練馬区史 歴史編

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第四部 近世

<本文>

第一章 江戸幕府の成立

第二章 村の成立と構造

第三章 農村構造の変遷

第四章 幕末の練馬

第五章 江戸時代の信仰

第六章 地誌・紀行文にある練馬

<章>

第一章 江戸幕府の成立

<節>
第一節 家康の江戸入府
<本文>
関東移封

伊勢新九郎(北条早雲)が伊豆に拠ってから、氏綱・氏康・氏政・氏直と後北条氏五代、百年にわたる関東領国がつづいていたが、その運命もついに尽きる時がきた。

天正一八年(一五九〇)四月二七日、豊臣秀吉の東征軍に江戸城は降った。つづいて六月二三日、小田原合戦中最大の悲劇といわれる八王子城が陥ち、関東に於ける後北条氏の支配は事実上終った。月を越した七月五日、後北条氏の本拠小田原城も三か月の籠城ののち、「小田原評定」の俗諺を後世に残して秀吉の軍門に降った。そして氏政は自刃、氏直は投降してここに五代百年に及ぶ後北条氏の関東支配は完全に終止符をうつこととなった。

小田原落城後まもなく七月一三日、北条攻めの論功行賞として徳川家康の関東移封が正式に決まった。

家康が関東を領するに当って、その居城を江戸に決めたのには重要な意味があった。家康が新たに与えられた領土は武蔵・相模・伊豆・上総・下総および上野の大部分都合六か国であった。しかし、関東には当時、安房に里見氏、常陸に佐竹氏、上野に真田氏、下野に佐野氏・宇都宮氏(のちの蒲生氏)・那須氏などの諸大名が未だ隠然たる勢力を持っていた。

江戸の旧事を質実な文章で問答体に書き、江戸初期の状況を知る上で好著とされている大道寺友山著『落穂集おちぼしゆう』に小田原陣中、秀吉と家康が交わした会話が次のように記されている。

<資料文>

秀吉卿御申候は、小田原の城中家作も只今迄の通にて明渡候はゞ、其許には其儘居城に御用ひ可有や、と被申候得ば、家康公御聞

なされ、以来の儀は兎も角も、先づ当分は小田原に在城仕る外有間敷候哉、と御挨拶なされ候得ば、秀吉卿御申候は、それは大なる御思案違にて候、愛元の儀は境目にて大切なる場所にも候得ば、御家来の内にて慥なるものに預置き、其許には是より二十里隔り江戸と申所有之よし、人の申を承候ても、絵図の面にて見及候ても、繁昌の勝地共可申処にて候間、江戸を居城に被相定可然候。

                                                        (『史籍集覧』所収

つまり、江戸居城を家康に決心させたのは秀吉だというのである。家康は初め、先のことは兎も角、当座は小田原を居城とするつもりであった。しかし、秀吉は小田原も領国境の城で重要だから慥かな家臣に任せて、それより、人に聞いても、絵図面を見ても、江戸は繁昌の勝地とも言うべきなので、そこを居城にしたらどうかというのである。

「繁昌の勝地」という言葉に意味があった。従来戦国の城は要害堅固を第一とし、交通の利便などより敵に攻め寄せられても難攻不落、天嶮の場所を選んで設けたものであった。しかし、秀吉には城下に多くの町人を集め、商業を盛んにする信長の智恵を学び、戦術的にも、政治的にも、且又経済的にも最も適した大阪城を自らの実践により成功させてきた自信があった。

秀吉はこのことを関東に実現させようというのである。家康もまた秀吉の勧めに同意した。七月二三日頃江戸を検分した家康の眼は、その時江戸の地は旧利根川(現在の隅田川)の河口に近い海湾に臨み海陸交通の要衝で、広大で豊沃な関東平野を背後にもつ形勝の地であることを確かめた。そればかりでなく、やがて日本国中を統一した時の都市として最も優れた地であることをも見通していたにちがいない。

江戸御打入り

天正一八年八月一日、家康は江戸城に入った。この日陰暦の八月一日は「八朔はつさく」(朔はついたち)ともいい、農村ではその年始めての稲の収穫を祝う習わしがあった。家康は特にこの日を選んで江戸の入城を行なったのか、単なる遇然であったのか、いまは詳かでないが、いずれにしても江戸幕府開府後は、この日を記念して「八朔」の賀儀として幕府の重要な行事の一つとされた。

この家康の江戸入城を一般に「江戸御打入り」といっている。家康の入府は、六郷辺から海辺沿いに北上し二本榎(港区)、貝塚(千代田区・皇居西側)を経て江戸城に入っている。前述した七月二三日頃、宇都宮へ行く途中に立寄っている家康は、その直後、奥州平定のため宇都宮にいた秀吉と対面、急拠引き返してきていることになる(『東京百年史』)。

入城当日の状況は『天正日記』など諸書によって知ることができる。『天正日記』八月朔日の条には「いちば(市場・川崎市)迄藤兵衛、権右衛門、小むかひ(小向・川崎市)にて忠右衛門、いろいろ書付出す、八半時(午後三時)貝塚へ御着、御膳被召上、七時(同四時)過御入城、めでたさ申はかりなし、御供の衆小屋わり」とある。また江戸の案内者村田平右衛門(浅草平右衛門町草分名主)の家譜にも「……御案内相勤御目見辰刻(午前八時)御着二本榎徳明寺、未下ひつじ刻(午後三時頃)貝塚増上寺入御被献御膳、七時過御入城之節御目見、云々」とある。

両書に見るとおり、家康は午後三時増上寺(貝塚)で食事をすませ、同四時すぎ、無事江戸城に入城した。随行して来た家臣たちも、それぞれ小屋わりをして江戸での第一夜をむかえた。

何故家康が江戸入城の途次、増上寺に入って食事をしたか。家康が時の住持源誉存応と寺の門前で偶然に出会って食事を所望したという話もあるし(『開運録』)、家康が小田原在陣中、江戸入府が決った時点ですでに増上寺を菩提寺として見立てさせておいたという話もある(『落穂集』)。

『天正日記』ではあとの説をとっているが、思慮深い家康の行動としては、後に芝へ移転し徳川家の菩提寺として栄えた経緯からしても、江戸打入りの時にはすでに決定していたと見るのが妥当とおもわれる。

こうした家康の「江戸御打入り」は単なる城入りではなく、わずか二、三か月前まで、北条氏の勢力下にあった江戸住民に対する徳川軍団の示威的行為と見ることもできる。それだけに、この「儀式」は江戸の住民に驚異の目を以て迎えられたにちがいない。

そこで家康は入府間もない八月五日、江戸の住民に米を分け与え、まず住民への宣撫を行なった。百年にも亘る北条治下

に培われた旧領主に対する感情から醸成される旧北条氏在地勢力の反感は充分予測されるものがあった。

『東京百年史』はこのことにふれ「史料的には、北条遺臣をはじめ反徳川分子の反抗はほとんど確認することはできない。しかしそれは現存史料から立証されないだけであり、実際には地域によってかなりのあつれきや争闘があったことが察せられる」としている。

入国当時の江戸と周辺

その時の江戸城は長禄築城後、長享、天正の修復があっただけで北条家の城代遠山景政が小田原籠城中に開城となったのだから相当の頽廃が見られたであろう。入城当時の様子を『石川正西聞見集』(埼玉県立図書館)は「其ころは江戸は遠山居城にていかにも麁相そそう、町屋などもかやぶきの家百軒ばかりもあるかなしの躰、城もかたち計にて、城のやうにも無之、あさましきをきとく(奇特)に秀吉公御見立被成候とて諸人かんじ申候」と、半ば感じ、半ば嘆いている。

石川正西しようさいの家は代々松井松平家の家老であって、正西自身は、小田原攻めのころから松井家に仕えていた。松井家は三河時代から家康を助け、のちに松平の姓を賜り明治維新の時は川越藩主であった。この『聞見集』は正西が隠退ののち、生涯の見聞を記述し主君に献上したもので、内容的には信憑性の極めて高いものとされている。

また『霊巌夜話』には、「遠山時代の城と申候は、石垣など築候所ては一ヶ所も無之、皆々芝土居にて、土手には竹木茂りあひ有之候由(中略)軽き木戸門も有之、其内には遠山が家中の侍共の屋敷之由にて、余程大き成家も在之候、尤少き家之儀余多あまた有之、寺なども二三ケ所有之、籠城之節自焼をも不仕、其儘にて残り有之候に付、御入国の節、殊の外御用に相立候と也」と記している。

『落穂集』にも同様の記述があり、当時すでに江戸城は、のちの本丸・二の丸・三の丸の範囲がほぼあったようである。

入国と同時に江戸城の普請が始められた。大道寺友山の『落穂集』を継いで成ったといわれる柏崎永以えいいの『事跡合考じせきごうこう』(明和九年刊都立中央図書館)に鳩谷下馬淵村の農夫の話として「御江戸の城御普請之始、当村及び此辺の百姓とも大勢参

り、今東叡山下寺と申所の山際を掘りて、御城へ其土を担ひ運び候、一荷に付何十文と御極め被遊、一荷宛担ひ参候内、即座其賃銭下されしと申伝ふと、云々」とある。鳩谷(埼玉県)からも動員されたのだから、当然江戸近在である練馬あたりからも、この土木工事に参加させられことは充分推察がつく。

さて城下は日比谷の沿岸に千代田・宝田・祝田などの漁村が点在しているだけで、住民の生活は「郷村の百姓共の儀は、目も当られぬ有様にて、其所の名主、おさ百姓たりとも、家内に床をはり、畳を敷たる家とては一軒も無之、男女共に身に布子ぬのこと申物を着し、縄帯を致し、わらにて髪をたばねたる者ばかりの様に有之候由、其時代の老人の物語を我等承りたる事に候」(『落穂集』)とあるが、これは実際の様子であったであろう。

練馬周辺の状況は、記録の上には全くでてこないが、おそらく同じような実状であったことは想像に難くない。「天正十八年御入国ヨリ御府内并村方旧記」(以下「村方旧記」という、平和台一丁目内田岩松家文書)には、

画像を表示 <資料文>

下練馬村の儀者天正十八年庚寅小田原落城後、関八州権現様御手入極月江戸御城入、御家人御供近在百姓家を借宅、御番等御勤之由、卯年不残御引移之由、当村の義、奥州海道今の本村ばかり宿次……。

とあって、入国後間もなくから、練馬の百姓家まで御家人たちの住居に借りられたことが知られる。「極月江戸御城入」とあるが、八月を筆者の記憶違いか、聞き違いであろう。あるいは、一二月頃から家臣団の知行割が進められ、下級の直属家臣が江戸付近に割当てられたので、近在の農家まで借宅することになったのを云ったのかも知れない。

いずれにしても、戦略的には重要であったかもしれないが、このような淋しい寒村がのちに世界第一の殷賑をきわめた大江戸の繁栄になろうとは誰一人として予想していなかった。

<節>

第二節 関東の知行形態
<本文>
直轄地と知行地

家康が秀吉から新たに宛行あてがわれた領地は、前述した後北条氏の旧領六か国で、その石高は二四〇万二千石であった。このほか上京の際の馬飼料(在京賄料)として近江・伊勢・遠江・駿河などで計一〇万石が与えられた。

家康の新領土と境を接して安房に里見義康(四万石)、常陸に佐竹義重(五三万石)、下野には宇都宮国綱(五万石)などの大名がすでに秀吉に帰服の意を表し、旧領を安堵されていたが、これは徳川氏にとって充分警戒を要する存在であった。

家康は城下江戸の建設を積極的に進める一方、家臣団の知行割を行なった。まず徳川氏の直轄地(蔵入地くらいりちともいい自己の経済的基盤となる領地)および下級家臣団(一万石以下)の知行地を江戸付近に集中させた。それは道中一夜泊いちやどまりの地といわれ、武蔵・相模・上総・下総など南関東の諸国のうち、江戸から一〇里乃至二〇里の地に置かれた。

江戸打入りから約五〇年を経て、幕藩体制がほぼ整った正保年間(一六四四~八)に成った『武蔵田園簿』によると、武州では総石高の約半分が直轄領となっている。特に葛飾郡は全部が蔵入地となり、豊島・荏原・新座・多摩など江戸に近接する郡では石高の平均六割以上が代官支配地であった。

家康が何故このような基本方針をたて、しかも確実に実行したかについては、次の如き配慮があったのである。即ち、知行地はとかくその領主の経営的才覚に左右されやすく、高率の貢租を課する可能性がある。若しそれが江戸近隣で行なわれたとすれば、直ちに江戸市中の物価に影響し、江戸の住民が困窮するであろう故に、江戸市中の物価・需給を安定させるためには是非江戸付近に直轄地を置く必要があった。それと合せて有事の際に糧米を背後に備えておくという戦術的意義もあったのである。

『武蔵田園簿』

練馬区に属している村々もその大部分は直轄領であった。『武蔵田園簿』による支配別村高は次の通りである。やや長文になるが、後述の知行地にも関連があるので、練馬地域全村の村高をここにまとめて掲げておく。

<資料文 type="2-32">

一、高八百八拾六石八斗六升八合

 内 三百八拾八石壱斗八升九合 田方

   四百九拾八石六斗七升九合 畑方

            野村彦太夫御代官所

                       上板橋村

 

一、高百三拾五石弐斗弐升六合

 内 七拾九石四斗四升八合   田方

   五拾五石七斗七升八合   畑方

 外 米四俵八升    野米   同人給

              板倉周防守知行

                       中荒井村

一、高七拾六石四斗六升四合

 内 三拾二石九斗七升三合   田方

   四拾三石四斗九升壱合   畑方

 外 米弐拾四俵三斗三升八合壱勺 野米   同人給

                今川刑部

                        中 村

一、高三百三拾弐石六斗壱升七合

 内 八拾壱石六斗六升六合   田方

   弐百五拾石九斗五升壱合  畑方

 外 永壱貫八百弐拾九文  野銭  同人御代官

高拾五石壱斗四升三合 観音領

          野村彦太夫御代官所

                        谷原村

一、高弐百拾弐石九斗八升八合

 内 五拾五石九斗壱升六合   田方

   百五拾七石七升弐合    畑方

 外 永三貫百七拾九文  野銭 同人御代官

            野村彦太夫御代官所

                        田中村

一、高三百七拾四石八斗三升四合

 内 百拾石六斗四升壱合    田方

   弐百六拾四石壱斗九升三合 畑方

 外 永六貫三百八拾弐文 野銭 同人御代官

            野村彦太夫御代官所

                      下石神井村

一、高四百五拾七石弐斗五合

 内 百弐石三升七合      田方

   三百五拾五石壱斗六升八合 畑方

 外 永八貫九百九拾文 野銭 同人御代官

  高拾石          三宝寺領

            野村彦太夫御代官所

                      上石神井村

一、高百三拾四石三斗三升八合

 内 拾七石壱斗六升      田方

   百拾七石壱斗七升八合   畑方

 外 永五貫七百九拾八文 野銭 同人御代官

            野村彦太夫御代官所

                        関 村

一、高六百弐拾三石八斗四升壱合

 内 六拾壱石弐斗六升三合   田方

   五百六拾弐石五斗七升八合 畑方

 外 永七貫四百四拾九文 野銭 同人御代官

            野村彦太夫御代官所

                       土支田村

一、高千百四拾弐石八斗七合

 内 弐百拾九石壱斗九升八合  田方

   九百弐拾三石六斗九合   畑方

 外 永拾八貫七百五拾七文 野銭 同人御代官

            野村彦太夫御代官所

                       上練馬村

一、高千弐百弐拾六石壱斗八升四合

 内 弐百九拾弐石七斗三升壱合 田方

   九百三拾三石四斗五升三合 畑方

 外 永拾弐貫六百文 野銭 同人御代官

            野村彦太夫御代官所

                       下練馬村

一、高百五拾石

 内 九拾石九斗四升三合 田方

   五拾九石五升七合 畑方

 外 永壱貫三百八拾六文 野銭 野村彦太夫御代官

                伊賀衆知行

                        橋戸村

一、高五百四拾八石壱斗九升五合

 内 弐拾九石三斗七升六合 田方

   五百拾八石八斗壱升九合 畑方

 外 永六貫六百八拾五文 野銭 同人御代官

            野村彦太夫御代官所

                        小榑村

練馬の直轄地

以上を見ても判るとおり、練馬の場合、知行地は中荒井村・中村・橋戸村の三か村で他の一〇か村はすべて直轄地領(天領ともいう)であった。また、石高の面からみても知行地は全体のわずか六%余りにすぎず、残り九三%以上はすべて天領であった。

武蔵国全部の支配別石高の割合は、天領が全体の約半分、三分の一が旗本領、残り六分の一が大名領と寺社領になっている。練馬地域の幕府直轄支配が平均に比較して如何に強かったかがこれをみても知ることができる。

直轄地の支配

徳川氏は関東入国後、約一〇〇万石乃至一二〇万石といわれる直轄領支配を代官頭伊奈熊蔵忠次ただつぐに当らせた。伊奈氏は三河の人で代々徳川家に仕え、特に忠次は民政の職に精励し、疏水、懇田、堤防の修築などに巧みであった。関ケ原の戦後功により備前守に任ぜられ、一万石を給され甲斐国の代官も兼ねた。また常に関八州を巡視し、よく民情を察して訴訟も公平に、その計画・経営はすべて宜しきを得、八州の富饒は伊奈忠次の力であると人びとは賞讃した。

忠政ただまさ初め半十郎、後、筑後守に任ず)も父の職をぎ、また令名が高かった。弟忠治ただはるもまた代官となり、関東の野を数多く開墾し、その功により武州赤山に七千石の地を賜った。その子忠勝ただかつは半左衛門と称し伊豆の代官となって、伊奈両家は子孫継承して代官または関東郡代の職を奉じた。忠高ただたかのとき左近将監に任ぜられ関東郡代をつとめたが、寛政の初め罪あっ

て、領地三千石余を没収されたが、祖先以来の功績を以て、末家伊奈半十郎の子小二郎に新たに千石を賜った。

このときから関東郡代は勘定奉行の兼官となったが、のち寛政四年(一七九二)に至って、郡代の直轄を代官五人で分轄管理させることとした。そして先に没収されていた江戸馬喰町の伊奈邸(郡代屋敷といっていた)を馬喰町御用屋敷と呼んで三名の代官を置き、他の二名は邸外の私宅に役所を設けた。元治年間(一八六四~五)伊奈半左衛門という代官がいるが、この小三郎の後と思われる。

郡代・代官はお目見めみえ以上(将軍に拝謁を許される)の旗本が任ぜられ勘定奉行に属し、幕府の直轄所領の検見けみ・割付・収納をはじめ人別改・五人組などの差配や地方一般の行政および治安・検察にも当った。

郡代は四〇〇俵、代官は一五〇俵の役高を定額として給されたが代官は役高のほかに、支配地の石高に応じ諸入用と称し、規定の米金を給与された。諸入用は手附てつきの手当金、手代てだいの給料を始め、その他一切の公務に必要な諸経費に当てられた。

手附は幕臣で譜代席と抱席かかえの二種類の資格がある。譜代席手附は他の役または小普請こぶしん組(非職者の組)から郡代・代官の推薦でなり、抱席手附は新たに抱入れられた終身限りの身分であった。手附は常に郡代・代官に属して事務を掌った。

手代は純然たる幕臣ではなく、かといって郡代や代官の家臣でもなかった。多くは地方の事務に老練な百姓やその子弟から採用された。関東郡代の伊奈氏は家来のみで手代は使わなかったという。手代の嗣子などで事務見習を代官が命じ熟達すると書役しよやくに命じた。書役の名称は私のもので、一般の公務公文には手代として通用させていた。

このほか幕末に到って、在方役ざいかたやく、取締出役しゆつやく八州まわ)などの役名が見えるが、手附・手代に特別の任務をもたせたもので、身分の上では手附・手代とほとんど異るところはなかった(『徳川幕府縣治要略』)。

区内にのこる諸文書から寛政以降、幕末まで五人制代官時代練馬地域を治めた歴代代官をあげると次の通りである。

<資料文>

享和四年(一八〇四)  大貫治右衛門      文化元年(一八〇四)  大岡源右衛門

文政四年(一八二一)  平岩 右膳       文久二年(一八六二)  林部善太郎左衛門

文政一一年(一八二八) 田口五郎左衛門     文久三年(一八六三)  木村 敬之

天保五年(一八三四)  山本 大膳       同  年        屋代増之助

弘化二年(一八四五)  大熊善太郎       同  年        松村忠四郎

嘉永三年(一八五〇)  勝田 次郎       慶応元年(一八六五)  木村 薫平

安政二年(一八五五)  小林藤之助       慶応二年(一八六六)  今川 要作

安政五年(一八五八)  竹垣三右衛門      慶応三年(一八六七)  松村 忠四郎

知行地 江戸周辺の農村部は、防衛体制の確立と安定財政確立のため大部分が蔵入地と旗本の知行地に割当てられたのは前述の通りである。

旗本領は下級者ほど江戸に近く、せいぜい一夜泊りの近郊に設けられ、上級になるに従い遠方に於いて割当てられ、しかも分割して支給されることが多かった。因みに『武蔵田園簿』によって、武州における旗本の知行高をみると、五〇〇石未満が全体の七〇%を占め、五〇〇石以上一〇〇〇石未満が二二%、一〇〇〇石以上三〇〇〇石未満が七%、残りの一%が三〇〇〇石以上という数字を示している。

このように直属の家臣団の知行地を江戸近郊に集中させたのはかれらに江戸城の在番を勤めさせるためであった。入国後は取りあえず知行地の名主の家や寺院を借宅して妻子を置き、自分は単身で江戸に通勤あるいは在勤したものと思われる。前掲の「村方旧記」にあった「御家人御供近在百姓家を借宅」とは、この頃のことを言ったのであった。同じ「村方旧記」に

<資料文>

天正より寛永年中迄ハ当村高六百石ニ而板倉四郎左衛門様御知行御領地ニ而御代官役御勤被成、足立豊島新倉多磨郡御支配由、爾今村々御割付御受取手形有之由、其頃御陣屋堀廻シ今中原是也

とあるが、下練馬に知行地を受けた板倉勝重(当時一〇〇〇石)は村内中原なかはら今の平和台四丁目付近という)に堀をめぐらした陣屋を造っていたことが知られる。

当初百姓家などを借りていた旗本も、やがてこのような陣屋をつくって知行地支配の本拠とした。また陣屋は濠をめぐらした小さな砦ともいえ、江戸を中心として布いた領国軍事体制の一環としての役目も果していた。

直属家臣の知行形態は、ごく下級の家臣を除いては二か村以上にまたがる分散(分村)知行が一般的であった。例えば『中山家系譜』(大泉町六丁目中山秀治家文書)所載の旗本中山助六郎(勘解由)は多摩郡一宮村に一三一石余、同平山村に一六八石余計三〇〇石の知行を受けていたが、同様に旗本桑島孫六(万機斉)も一宮村に一五四石、平山村に一四六石計三〇〇石の知行を得ていた(『日野市史史料集』近世編)。

この例を見ても判る通り一人一村づつの支配を行なわせず、二村を半分ずつ二人に分け与えるという複雑煩瑣な知行形態がとられていたことが知れる。

因みにこの両名はいずれも八王子北条氏照うじてるの旧家臣で、小田原没落後徳川家に勤仕したものである。このように直属家臣団の中には、入国後新らたに召抱えられた後北条氏やその他の大名の遺臣もかなりあった。

一方上級家臣の知行地については、これら下級家臣の場合とは反対に、できるだけ遠方に配置する方針をとった。一万石以上の上級家臣団の配置は『練馬農業協同組合史』(第二巻)、『東京百年史』等に一覧表や図が掲げられているので、ここでは省略するが、それらは関東六か国に隣接する諸大名に備える軍事的な狙いの方が大きかった。例えば、上総大多喜の本多忠勝(一〇万石)は安房の里見氏に、上野館林の榊原康政(一〇万石)は常陸の佐竹氏に、上野箕輪の井伊直政(一二万石)は信濃・越後の諸大名に対し、それぞれ直接の備えとして配置されたと思われる。

練馬の知行地

前掲の『武蔵田園簿』によれば正保年間における練馬の家臣団知行地(私領ともいう)は板倉周防守知行の中荒井村、今川刑部知行の中村、伊賀衆知行の橋戸村の三か村であった。

このほか『新編武蔵風土記稿』(以下『新記』という)によれば、入国直後(天正一八年)、谷原村と田中村は後北条氏の遺臣増島左内重国(当時六〇〇石)、中村は井上河内守、小榑村は板倉四郎左衛門勝重の領地であったことが知れる。谷原村と田中村は慶長以後御料所(直轄地)となり、中村は正保二年(一六四五)今川刑部の知行するところとなった。小榑村は同じ正保の頃、『武蔵田園簿』に記載の如く一度御料所となったが、後寛文年中(一六六一~七三)稲葉美濃守正則の領地となり、貞享二年(一六八五)再び御料地のあと、元禄一六年(一七〇三)半村を米津出羽守田盛へ賜って幕末に至った。

板倉周防守は重宗と称し、四郎左衛門勝重(伊賀守)の長子であった。父勝重は家康に重く用いられ駿府奉行を勤め、江戸入国後は知行一〇〇〇石を賜り江戸奉行の重職を経て京都所司代に補せられ、のちに一万六〇〇〇石余を領した。周防守重宗の弟重昌は寛永一四年(一六三七)島原の乱の際、追討使として赴き当地で戦死した。正保頃の板倉周防守知行地はこの付近で中荒井村(一三五石余)のほか、上新倉村(新座郡)に五〇〇石余、中台村(豊島郡)に二〇三石余、志村(同郡)に一四二石余、合せて九八二石余であった。

前記「村方旧記」に板倉四郎左衛門が下練馬村を領していたと取れる記述があったが、『新記』下練馬の項には「御打入以来御料所」とあって、板倉氏知行のことには触れていない。打入直後は各地で盛んに配置替えが行なわれた時期があるので、あるいは下練馬村も一時期板倉氏の知行地であったことがあるかもしれない。

中村を領した今川刑部は、今川治部大輔義元の子孫で寛永一三年(一六三六)奥高家となり侍従に任ぜられた。

高家には単に高家と呼ぶものと表高家と称するものの別があった。官位を有するものを高家と言い、そうでないものを表高家と称した。高家を別に奥高家と言うのは、ただ表高家の名に対するからである。表高家は表の向きの典儀に関与することもあるが、それは本来の任務ではなく、一に高家の候補に任ずるものであった(松平太郎『江戸制度の研究』)。

今川氏は義元が織田信長に討たれ、その子氏真も武田氏の攻略するところとなった。家康は名門今川氏の流落を憐み、近江野洲郡の内に采地五〇〇石を与えた。その子直房は秀忠に仕え寛永一三年一二月奥高家となった。正保二年常陸笠間に転

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封となった井上河内守のあとを受けて、中村(七六石余)のほか、上・下鷺宮村、井草村などを合せ知行一〇〇〇石(外に高家の職禄一五〇〇石)を領し幕末に至った(須藤亮作氏蔵『今川家文書』・後述)。

橋戸村を知行していた伊賀衆は伊賀国の郷士で、功によって千貫文の禄を与えられていたが、家康江戸入府に従い徳川氏の直属常備軍の一となった。『新記』橋戸村の項に「この地は天正一九年伊賀組へ賜りしより、今も伊賀組の給地なり」とあるから打入の直後に給されたことが知れる。

伊賀衆は、はじめ勤番の際に給地から四、五里の道のりを江戸城へ通っていたが、のちに江戸四谷(伊賀町)に組屋敷を与えられて直接の知行地支配から遠ざかった。

伊賀衆は服部半蔵を頭として伊賀組に属する約三〇〇名で、大縄給地と呼ばれる集団的な知行地の宛行あてがい方式で一六二六石が給されていた。この場合知行宛行状は一括された一紙宛行状の形式がとられていた。

以上『武蔵田園簿』所収の板倉氏(中荒井村)、今川氏(中村)、伊賀衆(橋戸村)に関してのみ簡単にふれたが、それぞれの村の知行経緯については別に記述する。

図1のように練馬の知行形態は、江戸中期以降天領の上・下練馬、中荒井、上・下石神井、谷原、田中、土支田、関、竹下新田、上板橋(一部)の各村と、今川領の中村、米津領の小榑(半分天領)、伊賀組領の橋戸村が確定し、そのまま幕末まで続くのである。

寺社領

江戸城の修築工事に伴なって、城下の〝都市計画〟が行なわれ、古くからあった寺社の城外移転が命ぜられた。家康打入当時、江戸城周辺には、増上寺・山王社・神田明神や局沢つぼねさわ一六か寺などといわれる寺社が、数少ない町屋に比べてかなり多く建っていた。勿論江戸時代のような立派なものではなく、草ぶきの庵に近い粗末なものであった。それらは浅草観音の如き鎌倉時代創建のものもあるが、多くは道灌時代、北条時代に為政者の庇護を受けていた寺社であった。家康は人心宣撫のためにも、そうした古い寺社の移転再建に意をつくした。

天正一八年秀吉軍のために灰燼に帰した小田原城下の寺院も少なくなかったが、そうした中で広徳寺・誓願寺など北条氏ゆかりの寺院も家康より給地を賜り江戸へ移ってきた。

広徳寺は大正一二年関東大震災後、逐次下谷から現在地桜台六丁目に移転した区内でも有数な名刹であるが、江戸移転の頃の様子を『江戸紀聞』には次のように書いている。

広徳寺は元来北條家の時城下にありし也、天正十八年氏直父子滅亡の後、其住僧江戸に来り、今の昌平橋の内松平伊豆守上屋敷、その頃はいまだ足入の沼池なりしを、とやかくして茅ぶきのわづかなる堂一宇を建たり。此住僧を希叟和尚といふ。清首座といふ僧希叟にしたがひ来り、その地の内に少しの茅庵を結び、長春院といふ。是ただ一宇塔頭として有之也。

広徳寺はその後寛永一二年、神田から下谷へ移転し、諸大名の厚い帰依をうけて、俗諺に「ビックリ下谷の広徳寺」といわれるほどの広大な寺域をもつ寺となった。

誓願寺もまた同じ頃小田原より江戸神田へ移転、その後明暦三年(一六五七)の江戸大火(振袖火事)に遇い浅草田島町に移り、御朱印三〇〇石を賜る大寺となった。誓願寺の塔中十一ケ寺は関東大震災後、現在地練馬四丁目に移転してきている。

かように家康は北条氏由縁の寺院を庇護し再興をはかる一方、古来から江戸近傍にあった寺社への安堵または新領授与を行ない、新領民たちの人心安定を計っている。

入国の翌年天正一九年(一五九一)冬にはそれら寺社に対して朱印状の発給を行ないはじめ、年を追ってその数は増加した。区内の寺社では天正一九年に二か寺、更にその後五か寺の寺社が朱印地を与えられている。

<資料文>

 寺社名   村名     発給年    朱印高

三宝寺   上石神井村  天正一九年  一〇石

妙福寺   小榑村    同      二一石

長命寺   谷原村    慶安元年   九石五斗

愛染院   上練馬村   同 二年   一二石一斗

若宮八幡  同      同      八石

金乗院   下練馬村   同      一八石九斗

南蔵院   中 村    同      一二石八斗

朱印状は一般的には朱肉を以て印鑑を押捺した書状のことであるが、室町時代の末期頃からは武将の政務執行のための公文書を総称した。この朱印状によって外国貿易を許可された船舶を朱印船といゝ、朱印状によって所有権を確認された土地を朱印地といった。

 武蔵国豊嶋郡上練馬村

 若宮八幡領同所之内八石

 別当愛染院領 於同村

 拾弐石壱斗餘合弐拾石

 壱斗餘事任先規寄

 附之訖全可収納并寺中

 山林竹木諸役等免除如

 有来永不可有相違者也

  慶安二年十一月十七日

これは慶安二年三代将軍家光が愛染院と同寺が別当をしている若宮八幡(高松の八幡神社)に下付した朱印状である。区内には愛染院のほか金乗院、南蔵院、妙福寺にそれぞれ朱印状写九通ずつが現存している。すなわち、慶安二年(三代家光)、

貞享二年(五代綱吉)、享保三年(八代吉宗)、延享四年(九代家重)、宝暦一二年(一〇代家治)、天明八年(一一代家斉)、天保一〇年(一二代家慶)、安政二年(一三代家定)、万延元年(一四代家茂)のものである。

朱印状は一〇万石以下の大名(一〇万石以上は書判かきはん)や旗本にも歴代の将軍から下付されたが、朱印地というと通例は寺社領のことをいった。朱印状の下付は新たに付与したり、旧領に増加をする場合もあるが、多くは前代からの承認もしくは、将軍の代替りに際し、御朱印改めの手続きによって前将軍の朱印状を新将軍のものと引換えに追認するものであった。御朱印状書替の手続きについては、練馬郷土史研究会編『中山道板橋宿乗蓮寺文書』(郷土研究史料第七輯)および、伊藤経一「朱印状書換の覚え」(同会創立二五周年記念特集号)にくわしい。天保八年(一八三七)六月、一一代将軍家斉が隠居し、家慶が職を継いで、八月に一二代将軍の宣下があった。家斉は五〇余年という長い在職期間であったので、前回朱印状書替に携わった者は、奉行側にも寺社側にもほとんど無かった。そのためかこの時の朱印状書替には足掛け五年の歳月を要し、いろいろ困難を感じた様子が同文書でうかがうことができる。

区内でも末寺を多く持っていた三宝寺が二度の火災に遇い、朱印状など多くの古文書は烏有に帰したが、あるいはその中に朱印状書替一件書類もあったかもしれない。

歴代将軍のうち、七代家継は夭折し、一五代慶喜は幕末の争乱に際し短時日で大政を奉還したため、いずれも朱印状の下付はなかった。

除地よけち

寺社には朱印地の外に、年貢諸役を免除され、村高より除かれる除地(<圏点 style="sesame">じょちともいう)という土地があった。大石久敬の『地方じかた凡例録』では次のように述べている。

<資料文>

除地ジヨチといふハ朱印地に続き重きことにて、寺社境内并に免田畑・居屋敷等・無年貢の証書あるか、又は前々検地帳外書に除地と記してある分は高の有無とも除地にて、その外の無年貢地は見捨地ミステバと唱ふ、勿論寺社領等にて高反別あるもあり、また反別はありて高ハなきもあり、無高無反別の場所もあり、高のある分ハ除地高と云ひ、その外ハ只除地と計唱ふる也、村内の墓所・屠馬捨場等を除

地と心得る者多し、是ハ除地といふものにてハなく、検地の節繩外の見捨地なり、右の外にも道・川・溝・堤等を検地の時分縄外の見捨に致す地所色々あり、何れも水帳外書に記し置くことなり

図表を表示

つまり除地は朱印地のほか寺社境内とその所有地、或いは古来から由緒があって田畑・家屋敷等の無税証書を有するか、又は前々から検地帳外書に除地と掲記してある分に限り認められる朱印地に次ぐ特別免税地である。村々の墓地や死馬捨場

を除地と心得る者も多いが、それは縄外の見捨地みすてちといって除地とは全く別個のものであると説明している。

時代は大部降るが文政四年(一八二一)上練馬の「村方明細書上帳」(長谷川武範家文書)によって朱印地、除地、縄外地を見てみると表1の通りである。その時の村の総反別が田方三五町八反二畝一三歩、畑方四九九町四反五畝二七歩余、合計五三五町二反八畝一〇歩余であるから、朱印地を除いた、除地・縄外地が全村の約一・七%に当たることになる。

また文政九年(一八二六)下練馬村の「御割附之写」(加藤源蔵家文書)は公式の割附状の写ではなく、村方の便宜上割附状をもとに作成されたものと思われるが、中に「御朱印御除地 寺社書上控」が含まれており、下練馬村の除地を検討する上できわめて貴重な資料である。この文書によると下練馬村には寺院九か寺、社地一四か所があり、除地合計七町一畝拾八歩が記載されている。この時の村の総反別は五五〇町三畝一〇歩であるので、約一・三%が除地として確認されている。

以上僅か二か村の除地を見たに過ぎないが、江戸幕府の寺社擁護の一端が窺えて興味深い。

<節>
第三節 江戸の発展と武蔵野の開発
<本文>

家康が江戸を中心とした関東における領国経営の基盤づくりを着々と進めつつある中で、日本の歴史もまた目まぐるしく変って行った。

天正一九年朝鮮出兵を令した秀吉は、失意のうちに後事を家康に託し慶長三年(一五九八)この世を去った。同五年関が原の戦に大勝した家康は事実上の天下統一を果たし、同八年(一六〇三)二月右大臣となり征夷大将軍に補せられ江戸に幕府を開いた。江戸は文字通り日本の政治的経済的中心地となってゆくのである。

江戸市街の発展

江戸城の本格的修築工事は慶長一二(一六〇七)に行なわれた。この時五層天主閣をはじめ本丸や堀の普請が完成したが、その後も寛永年間にかけて各種の御殿、櫓、城門などが建造された。

城の築造と併行して城下町の整備もまた進められた。寛永年間までに開かれた町地は約三〇〇町といわれ、古町とか草創地と呼ばれて、それ以降の新開地や町並みより由緒や格が高いとされていた。

江戸経済の面からも家康は入国後、まず小田原商人を移させ、これに従って伊勢商人もまた集った。江戸築城以後諸国の武士が続々来集することになるが、京、堺の商人等も家康の命に依り徐々に移住し、のちに近江商人も江戸に店舗を開くに至った。

更に参観交代制度や五街道整備に伴って諸侯が江戸に藩邸を置くに至ると、それに付従して移住する商人も少なくなく、商機を見るに敏な関西商人は京坂の物産を高級品即ち「くだり物」と称して大量に江戸へ送り込んだ。

この様に江戸が都市として大いに発展した結果、当然ながら人口の集中は夥しかった。江戸の人口については同時代の諸書に数多く見えるが、いずれも町奉行支配の人数は判明していても武家の人数が判然としないから、結局江戸の総人口を正確につかむことはできない。一番多い時期は天保一四年(一八四三)の町方支配場所、寺社門前地、出稼人合せて五八万七千人という数字が残っており、これに五〇万人を出なかったといわれる旗本御家人およびその家族と在江戸藩士を合せて江戸の総人口は一〇〇万人前後と推定されている。また町数も初め八百八町といわれていたが、正徳年間には九三三町、享保年間には一六七二町、天保年間には二七七〇余町に及んだという。

これだけ江戸が発展してくると、当然市中の台所を賄う食料の供給が必要になってくる。京大坂から来る下り物では到底間に合わず、鮮度を要求する食品は江戸前(江戸湾岸)の魚介類や近郊農村の蔬菜類が主な供給元となった。

慶長頃にはすでに神田鎌倉河岸の北側湿地を埋め立て市街地をつくり、そこに「菜市」が開かれた。明暦の大火後江戸市街の再建と再編成の結果、貞享三年(一六八六)それまで市中に散在していた青果商が、神田多町を中心に市場を形成する

ようになった。これが元禄頃になると井原西鶴の『当世胸算用』に出てくる如き活況を呈し「毎日の大根、里馬に附け継ぎて数万駄」と形容されるほど江戸近郊農村、主として練馬や三河島などから馬につけて運んで来る大根などの野菜で神田の青果市場は繁昌した。

その頃、江戸近郊の産地と名産野菜には次のようなものがあった。

<資料文>

練   馬   練馬大根            多摩郡砂川   砂川ごぼう

南 千 住   汐入大根(二年子大根)     多摩郡矢口   矢口ごぼう

三 河 島   荒木田大根           小 松 川   小 松 菜

尾   久   荒木田大根           松   江   小 松 菜

荏原郡諸村   沢庵用大根・たけのこ      千   住   ね   ぎ

滝 野 川   滝野川ごぼう・にんじん                 (『千代田区史』

江戸文化の開明

幕藩体制の整備とともに世は、戦国的な気質から平和的な気風に変りつつあった。以前は武将・僧侶など極く限られた階級の間のみでしか顧られなかった学間も、徐々に一般にも要請され、幕府や諸藩の大名もまたそれを助成する政策をとった。

一方こうした中で庶民生活の社会的な向上は著しく、経済的にも文化的にも上昇の一途をたどり、民衆のつくり出す芸術文化は絢爛けんらんと花を開いていくのである。

京に生れた阿国歌舞伎もこのような庶民文化の一翼をになって、のちに元禄江戸歌舞伎と称されるまで急速な進歩を遂げるのである。阿国が慶長一二年(一六〇七)に招かれて江戸城中で歌舞伎踊りを演じたのが、江戸歌舞伎の嚆矢だとされている。その後、女歌舞伎・若衆歌舞伎の禁制を経て、慶安四年(一六五一)には江戸に中村・山村・市村の三座の芝居小屋が開設された。

ここでは歌舞伎の歴史を述べるのが本旨ではないので、他の専門書にゆずるとして、練馬に少しながら関係のある絵島生島えじまいくしま事件について記しておきたい。

正徳二年(一七一二)六代将軍家宣が若くて死に、その子家継が将軍職を継いだが、まだ幼少だったので、生母月光院(左京の局輝子)が隠然たる勢力を振うこととなった。大奥にこの月光院に仕える絵島という上﨟年寄がいた。彼女は豊島久俊(石神井城主豊島氏の子孫)の娘で、女ながら六百石を給せられ江戸の大奥にあって大きな力を握っていた。ここに目を付けた浅草の材木商栂屋つがや善六、呉服商後藤縫殿助ぬいのすけの手代清助などが、大奥に対する利権を得ようとして奥医師奥山交竹院、小普請方金井六左衛門と通謀して絵島を誘惑した。

この事件の発覚の端緒は、正徳四年(一七一四)正月、月光院の代参として増上寺の文昭院(家宣)廟に詣でた帰途、絵島らは木挽町山村座に立寄り、芝居見物のかたわら、役者生島新五郎を呼んで遊興したあと、帰城が遅れたことが問題となったのである。そこで司直の探索によって善六らの策謀が露顕し、たちまち町奉行の手によって生島はじめ座本長太夫も捕えられ、関係者はそれぞれ死刑、流罪となり山村座は取りつぶしとなった。絵島は評定所の吟味の結果、遠島ときまったが月光院の配慮によって内藤信濃守の領地信州高遠たかとうに配流となった。絵島の兄豊島勝昌は行状の正しくない妹を諫めなかったという罪に問われ、切腹を仰付けられて、この一家は断絶してしまった。

この事件は江戸市民の耳目をそばだたせた出来事であったらしく「村方旧記」にもことこまかく事件の経過を記している。

武蔵野の開発

武蔵野台地は北を荒川、南を多摩川に限る青梅を頂点とした扇状の洪積層台地で、自然池沼である井ノ頭池・善福寺池・三宝寺池などの湧泉を水源とするいくつかの小河川が浸蝕谷を形つくっている。

武蔵野の開発の遅れた理由に水の不足がある。この台地の表面を厚く被う火山灰からなる関東ローム層と厚層の砂礫層のため、水は伏流となって地下深く滲透しているためである。このような状態であるので中世末までは前記湧泉や河川を利用

できる地域にだけわずかに村落が開かれていたにすぎなかった。

江戸時代に入るとようやくこの地域にも開発の手がのび、慶長から享保にかけて多数の新田村落が出現したが、とくに承応から寛文までのものが主体をなしている。石高の増加を基準として開発を時期的に大別すると、元禄をさかいにその以前と以後に分けられ、元禄以前の開発村落は戦国以来の在地土豪層もしくはその系譜を引く上層農民が開発人となっており、兵農分離の進行がもたらした全国的な現象であった(『東京百年史』)。

承応三年(一六五四)六月多摩川上流羽村から武蔵野台地を横断して江戸市中に至る玉川兄弟の苦心になる玉川上水の竣工は武蔵野の開発に大いに役立った。武蔵野の最も高い地帯を水が流れると、それからの分水を利用して新しい開墾が行なわれた。享保七年(一七二二)八代将軍吉宗によって発せられた新田開発令は武蔵野の開発をさらに促進させた。

玉川上水からはさらに青山上水(万治三年)、三田上水(寛文四年)、千川上水(元禄九年)がそれぞれ開鑿された。このうち千川上水は本区と特に関係が深いので別に詳述するが、ここではその概略についてふれておく。

幕府は元禄九年、湯島聖堂・寛永寺・小石川御殿・浅草御殿などへ飲用水を供給する目的で河村瑞軒の企画によって、多摩郡仙川村の徳兵衛・太兵衛の二人に工事を請負させた。千川上水は多摩郡保谷村から玉川上水を分水し、石神井川と江戸川(神田上水)との間の屋根をほぼ直線で東流して、現在の練馬区と豊島区の区境いで北に流れを変え、板橋区を経て、文京区から台東区に終る延長約三〇㎞に達するものである。

宝永四年(一七〇七)、千川上水に沿う二〇か村が、この水を田畑に引くことを許され、のち享保七年(一七二二)から安永九年(一七八〇)まで約六〇年近く田用水だけに利用され、さらに天明六年(一七八六)以後は完全に用水と化して明治に及んだ。

こうした用水の灌漑利用によって武蔵野台地の畑場は、新田開発とも相俟つてその作付反別を著しく伸ばしてゆくのである。区内では、もともと上・下石神井村、関村の秣場まぐさであった林を天明四年(一七八四)、竹下忠左衛門が幕府に願い出て開

墾し、近在諸村からの出百姓とも力を合せ、のちに竹下新田という一村を形成するに至った例もある。また田中村においても元文年間(一七三六~四一)には谷原村の北に新田を開き飛地として田中新田と称したし、多摩郡江古田村でも江古田新田が開かれ、のちに上板橋村字江古田(現在の旭丘)となった。これらの区内の新田成立状況については各村の項で記述することとする。

このように武蔵野の開発は家康の江戸入府と、それに伴う市街地の発展に影響されて漸時活発になってきたが、玉川上水からの分水によるとか、湧水池に恵れた地域は別として台地上の開発は長い間放置されていた。この武蔵野台地が開墾の対象となってきたのは、人口の増加とそれに伴う食糧対策、さらには都市の需要に応ずる蔬菜栽培による畑地の利用などがあげられる。享保年間に開墾された新田は多摩郡四〇か村、入間郡一九か村、高麗郡一九か村、新座郡四か村の合計八二か村に及び、これらの新田は特に「武蔵野新田」と呼ばれた。

次に武蔵野新田の村々から出された用水分水願を掲げておくが、当時の新田村の水不足の状況と、それに対する農民の切実な願いを考える上で貴重な資料といえる。

<資料文>

  乍恐口上書を以申上候

一此度武蔵野御新田之内江御上水より分水被仰付候ハヽ、田方出来可仕哉否之訳ヲ御尋ニ付、私共存寄申上候、御新田之内窪地其外水乗り候平地も御座候得共、軽土ニ御座候得は水持無之、大分之田方は出来兼可申と奉存候、尤野中新田砂川新田ニ而田壱反歩程宛仕付心見仕候処ニ、本田ニ而水懸候ハヽ田四五町も可仕付程之水ニ而様々壱反歩程之田水ニも足り不申候、是をかんかへ申候得は、百町歩程之田方も出来申間敷と奉存候、然共呑水被下置候ハヽ少々宛も稲作仕付度奉存候、尤右も水濕渡リ候ハヽ、末々田方も出来可仕と奉存候、依之分水被下置候ハヽ、当分出百姓之呑水ニ罷成、少々も田方出来仕候得は御救と難有奉存候、

                                               芋久保 平左衛門

            享保十五年十一月廿六日                        中藤 庄次郎

                                               砂川 伝右衛門

                                                  治右衛門

                                               谷保 平兵衛

岩手藤左衛門様                                        関前 忠左衛門

      御役所                                      境  吉之助

                                               関の 勘左衛門

                                               梶の 藤右衛門

                                               野中 次右衛門

                                           (『小金井市誌資料編』梶四郎家文書

すなわち武蔵野新田は、軽土で水持ちが無く、他の所では田四、五町も仕付けられる程の水でもここではようよう田一反にも足りない状況であるので、取敢えず飲用の分水をもらえば徐々に水が土地に湿ってきて、ゆくゆくは田圃も出来るようになるであろうと訴えている。

この文書は五日市街道沿いの村々が主であるが、恐らく練馬を含む青梅街道沿いでも同じような状況であったことは充分に推察がつく。江戸近郊における近世村落の発展はこうした農民の苦しい水との闘いの中でかちとられてゆくのである。

<章>

第二章 村の成立と構造

<節>
第一節 村の支配組織
<本文>

昔から人びとが集まって生活を形成していた所を一般にムラといった。ムラはムレと同義で群衆が集まって棲息し、人家が群れをなして存在することをいったものだといわれている。

大化改新(六四五年)に際してくにこおり)・さとの制度が定められたが、七〇一年の「大宝律令」では、これを基礎として国の下に郡、郡の下に里を置き、五〇戸を里とし、毎里におさ一人を置くこととした。

のちにこの五〇戸から成る行政単位の里を改めてごうと称し、郷の下にさらに小区画の里を設けたり、五五戸単位の隣保組織)の制度も行なわれていた。

しかしその後、庄園が発生し全国に普及すると、しようの名称が起り、村はこの庄・保の下に属するようになった。練馬に関する中世文書にも例えば、豊島宮城文書の中に「石神井<圏点 style="sesame">郷所領相伝系図」が、米良文書の中に「ねりま<圏点 style="sesame">郷上原雅楽助」の名が見えることは前述したとおりである。

この制度は戦国末期までつづき、豊臣秀吉が実施したいわゆる太閤検地のあとは、庄保郷里の称は廃され、直ちに郡をもって村を統轄することとなった。

近世村落の性格

近世の村は政治上の単位であると共に、納税の単位でもあった。幕府はむしろ年貢徴収のための単位として村を統制していた。担税力に応じて割当を受けた村は、それを皆済かいさいするのが至上命令で、若し未進

不納の場合は、五人組又は全村の責任でこれを納付した。村は自治団体であって村内の行政は名主、組頭(年寄)、百姓代などの村役人が自治的にこれを治めた。村は単なる住民個々の集合体ではなく、村自体で人格を持っており、納税の義務を負う一方、村として、資産を所有し、あるいはそれを貸借・売買したり、契約を結び、訴訟を行なう能力と権利をもっていた。自然村の公課は同時に村民の共同負担であり、村の出入は同時に村民の共同訴訟であり、村の持地は同時に村民の共同利用地であり、村の債務は同時に村民の共同債務であった。すなわち村の権利義務は村民のそれと表裏一体で不可分的なものであった。

ほとんどの村には氏神が祭られており、村民は総てその氏子となった。男子が出生後三一日目、女子は三三日目に初宮参りを行なう風習は、民俗学的には氏子への参加の儀式だとされている。また同一村内には同姓を有する家が多数あって、それぞれが本家を中心とした分家で纒まっており、宗家支配の下に村が形成されているといってもよい。その宗家は一村一家の場合もあれば複数の場合もある。練馬の村の草分け百姓については別項でふれるのでここでは省略する。

経済的に村は村で自給自足する方針がとられ、食料はもちろん衣料、農具その他、大体の日常品は村内でまかなえるようになっていた。村では農民以外の者の移住を極力避け、為政者側でも他国者の村内立廻りを厳しく監視するよう義務づけていた。

例えば承応四年(一六五五)小榑村五人組帳の前書に「出所の知れない他国の者は牢人(浪人)、商人、乞食たりとも一夜の宿を貸してはならぬ」(昭和三二年刊『練馬区史』)と規定している。若し止むを得ず旅人などに宿を貸す場合でも「旅人ニ一夜之宿貸シ候共名主五人組江可相断、無拠儀有之翌日も逗留仕においてハ名主五人組立合吟味之上留可申候、尤怪敷者一夜之宿成共貸シ申間敷候事」(金沢家文書「天保五年上石神井村五人組帳」)とあるように、たとえ一泊でも名主五人組に断り、翌日も泊るような事があれば皆で立会って吟味した上にせよ、もちろん怪しい者は一夜でも泊めてはならない、と定めている。

これらは防犯上の意味もあるが、他所者よそものの加入によって村内の強い結び付きが崩れることを警戒した為政者側の気づかいも窺うことができる。時代はずっと降るが、明治三年(一八七〇)土支田村「郡中制法伍人組帳」(小島兵八郎家文書)には二泊以上の逗留をさせてはならないという規定はなくなったものの未だ「他処人、人別に加り度願出るものあらハ、出処産業等聞糺し是迠之在所役人よりの送り状を取り、人柄不審も無之請人等も有之ハ其書ものをも取置、願出聞届之上五人組へ加ふへし、其儀なく不審のものを留置ニおいてハ五人組之者可為越度事」とある。つまり人別に加わり度い(村に転入し住民となりたい)と願い出る者があったら、出所・産業(職業)などを聞き糺し、確かな証人の請書を取ってからにせよ。若し、それをせず不審の者を村に留め置くようなことがあれば、五人組の罪になると戒めている。

五人組が村の治安維持と、共同責任の遂行に如何に重要な役目を果していたかは別にふれるが、こうした近世農村の性格は明治に至るまで長く続いた。

村と組

前出の『小田原衆所領役帳』(以下『役帳』という)によると、練馬区関係では中新居・練馬・石神井・谷原・土支田・小榑などの在名が見える。これらの地域がどの程度の範囲なのか、近世のそれぞれの村に相当するものなのか定かでないが、貫高表示による田畑は、そこに大規模な村落を構成していたとは到底考えられない。『役帳』は戦国大名としての後北条氏が、その一門や家臣などへ諸役を賦課する必要上、その基準となる役高を明記したもので、所領高(知行高)を記したものではないとされている。

すなわち各人の役高を算定する場合その基準となるのは土地であって、それを賦課の単位である貫高で表わし、地名を併記して確実性を与えたものである(杉山博『小田原衆所領役帳』解題)。例えば「拾四貫五百文 中新居」と記されているが、中新居の全生産高が一四貫五〇〇文であるというものでもなければ、そこに記されている森新三郎なる人物の中新居における全所領が一四貫五〇〇文であったというのでもない。『役帳』は森新三郎が中新居で一四貫余の役高を持っているということを示しているに過ぎないのである。後北条氏にとっては一四貫余の中新居の方に問題があるのではなく、一四貫余の役

高方に意味があったのである。

このような理由から『役帳』の貫高と、約八〇年後の『武蔵田園簿』の村高とを直接比較することはあまり意味はないが、計算上は高・反別共五倍以上の伸びを示している。

江戸近郊農村の急速な発展は、こうした後北条氏から徳川氏の関東支配という政治的変遷の中で進められたのであるが、それは単に支配関係の移行という問題だけではなく、従来土豪層に包含されていた小百姓が独立して、領主に対する直接の貢租を負うこととなったのである。

一方、兵農未分離の頃の土豪(在地武士)は、支配関係交替の過程で土着農民化してゆくのであるが新たに独立した小百姓(新本百姓)に対する優位性は変わらなかった。『新記』に記載のある関村の開発名主井口忠兵衛、石神井村を開いた高橋加賀守・高橋主水・尾崎出羽守・田中外記・桜井伊織・元橋主水、橋戸村の荘和泉守、小榑村の加藤隼人などはいずれも在地武士であったのであろう。

こういう土豪的農民と初期本百姓ならびに新本百姓などの村内融和と、年貢徴収の円滑化を図る目的で、村の中に組とよばれる小行政単位が作られていった。五人組は近世初頭に五保から生れたものであるが、この五人組がいくつか集って組が組識され、かつての部落の機能を受継ぐようになった。

組には組頭あるいは年寄とよばれるおさ百姓がいて生活共同体としての組を取り仕切った。組頭(年寄)は草分け百姓である初期本百姓が多く選ばれ、いくつかの組で構成される村の名主は、そういう組頭の中の有力者から任命されることが一般的であった。

名主の家が村内で特に擢ん出ている場合は世襲のことが多いが、同等程度の者が居るときは年番で名主を勤めるとか、あい名主と称して二名で名主を勤める場合もあつた。村方三役(名主・組頭・百姓代)については別項で述べるが、江戸初期に於ては名主・組頭(年寄)の二役で村の行政を取纒めていた。

区内各村に現存する諸記録には次のような組の名を見ることが出来る。

<資料文>

中荒井村   弁天組・本組・西組・中通組・北新井組(中新井村誌

中  村   中内村・原組・南組(

上練馬村

 中ノ宮村  五兵衛組・権左衛門組・猪左衛門組・五左衛門組・長兵衛組 五組四九軒

 海老ヶ谷村 伝衛門組・五郎左衛門組 二組二七軒

 谷 原 村 助兵衛組 一組一八軒

 田 柄 村 兵左衛門組・権兵衛組・彦兵衛組・吉衛門組・権左衛門組・弥五左衛門組・八郎右衛門組

                                              七組六五軒

 貫 井 村 権左衛門組・八左衛門組・伝左衛門組 四組四四軒

 高 松 村 善兵衛組・伝右衛門組・惣右衛門組・三郎右衛門組・次郎左衛門組・角左衛門組 六組六〇軒

                                (「上練馬村御縄打高組帳」

土支田村   上組・下組(「土支田村明細書上帳」ほか

江古田村   孫右衛門組・庄左衛門組(江古田村新田、のちに太左衛門組となる)・丸山組(喜兵衛組

                                  (『江古田村名主文書』

下練馬村・石神井村・関村・小榑村・橋戸村には全村の組名を明らかにする資料が見当らないので、ここでは割愛するが、判明した組頭或いは年寄については後に触れる。

右の表でも判るとおり組名は部落の名前、或いは組頭の名前を採って付けられた。表に掲げていない村にも、江戸初期から幕末までを通じて、村特有の組名が付けられていたことは古文書などに散見される。

上練馬村の二五組は延宝三年(一六七五)「上練馬村御縄打高組帳」(長谷川武範家文書)によるものであるが、この二五組は各組の高を標準一〇〇石になるよう編成されている。上練馬村は中山道下板橋宿の助郷村であって、常々伝馬が割当てられていた。

伝馬は高一〇〇石に付き人足二人、馬二疋と定められていたので、高一〇〇石の組を作って置くことは、伝馬に限らずあらゆる諸役の賦課を計算する上にも必要な事であった。上練馬村の村高は二六二六石余であったので一〇〇石組にすると二六組できるわけであるが、助郷高は寺方・名主方の持高を除く慣習であったので二五組となっている。中ノ宮村以下の五つの村は上練馬村の小名である。谷原村助兵衛組は隣村谷原村からの入作であろう。

土支田村は『新記』に「土人私に村内を二区に分ち上組下組と唱ふ」とあるように半ば公認の組分けであった。年貢割附状・年貢皆済目録(後述)も上・下両組別々に下付されており、村明細帳にしても文化・天保・嘉永等のものに上・下両組別に記載したと思われる下組だけの明細帳が小島兵八郎家文書の中にある。勿論名主も上・下両組別々におり、組頭も両組に数名ずついた。これらのことから土支田村の上・下両組は他の村の組とは事情の違う面があって、それぞれが独立した一村を形成する性格をもっていた。

この状態は幕末まで続くが、明治四年豊島郡が品川県より東京府に編入されるに際し別村の取扱いをうけ、同六年大区小区制に当って、はっきりと上土支田村・下土支田村と二村に分離された。因みに下土支田村はのちに上練馬村に合併し、上土支田は小榑村・橋戸村などと合併して大泉村となった。

江古田村庄左衛門組(のちに太左衛門組となる)は江古田村新田を含む組であり、年貢割附・年貢皆済目録とも本村とは別に「江古田村新田太左衛門組」として下付されている。寛政八年(一七九六)頃を境いに江古田村新田は上板橋村の小名江古田となるが、貢税は従来通り江古田村太左衛門組が扱っていた。そのことは堀野家文書(中野区江原町二丁目)の割附状その他で知ることができる(江古田新田については後述)。

村方三役

村には二つの側面があることを述べた。それは村民の生活共同体としての面と、他の一面は領主にとっての貢租負担の基本単位であるということである。貢租負担の義務を負う農民は村を生産の場、生活の場としながら幕府からの統制をうけた。

村は村方三役又は地方じかた三役とよばれる名主(庄屋)・組頭(年寄)・百姓代の三役で取り仕切っていた。関東では近世中期から百姓代が加わるようになるが、それ以前は名主・組頭の二役制であった。これら村の支配組織は当然、領主支配の末端機構としての性格も持っていた。

代官役所の事務には地方ぢかた公事方くじかたの二つの掛りがあった。総高五、六万石の地を管轄するのに役人は僅々一七、八名以下の人員であったので、それぞれ分担をきめ繁忙のときは互いに応援補助をし合いながら事務の渋滞がないよう努めていたという(『徳川幕府縣治要略』)。

いきおい、村からの提出書類などは村役人の手に委ねられ、それだけ名主をはじめ村役人の事務量はなみなみならぬものがあった。検地のときの案内・立会いは勿論のこと、田畑成たはたなり畑田成はたたなり損地そんち潰地つぶれち起返おきかえりその他貢租の増減に係る届出、実地臨検の立会などは最も重要な役目の一つであつた。

また宗門人別帳の提出、村民の前年比較増減の調べ、五人組帳・夫銭帳・村明組帳などの書上げ、年貢割附状、皆済目録の収受や村民への周知徹底など一々掲げればきりがない程の量であった。これらの内容については出来得る限り後述するつもりであるが、村役人の仕事は質量共に相当事務処理能力のある者が専従しなければ消化出来ないものであったと思われる。

いま各村にのこる古文書のうち名主・年寄・百姓代三役連名のものを見ても、村明細帳、宗門人別帳、貯穀書上帳、商売家取調書上帳、定免じようめん願、堰料免除願、御鷹場御法度手形請書、千川善蔵跡目同意書など村政全般に亘る広範囲なものでその数は枚挙にいとまない程である。

名主

一村のおさを庄屋・名主というのは、古く貞永しき目に庄官・名主職の名が見え、いずれも一郷を奉行する武士の職であった。これが時代が移り兵農分離のあと村が農家のみになっても一村の長を庄屋・名主と言い習わして来たといわれている。庄屋・名主は一村の内でも家柄が正しく田畑を多く持った百姓であって、彼らが長として村中を支配統制することとなった。庄屋の称は上方筋に多く、関東では名主と呼ぶことが多い。

初期の名主は大体その家が決っており数代に亘って連綿とその職に就いていた。若し名主役を勤める家の当主が幼年などの場合は組頭の内か又は親族の者が後見役となり、名主の名目は幼少でもその家の当主が継いで一村を治めていた。たとえ名主家を凌ぐ大高持たかもち田畑を多く持っている本百姓)でも、その家筋でなければ名主を勤めることは出来なかった。

そのため名主の威厳が保たれ村中もよく治まって名主の支配に背くものは少なかった。しかし一方、名主が何代も続くとその権威にまかせ我儘な所行をする者も中には出て来て、村のためにならないことも間々あった。

慶安二年(一六四九)に令せられた「諸国郷村江被仰出」(一名慶安御触書)は名主について次のように言っている。

<資料文>

一、公儀御法度を怠り、地頭、代官之事をおろそかに不存、扨又名主、組頭をハ真の親とおもふべき事

一、名主、組頭を仕者、地頭、代官之事を大事に存、年貢を能済、公儀御法度を不背、小百姓身持能仕様に可申渡、扨又手前之身上不成、万不作法に候得バ、小百姓ニ公儀御用之事申付候而も、あなどり不用物に候間、身持を能致し、不便不仕様に常々心掛可申事

一、名主心持我と中悪者成共無理成儀を申かけず、又中能者成共依怙贔屓なく、小百姓を懇にいたし、年貢割附役等之割少も無高下らくに可申渡

                                                (徳川禁令考

代官、地頭の命を受けて貢租を徴収することが名主の主な任務の一つであったが、村単位に賦課された貢租を村民一人一人の所有高に応じて割当てる仕事は特に公正を要求された。江古田村の小百姓が年貢諸役の割当について、高反別によって

公正に配分することを再三要求したが、名主が聞き入れないので享保九年(一七二四)に代官所へ提出した訴状が昭和三二年刊『練馬区史』(二五〇ページ)に紹介されている。

こうした年貢諸役の配分に絡む訴えは各地に多く見られ、享保頃より名主の一代勤め、又は年番名主と称して一村の内に名主役を勤める家柄を選んでおき、百姓の内から一年毎順に名主役を勤める制度が採り入れられるようになった。

名主が病死又は退役で跡役を決める場合はその村々の例に任せられたが、総百姓の入札いれふだにゅうさつ)で高札たかふだ最高点)の者が任命される現代の選挙と同じ方法や、或は総百姓連印を以て願い出る形式で選ぶ方法がとられた。勿論年番制度の名主は、入札や願い出の必要はなく順番に名主を勤めた。年番ではなく一代限りの名主が退役の時は、その子が名主役に相応しい人格・年齢であり、村内の人望もある場合は総百姓相談の上で、前名主の子を願い出ることもあった。また入札や願い出で村内から名主の推薦を受けても、その者が必ずしも名主となるとは限らない。持高、平常の行状、算筆の能力などを参酌し、代官所が適当と認めればそのまゝ任命し、若し、その者が不適格であれば、二番札の者を任命したり、入札のやりなおしを命ぜられる場合もあった。入札制の名主は村の百姓にとって、自分たちの仲間という意識が強く、民主主義の今ならば兎も角、封建時代では名主の権威がなく、村内の取締りが不行届きになるという為政者側の思惑もあって、最終的な名主の決定権は代官所にあった。

区内の村々のうち、半数ぐらいの村は、世襲で名主を務めていたようである。それを裏付ける文書は現在残されていないが、当然名主役の跡目を継がせたい願い出がなされていたであろう。諸家古文書から推察できる世襲の名主は次の通りである。

中荒井村・岩堀家、中村・内田家、江古田村新田・堀野家、上練馬村・長谷川家、関村・井口家、土支田村上組・町田家、同下組・小島家などで、これらの家は早くは江戸初期から、おそくとも寛政頃から幕末まで代々名主役をつとめた。

先に江古田村百姓が名主側を相手に年貢諸役の割当てについて代官所へ訴え出たことに触れたが、下練馬村でも寛政三年

一七九一)百姓二一五名が名主と組頭(年寄)九名を相手に出入でいり争い)を起こす事件があった。このことは後述するが、江戸後期になると村の階層分化を反映して、名主百姓の出入が目立つようになるのである。

名主の報酬(名主きゆう・名主給米きゆうまいという)は村々によっていろいろ仕来りがあったようである。天領では一応の目安として、次のように定められていた。

 村高  一〇〇石以上  二〇〇石未満 給米弐俵

 同   二〇〇石以上  四〇〇石未満 同 四俵

 同   四〇〇石以上  七〇〇石未満 同 五俵

 同   七〇〇石以上 一二〇〇石未満 同 八俵

 同  一二〇〇石以上 一五〇〇石未満 同 十俵

 同  一五〇〇石以上         右に準じて増額

天領では名主給は年貢から差引かれず、小前こまい百姓)から別に取立てて渡すことになっていた。享保五年(一七二〇)の関村明細帳によると「名主百姓壱軒ニ而銭百文つゝ出し申候」とあり、宝暦四年(一七五四)の小榑村村柄様子明細書には「名主給・定夫給共ニ金五両弐分家別高四段割ニ集申候」とある。関村では各戸均等に一〇〇文ずつ出しており、その時の関村の家数が九八軒であったので、総額二両二分程度が名主給に当てられた。小榑村では各戸高別に四段階に分け、家数一二二軒で集められた五両二分ずつを名主給と定夫給(定傭の人夫に対する給与)として当てていた。因みに関村の定使給は百姓一軒に付き銭六六文と、ほかに麦一升、稗一升を出していた。また土支田村上組では嘉永二年(一八四九)の御年貢勘定取立帳によって、各戸本途(本税)の二~三%が名主給として割当てられていたことが知れる。

私領である中村では天領と異り、二石の名主給が年貢から差引かれていたことが、元治元年(一八六四)の皆済目録などに記載されている。二石といえば四斗俵で五俵であるので、村高二〇一石余の中村にしては先の天領基準より一俵多く支給

されていたことになる。

名主は役目柄江戸へ出掛けることがよく有ったようで、その費用は村入用にゆうよう村の費用)から支弁されていた。但しそれは無制限に認められた訳ではなく「名主御用ニ而江戸へ罷越候節、雑用小遣共ニ一日泊リ銭弐百文宛」(関村明細帳・小榑村明細書)と決められていた。また『地方凡例録』では「名主・組頭江戸表其外へ罷出るとき、百姓を供に連、村方より五里七里の処軽尻カラシリ荷のない駄馬)を出させ、送り迎ひをさせる類もあり、多分の書物持参する、年貢金銀など持参の節道中手当に召連るは格別、謂れなく人馬を差出させ供に連ることはカツて成らず」と戒めている。

このように名主は村支配の末端機構を司る一方、生活共同体としての村内を円満に運営していく能力と人格が要求されていた。

組頭

組頭くみがしら年寄としよりともいい、名主の補佐役で、名主の仕事を助け村務を処理する村役人の一つである。元来組頭は五人組の頭つまり筆頭ふでがしらあるいは判頭はんがしらのことを言ったものであるが、のちに百姓のうちから筆算が堪能で、人柄が良く、人望があって、然も相応の高持ちを選んで組頭とした。村の大小に依って異るが三人とか五人とかを入札又は総百姓相談の上で選び、名主の補佐役となって代官所の用向や村用を勤めた。区内の古文書では組頭とも年寄とも両方の呼び方がされており、一般的には「おかしら」と言われていた。江古田村の組頭磯右衛門は安政年間の文書に年寄とあり、慶応年間の文書には組頭と署名している。年貢皆済目録などでも名主・組頭・惣百姓宛になっているものもあれば、名主・年寄・惣百姓宛となっているものもある。組頭は給米のない村が多いが、中村ほか四か村を知行していた今川刑部が勘定所に差出した慶応三年(一八六七)の「村々渡半金取調帳」(須藤亮作氏蔵「今川家文書」)を見ると中村の項に「米弐石四斗 年寄給渡」とある。このときの名主給が弐石であったから、年寄は名主より一俵(四斗)多い給米を受取っていたことになる。もっとも同年の「年貢皆済目録帳」にはその旨の記載がないので、年貢から差し引いたものではなく別途支給されたものであるかもしれない。

