練馬区史 歴史編

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第五部 近代

<本文>

第一章 行政制度の変遷

第二章 徴兵制と日清・日露戦争

第三章 近代練馬の産業

第四章 練馬の教育

第五章 鉄道の敷設と都市化

第六章 近代文化の諸相

第七章 第二次大戦下の練馬

<章>

第一章 行政制度の変遷

<節>
第一節 江戸から明治へ
<本文>
東京の誕生

慶応三年(一八六七)一〇月一四日、徳川慶喜は大政奉還の奏問を行ない、翌一五日勅許され、ここに徳川幕府は終えんを迎えた。しかしその後の状勢は徳川家に対して苛酷なものとなり、江戸には彰義隊など旧幕臣による新政府への反抗の動きが活発であった。翌明治元年五月一五日にはこの彰義隊も鎮圧され、戦局は遠のいたがなお非常事態は続いており、五月一九日には軍政を執り行なう鎮台府が設置された。これにより、それまでの町奉行所は廃され、新たに南北市政裁判所が置かれ、同時に寺社奉行所、勘定奉行所もそれぞれ社寺裁判所、民政裁判所となった。もっとも当面の行政内容は旧幕時代の延長にすぎなかったようである。

鎮台府設置の当初には、その管轄する区域も明瞭ではなかったが、六月二八日に至って、東国一三か国の管轄と定められた。したがって現在の練馬区内の村々もこの時江戸鎮台府の管下に入った。

鎮台府の仕事は、鎮将府がおかれ、東京府が開設されるまでの二か月に満たない短期間であったが、江戸の治安回復につとめ、瓦解した幕府の政務を引継ぎ、新政府に移行するかけ橋として重要な役割を果たした。

これより先に遷都をめぐる議論がたたかわされ、結局東西両京併立案におちつき、江戸を新都と定めるところとなった。七月一七日、天皇東幸の詔勅に際し、江戸を西京(京都)に対して東京と称した。九月二〇日天皇は京都をたって一〇月一三日江戸城に入った。以来これを東京城とし、その後天皇は一度京都に還幸し、翌二年三月二八日再び東幸され、そのまま

東京城に止まりここを皇城とした。東京は事実上の首府となったのである。

江戸が東京と改称された七月、それまでの鎮台府に代わって新たに鎮将府が江戸城内に置かれた。これは鎮台府が行なっていた軍政を次第に民政に切りかえてゆく役割をもち、より機能的な行政機構への移行を目ざしたものである。具体的にはまず鎮台府の三裁判所制度を次のように改革した。社寺裁判所の廃止、民政裁判所を会計局に改めること、さらに市政裁判所を東京府とした。また管下の諸国に対しては府藩県の三治の制度を押し進めた。すなわち府は前述のように行ない、藩は旧幕府時代の藩の区域をそのまま行政単位とし、代官支配地は県として統治するというものである。

鎮将府の設置にともない東京府が開設されることとなったが、初代府知事には前鎮台補烏丸光徳が任命された。八月一七日のことである。その後九月二日には内幸町柳沢藩邸が府庁に当てられ、市政局、郡政局の二局を設けた。東京府の管内は旧町奉行所のそれを踏まえ、ほぼ旧朱引内とされた。

朱引とは旧幕府が府内府外の別を示すため地図上に朱線を施したところからその名が起きている。朱引外の旧代官支配地は従来通り三名の旧代官(山田政則・松村長為・桑山効)の管理にゆだねられた。練馬区域の諸村は朱引外におかれていた。

練馬区域はもともとその大半が代官の支配に属し、代官は勘定奉行の支配下にあった。しかし明治元年六月一九日元代官の松村長為が武蔵知県事として、そのまま旧代官支配地を支配することとなる。従前の江戸周辺には三つの代官支配地があったが、この時その各々に元代官を武蔵知県事として置いた。これは武蔵県という定まった区画の県があったわけではない。

その後、武蔵知県事の管轄地のうち朱引内に近い地域を東京府に編入し、行政区画を整備したうえで、翌二年一月から武蔵知県事制度の廃止が行なわれた。まず、桑山効の管轄地が一月一三日から小菅県になり、同二八日から山田政則の管轄地が大宮県(同年九月、浦和県と改む)に、そして同年二月九日には松村長為の後任古賀一平の管轄地が品川県となった。

品川県の発足する四日前の明治二年二月五日、行政官から「府県施政順序」が布告された。それによれば知府県事の職掌として次のようなものが定められている。

(1)平年租税の高を量り、其府県の常費を定めること。(2)議事の法を立てること。(3)戸籍を編制し戸伍組立のこと。(4)地図を精覈せいかくすること。(5)凶荒予防のこと。(6)賞典を挙ること。(7)窮民を救うこと。(8)制度を立てて風俗を正すこと。(9)小学校を設けること。(10)地方を興し富国の道を開くこと。(11)商法を盛んにし漸次商税をとりたてること。(12)租税の制度を改正すること。

維新政府の統治方針がここに明示されたといってもよい。しかし、具体的にこの方針にそって県政が動き出したのは、二年六月の版籍奉還を契機として、支配機構が整備され、中央・地方の政府機関の職員令が出てからのことである。

版籍奉還と廃藩置県

明治二年六月の旧諸大名に対する版籍奉還聴許の結果、旧藩主は一応知藩事という形で、そのまま存置され、新政府の支配体制が整った。しかし、この形では、政府の中央集権の実体はあまり強化されたとはいえなかった。それに藩の存在が、逆に政府に対する反抗をよび、不平不満の士族のほか、藩内農民の反抗一揆の続出など、すでに多くの小藩は財政的に破産状態となり、廃藩を出願するところもある状況であった。政府首脳のうちにも、意見の対立があったが、ともかく藩を廃止しようという点では協力体制をとり、明治四年七月一四日、電撃的に廃藩置県が断行された。

新しい官僚組織のもとに一本化された支配機構となり、明治政府の基礎はここに固まったといえる。この時、全国を三府四三県に分けることになった。

明治四年一〇月、東京府は新たに府県制下の府となり、このとき府県の統合が行なわれ、今までの小菅県や浦和県が廃され、他府県への分離統合が行なわれた。これによって東京府の地域は、大きく拡張され、今日の東京都の区部に当る部分をすべて管轄することになった。

明治四年一二月五日、品川県に属していた旧松村忠四郎(長為)支配所内一七三町とほかに新宿大縄場七町九段三畝一七

歩が東京府に編入された。この中には練馬区域の各村々も含まれている。

大区小区による行政区画

明治二年戸籍編成法施行、そして明治四年画期的な戸籍法が発布され、これによって各府県は新しく区画を定め、行政区画を大区小区と呼ぶことにした。すなわち、四年六月、朱引外六区二五区、朱引内四四組とした。

同年七月、廃藩置県が断行されると従来の区画を廃し、朱引内外を一つにまとめて、それを六大区に分け、この各大区内を一六~一七の小区にわけ、小区総数九七とした。さらに四年末から五年にかけて小菅県、品川県、浦和県など隣接地域の一部を加え、ひとまず新編入の地を一九小区とし、六年から七年にかけてこれらの再編成を行ない、改めて朱引内を第一大

区~第六大区、朱引外を第七大区~第十一大区とし、各大区ごとに数小区をおいて、合計一一大区一〇三小区に区画分類した。当時の朱引外は、上のように区分された。

第七大区七二〇九二三第八大区八四二六八三第九大区六五四四六二第十大区六四二五八三第十一大区六三八一三三―
大区分小区数町数村数宿町数
図表を表示

品川県豊島郡に属していた練馬区域内の大半の諸村は廃藩置県に伴う管轄地域の変動によって、四年一二月五日、初めて東京府の管下に入り、六年~七年にかけての再編成で第八大区の七小区と八小区に区画された。

第八大区七・八小区に区画された諸村は、つぎのとおりである。

<資料文>

 第八大区七小区

豊島郡 中新井村、下練馬村、上練馬村、中村、谷原村、田中村(練馬区

多摩郡 上鷺之宮村、下鷺之宮村、江古田村、片山村

 同八小区

豊島郡 下石神井村、上石神井村、関村、竹下新田、上土支田村、下土支田村(練馬区

この区画は、明治一一年七月の郡区町村編制法による改正まで、一部には多少の変更もあったが、だいたいにおいてそのまま継続された。

大小区制度においては、最初小区の長を戸長とし、各村に副戸長を置いて旧名主、年寄がその任に当たったが、明治五年四月、これを改めて各小区に一~二名の戸長とし、同年一〇月には邏卒総長以下正権区長らの警察吏が戸長を統轄するようになった。しかし、明治七年一月、東京警視庁設置と同時に警察と地方行政が分けられたので、戸長は東京府に直属し官吏に準じた待遇をうけた。

当時の区務所設置所在地、および戸長はつぎのとおりである。

<資料文>

第八大区

 第七小区――中新井村、中村、下練馬村、上練馬村、谷原村、田中村、上鷺之宮村、下鷺之宮村、江古田村、片山村

       (区務所所在地)中新井村(戸長) 岩堀満房

 第八小区――上石神井村、下石神井村、関村、竹下新田、上土支田村、下土支田村

      (区務所所在地) 下石神井村(戸長) 渡辺惟一

小区内の各村々には、副戸長をおいた。下練馬村のばあいは、村内が三組に分けられていた関係から、加藤清左衛門、内田治郎兵衛、大木金右衛門(明治八年六月より大木金兵衛)、以上三名の副戸長が同時に任命されている。

北豊島郡の成立

明治一一年七月、三新法(郡区町村編制法・府県会規則・地方税規則)が発布され、東京府も郡区町村編制法により、今までの大区小区の区画を廃して一五区六郡に改編した。

一五区は麹町、日本橋、京橋、神田、下谷、浅草、芝、麻布、赤坂、四谷、牛込、小石川、本郷、本所、深川とし、旧朱引内と周辺の地域を多少加えてその範囲ときめ、六郡は、東多摩、南豊島(二九年三月、東多摩郡、南豊島郡が合併して豊多摩郡となる)、北豊島、南足立、南葛飾、荏原の旧朱引外の郡部にあてた。

一一年一一月、一五区六郡は成立し、東京府何々区、東京府何々郡と称することになり、区役所、郡役所の位置も定まって、東京府のもとに官選の任命区長と郡長が置かれ、地方自治のひとつの基礎が固められた。

練馬区域内の地は、大区小区時代の関係ではむしろ東多摩郡に属すべき地理的条件にあったが、この時の区分けで、はっきり北豊島郡の村々のグループに編入されることになった。この時成立した北豊島郡は七八か町村であったが後には統合されて板橋、巣鴨、西巣鴨、滝野川、日暮里、南千住、王子、岩淵、志村、上板橋、赤塚、上練馬、大泉、石神井、中新井、下練馬、長崎、高田の一八か町村になった。

北豊島郡役所は、郡のほぼ中央と見られる下板橋宿六八番地に開設され、その後、明治一九年一二月、板橋町大字上板橋九二六番地に移転、大正七年から大正一五年の廃止まで現板橋区役所の位置に郡役所が置かれていた。

郡には郡長のほかに、さきの三新法により、地方行政の一翼をになうものとして北豊島郡議会が置かれ、郡内の公共に関することがら、経費の支出、徴収方法などを議定した。郡会議員は定員三〇名で、郡内各町村にそれぞれ選出定員が配当された。

なお、東京府会議員は間接選挙制をとり、この郡会議員および郡参事会員から選ばれた。北豊島郡の定員数は四名であり、大正四年九月の改選で大木金兵衛(下練馬村)が選ばれている。

これらの選出は、さきに述べた三新法のうち府県会規則に基づくものであり、東京府は一一年七月、郡内の大小に応じて戸数により議員数を定め、郡内議員などの間接選挙により府会議員の選出を行なった。被選挙権は二五歳以上の男子で、東京府に三年以上居住し、直接国税一〇円以上を納めるものであった。

区会規則ならびに町村会規則は一二年一月に定められ、これより前、一一年の内務省布達で、戸長はその町村民でなるべく公選するようにとし、戸長公選、町村自治を示唆した。この町村会規則によって、町村に初めて自治体としての法人格が認められ、条例規則の制定権および町村の審議権が与えられた。

町村会議員の選挙権は満二〇歳以上の男子で、三年以上その町村に居住して町村費を負担し、地租もしくは直接国税二円以上納めることが条件とされた。参考までに、明治一三年(一八八〇)八月定められた下練馬村村会規則をあげてみよう。

<資料文>

北豊島郡下練馬村村会規則(明治十三年八月二十一日

  第一章 総則

第一条 村会ハ通常会ト臨時会トノ二類ニ分ツ、其定期ニ於テスルモノヲ通常会トナシ、臨時ニ開クモノヲ臨時会トナス。

第二条 臨時会ハ其特ニ会議ヲ要スル事件ニ限リ、其他ノ事件ヲ議スルヲ得ス。

第三条 通常会臨時会ヲ論セス会議ノ議案ハ戸長ヨリ之ヲ発ス。

第四条 通常会ニ於テ村内公共ニ関スル事件及其経費ノ支出徴収方法ニ付議員ヨリ意見ヲ出ス時ハ、戸長ハ之ヲ取捨シ、当ニ議スヘキ意見ト認ムルニ於テハ之ヲ会議ノ議案ト為スヘシ、但シ意見書ヲ出スハ少ナクモ開会ヨリ三日以前タルヘシ。

第五条 村会ノ議決ハ戸長之ヲ施行スト雖トモ猶施行十日以前郡長ヲ経テ府庁ニ報告スヘシ。

第六条 通常会期中議員ノ内村内公共ノ利害ニ関スル事件ニ付、府庁ニ建議セントスルモノアルトキハ之ヲ会議ニ付シ、可決シタルトキニ議長ノ名ヲ以テ建議スルコトヲ得。

第七条 村会ハ府庁又ハ郡長ヨリ村内ニ施行スヘキ事件ニ付意見ヲ問フコトアルトキハ之ヲ議ス。

第八条 村会ハ議事ノ細則ヲ議定シ戸長ノ認可ヲ得テ之ヲ施行ス。

第九条 村会ハ議員ノ内招集ニ応セス、又ハ事故ヲ告ケスシテ参会セサルモノヲ審査シ、其退職者タルヲ決スルヲ得。

  第二章 撰挙

第十条 村会ノ議員ハ二十五名トシ、其撰挙ノ部分ヲ定ムル左ノ如シ。

    一ノ部 議員三人 下練馬村字上宿下宿

    二ノ部 議員二人 同村字下田柄

    三ノ部 議員二人 同村字本村

    四ノ部 議員二人 同村字今神

    五ノ部 議員二人 同村字前湿化味

    六ノ部 議員三人 同村字南三軒在家 北三軒在家

    七ノ部 議員三人 同村字宿湿化味

    八ノ部 議員二人 同村字南早淵北早淵

    九ノ部 議員二人 同村字宮ケ谷戸

    十ノ部 議員一人 同村字羽沢

    十一ノ部 議員三人 同村字谷戸

第十一条 議長副議長ハ議員中ヨリ公撰シテ戸長ニ報告スヘシ。

第十二条 議長副議長及議員ハ俸給ナシ、書記ハ議長之ヲ撰ヒ、庶務ヲ整理セシム、其俸給ハ会費ノ内ヨリ之ヲ支給ス。

第十三条 村会ノ議員タルヲ得へキモノハ満二十歳以上ノ男子ニシテ村内ニ本籍住居ヲ定メ村内ニ於テ土地ヲ有スル者ニ限ル。

    但左ノ各款ニ掲クル者ハ議員タルコトヲ得ス。

   第一款 風癩白痴ノ者

   第二款 懲役一年以上及国事犯禁獄一年以上実決ノ刑ニ処セラレタル者、但満期後七年ヲ経タル者ハ此限ニアラス

   第三款 身代限リノ処分ヲ受ケ負債ノ弁償ヲ終ヘサル者

   第四款 官吏教導職

   第五款 府県会ニ於テ退職者トセラレタル後四ケ年ヲ経サルモノ

第十四条 議員ヲ撰挙スルヲ得ヘキ者ハ満二十歳以上ノ男子ニシテ、村内ニ於テ土地ヲ所有シ、本籍住居ヲ定ムル者、及ヒ満三年以上間断ナク寄留スル者ニ限ル、但前条ノ第一款第二款第三款第五款ニ触ルル者ハ撰挙人タルコトヲ得ス。

第十五条 議員ヲ撰挙スルトキハ戸長ハ少ナクモ十日以前ニ撰挙会ヲ開クコトヲ公告シ、役所ニ於テ投票ヲ為サシムヘシ、但便宜ニヨリ役場外ニ於テ撰挙会ヲ開クコトヲ得。

第十六条 投票ハ戸長ヨリ附与シタル用紙ニ撰挙人自己ノ住所姓名及ヒ被撰挙人ノ住所姓名ヲ記シ予定ノ日之ヲ戸長ニ出スヘシ。但投票ハ代人ニ托シ差出スモ妨ケナシ。

第十七条 投票ハ撰挙人ノ面前ニ於テ戸長之ヲ披閲シ、最モ多数ノ者ヲ以テ当撰人トシ、同数ノ者ハ年長ヲ取リ、同年ノモノハ鬮ヲ以テ定ム。

第十八条 披票披閲終ルノ後、戸長ハ撰挙人名簿ニ就テ投票ノ当否ヲ査シ、又被撰挙人名簿ニ就テ当撰ノ当否ヲ査ス、若シ法ニ於テ不適当ナル者アルカ或ハ当撰人自ヲ其撰ヲ辞スルトキハ順次多数ノ者ヲ取ル。

第十九条 当撰人ノ当否ヲ査定スルノ後、戸長ハ其当撰人ヲ役場ニ呼出シ、当撰状ヲ渡シ当撰人ハ請書ヲ出スヘシ、但当撰人請書ヲ

出シタル後、戸長ハ其姓名ヲ村内ニ公告スヘシ。

第二十条 議員ノ任期ハ四年トシ、二年毎ニ全数ノ半ヲ改撰ス。但第一回二年期ノ改撰ヲ為スハ抽籤ヲ以テ其退任ノ人ヲ定ム。

第二十一条 議長副議長ハ議員ノ改撰毎ニ之ヲ公撰スヘシ。

第二十二条 前二条ノ場合ニ於テハ前任ノ者ヲ再撰スルコトヲ得。

第二十三条 議員中第十三条ニ掲クル諸款ノ場合ニ遭遇スル者アルカ、村外へ転任スルカ、其他総テ欠員アルトキハ更ニ其欠ニ代ルモノヲ撰挙ス。

  第三章 議則

第二十四条 議員半数以上出席セサレハ当日ノ会議ヲ開ク事ヲ得ス。

第二十五条 会議ハ過半数ニ依テ決ス、可否同数ナルトキハ議長ノ可否スル所ニヨル。

第二十六条 戸長若クハ其代理人ハ会議ニ於テ議案ノ旨趣ヲ弁明スルヲ得ルト雖モ決議ノ数ニ入ル事ヲ得ス、但第四条ニ掲クル議案ノ旨趣ハ意見書ヲ出セル議員之ヲ弁明スルコトヲ得。

第二十七条 会議ハ傍聴ヲ許ス、但戸長ノ要メニ依リ又ハ議長ノ意見ヲ以テ之ヲ禁スルヲ得。

第二十八条 議員ハ会議ニ方リ充分討論ノ権ヲ有ス、然レトモ人身上ニ付テ褒貶毀誉ニ渉ルコトヲ得ス。

第二十九条 議場ヲ整理スルハ議長ノ職掌トス、若シ規則ニ背キ議長之ヲ制止シテ其命ニ順ハサル者アルトキハ議長ハ之ヲ議場外ニ退去セシムルヲ得、其強暴ニ渉ル者ハ警察官吏ノ処分ヲ求ムルヲ得。

  第四章 開閉

第三十条 村会ハ毎年五月十一日ニ於テ之ヲ開ク、其開閉ハ戸長ヨリ之ヲ命シ、会期八十日以内トス。但戸長ハ会議ノ衆議ヲ取リテ其日限ヲ伸ルコトヲ得ルト雖トモ、直チニ事由ヲ郡長ニ報告スヘシ。

第三十一条 通常会期ノ外会議ニ付スヘキ事件アルトキハ臨時会ヲ開ク事ヲ得、但戸長ハ該会ヲ要スル事由ヲ直ニ郡長ニ報告ス。

その他の村も同様の村会規則がもうけられたが、議員数は各村によって多少の違いがみられた。

上練馬村では貫井五人、中ノ宮五人、高松五人、田柄五人の計二〇人、中新井・中村連合村では中新井一〇人、中村五人

計一五人、上土支田・下土支田連合村では上土支田七人、下土支田八人計一五人、関・上石神井連合村では関六人、上石神井八人計一四人、下石神井村では一五人となっている。これらは村政自治のはじまりであり、画期的なことであった。

北豊島郡下の諸村の行政は、明治二二年の町村制施行にいたるまで、各村ごとに、もしくは二~三か村連合して戸長役場を置き、村政事務が執り行なわれた。

大小区時代の村の代表者副戸長の呼称を改めて、新しく戸長とし、公選あるいは合議によって選出した。練馬管内の諸村をみると、次のとおりである。

下練馬村と上練馬村および下石神井村は単独に戸長役場をおき、他は中新井村・中村連合、上土支田村・下土支田村連合、谷原村・田中村連合、上土支田村・下土支田村連合、上石神井村・関村・竹下新田連合として連合戸長役場を設けた。また、村政は前述の村会において運営事項を議決し、単独村ならびに連合村の戸長がこれを執行するが、そのほか学務、衛生、勧業の三委員(村の有力者より選任)が加わって執行に当たった。戸長役場の設置個所は、主として戸長の自宅であったようである。

当時の組織は、次のとおりである。

下練馬村  戸数 五七七 人員 三、二四五 戸長 <補記>一一年一二月加藤清左衛門 <補記>一二年四月加藤兵三郎 <補記>一八年四月大木康孝
上練馬村  戸数 四三三 人員 二、五五九 戸長 長谷川留七 増田藤助
中新井村中   村 戸数 二二九 人員 一、三一〇 戸長 岩堀修照 <補記>一八年六月森田文超
谷原村田中村 戸数 一八六 人員 一、一一三 戸長 横山富右衛門
上土支田村下土支田村 戸数 二二六 人員 一、三八四 戸長 加藤源次郎
上石神井村関村・竹下新田 戸数 二七八 人員 一、七一七 戸長 田中円蔵(関村)
下石神井村 戸数 一四五 人員   九一二 戸長 豊田勝五郎
図表を表示

明治一八年の調査資料によると、北豊島郡所管の町村数は七八の多くを数え、郡下諸町村の管理組織の簡素化をはかって、戸長役場はその半分の三五か所にまとめられている。

各町村を単位に行政事務を行なうことは機構上煩雑であったから、比較的小村の二~三か村を統合して連合役場が設けられた。

<節>
第二節 村の統合
<本文>
町村制の実施

連合町村による行政はその性格上地理的条件、各町村の利害や因習の違いに問題が生じ、また組織のうえでも脆弱の面がでてきて、町村の分合、再編を余儀なくされた。

市制町村制は明治二一年四月二五日をもって公布され、これに基づいて東京市は、二二年三月の市制特例にしたがって、今までの一五区をもって特別市制を施行した。この時、東京府知事が、東京市長を兼務するという変則的な東京市が成立したのである。

一方、東京府下の各町村は、この町村制施行に当って相当困難な問題を抱え込んだ。それは、町村制の実施と共に各町村の自治力を充実する必要上、標準を定めて旧町村の廃置分合を行なったからである。この標準とは、自治資力に富む町村は個々に独立した町村として認め、不足な町村は三〇〇戸ないし五〇〇戸の見当で併合させようということであった。また合併した町村には、当然新規の名称が必要であり、また永い間の部落感情や、村有財産の処置問題、あるいは利害が絡んだりしていていろいろと合併上の支障が起ったのである。それでも二一年末にはどうやら統合も終り、新しい町村制のもとに出発することになった。

現練馬区域内にある村々では、下練馬村だけは四〇〇〇人に近い人口があったことから単独で一村を形成しえても他の村

々は複数村の統合を余儀なくされた。

たとえば当時人口が稀少であった中新井村の合併は難しかった。最初に下練馬村との合併案があり、江古田村との合併の意向などもあって、二転三転としたが、結局地域村民の強い要望が通って、中村と中新井村だけの合併で人口一五〇〇人の小さな村ができあがった。その後の中新井村は一時人口一二〇〇人位まで減小した時期もあったが、交通に恵まれた地域であることが幸いして、東京市の膨張に影響され、昭和七年の板橋区成立の頃には、練馬町に次ぎ石神井村に比肩する人口の多い村になっていた。その他の諸村においてもさまざまな問題はあったが、結局次のような結果に落ちついた。

<資料文>

明治二二年五月一日府令第二四号

  中新井村 中村

  右合併 中新井村

 合併ヲ要スル事由

右村々ノ資力地域戸口ハ別ニ取調ベタル如クニシテ独立自治ニ耐エ難ク両村ヲ合併スト雖モ、尚未ダ自治ノ資力ニ充テリト云フベカラズ、然レドモ此両村ノ如キハ狭小ナルカ上ニ隣郡東多摩ニ突出シ、本郡ト間絶シ、本郡他村ト間絶シ、自然交通ノ疎遠ナルニヨリ民情モ亦随テ異ナリ、故ニ村民挙テ此地ニ合併スルヲ望マズ、道路水路等ノ関係ニ於テモ支障無キモノニ付、従前一役場所轄ノ区域ヲ以テ始リ一村トナシ置カバ学区等ノ異動モ無ク分合ノ苦情ヲ見ズ、却テ静穏ニ帰センコトヲ信ズ、ここヲ以テ単ニ此合併ヲ要ス。

 

  上練馬村 下土支田村

  右合併 上練馬村

合併ヲ要スル理由

右両村ノ資力戸口ハ別ニ取調ベタル如クニシテ、上練馬村ハ本郡中ノ大村ニテ稍独立自治ニ堪ユル資力アルモ、下土支田村ニ至リテハ独立スル能ハサルノミナラズ、地形悪ク村界錯雑シ官民ノ不便尠ナカラズ、学区ハ上下土支田村ヲ以テ一区トナスト雖モ、通学生

徒便利ノ為メ既ニ上下校舎ヲ分チ経済ヲ異ニセシニ付支障ナキハ勿論、人情風俗ニ於テモ因ヨリ異ナル所ナキヲ以テ、カクノ如ク合併スルヲ要ス。

上石神井村 下石神井村 関村

 

  上土支田村 谷原村 田中村

  右合併 石神井村

 合併ヲ要スル理由

右村々ノ資力地域戸口ハ別ニ取調ベタル如クニシテ独立自治ニ耐エ難ク、然レドモ村界等ノ錯雑ヲ見ズ、ただ関、上下石神井、谷原、田中ノ五ケ村ハ石神井川用水組合ノアルアリ、清戸道ハ谷原村ヨリ上下石神井ヲ貫テ関村ニ出、所沢道ハ東多摩郡ヨリ入、田中、下石神井ノ村界ニ沿ヒ上下石神井、関ノ三村ヲ経テ埼玉県ニ出ツ、其他関村ノ南端ニ青梅街道アリ、各道路ニ沿ツテ民衆聚合シ、民情風俗等ニ於テハ異ナルコトナシ、学区ハ四区ニ分チ其中ノ一区ハ上下土支田村(下土支田ハ此新村ヲ分離ス)ニ跨ルト雖モ、既ニ通学生徒便宜ノ為分校ヲ設ケテ経済等モ異ニシ来レバ支障ナカルベシ。実ニ此新村(石神井村)ヲ造成スルハ各村資力ノ薄弱ト地域ノ狭少ナルニヨリ、此ノ如ク合併ヲ要ス。

榑橋村の東京府編入(大泉村の成立

『新編武蔵風土記稿』によれば新座郡は「東、豊島郡に隣り大抵白子川を界とす」と記され、橋戸村の項で「この地は天正十九年伊賀組へ賜りしより、今も伊賀組の給地なり、江戸を隔ること四里半、上白子村の内にあり、人家三十軒、其居住の地及神社仏寺等の散在する処のみ此村にて、其餘は皆上白子村の地なり、其地はもと橋戸村なりしが、後白子の地広まりしままに、おのずから橋戸も其中へ入し故、別の一名を橋戸村とも心得たり」とある。

橋戸は元は白子の一部であるといわれていたが、早くから独立の村としてあった。ただその土地が上白子に囲まれていたがために、幕末に至るまで上白子橋戸村などと呼ばれることがあった。

白子村 郡代松村忠四郎支配所 九四石

    伊賀者領 二五四石

橋戸村郡代松村忠四郎支配所 二八八石

明治元年取調旧高『旧高旧領取調帳』

明治維新の後、旧代官をそのまま武蔵知県事として支配させていたが、明治二年(一八六九)四月松村忠四郎支配地であった橋戸村は品川県となった。廃藩置県のあと県の整理が行なわれ、四年一一月には入間県に属した。その時の橋戸村戸長は荘富右衛門で、村事務所は戸長の宅舎を仮用した。明治六年六月に熊谷県に属したが、同じ年上白子村、橋戸村などの合併の上申がなされ翌明治七年八月に合併が成立して新しい橋戸村となった。

<資料文>

 武蔵国上白子橋戸三ケ村合併之義伺書

一、高貳百三拾壱石四斗六升壱合壱夕四才 新座郡 上白子村

一、高九拾四石貳斗八升八合 同村旧籏下上知

一、高貳拾七石七升四合 同郡 橋戸村

 全高三百五拾貳石八斗貳升三合壱夕四才

右は從来三ケ村ニ相成居諸事じよう費相嵩且又各村入交、地券調方ニモ差支候ニ付合併之上更ニ橋戸村ト号度処申合相障無キ旨別紙之通願出候間聞届候様可仕成此段奉伺候也

 明治六年五月廿九日 入間県權参事 堀小四郎㊞

 大蔵省事務総裁

   参議 大隈重信殿

書面之趣聞届候条繪図面相添更ニ可届出事

明治六年六月廿九日 租税頭陸奥宗光代理

          租税權頭松方正義

         (埼玉県文書館

図表を表示

『新座郡村誌』によると、橋戸村の項に明治七年八月「合せて一村となる」とある。明治八年の戸数は五八戸(平民五五戸)、人口三六〇人であった。明治九年八月、埼玉県となる。

橋戸村の石高については、正保中一五〇石、元禄中二八二石、天保中二八七石、明治元年二八八石、明治六年三村合併時三五二石である。天保中の伊賀者給地二九石は、明治七年合併時の橋戸村の石高二七石に釣合う(開発された新田は直轄領となり伊賀者給地に増加はなかった)。しかし、伊賀者給地については、天保中二九石、百姓一七軒と書かれたものがあり、「村高二百八十七石余ありて、二十七石余は代官の支配地にて、弐百六十九石余は伊賀組の給地」とする『新座郡村誌』があり、明治元年の「旧高旧領取調帳」では、隣りの白子村に伊賀給地「弐百五十七石余」とあるのに橋戸村の二八八石余は郡代支配地となっており資料の内容は必ずしも一致していない。

戸数についてみると、天保中の上白子二二戸と文政中人家三〇戸、計五二戸は明治八年の新座郡村誌の平民五五戸、明治二二年の榑橋村成立時の五三戸に大体釣合うと思われる。

さて明治七年八月上白子村(二三一石余)旧籏下上知(九四石余)橋戸村(二七石余)が合併して、三五二石余の橋戸村を成立させたことについて多少みておきたい。冒頭に引用した『新編武蔵風土記稿』の文章によると橋戸村の定義が曖昧あいまいであるのだが、橋戸という名は古く慶長年間の文書にあるという。にも関わらず上白子と橋戸とは混然としており、上白子あるいは橋戸ともいい、または上白子橋戸とも通称していた。それが明治維新の混乱期に上白子と、その新田であった籏下上知は、下白子の方に入ってしまったかのようである。『新座郡村誌』の白子村の項に「明治維新の後下白子の称呼を廃して全く一村の体に改む」とある。これで上白子も白子村に入ったこととなった。しかし、小さな橋戸村としては、何かと不便でありじよう費も多いので、明治六年にあらためて合併の手続きがとられ、翌七年八月に以前の村となり、村名については村の中心である「橋戸」がそのまま採用されたのであろう。

小榑村については、明治元年の「旧高旧領取調帳」に直轄領が七三〇石余、竜ケ崎藩が七三一石余となっている。この近村を調べてみると、片山村に竜が崎藩領分一三二石がある。

米津藩最後の藩主政敏は明治二年六月出羽長瀞知藩事となり、同年一一月上総国山武郡大網藩へ移る。さらに明治三年、同郡竜ケ崎に移り竜ケ崎藩知藩事になった。久留米の前沢宿には菩堤寺米津寺べいしんじ臨済宗妙心寺派)があり、先祖である田盛、政武、政知、政容、四代の墓が今も残っている。

小榑村の半ばは米津領分の飛地の状態で竜ケ崎藩となっていたが、明治四年一一月の県の廃合で入間県となった。

郡代支配地であった直轄領の分は、武蔵知県事の管轄に入り明治二年品川県となり、明治四年の廃藩置県後の県の廃合で、米津領や橋戸村と同様入間県に入った。

明治五年一〇月六日大小区制の実施で、第二大区第七小区に属し、当時の戸長は高橋良三郎であった。村役場は戸長宅を

仮用した。明治六年六月橋戸村と同様に熊谷県となった。明治八年の戸数と人口(『新座郡村誌』)は二五五戸一三九一人である。

明治九年八月熊谷県は廃せられ、埼玉県に合併せられた。明治一二年四月、大小区制は廃止され、橋戸村ともども元の新座郡に復した。

明治一七年四月、下保谷、上保谷、保谷新田、小榑、橋戸の五か村が連合、小榑村一番地妙福寺を借り受けて戸長役場とした。役場の所在地から小榑村連合と称した。

明治二一年(一八八八)四月、町村制が発布され、従来連合してきた町村はなるべく一町村とする方針で指導がなされた。

この町村制実施を機に小榑村、橋戸村を埼玉県から分離して、上土支田村と合併して新村と成すための運動が関係各村からおこり、盛んな陳情請願の運動が展開された。

しかしながらこの運動は、二二年の町村制の施行には間に合わず、両村はひとまず合併して榑橋村と称し、村長は鈴木源五右衛門が勤め、役場は本照寺におかれた。

<資料文>

 榑橋村

合併ヲ要スル理由

各村共独立スヘキ資力ナク且現今戸長役場所轄区域内ニシテ 地形民情ニ故障ナキニ由ル

その後、明治二四年六月、新倉村の一部長久保の地とともに東京府に編入され、石神井村に属していた旧上土支田村を合して一村とし、ここに大泉村が成立した。

<資料文>

       記

一、御縣新座郡榑橋村ト當府北豊島郡石神井村大字上土支田ト合併シ大泉村ト称シ當府北豊島郡ニ編入ニ付該村受渡ニ要セシ御演説書及簿書目録ノ通

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右正ニ受領候也

 追テ本受領証送付可致候

 明治二十四年六月十二日

      東京府属 松尾周三

 埼玉県知事久保田貫一殿(埼玉県文書館

以上各村の合併についてみてきたが、当時の各村別の財産状況および人口、戸数は表2および表3のとおりである。

飛地の処理

市町村制の実施にあたって、東京府と埼玉県は、府県境に散在する飛地の整理を行なった。その関係文書類が、都と埼玉県の両方に残っており、双方が飛地の整理を進めた様子がわかる。その二、三を次に紹介しておく。

<資料文 type="2-32">

第一六五号

部内村々ヨリ東京府へ飛地組替之儀ニ付上申

部内北足立郡浮間村ヨリ東京府北豊島郡本蓮沼村へ、北足立郡平柳領、領家村ヨリ仝府南足立郡加々皿沼村及入谷村へ、新座郡白子村ヨリ仝府北豊島郡下土支田村へ、新座郡橋戸村及小榑村ヨリ同府北豊島郡上土支田村へ飛地ノ儀ハ其沿革詳ナラスト雖モ孰レモ飛地所在地ノ村界ニ散在セルモノニシテ其境界ニ至リテハ荒川ヲ越ヘ或ハ道路溝渠等ニ依テ村界ヲナシ居ルヲ以テ將来郡界ヲ明瞭ニシ且、用悪水路其他種々関係人民ヲシテ便宜ヲ得セシメント欲スルニハ東京府ト交互ノ飛地組替候様仕度右ハ関係人民ニ諮詢セシ処聊カ故障無之候間此際組替相成候様致度別紙段別調書相添へ此段上申候也

明治二十一年十二月三日

北足立新座郡長小泉寛則

埼玉縣知事 吉田清英殿 (埼玉県文書館

第八二四号

飛地組替之義ニ付伺

東京府北豊島郡成増村同南足立郡入谷村加々皿沼村ト埼玉縣新座郡白子村小榑村橋戸村同北足立郡浮間村平柳領領家村トハ別紙圖面之通交互飛地散在シ従来双方ニテ其不便ヲ感スルノミナラス町村制施行ニ際シ此儘差置レテハ區画更正上ニモ差支候ニ付右飛地

ハ別紙調書之通所在之村々、組替申渡別紙郡長意見書相添此段相伺候也

明治二十二年二月十九日

埼玉縣知事 吉田清英

東京府知事男爵高崎五六

内務大臣伯爵松方正義殿 (埼玉県文書館

飛地反別調書

東京府武蔵国北豊島郡成増村飛地字吹上下

一、田反別五反九畝貳拾七歩

一、戸口ここう無之

右埼玉縣新座郡下新倉村、組替ヘキ分

東京府武蔵国南足立郡加々皿沼村飛地字向耕地ノ内

一、反別壱反五畝貳拾五歩

内譯

田反別壱反壱畝拾四歩

畑反別四畝拾壱歩

一、戸口無之

東京府武蔵国南足立郡入谷村飛地字飛岩

一、田反別貳反壱畝拾六歩

一、戸口無之

右埼玉縣北足立郡弥兵衛新田組替ヘキ分

一、反別壱反八畝拾六歩 東京府武蔵国南足立郡加々皿沼村飛地字八丁目

内訳

田反別貳畝貳拾五歩

畑反別壱反六畝壱歩

一、戸口無之

一、畑反別三畝貳拾壱歩 東京府武蔵国南足立郡加々皿沼村飛地字向耕地ノ内

一、戸口無之

右埼玉縣北足立郡平柳領領家村へ組替ヘキ分

埼玉県武蔵國新座郡白子村飛地字後安

一、畑反別九反壱畝貳歩

一、官有道路反別壱畝貳拾四歩 仝上

一、戸口無之

右東京府北豊島郡下土支田村へ組替ヘキ分

埼玉県武蔵國新座郡小榑村飛地字外山

一、林反別貳町三反七畝九歩

一、官有道路反別八畝貳拾四歩 仝上

一、戸口無之

埼玉縣武蔵国新座郡橋戸村飛地字外山

内譯

田反別貳反四畝貳拾八歩

畑反別六反四畝三歩

宅地反別壱反六畝歩

林反別貳反九歩

萱生地三反貳拾八歩

一、官有道路反別壱反壱畝貳拾貳歩 仝上

一、戸口無之

埼玉縣武蔵国新座郡橋戸村飛地字溝野

一、戸口無之

右ハ東京府北豊島郡上土支田村へ組替ヘキ分

以下練馬区外分省略、埼玉県文書館

内務省指令第一五号

埼玉縣

東京府

本年二月十九日第八二四号伺飛地組替ノ件聞届ク

明治二十二年三月二十六日

内務大臣伯爵松方正義 (埼玉県文書館

郡治と郡制

明治一一年(一八七八)の郡区町村編制法の制定で、郡長を主班とする郡役所ができた。郡長は知事の指揮監督を承けて法律命令を郡内に施行し、行政事務を掌理していた。府下は北豊島、南豊島、荏原、東多摩、南足立、南葛飾の六郡であった。明治二六年になって、神奈川県所管であった西多摩、南多摩、北多摩の三郡が東京府に編入され、明治二九年と東多摩、南豊島の両郡は合併して豊多摩郡となった。

北豊島郡の郡役所は既述のように板橋町にあった。初期の郡長氏名と就任年月日は次の通りである。

 明治一一年一一月 稲葉光名

 明治一五年四月 本橋寛成

 明治一九年八月 桑原戒平

   (郡長代理) 秋津行蔵

 明治二一年一二月 原田有徳

東京府下の諸郡で初めて郡会議員の選挙が行なわれたのは、明治三二年九月のことで郡制が発布されてから九年余を経過していた。

北豊島郡の議員定数は二三名。直接国税五円以上を納める被選挙権を有するものは二六〇三名。直接国税三円以上を納める選挙権を有するものは三五二六名であった。

当時の選挙結果について「警視庁通諜」より抜すいしておく。

<資料文 type="2-33">

甲秘第二二〇号

   郡會議員選擧ノ結果

府下各郡郡會議員選擧無事終了ス當選者ノ氏名別紙ノ如シ

右及申報候也

 明治三十二年九月三十日

       警視総監 大浦兼武

 東京府知事男爵千家尊福殿

  郡会議員当選者表

 北豊島郡

町村名  党派別  当選者

南千住町 無所属 佐藤茂平

進歩派  吉田金太郎

三河島村 進歩派 小島新八

尾久村  進歩派 三橋周之助

板橋町  進歩派 豊田傳之助

     無所属 板橋久次郎

王子村  無所属 高木義範

     進歩派 三上金左ヱ門

岩渕村  自由派 田口仲太郎

巣鴨町  無所属 石井小兵ヱ

巣鴨村  無所属 田嵜惣太郎

高田村  進歩派 長島文左ヱ門

上板橋村 進歩派 保阪平三郎

瀧野川村 進歩派 飯島清十郎

志村   進歩派 荒井長三郎

日暮里村 無所属 藤岡武房

下練馬村 進歩派 大木金兵ヱ

上練馬村 自由派 増田藤助

中新井村 進歩派 森田文超

赤塚村  進歩派 粕谷治太郎

石神井村 無所属 豊田勝五郎

大泉村  無所属 鈴木政和

長崎村  進歩派 岩嵜又吉

定員二十三名内  自由派  二名

         進歩派 十三名

         無所属  八名

明治三二年以降毎年二、三回の郡会が開かれ、それは大正一五年の郡制廃止まで続いた。郡制廃止後は府県知事及び市町村長が従来の郡長が行なっていた事務を分担して行ない、北豊島郡という名だけが、板橋区の発足まで残ったのである。

府会議員の選挙については、市及び市以外の部分に別けて行なわれることとなり、このために市部会と郡部会が設けられた。

明治三二年度の東京府会の定員は五三名で、内郡部会の定員は一五名であった。

村の状況

明治二二年の町村制施行の時点から町制をしくことができたのは、北豊島郡では板橋・南千住・岩渕・巣鴨の五町だけであった。その後大正に入って、二年に滝野川と日暮里、七年に三河島、一二年に尾久、昭和四年に下練馬と順次町制をしく村が増加した。しかし、現練馬区に属する町村は、人口増加も緩やかで、昭和七年の板橋区成立まで練馬町以外は村制がそのままの姿で続いていたのである。

町や村の時代の役場所在地は、左の通りである。

練馬町役場) 下練馬字丸久保一六八一番地にあったが、当初は何度か位置の変動があったようである。明治四二年発行

の地図にはこの場所が記載されている。昭和四年、下練馬村から練馬町になっても引続き町役場として使用された。木造瓦葺、二階建、七六坪。現在の地番は、平和台三―二二―一一。開進第一小学校の道路を隔てて北東方に、現在はたんぽぽ福祉作業所になっている。村の学校と役場は同じ所にあるのが普通であった。

中新井村役場) 大字中新井(字宮北)一八一四番地にあった。村の唯一の学校である豊玉小学校と併立していた。豊玉小学校の沿革誌には、明治二二年には中新井村役場が学校の一部にあったと記されている。明治四二年六月改築、さらに昭和二年七月には学校から道路を隔てた、最近まで福祉事務所になっていた所に移り、洋館平家建の庁舎を新築した。木造瓦葺、建坪二一坪であった。現在の地番は、豊玉中四―一三である。

石神井村役場) 大字下石神井(字小中原)一〇五二番地にあった。明治三四年に新築、二階建、三八坪五合。板橋区になってからは、青年学校に使われ、戦後はいろいろに転用された。現在の地番は、石神井町五―二二。石神井図書館前。

上練馬村役場) 上練馬二〇六四番地に明治三〇年に移転、登記所と併立していた。昭和の初めにすぐ隣りの二〇六三番地に移転して、二階建木造のしょうしやな建物が新築された。現在の地番は、春日町三―三五―一一。中の宮学童クラブのある場所である。

大泉村役場) 本照寺にあったのが、明治四四年大字小榑一二三四番地に移転。大正一一年二階建の新庁舎が落成。板橋区成立後は、信用組合、福祉事務所、土木課詰所などに使用された。近年まで木造二階建で一階が瓦、二階がトタン葺のいかにも大正建築らしい姿を残していたが、惜しくも取壊されて、現在は大泉中島児童公園になっている。現地番は大泉学園町二三三八番地。

歴代の町村長

練馬町

 下練馬村長 <項番>(1)大木泰孝 <項番>(2)新井七三郎 <項番>(3)矢作久松 <項番>(4)阿部広吉 <項番>(5)大木金兵衛 <項番>(6)島野栄次郎 <項番>(7)大木金兵衛

 練馬町長 大木金兵衛

 上練馬村長 <項番>(1)増田藤助 <項番>(2)篠田藤八 <項番>(3)上野伝五右衛門 <項番>(4)保戸塚岩蔵 <項番>(5)小島俊嗣 <項番>(6)上野伝五右衛門 <項番>(7)小島善太郎 <項番>(8)宮本広太郎

 中新井村長 <項番>(1)森田文超 <項番>(2)一杉平五郎 <項番>(3)一杉蔦五郎 <項番>(4)一杉金太郎 <項番>(5)篠房輔 <項番>(6)内田喜太郎

 石神井村長 <項番>(1)豊田勝五郎 <項番>(2)高橋平蔵 <項番>(3)豊田勝五郎 <項番>(4)田中文五郎 <項番>(5)山下仙蔵 <項番>(6)加部清三郎 <項番>(7)田中文五郎 <項番>(8)栗原鉚三

大泉村長 <項番>(1)鈴木政和 <項番>(2)榎本常三郎 <項番>(3)加藤実 <項番>(4)今村清太郎 <項番>(5)町田治助 <項番>(6)見留勝 <項番>(7)町田彦太郎 <項番>(8)見留勝 <項番>(9)井口金之助 <項番>(10)加藤銀左衛門

さて、町村時代の財政はどんな状態であったであろうか。各町村の歳出歳入といっても明治時代にはまことに微々たるもので、人口が増加しはじめたのは明治も末になってからのことである。その後、大正時代に入って欧州大戦の影響で好況時代が到来、東京市の隣接町村として練馬の村々にも多少の発展が見られた。ここに大正元年から五年までの下練馬村の予算、決算表と、大正六、七年の現区内にある各村の町村費の表を掲げておく。

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また当時の村会については次のような資料が残されている。

<資料文>

         石神井村會議事細則

第一條 會議ハ午後一時ニ始リ午後六時ニ終ル若シ之ヲ伸縮セントスル時ハ議長ノ指揮スル所ニ依ル

第二條 議員ノ議席ハ番號ヲ用ヒ豫メ抽籤ヲ以テ之ヲ定ム但補闕議員ハ其前任者ノ番號ヲ襲ク

第三條 凡議案ハ會議ノ三日前議長之ヲ議員ニ頒布ス但急施ヲ要スル時ハ此限ニ非ス

第四條 會議ハ第一次第二次第三次ノ三會ニ區別ス

第五條 第一次會ニ於テハ議案ノ大體ヲ議シ其ノ議案ノ爲メ第二次會ヲ開ク可キヤ否ヤヲ決シ若シ否決スル時ハ其議案ハ消滅シタルモノトシ可決スルトキハ第二次會ヲ開ク

第六條 第二次會ニ於テハ議案ヲ逐條論議シ若シ其議案ノ爲メ第三次會ヲ開ク可キヤ否ヤヲ決シ若シ否決スル時ハ其議案ハ消滅シタルモノトシ可決シタル時ハ其期限ヲ定ム

議長ニ於テ第三次會ヲ要セズト認ムル時ハ之ヲ會議ニ問ヒ可決シタル時ハ第二次會ヲ以テ議定スルコトヲ得

第七條 第三次會ニ於テハ全案ニ就テ議定ス

第八條 會議ヲ開ク時ハ議長書記ヲシテ議案ヲ朗讀セシム但シ事宜ニ依リ之ヲ省クコトヲ得

第九條 議員發言セントスルトキハ議長何番ト呼ビ議長ハ其議員ノ番號ヲ呼ブ若シ同時ニ二名以上議長ヲ呼ブ時ハ議長其一名ヲシテ發言セシム又議員互ニ相呼ブ時モ其番號ヲ用ヒ總テ議長ニ向テ發言スベシ

第十條 一議題未タ議了セザル問ハ他ノ議題ニ就テ發言スルコトヲ得ズ

第十一條 議長ノ意見又ハ議員二名以上ノ請求ニ依リ數項ヲ聯絡シ又ハ一項ヲ分割シテ之ヲ議決スルコトヲ得

第十二條 修正説ヲ提出セントスル者ハ議席ニ於テ之ヲ陳述シ又筆記シテ議長ニ差出スコトヲ得

修正説ハ第二次會及第三次會ニ於テ之ヲ提出スルコトヲ得

修正説ノ否決シタルモノハ其同次會ニ於テ再ビ之ヲ提出スルコトヲ得ズ

後ノ條項ヲ修正シタル後更ニ前ノ條項ニ復シテ修正説ヲ提出スルコトヲ得ズ

第十三條 第一次會第二次會ニ於テ賛成ナキ修正説及第三次會ニ於テ二名以上ノ賛成ナキ修正説ハ之ヲ議題ト爲スコトヲ得ズ

第十四條 可否ヲ決スルノ法ハ起立投票發聲ノ三種トシ議長便宜之ヲ用フ

第十五條 修正案ハ原案ニ先立チテ可否ヲ決ス其數多ナル時ハ最モ原案ニ異ナルモノヲ先ニシ其先後ニ論アル時ハ先ヅ之ヲ會議ニ問ヒ其順序ヲ定ム

第十六條 辯論未ダ終ラズト雖ドモ議長ニ於テ論旨既ニ盡キタリト認ムル時ハ之ヲ會議ニ問ヒ其議題ノ決ヲ取ルコトヲ得

第十七條 議案朗讀ノ後暫クシテ發言ナキ時ハ議長全會ニ於テ認可シタルモノトシテ原案ニ決スルコトヲ得

第十八條 出席ノ議員ハ可否ノ數ニ入ラザルコトヲ得ズ

第十九條 可否ノ數ハ書記ヲシテ之ヲ檢査セシメ其決定ハ議長之ヲ陳告ス

第二十條 議員相私語シ其他總テ會議ニ妨グルノ擧動アルコトヲ許サズ

第廿一條 議員議長ノ許可ヲ得ルニ非ザレバ議場ヲ退クコトヲ得ズ又遲參ノ議員ハ議長ノ許可ヲ得テ議席ニ着ク可シ

第廿二條 議員ハ缺席スル時ハ其事由ヲ議長ニ報告スベシ

第廿三條 議員本則ニ違背シタル時ハ會議ノ決ヲ以テ金五拾錢以上貳圓以下ノ過怠金ヲ科ス

議長豫メ議員中ヨリ委員三名ヲ選ビ其違反者ヲ審査セシメ之ヲ議長ニ報告セシム

第廿四條 議員二名以上ノ發議ヲ以テ本則ノ改正ヲ請求スル時ハ通常ノ手續ヲ以テ之ヲ議決ス

                                (『石神井村誌』

昭和七年併合前における区内の各町村別町会村会議員は次のとおりである。

<資料文>

練馬町会議員

  市川 延寿  (接骨師)   漆原 万兵衛 (藍仲買商

  沢枝 亀二郎 (石材商)   小泉 福太郎 (農業

  並木 荘吉  (下駄表商)  福井 竹次郎 (農業

  吉田 知吉  (無 職)   中村 玉次郎 (雑貨商

  相原 常吉  (農業)    清水 金太郎 (下駄表商

  西村 真吉  (浴場業)   大木 金兵衛 (醤油業

  矢作甚右衛門 (金融業)   新井 源三郎 (地主

  望月  清  (会社員)   風祭 甚作  (地主

上練馬村会議員

  関口 角太郎 (農業)    関口 六蔵  (農業

  関口 儀三郎 (農業)    篠田 鎮雄  (自動車運輸業

  長谷川 光範 (銀行員)   篠田長右衛門 (農業

  篠田 寿朗  (箒製造業)  鹿島 貞之助 (農業

  宮本 由五郎 (製粉業)   佐久間勘右衛門(製粉業

  相原 茂太郎 (農業)    吉田 万五郎 (農業

  上野伝五右衛門(農業)    加藤利左衛門 (製粉業

  小島 兵庫  (農業)    加藤 八十八 (水車業

  加藤甚三衛門 (農業

石神井村会議員

  谷治 藤三郎 (農業)    桜井 甚之助 (農業

  高橋 鐐蔵  (農業)    小林 辰五郎 (農業)(

  栗原 鎌三  (農業)    田中半左衛門 (農業

  桜井 平助  (工業)    金子 平一  (醸造業

  田中 貞之助 (農業)    鴨下 義次  (醸造業

  小林 角太郎 (農業)    本橋  清  (自動車業

  橋本 忠三郎 (農業)    井口弥兵衛  (商業

  本橋篤三(商業

中新井村会議員

  橋本 銀之助 (飲食店)   中本 博智  (養蚕業

  北島 虎吉  (白米商)   白井金三郎  (農業

  一杉 平四郎 (農業)    船波 泰通  (医師

  山本 紋次郎 (農業)    内田 初五郎 (農業

  一杉 政吉  (農業)    小宮 金太郎 (農業

  桜井 斎吉  (無職)    須田  操  (酒商

大泉村会議員

  加藤 栄三郎 (農業)    井口 相三郎 (農業

  加藤銀右衛門 (農業)    井口 金之助 (農業

  内堀 仁兵衛 (農業)    浅野 平五郎 (農業

  加藤 隆太郎 (社員)    榎本又右衛門 (米商

  梅沢 藤太郎 (医師代診)  加藤 泰蔵  (農業

                         (『練馬区史』昭和三二年刊

<節>

第三節 板橋区の成立と練馬区の独立
<本文>
市域拡張と板橋区の成立

郡部の東京市域編入の動きは、関東大震災後、郊外人口の急増と近郊地域の発展に伴い、市域と郡部との社会、経済生活のうえに不可分の関係を生じ、そこから起こる市郡間の行政上の矛盾もあらわれて、市域編入の気運が高まった。

昭和四年五月、東京市会に「特別市制に関する調査委員会」と「都政に関する実行委員会」が設置され、近郊地を含めた大東京構想のもとに調査活動がはじまった。一方、市域編入を切望する近郊五郡の町村側は、昭和六年六月「併合促進同盟」を結成し、五郡の町村長、町村会議員が日比谷市政講堂に集まって気勢をあげ、その宣言、決議文を内務大臣、東京府知事、東京市長など各関係方面に提出した。それをうけて東京市会は六月三〇日、市域拡張、隣接町村の合併を建議し、七月東京市に特別機関として「臨時市域拡張部」が設置され、五郡下町村の併合に伴う必要事項の調査が行なわれた。

臨時市域拡張部の調査がまとまり、市会は同年一二月「市域拡張に関する意見書」を決議して内務大臣、東京府知事に提出した。翌七年一月近郊の五郡町村側は統一的な交渉機関として、「東京市郡併合期成同盟会」を組織し、併合の促進をはかった。そして、四月には内務省、東京府、東京市の三者会談がもたれ、市郡併合についての意見の一致をみた。その結果、併合の実施期日を一〇月一日と定め、ここに五郡八二か町村の東京市編入が認められた。

併合された五郡八二か町村は品川区、目黒区、荏原区、大森区、蒲田区、世田谷区、渋谷区、淀橋区、中野区、杉並区、豊島区、滝野川区、荒川区、王子区、板橋区、足立区、向島区、城東区、葛飾区、江戸川区の二〇区に編成され、旧市域の一五区と合わせて三五区が、一〇月一日から新東京市として発足した。

こうして市郡併合の結果、板橋区の誕生をみたが、この区域に包轄された町村は板橋町、上板橋村、志村、赤塚村、練馬

町、上練馬村、中新井村、石神井村、大泉村の旧北豊島郡下九か町村である。

板橋区は旧市域の一五区に匹敵する広大な面積をもつが、人口はわずかに一二万余であった。市郡併合のさい、一区一四万人を基準にして区分したところから、このように均衡のとれない、人口密度の低い区として誕生したわけである。

もっとも、将来において人口が増加し、板橋区が発展したさいには一区にとらわれない意味をふくんでいたようであり、市が府に示した板橋区案に「地域広大なりと雖も当分の内、特に合して一区となす」と書かれていることから、他日考慮するということで、当時より練馬区分離の要因があったと考えられる。

市郡併合にさいし、東京市は行政上の便宜をはかって、「町界町名地番整理委員会」を設置し、新しく編入した二〇区内の町村境界や町名地番の整理を行ない、従来の錯綜した境界やまぎらわしい地番を大幅に改めた。

板橋区発足

昭和七年一〇月一日板橋区は成立をみたが、旧一五区に匹敵する大きさをもつことから、まず区役所の位置について問題になった。板橋町におくべしとの説が圧倒的であったが、練馬町はこれに反対して区役所獲得運動を続けるなど活発であった。結局、練馬及び石神井の派出所設置で妥協が成立した。これから練馬区発足に至る経過については、当区史第二巻(現勢編)で練馬区独立小史として詳細に記述されているので、ここでは省略する。

昭和一八年七月一日 臨戦体制の一環として東京都制が施行された。これは東京市民が永年待望していたところであった。やがて戦争の激化、空襲、敗戦へと時は流れ、昭和二二年の練馬区の独立を迎えるのである。

板橋区時代の区長は次の通りである。

昭和一八年七月一日、東京都制が施行され都の区となったが、その後の区長は

区会

昭和七年一〇月一日、板橋区が成立すると、一一月二七日初の区会議員選挙が行なわれて定員の三六名が選出され、区の議決機関として、旧町村会に代って区会が開かれたのであった。

当時の区会の権限は、旧一五区の規定が準用され、区会は、区に関する事件について議決する権能を有すると同時に、他の特殊な事件に関する決議・決定・選挙・監査・意見提出の権限をもつものであった。

