練馬区史 歴史編

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第一部 練馬、地と人と

<本文>

凡例

<項番>(1) この練馬区地域の地形図は、建設省国土地理院の承認を得て、同院発行の2万分の1、2万5千分の1、および5万分の1地形図を複製したものである。(承認番号)昭<数2>57関複第<数2>81号。

<項番>(2) 2万分の1、および2万5千分の1の地形図は後に掲げる土地利用別に彩色し、練馬区に包含される地域とその周辺における土地利用の様子を示すとともに、それぞれ各年代の変化を読み取りやすくした。

<項番>(3) 彩色は可能な限り地図記号に忠実に従ったが、必ずしも界線が明瞭でなく、任意に手を加えた部分もある。また学校その他一部の大規模施設は白抜きとし、敷地内に樹木等の記号のある場合には当該色を施した。寺院・神社の境内は便宜上樹林地扱いとした。

<項番>(4) 主な土地利用分類と配色

   市街地・住居地     桑畑

   水田          茶畑

   畑地・牧草地・空地   広葉樹・針葉樹・竹その他樹林地

   果樹園         荒地・その他樹木畑

第一章 環境と人の営み

第二章 土地の利用

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<章>

第一章 環境と人の営み

<本文>

関東地方は、西部と北部を二〇〇〇mを越える山岳地帯によって囲まれているばかりでなく、東部茨城県には、筑波・加波の山々があり、現利根川流域の大きく開いた低地を隔てて南部には上総・安房の山丘が連なり、さらにそれが延びて三浦半島に及ぶという丁度周囲に高い縁をもち中央のくぼんでいる盆のような形を呈している。この中央部に武蔵野台地とそれを削って流れる中小河川とその流域の平地がある。

東京都の地形は、その西の雲取山(二〇一八m)とそれに連なる一七〇〇m以上の山々がならび、荒川・多摩川がこれを水源地として東流する。この山地の東は次第に高さを減じて、狭山丘陵・多摩丘陵になる。前者は独立丘陵の形をとり、そこに都の給水源である多摩湖・狭山湖の二つの貯水池がある。丘陵の東部は武蔵野台地であり、東に向って漸次高さを減じ東京都の東部で低地帯となり、隅田川・江戸川を隔てて下総台地に相対する。

東京の中心部は、武蔵野台地に極まる台端から江戸時代前期に埋立てた海浜低地帯にかけて(千代田・港・中央の各区)であり、これを中心に範囲をひろげて旧一五区が配され、さらに周辺地区をとりいれて現二三区が置かれている。

練馬区は、その北西部を占め、大きさでは世田谷区、足立区、大田区についで第四位。東西約九km、南北約四・六kmの横長方形で、面積四七km2、二三区総面積五九一・九四km2に対して約七・九%にあたる。その経緯度は図2の通りであり、区役所の位置は、東経一三九度三九分二〇秒、北緯三五度四四分〇秒である。

台地の高さは西から東に向けていくらか低くなる程度で、石神井川はじめこの地形に沿って東流している。区内で最高の

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地域は区の西端、関町四丁目付近で五七・八九m、最低は東端の氷川台二丁目付近で二六・九六mの高さである。

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石神井川は、本区を縦貫する主要な川で、小平・田無付近の水を集めて東流し、東伏見の早大グラウンド脇で本区に入り富士見池となり下石神井で三宝寺池の小流を合せ、さらに区内を東に流れ、田柄川を合せ板橋区に入り、王子を経て隅田川に注ぐ。舟運の便には乏しい川であるが既に萬をもって数える昔、石器時代の人びとはこの川の岸に水を求め獲ものを追って漂泊の生活をしていた。川は、平常は沿岸のすべての生物の命の根源となるのに、あるときは激しく怒り狂い削りすべてに挑戦するかのように洗い流してやまない。石神井川ほどの中級の川でも沿岸に及ぼした利

