練馬区史 歴史編

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第二部 練馬、そのあけぼの
――埋蔵文化財――

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白子川流域の遺跡と遺物

石神井川流域の遺跡と遺物

中新井川流域の遺跡と遺物

凡例

一、原始・古代の遺跡番号・位置・範囲は、昭和五五年八月現在の練馬区教育委員会発行『練馬区遺跡分布地図』によった。

二、記述はできうるかぎり現地調査に基づいたが、発掘調査報告・概報・資料紹介などの記録を基礎とし、それらのない遺跡については、昭和三二年刊『練馬区史』、『北西区部文化財総合調査報告(第一分冊)』、『東京都遺跡地図』など公刊された文献の外、『東京都埋蔵文化財包蔵地調査カード』によるところが多かった。

三、遺跡のなかで、発掘調査の進行中または遺物整理中のものについては、調査担当者の諒解をえ、調査者の教示・調査速報・現地調査に基づいて記述したものである。正確な内容はそれぞれの報告書によられたい。

四、本稿は、市毛勲が担当執筆した。なお、次の諸氏の協力があった。記して謝意を表したい(敬称略)。

青木一美、榎本金之丞、蟹江康子、川本素行、栗原晴夫、小林重義、佐伯弘晃、玉口時雄、前沢輝政、柳沢清一

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白子川流域の遺跡と遺物

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№1遺跡

この遺跡の位置は高野進芳氏の調査により大泉学園町善行院北方と『練馬区史』(昭和三二年刊、以下同じ)に記録され、『北西区部文化財総合調査報告(第一分冊)』で、二三九八という番地があてられた。その後『東京都遺跡地図』では大泉学園町二三九八法性院北方と訂正され、典拠文献として前二者をあげた。そして、練馬区地図二三九八付近を〇印でかこみ、縄文時代中期の土器が散布する遺跡地として確定した。

〇印でかこまれた地域は白子川左岸台地縁辺に当り、縄文時代の集落地としては恰好の場である。現在(昭<数2>55・9)二叉路に挟まれ、芝生畑と野菜畑になっており、『東京都遺跡地図』が記すような「宅地・荒地」ではない。〇印内とその付近では一片の土器も採集できず、また善行院付近の切通し面を丹念に観察したが土層に人為的な変化は認められなかった。

№1遺跡は『練馬区史』にとりあげられたことにはじまり、そこでは地図上に位置が明示されなかった。また漠然とした地名のため位置が確定されず、おそらく、遺跡地は地図上に〇印の付されている地点から、はずれているのであろう。

№2遺跡

北大泉町遺跡№1とも呼ばれ、大泉学園町一四二七に位置する。白子川谷の支谷に面する台地にあり、関越高速自動車道路建設に先だち、昭和四四年一一月から発掘されたものである。発掘面積は一八八㎡に達したが、貯蔵穴一基が発見されたにすぎず遺物には土師器・陶器がある。

№3遺跡

北大泉町遺跡№2で、大泉学園町二五八四に位置する。白子川谷支谷の台地縁辺にあり、№2遺跡と同様の道路建設に伴う発掘であった。発掘面積は三四五㎡で、U字状の溝状遺構三七・五mが確認され、柱穴と思われる方形ピットが発見された。

出土遺物には、縄文時代中期の加曽利E式土器、後期の堀之内式土器、磨製石斧、土師器・陶器がある。

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№4遺跡

北大泉町遺跡№3で、大泉学園町二五八四にあり、№3遺跡と同支谷の台地縁辺にある。関越自動車道路建設にともない発掘が実施されたもので、発掘面積は一〇八㎡である。

遺構は何ら発見されず、縄文時代前期の諸磯式土器、中期の加曽利E式土器、陶器など若干の出土遺物があった。

№5遺跡

北大泉町遺跡№4で、白子川谷支谷の台地縁辺の、大泉学園町二七九〇に位置する。関越自動車道路建設事前調査で、一八四㎡が発掘された。

遺構は発見されず、縄文時代中期加曽利E式土器、後期の加曽利B式土器、陶器などが出土した。

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比丘尼橋遺跡(№6遺跡

この遺跡は№2~№5遺跡と同様、関越自動車道路建設に伴う事前調査によって明らかにされたものである。そのため、北大泉町遺跡№5とも呼ばれている。

比丘尼橋遺跡は北大泉町二三九にあり、白子川流域の右岸段丘上に位置し、標高四五m、比高七mである。発掘面積は三四〇㎡に達し、道路敷地は全掘された。遺構は第一次調査で溝状遺構と柱穴列群、第二次調査では明治年間に築造された塚、黒色土中の礫群、土壙、ハードローム中の礫群が発見された。

多数の溝状遺構は北西の方向を向いて並列し、その構造から作物収穫や耕作時に生じたものではないかと推定される。柱穴列は建物との関係が考えられる。

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黒色土中の礫群は二×二mの範囲内に配石され、河原石が主体である。土壙は二基発見された。礫群・土壙ともそれにともなって土器は発見されなかったが、茅山式期のものとされた。

ハードローム層中の礫群は大小一八か所に点在し、上層の礫群はローム面下七〇~七五㎝、中層は九〇~九五㎝、下層は一一〇~一一五㎝に分れ、下層は立川ローム第一黒色帯の上位に位置する。つまり、三枚の文化層が確認でき、それは三段階の生活面を意味している。

出土遺物には先土器時代

の石器及び石剥片五八四点、縄文早期の茅山式、中期の五領ヶ台式及び阿玉台式がある。

先土器時代の石器には、ナイフ形石器、小形尖頭器、エンド・スクレイパー、彫器、ノッチド・スクレイパー、石核、剥片などが認められた。

この遺跡の調査で、市場坂型ナイフから茂呂型ナイフへという編年が確立された。

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№7遺跡

北大泉町五一~五四教学院裏に位置し、外山橋から比丘尼橋方向にぬける道路の左側、白子川が左右に曲折し、左岸から突出する台地の傾斜面にある。遺跡地は墓地・畑地・植木園などに利用されている。

遺跡地では縄文時代のフラスコ状ピットが確認され、採集土器には縄文時代早期の井草式、前期の諸磯B式、後期の堀之内Ⅰ式・加曽利BⅠ式・安行Ⅰ式、弥生時代後期の弥生町式、土師器の国分式などがあり、石器としては縄文時代の打製石斧・磨製石斧・石匙がある。

№8遺跡

北大泉町四七三氷川神社東方、弥生式土器・土師器散布地として高野進芳氏があげた遺跡である。白子川左岸台地縁辺、№7遺跡と比丘尼橋遺跡の中間地点に当る。

現在(昭<数2>55・9)住居表示が変り、大泉町五丁目六となり、住宅が密集し、土器を採集することはできない。

橋戸遺跡B地点(№9遺跡

高野進芳氏の確認した遺跡で、北大泉町六一四を地籍とする。白子川左岸台地に当るが、白子川谷から西方にのびる小支谷の縁辺に位置する。№<数2>20の丸山遺跡とは支谷を挟んで東西に対峙する。高野進芳氏は縄文時代中期・後期土器の散布を記録する。東京都埋蔵文化財包蔵地調査では加曽利E式・堀之内式土器と記している。

№<数2>10遺跡

白子川谷から西方(左岸)にのびる小支谷に面して№2・№3・№4・№5遺跡が分布している。その小支谷の分岐点付近に№<数2>10遺跡は治定されている。つまり、台地より一段低い場所に位置している。地籍は高野進芳氏の報告では北大泉町影山で、それが『東京都遺跡地図』では北大泉町七六二付近に治定された(『北西区部文化財総合調査報告(第一分冊)』は五八九としている)。

№<数2>10遺跡は現在(昭<数2>55・9)もなお野菜畑として残り、一部芝生となっている。高野進芳氏によれば縄文時代中期・後期及び土師器の散布地であるが、一片の土器も採集できなかったことからすれば、現在の№<数2>10遺跡の治定地は遺跡地からはずれているのではないか。

小字影山は二八九六―一から二九七〇―四の範囲であり、№5の遺跡とは小支谷を挟んで南西に対峙する。№<数2>10遺跡の位置は白子川谷と小支谷で形造られた台地突端部付近ではないかと推定され、五八九に隣接しよう。

№<数2>11遺跡

北大泉町三四八三付近に位置し埼玉県和光市と接する白子川左岸台地縁辺にある。滝沢浩氏の報によると、縄文時代早期の稲荷台式が採集されている。

№<数2>15遺跡

北大泉町九九九、一〇〇二付近にあり、白子川右岸崖上の台地縁辺にあたる。現在(昭<数2>55・9)付近一帯は密集した住宅地となり、遺跡地としての確認はむずかしい。

№<数2>15遺跡は昭和三二年土砂採取中に、榎本金之丞氏によって発見されたもので、先土器時代の尖頭器・ナイフ形石器・有舌尖頭器の石器や剥片、縄文時代早期の山形押型文・田戸下層式などが発見されている。

№<数2>19遺跡

北上してきた白子川が万年橋付近で右折して右岸に三角台地を形成するが、その台地に№<数2>16・№<数2>17・№<数2>19遺跡が所在する遺跡は大泉町二―五七―二一西信寺の寺地・墓地に当る。

高野進芳氏の調査では縄文前・中・後期の遺跡として確定され、埋蔵文化財包蔵地調査では縄文早期の山形押型文・子母口式・茅山式、前期の花積下層式が記録された。そして、茅山式が主体をなす縄文早期から後期の遺跡とされた。土器の他

に磨製石斧が発見されている。

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丸山遺跡(№<数2>20遺跡)

この遺跡は北大泉町七三二とその周辺付近に認められ、高野進芳氏が縄文・弥生・土師・須恵の各土器片を採集し、散布地として確認していたものである。遺跡発掘調査は区史編さん委員会の依頼によって、滝口宏教授を中心として早稲田大学考古学研究室が昭和三一年一一月に実施し弥生時代住居跡一基、弥生時代環溝の一部、礫群などの遺構を明らかにした。

丸山遺跡は白子川谷とその西方へ派生する支谷に挟まれた、白子川左岸台地にあり、台地は東西一〇〇m、南北二〇〇mほどの半島状の地形を呈している。西側支谷には豊富な湧水が二か所ある。

礫群はハードローム上面に位置し、環溝の調査中に環溝壁面にほぼ一列に並んだ礫が確認されたものである。それは環溝によって礫群のほぼ中央を切断された結果で、礫の大半は焼けて赤色を呈していた。これら礫の直下から先土器時代の石器二個が発見された。スクレイパーと思われる。

住居跡は長径六・二六、短径五・一mの楕円形を呈するもので、炉は中央からやや北西寄りに認められた。炉には壺形土器の胴部が埋め込まれていた。住居の内外から大小二二個のピットが検出された。

住居の埋土から縄文・弥生・土師の各土器片が出土し、床面からは七二×四〇㎝の焼土や弥生町式土器口辺部片が検出された。また炉の内部から炭化米一粒が発見された。

環溝は住居跡の南側で確認され、住居跡をかこむように、台地縁辺をめぐっていると推定された。環溝は幅一・五、ローム土を浅い所で〇・一、深い所で一m切っており、長さ約二二mが発掘された。環溝

の埋土から縄文・弥生・土師・須恵の各土器片や石器、礫が出土した。

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発掘によって出土した縄文土器は早期の井草式・稲荷台式・茅山式、前期の関山式・諸磯式、中期の五領ヶ台式・阿玉台式・加曽利E

式、後期の堀之内Ⅰ式・Ⅱ式・加曽利B式などで、弥生式土器は後期の弥生町式で、他に土師器・須恵器があり、それらは奈良・平安期のものと思われる。

丸山遺跡は先土器時代から奈良・平安時代に至る複合遺跡で、白子川流域ではもっとも顕著な遺跡である。

なお、遺跡地付近で中世の地下式横穴が二基並んで確認されている。

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№<数2>22遺跡

北大泉町九九〇~一二一九にかけての地域に位置し、住居表示ができて現在は大泉町二―一七付近となっている。遺跡地内には橋戸小学校・陽和病院があり、遺跡地の中央部が昭和五五年九月にはわずかに畑地として残っているにすぎない。

№<数2>22遺跡は、白子川右岸崖上の台地縁辺にあり、№<数2>15遺跡とは凹地を挟んで南北に対峙する。都の埋蔵文化財包蔵調査によると、調査が実施されて竪穴住居跡二軒以上が確認され、出土遺物に縄文時代中期の阿玉台式・勝坂式・加曽利E式土器の外、打製石斧・磨製石斧・石鉄鏃などが発見されている。

陽和病院横と裏の道路は切り通しになっており、住居跡はこの付近に確認されたのではないかと推定される。

№<数2>23遺跡

高野進芳氏報では南大泉町井頭池西北、縄文中・後期とあり、『東京都遺跡地図』では東大泉町一二二弁天池付近、遺跡の規模が四〇〇〇㎡と記録されている。一二二付近を中心に四〇〇〇㎡は№<数3>140遺跡地とかなり重複し、同一集落に間違いないであろうから、遺跡番号も№<数2>23に統一する必要があろう。詳しくは№<数3>140遺跡参照。

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№<数2>24・№<数2>25・№<数2>26遺跡

白子川右岸台地縁辺に位置し、地籍は東大泉町六六二~七〇二に当り、大泉小学校と北野神社の敷地である。大泉小学校運動場と北野神社社殿西側付近で中世の地下式横穴がいくつか確認された。

また、高野進芳氏報では北野神社西方は縄文時代中期及び後期の土器散布地である。現在(昭<数2>55・9)は住宅地のめた確認することはできない。

大泉小学校地下式横穴は現地表から三mほどの地下に設けられた奥行三・六、奥壁の幅一・九、床から天井までの高さ一・一~一・五mの規模をもつ羽子板状の墓室であった。

№<数2>27遺跡

白子川右岸台地に位置し、地籍は東大泉町八三二である。この付近は整然とした住宅地で、一部には造成以前の樹木も残っている。

この遺跡は小田静夫氏の確認したもので、縄文時代前期及び中期の土器が採集されている。

№<数2>28遺跡

高野進芳氏報によれば、東映撮影所東方は縄文時代前期・中期・後期の散布地で、『北西区部文化財総合調査報告(第一分冊)』では、東大泉町一〇四二とし、出土遺物に弥生式土器・土師器が加えられている。また、埋蔵文化財包蔵地調査では、井草式・稲荷台式・稲河原式の縄文式土器をあげている。

