練馬区史

<通史本文> <編 type="body">

第五編 補説

<本文>

練馬大根の歴史

千川上水の歴史

練馬の道

<部 type="body">

<章>

練馬大根の歴史

<節>
一 練馬大根の起源
<本文>

大根の起源についての、詳しいことはわからないが、古いところでは「日本書紀」の中で、仁徳天皇が皇后、磐の媛におくつた歌にでてくる。

   つぎねふ 山背女やましろめの 木鍬こくわ持ち

   打ちし大根おほね さわさわに 汝が言へせこそ

   うち渡す やがはえなす 来入り參来れ

つぎねふ 山背女の 木鍬持ち

打ちし大根 根白の 白ただむき

かずけばこそ 知らずとも云わめ

卷十一 仁徳天皇紀

大根は、和名で、おほね・すずしろ、漢名で、蘿菔らふく)・莱菔らいふく)と呼ばれている。いつの頃から大根の二字を用いるようになつたのか不明であるが、「和名類聚抄」(九三五年)には、「おほね俗に大根の二字を用ゆ」と記されている。延喜式(九二七年)には、内膳司の畑作物に大麦・大小豆などと共に、早瓜・晩瓜・茄などの蔬菜類にまじつて「営蘿菔一段。種子三斗。」と蘿菔らふくが記されてある。

また、大根は昔から薬用としても重宝されていたようで、本草学の書物にも多くでてくる。例えば、平安初期の薬物書である「本草倭名」には「来菔和名於保禰」とのつている。薬物といえば「徒然草」にでてくる「筑紫に、なにがしの押領使などいふやうなる者のありけるが、土大根をよろずにいみじき薬とて、朝毎に二つづき焼き食ひける事」という話もおもしろい。ある日、主人の押領使が留守をしていたときのこと、館へ敵が押しよせてきた。ところが館の内から兵二人が現れて、すばらしい働きをして敵を撃退した。そこで不思議に思つた人が「あのように目覚ましい働きをした兵はどういう者か」と尋ねたところ、主人が「年来たのみて、朝な朝な召しつる土大根らに候」と答えたというのである。

このように、古くから大根の栽培は行われたのであるが、こうした大根の栽培は一般的ではなく、大根の庶民への普及は、江戸時代に入つてからである。少くとも、延宝九年(一六八一)以前に成立年代を持つ日本最古の農書「清良記」には、大根が農民の四季作物として記され、また、元祿十年(一六九七)刊行の宮崎安貞の「農業全書」は、菜の類の冒頭に、蘿菔だいこんがあげられ、その栽培法は詳細をきわめ、江戸時代における大根の普及の程をうかがうにたりる。

ひんぬいた大根で道を教えられ (柳多留

練馬大根はいつ頃、誰によつてこの地に伝えられたのか、誰でも知りたいところであろう。そうした要望にこたえて練馬大根の伝説が生れた。

徳川五代将軍綱吉がまだ右馬頭であつた頃、たまたま脚気を患い、医療を加えたが容易に治癒せず、陰陽頭に占わせたところ、城の西北にあたる馬の字のつく土地に転養することがよいという。そこで練馬の地に御殿を建てさせ数年滞在したが、病は次第に癒え、つれずれを慰めるため大根の種子を尾張から取りよせ、ためしに字桜台に栽培させたところ、結果はたいへんよく重さ三貫、長さ四尺にも達する見事な大根がとれた。綱吉は、帰城後も村の旧家大木金兵衛に命じて栽培させ、年々献上させた。(東京府北豊嶋郡誌

大要はこのような筋であるが、綱吉が練馬に滞在したことがあつたかどうかというせんさくは無意味なことかもしれないが、「新編武蔵風土記稿」には、下練馬村の項に「屋敷跡」として次のような記述がある。

<資料文>

村の南にあり、右馬頭と称せるもの住すといふ、其姓氏及何人たる事を伝へす、今陸田となり御殿・表門・裏門等の小字あり、礎石など掘出す事ままありと云

下練馬村の内に御殿・栗山大門などの小字があるが、これが綱吉の「練馬御殿」と何かの関係があろうか。

この大根起源伝説とは別に安永年中にでた大橋方長の「武蔵演路」の中では、練馬大根は上練馬村の百姓又六が作り始めたと記している。又六は、今の鹿島氏の元祖であるといわれているが、たまたま最近、春日町二丁目の大山街

道に面して建立されている庚申塔に次のような銘文があるのを知つた。

   享保二丁酉年 霜月十日

       講親 鹿嶋又六

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又六が練馬大根の元祖であるという説は、練馬大根起源伝説のオーソドックスにはならなかつた。その理由は、第一に権威がない――たとえば将軍綱吉のような――第二に話としておもしろくないことであろう。それだけに又六のことは事実に近い話かもしれない。

伝説をいくら追究しても練馬大根の起源のほんとうのところはわからない。もつとも、だからこそ伝説の存在意義があるのかもしれないが、その真偽は別としても綱吉の元祿年間(一七〇〇年前後)には、練馬大根が名産として相当高く評価されていた。元祿八年(一六九五)の序をもつ「本朝食鑑」には次のように記されている。

「江都近郊最美者多。就<漢文>レ根利間ねりま、板橋、浦和之産為<漢文>レ勝。」              (卷三 菜部

練馬大根に限らず地方特産物の地位が確立されてくるのはこの元祿期である。

<節>

二 天下の練馬大根
<本文>

「大根の練馬」か「練馬の大根」かといわれる程の有名をはせた練馬大根は、大体元祿期より盛んに栽培されるようになつた。こうした練馬の発展の裏には大江戸の発展があつた。当時、すでに人口百万をこえる大都市江戸の厖大な消費は、必然的に多量の物資の移動をうながした。米麦は、その最大のものであつたが、蔬菜類は、新鮮度を要求する点からいつて、江戸近郊農村に頼らねばならなかつた。こうして練馬地方も江戸の需要にこたえる野菜類の供給地として発展していつた。練馬大根が特産物として全国的に有名になつてくるのである。

<資料文>

総て荏原郡・豊嶋郡の土地は、一面の野地にて虚地なれ共、幸に糞水余りありて、何一つとして作り出さざるはなし――此辺只牛房によろしく風味よし。其外練馬村の大根・川越領の芋のごときは皆其地に相応ずる物にして、他所の及ぶところにあらず。――牛込・早稻田の南縁りの如き、茗荷を植て稻を作らざるにて知べし。――惣て江戸近郷の百姓は、畑作を好で田作を悦ばず。――又千住砂村辺の百姓は、もやし物を仕立て、三月節句以前より瓜・茄・ささげを出す。袂へいれて持出し是をひさぐ、得るところの銭壱人にて持がたしといへり。(増補田園類説

早稲田村、中里村の茗荷みようが、駒込辺から産する俗称駒込茄子、四ツ谷、内藤新宿辺の村で作る内藤蕃椒とよばれた蕃椒とうがらし等々いずれも江戸市民の賞美するところであつた。

「新編武蔵風土記稿」では、豊嶋郡の項の産物に蘿蔔だいこんをとりあげている。

<資料文>

郡内練馬辺多く産す、いずれも上品なり、其内練馬村内の産を尤上品とす、さればこの辺より産する物を概して練馬大根と呼、

人々賞美せり。

このほかにも「近郊練馬清水村のもの、その名四方に知られたり」(古今要覧稿)とか「来菔には根極めて大なる有り。尾州宮重及び武州練馬等の産是なり」(経済要録)というように江戸時代の書物に載せられている。

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ここで「天下の練馬大根」ぶりを少々紹介しておこう。寛政年間に江戸近郊の農村の風土を視察した古河古松軒は、大要次のようにほめている。

<資料文>

練馬村産物大根を以て上品とす。僕按に世に尾張大根を称誉す。然れども大いなるといふのみにて味ひ美ならず。此地の大根は味ひ至てよく、且大ひ也。大根においては日本第一といふべし。

よくもほめたものだが、質・量共に日本一と折紙をつけた。

昭和十五年に「練馬漬物組合」によつて、春日町一丁目愛染院の門前に「練馬大根の碑」が建てられた。

<コラム page="1507" position="page">

       練馬大根碑

                                         柴田 常恵撰

蔬菜は、人生一日も欠き難き必須の食品たり。特に大根は滋味豊潤にして、栄養に秀で、久しきに保ちて替る所なく、煮沸干燥或は生食して、各種の調理に適す。若し夫れ、沢庵漬に到りては、通歳尽くるを知らず、効用の甚大なる蔬菜の首位を占む。

今や声誉中外に高き我が練馬大根は、由来甚だ久しく、徳川将軍綱吉が館林城主右馬頭たりし時、宮重の種子を尾張に取り、練馬の百姓亦六(今の鹿島姓の旧家)に与へて裁培せしむるに起ると伝ふ。

文献散逸して拠るべきもの乏しと雖ど、寛文中綱吉が再次練馬に来遊せしは、史績に載せられ、当時の御殿跡なるもの今に存するを思へば、伝説が基く所ありて、直に斥くべきにあらず、爾来、地味に適して、裁培に努めしより久しからずして、優秀なる品種を作り、練馬大根の称を得て、重要物産となり、疾く寛政の頃には、宮重を凌ぎ日本一の推賞を蒙るに至れり。

抑も練馬の地たる鎌倉時代の末葉に当り、豪族豊島景村来住せしより、文明中太田道潅の攻略に遭い亡ぶるまで、世々其の一族の守る所として知られしも其の名は大根に依り始めて広く著はる。而して輓近国運の伸長は歳と共に其の需用を増し、加ふるに沢庵漬として、遥かに海外に輸出さるるより、競うて之が裁培を計り、傍近数里殊に盛たるものありと雖も、尚且つ足らざるを感ぜしむ。昭和七年十月東京市に編入の事あり、都市計画の進程に伴ひ、耕耘の地積徐に減退を告げ、其の裁培の中心は傍近の地に移るに余儀なきを覚えしむ。現時沢庵漬の年産八万樽に達せるは最高潮と称すべきか。茲に光栄輝く皇紀二千六百年に当り、奉賛の赤誠を捧げて、崇高なる感激に浸ると共に、東京練馬漬物組合員一同相胥り、地を相して、各自圧石を供出して基壇に充て、其の旨を石に刻して、後昆に遺さんと欲す。偶々其の記を予に嘱せらるるも、不文敢て当らず。予は尾張の出にして、居を此の地に営み、大根の由来と稍々相似たるものあるは、多少の縁因なきにあらず、奇と云ふべきか、辞するに由なきより、乃ち筆を呵して、其の梗概を記す。

                                        昭和十五年十一月 (練月山 亮通書)

<節>

三 練馬大根と農家経済
<本文>

「惣て江戸近郷の百姓は、畑作を好で田作を悦ばず」というように、江戸近在の農村は、江戸時代の中頃以後の蔬菜ブーム(?)に、小銭をにぎる機会にも恵まれて、次第に自給経済から貨幣経済にまきこまれていつた。

