練馬区史 歴史編

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第三部 古代・中世

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第一章 律令制下の練馬

第二章 荘園と練馬

第三章 鎌倉期の豊島氏

第四章 南北朝・室町期の練馬

第五章 後北条氏の進出と練馬

<章>

第一章 律令制下の練馬

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第一節 行政区画
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練馬の地域は律令制の行政区画では、武蔵国豊島郡に属していた。八世紀半ばの武蔵国は久良・都筑・多麻・橘樹・荏原・豊嶋・足立・新座(新羅)・入間・高麗・比企・横見・埼玉・大里・男衾・幡羅・榛澤・那珂・児玉・賀美・秩父の二一郡(『延喜式』)であった。その開発には先進技術をもつ大陸系の高麗・新羅の帰化人に負うところが大きく『続日本紀』霊亀二年(七一六)五月一六日条には、駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野の高麗人一七九九人を武蔵国に移し、高麗郡を設置した記事がある。また同書の天平寳字二年(七五八)八月二四日条には、帰化の新羅人(新羅僧三二人、尼二人、男一九人、女二一人)を武蔵国に移して新羅郡を置き、さらに天平寶字四年(七六〇)四月二八日条には一三一人の新羅人をここに移したとある。この郡は後に新座郡となり、いまの埼玉県志木市付近に比定されている。

武蔵国分寺の建造事業には、こうした武蔵の各郡が瓦製造その他を担って参加している。国分寺址から出土する瓦の中には、へら書き、木印、型押しなど種々に刻んだ武蔵国内の郡名や郷名、人名などがみえる。豊島郡の「豊」や広岡郷と思われる「廣」などの文字瓦が出土している。しかし、この中にさきの新羅郡の郡名が見当らない。それは郡の設置が新しく、おそらく国分寺建造に間に合わなかったものとみられている。

律令制下の練馬地域は、豊島郡に包含された。承平五年(九三五)ころに編さんされたと推定される『倭名類聚抄』によると、豊島郡は日頭ひのと占方うらかた白方)・荒墓あらはか湯島ゆしま広岡ひろおか余部あまるべ駅家えきかの七郷を管したことが記されている。だが、このうち余

部・駅家の二郷は平安末の古写本「高山寺本」に記載されてないところから、豊島郡は七郷でなく五郷ではなかったかとみられている。

ところが、先の武蔵国分寺址から出土する文字瓦には豊島郡の管郷が、日頭・白方・荒墓・吉嶋(湯島は吉嶋の転訛)の四例で、『倭名類聚抄』とは郷名・郷数ともかなり異同があることが指摘されている(『豊島区史』通史編一)。問題は八世紀中ごろの、豊島郡内に広岡郷が存在したかどうかであろう。『豊島区史』では、「豊島郡の管郷は、当初は四郷であったが、その後天平寶字二年前後に同郡西北地域の開発によって広岡郷がくわわり、四郷から五郷となった」と記している。

これらの諸郷が、いまのどの地域にあたるか、その位置を定めるのは困難だが、一般に推定されるところでは、日頭郷を小石川の小日向付近に、占方郷(白方の誤り)を神田駿河台付近に、荒墓郷を日暮里・上野付近にあて、湯島郷は本郷湯島に、広岡郷を渋谷区広尾か、または練馬地方に充てている。

そこでこの広岡郷の故地であるが、『新編武蔵風土記稿』に「地名に尾と云は岡の下略なりと云は、廣岡は今の廣尾ならんといへり」とし、渋谷区広尾を充てるが、一方『大日本地名辞書』では「今詳ならず板橋、練馬、赤塚など頗廣平の地なればそれなるべし、再考するに板橋観明寺門前を平尾と云ふ」とあって平尾を広岡の名残りとし、板橋・練馬地方に充てている。

また、豊島郡広岡郷を証拠だて、その故地を練馬地方に比定するものとして『続日本紀』に次のような記事がみえる。

寶亀一一年(七八〇)五月、武蔵国新羅郡の人沙良眞熊等二人に広岡造ひろおかのみやつこむらじ)のかばねを賜わったとある。

当時賜姓には多く居地によって名称を賜うのが通例であり、新羅郡は後の新座郡、志木付近にあたり、練馬の隣地である。練馬区の西方の一部を含めたこの地域一帯は、古くから「広岡」の地名で呼ばれており、沙良眞熊の賜姓はそれによるものと考えられている。

『和名抄諸國郡郷考』では「廣岡連ひろおかのむらじの地名によりたるなるべし」とみえ、広岡郷の故地を練馬地方に推定している。以上これらの考え方が、現在では一応代表されるものであるが、多くは推測の域を出ないものといえよう。

一一世紀中ごろの武蔵国は「蘆荻のみ高く生ひて、馬に乗りて弓もたる末見ぬまで、高く生ひ茂」(『更級日記』)と表現されるように、弓をもつ馬上の武士の姿もかくれるほどに、蘆荻の生い茂る広漠たる原野のつづく景観であった。武蔵の国衙は府中に置かれ、二一郡一一九郷を管轄し(『倭名類聚抄』)その行政範囲は陸奥国につぐ大国であった。その人口はおよそ一三万〇九〇〇人(沢田吾一『奈良朝時代民政経済の数的研究』)と推定されている。

<節>
第二節 乗瀦駅
<本文>

さて、律令制下にあって国府と結ぶ交通路に登場してくるのが「乗瀦・豊嶋」の両駅である。

とくに「乗瀦」は、「アマヌマ」や「ノリヌマ」、それが訛って「ネリマ」とそれぞれ呼ばれ、その所在地の比定が、「アマヌマ」=杉並区天沼説(坂本太郎「乗瀦駅の所在について」西郊文化第七輯)および「ノリヌマ・ネリマ」=練馬説(菊地山哉「乗瀦駅所在考」西郊文化第五輯)に分かれるところであり、いずれも当地方にかかわる駅名として注目される。

両駅については『続日本紀』神護景雲二年(七六八)三月乙巳条に

とみえる。神護景雲二年三月、東海道を巡察した紀広名きのひろなの報告には、武蔵国乗瀦・豊嶋の二駅は「山(東山道)、海(東海道)両路を承けて」とあるようにその合流点に位置していて交通の往来がはげしいので、東山・東海両道と同じように馬一〇疋を置くよう奏上している。

両駅は中路たる資格によって駅馬一〇疋が奏上どおり配備されるとともに、三年後の寶亀二年(七七一)十月己卯条には、

武蔵国は東山道所属から改めて東海道に転属されている。東山道に属していたころは、武蔵国府から下総国府に至るには武蔵国内に乗瀦と豊嶋の二駅が設置されていたが、東海道に転属されてからは公定路が変更して店屋(町田市)・小高(川崎市小田中)・大井(品川区大井)・豊嶋(北区・台東区・文京区・千代田区の諸区内説)の四駅(『延喜兵部省式』)に整備されていった。

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八世紀半ばに登場した練馬駅や天沼駅に比定される「乗瀦駅」は、この『延喜式』が編纂された一〇世紀初めには全く姿を消している。

なお、乗瀦駅の区内位置については、平安期創建の本区内最古の古社で知られる白山神社付近に充てられている。

つぎに先に触れた郷であるが、郷は律令制の行政区画では最下級の単位であり、一郷は五〇戸によって構成され、一戸当りの平均人数は二五人程度とされているが、それは地域によってかなりの差があったようである。

広岡郷の一部に比定される律令制下の練馬地方の人びとの生活は、いったいどのようなものであったか、それを具体的に示す資料はない。しかし、本区を貫通する石神井川や白子川の流域には数多い先史集落の遺跡があり、また同地点に後の中世村落が重なるところから、水が容易に得られない武蔵野台地における生活の場は、ごく限られた個所にあったことは想像に難くない。

<章>

第二章 荘園と練馬

<節>
第一節 坂東駒と荘園
<本文>

武蔵国周辺には古くからまきが発達し、『延喜左右馬寮式』に、石川牧(神奈川県久良岐郡)、由比牧・小川牧(東京都西多摩郡)、立野牧(埼玉県南埼玉郡)などの諸牧がみえる。律令制下において各国に軍馬を配置することを目的に設置されたものである。これらは貢馬の制度に基づく牧養地であって、勅旨牧として左右馬寮に直轄されていた。同じく『延喜兵部省式』によると、兵部省の管轄下に檜前ひのくま馬牧(東京都浅草周辺・埼玉県児玉郡)、神崎かんざき牛牧(埼玉県南埼玉郡)の官牧かんまきが記されており、左右馬寮に馬牛を調達したことがしられる。とくに檜前馬牧は、現在の浅草周辺にも比定されており、当時の行政区画では豊島郡に属している。檜前馬牧は豊嶋駅ときわめて近い場所に存在したと考えられるところから、その設置については、先の公定路「豊嶋駅」と深くかかわって、同駅が正規の駅に昇格し、駅馬一〇匹の配備が必要となった神護景雲二年(七六八)前後と推定されている(『豊島区史』通史編一)。

当時、武蔵国に散在する牧は「坂東駒」に代表される良馬の産地として、中央から高い評価をうけていた。官牧の長を、諸国では牧監と呼ぶのに対して、武蔵国だけが別当と称して配置されていた。ここで飼育し調練された貢馬は、別当が責任をもって毎年一〇月までに五〇疋を上納することが規定されており、もし貢納できない場合は、一疋ごとに稲二百束を代りに納入することが義務づけられていた(『類聚三代格』)。それはかなりきびしい負担であったといえよう。

この牧の別当たちは、武蔵の国一帯に勢力をふるう有力土豪であった。やがて律令制の衰退につれ、これらの土豪の手な

私牧しまきが、それまでの官牧にとって代るようになってくる。すなわち別当やその一党が、牧を基盤として勢力を扶植し、牧の中に開墾された田畑を含めて土地の開発やその経営をすすめ、さらに拡張をはかり、私有化を行ない、ついに荘園化する。そして、その荘園を基盤に、開発された荘園を守るための自衛手段として自ら武装化し、地方武士団となって成長していく。武蔵七党などその例である。私牧がすべて荘園とはいい難いが、私有地である点では同様の性格をもつものといえよう。こうした荘園を権門勢家、いわゆる中央の有力貴族や寺社、あるいは地方に土着した国司などに寄進してその傘下に属し、荘司・預所・下司など荘園内の年貢徴収や保安を司る荘官として、しだいに成長していったのである。武蔵国の荘園がすべて牧からはじまったものとは速断できないが、坂東武士が騎馬技術にたけていることは、かねて定評のあることであり、牧と武士のつながりから容易に考えられるところである。

さて、当地方の荘園であるが、史料にあらわれる豊島郡内の荘園名とその領主の明らかなものをあげると、平安時代から鎌倉時代にかけて存続した飯倉御厨みくりや荘園領主=伊勢内宮)、鎌倉時代の豊島荘(荘園領主=新熊野いまくまの)、室町時代の赤塚荘(荘園領主=鹿王院)が存在するが、その詳細については不明である。

豊島荘については、鎌倉幕府の事蹟を記した史書『吾妻鏡』仁治二年(一二四一)四月二五日条に、はじめて登場する。

「田地をもって博奕ばくえきかけものとなす事……四一半しいちはんを打つ事起るなり」の書き出しで、豊島又太郎時光と大宮三郎盛員の二人が四一半博奕で争いになった。『式目追加』の博奕禁止規定に抵触し、そのとがによって豊島荘犬食みようが幕府に収公されたという記事である。

みようというのは荘園の構成単位であり、一つの荘園に十数個から数十個にわたる名田みようでんがあった。官物所当・年貢・公事等諸課役は名田を対象に賦課され、その所有者である名主みようしゆや荘官は徴税の責任請負人であるとともに、この名田を経済的基盤として下人・所従を含めた労働力をもって経営した。

豊島荘犬食名は、豊島又太郎時光のそうした所領の一部であろう。この犬食(いぬばみ・いぬくい)の地は、現在どの場所

にあたるか確かなことはわからない。一説には足立区堀之内町か、埼玉県川口市南平柳の領家かといわれており、また一方では「犬」は「大」の誤りで、大食(おおぐい)であり、それは現在の荒川区尾久の地ではないかともいわれている(杉山博編『豊嶋氏の研究』)。

正史の上に登場する豊島荘は、以上の記述であるが、保元・平治の乱や源頼朝挙兵の際の豊島氏の動向からみて、豊島荘はおそらく平安末期には豊島氏の居館(北区豊島町清光寺付近説・北区上中里町平塚神社付近説)を中心に開発されていたのであろう。しかし、その荘域が石神井川の上・中流域、とくに練馬地方に及んでいたかどうかは判断しがたい。

