうかがえ、また急激にどこの村が商店が増加していつたかがよくわかる。この表によると、中新井村は急速に商業地として発展をみたようで、大正九年の四・四倍強という数字を示し、これについで練馬町が昭和三年町制をしいただけあつて一・六倍強の商業人口をもつている。大正九年から大震災後の発展の影響をうけていくらか発展しだした区内の姿が、この商業人口表にうかがえよう。早くより開けて、商店が少しあつた石神井村も、昭和五年にはすでに中新井には商店街ができて、その発展に先をこされてしまつた形である。

<項>
二、工業の勃興
<本文>

区内の村々での工業といえば、はじめは全くの手工業であつて、自家用の範囲をでないものであつた。

工業といつても、明治の頃にはせいぜい醤油の醸造が行われた程度で、石神井の栗原氏の家は明治の末頃は、<外字 alt="人+池">〓(ヤマ池)という醤油を作り近在に売り捌いたという。農家の副業として経営していたが、大正のはじめ、村の政治に尽力するようになつて事業が支障になり、大泉の人に権利を譲つてしまつたというが、その後もヤマ池の醤油はつくられたようである。

この外では製絲業があつた。明治の中頃のことらしいが、石神井の三宝寺の近くに製絲工場ができて、糸をとつていた。いまの三宝寺の庫裡がその製絲工場の名残りといわれている。

区内には、上石神井の二カ所に製糸工場が起つたらしく、この両者とも西南戦争後の安定期の好況の波にのつて設立をみたのであつたが、明治十七、八年頃には不況に見舞われて全く振わなくなつたという。

明治十六年、府知事に北豊島郡役所より提出した書類から区内の記事をひろつてみると、

<資料文>

一、上石神井村 興就社

  該社ハ製糸業ニシテ去ル明治十二年二月当庁(府)ノ認可ヲ得、同村栗原仲右衛門等資本金壱万円ヲ以テ起業ス、然レトモ当今其業振ハズト云

一、下石神井村 同潤社

  該社ハ是亦製糸業ニシテ同村本橋勝右衛門等ノ発起ニ係リ、資本金三万円ヲ以テ起業シ、明治十三年十月当庁へ届出ツ、是モ其業当今振ハズト云

こうして、やや明治中期に農業を主とした区内に製絲工業の初期的発展がみられたことは注目に価する。しかし、この二社はせつかく区内に製糸業の根をおろしながら、養蚕業界の不況にあつて、甚だ振わず、大製絲工業にまで発展をみることなく、資本主義確立期に敗退していつた。

このほか、同じく初期工業ともいうべきものに製粉業がある。

<資料文>

一、千川上水ハ従来ノ上水ニアラザルヲ以テ、其水路ニ水車ヲ営業スル者頗ル多ク、夫カタメ幾分水質ヲ汚シ、且諸物ヲ洗滌スルノ悪弊アリ、依テ此水路ニ限リ取締リヲ一層厳重ニ致度(明治十六年郡役所提出書類)

とある十六年の記録でもあきらかなように、千川上水を利用してかなりの製粉業が行われたようで、水車の活用が区内の産業の面で重要な使命を帯びていた。

水車の利用

水車の利用ということは、農村の都市化という過程の上に興味ある問題で、区内の工業の発展の上にまず第一歩を踏み出すものは水車であるといえよう。水車がいつ頃から村民によつて使用されたかは明らかでないが、一説には北豊島郡の水車は、いずれも明治以降にはじまるといわれるが、これは少し疑問である。淀橋水車の如きはすでに幕末穀物の搗よりも火薬の製造に転用されている位であるから、区内の水車もあながち明治以降の創始とはいえないと思う。

もちろん区内のような純農村においては、その石神井、白子川、千川上水などの水流を利用して米・大麦・小麦等の穀類の精白や搗くことが水車の目的であつたが、その動力はそれらの水力に仰ぐことなので、用水の灌漑に供すること多い時季にあつては、一時水車の運転を休止する所もあつたという。

明治三十一年の「郡役所報告」にも

<資料文>

 千川及石神井川ハ本郡田甫ノ潅漑ニ供シ、各製造所ノ使用スル所トナリ、又三十七ケ所ノ水車ヲ維持シ、杵数九百五十余、挽臼数五十余個ヲ有ス、之ヲ運転セル水力ハ石神井川千川ノ二線ニアリ、其利益大ナリト云フベシ。

とあつて、その水車業の盛大であつたとを語つている。

水車の利用ということは、農村の労力問題の上に大きな影響をもつが、同時に同じ水車といつても堰の有無では非

常にちがい、水車の効果を高めるためには堰を高くつむことが有利なことはいうまでもない。そのためたびたびこの高く堰をつむことが、上下の村々での問題となり論議をまきおこす基をなした。東京府でもこうした事件が明治十七、八年頃からいくたびとなくおきたので、十八年には一応各郡使用の水車を調べ、実情に応じて堰の高さを制限する方針をとつた。一例を下練馬村にとると

<資料文>

                       北豊島郡下練馬村

                            水車営業人 新井七三郎

 其方居村ニ設置有之所有<漢文>レ水車堰度ノ儀ハ己来堰枠土台ヨリ曲尺三尺五寸ヲ限リ超過不<漢文>二相成<漢文>一候条、其旨相心得請書可<漢文>二差出<漢文>一、此旨相達シ候事

 但シ降雨等ノ際ハ勿論スベテ水量増加ノ節ハ堰板取払、水面高昇ヲ来サザル様注意可<漢文>レ致候事

  明治十八年十二月十六日

                            東京府知事  渡辺洪基

右之通御達相成謹テ奉<漢文>二承知<漢文>一候、依テ御請申上候也

 明治十九年二月四日            北豊島郡下練馬村第四千百四十番地

                            水車営業人 新井七三郎

また他の一例をみると

<資料文>

水車春臼増額

一、春臼 五個 但シ 弐斗張 三個壱斗張 弐個

 右ハ土支田川用水路北豊島郡下土支田村第八百廿番所有地ニ有<漢文>レ之水車之儀、明治十七年一月ヨリ同弐拾一年十二月迄五ケ年間御許可之上営業仕居候処、今回前記ノ通リ増臼仕度、尤水上水下等ニ於テ故障之筋一切無<漢文>二御座<漢文>一候間、何卒御聞済被<漢文>二成下<漢文>一度、別紙図面相添連署ヲ以テ此段奉願上候也

                            北豊島郡下土支田村第八百廿番地

                                水車営業人   加藤豊太郎

                                同村 水上惣代 加藤平八

                                同村 水上惣代 加藤政七

                                同村 水下惣代 小島善太郎

 東京府知事 渡辺洪基殿

 

前書出願ニ付ノ奥書仕候也

 明治十九年三月十日

                                  右村 戸長 加藤源次郎

                                  北豊島郡長 本橋寛成

こうした設立願が出されると、一応堰に関する制限などの問題がおきるのであるが、この場合は土支田川の分水で、水堰がないという理由から簡単に許可されている。

水車の新設ということは、上下の水流にもひびくので、なかなか手つづき上は厄介なものだつたらしい。一例を「水車書類」によつてあげると

<資料文>

      水車 設立願

北豊島郡上練馬村内玉川上水北側新井筋分水路地字神明ケ谷戸

      持主 同郡同村六千五百八拾八番地

                  上野伝五右衛門

                             埼玉県下新座郡膝折村四拾六番

                                     平民 金子豊吉

一、畑六畝弐歩明治十九年弐月ヨリ廿四年一月迄五年間

一、水車  壱個

  但 水輪 径壱丈八尺

    眷杵把   弐本     但 壱斗張 拾本弐斗張 弐本

    針銅機械  弐台

右之通リ水車設立致シ書面之通リ修理年季中相稼候様仕度、尤モ水上下村々示談正ニ行届候儀ハ勿論、村内故障等一切無<漢文>二御座<漢文>一候間、何卒右御聞届被<漢文>二下置<漢文>一度、則別紙村々連印証書、并ニ別書水車建設之場所図面相添へ此段奉<漢文>レ願候也。

 明治十九年

                                       右金子豊吉㊞

                           上練馬村六千五百八拾八番地

                                  地主 上野伝五右衛門㊞

                             同村六千四百九拾一番地

                                     親戚 上野平吉㊞

                             同村六千六百六拾四番地

                                地主惣代 上野市郎左衛門㊞

 東京府知事 渡辺洪基殿

前書出願ニ付奥印候也

                                   右村戸長 増田藤助㊞

                               埼玉県新座郡膝折村聯合

                                    戸長 大塚要太郎㊞

                         神奈川県北多摩郡小川村四拾七番地

                                       小川源二郎㊞

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水車が新設されると営業鑑札が交付された。

こうした例にみるように、区内の河川や千川上水に架設された水車は、区氏のための動力的役目を大いにつとめたようである。しかし、明治の後期から大正のはじめにかけて、これらの水車も、次第に変貌してゆく村の姿に応じて、その用途をかえてゆくものがあり、穀類搗よりも工業用にと利用されてゆくようになつたものもあつたらしい。その変化は、時の好況不況にも左右されたから、たとえば一時製紐に利用されたのが、再び製粉や製米に

戻るといつた現象もあつた。石神井村の二水車が、一は米麦搗の外粉・針金製造に変じたものが、不況のため再び米麦搗となつたり、一は木綿絲繰器械を据付けたものが再び米麦搗及び製粉に変じた例などもある。しかし、大正時代特に欧洲大戦が開始された後に新しく設けられた石神井村観音山の水車のように、はじめから板金や針金製造を目的としているのもあつて、この頃からが区内の農村の姿が、そろそろ商業や工業の影響で(大泉地区は別として)、練馬や石神井の変貌しはじめる時期にあたつていることと考え合せると、甚だ興味あることといえよう。

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副業としての下駄表、草箒

戦前における練馬区の大きな特色は、蔬菜加工品としての沢庵漬の外に、副業として棕梠下駄表の製造や、草箒がかなり製造されて、農家経済を助けていたことである。

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棕梠下駄は練馬町に生産され、草箒は大泉・石神井(赤塚)・練馬・上練馬の町村で生産された。しかし、いかに作業が簡単でも草箒の価格は非常に低額なも

のであるから、一般農家の副業としては余り喜ばれなかつたようで、これらの町村を合せても(昭和五年現在)二〇戸位が従事していただけであつた。

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これに反して、棕梠下駄表の方はかなり需要もあり、震災後好評で、市域拡張前後頃には練馬町の一つの特色をもつ産業となり、副業としては有望な事業であつた。いま昭和五年における生産額をあげると次の通りである。

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この下駄表については小田内通敏氏の調査によると大正六・七年頃下練馬村谷戸の特産品であつて、戸数約百五十戸(大正六・七年頃)位がこれに従事し、原料は竹の皮を用いて製造していたのが、次第に村が開けてゆくにつれて、竹の皮の供給が間にあわなくなり、和歌山県下より梅雨の初め頃にとつた棕梠の新芽のかげ干しにしたものをとりよせ、それを原料として硫黄で漂白して下駄表に製造するものであつた。

大正の中頃にはそれまで宅地廻りの土地を干場につかつていたのを、次第に製造量を増すにつれて、後方の畑地まで干場に使うほどの益況におもむいたという。製作には男子より女子が適し、そのため女の子の生れることが喜ばれる傾向にあつた。

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下駄表の製造であるから、勢い浅草の花川戸と交流があり、この方面からの寄留者も少くなかつたという。

この外、簡単な機械を使用して女子が行うものに羽織の紐の製造があつた。明治の末から大正にかけて、羽織の紐は板橋町を中心に区内の諸村でも少しは行われたようであるがよく判明しない。特殊なものに大泉村を中心にした撚絲業がある。この撚絲業というのは、市内の問屋より糸の提供をうけて、中農以上の地主が、数人又は十数人の工女を雇傭して、簡単な機械を運転させて網絲等の撚絲を製作するものであつた。大正六・七年頃大泉村だけで戸数十三戸、生産年額六万五千余貫というから純農村のこの大泉村としては相当利益があつたものとみてよかろう。

区内の工業の発展は、震災後旧市内隣接町村がめざましい発展をみせ、工業も盛況に赴きつつある時にも、まださしたる発展をみなかつた。相変らずの農村であり、住宅地が多少できていつた程度であつたから、近代的大工業などが起ることなく、工場としても盛大なのは主として古くよりの関係で染織工業であつた。いま市域拡張の併合前における各町村別の工場をみると次の通りである。

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東大泉の橋本綿糸撚工場(職工男一女一一計一二)や練馬高松一丁目の宮本工業所(職工男九女六計一五)などの撚糸の工場ができたのは、大正十五年八月と六月のことで、震災後の郊外の発展の影響が現われてきて、工場なども次第にふえてゆく形勢を示した。小沢撚糸工場も、練馬の高松一丁目に同じく十五年六月に創立されたが、これは靴下製造に主力をおき(男一二女三計一五)中新井三丁目の神山製綿工場(男子)石神井関二丁目の福島製綿工場、練馬春日町二丁目の水橋製綿工場(大正一二年一〇月職工五)など、区内の工場が多くは製綿或は糸撚工場であつたことは、農村における初期の工業発展の一形態を示すものといえよう。

昭和十一年現在でも区内の工場は次表のようにわずかであつた。

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<章>

第四章 現代文化の展開

<節>
第一節 交通の発達
<項>
一、道路
<本文>

江戸時代から明治へと時代は移つても、交通の上で急速に変化発展したというようなことはなく、区内各村ともに明治初年はほどんと江戸時代と同様であつたといつてよい。農村としての区内の交通網をながめると、まず第一図と第二図は明治十四年測量の図であるが、これは江戸の面影が変化していない状況とみてよかろう。それが第三図になると、明治四十三年の図であるが、村として次第に戸数も増し、多少の変貌がみられる。さらに第四図は大正六年の図であるが、ようやく欧洲大戦を転機に変化を示そうとする発展第一歩の姿がみられる。

道路の整備

区内の道路としては、何といつても江戸時代からの主要交通路であつた川越街道、青梅街道、その間の清戸道が主なもので、この三主道路を中心に農村としての小道路がはりめぐらされて農民達の交通に便していた。

<資料文>

川越街道 中山道を板橋で分岐して、上板橋、下練馬、赤塚、白子を経て大和田方面に至る。

青梅街道 新宿、淀橋、中野、杉並、井萩、石神井、保谷から田無方面に出る。

清戸道  高田より落合、長崎、上板橋、中新井、上練馬、下練馬、石神井、大泉をへて膝折に出る。

この三道のうち、東京市中との交通としては、村民達からはやはり清戸道が一番利用されたようで、牛込や市谷・四谷・小石川・本郷方面に糞尿を汲取りにゆき、市場としては、早稲田の野菜市場、或は神田多町、京橋大根河岸あたりへ出していたので、目白から江戸川へ出るコースが多かつたという。

その道が悪かつたことは、よく老人達の思い出ばなしになるほどで、元来、幕末ごろでも、青梅街道や川越街道ばかりか中山道のような幹線道路でも随分ひどい道だつたようである。もちろんある村ではかなり道がいいのに、ある村ではひどい状態にあるといつたこともあつたろう。日でりつづきの時は、少し風が吹いても砂ほこりが上り、雨が降るとドロドロで踵を没する状態にあつたという。またこれらの道路の修理は、各村持ちであつたからなかなかその費用の捻出は容易でなかつた。その上、駄馬の交通が一層道路を悪くしたことは否定出来ない。明治に入つて、荷車の運搬用としての使用が益んになり、これがさらに道路をわるくした。野菜、特に名産の大根をつんで市場へ出かける時など、夜の明けぬうちに出発するのだから、雨降りの後など荷車が道路へめりこんでしまうと動きのとれぬ状態になるので、五軒六軒とくんで出発し、一台が動けぬようになつても皆で協力してドロ沼から引つぱり出すといつた工合であつた。

砂利道などになるのも経済上からは容易なことでなく、郡役所や村々の役場当事者もこれが悩みの種の一つであつた。そのため道路の改良陳情がよく行われた。

明治十八年七月、渡辺府知事の巡見に当つて北豊島郡役所が提出した書類によれば、区内関係の主な道路のうち地

方税道路としては

<資料文>

川越街道 同郡下板橋宿ヨリ埼玉県下白子村境ニ至ル。

青梅街道 東多摩郡上井草村ヨリ移リ北豊島郡関村ニ至ル。

清戸道 同郡高田村ヨリ埼玉県下小榑村境ニ至ル。(当時はまだ小榑村は埼玉県に属していた。)