練馬地方から江戸まで凡そ三里位であるから、日帰りの道のりとして適当であり、馬背・人背で江戸に運ばれたであろう。

大根の尻つぽを揃え初荷つく               水笑

歌舞伎十八番の「矢の根」の五郎時宗と馬士のやりとりは、当時近在の村々から頻繁に運ばれた大根売りをしのばせる。

<資料文>

 〽馬附大根の春あきなひ、大根大根と売り来る。時宗是をきつと見て、これ幸の肌背馬、価は望みにまかすべし

  五郎「馬をかせ、馬をかせ」

<資料文>

 〽其馬貸せと近寄れば、馬土も気おつて狼籍なり。

  馬士「商ひ馬に乗らんとは、びやくらいならぬ、ならないぞ」

<資料文>

 〽びやくらい成らぬと言ふところを、引掴んで引掴んで七、八間エイエイやつと人礫。

 〽手網おつとりひらりと打乗り、手頃の大根、千里が鞭。

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この「矢の根」は享保十四年(一七二九)正月、江戸中村座で二代目団十郎により初演されて好評を博したものである。案外、この馬士は練馬くんだりから大根を売りにきた百姓だつたのかもしれない。帰りは特定の町屋敷、武家屋敷から下肥を運んだ。はじめは、下肥代として農作物など納めていたようであるが、蔬菜栽培が盛んになり下肥の需要が増大すると次第に金納にかわつてきた。土支田村の場合には、汲取料として二両を支払つている記録があるが、下肥七、八十駄に当るものとおもわれる。もつとも、享保五年の関村の例では一駄三百文と記されている。安政の頃の書物には、畑五反歩から大根二万五千本を産し、これを販売して銭一三五貫を得、このうち肥料代として銭五十貫を支払い、さらに舟賃に二両二分、駄賃に銭四十貫を支出して、全くの収益として二十八貫七百文を得る話がのつている。(富国強兵問答

販売作物は、単に大根に限られず、午房、瓜、茄子等も同様に貨幣化されたのである。

練馬地方は、大都市の近郊で、その産する物、利潤を得やすいので、ややもすれば商家の業に因循しやすく、かえつて家産を失う者が多いと論じている者もあるが、貨幣経済の波にあらわれた近郊農村の性格を物語るものといえよ

う。大根をはじめとする商品作物の栽培は、練馬地方の農家にうるおいを与え、生活のゆとりをもたらしたことは否めないが、一方では、自給経済をつきくずした結果として、銭がなくては生活ができなくなるような状態に農民を追いやり、小農にとつてはむしろ苦るしい状態に立ち至るのである。だが練馬大根の名声を博したのは、たくあん漬で、それは江戸時代よりはむしろ大正年間であろう。周知の如くたくあん漬は品川東海寺の沢庵和尚の創始によると伝えられ、江戸時代においても江戸市民の発注に応じ(守貞漫語)或は下肥代としても納入されていたが(町田文書)明治――大正――昭和とたくあん漬の需要は日本全国はおろか朝鮮、満州さらには北米に至るまで拡大されていつたのである。その最盛時には数十万樽の生産を誇り、まさに練馬大根は日本資本主義の発展とともに洋々たる前途を約束されていたことであつたが、たまたま昭和八年のバイラス病発生による全滅以来、衰微の一途をたどり、今日では埼玉、北多摩辺に移動し、練馬地方では往時をしのぶすべもない。漬物樽の山や干大根が見事に並べられた練馬的景観は、今日では老人たちの話の種となつてしまつたが、こうした中で鹿島安太郎氏(春日町)は練馬地方で栽培できなくなつた純正練馬大根の普及育成の希望を捨てず、七四歳の今日、尚日本全国を行脚して、その普及、指導につとめ、練馬大根への限りない夢を託されていることを特に記して筆をおこう。

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<章>

千川上水の歴史

<節>
一 江戸の三上水
<本文>

千川上水が開鑿されるまでの江戸の上水(飲料水)は、現在の武蔵野市井之頭池から引水した神田上水と、多摩川から分水した玉川上水とがその主なるものであつた。

天正十八年、家康が江戸を居城と定めるや、大江戸の建設をめざして市街地の拡張をはかつた。これら市街地への給水のため、大久保藤五郎をして上水の開設にあたらせたのが神田上水の源流といわれる。さらに海岸地帯の埋立が進み、江戸の町が南西の方面に発展するに及び、この地域には赤坂の溜池(現在の港区赤坂溜池町)の水が引かれた。

<資料文>

今の江戸町には、十二年以前まで大海原なりしを、当君の御威勢にて、南海をうめ陸地となし、町を立給う。町ゆたかにさかふるといへども、井の水へ塩さし人、万民是を歎くときこしめし、民をあはれみ給ひ、神田明神岸の水を北東の町へ流し、山王山本の流れを西南の町へながし、此二水を江戸町へあまねく与へたまふ。此水を味はふるに、ただ是薬の泉なれや、五味百味を具足せる。色にそみてよし、身にふれてよし、飯をかしいでよし、酒茶によし。(慶長見聞集

しかるに、その後の市街地の膨張発展は、従来の二上水(神田上水・溜池上水)の水では不足をきたしたので、新たに多摩川より分水する上水の開墾が計画された。これが玉川上水である。工事にあたつたのは、庄右衛門、清右衛門

の兄弟で、承応元年(一六五二)願出て、同二年起工、同三年に完工したもののようであるが、諸説があつて定かでない。

<資料文>

此上水の初は、承応元年壬辰(或は四年と云ものあやまりなるべし、)神尾備前守に命ぜられ、多摩川百姓をめして(庄右衛門清右衛門という。)その水の引地を尋ねしめしに、多摩川羽村といへる所より此の水を引て、江戸迄十三里の間道の次第を考へ、絵図を作りて申出しかば(或は松平伊豆守家人の考ふる所ともいへり、是は野火留へ引く所といへるなるべし。)其申ところのごとくしかるべしと評議さだまり、同年十一月二十五日、かの両人へそのことを命ぜらる。明る二年四月四日よりことはじめし、同き年十一月十五日に至り四谷大木戸迄ほり渡せり。水などかけしにことに勢よかりしかば、夫より虎の御門の前まで水を通し、その後諸方へ分水ありし也。(御府内備考

このようにして開鑿された玉川上水は、江戸の南西部の給水に重要な役割を果すのであるが、その後、さらに市街地の拡張によつて、万治三年(一六六〇)には、山の手の青山・赤坂・麻布・芝方面の市街地への給水の目的で、青山上水が開かれ、ついで寛文四年(一六六四)には三田上水が南部の三田・芝金杉方面に給水の目的で開設された。これらはいずれも玉川上水より分水したものである。

さらに三十余年を降つて元祿九年(一六九六)には、残された地域北部の下谷浅草方面への給水のため、千川上水が同様に玉川上水を上保谷新田(現在の北多摩郡保谷町上保谷新田)から分水して開鑿された。

<資料文>

新座郡保谷村より玉川上水を分ち、本郡巣鴨村まで行程六里余、堀割ありて巣鴨庚申塚辺より本郷湯島・浅草辺に通ぜり。是元祿九年起立ありし所にして、小石川御殿・湯島聖堂・東叡山・浅草御殿等へ掛りし上水なり、多摩郡仙川村百姓太兵衛・徳兵衛と云もの、台命に依て此事を奉ず、故にかの村名を以て名とし、文字をば千川と改め、事を奉ぜし村民二人に氏を賜り、且江府にて屋敷地を賜ふと。(新編武蔵風土記稿

市街地南西部と北東部に給水した前述の神田上水と玉川上水にならんで、この千川上水は、俗に江戸の三上水と呼ばれて、江戸市民の動脈としての役割を果すことになつたのである。

<節>
二 千川徳兵衛
<本文>

千川上水開墾の中心人物、徳兵衛、太兵衛については、詳細なことはわかつていないが、多摩郡仙川村の者であつたといわれている。(御府内上水在絶略記・武蔵通志・新編武蔵風土記稿)これは、仙川村と千川上水を結びつけた説と思われるが、真偽のほどは明らかでない。千川家では、たびたび先祖についての由緒書を提出しているが、この中でも仙川村百姓云々ということにはまつたくふれていない。千川上水開発の功によつて、徳兵衛、太兵衛の子孫は、代々上水見廻役を勤めてきたが、五代源蔵のときに上水管理の都合という理由で、練馬区北町(旧下練馬村上宿)に移転した。(千川家系譜では元文二年(一七三七)と記している)

北町にある阿彌陀堂地内に千川家先祖代々の墓があるが、徳兵衛の墓は見当らない。ただ徳兵衛の消息を語るものとして「天保四己年正月吉日、千川善蔵八十四才誌」と奥書のある千川起立書がある。この起立書は上水開設以来、天保年間に至るまでの千川上水の歩みを六代善蔵が記録したもので、千川上水開発の経緯を知るうえに貴重な資料であつて、実に千川小史ともいえるものである。徳兵衛についてその記述するところをみよう。

<資料文>

播州姫路ニ玄海と申す医、名字知らず、権現様御勝手掛相勤候由、此子久右衛門と申す者、国を去り江戸表に来り住居す。其頃常憲院様御代、白山御殿、湯島聖堂、東叡山の上水懸渡御用仰出され、其節右久右衛門存立、此御普請願上奉り、段々御吟味之

上、則右御用仰付られ候処、間も無く久右衛門病死致候。尤男子二人有り、嫡男を久右衛門と名付、弟長左衛門と云う、如何致候や、兄久右衛門乱心に相成候に付、蟄居致させ差置候。然る処常陸の出生にて徳兵衛と申す者、子供二人連後添に入り、女子一人は白山下大嶋源治郎と申す御家人に嫁す。男子は弁慶橋にて菓子屋須浜屋三右衛門と申す。又後妻に壱人男子生す藤次郎、然に上水御普請相勤、此者大工棟梁にて普請方却て功者也。

右の記述にしたがえば、初代の玄海は播州の者で、医者を業として幕府に仕えた。二代久右衛門のとき、江戸にでて本郷追分に住居したが、この久右衛門が千川上水工事を請負つた。しかし、早逝のため果すことができず、久右衛門未亡人に入夫した常陸の出生の徳兵衛が工事を引継ぎ完成した。「此者大工棟梁ニ而普請方却而功者也」といつているのをみれば、元来土木請負の仕事に従事していた者と思える。さらに起立書は工事について述べている。

<資料文>

元禄九年ゟ取懸堀筋見立、武蔵野保谷新田と申所ゟ巣鴨村迄白堀行程五里廿四丁余、段々堀立被下置候金高ニ而出来兼候ニ付、此段奉願候処、急御用ニ候間、其方共何連ニも取斗成就仕候様被<漢文>二仰渡<漢文>一候ニ付徳兵衛相仕太兵衛外ニ金主中の島与市、加藤善九郎と申男二人都合四人ニ而金四百両余差出、素堀通出来申候。惣〆白堀入用金千三百両余、夫ゟ段々江戸内伏樋出来、白山御殿、東叡山、聖堂へ無<漢文>レ恙相懸り外神田、下谷、浅草辺呑水ニ相成町方ゟ水銀小間割ニ而差出、御大名様御高ニ応じ是又御普請修復金被<漢文>二下置<漢文>一候事。