当時の豊島氏は、康家が保元・平治の乱に参加してからいっそう勢を得て、ことに平治の乱後は覇権を握った平氏と結び、平氏にゆかりある新熊野いまくまの社にこの地を寄進して本所・領家と仰ぎ、みずからその荘官となって管理にあたった。その権益はその子清光に受け継がれ、しかも国衙の在庁役人として副知事に相当する武蔵権守ごんのかみに任じられている。またこの豊島清光は、その子葛西清重とともに源頼朝が下総国府から武蔵入りの際には、いち早く頼朝軍に参陣しており、所領は安堵されて有力御家人に加えられている。とくに清重は「源家において忠節をぬきんずる者也」(『吾妻鏡』)と、頼朝の信任があつく、のちに奥州総奉行に補任されている。

そのほか本区内に存在した荘園としては、松川庄(練馬・貫井・高松・田柄・向山・春日町付近)、永井庄(中村南・中村北・中村付近)、牛込庄(上石神井・下石神井付近)、広沢庄(小榑こぐれ=土支田四丁目付近)などの庄名が『新編武蔵風土記稿』に見えるが、その成立年代は不明である。

<節>

第二節 武士団と豊島氏
<本文>

平安期における律令政治の弛緩しかんは、各地に大きな混乱をまねいた。国司の任免やその任期の延長など、官職を利権視する風潮がさかんになり売位買官が公然と行なわれるようになった。そのため、私利をむさぼる国司や遥任国司などが出現して地方政治はいっそう荒廃し、治安の乱れや生活の不安はつのる一方であった。

郡司など地方の豪族や名主たちは家子いえのこ・郎党、そして下人・所従を従えて自衛組織をつくりあげた。いわゆる武士団の結成であるが、有力な武士団は中・小武士団のいくつかを統合を繰り返しながらしだいに大きく成長していった。そして中央において権門勢家に妨げられ、志を地方に求めて都落ちしてきた貴族や国司など、いわゆる古代的名族を党首として推戴し、武力組織の強化をはかった。一方、古代的名族である貴族や国司は、地方に下ることにより志どおり在地の武士団と結んで、容易に勢力を扶植することができたのである。

このような情勢の中で、いち早く関東に下り、国衙の在庁官としての権威を背景に在地豪族と結び、武士の棟梁として関東の大武士団を形成したのが桓武かんむ平氏である。

平氏は東国の国司となって、その地盤を築き、その子孫は各地の豪族となって発展した。すなわち桓武天皇の曾孫平高望たかもちの土着にはじまり、その子国香くにか良兼よしかね良将よしまさ良持)・良文よしふみ良茂よししげそして孫の貞盛さだもり国香息)・将門まさかど良将息)のころまでには、その一門は東国に地盤をきずき大きな勢力を張った。とくに平良文から出自した秩父(畠山)・土肥・千葉の諸氏と、平良茂から出自した三浦・和田・大庭・梶原・長尾の諸氏は、のちに活躍する坂東八平氏の諸家である。練馬の中世史と関係深い豊島氏・葛西氏も、この良文の流れをくむものである(図2)。

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平良文の孫にあたる将常が、武蔵権守となって秩父郡中村郷(秩父市)に居住し、その在名を「姓」として秩父氏を名のって以来、武蔵一円にその庶流がひろがる大豪族となっている。すなわち前記の豊島氏や葛西氏をはじめ、江戸・河越・畠山・小山田の諸氏など秩父流平氏の一族として、成長し発展したものである。将常の子武常の系列から豊島・葛西両氏が出自し、同じ将常の子武基の系統から畠山・河越・江戸・小山田の諸氏が分出している(図2)。

一方清和源氏も、源経基・満仲父子が武蔵守となって関東に地歩を固めるとともに、上総におこった平忠常の乱(一〇二八~三一)の平定に活躍した満仲の子頼信は、関東で大いに名声を高めている。さらに一一世紀後半には、頼信の子頼義と孫の義家とが坂東の武士をひきいて陸奥の地に出陣し、前九年の役(一〇五一~六二)で安倍氏を、後三年の役(一〇八三~七)で清原氏を討ち、東国における勢力を扶植した。これを機に、坂東における諸武士団の源氏への服属はいちぢるしく、源氏を棟梁と仰いで主従関係を結び、源平ところを替えることとなった。

一〇~一一世紀ころ、武蔵国に成長した諸武士団は、いうまでもなくその基盤は荘園に依拠するものであり、多くは荘司となって荘園の実権を握っていた。豊島荘の豊島氏や江戸荘の江戸氏、横山荘の横山氏などはその例であろう。そして自力を培い、家子や郎党・下人・所従を従えて武力集団をつくりあげている。いわゆる「党」である。武蔵国に成長した武士団

には武蔵七党と呼ばれるものがある。

横山党(八王子周辺)・村山党(村山・狭山周辺)・猪俣いのまた党(深谷周辺)・児玉党(児玉郡一帯)・たん党(飯能・秩父・入間一帯)・西党(日野周辺・多摩川中流域・浅川流域)・野與のよ党(古利根川流域・埼玉郡一帯)を一般に七党というが、異説に野與党・村山党に代って私市きさいち党(熊谷・騎西周辺)・綴党つづき南武蔵地方都筑周辺)などがそれである。このいずれの党も、志を地方に求めて下向した国司、または介の子孫が当地に土着したものに系譜をひくものといわれている。そして、これら党の諸氏は荘園・牧と深くかかわって管理し、荘園・牧を基盤に勢力を扶植し、やがて実権を握っていく図式で、成長をみせている。

こうした武士勢力は、すでに中央では無視できないところまで進出した。一二世紀半ばの保元・平治の乱では正史の表舞台に登場し、貴族社会の争いが武家の実力によってのみ解決できることを明らかにしたものであった。『愚管抄』には、その著者慈円に「武者ノ世ニナリニケル也ケリ」といわしめている。

この保元の乱(一一五六)に、棟梁である源義朝の下に従軍した武蔵武士の中には、豊島四郎をはじめ同じ秩父氏の流れをくむ榛沢氏・河越氏や、児玉党の庄太郎・同三郎、猪俣党の岡部六弥太ほか三名、村山党の金子十郎ほか二名、西党の日次悪次・平山氏など秩父氏流や武蔵七党の武者名がみえる(『保元物語』)。その三年後に起きた平治の乱(一一五九)では、これらの武士のほか熊谷氏・足立氏などが新たに加わって活躍している(『平治物語』)。しかし結果は、棟梁と仰ぐ源義朝が平清盛に敗れ、平氏一門の時代が開かれた。義朝の下で敗れた坂東武士は一転して平氏に仕えることになった。それは武蔵国が平氏の知行国の一つとなったこと、そしてこれら坂東武士の多くが、国衙こくがの在庁官人(留守所・権守)であったためといえよう。

さて前述した秩父党であるが、平良文の孫になる将常が秩父郡中村郷に土着し、秩父氏を名のって以来、その一統は武蔵国一円にひろがり地方武士団として大きく成長していった。練馬地方に関係深い豊島氏・葛西氏も、また秩父氏を祖としている。

「豊嶋氏系図」によると、武常が豊島・葛西両氏の祖となっている。武常は秩父を出て、早くから利根川や荒川河口の周辺を開発し、豊島・葛西地方にまたがる荘園を領した。したがってその子孫は在名によりそれぞれ豊島氏・葛西氏を名のった。

豊島氏の始祖となった武常の長男近義は豊島太郎と称し、八幡太郎源義家に仕えた人物であるとされ、奥羽東征には義家に従軍したことが記されている(『新編武蔵風土記稿』)。また「豊嶋氏系図」によると、八幡太郎義家は後三年の役の途次、近義の豊島館(平塚城)に滞留して具足および紀州熊野社の神幣を与えたという。のちに近義がその恩に応えて、これらを埋めて塚を築き、八幡太郎義家・加茂二郎義綱・新羅三郎義光の御影をつくり、平塚明神として奉祀した伝えがある。さらに練馬にかかわる話として義家が永保三年(一〇八三)に白山神社(練馬四丁目一番地)に戦勝を祈って欅の苗木を植えたことを伝えている(『北豊島郡神社誌』)。

豊島氏は、平氏の流れをくむものであるが、当時関東に武家の棟梁として勢力のあったのは源氏であった。はやくから関東に土着し伸展をみせた平氏は、天慶三年(九四〇)平将門の乱や長元元年(一〇二八)平忠常の乱が鎮圧されて以来衰退し、それに代って東国支配の主導権は平忠常の乱を鎮圧して功労のあった源頼信一門に帰し、源平ところを替えることになった。とくに源氏の活躍による前九年・後三年の役を境に、東国における武士団の源氏への服属は著しかった。豊島氏も時流に乗って、いち早く源氏に服属したものらしく、前記の豊島近義による源義家東征軍への参加や平塚明神奉祀の伝え、さらには保元・平治の乱において棟梁と仰ぐ源氏嫡流の義朝方に加わって活躍した豊島四郎など、豊島氏と源氏との深い結びつきをみることができる。

平治の乱による源義朝の敗北以来、豊島氏は他の武蔵武士と同じく一転して平氏に仕えることになる。とくに武蔵国は平氏の知行国として、源頼朝が天下を握るまで、平氏一門である平知盛・平知重・平知度が順次武蔵国の国司に任じられている。豊島氏はこの在庁役人として仕えており、わけても豊島清光は武蔵権守に任ぜられている。現在の副知事に相当する役

職であった。

この清光は豊島権守と称し、近義の弟常家の孫にあたり、また、父である康家は「千葉上総系図」によると豊島太郎と号して豊島氏の始めとされている。とくに康家は豊島の地を平氏とかかわり深い新熊野社に寄進し、その荘官となって実質的な支配を得ている。康家の第三子が清光であり、在庁職をつとめるとともに、源頼朝が挙兵した際は大いに活躍した人物である。このころ豊島・葛西の荘をはじめとして南武蔵一円に一大勢力を扶植して、豊島氏の基礎を確立していったものと思われる。清光の嫡子朝経が豊島氏を継ぎ、弟の清重は祖先相伝の地である葛西を継いで葛西三郎兵衛尉清重と称し、父の清光に従い源頼朝の創業に参加して功績があった。それはのちに触れることにする。

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第三章 鎌倉期の豊島氏

<節>
第一節 御家人豊島氏
<本文>

平治の乱により伊豆ひるケ小島に流されていた頼朝は、雌伏すること二〇年、治承四年(一一八〇)八月一七日平氏追討の以仁王令旨もちひとおうりようじを受けて挙兵した。

頼朝は関東における源氏旧恩の武士にげき文を送り、近侍の武士を集めて、伊豆の目代山木判官の拠る八牧の館を奇襲して成功したが、同年八月末には、逆に平氏にくみする相模の土豪大庭景親など平家勢の襲うところとなり、ついに石橋山の合戦で敗れ、船で安房の猟島にのがれた。

当時、関東の形勢は必ずしも頼朝にくみするものばかりではなかった。有力土豪の大庭景親をはじめ豊島氏の同族である江戸重長・畠山重忠・河越重頼らの諸豪は、平氏方に与党していた。

安房にのがれた頼朝は、やがて源氏に気脈を通じる関東の諸豪を糾合して再挙するが、まず九月はじめに源氏旧恩の武士に、再び書を送って頼朝麾下きかに馳せ参じることを命じた。

『吾妻鏡』治承四年九月三日条には、小山四郎朝政・下河辺庄司行平・豊島権守清光、その子葛西三郎清重にあて遣わされたことがしるされている。さらに同日の『吾妻鏡』には、豊島氏について次のように記している。

<資料文>

これおのおの志あるの輩を相語らひて参向すべきの由なり。就中なかんずくに清重は源家において忠節をぬきんづる者なり。しかるにその居所は、江戸・河越等の中にあるの間、進退定めて難治なんじか。早く海路を経て参会すべきの旨、慇懃いんぎんの仰せあると云々。また綿衣わたぎぬを調達す

べきの由、豊嶋右馬允朝経が妻女に仰せらると云々、朝経在京の留守の間なり(原漢文)。

そこに頼朝と豊島清光・葛西清重父子との厚い信頼関係を読みとることができる。わけても清重は「源家において忠節を抽んづる者」として高い評価を得ているが、おそらく頼朝が伊豆蛭ケ小島に配流されたころからの結びつきを意味しているのであろう。また清光の嫡子豊島右馬允朝経は在京して留守であったので、その妻女に綿衣を調達することを申しつかわしたことを伝えている。

豊島清光・葛西清重父子は直ちに参向の意があったのにもかかわらず、石橋山合戦で大庭景親の傘下にあった隣接の江戸氏や河越氏に牽制されて動きがとれなかったらしく、房総から武蔵国に向けて進む頼朝軍の三万余騎が古利根川・隅田川を渡る治承四年一〇月二日になって、初めて参上している。『吾妻鏡』にはつぎのようにみえる。