名主と組頭には役引高やくひきだかといって、名主には二〇石以内、組頭には一〇石以内の引高が認められていた。それは自己の持高からそれぞれの引高を差引いた残りに村入用などの諸役が課せられるのである。勿論、年貢は総村高で計算されるので、役給は先に述べた関村、小榑村の例の如く、総百姓個々の負担という形で支給された。しかし、組頭給は中村の場合の如く記録の上に表われているのは珍しいことである。

名主が何らかの都合で欠けた場合には、歎願書・請書などの署名は組頭・年寄が村役人惣代となってその任にあたった。時代が降るが明治二年(一八六九)の「上練馬村一件歎願書」(江古田村堀野家文書)に下練馬村役人惣代として年寄久右衛門・惣左衛門・三郎右衛門の三名が連署している。その外近村の村役人の名前が見えるので全文掲げておこう。

画像を表示 <資料文>

   明治二巳年

  上練馬村一件歎願書

   十月廿二日

   乍恐書付ヲ以御歎願奉申上候

武州豊嶋郡、多摩郡、足立郡村々左之

名前之もの共奉申上候、今般上練馬村名主

又蔵、年寄源左衛門義、当巳田方御検免取

不都合之取計有之趣ニ而、御吟味中入牢被

仰付一同驚奉恐入候、然者当私共宿村之

儀、中山道板橋宿御伝馬所附属ニ御座候間

具々同所出勤罷在候ニ付、前書又蔵、源左衛門

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同職御勤之間柄ニ有之候間右始末承りおよひ

見舞旁同人ども宅江罷越し候処、家内ニ

罷在候老父母妻子昼夜悲歎ニ沈、寝食ヲ

打忘れ相歎罷在、老父母当時発病重体

之様子、殊ニ又蔵源左衛門義生質病身ニ而追々

寒気差向入牢中何様之変事出来

可申哉難計と申し家内之者共一同相歎

罷在右ヲ不忍見ルニ如何ニも不便至極ニ存候

間、御吟味中不奉恐多顧、御歎願奉申上候

何卒格別之

御仁恤ヲ以又蔵、源左衛門身分此上御憐愍

之御沙汰被成下置候様、挙奉歎願候以上

 巳十月廿二日    当 御支配所

                 武州豊嶋郡下練馬村

                  役人惣代

                   年寄

                    久右衛門

                    惣左衛門

                    三郎右衛門

                 中荒井村     下鷺ノ宮村      中仙道板橋宿   板橋宿

                  役人惣代     役人惣代       御伝馬所     名主市左衛門

                  名主伝内     名主定兵衛      名主市左衛門   〃 宇兵衛

                 谷原村      小菅県支配所        市右衛門

                  役人惣代    同州足立郡附属        宇兵衛

                  年寄八左衛門     村々惣代    右宿村惣代  

   品川県御役所        中 村      元合村         下練馬村  

   官員             役人惣代     名主孫之助      名主久右衛門

   岡本権少員分事        名主権右衛門  鹿浜村        中荒井村   

   西村権大属         葛ヶ谷村     役人惣代        名主伝  ママ

   松田権大属          役人惣代     組頭庄三郎     谷原村    

   (以下二二名略)    名主甚左衛門     浦和県支配所      年寄八左衛門

                 多摩郡      同州豊嶋郡上板橋村  中 村

                  江古田村     組頭村々惣代     名主権右衛門

                  名主常次郎    名主与右衛門    葛ヶ谷村

                  孫右衛門     年寄利  八     名主甚左衛門

                 片山村      下赤塚村       江古田村

                  役人惣代     役人惣代       名主常次郎

                  名主善左衛門   組頭半三郎      名主孫右衛門

この文書は上練馬村の名主・年寄の赦免を願って近隣一二か村の村役人が署名したものである。紙幅の都合で四段に並べてあるが、原文は横列一段である。

年寄・組頭の数は一定ではなく三名乃至五名位が一般的であったが、文政四年(一八二一)上練馬村の五人組帳には年寄二二名が署名しており、前述した一〇〇石組の組頭(二五名)のほとんどが名を連ねている。

百姓代

村方三役のもうひとり百姓代はやはり、村の大高持(田畑を多くもっているもの)のうちから公選され、農民側の代表者として名主・組頭に対する目付めつけ役を勤めた。概ね一名、村によっては二名のところもあった。百姓代は名主・組頭が決定する村入用にゆうよう村費)や、その他農民個々に割付ける割附物わりふもの等に立会い、村役人を監督する立場にあった。百姓代を大高持の百姓から選ぶということは、大高の百姓が承知ならば、小高の百姓は当然異存はない筈という当時の農民思想の顕れであろうか。このように百姓代は高持から選ばれたので、名主・組頭のような給米・引高などの定めはなかった。

嘉永七年(一八五四)上練馬村の「宗門人別書上帳」(愛染院文書)によるとこのとき書上に署名した百姓代および年寄・名主の持高は次の通りである。

百姓代 藤助 九三石二斗二升五合

同 定右衛門 一六石八升

年寄 五左衛門 二〇石二斗二升一合

名主見習 順蔵

名主 又蔵 四二石四斗九升一合

百姓代藤助は上練馬村随一の大高持であり、定右衛門も同書記載の百姓三九四戸中二〇位の高持である。因みに名主見習順蔵は又蔵の伜でこのとき二五歳、父又蔵は五四歳であった。世襲名主家として父の隠居前に見習いという形で公文書にも署名しており事実上の事務に取組んでいる姿を見ることができる。

五人組

五人組の淵源は中古の五保の制に発したといわれ、近世に至って五人組と呼ばれるようになった。五人組制度は元々、浪人取締りと切支丹禁制の必要上その重要度を加えたものであって、寛永以後は特にこれらに関係する法令が出され、ついには五人組帳を製して村民から法令遵守の手形を取るに至った。

五人組は農工商の三階級にのみ実施せられ公家・武家および穢多・非人はこれに加えなかった。その組織は江戸市内と練馬などの在郷とはその規を異にしていた。市内では一町内の家主に限り組合に加わり月番交替で月行事を務め、名主のない町では名主代が勤めた。店借人は別に店五人組を設けていたが、寛政年間に廃された。

これに反して在郷では大小百姓以下水呑百姓、寺社門前の者に至るまで、一人の洩れもなく組合に加入した。近隣の五軒が組を作るのを原則としたが、必ずしも五家に限った訳ではなく、四人組・六人組・七人組などの例もある。

五人組には組内から一名を選んで組頭あるいは判頭・筆頭と呼び、名主などからの通知を組合の者に徹底する役目をもつ者がいた。選任の方法は、家格による者・選挙による者・役所の任命による者の三種類があった。組合員の義務としては、婚姻・養子縁組・相続・廃嫡などに立ち合い、田畑耕作の援助協力、年貢未進の場合の代納、田畑質入その他の証人、犯罪の連帯責任を負うなど、その相互関係の親密さは親戚以上のものがあった。

各村々には五人組帳といわれる帳簿があって、農民統制の諸法令が記載され、村役人はこれを毎月または年に数回村内の総百姓に読み聞かせることになっていた。五人組帳の奥書には法令を厳守する旨の文言が書かれ、名主・年寄・百姓代の村役人以下、すべての五人組構成員全員が連署捺印して正本を代官所に提出し、副本を名主の手元に保存して置いた。

最古の五人組帳といわれる承応四年(一六五五)小榑村の五人組帳が昭和三二年刊『練馬区史』に収録されているが、そのほか区内関係では、土支田村(小島家文書・関口家文書)、橋戸村(荘家文書)、小榑村(小美濃家文書)、上石神井村(金沢家文書)、上練馬村(長谷川家文書)などの五人組帳が現存している。

前出承応四年小榑村の五人組帳には左の一五か条が定められている。

<資料文>

一、用水管理の事 二、田畑耕作の心得 三、竹木伐採の禁止 四、他国者宿泊の禁止 五、旅行の届出 六、道橋普請の事 七、御鷹場御成の注意 八、欠落・手負者の届出 九、牛馬売買の事 一〇、博奕の禁止 一一、無職者吟味の事 一二、切支丹禁制 一三、夜行盗人火事出会の事 一四、人身売買の禁止 一四、年貢米納入の心得

以上の一五か条で、五人組帳の条数は初期のものほど簡単で少なく、時代が降るに従って条数は増加し内容もまた多岐にわたって整備されてくる。昭和三二年刊『練馬区史』所収の上石神井村五人組帳(天明五年・金沢家文書)は全文六一か条であり、また文政四年(一八二一)上練馬村の五人組帳は七三条、文久元年(一八六一)土支田村下組のものは六一か条である。

次に日本最古の五人組帳と対応させる意味で同じ小榑村の元文二年(一七三七)の五人組帳の前書(五人組の署名捺印部分を除いたもの)全文を左に掲げておく。これは七二か条から成っており、区内に現存する五人組帳では最も古いもので、所蔵者は小美濃英男氏(大泉学園町)である。

<資料文>

武蔵国新座郡小榑村御仕置五人組帳

   指上申一札之事

一、兼日被仰出候通、大小之百姓五人組を極置、何事ニよらず五人組之内ニ而御法度相背候儀は不及申上、悪事仕候者有之候ハヾ其組より早速可申上候、若隠置脇より申出候ハヾ其者ニハ品ニより御褒美被下、五人組之者名主共ニ曲事ニ可被仰附旨奉畏候、悪事仕候もの申上候ハヾ自然同類親類縁者など後日怨をなすべきと気遣ニ存候ハヾ隠密ニ可申上由、是亦奉畏候、諸事致吟味聞出次第御注進可申上候、并脇百姓家抱前地店之者共ニ五人組を極置判形取置可申候、若五人組ニはづれ申者御座候ハヾ名主組頭曲事ニ可被仰附候事

一、御年貢一件ハ不及申惣て金銀米銭無手形に取引仕間敷候事

附リ仮初かりそめ之物ニても証文取引可申候事

一、御支配人添役衆惣て御家中衆中迠名主百姓ニたいし依怙贔屓御座候歟、又ハ非分成ル儀御座候ハヾ無遠慮可申上候事

一、諸役入目之儀、毎年壱村江入目帳弐冊宛御支配人より相印被御渡候間、諸役入目之品々当座銘細ニ附置名主年寄百姓致印形、名主方ニ一冊差置年切ニ勘定究其ニ無出入様ニ可仕候事

一、名主百姓印形之儀、自分ニて替申間敷、若取落シ候歟、又ハ替候て不叶儀候ハヾ、名主改候印鑑差出シ御役所江訴御帳ニ附、年寄并百姓ハ名主ニ見セ候て、名主方ニて帳ニ付其印形用可申候、并印形仕候儀其身差合不罷出節ハ、親子兄弟之外むざと判形預ヶ遣シ申間敷候事(註一

一、堤、川際、井堀御普請仕候人足賃銭并御扶持方被下候通、当座ニ小百姓江割渡シ帳面ニ印形取可申候、惣て従御公儀様被下置候賃銭、御扶持方之儀、諸色納物之替りニ継合勘定仕間敷候事

一、御年貢皆済不仕以前他所江米出し申間舗候、若能米と売替悪米を御年貢ニ納申候ハヾ当人ハ不及申名主五人組迠何様之曲事ニも可被仰附候、并御年貢御蔵入致候刻あく紛米無之様ニ米拵致し縄俵迠諸事御定之通念を入、郷御蔵江詰置御差図次第納可申候、勿論御蔵入之時分御支配人より相印被成、御渡候庭帳ニ附置納人銘々判形致置可申候事(註二

一、御年貢穀物升出之儀、郷中相談ニて相定、御法度之ごとく升目之かねを払計立三斗七升入ニ納可申候、江戸御蔵江納候義村中相談仕、才料を附一村切ニ納可申候、船ニて越候ハヾたとへ大郷ニ候共一艘ニ積申間舗候、隣郷寄合相廻し可申候、若路次ニて御米紛失申候歟、如何様之事ニて減米立申候共百姓共弁可申候、勿論余米御座候ハヾ百姓納之俵数を以、銘々割取可申候、若余米有之候節渡切ニ致請取申者之徳用致候義、堅ク無用可仕候事

一、御年貢御割附惣百姓寄合拝見仕、其年々損毛引方共ニ明鏡ニ割致、則御割附之裏ニ惣百姓判形可仕候、自然名主壱人ニて割致候ハヾ当座ニ可申上候事

一、年々御年貢之内割仕候節、名主、年寄、惣百姓寄合御割附之表を以勘定相違無之様ニ割致し、勿論反歩米永之員数委細記之、名主方より皆済手形ニ押切判形致し百姓方江銘々相渡し可申事

一、郷中ニ有之郷蔵ニ御米詰置候内、郷中之者預り昼夜番仕候上、盗人又ハ米ふけ候歟、不依何事損米御座候共急度弁指上ヶ可申候、并御用之置米郷蔵より出申候節、御急ニ御座候共名主壱人ニて郷蔵戸前封を切、自由ニ取出し申間敷候、組頭、年寄、百姓立会封を切御用之員数取出し勿論右之者共立会相封致シ置可申候、自然郷蔵近所ニ火事出来申候ハヾ村中ハ不及申隣郷迠、男女ニよらず欠着かけつけ郷蔵を防可申候、尤難防趣候ハヾ早速御米取出し可申候、若御米焼失致候ハヾ御吟味之上弁納可被仰附事

一、御支配人并添役衆惣て御家中衆中下々迠何ニても音物一切仕間敷候、若音物之儀ニ附金銀米銭ハ不及申不依何ニ名主方より百姓共江割掛ヶ出候得と申候共、一切出し申間敷候、達て出候得と申候ハヽ其段々書附御役所之筒江上ヶ可申候、若内証ニて音物致し脇より相知レ候ハヾ何様之曲事ニも可被仰附候事(註三

   附、御役人中江郷中借物、貸物、押売、押買又ハ無躰成ル儀御座候ハヾ是又早速書附御箱江上ヶ可申候事

一、御用ニ附御支配人添役衆其外之御家中衆郷中へ御越候節、内夫并賄之儀、所ニ有之軽キ野菜、薪、油出し其外ハ何ニても一切出し不申馳走ヶ間舗儀堅く仕間敷候事

一、在々所々悪党者有之時分ハ唱を立可申候、其時は先々之村々よりも出合召搦候ハヾ御褒美可被下候よし得其意奉畏候、若郷中ニて不出合者ハ曲事ニ可被仰附候、尤郷中ニ不審成者参候歟、悪党者堂宮山林ニかくまり居候を見出し候ハヾ名主并郷中之者相談之上、搦取候て御注進可申上

候、然上ハ品ニより江戸へ召連候、則旅路之入用御奉行所江罷出候迠諸事之入目百姓迷惑ニ不致候様ニ従御公儀様可被下之由奉得其意候、自然捕申義不罷成候ハヾ何方江も相慕ひ落着所江断之、からめ候様ニ可仕候、若見のがし欠落致候ハヾ後日ニ御聞出し候共急度御咎可被遊旨是又奉畏候、并百姓ハ不及申出家、山伏、行人、虚無僧、鉦たゝき、穢多、乞食、非人等盗人之宿を仕、又ハ同類も可有之の間常々致詮儀、あやしき義も有之候ハヾ可申上候事

一、在々所々名主百姓之所江盗人入候ハヾ雑物委細書付早速注進可仕候、縦雑物ハ不盗候共其品申あげ御帳ニ附可申候、勿論無心元者有之候ハヾ親類、縁者、好身よしみ之者ニ候共無遠慮可申上候事

一、盗人之届又ハ被盗候雑物見出し其宿有之候ハヾ名主五人組立会詮儀仕可申上候、縦如何様之軽キ者申来候共疎略仕間舗候、若致油断其盗人欠落為致候歟、雑物紛失致候ハヾ其者ハ不及申名主五人組曲事ニ可被仰附候事

一、男女ニよらず欠落者郷中江参候ハヾ押置早速可申上候、猶以先々より搆有之由届有之者ハ早速寄合詮儀致し申上御下知を請可申候、惣て怪敷者ハ不及申壱人者ニ一夜之宿も貸し申間敷候、親類、縁者、好身之者他所より浪人致参候ハヾ、何之障リ儀なく不苦者ハ名主并年寄五人組寄合穿鑿致し慥成証人手形取之差置可申事

一、手負之者他所より参候儀は不及申郷中ニて行倒相煩候者有之候ハヾ乞食非人ニかぎらず、其者之名并親類、国所、宿等承届看病致置早速御訴可申上候、尤相果候共其旨早速可申上候事

一、不依何者ニ人をあやめ立退候者有之節、所之者并隣郷之者共出合留置早速御注進可申上候、若切払逃候者候ハヾ先々之郷中よりも出合何方迠も附慕ひ落着所江渡し可申候、理不尽ニ殺し申間敷候事

一、田畑壱歩之所も荒し申間敷候、若作リ面之処余リ候ハヾ毎年正月中ニ可申上候、無其儀荒し申候ハヾ根初之通御年貢差上ヶ可申候、其上曲事ニ可被仰附候、但シ壱人身之百姓煩ニ無紛、耕作不罷成時は五人組ハ不及申一村之者共寄合田畑仕附収納仕様ニ相互ニ助合可申候事

一、田地永代売買之儀、兼て御法度被仰渡候通堅く相守永代之売買一切仕間敷事

一、田地屋敷年季を定質物ニ入、金銀等預り候ハヾ名主五人組等加判之證文取之所持可申候、勿論年季ハ拾年を限り永年ニ書入申間敷候、田地ヲ質物ニ書入候儀双方合点致候て可埓明義を名主五人組私曲を搆、證文ニ加判不仕相滞迷惑仕候ハヾ其段可申上候、名主五人組無加判相対ニて證文仕候ハヾ双方曲事ニ可被仰附事

一、小百姓致退転候跡田地を持添ニ致候事御法度之旨年来被仰附候通奉得其意候、前々より百姓壱軒分之跡ハ死失候共百姓を仕付壱軒之跡を立可申候、郷中之計ひニ不罷成候ハヾ家屋敷田地共ニ書上訴之御差図を請可申候、無其儀家をこわし取或は四壁之竹木を伐荒シ或ハ其者之田地持添致し、壱軒分之百姓跡を潰候ハヾ何様之曲事ニも可被仰附候、勿論相背申者候ハヾ五人組之内より早速可申上候事

一、古畑ニたばこ作リ申間敷事(註四

一、御朱印御伝馬并人足之儀少も無遅滞急度相立可申候、惣て馬継之宿々ハ従御公儀様諸事被仰附候御法度之趣相守、御定之人馬退転無之様ニ仲ヶ間ニて吟味仕人馬無遅滞相立申候、往還之衆昼夜を不限泊之節、或ハ

旅籠或ハ木銭ニても宿貸し申候上ハ、少も手丈不申候様ニ走廻リ賃銭、木銭御定之外増銭取申間敷候、勿論往還之衆江馬方慮外不仕候様ニ常々可申附候事

附、御家中衆御用ニて在々へ御通之節、御役人衆手形を以人馬相立可申候、無其儀自分之断ニてハ壱疋壱人も出し申間敷候事

一、御公儀様御用之義何方より申来候共宿々ハ不及申何之村ニても縦刻付無之候共少も遅滞仕間敷候、勿論御応之配府杯先々江遅相届日附刻附違候ハヾ持送リ之者ハ不及申名主、組頭、百姓曲事ニ可被仰附候事

一、所々御立山ニて竹木伐取申間敷候旨被仰渡奉畏候、若相背猥之者有之候ハヾ其者ハ不及申名主、年寄、百姓迠何様之曲事ニも可被仰附候、惣て郷中ニ有来候古木并ニ御公儀様より被仰附候苗木等ニ至迠伐取申候ハヾ御詮議之上何様之曲事ニも可被仰附候事

一、自分之居山林亦ハ四壁之内ニても大木我儘ニ伐取申間敷候、自然伐候わて不叶儀有之候ハヾ其品申上御差図を請伐取可申候、勿論小木ニても猥ニ伐荒申間敷候

一、村々請取ニて作来候道橋毎度御觸無御座候共念を入作り可申候、就中御公儀様御掛ヶ被成候板橋大小共ニ塵芥無之様ニ常々掃除可仕候、若道橋鹿末成ル所ハ其請取之場所之名主百姓御咎可被遊候事

一、溜井ハ不及申或ハ堤用水堀土手惣て水御溜置被遊候場切落懸引自分ニ仕間敷候、若水落し候ハで不叶所ハ御訴申上得御差図水落候て跡丈夫ニ築留可申事

一、落圦掛前々之ごとく請取之村々より蘆芝土俵等無油断寄置、自然水出申候節圦之戸前立明ヶ念を入可仕候、無念致し為押切申候歟、戸前立明ヶ致延引耕作之損毛為致候ハヾ、其請取之郷中何様之曲事ニも可被仰附候事、且又落井堀懸井堀ニかけを伏、或ハ魚をかへ取候とて井堀を築留用水之障りニ成候儀致候ハヾ曲事ニ可被仰附候事

一、掛井堀、落井堀并道を狭メ田畑を仕出し作毛仕附申候ハヾ、当人ハ不及申名主五人組迠何様之曲事ニも可被仰附候事

一、博奕之儀堅く御法度被仰附奉畏候、其外何ニても賭之諸勝負一切仕間敷候、若相背候者有之候ハヾ名主、年寄、五人組共ニ何様之曲事ニも可被仰附候事

一、村中ニ火事出来申候ハヾ郷中之者火消道具を持欠着精を出し消可申候、若不出合者も有之候ハヾ御詮儀之上曲事ニ可被仰附候事

一、地借、店借リ、出居衆、前地之者指置候ハヾ念を入、請人を立、證文を取差置可申候、無其儀差置其者悪事仕候ハヾ地主家主之儀は不及申五人組共ニ曲事ニ可被仰附候事

一、男女奉公人猥ニ請ニ立申間敷候、若立候て不叶子細候ハヾ其者之国所親類等承届ヶ下請ニ取請人ニ立可申候、無下請猥ニ請人ニ立候ハヾ何様之曲事ニも可被仰附候事

一、諸浪人を抱置候儀、親類縁者又ハ不遁者ニ候ハヾ其所名主、年寄、五人組へ為申聞合点之上證人を立、手形取之早速申上御役所御帳ニ附差置可申候、勿論他所江宿替申候ハヾ其段申上御帳消し可申候、無其儀宿仕候ハヾ何様之曲事ニも可被仰附候事

一、御鷹場ニて鷹を遣候衆有之候ハヾ相改、何方迠も附慕ひ宿聞届御鷹見衆江御注進仕勿論其譯早速可申上候、縦御餌指衆ニても御法度之鳥取被申候ハヾ留置御注進可申上候事

一、在々共ニ遊女之類御法度被仰附候通堅く相守可申候、若相背者有之候ハヾ見出し聞出し次第早速可申上候由奉畏候、自然隠置脇より露顕仕候ハヾ其者ハ不及申家主、名主、五人組共ニ何様之曲事ニも可被仰附候事

一、絹紬之尺壱端ニ付大巻ニて長三丈四尺、幅壱尺四寸ニ可仕候、布木綿は壱端ニ附長三丈四尺、幅壱尺三寸宛ニ可仕候、右之寸尺より不足ニ織出し申間敷候事(註五

一、切支丹宗門御制禁之儀御高札之表急度相守可申候、自然不審なるすゝめ致候僧俗有之候ハヾ、郷中之儀ハ不及申他所より参候共捕置可申候、若隠置申候ハヾ一郷之者不残曲事ニ可被仰附、常々被仰附候御法度之趣無油断吟味可仕候、惣て宗門之儀店借、出居衆、地借、前地之者、召夫等迠寺請状を取置念を入吟味可仕候事

一、耕作商売をも不致、又は遠国江節々相越候者并博奕其外賭之諸勝負を好、不似合衣類を着、不審多者於有之ハ早速可申上候、若隠置彼の者悪事をなし脇より顕ニおゐてハ其者并親子兄弟之儀ハ不及申名主五人組迠御穿鑿之上科之依軽重御科ニ可被仰附候、惣て一夜之泊リニ他所江相越といふとも其行所并用事之子細名主五人組江相断可罷越候事

附、盗人之訴人ヘハ其同類より後日ニ怨をなすニ附気遣致し不罷出候由其聞候、向後御役所筒江密々ニ書附可差上候、あだを不成様ニ可被仰付旨奉畏候事

一、在々物さわがしき節ハ、あつまり能所江番屋立置夜番を致し、其郷中ハ勿論隣郷より盗人見出し声を立るニおゐてハ、早速出合捕置候様ニ名主百姓申合常々心掛ヶ油断仕間敷事

一、此以前より鉄砲御免之所ハ格別、其外於在々所々ニ鉄砲不可所持、自然相背無益之殺生致し昼夜ニ不限山野ニ住者於有之ハ可申出候、縦同類たりといふとも其科をゆるし御褒美可被下候、隠置他所より顕ニおゐてハ御穿鑿之上曲事ニ可被仰附事

一、於在々所々馬盗人有之間、昼夜不限不審成ル者馬を牽通ニ附てハ其落着所迠村次ニ送り届、其住処之名主五人組江慥ニ申断其段御訴可申上事

附、慥成口入なくしてハ馬売買仕間敷候事

一、名主百姓名田畑持候大積名主弐拾石以上、百姓拾石以上夫より内持候者ハ石高猥りニ分ヶ申間敷候旨被仰附奉畏候、若相背申候ハヾ何様之曲事にも可被仰附候事

一、御朱印之寺社領田畑屋敷質物ニ書入候共取申間敷候、縦證文慥ニ有之候迚も御朱印之寺社領田畑屋敷ハ外江取候儀難成候間、質物ニ一切取申間敷候、此段可相守旨被仰渡奉畏候、若相背申候ハヾ如何様之曲事ニも可被仰附候事

一、耕作常々精出作之間ハ男女共ニ相応之かせぎ致し可申候、若作ニ不精ニて徒ニ暮候者有之ニおゐてハ五人組之内ニて互ニ致吟味異見可申候、不用之者有之候ハヾ名主方江早々相断名主弥々為申聞其上ニて不致承引候ハヾ御役所江可申上候、若隠置候ハヾ名主、年寄、五人組共ニ曲事ニ可被仰附候事

一、祭礼、法事弥軽可執行之、惣て寺社、山伏、法衣、装束等万端軽く可仕候事

一、町人舞々猿楽ハ縦雖為御扶持人刀帯不申旨被仰渡奉畏候事

一、百姓町人衣服絹、紬、木綿、麻布、此内を以応分限妻子共可着用、此外無用ニ可仕旨被仰渡奉畏候事

附、惣て下女ハ布木綿を着、帯同前之事

一、御用達候諸町人挑灯或ハ通箱、長持ニ御紋ヲ附来候儀相止、御用と申字ヲ書附、御紋を徒附間敷旨被仰附候間、在々ニても其旨可相心得候旨奉畏候事(註六

一、拝借物仕候者自分之為手廻りと商人又ハ武士方出家ニ不限方々江貸し置、其手形ニ拝借金或ハ上納金之由書入之候、右之通文言ニ書入申間敷候、若上納拝借金之由書入脇より取置候手形有之候ハヾ曲事ニ可被仰附候事

一、質地取置候者年貢不出之質地ニ遣置、無田地方より年貢諸役を勤候者有之由相聞不届之至候、右之趣急度可相守由被仰附奉畏候事

一、百姓并子供を始メ軽キ侍奉公ニ出、其後在所江引込候ても其儘刀指候儀仕間敷旨被仰渡奉畏候、在所江帰罷有候節ハ屋敷方より少々之合力取候共刀差申間敷候、若密々ニて刀指申候ハヾ曲事ニ可被仰附候事

一、有来之外新規ニ在々ニて小キほこら或ハ仏像之建立堅く仕間敷旨被仰渡奉畏候事

一、百姓共并子供、耕作ハ不精ニ致し、遊事ニ掛り不似合風俗を学候儀堅仕間敷旨被仰渡奉畏候事

一、関東筋川舟之儀、川舟御役所ニて極印請候筈之所ニ極印請おくれ候船有之不届ニ候間、弥以川舟之義極印請可申旨被仰渡奉畏候、若極印不請舟有之候ハヾ持主并名主年寄共曲事ニ可被仰附候事

一、人売買之義堅く御法度之旨被仰渡奉畏候事

一、在々江役人之由申偽リ徘徊致し、ねだりがましき義申者有之候ハヾ押置早速御注進可申上候、若隠置候ハヾ名主年寄曲事ニ可被仰附候事

一、在々ニて質屋、古着屋共之儀、質物ニ取候ハヾ置主證人致吟味、為致印形質物取可申候、若不吟味致し盗物質物ニ取又ハ買取候ハヾ名主年寄共曲事ニ可被仰附候事

一、三笠附博奕重キ御法度ニ候條密々ニも右博奕致もの於有之ハ、当人ハ勿論名主年寄一村中共ニ急度御科可被仰附候間、弥以堅相守可申旨奉畏候、若相背申候ハヾ曲事ニ可被仰附候事

一、永荒地引高之内精ニ入立帰リ候様ニ可仕候、其地主ばかり之力ニて難叶、幾年過候ても捨置候所ハ其村之百姓共助合可申候、其村計ニても難成大造之所ハ御訴可申上候、被遂御吟味御普請可被仰附旨奉畏候、麁末仕捨置候ハヾ曲事ニ可被仰附候事

一、在々ニて神事、佛事其外何ニよらず新規之儀堅く取立申間敷候、并狂言、操、相撲之儀堅く仕間敷候、若無據子細有之候ハヾ御役所江訴上得御下知可申候、若隠置候て右躰之儀仕候ハヾ曲事ニ可被仰附候事

一、在々用水掛引井堀之儀、川中ニ樋を張水引分候仕方之儀、川下之用水不足ニも不搆手前勝手宜敷様ニ仕、或ハ両側ニ井口有之の場所、片側之井口附替候時双方不申合一方之勝手ニまかせ仕置候故及出入候、右之類双方致相対立合普請可仕旨被仰附奉畏候事

一、惣て出入申出之儀、證據無之非分之義をも何角なにかと申紛なし、又ハ證據有之儀も年を経其事を申紛なし及出入候儀も有之由、畢竟村方之困窮之元と成リ不届候間、大躰之儀ハ堅申出間敷旨被仰附奉畏候、若相背候ハヾ曲事ニ可被仰附候事

一、在々婚礼祝儀之節石打致し又ハ酒をねだり呑、其外狼藉成ル義有之由被及御聞不届ニ候、右躰之儀急度相慎可申候、若左様之儀於有之ハ被遂

御詮儀を曲事ニ可被仰附旨奉畏候事

一、捨子有之候ハヾ養育致置早速御役所江訴上可申候、養育之内相煩候ハヾ是又早速訴上可申、捨子貰候もの御座候ハヾ其者之様子慥ニ承届候上、訴上御差図ヲ請遣シ可申、内證ニて遣候儀堅く仕間敷候旨被仰附奉畏候事

一、田畑質地證文ニ名主加判無之證文、又ハ名主置候質地ハ相名主、年寄、組頭等之役人加判無之證文、其外地主より年貢諸役を勤、金主ハ年貢諸役を不勤質地之類、前々より御停止ニ候処、右之通不埓成ル證文を以訴出候儀も有之間、弥質地證文相究候節念を入、右躰之儀無之様ニ可仕旨被仰渡奉畏候事

一、享保元年申年以来年季明ヶ候質地ハ年季明ヶ十ヶ年過候ハヾ御取上無之候、并金子有合次第可請返旨證文有之質地ハ質入之年より十ヶ年過訴出候てハ御取上無之旨被仰渡奉畏候事

一、公儀御仕置ニて江戸拂又ハ追放ニ成候者、御搆之場所ニ隠シ罷有候ものも有之様ニ相聞候、畢竟右躰之者と乍存囲置或ハ世話致者有之故之儀ニて不届至極候間、於相顕ニハ囲置候者も当人同前之御仕置ニ被仰附、家主、五人組、名主迠乍存差置候ハヾ御咎ニ可被仰付旨御書附出候間、此段可相守旨奉畏候事

一、御料所国々百姓共御取箇并夫食、種貸等其外願筋之儀、後訴、徒党、逃散候儀ハ堅く停止ニ候処ニ近来御料所所之内ニも右躰之願筋ニ付御代官陣屋江大勢相集リ訴訟致候儀も有之不届ニ候、自今以後厳敷吟味之上重キ罪科ニ可被行旨被仰渡奉畏候、若相背申候ハヾ名主、年寄、百姓共迠曲事ニ可被仰附候事

右御法度之惣御ヶ條之趣村中ニ写置、毎月壱度宛惣百姓共名主所江寄合為読聞被仰附候通相守可申候、若違背仕候者有之候ハヾ何様之曲事ニも可被仰附候、依之附中連判仕指上申候、如件

元文二年巳三月 小榑村

註 解読には練馬古文書研究会の協力をえた。明らかな誤字は他の五人組帳と照合し訂正した。また原文には濁点・読点がないが、読みやすくする趣旨から変体仮名を平仮名に、旧漢字を当用漢字にかえるなど、若干手を加えた。

区内現存の他の五人組帳と比較して内容的には大部分の項目にわたって異同はないが、この五人組帳にのみ見られる条目が二、三あるのでそれらについて触れておくこととする。

  1. <項番>(一)印鑑を捺す場合に自分が都合で出向けないときは、親・兄弟以外の者にはみだりに預けてはならないと、現代にも通じるような戒めである。
  2. <項番>(二)年貢米納入に際して一俵にちがいはないと良米と悪米を売替えて納める悪賢い百姓が居たらしく、若しその様なことが露

    顕したら五人組も同罪であると注意している。

  3. <項番>(三)役人に一切音物いんもつ贈り物)をしてはならない。若し名主から百姓へ音物などの割当てが来ても出さなくてよろしい。
  4.  たって出せと言う様な事があれば役所の投書箱へ訴えよといっている。当時も目に余る贈収賄が流行していたにちがいない。
  5. <項番>(四)古い畑にたばこを作ってはならない。古い畑は地味も肥えており大切な穀物の耕作に当てるべきで、奢侈的なたばこなどもっての外であったのであろう。この頃小榑村でたばこの栽培が行なわれていたかどうか疑問である。
  6. <項番>(五)絹・紬・木綿など織物の寸法を定めている。この寸法はおそらく販売用の反物の寸法を定めたもので、自家用の織物は適用外であったであろう。この一条は多摩郡八王子村の五人組帳に見られる。
  7. <項番>(六)御用商人などが挑灯ちようちん・通箱・長持に用達先の屋敷の家紋を付けることが停止になった。今後は単に「御用」という文字のみを書付け、家紋を濫りに付けてはならない。在郷の方でもその旨心得よといっている。

五人組制度は明治二年廃止となったが、これに記載された一つ一つは、長い年月の間に農村に定着し、村の風俗習慣として生き続けてきたものも少なくない。

そのような意味からも五人組帳は近世農村を研究する上で必要不可欠な資料である。

宗門改

江戸時代に入って徳川氏もまた秀吉の切支丹禁制の遺策を継いで、基督教の信仰を禁止した。一方明国はじめ諸外国との通商貿易を奨励する政策もあって外教禁止の実効は仲々あがらず、耶蘇教厳禁令がしばしば発せられ、耶蘇会堂の破毀、教徒の処刑など弾圧が度重なった。しかし、かえって教徒の反発にい、ついには島原の乱(寛永一四年・一六三七)を起すに至った。幕府は乱平定後ますます禁教の断行を推進し、褒賞制によって邪宗門徒の告訴を奨励したり、大目付兼職の宗門改役を設置するなどした。

宗門改制度には大要左のようなものがあった(松平太郎『江戸時代制度の研究』)。

  1. <項番>(一)宗門改役を置き直接教徒の検察を司らせる。この職は大目付と作事奉行両職の兼掌で、与力六騎同心三〇人がこれに当り幕末まで及んだ。
  2. <項番>(二)寺請てらうけ証文を以て個人所属の仏教寺院をして各人の信教を証明させる。
  3. <項番>(三)宗旨人別改を実施して個人ひとりひとりが耶蘇教徒でないことを誓約させる。
  4. <項番>(四)踏絵を実施して教徒の心証を試みる。
  5. <項番>(五)禁書の制を施行して西欧の知識の導入を予防する。

このうち村民に直接関係のある寺請制度と宗門人別帳について触れておくこととする。

寺請証文は寺院が檀那であることを証明する文書で寺請状、宗旨手形、寺手形ともいわれ一定の書式はなかった。婚姻・奉公・移住などには必ず檀那寺の寺請証文をもって、その身を証明してもらう必要があった。すなわち村民各人が基督教信者ではなく、その仏教寺院の檀那として宗門改帳(人別帳)に記載されることによって承認されなければならなかった。宗門改帳は現代の戸籍簿のようなもので、一方の村の宗門改帳から他の村の宗門改帳へ記載を移すことによって結婚・養子縁組・奉公などが承認されたことになるのである。実際に田無村から土支田村に送られた送籍状を見ると次のようなものである(東大泉・町田甲彦家文書)。

<資料文>

    人別送一札之㕝

       江川太郎左衛門御代官所

       武州多摩郡田無村

          百姓 五左衛門娘

             かん

                廿一歳

一、代々真言宗ニ而村内

  西光寺檀那ニ御座候

右之もの義此度御村方留五郎殿、村田次兵衛媒酌を以、御村方盛蔵殿方江嫁に差遣度旨申出候付、村方人別相除申送間、御村方人別ニ御加江可被成候、依而人別送一札如件

                                          右 田無村

                                           名主下田半兵衛㊞

   土支田村

     御名主中

この人別状は田無村の百姓五左衛門の娘かんが、土支田村の盛蔵の許へ嫁に行くので、土支田村の宗門改帳にかんを加えてもらいたいと、要請したものである。

当然田無村名主半兵衛の手元には五左衛門が真言宗西光寺の檀那である旨を記載した宗門人別帳が保管されており、この時、かんの名前が削除されたのである。

宗門人別帳は寺院の僧に戸籍権が与えられ、住職は自分の檀徒の中には決して基督教徒はいないことを証明し、村役人連署のうえ役所へ提出した簿冊のことである。村民は家族の出生・死去・婚姻・奉公などには必ず檀那寺へ届け出を行ない人別帳へ記録した。宗門人別帳には檀那寺・戸主以下の全家族名・年齢・戸主の肩書と所有高が記載されているが、記載事項の細部にわたっては村によって多少の相異があった。

ここに嘉永七年(一八五四)上練馬村の宗門人別書上帳(愛染院文書)の前書および奥書の部分を参考にあげておく。

画像を表示 <資料文>

嘉永七年

当寅宗門人別書上帳

寅二月    武州豊嶋郡

          上練馬村

<資料文>

一、壱季居出替時節たる間、宗門之儀入念改之、耶蘇宗門ニ無之段、請人を立相抱可申事

一、耶蘇宗門今以密々有之、所々より捕来候間、不審成もの不罷在様、無油断入念可申付事

一、郷中改之不審成者不差置、若耶蘇宗門隠置他所より顕於ハ名主五人組可為曲事之間、毎年旨趣具ニ書て手形可差出事

  但耶蘇宗門御制禁之高札廃、手席文意見へかねるにおゐてハ新敷立替可申事

 以上

右寛文十一亥年二月被仰出候趣を以、前々より御改之儀ハ郷中穿鑿被仰付名主、組頭、百姓下人者不及申、寺社方同宿、沙弥、道心、虚無僧、山伏、浪人等ニ至迄、地借店借壱人も不残相改候処疑敷者無御座候、若し不吟味仕耶蘇宗門脇より顕出候ハヾ名主、組頭、五人組迠何様之曲事ニも可被仰付候、為其名主、組頭印形帳面差上申処如件

   嘉永七寅年二月 豊嶋郡上練馬村

前書につづいて各戸ごとにその家の持高・戸主以下全家族の名前・続柄・年齢を列記し、檀那寺ごとに人数をまとめてその寺の請印が捺してある。檀那寺は愛染院・円光院・寿福寺・高松寺・養福寺(以上上練馬村)・長命寺(谷原村)・妙安寺(土支田村)・金乗院(下練馬村)・松月院(下赤塚村)の九か寺である。そして最後の奥書に

<資料文>

 右ハ当村宗門人別之儀、御制禁之耶蘇宗門類族之もの決て無御座候、去丑三月より当寅二月迄出生死失すべて出入之者壱人別取調候処書之通相違無御座候、以上

   嘉永七寅二月                             武州豊嶋郡上練馬村

                                          百姓代  藤  助㊞

  勝田次郎様                                   同    定右衛門㊞

   御役所                                    年寄   五左衛門㊞

                                          名主見習 順  蔵㊞

                                          名主   又  蔵㊞

と、村役人一同が連署捺印している。この時点での上練馬村の概要は同文書によると左の通りである。

<資料文>

     右之寄

村高弐千六百廿六石壱斗七升六合

 内 弐千五百九拾壱石壱斗四升七合                           村  持

   三拾五石弐升九合                                 入  作

外高六拾石弐斗九升壱合                                 出  作

御朱印地

 高弐拾石壱斗余

御除地

 反別弐町八セ廿七歩

惣家数四百九拾四軒

寺七ケ寺

内堂六ケ所

墓寮壱ケ所

惣人数千七百六拾五人

男九百五拾九人 牛 無御座候

内 女八百弐人 馬 八拾壱疋

僧 四人

家数・人数は内容の数字と若干相異するので、このことについては後に触れる。

また、人別帳にはさらに縁組・出生・死亡・奉公による移動も記されている、例えば

<資料文>

一、私妻とめ儀同郡下赤塚村百姓源兵衛妹、去丑ノ人別後八月中貰受候ニ付当人別江差出申候 年寄 孫右衛門

一、私孫庄次郎儀は去丑人別後出生仕候ニ付当人別江差出申候               百姓 杢左衛門

などの如く、この人別帳によって江戸時代の人口動態、家族構成の変遷についても知ることができる。

<節>
第二節 検地と貢租
<本文>
徳川氏の検地

農業生産がその経済的基礎となる封建社会では、領主の生活は勿論のこと、軍事力の維持、増強を計る上でも農業生産高の正確な把握が必要不可欠なものであった。そのためには従来領主のものとも、農民のものともつかなかった土地の所有権を判然と領主のものと規定し、農民には耕作権のみを与えて、年貢納付の責任を負わせる必要があった。このことを直接実施したのが、いわゆる秀吉の制による太閤検地である。即ち秀吉は天下統一を遂げると全

国に令して検地を行なわしめた。この天正一七年(一五八九)から文禄四年にかけて行なわれた関西、九州を主とする全国的な一連の検地を称して太閤検地という。

この時の検地の特長は、大化以来の制であった六尺三寸の竿を用いて一歩とし、三六〇歩を一反としていたのを改めて、三〇〇歩をもって一反とした。そして田畑とも在所の上中下に従って斗代とだい一反歩の平均収穫量)を定めたのである。つまり従来の貫高を以って表わしていた田地の高を改めて石高制としたのである(文禄三年検地條例)。

徳川氏も豊臣政権に服する一大名として関東入部以前、天正一七年から翌年にかけて三河、遠江、駿河など領国五か国に総検地を実施した。その際、家康は家臣団の知行高を貫高から俵高に切替え、石高制への過渡的移行が行なわれた。俵高は定納の籾の俵数で表示したものであるが、貫高と同じ年貢高であって石高(収穫高)ではなかった。これが天正一八年関東入部を期に、五か国時代の俵高制や、後北条氏時代の貫高制が廃止され知行高は石高で示されるようになった。

画像を表示

家康は関東入国後慶長、元和の頃より関東一円の検地を始めた。世にいう石見いわみ検地(大久保石見守長安)や備前検地(伊奈備前守忠次)である。徳川氏の検地基準は原則として文禄三年の太閤検地基準である一反三〇〇歩を用い大二〇〇歩、半一五〇歩、小一〇〇歩の小割を併用しており、田畑の等級は上中下の三等級であった。しかしそれは飽く迄原則であって、在地の実情に応じて下の下に下々げげの等級を付けることもあった。またこの頃より一歩(一坪)を方六尺としたので、文禄の制に比較すると一反の実面積は約一割の減少となった。この時の間竿けんざおは六尺五寸又は倍の一丈三尺を用いたので一歩を六尺五寸四方と解釈する説もあるが、それは誤りであって上図のような方法によって六尺の長さを量った。つまり六尺五寸(一丈三尺の竿はその中間)の竿の先を拳で握り手を垂直に下ろすと、地上から約二尺五寸になる。三平方の定理によって一方の竿の先から足元までが丁度六尺になる。一丈三尺の竿ならその中間を持って歩きながら両端を地に付け印しを記することによって検地の能率は二倍捗ることになる。この方法は江戸時代初期の和算書などでも解説さ

れているが、後に至って間竿は六尺一分(一分をゆるみという)のものを使用した。『県治要略』に「一間を六尺壱分とし、長弐間のもの一本、壱間のもの二本を要す、但し毎一尺並びに六尺の間に墨線を施し尺目を標識す」とある如く正確な計測が行なわれるようになった。寛文、延宝の頃(一六六一~八〇)より天和、貞享の頃(一六八一~八七)まで逐次諸国に検地が行なわれ、元禄(一六八八~一七〇四)に至って、ほぼその規定条目が備わった。ここで文禄以前の検地を古検、慶長以降の検地を新検と称し、新しく開墾された土地を新田と称えた(『地方凡例録』)。

その後享保一一年(一七二六)従来の条目を改正して新検地条目を定め、以来享保以前の検地を総て古検と称し、享保以後の検地を新検といった。そして元禄以前に検地したものを本田畑といい、元禄以後享保以前の新開を古新田と称して享保以後の新田と区別した。

検地帳

検地は勘定所より検地奉行を任命し、奉行の下に手代一人(或いは二人)、下役一人、竿取二人、間数呼次二人(百姓から選ぶ)、地引案内人一人(或いは二人で交替)が付いた。村には検地に先立って地引帳ぢびきちようを差出させ、検地する田畑などの一筆ずつのあざな、番号、地目、地種、持主などを詳細に列記報告させた。現場では実測に従って手帳に記載し、それを野帳に浄書し、確定すると検地帳の基礎となる清野帳せいのちようを作成した。清野帳は検地奉行が検印し、それを村方へ貸与して、惣百姓に熟覧させ相違の有無を確認させた。

これだけの手続を経たのち、検地帳が清野帳から写される。検地帳は全村地籍の基礎となる簿冊で村民にとっては最も重要な書類の一つであった。検地帳は一名水帳みずちようとも言うがその理由には二つの説がある。一つは律令時代の民部省に田圃の数量を記した計帳はかりを別名御図みず帳といったのを書誤って水帳となったという説。他の説は、田は水を第一とするから水帳というもので、前者は『地方凡例録』、後者は『県治要略』が支持している。検地の具体的な方法は両書や『勧農固本録』などにくわしい。

練馬地域で最も古い検地帳は家康関東入部の翌年に当る天正一九年江古田村のものである。本帳は「天正十九年辛卯八月

武州多東郡江古田村御縄打水帳()」五冊(堀野家文書)で東京都内でも極めて稀少な価値を有するものである。同年八月二一日から二七日の間にかけて徳川氏の同心知行地である伊賀同心の大縄給地に検地が実施された。現存する天正検地帳のほとんどが徳川氏の蔵入地(直轄地)とか大名領あるいは旗本知行地の検地帳であるに対し、本帳が数少ない同心地のものであるのも貴重である。次にその二冊目を示し若干の説明を加えておくこととする。

画像を表示 <資料文>

天正十九年辛卯八月廿七日 写二

武州多東郡江古田村 印

御縄打水帳

<資料文>

下 大八拾三歩    畠 むかい原   但馬主作   下 半卅弐歩     畠 同  所   新右衛門作  

下 壱反歩      畠 同  所 十さへもん分  七良右衛門作 下 九拾九歩     畠 同  所   藤右衛門作  

下 壱反大拾三歩   畠 同  所   弥嶋主作   下 小八歩      畠 同  所   彦六主作   

中 半五歩      畠 同  所   藤右衛門作  下 半廿一歩     畠 同  所   新助主作   

中 半四拾八歩    畠 同  所   つしま主作  下 大八拾六歩    畠 同  所   兵庫作    

下 壱反八拾五歩   畠        同人主作   下 此内七十歩当不作大拾七歩 畠 同  所   つしま主作

下 半廿七歩     畠        同人主作   下 大七拾七歩    畠 同  所   同人主作   

下 半拾歩      畠        二良右衛門作 下 壱反拾歩     畠 むかい原   つしま主作  

下 半拾八歩     畠 むかい原   二良右衛門作 下 半拾四歩     畠 同  所   同人主作   

下 小四拾四歩    畠 同  所   五郎左衛門作 下 壱反四拾歩    畠 同  所   りん光坊作  

下 半卅弐歩     畠 同  所   同人主作   下 大九歩      畠 沼袋原    二良左衛門作 

下 大九歩      畠 同  所   新左衛門作  中 大卅歩      畠 同  所   同人主作   

下 此内五十歩当不作半廿三歩 畠 同  所 図書主作   下 小四十弐歩    畠 同  所   善二良主作  

下 大廿三歩     畠 同  所 新さへもん作   下 大廿五歩     畠 同  所   新助作    

下 此内小廿歩当不作小四拾弐歩 畠 同  所 同人主作   下 半拾弐歩     畠 同  所   つしま作   

下 半廿八歩     畠 むかい原   二良左衛門作 中 大拾四歩     畠 むかいはたけ 藤右衛門作  

下 半四拾四歩    畠 同  所   同人主作   上 半歩       畠 同  所  新さへもん主作 

中 半四拾八歩    畠 同  所  郷さへもん主作 中 半三歩      畠 同  所   源  十良作 

中 小廿五歩     畠 同  所   二良ゑもん作 消し〔下 小卅五歩  畠 同  所   図書主作〕  

下 小廿歩      畠 同  所   二良左衛門作 下 小卅五歩     畠 むかい畠   藤右衛門作  

上 大四十歩     畠 宮下     林光坊作   下 半卅七歩     畠 同  所   図書作    

上 大八十五歩    畠 同  所   同人主作   中 半拾壱歩     畠 同  所   新助作    

下 半廿八歩     畠 沼袋原   惣さへもん主作 中 大六歩      畠 同  所   同人主作   

中 大九拾六歩    畠 沼袋原    図書作    中 壱反卅八歩    畠 同  所   つしま作   

中 大三歩      畠 同  所   ぬひの助作  中 半四十五歩    畠 同  所   新助作    

中 大廿八歩     畠 同  所   同人主作   下 廿四歩      畠 同  所   同人主作   

中 半拾九歩     畠 同  所   藤右衛門作  中 大八拾六歩    畠 同  所   図書作    

中 半卅歩      畠 同  所   同人主作   中 小廿六歩     畠 同  所   神四郎作   

中 壱反六拾歩    畠 同  所   源右衛門作  中 大四拾歩     畠 同  所   新さへもん作 

下 半四拾六歩    畠 同  所   拾左衛門作  中 小拾歩      畠 同  所   善二良作   

中 大卅八歩     畠 同  所   藤右衛門作  下 壱反小弐歩    畠 同  所   郷さへもん作 

中 半五歩      畠 同  所   神四良作   下 壱反四歩     畠 同  所   二良右衛門作 

中 半三歩宮免    畠 宮之下    林光坊    下 半卅三歩     畠 同  所   図書主作   

上 半廿五歩同免   畠 同  所   二良右衛門作 下 小四拾弐歩    畠 同  所   新さへもん作 

上 小四歩同免    畠 同  所   同人主作   下 小歩       畠 同  所   十さへもん作 

上 半四拾壱歩宮めん 畠 宮 下    源左衛門作  下 大廿五歩     畠 同  所   同人主作   

上 大七拾五歩同免  畠 同  所   兵庫作    下 大七十歩     畠 同  所   二良左衛門作 

中 小廿五歩同免   畠 同  所   ひやうこ作  上 小卅七歩宮めん  畠 宮の下    林光坊作   

下 小廿歩同免    畠 同  所   兵庫作    上 小四拾三歩    畠 宮の下    源左衛門作  

下 九十歩同めん   畠 同  所   二良右衛門作 上 大卅五歩宮めん  畠 同  所   源十良作   

中 大廿弐歩     畠 徳出谷    十さへもん作 上 卅歩同免     畠 同  所   りん光坊   

中 半四拾五歩    畠 徳てやつ   同人主作   中 廿歩       畠 同  所   林光坊作   

下 大五拾七歩    畠 とく出谷   同人主作   中 廿五歩宮めん   畠 同  所   図書作    

下 四拾五歩     畠 とくて谷   権左衛門作  上 小八歩同免    畠 同  所   源十良作   

下 大卅八歩     畠  とくてやつ 同人主作   上 小八歩同免    畠 同  所   つしま作   

下 半拾六歩     畠 同  所   図書作    上 小廿八歩同免   畠 同  所   神四良作   

中 半六歩      畠 同  所   同人主作   下 小拾六歩     畠 同  所  拾さへもん主作 

中 半拾歩      畠 同  所   新左衛門作  下 半歩       畠 同  所   十さへもん作 

中 五拾弐歩     畠 同  所   拾さへもん作 下 此内六十当不作大拾六歩「当おき」 畠 同  所   兵庫作

中 半四拾八歩    畠 とくて谷   図書作    下 八拾七歩「当おき」 畠 同  所 十さへもん作  

中 半四拾九歩    畠 同  所   新左ヱ門作  下 大六拾三歩    畠 同  所   二良左衛門作 

下 小四拾歩     畠 同  所   二良右衛門作 下 半廿五歩     畠 同  所   兵庫作

下 小歩当不作    畠 同  所   十左衛門作  

下 小五歩      畠 同  所   藤右衛門作   上畠 七反大九歩

下 半拾五歩     畠 とくて谷   藤右衛門作   中畠 弐町大六十九歩

下 半卅歩      畠 同  所   図書作     下畠 四町弐反八十七歩 此内壱反大廿歩当不作

下 小廿六歩     畠 同  所   新さへもん作  下畠 壱反三歩 当おき

下 小拾弐歩     畠 同  所   太良左衛門作 畠合 七町壱反大六拾八歩

下 半拾歩      畠 同  所   七良左衛門作

下 半卅六歩     畠 同  所   藤右衛門作                      伊藤 小右衛門

下 大卅四歩     畠 同  所   神四良作                       冠 四良右衛門

下 此内卅歩当不作半卅九歩 畠 同  所   十左衛門作                      沼上伊与

下 此内九十歩当不作半四拾壱歩 畠 同  所   林光坊主作                    池上作蔵

下 壱反六拾歩    畠 同  所   林光坊主作    墨付拾六枚筆

最上段の上中下は田畠の反別等級を表わしたもので、これによって斗代(石盛)が決められる。石盛については後述するが、これより後の検地帳では上畑・中畑・下畑・下々畑と四段階で評価される。次の反別の表記も後のものと異る。すなわちの単位が省略されており、かわりに大半小で示している。これは一反を三〇〇歩()とし、三分の二(二〇〇歩)を大、半分(一五〇歩)を半、三分の一(一〇〇歩)を小で表わしている。例えば筆初のむかい原但馬の下畠「大八拾三歩」は二八三歩(九畝一三歩)ということになる。

一筆の耕地を実際に耕作している百姓を名請なうけ人と称して検地帳に記載される。二行目に「十さへもん分 七良右衛門作」と

あるが、これは分附ぶんつけと言われるものであって、十さへもん(十左衛門)を分附主、七良右衛門を分附百姓と呼んでいる。初期の検地帳ではこの誰々分、誰作という記載形式がかなり行なわれていた。では何故このような書分け方が必要であったのであろうか。

第一に考えられることは、現在は親と同居していても、やがて分家して一戸前の百姓となろうとするものが、将来自分の持ち分となるべき土地を有する場合である。もう一つは今まで主家に隷属し、身分的にも認められることがなかった下人げにんが、経済的な地位の向上とともに自分が耕作している土地に対する権利を認められ、分附百姓としてのその名が記載されるようになった場合である(『府中市史』)。

この場合十さへもんは、七良右衛門が従来隷属していた主家に当り、耕地はそれまで十さへもんのものとされていたが、実態は七良右衛門が耕作していることが判る。分附主である十さへもん自身が耕作している土地は文書中程「徳出谷とくてやつ」(徳田)に主作として記載されている。

「当不作」は何かの理由で当年は不作であったことを意味しており、「当おき」は以前荒地であった所を当年に起し返した畑であることを指している。この時点における上中下それぞれの畠の斗代(石盛)は明らかでない。

四人の名は検地役人の名前である。

練馬地域の検地

寛永九年(一六三二)大御所秀忠が没すると三代将軍家光の手によって幕府の政治機構が漸く整備されはじめた。参覲交代の制度、寛永の地方ぢかた直し(蔵入地や知行地の組替)などもその一環であるが、練馬地域では寛永八年の中荒井村を筆頭として寛永一六年(一六三九)には一斉に検地が行なわれた。

同年以降区内各村に実施された検地の年代を纒めてみると次のようになる(『新編武蔵風土記稿』による)。

<資料文 type="2-33">

寛永 八年(一六三一)  中荒井村

同 一六年(一六三九)  上練馬村

寛永一六年        関村

同   年        上石神井村

寛永一六年        下石神井村

同   年        谷原村

寛文 三年(一六六三)  土支田村

同   年        小榑村

同  四年(一六六四)  関 村

同   年        橋戸村

同   年        江古田村(江古田新田

同  六年(一六六六)  中荒井村

同   年        土支田村

延宝 元年(一六七三)  上練馬村

同   年        下練馬村

同  二年(一六七四)  上石神井村

延宝 二年        下石神井村

同   年        谷原村

同   年        田中村

同   年        関 村

同   年        上板橋村

元禄 三年(一六九〇)  橋戸村

同  九年(一六九六)  江古田村(江古田新田

享保 六年(一七二一)  橋戸村

享保二〇年(一七三五)  関村新田

宝暦一一年(一七六一)  上練馬新田

同   年        下練馬新田

天明四年(一七八四)   竹下新田

このうち検地帳の現存するものは寛永一六年の上練馬村(長谷川家)・関村(井口信治家)、寛文三年の土支田村(小島家・町田家)、延宝元年の上練馬村(長谷川家)、同二年の関村(井口信治家)などである。なお延宝元年の下練馬村検地帳は「丑ノ御縄御水帳写」として内田喜作・内田正顕・篠長太郎家に現存するがいずれも個人又は組合分であるので下練馬村全体を見ることはできない。

寛永以降の検地帳は前掲天正一九年の検地帳と比較して記載様式に若干の異いがあるので、次に寛永一六年関村と、寛文三年土支田村の検地帳のそれぞれ冒頭部分と末尾部分を紹介することとする。

<資料文>

寛永十六年卯八月八日             

 武州豊嶋郡野方領内関村御検地水帳      

       三帳之内 案内者 忠兵衛    

                   仁左衛門

                     茂兵

                    市之助

                    小兵衛

<資料文 type="2-33">

拾五間 拾九間  上畠壱反廿壱歩             仁左衛門

拾三間 七 間  卅六歩ノ入中畠三畝壱歩         市之助

拾三間 拾四間  上畠六畝弐歩              同 人

拾間拾 三間半  上畠四畝拾五歩             仁左衛門

拾弐間半拾壱間  中畠四畝拾七歩             長三郎

拾三間 四間半  下畠壱畝廿八歩             同 人

十間半 十九間  上畠六畝拾九歩             市之助

三十五間七 間  上畠八畝五歩              同 人

三十八間拾弐間半 ひがしだい上畠壱段五畝廿五歩      忠兵衛

拾 間 拾七間  上畠五畝廿歩              小兵衛

        (中略)

 下田四町弐反九畝歩

  内三反五畝拾五歩 当不作

 上畑弐町八畝拾壱歩

 中畑壱町弐反七畝廿六歩

 下畑拾壱町壱反五畝七歩

 下々畑壱町七反壱畝廿四歩

 内 壱町四反六畝拾壱歩 当不作

   弐反五畝拾三歩 当発

 田畑合弐拾町五反弐畝八歩

   墨付弐拾壱枚

                     宮井 十兵衛 ㊞

                     永田 九兵衛 ㊞

                     大橋弥次右衛門㊞

                     無藤 五兵衛 ㊞

右今度御検地水帳之写御繩打ヲ以本帳とよミ合究判被致候間、我々も如此加判致郷中ニ指置候者也、仍如件

  寛永拾六年

    卯八月十三日

                     永田 八兵衛 ㊞

                     宇野 八郎兵衛㊞

                     高橋 与左衛門㊞

この検地帳は表紙にあるとおり三冊の内、現存するのはこの一冊である。練馬における寛文・延宝期の検地に先行する近

世村落成立期の状況を知る上で貴重なものである。天正の検地帳に比べ土地の表示方法がより具体的になっている。すなわち竪横を間数で表わし、大半小を改めて畝の単位を用いるようになった。ただしどの一筆をみても竪横だけの矩形で表わされているが、実際の土地の形状は必ずしもそうではない。例えば上図のような不定三角形の場合でも見捨みすて見込みこみを考え合せ矩形の面積として表示したものである。このほか一枚の田畑中に大木や大石などがある場合は抜歩ぬきぶといってその分を差引くのは勿論であるが、野道などを隔てて同人持の土地であっても一筆とするには小さすぎる小地は入歩いりぶといって大きい方の一筆に併入させた。前掲検地帳一行目仁左衛門の上畠壱反廿一歩(三二一歩)には一五間×一九間(二八五歩)のほかに三六歩が入歩されていることが記されている。天正検地帳に見られた分附百姓は寛永以降の検地帳からは見えなくなる。

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寛文の検地帳

さきの検地年表に見るとおり練馬地方の多くの村は寛文・延宝期に検地が実施されている。そのことは練馬における近世村落の成立時期を大略この時代においてよいと考える。

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このような意味で、小島兵八郎家に現存する寛文三年(一六六三)の土支田村検地帳は、完全な形で三冊が残っている点からも極めて貴重である。第一冊目の冒頭部分と末尾部分を左に抄録する。

<資料文>

 寛文三年癸卯九月十四日

武蔵国豊嶋郡土支田村田畑検地帳写

<資料文>

土支田村

前畑上畑 弐拾間拾五間 壱反歩 市郎右衛門

同所上畑 拾七間拾三間半 七畝廿歩 同人

同所上畑 拾五間半拾弐間 六畝六歩 半右衛門

同所上畑 拾四間半拾三間 六畝九歩 六左衛門

前畑中畑 拾五間半拾三間 六畝廿二歩 与次右衛門

道明関中畑 拾七間拾弐間 六畝廿四歩 半右衛門

道明関上畑 廿弐間半八間 六畝歩 六左衛門

同所中田 弐拾五間八間半 七畝三歩 市郎右衛門

同所中田 拾三間拾壱間半 五畝歩 与次右衛門

同所中田 拾九間六間 三畝廿四歩 半右衛門

中略

田畑合百八拾七町九反六畝弐拾壱歩

此訳

田方五町七反六畝八歩

上田弐町三反弐拾四歩

中田弐町四反拾九歩

下田壱町四畝弐拾五歩

畑方百八拾弐町弐反拾三歩

上畑弐拾弐町七反五畝拾壱歩

中畑三拾壱町拾五歩

下畑九拾八町三反九畝弐拾壱歩

下々畑三拾町四畝弐拾六歩

右卯八月廿八日より同九月十四日迄検地仕候

寛文三癸卯歳九月十四日

佐野与右衛門

長屋孫左衛門

岡太郎右衛門

大塚杢右衛門

鈴木重兵衛

田口権左衛門

倉林市右衛門

高浜喜兵衛

寛永一六年関村検地帳と比べてみるに一筆の記載方法に若干の上下がある(間数が二段目になる)ほか、ほとんど違いはない。ただ注目してよいのは上段にその土地の所在区が小字名で必ず記入されていることである。前畑・道明関などは当時の

土支田村上組、現在の東大泉に包含される地域であるが今の時点での範囲をはっきりと限定することはむずかしい。

本帳の面積も矩形によって表示されているが、これは前に述べたとおりの計算で記載された。しかし寛永一六年帳では小数点以下の端数を切捨てにしていたが、本帳では切上げている。

その後幕府は享保一一年(一七二六)「新田検地條目之事」を定め、この年以降実施する検地には田畑屋敷共すべてこの条目を適用することとしたが、実際は殆どの村が定免じようめん後述)となったので、練馬地域では関村新田・上練馬新田・下練馬新田・竹下新田の新田がその検地の対象になるにとどまった。

石盛

検地帳で見てきたように田畑には上・中・下・下々などの品位が付けられる。それは耕地の状況・土性の善悪などによって検地の際認定されるのであるが、これに対して坪刈つぼがりを行ない上田石盛こくもり幾つと決められるのである。つまり石盛は単位面積当り収穫量のことで、反別たんべつに石高を盛り付ける意味から石盛と名付けられた。また石盛のことを例えば上田一石五斗代などというところから別名斗代とだいと呼ぶ地方もあるが、関東では多く石盛の名称を用い、斗代はむしろ反取たんとりのことを指す場合が多い。

石盛は普通次のようにして決められた。まず同じ上田でも場所によって稲の作柄に善悪があるのは当然なので、三、四か所の異る田を選び坪刈りする。坪刈りの結果一坪に平均してもみが一升あれば、一反三百歩()で籾三石、一町歩で籾三〇石が穫れる計算になる。この籾を五合ずり一升の籾を五合の玄米にする)にして玄米一五石が得られるので、これを称して上田石盛十五というのである。享保の新検地条目以前は坪刈りをした籾の内二割を減じ、同様の計算方法で上田石盛十二としていたが、同条目で二割引を止め、籾の実量によって石盛を付けるように改められた。とはいえ実際には地味の良否、仕付の善悪で出来高の異るのは当然で、検地奉行の裁量によって決められる場合が殆どであった。

上田の石盛が十五と決められると、それより以下中、下、下々は二劣ふたつおとり石盛が二つずつ下がる)といって、中十三、下十一、下々九と石盛がつけられる。つまり反当り上田は一石五斗、中田は一石三斗、下田は一石一斗、下々田は九斗の収穫高

が定められ、五公五民(貢租率五〇%)の年貢の場合はそれぞれの半分を年貢として上納することとなるのである。

石盛に当っては、実際の稲を刈って決めるので、その稲の作り手の精不精、巧不巧によるのは勿論、百姓の貧富による肥料の施し方、手入れの優劣によって、上田でも良くない場所があり、中下田でも良い場所があった。それらを作為的にやる村方もあったらしく、石盛を決める役人は、村民を納得させながら相応の増収をはかるために、知識的にも、技術的にも巧者でなければならなかった。

作柄は田によって異るとともに地方によっても大いに異った。全国的にみて上田の石盛は最高十八から最低十一、上畑の石盛は最高十三から最低六ぐらいであった。関東における石盛は田の場合はこの数値が大体標準であるが、畑の場合は上畑一〇(反当一石)、中畑八(反当八斗)、下畑六(反当六斗)程度が標準であった。

では練馬地方の石盛はどうであったか、小島兵八郎家文書の中に耕地屋敷の石盛を一覧できる安政三年(一八五六)の資料があるので左に掲げる。

画像を表示 <資料文>

 安政三  年三月

田畑反取書上帳             下書

              武州豊嶋郡

                土支田村下組

<資料文>

高五百七拾八石弐合 武州豊嶋郡土支田村下組

此反別百七拾壱町六反壱畝廿八歩

一、上田 石盛 拾壱 反米五斗三合六夕八才

一、下田 同 七ツ 反米三斗五升三夕八才

一、下々田 同 五ツ 反米三斗壱合九夕八才

一、上畑 同 六ツ 反永七拾壱文五分

一、中畑 石盛 四半 反永六拾壱文五分

一、下畑 同 三ツ 同 四拾六文五分

一、下々畑 同 壱半 同 三拾壱文五分

一、上田畑成八畝拾六歩 盛 拾壱 荒地取分反永弐拾五文

一、中田畑成六反九畝拾七歩 盛 九 右同断

内壱反五畝歩 反永四拾七文

五反四畝拾七歩 反永廿五文

一、下田畑成壱町八反四歩 盛 七 右同断反永同断

一、下々田畑成五反弐歩 盛 五

内四反七畝廿四歩 同断反永廿五文

弐畝八歩 同断反永四拾七文

一、上 畑壱反壱畝六歩 盛 六 右同断反永廿七文五分

一、下 畑拾四町九反三畝九歩盛 三

内七町八畝壱歩 右同断反永三拾文五分

七町八反五畝八歩 反永廿六文五分

一、下々畑六町三反壱畝廿八歩盛 壱半

内三町七反弐畝拾八歩 右同断反永廿七文五分

弐町五反九畝拾歩 反永廿六文五分

一、畑屋敷成 石盛 上畑 六ツ

中畑 四半

下畑 三ツ

下々畑 壱半

反永九拾壱文五分

一、屋敷 石盛 拾 反永九拾文

右者田畑反取御調ニ付奉書上候処相違無御座候 以上

安政三辰年三月

右村

名主 八郎右衛門

小林藤之助様

御役所

本書で見るとおり土支田村の場合は上田十一、中田九、下田七、下々田五の二つ下がりで、畑は上畑六、中畑四ッ半、下畑三、下々畑一ッ半の一つ半下がりとなっている。反米たんまいは反当りの年貢米、反永たんえいは反当りの永銭で、このことは後でふれるが田は米納、畑は金納であった。田畑成は水の都合か何かで田であった場所が畑となることである。この場合は石盛はもとの上田と同じ十一であるが荒地として下々畑より低い永銭反当り二五文が課せられることになっている。屋敷は石盛十と上田に匹敵する貢租率だが、畑を屋敷とした畑屋敷成は石盛こそ元の畑の率であっても反永は屋敷より高くなっている。