害には大きなものがあり、しかもそれは原始から近世近代を通じ、考えようによっては現代にまで及んでいる。

白子川は、大泉の井頭いがしら池を源として本区の北西部を西から北東に流れ埼玉県南部を経て荒川の分流である新河岸川に注ぐ。区内の流路は、南大泉から旭町に至る五七七五mで、区境付近は左岸に崖が迫り、水量も比較的多く、古くから水車を動かすなど風趣のある川であった。

この二つの川に、田柄川、中新井川(江古田川ともいい、妙正寺川の支流である)などが本区の主な川であるが、いずれも武蔵野台地の湧水と天水を集め台を削り、ときに荒れ流路を変えるなどの変化を示しながら低地帯を形成し、今日に至っているものである。

武蔵野台地の特徴は、赤土と水とである。赤土は火山灰質のローム土であり、人工で台を削り取った崖にはこの赤土がいまにも崩れそうに切り立って露出している。赤土は風雨にもろく、ひと冬こせば削った崖も形がいくらか変る。この赤土(ローム層)の形成は、概ね一万年より前である。火山活動の激しい時代に火山灰が降灰と水の作用で堆積したものである。したがって火山活動の休止期にはロームの顕著な堆積がなく、赤土の崖を見ると薄黒い帯状の層が通常二条ほど見られる。こうした時期は生物が活動したので、そこに人が居れば当然その痕跡を残す。石を集めて呪的な祈りを捧げたとも思われる遺跡、彼らの使った石器など、それらが赤土の層の中に残る。これが先土器文化であり、少なくとも一万年を越す時代の人びとの生活の跡である(練馬にはこの先土器時代からの人の生活の跡がみられる)。

ローム土の堆積は水にもろい。試みに赤土を箱につめ、上を叩いて平らにして、それにジョーロで水を万遍なくまくと、やがて平らな面に曲折した形で線状に水の流れができ、その部分が段々削られてはっきりした水路になる。武蔵野の台地と谷の作られていった状態は、まさにそれである。

こうして川の流路に添って谷が複雑な形で入り組み支谷ができていっそう複雑さを増し武蔵野が形成されたが、この削られた谷はローム層の下の粘土、砂利の層にまで達し、その層に水をふくむことが多いので、それが露頭になると武蔵野特有

の湧き水になる。この湧水はかなり多く各所にあったが、それらの中で量も多く条件の良い場所は池沼になった。区内では石神井の三宝寺池、関の富士見池、大泉の井頭池などがそれであり、ほかにも中小の湧水による池沼が散在していた。

三宝寺池は、面積約二万四二六八㎡、水深二・七m、湧水量が多く池の中央には浮島状になった植物の堆積土があり、天然記念物に指定された貴重な植物を含めて多くの沼沢植物が群生しているが、最近は湧水量が減り、加えてやむを得ぬことであるが池の護岸工事をしたために湿地帯がなくなり、コマツカサススキ・コムラサキ・サワギキョウなどがこの場所では見られなくなり、ヌマガヤなども影をひそめてしまったのは残念である(中の島ではまだ見られる)。水生植物のこの池の特産シャクジイタヌキモは絶滅したようであり他にも影響を受けて減ったものがあるが(ミツガシワ・ヒルムシロなど)全般には良く管理されているといえる(「豊島・板橋および練馬の景観」)。

三宝寺池の南の台地には豊島氏によって石神井城が築かれたが、文明九年(一四七七)太田道灌に攻められて落城した。城の土塁・空濠がいまなお残り昔をしのばせている。池の名は真言宗智山派の名刹三宝寺に由来する。

三宝寺池の東の狭長な低湿地を利用して石神井池がつくられている。ここはボート・釣など都民のレクリエーション場として計画されたもので、三宝寺に合せ付近一帯が都の風致地区になっている。

富士見池(不二見池)は、本区の南西端、保谷市東伏見との境にある。面積二万四一三二㎡。石神井川の水源である湧水による池をそれに連なる水田の改良によって造成したもので、西寄りに島をもち周囲の景観も良く都民の散策の地になっている。昭和一三年一〇月、都が、西武鉄道株式会社と地元の寄付を受けて開園し、武蔵関公園と呼んでいる。