の三つがあつた。また、地方税補助道路としては

<資料文>

練馬道 北豊島郡下板橋宿ヨリ同郡下練馬村ニ至ル。

所沢道 東多摩郡下井草村ヨリ移リ、北豊島郡関村ニ至ル。

富士道 川越街道出口下練馬村ヨリ同郡上石神井村ニ至ル。

高田道 清戸道、下練馬村ヨリ埼玉県白子村ニ至ル。

練馬道外五ケ村ヲ経テ白子村ニ達スル道

などが主なもので、これらが財政上まつ先に改良を加えられる道路であつたようだ。

道路法の公布

<補記>(一九一九)大正八年四月道路法が公布されて、道路の種類は、国道・府県道・郡道・市道及び町村道の五種となつた。その後、郡道の費用を負担すべき郡が郡制の廃止に伴つて消滅することになつたため、同十一年道路法の改正法律が出て郡道は廃止され、その一部は府県道、他は町村道に編入された。この道路法により、国道と府県道は府県知事、市道は市長、町村道は町村長の管理するところと定められた。

東京ほか六大都市では、市長がその市内の国道及び府県道をも管理することとなつた。

都市計画決定道路

東京市の道路計画は、明治二十一年八月に発布された東京市区改正条例にもとずく市区改正設

計事業にはじまり、大正九年一月施行の都市計画法に基ずき翌十年になつて最初の都市計画として新設改築事業がその第二次として計画されたが、当時は、いずれも旧市内十五区とそれに隣接する地域に限られていた。しかし、これが着手されぬうちに、十二年の関東大地震があつたため、その一部は、帝都復興事業として行われた。

ところが、震災後の隣接町村は急激な人口増大をみ、異常な発展を来たした上、都心と郊外とが多くの通勤者によつて毎日結ばれるようになつたため、これを緊密に連絡する道路計画を必要とするに至り、昭和二年復興計画に道路対応して都市計画区域全般にわたつて新しく道路網が計画された。一四二線に及ぶ延長六六五、一四一メートル工費総額三六九五三九一八三円という巨額に達する大計画で、この道路網は東京市と隣接五郡の両部に分れ、それをさらに幹線放射道路、幹線環状道路及び補助道路に類別している。

<項番>(一)幹線放射道路この道路は専ら都心と外部地方との交通を円滑にすることを主眼とし、その配置は、大略在来の国道及び府県道の系統に一致させるようにしたが、交通の必要上、神奈川県、埼玉県、千葉県等の隣接地方との連絡を考えにおいて新たに路線を選定したもので、いま、区内に関係をもつ路線と幅員をあげると次の通りである。

<資料文>

路線番号      改修区間                            延長      幅員

 六   豊島郡淀橋町東詰ヨリ北豊島郡石神井村、関、北多摩郡界ニ至ル       一一八四六米    二五米

 七   豊多摩郡戸塚町下戸塚市郡界ヨリ北豊島郡大泉村、小榑、北多摩郡界ニ至ル   一四六九二    二五

<項番>(二)幹線環状道路 幹線環状道路は、各放射道路を連絡し、都市計画区域内各地方の交通を便利にする目的で計画されたが、本区はこれに入る道路はない。

<項番>(三)補助線道路 補助線道路はそれぞれ地方の状況に応じて幹線の放射道路と環状道路を補助して、この間に縦横に通じて局部交通の利便を図ることを目的として計画された。

<資料文>

路線番号 改修区間 延長 幅員

三三   北豊島郡石神井村関須崎、北多摩郡界ヨリ、同村同三ツ塚ニ至ル       一、〇七三米    一一米

三七   北豊島郡中新井村中新井本村ヨリ同村同宮北ニ至ル               九八四     一一

三八   豊多摩郡杉並町馬橋ヨリ北豊島郡上練馬村、上練馬ニ至ル          四、一六一     一一

三九   豊多摩郡杉並町成宗ヨリ北豊島郡上練馬村上練馬ニ至ル           四、七三三     一一

四一   豊多摩郡石神井村関ヨリ同郡大泉村土支田ニ至ル              三、一六二     一一

四四   豊多摩郡落合町下落合北豊島郡界ヨリ北豊島郡石神井村上石神井ニ至ル   一〇、八二八  一五―一八

四五   北豊島郡石神井村谷原ヨリ同郡大泉村小榑北多摩郡界ニ至ル         八、六二一     一五

四〇   豊多摩郡井萩町上井草ヨリ北豊島郡石神井村下石神井ニ至ル         四、二七六     一一

四六   北豊島郡石神井村谷原ヨリ同郡大泉村小榑北多摩郡界ニ至ル         四、六〇九     一一

四七   豊多摩郡野方町江古田ヨリ北豊島郡板橋町下板橋ニ至ル           二、八一八     一一

四八   北豊島郡中新井村中新井ヨリ同郡上板橋村七軒耕地ニ至ル          三、二七三     一一

四九   北豊島郡上練馬村上練馬貫井ヨリ同村同田柄ニ至ル             三、四七三     一一

五〇   北豊島郡上練馬村上練馬貫井ヨリ同村同田柄ニ至ル             三、一四五     一一

五一   北豊島郡大泉村上土支田ヨリ同郡下練馬村田柄ニ至ル            五、二七三     一一

五二   北豊島郡大泉村上土支田ヨリ同村橋戸ニ至ル                二、七〇四     一一

五三   北豊島郡大泉村小榑、西仲置ヨリ同村同後原北多摩郡界ニ至ル        二、〇三一     一一

五四   北豊島郡下練馬村宿湿化味ヨリ同村同埼玉県界ニ至ル            八、三二二     一一

五五   北豊島郡西巣鴨町池袋ヨリ同郡下練馬村田柄ニ至ル             七、二四七     一五

五六   北豊島郡下練馬村田柄ヨリ同郡志村ニ至ル                 三、二七三     一一

<項番>(四)細道路網道路 細道路網は、前の道路網をさらに充足補助して局部的交通の便を図り、土地開発を促進して土地区画整理の施行に対しその基準を示すことを目的としたものであつて、都市計画区域内全般にわたつて計画がうちたてらるべきものとされた。

<資料文>

                                        内訳

 内閣認可年月日      町村名          路線数    延長        面積

昭和五年十月二十二日  野方町中新井村         四五   六五、八〇〇米    六三〇、〇〇〇平方米

同 六年三月 十日   目黒町松沢村世田谷町練馬町   七〇   九七、八〇〇   一、〇六八、九〇〇

同 九年十一月     上練馬、石神井、大泉      二二   七六、二五〇     八五〇、一五〇

こうして、計画はありながら区内の道路の整備拡張はほどんと大震災後にもちこされ、昭和二年の都市計画によつて決定された案が着々として実施完成をみていつた。

昭和十二三年頃より戦時色が強くなり、昭和十五年ごろから戦時態勢の強化とともに区内の西部沿線にそつて軍事的使用の目的での道路拡張が行われた。現在の練馬区役所の前を走る広い道路のごとき、のちには軍用道路としての

意義まで加わつて拡張整備が急速に実現されたものなのである。

<項>
二、橋梁
<本文>

区内における道路の発達は、明治時代に多少の改修が行われた程度であつたから、白子川、石神井川、千川上水にかかる橋々も、他の区のように大きな橋でなく、木橋が石橋の狭い小さなものが大部分であつたといえる。しかしこんな狭い川にとつても橋がなければ渡れなかつたし、随分不便であつたろう。道路がいくつも増えてゆけば、それに橋をかけることが交通の発達をうながしてゆくので、村の人々の土木工事として、橋かけという仕事があり、村役場時代になつても、これは一つの村政上の仕事であつた。

明治七年の東京府史料をみると、白子川については、区内の諸村にはかかる橋がなく(明治二十二年の編入で小榑村や橋戸村が東京府の管轄となつた。)石神井川には、かなり橋がかかつていた。当時の橋は、江戸時代からあつたものとみてよいであろうが、区内には合計三〇の橋があり、土橋一〇、石橋七、板橋一三となつている。

石神井川については「第八大区八小区豊島県関村溜井ノ流、上石神井村ヲ経テ同村三宝池ノ流ト下石神井村ニテ相合シ、七小区田中村谷原村、上練馬村、下練馬村、第九大区四小区上板橋宿、下橋宿、三小区滝野川村、六小区王子村ヨリ同区豊島村ト三小区堀ノ内村トノ間ニ至リテ荒川ヘ入ル、延袤凡四里余、○溜井流幅関村ニテ四間半、深六尺ヨリ一丈、上石神井村同シ、下石神井村ニテ幅二間ヨリ四間、深四、五尺 〇三宝寺池ノ流幅三間ヨリ四間、深四尺ヨリ六尺、〇二流合ヨリシテ幅五間、深七尺、田中村ヨリ下練馬村マデ同シ、上板橋宿幅四間、下板橋宿幅八間、滝

野川村幅五間ヨリ八間、王子村堀ノ内村ニテ幅十間、上板橋宿以下深大概五尺、浅キハ二三尺ノ所アリ」とのべ、それにかかる区内諸村関係の橋梁としては次の二三橋を記している。

橋の種類    村名     橋名    長さ       幅

土橋     関村     長加橋    五間      二・五尺

土橋     関村     小関橋    五間      二・五尺

板橋     関村     下ノ橋    五間      一・五間

板橋     上石神井村  徒士橋    五間      四尺

〃      上石神井村  小ケ谷戸橋  五間      二尺

〃      上石神井村  御成橋    五間      一・五間

〃      上石神井村  松之木橋   三間      一間五寸 関村溜井流ニ架ス

〃      上石神井村  池渕橋    一・五間    一間一尺 三宝寺池ノ流ニ架ス

石橋     下石神井村  大川橋    三間      一間五寸 関村溜井流ニ架ス

土橋     下石神井村  和田橋    二間      一間五寸 三宝寺池ノ流ニ架ス

〃      田中村    琵琶橋    三間      一間二尺

〃      田中村    長光寺橋   二間      一間二尺

石橋     谷原村    大橋     二間      一間

板橋     上練馬村   中ノ橋    四間      一間一尺五寸

〃      上練馬村   バツケ下橋  二間      四尺五寸

土橋     上練馬村   石川橋    五間      一間一尺

〃      上練馬村   宮田橋    二間      一尺 一間半

石橋     上練馬村   道楽橋    二間      一間一尺

板橋     下練馬村   麹屋橋    四間半     二尺八寸

〃      下練馬村   早渕橋    四間一尺五寸  一間一尺五寸

〃      下練馬村   羽根木橋   四間      一間

〃      下練馬村   坊ケ橋    三間三尺    五尺

石橋     下練馬村   正窪橋    六間      一間五寸

また、千川上水についても次の記載がある。

<資料文>

「水源ハ多摩川上水ノ分流ニシテ態谷県管下新座郡上保谷村ヨリ来リ、多摩郡関村ニテ管下第八大区八小区ニ入リ、竹下新田上下石神井村ヲ経テ七小区田中村谷原村上鷺ノ宮村上練馬村中村下鷺ノ宮村中新井村下練馬村ヨリ第九大区四小区上板橋宿長崎村下板橋宿金井窪村、同三小区滝野川村、又四小区王子村ニ至リテ石神井用水ニ合ス。延長上保谷新田ヨリ滝野川村マデ凡五里二十四町余、幅凡一間余、流末滝野川村ニ至リテハ七八間支流ヲ合シテ十七村ノ用水トナル、然ルニ流末千派万条一々記スヘカラズ、此用水元禄九年多摩郡仙川村百姓太兵衛徳兵衛ト云者、幕布ノ命ニヨリテ鑿ツト云、古来仙川ト書ス、後千川ニ改ルモノハ旧幕府ノ命ニ依ルト云。」

これに架する橋梁についても、区内諸村関係は次の七橋を記している。

<資料文>

橋の種類   村名     橋名      長さ      幅

土橋     関村     筋違橋     一間半     二尺

板橋     竹下新田   伊勢殿橋    一間四尺    一・五間五寸

土橋     上石神井村  筋違橋     二間      一間二尺

〃      下石神井村  堺橋      一・五間    一間

石橋     下石神井村  八成橋     一・五間    一間一尺

〃      中新井村   不明

〃      下練馬村   筋違橋     一間一尺    一間四尺

白子川についても

<資料文>

「豊島郡ト新座郡トノ界ニアリ埼玉県管下新座郡小榑村ヨリ来リ、第八大区八小区豊島郡上土支田村、下土支田村ノ地先ニ係リ成増村ノ内ニテ分派シ、上赤塚村下赤塚村ノ用水トナリ、本支トモ荒川ヘ入ル、川筋幅二間深二尺五寸分派シテ幅五尺深一尺、此川成増村赤塚村ノ辺ニテハ矢川ト呼ブ」

とある。明治初年小榑村がまだ東京府に属していなかつたから、いくつの橋がかかつていたか不明である。

その後、明治十二年四月には関村に木橋の川北橋(長四間三尺に幅一間一尺)が架せられるなど、いくらか橋にも変化はあつたにしても、殆んど明治時代は、こうした状況のまま終始したようである。

大正に入つて区内の橋に変化がきた。それは小さいながらもコンクリート橋の出現である。

<項>
三、交通機関の発達
<本文>

明治維新後といえど、区内の状況は全く江戸時代とかわらなかつたといつてよい状態だつたから農家の人が通る道

は旧態依然たるものであつたといえる。

維新政府は、欧米文化を急速にとり入れ、それを模倣して日本に移植し、その後進性をとり戻そうとした。

明治五年、新橋品川間にはじめて汽車が開通して、江戸つ子はそのはやさにきもをつぶしたが、この汽車の開通さえ区民は噂にきくだけで別に生活に影響することはなかつた。

区内の交通機関といつても、その発展は、明治末年から漸く近代文化の恩恵をうけるようになつたので、それ迄は、江戸時代の人々が歩んだ道をてくてく歩くか、初年以来急速に発展した人力位を利用するより外に方法がなかつたといつてよい。

ただ、明治十三年白子の宿から板橋宿を通つて万世橋に至る(一説には浅草雷門から馬喰町、メガネ橋(万世橋)を通り板橋に出、白子に至るという)白子乗合馬車が通いはじめ、市内との交通は比較的便利になつていつた。

そのうち、明治十八年三月一日、今日の山の手線のもとをなす赤羽品川間の鉄道が日本鉄道株式会社の手で開通した。赤羽、板橋、目白、新宿、渋谷、品川の六駅が設けられ、森と林と畑の中を汽車がゆくといつた風景が展開され出した。しかし、はじめのうちは汽車が珍らしく乗つた乗つたと野次馬的にさわがれたのも僅かの間で、じきに利用者が滅じて平常の日は一〇人以下といつた乗降客しかないこともあつた。特に、板橋目白あたりはそれがひどかつたようである。区内の村々は、勿論この影響をうけて汽車を利用する人々が目白や板橋にゆくことが多くなつていつたが、やはり地理的には目白駅に出る人がずつと多かつた。それでも当時の村の人々は、目白からさきは江戸川へ出て水道橋方面へ歩いてゆく人が多く、汽車にのる人などは余りなかつたという。

そのうちに、明治二十二年四月一日中央線が新宿から八王子まで開通した。これより以前は、明治二年中野の深沢幸次郎という人によつて、青梅街道に新宿田無間の乗合馬車が開通、甲州街道にも乗合馬車が通ずるようになつてゆき、区内の人々は、新宿方面へ出るのには井草方面へ出て、この乗合馬車を利用する人が多かつたという。二十二年に中央線が立川まで最初に開通した時には中野駅から吉祥寺までの間に駅はなく、荻窪駅ができたのは、二十四年十二月のことで、これより漸く区内の人々が鉄道を利用するため、吉祥寺や荻窪まで歩いてゆく人が多くなつていつた。

石神井や大泉方面の人たちは、中野や荻窪の方へ出るのが便利だつたから、何か特別な品物を買いにゆくのには、村にないような大きな店のある中野などへよく出かけたという。甲武鉄道が、明治二十二年新宿八王子間に開通してからは、荻窪や中野に出て汽車にのり新宿へ出ることも多くなつていつた。

<項>
四、国鉄の発展と武藏野鉄道その他
<本文>

こうして山の手線と今日よんでいる路線に鉄道が開通してからは、森や林や畑ばかりの附近も次第に変つていつた。それでもまだまだいまとは比べものにならぬ淋しい所であつた。

まだ池袋の駅などが登場しない時代のことで、いまの池袋の駅のあたりは畑のまん中であつたのだから、いまの池袋の盛況などからは到底想像もできない状態であつた。

そのうちに、池袋に駅が出来た。三十六年四月には田端池袋間が開通して、山の手線が上野まで通るようになり、

三十九年には皆国有となつた。三十七年には、八月にはじめて中央線の飯田橋と中野間に省線電車が開通、煙りもはかずに走る電車が珍らしいというので、中野まで区内の村々から歩いていつてわざわざのりに行く人もあつたという。同年十二月には御茶の水まで電化され、四十一年には昌平橋まで開通した。山の手線も四十二年の十二月になつて、新橋・品川から新宿・池袋を経て田端・上野に至る間が電化し、ここに東京の交通機関は一段と完備された。区内の人々は、これらを利用する機会はなかなかないらしく、新宿や目白へ出るにも歩いてゆき、そこからも歩いて旧市内へ入つていつたという。