この開鑿工事は、時の老中松平甲斐守、加藤越中守より命ぜられ、道奉行毛利兵橘(毛利兵橘の子孫は区内豊玉町に現住している)佐橋内蔵之助、伊勢平八郎、武島治郎左衛門内掛で徳兵衛、太兵衛のほかに金主として加藤屋善九郎、中嶋屋与市郎が加わつて工事を完成した。この四人の間で次のような「請負定手形」が取りかわされている。

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<資料文>

      御上水永々御請負定手形之事

一、今度千川ゟ本郷迄御上水御普請被<漢文>レ為<漢文>二仰付候。内千川ゟ巣鴨迄、野方御上水堀方五里七町之場所御普請仕立水懸渡シ出来、以後此水筋之御屋敷並寺宮地、百姓地方町方共ニ水御取被<漢文>レ遊候御方様ゟ下谷請負三田請負人並に水破損銭永々被<漢文>二下置<漢文>一候様、貴殿方拙者共両四人申合候而奉<漢文>レ願候所被<漢文>レ為<漢文>二仰付<漢文>一難<漢文>レ有仕合奉<漢文>レ存候。然上者相与ニ精出シ御上水御役御用相違不<漢文>レ仕候様ニ御大切ニ相勤可<漢文>レ申候事。

一、御上水御用ニ付御入用之金銀等之儀者、何程成共善九郎殿、与市郎殿御両人ゟ無<漢文>レ滞御出シ可<漢文>レ被<漢文>レ下候。尤諸事入用之儀は立合帳面ニ印置候而立合之上ニ而諸事差引可仕候。

      (中略)

 元禄九年丙子五月二十五日

                           和泉屋太兵衛㊞

                           加藤屋善九郎㊞

  □□屋                      中嶋屋与市郎㊞

     徳兵衛殿

                                  (千川文書)

徳兵衛と一緒に上水工事を請負つた太兵衛については、記録が殆んどなく(明和五年太兵衛家の子孫である幸次郎の書上によれば先年の火災で焼矢したと述べている。)前掲の上水請負定手形には、和泉屋太兵衛と記されているが、江戸の商人と一応考えられる。この請負定手形は「元祿九年丙子五月二十五日」の日付があり、千川上水開発の年のもので貴

重な史料であるが、金主の善九郎・与市郎の間でかわされた内容はおおよそ次のとおりである。

一、御上水普請入用金銀は善九郎、与市郎が金主となつて負担すること

二、寺社方、武家方、町方より差出す水銀は四人立合の上受取ること

三、この水銀は諸入用を差引いた残金を四人で二割五分ずつに均分して受取ること

四、上水御用はすべて四人立合できめ、御用を大切に勤めること

「定手形」では、四人の間に同等の権利があつたように思えるが、以後喜九郎と与市郎の名があらわれないで、徳兵衛、太兵衛の二人が浮びあがつてくるのは、いかなる理由によるものであろうか。もつとも上水開発より二〇年ほどくだつた正徳の頃と推定される「上水図」には、千川上水水元として、前記の四人が次のように名前を連ねている。

                        千川徳兵衛

                 千川上水水元 同 太兵衛

                        同 善九郎

                        同 与市郎

千川上水の工事は「定手形」よりすれば、五、六月頃には一応完成したと考えられる。

玉川上水取入口は、三尺五寸四方の埋樋で、巣鴨の堀溜まで五里二十四町三十間で、深さ五尺から一丈余、上巾八尺堀敷三尺の素堀で、総費用が金一三四六両と銀五匁六分二厘であつたが、公儀より下賜された金子で充当することができず、結局四八二両一歩と銀六匁七分の不足金を前記の四人が負担した。

さらに徳兵衛、太兵衛は、上水開発の功によつて、苗字帯刀を許された。「起立書」では次のように記されている。

<資料文>

徳兵衛<外字 alt="え">〓千川名字拝領被<漢文>二仰付<漢文>一、此訳、仙川村之名ニ寄り是を御取用イ之由、然仙の字不宜と千の字ニ御直し被<漢文>二下置<漢文>一、同役太兵衛<外字 alt="え">〓も此段奉<漢文>レ願候処、同太兵衛ゟ可<漢文>レ申由、御下知ニ而御座候。此儀ニ依て自ラ上水ノ名目千川上水と唱来、其上御<漢文>二免駕籠<漢文>一御赦し被<漢文>二下置<漢文>一候。

千川の名目については、種々の説があるが、いずれも明確でない。明和五年(一六七八)の書上は「千川与申名目之儀、武蔵野ケ原之内に千川村と申処御座候由、右御上水開発の砌り源蔵祖父徳兵衛、私祖父太兵衛両人江名字ヲ被<漢文>二下置<漢文>一候由伝承候。依<漢文>レ之川之名茂自然千川与申候哉と奉<漢文>レ存候」とのべている。

右のように多摩郡仙川村の名称が採用され、徳兵衛、太兵衛にあたえられて、それが自然上水の名目になつたと述べているが、何故仙川村の仙川(千川)が用いられたのであろうか。文政七年の千川金七の書上には「千川村と申所より上水開発仕候に付、千川と申名目被<漢文>二下置<漢文>一」と述べられており、また、元祿九年の「定手形」にも「今度千河ゟ本郷迄御上水御普請被<漢文>二仰付<漢文>一」とあり、千川上水の水元を千川としているのは何かわけがあるのだろうか。また上水開発工事に仙川村の百姓が使役されたともいわれるが、この点も明らかでない。千川の名字拝領後、上水も自然千川上水と呼ばれ、さらに小石川指ケ谷町に役宅を拝領することになつた。

なお、この頃徳兵衛は上方の木津川、新大和川の川浚御用も勤め、また、東海道筋の河川工事にも従事したようである。その後、江戸市内の上水道(水道橋掛樋、寅御門外上水普請など)工事にもあたつたが、亨保十九年九月十六日世を去つた。以後、千川両人の子孫は世襲して、千川取締役を勤めたが前述の如く五代源蔵のとき、下練馬村上宿に移

転した。その事情を「起立書」で次のように記している。

<資料文>

右長左衛門娘おりか練馬村漆原源蔵妻ト成、此訳源蔵兄長右衛門千川清八ト入魂故右清八ニ談合弟源蔵を妻合尤藤次郎□□□申立其節上水懸町奉行能瀬肥後守様へ願上千川跡式相譲被<漢文>二仰付<漢文>一候。

右長左衛門迄ハ江戸住宅の処、源蔵代ゟ練馬住居仕候。尤御役所向ハ用水懸引都合宜敷在宅と申上置候。

長左衛門は、二代久右衛門の実子で、三代徳兵衛の跡をつぎ、千川上水取締役を勤めたが、この四代長左衛門の長女の聟養子になつたのが五代源蔵(漆原姓)であつた。以後、下練馬村に住んで千川上水の管理にあたつたが、安永四年の書上による千川家の暮向は次のようである。

<資料文>

    御尋に付以<漢文>二書付<漢文>一奉<漢文>二願上<漢文>一

                           豊嶋郡下練馬村

                           千川用水請負人 善 蔵

一、家屋 長弐間 外に納屋九尺

     横六間半 弐間

一、暮方五人内下男壱人下女壱人

  馬無<漢文>二御座<漢文>一

一、屋敷地之儀者親類彦左衛門借地に住居仕候

一、田畑所持不<漢文>レ仕候

一、借金無<漢文>二御座<漢文>一

右者当村千川用水請負人善蔵身元御尋に付、以<漢文>二書付<漢文>一申上候通少も相違無<漢文>二御座<漢文>一候。依<漢文>レ之村役親類一同連印を以奉<漢文>二申上<漢文>一候。

 

  安永四未年七月二十三日

                           豊嶋郡下練馬村

                                名主 久右衛門㊞

                              善蔵親類 彦左衛門㊞

                               百姓代 市兵衛 ㊞

                           千川用水請負人 善 蔵 ㊞

                                      (千川文書)

「千川起立書」の著者は、玉川上水請負人庄右衛門、清右衛門の兄弟が詠んだと伝えられる「玉川の水の御恩も五十年」という句を引用して、この玉川家も後年幕府の咎めを蒙り、御役御免となつたが、「右句未然に凶を詠ず」と感慨を記し、また、神田上水請負人も処罰されたが、ひとり「千川者元祿年中ゟ御由緒有<漢文>レ之、無<漢文>二故障<漢文>一永々相続偏ニ難<漢文>レ有事也」と開発以来百四十年になんなんとする千川家の繁栄をたたえて起立書を結んでいる。

<節>
三 千川上水の灌漑利用
<本文>

本来、江戸市街地への給水の目的で開鑿せられた江戸の上水は、他方武蔵野の開発に重要な役割を果してきた。寛政二年(一七九〇)の調査によると、玉川上水の飲料水、灌漑利用村数は一二三カ村に及び、水車は三三カ所に設け

られていた。この中で千川上水は利用村数二〇カ村を数え、灌漑利用度が最も高く、この水を利用した水田面積は百町歩に達した。

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千川上水の灌漑利用は、元祿九年(一六九六)の開鑿より一〇年後の宝永四年(一七〇七)最寄二〇カ村の歎願をもつてはじまる。

<資料文>

宝永四亥年、右堀通左右村々田地天水場ニ而、年々干損難儀ニ付、右村々申合、井草村半兵衛、石神井村平蔵、中村新五左衛門と申名主其発起ニ而、千川懸り方へ相願候ハ、右村々田方年々難儀ニ付何卒御上水吐水ヲ以、少々宛田地用水ニ被<漢文>二下置<漢文>一度相願候ニ付、此段承届、御懸御奉行へ申上則分水被<漢文>二下置<漢文>二候。此為<漢文>二水料<漢文>一田壱反ニ付、米三升宛受取、此為<漢文>二冥加<漢文>一御上水堀通ニ相建候御高札十六所内八ケ所自分入用ヲ以、新規修復共可<漢文>レ仕候旨申上、此段御聞済相成。(千川起立書)

この歎願は、水料(水銀・堰料・水年貢ともいわれる)として田一反に付玄米三升宛納めることで道奉行より許可がおりた。

これによつて、古来、水に乏しく旱ばつに悩んでいた武蔵野台地東部の村々は、大いにうるおされたのである。千川組合村々二〇カ村の内、本区に属する村、上石神井村、下石神井村、中村、関村、中新井村、下練馬村の六カ村であつた。幕末における組合村々の水田作付面積及び千川家に納めた水料高は次表の通りである。

こうして千川上水は、関村分水口、井草村分水口、中村分水口、中新井村分水口、長崎村分水口、滝野川村分水口、巣鴨村分水口の七取入口から分水した。享保九年(一七二四)の記録によると、千川上水を 図表を表示

利用して作られている水田は、九九町歩余で幕末の元治元年(一八六四)には、一一一町歩余で水料米は三三石余であつた。江戸時代を通じて大体百町歩前後で、従つて水料高は三〇石位とみて差支えあるまい。百町歩といえばたいしたこともないように思えるが、水に恵まれない台地の村々にあつては、たとえ百町歩でも馬鹿にならなかつたのである。