白子川の右岸台地、東映撮影所東方一帯は密集した住宅地となり、『東京都遺跡地図』で№<数2>28遺跡の所在地を示す〇印は、東大泉二丁目三三―二二を中心とした地域で、昭和五五年九月現在、駐車場・植木園・住宅地などになっている。植木園で表面採集を試みたが、遺物を発見することはできなかった。

№<数2>29遺跡

高野進芳氏の報は、東大泉町東映撮影所西方、縄文時代前期・中期と記録し、『北西区部文化財総合調査報告(第一分冊)』は弥生を加え、『東京都遺跡地図』では弥生式土器、弥生後期?となって、縄文式土器は除かれた。

白子川右岸台地の、東映撮影所西側一帯は計画的な住宅地で、『遺跡地図』のための調査時、すでに現状は宅地であり、土器の散布を確認することは難しかったと思われる。したがって、縄文前・中及び弥生時代の複合遺跡であったと理解すべきであろう。もちろん、昭和五五年九月の段階では、土器の採集は不可能であった。

№<数2>31遺跡

遺跡は白子川最上流の、旧井頭池に近い左岸台地にある。№<数3>140遺跡とは、松殿橋を中心に東西に対峙する。これは高野進芳氏が井頭池みかえり寮付近の遺跡としてあげたもので、縄文前・中・後の遺跡で、縄文晩期と弥生は?であった。この?マークは『北西区部文化財総合調査報告(第一分冊)』でも、『東京都遺跡地図』でも削除されて縄文前期から弥生まで続く複合遺跡となっている。両書とも高野進芳氏の調査に依拠していることは明らかで、『練馬区

史』の段階で「区内からは晩期の遺跡は発見されていない」としていることからすれば、晩期・弥生に付された?マークを削除するわけにはゆかない。今日、練馬区での晩期縄文式土器は№<数2>46遺跡で榎本金之丞氏が確認された安行Ⅲa式またはⅢb式の一片と滝沢浩氏が№<数2>63遺跡で石神井川河川改修の際に出土した土器のなかから検出した安行Ⅲa式があるにすぎない。

『東京都遺跡地図』に記された遺跡地付近は商店街となり、土器散布の状況を把握することはできない。商店街の西方には広い畑地が残り、詳しく観察したが土器を採集することはできなかった。

№<数2>32遺跡

白子川が本照寺で東上してきた支流と合流するが、№<数2>32遺跡は本流と支流に挟まれ、三角形に突出する左岸台地に位置する。地籍は南大泉町七七八付近で、妙福寺の西側に当り、この地で滝沢浩氏が焼礫とフレイクを確認したものである。現在(昭<数2>55・9)畑地・芝生畑・宅地となっているが、畑地でフレイクを採集することはできなかった。

№<数2>74遺跡

練馬区が埼玉県へ突出した部分に位置する遺跡で、白子川右岸台地の旭町三丁目六付近にある。滝沢浩氏が指摘した遺跡であり、先土器時代の尖頭器や縄文時代の打製石斧・磨製石斧・石棒などの石器が採集されており、縄文式土器では後期の堀之内Ⅰ式・Ⅱ式が出土している。

№<数2>75遺跡

練馬区では最北端に位置する遺跡で、白子川右岸台地縁辺にあり、地籍は旭町三丁目一七・三一・三二で、一部住宅地となっているが、今日なお空地である。

滝沢浩氏はこの付近で縄文時代中期の加曽利E式土器を採集している。

№<数3>140遺跡

白子川水源に近い、上流右岸に位置している。地籍は東大泉町一五〇~一六四で、公園・空地・住宅地になっている。この遺跡に隣接して№<数2>23遺跡があり、同じ集落に含まれるものではないかと思われる。

遺跡の一部(東大泉町一五一)は区教育委員会栗原晴夫氏を調査担当者として、建売住宅二軒建設に先だち、その敷地三二四㎡のうち四九㎡の発掘が昭和五四年一一月に実施された。

調査は二×一四mのAトレンチ、二×六mのBトレンチ、二×二mのCトレンチ、二×二mのDトレンチを設けて行なわれ、Aトレンチで大小八ピット、Bトレンチで大小九ピット、C・Dトレンチでそれぞれ一ピットが発見された。その結果住居跡の一部であることが判明し、二軒の住居跡が確認された。

出土遺物には縄文時代中期の勝坂式・加曽利E式土器やチャート製石鏃・墨耀石製石鏃があり、表面採集では前期末や後期の縄文式土器も発見されている。

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石神井川流域の遺跡と遺物

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№<数2>35遺跡

石神井川の水源の一つである富士見池の西端左岸に位置している。遺跡地は武蔵関公園敷地内で、付近は樹林である。『東京都遺跡地図』によれば、ポイント、ナイフ形石器・早・中期の縄文式土器が発見されている。縄文式土器は井草式・田戸下層式・茅山式・加曽利E式などである。

№<数2>36遺跡

№<数2>35遺跡に隣接する地点で、石器剥片が発見され、№<数2>35遺跡とは別個の遺跡として登録されている。どの程度の量の剥片が発見されているのか不明であるが、№<数2>35遺跡に含めてよいと思われる。

№<数2>35・№<数2>36遺跡付近はよく踏みかためられ、遺物が露呈することはないように思われた。実際、遺物を採集することはできなかった。遺跡地は台地縁辺の状況から早大グランドまでのびていたと想像される。

№<数2>37遺跡

富士見池東端の、左岸台地縁辺にあり、すでに宅地となっている。この付近でナイフ形石器及びポイントが出土したとして『東京都遺跡地図』に登録されている。「滝沢浩教示」とある遺跡の一つで、滝沢氏の発見によるものと思われる。

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葛原遺跡(№<数2>38遺跡

石神井川右岸台地に位置し、関町小学校敷地から台地縁辺にかけて広がる縄文時代中期の集落跡である。現在(昭<数2>55)、遺跡地一帯は住宅地と道路敷地となり、住居跡などは破壊されてしまったと推定される。

昭和三一年八月三日~七日の五日間、吉田格氏の指導で、石神井高校と天沼中学校生徒が発掘調査を実施した。発掘は関町小学校校庭の一部と、旧関町五丁目一六七の畑の二地点が行なわれた。

関町小学校の地点では、縄文式土器片が出土したが、中島飛行機の防空濠に当り、地点をかえて同一六七の発掘が行なわれた。この地点の発掘で、住居跡が確認された(図<数2>13)。しかし、畑の天地返しのために壁は破壊を受けて消滅していた。柱穴は六か所発見され、その内西側の二つの柱穴は他に比べ深く、内側にかたむいていた。炉跡は中央と東北角に認められた。中央炉跡は径九〇×三〇、深さ二二㎝を測り、焼土は少なかった。東北角の炉跡は焼土の厚さ二五㎝もあり、柱穴の位置から推して他の住居跡に属するものと考えられた。

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出土土器は加曽利E式土器に若干の勝坂式土器があり、住居跡から加曽利E式

の底部のみを欠いた甕形土器が発見された。石器には黒耀石製石鏃、打製石斧(短冊形・撥形)、緑泥片岩製石皿などがある。

遺跡地は昭和三〇年頃から宅地化が急速にすすみ、現在みるような状況になってしまったが、関町北三―二四―三港博介氏は庭に池を作ろうと掘削した際、多数の縄文式土器を採集し、それを記念して門柱に土器を埋め込んだ(図<数2>14)。門柱に埋め込まれた土器の多くは加曽利E式であるが、若干勝坂式が混っている。また、港氏は前の道路に下水管埋設の際にも多数の縄文式土器を採集している。

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長者橋から南へ、坂道を登る途中右側の都住宅局所有地で、縄文式土器を採集できた(昭<数2>55・8・7)。この地点は台地縁辺であり、葛原遺跡の範囲に含めてよい。採集した縄文式土器の型式は不明だが、加曽利E式や勝坂式に含められないものも見られる(図<数2>15)。

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また『練馬区史』で指摘されている天祖神社前の遺跡は葛原遺跡の範囲内と考えてよい。天祖神社南側の土留壁改築工事における土層観察と土器採集(昭<数2>55・8・7)では、縄文時代集落が社殿付近まで延びているとは認められなかった。

溜淵遺跡(№<数2>39遺跡)

富士見池のほぼ中央、緑橋付近から右岸台地に広がる遺跡で、保谷市坂上遺跡(保谷市№7遺跡)に連続し、遺跡の広がりは一〇万㎡を越えよう。遺跡は先土器時代から縄文時代中期にわたるが、今日までの調査では遺構の複合は認められず、また遺構は連続していない。

溜淵遺跡の調査は宅地造成に並行して行なわれた昭和三〇年九月からの榎本金之丞・滝沢浩両氏によるものと、都住宅局による高層住宅建設にともなう事前調査として、玉口時雄氏を団長とする調査団による昭和五四年六月~八月の確認調査、昭和五五年五月からの本調査があげられる。榎本・玉口両氏の調査地点は異っている。

榎本氏らの調査地点は溜淵橋から南へ上った左側の袋小路奥付近である。地籍は旧南町五丁目二一二で、遺跡は武蔵野面の縁辺部及び武蔵野面から立川面に移る斜面上部に確認された。遺構は表土層と第一黒色帯の間の軟質及び硬質ローム層中に発見された。硬質ローム層中には長径約八㎝の礫の集積径約一mが数mおきに数か所あり、その上層の軟質ローム層中にも同様の集石が二、三認められた。石器・剥片・木炭などは礫群を中心に出土した。表土層(黒色土層)では土器片とともに石器が発見された。礫群は当時の人々の生活遺構と思われる。

出土遺物には石器・剥片・石核・土器片・木炭片などがあり、木炭片はクリであった。

石器は黒耀石製が多く、他に珪質粘板岩・チャートも若干みられる。器種はナイフ形石器・切出形ナイフ・ブレイド・ポイントである。ナイフ形・切出形石器は上部黒色帯の上にのる硬質ローム層からの出土で、ポイントは表土層(黒色土層)から軟質ローム層へ漸移する土層からの出土であった。榎本氏らの確認したこの事実は、切出形ナイフ→ポイントという石器編年をはじめて可能にした。この編年は今では常識となり、高校日本史教科書でもとりあげられている。

表土層(黒色土層)から出土した縄文式土器一〇片は、早期の井草式・稲荷台式・田戸下層式、前期の諸磯C式であった。しかし、縄文時代遺構は認められなかった。

玉口時雄氏を団長として昭和五四年に確認調査の実施された地点は関町北三丁目六、九で、遺跡地面積の一〇%約千㎡である。

調査の結果、先土器時代の礫群がJ<数2>12グリッドで発見され、それにともなうナイフ形石器・ブレイドが出土し、石器や多数の剥片の出土層は二つに分れる。つまり、二期の文化層が確められた。また、縄文時代の溝状遺構二基とピット状遺構一

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基が発見され、いずれもファイヤーピットとみられる。それらの規模は幅約五〇~六〇、深さ三〇~五〇㎝の舟底状を呈すものである。他に縄文時代の落し穴ではないかと推定される遺構がR<数2>18グリッドで検出された。D<数2>25グリッドではソフトローム上面に集石遺構が検出され、その範囲は径約一・五mで、砂礫・焼礫・土器が分布する。土器は縄文時代中期と判断された。

確認調査で出土した縄文式土器片は三〇〇〇点をこえるが、大部分が中期の土器と認められる外、詳しくは報告書をまたねばならない。

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本調査は昭和五五年五月から一か年間実施された。調査の結果、先土器時代の

礫群四か所、これらの属する地層から先土器時代の石器が出土し、また縄文時代の遺構は中期の住居跡が二軒、後期の住居跡二軒、炉跡一八基、土壙三〇基が確認され、住居跡から埋甕が出土している。土器は中期の五領ヶ台式・加曽利E式に比定されている。以上の外に、西側崖線にそって幅六、長さ三〇mの溝状遺構が検出され、中・近世に属するものではないかと考えられる。

溜淵遺跡の遺物の整理など昭和五六年六月から実施されており、正しく詳しい結果は報告書によりたい。

武蔵関遺跡(№<数2>40・№<数2>41遺跡

富士見池のほぼ中央、つたや橋の南丘陵斜面に位置し、溜淵遺跡とは西に隣接し、東は葛原遺跡が展開する。この一帯は西武鉄道が宅地造成し、分譲した住宅地である。遺跡は昭和三〇年八月に直良信夫氏が確認し、その後直良信夫・中沢保・杉山荘平氏らが度々現地調査を実施し、先土器時代の礫群を検出、石器や土器を採集した。

礫群・石器・土器は二地点で発見された。それは昭和三〇年八月に発見された旧関町五丁目二二五と、昭和三〇年一〇月に礫群の確認された武蔵関駅よりの丘陵上地点とである。

前者の地点では土層の観察が行なわれた。それによれば、表土層(黒色土層)は厚さ三〇~四〇㎝で縄文式土器が採取された。その下に黒色土で汚れたロームが厚さ四〇~五〇㎝、次に赤褐色の柔かいロームが二五~五〇㎝、そして堅いロームが二五~四五㎝あり、この層から石器・小礫・礫群が出土した。この下に不明瞭な第一黒帯があり、厚さ約三〇㎝、次に厚さ二〇~三〇㎝のローム層があって明瞭な第二黒帯となり、厚さは約七〇㎝。第二黒帯からも小礫・石器が出土した。第二黒帯の下には黒土で汚れたロームが五~一〇㎝、その下に柔かい赤褐色ロームが約一〇㎝あり、次に堅いロームとなる。この堅いローム層、つまり第二黒帯から二〇㎝下方で石器や河原石・小礫が採取された。