西武線・武藏野鉄道の開通

区内に直接関係ある武蔵野鉄道は、明治時代には遂にひかれなかつた。はじめ、大正元年西武鉄道のいまの武蔵野線、当時の武蔵野鉄道ができることになつた時は、直接村民がその恩恵に与えるというので区内各村では大騒ぎであつた。いずれも「敷設賛助会」といつたものをつくつて自分の町や村を鉄道が通るように運動した。明治の末頃計画されたのだが、池袋から椎名町や江古田を通つて区内に入り、練馬から石神井大泉と通過して田無へ出、清瀬から所沢を通つて飯能に至るプランで、これは、いまの区内の中央をほぼ東西に横断することになるので、その便利なことはいう迄もなく、農民達は土地を格安で提供する犠牲を払つても鉄道の通ることを切望した。

各村々の主だつた人々が会社の設立にあたつて株主として出資したことは勿論、多くの人々に株主になるよう呼びかけた程であつたという。

武蔵野鉄道株式会社の創立は、明治四十五年五月で、百万円の資本金であつた。本線は、池袋から練馬、石神井、

大泉を通り秋津から埼玉県に入り飯能に至る線で、開業したのは大正四年四月十五日、また豊島園の発展と関連する豊島線は、本線の練馬から豊島園に至るもので、大正十五年十月認可され、昭和二年十月十五日の開業である。(この外昭和四年五月になつて西所沢から村山貯水池に至る線が開通

この武蔵野鉄道の会社設立の際には、大泉村の人々にも駅を作るから株主になつてくれと勧誘があり、それに応じた人達もあつたのに、いざ線路を敷くという段になると、設計には石神井から田無へ直接ゆくようになつていて、大泉駅がない。そこで大泉の人々は大騒ぎとなり、設計をかえて大泉に駅を作らぬと株主募集に協力した人の責任問題にもなるというので猛運動をして、やつと大泉に駅ができたという裏話がある。

さて、汽車は開通したが、なにしろ全くの農村地帯、人間ののる数は高のしれたもので、池袋を出てから畑や森や林ばかりの間を走るといつた有様、二時間に一度位しか汽車は出ず、会社としても肥料としての糞尿を汽車で運ぶのにかなり力をそそぐといつた状態であつたという。

武蔵野線は、このように、大正四年軽便鉄道で営業を開始、震災後やつと電化し、大正十四年全線電化した当時は西所沢まで通じていた。昭和四年に池袋保谷間の復線が開通したが、このことは、大正十二年の大震災後、漸く練馬地区などが発展をみて、この電車を利用して都心に通勤するものが多くなつて来たため、復線を開通させる必要が生じたことを示している。

この路線は、区内の住民にとつて最も重要な足の役割を演じており上板橋の一部はもとより、中新井・練馬・石神井・大泉いずれもこの線を主として利用して池袋に出てくるのである。

こうしているうちに豊島園のできたことが、この方面に一つの子供の遊び場としての発展を将来して、多くの市民がここに遊びにくるようになつてゆき、これと相まつて、次第に発達していつた。

武蔵野線は、はじめ乗客をはこぶばかりでなく、農村として大切な肥料を運ぶという点に大きな村民の期待がかけられていた位であつたが、北多摩や埼玉県の村々の人々の恩恵もこうした点につながつていた。この因縁は今度の大戦になつて再び頭をもちあげて、戦時中人手がたりなくなつて糞尿のくみとり処置に困り、また、北多摩や区内をはじめ埼玉県の農家などは逆に肥料に不足するという状態にあつたので、東京都は西部電車に交渉、その援助と理解のもとに、糞尿をこの電車によつて農村におくり、糞尿の処置の解決をも一挙にはたすことができた。

この線こそ、区内農村地帯を横ぎる幹線であつて、区民の多くはこの線によつて市内との連絡をつけている。

村山線

一方武蔵野鉄道と合併以前の西武鉄道株式会社は大正十一年一月の創立で、初めより武蔵野鉄道株式会社が発起人である。たまたま大正十一年六月帝国電燈株式会社が武蔵水電株式会社を合併して継承した川越線・大宮線・新宿線等の鉄道軌道を武蔵鉄道株式会社発起人に於て譲受け、同年十一月名称を西武鉄道株式会社と改めて会社を設立したもので、資本金は六百万円であつた。

このうち、区内に関係あるのは西武村山線で、省線高田馬場駅より村山貯水地に至るものである。この線は、井萩東村山間は大正四年三月開通、井萩高田馬場間はおくれて大正十四年一月の開通である。

東武鉄道東上線

池袋に起り、板橋から上板橋・練馬・赤塚をへて埼玉県の寄居を終点とし秩父線に連絡する。

大正三年五月の営業開始、はじめ東上鉄道株式会社の経営で、後に東武鉄道の経営となり、昭和五年やつと電化さ

れた。この点からみてもこの地方がいかに発展が遅れていたかがわかる。やはり、埼玉県の農民達や区部周辺の地区の農民の利用する程度で、熊谷方面への交通路としての利用だつたのが、大震災後の発展によつて、板橋方面が開け、昭和五年の電化という問題が郊外の人口増大に因をなたことはいう迄もない。その後、市域拡張によつて板橋区の誕生をみてからは次第に住宅地区或は工場として発展を見、この線を利用して都心へ通勤する人も増加し、戦時中の軍需工業の発展による工場の増加、住宅不足は一層この線の沿線を発達させ、都心へ通うサラリーマンをはじめ若い工員や学生など、この線を利用するものが多くなつてきた。

<項>
五、バスその他の交通機関
<本文>

東京市中に人力車のあらわれたのは明治初年のことであるが、忽ち人気に投じて、続々と製造され市内電車などの乗物のない時分のこと、便利なのは人力車というので非常に盛況で、明治の中頃には区内の人も少しは人力車をながめたりするようになつた。馬車はガタ馬車から円太郎、鉄道馬車と普及して、市内を盛んに走つたが、区内の人は前に記した白子馬車を利用して川越街道を走る外には特別の恩恵に浴さなかつたようである。

こうしているうち、東京の旧市内には電車がお目見得し、やがて明治四十年市電となつて、のびていつた。そのうち大正九年頃から乗合自動車が入り、大震災後、青バス、市バスの競争時代が出現した。

練馬方面に自動車がみられるようになつたのはいつ頃か明かでないが、震災前後のころともいわれている。

区内に乗合バスのできたのは昭和になつてからのようで板橋ではじめたバスが区内に乗り入れて、便利は便利だが

道路がでこぼこになつて困つたという話がある。トラックがそのうち利用され出した。野菜物の市場への出荷や、重い沢庵漬の樽の運搬にはどの位重宝なものとなつたか、はかり知れぬものがあつた。

昭和六年、区内を通るバスの系統についてみると、私営バスの発展が著しかつたことがわかる。

<資料文>

1、昭和自動車商会「昭和」 (一区五銭)

  関、水道端、石神井原、新町、鳥居前、木屋→中島飛行機製作所前→荻窪

                      ↘西荻窪

2、中野乗合自動車「中野」 (一区五銭)

  中野駅―下井草駅―久保、八成、下石神井、坂下、石神井駅前

3、大正自動車「大正」 (一区四銭)

  練馬駅―中新井―中通―徳田→沼袋駅→中野駅

4、ダツト自動車「ダツト」 (一区、大人十銭、小人七銭、練馬―豊島園間大人五銭、子供三銭)

  目白駅→江古田駅前―武蔵高校前―三板橋―練馬駅前―豊島園

5、池袋乗合自動車「池袋」 (一区五銭)

  (A)成増駅―田柄久保―馬郵便局前―練馬宿―七軒屋―大山―四ツ又―池袋駅西口

  (B)成増―田柄久保―田柄―丸久保―練馬町役場前―氷川神社前―正久保―羽根沢―江古田

6、石神井自動車「石神井」 (一区五銭)

  成増→辻庚申、八丁原、牛房新宅、学校前三丁目、精進場、下屋敷、石神井駅前

7、箱根土地株式会社「大泉」

  大泉公園人口、大泉学園、学園都市人口、北切通、針金工場前、東大泉

8、板橋乗合自動車「板橋」

  板橋駅前→上板橋駅前―練馬宿、丸久保、上練馬登記所、豊島園

これが大体昭和六年頃、まだ市域に編入されず、板橋区にならない時代の区内を通るバスであつた。ガソリンが非常にやすく、市内では円タクが銭タクになつて、五〇銭か三〇銭でそこらを乗り廻していた時代で、市バス、市電などいずれも赤字になやまされている時代であつたが、郊外のバスの発展はそれらと事情をことにし、震災後増加した人々を市内に運ぶためにガソリンの安いことが幸して、乗客がそんなになくても収支が償つたので、異常なほどに急激の発展をみせ、群小バス会社が雨後の筍の如く増加していつた時代である。区内のような交通機関に恵まれぬ地域にあつては、どの位バスの開通発達が区内に便利を与えたか、はかり知れぬ程であつたのだ。馬車がとことこと唯一の交通機関として区内をゆつくり走つていた大正初年ごろののんびりした農村時代から、風景的には大部分はまだ畑でそう変化はないにしても、町がたてこんできて、バスが走るという所まで発展していつた。

板橋区に編入されてからの区内の交通機関の発展は、そう急速に発展するほどのものでなかつた。

そのうちに、時局はようやく大きな回転をみせて、満洲事変以後右翼の擡頭とともにアジアの風雲は容易ならざる段階に突入した。日華事変が突発し大陸に戦線が拡大するとその影響をまつ先にうけたのはガソリンで、まずその確保ということが問題であつた。次第次第にガソリンは貴重なものになつていつた。

それでも、昭和十六年三月、市内のバスは木炭車にきりかえられ、速度的には遅くはなつても、シリから煙りを出して定期的に走ることは継続された。

しかし、戦争が苛烈な段階に達するとそのうちに交通統制がはじまり、昭和十七年五月地域別調整が行われ、バス会社の統一合同など変転をみせた。こうして戦時体勢は日をおつて強化されていつた。

<項>
六、荷車
<本文>

明治初年頃から荷車が農村に次第に普及してくるようになると、今まで飼つていた馬を減少してゆく傾向が明治中期以降みられるようになつた。

江戸時代、馬につんで運搬した野菜や糞尿の桶などが、荷車によつて運ばれるようになつたことは、どれだけ量的に便利になつたかはかり知れないものがある。

そのうちに、馬に荷車をつけて運搬する馬力とよぶさらに一段労力を減ずる運搬車ができていつた。

こうして、農村は運搬の車の進歩によつてもかなり変化し、より一層東京市の市場にむすびつく利潤度が大きくなつていつたのである。出荷量が多くなつたのも、この影響であつた。

大正六年の統計によると、区内の各村の車の利用は次表の通りで、自転車が次第に利用されだしたことと、荷車が農村にとつていかに大事な運搬用の機関であつたかをよく示している。

図表を表示 <節>

第二節 教育の普及
<項>
一、江戸時代から明治初年の寺子屋教育
<本文>

純然たる農村であつた区内の諸村にも、幕末ごろには次第に教育が普及しだしたようで、恐らく、はじめは各村々の名主とかといつた人々の所で、読みかきを教える程度であつたものが、天保ごろから塾を開き子弟をあつめて、教育する者があつたらしい。

下練馬村の群鵞堂というのは、嘉永五年正月に、旧寄の田中三郎兵衛・田中善兵衛たちに頼まれて、相原万吉という人が寺子屋をはじめ、三十五名の生徒があつたという。天保七年正月に松原源太郎という人が算数を教えはじめ、さらに、上野彌惣次という者が嘉永六年二月に開業、石神井村でも、嘉永六年二月に山下敬斉が寺子屋を開いた。一

番古いのは、中新井村の正覚院住職保戸田智明で、文政十年二月筆道稽古所という看板を出したといわれている。いろいろ調査したが、大泉村のことは明瞭ではないが、加藤金五郎と云う人が安政頃塾を開いたといわれている。この外には、明治まで寺子屋もなかつたようである。

こうして、大体四カ村とも江戸時代の末から村の寺子屋で読み書きそろばんの教育が行われ、慶応になつて、二年八月下練馬村に風祭保賢が開業、次第に寺子屋もふえる傾向にあつた。

明治維新後は、急速にこうした寺子屋塾が増加したらしく、区内にも次表のように

<資料文>

 開業年月     所在地     塾名   学科    教師数  塾主名    廃業

明治元年二月   上練馬村一六四      読み書き漢字  1   荒井民弥 明治十四年一月

四年五月     中村七一         読み書き漢字  1   山崎利清   七年一〇月

四年八月     下石神井村二       習字漢字    1   安塚祐監   六年一二月

三塾が開設されている。

明治十七、八年頃の私立小学校に転じた私塾についての旧態調査によると、大体いろは、数字、仮名交り都路往来名頭江戸町名、国づくし、江戸方角、消息往来、商売往来、百姓往来、千字文、それにそろばんを教え、それらの課程が終ると、四書孝経などまで教えたようで、四年から六年位通う者があつた。その入門その他の状態は田中村の観蔵院の松山為次郎が、明治五年下練馬村の鈴木富蔵等の頼みで同村に移つてからの報告によると

図表を表示

旧入門の際は二百文三百文、式金壱朱、入塾ひろめとして壱貫文位の茶菓子せんべい類持参、生徒人数に応じ割付与へしむ、謝儀は毎月天神講と唱へ、挽割五合、銭五十文、又旧習五節句とて三・五・七・八朔・九月をして三百文、又金壱朱、年始歳尾は三百文、或金壱朱并切餅或鏡餅を添へ贈らる。夏は暑中見舞を兼ね、作り初穂と称し小麦一升或は温飩うどん一粉重、冬は寒中見舞又秋初穂と唱へ籾弐升、又は玄米一升づつ持参、其他茄子大根人参牛蒡芋類は数へあげず

とある。他の人々の報告も似たりよつたりで、ひき割りや野菜類が銭や小麦粉と共に謝礼の代りであつた点、区内諸村の姿を示していて面白い。

寺子屋の行事には、下練馬の相原万吉の報告によると、優等生や善良な子供には、月末に褒美として筆紙墨の類を与え、毎年十二月には、大試を行つてその優等生には筆墨紙のうちから適当に賞品を与えるという風であつたようだ。塾によつては、五節句・天神講にのみ銭をとり、他はひき割五合を毎月とる所もあつたという。しかし、村のこととて餅だの野菜だの小麦粉などは、常に貰つていて絶えることがなかつたようである。

こうした塾は小学校の設立と共に次第に私立小学校に転身し、維新政府の教育方針にそつた教育をするようになつていつた。

<項>
二、学制発布と小学校
<本文>

明治五年の学制の制定こそは、日本発展の運命を決する大きな出来ごとだつた。

明治五年の学制は、学区・学校留学生・学費等の学事に関する一切の事項を規定したもので、全編百九章から成り、その施設は非常に宏大なものであつた。全国を八大区に分けて、その数五三、七六〇校の学校を設立した。毎区に、大学校一、一大学区を三〇二中学区に分ち、毎区に中学校一個所を設け、その数六、七二〇校とする。また、一中学区を二一〇小学区を分ち、各区に小学校一個所を設けさせた。(六年四月改正して八大学区を七大学区とした。)

中学校に学区取締をおき、その区内に居住する人々を勧誘して、六歳以上のものは必ず学校の設立維持にその他一

切の学務に関することを担任せしめた。

また、小学教育補助の目的で、各府県の人口に応じ、分頭額金九厘の率をもつて国庫金を府県に配付し、教育の普及を極力奨励した。これを委託金とよんだが、後補助金と改めた。

このように、欧米列強に対する日本の後進性をとり戻すためには、維新政府の手により、若い国民を仕立てあげる必要を痛感してその学問教育の普及への努力に全力を傾けたのであつた。

東京府においてはこの学制により、明治六年二月七日小学校設立の趣旨と、中小学創立大意を府下に布達した。

<資料文>

  小学校設立趣意(第十八号)

別紙太政官御布告之御趣旨ニ基キ此度小学起立之方法相定候間、条則ニ照準シ府下毎区ニ一小学ヲ建、幼童之子弟ハ男女ノ別ナク一般ニ従学セシメ候様致シ度事ニ候、尤本文被<漢文>二仰出<漢文>一之通、学問ハ其身元財本ヲ貯ヘ産ヲ治メ生ヲ遂ルノ基タルヲ以テ学事ニ関スル費用ハ其区毎之民費タルベキハ勿論ニ候得共、開学ノ始ニ付、当分学区御扶助ノタメ人頭九厘ノ割ヲ以、官金下賜候間、区々申合、便宜ニ従ヒ学舎ヲ取建子弟ヲシテ必ス学ニ就カシメ候様可<漢文>レ致事

 但毎区一校ツツ取立候儀一時ニハ難<漢文>二行届<漢文>一且学校ノ趣モ了解致兼可<漢文>レ申ニ付、差向扶助金ヲ本トシ、旧六小学取交、各大区二三校以上取設候条、男女トモ六歳以上最寄小学ヘ従学為<漢文>レ致可<漢文>レ申、尤当分私学家塾ヘ通学致候トモ可<漢文>レ為<漢文>二勝手<漢文>一事。