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元治元年を例にとれば、組合村の総水田町歩の六割余が千川上水の水を利用していたことによつても、その役割が推測されよう。

水に対する関心の強さは、当時千川に設けられていた水車に対して「毎年三月ゟ八月迄、田方肝要之時節に付、急度休車可<漢文>レ致候事。但渇水之節は夏冬無<漢文>二差別<漢文>一休車可<漢文>レ致候事。」と厳重な水車取建規定をもうけている。次にあげた証文は、下練馬村の半左衛門が前々から天水で作つていた二町六反歩の田を千川上水で仕付けることについての一札である。

画像を表示 <資料文>

証文之事

一、当村之内、田地弐町六反歩之所、前々ゟ天水ノ場所ニ付、仕付難<漢文>レ成候故、此度右之場所<外字 alt="え">〓用水掛ケ申度段、各方<外字 alt="え">〓申込候所ニ用水御掛ケ被<漢文>レ下候。依之右の水代壱反歩ニ付、壱ケ年ニ米三升宛、毎年十月廿日切ニ各御指図之所迄急度附送り可<漢文>レ申候。万一水代滞候者有之候ハバ、此印形之者共ゟ急度取立進上可<漢文>レ仕候。尤末々ニ罷成反歩多罷成候ハバ其節早々各方<外字 alt="え">〓可<漢文>二申入<漢文>一、為<漢文>二後日<漢文>一仍而如<漢文>レ件。

 享保十年己四月十二日

                                下練馬村之内

                                   宿湿化見

                                   年寄

                                     半左衛門㊞

                                   前湿化見

 千川徳兵衛殿                             名主代

 千川太兵衛殿                              伊右衛門㊞

                                      (千川文書)

組合村から千川家に納入される水料米は、一反歩につき玄米三升であつたが、この収入は、前述のごとく千川

堀筋の高札の修復などに使われたもようであるが、明和六年(一七六九)の場合水料高二八石余で、その使途を見ると次のようである。

図表を表示

こうして、組合村々二〇カ村の水田をうるおしてきた千川上水は享保七年(一七二二)突然三田上水、青山上水とともに廃止され、市内への給水を停止した。この間の事情を「千川起立書」は次のように伝えている。

<資料文>

正徳四午年、白山御成御殿御不用ニ相成、夫ゟ享保七寅年小野和泉守様ゟ被<漢文>二仰出<漢文>一候由ニ而、進喜太郎様ゟ被<漢文>二仰渡<漢文>一、千川上水、青山上水、三田上水ハ中興の事故、当分御差止メニ被<漢文>二仰渡<漢文>一候ニ付、則巣鴨村真壮寺裏白堀留りニ而、十月二日〆切江戸内懸相止候。

白山御殿が正徳四年(一七一四)に閉鎖され、千川上水も不用になつたので、中興の三上水がともに廃止されたというのであるが、上水廃止の根拠はこれのみではなく、室直清(鳩巣)の建議によるものという。彼の考えは、江戸市内に上水道が縦横に引かれたため、地脈が絶たれ、地気が分裂し、

土に潤いがなくなつて大風を捲きおこし、これが大火の因となるが故に、江戸市内の上水道の半分を廃止したならば、風向も変り火災も少くなるというのである。即ち、鳩巣が幕布の諮問に答申したところの「江戸火災の義に付、水道之義申上候処、追而所存可<漢文>二申上<漢文>一旨、被<漢文>二仰出<漢文>一候に付、乍<漢文>レ恐愚意之趣委細申上候。」(献可録)という江戸の火災防止策には、次のように述べられてある。

<資料文>

第一冬の末ゟ二月時分迄北風烈しく候間、毎度火災に及申候間、御城ゟ北の方小石川巣鴨辺の水道を先潰申度ものに御座候。

「御城より北の方小石川巣鴨辺の水道」とのべているのはまぎれもなく千川上水であろう。今から考えると全く非科学的な意見のぎせいとなつて千川上水は取潰されたのであるが、時あたかも八代将軍吉宗の治世であり、いわゆる享保の緊縮政策がおし進められており、諸経費の節約も上水廃止の理由ではなかつたろうか。因みに「千川起立書」では、後年再び千川が上水として復興し、僅か数年で廃せられた際の理由として、「右間も無相止候儀ハ、町方水銀上り高少く、年々上水破損所多、御入用多分懸り候故と奉レ存候」と経費の点にふれている。

いずれにしても、この突然の廃止は組合村々の生活をおびやかす重大な問題であつて「千川上水之儀、前々ゟ右堀通村々<外字 alt="え">〓用水引来候ニ付、此度上水之儀者相止候得共、村々田地用水ニ致度儀」を歎願して、従前通りに田方用水として使用することを許された。

千川家も「是迄通水料受取、用水堀敷一件御入用場所橋々七ケ村不<漢文>レ残私共方へ引請御奉公之筋を以、永く御請負申上度奉<漢文>レ願候」と従来の特権の継続を願つて許された。以後千川用水水元役として管理にあたることとなつた。

その後、明和七年(一七七一)には玉川上水が干ばつのため渇水して千川用水が差止めとなつたが、組合村々は樋口の開放を歎願してようやく半開され、さらに安永二年(一七七三)に至り樋口増口になり、この際、組合村に対して増水口堰料金として、金四両一分の上納金が賦課されたが、これは組合村より「村々ゟ差出候も難儀ニ付、何卒水料米内ゟ上納致呉候様」願出て千川家より以後明治初年まで年々上納することになつた。このことに関して千川両人より組合村々へ出した一札が左の文書である。

<資料文>

     一札之事

一、此度御普請方御役所ゟ被為<漢文>二仰付<漢文>一候水銀之儀、各村々ゟ御出可<漢文>レ成所、私共両人<外字 alt="え">〓昨今迄為<漢文>二水世話料与<漢文>一請取来候水料米ヲ以、被<漢文>レ為<漢文>二仰付<漢文>一候水銀壱ケ年ニ金子四両壱分ツツ御上納仕其余分を以、只今之通千川水路普請諸色見廻り是迄之通無<漢文>二懈怠<漢文>一仕候。

     (中略)

  安永三年三月

                                 千川茂兵衛㊞

                                 千川善蔵 ㊞

    千川組合 惣御村方衆中

                                      (千川文書)

水料米の納入状況は、必ずしも良好ではなかつた。組合村は、何かと理由をつけて水料米を滞納するのであつた。

<資料文>

練馬村分水口之義、百姓共申来候ハ今月中ニも水懸り不<漢文>レ申候ハパ、最寄之水を以田場少々も相仕付可<漢文>レ申候。左候得ハ入用も殊外相懸申候間、千川水料米差出候義ハ相成不<漢文>レ申候由申来候。

幕府直轄領である天領、知行地、それに山王御神領、増上寺領などの寺社領とが錯綜した千川組合村に対する取締

役千川家の支配力は幕府の権威を必要としたものであろう。

<資料文>

近年村方水年貢不<漢文>レ納、定メ通ニ者相納メ不<漢文>レ申甚難儀仕候。依<漢文>レ之何卒御慈悲ヲ以十九ケ村名主中<外字 alt="え">〓水料不納不<漢文>レ仕様ニ年々十一月ニ至り御触書頂戴奉度願上候。偏ニ御威光ニ而未進無<漢文>レ之様ニ可<漢文>二相成<漢文>一候と難<漢文>レ有奉<漢文>レ存候。

と幕府の威光による水料不納の督促を要請している。事実相当に強い態度をもつて普請方役所からは、不納村々宛触書が発せられている。

<資料文>

      御触書

一、当酉年水料米千川善蔵方より申達候得共、今以不<漢文>二相納<漢文>一由、如何ニ相心得候哉。来ル十日迄之内無<漢文>レ滞千川善蔵方<外字 alt="え">〓<漢文>二可差出<漢文>一候。

  酉十二月四日

                             組合村々名主

                  (水料未納の村一〇カ村連記)

    御普請方役所

                                (千川文書)

江戸時代の農民にとつて、わけても武蔵野台地上の農民にとつて水の問題は深酷であつた。僅かの天水を求めて猫の額ほどの水田を耕しているのである。この故にひそかに水口を明け盗水する者はあとをたたなかつた。上水堀筋に設けられた水番人(石神井村と長崎村に水番小屋がおかれた)の報告にも盗水を訴えるものが多く見られる。次の文書はその詫状である。

<資料文>

     一札之事

一、此度渇水ニ付、田場懸水無<漢文>レ之、千川堀少々芝を以て畑畦<外字 alt="え">〓洩水致候段、御差当ニ預り何様申訳も無<漢文>レ之、以来ハ右様之儀無之様急度相勤可<漢文>レ申候。依之御詑一札差上申処仍而如<漢文>レ件。

                                 上石神井村

  天保十亥年七月                          覚右衛門㊞

                                 同村年寄

                                   金左衛門㊞

    千川善蔵殿

                                      (千川文書)

千川上水は、天明元年(一七八一)に再度江戸の一部へ給水を開始したが、同六年にはこれも廃止された。

<資料文>

当時天明六年九月駒込の千川上水を再興し給いて本郷ゟ下谷浅草に至るまで、地中に竹樋を通し其道路に新に井戸を拵へ、年々役金上納に及けるは、是も事行われず停止に及けり。此上水遠き所ゟ来るゆえ水の至り兼る所も有て、徒に新井戸をもうけたるばかりにて水役金上納せしかば迷惑に及ぶ者も多しといえり。(曳尾庵随筆)

この時より、秋の彼岸より翌年三月までの田方用水として使用しない冬の間の取入樋口閉鎖を命ぜられたが、上水沿いの村々では、このため飲料水に差支えることとなり、天保二年(一八一九)御普請方役所へ願いでて、冬期の呑水使用を許され、呑水料として永七五〇文を上納することになつた。

画像を表示 <資料文>

       覚

一、永七百五拾文

    此金三歩

右者玉川御上水分水千川口、冬分呑水料、当寅年分上納仕候。

                           以上

  安政元寅年十二月十日

      武州新座郡上保谷新田

             名主 伊左衛門㊞

  御普請方御役所

                       (千川文書)

今日、千川家に伝えられる千川上水関係の文書、記録の多くは、水をめぐつての組合村の苦斗を物語つている。このことは、合法的には、分水口を拡げるための根気よい歎願であり、非合法的には、盗水となつてあらわれている。さらに消極的には、不作を理由とする水料米の不納、滞納等の動きともなつて

いる。

幕府の政策と共に、盛衰をくりかえしてきた千川上水の歴史は、この水によつて生活を支えられていた組合村々の側から見れば、その政策の一つ一つが自分たちの生活をゆすぶるほどの意味をもつており、千川灌漑史の明暗につながつているものであつた。