<資料文>

武衛(頼朝)・常胤・廣常の舟檝しうしふに相乗り、大井・隅田の両河をわたる。精兵三萬餘騎に及び武蔵国におもむく。豊嶋権守清光・葛西三郎清重等、最前に参上す(原漢文)。

この隅田川渡河に先だち、頼朝は中原四郎惟重を使者に立てて葛西清重のもとにつかわし、江戸重長の誘殺を促したが、清重は同族のよしみから宥免ゆうめんを乞い、許されて江戸重長を頼朝に服属させた。豊島清光・葛西清重父子が隅田川に参向した二日後の一〇月四日には畠山次郎重忠・河越太郎重頼・江戸太郎重長ら豊島氏と同族の諸豪が、ともども隅田川長井の渡に参向している。同六日の頼朝軍勢の相模国入りには、この帰服したばかりの畠山氏が、はやくも先陣をつとめたことが『吾妻鏡』にみえる。

江戸氏ら同族の諸豪を頼朝方に服属を促して成功し、また関東における反頼朝勢力の静謐せいひつに尽した葛西清重には、その勲功によって頼朝より武蔵国丸子荘が与えられた(『吾妻鏡』治承四年一一月一〇日条)。清重はとくに、その後も頼朝の信頼を得、その厚遇に応えていっそう忠節を尽している。

豊島・葛西両氏関係の活躍を『吾妻鏡』からもう少し抄録してみよう。

元暦元年(一一八四)五月、甲斐・信濃に隠れ反逆の企てありとする志水義高の残党討伐に、河越・小山・比企氏ら有力武士とともに豊島氏の名がみえる。おそらく清光であろう。同年八月八日条には、葛西三郎清重が源範頼の平家追討に従軍したことが記されている。さらに清重は文治五年(一一八九)七月における頼朝の奥州追討軍に加わり大いに戦功があった。これはいうまでもなく藤原泰衡やすひら討伐の軍である。奥州の藤原氏は清衡きよひら以来、平泉に富強を誇る大豪族であり、泰衡の父秀衡は源義経の育ての親ともいわれる人物である。頼朝は不和になった弟義経の庇護をとがめて、秀衡亡きあとの泰衡を討った。鎌倉勢は三手に分かれ、頼朝は自らその中央軍を率いて出発し、葛西清重は坂東武士をしたがえて頼朝の軍に加わっている。八月一〇日の阿津賀志山の合戦では、先鋒となって泰衡勢を破り、同月二二日には本拠平泉に入って活躍し、『吾妻鏡』には「象牙の笛・縫はざるかたびら」を賜わったとある。九月三日には泰衡勢の主力をほとんど潰滅させ、泰衡は郎従河田次郎に誅せられた。九月一一日には北上して厨河くりやがわまで進攻し、ここにおいて全奥州を支配下におさめることができた。この年の九月二二日、奥羽征討に抜群の働きがあった葛西清重には論功行賞として初代奥州総奉行に補任された。陸奥国内御家人の統率と奥州の治安維持をあずかる要職である。また、同二四日には清重に、平泉郡内の検非違使所を管領すべき旨。下文を賜う。さらに陸奥国の胆沢いさわ磐井いわい牡鹿おじか江刺えさし気仙けせんの五郡が与えられている。

奥州平定によりほゞ全国経略を終え、鎌倉政権の基礎をかためた頼朝は、建久元年(一一九〇)一一月、勇躍して上洛することとなった。『吾妻鏡』には

<資料文>

七日 丁巳 雨降る。年の一剋、晴に属す。その後風烈し。二品御入洛。法皇密々に御車をもって御覧ず。見物の車、こしききしりて河原に立つ。申の剋、先陣花洛に入る。三條の末を西行し、河原を南行して、六波羅に到らしめたまふ。その行列(原漢文)。

と記している。頼朝麾下の精鋭をすぐった三一三人の随兵は威武堂々たるものであった。その行列の先陣の随兵三七番には豊島兵衛尉、四〇番には豊島八郎、四三番に葛西十郎、そして頼朝直後の二番には奥州総奉行の葛西三郎清重が続く。後陣の随兵四番に豊島権守有経と同族の江戸太郎重長の名がみえる。『吾妻鏡』に記された行列扈従こしようの豊島一族であるが、鎌

倉幕府創業期における豊島氏の活躍ぶりがしのばれよう。

さて、豊島清光の嫡子朝経は、頼朝の挙兵の際には京都に勤仕して不在のため、父清光と弟である葛西三郎清重が、前述のごとく頼朝の下にあって忠節を尽した。豊島氏を継いだ朝経は建仁元年(一二〇一)七月一〇日、土佐国の守護職に補任されている(『吾妻鏡』)。この補任の日付について「香宗我部家伝証文」(東京国立博物館蔵)所収の北条時政書状から後世の筆とする異筆説があるが、その日付はともあれ朝経が土佐国の守護職についていたことは確かである。しかし建仁三年(一二〇三)八月四日に、平(三浦)六兵衛尉義村と土佐国守護職を交替している。そして同年一〇月一五日には、蜂起した京都比叡山の僧兵がこもる八王子山攻めに、弟の葛西四郎重元()と出陣し、共に戦死をとげてしまった。そのため豊島氏の跡目は朝経の子朝綱が継ぐが、のちに本宗家は朝綱の弟である有経の系統に移っていく。朝経の子有経は一説には弟ともいわれるが、『吾妻鏡』建久二年(一一九一)一〇月二日の記事に、荘園領主左府生兼峯の年貢抑留の訴えにより紀伊国三上荘の地頭職を免ぜられたことがみえる。また『根来要書』(醍醐寺三宝院蔵本)には、これより先の元暦元年(一一八四)に、すでに紀伊国の守護であったことが知られる。有経の守護在職期間については明らかではない。

頼朝の死後、鎌倉幕府の実権は執権北条氏に移るが、豊島氏はその傘下に属し御家人として忠節を尽している。

承久三年(一二二一)、武家勢力を朝廷や公家勢力の上に位置づけ、そして執権北条義時の権力がより一層強化された承久の変では、北条泰時(義時の子)、時房(義時の弟)軍に従い出陣している。『吾妻鏡』承久三年六月五日条には、北条時房の率いる洲俣路の軍勢に、江戸氏や河越氏とともに豊島氏の名がみえる。また、同書六月一八日条には宇治川合戦で活躍した豊島一族のあることが記されている。文中に「敵を討つ人々の交名きようみよう人名を列記したもの)を注す」として、豊島九郎小太郎・豊島十郎の名が見える。豊島小太郎とあるのは、時代的にみて朝綱の子重勝ともいわれるが、確かなことはわからない。

また、豊島氏にとって不名誉な記事であるが、『吾妻鏡』仁治二年(一二四一)四月二五日条に朝綱の子、又太郎時光が

博奕喧嘩の科で豊島荘犬食名を没収されるという失態を犯した。朝綱の系下は豊島氏惣領家である。惣領家の跡が絶えたことにもよるが、こうした失態の事例は豊島氏惣領家の凋落の要因にもあげられよう。やがて惣領家は朝綱の弟有経の系統へと相続されていく。有経の系下に移った豊島氏宗家は、のちに触れるが葛西氏の流れをくむ板橋・滝野川氏や石神井郷の相伝に登場する宮城氏など、その庶流諸氏を含めて、現在の東京都区部の西北部一帯に雄を誇った。頼朝の幕府創業以来、鎌倉期を通じておおむね忠実な御家人であった。豊島氏の本領は安堵され、入間川と石神井川の合流点だった現在の北区中里(平塚神社付近)に位置する居館を中心に、領主的支配者としての地位が確保されていた。

<節>
第二節 石神井郷の相伝と豊島氏の進出
<本文>

豊島氏の練馬地方への進出は、時代が下るにつれ、本拠地とする北区中里の平塚神社付近から漸次、石神井川を西にさかのぼって所領を拡大し、その流域に石神井・練馬両城を築くようになるが年代は判然としない。しかし鎌倉末期には、ここに豊島氏一族が領主的支配の手をのばしていたことは確かである。

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「石神井郷内宮城氏所領相伝系図」(豊嶋宮城文書)によると、豊島一族の宇多左衛門大夫重広には箱伊豆(藤原氏女とあるのは重廣の妻の実家姓か)と土用熊の娘がいた。姉の箱伊豆は葛西氏の後裔こうえいである宮城六郎政業に嫁し、妹の土用熊(尼戒円)は豊島三郎入道(泰景=豊島氏宗家九代目)に嫁いだ。箱伊豆は宮城為業(法名=行尊)を生み、土用熊は豊島孫四郎朝泰を生んでいる。ところが豊島氏宗家一〇代目の朝泰に子がなかったので、箱伊豆の孫であり、宮城為業(行尊)の実子である宗朝を養子に迎え入れて豊島小三郎宗朝と称し、豊島氏宗家の一一代目を継承させた。

さて、別掲の所領相伝系図には弘安五年(一二八二)一二月十日、父親の重広から娘の箱伊豆に石神井郷の所領が譲与されたことがみえる。それを箱伊豆の夫の宮城政業が実子宮城為業に伝え、さらに為業が子の宗朝に貞和五年(一三四九)一一月一二日、譲り渡している。宗朝が豊島氏宗家の養子になることにより、豊島・宮城両家の所領を併有したことがわかる。この継承は豊島氏にとって、たいへん意義深いものといえよう。そして宗朝から、応永二年(一三九五)八月二一日には泰宗へ所領の譲与が行なわれ、さらに一三代範泰に継がれていった。

このように、石神井地域がすでに宮城氏のような豊島一族によって開発され、豊島氏嫡流の当地域進出の下地が準備されていたこと。弘安五年(一二八二)には石神井郷が豊島氏の所領であったこと。しかも豊島氏宗家が、一族に支えられて家系と所領を維持してきた事情を示すものとして、たいへん興味深い史料といえる。

さて石神井城であるが、築城の時期や規模・内容について今後の研究をまたねばならないが、東京都教育委員会による第一次(昭和三〇年一二月)~第五次(昭和四二年八月)にわたる石神井城跡発掘調査で、遺構はかなり明らかになってきている

第二部「埋蔵文化財」七七ページ参照)。

城域はおよそ一〇haにおよぶ広範囲にわたるもので、その規模や空堀・土塁・郭の配置からみて一五世紀初頭の関東動乱期と推定さており、時代の要請に応えて逐次拡張されたものと思われる。『鎌倉大草紙』には道灌との戦の際に泰経が修築したことがみえる。最初は居館程度のものであったのであろう。

『新編武蔵風土記稿』によると、はじめ豊島泰景が石神井城主となり、ついで弟の景村が元弘年間(一三三一~三)に在城したことを伝えるが、すでに兄の泰景の代に石神井地域まで進出していることから、少くとも元弘以前にさかのぼるものとみられよう。

一方、板碑分布からみると、石神井城周辺から出土する板碑は、数量、内容においても立派なものが多い。また年代においても道場寺付近から出土した文応元年(一二六〇)一一月を刻む弥陀種子の板碑や妙福寺旧地から出土した弘安六年(一二八三)正月を記年する日蓮題目板碑があり、また三宝寺裏手西方から出土した正和三年(一三一四)一〇月の弥陀種子板碑など、練馬区の板碑の中でも最も古い年代に属す板碑をのこしている。板碑は俗にヘラ仏あるいは平仏と呼ばれる板石で造った一種の卒塔婆であり、用材に秩父青石といわれる緑泥片岩が多く用いられるところから青石塔婆とも呼ばれている。板石の扁平な身部に仏種子・仏号・題目や蓮華座等を彫り、中には仏像・天蓋・花瓶など刻する立派なものもある。また供養年月日や供養者名が刻まれており、さらには造立の主旨など記されるものもあって、当時における生活諸相を伝えるものとして特色ある資料といえる。

こうした石泉地区における板碑の出土から、またとくに石神井川流域に沿って豊富な板碑の出土するところから、そこにかなりの規模にわたる中世村落の営みをみることができよう。先の文応元年の板碑をみても、豊島景村が在城する七〇年も溯るものであり、当地が古くから、豊島氏一族の繁衍地と目されるゆえんである。そのころすでに石神井の居館を中心に当地方を掌握する姿が推想されるものである。当時、城といっても武士の居館を中心に土塁や空濠をめぐらす程度で、近世の

城郭とは比べようもない。現在も石神井城址は、わずかに往時の土塁・空濠の遺構をとどめている。また練馬城(豊島園内)も、石神井城と同じ時期に景村によって築かれたと伝えられるが、史料を欠き遺構すらとどめない現状で、規模・内容については全く不明である。