右之通市在区々無<漢文>レ洩可<漢文>二触示<漢文>一者也

 明治六年二月七日

                                  東京府知事 大久保一翁

これと同時に府は「管下中小学創立大意」をして、その方針を明らかにした。それによると、東京府管下を六中学

区とし、その一条には学区を分け

<資料文>

第一中学区  第一大区  此人員十七万千五百九十人

第二中学区  第二大区及び品川区郷村四区属<漢文>レ之  此人員十二万六百二十三人

第三中学区  第二大区及び内藤新宿口八区属之   此人員拾万六千五百五十四人   (区内各村はこれに入つた

第四中学区  第四大区及び板橋口郷村 一区属<漢文>レ

第五中学区  第五大区及び千住口郷村 三区属<漢文>レ之 此人員十六万七千八百四十九人

第六中学区  第六大区及び葛飾郡   三区属<漢文>レ之 此人員十三万八千五百四十人

  総計七十九万四千八百二十八人

教授をする者は毎校訓導一名授業生二名のうちから選ぶこととし、訓導は一等訓導から三等訓導まであり、一等は読、書、筆算の三科の出来る者、月給弐拾円、二等は二科を兼ねる者で月給十正円、三等は一科の出来る者で月給十円とした。授業生も一等二等に分れ、一等は「二科の教を補助するもの」、二等は「一科の教を補助するもの」で八円、六円と定められた。しかしこうした教師は村々ではなかなか得難かつたから「但当分諸科兼達ノ教官ハ得カタカルベキニ付、本科ニ練達老成ニシテ生徒ノ引立世話向行届候者ハ一二等ニモ進マシムルノ事」とした。生徒の月謝は五十銭、二十五銭、十二銭五厘の三等に分け、一家に二人以上の生徒あつても一人分のみをおさめることとしたのは注目に値しよう。教科書についても「書籍ハ民間ニテ一時ニ買求メ難キニツキ厚志金ノ内ニテ相備フト雖モ之ヲ貸与フルニ月々原価ノ十分ノ一ヲ納メシメ十一ケ月納ムレバ其書ヲ下シ与フベシ、自物ニ致スヘキ望無レ之者ハ修覆料トシテ月々三十分ノ一ヲ納メシム、但シ、校内ノミニテ借覧シ自宅ニ持帰ラザルモノハ百分ノ一ヲ納メシム」などとい

う、いまからみてもすこぶる合理的な規程であつた。

政府が「富国強兵、殖産興業」の旗じるしのもとに、欧米列強においつくためには、この新計画の教育を徹底させることが絶対に必要であつたのだ。

大学区には督学局があり、中学区には学区取締りがあり、学区取締りは、多くは戸長が任命されたが、その区内の一般子弟の就学勧誘や、督学、学校の設立、保護その他一切の学務を担当した。また各村の副戸長などはいずれも学校世話掛を命ぜられて学区取締りをたすけて教育の普及につとめた。

小学校は上下二等の尋常小学校に分れ、下等小学校は六才―九才、上等小学校は十才―十三才となつていた。

教官には府県で教官を勤めていた者、あるいは当時有名な者を訓導に任じ、授業生の身分には習字指南、そろばん、洋算など、いずれも試験の上で任ずることとした。

こうした政府の方針をうけて、東京府も鋭意小学校の創設に努力したが、六年十月当時(ほぼ現在の区部の範囲が当時の東京府管内である)東京府管内に公立小学校は僅かに二〇校にすぎず、いちはやく家塾寺小屋の私立小学校に転じたもの五二校、家塾は一、一二〇の多きに達するという状態で、公立小学校はまだ初歩のすべり出しにすぎなかつた。寺子屋式の私塾がこのように圧倒的に多い状態では、政府の計画する新教育による新しい日本に変貌させることはなかなか容易なことではなかつた。

区内の地は、当時第一大学区第三中学区に編入され、行政的には第三大区二十二小区内藤新宿口に属したが、六年中には公立小学校の設立をみることなく、明治七年に至つて、五月十八日第三中学区第五番小学校として石神井村に

はじめて公立豊島小学校が開校式をあげた。

これと時を同じくして橋戸村の橋戸小学校が設立され、さらに八年には小榑小学校、九年には七月関村に豊関、十一月中新井村に豊玉・豊溪の三小学校が設立をみるに至つた。寺や民家を代用したものも少くなかつたという。

いま、ここに一例として練馬と豊玉小学校の設立の願書を示しておこう。もちろん中央部は別として、区内のような農村地で一村に一校を設けることは容易なことでなく、財政上からも二三村が連合して一校を設立して子弟を通学させるという方法をとつた所が多かつた。

<資料文>

   小学校設立願

 区内北校

 一、学校位置 第八大区七小区上練馬村第四百拾九番地

 一、校名 第三中学区第廿三番練馬学校と相称度奉<漢文>レ存候

  (中略)

 区内南校

 一、学校位置 第八大区七小区中村第弐番地

 一、校名 第三中学区第廿四番豊玉学校と相称度奉<漢文>レ存候

 (中略)

右之通今般区内公立小学校弐校設立仕度、尤維持方法之儀ハ別紙連署ノ如ク協議行届候間、何卒御採用被<漢文>二成下<漢文>一度、此段奉<漢文>レ願候也

   明治九年八月廿五日

      下練馬村 早渕組   副戸長加藤清左衞門、組頭石山三左衞門、村総代小泉喜八

      下練馬村 本村組   副戸長加藤兵三郎、組頭岡村安兵衞、村総代風祭宝信

      下練馬村       宿組 組頭内田貴一、村総代田中惣次郎

      上練馬村       副戸長相原房治、長谷川五左衞門、組頭上野長左衞門、長谷川佐七郎

      谷原村        副戸長横山富右衞門、組頭横山八左衞門、村総代田中権左衞門

      田中村        組頭榎本寅吉、村総代鴨下角次郎

      中村         副戸長内田浅次郎、組頭星川茂右衞門、村総代小宮文三郎

      上鷺宮村       組頭篠崎重左衞門、村総代篠伝吉

      下鷺宮        村副戸長横山定兵衞、組頭吉村八左衞門、村総代内田右衛門

      江古田村       副戸長山崎喜兵衞、組頭堀野常次郎、村総代深野清三郎

      片山村        副戸長岩崎喜之助、組頭岩崎庄三郎、熊沢勘左衞門、村総代深野兼吉

      中新井村       村総代深野惣左衞門

東京府知事 楠本正隆殿

 前書之通、区内共議行届候間、奥書ヲ以倶々奉<漢文>二懇願<漢文>一候也

こうして、設立はいまの区内の村々と中野区に属する村々との共同でなされたものが多かつたようである。当時の南豊島や東多摩郡に属する村々も、十二年の郡制施行前は、行政的にはそれほどはつきりした区別がなく、こうし

て、北豊島郡に属した区内村々と共同出資による公立学校設立がみられたのであつた。

しかし、当時の村々の財政からは、こうした公立学校の維持は容易なことではなかつたらしい。それらの村々の苦心を物語るものとして次のような伺書が、多くの村々から出されていたことを知るべきである。

<資料文>

 学校維持方之儀ニ付伺

     第八大区 八小区

当区学校之儀、去明治七年五月ヨリ創立、同八年中迄五ケ所設立相成、右ハ区内村々其一幅員之地形且ハ生徒通学弁利第一之目途ニテ、区戸長其余衆庶之尽力ニ拠リ数校ニ相成候、然ル処方、今篤ト区内人民一般之情態ヲ熟考仕候ニ、兎角校費出金ヲ拒ミ候風習ニ御座候、尤該区内ノミにも有<漢文>レ之間敷候得共、既ニ七年中創立以来ヨリノ人情ヲ回顧候ニ、一体校費出金ヲ拒ミ候ノミニ無<漢文>レ之、其実偏ニ学校教授之其子弟ニ鴻益タルコトヲ弁知セザルニヨリ、費金難渋ヲ口実トシ、終ニ頑民不<漢文>レ知不<漢文>レ識シテ御成規ニ悖戻致候モ不<漢文>二相弁<漢文>一候様ニテハ如何ニモ<外字 alt="りっしんべん+閏">〓然不<漢文>レ忍次第ニ候、是実ニ方今子弟ノ父兄タル者無学ノ小民多キニ拠ルト雖モ、又去七年以降歳次御教科屡々変更致シ、七八年中就学生徒ト本年入学ノ子弟ト学科変換ニヨリ、其父兄タル者朦昧嫌疑之情実無<漢文>レ之トモ難<漢文>レ申、雖<漢文>レ然御教則漸次改良、其地民情ニ適スル様専ラ御注意被<漢文>レ為<漢文>レ在候儀ニ奉<漢文>レ存候得共、只管小民ニ至リ候テハ如何様説諭致候テモ、御仁恵貫徹不<漢文>レ仕候ハ、実ニ遺憾至極ニ奉<漢文>レ存候、因テ熟慮仕候ニ区内人民大小トナリ、貧福トナリ、一般公立学校ヲ信仰仕候誠意ヲ発明為<漢文>レ致度奉<漢文>レ存候、右ニ付愚朦ノ見込左ニ奉<漢文>二申上<漢文>一候、該区内小学校従前之通壱校ヘ至当ノ教員壱名宛御配置被<漢文>二成下<漢文>一、毎校助教之分ハ其校生徒ノ内校長ノ見込ヲ以学業進歩優等ノ者ヲシテ助教為<漢文>レ致度、然ル時ハ第一校費節減ノ廉相立、二ツニハ生徒競テ其分ニ充テンコトヲ欲シ、不知勉励可<漢文>レ致、三ツニハ其父兄タルモノ我子弟助教ノ数ニ加ルコトヲ満足仕候ハ必然之儀ト愚察仕候、殊ニ当区内ハ府下朱引外第一避遠ノ郷里、同シキ村落ト雖モ市街エ遠

近之差別ニ因リ其人情次第ニ相違仕候事ニ付、学費ノ多寡ニヨリ不就学ヲ督促方ニ関渉不<漢文>レ少場合モ有<漢文>レ之、旁前書校各生徒之内優等ノ輩ヲ以、助教ニ代リ候様仕候ハバ、自然小学校ヲ実意信仰仕候ハ必然ト奉<漢文>レ存候、然ル上ハ各校維持永ク不朽タルコト勿論ト存候、別段御指支之儀無<漢文>レ之候ハバ、厚ク御賢察御注意御差図被<漢文>二成下<漢文>一度、且又御成規一般之儀外学校江差響キ御聞置難<漢文>二相成<漢文>一ニ候哉、実ニ愚陋ノ異見不<漢文>レ顧<漢文>レ恐奉<漢文>二申上<漢文>一、可<漢文>二相成<漢文>一儀ニ候ハバ為<漢文>二御試<漢文>一当分之内前顕之儀御所分被<漢文>二成下<漢文>一度、此段奉<漢文>レ伺候也

                        第八大区八小区

明治十一年二月廿八日

                            戸長兼学区取締 渡辺惟一

東京府知事 楠本正隆殿

                          右区戸長学区取締兼 岩崎満彦㊞

                           右区長学区取締兼 本橋寛成

この学校設立出金方法は次の通りである。

<資料文>

一、金弐円拾四銭        中新井村

一、金五円六拾六銭五厘     下練馬村早渕組

一、金三円弐拾三銭       同  本村組

一、金弐円五拾九銭       同  宿組シユク

一、金拾円九銭七厘       上練馬村

一、金弐円九拾弐銭       谷原村

一、金壱円五拾三銭七厘     田中村

一、金壱円三拾七銭九厘     中村

一、金弐円拾八銭壱厘      上鷺宮村

一、金壱円四拾七銭五厘     下鷺宮村

一、金壱円五拾六銭七厘     江古田村

一、金三拾八銭壱厘       片山村

一、金六銭九厘         下練馬村 金乗院

一、三銭二厘          上練馬村 愛染院

一、金弐銭四厘         上練馬村 八幡社

一、金弐銭八厘         谷原村  長命寺

一、金三銭六厘         中村   南蔵院

一、金弐銭七厘         上鷺宮村 八幡社

  総計  金三拾五円三拾七銭八厘

但地価百円ニ付 金三銭掛リ

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 右は此度学校設立仕度ニ付、区内正副戸長村々組頭村総代一同協議之上極貧之者差除、戸数或ハ地価割ヲ書以面之金員月々出金可<漢文>レ仕積評決致シ、尤数多之戸数数年間ヲ経候テ自然幸不幸盛衰可<漢文>レ有<漢文>レ之、因テ更ニ満三ケ年毎ニ改正可<漢文>レ仕見込ニ御座候、此段奉申上候也

明治九年八月廿五日

                            各村組頭、副戸長 村惣代連名印

いくら公立小学校を設立しても、前述のように、江戸時代から、或は、明治初年からの寺子屋私塾といつたものがあつて、それに通う子供達がはじめは多かつたのであるから、一挙に公立小学校にそれらの人々を移すという訳にはゆかなかつた。その上、寺子屋へも行かぬ子供も相当あり、それらの親は、逆に学問などには全く無関心という状態であつた。

だから、せつかく公立学校が開設されたのに、区民たちの公立学校に対する関心はまことに低調で、私塾とのつながりが深く、当時の学校世話掛は、各父兄の家庭を戸別訪問して公立小学校に入学するようすすめて歩かねばならなかつたという。

<資料文>

              以<漢文>二書付<漢文>一奉<漢文>レ願候

                                 第八大区八小区

                                   上石神井村

                                      副戸長 高衞平蔵

                                      同   栗原仲右衛門

                                   関村

                                      同   田中円蔵

                                   上土支田村

                                      同   加藤源次郎

                                   下土支田村

                                      同   小島八郎右衞門

右之者共儀、当豊島学校設立衆議之頃ヨリ授業方法或ハ生徒父兄え説諭方等厚ク注意致シ、開校以後速ニ漸進候儀、偏ニ同人共之尽力ニ依リ候儀ニ候間、何卒当校世話掛被<漢文>二仰付<漢文>一度、此段奉<漢文>レ願候也

明治八年三月

                                 第八大区八小区

                                   戸長兼学区取締  渡辺惟一㊞

                                   権区長兼学区取締 本橋寛成㊞

学務御課

しかし、当時の公立学校は、欧米諸国の教育制度の輸入とその直訳的教育であつたから、そのレベルは可なり高く、中学・小学が上下二等に分れ、小学校を卒業するに四年、中学校四年、合計八年を要した。

明治十二年九月になつて、政府はこの学制を廃し、新に教育令の公布と共に学区制を廃止し、文部省は、監督取締りの権限を各地方庁に移管した。この改革によつて、各町村は単独または数ヵ町連合の公立小学校を設置し、町村民の選挙により校務委員をおき、学校の費用は町村で負担することとなつた。

<項>
三、私立小学校
<本文>

寺子屋教育が区内各村において前述のように行われていたが、そのうち学制が発布されると、これらの私塾は私立学校としての転身をはかることが第一の仕事となつた。一応いままでの形体を学制にそわして、私立小学校として認可をうけるものが圧倒的に多く、開学願書をいずれも府に提出して新教育態制に応じようとした。

第三中学区のうちで、区内の村々のうち一番最初に私立小学校に指定された寺子屋は土支田村の家田日逐の営む明倫学校であつた。

<資料文>

私立小学校設立願

第八大区八小区 上土支田村

家田日逐

一、学校位置

 第三中学区第百四十四番小学区

 東京府管下第八大区八小区上土支田村五十番地

 校名 明倫学校

一、学校費用

  一ケ月   金二円 書籍器械並地代入費

        金一円 筆墨薪油入費

        金二円 諸入費

  右費用   総計一ケ月金五円

一、授業料   六銭二厘五毛   但極貧之者ハ非<漢文>二此限<漢文>一

一、教員履歴                        妙延寺住職      家田日逐

                                            本月五十七年八月

 文政十二巳丑年四月ヨリ天保二辛卯年十月マデ都合三ケ年間旧名古屋藩管下妙勝寺日健ニ従ヘ支那学並ニ筆道修業、明治六癸酉年八月ヨリ同年九月マデ東京府講習所ニ於テ小学教則講習相願、慶応三丁卯年六月ヨリ本年本月マデ都合八年間生徒教育罷在候

                              磐前県貫属士族    門馬尚経

                                            本月卅二年五月

 万延元庚申年正月ヨリ慶応三丁卯年十月マデ都合七年間旧中邑藩学校育英館又ハ僧静慮庵茲隆両所ニ於テ支那学修業、明治二己巳年三月ヨリ同三庚午年八月マデ都合一年間佐賀県士族原忠順へ転学支那学修業、同六癸酉年十一月福島県ノ命ニ依テ出京、東京府講習所ニ於テ小学教則講習相願、同年十二月卒業、同年九月、福島県ニ於テ第一番小学校二等助教試補拝命、同年十月兼監事拝命、同七甲戌年四月一日授業生拝命、同年五月依<漢文>レ願職務被<漢文>レ