<節>
四 幕末の千川上水
<本文>

幕末の千川上水について若干ふれてみよう。徳川幕府は、国防上の必要から元治元年の始め、滝野川村地内(現在の北区滝野川町)へ大砲鋳造のための反射炉並びに錐台水車(砲身に螺線をつける装置)を設置する計画をたてた。この水車運転のため、千川上水が引入れられることになつたが、千川上水は、江戸城西丸御用のもので、差支えるというのでなかなか決定をみなかつたが、「江戸近郊に於ては此処を措いては決して他にない」と主張した小栗上野介等の意見が通つて遂に決定した。十一月に伊豆韮山の反射炉を廃止して、滝野川村に運ばせ、地ならし普請が始められた。

さて、翌年の慶応元年八月には、水車運転のため、千川上水の水行工事が行われることになつて、千川善蔵、同平吉の両人が請負うことになつた。

<資料文>

乍<漢文>レ恐以<漢文>二書付<漢文>一奉<漢文>二願上<漢文>一

一、野間越中守様知行所武州豊嶋郡滝野川村名主十左衛門外三人之者、并同州同郡下練馬村千川善蔵、江戸霊厳橋受負地利兵衛

地借千川平吉右之者奉<漢文>二申上<漢文>一候。今般当村地内<外字 alt="え">〓反射炉并錐台水車千川堀水行を以御取建ニ付、右先年御上水相懸候所、右堀之分御普請被<漢文>二仰付<漢文>一候義ハ当村ハ地元之義、千川善蔵、平吉両人之義ハ先祖起立被<漢文>二仰付<漢文>一候義御届候間、前書名前之者ニ而御普請御受負仕立方被<漢文>二仰付<漢文>一候様奉願上候。然ル上ハ出精仕如何ケ様ニ茂御差図を奉<漢文>レ請御仕立方可<漢文>レ仕候間、右願之通被<漢文>二仰付<漢文>一被<漢文>二成下置<漢文>一候者、一同難<漢文>レ有奉<漢文>レ存候。何卒格別之以<漢文>二御慈悲願<漢文>一之通御聞済被<漢文>二成下置<漢文>一候様、編ニ奉<漢文>二願上<漢文>一候。

                       野間越中守知行所

 慶応元丑年八月                 武州豊嶋郡

                           滝野川村 名主  十左衛門

                           同    年寄  弥惣次

                           同        源左衛門

                           同    百姓代 金次郎

                            木村薫平御代官所

                               武州豊嶋郡下練馬村

                                    千川善蔵

                               霊厳橋受負地利兵衛地借

                                    千川平吉

 御普請御掛

   御役人衆中様

                                      (千川文書)

右の通り、慶応元年八月工事請負を願いでて九月上旬許され工事を始めた。始めは十月晦日までに完工する予定だつたのが、遅れて十二月二十七日に竣工した。翌慶応二年の正月功により千川水路見廻取締役を命ぜられ、特に水路見廻りの節は野羽織着用と御用提灯を許された。

<資料文>

     差上申一札之事

一、武州豊嶋郡滝野川村<外字 alt="え">〓御取建ニ相成候錐台水車<外字 alt="え">〓千川用水御懸渡相成候処、右上水之儀者千川善蔵、千川平吉先祖開発の由緒茂御座候間、此度玉川上水分水口同国多摩郡上保谷新田ゟ滝野川迄水路組合弐拾ケ村田方用水掛樋ハ勿論都而水路取締方見廻り被<漢文>二仰付<漢文>一候間、右掛樋并水路所々<外字 alt="え">〓懸渡有<漢文>レ之候橋七箇所之儀、是迄之通為<漢文>二冥加<漢文>一□□自分入用を以普請可仕、且十左衛門儀ハ滝野川村新規堀割之水路是亦不取締之儀無<漢文>レ之様、時々見廻心附方被<漢文>二仰付<漢文>一、右見廻り之節ニ限三人ハ野羽織着用且御用提灯御下ゲ渡相成候間、御権威ケ間敷儀無<漢文>レ之様可<漢文>レ仕旨被<漢文>二仰渡<漢文>一一同承知奉<漢文>レ畏候。仍連印御証文差上申処如<漢文>レ

                            木村薫平代官所

                              武州豊嶋郡下練馬村

                                   千川善蔵

 慶応二寅年正月十八日

                              霊厳橋受負地利兵衛地借

                                   千川平吉

                            野田越中守知行所

                              武州豊嶋郡滝野川村

                                 名主 十左衛門

                                 年寄 弥惣次

 御普請御懸り                          年寄 源左衛門

   御役人衆中様                           百姓代 金次郎

                                         (千川文書)

慶応三年十月、慶喜大政を奉還し、徳川幕府は瓦解して千川上水は御普請方役所から民政裁判所へその管理が移つた。千川両家は、前々からの由緒を申上げて、千川見廻役の継続を願い、慶応四年の六月許された。

<資料文>

      乍<漢文>レ恐以<漢文>二書付<漢文>一奉<漢文>二願上<漢文>一

一、当御役所様当場所御懸りニ相成、千川水行御取用被<漢文>レ為<漢文>レ遊御座候儀ニ御座候ニ付、猶又千川堀筋之義ハ私共久来勤来候義ニ御座候間、格別之以<漢文>二御仁恵<漢文>一是迄之通千川堀筋見廻り方御用万端出精奉<漢文>二相勤度<漢文>一、且是迄通上納方并自普請之場所組合村々御田地養水行等迄先祖仕来之通被<漢文>二仰付<漢文>一度奉<漢文>二願上<漢文>一候。何卒格別之以<漢文>二御憐愍<漢文>一右之趣御聞済被<漢文>二成下置<漢文>一候ハ私共両人ハ勿論村々一同冥加至極難<漢文>レ有仕合奉<漢文>レ存候。 以上

   慶応辰四年六月

                                     千川善蔵

                                     千川平吉

   民政御裁判所

     御役人衆中様

                                         (千川文書)

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明治三年三月二十七日に上水見廻役千川両人は、羽村土木司役所へ呼び出された。今度、玉川上水よりの千川分水口を廃止して砂川村地内より分水することに決定された。ついては、新井筋を堀立てる費用を負担せよというのである。組合村々は、これまでさえも用水不足のため、田畑仕付に難渋したのに砂川地内から分水することになれば、いよいよ水勢弱り組合村は困難するので、是非とも在来の場所にすえおかれるよう願いでたが、土木司役所の「御一新に付、御規則御建直シニ相成リ候事故、在来居置ニハ不<漢文>二相成<漢文>一候」という返答で歎願はいれられなかつた。

この新井筋堀立諸入費九拾両余の負担を組合村に命じられたが、組合村々は「両三年引続凶作ニ付、一同極難渋仕居候ニ付」千川両人より品川県役所へ上納した。後にこの砂川村よりの引水は結局水勢不足のためもとの上保谷新田の取入口にもどされた。

明治五年、八代裕保のとき、今迄徳兵衛家、太兵衛家の子孫が勤めてきた上水見廻役を、徳兵衛の子孫が一人で勤めることになつた。

明治十三年には、岩崎彌太郎が発起人となつて千川水道会社が設立されて、本郷、小石川、下谷、神田方面に給水したが、翌年には、東京府より千川水道取締禁令が発せられ、同十九年十二月護岸・橋梁の修理・浚渫・収支予算金銭の出納は東京府が扱うことになつた。

明治二十八年、会計法の施行とともに、東京府においては管理できなくなり、以後、郡制廃止に至るまで、豊多摩・豊島両郡長が一年交替で管理にあたつた。大正十五年、郡制廃止後は東京府板橋土木出張所、東京府第二河川出張所の管理をへて、昭和十八年九月一日、東京府板橋区長に管理が命ぜられるなど幾変遷を重ねて、今日東京都知事の

管理下にある。

昭和十三年の水利権者は、内閣印刷局、陸軍火工廠、岩崎家(六義園)、王子製紙株式会社、上井草、中村町、練馬町等であつた。現在の水利権者としては、都水道局、大蔵省印刷局抄紙部、王子製紙株式会社などである。久しい間、農村地帯への灌漑用水として利用された千川上水も、今日ではその大部分が閉鎖され、前記の地域に使用された流末は、石神井川に放流されている。

練馬区においても、昭和二十七年より暗渠工事が始められ、中村町まで工事が進んでいる。本区の南端を貫流してその二六〇年の歩みとともに、区民に親しまれてき千川上水が、都市化の進展にともなつて地下に埋没せられ、区内から姿を消す日もそう遠いことではあるまい。

昭和二十六年二月、都議会に提出された「千川上水に対し速やかに暗渠工事を実施せられると共に下水管併設賜わりたし」という請願書は、次のようにその理由をあげている。

<資料文>

練馬区の管内は上水敷設当初の素堀のままに放置され、長年にわたつて区住民は市街発展を阻止され居るばかりでなく、降雨期に沿道家屋は毎々溢水の災害を蒙る外、幼児の水死等悲惨を惹起する等、区政遂行上まことに支障尠からず、区勢の発展を著しく阻害している実情であります。

千川上水の限りない恩恵に浴してきた当区が、今日区勢の発展を阻害するものとして、地下に葬らんとしていることは、いかに歴史の移り変りとはいえ感慨無量である。

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<章>

練馬の道

<本文>

「人間は社会的動物である」と喝破した古代ギリシアの哲学者アリストテレスの言葉を、私たちは想起しよう。すべて人間は孤独の生活を営むことはできず、相集つて社会を構成し、共同生活を営む本能的性格をもつている。原始社会の血縁を単位とする部落から、歴史の歩みとともに人間は、その社会生活の場を、村落・都市・国家へと次第に拡大していつた。人間の欲求が限りなく増大し、文化が向上するにつれて、次第に他の地域との交通が行われ、互に有無相通じて欲求の充足をはかるようになつたと考えられる。原始社会において、部落民たちが山野の狩に、河川や海浜の漁に、あるいは他の部落との物々交換に往来する自然の小道を想定してみても、交通は人間の発生とともに始まるものと考えられ、その起源は悠久の昔に求めえられよう。すでに人間は、西暦紀元前後、天山北路・天山南路から成る「絹の道」を造り上げ、東西数千里の草原地帯を通して東洋世界と西洋世界とを結ぶことに成功している。

交通が発達すると、文化は相互に交流して、著しく相方の文化の発達を促進させる。そして文化の発達はやがて交通の発達をうながすので、交通と文化の発達とは互に依存し、表裏一体の関係と循環とを有している。

社会にとつて、国家にとつて、道がどんなに重要なものであるか。すでに江戸時代中期に、武州川崎の里正田中丘隅は、「夫れ国土を人身に比して見れば、凡そ東海道は国脈にて、北陸道は督脈の如し。其外五畿、七道皆人身一体

の血脈運行するが如くにして、一息の間も止事なきに似たり。治国の通行、何事か是に比するあらん。天下長久の功路、四民万物の更易、尤国家の重器なり」(民間省要)と述べて、国にとつて道の大切なことを指摘し、これを人体における血脈にたとえている。

わが国の道に関する最古の史料としては、上代に「令」の中で、大路・中路・小路の定義がすでに散見され、以後各時代の都を中心として、各方面に道が拓かれ、政治形態の整備、経済生活の進歩とともに道もまた次第に発達した。