現在練馬区になっている地区から選出された議員ももちろん板橋区全体のために働いたのであるが、ここでは、現区内から選出の議員氏名のみをかかげておくことにする。

なお、当時の区会議員はすべて市の名誉職であった。

<資料文>

 昭和七・一一・二七~一一・一一・二六

篠  猪之松    橋本 忠三郎    宮本 由五郎    野沢 幸作

八木田誠橘     加藤 隆太郎    篠田 鎮雄     本橋 清

小宮 忠太郎    矢作甚右衛門    沢枝 亀二郎    本橋 芳次

加藤 貞寿     加藤源太郎     浅見 平蔵

 昭和一一・一一・二七~一五・一一・二六

橋本 忠三郎    須田 操      沢枝 亀二郎    町田 甲彦

小沢 小十郎    本橋 芳次     浅見 平蔵     関口 理三郎

加藤 源太郎    内掘 仁兵衛    漆原 万兵衛    篠田 鎮雄

加藤 隆太郎    舟波 泰通

 昭和一五・一一・二七~二二・四・二九

浅見 平蔵     平林 武      町田 甲彦     早川 与作

豊田 勝夫     加藤 弥平次    加藤 隆太郎    上野 徳次郎

中込 文平     舟波 泰通     桜井 米蔵     大木 万太郎

本橋 芳次     沢枝 亀二郎    須田 操      春日 初二郎

 昭和二二・四・三〇~二二・七・三一

工藤 武治     桜井 米蔵     内田 武助     林  信助

大木 万太郎    加藤与左衛門    山本 喜一     本橋 修全

大野 政吉     豊田 勝夫     林  亮海     宮地 貞彦

本橋 芳次     上野 徳次郎    梅内 正雄     小口 政雄

半沢 敬吾     篠崎 最      沼崎 六一

『練馬区史』昭和二三年刊

<節>

第四節 警察と消防
<本文>
警察

廃藩置県の詔書が発布された明治四年(一八七一)、旧江戸府内にはすでに邏卒制による警察制度が実施されはじめていたが、現練馬区域など郡部に属する諸村ではなお村落共同体内での自主規制に重点が置かれ、近代警察組織としては未整備の状態にあった。

明治七年一月一五日、東京警視庁が誕生したが、これにともない北豊島郡内にはじめて邏卒屯所が置かれることになった。場所は当時の板橋中宿の乗蓮寺内であったが、その管轄区域は上、下板橋宿外一五か村で、まだ練馬区域内の諸村は含まれていない。ちなみにこの時の勢力は警部二名、邏卒六〇名であった。

後に練馬区域をも管轄する同屯所のその後の経緯についてここで触れておきたい。同年一月二七日、それまでの呼称である邏卒が巡査と改称され、邏卒屯所は巡査屯所となる。八年一月には戸籍巡査が配され、行政警察としての特性を加えることとなった。同年五月には、それまで大区小区を冠称していた呼称(同屯所は第九大区四、五小区)を廃し、警視分庁および署が設けられたが、これにともない同屯所は第四分庁第七署と称された。場所も板橋町二〇一番地に移された。一二月には警視庁の組織変更にともない名称も第四方面第五署板橋分署となる。さらに九年九月には第四方面第四署板橋分署となっている。

この後、東京警視庁は一〇年一月一一日一旦廃止され、東京警視本署となったが、一四年に再置されている。同年一月一四日、それまでの方面署制が廃され、同屯所は板橋警察署となった。二一日には場所も板橋町六九五番地に移転し、管轄範囲も板橋宿外四七か村と定められた。この時練馬区域内の諸村もはじめて板橋警察署管轄下に置かれたのである。『東京府北豊島郡誌』によれば一八年当時の定員は警視一、警部・警部補一五、巡査九六であった。この頃練馬区域内の各村にも巡

査の駐在所などが置かれたことと思われるが詳細は不明である。

右の『北豊島郡誌』には大正七年頃の派出所、駐在所が次のように記されている。参考までに掲載しておく。

<資料文>

下練馬村大字宿    下練馬巡査部長派出所    上練馬村大字下土支田 下土支田巡査駐在所

石神井村大字下石神井 石神井巡査部長派出所    中新井村大字中新井  中新井巡査駐在所

下練馬村大字宿    下練馬宿巡査駐在所     石神井村大字谷原   谷原巡査駐在所

下練馬村大字栗山大門 栗山大門巡査駐在所     石神井村大字下石神井 下石神井巡査駐在所

下練馬村大字重現   重現巡査駐在所       石神井村大字関    関巡査駐在所

上練馬村大字中之宮  中之宮巡査駐在所      大泉村大字上土支田  上土支田巡査駐在所

上練馬村大字高松   高松巡査駐在所       大泉村大字小榑    小榑巡査駐在所

板橋警察署の管轄範囲はこの後も幾変遷しているが、練馬区域は昭和に至るまで同警察署管内にあった。大正一二年の関東大震災以後は本区域内への人口流入も顕著となり、これにともなって駐在所の数も増えた。昭和六年頃の派出所および駐在所の数は中新井村五、練馬町(旧下練馬村)七、上練馬村五、石神井村六、大泉村四となっている。

このような人口膨張と市街地化の進展は警察事務の拡張にもつながり、昭和一二年一二月現練馬区域を管轄する練馬警察署が板橋警察署から分離独立することとなった。当時の陣容は署長(警部)一、警部補四、巡査部長一一、巡査七七、その他五というものであった。場所は豊玉北五丁目二番地で、現在の練馬警察署の置かれているところである。

消防

明治五年(一八七二)四月二日、旧江戸府内には長く続いていたいろは四八組および本所、深川の一六組の町火消を消防組三九組に改組するなど消防組織の整備が行なわれはじめていたが、周辺郡部の諸村ではこれといった機関はなお設けられていなかった。防災活動は村民が共同してこれに当った訳である。練馬区域内の村の中には明治初年頃から独自の消防組織を有していたところもあったというが詳細は不明である。

図表を表示 <コラム page="550" position="right-bottom">

  昭和五五年二月一日現在まで

    残存している火の見櫓

所在地名) (位置

高野台三―三四 水道局高野台営業所前

高松三―一〇  旧清戸道沿い

北町二―二一  石観音の東四〇m

貫井二―三二  練馬第二小学校西際

春日町四―一四 春日町交差点東一二〇m

南田中五―一〇 観蔵院北側

下石神井五―四 下石神井小学校北側

東大泉四九八  妙延寺前西方三五m

各村に正式に消防制度が取り入れられたのは二七年以降であった。同年二月に「消防組規則」が公布され、五月一七日には警視庁令第二八号により私設消防が禁止されて、以後は消防は官設を建てまえとすることとなった。これにより練馬区域内の諸村にも改めて消防組が結成するに至った。所轄は東京警視庁であった。三七年五月には各村毎に管内を数部に分け、各部をそれぞれ消防組としたが、大正三年一一月以降は各村の区域をそれぞれ一組としている。

各組には組頭、副組頭を置き、組内はひとつあるいは複数の部落を単位とした部が設けられ、部には部長および小頭を置いた。消火設備ははじめ腕用ポンプのみであったが、後にはガソリンポンプや自動車ポンプなどが導入されている。また要所には火の見櫓、梯子、器具置場および番小屋などが整備されていた。昭和六年の「北豊島郡各町村現状調査」によれば表5のような配備内容であった。

昭和七年の市郡併合により、現練馬区域は板橋区の一部となったが、この時当時の板橋五丁目九一八番地に板橋消防署が設けられ、以後区域の消防組は消防署長の指揮下に入った。一一年当時の板橋消防署の配備は本署一、機関員派出所二、消防組員派出所九、消防器具置場五四か所、自動車ポンプ四両、ガソリンポンプ一〇台、腕用ポンプ四九台、消防組九、組頭、副組頭各九、小頭五二、消防手九八一というものであった。

やがて時代は戦時態勢下に入るが、これにともない一四年には消防組はすでに組織されていた防護団に併合され、板橋区警防団となり、防空、防火に対処することとなった。戦後の消防団の前身である。当時練馬区域には板橋消防署練馬出張所が置かれていたが、戦後の二一年八月一五日には分離独立し、現在の練馬区全域を管轄する練馬消防署となった。

<章>

第二章 徴兵制と日清・日露戦争

<節>
第一節 戊辰戦争の頃
<本文>

慶応四年(一八六八)五月一五日の江戸の朝は、大砲の轟きと共に明けた。上野の山に立て籠もった彰義隊に官軍が攻撃を始めたのである。江戸の市民は、前日に出された官軍のお触れによって、戦のあることは知っていたが、湯島天神方面に火の手が上がるとさすがに狼狽の気色は隠しきれず、「老弱婦女難を逃れて道路にさまよふ者、哀みの声街市に満つ」(『中外新聞』別段五月一六日。明治時代の新聞の引用は『新聞集成明治編年史』による。以下同じ)というありさまであった。もっとも火事やけんかを華と称した江戸市民のことである、永代橋辺りでは火の見櫓にかけ上り、戦争見物をきめ込んでいた者も少なくなかったといわれる(『遠近新聞』五月二五日)。

午前一〇時頃には砲声が一段と激しくなり、数日来の雨模様であったにもかかわらず、火の手は広小路、池の端、仲町、下谷、谷中といった方面に次々と拡がって行った。勝敗は午後になっても容易につかず、一進一退をくりかえしていたが、夕方五時頃になってようやく官軍の勝利が決定的なものとなった。

この戦争に参加した両軍兵士の犠牲者数は彰義隊側の戦死二三六人(負傷は未詳)、官軍側の死傷者一二〇人と報告されている。また戦火にかかって消失した家屋は寛永寺をはじめ、上野・下谷・谷中・池の端・湯島・根津・千駄木など三九か村にわたる総数千余戸にも達し、焼け出された人の数は七二三〇人、一六日から二〇日までの間に炊き出しを受けた人々は延べ二万二二五〇人に及んだといわれる(『東京百年史』第二巻)。

こうして一般の江戸市民にも多大な被害をもたらした上野の戦争は、一日足らずで終息したが、敗れた彰義隊側の兵士の中には上野の山を脱出し、地方に散った者が少なからずいた。官軍はそれを追い、関東各地で小ぜりあいが生じ、やがて戦線は北方に移っていった。

当時の『遠近新聞』には、「廿三日、板橋より来りし人の話 ○作日板橋より南の方に当りて大砲の音頻りに聞へたり。今朝は川越辺に戦争の様子にて、砲声はるかに聞へたり」と記されているが、板橋より南の方とはあるいは練馬付近のことであったかもしれない。

今日練馬地方のこととして伝わる話の中には直接戦闘に係わるものはないが、落ちのびてゆく幕府軍の兵士や官軍が通過してゆく様子についてはいくつか語りつがれてきている。それは大略次のようなものである。

<資料文>

○下練馬村の宮宿(現氷川台)付近に彰義隊士と思われる者が逃れてきたが、これをかくまったものか、届け出たものか村民は苦慮した。この頃官軍は付近の村々に命じて死体の片づけや焼け跡の整理に当てる人夫を徴集しようとしていた。村民たちは戦況がなお判然としないため、これに即応する訳にもいかず、とりあえず男たちは森や林に逃げ込み所在を伏せておいた。この間女たちは村に残り、秘かに握りめしを作るなどして男たちに届けたという(『練馬の伝説』所収要旨)。

○故鹿島ナカ女は中新井村の徳田(現豊玉)から上練馬村の中ノ宮(現春日町)に嫁した人であるが、嫁いだ翌年のこと、ある日彼女は石神井川で野菜を洗っていた。折から矢の山(現在の豊島園の小高い丘)が騒がしいところからふと見上げると、大勢の傷ついた武士たちが傷の手当てをしたり、食事をとっている。さてはこのあたりで戦争が始まるに違いないと思った彼女は急いで家に逃げ帰り、周囲の人にも告げて雨戸を閉じて外には出なかった。近所の人々もあるいは野良仕事から逃げ帰り雨戸をしめて閉じこもる様子であった。その後この武士たちは幕府方の者で、上野の戦争に敗れて逃走中であったことがわかった。彼らはさらに石神井川を遡って西に落ちて行ったそうである。当分の間村民の中で江戸へ足を向ける者はなかったという(『練馬農業協同組合史』第二巻所収の聞き書きの要旨)。

○中新井村(現豊玉地域)の森田家は練馬では最も古い医家である。現在の当主の祖母に当る人が生前語ったところによれば、当時

潰走中の彰義隊士が傷の手当てを求めて当家に立ち寄ったという(森田家当主談要旨)。

○関村(現関町・関町北地域)の井口家では食物を求めて立ち寄る兵士も多く、中には旗本となのる負傷者もおり、富士街道近くの親戚にかくまって手当てをしたが助からなかったという。食糧に供するため粉で団子を作ったが、その量は相当なものだった。戦況が判然としないところからいずれに味方してよいかわからない。どちらにもよいようにはからったとのことを、現井口家当主の祖父に当る人(大正一二年に亡くなった)が伝えていたそうである(井口家当主談要旨)。

○中村(現中村地域)の南蔵院に大岩衆正之墓と称する石碑があり、これは大正三年に子息の手で建て替えられたものというが、それ以前には小さな墓石であったといわれる。「明治元辰年五月十六日」と刻まれているが、大岩は彰義隊士として戦争に参加し傷ついて逃れ、南蔵院に一夜かくまわれた。翌日切腹をして果てたが、そのなきがらは寺の長持に納められ、手厚く葬られたという。昭和四七年に孫に当る人が亡くなり、このとき先祖代々の墓を隣りに建て、合葬するつもりで大岩の墓石下を掘り返したところ確かに太い骨と大きな歯とが出てきたとのことである(孫に当る人の未亡人談要旨)。

○貫井地域には彰義隊として落ちのびてきた人たちの中で力尽きて倒れた者をとむらったといわれる塚がいくつかあった。千人塚と呼ばれるものが特に知られていたが、現在は残っていない(『練馬の伝説』所収要旨)。

○桜台地域にあった松山学校という塾を開いた松山為三郎は、もと村山為三郎と称しやはり戦争による敗走者だったという。そのまま練馬に止まり、明治七年に塾を開くに至った。彼の墓が光伝寺に残っている(『練馬農業協同組合史』第二巻所収要旨)。

以上は当時の人々の見聞として語られているものであるが、石神井台の栗原家および土支田の小島家にはそれぞれ次のような文書も残されており、信忠隊と称する者たちが徳川家復興のため、あるいは報国のためという名目で金銭を徴収した様子が推測される。また彼らが三宝寺に止宿したとも記されている。

<資料文>

     覚

一金 五百疋

 右者徳川家御興復為成、書面之金子被差出慥ニ請取申候、殊ニ我等共当村三宝寺へ止宿相願、種々厄介ニ相成候段忝存候追而御当家御再復之上は厚く恩賞可有之候仍而為証書如件

  辰五月十一日                           信忠隊会計掛り

                                      近藤隼人㊞

                                      西村金次郎

                                         (栗原家文書

     覚

一金 五両也

 右者為報国奇付慥

 掌握致候以上

   五月十一日                           信忠隊会計掛り

                                      近藤隼人㊞

                                      西村金次郎

                    上下

                     土支田村役人中

                                          (小島家文書

戊辰戦争は、江戸から明治へ、いわば新しい時代への節目をなす戦争であった。しかし江戸近在の村人の多くには、その結果到来する社会がどのようなものかまだ見えてはいなかった。ただ戦争の成行きに恟々として不安な日々を送っていたのである。

<節>

第二節 徴兵制施行と徴兵忌避
<本文>
国民皆兵のはじまり

戊辰戦争は武士の戦争であった。戦争を見守る国民の多くには、武士の世が終わることなど想像もできなかった。戦争を遂行した政府軍は、薩摩・長州・土佐を中心とする二十数藩の藩兵の寄せ集めであり、その兵士のほとんどは武士の出であった。文久三年(一八六三)頃より天領はじめ各藩では、農民を徴募し農兵を組織することが見られたが、大方の農民や町人にとっては、また武士自身にも、戦争は武士の役目であり町人や農民の係るものではないと意識されていた。

ところが間も無くして、こうした農民や町人の、あるいは武士の、従来の軍事に対する認識が根本から覆される事件が起こった。明治五年一一月二八日、政府は突如「徴兵ニ関スル詔勅」及び「太政官告諭」を発布し、兵役を武士に任せることを止め、町人や農民を含む全ての国民の義務としたのである。

この徴兵制の施行は、国民に大きな衝撃を与えた。それと言うのも、前年の明治四年四月に新政府は薩摩・長州・土佐三藩の兵士約一万人を結集して、親兵を編成したばかりであり、さらに、この軍隊の力を背景として七月には廃藩置県を断行し、各藩の常備兵を政府の地方軍である鎮台兵として召集する軍制が施行されたばかりであったのである。ちなみに東京には、武蔵・上野・下野・常陸・下総・安房・相模・伊豆・甲斐・駿河を管轄する東京鎮台が設置されたが、この時召集された兵士のほとんどは士族出であったから、国民の目には、新政府の軍隊は従前通り武士によって編成されるものと映ったに相違ない。ところが、その予想に反し、ここに発布された徴兵制の内容は、これまで武士によって維持されてきた軍備を否定し、四民平等の建前のもとに、軍役を全ての国民に義務づけるものであった。

翌明治六年一月、東京鎮台管轄下の府県に「徴兵令」が下り、徴兵が始まった。それによって、二〇歳に達した働き盛り

の男子は三年間兵役につくことになった。また常備軍役を終えた者も更に四年間の後備軍役をつとめる義務があり、その常備、後備軍役者以外の一七歳から四〇歳までの全ての男子が国民軍に編成されることになったのである。

血税一揆の発生

働き手を三年間も兵役に取られることは国民にとって大きな負担であった。四民平等という近代的な理念を建前とする兵制改革ではあったが、国民にとっては理解の範囲を越える大きな変革であった。徴兵が始まると、六年から翌七年にかけて、日本の各地で徴兵制に反対する一揆が発生したのもその故であった。

その一揆は、「徴兵告諭」の中に「西人之ヲ称シテ血税トス。其生血ヲ以ツテ国ニ報スルノ謂ナリ」とある「血税」という表現を、文字通り生血を吸い取られる意味に誤解している場合が多かったため「血税一揆」と呼称されているが、この血税一揆の発生数は、表面化したものだけでも西日本中心におよそ一五件に及ぶ(菊池邦作『徴兵忌避の研究』)。東京府下においては血税一揆の発生はみられなかったものの、以下に列挙するような各地の一揆の動勢が、新聞報道によって刻々と知らされていた。

<資料文>

六年一月〔日要新聞五八〕大分県の一揆           七月 三日〔東京日日〕鳥取県下の一揆

三月 四日〔東京日日〕小倉県下の一揆           七月一六日〔東京日日〕名東県下の一揆

三月二〇日〔東京日日〕敦賀県下の一揆           七月――〔新聞雑誌一一三〕福岡県下の一揆

三月二八日〔東京日日〕敦賀県下の一揆           八月 三日〔東京日日〕島根県下の一揆

三月―― 〔新聞雑誌八一〕長崎高島炭坑の一揆       八月一二日〔東京日日〕丹波国下の一揆

六月 六日〔郵便報知〕北条県下の一揆           九月 三日〔東京日日〕長崎県平戸の一揆

六月 八日〔東京日日〕小倉県下の一揆           九月 九日〔東京日日〕福岡県下の一揆(六月)による被害

六月一三日〔東京日日〕北条県下の一揆                        (『新聞集成明治編年史』

ところで、これらの一揆の内容をみると、その原因は必ずしも徴兵制のみに限られていない。たとえば、鳥取県下の一揆

を報じた七月三日の『東京日日新聞』の記事によれば、その一揆の要求項目には、地券合筆取調べ費用の公費化、小学校の廃止、太陽暦の廃止などが含まれており、また『新聞雑誌』(一一三)の報ずる福岡県下の一揆では県の官員に自国の士族を採用すること、士族の禄を旧に復すること、年貢の収納を三か年延期すること、官林の切払いを止めること、暦を旧に復すること、地券を廃止することなどの要求がかかげられていた。

また、その被害は、たとえば七月一六日の『東京日日新聞』の報ずる名東県(徳島県)下の血税一揆をみると、放火を受けた村はおよそ一三〇か村、焼失か所は五二七か所で、その内訳は、戸長事務取扱所三四か所、邏卒屯所八か所、学校三四か所、正副戸長家宅五三軒、村吏家宅二六〇軒、寺院五か所、農民家宅一三〇軒に及んでいる。

新政府の施行した近代化政策も、当時の国民にとっては、新たな不安と苦難の種になっており、徴兵制はいわば新政府に対する国民の不満を爆発させる起爆剤の役割を果したと言える。

徴兵制が国民に与えた不安の大きさは、まさにこのような血税一揆に象徴されているわけであるが、地域によっては全くの誤報による珍事件も発生している。三月六日の『東京日日新聞』によれば、静岡県下では、徴兵検査と共に処女は樺太へ送られるという流言が飛び娘をいそいで嫁に出す押売嫁・押付嫁が相次いだとあるが、更に三月二〇日の同紙は、「然るに此頃又一の虚説を伝ふ。当年十三歳より二十歳に当れる娘を外国に役せしむると。因て壮年の婦女俄に媒妁を頼みて縁談を促し、或は剃眉染歯して之を辞せんとなすあり」と、国民の混乱ぶりを報じている。

表面化した動きはなかったとは言え、練馬地域の人々もまた、同様の不安と混乱の渦中にあったのである。

徴兵のがれ

徴兵制に対する国民の抵抗は、血税一揆という直接的な行動をとらないまでも、消極的には様々な方法で行なわれた。ことに、徴兵令の矛盾を利用した戸籍の改ざんや養子縁組による徴兵忌避が一つの風潮になっていた。

徴兵が実施された当初の徴兵該当者(満二〇歳の壮丁)が生まれた当時はまだ戸籍制度が整備されておらず、ただ宗門人別

帳があるだけであった。しかし乳幼児の死亡率が高かったためか、その生年月日の記載を数年遅くする場合が多く、その上戸籍を管掌するのは村民と密接な関係にある戸長であったため、戸籍上の年齢が満二〇歳に達した時、生年の訂正を申し立て、徴兵をまぬがれることが可能であった。この戸籍改ざんによる徴兵逃れの方法は、明治一七年に、公選であった戸長が府知事・県令から選任されるようになったことによって事実上閉ざされた。

一方、養子縁組は、合法的な徴兵逃れの手段としてひろく利用され、徴兵養子、兵隊養子などの新語が生まれる程であった。

徴兵制は、国民皆兵を建前とするものであったが、徴兵令の第三章及び第六章には以下のような常備兵の免役規定が設けられ、養子縁組や代人料を払うことによって合法的に徴兵をまぬがれる道が開かれていた。

<資料文 type="2-29">

 ○第三章 常備兵免役概則

第一条 身ノ丈ケ五尺一寸(曲尺)未満者

第二条 羸弱ニシテ宿痾及ヒ不具等ニテ兵役ニ堪ザル者

第三条 官省府県ニ奉職ノ者。但、等外モ此例ニ准ズ

第四条 海陸軍ノ生徒トナリ兵学寮ニ在ル者

第五条 文部工部開拓其他ノ公塾ニ学ビタル専門生徒及ヒ洋行修業ノ者、並ニ医術馬医術ヲ学フ者。但、教官ノ証書アル者(科目等未定

第六条 一家ノ主人タル者

第七条 嗣子並ニ承祖ノ孫

第八条 独子独孫

第九条 罪科アル者。但、徒以上ノ刑ヲ蒙リタル者

第十条 父兄存在スレ共、病気若クハ事故アリテ父兄ニ代リ家ヲ治ル者

第十一条 養子。但、約束ノミニテ未タ実家ニアル者ハ此例ニアラス

第十二条 徴兵在役中ノ兄弟アル者

 ○第六章 徴兵雑則並扱方

第十五条 本年徴兵ニ当リ、自己ノ便宜ニ由リ代人料金弐百七拾円上納願出ル者ハ、常備後備両軍共之ヲ免ス、免役上納金ハ区長ヘ差出シ、府県庁ニ纏メ、五月中ニ陸軍省ヘ相納ムヘシ

この徴兵免役規定は、国家財政の基盤を成す地租納入者としての戸主や戸主たるべき者、又は戸主に代わる者を兵役の対

象外とするもので、このことは、この徴兵制度が、近代的な国民皆兵制とは異質な、一種の封建的な賦役に近いものであったことを示していた。そのため国民は、その賦役からのがれるために、この免役条項を大いに利用したのであるが、なかには、いくばくかの金を払って戸籍を買ったり借りたりする者も少なくなかった。

練馬地域においても事情は同様であり、次のような徴兵逃れの話が『古老聞書』に寄せられている。

<資料文>

うちの親父(清水―慶応元年生まれ)の話だが、兵隊のがれのために戸籍を買ったそうだ。遠藤姓だったが、籍を三十円で親が買ってくれて、清水姓になった。だから清水の紋はどういう紋かも知らない。今は上り藤を家紋にしているけれど……。戸主は兵隊にとられないということだったので戸籍を買ったわけだが、そういう人が大勢あったので制度が変わり、親父の場合は失敗して兵隊にいった。(和光市吹上の観音さまのまわりの方では籍を売る家が多かったそうだ。北町二丁目の人は、うまく兵隊をのがれた。)三十円で畑一反買えた時代だ。買う籍は血統が絶えた家だから、親戚筋へ金を払った。

区内に本家分家の関係と言われながら、苗字の違う家が多いが、その多くはそうした徴兵逃れの方法として、親が死亡籍を買って二、三男に与えたものであると伝えられている。

このような徴兵制の不備を利用した徴兵忌避は全国的にみられ、徴兵令制定後三年を経た明治九年の壮丁中の免役者数の割合は、全国平均で八二%、東京を中心とする第一軍管区下では、二〇歳壮丁総数七万一五七九人中免役連名簿人員が六万二三二〇人で、その割合は全国平均を上まわる八七・一%に達した(鹿野政直「日本軍隊の成立」)。

<節>
第三節 日清・日露戦争と練馬の人びと
<本文>

徴兵制の強化と外征 徴兵免役者が続出したために予定した徴兵要員を確保することが困難になった政府は、徴兵令を改正し、免役条件を厳しく制限することによって事態の打開を図った。

ことに明治一五年に朝鮮で反日的クーデター(壬午事変)が勃発したことにともない、外征軍の建設が急務となった政府は、明治一六年に大幅な徴兵令の改正を実施した。すなわち、それまでの常備役は現役と改称され、予備役の年限は三年から四年に、後備役の年限は四年から五年にそれぞれ延長された一方、免役条項についても代人制が全廃されたほか、「国民軍のほか免役」が「平時における徴集猶予」に改められ、その対象者のうち嗣子・養子については、その養父の年齢が五〇歳以上から六〇歳以上に改定された。

このような徴兵令の改定にともない徴兵逃れが一層難しくなったことに対処するため、市中には『改正徴兵免否要録』などの免役に関する解説書が盛んに出まわるようになった。しかし、この一六年の改定以後は、徴兵養子の口が著しく狭くなり、また戸籍を手に入れる相場も一二〇円から二七〇円にはね上がり、一般の国民にとっては、合法的な徴兵逃れの道は、事実上閉ざされたも同然となった(大江志乃夫『徴兵制』)。

また軍人に対しては、明治一五年に「軍人に賜りたる勅諭」(軍人勅諭)が発布された。これは天皇の軍隊としての位置づけや、命令に対する絶対服従の軍紀を徹底し、軍隊の内面的な統率を強化しようとするもので、軍人の遵守すべき行動の規範として「忠節」・「礼儀」・「武勇」・「信義」・「質素」の五か条を挙げている。その第一条に示された「忠節」の条は、いわば「軍人勅諭」の根幹を成す部分であった。

<資料文>

忠節 一 軍人は忠節を尽すを本分とすへし凡生を我国に禀くるもの誰かは国に報ゆるの心なかるへき況して軍人たらん者は此心の固からては物の用に立ち得へしとも思はれす軍人にして報国の心堅固ならさるは如何程技芸に熟し学術に長するも猶偶人にひとしかるへし其隊伍も整い節制も正くとも忠節を存せさる軍隊は事に臨みて烏合の衆に同かるへし抑国家を保護し国権を維持するは兵力に在れは兵力の消長は是国運の盛衰なることを弁へ世論に惑はす政治に拘らす只々一途に己の本分の忠節を守り義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ其操を破りて不覚を取り汚名を受くるなかれ

すなわち、軍隊の根幹を成す忠節の精神とは、ほかならぬ兵隊が己の死を鴻毛よりも軽いものとして覚悟し、一命を国家

のために奉ずることであった。そしてこの精神を兵隊に徹底せしめるために、軍隊では日曜ごとに中小隊長にかよって兵隊に対する「軍人勅諭」の教育が行なわれ、兵隊にその暗誦が強要されるようになった。

ところで、日本国内で軍隊の強化、外征軍の建設が進行していた頃、朝鮮における反日感情は日に日に増大していった。

日本の朝鮮侵略については、征韓論という形で早くから西郷隆盛や板桓退助らによって主張されていたが、それが強引に実行されるようになったのは、明治八年に日本の軍艦雲揚が江華島近海に侵入して砲撃された江華島事件以後である。

日本はこの事件を口実に朝鮮を開国させ、それまで朝鮮の宗主国であった清朝の支配を否認し、日本の領事裁判権を認めさせた日朝修好条規を締結した。これ以後、日本と清朝は、朝鮮における利権をめぐって直接対立するようになった。明治一五年に起きた壬午事変は、こうした日本の支配に対する朝鮮国民の抵抗であったが、この後も外国の支配を排除しようとする民乱が相継いで発生するようになった。ことに明治二七年二月に全羅道に発生した東学党の蜂起(甲午農民戦争)は最も大規模で組織的な民乱であり、その勢いは南朝鮮全域に波及する様相を呈した。ところがこれに対し、朝鮮政府が清朝に鎮定軍の派兵を要請たため、それに対抗して日本軍も派兵を決定し、ここに日清両国軍の衝突は避けられないものとなったのである。

日清戦争の熱気

明治二七年八月一日、宣戦が布告されるや国内は日清戦争一色に染った。

当時、日本の国会では、軍備増強や条約改正問題をめぐり、民力休養や政費節減を主張する民党勢力と政府との対立が続いていたが、清国派兵の報が伝わると、国論は対朝鮮強硬論に転化し、議会での政府への攻撃姿勢も一転して政府支持にかわった。

開戦直後の一〇月に開かれた第七臨時議会に於て、政府は、戦前の通常予算規模に匹適する一億五〇〇〇万円に上る臨時軍事費の予算案を提出したが、最早それを阻む勢力は無く、満場一致で可決された(『時事新聞』一〇月二六日)。しかも、その臨時予算は、総額の八〇%に相当する一億二四〇〇万円を軍事公債に依存するものであったにもかかわらず、国を挙げて

の募集活動の結果、その応募額はその年の内に九〇〇〇万円を超えた(『時事新聞』一二月一九日)。上板橋村小学校に関する次の資料に見られるように、小学校のような教育機関までが軍事公債の購入を行なっていたのである。

<資料文>

本郡上板橋村小学校基本財産金四百円ヲ以テ軍事公債ヲ購入シ 購入残金及利子ハ積立置キ 百円ニ充ツル毎ニ該公債ヲ購入スヘシトノ議決ヲ正当ト認メ本日許可ヲ与へ候 此段及報告候也

 明治廿八年三月十八日 東京府北豊島郡長 金田清風

   東京府知事 三浦 安殿

一方、東京市中では、日清戦争を種にした芝居が掛り、威勢の良い軍歌や替え歌が盛んに歌われるようになった。

当時脚本家として名声を博していた川上音二郎は、開戦間も無い二七年八月には早くも『支那征伐』という芝居を書き上げ認可申請をしている。以下は八月八日の『讀賣新聞』に載った芝居の予告記事であるが、おそらく当時の日清戦争に関する国民一般の認識はこのようなものであったのであろう。

<資料文>

抜け目なき川上音次郎は早速浅草座の次狂言「支那征伐」を八幕に仕組み、昨日藤沢浅次郎と共に警視庁へ出頭して脚本認可を申出でたるが、同狂言は今回の日清事件を基礎となし、我軍海陸交々進撃して朝鮮内地の清兵を逐散らし、進んで鴨緑江畔に陣営を張るの場を出だし陣営の布設我兵の勇壮の状より、大元帥陸下より恩賜の物品を奉戴する光景を演じ、又勇烈なる赤十字社看護婦人清兵に捕はれて辛酸を嘗むるの件新聞記者二名北京電信局にて支那兵のために擒にせられ、間諜と疑はれて牢獄に投ぜられ、絶食鞭笞の苦しみを受けて一名終に絶命すると云ふの件、他の新聞記者李鴻章の前に引出され鞠問に逢ひし時、大義を説き東洋の形勢を論じて、大に李鴻章を罵倒するの壮快無比の件、大詰北京落城清国降参を請ふの件まで総て八幕にて、認可次第直ちに開場すると云ふ。又戦争の場にては広目屋の人夫四五十名を雇入れて清国兵士に打扮せ、之をメチャ〳〵に撃退する処を見せる由

歌謡の面では、軍歌が教育の場でも歌われるようになった。開戦後の二七年九月、文部省は、その頃より始まった兵式体操の授業の中で、軍歌を歌うよう「高等小学校男生徒ニハ兵式体操ヲ課スルノ際、軍歌ヲ用ヰ体操ノ気勢ヲ壮ニスルコトア

ルベシ」という訓令を出していたが、翌二八年六月には、さらに小学校唱歌の歌曲について次のような告示を出している。

<資料文>

       小学校唱歌用歌曲の告示

   明治廿八年六月十二日

 告示 第四十二号 小学校ノ唱歌用歌曲告示

  按左ニ掲クル歌曲ハ府下小学校ニ於テ適宜唱歌用ニ供スル事ヲ得

   年 月 日                            知 事

      歌曲ノ名       作歌者作曲者            歌曲ノ名       作歌者作曲者

日本軍歌ノ内    進撃     落合 直文未   詳      同         雪夜の斥候  佐々木信綱納所弁次郎

同         海ゆかば   未   詳東儀 季芳      同         勇敢なる水兵 佐々木信綱奥  好義

明治軍歌ノ内    清正     東宮 銕麿山田源一郎   同         兵士のかがみ 落合 直文鈴木米次郎

同         君ノ御稜威  東宮 銕麿納所弁次郎   忠実勇武軍歌集ノ内 朝日に匂ふ  中村 秋香小山作之助

同         大和島根   戸川 安宅未   詳      同         鬼将軍    烏山  啓山田源一郎

同         水兵     東宮 銕麿未   詳      同         いでや皇国  小田 深蔵内田粂太郎

同         凱陣     佐々木信綱納所弁次郎  同         水城     小田 深蔵メーン 氏

大捷軍歌ノ内    阪元少佐   佐々木信綱納所弁次郎  明治唱歌ノ内    勧学の歌   高崎 正風奥  好義

同         日本男児   大和田建樹上真行    国民唱歌集ノ内   観兵式の歌  小田 深蔵小山作之助

同         招魂社    小中村義象上真行    かちどきノ内    愉快     旗野十一郎小山作之助

同         日本男児   落合直文未詳      同         凱歌     鳥居  忱小山作之助

中等唱歌集ノ内   御国の民   高等師範学校付属音楽学校  見渡せば             鳥居  忱未   詳

同         凱旋     同           錦の御旗             中村 秋香小山作之助

同         国旗     同           海戦               未   詳イブセン 氏

同         火砲の雷   同           水漬くかハね           阪  正臣未   詳

 

          理 由

曾テ尋常師範学校長等ゟ小学校ニ於テ唱歌用ニ供スル歌詞楽譜ニ付申出ノ趣ニ依リ文部大臣ヘ伺出相成候処伺出タル歌曲ノ中若干ヲ除キ許可ノ指令有之就テハ尚他ノ地方長官ニ於テ一旦文部大臣ノ認可ヲ経タル歌曲ハ経伺ヲ要セズ採用シ得ベキニ付尋常師範学校長教員ノ意見ヲ聞キ既ニ他ノ地方へ許可セラレタル歌曲中ニ就キ其可ナルモノ数種ヲ選択候ニ付府下各小学校ニ於テ適宜採用スルヲ得シメ候方可然存候因テ告示按高裁ヲ仰候〔府文書 明治二八 学事雑件〕(『練馬区教育史』

適宜唱歌用に採用することができるものとして、文部省によって選定された小学校の唱歌用歌曲が、全て軍歌並びにそれに準ずるものであることから窺われるように、教育の現場もまた、戦争遂行政策に積極的に組み込まれていった。

以上のように、国民の生活は、異常な程の戦争への熱気に包まれていたが、このような戦争熱は、新聞の戦況報道によって一層煽られた感がある。開戦とともに各新聞社はあらそって特派員を戦地に派遣し、日本軍の連戦連勝ぶりを大々的に報

道した。国民は、連日のように発行される号外に群れ合い戦勝のニュースに狂喜した。新聞紙の号外は、日清戦争を機に急増し、「府下の各新聞社は争ふて危機一髪、局面一変の号外を乱発し、急報又急報、日に号外の出でざるなく、朝出で晝出晩に出で、恰も際限なきの有様なれば、随て大声疾呼、之を市中に売り行く小僧大僧の数も滅切り殖え、遂に号外専門の売子なるものを生ずるに至」る有様であった(『時事新聞』七月二五日)。

日露戦争の暗影

日清戦争は、開戦後一年足らずして終結し、明治二八年三月二〇日から、日清講和会議が下関で開かれることになった。その講和会議で日本は清国に、朝鮮の独立と遼東半島・台湾・澎湖列島の割譲を認めさせ、さらに銀二億両に上る賠償金を要求した。

講和条約は、四月一七日に合意をみ、調印された。ところが、その六日後になって、日本の大陸への進出を阻止しようとするロシア・フランス・ドイツの三国が、遼東半島を清国へ返還するよう条約の変更を要求してきた。いわゆる三国干渉である。遼東半島は、日本が将来朝鮮・満州・中国の支配に乗り出すための重要拠点として位置づけられていたところであるが、一方その頃シベリア鉄道の建設に着手していたロシアにとっても、その東洋における発展に重大な関係をもつ地域であった。

この三国干渉に対し、日本国内には、断固として拒否すべしとする論調もあったが、現実的にはこの列強三国を相手に新たに戦争を拡大する余力は無かった。また、頼みとするイギリスとアメリカも局外中立の方針をとったため、ついに五月五日、三国の勧告を全面的に受諾することになった。

三国干渉に屈服したことは、国民にとっては大きな衝撃であり、政府を攻撃する声が高まった。しかし、政府は言論統制を施いてそれを押さえるとともに、「臥薪嘗胆」を合言葉に、国民の憤懣を三国干渉への復讐へ向けることに努めた。終戦後、日清戦争の戦利品を学校に付与し児童生徒に回覧させたのも、国民の戦意昂揚にその目的があった。北豊島郡内にも以下のような戦利品が付与されている。

<資料文>

明治廿七八年戦利品 町村立小学校へ付与方本年三月廿八日付内三発第一三九号ノ二 内務部長ヨリ通達ニ付左之通り処理スルコトニ致決定候 此段及上申候也

    明治廿九年四月三十日 北豊島郡長 金田清風

         東京府知事 侯爵久我通久殿

一 戦利品ハ長持ニ入レ 各小学校へ巡達一週ノ上 郡役所ニ於テ保存スヘシ 猶縦覧ヲ望ム小学校ハ何時ニテモ郡役所ヨリ受取縦覧済之ヲ返戻スルモノトス

    目録

一 六斤山砲榴弾 拾五個    一 軍袴     弐着

一 三角剣    七振     一 袴下     弐着

一 軍衣     五枚     一 ゲベル銃   四挺

一 旗      壱枚     一 箭      壱本

一 槍      壱本     一 モーゼル銃  壱挺

一 角匙     弐本     一 同騎銃    壱挺

一 前垂     壱枚      以上        

                         『練馬区教育史』(府文書 明治二九 学務雑件

この三国干渉を機に、日本とロシアとの関係は極めて険悪なものとなっていった。ロシアは、朝鮮に圧力を伸張し翌二九年二月にクーデターによって親露派の政権を樹立させ、また三一年には大連と旅順の租借権を獲得し、満州から朝鮮半島に至る地域に強い影響力を及ぼすようになった。とくに三三年には、外国の勢力を排斥しようとして中国民衆が武力蜂起した義和団事件を機に、ロシアは満州地域に大軍を派兵しそのまま常駐化する様相を見せた。

このような、満州、朝鮮地域におけるロシアの勢力拡大に対抗するために、日本政府は三五年にイギリスと同盟を結ぶ

等、国際環境の調節を図りつつ、一方では、対露戦争に向けて大規模な軍備の増強を進めていった。この政府の対露強硬策に対して、国民の中には非戦論を主張する声も高まった。新聞では『東京日日新聞』『毎日新聞』『二六新聞』『萬朝報』らが非戦の立場をとり、それを通じて内村鑑三、幸徳秋水、堺利彦、島田三郎、木下尚江らが強く非戦論を唱えていた。

しかし、ロシアが清国に約束した満州撤兵に関する協定を無視したため、日本国内の対外硬派の論調は強まり、三六年一〇月八日のロシアの第三期撤兵期限が来ると、新聞論調も決定的に開戦論に傾いていった。そして遂に三七年二月一〇日、日本軍の先制攻撃によって日露戦争の火蓋が切り落されたのである。

日露戦争は日本にとって極めて困難な戦いであった。ロシア国内に革命が起きたため日本に有利な終戦を迎えられたものの、規模・被害とも日清戦争をはるかに凌ぐ悲惨な戦争となった。

日清戦争に動員された総兵力(台湾征討軍を含む)は二四万〇六一六人(うち兵卒二〇万九九二七人)で、外征軍参加兵力は一七万四〇一七人(うち兵卒一五万一八四二人)であったが、日露戦争に動員された陸軍の総兵力は一〇八万八九九六人(うち兵卒九六万九七一〇人)に達し、そのうち戦地勤務の軍人は九四万五三九四人(うち兵卒八四万二七〇三人)となっている。実に日清戦争の四・五倍にのぼる兵力が投入されたことになる。さらに兵卒の損害をみると、日清戦争の戦死傷死者数は一一九九人、病死一万〇七五七人、変死一五〇人であったが、日露戦争における戦闘による死者は、日清戦争のおよそ四〇倍に相当する四万八三五八人に達した。これを歩兵兵卒についてみると、一〇人に一人が戦闘によって死亡したことになるという(大江志乃夫『徴兵制』)。

戦争を支えた村

練馬地域の村々も例外なく日露戦争の暗影に包まれていた。むしろ戦争は村の人々の多大な犠牲によって支えられていたとも言える。

明治一〇年の西南戦争から日露戦争に到る村々の出征兵士数は、村誌や碑文によって知り得た状況を示すと表6のようになるが、これによれば、日清戦争には少なくとも六三名の村民が出征しており、日露戦争になるとその四・五倍にあたる二

九六名以上の村民が出征していたことになる。戦死者も三二名が確認される。

既にこの日露戦争直前項には、村の空気も大きく戦争に傾き、大泉村では、西南戦争・日清戦争・北清事変の出征者を顕彰する記念碑が建設される程であった。

戦争が始まると、村をあげて出征兵士を見送った。兵士は、家族や村人の盛大な見送りを受け、荻窪駅、中野駅、目白駅、板橋駅からそれぞれ出発した。

石神井村では楽隊を先頭に村民はもとより小学生までが学校の授業を休んで見送りに加わったという(『練馬区教育史』)。

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このような戦争熱の昂揚は、練馬地域だけの現象ではなく、全国至る所で見うけられた。宣戦が布告された三七年二月一二日には、国民の敵愾心を煽ってきた政府自身が、生徒が血気にかられてロシア国民を嘲罵することのないよう、また生徒が課業を投げすてて軍人の送迎をしたり父兄に強要して献金をすることのないよう、学校教育者に慎重な指導を要請している程である。

<資料文>

府知事の学校長に対する訓示

明治三十七年二月十二日 諸学校長へ訓示ノ要領

一 時局ノ今日ノ場合ニ至リタルハ 露国ノ我帝国ノ正当ナル交渉ニ応セサルヨリ止ヲ得スシテ茲ニ至リタルモノニシテ 真ニ遺憾ノ至リト云ハサルヲ得ス 然レトモ既ニ今日ノ場合ニ至リタル以上ハ 即チ挙国一致極メテ慎重ノ体度ヲ取リ以テ終局ノ勝利ヲ期セサルヘカラス

一 以上ノ如クナルニヨリ 一勝報ニ接スル毎ニ忽チ祝捷会ヲ催シ若ハ炬火行列ヲ催ス等軽忽ノ挙動ヲ為スハ最モ慎マサルヘカラス 若シ常ニ斯ノ如キ軽挙ヲ敢テスルカ如キコトアランカ 万一ニモ一敗報ニ接スルカ如キアレハ人気忽チ沮喪シ遂ニ大事ヲ誤ルノ憂ナシトセス 豈慎マサルヘケンヤ

一 要スルニ今回ノ事件ハ実ニ振古未曾有ノ大事件ニシテ 其ノ終局ヲ見ンコト予シメ期スルヲ得ス 去レハ一般国民タル者夙夜ニ勤勉シテ 幾分ニテモ日常ノ費用ヲ節シ 或ハ軍人公債ノ募集ニ応シ 或ハ軍人家族ノ救護ニ資スル等皆応分ノコトニ勤メ 以テ奉公ノ誠ヲ致サンコトヲ期セサルヘカラス 去レハ学校ニ在テハ 文部大臣訓令ノ旨趣ヲ体シテ生徒ヲ教導スヘキハ勿論 此際勤メテ慎重静粛ヲ旨トシ 一勝報ノ為ニ祝捷会等ヲ催スカ如キハ之ヲ慎ミ 最終局ヲ待チテ大ニ之ヲ催スノ覚悟アランコトヲ望ム

『練馬区教育史』

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凱旋兵士の歓迎もまた村をあげて行なわれた。各村では「兵員慰労義会」を結成し、凱旋兵士の歓迎式を盛大に挙行した。江古田出身の熊沢宗一氏は、「軍隊日誌」にその歓迎の様子を次のように記している。

愈々今日ハ晴レノ皈郷ヲスベク、早朝佐久間君モ来リ須藤曹長ヲ合シテ三名午後零時二十分原町松沢ヲ出デ新宿停車場ニ至レバ、野方村兵義会片山兵員慰労義会江古田村ノ有志諸氏及ビ親戚知己等の出迎人山ヲナシ永福寺ノ大場慈道君ヨリハ青年音楽隊ノ寄附アリ、歓迎旗幾十流ヲ押シ立テテイトモ盛大ニ午後三時三十分野方村役場ニ着シ皈郷ノ式ヲ挙行シ、菊田村長ノ祝詞アリ須藤曹長皈郷者ヲ代表シテ之レガ答詞ヲナシ、四時江古田氷川神社ヲ拝シ、須藤佐久間両君ト別レ片山鎮守北野神社ヲ拝シ皈還ヲ奉告シ、五時目出度無事皈宅スル(『東京百年史』三巻

ところで、凱旋兵士の歓迎に当たったこの種の兵員慰労義会は、何らかの行政指導の下に組織されていたものらしく、上練馬村土支田の八丁堀でも、次のような規約を持つ「八丁堀組兵員慰労義会」が結成されていた。

十組八町堀兵員慰労義会規約

第一条 本会ハ入営帰郷兵員ニ対シ慰労送迎スルヲ以テ目的トス

第二条 本会ハ八丁堀組兵員慰労義会ト称シ事務所ヲ小島善太郎境内ニ仮設ス

第三条 本組内ニ 年以上住居スルモノハ会員タルノ義務アルモノトス

但シ本規約施行後転入スルモノアル時ハ幹事会ノ審議ヲ待テ会員タルモノトス

第四条 本会ニ左ノ役員ヲ置ク

会長・副会長各一名、幹事五名、書記一名ヲ置ク

会長ハ会議ヲ総理シ、副会長ハ会長ヲ補佐シ幹事ハ会長ノ諮問ニ答ヒ第三条ヲ審議シ其他寿赦ノ事ヲ掌ル、会計ハ会長に依託シ、書記ハ会長ノ指揮ヲ受ケ庶務ニ従事ス

第五条 会醵金ハ一戸ニ対シ月ニ弐銭宛ヲ徴収スルモノトス

但シ集金ハ ヲ以テ之ニ充テ金集立月内ニ事務所ニ送金スルモノトス

第六条 本組内ヨリ出兵者ニハ郵便端書或ハ烟草()以内ノモノヲ寄援スルモノトス 除隊兵亦同シ

第七条 本規約中 改正増補又ハ解散等ノ場合ハ幹事会ノ決議ヲ経タルモノトス

「小島家文書」

このように、日清・日露戦争という、いわば国運をかけた外征は、単に近代的な軍隊制度と軍事力によってのみ遂行されたのではなかった。軍隊制度の整備と同時に、村々では慰労義会といった互助組織が結成され、それが、家族を残して出征する兵士を精神的に支える一つの力になっていた。戦争は、このような、個人の力では抗し切れない〝村の戦時体制〟に支えられて遂行されたのである。

<章>

第三章 近代練馬の産業

<節>
第一節 明治の農業政策
<本文>
地租改正

従来の農民が保有していた土地に対し、新たに私有権を与え、これに見合う地租を収納しようとする目的から地租改正は行なわれたが、これによってそれまで物産中心に考えられていた税制の仕組みが根本的に変革されることとなった。

明治四年(一八七一)一二月には東京朱引内の各戸毎に地価を定めた地券が発行された。翌五年一月には大蔵省より東京府に対し「地券発行地租収納規則」が布達されたが、その内容は地券に記した額面の一〇〇分の二および庁費金として別に税金一円につき三銭の納付を要することとしている。しかし東京府では二月、右の布達に基づいた「地券申請地租納方規則」を布告し、税額も地券の額面の一〇〇分の三として徴収する方針をとった。六年七月には地租改正法の公布をみて全国的な実施段階に入ったが、地価を定める上でさまざまな困難が生じ、地域によっては実施時期にかなりの遅れをみたところもあった。

一〇年一月には税率が地価の一〇〇分の二・五に軽減されているが、こうした地租改正による徴収方式は実際に田畑を耕す農民にとって杓子定規なものともいえ、ことに余裕のない零細農民には毎年一定の額を納入するに足る収入の保障もなく、土地を手離すことともなる。地租課税の対象は土地所有者に限られていたところから、あえて土地を手離し、小作人として生計をつなぐ者も現われたといわれる。一方で小作人を多くし、他方で大地主を形成するという傾向が生じ、地方では

地租改正反対の運動が活発に展開された。しかし練馬区域については大きな動揺はなかったといわれ、その理由として東京近郊に位置する地域性があげられている。土地を失って小作人となった者も、いわゆる農間渡世と称し、農閑期には市域へ出稼ぎに出るという道が開かれていた。中にはこちらの方を本業とする者もあったといわれる。

この地租改正事業の実施に先立ち、新政府は農村対策として「田畑作物勝手作り」の許可を行なっている。参考のために当時の大蔵省の通達を『東京市史稿』より引用しておく。

<資料文>

田畑作物勝手作り許可

辛未○明治四年。九月

是迄夫食不足之訳を以、田畑ヘハ米麦雑穀を重モニ作付致し、桑楮漆茶藍麻藺菜種其外之作物共其土地ニ適当致シ候ても作付不<漢文>レ致、或は元地頭領主より差留候向も有<漢文>レ之候処、追々運輸之道弁利相成、其上是迄米納之向も願次第石代納御差許相成候事ニ付、村々百姓銘々之夫食取入候外ハ、何品に限らず勝手ニ作付致し候方、下々之利潤ニも可<漢文>二相成<漢文>一候間、総て従来其土地之貢租辻を以て年季を究め、検見之場所ハ新規定め之規則ニ照準し、定納相願候上ハ屋敷井ニ田畑勝手ニ作共御差許可<漢文>二相成<漢文>一候条地味之善悪作物之損得篤と勘弁致し、充分仕当ニ可<漢文>二相成<漢文>一見込有<漢文>レ之候ハゝ可<漢文>二願出<漢文>一事。

右之通管下村々へ触達願出候もの有<漢文>レ之ニ於てハ従前之貢租辻等篤と相糺、不都合無<漢文>レ之候ハゝ聞届置追て可<漢文>二相届<漢文>一事。

但、田畑成畑田成共、貢租辻増減無<漢文>レ之分ハ総テ可<漢文>レ為<漢文>二本文之通<漢文>一事。

辛未○明治四年。九月 大蔵省

文面にも明らかなように地域性を生かした物産の自由生産を奨励するものである。その後の政府の思惑はともかくとして、農業活動そのものについての選択は農民に一存されるところとなった。

勧農政策

明治政府の最大の関心事は資本主義列国からの圧力に対応しうる国力をどう養うかにあった。いわゆる「富国強兵」「殖産興業」の各政策はこうした背景の下に行なわれたものである。このうち「殖産興業政策」についてみれば、それまで著しい遅れをみていた工業部門の強化を目ざすとともに農業部門にも一大刷新をもたらそうとする動き

となって現われた。勧農政策と呼ばれる一連の施策がこれである。

はじめ政府は優良品の開発、あるいは物産の大量生産を急ぐために海外からの技術や農具の導入につとめ、いわゆる洋式農業の普及に力を入れようとした。この一環として農業の実験場を各所に設けたが、後にこれらを統合した洋種動植物試験場を四谷内藤新宿の内藤邸に開設した。明治五年のことであったが、これが後の勧業試験場となる。こうした背景には当時の海外の事物に対する崇拝的な考え方があり、それを模倣することによって進歩的であろうとし、意識的に旧態から脱しようとした向きがあった。

こうした試みは時期的に尚早であったり、根本的な矛盾が生ずるなどして多くは失敗に帰した。以後政府は方針を改め古来からの農業のあり方を見直し、これに新たな方式を盛り込んでゆこうとした。この考え方は農業のみに限らず産業全般にわたっていえることで、いわゆる殖産興業政策の転換期とされる。政府は全国の技術を一堂に集めその水準を広く認識させ、同時に当事者間の競争意欲を盛り立てようとの目的から一〇年八月上野公園において第一回の内国勧業博覧会を開催した。部門は「農業」「園芸」「鉱業」「冶金術」「製造物」「美術」の六区分とされ、出品点数八万四三五二点、出品人員は一万六一七二人を数えたといわれる。いずれも当時の日本の技術の粋を持ち寄ったものであり、ことに「農業」部門においては日本在来の技術を誇り、西洋式農法に対抗する意気込みがあふれていたと伝えられる。

博覧会はその後も一四年、二三年、二八年、三五年と回を重ねたが、この間一四年の第二回開催時には全国からいわゆる老農と呼ばれる農業熟練者を招いて農事上の討論会を行なっている。農談会のはじめであった。農談会は地方でも開催され、東京府での第一回目は同じ一四年、荏原郡で開かれた。以後は各郡輪番制で年二回開催されることとなった。

博覧会が開かれる一方、一二年には全国の物産の品評会ともいえる共進会が誕生した。共進会では品質の優秀なものを選んでこれを表彰したりしている。後にも触れるが、同年の生糸繭の共進会において、当時上石神井村にあった製糸工場興就社はその意気込みを買われ表彰の栄誉を受けている。

このようにさまざまな形を通して勧農の実をあげようとする対策が講じられたが、常にその要とされていたものは品種の改良と普及にあった。以後各地方での特産物の品種改良に一層拍車がかかることとなる。東京府では一一年四月に三田育種場種苗交換規則を設け、良質の種苗を自由に交換する便宜をはかっている。この年に出品されたものの中には上・下練馬村産の「練馬大長蘿蔔おおながだいこん」「練馬長トマリ蘿蔔」および「長蕪菁かぶら」の名がみえる。また一方では海外の諸産物についても種苗を買い入れ、その試作に専念していた。二〇年三月の官報には中新井村において「ソノラ小麦」なるものの試作が行なわれた旨報じられている。

<節>
第二節 明治の村と農業
<本文>
江戸から明治へ

練馬区域内に属する村々は江戸市中の台所をまかなう近郊農村として発展してきた。江戸時代も中期以降にはいわゆる商品経済の一端が都市近郊の農村にも浸透しはじめ、古くからあった自給自足に頼る経済態勢が次第に崩れてゆくこととなった。種苗をはじめ農耕に必要な諸物品は商品として改良が加えられ、これにともない一般農家では自家製に依存する部分が減少し、いきおい金銭の支払範囲が広げられる結果となる。こうした経済事象に対処するためにはより多くの余剰物産を必要とし、その換金化が大きな課題であった。

地形上一般に水田が少なかった練馬区域の諸村では畑作物が主要な地位を占め、特に練馬大根をはじめとする蔬菜類の栽培には力が注がれ、その品質の高さは広く江戸市中にも知られていた。関東地方特有の表土の深い地質が蔬菜類には適していたことがひとつの要因としてあげられる。こうした蔬菜を江戸市中に輸送し現金化するとともに一方では練馬大根を利用したたくあん漬けの製造加工も活発に行なわれた。商品経済上の問題からすればたくあん漬けは換金時期に幅をもたせることができ、それも冬から翌春にかけてのいわゆる農閑期における現金収入の道として大きな意味を持っていた。また加工す

ることによって商品価値が高められ、そこから得られる利益率がたとえば干し大根で出荷される場合よりもはるかに高かったであろうことが想像される。

このような加工を要する物産には生糸や茶あるいは藍などがあげられるが、その多くは明治に至って急速に発展することとなる。この背景には新政府による「殖産興業」政策があり、これに触発される形でいわゆる換金作物への志向が高まった訳であるが、江戸時代末にはすでにそのような方向をたどる準備が成されていたといえる。

村別農事概況

明治四年に耕作物に対する制限が徹廃され、基本的には農民は作物を自由に選んで栽培できることとなった。また六年の地租改正法の公布にともない農地の所有権が認められ、ここに農民の地位は確立された。しかし一方では同じ法律によって租税の金納化が押し進められ、毎年豊凶に関わりなく一定の金額を納税する義務を負わされた。このことは元来農耕技術上の問題に知恵を集中してきた農民にとって、新たに金銭勘定に対する知恵を要求される事態が訪れたことを意味する。折から新政府は「富国強兵」「殖産興業」を当面の課題とし、さまざまな勧農政策を打ち出し、この政策に沿って行動することがすなわち農民の利益にもつながってゆくはずであった。

練馬区域内の諸村についても例外ではなく、諸所にその形跡は現われている。上・下石神井村を中心として展開された養蚕もその代表的なものとしてあげられる。詳細は後に述べるが、これは明治初期の海外貿易を支えた重要産業であり、殖産興業政策上の目玉でもあった。当初は石神井方面のみならず練馬区域のほぼ全村で行なわれたようであるが、次第に上・下石神井村周辺に定着することとなった。他村に根付かなかった理由としてはたとえば上・下練馬村を中心とする地域には練馬大根やたくあん漬けなどが年とともに盛況を極め、リスクが大きいとされた養蚕にこだわる必要性がなかった点などがあげられよう。

上・下石神井村には明治一二年に創設された興就社をはじめ中小の製糸場を中心とした蚕糸業がすでに所を得ており、これをとり巻く養蚕農家が定着したことから大正期に至るまで当地方の重要産業として残されることとなった。明治一八年一