一、学科   読書、習字、算術

一、教則   下等生徒教科

 一、綴字   単語ヲ高称シ生徒ヲシテ書取ラシム。

 二、習字   十年以下初学ノ生徒ヲシテ仮名ニテ書取ラシム。

 三、単語   翌日之ヲ問答シ、且、暗記セシム。

 四、会話   読

 五、読本   解意

 六、修身   解意

 七、書牘   解意ナラビニ盤上習字

 八、文法   解意ナラビニ盤上習字

 九、算術   九九数位、加減乗除、但洋法ヲ用

 十、養生法  解意

十一、地学   大意

十二、窮理学  大意

       上等生徒教科

一、史学   大意        二、幾何   大意

三、罫画   大意        四、博物学  大意

五、化学   大意        六、生理学  大意

  授業時間ハ総テ小学規則ニ従ヒ相定候事。

一、校則

 一、入学ヲ乞フ者ハ其身許取糺候タダシ上相許可<漢文>レ申事。

 一、坐作言語ヲ慎ミ且互ニ礼譲ヲ可<漢文>二相尽<漢文>一事。

 一、午前第八時昇校、午後第四時退校ノ事。

 一、正課中猥リニ坐ヲ離ルベカラズ、若シ事故アラバ教師ノ許容ヲ可<漢文>二相請<漢文>一事。

 一、正課中他ノ勉強ヲ不<漢文>レ可<漢文>レ妨ハ勿論、互ニ言語ヲ不<漢文>レ可<漢文>レ接事。

 一、人ノ不在ヲ窺ヒ書籍筆墨不<漢文>レ可<漢文>二濫用<漢文>一事。

 一、毎月以<漢文>二一六<漢文>一休暇ト相定候事。

    以上

 右之通開業仕度、此段奉<漢文>二願上<漢文>一候也

                         第八大区八小区上土支田村五拾番地

                               校主    家田日逐

                               副戸長   加藤源治郎

  明治七年八月                       右区戸長  渡辺惟一

                               学区取締  本橋寛成

 東京府知事 大久保一翁殿

こうして八月八日に許可になり、私立小学校となり、更に

<資料文>

 今般私立小学校設立之儀御許容相成候ニ付、第三中学区小学校数ニ御差加被<漢文>二成下<漢文>一度、依<漢文>レ之此段奉<漢文>二願上<漢文>一候 以上

 明治七年甲戌八月                第八大区八小区上土支田村五拾番地

                               僧     家田日逐

                               戸長    渡部惟一

                               学区取締  本橋寛成

 東京府知事 大久保一翁殿

府もこれを許可して第三中学区第六番小学明倫学校と称することになつた。東京府でも正式の六番小学になつたので、家田日遂を明倫学校二等授業生格、門馬尚経を三等授業生格に申付るとの通達を出したが、こうして私立小学校の転用といつたことが盛んに行われて過渡期の教育に対処した点は記憶さるべきことであろう。

<項>
四、教育制度の改変
<本文>

旧学制は明治十二年九月太政官布告で廃止され新に教育令が発せられた。廃止の理由は欧米の制度の直訳で、機構としては立派でも当時の国状には適さなかつたためといわれている。教育令によつて強制主義、画一主義が廃され、ゆるやかになり、小・中・大学の外に師範学校や専門学校、その他各種学校となつたこと、学務委員制度が出来たこと、学齢期間(六才から十四才までの八ケ年)に十六ケ月間の普通教育をうけることを最低限度として土地の実情によつて八ケ年の学期を四ケ年に短縮し得ること、教員の年齢を引さげたこと(男女二十才を十八才以上にした)等であつた。しかしこれは逆にゆるやかすぎて十六ケ月の最低限度の普通教育をもつて修了と考える人も少くなかつたので、十二月に再びこの教育令が改正された。

更に十四年に至つて十二年の郡区町村編制法の施行により、学制以来踏襲していた学区、大学区、中学区、小学区が廃され、ここにはじめて、郡区町村を学区とすることに改正された。

区ハ一区、県ハ戸長部内ノ町村ヲ以テ小学校設置ノ区域トシ、則チ右区域ヲ以テ学区ト相定メ候条、此旨布達候事

 但シ校数ノ儀ハ追テ布達スベシ

  明治十四年六月八日                       東京府知事 松田道之

この学区制の改正で町村単位の小学校となつてからは、各村々では公立小学校への就学を盛んに勧奨し、生徒の就学率も向上していつた。

更に十九年には「小学校令」が発布されてて小学校を尋常・高等の二段階とし、尋常科四年を義務教育とした。義務教育が徹底するのは容易でなく、不就学者もかなりあつたが、それでも、これによつて初等教育は大きく発展をとげた。二十年には教育内容が整備され、小学校教員の職制や俸給額の規定が定まつて、教員の待遇や、生徒の授業時間数や科目などに前進が行われた。更に二十二年の市制町村制の実施により、二十三年には「小学校令」が改正され、市町村の負担その他、財政や管理・監督などの規則が出来て、小学校の基礎が固められた。教育の監理は市町村の手にうつり、県に県視学、市町村と区に学務委員が設置されて、教育査察の面が強化された。

こうして、小学校教育は充実してゆき、日清日露の両戦役を通じて、日本の国力の飛躍的充実と共に、明治四十年には小学校令が改正されて、令日の教育の基礎をなした尋常科六カ年、高等科二年又は三年という制度が出来、四十一年より義務教育六カ年という新制度が実施された。勿論義務教育の二カ年延長は地方財政に大きくひびいて、設備の拡大や人件費の増大等のため、その負担は非常に大きなものとなつたが、これによつて、地方財政における教育費は、全財政の上に圧倒的なスペースを占めるようになつていつた。

<項>
五、区内小学校の発展
<本文>

明治初年以来の区内小学校は寺子屋的なものと併存しながら、次第にこれを圧倒して、新しい教育方針の勝利を示していつた。

いま区内の教育普及状況をみると私立学校が絶対多数をしめていたとはいえ、明治時代の前半、大体七年から十五年頃にかけての頃をその初期公立小学校の設立時代とみてよかろう。区内の地の小学校は、他の村との共同設立ではあつたが、次第に単独に変つていつた。

橋戸  橋戸小学校  明治七年  <数式 type="munder">後の大泉小学校

小榑こぐれ  小榑小学校  明治八年

    豊島小学校  明治七年  <数式 type="munder">後の石神井小学校

    豊石小学校  明治十一年

    豊関小学校  明治九年  後の石神井西小学校

    豊玉小学校  明治九年

    豊渓小学校  明治九年

    練馬小学校  明治十年

    谷田小学校  明治十一年 後の石神井東小学校

    開進小学校  明治十五年

以上の八校が初期のものといえよう。

区内村々が小学校の維持経営に払つた努力はなみなみならぬもので、村の仕事のうちで常に一番大きな問題であつ

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たのだ。明治十八年渡辺府知事が北豊島郡内を巡回した時の「管内巡回記」に区内の小学校の状況がよくのべてあるから、わずらわしさをいとわず次に全文をかかげておこう。

<資料文>

下練馬村

 (開進小学校)小学校生徒、最上等ハ中等二級生ナリ、中等全科卒業セシモノハ級外生ト称シ、仮ニ高等ノ学科ヲ授ク、此生徒一名アリ、農家ノ子弟ナリ、中等科ハ二級三人五級十四人アリテ其他ハ皆初等ニテ、惣員六拾五六名トス。私立アリ、生徒八十名程ヲ有ス。該村就学生合二百十八人アリ。

上土支田村、下土支田村

 豊渓小学校(下土支田村)(中略)生徒惣員六拾人、級ト級トノ間隔多クアリ、是教則改正(明治十二年)ノ際、合級セシニ起因スルナリ。

 豊西小学校(上土支田村)、生徒惣員五十名ナリ。「上下土支田村戸長等出頭ス。」

 該戸長部内二ケ村ニ各一校アリ、就学弐百四十二人、目下在学生徒ハ両校合テ百拾人、又私立ニ拾三四人アリ、此校舎ハ寺院

 借用ナレドモ新築ノ計画既ニナルモ未タ経伺ノ運ニ至ラズ。

上石神井村

 豊石小学校(中略)生徒惣員九拾四名アリ(中略)該校ノ建築ハ明治十二年ニシテ、其費用ハ村内ノ集金ト有志寄附金ヨリ成立ツ。維持ハ村費ノ外些少ノ共有金アリテ其利子ヲ以テ学費ニ充ツ、建坪ハ四拾坪余ニテ建築ノ際ハアダカモ物価高直ノ上点ニアリシ為メ、意外ノ費用ヲ要シ、一坪拾円以上ノ割ニ至リタリト云。

関村

 豊関学校、該村ハ戸数百戸ニテ、就学生六拾名、明治十一年創立、昨十七年増築ニテ、目下中等科三級生ヲ最上トス。維持

法等ノコトハ目下先ツ都合ヨキ方ナリ。

下石神井村

 豊島小学校、現在生徒百六拾六人、最上ハ中等二級ナリ。

 豊島校ノ創立ハ明治六年ニシテ現生徒ハ創立以前ノモノナシ、校舎ハ新築セリ。土地ハ寺院地ヲ借リ受ケタルニテ、教場中ニモ亦借用ニ係ルモノアリ。

谷原村

 谷田小学校、該校ハ谷原、田中両村ノ連合維持ナリ。

中新井村、中村

 豊玉小学校 学校ハ有志寄附金ニテ成立チタルナリ。

 私立一校アリ。生徒三拾名程之ニ就学ス。学齢児童二百六拾人ニテ就学ハ三分ノ一ナリ。授業料ハ一人金五銭ニテ、二人以上入学スルトキハ其壱人分ハ半額トスルノ例ナリ。故ニ一家二人ヲ入学セシムルトキハ、七銭五厘、三人ナレバ拾銭ヲ納付スルノ例ナリ。(中略)学校ハ明治九年ノ創立ナリ。助教(酒井度右衛門)ハ従来私塾ノ主ナリシガ、其私塾ノ生徒ヲ引連レ、公立学校ニ従事シタルモノナリト云フ。

明治五年の学制は、その後学校令や小学校令となつて変化していつたが、やがて、教育勅語の発布となつて、次第に学校の形態が整備され、二十五年一月には、橋戸・小榑の榑橋豊西南小学校を一つにした泉尋常小学校が生れ、明治三十五年には、豊島・豊石の両校を合して石神井小学校が誕生した。さらに大泉には、三十年になつて分教場設置の必要ができ、大泉第一小学校の前身となつた分教場が橋戸に設けられ、大泉の発展は更に翌三十一年には高等科を

大泉尋常小学校に設置させた。

<項>
六、大正時代の教育
<本文>

大正時代を通して、区内の小学校をみると特別に変化はなく、ただ、大泉の地区にさきの第一小学校の前身の分教場の外、大正元年十月には小榑字前田に大泉第二小学校となつた分教場を大正八年○月には大泉第三小学校の前身である分教場が地理的条件や人口の増加に伴つて小榑や大泉に設立をみただけで、他の地区には影響はなかつた。

大正時代になると、学校の教育は全く整備をみるようになり、純農村地帯の小学校ではあつたが、その教育の進展にはみるべきものがあつた。

生徒は村の生活レベルからいつても、市中の小学校の生徒とはちがい、はだしで通学するものも少くなく、「小学校の児童は男女とも筒袖つつそでにして、多くは袴を穿てり、雨日騙蝠傘を携うるもの少くして全数の二割位なるべし」と大正六、七年頃の状況を北豊島郡誌がのべている。「洋服を着るもの教員と巡査のみ」(上練馬村大泉村)とか「村内にて洋服を着用するものは教員を主としその数凡四十名ばかり」(石神井村)とかいわれているのをみても、教員が村での<圏点 style="sesame">文化的存在であつたことがうかがわれる。

こうした大正六、七年の頃の欧洲大戦による好況時代の区内の教育状況を「北豊島郡誌」によつてうかがつてみよう。

<資料文>

中新井村

 本村の教育機関は村立豊玉蕁常高等小学校あり、現在六学級、三百五十名許の児童を収容す、之が教育費は金三千九円を計上せり、其他本校に附設せる実業補習学校あり。

 豊玉蕁常高等小学校、明治九年十一月創立、十七年一月校舎を新築す、二十二年三月教室二十四坪七合五勺増設、三十一年八月教室十六坪増設す、三十四年六月修業年限ニケ年の高等科を併置し、同七月校舎三十一坪を増設す、四十一年五月既設教室二十四坪七合五勺を取毀す、更に四十九坪六合の校舎を改築す。現在校地六六〇坪、建物一六二坪九四なり、校庭の記念樹及び石門は大正四月十月なれり。

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上練馬村

 本村の教育機関は練馬小学校及び豊渓小学校にして別に附設の補習学校あり。

 練馬尋常高等小学校、明治十年五月創立、二十二年十一月校舎新築、二十六年六月補習科を廃し修業年限二ケ年の高等科を併置す、三十年十二月敷地払下許可、三十一年九月高等科修業年限を四ケ年に改む、三十五年農業科を加設し、三十六年四月校地校舎の位置を変更す。大正四年六月二教室及便所を増築す。現在校地二、二四三坪、校舎建坪総計二四六坪あり、以て十四学級六百名の児童を収容す。

 豊渓尋常小学校、明治九年五月創立、豊渓小学校と名づけ、民家を仮用す、十三年校舎を新築す、僅に三十坪なり、二十五年増築、三十一年全部改築す、即ち現在の校舎にして敷地五百六十八坪、建物百一坪余あり、以て三学級、二百名の児童を収容す。練馬実業補習学校、練馬尋常高等小学校に附設す、本校には明治三十七年以来女子補習科の設けありしが、四十四年九月之を廃して更に青年男女の為めに実業補習学校を設け、冬期農閑期に於て補習教育を為すこと前者に同じ。

 練馬蕁常高等小学校は校舎狭隘を告ぐるに至りしを以て大正七年度に於て二教室の増築を企て、予算金四千余円を追加するの見込なりと云ふ。

下練馬村

 本村の教育機関は尋常高等小学校一、分教場一、実業補習学校一なり。

 開進蕁常高等小学校、明治十五年四月開校、十八年一月焼失、光伝寺を以て仮校舎に充つ、十九年四月尋常小学校となり、補習科を置く、同年字湿化味に分教室を置く、二十三年一月字北三軒農島野方に移す、二十六年再び光伝寺を仮用し、中原に地をトして二十七年校舎を新築す、三十四年四月補修科を廃し、修業年限二ケ年の高等科を併置し、三十八年四月四ケ年に改む、四十年五月校舎狭隘の為谷戸に分教場(校地一〇〇坪、建物二四坪)を置く。

 其後四十四年六月、大正七年九月の二回増築す、現在校地千四百六十四坪、建物総坪数三百四坪、以て十一学級六百八十の児童を収容す。

 同分教場 字谷戸にあり、明治四十年五月設立、目下三学級百六十の児童を収容す。

石神井村

 本村には石神井蕁常高等小学校、石神井東尋常小学校、石神井西尋常小学校の三校あり、石神井蕁常高等小学校、明治七年五月創立せられたる豊島小学校と明治十一年創立せられたる豊石小学校とを明治三十五年三月合併して高等科を新設せるものにして、爾来久しく旧校舎及民屋を使用し、新築の運に至らざりしか、有志者の熱心なる尽力により寄附金七千九百十四円二十銭と村費の補助金とにより、明治四十三年十二月現今の新校舎を造営せり、校地千三百十四坪、校舎建物二百二十六坪五合にして、其建築費八千八百六十四円五十五銭を算せり。

 石神井東尋常小学校、明治十一年組合変更の結果、豊玉小学校より分離し長命寺の一部を借りて校舎に充て谷田小学校と称す、

明治十七年五月現校の東北隅に校舎を建設す。明治三十五年四月一日石神井東尋常小学校と改称す。明治四十年十一月学区内有志者の熱心なる尽力により寄附金四千余円を醵出して現校舎を増築せり。

 石神井西尋常小学校は明治九年七月元関村最勝寺に開設したる豊関小学校に濫隅す、明治十三年九月今の校地の一角に増築移転す。明治二十一年四月及び同二十八年十一月改増築す。明治三十五年三月同校廃止せられ直ちに同敷地に於て本校を設置す、校地八百二十三坪、校舎及附属建物九十八坪七合五勺なり。

 補修教育の機関には村内三個の学校に各実業補習学校を置き冬期農閑の季を利用して農村子弟に須要なる補習教育を施しつつあり、其の校名及び所在左の如し、

 石神井第一実業補習学校(石神井東尋常小学校内)

 石神井第二実業補習学校(石神井蕁常高等小学校内)

 石神井第三実業補習学校(石神井西尋常小学校内)

大泉村

 本村の教育機関は蕁常高等小学校一、分教場二、農業補習学校一あり(中略)