ここで土支田村と練馬の他村の石盛とを比較してみると次の表のとおりである。

<資料文>

上田 中田 下田 下々田 上々畑 上畑 中畑 下畑 下々畑

土支田村 一一 九 七 五 六 四・五 三 一・五 前掲文書

下練馬村 一一 九 七 五 八 六 四 二 文政九年下練馬村御割附之写(加藤源蔵家文書

関村 一一 九 七 五 一〇 八 六 四 二 享保五年関村明細控帳(井口信治家文書

小榑村 一一 九 七 五 七 五 三 一・五 宝暦四年小榑村村柄様子明細書(小美濃英男家文書

中村 七 五 三 五 四 三 一・五 年不詳中村高反別書上(須藤亮作家文書

私領である中村を別として田については各村とも同じであるが、畑については多少の異同がある。いずれにしても練馬の村は全国の標準石盛より大部低く田は最低であり、畑もまた最低に近い。

年貢の割附と皆済

江戸時代の農民の負担は大別して年貢と諸役に分けることができる。年貢は田畑にかかる本年貢または本途物成ほんとものなりがその基本になって、他に小物成こものなり運上うんじよう冥加みようがなどの雑税が課せられた。田と畑とでは一般に畑の方が低率であって、関東では田の年貢は米納、畑の年貢は永納(貨幣納)であった。

年貢が実際にどのような形で割附けされ、また上納されるのか、土支田村の文書によって見ることとする。引用する文書は小島兵八郎家文書のうち嘉永三年(一八五〇)の年貢割附状と、その年の年貢が完全に納められたことを証する皆済かいざい目録である。

<資料文>

戌御年貢可納割附之事

 酉より卯迄七ヶ年定免          武蔵国豊島郡

一、高五百七拾八石八斗弐合          土支田村

  此反別百七拾壱町六反壱畝廿八歩         下組 板橋宿助郷

戌皆済目録

高五百七拾八石八斗弐合          武蔵国豊島郡 土支田村 

                         下組

     内

 田高弐拾五石三斗八升三合

 此反別弐町四反拾五歩

  内高八升五合

              前々砂入引

   此反別壱畝廿壱歩

 残高弐拾五石弐斗九升八合

 此反別弐町三反八畝廿四歩

 

 畑高五百五拾三石四斗壱升九合

 反別百六拾九町弐反壱畝拾三歩

  内高六斗壱升八合

              前々砂入引

   此反別壱反九歩

 残高五百五拾弐石八斗壱合

 此反別百六拾九町壱反壱畝四歩

     此  訳

 高弐拾三石八斗九升五合

 上田弐町壱反七畝七歩         拾壱

 高壱石壱斗三升六合

 下田壱反六畝七歩           七

 高三斗五升弐合

 下々田七畝壱歩            五

一、米拾壱石六斗七升弐合        本   途

  斗立拾弐石三斗三升九合

一、永七拾六貫八百四拾五文六分     同   断

一、永六貫百三拾六文          小 物 成

一、永弐百八拾弐文  午より戍迠五ヶ年季     水車運上

一、米三斗三升三合

  斗立三斗五升弐合          口   米

一、永弐貫四百九拾七文九分       口   永

一、米三斗四升七合

  御伝馬宿入用

  斗立三斗六升七合 但 戍冬御張紙直段金三両増  米三拾五石ニ付金四拾六両替

  代永四百八拾弐文三分

  掛高四百六拾九石壱斗弐合

   外高 百九石七斗 助郷高免除

一、米九斗三升八合

  六尺給

  斗立九斗九升弐合

  掛高  外高 右同断

一、永壱貫百七拾弐文八分        御蔵前入用

  掛高五百七拾八石八斗弐合

一、菜種五斗七升九合

                    正   納

  斗立六斗壱升弐合

  掛高右同断

   高八升五合

             砂入引

   内 壱畝廿壱歩

  高弐斗六升七合

   残五畝拾歩

  高九斗三升九合

  上田畑成八畝拾六歩          拾 壱 反永弐拾四文

  高六石弐斗六升九合

  中田畑成六反九畝拾七歩            九

    内 壱反五畝歩             反永四拾七文

      五反四畝拾七歩           反永弐拾四文

  高拾弐石六斗九合

  下田畑成壱町八反四歩             七反永弐拾四文

  高弐石五斗三合

  下々田畑成五反弐歩              五

  内 四反七畝廿四歩 反永弐拾四文

    弐畝八歩 反永四拾七文

  高七拾八石五斗三升九合

  上畑拾三町九畝歩               六

    高六斗壱升八合

                   砂入引

    内 壱反九歩

  高七拾七石九斗弐升壱合

一、大豆壱石壱斗五升八合        石   代

  斗立壱石弐斗弐升四合

  代永壱貫九百七拾四文弐分   但金壱両ニ付六斗弐升替

一、細餅米三升八合           同   断

  代永百拾九文九分       但右同断ニ付三斗壱升七合替

一、太餅米三升三合六夕         同   断

  代永七拾八文         但右同断ニ付四斗三升壱合替

一、同籾四升七合壱夕          同   断

  代永六拾壱文弐分       但右同断ニ付七斗七升替

一、永弐百弐拾五文    辰より丑迠弐拾弐ヶ年賦        夫食代拝借返納

 

   米拾三石六斗八升三合

 合 菜種六斗壱升弐合

   永八拾九貫八百七拾四文九分

     此 拂

  米壱斗弐升三合六夕         餅米籾代米三割増共渡

  米三斗六合 菜種代米渡

  米六斗壱升弐合 大豆代米渡

   小以米壱石四升壱合六夕

  米拾弐石六斗四升壱合四夕      定 買 納

  残拾弐町九反八畝廿壱歩

  内 拾弐町八反七畝拾五歩   本 免 壱反壱畝六歩

 高七拾四石九斗弐升三合     午卯免上反永弐拾六文五分

 中畑拾六町六反四畝廿八歩        四 半本免反永六拾壱文五分

 高三百拾弐石八升四合

 下畑百四町弐畝廿五歩          三

    八拾九町九畝拾六歩    本 免

  内 七町八畝壱歩       午卯免上反永弐拾八文五分

    七町八反五畝八歩     午卯免上反永弐拾五文五分

 高四拾五石三斗弐升七合

 下々畑三拾町弐反壱畝廿四歩       壱 半

 弐拾三町八反九畝廿六歩     本 免

  内 三町七反弐畝拾八歩    午卯免上反永弐拾五文五分

 弐町五反九畝拾歩        午卯免上反永弐拾四文五分

 高七斗四升弐合

 上畑屋敷成壱反弐畝拾壱歩        六

 高弐斗壱升四合

 中畑屋敷成四畝廿三歩          四 半

 高壱斗三升

 下畑屋敷成四畝拾歩           三

納合 菜種六斗壱升弐合 代永壱貫三百弐文壱分

  永八拾九貫八百七拾四文九分

     外永七拾四文九分        包 分銀

一、永弐貫八百八拾七文壱分        川々国役

一、籾七斗九升八合           貯穀廿分一御下穀

 都合永九拾四貫百三拾九文

右者去戌御年貢本途小物成其外共

書面之通令皆済ニ付小手形引上

一紙目録相渡上者重而小手形

差出候共可為反古もの也

 嘉永四亥年正月     勝  次郎㊞

                    右 村

                    名 主

                    組 頭

                    百姓代

   高三升

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  下々畑屋敷成弐畝歩          一 半

  高拾九石壱斗壱升

  屋敷壱町九反壱畝三歩         拾

  取 米拾壱石六斗七升弐合      去同

    永七拾六貫八百四拾五文六分   去同

        外

一、永五百八拾弐文           上 野 銭

  此反別壱町九反四畝歩

一、永四貫百弐拾六文          中 野 銭

  此反別拾七町壱反九畝四歩

一、永壱貫四百弐拾八文         下 野 銭

  此反別九町五反壱畝廿弐歩

一、永弐百八拾弐文      午より戍迠五ヶ年季水車運上

一、米三斗四升七合 御伝馬宿入用

  掛高四百六拾九石壱斗弐合

  外高百九石七斗           助郷高免除

一、米九斗三升八合           六尺給米

  掛高  外高 右同断

一、永壱貫百七拾弐文八分        御蔵前入用

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  納合 米拾弐石九斗五升七合

     永八拾四貫四百三拾六文四分

右者当戌定免御取箇書面之通候條

村中大小之百姓入作之もの迄不残立会

無甲乙割合之来ル極月十日限急度

可令皆済もの也

嘉永三戌年十月 勝田次郎㊞

             右 村

               名 主

               組 頭

               惣百姓

割附状一行目の高は土支田村下組の総村高であって、三行目の「内」以降に記されている田高と畑高の合計である。「此反別」も同様である。田畑共若干の「砂入引」があるが、これは、山沢川端などで荒砂が田畑に交り、検地の際願い出て無位の石盛取箇とりか年貢の査定)を認められた場所で、以前から村高より差引かれているという意味である。

田高二五石三斗八升三合、此反別二町四反一五歩がどのように計算されたかは此訳以降に記るされているが、計算方法は上表の通りである。

<資料文 type="296">

   反別   石盛   高      反米   取米

   町反畝.歩   石斗升.令    斗升.合   石斗升.合

上田 217.<数式 type="fraction">7/30×11= 2389.5   取別×50.368=1094.2

下田  16.<数式 type="fraction">7/30×7= 113.6   反別×35.038= 56.9

                 砂入引残

下々田 7.<数式 type="fraction">1/30×5=  35.2   5.<数式 type="fraction">10/30×30.198= 16.1

 計 240.<数式 type="fraction">15/30    2538.3          1167.2

田高は前述したようにそれぞれの反別に石盛を乗じて計算し合計された数字である。反米は反当り上納米で、前出安政三年土支田村下組田畑反取書上帳に記載されている。これに反別を乗じた石数が年貢米として上納される取米であって、割附状末尾の方に取米一一石六斗七升二合と記されている数字に合致する。普通天領では五公五民といわれ村高の半分が年貢米として上納されるのが例であるが、土支田村の場合は、これで見るように、上田では半分以下、下田、下々田では半分以上、平均で約四六パーセントの貢租率である。

畑高の割附についても田同様の計算が成り立つが、畑の場合は貨幣納であるので反永すなわち反当り永銭で計算される。反永は上畑の反当り七一文五分から上田畑成などの取下げ場二四文まで約一〇階段になっており、計算はやや複雑であるが取永の合計は七六貫八四五文六分になる。平均の反当り永は四五文四分強である。

以上が本途ほんとあるいは本免ほんめんといって年貢の本税であるが、このほかに次のような雑税がいくつかある。野銭のせんは村の反別に繰入れられない入会などの秣草場などに課せられる小物成こものなりの一種で、この場合反永で上野三〇文、中野二四文、下野一五文が課せられている。また、営業税の如きものに運上冥加うんじようみようががある。水車・質舗・酒造などにかかるもので、運上は課税に属し、冥加はその性質上元来献金に類するものであるが、どちらも納税と見てよい。当村の場合水車運上が課せられている。

次に高掛物たかがかりものといわれる村高に応じ徴収される次の三種(三役という)がある。

御伝馬宿入用は五街道の問屋本陣給米のほか宿駅の費用に充てるもので、村高百石に付き米六升が定めであった。土支田村下組の場合は村高の内一〇九石七斗分が板橋宿の助郷に割当てられているので、この分を免除し残り高に対して百石に付

七升四合の割合になっているが、実は定法どおり総村高百石に付き六升の計算になっている。

六尺給米ろくしやくきゆうまいは古来江戸城の台所に於て使役する男丁を六尺といい、農民の課役として各村より徴発していたが、のちに実際の労役を廃止して米納にかえたものである。村高百石に付き米二斗宛が徴収された。助郷免除後の掛高に対して計算通りである。

御歳前おくらまえ入用は江戸浅草米蔵の諸費に充てるもので、元来租税は人民のすべてが負担すべきものであるという考えから、当所に係る費用も一般に賦課された。村高百石に付き関東では永二五〇文であった。これも助郷残高に対して課せられている。

以上個々に計算された米は米、永は永を合計して最後に納合の米高と永高が記され、その年の一二月一〇日までに皆済するよう命じている。

これに対してすべて割附通りの上納が済むと皆済目録が出される。この場合は本途、小物成(野銭の合計)水車運上、御伝馬宿入用、六尺給米、御歳前入用などは割附状と同額となっているのは勿論である。

口米くちまいくちべいともいう)、口永は正租額に応じて所定の乗率を以って徴収し、代官所の諸経費(下吏の給与、筆・墨・紙代など)に当てていたが、享保年間にこれを廃止し、経費は管轄の石高に応じて別途支給されることとなった。それでも口米永の名はそのまま残って税の一種として徴収された。口米は三斗五升入一俵に付き一升、口永は一貫文に付き三〇文が定めであった。

本途にも口米にも斗立とだてはかりたてともいう)の量が記されているが、斗立は年貢米公納の際の事実上の量のことであって、一俵の本石三斗五升に対して二升の出目米でめまいを加えた数である(11×<数式 type="fraction">35+2/35=12)。出目米又は延米のべまいの制度は一部の私領を除いて享保以降廃せられたが、この例で見るように一俵の升目を増やす形で現実には農民の負担として残っていた。

御伝馬宿入用は前述のとおり助郷高を免除した残高に課すのが定法であるが、当村の場合は総村高に対して百石に付六升の割になっている。そして、米納ではなく石代を金納しており、その相場は但書にあるとおり御張紙(蔵前に張り出される米の公定相場)値段に三両増の米三五石に付、金四六両替となっている。

以上の定納物のほかに、皆済目録には菜種・大豆・餅米など臨時の上納物が記されている。いずれも金納であって、その種代、籾代は米に換算され年貢米から差し引かれる。

つぎに夫食代拝借返納として永二二五文がある。夫食拝借は天変地異など非常の災害を蒙ったとき村民の請願で金穀を貸与する制度であって、一人一日分の貸与制限は男一人米なら二合、麦なら四合、稗なら八合、女はその半分であった。許可になると勘定所から三〇日分位が代金を以て支給された。返済は無利息で通常、五年賦であるが、当村の場合は二二年賦の長期に亘っている。

此拂小以(小計のこと)は餅米、菜種、大豆の種籾代の計で、これを差引いた残が納むべき米一二石六斗四升一合四夕である。ここに定買納かいのうと記されている。年貢米が洪水の害を受け稲が永く水中に浸り、後日成熟しても米の質が粗悪で上納米に適さぬ場合とか、納入場所に到着したとき不足が生じた場合とか、船で輸送中に難波したり海水をかぶったりした場合など止むを得ないものに限り、他所の産米を購入して代納を許された。当村の場合は産米が常に上納に適さなかったので定買納となっている。

包分銀つつみぶぎんは金銀座御用後藤家に与えられた特権のような包ミ改料あらためりよう包歩つつみぶともいう)で、百両に付、永八三文三分三厘が支払わされた。算式は納合永八九貫八七四文九分を十二で割って計算した。

国役は川々普請や朝鮮使節来朝の際などに割当てられるものであるが、幕末になると御台場普請などの名目もあって、毎年定額の二貫八八七文一分が国役として課せられていた。

幕府は凶年その他非常の予備として郡村に米粟などを貯蓄させ、これを貯穀たくわえと言っていた。天明八年(一七八八)より寛

政四年(一七九二)迄の貯積高に対し、その二〇分一を下付し民蓄と共に郡村に貯蔵し、年々新穀に取替え不慮に備えることとしていた。これが貯穀廿分一御下穀と記された籾七斗九升八合である。

また年貢は一度に納めるのではなく、何回かに分けて差し出し、その都度請取小手形が出されていた。小手形は半紙半截をたて半分に切ったほどの大きさであるが、この小手形と引きかえに皆済目録が出されるので小手形は村方に残ることは全くない。小島家文書の中にはこの小手形と同じ大きさの買納石代の請取が十数通含まれており、定買納の様子を知ることができる。

以上で年貢割附状と皆済目録についての説明を終るが、毎年代官より勘定所に進達される官簿に郷帳ごうちようというのがあって、この三つを総称して地方じかた三帳といった。

練馬地域で最古の年貢割附状は寛永一六年(一六三九)関村のもので小川家文書(小平図書館蔵)のうちの一つである。

定免

五公五民とか四公六民といわれた年貢の貢租率は普通検見取けみとり法と定免じようめん法の二つの方法によって決められていた。

検見取法は毎年秋に田地の坪刈りを行ない、実際の出来高を調べ、その結果によって課税する方法である。この法は年々の豊凶に依って課税するので比較的に公平な方法であるが、実施に当っては検見(毛見とも書く)に手数がかかるだけでなく弊害も多かった。いつの時代にもあることだが検見役人は賄賂を求め、その多少によって租額に多寡があり、若し贈賄をしなければ百姓は苛酷な負担を強いられ、その生活は脅かされた。百姓の生活を支えるために賄賂は必要悪でもあった(昭和三二年刊『練馬区史』)。

これに対して定免法とは過去数年間の収穫の平均によって貢租率を定め、それより先数年(三~七年)間は検見をすることなく、定額の租税を徴収する方法で、享保年間より行なわれるようになった。この定免期間中は豊凶に拘わらず検見は行なわないが、甚だしい凶作の場合は村方の願い出によって検見取によって減税せられた。これを破免はめんというが、その規定は

村中で三以上の損毛の場合にのみそれを許すことになっていた。三分以下の場合は破免にはならず百姓の損であった。もちろん村全体の三分であるから、ある特定の農民個人が全くの不作であっても、それが村の三分に達しなければ、この規定の適用は受けられなかった。

前掲「戍御年貢可納割附之事」の第一行目に「酉より卯迄七ヶ年定免」と記るされている。この文書は嘉永三年のものであるので酉より卯とは嘉永二年(一八四九)から安政二年(一八五五)のことである。年季が明ければ年季切替え前の租税を若干増して定免継続の願出を行なうことになっている。同じ小島家文書に安政三年二月の定免継続願がある。

「乍恐以書付奉書上候」と題し「酉より卯迄七ヶ年定免明、当辰より戍迄七ヶ年定免願」となっている。以下前割附状と同様の形式で村高、反別、田畑別取高を記しているが、取米を「一一石六斗七升二合外ニ切替ニ付一合増」としたうえ

右は酉より卯迄七ケ年定免被仰付、当辰年季明ニ付、増米跡請可奉願旨、御触之趣奉畏候得共、一躰当村之義は至而辺鄙土性悪く、田方用水之義は隣村小榑村溜井より引入候得共、旱損之節は行届不申、雨天之年柄は右溜井より当村田耕地江悪水押入、数日相湛水腐内損多、殊ニ近村高免之村方ニ而、何分格別之増米難行届候間、何卒以御慈悲前書増米を以、当辰より戌迄七ヶ年季跡請定免被仰付被下置度奉願上候

と願い出ている。前季より多少でも増米して願い出るのが慣習であったようであるが、当村の場合は困窮しており、格別の増米は困難なので前書増米で赦して貰いたいと願い上げている。前書増米とはわずか一合であって、本当の形式的なものであった。

これに対して同安政三年一〇月の割附状では「取米拾壱石六斗七升四合、内米弐合定免切替去卯増」とあって、一合増米の願い出は二合増の決定となった。

また同じ年、土支田村上組でも定免の継続願いが出されている(町田家文書)が、こちらは五か年の年季明けで反別二反七畝二六歩の野銭永五〇文四分に対して、永一文の増永を願い出ている。

<節>

第三節 村の状態
<本文>

村が一般的に行政単位として成立するのは戦国末期以後、いわゆる太閤検地施行後のことであるが、それ以前にも郷とか庄と呼ばれる何らかの地域的結合がなされており、練馬地域に於いても既に室町時代に、石神井郷の存在が明らかになっているのは前述したとおりである。

天正一八年小田原落城によって五代一〇〇年にわたる後北条氏の関東支配は完全に終り、代って徳川氏の入部によって、練馬地域の近世村落の形成は急速に進められた。後北条氏から徳川氏への支配関係の移行は単に練馬地域の支配者を変えたということに留まらず、小農民を封建領主の貢租負担の単位として組織していった。後北条氏時代に小土豪層の支配下にあって耕作労働に従事していた下人などの隷属農民が次第に成長し、いわゆる百姓として独立してゆくのである。

例えば江古田の地は『小田原衆所領役帳』によれば、太田新六郎の知行五貫文で、寄子衆恒岡某の配当分であった。これを天正一六年の「武州江戸廻永福寺分検地書出」に記載された田租一反歩に付五〇〇文、畠租同一六五文によって単純に計算してみると田にして一町歩、畠にして三町歩余となる。これが約三〇年後の前出「江古田村御縄打水帳」五冊には総町歩三七町五反となり、登録された人名は五四名に及んでいる。

このようにわずかな期間の中で農村に介在した小土豪層は支配関係交替によって没し去るか、或いは土着して農民化して行く方向を辿り、小農自立による急速な村落発展が促されたのである。

以下現存する古文書、地誌、記録類によって現在の練馬区に属する各村の江戸時代における状態をみて見るが、当然村によって資料に多寡があり、記述に精粗があることを了知されたい。練馬地域の全村は武蔵国に属し、その郡分けは次図の通りである。

上板橋村字小竹・江古田

練馬区の東南部現在の小竹・旭丘地区に相当する地域である。

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上板橋村は家康入国以来の御料所で、文政六年(一八二三)の村書上によると村高二六四二石余、此反別三九八町余、うち田方六〇町、畑方三三七町余、家数三九七軒、人口二千三百余の大村であった(『板橋区史』)。村のやや中央を石神井川が東西に流れて村を南北に二分している。北は概ね平坦な台地で、川越往還上板橋宿は、東に隣接する中山道下板橋宿に次ぐ宿場町であった。南はやや起伏に富んだ地形で、石神井川沿いの水田や、大谷口・向原・小竹などにあった溜池から流れる小流を利用して米作が行なわれていた。

小竹・江古田は村の最南端に位置し、近世初頭はおそらく茫漠たる原野であったろう。江古田は始め多摩郡江古田村の新田として開墾された。堀野家文書慶安五辰年(一六五二)の「江古田村名寄水帳」に「新開ノ分」と肩書を付けて従来からの古田畑と区別した田畑があり、また同年の深野家文書「御水ノ帳」には「新田」として合計三町三反五畝歩余が記載されている。このことから江古田新田は慶安以前より開墾

されはじめたと考えられる。

はじめは江古田村本村の農民が隣接するこの付近の開墾を行ない逐次耕地を広げていったもので「庄左衛門組、江古田村辰之新田」として年貢の割附けが行なわれたのは村方文書によると検地の実施された翌年寛文五年(一六六五)が初見である。

<資料文 type="2-33">

 庄左衛門組

  江古田村巳之御年貢可納割附之事

一畑方三拾弐石六斗弐升七合

  此分ケ

上畑弐町九畝七歩

 此取壱貫五百六文             但七拾弐文代

中畑三町四反九畝拾五歩

 此取壱貫九百九拾弐文           但五拾七文代

下畑弐町三反弐畝弐拾壱歩

 此取九百七拾七文             但四拾弐文代

屋敷壱反四畝拾弐歩

 此取百七拾三文              但百弐拾文代

 取永合四貫六百四拾八文

      外

一永四百五拾弐文  野銭

右之通大小之百姓立合無高下

致内割 来霜月中可有皆済

若其過令油断者譴責を以

急度可申付者也

  寛文五年

    巳十月廿八日          野彦太夫㊞

                      右名主

                         中

                      百 姓

堀野家文書

ここには「江古田村新田」と明記されていないが、寛文八年(一六六八)の割附状には同じ、三二石六斗二升七合、八町五畝二五歩で「庄左衛門組江古田村新田」と新田の文字が記るされるようになる。また、翌九年の割附状には「庄左衛門組江古田村辰之新田」の名称がとられ、庄左衛門組は寛文四年辰歳検地による新田であることが判然としてくる。

この村高および反別は元禄二年(一六八九)までつづき、翌三年は高三四石九斗八升三合(二石三斗五升六合増)、反別八町九反九畝七歩(九反三畝一二歩増)に改められた。増加分は従来野銭場であったものが、この年から畑成として村高に入れら

れたものである。元禄九年(一六九六)には再び検地があり村高四四石余、反別一三町余に改められ、年を追って新開が進められている様子が判る。

庄左衛門組の組名は元禄八年の割附状を最後に、同一三年の割附状からは「江古田新田太左衛門組」と組の名前が替わる。太左衛門は庄左衛門家の一族であるが、如何なる理由で組頭が交替したのか詳かでない。

太左衛門組は元文二年(一七三七)になると新田の外に本村分と思われる高三石余、反別八反余が別に割付けられ、これが寛政六年(一七九四)まで、割附状と皆済目録が別々に発給されている。しかし寛政七年の割附状では

と一通に併記する二口合せて割附一本の形がとられ、翌八年の皆済目録からは双方を合計した高四七石五斗七升八合二勺四才が一紙で出されるようになり、幕末まで及んだ。

江古田新田には前出割附状にもある如く一反四畝一二歩の屋敷地が見えるところから、すでに寛文頃から幾戸かの農家があったことは推測に難くないが、いずれにしても行政上の独立性は乏しく、この一紙割附状の出された寛政八年頃を境いに豊島郡に属し、上板橋村の小名「江古田」となった。しかし貢租は従来通り多摩郡江古田村の太左衛門組の名主が取扱っていたと考えられる(須藤亮作「江古田駅考」練馬郷土史研究会会報一五五号)。

現在江古田駅北側にある茅原浅間神社は『新編武蔵風土記稿』に「能満寺持富士浅間社」として記載されており、天保年間築造といわれる富士山(国指定重要有形民俗文化財)は江古田村では「新田の富士」と呼んでいたという。

中荒井村

江戸時代の中荒井村は概ね現在の豊玉地区にあたり、明治に至って中新井村となった。『小田原衆所領役帳』に「森新三郎買得拾四貫五百文元吉原知行江戸廻中新居」と載すところからみて、中世より村落の形成がなされていたことが知れる。

中荒井村は正保年間の『武蔵田園簿』によれば、板倉周防守(重宗)の知行地として一三五石余の村高であった。しかも当時田七九石余、畑五五石余とこの辺では珍しく畑より田の方が多い村であった。村の南端多摩郡との境を中新井川が東西に流れ、この低地に開けた水田が、付近の台地に比し地味も肥沃であったので、早くから開発が進んでいたことが充分推察される。検地は寛永八年(一六三一)と寛文六年(一六六六)の両度で、元禄年間の『武蔵郷帳』では村高三八五石余となり表高はそのまま幕末に至った(『旧高旧領取調帳』)。

天正一八年家康入府以来豊島、新座二郡に約千石の知行を賜った板倉勝重は、以来二、三代にわたって中荒井村を知行していたが、寛文九年(一六六九)勝重の長男重宗の孫重常の代に至って、その領地一切(一万六六〇〇石余)を伊勢に移された。しかしこの豊島、新座の千石は父祖の代より縁故深い土地であるという理由で続いて所領していたが、遂に元禄一一年(一六九八)この所領も伊勢三重郡内に移された(『寛政重修諸家譜』)。中荒井村はこの時以降幕府の直轄領となり幕末に至っている。

中荒井村の北端下練馬村との境いに清戸道に沿って千川上水が流れている。元禄九年(一六九六)開墾完成後、間もない宝永四年(一七〇七)最寄二〇か村は歎願によって上水の灌漑利用が許可せられ、付近の村々の水田耕作面積は徐々に拡大されていった。中荒井村は名主家の廃絶によって近世村方文書が皆無といってもよい程であるので村高を正確に把握することは困難である。しかし中荒井分水ができてこの上水を利用する水田には水料として田一反歩につき玄米三升を納める定めになっていたので、この水料から中荒井村の水田耕作面積を計算することが出来る。

<資料文>

年代 水料高 水田面積 此高

安永二年(一七七三) 三石五合 一〇町一反余

寛政四年(一七九二) (三石三斗五升) 一一町一反六畝六歩 八六石余

元治元年(一八六四) 五石二斗五升 一七町五反二畝一五歩

「千川家文書」東京都公文書館蔵

元治元年の水田面積一七町五反余は明治七年『東京府志料』記載の水田耕作面積と同じであるところから、中荒井村の水田はすべて千川上水の恩恵を蒙っていたことになる。

現時点における唯一の中荒井村近世村方文書は一杉政吉家(豊玉南一丁目)文書である。宝永六年(一七〇九)の「年季手形之夏」を初出として「田畑反別名寄帳」三冊、および嘉永五年(一八五二)に至る「年季手形之事」など二四通(内四通は年不詳)からなる。いずれも個人の家に係る古文書であるので、村全体の様子を窺い知ることは出来ないが、亨保一七年(一七三二)、寛延三年(一七五〇)、天保七年(一八三六)の三冊の「田畑反別名寄帳」によって、上田の石盛九、上畑の石盛六であることが知れる。またこの「名寄帳」の所有者利平の持高は享保年間四石五斗余、寛延年間五石九斗余、天保年間七石一斗と、中荒井村では中農ながら着実にその持高を伸していることが判る。

「年季手形」には名主はじめ数名の年寄・組頭が連署しており、それによって大方の村役人の名を知ることができる。

<資料文>

宝永六年(一七〇九) 名主 伝右衛門 組頭 平右衛門、弥兵衛、文左衛門、藤左衛門

享保一七年(一七三二) 名主 伝右衛門 組頭 藤左衛門、喜右衛門、弥兵衛、平右衛門

寛延三年(一七五〇) 名主 伝右衛門 組頭 平左衛門、平右衛門、弥兵衛、文左衛門、権右衛門

天明八年(一七八八) 名主 伝右衛門 年寄 伝内、佐五右衛門、弥次右衛門、重兵衛、平右衛門

寛政四年(一七九三) 名主 伝内 年寄 佐五右衛門、平右衛門、十兵衛、次右衛門

同一〇年(一七九八) 名主 伝内 年寄 次右衛門、平右衛門、佐五右衛門、十兵衛

文政二年(一八一九) 名主 伝内 年寄 市左衛門、重兵衛、平右衛門、甚三郎

同一〇年(一八二七) 名主 伝内 年寄 次右衛門、平右衛門、甚三郎、文三郎、佐五右衛門

弘化二年(一八四五) 名主 甚三郎 年寄 喜右衛門、文三郎、市左衛門、作左衛門

嘉永五年(一八五二) 名主 記名なし 年寄 市左衛門、文三郎、喜右衛門

これで見るように伝右衛門・伝内(岩堀家)がほぼ世襲の形で名主役を勤めているが、弘化二年に一時甚三郎がその職を勤めた。しかし明治二年の「上練馬一件歎願書」(前出)では再び伝内が名主役に就いている。

村には本村、徳田、神明ヶ谷戸、原、北荒井、中通の小名があった。明治に至って本村は本村および東本村に、徳田は弁天前および於林に、北荒井と中通はそのまま北新井と中通および弁天に、原は上新街・下新街・宮北となった。原は西側に中村の原が隣接しているところから両村を通じて割合広範囲な台地(中新井川沿いに比べて)を指して小名としていたのであろう。のこる神明ヶ谷戸は高札場があったという『新記』の記述から人の往来が多い清戸道沿いとする考えもあるが、明治期の小字との対比からすると西本村・池下を適当する。この付近は西方および南方中新井川に向って谷戸が形成されており、しかも名主家が西本村にあったことを考え合せて、高札場のあった神明ヶ谷戸は西本村・池下すなわち現在の豊玉中四丁目・豊玉南三丁目の地域であると思料される。このことは「豊嶋郡内地誌調写置」(長谷川家文書)の中荒井村の項にある「稲荷宮 字神明ヶ谷戸 百姓三左衛門地内」の稲荷宮を現在の富士稲荷神社に比定することによっても首肯される。

中村

『新編武蔵風土記稿』に当村は往古多摩郡に属して中鷺宮村と唱え、同郡上・下鷺宮村と併び称されていたが、いつの頃か鷺宮の名がとれて中村となり豊島郡に属することとなった。しかし正保年間の改定図にはすでに豊島郡に属し中村と記され、地理的にも上下鷺宮村の中間には位置していないところから、この説は伝承の誤りであると記されている。同じ正保の

『武蔵田園簿』にも中村、村高七六石余今川刑部知行となっていることを見ても『新記』の考証は当を得ていよう。

中村の村方文書は、江戸時代を通じほとんど世襲で名主役を勤めた権右衛門(内田氏)家が明治の火災に遭ったため、烏有に帰してしまった。しかし、幸い領主であった今川家の采地に関する文書が最近多数発見された。それは須藤亮作家(中野区江古田四丁目)所蔵に係る文書で、総点数一四一点、上限は正徳四年(一七一四)「武蔵国下鷺宮御年貢割附帳下書」から下限は明治三五年に至る時期のものである。これらの大部分は元治・慶応のものであって、うち年代不詳のものが四五点含まれている(以下「今川家文書」という)。

「今川家文書」は家に関する文書・記録・書簡などに関する文書約七〇点と、采地の年貢割附・年貢皆済などの貢租関係約七〇点から成る。うち中村に関連する村高帳・反別書上・年貢関係は二三点である。次に「武蔵国豊島郡中村高反別書上」を見てみる。

画像を表示 <資料文>

武蔵国豊嶋郡

一高六拾三石 中村

外込高百三拾八石弐斗三升六合四夕四才

合高弐百壱石弐斗三升六合四夕四才

此反別五拾五町七反三畝六歩四

内七町壱畝廿五歩 田方

四拾八町七反壱畝拾壱歩四 畑方

此訳

高拾四石七斗七合

上田弐町壱反三歩 石盛七

取米八石六斗五合弐夕八才 反米四斗九合五夕八才

高拾石七斗三升八合三夕三才

中田弐町壱反四畝廿三歩 石盛五

取米八石三斗六升六合八夕八才 反米三斗八升九合五夕八才

高八石三斗九合

下田弐町七反六畝廿九歩 石盛三

取米拾石三斗七升四合六夕壱才 反米三斗七升四合五夕八才

高六石八升

屋敷畑六反廿七歩 石盛拾

取永六百九文 反永百文

高五拾弐石九斗三升八合三夕三才

上畑拾町五反八畝廿三歩 石盛五

取永六貫八百九拾弐文五分七厘 反永六拾五文壱分

高三拾八石壱斗九合三夕三才

中畑九町五反弐畝廿弐歩 石盛四

取永五貫弐百四拾九文五分六厘 反永五拾五文壱分

高五拾六石七斗三升九合五夕

下畑拾八町九反壱畝九歩五 石盛三

取永八貫五百弐拾九文八分四厘 反永四拾五文壱分

高拾三石六斗壱升四合九夕五才

下々畑九町七畝拾九歩九 石盛壱五分

取永三貫百八拾五文九分 反永三拾五文壱分

取合 米弐拾六石ママ三斗四升六合七夕七才

永弐拾四貫四百六拾六文八分七厘

一畑三拾八町壱反四畝拾壱歩五 反高場

内六反八畝六歩 堀敷引

残三拾七町四反六畝五歩五

取永拾四貫七百六拾九文 反永三拾九文四分二厘

一米七斗八升壱合三夕四才 口米

一同壱石五斗六升弐合六夕七才 延米

一永壱貫百七拾六文五分五厘 口永

納合 米弐拾九石六斗九升七夕八才 永四拾貫四百拾弐文九分五厘

右は年代不詳ながら他の皆済目録などに照して元治、慶応期のものと思われる。

込高こみだかとは元来私領の石高に上増して給する高をいった。私領の村替などの際、例えば高五〇〇石で貢租率四の村を知行していたところ、別の村が同じ高五〇〇石であっても、貢租率三・五の村であった場合、最初の村より物成ものなり年貢)が二五石不足することになる。その差〇・五の高を其村内または他村にでも知行高五〇〇石に上乗せして渡すものを込高という(『地

方凡例録』)。

これで見るように当村は練馬地域の他村に比べ、上田石盛七から下々畑石盛一・五と村柄はあまり良くなく、しかも、江古田新田・竹下新田などの新田を除いて村高が最も少ない。『旧高旧領取調帳』によれば「今川従五位知行 二〇一石二斗四升四合、南蔵院領 一二石八斗二升六合」となっている。

今川刑部は知行地として当村の外、多摩郡上、下鷺宮村、井草村、近江国野洲郡長嶋村等に表高一〇〇〇石、職禄一五〇〇石を賜る足利時代以来の名家、高家二六家の一であった。高家衆はいずれも表禄高は低いが格式は高く、万石大名と同じ格式であったという。そのため勝手元は苦しく年貢の増徴に追われる知行地の百姓は後述するように天保七年(一八三六)御門訴事件を起すに至った。

中村の名主はほとんど世襲で権右衛門(内田家)が勤めたが、諸文書で判る限りの村方三役は次の通りである。

<資料文>

時代 名主 年寄 百姓代 史料

安永三年(一七七四) 権右衛門 千川家文書

寛政元年(一七八九) 権右衛門 茂右衛門 治左衛門 千川家文書

文久三年(一八六三) 権右衛門 小島家文書

元治元年(一八六四) 権右衛門 長右衛門 半左衛門 今川家文書

慶応元年(一八六五) 権右衛門 茂右衛門 勘兵衛 今川家文書

同二年(一八六六) 権右衛門 庄左衛門 治左衛門 今川家文書

同三年(一八六七) 権右衛門 長右衛門 徳右衛門 今川家文書

明治元年(一八六八) 権右衛門 茂右衛門 権左衛門 今川家文書

記載の年寄は文書署名の者のみであるが、実際には村全体で数名の年寄がいたことは確実である。

下練馬村

現在の北町・錦・氷川台・平和台・早宮・羽沢・桜台・練馬に相当する地域で江戸時代では豊島郡の中でも屈指の大村であった。村の北端を板橋宿で中山道から分岐した川越街道が東西に走り、次の新座郡白子宿に至っている。川越は当時から小江戸と称され、中世の城下町から発展した商業の中心地で、川越・江戸の間を往来する旅人のために、ここに下練馬宿がおかれていた。宿は東から下宿・中宿・上宿と分れていた。また、下宿で川越街道から分岐した大山みちは富士街道ともいわれ、富士・大山詣りの信仰の道としても賑った。

村の地形はやや平坦で土地は肥沃にして陸田に富み、村の中央部を貫流する石神井川と、北部の田柄川沿いの狭少な低地に僅かな水田が営まれていた。

村高は正保年間に一二二六石余、「元禄郷帳」では二倍強の二六四六石余に増加し幕末に至っている。文化・文政頃の年貢割附状と皆済目録が昭和三二年刊『練馬区史』に掲載されているので、ここでは省略するが、畑方五〇五町余、田方四四町余、村高二六二七石余となっている。

『新記』には家康入府以来幕府直轄領ということになっているが、「村方旧記」(内田岩松家文書)には「天正より寛永年中迄ハ当村高六百石ニ而板倉四郎左衛門様御知行御領地ニ而御代官役御勤被成、足立、豊嶋、新倉、多摩郡御支配之由云々」と頭初板倉勝重(周防守)の知行地であったととれる記述がある。しかし板倉勝重は江戸入府直後江戸町奉行と関東代官を兼ねた時期があるので「御代官役御勤め成され」の文言からして知行地ではなく単に支配地という意味に解釈した方が妥当であろう。

検地は延宝元年(一六七三)に行なわれ、この年が癸丑であったので「丑御縄御水帳写名寄帳」が新井信子(桜台三丁目)・内田喜作(平和台一丁目)・内田正顕()・加藤源蔵(錦一丁目)・篠 昭(桜台二丁目)・木下 坦(町田市)等の諸家に現存する。木下家は練馬宿本陣兼名主であって、寛永一九年(一六四二)「下練馬金乗院法流證文」をはじめ明治に至る古文

書四七点を現蔵しているのが今回明らかになった。

下練馬村では寛保元年(一七四一)に金乗院と檀徒百姓との出入、明和九年(一七七二)に百姓七名による組抜け問題、寛政三年(一七九一)に名主・組頭を相手とした小前百姓二一五人という大掛かりな出入訴訟が起きている。これらのことは他の村方騒動と共に後述する。

この寛政三年の訴訟事件以後、村では年番名主制となったが、次に木下家文書によって村役人の移り変りを見てみよう。

<資料文>

時代 名主 組頭(年寄

寛保元年(一七四一) 作左衛門 九兵衛・権兵衛・三郎兵衛

寛延三年(一七五〇) 作左衛門久右衛門 五郎右衛門

明和九年(一七七二) 作左衛門 四郎兵衛・三郎兵衛・弥右衛門・久兵衛・伊右衛門・甚五右衛門

天明元年(一七八一) 作左衛門久右衛門 孫右衛門・角左衛門・三郎兵衛・権兵衛・九兵衛・四郎兵衛

寛政三年(一七九一) 作左衛門 久兵衛・四郎兵衛・弥右衛門・孫右衛門・三郎兵衛・伊右衛門・九兵衛・甚五右衛門・権兵衛

同四年(一七九二) 久右衛門年番名主弥右衛門 四郎兵衛・百姓代 次郎右衛門

同一〇年(一七九八) 久右衛門年番名主権兵衛・孫右衛門 武左衛門・三郎兵衛・長五郎・四郎兵衛

文化二年(一八〇五) 久右衛門 孫右衛門・四郎兵衛・三郎兵衛・権兵衛・長五郎・武左衛門

文政六年(一八二三) 孫右衛門 三郎兵衛

天保七年(一八三六) 名主代年寄 磯右衛門

同一四年(一八四三) 三郎兵衛・四郎兵衛・年寄代百姓代 金兵衛

嘉永四年(一八五一) 久右衛門・三郎兵衛・惣左衛門・四郎兵衛・百姓代 金兵衛

文久三年(一八六三) 久右衛門 金兵衛

村内御殿と称する所(錦二丁目)は、五代将軍綱吉が右馬頭といっていた頃病気療養をした伝承として人口に膾炙され、練馬大根発生の地ということになっている。この綱吉はまた犬公方くぼうとも呼ばれ「生類憐み令」を制定、はじめ大久保と四谷に犬小屋が造られた。次いで元禄八年(一六九五)一〇月中野に構内一六万坪に及ぶ広大な犬小屋を新設、市内の犬が収容されたがたちまち一〇万匹になったという(『常憲院殿御実紀』)。

現在の早宮一丁目開進第一中学校の西南方に俗称「犬小屋」という地名があったが、中野の犬小屋に収容しきれなくなった犬は付近の農村に命じてその世話をさせていた。「村方旧記」元禄一〇年の条に次のようにある。

同十丁丑護国寺建、館林様御殿当村有之候を引移建。

中野犬小屋出来移、野犬小屋余りをり豊嶋、多摩、新座郡百姓へ御預、扶持米代金壱両壱分ツヽ被下置候事、取次人下新倉次太夫、右宝永之頃迄。

これによれば、音羽の護国寺は、当村にあった館林公(綱吉)の御殿を移築したことになる。綱吉は五代将軍を継ぐ延宝八年(一六八〇)八月以前、即ち兄家綱の将軍時代に練馬御殿を造り、病気療養のためとか、鷹場陣屋(綱吉は将軍就任前は鷹狩を行なっていた)として利用していたことは充分考えられる。江戸城に入ってからは鷹狩を禁止したので、練馬御殿も不用となり、或いは護国寺建設に寄進したのであろう。『新記』にも屋舗跡として「……今陸田となり御殿・表門・裏門等の小名あり、礎石なと堀出す事ままありと云」とある。

次に中野犬小屋から溢れた野犬は豊島・多摩・新座などの近傍各村へ預け、その扶持米代金(飼育料)として一両一分ずつを下し置かれたとある。元禄一六年上野毛村の「御犬養育請取牒」(『世田谷区史年表稿』)には犬一匹の扶持米代一年に金二分ずつという記録があるが、これと比較すると、二・五倍の額となる。当初は幕府でも相当の高額を出していたこととなる。宝永六年(一七〇九)一月綱吉の死と同時に六代将軍家宣によって「生類憐み令」は撤廃された。

上練馬村

概ね現在の田柄、春日町、向山、高松、貫井に相当する地域である。

検地は寛永一六年(一六三九)、延宝元年(一六七三)と宝暦一一年(一七六一)の新田検地である。このうち前二者は長谷川武範家文書に寛永一六年「武州豊嶋郡上練馬村御検地水帳」(一五冊中九冊)同年「上練馬村屋敷検地水帳」、延宝元年「上練馬村丑之御縄打高組帳」として現存する。

村高は『武蔵田園簿』では一一四二石余、田方二一九石余、畑方九二三石余であったが、延宝元年の前記「丑之御縄打高組帳」では二六二六石余となり、「元禄郷帳」では田畑合せて二六四六石余となっている。その差二〇石余は愛染院と八幡社の朱印高で、そのまゝ幕末まで至っている。

嘉永七年(一八五四・この年安政と改元)の「上練馬村宗門人別書上帳」(愛染院文書)による、このときの村高、家数、人数を再掲すれば次の通りである。

画像を表示 <資料文>

村高弐千六百廿六石壱斗七升六合

内弐千五百九拾壱石壱斗四升七合 村持

外 三拾五石弐升九合 入作

高六拾石弐斗九升壱合 出作

御朱印地高弐拾石壱斗余

御除地反別弐町八畝廿七歩

惣家数 四百九拾四軒

内 寺七ヶ寺 堂六ヶ所 墓寮壱ヶ所

村人数 千七百六拾五人

内 男九百五拾九人 牛無御座候

女 八百弐人 馬八拾壱疋

僧四人

旧上練馬村の名主長谷川武範家(春日町三丁目)には約三〇〇点の古文書が現存している。未だ精査が済んでいないのでその全貌を明らかにすることは出来ないが、旧上練馬村の根本史料として極めて貴重な存在である。一日も早い完全調査が待たれるところであるが、所蔵文書の概要は検地帳、宗門帳、村明細帳、御用留、助郷関係文書、村絵図等から成っている。これらの古文書類は前記寛永一六年の検地帳や延宝元年の御縄打高組帳等数点を除いて、ほとんどのものは文化・文政以降の文書である。

同家文書によって上練馬村の戸数、人口、馬数の推移を見てみると次の通りである。

年代 戸数() 人口() 馬数() 文書名

寛永一六年(一六三九) 一五四 ―― ―― 検地帳

延宝元年(一六七三) 二四三 ―― ―― 高組帳

文政四年(一八二一) 四八〇 一九五二 七五 村明細帳

嘉永元年(一八四八) 四九四 一八三二 八五 村明細帳

元治二年(一八六五) 四二〇 一八二四 七二 村明細帳

明治二年(一八六九) 四二〇 一八六四 九二 村明細帳

これによると江戸初期の戸数が一九世紀前半の文政、嘉永頃には三倍以上となり、江戸近郊農村として最も盛運な時期であったことを窺うことができる。また上練馬村は第三章第三節「変わりゆく農村形態」でのちに記述するごとく割合多くの商人、職人、行商人が在村していた。例えば文政四年の明細帳には六四人の商人、職人、さらに慶応三年のものには七一人の商人、職人、行商人らが在村していた旨記されている。上練馬村の産物は「当村之儀大麦小麦粟稗並大根等、米ハ少なくなく御座候」(文政四年村方明細書上帳)とか、「産物ハ大根ニ御座候」(安政二年明細書上帳下書)とある如く練馬大根をはじめとする蔬菜生産を専業とする江戸近郊農村であったと共に、一方では江戸との往来も頻繁で、多くの非農業者層を抱えた都市近郊農村であった。すなわち後述する新座郡橋戸村、小榑村をはじめとする遠隔の純農村とは比較にならぬ程の都市的要素を多分に包含する典型的な江戸近郊農村であったということができる。

村明細帳にみる村役人は次の通りである。

<資料文>

年代 名 年寄 百姓代

延宝元年(一六七三) 又兵衛(同年御縄打高組帳

文政四年(一八二一) 利左衛門 孫右衛門 次右衛門

天保三年(一八三二) 利左衛門 伊兵衛 清次郎

嘉永三年(一八五〇) 又蔵 五左衛門 藤助

元治二年(一八六五) 又蔵 五左衛門 藤助

慶応三年(一八六七) 又蔵 五左衛門 藤助

上練馬村には二五組があったので、それに相当する組頭がいたはずであるが、ここでは明細帳に署名した年寄にとどめた

土支田村(上組・下組

現在の旭町、土支田、東大泉および三原台と大泉町の一部に相当する地域である。

江戸時代は元来一村であったが、寛政以降上組と下組に分れ別々に年貢割附状、年貢皆済目録が下付されるようになった。『新記』に「土人ところのものひそかに村内を二区に分ち上組下組と唱ふ」とあるが、密にではなく公認の上組・下組であった。現に旧土支田村下組名主であった小島兵八郎家(旭町一丁目)には、文化、天保、嘉永等の下組のみの村明細書が残っている。代官所に提出する公文書に於ても左様であるから、当然のように村役人も名主はじめ組頭(年寄)、百姓代は別々にいた。明治に至って初めて行政上はっきりと上土支田村・下土支田村の二か村に分れた。もっとも江戸時代には村高千石以上のような大村では上下両組に分れるような事は各地にあったという(野村兼太郎「村明細帳の研究」)。

村高は正保期の『武蔵田園簿』に六二三石余の記載があり、その後元禄期の「武蔵郷帳」では約二倍の一三三七石となった。組別では上組の高七五八石六斗八升一合、下組の高五七八石八斗二合であり、以後幕末まで変化なく続いた。

寛文三年(一六六三)九月に検地が行なわれ上組の分は町田甲彦家(東大泉七丁目)に、下組の分は小島兵八郎家にそれぞれ「武蔵国豊嶋郡土支田村田畑検地帳」として現存している。両家にはこの検地帳をはじめとして明治期までの間、町田家には約二二〇点、小島家には約七〇〇点の古文書が所蔵されている。いずれも厖大な史料群なので悉皆調査にはなお数年を要するが、精査の暁には土支田村における近世・近代の全貌を明らかにすることが出来る貴重な資料である。なお土支田村関係では両家の外、五十嵐山三郎(土支田二丁目)、関口文吉郎(土支田三丁目)、加藤喜八(土支田四丁目)の諸家にも同年代の古文書多数が所蔵されている。

前記「検地帳」ならびに「村明細帳」「小島家文書」から田畑の推移を調べてみると次の如くである。

<資料文>

時代 田 畑

寛文三年(一六六三) 町反畝歩一一八九一四 町反畝歩二八八九五一五

享保四年(一八〇四) 一一九五一七 三六五二六二五

天保二年(一八三一) 七四二二二 三六九七九二〇

これで見る限りでは寛文三年から享保四年に至る一四〇年間に田の増加は六畝歩余であるのに比べ、畑の開墾は約八〇町歩に上り、この間における畑の開発が盛んに進められた様子が判る。

なお、享和四年の「村明細帳」は二月に書上げたものであるが、同年は二月一一日に文化と年号を改められたので当然改元直前の様子であって、その翌月の文化元年三月「田畑荒地取調帳」(小島家文書)では四町八反余が田から畑に年貢の位附が替わる田畑成となった。これは田用水の水行変化に原因することが考えられるが、田反別はそのまゝ幕末まで至った。

土支田村で田作が多少でも盛行するようになるのは明治初年、上練馬村上野長左衛門、土支田村小島八郎右衛門等の尽力によって玉川上水分水田無用水を引水した田柄川用水が竣成してからである。

それ以前の田用水は享和四年の「明細書」によれば「用水之儀田反七町歩余之処、新座郡小榑村土支田村境ニ字いがしらと申所三反歩程之溜井御座候而用水引申候、干照之節者用水無之候」と現在の井頭公園の溜井から湧き出る僅かな流れのみであった。この水の恩恵で、畑と成らずに幕末まで残った七町歩余りの田が経営されていたのである。

寛文三年の「検地帳」による農民の土地所有状況は次のようになっている。

<資料文>

一〇町歩以上 四軒

五町――一〇町 一四軒

三町――五町 一七軒

一町――三町 四五軒

五反――一町 一一軒

五反未満 九軒

即ち一町から三町の田畑を耕作している農家が半数近くあり、時代は降るが、文政期に十方庵敬順が『遊歴雑記』の中で訪ねている土支田村平右衛門のような裕福な経営をしている農家も少なくなかった。因みに名主小島家では寛政三年(一七

九一)当時一六町歩近い耕地を経営していた(「名寄帳写」)。

現存する古文書によって判明する両組の村役人はおおむね次の如くである。

<資料文>

時代 名主 組頭(年寄) 百姓代

上組

文化二年(一八〇五) 岩次郎・利左衛門 孫市

天保一二年(一八四一) 金次郎 文五郎・森次郎・彦右衛門・常次郎・三左衛門 幸左衛門

安政五年(一八五八) 綱五郎 文五郎・森次郎・半六 藤五郎

慶応元年(一八六五) 綱五郎 森次郎 利八郎

下組

宝暦六年(一七五六) 八郎右衛門 杢右衛門・勘左衛門・又兵衛・角左衛門・定右衛門 喜兵衛 彦八 吉三郎

享和四年(一八〇四) 八郎右衛門 岩次郎 吉三郎

文化一一年(一八一四) 八郎右衛門 三郎兵衛・徳左衛門・平左衛門 吉三郎

天保二年(一八三一) 八郎右衛門 三郎兵衛・彦右衛門 吉三郎

天保九年(一八三八) 見習午之助 三郎兵衛 茂兵衛

嘉永三年(一八五〇) 八郎右衛門 利左衛門・勘左衛門・三郎兵衛・平左衛門・徳左衛門 茂兵衛

上組では天保一二年、一部小前百姓による名主金次郎、年寄文五郎を相手取った訴訟出入があり、金次郎はその責任をとって名主役を忰綱五郎に譲った。このことについては後述する。

谷原村

現在の概ね谷原、高野台、富士見台に相当する地域である。

『小田原衆所領役帳』に「石神井内谷原在家」とあるところを見ると、古くは石神井郷に属していた。徳川時代の最初は増島氏に賜られたというが、慶長年中以来幕府直轄領となりその儘幕末まで続いた。

増島氏は北条早雲の庶子勘解由重胤の子次郎右衛門重興が始めて増島氏を名のり、その子勘解由重明は北条氏に属し、天正一八年の役には北条氏規に従って伊豆韮山に籠った。小田原落城後徳川氏の世となって重明は谷原村に移り農を業とした。が、子供がないので家を弟重国の子重俊に譲り剃髪して慶算と号し高野山に登りのちに長命寺を開いた。重俊の子平太夫重辰は幕府に召されて勘定役を勤めた。以上は重辰四代の後裔信道の代に、江戸の儒者井上金峨が撰文し、今も長命寺本堂前に現存する長命寺碑によったが、『新記』にはまた別の増島氏系図を引いた記述がある。それは重明・重國の兄弟が逆になっており、兄左内重国は小田原北条氏の族士であったが、小田原没落の後家康に謁し谷原村と隣村田中村を賜った。後また加増となって六〇〇石を領したが、慶長年中近江国の代官であった時、不正に連座して改易となった。その時、子重俊は未だ幼年であったので、弟重明が谷原村に住して重俊を養育し成人の後、家を譲って出家したというものである。また重辰の名を重光としている。信道は幕府の御書物奉行を勤めるほどの学者であったが、その子信行も通称金之亟、蘭園らんえんと号し昌平黌教官を勤めた儒者で『巂燕偶記けいえんぐうき』をはじめ多くの著述がある。

谷原村は前記の如く御打入直後増島左内重國に賜り、慶長年中収公せられて御料所となった。正保の『武蔵田園簿』によれば水田八一石余、畑二五〇石余、総村高三三二石余で、近村と同様ここも水田が少なく畑の多い村柄であった。元禄年中の「武蔵郷帳」では八六一石余と増加しており、この間の開発を窺うことができる。

古文書の所蔵者は田中幸太郎家(富士見台四丁目)と横山政雄家(高野台一丁目)で両家共村方文書の現存は少ない。田中家には元禄一四年(一七〇一)から明治二年(一八六九)に至る二六点の文書があるが、いずれも田畑を質物として預った

「質地証文」である。横山家には正徳六年(一七一六)から明治期までの文書七点があって、うち正徳の「谷原村名寄帳」二冊が村の様子を知ることのできる唯一の村方文書である。しかしこれも「権三郎分」と「甚五兵衛分」の写しであって、全村の一部を推察できるにすぎない。

長谷川家文書「地誌調写置」谷原村の項(資料参照)によって文政年間の状況を見ると、家数は一一〇軒、用水は石神井川の流末を田方用水に用いていたが、水旱両難の場所であると述べている。また土地に応じた産物は大根・かぶの外はないとも記している。産物として大根と並べて蕪をあげているのは「地誌調写置」の中では谷原村のみであって、小名に蕪ヶ谷戸かぶがやとという地名があることからもその関連が注目される。

村内の長命寺は増島氏によって開創された新義真言宗の寺院で、東高野山または新高野山といわれ、江戸の庶民信仰によって繁栄したこの地方での名刹である。詳しくは別章でふれるのでここでは省略するが、文化・文政頃盛んにここを訪れた江戸の文人たちが残した紀行文を巻末資料に収録したので参照されたい。

谷原村の名主は現在残っている古文書類によって寛永一六年(一六三九)検地案内をした名主新左衛門と、文政・天保期に覚右衛門(横山氏)が名主を勤めていたことが知れるのみである。

<資料文>

時代 名主 年寄 百姓代

文政六年(一八二三) 覚右衛門 杢左衛門 伊右衛門

田中村

現在の南田中および三原台の一部に当る地域である。

谷原村と同じく江戸時代の初めは増島氏の知行であったが、慶長年中より幕府直轄領となった。正保年中の『武蔵田園簿』によれば水田五五石余、畑一五七石余、村高二一二石余でやはり畑地の多い村柄であった。その後大いに開墾が進められ、谷原村と同様延宝年間に検地が行なわれて以来、村高は五三九石余と四〇年余りの間に三〇〇石以上の新墾地が出来

た。享保・元文の頃、谷原村の北に飛地として新田を開き田中新田と称した。勿論村高の増加があったに相違ないが、付近の各旧村と同様表高には変化はなく幕末に至っている。田中新田は明治に至っても本村の新田として一行政区域であったが、昭和七年板橋区編入に際してはじめて石神井北田中町と称し独立した。新田の開発には本村の草分け鴨下・榎本家などが分家して多くそれに当っている。

文政六年(一八二三)頃の前出「地誌調写置」によれば、家数七二軒、田八町二反余、畑九二町三反余の村であった。

小名に薬師堂、供養塚、塚越、上久保がある。『新記』に註記として「昔し堂ありし所と云」とある薬師堂はその時点で宝蔵院(現在の観蔵院)持になっている。小名薬師堂は概ね現在の南田中三丁目に属するが、観蔵院に移る以前の堂はおそらくこの近くにあったものと思われる。薬師堂は堂内に十二神将を祭り日出薬師と呼ばれて近在の崇敬を集めていた。今、妙福寺蔵となっている福徳の私年号を刻んだ月待板碑はここ田中村で出土したものであるという(高橋源一郎編『武蔵野歴史地理』)。

村方文書の現存はなくわずかに「地誌調写置」によって名主安左衛門、年寄林蔵、百姓代滝右衛門が知れる。この時より約六〇年遡る天明二年(一七八二)一〇月に田中村名主仁左衛門が「公用分例略記」(田無市下田家文書)に見える。仁左衛門は関、上・下石神井、谷原村など石神井川沿い各村の惣代となって田無村名主半兵衛を相手に訴訟を起している。それは半兵衛が玉川分水の呑用水を利用して水車稼をしており、その流末が関村の溜に落込み、下流の田場に溢れるようになった。そのため前記数か村では長雨の節は勿論、普段でも田場に水が湛り田方の稲が水腐れするように成ったというのである。相手側半兵衛は、三年前に下流の村々の意見を聞いて水車を設置したものであるし、用水引入れの樋口の大きさも変えていないうえ、他の村からの故障も出ていない以上、五か村の訴えは言掛りであると反論した。翌三年三月に至って更に上練馬村・下練馬村・上板橋村の三か村が加わって八か村による訴訟が再び起こされた。相手もまた半兵衛の外に田無村年寄太郎右衛門、上保谷村名主仲右衛門、鈴木新田名主茂八・百姓仲右衛門・孫市、野中新田百姓孫右衛門の計七名となった。

奉行所立会で現場検証を行なったところ水車引水の樋口の木材が朽損しており洩水があった為と判明した。半兵衛が故意にやった事実もないということで、樋口を新規に修復し洩水のない様にして示談が成立した。

今では些細な事であるかもしれないが、当時としては、練馬中の村を挙げての大事件であった。

下石神井村

概ね現在の石神井町と下石神井に当る。

元は上石神井村と一村で石神井郷と称した。古くは文安五年(一四四八)の熊野領豊島年貢目録(熊野那智大社「米良めら文書」)に石神井殿の記載がある。

鎌倉時代末に南関東の名族豊島氏は石神井川を遡ってこの地に石神井城を築き、累代居城としたことは前述の通りである。豊島氏滅亡の後は管領上杉氏の領地となり、上杉氏滅びるや小田原北条氏の支配するところとなった。

家康入府の頃は「此辺戦争の衢となり、田宅荒廃せしを御入国の頃高橋加賀守、同主水、尾崎出羽守、田中外記、桜井伊織、元橋主水等来て開墾せりと云」(『新記』上石神井村の項)とある。これらの人びとは、あるいは後北条時代に石神井を知行した太田新六郎家中の武士たちかもしれぬ。太田新六郎は源六郎ともいい、太田資高の子、母は北条氏綱の娘であって、当時江戸随一の在地豪族であった。永禄六年(一五六三)北条氏康に反抗し国府台の合戦に敗れ、岩付、安房に敗走、天正九年(一五八一)五一歳で死んだ。家康入府の後、その旧地を遺臣たちに開墾させたことは想像に難くない。今もこれらの姓の旧家が数多く当地に残っている。徳川氏の支配になってからは幕末まで直轄領であった。

正保の『武蔵田園簿』には上下の石神井村に分れ、下石神井村の石高は三七四石余、田一一〇石余、畑二六四石余となっている。その後、元禄の調べでは村高一一六三石余と著しい増加をみた。検地は谷原村、田中村、上石神井村と同じく寛永一六年(一六三九)、延宝二年(一六七四)の両度に行なわれた。

天祖神社(下石神井六―一)境内に、延宝二年(一六七四)の笠付三猿の立派な庚申塔が建っている。この庚申塔に「石神

井郷神明村」という村名が彫ってあるところから、この付近は当然石神井郷の内であり、しかも土地では神明村の称で呼んでいたことがわかる。各地の神明社は明治維新後天祖神社に改称させられたが、この社もその例にもれなかった。

徳川将軍家は江戸近郊にしばしば狩猟を行なったが、特に三代将軍家光は寛永から正保年間にかけて板橋、中野、石神井方面で猪狩や鹿狩を盛んに行なった。そのうちでも正保元年(一六四四)三月二二日の石神井野猪狩は大規模なものであったらしく「大猷院殿御実紀」(『徳川実紀』)、「三宝寺旧事記」(愛知県西尾市立図書館岩瀬文庫蔵)などにも記されている。このことについては「鷹狩」の項で詳述する。

下石神井村の家数は文政年間の「地誌調写置」(長谷川家文書)によると一六二軒となっているが、幕末頃と推定される年紀の無い「下石神井村絵図」(石神井町八丁目豊田三郎家文書)には村の概況を次のように記している。

<資料文>

一、村高千百五拾ママ三石四斗九升弐合 此反別弐百町三反九畝拾八歩

一、家数百四拾八軒 人別八百四拾人内 男四百五人 牛無御座候

女四百三拾五人 馬拾弐疋

一、土地生産之品ハ大麦、小麦、稗、黍、蕎麦、外青物ハ大根、牛旁、茄子 但農業之間余業稼ニ而作出候品無御座候

一、耕地之儀ハ武蔵野新田長窪続ニ而至而水損之村方ニ御座候

一、用水掛之儀ハ玉川数口之分水、関村溜井江落送、右溜井より押来り候水相用、兎角水難ヲ請候村方ニ御座候、但上石神井村池より湧出候水ニ而も耕地用水相用申候

一、倍養ハ第一糠灰ヲ多ク相用申候、耕地之下<外字 alt="屎">〓コエ)干鰯之類相用申候

用水については、関村の溜井から流出する水を用いているが、玉川田無口分水の落水が押来り、兎角水難を受け易い村だとしている。これは前の田中村で述べた田無村水車人との出入訴訟にも符合しており注目してよい。

村の南、多摩郡遅野井村(上井草村)との境を千川上水が流れている。千川上水については別に詳述するのでここでは省

く。

下石神井村に関する近世文書の現存は少なく、前記豊田家と本橋家(石神井町六丁目)の両家にすぎない。現存する数点の古文書から判明する村役人は左の通りである。

<資料文>

年代 名主 年寄

享保一〇年(一七二五) 伝右衛門

安永三年(一七七四) 新兵衛

文政六年(一八二三) 久右衛門 治兵衛

慶応四年(一八六八) 弥市 安五郎・忠七・惣左衛門

上石神井村

概ね現在の石神井台と上石神井一・二丁目(住居表示未施行)にあたる地域である。前項で述べたごとく、元は上下の別なく一村であったが、正保の改めには二村に分かれ記載されている。上石神井村の村高は四五七石余で、田一〇二石余、畑三五五石余であった。元禄の改めでは総村高一三六九石余と三倍近い増加を示し、表高はこのまゝ変化なく幕末まで続いている。

村の東は下石神井村、西は関村、北は土支田村、南は竹下新田および多摩郡遅野井おそのい村と入り組んで接している。また村の北端を富士大山道が過ぎり、南端を青梅街道が東西に通っている。

石神井の地名の起りには諸説がある。『四神地名録』などは里人の言い伝えとして、井を掘った折、地中から出た石棒を石神井社の神体として祭り、村名を石神井村と称したというものである。『武蔵野話』では秩父郡大滝村の項で村民の所持する石棒について触れたあと「又豊島郡下石神井村に石神井の神じやと号せるやしろあり、神体は石なり。土人ところのもののいひ伝ふるはいにしへ井を穿し時土中より出しと、夫故村の名を石神井村と称せるよし」と述べている。

一方『新編武蔵風土記稿』では上石神井村の項で石棒の出所を三宝寺池とし、里人はそれを神体として一社を営み石神井社と崇め祀ったことから神号をもって村名としたが、社は今下石神井村にあると述べている。

いずれにしても石神井の地名の起りはこの石神しやくじんから出たものにちがいはないが、石神と地名との関係についての研究には古くは柳田国男の『石神いしがみ問答』(明治四三年刊)をはじめとして、最近には前島康彦の「石神井地名考」(練馬郷土史研究会々報第一五五号)に至るまで多くの論考がみられる。

三宝寺池は江戸時代から文人墨客のよく杖を引く景勝の地として有名であった。釈敬順の『遊歴雑記』、村尾正靖の『嘉陵紀行』、太田南畝の『三宝寺遊記』などがある。これらの文には江戸からの道順、往還の様子、三宝寺、三宝寺池、石神井城址の景観などが詳しく記されているので、巻末掲載資料を参照されたい。

石神井城址についても諸書に多く紹介され『四神地名録』『江戸名所図会』など絵入りの地誌・紀行も少なくない。「地誌調写置」では上石神井村の項に「豊島勘解由左衛門城跡 東西六、七丁、南北三丁、後ニ池有、西ニ空堀之跡有」とあり、下石神井村の項にも同城跡として「上石神井村より当村江少々相掛り入合申候」と記されている。『新編武蔵風土記稿』では上石神井村道場寺の解説でそれを敷衍して述べている。

三宝寺池から湧出する本流は、関村溜井(富士見池)から流出する別流を合し、石神井川となり曲折しながら東流する。この石神井川の流れは以下下流の村々に無限の恵みを与えるゆえん、練馬の母なる川であった。一方、元禄九年(一六九六)開発され、宝永四年(一七〇七)流路農民の訴願により田用水として利用を認められた千川上水もまた練馬の農業生産、村民生活にとって見逃すことの出来ない重要な飲用、灌漑用の水路であった。上、下石神井村とも田用水許可の時より千川用水組合村に属していた。

千川上水の水料は田一反に付玄米三升宛の定めであった。安永二年(一七七三)に千川茂兵衛、善蔵が差出した水料米控(千川家文書)によると上石神井村一石三斗五升、下石神井村一石五斗二升となっており、逆算して上石神井村は四町五反

歩の水田が千川上水の水をもって経営していた訳で、村の水田総町歩一五町二反高一三八石の内約三割が千川上水に依存していたことになる。

文政六年(一八二三)「地誌調写置」の時の上石神井村は家数二一一軒であった。また天明五年(一七八五)三月「上石神井村巳ノ五人組帳」(藤沢市・金沢甚衛家文書)が現存している。前書まえがき全文が昭和三二年刊『練馬区史』(二六二ページ)に載録されているので、このたびは省略するが、「小榑村御仕置五人組帳」(元文二年―一七三七―小美濃英男家文書)、「土支田村郡中制法伍組帳」(明治三年―一八七〇―小島兵八郎家文書)などと共に区内では数少ない五人組制度の資料として貴重なものである。

これら五人組帳を含め現在判明する村役人を列挙すると次の通りである。

<資料文>

時代 名主 年寄 百姓代

享保一〇年(一七二五) 平蔵

安永三年(一七七四) 又兵衛 伝四郎 七左衛門

天明五年(一七八五) 仲右衛門・利兵衛・又兵衛市兵衛・伝四郎・長十郎

文政六年(一八二三) 平兵衛 仲右衛門

慶応四年(一八六八) 仲右衛門 兼吉・市兵衛・伝吉 金次郎・長十郎・伝四郎

関村・竹下新田

現在の関町、関町北および立野町に相当する地域である。天明四年(一七八四、巻頭口絵参照)並びに寛政七年(一七九五)の関村絵図(いずれも井口敏氏蔵)によれば村の南部(関町一丁目、立野町)で上石神井村の飛地や竹下新田が入り組んでおり、現町丁名によって画然と判別することは難しい。

寛永一六年(一六三九)に検地が行なわれ「武州豊島郡野方領内関村御検地水帳」(井口信治家文書)三冊の内一冊が現存

する。

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またこの時の年貢割附状と思料される同年十月の「卯年関村御年貢可納割〔附之事〕」(小平市立図書館蔵)が伊奈半左衛門から交付されている。それによれば下田三町六反七畝二歩、同六反一畝二八歩、上畠二町八反三畝一歩、中畠五町五反六畝五歩、下畠五町八反四畝一五歩、同三〇町五反八畝一歩、同八町五反六畝二四歩、屋敷七反七畝一四歩、合計五八町四反五畝、その永一一貫八〇四文が割附けられている。この年貢割附状は区内最古のもので年貢はすべて金納であったことが知れる。