<章>

第四章 南北朝・室町期の練馬

<節>
第一節 南北朝動乱と豊島氏の動向
<本文>

鎌倉末期における豊島氏の動向として、元弘三年の鎌倉幕府滅亡の際には、討幕軍新田義貞の軍勢に加わり、分倍河原の合戦(府中市)で活躍したことが『太平記』にみえている。また、鎌倉攻略の際には、軍馬を調達した伝えもあるが、一方では鎌倉幕府北条氏方に身命を投げ擲って働いた豊島一族もあった(「番場蓮華寺過去帳」)。その動向は一様ではなかった模様である。南北朝の動乱期においても同様であった。

鎌倉幕府が滅びると、直ちに後醍醐天皇新政による公武一統の政治が行なわれた。いわゆる建武の新政である。

地方には国司・守護を併置し、それぞれ功労のある公家や武士を登用したが、新政は公家中心にかたより公家と武士の反目がはげしくなった。討幕の殊勲者である足利尊氏は、こうした建武新政に失望し、恩賞に不満をもつ武士の多い形勢をみて武家政権の再興をはかった。

建武元年(一三三四)一一月、最大の対抗者である護良もりなが親王を倒し、ついで翌年七月、執権北条高時の遺子時行が叛乱(中先代なかせんだいの乱)を起したのを機会に、鎮圧の征東将軍となって関東に下るとともに、ついに建武政府に離反した。そしてその翌年の建武三年(一三三六)一月、尊氏は新田義貞軍を破って京都に攻め上るが、北畠顕家らの軍勢に敗れて九州に走った。しかし四月には西国の武士を集め再挙東上した。五月、兵庫湊川に楠木正成らを打ち破って京都に入り、八月には持明院統の光明天皇を擁立した。北朝のはじまりである。一方幽閉された後醍醐天皇は、一二月京都をのがれ吉野に潜幸した。

ここに建武新政は、わずか三年足らずでもろくも瓦解してしまった。

後醍醐天皇は吉野朝廷(南朝)において皇位の正統を主張し、尊氏の擁する京都朝廷(北朝)と対立し、いわゆる南北朝の争乱となるが、それは明徳三年(一三九二)両朝が合一するまで約六〇年にわたる戦乱であった。豊島氏も、再びこの争乱の中に登場してくるわけである。

さきの中先代の乱における北条時行について豊島氏にまつわる伝えがある。それは足利尊氏に敗れた時行が、逃れて石神井城主の豊島景村に身を寄せ、在宿の間に一子を生んだ。それがのちの輝時であり、景村に子供がなかったので養子となった。現在、石神井池畔にある道場寺は、輝時が応安五年(一三七二)四月一〇日、大岳和尚を請じて開山とし、菩提寺として建立したものにはじまると伝える(『新記』)。江戸時代の延享元年(一七四四)ころの見取写しと思われる同寺過去帳写には、景村(戒名―雄照院英明秀公大居士)・輝時(戒名―勇明院正道一心大居士・永和元年七月七日命日)の名が見える。史料の信憑性については問題があろう。景村の没年については過去帳写しでも不明である。

景村は豊島氏宗家の兄の泰景が若年で没してその子朝泰が幼少であったため、成長するまで一時景村が後を継いだ。豊島氏再興の英主として、また石神井城主としてつとに名高い。南北朝の動乱では、養子の輝時とともに南朝方に属して功があったらしく、景村は左近大夫に任じ従五位下に叙せられており、また輝時も同様に左近将監兵部大輔に任じ従五位下に叙せられている(「道場寺過去帳」)。しかも、輝時はのちに北朝方に同調したものらしく、泰盈本「豊嶋氏系図」によれば、輝時が関東管領足利基氏に謁して父の家督を継ぐとしるされている。南北朝の動乱期の豊島氏は、前述の景村らを除いては、おおむね北朝に属し、足利氏の幕下にあったといえる。

豊島氏が北朝方に属していたことを証拠だてる史料がある。別掲写真の暦応元年(一三三八)豊島宗朝の着到状(「豊嶋宮城文書」)である。

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 着到

  武蔵国

 豊嶋小三郎宗朝

右は吉野没落の凶徒蜂起の由

其の聞あるに依って発向の間当手に属し

忠節を致しおわ了んぬよつって着到くだんの如し

  暦応元年十一月十七日

   承り候ひ<外字 alt="己+十">〓おわんぬ         花押

暦応元年(一三三八)は、南朝方にとって頽色たいしよく濃い年であった。とくに南朝方の柱石である北畠親房は、その子顕能が陸奥守であった関係から奥州の南朝方諸豪を糾合して頽勢挽回を図るため、南朝年号の延元三年(一三三八・北朝年号では暦応元年)九月伊勢国大湊から海路奥州に向けて出航したところ、途中暴風にあい常陸国に漂着した。そのため筑波山麓の小田治久の居城(小田城)に入って北朝方の足利勢と事をかまえるが、これが着到状にいう吉野没落の凶徒である。このとき豊島宗朝は小田城攻めの足利勢寄せ手として参加し、忠節のあったことが記されている。なお、常陸小田城は城中にあって北畠親房が翌年(一三三九)の秋、『神皇正統記』を著したところで知られる。

着到状というのは、参陣した際の一種の証明である。指揮者である上司の承認をもらい、のちの証拠としたものである。承認の花押を書いた者が誰れであるのか不明であるが、泰盈本「豊嶋氏系図」では前大和守頼賢と注記してある。この着到状をとおして、豊島宗朝の代にはすでに北朝方にあって活躍した様子がうかがわれる。

また、北朝方を証拠だてるものとして康永元年(一三四二)六月付の、豊島重久着到状「豊嶋宮城文書」があげられよう。

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 着到

 武蔵国豊嶋孫四郎重久

右若御料の御警固として

去月十八日より今に至り勤仕せしめ

候訖仍そうらいおわんぬよつて着到件の如し

 康永元年六月 日

            承りおわんぬ         花押

豊島孫四郎重久が若御料(足利尊氏の長子義詮)の警固の任にあたったことがみえる。泰盈本「豊嶋氏系図」では畠山義鏡の花押とされているが、確かなことはわからない。

さらに同じく「豊嶋宮城文書」に、貞治二年(一三六三)二月六日付の、豊島修理亮にあてた足利基氏(鎌倉公方)の感状がある。

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豆州立野城に発向し  

期 帰国無きの儀 忠節のいたりと云々

もつとも神妙 いよいよ戦功をぬきんずべきの状

くだんの如し

 貞治二年二月六日 花押足利基氏

  豊嶋修理亮殿

内容は、前年の貞治元年一一月に畠山道誓が関東管領足利基氏に叛して豆州立野城

に籠り兵を挙げた際、豊島修理亮が北朝方にあって戦功忠節に尽したことによる基氏の感状である。豆州立野城は伊豆修善寺にある小立野こだちのの城山(修善寺城)を指すが、「豊嶋宮城系図」では播州立野城と記している。誤りであろう。また、同系図には、修理亮を宗朝の子の泰宗を充てており、泰盈本「豊嶋氏系図」では輝時の子の景則としている。いずれも確証があるわけではない。

さて、石神井の三宝寺ならびに道場寺所蔵の板碑の中に、南北朝動乱期のものが七基も現存するが、いずれもこの付近から出土したものといわれている。うち六基が北朝年号を示し、一基だけ南朝年号を刻む板碑がある。これらは石神井地域に南北両朝の遵奉者の存在をうかがわせる資料であるが、とくに南朝年号の正平七年(一三五二)を刻む板碑は、豊島宗朝が北朝方足利勢に加わった暦応元年の着到状より一四年もあとのものである。宗朝は「石神井郷内宮城氏所領相伝系図」で明らかなように、豊島・宮城両氏の所領を併有しており、暦応元年にはすでに石神井城主であったと思われるから、宗朝後の石神井地域における南朝支持者の居住を示す意味で興味深い。

ちょうど同じ年、北朝年号の観応三年(一三五二)に豊島氏一族の中で南朝方に味方して活躍した者がいたことを示す文書がある。それは細川式部大夫あて九月三日付の「足利将軍家義詮御判御教書」といわれるもので、この文書から前記豊島氏が新田義貞の傘下に属し、その勢力圏にあった讃岐国柞田荘の地頭であったことがしられる(『吉良氏の研究』)。新田氏は南朝の柱石であることは論をまたぬところであろう。

この記事といい、また速断はできないが、南朝年号正平の板碑から一応豊島氏一族の南朝方支持者をみることができよう。その後北朝年号の貞治元年(一三六二)を刻む板碑が同地点から出土しており、豊島氏一族の中でも時勢をみつめながらそれぞれ北朝、南朝とところを替えて支持したことが明らかである。これらは南北朝の勢力が錯綜して存在した当時の複雑な世相を裏付けるものといえよう。

<節>

第二節 関東の動乱と豊島氏の動静
<本文>
禅秀の乱

足利尊氏は光明天皇(北朝)から征夷大将軍に任ぜられ京都に幕府を開くとともに、とくに関東地方を重視して鎌倉に関東管領を置き、初代管領に子の基氏を任じた。以後その子孫が世襲している。京都の幕府に対して関東府あるいは鎌倉府とよばれるもので、それは幕府に準ずる職制をもち、関東地方の武蔵・相模・上野・下野・常陸・上総・下総・安房・甲斐・伊豆の一〇か国を管轄した。明徳三年(一三九二)からは陸奥・出羽二国を治下に加えて司法警察や課役の賦課権、さらには軍事統率権など広範囲にわたる権限がゆだねられていて、さながら小幕府の観があった。基氏の子孫はしだいに独立の傾向を示し、満兼以後は幕府にならってみずから、鎌倉公方くぼうまたは関東公方(関東将軍)と称し、補佐役の執事である上杉氏を関東管領と称するようになった。

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応永一六年(一四〇九)、鎌倉公方足利満兼が死んで持氏が後を継いだ。その二年後には、管領も山内やまのうち上杉憲定に代って犬懸いぬがけ上杉家から氏憲(入道して禅秀)が立った。関東管領家である上杉氏は一族が四家に分かれていて、

鎌倉に構えた居館のあった地名から、それぞれ扇谷おうぎがやつ詫間たくま犬懸いぬがけ山内やまのうちと呼ばれていた(図8上杉氏略系図参照)。持氏のころは山内・犬懸の両上杉が勢力をもち、山内上杉と犬懸上杉の二家から鎌倉府の執事職、のちの関東管領に交互に就くことになっていた。両家はその管領職をめぐり互いに牽制しあい、対立をつづけていた。

そのような情勢にあって、鎌倉公方足利持氏が管領上杉氏憲(禅秀)の部下の所領を没収したことが因となり、氏憲は管領職を投げ出し、入道して禅秀と号した。代って山内家の上杉憲基が関東管領となった。もちろん、その底流には両上杉家の確執があったことは否めない。

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持氏に敵意を抱く禅秀は、京都で将軍義持に反抗して果さなかった弟の義嗣や、関東で持氏に不満をもつ叔父の足利満隆、また持氏の弟である持仲を誘い、応永二三年(一四一六)一〇月二日、持氏を襲撃して鎌倉を占拠した。公方持氏は駿

河の守護今川範政に身を寄せ、管領上杉憲基は越後に逃れた。いわゆる禅秀の乱である。公方持氏の支配に不満をもつ在地土豪・国人がこれに参加し、関東全土を席巻する内乱となった。武蔵では丹党や児玉党のものがくみしている(『鎌倉九代後記』・『鎌倉大草紙』)。

豊島氏はこの争乱においては終始公方持氏に味方し、江戸氏や二階堂氏、多摩郡の連合武士団である南一揆らの面々とともに武蔵国入間川に陣を張り、禅秀に対抗した。兄持氏に対抗する足利持仲は上杉伊予守憲方(禅秀息)を大将軍として入間川に向い、一一月二三日世谷原せやがはらに両軍が遭遇して終日戦った。この戦に江戸・豊島両氏は大いに活躍している。禅秀軍の上杉憲方は敗れ、豊島範泰らの追撃の中を、二五日夜になってようやく鎌倉にたどりついた(『鎌倉大草紙』・「豊嶋宮城文書」)。翌年の応永二四年正月一日、禅秀勢は再び世谷原に出陣し、同五日に江戸・豊島・南一揆ら公方持氏勢と交戦、こんどは江戸・豊島氏らが敗退した。地名の「世谷原」であるが、『鎌倉大草紙』をはじめ他の軍記物では、この表記から〈世田谷原〉とし、現在の世田谷に充てている。ところが、豊島範泰着到軍忠状(「豊嶋宮城文書」)に「瀬谷原」と記してあるところから、東京都世田谷ではなく横浜市の瀬谷町に比定されている。