 大泉蕁常高等小学校、明治二十五年一月榑橋、豊西南小学校を合併し、泉尋常小学校と称す。三十年十一月分教場を橋戸に設け、三十一年六月高等科を併置し、三十三年十月校地を拡げ、校舎の大修繕及増築をなす。大正元年十月大字小榑字前田に第二分教場を設置し、同二年本校に一教室を増築す。四年十二月四日校名を現称に改む、同六年四月農業実習地一反五畝歩を借入る。同七年四月一日校舎敷地二百四十四歩を取拡ぐ、現在校地二千二百六十坪、校舎建坪二百五十三坪なり。

 大泉実業補習学校 大泉蕁常高等小学校に附設す、大正四年十月九日の設立にして、男女両部に分る、冬期農閑期を利用して農業補習教育に努む。

これによつても、農村としての区内に初等教育の普及は着々として行われ、各村々もその行政上、教育の面には非常に力を入れていたことが察せられる。当時の区内各村の教育費をみると次の通りである。

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私立学校

ただ、特に注目すべきことは、大正十一年四月に武蔵高等学校、大正十三年に私立富士見高等女学校、大正十五年に私立智山中学校が区内に創立をみたことで、私立の中学校が震災前後を中心に創立されたことは、この附近がやや農村形態を脱して、一部が住宅地区に移りつつあることを物語つている。

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大正七年当時の区内教育状況は

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<項>

七、昭和初年の発展から国民学校へ
<本文>

大震災後、郊外の近接町村は、東京市内から逃げ出した市民達がそのままそこに住居を設けて、市内に通勤するという現象を生じたために非常に急激な発展変貌ぶりをみせた。

中央線沿線は、特にその発展がめざましかつたが、武蔵野線の沿線、池袋よりの地がやはりこの影響をうけて漸次発展してきた、区内の地もこの変化に多少はゆり動かされない訳には行かなかつた。

いま、昭和七年板橋区成立以前における区内各町村の教育状況をみると、昭和六年に練馬町では、開進第二尋常小学校が昭和三年四月新設をみた以外に、開進第一尋常高等が、上練馬村では、練馬尋常高等がそれぞれ分教場を新たに増設せざるを得ない状況となり、就学児童の増加に伴つて、ここにも発展による苦しい町村経費の負担のやりくりがまざまざとみられる。こうしたことも、市域併合促進への歩みをはやめる一因であつたのである。

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板橋区時代の教育

市郡併合当時の板橋区は、農村としての面影をなおとどめていたが、土地が高燥で畑地を宅地に簡単に転換し得ることなどがその住宅地としての発展を予約させ、郊外に住居を求める人々が、中央線沿線からさらにこの方面にも押しよせるに至り、好適の住宅街となつていつた。このため、就学児童も年々増加して、併合前、いまの板橋練馬両区を合して漸く九、〇〇〇人足らずであつた小学校児童も、昭和十年には二二、四〇〇人を数え、高等科生徒も二二、七〇〇人をこえる状態で、この増加に対処するため、各小学校の増築拡充がはじまり、増級また増級を計ると共に新設校舎の計画をたてるなど、教育方面の施設拡充は、区にとつての重要問題となつた。あとから

あとからと続いて増加する就学児童に対する処置をとらざるを得なかつたのである。今昭和十一年より三年間の板橋区内の学級数の増加と児童数の激増ぶりをみると別表の通りであるが、勿論学校数は増加しなくても、児童の増加しなくても、児童の増加に対処して学級数はいずれも増設されていつた。しかし、多くは板橋区といつても板橋地区であつて、今の区内、すなわち練馬・石神井地区の学校においては、影響をうけることは板橋地区ほどではなく、まだまだ将来の発展を準備する状況にとどまつていたといえる。

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練馬地区の発展状況

練馬・石神井方面はどうかというと、板橋区になつてからも依然として他の区に比べればまだまだ農村であつたし、板橋区のうちでも板橋地区が工場街として、或はその影響による住宅地区として次第に発展し、ことに、日支事変以来の時局の波にのつて、軍需工場地帯として急速に人口の増加を来したのに反して、今日の練馬区に当る地域は、まだまだ同じ板橋区といつてもずつと未発達の状態にあつた。

しかし、大体において区内の地は最も発展が後れたとはいえ、それでも江古田や練馬や石神井の一部が住宅街として次第に畑地が宅地に変り出し、人口も増加し、勢い就学児童数の増加となつてあらわれたため、ここに、学校の増設が次第に行われるようになつた。

明治時代僅かに八校と一分教場、大正時代に二分教場が追加され、私立の中等学校三校(武蔵高校を含む)の創立をみたにすぎなかつた区内の地が、昭和のはじめから市域拡張の後、板橋区に編入されて終戦をむかえるまでの間に前述の開進第二小学校の外、分教場が練馬第二小学校、開進第三小学校となり、さらに豊玉第二小学校、旭ケ丘小学校、大泉第二小学校、大泉第三小学校(この二校は分教場の独立)の七校が創立或は分教場として発足している。

このほか、昭和十三年には江古田町に板橋第三小学校が設立され、また学芸大学附属大泉小学校も設立されており(学芸大学の大泉分校も勿論当時東京府大泉師範学校として設立されていた。)昭和十五年には第四商業、石神井、翌十六年には井草、大泉の中学や女学校が開校した。このように私立の中等学校が増加したことは、区内の発展の姿を示しているといえよう。

今次の世界大戦が勃発してからは、公立学校も増設をみることはなく、そのままに終始したし、私立の学校もこれ以上増加はしなかつた。しかも、小学校は永い間のそのなつかしい名称をすてて、戦時態勢の線にそつて国民学校と命名されたのであつた。

国民学校

この昭和十六年に明治以来親しまれて来た小学校の名が消えた。戦時態勢が次第に強化され、日米関係が容易ならぬ状態におかれた十六年七月、小学校を国民学校に改称し、教学刷新、国民精神総動員の線にそうべく十六年度より国民学校制が実施された。戦時態勢下の次代の国民を育成するに当つて、この方針を国体の尊厳におこうとする一つの大きな改革であつた。これによつて、初等教育の自由主義的教育潮流は刷新され、教育の自由の空気は、戦時下の名のもとに重々しいものとなり、軍の強圧のもとにおかれるに至つた。

同時に、従来の商工従事者のための青年学校が次第に戦時態勢にきりかえられると共に、工場などにも私立の青年学校が設置され青年訓練が大きな使命をおびるようになつていつた。

今、国民学校当時の区内の教育施設をあげれば次の通りである。

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これより以降は、国民学校の教育は全く戦時態勢に即応したものとなつていつて、従来の自由主義的なのびのびとした教育の方針のもとにのびてきた教育界の潮流は刷新され、自由の空気は重々しい軍の強圧の下に立つようになつていつた。

<項>
八、靑年学校
<本文>

昭和のはじめ頃、軍事教育が中学校や高等学校、大学にまで行われるようになり、現役将校が配属されて軍事教練が必須科目となつた。これに応じて、実業補修学校を大正末年に廃して青年訓練所として補修的な意味と徴兵検査の予備的意味で夜間こうした訓練を行つていたものまで青年学校と改称され、義務制とし、一方に実業学校に該当する尋常夜学校を設けて、義務教育である小学校未就学者などを収容して教育する方針がとられたが、これには小店員や

家庭が貧困で不就学なものなどが収容された。さらに十六年七月の国民学校令と共に、別に軍需工場に通う職工や青年達のため、各私立の青年学校を軍需工場に設けることをすすめ、その職場で夜間教育を授けて通学の時間をさくという大きな方針の転換が行われた。

当時の区内の公私立青年学校は次の通りであつた。

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私立青年学校

こうした状勢に、区内でも軍需工場として特記するほどのものはなかつたが、板橋地区の軍需工場がいずれも私立の青年学校を設けたのにつれて、二三の工場で私立青年学校を開校し、種々時局にふさわしい教育を行うことになつた。

図表を表示 <節>
第三節 村の文化的漸進
<本文>

区内の地は、何といつも純農村地帯であつたから、東京市内が文明開化の洋風化時代を現出しても、特別に影響をうけることはなかつたようである。糞尿の汲取りに市中へ連日村の人々は出てゆき、大根河岸や神田多町の青物市場などへ野菜を運んでも、東京の文明開化にびつくりするだけで、その風俗などに化してゆくというようにはならなかつた。

<項>
一、娯楽施設
<本文>

練馬区の人々は、いまでも娯楽に大して恵まれていない。明治時代の全くの農村であつた時分には、やはり村の祭

礼とか彼岸とか民俗の項でのべたような祝日や節日に皆で集つて飲み食いすることや村芝居か何かをみるのがせいぜい娯楽であつたろう。

馬鹿面(神楽の道化た芝居)や、どん帳芝居(つまり小屋がけの芝居で野天でむしろの上に座つてみる芝居、主として歌舞伎、まれに新派)などがどこか近くの村にでもあれば、時間は多少かかつても、てくてく歩いて見に行つたという古老の話である。

映画などをみにゆくなどということは大正時代も震災前はほどんとなかつたという。それでも武蔵野線が通じたため、池袋が次第に発展して来て、平和館だ武蔵野館だのができてからは、ぼつぼつ電車にのつて池袋まで見にゆく人もできた。ごく好きな人は新宿までいつて新しい映画をみたが、そういう人はごく稀だつたようである。

こうして娯楽などというものは、常設的にはほどんとないままにすごして来た区民に亡つて、一つの特別の娯楽場であり運動場でもある遊園が大正十五年になつて区内にできた。もちろん、それは区民を対象にしたものではなく、東京市民を対象としてその吸引発展を策したものであつた。これが豊島園である。

豊島園

西武電鉄の経営の豊島園といえば、城西城北にかけての遊園池としては有数のものであるが、震災後の区内発展の一つを示すものにこの豊島園の設立がある。

畑ばかりの練馬のまだなんにも目ぼしいもののなかつた大正十五年、旧市内の公園などとはちがつた。近代的な子供むきの遊園地をどこかにつくろうという案があつて豊島氏の築城した練馬城の跡が選ばれた。そこには昔、豊島氏がいたというので豊島の名をとつて、豊島園とよばれた。藤田好三郎氏がこの経営に着手、池袋が震災後漸く発展し

てくるにつれて、武蔵野線で僅か十四分というこの遊園地に電車が練馬駅から特別にでき、多くの学童の遊び場としての名声が次第に高まつていつた。

十万坪の地域に、大音楽堂、運動会のできるトラツク、演芸場、児童遊戯場、花壇、温室、釣堀等の施設が次第に完備してゆき、野球場やテニスコートまで作られ、ボート、ウオーターシユートに人気があり、プールも開設されて四季を通じての城西北地区随一の遊園地となつた。

この豊島園ができたことが、西武電車(当時の武蔵野線)へ東京市民がしばしば乗るようになつた一つの原因を作り、それが武蔵野鉄道の盛況にも影響を及ぼし、区内の練馬駅附近から豊島園附近を発展させる一つのきつかけになつた点で、豊島園の開園ということが練馬区発展の一頁をかざつたことを忘れてはならない。

石神井公園その他

農村で遊ぶ処といつて別にない区内では、昔から石神井城趾附近一帯は史蹟として、また市民のリクリエーシヨンの地として知られていた。またその三宝寺の池は水の清いことと風光のよいので市民愛好の地であつた。

昭和七年十月板橋区成立以後、公園施設として市が着々諸施設を整備し、ボートなども浮べることができるようになつて、一層市民の散歩地として評判になつていつた。

また石神井駅から二町ばかりの所に豊田公園とよぶ、村の素封家豊田氏の私園豊田園があつた。常時公開され風光よく、つつじの名所として区民に親しまれていた。その他関の富士見池も西武武蔵野電軍開通後、会社の手によつて開発された。区内にはこうして公園的な散策地は少くなく、区民の親しむ健全娯楽地であつた。

大泉撮影所

昭和十年五月になつて畑ばかりの大泉にびつくりするような事が起つた。それは新興キネマがここに撮影所をもうけたからである。土地が安いということと農村的でひろびろしていることが撮影所としての好条件であつたといえる。

区内の人ばかりでなく、都心部からも見物人がぞろぞろやつて来るし、おきまりの家出娘などがぶらついて警官を困らすなど、練馬区としてはそれはそれは大変なことだつたのである。溝口健二監督の「愛怨峡」などの傑作が作られたことは忘られてはなるまい。

<項>
二、ランプから電燈へ
<本文>

村の人達にとつて、一番の進歩とみられていたのはアンドンからランプに夜の照明が変つたことであつた。ランプが入つて来て、どの位夜の不安や恐怖心はうすらいだことであろうか。

ことに、農家にとつては<圏点 style="sesame">夜なべ仕事ということが大事な生活の条件であつたから、これは仕事し能率の上にも大きく影響を与えた。

明治から大正のはじめにかけては、このランプの生活が区民をうるおしていたことは非常なもので、ガス燈や或は一部にはもう電燈が普及していた東京市中の人々からみれば、むしろ遅れていたかも知れぬが、村の人々は、この生活の明るさを有難がつていたのである。

蝋燭が一方普及して来て、夜市場に出てゆくのに提灯に蝋燭をつけて下げてゆけることも大きな進歩の喜びであつ

た。蝋燭が安く区民の手に入るようになつたのも明治のはじめからである。

しかし、電燈は東京市中には大正時代になつてどんどん普及していつたが、区内の諸村までは容易に及んでこなかつた。市中が電燈を有難がつているに反し村々がランプを非常に明るいものとして喜んで使つていたことは古老の懐古談などでよくわかる。「燈火は全村、洋燈を用う。」(石神井村)「洋燈を使用するもの二百三十戸許、即ち全村の三分の二に当る。」(中新井村)「燈火は多く石油燈にして村内四百六十戸を算すべし」(下練馬村)などと北豊島郡誌が記すように、大正六七年頃の村内はランプが大多数であるが、なおランプさえ使用することのできない村民もいたことは注意さるべきことであろう。多くの家々では、欧洲大戦後もまだランプを使用していたという。

電燈が区内の村々についたのは何年ごろのことか明らかでない。大正八九年という説もあるが、大体において震災前後のことであつたようである。

練馬や石神井に電燈の入つたのは、中新井村より後だという人もあるが、よく判明しない。今の西武線の電化後、大正十四五年から電気がボツボツひけるようになつたらしい。

電燈動力設置

小沢小十郎氏談によると、高松附近は大震災当時(大正十二年)は照明にランプを用いておつた。その後、精粉撚糸等の工業用動力として電動機が使用せられるようになつて、それと同時に電燈が家々に点じられた。大正十五年に、小沢小十郎氏の斡旋で有志の中から電燈動力設置委員を選び、佐久間勘右衛門、宮本由五郎、宮本広太郎、宮本幸蔵、小沢小十郎が委員となつて、東京電燈株式会社に電燈電力送電線配線方を交渉したそれで、佐久間勘右衛門佐久間製粉所、宮本由五郎、宮本広太郎の三氏は、精粉用動力として各十馬力の電動機を設置し、宮本

幸蔵、小沢小十郎の二氏は、撚糸動力用に各五馬力の電動機を設置、合せて四〇馬力の電動機設置を条件として電燈電力送電線が布設せられ、初めてこの附近の家々に電燈が点じられたのであつた。

練馬や石神井方面に電燈のついれのは、撚糸工場に動力を使用することや精米精粉の動力使用問題がきつかけで成功したので、それがなければもつと遅れただろうという説も、否定できないようである。大泉地区には京王電気が入つたが、料金が東電より高く、東電なみに値下げしてもらうという運動がしばらく続いたという。

こうして昭和に入ると区内の過半数が電燈をつけるようになつていつた。

<項>
三、区民と健康問題
<本文>

井戸水ばかりに頼つて生活する区民にとつて、強敵はやはり伝染病であつた。区内の村々にとつて一番恐ろしいのは赤痢であつたようだ。腸チフスもこれにつぐ患者を出したこともあつたが、腸チフスは流行の際余波をうけて、相当数の患者を出したにとどまり、多くは赤痢患者だつたようである。農村のことゆえ、赤痢は全く区民にとつて強敵であつた。

区内の伝染病対策が、いつの頃から行われていたかは明らかでない、練馬や石神井にしても、明治時代には純農村であつたし、多くの伝染病患者が出ることはなく、ましてや、大泉や関などの村では、そういう恐怖は少なかつたようである。明治十九年(一八八六年)東京がコレラで大騒ぎをした時代があつた。この時、東京府は緊急の場合にのみ開院していた駒込の避病院を駒込病院と改称、伝染病対策の病院としたが、三十年駒込病院が市立の病院となつた

時、郡部における伝染病対策が考慮されないということで、郡部の人々の問題となり、市当局と北豊島郡の町村側とが協議を重ねた結果、北豊島郡の町村の人々も、市立病院になつても駒込病院に収容することができるようになつた。

しかし、三十年三月伝染病予防法が公布され「市町村ハ地方長官ノ指示ニ従ヒ伝染病院、隔離病舎、隔離所又ハ消毒所ヲ設置スベシ」ということになり、三十年九月これにより板橋、巣鴨、西巣鴨、滝野川、王子、岩淵、上板橋の各町と赤塚、下練馬、中新井、それに長崎高田の各村が合同で組合組織による伝染病病院をもつことになり、三十一年下板橋に十二ケ町組合病院を設けた。