〇月二九日に同地を視察した渡辺府知事の巡見記録中に次のような記事がみえる。

<資料文>

午前第十一時二十分、右興就社々長栗原仲右衛門方へ着、午餐ヲ喫ス。

関村・下石神井村戸長出頭ス。此村々ハ余リ悪カラヌ村々ナリ。

田畑ノ釣合ハ畑多ク林モ亦多シ。田ハ僅少ナリ。関村聯合ニテ戸数三百二十戸、地価六万円、物産ハ茶・糸其他雑穀・小麦等ナリ。

借金ハ二万円程アリ。其内運転スルモノト費消セシモノトノ歩合ハ折半位ナラン。抵当物ヲ売リ又ハ返済シタルモノアリテ十七年ニ比スレバ余程減少セリ。桑・茶ハ益成大ノ傾キアリ。貸借ハ村内限甲乙流通スルモノヲ多シトス。

下石神井村ノ借金ハ追々減少セリ。該村ニテハ維新以来新事業ヲ起シタルモノ多キカ為メ、財産ヲ消費セシモノ不レ少。然レトモ該村及近傍村々ニ於テ桑・茶ノ進歩セシコトハ他ニ比類ナカルベシ。養蚕ノ季合殊ニヨロシ。蓋シ其効能ナラン。

『東京市史稿』市街篇第七十

記事中に、この地方には維新以来新事業を起した者が多く、それだけに財産を費消した者も少なくなかったとあるが、この日府知事が訪れた興就社もその後数年で倒産の止むなきに至っているのであれば、栗原もまた財産の費消者の内に殉じたひとりといえようか。

養蚕とともに当時の換金作物として大きな位置を占めることとなったものに茶の栽培がある。これは年々盛んとなり全村にわたって定着するに至った。先に引用した渡辺府知事の巡見記録中に上・下土支田村のこととして、「製茶モ亦近年追々増殖ス。畑作ハ小麥ヲ多シトスレトモ其収穫ハ茶桑ニ及ハス」とあり、桑とともに茶の栽培の盛んであった様子がしのばれる。ついでに下土支田村の茶については同村の小島家に当時の村の作付状況を記した書き付けが残っており、これによれば同村の茶は明治元年(一八六八)にはじめて茶種五斗を蒔き、二年に六斗、三年に一石、四年に一石一斗、五年に一石八斗、六年には二石と徐々に増え、その作付反別は九年時で三町二反六畝に達したとある。またこの間の生産高は五年に一〇〇斤、六年に一八〇斤、七年に三〇〇斤、八年では七五〇斤を数えたと記されている。もっとも明治七年の『東京府志料』に

は同村の製茶として一六貫(価額四〇円)との記載がある。これはあくまでも下土支田村を一例としたものであるが、他村についても右のような傾向にあったことは後に掲げる主要物産の表からも読みとれる。むしろ後には上練馬、上石神井、下石神井、谷原といった各村での産額が目立つところとなる。

藍もまた換金作物として重視されるに至ったが、これは上石神井、関、上土支田、下土支田の諸村が盛況であった。このほかに加工物産としては著名なたくあん漬けがあり、これは言うまでもなく、上・下練馬村を中心とする重要産業として昭和に至るまで定着し続けた。

以上は主に明治初期の頃の勧農政策との兼ねあいからいわゆる換金作物中心にみてきたのであるが、この間古くから続いていた穀物類や蔬菜類はどうであったか。桑や繭、茶あるいは藍などの生産が活発になるに従い穀物類はともかく蔬菜類についてはやはり減退の感はあったようである。ただ数字的に明らかにすることはほとんど困難であり、また明治中期以降からは再び蔬菜類は増えはじめ、明治末から大正にかけて全盛期を迎えるところから、一時的な傾向としておきたい。地域的な相違もあり、市域に近い練馬方面では大根を中心とする蔬菜類は終始盛況さを誇っており、石神井、大泉(村となるのは二四年以降)方面では大正頃まで養蚕が盛んであった。

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穀物類については明治初期から中期にかけての米の増産がほとんどの村で目立つ。明治四年の玉川上水分水(いわゆる田柄用水)の開通をはじめとする水路の拡張が行なわれ、諸方に田畑の開墾が進められた結果によるものと思われる。明治二三年の「禀申録」によれ

ば表7のような開墾状況が記されている。

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この表からは田畑別の区分が判明しないが、たとえば明治七・八年および二一~二三年頃の村別田畑面積を記した表8をみれば水田がほぼ軒並み増えている様子がわかる。米は元来農作物の主流であり、畑作物よりも安定した収穫が期待できるところから農民にとっては常に大きな関心事であったことにかわりはない。

以上明治期における農業の概況をみてきたが、こうした経緯の一端を数値で示せば表9、表<数2>10のようである。資料の性格からそれぞれに共通する物産も限られてはいるが、とりあえず参考として掲載するものである。

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第三節 田柄用水の開発
<本文>
用水の開さく

明治四年(一八七一)正月、田無、上保谷、関、上石神井、下石神井、谷原、田中、下土支田、上練馬、下練馬の一〇か村の村役人連名による一通の願書が当時の品川県に提出されている。新水路拡張にともなうものであった。書面によれば「田無村呑用水之義ハ玉川御上水より分水頂戴、同村一統水続き罷在難有仕合ニ奉存候」としながらも、諸国一般には田畑の開発が進んでいるが当村々では取りたてて申す程のことがなく、この度の増水願によって畑田成り(引水により畑を田にすること)がかなえばお上の利益にもなることであり、村々一同は畑田成りの場所などを図面にして提出し、分水拡張を願うというものである。

文面ではさらに分水拡張後の利益についていくつかの例があげられ、田無村と上保谷村では従来の分と合せて田方五〇町歩ほどはでき、当面の年貢にして三五九両二分余の増益が見込まれ、その後地味が豊かになって年貢の率が反当り二斗(当面は一斗で計算、従って二倍)ともなれば七四四両余の増となる。上石神井村ほか七か村にしても田方三〇町五反歩ばかりはでき、都合一〇か村での納米代金は一二〇〇両余の増益を生むであろうという。

冒頭で触れた田無村呑用水とは千川上水同様江戸時代に玉川上水から引水されていたもので、当初の取水口は現在の小平市喜平町と学園西町との境、西武多摩湖線が玉川上水と交わるあたりにあったものと推定されるが、現状はそこからさらに上水の北側に接して「新堀用水」と称する空堀が野火止用水まで達し、ある時期以降ここを流れる水もまた田無用水に注がれていた様子がわかるのである。明治一〇年代の地図には野火止用水から分れた同水路らしいものが記されている。

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それはともかくこの田無用水は現在西武多摩湖線の線路敷あたりから玉川上水を離れ、しばらく東へ走った後北東へ向きをかえ田無市内に至り、田無駅の北側に達している。もっとも元来の機能はすでに失われ、大半は屋敷地や道路下に取り込まれており、一部は下水道化されているが、痕跡を止めている個所もかなりある。この用水を使用していたのは野中新田(現小平市喜平町・同名の新田は青梅街道北側にもある)から田無村に至る地域の村々で、明治はじめまでは上保谷村(現保谷市)以東には確固とした水路は達していなかったのである。これを富士街道(目白通り)沿いに下土支田村に迂回させ、下練馬村地先で石神井川に落すという新たな用水開発への第一歩がここに印されたのである。書面が提出された時点ではすでに計画はほぼ決定をみていたようにも思われる。これがいわゆる田柄用水と呼ばれるものであるが、現在田無市本町地内にも同用水跡とみなされる水路敷が残されている。

練馬区域内の諸村では当時石神井川・白子川・中新井川という自然流水による河川(中新井川には江戸期に千川の水を引水)と、江戸時代に開かれた千川とが主要な水流であった。従って区域の水田はこれらの河川の流域に帯状に営まれていたのに過ぎない。このため畑作が主体となり、水利もおのずから天水に頼るという地域が大半を占めていた。特に石神井川と白子川との中間にある村々は地形上高台に位置していたこともあり、両川から引水することもできずにいた。用水としては窪地にたまる天水を利用するなどの工夫がこらされていたといわれる。また畑地の畔に細長い堀が掘られ、ここに水を溜めたともいわれる。こうした状況の中で行なわれた田柄用水の引水は地域の農家にとって重要な意味を持っていたのである。

この事実の背景には政府の水対策の問題と「殖産興業政策」につながる考え方とが布石としてあった。当時、玉川上水は東京への飲用水供給の一大動脈であり、これを田用水として使用するにはさまざまな制約が加えられていた。言うまでもな

く田に引水すればその水は飲用水として再び使用することはできず、またその分だけ水量も減ずることともなる。一方農民の側からすれば引水は必至であり、このため必ずしも公に認められた水路のみを使用していたとは限らない。そこで新政府は明治三年に民部省の所管として設置された土木司を通じ水路の管理を徹底させることとなった。以後玉川上水の水を使用しようとする村々は公に定められた水路以外での引水を禁じられ、そのかわり水量不足の地域に対しては新水路増設の許可を与える処置をとった。新水路の拡張は折から政府が打ち出そうとしていた「殖産興業政策」の面からみれば大いに奨励されてよいものであり、こうした風潮の中で多くの村々が新水路拡張を要望しはじめたのであった。工事にかかる費用や人夫の調達は関係する諸村で賄い、これにより発生するさまざまな問題についても多くは関係者同士で協力し解決してゆかなくてはならなかったにも関わらず、この当時に開かれたといわれる水路は決して少なくないのである。田柄用水もまたそうした内のひと筋であった。その名称については当時の文書に「玉川上水北側新井筋分水」と記されているのみで個有名詞化はまだ成されていない。「玉川上水北側新井筋」という呼称は玉川上水の北側に位置する諸村の中で同上水を利用する地域全体を指して使われていたのである。従って同筋分水は田柄用水以外にも幾筋かあり、それらとの混同を避けるため当稿では一般的に呼び習わされている「田柄用水」の名称を用いておくこととする。また後の文書には「田無町外八か村組合用水」と呼ばれ、中に「田柄田用水」と称しているものもある(これとは別に田柄地域には自然流水による小河川の存在が知られており、田柄川の名称はこれに由来するようである)。

さて、田柄用水は明治四年秋にはほぼ完成をみたようである。一〇月には表<数2>11に記す内容を盛り込んだ報告書が品川県に提出されている。田無および下練馬両村での人足数と費用が水路の延長の割には高い数値として目立つが、田無村では取水口の工事に多くの人員を要したはずであり、最も下流の地域に当る下練馬村では水路を深く掘るなどの工夫が強いられたためかと思われる。この用水によって見込まれていた畑田成りの実数は次のようであった。

<資料文>

田無村 二五町歩(在来分を含む

上保谷村 二五町歩(在来分を含む

関村 一町歩

上石神井村 二町五反歩

下石神井村 七町歩

田中村 四町歩

上練馬村 三町歩

下練馬村 四町歩

下土支田村 九町歩

図表を表示

なお谷原村については開さく願書に名を連ねてはいるが実際の対象には含まれていないようである。

用水利用の方法は各村内に堰を設け、利用期間を限って引水を行なう。その余の期間はこれを閉じ、より下流の地域への便宜をはかり、無駄な使用は極力避けるよう村々での協定が取りかわされていた。使用水量については田一町歩につき水積(取水口の面積)一坪七合(一坪は一寸四方)とされていた。また実際にこの水流を使用する者は水税納入の義務を負わされたのであった。水税徴収の事務および水路管理のために組合が設けられ、明治八年には正式な規約が定められたもののようである。

増水計画

こうして当初の田柄用水は一応の整備をみたのではあったが、結果としては必ずしも期待通りの実績が得られた訳ではなかった。特に下流に位置する下土支田村ではたえず水量不足に悩まされ、予定していた水田を満足

に潤すこともできなかった。明治七年二月付で同村戸長小島八郎右衛門から東京府知事宛てに出された文書にもその苦衷が述べられている。同村はもともと田が少なく難渋を強いられていたが、この度の分水により、上流の村々では通水が可能になった。にもかかわらず田中村を経て後は水流が滞り下土支田村内に流れ込んで来ない。そこで「只今之様子ニてハ見込ミ畑田成出来可仕程之水行無之義ニ奉存候、右ニ付別帳ヲ以申上候通リ多分之諸入費空敷損毛ニ相成連年丹精之甲斐無之候、因て此上水行潤沢畑田成開墾相成候様仕度此段奉申上候」というのである。しかしこの願いは容易に聞き届けられなかった上に、明治一〇年には東京市域での飲用水不足のため一時期的に用水の水積を半数に減じられるなどの処置をこおむった。同村では止むなく前々通りの天水に頼りながらこの後何度かの嘆願をくりかえしている。一五年には田中村から規定外の水を送り込んでもらい、また同じ頃上・下練馬村との間に水利用の協定を結ぶなど当時の水確保につとめた下土支田村の様子が同村の名主であった小島家の文書類からうかがえる。

こうした不都合な状況に解決の目途が立ちはじめたのは明治二〇年に至ってからであった。折しも板橋にあった火薬製造所では石神井川の水流を利用していたのであるが、年々水量不足となり、これを補うため田柄用水の拡張を指示するところとなったのである。加えて同じ板橋地域にある王子製紙と水車営業人四名から成る田柄用水増水の願書も提出され、幾分かの費用援助を申し入れている。その文頭には「右製紙会社及水車場之用水ハ是迄北豊島郡王子村外弐拾弐ヶ村田用水(石神井川)ニ付右各村員示談之上使用致来候処、過年ニ至リ該用水著ク減少其為メ屡々休業仕候事有之営業上甚タ差支候ニ付私共大ニ憂慮仕日夜水量増加之計画ニ苦心仕居候」と記され、水量不足の深刻さを訴えている。

計画の内容はこれまであった用水路に新たに他の用水の水を引き入れようとするものであった。この用水は当時の文書に従って表記すれば「玉川分水北側新井筋之内北多摩郡小川村大沼田新田野中新田柳久保新田用水流末」というものである。ここに記された大沼田新田とは現在の小平市大沼町あたりを言い、以下の新田はこれに隣接して東側に広がる地域である。柳久保新田の東に田無村があった。ちょうど青梅街道が小平市から田無市に入る一帯(主に北側)がこれに当る。そこでこ

の地域に流れ込んでいた用水としては一に小川用水があり、二に大沼田用水と呼ばれるものがある。

両水路とも江戸時代に開さくされていたが、現在小川用水路は先にも触れた玉川上水北側に設けられた新堀用水の小平市中島町地先小川橋から北東に向かい青梅街道に達する。ここで二流となり、一流は街道の北側に抜けてちょうど街道をはさむ形で東へ進む。そのまま同市天神町手前まで達したところで南側の水路は街道をくぐり北側に抜け、ここで再び一本となって小平駅付近まで北上するが(この間は現在暗渠)、これが大沼田用水上分と呼ばれ、以後数流に分れて大沼町を通過し田無市方面に向かう。その内の一本が田柄用水に通ずる水路に入っていた痕跡が最近まで残されていたという。

一方大沼田用水と称される水路敷はもう一本あり、それは田無用水の途中から分れ、青梅街道まで北上して街道手前で野中用水を東に分岐し、さらに街道を抜けて大沼町地内に至るもので、下分と呼ばれていた。この右二流のいずれか(あるいは両流末共)が新たな増水計画として組み込まれたものと推定される。

この計画は明治二〇年三月以降に水路予定地の地元住民との示談に入り、二一年一一月五日には工事落成の目途が立った旨の文書が前出の小島家に残されている。この工事にかかった費用総額は不明であるが、この内六五〇円を王子製紙他四名で拠出したようである。また水路組合から板橋火薬製造所に向けて何がしかの援助を願いたい旨の文書が提出されている。

しかし、増水計画はこれのみで終らず、二六年までの間にもう一度大がかりな工事が行なわれている。この時には王子製紙ほか五名の水利用者に加え王子村をはじめとする石神井川下流域の二三か村への用水補助を目的とし、従来の川筋拡張のみならず新たに新水路が掘られている。このとき新設された水路というのは「大沼田上分用水」を利用し、「野中新田南北二流并ニ柳窪新田飲用水」流末を田無町地内の橋場(現田無市本町六丁目西北端)で従来の水路に引き入れるためのものであった。現在見られる野中用水路は先に触れた大沼田用水(下分)から青梅街道南側で分れ、街道に沿って東に走り田無市境まで達している。これを橋場までつなぐためには一旦青梅街道の北側に迂回させる必要がある。青梅街道の北側に東京街道が走っているが、この街道に沿って橋場に至る水路が最近まで残されていたという。この水路跡は前回の増水計画のときに

新設されていたものであることがほぼ確実視され、従ってこの水路に誘導するまでの間が問題となるが、たまたま小平市と田無市の市境となっている青梅・東京両街道を結ぶ道路脇にも水路の一部が発見されているところから、これを新設したものとの推測ができる。また青梅街道のすぐ北側にも一本の水路跡があり、これが野中用水南北二流の内の北側筋と思われ、これも東京街道への水路に合流されたもののようである。従ってこれらの水路は東京街道で一本となり、田無地内橋場に至るが、この橋場は田無用水から田柄用水につづく水路の通り道ともなっており、東京街道沿いに流れてきた水路との合流地点となる。また青梅街道とも接し、以後街道の南北に沿って水流も分れ、北側を流れる分が田柄用水となる。ちなみに南側分は石神井川に落される。

このように前後二回にわたって行なわれた大規模な増水計画によって田柄用水の水系はほぼ整ったかに思われる。これを現存する用水路跡をもとに復原してみればおよそ図1のようなものとなる。今日なお判然としない部分が多く残されているが、とりあえず参考までに掲載しておくこととした。

また右の計画中第二回目の工事に要した費用の書き上げと思われる「小川村大沼田新田野中新田流末新規開掘方実費予算金額」と題する一通の書面が小島家に保存されており、その内容は次のようなものである。

<資料文>

測量費及び臨時諸費 二〇〇円

大沼田新田上分示談金 二〇〇円

小川村残水示談金 一五〇円

野中新田示談金 八五円

大沼田新田上下地元示談金 一〇〇円

野中新田二流地元示談金 一一〇円

田無町内約六〇〇間新規地元示談金 一二〇円

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新規築堤堀割土工費 五五〇円

田無町以下各村の水路拡張費 三五〇円

交際費 一五〇円

橋梁一〇か所新設費 一〇〇円

土木材料費 五〇円

 合計 二一六五円

        (文章表現は一部現代表記とした

これらの費用は関係者一同で分担支弁したことは言うまでもない。二六年九月には水路利用者間で新たな利用契約が行なわれている。当時の契約書からその内容を次に掲載しておくこととする。

<資料文>

契約書

一今般北多摩郡小平村大字大沼田上分用水残流ヲ先般田無町外八ケ村組合ト王子製紙会社外四名ニ於テ開堀シタル大沼田ヨリ田無組合用水ニ至ルノ新水路ニ引入レ田無町外八ケ村王子製紙会社外五名並ニ王子村外廿二ケ町村補助用水ト為スノ協儀相整大沼田ト契約結締候旨趣ニ基キ田無組合ト王子製紙会社外五名王子村外廿二ヶ町村トノ間トノ約定スルコト左ノ如シ

一大沼田ヨリ野中与右衛門組ヲ経テ田無町橋場ニ至ル新水路ノ修繕及川浚草払等ハ田無組合ト王子製紙会社外五名並ニ王子村廿二ヶ町村ノ負担タルニ付其費用割合ヲ左ノ如ク

一水路改良修繕費

実費拾分ノ六分五厘 田無町外八ヶ村負担

実費拾分ノ三分五厘 王子製紙会社外五名王子村外廿二ヶ町村負担

一草払浚方費

実費拾分ノ六 田無町外八ヶ村負担

実費拾分ノ四 王子製紙会社外五名王子村廿二ヶ町村負担

一水路一切ノ事件ハ各組合総代人協儀ノ上処スベキ事

一水上村々ニ於テハ勉メテ水行ニ注意シ流末ノ利益相計可申事

右之通約定候証トシテ証書二通ヲ製シ各総代人記名調印上為取替候也

明治廿六年九月 日

以後昭和に至るまで地域の田畑を潤し、幾つかの水車を回すこととなったこの田柄用水の開発がいかに農民にとって大きな喜びであったかが、現在の田柄四丁目の天祖神社入口に残る記念碑からもうかがえる。造立は明治二六年一一月のことであった。

<資料文>

上練馬村玉川上水分水紀念碑

玉川上水分水北側新井筋田無町外八村水路組合上練馬村故総代上野長左衛門君之男今総代傳五右衛門君来嘱余以不朽之文且謂曰我村内田柄神明之為地土肥而卑湿不適陸田者十数町歩雖瀦而為水田然時不免有旱損之虞他有蘆葦叢生殆荒廃者又数町歩有志者憂之会田無町近傍有引玉川上水於羽村之議乃賛同之遂請田無町外八村予定水田毎一町歩水積一坪七合之分水于官得无許実明治四年四月十二日也於是衆醵資日夜促工而開掘水路長七百聞及土功既竣開墾漸成適致東京市内飲用水之欠乏官乃更命減水積之半灌漑不如意人々想前途盖自淂无許至是七裘葛後数年得下石神井村水積二坪与北多摩郡数村之剩水遂無復後慮矣故

長左衛門君常留心水利周旋莫所不至令也頼其力永免旱損之憂荒地変為美田者数町歩其沢大矣是雖 聖代所使然亦非総代諸氏之労心与村民協和戮力所致而何是豈可不記以伝于後乎哉銘曰

  柄明之土兮何其沃有秧秀兮又青滋柄明之土兮

  何其腴有水灌兮玉流支利用生兮灌且秀伊水流

  兮人開眉嘻伊水流兮功亦偉

明治二十六年癸巳十一月

  練馬尋常高等小学校長五十嵐文太郎撰并書

画像を表示 <節>
第四節 蚕糸業の発展
<本文>
養蚕の景況

安政五年(一八五八)の横浜開港以来、生糸は貿易の主流を占めるところとなり、以前からの生産地はもちろんその周辺にまで多大な影響をおよぼした。東京近郊では八王子が早くからその名を知られており、ことに明治に至ってからは一連の殖産興業政策とも結びつきひときわ脚光を浴びることとなった。東京府内でも旧武家地跡に桑や茶の栽培を奨励するなど活発な動きがみられ、こうした機運の中で旧市域のみならず周辺郡部にも桑葉の生産や養蚕を営む農家が定着していった。

養蚕が発展する背景には一般の農家でも兼業として行なえるということのほか、やり方によっては他の農作物よりも好利潤を得られるという利点があったことも見逃せない。明治のはじめには市場は相当な活況を呈していたらしく、一部には粗

悪品を扱う中間業者も少なくなかったようである。明治五年二月二四日付の大蔵大輔から東京府へ宛てた次の通達からもその背景がうかがえる。

<資料文>

蚕種製造売買戒告

                                                                東京府

蚕種製造売買ノ儀ニ付テハ追々相触候儀モ有<漢文>レ之候処、商人共一己ノ利欲ニ走リ、元方ノ景状ヲモ解知セズシテ猥ニ外国人ヨリ多数ノ注文ヲ引受、蚕種出来ノ時ニ至リ、善悪ヲモ不選買取候ニ付、良好濫製ノ分相混シ、開港場ヘ輻輳致シ候ヨリ大ニ其声価ヲ減却シ、既ニ去未年○明治四年。ノ如キハ蚕種取扱ノ者共大略破産ノ姿ニ立至リ、其損害不<漢文>レ少候間、自今海外転出ノ分ハ勿論、蚕種売買致シ候者ハ、前以元方ヘ引合ヲ逐ケ、其数ヲ定メ置、猥ニ濫製ノ品売買不<漢文>レ致候様、屹度可<漢文>二相守<漢文>一候。万<漢文>一心得違ノ者於<漢文>レ有<漢文>レ之ハ、厳重ノ咎可<漢文>二申付<漢文>一候事。

右ノ趣管内無<漢文>二遺漏<漢文>一相触可<漢文>レ申事。

壬申○明治五年。二月廿四日                                         大蔵大輔 井上 馨

                                       (『東京市史稿』市街篇第五十二

生糸産業は先にも触れたように貿易を支える中心に位置し、日本の蚕種や生糸は海外にも広くその名を知られはじめていた。それだけ品質の低下は政府の恐れるところであった。翌六年六月東京府では次のような通知を各区戸長宛てに発し、ここに生糸製品の品質管理を目的とする「生糸改会社」なるものの設立をみた。

<資料文>

坤第九十号

                                                          区々  戸    長

生糸繭類等製造売買之儀ニ付、乾第八十五号同百五号同百卅五号ヲ以相達置候処、今般左之箇所於テ改会社取設候ニ付テハ、自今右商業之者、便宜ニ応シ各会社之改ヲ請、売買候様可<漢文>レ致事。

一、第壱大区十四小区小船町弐丁目

一、第八大区壱小区青山北町五丁目

一、第八大区八小区豊島郡下石神井村

右之趣市在区々無<漢文>レ洩可<漢文>二触知<漢文>一者也。

  明治六年六月廿八日

東京府知事 大久保一翁

『東京市史稿』市街篇第五十四

これより前の明治六年一月一〇日に「生糸改会社規則」が布告され、その第一条には「生糸之儀ハ国内売買海外輸出共、都而大蔵省より御下渡之結紙、其地方之生糸改会社おゐて製造人え分賦いたし候条、製造人は結紙え国所之名面を記し候押印いたし、提造又は髷長手造其余都而一ト結毎ニ結ひ用、其製造人押印無レ之品は売買致間敷事。但、改之節会社にて改済之押印可レ致事」と記され、その権限の大きさがしのばれるところである。文中「提造又は髷長手造」とあるのはひとたぐりの糸を一束にまとめた時の形状をいい、「結紙」とは一束の糸を束ねるのに用いた帯状の紙を言う。その紙の閉じ目に封印をしたのである。

このような権限を有する改会社の内一社が下石神井村に設立されたことについては、この地方が蚕糸業においてそれなりに無視できない一地域であったという事実を想起しない訳にはいかない。同村の景況は以下に述べるところであるが、その前に北豊島郡および今日の練馬区域内各村の養蚕の概況をみておくこととする。

表<数2>12は明治一三年時点における府下各郡の様子を示したものであるが、北豊島郡の繭産出量は他郡に比して多く、また養蚕家数の上でも高い数値を示している。もっとも一九五戸という戸数そのものはたとえば八王子近辺の郡村地とは比較にもならないが、東京府内では注目すべき地域としてみることはできる。北豊島郡は水田が少なく、畑地の多い地方として知ら

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れ、ことに西部方面に位置する練馬地域は練馬大根を中心とする畑作物を主としていた。こうした土地柄が養蚕とも結びつく条件ともなり、以後明治期を通して養蚕が急速に発展してゆくこととなった。

明治七年に編さんされた『東京府志料』によれば繭の生産高は、上石神井村で一〇石(価一四四円)、下石神井村で同じく一〇石(一一〇円)、以下上土支田村五石(五〇円)、関村三石二斗(三五円)、下支田村二石三斗(二六円)、竹下新田一石五斗(一五円)となっており、生糸については上石神井村の六貫目(価二〇〇円)という数値が上げられている。これらからも石神井方面に生糸の生産地域が形成されつつある様子が察せられる。この時点より一四、五年後には表<数2>13にみられるような活況を呈する訳である。表によれば上石神井村は繭の生産高はすでに一〇〇貫に達し、生糸については四〇〇貫を越えている。また下石神井・関両村もこれに次ぎ、他村を大きく引き離している。表中貫と石との表記の違いがまぎらわしいが、金額によっておよその見当はつく。

石神井村とその周辺

このように上・下石神井村を中心とする地域に展開する製糸業について、明治二三年の「禀申録」は次のように表記している。引用文中「本郡」とあるのは北豊島郡のことである。

<資料文>

生絲ノ沿革

其一 本郡ノ生絲ハ産額未タ巨額ヲ算出スルニ至ラス製絲家モ僅カニ七八十戸ニ止マリ概子西部各村多少ノ産額之レアルト雖モ何レモ僅少ニシテ見ルニ足ルヘキ程ノ沿革ナク独リ石神井村ノミ本郡内ニ冠タル所ニシテ稍々見ルヘキモノアリ抑モ同村ノ生絲ハ横浜開港前即チ今ヲ去ル五十有年以前天保年間ヨリ起リシト云フ蓋シ当時ハ品位ノ不良ナルノミナラス僅カニ一二ノ製造家ニ止マリ自用スルニ過キス其製法モ不完全ナリシカ降テ三十有余年来製絲スルモノ緩々歩ヲ進メ明治四五年ノ頃ヨリ製絲著名ノ群馬、長野等ノ諸県製絲業盛ンナルヲ聞キ一般大ニ人心ヲ鼓舞シ生絲家益増出スルニ至レリ而シテ他ニ販売漸ク進ムニ随ヒ悪弊生シテ良好ノ絲ヲ外部ニ出シ粗ナルヲ内部ニ隠シ或ハ結束ニ太キ元結ヲ用ユル等ノ事ナキニ非サレハ府庁ニ於テ深ク注意セラレシヨリ多少改良ノ実ヲ挙クルニ至レリト雖モ全ク之ヲ払フニ至ラス茲ニ於テカ本村ノ人本橋勝右ヱ門栗原仲右ヱ門等ハ夙

トニ生絲ノ不良ヲ憂ヒ之レカ改良ヲ図ラント協同一ノ製絲場ヲ設立シ年々輸出品四十梱余ヲ産出シ製絲業漸ク発達スルニ随ヒ工場モ亦狭隘ヲ告ケ未タ充分改良進歩ヲ計ルニ足ラサルヲ以テ更ニ一ノ工場ヲ設立シ年々輸出絲二百有余梱ヲ産出スルニ至ラシメ明治二十年蚕絲組合ヲ設ケ本橋勝右ヱ門其委員長トナリ経年本業ノ面目ヲ更メ悪弊ヲ一洗スルニ赴ケリ自来有志者相競ヒ製絲業ニ熱心従事シ今日ノ進歩ヲ致セリ

『明治中期産業運動資料』(「禀申録」

こうして北豊島郡中屈指の生糸生産地と目されるようになった上・下石神井村(明治二二年に石神井村となる)ではあるが、その歴史は必ずしも古くはない。特に注目されはじめたのは明治になってからであり、それ以前は主に婦女子の内職として行なわれていた趣きがある。特に男子はこれに携わらないものとする風習が一方にあったらしく、正業としての位置を占めるには至っていない。

明治に入って、時代の風潮とともに繭の生産という面から知られ始め、それも当初は単に産出量を誇っていたに過ぎない。製糸の面でも協同して生産に当るといった動きは一〇年代に至るまでなかったようである。一二年に上石神井村に職工五〇人を収容する大規模な製糸工場がはじめて誕生することとなったが、この前後から製糸・養蚕それぞれにおける品質改良のためのさまざまな努力が試みられている。養蚕教師の招へい、集談会の開設、あるいは有志による談話会等がひんぱんに行なわれたという。二〇年には養蚕業者による組合もでき、これが集談会の主催を務めたもののようである。一方桑の栽培も盛んになった。先に引用した「禀申録」によれば、「桑樹ノ種類ハ古来ヨリ節曲 九紋龍 十文字 ヲシウド等ニシテヲシウドハ最モ多カリシカ近来蠶業ノ進ムニ従ヒ給桑ニ適セサルモノトシテ漸次減少シ 十文字ハ年々栽培スルモノ多シ 概子当地(石神井村・筆者注)ノ給桑ハ以上数種ニ過キザルガ如ト雖モ蠶業ノ進ムニ随ヒ各種ノ桑苗栽培スルモノ年々歳々大ニ増加スルノ状況ナリ」と記され、桑栽培の一端をうかがうことができる。

明治一〇年代にはいわゆる勧農政策がそれまであった洋化一辺倒の姿勢を改め、日本の農業の独自性を盛り込んでゆこう

とする方針から新たな展開をみようとしていた頃である。一〇年には全国からの物産を一堂に集めた内国勧業博覧会の第一回目が東京で開催されている。第二回目の開催を迎えた一四年には全国農談会が開催され、以後地方においても随時行なわれてゆく。また一方では物産の品評会である共進会が開かれるようになり、一二年には「生糸繭茶共進会」の発足をみ、養蚕あるいは製糸家への大きな刺激となった。共進会については後節で改めて触れるが、このような風潮の中で上・下石神井村とその周辺の養蚕・製糸業は一層活発さを加えていったのである。

明治一八年一〇月二九日に渡辺東京府知事が府下巡見中上土支田村を訪れた時の記録に次のような一節がある。

<資料文>

田畑ノ比例畑多シ。養蚕ハ三四年来余程開ケ、人民モ追々勉強シテ之ニ従事ス。一旦此業ニ就クトキハ、其利益米麦ノ上ニアルヲ感シ年々増殖スル場合ナリ。蚕種ハ信州辺ヨリ来ル。又間ニハ土地ニテ製スルモノモアリ。三五年以前ハ村内ニテ飼養スルハ四五枚位ナリシカ、目今五拾枚位掃立ルコトトハナレリ。其販売方ハ繭ニテ売却スルモアリ又製糸ニテ売払フアリ。繭ニテ売ルモノハ村内甲乙互ニ之ヲ取引スルコトアリ。製糸ハ八王子辺ヨリ商人来リテ之ヲ買集ム。村内ニ繭并ニ桑ヲ売買スル場所即チ市場ノ如キモノアリ。従前共進会等ニ出品セシモノモアリ。

明治二二年(一八八九)の町村制施行によって上土支田村は石神井村に編入され、さらに二四年には大泉村の一部となるが、ここでは上・下石神井村に隣接する一地域の景況として捉えておきたい。

興就社

明治一二年三月、上石神井村一九三三番地に栗原仲右衛門、本橋勝右衛門らの手によって資本金一万円の器械製糸所「興就社」が設立された。その経緯については先にも引用した「禀申録」の中に詳しく記されている。その部分を左に転載しておく。

<資料文>

明治十二年ニ至テ同村栗原仲右ヱ門、本橋勝右ヱ門ノ二名協同興就社ト称スル五十人採リノ製絲場ヲ創起セリ其絲ヲ横浜販売ニナシ予想ノ如ク利益アリキ然ルニ明治十四年ニ至リ本橋勝右ヱ門益製絲改良ニ熱心シ興就社ヲ栗原仲右ヱ門ニ譲リ更ニ資本金一万二千円余ヲ擲チ三万円ヲ募集シ百二十人取リノ製絲場ヲ元下石神井村ニ設立シ東京同潤社ト称シ以テ製絲業ニ従事セシカ開業後四ヶ月ニシ

テ暴風ノ為メ工場ヲ破壊セラレ再ヒ建築シ製絲ニ勉強シ多ク横浜ニ販売シ又ハ直輸ヲ試ミシニ幸ニ海外ノ好評ヲ受クル等ノ事アリシカ工場再築ノ為メ大ニ冗費ヲ要セシヲ以テ十五年資本七万円ノ増額募集ノ企テアリシモ行ハレス資本ヲシテ益薄弱ナラシメ加フルニ海外為替相場ノ変動等アリテ損耗スル事少ナカラザルヲ以テ明治十六年六月休業シ終ニ明治十七年二月解社ト相決シタリ更ニ同年七月該社跡構内ニ於テ力工舎ト称シ朝比奈英太郎、星野長太郎、本橋勝右ヱ門等合併資金ノ約ヲナシ三谷宗兵衛事務担当ニシテ生絲ノ転繰ヲナセシモ予想ノ如クナラサルニヨリ僅カニ一カ年余リニシテ廃業シ降テ明治廿一年ニ至リ其構内ヲ使用シ朝比奈英太郎、小池和四郎ノ事務担当ヲ以テ玉川製絲所ト称シ製絲業ヲ剏メ以来該業ニ従事セリ然ルニ興就社ニ於テハ明治十三年ノ頃ヨリ海外直輸ヲナシタルニ横浜ヨリモ三割余リノ高価ヲ占メ随テ外国機屋ノ好評ヲ得ルニ及ヒ益改良ニ基キ地方有志者相競ヒ当業ニ熱心シ大ニ好結果ヲ見ルニ至リシモ興就社ハ資本ノ薄キ且海外為替相場其他種々ノ関係ヨリ明治廿一年ノ末ニ営業ヲ見合セリ

『明治中期産業運動資料』(「禀申録」

当時資本金一万円以上の民営の工場といえば東京府全体でもわずかに三十社程度に過ぎず、これからも設立当初の興就社の意気込みといったものが感じられる。株数一〇〇株、一株一〇〇円という株式会社であった。工夫工女合わせて五五人を擁していた(明治一八年時点)当工場はわずか一〇年足らずで廃業の止むなきに至る訳であるが、この間に地元の蚕糸業発展へのひとつの布石となったことは否めない。品種改良、組合の設立、および地元同業者を糾合して行なわれた製品の協同出荷など、興就社の功績とみなされる事跡を諸資料の片鱗にうかがうことができる。

このうち品種改良については「稟申録」中にその一例があり、一般では繭一升から七匁五分(一石について七五〇目)の糸を産するところ、石神井村(豊田勝五郎名)では一一匁(一石につき一貫一〇〇目)を産するとしている。この差を金額にすれば一七円五銭七厘の開きがあるとする。また興就社自体の生糸の価格は、石神井村地方でも群を抜き、同村平均一〇〇斤につき五四二円に対し、六九五円という評価を得ている。

このように石神井村の蚕糸業の一中心となり得た興就社は開設当初より周囲の期待を集めていた。当時政府の手によって

進められていた一連の勧農政策のひとつに「生糸繭茶共進会」の設立があった。一二年五月一九日に「生糸繭茶共進会規則」が布達されたが、その第一条には「共進会ハ平素各人ノ産製スル同種ノ物品ヲ一場ニ蒐列シ、以テ製産人ノ勉否製産品ノ優劣ヲ照合審査公定シ、乃チ邦家ニ益スル優等ノモノヲ褒賞シ、他ノ一般ヲシテ相共ニ益其業務ヲ競ヒ、其製産ヲ精且大ナラシムルニアルナリ」との目的がうたわれ、要するに内国勧業博覧会を開催する一方でより効果的に勧業の実をあげようとしたところに大きなねらいがあった。第一回目の出品は生糸繭については同年九月一六日から三〇日までの間に会場に届けられ、審査を受けたが、この中に興就社も入っていた。のみならず養蚕功績者として推せんされるに至ったのである。その理由は次に掲げる資料からも明らかなように会社設立そのものに対する激励らしく受け取られる。なお興就社のほかにも二、三の名があげられているが、ここでは割愛した。また当資料では六月一〇日をもって創業日としている。発起人の住所も下石神井村と表記されているが、会社所在地は上石神井村一九三三番地と記された資料が複数点あるので、当稿ではこれに従っておくことにする。

<資料文>

明治十二年十一月十七日出、判決済

知事 書記官 印 勧業課印

兼て勧農商務両局長ヨリ照会相成居候生糸繭共進会出品者中其業務ニ付功績有レ之者履歴書送達方之義、共進会事務掛リ別紙之通申越候間、回答親展書共草按左ニ取調相伺候也。

興就社

此社ノ発起タル、北豊島郡下石神井村本橋勝右衛門栗原仲右衛門ナル両豪農ノ経営スル所ニ繋ル。抑石神井ノ地タルヤ我府下最遠僻ノ地ニシテ最モ瘠薄ノ土ナリ。故ニ農苦シンテ産挙ラス。近時八王子地方ヨリ漸々養蚕ノ道伝播ストイヘトモ未タ多キニ至ラス。故ニ猶養蚕ノ利益不レ尠ヲ以二家大ニ奮励シ、為メニ此道ヲ拡張シ衆ニ利セント、則共ニ金ヲ<外字 alt="抛">〓チ生糸業ノ一社ヲ起スニ至ル、実ニ本年六月十日ナリ。然レトモ未タ日浅キカ故ニ繅糸精良ナラサルヘシトイヘトモ、私立ヲ以テ該業ヲ起スハ則チ府下ノ先鞭ニシテ、其意

志モ亦感スベキモノト謂フヘシ。

――明治十二年回議録農事

『東京市史稿』市街篇第六十三

営業を停止する三年前の明治一八年一〇月に先にも触れた渡辺府知事の府下巡見があったが、この時府知事は興就社を尋ねている。その折の記録を左に掲載し、この項を終えたい。

<資料文>

夫ヨリ興就社製糸場ニ至ル。此場ハ明治十二年ノ創立ニシテ爾来引続営業ス。寒中ノ外休業スルコトナシ。繭一升ニ付平均製糸八匁ヲ得ル。生繭ノ時節ハ九匁十匁ニ上ルコトアリ。工女ハ食料ヲ社ニテ支弁シ、一ケ月々給最上ハ三円五拾銭、下ハ壱円五拾銭ナリ。最モ不熟練ノ者ハ、壱円ヲ給スルモアリ。食料ハ一人平均凡ソ六七銭ヲ要ス。故ニ上等ノ工女ニテ一日一人拾七八銭ヲ要スル計算ナリ。目下工女五拾人アリ。製糸ニ使用ノ蒸気器械ハ五馬力ヲ有シ、一日松薪三拾壱二把ヲ要ス。此相場目今弐拾把ニテ壱円五拾銭位ナリ。繭ノ相場ハ壱円ニ付弐百匁、升ニシテ六升程ナリ。是ハ生繭ノ節ニテ、当今ハ四升五合位ナリ。製糸ノ相場目今五百枚位、故ニ一円ニ三拾三匁五分ニ当ル。其利益上ヲ計算スルトキハ、夏ノ繭ハ相当利益アレトモ当今ノ繭ニテハ却テ不利ナリ。又一駄ノ糸売捌済迄ニ要スル入費ハ五百円ナリ。外ニ売口銭トシテ千円ニ対シ拾円ヲ要ス。又生糸一個ノ売代金弐百七十円程ナレハ壱駄ハ即チ千百円程ニ相当ス。該社資本ハ最初金壱万円ナリシガ建築等ノ為メ費用シ、当時運転資本ハ四千円程ナリ。曩ニハ維持困難ノ為メ休業セントセシモ工女ノ困難モアリ、旁労働時間ヲ増シ休業セザルコトトシ、二十日程以前ヨリ朝ハ四時ヨリ始業、タハ点燈シテ従事スルコトトセシヨシ。工女ハ近村ノモノナシ。皆東京中ノ辺鄙ノ場所ヨリ来ル。近村ノ者来ラサルハ婚嫁ノ後業ヲ為ス能ハズトノ故ヲ以テナリ。

養蚕諸相

興就社が事実上倒産して以後も石神井村を中心とする蚕糸業は関東大震災の頃まで重要産業として定着していたようである。大正七年(一九一八)に発行された『東京府北豊島郡誌』には同郡の養蚕の概況として次のように記されている。

<資料文>

【蚕業】本郡の養蚕は今を去る六十年己前に始まれりと云ふ、而て当時の養蚕なるものは、飼育其宜しきを得ず、蚕種又撰択に勉め

ず、殆んど児戯に類するの感ありしなり、宜なる哉要する処の桑葉は、田圃の畦畔に野生したるものを摘採するに過ぎざりし、然るに機運は此の重要なる物産の発達を速成し、蚕種を撰み、飼育の方法を研究し、漸次改進し来り、其収穫年々敢て不同を来たさず、加ふるに近年農家労力分配上其利益少からざるを認め、郡内西部到る処蚕児を飼育せざるなきに至れり、就中石神井、大泉の二村は其巨擘なるものなり、左に養蚕収穫表を掲げて参考とす。

種別 飼育戸数 掃立枚数 改繭量 価格

枚 斗 円

春蚕 八八一 一、八四五 一、八七八・〇 七六、四〇九

夏蚕 二一 二五 二〇・五 五三二

秋蚕 八二一 三、七五六 九六二・一 三二、二二二

計 一、七二三 五、六二六 (1)三、〇九四・五 (2)一一六、九一三

注:(1)は二八六〇・六斗

(2)は一〇九、一六三円の誤りか。

一方ほぼ同時期に編さんされている『石神井村誌』には石神井村の養蚕について次のような数値があげられている。

<資料文>

種類 飼育戸数 掃立枚数 収穫高 価格

枚 円

春蚕 四六二 六七〇 五四七石三斗 一七、三七二

秋蚕 三八五 八五〇 七五〇石四斗 二三、〇七四

計 八四七 一、五二〇 一、二九七石七斗 四〇、四四六

右の合計数値は便宜上筆者が書き添えたものであるが、この合計数値はまた『東京府北豊島郡誌』中に掲載されており、従って両書の基本となっている資料は恐らく同一のものであろうと推測されるところである。『石神井村誌』には「大正四年七月八日調べ」とうたわれている。そこで正確を失する恐れはあるが、この両書の数字を並べてみれば北豊島郡中における石神井の占める位置はおよそ見当がつく。このように明治から大正に至るまで府下蚕糸業の一中心たりえた石神井村ではあったが、こうした産業が成立するにはそれなりの仕組みが背景になくてはならない。現在のところ資料に乏しく、要領を

得ないきらいはあるが、資料の充実は今後の研究に待つこととして、ここではおよその概要を記すに止める。

まず蚕種さんたねの入手経路であるが、これは群馬県あるいは長野県から買い入れることが多かったという記事が諸種の資料にみえる。繭売買については市場の立つこともあり、また顔なじみとなっている中間業者と直接に売買交渉するなど、収繭期には盛んに行なわれたという。売買の基準としては桝目と貫目の両様があったと「稟申録」にはみえる。諸資料に石高と貫目それぞれの表記が入り乱れて使われていることからも推察されるところである。

次に糸の場合はどうであったか。これは先にも引用した渡辺府知事の巡見記録中にも多少触れられており、「禀申録」その他の資料類からも散見されるところであるが、石神井村方面は産額が多いところから市場が立ち、中間業者は主に八王子あるいは田無地方から入り込んでいる。中間業者と生産者との間の取り引きはその都度現金でも行なわれていたが、信頼関係がはっきりしている間柄ではある程度まとまったところで弁済するという「後勘定」の習慣もあったようである。興就社が健在であった頃には同業者による共同販売が行なわれたが、同社倒産の後は再び個別販売に切り替えられたという。

販売ルートには海外向けのものと国内の各地方向けのものとの二様があり、海外向けの場合には単価は良かったが支払いが遅れがちであったといい、国内販売の場合には単価は安かったが換金は早いとされ、生産者にとってもこれは大きな関心事であったと思われる。もっとも海外向けには梱包その他に要する費用も相応にかかり、一概に高利潤だったとは言えないと記すものもある。

さて、製糸業はそこで働く人々の事を度外視しては考えられないのであるが、工女あるいは女工と呼ばれていた人たちのことについて、多少触れておくことにする。先に「興就社」の項で引用した渡辺府知事の巡見記録の中に、興就社で働く工女の処遇が触れられてあった。それによれば上級の工女の一か月の給料三円五〇銭、未熟練者の場合には一円という者もあったと記されている。もっとも食事は同社で支給したといい、これが一食につキ六、七銭と計算されている。一日にして一七、八銭。一か月三〇日とすればこの費用は五円一〇銭から五円四〇銭の間となる。つまり上級の工女で給料として支給さ

れる金額は彼女の一か月分の食費にも満たないものであったことになるが、これが当時の一般的な傾向である点は諸資料からも明らかである。『東京市史稿』の中には明治一五年時点の関村近傍の「女工賃銭」として一日に付き上等二〇銭、中等一五銭、下等一〇銭という表記が見える。また「禀申録」の北豊島郡中にある次のような数値も参考の一助になるかと思う。

種別
器械坐繰器械坐繰器械坐繰
月給 四四五〇銭 四円 三円 二円八〇銭 一円五〇銭 一円四〇銭
日給 日の長い時 二〇銭 一五銭 一五銭 一二銭 八銭 七銭
日の短い時 一五銭 一二銭 一〇銭 八銭 五銭 五銭
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表中「日の長い時」というのは夏場をさし、時間は午前五時より午後七時まで、「日の短い時」とは冬場で午前七時より午後五時までの労働時間の日をいう。いずれにしろ、今日の感覚からすればおよそ常識を越えた条件であった。このような条件下に雇用された工女の大半は地方からの雇い入れであり、地元の子女はほとんど対象外であったという。しかし「座繰」については地元の子女もこれに当ったといわれ、その場合には賃金もやや高かったという。

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また繭から糸を取るためには中で眠っている蚕を殺さねばならない。この方法として蒸気で蒸すやり方と、火力を用いる方法と、さらには天日に曝す、この三様が行なわれたようである。

蚕を育てるのもまた重要な一部門であった。その餌となる桑葉の生産が重視されるところでもある。次に明治一五年時点の関村近傍における桑葉相場を参考までに掲げておく(表<数2>14)。

最後になったが、当地に蚕糸業が発展した陰には興就社のみならず、その他の団体や個人のたゆまぬ努力があったことは今さらこと

わるまでもなかろう。『東京府北豊島郡誌』の中には八方久次郎の名が製糸場経営者としてあげられており、石神井台一―一五には養蚕功労者田島鉄平の碑がある。明治後期から大正にかけての石神井村の養蚕に多大な影響をおよぼしたといわれる彼をたたえる碑文をここに掲載しておくことにする。

<資料文 type="610">

  故田島鉄平君之碑(※)

君諱鉄平源姓田島氏、群馬県北甘楽郡一宮町田島人、為蚕業泰斗、以安政六年五月十七日生、父曰栄吉、母井上氏、君其三子也。家世業稼穡、称良右衛門、其先出干新田時兼七子田島経国、其子孫以勤王顕矣。君幼而出藍、夙志蚕業、従妙義町佐藤孫三郎、一宮町吉田寿平治、専研鑽育蚕法。明治十年四月又就佐波郡嶋村栗原勘右衛門、学製種術、会西南之役起、応徴入高崎営所、転青山御所守衛、偶拝観皇后陛下躬親養蚕、感激不措矢、益尽瘁於斯業、既而帰郷、娶一宮町石井八十八四女蝶子而成家焉。爾来遍訪以蚕業著之地、探究其蘊奥、尋入富岡製糸場、又従赤城山麓星野長太郎、修製糸以資養蚕、千挫不撓、能得其玄妙矣。三十一年会田中杢右衛門、以蚕況視察、至上毛、君乃相見於此、被聘遂移干武蔵国北豊嶋郡石神井村、黽勉事育蚕、有志助之、名声益揚矣。即興豊産社、挙為社長、竣蚕室之工、以示其範、東馳西騖、日夜教育法、授秘訣、一府三県社員殆三千。大正五年十一月移檄各県、開蚕業大会於府中町高安寺、来会者無慮千五百、攻究蚕政其後開会数次、且著蚕書、啓沃指導、遠近請益者頗多矣。既而罹病療養数月遂不起、七年二月十三日歿、享年六十。天何奪君之速也、可謂殉於斯業者、誰不悼惜哉。乃以社葬、痙干三宝寺瑩域、会者如堵。君有四男三女、長千八九克継父之道、可以為二世鉄平矣。頃社員胥議、欲建碑以頌君之徳之功、幷鐫社員蚕友姓名於其陰、以伝諸不朽且係以銘、銘曰

  斯業泰斗、挙世推君、生財酬国、何譲武勲

    大正八年歳次己未十月十三日

                                 石工師吉祥寺 勝俣春之助

                                 工事師戸 塚 荒井已之助

                            石神井青年会長 豊田利右衛門書

(※)表題は実際には碑文の上部に位置している.