表土層出土の土器は縄文中期の加曽利E式に属するが、住居跡などこの期の遺構は発見されなかった。

第一黒帯上の堅いローム層中に、一〇〇個ほどの礫の集積があり、同種の礫群は一〇m位の範囲内に計四か所確認でき

た。礫はすべて砂岩を主とした河原石で、焼けている。この礫群の上・下方から石器が発見された。

第二黒帯中から安山岩製の大形ブレイドが発見されたが、遺構は認められない。この第二黒帯下二〇㎝でもチャート製ブレイドが出土した。前者のブレイドは頁岩製で、長さ四六・五、幅二七・三㎜を測り、後者は長さ三〇・〇、幅一六・四㎜であった。

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第一黒帯上の礫群付近からはブレイド、ナイフ形石器、ポイントなどが出土し、それらは安山岩・チャート・頁岩・黒耀石製であった。

武蔵関公園の、武蔵関駅側の入口手前の丘陵で、黒土層の最下部に礫群が発見された。この礫群とともに縄文式土器の茅山式や中期・後期の土器片、黒耀石製石鏃・剥片などが出土した。礫群はA~Gの七か所認められ、敷きつめられたもののようであったが、どの地点でも柱穴やピットは発見されなかった。

礫群Dは径八×一〇mの楕円形を呈し、中央には中形の河原石を置いた核があって、そのまわりを五か所の群礫でかこみ、そのため内円と外

円を形成し、その間は中間地帯であった。礫群Dの礫には焼石が多くみられ、礫は径四~五㎝と径三~四㎝の大きさのものを主とし、径一二~一五㎝のものも若干認められた。

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礫群D以外は宅地造成による破壊がひどく原形を正しく伝えているものではなかった。

富士見池南岸丘陵に広がる葛原遺跡・武蔵関遺跡・溜淵遺跡は連続する一連の遺跡群として把えられる。葛原遺跡は縄文

時代中期の集落跡、武蔵関・溜淵遺跡は縄文早期から先土器時代の生活跡と理解される。

№<数2>42遺跡

石神井川左岸の台地縁辺に位置している。小田静夫氏指摘による縄文中期の遺跡で、現在(昭<数2>55)東京女子学院の敷地になっている。

№<数2>43遺跡

富士見池の東部、北側台地上に小田静夫氏の指摘した遺跡で、縄文時代中期とされる。遺跡地は都営住宅になっており、№<数2>37遺跡に隣接する。№<数2>42遺跡と同様、土器分布の広がりなど不明である。

城山遺跡(№<数2>45・№<数2>46・№<数2>47遺跡

富士見池からわずかに北へよりながら東上する石神井川が、はじめて左へ屈曲するのは右岸から舌状台地が突出するからで、突出する舌状台地に早稲田大学高等学院が所在し、遺跡は台地縁辺に位置している。

遺物は舌状台地の三地点で採集されており、№<数2>45地点では縄文時代中期の土器の包蔵地であることを小田静夫氏が指摘し、№<数2>47地点ではナイフ形石器が出土していることを滝沢浩氏が指摘している。№<数2>46地点は榎本金之丞・村越潔氏らが昭和三〇年七月に三日間発掘調査を実施した。

舌状台地における三地点の位置は、№<数2>46が東北端、現在早大学院グランドの東北隅付近に当り、№<数2>47地点は№<数2>46に隣接し、№<数2>45地点は台地先端に位置する。いずれも№<数2>46地点に命名された城山遺跡をもって遺跡名としてよかろう。

№<数2>46地点発見の契機は、旧智山学園グランド東北隅に狭い道をへだてた雑木林の整地工事であった。榎本氏らはこの工事で現われた崖面の調査及び一部発掘を行なった。

この結果、地層は表土層(黒色土層)厚さ三八㎝、軟質ローム層厚さ四〇㎝、硬質ローム層厚さ四一㎝、第一黒帯厚さ三四㎝、硬質ローム層厚さ二七㎝、第二黒帯五九㎝、硬質ローム層厚さ四〇㎝であることが明らかになり、遺物は上部三層から出土した。つまり、縄文式土器片は表土層の下部から、次の軟質ローム層では上面及びそこから一〇㎝の深さで石器・礫・砕片が、硬質ローム層では第一黒帯上面上約七~二〇㎝の間で石器・礫・砕片・剥片・木炭が出土した。礫は径約四〇㎝の

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円形に敷かれたものと、二×一mの矩形に敷かれたものとあった。これらの礫群は数メートルおきに不規則に点在し、整地工事の範囲内で七か所確認され、遺物はこれらの遺構を中心に検出された。

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縄文式土器は発掘地点で撚糸文土器・三戸式・茅山式など早期の土器が出土し、表面採集では稲荷台式・三戸式・田戸下層式・田戸上層式・茅山式などの早期、諸磯b式・諸磯c式の前期、五領ヶ台式・加曽利E式の中期、安行Ⅱ式の後期、安

行Ⅲa式(またはⅢb式)の晩期の縄文式土器が得られた。縄文時代の石器では石冠状石器と石錘であった。

縄文式土器の外に、弥生式土器一片も採集されている。

土器片はいずれも表土層からの出土で、それ以下の地層からは出土していない。

石器は軟質ローム層・硬質ローム層から出土した。軟質ローム層からは黒耀石製石器一、礫二〇~三〇、黒耀石片二を検出した。石器はラウンド・スクレイパーと考えられている。

硬質ローム層から出土した石器は五、他に礫約三〇〇、黒耀石片二九、頁岩等石片一五、黒耀石剥片六、頁岩製剥片八が出土した。石器はいずれも黒耀石製で、ナイフ形石器・エンドスクレイパー・石刃核などである。

№<数2>48遺跡

城山遺跡の所在する舌状台地付根付近の台地縁辺に位置し、石神井川を挟んで扇山遺跡とは南北に対峙する。小田静夫氏指摘による縄文時代中期の遺跡で、遺跡地は都営住宅になっている。空地などで遺物の採集を試みた(昭<数2>55・8・7)が、採集はできなかった。

石神井台遺跡(№<数2>50~№<数2>55遺跡

石神井川と三宝寺池・石神井池に挟まれた細長く東西に延びる台地の付根付近に展開する遺跡群である。遺跡地の中心は石神井城跡であり、現在(昭<数2>55)は氷川神社・三宝寺になっている。他の地域は住宅地であるが、かなりの部分が農地や植木園となって遺跡が保存されている。石神井台遺跡群の地籍は石神井台一丁目一〇~二五で、その面積は一二万㎡をこえるであろう。

№<数2>50地点は石神井台一丁目一二の台地南斜面で、現在(昭<数2>55・8)大部分が植木畑となって旧地形が保存され、東側の一部が宅地化されている(図<数2>26)。階段式の宅地で、切断面に竪穴住居跡と思われる表土(黒色土)の落ち込みが認められる所もある。土器はかなり密に分布し、縄文式土器は中期の加曽利E式の外、後期と思われるものや古墳時代前期の五領式の土師器などが採集される。

№<数2>50地点の一部は後述のような二度に亘る発掘調査が実施されている。

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№<数2>51地点は『北西区部文化財総合調査報告(第一分冊)』で№<数2>70とされた地点であり、地籍は石神井台一丁目一四である。弥生式土器が採集されたとの記録がある。『東京都遺跡地図』では先土器・縄文早~中期・弥生の複合遺跡として記述しているが、それを証明する資料には欠け、この地点は住宅地で遺物採集も不可能である。また、『東京都埋蔵文化財包蔵地調査カード』では№<数2>51地点を石神井

町五―二三石神井池南側としており、この地点は池淵遺跡の範囲に含めることができ、大沢・芝崎両氏が昭和三四年二月黒耀石製ブレイドを採集した地点である。

№<数2>51地点の認識については若干の混乱が認められる。

№<数2>52地点は石神井台一丁目一八氷川神社裏になる。台地の最上部に当り、北側は三宝寺池である。発掘調査が実施され、後述の縄文時代中期(加曽利E式)の竪穴式住居跡一軒が発見されている。

№<数2>53地点は石神井城跡であり、『東京都遺跡地図』での地籍は石神井台一丁目二四をあげているが、中心は氷川神社の東側、つまり同一丁目一をあげるべきであろう。

№<数2>54地点は石神井台一丁目二四で、氷川神社の西に隣接し、『東京都遺跡地図』によればナイフ形石器が発見されている。

№<数2>55地点は三宝寺池の西端南側台地縁辺で、石神井台一丁目二五の住宅街である。滝沢浩氏により礫群発見地点として指摘されている。

石神井台遺跡は以上のような地点で確認された遺跡群であり、先土器時代から中世に亘り、石神井城跡は遺跡地全域にわたっている。練馬区では最重要遺跡の一つとしてあげられよう。

石神井台遺跡のうち、№<数2>50と№<数2>52の二地点が発掘された。№<数2>50地点は雪田孝氏が遺跡確認調査をしたあと、昭和四八年に大場磐雄氏を団長とする練馬区石神井台一丁目遺跡調査団が実施し、その後同地点を練馬区教育委員会が昭和五四年六月に実施した。前者の調査では二×四〇mのトレンチ二本を東西方向に設定し、調査の進行とともに両トレンチをつなぎ、三四八㎡の面積を発掘した。その結果、東西方向に走る溝状遺構と建物跡及び柱穴群が明らかになった。溝状遺構は発掘区中央を横断し、幅約六〇、深さ三〇~四〇㎝で、溝の埋土の土質は建物跡柱穴や柱穴群の埋土と同様であった。このため、溝状遺構・建物跡・柱穴群は同時期のものと推定された。建物跡の柱穴は隅丸方形でほぼ垂直に掘られ、p7では柱を固定する際のつきかためが認められた。柱穴は八本で、四×七mの建物であった。柱穴群は四八本確かめられ、掘削や配列に規則性

は認められなかった。この種の柱穴群の性格は明らかにされていない。

出土遺物には縄文式土器(早期・中期・後期の各期)、奈良平安時代の土器、中世の土器・鉄器などがあり、縄文・奈良平安時代の遺構は発見されなかった。中世陶器には瀬戸系の天目茶碗・皿・菊皿、常滑系の大甕・摺鉢・かわらけがあり、鉄器、砥石も出土している。中世の遺物は溝状遺構・建物跡・柱穴群にともなうものであった。

昭和五四年の発掘は一次発掘区の周辺をグリッド設定し、実施した。調査面積は約一四〇㎡であった。

発掘の結果、一次調査の際に発見された濠状遺構の北側で溝が確認された。この溝は一次調査の溝状遺構とは別のものともみられながら、一次調査の溝状遺構が検出されるべき地点を発掘しても確認されず、別ものとする調査結果に疑問が残るし、両者の関係については今後の研究にまつとする発掘結果では困る。№<数2>50地点は昭和五五年六月には基礎工事で地下数メートルまで掘削されていた。また、発掘地点から石神井城に関連する遺構は何一つ検出されなかったとする結論は、一次調査と全く矛盾するものとなった。東西に走る溝が確認できている以上、石神井城をぬきにしては考えられまい。

出土遺物には縄文式土器(前期~後期)八点、中世陶器一点があったとされる。

後藤守一氏指導によって、青木一美氏らの実施した石神井城跡第二次調査の際、縄文時代の竪穴住居跡が発見された。第二次調査では昭和三二年三月二一日~九月一日まで氷川神社周辺の濠が発掘された。

氷川神社の左・右・裏(東・西・北)の三面にはコ字状に濠がめぐり、ここにはA~Jのトレンチ・発掘区が設けられ、住居跡は神社裏()に、南北に設けられたAトレンチで確認された。住居跡の位置は神社裏()を東西に走る濠のほぼ中央、濠に近接している。

住居跡は床面を軟質ローム上面に置き、周囲にめぐらされたと推定された礫群列が全体の二分の一ほど確認された。住居跡の全体は明らかにされなかったが、礫群と遺物の分布から径六×三・五mの楕円形を示すものと把えられた。礫群列の礫は大きさ径約一㎝から一〇数㎝のものまで程度に差があった。

住居跡の床面には二か所で埋甕が発見され、東側の埋甕には焼土が発見され、炉跡であることが確認された。柱穴は明確ではなかったが、小ピットがみられた。

出土遺物は土器片がリンゴ箱に約半分、打製石斧八点であった。これらの土器は加曽利EⅢ式・堀之内Ⅰ式などであり、住居跡の時期はこれらの土器の示す時期に相当すると考えられた。

石神井城跡第二次調査では、住居跡にともなう遺物の外に、土器・石器があり、Aトレンチの北方への延長(A’・A”トレンチ)で縄文時代前期の土器数片が出土した。また、Aトレンチでは硬質ローム層直上から黒耀石製ブレイドが一点発見された。

榊原松司・青木一美氏らによる昭和四二年度石神井城跡内郭発掘調査では石神井城跡濠・土塁の外、地下式横穴と土壙(火葬跡)が発見された。発掘は昭和四二年八月八日から九月一〇日の二四日間実施された。地下式横穴三基の状況・出土遺物は表1の通りである。

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なお、石神井城は豊島氏の居城の一つで、文明八年(一四七七)、城主豊島泰経の時、太田道灌の攻撃を受けて落城し、その後廃城となって今日に到った。調査は昭和三一年に後藤守一氏の指導を受けて榊原松司・青木一美氏が実測と踏査を実施し、「石神井城跡の第一次調査」をまとめた。第二次調査は、氷川神社周辺の濠の発掘を主としたもので、昭和三二年三月二一日~九月一日、第三次調査は城跡西部地区の発掘調査で、昭和三二年一一月三日~一二月一日と昭和三三年一月一一日~三月二九日の二期に分けて実施、第四次調査は城跡南部地域を対象として昭和三三年三月三〇日~四月七日に実施された。これらの調査結果は、青木一美「石神井城跡発掘調査の成果と課題―第二次・第三次・第四次調査概報」に詳しい。

昭和四二年には石神井城跡内郭の発掘が実施されている。前述の地下式横穴はこの時発見され

た。

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№<数2>56遺跡

三宝寺池北岸台地縁辺に位置し、地籍は石神井台一丁目二六~三一の範囲である。大沢・芝崎両氏はゴミ穴の掘削で露呈した礫群を発見し、それらはローム下約五〇㎝の位置に、ほぼ水平にかなり密集していた。礫以外に遺物は発見されなかったが、『東京都遺跡地図』によると、縄文式土器(中・後期)も発見されている。