これをきつかけに、各町村の伝染病院、隔離病舎に対する関心は非常に高まり、やがて、板橋町外十二カ町村組合では、新しい病院をたてることになつて、明治三十一年十月、板橋の下板橋(現板橋区)に二七二八円余の経費で伝染病院がたち、大泉村と上練馬村、石神井村の三村では、これと別に隔離病舎を建築しようということになつて大泉村の榎本常三郎氏が卒先して提唱、大泉村の上土支田に三十一年二月、一五二七円余の経費で設立をみ、ここに、区内村民達の伝染病対策は一歩大きく前進したのであつた。大正七年の「北豊島郡誌」には

<資料文>

明治三十三年七月以来、各大字を一区域として五個の衛生組合を設け、救急に応ずる薬品器械器具を備え置き、毎年春期全村に互りて種痘をなし、春秋二期には完全なる清潔法を施行し、時々衛生に関する講話会を開催し、衛生の知識普及を図り、悪疫予防に遺憾なきを期せり。

とある。農家にとつて恐るべきは働き手の病気になることであつた。

大正七年の「北豊島郡誌」によると、上練馬村の人々はトラホーム患者が非常に多かつたようである。

<資料文>

本村の地形高燥にして四周に樹林あり、健康上最も適良の地たるに拘わらず、トラホーム疾患多く、小学校の児童の如き、従来時として半数の該患者を見るの状態に在り、村理事者深く之を憾みとし、毎年四百円乃至五百円のトラホーム予防費を計上し、村医を督励して之が撲滅に全力を傾注しつつあり、近来やや成績のみるべきものありと称せらる。

衛生組合は各部落に置く、其数二十一、由来単純なる農村にして、隣保互助の風厚きを以て、各部の組合は衛生事項の実行に便にして効果多しという。

こうした区内の村々の姿は、一歩一歩文明開化的な生活への前進を物語るものである。

大泉地区の組合は別として、板橋外十二カ町村の組合病院は一時日暮里や三河島尾久方面の町村の加入を得て盛大におむいた。この病院は大正年代に入つて加入町村内の人口も増加し、次第に資金関係も大きくなつたので、大正七年五月、近くに新築移転して、八年には北豊島郡立豊島病院となつた。

市域拡張後は市立となり、本区や板橋豊島北などの区民の伝染病患者の収容所として活躍し、都制施行後は都立となつて、区民の為の伝染病患者の処置を行つている。

区内の医師

区内のような純農村地帯では医者といつても殆となく、幕末から明治初年にかけて、僅かに石神井村に山下、練馬に森田の二軒があつただけで、他に医者は全くなかつたという。

森田氏の話によると江戸時代からで五代目との事であるが、はじめは漢方薬の医師として、お玉が池から目黒に出て開業していたが、今の武蔵大学辺から下肥をとりにくる農民が、村に医師がなくて、急場に間にあわず悲しみにくれた話などをしたのがきつかけで、気の毒だというので練馬にやつてきて医師として代々住みついたのだという。練

馬に来た時は農家ばかりで家がなく、農家の物置をかりて午前中宅診、午後往診という診療を行つたが、雨の日などみのかさにわらじばきといういでたちで往診した。上野の彰義隊の事変の時、会津の武士がにげてきたのをかくまつて、まずの手当をしてやつたなどという話も残つている。何しろどこえゆくにも遠いので、明治以後も医師は比較的大事にされ、文化的な意味での先生としても仰がれたようだ。

重病人で明日をも知れぬとなると、東京市中の誰か名医にでも見せようという訳で、当時牛込横寺町に住んでいた浅田宗伯が人力車にのつて往診にくるという光景もあつたという。古老の話に小石川白山まで医者にかかりにいつたというから、明治の末ごろでも医者にかかることは容易でなく、うつかり病気にもなれなかつた訳で、加持祈祷などの迷信の入りこむ余地が多分にあつた。

大正から昭和にかけても医者が急に増加するというようなこともなく、ぼつぼつ歯科医や産婆があちこちに開業した程度だつたようだ。

<章>

第五章 戦時下の区民生活

<節>
第一節 区民生活の低下
<本文>

昭和四五年頃、世界的不況の波にまきこまれて不景気・失業・倒産などの暗い記事が連日の新聞面をにぎわしている時、昭和六年突然日本を大きく回転させる運命に導いた満洲事件が起り、翌七年の満洲国独立、五・一五事件、昭和十一年の二・一六事件と一連の右翼軍部の動きは、遂に十二年日華事変となり、これを契機として戦時色は徐々に市民生活の中に浸透していつた。

<項>
一、配給生活
<本文>

東京市民は、当時の息苦しい圧迫感は味わいながらもまだまだ平和な状態にあり、その生活は低物価による比較的安定したものであつたが、大陸における戦線の拡大とともに市民の応召は相つぎ、駅頭は出征兵士を送る壮行会の人々によつてうずめられる風景が展開されていつた。

戦線の拡大とともに国内物資の統制、戦時体制へのきりかえが着々準備され、市民の生活は次第に窮屈になつていつた。

国内物資の欠乏にそなえて、十四年には物価統制が行われ、騰貴する綿製品を<圏点 style="sesame">わく内におき、さらに十六年四月から六大都市に成人一日米二合三勺という消費規制が行われるようになり、配給制度は確立していつた。昭和十八年にはさらに進んで麦・小麦製品・じやがいも・薩摩芋・大豆・雑穀にまで配給制度が設けられた。マッチから、魚・野菜も配給という苦しい生活になり、魚一人十匁、みそ一月百八十匁、砂糖は茶わんに一杯、かぼちやの配給も一週間に一人五〇匁、芋は米の代用食として配給になるといつた文字通り戦時体制の生活になつていつた。

戦線の拡大は、ガソリンの統制を不可欠とし、円タクが銭タクと迄いわれる程ガソリンが豊富で多くの車が低料金で市中を走つていたのも夢で、十六年三月からはバス・タクシーは大部分木炭車にきりかえられてしりに<圏点 style="sesame">カマをしよつて走つた。

十六年十二月八日、ついに日米開戦の日が来た。

市民の生活は全く戦時体勢の強化に即応して乏しきに耐える生活へと変化していつた。

同時に空襲必至という問題に対処しなければならなかつた。防空演習は演習といえないほどの真剣味を帯びて来た。十七年には統制の強化とともに衣料品も点数切符制となり、生活の簡素化が呼ばれ、十八年になると衣料点数がさらに引きあげられた。

金属回収や貯蓄の励行、債券の割あてなど市民にいろいろの任務が課せられた。統制も酒やたばこの配給にまで進み、食糧不足のために買出しも行われたが、十九年四月には雑炊食堂が開かれて、市中のあちらこちらで食糧のおぎないのために雑炊食堂にならぶ列がみられた。

<項>

二、食糧営団の設立
<本文>

主要食糧の国家管理という非常事態が止むを得ない状況となつて、その配給の合理化は生産から消費まで一貫したものとする必要上、昭和一七年二月三日法律第四〇号によつて食糧管理法が公布された。十六年四月以来配給を行つていた米穀商業組合練馬支所三十五軒を更に併合させることになつた。これに基ずいて東京都でも、貯蔵、加工、製造、保管等の業務と都民への配給という大きな仕事を一手に引受ける東京都食糧営団の発足をみるに至つた。

板橋区内にも営団の支所が設立され、板橋、練馬の両支所のもとに配給が開始された。いまの練馬区役所管内には十四軒の配給所が共同で成立を見、これらの店舗が主食の配給に当ることになつた。

<項>
三、買出しと農家
<本文>

戦線の拡大とともに次第に統制がきびしくなつてきたため、食糧の配給も減少し、市民生活は毎日毎日が苦しい状態になつていた。しかし、それでも戦時中は、戦争完遂の意欲に農民がもえていたから、供出は戦時体制下にあつて強力に確保されていたため、一応は苦しい中にも配給はつづけられていつた。

しかも、「欲しがりません勝つまでは」の国民精神動員の旗じるしのもとに、市民は乏しい配給による栄養の低下にあえぎながらも、戦争遂行の一翼をになうために、がんばりつづけていた。

区内の地でも、石神井大泉地区は純農村地帯的状況にあつたから、供出の外に農家は野菜その他まだゆとりのある

家が少くなかつたから、一部の市民はそれを目当てとして買出しに来る人々も少くなかつた。さつま芋の増産奨励と共に区内でも多くの畑にさつま芋が植えられ、それらが食糧として供出された。農林一号とか量的に大きくできるものが植えられて、ヤカンのような芋がとれたのもこの頃のことである。

いかに戦争遂行のためといつても、サラリーマンや商店の人にとつては配給だけでは食べてゆけないから、ひそかに買出しが行われたのもやむを得なかつた。しかし終戦までは買出しといつても戦後のような堂々たるものでなく、ゆかたとか帯とか衣類などをもつていつて交換するか、金で買いとつても、そつとにげるようにして帰つて来る状態で、栄養は一段と低下していつた。区内の人々の買出しは石神井大泉地区にも、もちろん行われはしたが、むしろ田無や清瀬の方へ買出しに出かける人が多かつたようである。

<項>
四、町会、隣組の活躍
<本文>

戦時色が日一日と濃厚になるにつれて、町会は全く「交隣相扶」を目的としたものから官治的なものに改められた。十五年九月の「部落会町内会等整備要領」により、区域内全戸をもつて組織されることにより、区や市町村の補助的下部組織として、国策の徹底に、また国民経済生活の地域的統制単位として統制経済の運用と国民生活の安定にその機能を発揮することとなつた。町内会の常会や、隣組の常会ができたのもこの時であつた。こうして町会の職責は重くなり事務量が増加していつた。町会役員はそのため自分の職業も手につかぬほどの繁忙となつたので、その緩和と町会機能の強化のために専任の事務員もおくことになり、十六年五月町会事務員規程ができ、町会事務員は月額

手当を支給されて区長の指定する町会に配属された。太平洋戦に突入してからは、全く上意下達機関となり、区役所の末端事務遂行機関となつて、あらゆる統制と強制発動の実行機関として利用され、隣組の組長と家庭の責任者は全くその命令に従う生活がつづけられ、寸暇もないありさまとなつた。建物疎開や防空濠堀りなど次第に労働使役に出動する量も多くなり、十九年末ごろからは文字通り、空襲下にあつて、食糧の配給その他に努力しなければならず、時には空襲下に買出しを余儀なくされる場合もあり、この組織は次第に重苦しい圧迫を感じさせるようになつていつた。

<項>
五、企業整備
<本文>

農家の人々に食料増産と供出の強化が加わつたように、区内の中小商工業者への圧力も戦時体勢の強化とともに次第に加わつてきた。

切符制の施行と価格の統制は問屋ばかりでなく一般小売商にも大打撃を与えた。更に十七年六月よりの物資統制は一段と困惑におとしいれた。ことに十八年九月政府は「男子就業の制限禁止に関する件」「女子勤労動員の促進に関する件」を決定、転業すべき者の種類は事務補助者、現金出納係、小使給仕受附係、物品販売業の店員売子、行商呼売、外交員注文取、集金人、電話交換手、出改札係、車掌、踏切手、昇降機運転係、番頭客引、給仕人、理髪師髪結美容師、携帯品預り係、案内係、下足番で満一四才以上四〇才までのものとし、六―八ケ月の猶予をおくこととした。

これと共に微用による工場への勤労動員は一層強化されてゆき、十九年二月の「決戦非常措置要項」が発表されて国内も亦戦場の感が深く、主人が微用又は応召して店をしめる商店が次第に多くなつてゆき、一部のものは数軒にて一店をかまえて配給に当るほか、工場への動員などが一段と強化され、警防団に防火のための特別任務をおびるなど、商業は全く名ばかりのものとなつてゆき、空襲という最後の段階に直面するに至つた。

<項>
六、戦時農園
<本文>

食糧配給制に入ると共に市民の生活は、一段と乏しく苦しいものになつていつたが、政府はこれを補うために、空地を利用しての戦時菜園(又は農園)を盛んにすすめた。

清掃事業が人手がゆきづまつて糞尿の汲取りもごみの運搬も次第に乱れてゆくにつれて、区内のような農村地帯では大いにこの糞尿を利用して菜園をたがやそうとする人々が出てきた。

特に麦や芋の栽培が奨励され、更に「かぼちや」が市民の最も手軽に食糧不足も補えるものとしてすすめられた。「何が何でもかぼちやをつくれ」というパンフレットが軒なみ配られて、かぼちやの作り方がおしえられた。

<節>
第二節 疎開対策
<項>
一、建物疎開
<本文>

日米開戦後、東京空襲必至の声に備えて、十八年三月、空地帯と防空空地の設定が東京と大阪に行われた。

はじめは防空々地を市街密集地に残すことと、空地帯といつて市街地の外周部と周辺地に環状空地帯をもうけ、それを放尉線的空地帯と交叉させる。この地域には建物をたてさせず、あくまで空地でおくという考えで、内環状、外環状の空地帯のうちには江古田や石神井、板橋地区なども指定された。しかし米軍の空襲が想像を絶するはげしいものとわかると、このような消極的な防空対策では大空襲が防禦できないとわかると事前に破壊消防といつた非常手段をつかつて空地を増加することが考えられるようになり、建物疎開が強制的に行われることになつた。疎開事業所が都内各方面に設けられ、疎開空地帯、重要工場附近などの重要施設疎開空地、駅前広場や道路などの交通疎開空地を設けるほか、各区に疎開小空地をもうけて防火対策に役立てることとなつた。しかし何でもない家を保証金が貰えるにしても通達一本でこわされるのであるから、戦争完遂上止むを得ないにしても、市民の一部には不平もあつたようである。疎開の言渡しがあると一週間内に立退先をさがし、家財道具を搬出しなければならぬという状態で、運搬も思うにまかせず、気の毒であつた。家屋の取毀しは区内の職人や町会隣組の応援を求め、何でも一刻も早く倒壊すればいいというので、日本家屋の場合四隅の柱を床上三尺程に鋸を入れて切り、棟木にロープをゆわえて大勢でワアワアいいながら引き倒す。瓦がガラガラおちて、やがてドーッと建物が倒れる。それをまた鳶職や町会隣組の人々が総出でとりかたずけるといつた有様で、江古田の駅の前など土煙りをあげて倒れる建物疎開風景がみられた。

(しかしこの防空地帯として疎開した所は、小空地の場合はもとより、帯状にひろげた所なども、終戦後の復興に際して全く旧のままに復して、何の効果もあげずにしまつた所が多かつた。)

<項>

二、人員疎開
<本文>

日米開戦後しばらくは東京は市民の手で守るという考え方が強く、疎開という問題はそれ程必要なこととは考えなかつたのであるが、次第に状勢が悪化し、東京の空襲はさけられない状況となるに及んで、まず老幼を東京から安全な地域に縁故疎開することをすすめ、更に食糧事情の悪化とともにできる限り東京の人口のうちから足手まといの人々を疎開させるように努めた。そのうち欧洲における大空襲の状況が明らかにされるにつれ、昭和十九年三月閣議決定の一般疎開促進要項に従い、四月一日「京浜地域人員疎開措置要項」が発せられ、建物疎開や施設疎開の外、老幼と要保護者、特に学童の疎開に対しては転出証明書をだして輸送を優先することとして奨励につとめた。こうして人口は急速に東京から減少していつた。

<項>
三、学童疎開
<本文>

日米開戦の十六年十二月八日を基点として、日本の戦時体制は一層強化されていつた。最初の戦果はしばらく東京を安泰においたが、やがて次第に米軍が優勢となり、欧洲における大規模の空襲、特にベルリン、ローマに対する爆撃の開始と共に、その空襲の恐るべき状況が明らかにされ、ふみとどまつて守るという考は変らぬにしても、老幼のみはなるべく勧奨して疎開させようということになり、昭和十八年以降、特に東京都成立以来これをすすめてきたが、同時に空襲をさけて次代の日本をになう児童達を安全におく方法が真剣に考えられ、縁故のない人々の多い東京

ではむしろ学童を地方の旅館や寺などに集団疎開させた方がよいと考えるに至つた。

都の教育局は昭和十八年頃からすでにこの問題を考えていたのであつたが、政府が都会よりの人員疎開をめざして十九年三月三日「一般疎開促進要綱」を発すると、これに応じて極力学童の疎開に力をそそぎ、更に都独自で関東近県や三多摩の美護学園施設や中学校の施設などを利用して集団的に疎開させようと計画したが、それを更に一歩進めて「学童疎開」という空前の大事業を行うことになつた。このプランでも、何年生からを疎開させるかが大きな問題であつたが、一年生二年生は除外し、高学年の国民学校生徒を対照に実施することに決し、政府もこれに基づいて十九年六月三十日閣議決定の「学童疎開促進要綱」が七月十日防空総本部より発表され、同時に「帝都学童集団疎開実施細目」が発表された。