区内には、このほか大泉に公園として保護されている井頭池をはじめ中小多くの湧水池があるが、環境の変化によりその姿を変え或いは消滅したものもある。

本区の景観は、以上述べたように武蔵野台地特有の台地とこれを開析する谷地、そこに流れる川、湧水による池沼、さらにそれに伴う樹林帯で構成されていた。この水の影響は大きいものであった。一万年を越す年代の先土器時代の人びとも、

水と緑に恵まれたこの地に住んでいた。その後の縄文の時代にも人がこの地で生活し、その遺跡を今日に多く残している。本区で埋蔵されている遺跡の数は先土器から奈良平安に至る間のもので百か所を越えているが、大規模なものは少ないし貝塚は造られていない。これは生活規模があまり大型にならなかったことを意味している。

やがて弥生末に、この水と緑(樹林)が弥生集落の原動力となり、その遺跡を区内各所に残したが、奈良平安時代に至って台上の開墾もいくらかは進んだのであろう、集落は少しずつ拡張され、中央の政治組織に組み込まれて武蔵国豊島郡の一部になったものと思われる。豊島郡内での本区地域がどのごうに当るかについては意見が一致しないが広岡郷ではないかともいわれている。

中世近世近代を通じての本区地域の人の居住の形態、行政組織については別稿に譲り、明治以降になって土地の利用がどのように移り変ってきたかを巻頭の地図を使って次章で述べることにする。

注:本区の人口動態については、『現勢資料編』一五七ページ以降を参照されたい。

<章>

第二章 土地の利用

<本文>

本区地域は、江戸・東京と続く大消費地近郊の農業生産を主とした土地であり、特色のある蔬菜園芸作物を中心とする農業形態がみられてきた。ただ、水田については、わずかに石神井川・白子川・田柄川・中新井川流域やその後背地であるかつての氾濫原の一部が利用されてきたのにすぎなかった。

しかし、それさえ戦後における高度経済成長にともなう都市化の外延的拡大が進行し、最後まで残されていた白子川流域の水田も、昭和四三年の埋立てでほとんど姿を消してしまった。練馬区の独立した三年後の昭和二五年、水田面積は、一万一五九二aであったが五五年にはわずかに四四aに激減している。

一方、畑地面積も都心に近い南東部から急速に地目が転換され、二五年に一九万七四九八aあった畑地が、五五年には三万七一四〇aに減少している。これは二五年の畑地面積の一八・八%にしかすぎない(以上『世界農林業センサス』各年二月一日現在)。

栽培される作物も、かつての練馬大根は影をひそめ、根菜類に代って葉茎菜類であるキャベツ(栽培面積二万五四六五a)を筆頭に、草花・芝(栽培面積一万七〇七三a)などが区内畑作生産の主流を占めている(前掲書昭和五五年)。

次に掲げる図は、明治から今日に至る練馬区域の地目別土地面積構成図である。資料が異なるので同一面積を統一できなかったが、その年代による推移を知ることができよう。

1 明治中期では、田畑が過半を占め山林その他がこれに次ぐ純農村の姿を示している。

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2 昭和初期では、畑地がさらに拡張されているがこれは山林その他を開いて耕作地にしたもので、宅地の増はあるがまだ大きくはない。宅地が急速に増えるのは関東大震災後の東京の人口移動によるものであるが、本区では東南部にそれが顕著になる。

3 戦後の昭和二五年では、宅地は約二一%に増えているが、農地も七三%で、依然農業地として都心部への重要な農産物供給地であることを示している。戦争末期から戦後の社会的混迷期には食糧確保のために非農家は異常の苦労をした時代である。しかも戦後処理の一つとして農地法が制定され創設農家などの措置がとられたのが、この表から続みとられる(