しかし、ここでは厖大な日本の道の歴史を述べるわけではない。わが練馬区の道の歴史――それも現代の都市計画に基く放射線第何号道路・環状線第何号道路の歴史ではない。私たちの一時代前の道路、というよりは道、わが練馬が近代の装いを迎える以前の道、つまり江戸時代から明治中期頃に至る時期の、練馬を通つていたあの道この道を復原して散歩してみようという試みである。

わが練馬の古代・中世の時期に、どのような道が練馬を貰いていたかは拠るべき史料もなく、想像の域を一歩もでることができない。今日区内のそちこちで、鎌倉街道がここを通つていたという旧家や古老の伝説を仄聞するが、確証づけることができないのは残念である。しかし、「すべての道はローマに通ず」といわれたローマの故事を引用するまでもなく、偉大な政治家は政権を掌握すると、必ずその居城を中心として、勢力圏内の四方に道路を拓いたものである。従つて頼朝の鎌倉開幕以後、この時代に、他地方から鎌倉に向つて集まる多くのいわゆる鎌倉街道の中の幾

つかが、或いはこの練馬のどこかを貫いていたかも知れないし、若しそれが事実であつたならば、「いざ鎌倉」の応急時には、兵車千乗が、その練馬の道を鎌倉に向つて疾駆していつたことであつたろう。関東地方では鎌倉に接近するほど、今も鎌倉街道の名を残すものが少なくない。

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中世の練馬の道は、今日全く曖昧模湖として復原すらできえないが、ただ僅かに、西大泉の四面塔稲荷裏の道端の道の神を祀つた塚から、中世の鏡の遺物が出土しているところから、この片山方面へ通ずる道が、何等かの意味で、中世的な道だと考えるに難くない程度である。

徳川家康が天下の実権を握り、慶長八年(一六〇三)江戸に幕府を開くと、江戸は政治の中心とともに交通の枢軸ともなつて、国内の交通は著しく整備された。もとより江戸時代に交通が発達したのは、幕政が平和的施設に主力を注いだこともさることながら、「泰平さ刀は鞘に槍袋」の泰平の世が久しく続いたからである。戦国百年の非生産的な戦費の大部分が生産費に転嫁されたので、商工業は活気を呈し、都市は殷賑となり、勢い往来も繁くなつて空前の発達をきたしたわけである。覇府の存する新興都市江戸、天下の台所と称された大阪、旧都として諸宗の本山や名所旧蹟も多い京都の、単に三都間における交通が発達したのみでなく、全国各地における交通もまた繁く行われるようになつた。「四民ともに行旅の事は、故なくしてす

ることなき物也。士は君命に随つて旅行し、農工商はそれぞれ家職の為、或は菩提に信を行じて、国々を順礼、修行する有り」(民間省要)と述べた田中丘隅の言を俟つまでもなく、武士階級の參覲交代、近江商人・富山売薬人の全国行商をはじめ、庶民の神社・仏閣の巡礼に至るまで、この時代の交通は空前の活気を呈した。

当地方のこの時代の旧家の文書の中にも、たとえば小竹町篠氏の祖先のように、「伊勢西国道中記」や「湯殿山道」や、あるいは北町一丁目大木寛氏の祖先金兵衛氏の「信州善光寺参詣道中日記帳」等、克明に書かれた参礼旅日記類の記録の存在も少なくない。

全国の道は、幕府の努力と江戸の発達に伴つて次第に整備されていつた。寛永十二年(一六三五)の武家諸法度の中に、「道路、駅馬、舟梁等無断絶、不可令致往還之停滞事」とあつて、江戸幕府の道路交通政策に対する態度をうかがうことができる。

江戸時代における主要な交通路は、江戸を枢軸として五つの幹線があつた。これを五街道とよんだが、「書留」には次のように記載してある。

  東海道  品川より守口迄 佐屋路共

  中山道  板橋より守山迄 美濃路共

  日光道中 千住より鉢石迄 例幣使道壬生道、並御成道其外水戸佐倉道共

  甲州道中 内藤新宿より下諏訪迄

奥州道中 白沢より白川迄

これ等はいずれも江戸日本橋を起点とし、第一の宿駅を、品川(東海道)・千住(日光・奥州道中)・板橋(中山道)・高井戸(甲州道中)に置いた。これ等は幕府の利便を主な目的として開かれたものであるから、幕府の所在地である江戸から、幕府に関係深いところに向つていた。

これ等の五街道の幹線に対して、数多の支線があつた。それ等を脇街道または脇往還と称した。五街道ほどの重要さはないにしても、中には特に往来の繁く行われたものもあり、地方庶民にとつては五街道よりもむしろ深い関係をもつた存在であつたろう。当地方には五街道の経過は無いが、脇往還の幾つかがよぎつていた。青梅・川越・大山・清戸・所沢等の諸道であり、その他、二三の道も大いに利用されていたようである。

当練馬地方の道の発達と活用も、また江戸時代にその初めを求めるのが当をえていよう。幕政の中心江戸の発展と殷賑とが、次第に西郊に当るこの地方を開発させていき、近郊農村を形造つていく過程だからである。

しかしなお、当時は江戸へ三里とはいいながら、今日の私たちには想像すらできえない一面の武蔵野であつた。躍進著しい練馬は、今日ではかなり北西隅へ入らない限り、武蔵野の昔の面影を求めることはできなくなつてしまつたが、明治・大正年間にはなおいたるところ江戸時代の姿を残していたことが、大町桂月の随筆によつてうかがわれる。いま少しくそれを引用して往時を偲ぼう。

<資料文>

路の幅ひろく両側に木立つづくことは、東京の西郊の特色也。甲州街道や、青梅街道や、その長さ数里にわたりて、絶えず。夏

は清陰あれど、冬は陰気也、雨後、路甚しく悪し、ゆけどゆけど、森の中、旅人あきはつべし。武蔵野は、風当りのつよき処、農家すべて、風よけに森林を帯ぶ。どこでも、社寺は、森林を帯ぶるものなるが、武蔵野には、遠望して、社寺かと思はるるまでに、森林を帯ぶる農家多し。武蔵野、今や、野にあらずして、一面の広大なる雑木林也。農民すべて荷車を有するを以て、村道も、よその国道と見まがふばかりに広し。(東京遊行記)

私たちの一時代前の武蔵野の姿を、これほど端的に表現した言葉があるだろうか。武蔵野の練馬――東京都と衛星都市の発展によつて、日一日とその面影を消し去つて行く武蔵野こそ、古典的な名勝を持たない東京人の歴史のふるさとであろう。といつたところで特別なものがあるわけではない。広く開けた野原と、低い丘陵と、小さな流れと、そして雑木林と、雑草と、欅の大木と、それだけなのである。至つて素朴なものであり、粗野なものである。気どりもなければ、整いもない。そんな武蔵野のそちこちを、〝練馬の道〟はよぎつていたのであつた。

五街道の一つ甲州街道は、初めその首駅を高井戸に置いたが、江戸日本橋よりの行程が四里余りあり、行旅の人馬に疲労が多かつたので、元祿年間内藤新宿が設けられて当街道の首駅とされたが、間もなく享保三年(一七一八)十月、売女事件などの風紀上の問題で廃止された。しかし明和九年(一七七二)四月、首駅として再興され繁昌を極めたが、東海道の首駅品川宿などとくらべれば、「四谷新宿馬の糞」という言葉通り鄙くささは免れなかつた。その内藤新宿から青梅街道は分れるが、現在新宿に追分の名が残つているのはこの証左である。追分とは、街道の分岐点の謂である。

青梅街道は、わが練馬の南西隅上石神井村・関村(現在の関町)を横切つているに過ぎないが、この付近の住民は勿論、甲州裏街道ともよばれて、交通上重要な脇往還であつた。享保五年(一七二〇)、関村の組頭井口忠右衛門が代官会田伊右衛門に差出した「武蔵国豊島郡関村明細控帳」に、

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当村より江戸は東に当り道法日本橋まで五里半余道筋は遅野井村荻久保村天沼村馬橋村高円寺村中野村成子宿御通り内藤新宿へ出申候

とみえている。西は上保谷村・田無村を経て青梅村に達するものである。青梅村から先は間道となつて、柳沢峠・大菩薩峠を越えて、甲州塩山付近で再び甲州街道に合している。「大菩薩峠は江戸を西に距たる三十里、甲州裏街道が甲斐の国東山梨郡萩原町に入つて、その最も高く最も険しきところ、上下八里にまたがる難所がそれです」と、中里介山の長編「大菩薩峠」はこんな書出しをもつて始まるが、その小説で名高い大菩薩峠が、この関村を通る青梅街道(甲州裏街道)の彼方に存在するのは興味深い。

関という地名が、街道筋の関所と何等かの関係があるのではなかろうかという疑問は、現在のところ全く判然としない。ただ「新編武蔵風土記稿」巻十三関村の条に、 <資料文>

とみえているのみである。なおまた「正保絵図」によると、青梅街道第二の一里塚が関村にあつたとの記載がみえているが、これも不明である。

時代は降るが、明治・大正期のこの青梅街道の面影を、関町の古老井口彌兵衛氏の貴重な談話をもとにして記録しておこう。街道の幅は、今から六十五年前の道幅とほとんど変つていないが、当時は両側に江戸時代名残りの大木が立ち並んでいて、初夏の候には緑のトンネルの趣があつたといわれる。明治二十三、四年ころ、この街道に、新宿から青梅まで乗合馬車が通うようになり、土地の人々はこれをガタ馬車とよんでいたという。甲武鉄道(現在の国鉄中央線)が開通するまでは、青梅や田無・所沢方面へも通ずるこの街道は、人の往来が激しく、関町付近の街道筋には、旅人相手の飲食店などが相当に存在していた。

明治の末年、新宿から西武鉄道がこの街道に路面軽便鉄道を敷設することになり、新宿から関の交叉点(現在の石神井西小学校前、関東バス関停留所)まで鉄路を敷き、蒸気機関車の試運転も一二回試みられたが、株主が集まらず資金難で開通の見込みが立たないまましばらく放置されてあつたが、第一次世界大戦の勃発で鉄類の値が騰貴し、この乗物の通らない鉄路を回収することになり、この線路は取り払われてしまつたという。

元来、この街道は上井草村から竹下新田に入る処(現在の杉並区との区境・関町一丁目)より千川上水と交叉する地点(現在の関東バス水道端停留所付近)まで、現在の街道の一町ばかり南を流れている田用水に沿つて真直ぐに通つていたが、江戸の末期この間に宿場を設ける計画で、現在のようにくの字形に街道を曲げたが、実際には関所は実現しなかつたともいわれている。

関の交叉点から街道を一二町東へ向うと左側に、土地の古老たちがカンカン地蔵とよんでいる一基の地蔵が今でも立つている。明治の昔、いたずら盛りの少年たちは遊びにあきると、この地蔵さまの所に寄つてきて、石を持つて手のとどくお膝のあたりを叩いたという。すると、カン、カンと、何ともいえない快い音が、夕映えの空に響き渡つていつたという。