これより先、幕府では禅秀の乱の背後にある足利義嗣(将軍義持の弟)の擡頭を憂慮して、上杉禅秀の討伐、公方持氏の支援を決め、駿河および越後より援軍を送ることになった。幕命をうけた駿河の守護今川範政の援軍は小田原における戦いで勝利して鎌倉にせまり、越後からは管領上杉憲基、守護の上杉房方勢が北から武蔵に進攻して久米川に陣をしいた。一月八日、豊島氏はいち早くこの久米川の陣に馳せ参じている。禅秀の乱における豊島氏の軍功は大なるものがあった。

次の「豊嶋範泰着到軍忠状」(「豊嶋宮城文書」)は、禅秀の乱における豊島範泰の活躍を語るものである。

この文書は、豊島範泰が入間川に参陣して瀬谷原合戦に加わり、伊予守(禅秀息)らを追撃して大いに働いた旨を記している。とくに再度の瀬谷原合戦では逆に禅秀勢に敗退したものの、馬を切られ、家人数人が疵を負う熾烈な戦いであったが身を賭して戦った旨をPRしている。また、越後から管領勢が武蔵に進攻し久米川に陣した際には、いち早く参陣した旨を

書きとめ、その活躍振りを後の証拠書類として申請した軍忠状である。

それに対して管領の上杉憲基(山内家)は「承知」の証判を加えている。

さて、禅秀勢は小田原の戦いでついに力尽き、応永二四年(一四一七)一月一〇日、鎌倉雪の下の屋敷で、足利満隆御所をはじめ足利持仲(持氏弟)、上杉禅秀そして子息の伊予守憲方、弟の憲春らは悉く自刃し果てた(『鎌倉大草紙』・『鎌倉九代後記』)。一七日には公方持氏は鎌倉に帰り、ここに禅秀の乱は終息した。

乱後、禅秀一類の没収地は江戸・豊島氏ら戦功の諸士に分与され(『鎌倉九代後記』)、とくに江戸・豊島両氏の武蔵における地位は、いっそう優勢なものになった。豊島氏は鎌倉の宿直警固に任じ、管領家の守護に当っている(「豊嶋宮城文書」)。

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 着到

  豊嶋三郎左衛門尉範泰申軍忠事

右、去年十二月二十五日夜、武州入間河に於いて二階堂下総入道に同心せしめ、御敵伊予守(禅秀息・上杉憲方)追落し<外字 alt="己+十">〓おわんぬ。それ以後今年応永廿四正月五日、瀬谷原合戦に於いて散々大刀打ち仕り、乗馬切られ、家人数輩疵つけられ<外字 alt="己+十">〓んぬ。同八日、大将御迎えとして、久米河の御陣え馳参じ供奉せしむ。鎌倉御入りの期に至りて、宿直警固を致す上は、御証判を下し給ひ、向後の亀鏡に備えんがため、恐々言々上件の如し。

応永廿四年正月 日

  承り候ひおわんぬ                 花押上杉憲基

永享の乱

禅秀の乱後、鎌倉公方持氏は専横を強め、幕府の専管事項である守護任命権に容喙したりして、しだいに幕府に反目するようになり、やがて本家の将軍職をねらう野心をいだくようになった。正長元年(一四二八)将軍義持が死んで、弟の青蓮院門跡だった義円が還俗して義教と改め後を継いだ。期待を破られた持氏はその不満を新将軍義教にむけ、ことごとく反発して専恣の行動が多かった。永享と改元されても新しい年号を用いなかったり、鎌倉五山の名刹、建長・円覚・寿福・浄智・浄妙の各寺院の住職を幕府の許可もなく任命したり、また関東御分国内の幕府扶持衆の所領を没収するなど、公然と挑戦するようになった。こうした専恣な行為を諫めた関東管領の上杉憲実をかえって恨み、憲実を攻めた。上杉氏の要請から幕府はついに公方持氏の討伐を決し、駿河の今川範忠らに命じて討ち、持氏は味方の裏切もあって戦いのないままに永享一一年(一四三九)二月、鎌倉の永安ようあん寺で自殺した。ここに基氏以来四代九〇年にわたる鎌倉公方は滅びた。これが永享の乱である。

結城合戦

関東の政務は再び管領憲実にゆだねられたが、やがて弟上杉清方に職を譲った。翌永享一二年正月、鎌倉公方再興のため持氏の遺子を奉じて、北関東の結城氏朝はじめ宇都宮・小山・那須ら反管領派の諸豪が兵を挙げ、下野の結城城にこもった。管領上杉清方はこれを討つが、この結城攻めの際、豊島大炊介が相手方の小幡豊前守の首を討ちとるなど、管領上杉清方の被官として活躍したことが『鎌倉大草紙』にみえる。のちに関東動乱の表舞台に登場する管領上杉氏(山内家)の家宰、長尾氏との結びつきは、おそらくこのころからのものであろう。

この結城合戦には、後に白子郷の在地領主となった庄景実・加賀入道善寿の兄弟も越後勢として清方軍に加わっており、その功によって武蔵白子郷を得たものと推測されている(湯山学「赤塚郷と庄加賀入道善寿」武蔵野)。

嘉吉元年(一四四一)結城城は落ち、捕えられた持氏の遺子三人のうち、上の春王丸と安王丸の二人は殺され、末子の永寿王がのこった。

享徳の乱

結城城の落城後、幕府はとかく問題となった関東の政情を安定させる必要から、とくに永寿王を持氏の跡目として許し、宝徳三年(一四五一)九月、永寿王を改名した成氏しげうじが新公方となって鎌倉に着任した。しかし成氏は、かつて敵対関係にあった管領上杉氏と折合が悪く、両者の間はしだいに険悪となり、享徳三年(一四五四)一二月、公方成氏が遺恨をもって管領上杉憲忠(憲実の子)を誘殺したことが口火となって、関東はまたもや争乱の巷と化した。いわゆる享徳の乱である。

康正元年(一四五五)、府中(府中市)に兵を進めた成氏は、正月二一日管領上杉勢と分倍河原ぶばいがわらで合戦してこれを破り、四月にはさらに常陸にのがれた上杉氏を追撃して優勢を誇った。しかし幕府はこの乱を私怨の叛乱と受けとめ管領上杉氏に加勢している。幕命をうけた駿河の守護今川範忠は、六月鎌倉へ攻め入ったので、成氏は下総古河に退き、以来古河公方と称した。こうして関東は、再び公方成氏対管領上杉氏の激しい戦火におおわれることとなった。

豊島氏一族は、この火中にあって成氏から加担するようたびたび軍勢の催促をうけている。

つぎの史科は、豊島氏にあてた足利成氏の催促状(「豊嶋宮城文書」)二点である。

画像を表示 <資料文>

御方に馳せ参り忠節致すべきの   御方に馳せ参り忠節致すべきの

状如件              状如件

 享徳四年正月十四日 花押成氏     享徳四年正月十四日 花押成氏

  豊嶋三河守殿           豊嶋勘解由左衛門尉殿

ここにみえる豊嶋三河守、豊嶋勘解由左衛門尉が、「豊嶋氏系図」のなかで誰れにあたるのか推考されるところだが、三河守宛のものは泰秀、勘解由左衛門宛のものは泰景と比定されている。

豊島氏がこの催促状に、どのように対応したかは不明であるが、のちの動向からこの段階では管領上杉氏の傘下に属し、成氏に応じなかったとみられよう。

長禄元年(一四五七)六月、幕府では渋川義鏡を関東探題に任じて下向させ、管領上杉房顕を援助したが効果がなく、同年一二月には将軍義政の弟政知まさもとを派遣することにした。翌長禄二年四月、関東に着任した政知は、伊豆の堀越に居館をかまえた。この居住地に因んで政知を堀越公方といい、古河にのがれた成氏を古河公方とよんだ。両公方は、たがいに攻防を繰り返していたが一進一退、いよいよ長期戦の様相を呈した。

古河に拠る公方成氏に対し、堀越公方側にある両上杉氏(山内家・扇谷家)はそれぞれ武蔵の川越(扇谷上杉)、上野の白井(山内上杉)を拠点に五十子いかご埼玉県本庄市)・鉢形(同県寄居町)・深谷・岩槻・蕨・江戸の支城を擁して交戦を続けた。このころ扇谷上杉家の重臣太田持資もちすけ入道して道灌)は江戸城を築いている。わずか一年の工事で長禄元年に完成し、四月には品川館から江戸城へ移った。扇谷上杉氏が山内上杉氏に対し比肩するほどに成長したのは、一つにその家宰を努める太田道灌の力によるものであった。一方、山内上杉氏の家宰には長尾景仲があって、ともに主家をしのぐ勢力があった。

寛正四年(一四六三)八月、管領上杉房顕の家宰である長尾景仲が鎌倉で没し、子の景信が継いだ。文正二年(一四六七)二月には、管領の房顕が若くして五十子いかご埼玉県本庄市)の陣中で戦死し、幕府は跡目に山内上杉家の流れをくむ越後守護上杉房定の子、顕定をもって山内の名跡をつがせた。その家宰が長尾景信である。

<節>

第三節 豊島氏の滅亡
<本文>
長尾景春の乱

文明五年(一四七三)六月、長尾景信が死去すると、その跡目相続をめぐり争いが起きた。管領上杉顕定は、景信の弟である忠景を立てたので、景信の嫡子景春はこの顕定の処置を不満とし、主家を恨み敵方の古河公方足利成氏と気脈を通じるようになった。折りしも駿河国今川氏に内紛が起り、解決のため太田道灌が江戸を離れた隙に、長尾景春は一味同志を催して文明八年(一四七六)六月、鉢形城(埼玉県寄居町)に拠り兵を挙げた。豊島氏もこれに応じて立っている。

この豊島氏の景春与党については、種々理由が推測されている。扇谷おうぎがやつ上杉家の家宰である太田氏の急成長と豊島領の侵略に対する反発からであろうとされている(前島康彦『太田道灌』・勝守すみ『太田道灌』)。また豊島泰経の妻が、長尾景春の姉妹だったという説もある(杉山博編『豊嶋氏の研究』)。

景春は、まず五十子(埼玉県本庄市)に陣する主家の山内上杉顕定・憲房および扇谷上杉定正を急襲した。手薄なところ不意をつかれた上杉方は、翌文明九年正月一八日、利根川を越えて上野の那波荘なわのしよう群馬県伊勢崎市付近)へ敗走した。

豊島氏の動向

長尾景春にくみする豊島氏は直ちに石神井・練馬・平塚の三城を固めて、上杉方の河越城と道灌の江戸城を結ぶ連絡路を分断し、景春方の溝呂木みぞろぎ城(神奈川県厚木市)・小磯城(同県大磯)・小沢城(同県愛甲郡愛川町)の諸城と結んで、江戸城包囲の布陣を整えた。

駿河から急ぎ江戸城に帰った道灌は、江戸城と河越城を結ぶ要路を奪回するため、まず豊島氏の拠る石神井・練馬の両城を攻めることをはかり、加勢に相模の上杉勢をあてようとするが、折り悪く前日来の大雨で増水して多摩川が渡れなかった(「太田道灌状」)。時も折、不穏な動きにでた景春与党に対して、道灌はその鎮圧こそ先決と考え戦術を転換し、下知してこ

の兵力を溝呂木城および小磯城の攻略に向けた。三月一八日には溝呂木城が落城し、ついで小磯城も落ちた。つづいて小沢城を攻めるが、容易に落ちず武蔵の援軍を得てようやく攻め落した。さらに四月一〇日には、武蔵国勝原すぐはら埼玉県坂戸市)で河越城攻略に布陣した景春軍(小机城主矢野兵庫)と戦い、これを打ち破った。もろくも豊島氏らの太田道灌の江戸城封じ込め態勢はくずれて形勢は一変し、逆に豊島氏が孤立する状態となった。

江古田原沼袋の合戦

ときを移さず、道灌は文明九年(一四七七)四月一三日、豊島平右衛門尉(泰明)の拠る平塚城攻撃の火ぶたを切った。

道灌対豊島氏の攻防戦の経緯を『鎌倉大草紙』により追ってみることにする。

<資料文>

同月十三日、道灌江戸より打て出、豊島平右衛門尉が平塚の城を取巻、城外を放火して帰ける所に、豊島が兄の勘解由左衛門尉をたよりける間、石神井、練馬両城より出攻来りければ、太田道灌、上杉刑部少輔、千葉自胤已下、江古田原沼袋と云所に馳向ひ合戦して、敵は豊島平右衛門尉を初として、板橋赤塚以下百五十人討死す、同十四日、石神井の城へをし寄責ければ降参して、同十八日に罷出対面して要害破却すべきよし申ながら、亦敵対の様子に見えければ同十八日に責おとす