字は『東京都統計書』)。

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4 三〇年以降の分は『練馬区統計書』により、数値は固定資産税対象面積(練馬都税事務所)によったものである(公共用地は含んでいない)。これによると宅地化はいくらかずつ速度を早め三〇%に近くなり、それだけ、農地の占める割合も減少してきた姿をみることができる。

5 高度成長期を迎えた三五年からは、都市化が急速に進み、畑地の転換が多くなった。その傾向はほぼ本区の全域で見られるようになるが、これは道路の整備、車両の増加などにより距離感覚が縮少したことにもよる。

6・7 昭和四五年には、完全に農地面積と宅地面積の占める割

合が逆転している。しかもなお、その勢いは急で、表の上では水田が消滅し山林も開拓され、昭和五五年には七五%が宅地になっている。ただ、この傾向は、減速経済の低成長期を迎えたため、五一年ごろからその速度は急速に鈍り、毎年の農地の減少幅は小さくなってきている。五六年には農地一九・四%(六万六四六四a)、宅地七六・〇%(二五万〇九九九a)と横ばいの状況である(『練馬区統計書』)。

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これを人口動態についてみると表1のように、昭和三〇年に比して三五年では人口が一・六四倍になっており、五〇年では約三倍になっている。この表で注目したいのは世帯数で、三五年にくらべて五〇年では四・五五倍にもなっている。これは一世帯当り人数が三〇年に四・五人であったものが、五〇年では三人弱にまで減ったことになる。戦後の家族構成が核家族化してきたために生じた現象で、他区を通じて一世帯二人台が多くなっている。ただしこれが一世帯一棟の家屋に居住していることを示すものではないので、棟数に比例するのではない。試みに戦前を見ると、大正九年一〇月、一四年一〇月の統計では一世帯当り平均六・二一人、六・七九人となっており、戦後も四・五人を下廻ってはいなかった。

次に土地利用の形態について、時の流れによる推移変化を陸地測量部・地理調査所・国土地理院が、それぞれ明治・大正・昭和にわたって発行した二万分の一・二万五千分の一・五万分の一の地形図を利用し、色分けを施し、

年次に従って観察しておきたい。

地形図 その1~その4

明治期における主要な生産物は、米・麦のほか大根・牛蒡・人参・茄子・甘藷の蔬菜類と繭・茶・藍・綿などの商品作物であった。水稲は陸稲にくらべて少なく、白子川・石神井川・田柄川・中新井川流域にみられる程度である。

現練馬区に包含される中新井・上練馬・下練馬・石神井・大泉各村の明治末年以降昭和初期までの米・麦の裁培をみると、明治四二年の米(水稲・陸稲=粳米・糯米)の作付段別は、田畑合せて八四八町六反六畝であり、収穫高は一万二〇九〇石三斗であったが大正一一年には作付八一八町六反、収穫高一万〇五四八石、昭和五年には作付五八〇町八反、収穫高九九三六石で、作付面積、生産高共に漸減している。

麦(大麦・小麦・裸麦)の作付段別は、明治四二年二二七九町五反六畝、収穫高三万八三〇六石七斗、大正一一年は二六六三町二反で収穫高四万三〇一一石、昭和五年は二〇九四町二反で収穫高二万七〇六五石と、昭和初期には漸減傾向を示している。

水田が少なく台地上での耕作であるため麦が主になることは東京近郊田園の共通した特色で、冬の麦踏み、春の出穂、やがて麦秋の名にふさわしい初夏の収穫が練馬での農家の主要な作業になっていた。

養蚕は、明治一〇年ころからそれまでの茶や藍の栽培にかわって盛んになり、かなりの農家が養蚕をはじめた。しかし投機的要素が強く蔬菜類の栽培より収入が不安定であることから、練馬地区では明治二〇年以降本格的な蔬菜園芸に転換する農家が多くなった。一方、石神井・大泉地区では逆に養蚕が盛んになり、近隣他村に比類のない活況を呈した。