<節>
第五節 練馬大根とたくあん漬け
<本文>
伝説の大根

江戸時代から練馬地域の代表的な蔬菜作物として当時のさまざまな書きものにもうたわれ、ことに明治以降になってその名を全国に広めた「練馬大根」も昭和五〇年代の後半を迎えた今日では半ば伝説上のものになろうとしている。その発祥についてはすでに早くから伝説化され、今日まで語りつがれてきたものがある。そのあらましは『東京府北豊島郡誌』中にも触れられており、次に引用するとおりである。

<資料文>

練馬大根往時徳川綱吉公右馬頭たりし時偶々脚気症を患ひ、医療効を奏せず、時の陰陽頭をして、トせしめしに、城の西北に方り、馬の字を附する地を択び、転養するに若かずと、依て地を下練馬村にトして、殿舎を建て、療養せしに、病漸次に癒え、徒然を慰むるため、蘿蔔の種子を尾張に求め、試みに字桜台の地に栽培せしむ。結果良好にして、量三貫匁、長さ四尺余の大根を得たり。公病癒えて帰城するや。旧家大木金兵衛に培養を命じ、爾来年々献上せしめ、東海寺の僧沢庵をして、貯蔵の法を講ぜしむ。沢庵上意を奉じ、塩と米糠を混じて漬物となす。其味甚だ良く且つ貯蔵に適す。村民之に傚ひ、年々数千樽を出し、上練馬赤塚志村上板橋等、附近各村の産額亦大に加はるに及び、名声次第に聞え、販路益々拡まり、今日に於ては、内地は勿論、清韓及び遠く米国に輸出するに至れり。

もっとも昭和一五年、当時の練馬漬物組合の手によって建てられた「練馬大根碑」には大根栽培を命じられたのは上練馬村の百姓又六と表記されている。参考のため次にその一節を掲載しておきたい。

<資料文>

練馬大根は、由来甚だ久しく、徳川五代将軍綱吉が館林城主右馬頭たりし時、宮重の種子を尾張に取り、上練馬の百姓又六に与へて栽培せしむるに起ると云ふ、文献散逸して拠るべきもの乏しと雖とも、寛文中、綱吉が再次練馬に来遊せしは史籍に載せられ、当時の御殿阯なるもの今に存するを思へば、伝説に基く所ありて直に斥くべきにあらず、爾来地味に適して栽培に努めしより久しからずして優秀なる品種を作り、練馬大根の称を得て主要物産という、疾く寛政の頃には宮重を凌きて日本一の推賞を蒙るに至れり

これら伝説の真偽については早くから論議されてもいるが、おおむね次のような諸点から無理が目立つようである。第一に沢庵和尚は江戸初期の頃の人で綱吉とは時代が合わない。さらに大根の貯蔵法の一種であるたくあん漬けの歴史は綱吉以前に遡るといわれる。また、『練馬農業協同組合史』には種苗研究家森健太郎の見解を紹介しているが、その中に大根の遺伝的な面からの考察があり、それによれば伝説の大根が尾張の宮重大根から来ているとすれば後の練馬系大根にその遺伝的な特徴が現われていなければならない、しかし実際には影響が認められないとする。練馬系大根はむしろ北支那系のものの特徴を備えており、日本に北支那系の大根が入りはじめるのは八代将軍吉宗の時代であるという。吉宗は青木昆陽にカンショの栽培を命ずるなどさまざまな作物の試作を行なったことでも知られているが、大根の改良もこのころから盛んなものとなる。

百姓又六の名は安永年間(一七七二~一七八一)の『武蔵演路』中にも優秀な練馬大根の栽培者として登場するが、無論綱吉との関係については不明である。因みに同書には又六の栽培した大根は一尺八寸(約六〇㎝)あったと記され、その後の練馬尻細大根(たくあん潰け用)の標準の長さと一致している。また同書は練馬大根は日本一の大根であると記し、練馬大根とは練馬地方で作られている各種の大根の総称であるとする。その中に「ハタナ大根」と称すものがあって、これは相模の波多野から移入されたものだという。その地方での大根との関連を研究する余地があるのかもしれない。

さて、伝説は伝説として練馬地方での大根栽培がすでに江戸時代の頃から四囲に知れわたっていたことは『武蔵演路』の記事からもうかがえるところである。当時の練馬地域の農民はたくあん漬けの注文を江戸市中の人々から受け、これを馬に

積んで運んだといわれる。因みにこのたくあん漬けの発祥については沢庵和尚と関連させて言い伝えられている伝説が別にある。文化二年(一八〇五)頃までの見聞をまとめたものといわれる『耳袋』から次に引用しておくこととする。

<資料文>

沢庵漬の事

公事くじによりて品川東海寺へ致り、老僧の案内にて沢庵禅師の墳墓を徘徊せしに、かの老僧、禅師の事物語のついでに、世に沢庵漬と申す事は、東海寺にてはたくわえ漬と唱え来り候よし。大猷院様(将軍家光)品川御成りにて、東海寺にて御膳召上がられ候節、何ぞ珍らしき物献じ候よう御好みの折から、「禅刹何も珍物これなく、たくわえ漬の香物あり」とて香物を沢庵より献じければ、「貯え漬にてはなし。沢庵漬なり」との上意にて、殊のほか御賞美ありしゆえ、当時東海寺の代官役をなしける橋本安左衛門が先祖、日々御城御台所へ香の物を、青貝にて粗末なる塗りの重箱に入れて持参相納めけるよし。「今に安左衛門が家に、右重箱は重宝として所持せし」と、かの老僧のかたりはべる。

上・下練馬村

練馬地方での大根栽培がさらに盛況なものとなるのは明治に至ってからであった。ことにたくあん漬けの需要は明治半ば以降に急増したといわれる。市域での市街化による需要者の増加に加えて交通の発達にともない地方への普及が進んだことなどが理由としてあげられよう。また古老談には当時の大口需要者として軍隊・学校・病院などがあげられているが、ことに軍隊への納入は大がかりに行なわれたようである。

それでは実際に当時の練馬区域内の各村々ではどのくらいの大根が作られていたのであろうか。そのあらましをみておきたい。

表<数2>15は明治七年(一八七四)の『東京府志料』中にみられる村別の大根生産高である。表中単に「大根」とあるのは生食あるいは煮食用のものと思われる。「干し大根」と表示されたものがたくあん漬け用の大根である。一見して明らかなように上練馬および下練馬の両村の生産高は群を抜いている。表中一駄がどの程度の分量か正確にはわからないが、因みに同じ府志料中に江古田村での「大根」生産高として一一万五〇〇〇本の価額一九一円と記されているところから、この本数と価

額との割合いを便宜上当てはめてみれば、上練馬村では干し大根を除いた「大根」だけで七万三〇〇〇本余、下練馬村では同じく八万八〇〇〇本程度ということになろうか。これに数倍する干し大根の分量を加えれば夥しい数値になる。もっとも大根の価額は種類や土地柄によっても異なり、右にあげた数値はあくまでも一つの目安である。『東京府志料』では「大根」、「干し大根」いずれも下練馬村の方が数量は多いのであるが、これより十数年後の明治二一・二二年調査による「北豊島郡町村区域戸口資力調査」によれば上練馬村の「大根」が二五万本(価額一〇〇〇円)に対して下練馬村では三万本(同一二〇円)、「干し大根」は上練馬村六五万本(同二六〇〇円)に対して下練馬村では七万五〇〇〇本(同三〇〇円)とその位置が逆転しているかにみえる。この年のみの特徴によるものか、何らかの傾向が生じはじめていたものかよく分らないが、あるいは明治末から大正にかけてたくあん漬けの工場が多くできたのは上練馬村であったことに関連しているものかもしれない。

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これより以前の明治一四年の『東京府下農事要覧』中に紹介されている大根も上練馬村のものであった。同書は当時の物産について、特に盛んであった地域のいわゆる篤農家からその栽培法を中心として聞きだしたものを東京府がとりまとめたものである。大根栽培については後程改めて触れるが、とりあえず同書の記事を次に引用しておくこととする。

<資料文>

                                                         北豊島郡

                                                          上練馬村

 ○蘿蔔ダイコン 大長根細 方言秋ツマリ大根

蒔着并採収

 夏土用明ケ十日程ニ播種十二月迄ニ採収

培養并施糞

 六七月中畑ヲ深ク耕シ置キ播種前又耕シ畦ノ巾二尺ホトニ繩ニテ土へ筋ヲ付方言縄スリト云其線ヲ踏ム足跡ノ間凡一尺五寸方言足コブミと云積肥ヲ一反歩ニ凡十三荷ヲ施藁の腐熟人糞糠藁灰ヲ調和シタル也或ハ干〓ヲ用ルモヨシ土ヲ少シカケ其脇へ凡種トウブ粒許ヲ捻リ蒔種肥ニ接スレハ蘿蔔ノ根ニ割レヲ生ス心ヲ用ヘシ肥種凡一反ニ株数カブノカズ三千五百多キハ四千トス播種ヨリ五六日許ヲ経テ発生ス夫ヨリ凡廿日ヲ経テ一株エ一本ヲ残シ間引コレヲ揉大根ト唱ヘ販売ス根本へ手ニテ土ヲヨセカケ苗ノ動カサルヤウニナシ置四五日経テ引肥ヲ施ス下水ト人糞ヲ和シタルモノナリ但積肥ニシテ搾粕ヲ入ルモヨシ十一月ヨリ漸次シタイニ抜採ル種ヲ採ニハ冬至頃抜取リタルヲ別ノ畑へ横ニ植着ケ寒前ニ施糞シ水肥ニテモ積肥ニテモ適宜春ニ至リ八十八夜ニ花咲キ梅雨前ニ採収シ釣リ置テ乾曝シ実ヲ揉落シ又ヨク乾テ貯フ

 ○九日蘿蔔

蒔着并採収

 秋蘿蔔ヨリ十日早ク播種凡夏土用ニ五日カケテ蒔ク九月下旬ニ採収

培養并施糞

 秋蘿蔔ト同シ

 ○二年子蘿蔔 三月大根トモ云

蒔着并採収

 年ヲ越ル故ニ二年子ト云秋彼岸ニ播種翌年三月採収

培養并施糞

 畦ヲ深クキリテ播種肥料其他秋蘿蔔ニ同シ

 ○夏蘿蔔

蒔着并採収

 八十八夜ヨリ廿日前ニ播種七月採収又早キハ三月十八日頃ニ蒔遅キハ五月十五日頃ニモ蒔随意ナリ

培養并施糞

 秋蘿蔔ト同シ

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またたくあん漬けについては前出の『東京府志料』中に表<数2>16のような数値があげられている。上・下練馬村に次いで中新井村の数値も目につくところである。因みに当時の米の価額は一石当り約四円であった。これによって試算すれば下練馬村の九〇〇円という産額は米二二五石分に相当し、以下同じように上練馬村では一八七石余、中新井村では一七〇石という米に相当する。この頃の中新井村での米の生産高は一八五石余であったから、同村では米に匹敵するほどの価額をたくあん漬けから得ていたことになるのである。

大根最盛期

こうした大根生産は明治から大正に入るころには上・下練馬村に関わらず練馬地域内の各村で盛んに栽培されることとなる。同地域は北豊島郡の西部に位置し、ようやく郡東端部に都市化の波が訪れようとしていたこのころなお純農村としての面目を保ち、加えて都市最近郊に位置する農業地帯として注目されるところとなった。より新鮮なものを要求される蔬菜類の栽培に力が入れられ、大根栽培にも拍車がかかった訳である。その上たくあん漬けの需要も高まり、上練馬村などにはたくあん漬けを中心とする漬物加工場が急増したといわれる。専門の加工場では漬け方にも工夫をこらし、単に塩と糠だけに頼ったそれまでのたくあん漬けからは味わえないより美味なものを作り出そうとする試行錯誤が行なわれ、これがたくあん普及にもひと役買ったもののようである。

大正四年(一九一五)の『石神井村誌』には同村での大根作付面積は一〇九町歩と記され、生産高は一六三万五〇〇〇貫であった。当時の北豊島郡全域での作付面積は一三二四町六反七畝、生産高は一九八七万貫となっている(『北豊島郡誌』)。石神井村(旧上・下石神井・谷原・田中・関・竹下新田)一村でほぼ一割近くの生産高を誇っていたことになる。ちなみに北豊島郡中の大根生産高は蔬菜類では筆頭にあげられている。

昭和に至ってからもなお練馬区域内での大根栽培が衰えていなかったことは、八年の『中新井村誌』中に同村の大根として、作付面積八〇町歩、生産高九六万貫と記されていることからも明らかである。もっとも数値は昭和七年以前のものと思われる。八年は凶作であったことが伝えられている。

さて、こうして作られた大根はどのような過程で売りさばかれたものであろうか。たくあん漬けあるいはたくあん用の干し大根については後ほど触れることとして、ここでは生大根の出荷についてみておきたい。冬場での現金収入の対象として大根出荷は大きな関心事であり、それだけに生産者にとってはさまざまな苦労がともなったといわれる。

出荷先は東京市域内の市場であった。大正から昭和初期ころには秋葉原の神田分場、本所の江東分場をはじめとして、築地のいわゆる中央卸売市場も完成し、それまで山手方面に散在していた市場の統一整備が行なわれた。こうした諸々の市場に出荷された訳であるが、出荷方法は各農家の自力に任されていた。すなわち各農家では人力の荷車あるいは馬車などを利用してそれに大根を積んで市内の各市場まで搬入したのである。後には朝鮮牛による牛車も普及したというが、それまでの一般の農家では戸主自ら荷車を引き長い道程を往復したといい、そのエピソードが今日までさまざまな形で伝えられている。その一々について触れる余地が今はないが、出荷にともなう手順はどの農家もだいたい同じで、およそ次のとおりであった。

収穫した大根をすぐに出荷する場合には昼の間に水で洗い、よく水切りをして凍らないようにこもなどで覆っておく。水洗いする時にはすでに一束五本として葉の部分を結えてあり、これを夜中に荷車に積む。上練馬村の農家では午前二時頃に

家を出ると、九段の坂下あたりで夜明けを迎えたという。途中の目白坂は急坂でここにはいわゆる「立ちん坊」と呼ばれる者がおり、荷車の上り下りに手を貸していくばくかの賃銭をかせいでいた。目ざす市場には六時頃には着く。なじみの仲買い(場合によってはその時高く買ってくれそうな仲買いを選んで)に品物を渡し、多くの場合は仕切りと呼ばれる受取り書をもらってそのまま帰る。現金後払い方式であるが、中にはその場で現金に替えたい者もいる。この場合には市場での商取引きが済むまで待っていなければならなかった。仲買人への手数料は売上げの一割を支払い、残額が収入となった。

当時の市場では品物の取り扱い方の上から地域差が生じていたらしく、たとえば神田では一級品は売れたが、品質の劣るものは売れ残り、売れ残ったもの、あるいははじめから一級品として売る自信のないものについては京橋の方へ搬入したという古老の話が伝えられている。これを「捨てにゆく」と称したそうである。それはともかく出荷に要する時間は上練馬村あるいは下練馬村あたりからは往復六、七時間はかかったといわれ、帰りがけには市域の町家に寄り下肥をもらって(ある時期までは年間いくらという契約で買い上げたり、現物の野菜を届けたりしてその代償を支払った)帰るということにもなりかなりの重労働であった。

出荷は一日おき、場合によっては連日にわたって行なわれたが、余裕のある農家では収穫した大根を相当数地中へいけておき、徐々に出荷しながら相場の高まる一月あるいは二月にかけて大量に出したという。この場合も一把は五本と決まっており、葉部はすでに短く切ってあることから大根の胴体へ縄を結えて一把とした。中新井村の古老によれば普通の牛車で五〇把程度を積んだといわれ、この場合には三人前後で運んだという。当時の清戸道や富土街道、青梅街道あるいは川越街道などの主要道路では、冬の朝にこうした人たちの大根を運んでゆく姿がひんぱんに見られた。

大根栽培

練馬大根とひと口に言ってもそれは単にひとつの品種を示すものではなく、練馬地方に栽培され育まれてきたあらゆる種類の大根(品種改良も盛んであった)の総称として使われたものであるらしい。練馬地域を中心とする一帯では土質、地形共に大根栽培に向いており、ここで栽培された大根がいずれも優良品として定着することによっ

て練馬で産した大根、すなわち練馬大根として後世に伝えられることとなったと考えてよい。従ってその品種もさまざまで用途に応じて栽培されていたのである。同地方での代表的なものとしては練馬尻尖しりとがり大根、練馬秋止あきづまり大根、美濃早生わせ大根などがあげられる。これらの大根の特徴あるいは栽培法について多少触れておくこととする。

はじめに練馬尻尖大根であるが、これが要するにたくあん漬けとして名を成したものであり、上練馬村の百姓又六以来さまざまに品種改良が行なわれた結果できあがったものとされる。尻細あるいは長尻とも呼ばれ、葉は緑色、根身は七五㎝程度に成育し、首部は細く次第に太くなり、尻先は細くとがっている。この流線型の形がたくあん漬けには便利なものであり、味も生よりはたくあん漬けにしてはじめて美味であったといわれる。練馬秋止大根は煮食用として作られ、あるいは糠漬けとしても使用されたが、もっぱら煮物としての味がよかったといわれる。早生止わせづまり晩止ばんづまりの二種があり、根身は首部以下ほとんど同じ太さで短形である。美濃早生大根も煮食用として作られたもので生大根のまま出荷する。はじめ関東の大根は晩生種が一般であり、早生種はなかったといわれる。ここに美濃早生大根を取り入れることによって早生種が普及されることとなった。系統としては早、中、晩の三種があり、ことに春播き大根としてすぐれていた。後に練馬の秋早生という品種を生む片親となった。

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これら三種の大根栽培法の要点は表<数2>17にみられるとおりである。表は昭和四年一〇月に、当時の北豊島郡農会内に設けられた北豊島郡園芸研究会の手で発行された『北豊島郡の園芸』から要約転載したものであるが、それぞれを比較してみればかなり相違のあることがわかる。

さて、こうした大根栽培にはどれくらいの費用がかかりまたそれがどの程度の価格で販売されたものであろうか。大根生産は天候や水利の加減によってでき映えが大きく左右され、それが大根相場にも影響を与えることとな

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り、年毎にみれば相当の変動があったといわれる。また土地柄によって生産に要する費用のかかり具合も異っていたかと思われるが、だいたい平均的とみられる数値が右に紹介した『北豊島郡の園芸』中に掲載されている。それは表<数2>18、表<数2>19のとおりである。一部内容表記の上で手を加えたところもあるが、表<数2>18は生大根として出荷する場合、表<数2>19は干し大根として出荷する場合の収支の様子を示している。いずれも一反歩からとれる大根の数量を三五〇〇本として計算しているが、大根の場合にはこれが標準であったようである。表中人件費については外部から雇い入れた者に支払われた労賃と考えるよりも、実際にその作業に当った人員(家族であったかもしれない)に対する賃金換算が行なわれているのではないかという趣きがある。年代は正確に記されている訳ではないが、同書の発行年月が昭和四年一〇月であるところから昭和三年前後の相場を基準としたものであろう。

両表に記された「純益」の額面が大根生産を続ける上でどのように理解されていたものかよくわからない。ちなみに同書から他の物産についての反当り収支を二、三あげるとおよそ次のとおりである。

<資料文>

物産 収入() 支出() 純益(

滝野川人参 一四〇・〇〇 一二三・八八 一六・一二

中之宮早生牛蒡 九六・〇〇 九四・三九 一・六一

甘藷 八〇・〇〇 七八・八〇 一・二〇

里芋 一七四・〇〇 一二八・九〇 四五・一〇

千住葱 二四五・〇〇 一九六・三五 四八・六五

結球白菜 二五九・二〇 一五四・七五 一〇四・四五

胡瓜 四五五・〇〇 三五二・六五 一〇二・三五

南瓜 一六七・二八 一五七・七八 九・五〇

西瓜 二八五・六〇 一六六・六一 一一八・九九

茄子 三六〇・〇〇 二九七・一五 六二・八五

細かく利益率などを出せばかなりの開きもみられるようであるが、こうした諸物産の中でことさら大根の数値が目立つものではない点が了知されるようである。

大根栽培は栽培上の危険度が高かったといわれ、その要素のひとつとして病虫害による被害があった。主な病気としては内部が腐敗して空洞となったり悪臭を放つもの、あるいは葉に斑点ができ、根身がモザイク状となってしまう(モザイク病と呼ばれる)ものなどがあり、モザイク病は油虫が媒介していることから虫害ともみられる。虫害としては油虫のほかにめい虫の害があり(大根のメイガともいう)これは主に大根の芽を食い荒した。

こうした病虫害によって全滅の被害を被った農家はいくらもあり、時には全村的な規模で被害に見舞われた年もあったといわれる。昭和に至る頃には諸種の化学薬品が取り入れられそれなりの効果も得られたようであるが、このような試錬を経てなお大根生産は活発に展開され続けていたのである。

たくあん漬けのこと

練馬大根の名を今日に留めることとなったその元をたどれば、それはすなわちたくあん漬けの普及にあった。すでに江戸時代から、府内の人々は練馬地域の農家に年間契約をしてたくあん漬けの生産を依頼していたという。明治の頃には海外にまでその存在を知られることとなった。

近年まで一般の農家ではもちろん、町家でも干し大根を購入して自家用のたくあんを漬けていたところがあった。しかし今日ではもっぱら商品たくあんに依存することとなり、その製法手順についても大きく変貌し、古くからあった姿を語る人々の年代も限られてきている。ここで大正から昭和初期頃の大根干しからたくあん漬けまでの作業の様子を以下に記しておきたい。

大根の乾燥期は普通一一月上旬から一二月中旬頃までとされ、これを過ぎると日が弱くなり寒風が強まるなど乾燥させることが困難となる。この間でも一二月へ入る頃までは畑中の風通しの良いところで干され、それ以後になると風当りの少な

い日溜りを選んで干すなど場所の選定がだんだんむずかしくなるのである。従って大根干しの作業はこの期間中に終了しなくてはならなかった。

畑から収穫した大根は葉部の根元からわずかに葉を残したところで切り取り、これを井戸水あるいはきれいな川の水で洗う。水洗いは二度行ない、一度目は泥落し(元洗いという)、二度目で完全なものとする(仕上げ洗い)。仕上げのときには鮫皮などを用い、ことに肉質の固い首部をこすって筋を入れ乾燥させやすくしながら洗う。水洗いには楕円形の大たらいが使われ、長辺の直径は六尺(約一・八m)あったといわれる。洗い終った大根は五本から一〇本程度を順次縄で編み上げ、一連のものとする。このとき縄は、二か所にかけるが、一か所は大根の中央部やや首部寄り、もう一か所は尻部に近く先が細くなろうとするあたりで、当然首部の方に重心がかかりつるした時には心持ち前のめりとなった形となる。しかし乾燥時には首部を南側へ向けておくため水分の蒸発も早く徐々に首を持ち上げてくる。より多く乾燥を必要とする首部にとってこの位置の移向もまた重要であったことになるのである。また編み上げるときには太く長い大根ほど順次上に位置するように配慮したということも、上部ほど太陽光線を受けやすいという理由からであろう。

<コラム page="625" position="left-bottom">

練馬大根の沢庵漬支那へ輸出

〔一二・二、東京日日〕前日の紙上に支那人が練馬大根を買込むことを記せしが、是は広東の辺に売る目論見にて、尤も彼地には此まで沢庵漬様のものありて、土地の者は賞翫すれど品の悪くて味ひの宜からず、依て練馬のを買入れて沢庵にして高直に売る積りなるよし。中々太いの根ではない、商法にかしこき算段と云ふべし。

明治一三年一二月)『新聞集成明治編年史』

大根干しには木組みを必要とするが、まず支柱となる棒を固定し、これに杉丸太のような横木をかける。地上から横木までの高さは五尺程度(一・五m内外)で、これに一連となった大根をつるすものであるが、横木は東西に組んであり、大根の首部を南に向け連と連との間は七、八寸(二十数㎝)となるように配慮した。夜間は凍結しないように、あるいは霜除けとして酒菰などでおおい、また雨の日には支柱の方へ片寄せて菰をかぶせるか場合によっては取り込んで雨の当ら

ないところへ移すという作業を要した。霜害や雨害は乾燥を進めていた大根を再び生の状態に戻してしまうだけでなく、再び干しても完全な干し大根の状態にはならなかったといわれる。

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大根を干しあげるまでの期間はたくあん漬けの種類によって異なり、その種類はたくあん漬けの出荷の時期によって分けられていた。たくあんを漬けるには塩と糠とが不可欠であり、たくあんを四斗樽一本に漬け込むためには塩と糠を合せ約一斗を使う。このとき塩と糠との比率をたくあんの出荷時期に合せてさまざまにかえる必要があった。遅く出荷するものほど塩の度合を強くし、その分だけ糠の分量をおとす。この割合い(これがたくあんの種類となる)を表現する場合には実際に用いた塩の量をもって三升漬け、四升漬けなどといった。すなわち三升漬けというのは塩三升、糠七升を使ったたくあん漬けということになる(もっとも実際には二升漬け、二升五合漬けのときには糠は一斗とされた)。塩の少ないものを甘塩、多いものを辛塩、中間を中塩と一般に呼んでいたが、甘塩用の大根と辛塩用の大根では干す期間も異っていたのである。辛塩として長くもたせる必要のある大根ほどよく干し上げ、水分を充分蒸発させなくてはならなかった。たくあん漬けの種類と乾燥期間との兼ね合いはだいたい次のようにいわれている。

<資料文>

二升漬け 五日間程度 二升五合漬け 六日間程度

三升漬け 七日~八日間 四升漬け 一〇日間

五升漬け 一二日~一三日間 七升漬け 一五日以上

こうして干し上った大根はすべてがそのまま同じ農家でたくあん漬けとして漬け込まれてしまうとは限らず、生大根のときのように荷車へ積んで市域の市場へ出荷するものもかなりあった。この時には二五本を一把として出荷したといわれる。

またたくあん漬け専門の加工場に売られるものもあり、地元の農家間でも売買が行なわれていたようである。また雨に打たれるなどして乾燥がうまくゆかず、中に<圏点 style="sesame">すが入ってしまったようなものについては細く切り裂いて切り干しとし福神漬けの材料としても用いられた。

漬け込み法には並行漬けあるいは十文字漬けなどと呼ばれるものがあり、これはいずれも一段毎の重ね方をいう。下層と同じ方向に並べて漬け込むものが前者で、下層を漬け込んだら樽を九〇度回して漬け込む(すなわち下層と十文字に交叉する形となる)ものが後者である。もっとも後には樽の回し加減をさまざまに工夫して、漬け込み方にも改良を加えているが、一段の並べ方はだいたい決っている。長いものを樽の縁に沿って置き、徐々に短いものを並べて中央に最も長いものを置いた。樽の直径が一尺八寸(四斗樽)でおよそ長めの大根の長さに匹敵することもあった。これはもちろんただ置いたという訳ではなく、干して伸縮度を加えた大根の根身をできるだけ縮め加減に押し込んで大根と大根との間隙をより少なくすることがコツとされた。

たくあん漬けに用いられた樽はさまざまで、酒や酢あるいは醤油などの空樽を使用した。またトーゴと呼ばれる直径六尺もある大樽で下漬けをしてから四斗樽に漬けかえて出荷することが行なわれ、多量に扱う場合には一般にこの方法によった。出荷する時期については種類によって異なっているのであることを先にも述べたが、要するに食べ頃と思われる時期を見はからって出荷する訳である。大根の種類と食べ頃の時期との関係は次のとおりである。

<資料文>

二升漬け 二月中下旬 二升五合漬け 同上

三升漬け 二月中旬~三月中旬 四升漬け 三月下旬~四月中旬

五升漬け 四月中旬~五月下旬 七升漬け 五升漬けの後

こうしてようやく出荷となるが、出荷先は多様で市場売りもあれば大手の需要者への契約販売も盛んであった。大手の需要者としては病院や軍隊などがあった。場合によっては特定の仲買い人が来て庭先で売ったりもした。これを庭払いといっ

た。ここで先の『北豊島郡の園芸』から昭和初期の頃のたくあん漬け生産の収支決算の様子をみておきたい。表<数2>20にそのあらましを示してある。表中の樽は四斗樽で、普通一反歩からとれる大根が約三〇〇〇本、これをたくあん漬けにすると四斗樽四〇~五〇樽といわれ、表の四〇樽というのはやや少な目の場合かとも思われる。それにしても先の大根栽培のところでみた干し大根での出荷と比較してみれば、たくあん漬けにして販売する方が利益率は高いようである。そうとはいえ、たくあん漬けには人手と商品をねかせておく余裕とが必要であり、この条件を備えた農家ではじめて大量に生産も可能であったことになる。

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大根衰退への予兆

昭和を迎えてなお大根栽培は盛

況であった。当時の北豊島郡農会ではことに品種改良面に力を入れ、昭和二年度以降大根採種事業に着手した。具体的には原種栽培を地域の適任者を通して行ない、純系分離法によってより優れた品種を開発し、これを郡農会で買い上げて採種組合に無償交付する。採種組合ではこれを共同して繁殖させるというものであった。このとき栽培適任者のひとりとして上練馬村の鹿島安太郎が選ばれ、練馬系の大根の品種改良に力を尽している。こうして得られた種子が同村の練馬大根採種組合(昭和二年設立)において育成された訳である。そもそも大根種子については練馬地域ではほとんど栽培されてはいなかったらしく、古くから滝野川のものが知られていた。この間の理由として『東京府北豊島郡誌』は次のように記している。

<資料文>

抑も蔬菜種子の起源は、漠として之を知ること難しと雖も、延宝の初め徳川綱吉其別荘を練馬村に建築し、邸内に五畝歩の大根畑を設けて食料に供せしが、其味の甘美なるより、終に同村に大根賦役なるものを置き、年々栽培せしめ以て外様其他の諸候に頒ちしと云へば当時既に貴紳の食膳に上りしことを知るべし、之れ練馬村に大根の栽培せらるゝに至りし起源にして、爾来練馬村は大根の産地として目せられ、江戸に於ける需用多く、従つて之れが栽培に忙しく、種子栽培に遑あらざりしかば、滝野川村に於て専ら之れが栽培に勉め、其採取は滝野川村に移り。是より食用大根は練馬村に栽培せられ、種子大根は滝野川村に於て採収せらるゝことゝなり、食用大根と種子大根とは、茲に分業せられ全く其産地を異にするに至れり。

練馬地域ではもっぱら食用としての大根生産に忙しく種子にまで手は回らなかったもののようである。これが昭和に至るころには土地の物産はその土地で採種するのが望ましいという風潮ともなり、右にみた動きが生ずるところとなった。もっともこれ以前にも種子販売を主とするいわゆる種子屋と呼ばれるものは諸方にあり、『練馬農業協同組合史』第二巻には明治三五年五月に資本金五〇〇〇円から成る練馬種子販売合資会社が下練馬村にできたと記されている。

こうした動きがある一方たくあん漬けの分野でも改良に次ぐ改良が活発に行なわれていた。古くからの塩と糠のみによる漬け方が一新され、麹、酒粕、甘草、昆布などの調味料が加えられ、さらに香辛料あるいは着色料などを用いる方法が一般化されようとしていたのである。これが商品たくあんとして普及するにともない、それまで干し大根を購入して漬けていた

町家の人々も次第に商品たくあんに依存する傾向となっていった。

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こうした矢先の昭和八年、折からの旱魃のため練馬区域の大根はほぼ全滅の被害を被ることとなった。先の『農協史』によればこの後一一年、一二年、一五年にモザイク病の異常発生があり、いずれも被害甚大でこうして引き続いた被害のために大根生産への意欲も減退し、栽培の危機を招いた。このとき先に名をあげた鹿島安太郎は大根に代るものとして甘藍などの導入、栽培の普及につとめる一方大根栽培法の改善に力を尽くしたといわれる。同人は昭和四〇年四月四日にこの世を去るまで地域での農業振興に大きな功績を残したとされ、翌四一年四月に顕彰碑が建てられている。

大根栽培はその後再び持ち直し、第二次大戦後を迎えることとなった。しかしこの間すでに都市化は徐々に進展しつつあり、戦後になってその速度は急激に増した。病虫害による被害に対しては化学薬品の普及によって対抗する道も開けたが、都市化の勢いを喰い止める術はなかった。大根はその本拠地であった旧上・下練馬村を離れ石泉地区へ移り、やがて石泉地区からも遠ざかってゆく宿命にあった。昭和五〇年代の今日なお「練馬大根」の伝統を守って栽培に従事している農家も残っているという。伝統と呼ばなくてはならなくなった淋しさがそこに漂っているようである。

戦後間もなくの頃の練馬区の大根生産状況を表<数2>21に示し、当時の大根をしのんでみることとする。

<節>
第六節 主要農作物
<本文>

北豊島郡は地理的条件から一般に水田は少なく、その品質も中等程度のものであったといわれる。ちなみに明治一四年(一八八一)の東京府の「回議録」から計算してみれば、農家一戸当りの米作付面積は二反九畝ほどであり、南足立郡の九反一畝、南葛飾郡の五反四畝と比べればおよその見当はつく。

ことに西部地域に位置する練馬区域内の水田といえばだいたいその所在は限られていた。石神井川、白子川、田柄川(用水・明治になって玉川上水の水を分水したもの)、および中新井川の流域(千川から分水)で、いずれも川としては小規模なものであり、水田地帯としての広さにも限界があった。またこれらは湿田の一毛作田でもあったため反当り生産高も低く、水田の質については江戸時代の検地によって下練馬・上土支田両村の上田が石盛一石一斗(反当り玄米収量)とされ、全国での上田の標準が一石九斗であったことからも低位に置かれていたことがわかる。もっとも面積的には江戸時代と明治以後とでは多少の変化もあり、現在の田柄川に通じる引水(玉川上水からの分水)工事が行なわれた明治初期以後中期にかけては水田の拡張期として注目されるところである。下土支田村の小島家には同分水に関する資料が多く残されているが、このうちに明治四年のものとして「田無村外八か村新開畑田成反別書上」がある。当時の品川県宛てに差し出された書類の写しであるが、これによれば各村の「新開畑田成(畑から田となったもの)」は次のとおりである。

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こうした水田の開発はその後も諸村で行なわれているらしく、明治七、八年頃と二一~二三年頃の資料に記されている水田面積を便宜上一表としてみれば表<数2>22のようになる。およそ増加の傾向が示されている。

当時は水田に限らず新たな耕地の開発に力が入れられており、下練馬村などでは九六町歩におよぶ山林を対象に明治一一年から着手し、二一年までに九町歩余の開墾が行なわれたとされる。水稲よりも陸稲が盛んであったといわれる練馬区域内では畑地の開墾もまた米の増産につながっていったものに違いない。表<数2>23は明治七年のまた表<数2>24は二一・二二年(両年のうちいずれか調査)の村別の米生産高である。資料の性格上このままでは比べてみることも困難であるが、ここに記された数字がそれぞれの年の米の総生産高であるならば一応の目安にはなろう。

当時の品種については種類も多く、一般にウズラ、目黒、カガズル、マンゾクなどと地方の方言で区別されていたようであるが、栽培方法にも多少の相違があった。明治一四年の『東京府下農事要覧』中にもさまざまな例があり、北豊島郡としては中里村の「マンゾク」の場合があげられている。一例として次に引用しておく。

<資料文>

   ○稲 中稲ナカテ マンゾク 方言

蒔植并採収

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培養并施糞

貯蓄

『練馬農業協同組合史』によれば栽培法には蒔植法(種籾を苗代に蒔き、育苗後本田に植え直す)と摘田法(本田に直接種籾を蒔く)とがあり、一般には蒔植法によっていたが摘田法もかなり行なわれていたという。摘田法は植え直す手間ははぶけるが収量が少ない上に雑草に悩まされたようである。明治末期には東京府立農事試験場が主体となって品種改良にも力を入れ、また村農会でも正条植えを押し勧めたこともあって蒔植法が定着したようである。

こうした米の生産にはどれくらいの人手と肥料を要したのであろうか。明治二三年の「禀申録」中に北豊島郡内のこととして表<数2>25、表<数2>26に記すような記事がみえる。いずれも一回の米生産に関する内容であるらしく、また最多あるいは最少の区

別は土地柄による相違と思われる。

一方、水田の少なかった練馬区域内には後にみるように陸稲おかぼの生産は盛んであった。陸稲は旱魃には弱く、リスクも大きかったようであり、栽培地には島地(湿潤畑)が選ばれたという。その栽培の一例を前出の農事要覧から赤羽村の「ゲンゾウ」種について引用しておくこととする。

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圃稲〓カホイネゲンゾウ 方言

蒔着并採収

四月中旬種ヲ下シ十月初旬採収

培養并施糞

元肥ハ藁ノ腐熟ト藁灰人糞ヲ混和マセアハセシ一反へ凡十荷施シ種ヲ下シ土ヲ薄ク掛ケ踏付ケ置凡五六日許ヲ経テ発芽メヲイタスス又十五日許ヲ経テ二番肥十五荷ヲ施スヿ前ノ如シ夏土用迄ニ畦ヲ耕スヿ二回又採収迄ニ凡三度草ヲ去ル尤旱年ヒテリトシミノリアシヽ宿地ヲイム五ケ年ヲ隔テサレハミノラス

貯蓄

熟スルヲ見テ畑へ刈倒カリタヲシシ二日許干シテ取入レ仕上ル其手数順序水田稲ニ異ナラス

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また先にみた『農協史』には明治末期の品種として、おいらん、氷川、金子、戦捷、やかん、照不知などのうるち米のほか尾張糯などがあげられているが、さらに大正から昭和にかけて「東京金子」に代表されるような優良品種が普及したといわれる。

この「東京金子」については、その前身である「金子」の育成者が中新井村の金子丑五郎であった。同『農協史』によれば、明治三五年おいらん種中からことにすぐれた品種を同人が発見し、これを育成した。北豊島郡農会では「金子」と命名して普及につとめたが、その後府立農事試験場で大正五年より純系分離を行ない一〇年に完了、これを「東京金子」と名づけたといわれる。

第二次戦中戦後にかけてはうるち米では「農林一二号(昭和一七年以降)」「農林二四号(昭和二四年以降)」などが普及し、もち米では「農林糯一号(昭和一八年以降)」「農林糯二六号、ハタコガネモチ(昭和二四年以降)」などとなった。

水稲および陸稲を含めた米の明治末期以降の生産状況は表<数2>27に示すとおりである。年によってかなりばらつきがあるが、いずれも陸稲の占める比率は高い。また大正から昭和にかけて中新井・下練馬・石神井各村の減反が読みとれるようである。本区の都市化は関東大震災以降目にみえて進行することになり、多くの田畑もやがて宅地となってゆくのである。

こうして戦後を迎えるが、終戦直後にはなお本区での米の生産は表<数2>28にみられるような形で継続されていた。陸稲については区部で第一位の面目を保っている。以後急激な都市化によって水稲はもちろん陸稲も失なわれてゆくが、四〇年代のはじめにはまだ白子川の沿岸に一部の水田が残されていたという。

米の生産が少なかった分だけ北豊島郡内での麦の生産は盛んであった。明治一四年の「回議録」によれば、大麦は四万〇四〇〇石余を産し、小麦では九八〇〇石余の生産高でいずれも六郡内では第一位を占めている。麦類は一般の農家では米の代用として、あるいはひき割りと称し米に混ぜて平常食に当てるなど重要な役割を担っていた。また小麦は小麦粉にしてうどんや菓子製造などにも利用され、麦わらは肥料や家畜の餌さらには屋根葺きの材料や燃料にもなった。冬場の

作物として、同時に蔬菜類の保護作(麦の畝と畝の間に蔬菜を作るなど)という面からも欠かせない作物であった。

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ことに水田の少ない練馬区域の諸村では麦生産が活発であっただろうことは想像に難くない。表<数2>29は明治七年および二一・二二年頃の大麦と小麦の生産高を記したものである。このうち二一・二二年の資料に注目するならば、北豊島郡全域における大麦、小麦の生産高は表<数2>30に示すとおりであり、両者を比較することによって練馬区域内の村々の麦生産に占める位置がおよそ読みとれる。大麦については下練馬村一村でほぼ郡内の一〇分の一の生産高をあげており、上練馬村もこれに準ずる。小麦については上石神井村の一二二九石が目立つところである。

上石神井村の小麦は早くから知られていたようで、明治一四年の『東京府下農事要覧』中にも次のように紹介されている。

<資料文>

北豊島郡

上石神井村

小麦コムギ 白皮チクタ 方言

蒔着并採収

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秋土用前播種翌年六月半ニ採収

培養并施糞

蒔着ケ前畑ヲ耕シ置キ積肥藁糠灰人糞馬糞ヲ調和シ一反歩ニ十荷ヲ施シ種ヲ蒔芽ヲ出シテヨリ畦ヲキリ立春ノ頃ヨリ度々踏付ケ畦ヲキリ又春彼岸過ヨリ畦ヲキリ二番作トイフ二番肥ニ積肥十荷ヲ施ス引肥人糞ニ水ヲ和セシモノ八荷ヲ施スモ可ナリ畦ヲキリ踏付ルモ七回迄ハ過ルトセス

これら麦生産に要する肥料として明治二三年の「禀申録」中に表<数2>31のような記事がみえる。最多あるいは最少などと記しているのは土地柄の相違であろう。

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こうして行なわれた麦の生産は明治二七年の日清戦争、三七年の日露戦争さらには昭和一二年の日華事変など戦事を迎えるたびにあるいは食糧として、あるいは馬糧として増産を命ぜられたという。こうした事情もあってか麦生産は明治末から昭和初期に至るまでほぼ一定の割合で行なわれてきたようである。表<数2>32は明治四二年から昭和五年までの麦の生産状況であるが、昭和五年になってようやく落ち込みがみられる。

その後昭和八年には小麦増殖五か年計画が実施されるなど品種の上からも統制が行なわれ栽培に全力が傾けられた結果、練馬区域の小麦生産の全盛時代は昭和七、八年から二八年頃まで続いたといわれる(『練馬農業協同組合史』)。ちなみに

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戦後間もない頃の本区での麦生産状況は表<数2>33のとおりであり、二三区中では他区を大きく引き離した上での首位を占めていた。

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生糸と同様幕末から明治期を通して重要な貿易産業の担い手となったのが茶の生産であった。明治政府は維新直後に旧武家地跡に桑や茶の生産を奨励するなど積極的な対策を講じている。いわゆる桑茶政策と呼ばれているものであるが、これを建言したのが当時の東京府知事であった大木喬任でもあり、以後の東京府の力の入れ方が推測されるところである。

明治七年五月三日付けで市域の各区長・戸長宛てに通達された次のような書類にも府の姿勢が示されている。

<資料文>

市在各区 区長戸長

製茶之義ハ輸出品之一部ニして、其製法ニ依リ大ニ損益ニ関シ候物産ニ付而ハ、内国従来之製ハ外国え不向キニ有<漢文>レ之哉、現今開港場在留之外国人等、各地之茶ヲ買集メ、是ヲ支那紅茶製ニ成シ難キカ故ニ、緑茶或は黒茶等ニ再製シテ、海外え輸送スル趣ニ有<漢文>レ之候上は、今後紅茶ニ擬シ、可<漢文>レ然茶は改製いたし、且当年ニも試製出来、見本差出候ハゝ、

海外適応之事情等更ニ取調報告及ひ候積、此程勧業察ゟ紅茶製法書相添為<漢文>レ達候間、製茶世之者ヘ無<漢文>レ洩諭達致し、追而品製之景況取調可<漢文>二申出<漢文>一、此旨相達候事。

但、紅茶製法書ハ日本橋通リ須原屋茂兵衛え発売差許有<漢文>レ之候間、為<漢文>二心得<漢文>一相達候事。

明治七年五月三日 東京府知事 大久保一翁

――明治七年乾部布告留

『東京市史稿』市街篇第五十六

こうした動きは当然郡部にもおよび、北豊島郡一帯にも茶を生産する農家が急増したといわれる。同郡の茶は古くは滝野川村の月香園のもののみが知られていた程度で、そのほかはもっぱら自家用として畑の畔に植えつけていたにすぎない。しかし貿易が盛況となるに従い換金作物という面からも茶は注目されるところとなり、一般の農家でも兼業として力を入れるようになった。

当初は宇治あるいは狭山より職工を招へいし、製法を伝授されたというが、全体の産出量が増大するにともない、生産を急ぐところから粗製乱造が目立ちはじめた。こうした傾向は東京府一般の事でもあり、一〇年代の初めには価格の暴落を招いた。府では品種改良事業にも力を注いでいたが、一六年五月には府下の茶業者を招集して集談会を開催した。当時の回議録によれば「各自従来実験セシ栽培貯蔵及ヒ販路等ノコトヲ相語り、又府庁ヨリ下付セシ処ノ問題製茶改良荷造等ノ件ヲ相議シ」と記され、この時茶業組合編成の必要性も取り上げられている。

翌一七年三月に農商務省達第四号として「茶業組合準則」を設ける旨各府県に通達が行なわれており、茶業組合はこの準則に基いて規約を作り、農商務省へ届け出るよう義務付けている。北豊島郡では上練馬村の増田藤助等六名が総代となり、一八年一二月に認可を受けている。

一方茶の販売先は海外に限らず、年々交通の発達にともない国内各地方からの需要も増え、ことに市域での茶の栽培が衰えるにつれて郡部への依存度は高まり、これに加えて安価な茶もまたそれなりに歓迎される傾向が現われた。こうした中で北豊島郡では煎茶および番茶が中心に生産され、練馬区域内の諸村でも次第に盛況なものとなっていった。

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表<数2>34は明治七年と二一・二二年の状況を表わしたものである。資料の性格上単純に比較することには無理があるがあえて一表として示した。『東京府志料』には生産高を記してない村々が相当数あるが、「戸口資力調査」によれば全村が生産に従事している。二三年の「禀申録」に二一年調べとして北豊島郡全体の茶の生産高が記されているが、これによると煎茶は二万〇五四二貫三五〇匁で価額は二万六二六〇円三八銭五厘、番茶は一五六一貫二六〇匁の五九七円二五銭七厘である。いずれも単価の上で「戸口資力調査」の方がやや高くなっているが、ひとつの目安として生産量をみるならば各村々で産出する茶の郡中に占める割合は決して低くないことがわかる。

ことに上練馬・上石神井および下石神井の各村が目立つところであるが、このうち上練馬村の茶について同じ「禀申録」

中に次のような記事がみえる。

<資料文>

又本郡内上練馬村ノ茶ハ同村宮本清次郎八王子近方中山ヨリ伝来ノ茶樹ヲ畦畔ニ植付ケタルヲ初トス当時種々ノ製法アリシト雖モ産額僅少ニシテ自家ノ飲料ニ供スルニ過キス世ノ開明ニ進ムニ随へ需要者大ニ増加シ製法モ亦宇治製大ニ伝波シ以来駸々乎トシテ製造家続々輩出シ歳月ヲ逐フテ旺盛ニ赴ケリ茶園ノ如キハ明治八九年開墾ニ着手シ十一年頃ニ至リ摘採スル所生葉四百貫ニ過キザリシカ新開地漸ク増加シテ其産額十一年ニ比スレハ殆ント二十余倍ノ多キヲ加へ現今ニ至テハ茶園反別二十町余歩生茶産額八千貫目ヲ算出スルニ至リタルモノハ専ラ宮本清次郎ノ奨励ニ係ルモノナリト云フ

『明治中期産業運動資料』(「禀申録」

さて、北豊島郡内に行なわれた製茶の方法は大半が宇治風であったといわれ、植栽の時の肥料は人糞・青草あるいは堆糞が適していたようである。製茶の職工は自村の者または近村の者を雇い入れ、一日約一二時間程の労働時間でひとり平均一貫目から一貫七〇〇匁を製したといわれる。職工は男子に限られていたようで、この賃金は明治二〇年頃で一日二七、八銭であった。こうして作られた茶はほとんどが東京市中の小売商あるいは近在の仲買人に売却されたという。

以後大正時代に至るまで製茶は盛んに行なわれたが、大正期ともなると次第に都市化の波が郡部にも波及し、市域に近い地域では茶はもちろん農業自体が廃れてゆく傾向を示しはじめた。『東京府北豊島郡誌』にはこの間の経緯が次のように記されている。

<資料文>

製茶)本郡に於ける製茶業に関しては、滝野川町王子町等みな古き歴史を有し、相当の産額を示し来れるも、現今漸く廃され、志村石神井の両村主として優良なる製品を出しつゝあり、就中志村の如き、着々改良に努め、現今に至りては、狭山に譲らざる、優品を出すに至れり。

以上の外古来より之を栽植して製茶を産出する町村を列記すれば左の如し。

大泉村、上練馬村、赤塚村、板橋町、上板橋村、下練馬村、中新井村、長崎村

本郡に於ける大正五年度の年産額等は左の如し。

茶製造戸数三四四戸 煎茶一三、九五〇貫 此価格金四六、〇二五円 番茶三、二七三貫 此価格金六、五四六円

合計一七、四二八貫 金五二、八四七円

また同年度の茶畑段別は百十七町七反歩なり。

練馬区域の諸村についてはまだ都市化の影響はほとんどみられず、因みに同時期に編さんされている『石神井村誌』には次のような記事がある。

△製茶は産額養蚕に及ばざれども本村産物中のおもなるものなり。
製茶戸数茶園段別収穫高価格
一〇八 四五一 二八一五貫 五〇六〇円
(大正三年十一月二十日調)
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しかし、関東大震災を契機に都市化は急速に行なわれるところとなり、昭和一〇年代には製茶もほとんど自家用に供する程度のものとなった。

あいは古くから数少ない染色料の一として重視され、ことに木綿の着色には欠かせない材料として広く普及するところとなった。

練馬区域内の各村々でも江戸時代から藍葉の生産は行なわれていたが、明治に至ってからは表<数2>35にみられるような状況にあった。ほとんどの村が大幅な増加をみている。因みに二一・二二年頃の生産量を合計してみると三万二一二〇貫となるが、ほぼ同時期の北豊島郡全域の生産量は二三年の「禀申録」中に一四万一四九一貫とあり、もちろん単純に比較はできないが、練馬区域(小榑・橋戸両村は不明)の諸村の占めるおよその位置は見当がつく。ことに大根の生産の盛んであった明治

から大正期にかけては藍葉は大根の裏作として作られていたといわれ、いわば大根とともに一時期の盛況さを分ち合っていたもののようである。

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もっとも一般的な傾向として明治維新後に西欧からインヂゴの輸入が盛んとなり、藍相場は非常な恐慌を来したといわれる。その後第一次大戦を迎えるに当って海外からの染料輸入も途絶え、再び藍生産は盛んになるが、この経緯を『東京府北豊島郡誌』は次のように記している。

<資料文>

【葉藍】藍は染料作物にして其種類唐藍、蓼藍等の数種あり、其最も世上に知られたるものは阿波の上粉百貫、小丸粉百貫、小丸葉千本等なり、本郡は古来葉藍の産出少からざりしが、維新後(インヂゴ)の輸入盛なるによりて、各地とも其影響を蒙り、当業者に非常なる恐慌を与へたるも、近時欧洲大戦以来染料の市価暴騰し、惹て藍作の利益相当なるに至りしかば、本郡到る処又もや藍の栽培を見るに至れり、之が産出町村は石神井村、志村、上練馬村、赤塚村、下練馬村及び上板橋村等を数ふべし。

さて、この藍葉はどのように生産され、販売されたものであろうか。明治一四年の『東京府下農事要覧』の中に関

村の例として次のような記事がみえる。

<資料文>

北豊島郡

関村

アイ

蒔着并採収

春彼岸ニ床ニ蒔着夏土用ニ苅取カリトルヲ一番トシ八月下旬又長スルヲ苅ル之ヲ二番トス 種子ヲ取ニハ植着ノ儘十一月頃迄残置ノコシオキ実熟スルヲ待テ採収ス 床ノコシラヘ方ハ巾二尺五寸許竪五間許作ノ多寡ニヨリ間数定リナシ能耕シ元肥ヲ施シフルヒニテ土テ薄クフルヒナラシ種ヲオロシ又土ヲ薄クカケ其上へ藁或ハ莚ヲ敷キ十五日程過テ取除ケ四五寸程高ク蓋ヒヲナス苗二寸五分許ニ伸タル頃本畑へ移植ル

培養并施糞

麦作ノ間ニ畦ヲ作リ積肥ヲ置五本ツヽ植着十五日程過キ畦ヲキル一番作ト云又廿日程過キ施糞シ畦ヲキル二番作ト云旱年ヒテリトシヲ好ム

貯蓄

苅上タルヲ一日畑ニテ乾曝ホシカハカシシ採入レ又二日許乾シ連耞カラサホニテ打チ俵ニ入レ貯フ二番苅モ同シ

一般の農家では藍葉を生産し、天日で乾燥させた上くるり棒で打ち、葉と茎とを分離し、小片となった葉を袋に詰めて出荷するまでが、だいたいの仕事であった。これを中間業者あるいは地域の紺屋が買い取る。葉は藍小屋に広げ水を加えつつ醗酵させた後臼などで搗き固めて藍玉を作る。染色の時にはこの藍玉を溶液と成して使用することになる訳である。

こうした藍生産も次第に都市化の波に押され、あるいは化学染料の発達にともなって衰退してゆく。また藍葉の栽培は契約栽培であり、必ずしも栽培者にとっては利益は高いものではなかったといわれ、大正期のうちにほとんどの農家では蔬菜栽培へ切りかえていった。

牛蒡

蔬菜作物として早くから栽培されたもののひとつに牛蒡ごぼうがある。北豊島郡中では滝野川が有名で江戸時代から広く知られており、当地では江戸近郊の村々に種を売っていたといわれる。練馬区域の諸村でも滝野川種

による牛蒡栽培は盛んで、ことに明治に至ってからは東京市域の発展につれて需要も増え、一層力を入れるところとなった。

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表<数2>36は明治七年の村別の生産高を示したものであるが、上練馬および下練馬の両村がことに盛況であったようである。特に上練馬村大字上練馬字中ノ宮(現春日町)では品種改良にも熱心であったらしく、いわゆる中ノ宮早生種を生み出している。滝野川種が晩生(春に播種して一一月以降に収穫)に対してこれは七、八月頃には収穫できるものであり、収穫期を逸すると亀裂や空洞ができてしまうといわれる。もっとも滝野川種は一mほどの長さに成長するのに比べ、中ノ宮のものはやや小振りで七五㎝程度である。

また中ノ宮早生種は他地域で栽培するのでは早生にならないといわれ、当地の土質にしか合わないという特性を有していたようである。

さて、牛蒡の栽培方法であるが、明治一四年の『東京府下農事要覧』には次のように記されている。

<資料文>

北豊島郡

上練馬村

牛蒡コホウ 早熟ハセ 白細 方言

蒔着并採収

四月十日前後ニ蒔着夏土用中ヨリ採始メ秋彼岸迄ニ採収

培養并施糞

麦ノ作間ニ畦ヲ切リ藁人糞糠灰ヲ和シタルヲ一反歩二十二荷元肥ニ施シ播種シテ土ヲカケ軽クフミツケ置トキハ凡十二三日許ニテ生ス 又十日許ヲ経テ引肥ヲ施シ苗二寸許ニナリテウロヌキ一本宛ヲノコシ株ノ廻リヲ手ニテ土ヲ揉ミ根際ニヨセカケ麦ヲ苅上ケテ直ニ積肥十荷ヲ施シ畦ヲ切ル 該品ハ雨年ヲ好ムモノナリ種ヲ取ルニハ秋彼岸後ニ堀テ別ノ畑ヘ横ニ植着ケ施糞ス其後手入レナシ春ニ至リ芽ヲ生ス夏土用前後ヨリ花開キ土用ヲ明ケ十五日許ヲ経テ苅取リ釣ルシ置キヨク乾シ小槌ニテタヽキ種ヲモミ取ル 年柄ニヨリテ虫ノ付ヿアリ花開ケハハナシヘニ喰込ムナリ形チ長ク色薄黒ニシテ羽ナシ俗ニ言フ尺取り虫ニ似タリ手ニテ取ルノ外除ク法ナシ

ことに播種の際には「天地返し」と称し、土を深く掘り起す必要のあったところから土壌の改良という面にも効果があり、合わせて連作が不可能なことから年々所を変えて耕作することとなる。牛蒡を生産することが同時に畑地へ活力を与えることになるという自然の摂理の応用が取り入れられていた訳である。

こうして行なわれた牛蒡の生産は年とともに活況を呈し、大正時代に至る頃には練馬区域は一中心地と目されるまでになっていたといわれる。大正四年の『石神井村誌』によれば、石神井村だけでも作付面積が五八町にもおよび、収穫高は一三万三四〇〇貫を数えている。また昭和八年発行の『中新井村誌』にも四町歩の作付面積で一万六八〇〇貫の収穫高が記されている。盛況であった時期には関西方面にも出荷されたという牛蒡は、第二次大戦後にも引き続き作られており、昭和三〇年代後半から急激に衰退していったといわれる。

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表<数2>37は昭和二三年時点の区別の生産高を示すものであるが、当時なお練馬では一二万六五〇〇貫もの産出量を誇っていた

のである。

その他の物産

前項までに触れた産物のほかにもいわゆる特産と呼ばれたものがいくつかあり、また特産とされないまでもなじみの深かった物産は枚挙にいとまがない。一々について詳細に記す余裕がないため、ここではことに著名であったものあるいは諸資料中に名のみえるものに限ってひと通りの紹介をするに止める。

古くから練馬区域に栽培され、ことに明治から大正になって近郊農村としての地位を確立させた代表的な蔬菜としてニンジン、ナス、カンショなどがある。ニンジンは江戸時代末頃から栽培が行なわれ、明治になって練馬地方の特産とされるようになった。明治七年の『東京府志料』には「胡蘿蔔」と表記され、中新井村の二七二駄(価額一三六円)をはじめ中村の一七二駄(同八六円)、下練馬村の一六五駄(八二円五〇銭)、上練馬村の一五〇駄(七五円)が産額としてあげられている。品種としてはいわゆる滝野川ニンジンが主体でその後国分、理想、国分理想などと呼ばれるものが普及したといわれる。現在みられる太めで短い品種とは異なり、これらはちょうど大根を小さくしたような細長いものであった。これが現在一般のものとなった太めの品種に切り替えられるのは昭和三〇年代の末以降であったらしい。第二次大戦後にもなお盛んで、昭和二三年の本区の生産状況は作付面積四九町歩、一七万八〇〇〇貫の生産高(『東京都統計書』)をあげ、区部ではもちろん第一位を占めていた。

ナスの栽培も相当に早かったといわれるが起源ははっきりしていない。『東京府志料』には関村および竹下新田を除く全村に産額が記され、ことに下練馬村の九五〇駄(四五二円)、上練馬村の八五〇駄(四二五円)、中新井村の六八〇駄(三三六円六六銭)などが目立つ。『練馬農業協同組合史』によれば当時の品種は「山ナス」と呼ばれるもので、苗は目黒、野方、上板橋その他から買い求めていたといわれる。その後真黒、合黒などと呼ばれる品種に替り、第二次大戦から戦後にかけては萩中長種、その他各種の栽培をみるに至った。全盛期は大正から昭和二〇年代までといわれ、以後区内の都市化とともに衰退していった。

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カンショも古くから栽培されていたといわれるが、これも起源はわからない。ただ盛んになったのは明治中期以降であろうと思われる。表<数2>38は明治七年と二一・二二年頃の生産高を便宜上一表としてみたものであるが、七年時点では現練馬区の西部に位置する諸村に記されている程度で、価額もわずかなものである。これに対して二一・二二年には全村(竹下新田は関村に合併されている)で記録され、価額も七年の比較にはならない。以後第二次大戦後にまで重要な物産として記憶されることとなるが、ことに戦時下から終戦直後にかけては食糧増産の意味からも栽培に力をつくしたといわれる。ちなみに昭和二三年時点の本区の生産状況は、作付面積一六三町六反、実収高七二万二九七〇貫(『東京都統計書』)であった。

これらのほかに明治一四年の『東京府下農事要覧』中には次の諸物産についての紹介がある。いずれも当時としては重要なものであり、中には昭和に至るまで生産されていたものもある。以下に引用して参考に供したい。

<資料文>

                                     北豊島郡

                                       上石神井村

 ○アハ 五十穂ウルチ 方言

蒔着并採収

 六月下旬播種十月下旬採収

培養并施糞

貯蓄

 穂ヲ干シ揉ミ取リ莚ノ上ニテ連耞カラサホニテ打篩ウチフルヒニテ簁ヒ干アケテ貯フ

<資料文>

                                     北豊島郡

                                       上石神井村

蕎麦ソバ 鴈花 方言

蒔着并採収

 夏土用明ケ十日程ヲ過キ播種七十日ヲ経テ採収

培養并施糞

貯蓄

 苅取リ実ヲ落シ篩ニ掛ケ塵芥チリアクタヲ去リ颺扇ドウミニテ扇揺シ尚能乾曝ホシカハカシシ俵ニ入貯フ

<資料文>

                                     北豊島郡

                                       下石神井村

 ○大豆タイツ

蒔着并採収

 八十八夜十二三日ヲ過テ播種八月中旬ニ至リ採収

培養并施糞

貯蓄

 実熟シタルヲ乾曝シ連耞カラサホヲ以テ打チ殻ヲ去リ貯フ

<資料文>

                                     北豊島郡

                                       下練馬村

 ○蕪菁

蒔着并採収

 夏土用中ニ種ヲ下シ十月ニ至リ採収ス種ヲ取ニハ菜菔子タイコンタネヲ取ルカ如ク十月ニ植替へ翌年六月ニ種ヲ採収

培養并施糞

<資料文>

                                   北豊島郡

                                     中村

 ○ 晩熟ヲク

蒔着并採収

 六月下旬播種十月上旬採収

培養并施糞

貯蓄

<資料文>

                                   北豊島郡

                                     中   村

 ○蕓薹アフラナ

蒔着并採収

培養并施糞

さらに『東京府北豊島郡誌』中にはウドについて次のように記されている。

<資料文>

独活 独活の速成栽培は石神井村を第一とし、大泉村之に亜ぐ、石神井村に於て独活の栽培を始めたるは、或は長命寺の開起と同時ならんか、然ども其時代の耕作は多く自家用にして販売品少し、市中販売として栽培を盛ならしめたるは文化年間より明治五六年頃にあり、夫より少しく衰頽に傾きたるの感ありと雖も、今に栽培を継続し、年々相当の利益を収む。

又大泉村にては文久より明治三四年頃盛にして、夫より漸次衰頽に傾きたるの感あり、目今は、古来よりの種類を一変して、俗に赤芽土当帰と称する寒土当帰を作るに至れり、此種類は早生種にして速成に適す。

<節>
第七節 大正から昭和への農業
<本文>
近郊農村練馬の姿

明治から大正に至るころには急速に進展した都市化の影響が市域周辺の郡部にまでおよび、北豊島郡にしても例外ではなかった。南千住・三河島・日暮里・尾久・滝野川・王子といった郡東部の諸村での農業は以後大正末ころまでの間にほぼ全域的な衰退をみせた。『北豊島郡の園芸』(昭和四年刊)中に記された農作物変遷分布図によれば、昭和三年時点で王子と滝野川に「温室切花」という記載をみるのみである。

こうして郡東部に位置する諸町村での都市化は年とともにその範囲を広めていたが、郡部の西端に位置する練馬区域の諸村についてはどうであったか。大正七年一一月に刊行された『東京府北豊島郡誌』には当時の郡内の農業の様子を次のように記している。

<資料文>

本郡は所謂武蔵野の一部なるを以て、地勢平坦にして畑地に富み、地味また膏腴なれば、近郊に於ける農事の先進地として、其名夙に著はる。然も近時帝都膨脹の影響を受けて、市部接壌の地は多く市街に化し、南千住町並巣鴨町を首め、王子町、西巣鴨町、滝

野川町、日暮里町、高田村、板橋町、岩淵町、三河島村及び尾久村等に在りては、農業年を逐ふて衰退し、或は既に全く農作地を剰さゞるものあり、今や純然なる農村は郡の西部なる石神井、大泉、上、下練馬、赤塚、志、上板橋、中新井、長崎等の諸村に之を見るのみ、即ち全郡半は旧農村の状を失へり。

もっとも、これら純農村と目されている西部諸村にしても、年々宅地化あるいは工業用地化が行なわれる傾向にあり、そのようにして失なわれてゆく耕地を林野の開墾によって補っている実状だと記す。練馬区域内の諸村については同じ『郡誌』中に次のような記事がみえる。以下村別にまとめておきたい。

<資料文>

上練馬村

 本村は下練馬村と共に、天下に著れたる大根の産地にして、全村殆ど之が耕作に従事す、其の細数は既に総記に記したる処なり。また村内水田少きを以て水稲の産額多からざるも、陸田の作物は品種も多く結果も佳良なり、但帝都を距ることやゝ遠きを以て蔬菜の搬出容易ならず、農家の努力実に意想の外に在り。下練馬村と同じく下駄表の製産また尠からず。

下練馬村

 本村総面積六百三十四町歩余の中耕地は五百十一町歩に達す、即ち全土の約八割なり、また農作に従事するものは全村八百九十戸中につき七百戸以上を算す、実に農業は本村の主要生業なりとす、但地勢水田に乏しく、耕地の九分は畑地なるを以て米麦の如き主要農産に重きを置く能はず、主として帝都の需用に応ずべく蔬菜栽培に全力を傾倒するに至れるまた自然の勢なりとす、蔬菜中本村の特色にして天下に著聞せる練馬大根に関しては、既に記載せり、其他の細目また既記の如し。

石神井村

 本村は地味膏腴にして農業に適す。畑作は大麦、小麦、陸稲、蘿蔔を主とし、是に次ぐに黍、稗、芋、甘藷、牛蒡、胡瓜、茄子、胡蘿蔔、豆類、菜類、馬鈴薯等の産額を挙ぐべし、就中蔬菜類は東京市中に販出さるゝを以て年々作付反別を増加するの勢あり、又た大根は沢庵漬として売出すもの多し、近年蔬菜類に亜で養蚕、製茶等の副業著く発達し来れるは注目すべき現象なりとす。

大泉村

村内二三の小売営業を除きて、他はみな農業に従事し、少許の宅地と山林と官用地等を除きては、全土みな耕地にして、実に七百五十町歩に達せり、従て米麦蔬菜の収穫多く、郡内屈指の大農村なりとす、事の詳細は郡記に表示せり。