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上石神井村・下石神井村に入ると、所沢道がある。中野村の追分(現在の都電鍋屋横丁停留所付近)で青梅街道から北に分れ、中野村桃園・上沼袋村に至り、ここで東の方上落合村からくる道と合し、馬橋村・阿佐谷村・天沼村・下井草村・井荻村を経て、ここより下石神井村に入り(現在の八成橋付近)、丘陵を次第に降つて禅定院の前に至つている。ここまでは現在石神井公園駅―東京駅降車口間のバスが走つており、鋪装された道路になつている。ここから西へ上石神井村の現在の石神井小学校と石神井農業会の間を抜け、三宝寺の門前を通過し、左手に石神井川流域の低地や田圃を望みながら、富士街道を斜断し、小榑村に入つて、下保谷村から、更に所沢に達する道であ

る。「新編武蔵風土記稿」の下井草村の条に、

とみえ、同書阿佐ケ谷村の条にも、 とあり、また「石神井村誌」に、 等とみえているのは、この道である。

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練馬の道で忘れてはならないのは、大山街道(富士街道または行者街道ともよばれている)であろう。「新編武蔵風土記稿」巻之十三下練馬村の条に、「南ヘ折ルレバ相州大山道ヘノ往来ナリ」とみえるように、下練馬村(現在の北町一丁目一三〇番地)で川越街道から分岐して、下練馬村・上練馬村・谷原村・下石神井村・上石井神村・関村と、練馬のほぼ中央部を東から南西に横断すること約二里、田無・府中を経て相模国中郡伊勢原に達する街道

である。川越街道から分岐するこの街道の起点には、道しるべを兼ねた高さ二メートル余の石の不動がいまなお風雪に耐えて立つており、表面に「従是大山道」の五字が大きく刻み込まれ、左側面には「宝歴三癸酉歳八月十八日」の造立年月日も読みとられる。この街道は、その名の示すように、江戸時代中期以降、大山參りや富士參りの人々が多く利用したものであつたから、今日よりもずつと価値の高い街道であつた。

江戸の六月(陰暦)は俗に祭月まつりづきといわれて山王祭をはじめ各所の神社の祭礼が行われたが、大山參りという行事も始まつたのである。

   水の無い月に雨降る山はき      (柳多留 二九)

水の無い月は水無月すなわち六月、雨降る山は相模国中郡の雨降る山すなわち阿夫利山(俗称大山)である。この山の頂上の阿夫利神社には、太古の石剣を神体として大山祗命が祀られているのであるが、神仏混淆の当時のこととてこれを不動明王と同一体として、この社は大山不動明王石尊大権現とよばれていた。この大山参りは、六月二十八日に初山といつて山が開くと、それから七月十四日乃至十七日朝の盆山が終るまで、この間に連日参詣者が群集したのである。そしてこの石尊山詣は、ほとんどすべてが講中の団体によつて行われたのであるが、この講中に参加したのは、

   親分と連れだつて行く初の山      (柳多留 一二)

   朱を入れた彫物りきむ雨降山      (柳多留 一一九)

   大太刀へ巻き付きそうな肌を脱ぎ    (柳多留 一九)

などという川柳句でもわかるように、上り龍下り龍の倶梨迦羅紋々の文身を彫つたところの、いわゆる江戸つ子を以

て自認する競いの火消・職人・魚売のような連中ばかりで、中流以上の町人は決してこれに加わらなかつたのである。大太刀といつているのは、納太刀のことであろう。大山へ参る者は、小は七八寸より大は一丈余にも及ぶ木太刀を持参して神仏に奉納し、先に納めてあるものを頂いて帰つたもので、その木太刀には「奉納・石尊大権現」と墨書してあつた。大山詣の連中は、その出発前に講中一同揃つて両国の辺まで出向いて、大川にあつた水垢離の行場で身を浄めた。「東都歳事記」には「大山参詣の者大山に出て垢離を取後禅定す」と記されている。

   相模まで聞える程に垢離を取り     (柳多留 一八)

   千垢離に呼出しの無い中天狗      (柳樽拾遺 三)

   屋根船の唄川垢離につぶされる     (柳多留 二〇)

大川の水を浴びて垢離を取りながら、「懺悔々々、六根清浄ろつこんしようじよう大峰八大おしめにはつだい、金剛童子、大山大聖不動明王石尊大権現、大天狗小天狗」と高唱して、身心を浄める例となつていて、俗にこれを川垢離または千垢離と称したのである。そして白衣に身をかため先達を中心にして出かけた。江戸から大山への大山道者たちの往復には三つの道程があつた。江戸から東海道をとり藤沢から右へそれて山麓まで達するのと、江戸から南西へ厚木街道(現在、東京急行玉川線の走つている道路)をとるものと、それから中山道・川越街道からこの大山街道をとるものとの三通りがあつた。しかし前二者とくらべれば地理的にやや迂回の感があるので、或いは道者の利用数は前二者ほどではなかつたかもしれない。この行事は江戸時代中期から起つたもので、大山から更に富士詣を兼ねてする者が多かつたので、富士街道の名も発生したのである。これによつて、沿道の村々は夏季には非常な賑わいを呈したことは、今では一寸想像のつかないほどで

あつたろう。近代に入ると、大山参りは廃れてしまい、この街道は往時の面影をすつかりなくして、全く地方的な道路に過ぎなくなつてしまつたようである。田山花袋の随筆にこの大山街道が出てくるが、明治・大正期のこの街道とその付近が偲ばれるので引用して置こう。

<資料文>

ここを少し北に行くと、川越街道の下練馬からわかれて、上練馬を経て、田無町へと行く大きな道に出る。そこから左すると武蔵野鉄道の石神井駅に出る。右に本道を伝ふと、矢張四五町で上練馬に出る。そこに愛染院といふのがある。豊島氏の古城址のあつたところと言はれてゐる。しかし、今日ではその址をすらはつきりと指点することが出来ない。

 一体、この練馬といふところは、昔から純乎たる田舎視されたところである。実際、東京の近所で何処が一番ひらけないかと言へば、何うしてもこの付近を指さなければならなかつた。練馬は大根の出来るところのみとして東京の都人士に知られた。また牛込、小石川あたりの厠を掃除に来るものは皆その近所のものが多かつた。近いにも拘らず、非常に遠い辺陬のやうな感じを常に都の人々に与へてゐた。この付近は西郊の中でも、林と畑とが多い。地形も多摩川付近のやうに丘陵に富んでゐない。欅の木などもあるにはあるが、甲州街道あたりから比べると、余程少ない。近郊の中で一番さびしい心細い開けないところである。

 板橋から下練馬を通つて白子に行く川越街道は武蔵野を研究するものの最も閑却することの出来ないものである。私の考では、この道路と下練馬から田無に行く道路とは武蔵野の中では、里道ではあつたらうけれど、かなり古いものであらうと思はれる。薄、萱の野原であつた時分から、この道路は存在してあつたのだらうと思はれる。今ではほぼ川越街道に添つて、池袋から東上鉄道が起つて行つてゐるから追て開けて行くであらうと思はれる。(東京の近郊)

この大山街道には、その起点から練馬区を出るまでの約二里の間の両側に、不動一基・地蔵八基・康申七基・観音一基・道しるべ二基の造立物が現存している。その造立年月日が何れも江戸時代中期から末期のものであることから

しても、この道の歴史的価値の片鱗がうかがわれる。しかし現在では、東上線・西武池袋線・西武新宿線の三線に沿つて帯状に発展した市街の丁度中間の部分をほぼ東西に連ねているので、練馬の道の中でも、最も往時の面影を強く宿している道の感がある。ただわずかに北町の川越街道の分岐点付近、春日町の練馬小学校・登記所付近、石神井公園駅付近で、地域的な商店街が存在するのにすぎない。

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この大山街道と、練馬の地図の上で丁度X字形の交叉をして、南東から西へ、練馬の主要部を横断している清戸道がある。江戸時代中期から今日にいたるまで、この清戸道が練馬に尽した価値には大なるものが存している。青梅街道や後述する川越街道は、練馬の南西隅と北隅とをそれぞれ少しくかすめるのみであり、大山街道が前述のように宗教的色彩の濃い道であつたとしたならば、この清戸道こそ練馬にとつて古来無視し得ない経済上の道であつた。清戸道の重要さは二点に要約できよう。一つは、練馬の各村から江戸への最も近い道であり、二つには、練馬の主要各村を東西に連絡していたからである。道路交通上からこの価値と意義は、練馬区と 画像を表示

発展した今日にいたるといえども清戸道に関しては不滅である。

今日でも北多摩郡清瀬に清戸という地名が存するが、この道の終点はこの清戸である。ここから逆に東へたどれば、下保谷村を経て小榑村に入り、上土支田村、下石神井村と田中新田の境を過ぎ、谷原村・上練馬村から中荒井村と、下練馬村境を千川上水に沿つて江古田新田まで至り、そこで千川上水端と分れて、葛ケ谷村・下落合村を経て、町奉行支配下の雑司ケ谷村にいたり、目白坂を降りて関口水道町(現在の江戸川公園付近)で神田川の低地にでて、神田川に沿つて御曲輪内の牛込口・小石川口に至つて江戸各町へ通じていた。「新編武蔵風土記稿」巻之十三中荒井村の条に、「北ノ方練馬村堺ニ河越道中掛レリ」と記載されているのは、この清戸道のことであり、この道の終点の清戸から川越へでる間道でも存したために、川越へもでられたので、この著の筆者は河越道中という名辞をもつてしたのであろう。

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この清戸道には、別名〝おわい街道〟という有難くない名前も冠せられていた。これは練馬と江戸(やがて東京)との不可分の関係を端的に物語るものであり、練馬が、江戸から東京へのあの大都会の大発展に蔭ながらの大きな力をつくしたことを示す、むしろ誇るべき名称であつたかもしれない。

江戸の人口については、同時代の種々の書物に出てくる。しかし、何れも町奉行支配下の人数は判つても、武家の

人数が判然としないから、江戸の総人口は結局わからない。延享以後は寺社門前地の人口が加わつているから、町奉行の届書には必ず町方支配場町人惣人数何程・寺社門前町々惣人数何程と二口に分けて人数を挙げてあるが、天保十四年(一八四三)に至り、更に出稼人の一項が設けられることとなつた。この三口を合計し、一番多い時が天保十四年(一八四三)七月の五十八万七千であつた。これに約五十万を出なかつたと推定される旗本御家人及びその家族と江戸諸藩士とを合わせて、百万を出るか出ないぐらいであつたと考えられている。しかし、何れにしても近代産業勃興以前の封建社会において、人口百万を擁していた都市は、そうざらには存在すまい。〝将軍様のお膝もと〟江戸は、また厖大な一大消費都市であつた。

近世の練馬は、時期が降るにしたがつて、この消費都市江戸へ、大根その他の農産物を供給する近郊農村としての様相を次第に帯びていくのであるが、その輸送のためこの清戸道は専ら活用されていた。そして帰路には、町奉行支配下の江戸西北部(主として牛込・小石川付近)の町家や武家の下肥を汲んで、この道を戻つてきたものであろう。こうした伝統は、大正に至るまで続いていた。この「練馬区史」作成の一環として、区内各地域で、古老に集まつていただいていろいろの昔語りの座談会を何回か持つたが、石神井地区の三宝寺での座談会の折には、須田区長の名司会もあつて、往時の清戸道への回想に花が咲いた。