地形図に示すように桑園のひろがりは本区地域西部に多い。当時の東京府下における桑園栽培・養蚕の中心地域は、本区西側の北多摩郡(養蚕戸数九〇四八戸=明治四五年春季)が最も盛んで、続いて南多摩郡(八〇四七戸=同)、西多摩郡(六九五八

戸=同)と三多摩に集中している。

本区が包含される北豊島郡は三多摩に次いで多く、養蚕戸数九六八戸(明治四五年春季)を数えるが、その大半は、石神井・大泉の農家であった。『北豊島郡誌』には、この石泉地区を「養蚕の巨擘きよはく」と記している。

台上は散村形態に近い農村が点在し、欅の屋敷林に囲まれた典型的な武蔵野の農村風景が展開していた。この段階では、市街地区には全く無縁の地域であり、ある意味で、良き時代のわがふるさとがそこに在ったともいえよう。

地形図 その5~その8、その<数2>21

こうした純農村地帯の練馬に、市街地化の最初の契機をつくったのは、第一に私鉄の開通、第二に都市計画法・市街地建築法の制定であり、これに呼応した旧町村の土地整理組合と耕地整理組合の設立であった。第三は関東大震災により都心部が壊滅的打撃を受け避難転住した人びとがここに定着するようになったことである。

鉄道は、先ず大正三年五月に北縁部を走る東上鉄道(東武東上線)、翌四年四月に区内のほぼ中央を縦貫する武蔵野鉄道(西武池袋線)が開通した。さらに昭和二年四月には南西部を通る西武鉄道(西武新宿線)が開業した。これによって沿線各地の開発が進んだのであるが、大泉第一・第二耕地整理組合や石神井土地区画整理組合の沿線開発に果した役割は大きい。これらの組合は行政指導によって組織されたものではなく、地元の土地所有者が自発的に組合を設立し、自己資金によって運営したのであり、鉄道側も沿線開発に力を入れ、地元との協力によって推進されたものである(第五部第五章「鉄道の敷設と都市化」参照)。

練馬における市街地化の第二点は、大正八年の都市計画法と市街地建築法の制定である。第一次世界大戦後、わが国の資本主義の発展は、東京に産業と人口の集中をもたらせた。この東京の膨張によって、すでに近郊への人口拡散がはじまっており、毎年累進的な人口の増加が近郊地域の市街地化=東京市域への編入の必然性が醸成されていたといえる。

都市計画法における最重点は都市区域の設定による広域行政であった。従来の市町村単位の狭い行政区域の枠に拘束されることなく単一の都市計画を実施することによって有機的な計画事業が推進できる利点があった。大震災の前年大正一一年四月に東京都市計画区域が決定され、東京駅を中心とする半径四里(一六km)以内の区域が対象となった。それは東京市一五区ならびに荏原・豊多摩・北豊島・南足立・南葛飾の各郡、一市一五区五郡八二町村および北多摩郡千歳・砧の二村から構成され、東京市一五区の七倍強の面積であった。このとき練馬区の区域は、大泉・石神井両村の一部を除いて、ほぼ全域が計画区域に編入されたのであった。

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練馬における代表的事業計画は、昭

和二年八月に決定された東京都市計画道路の建設計画であった。これは東京一五区を結ぶ幹線道路の建設であり、このとき放射六号・同七号・同八号・環状七号・同八号の幹線道路のほか、一九の補助道路の建設が計画された。

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こうしたところへ、大正一二年九月一日、関東の大震災がおこり、一時に郊外への外延的拡大となったのである。殊に中央線沿いに西への市街地化が著しかったが、本区でも練馬町や中新井村は大正一四年の国勢調査では前回の九年の調査にくらべて練馬町一・八倍、中新井村二・一倍と急増し、さらにその勢いは昭