なお、中新井村については農業に関する記載はないが、いぜん主要な農業地帯であったことが昭和八年七月に刊行された『中新井村誌』中の次のような記事からもうかがえる。

<資料文>

本村の産業は工業方面に於ては殆ど見るべきものなく依然として農業にのみ限られ、従つて物産も農産物を主とし、工産物は挙げて数ふべきものはない。農業も耕作農業を主とし、其の作付反別に於ては麦最も多く約二〇〇町歩、次は大根の八〇町歩、米の五四町歩であるが価格では大根が主位にあつて八六、四〇〇円、次は牛蒡五二、〇〇〇円、麦三五、二〇〇円、米二五、七〇〇円等が夫々之に次ぐものである。耕作農業以外では養鶏が最も盛で鶏数一、〇〇〇羽を下らない。

主要農産物
種目作付反別生産量価格
大根 八〇・〇 九六〇、〇〇〇 八六、四〇〇
人参 三・五 七、〇〇〇 二、一〇〇
牛蒡 四・〇 一六、八〇〇 五二、〇八〇
里芋 九・〇 一九、八〇〇 五、九四〇
白菜 一五・〇 九〇、〇〇〇 一九、八〇〇
大麦 一五〇・〇 三、二〇〇 二五、六〇〇
小麦 五〇・〇 六〇〇 九、六〇〇
五四・〇 九五二 二五、七〇〇
越瓜 五・六 六、〇〇〇 二、八〇〇
南瓜 五・〇 一五、〇〇〇 四、五〇〇
茄子 五・〇 四〇、〇〇〇 一二、〇〇〇
胡瓜 一一・二 一一二、〇〇〇 二二、四〇〇
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このような状況からも練馬区域内の諸村はなお純農村としての形態を強く止め、都市化の影響はほとんどおよぼされていなかった様子がわかるのである。もっとも大正はじめ頃には武蔵野鉄道(後の西武池袋線)および東上鉄道(後の東武東上線)などがあい次いで開通されたが、武蔵野鉄道については長い間下肥を市域から運び込むためにも利用されていたといわれ、必ずしも都市化と直結するものであったとは思われない。ただ大正一二年の関東大震災において市域がほぼ壊滅的な被害に

見舞われたのにともない、ようやく練馬区域内の東部への人口集中化がみられ、このときのひとつの目安として武蔵野鉄道が見直されるに至ったのである。昭和はじめ頃には下練馬村(昭和四年練馬町となる)および中新井村では右のような事情から一部に市街地化が行なわれるようになるが、この時点ではなお地域で農業活動を根本的に阻害するまでには至っていなかったことは、『中新井村誌』に記述されているとおりである。

もっとも農業そのものの内容については明治と大正以降とでは相当な変化がみられる。養蚕や藍または茶などが全体に衰え、かわって蔬菜類が農産物の中心を占めるに至ったこともそのひとつである。もともと蔬菜類が盛んであった上・下練馬村などはともかく、養蚕の盛況地として知られていた石神井村あるいは大泉村あたりでもようやく蔬菜に力が注がれるところとなった。その理由としては有力な蔬菜栽培地であった北豊島郡東部の諸村があい次いで市街地化され、近郊農村として成り立たなくなったことがあげられる。蔬菜はその鮮度が最も要求され、交通機関が未発達であった当時では大消費地周辺で多く栽培されていたわけである。郡東部が市街地化されるに従って近郊農村の範囲がより西方に広がることとなった。個々の農家にとってはそれまで続けていた養蚕や藍または茶の生産よりも蔬菜栽培に切りかえることによってより多くの利益が約束されていなくてはならないが、この点については東京という大消費地が当時なお蔬菜の供給地として近郊農村に一存しなくてはならなかった実情を考え合せてみればおよその推測はつくのである。

大正四年の『石神井村誌』には、村東部で年々蔬菜の作付反別が増加し、大根栽培なども盛んに行なわれるようになって、これはたくあん漬けとして諸方に売り出されていると記され、養蚕は村の西部方面で多く行なわれているとある。ちなみに同村での蔬菜作付状況は次ページに掲げるとおりである。

養蚕から蔬菜類に転換することによって実際にはどれほどの生産利益が得られたものか興味あるところであるが、適当な資料がない。ただ大正七年に刊行された『帝都と近郊』(小田内通敏著)の中に次のような一節があるところから、東京周辺の一般的な傾向としてみておくこととする。

<資料文>

桑及茶の減少は、其収益が遠く蔬菜のそれに及ばざるが為にして、桑園一反歩より産する桑葉三百貫にて、飼養したる蚕種一枚より繭十貫目即ち売価四十円を得るに過ぎず。之に比すれば蔬菜は胡瓜の如き一反歩の売上約百円を得るの外、なほ冬作として麦の一反歩の売上三十円を得るを得べければなり。

こうして練馬区域内での蔬菜栽培が本格化されようとしていたころ、すでに東隣りの長崎村あたりでは植木職を兼ねる農家が増加していたといわれ、戦後の区内農業のひとつの特色となる花卉・芝草栽培への移行がみえはじめていた。

大正四年の石神井村での蔬菜作付状況
名称作付反別収穫高価格
大麦 三二、一七四 六四、三四五 二一、三五七
小麦 二七、六七〇 三〇、四三七 三〇、四三七
陸稲粳 一五、七〇二 七、八五一 七、八五一
陸稲糯 六、〇一四 二、四〇五 二、八二八
大根 一〇、九〇〇 一、六三五、〇〇〇 二九、四三〇
五、五〇〇 四、六七〇 四、〇六四
里芋 七、〇〇〇 一〇五、〇〇〇 一〇、五〇〇
甘藷 六、八〇〇 一七〇、〇〇〇 一一、九〇〇
牛蒡 五、八〇〇 一三三、四〇〇 一三、三四〇
四、〇〇〇 一四、〇〇〇 五、六〇〇
茄子 一、五〇〇 四、七〇〇、〇〇〇 五、八七五
胡蘿蔔 四、五〇〇 六六、〇七五 六、〇七五
馬鈴薯 四、〇〇〇 一三三、四〇〇 一三、三四〇
(大正四年七月一日調)
図表を表示
作付転換のあらまし

明治末から大正にかけて練馬区域の諸村には蔬菜類の栽培が盛んに行なわれはじめた。その経緯についてはすでに述べたとおりであるが、具体的にはどのような作物がつくられていたのであろうか。以下当時の主要作物のいくつかについてみておきたい。大根、ゴボウ、ニンジン、ナスなどは古くから栽培されており、別に詳述されているのでここでは改めて触れないこととする。

まず明治末頃からはじまったとされるものにキュウリがある。キュウリは当時の尾久町から導入されたといわれるが、はじめは自家用に栽培されていた。商品化するのは大正期に入ってからで、一部に温床栽培が行なわれたともいうが大半は天然栽培によった。ビニールなどを使用して苗を被覆する方法は戦後になって普及されるのである。

トマトは大正中期頃より試作がはじめられ、当時は「赤ナス」といわれて、風味、味にくせがあり、なお改良を待つ段階にあった。商品化は昭和に入ってからである。府立農事試験場では品種改良につとめ、これの普及を行なった。戦後には温床栽培が盛んとなり、二七、八年には全盛期を迎えている。

同じく大正中期以降盛んにつくられるようになったものにバレイショがある。『練馬農業協同組合史』によれば当時種いもを主に豊多摩郡から導入していたが、バイラス病にかかるものが多く、昭和三年下練馬村農会、上練馬村農会の協議の末、北海道産の「男爵イモ」の種を使うことになったといわれる。以後増収をみて、同地域での重要産物のひとつとなった。

昭和八年の大干ばつ以来、練馬大根にかわる新たな蔬菜作物として登場してきたのがキャベツであった。一四年頃から試作が行なわれ、第二次大戦中に各部落で試作が継続されたという。前出の『農協史』によれば二一年頃から急速に普及し、二六年頃には五〇〇ha余の作付面積に達し、本区での蔬菜の筆頭にあげられるまでになった。

これらとほぼ平衡して行なわれはじめたものに果樹・花卉類の園芸作物がある。いずれも大正末から昭和にかけて栽培されはじめ、後者においては温室栽培の試みも成されたが、第二次大戦突入とともに食糧増産の機運が高まり、それぞれの分野は中断された。しかし、戦後に至り、こうした方面に進出する農家が急増してゆくこととなる。

社会状勢の変化と練馬の農業

大正から昭和初年に至る日本の経済は第一次大戦後の不況、関東大震災による被害、それに続く金融恐慌などがあり、国民生活は一般に窮乏の一途をたどっていた。この間大正七年にはほぼ全国を巻き込む米騒動が起っている。また昭和四年以降の経済恐慌は絹糸の相場の暴落を来したほか一般蔬菜類や米価の暴落を招き農村経済に大打撃を与えた。

練馬区域の諸村にもこうした影響は当然あったが、当時の町村農会の指導の下にこれを乗り越えたといわれる。各町村農会に専従の技術員が置かれたのもこの頃で、おのずと彼らに寄せる一般農民の期待は大きなものがあった。各村に専従した

技術員の氏名と就任時期とを次に記しておくこととする。

 上練馬村 松岡三郎助 昭和三年四月

 下練馬村 柳沢 長隆 大正一二年六月

 中新井村 宮沢 勉  昭和四年四月

 石神井村 西谷 孝治 昭和三年四月

 大泉村  琴坂幸太郎 大正一四年四月

もともと練馬区域内の諸村は東京という大消費地を背後に控えていたことから農村経済は比較的に裕福であったといわれる。特に明治末頃から北豊島郡の東部での市街地化が進むにつれて近郊農村としての期待度は高まった。各農家では主に蔬菜栽培に力を入れ、これを東京市内の各市場へ送った。こうしてできた蔬菜類は西山野菜といわれて重宝がられたといわれる。

このような環境は農業形態上にも影響しており、各農家ではあくまでも個人での活動を尊重し、団体での作業を好まない気風があった。市域から蔬菜類の需要が高まったことから労働力不足を来したが、朝鮮牛の導入によってこれに対処しようとしていた。出荷や肥料の搬入もなお個人の手にゆだねられていた。しかし、一般状勢は刻々と変化しており、必ずしも近郊農村としての優位性に依存してはいられない機運が生じはじめていたのである。

その一例として、交通網の発達により、遠隔地から東京市内へ搬入される蔬菜類が増え始めたことがあげられる。鉄道を使って運び込まれてくるものは精選されたものが多く、その背後には地域の団体の活動がある。このような現状に触れて当時の北豊島郡園芸研究会はその著『北豊島郡の園芸』(昭和四年刊)を通じて次のように警告を発している。

<資料文>

三浦郡では出荷係に依って東京向横浜向又は横須賀向地廻り向きと四分して精選を重ねてゐるから東京に来るものは上等の品で練馬の大根が神田の市場で上売八銭の時三浦郡のは十三銭、即ち四銭の開きがある、練馬の方がかっこうはよいが三浦郡の方はそつが

ない揃ってゐるから小売屋には三浦郡の方が喜ばれる、当地方の農家から出るものは或る農家のは精選してあるが或る農家から出るものは揃ってゐないきず物を下の方や中に入れてある、市場の買手は何を見て買ふか、決して上のよいのを見て買はない、下の悪いのを標準とする上の良いものは景品になるに過ぎない、小売店の目は鋭い、悪い荷造は地まはりの物に多い、買手は中を一回ほどいて元の如く直して置き中の悪いのが全部にかゝる事になる、以上述べた如く練馬の物が安く三浦の物が高いのは悪いものが少いからである。

ここでは練馬の大根がこのままではやがて三浦郡の大根に取ってかわられることになるかもしれないという一例を引き、近郊農村としての今後の対策をうながしているのである。同書の結論は地域農民の団結力以外に打開の道はなかろうというものであった。

また機械力の発展が徐々に農村にも影響をおよぼしはじめており、この点からも農業の近代化をはかる必要性が一部に叫ばれるに至った。昭和四年には練馬町農会に動力麦摺り機が導入され、各部落ではこれを持ち回りで利用し、共同作業が行なわれるようになった。朝鮮牛の活用も単に運搬だけでなく農耕に向けられ、飼養頭数が急増したといわれる。その後動力耕耘機が普及されはじめたが、時代はやがて戦時態勢下に入り、応召によって人力不足を来したことからその穴埋めとして導入されたかの感がある。機械化が本来の農業発展に結びついてゆくのはなお後のことであった。

社会状勢の変化から新たな対策を余儀なくされたものとしてはこのほかに肥料の問題があげられる。肥料は古くから主に人糞に頼っており、各農家では市域から購入するのが慣例であった。明治末から大正に至る頃には徐々に化学肥料が使用され始めていたが、良質の土壌を保つためにはやはり人糞は欠かせないものであった。しかし東京市域での都市化が進展するとともに市による屎尿処理が行なわれることとなった。昭和九年には旧市域で、一一年以降は新市域でも実施されはじめた。当時の東京市農会練馬出張所は各部落の農民と協力して汲み取り権を得るため関係機関に陳情を重ねたが、結局市営屎尿処理問題をどうすることもできなかった。市ではそれでも豊島区長崎町を農民汲み取り区域として指定したがさまざまな

条件付きであった。汲み取り用の鑑札、汲み取り桶の容量、運び方に至るまで規制を設けた。また屎尿の貯蔵には貯溜槽の設置を義務づけた。

こうした市の方針に対処するため各部落では屎尿購入組合を結成し、次いで連合会が誕生した。以後屎尿の汲み取りは各農家の自由にはならなくなったのである。

<節>
第八節 農会とその活動
<本文>
町村農会

維新以後政府の手によって押し進められたいわゆる勧農政策も、明治一〇年代にはそれまで洋化一辺倒であった考え方に修正が加わり、以後は日本の農業の独自性を重視した政策に切りかわることとなった。こうした機運の中で地域の農業活動もようやく地についたものとなり、今後の農業への展望を見い出そうとする動きが諸方にみられた。明治一四年五月には大日本農会の設立をみるが、これを頂点とした系統的な農会組織の必要性が叫ばれはじめていた。

東京府では同一四年に府下六郡の郡長を会長とする農談会が結成、開催されている。連合農談会は以後六郡持ち回りで会場を定め、回を重ねてゆくこととなるが、このほかに講習会、品評会などの開催を通じ、農業改善への活動が展開されている。明治二四年には後に東京府に編入される北多摩郡内に大日本農会支会が設けられ、同郡内の町村に町村農会が置かれた。これが後の東京府における系統農会のはじめとされている。

東京府は二八年、まず府内の町村農会の結成を促進するため農会準則を作成し町村長に布達した。これの進展をみて、その上の郡農会、さらには府農会を組織しようというのが東京府の目論見であった。この計画に沿って現練馬区域の諸村でも村農会設立への準備が成され、三〇年の四月以降には全村に結成をみることとなる。その後郡農会の設立、さらには三一年

一一月の東京府農会の成立をみて、東京府における系統農会は一応の体制を整えた。当時の町村農会の会則の一例として、石神井村農会のものを次に掲載しておくこととする。

石神井村農会々則

<資料文 type="2-33">

第一章 総会

第一条 本会ハ石神井村農会ト称ス

第二条 本会ノ区域ハ石神井村ノ区域ニ依ル

第三条 本会ハ農事ノ改良発達ヲ図ルヲ以テ目的トシ左ノ事業ヲ行フ

一 農事ニ関スル講習会講話会共進会品評会又ハ種苗交換会ヲ開設スルコト

二 農事試験又ハ統計調査ニ関スルコト

三 右ノ外農事改良ニ必要ナルコト

第四条 本会ノ事務所ハ北豊島郡石神井村大字下石神井千五十二番地ニ設置ス

第五条 本会ハ総会ノ決議ヲ以テ名誉会員ヲ推薦スルコトヲ得

第二章 役員及職員

第六条 本会ニ左ノ役員ヲ置ク

会長 一名 副会長 一名 評議員 七名

第七条 会長ハ会務ヲ総理シ本会ヲ代表ス

副会長ハ会長ノ事務ヲ補佐シ会長事故アルトキハ之レヲ代理ス

評議員ハ会長ノ諮問ニ応シ及会務執行ノ状況ヲ監査スルモノトス

第八条 会長及副会長ハ会員又ハ名誉会員中ヨリ評議員ハ会員中ヨリ

総会ニ於テ之レヲ選挙ス

前項ノ選挙ニ於テハ投票最多数ヲ得タル者ヲ当選者トス、得票同数者アル場合ニハ更ニ同一得票者ニ付投票ヲ行ヒ尚得票同数ナル時ハ抽籤ヲ以テ之レヲ定ム

役員ハ正当ノ事由ナクシテ辞任スルコトヲ得ス

第九条 役員ハ正当ノ事由アルトキハ会員四分ノ三以上ノ同意ヲ以テ之レヲ辞任スルコトヲ得

第十条 役員ノ任期ハ事業年度ニ従ヒ三ケ年トス但シ再選ヲ妨ゲズ

補欠ノ為メ選挙セラレタル役員ノ任期ハ前任者ノ残任期間トス

第十一条 役員ハ其ノ任期満了後ト雖後任者ノ就任スル迄ハ其ノ職務ヲ行フモノトス

第十二条 役員ハ名誉職トス

第十三条 本会ニ左ノ職員ヲ置ク

技手 若干名 書記 一名

前項ノ外総会ノ決議ヲ経テ臨時ニ必要ナル職員ヲ置クコトヲ得

第十四条 技手ハ会長ノ命ヲ受ケ技術ニ関スル事務ヲ掌ル

第十五条 書記ハ会長ノ命ヲ承ケ庶務ニ従事ス

第十六条 職員ハ会長之レヲ任免ス

第三章 代表者

第十七条 本会ニ代表者副代表者各一名ヲ置ク

第十八条 第八条第二項ノ規定ハ代表者副代表者ノ選挙ニ之レヲ適用ス

第四章 会議

第十九条 総会ハ通常総会及臨時総会ノ二種トス

通常総会ハ毎年一回之レヲ開ク

臨時総会ハ会長ニ於テ必要ト認ムルトキ又ハ会員五分ノ一以上ノ同意ヲ以テ会議ノ目的及招集ノ理由ヲ示シテ請求シタルトキ之レヲ開ク

第二十条 総会ノ招集ハ其ノ目的及場所ヲ定メ之レヲ通知スルコトヲ要ス

第二十一条 総会ノ議案ハ会長之レヲ発ス

第二十二条 総会ノ議長ハ会長之レニ当ル会長事故アルトキハ副会長之レニ代ル

但シ総会ニ於テ必要ト認ムルトキハ出席シタル会員又ハ名誉会員中ヨリ之レヲ選挙スルコトヲ得

第二十三条 総会ノ決議ハ出席シタル会員ノ過半数ヲ以テ之レヲ為ス可否同数ナルトキハ議長之レヲ為ス

第二十四条 名誉会員ハ総会ニ出席シ意見ヲ陳ブルコトヲ得

但シ議決権ヲ有セズ

第二十五条 総会ノ議事ニ関スル細則ハ総会ニ於テ之レヲ定ム

第二十六条 農会令第十五条ニ依リ意見ヲ徴セントスルトキハ会長ハ意見申出ノ期限ヲ指定スルコトヲ要ス

前項ノ期限迄ニ申出テサル意見ハ採決ノ数ニ加ヘサルモノトス

第五章 会費及財産

第二十七条 本会ノ経費ハ会員ノ負担トス

第二十八条 前条ノ経費ハ耕地牧場及原野ノ面積並ニ其ノ地価ヲ標準トシテ之レヲ分賦ス

但シ分賦ノ割合ハ毎年予算ニ於テ之レヲ定ム

第二十九条 会員ハ別ニ定ムル所ニ従ヒ物件ヲ以テ経費ヲ負担スルコトヲ得

物件ノ売却方法ハ評議員ニ諮リ会長之レヲ定ム

第三十条 会費ハ毎年二回ニ分チ之レヲ徴収ス

但シ物件ヲ以テ負担セシムル場合ニ付テハ此ノ限リニアラズ

会員ニシテ資格ヲ喪失スルコトアルモ已ニ徴収シタル会費ハ之レヲ還附セザルモノトス

第三十一条 本会ハ会員又ハ物件ノ補助又ハ寄附ヲ受クルコトヲ得

前項ノ補助又ハ寄附ヲ受ケタルトキハ其ノ目的ニ従テ之レヲ使用ス

第三十二条 本会ハ基本財産ヲ蓄積スルモノトス

但シ蓄積ノ方法ハ別ニ之レヲ定ム

特定ノ目的ナキ補助又ハ寄附ヲ受ケタルトキハ基本財産ニ編入スルモノトス

基本財産ハ総会ニ於テ定メタル方法ニ依リ之レヲ維持シ利殖スルモノトス

第三十三条 財産ノ処分ハ総会ノ決議ヲ経テ之レヲ行フ

但シ其ノ重大ナラザルモノニ付テハ会長ニ委任スルコトヲ妨ケス

第六章 処務及会計

第三十四条 本会ノ会計年度ハ毎年四月一日ヨリ翌年三月三十一日迄トス

第三十五条 会長ハ主任ヲ定メテ会務ヲ処理セシムルモノトス

第三十六条 本会ニ左ノ帳簿ヲ備フ

会員名簿 出納簿 財産台簿

第三十七条 予算ノ欵内ノ経費ノ流用支出ハ評議員ニ諮リ会長之レヲ専行

スルコトヲ得

第三十八条 剰余金ハ翌年度ニ繰越シ収入予算ニ編入スルモノトス

第三十九条 処務及会計ニ関スル細則ハ会長之レヲ定ム

第七章 会則変更

第四十条 会則ノ変更ハ総会ニ於テ出席シタル会員三分ノ二以上ノ同意ヲ以テ之レヲ決ス

第八章 解散

第四十一条 解散ノ決議ハ会員四分ノ三以上ノ同意アルコトヲ要ス

            (『石神井村誌』より

三二年六月には農会法が公布され、翌三三年の農会令の公布をみて各農会は法人団体として格付けされることとなった。こうした系統農会の中で町村農会は直接地域に根ざした活動を展開している。もっともその活動内容は農事全般にわたる改良を主眼としていたとはいえ、多分に行政分野の一翼を担わされていたかの感がある。

大正一一年四月一二日、旧農会法と農会令は廃止され、新たに農会法が改正公布された。これにより農会の目的はそれまでの「農事」の面から「農業」全般の改良発達を図ることとされ、また農会費の強制徴収を行なうことのできる公法人となり、農会の権限は強化されることとなった。これ以後町村農会においても体制の拡充がはかられ、大正一二年六月に下練馬村農会に初の技術員が置かれたほか、各農会にも次々に技術員が専従するところとなった。また各種の小組合が結成されはじめたのもこの頃からである。小組合の代表的なものとしては大正九年七月に結成された中村青物殖産組合、同一五年三月の下練馬副業研究会、昭和二年の上練馬村練馬大根採種組合などがあったが、各町村農会の下部組織として充実されてゆくのはなお先のことであった。

農事改良実行組合

大正末から昭和のはじめにかけて各町村農会では部落単位での小組合結成を推進させた。農会活動のより円滑な運営をねらったものであったが、練馬区域内の諸村では必ずしも容易な仕事ではなかったといわれる。地理的に東京市域に近いことから、野菜の出荷あるいは肥料の搬入にしてもこれを共同で行なわなくてはならないとする必然性がなく、また農家の経済面からも大消費地を背後に控えている強味があり、団体での活動になじまない気風が一般に根づいていたのである。しかし町村農会の努力と府農会の協力により各部落に農事改良実行組合の設立をみてい

った。また一方には中央卸売市場の開設にともなう新たな対応をはじめとする販路拡大への必要性も論議されており、こうした面からも小組合結成への動きは後になるほど活発さを加えるところとなった。その活動方針と組織内容については、一例として昭和一一年に結成された練馬北三軒農事改良実行組合の規約からみておきたい。

<資料文>

   練馬北三軒農事改良実行組合規約

第一条 本組合ハ練馬北三軒農事改良実行組合ト称ス

第二条 本組合ハ組合員協力シテ農業ノ改良発達ヲ図リ農家経済ノ向上ト生活ノ安定ヲ期シ醇厚ナル都市農業部落トナスヲ以テ目的トス

第三条 本組合ハ東京市板橋区練馬仲町内ニ居住スル者ヲ以テ組織ス

第四条 本組合ノ事務所ハ組合長宅ニ置ク

第五条 本組合ニ左ノ役員ヲ置キ組合員ノ互選トシ任期ハ二ケ年トス但シ再選ヲ妨ケス

     組合長 一名 副組合長 一名

     会計係 二名

     部長 若干名 副部長 若干名

   組合長ハ本組合ヲ総理シ之ヲ代表ス

   副組合長ハ組合長ヲ補佐シ組合長事故アルトキハ之ヲ代理ス

   会計係ハ組合長ノ命ヲ承ケ組合ノ会計ヲ掌ル但副組合長ニ於テ兼ヌルコトヲ得

   会計係ハ現金ヲ郵便貯金又ハ本組合指定ノ銀行ニ預入ルヽモノトス

   部長及副部長ハ組合長ノ命ヲ承ケ其ノ分担ノ事業ヲ遂行シ組合員ノ指導及聯絡ニ当ルモノトス

第六条 役員ハ正当ノ事由ナクシテ辞任スルコトヲ得ス

第七条 補欠ノ為選挙セラレタル役員ノ任期ハ前任者ノ残任期間トス

第八条 本組合ニ顧問ヲ置クコトヲ得

   顧問ハ本組合ニ功労アリタルモノ又ハ農業ニ関シ学識経験アルモノヨリ役員会ニ於テ推薦シ総会ニ報告スルモノトス

   顧問ハ総会ニ出席シ意見ヲ述フルコトヲ得、但議決権ヲ有セス

第九条 本組合ハ第二条ノ目的ヲ達センカ為左記ノ事業ヲ行フモノトス而シテ事業遂行ノ便宜上部署ヲ定メ各部ニ部長一名副部長一名ヲ置ク

  1. 一 農業部
    1. 一 採種圃ヲ経営シ農作物品種ノ統一ヲ図ルコト
    2. 二 病虫害ノ駆除予防ヲ励行スルコト
    3. 三 普通作物園芸作物栽培ノ改良ヲ促スト共ニ優良新品種ノ栽培普及ヲ図ルコト
    4. 四 各種品評会ノ開催及共進会博覧会等ノ出品奨励及助成
    5. 五 試作地ヲ設置スルコト
  2. 二 副業部
    1. 一 庭園樹木及花卉栽培ノ普及発達ヲ図ルコト
    2. 二 其他有利ナル副業ノ奨励ヲナスコト
  3. 三 調査研究部
    1. 一 年中行事ノ協定ヲナスコト
    2. 二 土地利用並労力ノ分配ト其利用法ヲ講スルコト
    3. 三 共同作業ヲ行ヒ能率ノ増進ヲ図ルコト
    4. 四 主要農産物ノ生産消費ノ状態ヲ調査スルコト
    5. 五 生産費節減ノ方法ヲ講スルコト
  4. 四 経済部
    1. 一 事業資金ノ共同蓄積ヲナスコト
    2. 二 農業用品並ニ日用必需品ノ共同購入斡旋ヲナスコト
  5. 五 出荷部
    1. 一 農産物品位ノ向上ト統一ヲ計ルコト
    2. 二 生産物ノ共同販売ヲ行フコト
    3. 三 販路ノ拡張及調査ヲ行フコト
    4.   但シ出荷部細則ハ別ニ之ヲ定ム
  6. 六 受検部
    1. 一 農産物検査施行ニ関シ受検上ノ各種施設ヲナスコト
  7. 七 生活改善部
    1. 一 衣類ハ質実優美ニシテ実用的ナラシムルコト
    2. 二 食物料理ノ方法ヲ改善シ経済的ニシテ而モ衛生的ナラシムルコト
    3. 三 住居ハ清潔ヲ旨トシ空気日光ノ透通ヲ図ルコト
    4. 四 宅地内ノ土地ヲ整理シ居住ノ美化ニ努ムルコト
    5. 五 公休日ヲ設定シ一般娯楽ノ向上ニ努ムルコト
    6. 六 其ノ他家庭生活ノ改善ヲ促スコト
  8. 八 社会部
    1. 一 協同ノ精神ヲ涵養シ自治ノ発達ニ努ムルコト
    2. 二 各種講習会講話会ヲ開催スルコト
    3. 三 篤行者ノ表彰及敬老会家族会ノ開催ヲナスコト
    4. 四 神仏ヲ敬ヒ祖先ヲ礼拝スルノ信念ノ涵養ニ努ムルコト
    5. 五 視察ヲナスコト
    6. 六 陋習ノ矯正ニ努ムルコト
    7. 七 組合員互助ニ関スル事項
    8.   但シ其ノ方法ハ役員会ニ於テ之ヲ定ム
  9. 九 納税部
    1. 一 納税思想ノ涵養ヲ図ルト共ニ組合員ノ納付スル租税、農会費等ヲ取纒メ期限迠ニ完納スルコト
  10. 十 清掃部
    1. 一 糞尿ノ汲取又ハ購入ノ斡旋ヲナスコト

   其他各部ニ於テ必需ト認ムル事項

第十条 前条ノ事業実施方法ハ総会ノ決議ニ基キ各其ノ部長及副部長ニ於テ協議決定スルモノトス

第十一条 本組合ハ毎年二回総会ヲ開キ翌年度ノ収支予算並事業方法ヲ協定決議シ且ツ前年度収支決算並事業成績ノ報告ヲナスモノトス、但シ必要アルトキハ臨時総会ヲ開催スルコトヲ得

第十二条 本組合ハ毎月十五日ヲ期シ定期小集会ヲ開キ農事ノ研究其他必要事項ヲ協定スルモノトス

第十三条 本組合ニ要スル経費ハ各組合員ノ負担並販売購買検査斡旋手数料及各級農会其ノ他ノ補助奨励助成金或ハ有志ノ寄附ヲ以テ之ニ充ツ但シ手数料ノ割合ハ役員会ニ於テ之ヲ定ム

第十四条 本組合ニ左ノ帳簿ヲ備フ

   組合員名簿、役員名簿、組合員家族名簿、財産台帳、議事及決議録、往復文書綴、会計簿、事業実行方案、実行成績調査簿、共同販売斡旋簿、共同購買斡旋簿、農産物検査関係簿、納税関係簿、清掃関係簿、其他必要ナル帳簿

第十五条 本組合ハ毎年度予算ノ定ムル所ニヨリ基本金ヲ積立ツルモノトス

第十六条 新ニ本組合ニ加入セムトスルモノハ総会ノ承認ヲ得テ加入金ヲ納入スヘシ但シ加入金額ハ総会ニ於テ之ヲ定ム

第十七条 脱退又ハ除名セラレタル場合ハ持分ノ払戻ヲ行ハス

第十八条 組合員ハ徳義ヲ重ンジ本規約並組合ノ決議ヲ遵守シ共同一致目的貫徹ノ義務ヲ負フモノトス

但シ本条ニ違背セル行為アリタルトキハ総会ノ決議ニヨリ之ヲ除名ス

第十九条 本組合規約ノ変更ハ総会ニ於テ之ヲ組織スル者半数以上出席シ出席者ノ三分ノ二以上ヲ以テ議決ス

   但シ同一集会二回ニ及ビタル時ハ此ノ限リニ非ス

第二十条 本組合ノ解散ハ組合員三分ノ二以上ノ同意アルニ非サレバ之ヲナス事ヲ得ス

第二十一条 解散ニヨリ組合財産ノ処分ヲ行ハントスルトキハ総会ノ決議ニヨリ之ヲ行フモノトス

     附   則

   本規約ハ昭和十一年六月十二日ヨリ之ヲ施行ス

同組合は当時の練馬仲町地区に在住する農民によって結成されたものであり、当初組合員(会費納入者)は一五名であった。昭和一一年六月一二日に創立総会が開かれ、組合長以下の役員選挙が行なわれている。組合員の会費はひとり二円と定められ、同日翌一二年三月までの収支予算の内訳が議決されている。参考までにその内容を次に記しておきたい。

図表を表示
自昭和十一年六月至同十二年三月練馬北三軒農事改良実行組合経費収支予算
収入ノ部
本年度予算額附記
一、組合費 三〇〇〇
一、組合員負担金 三〇〇〇 組合員一名ニ付二円十五名分
二、手数料 一〇〇〇〇
一、共同購入斡旋手数料 四〇〇〇 薬品其他共同購入斡旋手数料

二、販売斡旋手数料 二〇〇〇 小麦其他販売斡旋手数料
三、検査斡旋手数料 四〇〇〇 農産物検査斡旋手数料
三、共同購入徴収金 八〇〇〇〇
一、共同購入徴収金 八〇〇〇〇 農家必需品共同購入徴収金
四、病虫害共同防除費徴収金 一〇〇〇〇
一、病虫害共同防除費徴収金 一〇〇〇〇
図表を表示 図表を表示
支出ノ部
本年度予算額附記
一事務費 一六〇〇
一、備品費 五〇〇 印章、帳簿其他
二、印刷費 二〇〇
三、消耗品費 五〇〇 諸用紙其他
四、通信運搬費 二〇〇
五、雑費 二〇〇
二、会議費 三七〇〇
一、総会費 二〇〇〇
二、役員会費 五〇〇
三、小集会費 一〇〇〇 小集会十回分
四、雑費 二〇〇
三、事業費 一〇一七〇〇
一、受検費 四〇〇〇 東京府検査手数料及票箋其他
二、斡旋費 一〇〇〇

三、病虫害共同防除費 一三〇〇〇
四、種苗配布費 五〇〇
五、調査研究費 五〇〇
六、出荷統制打合会費 一〇〇〇
七、共同購入支払金 八〇〇〇〇
八、視察費 五〇〇
九、印刷費 二〇〇
一〇、役員旅費 五〇〇
一一、雑費 五〇〇
四、雑支出 七〇〇
一、雑支出 七〇〇
五、基本金積立金 五〇〇
一、基本金積立金 五〇〇
六、予備費 二〇〇〇
一、予備費 二〇〇〇
  合計 一一〇二〇〇
本予算ハ欵内ニ限リ流用スルコトヲ得

なお、同組合からの出荷先は中央卸売市場神田分場・駒込青果市場・落合共同食品市場・千住青果市場・板橋青物市場のそれぞれの問屋であった。

このようにして地域での農業改良に向けて結成された農事改良実行組合ではあったが、時代はやがて第二次大戦を迎えることとなり、組合活動も次第に戦時態勢下に組み込まれてゆくところとなった。

農会から農業会へ

大正一二年の関東大震災は東京市域に大きな被害をもたらしたが、これをきっかけに周辺郡部にも急速な市街地化が行なわれるところとなった。東京の復興が進む中で隣接五郡の市域への編入を望む声が高まっていった。こうした機運は町村農会の中にも興り、町村農会を連合して新たに東京市農会を設立すべきだとする要望が大勢を占めつつあった。

昭和七年一〇月一日市郡合併の実現をみて、ここに旧五郡八二か町村は新たに東京市に編入され、練馬区域の諸町村(練馬町、上練馬村、中新井村、石神井村、大泉村)は板橋区に属すところとなった。これにともない東京市農会発足への準備も整い、同七年九月二四日創立総会が開催された。以後それまであった郡農会および町村農会は廃され、旧北豊島郡内には新たに東京市農会練馬出張所が置かれることとなった。事務所は当時の板橋区役所練馬派出所内である。なお練馬出張所管内が広域にわたるため旧石神井村および大泉村を管轄する大泉派出所が設置された。こうして市農会はスタートを切ったが、これにともない末端組織としての部落小組合の必要性は一層高まり、市農会をあげて組織結成への努力が成された。すでに昭和七年には産業組合法の改正により農事実行組合に法人格が与えられており、組織としての性格が整えられた。

この頃一般社会状勢は昭和六年の満州事変以来次第に不穏の度を加えており、戦局はやがて一二年の日華事変へと拡大する事態に突入した。翌一三年四月には国家総動員法が制定され、本格的な戦時体制が組まれてゆくこととなった。こうした機運の中で農会活動にもさまざまな統制が加えられ、全系統組織を動員し国家の使命遂行への協力を余儀なくされたのである。一六年には全農業団体の統合を目ざした中央農業協力会が発足した。この間に地域部落の小組合も改めて農事実行組合として組織化され、主要食物の増産に力を入れることとなった。

一六年一二月八日、ついに太平洋戦争の勃発となったが、以後農業団体の統合をめぐってさまざまな論議が重ねられてゆく。具体化するのは一八年三月の農業団体法の公布をみて以降のことであった。同法により中央農業会が設立されるが、その目的は「農業ニ関スル国策ニ即応シ農業ノ整備発達ヲ図リ且会員ノ農業及経済ノ発達ニ必要ナル事業ヲ行フ」こととさ

れ、もはや農業改善を目ざした旧農会の姿は一掃されてしまっている。中央農業会の設立にともない同年一二月東京市農会は解散されるが、この年東京は行政改革が行なわれそれまでの府と市の性格を合わせ持つ都制が誕生した。農会組織も以後は東京都農業会となった。

東京市農会の解散は同時に練馬出張所および大泉出張所(昭和一〇年六月一日に派出所から昇格)の解消をともなったが、翌年四月一日以降それぞれ練馬農業会、大泉農業会として活動を継続することとなった。当時の練馬農業会の管轄範囲は石泉地区を除く旧板橋区全域にわたっていた。折しも現練馬区域の板橋区からの独立を望む声が戦後になって再燃し、これに呼応して練馬地区の農民から練馬農業会分離の要望が出されるところとなった。二一年四月二〇日、練馬農業会は練馬地区分離を議決するための総代会を開催、ここに練馬第二農業会の設立を認めた。二一年五月二〇日、当時の開進第一国民学校講堂で設立総会が開かれた。練馬区が板橋区から独立する前年のことであった。

<節>
第九節 練馬の商工業
<本文>
商業の進展

古くから純農村地帯として発展してきた練馬区域には、関東大震災以後の一部市街地化を迎えるまで商業活動として目ぼしいものはあまりなかった。ただ農業活動上必要とする農具類や日用雑貨を農事の合い間に販売する商業兼業の農家の存在は早くから知られている。これに酒あるいは醤油などの製造販売業を「商業」とみなせば練馬区域の商業にもそれなりの歴史はあった。

明治に至って菓子あるいは煙草を扱う家が徐々に増え、後には種子たね屋と称される種苗販売業者も増加したといわれる。このような商業の実態を知る上での直接の資料には当面恵まれていないが、当時は酒、醤油、菓子、煙草、医薬品などには国税が課せられていたことから、とりあえず明治二一・二二年調査による村別の国税納入者数(税目については商品製造・販売

関係に限定したが)を表<数2>39として記しておくこととする。これらの国税は取り扱われる物品が対象となっているため、同一村では一軒で数種の国税を納めている場合も有り得る。田中、下練馬、上石神井各村での酒造税と醤油税についてはこの可能性が強い。従ってこれらの種目を扱った「商家」の軒数はそれぞれの村の合計人数よりはるかに少なかったものに違いない。もっともこれらの営業種目以外の物品を扱う場合には地方税中の「営業税」が課されることになっており、その対象者数は表<数2>40のとおりである。

図表を表示 図表を表示

因みに営業税の対象となるのは会社、卸売商、仲買商および小売商であるが、練馬区域の諸村では大半が小売商に属していたであろうことが想像される。しかもそれらは純然たる商家である場合よりも多分に農業面を主体に置いた半農半商的な存在であったことが今日に伝えられている。いずれにしろ資料が乏しく、「営業税」納入者を詳述しえないのが残念である。

練馬区域内の市街地化は市域に近い東部から進んだが、当時の村でいえば下練馬村、中新井村がこれに当る。その下練馬村の大正六、七年頃の商業の様子を『下練馬村郷土誌』は次のように記している。

図表を表示 <資料文>

商  業

本村の商業は特筆するに足らざれども日用雑貨を取扱ふもの最も多く雑殻売買織物販売酒菓子種苗等の販売にして蔬菜類は多く農家自身東京市の青物市場(神田、駒込、浜町、千住、本所等)に搬出して販売し帰途肥料及日用品等を買入れて帰れるを以て商業上の取引盛ならずと雖村内に武蔵野鉄道線の停車場設置せられたれば年を遂ひて各地との取引盛なるに至らんとせり

商事会社には字久保に練馬大根種子販売合資会社あり 明治三十五年五月の設立にして資本金五千円にして大根種子販売を営業す

又字栗山大門練馬駅前には練馬興業株式会社あり 大正三年の設立にして資本金五万円にして倉庫貸金運輸等を営業す 社長は佐久間勘右ヱ門氏取締役には風祭甚作氏其他又監査には新井七三郎氏あり

大正三年の東武東上線、翌年の武蔵野鉄道などの開通をみて、これらの駅の周辺にようやく商業主体の「商店」が進出しはじめる訳である。引用文中にもあるが、練馬駅前に練馬興業と称する会社が誕生する。これが本区域内最初の「銀

行」と目されている。以後関東大震災を契機として下練馬村あるいは中新井村での市街地化は進行し、商業活動にも新たな展開をみるところとなる。

表<数2>41は大正九年と昭和五年のそれぞれの国勢調査に基づく商業従事者数を記したものであるが、中新井・下練馬(昭和四年に練馬町となる)両村での数値の伸びが注目されよう。本区域内に住宅が進出しはじめたのもこの頃からである。住宅の増加が商業活動をより活発なものとし、その後の商店街形成をうながすところとなった。第二次大戦後の二四年八月一日の商業統計調査では本区の商店総数は一三九六となっている。

明治以降の水車

練馬区域内の水車の発生と当初の水車稼動については本編第四部中の「農業構造の変遷」で詳細に述べたが、そこで触れた水車の目的は米や麦その他の穀類の精白や加工を主としており、農業との深い関連において捉えることができた。これに酒や醤油に使われたとされる水車を加えてもその使用目的はさほど広いものではなかった。また後のいわゆる田柄用水の分水工事にみられるような大がかりな水路の拡張が行なわれる前の限られた河川を使うという関係からも、水車の数には限度があった。

こうした状況に変化がみられるようになったのは明治になってからであった。明治新政府は「殖産興業」の名のもとに農業および工業分野にさまざまな刺激を与えようとした。これに触発された形で、純農村地域として発展してきた練馬区域の諸村にもようやく工業活動を志向する動きが一部にみられはじめた。後の石神井・大泉両村の地域を中心として行なわれた生糸や綿糸の生産などはその代表的なものである。いずれも大正末頃までにかけて盛況であったといわれており、またそれぞれの分野でかなり大がかりな工場が操業されていたことも知られている。こうした工場の中には早くから蒸気機関を動力として用いたところもあるが、より身近な動力源としては水車が見直されはじめたのである。生糸の揚げ巻きに使われたといわれる当時の上土支田村の揚場水車がこれに当る。

一方製糸以外にも水車の利用範囲は広げられ、特に針金や板金製造などにも用いられた。上石神井村の田中水車、上練馬

村の金子水車などがそれであった。そのうち金子水車と呼ばれている水車の設立願書をみれば、当初より針銅(伸銅)機械が据え付けられていた様子がわかる。水車設立のためにはこのような願書が必要であったという点から参考として、次に掲載しておきたい。

<資料文>

      水車設立願

北豊島郡上練馬村内玉川上水北側新井筋分水路地字神明ケ谷戸

      持主 同郡同村六千五百八拾八番地

                   上野伝五右衛門

                            埼玉県下新座郡膝折村四拾六番

                                    平民 金子 豊吉

一、畑六畝弐歩明治十九年弐月ヨリ廿四年一月迄五年間

一、水車壱個

  但 水輪 径壱丈八尺

    舂杵把  弐 本    但 壱斗張 拾 本

                  弐斗張 弐 本

    針銅機械 弐 台

右之通リ水車設立致シ書面之通リ修理年季中相稼候様仕度、尤モ水上下村々示談正ニ行届候儀ハ勿論、村内故障等一切無ニ御座一候間、何卒右御聞届被ニ下一置度、則別紙村々連印証書、并ニ別書水車建設之場所図面相添へ此段奉レ願候也。

  明治十九年

                                     右 金子 豊吉㊞

                            上練馬村六千五百八拾八番地

                                  地主 上野伝五右衛門㊞

                               同村六千四百九拾一番地

                                    親戚 上野 平吉㊞

                               同村六千六百六拾四番地

                                地主惣代 上野市郎左衛門㊞

東京府知事 渡辺洪基殿

  前書出願ニ付奥印候也

                                  右村戸長 増田 藤助㊞

                              埼玉県新座郡膝折村聯合

                                   戸長 大塚 要太郎㊞

                          神奈川県北多摩郡小川村四拾七番地

                                      小川 源二郎㊞

                                   (昭和三二年刊『練馬区史』

このような新たな工業分野で利用されはじめた水車のほかに製粉業その他穀類の加工を目的とする水車の新設も行なわれ、明治から大正頃にかけてその数が著しく増えたといわれる。こうした背景には先にも触れた田柄用水(玉川上水北側新井筋分水)の引水など新水路の拡張や整備が必然的な条件として働いていたのである。

水車の利用は、その後電力用に切り替えられ、あるいは工場の廃止などにより昭和はじめ頃までの間に次第にその姿が失なわれることとなった。最後まで利用されていたといわれる前記の田中水車も昭和四〇年頃に停止されている。この間利用目的も変化を生じ、石神井・大泉方面に盛んであった製糸業が廃れるとともに製粉業などに移行するところも多かったようである。

これらの水車が練馬区域内にどれくらい作られたものか、その数は正確にはわからない。一度設置されても廃止や移動が

あって把握が困難であるとされる。しかし先人の調査によって今日その場所が判明しているところをみれば表<数2>42、および図2 図表を表示

のとおりである。図中の番号は表中のナンバーを示している。

図表を表示
工業のあらまし

練馬区域内の工業について古くから行なわれていたたくあん漬けを食品加工業として捉えるならば、その歴史は江戸時代からはじまっていたことになる。もちろんそれは手工業であり、多くは農家の副業として営まれていた。いわゆる練馬大根を漬け込むのであるが、練馬大根は当時の練馬地域を代表する農作物として知られ、たくあん漬けはその大根販売法の一つとして重要な意味を持っていた。こうした点からみればたくあん漬けは地域の農業に根ざした産業であった訳で、工業としてのイメージよりも農業の延長として捉える方が妥当かもしれない。

純農村地帯として進展してきた練馬地域での初期工業の姿は多分に農業を背景にした色彩が強いものであったことは、た

とえば酒や醤油の醸造業や製粉業についても言えることである。醤油醸造では下練馬村の大木家、石神井村の鴨下・金子両家などが知られているがいずれもかなり大規模に行なわれていたようである。また製粉業については前頃で触れた水車の経営者の内多くの人々が手がけていた。

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明治に至って石神井や大泉方面に根をおろした製糸業にしてもそのはじめは農家の副業であった。もちろん桑葉生産は農家の仕事である。こうした中で明治一二年に当時の上石神井村に資本金一万円からなる製糸会社「興就社」が設立されたことは、練馬区域内での工業にとって画期的なできごとであったといえる。興就社についてはすでに「蚕糸業の発展」の中で触れた。その後生糸産業は大正頃まで続いており、これに並行する形で特に大泉地方を中心とする撚糸業が発展している。加藤惣一郎氏の記した「大泉今昔物語」によれば大泉地域に撚糸業を広めたのは加藤仙右衛門であり、同氏が漁網用綿撚糸業を興したのは明治三〇年頃であったという。綿撚糸業とは原料である綿糸を業者より借り受け、用途に応じた太さに糸を撚る仕事の事を言う。繊維工業ではこのほかに染色が盛んに行なわれていた時期があった。明治から大正は

じめ頃だといわれるが、当時の石神井村の地域では藍の栽培がまた盛んで、これとの関連において捉えることができる。これら繊維業の内生糸は大正末期には地域の農業が蔬菜栽培中心に作付転換を行なってゆく中で次第に衰退し、また染色業も藍栽培が廃れるにつれて衰えたもののようである。ただ撚糸業については大正から昭和のはじめにかけて橋本綿糸撚工場、宮本工業所、小沢撚糸工場その他の工場に受けつがれ、それなりの進展をみている。繊維工業として記録すべきことはこのほかに鐘紡の進出があるが、これについては後に触れる。

動力を用いた工業としては右の繊維業以外にも前項でみた伸銅工業などがあげられるが、これらは浮沈があったといわれ、定着しはじめるのは昭和に至ってからのようである。また変ったところでは大正七年頃の『下練馬村郷土史』中に同村下宿の並木定五郎、豊島徳藤の両名は鉛筆製造に従事しているとの記録がある。いずれにしろ産業の主体は第二次大戦後に至るまで農業が占めていた練馬区域内では工場の数にも限りがあった。ちなみに大正七年頃の様子を取りあげるならば、『東京府北豊島郡誌』中に石神井村のこととして次のように記されている。

図表を表示 <資料文>

△製粉業は大字田中鴨下栄蔵氏一家の経営になれる玉川製粉鴨下合資会社ありて盛に小麦粉を製造す其他水車業者にして亦之れを営むもの多し。

△醤油製造業には鴨下栄蔵氏及び金子良三郎氏等ありて多量の醤油を醸造

せり。

△製絲業には八方久次郎氏の経営になれる製絲場ありて盛に生絲を製出す。

其の他撚絲染色業を営むものあり。

また昭和五、六年頃の各村別の工場数は表<数2>43に示すとおりである。

これらは加工の過程で相応な動力や機械を使用したものと思われるが、より手工業的な分野では別に発展をみていたものもある。冒頭で触れたたくあん漬けの製造も大正から昭和にかけては専業化される傾向となり、大がかりな工場も各所にできたようである。これに加えて福神漬けなどの新たな漬けものが手がけられるところとなった。

福神漬けについては一説に東京の野田清左衛門が明治一八年に創始し、後上野池ノ端の酒悦が引き継いで「福神漬」と名づけ罐詰として広めたといわれる。これを石神井村の漬物屋大野勘蔵が工夫し樽漬けとして売り出したという。当初は「旭漬」と称したそうである。

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漬けもの以外には下駄表、草箒などが知られる。いずれも農家の副業として無視しえないものがあった。このうち下駄表は下練馬村(昭和四年以降は練馬町)の特産とも称され、昭和五年時点で四三万五〇〇〇足、価額にして二万八七五〇円余の生産が行なわれていたという。これらのほかにも羽織の紐の製造などが一部に行なわれていたといわれるが詳細は不明であ

る。

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以上が練馬区域内での初期工業のおよそのあらましであるが、先にも触れたように動力と機械を中心とする工場が本格的に進出しはじめるのは関東大震災以後、昭和になってからである。この中にはタムラ製作所のように第二次大戦下に工場疎開の形で移って来たものもある。当時淀橋区柏木に本社を置いていたタムラ製作所は昭和一八年に工場を移転したが、当初は橋本撚糸工場の中で操業していたようである。こうした工場も戦時体制下では軍需工場としての役割を負わされ、本来の操業に転ずるのは戦後に至ってからであった。戦前にみられる練馬区域内の工場としては表<数2>44のようなものがあげられる程度である。

鐘紡練馬工場

練馬駅の北側に隣接して、練馬区域内ではかつて例を見なかった一万二〇〇〇坪におよぶ大工場の建設が開始されたのは大正八年であった。翌九年四月に大日本紡織株式会社として発足するこの工場が、後の鐘淵紡績株式会社練馬工場の前身といえる。こうした規模の工場が当地に建設された経緯については詳かではないが、純農村地域として知られていた練馬区域内での土地入手が有利であった点、交通上の問題としては武蔵野鉄道(現西武池袋線)がすでに大正四年に開通されていた点などが大きな条件として考えられる。また水利については付近を流れる千川上水の水があるが、これがどの程度利用されていたものかは不明である。戦後の鐘淵紡績時代には工場の周囲にいくつもの井戸があって、これを利用していたといわれる。

当初の建てものは煉瓦造りで、紡織機械の規模は二万錘という。従業員も五〇〇人以上を数えたとされ、寄宿舎なども設けられていた。この大日本紡織も第一次大戦後の不況に会い、大正一一年には上毛モスリンに買収されることとなった。翌大正一二年九月一日、いわゆる関東大震災の襲来をみた。この時煉瓦造りの工場の大半が倒壊し、職工九名の犠牲者を出した。この九名の死を悼んで建てられた供養碑が円明院に残されており、そこに記された九人の氏名は、杉山治三郎、池原キミエ、湯尾スズ、宮浦スガノ、山田イマ、清水ヨシコ、野呂シマ、宮崎マス、竹中チエである。また供養碑には「為菩提」として「大正十二年九月一日午前十一時五十八分大震災起り工場倒壊ノ為ニ横死ヲ遂グ 大正十三年八月吉日 上毛モスリン株式会社練馬工場従業員一同建之」と記す。回向を円明院に依頼したのは当時の舎監であった佐藤長蔵氏といわれる。上毛モスリンはこの震災をきっかけに工場を武蔵野紡織に譲渡し、昭和三年には東洋モスリンに合併吸収された。東洋モスリンは昭和一三年に東洋紡織と社名を変更したが、一六年七月に至って鐘淵紡績に吸収されることとなった。

鐘淵紡績は明治一九年に創立された「東京綿商社」を始祖とし、現在の隅田区に拠点を置いた紡績会社を設立、その後繊維業をはじめあらゆる業界に進出をみているが、昭和一六年には総合会社としての性格を備えるに至った。このとき多くの会社を合併吸収したといわれるが、東洋紡織もまたその内のひとつであった。

鐘淵紡績となってからも綿紡工場として操業を行なっていたが、時代は日米開戦を控えていた頃である。間もなく太平洋戦争に突入し、工場は軍需工場として模様替えされた。紡織機械は倉庫や工場の片隅に追いやられ封印が施された。かわって弾丸の薬莢が製造されはじめたのである。鐘紡練馬兵器工場と称され、陸軍王子第二工廠の直轄に置かれたという。当局から指導者が送り込まれ、従業者も一二〇〇名に達し、この内の三分の二が女子であったといわれる。これら女子従業者を対象に豊島岡女子青年学校が設立されていたのもこの頃であった。

戦後はフェルト工場として再起したが、これは戦前静岡にあった鐘紡フェルト工場が戦災で焼失し、練馬に移ったものといわれる。フェルトの分野では当工場が日本全国のシェアの三分の一を占めていたといわれ、三九年には国産の大型機械を用い、新たなフェルトの開発も行なわれた。しかし戦後住宅地域として発展してきた練馬区域内では工場を維持する条件が次第に厳しいものとなり、四〇年代に至ってからは区の都市計画の問題ともからみ、四五年一二月をもって閉鎖されることとなった。当時の業種は製紙用フェルト、設備はフェルト機械四六台、従業員は四〇一名で、この内男子一三〇名、女子一五〇名は市川毛織へ移り、また機械も市川毛織に譲渡された。

<章>

第四章 練馬の教育

<節>
第一節 近世の教育
<本文>
寺子屋・私塾・家塾

近世の教育機関としては、朱子学を官学として教授する幕府直轄の学問所、諸藩が社会()有用の人材を養成するために設置した藩学(あるいは、小さな藩学としての郷学)、さらに諸藩の藩主または領主、あるいは民間の有志者によって主に庶民教育のために設立された郷学(成人対象と子弟対象のもの)とがある。郷学の保護、監督は一般に藩がこれに当っており、藩学が武士階級のための〝公立学校〟であったのに対して、郷学は被支配者階級の公立学校の性格をもつものであった。

これら諸学校に対して、被支配者階級である農・工・商の子弟を対象とした民間における教育所が寺子屋および私塾であった。寺子屋は、庶民にとって唯一の教育機関であった。『日本教育史資料』(明治一六年の文部省調査記録)は、寺子屋発達の歴史を探る上で最も有効且つ大がかりな資料であるが、これを分析した石川謙によると、寺子屋興隆の気運は天明・寛政(一七八一~一八〇〇)の頃から顕著となり、天保・嘉永(一八三〇~一八五四)に至って全盛期となった。教科内容は読み、書き、そろばんを中心とした初歩的、実用的なものであった。一方、私塾は寺子屋に比して比較的高度な内容を教授する教育機関で、専門的な学芸を学んだ市井の学者がこれを設け、それぞれ学派等の流儀に従って専門的教育を施した。私塾は、漢学、国学、歌学、蘭学などを教えるもののほか、習字や算術など庶民を対象にした寺子屋性格のものもあり、多くは幕末期にかけて設立されている。私塾は一般に生活にゆとりのある好学な町人層によって利用されて栄えた。しかし、近世において寺子屋と私塾との概念的区別は必ずしも明確でないため、一方の名のもとに他方が加えられて調査されている場合もあ

った。『日本教育史資料』によると、寺子屋数は江戸府内に二九五校、江戸を含まない武蔵国内には五八五校みえる。実数はとらえ難く、実際は同資料に記録されない寺子屋も相当数あったと思われる。

練馬の家塾

近世における本区の地域の大部分は天領(幕府の直轄地)であったため、藩学、郷学の設立は皆無であり、寺子屋、私塾の類(以下総称して家塾と呼ぶ)も江戸府内各地に較べると相対的に少なかったと思われる。明治六、七年に東京府に提出された家塾の開業願、開学明細調、一六年の家塾取調表、下練馬村郷土誌、区内で発見された筆子の碑などの資料によると、明治六年以前の開設が推定されている家塾の数は次表のように三一におよぶ。このうち近世以前のものは一八みられるが、それらの大部分(一三)は天保期以後に開業のものである。そこに幕末半世紀にわずかながらも生じてくる家内工業のおこりあるいは商業的農業の拡大など、農村練馬の変化をみてとることもできよう。

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表中備考欄に記したように現在その存在が確認されている筆子の碑は八基ある。これらは教え子である筆子たちが、かつて学んだ師匠の顕彰のために造立したもので、筆子が回向しやすい位置に墓石状に建てられたものが多い。練馬における筆子の碑は昭和四五年から四七年にかけて観蔵院二基と閻魔堂二基の四基が確認されていたが、その後、寿福寺、正覚院に各一基、禅定院に二基が発見されている。なお、禅定院にはこの他に、それらしい小型の碑(道空霊位)があるが筆子の名はみえないので省略している。

左は寿福寺の筆子碑である。各面に刻まれている碑文・人名を記しておく。造立年月日は刻まれていないが、苗字があるところから推して明治以降に建てられたものと思われる。

画像を表示 <資料文 type="2-33">

筆子中造立の墓(寿福寺―春日町三丁目)

(正面)  賢堂學翁信士

(右横)  辞世 花濃雲分て 帰るや鷹一羽 天量堂不症翁

(左横)  江府小川町産 河野鎮平筆塚 天保六未年三月三日逝

(裏面)  発起人(上、下二段組み)