                                                (『群書類従』

道灌は四月一三日、江戸城を出て豊島泰明のたて籠もる平塚城を襲うが、抵抗が激しく容易に落ちないので城下に火を放ち、いったん兵を引きあげて江戸城へ帰る途中、泰明の要請で平塚城救援に馳けつける兄の石神井城主豊島勘解由左衛門尉(泰経)が石神井・練馬両城の兵を率いて出発したのを知って、これを三浦義同よしあつ・上杉朝昌ともまさ・千葉自胤よりたねらとともに江古田原沼袋に迎えうち、道灌軍と豊島軍の熾烈な遭遇戦となった。しかし奮戦むなしく豊島軍は惨敗を喫し、泰経は石神井城にのがれ帰った。わずか一日の合戦であったが、豊島軍の損失は大きく、弟の泰明をはじめ一族の板橋氏・赤塚氏以下郎党一五〇人が討死してしまった。「道灌状」には数千人と記している。

石神井城の落城

道灌はさらにこれを追撃し、翌一四日には愛宕山(練馬区上石神井一丁目・早大高等学院)に陣を張り、石神井城の包囲攻撃を開始した。数日の間両軍の攻防が続くが、豊島泰経はついに降参を申し出た。一八日に道灌と泰経の対面となり、石神井城を破却することを条件に、両軍の間にいったん和議が成立した。しかし、それが城方の計略であることを看破した道灌はふたたび攻撃をかけ、ついに石神井城を攻め落した。この石神井城の落城を『鎌倉大草紙』では四月一八日とするが、「道灌状」では二一日になっている。

落城の悲劇はさまざまな伝説を生んで、今日に語り伝えるが、城主豊島泰経は闇にまぎれて城外に落ちのび、平塚城で再起をはかったという。しかし、翌文明一〇年(一四七八)正月二五日にはこの平塚城も道灌によって攻め落され、さらに小机城(横浜市神奈川区小机町)にのがれるが、四月一一日には道灌に包囲され滅ぼされてしまった。この小机城を最後に、泰経は歴史の上から全く姿を消すことになる。

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平安末以来、南武蔵に勢力を扶植し、領主的支配を固めた豊島氏も、ついにその地位から没落してしまった。

そして豊島氏がくみした上杉景春も、文明一二年(一四八〇)二月に都鄙というの合体、すなわち将軍義尚と古河公方成氏の和議をはかったのを最後に、合体が成立した同一四年(一四八二)一一月以後は、成氏とともに古河に入り再び歴史の舞台に登場することはなかった。やがて、この練馬の地は太田氏、ついで後北条氏の支配をうけるようになった。

<節>
第四節 豊島庶流と練馬の村落
<本文>

頼朝創業以来の戦乱の関東では、諸豪諸氏の離合集散はめまぐるしいものがあった。豊

島氏の場合も例外ではなく、一族がそれぞれの立場から時勢を読み、ところを替えて支持を決め、ときには敵味方にもなって歴史を歩んでいる。

惣領を中心とした所領支配の維持や軍事組織の面から一族の血縁的な結合が強化された惣領制も、鎌倉の中期以降南北朝の動乱期にかけて、政治経済情勢の変化につれ惣領制はしだいに解体されていった。そして後の関東の動乱期には、すでに庶流の自立という新しい地縁的な結合体に発展をみせている。

こうした状況を、熊野那智大社の御師であった実報院(米良家)および尊勝院(潮崎家)の史料を中心にみることにしょう。

熊野信仰

公家から武家へと主導権が移行するにつれ、宗教もまた南都六宗(奈良仏教)や天台・真言宗(平安仏教)といった旧仏教は主流的地位を失い、鎌倉新仏教(浄土宗・浄土真宗・日蓮宗・時宗・臨済宗・曹洞宗)はじめ伊勢・熊野信仰などが多くの人びとの心をとらえ、武士団・名主層にまで浸透していった。とりわけ熊野信仰は、公家勢力の没落とともに民間信仰として広く崇敬されるところとなった。

熊野三山(本宮熊野にいます神社・新宮熊野速玉はやたま神社・那智熊野夫須美ふすみ神社)は古くから山岳信仰の霊地として知られ、観音信仰の上から熊野は南海の補陀洛浄土に通ずるところとして、あつく信仰されるようになった。

平安中期以降浄土信仰の盛行によって、西方浄土に擬せられた熊野への参詣はいちだんと盛んになり、とくに白河法皇・鳥羽法皇・後白河法皇らの尊崇をうけ、院政の行なわれた約百年間にその参詣は実に九七回の多くを数えている。また、これにならう貴族や上級武士、さらには地方武士団にいたるまで参詣するようになった。女性の崇敬も厚く、その盛況は「蟻の熊野もうで」とか「人まねの熊野詣で」といわれるほどであった。中世になると、「熊野詣で」は公家の没落とともに武士団・名主層にひろがり、民間信仰として広く根づいていった。

熊野三山は早くから御師や先達の組織が発達しており全国をあまねく行脚し、各地に信者を集めた。いわゆる檀那である。

御師は檀那(信徒)との間に師檀関係を結び、これら檀那を相手に祈祷したり、またそのために巻数かんずなで物(はらいの具・紙の人形など)護符などを配布し、それに対し檀那は米や銭を寄進する関係にあった。檀那の参詣に際しては宿坊を提供し、とくに先達は御師の下で檀那の指導や参詣の案内を努める役目であった。先達は熊野牛王ごおう宝印の護符を携行し檀那に配布して回るが、それが神使であるカラスを文様化して書いてあるので、熊野権現の霊威が正を表わし邪を滅ぼす意味から、武士たちの間に誓紙として重用された。それは武家社会にとって欠くことのできないものになっていた。さらに牛王宝印は、時代が下るが、農民の間にも田畑の虫除けに牛王杖や牛王札として用いられ、当時の武士や農民の間に深く根をおろした先達の活躍と、幅広い層にわたる熊野信仰の教線の浸透をみることができる。

この牛王宝印の発行元が御師であった。室町期には、熊野御師はおよそ六〇~七〇家にも及んでおり、それぞれ檀那の地域分担がきめられ、しかも一定の地盤協定がなされていた。師檀関係にある檀那(信徒)は「檀那帳」に記され、一種の株(檀那職)として譲渡・売買・相伝の対象となっている。有力な御師はこれらの株の大株主というべきもので、なかでも尊勝院や実報院は熊野においてもっとも勢力のある御師の一つであった。

当時の練馬地方は大方が実報院の檀那圏(「那智山実報院檀那帳」)にあった。元享年間(一三二一~四年)に豊島氏が、王子権現社(熊野神社の御子神=若一にやくいち王子権現祭祀)を勧請してから、その教線は豊島氏の伸展にともなっていっそう拡大され、豊島氏没落後もその庶流分脈、在地土豪・名主層にいたるまで浸透していった。

南武蔵といわれる地域には、いまでも熊野神社と名のる神社が多い。それらは、おそらく熊野信仰の流行にともなって、南北朝期から室町期にかけて、南武蔵の村々に勧請されたり、従来の社号を改めたりして、熊野権現社となったものが多いとされている(『文京区史』巻一)。北区王子の地名は、若一王子権現に由来するものである。

熊野那智山の御師であった米良めら家に伝わる文書に「としま名字のかき立」がある。年号は記されていないが、ほとんど同文のものが天文一七年(一五四八)の「那智山実報院檀那帳」の一部に含まれているので、天文頃と推定される(『文京区史』巻一

画像を表示 <資料文>

(端裏)

「としま 名字のかき立」

ちゝふのはたけ山

としまにてハ

三河守

江戸

かと岡殿

江戸

よこせ殿

在所江戸

北いゝ蔵殿

南いゝ蔵殿

こはや川殿

江戸

こう方殿

いたはし

周防

ひやうこ殿

同在名

をく殿

牛米

てんきう

在名

さはい坊 平河

ひやうこ

大え

今ハそうりやう

平六殿

かつま

山ね

ねりま

ひやうこ殿

弥次郎殿

平つか

ふんこ殿

かね杉

たくミ殿

在名

あさかい二郎殿

こひなた

たんしやう殿

今ハこかハちうく

  

はやと

在所たの入

こみや殿

むら山

山口殿

かつま

太郎

せや

さ衛門殿

平山

伊賀殿

しらこ庄

賀□助

在所平山

平山殿

かつま

弾正殿

藤さしの

さんない殿

あたち大宮

牛小田殿

中務丞

文書である。

この書立ては、熊野那智山御師の檀那である豊島氏一族の名字みようじ苗字)を記したものである。豊島三河守・板橋周防のほか三一名の人びとの在名がみえている。本区の地名にかかわり深い名字と思われるものに、ねりまひやうこ(練馬兵庫)、同弥次郎(練馬弥次郎)の名がみえ、また庄中務丞・しらこ(白子)庄賀□助の名がしるされている。

文中の練馬兵庫や練馬弥次郎については全く不明である。庄氏は新座郡白子郷の在地領主とみられ、庄賀□助は加賀介()の意で、さきの結城合戦に、越後勢として上杉清方軍に加わり活躍した庄加賀入道善寿に充てられており、武蔵児玉党の一族とされている(湯山学「赤塚郷と庄加賀入道善寿」武蔵野)。なお、庄善寿は結城合戦の戦功によって赤塚郷に隣接する白子郷が与えられ、白子川の流末にある赤塚郷の用水に井料を課し、京都の鹿王院から押妨が訴えられている(「鹿王院文書」)。

さて、ここに登場する庄中務丞・しらこ庄賀□助が児玉一族であるように、この「としま名字のかき立」に記載される人びとが、はたして全部が豊島一族であるかどうか、たいへん疑わしくなってくる。そのほかにも、足立・多摩地方の在地領主と思われる こみや(小宮)殿・平山殿・むら山(村山)山口殿・あたち(足立)大宮牛小田殿のほか、江戸氏一族とまぎらわしい北いい蔵(飯倉)殿・あさかい(阿佐谷)二郎殿・牛米(牛込)てんきう(典厩)の名がみえている。それは御師が、おそらく覚えのために書きとめておいた程度のものだけに、大雑把なものになっているのであろう。また、文中に「殿」と記されているのは、れっきとした庶流地侍として他と区別したのかもしれない。この「としま名字のかき立」が書かれたと推定される天文一七年(一五四八)は、豊島氏が太田道灌に討ち滅ぼされてから七〇年の経過をみている。豊島氏宗家が崩壊しても、豊島氏の庶流は分散して各地に拡がり、その根拠とする土地の名をつけて、それぞれ自立していたことがわかる。

江戸氏についても似たものがある。「武蔵国江戸の惣領之流」と題するもので、それは熊野那智山御師廊之房が、応永二七年(一四二〇)に、その檀那である江戸氏庶流の名字を記したものである。すでにこの時期に分流していて各地に拡がり、在住の土地の名をつけて呼ばれていたわけである。その同族範囲を檀那として把握する必要から、この種の書立や檀那帳が

つくられたのである。

こうした檀那は譲渡売買の対象となっており、江戸氏なども檀那売券にたびたび現われてくる。那智山の有力御師である尊勝院(潮崎家)のものに、延文元年(一三五六)に森則宗が光厳坊に「ムサシノ国カワコエトノ ツノタトノ エトゝノ」を一貫三百文で売ったことがみえる。また同じ有力御師の一つである実報院(米良家)の文書に、応永二年(一三九五)一二月三日江戸一円の檀那、江戸氏と太田氏とその地下じげの一族が、本宮の「いくま九郎左衛門盛宗」から「廊之坊」へ二五貫文で売られた記事がある。いわゆる檀那売券である。廊之坊はそれらの檀那から年貢をとっていたわけである。

御師らが毎年、檀那から徴収する年貢高は、かなりの額にのぼっている。次の史料は御師実報院が豊島氏庶流から集めた年間の徴収高である。

<資料文>

  熊野領豊嶋年貢目録

六貫五百文 広田勝 ふるや    一貫三百五十文 石神井殿

三貫文   仙波殿        二百文     周防殿 前野殿トリツキ

三百文   下岩ふち 能満    三百文     上岩ふち いねつき

五百文   たかはなとの     八百廿五文   十条 作人平部

三百文   につぽり妙円     一貫二百文   しミつのけうせん

三貫三百  すかの野きとう太郎  八百廿五文   十条郷 作人三平

五百文   小石河四人      三貫文     中岱殿

一貫文   性誓         三百文     別所殿

二貫八百  小具掃部       三貫三百    小塚原鏡円

八百廿五文            二百五十文   志村大炊助殿

三百文   塚殿         五百文     蓮沼十郎三郎

二百文   向立庵        三百文     中岱南殿

二百五十文 山さき        一貫五百文   板橋近江

七百五十文 うたのすけどの    三貫文     了円

四貫文   能忍寺

四貫文   ヤト隆円

   文安五年戊辰十一月 日

文安五年(一四四八)一一月の「熊野領豊嶋年貢目録」(「米良文書」)といわれるものである。この豊嶋は豊島郡の意味で、豊島一族の意味ではないとの見方もあり、目録のなかに「殿」をつけられた人びとがその一族、豊島氏の庶流であろうとされている(『東京百年史』巻一)。いずれにしても熊野那智山の檀那二九名が、そこには記されている。