その後正保の改めでは畑高一一七石余、田高一七石余、計一三四石余となり、延宝の検地を経て元禄の改めでは村高五二七石余と一躍正保年間の四倍になって幕末まで至っている。元禄改めの約二〇年後の享保五年(一七二〇)、関村から代官所に提出した「武蔵国豊島郡関村明細控帳」(井口信治家文書・第七部「歴史資料編」参照)によれば元禄郷帳の村高と相異なく、土地柄による石盛なども詳細に記載されている。

また同文書には家数九八軒、人数四八四人とあったも

のが、一〇年後の享保一五年「関村村差出帳」(小平市立図書館蔵・第七部「歴史資料編」参照)では家数一〇六軒、人数五四一人と一時増加した後、文政年間の「地誌調写置」では家数九三軒と減少している。このことは天明四年(一七八四)竹下新田が開発せられ、関村からは一三名の出百姓があったことからも頷かれるところである。

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竹下新田は元、上・下石神井村、関村三村入会いりあいの秣場であったが、天明四年に浪人竹下忠左衛門が幕府に願い出て開墾した土地であると『新編武蔵風土記稿』でいう。上の村絵図によれば、概ね現在の関町一丁目にあたる東西一〇町、南北三町の範囲と、関町北三丁目付近のきわめて小範囲な区域である。

竹下新田の天明四年八月開発説は「地誌調写置」ならびにそれに基づいて編纂されたと思われる『新編武蔵風土記稿』によるものであるが、一方それに先だつこと九年、安永四年(一七七五)の「関村、上、下石神井村御林請地出百姓並年割渡惣名前帳」によると関村から一三名、遅野井村(上井草村)から九名、上石神井村から六名、土支田村から一名など計三九名の出百姓によってこの竹下新田が開発されたことに

なっている(『武蔵野市』)。

『新編武蔵風土記稿』には竹下新田の民戸一九戸とあるが、この一九戸全員の連印による寛政六年(一七九四)の議定書が一通あるので左に紹介しよう。

<資料文>

表 紙

  寛政六寅年

議 定蓮 印帳

 二 月         武州豊嶋郡竹下新田

<資料文>

    蓮印一札之㕝

一、此度御検地被仰付候所、右検地之義者拾ケ年以前奉請候所又々此度被仰付候得者、小前一同難義至極ニ奉存知候間、此趣御代官様江奉願上度奉存候間、此一件ニ付入用等何程掛リ候共小前一同承知仕候間、依右之通リ義定仕一札差上申候、依如件

  寛政六寅年二月 (井口敏家文書

この後に三五名の記名があり、そのうち一九名が連印をしており竹下新田の戸数一九に符合する。寛政六年から一〇年前は丁度天明四年に当たり、この年に検地をうけているということは前述の開発年月に一致することになる。正式の検地を受ける以前から入植のための出百姓があったことは当然で、安永四年頃すでに開発に取り掛っていたのであろう。

因みにこの文書は、検地に際しては百姓が難儀をするので費用はどれ程掛けても差支えないから代官所にその旨働きかけて欲しい、という村役人への百姓達の切実な願いが汲み取れる文書である。

前出享保五年ならびに同一五年の関村明細帳には官林と思われる御林おはやしが二か所ある。一は遅野井山(関町一丁目)、一は関山(関町北三丁目)である。いずれも数千本の雑木を御炭御用として上木していた。その後元文三年(一七三八)井口八郎右衛門が両御林の開発を志し、払い下げを幕府に願い出でて、その孫玄幡の頃安永七年(一七七八)に開拓払い下げが許されたという(井口信治家文書)。あるいはこの開拓が竹下新田の開村と直接関係があるかもしれない。『新編武蔵風土記稿』に言う「関村を越え新座郡の堺に東西四町南北二町の飛地あり」というのが関山の御林を指しているとしても無理な推論では

ない。

八郎右衛門の二男に関前新田を拓いた井口忠左衛門がいるが、同名の竹下忠左衛門との関係など後考を俟つほかはない。

古文書に見える村役人は次の通りである。

<資料文>

時代 名主 年寄

関   村 享保 五年(一七二〇) 政右衛門 久兵衛・金右衛門・伊右衛門・市郎右衛門・徳右衛門金五郎・弥兵衛・八郎兵衛・七右衛門・小兵衛

      天明 四年(一七八四) 銀右衛門金五兵衛 清右衛門・弥兵衛・与市・弥五郎・金五郎市五郎・兵左衛門・忠蔵・八三郎・太郎右衛門

      文政 六年(一八二三) 弥兵衛  銀右衛門

竹下新田  文政 六年(一八二三) 政五郎

橋戸村

現在の大泉町(住居表示前の北大泉町)に相当する区域である。天領(幕府直轄地)の多い練馬では数少ない旗本知行地であった。天正一九年(一五九一)家康入国と同時に伊賀組の給地となった村である。伊賀組者はまた伊賀者、伊賀衆とも呼ばれ、もとは伊賀国の郷士が間諜、忍びの術で徳川家に仕えたものである。天正一〇年(一五八二)大坂堺にあった徳川家康が本能寺の変を聞き難を避けて伊賀越をする時これを護衛したのが伊賀郷士たちで、家康を迎え無事伊勢国白子浦まで嚮導して危急を免れしめた。これが機縁でのちに徳川氏天下統一の折江戸に招いて縁りの地名である武蔵国白子の郷一帯を給したというのである。その知行地は白子村、橋戸村をはじめ江古田村、井荻村などに、大縄給地と称する集団的知行地高一六二六石が給せられた。

正保の改めでは村高一五〇石のうち水田九〇石余、畑五九石余となっており、中荒井村と共に、練馬地域では数少ない田方が多い村柄であった。この村高一五〇石はすべて伊賀衆知行地になっており、外に永一貫三八六文の野銭のせん場が代官支配であった。野銭場は村中入会の山などで山かせぎすなわち粗朶そだ立木を伐ったり、或いは秣場などにしている場所へ一種の年貢であ

る野銭を課したものである。その後、元禄の改めでは総村高二八二石余となるが、年貢の対象となっていた野銭場の開墾が進められたためである。

幕末の旧高旧領取調では橋戸村の村高二八八石余が代官支配地とのみ記され、旗本領(伊賀組知行)の記載がないが、『新編武蔵風土記稿』編纂時点(文政年間)での記述には「天正十九年伊賀組へ賜りしより、<圏点 style="sesame">今も伊賀組の給地なり」(傍点筆者)とあって、幕末までここに伊賀組領のあったことが判然としている。このことは現在大泉町氷川神社に伊賀組衆一〇八名が奉納した嘉永二年(一八四九)の水盤の銘記によっても証明されよう。なお幕末明治初期における橋戸村の行政的変遷については第五部第一章中において考察されているので詳細はそれにゆずることとする。

橋戸村に関する近世文書は少なく、荘半蔵家文書(大泉学園町)二一通のうち直接橋戸村のものは明治六年(一八七三)租税皆済帳のみで、その他は土支田村上組に関するものである。というのは江戸時代に名主を勤めた荘忠右衛門家と荘善兵衛家が明治に至って廃絶し、村方文書のほとんどすべてが散逸したことによる。

よってここでは時代が大部降るが明治一〇年(一八七七)地租改正に際して作成された一筆調査によって類推するほかはない。この一筆調査は篠崎利光家(大泉町二丁目)所蔵のもので、個人別の土地所有状況が一筆毎に記載されている。その計は、田二六町四反余、畑六九町六反余、宅地九町二反余、林四四町六反余、その他藪・茅地・荒地等五町七反余合計一五五町五反余となっている。二年前の「武蔵国新座郡村誌」(明治八年)橋戸村の項に税地田二五町六反一畝歩、畑六八町五反五畝歩、合計九四町一反六畝歩とあって、概ね一筆調査に符合する。

幕藩時代にもこの田畑反別はそう大きな差がなかったことは想像に難くない。前記郡村誌にも「橋戸村は地味其質悪く稲梁に稍適すれども水利不便にして時々旱に苦しむ」とあるところから、その大半は下田あるいは下畑であって石盛三乃至五の位附であったに相違なく、これを其準に計算すると旧高旧領調の二八八石に近似の値となる。

前述した如く近世文書の現存が少ないため村役人の名を明らかにすることは困難であるが、荘家文書安政二年(一八五五

および文久二年(一八六二)の人別送り状には名主善兵衛の記名がある。しかし両年の間にあたる安政七年(万延元年に改元・一八六〇)の同様人別送り状では上白子村名主善兵衛として署名している。このことは元来橋戸村と上白子村の境界は判然としておらず、教学院・氷川神社付近の人家が散在する処を橋戸村と称し、その他は上白子村と呼んでいたとする『新編武蔵風土記稿』の記述を裏付ける一資料と見ることが出来る。

橋戸の名はすでに古く慶長元年(一五九六)閏七月の書附(新編武蔵風土記稿)に「服部石見守殿へ御知行<圏点 style="sesame">はしとの内」と見え、また正保・元禄の両改定図共、橋戸村と白子村(上白子村の記載はない)は二村に画かれているところから上白子村と称するようになったのは元禄以降のことであろう。『新編武蔵風土記稿』上白子村の条に、白子村は元々、一村で、橋戸村と同様伊賀衆の給地となっていたが、その後開墾された土地は追々天領に加えられ、いつか直轄領を上白子村、私領を下白子村と呼ぶようになったという記述がある。とすると橋戸村の私領も追々上地せられ、直轄地を上白子村と兼帯で名主善兵衛が勤めるようになったと推察することができる。

小榑村

現在の西大泉、南大泉、大泉学園町の区域を包含する大村であった。

家康入国後、初めは板倉氏の知行地となり次いで幕府直轄領となった。正保の改めには練馬の他村と同じ代官野村彦太夫の支配として田二九石余、畑五一八石余、村高五四八石余の地であった。後寛文年中(一六六一~七三)に至り稲葉美濃守正則の領知するところとなったが、その子丹後守正通のとき貞享二年(一六八五)に越後国高田へ所替となり再び代官所支配(幕府直轄領)となった。

元禄一六年(一七〇三)代官江川太郎左衛門支配のとき村高の約半分を米津よねきつ出羽守田盛みちもり米津はヨネツ又はヨネヅともいう)へ賜り、残りの約半分は直轄領としてそのまま幕末まで至った。元禄の改めでは総村高一四六八石余と、正保年間の約三倍近い開発が進められていた。宝暦四年(一七五四)の「武蔵国新座郡小榑村村柄様子明細書」(大泉学園町小美濃英男家文書

によれば、村高のうち七三一石余が米津領、七三〇石余が直轄領となっている。米津領の範囲を確定することは甚だ困難であるが、概ね現在の西大泉の大部分と大泉学園町の一部、いわゆる中小榑村(北は少納言久保から南は中島付近まで)と橋戸村境いに若干の飛地があった模様である。村柄明細書には「田畑御料私領入会にて壱枚きめニ御座候」とあるから田畑は一枚毎に天領か私領かの所属が定められていた。

<資料文 type="334">

       田      畑      計   

直轄領 23114196972719929畝11

米津領 2 3 6 27 196 2 1 08 198 5 8  5 

 計  4 6 8 11 393 1 9 05 397 8 7 16 

明細書による田畑の反別は上表の通りである。

天領、私領とも田は上田が全体の四五%、中田、下田が夫々二七、八%で田作の位附としては決して悪い村ではなかった。また畑作では下畑が全体の四七%、次いで下々畑が二一%、上、中畑は夫々一四、五%にすぎない。田畑の土性は同書に「土地之儀者田方黒土、畑方ハ赤土ニ而土目不宜之村ニ而御座候」とあり、田方は黒土で土性もさして悪くはないが、畑方は赤土で良質の土地とは言えない。また「大立おおだての日損水損場ニ而無御座候」ともあって、特筆するようなひでりや水による被害を受ける村柄ではなかったが「大困窮之村方ニ而御座候」であった。

水利は村内の溜池(現在の大泉井頭公園)を水源とする白子川やこれに流入する幾つかの湧水に頼っていた。

同書に家数は宝暦四年(一七五四)一二二軒(人数五七九人)、寛政五年(一七九三)一三八軒と見えるが、これは天領のみの数で小榑村全体では新編武蔵風土記稿記載の三二〇軒程であった。

小榑村は橋戸村と共に江戸時代を通じて尾張候の御鷹場であった。

享保一四年(一七二九)から翌一五年にかけて名主源右衛門のとき、年貢割当の不満が発端で村方騒動が起り(後述)、それが契機で名主が二人制となった。小美濃家文書に見る村役人は次の通りである。

<資料文>

時代 名主 組頭

享保四年(一七一九) 武右衛門

享保一五年(一七三〇) 源右衛門

寛政六年(一七九四) 吉右衛門・又右衛門 武之亟・武右衛門

弘化二年(一八四五) 助右衛門・又右衛門

嘉永六年(一八五三) 助右衛門

米津領は代々高橋覚左衛門が名主役を勤めた。覚左衛門家は寛永の頃より尾張候御鷹場の鳥見頭として名字帯刀を許され、志木、所沢方面に至る迄、隠然たる支配力をもっていたという。領主米津氏も覚左衛門を重く見て知行地の支配をほとんど委ねていたことが窺われる。

米津氏は藤原の流れをくむ嫡々の三河武士で田政みちまさの代に家康に属し三方ヶ原小牧等の陣に従って功があった。慶長九年(一六〇四)江戸町奉行に任じ寛永元年(一六二四)六二歳で没した。その子田盛は書院番頭、大番頭、大坂城番と歴任し六九歳で没したが、この人の代に家禄一万五千石に加増され、諸候に列した。後武蔵久喜に封ぜられ、寛政一〇年(一七九八)政通の代に出羽国村山郡長瀞に移封され幕末に及び、明治に至って再び常陸国龍ヶ崎に転じた。今も東久留米市の円通山米津寺には田盛以後四代の墓所がある。米津寺は米津出羽守田盛の創建にかかわるもので当時前沢村(東久留米市)にも知行地を有し、屋敷を持っていた。

<節>
第四節 村の住民
<本文>

村の開発が進み農村としての形態が次第に整ってくると、村の住民の中は自ずと社会的、経済的地位によって幾つかの階層に分れてくる。それは一般的に、中世からの土着郷士層、独立の農民層、従属的農民層、その他のものの四階層と見ることが出来る。

郷士は古来からの家系が認められた土地の名族などで、名字帯刀を許され村内での威望も高く大地主である場合が多い。新田開発や水利工事などに盡力した功で郷士に取り立てられたものもある。

独立の農民とは草分け、高持ち、根生ねおいなどと呼ばれる地主および自作農の階層のことで本百姓ともいう。草分けは初めてその地を開き村を取立てたもので、村内の旧家であるが必ずしも大地主であるとは限らない。高持ちは多くの石高を所有する大地主で、普通小作人を使って自分の田畑を経営している。根生はその村に生れ育った平百姓で、自分の土地を自分で耕作する小農であって村民の大部分はこの根生の百姓である。

従属的農民とは一般に第二節の「検地帳」の項で述べた分附ぶんつけ百姓とか、家抱けほう庭子にわこなどのことを言う。分附は百姓の二、三男が分家をせずに惣領から僅かの土地を預り、当主の名で耕作するものである。家抱は下男に田畑を譲り主人の分として耕作するもので両者共に本百姓即ち独立の農民ではなく、年貢諸役は主人の側で納める。庭子は譜代の下男夫婦などで屋敷内に住込み、同様僅かの土地を耕作するが、家抱のように独立の生計を営むものではない。これらはいずれも土地の所有権を認められておらず、耕作権のみを有するいわゆる小作人層であった。小作人にはこのほか、自作農でありながら自己所有の土地が余りにも零細であるがために、大地主の田畑を耕作する場合もある。のみならずむしろこのような小作人が従属的農民層の大多数を占めていたといっても過言でない。

水呑百姓を小作人の別称のようにとることがある。水呑百姓は勿論土地を所有せず、小作をする場合もあるが、実は小作人より更に低い階層のもので、主に日雇いなどで耕作の手伝いをしたり、野山で薪木や秣取りをして生計を立てていた。その村の水を飲むことから名付けられたという。

以上のほか、寺院の僧侶、神社の神官、農業に関係する職人、萬屋よろずやと呼ばれる小商人などがいた。

『新編武蔵風土記稿』に見る練馬の草分け

中世末期練馬に土着したと思われる郷士には、谷原村の増島氏、石神井郷を開発した高橋加賀守外五名の武士たちがいたことは前節で述べた通りである。

また『小田原衆所領役帳』にある太田新六郎の寄子よりことして土志田を配当された源七郎、石神井の内谷原在家を配当された岸某等は歴とした武士であった。戦国時代には有力な武将を主君(寄親)とし、在地土豪などを従臣(寄子)として軍事組織が編成されていた。この両名は必ずしも練馬土着の郷士であるとは限らないが、少なくとも知行主として土支田や谷原を支配していたことは事実である。

『新編武蔵風土記稿』では古文書等を所持し由緒の明らかな草分けと目される「旧家者」として谷原村の伝左衛門、関村の弥兵衛、橋戸村の忠右衛門を特に取り上げている。

谷原村の伝左衛門は増島氏で代々村内に住し専ら耕作を事としているとある。増島氏が谷原村に土着した経緯については前節谷原村の項ですでに述べたとおりである。

関村の弥兵衛は井口を氏として名主を勤め、先祖は伊豆国伊東より出、鎌倉没落の後子孫当所に住すとしている。井口家系図(井口信治家文書)によると井口氏は相州三浦の平一丈入道を初祖とし、その子玄幡義国、孫弾正平義清に至り改姓して井口氏(初代)を称している。

井口氏三代玄幡頭義政並びに長子源次信重は元和元年(一六一五)大阪夏の陣に於て戦死している。井口家は次子忠兵衛義晴が跡を嗣いだが、忠兵衛はこの時すでに関村に住し、本立寺を開基、井口稲荷を建立している。元和元年五月七日井口源次信重の戦死通知状が井口信治家に現存しており、また寛永一六年の関村検地帳(同家文書)には忠兵衛が仁左衛門、茂兵衛、市之助、小兵衛等と共に検地案内人となって記名している。

井口氏のこの地方土着の経緯については未だ不明の点も多いが、関村井口氏に先立ち小榑村井頭にすでに別系の井口氏が定住しており、関村井口氏がこれを頼ってこの地に来住したとする見方も有力である。

五代忠兵衛の子、六代八郎右衛門は寛文一二年(一六七二)武蔵野御札野新田開発を命ぜられた。ここは元幕府御用の茅場であり、刈取り禁止の制札が建てられていたため「御札茅場千町野」とも呼ばれていた所で、関村に続いて現在の武蔵野

市関前、西窪、連雀、杉並区の大宮前、高井戸、松庵などが含まれていた(御札野新田開発関係については井口良美家〈武蔵野市八幡町〉文書がある)。

その後八代八郎右衛門は多摩郡連雀前新田・西久保新田・連雀新田・松庵新田・大宮前新田・高井戸新田・関前新田・上荻窪新田・下里村、入間郡上新井村・下新井村、豊島郡関村の関組一二か村を支配して年貢割元役を勤めた(井口信治家文書「宝永五年関組十二か村御年貢小物成勘定帳」)。

同人はまたその子甚蔵と共に関山および遅野井山の開発を志し、その払下げを幕府に願い出たが彼の存命中には遂に実現は出来なかった(のちに竹下新田となる)。

一〇代井口玄幡時重は仲々の事業家であったらしく、天明初め青梅方面からの石灰運搬事業を計画し、通称玄幡山に馬二〇〇頭を飼育した。しかしこのような大規模な事業は当時の政策として幕府に伺いを立ててから実施すべきであった。が、玄幡はそれをどういう訳か無届けで進めていた。天明四年(一七八四)この事が幕府の忌諱にふれ玄幡は取調べを受け、事業が軌道に乗る直前二〇〇頭の馬はすべて没収され、ために井口家は莫大な損害を被ることとなった。翌五年玄幡の没後一二代八郎右衛門(一一代政右衛門は早世)はこの件で父にかわって入牢、罰金一〇万両と欠所を言い渡された。欠所の罪は井口一族の歎願で免ぜられたものの一二か村年貢割元と関村名主は免役となった。時に寛政三年(一七九一)六月のことである(井口氏系図)。

この年から関村名主は分家の孫兵衛家および銀右衛門家(田中氏)が勤めることとなった(井口氏については井口浩一「関村の歴史」に負うところが多い)。

橋戸村の忠右衛門は庄氏なりとある。庄氏は武蔵七党の内児玉党の一族とされている。武蔵七党系図には庄氏は児玉庄太夫家弘から出ている。子を庄権ノ守弘高と云い、またその子庄太郎家長は東鑑、保元物語等にも事蹟が顕われている。

鹿王ろくおう院文書」(京都市右京区・臨済宗)につぎの室町将軍家御教書があることはよく知られるところである。

<資料文>

鹿王院雑掌申武蔵国豊嶋郡赤塚郷用水事、庄

加賀入道善壽構新儀、号井料就及違乱直施行

之趣案文令到来畢、雖然尚未休云々、甚無謂

厳密止其妨可被全寺家所務之由所被仰下也、

仍執達如件

文安六年三月九日 右京大夫

上椙右京亮殿

即ち赤塚郷(板橋区)用水の井料のことで鹿王院に訴えられた庄加賀入道善寿に対し、関東管領上杉憲忠(右京亮)をして、その押妨を止めしめた管領細川勝元(右京大夫)の文安六年(一四四九)の御教書である。

赤塚郷用水ノ事とは如何なる事件であったか詳かではないが、赤塚は白子川の流末に当ることから上流白子郷を所領していたと思われる庄加賀入道がその水料に関し、事を構えたことは充分考えられる。

時代はずっと降るが天文年間(一五三二~五五)と推定される「としま名字のかき立」(米良文書)に

<資料文>

しらこ庄    

  賀雅助          中務丞

と記されている。特に庄賀雅助には「しらこ」と肩書きされているのは明らかに同氏が新座郡白子郷の在地領主であったことを示している。賀雅助は加賀介に通じ加賀入道善寿の流れであると見て差支えなかろう。

では、庄氏はいつ頃この地に来たのか。

埼玉県嵐山らんざん町の越畑おつぱた城址の碑(稲村坦元撰文)の一部に次のようにある。

<資料文>

荘氏は武蔵七党児玉党に出で、荘権守弘高、荘太郎家長等、源義朝、頼朝に仕へ高名あり、家長五代の孫四郎泰家、五郎為久、泰

家の子太郎弘長等、亦建武中興の際新田義貞に従ひ勲功ありしも南風競はず即ち新座郡橋戸村に退きて郷士となる

とすると庄()氏が白子・橋戸に居を構えたのは南北朝末一四世紀後半頃と推定される。

戦国の世に及んで弘長三代の孫秀俊は永享一〇年(一四三八)関東管領上杉憲実に従い軍功あって比企郡内に領地を賜り越畑城を築いた。

その後庄氏は小田原北条氏の家宰として天正に至るが、小田原の役に敗れ越畑城を退き旧地新座郡橋戸村に再び移るのである。庄氏が初めてこの地に居を構えてからすでに二百四、五十年を経ているが、その間、一族庶流が多くこの地方に盤踞ばんきよしていたことは前出「としま名字のかき立」ならびに『新編武蔵風土記稿』にある忠右衛門家所持の中世文書(四通)を見るまでもなく判然とした事実である。

荘本家(この頃庄を荘に改めたと考えられる)がはじめに居た場所は現在の氷川神社(大泉町五丁目)付近と推定される。ここを字坂下というところから本家を坂下の荘と呼び、忠右衛門および善兵衛が名主役を勤めた。幕末に至り一族から実力者荘惟善が出でて名主を襲った。彼は明治初期には大区長に就く程の傑物であった。なお、荘氏については杉山博「武蔵国豊島郡赤塚庄について」(「地方史研究」二七号)、湯山学「赤塚郷と庄加賀入道善壽」(「武蔵野」二九七号)、加藤惣一郎「橋戸村と荘一族」(練馬郷土史研究会々報八四号)などの論考がある。

練馬の初期本百姓

谷原の増島氏、関村の井口氏、橋戸村の荘氏は『新編武蔵風土記稿』に「旧家の者」として記載されているものの練馬の草分けには他にも多くの本百姓を見ることができる。

「天正十八年御入国ヨリ御府内并村方旧記」(内田岩松家文書)冒頭に下練馬村の草分け百姓と目される次の苗字が列記されている。

上原兵庫、木下大炊之助、内田河内守、吉野善右衛門、川嶋藤右衛門、並木九左衛門、細川嘉左衛門、漆原太郎兵衛、大木源左衛門、高橋惣兵衛、加藤、榎本、奥津、篠、風祭、嶋野、石山、粟飯原

原文書執筆の内田氏は板倉周防守家臣の出自をもち早く下練馬村に住していたし、寛永一九年(一六四二)「下練馬金乗院法流證文」(木下担家文書)に開基として書上げられる木下氏、延宝元年(一六七三)「丑御縄御水帳写」を所蔵する新井氏・加藤氏等も当然この土地の草分け本百姓に数えられる。

上練馬村では寛永一六年(一六三九)の検地帳など数多の古文書を所蔵する長谷川氏を始め相原・関口・上野・増田・篠田・保土塚・加藤・小沢・上原の各氏が草分け的存在である。長谷川家はその菩提寺愛染院に江戸初期以降の墓石を持ち、上原家には慶長一八年(一六一三)刻銘の墓石があって、いずれも江戸初期からの確住を物語っている。

同様土支田村の名主小島氏もその墓地に慶長元年(一五九六)初代小島兵庫の墓石を持つが、兵庫については『新編武蔵風土記稿』同村本覚寺の項に「開基法光院常蓮俗称を小島兵庫と云慶長元年八月十一日死す」とある。なお同家では先祖代々「板仏いたぼとけ」として小形の青石塔婆を仏壇内に祭るが、それには「康正元年六月十五日 性阿弥禅門」の記銘がある。この「板仏」には弥陀一尊種子が刻されているので、小島氏は日蓮宗本覚寺創建以前に浄土宗或いは真言宗系であったことが知られる。康正元年(一四五五)は前出の庄氏が隣村橋戸より越畑城に移ったとされる永享一〇年(一四三八)から十数年後であって、土支田村付近に小島氏の祖先が居を構えていたとしても不思議はない。

小島氏は代々八郎右衛門を名乗り歴代土支田村下組の名主を勤め、四代八郎右衛門は寛文三年(一六六三)検地の際の案内人になっている。一一代八郎右衛門は幕末最後の名主を勤め明治維新後は副戸長に任ぜられた。

土支田村上組に元禄三年(一六九〇)「土支田村居座敷証文之事」(東大泉・加藤儀平家文書)一通があった。この文書は祭祀その他集会の際の席次を定めたもので、いわゆる宮座関係の史料として貴重なものであったが、現在その所在は不明である。この文書には「我等六人之者村始之百姓ニ御座候」として加藤加右衛門・山口三右衛門・見米次良左衛門・加藤八兵衛・関口金左衛門・山口六兵衛の六名が連署捺印している(『近世練馬諸家文書抄』)。練馬の近世農村文書としては割合早い時期のものである上、苗字を記したものとしても珍しく、文面にある如くこの地方の草分け百姓として自他共に許した家であ

ったにちがいない。百年余の後、文化四年(一八〇七)にも同様証文を以って追認しているが、この時は苗字が除かれ名前のみの連署となっている。

このほか土支田村には上組名主町田氏・榎本氏、下組の加藤氏、五十嵐氏などがいる。

中村には昔から「中村五名ごみよう」ということが言い伝えられている。「中村五名」とは中村氏ほか四氏がこの土地に移住して来て、初めて中村を開墾したというのである。即ち五氏が中村の草分けとなったというのである。五名の姓は古老の言がまちまちで断定し難いが、おそらく中村・内田・西貝・星川・小宮の五氏をいうのであろうと『中新井村誌』(昭和八年刊)は記している。この五氏が何時の時代に、またどうして、この中村に於て開墾を始めたかに付いて同書は、武蔵国の開墾状況と荘園発生の情勢を考察しながら、中村の開拓は奈良朝末期から平安初期にかけてと推論を下している。しかし確たる原拠を持つわけではないので直ちに肯定はできないが、いずれにしても中世までに移住して来て開拓定住したことには違いあるまい。

中荒井村の旧家には岩堀・一杉・矢島などの各氏がある。矢島氏は中村にもあって、天正一九年豊臣秀吉の奥州平定後出羽国由利郡矢島(秋田県)から武蔵国に移り住んだという出自をもっている。同氏が出羽国矢島城落城によって滅亡する経緯については『矢島十二頭記』(続群書類従・平野実『矢島家の歴史』所収)に詳しい。一方沼袋(中野区)を中心とする別系の矢島氏がおり、北に接する中荒井村の矢島氏はこの系統である。沼袋の矢島氏は新田氏の一族である出自を持っているが南北朝期に新田氏と共に南朝方に組し、敗戦の後、多摩郡沼袋の地に落武者となって土着したという(矢島英雄『矢島寺と矢島氏』)。

出羽の矢島氏が何らかの縁故を求めて当時すでに多摩郡沼袋、豊島郡中荒井方面に相当繁栄していたと思われる別系矢野氏を頼ったとする見方もある。中村のいわゆる五名の人たちから別扱いされたという矢島氏は、単に後から移住しただけではなく、何かそこに出自の差があったためと考えるのが妥当である(平野実「練馬地方の旧家出自の伝承」練馬郷土史研究五〇

号)。

このほか練馬地域の草分本百姓には前節各村の項でもふれた谷原村の横山・田中氏、田中村の鴨下・榎本氏、関村の井口氏のほか田中氏、竹下新田の橋本氏、上石神井村の高橋・栗原氏、下石神井村の豊田・本橋・渡辺氏などがあるが、いずれも定かな出自を持たない。

新座郡のうち橋戸村には荘氏のほか萩野・見留氏らが、また小榑村には高橋・小美濃氏のほか加藤・鈴木・田中・滝島・内堀氏らが草分け本百姓と目されている。なかでも加藤氏は多く、その出自は加藤隼人はやとにでるという。加藤氏の一族の中には妙福寺一六代住職日円上人(寛文七年―一六六七―寂)筆と伝える「加藤隼人」在名の曼陀羅を秘蔵し、或は先祖の遺霊として隼人稲荷を祀る旧家がある。加藤隼人は成田氏長の武将であって天正一八年(一五九〇)石田三成軍との和議により忍城が陥ると、何故か小榑村に落ち着いたという伝承をもっている。

いずれにせよ大泉地区には橋戸村の荘氏、小榑村の高橋、小美濃、加藤氏など墓石に大形の五輪塔や宝篋印塔を建立、草分け百姓としての格式を保ちつづけて来た旧家が多いことは他村に余り見られない例である。

住民の構成

練馬の各村も江戸時代となり各地に開墾が進むと、草分け本百姓と従属的農民即ち分附百姓とか家抱・庭子などとの間で加速度的に階層分化が進展し始める。江戸開府から一三〇年を経た享保五年(一七二〇)の関村明細帳には「家数合九拾八軒 内七拾七軒本百姓、弐拾弐軒水呑」との記載があり、すでに二割以上の家が水呑階層となっている。一〇年後の享保一五年同村「村差出帳」(小平市小川家文書)では一〇六軒中二一軒と率に於ては僅かの低下はあったものの実数には変化がない。

一方上練馬村では時代は降るが天保三年(一八三二)の「村方銘細書上帳」(長谷川家文書)で「惣家数四百八拾軒 当村之儀貧窮者多く御座候」と数字は掲げない迄も相当数の生活困窮者が居たことを窺わせる記述がある。

次図は嘉永七年(一八五四)「上練馬村宗門人別書上帳」(愛染院文書)より作成した同村の持高別戸数である。上練馬村

の村高二六二六石余反別五三五町余から平均石盛は約五ッ即ち一反当り五斗の計算となる。畑方の石盛が中畑六ッ、下畑四ッであり田方より畑方が圧倒的に多いところから、この中畑と下畑の中間石盛五ッをもって村の平均石盛と見て差支えない。とすると持高の反別一町未満(持高五石未満)のものは全戸数三九三の実に半数以上に及び、四反(二石)以下の零細百姓は六九戸と一七・五%に達する。このことは土支田村下組において更に顕著にあらわれ、嘉永三年(一八五〇)の「土支田村下組戸籍」(小島家文書)によれば上図の如く四反未満で三割に近い状態である。両村共前述した草分け的本百姓はいずれも五町以上の田畑を保有し上練馬村の百姓代藤助は持高九三石余(反別にして約二〇町)を所有している。そのほか根生い、高持ちと呼ばれる、いわゆる本百姓は二、三町以上を自ら耕作し、七、八反から一 画像を表示 画像を表示

町前後の普通の小前こまい層(自作農)は全体の約三割を占めている。

小榑村では宝暦四年(一七五四)の「村柄様子明細書」(小美濃家文書)に次の記事がある。

<資料文>

一、百姓壱町歩以上 所持之者 七拾弐人但し越石共

一、百姓八反歩より壱町歩迄 所持之者 三拾四人但し越石共

一、百姓六反歩より八反歩迄 所持之者 十八人但し越石共

一、百姓四反歩より六反歩迄 所持之者 弐拾八人但し越石共

一、百姓弐反歩より四反歩迄 所持之者 弐拾人但し越石共

一、百姓壱反以下 所持之者 拾六人

これを表に纒めると次のようになる。

一反より二反迄の記載がないが、該当する者が居らなかったものと思われる。越石こしこくとは本来知行割のとき(小榑村の場合米津領)生ずる端数を調整した石数のことであるが、時には他村よりの入作いりさく百姓を越石百姓と呼ぶ例もある。同書に小榑村天領の家数一二二軒とあるところから或いは私領入作百姓を含んでの数値かも知れない。いずれにしても個人の持高を階層別に記しており、他の村明細書などでは余り見掛けない内容である。

前二村に倣って四反以下の比率を見ると、一九・五%とやはり高率を示している。一町以上のものが三八%を占めるが、この階層がおそらく草分け本百姓と呼ばれる村の上層階級であったであろう。

<資料文 type="345">

反別      人貝   %

1町以上    72人   38

8反~1町   34人   18

6反~8反   18人    9.5

4反~6反   28人   15

2反~4反   20人   11

1反以下    16人    8.5

計       188人   100

農業における労働力の需給はまた極めて重要で且つ深刻な問題であった。当時はほとんどの農家が主として家内労働であって、雇人を置く家は余程高持ちの限られた階層であった。むしろ持田畠が少なく収量に見合わない大家族を抱えた家では二、三男や娘を奉公に出すこと

が通常の例であった。

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上図は両村の世帯構成人員数を表わしたものであるが、上練馬村の一世帯当り五人強に対して土支田村下組の人員は六・五人になっている。両村を数字の面のみで比較すると、田畠所有反別の少ない割に家族数の多い土支田村下組では、貧窮者の多いとされた上練馬村より更にその度合いに深刻なものがあったであろうことが推察される。

次に両村村民の年齢別構成を見てみることとする。一瞥して判るように年齢別人口分布の型としては最も古い型の三角形を示しており、これは現在、後進国によく見られる型である。同時代の近隣農村のものとして、両村の生産年齢人口・老年人口・幼少年人口を百分比で比較すると次の通りになる。勿論男女共生産労働に従事したと見て数値は男女合計の数によった。

<資料文>

老年人口(六一歳以上) 生産年齢人口(一六歳以上六〇歳以下) 幼少年人口(一五歳以下

上練馬村 一〇% 六〇% 三〇%

土支田村下組 一〇% 五五% 三五%

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因みに最近(昭和五五年)の練馬区における階層分布を見ると、それぞれ九%、六九%、二二%となっている。比較してよく判ることは幼少年人口が極めて多いということで、その分だけ生産年齢人口の比率が減少している。当然の帰結として幼少年層が農業労働予備軍に繰り入れられ、現代の若者たちには想像もつかない苛酷な家事労働に甘んじて従事していたのである。

また最近、平均寿命の延長が喧伝されているが、比率の上では昔の方が僅か乍ら高い数値を示している点は興味がある。

<章>

第三章 農村構造の変遷

<節>
第一節 農業生産の実態
<本文>

農業の歴史は弥生時代に遡るが、この農耕技術の発明によって人類は次第に縄文時代の食料を自然物にたよる生活から定住生活に入り、一方飢えの脅威からも解放されて文化的生活を生んできたのである。

農業専門家はこの間の欧州を中心とした農耕の歴史的段階を、生産手段を基準に次のように時代区分してる。即ち(一)手鍬てくわ農時代 (二)すき鍬農時代 (三)封建的私的農業生産時代 (四)商品的市場生産時代 の四区分である(日本農業の歴史については農商務省『大日本農史』のほか多くの著述がある)。

手鍬農業生産は手で動かすことの出来る簡単な道具で容易に利用し得る土地の一部を給肥を施さず、従って地力が衰耗すれば捨てて耕地を変える農業であった。

犁鍬農業生産は家畜に牽かす犁を以て耕作を行ない、定住が進むに従い土地はやゝ永久的に利用され動物の飼育と相俟って穀物を主とした作物がつくられるようになった。

封建的私的農業生産時代は農業が支配的地位を占め、新たに発生した手工業との間に交換が行なわれるようになり、輪作農業から作物の種類が多種多様となって農業収益は高まった。

商品的市場生産時代の農業は市場を目的とした生産となり需要者の要求に応えるべく農業技術も異常な進歩を見るに至った。

日本での農耕の歴史は必ずしもこの経過そのままではないが、江戸時代には未だ封建的農業時代の域を出でず、幕末に至ってようやく市場生産の時代に入ったと見るべきであろう。

土性と肥料

練馬を含む南関東は武蔵野特有のローム層の土質で、土にねばりがなく作物の成育には多量の施肥を必要とした。同じ南関東でも江戸東郊の水田地帯と西郊の畑作地帯とでは自ずとその生産形態が異り、従って村落の構造や農民の生活にまで影響することは論を俟たない。練馬を含む江戸西郊を畑作地帯と言っても、すでに見てきたように水田が全く無いということでなく、その大部分が畑であるという謂で、石神井川、白子川、中新井川の自然流水および千川用水、田柄用水流域の低地には水田稲作が当然営まれてきた。

古河古松軒はその著『四神地名録』の中で「練馬村といふは、上下にて高五千二百余石、地面は高よりも広大にて、東西三里余、南北一里或は一里三丁、五丁の所も有り、されども<圏点 style="sesame">畑在所にして田方一分ばかり、且風土すぐれず」(傍点筆者)と述べている。上・下両練馬村の反別合計から見ても田は畑の一割に満たない。文政年間の「地誌調書上帳」・「地誌調写置」(長谷川家文書)に中村のみが「田三分畑七分」と記るされ、他の九か村はすべて「田少々畑多し」となっているのを見ても練馬地方が如何に畑作地帯であったかが判る。

土性もほとんどの村で「至て悪地の場、土地柄宜しからず」(上練馬村)、「野方にて黒土・野土・赤土、交り」(土支田村)、「田方黒土、畑方は赤土にて土目宜しからず」(小榑村)、「御年貢米之儀、悪地場にて御座候故、悪米之節は御願申上金納仕候」(関村)というような状態であった。

そのため給肥にはなみならぬ努力が払われていた。当時肥料には苅敷・草木の灰・塵芥・厩肥・人糞尿などが用いられたが、肥効性の高い人糞は勿論自家のみでは賄いきれず、他から購入を余儀なくされた。特に蔬菜を中心とする農作物の市場性が高まり商品としての生産が発達してくると、肥料の需要は更に強まってくるのである。

江戸近郊農村ではその入手が比較的容易ではあったが、しかし需要の増加と共に下肥の価格は騰貴する一方で、零細農家

の経営を圧迫する状態となった。練馬では実際にどのように肥料が用いられていたのであろうか。次に村明細書などに表われる各村の様子を見ることにする。

上練馬村では田畑共に下肥・灰を用いているし、土支田村では田方は下肥・荏油絞糟しぼりかす・刈草等、畑方は下肥・糠・灰・下水等を使っていた。下肥・荏油絞糠・糟の大部分は購入肥料であった。

小榑村では肥料として田畑一反に付、下肥五より七駄までを用い、一駄の代金三百文程度となっている。下肥は六尺の天秤棒に細長い肥桶を前後に一杯ずつ合計二杯担ぐのを一荷といゝ、馬の背に二荷つけるのを一駄といった。この書上が書かれた宝暦四年(一七五四)当時の米相場が大体上米一石で金一両程度であった(『三貨図彙』)ので一両銭四貫文(四千文)の計算で下肥一駄に付代価は上米七升五合に相当した。これを現在の時価に換算すると概ね五五〇〇円余になる(一〇㎏――七升――五二〇〇円として)。この金肥きんび金のかかる肥料)を田畑一反に五駄ないし七駄使うとなると農家特に零細農家にとっては相当の荷重になっていたことは当然である。

関村の享保五年および同一五年(一七三〇)の村明細はなお具体的に記述している。

<資料文>

田畑こやし之儀、江戸より下こひ買附、萱草・馬やこひニまぜ用申候

下こひ 七駄二貫百文

田一反ニ 灰 一駄 四百文 乄銭三貫五百文

馬やこひ五駄 一貫文

下こひ 四駄一貫二百文

畑一反ニ 灰 一駄 四百文 乄銭二貫六百文

馬やこひ五駄 一貫文

稗の場合は下こひ五駄 銭一貫五百文

これで見ると下肥のみではなく灰・厩肥うまやごい牛糞・馬糞)まで購入していたことになり、農家の負担は更に厳しいものであった。

下肥の需要の増加は本来無価値であったものに価値を生み、その供給地である江戸市中の武家屋敷、商家などと近郊農村との間に特殊な権利関係を生じ、仲買人の介入や競合を醸成した。

下練馬村名主木下作右衛門宛に下村の佐兵衛が出した文政五年(一八二二)「下御掃除下請證文之事」(町田市・木下担家文書)は松平上総介中屋敷の下掃除しもそうじ下肥汲取り)を一か年金三〇両で下請けする契約になっている。この松平上総介中屋敷の人数規模がどの程度のものであったか明らかでないが、充分商売になっていたらしく、七年後の文政一二年に再び七年季の再契約を行なっている。このように下掃除上納金と称する代金を支払ってまで下肥売買の権利人および下請人は商売として成り立っていたわけである。

松平家の如き大名ではないが、次に紹介する文書は下肥の汲取代金と沢庵漬の代金を相殺で納入しようとするもので、練馬ならではの興味ある文書の一つである。

画像を表示 <資料文>

御請書一札之事

一、此度御屋敷様下掃除被仰付候而者、為御掃除代一ヶ年金弐両差上可申候、右者沢庵大根千五百本被仰付候為代、被下置候筈奉畏候。然ル上者年々大根定直段ヲ以、沢庵附込差上可申候、尤壱樽ニ付拾四匁ッ、十五樽乄金三両弐分、右之内御掃除代金弐両引残金

壱両弐分者七月十二月両度ニ御渡被下置候旨奉畏候、仍而御請書如件

天保十二丑年二月

豊島郡土支田村

金次郎

親類 藤五郎

大沢修理大夫様御内

永井権太郎様

小池助三郎様

荘半蔵家文書

つまり下掃除代一年二両のところ、大根一五〇〇本を沢庵に漬込み一〇〇本一樽として代銀一四匁ずつ計一五樽で金三両二分(金一両につき銀六〇匁、一両は四分)を納め、差額一両二分は七月と一二月に支払って貰うという契約である。

この下掃除はいずれも年間契約で支払われたものであるが、その代金は屋敷の住込人数に関係するのは勿論、武家屋敷の場合、大店おおだなの商家の場合、或いは下は長屋の差配人と契約した場合等住人の階層によって量質を勘案し、肥料としての価値で相場が決められていた。

主な農産物

練馬といえば大根、大根といえば練馬といわれるほど、当時でも練馬大根は文字通り人口に膾炙されていた。『新編武蔵風土記稿』でも豊島郡の総記で産物の筆頭に練馬大根をあげている。即ち

<資料文>

蘿蔔だいこん 郡内練馬辺多く産す、いづれも上品なり、其内練馬村内の産を尤上品とす、さればこの辺より産する物を概して練馬大根と呼、人々賞美せり と。

また『四神地名録』の著者古河古松軒はその中で、江戸の文人大橋方長はその著『武蔵演路』で、僧十方庵敬順は『遊歴

雑記』の中でそれぞれ練馬大根は日本第一なりと絶賛している。

練馬の土地に応じた主な産物のうち大根については別に詳述されるので、ここではこれを省き、大根の他にどのような農作物が栽培されていたか村明細帳を中心に見てみることとする。

まず文政年間、『新編武蔵風土記稿』編纂のために各村から提出させた「地誌調写置」(長谷川家文書)には「土地ニ応ゼシ産物」として次のようにある。

<資料文>

上練馬村 蕪・大根

土支田村 粟・芋・大根・稗・牛房・飼葉類

中村 大こん・いも・独活うど・なす

上練馬村文政四年(一八二一)の「村方明細書上帳」(長谷川家文書)には更に詳しく「当村之儀、大麦・小麦・粟・稗并大根等、米ハ少なく御座候、中稲・晩稲ばかリニ御座候、村内衣食之助ニ相成候品何にても無御座候、平年とも蕪大根并野田ニ有之候摘草等仕、かてニ相用ひ申候」とある。

上練馬村文政三年(一八二〇)「物産書上高組帳」(長谷川家文書)にはこの年の生産高を次のように記している。

<資料文>

生大根 二五〇〇駄 代銭 一七五〇貫文(一駄百本 代銭七〇〇文

干大根 二七五〇駄 代銭 四六七五貫文(一駄二百本 代銭一七〇〇文

牛房 八一七駄 代銭 二〇四二貫五〇〇文(一駄四百本 代銭二五〇〇文

茄子 二四〇〇駄 代銭 一六八〇貫文(一駄千二百本 代銭七〇〇文

加蘿蔔かぶ 五二〇駄 代銭 四一六貫文(一駄五百本 代銭八〇〇文

合計一万五百六十三貫五百文

千五百七拾六両余 相場両六貫七〇〇文

また土支田村では享和四年(一八〇四)「村方之儀明細書上帳」(小島家文書)などに産物は「せんざい物・茄子・牛房・大根、米は少々、麦・稗・粟之外格別多く作出候物無之、米は至て晩稲之場所に御座候て、村内より出衣食之助ニ成候者無御座候、飢饉の節は菜・大根・ひば・はんご・摘草等ヲ糧に相用申候」とある。前栽せんざい物は一般のあおもの、野菜のことをいい、干葉ひばは大根の茎葉などを乾燥させ飢饉などの備荒食糧として保存しておいた。<圏点 style="sesame">はんご反魂草はんごそうであろう。キク科の多年草で若芽を食用とした。

下石神井村では同村絵図(豊田家文書)添書きに「土地生産の品」として大麦・小麦・稗・黍・蕎麦、外に青物は大根・牛房・茄子などであると記している。

小榑村では麦・粟・稗・いものほか米を作付していた。米は三月中旬(旧暦)に種をおろし、五月中旬より六月中旬迄に植付け、九月より一〇月中旬迄に苅取をした。田方一反に付、籾種一斗程、但し両毛作はしていなかった。

関村の場合、米は田一反につき種一斗二升を四月に<圏点 style="sesame">つみ付けた。関村では摘田つみたが多かったようである。摘田は水の多い水田(深田)などで別に苗代を作らず、直に籾を蒔き、苗が生じてから多過ぎる所を適当に摘み去り、他を育てる田のことをいい、か蒔とも呼ばれた。中新井川沿いの深田では大正期まで行なわれていた農法である。

土支田村でも「田方仕付時節、八十八夜より苗間蒔付、尤過半つみ田ニ仕、残り候分は植田ニ仕、惣て中稲・晩稲作り付申候」とあり田の半分以上がつみ田で、苗代を作る植田はわずかであった模様である。

練馬の米は惣じて晩稲おくてであって、早稲わせ・中稲に比べ成熟の時期がおそく、通常一二月中旬に出廻る新穀を指していった。

農家経営の一例

では実際の農家経営の状態はどうであったろうか。ここに安政二年(一八五五)大久保仁斉が著した『富国強兵問答』に練馬の農家経営についてその収支を示した例がある。やゝ長文であるが当時の農業の実態を知る上でも重要な点を多く含んでいるので掲げておく。

<資料文>

爰ニ農家ノ恒産ヲ論ズルニ僕先ニ聞ケルコトアリ、曰ク良農夫一人妻一人しげキ時ニハ日雇一人ヲ頼ミテすべテ三人ニテ田一町ヲ耕スベ

シ、而シテ種一こくヲ蒔テ穀四十斛ばかリヲ穫スベシ、是ヲ摺テ米二十斛モ有ルベシ、御年貢諸掛リ五斛ヲ納メテ残リ十五斛計リモアリトシテ、其内五斛ハ田ノ地主へ納メ全ク十斛計リガ作得ナルベシ。

又畑五段計リヲ転シテ大根二万五千根ヲ得ルトス、但シ一段五千根ノ積リナリ、是ヲ売テ銭百卅五貫計リニナルベシ、但シ一根五文二分ノ積リトス、此内こやし代五十貫ヲ引キ、又江戸ヘノ舟賃二両二分、運送ノ駄賃四十貫ヲ引キ、残リ廿八貫七百五十文計リガ全ク得分ト知リ玉フベシ、扨又五段ノ内三段計リヘ麦ヲ作リテ六斛計リモ得ベシ、御年貢三貫程ヲ上納シテ残リ廿五貫七百五十文計リニ充ツベシ、此金四両計リトス。然ラバ米十斛麦六斛ヲ一夫一婦一年ノ辛苦料トシテ、是内ヨリ夫婦ノ食ヒ扶持、麦三斛六斗、米一斛余ヲ引キ、又日雇ノ食ヒ扶持米五斗麦一斛八斗ヲ引キ、正月ノ餅米三斗余ト種穀一斛ヲ引キ、又子供アレバ其食一人ニ九斗計リト積リ、又親属故旧ノ会食二斗計リヲ引キテ、米七斛二斗計リヲ残スベシ、此金七両余ニ充ツベシ、畑ノ得分ト相合シテ十一、二両ニハ過グベカラズ。

扨又此内ヨリ塩・茶・油・紙ノ費ヒ二両計リ、農具ノ価ヒ、家具ノ料共ニ年三両計リ、薪炭ノ料一両余リ、夫婦子供ノ衣服共ニ一両二分余リトナシ、春ヲ迎ヒ、歳ヲ送リ、魂祭・年忌・仏事ノ入用二両余リ、日雇ノ給分一両二分余リ、親属故旧ノ音信贈答一両計リトナシテ都テ十両余ヲ引キ、残ル処僅カニ二、三分ニ不レ過、故ニ風寒暑濕ニ侵サレ、一、二月モ怠惰スレバ収穫ニ損アリテ医薬ノ料ニ事欠クベシ、あに酒色ニ耽楽スルノ余財アランヤト。

武州豊嶋郡練馬辺ノ老農ガ談ナレドモ未ダ其一ヲ知テ其他ヲ知ラザルノ会計ナリ。抑々練馬ハ大都近郷ニシテ、其産スル処何是レトナク利潤ヲ得ヤスク、是ヲ以テ民生おのずかラ怠惰シ安ク、ヤヽモスレバ商業ノ業ニ因循いんじゆんシヤスク反テ家産ヲ失フ者多シ(ふりがな筆者)。

これを表にまとめて見ると次ページの通りとなる。年貢・小作料・日雇の給料その他日用必需品や交際費を支出して尚僅かではあるが黒字になっている。無論病気や他の臨時的支出があったり、凶作等に遭えば忽ち赤字になるのは必定である。「あに酒色に耽楽する余財あらんや」と述べているが、酒色どころでないことは一目瞭然である。

ただこの著者が「そもそも練馬は江戸の近郊であるから、生産するものはすべて利潤を得やすく、ために農民は怠け心をいだき、ややもすれば昔からの習慣を固執して進取の気質に欠けるから、かえって家の財産を失う者が多い」と戒しめてい

るのに注目してよい。この収支勘定は「文政年間漫録」(『未刊随筆百種』第一巻所収)にも徳丸村農夫の談として概ね同じ数字を紹介している。

図表を表示

いずれにせよ江戸時代の農民生活は、牛馬にひとしい辛い政治と重い年貢のはざまで、苦しい課役に遭っていようとも、更に一言も言い訳はならず、そのため身代を潰し、妻子を売り、或は疵を蒙り命を失ふ事など限りなくあろうとも、また不断罵詈雑言ばりぞうごんをあび、打擲ちようちやくに逢うとも生きつづけなければならないのが百姓であった(田中丘隅『民間省要』)。

<資料文>

田畑の得分 田七両+畑四両=一一両

支出 日用品・農具など △三両

薪・炭 △一両余

衣服 △一・五両余

冠婚葬祭 △二両余

日雇の給分 △一・五両余

音信・贈答 △一両 この計一〇両余

差引残高 〇・五~〇・七両(一両=四分)二~三分

<節>

第二節 練馬の河川とその効用
<本文>

人類の文化が河川流域に発生し発展していったという事実は世の通説で、ここ練馬地域でも石神井川・白子川・中新井川の流れを挟んで古代から人々の住む所となったのは、そこに分布する遺跡群で判然とするところである。

時代は降って平安末期から鎌倉初頭にかけ、西ヶ原台地の中心平塚(北区)に拠ったとされる豊島氏は、室町時代にかけて台地に貫流する石神井川を遡って練馬・石神井にその版図を拡大していった。歴史をひもとくまでもなく人は常に河を巡って戦いの血を流し、川に平和な暮しを求めて来た。

練馬にはそうした二、三の川が西から東へ、南から北へと流れている。こゝではそれらの川々が特に江戸時代、農民たちとどのような関わり合いをもっていたか夫々について考えて見ることとする。

石神井川

まず『新編武蔵風土記稿』豊島郡の総記に次のようにある。

石神井川并王子川 郡の西上石神井村三宝寺池より流出す、又関村溜井の下流も此川に合して一条となり、下練馬村に掛りて近村の用水となり、下板橋宿字根村と云所に堰枠を設け、北の方に引分ち、十条村に達する一条を根村用水と号し、十条・神谷・稲附・岩淵・下村・板橋六村に注ぐ。本流は根村より東北に流れて滝野川村に入、夫より王子金輪寺峡下にて石堰を構て三派に分つ、一派は南流して二十三ケ村組合用水、一派は北流して豊島・十条・王子三村用水となる。本流は東の方梶原・堀之内・豊島にかゝりて荒川に入。此川路凡四里、川幅五間より七八間又は十二間の処もあり、此川王子村にては王子川と称す。

こうしてみると石神井川は練馬の地域では一条の小さな流れであるかも知れぬが、少なくとも四〇か村を超える村々に農業生産の上で欠くことの出来ない用水を供給する大いなる母の川であった。

昭和の初め高橋源一郎はその著書『武蔵野歴史地理』の中で興味ある「石神井川論」を展開している。それによれば石神

井川は板橋の中宿から上流、練馬地域を含めて三里たらず、両岸に開かれた水田の幅平均二丁あるとしている。これを反別になおして流域の総水田面積二四〇町歩、この辺の田は一反平均二石位の米を産する割合であると見て、全体で四八〇〇石の産米があるはずである。日本人の米の消費高平均一人一石と見れば四八〇〇人の人口を養い得る。即ち石神井川のこの流域だけで四八〇〇人の人々が生存し得られる訳である。そして結論として「此川はなかなか大なる効益を人間に与えて居る」と言っている。学者らしい推論であるが、果して江戸時代に石神井川流域でこれだけの水田経営がなされていたかどうかは疑問である。村に残る古文書から判明する水田は、下練馬村四五町歩、上練馬村三六町歩、石神井村一五町歩の合計九六町歩にすぎない。しかし上練馬村を例にとって、下練馬村境いの中ノ橋から、谷原村境いの境橋まで距離約二〇〇〇mを高橋式計算で反別を推測すると四三町歩になる。この付近は流域の谷が狭いので割引して考えると文政四年「上練馬村村方明細書上帳」にある田方反別三五町八反余に近くなる。

もう一つ石神井川で着目すべきことは、この川の流域沿岸に氷川神社の多いことである。上石神井村・谷原村・下練馬村・上板橋村・下板橋村といずれも村の鎮守となっている。氷川神社は本来出雲国簸川ひのかわの川上に祀られた水の神であるという。簸川は素戔鳴命すさのおのみこと八岐大蛇やまたのおろちを退治した神話に現われる川で今日の斐伊川ひいかわに擬定される。そのためすべての氷川神社は素戔鳴命を祭神として祭っている。

昔からこの地方の農民が石神井川に対して如何に多くの恩恵を受け、旦尊敬の念を払っていたかはこの一事を見ても窺い知ることができる。

練馬の氷川神社は石神井川を挟む谷の台地上に建てられている。石神井川の流路は迂曲し奥が深いため、水量は比較的に多く、しかも緩急の流れが著しく、両岸は広い氾濫原をかかえ、時に沼沢となり、時には大乱流する。この川の流量を減少させ沿岸を整備することによって莫大な耕地が開拓できると考えたのは豊島氏であるとする説がある(前島康彦「石神井川私考」練馬郷土史研究会々報六九号)。

石神井川の流路は曲折しつゝ、王子の台地に突当るが、その洪積層の台地を削切貫流するだけの流力は川自体にはない。上流は奥が深くても概ね平坦で水力がないからである。今日音無橋(北区)の架っている王子神社脇の深い谷は人力によって開析されたに違いない。これを敢て断行したのは豊島氏以外にはなく、その目的は台地に流水を貫流せしめて荒川に落とし、上流の滞水地帯を干拓し耕地化することにあった、とするものである。このことは今日の地形からも充分推測できる説得力ある卓論といえる。

かように練馬地域のみで優に一五〇町歩を超えるであろうと推定される水田を持つに至った石神井川水系は、勿論灌漑用水としての役目を果しつづけた。更に、江戸時代後半から特に明治近代化の波に乗っては、水車利用という別の面の恩恵をも流域村々に与えて呉れたのである。

白子川

白子川は『新編武蔵風土記稿』豊島郡の総記に「郡の西北新座郡小榑村と当郡土支田村の界、井頭より出、郡界を流れ、下流上赤塚村内にて荒川に入。水路凡一里半余、川幅二間より四、五間に至れり、下流成増村、赤塚村の辺にては矢川と呼ぶ、此川赤塚郷中の用水に引注ぐ」とある。

白子川流域沿岸には旧石器時代からすでに人が住んでいた。それは西岸の大泉学園町遺跡・丸山遺跡・橋戸遺跡、東岸の北大泉遺跡・比丘尼橋遺跡など夙に知られるところである。

白子川の水源、井頭いがしら池は井頭溜或いは弁天池ともいい、今日の大泉井頭公園の場所にあった。約二千坪の自然湧水池で、池畔にいつの頃かこの水によって恩恵を蒙る流末住民の手によって弁財天の祠がまつられ弁天池とも呼ばれた。またその堂宇が屡々火災に遭ったため焼弁天の異名があったという。享保一七年(一七三二)代官日野小左衛門検地による小榑村田方四町六反余(村柄様子明細書)および宝暦六年(一七五六)書上による土支田村田方五町四反余、合せて十町余の田は白子川氾濫原に広がる田場であったと考えられるのが順当であろう。このほかすでに正保年間、橋戸村に米九〇石九斗余りを産する水田があった(武蔵田園簿)が、これも白子川を灌漑利用する田であったのは当然である。

白子川の水流は井頭溜を発してそのまま北行し、小榑村中島付近で下保谷村より東流して来た別流と合する。ここは上土支田村と小榑村の境するところで、また豊島郡と新座郡の郡境ともなっている。両村にまたがる大きな氾濫原には相当の水田が営まれていた。

流れはその後、教学院付近で大きく曲折し橋戸村に入る。下土支田村と境するこの付近はまた最大幅五〇〇mに及ぶ氾濫原をもち橋戸村・上白子村の豊富な田場地帯を形成していた。

白子村に入った流れは一時急を増すが、まもなく城山・市場・吹上の台地下では荒川氾濫原から食い込む全長二〇〇〇mに及ぶ平坦な谷戸を形成し、吹上観音下からいっきに広がる荒川南岸の大穀倉地帯を貫いて荒川に合流する。

白子川水系には文化一三年(一八一六)以降数か所の水車が設けられ、夫々製粉・製麦などが営まれていたが、このことについては別にふれる。

中新井川

中新井川は中村と中荒井村の境、南蔵院の東側(今日の学田公園付近)にあった溜池に発し豊島郡と多摩郡(練馬区と中野区)の郡境を東流し江古田村で妙正寺川と合流する。

この溜池のことは地誌調写置(長谷川家文書)中荒井村の項に「溜池 東西三十間、南北百五十間」とある。また享保一〇年(一七二五)の江古田村鑑むらかがみ帳には「当村川 水上西ハ中荒井村池より、東ハ落合川江流申候」とあり、明和八年(一七七一)の村鑑帳(いずれも中野区江古田堀野家文書)には「此村用水ハ豊嶋郡中荒井村溜池より落水引申候得共旱損仕候」とある。

中新井川の全長は池から合流点まで約三㎞、川幅は上流で一m、下流で二m程度である。流れは中荒井村の西本村・池下いけじた・東本村・弁天前・南於林おはやしを経て江古田村に入り西ノ原・本田・東本村で妙正寺川に合流する。流路は徳田橋下流で北に方向を変え、江古田村寺山(今の国立療養所付近)の北側で大きく迂曲して合流点に南行する。妙正寺川も同様合流点付近で極端な蛇行を示している。

ここで江古田の地名の語源について一言すれば、この付近にエゴの木が簇生していた、古くから水田が開けていたので古

田と呼んでいた、ごまの田が多くあった、などの諸説が流布している。しかしいずれも推測の域を出ず、確たる根拠があってのことではない。

そこで江古田の語源を地勢的に考察してみると、この付近は寺山・天神山・和田山・片山などが形作る複雑な谷が入りくみ中新井・妙正寺の両川がその谷合をぬって迂余曲折しているのであるが、そのような地形即ち、山の凹地など谷合へ水の流れ込んだ所を訛言で<圏点 style="sesame">いご又は<圏点 style="sesame">えごと呼ぶ。柳田国男がその書『地名の研究』でいうように、日本の地名はその処の地形から名付けられる場合が最も多い。江古田の場合も植生・産物からの命名よりも、地勢的な解釈の方がより自然であるといえよう。即ち<圏点 style="sesame">えごに開けた田という謂でこの付近を江古田と呼ぶようになったと見るべきであろう。

さて、中新井の池は江戸時代末期には、池の水は殆ど涸れ沼沢化したらしく、後にふれる千川用水から中新井川へ三つの分水が引かれるようになった。一つは池を真北に延長した中荒井分水、一は桜台(武蔵大学前)より弁財天社西側を通る弁天分水、一は江古田新田(旭丘一丁目)から分れる江古田分水である。

この三分水の助けを借りて中新井川は中村・中荒井村・江古田村の流域三か村の水田を潤すに足る豊富な水量が確保できるようになった。

この中新井川が、流域の農民にとって、昔から感謝の念でむかえられていたことは、この川の流れに沿って中新井村本村と、江古田村寺山の両氷川社が祀られていることでも知ることができる。

千川上水

天正一八年(一五九〇)、江戸入府間もない徳川家康は大久保主水もんと(水は濁らないように<圏点 style="sesame">とと発音した)に命じて井の頭池から神田上水を引いた。この上水が出来てから六〇年、江戸の人口は増加の一途を辿り神田上水のみでは飲料水の需要を賄うことが困難となり、新たに多摩川羽村から玉川上水を引くこととした。工事は総奉行川越城主松平信綱の家臣安松金右衛の設計により玉川庄右衛門・清右衛門の手で、承応元年(一六五二)四月に計画され、翌年一一月僅か一年半の歳月で羽村から四谷大木戸までの全長一三里が完成した。

その後なおも発展しつづける江戸市中に対し、飲料水を供給する目的で万治三年(一六六〇)に青山上水が、寛文四年(一六六四)に三田上水が、さらに元禄九年(一六九六)には千川上水が次々と開鑿された。この五つの上水を江戸の五大上水といった。

このうち、千川上水は最も新しく元禄九年に河村瑞軒ずいけんの設計により徳兵衛・太兵衛の両人が工事を請負い完成させたものである。

千川上水の起立ならびにその変遷については「千川上水起立之義」「千川上水古記録上申」「千川上水路履ママ」(いずれも豊島区西福寺所蔵千川家文書)に詳しい。三書共その内容に大差はないが部分的に精粗があるので、明治一三年まで記録のある「千川上水路履暦」を中心に、他の二書を参考として千川上水の概略を見てみることとする。

千川上水は元禄九年五代将軍徳川綱吉の時代に老中松平甲斐守・加藤越中守の命によって道奉行伊勢平八郎掛りでその開発が行なわれた。設計は当時有名な土木家河村瑞軒の手によって、新座郡上保谷新田地内より玉川上水を分水豊島郡巣鴨村まで五里廿四丁余に亘って新規上水路を堀立てることとした。工事は徳兵衛・太兵衛の両人が協力してその施行に当った。「千川家系譜」によると上水の工事は始め久右衛門が拝命したが、その直後死去したので常陸出身の徳兵衛が久右衛門の未亡人に入婿して仕事を引継いだという。また太兵衛は一書に多兵衛とあり、久右衛門・多兵衛は多摩郡仙川村の出身とも言われている。

上水は玉川上水より三尺四方の水門を以って分水し、江戸小石川御殿・湯島聖堂・上野東叡山・浅草寺の四か所に飲料水として引くのが主な目的であった。なおその余水は土井大炊頭・酒井雅楽頭・阿部伊勢守・松平加賀守・小石川水戸御殿をはじめ神田上水以東の小石川・本郷・湯島・外神田・下谷・浅草辺までの大・小名・旗本・寺々町家に至るまで飲料水として掛渡した。江戸市街地のほゞ三分の一に当る地域を潤したこととなる。

工事は幕府の見積った費用では当然足りず、両人が私費を投じて完成させた。両人はその功により名字帯刀を許され、千

川の姓を賜ると共に小石川指ヶ谷町に役宅を拝領し、千川上水路取締役を仰付けられた。

その一一年後、宝永四年(一七〇七)流域農民の歎願で上水の余り水を田の灌漑に利用することが許されることとなるが、その間の事情を「千川文書写」(東京都公文書館蔵)は次のように語っている。

<資料文>

宝永四亥年、右千川上水堀通左右村々百姓申合、徳兵衛・太兵衛江相頼申候ハ右村方田場天水場ニ而年々難儀仕候ニ付、右御上水を用水ニ少々宛分水仕度奉存候間、此段相願呉候様申候ニ付、則此儀承届其節御懸リ御奉行高林又兵衛様・松下権兵衛様・小宮山庄五郎様・荒川八兵衛様右御懸リ江奉願上候処、御糺之上御上水吐水ヲ以村々田場用水ニ被下置候、依之田壱反歩ニ付為水料と米三升宛年々村方より右両人之者共江請取、此為冥加御上水堀通ニ御入用ニ而相建候御高札拾六ヶ所御座候内八ヶ所新規修覆共請負人共より永々仕立差上可申段奉願上候処願之通被仰付候(下略

こうした歎願の末ようやく許可となり夫々の村に分水口を設けて給水を開始した。田用水の供給をうけた二〇か村(時代により一九または一八か村の時もある)は利用組合をつくり、水料として田一反に付玄米三升ずつを納入する取決めであった。この利用組合のうち練馬の村々は上石神井・下石神井・関・中村・中荒井・下練馬の六か村であった。

千川家は三代源蔵の時、それまで江戸の町中に住まって居たが、それでは千川の管理維持の仕事に滞りが出来るというので元文二年(一七三七)下練馬村に引移り、以後昭和二〇年代までここに住まった。今も北町二丁目の阿弥陀堂には源蔵以下累代の千川家墓地がある。

千川から水を引いた水田面績は凡そ百町歩に及んだといわれ(練馬区教育委員会編『練馬の水系』)、その中練馬の利用反別ならびに石高は寛政四年(一七九二)の千川善蔵が御普請方御役所へ提出した書類(都公文書館蔵「千川文書写」)によると次のとおりである。

<資料文>

中荒井村 田 一一町一反六畝六歩 此高八六石余

中村 田 五町五反歩 此高四九石余

下練馬村 田 二町九反歩

左ニ奉申上候三ヶ村ハ千川用水組合村ニハ有之候得共、其所之有水ヲ以田場仕付、千川用水ハ当時引入不申候、且又植付不残相済申候

上石神井村 下石神井村 関村

この間、千川上水は正徳四年(一七一四)市街地への大部分の給水を停め巣鴨村で打ち切り、享保七年(一七二二)には飲料水としての上水は廃止となり田用水としてのみ用いられるようになった。

幕府は玉川上水の水量が減少したときは、その減水の程度に従い、各用水の圦樋いりひを二分あきとか三分明に制限し、最悪の場合は完全に閉鎖する処置を執った。

享保一七年(一七三二)水門の元樋口竪三尺、横三尺五寸のところ、一尺四方の埋桶に減ぜられ、用水不足をきたした流域村民は再三歎願を重ね元文二年(一七三七)元樋二尺に一尺五寸と若干広げられた。また明和八年(一七七一)には干魃によって玉川上水が渇水し、千川上水は差塞さしふさぎとなる事態が起きた。このとき下練馬村から千川家を通じ次のような歎願がなされている。

<資料文>

練馬村分水口之儀、百姓共申来候ハ今日中ニも水相懸リ不申候ハヽ最寄之水を以田場少々も相仕付申由申候、左候得ハ入用も殊外相懸申候間、千川水料米差出候義ハ相成不申候由申来候、右之通ニ御座候間何卒御慈悲を以水口明候様御願奉申上候 已上