和五年の調査で練馬町二・四倍、中新井村三・六倍と大きく一〇年間に増えたことを語っている(表2・表3・図6参照)。

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地形図その<数2>21の地形図にみるように、武蔵野線沿いの江古田駅・練馬駅付近の宅地化はきわめて顕著である。武蔵高校(現大学)・音楽学校(現武蔵野音大)・海外学校(力行会)の誘致をはじめ同潤会住宅(小竹)・砲兵工廠住宅(桜台)・城南住宅(向山)などの本格的住宅地化が目立つようになってきた。

地形図その7では、震災の翌年大正一三年に着工された大泉学園都市計画の整然とした街区が見られる。箱根土地(現、国土計画)による三三〇万㎡(百万坪)の学校を中心とする都市構想であった。

市街地化には、その土地の地理的条件、道路・交通網などの人為的条件によって著しい差異がみられる。この時期で

は前述のように交通路に沿って線状に市街地が延び、駅を中心に面的に動きを示している。

農作物では、従来の米・麦・蔬菜栽培や石泉地区の養蚕に加えて、新しく観光ブドウ園が登場してくる。

大正七年に中新井村、現在の豊玉付近でデラウェア種を主体に六〇aのブドウ園を開いたのが最初といわれている。大正末ころにはその有利性が認められて周辺農家に普及し、かなりの規模にわたって栽培されるようになった。大正一四年には豊島園が観光ブドウ園の造成を計画し、昭和二年に完成している。武蔵野鉄道ではこれらの観光事業の宣伝につとめ、ブドウ狩り入園券づき往復乗車券まで発売する力の入れようであったという。昭和七年には、池袋駅構内に売店を設けて即売するほどであった。練馬における観光農業のはじまりといえる。

しかし、こうした観光農園も、桑畑と同様に昭和一〇年代を迎えて、戦時体制下の食糧増産計画により、米・麦を中心にさつまいも・じゃがいも・ごぼう等の栽培地となり、観光農業や養蚕業は完全に衰退していった。

地形図 その9~その<数2>12、その<数2>22

戦時下の昭和一八年七月一日、東京都制が施行され、本区は「板橋区」の一部のまま、東京都の北西部を占めることになった。昭和七年一〇月一日の板橋区成立のとき、「地域広大なりと雖も当分の内特に合して一区となす」と当時の東京市が東京府に内申した理由書には含みをもたせていたが、一九年五月一日、練馬派出所が支所、石神井派出所を出張所にしたことによって、戦時下業務の円滑を期することになった。これは練馬独立を願う人びとにとっては数歩前進と考えられるものであった。

しかし、戦時下の生活、つづく敗戦後の生活は誰にとっても苦悩に満ちたものであった。地図はそれらを語ってくれない。戦争被害は本区にも当然のように及んでいた。空襲による被災も記録されている。しかし都中央部の被害にくらべれば地域全体としては軽い方であった。

戦後焼土と化した東京に人びとが舞い戻り再び人口集中の傾向をみせ、都は東京への転入抑制まで実施した。その中で、本区でもいくらかの図上の変化がみられるが、まだ昔の練馬の姿は図上でも保持されている。

昭和二二年八月一日、本区は独立成立した。戦後の社会的混迷、生活の不安の中で、区民にとっては大きな朗報であった。練馬区の誕生である。

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地形図 その<数2>13~その<数2>16、その<数2>23

昭和三〇年代にはじまる高度経済成長政策により、都心部への業務機能の集中が急速に進み、それにともなう労働力需要の増大により首都圏の人口は、前半は二〇km圏、後半は三〇km圏に拡がった。

本区では、この三〇年代が人口の増加と農地潰廃=宅地化・公共用地への転用が最も激しい時期であった。わけても人口増は著しく、各年一〇%の増加率を示し、人数にして年平均約二万人を超える増になっている。

一方、農地潰廃面積も三二年の一万一六八八aをピ

ークに、三三・三四両年と一万a台を示し、このころが最も激しかったことを裏付けている(図7)(『現勢編』一一六八ページ・表<数2>21―1「農地転用年次別推移」参照)。