      上田柄 相原 源左衛門

          同  辰次郎

          同  長次郎

          同  米吉

      神明谷戸上野 傳五衛門

      八丁堀 加藤 豊吉

      中之宮 長谷川宇之助

          増田 藤田郎〈以上上段〉

      中之宮 橋本 磯八

          同  治兵衛

      中田柄 吉田 徳次郎

      海老谷戸長谷川留五郎

          篠田 八太郎

          長谷川半次郎

      上田柄 上野 與兵衛

      海老谷戸長谷川半蔵

(正面台石)上田柄 相原 角太郎

          同  傳次郎

          同  遊哥女

          同  倉次郎

          同  鉄次郎

          同  留次郎

          同  安五郎

          同  松次郎

          同  栄次郎

          同  文蔵

          同  那加女

          同  常吉

          同  縫之助

          上野 重次郎

          同  冨三郎

          同  與市

          同  筆女

      高松  上原 喜多女

      上田柄 五十嵐清五郎

          同  銀蔵

          鳥海 勇次郎

          同  五郎吉

          同  兼吉

      神明谷戸上野 彌宗次

          同  佐太郎

          同  藤蔵

(右台石) 中田柄 吉田 勝五郎

          同  喜代女

          同  大次郎

          同  吉五郎

          同  傳五郎

          上野 新蔵

          同  筆女

          同  美木女

          同  住女

      下田柄 田中 源蔵

          同  治兵衛

      中之宮 長谷川音吉

          増田 龍女

          橋本 寅吉

      高松  佐久間口吉

          同  栄吉

          同  米吉

      俵久保 五十嵐蔵之助

          同  菊次郎

      三丁目 関口 仙次郎

          同  伊之松

      谷原  増嶌 倉吉

      海老谷戸戸井田谷次郎

(正面左横)神明ケ谷戸上野金五郎

          同  銀五郎

          同  半之助

          同  甚五郎

          同  岩五郎

          同  口五郎

          吉田 伊三次郎

          橋本 幸次郎

      八丁堀 加藤 長松

          同  兼三郎

          同  彌四郎

          小嶌 馬之助

          本橋 小市

      宮谷戸 内田 菊次郎

          同  美木女

          同  與兵衛

          同  清次郎

      中之宮 長谷川市五郎

          庶嶌 甚五郎

          同  秀五郎

          同  瀧五郎

          谷原 増□<外字 alt="流+王">〓伊女

      中之宮 橋本 清三郎

          水橋 佐和女

(裏台石)海老ケ谷戸松原 岩次郎

          池上 嘉七

          同  常松

          同  安五郎

          篠田 源太郎

          同  藤蔵

          同  大吉

          同  新蔵

          同  勇次郎

          同  糸女

          内田 一太郎

          同  半次郎

          同  佐登女

             長谷川清蔵

          同  那加女

          同  兼吉

          同  力蔵

          同  伊之助

          同  徳三郎

          同  縫女

        他力人

          高松 小澤 藤左衛門

          早淵 山崎 鉄五郎

区内の在住が推定されている表<数2>45の家塾の師匠(河野は省く)の身分あるいは出自をみると、練馬の農民出身のものが八名、農民などの出身で練馬に移住したと思われるもの四名で合せて庶民の出身が一二名を数え、ほかに僧侶一二名、士族四名、神官二名がいた。農民出身の者が多いがこれは農事経営に専念しなくてよい富裕層のもので、彼らが家塾を開くのは大

都市周辺農村部の一般的傾向であった。僧侶、士族、神官らは近世社会の知識階層であり、家塾師匠としての資質を備えていたといえる。特に僧侶や神官は教場を設ける条件に恵まれていたため開塾が容易であったと思われる。

塾主は筆道(習字)を中心に読書、漢学、算術など複数の科目も併せて教える場合が多かった。家塾開業願や家塾明細調には塾主の学業経歴が記されているが、それによると短期間の者でも三~五年位、長期の者は一〇年を越えていた。その程度の経験が必要とされたのであろう。練馬の場合、塾主は一人で受持ちの筆子数は多くて四〇人(風祭塾)、以下二〇~三〇人程度が普通であった。

筆子たちは富裕な家庭の子が多く、教育を受けるものは全体からみれば少数であった。これは、塾主への各種の謝礼(入門拡め、年頭・歳暮の謝儀、五節句・毎月割・毎月天神講謝儀など)や学用品(机、硯箱、筆、墨、紙、教科書、通学用の衣類ほか)等をまかなえるだけの資力が家庭に要求されたためである。練馬の筆子の年齢は六歳から一六歳位までに多くがちらばっていたようであるが、なかでも一〇歳から一三歳までの筆子が多く、三年程度の修業をしたと思われる。男女別では全体に男子の就学者数が多い。これは女子が針仕事など他の技芸を優先して学ばされたことが影響していよう。修学期間は三、四年程度が普通で、特に女子の場合は一三歳前後で多くが退学したようである。

教科書・教授方法

家塾の学科は、筆道(習字)、漢学、算術、皇学、洋学などが普通で、練馬の家塾をみても洋学を除くこれらが教授された。各塾はよみ、かきを中心とした典型的な手習塾で、加えてそろばんを教える所があった。筆道、漢学における標準的教程(教科書)は府下一般と同様で、「伊呂波」、「消息往来」、「実語教」、「童子教」、「古状揃」、「三字経」、「庭訓ていきん往来」、「考経」などが習字あるいは読書用に用いられた。読書では右の教科書を素読し、正しい読み方、暗誦に力点がおかれ、塾主からは一通りの講釈がなされたといわれる。女子は「百人一首」、「女今川」、「女大学」などが標準といわれるが、練馬各塾の私学明細表や寺小屋取調表にはこれらの記載はみられない。群鵞堂の私塾取調表には教科用書の覧に前述したような教科書名を二一羅列した後、「書類ニハ男女別アリ一とある。女子には女子向きの適

当な箇所を用いたのであろう。算術は算盤そろばんによって行なわれ、八算、見一、相場割が指導された。女子には不必要なものとされたため習うものはほとんどいなかった。

授業は一般に五ツ始まり、八ツ仕舞いといわれた。実際には朝七時半頃から午後二時半頃までで、約七時間児童を拘束した。午前中一一時頃までは習字や文の暗誦などが行なわれたといわれる。筆やすめ休日)は塾によって異なり、塾主の都合で早仕舞や臨時休も行なわれたようである。日曜日休日の慣習は明治七年以降のことで、それ以前に週休制はとられていない。

<節>
第二節 学制期の教育
<本文>
学制発布と練馬

明治五年八月に学制が発布された。これは、わが国の近代学校制度の基礎を築いた最初の規定であり、全国民に対して学校教育を受ける均等の理念を貫いている点に画期的な特色があった。学制は大中小学校区之事、学校之事、教員之事、生徒試業之事、海外留学生規則之事、学費之事の六篇一〇九章(翌年に追加され二一三章になる)からなる厖大な内容の規定である。学制の構想、規模は壮大なものであり、フランス、アメリカをはじめとした西洋先進国に範を求めて近代日本の建設を指向するものであった。

その性格は、「詞章記誦の末に趨り空理虚談の途」に陥ることを戒め、実学的な学問を尊重した点に特色があり、華士族、農工商および婦女子の別なく「必ず邑に不学の戸なく家に不学の人なからしめんこと」(太政官布告第二一四号)を理想としていた。そこに掲げられた国民皆学の理念には、時の政府が近代日本の建設にかけた大きな熱意がうかがわれる。

学制第一章には、中央教育行政機関としての文部省(明治四年七月設置)の権限、地方教育行政組織の基礎として学区制が採用される旨記されている。学区制の構想では、全国を八大学区に分け各区に一大学を設置する、各大学区は三二の中学区に、各中学区は二一〇の小学区に分割し、それぞれ中学区には中学校を、小学区には小学校を各一校設けるものであった(

治六年四月、八大学区を七大学区に改正)。具体的には、人口六〇〇人に対して一小学校の割合で設置する計画であったが、実施にあたっては東京府ほかの多くの府県ではこの方式を採用せず、行政区としての小区を単位として学校が設立されることになった。

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東京は第一大学区に属することになった。東京府では「東京府管下中小学校創立大意」(明治六年二月七日)において府管下を六中学区とし、都心から放射状に分けた。現在の本区域の大半は、新宿、中野、杉並、渋谷および千代田区の一部とともに第三中学区に属した。ただし、上板橋村は第四中学区に、大泉地区(小榑村、橋戸村)は入間県に属したため第一四中学区に属することになった。

明治六、七年の現在の区内地域は、行政的には東京府第八大区の七小区と八小区、第九大区四小区の一部および熊谷県第二大区七小区に属していた(表<数2>46)ため、各小区内に居住していた児童は、それぞれの行政区内にあった家塾や新しく設立されてくる小学校へ通うことになった。

教育行政組織

教育行政組織としては、文部省の下に、各大学の大学本部に督学局をおき、地方官と協議の上大学区内の教育行政を行なうことになっていた。だが実際には督学局は第一大学区のみにおかれ、明治七年には文部省に合併、解消した。

中学区には地方官の任命による学区取締十数名がおかれた。一名が二〇~三〇の小学区を受持ち、就学の督励、学校の設立および運営に当らせることとした。学区取締には「其土地居民名望アル者」が任命されることになっていたが、定員に満たないため戸長兼務の場合が多かった。

学区取締の任務は教育行政の全般にわたっていたため、「学制」には特に規定のなかった補助機関として、学校世話掛が各小学校におかれた。世話掛は雑務掛ともよばれ、学区取締の指示に従って学校の設立から運営(会計、備品管理ほか)、就学の督励など学校事務の大部分にあたった。その実数は学校により異なり、豊島学校二四人、豊関学校九人、豊西学校九人、豊渓学校七人(以上明治一〇年四月一九日付の東京府庁発令)、豊玉学校六〇人、練馬学校五一人(以上同九年一二月一六日、一八日付任命)であった。

画像を表示 <項>
「学制」期教育の実相
<本文>
小学教則

学制を実施するにあたって特に力が注がれたのは小学校の設立であった。「小学校ハ教育ノ初級ニシテ人民一般必ス学ハスンハアルヘカラサルモノトス」(「学制」第二一章)とされた小学校は、尋常小学を基本として、そのほか女児小学、村落小学、貧人小学などをあげてい

る。尋常小学は下等小学(六~九歳まで)と上等小学(一〇~一三歳まで)の二段階で編制され、四・四制が定められた。学制発布の翌九月に公布された「小学教則」では、小学校を上下二等に分け、各等に各八級の等級を設け(各年二級)、半年ごとに試業(試験)を行ない進級する仕組になっていた。また、教育課程の基準および教授法などが「課業授ケ方ノ一例」として示された。その教科・内容は、寺子屋や藩校におけるものとはかなり異なり、読・書・算を基本としつつも自然、社会に関する多様な内容が折りこまれたものであった(表<数2>47)。

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文部省は、小学教則をもって学科課程および学科程度を一定する方針をとらず、各地方で「能ク之ヲ斟酌シテ活用ノ方法ヲ求ムヘシ」(「小学教則」第二章 明治五年九月)と地方の自由に委ねていたため、この教則は必ずしも全国に根をおろさなかった。実際に明治初年の小学校教則において勢力をもったのは、東京師範学校式のものであった(海後宗臣『明治初年の教育―その制度と実体』)。同校が六年二月下等小学校教則、続いて五月に上等小学教則を制定した後は、これが全国に伝習され、多くの府県で師範学校式の教則が編成されていった。

東京府では小学教則を普及するために講習所を設置し、次のように志願者を募っている。時期からみてこの教則が文部省のものか師範学校式のものか断定し難いが、いずれにせよこのような形で明治の新教育が普及していったのである。

<資料文>

教則講習所志願者募集

 坤第五拾五号

                                         各区  戸  長

                                             学区取締

  明治六年四月十三日                           東京府知事 大久保一翁

        雛  形

                                        肩書

                                          氏     名

一、何学

     宿所何大区何小区何町何番地

当何歳何月

      右御試検之上講習相願候也。

  年 月 日

                                         氏     名印

                                        証人肩書

                                         氏     名印

    講習所御中

                                           ――御布告簿

教科書

学制の小学教則で指示された教科書の多くは、文明開化啓蒙書や翻訳調の教科書であり、そのほか往来物もあげられていた。文部省は東京に設置した師範学校をとおして、新しい小学教則の編成とともに小学校教科書の編集を行なった。また、同省は師範学校編集の教科書の翻刻を各府県に対して許可したため、その後教科書は全国に流布されていった。だが、それは一つの基準であり、学制布告後数年の間は、民間における教科書の出版も、その採択も比較

的自由に行なわれたのである。

教育方法

明治五年五月、東京に「小学ノ師範タルヘキ人ヲ養」(「立校ノ規則」)成する機関として、はじめて設立された師範学校は、文部省直轄であり、同校にはアメリカ人教師スコットが招かれ、その指導のもとに教育の養成が開始された。スコットの教育方法は、「当時のアメリカの小学校での実践に基づくもの」(『学校の歴史』第二巻、第一法規)であり、一斉教授の方式がとられ、新教科「問答」が導入されるなど新しいものであった。

一〇年に東京府が編成した「小学授業法草案」は、その「弁言」にうかがえるように、学校現場における授業が、児童の「知覚ヲ暢発シ其術芸ヲ長成スル」には不充分なものであるという実際を踏まえて、応急的に段階に応じた授業方法を細記したものである。内容は、第一章 通則、第二章 下等学科授業法、第三章 上等学科授業法、第四章 雑則、からなる。通則では、読書、問答、書取、作文、文談、算術、書方、図画、手芸、口授、記簿法、幾何学、諸科温習、体操、唱歌について個々に説明がなされており(但し記簿法、幾何学は説明なし)、二章以下では、個々についてさらに具体的説明が施された。左に問答に関する記述を数ヵ所取り出し、新しい教育の一端をみておくことにする。

<資料文>

○問 答

                                           (「通則」より

○問 答

    単語図一日凡ソ二三語トス 名称種類性質部分功用変化等ヲ問フ

                                           (第二章、下等小学科授業法「第八級」より

○問 答

    色 図

    一日凡ソ五六個ヲ限リトス

    人体部分

    一日凡ソ五六個ヲ限リトス

    実物問答

 平常児童ノ目撃スル所ノ実物ニ就テ問答スベシ 其法単語図問答法ニ異ナラス

                                           (同「第七級」より

○問 答

    形体線度

    一日凡ソ五六個ヲ限リトス

初メ掛図ヲ用ヰテ其名称及形状ヲ教ヘ形体ハ形体実物ヲ用ヰ線度ハ黒盤ニ書シテ問答スペシ 其法通則ニ審カナリ

    地理初歩

    一日凡ソ半葉或ハ一葉ヲ限リトス

地理学ノ端緒ニシテ普通ノ名称等ヲ暗記セシムル為ナレハ地形ヲ黒盤ニ書シ或ハ地球儀ヲ用ヰテ詳細ニ問答スベシ

                                           (同「第六級」より

<節>

第三節 公立学校の設立
<項>
第八大区八小区の学校
<本文>
豊島学校の設立

明治七年四月、第八大区八小区の戸長本橋寛成および学区取締村上成象は、豊島学校の設立願を東京府知事大久保一翁に提出した。これをうけて知事は、七月三〇日、文部少輔田中不二磨宛に同校設立伺いを出している。これより先の五月一八日、豊島学校は下石神井村禅定院の本堂と庫裡を教場として開校した。正式名称は第三中学区第五番小学豊島学校で、生徒七〇名に対して二名の教員があてられた。

ほぼ同じ頃に開校した橋戸学校と並んで、本区で最初の公立学校であった。

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分校 分校の設置は、旧市内の場合は考慮されなかったが、郷村部の学区では、広大な地域をもつにもかかわらず経費を負担する人口、戸数が少ないため分校制がとられることになった。豊島学校の分校は七年七月に設立願いが出され、「家塾開業之者居宅」が教場に宛てられ次の四分校が設立される。一番分校は下土支田村の加藤政八塾とされた。加藤がすでに本校の教員に任命されていたため、五女の加藤花が分校教員となった。分校設立伺によると生徒員数は五〇名(男二六、女二四)であり、当時一三歳であった花の奮闘ぶりに加えて、当時の教員不足の実体が想像される。二番分校は上土支田村の加藤金五郎塾(現在の北野神社の横、加藤儀平宅)があてられ、教員には同人が任命された。生徒員数は二五名(男一二、女一三)と少ない。三番分校ははじめ関村本立寺の軽部孝輪塾におかれたが、翌八年、最勝寺に移され、下石神井村の家塾主・山下敬斎が教員となった。生徒員数

は三七名(男二〇、女一七)であった。四番分校は下土支田村の東端にあった加藤熊次郎塾があてられ、加藤を教員として四〇名(男二二、女一八)の生徒が教育をうけることになった。

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小学校の教員は訓導と呼び、これを三つないし五つの等級に分け、月給を定めた。しかしながら訓導の資格をもつものは、文部省直轄の官立学校にはほとんどいない状態であった。明治九年の東京府権知事が文部大輔に提出した小学校訓導等級月俸の改正届出書によると、当時、府には一等から五等までの訓導(後に上、中、下、准下に分けられる)の月俸額のほかに一等から六等までの授業生(一〇年には准訓導と改称)のそれも記されており、教員に多くの等級があったことがわかる。

豊島学校およびその分校の「設立伺」から本区教員の等級をみると、分校の加藤花、加藤金五郎、山下敬斎はいずれも六等授業生であり、本校の清水粂之助(東京府が派遣)と加藤政八にしてやっと三等と五等の授業生であった。分校の教員はいずれも「豊島学校ニ於テ下等小学校教則脩業」している。これは「東京府講習所ニ於テ小学教則脩業」した本校の清水と加藤による伝達講習であったものと思われる。

教師を教育した講習会の内容については、一〇年に東京府が公立学校発足後数年間の実績をもとに定めた「小学授業法」の内容から教師にとって具体性のある有益なものであったことが推測されるが、教育の実際は、教員の資質に大きく左右されたものと思われる。ともあれ、これらの分校の設置によってかつての家塾は筆親(教員)、筆子(生徒)ともに豊島学校に組み込まれることになった。その後、漸次生徒が増加したため、各分校の独立する条件が整ってゆき、本区の約半分の面積を占める第八大区八小区には学制による学校が順次開校していくのである。

豊渓学校

一~三番分校の独立願が提出されたのは明治九年六月七日であった。いずれも各村の代表および学区取締名による願いであり、学校名を○○としたいこと、官費によってもう一名の教員を増員してほしいこと、書籍を一揃下げ渡されたいことなどが願書の共通した趣旨であった。

現在の大泉町一丁目一番加藤恭之助宅の隣地にあったといわれる一番分校は、願書提出後の早い時期に第三中学区第二〇番公立小学豊渓学校として独立・開設されたと思われる。生徒数は明治八年五〇名だったのが、九年六〇余名、一一年には八〇名になり、教員も二名となっている。校地は明治三六年になると、現在の第一給食センターに当る字西八丁堀七二三番地に移された。戦後の昭和三七年に現在地に移転している。

なお、同じく下土支田村にあった四番分校は豊渓学校独立後もそのまま存続していたが、明治一二年に豊渓学校との合併が許可された。この合併を想定してか、同年、豊渓学校には約二七坪の教場が新設されている。

豊西学校

豊島学校二番分校も、豊渓学校と同じ手続きを経て第三中学区第二一番公立小学豊西学校として明治九年に独立した。八年当時の生徒数は二五名であったが、独立頃には約五〇名であった。独立に際しては、教場が妙延寺客殿に移されている。明治二二年には上土支田村四九八番地に新校舎を建て、四月二日に移転開校式を挙げている(大泉小学校沿革史)。本校は曲折を経て大泉小学校となる。

なお、私立の明倫学校は、七年九月二日に第三中学区第六番小学明倫学校として「上土支田五十番地」(設立願)に設立された。学校番号は、東京府が公私を通して設立順に付したものであるから、この学校は、同中学区で五番小学豊島学校に次ぐ、学制に準拠した正規の小学校であった(七年一一月の文部省布達以後は、公私を分けて学校番号を付すようになり、明倫学校は第三中学区第壱番私立小学と改正された)。明倫学校は妙延寺の住職家田日遂が慶応三年(一八六七)に開いた私塾が前身で、明治六年七月以降読書、習字、算術を教える家塾となっていたものである(家塾開業願)。

明治七年頃の東京府の公立小学校の数は極めて少なく、明倫学校のような多くの私学が学制期の教育推進に貢献していた

のである。

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豊関学校

三番分校は関村本立寺の軽部孝輪塾におかれていたが、九年の独立に際して教場も最勝寺(関村六〇番地)へ移転し、教員も軽部から山下敬斎にかわった。生徒数は八年に三七名であったが、独立時には七〇名余りにのぼった。この増員のため、「教員壱名官費ヲ以テ」差向けるよう校名改称願に付記している。一三年九月の暴風のため「校室終ニ難ニ遇ヒ 修繕却テ其利ヲ得難キヲ見」(豊関小学校沿革史)ると、現在の石神井西小学校の位置に移転し、旧校舎の移築および増築を行なっている。公式名称は第三中学区第二二番公立小学豊関学校といった。明治三五年に「石神井西」と改称し今日に至っている。

こうして学制の時代に、八大区八小区には四つの公立学校が設立された。

<項>
第八大区七小区の学校
<本文>

七小区の公立学校は、明治九年になって設立されるようになる。この地区は家塾が盛んであったため、公立学校を必ずしも早急に必要としない民意の向きもあり、その他の要因と相まって公立学校の設立を遅らせたものと思われる。

九年八月二九日、七小区「上練馬村第四百拾九番地」と「中村第弐番地」に、練馬学校と豊玉学校を設立したい旨の願書が、今の本区と中野区に属する関係各村(下練馬、上練馬、谷原、田中、中村、中新井、上鷺宮、下鷺宮、江古田、片山)の代表者(区長、戸長、副戸長、組頭、村総代、学区取締)から東京府権知事楠本正隆宛に提出された。

練馬学校

第三中学区第二五番公立小学と唱えた練馬学校は、愛染院の前、富士街道と赤塚道との交叉点近くにあった。教場は上練馬村二九九四番地の雑貸商増田藤助氏所有の「土蔵壱棟外教員部屋壱棟及ビ敷地運動場合セ

テ二百七拾余坪」(『練馬小学校沿革史』)を借受け、改造してあてられた。一〇年五月八日の開校である。上練馬と下練馬の二か村が連合して設立、維持に当った関係で、学区は両村であった。教員は官費による一名のほか、助教として元家塾主の吉田民蔵(荒井民弥と同人か)と相原万吉を任命している。

その後この教場が廃棄された際、上原家(当主は上原義晌氏、高松一―三〇―二)によって買受けられ、その廃材を使用して移築され現在も物置として利用されている。

本校地は明治三六年に上練馬村北中ノ宮二六六三番地に変更された後、長く同地にあったが、昭和三八年、現在地に移転した。

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豊玉学校

第三中学区第二四番公立小学豊玉学校は、豊玉学校開業届によれば練馬学校開校の前年、九年一二月一六日に開校した。南蔵院の堂宇の一部(本陣右隣りの二部屋)を借用して教場にあてられ、「四百七十六坪ノ寺庭ヲ以テ運動場」(『豊玉小学校沿革史』)とされた。当時の生徒数八〇名に対し、官費による教員庄野欽平ほか、助教に山崎苗清と酒井度右衛門が任命されている。

沿革史によると、学区は北豊島郡の四か村(中新井、中村、谷原、田中)と東多摩郡の四か村(江古田、上鷺宮、下鷺宮、片山)との八か村であった。校名は両郡の名から一字ずつとって「豊玉」と名づけられたという。

七小区には練馬、豊玉地区のほかに、現中野区の地域(上・下鷺宮、江古田、片山)も含まれており、そこの児童は豊玉学校に通学していたが、一二年に大小区制が解消されると、これらの地域は豊玉学校から離れた。

一二年の郡区町村制施行前には、北豊島、南豊島、東多摩郡に属する村々も行政的にはそれほどはっきりした区別はなかったため、前述のように、本区の大半が属した北豊島郡の村々と他郡の村々とが共同出費によって公立学校を設立することがみられたのである。

<項>
大泉地区の学校
<本文>

本区の北西部に位置する大泉地区の村々に公立小学校が設立するのは、明治六、七年の頃である。

四年八月の廃藩置県によって品川県が廃止されると、現在の埼玉県西部一三郡の地域と多摩郡の一部を合わせて入間県が置かれ、県内は一一大区九四小区に分けられた。小榑村(現南大泉、西大泉、大泉学園町)と橋戸村(現大泉町)は現在の保谷市の区域とともに第二大区七小区とされた。六年に入間県は今の群馬県の一部と合わせて熊谷県となるが、大小区制はそのまま存続したため、大泉地区の公立学校は熊谷県下に設立された。

明治六年三月、熊谷県南の七つの小区の各村戸長と諸務掛の会合で、各小区内に一か所ずつ小学校を「興立」することが決められ、七小区は橋戸村の教学院に設立が予定された。また、各小区に三か所の枝学校が設立予定されたが、七小区については「広遠之地ニ而四ヶ所タルヘキ事」(『練馬区教育史』第二巻)とある。「小学開校之義」については三月「十日迄ニ開校」(同前)致すべき事とある。「大泉小学校沿革史」には、橋戸学校は翌七年七月に「教学院ヲ校舎ニ使用シ開校」とされているが、ここでは橋戸学校明治六年開校の説をとりたい。

枝学校は七小区五か村(小榑、橋戸、下保谷、上保谷、上保谷新田)のうち、本校となるべき橋戸学校のおかれた橋戸村を除く四か村におかれるべきであるが、八年調査の「武蔵国新座郡村誌」には橋戸村を含めて次の四か村の記事しかない。公立小学校の設立場所と生徒数について次のようにある。

<資料文>

橋戸村  村の西南の方教学院を仮用す  生徒男二五人女一五人

上保谷村 村の中央より少しく北にあり  生徒九〇人 男六四人女二六人

下保谷村 本村の中央にあり  生徒男四〇人女一五人

小榑村  村の西方大乗院を仮用す  生徒男六五人女三五人

生徒数からみると本校と枝校の関係はみられず、実際には四か村に四つの独立校が八年段階に設立されていたと考えられる。ただ七年の「第一大学区熊谷県管内各小学校生徒人員及学費表」によると、七小区内の学校は上保谷(生徒男六六、女一七)、橋戸(男三四、女一四)、小保(男一二二、女三〇)の三校しかみられない。また翌八年の同表にも三校しかみられない。だが八年の小保小学校生徒数は男七一、女二四の計九五名で前年より五七名も激減している。この数(九五名)は前記の「武蔵国新座郡村誌」の小榑村の学校の生徒数計一〇〇名にほぼ相当する。ところが同「郡村誌」の下保谷の学校生徒数は計五五名であるから、上の「学費表」で減少した数にほぼ匹敵することがわかる。とすると、七年段階で橋戸学校、上保谷学校(七年七月一五日、上保谷村の宝光院にて開校)に加えて、小榑と下保谷を学区とする小保学校が設立され、八年に至って学区が別れて小榑学校、芳谷学校となり、「郡村誌」のように四校となったと思われる。

しかし、芳谷学校の設立願草案には一一年五月の設立とされていることや、一二年の埼玉県の公文書に小保学校の名があっても小榑学校の名がみえないことなど、疑問の点も多いことを併記しておきたい。

<項>
学校設立・維持の苦労
<本文>

明治五年八月に発布された学制の主旨にのっとり地方で実際に小学校の設立に着手したのは、翌六年四月以降のことであるが、学制実施後わずか三年の明治八年までに二万四千余もの学校が全国に設置された。これはもちろん、近世以来普及していた寺子屋、私塾などの教育機関を母体としたからである。しかし、設立に伴う経費は民費負担が原則とされたため、学

校の設立および維持には多く民衆の力に負うところが大きかった。

本区の豊島学校の設立伺には「教師給料ヲ始メ学校費用総テ官費ヲ不仰」とあるが、いずれの学校も同様であった。教場には寺院等を仮用し、教具などは寄付に頼ったのである。当時も一番経費のかかるのは人件費すなわち教師給料であった。本橋栄助文書(『練馬区教育史』第二巻)によると、豊島学校の場合、設立当初の計画では八小区内の全戸六四〇戸が分割して支払う計画であった。一戸平均二銭三厘四毛余を賦課するとしているが、実際は貧富に応じて(地価比例で)徴収した(七小区の場合も同様)。そのため、多くの民衆は村落内でのつきあいの関係から無理して分担金を捻出したのであろうが、子どもを就学させない家庭にとっては余分な税金として家計を圧迫したと思われる。

授業料(月謝)については「随意 但盆暮五節句廃止候上 月々ハ弐銭ゟ廿五銭迄 富有者或ハ困窮之者ハ此限ニ非ス」(同文書)と記されているように、貧富に応じての幅があり、家庭によってはより多く納めても、全く納めなくても可としている。「盆暮五節句廃止」とあるのは、家塾における月謝(金員)以外で慣行となっている謝礼の廃止を強調したものである。さらに「華美之衣類着用無用」であるとか、「生徒之麁服着用」を嘲笑するような生徒に対しては厳しく戒しめるべき事などが記されており、貧しい家庭への細い配慮がうかがえる。それだけ就学させることは当局にとっては難しかったのである。特に練馬のような農村地帯の場合、子どもの就学は大切な労働の担い手を失うことを意味したのであるから、教育の普及は受ける方にも授ける側にも苦労の多いことであったのである。

<節>
第四節 明治十年代の教育
<本文>

明治一二年九月、教育令が公布された。これによって、国民教育制度の確立に大きな役割を果たした学制は廃された。その理由は欧米の教育制度の直訳にすぎ、理想的にして雄大な構想であるにもかかわらず、当時の地域社会の実状との間の距

離があまりにも大きかったこと、加えて施策が強制的であったため、民衆の根強い不満があったことがあげられている。

教育令は、強制主義、画一主義を廃し、自由主義を基調としたため、一般に自由教育令と称された。主な改正点は、従来の学区制が廃止され教育行政の地方分権主義を採用したこと、町村ごとにあるいは数町村連合して公立小学校を設置するようにしたこと、町村住民の直接選挙による学務委員制度が出来たこと、学齢期間(六歳から一四歳まで)を八か年と定め、土地の実情によって修業年限を四年まで短縮できるようにしたこと(その間に授業は毎年四か月以上実施する)などであった。この教育令は、当時矛盾をはらみながらも学制の方法が徐々に浸透しつつあった時期に出されたため、公教育体制の一時的衰退を招き、教育秩序に混乱をみるようになった。こうして一年後の一三年一二月に教育令は改正されることになる。

太政官布告第五九号で布告された新教育令は、一般に改正教育令と称された。改正教育令では文部省の府県当局に対する強力な指導性が確保され、その下での府知事県令の権限の強化が行なわれた。小学校の設置等を町村に指示する権限、学務委員の選任権、町村立学校教員の任命権などは各府県が有することになった。このほかにも改正教育令は、就学義務制を厳格にし、就学督責規則を府県に制定させるなど、自由教育令体制とはかなり異なる国家の主導性の強い教育法であった。

一四年制定の小学校教則綱領は、改正教育令に基づき小学校の制度や教育内容を定めたもので、これによって小学校は学制時代の下等小学(四年)、上等小学(四年)から初等科(三年)、中等科(三年)、高等科(二年)の三・三・二制とされ、土地の情況により短縮が許される最低学習年限は三か年となり、年間最低授業時間数は三二週以上とされた。なお、練馬区域の学校にはすべて中等科までしか設置されていなかった。

一八年に改正教育令は太政官布告第二十三号をもって再度改正される。主として財政緊縮のためであった。(仲新監修『日本近代教育史』、『学校の歴史・第二巻』ほか

豊石学校の設立

八大区八小区内の村々には、明治九年の豊島学校分校独立の段階で、ほぼ一村に一校の公立学校が存在することとなった。例外が上石神井村で、一一年一一月に豊石学校の設立伺が東京府知事宛に出されて

いる。それによると学校位置は第三中学区内百弐拾二番小学区、東京府下北豊島郡上石神井村とあるが、「石神井小学校七十七年史」によると、村のほぼ中央にある土地の有力者、高橋平蔵宛西方の元正覚院旧建物に続いて建てられ(現石神井台二丁目七番一四号)正覚院学校とか相模屋学校と呼ばれた。敷地坪数四八九坪(上石神井村共有地)、建家坪数五〇坪(但平家)で、生徒六五名、教員二名、小使一名が見込まれていた。

明治一一年七月に郡区町村編制法が公布され、区内の村々が連合村時代(二ないし三の村々で一つの連合戸長役場をもって行政事務をとる)に入ると、該当地区では連合村が共同して学校の設立あるいは運営にあたるようになった。上石神井村も関村と連合することになるが、設立伺によれば同校の経費は上石神井村一村内の地価割、人口割拠出および授業料とでまかなう旨記されている。関村には既に豊関学校があったからであろう。

三五年には豊島学校と併合して石神井小学校となった。

開進学校の設立

七小区内には二つの公立小学校が設立されていたが、連合村時代の一二年五月には練馬、豊玉両校の維持方法が変更されることになった。練馬学校は上練馬村が維持し、豊玉学校は江古田、片山、上・下鷺宮の四か村および谷原、田中の二か村が豊玉学校組合から分離したため、中新井、中村両村の負担によって維持することとなった。

下練馬村は練馬学校の維持負担に加わっていないが、これは同校の学校位置が片寄っていることが村民に支持されなかったのであろう。これに先立つ一〇年頃、下練馬村は学校用地として官有地二か所の払下げをうけていたが、いずれも村はずれであった。そのため、一三年には村のほぼ中央の東早淵四六一〇番地(現開進第一中学校の西側)に適地を求め(官有地は売却)、同地(二三〇坪)に木造草葺二八坪の新校舎をたて、一五年四月一四日に開校式を挙げた。設立伺によると生徒一〇〇名、教員二名、小使い一名が予定されていたが、実際の生徒数は翌一六年でも七六名(男五一、女二五)であった。ところが一八年に校舎、備品の一切を焼失してしまったため、寺院(光伝寺)や農家を借りるなどの曲折を経て二七年に至り、よう

やくにして新校舎の落成をみた。校地は「中原四千七百拾八番地及四千七百廿番地」で「木造平家瓦葺建家八拾四坪」に三つの教場が設けられた。現在位置である。

谷田小学校の設立

一一年、七小区の谷原村と田中村はいわゆる連合村となる。五年後の一六年に両村の臨時村会において谷田小学校の設置が決議されると、翌一七年一〇月、谷原村二三七六番地において開校式を挙行している。同年二月の「北豊島郡谷原村田中村公立小学校開申書」によると、生徒定員は四〇名、教員は中等科一名であった。

後身の石神井東小学校の沿革史には、「明治十一年五月十八日 創立 組合組識変更ノタメ北豊島郡豊渓小学校ヨリ分離シ仮校舎ヲ長命寺ノ一部ニ置キ谷田小学校ト称ス」とあるが、ここには二つの誤りがあるように思われる。第一は豊渓小より分離したことで、同小が八小区に属したことを考えれば同小と谷原村、田中村との関係はなく、分離はありえない。「豊玉小学校沿革史」にみられるように豊玉小からの分離と思われる。第二は創立時期の問題である。連合村は一一年七月の郡区町村編制法によって成立するのであって、それ以前の五月に組合組織変更のため「豊渓小学校」から分離するのは無理であろうし、その分離を踏まえてなされるはずの谷田小学校が創立するのも理にそわない。

ただ、「仮校舎ヲ長命寺ノ一部ニ置キ」と固有名詞が入っていることを考えると、この頃長命寺内に谷田小学校の前身が設立されたと推測することはできる。

小保戸小学校の設立 明治一七年四月、小榑小学校と橋戸小学校を合併し、小榑村に小保戸小学校が設立された。郡区町村編制法は大小区制を解消させ連合村時代となるが、小榑、橋戸、下保谷、上保谷、上保谷新田の五か村で成立した連合村は第二大区七小区時代と同じ区域であったため、小区内の学校組識を変える必要はなかった。このような時期に小榑、橋戸両校を廃して小保戸小学校に統合された理由は主として各村の財政上の問題からであろうか。ただ、小保戸学校設立後も橋戸小学校が一九年春まで存続したことを示す資料(教員加藤金五郎の履歴書)もあり、統合後も地

域で運営されたとも思われる。

下保谷村の一部と小榑村、橋戸村を学区とした小保戸小学校は「小榑村ニ校舎ヲ新築シ」たと「大泉小学校沿革史」にある。これは諏訪神社の前で本照寺(現西大泉町二〇三四)所有の畑地といわれる。同寺住職の境野慈妙氏によれば、先代の住職(昭和二年死去)の話では当時本堂で寺子屋教育のようなことが行なわれていたという。あるいはここを基盤に小保戸小学校が「新築」設立されたのかもしれない。ちなみに同寺には初代校長渡辺貞治の家族の墓がある。

前述の沿革史には学校のことについて次のように記している。

<資料文>

職員   校長ノ外訓導加藤金五郎同川連良ノ二氏 其他卒業生ノ補助教授セシモノ一二名ナリキ

就学児童 開校当時ニ於テ百五拾名 漸次其数ヲ加へ最後ニ至リ殆ト弐百名ニ達シタリ

教育費  校長月給金拾弐円訓導ノ月給金七円宛ナリシヲ以テ年額金四百円内外ナリシ

学校運営の実態

分校が独立し、連合村で学校の運営を行なうようになると、戸数二〇〇から三〇〇程度の連合村で一校あるいは二校を維持しなければならなくなった。そのため、村民の分担金や授業料の増額を行なうところもでてくるがこれが村民の超過負担となったことはいうまでもない。明治一二年の教育令は、教育自治を推進しようとする進歩的内容を内包しつつも公教育体制の一時的衰退を生むことになるが、練馬の場合も、学校維持が最も困難な時期がこの頃であった。国にも村にも個人にも資金欠乏する中で公教育体制を確立していこうとした日本の明治期を象徴する苦悩であったともいえる。

そのような状況の中、区内各村ではさまざまな方法で学校経費の資金蓄積に工夫をこらした。そのひとつが「学田」の開墾事業である。これは村内の官有地を借り受け、村民の資金や労力奉仕によって開墾し、それを小作に出すなどしてその小作料を学校資金として蓄積していったものである。豊玉小学校の官有地拝借埋立開墾願(明治一六年一二月)や豊関小学校の同願(同一七年五月)によると、願の趣旨としていずれも、貧困のため就学できない児童のためには、授業料を免除したり

教科書等を学校に備えてこれを貸与するようにしなくてはならないこと、そのための資金を捻出するために官有地を拝借したいことなどが記されている。

このほか、豊島学校のように旧品川県の社倉穀代金の還付金五六七円余のうち五〇〇円を基金として残し、その貸付の利子を学校運営上で活用したところもあるが、各村ではその社会的、自然的な特色を利用して学資蓄積に努めたものと思われる。これらが学校維持の経済的支柱となった訳だが、各村内の富裕者の寄付金が、校舎新築など一時的多額な出費に際し果たした役割も大きい。国や府では、これら篤志家に対して褒賞を行ない、名誉を与えることで報いた。こうして公教育体制が維持され、漸進的に固められていくのである。

各種学校委員

学制期における学区取締、世話掛にかかわるものとして、教育令期には校務委員、学務委員、校務掛がおかれている。

校務委員は明治一二年、校務一切の整理や教員の選定の任にあたるため東京府で設置したもので学制期の学校世話掛の任務を吸収したような仕事を行なった。学務委員も同年に発足したが、これは教育令によって廃止された学区取締のかわりに設けられたもので、学校管理、就学勧奨等を主たる任とした。一三年には練馬の連合村に各二名の学務委員が投票で選出されている。校務委員と学務委員は重複する任務も多く、制度上に不備があったため、府では一五年に前者を廃止した。後者も一八年の改正教育令で廃止となり、その任務は連合戸長に引継がれた。

校務掛は府が学務委員事務要項を制定した一四年に置かれたものである。授業料の収受を中心に庶務、雑務を担当し、学務委員を補佐する仕事内容であった。練馬地域には一〇名前後が任命されている。

これらの委員や掛に任ぜられたものはいずれも地域の資産家であり、学校はこれらの人々の奉仕的活動のみならず経済的な援助をことあるごとに受けていた。それは全国的な傾向であり、戦後に至るまでのわが国の学校経営や教育行政の性格の形成に多大な影響を与えることになった。

<項>

私立学校の役割と変遷
<本文>
学制期以後の家塾

明治五年一〇月、文部省は全国の寺子屋、私塾に対し願書の文例を示し、一斉に「家塾開業願」を提出させることとした。これを受けて東京府は、六、七年にわたって出願させている。

現本区地域のうち第八大区七小区内には、明治以降数多くの家塾が開かれ、明治一〇年頃には、中新井に二塾、下練馬に六塾、上練馬に三塾、谷原、田中に各一塾の計一三塾(「私学校明細簿」)があった。このため公立学校の設立が遅れたことは既述した。九年まで公立校が設立されておらず、一三のうち七塾は八年以降の開業であった。学制発布後といえども家塾に対する地域村民の支持、必要性の大きさの程もうかがわれる。これらの家塾を東京府当局は変則小学(読書、筆学、数学の三科のうち一または二科程度のもの。読書、筆学、作文、数学の四科を指導可能なものは正則小学といった)として一応認めているが、学科内容はほとんどが習字(読書)のみであり寺子屋同様であった。

一方八小区では、明治七年に豊島学校が設立された際に家塾のほとんどはそのまま分校となり、残りの家塾も私立明倫学校に移行したり(妙延寺の家塾)、閉業したり(道場寺の家塾)して同年までにその姿を消した。

埼玉県管下にあった小榑村、橋戸村の場合は、学制前の家塾の存在が明らかでなく、学制後には存在しなかった。結局、七小区の家塾のみが、変動する教育環境の中でそれぞれの役割、使命を果たすことになる。

家塾から私立小学校へ

学制発布以降五年を経過した明治一〇年頃の段階で、東京府内の公立学校数は一三〇余校に達していたが、将来建設すべき校数は一七五五校といわれ、学制の方針に基づく教育の普及には道遠しの感を思わせるものがあった。いきおい府の学務当局では、家塾等の私立校に学制普及の一端を担わせるべく各種の指導を行なうことになる。特に、貧弱な私塾の教育の質を引き上げるために行なった私学教員の学力検定は私立校に大きな影響を与え、これによって練馬の私塾の大部分は閉業を余儀なくされたといえる。

「北豊島郡私立小学校申合規則」(明治一三年三月)によると、現本区域内(大泉地区のうち小榑村と橋戸村の部分を除く)には、五つの私立小学校(いずれも変則小学)があった。一三年に設立されたと思われる吉田学校を除くと、他の四校(松山学校、爵養学校、清水学校、相原学校)は家塾からの生き残りである。このほかにも一三年以後に設立された保戸田学校、石沢学校および大黒学校があるが、相原学校を除いて、いずれも二〇年までには廃校となった。北豊島郡私学組合の幹事に選任された相原学校のみは、学校の地位、内容を高めて二五年頃まで存続している。

なおこれら以外でも、校名は確認されないが家塾に類する小規模な私学が中新井村(二校)、下練馬村(四校)、谷原村(一校)、田中村(一校)にあったが、いずれも一二年頃には廃校している。

<節>
第五節 明治中・後期の教育
<本文>
小学校令の制定

明治一九年、四つの学校令(帝国大学令、小学校令、中学校令、師範学校令)が発布された。小学校令では小学校が尋常、高等の二種類に分けられ、各小学校には温習科(六か月以上一二か月)がおかれた。後の小学補習科である。また、「土地ノ状況」によっては小学簡易科を設置することができ、これを尋常小学校の代用とすることが認められた。小学簡易科は修業年限三年以内、毎日の授業時間二時間以上三時間以内であり、授業料を免除するなど貧困家庭が児童をおくりやすいような配慮がなされていた。政府はこれによって、学齢児童の半分以上を占めていた未就学児童の就学率の向上をねらいとしたのである。

本区内の学校および学内は従来どおり維持され、次の一二の学校が存続していた。

<資料文>

開進小(下練馬村) 練馬小(上練馬村) 豊玉小(中新井・中村の連合) 豊島小(下石神井村) 豊石小、豊関小(上石神井・関村の連合) 豊渓小、豊西小(上土支田・下土支田村の連合) 小榑小、橋戸小、小保戸小、芳谷小

小榑・橋戸・上保谷・下保谷・保谷新田の各村連合

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小学校令によっても、本区内にはまだ高等科は置かれず、小学簡易科(二三年廃止)も設置されなかったようである。小学校令発布後の区内の小学校は尋常科四年と温習科(既習の学科を補習させる制度)が修学期間であった。小学校令第三条には「父母後見人等ハ其学齢児童ヲシテ普通教育ヲ得セシムルノ義務アルモノトス」とあり、初めて義務教育という考え方も登場してきた。

だが一方で小学校令は授業料徴収の原則をうち出した。政府の構想では、学校運営の必要経費を授業料や寄付金でまかない、それでも不足する場合「区町村費ヨリ其不足ヲ補フコト」(第八条)ができるとしたのである。ところが現実は厳しく、練馬の各校の場合(二一年予算)、学校経費の約六四%を「村費収入」に頼らねばならず、授業料は約二九%を占めるのみであった(表<数2>48)。授業料は一人平均一〇銭で、資産に応じて高低に分けられたが、いずれにせよ、児童を就学させる親にとっては村費と授業料の二重払いであり、過重な負担となったのである。

こうして明治一八年に四九・六%であった全国平均就学率は、一九年四六・三%、二〇年四五・〇%と二年連続で下降していくことになる。

第二次小学校令

明治二二年四月(東京は五月)に市制・町村制が施行されると、東京府では一五区をもって特別市制を施行する一方、府下町村の大分合(町村合併・分離)を行なった。区内の各村は新たに下練馬村(旧下練馬村)、上練馬村(旧上練馬・下土支田村)、石神井村(旧上石神井・下石神井・関・上土支田・谷原・田中村)、中新井村(旧中新井・中村)の四村と、埼玉県下にあった榑橋村(旧小榑・橋戸村)の計五村に整理統合された。

明治二三年一〇月公布の小学校令(以下第二次小学校令という)は、地方制度の改編に対応して初等教育制度を抜本的に改革しようとするもので、その後のわが国小学校制度の基本的事項が盛り込まれた重要な改革であった。

尋常小学校には従来の四年制に加えて三年制(小学簡易科の後身とみることができる)がおかれ、高等小学校には二年、三年および四年制が設けられた。さらに尋常、高等両校の教科を一校に併置する尋常高等小学校を認めている。これは地域の状況により小学校編成を多様化し、就学の便宜を図ったものといえる。尋常小学校の設立義務は各市町村に課された(高等小学校の設置は任意)。だが資力の乏しい町村の場合には、他の町村と協同して学校組合を組織し、これを設置しうることなどが定められた。

本区で最初の高等科は、上練馬村の練馬尋常小学校に併置された。第二次小学校令施行の翌二六年六月のことである。一九年六月に東京府から出された「公立小学校組織改正之件ニ関シ郡区長ヘ照会按」をみると、「六郡公立小学校ハ大概尋常科ト為シ 高等科ハ四宿等ノ如キ繁盛ナル土地ニ限リ之ヲ設クル事」とあるように、上練馬村の同小に併置可能な条件が整ったとみることができる。三一年、練馬尋常高等小学校は高等科を四年課程に改めている。なお、同小には、二六年に練馬で初めて御真影が下賜されている。当時、大変な名誉であった。

第二次小学校令では徒弟学校および実業補習学校(いずれもまだ実体なし)を新たに小学校の種類に加えた。また、尋常、高等の両科に補習科をおきうるとしたほか、高等小学校には農科、商科、工科といった実業教育的な各専修科を設置しうるとした。これらは、欧米列強の脅威に対抗するための具体的、抜本的な方策として説かれた実業教育振興論を一部反映した

ものであった。

二六年には実業補習学校規程が公布された。これによるとこの学校は「諸般ノ実業ニ従事シ又従事セントスル児童」で尋常小学校卒業以上の者を対象に、「小学校教育ノ補習」と「其職業ニ要スル知識技能」をさずけるところとされた。翌二七年には実業教育費国庫補助法も制定され、政府はその普及に力を入れたが、本区の場合、その設立にはなお一〇年余の時間が必要で、三九年までまたねばならない。

開進小分教場の設置と発展

開進小学校の学区域内には相原小学校や松山小学校など私立小学校があったため、家塾時代から長い伝統をもつこれらの私立校へ通うものも多かった。開進小の分教場は二〇年三月廃校の私立松山小学校の跡地(字宿温気味五八六四番地)に明治二一年頃設立された(公立開進小学校分教場設置ニ付上申、明治二一年四月)。概況は生徒六〇名、教員、小使い各一名であった。

明治四四年一〇月、西原五八六四番地(現在位置)に移転して二学級編成とした。その後も児童数の増加とともに校舎の増築が行なわれてきたが、昭和三年一月に至って木造二階建延三三四坪の大増築が行なわれ、四月一日より開進第二尋常小学校として独立した。尋常五年までを収容し、一一学級六百余名の児童を擁したのである。

泉小学校の設立

明治二二年五月の市町村実施で連合村が解かれると、小榑村と橋戸村とが合併し榑橋村が生まれた。二四年に同村が東京府に編入されると、石神井村から同時に分離した上土支田地区とさらに合併した。これが大泉村である。

大泉村の誕生のため、村内には旧榑橋村の榑橋小学校(旧小保戸小)と旧上土支田村の豊西小学校の二校が存在することになる。また両校の距離は七、八町と近接しており、経済上などの問題も生じた。そのため村の中央にある旧上土支田村六九七番地に校舎を建て、両者を統合することとなった。これが泉小学校である。最初の校舎は木造平屋建一一〇坪で、五教室があった。費用の六三四円余りは、不用敷地の売却代と臨時村税があてられた。

本校は、大正四年に大泉尋常高等小学校と改称し、戦後に大泉小学校となった。

大泉分校の設立

泉小学校に最初の分校が出来たのは明治三〇年のことで、「大字橋戸七百三十四番地」に於て一一月に開校した。設置の願書(北豊島郡長より府知事宛、明治三〇年三月一五日)によると、分校設置願いの理由は本校の位置が村の西北部に偏しているため「東南ノ部落ハ通学距離三拾八町(約四㎞)ノ遠キに渉」ることと、「通路修繕不完全ナルカ故ニ児童通学上甚困難」なために「就学者ノ数少ナキノ憾」あることがあげられている。分校設立が許可されたことの利益は大きく、設置前の該当地域の生徒が男一三、女五の計一八人であったのに対し、設置後の三三年のそれは男四〇、女二八の計六八名を数え、実に三・八倍の増加をみている。

分校の設置は当然村の負担を増大した。「創立ノ費用ハ寄附金ニテ支弁シ」、毎年の経費は村費によって大半をまかなわれたのである。設置前の北豊島郡の予定では、「本校ヲ村ノ中央ニ移転」して初学児童の通学の便を図り、その際分校を廃止する(内務部長宛書類)とのことであったが、結局存続した。現在の大泉第一小学校である。

なお、次に第二次小学校令の末期にあたる明治三一年末の練馬の小学校の様子を一覧しておく(表<数2>49)。

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明治三三年の小学校令

明治二〇年代に入って開始された産業革命の進行、日清戦争の勝利、不平等条約の改正は、わが国の国際的地位をかなり向上させた。三三年の改正小学校令は、このような事態に対応するためのものであり、特に義務教育制度と教育内容の整備をねらいとしたものであった。この小学校令では尋常小学校の修業年限が四か年に統一され、それをもって義務教育とされた。高等小学校に関しては、二年、三年、四年の三種の修業年限があったが、近い将来に義務教育年限を延長するための布石として二年制高等小学校の尋常小学校への併置を勧めている。

教育内容的には、従来の教科目の読書、作文、習字を国語に統合し、第二次小学校令で尋常小学校の基本教科目とされた修身・読書・作文・習字・算術・体操を、修身・国語・算術・体操の四科目に整理した。また土地の情況によっては図画、唱歌、手工を、女子のためには裁縫をおくことができるとした。これを受けて本区の豊玉小学校では、三四年に唱歌科(五月)と裁縫科(一二月)の設置願いが出され、同年六月には練馬、豊渓の両小学校でも唱歌科、裁縫科の設置願いが出されている。また三五年六月には、石神井小学校に唱歌科の加設が認可されている。

その他の特色としては、尋常、高等両小学校の毎週教授時間数を減少させて教育の実効を高めようとしたこと、一九年の小学校令以来の授業料徴収の原則を廃止したことがあげられる。この新たな授業料非徴収の原則は、三三年に制定された「市町村立小学校教育費国庫補助法」と相俟って、義務教育財政制度の基礎をつくることになるのである。

石神井村小学校の整理統合

二四年の旧上土支田村の分離によって、石神井村には四つの尋常小学校が維持されていた。豊石小学校(元上石神井村一四二一番地)、豊島小学校(元下石神井村一〇三四番地)、豊関小学校(元関村甲第八二番地)、谷田小学校(元谷原村二四一一番地)がそれである。

一般に、明治期における小学校の設立維持の経費が村財政に占める割合は大きなものがあったが、石神井村の場合は区内他村と較べても特に大きく、二五年段階の村費(総決算額)に占める教育費の割合は六五・九%にもおよんでおり、下練馬村(四五・七)、上練馬村(六一・六)、中新井村(五二・九)、大泉村(三七・九)の各村を圧していた。こうした状況は容易に

改善されず、二九年に至っても六〇%を占めていた。そのような中で三三年の小学校令が発布され、国策的な高等小学校の設置要請が行なわれたために、村内四校の整理統合が行なわれたのである。

新設の小学校は三五年に石神井、石神井東、石神井西の三校が開設された。このうち、相互の距離が近かった豊島尋常小学校と豊石尋常小学校とが合併した形となった石神井小のみには、四年制の高等科が設置された。この高等科の実態は前年の七月からあった。石神井村一二三五番の栗原峰三郎宅を仮校舎として高等科の授業が行なわれていたからで、ここは峰さん学校の愛称で親しまれたという。こうして三五年三月二八日に峰さん学校を本校とし、豊島、豊石両校を仮教場とする石神井尋常高等小学校が誕生する。

新設三校の位置、学校数、児童数の概要は左の通りであった。

学校名位置学級数児童数
男女別一年二年三年四年
石神井尋常高等小学校 大字下石神井字小中原千五十三、五十四番ノ壱号、弐号、参号
千五十五番ノ墓地
尋常科四 五三 二九 三三 二一 二七五
六五 三一 二三 二〇
高等科二 四〇 三八 一〇二
一三 一〇
石神井東尋常小学校 大字谷原字南郷
二千四百拾番
二千四百拾壱番ノ壱号
二八 一九 一一 一〇 一三七
四四 一一
石神井西尋常小学校 大字関字地蔵裏甲八十二番ノ壱号、弐号
甲八十三番ノ畑
二八 一九 二五 一八 一五〇
二二 一三 一三 一二
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なお、これに先立つ三四年、下練馬村の開進尋常小学校と中新井村の豊玉尋常小学校には、それぞれ二年課程の高等科(単級)がおかれた。また石神井西尋常小学校と上練馬村の豊渓尋常小学校の高等科併置は、戦後間もない国民学校と名の

っていた頃であり、昭和二一年のことである。石神井東尋常小学校の場合は高等科の設置はなかった。

実業補習学校

明治二六年公布の実業補習学校規定(三五年改正)では、実業補習学校を「小学校教育の補習」と「職業ニ要スル知識技能」を簡易な方法で授ける所とその特色を規定している。同校は尋常小学校卒業以上の児童を対象に、工業、農業など実業的知識技能の国民的な普及を意図したものである。翌二七年には実業教育費国庫補助法が定められ、下って三二年には実業学校令を制定公布し、公私立実業学校の総合的制度化が実現する。同令は実業学校を工業学校、農業学校、商業学校、商船学校および実業補習学校と規定し、各校の規定を制定して教育の振興を図ったのである。

本区内に最初に設置された実業学校は、明治三七年、練馬小学校高等科に設置された補習科とみることができる。実業補習学校はその名称をもっていなくても可とされたからである。この補習科は、設置申請書類によると、同校階上の一室(一二坪)を使って、三〇名以内の女生徒に、修身、裁縫を教えた。修業年限は二年で、高等科を修了した一五、六歳の女子を対象とした。また練馬小学校沿革史には、三九年一月四日の記録に「青年夜学会ヲ開ク、校長ノ主催ニシテ石油、木炭ノ費ハ校費ヲ以ッテ之ニ充ツ、授業料ヲ徴セズ、会期ハ三十九年一月四日ヨリ仝三月十五日マデ一夜オキ三十一回、時間午後六時ヨリ全九時迄、学科、読書、作文、算術(珠算)、入営前ノ壮丁ノタメニハ入営準備ノ教育ヲナス、必要ニ応ジテ講話会ヲ開ク」とある。これは、前年一一月の府知事の「補習教育奨励ニ関シ訓令」に基づいて行なわれたものと思われる。昼間の実業補習学校設置が困難なため次善の策として補習夜学会が開かれたのである。練馬小の女子補習科と夜学会の両者ともに、四四年に正式に実業補習学校となった。

区内に正式に命令された実業補習学校が設立されるのは、明治三九年、石神井村内に設置された三つの学校がはじめである。第一実業補習夜学校(石神井東尋常小学校内開設)、第二実業補習夜学校(石神井尋常高等小学校内開設)、第三実業補習夜学校(石神井西尋常小学校内開設)がそれで、石神井村立実業補習夜学校規則によれば、学期は毎年一一月一日から翌年三月末日までの五か月間で、修身、国語、算術、農業要項の授業が「隔日午後六時ヨリ十時マデノ間に於テ三時間」課せられてい

る。

四四年には府下の大半の町村で実業補習学校が設立されるが、区内でも次の各校が設立されている。

名称設立(出願)編制学期授業時間教科目
練馬小学校附設実業補習学校 明治四四 男三年 一月~三月 国語・算術・農業
同 女子実業補習学校 明治四四 女二年 一〇月~三月 前九時~后三時 修身・国語・裁縫・家事
豊渓小学校附設実業補習学校 明治四四 男三年 一月~三月 国語・算術・農業
開進小学校附設実業補習学校 明治四四 男二年 一〇月~三月 后六時~九時 修身・国語・算術・農業
豊玉小学校附設実業補習学校 明治四四 男三年 二月~四月 国語・算術・農業
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農村地帯である区内の実業補習学校は、いずれも農業科目に特色があり、練馬および豊渓実業補習学校では一年時に土壌、肥料、作物の大意、二年時、耕耘収穫、病虫害の大意、三年時には養蚕、家畜、園芸の大意について教授されたようである(明治四四年の練馬、豊渓両小学校附設実業補習学校の学則より)。

実業補習学校は大正期に入って全国的に設立、普及される。区内では泉小学校附設実業補習学校が設立され、農業を主とする男子部と裁縫を主とする女子部とがおかれている。

就学率上昇と練馬の実態

三三年の小学校令は国民に就学義務の観念を植えつけた。それは全国学齢児童の就学率の急激な伸びによっても推察される。就学率の向上が期待された一九年の小学校令発布に四六・三%(男女平均)だった就学率は、第二次小学校令発布の二三年(四八・九%)頃から逐年二~三%の漸増をみ、三二年に七二・八%となった。だが、翌三三年と三四年にはそれぞれ八一・五%、八八・一%と大幅な伸びをみせ、三五年には九一・六%