                                          (都公文書館蔵「千川文書写」

元樋口は半あきの処置となり田養水として利用している村々では一息つくことができた。

上水から各村々への配水は分水口を以ってなされた。宝永頃の千川文書では練馬地域の分水は次の三か所であった。

一、関村水口 内法うちのり五寸四方 此水口より上石神井村、下石神井村に相懸り申候

一、中村水口 内法三寸四方 此水口より上鷺宮村江相懸申候

一、中荒井村水口 竹戸樋

その後幕末までに下練馬村用水および中村と中荒井村境の分水が開かれ計五か所となった。

かように各所に分水口があったため、わずかな引水制限でも水しもの村は忽ち用水に欠乏するのが実情であった。多量の用水を必要とする田植時などには、その制限をできるだけ避けるようにしたが、用水の利用組合では何らかの自主規制を行なう必要があった。例えば隔日通水の「番水約定」を決め、上郷各村から分水口の樋口に人足を出し、村役人立会で昼夜監視する方法などもとられた。この番水による配水規制は上郷と下郷との間の用水量の不均衡を是正するのが目的であったが、同時に渇水期はいわゆる「我田引水」をめぐる水喧嘩を激化させる原因ともなった(『東京百年史』)。

千川の水料は先にふれたように田一反に付米三升の取決めであった。安永二年(一七七三)の記録によると千川利用組合一九か村全部で二六石二斗二升四合三夕の水料を千川家に支払っており、そのうち練馬地域では上石神井村一石三斗五升、下石神井村一石五斗二升、中村六斗、中荒井村三石五斗、下練馬村八斗六升八合二夕の合計七石三斗四升三合二夕であった。これを反別になおすと二四町四反余となる。

翌三年から増水口運上金(水税)が課せられるようになり、年間金四両一分の運上金を千川家で負担することとなった。

かくて千川上水は専ら農業用水としての役割(もちろん飲用としても使われた)を果しつつ幕末から明治に至るのであるが、昭和に入ってからも最大取水量毎秒〇・八四四m、灌漑面積八八町四反歩、利用人員二七五〇人(うち飲用二一三〇人)、水車四台、庭園引水(六義園)一か所(昭和六年「東京市第二水道拡張計画参考書」)という往時に変らない恩恵を流域農村に与えつづけてきた。なお、千川上水については東京市『東京市史稿上水編』、練馬区教育委員会『練馬の水系』(昭和五一年)、武蔵高等学校『千川上水』(昭和一六年)、都立板橋高校『千川上水沿線集落』(昭和三一年)などがあり参考とした。また、田柄川用水については近代の部でふれる。

水車稼の発生

すでに見てきたように練馬を含む武蔵野の開発は寛文・延宝期に盛んに進められ、元禄年間に於ては各村とも正保期の二倍以上の村高を記録するに至った。

その後享保八年(一七二三)の新田開発令によるいわゆる後期新田開発は、大岡越前守忠相をして担当せしめ、元文年間には全武蔵野に八二か村の新田を成立させた。ここに入会地としての武蔵野はほとんど消滅し、以後この地方での開発は極く局部的なものに限られ、事実上の新田開発はこの時期で終ったと見られている。

こうして限られた土地で生産効率の高い農業を遂げる方法としては作付品種の選定と購入肥料の問題が考えられるようになった。

肥料の問題は、開発によって秣場としての入会地が消滅すると、馬糧の取得が困難となり勢い馬匹の飼養が減少して厩肥の供給難から購入肥料(金肥きんび)への依存度が必然的に高まるようになる。勿論、窒素肥料としての草自体の入手難もそれに拍車をかけたに相違ない。

江戸時代の農業経営において肥料のもつ重要性は今更言うを俟たないが、購入肥料が多く用いられてくると、そこに商品流通による貨弊経済の発展を促すこととなる。練馬の場合は主として蔬菜類の生産販売という形で商業的農業の伸長を見つつ貨弊経済の渦中に捲き込まれてゆくのである。

江戸時代に於ける武蔵野地方での基本的な購入肥料は下肥と糠であったといわれる。下肥は既述の如く主として農家自身が各自の得意先と年間契約をもって農作物と代価相殺の形で購入していたが、糠は江戸の糠問屋から仕入れていた。江戸中期以降になると練馬の村々から馬を引いて江戸市中に農作物を売りに出掛け、戻りの馬に下肥や糠をつけて帰る姿が見られるようになる。清戸道(明治以降の名称)を一名<圏点 style="sesame">おわい街道と呼んでいたという伝承も頷ずかれるゆえんである。この地方の農業経営のあり方は自給自足的なものから江戸を対象として穀類や蔬菜類を販売し、替りに肥料を購入するものへと変っていった。

こうした農村における農業生産の様態の転換があった一方で江戸市中においてもその食生活に変化が見られた。その一つに白米の需要増がある。江戸へ入荷する米は多く玄米であった。江戸時代中期以降江戸では白米食が一般的になるとつき米屋と称する米の小売商が玄米で仕入れた米を踏臼で精白して販売した。しかし、人力による精白では需要に応じきれぬ反面、幕府が米の流通経路を確立させた享保期になると、白米の江戸流入が問題となった。即ち享保一六年(一七三一)に江戸への白米廻送が禁止されているところから、原則として玄米で廻送されるべき官許の流通路以外に精白した米の廻送があったことが窺われる。

また江戸の食生活の変化のもう一つに元禄頃より饂飩うどん蕎麦そばなどの粉食が盛んになったことがあげられる。市中では<圏点 style="sesame">うどんや<圏点 style="sesame">そばを商う店舗が見え始め、天明年間の「江戸食物重宝記くいものちようほうき」などには名代の麺類を食べさせる店として六六の店舗が数えられている。

斯様な米の精白、小麦・蕎麦の製粉などの需要が高まりつつある状況の中で、人力をはるかに凌駕する効率をもった水車による精白・製粉業が武蔵野の諸水系沿線に発生し、次第に発展していった。

「上水記」(『東京市史稿上水編』)によると玉川上水系で宝暦一一年(一七六一)に多摩郡下小金井村(小金井市)の百姓才治が水車開設したのを端緒として、翌一二年には新座郡引又村(志木市)に百姓太兵衛が杵数一四本の水車を設置、以後毎年一、二基の水車が起立された。特に天明元年(一七八一)には年間六基の開業があり、同八年までの二十数年間に玉川上水系のみで三三基の水車稼の設立を見るに至った。このうち千川上水を利用したと思われる(上井草村田用水)水車は、天明元年開設の上井草村(杉並区)百姓伊左衛門所有のもの一基である。

練馬ではそれより大部遅れて文化四年(一八〇七)中荒井村名主伝内と上石神井村百姓勝五郎より千川上水堀に水車を取建てたい旨の願が出されるのが初見である。

<資料文>

乍恐以書付御届奉申上候

一、早川八郎左衛門様御代官所千川用水組合村豊島郡中荒井村名主伝内

一、同御代官所同郡上石神井村百姓勝五郎

右者共千川用水堀ニおゐて水車仕度目論見当時組合村ニ懸合仕候趣ニ御座候、此儀懸合相済候ハヽ当御役所様江御願ニ罷出可申哉と乍恐奉存候間、此段為念御届奉申上候 以上

文化四卯年三月四日

千川善蔵

御普請方 千川金七

御役所様

この願いは結局千川上水では天明以降水車の新設を許可しない役所側の方針に基づいて却下された模様であるが、その裏には水下組合村々の強い反対があったことが想像される。即ち

<資料文>

乍恐書付ヲ以御届奉申上候

一、当三月四日ヲ以御届奉申上候中荒井村伝内、上石神井村勝五郎水車之儀、右車仕立候而者用水差障ニ相成候段、組合村方より私共江申聞候ニ付此段為念御届奉申上置候 以上

文化四卯年五月四日

千川善蔵

御普請方 千川金七

御奉行様

この事があって更に二年後の文化六年、今度は中荒井村の百姓五郎作と上練馬村の百姓左内から同様千川上水への水車取

建願が出された。千川家では用水への新規水車を取止めるよう再三説得したが、本人たちは不承知で代官所宛に直接出願したというものである。その間の事情を知る上で興味深いので全文を次に掲げる。

<資料文>

乍恐書付ヲ以御届奉申上候

一、此度千川用水組合村浅岡彦四郎様榊原小兵衛様御預リ所中荒井村百姓五郎作と申者、千川用水路ニおいて新規水車取立度旨申来候ニ付、此儀者去年五月中当御役所様より私共江被仰渡候ハ千川用水路ニ而以来新規水車ハ不相成候間、此段可相心得旨被仰渡奉畏候ニ付、此趣右五郎作江申聞、殊ニ用水路水車ノ多分有之候而ハ田方用水差障ニ相成候故、水車願出候儀者相止メ可申由申聞候得共、承知不仕一応御代官所様江願上度由相答申候

一、此度同用水組合村之外大貫次右衛門様御代官所上練馬村百姓左内と申者、千川用水路ニおいて新規水車仕立度、先月中御支配御代官所様江願出候由此節相届来候、此儀も願出候已前ニ申来候ハヽ差止メ可申候得共、最早願出候後申来候儀ニ御座候、右用水通リ此後水車出来候而ハ田方用水差障リニ相成候間何分御勘弁奉願上候

右両人共水車之儀、当御役所様江御願可奉申上哉と奉存候ニ付為念此段御届奉申上候 以上

文化六巳年四月五日

千川善蔵

御普請方 千川金七

御役所様

三通とも千川家文書

このように千川上水への新規水車設立は厳しく規制されており、遂に明治に至るまで、この水系での水車稼は見ることが出来なかったが、白子川水系では間もなく土支田村利左衛門水車が設立されることとなるのである。

水車製粉業の成長

千川上水における水車設立が問題となっている頃、白子川水系では文化一三年(一八一六)新規に水車が開設する運びとなった。土支田村の利左衛門水車である。この水車は今は活動こそしてないが、加

藤喜八家(土支田四丁目)に現存しており往時の偉容を残している(現存の水車はその後大型に改造されたものである)。

<資料文>

乍恐以書付奉願上候

御拳場

当(小榑)村水元用水路流

武州豊島郡

新規 土支田村

一 水車壱ヶ所

さし渡 壱丈

一 武州豊島郡土支田村 組頭 利左衛門

奉申上候当(新座郡小榑)村水元用水路分水ヲ以前書之通水車壱ヶ所取立、手前雑穀并村内少々宛之穀物作間春挽いたし、尤用水路水之事故毎年四月より七月迄ハ水車相休八月より三月水車相稼度、依之村内ハ不及申ニ水上水下之村々へ夫々掛合候得共、聊故障無之候ニ付、何卒以御慈悲可相成御義ニ御座候ハヽ当子より壱年水車被仰付被下置度奉願上候

然ル上ハ相当之冥加永被仰付次第御上納仕候、別麁絵図面相添奉差上候、何分ニも御憐愍ヲ以右願之通御聞済被下候ハヽ難有仕合奉存候

豊島郡土支田村

文化十三子年 願人 組頭 利左衛門

加藤喜八家文書

利左衛門水車も開設に当って下流白子村農民の反対を受けたらしく、同家文書の中に白子村との間で次の約定がなされてはじめて承諾を得た経緯がある。即ち、取水の堰を高くする場合は白子村側の意向を聞きその通りにすること、出水の節には堰を取払いなるべく田畑への差障のないようにすること、川筋が変わったり崖崩れが起きたりした時は竹木や土嚢どのうを出し

村民の指図に従うこと、および、三月中旬より八月中旬まで水車を休ませることの四か条を約束してようやく水車を設置することができたのである。

同じ頃石神井川にも水車が一か所置かれていたことが文政四年(一八二一)の上練馬村村方明細書上帳(長谷川家文書)によって知ることが出来る。同文書に「一、水車 壱ケ所 利左衛門・佐五右衛門」と記載されているが、この利左衛門は土支田の利左衛門とは別人で上練馬村の名主利左衛門である。連名の百姓佐五右衛門は水車請負人と思われるが嘉永以降の村明細書では名主の代が倅又蔵に替り佐五右衛門の名は見えなくなる。

両水車の規模は土支田村利左衛門水車は挽臼二、舂臼五であり、上練馬村利左衛門水車は挽臼二、舂臼一〇と上練馬の方が規模は大きかった。

水車稼には租税の一種である運上金が課せられていた。土支田村利左衛門は頭初永二八二文、後に二八七文(慶応二年)を上納しており、上練馬村又蔵は慶応三年で冥加永一貫文を納めていた。これに対して水車稼の収入の方はどのようなものであったか、文政二年の水車仲間議定書には「大麦一石に付賃一〇〇文、粟一六四文、餅米二四八文、餅粟同前、米二〇〇文、小麦六六四文」と取極めている。製粉能率の記録は同時代のものは管見にして求め得ないが、江戸時代と大差ないと思われる明治七年の「水車稼人書上帳」(加藤喜八家文書)に次のようにある。但しこの時点での土支田村利右衛門水車の規模は水輪の差渡一丈八尺と創設当時の二倍となっており、挽臼は差渡一尺七寸、舂臼は一斗舂の臼を使用していた。

<資料文>

えい水之節(水が充満している時

米壱斗 搗立四時間   米壱斗 舂賃 金五厘

麦壱斗 搗立三時間  大麦壱斗 搗賃 金四厘

粟壱斗 搗立四時間   粟壱斗 搗賃 金五厘

小麦搗立 壱柄ニ付 十二時間 小麦八斗

此挽賃小麦壱斗ニ付  金三銭五厘

つき賃・ひき賃については貨幣単位の相異で一率に比較は出来ないが、概ね先の水車仲間議定書の価格を踏襲しているものと思われる。

水車製粉業の実態は付近百姓からの依頼による賃挽・賃搗のほか、小麦とか蕎麦などの原料を近在農家より仕入れ、製粉して小麦粉・蕎麦粉として江戸へ直売する営業も行なわれていた。こうしたことは江戸の麺類渡世人仲間で問題となっており、天保五年(一八三四)水車稼を行なっている農民一八名を取締ってほしいと、町奉行所へ訴え出ている。『公用分例略記』(田無市・下田富宅家文書)にその訴状が収められている。

<資料文>

――仲ヶ間之もの共蕎麦并小麦粉名こな類在方より直売いたし候もの有之、雑穀問屋共より故障不申追々猥ニ相成候処、近年在方百姓手広ニ渡世いたし候もの共密々申合蕎麦小麦乄買致し追々相場引上ヶ別而此節者格別之高直ニ相成候――

訴えられた水車稼人一八名の農民は田無村を中心に保谷・白子・赤塚・高井戸などの百姓が含まれ、中に下石神井村の百姓勝右衛門の名も見える。この問題はその後幾多の変遷を経て安政三年(一八五六)水車稼人六一名の結束によって粉類の直売権利が確立した。その中には勝右衛門に替って上石神井村名主仲右衛門が加わっている。

翌安政四年水車稼人らは粉の直売権利を守ると共に、利益の確保維持を目的として水車人仲間を結成した。南は玉川、西は府中、北は川越街道に至る広範囲に亘るもので水車稼人九五名が加わった。組合は南北二つに分けられ、夫々はまた幾つかの組合に分かれていた。白子組行事(頭取)に土支田村利左衛門が当り、上石神井村仲右衛門は保谷組に、上練馬村又蔵は白子組に属した(『公用分例略記』)。

これら水車稼人の階層は練馬の三名を見ても判るように土支田村の利左衛門は組頭、上石神井村の仲右衛門と上練馬村の又蔵はいずれも名主であり、開設までには至らなかったが先の中荒井村伝内もまた名主である如く殆ど村の上層階級の者で占められていた。それは水車開設に当って相当の資本が必要であったのは勿論、水車設置後の経営維持にも莫大な資金を要

したためである。

斯くして武蔵野の水車稼人たちは仲間同士の堅い結束と、江戸商人との強い連携を保ちつつ江戸地廻り経済の一環を担いながら明治維新の近代産業発展の段階にまで及ぶのである。その過程については別の章でふれる。なお、水車稼の成立より展開についての論考には練馬区教育委員会『練馬の水系』、渡辺猛「江戸を中心とした水車稼の発展」(「東京都立教育研究所紀要」)、伊藤好一「武蔵野地方における近世水車製粉業の展開」(「武蔵野」五九巻二号)などがあり参考とした。

<節>
第三節 変わりゆく農村形態
<本文>

江戸中期以降となると農村の中の構造に顕著な変化が表われてくる。高持百姓は一層その持高を増してゆく反面、零細農民層は更にその貧窮度を深めてゆくのである。こうした貧富の差の増幅は田地永代売買の禁止や、分地制限によって起きてきたもののみではなく、経済的発展による階層分化の結果でもある。

先に引いた享保五年(一七二〇)関村明細帳のごとく早い時期においてさえ全村九八軒中二一軒の水呑百姓を数える例にわかるように、本百姓と水呑百姓との差異は、そのまま他の各村々にも潜在的な階層分化の形として滲透していた。

幕末に近い嘉永七年(一八五四)の上練馬村宗門人別帳(愛染院文書)において四〇石以上の高持百姓三名は名主・年寄・百姓代によって占められている。本百姓の中でも、これら村役人に代表される上層農民と平百姓との関係は、そのまま農村構造の中での経済的な力関係へと発展してゆくのである。

質地と小作の拡大

江戸中期以降の貨幣経済の波は次第に近郊農村部へ波及し、村内に二つの階層を形成して行く。一方の極に位置する富裕な上層農民は村内の有力者としての地位を利用して商品作物の販売により、或いは水車稼・質屋・古着屋・酒屋・穀屋などの農間余業により益々富裕化の進度を早めて行った。他方、下層の貧しい農民は

貨幣経済の中でぜにを使わずにはおれない暮しを強いられ、或いは年貢未進のやり繰りや、生活難に追われながら少ない土地を質入れして一時的に急場を凌ごうとする。が結局は借金の返済が出来ず、土地は流質し農民自身は質物小作人となる。こうして小農民の土地は次第に富農の手に集中し、農民間の格差は益々拡大してゆくのである。

土地の永代売買は幕府から堅く禁止されていたが、実際には質入れという形で富農の手に兼併されて行くのである。練馬でも元禄頃よりこの質地証文が多く諸家に残されており、事実上の土地売買の様子を見ることが出来る。

次に掲げるのもその一例である。

画像を表示 <資料文>

質地證文之㕝

一金壱両者 但し質地本金也

右者当辰御年貢相詰リ金子壱両慥ニ借用申所実正ニ御座候、但し為質物中畑壱反六畝歩之所致し書入、尤年季之義者当辰年より来ル申年迄五ヶ年季ニ相定年季之内本金返済仕候ハヽ右之畑無相違御返し可被成候、尤利足之義者金拾五両ニ壱分之割合を以年々相済可申候、此畑ニ付脇より少も構無御座候、六ヶ敷申者御座候ハヽ加判人埒明貴殿江少も御苦労ニ懸ヶ申間敷候、為後日質地證文仍而如件

天保三辰年十二月

中荒井村

地主 嘉兵衛

證人 清兵衛

年寄 文三郎

同所

利平殿

一杉家文書

寛永二〇年(一六四三)の田畑永代売買禁止令以後、田畑の売買は表向きの御法度として堅く禁止されていたが、実際にはこのように田畑を入質し流すという形で半ば公然と土地の売買が行なわれていた。

この史料は天保三年(一八三二)の年貢が払えなくなった畑主が、一反六畝歩の畑地を今年から五年間に金一両と引き換えで中荒井村の利平に質入れした時の証文である。この畑が流質したかどうか明らかでないが、後にふれる標準質入値段より大部高い金額であるので或いは買戻されているかもしれない。また利息が一五両に対して一分という利率が明示されている。

宝暦四年(一七五四)の小榑村村柄様子明細書(小美濃英男家文書)によれば、この時点での家数一二二軒中他村より質地を取りその質地が流れて自己の所有となって所持する者五人、反対に他領へ質入れし流したあと小作に入っている者九人と記している。明細書には村内同士の質入状況は記載されていないが、当然この数字を上廻るものが質入されたり、流質していると考えられる。

小榑村の質入値段は田は一反に付金一分二朱より二分、畑は一反に付一分より一分二朱となっているが、関村では中田一反に付一か年金二分程、上畑一反に付一か年金一分程で、下・下々田、中・下・下々畑などは夫々に応じて質入価格が定められるとしている(享保五年関村明細帳・井口信治家文書)。因みにこれを今の価格に換算してみると、当時米の価格が一石約一両(四分)であったところから現在の自主流通米一〇㎏(約七升)五二〇〇円として、一反(三〇〇坪)の質入値段は僅か三万五千円余に過ぎない。今の貨幣価値感覚からは全く想像もし得ない相場で田畑の入質が行なわれていたことになる。こうして抵当に入れられた田畑も借金の返済が出来ず流質ともなると金に困る下層農民から金の有る富農の所へ否応なしに田畑の所有権が移行してしまうのである。

しかし田畑の所有権を失った農民たちとて仕事を続けないことには一家の生活が成り立たない。一部には出稼とか日傭取ひようとり

などに出る者もあったが、多くは元の自己の田畑に質物小作人として入ることになる。質物小作人といっても普通の小作人と異ることはない。一定の小作料を田小作の場合は米で、畑小作の場合は金納で支払わなければならない。小作料は上練馬村の場合、文政四年(一八二一)の村方明細書上帳(長谷川家文書)によれば畑一反に付ぜに五百文より一貫文迄となっている。また前掲小榑村の明細書では「畑方小作ニ入候儀、一反ニ付上畑永一五〇文程宛、中畑永一二四文程宛、下・下々畑永六、七十文程宛、田方小作ニ入候儀無御座候」と記している。永銭えいせんは金一両一貫文(千文)と相場は決っていたが、銭貨の公定相場は金一両銭四貫文のところ幕末頃には一両六貫五〇〇文位まで銭相場が下がり、永銭の価値は銭貨の六・五倍にもなった。であるから上練馬村も小榑村も同程度の小作料であると見てよい。

小作とは農地の所有者が自己の農地を自ら耕作経営せずに、農地の所有権を自分の手に留保しておき、その用益権のみを一定条件の下に他人に委ねて耕作経営を行なわしめる制度のことである。元来江戸時代以前の地主は主として荘園所有者或いは社寺等であって、その小作関係は極めて租税的であった。然し江戸時代に至って漸く百姓の存在が支配者によって認められ、その土地所有権も安定してくると、百姓の中で資力のある者は先に述べた方法などによって土地の保有を拡大していった。田畑永代売買禁止令以来再三繰返された土地の売買禁止の法を潜って、これら富農層は他人の土地を漸次兼併し、その結果全部を自耕自作することが出来ずに、不可避的にこれを他人の耕作に委ねるに至った。

斯くて江戸時代の小作制度はそれ以前の室町期の小作制度とは異なった独自の身代隷属的小作形態をとったと考えられ、中小農民による中小小作が広く滲透して行ったのである。これらの小作関係は単なる契約関係ではなく寧ろ従属的身分関係であり、従って小作人は地主に隷従せざるを得ない極めて悲惨な状態に置かれていた。この状態は明治時代に入るに及んで更にその深刻さを増してゆくのである。

農間渡世と質屋組合

農民は農事に専念するのを建前とした。各村の書上を見ても概ね「農業之間男女共ニ薪ひろい候」(小榑村)とか、「農業之間男ハ縄ヲなひ莚ヲ織申候、尤畑多く御座候故年中地拵等ニ相懸り男女共

ニ農業斗仕ばかり候」(上練馬村)というのが極く一般的な農家の姿であった。中には「農業之間男ハ縄をなひ薪木ヲ取、女者少々宛綿を江戸ニ而買調ととのえ、木綿取、着類織申候」(土支田村)と自家用の衣類を手織りする女もいた位のものである。

これが文化・文政の頃となると江戸の経済的発展に影響されて農家の自給自足経済が崩れてきたことは前述した通りである。そうした中でぜにがなくては生活が出来なくなった貨幣経済の発展の一面を窺わせるものに農間渡世とせいがある。

練馬で酒屋・小間物屋・質屋などが現われてきたのはかなり古くからである。享保五年(一七二〇)の関村明細帳にはすでに清酒を商っている者二人、小間物商二人、大工二人が記載されているし、一〇年後の同一五年にはそれに加えて油屋・木綿屋各二軒と菓子屋一軒が新たに増えている。関村は江戸から武州御嶽参詣道に当る青梅街道沿の村だけに早くから参詣人相手の商売屋が成立っていたのであろう。下練馬宿はそれ以上にちがいない。

天保年間にはこうした農業の傍、商売をしたり職人であったりする農間渡世人の調査が度々行なわれた。その目的は農民がこのため奢侈に流れることを制止することにあり、湯屋・髪結・酒屋・小間物商など良俗を害する虞れのある職業を禁止した。このような事情で以後の調査には農間渡世人の人数を実際の数より少なく報告している面もあるが、次に掲げる表は主として村明細帳による農間渡世の商人と職人の数である。

上練馬の場合、文政四年を限って酒類販売業が半減したのはこの業種の禁止令によるものであろう。また元治以降に至って出稼ぎの商人が出て来たのは興味がある。恐らく江戸あるいは近在の祭礼などに際して屋台店を商う小商人たちであろう。医師は専業であって農間稼とは言えぬが参考のために入れた。文政四年には「本道仙亭」と名前が記載されている。本道とは漢方医学でいう内科のことである。この医師は天保三年に「無御座候」と記されて嘉永三年に至って再び一名載るが、この時は名前が記されていない。

農間渡世人の数は幕末に至る程増加の傾向にある。また、小榑村など辺鄙な所程その数が少ないのは需給関係から当然なことであろう。貨幣経済化の進行過程で下層零細農民層の困窮化を物語るものの一つに農村における質屋の発生がある。質

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物によっての金融が一生業として起ったのは遠く室町時代に溯るが、江戸時代も初期頃までの質屋は上方・江戸を通じて市中の武士・町人を対象とした刀剣・書画・骨董・美術品などを取扱う極く限られた商売であった。農村部では富農たちの手によって田畑を質物として金銭を貸す位いで、生業と言う程のものではなかった。

享保八年(一七二三)幕府は始めて質屋・古着屋の組合を結成させたが、当時の江戸の質屋・古着屋は二五三組合二七三〇余軒であった。その後天保一三年(一八四二)に質屋組合は解散し、嘉永四年(一八五一)に再興するに至ったときの質屋戸数は一七五〇余軒に減じていたという(『江戸会誌』)。

前表中文政四年上練馬村明細帳に質物商と明記してあるのは二軒に過ぎないが、土支田村下組天保一二年の商売家取調書上帳(小島兵八郎家文書)の農間渡世人七軒中四軒が質物渡世或いは古着並質物渡世となっている。両村の総軒数から比較して土支田村の質物渡世人の数が高率を示しているのは村の様態を考える上で何らかの示唆を与えてくれる。

この頃になると練馬方面でも質物を商う農民が増え、中には組合に加入せず隠れて質物を扱う者も居ったらしく、次の慶応三年(一八六七)の関口文吉郎家(土支田三丁目)文書では、それら隠れ質屋渡世人を取締ってもらいたいと代官所へ訴えている。

<資料文>

乍恐以書付奉申上候

武州豊島郡上板橋村組合惣代下練馬村年寄久右衛門、同州多摩郡中野村組合惣代豊島郡中荒井村名主伝内奉申上候、上板橋村組合農間質屋稼之もの五拾八人、中野村組合六拾壱人何れも相当之冥加永上納稼来候而巳のみならず仲間議定相定御取締御趣意向堅相守正路ニ罷在候儀之所、右両組合村々之内連年無冥加隠シ渡世いたし候者多分有之候ニ付役人共より精々差留置候得共、今般右之者共年季有之其筋江申立組合村々ニ不拘質屋渡世いたし候杯と風聞有之候旨ヲ以、昨廿二日御取締御出役吉田鄰之助様より両組大小惣代共江内糺被申付候間相糺之上御届申上候此段御訴申上候、以上

武州豊島多摩両郡

卯八月廿三日                                 寄場組合惣代

                                         下練馬村

松村忠四郎様                                      年寄 久右衛門

御役所                                      中荒井村

                                            名主 伝  内

この文書によると練馬方面の質屋は下練馬を含む上板橋村組合に五八軒、中荒井村を含む中野村組合に六一軒、計一一九軒の質屋があったことが判る。この訴状によって取調べられた下練馬村百姓平右衛門と八五郎、上練馬村の百姓七郎左衛門、中荒井村の百姓五作郎の四名は、この年二月に隠し質屋稼が差留められ、その後は稼を一切行なっていない。もし始めるときは定法通り村役人に届け出て組合へ正式に加入してからにするという趣旨の請書一札を夫々代官所に入れて結着した。斯様に貨幣経済の発展に伴う農間渡世特に質屋の発達で一面では農民の生活が向上したと見られる反面苦しい農家経営を強いられる矛盾を包含しつつ農民は日々の暮しを続けていったのである。

<節>
第四節 練馬の鷹場
<本文>

江戸初期の鷹狩り

徳川家康は性来鷹狩りを好んだが、それと同時に武士の訓練と、各地の地勢を察知し、民情を探り、人心の帰趨きすうを知るための資にしたともいわれている。

彼は、晩年、川越・浦和・越谷・戸田方面で、しばしば鷹狩りを行なっている。特に川越の遊猟は、天正一九年(一五九一)一一月を始めとしてその回数が最も多いようである。

二代秀忠もさることながら、三代家光は家康に似て狩猟を好み、主として江戸近郊および西部郊外の王子、中野、杉並、練馬、武蔵野の他、おし、越谷、川越に遊猟している。

家光は、鷹狩りを行なうばかりでなく鷹狩制度の整備に意を用い、寛永五年(一六二八)一〇月には、御鷹場法度を公布した。これは、江戸より五里以内の五四か村を公儀御鷹場として指定し、将軍家以外の放鷹・狩猟を禁じたものである。

『立川市史研究』(第二号)によれば、「大猷院殿御実紀」二二の寛永一〇年(一六三三)二月一三日の条には、「寛永日記」を引用して、「尾紀水三卿に放猟の地をくださる」とあり、その時期を確実に知ることができる。

『大宮のむかしといま』によれば「寛永五年に公儀鷹場を指定した幕府は、御三家、家門連枝、大藩主、幕閣重臣にも鷹狩を奨励し、御借場と称して鷹場を一時的に使用させることもあった。(中略)寛永一〇年二月、幕府は公儀鷹場の外側で江戸より五里から一〇里までの間の地域において御三家・家門・大藩主に対し鷹場を与えた。紀伊家は大宮・浦和領等一三か領内に、尾張家は入間・新座・多摩三郡内に、水戸家は下総小金原地域に与えられたのである」とある。

一橋・田安家の御借場が土支田村に、また上練馬村付近には南部侯の抱地があり、狩猟が行なわれていた模様である。したがって、現練馬区域内には純然たる公儀御鷹場(御拳場ともいう)と、尾張家御鷹場や、両卿御借場が隣接しあい、複雑な鷹場の支配下に置かれていた。

公儀御鷹場・御借場

三宮司の猪狩り

『江戸図屏風』という豪華な屏風には、江戸内外の寛永期から正保期ごろにかけての風景などが、詳細に描かれている(巻頭口絵参照)。

その中に、池のまわりで鹿狩りをしている情景が描かれ、池の近くに「三宮司の御猪狩」と記された貼り紙がある。猪狩りとあっても、屏風には鹿しか描かれていない。鎗持ちなど供の者たちの居並ぶ前に、傘をさしかけた将軍家光らしい人が

おり、そこに為留しとめた鹿が足をしばられて数頭ころがしてある。

当時は猪と鹿とは、共にシシといった。「石神井の猪狩」の中で、萩原龍夫氏は、三宮司とは石神井を指しているものと解されている。

この屏風の下方には、持仏堂らしいものを右手に置く寺院とみられる建物や、池端に松の大木と小さな神社が描かれているだけである。従って、この池を三宝寺池とは断定し難いところである。

この石神井の猪狩りを裏付ける記録として、『徳川実紀』に、正保元年三月二二日、「小園、猪山、柿木山にて猪狩あり。御先へ阿部対馬守重次まかり、供奉は阿部豊後守忠秋つかふまつる。猪十六頭のうち、一頭は御みづから御鎗にて突留給ふ。この日北条新蔵正房は歩行頭の営中当直たりといへども、別の仰により歩行士三十人、雑卒二百人をひきつれ狩場にいたる。石神井旅館にて御やすらひあり、戍刻還御なる。御旅館へ紀邸より使もて杉重のしをさゝげらる。石神井の僧侶四人へ銀十枚、小袖二づゝくださる」とある。

小園、猪山とは遅野井山のことで、上井草村を遅野井村と称したという。また、柿木山とは下井草村の小名でもある。恐らく善福寺池の付近にて狩猟がなされたものと考えられる。『新編武蔵風土記稿』中、下井草善福寺池の項に「往古は二ケ寺ありしが、いつの頃か廃絶して、今はその跡さへ知れず。其中善福寺は、当向ひの小高き丘の上にありしにや」とある。その後、地震によって破壊したため移転したのだという。

しかし、旧井草村(杉並区上井草町、柿ノ木町)で猪狩りが行なわれたとしても『徳川実紀』にあるように、「石神井御旅館にておやすらひあり」として、石神井村で休憩しているのは事実である。また、杉重のしを進呈したり、僧侶四人へ銀一〇枚と小袖二つを与えるなど、いかにも丁重な謝意を表しているのも当時格式の高い寺院が旅館となったためと考えられる。『三宝寺誌』によれば「寛永二年十一月及び正保元年三月、三代将軍家光が当地方に狩猟の際、特に立寄って休息したので、今も山門を俗に御成門と呼ぶ」といった記述もあり、御旅館は三宝寺かと思われる。

将軍家光が休憩可能な格式の高い寺院を擁する村落であれば、かなり発達し整備されていると考えられる。従って、三宝寺池近辺が狩猟場にふさわしい原生林をどの程度抱えていたか疑問である。

ここまで検討してくると、三宝寺池付近で猪狩りが行なわれたとするのには、無理がありそうに思えてくる。

恐らく石神井を拠点とした善福寺池付近の猪狩りであったと解したい。

家光の鷹狩りと金乗院

金乗院は綿二丁目にあって、川越街道のすぐ南に位置する。『練馬区の歴史』(練馬郷土史研究会・文)によれば「慶安二年(一六四九)三代将軍家光が鷹狩りの折、雨にあいこの寺に休んだところから、一八石九斗の朱印状を受けた(中略)本堂は昭和三二年に鉄筋コンクリート造りにしたが、山門は三代将軍がきたとき使用の門だといわれている」とある。

しかし、家光は、慶安二年のころは、主に高田とか品川辺に多く出猟していて、板橋や練馬に出かけた記録は見あたらない。『徳川実紀』の正保三年三月一二日の項に「板橋辺に狩し給ふ(日記)」と記されるのみである。従って、家光が鷹狩りで休憩したとすれば、この時ではあるまいか。

田安・一橋両卿の鷹狩り

享保一三年(一七二八)二月に将軍吉宗が江古田筋へ鷹狩りの際、江古田の東福寺にて休息したことは、よく知られている。

『東福寺の御膳所』によれば「吉宗の二子田安宗武は、吉宗の性格に酷肖して、謹厳な性格で学問を好み、荷田在満かだのありまろ、加茂真淵等に学び、数種の著書もあるほどであった。また馬術、狩猟も好み、江古田筋へも出向いて、明和三年(一七六六)十二月一日、東福寺で休息している。三子一橋宗尹も濶達な性格で運動を好み、狩猟には数多く出行した。江古田筋へは三度ほど出向き、いずれも東福寺に立寄り休息していたことが、伝えられている」とあり、江古田筋とは、狩猟地へ行く道筋のことで、東福寺で休息して、さらに目的地の鷹野に出かけるわけである。

この両卿の鷹場については、『新編武蔵風土記稿』上井草村の項に「此辺近き頃、田安・一橋両家の御鷹場にあづけら

る」と記され今川氏の所領が、両卿の御借地となっていた。

また、「享和三年土支田村板橋宿助郷免除願」(小島家文書)中「一当村之儀は御拳場并、御両卿様御借場村方ニ御座候」とある。御拳場とは公儀御鷹場の呼称であり、両卿とは、恐らく前述の田安・一橋両卿と思われる。

上井草村(杉並区上井草)や土支田村(練馬区土支田)の地域であれば、東福寺で休息してから十分狩猟の可能な距離である。

南部侯の鷹狩り

『練馬の伝説』の中に「元禄の始め頃である。南部侯が、このあたり(上練馬村付近)で大がかりな鷹狩りをした。そのやり方が実戦さながらであったのと、夢中で獲物を追って境界を犯したため、幕府から疑いがかかった。この時、土地の豪農相原源左衛門の協力によって、その疑いを解くことができた。恩を感じた南部侯はしばしば相原家に立ちより、又相原家は、茶や野菜を屋敷に献上したりして相当親密の度を深めたようである。この相原源左衛門とは、田柄五丁目の相原家の祖である。

当家は南部さまとか、南部下屋敷と呼ばれ、今でも赤門というかやぶき門や、南部下屋敷の一部を移築したというわらぶき家のたたずまいがあって、奥州盛岡の南部大膳大夫との関係が深いことを示している」とあり、また享和四年(一八〇四)の「土支田村明細帳」(小島家文書)には、「百姓林合反別九町八反七畝拾歩、松杉壱ケ所、但し南部大膳大夫様御抱地」とあり、この管理のための屋敷があったとしても無理はない。

さて、この伝承によると、元禄の頃、当地で南部侯が鷹狩りを行ない、隣接地の公儀御鷹場を犯したということになっている。村明細帳には御抱地とあるので、南部侯は、己れの所有地内で狩猟をしたものと思われる。

ところが、当時は鷹狩の範囲が定められており、たとえ自領であっても、勝手に狩りを行なうことはできないはずである。その点疑問が残る。

公儀御鷹場の管理と農民の負担

公儀鳥見役が置かれて御拳場を支配し、野鳥の繁殖状況や、鷹狩りに伴う農民統制をつかさどった。つまり、鷹狩りの際の案内とか禁令の励行、鳥追、鉄砲、案山子、水車、家作の許可などが含まれている。

各村々では、毎年八月に鷹場法度証文を鳥見役に提出して、禁令の遵守を誓約させたという。弘化二年(一八四五)八月の「御鷹場御法度手形並、別紙證文案」より、誓約のいくつかを抄出してみるに、

  1. ・御拳場内では、ご法度の鳥はもちろん、外の鳥もとらぬこと。雲雀の子を取る者があれば、捕え置いて知らせる。
  2. ・鶴、白鳥、雁、鴨など、村々の田畑に寄りついたならば、そっとしておき、子ども達も遠まわりすること。
  3. ・御拳場内では、寺社や村方で開帳とか、相撲など見物人の集まる場合は連絡する。
  4. ・御拳場内では、新屋敷や家作などしてはならない。
  5. ・御拳場内では、親類であっても、相対あいたいで一宿してはいけない。

以上の外にも、まだかなりの規定があり、農民は殊の外厳しい制約を受けていたものと考えられる。

一方農民に課せられた負担もたいへんなものであった。享和三年(一八〇三)及び、文化五年(一八〇八)の「土支田村板橋宿助郷免除願」より抄出して要約するに、御拳場村に将軍の鷹狩りの節は、鳥獣を駆りたてて追い出したりするいわゆる勢子せこ人足とか、諸道具輸送のための人馬役。さらに採虫類持ち送り人馬役があった。なお、鷹匠の止宿となると、上鳥の持ち送り野人足の他荷物を継ぎ送りなど多くの人足を要したという。

また、中野村や落合村の御成りの道筋中、石神橋、尾滝橋、淀橋掛け替えの時は、材木を深川木場より馬にて運搬したりした。

文久三年(一八六三)「御伝馬人馬減し勤歎願書」中、前述の採虫について記述があるので、その一部を紹介する。

<資料文>

「――けら虫、海老蔓虫、松虫、鈴虫、其外虫類採草類御用御上納品向拵方、御撰立厳重ニ相成、右品々先々より村々軒

別ニ取集方申触来候処、且は御場内ニ右品取尽し、払底ふつていニ相成、御場外二里・三里相隔候処一同相願ママニ罷越拵立仕、御鷹野御役所江御上納被仰付」(以下略

とあり、けらとか、えびづる虫、松虫、鈴虫などが、御拳場内の村々における租税の対象になっていた。すでに取り尽したため二、三里外まで出かけて採取するのはたいへんな負担であったと思われる。

『文化財をたずねて』(和光市教育委員会編)天保七年(一八三六)によれば、「特に生こうもりは棲息数がすくなく、割当数だけ取れないので不足分は買って納めていた。生こうもり一匹三百五十文、おけら三文という高値であった。」とある。けらは鷹の生餌にされたという。

尾張家御鷹場

前述の如く、寛永一〇年(一六三三)二月に幕府より下賜されたが、元禄六年(一六九三)一〇月に至って一旦消滅した。しかし、まもなく享保二年(一七一七)に再賜されてからは、慶応三年(一八六七)四月に廃止されるまで永続したものである。

御鷹場の範囲

文政四年(一八二一)「御鷹場御境杭控帳」(内野家文書、安政六年里正日誌)によると、尾張家の鷹場の範囲を示す境杭は、全部で八三本あるが、それの建てられた村は、入間郡の勝瀬村をはじめとして、北武蔵野、南武蔵野のほとんどに及んでいる。これらの村々は「境杭預り村」と呼ばれたが、それは鷹場の境である「しるしの杭」の管理を委ねられた村という意味である。従って、尾州家御鷹場は、これらの村々に取り囲まれた内部で、ほぼ二〇㎞四方の広さである。

つまり、多摩、入間、新座三郡にわたる広大な地域で、寛政四年(一七九二)当時一八六か村がその中に含まれていた。東は志木市から和光市にいたり、西は福生市から昭島市に至る地域。南は小金井・三鷹・国分寺市、北は埼玉県富士見市より大井町辺に及んでいる。

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小榑村一四四七石のうち、約半分の七三一石が、米津氏の所領で、現在の西大泉を中心とした地域であった。

練馬区内では、この一角だけが尾張家の御鷹場に編入されていたのである。現在、大泉第一小学校内に現存する尾張家御鷹場の石杭には、「従是南北尾張殿鷹場」と刻されている。この境杭は、昭和初期ごろまで現大泉町の北端、旧押上に建てられていたものであるという。内野家文書安政六年「御鷹場御境杭控帳」によると、この石の境杭は、六九番新座郡下白子村字押上にあり、杭は午未(南南西)向で、次の杭は子丑(北北東)に向かって八丁の距離にあると記されている。

鷹場の管理

鷹場の管理のため、御鷹方役所が江戸の尾張藩邸に置かれ、御鷹場吟味役と称する役人を置いた。

また、御鳥見衆と呼ばれる鳥見役については、『立川市史研究』によって、その職掌を簡単に記すると次のようである。

  1. 一、鷹場内の村々を見廻り、諸規則が守られていない場合は、ただちに改めさせる。
  2. 二、村方からの願いなどは、まず鳥見役に申し出た上で、さらに預り役に願い出ること。
  3. 三、預り役を監視すること。

などを上げている。これらの目的を果すため、鳥見役を鷹場内の各地に分散して、豪農や旧家に長期間にわたって宿泊させた。

また、鳥見役の一部が、三郡下に設置された鳥見陣屋に常駐することもあった。

これら鳥見役の指揮を受けて、御鷹場御預り御案内役と呼ばれる村の惣代名主の者に、鷹場の管理の末端の仕事を担当さ

せた。

『大和町史研究1』によれば、

  1. 一、鷹狩りの際の案内
  2. 二、鳥見衆の送迎
  3. 三、時々行なう鷹場内の検分
  4. 四、鷹場禁令の励行の監視
  5. 五、鳥追鉄砲、案山子、水車、建築等の許可
などの仕事が課せられていた。

御案内役を五地域に分け、各地区に一人ずつ置かれた。寛政四年(一七九二)当時の例をみると、次の通りである。

地域鷹場預り氏名身分預り村数
狭山丘陵周辺 小川 東吾 小川村名主 五三
新座郡及び野方領周辺 高橋 覚左衛門 (小榑村名主) 三九
所沢周辺 粕谷 右馬之助 下清戸村名主 四三
川越領南部地域 船津 太郎兵衛 北永井名主 二四
拝島領地域 村野源五右衛門 砂川村名主 二三
※高橋覚左衛門には身分の記載がなかったので挿入した。
図表を表示

右の表に見られる高橋覚左衛門とは、小榑村(現西大泉)中島に居を構え、安永八年(一七七九)より御鷹場御預り御案内役と惣代名主を兼務していた。古老の話によれば、彼は鳥見名主と称し、名字帯刀を許され、地頭の米津氏も一目置くほどの勢力を有していた。また、門前には下馬札が建てられ、通行する者たちは馬からおりて礼拝しなければならなかったとも

いわれている。高橋彦三郎氏の口碑では、九一歳で没した祖母の祖母は、当時姫と呼ばれ、尾張藩主御成りの際には給仕をしたという。

三十番神や八坂神社などを造営するなど代々繁栄したが、現在では絶家となっている。

尾張藩主の鷹狩り

御鷹野のための御殿を、最初は入間郡扇町屋(入間市)に建立したが、まもなく野老沢(所沢市)の東光寺(現在の薬王寺)に移転した。

寛永一〇年(一六三三)二月一八日には、早くも徳川義直は野老沢に御鷹として宿泊している。以来、寛永一四年、同一六年、同一七年と、野老沢に一〇日間滞在しては、かなり精力的に狩猟に奔走したようである(『所沢市史』)。

また、「源敬様御代御記録廿六」寛永一七年(一六四〇)によれば、「二月四日、御鷹野として野老沢は被為成、小榑妙福寺おゐて御膳被召上候付、銀壱枚被下之」、「二月十一日、片山法台寺おゐて昼御膳被召上候付、銀壱枚被下之」とある。この時は、二月一四日に帰府する途中、再び妙福寺に立ち寄り、食事をとっている。

さらに、同年秋の一〇月七日にも再度野老沢に出向き、「膝折村、高麗彦左衛門宅御止宿、右ニ付、彦左衛門江銀子五枚被下之」とある。膝折(朝霞市)の高麗家は旧家で、脇本陣をつとめた家柄であるといわれている。

その後、野老沢に休泊し、同一〇月九日には中清戸(清瀬市)の金竜寺、さらに一〇月一五日帰府の際にも、二月同様に小榑村の妙福寺において昼御膳のため休憩している。さらにわずか一週間たらずの休養後、同月二二日、またまた鷹狩りと称して石神(新座市)に赴く。「十月二十二日、御鹿狩として石神江被為成、水戸様ニも御越此節御案内、松平伊豆守御先江相越、石神村御殿御饗応有之(以下略)」

以上の資料からも、江戸初期より当地は鷹狩りと称して、しばしば尾張藩主の御成りの道筋になっていたことが理解されよう。

正保元年(一六四四)一〇月に至り、御殿が前沢(東久留米市)の延命寺に移転した。『尾張藩主事蹟録抄』によると、「寛

文十年中将様於前沢、今日御鹿狩被遊候処、鉄砲ニテ鹿五ツ御留被遊」とあり、ここでも鉄砲を主体とした鹿や猪などの大物が中心であった。

やがて、延宝四年(一六七六)になると、中清戸(清瀬市)小寺宇左衛門方に御殿が三転された。現在、小寺作一郎氏の裏山を御殿山と称し、以前には小高い丘状を呈し、周囲には堀がめぐらされていたという。

「尾張藩主事蹟録抄」中に「享保四年(一七一九)二月六日、清戸御鷹場江寅刻御発駕、十二天村(新座市)御昼休、未刻清戸着御」とあり、さらに、享保一七年(一七三二)、元文五年(一七四〇)にも清戸御鷹野として小榑村を経て清戸に出猟している。

宝暦三年(一七五三)一〇月のこと、藩主の若殿が、清戸御殿に鷹狩りの際、遠見と称して柳瀬川を渡り、新田開発で知られた上富(三芳町)の多福寺まで出むいたという。

この頃になると、鹿はほぼ取り尽くされたようだが、猪はまだかなり出没していたといわれる。

清戸の御殿が廃された年代が明確でないが、『新編武蔵風土記稿』によれば、「中清戸村此辺すべて尾張殿の鷹場なり、明和の頃までは、かなりの御殿など云もありしと云」と記されている。おそらく安永期(一七七二~八一)に至って廃止されたものであろう。

以後、天明期(一七八一~八九)に至り、尾張藩主の鷹野は、保谷、小榑から膝折、溝沼(朝霞市)、引又(志木市)に移動していった模様である。

平和台の内田家文書「天正十八年御入国より御府内並村方旧記」によれば「安永七戊戌(一七八七)尾張宰相様引又辺田場へ御鷹狩、上下入御少休。同八己亥三月尾張様御通行ニ付、下板橋ゟ増助役当」とあり、他に天明四年にも同様、当家で小休している。

次に「御鷹場御用留」北永井、船津家文書から、天明期の御鷹野の記録を抄出してみる。

<資料文>

天明三年卯五月十三日、溝沼村(朝霞市)より引又村(志木市)御成、長崎村八郎兵衛方御少休、練馬本村組頭孫市方御少休、御膳所溝沼村泉蔵寺、御野先御少休引又権兵衛、御用人衆馬場三左衛門、御先騎。

天明三年卯十二月十一日、溝沼御成、御少休下練馬村光伝寺、御膳所溝沼村泉蔵寺、御野先田嶋村名主庄右衛門、御先騎取田孫左衛門殿、御部屋御用人五味織部殿、市ケ谷ゟ光伝寺迠弐里十四、五丁、夫ゟ溝沼迠弐里十二、三丁余り、

天明四年壬辰正月十三日、小榑村(西大泉)御成、御少休円光院、御膳所高橋覚左衛門、御野先御少休、保谷名主清左衛門、御国御用人天野四郎兵衛殿、御先騎沢田浅右衛門殿」(注、保谷名主清左ヱ門とは蓮見家をいう)。

元文年間に鳥見陣屋が取り立てられ、以来藩主の御鷹野の時などよく休憩している。

村の負担

鷹場内の村々では、その鷹場を維持していく上で、かなりきびしい生活上の制約を受けたが、さらに次のような負担が義務づけられていた。

  1. 一、鷹狩りの際の出し人足
  2. 二、道路や橋の修理
  3. 三、廻村する役人の送迎
  4. 四、連絡用の廻状の送達
  5. 五、荷物の運搬

以上が主な仕事だが、境杭の管理や、鷹役人の接待などの出費も馬鹿にならなかった。「尾州様御鷹場内惣村高帳」文政四年(一八二一)により、伝馬人足の割り当てについて要約すれば次の通りである。

  1. 一、江戸人馬を免除され、鷹場内の三陣屋よりの御用状を継送する村々。
  2. 二、江戸人馬を免除され、御鷹場御案内及び御鳥見の者達より、三陣屋への御用状の継送をする村々。江戸表の役所へ御用の節も多々ある(注、小榑村はここに組まれた)。
  3. 三、江戸表へ御用人馬を申し付けられた村々。尚この場合、高百石につき人足一人、馬は人足二人に換算している。

次に負担の実際について、一、二紹介してみよう。まず、荷物の運搬として、牛山家文書「御鷹場御用留」天保十一年(一八四〇)に、「一、人足二人善右衛門惣吉源四郎代、右者明後三日朝七ッ時、江戸戸山御屋敷御鷹方役所江差出し可被申候、尤戸山ゟ浜崎村迠御鷹方荷物為持届候間、其心得ニ而可有之候、以上 立川陣屋 八月朔日膝折村名主中」との記録がある。浜崎も膝折も共に朝霞市である。この当時、前文と同様に水子陣屋(富士見市)に荷物を運んだ賃銭として、一〇六文受けとっている。しかしこの金額は定められた鷹役人の昼食代のわずか三倍ほどでしかなかった。

また、連絡用の廻状の送達として、同牛山家文書、文久二年(一八六二)のものがある。「正月十七日着、此廻状下新倉村ゟ受取、溝沼村江早々順達仕候、此持人足 忠蔵、三月十六日御鷹場預御案内 高橋良三郎」

この高橋良三郎とは、高橋覚左衛門の孫に当る。覚左衛門―民右衛門―良三郎と三代御案内役を勤めた。

区内を横断する清戸道は、かつては鷹野に出向くための重要な道筋だったのである。中でも、尾張藩主の往来が最も多かったため、尾張家の鷹場外の村々でも、その道筋にある場合は、御成り時は道路や橋などの普請を課せられたり、また人足の徴発に応ぜざるを得なかったという。

<節>
第五節 街道と助郷
<本文>

「みち」の起源は古く原始「けものみち」に初まるという。鹿が水を求めて通う路、人がその獲物を求めて追う道、こうした「こみち」から、人類が定住し共同生活を営み、原始的な物々交換や協業の末「みち」は自然と発達してきた。

既に古代の続日本紀しよくにほんぎは神護景雲二年(七六八)の記事に武蔵国乗瀦のりぬま・豊嶋の二駅は使命繁多であると言っており、練馬はこの「ノリヌマ」が転訛した地名であるとする考証がある(練馬区教育委員会『練馬の道』)。このような古代駅制による小路

が何処かは判然としないまでも練馬を通過していた事は想像に難くない。在原業平の作とも言われる伊勢物語に詠われる「三芳野の里」は今の川越の事であるから、業平の時代寛平年間(八八九~八九八)に後の川越街道と比定される往来が存在していたことは充分考えられる。

鎌倉時代は幕府の軍事、警備に参加する通路として鎌倉みちがあった。区内には白山神社(練馬四丁目)から良弁塚(中村三丁目)を経由して今の中杉通りを南下する道を鎌倉みちとする伝承があり、一方江戸時代の関村では妙福寺(南大泉)から本立寺(関町北四丁目)を経由して南下する道を「西の鎌倉道」と呼んでいる。

江戸時代の街道

慶長八年(一六〇三)江戸幕府成立の翌年には江戸日本橋を起点とした主要交通路が整備された。東海道・中仙道・日光道中・甲州道中・奥州道中の五街道である。東海道は海端を通るので海道といい、中山道は始め中<圏点 style="sesame">仙道と書かれたが正徳六年(一七一六)中<圏点 style="sesame">山道に改められた。他の三街道を道中どうちゆうと称するのは海に沿わない<圏点 style="sesame">みちなか中の道)なるが故そう呼ばれたという。

伝馬のある本街道を指して往還といい、本街道に対して副道のような関係にある街道を脇往還といった。五街道は総て幕府の道中奉行が直轄していたので伝馬宿は領主と道中奉行の二重支配を受けていた。

練馬にはこれら本街道はなく、あるのは川越街道・青梅街道・大山街道・清戸街道・所沢街道などの脇往還のみである。脇往還はその土地の領主支配であった。

江戸時代の陸上交通特に街道の整備や制度の発達には参観交代と伝馬制度が大きな影響を与えた。参覲交代は幕府が諸大名に課した義務の一つで、原則として隔年交代に石高に応じた人数を率いて出府し、江戸屋敷に居住して将軍の直接統帥下に入る制度である。初め期限は定まっていなかったが寛永一二年(一六三五外様とざま大名の、同一九年(一六四二)譜代大名の交代期限が定められた。参覲交代で往来する大名の道筋は定まっており、時に依って多少の変化はあるが、毎年二百数十の諸大名が多数家臣や従者を従え、行列を整えて泊りを重ね乍ら街道を上下するのであるから、それに対する設備も自然整備さ

れていった。稀ではあるが外国使節の江戸参府や、日光社参などの通行もあった。又、公家や幕府役人の往来も繁くなり一般民衆の旅行者も次第に増えていった。

伝馬制度は慶長六年(一六〇一)家康が徳川氏の専用交通機関として東海道に設けた制度に始まる。幕府専用のこの伝馬も後に参覲交代の必要から諸藩の使用や公家の利用が認められるようになった。伝馬を使用する場合、幕府は無賃の特権を持っていたが、諸藩の人や貨物はすべて規定の伝馬賃銭を支払って使用した。伝馬の仕事は各伝馬宿の問屋場が取扱っていた。伝馬の送り方は受付の伝馬宿が次の伝馬宿まで送るのが原則で、更にその次の伝馬宿まで送ることは特別の場合以外禁じられていた。このように順次人馬を替えて送ることを継立つぎたて又は継送りといった。継立のための常備人馬数は街道によりその数が定められ、例えば東海道では初め三六疋の伝馬を課したが後に人足一〇〇人馬一〇〇疋となった。中山道は五〇人五〇疋、その他の街道は二五人二五疋を配置していた。この常備人馬は伝馬宿が毎日規定の数を用意するのであるから、その伝馬宿民の苦労は容易なものではなかった。人馬とは人足と馬のことであるが、その外に馬には馬士一人を付けるから五〇人五〇疋とは人足五〇人、馬士五〇人、馬五〇疋のことである(『練馬の道』)。

中山道第一の宿駅は板橋宿である。宿には問屋場が置かれ、それを主宰する役人を問屋役といった。問屋役の下に年寄役があって問屋役を補佐し、更にその下に帳付ちようつけ馬差うまさし・人足差または小差などが居り継立の事務を取扱った。他に御状箱役・下働・迎番・宰領役の居る宿もあった。宿駅の常備人馬で不足する臨時の大量な通行がある場合は問屋役から既に定められている近在村々へ助郷の触れが出される。

川越街道

江戸と川越を結ぶこの街道は中山道の首駅板橋宿平尾より分岐し、大山・上板橋宿を経て下練馬村に入る。下練馬宿は現在の区内に於て唯一の宿駅が有った所である。新編武蔵風土記稿に「当所は河越道中の馬次にして上板橋村へ二十六町、新座郡下白子村へ一里十町を継送れり、道幅五間、此道より北に分るる道は下板橋宿へ達し、南に折るれば相州大山道への往来なり」とある。

川越街道は此処から左に大山街道を分ち、石観音を右に見て、下練馬村の最北端を西へ、上練馬村北辺下赤塚村との境を通り上赤塚村から白子村を経て、膝折・大和田・大井と、川越へ至るのである。

下練馬は板橋宿ほどの規模はなかったが、宿駅であるので本陣・脇本陣が置かれていた。本陣・脇本陣は大小名公家などの支配階級が宿泊する旅館であるが、これらの者の宿泊がない時は、罪人を除いて一般民衆も宿泊させた。本陣・脇本陣の数は宿の規模によって異るが、下練馬宿の場合は夫々一軒が置かれていた。本陣は当初木下家が、後に大木家が勤めた。脇本陣は内田家であった。

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下練馬宿は上宿かみじゆくなか宿・しも宿に分かれ、街道に沿って僅かながら街村の形態をなし、旅人相手の休憩茶屋や料理店もあっ

た。

川越は室町時代扇谷上杉持朝の城下町として栄え、江戸時代に入ると常に徳川家重臣の封ぜられる所として重要な城下町であり、小江戸と称される程に栄えた。川越からは更に上州や秩父にも連絡していたので川越街道は脇往還としても重要なものの一つに数えられていた。さらに秩父三十四観音札所が江戸時代に繁栄すると、川越・所沢から吾野越えの正丸道が利用されるようになり、下練馬宿は秩父札所の順礼姿や大山詣の道者姿の人たちが往来した。

大山街道(富士街道

下練馬宿で川越街道と分岐した大山街道(富士街道または行者ぎようじや街道ともいう)は下練馬村・上練馬村・谷原村・下石神井村・上石神井村・関村と練馬のほぼ中央を東から南西に横断し、田無・府中を経て相模国中郡伊勢原(神奈川県伊勢原市)に達する街道である。川越街道から分岐するこの街道の起点には、今も宝暦三年(一七五三)の「従是これより大山道」と大書した石の不動尊がある。

大山は別に阿夫利山ともいい山頂の阿夫利神社には太古の石劔を神体として大山祗命が祀られているが、神仏混淆時代のことで、これを石尊大権現と称し、大山寺たいせんじ不動明王の垂迹すいじやく神であるとして雨乞いや筒占つつうらの信仰の対象となった。大山参りは江戸時代中頃から盛んとなったもので大山から更に足を延ばして富士詣を兼ねる者も多く、富士街道の名も生れた。

また大山街道は中山道をはじめ川越街道・青梅街道・五日市街道・甲州街道をほぼ直線で結ぶ間道でもあった。であるから大山・富士への信仰の道として大事な街道であるばかりでなく、中山道から直接甲州街道を連絡する商用の道としても価値と意義のある街道であった。

大山街道は信仰の道にふさわしく沿道には不動尊・地蔵尊・馬頭観音・或いは庚申塔や廻国供養塔など数多くの石仏が現存している。平和台四丁目に建つ馬頭観音塔には田無・府中・八王子など十数か所への里程が刻まれており、その方面への交通の要路であったことを窺わせる。また春日町二丁目には古くから通称一里塚と呼ばれる地名が残っており、子育地蔵尊と六十六部供養塔が祀られている。此処から川越街道の分岐点までは半里程しかなく、一里まで延長すると中山道清水坂に

達する。であるから大山街道は中山道清水坂上から始まると見ることも出来る。つまり中山道沿いの人々が大山参りの場合の里程を此処から測ったことが推測される。次の一里塚は此処から丁度一里の石神井町七丁目にあって、延享三年(一七四六)の庚申塔が祀られている。なお、大山街道沿線の石造物については練馬区教育委員会郷土史シリーズ『ふじ大山道』がある。

清戸道

大山街道と谷原村で交差して練馬のやや中央部を東から西に横断している街道を清戸道きよとみちと言う。もっとも資料の上で「清戸道」と見えるのは明治以降のことで、江戸時代の文書には清戸道としての名称はない。『新編武蔵風土記稿』中荒井村の項に「北の方練馬村堺に河越道中掛れり」とあるが、編者の誤りなのか、或いはこの道の終点清戸から川越へでる間道があるため実際にそう呼ばれていたのか判然としない。この清戸道は練馬の主要各村を東西に連絡している上、江戸への最も近い道として、練馬地域にとって経済上極めて重要な道であった。

今日でも清瀬市に清戸という地名が存するが、この道の終点は清戸である。この清戸道を此処清瀬市から逆に東へ辿れば、下保谷村(保谷市)を経て小榑村に入り、土支田村(上組)、下石神井村と田中新田の境いを過ぎ、谷原村・上練馬村から中荒井村と下練馬村境を千川上水に沿って江古田新田に至る(この辺を今は千川通りと呼んでいる)。そこで千川上水端と分かれて葛ケ谷村・下落合村(いずれも新宿区)を経て江戸町奉行支配の雑司ケ谷村(豊島区)に至り、目白坂を降りて、関口水道町で神田川の低地に出で川に沿って御曲輪内の牛込口・小石川口に沿って江戸市中各町へ通じていた。

「清戸道」という名称から終点が清戸であることに異論はないが、道は小榑村の西端四面塔稲荷で二俣に分かれる。清戸村は志木街道に沿って上清戸・中清戸・下清戸の三部落から成っており、更に下清戸の北に清戸下宿がある。四面塔稲荷で分岐した清戸道の一つは下清戸を経て清戸下宿に至り、他の一つは上清戸・中清戸に向う。何れを主とし、何れを従としたか今は詳らかでないが、『練馬の道』で若干その考察を行なっている。

近世の練馬は江戸時代も中期以降、消費地江戸へ大根その他の農産物を供給する近郊農村として発展して行くのである

が、その輸送のためにこの清戸道は専ら利用された。大根や蔬菜を満載して往った手車や馬の背には、帰路に町奉行支配下の江戸西北部の武家や町家の下肥を積んでこの道を再び戻って来るのである。こうした伝統は明治大正まで続いていた。別名「おわい街道」という有難くない名前を冠せられていたこの清戸道も練馬の農民にとっては江戸と練馬を結ぶ経済上不可欠の道であった。

江戸時代を通じて小榑村・橋戸村以西は尾張藩の鷹場であった。尾張藩の鷹場御殿が延宝四年(一六七六)小平の延命寺から中清戸へ移転すると、この道は江戸の尾張藩戸山屋敷と鷹場御殿を直結する道筋であった。その後安永頃に清戸御殿が廃止されてより文政頃までは保谷村・小榑村付近及び膝折(朝霞)・引又(志木)方面が鷹場の中心となった。天保頃になると新河岸川沿岸の低湿地帯での水鳥が対象となったらしく、この清戸道よりも下練馬を経て川越街道を利用するようになった。そのため清戸道は鷹場道としての機能を失い、専ら消費都市江戸に農産物を輸送する道路へと変移して行ったのである。(井田実「清戸道は鷹場みち」練馬郷土史研究会々報一三三号)。

青梅街道

青梅街道は慶長一一年(一六〇六)江戸城の大改修に当って青梅付近の成木村・小曾木村などから江戸城修理に必要な石灰を搬送するため開かれた道で、別名成木街道とも石灰いしばい街道とも呼ばれた。青梅から先は間道となって大菩薩峠を越え、甲州塩山付近で甲州街道に結ばれていることから甲州裏街道とも言われ交通上重要な脇往還であった。

この青梅街道は甲州裏街道と呼ばれる以前、即ち甲州街道が整備されるまではむしろ甲州への主要道路であったが、甲州街道の整備と共にその往来は少くなり、石灰を運ぶ必要が出来たため産業道路として再び整備されたともいわれている(『練馬の道』)。

この道は甲州街道の内藤新宿から分岐して中野宿・田無宿・箱根ケ崎宿を経由して青梅村へ至るのであるが、区内では竹下新田・上石神井村・関村を通過している。青梅街道本来の目的である石灰輸送に際しては伝馬送りが盛んに行なわれ、元

禄年間には「御普請為御用、白土武州上成木村・北小曾木村より江戸竜の口御普請小屋迄六十駄宛二十八度付届候」(堀江家文書)という盛況であった。

関村には青梅街道第三の一里塚があったと言われ、また上石神井村には出店でだなという字名があったが、これは街道を利用する人馬が休憩する茶店やそば店のあった所といわれている。

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青梅街道はこのような産業道路としての役割のほかに武州御嶽詣の人々の参詣路でもあった。天保五年(一八三四)御嶽詣の案内書として出版された『御嶽菅笠すげがさ』にはその端書に「四ツ谷より荻久保おぎくぼ村中屋まで二り四丁、中やより石神井村伊国いこく屋まで一里二丁、伊国やより柳沢やぎさわ宿まで一里二丁」とある。伊国屋と呼ばれる店が挿絵で判る如く千川上水端上石神井村の出店といわれる所にあった。次に同書冒頭から田無辺までの道行文を掲げておこう。

<資料文>

股引草鞋玉小菅ももひきわらじたまこすげ すげの小笠おがさの波たちて、旅の装束よそひも、み吉野の御嶽のミちの行程ゆくほどハ、娘盛りの十六里、時得ときへて咲や江戸の花、日本橋より杖引そめ、與力御門よりきごもんを打出て四ツ谷をすぎて新宿しんじゆくハ、往来ゆきゝの人の遊女あそびめ揚屋茶見世あげやちやみせのかづ〳〵を、還頭巾かへるづきんに来る四ツ手、口舌くぜつのとこやミちのくの、とふの菅薦すげごもならぶには、君をねさしてミふにねて、振らるゝ人に、ふる人に、妻に成子なるこや淀橋の水そこふかき中野には、蓮の花さく堀之内、水も汲つゝ手鍋提てなべきけ、一ツはちすの実とならん、妙法寺へのわかれミち、鍋屋横町賑わしく上風うはかぜさむき荻久保おぎくぼ中屋なかやの店に酔伏ゑいふして、宿やどかる人も玉かつら戸ざゝぬ関にうちなびく柳沢やぎさわ村にゆかりある藤やの見世にこしかけて、やすらふひとも田丸屋の店をすぐれバ乳のミの秩父御嶽のわかれ道、角屋かどやの店の名にしあふ酒ハ劔菱けんびし男山おとこやま……

関村には宿泊する者もいた模様で、関所の関を引喩して閉さぬ関と昼夜の賑いを謡っている。今も街道沿いに関のカンカン地蔵が昔時を物語るかのように立っている。

その他の古道

練馬と江戸を結ぶ主要道の外に、その幹線道路を結ぶ間道や、練馬と更にその奥の村落を結ぶ小道などがある。例えば上、下石神井村を通過する所沢道ところざわみちがそれである。中野村の追分(鍋屋横丁)で青梅街道から北に分れ、上沼袋村に至り、ここで東の方上落合村から来る道と合し、馬橋・阿佐ヶ谷・天沼・下井草・井荻を経て下石神井村に入り、八成橋付近から丘陵を次第に降って禅定院前に至っている。ここから更に西へ、三宝寺の門前を通過し、左手に石神井川流域の低地や田圃を望みながら、富士街道を斜断して小榑村に入り、下保谷村から更に所沢に達する道である。太田南畝が「石神井三宝寺遊記」で歩いた道はこの道である。谷原長命寺へはこの道からも行くが、江戸からは清戸道を通った。高田方面から清戸道を来て貫井の東高野山碑の所で分かれ石神井川を渡り長命寺に至る道で、東高野山道ひがしこうやさんみちと呼ばれていた。清戸道との分岐点には今も東高野山の碑がある。「嘉陵紀行」で村尾正靖が歩いた道はこの道である。

また小榑村本照寺東脇から北へ、現在の大泉学園町を通り新座郡新倉村へ通ずる新倉道にいくらみちや、上、下石神井村境の大山街道から南下、三宝寺池の東側(石神井図書館前)を経て、両村の境を井荻村へ通ずる井荻道も古い道である。

区内には古鎌倉道の伝承をもった道がある。例えば青梅街道の関村付近(石神井西小学校東側)から北東へ、上石神井村から下石神井村に入る境いで井荻道と交差し所沢道に合する関道は古くは「東の鎌倉道」と呼ばれていた。上板橋で川越街道から分岐し、下練馬村に入り、金乗院を迂回し、現在の開進第一小学校南東側を通り、南西へ下り石神井川を中之橋で渡り、豊島園の正門前(駅の西側)を南へ鉄道の踏切を渡って清戸道(千川通り)と交差し、中村の良弁塚前を通って鷺宮福蔵院へ通ずる下練馬道も鎌倉道の伝承を持つ(下練馬郷土誌)。