私たちの地域にかかわりのある人物として、「一貫三百五十文石神井殿」・「七百五十文 うたのすけどの」の名がみえる。ここに登場する人びとが、どのような者か明らかではないが、石神井殿はおそらく在名の豊島氏庶流の地侍であろう。地侍とは一般に有姓農民ともいわれるもので、兵農未分離の武士であり百姓でもある階層をさしている。「うたのすけどの」は天文三年(一五三四)の願文(「米良文書」)にみえる上原雅楽助うたのすけとかかわりがあるのかどうか不明だが、豊島氏分出の地侍として練馬のいずれかの地域を支配していたことは想像に難くない。

さて、これら地侍的名主層とは別に、れっきとした熊野那智山の檀那に作人の名が登場する。

「八百廿五文 十条 作人平部」・「八百廿五文 十条郷 作人三平」の記載である。この年貢負 担も豊島氏庶流の地侍的名主層に比べてかなり高いようにも思われる。ともあれ御師の教線が作人に及んでいるものとして、たいへん興味ある史料といえよう。こうして、熊野の御師やその下請を努める先達らの布教によって、武蔵国一円の代官クラスをはじめ各地の地侍的名主層から作人にいたるまで、幅広く檀那化されていることがわかる。

画像を表示 <資料文>

    武蔵国豊嶋郡ねり馬の郷

     上原 雅楽助 同

     子息 孫九郎

時先達多子の就玉坊本先達ハ志村見たう坊

  天文三年卯月廿二日

   那智御師

    実報院

 

天文一七年(一五四八)の檀那帳には、当地方のものとして「むさし国豊嶋南蔵坊引檀那一円」とみえ、熊野先達の南蔵坊の活躍を伝えている。南蔵坊は他の記録には「志むら南蔵坊」とあり、豊島郡志村(板橋区)に住む先達であったらしい。

これより前の天文三年(一五三四)四月二二日には志村在住の見たう坊を本先達とする練馬郷上原雅楽助・孫九郎父子が、熊野御師実報院(米良家)に願文(御師との契約)を提出し、檀那となっている。

上原姓は旧上練馬村地区、現在の春日町一~六丁目・高松一~六丁目の旧家に多い。願文にみえる上原雅楽助は、おそらくこの練馬郷の在地土豪か、もしくは相当の名主層の一人であろう。

練馬地方における熊野信仰の拠点は、志村熊野社と白子の熊野権現社であるが、白子熊野社は新倉郷の一帯、北大泉付近に及んでおり(「実報院諸国檀那帳」)、志村熊野社の範囲は上原雅楽助父子の願文にみる練馬郷を推定して、本区の東部から中央部にわたったものと思われる。

こうして熊野信仰は、練馬兵庫・練馬弥次郎・庄中務丞・庄賀□助や上原雅楽助・孫九郎父子など、練馬の地侍的名主層をとらえて広く尊信されるところとなり盛行するが、後北条氏が滅び新たに幕藩体制の成立をみて、練馬の地は近世的村落

へと大きく変貌することになる。荘園名主の系譜をひき、後北条氏治下にあっては小代官を務めた地侍的名主層の村落内支配も、ここに終りをつげるとともに熊野信仰もまた、衰退することになる。それは中世という一つの時代の終焉を意味するものであった。

<章>

第五章 後北条氏の進出と練馬

<節>
第一節 関東経略と民政
<本文>
関東経略

相つぐ関東の動乱、そして全国を二分して争う応仁の乱を転機に、荘園制は急速に崩壊し、世は戦国大名による分国支配に移行していった。

関東では堀越公方と古河公方、山内上杉氏と扇谷上杉氏が、互いに離合集散を繰り返しながら複雑な対立を続けていた。太田道灌の死後、両上杉氏が抗争する間隙に乗じて、この関東に戦国大名が出現した。北条早雲である。正しくは伊勢新九郎長氏と称し、のちに出家して早雲庵宗瑞と号した。この北条姓は鎌倉幕府の執権北条氏のあとを継ぐものとして、早雲の子氏綱のころから名乗ったといわれている。

早雲は駿河国守護である今川義忠・氏親父子の客将として興国寺城主を努めたが、延徳三年(一四九一)、堀越公方足利政知の死と内紛に乗じてこれを攻め、伊豆国を略して韮山にらやま城に拠った。ついで明応四年(一四九五)には相模国小田原城主の大森藤頼を襲い、小田原城を攻め落して関東進出の足がかりをつかむとともに、山内上杉顕定と扇谷上杉定正の抗争に立ち入り、また古河公方の高基父子の内紛に介入したりして関東進出の機をうかがい、永正一三年(一五一六)には三浦半島に威勢を誇る三浦義同(道寸)を新井城に攻め滅ぼした。本区関町の開発にあずかった井口家の祖、三浦弾正は、このときの戦に破れて豆州走水井口郷にかくれ、その後、関村(現関町)に土着したと伝えられている(「井口家先祖書」)。

早雲の縦横の働きにより一代で伊豆・相模両国を掌握するにいたった。武蔵への進出は二代氏綱から本格化し、小田原城を

本拠に関東経略がすすめられた。氏綱はまず古河公方高基と姻戚関係を結んでその脅威を回避するとともに、大永四年(一五二四)正月には、内応する道灌の孫太田資高とはかり、江戸城に拠る扇谷上杉朝興を駆逐することに成功した。『相州兵乱記』には、氏綱の手兵が河越城に敗走する上杉朝興勢を板橋の辺りに追って大いに撃破したことを伝えている。

こうして江戸城を占領し、後北条氏の領域は、本拠小田原を軸に玉縄・小机・江戸の諸城とを結んで武蔵に拡大することとなった。天文年間に入り、北条氏の関東進出は一だんと活発になる。氏綱は扇谷上杉朝興の子、朝定の拠る深大寺城を攻略して松山城に退去せしめ、天文六年(一五三七)七月一六日には河越城、七月二二日には松山城を攻め落した。翌天文七年二月二日には、葛西城を落し、さらに岩付城を攻めた。同年一〇月には里見氏と国府台に戦ってこれを破り、加勢した公方足利義明を斬り、両総地方にも勢力を伸ばすことになった。この国府台合戦の三年後に、氏綱は五五歳で没している。江戸城攻略から数えて一七年間を、関東を舞台に上杉氏勢力との抗争に費やすが、この段階では武蔵国の支配は達成できなかった。あとを継いだ氏康により、ようやく掌中に収めたわけである。

天文一四年(一五四五)一〇月、古河公方足利晴氏・山内上杉憲政・扇谷上杉朝定の反北条連合軍八万余の大軍が、北条綱成の守る河越城を包囲して奪回をはかるが、城中の兵よく奮戦して籠城六か月におよんだ。翌天文一五年四月、氏康は援軍を率いて川越に急行した。しかし包囲軍が一〇倍もの兵力で真向から勝負が挑めず、夜討の奇襲戦法で大勝を拍したと『相州兵乱記』はのべている。このとき扇谷上杉朝定は戦死し、扇谷上杉氏が滅亡した。公方足利晴氏は下総古河に敗走している。

河越夜討の勝利で武蔵武士の大半が北条方となり、関東の帰すうは決まった。そして天文二〇年(一五五一)七月には、山内上杉憲政を上野平井城に攻め、翌年正月には越後の上杉謙信のもとへ走らせた。こうして両上杉の勢力は関東から全く駆逐されるとともに、古河公方をも討って、ここに相模・武蔵・上野の三国を中心とした関東の地を掌中に収め、領国経営を推しすすめることができた。

このように早雲の在世中に伊豆相模を略し、氏綱・氏康の代に領域を拡大して、ほぼ関東を領し、さらに氏政・氏直によりその支配を整備強化して、五代九六年にわたる後北条氏の統治が行なわれたのである。

後北条氏は支配圏の拡大にともない傘下に降した諸氏の旧居城地に、新たに北条氏一族や家臣を配置して、本拠小田原城とこれら支城とを結ぶ軍事行政上の領国支配体制を固めた。各支城はそれぞれの地域を分権的に領するとともに、本城小田原から発する領内指令の徹底をはかるため、とくに本城・支城間の連繋を重視して交通網の整備拡充につとめた。街道の要衝には宿駅を設けて強化している。

本区の北部を貫通する川越街道は、小田原―江戸―川越・松山を結ぶ幹線道路であり、また南部を走る青梅街道も、さらに井草に岐れて所沢・毛呂に通ずる所沢道など、それぞれ本城小田原と青梅、毛呂の支城とを結ぶ領国支配の主要な道であったわけである。とくに川越街道筋の白子宿(和光市)は、宿駅として繁栄をみたところであり、天正一五年(一五八七)には、市場税を免除して自由に商売のできる楽市らくいち政策が松山宿に次いで実施されている。白子宿は練馬地方の市場として殷賑いんしんをきわめるとともに、後北条氏の国内体制をになう経済上の要地でもあった。

後北条氏の民政

関東における長い戦乱は、農民から土地を奪いひいては離農をまねく結果となり、農地は荒れ農村の疲弊がいちじるしかった。北条氏は富国強兵の重点施策としてとくに農政に努めた。まず領内百姓の帰農をすすめ、「郷中へ不<漢文>二田能<漢文>一由一段曲事候 何方<漢1>ニ居候共早々押立三日中に可<漢文>二罷帰<漢文>一」との触書きをもって、これに違反する者には厳罰でのぞんだ。さらに農民の移動を防止し、離農をかたく禁じている。

つぎの文書は、練馬地方白子郷の農民に対して、出作による離農を禁じた触書きである。

<資料文>

  改被仰出條々

一 當郷田畑指置 他郷寸歩之處不可出作事

一 不作之田畠甲乙之所見届 五年荒野七年荒野に代官一札を以可相聞事

一 當郷儀者 自先代不入之儀至當代猶不入御證文 從 御公儀可申請間 新宿見立毎度六度樂市可取立事

一 白子郷百姓何方に令居住共 任御國法 代官百姓に申理急度可召返事

一 御大途證文幷此方證文無之 誰人用所申付共不走廻事

  右條々違犯之輩有之付而者 注交名可遂披露者也 仍如件

   天正十五年丁亥年四月三日代官

       白子郷百姓中

他郷への出作は、近隣であっても許可せず、また白子郷の百姓がどこに住んでいようとも必ず召し返す旨など、徹底した〈人返し〉を規定している。これは農民の土地緊縛と離農による田畑の荒廃を防ぐ意味で、かなりきびしい措置であったといえよう。一方不在者の田畑を在地の農民に分配して耕作させるなど農業生産物の確保はもとより、人心の安定という側面もあったわけである。

そのほか新田の開発も奨励し、用水、治水事業にも積極的な施策を行ない、武蔵国箕田郷には灌漑用に荒川堰を設置したり、入間川の堤坊を築造したりして数多い治績をのこしている。さらに商工業においてもその振興をはかり、北条氏の拠点小田原城は「民を撫し津々浦々の町人職人西国北国より群集し」(『小田原記』)とあるごとく活況し、商人や職人を招致して城下町の発達を促している。各支城下も同様の賑いをみせ、一定の日を定めた市が催され、各種の製作品や物質の集散により商業は一だんと活況を呈した。武蔵国内では六九か所もの六斎市の存在が明らかにされており、都下では世田谷宿のほか品川宿・関戸宿・青梅宿など一二市が数えられている(豊田武『中世日本商業史の研究』)。永禄七年(一五六四)の関戸郷六斎市では、毎月、三日・九日・一三日・一九日・二三日・二九日の三の日と九の日に市が開かれ、この市日に限って濁酒役と塩あい物役が赦免され濁酒と塩あい物が自由に売買することが許可されていたことを伝えている(「武州文書」)。川越街道筋では入間郡水子郷(富士見市)の市立いちだて市開き)祭文に、三三か所の市が記されており、かなり頻繁に開かれていたことがわかる。

この六斎市の群立の理由については、後北条氏や支城主が農民に銭納させるために、精銭が得られる機会を設けて六斎市を創設したいわゆる貢租納税説(農民市立説)と後北条氏が貢租として得た生産物を商品としてこれを再投下するために六斎市を整備したという城主貢租再投下説(城主市立説)がある。そのいずれにしても、六斎市は城主側も農民も、ともに銭貨を必要としたということであり、この両者の要求の結節点が六斎市場の展開になったものとみられている(『東京百年史』第一巻)。