板橋区はこれによると一二年生は除き三年生より六年生まで二一、〇六〇名と疎開数を予定され、疎開先は淀橋、滝野川、王子の三区と共に群馬県と指定された。このうち乙地区に六二四七、丙地区に一四八一三名と予定され、既に疎開した五九〇〇人を別にして、五一六〇人の残留児童を残し、全員集団疎開することとなつた。

この学童疎開という大事業が無事に遂行されるまでには容易ならぬ当局の努力が払われたのであつた。最初これが実施と決定すると父母の膝下をはなれることに対して燃烈な反対があつた。その為まず極力父兄側を納得させなければならなかつた。そのため都及び教育局では次のような問答体の説明を発行して、その理解につとめた。

<資料文>

〔疎開する学年は〕

(問)戦局は愈々重大となりましたが、国民学校の子供の疎開はどのように進行していますか

(答)お話のように戦局は重大となりました。それに対して学童の疎開は着々と進んでいますが、何しろ何十万という数から見ると既に疎開した児童はその一部に過ぎません。そこで今度は地方に親戚縁故のある方はその縁故先への疎開を一層強力に勧誘し、それでもどうにもならぬ家庭の児童をば此の際集団疎開をすることになりました。

(問)こんど集団疎開させるものは初等科の子供全部ですか。

(答)只今申上げた縁故先に疎開することの出来ない児童のうち初等科三年以上六年までの児童を出来るだけ多く疎開させることにしました。

(問)三年から六年までの子供と特に限つた理由は。

(答)一年生や二年生ですと朝起きて顔を洗うことから夜寝てから便所へつれてゆく世話までしてあげなければなりません。所で小人数の先生では手廻りかねますので差当り一、二年は除きました。しかし一、二年の児童も地方に縁故のある方は出来るだけ多く疎開してもらいます。従つて一、二年も大分減ることと存じます。

〔宿舎と教育は〕

(問)宿舎はどういう所になりますか、又教育はどういう所で致しますか。そして只今お話して下さいます先生は一緒に行つて下さるでしようか。又同じ宿舎に入れていただけるという便宜はあるでしようか。

(答)宿舎は受人地方の旅館、集会所、寺院、教会、練成所、別荘等既存の建物の余裕ある場所をあてる予定です。それから教育は市区町村立国民学校の校舎又は宿舎等で行うようにいたします。なお引率附添職員は男の先生も必要なだけは一緒に行つて下さいます。なお兄弟を同じ宿舎に入れることはよいことですからなるべくそういたすよう方針を樹てています。

(問)もう一つ、旅館や集会所其の他の場所等で国民学校としての教育がやれるのでしようか。

(答)疎開先の学校で教育する場合は問題はありませんが、旅館その他では設備の点から御質問のような不審が起ると思いま

す。然し普通の学校とちがい一日中二十四時間を通して先生の指導の下にあることだけを考えても設備の不足を補つてあまりあることといえましよう。その他創意工夫をこらして国民学校の教育が立派にやれるようにいたします。

〔どんなものをもたせてやるか〕(略)

〔児童の健康については〕

(問)疎開先で病気などした場合はどうしていただけるでしようか。それから病気をしないまでも相当長い間手許から離して置くと先生方がついていて下さるという安心もありますが一面には親心として心配される点もあります。疎開先の子供の様子は時々知らせていただけますか。又面会はどの程度に許していただけましようか。

(答)お子様の病気についてのことは出来るだけ手配してあります。疎開先には医師を嘱託しておき、その上養護訓導や看護婦又は衛生に心得のある寮母等もついていくのですから大丈夫です。それから疎開先と家庭との連絡については学校の手に依つても亦児童自身の手に依つても家庭との連絡を図ります。例えば毎月日を定めて児童に家庭通信を書かせて情況を報告させるとか、学校で時々生活の一般情況や児童の健康状態を御家庭へ報告するとかの方法を採る筈です。なおそれでも親の心持としてはたびたび疎開した子供に会つて丈夫な様子を見たいという気持は充分に察せられますが、これは出来るだけ控えていただくよう希望します。あまり度々面会に来られたのではそれに附随して先ず輸送力の問題その他色々の問題が起ると予想せられます。それでは却つて学童疎開の本来の趣旨にもとると考えるからであります。

こういう教育局の学童疎開の手引までが発行されたが、学童の父兄達の心痛は一方ならぬものがあつた。どうしたら子供達を安全にしておけるかと考える時、集団学童疎開が最も安全だと思つても、やはり父母の膝下からはなすことに不安だつた。しかし時局は容易ならぬ状態におかれ、ここに劃期的ともいう学童の集団疎開が実施されたのであ

る。

区内学童の疎開先きは次の通りである。

旭丘    |  群馬県北甘楽郡妙義町大和田

豊玉    |  〃  碓氷郡松井田町

豊玉第二  |  〃  〃  安中町磯部

開進第一  |  〃  磯部郡~東横野村~勢多郡~川淵村、勢多郡南キツ村、シキシマ村

〃 第二  |  〃  碓氷郡安中町磯部より前橋市

〃 第三  |  〃  碓氷郡安中町磯部

練馬小   |  〃  山田郡大間々町字小平(照副寺)

練馬第二  |  〃  北甘楽郡妙義町大和田

豊溪小   |  〃  甘楽郡丹生村

石神井小  |  〃  碓氷郡松井田町(金別寺)より妙義町(陽雲寺)

石神井東  |  〃  山田郡梅田村(西方寺、端雲寺、高国寺、長泉寺)

石神井西  |  〃  〃  川内村

大泉小   |  〃  碓氷郡九十九村(天滝寺)

大泉一   |  〃  熱田郡宮城村

大泉二   |  〃  勢多郡東村大蒼寺

大泉三   |  〃  埼玉県中山小学校

磯部温泉磯部別館配属の寮母であつた竹山かほる氏の疎開当時の日記を抜萃してみよう。区内の児童達の疎開生活が大体推察できよう。

<資料文>

○夏 昭和十九年八月

  時局増々急をつげ都の空いつ敵機来るやも知れず、次代の幼き学童を守るため、三年以上の集団疎開はじまる。開進第三付寮母として、上野出発、はじめて知る磯部着。当地第一の別館におちつく。はじめ四五日は遠足の気分ではしやぐ子供も、次第にホームシックになり淋しがる。この寮は女子ばかりなので、一人センチになりやすく、夜毎泣く子も出来る始末。

○パラチフス

  初秋の風がしのびやかに碓氷川の流れを渡つて吹く頃、恐れていたパラチフスがあちらこちらの寮で出はじめた。四十度近い高熱にあへぐ幼き子に、ただただ夢中で看護する。夜中にそうつと氷枕をかえてあげると苦しい熱の下ですみませんとほほえむ六年生に、ふと涙ぐむ。家に居れば御両親に廿へ我儘をいいたい頃なのに、こうやつて気をつかい感謝する子。まだまだ愛情のたりないのを心でわびる。間もなく病人は全部隔離病舎にうつし、東京からこられた看護婦さんにゆだねる。ついていつて上げたい。でも元気な子供達がまだ大勢いる身なれば、それは許されなかつた。

  折をみてお見舞に行く、お友達の手紙、細工物等を持つて……泣いてすがる子、早く寮に帰りたいと駄々をこねる元気になつた子、早く丈夫になつて自分の胸に引取りたいとしみじみ想ふ。

  でも不幸中の幸は死亡者一人も無く皆元気になつたことを嬉しく感謝の外はない。

○秋

  子供達も大分疎開地になじみ落ついて来た。でもその中に悲しいあきらめの心のあるのを私達は忘れてはならないとおも

ふ。

  寮の庭の梅の木に赤トンボが羽を休め、遠く妙義の山も色づいて眺められる。天高く馬肥ゆる秋、されど子供達のお腹はけつして満ちたりて居なかつた。食べ盛り育ち盛りの子供。ただ一つの楽しみの食事さへ十分に満たしてやれぬ悲しさ。物資の乏しく統制きびしき事情知つていても、せめて食べ物は自由に十分有ればと、それのみ。

  秋深まりて小供の寮替有り。この別館に初めて男子を迎える。私と高楷さんで全男子を受持つ。騎馬戦、攻防戦と遊びも勇ましく、又着る物のヨゴレ、ヤブレのはげしいこと、今まで女子許りで静かで何事にもやさしさの有つた寮がにぎやかになる。やがて疎開地で初めての新春を迎え様と師走の月は日毎きざまれてゆく。

  正月三ケ日、土地の御好意で全学童は農家へ分宿の予定。

  人の子らしく家庭の暖かな灯の下で過せる事を感謝の外なし。

○昭和二十年元旦

  不安の裡に新春を迎ふ。

  子供達を定められた各家庭にそれぞれ送りとどける。

  がらんとした寮、寒々と静まりかへりて気が抜けた様、ホッとするよりなんと淋しさの方が強く私の胸をつく。今頃なにをしているかしら、恥ずかしがる子、淋しがる子もいるのではないかしらと気持がおちつかない。やつばりどんなに忙しくてもつかれても、私はやつばり大勢の子供にかこまれリァリァ言われて居る方が嬉しく張合ひがある。

  三ケ日の長かつた事

  三日夕刻、三々五々帰つて来る子供、嬉しそうにホッペを真赤に輝かせ手一パイに宿されたお家の御厚意のお餅、オヤキ、

干芋等かかへて、ただ今とかけこんでくる。

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  お土産ね、これこれと見せて差出す。一度には体のため悪いと一応先生方にあづけ置く、しばらくはこれでおやつがつづく事でせう。お宿の方々に心の内で深く感謝する。

  妙義おろしの風が毎日冷たく又時には雪を呼ぶ。

 ○きさらぎ

  子供達は毎日の様に交替で麦踏みに行く。

  過ぐる正月のお礼の心ばかりに。

○春

  碓氷の流もぬるみ川辺に若草が萠へ、春の足音は地上に変りなくめぐり来たれど、御代の春はいつおとづれてくるやも知れず。帝都空襲のはげしきニユースは幼い子に不安と悲しみをきざみ、「帰りません、勝つまでは」のお習字があてなき日を空しく待つている。

  桜の花もいつしか終り、青葉さわやかな初夏五月、第二次学童来れり。

  

  再び夏めぐり来る。細野村へ勤労奉仕。悲しき終戦を細野で迎へる。

  第二のふるさと磯部も今宵限り、明日はなつかしの帝都、慈くしみの父母待つ我が家に帰れる喜びに子供達のにぎやかな笑声が聞える。最後の演芸会がいまたけなわである。

  この土地この寮、そして半年の間、兄弟として睦み行きし友達、あすは別れて行く今宵。ああいつの日あの友この友、つどむめぐり寝食を共に苦楽を共に過す日の再びおとずれるや。思いなしか今宵は一入と輝く顔々、一人一人の子供に思い出があり、愛情がわく。

  二十年十月二十一日磯部発帰京。

こうして疎開学童は無事に父母のもとに復帰したが、焼野原東京の姿をみた児童達はどんなに苦しくても疎開していたことが幸いであつたことを痛感したことであろう。

<節>
第三節 戦災
<本文>

米軍の空襲が開始されることが必死になると都民の心がまえも一段と真剣を帯びて来た。訓練につぐ訓練が行われたが、当時の板橋区は軍需工場が急激に増加して、一部の地区は軍需工場地域になりつつあり、その上北多摩の武蔵野町には中島飛行機製作所があつて区内の関町にはその宿舎もあり米軍のねらう所であつたから、練馬支所の管内は

主として農村地帯であつたとはいえ、江古田、桜台などの武蔵野線沿線はすでに商業地区住宅地区として発展しており、この両者の間に介在する市街として被害の発生は当然予想される所であつた。

米軍の空襲は十九年十一月二十四日から開始された。十九年七月マリアナ群島中のサイパン島が米軍の手に帰して、本土がその基地からB<数2>29の行動範囲内になつて四ケ月目である。十一月一日はじめて東京の上空に米機が姿をみせてから、五日、七日と来襲したが、三回共投弾せず、二十四日の十二時すぎから本格的空襲がはじまつた。中島飛行機製作所がまず目標とされた。そのため区内の東大泉、谷原、南大泉、石神井関町に被害が出た。

次いで、十二月三日の一三時五〇分から一五時五〇分まで武蔵野町の中島飛行機製作所を中心にB<数2>29の白昼大空襲が行われ、杉並、板橋の両区に特に被害が多かつたが、爆撃地区が田畑、空地が多かつたので被害は比較的少なかつた。畑の真中に大穴があき、農家の人々が非常に困つたという。区内では下石神井一丁目、南大泉町、練馬南町一五丁目、西大泉町、土支田二丁目、石神井関町、南田中町、上石神井一・二丁目、練馬向山町、北大泉町、豊玉北五丁目、豊玉上二丁目、石神井谷原町などに爆弾による被害があつた。

十二月二十七日、またも中島飛行機製作所を中心に板橋が空襲された。この時は都内の広範囲にわたつて空襲され、最初の大きな被害が生じた。十二時近くから一四時すぎまでの空襲で練馬向山町、高松町電信学校その他豊玉町四丁目、練馬南町二―四丁目、石神井関町などに被害があり、向山町に全焼一三、半焼七を出した。

二十年一月から二月にかけても、多少の被害を出し、二月十六十七の両日爆弾に見舞われたりした。上石神井には電波兵器学校などもあり、一応空襲の対照になつた。

三月九日、十日にかけての大空襲は下町方面を壊滅させる大被害を生じ、多数の死者を出したか、これからは夜の大空襲が相ついで、東京は次第に焼野原になつていつた。

四月二日二時二三分から三時五五分の間にB<数2>29五十機による空襲が行われ、時限爆弾まで投下されて、区内は中島飛行機製作所の攻撃の余波をうけ大泉地区や石神井間町、上石神井町などにかなり被害を出した。

石神井関町二丁目井口方では精確には判明しないが爆弾によつて防空壕がつぶれ、約三〇名全滅になつた事件なども区内にはあつた。この時が区内で一番多数の死者を出した時である。死者七六という数字もあるがよく判明しない。全壊全焼数不明。

四月十三日より十四日にわたる空襲は山の手、特に城西城北地区に大打撃を与えた。十三日二三時空襲警報が発せられ、約一五〇機のB<数2>29の大編隊の攻撃をうけ、十四日二時二二分解除されるまでに、爆弾焼夷弾混投により広範囲にわたつて火災が生じたが、その被害は本区の地域(当時板橋区練馬支所管内)にも及んだ。

被害をうけたのは豊玉上町一丁目、豊玉北町三―六丁目、練馬北町一―二丁目、練馬南町四五丁目、江古田町、田柄町であつた。

被害総計は全焼六五九、半焼一三、罹災者三一二〇、死者一一、負傷者八五、他に半壊五。

次いで五月二十四日一時三六分より三時五〇分まで東京の残存地域にB<数2>29二五〇機による波状絨氈爆撃が行われ、各所に多数の火災が発生し、甚大な打撃を蒙つた。区内の地も武蔵野沿線地域に被害をうけ、富士見台駅附近、貫井町に火災を生じた。全焼一一、罹災者四五。

翌二十五日二二時二二分より大空襲が開始され、二十六日一時解除になる迄、B<数2>29の二百数十機の大編が来襲し、爆弾焼夷弾混投の絨氈爆撃によつて一大火災を発生、焼失を免れていた大部分の残存地が焼野原となつて了つた。練馬支所管内では、死者五、重軽傷、半壊五、全焼二三七、半焼八、罹災者一、〇一一を出した。

六月十日、殆と大空襲は行われなくなつたが、朝七時四分より九時四〇分の間にB<数2>29三九機が東京に侵入、立川市の陸軍航空本部と板橋区内の軍関係工場に集中攻撃が行われ、上板橋の富士製器と日野製作が甚大な被害をうけたが、この時本区の練馬南町一丁目、同仲町六丁目にも被害が生じた。仲町には不発弾三個が落ちたが人間には被害がなかつた。

七月八日の正午すぎにもP<数2>51の空襲があり板橋区内にも被害を生じ、練馬支所内にも土支田町や、練馬南町一、二丁目、高松町、田柄町などに爆弾がおちたが大した被害はなかつた。

八月十日七時四〇分より一〇時五〇分までB<数2>29P<数2>51の戦爆連合による空襲が行われ、特に板橋区王子区などの軍関係工場などがならわれた。このため区内には爆弾による可なりの被害が生じ、小竹町では行方不明者を出した。

この頃になると、一般市民の間にも敗戦感を強くし、或は終戦をひそかに希望する人々もあつて、政府の本土決戦のさけびとは反対になつていつた。区内の被害の総計は当局の発表がまちまちで、正確を期しがたいが、大体の所をかかげると

  • 死者九九 傷者一〇一 全壊三四 半壊二二 全焼九四一 半焼一七 罹災者六六一九
となつている。

こうして、八月十五日、天皇のラジオを通じての終戦宣言に、市民は敗戦の日を迎え、連日の空襲の恐怖からようやく解放されて、生色をとり戻したのであつた。