中荒井村の清戸道から分岐(今の埼玉銀行の所)し、南東へ向い徳田付近で江古田村へ入り新井薬師に至る新井薬師道も、練馬の人びとにとって信仰の道として古くからあった道である。

この外、区内に現存する石造物・道標などには堀之内道・片山道・膝折道・牛旁道・白子道・子ノ権現道・戸田渡道等々の名前が見えるが、開発の進む現在ではこれらの道も名称のみを残して古い歴史の中に埋没してしまいそうである。

助郷制度

参覲交代の制度ができ、江戸と地方との交通が頻繁になり、人や荷物を輸送、中継する人馬が不足してくると、その補充のために宿駅付近の郷村を選んで所属を定め、常時宿駅補助の人馬を出させるようにした。このように賦課された村を助郷すけごうといい、その課役を助郷役といったが、転じてその課役をも助郷といった。この制度は当初は臨時的なものであったが、人馬需要の増加に伴って、宿駅付近の郷村に対して次第に恒常的に助郷を指定するようになった。

元禄二年(一六八九)幕府は従来封領又は国郡を限界に定めていた助郷制度を改め、宿駅付近の郷村を選んでその所属を決め、元禄七年には村高百石に付人足二人、馬二疋と定めた。このように常時宿駅補助の人馬を出すものをじよう助郷といい、諸候の参覲交代や臨時の大通行に対して、更に広範囲の諸村が臨時に賦課されるものを助郷又はおお助郷或はだい助郷と称した。しかし交通量の増加は宿駅の渋滞を一層顕著にしたため、幕府は享保一〇年(一七二五)両者の区別を撤廃して一律に定助郷並みにし、三役の高掛りを免除する代りに課徴人馬の数を増加することとした。こうした助郷課徴の強化、拡大の傾向は時代の推移とともに甚だしく、夥しい人馬の課設によって助郷農民の経済生活を著しく圧迫し、農民の窮乏と農村疲弊の大きな原因ともなった。これに対して郷村はしきりに軽減方の歎願を行なったが幕府は交通政策維持のため幕末までこれを強行した。維新後は暫定的にこの制度を用いたが、明治五年(一八七二)各地に陸運会社が創設されることにより、永年農民の苦悩の淵源であった助郷制度も、ここに完全に廃止されることとなった。

中山道板橋宿助郷

江戸五街道の第二位といわれる中山道の各駅は常置人馬「五十人五十疋」と定められていた。板橋宿から二、三里の範囲内にある本区の大部分の村々はこの宿の助郷に指定されている。文化三年(一八〇六)の「板橋伝馬助郷高書上」(相原好吉家文書)によると板橋宿の助郷に指定された村は全部で四七か村、総助郷高は一万五六一三石五斗であった。そのうち本区関係のみの村は次の通りである。

<資料文>

中村 六三石

土支田村 二五三石

谷原村 八五三石

中荒井村 一三五石

下石神井村 六二三石

上練馬村 二、六二六石

六か村の合計は四五五三石となる。助郷高は村高を標準として、更に各村の事情を考慮して決定されたものであるから村高必ずしも助郷高ではなかった。下練馬村は板橋宿に最も近い位置にあるが、川越街道下練馬宿を抱えているため板橋宿助郷には含まれていない。

助郷の負担は当初高一〇〇石に付人足二人、馬二疋であったのが享保六年(一七二一)からは人足五、六人、馬三、四疋と次第に増加していった。幕末の文久三年(一八六三)「下板橋助郷村々規定連印帳」(小島家文書)によると次のように助郷高が増加すると共に加助郷が加わった。

<資料文>

上練馬村 高松組中野宮組 七七一石

上練馬村貫井組 四九六石

下石神井村 六二三石

下土支田村 一、〇九七石

中村 六三石

上練馬村田柄組 七九六石

谷原村 八五三石

上土支田村 一、四三五石

中荒井村 一三五石

加助郷之分

田中村 五〇〇石

上白子村 二〇五石

上石神井村 一、三六九石

小榑村 一、一一〇石

右のように約五〇年間で村数、勤高共二倍以上に増加した。その後明治二年五月東京駅逓役所からの通達(『板橋区史』)によれば板橋宿助郷は七二か村となり、区内の村は、上練馬・下練馬・上石神井・下石神井・谷原・田中・中荒井・中・上土支田・下土支田・竹下新田・上板橋の一二か村になった。この頃になると下練馬宿の機能が殆ど失われたので、同村も板橋宿に割当てられた。

土支田村は宝暦六年(一七五六)の「村明細書上ヶ帳」(小島家文書)に「一、御伝馬之義ハ川越通り白子村定介ヶ仕候」とある如く、元来川越街道白子宿の定助郷であった。ところが板橋宿定助郷であった高円寺村が享和三年(一八〇三)に「追々困窮相募り相続難ク」なったという理由で休役を願い出たため、その代りとして土支田村、成宗村、田端村、馬橋村、和田村の五か村に対して助郷役を指定した。これに対して土支田村からは助郷役免除の歎願書(小島家文書)が出されたが結局取り上げられることなく、翌文化三年高円寺村は助郷役の過半を免除され、その分四八一石を土支田村外四か村で割合い、代り助郷を勤めることとなった。土支田村は助郷高二五三石五斗を割当てられ、そのうち上組は一四三石八斗、下組は一〇九石七斗を負担した。

板橋宿助郷のうちで近郷村々が大動員されたのは何と言っても文久元年(一八六一)和宮降嫁の大行列中山道通過であった。この時新たに板橋宿へ加助郷を指定された村は新座郡五、豊島郡九、足立郡四〇、埼玉郡二二、多摩郡五一、荏原郡二五、都築郡一二、橘樹郡三の合計一六七か村という大規模なものであった(武蔵野市井口良美家文書)。これで見ると中山道を除く四街道の宿駅助郷村々が総て加わった模様で、実際になされた人馬動員は「和宮様御下向に付御当日御継立人馬仕訳帳」(同家文書)によれば定助郷・加助郷合せて実に二一八か村という厖大な動員数であった。

甲州街道高井戸宿助郷

前述のように練馬の諸村は大部分が中山道板橋宿の助郷であったが、関村のみは多摩郡の諸村と共に甲州街道高井戸宿の助郷であった。甲州街道高井戸宿は元禄年間に内藤新宿が開かれるまで甲州街道の首駅として江戸日本橋に直通していた。甲府は幕府の甲州郡代の所在地として重要な地であると共に、そこから更に信州伊那方面へも通じていたので、この甲州街道は幕府役人の交通にも多く利用された。しかし街道としては東海道・中山道に比較すれば交通量も少なく宿駅の設備も劣っていた。また参覲交代の諸侯もわずかに信州の高島藩・高遠藩・飯田藩の三侯に過ぎなかった。

高井戸宿の助郷高は当初一万二二五四石四斗であったが、天保以降幕末には総高九〇二〇石に減少し、助郷村は三五か村

で甲州街道を挟んで南北二組に分れていた。南組は高二六三七石で世田谷村外一一か村、北組は高六三八三石で関村外二二か村であった。組高の相違で月々南組は九日間、北組は二一日間を勤めることとしていた。又高井戸宿は上下高井戸村二か村一宿の定めであって、月の前半一五日は下高井戸村、後半一五日は上高井戸村で継立てることになっていた。常備の人馬数は人足二五人、馬二五疋であった。

甲州街道の宿駅には高井戸宿の江戸寄りに内藤新宿があった。内藤新宿は元禄一一年(一六九八)に開かれ、享和三年(一七一八)に一時廃駅となったが、その後明和九年(一七七二)に再興された。内藤新宿が廃止になるまでの助郷村を「古来助郷」と呼び二四か村が勤めていた。そのうち練馬関係の村と助郷高は次の通りである。

<資料文>

甲州街道内藤新宿古来助郷

高壱万弐千弐百七拾九石 村数弐拾四ヶ村

武州豊嶋郡

高 六拾四石 板橋宿 加助 中村

高 五百参拾九石 板橋宿 加助 田中村

高 五百弐拾七石 高井戸宿 加助 関村

高 千百五拾三石 板橋宿 加助 下石神井村

武州新座郡

高 千四百四拾五石 板橋宿 助郷 小榑村

東京都公文書館蔵「内藤新宿高松家文書」

このように内藤新宿へも五か村が出役しており、しかも一宿の助郷だけではなく、他にも加助郷などの名目で出役を命じられていた村々であった。

関村では文久三年(一八六三)高井戸宿の助郷減免歎願を外二二か村と共に道中奉行宛差出している(「御伝馬人馬減勤歎願

書」井口信治家文書)。その全文は昭和三二年刊『練馬区史』(四一〇頁)に掲載されているので、ここでは省略するが、大要は次の様なものである。

北組二三か村は元来御拳場こぶしば鷹場)であって、御用の勢子人足、道具の運搬、焚出しなどを行なっている。なお本丸・西ノ丸に上納する杉之葉・松桃之葉・けら虫・海老蔓虫・松虫・鈴虫などの御用も勤めているが、近頃はその選定が厳しく村内では仲々良質の物が揃わず、遠隔の場所へ集めに行かなくてはならない。また最近は西国・中国筋の大名が甲州街道を多く通行するようになり助郷人馬勤めが度重なる一方、肥料をはじめ諸色の高騰で、肥料の買入れが困難になり作付の出来ない者や実のりの悪い作物が多く、中には馬を手離す馬持百姓も出ている。この儘では伝馬勤めのみに打込み大小の百姓共は農業を続けて行き兼ねる事態にもなり、遂には潰百姓や退転する者、ひいては村全体が亡ぶことになるので御慈悲を以て助郷を減免して欲しいと村の窮状を訴えているのである。

斯様に助郷制度は街道によって生じ、街道は助郷農民の犠牲によって維持整備され、その機能を発揮することが出来たのである。しかし助郷の出役は主要街道のみで、脇往還に出ることは極く稀れであって、まして裏街道や間道などは全く助郷とは無関係であった。練馬の農民は助郷出役に喘ぎつつも僅かな出役非番の日に生活を支えるための農作物に全力を打ち込み乍ら村内の農道や生活道を守ってきたのである。

<節>
第六節 救荒貯穀
<本文>

寛政四年(一七九二)の下練馬村絵図、安政六年(一八五九)の上練馬村絵図のほぼ中央部に郷蔵と書いた場所がある。郷蔵とは元来、年貢米を収納しておく倉であるが、寛政の改革以後、飢饉に備えて穀物を貯えておく倉として、村にとって大切なものとなった(御蔵ともいう)。封建時代において飢饉の時、他国から支援物資が来るとは限らないし、また一々買い入れ

ていたのでは不経済である。そこであらかじめ非常時に備えておくわけである。土支田村上組でやっと郷蔵を建てることができたとき、その場所の御年貢は名主綱五郎が弁納すると届けた次のような文書がある。その倉には保存のきく稗が多く貯蔵されたが、文化二年(一八〇五)土支田村上組の貯稗穀書上帳が町田家に残っていてその様子を見ることができる(近世練馬諸家文書抄)。

<資料文>

乍恐以書付奉申上候

一、郷蔵 壱棟

但 梁間 弐間 桁行 三間半

右者兼而被仰付候貯穀郷蔵今般名主綱五郎後見父金次郎一手之出金ヲ以、同人居屋敷内江書面之通取建此節中塗迄出来当月中上塗其外共皆出来仕候筈、尤蔵敷御年貢之義者綱五郎弁納仕候、依之此段御届奉申上候 以上

武州豊島郡土支田村

午三月廿日 上組小前惣代

百姓代 藤五郎

村役人惣代 名主 綱五郎 後見

父 金次郎

大熊善太郎様 御役所

       覚

御加

一、籾 九斗九升五合四勺 天明八年申より寛政二年戌迄三ケ年分

一、稗 四拾四石三斗八合同申より午迄拾壱年分

右者書面之貯稗穀之儀者寛政十一年未年、麦作不作ニ付一統夫食ニ差支難儀仕候ニ付、御下ケ穀奉願上候、格別之御慈悲ヲ以、御下

ケ穀被仰付難有奉頂戴候、尤去々亥年より五ケ年ニ請戻シ被仰付候間、亥年分去子九月三日、御普請役藤井信五郎様御見分奉請候処相違無御座候

一、稗 八石八斗六升壱合六勺 亥年分

    此俵拾八俵 但五斗入拾七俵三斗六升壱合六勺入壱俵

一、稗 八石八斗六升壱合六勺 但し子年分

右同断 拾七俵

同 壱俵

残弐拾六石五斗八升四合八勺 是迄ニ積戻シ候分

右者書面之通相違無御座候以上

文化二年丑二月 豊島郡土支田村上組

年寄岩次郎

年寄利左衛門

百姓代 孫市

大貫治右衛門様、御役所 (町田家文書

また豪農の中には、自家用の稗蔵もつくり、「へーくら」と呼ぶ小さな小屋がいくつかあったという家もある。

慶安御触書にも「飢饉の時を存出し候へば大豆の葉、あつきの葉、ささけの葉、いもの落葉等、むさとすて候は、もったいなき事に候」とあり、穀物以外でも食用となるものは草の葉、根、木の実までも貯えさせたことがわかる。「吹塵録」でも「村々貯穀之事」と題して次のように記している。

<資料文>

勘定方をつとめしものの話に曰く、徳川氏領内村々貯穀と唱ふるは囲米・詰米の外にして人民に属するものなり。其の貯品は米麦雑穀其外土地の宜きに随ひ貯蓄せしめ、代官之を管理し凶荒にて糧食欠乏の時は貸与し、年賦を以て詰戻さしめ、平年には腐損せざる前に新穀に交換す。其損失費用等村方にて負担す。其倉廩を郷蔵と称す。郷蔵の改築は村費なりといへども、其木材は官林より恵

与するを例とす。此貯穀年々十二月晦日の有高を各地方より届出しめ、勘定所にて総額を計算し、勘定奉行の一覧に供する事なり。其大数及び賦課の方法に至りては記憶に存せすといふ。

以上の記事によれば、郷蔵をつくる費用や土地は村持、毎年定められた量の貯穀をなし、俵のいれかえをして、虫くい、腐敗等で不足の時は補充してその貯蔵量を報告する。もし不作があって困窮の時は、小前百姓に割渡されるが、その分は年賦で返納してゆき、常に一定量の貯穀がしてあるようにする制度である。

こうした一連の方法を証する文書が板橋区の安井家(徳丸本村名主)にあるが、そのあらましは次のとおりである。

<資料文>

  1. 一、「文政六年当未年貯稗穀取集小前帳」一三石余の稗を一一八軒の小前達が各戸一斗一升七合八勺づつ出して貯えたという証拠にした書類、全員が印をおして確認、代官所に提出
  2. 二、「文政七年御貯稗穀御預り証文」名主が貯稗穀を預ったという証文(代官所へ提出
  3. 三、「文政十年御貯穀稗数書上帳」文政八年・九年の二年分を詰戻して預り分の報告(代官所へ提出
  4. 四、「安政七年貯穀積立年延ニ付願書」前年水害で作柄が悪く貯穀が出来ないので年延べしてほしいとの願書。この文中に困窮の者が夫食の拜借をしたこと、貯穀代金の積立てが出来ずのばしてほしい旨があるが、貯穀をお金をもってしたことがわかる。この場合は稗以外のことであろう。

こうした幕府の政策も、当時の流通の悪さ、悪徳代官や商人の跳梁等もあって不十分であり、不作は武士にとって一番大切な年貢納入の妨げとなるので、何とかして納入年貢の確保をしようとした苦肉の策とも言えようが、農民にとっていざという時の準備として大切なものであり、毎年同じ量を積立てる苦労もまた大変であった。

農作にとって一番大切な要素は天候である。練馬区内の場合四筋の河川と、一本の用水、その他は台地という地形上水田は少なく、また下田が大半で、米作はそう期待はできない。灌漑用水も川をせきとめて、その水を分流させ台地の縁辺に用水堀を通す(伊奈流という)場合と、千川用水の水を分けてもらう方法がせいぜいである。しかし伊奈流は水量の確保が必要

だし、集中豪雨の時はせきをはずす暇もない程急激に出水して氾濫してしまう。畑は旱魃つづきの時は日でりの害、更に虫害に見舞われる。その他晩霜の害、風害等天候によって受ける作柄不良は田より甚だしいと言ってよい。ただわずかに日でりに強い作物や、品種をえらぶより仕方ないが、これは救荒作物の類で、売って換金できるものではない。

「武江年表」によって徳川中期以後の関東一帯の大雨、大風をひろってみると、

<資料文>

享保一七年(一七三二)天下飢饉、疫癘流行。

同一八年(一七三三)七月上旬より疫癘天下に流行。飢饉に付御救を賜る。

寛保二年(一七四二)七・八月、大風雨洪水。

延享二年(一七四五)大風雨二回。

寛延二年(一七四九)七・八月、大風雨洪水。

宝暦七年(一七五七)四・五月、関東洪水、奥州飢饉、米価高騰。

明和七年(一七七〇)四月―八月、天下大旱、近在稲に虫つき江戸も虫飛歩行。

同八年(一七七一)六月二日、大地震、八月大風。

安永元年(一七七二)八月一日、大風雨。

同八年(一七七九)八月二五日、大風雨、洪水。

天明三年(一七八三)六月一六・一七日、大雨洪水。

同年()信州浅間山大噴火、関東に降灰、関東飢饉、死人多し。

天明四年(一七八四)諸国飢饉、時疫流行、死人多し。

同六年(一七八六)七月、大雨洪水、関八州特に甚だしく筆紙につくしがたしといわれる。

同年()夏より冬にいたり諸国飢饉諸人困窮。

同七年(一七八七)五月、米穀乏しく、米価高騰、米屋店を閉ざす。雑人、米を貯える家々を打毀すこと多し。御救として金子を賜る。

寛政三年(一七九一)八・九月、大風雨。

同五年(一七九三)一月、関東地震。

同一一年(一七九九)七月、大雷、大雹。一一月大雨、大雷。

文化五年(一八〇八)六月、大雨、洪水。七月、大雨、大風雨。

八月、雨繁く降り大雨二回、洪水。

同六年(一八〇九)一一月、大雪。一と月とけず。

同八年(一八一一)一月、大雪。

文化一一年(一八一四)四月―七月、大旱魃。

同年()一〇月より三か月間に大雪二八度。

文化一四年(一八一七)五月―七月、諸国大旱。

文政四年(一八二一)大旱、米価高騰。

同五年(一八二二)七月まで長雨、八月大風雨津波。

文政六年(一八二三)八月、大風雨。

同七年(一八二四)八月、大風雨、関東大洪水。

天保年間(一八三〇~四四)に入ると、ほとんど毎年天候異変がつづき、各地で飢饉の様相を呈した。七年(一八三六)には更にはげしさを増したので、幕府は関東取締出役を通じて米穀糴買てきばいの禁、貧民救助のための買米は正しく書上げること、遊民無頼の徒の不法狼藉を注意すべきこと、などを各村に命じ、各村は請証文を出している(天保七年、堀江家文書)。この時杉並区内の村々では九〇%以上の人数が飢人として登録され、その五分の一の人数に対し男一人二升、女一人一升の割で御救夫食代()が下付されている。また、鷹場課役の村として特に御救手当の下付を鷹場役所にお願いした所、村高百石について銭三貫五百文、一〇か年賦無利息返納として下付された金は、九か村一七七七人の申請飢人の中、受取人数二九六人、受取米にして三石七斗四升、男女の差はあるが一人平均一升三合相当にもならない額である。しかもこれはこれに該当する金を貸すということで、いかにこの制度の貧弱であったかを知ることができよう。従って郷蔵や稗倉のもつ意義は大きかったし、平常における飢饉対策の必要性は頗る大きなものがあった。

幕府はこの他に破免と言う実収高による年貢の割当法、種貸、肥料貸等を行なっていたが、困窮した農民の救いになる程のものではなかったと言えよう。明日食べる物もない有様では、そうした方法は役に立たず、ありとあらゆる食用可能のものを食べるより仕方がなかったわけである。

野草の葉、莖、根を粥にまぜて食べるもの、主食である米、麦、雑穀に代って山芋、さつまいも、わらび、竹の実、葛の根、むかご等、ほかに、糠、ふすま、かしの実、どんぐりの実、栃の実等を粉として食べ、また貯蔵した。幕末から明治にかけての飢饉の際、下練馬村の新井水車では、楢の実(奈羅之実)を集めさせて、それを買い、稗を保証人を立てて貸した事

実等これを証する文書が残されている。

画像を表示

羽沢の奥津家に伝わる書類の中に「餓ヲ除方」「毎歳風ノ吹年、不吹歳ヲ知ル法」というのがあって如何にこの事について苦労していたかを知ることが出来る。

天候予知の法としては、

等が記され、餓えを除く方法としては、次のような代用食の食べ方が記してある。

  1. ○稗は鍋でたく稗飯であるが、あたたかいうちは結構食べられる、雑炊にもする。
  2. ○粟めしは「むこだまし」と言い米飯と間違われる。
  3. ○さつま芋は「芋よめし」と言って夕飯にしたり米、麦にまぜて食す。
  4. ○どんぐりは食すと耳が聞こえなくなると言うが、あくぬきをして粉にひき餅にして食べる。
  5. ○米、麦等のぬかやふすまは粉にまぜて量をふやすのに使う、団子、ひんのばし等にもする。
  6. ○餅にも、粟、きび、もろこしを使い、その中へ大豆、とうもろこし、粉米こごめ、ふすま、麦ぬか、さつまいも等を入れる。

こうした事のため石臼は大切なものであった。雑殼以外でも屑さつまいも、屑大根、屑人参の切干、大根の干葉、芋がら、ずいき、等は立派な食料であった。

しかし、気候不順や災害への対処を怠ったわけではなく、農家の各種行事にはほとんど、災害除け、豊作を祈らないもの

はない程である。年中行事としては正月の氏神まいりに始まり、初荷、節分、初午、繭玉、春祭り、麦の刈上げ、植付け祝い、雨乞い、七夕、雨ふり正月、お盆、粉ばつ、十五夜、十三夜、村祭り、稲の刈上げ、麦まきしまい、荒神さま等は農事に関連をもつ行事であり、天候や病虫害に対しては大山、榛名、武州御嶽、木曾御嶽、富士、弁天、水神、氷川、八坂、第六天、秩父、稲荷神社等の信仰があり、江戸時代から講の組織も確立している。農家にとっては更に病魔におかされることは労働、助郷、年貢にさしつかえる第一であるから、身体健康、家内安全の祈願は各地で行なわれ、庚申信仰や、絵馬信仰、地蔵信仰、念仏講や題目講等、神仏にすがる以外に方法のなかった農民生活を示していると言えよう。

<章>

第四章 幕末の練馬

<節>
第一節 惣名主の設置と練馬
<本文>

江戸の尨大な需要を対象とした蔬菜生産は江戸近郊農村の重要な産業になって行ったが、その増産には、肥料特に金肥の必要性を来し、江戸市中への下肥汲取り、糠と灰の購入が必要となった。結局、練馬の農村も貨幣経済にまきこまれ、次第に中農がなくなり、地主と小作人という二つの階級になってゆく。肥料を現金で買えない貧農らは、肥料商人の前貸しに頼って、農作物をつくるのであるが、その生産物は貢租の上納と、肥料代にあてられ、赤字になることも多かった。作物の出来不出来、価格の変動は安定した生活を保証することが出来ず、つぶれ百姓などが出て来て、江戸稼ぎ等と称して夜逃げ同様に離村する者も出て来た。そしてその数もますます増加するので、安永六年(一七七七)には、出稼ぎ奉公の制限令を発し、村高人別に応じて出稼ぎ奉公の人数をきめるという方法もとっている。また出稼が出れば、農村の労働力が減少する。不耕作地即荒地も増加するので、帰農も進められるが、効果が上らない。許可以外の出村者は結局無宿者となり、博徒の群にも入ってゆく。練馬の各地に生れた博徒は必ずしも、そうした経緯を経ているのではなく、地主や自作農の子弟も多かったが、その声威は農を棄てた人々によって保たれていた。

そうした状勢のなかで、農民の騒動も多くなり、練馬においては、唯一の大名領小榑(西大泉)、高家の領地中村にまず領主に対する御用金や貢租の減免を願う運動がおこり、天領では、名主、寄合等の村役人層に対し、財力を蓄えた小前百姓等が、その力をのばすために村役人の交代や貢租納入割当への参加等を強く要求している。下練馬村や土支田村の出入訴訟は

そのあらわれである。

こうした幕府のお膝元―関八州の治安の乱れに対し、幕府は無関心ではいられず、江戸市中では「火付盗賊改め」を置き、火事場泥棒、火付け、盗賊、博徒への警戒や検挙にあたっていたが、江戸の拡張につれ、その範囲は広がっていった。しかしそれは当然外縁部のみで、近郊農村では鳥見役人の巡廻、また穢多非人などに手当を出して、軽犯罪の取締りにあたらせたが、とても百姓一揆のような大集団には対抗することが出来なかった。

享保一九年(一七三四)、代官は一揆蜂起に際し独自の判断で近隣の大名に応援を頼む事が許され、寛政五年(一七九三)には上州岩鼻に陣屋をおき、交通の要地の確保と鎮定にあたることになった。

寛政四年(一七九二)三月、幕府創立以来、関東郡代として、活躍していた伊奈左近将監忠尊が家事不取締のため改易となってからは、勘定奉行の久世広民兼任等、関東の幕領支配は一時空白となった。そうでなくとも関東は私領・天領が複雑に入りこんで、他領への出入りは簡単に行なわれ、そこまで追及するには交渉の時間が必要であった。こうした実情にかんがみ、警察捜索の機能一元化することにより、治安維持の強化をはかろうとしたのが、関東取締出役の設置である。江戸近郊の幕領を支配する四手代官(品川、板橋、大宮、藤沢)の手付てつき、手代の中から八人を選び、廻村して無宿、悪党の取締り逮捕にあたらせた。これは文化二年(一八〇五)の六月のことである。同四年出役を二名増員して、一〇名中二名は江戸に残るようになった。しかし私領では、八州廻りが、領内に入るのをいやがり、活動を妨害することもあり、博徒等は事前に無宿狩りを探知して、管轄外に出てしまうこともあったので、後には関外まで出ることが許され、また農民の不穏な動きを探索し、さらには商業の統制まで行なうようになった。

文化文政の頃、関東の状勢がさらに悪化すると、出役の一〇人では間に合わず、村々では自衛のため浪人を雇う一方で、村人が武芸を習う等も行なったが、もともとこれらは禁止事項であった。文政九年(一八二六)には、長脇差、鉄砲、槍をもって徘徊する者は死罪等の重罪に問うといった強硬策もとられた。翌一〇年二月「御取締筋御改革」とした四五か条の触書

が出された。幕法の遵守、無宿者、長脇差、賭博、強訴、徒党の禁止、風俗の匡正、農村における商業、職人手間代等の統制をきめ、新しく取締組合村の編成を規程している。

取締組合村の設置は悪人を逮捕する人数の確保、費用の負担等をその組合村全体で高割にして農民の負担平均化をはかるのが目的でその編成は、領主に関係なく、隣接町村で編成し、約四五か村をもって大組合とし、その中を、村の大小、村高の多少によって三か村から六か村のグループに分け、小組合とした。村高の多い中心的な村を寄場よせば、名主を寄場役人と言い、また各村名主中より小惣代を選び、その中から大惣代数名を選出して寄場役人と共に全体を管轄させた。上板橋組合村によってその状況をみると次のようである。

大惣代小惣代小組合村
上板橋村 徳丸本村 下赤塚村、徳丸脇村、西台村、上赤塚村、四ツ葉村
蓮沼村 前野村、中台村、根葉村、志村、小豆沢村
下練馬村 上練馬村、土支田村上組、同下組
長崎村
雑司ケ谷村 下戸塚村、早稲田村、池袋村、中丸村、新田堀之内村、中里村
上板橋村 金井窪村
図表を表示

これによって、東部の下練馬・上練馬・上下土支田村が、上板橋組に入った事は、以上のように徳丸本村名主「安井家文書」によって明白である。

その他の村々がどの組合に入っていたのかは明確でないが、『中野町誌』や『東久留米市史』にのせられた資料によってまとめると次の表となり、その大要を知ることができる。

また、天保一一年(一八四〇)の武蔵国組合村一覧表(『東京百年史』第一巻)によって本区域内に関係のありそうな組合村数を次に示しておく。

組名村数石高家数一給村数二給三給 四給五給六給七給八給九給不明
中野 四〇 一二、一八一、一四六石 二、七四七 三二
田無 四〇 一九、三一〇、〇三〇石 三、一七三 三七
上板橋 二六 一九、二五九、三三七石 三、一八三 一四
大和田 三三 一二、三〇〇、六二五石 二、五六五 二八
武蔵国全体で組合村は二七九六であった。
図表を表示

また各組合村の内訳は次の通りである

<資料文>

中野村組合村 四〇ケ村 大惣代 中野村

豊島郡(五ケ村) 中荒井、中村、諏訪谷、東大久保、葛ケ谷

多摩郡(三五ケ村) 中野村他三四 ―『中野町誌』による―

田無村組合村 四〇ケ村、大総代 田無村

豊島郡(六ケ村) 下石神井村、上石神井村、谷原村、田中村、関村、竹下新田

新座郡(五ケ村) 小榑村、橋戸村、下保谷村、上保谷村、上保谷新田

摩多郡(二九ケ村) 田無村他二八 ―『公用分例略記』及び『東久留米史』による―

組合村は、従来の領、筋等の行政区画や鷹場組合等を分割、再編成し、大惣代、寄場役人を八州廻りに直結させ、関東全域の農村に対する幕府の強力な一元的支配を目ざしたものであるが、文化一二年(一八一五)、この改革にさきがけて始った増上寺御霊屋料二五か村の改革では、もし地域的に分割されて、他の領地と共にそれぞれ一組合村をつくれば、囚人の継送りや村預け等の御用を命ぜられ、伝統的な特権である他村役免除の由緒が立たないとの理由で、二五か村のみで大組合をつくってもよいことになり、特例は認められている。「安井家文書」によれば大惣代、小惣代は各村名主中より選ばれ一年交代の組合村や、中荒井地区の岩堀家のように相当長年月就任する所もあったようである。組合村の仕事は無宿者の取押えと

その負担の分担および出役からの命令を大組合の親村から迅速に組合村に回達する事等であったが、天保四年(一八三三)から寄場に囲補理場(仮牢)がつくられ、囚人、無宿者を数日間収容して教諭を加えるようになった。しかもその費用は一さい組合村から出されたので各村の財政は圧迫をうけるようになった。

<節>
第二節 天保の改革と村方騒動
<本文>

享保九年(一七二四)八月、江古田村に村役人の不正を訴えた事件が起っている。

上練馬村(貫井町)関口角太郎家の文書によれば、江古田村小百姓共として、代官宛、乍恐と訴え出た文書である。名主孫右衛門は一〇年以上も年貢の割付書類を見せないので、交渉したら、筆や紙がないというので、筆紙を出したのに、写しをまだつくらない。また村入用等の出銭、下練馬宿の助郷に出た日数等も教えてくれない。そうした不満というものは、生活が苦しくなり、村や税のしくみ等がわかって来るようになると、他の村の状況を伺いながら、その方法でやって見る。非常に用心深く他村のやり方や結果まで参考にしながら小さな成功を少しずつでも積み重ねてゆくような方法で訴えつづけるやり方がとられていたようである。江古田村の文書がなぜ貫井に伝わるかわからないが、恐らく「手引書」として写されて行ったものであろう。しかし大名領や旗本領ではその支配体制も違うため、その経過は異なっている。

「大泉今昔物語」には享保一四年(一七二九)二月小榑村米津領内において訴訟事件が起っていることが記されている。

<資料文>

       乍恐書付小榑村百姓御訴願申上候

数年御年貢并諸掛小物割合名主源右ヱ門此度去申年段々不届成致方にて困窮之百姓共身上相江不申候付無拠当三月十九日池田喜八郎様御役所江御前書の通御訴状を以て御訴願申上候 (「大泉今昔物語」

名主源右衛門の時、他の実力者との勢力争いがあって、年貢割当て等に不正があるとの訴えである。その後九月一三日

「覚文」、一〇月「乍恐書状」、明一五年五月一日と三月、六月と「乍恐書状」がつづき、六月に名主対反名主双方により内済となった旨の口上書が残っている。九月一三日の「覚」によれば、畑方御年貢納め過ぎの分、御拝借金三両も必ず分配返金する、田方割合も来月五日迄にすませる旨の念書を名主方は出しているが、その後も代官地と米津領との田畑混在、上田六畝に関して検見水帳と申告面積の相違があるとか、再吟味の際名主が病気で出頭せず引のばしを計ったとか、いろいろあったが、結局は名主を二名制にすることで解決している。こうした紛争は、練馬区においては天領で見られる傾向で、その後も下練馬村や上土支田村に起っている。享保の改革は幕府の財政の建て直しと人心の一新のため、農業の方面でも新田開発、河川改修、産業振興等に力を注いだが、自給自足の経済を基礎におく秩序は、土地生産力の行詰りと貨幣経済の発達によって破壊して来たわけで、農民の間に現状打破の動きがあらわれて来たわけである。

下練馬村出入訴訟

下練馬村の出入訴訟一件も同様の原因で起こり、更に新しく小前百姓代表の村政参加が認められるようになって行く過程とも考えられる。寛政三年(一七九一)夏は年表によれば、八月六日、関東に大風雨、津波、諸川の洪水があり、八月二〇日にも大風雨、九月四日、大嵐となっている(『東京百年史』年表による)。農民の困窮は勿論ながら、米価も高騰して江戸の町民の貧窮甚だしく、怪盗葵小僧が出現、貧民の喝采をあびたのもこの頃である。

しかし下練馬村出入訴訟一件は、その年の一月晦日、同村今神願人百姓より出された「入置申頼証文之事」から始っている。この文書は同村名主作左衛門、伜加藤次(嘉藤治と同人か)が割戻しをせず村役人が横領して支払いがない。是非この事を役人に交渉してほしいと言う文から始まり、いよいよ二月、関東郡代伊奈左近将監に、百姓二一五人惣代として、安右衛門、甚五兵衛、源右衛門、源兵衛の名をもって願い出で、同村名主作左衛門伜嘉藤治および年寄九名のものを訴え、不作の時に借用した米の返納の清算、人足をつとめた時の扶持米の受領が遅れ、村役人が横領しているので、御吟味の上割返しをしてほしいという文書となって正式に取り上げられている。その後の経過では同村三間在家二八人総代市右衛門、喜三郎、久兵衛が伊奈右近将監に届け出たものがあって、今まで割返しの種麦籾代が来なかったのに、今月五日急に返すと言って来

た。今問題となっている事なのでどうかと思ったが無理に置いてゆくので二八人は受取ってしまった。しかし、御用人足の扶持米はまだ受取っていない。と問題がおこって、急いで一部を返金した事を伺わせる文書である。

<コラム page="419" position="right-bottom">

寛政三年 下練馬村・村役人小前百姓出入証文

新井家文書

乍恐以書付御訴詔奉申上候

豊嶋郡下練馬村

百姓弐百拾五人惣代

百姓 安右衛門

訴詔人 甚五兵衛

〃 源五右衛門

〃 源兵衛

権威強私欲押領仕候出入

同村

名主 作左衛門忰

相手 嘉藤治

年寄 久兵衛

〃 四郎兵衛

〃 弥右衛門

〃 孫右衛門

〃 三郎兵衛

〃 伊右衛門

〃 九兵衛

〃 甚五右衛門

〃 権兵衛

右訴詔人百姓弐百拾五人惣代

安右衛門甚五兵衛源五右衛門源兵衛奉申上候、名主作左衛門義及□裏ニ六七ケ年以来同人忰嘉藤治義名主役御用向村用共諸事取斗来り候得共、右加藤治義平日権威強小前相掠其上年寄共と馴合私類押領仕候始末左ニケ條ヲ以願奉申上候

一 去戌十月中村々夫食種麦籾代農具代不作夫食代不作之節拝借被仰付候所近年不作打続返納難義之趣被及御聞之由ニ而格別御救之思召ヲ以右返納残之分不残去ル戌年ゟ一統三拾ケ年賦返納被仰付去々酉年より納返相成候分者去戌十月中御役所様ゟ村々江御割返シ被成下之趣今般及承リ重々難有仕合ニ奉存候、尤隣村組合村々義者其節早速小前江御割返シ有之候由承知仕、然所当村之儀も不作之節先達而夫食籾種代御拝借仕罷在候処、去々酉年分返シ上納仕候ニ付当村之儀茂外村同様御割返し可有御座候と奉存候処、今以小前江一向割返シ無之候ニ付村役人共江得割返シ呉候様再応懸合候得共如何相心得候哉名主年寄一同馴合彼是申紛シ今以一向割返呉不申甚難心得奉存候、此段御吟味之上早速小前江割返シ候様ニ被仰付被下置度奉願上候事

去戌十二月十五日百姓安右衛門義御年貢御皆済仕度名主方江参リ納辻相分り不申候間御割付拝見仕度旨申入候所、御割付者拝見不為致候ニ付、尚又百姓代惣左衛門甚兵衛右両人ヲ以申入候得共六七ケ年以来御割付小前之者共得者一向為相見不申其上右之義を□□ママ之権威ヲ以同日朝五ツ時ゟ暮六ツ迄右安右衛門名主宅江差留置無謂難義為致候、其外ニ茂近年御年貢夫銭取立向之義ニ付不取斗之儀数多有之候事

一 御成之節御用人足前々ゟ我等共義相勤来リ年々御扶持米頂戴仕難有仕合ニ奉存候。然所去酉戌両年分前之通御用人足相勤候得共右両年分御扶持米小前江割渡不申全村役人共割合私欲押領仕候儀者甚歎敷奉存候。此段御吟味奉願上候事前書之通り少茂相違不申上全躰嘉藤治儀平日役儀之権威ヲ以無謂小前相掠其上年寄共馴合諸事取斗ひ方難心得義共数多有之候ニ付惣百姓一統可奉出訴処、名主年寄親類身分之者数多有之大村之儀一同之願早速ニ者相決不申左候ニ者銘々村内治り不申殊ニ悪例年初ニ而騒動之基ニ候と一同歎敷奉存候間、仍之私共弐百拾五人惣代ヲ以無是非今般御訴詔奉申上候何卒以御慈悲ニ前書相手之者被召出御吟味迄御上様ゟ被下置候品者早速小前江割返シ以来右躰之儀不仕正路ニ相勤村内無難ニ相治り候様奉存候、尚亦委細之始末御尋之上乍恐口上ニ而奉申上候 以上

武州豊嶋郡下練馬村

百姓弐百拾五人惣代

寛政三亥年 百姓 安右衛門

二月 〃 甚五兵衛

〃 源右衛門

〃 源兵衛

伊奈右近将監様

御役所

『近世練馬諸家文書抄』より

更に三月一六日、前湿化味の徳兵衛、宿湿化味の三郎兵衛、今神の宇右衛門、早淵の五右衛門、宮ケ谷戸の長五郎が加藤次について訴え通りであると証言している。

七月四日、一〇八人の総代、安右衛門、甚五兵衛、一〇七人総代源五右衛門、源兵衛の追訴願で、誰が何処に集って相談、連絡したかの問いがあったが、これに対してはそういう事実はなく、各人申し出る所、同じ内容でもあるし、ひとりひとりの訴えは禁止されているので二四三人の総代として申し出ただけでだれかが中心となったということでは絶対ない、どうか横暴な村役人をやめさせ、納めすぎの金を一同に返してほしい、と申し出ている。

七月四日、戍年お成りの時のかかり六両二朱銭八四貫一二六文の取戻しが出来た。また種籾代一六両三分、永三七文七分の取戻しが可能となった。米四四俵二斗一合、細目糯、細荏、大豆、荒稈代米は名主から取戻せることになった。小前

から掠めたものは全部返してほしいと申し出ている。

九月二二日、甚五兵衛の出頭通知に際し、病気のため出席できない。私安右衛門が代理出席する。何でもお答えする。

一〇月過納取立の分は嘉藤次弟儀平次に渡すとのことであるが、安心出来ないので、二四三人の分は一件落着まで私共へ直接渡してほしい等、こまかな願書も出されている(浅見兵太郎家文書)。

このあとすぐ、伊奈家は没落するのであるが文面から見れば解決の方向に向ったことがわかる。平和台の内田家文書には、その「村方旧記」の中に、「寛政三亥、重見安左衛門願出ニテ作左衛門并嘉藤次年寄九人相手取出訴いたし、村中騒動に及び、長々出入の所、内済となり作左衛門隠居、年寄の内孫衛門、四郎兵衛、三郎兵衛、孫右衛門、年番名主組頭となり、半よりは長五郎、早淵権兵衛が年番名主となる」と記している。この頃より関東郡代の弱体化もあって関東各地が騒然として来るが、天保三年(一八三二)、小榑村、米津領内に欠所事件が起っている。

米津伊勢守政武は、徳川一六将の一人藤蔵常春の一族であるが、段々と加増され、父出羽守田盛ミチモリの時には寺社奉行大阪

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定番となり、武州久喜二万石の大名となっている。寛政一〇年(一七九八)七月通政の時出羽長瀞に移り、長瀞藩と称した。練馬の地小榑村の半分七三〇石を領したのは元禄一六年(一七〇三)以来で政容の時である。小藩ではあるが、幕府譜代の臣として大阪定番始め大番頭等を勤め領地への着任も少く家老まかせの時が多く、諸役手当はあっても、持出しも相当あったと思われ、領民に対する貢租、冥加金の割あても大きな比重を占め、苦しい農民生活に一層拍車をかける状態であった。

天保三年(一八三二)米津侯は領民に御用金を命じた。天領と違い大名の娘の結婚費用まで村から徴収する状態のため日頃苦労をしていることであるから、村民は、妙福寺の南にあった本応院に集って相談をした。その折、百姓代の半之亟から発言があって、前年、江戸芝の芝緑山増上寺の御霊屋の祠堂金を領主米津伊勢守は小榑領引当の金員として借用し、百姓代半之亟に責任保証人として捺印させていたが、今年この証文を書きかえるに当り、再び半之亟に捺印を命令して来た。半之亟はこれを固辞し、村人へも応援を頼んだ。この席で、この事についても相談が行なわれ村人は半之亟を応援することになり、名主の命を聞かなかった。米津伊勢守は来村して名主宅に年寄連を集め、命令を履行しない理由を尋問した。名主側は半之亟捺印固辞および村民集会の様子を陣情、御用金差出しが出来ない旨を申し出た。米津侯は大いに怒って、諸法度違反の理由により責任追求と処罰を行ない、半之亟、武兵衛は村構え、組長辰五郎、八十郎、乙五郎は欠所所払の刑となった。内堀八十郎は妻の実家へ、滝島乙五郎は縁者の千葉市川へ、小美濃辰五郎は親戚相川稲城へ身を寄せ、土地家屋は取り上げられてしまった。組頭半太夫は借用金整理の責任を負わされ、名主と共にその金策に苦労しなければならなかったという。現在「欠所」と言われる家があり、大乗院墓地に「若クシテ農民ノタメニ身ヲ犠牲ニシテ」という墓碑を残している人もいる。以上は『大泉今昔物語』の記述であるが、天領と大名領との違いを見ることが出来る。

欠所事件から四年、天保七年(一八三六)には中村今川領に小前騒動という事件が起っている。

今川とは桶狭間の戦いで織田信長に討たれた今川義元の子孫である。義元の孫範秀は殿中の儀式、典礼、朝廷との交渉、日光・伊勢の代参等を司る奥高家衆になっていた。正保二年(一六四五)京に使いし、家康のために秀吉より上位の「東照宮」

の称号を授与されてきた功により、井草村、上鷺宮村、中村の計五〇〇石が加増され、従五位下次いで従四位下に叙せられるようになった。この位は一〇万石相当の格式となるので、僅か二五〇〇石の高家にはその生活や、交際は大変なものであった。こうした事から新田開発に力を入れ、井草村三〇〇石を七六〇石に、上鷺宮一三五石を三五八石に、中村六四石を二一四石に、合計一三三二石にふやした。年貢もふえたため、年貢率は他の旗本領より低い六四%に抑えたが、天領の五七・五%よりは高かった。今川の支配方法は、今川家用人が村役人を江戸屋敷に呼び出し、指図書を渡し、村役人より請書を徴することになっていた。帰村した村役人は組頭を召集して、趣旨を伝え、組頭は更に、組合の小前百姓に伝えた。こうした一方小前からの願い、訴え、借金、田畑の質入等には必ず組頭、村役人の添書が必要であった。

天保七年(一八三六)の春、今川家から「御勝手元不如意に付四月八日迄に御用金百五拾両を上納せよ。返済は毎年一八両ずつ下げ渡す」と申し渡され、村役人はそれを村内の小前百姓に割りあてた。四月四日の夜、小前百姓たちは、下井草村の銀之亟、源左衛門を中心に、ひそかに神戸坂の「ジユダツ様」(杉並区清水三丁目天祖神社)に集まって相談した。

「文政十年以来、度々御用金を借りあげられるが、少しも返済がない。その上、天保二、四、五年と三回も凶作がつづき全く余裕がない。免除してもらうか、延期してもらうかどちらかにして貰うよう皆でお願いしよう」ときまって、各村に同調方をひそかに呼びかけた。直訴となれば天下の御法度、重大事であるが、四村の小前百姓は遂に立ち上った。

天保七年、四月六日、小前百姓一同は江戸小川町雉子橋通りの今川家に押しよせ、御用金免除の事をお願いした。驚いた今川家では一まず「一村三人ずつ来るように」と言って帰したが、農民たちはその帰途高田馬場で代表者選出の会議を開いた所、皆のために犠牲になって死を覚悟しなければならないだけに、なり手がなかったので、結局くじ引きで上井草の源兵衛以下一二人をきめて、翌七日今川家に出頭、願い筋を申し出た。

四月一四日より、内藤隼人正の出頭命令があり吟味が行なわれた。その後の経過はわからないが、古老は、取調べは観泉寺の境内で行なわれ、縄つきで連行されて行ったと話している。座敷牢、村預りの様子である。

取調べは勘定奉行公事方関東取締役が用人や代官を指揮して行なったようで、もし今川家に落度があれば、今川家も罰せられるところから、何とか穏便にということになって、

  1. 一、今川家に落度はなかった。
  2. 一、文政一〇年以来の御用金は返済しなくてもよいとの証文を村役人との間に交されている。尚先年より凶作手当金として一か年で四〇両づつ差し引きをしている。
  3. 一、平年作がつづけば御用金を申しつけなくても、冥加金を出すのは当然である。
  4. 一、特に不作の時は特別の思召をもって御救米を出している。
等今川家に非違はなかったという事にして、農民の方も徒党直訴でなく小数歎願であったように打消し運動をしている。即ちこの事件は村役人の知らない事、下井草の組頭新之亟が入っているのは村内のさわぎをとり静めるためであり、主謀者もなく、個々に門訴をしたのである。今後、出金仰せつけの時は違反しないようにすると、天保七年(一八三六)七月一日、吟味中の小前百姓一六人及び各村惣代差添人四人は連名で、勘定奉行あて、吟味取り下げを願い出、また、今川家も同年九月三日歎願書を提出して一件落着となった。この年大凶作で飢餓人も多く出る有様だったので、問題の上納金は沙汰止みになったという。

しかし天保九年(一八三八)四月一七日、江戸今川邸が全焼して、火災見舞金三〇両課税、さらに一五〇〇両を借上金として上納せしめられた。今川候は安政元年(一八五四)には京都御所へ使者となり、五年六月(一八五八)には日光代参、一〇月には伊勢代参を命ぜられ、そのつど六六両、二二両、四四両の大金を上納して、供侍、人夫まで差出すという大きな負担を強いられたのである。以上は森泰樹「杉並風土記」の記載であるが、今川領の人々はこうして勤勉と忍耐の塊のような魂をつくったと評している。なお、この小前騒動に代表者として交渉に当った人物は中村では新兵衛、源八、七郎右衛門であったと伝えている(「中村の昔」)。

上土田出入訴訟

天保一二年(一八四一)一二月、土支田村上組に、村内の争いが起っている。そして名主、年寄、百姓三者にまたがる争いとして御役所あてに吟味を願い出ている(町田家文書)。

天保一二年一二月二〇日、百姓庄次郎以下一五名のものが、百姓代幸左衛門、年寄四人を訴訟人として名主金治郎、年寄文五郎を山本大膳御役所宛に訴えている。その概要を記すと、

天保一二年一一月二四日、御役所出訴に先立って、上石神井村仲右衛門、平蔵、上白子村忠右衛門(何れも名主)宛に「差置申議定一札之事」という文書を出している。内容はこの度の出訴の事を記し、一村平和に治まるようお立合い願いたい。訴えた四か条の内、お下渡し金については取調べの上、割戻金があればそれぞれ小前へ渡し、不足は取立ててほしいと言い、又中山道板橋宿、川越往還の人馬雇賃銭は一同立会いの上支給されるよう改めること、定使給も同様のこと、今後村方の事は、得々相談してきめてほしい事。

以上の事がきめられたなら、金治郎は老齢でもあり、退役して、跡目の名主役は村方一同で相談、入札で高点の者が来年まで勤め、それから順に勤めるようにする。もし三分の二(一〇〇人中六〇人)の得点なら三か年の中二年を、三分の一(一〇〇人中四〇人)であれば一年、それ以下は掃札として処理する。新規の名主が定まったならば、御年貢諸役取立、村用の取計い等年番で処理してほしい。以上の通り懸合行届き証文が認められるので、後日の為に証文連印を差入れる。

として上組の一五人を代表して百姓代幸左衛門、年寄二人代表三左衛門、同村名主金治郎、年寄文五郎、小前八〇人代表百姓代利八郎名で差出している。何故こうした文書を隣村名主に出したものかわからないが、恐らく隣村にもお調べや影響があるかも知れないという配慮からであろうか。訴訟上敵味方となる者が何故連名して出しているのかわからない。訴状は一二月に入って出され、百姓代幸左衛門を中心として、年寄四人(代理二人を含む)百姓一五人が不正出入として名主金治郎年寄文五郎を訴えている。その内容は二人名主の中一人病死したが、以前から金治郎のみ権威を誇り、押領の取計いがあって小前、年寄共難儀、改めるよう申し出たが用いられず、増長、小前百姓に割渡すものも渡さず、先年凶作のため粟稗の

代金を貸付けられ、もし出来なかった時は利息をお下げ下さる事になっていて、去る亥年利下げ分の金五両永二二三文が金治郎の手に入っているが、渡してくれない。早々に割合で渡されるようお願いしたい。又中山道板橋宿助郷は人馬の少い村なので、高一〇〇石につき六両二分として、村高一五三石につき金九両三分銀一一匁七分であるのに、一一両一分、銭一貫九〇〇文と余分に取立てられ度々懸合いをしたが、私慾に迷い実行しないので吟味願いたい。当村は六八八石をもって川越往還白子宿へ宿助郷に出ているが、銭五七貫六〇〇文にきめたのに、一一貫二〇〇文多く金治郎が取込んでいて懸合ってもきかない。村の定使給は一年間小前軒別銭一〇〇文づつ(一〇七軒)であったが、金治郎名主となってからは、この一〇〇文の外に、近い者と遠い者と区別して特別に加減して取立てている。二重の取立てとなるのもかまわず押領してしまっているので吟味してほしい。

尚年寄文五郎はどうしても連印しない。これは金治郎と馴合いの者と思われるので一同是非なく訴えたものであると申し出ている。

そして、一二月二五日には御役所の山本大膳より翌一月五日罷出て対決すること、不参の者は「越度」とするという書状が届いている。

その後の経過はわからないが、二年後の天保一四年(一八四三)金治郎、文五郎に対して、百姓代五人、小前百姓七七人の者が「幸左衛門は名主役をしたく、森次郎は居酒屋渡世をして御役所のお調べの結果差止めになったのを恨み、一同と共に願出でようとしたが、私共は不賛成であったので、親類緑者少数で出訴したものである。従って幸左衛門等に賛成出来ない。もしお尋ねのことがあれば一同申し開きをする」と名主方につく旨の文書を送っている。

こうして天保一四年七月五日には村を二分した騒動は幸左衛門方一七人、文五郎方八〇人の間に和談が進み、内済の証文が「差上申済口証文之事」としてまとまっている。しかし経過としては、金治郎名主退役の後、年寄文五郎、常次郎が一〇日毎に帳面を預る筈の所を、文五郎方に引きとめ、名主役後任の入札をすべき所、引きのばし双方争っていたが、双方から

名主役を一人づつ出し、年番で勤めることとし、金治郎方は忰綱五郎(父金治郎後見人として)を名主とし、年寄六人は元のまま相勤める事とし、双方申し分なく内済となった。「お役所には相談の上取り下げの件連印をもってお願い致しますが、御威光の為と有がたく仕合せに存じ、この一件に付双方共重ねてお願いの筋がない」旨の申し出でで解決している。

なお、その証人引受人として田無村名主半兵衛(代理)、谷原村名主覚右衛門、上板橋村名主与右衛門が捺印している。どうして遠隔の名主が証人となったのか不明であるが双方の仲に入って和議を進めた様子がわかる。当御役所は大熊善太郎にかわっている。

この出入一件は村政の発展のために効があったと思えないが、村役人に対する不平不満が原因であり、ある点については小前百姓一同の願いがこめられている。寛政三年の下練馬村出入一件と類似の点もあり、下練馬村の出入証文が東大泉の加藤家にも残されている所に何か関連があるかも知れない。他村の成功例を参考にした一件であったかも知れない。各村ではこうして村役人の入替や諸入費の取扱等に小前百姓の発言力が高まってきた事を示している。

天保の改革

松平定信の寛政の改革も結局は、土地生産力の行詰りと貨幣経済の発達によって充分の効果は上げられなったが、さらに文化文政の腐敗、混乱を経て、新しい制度を望む声は次第に多くなり、江戸近郊である練馬の農村でも例外ではなかったことは前述の通りである。

それでも幕府は最後の望みをかけて、老中に水野忠邦を起用して天保の改革を行なった。

「御改革の儀、御代々之思召は勿論之儀、取分享保、寛政之御趣意に不違様思召候に付何れも厚く心得可相勤也」と天保一二年(一八四一)に改革令を出し、幕府をはじめ諸大名、旗本、御家人の財政難の救済と農村の困窮を打開しようとした。その政策は風俗の矯正、質素倹約、低物価政策、人口政策、旗本救済策などである。この改革にあたり幕府が農村に命じたのはいろいろあるが、天保一四年(一八四三)八月代官大熊善太郎によって出された質素倹約金を上げて見る。

<資料文>

今般御料所御改革之儀被仰渡品々御世話も有之候ニ付、当田方検見は勿論定免村々並荒田畑取下流作場等見分之上、追々小前帳村

絵図村人用為取調手附手代共差出自分も廻村致し候得共、右は素ゟ御改革と申新規ニ御法を建無謂一概ニ御取箇を取増候様之筋ニは決而無之畢竟近来百姓共奢侈ニ超し身元相応之ものは花麗風俗を好、結構之住宅を補理、無益之諸道具を集右ニ准シ小来之風俗ニ立戻り安穏ニ永続致シ候様ニと之難有御趣意ニ而且又田畑一筆限耕地小前帳ニ引合荒地取下場等も可成丈本免ニ復し候様可致は勿論之処畢竟支配致役所之世話も不行届故畝畔紛乱致し荒地等出来又者起返し候而も有躰不申立其儘ニ相成居候哉之趣ニ付、右様之場所は相改尤地所不相当ニ高免之場所は引下ケ候様ニも被成下、いつ連ニも上下明白夫々村柄、地味相応之御取箇ニ相成候様ニと之是又難有御沙汰ニ而無躰ニ御取箇を増可申訳ニは曾而無之万端不行届之段は支配ニおいて恐人候儀何事も有躰申上候得は是迄之不束は格別之御宥免も有之、元来切添切開と申も事実は隠地ニ而至而重き不届ニ有之其訳は天下之御地面を内証ニ而作取ニ致し或は荒地等起返候も申紛し隠置候は無勿躰事ニは無之哉、一躰百姓は国之元ニ付町人ゟも身分上ニ立、町人は奢候而及零落候共潰次第ニ候得共、百姓困窮致し候得者御手当被成下又は貯穀其外凶年不作之節者夫食農具代拝借等被仰付、前末々迄もうまき物をたべ、よき衣類を着し男女共髪飾等ニ心於用ひ近在は別而江戸風儀を見習ひ都而農家不似合之躰ニ成行如乱驕り候而者村人用も多く相懸り自然懶惰と申なまけものニ相成農業を嫌ひ田畑山林之手人も等困ニ相成候故、作徳薄く御取箇も減村柄衰ひ困窮致シ終ニ潰百姓も出来上下衰微之基ニ付、流弊御改革とは右様之風儀を改免候事ニ而質素淳朴と申古へは布木綿之外不着、わらを以髪をゆひ候程之ものに付何事もつゐへをはふき、村人用を減古品々相続之御世話も有之候処、前書之通、不正取斗致し置たとへ不顧候共上を掠免不届之徳分を以其身は勿論子孫末々ニ迄繁昌永続可致道理は無之其所を能々弁別いたし此難有御時節何事も正路ニ申立取調請候得は国百姓可為難儀之筋は毛頭無之候条右之通申聞候上ニも心得違致し不正之取斗有ミニおゐては支配ニ而茂公儀江御□□儀致し百姓をかはひ候様ニは難成候間無拠上向江申立厳重ニ御沙汰ニ可相成其節ニ至里何程先非をくやミ候而も無詮事ニ付小前未々迄公得違無之様壱人別厚申聞此廻状村役人宅江急度張出し置可申もの也。

 (天保十四年

   卯

       八月九日                大 善太郎

                                     (『練馬区史』昭和三二年刊

「今般御改革の儀により、検見等のため各村を廻るけれども決して税を多くかけようというものではない。近来百姓共奢侈に流れ、身分相応の者は華美な風俗を好み、結構な住居に入り、無益の諸道具を集めている。これに準じて小前以下の者までうまいものを食べよい着物を着て男女共髪かざりに心を使い、近在の者は江戸の風儀を見習い、すべて農家のようでなくなり心おごっているので、村入用も多くかかり、自然なまけるようになり、農業もきらい、田畑山林の手入れも怠り、作も少く収穫もへり、村が衰えてつぶれ百姓等も出来て、上下衰えの基となっている。御改革はそのような風儀を改め質素淳朴とし、昔は布木綿の外は着ず髪はわらで結ぶ様であったが、それにならい何事も費用を省き村入用もへらし、昔の風にかえれば安穏であるという有がたい御趣意から、質素倹約をするようにしたのである」と、改革の有難さを強調しているが、時代の流れである農民の生活向上をおさえ、最低生活をおしつけたものであった。

貨幣経済の波にまきこまれた農村にはこうした法令も効果は少なく、かえって反感を高めるばかりであった。

<節>
第三節 幕府の終焉
<本文>

嘉永六年(一八五三)六月三日、アメリカ艦隊四隻はペリー提督に率いられ、浦賀に来航。この新しい事態に幕府は周章狼狽し、朝廷、諸大名、旗本等の意見も適切なものはなく、遂に開港のやむなきに至る。海防に備え大船建造、大砲鋳造に着手したが軍備のおくれはどうすることも出来なかった。江戸町民の情勢も危惧と興味と相交る中に過ぎて行ったが、外国船打払いの方法募集等に寄せられたものの中には、その内容が滑稽で当時の科学的な考えのなさを示しているものが多い。練馬の村々に直接この衝撃が伝わることはなかったが、品川お台場の築造について、空俵の割付状が来ている。組合村である上板橋総代を通して石高に応じて一万〇三二〇俵を割あてられたが本区分では下練馬村一八二三俵、上練馬村一八一二俵、下土支田村二九九俵。上土支田村五二四俵を割あて、西台河岸、早瀬河岸に集積するようという命令である。(高一〇〇石に

付六九俵の割)嘉永六年九月のことである(徳丸本村名主 安井家文書)。

嘉永七年二月にこの方面に出された「浦賀表異国船渡来ニ付」の文書に対する村々の請書は次の通りであるが、幕府の村々に対する指示の様子がわかる。

<資料文>

差上申一札之事

今般浦賀表江異国船渡来ニ付宿村々為御取締被成御廻村左之通

被仰渡候

一 異国船渡来候而も海防之義者厳重御手当有之候間一同安心いたし諸事平穏ニ農業家業精を出し勿論宿村内昼夜役人共見廻リ火之元念入自然無宿悪党之もの等立入候節召捕押方兼而手配リ申合役人ゟ合図次第壮健之もの共出会捕押早々御役所江訴上若手余リ候ハゝ打殺候而も不苦候

一 役人共者不及申小前末々ニ至迄御用又者要用者格別猥ニ他行致間敷異国船見等ニ罷出候義者猶更不宜義ニ付此段相慎可申候

一 穀屋其外之もの共心得違ニ而米買メ等致候而者以之外成事ニ付右様之義無之様役人共ゟ時々申諭高持百姓共作徳米所持いたし候にも其者丈之夫食手当又者村内窮民共救之ため除置候者格別其余売払可然分者早々売払米穀囲持不申様可致候尤役人共方江米穀所持高出穀入穀高等時々為相届猥ニ直段不引上様厚申諭万一不入分之米穀買入候歟又者囲持候もの有之候ハゝ其子細相尋其もの名前早々可申上候

右者追々御役所ゟ御触達も有之候へ共今般御廻村厚御教諭ニ付小前末々ニ至迄不洩様申達心得違之もの無之様可仕候依之御請印形差上申所如件

嘉永七年寅二月十五日 下板橋宿

上板橋村

下練馬村

上練馬村

上赤塚村

下赤塚村

徳丸本村

同脇村

西台村

右村々

下板橋宿江罷出候

勝田次郎様御手附

岡本孫一郎様 御廻村先ニ而差上

板橋区教育委員会編徳丸本村名主「安井家文書」

江戸市中はペリー来航で緊迫し、動揺・混乱の末、流言もとび、諸物価が急騰した。いざ戦争かというわけで武器をととのえ、米も梅干も二倍の値段になり、また住居移築等のため左官、車力、かごかき、舟宿等が忙しくなったという。

<資料文>

太平の眠りをさます じょうきせん たった四杯で 夜もねられず

具足より利足のたかい世の中に 御手当どころかすねあてもなし

よくきたな アメリカさまとそっと言いもうけ仕事の方より

歯がいいと 草葉のかげで猿が言い秀吉のこと

                                      ―『東京百年史』より―

こうした落書に江戸の混乱を見ることが出来る。また六月一〇日、回向院に国府阿弥陀如来の御開帳があって、一〇月まで延六十余日つづいた。「異国船渡来につきとして剣難よけと鉄砲玉に当らない護符を出し大あたりした」と武江年表に記している。当然市民の疎開騒ぎもあって、江戸近郊の農家の座敷を借りるものが出て、座敷代が急に上ったというが、こうした伝承は練馬では聞いていない。しかしこうした騒然たる世の中に盗賊も横行するので、警戒を厳にし、もし手に余れば打殺しても仕方がない。米の売惜しみ等せず仕事に精出すようにとの触書がまわり、その請書が各村から出されたわけである。

泰平の世を大変にゆりかえし 上もゆらゆら 下もゆらゆら

と、開国にふみ切るまでの混乱を諷した落書もあるが、幕府、諸大名は新しい時代に対処するため、特に軍事技術の導入をはかり、政治の改革を始めた。講武所の設置、槍術、剣術、砲術、銃隊練習等が行なわれ騎兵隊も整備された。運動会でよく行なう騎馬戦というのは、人の馬にのって、風船割りとか、帽子とりをするのであるが、この頃よく行なわれたのは、白赤の源平に分れた騎馬兵が甲胄に似せた竹具足を着て、兜の前立てに土器カワラケをつけ、馬にのって相対する。大将の「かかれ」の采配によって、寄せあい土器目ざして槍で突く。割れば勝ち、大将の土器を割れば全体の勝とするもので、周囲は見物人で埋ったという。

安政四年には西洋銃(ゲベール銃)の訓練が始まり、武士特に弓術隊内に不満が高まった。

不平言い言い訓練した姿が想像出来る。

蕃書調所の軍艦教授所の開設、造船所の建設、大砲、火薬の製造も行なわれる。火薬製造は人里はなれた郊外で行なわれる事が多く、不なれのため事故も起しやすい。安政元年だけでも、一〇か所近くで大爆発を起している。米つきのための水車が慣れない火薬つくりに転向したためである。

こうした中に、安政五年(一八五八)六月一九日、日米修好通商条約が調印され、つづいて他の西洋諸国との間にも条約の調印が行なわれた。世に言う安政の仮条約で、裁判権、関税率の点で相手国優先の不平等条約と言われたものである。そうした意味ではその後の貿易関係で、高い外国製品を買い、安く日本商品を売るという、即ち日本国内の生産が間に合わず国民生活に支障があっても、外国に買われて行ってしまうという状態もあらわれ、仮条約勅許の問題から尊王攘夷運動が活発となり、また災害、悪病もつづいて世の中がうるさくなった。安政の大獄、桜田門外の変という血の粛清も行なわれるようになった。

こうした時に時局拾収の奥の手となったのが、公武合体論であり、皇女和宮の将軍家茂への降嫁問題である。既に有栖川宮への婚約が整っていた和宮にとっては意にそわないものであったが、朝権の回復と攘夷の断行という長年の希望が達せられるという約定によって国内統一の捨石として降嫁の勅許が下されたと解している。

この和宮降嫁は幕府の人質政策として流布され、東下の行列を途中襲って、宮を奪還しようとする計画もあるとされ、出発時期もおくらせ、路も中仙道を通ることになった。文久元年(一八六一)一〇月二〇日の出発である。警備は厳重で、一二藩が輿の警衛、二九藩が沿道の護衛に当った。

練馬地方の村々はこの行列の中仙道通過によって板橋宿助郷は豊島、新座、足立、多摩、埼玉の各郡二一八か村、数万の農民に及び、八月九月の農事の最も忙しい時期の道普請をはじめとしてさまざまな仕事を命じられた。七八五六人、馬二八〇頭の空前の大行列は、一一月一四日板橋宿到着、一泊の後、九段の清水邸に入るというこの前後にはさらに、数万の農民が動員されたわけである。この婚儀は翌年文久二年二月一一日に行なわれている。

こうした幕府の強行策は、尊攘派の浪士を刺激して、各地にテロ事件も発生した。外国人殺傷事件の頻発や坂下門外の老中安藤信正襲撃事件等がこれである。

攘夷を唱える武士たちは、開港による物価の高騰に不平をもつ豪農、豪商、神官、国学者等と結びついてその行動は活発化し、遂に東禅寺事件(イギリス公使館へ乱入)となり、しかもその後もあとをたたず、文久二年(一八六二)には焼打ちが行なわれ、公使館が全焼、翌年にはアメリカ公館宿舎(麻布善福寺)の火事も起っている。その損害賠償の件でもめている最中に、薩摩の島津藩による生麦事件がおこり、報復を考える在留英人からの、幕府および薩摩藩に対する要求が出されるなど緊急を告げる状態となった。幕府はもっぱら回答の延期を策し、イギリスは幕府と薩摩藩に対し、賠償金と犯人の逮捕、処刑を求め、その返答の期日を定め、もし応じない時は横浜にある水陸の軍隊をもって、その賠償にかわる処置をするという通告をつきつけて来た。将軍上洛中のために老中はその回答延期の処置を講ずると共に、一方交渉決裂の時に備えての諸準備として、江戸在邸の婦女子の帰藩、江戸町民の避難等が許され、家財の売払い、持出し等混雑を極めた。また盗賊が横行して江戸の警備も混乱して来た。当時、攘夷の朝旨が決定している中で、幕府は老中小笠原長行の独断で、イギリスから要求されていた一一万ポンドの賠償を払うことを決したが、大名行列の前を横切ったイギリスに罪ありとする薩摩藩は遂にその要求に応ぜず後に薩英戦争に発展してゆく。

文久三年(一八六三)、折から上京中の将軍家茂は朝廷をとりまく尊王攘夷運動の極盛の中で、五月一〇日を期して「外国船打払い」の実行を約束させられ、長州藩はその中心となって、下関海峡通過の外国船(アメリカ、フランス、オランダ)を

砲撃、諸藩にその援助をせよとの命令も出る程であった。しかし七月二日、生麦事件の未解決から起った薩英戦争に敗れた薩摩藩と京都守護職松平容保(会津藩主)とは反長州の密約を結び、文久三年八月一八日、クーデターによって尊攘派公卿と長州藩の追放をはかり、京都は公武合体派の天下となった。七卿落ちや、天誅組、生野の挙兵の失敗はその時である。

諸藩武士の国元への帰郷が続き、江戸屋敷は縮少され、浪士は増加し、失業下級武士もまた増加する中で物価の著しい高騰が続き江戸市中は不穏さを増していた。特に暴利をむさぼる商人に対して「天誅」という名の襲撃が行なわれたのもこの頃である。襲撃者の中には市中警備の新徴組等の名を使った者が多く、また当の新徴組にしても実際には浪士を募集してつくった隊であるから、その隊士中からも該当者が出る有様で、このため諸大名の家士の手で、市中巡邏、諸門取締り、夜間の無灯火通行厳禁等の処置も行なわれたが有効なものとはいえなかった。江戸市中のみならず、江戸近郊においても、浪人無宿者は容赦なく召捕ることとし、手こずれば斬捨て差支えなし、鉄砲使用も時には差仕えがないとされた。『渋谷区史』には、下北沢、豊沢・角筈の三組では一〇人ずつの組をつくり、竹槍を用意し、壮健なものを選んで目印、手槍、もぢり等を支給して非常時にそなえる等、村の警備は村人で当る方針も打ちたてられたと記している。「文久三年二月将軍上洛留守中ニ付取締方触書同廻状」が板橋区の安井家にあるが、関東取締出役より各村に出された触書である。その時の惣代は下練馬村の久右衛門名主である。北町に「まんじう目あかし」というよび名をもつ農家があるが、そうした時期に村の密偵をつとめたのではないかとも考えられる。