こうした農地の転用そして農業就業者の減少(昭和二五年一万九三一三人→昭和四五年八五六〇人)に関係して農業の基本問題、都市農業のあり方が問われた時代であった。

三一年度から四〇年度にいたる経済成長率は、この一〇年間平均で九・八%の上昇を示し、欧米諸国が四~五%の成長で推移したのにくらべ驚異的な成長を果した。

しかし、このような経済繁栄のかげに、無理やひずみが生じ、四〇年代に入って暗い面が表面化しだした。公害の拡がりとその深刻化である。産業公害の頻発、モータリゼーションの進展にともない道路の混雑と騒音、排気ガスによる大気汚染をもたらした。区内では、石神井南中学校の被害を皮切りに、大泉学園中学校・豊玉中学校・豊玉南小学校など各地に光化学スモッグが発生し、区民生活の安全が大きくおびやかされるようになった。また、環状七号線の騒音と排気ガス公害も大きな社会問題となっている。

さて、農地潰廃の勢いは、高度成長の幕切れとなった四八年の石油ショックまで高い潰廃率を示し、四八年における本区の農地面積は八万二九六二aに減じてしまった。それは本区が独立した二二年の農地面積二二万六四四五aにくらべて、わずか三六・六%にすぎない。この間、実に一四万三四八三a(六三・四%)の減少となっている。

四〇年代に入って水田は急速に減少し、台上の畑地も石泉地区の減少が顕著になった。作物も従来のものに代ってキャベツや草花、樹木の畑が目立ってきている。

地形図 その<数2>17~その<数2>20、その<数2>24

昭和五〇年代の幕開けは、戦後最大といわれるインフレと不況が同時に進行する混とんとした状況から始まった。

四八年の石油ショックを契機に減速経済、低成長への転換となり、それまで驚異的な伸びを示した経済成長も総需要抑制、産業界における生産調整・雇用調整・操業短縮などによって、翌四九年にはマイナス成長に落ち込み、深刻な不況を迎えることになった。

高度成長から減速経済へ移行する情勢の変化は、あらゆる面で大きな影響を与えた。区内の農地転用では五〇年代に入ると低成長を反映して急速に鈍化し、潰廃面積は二二六五a(五一年)~一二一七a(五五年)となり、年毎に減少傾向を示した。

次に本区の産業構造をみると、昭和五〇年国勢調査では商業・サービス業など第三次産業の占める割合が最も多く全体の六五・二%を占める。ついで製造業・建設業を中心とする第二次産業が三二・五%と続き、農業主体の第一次産業が一・四%、その他〇・九%となっている。第三次産業の比重が高まる傾向にあるのに対して、第一次・第二次産業のウエイトは相対的に低下する。

都市化の波で農地の潰廃が進み、区内の農耕地が年毎に少なくなっていることからみて、この一・四%という数値は当然の結果といえよう。急激な都市化にともない農業就業者は下限に近いと思われるが、他区(区部二三区平均〇・三%)にくらべると、なお本区が最も高率であり、農業練馬の伝統を継いでいるものとして注目したい。

新しい練馬を

区は、五二年一〇月「練馬区基本構想」を発表した。それによると、新しい練馬は「緑に囲まれた静かで市民意識の高いまち」をめざすものである。それを次の五つの目標の実現によって達成しようとする。

  1. 1 緑に囲まれた安全で快適なまち
  2. 2 健康と生きがいにあふれるまち
  3. 3 安定した経済生活が営まれるまち
  4. 4 情操豊かなこどもと高い文化をはぐくむまち
  5. 5 区民が主体となって区政を推進する連帯のまち

これを具現化するために「基本構想」は多くの具体策を進めるための施策方針を詳述している。時の流れの中でそれらのすべてがいま実施実行できるとはいえないが、皆が静かに今日の人類社会に想いをいたし、省みてわが街を考えるとき、人の心は一致する。明治以降の地図により過去百年の流れを観察し、これからの新しい練馬の街づくりを皆で考えていきたいものである。