と九〇%の大台に乗っている。男女の就学率格差を大幅に縮めたのも三三、三四の両年で、三二年には約五九%(男子は約八五%)の女子就学率が、三三年約七二%、三四年には約八二%とそれぞれ一〇%以上の向上をみたのである。この後も男女の就学率は着実な伸びをみせ、三〇年代最後を飾る三九年には男子九八・二%、女子九四・八%、男女平均九六・六%まで伸びるに至った。

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練馬区域の就学率を年次別に示す資料はないが、大筋では全国平均と同様の傾向を示したように思われる。農村地帯である練馬の村民にとって、学校を出なければならぬ必要性も乏しいため、農作業に直接的に役立たない学校教育に対する不信感も強かったと思われる。今日と異なり学校数が少ない当時のため、遠くの学校へ時間をかけて子どもを通わせねばならぬ親も多く、加えて授業料をも収めねばならないことなどが競合して不就学の原因を形成していたと見ることができよう。特に女子の場合は、家で家事や子守りをしていればよいとする考えが根強く、三四年以前の就学児童は男子の半分程度であった(表<数2>50の各村別卒業児童数の男女別割合参照)。

区内各村の三四年の就学率は、石神井村を除くと全国平均より七~八%低かった。その就学率も額面どおり受けとれぬ実態があった。表<数2>50の猶予児童数の覧からも推測されるように、実際には学齢(満六歳)を過ぎてから入学する者も多かった。また中途退学者数も多くにおよんだ。三一年の北豊島郡学事年報によれば、この年だけに限ってみても八八九名の中途退学者がおり、同年末の就学者数六七〇四名の一三%に達していた。もちろん三一年以前のこの数字はより大きく、五〇%を越す者が四年以下のわずかな就学時期の途中で退学していった。区内各校の毎日の出欠状況(三一年末)も学校によって異なるとはいえ欠席者の割合は高いものがあった。練馬小学校など一部を除けば、いずれの学校も就学児童数の二〇~三〇%あるいはそれ以上が毎日平均して欠席していたというのが実態であった。

就学率のめざましい向上は、本区内の場合でも全体としては例外でない。だが、子どもに教育を施す義務を負わされたかなりの村民にとって、それは決して平坦な道ではなかった。また、第二次小学校令で教育費負担を義務づけられた区内各村にとっても、村財政の恒常的な圧迫という多大な犠牲とひきかえに達成されたものであった。

それは区内各村の学校で、授業料非徴収が原則となる三三年以降も徴収され続けていたという史実がよく物語っている。これは特別の事情があり、府県知事の認可をうけた場合には授業料を徴収できるという小学校令の付帯条項を適用してのものであった。区内各校の授業料徴収の認可申請書類等(開進小を除きいずれも三七年三月)では、その理由である村財政の貧困を次のように記している。

<資料文>

一 理由

当中新井村ハ元ヨリ本郡内中ノ一小村ナレドモ 世運ニ伴ハサルヲ得スシテ教育ニ勧業ニ或ハ衛生或ハ土木等ニ興設スベキ事業多端ニ有之 随テ村費ノ増加スルコト年々ニ進ム 而テ教育費ハ就中最多額ニ位ス 然ルヲ今般小学校令ニ基キ就学ヲ促シタル結果 生徒ノ員数ハ益々増加セリ 随テ本年度ノ如キハ村税地価割ハ地租壱円ニ付金参拾銭ヲ徴加セサルヲ得サルニ至リ 其他附加税ノ制限ニ対シ其困難一ト方ナラズ 右理由上申候也

一 従来ノ授業料額

  尋常科各学年トモ壱人ニ付壱ケ月 金拾銭

  高等科各学年トモ壱人ニ付壱ケ月 金弐拾銭

  (豊玉小学校の「小学校生徒授業料徴収御認可願」より

<資料文>

         理由書

授業料ヲ徴収セザル事ハ小学校令ノ御趣旨ニ候処 本村ハ財政多端ノ為メ 曩ニ制限外ノ附加税及ビ特別税ニ依リ幾分ノ教育費ヲ支へ経営ノ所 今般ノ時局ニ依リ地租割其他ノ附加税ハ制限致サレ 且ツ授業料ヲ全廃スルトキハ教育経常費ニ対シ壱千円以上ノ村税ヲ賦課セザルヲ得ズ 然ルニ目下ノ処其ノ財源ハ之ヲ戸数割ニ求ムルヨリ外ナク随テ細民ノ情態実ニ困難甚敷ニ就キ 一村ノ経済上授業料ヲ徴収スルノ止ムヲ得ザルノ次第ニ有之候也

  (練馬・豊渓小学校の「小学校授業料徴収之義認可申請」より

<資料文>

          理由

本村ハ小学校生徒授業料ヲ明治三十六年度迄徴収シ来リシモ該徴集収認可ノ期限ハ同年度ニテ尽タルヲ以テ 来三十七年度ヨリハ乃チ徴収スルヲ得サルモノトス 然ルニ目下軍国ノ故ヲ以テ村税課率ヲ非常ニ削減セラレタリ而シテ茲ニ監督官庁ニ於テ指定セラレタル課率ヲ表スルニ地租壱円ニ付金参拾銭以内ニシテ反別割ヲ課スルヲ許サス 其他ノ賦課税ハ総テ金参拾銭以内トシ戸別割ニ於テ金参円以内<補記>セリ 〈ト脱カ〉故ニ以上ノ範囲ヲ逸セサル限リハ素ヨリ差支ナキ事ナルモ之ヲ実際ニ訴ルトキハ独リ戸別割ニ於ル参円ハ甚タ酷ナリト云ハサル可ラス 而シテ本村ハ自ラ削限ノ見込ヲ以テ戸別割ハ弐円八拾九銭五厘ト為セリ故ニ生徒授業料ノ如キ勢ヒ徴収ヲ継続スルノ止ヲ得サル場合ニ至レリ

  (大泉村授業料徴収の議案より

<資料文>

         理由書

今ヤ本村ニ於テ小学校授業料徴収ノ申請ヲ為スハ 本年度ニ於ケル経費ハ歳入出共削減スト雖トモ地価割其他ノ附加税之制限ニ依リ歳入金六百円ヲ減シタリ 地価割ニ制限外賦課地租五分ノ一半即チ地租一円ニ付金参拾銭ヲ賦課スルモ尚四百余円ノ不足ヲ生ジ之レガ填補ノ途ナシ 単ニ授業料徴収ヲ存スルノミ 依之本申請ヲ為ス所以ナリ

  (明治三七年四月、開進小学校の「小学校授業料徴収認可申請」より

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教科書制度の変遷

近代学校教育における小学校教科書は、欧米先進諸国の書物を翻訳・翻案されたものと、往来物など近世に使用されていたものとが並用されていた明治初期の時代から幾多の変遷を経ている。当初は各学校での教科書採用についてあまり関与しなかった文部省も、教育令期の一三年頃から徐々に国民教育の統一化を図るようになった。一四年の教科書届出制度や一六年の教科書認可制度、そして一九年の教科書検定制度がそれである。検定制度は、文部省が検定した多くの教科書の中から、各府県の教科書審査委員会が教科書を採択する制度である。それは学年別、段階別の児童の発達に応じた近代的教科書を全国に普及させる上で大きな役割を果したが、他方で教育内容の統制化を促進していった。検定制度下での出版社間の教科書販売競争は年を追って過熱化し、三五年には、教科書の採択をめぐる贈収賄などの不正行為が全国的に摘発検挙された。この教科書疑獄事件は、日清戦争以後台頭してきた小学校教科書国定化の主張を一気に実現させることになった。政府は、三六年四月に小学校令を改正し、修身、日本歴史、地理の教科書と国語読本を国定とし、そのほかは文部大臣の権限

に委ねられた。文部省は小学校令施行規則を改正して新たに国語の「書き方手本」(三七年から使用)、算術(三八年から)、図画(三八年から)が加えられた。四三年には理科も加えられ、翌四四年から使用されている。

検定制度下での練馬区域内各校の教科書は、東京府で採用した複数の教科書の中から選ばれたと思われるが、選定に当っては教師の裁量がとり入れられたものと思われる。

義務教育六年制

日清戦争(明治二七、八年)および日露戦争(三七、八年)はわが国教育界にもさまざまな影響を与えた。なかでも国家意識の高揚からくるものが大きく、戦力の中核としての兵力が、学力と体力を兼ね備えたすぐれた国民の育成によって高められるものとの自覚がなされた。これが国民の教育への欲求の高まりとなり、産業革命の進展に伴う経済的発展によって生じた国民生活の向上と相俟って、三〇年代の国民教育の目ざましい普及へと連なっていった。

義務教育六年制は、このような状況の中で明治四〇年三月の小学校令中改正によって成立され、翌年から実施となった。これによると尋常小学校の六か年が義務教育となり、高等小学校はその性格を大きく変えることになった。すなわち従来の高等小学校は二年終了の段階で、ごく一部のエリートが進む中等学校へ進学が可能であったが、この改正で中等学校は尋常小学校と直結することになり、高等小学校はエリートになりえない多くの尋常小学校卒業者を対象とした庶民的性格の学校へと変容したのである。こうして確立した初等教育制度は、昭和二二年の六・三制新教育制度まで長く維持されていった。

<節>
第六節 通俗教育
<本文>
通俗教育のはじまり

社会教育といわれる言葉は大正期になって一般化してくるが、その前身名を通俗教育といった。通俗教育の意味するところは一般民衆を対象とする教育であり、言葉としては明治一八年以降、文部

省の管掌事項中に使用されていた。二一年には大日本教育会(後述)の機構改革で調査研究事業部門の一つとして通俗教育部門が設けられてはいるが、中央における具体的施策が行なわれるのは日露戦争以降のことである。これは、日露戦争を契機として講話会や幻燈会の開催が各地で流行したのに際し、国民の戦意高揚などにこれらの催しの教育的効果が極めて大きいことに文部省が着目したことによる。

練馬の各校沿革史などにも、この頃の通俗教育の記事が次のように散見される。文部省は三九年二月に各地方長官宛に通俗教育を奨励する通牒を発し、その普及に力を入れるようになった。

<資料文 type="2-33">

○二九年二月 教育幻燈会ヲ開ラキ村民教育ノ緒ヲ開ラク(豊玉小学校沿革史

○三二年一月 教育幻燈会ヲ催ス(同右

○三三年二月 教育、衛生、勧業ノタメ幻燈会ヲ催ス(同右

○三六年四月 本校創立第二十一回記念日ニ相当セルヲ以テ成績品展覧会并ニ父兄懇話会開催 更ニ夜ニ入リテ幻燈会ヲ開ク(開進小学校沿革史

○三七年三月 明七日本村教育会発会式ヲ兼ネ本部教育講話及幻燈会開催ノ筈ニ候処 講話弁士ノ都合ニ依リ俄ニ変更シ今夜幻燈会相催ス事ニ相成候間 児童ヲ引連レ泉小学校内ニ御参聴相成度 講話ノ主題ハ日清及日露ノ戦争ニ於ケル実況ニ付始終従事セラレタル鈴木経勲先生ヨリ戦争ト教育トノ関係ヲ講演セラルベク(中略) 今夜六時ヨリ奮テ参会候様御組内へ大至急御勧誘被成度 此段及御依頼候也(大泉村長から人民惣代小美濃角次郎に宛てた案内文

○三八年三月 本校ニ戦争講話会ヲ開ク(豊玉小学校沿革史

教育会

通俗教育は明治末から大正期にかけて、政府の必要性から特に重視されてくるが、その際に活動の中心となったのが教育会と後述する青年団である。

教育会は、全国を総括する帝国教育会を上部組織として、府県郡レベルと町村レベルのものとがある。帝国教育会は明治二九年に大日本教育会(一六年発足)と国家教育社(二三年発足)とが合併して成立したもので「我国教育社会ノ中央機関ト

ナリ 教育ノ改良及ヒ上進ヲ図ルコトヲ目的」に、教育に関する調査、研究および「教育社会ノ公議ヲ発表スル」機関として発足した。

一方、その下部組織として位置づけられる北豊島郡教育会が発足したのは二六年である。同会は一五年頃に発足していたと思われる北豊島郡西部教育会や、同じく二〇年頃の北豊島郡学事批評会と北豊島郡学事集会を前身とするもので、全郡教育界の統一的組織であった。二九年の同会改正規則によれば、目的は「本郡内教育上ノ改良進歩ヲ図ル」ことにおかれ、町村長、学務委員、公立小学校職員、私立小学校設立者及職員をもって構成員とされた。事業としては、春秋二回の常集会(会務の報告、教育に関する議事、談話等)および講師を招いての教育上の談話会があげられている。

三六年の改正規則では「本郡内各町村教育会ヲ以テ組織ス」(三条)として、町村教育会の上部団体と自らを規定した。だが、現実には未組織の町村があることから「町村教育会準備」という付則を設け、町村会規約の骨子となるべき準則を定めている。ここにあげられた町村教育会の事業項目は、練馬の各村教育会のそれとほとんど同様である。次に、三七年三月に設立された大泉村教育会の規則によって事業の概要を記してみる。

<資料文 type="2-33">

 一、勅語ノ御趣意ヲ村内一般ニ周知セシムルコト

 二、教育ノ法令ヲ周知セシムルコト

 三、教育講話会、幻燈会ヲ開キ国民教育ノ必要ヲ感知セシムルコト

 四、学齢児童ノ就学及ビ出席ヲ勧誘スルコト

 五、貧困児童ノ教育ニ関スルコト

 六、家庭教育ヲ完美ニ導クコト

 七、村内ノ悪風ヲ矯正スルコト

 八、善行者ヲ表彰スルコト

 九、高齢者優待ノ方法ヲ立ツルコト

 十、其他教育上ニ必要ト認ムル事項

青年団

教育会とならんで通俗教育の一翼を担った青年団は、学校同窓会やあざを単位とした青年組織を前身とする。前身組織の設立は後述のようにまちまちであるが、統一した各村青年会の発足は明治三八年から大正四年頃までとみ

られる。この時期は中央からの強力な指導がなされた時で、内務省の青年団体奨励の通牒(明治三八年)や「青年団指導発達ニ関スル件」の内務・文部両省の共同訓令(大正四年)が出されており、その指導の影響が大きかったものと思われる。次に練馬各村の青年会発足状況を記してみる。

北豊島郡誌などによれば、明治二二年発足の豊関小学校同窓相生会は、三五年に石神井西部青年相生会と改称し、教育、農事、風習の改善に着々と実績をあげたとある。石神井村には相生会のほかに豊島同窓会、豊石同窓会、谷田同窓会があったが、大正四年に地域の青年組織である青年同志会および同志会青年貯金団と豊島、豊石の両同窓会とが合併し、石神井青年会と称した。また、谷田同窓会はそのまま谷田青年会と改称した。大正七年段階で石神井西青年相生会、石神井青年会、谷田青年会の三団体があり、何れも一五歳以上の会員により組織されている。

大泉村にも明治三二年頃には菁莪学友会あるいは後楽義会といわれる青年団体の存在が確認される。その他の青年組織については明らかでないが、統一組織の大泉青年団は大正五年に大泉小学校内に成立している(同校沿革史)。

中新井村青年会は明治四三年四月に発足している。これは四〇年発足の豊玉小学校同窓会を「時勢の推移上」(同校沿革史)改称したものである。

下練馬村青年会の発足は明記されていないが、五周年記念事業の年代から推して三八年成立と思われる(開進第一小学校沿革史)。

上練馬村青年会は四〇年二月に発会式をあげている(練馬小学校沿革史)。

 

大正四年の共同訓令では、青年団体を「青年修養ノ機関」とし、「健全ナル国民善良ナル公民タルノ素養」をつむことを本旨としている。また、修養の機関として実業補習学校や夜学会があてられた。同時に発せられた通牒では「青年団体ノ設置ニ関スル標準」を示した。それによると、青年団体の成員を義務教育修了者またはそれと同年齢以上二〇歳(後年延長)ま

でとし、指導者には小学校長または土地の名望家をあて、維持費は成年の勤労による収入で支弁するものとされている。その後大正七年に第二次共同訓令が発せられ、青年団体の内容充実を図る趣旨から質実剛健の気風を興すことが意図された。だが大正九年の第三次共同訓令では、第一次大戦後の民主主義的な風潮を反映してか「組織ハ之ヲ自治的ナラシムルニ努メ団体ノ事ヲ統フル者ハ之ヲ団体員ノ中ヨリ推挙セシムルヲ本則トス」と記されている。

次に大正一〇年の上練馬村青年団々則()を掲げてみる。

<資料文 type="2-33">

      北豊島郡上練馬村青年団々則

      第一章 通則

 第一条 本団ハ本村青年団所定ノ綱領ニ基キ青年ヲシテ忠孝ノ本義ヲ<補記>〈体〉シ智徳ヲ涵養シ身体ヲ鍛錬セシメ以テ健全ナル公民善良ナル国民タルノ素養ヲ得セシムルヲ以テ目的トス

 第二条 本団ハ上練馬村青年団ト称シ事務所ヲ上練馬村役場内ニ置ク

 第三条 本団ニ左ノ支部ヲ置ク

 中ノ宮

 貫 井

 高 松

 田 柄

 下土支田

    第二章 団員

 第四条 本村内ニ居住スル男子ニシテ義務教育ヲ了ヘタル者及ビ之ト同年齢以上ノ者ハ満三十歳迄ハ正団員タルノ義務ヲ有スルモノトス

 第五条 本団ノ正団員ヲ分テ左ノ二種トス

 少年部 十三歳ヨリ十五歳迄デ

 青年部 十六歳ヨリ三十歳迄デ

 第六条 本団正団員ヲシテ年齢満了退団シタルモノハ三ケ年間賛助団員トシテ本団ノ後援ヲナスモノトス

 第七条 本団ハ毎年四月三日入退団及ビ部属変更ノ式ヲ挙行ス

 第八条 入団ノ場合ハ別ニ定ムル所ノ誓文ニ基キ宣誓ヲナスモノトス

 第九条 少年部員 青年部員ハ二十歳迄デ必ス補習教育ヲ受クル義務アルモノトス 但シ中等学校卒業者ハ此ノ限リニアラズ

 第十条 団員ニシテ能ク修養ニ努メ其ノ操行他ノ模範タルニ足

ル可モノハ別ニ定ムル規定ニヨリ之ヲ表彰ス

 第十一条 団員ニシテ本団ノ目的ニ反シ又ハ本団ノ<補記>〈体〉面ヲ汚辱スルノ行為アリタル時ハ誨告ヲ与ヘ尚ホ改悛セサル時ハ除名ス 但シ除名セラレタル者他日改悛ノ情アラハルヽ時ハ復団セシムル事アルベシ

 第十二条 団員ニハ所定ノ団員手牒ヲ交付シ之ヲ携帯セシム

 第十三条 本団ニ名誉団員ヲ置ク 名誉団員ハ学識名望アルモノ又ハ本村名誉職員並ニ本団ノ為ニ功績アルモノニシテ団長ノ推薦ニ依ルモノトス

        第三章 事業

 第十四条 本団ハ第一条ノ目的ヲ達センガ為凡ソ左ノ事項ヲ実行スルモノトス

        第四章 役員

 第十五条 本団ニ左ノ役員ヲ置ク

 第十六条 役員ノ職務権限左ノ如シ

  1. 一、総理ハ本団ヲ統督ス
  2. 二、団長ハ団務ヲ統括シ本団ヲ代表ス
  3. 三、副団長ハ団長ヲ補佐シ団長事故アル時ハ其ノ職務ヲ代理ス
  4. 四、幹事ハ団長ノ指揮ヲ受ケ団務ヲ処理ス
  5. 五、評議員ハ評議員会ニ於テ団長ノ諮問ニ応ジ又ハ本団重要事項ヲ議決ス
  6. 六、支部長ハ団長ノ指揮ヲ受ケ支部一切ノ事務ヲ掌理ス
  7. 七、副支部長ハ支部長ヲ補佐シ支部長事故アル時ハ其ノ職務ヲ代理ス
  8. 八、支部幹事ハ支部長ノ指揮ヲ受ケ支部ノ事務ヲ処理ス
  9. 九、相談役ハ本団ノ指揮援助ヲナス

 第十七条 役員ノ選任左ノ如シ

  1. 一、総理ハ村長ヲ推薦ス
  2. 二、団長ハ小学校長名望家又ハ団員中ノ古参者ヲ推薦ス
  3. 三、副団長正副支部長ハ名望識見アル篤志者又ハ小学校職員ヲ推薦ス 但シ団員中ヨリ選挙スル事ヲ得
  4. 四、幹事ハ団員中ヨリ又ハ役場吏員小学校職員ヨリ推薦ス
  5. 五、評議員ハ各支部ニ於テ正団員中ヨリ互選ス
  6. 六、正副支部長ハ支部団員ノ互選トス 評議員ハ賛助団員中ヨリ公選スルコトヲ得

 第十八条 役員ノ任期ハ左ノ如シ

 第十九条 本団ハ左記ノ中ヨリ顧問若クハ相談役若干名ヲ推薦シ其ノ指導援助ヲ乞フモノトス 区長 村吏員 村名誉職員 警察官吏 在郷軍人 神職 僧侶 学校職員 医師 実業団体 其他篤志者及名望家

 第二十条 会合ヲ分テ評議員会 幹部会 総会及ビ部会トス 評議員会ハ評議員ヲ以テ組織シ 幹部会ハ正副団長正副支部長幹事ヲ以テ組織シ 総会ハ総団員ヲ以テ組織シ部会ハ少年部員青年部員ヲ以テ組織ス

 第二十一条 評議員会幹部会部会ハ必要ニ応テ団長之ヲ召集シ総会ハ毎年春秋二回之ヲ開ク 但シ必要ニ応テ臨時総会ヲ開ク事アルヘシ

 第二十二条 評議員会ニ於テ決議スヘキ事項凡ソ左ノ如シ

  1. 一、本団ノ事業選定ニ関スルコト
  2. 二、予算及決算ニ関スルコト
  3. 三、団員ノ表彰及制裁ニ関スルコト
  4. 四、名誉団員顧問相談役等ノ推薦ニ関スル事
  5. 五、団則ノ改廃ニ関スル事
  6. 六、其他本団ノ活動ニ関シ団長ニ於テ討議ヲ必要ト認メタル事項

 第二十三条 幹部会ハ左ノ事項ヲ協議ス

  1. 一、評議員会総会ニ附議スヘキ事項
  2. 二、評議員会ヨリ委任セラレタル事項
  3. 三、事業執行ニ関スル事
  4. 四、其他必要ナル事項

 第二十四条 総会ニ於テ挙行スヘキ事項左ノ如シ

 第二十五条 部会ハ其ノ部ニ属スル必要事項ヲ挙行ス

 第二十六条 評議員会幹部会ノ議長ハ団長之ニ当ル

 第二十七条 会議ハ出席者ノ過半数ヲ以テ決シ可否同数ナル時ハ議長之ヲ決ス

    第六章 会計

 第二十八条 本団ノ会計年度ハ四月一日ニ始マリ翌年三月三十一

日ニ終ル

 第二十九条 本団ノ経費ハ主トシテ共同作業ノ収益若シクハ各自ノ勤労ニ依リテ得タル収入等ヲ以テ之ヲ支弁ス

       但シ奨励金寄附金ヲ以テ補充スルヲ防ケズ

 第三十条 本団ノ団費及納付ノ時期ヲ定ムルコト左ノ如シ

  1. 一、青年部員ハ一ケ年金参拾銭トス
  2. 二、団員中一戸弐名以上アル時ハ 長ハ参拾銭他ハ拾五銭トス
  3. 三、団費ノ納付ハ四月トス

 第三十一条 使途ノ指定ナキ寄附金ハ本団基本財産トシテ蓄積スルモノトス

    第七章 支部

 第三十二条 支部ハ団長ノ承認ヲ経テ其ノ支部ニ於ケル規則ヲ設ケ又ハ事業ヲ行フコト

    第八章 附則

 第三十三条 本則ハ団長又ハ評議員五名以上ノ建議ニ依リ評議員会ノ決議ヲ経ルニアラサレバ之ヲ変更スルコト

 第三十四条 本則ノ執行ニ関スル諸規定ハ団長之ヲ定ム

 第三十五条 本則ハ大正拾年二月十一日ヨリ施行ス

     (加藤喜八家文書、『練馬区教育史』第四巻

上練馬村青年団の事業は団則に七項目あげられているが、大正一三年度の収支予算書をみると、事業費内訳では体育部費(一一六円)、教育部費(一〇五円)、総会費(八一円)、産業費(七〇円)、表彰費(五〇円)、慶弔救災費(三七円)、臨時会費(三二円)、社会部費(二五円)などの順で支出予定されている。体育部費では柔剣道師範の謝礼(四〇円)や道具購入等に多く使われており、柔剣道関係の行事がよく行なわれていたと思われる。また運動会費としても一〇円があげられている。教育部費では活動写真附属品購入費(四〇円)や巡回講演会費(二五円)等に使われている。産業費の中には大根種子送料及葉書等の通信費(二〇円)や種子配布等の試作費(五円)などが計上されており、練馬の特色もみられる。

一般に青年団が町村の文化行政推進の上で果した役割は大きなものがあった。それは、独自で実施した講演会、活動写真会、読書活動、運動会等に加えて、小学校で実施される運動会の会場準備や諸々の手伝い、老齢者の接待など文字通り町村文化活動の担い手であった。大泉小学校沿革史には、それを表わす象徴的な記事があるが、どの村の青年団でも同様のことが行なわれたのであり、この活躍は昭和二〇年まで続くのである。

<資料文>

昭和四年

十月二十四日 第九回秋季大運動会挙行 前日迄ノ雨雲ハ霽レテ小春日和ノ暖カナ秋晴空ニ早朝ヨリ運動会気分漲リテ意気旺盛 殊ニ本年ハ男 女青年団聯合ニテ開催セシ所非常ナル人気ニテ観覧者早クヨリ押寄セ正午頃迄ニハ千余名ニ充チ 亦村各種団体名誉職等続々来観アリテ一層ノ盛況ヲ呈シ最後ニハ殆ンド村ノ運動会ノ如キ感アリテ盛会裡ニ午後三時半万歳三唱散開セリ (大泉小学校沿革史、『練馬区教育史』第五巻

右資料中に「女青年団」の字句がみえる。女子青年団は大正一三年頃、処女会と称して生まれたようで、昭和になって女子青年団あるいは女子青年会として各村で発足した。昭和七年に板橋区に編入された以後は、男女とも板橋区長を団長とする板橋区男()青年団の分団として組織されている。

通俗教育から社会教育へ

大逆事件を契機として、政府は通俗教育に本腰を入れて取り組む姿勢を示すようになる。その現われが明治四四年五月に発足した通俗教育委員会である。同会では通俗教育の調査および施設方針を策定し、通俗教育を実施する際の基本的形式をつくった。それは道府県教育会を活動の主体とし、それに奨励費や実行費を補助して通俗教育活動を行なうというものである。これらの補助金は、その見返りとして通俗教育の実施とその内容の厳重な監督をうけることになった。たとえば府教育会に設置された通俗教育部には、通俗調査委員会の方針を受けて通俗図書審査規定と幻燈映画及活動フィルム審査規定が設けられ、当局の考える通俗教育の趣旨に沿った内容であるか否かがチェックされたのである。通俗教育調査委員会は大正二年に廃止されたが、新たに通俗図書やフィルムの認定規定(文部省令)が定められ、恒常化されている。

明治末期から大正中期にかけての区内各校の沿革史には次のような記事がみられる。

<資料文 type="2-33">

〈明治四五年〉 六月五日 本日午後二時ヨリ本校ニ於テ通俗教育会ヲ開ク講話 人ニ教育ノ必要ナル所以 文学博士 村上専精 余興 講談 琵琶 活動写真〈練馬小学校沿革史〉

〈大正二年〉 二月十一日 本日本村々役場落成式ヲ役場ニ於テ行ヒ本校ニ

於テ通俗教育会(府、郡、村三教育会連合)ヲ開催、金田藤吉(府教育会幹事)開会ノ辞ヲ述べ、志賀重昂氏ノ講話、森久保代議士ノ演説等アリ、来賓トシテ梅田郡長、小松郡視学、浮田郡書記来校 頗ル盛会ナリキ〈開進第一小学校沿革史〉

〈大正四年〉 十一月 通俗教育会開催、郡ヨリ金拾六円補助セラル、青山師範主事「教育ノ仕方ニツイテ」ノ講話アリ〈大泉小学校沿革史〉

〈大正四年〉 十一月下旬 本校ニ於テ西部十校連合農芸品評会ヲ開ク、十一月二十一日 右賞状授与式、教員大会、通俗教育会ヲ開催ス〈開進第一小学校沿革史〉

〈大正八年〉 四月三十日 西部修養会、本郡教育会、神職会ノ連合講演会ヲ開催ス〈開進第一小学校沿革史〉

〈大正八年〉 十一月十日 本校ニ於テ郡教育会、本校ト連合通俗教育活動写真ヲ撮影一般ニ観覧セシム、新井視学来校〈練馬小学校沿革史〉

社会教育という言葉は日露戦争頃より使用されてはいたが、官制用語として通俗教育にとってかわるのは文部省官制中改正される大正一〇年のことである。これに先立つ同七年に臨時教育会議(内閣総理大臣監督下の教育政策審議機関)は通俗教育の改善案を答申。翌八年四月の文部省官制中改正で文部省に通俗教育担任の主任官が任命された。また同年六月には文部省分課規程の中改正により、普通学務局の第四課を通俗教育専管の課として通俗教育、図書館及博物館、盲唖教育及特殊教育、青年団体、教育会の五事項を分掌させた。これが官制用語の新採用に伴い、後に社会教育課となり、昭和四年には社会教育局へと拡充されていくのである。

<節>
第七節 大正期の教育
<本文>
大泉小第二・第三分教場

大正期の練馬に新たに設置された小学校は、大泉村の二つの分教場である。最初のものは明治四五年すなわち大正元年、「大字小榑字中前新田参百七拾番地及参百七拾弐番ノ内畑壱段五畝拾八歩」に設置された泉尋常高等小学校第二分教場である。この分教場の設置によって、橋戸の分校は第一分教場と呼ばれ

ることになった。

もう一つの分教場は大正八年、「大字小榑字達出シ千四百五十九番ノ壱号畑壱段七畝歩」に設置された第三分教場である。同七年六月の位置指定申請書類では、「村円満ノ為メ且ツハ幼学年児童通学上ノ均衡的便益ヲ計リ尋常高等小学校ノ改築ヲ成スト同時ニ本件分教場ヲ設置シテ以テ教育上ノ支障ヲ除キ村ノ発展ヲ期セントスル」と設置の事由を述べている。八五名(二学級)の収容予定で、「建築費予算額ハ金壱千七百六拾円ニシテ其財源ハ村税ニ賦課」され、村民の負担するところとなった。なお、第二、第三両分教場は、昭和一八、一九年にそれぞれ大泉第二、第三国民学校として独立した。

教材・教具の充実

明治四四年の全国小学校男女平均就学率は九八%にも到達しており、大正期の各村の教育関係者の主眼は、老朽化した校舎の増・改築、校舎設備や教具の充実など教育条件を整備することに置かれるようになった。これらが村費や有志の寄付金によって賄われたことは明治期と同様であった。有志の寄付が関係地域の全戸に割当てられた時、それは租税としての性格をもち、村民の生活を圧迫した訳であるが、一部の資産家が個人又は数名集って行なう場合もあった。左は大正元年に大泉村の各校になされた寄付の内容を示したものである。第二分教場は設置とほぼ同時にオルガンにめぐまれたことがわかる。

寄付年月日寄付目的寄付物件価格単価現住所及 本籍 身分受刑有無位勲功学位爵指名
大正元年十月一日 村立泉尋常高等小学校
仝校
柱時計壱個 壱壱五〇〇 壱壱五〇〇 大泉村大字小榑二二九番地
石神井村大字上石神井九〇五番地
平民
ナシ 浅野 丈右ヱ門
第二分教場 表門壱組 七〇〇〇 七〇〇〇 大泉村大字小榑一七〇番地
仝上  平民
ナシ 井口平四郎
裏門壱組 弐〇〇〇 弐〇〇〇 仝上
仝上
ナシ 仝人

門標壱枚 壱五〇〇 壱五〇〇 仝上
仝上
ナシ 仝人
計 壱〇五〇〇
大正元年十月四日 村立泉尋常高等小学校第二分教場 第三号オールガン壱個 弐五五〇〇 弐五五〇〇 大泉村大字上土支田八一二番地
仝上 平民
ナシ 見留勝外拾五名総代
加藤信太郎
仝年仝月十一日 村立泉尋常高等小学校 花崗石正門一ケ所 弐壱弐壱弐五 弐壱弐壱弐五 大泉村大字上土支田六四四番地
仝上 平民
ナシ 加藤岩蔵
仝年仝月七日 鞠突場一ケ所 弐四八五〇 弐四八五〇 大泉村大字小榑六一八番地
仝上 平民
ナシ 平野平蔵
仝校第一分教場 壱八〇〇〇 壱八〇〇〇 仝上
仝上
ナシ 仝人
仝校第二分教場 壱八〇〇〇 壱八〇〇〇 仝上
仝上
ナシ 仝人
児童用司綱壱本 四五〇〇 四五〇〇 仝上
仝上
ナシ 仝人
計 六五参五〇
(北豊島郡大泉村長より府知事に宛てた上申書より・『練馬区教育史』第四巻)
図表を表示
後援会・保護者会など

このような教具・物品などが寄付されるようになるのは、明治も三五年以後のことである。大正期の大泉村以外の小学校になされた有志の寄付品目を数例あげると、「軍艦標本精図并富強ノ母壱部」(豊玉尋常高等小学校へ)、「松壱本」(石神井尋常高等小学校へ)、「机腰掛参拾組」(同上)、「箱入人体模型壱個」(同上)などがある。

昭和期に入ってもこうした寄付は行なわれており、昭和三年に独立した開進第二小学校の場合には協賛会がつくられて肋木や横木が、九年にはピアノ、電話、拡声機が寄付されたという。

これら日常の学習に直接的に関係する教具、教材の寄付が多くみられるようになった背景には、校地、校舎など入れものの整備が一応整い、それらに対する学校側の要望があったことのほかに、その必要性を理解する親たちが徐々にふえてきたこと、つまり大人の教育への関心の高まりをあげることができよう。また、大正期の新教育運動や綴方教育運動などさまざまな教育思潮の登場とともに、新しい教具や教材が開発、普及され、それなくしては効果的な学習指導が難しい状況が現われてきたことが考えられよう。

親たちの教育への関心の高揚は、具体的に教具・教材を援助する組織を生むことになる。練馬の場合、大正末期から昭和初期につくられたものが多く、後援会、奨学会、保護者会などの名をつけている。これらの組織は、名称が異なっても主たる活動は児童に学用品を供給することであったようである。理念上はともかく、実際活動の上では戦後のPTAの前身とみることができよう。

震災と学校

大正一二年九月一日の関東大震災は、本所区、深川区、浅草区など東京市部を中心に甚大な被害をもたらした。練馬の各村の罹災状況は全体に軽微なものであったが、上練馬村、下練馬村など東部地域に比較的大きな被害がでている。各校の沿革史でその模様をみてみる。

○開進尋常高等小学校

<資料文>

 九 月 一日 第二学期始業式挙行 訓導渡部好後備役演習召集ニ応ズ

分教場とは後の開進第二尋常小学校のことであるが、沿革史に当日の記載はない。ただ同年一二月記事に「二教室増築及職員室使丁室物置一棟ヲ移転ス」とあり、校舎の罹災があったことと、その復旧に学区域の村民が尽力したであろうことを想像させる。

○練馬尋常高等小学校

<資料文>

 九月 一 日 大震災アリ 本日第二学期始業式ノ後ナルタメ児童ハ下校セリ 校ノ内外被害夥シ 損害見積九百九拾円位 御真影職員 児童ノ異状ナシ

 十月     震災記録ヲ調製ス

 十二月五 日 本村ニ避難セル罹災ノタメニ体操会 唱歌会ヲ開キ罷災者慰安会ヲ開ク引続キ西部聯合通俗講演会ヲ開催セリ

一二月に罹災者の慰安会が開かれているが、『東京震災録』によると上練馬村には五か所に避難所が設けられ、五九四人が収容されており、その一部に対してのものと思われる。

中新井村の豊玉尋常高等小学校でも、大震災によって「職員室の壁は音をたてて落ち、時計や額も次から次へと落ち」「二年前くさぶきの屋根の教室を改築して出来たモダンな二階建ての校舎が、大ゆれにゆれて今にも倒れそうでハラハラした」(池沢一志談)ぐらいであったから校舎の被害がかなりあったと思われるが、沿革史には記載されていない。

その他の学校沿革史にも震災関係の事は見当らない。だが前述の『東京震災録』には、練馬の各村の救護、救援活動の奮闘ぶりが記されており、教員の活躍もみられた。特に前ページに掲げた記事で始まる、市部に近い下練馬村の開進尋常高等小学校沿革史に記された教員の活動ぶりは見事なものであった。

<資料文>

 九月 二 日 () 職員ノ非常召集ヲ行フ、当分当直員ヲ三名ニ増加シ、且ツ夜警ノ任ニ就カシム。

        () 本日ヨリ三日間、高等科男女児ヲ召集、校舎破損ノ後片付ヲ手伝ハシムルコトヽナセリ。

        () 他ノ児童ニ対シテハ追テ通知スルマデ休業ヲ宣シ、且ツ地震ニ関スル注意ヲ与フ。登校者少数。

 九月 七 日 本校の応急修理ハ職員ノ手ニヨリテ略出来セルヲ以テ、本日ハ分教場ノ修理ノ為メ全職員ヲ煩ハセリ、但シ女教員四名ハ本校ニ於テ整理事務及ビ応接ノ任ニ当ラシム。

 九月 九 日 来ル十一日ヨリ授業開始ノ広告約五十枚ヲ村内各要所ニ貼付ス。

 九月十一 日 本日ヨリ正規授業ヲ開始ス。

        避難児童収容ニ就テ村理事者ト協議ノ結果之ヲ一日モ早ク収容スルノ策ヲ立テ其ノ調査宣伝ヲ行フ。

 九月十二 日 影山校長ハ連日避難者ノ調査及救済方面ニ没頭シ職員ヲバ部署ヲ定メ救済配給ノ方面ニ従事スルコトヽナス。避難者総数二千六百余、避難児童ヲ本校ニ収容セルモノ百四十名ニ達ス。

 九月十八 日 宮川、桜庭、細野三教員ヲシテ衛生材料受領ノタメ東京府ニ出張セシム。

 九月二十二日 東京市精華小学校訓導数名避難児童調査ノタメ来校。

 九月二十六日 東京市精華小学校長外十名避難児童調査ノタメ来校。

 九月二十七日 罹災者救助ノタメ衣類寄贈ノ件ニ付キ同窓会員ヲ召集シ各方面ヲ分チ戸別訪問ノ上寄贈ヲ仰グコトヽナス。

 九月二十九日 罹災者救助ノ衣類ノ荷造ヲ行ヒ郡役所マデ馬力牛車ニヨリテ発達ス、衣類総数実ニ四千点ノ多キニ達ス。コレ職員ノ辛酸ト青年団員、同窓会員(時ニ女子)ノ活動ト相待チタル結果ナラズンバアラズ。

 九月中    避難児童救済ノタメ影山校長戸別訪問ニヨリ村内有志者ヲ勧説シ、現金五百余円ヲ得テ学用品ノ一切並ニ襦袢、半ズボン、腰巻、下駄、雨傘等ニ至ルマデ之ヲ給与スルヲ得タリ。

沿革史の記事は一二月まで続く。一〇月には「救済、配給等過労ノ結果、教員高田一徳ノ健康ヲ害スルニ至リシハ遺憾ナリキ」とある。

震災の経験は過密木造住宅の危険性を人々に認識させ、鉄筋コンクリート造りが着目されるようになった。都心区では東京市の「東京市立小学校建設費補助規程」による多額の補助もあったため、日中戦争が拡大する一二年頃までは徐々に鉄筋

校舎が建設されている。

だが、予算の乏しい練馬の各村各校にとってそれは夢のまた夢であり、戦後の三〇年代まで俟たねばならなかったのである(『現勢編』九九九~一〇〇一ページ)。

児童の衣・食・遊

練馬の児童たちが今日のように洋服を着るようになるのは大正一二年の大震災以後のことである。とはいっても近世から明治、大正期と続いて着なれている木綿しまや紺かすりの着物が、簡単に駆逐されてしまった訳ではない。

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  衣食の生活(開二小を語る)

池館マス昭和三年一月に分校時代の教師となり三二年まで三〇年間教鞭をとる

 昭和一桁の時代は、ほとんどの子どもが、かすりの着物を着ていました。腰上げをした短い着物です。はきものは、もちろん、今のような運動ぐつではなく、下駄や竹の皮であんだぞうりでした。ランドセルはなく、肩からさげるカバンでした。

下島靖敏(戦中に入学、二三年度卒業

ランドセルは、店頭には、あったんでしょうが、買いたくても買えないというのが、実状だったのでしょう。私は、おふくろが、帯の芯で作ってくれたカバンをさげて、登校しました。

中村 進二五年度卒業

私は、兄の古いランドセルを使用した経験があります。

中学生になってから、今のお話のような、肩からさげるカバンを使ったように覚えています。帽子は、今の子のような黄色いものでなく真黒い学帽でしたね。

司会 八波さんや、西川さん達の時代ですと、今のようなお話には、少し縁遠いのでしょうが、食生活での思い出といいますと、どんなことが浮んでくるのでしょうか。

西川明伸四六年度卒業

給食は、いつもおいしくて、残さず全部食べました。

八波優江(三〇年度卒業

おそうざい、おかずのことでは、いやな経験はなかったのですが、あの脱脂粉乳には困りました。何とも言えないいやな臭いだけじゃなく、飲むころにはさめてぬるくなっているので、たいへんまずい味でした。それに、黄色っぽい脂肪が点々と表面に浮いていましてね。

山本一義大正一二年一月から分校で、昭和三年から一八年まで本校で教鞭をとる

昭和初期の不景気は、どの家庭にも、まともにあたり、欠食児童が多かったのです。朝も食べず、弁当も持ってこなかった子どもがいました。

他人の弁当を池田さんの山で食って、弁当箱だけは、山に捨ててあったこともありました。

そこで学校としては、保護者から希望をとり、学校の食堂でこしらえて食べさせるという、今の学校給食の先端のようなこともしました。

大里育英会は、こうした社会を反映して、貧困であるが故に学校へ行けない子ども達を救う唯一の場所でした。

大里育英会は、小学校を出てから三年制の学校です。当時本校からも何人か入っています。現在、文京区にある工業高校の前身です。

戦時中の昭和十八年には、ごはんの給食があり、また翌年の十九年には、パンの給食がありました。

そして、二十一年度から今のようなパン給食となったのです。

はじめのうちは、アメリカからの輸入品が多く、ほうれん草のかんずめや、パイナップルのかんずめがありました。

かんづめの中には、途中で発酵して、お酒になったりしたものがあってね。(一同爆笑

中村 給食では、ジュースのかんずめがありましたし、鮭かんを四人で分けて食べるようなこともありました。

下島 そう言えば、戦時中は弁当の空箱だけを持ってきたことがありましたよ。大きいかまどの前で、食堂の人たちが調理していた姿がうかびます。子ども心にも、学校へ行けば飯がくえるという意識はあったんですね。

    (『開進第二小学校五〇周年記念誌』

震災後、次第に増えてきた旧市内からの転居者と、その子弟の洋服姿が徐々に農村の子どもたちの服装に影響を与えたのである。昭和の一〇年頃には洋服、着物が半々ぐらいになったといわれる。

着物の児童は下駄あるいはぞうりをはくのが普通であったようだ。農家では畑仕事の合い間にぞうりや縄、俵などをつくったのでそれをはいたのであろう。洋服の児童の場合もこの傾向は変らないが、靴も大正末頃から徐々に普及しはじめたようである。

学校での児童の楽しみは昼食であろう。だがそれは弁当の中

味を競う豪華な内容とはおよそほど遠かった。半数以上はサツマイモで餅をもってくる児童もいた。おかずは家でとれるもの、サトイモや菜っ葉、大根の漬け物、梅干などであった。家に食べに帰る児童もかなりいた。比較的学校近くに住む子であろう。なかには帰っても何も食べずに戻る貧しい家の子もいたという。

練馬には遊びにこと欠かない豊かな自然があり、その意味では恵まれた児童たちであった。石神井川、白子川、千川、田柄川にはコイ、フナ、ナマズなど多くの川魚がいた。川遊びは子どもたちの楽園であった。

だが、農家の仕事は多く、学童たちも大事な労働力であった。学校の方でも夏休みを農繁期に繰り上げて実施したり、臨時の休みにしたりして現実生活への対応を図っている。子どもたちは忙しい手伝いの合い間をぬって遊んだのであろう。トンボ、セミ、バッタ、ホタル、さまざまな虫を夢中で追いかけることのできる時代であった。

<節>

第八節 昭和期の小学校
<本文>

関東大震災は旧市内の人々を郊外に移住させ、旧一五区に接する地域を都会化させていった。昭和六年一一月の東京市の現状調査(昭和三二年刊『練馬区史』所収)では、中新井村と練馬村について、震災前の大正九年と昭和五年との人口比較をしている。それによれば練馬町(旧下練馬村)二倍半(五三〇〇人→一万三一四五人)、中新井村三倍強(二千余人→七千余人)、と人口の急増ぶりがわかる。石神井村、大泉村については「依然トシテ平和ナル一農村」であったが、中間に位置する上練馬村の場合は「隣接町村ノ急激ナル都市化ヨリ取リ残サレシ観アリト雖モ」「漸次都市化スルノ域ニ向ヒツツアリ」変化の兆しがうかがわれる。

人口の増加は児童数の増大を意味し、それはまた学級の定員増、学級増、教員増、教室の増築などへはね返り、各村の財政を圧迫することになった。

開進第一尋常高等小学校(練馬町)の沿革史には、

○大正十三年四月十五日 学級増加ノタメ理科室ヲ普通教室ニ充当スルコトヽセリ

○大正十四年八月一日 分教場ニ教室ノ増築工事竣成ス

○大正十五年一月十九日 新校舎二階建八教室増築ノ上棟式挙行

と、震災後の学級増加および教室増築の記事がみえる。また、開進第二尋常小学校沿革史には、それを引き継ぐ形の記事が次のように記されている。

○大正十四年八月 二教室増築工事竣成、六学級ヲ編制ス

○昭和二年度ニアリテハ 実ニ六教室八学級編制ノ膨脹ヲナセリ

○昭和三年一月二十日 木造二階建延三百三十四坪ノ増築工事完成ス

こうして開進第二尋常小学校は四月一日に独立開校した。この動きはさらに開進第三尋常小学校の設立へと発展していく。

開進第三尋常小学校

開進第一尋常高等小学校の二番目の分教場校舎は、昭和六年一二月四日に落成した。住所は七年一〇月から新町名となり板橋区練馬南町二丁目三七七七番地(現在位置)である。同校(開進第一)の沿革史によると、落成後の一二月一三日の記事に、

分教場(開進第三ト仮称)校舎落成ノタメ成績品参考品展覧会ヲ同所ニ於テ開催、多数ノ来観者アリ

とある。開校前から「開進第三」として独立が予定されていたのがわかる。七年一月の分教場開校時の学級編成は一年二学級、二、三年各一学級で四名の教員が勤務した。四月に一年二学級が増設され、九月に開進第三尋常小学校として独立した。

練馬小の第一分教場

昭和四年度の練馬尋常高等小学校の学級数は、尋常科一二学級、高等科四学級であり、沿革史に「尋一、二学年ノ四学級二部教授施行」とあるように、低学年が満杯の状況であった。昭和六年五月、「北豊島郡練馬村貫井一〇一二番地」に落成した同校第一分教場の設置はその現状への対応と思われる。尋常科一、二学年を各々一学級ずつ設置され、通学区域は石神井川以南とされた。一四年の校地拡張、校舎増築を経て、戦時中の一八年五月、練馬第二国民学校として独立認可されている。

旭丘小学校の前身

開進第三小、練馬小の第一分教場とならんで昭和一〇年までに設立された現区内(小竹町)の学校は、上板橋第二尋常小学校分教場である。同分教場は明治七年九月、上板橋江古田町一九四五番地(現在

位置)に設立され、一三年に上板橋第三尋常小学校として独立した。概況は初等科(元尋常科)一一学級四四四名(男二三五、女二〇九)の児童を数えた。戦後の練馬区独立で同地が練馬区に編入された際に新校名「旭丘」が冠せられた。

豊玉第二尋常小学校

旧中新井村は昭和七年に町制をしいて中新井町となった。前述のようにこの地域の人口の増大と市街地化はめざましく、児童の教育は豊玉小一校ではその対応が難しくなってきた。豊玉第二尋常小学校は、一五年四月、中新井町二丁目六二五番地に開校した。分教場としてではなく、いきなり独立校として設立されたところに、時代の変遷と町財政の相対的充実とが読みとれる。諸設備費や人件費等の点でより多額の経費を要したからである。六学年一二学級編成で六九六名の児童数をかぞえた。

<節>
第九節 青年学校の歩み
<本文>
青年訓練所

大正六年九月、寺内内閣は臨時教育会議官制を公布した。これは大正デモクラシーと呼ばれる民本主義運動が台頭しはじめた状況の中で、多年にわたって蓄積されてきた教育上の懸案事項を解決するために設置したもので、多岐におよぶ内容の諸答申と二つの建議をして大正八年五月に廃止された。このうち「兵式体操振興ニ関スル建議」(大正六年一二月)は、「学校ニ於ケル兵式教練ヲ振作シ以テ大ニ其ノ徳育ヲ裨補シ併セテ体育ニ資スル」ことを緊急の要務としたものであった。この理念は、第一次大戦後の国際的な軍縮気運に逆行する形で大正一四年四月の陸軍現役将校学校配属令において具現化の一歩を踏み出すことになる。ただ配属令では、その対象が中等教育以上の男子生徒であったため、小学校卒業後に職に就く青少年のための軍事教育の問題が残された。もちろん、このような軍事教育の学校教育に対する侵食に反対する意見もあったが、軍部の意向を止める力とはなりえなかったのである。

このような状況下の大正一五年四月、青年訓練所令が公布され、同規程も定められた。これらによると、青年訓練所は市

町村、市町村学校組合および町村学校組合、「私人ハ文部大臣ノ定ムル所ニ依リ」設置可能とされ、「概ネ十六歳ヨリ二十歳迄ノ男子」に対して「修身及公民科、教練、普通学科、職業科」の訓練を施すところとされた。訓練期間は四年で、その間に修身公民科一〇〇時間、教練四〇〇時間、普通学科二〇〇時間、職業学科一〇〇時間を下らない訓練を課せられた。公立青年訓練所は実業補習学校または小学校に併置するのが常例とされ、「主事ハ実業補習学校長又ハ小学校長ニ指導員ハ実業補習学校又ハ小学校教員 在郷軍人其ノ他適当ト認メタル者ニ地方長官之ヲ嘱託ス」(青年訓練所規定第一六条)とされた。

青年訓練所は教練時間が訓練の半分を占める点に最大の特色があり、他の内容は実業補習学校と重複する部分が多かった。そのため「地方長官ニ於テ当該実業補習学校ノ課程ヲ青年訓練所ノ課程ト同等以上ト認ムル場合ハ当該実業補習学校ヲ以テ青年訓練所ニ充ツルコトヲ得」(第六条)というような、実業補習学校との相互関係に留意した規定も設けられた。

練馬の青年訓練所は、大正一五年に石神井村、下練馬村、上練馬村に設置されたのを皮切りに、昭和初年までには中新井村(二年開所)、大泉村(四年以前に開所)と全村に置かれた。

上練馬村青年訓練所規則第二章には次の記載がある。

<資料文>

         第二章 訓練ノ項目 時数及訓練季節

第四条 訓練項目ハ修身及公民科 教練 普通学科 職業科トス

第五条 訓練時数ハ四年ヲ通シテ修身公民百時 教練四百時 普通学科二百時 職業百時間トス

第六条 訓練項目ノ課程左表ノ如シ

年次第一年次第二年次第三年次第四年次
項目及科目
修身及公民科 道徳ノ大要 同上及
公民ノ心得
同上 同上
教練 体操兵式教練 同上 同上 同上

普通学科

国語 普文購読 同上 同上 同上
数学 実用数学 同上 同上 同上
歴史 日本史ノ大要 維新以来事歴 同上 同上
地理 内外国勢一班 同上 同上 同上
理科 理科ノ補習 同上 同上 同上
職業科 農業 実用農業 同上 同上 同上
図表を表示

第七条 現ニ学校ニ在学スル者若ハ相当学力アリト認メラレタル者又ハ特別ノ事由アル者ニ対シテハ 一部ノ訓練項目ヲ課セザルコトアルベシ

第八条 訓練季節 訓練日 毎日訓練日ノ始終ノ時刻凡左ノ如シ

訓練日 始終時刻 夜間訓練日 始終時刻
一月 十二日 廿二日 廿八日 自午后三時至〃六時 三時間 自一月八日至〃三十日 十五日 自午后七時至〃九時 二時間
二月 二日 十二日 十八日
廿二日 廿八日
同上 自二月一日至〃廿八日 十五日 同上
三月 二日 十二日 十八日
廿二日
同上 自三月一日至〃廿五日 十五日 同上
四月 二日 十二日 十八日
廿二日 廿八日
同上
五月 二日 十二日 十八日
廿二日
同上
六月 二日 十二日 十八日
廿二日 廿八日
同上
七月 二日 十二日 十八日
廿二日 廿八日
同上
八月 休 ミ
九月 二日 十二日 十八日
廿二日 廿八日
同上
十月 二日 十二日 十八日
廿二日 廿八日
同上
十一月 二日 十二日 十八日
廿二日 廿八日
同上

十二月

二日 十二日 十八日
廿二日 廿八日
同上
五十一日 百五十三時間 四十五日 九十時間
図表を表示

第九条 本訓練所ノ毎年ノ訓練ハ一月ニ始リ十二月ニ終ル

一六歳から二〇歳までの間に右のような訓練を受けて一二月に修了した青年は、そのまま徴兵検査を受け、二〇歳の一月からの入営に接続することになる。

教育の中でも教練については現役将校による査閲が行なわれた。査閲は二、三校合わせて実施され、各校ごとに査閲官から評価されたため、どこでも優秀な成績をあげるよう努力したという。次に、昭和八年の板橋区教育概況から練馬の各訓練所の生徒数、教員数、予算(昭和六年)、村費総額に対する百分比を示しておく。

訓練所名一年次二年次三年次四年次 主事学科指導員教練指導員予算百分比
開進青年訓練所 三二 二一 一八 三五 一〇六 一一三五円 一・三〇
練馬 〃 四四 三〇 二二 一八 一一四 一〇 九〇二 一・五四
中新井〃 一四 一九 一四 一六 六三 五九七 〇・八三
石神井〃 三七 三〇 二一 一四 一〇二 七九四 一・五四
大泉 〃 一二 一八 二〇 一六 六六 六五七 一・一四
『練馬区教育史』第一巻
実業補習学校の普及

明治三五年の改正実業補習学校規程以後、全国の実業補習学校は急増し、大正五年には九六九七校(明治三二年総数一〇八校)に達した。この学校は工業、農業、商業など地域の実体にあわせた多様な教育内容を構想したものであったが、実際は工業の発達が局地的であったため農業補習学校が圧倒的に多く、大正年間を

通じて七〇%以上がこの種類の学校であった(『学校の歴史』第三巻)。大正九年に実業補習学校規程が改正されると、その目的は従来の「職業ニ関スル知識技能」に加えて「国民生活ニ須要ナル教育ヲ為ス」こととされ、「国民トシテノ一般素養ヲ完カラシメルコトガ肝要」として普通学科必修の必要性を従来以上に強調した。

ここには大正前半期に興った第一次世界大戦、大正デモクラシーや諸種の民衆運動の高揚、ソビエト政権樹立などの内外の社会状況の変化に対して、従来の服従する臣民から、より高い自覚と能力をもった国民を育成しようとする「公民教育」重視の意図がうかがえる。一三年には実業補習学校公民科教授要綱も決定され、公民科が全国に設置されて、国家とその一員としての国民という自覚が強調された。

青年学校の発足

昭和一〇年四月、青年学校令が公布され、実業補習学校と青年訓練所は青年学校に統合された。勤労青年に対する教育を一本化し、拡充させるためのものであった。性格的にはより青年訓練所に近く、陸軍省の兵役予備教育政策との関連が強かった。文部省は陸軍省と連携して「男女青年ニ対シ其ノ心身ヲ鍛錬シ徳性ヲ涵養スルト共ニ職業及実際生活ニ須要ナル知識技能ヲ授ケ以テ国民タルノ資質ヲ向上セシムルヲ目的」(青年学校令第一条)とした教育を行なうとした。

練馬の青年学校は同年一〇月一日に開校されている。当初は豊玉、開進第一、練馬(男女)、豊渓、石神井東、石神井、石神井西、大泉、大泉女子の九校が開設されたが、まもなく石神井に女子部が出来、大泉の男女二校は一校に統合されたと思われる。昭和一一年五月末現在の練馬の青年学校は左のようであった。

学校名学級数 生徒数教員数授業時間校長名
専任兼任
豊玉青年学校 一〇三 通常 岡村 謙吾
開進第一青年学校 一六四 影山  園

練馬青年学校

二一〇 六九 豊田 春陽
豊渓青年学校 六一 梅田千代作
石神井東青年学校 八二 金子松太郎
石神井青年学校 四六 四四 鶴井滝治郎
石神井西青年学校 七一 渡辺国三郎
大泉青年学校 一〇九 五一 熊井 博人
『板橋区勢要覧』(昭和一一・一二・二五より)
図表を表示

また私立では、戦争前夜の昭和一四、一五年に次の青年学校が生まれている。

学校名所在地開校年月校長名男・女生徒数 教員教学級教授業時刻科目会社名
亜細亜航空機青年学校 石神井関町一丁目 一四年五月 飯沼金太郎 二四 亜細亜航空機器製作所
豊島ケ岡青年学校 練馬南町五ノ七〇〇 一五年四月 加々美 昭 三一一 一〇 昼・夜 東洋紡織工業練馬工場
昭和三二年発行『練馬区史』
図表を表示
組織編成と教育内容

青年学校の組織編成は普通科、本科を中心とし、ほかに研究科、専修科の課程がおかれた。普通科は尋常小学校卒業者(一二歳以上の者)が入学し、修行年限は二年である。本科は男子四年、女子三年または二年で、普通科修了者および高等小学校卒業者(一四歳以上の者)が入学する。研究科は男子二年、女子一年で、本科卒業者が入学し、専修科は三か月以上一年以内で、特別の科目を習得希望の者を入学させた。