公武合体派の抬頭によって窮地に陥った長州藩は、藩主の弁護嘆願のため上京し、蛤御門の変を起している。幕府はその罪をとがめて追討を決定し、江戸藩邸も没収、とりこわしとなった。そして元治元年(一八六四)第一次長州征伐の命が下ったが、そのため、この江戸の近郊(品川宿助郷)にも人夫、駄馬の徴発、蔵米前借金の返還猶予、軍費徴収等が及んできた。この征伐は四国連合艦隊の下関攻撃と重なり苦境に立った長州藩の降伏により、境界に待機していた一五万の兵は一戦も交えることなく終ったが、長州藩内では高杉晋作等の活躍によって藩論は「武備恭順」の線にまとめられ、軍事力増強、

そのための富国政策、それまでの恭順という政策がとられた。幕府は降服条件である藩主父子の伏罪書、五卿の移転(七卿のうち)、山口城の破却も不十分であると見て、幕府の威信のため第二回の長州征伐を慶応元年(一八六五)四月一三日に命令した。幕府は再び軍用金を江戸、大坂の町人に課し諸国の寺院から軍用金を献上させ、天領の各村にも上納金を課した。今、土支田村の町田家にその書上帳が残されている。

<資料文>

上金書上帳

土支田村上組

乍恐以書付奉申上候

一 金八拾三両也

武州豊島郡土支田村上組

百姓藤蔵

外六拾八人

右者今般

御進発ニ付御用途金之内江上金仕度奉存候間何卒以 御慈悲願之通御聞済被成下置候ハハ難有仕合奉存候 依之乍恐段以書付奉申上候

以上

慶応元年五月

右村百姓代 権蔵

名主 綱五郎

松村忠四郎様 御役所

九月二一日将軍家茂は参内して長州再征の勅許を受けたが、九月一六日四国連合艦隊の代表は九隻を率いて大坂湾に入り、兵庫開港、条約勅許、課税軽減の要求を朝廷と幕府につきつけて来た。二つの大問題をかかえて条約勅許の承認をうけ、兵庫は開港せずの了解を得た幕府は、六月七日長州藩に対して戦闘を開始したが、薩長連合の成立によって薩摩藩はこれに加わらず、広島藩もまた参戦を拒否する等、動員兵力の減少と、長州藩の藩士と民衆による強力な抵抗に、幕兵は敗走、幕府

方の小倉城も落城の始末となった。しかも大坂城の将軍家茂は慶応二年(一八六六)七月に突如死亡し、幕府にとってはこの上ない窮地に陥った。先に諸大名から長州征伐解兵の建言もあり、諸大名の意見もあって、八月二二日、朝廷より休戦の御沙汰書が出て戦いは終った。慶喜が一五代将軍となったのは一二月五日、前将軍死去の四か月後である。慶応三年(一八六七)一月二二日、第二次長州征伐の解兵が天下に命令されたが、長州藩は直接朝命を受けなければと承知せず、その上諸外国の要求である条約実行の時期が迫って来た。慶応三年三月二八日には兵庫開港が外国公使に告げられたが、勅許がまだ出ていないため事態はますます悪化し、幕府はこうした内外の問題を処理しきれずやがて大政奉還、諸大名による合議制とする意見が起って来るのであるが、練馬の近辺にはその頃、武州一揆という大きな打ちこわしが始っていた。

慶応二年(一八六六)六月一三日、秩父郡名栗村におこった窮民七、八〇人による打ちこわしは燎原の火の様に次から次へと燃えひろがり、高麗郡、入間郡、多摩郡、新座郡等一七郡二〇二村、打ちこわしを受けた家数五二〇、参加の群衆十数万と数えられる(武州世直一揆史料による)。

練馬の近辺では引又村(志木市)で商家九軒が打ちこわされ、同村の高崎侯の陣屋が破壊され、白子・下新倉村まで進出したのは翌一四日である。下新倉村では「次太夫様ジダイサマ」と言われた名主が襲撃をうけ、今もその長屋門の柱に、打ちこんだ斧の傷が残されている。白子宿では彼等の要求を受け入れたために打ちこわしを免れたという。

彼等の要求とは何かというと、

一、豪農層に対しては村方に施米、施金や質地、質物の返還など、豪農の蓄財の放出を承認させ、世直しの成果をあげる。

二、村方に対しては村民が一体となって積極的に世直しに参加し、周辺の諸村に世直しを拡大する義務を負うことによって、豪農層よりの蓄財を享受する。

従ってその方法は、指導部(頭取集団)、活動部(打ちこわし)、先触れ(先遣隊)によって構成され、数人単位の「先触れ」が各地で「日本窮民ノ為」という幟印をかかげ、世直しの到来を告げ蜂起を促し、食糧、人数の差出しを促す。これによっ

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て広域、同時多発的な性格をもつ事になる。また先遣隊は豪農や村役人への打診を行ない、領主や村の情勢を把握し、一揆指導者の手足となって一揆の拡大に活躍した。

この武州一揆は小規模ながら、開港による欧米資本主義の収奪に対抗する民族的な反抗運動ということが出来る。そこでその攻撃目標は当然、物価の値上りの元兇とされる横浜貿易に従う生糸商人たちであるが、その他にも高利貸等の悪徳商人も対象となり、これらの屋敷は徹底的に破壊し、一揆の要求を入れ実行を確約するものには請書を出させ、あくまでも合法的な手段を通して実行させる。もしこれを拒否した場合でも、徹底的な打ちこわしのみに止め、放火略奪や人身への危害を加えることは厳重に禁止していて、村の制裁として受けとられるようにした。

六月一六日、一撥の勢いが、練馬区域内に及ぼうとし、既に先ぶれが現在の土支田、北町あたりに現われる時になって、幕府は陸軍奉行配下の歩兵頭に三個中隊をつけ、北方の警備を令し、また、川越・高崎両藩にも鉄砲・大砲による応戦をさせた。しかし武蔵野地方でこの鎮圧に最も成果を上げたのは、「武州農兵」又は「江川農兵」と呼ばれる田無村、五日市村、日野宿、八王子宿、駒木野等の農兵隊であった。富有な農民(七石から一〇石位)の子弟によって編成されたもので、鉄砲を貸与されていたのである。この農兵隊の攻撃によって、一揆は次第に犠牲者を生み、ついには逃走したわけである。

この農兵隊は、伊豆韮山の代官江川太郎左衛門の嘉永二年(一八四九)の建言に始まるが、漸く文久元年(一八六一)に許可がおり、江川代官所内に限って試験的に実施、ついで幕領各地でも実施されるようになった。幕府が長く許可しなかったのは、農民に武器を持たせることになり、万が一一揆方に参加した場合の心配があったからである。それだけにその設置の慎重さ、運営の細心さがあるわけであるが、幕府は、農村内における身分差による優越感を利用し、富民層からのみの徴募としたのである。

農兵隊は村の治安維持のために出来たのであるが、一方には自家の防衛の気持も強かったわけである。一五日、江川太郎左衛門より「一揆の鎮圧のため出兵せよ。もし出あったならば遠慮なく打ち殺せ」と命令が出、最初は空砲でおどかした

が、さらに向って来るのでついには実弾を撃ったと言われている。

こうして一七日には全地域において鎮圧され、一揆指導者の検挙が始まるのであるが、豪農は出来るだけ団結して、一揆勢との約束を破棄しようとしたが、約束の一部である施米は何とか実行して農民の反感を弱めようとしている。しかし一揆方の反感はくすぶって、豪農層に対するゲリラ的反抗としてつづいていたと言う。夜袋だたきにあった等はこれである(田無市中央公民館、「武州世なおし一揆と農民」より)。

練馬区域内における一撥の記録は見つからないが、農民隊については、慶応四年(一八六八)正月鉄砲二〇丁の借用を願い出、証文を出した文書が残っている(東京府民政史料より)。

そして、その使用、取扱いについて、こまかく指定している。隊員の肩書が多く名主や年寄の子弟となっているのでもその性格が判断できよう。

<資料文>

差上申御貸筒拝借証文之事

当代官所

武州豊島郡上石神井村

年寄兼吉

一、ケウヱール御筒 壱挺

附胴乱壱 背負革壱

管人壱 剣指壱

御筒廿挺之内

玉取五ツ 三ツ俣五ツ

万力 壱鋳形壱

鋳鍋壱

一、同壱挺 年寄市兵衛

附右同断

一、同壱挺 同伝吉

附右同断

一、同壱挺 百姓茂兵衛

附右同断

一、同壱挺 同綾次郎

附右同断

一、同壱挺 年寄金次郎

一、同壱挺 同長十郎

附右同断

一、同壱挺 同伝四郎

附右同断

一、同壱挺 名主仲右衛門伜銕太郎

附右同断

一、同壱挺 当御代官所下石神井村

附右同断 百姓勝五郎

一、同壱挺 同寅右衛門

附右同断

一、同壱挺 同吉五郎伜甚五郎

附右同断

一、同壱挺 百姓伝五郎

附右同断

一、同壱挺 同安五郎伜安兵衛

附右同断

一、同壱挺 同次郎吉伜栄五郎

附右同断

一、同壱挺 年寄安五郎伜岸三郎

附右同断

一、同壱挺 同忠七伜忠蔵

附右同断

一、同壱挺 年寄惣右衛門

附右同断

一、同壱挺 百姓本橋勝右衛門伜

附右同断 国蔵

一、同壱挺 名主弥市弟仙蔵

附右同断

右者今衛農兵御取立相成候ニ付、書面御貸筒並附属之御品共御貸渡相成、難レ有仕合ニ奉レ存候。然ル上者出精稽古仕、無益之生殺堅ク仕間敷事。

一、御貸筒預り主之外他人者不レ及レ申、組合親類兄弟好身者ニ御座候共、決而貸渡申間敷旨被ニ仰渡一奉レ畏候事。

一、異変之節者格別、平日稽古之外猥りニ鉄炮堅ク打申間敷、都而平常身分相慎善悪共互ニ不ニ附合一、越度無レ之様可仕様事。

一、私共組合村々之内者勿論、最寄村ニおゐて万一異変も御座候ハハ御沙汰次第早速出張仕、御差図受レ申事。

右之趣相背御貸渡鉄炮ヲ以悪事仕候ハハ、本人ハ不レ及レ申、名主五組迄何様之曲事ニ茂可レ被ニ仰付一、依レ之一同連印一札差上申処、如レ件

武州豊嶋郡上石神井村

百姓茂三郎㊞

慶応四年正月日

親類組合惣代 与八㊞

同綾次郎㊞

同豊吉㊞

年寄兼吉㊞

同市兵衛㊞

同伝吉㊞

同長十郎㊞

同金次郎㊞

同伝四郎㊞

名主仲右衛門伜 銕太郎㊞

右村役人惣代

年寄長十郎㊞

名主平蔵㊞

同州同郡下石神井村

百姓勝五郎㊞

親類組合惣代 仙之助㊞

百姓寅右衛門㊞

親類組合惣代 鉄五郎㊞

同吉五郎伜 甚五郎㊞

親類組合惣代 万五郎㊞

以下略

『練馬区史』昭和三二年刊より

慶応四年(一八六八)は既に武州一揆の鎮定より一年半も経過しているが、上下石神井村では時勢の推移から農兵設置の必要性が高まっていたことがわかる。

武州一揆は失敗に帰し、かえって農民二層の対立を来す結果とはなったが、幕政の衰えと共に各地に農民の結果が行なわれ、反抗することも多くなっている。

慶応三年(一八六七)一一月、隣区板橋区の徳丸原を練兵場とするため幕府は付近農地の取上げを強行した。農民たちは、土地の取上げは死活にかかわるとして、竹槍等をもって、役人が来たら突き殺せと申し合わせた。そこへフランス人教官が別手組の者と鳥猟に来たので、農民はほら貝、太鼓の合図で集り、これを取り囲んだ。、フランス人は逃げる事が出来たが、別手組の四人は遂に捕りょになってしまった。農民は三千余も集り気勢を上げ、代官の要求にも応じなかったという(『練馬区史』昭和三二年刊)。

この時京都においては将軍の大政奉還が行なわれていたわけである。

慶応三年(一八六七)九月一八日の薩長討幕挙兵の盟約から始まる一連の動きは、他藩の賛成も得て、「討幕の密勅」が下され、一方では土佐、広島藩の大政奉還建白書が幕府に提出された。こうした情勢の中で、四〇余の藩の意見を聞いた将軍慶喜は一〇月一四日、大政奉還を上表し、翌一五日には朝廷の承認となった。しかし、朝廷に新しい政治の準備が全くなかったため、将軍職も征夷大将軍職も諸大名の参集まで待つことを指示し、諸大名の参集を三回に旦って令したが、集る大名は京都近くの小藩のみで、関東の諸大名の中には大名を捨て徳川の陪臣となってもよいとする者も出る始末に、朝廷から幕府に大名の出席説得の命さえ出る程であったが効果はなかった。

一方「討幕の密勅」を手にした薩摩・長州・芸州の三藩はその準備に着手し、一〇月二一日の「しばらく延期」の御沙汰書も間に合わない状勢で、一方会津・桑名両藩および新選組の動静もあり、民衆の間には「ええじゃないか運動」が展開してきた。

一二月九日、小御所会議によって、慶喜の官位辞退、所領返納がきめられ、慶喜は紛争を避けて兵を率いて大坂に退いた。王政復古の大号令が下ったわけである。

この事を夢想さえしていなかった江戸では、将軍から見はなされたと考え、将軍をここまでにした薩長等の奸計をうらみ、大混乱に陥った。また薩摩方浪人と称する一隊が各所に集り、騒擾を起した。江戸市中の強盗も火つけも多くなり、その本拠地は薩摩藩邸となって一二月二四日に、その攻撃が庄内・上ノ山・岩槻・鯖江の四藩によって行なわれた。その報が大坂に届くや幕軍の士気が高まって、ますます討薩斬奸を迫るようになった。

<章>

第五章 江戸時代の信仰

<節>
第一節 神道のうつり変り
<本文>

原始の昔から科学の進歩した今日に至ってもなお、人類と自然との係わりようは深く、地水火風の中にあって、人類は時にそれらに平伏し、時に反逆して生活し続けて来た。

武蔵野の曠野に住みついた人たちは、晴れた日には東北に筑波嶺を、西に富士の山を仰いで、その嶺や山を神の宿った神体そのものとして拝んだ。麓の筑波神社や浅間神社が参拝の対象となり、神格の付されたのは、仏教が伝来後の二次的な事で、もとはといえば、峰そのものに無限の力を感じて心ひかれたのである。日本一の広大な原野を生活の舞台とした武蔵野人の、それでは礼拝した神の社には、どのようなものがあったであろうか。

平安時代の初め、氏姓制度の紊乱を正す目的で『新撰姓氏録』が作成せられ、それら氏の奉斎する神々の社を調べて延喜五年(九〇五)から編纂し始めて延長五年(九二七)に完成した『延喜式』を見るに、その神名帳に記載された関東に存在する式内社一二九中、武蔵国に在るもの実にその三分の一に当る四三社にも及んでいる。勿論大国であるから当然ではあろうが、数としては関東一である。しかもこうした式内社が延喜以前の創建にかかるものであることから、武蔵国中には氏神としてあるいは村落の共同神として祭祀する集団がそれだけ多かったことになり、そのことはまた考古学の発掘結果の示す住居址の分布や、『倭名類聚鈔』記載の郡の数二一がこれを裏づけてくれる。

こうした武蔵国二一郡中にあって式内社のある郡一五、ない郡が六もあり、豊島・新座の二郡に所属していた練馬区域は

その無い六郡中に入るのである。このことは往古の練馬区域内には、式内社に斎ぐほどの神を持つ有力な集団がいなかったことと無関係ではない。

それにしても区内には既にいくつもの縄文・弥生時代の住居址や遺物が発掘されて居住集団のあったことが確認されている以上、人と祭祀のあったことも確かである。武蔵野の曠野が河畔から拓かれて人口が増えるにつれ、まず氏神が祀られ、やがて共通の祭神として社に鎮座させる小社が増えた。この頃からではなかろうか、性器崇拝を意味する石棒が作られたのは。時を経て、たまたまその一つが土中から掘り出されて石神井神社のご神体となっている。信仰というものは、概ねこのような土俗的な生活に即したものが本来ではなかったろうか。

神仏習合時代

最初蕃神(となりぐにのかみ)と称された仏教が、民族の移動に伴う伝播の波に乗って六世紀末百済から公伝するや、忽ち日本人の心を捉えてしまった。蕃神ほとけの珍らしさからだけではなくて、三国を経て洗練された教理を持っていたからである。飛鳥・奈良の国教化時代を過ぎ、平安時代からは仏主神従という本地垂迹の風潮に神道は押され、中世に入ってからは吉田家を中心に仏教理論を導入して反本地垂迹を唱え、失地回復を図ったが、然し社家は仏教僧侶に対抗することが出来ず、神社を社家は祖霊信仰の拠り処としてしか思わないように村民を馴致していた。そのような状勢の中に突如侵入して来たのが、ヨーロッパの合理主義に鍛えあげられたキリスト教で、忽ち日本の過半に浸透するかに見えた。が既に封建体制の熟成期にあっただけに、為政者たちは、その科学文明よりも、その反封建思想の恐ろしさの故に、排撃弾圧、禁教の方途をとった。この時浮び上ったのは神道ではなくて仏教で、体制に合わせた神道は、ご神体を仏像に換え、神殿に仏具を置き、拝殿に鈴や鰐口を懸け、中には卍を彫った漱盥石を前方に据え、社頭には「八幡大菩薩」、「牛頭天王」、「白山妙理大権現」、「三十番神」などの両部習合の神号を書いた扁額を掲げ、僅かに神事の時だけに氏神として息づく有様となっていた。この状態をもう少し具体的に『新編武蔵風土記稿』の豊島郡と新座郡に跨る野方領に掲げる区内の村々について次に摘記しよう。

豊島郡)中荒井村

氷川社村の鎮守なり例祭九月十八日正覚院持 末社 牛頭天王 天神 稲荷 ○弁天社二一は正覚院一は村民の持 ○稲荷社四何れも村民持

中村

八幡社村の鎮守なり南蔵院持下持同じ ○稲荷社 ○天神社 弁天社 ○水神社 ○三峯社 ○金毘羅社

谷原村

氷川社村の鎮守なり長命寺の持下同 ○稲荷社三一は国広稲荷一は金山稲荷と称す

田中村

稲荷社村の鎮守なり宝蔵院持

上石神井村

氷川社上下石神井・関・田中・谷原五ヶ村の鎮守なり、例祭九月二十日三宝寺の持下三社同し 末社 天神 弁天 天王 第六天 稲荷 ○弁天社三宝寺池の中島にあり 神楽堂 ○水天

宮池ノ側にあり ○愛宕社小名城山にあり、略縁起に據に、文明中太田道灌豊島氏を攻るの時、当社を勧請して勝利を祈しと云 ○稲荷社二一は火消稲荷と称す、当社の霊験により三宝寺火難を遁れし事あり故に名つく、同寺持、一は村民の持にて雷斧を神体とす長二尺五寸許

〔三宝寺内〕八幡社、稲荷社

下石神井村

石神井社是村名の由て起りし社なり、神体は則上石神井村三宝寺池より出現せし石劔なり事は同村に辨す、三宝寺持 ○神明社持前に同し、村の鎮守なり ○諏訪社禅定院持 ○稲荷社三一は道場寺一は禅定院一は村民の持 〔道場寺内〕白山社 〔禅定院内〕八幡社

関村

三十番社村の鎮守なり本立寺持 ○稲荷社最勝寺持 ○弁天社当村多年水災に困めり、近き頃御勘定武島菅右衛門巡見の頃深く是を憐み、己か尊崇せし辨天の木像を與へけるにより、かの溜井の側に安置し水難を祈りけれは、その擁護にやよりけん今は其患にかかること稀なり

竹下新田

弁天社村の鎮守なり谷原村長明寺の持 稲荷社村民持

土支田村

三十番神村の鎮守なり妙延寺持 ○天神社妙安寺持

上練馬村

八幡社村の鎮守なり、社領八石の御朱印は慶安二年十一月十七日附せらる、神明春日を合殿とす愛染院持 ○稲荷社六一は円光院、一は愛染院、一は高松寺、一は養福寺、二は成就院の持 ○愛宕社 ○金山権現社 ○神明稲

荷合社己上村民の持 ○子権現社円光院持 ○第六天社二共に愛染院持 ○六所権現社寿福寺持 ○飯綱権現社養福寺持 ○神明社泉蔵寺持 〔円光院内〕天神社 〔寿福寺内〕十羅刹女社

下練馬村

神明社清性寺持 末社 稲荷 ○白山社 〔金乗院内〕八幡社 牛頭天王社 〔清性寺内〕天神社 〔円明院内〕稲荷社

弁戈天社 〔荘厳寺内〕神明社 牛頭天王社 〔光伝寺内〕天神社 〔威徳院内〕天神社 〔松林寺内〕氷川社村の鎮守なり

稲荷社 疱瘡神社 〔高徳寺内〕天神社 〔東林寺内〕弁天社神体は秘仏にして、天長七年七月七日弘法大師江島辨才天へ参籠し、一萬座の護摩を修し其灰燼をもて作と云

上板橋村の一部(旭丘、江古田分

富士浅間社二一は能満寺持、一は西光寺持 稲荷社五二宇は安養院、三宇は長命寺、能満寺、西光寺等の持

新座部)橋戸村

天王社除地一町、小名中里の耕地にあり、三間四方の社、村の鎮守なり、鎮座の年歴知らず、当村忠右衛門か小榑村角左衛門のもち 氷川社村民庄忠右衛門が宅地の内にあり、小祠、祭神は在五中将なり、其家にては中将東国下向の時、庄春日江古田と云三人のもの慕ひ来りて、此地に祭りしと相伝れども信ずべからず 弁天社一間に二間、村内真福寺の側にあり、村民の持 天神社東辺にあり前辺に鳥居建つ

小榑村

三十番神社村の鎮守なり、小名中島にあり、本照寺の背後にあたれり 稲荷社小名堤村にあり、鎮座の初詳ならず、九尺に一間許の小祠、前に鳥居あり、村内圓福寺の持なり、 〔妙福寺内〕三十番神堂二間半四間半、祖師堂に向て左にあり、 七面妙見相堂二間半に四間半、祖師堂の背後山上雑木茂りたる間にあり、堂の前山下に鳥居を建つ、 天神社七面堂に向へば左なり、九尺に二間、前に鳥居あり、 鬼子母神堂祖師堂の丑寅にあり、三間四面、この鬼子母神は法華経寺に安せる像の本体なり、往古日蓮聖人平日の看経仏なりしを、日祐聖人へ伝はり、ついに当寺へ納めたり、本寺には却て摹刻の像を安せり、嘗て賜はる処の御朱印も、この鬼子母神へ寄附せしと云、

図表を表示

これを各所有別、神社系統別にまとめて見ると、表4のようになり、武州一宮の氷川神社系が非常に多い。村の鎮守を調べると、石神井五か村の総鎮守となっている氷川神社のごとく、その中の各村鎮守と重複する所もあって、的確な数字はつかめないが、重複の際は各村鎮守だけとして集計すると、氷川社三、三十番神社三、八幡社二、神明社一、稲荷社一、弁天社一、天王社一、計一二である。鎮守とは一定の地域を守護するために祭られる神で土着神の時もあるが、その地域を開いた氏族の氏神の場合が多い。

しかし時代の推移によって交代も起り得るので、真の産土神を探すことはむずかしい。そしてこの表からつかめることはほとんどの社が寺院持で、農業の神稲荷社の多いことであり、水の神の信仰も多い。学問の神天神が多いのは、御霊信仰も入っているのであろうか。農民の現世利益の信仰をあらわす神々が小祠としてまつられているのも、当時の様相を伝えるものであろう。

以上のようであるが、各村内にはこの外にも多数の小社が祀られていたようで、例えば前記のように土支田村には三十番神と天神社としか見えないのに、小島兵八郎家蔵享和四年二月の「村方之儀明細書上帳 下書」には番神社、稲荷社の外に、万福寺を別当とする八幡宮、神明社、天神社、稲荷社や、氏子持妙延寺別当の番神社、稲荷社三、別当持白山権現社、稲荷社、本覚寺別当の天神、稲荷、村民八郎右衛門持の鬼()母神、権現等の小社が録されているように、まだまだ各村には「村持ち」の小社が多数あり、祭礼の日以外平素は村の諸集会の格好の場となっていた。(「第三節中宗門改め」の項参照

<節>
第二節 仏教寺院の進出
<本文>
板碑信仰と練馬の寺院

本区内には例えば後述するように、かなり多くの板碑の存在が明らかにされており、仏教信仰は中世頃から唱題、念仏が盛んであったようだが、寺院の建立は近世近くからでなければ見られな

かった。それも日蓮宗と真言宗のものが圧倒的に多い上に、その分布が一つは白子川流域で妙福寺を筆頭にした日蓮宗に、もう一つは石神井川流域の三宝寺・長命寺を始めとする真言宗の二つになっていることは、教線拡張過程を考える上に重要な示唆を与えるものというべきである。もう一つ注目すべきは板碑に記されている年号と基数とを見るに北朝年号では康永三年2、貞和元年1、文和年間4、延文年間5、貞治・応安年間<数2>15・永和二年1、康暦年間6、永徳元年1、至徳年間4、康応・明徳年間3と計四二基も数えられるのに比べ、南朝年号は正平七年(一三五二)のものが僅か一基しか見出し得ない事実である。この事から南朝方勢力がこの地域に余りにも劣勢だったという従来の論を妥当とせざるを得ない。更に板碑出現の年次密度をグラフ化して見ると、上のように、貞治・応永年間を最高に、永正・天文年間に激減し、天正一一年(一五八三)を以て消滅してしまっている事は、板碑造立供養の必要性が戦国時代の終息につれてなくなったのだと考えられるであろう。

画像を表示

こうした状勢の中で、各村落には、氏神と共に小堂もつくられ、旅の僧侶が、幾日かを過し、祖先や死者の供養も頼まれれば行なったであろうと思われる。神仏習合時代には当然神社の中にも仏像が安置されることもあったと思われる。練馬に伝わる伝説の中にも霊験によって難病を克服したために、祈願仏をまつったという寺の創立由緒が数多くあるが、こうした状況をあらわしているものと思われる。

先に板碑の項において、真言宗と日蓮宗の進出が多いことを示したが、練馬区文化財総合目録によれば阿弥陀板碑一四一基、題目板碑七六基、釈迦如来板碑五基、大日如来板碑四基、六地蔵板碑一基、文珠菩薩板碑一基、弁才天板碑一基の計二二九基で、断然阿弥陀信仰の多

かったことを示している。

『新編武蔵風土記稿』の各寺院の記事を見るとその創立について記されていたり、開基、開山の没年等が記されているので、それを時代別に整理して見ると、一番古い寺院としては嘉祥三年(八五〇)の天台宗修験大覚寺、慈覚大師の創立と伝え、後世住持が日蓮宗に帰依して妙福寺奥の院となったと記されている。その他では弘安五年(一二八二)の日蓮宗妙福寺が古く、次は道場寺の応安五年(一三七二)である。

題目板碑の最も古いのは弘安六年(一二八三)であるから、大泉地区に法華信仰が広がり、妙福寺が創立された時期と一致する。

練馬の寺院がいつの頃創立されたか。はっきりしない寺院もあるが『新編武蔵風土記稿』や各寺院由緒等によって見ると、

となっており、練馬の寺院の多くは、室町の頃から江戸時代初期にかけて建立されていることがわかる。寛永八年(一六三一)新地建立禁止令によって、新設寺院の制限が行なわれ、さらに元禄一一年(一六九八)には新地の寺に適用するものとして、寺院古跡新地之定書が出され、古跡については本山の支配下に入り幕府の保護があるが、新地及び小寺院は、存立破却の問題があるので、幕府の有力者や民間の檀家にとり入って破却を免れる状態となった。寛永八年以降の寺院は八寺で江戸時代になってからの寺院のすべてである。(建立年代不明の寺を除いて)ほとんど真言宗の寺であって、その中には隠居寺と言われ

る寺が入っている。

本末関係

江戸時代、仏教寺院が織田信長や豊臣秀吉の勢力下に入る事を余儀なくされる過程の中で、寺院の統制をいかにすべきかが問題であった。中世の大寺院は宗教的な一大政治権力であったから、時の権力者にとって大きな障害となっており、守護使不輸不入は耐えがたい事であったろう。

本末関係は室町幕府と密接な関係にあった寺院を五山、十刹とした臨済宗寺院の統制や、日蓮宗や真言教団では、本山→有力寺院→寺院→末寺道場→有力門徒という強い線によって全国に広がり結ばれてきたのであろう。しかし全国を一本とするこの強力な本末関係は幕藩領主にとっては非常に厄介な存在となるので、これを分立、分散させることが必要であった。即ち、本山を複数とし、更に東西に分ける等、統一行動のとりにくさに重点をおいたと考えられる。慶長一八年(一六一三)最初の本末規則は天海僧正によってなされた関東天台宗法度である。この中で幕府は次のように定めている。

  1. 一、本寺に伺わず末寺の住職を定めないこと。
  2. 一、末寺は本寺の命令に絶対従うこと。
  3. 一、関東本寺(喜多院)の儀をうけず、山門(延暦寺)より証文を受けないこと。

これを手始めとして各宗派に本末規則を及ぼし、元和二年(一六一六)にはほぼ完成している。しかしこうした制度は有力な寺院間の争いや末寺の抵抗など問題が続出した。そこで幕府は各宗派から本末関係を示す書類を提出させ、それを幕府が公認することにした。寛永一〇年(一六三三)のことである。

本寺が末寺に規定した掟としては、本寺の祭礼、法会には末寺は必ず役をつとめること、新築、修復は本寺の命によること、他山、他寺への出仕はしないこと、後住・弟子の契約は絶対にしないこと、本寺にことわりなく山林竹木を伐採しないこと等であるが、この制度は本山を頂点とする階級制度であるために、末寺の本寺に対する礼金や手数料は莫大であったようである。例えば末寺の住職が交代する際は継目料という相続税まがいを収めさせていたようで、その金額についてはたと

えば昭和四七年に刊行された『アジア仏教史』日本編に次のような一文がある。

<資料文>

下総国中山法華経寺(市川市)には、一七一四(正徳四)年の「末寺継目等礼金之定」という史料が現在のこっているが、これによれば、

色衣寺

本院弐両 院家弐両 寺中弐両

黒衣上

本院壱両 院家参歩 寺中参歩

黒衣中

本院参歩 院家弐歩 寺中弐歩二朱

黒衣下

本院壱歩二マヽ 院家壱歩 寺中壱歩二朱

院号上

本院弐歩 院家八十マヽ 寺中壱貫

院号中下

本院壱歩 院家四十マヽ 寺中一貫

一代色衣之礼金

本院金子拾両 補任井袈裟料弐両 院家四両 寺中五両

本院近習壱両 寺中若徒壱両

永代色衣許礼金

本院金参拾両 補任井袈裟料五両 院家拾四両 寺中拾六両

本院近習弐両 寺中若徒弐両

と、それぞれ定められている。つまり中本寺の中山法華経寺は、末寺の住職が交替するときに、寺格(色衣寺・黒衣寺・院号のみしか名乗っていない寺)に応じて、継目料と称して、末寺銭をとっている様子がわかる。末寺が納入した継目料は中山法華経寺のなかでは、本院・院家・寺中に分配されている。このほか中山法華経寺には本院近習・寺中若徒という身分のものがあり、色衣免許の折にのみその分配にあずかっている。このように末寺から収奪した、いわゆる公認料を本寺内部の力関係によって配分している様子がうかがえる。このため本寺内部の本院・院家・寺中の利権争いは、激烈をきわめたものと思われる。さて以上のような金額を現在の金額に換算すると、どの程度になるであろうか。一両=米百四十三キロ、米一キロ百八十円とすると、永代色衣免許料は二百五十七万四千円であり、一代の色衣免許料は五十七万五千円、継目礼金は色衣寺で十五万円となる。つまりこれだけの金額をつまなければ住職の相続は不可能なのであるが、逆にいえばこの程度の金額を払っても十分採算がとれるほど末寺住職の地位は魅力ある地位であり、経済的にも恵まれていたともいえよう。しかし、本寺が末寺を収奪したのは継目料・色衣免許料にはとどまらない。

開祖開山の法会にもすべての末寺から寄付金を集め、寺院の諸用具も本山から買うという有様になっていた。こうした状況は本寺の収奪がいかに大きなものであったかと言うことを示すと同時に、寺院がそれに耐え得る収入のあったことを示すことにもなろう。

従って本寺、末寺の争いは多かったと思われる。乏しい練馬区内の史料の中に寛永一九年(一六四二)の木下家文書には金乗院が円通寺愛染院と本寺の争いをしたことがのせられている。慶安二年(一六四九)三代将軍家光が鷹狩の途次夕立にあって立ちより、住職の請により、村内の各寺院を真言宗とし、金乗院の末寺としたと伝えている。この間光伝寺は浄土門より改宗し、長源寺は浄土真宗を改めなかったため、村を追放され江戸府内に移らねばならなかったと言われている(『武蔵野歴史地理』第一巻)。この事は練馬付近におけるこの時期の対応を示すことになろう。

再び『新編武蔵風土記稿』によってその本末関係を示すと次ページの表のごとくである。

この中で日蓮宗実成寺は妙福寺の末寺法性坊であったが、寛政五年(一七九三)本山法華経寺の直属になったという記録も本末問題として考究の必要があろう。

『新編武蔵風土記稿』の妙福寺の記事によって本区内に日蓮宗が広められた過程を知ることが出来る。この寺は弘安五年(一二八二)中山法華経寺第二世日高聖人によって創建されたが、日高聖人中山に去るに及んで、まだ天台、真言の勢力の強かったこの地方では妙福寺は衰えたが、法華経寺第三世日祐聖人来って再建し、一七日間の説法を行なった所、村内天台修験道大覚寺の住持深く感激して、この宗旨に帰依し、日延聖人となった。日祐、日延の知識、よのつねならざるを知って当寺をゆずった。よって日祐を開山、日延を帰依開山とした。大覚寺も当然妙福寺末となっている。激動の時代、住職の交代もはげしい時代では宗派の維持はむずかしかったのであろうが、本末関係の実施によって維持確立していった。即ち無住の時は本寺兼帯等の方法があったのである(昭和三二年刊『練馬区史』・昭和五二年刊『アジア仏教史』日本編)。

<資料文>

本末関係一覧

画像を表示

<節>

第三節 寺檀制度と宗門人別帳
<本文>
宗門改め

仏教は信長・秀吉の天下統一の成就過程の中で、苦難の道をたどったが、一方ではこうした時代のすう勢から大きな幸運を得ることもあった。

天文一二年(一五四三)という年は、種子島にポルトガル船が漂着して鉄砲を伝え、わが国の戦法に革命的変化を与えたという一事だけに止まらず、宗教・文化にも大きな影響を及ぼす契機ともなった。たとえば六年後の一八年にはフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸してキリスト教の布教を開始している。仏教は伝来の当初から国情と妥協して来たがキリスト教は性格が異なり、その反封建性に気づいた為政者達はにわかに布教を禁じ、いわゆる切支丹宗門の弾圧を行なうに至った。そしてキリスト教の根絶政策が始った。その政策具体化の一が宗門改めとなった。

切支丹弾圧はまず慶長一七年(一六一二)の禁教令に始まり京都の教会が破却された。その後信者の多かった京畿西国での禁圧がはげしかったが、元和九年(一六二三)江戸で信者五〇人が処刑されている。寛永一〇年(一六三三)から始まる鎖国令、つづくその強化によって、オランダ以外の西洋人の渡航および日本人の海外渡航あるいは帰国を厳禁するようになった。

この鎖国はキリスト教国の植民地侵略の野望を砕き、またキリスト教徒の封建体制批判を封ずることにあったと言われるが、結果的には幕府の貿易独占を達成し、寺請てらうけ制度によって農民を農村に固定するという効果を実現した。この固定は封建社会の領主支配に対して最も重要な要素である年貢の収奪と軍役の強化のため必要であった。しかも島原一揆等をキリスト教国の領土的野心と誇張して敵愾心をあおり、諸大名および農民たちへの支配を強めて行った。

宗門改めの実施の目的は前述の通り禁圧にあったのであるが、究極は幕藩体制に庶民を順応させる政治的意図にあったこ

とは明白であった。

図表を表示

まず切支丹の信奉者であるか、ないかは五人組に調べさせ、その五人組帳を利用して寺請をさせたようで、全国的にはその時期、方法に若干の相違がある。寛永一二年(一六三五)の頃、時の老中酒井忠勝(小浜藩主)が国元の留守居役に命じた通告の次の一節

  1. 一、村々五人組を申付、堅連判之手形を申し付く可き事
  2. 一、きりしたんの宗旨ニ而之れ無き証拠ニは、何も頼候寺かた之れ有るべく候間、寺の坊主ニ堅手形を仕らせ申すべく候事
によって小浜藩領内では一一月頃から宗旨人別帳が村ごとに作られている。練馬区域ではいつ頃から作られだしたかは史料が少なすぎて明確ではないが、同寛永一二年六月改定『武家諸法度』の中に「耶蘇宗門之儀、於国々所々弥堅可禁止事」の一条を加える事で、制禁は全国的に一層強化され、やがて宗旨人別帳の中に寺院の証判が見られて、俗請ぞくうけが寺請になってくる。これを当区春日町愛染院蔵「嘉永七年寅二月当寅宗門人別書上帳武州豊嶋郡上練馬村」について見ることにしよう。

<資料文>

一、壱季居出替え時節たる間、宗門之儀入念改之、耶蘇宗門ニ無之段、請人を立相抱可申事

一、耶蘇宗門今以密々有之、所々ゟ捕来ル間不審成もの不罷在様、無油断入念可申付事

一、郷中改之不審成者不差置、若耶蘇宗門隠置他所ゟ顕るにおいて者、名主五人組可為曲事候間、毎年旨趣具ニ書<補記>(記)手形可差出事

但耶蘇宗門御制禁之高札歴年序、文字見へ<補記>(兼)可ねるにおゐてハ新敷立替可申事以上

右寛文十一亥二月被仰出候を以、前々御改之儀者郷中穿ゟ被仰付、名主組頭百姓下者不及申、寺社方同宿沙弥道心虚無僧山伏浪人等ニ至迄、地借店借壱人も不残相改候処、疑敷者無御座候、若シ不吟味仕耶蘇宗門脇ゟ罷出候ハハ、名主組頭五人組迄、何様之曲事ニ茂可被仰付候、為其名主組頭印形之帳面差上申処如件

豊嶋郡上練馬村

嘉永七寅年二月

高六石壱斗壱升壱合

年寄 吉佐衛門 ㊞

当寅六十弐才

女房 里代

同 五十八才

<外字 alt="○愛">〓

新義真言宗愛染院旦那 伜 政五郎

同 二十五才

同人女房 きく

同 三十四才

娘と里

同 弐十四才

孫 弥壱郎

同 十壱才

<外字 alt="○愛">〓㊞ 乄六人内男三人女三人

高七斗弐升九合

百姓 五郎右衛門 ㊞

当寅三十弐才

同寺<外字 alt="○愛">〓㊞ 弟金蔵

同 弐十八才

<外字 alt="○愛">〓㊞ 乄男弐人

高五石弐斗九升三合

百姓 次郎右衛門 ㊞

当寅三十六才

同寺<外字 alt="○愛">〓 女房 とくみ

同 弐十八才

母ちよ

同 六十四才

祖父 林蔵

同 八十三才

<外字 alt="○愛">〓㊞ 乄四人内男弐人女弐人

高八石弐斗弐升壱合

百姓 惣九郎㊞

当寅三十二才

女房 可津

同 弐十七才

妹ゑき

同 弐十七才

同寺<外字 alt="○愛">〓㊞ 同 と代

同 弐十壱才

弟 勇次郎

同 十七才

伜 長五郎

同 弐才

<外字 alt="○愛">〓㊞ 乄六人内男三人女三人

高拾四石九斗九升六合

百姓 杢左衛門㊞

当寅六十二才

伜 九十郎

同 三十一才

同寺<外字 alt="○愛">〓 同人女房 は奈

同 弐十七才

伜 銀蔵

同 弐十三才

同人女房 ゑい

同 弐十三才

娘はけ

家数弐百六拾八軒

人数千百弐拾七人 内男六百拾八人女五百九人

右者代々拙寺旦那ニ紛無御座候 若御法度之耶蘇宗門疑敷申者有之候ハハ何方迄茂罷出申披可仕候 依之宗判差上申候以上

京都御室御所末

新義真言宗 愛染院 ㊞

住職 隆阿(花押

中略

家数六拾六軒

人数弐百九拾五人 内男百五拾八人女百三拾七人

右者代々拙寺旦那ニ紛無御座候 若御法度之耶蘇宗門疑敷申者有之候ハヽ何方迄茂罷出申披可仕候 依之宗判差上申候以上

愛染院末

新義真言宗 圓光院 ㊞

住職 信隆(花押

中略

家数三拾七軒

人数弐百五人 内男百拾九人女八拾六人

文言前に同じ、省略

愛染院末

新義真言宗 寿福寺 ㊞

無住ニ付

愛染院兼帯

中略

家数七軒

人数三拾六人 内男拾四人女弐弐人

文言前に同じ、省略

愛染院末門徒

新義真言宗 高松寺 ㊞

無住ニ付

愛染院兼帯

中略

家数三軒

人数拾壱人 内男五人女六人

文言前に同じ、省略

愛染院門徒

新義真言宗 養福寺 ㊞

住職 隆因(花押

中略

家数拾壱軒

人数五拾八人 内男弐八女三拾人

文言前に同じ、省略

和州小池坊末

新義真言宗 長命寺 ㊞

住職 泰英(花押

中略

家数弐軒

人数拾四人 内男七人女七人

文言前に同じ、省略

駿州口松山蓮永寺末

日蓮宗 妙安寺 ㊞

住職 日勝(花押

中略

家数壱軒

人数四人 内男弐人女弐人

文言前に同じ、省略

上州白井双林寺末

禅宗 松月院 ㊞

住職 魯衷(花押

中略

家数弐軒

人数八人 内男五人女三人

文言前に同じ、省略

和州小池坊末

新義真言宗 金乗院 ㊞

住職 永応(花押

中略

孫林太郎

同 五才

同 ほの

同 四才

在丑人別後出生仕由ニ付当人別より差出申候 同庄次郎

同 弐才

乄九人内男五人女四人 馬壱疋

右者当村宗門人別之儀御制禁之耶蘇宗門類族之もの決而無御座候、去丑三月ゟ当二月迄出生死失都而出入之者壱人別取調候処、書面之通相違無御座候以上

武州豊島郡

上練馬村

嘉永七寅年二月 百姓代 藤助 ㊞

同 定右衛門 ㊞

年寄 五左衛門 ㊞

名主見習 順蔵 ㊞

名主 又蔵 ㊞

勝田次郎様

御役所

以上見るようにこの上練馬村の宗門人別帳には、村内の檀那寺の愛染院、円光院、寿福寺、高松寺、養福寺のほか谷原村

の長命寺、土支田村の妙安寺、下練馬村の金乗院や下赤塚村の松月院までが入っていて、寺と各戸との結び付きが知られる。紙面の都合で略したが、杢左衛門家の例で庄次郎の頭に「去丑年(六年)人別後出生」した事を記すように、およそ縁組、死亡、出生出稼奉公等による家族の異動も、詳しく記載する事になっていた。ことに他村へ移動する嫁入、奉公の時は「人別送状」が必要となる。次の町田家文書中には年次を欠く田無方のものの外、嘉永の「人別送之事」と題する書状がある。

図表を表示 <資料文>

人別送之事

米津越中守領分

武州新座郡小榑村

百姓 牛松娘

たつ

当丑弐拾弐歳

右者儀親手許ニ差置農業手伝居候処、今般貴御村百姓文五郎伜九十郎妻ニ差置度段申出候ニ付当村人別相除候間、当三月ゟ貴御村人数ニ御差加不被成候、尤宗旨之儀は代々日蓮宗ニ而寺は当村大乗院旦那ニ紛無之候、依之人別送一札如件

右小榑村

名主御用他行ニ付

代兼

組頭

半太夫 ㊞

嘉永六丑年三月

土支田村

上組

御名主中

これに対し、「人別請取事」という書状があり、その一例を掲げる。

人別請取事

な津壱人

一、人別送り 壱通

右之通り慥ニ請取申候 以上

下保谷村

文久元酉年三月廿八日 名主見習

源蔵 ㊞

土支田村

名主

綱五郎殿

このような手続きを踏んで、上練馬村では次に表示するような嘉永癸丑(六年)から翌甲寅(安政元年)までの一年間に人口の異動があった。もっとも差引きすればほとんど変化はなく、これも幕藩期農村の一般的様相であった。

人口移動内訳〈増加分〉〈減少分〉
縁組 一二 一一
出生 二六 一二 一四 死失
一四
奉公 一四 二二 一三
四七 二〇 二七 四八 一九 二九
図表を表示

要するに、前述のように庶民の五人組、村役人、檀那寺、役所等との緊縛関係が知られるが、特に宗門人別改帳を通じて各人の檀那寺、名字、年齢、戸主の身分と年収までが知られるので、寺院側にも役所側にもたいそう好都合な、換言すれば、檀家帳にも、司法、行政上の台帳にも使用できる重要書類ともなった。かくして庶民は「年忌志等も仕、聴聞の為参詣仕候而法儀相守り申候、子々孫々ニ至り法儀替申まじ」き寺檀関係に組み込まれて、檀家として若し励行しなかった時は寺から檀家としての証明が得られず、証明が得られなければ耶蘇宗門と見なされ、厳罰という制裁が次に待っているだけでなく、縁組、出稼ぎ、旅行等に際して必要な証明類の交付まで絶たれ、公民的活動が停止するという不都合にも立ち至るのである。そしてその監視を五人組をして行なわせたのであるが、お盆に住職が各檀家を廻って棚経を誦して歩くのは、人別帳に誤りがないかどうかの確認でもあったと言われる。

こうした中で寺院が檀家に要求することは檀那寺に対してふだんの勤めを怠らず、即ち祖師忌、仏忌、盆、彼岸、先祖の命日等には必ず参詣し、また先祖の年忌には僧侶の読経をうけ、歓待すること等であって、檀那寺の命令に従わず寄進にも応ぜず、先祖の供養を他寺で行なうもの等は邪宗門であると規定し、寺請手形を書かず幕府に報告して処罰を受けることになるとしている。寺の要求は、法会はなるべく華美にし、寺の新築、改築には費用を寄進し、その寺の経営を積極的に支える。もしこれを拒否すれば切支丹呼ばわりされ、寺請状をもらえず村八分にもされてしまう。従って寺のいいなりになることが保身の道であったのである。こうして寺に有利な制度となって、葬祭こそ寺の本務とし、その他の宗教活動(辻説法、法談、布教)等が禁止されて、葬式仏教になって行った。なお切支丹と同じ処遇を受けた宗派に日蓮宗不受不施派、悲田派がある。これは他宗派の信者から布施供養を受けず、他宗の者のために供養しないと言う宗旨であるが、布施は受けるが祈

らないと言うのまで含めて、日蓮宗派の中の他派の中傷等もあって、邪宗門となったのである。不受不施という厳しい戒律を潔しとする江戸市民の共鳴を得ていた不受不施の理論は、地上の神である将軍家に対しても不受不施であるという理論となり、そのため池上本門寺系は弾圧を受けることになった。寛永七年(一六三〇)の事である。しかし幕府はこの派の懐柔をはかったので、朱印状は―即ち王者の慈悲による悲田であるから受けるという受不施派(悲田派)も出たが、反対派のため元禄四年(一六九一)にはこれも禁止となり、地下にもぐる事となった。練馬の寺院には不受不施派の中山法華経寺の末寺もあって、一時紛糾をしたが、やがて受派の配下に入って行った。その地下組織の三島流の僧をかくまったため関村の農民二名が罰せられたことが「享保十七年関村明細帳」にのっている。

画像を表示

ここで練馬区内におけるかくれ切支丹についてふれておくと、はっきりとした遺跡、伝説があるわけではないが、石神井禅定院(真言宗)にある燈籠は、その形から切支丹燈籠と言われている。燈籠の笠や火袋はないが、十字の形をした石を支える柱には切支丹伴天連とも見える姿が彫られ、裏面に見る左のような刻字によると、惣檀那の逆修供養のために、常誉以下四名の浄土宗僧侶が祈願したもののようである。禅定院に以前からあったが、終戦の時、米軍により持ち去られ、禅定院改築の記念として調布の教会より還付して貰ったものであるという。また高松の虚空蔵堂近くの農家で保管している竿石がある。禅定院のものより高さが低く、ずんぐりした形のものである。正面に<外字 alt="イラスト1">〓と彫った下に、僧形の彫刻がある。この文字

はFIL即「子よ」であるとか、IHS即救世の「イエス」(耶蘇会のシンボル・マーク)だとする説もある。もしそうならかくれ切支丹と考えられる。この高松の燈籠は明治の初年、南を流れる石神井川の川ざらいをした時に発見されたものというが、何かの事情で、川中にかくしたものかも知れない。

男寺、女寺

この言葉が適切かどうかわからないが、ある一族では、男子(成人のみ)の葬儀と、女子の葬儀は別々の寺院が行なうという。従って一家の過去帳が両寺にわたっている実例があるので、これを男寺、女寺としたのである。両檀家制とも、一家複数寺院制、半檀家とも言う内容のものである。

この実態については前区史において高野進芳氏が報告しているが、全国にはいくつかの実例のあることが報告されている。

滝善成氏は民俗学関係からの報告として「漁村の古い戸籍から」「半檀家に関連して」「男女別墓制及び半檀家について」「半檀家制について」「加賀藩の宗旨人別帳について」「寺檀制度の成立過程」等をあげ、各地の男女別半檀家制を提示しているが、練馬区については最上孝敏氏の「半檀家制について」の中に「東京都練馬区氷川台の半檀家制について興味ある伝説を伝えている」と前置きして島野一族の男女別檀越の様子を記している。

宗門人別帳によって、農民をある時に登録する制度がきびしく行なわれた時代に珍しいことではあるが、事実は事実としなければならない。まずその島野家(早宮一丁目)の実情について次に説明しよう。

島野一族は現在九家となっているが、いずれもこの制度に関係していて、男子(成人)は何れも駒込長源寺(浄土真宗)の戒名をつけ葬儀を長源寺が行なっていた。女子・子供はどうかというと二つに分れ九家の内A、B、Cの三家は村内の真言宗円明院に、D、E、F、G、H、Iの六家は同じ真言宗荘厳寺の過去帳にその名をのせている。ABCとDEFGHIの分れは、AとDが古い兄弟の家がらで、それぞれ分家が出て増えているのである。これは墓碑および両寺の過去帳ではっきりするのであるが、男子(成人)の場合でも長源寺の戒名をつけてない者もあっていろいろな理由を考えることが出来そうである。まず墓碑によってその実態を示すと、次のようである。長源寺の戒名と思われる者の摘出は戒名中「釈」字号を入

れた者で数えた。○印の家は墓碑の記名が少なく、完全さに欠けている。

<資料文>

家 真宗戒名男子(女子) 真言宗戒名男子

A 六 二

B 九 三

C 五 二

○D 六 一

E 五 三

F 八(一) 〇

○G 三 三

○H 一 一

○I ? 一

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この事について伝承を頼りにその理由を探して見るに大会山長源寺は寛永年間(一六二四~四四)武州下練馬村に釈西玄によって開山、その後湯島、お茶の水に移り、宝永二年(一七〇五)文京区本駒込二丁目に移った寺であると言うが、将軍家光の「真言宗に改宗、金乗院の下寺になれ」という命をうけなかったため村から追われたという伝説があるし、しかもその旧地は島野A、D家のすぐ隣りであった事を考えると、島野一族と長源寺との結びつきは極めて深いものがあったため、移転後も一家の主人のみ長源寺存立の経済的理由もあって、元のまま長源寺檀家としたのではないか。但し家の都合で長源寺の供養を受けることの出来

なかった男子も何人か居たのではないか。第二次世界大戦の頃、戦災等をうけ往来の不便も重なったため、現在は長源寺からはなれて男子も女寺の檀家になっている。なお長源寺檀家は島野一族のみでなく、練馬駅の北側一帯にも数軒あったが、男女別ではなく、むしろ女子に釈尼がある状態で、ほんの短い一時期に供養を頼んだと思われるものも多い。この地区にある時宗の阿弥陀堂は品川長徳寺の持で遠いため、他家の僧侶に頼むことが多かったようである。これは男寺、女寺とは言えない。

慶安二年(一六四九)の石川県門前町黒嶋、中谷家に「旦那取決め覚書」とも言うべき文書があるが、これは、真宗の九か寺と三人の僧侶とが相談してきめたもので、結婚によって檀家の人数が変動をする。即ち子が生まれれば増え、死亡や結婚によって転出してしまう事は恐らく寺院の経済に大きな影響を与えるので、相談の上余り変動のないようにした覚書で、一家の主人はその家の寺の檀家、妻は実家の寺、生れた子どもは自分の家と実家とに分けるという取りきめで、ここでは男寺、女寺の差はなく、いくらか実家の方が女寺に近いということだけである。これが男寺の最初の形なのではないかという観点から調査した所、前記、荘厳寺と光伝寺との間に男寺、女寺の関係があることがわかった。過去帳は家の関係がわかりにくいため、判然とはしないが、光伝寺檀那の三軒在家、出子谷、前湿化味の市川、石手、岡村の三家では、男子の多くが荘厳寺の過去帳にのせられ女子は光伝寺に、浅見家の男子の多くが光伝寺の過去帳にのせられ女子は荘厳寺にのせられている。これが享保の頃から明治の半ばまでつづいている。現在、浅見家は荘厳寺、市川、石手、岡村家は光伝寺檀家であるから、いずれも女寺の方にうつっていることがわかる。光伝寺は宝暦年間の新設寺であったから、荘厳寺としてはその檀家を分けたのではなかろうか。この事については更に研究の必要がある。

<節>
第四節 信仰と生活
<本文>

寺院と神社が、幕府の統制下に組織され、小祠小堂をふくめて、その分担が定まって来ると、その寺社維持のための年中

行事や祭典が盛んとなり、人生儀礼や葬式等に重点がおかれ、寺請てらうけ制度はその強化のためにも使われた。しかし、苦しい生活を強いられている農民たちにとっては、毎日が救いを求める生活であり、苦しさを忘れることが明日への生活に連なっていたのである。そこには収穫の喜びも当然あったろうし、一年に何度かの祝いや祭りの行事に一時を過すこともあったと思われる。そうした中で、地域の宗教的な集りである講や、共同作業のための「ゆい」(組合)は大きな意味があった。

「講」は平常の生活の中で、農作であるとか、安穏とか、健康、安全、蓄財、幸福等を求める心の寄合いであったが、それはまた、村落一同の心でもあったので、そうした神仏を求めて集団をつくり、村落神の境内や寺院内にそのしるしとしての小祠をまつり、あるいは尊像をあらわしたものを掲げて、日をきめて一同集り、祝詞やお経を上げ、「おみき」等と称して御神酒を頂き、一時をくつろぐわけである。こうした中で部落内の親睦と農作の相談、行事の相談や金融のことも話し合われたのである。この仲間を普通に「講中」と言い、各地にある庚申塔等にその名を残している。初期の「講」の姿がどのようなものであったかはわからないが、氏神以外の神社・仏寺の信仰は、中世の頃からの山伏や、行脚僧や御師おし、「歩き巫女みこ」等によって各地に広まって行ったものと思われる。そのいくつかをあげると伊勢信仰ははじめ天皇家の祖神廟として一般の参詣は禁じられていたのであるが、武家の興隆や皇室の衰えから武家・土豪の寄進等にたよるようになり、一般の庶民にも伊勢の御師の全国的活動や「歩き巫女」によって旦那がつのられ、各地に神明さまがまつられるようにもなった。農民にとって豊受大神は農の神でもあったから、意味はあったわけである。伊勢講とか神明講が生れ、練馬の村々にもその信仰が始っている。地名にも豊玉の神明ヶ谷戸、北町の伊勢原、田柄の神明原・神明ケ谷戸、春日町のお伊勢前等があり、荘厳寺内に神明社、清性寺持神明社、高松の八幡社(神明・春日の相殿)、田柄の神明稲荷神社・泉蔵寺持神明社等『新編武蔵風土記稿』にのせられているものがあり、現在も天祖神社として豊玉北六丁目・北町二丁目・田柄四丁目・下石神井一丁目・関町五丁目の天祖神社、南田中の稲荷神社(祭神に大日霊女貴命オオヒルメノミコトも合祀)がその昔を物語るものと言えよう。

また平安中期から浄土信仰が盛んになるにつれて、西方浄土に擬せられた熊野への参詣が盛んとなったが、特に戦国の時

代になると、参詣は不自由となり、熊野神社は御師、先達によって各地の武士や土豪の間に信徒をふやして行った。元亨年間(一三二一~二四)に豊島氏が王子権現を勤請してから熊野信仰は豊島郡に広がり、その衰微後もなおつづけられていた。現在那智神社に残されている前記「としま名字のかき立」(一五〇四~二〇頃のものという)や天文三年(一五三四)の米良めら文書に練馬居住の名主層と思われる「禰りまひょうご殿」「禰り馬郷上原雅楽助、子息孫九郎」の名もある所から、信仰の様子を知ることが出来よう。しかしその拠点となる熊野神社は区内になく板橋区志村と和光市白子にあるのみで、わずかに地名に「熊野山」(桜台三丁目の一部)があり、神社は現在氷川台の氷川神社内に移されている。境内末社ではあるが、中村、高松の両八幡神社内にあるのみである。旭丘の能満寺にも明治初年まであったというが、本社が遠隔のためと農民への浸透がやや不足したため、その後の発展がなかったようである。

その後江戸中期から、こうした信仰として練馬の地にも流行して来たものに、大山・富士信仰、御嶽信仰(木曾)(武州)榛名信仰、善光寺まいり、また、不動、観音、地蔵、薬師、鬼子母神、弘法大師、弁財天、第六天等があり、稲荷、庚申のように聚落内組織のものもあるが、明治以後に関するものも多いので、「講」と共に本編第六部で後述したい。

現在少くなった個人墓地や、古いままの(改葬前の)墓地の中に、建立時のままの墓標が残っている。それは板碑型、笠付型、光背型、唐破風付、笠付丸柱、板駒型、駒型、山状角柱、丸柱、箱型自然石、丸彫型、角柱等多種類で、造立の年代によって、形の上でもある流行を感ずるのであるが、練馬区で一番古い墓塔は寛永の頃と思われているが、それから約三〇年間位は非常に少なく、寛文の頃(一六六一~七三)から急増する。その以前は江戸城築城のため石工の活動が統制されたとも、墓石が築城に使われ、そのため墓石が少なかったためとも言われ、その後の明暦の頃(一六五五~五八)になって大型のものがふえるのは築城の残り石が、墓石に流れたからとも言われている。そうした墓石の中に仏像を半肉彫りにしたものが、享保年間(『一七三〇頃』)を頂点として前後一五〇年間に多いことが指摘されている(『日本石仏事典』)。この仏像を種類別に調査したのは神代武男氏で「練馬郷土史研究会報第一四〇号」に「練馬の墓標石仏」として書かれているところをみれば、

と区内に石造観音が少ないのに、墓標観音が非常に多い事がわかる。そして女性の菩提を弔うために如意輪観音が刻まれ、半膝を立て、少し傾けた顔に右手を当てた姿は若い女性を思わせるのに十分で、この頃の観音像の多くがこの姿である。昔は「歯を病んだ人のお墓である」とされ、歯の痛い時に団子を上げて拝めば直ると言われたのであるが、この時代に観音信仰が盛んであった事を示すものとも考えたい。また、男性の墓石には多く地蔵菩薩が刻まれ、特に子供の墓である童子、童女には小さな合掌地蔵の墓碑が多いのも「地蔵和讃」に見る地蔵尊の慈愛から当然のことであろう。地蔵尊には延命、蘇生から厄除、身代り病気平癒そして開運、出世、子安の御利益があると考えられ、死者の冥福を地蔵尊に頼むと共に、現世における御利益も願ったものと考えられ、寛政の頃(一七八九~一八〇一)には江戸四八か所の地蔵まいりもはやっていたという。

墓所のついでに区内の入定塚についてふれておく。入定塚は死期を知り、死によって「即身成仏」をなしとげようとした行者が、生きながら穴中に入り、念仏等己れの信ずる経文を唱えながら断食成仏した墓である。富士講の五代食行身禄が、享保一八年(一七三三)七月一三日、六三歳で長年の望みである富士の洞穴における入定成仏をなしとげている。この年は、巳の年であるが、巳年をミロクの年と言い、弥勒行者によって、弥勒浄土を現出することが出来るという。また弘法大師は入定後も不死で、現在も諸国を遍歴して衆生済度をしているとの伝承もあり、そうした信仰の極致が入定塚としてあらわれるのであろう。

練馬区内で入定塚の伝説をもつものは次の四か所である。

  1. 一、中村三丁目、良弁塚、経塚とも行人塚とも言う。
  2. 二、貫井三丁目、善海さん(阿闍梨教観不生位)、延享五年(一七四八)四月二三日。
  3. 三、春日町五丁目、耳塚(円浄法師)命日二六日、耳の病に霊験があるという。明治四四年四月の石碑がある。
  4. 四、大泉町二丁目、行人塚(禅海法師)明暦三年(一六五七)八月と記されている(『大泉今昔物語』)。

前記神代氏はその「練馬の信仰集団」の中に、「念仏講」の一項を設け、念仏を唱えることによって現世と後世の安楽を願う信仰集団をあげている。念仏は浄土宗、真宗、時宗のみでなく、他の宗派の間にも行なわれていた。江戸時代にはどのようであったかを調べるため、次の石造物をあげている。

<資料文 type="2-32">

1 桜台六丁目  地蔵像  寛政五年  念仏講中

2 練馬一丁目   地蔵像 享保一四年 念仏講中

3 中村北二丁目  地蔵像 文化一三年 念仏講中

4 中村一丁目   地蔵像 享保九年  念仏講中

5 高松三丁目   地蔵像 明和四年  念仏講中

6 谷原一丁目   地蔵像 安永四年  念仏講中

7 石神井台六丁目 地蔵像 宝永三年  講中

8 高野台一丁目  地蔵像 延享五年  講中

9 春日町四丁目  地蔵像 享保一七年 講中

<数2>10 上石神井一丁目 地蔵像 元禄五年  念仏同行

<数2>11 石神井町七丁目 観音像 貞享四年  念仏道行

<数2>12 錦一丁目    石灯籠 元文二年  寒念仏講中

<数2>13 石神井町七丁目 石灯籠 寛政一〇年 念仏講中

<数2>14 旭丘二丁目   供養塔 享保三年  念仏講中

念仏講中は大体月一回集って、仏を拝して後大きな数珠を回しながら百万遍やその他を唱和し、そのあと食事や雑談をして過すのである。「念仏」と称して、埋葬のあとや法事供養の際、念仏講中が集って一同念仏を誦する事は戦前までは盛んに行なわれていた。

題目講

日蓮宗の信者が月一回位集って、「まんだら」の軸をかかげ、お題目を唱和してその後食事雑談に時を過すのである。お会式にはまとい万灯を先頭に団扇太鼓の行列を組んで、妙福寺への参詣も行なっている。題目供養碑として

<資料文 type="2-32">

1 東大泉町  題目塔 文化三年  題目講中

2 東大泉町  題目塔 文久四年  十二日講中

3 東大泉町  題目塔 文化六年  題目講中

4 西大泉町  題目塔 享保元年  講中

5 旭町一丁目 題目塔 弘化三年  講中

等をあげているが、現在のお会式の「連」と深い関係のあるものと考えられる。

江戸時代の信仰の諸相はいろいろであるが、各社寺は縁日、開帳、勧進等の行事を行ない、境内仏や境内祠の御利益を吹聴し、その隆盛をはかったもので、練馬の社寺の中にもそうした傾向が見られる。江戸市中や各村からの善男善女がお詣りがてら露店等に集まる。長命寺の植木市、花嫁市、妙福寺のお会式、本立寺のぼろ市や、各鎮守の祭礼等、今もつづく行事がある。

神仏の加護、御利益についても、つくり話から始まるものもあったであろうが、とにかく抜苦與楽を願い、御利益を求める民衆にとっては、「溺れる者藁をもつかむ」気持だったのであろう。

土中から出てきた仏、大火にももえなかった木仏等を不思議な力のあるものとして信仰の対象とし、はやり仏として一時的でも参詣者が列をなしたのである。そうした信仰の一例を示すと、

  1. ○その土地を守る神仏(氏神、屋敷神)。
  2. ○ある事に専門的な力があると思われる神仏(水天宮、風神、雷神、水神、愛宕、鬼子母神)。
  3. ○人間に禍をおよぼしたり、人間を罰する神仏。それを供養する事により、かえってその加護を受ける神仏(第六天、貧乏神、天神、叱枳尼だきに天、お松さん、庚申さま)。
  4. ○神仏を苦しめ、願をかなえてくれればその苦しみから解放してやる対象となる神仏(しばられ地蔵)。
  5. ○すばらしい力を発揮するという話があるのでそれにあやかりたいとするもの(地蔵、大師、観音、不動、弁財天、大黒天
  6. ○職業の神(稲荷、御嶽、金山稲荷、弁天、天神)。
  7. ○名前から守護があると思われる神仏(笠森稲荷、蛸薬師、首つぎ地蔵、堰ばあさん、子守塚、いぼ地蔵、身代り地蔵、身代り閻魔)。
  8. ○人生の過し方、考え方を神意によって、変えてゆき、神の子となるよう心がけるもの(教派神道)。

こうした民衆の信仰心は、現在に至るまで、種々の信仰の姿を見せている(第六部第三章「練馬の民俗」参照)。

参考までに、内田家文書の「天正十八年、御入国より御府内并村方旧記」の中に、当時の豪農が、信仰を兼ねて諸国に出かけた様子が伺える文があるので載せておく。

  1. ○享保一七年(一七三二)四国順礼
  2. ○〃一九年(一七三四)弘法大師九百年忌
  3. ○寛保元年(一七四一)善光寺開帳
  4. ○〃五月一二日、出立、高野山へ参詣
  5. ○寛政元年(一七八九)伊勢太々講、正月一五日出立、大和、高野、京、大阪、四国巡り、四月中帰宅
  6. ○享和元年(一八〇一)六月、お志め同道としのはへ入湯、願出八月一二日内済、同月一六日江戸を出立底倉へ入湯
  7. ○〃三年(一八〇三)三月二一日、お志め、要蔵同道にて江の島へ参詣
  8. ○〃四年(一八〇四)谷衛門殿江の島へ詣でる
  9. ○文化元年(一八〇四)七月二〇日久吉同道箱底倉
  10. ○〃八月三日頃湯治、江の島へ詣り帰る
  11. ○〃二年(一八〇五)三月□□東高同道江の島へ参詣
  12. ○〃六年(一八〇九)六月四日落髪江の島へ詣で、箱根へ湯治
  13. ○〃一〇年(一八一三)八月江の島へ参詣、平助、万作、同道

以上のようであるが、交通不便な遠隔の地へも出かけている。特に文化年間に入っては箱根、江の島へ家族、友人をともなっての旅行が多くなって来て、信仰と遊山の様子を伺うことができる。

<章>

第六章 地誌・紀行文にある練馬

<本文>

江戸は元来、武家の町であった。将軍直属の旗本や御家人、およびその家族は勿論のこと、参覲交代による諸大名や、その家臣達で江戸の町は溢れていた。

江戸開府後約一世紀、それまで武家の日常必需品を賄ってきた主に近江・伊勢・三河などの商人たちの江戸だなは急速に成長していつた。それは京・大阪方面から仕入れられる品は「くだり物」といって上等品とされ、江戸やその近郊で生産される「くだらぬ物」は「くだらない」の語源にもなった程、下等品が多かったため、いきおい「下り物」のみを扱う他国の江戸店は大商店へと発展していったのである。

しかし、こうした店も当初は、その出身地から雇入れられた単身赴任者だけの男世帯ばかりであった。ところが、一八世紀も半ばをすぎて、創業から一〇〇年も経つと、親・子・孫の三代目には、江戸生れ、江戸育ちの生粋の江戸っ子町人が出現し、やがて典型的な江戸町人が経済の実権を握るようになる。

そして、基本的には武家の町である江戸も次第に町人の町としても発達して行くのである。寛文頃約三〇万といわれた町人人口は享保頃には五〇万を超え武家人口を凌駕した。必然的に市街地も拡大し、町奉行支配地は元禄年間約七〇〇であった町の数が、約二〇年後の正徳年間に約九五〇町、それからさらに三〇年後の延享年間には二倍以上の二〇〇〇町近くにも発展した。こうした江戸市中は、地方の農山村地帯では想像をも出来ないような大都市として繁栄し、恐らく当時としても世界第一の過密都市であった。

泰平のに金と暇をもてあます江戸の大町人たちは、向島・根岸など近郊の里に別荘や寮を設け、息のつまるような市中生活から逃避したくなるのは当然だが、それ程でなくとも、親しい友と連れ立って一日の行楽を近郊の名所旧跡に楽しむことが盛んに行なわれるようになった。

必然的にそのための案内書が多く行された。それらは著者自身が実地に歩いて途中の道順や、其処此処そこここの景観、神社仏閣であれば、その縁起などを記した地誌もあれば、他書の引用や、聞書などを記した随筆風のものもある。多くの地誌は絵入りで、風景や、古碑や遺物などを写し、見る者の目を充分楽しませてくれる。