さきの濁酒役と塩あい役の赦免は、やがて全商業の諸税免除へと発展し、いわゆる楽市として城下町や交通上の要衝地点の宿場などに設定された。江戸・世田谷・滝山・八王子など各支城下はもとより、先に触れた白子宿の楽市などはその例である。全国の商工業者が領国内で自由に取引することができるように、後北条氏は虎印判状で積極的に保証し、商業の繁栄を促している。これらの楽市設定という経済政策が、小田原本城主の強い指令で行なわれているところから、それは多くの新興商工業者を後北条氏による新しい封建的秩序のもとに再編・統制するためでなかったかとみるむきもある。被支配者にとって、はたして有利な経済政策であったかどうか疑問視されるゆえんである。

税制

後北条氏は税制において、領民撫恤ぶじゆつと権力統制の二面を巧みにあやつりながら領民を掌握し、富国強兵の主要財源を確保している。とくに三代氏康は天文一九年(一五五〇)・永禄二年(一五五九)・永禄七年(一五六四)の三回にわたり税制を改革し、段銭たんせん懸銭かけせん棟別銭むなべつせんを領内に賦課した。氏康はこの改革によって三税の税制を確立している。

後北条氏治下の農民は、年貢のほか公事くじ段銭・懸銭・棟別銭など)を負担するが、氏綱・氏康・氏政・氏直と代替りに行なわれた検地が基礎となって年貢・諸税の賦課が確定している。年貢租法は四公六民の制であったとみられる。貢租率は地域差もあるが、天正一六年九月、杉並の「永福寺分検地書出」によると田一段につき五〇〇文、畑一段について一六五文の貢租率であることがわかる。これらの田畑の年貢は生産高の約四〇%に相当しており、残り六〇%が農民の収入であった。

貫高というのは一定の田畑に対して年貢を銭貨で収納する高を云っている。これが貢租の単位になったのは明銭(洪武・永楽・宣徳の各通宝)の輸入と、その全国的流通によるもので、とくに永楽銭は一六世紀中ごろから関東地方において重用

された。ことに後北条氏のきびしい撰銭策で一層永楽銭が重用され、流通貨幣の主流を占めていた。貫高と同時に永高ともよばれるゆえんである。

年貢についで公事くじ諸役)の賦課であるが、後北条氏の税制改革は、公事を整理統合して合理化するところにあった。天文一九年の改革では、従来の諸公事にかえて、「百貫文の地より六貫文懸り」という六%の段銭を設けるとともに、諸公事をまとめて貫高四%の懸銭を新たに設定している。段銭と懸銭を合わせて貫高一〇%の税率であった。段銭は五年後には増徴されることになり、それは本段銭の三分の一とか二分の一とかが増段銭として増徴され、従来六%の本段銭であったものが、本増ほんまし合計で八~九%になっている。

つぎの史料は練馬区北大泉町(旧新座郡橋戸村)の荘家文書にみえる白子郷の段銭および棟別銭の規定である。

画像を表示 <資料文>

 定む白子郷段銭棟別の納め様のこと

一、四貫五百文 反銭請取奉行良知河内守吉原新兵衛

   此内

  九百文     八月廿四日より同晦日を切而納むべし

  一貫八百文   九月朔日より同十五日を切而納むべし

  一貫八百文   九月十六日より同晦日を切而納むべし

  以上

 四貫五百文    江戸へ納むべく候

一、九百廿二文  棟別

         請取奉行吉田平右衛門西澤三右衛門

 此内

 四百廿二文 八月晦日を切而納むべし

 五百文 九月晦日を切而納むべし

  以上九百廿二文小田原へ之を納むべし

   (中略

一、段銭 棟別員数 御蔵納めの日限は 毎年此のごとくたるべし

  万一替る儀あらば 毎年七月御配符を出すべし 然らざれば

  この度の御定めのごとく毎年これを出すべきこと

右定むる所 みだりに致すについては 当郷の小代官・名主・百姓頭ながく遠嶋たるべし 重科に於ては 頸を切るべきものなり よつて件のごとし

     (虎印

  辛未

   八月十九日

       白子小代官

          百姓中

元亀二年(一五七一)八月十九日の虎印判状である。白子郷は『小田原衆所領役帳』に、玉縄城主北条綱成(左衛門大夫)の所領として「五拾貫文 白子」とみえる。綱成は遠江土方城主九島正成の子で元は今川氏の家臣であったが、正成の没後、後北条氏二代の氏綱に養われた。のちに玉縄城主に取り立てられ、以来北条と称している。白子郷は綱成の所領五〇貫文であったから、段銭四貫五〇〇文の記載は高辻の九%に相当するわけである。本増合計の段銭であることがわかろう。段銭の納入もくわしく規定されており、八月二四日~九月末日間に三回の分割で江戸城に納めることになっている。段銭の請取奉行は良知河内守・吉原新兵衛であった。納税期限を延滞した場合は延滞分が加算され、また徴収に怠慢があり納税をな

おざりにした場合は、白子郷の小代官・名主・百姓頭らの責任が問われて遠島に処せられるほか、重科のものは首を切られるというきびしい規定になっている。

後北条氏はこれら段銭・懸銭とともに棟別銭を各郷村の戸ごとに賦課した。後北条氏三代の氏康は、天文一九年(一五五〇)の税制改革で棟別銭の減税を行ない、従来の棟別五〇文を三五文に改め、この税額は変更されることはなかった。

白子郷の棟別銭をみると「九二二文」であることがわかる。さきの減税棟別三五文で割ってみると二六・三棟となる。しかし一〇〇文につき三文の目銭を計算に入れると、3(三文)×9(九二二文)=二七文となるから、その分を差引くと白子郷の数は、二五軒半ということになる。

この二五軒半の課税分九二二文を、八月末日と九月末日の二回に分納して小田原本城に届けることが規定されている。棟別銭は後北条氏の主要な財源であった。小田原での請取奉行が吉田平右衛門・西沢三右衛門であることがわかる。納入が遅滞したり、規定に違反した場合は段銭・懸銭と同様の厳罰を負わされていることが荘家文書にみえる。

こうした一般の課税に対して、由緒ある寺社領などは特別に賦課免除されるなど手厚い保護をうけている。

つぎの史料は区内石神井池畔の道場寺における段銭・懸銭の免除の例である。

<資料文>

武州石神井之内弘徳院門派

道場寺分之事如<漢文>二前々<漢文>一可<漢文>レ為<漢文>二不入<漢文>一

段銭懸銭以下一切令<漢文>二免除<漢文>一者也

仍状如<漢文>レ

     (虎印

 永禄 五年四月廿一日

 禅居菴

永禄五年(一五六二)四月二一日、北条氏康は道場寺分の段銭・懸銭の賦課を免除することを虎印判状で保証している。

<節>
第二節 所領役帳にみえる練馬の村々
<本文>

永禄二年(一五五九)二月、北条氏康は一門および家臣などに諸役、とくに軍役を賦課する必要から、その諸役賦課の基準となる各人の役高を貫高で明記して「衆」別にまとめた。知行役とも所領役ともよばれる課役は、知行を与えられている家臣らが、主君である後北条氏に対し、その反対給付として「役」を負担したものといえよう。いわゆる役帳の作成であるが、一般に「小田原衆所領役帳」・「小田原役帳」とよばれるものである。それは「小田原衆」とうたっているが、内容は小田原衆に限らず、江戸衆とか河越衆・玉縄衆・松山衆・小机衆など各支城ごとに衆の編成がなされており、軍役はすべて各人の役高(高辻)に応じて賦課され、しかも貫高で、それに郷村をも併記し、これが衆別に定められている。合戦の際には、それぞれ衆の支城に馳せ参じることが規定されており、したがって江戸衆の場合は江戸城に参集することを義務づけていた。

ただ、この「役帳」は永禄二年に始めて作成されたのではなく、以前から作られていたものである。弘治元年(一五五五)の卯の検地にみられるように、後北条氏の領国支配体制の整備につれ、逐次「衆」ごとに整備されていったものと思われる。

この所領役帳の中から、練馬に関係深い部分を抜き書きすると、次のとおりである。

<資料文>

一 太田新六郎知行

 拾七貫五百文    江戸石神井

  新六郎 書立上被申員数辻 但此外私領之内を 自分ニ寄子衆ニ配当候書立

 六貫五百文     江戸 土志田 源七郎分

 壱貫七百文     石神井内 谷原在家 岸分

一 中村平次左衛門

 卅八貫六百八拾文  江戸 練間豊前方

一 金曾木

 百貫文       江戸 練間

  此度改知行役可申付 但人数着到出銭如高辻

一 森新三郎

 買得 拾四貫五百文 元吉原知行 江戸廻中新居

 此度被改上 知行役可申付

一 島津孫四郎

 拾四貫文        豊島之内 清光寺分

 練間ニモ有之      志村内ニモ有之

一 太田大膳亮

 九拾八貫八百六拾文   小榑 保屋

現在の本区に該当する地域を知行する後北条氏家臣(知行主=給人)らを衆別にまとめ、それぞれの知行地に課せられる知行役高を貫高で表示したものである。それは土地の生産高や所領高ではない。知行高そのものはわからないが、ここに挙げられる六人の知行主がそれぞれに、区内の地域を知行した様子がわかる。

衆別では金曾木の河越衆を除いて、他の五人の知行主は「江戸廻」・「江戸」とあって、すべて江戸衆であった。

貫高では練間(練馬地区)が一三八貫六八〇文と最も高く、ついで小榑(大泉地区)・保屋(保谷市)九八貫八六〇文、石神

井一七貫五〇〇文、中新居(豊玉・中村地区)一四貫五〇〇文、土支田どしだ六貫五〇〇文、谷原在家やはらざいけ谷原・高野台地区)一貫七〇〇文の順となっている。この貫高に表われる役高が、直接村々の生産高を示したものとはいえないが、当時の状況を知る一つの手がかりにはなるであろう。練馬地区は区内の他地区に比べ、かなり開発がすすんでいたようにもみえる。

役帳にみえる石神井地区は太田道灌の曾孫にあたる太田新六郎康資の知行地になっており、土支田と谷原在家は太田氏の寄子である土支田源七郎と岸氏に、それぞれ配当された所領となっている。寄子とは、寄子寄親の対句からきた用語であり、緊密な主従関係を意味している。土支田源七郎や岸氏は太田新六郎配下の者で、その知行地の一部を禄していたわけである。太田新六郎は総貫高一〇四九貫九〇〇文で、江戸衆八一人中第二位の貫高であり、後北条氏重臣の遠山丹波守に次ぐ実力者であった。北条氏綱が江戸城攻略の際、城中で内応した太田資高は、扇谷上杉朝興追放の功により従来の本領が、そのまま後北条氏に安堵されたものと思われる。資高は北条氏綱の妹を娶り新六郎康資を生み、後北条氏の有力給人に加えられている。したがって石神井の地も、石神井城の落城後は太田道灌が領有し、資康に引き継がれ、資高に至って後北条氏に安堵され、康資へと受け継がれていたものであろう。

なお太田新六郎康資は、岩付城主太田資正の陰謀にのせられて北条氏康に反抗し、国府台合戦で破れ、天正九年(一五八一)一二月、安房に逃れて没している。

画像を表示

さて、役帳にみえる知行地は、恩給地や本領の別なく後北条氏の家臣(給人)らにより売買が許されている。「吉原知行分、江戸廻中新居」の例をみよう。

役帳に記載される中新居の知行主森新三郎は、伊豆衆の吉原小八郎が知行していた江戸中新居(役高一四貫五〇〇文)を買得しており、売却主である吉原小八郎は、その替地として相州東郡倉田に知行地が与えられている。小田原衆や江戸衆に売買の例が多いのは、軍役の過重負担と合戦の参

加回数が多いためと指摘するむきもある。また自己の馳せつけるべき城の廻りに買得地がみられることは、単に偶然に買得したものではなく、そこには給人の意図と、それ以上に後北条氏の領国支配的、軍事的意図が働いているのではないかと考えられている(『関東戦国史の研究』:和泉清司「戦国大名後北条氏における知行制」)。

後北条氏は、早雲にはじまり氏綱・氏康・氏政・氏直と五代九六年にわたって伊豆・相模・武蔵・上総・下総・上野・下野におよぶ広大な領域を、そのすぐれた民政をもって統治してきたが、天正一八年(一五九〇)ついに秀吉の攻撃により滅亡した。後北条氏旧領は小田原攻めに参加した家康に与えられている。関東において、家康の入国は新しい時代への大きな歴史的転換であった。後北条氏治下では兵農分離が明確でなく、地侍など在地武士は貢租負担者としての百姓であり、いざ合戦の際には馳せ参じるという、きわめてあいまいな存在であった。

家康の「江戸御打入」そして翌天正一九年(一五九一)の検地は、武士と農民の身分を明確にした新しい農村秩序をうちたてた。この検地により、いままで在地土豪に属していた下人・所従が小農として独立し、領主に対し直接の貢租負担者に位置づけられた。ここに小農自立による村落発展の傾向をもたらしたのである。