遺跡地は石神井公園になっているため、保存はよいが、遺物を採集することはできなかった。大沢・芝崎氏らは昭和三四、五年頃、この付近の踏査を実施しているが、縄文式土器採集の記録は残していない。

扇山遺跡(№<数2>57遺跡

本遺跡は石神井川流域の縄文時代遺跡では早くから知られた遺跡で、昭和一三年には矢島清作・村主誠二郎両氏による発掘調査が実施されている。その後、東京医科大学病院宿舎建設に伴う発掘調査が昭和五三年から確認調査も含めて四次に亘って実施された。

扇山遺跡は石神井台四丁目一〇とその付近に広がり、『東京都遺跡地図』の示す地籍及び図示地点とはかなりの違いを示している。矢島・村主両氏の報文によれば「石神井川の河谷に突出した扇形の半島状の台地(約一町五反)上にある」とされ、図示された地点は石神井川左岸台地縁辺である。地

籍の板橋区上石神井二丁目一一九〇をそのまま練馬区地籍に落した結果生じた誤認と思われる。

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遺跡地の中心は前述のように東京医科大学の校地であり、昭和五五年現在病院の宿舎が建設されている。しかし、東南部の台地縁辺は林と公園になって旧状をとどめている。その周辺には民家や高層住宅、あるいは幹線道路(新青梅街道)があって、昭和一三年当時の面影は全く認められない。

矢島・村主両氏の発掘した地点は台地縁辺で、ボーリング探査によって確認された住居跡のため、発掘された三基の住居

跡の距離はかなりあり、第二号住居跡と第三号住居跡との間は三七mを測る。図示された三基の住居の位置と現况とを重ね合わせると、第一号住居跡と第二号住居跡は新青梅街道によって消滅したと思われるが、第三号住居跡は昭和五五年七月実施の第三次調査で検出された三基のうちの一基が該当するものと推定される。

第一号住居跡は壁が確認されず、規模は明確を欠くが、径約四mのプランが推定されている。中心に石囲い炉が設けられ、柱穴は一本のみ認められた。加曽利E式の深鉢形土器の外、凹石・打製石斧・磨製石斧・砥石が出土している。

第二号住居跡のプランは推定径五mの円形で、石囲い炉が発見され、床面全体が焼土で覆われていた。

出土遺物には加曽利E式の深鉢形土器・浅鉢形土器などがあり、石器には石棒・石斧(二三個)がある。

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第三住居跡は焼土の分布などから径五mのプランが推定された。住居跡内から加曽利E式の深鉢形土器・耳栓・角丸三角壔土製品()・石斧(一六個)・石鎗・石鏃が出土した。耳栓は両面とも同心円文が付され、長さ二・五、面径二㎝を測る。この種の文様をもった耳栓は珍しい。

東京医科大学病院宿舎建設に伴う発掘調査は、滝口宏早大教授を担当者、前沢輝政講師が主任となって、早稲田大学考古学研究会の学生が四次に亘って実施したものである。

確認調査は昭和五三年一二月に実施し、縄文時代の集落地であると同時に、扇山遺跡の再確認が行なわれ、翌五四年二月七日~三月一〇日に第一次調査を実施し、つづいて四月二九日~六月一九日まで学生は授業の合間を利用して調査に従事した。以上の発掘で病院宿舎建設に伴う調査をしたが、公道に提供する道路拡張が行なわれることになり、そのため第三次調査が計画された。第三次調査は昭和五五年七月一六日~七月二九日に実施し、前述のように三基の住居跡を発掘した。

昭和五三年~五五年の発掘調査の結果は表2の通りで、縄文時代中期の住居跡三一基が

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発掘された。扇山遺跡の住居跡の総数は、発掘面積内の住居跡数から推して、総数百基に達するのではないだろうか。

住居跡の規模は四~六mの円形プランで、№1住居跡のみが柄鏡形を呈している。ほぼ同規模の住居跡であることは住居間の較差のないことを示しているが、№<数2>21住居跡のみは出土遺物の種類と量において群を抜いている。例えば打製石斧についてみると、四〇点をこえるのは№3・№4・№<数2>21で、石器総数では№3の六三点につぐ六二点で、第三位の第4号住居跡は四七点である。住居跡に伴う石器の平均は一三・二点であるから、№<数2>21住居跡の石器数がいかに多いか理解できる。また、他の住居では出土していない石剣と硬玉大珠(図<数2>31)のあることも注意される。土器では獣面把手の付いたものが認められる。以上の諸点から住居間の較差には現われない、住居の特殊性がうかがわれる。つまり、獣面把手のついた土器と石剣・硬玉大珠などを必要とした営みが、№<数2>21住居跡では行なわれていたと推察される。

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№<数2>18住居跡からは有孔つば付土器が出土している。この種の土器は中部地方から武蔵野台の地域に特有なもので、一般に酒造り用の甕ではないかと考えられている。酒といっても木の実や果実を発酵させてアルコールにしたものである。

石器のなかで、打製石斧と磨製石斧の総数は三二九点に達し、八〇%

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を占める。狩猟具である石鎗・石鏃は二六点にすぎず、石斧との差が著しい。これほど多量の石斧は本当に斧に利用されたのであろうか。打製石斧が三一〇点を数えることも、斧としての利用に疑念をはさむものである。

№<数2>58遣跡

滝沢浩氏発見の遺跡で、石神井川左岸台地縁辺に位置する。地籍は石神井台七丁目一一で、扇山遺跡と池淵遺跡のほぼ中間地である。

昭和二七年に吉田格・滝沢浩氏らが調査し、遺跡には礫器とブレイドが各一点及び礫群が発見された。礫群は表土層の次の、厚さ約二〇㎝の軟質ローム層中にあり、礫器は礫群の付近で発見された。

№<数2>59遺跡

小田静夫氏指摘の遺跡で、石神井川右岸台地にあり、石神井川をはさんで池淵遺跡とは南北に対峙する。遺跡地として下石神井六丁目三五・三六・四一・四二があてられており、大部分が畑地と栗林になっている(昭<数2>55・9)。ただ、地形から遺跡の中心と思われる同三五は住宅地になっている。

出土遺物には縄文式土器の前期(諸磯式)、中期(阿玉台式・勝坂式)がある。

№<数2>60遺跡

石神井川台地右岸にあり、№<数2>59遺跡は西に、№<数2>61遺跡は南に隣接する。小田静夫氏教示によって遺跡登録されたもので、縄文時代中期の勝坂式・阿玉台式・加曽利E式土器の外、打製石斧も発見されている。

遺跡地は一部畑地としても残っているが、付近は住宅街となっている(昭<数2>55・9)。

№<数2>61遺跡

地籍は下石神井六丁目一~三の付近で、天祖神社の北側に当る。『北西区部文化財総合調査報告(第一分冊)』では下石神井一丁目五七五(天祖神社北側)で、『練馬区史』では天祖神社北側台地となっている。『東京都遺跡地図』は『北西区部文化財総合調査報告(第一分冊)』の記録をそのまま踏襲している。

昭和五五年九月一五日の踏査では、遺跡地とされる付近は畑地が多く、遺物採集も可能であるが、何らの遺物も採集できなかった。

『練馬区史』の示す遺跡は天祖神社北側台地で、北側では遺物の発見がないところをみると、№<数2>60遺跡付近を指すとも考

えられる。遺跡の時期は縄文中期とされる。

№<数2>62遺跡

石神井川左岸の遺跡で、突出する台地の縁辺に位置する。付近は住宅地となり、旧状をとどめていない。『練馬区史』では縄文時代中期としており、『東京都遺跡地図』はそれにもとづいている。

№<数2>63遺跡

石神井川中流域の沖積地に発見された遺跡で、河川改修の際、滝沢浩氏が縄文時代後期の堀之内Ⅱ式・安行Ⅱ式や晩期の安行Ⅲa式を採集した。

縄文時代後・晩期の沖積地遺跡は決して珍しくはないが、練馬区内では№<数2>63遺跡のみである。遺跡付近は河岸壁がつくられ、旧状の片鱗さえうかがえない。

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池淵遺跡(№<数2>64・№<数2>65・№<数2>66遺跡

池淵遺跡は石神井川と三宝寺池・石神井池にはさまれて東西に長く延びる舌状台地のほぼ中央に位置する。池淵とは石神井池の淵という意味であるが、遺跡は台地幅全体に展開している。現在(昭<数2>55)遺跡地は石神井公園・住友銀行グランド・練馬区立プールなどになっており、公園内では地形の旧状をとどめているといえる。

池淵遺跡は『練馬区史』で下石神井二丁目一一四〇・住友銀行グランド・石神井小学校東方台地

小中原)と記録された遺跡地である。都道四四四号線切通し東側の硬質ローム層上部では大沢・芝崎氏は黒耀石製ブレイドを発見し、またその付近の表土では縄文時代早期の茅山式、前期の関山式、中期の土器他縄文時代石器を採集した。滝沢浩氏は№<数2>60地点で局部磨製石斧と縄文式土器(早期の井草式・芽山式)を、№<数2>66地点で礫群を発見したが、以上の遺物採集地はいずれも№<数2>64地点の範囲(石神井五丁目一二~一四)に含められる。この地点は後藤守一・大場盤雄氏らが発掘している。昭和三一年には後藤守一氏指導のもと萩原弘道・若月直氏らが発掘調査を実施し、昭和四七年~四八年には大場盤雄氏を中心として榊原松司・石川和明氏らが発掘している。

昭和三一年の発掘は旧下石神井二丁目一一四〇で、住友銀行グランドの一部を占め、昭和四七年発掘区の東側に隣接している。この地点の表面採集では縄文中・後期、弥生末期、土師器、須恵器などの土器片がえられた。

発掘の結果、縄文時代中期の竪穴式住居跡五軒と、多量の土器や石器が出土した。

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一号住居跡径三・四二mの円形プランの竪穴で、北側は爆弾落下による破壊と穴が認められた。柱穴は南部に偏して数ピット発見された。炉は中央よりやや北寄りに位置し、一五㎝ほど凹んでいた(図<数2>41上段左)。

出土土器は少なかったが、縄文時代中期の加曽利式期の住居跡と判明した。

二号住居跡 北側三分の一ほどを失い、現存部分から南北に長い楕円形プランの竪穴と推定された。短径(東西)四・八mであった(図<数2>41上段右)。

残存壁は比較的保存よく、床面は堅緻であったが、凹凸が激しく、また後世の二本の溝が床面を破壊していた。壁際には周溝が認められ、幅約二〇~三〇、深さ一四~二八㎝である。周溝中に小ピットが発見された。この小ピットは径約一五、深さ三三㎝、南に傾斜し、ピット中に植物炭化物が検出された。

柱穴は三個発見され、炉は中央北寄りにあり、径一mほどの床が焼けていた。この炉にはキャリパー型の土器が埋められていた。型式は縄文時代中期の加曽利EⅠ式であり、住居跡の時期を示すものである。

三号住居跡 東壁と一部床面が検出されただけで放棄された。

四号住居跡 径五・〇mの円形プランで、柱穴は東北部に径二五㎝のピットが一個発見されただけであった。周溝は設置されず、炉は中央よりやや北西寄りに位置し径六〇×四五、深さ一五㎝を測った。

出土土器は加曽利E式が多く、黒耀石製石鏃が一個出土した。住居跡の時期は縄文時代中期の加曽利E式期と判定される。

五号住居跡 四号住居跡に接し、その床面より一七㎝低い位置に発見された。形は径五mの円形プランで、柱穴は壁にそって九ピット中央に一ピット、発見された。炉は中央より東北よりに、そこから壁までの間に木炭がかなり散乱していた。

土器及び石器 土器破片は多量に出土した。大部分が加曽利E式であるが、中期の勝坂式、後期の堀之内式が若干混在していた。珍しい遺物に、勝坂式土器片を磨いて径五㎝の円形状にし、両端を欠いた土錘がある。石器には打製石斧一、石鏃二、黒耀石剥片が多数出土した。

大場磐雄氏らの調査は昭和四七年九月二六日~翌四八年二月の第一次が、主として縄文時代遺構、昭和四八年九月八日~一〇月一五日の第二次では先土器時代遺構の発掘を実施した。

大場磐雄氏らの発掘は練馬区民運動場建設に伴う緊急調査で、整地中に住居跡を検出したことによる。前述のようにこの地域一帯は先土器時代・縄文時代の遺跡としてよく知られたところであったが、そうした事実を無視して造成工事が開始されたものであった。

発掘地域の地籍は旧上石神井五丁目字小中原一〇六六~一〇六八で、現在(昭<数2>55)練馬区営プールなどのある位置である。面積は一万二〇〇〇㎡に達し、調査は便宜上三区に分けて実施した。

出土した遺構・遺物は先土器時代・縄文時代(早・中期)・中世の三時代に属するものであった。それらの遺構はかたくしまった黒色土層やハードローム層などから発見され、遺物は耕作により原位置をはなれ浮いてしまい耕作土層からも出土したが、それらの層位を観察すると、最も残りのよいところで次のようである。

Ⅰ層 耕作土層で、焼土様の赤褐色の微粒子を含み、厚さ約二〇㎝。原位置をはなれた遺物が出土。

Ⅱ層 耕作土層と同様の土質であるが、赤褐色微粒子の含有が少なく、土器片の出土がやや多く、角の磨滅した細片が多い。厚さ約二五㎝。

Ⅲ層 黒色土層で、粗粒状を呈し、乾燥するとローム層のクラック帯状になる。上面から陶器片が出土し、中世の地表を推定。Ⅲ層の中位から下位にかけては縄文時代早期~中期の包含層である。中位から下位の黒色土層は褐色がかりかたくしまっている。厚さ約三〇㎝。

Ⅳ層 黒褐色土層で、ソフトローム層への漸移層。厚さ約一五㎝。

Ⅴ層 ソフトローム層で厚さ約五〇㎝。

Ⅵ層 第一黒色帯直上ハードローム層。Ⅴ層とⅥ層の境界は不連続で、この層に先土器時代の礫群が発見された。厚さは約五〇㎝。

Ⅶ層 暗褐色のハードローム層。立川ローム層第一黒色帯に相当する。厚さ約二〇㎝。

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Ⅷ層 第一黒色帯間のハードローム層で、黄褐色を呈する。厚さ約六〇㎝。