明治から大正にかけて、清戸道に近い練馬各村の農家は、早朝一時頃に起き、野菜類を手車に積み、京橋・浜町・本所一ツ目等の青物市へ、午前七、八時の朝市に間に合うように運んでいつた。帰りには、小石川・白山御殿町・茗荷谷・牛込付近の特約の町家から下肥を積んで帰つてきた。下肥は一軒年間五十銭から一円の金納か物納で、その他

盆や暮には農産物を贈つたという。往復路は専ら練馬―椎名町―目白坂―江戸川橋と、この清戸道によつた。

目白坂には〝立ちんぼう〟という者がいて、下肥を積んで帰る車の後押しをすることを業としていた。彼等の力を借りると、駄賃として金一銭也を支払わなければならなかつたので、無理をして独力でひいて登り、一銭を節約する者も多かつたという話である。下肥の車引きは農家の仕事の中でも最も辛いものの一つであり、六パイひいて来るのが一人前の仕事であつた。

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大正五年ころ朝鮮牛が輸入されて、この苦労も大分緩和された。また大正四年頃まではワラジを履いて行つたが、大正五年頃からゴムの地下足袋が普及して便利になつた。朝、市場へ野菜を届けると、少し待たされて正午までに金をもらえた。清戸道も現在の椎名町の地蔵さま付近からようやく町らしくなつていたが、それより練馬寄りは一面の武蔵野原であり、冬には木枯しがきびしく肌をついたという話である。清戸道も、ここ数年、すつかり昔ながらの面影を消し去つてしまつた。豊島区境から練馬区に入つて南町五丁目の十三間道路の分岐点まで、この清戸道に沿つていた千川の流れも今は暗渠となつて地下にその姿を没し、両岸に植えられた染井吉野の桜が、新小金井の名をほしいままにしたのも、もう歴史の中に入つてしまつた。

西武池袋線の踏切を渡つて向山町まで、片側が拡張されて、近い将来にこの古い道も、十三間道路の延長に呑まれようとしている。今の清戸道は向山町から道

楽橋まで真直ぐに田圃に築いた土手の上を通つているが、明治の末までは円光院(子の権現)の前を通り、現在の練馬第二小学校の脇を通つて道楽橋に出ていたということも、もう世人の記憶から薄れようとしている。

最近では、この清戸道から少し入つた所にグラント・ハイツ(駐留軍将校住宅地)や東映大泉撮影所が存在する関係上、高級乗用車の往来が激しくなり、古老たちが、若い日に朝夕に野菜や下肥を積んで往復した清戸道は、もはや想像することさえできなくなつてしまつた。ただ時折、東京都清掃本部の緑色のトラックやオート三輪が、この道にくさい臭いを放つて走つているのを見かけるとき、〝おわい街道〟の近代化を微笑ましく思うのみである。

川越街道は、練馬のごく北部を少しくかすめているにすぎない。練馬区の北部、板橋区との区境は非常に凸凹が甚しいが、それを縫うようにして走つている。この街道は、中山道の首駅板橋宿より分岐し(現在の都立北園高校付近)、大山(現在の大山銀座通り)を過ぎ、上板橋村を経て、下練馬村に入り(現在の北町一丁目六三番地)、間もなく大山街道を左に分ち、石観音の脇を通り、下練馬村の最北端を西へ、上練馬村北辺下赤塚村との境をすぎ、上赤塚村から白子村を経て、武蔵野台地を北西方に走つて、川越に至るものである。

川越は室町時代には扇谷上杉持朝の城下町として栄え、江戸時代にはいると、常に徳川家重臣の封ぜられる所として重要な城下町であり、小江戸と称される程に栄えたのであつた。江戸・川越間は約十三里、川越から更に上州や秩父地方にも連絡していたので、脇往還としても重要なものの一つに数えられていた。

「帝国地名大辞典」下巻には、秩父路として、次のような記載がみえている。「中山道下板橋。ここから秩父路分

岐」「秩父路。上板橋、下練馬、白子、膝折、大和田……」。今でも、池袋駅東口から川越街道を川越駅まで行く東武バスに乗つて行くと、大和田を過ぎ柳瀬川を渡つた付近から藤久保部落に達する間、右側に老齢の松並木が立ち並んでいて、往時の川越街道の面影が濃く残されている。

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この街道の第一の宿駅として上板橋宿が置かれ、次に下練馬村に下練馬宿、次に新座郡(埼玉県)白子宿が置かれた。「新編武蔵風土記稿」巻之十二上板橋村の条に、

<資料文>

当所ハ川越道中ノ馬次ニテ日本橋へ二里半下練馬村へ二十六町ノ継立ヲナセリ

とみえ、同書巻之十三下練馬村の条に、

<資料文>

当所ハ河越道中ノ馬次ニシテ上板橋村へ二十六丁新座郡下白子村へ一里十丁ヲ継送レリ道幅五間

等とみえている。近時まで下練馬のこの街道付近に、上宿・下宿の字名が存していたのはこの名残りであり、現北町二丁目一〇八番地大木寛氏の祖先は代々この上宿の名主であつた。またこの街道の下練馬村・上練馬村との境(現在の北町二丁目、白滝呉服店脇)には、「右、川越道。左、所沢道」と、道しるべを兼ねた庚申塔が現存している。

江戸時代には、川越は勿論、上州や西武蔵から江戸へ上下する旅人は、多くこの街道によつたので、下練馬は宿駅

として街村の形態をなしていたであろう。もちろん、東海道や中山道筋の宿場町にはくらべられないが、それでも旅人宿や休茶屋等が軒をならべて、特殊な繁栄をみせていたであろうと考えられる。今では、都市計画に基いて、池袋の五ツ又ロータリーを起点とする幅員二十四メートルの坦々たる新川越街道ができ、大山より西は、この旧街道は或る所では新道に合わされて姿を消し、或る地域では昔の名残りを留めながら、埼玉県へはいつている。

以上、青梅街道・所沢道・大山街道・清戸道・川越街道と、練馬の南西隅から順次主要な街道を俯瞰してきたが、いわゆる練馬の道は、これだけにつきるものではない。前記の道ほど重要でなかつたにしても、練馬各村を結び、或いは近隣各村をつなぎ、或いは主要街道への近道として、幾多の道が存在したであろう。いま私たちが史料や造立物、或いは古老の談話等によつて復原しえた道だけでも、三十余に上り、現練馬区地図の上に、恰も蜘蛛巣のように描き出してみることができた。それ等を一つ一つ取上げてみるべきであろうが、紙数の関係上、割愛せざるを得ないのを遺憾に思う。しかし、以下、表解式に主なものを列記しておきたい。

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△新倉道 小榑村本昭寺(現在の西大泉町)東脇から北へ、現在の大泉学園町・都民農園を通り、新座郡新倉村へ通ずる道。

△井荻道 上石神井・下石神井村境の大山街道(現在の石神井中学校東側)から南へ下り、三宝寺池の東側を経て、上石神井村・下石神井村の村境を井荻村へ通ずる道。

△関道 青梅街道の関付近(現在の石神井西小学校東側)から北東へ、上石神井村から下石神井村に入る境で、前記井荻道と交又し(現在の西武バス芸大寮前停留所付近)、所沢道に合している道。

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△引又道 上練馬村大山街道(現在、田柄町一丁目二九〇番地の地蔵尊)から北西へ、下土支田村・上土支田村から橋戸村へ入り、白子川を渡り(現在は別荘橋が架つている)、志木方面へ通ずる道。なお、この引又道と上土支田村で交又し、川越街道から清戸道へぬける道(現在の豊渓小学校前を通つている道。池袋駅西口―成増―石神井公園駅間の国際興業バスが通つている道)も、かなり古いものの一つである。

△下練馬道 上板橋村で川越街道から分岐し、下練馬村に入り、金乗院を迂回し、現在の開進第一小学校南東側を通り、南西へ下り、石神井川を渡り(現在は豊島園東脇中之橋が架つている)、練馬城址の東側を通り(豊島園駅西側)、清戸道と交又し(この交叉する処には現在でも大きなサイカチの木が立つている)、中

村の良弁塚前を通つて、鷺宮福蔵院方面へ通じている道。

△新井薬師道 中荒井村の清戸道から分岐し(豊玉北五丁目。旧江古橋付近)、南東へ向い、徳田付近で江古田村へ入り、新井薬師に至つている道。現在、練馬区内では、ほぼこの道を、中野駅・伊勢丹前行の京王帝都バスが走つている。

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△埼玉道 江古田新田・下練馬村・中荒井村の三村境の清戸道(現在の江古田二又交番)で北西へ分岐し(現在の江古田商店街や開進第三小学校東側を通り)、石神井川を渡り(現在は正久保橋が架つている)、東へ大きく迂回して氷川神社の裏側を通り、前記の下練馬道と交又し(開進第一小学校正門付近)、更に北西進して大山街道と交又し、下練馬・上練馬の村境を北へ、川越街道を横断し、下赤塚村へ入り、更に松月院前から荒川早瀬の渡しに通じている道。

これ等の他、一々の解説を省いたが、次のような諸道があつた。

吉祥寺道・新宿道・堀之内道・片山道(野寺道)・膝折道・牛旁道・三宝寺道・東高野山道・四谷道・子の権現道

・上高田道・千川上水筋・南蔵院道・大谷道・戸田渡道・早瀬道(徳丸道)・王子道・板橋西道・田柄道等があつた。

日進月歩の大発展をとげる練馬区は、次第にその古い姿を歴史の中に消し去つていく。昔ながらの静けさのこもる雑木林の隣に近代的な四階建の鉄筋アパートが出現し、傍らの狭い道を色と型のバラエティーを展開しながら走り去る自動車の流れとともに、練馬の発展はリズミカルである。

しかし、通勤通学の道すがらに、商店街への買物の往復に、日曜日の散策の時折に、私たちは注意して道端をふりかえつてみよう。地蔵が、庚申が、馬頭観音が、不動が、道しるべが、江戸時代からの風雪に耐えて立つているのに、必ず気がつくにちがいない。躍進著しい新しい練馬のそちこちに、存外こんな古いものがさりげなく同居している。

私たちは、そのような道端の造立物を通して、古き練馬の道を想定してみよう。私たちの郷土の祖先が、何年か前に喜怒哀楽を胸に秘めて通つたあの道この道を、現代の私たちも歩いていることに気がついたとき―道は鋪装され、履物は変遷しても、きつと私たちの胸にゆかしい感懐が湧いてくるにちがいない。

しかし、都市計画に基く鋪装道路の新設・拡張は、もう間もなくわが練馬区からも、そのような由緒ある道を、寸断し、取り払つていくであろう。しかし私たちは、練馬の、東京の発展のためにそれを喜ぼう。或る意味で、この稿は、古き練馬の道の挽歌であるかもしれない。

<章>

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練馬区新旧地名字名表
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