練馬区史

<通史前書> <編 type="front">

練馬区史

<部 type="kuchie">

弘法大師御霊験記

<本文>

三宝寺什物のうちに「弘法大師御霊験記」と題した箱入折本一冊がある。この図はその折本の巻頭三折にわたる挿画である。その霊験記は「大師豆由来記」「弘法大師の御化身に値偶霊験之事」「和歌十三首」の三部に分れているが、その奥書によれば、鳥井徳之というものが、安政六年十月にこれを誌して後、三宝寺に奉納したものらしい。内容は、彼が妻の病気快復を喜んで御府内の八十八ヶ所巡礼を思立ち、安政六年九月十五日に谷原山長命寺を経て三宝寺に参詣した際、途中道連れになつた老人に案内されて山林を通り深い溝を飛越え大根畑のふちを通り、三宝寺池内の弁天堂に参詣したが、その後二十三日、翌十月十四日と再三同寺へ来て地形を確め、十五日に経験した道が全然現実と異ることを知り、十五日の出来事が霊験であつたと判断したことを述べているもので、その説明の附図としてこの図を添えている。図の朱引の箇所は十五日に通った道順を示している。安政ごろの三宝寺境内のおおよそを知ることができよう。 (縦二七・四糎 横五一・六糎)

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板絵着色役者絵

<本文>

長命寺に伝わるこの役者絵は、文化十一年六月、江戸中村座の興行「双蝶々曲輪日記ふたつちようちようくるわにつき」の二段目「相撲の花扇に異見の親骨」の一場面を描写したもので、画面の右は、三津五郎の演ずる濡髪長五郎、左は三代目歌右衛門の放駒長吉、筆者は、鳥居清長であり、彼の晩年の傑作である。画面の上段に横に「大願成就」とある。さらに向つて右に「江戸花川戸 中村座判元 村山源兵衛」とあつたというが今は全く判読できない。演劇資料としても価値が高く、清長の筆としても記録すべきものであるので昭和二十七年十一月三日都重宝に指定された。因みに長命寺は演芸関係者の信仰の厚かつた寺である。

                   (縦一五一糎 横一六六糎)

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<本文>

環境は人間の生活を支配すると同時に、人間は環境を克服しつつ進歩するものといわれている。

この環境に時の経過を加えたものを人々は歴史と呼んでいるが、我々の置かれている行政環境の練馬区にも、区制施行以来十年の歴史がつくられた。

しかし、練馬区の歴史は十年であつても、「ねりま」の歴史は悠久のむかしにさかのぼることができる。

先人啓発の中に育くまれた我々は、ふるきをたずね、新らしきを知つて、さらに文化を創造し、これを後代に引き渡すべき責務を負つているのであるから、練馬区史の編さんは、現代のねりまに生きる我々の義務ともいえるのである。

思うに、過去幾度となく、識者によつて、区史を編さんせよとの声があつたが、戦争によつて荒廃した国土の復興と、新制度に対応すべき戦後経営は、焦眉の急を告げていたゆえに、顧りみられずにおわつていた。

だが、急昇を続けていた物価は昭和二十八年に全く頭打ちとなり、翌昭和二十九年には人心の安

定、みるべきものがあつて、この機をとらえた区議会が練馬区史編さんの議を可決確定されたということは議員各位の良識もさることながら、「天の時」がここに定まつたということができるのである。

さらに、戦災によつて全滅に瀕した都心区においては、古い記録を訊ね求めることなど至難の業であろうが、物的被害の僅少な本区にあつては散逸を憂えられていた古文書が、由緒ある家々の中から集められて千点を超えるに至つた。これ「地の利」にめぐまれたゆえんといえよう。

また区議会が、区史編さんを決定すると同時に、初代の区史編さん委員が選任され、各員熱情を傾注して研究されたが、その成果を受けた現委員各位は、綿密な調査と審議により、編さんの大綱について答申され、その結果にもとずき、早稲田大学考古学教室に編さんを委嘱することとした。

ここにおいて主任教授滝口宏先生が中心となられて斯界の権威と新進をすぐり、昭和三十一年四月より事業を推進することとなつたのである。

執筆者ならびに関係各位は、炎熱九十度のねりま野をかけ廻り、秋燈に古文書をひもといて夜を徹し、酷寒に筆を温めて書きすすめること六百余日、心身困憊の余りに病床に伏しながら、補筆、校正に苦吟された先生もあつて、各位の熱意と、学問的良心に畏敬の念を禁じ得ないものがあつた。

この間、編さん委員会は回を重ねること十数度に及び、委員各位の御協力と御指導は絶大なるものがあつたことも特筆大書に値する。まことに、この区史をめぐる数多くの人々の「和」が「天の時」「地の利」とともに、渾然一体をなして、区制施行十年を記念する吉き年に、本区史を完成せしめたことは御同慶の至りであり、関係各位の御労苦に対しては改めてここに厚く御礼申上げるものである。

区史をひらき見るとき、貴重なる資料を快よく御提供下さつた諸賢の御芳志と、資料採訪に御高配賜わつた諸台の御厚情が、行間に滲み出ているのを深く感じ、衷心より感謝申上げるとともに、本区史を昨日への反省、今日の糧、さらには明日への指標として、御活用賜わらば幸甚これに過ぎるものはないことを附言して序とするしだいである。

 昭和三十二年八月一日

                   東京都練馬区長  須田  操

<部>

前言

<本文>

一、本書は、練馬区独立十周年記念事業の一環としてその上梓が計画され、区長を委員長とする区史編さん委員会において大綱が定められ、昭和三十一年五月二十六日の執筆者打合会により具体化、翌三十二年七月稿おわり印刷に付されたものである。

二、本書の文体、用語は平易を主旨とし、つとめて現代仮名づかい、当用漢字を用いることにしたが、とり扱つた対象によつては多少その制約を離れた記述をせざるを得なかつた部分もある。しかし、難読のものにはルビを付した。なお、年号については西暦を併記して理解の便を計つた。

三、本書は、いわゆる積み重ねて書架をにぎあわすものに堕することを避け、記述に当つては、史実の正確を期するとともに興趣を失わないように心がけた。

四、第三編現勢は、可能の限りの最近の資料を集めて掲載することにした。そのために印刷中の補充追加をも敢てし全きを期した。しかし、紙数が当初予定したより数百頁増加したので、割愛せざるを得なかつたものもあつた。貴重な資料を御提供願つた関係各位に心からお詫びするところである。

五、表紙見返しの絵馬は、長命寺所蔵のもので、掲載に当つて復原着色をした。寛文年中(三百年弱前)寺再建の際に奉納されたもので、武者絵の画風による興味深いものである。絵は「牛若と弁慶」作者は不詳である。

                                           (牛若 縦一二六糎 横一四七糎弁慶 縦一二六糎 横一四七糎