Ⅸ層 暗褐色の立川ローム層第二黒色帯。厚さ約四五㎝。

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以上の層位は一区D―一八グリッドでの観察をもとに標式化したものである。二区の大部分はブルドーザによる削平でローム層が露呈し、三区ではローム層が一〇~四〇㎝削り取られていた。

先土器時代 発掘区全体が先土器時代の遺跡であるが、第一次の調査では二区の北東隅に発見された礫群(礫群一)が唯一の遺構であった。礫群一はソフトローム上面から七五~八五㎝下方に位置し、石器と剥片が礫群より浮いた状態で検出された(詳しくは後述)。

石器はこの外二区及び三区でも出土した。二区出土の石器は頁岩製の大型尖頭器で、Ⅱ層下部またはⅣ層の出土であるが、攪乱により移動したものである。尖頭器は長さ一六・一、幅三、厚さ一㎝で、両面ともきれいに調整剥離され、均斉のとれた柳葉形を呈する(図<数2>43)。

三区では、その東南部でソフトローム上部から月桂樹葉形の尖頭器が出土した。この尖頭器は頁岩製で、長さ七・六、幅二・四、厚さ〇・八㎝で、両面がきれいに調整剥離されている(図<数2>43)。

縄文時代 発掘された縄文時代の遺構・遺物は早期後半期と中期に属するものであった。早期後半期の遺構としては、一区のファイアピット三基、上面が円形ないし楕円形で底部がレンズ状になったローム上面より二〇~三〇㎝の深さをもつ浅いピット四基、上面が楕円形で底部が方形に近い形の深いピット(落し穴)九基、その他二基があり、二区の浅いピット六基、深いピット(落し穴)九基、三区の浅いピット一八基、深いピット一基がある。

これら遺構のうち、深いピットは落し穴で、一区一一号ピットは上面一三五×九五、深さ一二七、底部八五×六〇㎝の規模で、底に小ピットが六本認められた。この小ピットは穴底に尖ったくい六本を打ち込んだ結果である。落し穴は主軸を同方向にとり平行に並ぶグループとほぼ延長線上に並ぶグループとが認められる。

ピット群に伴う縄文式土器片はわずかであるが、縄文時代早期後半の条痕文土器(茅山式や鵜ヶ島台式など)が主体を占めた。

縄文時代の中期の遺構は竪穴式住居跡一六軒であった。一区で四軒(六・一四・一五・一六号)、三区で一二軒(一・二・三・四・五・七・八・九・一〇・一一・一二・一三号)であった。三区の住居跡四軒はすでにブルドーザで削平されていたため柱穴と炉を検出したにすぎなかった。

図表を表示

各住居跡毎の規模や柱穴・出土遺物・時期などは表3の通りである。

中世 層位のよく残っていた一区で、Ⅰ層~Ⅲ層上面にかけて中世陶器片が出土し、さらに濠状の溝とピットが確認され、中世陶器片はそれら遺構にともなうものと判定された。

濠状遺構は発掘区全体にわたって発見され、方形に区画している。濠状遺構の幅は四~五m、深さは五〇~八〇㎝の浅いもので、それらにかこまれて矩形の平面区ができる。この平面区からは、柱穴等のピットなど何らの遺構も発見されなかった。

濠状遺構内やそれに沿って発見されたピット群には規則性がなく、柱穴等の判断はできない。

出土遺物には天目茶碗・菊皿・志野様の陶片を中心とする瀬戸系の陶器片、若干の常滑片、土師質の小皿・カワラケ片、瓦器片等がある。

濠状遺構によって方形区画されたこの地域は、石神井城中心から数百m東の地点にあたり、また同じ舌状台地に位置し、両者に何らかの関係を推測せしむるものではあったが、調査結果からは結論を得るまでには至らなかった。

区民運動場造成工事をストップさせての調査の結果、前述のような遺跡地であることが判明し、なかでも先土器時代の遺構がローム層中に埋没していることは明らかであったため、先土器時代遺構の発掘調査が主張され、一方では「池淵遺跡を守る会」も結成され、遺跡保存の声が急速に高まった。とくに一区に当る地点には区営プール建設が予定され、このため池淵遺跡の第二次調査が計画された。発掘は昭和四八年九月八日~一〇月一五日の間実施された。

発掘区は第一次調査の一区であり、ローム層中遺構調査面積は三一三㎡であった。発掘された礫群は第一次調査の際の礫群一、第二次調査で礫群二・三・四の計四礫群であった。

礫群一 前述のように、第一次調査で中世濠状遺構を調査中に発見されたもので、礫群一は濠状遺構底部を走る細い溝で分断されている。

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礫群は東西約四・五、南北二mの範囲に分布し、礫の総数は一八二個であった。そのうちの一一六個の礫は一・一×〇・六mの範囲に二重、三重にかさなり、集積されて、礫群一の中核となっていた。この礫の集積は礫群の西よりに位置し、礫群は礫の集積位置より東方へ二・五m延びていることになる。石器・剥片は礫の集積の西側から出土し、剥片二点が礫の集積からの発見であった。礫は赤化している。

出土遺物は石器三点に剥片一六点であった。石器一点は黒耀石製のナイフ形石器で、調整剥離が認められ、他二点は剥片をそのまま使用したものと推定される。剥片は黒耀石一四点、硅岩一点、頁岩一点であった。

礫群二 一区の北東隅に発見された。礫はほぼ南北に長く伸び、四mを測る。その幅は礫群の北部で二・五m、南部で一・四mである。礫の総数一四〇個以上で、そのうちの約七〇個は礫群の北端に集中し、その範囲は〇・七×〇・五mである。南端付近にも礫の数が多い。

礫群二の礫は割石が多く、大きさも他の礫群の礫に比して小さく、赤化している。礫の重なりは二~三段であった。

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遺物は礫群の西側から出土したが、礫の集積からは発見されなかった。

出土遺物には硬砂岩製のナイフ形石器一点、石器として利用したと推定される剥片二点、打面が三面認められ、横長の剥片を取った剥離痕を残している。

石器・剥片は南北に分れた礫群の中間

から都合五点出土した。石器は三点で、ホルンフエルス製刃器状縦長の剥片、調整剥離された黒耀石製縦長の剥片、黒耀石製小形のナイフ形石器である。

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礫群三 一区の北側中央付近に発見したもので、礫群二と四にはさまれている。礫の分布は北西幅二、北東幅一mで、礫の集積は北西寄りにあり、総数五四個以上のうちの三〇個が〇・六×〇・三mの範囲に、二~三段に重なり集っている。礫は赤化している。出土遺物には硬砂岩製の石器一点と剥片の一点がある。

礫群四 群四は一区北西側に発見され、都道四四四線寄りである。礫は大きく南北に分れ、北の礫群は〇・六×〇・三mの範囲に一五個、南の礫群は一・〇×〇・五mの範囲に二一個からなり、礫の集積は認められない。

この礫群の礫の赤化は著しく、なかには表面が果皮西に剥離した痕を残すものもあり、またタール状の付着物も顕著で、火熱を受けたことが明瞭であった。

礫群一・二・三・四は以上のような構造で、それぞれ石器・剥片をともなうものであったが、先土器時代の遺物には、第一次調査の際出土した尖頭器二点(既述)と石核がある。石核は礫群三の北四mの地点出土で、母岩が同一材と推定される

剥片四点、他に頁岩の剥片二点であった。

№<数2>67遺跡

石神井城跡・池淵遺跡の所在する東西に長くのびる舌状台地先端部に位置する遺跡である。池淵遺跡の東に隣接し、石神井町五丁目二二付近で、石神井公園敷地である。遺跡の広がりとしては、台央までを推定できるが、滝沢浩氏の指摘は台地縁辺(石神井池南岸)である。台央は住友グランド・住宅地となっている。禅定院が台地南下に位置する。台地縁辺で発見された遺構は先土器時代の礫群で、採集された遺物には縄文時代前期の諸磯B式土器がある。昭和五五年九月一五日の踏査では遺物の採集はできなかった。

№<数2>68遺跡

石神井池の東端、和田橋の北側にあり、石神井川の左岸台地縁辺に位置する。小田静夫氏指摘の先土器時代遺跡地であるが、付近はマンション等の並ぶ住宅地となり(昭<数2>55)、先土器時代の遺跡地であることの追認はむずかしい。

№<数2>69遺跡

『北西区部文化財総合調査報告(第一分冊)』に№<数2>64遺跡としてあげられているもので、小田静夫氏教示とあり、地籍は石神井町三丁目二一である。地図に示された№<数2>64遺跡は石神井池の南岸、№<数2>67遺跡の地点である。地籍では西武線石神井公園駅の東側商店街付近にあたり、地図に示された地点ではない。『東京都遺跡地図』には、地籍の地点が示されている。小田静夫氏は両書の調査員・製作者の一人であり、『都遺跡地図』で誤りを訂正したものと理解される。

№<数2>69遺跡は縄文時代中期の加曽利E式期の竪穴式住居跡が発見されたとある。今日(昭<数2>55)では確認することができない。

№<数2>71遺跡

『練馬区史』に高松町若宮八幡神社付近とある遺跡で、縄文時代中期の遺跡とされる。遺跡は石神井川左岸台地縁辺にあたり、『東京都埋蔵文化財包蔵地調査カード』によれば縄文時代早期及び中期(勝坂式・加曽利E式)の遺跡である。遺跡地は神社敷地とその付近で、神社の西方には畑地が展開している(昭<数2>55・9・4)。遺物採集を試みたが、発見できなかった。

№<数2>72遺跡

石神井川左岸台地縁辺に位置し、遺跡地の高松一丁目二〇は宅地となっているが、一丁目一九の大部分は栗苗木の育成中(昭<数2>55・9・4)で、遺物採集を試みたがひろえなかった。この遺跡も滝沢浩氏指摘によるもので、縄文時代早期の稲荷台式土器が発見されている。

№<数2>73遺跡

石神井川左岸台地縁辺に位置する遺跡で、№<数2>71遺跡の西方二〇〇mの地点である。地籍は高松二丁目九付近で、農家の屋敷になっている(昭<数2>55)。

この遺跡は滝沢浩氏の指摘によるが、縄文時代早期の山形押型文土器が発見されている。

№<数2>76遺跡

北に片寄りながら東上する石神井川は、石神井池付近から左右に激しく屈曲するが、№<数2>62・<数2>76・<数2>78・<数2>87遺跡の占地する台地が張り出すため、東上してきた石神井川は西武池袋線との交差地点で直角に曲り北上する。つまり、№<数2>76遺跡は西方から突出する舌状台地の先端付近に位置する。遺跡地は西武池袋線に接し、また西側には都道が走るため切通しとなっているが、大部分は農地で、一部に住宅が建っている(昭<数2>55・9・<数2>15)。

この地点で滝沢浩氏がナイフ形石器を採集し、遺跡として登録されているものである。踏査では遺物を採集することができなかった。

№<数2>78遺跡

『練馬区史』に谷原町一丁目石神井中学校東方、縄文時代中・後期と記述されている遺跡で、石神井川左岸台地の縁辺に位置し、現在の地籍では高野台一丁目八付近である。石神井東中学校東側の道路は三三mに拡幅され、遺跡はかなり破壊されたことになるが、その報告はない。現在(昭<数2>55)は住宅が建ち並び、わずかな空地を残すだけになっている。遺物を採集することはできなかった。

№<数2>79遺跡

石神井川左岸台地上の遺跡で、№<数2>78遺跡とは西方へのびてくる小さな谷をはさんで南北に対峙する。『練馬区史』では谷原町二丁目三四三〇付近とあり、縄文時代の中・後期の遺跡である。現在地籍では高野台四丁目一七付近に当る。№<数2>76・<数2>78遺跡の西側を通る三三m道路は、同じように№<数2>79遺跡の西側をかすめる。

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遺跡地はすでに住宅街で、遺跡の確認はむずかしい。

№<数2>80遺跡

『東京都遺跡地図』の地図に示された位置は、石神井川右岸台地の、下石神井三丁目一七付近の畑地であるが、遺跡一覧表では旧南田中町五七二他天祖神社裏となっており、『練馬区史』の南田中町天祖神社裏の遺跡に当ると理解される。天祖神社付近は地図上に№<数2>81が付され、遺跡一覧表と地図の位置が合わない。つまり、逆になっているのである。遺跡一覧表を基準にすれば、№<数2>81を№<数2>80に訂正しなければならない。

№<数2>80遺跡は旧南田中町五七二他、天祖神社裏付近に位置する遺跡で、神社境内から区立公民館と付近住宅地に亘る。遺跡は縄文時代早期(井草式)・中期に属するものであることが記録されているが、踏査では確認できなかった。

薬師堂遺跡(№<数2>81遺跡

『東京都遺跡地図』の地図に№<数2>80を付された地点で、『練馬区史』に南田中町薬師堂付近の縄文時代早・中期と記録された遺跡である。

遺跡は石神井川右岸台地にあり、石神井川をはさんで西北方に池淵遺跡や石神井城跡が位置する。旧南田中町六七〇他で、字名は上薬師堂である。薬師堂には上・下・北とあり、遺跡は上薬師堂付近のみのため、上を削除して薬師堂遺跡と呼称される。現在の地籍は下石神井三丁目一七とその付近で、大部分は梅林と畑地になっている(昭<数2>55・9・<数2>15)。『東京都埋蔵文化財包蔵地調査カード』によれば、縄文時代早期の田戸下層式、前期の諸磯B式・諸磯C式、中期の五領ヶ台式等の縄文式土器が採集されている。

№<数2>82遺跡

東上してきた石神井川が西武池袋線と交差する地点で直角に北へ曲る右岸台地に位置する。したがって、№<数2>76遺跡とは東西に対峙することになる。遺跡地は旧南田中町七九四で、現在の南田中三丁目七~八付近で、西武池袋線にそって南側を走る道路は遺跡地付近で低い切通しとなっている。