この種の嚆矢こうしは『江戸名所記』である。寛文二年(一六六二)浅井了意の著で、了意は『東海道名所記』をあらわしたことでも知られている。大部分が江戸市中の名所であって、城西方面では、穴八幡・法明寺(雑司谷鬼子母神)・目白不動まで訪ねているが、それより先へは足を運んでいない。また、江戸の歌人戸田茂睡もすいは万治延宝頃の江戸のにぎわいを記した有名な『紫の一本むらさきひともと』を著しているが、これも練馬については触れていない。

一八世紀中頃になって江戸を中心として地誌類の刊行が盛んとなり、一日の行楽には若干道法みちのりのある練馬付近も少しずつ紹介されるようになった。その多くは、文人墨客たちの随筆や、紀行文が主であるが、随所に当時の情景を彷彿させるものがあり、練馬の歴史を考える上で有力な記録といえそうである。

石神井川の蛍

例えば、馬場文耕が著した実録もの『宝丙密秘登津ほうへいみつがひとつ』に次のような話が載っている。江戸城西丸大奥から或る年、夏蛍の所望があった。伊奈半左衛門が役人百姓に申付け毎日多くの蛍を献上した。しかし、大奥では光の色合いが良くないと評判が悪かった。まさか蛍の光に色合いがあるとは思ってもみなかったが、それは本所辺の蛍で、汐風にあたっている蛍であるからだということが判った。さらに「小石川辺より取て差上候に、未ダ御心に応ぜず、宇治勢田の蛍には似ずとの御意にいら<漢文>レ……」困り果てたところ、石神井川の蛍が良いと聞いて、「此旨を西丸より伊奈半左衛門へ被<漢文>二仰付<漢文>一、石神井川より御取寄有りしに、其蛍の照、誠に宇治のごときとて甚御賞翫被<漢文>レ遊しと也」と言うことになっ

た。

この蛍は王子辺の石神井川から獲ったものらしいが、いずれにしても、当時の石神井川は、宇治川の清流にも似た景勝の地があちこちに見られた。今も道場寺の南に蛍橋がある。

著者文耕は江戸中期の講談師で、宝暦六年(一七五六)この年が丙子であったので「宝丙」と題したと、その自序にある。文耕は後に講釈が原因で言論の弾圧をうけ、獄門に処せられた。詳しくは三田村鳶魚えんぎよ「馬場文耕の罪科」(中央公論社『三田村鳶魚全集第一三巻』)を参照されたい。なお、この蛍の話は、幕吏宮崎成身の『国字分類雑記』にも紹介されているので、当時江戸市中で話題になった事柄であった。

長命寺のユツリハの木

喜多村信節のぶよの著『ききのまにまに』に長命寺のユツリハの木に見物人が多く出たことが記されている。寛政一一年(一七九九)の条に「谷原村長命寺山内ユツリハの木のこぶ、人面に似たりとて見物人出、ユツリハは交譲木と云とぞ、もとより樹に瘤多者なり、奇なるにあらず」とある。

この書は、天明元年(一七八一)から嘉永六年(一八五三)までの江戸の年代記ともいうべきものである。

著者信節は筠庭いんていとも号し、江戸の国学者である。著名な『嬉遊笑覧きゆうしようらん』をはじめ多くの著述を残している。また『武江ぶこう年表補正』を著し、斉藤幸成の『武江年表』を補っている。ために、『武江年表』にも寛政一一年の条に「五月四日より、谷原村(練間ねりまの辺)長命寺(新高野といふ)山内譲木ゆずりの瘤、人の面に顕はる。見物多し。」とある。

『武江年表』は幸成(号、月岑げつしん、詳しくは後述)が天正一八年(一五九〇)から嘉永元年(一八四八)までの正編を嘉永三年に刊行し、以後明治六年までの続編を明治一一年に脱稿しているが、同年月岑死去のため刊行に至らなかった。のち大正元年、朝倉無声が先の筠庭補正と、関根只誠しせいの書入とを補って『増訂武江年表』として一般に流布した。現在平凡社東洋文庫の刊本がある。

この『増訂武江年表』には「長命寺の譲木」の外、練馬とその付近の記事が二、三載っている。例えば嘉永六年の条に

「十月八日より七日の間、上練馬村円光院貫井子権現ぬくいねのごんげん、自坊に於いて開帳」とある。

『武江年表』は天正一八年八月一日家康入府以来の江戸地理の沿革から風俗の変遷、巷間の異聞などを編年体に編集したもので、材料の豊富なこと、考証の正確なことで、定評がある。

石神井村の孝子

幕府で勘定奉行を勤めた根岸鎮衛やすもりが、天明五年頃から文化一一年にかけて、勤仕のかたわら古老の聞書や、訪問者との雑談などを書きとめた『耳嚢みみふくろ』巻の二に「孝子そのしるしをあらわす事」として次のような記事がある。

<資料文>

これも予、留役の節まのあたり見聞きける事なり。安藤霜台掛りにて、三笠附みかさづけそのほか悪党をなしたる者とて遺恨にてもありしや、名は忘れぬ、雑司ケ谷在<圏点 style="sesame">しやくじ村の者を箱訴の事あり。名ざしける箱訴ゆえ呼びいだしけるに、年ごろ七十ばかりの病身に見えし老人なり。なか〳〵三笠附などはもちろん、悪党など致すべき者ならねど、定法じようほうゆえ捨て置きがたく、入牢の事、霜台申渡しけるに、右老人のがれ三人、あとに付添い出でけるが、惣領は廿才余の者なりしが進み出て、「親儀は御覧の通り年も寄り、殊に病気にてまかりあり候えば、入牢など仰付けられなば一命をも損じ申すべし。しかし御定法の御事に候えば、私を入牢願い奉り候。親儀御ゆるし相願う」旨申しけるに、その弟十三四歳にもなるべきが進み出て、「兄は当時家業もつぱらにて、老親、いとけなき者を養育つかまつり候事ゆえ、我が身を入牢願う」由相願いければ、末子はようやく九つ十ばかりなるが、何のことばもなく「私入牢を願い候」とて、兄弟互いに泣き争いけるにぞ、霜台も落涙して、しばし有無の事もなく、その席に居し留役又は霜台の家来まで、しばし袖をしぼりしが、その夜は入牢申しつけて、翌日、跡方もなきに決して老人も出牢あり、ほどなく無事に落着しぬ。まことに孝心の至る所、忍ぶに漏るる涙は、げに天道も感じ給うべきと思わるゝ。

                                          (平凡社東洋文庫『耳袋』

博奕容疑で捕縛された病身の老父のため身替りを申し出た三人の息子に、天道も感じ給うと涙を流すのは少々表現過剰であるが、一面当時の検察官吏の人間性が窺われて興味深い。

留役とめやくは評定所留役のことをいい、評定所は寺社奉行、町奉行、勘定奉行が合議裁判をする所で、留役は、その専任職の役

人である。著者は宝暦一三年(一七六三)から明和五年(一七六八)まで五年間その職にあった。安藤霜台は、この事件を担当した同僚で、この一件は彼から直接聞いた話のようである。

三笠附は雑俳の一種で、宗匠が最初の五文字を題として出し、これに七五の句を付けさせ、三句一組にしたので「三笠附」の名があった。これは懸賞金が賭けられて賭博化したため、享保年間(一七一六~三六)には禁止された。それにも拘らず、その後も跡を絶たず、実際に練馬付近の農村でも盛んに行なわれていたのである。

箱訴はこそは評定所に設けられていた目安めやす箱に、匿名の投書で訴えるもので、中にはこの事件のように恨みがあってしたものや、悪戯まがいのものもあったようである。評定所は、伝奏屋敷と共に北町奉行所に隣接して、現在の東京駅八重州北口付近にあり、都の指定旧跡になっている。

練馬から丸の内まで一日がかりの行程を、いかなる理由があったのか箱訴に出掛けた人間も、訴えられた老人も、孝子といって役人たちに涙を絞らせた三人の息子たちの名前も、今はもう尋ねるすべがない。

千川の怪物

『遊暦雑記』(後述)の著者として有名な十方庵津田敬順の著といわれている『本朝諸国風土記』は、北は奥州から、南は九州まで、見聞のままを随筆風に綴ったもので、享和二年(一八〇二)に完成した著書であるが、この中に「千川の怪物」と題して、次のような一文がある。

<資料文>

寛政十三年辛酉六月十三日、板橋宿のうら通千川の堀にて、怪物をとらへたり。先その形黒く長さ頭より尾迄三尺四五寸もあるべし、背中は黒き内にブツ〳〵と一際黒く、蟇の肌の如し、頭は鯰に似て平く大きに、目は長くして至て細し。口の大さ壱尺ばかり、前の両足は指四本、後の両足は指五本なり、腹は白く薄赤くしてまだらに、凡て惣身ぬめ〳〵として、いかにもなめらか也。しかはあれど、頭は甚堅くして、通例の物にては刺事成かたし。此怪物千川の水中に蟠居せしをしらずして両岸の草を刈ルもの見出し、驚き騒ぎて、人夫を催し勢ひ込て鳶口をもつて、怪物の頭上打込て引上たり。則、此辺御代官飯塚伊兵衛役宅へ申出、見分の砌、いろいろに打返し見れども、甚柔和にして怒てハネ飛ぶにもあらず、只ノロ〳〵と這のみ也。何れにも珍敷怪物なればとて、上覧に入奉り

し処、御城内に一両日とめ置給ひ板橋宿水車持る店屋江下し置れけり。(中略)今も板橋宿橋を渡り北へ、水車持る百性家に所持せり、則、水船に錠をおろし鎖にて箱をつなぎ、水中にひたし置り。見度と望人のある時は、錠を明け、両手にてとらへ引上て見する也。山椒魚の千歳を経し也ともいひ、又は守宮やもりの幾許の功を経しなりとも、或は岩石竜といふもの也ともいへり。(中略)めづらしき怪物にして、予は眼前に見たり。いまだ死したる沙汰を聞ねば存すと見ゆ。

練馬郷土史研究会「郷土研究史料外篇第二」

千川上水は元禄九年(一六九六)江戸市中、本郷、下谷、浅草方面の飲料水として、玉川上水から分水された水道である。この径物もおそらく著者が言うように多摩川の上流から玉川上水を経て、渡って来た山椒魚か、イモリであったのであろう。

江戸往古図説

寛政一二年(一八〇〇)刊、大橋方長の『江戸往古図説』は、家康打入前の長禄江戸図についての考証である。天正一七年以前の沿革を村別に記したもので別名『江戸古図訓説』『武江往古図説』ともいっている。この書に、練馬の四か村について次のような、簡単な記述がある。

<資料文>

〔中新居村〕今中新井と云、ぞうしがや西南壱弐里にあり

〔石神井村〕上下村あり、石神の社と云あり、別当三宝寺、神代の石剣也と云、三宝寺池と云あり、此下流、王子村の方へ流る、しかし、此図にては今の水筋とは少したがへり

〔練間村〕今練馬と書、上下二村あり、江戸より三里余、大根名産とす

〔谷原在家〕今谷原村、ねりまに隣れり、○長命寺真言仏閣あり、是東の高野と云、紀南高野をうつせし境なりしが、今其かたち変たり (『燕石十種』

また、嘉永六年(一八五三)開板になる、山崎北峰輯説、橋本玉蘭斉絵図の『大江戸図説集覧』には「江戸往古之図」「永禄年間江戸図」「寛永板江戸絵図」の三種類の絵図が縮写されている。そのうち「永禄年間江戸図」に練馬方面の記載があ

り、『江戸往古図説』で述べられていた中新居村・石神井村・練間村・谷原在家の四か村が画かれている。ただし、石神井村と想定される所に「石袋村」と記されているが、これは筆写のときの誤りかと思われる。同書「寛永板江戸絵図」の註記に、武蔵国江戸庄の郡分こほりわけとして、豊島郡を「江戸東、隅田川、西ハ代々木、幡ケ谷、鳴子町、南ハ増上寺、北ハ板橋、練馬、荒川より南の方」と記してある。

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『江戸往古図説』の著者大橋方長はこのほか、多くの地誌類を著しているが、そのうちの『武蔵演路』については後述する。

一話一言

一八世紀末から一九世紀初頭文化・文政頃にかけて江戸随一の文人と言われていた太田南畝は、その著『一話一言』の中で練馬の村々の様子を他書を引用しながら述べている。南畝は名を覃、通称直次郎といい、四方山人、四方赤良、寝惚先生、杏花園等の号があり、蜀山人の名は最も知られている。本書のほか、多くの狂歌・狂文集や、随筆『仮名世説』『南畝莠言』『俗耳鼓吹』『半田閑話』『奴師労之やつこたこ』などの著述がある。

本書は安永八年(一七七九)頃より文化一二年(一八一五)頃まで、前後三十有余年に亘った随見随聞の漫録で、当時の奇聞逸事や、諸書の抄録、その他詩歌俳諧を満載した全五〇巻の大冊である。

その三四巻に「武蔵国豊島郡の事」として、「上石神井村」「同村(三宝寺池のこと)」「豊島家譜」「関村」「同村(富士見池のこと)」「下石神井村」「谷原村」「中村」について触れている。内容については後述する古河古松軒の『四神地名録』の抄録と思われるので、巻末資料『四神地名録』原文を参照されたい。

ただ「豊島家譜」の項は『四神地名録』にないので、次に記しておく

<資料文>

豊島家譜〔親常追加〕

元享年中武蔵国足立郡、多摩、児玉、新倉、豊島五郡領主豊島郡石神井城主豊島左近太夫景村

なお、豊島氏のことについては、酒井忠昌の『南向茶話』、志賀理斉の『理斉随筆』、著者不詳の『望海毎談』などに、また、石神井村と石神いしがみとの考証については、先に紹介した喜多村信節の『画証録』や、大石千引の『野乃舎随筆』などで取り上げている。

石神井三宝寺遊記

同じ太田南畝の著に『武江披砂』がある。早稲田大学蔵写本の序に「文政とあらたまりぬるとしの冬のなかば……」とあるので、その頃の完成と思われる。この書には、『異本武江披砂』と名づける同種異巧の別本があり、その中に「石神井三宝寺遊記」と題する一条が記されている。

<資料文>

石神井三宝寺遊記

大久保百人町の西木戸を出で右へ行く事数町にして、上落合橋を渡り、西にゆけば右に浅間塚あり、ゆき〳〵て右に寺あり、無縁山法界寺といふ、日蓮宗にして馬場下妙泉寺の末寺なり、こゝは茶毘所なりといふ、左の方へ二曲りして新橋あり、左右打ち開きたる田間をゆけば、石橋あり、沼袋村を過左に庚申塚あり、鷺宮村を経て左に八幡宮稲荷の社あり、別当を福蔵院といふ、岐路あり、左へゆくに石表あり東高野道といゑれり、上鷺宮を過ぎて又岐路あり、右は小径なり、左は井草村道なり、この道をゆけば石の地蔵たてり、石神井道に入りて小流あり、石橋を渡りて石神井村なり、又岐路あり、庚申塚あり、小き石橋を渡る水なし、下石神井村を過て石橋を渡れば、左右ともに広き田野なり、この左の方に、照光山禅定院道場寺あり

上石神井村亀頂山三宝寺 新義真言宗

守護不入の札を建 御朱印十石

三宝寺に歴代を記せる碑あり(中略)寺のうしろに(左の方なり)池あり、三宝寺池とはいへども、三宝寺の池にはあらず、池名なり、弁天社、氷川明神の社あり、別当を三宝院といふ、豊島左衛門某の古城跡あり、大なる池にして蘆葦茂れり

簡単な地図が挿入されているが、大略、現在の新青梅街道を通って、八成橋から所沢道を入って行った。文中禅定院と道場寺を一寺のごとく記しているが、これは著者の誤りである。

別に三宝寺の縁起について著したものに『三宝寺旧事記』(以下単に『旧事記』という)がある。この書は愛知県西尾市立図書館岩瀬文庫所蔵の写本一冊で、成立年代、作者共不詳である。内容は三宝寺に現存する『武蔵州豊嶋郡亀頂山密乗院三宝寺縁起』(以下単に『縁起』という)とほとんど異同がない。この『縁起』は享保二年(一七一七)豊島泰みつが奉納したものと言われている。ために『縁起』の末尾の方に豊島氏の事蹟が縷々述べられているが、『旧事記』には、それが全く省かれている。

三代将軍家光が鹿狩の際、三宝寺に立寄った一件に付いて『縁起』は、「寛永乙丑二年夏冬両度、再正保元甲申年共三箇度也」と、割合簡略に記しているが『旧事記』では

<資料文>

一、家光公当寺御成之事

寛永二年乙丑卯月十一日

同年十一月廿九日

住持 俊誉法印之代

御代官 須田平左衛門

同正保元年甲申

住持 宥鑁法印之代

御代官 守屋佐太夫

同 熊沢彦兵衛

と、月日ならびに時の住職および代官の名を記している。『旧事記』はここで終っており奥書も何もないが、豊島泰みつ奉納『縁起』成立を考察する上で興味ある資料といえよう。

四神社閣記ししんしやかくき

一九世紀にはいって化政期、即ち、江戸文化の爛熟期になると江戸とその近郊にある社寺に対して、武士・文人・上流町人など、いわゆる知識層にある者たちの関心が次第に高まって来た。

そのような中で、江戸近郊の寺社縁起をまとめたものに、松平冠山の『四神社閣記』がある。冠山は名を定常といゝ、因幡新田二万石池田家を襲い、藩主を継いだ。『江戸名所図会』(後述)の序文は冠山松平定常、本書は冕嶠陳人べんきようちんじんの号をもってしている。別に『武蔵名所考』『浅草寺志』などの著書がある。

この書は、江戸近郊を青竜、白虎、朱雀、玄武の四方角四巻に分けて編集している。成立は序文、奥書を欠くが、文中、山口観音の項に「今より文化乙亥十三年前に開帳ありしと也」とあるところから、文化乙亥(一二年・一八一五)を下ること一三年、文政六年頃の完成と推測される。練馬の七か寺は、第二巻白虎の巻に収められている。

<資料文>

  1. ○中村南蔵院 豊嶋郡中村に在、真言瑠璃光山と号す、上練馬村愛染院末、本尊薬師、仏殿の本尊ハ不動也、寺領十二石余有、江戸より三里ばかり
  2. ○下練馬金乗院 豊嶋郡下練馬村に在、真言如意山と号す、和州長谷寺の末、寺号ハ満徳寺と云、寺領十九石余、むかしハ宝物もありしに、今は焼亡せり、江戸より三里許。
  3. ○上練馬愛染院 豊嶋郡上練馬村に在、真言練月山、寺号ハ観音寺と号す、京御室の末、寺領十二石、愛染明王ハ運慶の作なり、又、十一面観音ハ唐仏なりと云、むかしハ宝物もありしに焼亡せり、江戸より四里。
  4. ○上練馬円光院 豊嶋郡上練馬村の内温井ぬくいと云所に在、真言南池山と号す、愛染院の末、観音堂有、又、聖権現の社ハ円光院より二三丁脇にあり、秩父の子のひじりをうつしたる神也と、江戸より四里。
  5. ○谷原東高野 豊嶋郡谷原に在、真言新義谷原山長命寺と号す、和州長谷末、本尊ハ慈覚大師の作にて薬師なり、又、観音堂ハ行基の作、大猷院殿御寄附の像也、奥院に御石塔もあり、弘法大師の堂弐間四方、渡殿弐間ニ弐間、拝殿四間ニ弐間あり、無明橋、蛇柳等高野山の地名をうつす、鎮守三社宮あり。当寺は増島氏の開基にして、世にハ新高野山とも云、上板橋川越街道の追分に東高野山道といふ道標あり、又、長崎村の秩父街道にも道標の石碑あり、江戸へ四里余、牛込門迄ハ三里六町あり。
  6. ○石神井弁天 豊嶋郡上石神井村亀頂山三宝寺ニ在、真言愛宕下真福寺末也、弁天の社は寺より二町ほどの脇三宝寺池の中に有、池東西六十余間、南北五十間有、此池の末、練馬村より上下板橋を過ぎ、王子辺にては滝野川と云、本尊ハ地蔵菩薩、五間四面の堂也、又、寺内に如意輪観音堂有、鎮守氷川大明神の社もあり、寺領十石、末寺凡五十余箇寺ありと云、江戸より五里。
  7. ○小榑妙福寺 新座郡小榑村に在、日蓮宗法種山と号す、小榑上下両村あり、此所は上分なり、総州中山法華経寺の末にて西の中山といふ、祖師堂六間四方、萱葺、柱朱ぬり也、堂前に石灯籠二基有、是ハ当村に住たる尾州の御鳥見高橋覚左衛門より奉納する所也、高橋氏ハすなハち当寺の檀那にて祖師上人の真筆の曼陀羅を所持す、虫干の時にハ人にも拝せしむると也、祖師堂の正面二王門あり、四間ニ二間也、又、鐘楼、番神堂、七面天神の社あり、番神堂の脇に大なるはうの木有、客殿八間に六間半、厨八間四方、何れも萱葺なから普請ハ古く手丈夫に見ゆ、客殿の前に鬼子母神の堂有、三間四方也、厨の正面に門あり、毎年十月九日市立あり、人群聚すと云、二王門より正面の街道上練馬の内高松と云所へ通る、江戸へ五里といふ、又、四谷街道を江戸へ行にハ石神井、井草村、鷺宮、沼袋、新井を経て中野に出る也、中野迄三里と云、寺より三四町ほと南の方によりて弁天池と云有、白子川の水上にて水涌出て、あしや、川骨など清冷なる所也、弁天の社池とて池の中に少しの森あれとも社は見へす。(『江戸地誌叢書』

他書と若干異同はあるが、要領よくまとめてある。妙福寺の項に尾州御鳥目役高橋覚左衛門の名が見えるが、前述したように小榑村名主覚左衛門(『小榑村明細帳』参照)と同人である。

四神地名録ししんちめいろく

本書は次の古河古松軒自筆の前書によって、その成立過程を知ることができる。

<資料文>

此書ハ、寛政六年甲寅ノ春二月、御府外ノ地理井寺社ノ事跡名所旧地、可相糺旨奉命、御普請役柏原由右衛門、御小人目附室田富三郎案内者トシ、二月十三日江戸発足シテ、八月下旬迄ニ巡村相済、地名録二部、地理図二枚、十一月廿五日迄ニ清書シ、同廿八日御勘定所江呈上セリ、地名録一部、地理図一枚、戸田采女頭様御手本ニ止リ、御覧ウヘニテ、公儀御文庫ニ納リ、残テ一部一枚ハ御勘定所ノ御扣ヘトナリシ也、地理ノ図ハ御城辺ノ事ニ候之間、他見ヲ堅ク可禁旨柳生主膳正様、久世丹後守様ヨリ被仰渡、艸稿迄モ残リナク指上シ也。

                                         干時寛政七年卯春三月 六十九翁古松軒辰(花押

古松軒は、名を平次兵衛といゝ、正辰とも称した。早く長崎で蘭学を学び、寛政政革に際し、老中松平定信に召されて江戸に下った。著書にはほかに九州地方を巡って書いた『西遊雑記』七巻、奥州・蝦夷の巡見記『東遊雑記』一〇巻などがある。江戸近郊の地誌としてはこの『四神地名録』ほど、他書にも引用され、有名になったものはない。

寛政六年(一七九四)、僅か六か月の実地踏査と、三か月の執筆期間で全一〇巻の大冊を完成させたのも驚異だが、地図は他見を堅く禁ぜられ、草稿まで公儀へ残りなく差出させた当時の官板刊行事情も注目してよい。

豊島郡上下、多摩郡上下、荏原郡上下、葛飾郡上下、足立郡および付録の一〇巻から成っており、自序に次のようにある。

<資料文>

あめつちひらけ初しより、かく明らけき 御代はさらにきゝも伝へず、四つの海浪しつかに、日出る国のひかりは、見ぬこまもろこし、知らぬ千嶋のはて、遠ふつ国を照らし、天長く地久して土厚く、万代かけてうごきなき四神の地、名にしおふむさし野、曇りなき玉川の渡り、きよらなるすみ田川の流れを探り、四神地名録と題し、拙き筆記を奉り侍るも、無学の誤りなからん事をおそれみ〳〵ふしてさゝくものならし。

干時寛政六つのとし夏六月                                        黄薇山人古松軒辰謹誌

練馬に関係する村は、上、下石神井村、関村、谷原村、中村、上、下練馬村の七か村で三宝寺および三宝寺池付近と、練馬城趾の挿絵が入っている。原文は巻末に関係部分を抄録してあるが、ここに二、三注釈を加えておきたい。

上石神井村三宝寺の項に「小田原北条氏康、氏政の書簡有りと云」とある。文政九年成稿の『新編武蔵風土記稿』(後述)によると後奈良天皇綸旨りんし、北条氏秀、氏直、氏政の朱印状等九通が存在していたのは確実であるが、残念なことにその後の火災か散逸かで、現在は伝っていない。三宝寺池は「中に至って深き所有りて底知れずといふ。おんずるみずちいるにや有べし」と、述べている。虬は蚪とも作り、龍の子でつののある想像上の動物だが、三宝寺池はその様に神秘的な池であった。金の鞍伝説の生れるゆえんもそこらにあったのであろう。

関村の項に「水のわく所二百間の池有り」とあるが、これは現在の富士見池で、ここでの怪しいうなり声がする話を紹介し

ている。

下石神井村の項で神代の石劔を神体とする石神いしがみやしろのことに触れているが、これは今の石神井神社である。この石劔については、斉藤鶴磯かくきの『武蔵野話やわ』『江戸名所図会』(いずれも後述)など他書でも多く取り上げられており、当時から知られる事実であった。

練馬の語源には幾つかの説があるが、その中で一番人の口に膾炙されているのは馬調練説である。篠某という者が馬を盗んで来ては、その馬を練り、売っていたと言うもので、江戸幕府官撰の地誌『新編武蔵風土記稿』にも堂々と記載されている。この説を一番早く取り上げたのは本書である。

また、下練馬村の項で、「此村中に小手さし原の旧地有りと云へども実跡あらず」と記している。『太平記』に見える小手指原は普通、所沢市の西部旧小手指村付近とされているが、『野木瓜亭やぼくかてい随筆』のうちで幕臣の国学者大草公弼おおぐさきんすけは「小手指原とは練馬白子間を云ふにや、練馬村内に小手指原てふ古名なし。古老この所、古の小手さしが原合戦の跡なりと云へり。然らば太平記の石浜まで五、六里にして稍地理に合ふ」と考証している。両者を較べるまでもなく明治の下練馬村全図には「コテサシ塚」の記載があり、古くから、ここに小手指原の伝承があったことは事実のようである。

武蔵豊嶋郡之記

国立国会図書館に、文政四年(一八二一会田頴水あいだえいすい撰の『武蔵豊嶋郡之記』一巻がある。この書は、もと乾坤二巻であったものを一冊に合本したものである。一名『夢跡集』ともいゝ、「巻ノ第壱(乾ノ巻)」は閻魔堂、駒形堂以下浅草付近の旧蹟一七条を見聞に任せて記し、「巻ノ第弐(坤ノ巻)」は上野、雑司谷、練馬、赤塚方面から、稲付村「太田道灌ノ古城跡」の条で擱筆する。

全巻に古跡古碑の絵を多く挿入しており、練馬では石神井城趾と練馬城趾の鳥瞰図が画かれている。『四神地名録』のそれと比較すると若干の相異があり、実写か、模写か判断に苦しむところである。『東鑑』『鎌倉大雙紙』『四神地名録』の引用が多い。上練馬村の條では『東鑑』を引いて、奥州征伐祈祷のため鎌倉から武蔵の慈光山に下された愛染明王の尊像はあ

るいは愛染院の本尊ではないかと推考している。しかし『武蔵野話』、『川越松山之記』(後述)ではそれぞれ比企郡(埼玉県)都幾山慈光寺の条で『東鑑』の同じ下りを引いて同寺のもののように記述している。

武蔵演路

先に述べた『江戸往古図説』の著者大橋方長はまた、幕命によって官撰の地誌とも云うべき『武蔵演路』を編纂した。

自ら書いた序文に次のようにある。

<資料文>

やすらかになかきこゝのつのかのへねのとしといふはつふゆの空、おん江都を発し草にはてしなき武蔵野の広き叢をおしにかけ、たま〳〵川のなかき流れをしたひ、あさ紫のか浅きこゝろより堀かねの井の深きをもとめかね、こゝかしこに見しまゝをたゝにかきあつめたる武蔵演路といふ

古歌に

いかにせん昔しのあとをたつねても およはぬ道をなをなけきつゝ

武陽豊嶋県江都東下街 大橋方長編輯

刊行は、「<圏点 style="sesame">安らかに<圏点 style="sesame">永き<圏点 style="sesame">九つの庚子かのえねの年」とあるところから安永九年(一七八〇)であることが知られる。武蔵国の往古からの沿革を歴史地理の両面より記述してあり、全八巻から成っている。

その大略は次のごとくである。

<資料文>

第一巻 武蔵国名義 国界 管郡 田租 国造 国府 古駅古道 旧跡 武州路程里数 官道 間道 名所 廃城

第二巻 豊島郡 第三巻 荏原

第四巻 橘樹 綴喜 久良岐

第五巻 多摩 第六巻 新座 入間

第七巻 高麗 秩父 男衾 大里 比企 横見 第八巻 足立 葛飾

○間道 川越路

自江戸二里十町 小石川金井窪 大塚 上板橋廿八丁 下練馬一リ十八丁 赤塚新倉 白子一リ 此間原 膝折一リ 野火留 大和田一リ半

中ノ村 藤窪 大井二リ半

○豊嶋

野方領中新井村 野方領中村 野方領練馬村上下 野方領土支田村 野方領谷原村 野方領田中村 野方領石神井村上下 関村(以下略

○野方領 板橋辺近在

○新座

野方領新倉 保屋上下 小榑 野方領根岸 野方領白子(以下略

○白子村 町在 川越道中下練馬より壱里十丁白子村より膝折迄壱里

本書と『四神地名録』を比較して見ると、本書成立の方が先立つこと十数年であるところから、『四神地名録』の著者は本書を参考にしていたことが充分考えられる。また本書は昭和四九年練馬区教育委員会編『練馬の道』によって、はじめて活字化され、練馬に関係する部分が収録された。

川越松山之記

江戸の俳人独笑庵立義は、文化一五年(文政元年・一八一八)三月五日親しい友と弟を伴って、東のかたいまだ明けざる程に日本橋を立った。川越街道を練馬、白子と過ぎ、川越、松山へと向うのである。そして、比企郡慈光寺に詣でたあと、帰りは川越城下を見物、所沢から小金井に出て、咲き初めた桜を勝覧、江戸に戻っている。本書では、他書にあまり見られない練馬宿のこと、例えば清性寺、石観音などについてふれている。

立義は、それほど富家ではなかったが、旅を好み、暇を得れば旅装を整え、地図、地誌類を携へ、行先ではこれらを繙いて実査し、書留めたものを家に戻ってから更に文献に徴して浄書したという。巻中所々に地図や挿絵を加えており、世に多い紀行文とは全くその趣を異にして、当時の状況を知るには甚だ貴重な書と評価は高い(三田村鳶魚編『未刊随筆百種』)。

立義は本書のほか、日光・鹿島・杉田・百草・高尾山・御嶽山・秩父など各方面の紀行文を著書として残している。

武蔵野古物

地誌にせよ、紀行にせよそれらは記録として極めて貴重なものであるが、更に挿絵の入ったものは所々の情景なり、遺物の様子なりを直接見る者に彷彿させる。その様なものの中に余り知られていない『武蔵野古物』がある。原本は詳かでないが、写本が東京都公文書館と西尾市立図書館岩瀬文庫などに収蔵されている。江戸とその周辺の社寺、遺跡などの境内図や金石文を淡彩を施して記述してある。恐らく著者が暇に任かせて神社仏閣を訪ね、見るまゝ聞くまゝに筆記している様が紙背に窺える。絵も画家のそれではなく、記述も学問的な史論考証はないが、実際に足で歩いて書いたという強味がよく感ぜられる。筆者・成立年共不詳であるが、文中「豊嶋村清光寺」の条で貞治二年(一三六三)の古碑を写しており、その註記に「庚子迄四百十八年」とあるところから、安永九年(庚子かのえね・一七八〇)頃の成立であることが推察つく。挿絵は他書に見られるような精緻なものではなく、むしろ稚拙でほのぼのとしたものを感じさせる。昭和三二年刊『練馬区史』第四編、「神社仏閣」の章にその絵が数葉掲載されているので参照されたい。

武蔵野話

武蔵の地誌で見逃すことのできない一冊に本書がある。著者は斉藤鶴磯かくき、通称宇八郎、之休しきゆうとも号した江戸の人である。四十余歳で所沢に移り住み、約二〇年間、再び江戸に去るまで、武蔵野の各地を遍歴した。寺社、古戦場、古碑は勿論のこと、旧家の古文書等をも探訪して成ったのが本書である。神社仏閣、遺跡、遺物などの写実的な挿絵を多く取り入れ、事実に則した記述は、当時の文人たちの武蔵野を論ずるに欠かす事の出来ぬ書であった。

本書は前編と続編の二編から成り、前編の刊行は自序から文化乙亥(一二年・一八一五)であることが、又続編は冠山松平定常の序文から文政九年(一八二六)の刊行であることが知れる。

前編は刊行の翌年筆禍で当局の忌諱に触れ絶板となった事でも話題となった。それは、一つに秩父郡の武甲山は付近に「武光たけみつの荘」があることから武光山の字が正しいと論証した点である。もう一つは、入間郡の上、下新井村は御入国前所沢村の新居だったとした点が、古い村の歴史を誇る両村の自尊心を傷つけ、訴訟問題にまで発展した為だとされている。

鶴磯が前編刊行後、二〇年間住みなれた所沢を去って、再び江戸に戻ったのも、そうした事情によるものかもしれぬ。また、続編は鶴磯の記述に相違ないが、序文は松平冠山が撰し、門人岡部静斉の校訂ということで上梓されている。

著者の寓居が所沢であった関係からか、入間、多摩、秩父三郡の記述が豊富である反面、練馬周辺の豊島、新座両郡の紙数は少なく、豊島郡は続編で上石神井村、下赤塚村の二か村についてふれているに過ぎない。資料として別載するまでもないので、ここに収録しておく。豊島郡の部は上石神井村から筆を起している。

<資料文>

上石神井村に亀頂山三宝寺とて真言宗にて守護不入の標木を建置て圭田ごしゆいん十石を賜はる寺あり。北条氏康、氏政の書簡などあるよしなれど是をみず。こゝに三宝寺池と称するあり。東西六十間余、南北五十間、狭き所四十間程、東へのながれ百六十間ほど、池と称すれども湖水なるべし。この流れ数村を過て用水となり下板橋同郡に落て滝川たきのかは、王子川と称す。豊島村にいで、末は荒川へ合流す。いかなる旱にても涸ることなく下流の村々この水にて大いに益ある湖水なり。又此地に古城跡あり。鎌倉大草紙に「文明四年景春一味の族には武州豊島郡の住人豊島勘解由かげゆ左衛門尉、同弟平右衛門尉石神井の城、練間の城を取立、江戸川越の通路を取きり」とあり。又「同五年四月十三日道灌太田氏江戸の城より打ていで、豊島平右衛門尉が平塚の城を取まき外を放火して帰ける所に豊島が兄の勘解由左衛門を頼けるあひだ石神井、練馬の両城よりいで攻ければ太田道灌、上杉刑部少輔、千葉自胤よりたね以下江古田多摩郡の原沼袋といふ所に馳向ひ合戦して敵は豊島平右衛門尉を始として板橋赤塚以下百五十人討死す」とあり。この古城跡平城ひらしろにして広く北に深き池を構へ追手は沼田にて左右はほりふかく堀廻し能固よきかための平城なり。今にその地形を失はず。櫓などかまへし所とみえて築山の小山などあり。前にのする三宝寺池の水江戸吉原近辺の用水となる。此池の中にある弁才天を信心して江戸並に近村のもの参詣し巳待みまちには群集すといへり。豊島氏落城の後三宝寺は鎌倉より此地へうつせしといふ。石神井村を石神社村ともかくよし

これより先前編秩父郡の部日野村、熱川にへかは村、大瀧村の項でまとめて石神祠の石劔の事についてふれ、そこで下石神井村の神体を次のように述べている。

<資料文>

又豊島郡下石神井村に石神井の神じやと号せるやしろあり、神体は石なり。土人ところのもののいひ伝ふるはいにしへ井を穿し時土中より出しと。夫故村の名を石神井村と称せるよし。則神体図の如し(挿絵略)。

豊島郡の部はこのあと、下赤塚村大堂の暦応三年(一三四〇)鐘銘、松月院の千葉氏墓、および十羅せつ社の田遊たあそびの神事を述べて終っている。

新座にひくら郡は白子村、五坊ごぼう村を記述したあと小榑村について次のように書いている。

<資料文>

小榑こぐれ村はせんの字を書はあやまりなるべし。和名抄にはくをクレとよむせんクレと訓はいかゞ。槫は槫風せんふうなど書て神祠の屋上にある槫風樫木ちぎかつおきのことなり。日本紀神武記に槫風をチギとよめり。風をよけ屋根をおさゆる木なり。チは風のよみなり。東風をコチといひ、暴風をハヤテといふにてしるべし。しかれば小榑と書てよからんか。

小榑の榑の字は、旧字の專が現在当用漢字で専となってさらに紛らわしくなった。鶴磯は他でも村名の起源や、由来を考証しており、本書の引用書目を見てもその学識の深さを知ることができる。

小榑村の項のすぐあとに比企郡平村都幾たいらとき山慈光寺が記されている。前述した『武蔵豊島郡之記(夢跡集)』で会田頴水が練馬の愛染院ではないかと推考していた愛染明王像について本書では何の疑いもなく次のように書いてある。

<資料文>

文治五年六月廿九日奥州泰衡征伐の為日比ひごろ御礼敬の愛染王の像をおくらせられ是をもて本尊となし祈祷をぬきんづべきよし仰含らる。同月廿二日愛染王の御供米をおくらせらる縁起には千二百丁とあり又長絹百ひきを衆徒のうちへ下さる是素願成就によりてなり

                                          (昭和二五年刊武蔵野話刊行会本に據った

遊歴雑記

冒頭にも書いたが、江戸時代も半ばとなると泰平の世がつづき、市中には精神的にも、経済的にも余裕のある階層が増加してきた。特に高級武士、僧侶、豪商、富農などは、いわゆる物見遊山にたびたび出掛けては、四季折々の風物を楽しんだ。が、中には単なる行楽ではなく、行った先々の神社仏閣や史跡名勝を克明に紀行文として記している者も、今まで見てきたように決して少なくない。十方庵敬順じゆつぼうあんけいじゆんはまた、その最たるもので、彼の名を不朽のものとした十余年にわたる厖大な紀行文集が『遊歴雑記ゆうれきざつき』である。

敬順は、本姓津田氏、名は大浄、織田信長の遠裔だという。三河から江戸、小日向こびなた文京区)に移った真宗郭然寺の四代目

住職であった。また俳諧にも通じ以風と号した。敬順五一歳の時、文化八年(一八一一)寺を実子大恵(法順)に譲り、隠居の身となって以来、兼て志していた花鳥風月を友とする遊歴の行脚が始まったのである。旅は江戸近郊の名勝古跡は言うに及ばず、武蔵・相模・房総に亘つており、その都度筆まめに見聞するところを書留めている。

現存する『遊歴雑記』は初編から五編まで各編上中下の三巻に分け、全一五巻から成っている。文化一一年(一八一四)の初編から、文政一二年(一八二九)の第五編まで一五年の歳月を費している。編集には一定の方針はなく、行った都度纒めていった感がある。気に入った所へは二度でも三度でも足を運び、その度に項を改めて記している。全編約一千章うち練馬を訪れた記述が九章ある。相当長文であるが、巻末に全文掲載した。

練馬に直接関係のある九章の外に、第三編下の巻第五として「練馬台宿金之亟が林泉」という一章がある。記述にも「武州豊島郡下練馬村の往還は、川越の街道也、爰に台宿といふ処は、ゲトウ橋の西弐町ばかりの畷を過て少しなだらかなる坂ありて、土地高き故の小名なるべし……。」とある。しかしこれは、著者の誤りで、台宿の小字は上板橋村であり、今の上板橋一丁目付近にあたる。百姓金之亟の家の庭は、南方平山を借景とした池泉と、黄楊ツゲの作り樹が美事で「天造の雅景」だと感嘆しているが、ここでは割愛した。

また四編下の巻第二九に「武州の内遊歴市の定日」というのがあり、江戸近傍でも辺鄙な所へ行くと、宿もないし、昼食をとる店もないと警告している。このような所へ行くには市の日に限ると、武州一国在町の市の定日と寺社の縁日を六〇か所連記している。その中に「十月九日十日 土支田村妙福寺市」と「十月廿八日廿九日 関村本<補記>(立)寺市」が入っている。そして「寺社の縁日祭礼等若干にして誌すに暇あらず、只大方の名だたるもののみをわずかに載て後々遊行する人の便りとす」とあって、妙福寺も本立寺も名立<圏点 style="sesame">たる寺であった。事実著者は、妙福寺を二度訪ねている。

さらに五編下の巻第二六「諸方国産好悪の判談」には、武蔵一円の牛旁・葱・大根・生姜・蓮根・芋類などの農産物について著者が直接口にしたその品質や、風味の善悪よしあしを感想を交えて語っている。「蘿蔔だいこんも又しかり、尾張のみやしげは格別、武

州には練馬の産を最上とすれど、至てみじかく大きに柔かにして、風味よきは千住掃部宿に出る蘿蔔にならぶはあらじ」と練馬大根を最上だと褒めている。

以下、載録した本文について若干の註を加えておく。

まず、「石神井村三宝寺の池水」の条末尾に豊島左衛門<圏点 style="sesame">清光とあるが、これは著者の誤りで泰経が正しい。

次条「<圏点 style="sesame">善乗院の異紋の撞鐘の銘」は文中にある通り、禅定院のことである。この鐘は元禄一六年(一七〇三)の鋳造であったが、戦時中供出の厄に遇い今は無い。

「練馬の号将監嘉明が宅地」にいう練馬将監の説は、他の史書に全く見られないものである。貞治年間(一三六二~六八)といえば南北朝、豊島宗朝の子、秦宗の時代で、三宝寺池に入水したという泰経の伝承と混同している嫌いがある。

「下練馬のつじ石塚仁王尊」は現在北町二―三八の石観音にあるものである。文中仁王の背に天和二年(一六八二)の銘があると書いているが、天和二年は石観音の銘で、仁王の造立は天和三年になっている。著者の記憶違いであろう。

「高松村服部半蔵の墳墓」にある高松寺は廃寺となって愛染院に合併された。著者の見た仁王尊は現在も高松三―一九御嶽神社境内にあるが、図示した服部半蔵の墓と思われる五重の石塔は今は無い。合併の際にでも散逸したものか極めて残念である。

最後の二条は、文政六年(一八二三)、七年(一八二四)と二年にわたって、土支田村の百姓平右衛門に招かれ、小榑村妙福寺の市を訪ねた折の記事である。江戸からの往復の様子、練馬の農家の生活、市の模様などを詳細に語っており、なかなか興味尽きない一文である。

末尾の「人にそげたるノ乀へつふつにして」とは、風変りな人間があちらへ行き、こちらへ行きするという意味であって、著者自身をさし、その悠々自適さを物語っている。

嘉陵紀行

『遊歴雑記』の著者十方庵敬順とほとんど同時代で、やはり江戸近郊を歩き、貴重な紀行文多数を残した人に『嘉陵紀行』の著者村尾正靖がある。

正靖は、名を源右衛門、嘉陵かりようはよく知られた号であるが、また伯恭とも号した。周防国(山口県)の出身で若く江戸に出て、御三卿の一清水家に出仕し、広敷用人を勤めた。

その著書『嘉陵紀行』の自筆稿本は『江戸近郊道しるべ』(二六冊)となっているが、国立図書館蔵の写本は『四方よもの道草』、内閣文庫蔵の写本は『嘉陵紀行』となっている。後者は筆写の際、彼の号からとって、後人が名付けたものだが、世間では一番通った名である。二写本共若干の出入がある。

村尾正靖とはどのような人物であったか、『嘉陵紀行』巻一の跋文で堀江誼翁は彼を評して次のごとく言っている。

右に文、左に武、職務を鞅掌し、少しの余暇あれば、山を尋ね水を索め、吟哦頗る富む、其の境に至り、其の概を記し、捜索探討、杖履の触るる所、目捷え接する所、藹々焉、漠々焉、而して其の雄なる者……。

先の敬順は酒を一滴も嗜まず、酒飲みをあまり心良く思わなかった様子が『遊歴雑記』の諸所に窺われたが、この正靖は酒を好んだようである。出掛ける時は、いつも瓢箪ひさごを腰に下げ、風光を賞しては盃を手にし、花を愛でては一酌を楽しんでいた。敬順が行く先々で茶を立て喫していたのとは好対照である。

正靖は清水家の用人を勤めた程なので、学問的な教養は相当深かったことは、この紀行文の随所から充分推察がつくところである。

本書の特徴の一つに詳細な行程図が挿入されていることがある。原文は巻末資料を参照されたいが、彼は文化一二年(一八一五)九月八日、谷原村長命寺に遊んでいる。その時の行程略図が目白から長命寺まで画かれている。当時の清戸みち、現在の目白通りを雑司谷鬼子母神前から目白駅前を過ぎ、山手通り(環状六号)を横切ってから、今の南長崎三丁目の二又交番の所で、道は二つに分かれる。目白通りは直進して間もなく、十三間道路と呼ばれる広い路となるが、昔の清戸みち

は、この二又を右に入る。

そこから正靖の行程図は、ほゞ今の千川通りを江古田・練馬と通り、貫井の円光院前を通過して東高野山みちに入る。東高野山みちは、現在の練馬第二小学校の先を、左手に入り、迂曲しながら富士見台三丁目御嶽神社の下を通り、石神井川を渡って長命寺の東門に至る道をそういっていた。

清戸みちとの分岐点には、寛政一一年(一七九九)の道しるべの碑が建っており「東高野山左十八町」と記されている。この碑は、『嘉陵紀行』にも絵入りで紹介されており、現在も放射七号線の拡幅工事で旧位置より多少北へ移動したが、貫井五―一七に健在である。

また長命寺境内(本堂前)に現存するいわゆる長命寺碑の碑文も紀行文中に全文掲載してある。この碑文は江戸の儒者井上金峨が撰したもので、長命寺開創からの由縁を漢文体で書いたものである。

正靖は長命寺を訪ねた七年後の文政五年(一八二二)同じ九月に、今度は三宝寺を訪れている。禅定院、道場寺、三宝寺池弁財天と立寄り、池から石神井城趾を巡り三宝寺に至っている。

この章の欄外に「重考」としてある「豊島権次は東鑑に見ゆ……」以下の文は誤りが多く、正靖自身が記入したものかどうか疑わしい。

いずれにしても、この『嘉陵紀行』と前述した『遊歴雑記』の二つは、江戸文人の紀行随筆として、練馬にとっては他にあまり纒まったものがないだけに、極めて貴重な資料的価値があるものと認められる。

新編武蔵風土記稿

『新編武蔵風土記稿』(以下単に『新記』という)は江戸幕府が多年の歳月と人員を費して編集した武蔵国に関する官撰地誌である。その記述の詳細正確なことは他書に卓抜したものであって、寺社、遺跡、遺物、古文書など今はすでに滅失したものも多く、極めて貴重な文献であることは既に知られるところである。

そもそも『新記』は林大学かみの建議により、徳川幕府がその編纂の総裁を命じたものであって、間宮士信ことのぶ槐亭かいてい、地理学

者)、三島政行(十州じつしゆう、『葛西志』の編著者)など当時著名な幕臣の学者数名を補佐とした。局を昌平坂学問所に置き、郡毎に分担を定めて、その編集にあたらしめ、従事した者四十人余に及んだという。文化七年(一八一〇)初めて久良岐くらき郡(現横浜市)に稿を起し、文政一一年(一八二八)新座郡(現練馬区大泉地区と、保谷、新座、和光の各市)の再校を以て全巻二六五巻が完成した。浄書を終え幕府に献上したのは天保元年(一八三〇)であったという。この間実に二〇年を要している。それだけの歳月を費したけれども、当事者は決して満足な出来とは考えていなかったらしく、『新記』の首巻冒頭に

<資料文>

それ国志の編纂に至ては、事も亦小ならず、如何となれば体例格を得、記事法を得にあらざれば、成書とすべからず、今此篇は志の材料を纂輯して、他日成編の資とせんと欲するのみ

と、体裁や、記述の方法に統一性が欠け、郡によりその内容に精粗の差があって、完全なものとはいえないから、いずれこれを資料として完全なものを作ってもらいたいと、述べている。

練馬区は、本書の豊島郡と新座郡にすべて包含されているので、それぞれの郡の編集課程を同じ首巻から見てみると次のとおりである。

<資料文>

豊島郡は文政九年成、凡府およそ下府外尤混淆して弁しがたし、俯傍の諸村に町並地と号する所あり、是建櫜けんこう兵器をふくろに収めてまた用いない、つまり家康打入りののち)の初は田野なりしを、後年許可せられて市店を置所なり、故に居人は町奉行に属し、地租は代官衆に収むること旧に仍る、此等の数全村町並となりしは、府に譲て採収せず、村市混し置るゝものは村落に属せしものあり、覧者其参差たるをいぶかること勿れ。

即ち豊島郡は江戸府内と府外、つまり朱引の内と外が入り混じっていて、判然としない所がある。はっきり朱引内と判っている町並みの記述は別の『御府内備考』に譲って本書には採収していないが、どちらともつかない所は、本書に入れたり、入れなかったりしてあるので見る人は、それを不審に思っては困る。『新記』と『御府内備考』を合わせて覧て欲しいという意味に受けとれる。幸い本区関係は、はっきりと朱引外なので、すべて本書に採録されている。

また新座郡については次のごとくある。

新座郡は久良岐についで作、時に朝鮮聘使の至に逢て、総裁臣衡奉命州に赴く、故を以て毎事便ならず、士信・純庸等ひそかに編纂の事を謀して、中神守節専当して賛成せり、故に文政十一年再校を経といへども、猶疎略をまぬがざるべし

新座郡の巻は、文化七年起業の始め、試みに作られた久良岐郡につづいて、ほとんど同時に編集が開始された。が、翌文化八年(一八一一)八月朝鮮使節が対馬つしまに来貢したので幕府は総裁の林大学頭(ひとし、号述斉じゆさい)を小笠原忠国、脇坂安董らと共に同地に派遣しその聘礼を受けさせた。そのため、『新記』の編集作業は一時停滞したが、間宮士信と、松崎純庸らが計らって中神守節を専任に当て、ようやく文政一一年、再校を経て成ったというものである。新座郡には『新記』編纂事業の最初から最後まで二〇年間費したことになるが、それでもなお、疎略の点が免れないと編者は述懐している。

『新記』の編纂に当っては、現地に臨んだ実地調査も行ったであろうし、古史籍を渉猟し史料を蒐集したのであるが、根幹になったものはおそらく各村に令して村の概要を報告させた「地誌調書上」であったろう。

区内には旧上練馬村の名主であった長谷川武範家(春日町三丁目)に「上練馬村地誌調書上帳」一冊と、上練馬村を除く九か村(関、竹下新田、上石神井、下石神井、土支田、田中、谷原、中村、中新井)分を参考に写し取っておいたと思われる「地誌調写置」一冊が現存する(巻末「資料編」参照)。「地誌調写置」関村の末尾に文政六未年(一八二三)九月とあるから、『新記』の豊島郡が完成した同九年より三年以前に、この報告がなされた。また関口文吉郎家(土支田三丁目)には同じ文政六年の「土支田村地誌調御改書上帳」一冊がある。

この「書上」を「村明細帳」(同じく「資料編」参照)と比較してみると多くの共通点はあるが、「村明細帳」は収税のために村内の耕地面積、収穫高、産業などに重点をおいたのに反し、「書上」は寺社の本尊、草創、縁起、古史跡などを詳述している。産業面では、出来るだけ余計な事は書かないという農民側の苦労が行間に窺われて興味深い。

『新記』はまた、この「書上」を重用な参考資料として採用した外に、沿革の項では『小田原所領役帳』などによって追

記を行なったり、三宝寺文書や、橋戸村庄氏文書のような古文書も多数採録している。

このように『新記』は江戸地誌の根本資料として万人の認めるものではあるが、前述したように全く瑕瑾のない書とは言いきれない。

例えば、「土支田村明細帳」にある八幡・神明・天神・稲荷四社除地一町九反余の別当万福寺(真言宗)について『新記』では全く触れてなかったり、橋戸村妙福寺については同寺所蔵「寺附明細改帳」(文政八年)の内容と寺草創の記述に若干の相違が見られる点などがある。

いずれにしても、今後『新記』ならびに、「地誌調書上」「村明細帳」「寺社明細帳」などとの相互比較検討を加えた研究を俟たねばならない。

江戸名所図会

『江戸名所図会ずえ』(以下単に『図会』という)は斉藤幸雄が寛政年中(一七八九~一八〇一)に編纂し、その子幸孝が刪補さんほを行ない更に孫幸成が志をついで文化に成功し、文政に上梓し、天保年間に至って漸く完成した。書中の挿絵もまた長谷川雪旦、雪提父子二代にわたるものである。

斉藤家は江戸神田雉子町の名主を勤める家柄で、名を代々市左衛門と称した。

まず初めにこの『図会』の著述に手をつけた幸雄は、勤めの傍ら江戸近郊の名所旧跡を訪ね、それを克明に記録していた。彼は松濤軒長秋とも号して文章も好んでいたので、それらの草稿が積って、やがて『図会』の骨子となるものが着々と進んでいた。しかし、上梓の計画はあったものゝ未だ完成に至らないうちに、寛政一一年(一七九九)六三歳で病没した。

幸雄の子幸孝は父の遺志を継いで、その草稿に自ら増補訂正を加え完成を期したが、彼もまた文化元年(一八〇四)まだ四七歳の盛りで父の後を追うように死去した。彼は雅名を県麻呂あがたまろともいい、『武蔵見聞録』『郊遊漫録』の著述がある。両書とも主として『図会』編纂のための資料として見聞するところを書留めたものであって、『図会』に関する資料の一つとして貴重な文献ということができる。

幸孝の子幸成は、月岑げつしんとも号し、祖父および父の遺志を再び継いで遺稿に筆を加え、遂に天保五年(一八三四)に三巻一〇冊、同七年に四巻一〇冊、計七巻二〇冊の『図会』を完成させ、当時江戸では有名な書舗須原屋から出版することが出来た。実に父子三代、三十余年に亘る苦心の結晶が見事実を結んだのである。

前述した冠山松平定常(冕嶠陳人)が序文を撰しているが、それにも増して、本書の名声を高からしめた功の半ばは、長谷川雪旦の挿絵にあるといっても過言でない。雪旦は著者と常に行を共にし、現場に臨んで画いた下絵に基いて、この絵を画いたという。

この『図会』の魅力は、著者の斉藤三代と画家の長谷川二代のいずれもが実際にその足で訪ね、その眼で現状を見て叙述しているところにある。江戸期にも往々にして机上で書き上げたと思われる随筆の類いも無いではないが、本書はそれと全く異り、絶対的な正確さと、写実的な精彩さが現代のわれわれでさえ見る者を魅了させずにおかない永遠の光を投げかけているのである。

幸成(月岑)には本書のほか『東都歳事記』(天保九年)五巻、『武江年表』(前述)一二巻など江戸に関する著書や、江戸の音曲に関する『声曲類纂』(弘化四年刊)など、幅広い著作活動を行なった。『東都歳時記』には長谷川雪旦が、『声曲類纂』にはその子雪提が夫々挿絵を画いている。

先に『四神地名録』の項で、下練馬村に小手指の地名が伝承としてあったことを述べたが『図会』にもこのことが書かれている。入間郡小手差原の項の註で「豊島郡下練馬村に小手指原の旧地残れる由、其土人云伝ふといへども、証となしがたし」と『四神地名録』と同じ見解を示している。

『図会』に小榑村妙福寺が書かれていないことに一沫の淋しさを感じる。

御府内八十八か所道しるべ

弘法大師霊場四国八十八か所参りの写しとして、江戸にそれが出来たのは詳かではないが、斉藤月岑の『東京歳事記』によると宝暦頃(一七五一~六四)に始まるという。

天保一〇年(一八三九)『弘法大師御旧跡写八十八ケ所略図』(中野区須藤亮作氏蔵)は「御城」を中心とした江戸市中の略図に八十八か所の寺院と道順を画いたものである。その欄外に

四国八十八ヶ所ハ弘法大師之霊場也、右写宝暦五年浅間山上人本願ニて東都ニうつさせ玉ふ、一度巡拝の輩ハ其年乃悪事を除せ、難病を治し、再拝の輩ハ家運繁栄子孫長久福徳円満成せ玉ふ御誓願也

とあり、道順をたどると次のようになる。

(一)高輪 正覚院 (二)大久保 二尊院 (三)角筈 多聞院 (四)行人坂 高福院

(五)広尾 延命院 (六)麻布 不動院 (七)下渋谷 宝泉寺 (八)目黒 光雲寺

(九)青山 浄性院 (一〇)千駄谷 聖輪寺 (一一)幡ヶ谷 荘厳寺 (一二)中野村 宝仙寺

(一三)霊岸島 円覚寺 (一四)鷺宮村 福蔵院 (一五)中村 南蔵院 (一六)石神井村 三宝寺

(一七)谷原村 長命寺 (一八)四谷 愛染院 (一九)愛宕 円福寺 (二〇)愛宕 金剛院

(二一)四谷 東福院 (二二)牛込箪笥町 南蔵院 (二三)市谷 薬王寺 (二四)四谷 三光院

(二五)四谷北寺町 和光院 (二六)四谷南寺町 文珠院 (二七)芝 円明院 (二八)湯島 霊雲寺

(二九)牛込 千手院 (三〇)高田 放生寺 (三一)牛込弁天町 多聞院 (三二)湯島 円満寺

(三三)巣鴨 真性寺 (三四)本郷 三念寺 (三五)切通し 根生院 (三六)牛込原町 報恩寺

(三七)市谷八幡 東円寺 (三八)砂り場 金乗院 (三九)四谷 真成院 (四〇)亀戸 普門院

(四一)浅草新寺町 密蔵院 (四二)谷中 観音寺 (四三)浅草 成就院 (四四)四谷 顕性寺

(四五)御蔵前 大護院 (四六)本所二ッ目 弥勒寺 (四七)上中里 城官寺 (四八)市谷 林松院

(四九)谷中 多宝院 (五〇)両国 大徳院 (五一)鳥越 長楽寺 (五二)戸塚 観音寺

(五三)谷中 白性院 (五四)目白 新長谷寺 (五五)谷中 長久院 (五六)田端 与楽寺

(五七)谷中 明王院 (五八)上高田 光徳院 (五九)西ヶ原 無量寺 (六〇)浅草 吉祥院

(六一)浅草 正福院 (六二)浅草 威光院 (六三)谷中 観智院 (六四)谷中 加納院

(六五)三田寺町 大聖院 (六六)田端 東覚寺 (六七)愛宕 真福寺 (六八)富岡町 永代寺

(六九)三田寺町 宝生院 (七〇)谷中 西光寺 (七一)小石川 玄性院 (七二)浅草 不動院

(七三)猿江町 覚王寺 (七四)深川 法乗院 (七五)赤坂 威徳寺 (七六)音羽 西蔵院

(七七)三田寺町 仏乗院 (七八)東上野 成就院 (七九)小日向 専教院 (八〇)三田寺町 長延寺

(八一)魚藍坂 真蔵院 (八二)浅草 竜福寺 (八三)四谷 蓮乗院 (八四)三田 明王院

(八五)三田 泉福院 (八六)小石川 常泉院 (八七)音羽 護国寺 (八八)白金 高野寺

これは『東都歳事記』とも、次に述べる『御府内八十八ケ所道しるべ』とも若干の異同がある。また明治九年にも『御府内八十八ヶ所道順独案内』なる地図が出ているが、これとも相違している。明治九年のものには第七十番に石神井村禅定院が、谷中の西光寺に代って入っている。

両図とも十五番中村の南蔵院から十七番谷原村の長命寺に行くあたりに「此へん茶やも無之、至て不自由ニ御座候、長命寺門前にて支度可被成候か、弁当持参被成候、其外一向無之候」とわざわざ注意書が記入されている。また長命寺の脇には「此御寺ニねがひこへば、御とめ被成候、しんこうやといふ」とも書かれている。

さて、『御府内八十八ケ所道しるべ』(愛知県西尾市立図書館岩瀬文庫蔵)は、さきに述べた四国八十八か所弘法大師霊場を模した江戸府内の順拝道案内書であって、前掲各寺院の縁起、由緒を絵入りで紹介している。小形綴本三冊から成り、幡ケ谷不動尊別当荘厳寺の序文と、発願主として銀座一丁目大和屋孝助、尾張町二丁目三河屋利兵衛の名が見える。画工は二代目一立斉広重で、慶応元年(一八六五)七月の板行である。

以下区内の三か寺について全文を掲げておく。

画像を表示 <資料文>

十五番

此辺四か寺参詣之節ハ弁

当御持参可被成、近辺ニ茶や等も無之、当寺ニて昼飯可被成、是より谷原村迄ハ道のりはるかあり、若行くれ候節ハ大師様御こもりと御願被成候ハヾ一夜の御聞済相成候間、其御心得ニて御参詣可被成候

雑司ヶ谷通在中村 一リ半

瑠璃光山医王寺 南蔵院

御宝末

本尊

不動明王

薬師如来

弘法大師

御朱印

并境内三町三反五畝十三分

年貢地惣高三十六石六斗

九升九合六勺六才

下段

是より長命寺ヘハ、表門より右へ行、六地蔵より右へ行地蔵尊へ突当り左りへ行、右へ行、水道のはたへ出る、左りへ行水道の橋を渡り右へ行と左りの小坂を下りて行、田の中道をとほり、石ばしをわたると向の森の中の寺なり

願主 両国吉川町

桐山まさ女

上段)阿波国名東郡矢野村法

養山金立院国分寺と云ハ

聖武天皇詔して、丈六之釈

迦二菩薩を作り大般若を

写し天下一国ニ一ヶ寺ツヽこん

立し玉ふニより国分寺と号

此寺本尊薬師如来、御丈ヶ

壱尺五寸作者志らず

うすくこく

わけ〳〵色を

そめぬれバ

流転生死るてんしようし

あきの もミち 葉

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十六番

上段)岡山慶尊法印応永元年建立往古わうこ勅願ちよくくわん之地也故に勅書数通宝蔵ニ納置、本尊ハ聖徳太子之作慶長十一年当寺第十世頼融らいゆう上人、檀主尾崎出羽守資忠すけただといへる人共に力を合せ寺域修復之功全す阿波国名東郡観音寺村光耀山千手院観音寺本尊千手くわんをん御丈ケ六尺大師之御作なり

石神井村 一リ九丁

亀頂山密乗院 三宝寺

どくれい

不動明王

義新 本尊正観世音菩薩

弘法大師

御朱印拾石余 四十三ヶ寺本地常法談林所

下段

是より福蔵院ヘハあとへもとり、寺の前を右へ田の中道を行水道のはしをわたりて行と右に石地蔵あり夫より左りへ鷺宮きぎのみや村人家辺行、右の横道を行田の中道へ分行とつきあたりに石塔せきとう不動尊ふどうそん有左りに付て坂の細道を上り山中の鎮守八幡の境内けいだいを通ぬけ向の寺也

願主 尾張町壱丁目元地

松田ちか女

わすれずも

みちびきたまへ

くわんおんじ

さいほう

せかい

ミだの

じやうどへ

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十七番

やはら村 廿町

谷原山妙楽院長命寺

和州長谷小池坊末 境内四丁余

奥院弘法大師

新 本尊 薬師如来

慈覚大師御作

義 本尊十一面観世音 行基菩薩御作

御朱印九石五斗余 三ケ寺之本地

是より三宝寺へハ表門を出右へ行四ツ辻を左りへ行三ツ又大松之下へをり左田畑たはたへ出石神井村へ取つき四五丁行右がハの寺なり

願主 尾張町壱丁目元地

鳶之頭取

源太郎

上段

阿波国名東郡井戸村瑠璃山真福いん明照寺聖徳太子御建立といふまた行基ともいふ大師あそひ玉へ本尊薬師如来御丈五尺両脇士并ニ四天王を作り安置す鎮守八まん楠明神

おもかげを

うつして

見れバ

井戸の水

むすへバ

むねの

あかや

おち

なん

下段

当寺ハ慶安四かのとの卯年慶算阿闍梨けいさんあじやりといへる木食もくじき沙門しやもん開基なり

○阿闍梨ハ伊豆の国のさんにして北条早雲長氏さううんながうじの曾孫にして増氏なり俗称ハ勘解由重明そくしやうかげゆしけあきといふ、天正年中北条氏規うじのりにぞくして豆州にら山之城に籠居らうきよす、北条家めつぼうの後、この地に退居たいきよして農民のうみんとなる後其弟左内重国の子新七郎しげとしに家をゆつり入道染衣の身となり慶算と改しつをまふけてれん中庵とこうす元和二年三月十二日せん化す時に年八十余歳なり

○観音堂之本尊十一面観音ハ行基之作也廻廊くハいろう之中に五百らかんを安置す

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谷原

長命寺

新高野又ハ

東高野山

とも

いへり

願主

も組

源太郎

江戸川柳にみる練馬

江戸俳諧を大成させた松尾芭蕉の没後、その流れを汲んだ服部嵐雪と榎本其角の二人の活躍はめざましかった。芭蕉には随筆はないが、其角には俳句を交じえた随筆『雑談ぞうだん集』(元禄四年)の著作がある。この書でも窺うことができるが、彼は頓智と洒落を生命とし、その派を江戸座と呼んで、後に江戸川柳を育くむ要因ともなった。

其角の没後(宝永四年)、宝暦~天明の頃(一七五一~八九)は江戸川柳の最盛期であって、当時は前句付と言われる俳諧の遊びが流行した。前句付は俳諧の宗匠が選者(点者)となって、門人たちの句に優劣をつけ批評を加えた。この点者のうち評判の高かった宗匠に初代柄井からい川柳があり、彼の選句を川柳点といった。やがて題句を省いて付句のみが独立し、これを「川柳」と呼ぶようになった。

有名な彼の選句集『誹風柳多留』は明和二年(一七六五)に初編が刊行されたが、その皮肉と卑俗にあふれた滑稽文芸は、当時の人情、世相に調和して江戸の人びとの間で持て囃された。

この江戸川柳の中から、いくつか練馬に関係のある句を拾ってみようと思う。

まず、練馬といえば大根、大根といえば練馬といわれるほど、当時既に、練馬と大根は切っても切り離せない代名詞のようなものになっていた。

  踊り子のあとへ練馬のせなあ乗り

夏の間、踊り子を乗せて涼み客を楽しませた大川(隅田川)の屋形舟も、冬になると運搬用に替って練馬大根を積んで「なあ」が乗り込むというわけである。「せなあ」は関東方言で、田舎の若い衆という多少軽蔑を含んだ町ばの者の呼び方であった。〝ほっぺたをすぼめて せなあ吸い付ける〟などと格好の悪い口付けの仕草をよんだ句もある。

<資料文>

川一は練馬の客が乗納め

この句も前句と同じ趣向のもので「川一」は川一番という意味でつけた当時大川で代表的な屋形舟のことである。

  鎌倉の時代ねりまの鞭を出し

『曾我物語』巻の六に、弟の五郎時致ときむねが大磯にいる兄の十郎祐成すけなりの身を案じて、急ぎ裸馬に跨って駆け付ける一節がある。その時、五郎は鞭の代りに大根を使ったろうという想像の句で、ここでも練馬は大根の代名詞に使われている。

  練馬の国の住人と名乗て出

  冬ごもり味方と頼む練馬武者

『徒然草』第六十八段に、筑紫の押領使がある時、館の内に誰れもいない隙を計られ敵に襲われるが、いずこともなく兵つわもの二人が顕われ、その敵を追い払って呉れる。主人は不思議に思って「いかなる人ぞ」と問えば、くだんの武士は「年来たのみて、朝な朝なめしつる土おほね(大根)に候」と答えて去って行った、というのである。押領使とは古代国司・郡司の中から特に武芸に優れた者が選ばれ、国を乱す者がいる時はそれを討つことを命ぜられた役である。『徒然草』によるとこの押領使は日頃「土おほねをよろずいみじき薬とて、朝ごとにふたつづつやきて食ひける事、年久しくなりぬ」とある。大根は万病の薬だと毎朝二切れずつ焼いて食べていたと言うのである。

この句では、その大根の化身の武士を「練馬武者」といい、また「練馬の国の住人」と名乗って出て来たろうと想像している。

こうした物語・戦記物は川柳の好題材であったが、歌舞伎・色街の話題も少なくない。練馬四丁目、十一か寺の中の受用院墓地に、江戸歌舞伎の名優沢村宗十郎累代の墓がある。

  宗の字に娘かんざし打直し

  前ざしにまでも田の字の紋所

宗十郎びいきの娘が、かんざしの紋を彼の紋に打直すほどの気の入れようを詠んだものである。三代目宗十郎は幼名を沢村田之助と呼んだので、のちに初代田之助と称したが、後の句も田之助の紋をかんざしにまでつける当時の人気を詠ったも

のである。

  桜よりくわん菊娘ねだるなり

この句も、花見より田之助の芝居をねだる娘の心理を言ったものであって、「鐶菊かんぎく」は田之助の紋所であるが、「鐶菊」と「観菊」の語呂合せの効果を狙っている。

  ふんどしが訥子に化ける柳原

訥子とつしは代々宗十郎の俳名であるが、この句の場合は初代宗十郎が被ったことから流行した宗十郎頭巾ずきんのことを言っている。古着屋の多い柳原では、褌に使ったような布を染め直して、頭巾に作りかえて売っていると、当時の世相を穿った諷刺のきいた一句である。