遺跡は先土器時代及び縄文時代の複合遺跡であるが、小田静夫氏は縄文時代中・後期の遺跡であることを指摘し、滝沢浩氏はローム層の断面に礫群を発見し、さらにナイフ形石器及び石核を採集している。

№<数2>83遺跡

石神井池の水が流下して石神井川に合流する地点が山下橋であるが、その山下橋南側の低い丘陵が№<数2>83の遺跡地である。旧南田中町九五二他で、現地籍は南田中五丁目二四と下石神井三丁目二五である。下石神井側は一部樹林となって旧地形が保存されている。他はすべて住宅地である。

『練馬区史』によれば、縄文時代中期の遺跡で、踏査では遺物を採集できなかった(昭<数2>55・9・<数2>15)。

№<数2>84遺跡

石神井川右岸台地に位置し、№<数2>82遺跡に隣接する。現在(昭<数2>55)都営住宅の富士見台三丁目団地のある位置である。小田静夫氏によれば、縄文時代中期の遺跡である。№<数2>82遺跡の縄文時代中期の集落は№<数2>84遺跡のものと同一集落になろう。

春木山遺跡(№<数2>85遺跡

石神井川の右岸台地に位置する。№<数2>76・<数2>82遺跡付近から北上してきた石神井川は、春木山遺跡付近で再び直角に折れ曲って東上し、この後の石神井川は練馬区のはずれまでこのまま直進することになる。春木山遺跡は先土器時代及び縄文時代の複合遺跡で、『東京都埋蔵文化財包蔵地調査カード』には、ナイ形石器やポイントの出土したこと、また縄文時代中期の勝坂式・加曽利E式・後期の加曽利B式・堀之内式などの縄文式土器の外、打製石斧の出土したことを記録している。

早稲田大学教授西村正衛氏は昭和三一年七月二六日~三一日の六日間、春木山遺跡の発掘調査を実施している。

№<数2>86遺跡

石神井川右岸台地にあり、№<数2>82・<数2>84遺跡とは小さな谷を一つへだてる。地籍は富士見台四丁目三六付近で、一部の畑地を除いて新しい住宅が建ち並んでいる。滝沢浩氏によれば、縄文時代中期の加曽利E式期の遺跡である。

№<数2>87遺跡

石神井川左岸台地縁辺に位置し、地籍は石神井町一丁目一四で、広い屋敷地をもつ住宅が並ぶ。滝沢浩氏指摘による先土器時代の遺跡で、礫群が発見されている。

№<数2>88遺跡

貫井五丁目円光院東側から石神井川右岸台地に入り込む小支谷を流れる、現在(昭<数2>55)は蓋をされて遊歩道に利用されている小河川の右岸台地に位置している。地籍は貫井一丁目三三~三四の地点で、現在(昭<数2>55)は住宅街となっているが、その東側の貫井一丁目三五は畑地で、ここまで遺跡がのびていれば十分に保護されていることになる。遺跡は滝沢浩氏の指摘により登録され、縄文時代前期の諸磯B式、土師器(鬼高式)が発見されている。住宅街、畑地の周辺を踏査したが、土器片を採集することはできなかった。

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中村橋遺跡(№<数2>89遺跡

石神井川右岸の舌状台地中央部に位置する遺跡で、貫井の小支谷は西側を走る。遺跡地の中央は中村橋駅前通りで、付近は商店街や住宅街となっている。中村橋駅前通りの西側は関口氏の広い屋敷で、この部分では遺構はかなり保存されていると思われる。この舌状台地に№<数2>90・<数2>95遺跡が所在しているが、それらは道路その他で分断されて独立した遺跡として把えられる。しかし、目白通りの建設によって住居跡が確認され、中村橋遺跡は目白通りにも広がり、№<数2>95遺跡に接続し、さらに№<数2>90遺跡とは隣接している。すなわち、中村橋遺跡は舌状台地のほぼ全域に広がる縄文時代中期の一大集落であったと推定される。

大沢鷹邇・芝崎孝両氏は道路建設現場で、道路わきに竪穴式住居跡の断面を発見した。住居跡は約二分の一残存していたが、破壊されるまでのわずかな時間で調査を実施した。出土遺物は完形・復元可能の縄文式土器八個体、破片若干、打製石斧一一、凹石一であった。縄文式土器は円筒形深鉢形一、キャリパー状の深鉢四、朝顔形の深鉢一、浅鉢形二で、勝坂式・加曽利EⅠ式・加曽利EⅡ式などである。調査者は一住居跡から形式の異る土器が一括して出土したことに関し、これらの土器を生活用具と理解することに疑問を提示した。

これら八点の縄文式土器のうち、底部にえぐり込み溝を有するキャリパー状深鉢(図<数2>49の5)は芝崎孝氏はとくに注意さ

れた。高さ三一・五、口縁径二五・〇、底径九・〇㎝の加曽利EⅠ式の土器で、底部縁辺には十字方向に四か所えぐり込み溝があり、焼成前に作られたものである。この種の土器は東京・群馬・千葉・埼玉・栃木など関東地方にのみ分布し、確認されている事例は一〇点にみたない。それらの土器は縄文時代中期に属している。

芝崎氏はえぐり込み溝の用途について、紐かけ溝であると推定し、なかに物を容れてつるされた土器で、特殊容器と考えた。

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三菱レーヨン遺跡(№<数2>90遺跡)

前述の中村橋遺跡の南に隣接する遺跡で、石神井川底地から右岸台地に入り込んでくる貫井の小支谷と向山の小支谷にはさまれた舌状台地の中央つけ根付近に位置し、現在三菱レーヨンの五階建社宅が建ち並んでいる。中村橋遺跡の集落と三菱レーヨンの集落とは一つの集落であったと

思われる。

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この遺跡は『練馬区史』編さんのための調査の際、社宅建設工事中に竪穴式住居跡を確認し、第二期工事にあたって昭和三三年一月二六日~二月二日まで発掘調査を早稲田大学考古学研究室が実施したものである。

第一期工事の際の調査では、竪穴式住居跡三軒の断面、炉跡二基、焚火跡一基が認められ、炉跡は竪穴式住居跡にともなうものであるから住居跡は五軒を数える。工事現場では縄文式土器、弥生式土器、土師器が発見されたが、大部分は縄文時代中期の加曽利EⅡ式であった。発見された住居跡は中村駅前通りより西側で、集落は丘陵西端にまで達する。第二期工事にともなう発掘では竪穴式住居跡二軒、炉跡二基、縄文式土器、石器が発見された。

一号住居跡 第一期工事で建設された建物の東に接近した位置にあり、その形状は不整円形で、五・八×五・六mで、床

はローム上面から約三〇㎝下にある。床の周縁(壁下)に幅一〇~三〇、深さ五~一〇㎝の溝がめぐり、柱穴は六個確認され、南側の柱穴2付近に小ピットが五個あり、その付近の周溝は乱れており、入口が設けられていたと推定された。炉跡は中央よりやや北寄りに位置している。炉跡の規模は径七〇㎝ほどで、その中央は径一五、深さ二〇㎝ほど掘り凹められている。炉跡に近接して径三五、深さ二〇㎝のピットがあり、用途不明であった。

遺物は炉跡付近に最も多く、東南の柱穴1付近で男性土偶一体が発見された。

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二号住居跡 二号住居跡は一号住居跡一一mのところにあり、北半分は道路にかかっている。また、南東の部分は破壊を受けており、全体を把握することはできなかった。形状は残存部分が角ばっており、一号住居跡とは異る。ピットは三基が確認されたが柱穴は東西に二基であった。炉跡は住居跡のほぼ中央に位置している。床の西側の周縁には周溝がめぐり、周溝は全体にめぐっていたものと思われる。

炉跡 二号住居跡の南側に炉跡二基が発見された。炉跡には埋甕をもち、発見時採土工事のために付近は削平さ

れ、住居跡の状況は不明である。

出土遺物 土偶を除いて土器・石器はすべて二軒の住居跡付近からの出土で、どちらの住居跡に所属するか確定することはできなかった。

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土偶 一号住居跡から男性土偶一個が出土した(図<数2>52の上段)。土偶は胸・胴部のみで、現存長七・五、胴部幅二・五、厚さ二㎝で、のどのところに径六、深さ三㎜の穴がある。股間には男根と思われる突起があり、女性土偶に特有の造形は全く認められない。土偶は通常女性をかたどったものであり、この土偶のような男性は珍しい。

土器 発掘調査によって出土した土器片はリンゴ箱で四箱分あり、推定復元は九個が可能であった。

土器の形式は小片二片を除きすべてが加曽利EⅡ式であり、小片は勝坂式と阿玉台式であった。このことから、住居跡二軒とも縄文時代中期の加曽利EⅡ式期に属するものと理解される。

和田哲氏は加曽利EⅡ式を六類に分類して報告した。第一類隆起線文 細い粘土紐を土器にはりつけて文様としたもので、この種の土器は約三割を占めた。第二類条線文 縦または斜方向に条線を付したもので、約二割。第三類は磨消縄文、この分類は文様ではなく手法で区別したもので、付した縄文の一部を消去するという手法である。この種の土器は約一割。第四類は沈線文、ヘラで描く沈線の文様で、土器量は約二割であった。第五類縄文 縄文の外に文様をもたないもの。第六類は無文 文様なく平滑なものの。第五・第六類の二類に属する土器はわずかであった。

石器 出土した石器の合計は三一個であった。石斧は二三個で最も多く、打製二二個、磨製一個であった。打製石斧は撥型が多く、短冊型は少ない。分銅型は皆無であった。磨製石斧は乳棒状を呈す安山岩製のものであった。凹石は八個であった。

石器の石質は打製石斧の場合砂岩が多く、凹石は緑泥片岩と花崗岩であった。

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№<数2>91遺跡

貫井の小支谷をはさんで、中村橋遺跡・三菱レイヨン遺跡と東西に対峙する位置にあ

る。この小支谷の先端は石神井川の底地に接近するので、№<数2>91・№<数2>92・№<数2>96の位置する台地は、あたかも島状を呈する。№<数2>91遺跡地は貫井中学校と住宅地になっている。

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『練馬区史』によれば、旧貫井町九九二で竪穴式住居跡一軒が発見され、土師器の他土製紡錘車、炭化クルミが出土した。この住居跡は練馬区史編さんにともなう昭和三二年の踏査で、道路工事によって発見されたものである。

昭和三三年八月二五日~八月二七日には樋口清之氏指導によって都立鷺宮高校の生徒が発掘調査を実施しているが詳細は不明である。

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『東京都埋蔵文化財包蔵地調査カード』では、出土遺物に縄文式土器(勝坂式・加曽利E式)、土師器(鬼高式・国分式)、須恵器があり、竪穴式住居は鬼高期とされる。

№<数2>92遺跡

石神井川右岸台地の入り込む貫井の小支谷の西側台地縁辺にあり、現在の練馬区立練馬第二小学校敷地とその付近に当る。『練馬区史』によれば、縄文時代中期の遺跡であり、『東京都遺跡地図』をはじめとする文献は、すべて『練馬区史』による。現在(昭<数2>55・9)練馬第二小学校付近は密集した住宅地で、遺物の採集はできなかった。

№<数2>93遺跡

石神井川右岸の、舌状台地つけ根付近に当り、貫井の小支谷が南下したあと西上する南岸台地に位置する。西武池袋線富士見台(旧貫井)駅が遺跡地とされる。萩原弘道氏のあげる「東京都内遺跡(弥生式・土師式)地名表」と「東京都内の分布図」によると、弥生時代の遺跡となっている。昭和五五年九月四日、駅周辺の路地を歩き、軒下など詳しく観察したが、遺物は全く見当らなかった。駅や住宅の改造の時に観察し、遺跡の確認をすべきかと思われる。№<数2>93遺跡は萩原弘道氏以外、その後の調査では確認されていないようである。

№<数2>94遺跡

石神井川右岸台地にあり、地籍は貫井四丁目二九・三〇・三一付近である。滝沢浩氏がフレイクを採集し、先土器時代遺跡として登録された。付近は住宅地となっている。

№<数2>95遺跡

石神井川右岸の、貫井小支谷の右岸縁辺に位置し、新・旧道路が複雑に入り込んでしまったため、旧地形はほとんど残っていない。№<数2>95遺跡は№<数2>85・<数2>90遺跡に連続する集落跡と理解される。滝沢浩氏はこの地点で縄文時代早期の茅山式土器を採集し、遺跡地と確認された。

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昭和五五年九月四日に踏査したが、三叉路に狭まれた高台(道路の切通しのため、旧地形の残存はこのように感じられる)に須賀神社が位置し、神社裏側には塚が残存している。

塚にはかつて杉の大木がそびえていたらしく、大きな切株がみられた。神社と塚の周辺で縄文時代早期の土器が三片採集できた。

№<数2>96遺跡

『東京都遺跡地図』で詳細地点不明とされながらも、貫井五丁目一二・一五・一六付近に比定されている。この地点は石神井川の低地と貫井の小支谷にはさまれた三角地台地の中央部で、円光院の西側付近である。円光院の空地・庭園を観察したかぎりでは、土器の採集はできなかった。

『東京都埋蔵文化財包蔵地調査カード』によれば、弥生式土器、土師器(鬼高式)、須恵器が採集されている。

№<数2>97遺跡

石神井川左岸台地に位置し、地籍は春日町二丁目一〇・一一付近で、同一一は住宅地となってしまったが、同一〇の大部分は現在(昭<数2>55)も畑地となっている。

『東京都遺跡地図』によれば縄文式土器が採集されたとあるが、踏査では採集できなかった。№<数2>97遺跡に隣接して尾崎遺跡(№<数2>98遺跡)がある。

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尾崎遺跡(№<数2>98遺跡

尾崎遺跡は春日町五丁目一〇・一一付近を遺跡地としており、石神井川左岸台地縁辺から低地にかけて広がり、先土器時代から近世に亘る遺構・遺物が発見されている。

仮称区立春日小学校建設に伴う発掘調査の結果が知られるまでは、弥生時代の遺跡として取りあつかわれていた。堀野良之助氏旧蔵の弥生式土器()が春日町の台地縁辺から出土したことが知られ、その出土地点は尾崎遺跡地内であり、尾崎遺跡の確認調査時には、住居跡が確認されていた。

尾崎遺跡の調査は滝口宏早大教授を団長とし東京都から派遣された小林重義・蟹江康子両氏を中心に発掘を進めたもので

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ある。昭和五四年七月五日から八月三〇日まで確認調査、五五年一月一六日から六月一二日まで本調査が実施された。調査の対象面積は学校建設用地全域で、八六〇〇㎡、そのうち台地部分二七〇〇㎡、低地部分五九〇〇㎡であった。

確認調査では台地部分にグリッド方式、低地部にトレンチ方式を用いた。台地部分のグリッドは一〇m四方とし、そのうち四m四方を発掘した。

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台地部分の土層はⅠ層の黒色層に始まり、立川ロームの第一黒色帯、第二黒色帯が認められるなど武蔵野台地における層序と変りない。ただ深さ一m位までトレンチャーで深耕され、旧状をとどめる地点はわずかであった。また、台地から低地へ移る傾斜面では第Ⅱ黒色帯以下の土層であり、この地点ではトレンチャーの深耕もなく、平安~縄文の包含層が残存していた。

台地部分で確認された遺構は近世の墓壙跡六九基、溝跡六本、平安時代の住居跡二軒、土壙二基、縄文時代早期の焼土跡二基、先土器時代の礫群一基などであった。低地部分では縄文時代早期の包含層が認められたが、遺構は確認されなかった。

尾崎遺跡の大部分は旧愛染院の用地で、墓跡や溝はそれに伴うもの。墓壙はⅡ層から掘り込まれ、円形または方形を呈している。それらに伴う出土遺物に、寛永通宝、刀子、キセル、染付盃、灯明皿、カワラケなどがあり、Ⅰ層の耕作土層から茶碗、皿、徳久利、擂針、カワラケなどの陶器片が出土した。

平安時代の住居跡は台地の裾に位置し、第一号住居跡はⅡ層に掘り込み、方形を呈することが確認された。内部の発掘は実施せず、覆土上面から須恵片二点、自然石を利用した支脚一点が出土した。第二号住居跡は第一号住居跡の北東に隣接し、一辺約三mの長方形を呈するプランと思われ、東壁中央部にカマドが確認された。出土遺物に台付甕・長甕・坏片などがある。

弥生時代の遺構は発見されなかったが、後期に属する壺・甕・坏等の破片が出土している。

縄文時代早期の第一号焼土跡は七〇×一二〇㎝の範囲で、周辺から撚糸文と条痕文の土器片が出土し、第二号焼土跡は遺構としての明確さを欠いた。

縄文時代の住居跡は確認されなかったが、土器は中期(勝坂式・加曽利E式)、前期(諸磯D式)、早期(撚糸文・押型文・条痕文)のものが出土し、なかでも撚糸文と条痕文土器が九割を占めた。他に時期不明のものもあった。

トレンチャー深耕によって土層はかなり混乱していた。しかし、台地縁辺部には早期の包含層が良好な状態で残存していた。

石器は石鏃・礫器・敲石・磨石・スタンプ状石器・打製石斧などであった。

先土器時代の礫群は第Ⅱ黒色帯の下部に発見され、〇・五×一・二mの範囲に砂岩・チャートの礫が一四個認められた。そのうち火を受けたと思われる礫が数点あり、礫群はグリッド内で調査のため、全体が把握されずさらに拡がると思われた。

先土器時代の石器は耕作土層から切出形ナイフ形石器、尖頭器、ドリル、石核などが発見され、Ⅲ層では頁岩製のブレイ

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ド、Ⅳ層ではナイフ形石器、Ⅴ層の第Ⅰ黒色帯からナイフ形石器、第Ⅱ黒色帯のⅦ~Ⅸ層からナイフ形石器、切出形ナイフ形石器、スクレイパー、彫器、溝切り具、ブレイド、石核、台石など、Ⅹ層では石斧、スクレイパー、ハンマーストーンなどが出土している。この層からの出土と推定される局部磨製石斧一点がある。

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昭和五五年、確認調査につづいて本調査が実施された。遺構の確認された台地の保存が決り、確認調査のCトレンチで水路部分にも縄文時代早期包含層が認められ、その近くに焼土跡が発見されたこともあって、本調査はCトレンチの低地部分を対象とした。発掘面積は約八〇〇㎡で、検出された遺構は近世の溝一、中世~近世にかけての溝三、井戸一、柱穴群一、平安時代の井戸一、弥生時代の溝一、粘土採掘壙一、土壙一であった。遺物包含層は近世、中世、古噴~弥生、縄文、先土器時代の植物化石層などが認められた。土層は第4表の通りで、礫層までの間に一五層に分けられた。縄文式土器包含層は五層に分かれ、最下部は草創期の文化層と推定される。

溝は合計五本発見されたが、一号溝は近世の根切り溝と推定され、台地縁辺を西から東に向う二号溝は中世末~近世初頭の用水路と考えられる。台地から低地に向って延び、二号溝に連結する三号溝は排水溝であろう。四号溝は柱穴群中にあり、建物にともなう排水溝と考えられる。五号溝は二号溝の北側を走る幅約八〇、深さ約五〇㎝の溝で、覆土から弥生時代の壺・甕片が出土しており、弥生時代の環溝濠の一部と推定される。

土壙は八基を数えたが、一号~六号は中世末~近世初頭の墓壙で、七・八号は弥生時代に属し、八号は土器造りのための粘土採掘壙である。

井戸は二基発見され、一号井戸は近世初頭のものと思われるが、二号井戸は平安時代のものと推定される。二号井戸は径

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約三mで、周囲に板抗を折って土溜めとし、まいまいず井戸風である。出土遺物に、「仲」の墨書のある須恵器坏・土師器・火きり臼などがある。

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柱穴群は旧愛染院の近世初頭の建物跡と考えられる。

出土遺物は人工遺物と自然遺物に分けられ、人工遺物は近世~先土器時代の土器・石器・木製品・古銭など、自然遺物は二号溝出土の近世初頭の貝やクルミ・モモなどの種子、先土器時代植物化石である。

土器は近~中世の陶磁器・カワラケ(図<数2>66)、平安時代の須恵器坏、土師器坏、弥生時代末期の壺・台付甕、縄文式土器(図<数2>671~5)などである。このうち、二号井戸出土の須恵器坏は三枚重ね(図<数2>67の6・7・8)て、その一枚目の坏体表部に「仲」の墨書があり、さらに底内面は平滑で、すずりの代用品に利用されたのではないかと思われる。

土器のなかで注目されるのは早期縄文式土器である。第Ⅷ層―JⅠ・JⅡ層出土の野島式・鵜が島式・茅山式(図<数2>68)は早期末の条痕文土器で、絡条体圧痕を口辺にもつ子母式(図<数2>68の1)も出土している。第Ⅷ層―JⅢ・JⅣ・JⅤ層からは約三〇〇〇点の撚糸文・無文・押型文が出土しており、関東縄文時代の土器編年上、その資料的価値は研究者の等しく強い関心を寄せているところである。

撚糸文土器は花輪台式(図<数2>70の<数2>25・<数2>26・<数2>27)や稲荷原式とよばれる稲荷台式系の新しい撚糸文土器(図<数2>70の4~<数2>21)で、これに伴って多くの無文土器が出土し

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ている。JⅣ層では撚糸文土器を中心に無文土器(図<数2>69)、絡条体圧痕をもった山型押文(図<数2>70の<数2>28・<数2>29・<数2>30)が加わり、さらに草創期の隆起線文土器(図<数2>70の1・2・3)も出土している。

石器は縄文時代早期及び草創期に属するものが多く、有舌尖頭器、局部磨製石斧、打製石斧、礫器、スタンプ型石器(図<数2>71)などが認められる。

木製品では二号井戸出土の火きり臼が顕著な遺物としてあげられる。スギまたはヒノキ製の板で、現存長一四・五、幅一・五㎝で、径約九㎜の火きり穴が四つずつあけられている(図<数2>69の<数2>11)。

古銭には一号土壙出土の開元通宝・洪武通宝・永楽通宝、一号井戸出土の天聖元宝などがある。

自然遺物は前述のように、近世初頭と先土器時代のものであるが、後者は第Ⅹ層から多量に出土した樹木や種子である。それらはカラマツ、ヒメバラモミ、トウヒ、チョウセンゴヨウなどの亜高山植物で、また第Ⅹ層の花粉分析の結果、ミツガシワ、ミズバショウ、ブナ属、ハンノキ属、オミナエシ科、タテ科などの植物花紛が検出されており、これらの植物相から、洪積世末期の練馬は標高一五〇〇~二〇〇〇mの高山の気候にほぼ等しかったと判断される。

№<数2>99遺跡

石神井川左岸台地縁辺に位置し地籍は春日町五丁目二〇付近である。『練馬区史』では春日町二丁目練馬中学校東方台地、縄文早・中期と記録された遺跡で、昭和五五年現在、栗林・畑地・住宅地になっている。

踏査では遺物を採集することができなかった。

№<数3>100遺跡

石神井川左岸台地の、早宮一丁目一〇に位置し、この地点は植木園となって旧状が保護され、その周辺は宅地となっている。昭和五五年九月一六日の踏査の際、植木園の地表観察によって土師器・須恵器坎の細片多数が採集され、それらは平安時代の所産と判断できた。

№<数3>100遺跡は『東京都遺跡地図』の図示地点と地籍は前述の通りだが、出土遺物や年代は先土器・縄文・弥生となっており、踏査結果と異っている。参考文献として大沢・芝崎氏著「石神井川流域の無土器時代遺跡」をあげており、この文献によっ

ていることが明らかであるが、大沢・芝崎両氏の発見地は石神井川左岸台地縁辺で、№<数3>100遺跡地点とは異っている。この誤認は『北西区部文化財総合調査報告(第一分冊)』が最初で、『東京都遺跡地図』はこれを無批判に継承した結果であろう。

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大沢・芝崎両氏が昭和三四年三月二〇日に発見した遺跡は早宮一丁目一八(旧仲町四丁目四五三一)付近で、東早淵遺跡と命名された。礫群・石器・土器は石神井川左岸台地斜面の始まる変換線東西五〇mの範囲で、当時は畑地であった。西角付近は現在でも畑地である。

採集された石器は、砂岩製ポイント(一部欠失)、チャート製サイドスクレーパー、頁岩及砂岩製剥片各一、頁岩・砂岩・黒耀石製石片一六個で、繩文時代中期に属する土器片、弥生時代土器片などが出土している。礫群は石器・土器採集地点より西方五〇mの切通しローム面で発見された。礫群は硬質ローム土中にあり、握挙大円礫を中心に径三〇㎝範囲内に小礫三個、円礫一個があった。礫群の直上よりチャート質石片が出土した。

№<数3>101遺跡

石神井川左岸台地縁辺に位置し、地籍は早宮三丁目一五付近で、現在(昭<数2>55)畑地のままである。『埋蔵文化財包蔵地調査カード』によれば、縄文時代早期の山形押型文土器が採集され、佐原真氏が保管しているという。

№<数3>102遺跡

石神井左岸台地縁辺にあり、元中大グランド入口の東山下橋の西北上である。地籍は早宮三丁目二九・三〇付近で、滝沢浩氏は豊島園東方とした。同氏は、昭和二七年六月にローム面三〇㎝の所に礫が一面に分布するのを発見し、その後日本考古学研究所で調べ、礫の付近から黒耀石片一個を発見した。

昭和二八年一一月には、大沢鷹邇氏は遺跡地の宅造にともない、硬質ローム面上に黒耀石製小形切出形石器一個、石片三個を発見し、この地点から東へ六mの所に礫群が存在した。他にマイクロ・ブレイドの形態をもつ黒耀石製ブレイドが黒色土中から出土した。

現在(昭<数2>55)遺跡地付近は階段状に家屋が並んでいる。

№<数3>103遺跡

石神井川の支流、田柄川の流域にはいくつか遺跡が分布するが、№<数3>103遺跡がはそのうちの一つで、田柄川右岸台地に位置する。地籍は平和台一丁目一四とされている。『練馬区史』ではじめてとりあげられたときは、北町一丁目金乗院南、縄文時代中期であった。平和台一丁目一四はすでに住宅地となってしまい(昭<数2>55・<数2>11)、遺物採集はできない。付近に畑地となっている地点もいくつか残されており、表面採集を実施したが、遺物を発見することはできなかった。

№<数3>104遺跡

石神井川支流の田柄川右岸に位置し、『東京都遺跡地図』での地籍表示は氷川台二丁目七で、吉田格・滝沢浩氏らによる調査があったとされ、出土遺物として先土器時代石器・礫群をあげている。吉田格・滝沢浩氏らの発掘地点の旧地籍は仲町二丁目一二七の一号で、現在仲町台団地となっている所である。

『北西区部文化財総合調査報告(第一分冊)』をみると、吉田・滝沢の発掘地点は氷川台二丁目一三であり、『東京都遺跡地図』の№<数3>105遺跡に当る。以上のように従来の遺跡地名表には若干の混乱がある。

『東京都遺跡地図』の表示する<数3>104遺跡の地点は、田柄川にかかる今神橋の南側で、台地下の低地である。現在、町工場や住宅の密集地で、遺物散布を確認することができない。しかし、地形からみて、先土器時代の遺跡地とは考えられない。吉田・滝沢氏らの発掘地点は前述のように、旧仲町二丁目一二七の一号で、現地籍は平和台一丁目一七に当り、発掘地は同一六と同一七を区切る道路際であり、田柄川右岸台地の傾斜面である。

吉田・滝沢氏の調査によると、地層は黒色土・軟質ローム層(五~八㎝)・硬質ローム層となり、硬質ローム層上面から一〇~一五㎝下方に礫群が上下二段になって発見された。出土遺物にチャート製ナイフ状石器二、チャート製エンドスクレイパー二、黒耀石製切出形石器一、石核一などがある。

昭和三三年宅造の行なわれた際、大沢鷹邇・芝崎孝両氏はローム層面で頁岩製コアスクレイパー一、使用痕のある縦長の黒耀石製剥片一、黒耀石・チャート・砂岩の剥片が四片、石片を採集した。また、握拳大の河原石がみられ、礫群の一部と

推定された。

№<数3>105遺跡

田柄川右岸台地にあり、現在の少年鑑別所敷地に当る。『東京都遺跡地図』では先土器時代及び縄文時代後期の遺跡とされるが確認することはできなかった。

№<数3>106遺跡

田柄川右岸の低台地にある遺跡で、練馬区立仲町小学校になっている。滝沢浩氏の指摘により登録され、縄文時代後期の掘之内Ⅱ式が発見されている。

茂呂A地点遺跡(№<数3>107遺跡

石神井川右岸台地縁辺に位置する。石神井川は富士見台四丁目付近から東上して氷川台三丁目付近で北方に折れ、そのため茂呂A地点遺跡は栗原遺跡と石神井川をはさんで東西に対峙する。地籍は羽沢三丁目一一・一二・一三付近で、都立大山高校の敷地である。

滝沢浩氏によれば、縄文時代早期の井草式・夏島式・稲荷台式・田戸下層式・田戸上層式、前期の諸磯a・b・c式、後期の掘之内Ⅱ式、弥生式土器などの外、局部磨製石斧が出土している。

№<数3>108・№<数3>109・№<数3>110

石神井川右岸台地に当り、元中大グランド上である。恐らく中大グランド造成に当っては遺跡地の一部を削り取っていると思われる。遺跡地は大部分が現在区立開進第二中学校敷地となり、付近の住宅地にも及んでいる。中学校の南に隣接する真行寺墓地で先土器時代石器剥片の出土を滝沢浩氏が指摘しており、都の『埋蔵文化財包蔵地調査カード』によれば、先土器時代の石槍・局部磨製石斧、縄文時代早期の井草式・夏島式・稲荷台式・田戸下層式・茅山式・押型文、前期の諸磯a・b・cの各縄文式土器及び石鏃や打製石斧が出土している。縄文時代初期の各土器を出土する遺跡であるが、踏査では土器・石器の採集はできなかった。

また、この遺跡地の付近に右馬頭屋敷(屋敷山)とよばれる館跡(№138)が所在したのではないかと推定されている。

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№<数3>111遺跡

石神井川流域右岸所在遺跡のなかでは、№<数3>107の茂呂A地点遺跡とともに、練馬区内の最東端に位置する遺跡である。右岸台地がゆるやかに石神井川に向って傾斜する低地にあり、滝沢浩氏がこの地点で縄文時代前期の黒浜式土器が出土したと指摘している。

№<数3>112遺跡

石神井川右岸から氷川台三丁目付近で、石神井川に流れ込む小河川がつくる小支谷の右岸縁辺に位置する遺跡で、現在区立開進第三中学校敷地の西側に当り、運動場となっている。

『東京都遺跡地図』によれば縄文式土器が出土している。

№<数3>113遺跡

石神井川右岸台地縁辺に位置し、遺跡地は昭和五五年九月一六日現在住宅地となって、遺物の散布等確認することはできなかった。都の『埋蔵文化財包蔵地調査カード』によれば、滝沢浩氏教示として縄文時代中期の勝坂式及び加曽利E式土器の出土が記録されている。

№<数3>114遺跡

石神井川右岸台地にあり、台地縁辺に接して石神井川が流れ、斜面は崖になっている。崖上に高稲荷神社が位置し、遺跡地は神社境内とその付近である。

『東京都遺跡地図』では、先土器時代の礫群や縄文式土器の出土を記録している。昭和五五年九月一六日、踏査を実施した時に丁度社殿の基礎工事を行なっており、黒土層が掘り返されていた。かなり詳細に観察したつもりだが、遺物は発見されなかった。

№<数3>116遺跡

板橋区大谷口付近で石神井川に合流する小河川は豊玉から発し、支谷を形成している。№<数3>116遺跡はこの小河川の左岸台地縁返に位置している。『練馬区史』によれば、旧小竹町二五二〇付近で、縄文時代早期の井草式が発見されている。

№<数3>118遺跡

大谷口付近で石神井川に合流する小河川左岸台地には、№<数3>116・<数3>118・<数3>119の三遺跡が知られている。№<数3>118遺跡は小竹町二丁目三〇・四〇付近に縄文時代早期茅山式が出土したと滝沢浩氏により指摘されているものであ

る。

№<数3>119遺跡

この遺跡は『練馬区史』で、旧小竹町二三〇五付近、縄文時代中・後期として記録されているものであり、その後の度々の調査でもこれ以上のことは分っていない。現在、該当する地域は住宅地となっており、遺跡地の確認はむずかしい。

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栗原遺跡(№<数3>129遺跡

栗原遺跡は石神井川左岸に位置し、西方から石神井川に流込む田柄川とによって形成される半島状の台地のほぼ全体に亘る。現在城北中央公園・立教大学グランドとなっており、氷川台一丁目五~一〇の範囲で、北東部は板橋区に入る。

栗原遺跡は高野進芳氏らによって早くから知られ、昭和三〇年に立教大学による総合運動場建設中に発掘調査が実施された。造成工事は発掘開始前にかなり進行し、未着工部分の台地東縁部が発掘された。昭和三一年一二月に発掘開始し、昭和三二年七月に終了した。

発掘の結果、弥生時代後期の竪穴式住居三基、奈良平安時代の住居は一五基発見された。

YⅠ号住居跡はH4号と複合し、四・五×一七・五mの規模

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と推定され、東側床面で先端が二叉になった二本の炭化木が検出された。ピットは二個確認され、炉は北壁よりのほぼ中央に認められた。炉から鉢形土器(図<数2>76の1)が出土した。また、口縁部に棒状付文八本を四か所につけた甕形土器(図<数2>76の2)や図<数2>76の3・6などがあり、壺形土器(図<数2>76の7)が出土した。

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Y2号住居跡は五×五mの隅丸方形を呈し、柱穴は四個、炉はやや西側に寄っていた。東壁に接して径七〇㎝のピットが検出された。出土遺物に高坏形土器(図<数2>76の<数2>11)、壺形土器(図<数2>76の4)、台付甕形土器(図<数2>76の8)がある。

Y3号住居跡は二六・四㎡の面積を有し、柱穴は五個、壁外にピット六個が発見された。床面全体に木炭がみられ、炉は北隅よりに位置している。出土遺物には壺形土器(図<数2>76の5)、台付甕形土器(図<数2>76の9・<数2>10)がある。

以上三基の弥生時代住居跡から出土した土器の形状・文様によって弥生町式と推定され、ほぼ同時期に集落を構成していたものと思われる。

奈良平安時代の住居は表6の一覧に示す通りであるが、土師器の形態によって二時期に分けることができる。A期にH3

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・H8・H9・H<数2>10・H<数2>14・H<数2>15、B期にH1・H4・H5・H<数2>11・H<数2>12を分類することができ、A期は八世紀、B期は九世紀にあてることができる。

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一五基の住居跡のなかで、鉄製品の顕著に出土したもの、砥石を多く出土したものが認められる。B期のH5号住居跡では刀子三、鏃一、鎌一、鋸一、鎖二、紡錘車一、鑿一、L字状鉄器、留金貝三、砥石五が発見され、B期のH<数2>12では手斧

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一、鏃一、紡錘車二、砥石一が出土している。H5とH<数2>12との間の距離は二七mで、そこにはH6・H7・H8・H9住居跡が位置し、H7を除いてはA期に属し、H5とH<数2>12とは隣接する住居と認めることができる。両者とも鉄製品と砥石を顕著に出土したことは、栗原遺跡B期集落における鍛冶を業とした住居であったことを意味しよう。工具・農具の他、鏃及び馬具の一部と推定される鎖が出土していることは注意される。

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先土器時代及び縄文時代の遺構は発見されなかったが、先土器時代のエンドワクレイパー、縄文時代の石器・土器が採集されている。立教大学の調査では先土器時代の遺物は発見されず、縄文時代の局部磨製石斧(図<数2>82の1・2)及び打製石斧(図<数2>82の3)や縄文式土器としては、早期の夏島式(図<数2>83の1~<数2>13)、稲荷台式(図<数2>83の<数2>14~<数2>16)、花輪台Ⅱ式(図<数2>83の<数2>21)、茅山式(図<数2>83の<数2>22~<数2>24)、前期に属する土

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器では関山式(図<数2>84の<数2>25~<数2>27)、黒浜式(図<数2>84の<数2>28~<数2>34)、諸磯a式(図<数2>84の<数2>35)、後期に属する土器では堀之内Ⅰ式(図<数2>84の<数2>36~<数2>44)などが出土した。

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なお、H9号住居跡は藤島亥治郎博士によって復元され、今日もなお城北中央公園に保存されている。

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<章>

中新井川流域の遺跡と遺物

<本文>
中村南遺跡(№<数3>120遺跡

妙正寺川は中野区を貫流して江戸川に合流する河川であるが、江古田公園付近で中新井川が流れ込む。中新井川は妙正寺川の支流で、中野区と練馬区との区境を西上し、中村南で北上する。中村南遺跡は中新井川の右岸台地に位置し、中村南一丁目八~一二、同二〇~二八に亘る広い範囲を占めている。現在(昭<数2>55・8・9)遺跡地の大部分は営農地に指定され、一部住宅街となって高層住宅も建てられている。

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中村南遺跡は昭和三六年春、小田静夫氏が発見されたもので、黒耀石やチャートの細石刃核採集の報告されたことによって注目をあびた遺跡である。報告をされた細石核は四点(図<数2>86の1・3・7・<数2>10)と細石刃(図<数2>86の<数2>16・<数2>17)、掻器(図<数2>86の<数2>14)であった。その後、豊島・板橋・練馬地域文化財総合調査にあ

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たって小田静夫氏らによる発掘調査が実施され、発掘地点には従来から石器が最も濃密に分布していたところが選ばれた。採集されていた石器は前述の外に有舌尖頭器・掻器・彫器・石鏃・石鎌(図<数2>86)などがあり、これらの採集地点を中心に二㎡のマスが、東西六、南北一七組まれた(図<数2>85)。

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発掘の結果、耕作攪乱によって細石刃文化層は削り取られ、わずかにソフトローム下半部に残された剥片・原石・細石刃核(図<数2>87)がえられたにすぎなかった。

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発掘区のなかで円形を呈した縄文時代の竪穴式住居が発見された。住居のほぼ中央に炉が営まれ、阿玉台式土器が埋設されていた(図<数2>88)。柱穴は主柱穴が四本、

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副柱穴が六本認められた。住居跡から出土した縄文式土器は勝坂式(図<数2>90の1~9・<数2>12・<数2>13・<数2>17・<数2>23~<数2>25)と阿玉台式(図<数2>90の<数2>10・<数2>11・<数2>14・<数2>16・<数2>18~<数2>22・<数2>26)で、石器(図<数2>91)が六点発見された。

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発掘区やその周辺で出土した縄文式土器は勝坂式と阿玉台式に限られ、中村南遺跡における縄文時代集落は極めて単純であったことがうかがわれる。

№<数3>121遺跡

妙正寺川支流の中新井川右岸台地縁辺に位置し、昭和五五年八月九日現在、住宅街となっている。一部植木園となって遺物採集は可能であるが、発見できなかった。『北西区部文化財総合調査報告(第一分冊)』によれば、縄文時代中期の加曽利E式及び土師器の鬼高式が発見されている。

№<数3>122遺跡

中新井川右岸台地にあり、№<数3>120や№<数3>121などと同様、小

田静夫氏の発見によるもので、ここでは縄文時代中期の勝坂式が採集されている。遺跡地とその付近は現在も畑地として耕作されており、遺物採集はできるが、発見できなかった。

№<数3>123・<数3>125遺跡

中新井川左岸台地にある遺跡で、遺跡地の大部分は環状七号線になっているものと思われる。滝沢浩氏は縄文時代前期の諸磯C式、小田静夫氏は勝坂式を指摘しており、それぞれ地点を異にするが、複合遺跡として取りあつかうことができよう。

№<数3>126遺跡

中新井川右岸に位置する。中新井川に接した台地斜面で、豊玉南三丁目五に当り、付近は住宅街である。小田静夫氏は縄文時代中期の勝坂式の遺跡であることを指摘している。

№<数3>127遺跡

妙正寺川支流の中新井川の左岸台地斜面に位置し、地籍は豊玉南三丁目二八~三二で、学田公園・母子寮・保育園などとなっており、遺跡地の再確認はできなかった。

『埋蔵文化財包蔵地調査カード』によると、先土器時代のナイフ形石器が採集されているほか、土層断面に竪穴式住居が発見され、縄文時代中期の阿玉台式・勝坂式・加曽利E式、後期の堀之内式Ⅰ及びⅡ・加曽利BⅠ式があり、石器として打製石斧・磨製石斧・石鏃・石皿、装飾品の玦状耳飾りなどが採集されている。かなり内容の知られた遺跡ではあるが、正式の調査例は知られない。

№<数3>128・№<数3>131遺跡

妙正寺川の左岸台地にあり、中野区内に入ると江古田弁天遺跡・落合遺跡・片山遺跡など縄文時代の遺跡が密に分布している。妙正寺川をはさんで寺山北部遺跡と対峙する。山内清男氏が「武蔵高等学校裏石器時代遺跡」の位置について、「南面する丘上にあり、谷をへだてて結核療養所構内の遺跡(寺山北部遺跡)に対して居る」と述べていることによって、武蔵大学南側の遺跡は二か所に分かれていないことが知られ、№<数3>128と№<数3>131は連続して広い遺跡地を有するものと思われる。

この遺跡は山内清男氏指導のもと、旧武蔵高校史学部学生が昭和一一年三月に発掘したものである。住居跡は二基発掘さ

れ、勝坂式と思われる完形土器が出土している。当時、遺跡地内で道路工事が行なわれ、あちこちで竪穴式住居跡の断面が露呈した。

出土遺物には縄文時代中期の勝坂式・加曽利E式土器、石器に磨製石斧や磨石がある。