普通科の科目は修身及び公民科、普通学科、職業科、体操科とし、女子には家事及び裁縫科を設置した。本科には体操科にかわって教練科がおかれた。指導員には地域出身の在郷軍人が学校規模に応じて二ないし数名委嘱された。教練科は全体の時数の三分の一以上の割合を占めた。出席はどの教科よりも良好だったという。

練馬では毎年秋に一回教練の査閲が行なわれた。一般に二、三校が合同して実施され、本郷連隊司令部から派遣された査

閲官によって甲乙丙の評価がなされた。各青年学校関係者にとって一年を総括する緊張の一瞬であった。

義務制

昭和一四年、青年学校令は改正され、上級進学者を除いて、一二から一九歳までの男子は義務制となった。これは、一二年七月の日中戦争勃発後の激動する情勢の中で、戦時に備えての挙国一致体制強化の一環としてなされた教育政策であった。

青年学校はほとんど小学校々舎を借用しており、青年学校長や教員もその学校の校長や教員が併任する場合が一般的であったが、義務制に際して専任の校長、教員が配置された。授業は小学校児童の帰宅後のため勤務は午後四時から一〇時頃までが普通で、教員は授業以外に学校の諸事務、会計を担当した。薄給の職員は勤務時間外に内密で副業をもつ者が多かったという。

練馬青年学校小史

小学校の沿革史には青年学校関係の記事を載せない場合が多い。別の学校という意識が強いからであろうか。次に比較的詳しく記載されている練馬小学校沿革史から、練馬青年学校の歩みを追ってみる。

<資料文>

    練馬青年学校小史

  1. 昭和十年四月一日ヲ以テ青年学校令公布 仝九月三十日実業補習学校ヲ練馬青年学校ト改称シ 練馬青年訓練所ヲ廃止ス 仝十月一日ヨリ練馬青年学校トシテ授業開始ス
  2. 昭和十三年七月二十日 板橋第二尋常小学校訓導高橋久長氏 当校訓導兼学校長トシテ転補サル 同時ニ練馬青年学校長教諭ニ兼任命セラル
  3. 昭和十三年十月 小学校旧校舎一棟ヲ青年学校後援会ヨリ五百円也支出シ 区ヨリ五百円也 市ヨリ七百円也ノ補助金ヲ得テ移転修理ヲナシ 青年学校独立校舎トナス事ニ決定シ
  4. 昭和十三年九月ヨリ工事ニ着手シ現在位置ニ移シ 仝年十一月修理工事完成ス 瓦葺 平屋 二教室 建坪五四・〇坪
  5. 昭和十四年六月十三日附 東京市青年学校職制改正ニ伴ヒ 高橋久長青年学校長兼任ヲ免ゼラレ仝校講師ニ嘱託セラル
  6. 四月一日ヨリ青年学校ニ剣道専修科ヲ設置ス
  7. 六月十三日 練馬青年学校講師伊代正雄 仝校々長ニ補セラル
  8. 昭和十四年 六月ヨリ青年学校職員室ニ西校舎ノ一室ヲ貸与ス
  9. 昭和十六年 十月九日附 本校訓導島憲治荒川区日暮里第三青年学校長ニ転補ス        (以下二三年まで青年学校関係記事なし

行政当局の青年学校への期待は大きなものがあったが、各校に交付される金は、従来の実業補習学校、青年訓練所と同じく僅少であった。小史にも学校移転修理に後援会より五〇〇円支給されたとあるが、このほか、日常使用する校具や教具、特に重点教科であった教練資材(銃剣、背のう、機関銃、銃剣術用具等)を整備するためには後援会を組織し、その支援を俟たねばならなかったのである。昭和一九年三月に、石神井東、石神井西青年学校が廃止され石神井青年学校に統合された。それに伴い発足した後援会の会費割当表によれば、町会単位で町会費の中から後援会費を拠出している。この方法が普通であったという。

戦時下から戦後へ

昭和二〇年五月、板橋区当局は石神井、大泉両青年学校に乙種食糧増産隊の編成動員を指令した。この頃になると青年学校の職業教育(練馬は主に農業科)は現場の作業の中に解消されていた。この増産隊は石神井川を改修するための土木工事を行なった訳だが、この作業をもって授業にかえられたのであろう。青年学校の授業は空襲の激化とともに休業状態となり、職員のみが学校の防護に当ったという。

戦後になって学校への復帰就学に関する通牒が発せられ、学校当局も出席勧誘に力を入れたが、二一年を迎えても男子生徒の欠席は続き、復学は思うにまかせなかった。敗戦という衝撃に日本中が混乱をしている中であり、それは当然といえば当然のことであった。それでも二二年四月からは新制中学校が創設され、六三制の新教育制度があわただしく出発し、それに伴い東京都内に二百数十校あった青年学校は六〇校に統合された。練馬には、

練馬青年学校(野村慶次郎校長、専任

石神井青年学校(田中仲造校長、専任

大泉青年学校(松本和三郎校長、大泉一中校長と兼務

の三校が残存することとなり、翌二三年三月末日の廃校を俟ったのである。

<節>
第十節 昭和十年代の教育
<本文>
暗雲の兆し

昭和六年九月の満州事変は悲惨な太平洋戦争の端初といえる事件であった。以後、軍部とその関係勢力の力は一段と強化され、国内的には美濃部達吉の「天皇機関説」に代表される自由主義思想の排撃や右翼団体等による「国体明徴運動」の展開、国際的には満州国の建国(昭和七年)、国際連盟の脱退(同八年)など時局の転換は急を告げた。昭和一〇年に設置された教学刷新評議会(文部大臣所管)は、第一次大戦後の大正デモクラシーの高揚など思想問題に対処すべく、教学刷新実施の中央機関の設置、教学刷新の方針・施策について答申した。その後、一二年七月の日華事変の勃発は戦火を中国全土に拡大することとなり、翌月からは閣議決定に基づいて国民精神総動員運動が全国的に展開されていった。戦争の教育界への影響は、のどかな農村練馬にも早々とあらわれる。

<資料文>

 八月一日 全校児童召集 応召者 浅見勘次郎、浅見浜太郎、浅見銀之助、田中五郎左ヱ門ノ四氏歓送式ニ職員及児童代表出席

 八月二一日 全校児童召集

 九月七日 北町、仲町ノ応召者壮行会ニ全職員及代表児童参列

 九月一五日 防空演習ノタメ講堂使用、午前六時集合、午後十一時解散、集合者四五三名

 九月一七日 防空演習ノタメ講堂使用

 十月一五日 秩父宮両殿下御帰朝歓迎ノタメ石川訓導児童代表引率 東京駅前へ 川島藤三郎、篠弥平、両氏出征歓送 午前七時小林寒三郎氏ハ午前十時 島野伝五郎氏ハ午後二時半 ソレゾレ壮行会挙行ニ付職員・児童参列

右は開進第一小学校沿革史の昭和一二年の歩みの中に見える記事である。一〇月一五日出征者のひとり島野伝五郎によれば、当日の壮行会は氷川神社で行なわれた。ブラスバンドを先頭に江古田駅まで行進し、駅舎で万歳三唱をする。武蔵野鉄道に乗り込んで皆に別れを告げる訳だが、実際は隣りの東長崎駅から引き返して帰宅し、翌朝、麻布の歩兵第三連隊留守隊に入隊したという。二一、二二歳であった若き日の気持を次のように語っている。

そのころには一番戦争が華やかで、皆に讃えられた時代だった。私もまさか死ぬとは考えないから、喜ばぬまでも悲しくなる理由はなかった。家では畑作をしていたが、私は教員なので土、日以外は手伝えなかった。それが入隊後は土、日も手伝えなくなることと、父が既に亡く男手は私だけだったので、母や妹たちのことが多少気がかりだった。だが妻子のいる人はもっと大変だったろう。

この後、戦争の拡大に伴なって出征応召も頻繁化し、壮行会も日常化していった。一二年一二月には、早くも戦死者を告げる記事(開進第一小学校沿革史)があり、暗雲が立ち込める兆しがみられる。

教育制度改革

昭和一二年一二月に内閣総理大臣監督下に設置された教育審議会は、戦前の教育関係の審議会では最大規模のものであった。諮問「我が国教育ノ内容及制度ノ刷新振興ニ関シ実施スベキ方策如何」に関する審議は初等教育、中等教育、高等教育、社会教育、教育財政の部門別に行なわれ、一六年一〇月の総会で審議終了するまでに七つの答申と四つの建議がなされた。諸答申は、既述の青年学校教育義務制実施をはじめ国民学校、師範学校および幼稚園、中等教育、高等教育、社会教育、各種学校そして教育行政および財政に関するものであり、教育全般の改革を提示したものであった。これらの多くは漸次制度化され、敗戦までのわずかの期間に急速な教育制度改革がなされたのである。

国民学校の成立

昭和一六年三月、国民学校令が公布された。第一条は国民学校の目的を「皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲナス」ことと規定している。ここに記された皇国の道に則って、国家に役立つ国民を教育することは、中等学校等の目的とも共通する教育制度改革全体を貫く根本理念であった。初等教育の段階は皇国民育成の基礎的部分を受けもつ機関として特に重視され、明治以来親しまれてきた小学校の呼称も国民学校と改められ

ることになった。

国民学校令の初等教育改革で特に注目すべきことは、義務教育年限を八年に延長し、初等科六年、高等科二年の課程を設けたことである。(ほかに高等科修了者を対象とした特修課を置くことができるとされた)明治四〇年に義務教育六年制が成立した当時、文部省では年限延長の理由を述べた後、「固ヨリ今回ノ改正ハ未タ之ヲ以テ足レリトスルニアラス」(文部省訓令第一号)として年限延長の意向を示していた。その後数度改革が試みられながら実現できずにいた懸案が実現の運びとなったのである。しかしながら一九年度実施予定のこの案は、戦争の激化によって延期となり、日の目を見ずに敗戦を迎えることになる。このほか就学義務の教科、教職員の組織、待遇の改善等も行なわれている。

<コラム page="760" position="right-bottom">

〝小学校〟さらば

東京市内六百四十余の小学校では、その大部分の学校が二十五日午前、揃って卒業式を行ひました、明治五年学制が発布されてからちやうど七十年、四月から実施される国民学校の新制度を前にして、これは小学校として最後の卒業式でありました(中略)今月三十一日をもって取り外される『小学校』の門標も、これは懐しい記念物、重要な教育資料といふので、ほとんどすべての学校で、校宝として保存することになつてゐます(下略

朝日新聞、昭和一六年三月二六日付

教科の編成

教科は国民科、理数科、体練科、芸能科、実業科の五つに大別され、それぞれの多様な内容に応じて次の科目が組織された。

<資料文>

①国民科(修身、国語、国史、地理

②理数科(算数、理科

③体錬科(体操、武道

④芸能科(音楽、習字、図画、工作、裁縫〈女〉、家事〈高女〉

⑤実業科(農業、工業、商業、水産

原則的には初等科が①から④の各教科・科目、高等科はそれらに加えて⑤の実業科および外国語など必要な科目を学ぶことになった。五教科は教育の目的である皇国民の錬成を行なうために必要な五つの資質に対応して置かれ、各教科および科目は相互に緊密に関連しあって皇国の道の修練に統一されなければならないものとされた。

画像を表示 <資料文>

特に以前(国民学校令前―筆者注)と変った点は、教練担当の先生のもとで、剣道、銃剣術、薙刀などの指導に力が入れられ敵機(敵の飛行機)来襲に備えての防空演習が、ひんぱんに行なわれるようになったことです。男の子の将来の目標は、一ように、立派な軍人となるように教えられました。毎朝、皇居の方向にむかって、宮城遥拝が、欠かさず行われました。郷土から出征する人があると、児童の代表も、八幡様での送別式に参列し、「銃後の守りはまかせてください。お国のために、りっぱに戦ってきてください」という言葉を贈りました。 (豊渓小学校開校百周年記念誌『豊渓の百年』

教育方法としては、低学年における総合学習などの新しい試みも提示されたが、教科別に統合的な教科書がつくられた訳でもなかったため、実際には従来同様の科目別の授業が行なわれた。国民学校教育は軍事色を強く帯びつつも、全体に教育の知識偏重を批判して生活に根ざす指導や、教育内容を精選して要点の徹底を図るよう強調している点、さらに理数科における「合理創造ノ精神」など注目すべきものが含まれていた。だが実際には、教育の新しい動向に対応しようと勉学を開始しはじめた段階で、戦況の変転から戦力の増強により直結した教育に絞られていったのである。

こどものくらし

昭和五一年刊行の『豊渓の百年』は、豊渓小学校関係者が固い協力関係のもとに調査活動を行ない、同校百年の歩みを児童にも理解しやすいように平易な文体で綴ったものである。次にそこにあらわれた豊渓の子どもたちを通して昭和初期の学童の姿を偲ぶことにする。

<資料文 type="2-33">

和服から洋服へ 昭和八年頃までは、豊渓小学校の大半の子どもが、男女とも和服(かすり・着物)を着ていました。それが、次第に洋服姿にかわり、昭和十二年頃になると、逆に、ほとんどのこどもたちが洋服で登校するようになりました。けれども、はき物は、ずっと下駄げたでした。総ゴムの運動ぐつが流行しましたが、くつは、遠足など、特別の場合だけはきました。新しい運動ぐつをはくと、みんなが見るので、とてもはずかしかったといいます。長ぐつなどは、まだ普及せず、雪が降りつもった時などは、下駄の歯に、はさまる雪をおとしながら、苦労して登校しました。

ランドセルも、当時、この地域には、普及しておらず、学用品は風呂敷ふろしき包みか布製の肩かけカバンに入れて登校しました。

水汲みすんで兵隊ごっこ こどもたちが学校から帰ると、水汲み(井戸から台所の水がめや風呂場へ)、風呂たき、子守りというのが、どこの家でも日課とされていたようです。友だちが遊びにきても、この仕事の途中の場合は、終わるのを待っていてもらったり、水汲みを手伝ってもらったりしました。

こうした日課がすむと、子どもたちは、元気よく外で遊びました。広々とした丘や麦畑を舞台に、大勢集まって、丘隊ごっこをしました。時々は、隣の赤塚小学校と学校対抗の兵隊ごっこをしたこともありました。当時の子供達の遊びは、他に、チャンバラ、こまげんか、べえごま、お年玉、ヨーヨー、まりつき、けん玉などが、ありました。魚も、たくさんとれました。

夏には、源太プール(白子川、現、八坂小プール付近)で泳ぎました。家の人に、しかられるので、泳いだあとは顔に土ぼこりをぬりつけて帰りました。

紙芝居と一銭玉 カチ・カチと拍子木ひようしぎを鳴らして、紙芝居屋さんが、毎日やってきました。テレビは、もちろん、ラジオすらない頃のことで、こどもたち()は、とても人気がありました。拍子木の音を聞いてやってくるこどもたちに、紙芝居屋さんは、あめを売りました。一銭玉を出してあめを買ったこどもにだけ紙芝居を見る権利が与えられるのです。

当時は、もりそばが十銭、べえごま、あめ玉が一銭で二、三個、せんべいなら一銭で二~四枚買えました。けれども、こどもたちは、お盆や正月などに十銭とか二十銭がもらえるだけで、定期的

におこづかいをもらうというようなことはありませんでした。ごくまれに、特別なお客様などがあって、ギザ(五十銭銀貨)をいただいたりすると、それこそ有頂天うちようてんになって喜んだものです。

そうした子どもたちにとって、一回一銭の出費は、なかなかきつかったのです。紙芝居屋さんからあめ玉を買うことのできないこどもたちは、人垣のずっと後ろから背伸びをして紙芝居をのぞいてがまんしていたのでした。

おやつは、きびもち、さつまいもなど、以前と同じものを、もらっていました。

戦争中の子どもたち 非常時が、さけばれた戦争中は、子どもたちにも、「今は、非常時だから。」という考え方が、よくしみこんでいました。

戦争中は、食料だけでなく、衣料品から日用品、学用品にいたるまで、すべてが不足していました。ほとんどの物資は、配給され自由に買い求めることはできませんでした。

子どもたちの服装も大そう質素で、例外なしに、ズボンのひざとか上着のひじのところにつぎがあたっていましたが、だれ一人ひとり不平をいう者はありませんでした。男の子は、みんな坊主頭でした。

「戦地の兵隊さんのことを考えてみなさい。」とか「欲しがりません勝つまでは。」という言葉を聞かされて、どんなに貧しくても、じっと耐えました。

当時は「生めよふやせよ。」という国の方針で、どこの、家庭でも、子どもは、五人ぐらいいました。しかし、父親や兄は戦地に、姉はちよう用で、兵器工場へと家を離れることが多かったので、残された年より、小さな子どもが母親を中心にして家庭を守りました。

子どもたちも全員よく協力して、家事を分担しあいました。庭や玄関のはきそうじ、廊下のぞうきんがけ、水汲み、たきぎ拾い、風呂たき、子もり、まき割り、ご飯たき、針仕事、あみもの、洗濯など、いろいろでした。ですから、戦時中の子どもたちの遊び時間は、わずかしかありませんでした。遊びの中心は、兵隊ごっこでしたが、「水雷艇」という遊びも、男の子の間で、流行しました。そのほかには、模型飛行機、軍人将棋、竹とんぼなどの遊びもよくしました。

また、今の子どもたちが、プロ野球チームの成績やスター選手の打率に関心を寄せるのと同じように、どこの戦いで、敵の軍艦や飛行機にどれだけの被害を与えたか味方の損害は、どれだけかと新聞、ラジオの報道を話題にしました。子どもたちは日本は、必ず勝つ、いざという時は神風が吹いて敵を撃滅してくれる、日本は神国だと、一人残らず信じ込んでいました。そして、お国のために、かしの実拾いにも精を出しました。

学校給食

学校給食は貧困児童に対するものとして明治二二年に山形県鶴岡町の私立忠愛小学校で行なわれたのが最初といわれる。その後も同じ趣旨で漸次普及していたが、児童全体を対象に行なわれるようになるのは太平洋戦争末期の昭和一九年頃からであった。同年一月二日付の「朝日新聞」にはそのことを告げる次の記事がみえる。

<資料文>

ヨイコに温い味噌汁を

〝つぎの戦士を健全に育成しよう〟と東京都では来る十五日から都下国民学校初等科児童に温い味噌汁を配給することになつた。配給は都内約八百の国民学校のうち、取りあへず汁の作れる設備を持つてゐる三百廿七校の初等科児童約二十七万名を対象に始められるが量は一人当り月六匁のお味噌と魚粉、野菜など、これで十五回分の汁が作れる。実質として児童一人につき月三十銭から四十銭程度を保護者から徴収する以外は全部都で野菜等を配給する、味噌は関係業者で新しく組織された〝都学童味噌配給組合〟から直接学校へ配達されるが、残りの学校へも炊事設備が出来次第、洩れなく配給を開始する手筈になつてゐる。

この記事に呼応するかのように、学校沿革史には給食開始の記事を載せている。

<資料文>

○『練馬小学校沿革史』

 一月二十四日 学校給食として児童に味噌汁を給す

 四月一日 学校給食に主食を加えらる

○『豊玉小学校沿革史』

 四月一日 本日より学童に対する給食を実施 昼食一人につき米飯六八匁 味噌汁一合給食 副食なし

○『石神井西小学校沿革史』

 二月二十八日 味噌汁給食実施ヲ開ク

沿革史に記載のない学校が多いので即断は許されないが、一応、四月の新年度を迎えて学校給食が開始されるようになったといえる。給食内容についても学校によってまちまちであったと思われる。次の一文は当時の練馬国民学校の給食風景を

伝えている。

<資料文>

  昭和十九年度高等科 女子組担任 増田順一

わたくしは、昭和十九年四月から高等科二年の女子組の担任をしました。四月から第二国民の体位向上のため戦時給食が始まりました。その時練馬小学校は今の青少年館のある所にあったのです。にわかの命令で上を下へのさわぎ、体育倉庫の中のものを全部出してかまどを築き、大鍋で炊き出ししたのです。炊事係は高等科二年女子ということでした。四時間目になると当番は炊事場に行き炊飯にあたったのです。

給食といっても米と大豆と醤油位しかありません。大鍋で湯をわかし、それに米を入れ再び煮立ったら醤油を入れ、すぐ火を引き(生徒の工夫)おいしい茶めしをたいて各学級に配給するようにしたのです。副食も時々は配給がありましたが、ご飯が主でお弁当のたしにしたのです。

                              (練馬小学校『百周年記念誌』

食糧事情の最も劣悪であったこの時期に、内容は充分とはいえなくとも一応の形式を整えて開始された学校給食は、まもなく始まる学童疎開を経て戦後に受け継がれていった。

中等学校の誕生

太平洋戦争前夜の昭和一六年前後、練馬に四つの中等学校が誕生している。

一番古いのは府立第四商業学校(現都立第四商業高等学校)で、一五年一月に設立認可、府立第九中学校内に設置され、一六年八月に板橋区練馬貫井町五三〇番地(現在位置)に移転した。次は府立第一四中学校(現都立石神井高等学校)である。同校も一五年一月に府立第五中学校内に仮事務所を設置し、一七年七月に板橋区石神井関町二丁目(現在位置)に建てられた新校舎に移転した。三番目は府立第一八高等女学校(現都立井草高等学校)で、一六年一月設置認可、府立高等家政学校内に仮事務所を置き、一八年二月に板橋区上石神井二丁目四〇番地の新築校舎に移転した。四番目の府立第二〇中学校(現都立大泉高等学校)も一八高女と同じ高等家政学校内に仮事務所を置いた。設置認可は一六年二月である。一七

年一月に板橋区東大泉町三八〇番地に校地決定後、一八年三月に新校舎に移転した。

これらの学校は戦時下のあわただしい中に誕生し、一八年四月から一月公布の中等学校令によって「中等学校」と改称した。同令は戦時体制下における実践鍛錬と人物の錬成を行なうために意図された改革であり、この年にはほかに大学令、高等学校令、専門学校令、師範教育令が改正されている。

勤労作業と勤労動員

昭和一六年二月、通牒「青少年学徒食糧飼料等増産運動実施ニ関スル件」が発せられ、不足がちであった食糧の確保増進のため年間三〇日以内は授業を勤労作業に振りかえ、「之ヲ授業シタルモノト見做ス」措置がとられた。一七年には東京府内の空地解消運動も始まり、各学校では実状に応じた集団勤労作業が行なわれた。主な作業としては食糧飼料等増産作業、それ以外の開墾作業、学校清掃美化作業、森林作業、園芸作業、神社、寺院、公園、道路清掃美化作業、土木作業、薬草採取作業、除雪作業、軍役奉仕作業、慰問品製作作業、防空施設作業など実に多彩な内容であった。

一八高女や二〇中の引越しは生徒が各自荷物や備品をもっての行進によって行なわれた。引越し後の校庭の整地作業や植樹は生徒たちの勤労によって行なわれるのが普通であった。校外作業でも四商の生徒などは学校近くの道普請や荒川河床での農作業に参加した。

一九年二月、「決戦非常措置要綱」が閣議決定され、いよいよ学校を挙げての決戦態勢に入った。ここにおいて「中等学校程度以上ノ学生生徒ハ総ベテ今後一箇年常時コレヲ勤労ソノ他非常任務ニモ出動セシメ得ル」という常時勤労動員の方針が決定された。練馬の各中学校は同年六月頃より次の軍需工場へ動員された。

第四商業学校井草高等女学校大泉中学校
四 年 日東金属 三、四年生 四 年 中島飛行機三鷹工場
     各和精機  保谷 朝比奈鉄工所 三 年 保谷硝子

三 年 中出製作所

 田無 中島航空金属製作所      山口精機
     扶桑金属      坂井製作所
     各和精機
その他数工場に出勤する。
『練馬区教育史』第一巻
図表を表示 図表を表示

この頃になると学業はほとんど休業状態に追い込まれた。だが二〇中のように動員中でも工場で理・数の勉強をよくやったところもあったという。一九年一一月以後、東京は連日の爆撃にさらされるようになり教育機能は停止した。

<資料文>

二〇年四月二四日 昨夜B<数2>29一七〇機空襲のため、山手線、西武線、中央線、武蔵野線、その他の交通機関事故多く不通、生徒の登校少く罹災者も相当ある見込、臨時休校とす。学校長も登校されず。(井草高等学校日誌

空襲下の国民学校

一九年八月から開始された練馬の学童集団疎開には、後述のようなさまざまなドラマを生んだ。だがいろいろな事情で東京に残留する児童も少なくはなかった。練馬小学校の『百周年記念誌』には、戦争真只中に学校に通った当時の児童の次の一文を載せている。

<資料文 type="2-33">

    私の中の練馬小学校

                      木元教子

             (昭和二十年三月卒業

仕事で地方の取材に行くと、山村の丘の上などに、私の心の中にはっきりと生きている、あの練馬小学校と同じ校舎、同じ校庭を見つけることがあります。

木造二階建、正面の時計はやや遅れ気味、雨風のしみこんだ羽目板は、所々に節穴があいて、木の階段は、まん中がすりへって、やさしいカーブの重なりが二階まで続いているのです。

私は、こんな雰囲気の漂う練馬小学校に、昭和十七年の終りに、旧満州より引上げてきて、四年生に編入しました。

この頃より、戦いは、ますます激しさを加えていきましたが、翌年も、学校のしだれ梅は、いつもの年のように、満開の花をつ

け、モンペ、ズボン姿ではありましたが、新一年生は入学し、カーキー色の国防服の校長先生より、祝福を受けました。

当時の私達の登校スタイルは、学習道具(勿論、今のように副教材は豊富ではありませんし、教科書やノートも非常に簡単なもの)を入れるランドセルか、手さげ袋か、肩かけカバン、それに、防空頭巾も肩からかけ、スカートの女の子は見当らず、男の子は、学童帽よりも、戦闘帽(当時の兵隊さんが普通かぶっていたもの)で、ゲートルを巻きつけた少年もいたのです。

そして全生徒の胸には、白い布が縫いつけられ、住所・氏名・学校・学年・血液型・保護者の名前などが記されていました。つまり非常時下、いざという時の、身許確認の手段なのです。

学校には、消火用のバケツや火はたき、土のうが備えられ、校庭のあちこちに、防火用水槽がおかれ、学校生活は、日毎緊迫感を増してゆきました。

体育は、軍事教練めいて来て男子は槍、女子は薙刀を持ちエイエイオウとやったのです。

授業は警戒警報が鳴ると打ち切りで、自宅避難となって、B<数2>29の編隊が、はるか上空を飛んでいく様子や、戦闘機の空中戦を、木の茂みにかくれて、見たこともありました。

遠足も、運動会も、学芸会もなく、学習にかわって、バケツリレーの練習。救助訓練が増え、成増空軍基地の滑走路の穴うめ作業に行ったり、家では、防空壕の整備をしたり、配給の行列に並んだり、……。

当然のこととして、昭和二十年三月に行なわれる私達の卒業式はなかったのです。

あの懐かしい校舎は、もうありません。でも私の中であの校舎で過した日々は、戦いの想い出とからみ合いながら、鮮明に生きています。

つまり、人として、成長してきた道程の中で最も大きい位置と、強い影響を、私に与えた日々だからでしょう。

生き生きとした当時の状況が木元氏の文章から伝わってくる。戦争末期の様子については、豊玉小学校の『開校九十周年記念誌』に次のように記されている。

<資料文>

東京では、勤労動員が行なわれ、十九年九月には、高等科二年の女子が、鐘紡練馬兵器工場へ、十二月にはいってから、高等科一年男子が中山工場へ、女子が中野精機、沖電気工場へと出勤した。

縁故疎開にも集団疎開にも行かれなかった児童は、中新井村方面館に集めて、一、二時間学習をした。高等科の生徒などは、空腹

をがまんして小さい生徒にわけあたえ自分はたべたというようなけなげなありさまだった。

二十年三月十二日からは空襲熾烈になり授業は完全に停止され、四月二十九日の天長節遥拝式は、職員のみで行なわれた。

五月二十五日、午前四時二十分、爆弾、焼夷弾十数発が落とされ全焼した。練馬区では練馬第二国民学校と二校であった。

親を離れて疎開した子。親もとに残留をした子。どちらもが必死に生きねばならない時代であった。

<節>
第十一節 学童疎開
<本文>

日本軍の敗色が濃くなる昭和一八年に至ると、一二月に政府は都市疎開実施要綱を発表し大都市への空襲に備えるようになった。翌一九年三月には決戦非常措置要綱が閣議決定され、これに基づき一般疎開(建物、人員、施設)を行なうこととした。六月にはこの促進を図るほかに国民学校初等科児童(三年以上六年迄)を対象とした学童疎開促進要綱が閣議決定された。この段階では縁故先疎開を原則としつつも、保護者の申請に基づき縁故先のない学童の集団疎開が実施されることになる。当初は東京都区部のみの予定であったが翌七月には大阪、横浜など全国一二都市が追加指定され、八月、九月には約三五万人の学童が近接都府県の旅館や寺院などに集団疎開した。

練馬地区内(当時は板橋区練馬支所管内)では上板橋第三(現旭丘)、開進第二、同第三、豊玉、同第二の国民学校五校が一番早く、石神井、開進第一がそれに続いた。以上の七校は八月四日から一九日までに疎開先の群馬県に向けてそれぞれ出発した。この時の学童総数は約一二〇〇名であり、宿舎には地元の学校、社寺、旅館などがあてられた。東京都全体では九月四日までに約二〇万学童が疎開を行なった。

一九年秋の学童集団疎開を待つかのように一一月末から連日の東京空襲が開始されるようになった。特に二〇年三月の下町大空襲を契機に文部省は学童疎開強化要網を制定し、東京都では第二次学童集団疎開を実施することにした。この頃にな

ると練馬の農村部であった石神井、大泉地区でも空襲による被害が続出して危険な状態におかれていた。

<資料文>

  1. ○当石神井地区は焼夷弾こそ受けなかったが、中島飛行機製作所や成増飛行場等爆撃の余波を受け頻りに爆弾投下を受けるに至った。(『石神井小学校七十七年史』
  2. ○一九年一二月三日() 校舎西北一五〇米ニ爆弾落下硝子破損一五〇(『石神井西小学校沿革史』
  3. ○二〇年四月一日 夜中ヨリ照明弾投下暁ニ及ビ爆弾投下激シク左ノ児童爆死セリ
  4.  四女 田中たまき 小川晄子 二男 小川宣男 六女 沢村豊子 小山薫(『石神井西小学校沿革史』
  5. ○一九年一一月二四日 本校に近接し爆弾九個落下す(『大泉小学校沿革史』
  6. ○昭和十八年に第二、十九年に第三分校が独立したが、第一だけは分校のまゝであった。空襲も激しく、学校の周囲にも爆弾は落ち爆風で壁硝子を破った。児童は登校するも、毎度の警報に一時間位で帰宅した。(『大泉第一小学校沿革史』

追いたてられるようにして実施された第二次(三月実施)、第三次(四、五月実施)疎開には、従来除外されていた初等科の一、二年生も含められた。寝具や荷物の発送もそこそこに急拠行なわれたこともあって、着のみ着のままで逃がれてきた感じであったという。豊玉第二国民学校の教員であった佐藤克彦氏は当時の状況を次のように語っている。

<資料文>

二〇年三月一〇日、B<数2>29の三百三十機余に依る東京大空襲で、下町の殆んどが灰燼に帰した直後だったものですから、大急ぎで、疎開地へ逃げて来たとも云える状況でした。持物も満足になく、中にははだしの子もいました。現地でも、流石にこの頃になると、履物も手に入れる事は困難でした。仕方がないので、農業組合から古い板を貰って来て切り、火ばしで穴をあけ、そこに荒縄を通して即席の下駄を作ってやりました。(中略)こんなわけで下着のない子、寝具のない子などざらで、本当に身一つでのがれて来たという感じでした。又施設の方も第一陣の時とは違ってずっと悪く、便所のない施設まで利用されました。仕方がないので、外の隅へこもかけ便所を作りました。

                              (『練馬区教育史』第一巻

どこも事態は大同小異であった。豊玉国民学校の疎開先の一つ、増国寺に宿泊した学童たちの場合も、下駄ばきの子はいい方で何もはかない子もいた。同寺に疎開児童の収容が通告された日は、その三日前であったといわれ(川崎亮敬住職)るが、他校も同様であった。炊事場もなく、入浴施設や便所さえない増国寺学寮にやってきた約五〇名の学童たちは、しばらく農家に分宿したという。

現練馬区内各校児童の疎開先および人員は次のとおりである。

区域内国民学校疎開一覧 (児童数欄空欄の部分は記録なく不明。また( )内は出発月日、第一次は昭和一九年、二次・三次は二〇年。
学校名 学寮名所在地児童数
第一次第二次第三次
上板橋第三
(現旭丘)
菱屋 北甘楽郡妙義町 (八、四)
一一三
東雲館
上牧荘 利根郡桃野村石倉 六七
豊玉 港屋 碓氷郡松井田町 (八、八)
九二
(三、二〇)
一三
(五十一)
本照寺    〃 四二
金剛寺    〃 六三
増国寺    〃九十九村 約五〇
慈雲寺    〃西横野村 〃一〇〇
豊玉第二 鳳来館 碓氷郡磯部町 (八、四)
一七五
はやしや    〃
松坂屋(料亭)    〃 (三、二二)
四八
(四、二八)
天祐寺    〃西横野村 <数式 type="munder">一七〇
清元寺    〃東横野村
一新館    〃磯部町
開進第一 松坂屋(料亭) 碓氷郡磯部町 (八、一九) (三、二二)
小島屋    〃 約四〇 一五一
松岸寺    〃

繁桂寺    〃東横野村
西光寺 勢多郡南橘村
善光寺    〃下川淵村
極楽寺    〃
覚動寺    〃
開進第二 旭館 碓氷郡磯部町 (八、六)
一〇五
(三、二三)
六六
小島屋    〃 <数式 type="munder">
松坂屋    〃(料亭)
高秀寺 勢多郡敷島村 (四、二七)
五六
竜泉寺    〃 (四、二七)
四三
金剛寺    〃南橘村 (四、二八)
五三
光運寺    〃 (四、二八)
三一
開進第三 旭館 碓氷郡磯部町 (八、七)
五二四
(四、三〇)
一四九
小島屋    〃 (八、一九)
第二陣
七名
一新館    〃
磯部館
別館
   〃
学校の裁縫室    〃
役場の和室    〃
長寿館    〃
東泉館    〃
練馬 日輪寺 山田郡福岡村 (四、二八・二七)
四七
正福寺    〃 七八
松源寺    〃 四三
〃大間々町
練馬第二 玉屋 北甘楽郡妙義町 (三、―)
九三
豊渓 金乗寺 北甘楽郡丹生村
石神井 陽雲寺 北甘楽郡妙義町 (四、三〇)
一三〇
金剛寺 碓氷郡松井田町 (八、一九)
七五
(三、二〇)
三〇
   〃
一〇
石神井東 長泉寺 山田郡梅田村 (四、―)
高円寺    〃 約二〇〇
西方寺    〃 <数式 type="munder">
渭雲寺    〃
石神井西 延命寺 山田郡川田村 (四、二七)
四一
東禅寺    〃 六二
崇禅寺    〃 二七
雲祥寺    〃 三一
自音寺    〃 三六
修道館
(青年団集会所)
   〃 五三

大泉 長竜村 碓氷郡九十九村 (三、二三)
五〇
柏倉公会堂 勢多郡宮城村 (五、一)
八五
大泉第一 東昌寺 勢多郡宮城村 (五、一)
四〇
大泉第二 大蒼院 勢多郡東村 (五、一)
四三
大泉第三 正念寺 勢多郡横野村 (四、二八)
四一
大泉師範附属 善竜寺 勢多郡新里村 (一、―)
『練馬区教育史』第一巻
<節>
第十二節 疎開生活
<本文>
母と空腹

いたいけな一〇歳位の子どもが親元をはなれて送る集団生活、そこにはいろいろな問題があった。当時豊玉第二国民学校教員の佐藤克彦氏は次のように語っている(以下、佐藤氏談は『練馬区教育史』第一巻所収)。

或る月のこうこうと輝く晩のことでした。月をみて涙をポロ〳〵こぼしている子どもがいるんです。「どうしたんだ」と聞くと、その子が言うんです。「いよいよ明日疎開に出発するという前の晩に、お母さんが言ったんです。〝これからずっと一人で遠い所で生活するんだね。もし淋しくなったらお月様を見るんですよ。お母さんも東京でお月さんをみてますからね〟と言ったんで、今、月を眺めてお母さんの事考えてたんです」と言うんです。事情を聞いてこちらもホロッとしちゃいました。感傷じゃなくて複雑な気持にさせられちゃいました。

完全な配給統制下に集団生活をするとなれば、食べ盛りの学童の食欲を満たすことは難しい。疎開した当時は食糧不足とはいっても地方のことで、東京よりは比較的食糧事情が良かった。一九年頃は蕨をとったり、勤労奉仕をしたりして村人からカボチャやジャガイモを分けてもらい、食事を補っていたが、食糧の欠之する二〇年四、五月頃からはそれも難しくなった。おかゆの中に豆がわずかに浮いているだけの主食とか、カボチャ五、六切れだけの夕食といった佗しい食事の日も少な

くなかった。学童たちは口に入るものを求めて次のような知恵も絞った。

画像を表示 <資料文>

近くの碓氷川に小さな目高位の魚が沢山いました。飢えている子どもたちはこれに目をつけたんです。その小魚をつかまえては川原の石の上に並べて干すんです。石の熱さで魚はすぐ干物になるんです。味も何もありません。こんな干物を自分でつくり出してたべているんです。生活の知恵とでも言いますか、いろいろ新しい術を考え出すもんだと思いました。(中略)寒くなる頃にはあんなに沢山いた魚がとうとう一匹もいなくなっちゃいました。(佐藤氏談

ノミとシラミ

学童の日常生活で悩まされたものに、ノミとシラミの被害があった。物資不足の折、衛生状態が悪かったためか、疎開してしばらくするとノミやシラミがまん延した。これらとの戦いも日課であった。寮母たちの奮斗ぶりを次に記す。

<資料文>

しらみの発生にも弱りました。一週間位かけて子どもの衣類を全部煮沸消毒しましてね、何しろたらいの熱湯の中に衣類を入れると、しらみがワーと表面に浮くんですから、よくまあこんなにと思う程でした。今のように薬がありませんでしたから。

         (松本正勝氏談、石神井東小学校『開校九十周年を迎えて』

<資料文>

曇天ニテ湿気多キ為メ外風呂ハ中止内風呂ノミトス、二、三年ノ男女入浴、虱ノ非常ニ少クナッタ事、喜バシ、頭髪ノ虱ハ相変ラズ多ク、虱取ヲ今後モ続

行シテ行カネバナラヌ、(二〇・七・一、石神井国民学校の妙義町陽雲寺学寮寮母日誌<設楽広の記録>

<資料文>

前略)昨日○○サンがしらみガ居ルトテイジメラレテヰタガモシ本当ニイルノダト大変ト洗濯ノ時ヨク〳〵注意シテ見タラ本当ニしらみノ卵ガパンツニ一杯ツイテイルノヲ発見。早速寺ノ小母サンニ服ヲ借リテ 他ノ子供達留守ニ一人ダケ呼ンデ着変ヘサセ、バケツニ入レテヨク煮ル。早ク発見シテ本当ニヨカッタ。ドウゾ他の子供達ニ移ツテヰナイ様ニ祈ル。 (二〇・五・十一、大泉第二国民学校の大蒼院学寮々母日誌<鈴木ひろ子の記録>

面会

疎開学童たちが最も楽しみにしていたことは親との面会である。親との再会と土産にもってくる食糧は子どもにとって無上の喜びであった。石神井西国民学校東禅寺学寮長山本留吉の綴った日記には次のようにある。

<資料文>

昭和二〇、五、二二() 曇後雨

前略)午後四時父兄面会の三氏来訪。東京より自転車にて十一時間かゝった由大変な事だ。こゝにも親の真剣な様子を見せつけられた様な気がする。蒸しパンを壱箇宛土産に配供、児童大喜び、然し面会に来られない子は可愛想だ。七時一人来る、遂に宿泊させてくれとのこと、どうも親にかかっては仕方がない。

親の持参する食糧は児童全員に分配するような配慮がなされている。これは一九年一〇月の東京都国民学校校長会が定めた「父兄面会ニツキ厳守事項」に基づいて規制されたからである。だが実際は陰でわが子にのみ食糧を与える親が多かったようで、一時に食べすぎたために引き起す学童の腹痛や下痢に悩まされた教師や寮母も多かった。

<資料文>

いくら持込みを禁止してもだめなんです。親の盲愛と言いましょうかね。――すると親は今度は新手を考える――、枕をもって来たと言って、中にソバガラの代りに炒大豆や炒米を入れて来るんです。夜、寝ながら枕の一角から中味を出してボソボソたべる。そのうえに水をのむ。結果、腹こわしで下痢をおこすといったことになります。しかも、同宿者にかくれて一人でたべる。何しろこうしたものは同宿者全員で分けるように言っていたので。親が来たあとは、必ず子どもが下痢をおこしたので、親がひそかにたべもの

をやったつもりでもすぐこうしてバレちゃうんですね。とにかく、子どものためにもよくないし、我々の方もその後始末がかないませんので面会時の食物の持込みを厳禁するとともに、面会の回数も大部へらしたりしました。(佐藤氏談

受入れ側と教師

集団疎開した学童、教師たちの苦しみは、そのまま地元受け入れ側の苦しみでもあった。都会より比較的食糧事情がよいとはいえ、食糧不足の当時大量の育ちざかりの学童を一挙に引きうけた地元農民にとってそれがいろいろな面で負担であったことは想像に難くない。そのために地元関係者と食糧や物質の調達に奔走する教師たちとの間で種々の感情的齟齬をきたしたのも事実であった。前記の佐藤氏は次のように体験を語る。

<資料文>

今想い出して言えることは、たしかに土地の人に世話になったが、妨害もうけたということですね。一口にいって現地ではわれわれを歓迎せざる者とみている空気が強かったんです。

だが一方で左のような体験談もある。石神井西国民学校の校長であった山口猪祐氏の談である。

<資料文>

四月の二十八日だったと思います。第一陣が桐生から山田村という所までトラックに乗っていきました。ところが、群馬の気候というのは全くわかりませんね。急にすごい土砂降りの雨にあって、びしょぬれで寮にたどりついたんです。それから大変です。荷物は未だ来ないというその急場を全く心あたたまる世話をしてくれたのが、向うの方々でした。第二陣は空襲で一日おくれて到着しました。ここで一生涯忘れられないのは、どこのうちでも、蒲団なんか一番上等な塩瀬とか八端とかいう絹地のものなんか出して迎えてくれた事です。全くあれは空前の美挙で、小学校の子供をそんな蒲団に寝せるなんてことは恐らくないでしょう。国民総力を挙げて国家の危急を救わなければならないという考えでやってくれたんですね。

それが又大変な苦難のもとなんです。というのは、一週間もしたら、東京から来た校長は実に非常識だ。我々は全力をあげて歓迎しているのに、挨拶にも来ないという非難が出たんです。こっちはこっちで、おくれて来る荷物を一人一人ほどいて整理してやらなければならないし、挨拶どころじゃないんです。一段落してから丁寧に挨拶して廻りましたがね。そのうち終戦になりましたが、又ここで問題が起ったんです。こっちにいる親御さんたちなんですが、物持ちの方などは、トラックを頼んで四十九名の子供達を否応なしに連れて帰ってしまったんです。さあ、こんどは、向うの大沼村長が大変に腹を立てて、まあ、何と言訳をしてもおさまらな

い。自分の責任で預っている子供達をそんなに勝手につれて帰る位なら、すぐみんなつれて帰れなどと口から出る程で、ほとほと困り果てて、後援会として井口弥兵衛さん、桜井米蔵さんにお詫びをしてもらってやっと治まったんです。それでもいよいよ解散という時には、何とか工面して、五千円のお金をお礼のしるしに役場に納めて来ました。向うの人達も気持よく送り出してくれ、村の北小学校で盛大な解散式をやってきたほどでした。

ところが、こっちの父兄の方では、どういうわけか子供達が酷い待遇を受けているというので大騒ぎをしていたんですね。子供達は豆をたべさせられているというのですが、それでも、川内村の助役さんの計いで、子供達には豆三分、米七分、村民の方は豆七分、米三分というふうにしてくれたり、又麦を分増し供出させて寄こしてくれたり、いろいろ当時としては優遇を受けたんです。

                                            (『石神井西小学校八十周年史』

たとえ全員とはいえなくとも、地元村民の善意が重なりあって学童たちの〝生〟を支えたのである。

引揚げ

昭和二〇年八月一五日、長かった戦争は天皇の詔勅とともに終りを告げた。終戦の喜びと敗戦のくやしさ、そして将来への不安が交錯する中で人々はそれまでの行動の意味を見失い、疎開の必要性もまた失われたのである。わが子を求めて親たちは疎開地に押しかけた。もはや国家の権威はなく、いわば親の直情的行動ともいえる。

昭和二〇、八、二〇() 晴 三〇度

<資料文>

前略)途中トラックに布団を積んだ石神井の方々に会ふ。荷物引取りに来たとのこと。東禅寺へ○○の父○○・○○の父来る。とうもろこしを一本宛いたゞく、話しによると本日校長が都へ行って疎開学童帰京の件につき正式に都へ交渉せしとのこと、父兄は一日も速く引取り度き考へらしい。余り無統制にやられると困る。何にしても父兄の我儘には困ったものだ。我々としては正式な通知がある迄は林の如く静にしてゐなければならない。(前出、山本留吉日記

このような教師らの落ちついた対応は学童たちにとって救いであった。九月二二日には疎開学童復帰計画要項が都行政当局から発せられ、一〇月二六日までに群馬県各地に疎開していたすべての学校が引揚げを完了した。故郷・ねりまに帰った学童たちは、戦後の劣悪な教育環境の中で逞しく成長していき今日の日本を築いていくのである。

<章>

第五章 鉄道の敷設と都市化

<節>
第一節 私鉄の敷設
<本文>

都市化の進展は、交通機関の発達が市街地化をもたらすとともに、一方市街地の拡大が、また交通の発達を促がすものといえる。

関東大震災(大正一二年九月一日)後における東京近郊地の急速な発展は、郊外に伸びる鉄道網の発達に負うところが大きい。とくに東京都市計画地域(大正一一年四月二四日決定)に編入された東京駅を中心とする半径一六㎞以内の区域、すなわち旧東京市と周辺の荏原・豊多摩・北豊島・南足立・南葛飾の一市一五区五郡八二町村および北多摩郡千歳・砧の二村に構成される五万七六一六haの区域における震災以降の市街地化と交通発達との関係は、この両側面をもつものといえよう。

現練馬区に包含される北豊島郡下の旧町村は、大泉・石神井両村の一部を除いて、ほぼ全域が前記の東京都市計画区域に編入されている。建設事業計画の具体的な推進につれ都市化が進行するとともに、一方では郊外鉄道の敷設や整備拡充が都市化をいっそう進行させている。

本区の区域において市街化の最初の契機をなしたものは、私鉄の開通であった。区内を東西に貫通する私鉄の三路線である。区の北縁部を走る東上鉄道(現在の東武鉄道東上線)、ほぼ中央を貫通する武蔵野鉄道(現在の西武鉄道池袋線)と南西部を通る西武鉄道(現在の西武鉄道新宿線)の敷設である。三路線の敷設により、区内沿線地域の市街化に果たした役割は大きい。つぎにそれぞれの鉄道敷設の経緯や沿革について触れてみることにする。

東上鉄道

東武東上線の前身である東上鉄道は、大正三年(一九一四)五月一日に山手線池袋駅から入間川東岸の田面沢駅(現在の川越市)間が開通したのにはじまる。当初は、巣鴨から川越・松山・児玉を経て、群馬県の高崎・渋川に至る一一九㎞におよぶ大規模な構想であった。明治四一年一〇月には、これらの鉄道敷設の仮免許をうけたが、資本金不足のため東武鉄道の傘下に属することになり、四四年一一月には東武鉄道社長の根津嘉一郎をこの東上鉄道の社長に推戴し、東上鉄道の本社を別法人である東武鉄道本社(東京本所瓦町)の中に設置した。翌四五年三月より和光地域の鉄道用地の買収がはじまり、本区にかかわり深い新倉・白子村との折衝がもたれている。同年一一月には東京小石川から群馬県渋川に至る鉄道敷設の本免許がくだり、鉄道用地の確保が一だんと進んでいる。大正三年五月一日に至ってようやく池袋―田面沢間が開通し営業を開始した。駅は池袋から下板橋・上板橋(同年六月一七日)・成増・膝折・志木・鶴瀬・上福岡・高階・川越・田面沢に至るもので、午前中四便、午後五便の一日九往復が運行された。およそ二時間おきに運転され、所要時間は一時間二〇分であった。本区民の利用度の高い池袋―成増間は二六分で結ばれていた。旅客運賃は特等と並等の二つに分かれ、並等は一マイル(二九㎞)二銭、特等はその五割増であった。大正七年の改正によって一マイル二銭四厘となり、特等は廃止された。また路線も同年坂戸町まで延長され、駅も下板橋と成増間に上板橋駅が新設されるとともに上福岡の次から駅名も変わり、新河岸・川越西町・川越町・的場・坂戸町と続いた。池袋―川越町間の所要時間は一時間一五分。また池袋―成増間は二二分となり、多少短縮されたものの開通時とさして変わらなかった。一日あたりの運行回数は上り八本、下り八本となり一往復減っているが、運行時間の間隔は二時間おきで従来と変わらなかった。運賃は池袋―川越町間が三九銭、池袋―坂戸間五一銭、そして池袋―成増間が一三銭であった。

東上線開通までの当地域における交通機関は、明治一三年一二月開業の白子乗合馬車である。それ以前は川越街道の宿場をつなぐ街道駕籠であり、明治に入って人力車に替わり、また江戸以来の大量運輸として川越―千住大橋―花川戸を結ぶ新河岸しんがし舟運であったが、新しい交通手段の発達により急速に衰微していった。

白子乗合馬車は、東京における馬車運輸の隆盛につれ川越街道を走行し、白子から板橋・万世橋・馬喰町を経て浅草雷門に通ずる乗合馬車であった。開業した一三年当時の東京―板橋間の運賃は、大人一人が一〇銭だという。明治二二年頃には東京―川越間に乗合馬車が走行している。午前六時三〇分と午後二時に神田万世橋を発車する一日二往復の馬車で、運賃表をみると、万世橋を起点に上板橋まで一〇銭、練馬までは一二銭、赤塚一四銭、白子一六銭となっている。

だがこの乗合馬車にかわって、当地域に馬車鉄道の時代を迎えることになった。明治三四年五月に開設された白子軽便乗合馬車である。白子―板橋間を両駅発がそれぞれ六便あり片道一五銭の運賃であった。白子軽便乗合馬車會舎の開業広告には一区間が五銭、半区間は三銭の表示があり、下練馬石観音は区域地として一区間になっている。一頭立て馬車で、座席は両側にそれぞれ六人ほど乗れたという。しかし新しい交通手段として電車が登場することにより次第に衰微し、四三年には廃止となった。

こうした従来の交通機関が決定的な打撃を受けたのは、いうまでもなく大正三年の東上線の開通である。

しかしこの東上鉄道も、第一次世界大戦後の異常な物価騰貴のあおりをうけて運行コストのかさむところとなり経営が苦しかった。前述のように東上鉄道は創立当初より東武鉄道とは密接な関係にあったところから、大正九年にいたり、ついに東武鉄道に合併吸収された。

沿線周辺における本区ならびに隣接の町村人口をみると、大正九年の人口を一〇〇とした指数で人口増加の傾向をうかがうと、板橋町の指数は大正一四年(一八四)昭和五年(二六八)、上板橋村大正一四年(一四七)、昭和五年(二四七)、練馬町大正一四年(一七七)昭和五年(二四三)、上練馬村大正一四年(一一一)昭和五年(一三二)、赤塚村大正一四年(一一六)昭和五年(一二五)となっている。

大震災を契機に、二年後の大正一四年国勢調査や七年後の昭和五年国勢調査において、急激にその率を高めていることがわかろう。東京市域に近い地域から、順に顕著な人口増加をみせている。近郊地とはいえ上練馬村や赤塚村など市域からの

遠隔地は、この段階ではまだ都市的発展の影響を受けない農村地域であったといえる。

沿線周辺の開発にともない路線の延長や駅の新設もみられるようになった。大正一四年七月には池袋―寄居間が開通し、輸送需要も年を追って増えて、全線の電化と複線化がはかられた。昭和四年一〇月に池袋―川越市間、同年一二月には川越市―寄居間の電化工事が完成した。複線化は昭和一〇年三月池袋―上板橋を皮切りに、同年一二月に上板橋―成増間、一二年五月には成増―志木間が竣工している。新駅では昭和五年一二月に下赤塚駅、翌六年一二月には東武練馬駅が設置をみている。駅の新設はつねに新しい街をつくり出してきたといってよい。一方、路線経営を安定させるため人口誘致をはかり、土地開発や住宅分譲の事業に積極的に取組んでいる。

東武鉄道では昭和一〇年一〇月二〇日「ときわ台駅」の前身「武蔵常磐駅」を新設するとともに、その駅前一八・九万㎡におよび住宅地を造成して郊外開発、宅地分譲の先駆をなしている。新設当初の「ときわ台駅」の一日平均乗降車人員は一二四人であったが、第二次大戦の戦後間もない二三年度の一日平均乗降車人員は一万六九六七人を数え、東上線各駅中大山駅につぐ利用者数を誇っている。戦後の東武東上線については『現勢編』一五六一ページを参照されたい。

武蔵野鉄道・旧西武鉄道

現在の西武鉄道の前身である武蔵野鉄道は、明治四四年一〇月一八日鉄道免許を取得、翌四五年五月七日設立された。三年後の大正四年四月一五日に池袋―飯能間四三・八㎞が開通している。開業時の一日平均走行キロ数は六六六㎞、貨物輸送トン数は一〇二t、輸送人員が一日平均一一九一人と少なく、当初は貨物輸送を主とした蒸気機関車による営業であった。輸送需要が高まらない段階において他社に先んじて電化を推進し、大正一一年一一月には池袋―所沢間の二四・八㎞の電車運転が開始されている。さらに一四年一二月末には全線の電化がすすんだ。

関東大震災(大正一二年九月)後、郊外で新しい局面が展開した。都市災害からのがれて郊外居住を志向する人びとが増え、東京市の流出人口を武蔵野鉄道沿線地域が受け入れる素地をもったということである。交通の利便さは郊外町村の人口

増加率を決定するといえよう。電化に続いて複線化もすすみ、昭和三年八月に池袋―練馬間六・〇㎞に複線運転が開始したのに始まり、翌四年三月には保谷まで延長している。また路線延長も活発で、同年五月には狭山線が開通し、九月には飯能から吾野まで延長して事業拡大をすすめた。一方沿線に行楽地や遊園施設に結びつく路線の確保につとめ、昭和二年一〇月には豊島線練馬―豊島園間一・〇㎞が営業を開始している。

近郊における私鉄の発展は、合併や統合を繰り返しながら大きく成長する事例が多い。現西武鉄道の場合は、その代表的な事例といえよう。

武蔵野鉄道と旧西武鉄道が合併して西武農業鉄道(現在の西武鉄道)に社名を変更したのが、戦後の昭和二〇年九月のことである。旧西武鉄道会社の前身は、川越鉄道会社である。明治二五年八月五日に設立され、二七年一二月国分寺―東村山間の営業を開始した。翌二八年三月には川越まで路線を延長して全線二九・五㎞の営業を行なっている。すでに新宿―八王子間を運行する甲武鉄道(現中央本線)の支線の役割を担うものとして川越鉄道の位置づけがあった。工事施行から開業後の営業管理にいたるまで、甲武鉄道に依存したところから甲武の支線的性格が強く、運行列車の一部は東京市内飯田町まで直通運転されている。大正初期に東上鉄道、武蔵野鉄道が開通するまでは埼玉県西部の唯一の鉄道輸送機関であった。もっとも川越鉄道は、甲武鉄道出資者の援助により設立された事情があるだけに、最初から甲武鉄道の子会社的色彩が強かったわけである(大舘右喜・山田直匡「川越鉄道の敷設」所沢市史研究)。

大正九年六月、この川越鉄道会社は武蔵水電株式会社に吸収合併された。武蔵水電は大宮―川越久保町間一二・九㎞の路線をもつ川越電気鉄道(明治三六年一二月設立 大宮線)と神流川水力電気を合併した社名であるが、本来の電力事業のほかこうした鉄軌道業も経営していた。川越鉄道の合併についで、翌一〇年一〇月には荻窪―新宿(淀橋)間五・九㎞の路線をもつ西武軌道(荻窪線)を併合している。さらに大正一一年六月には帝国電灯株式会社と合併するが、この際に鉄軌道部門を分離して武蔵鉄道とし、同年八月一五日に武蔵を西武と改め西武鉄道会社の設立となった。この名称は現西武鉄道と紛ら

わしいため記述は便宜上、旧西武鉄道とする。

旧西武鉄道設立当時の営業キロ数は、国分寺―川越間二九・五㎞を中心にすでに併合された大宮線、荻窪線を加えて四八・三㎞であった。大宮線は国鉄川越線の開通で昭和一六年二月末をもって廃止され、荻窪線は昭和一〇年一二月東京乗合自動車に経営を委託、その後二六年に東京都へ譲渡して都電一四系統となり、三八年に地下鉄荻窪線の開通により廃止されている。

現西武新宿線の高田馬場―東村山間二四・〇㎞は旧西武鉄道時代の昭和二年四月一六日に複線化して開通しており、同年には東村山―川越間二一・七㎞の電化が完成し、高田馬場から直通電車が運転された。

黄金電車の運行

このように電化や複線化がすすんだものの、旧西武鉄道はいぜんとして近郊農村地帯に密着し、蔬菜園芸作物・食糧輸送を主軸とするローカル色の強い鉄道であった。

<資料文 type="783A">

   感謝状

 拝啓初夏の候愈々御清適の段慶賀し奉り候、陳者今般西武、武蔵野両鉄道施設を糞尿運搬の為に提供下され東京都清掃問題解決に絶大の貢献を致され候、御厚志真に有難く感謝罷在候、就ては聊か感謝の誠意を表わし度玆に粗品拝呈致し候何卒御受納下され度右御礼旁々貴意を得候 敬具

 昭和十九年六月九日

       東京都長官 大達茂雄

堤康次郎殿

<資料文 type="783B">

   感謝状

 貴社は東京都清掃事業の運営にあたり鉄道輸送に協力し昭和十九年六月から八年有余の長きにわたり困難な諸事業を克服し本事業の安定及び食糧増産に寄与された功績に対し深く感謝の意を表します。

 昭和二十六年八月十二日

    東京都知事

      安井誠一郎

 西武鉄道株式会社殿

昭和一九年太平洋戦争はいよいよ深刻の様相を呈し、物資の欠乏や人手不足が決定的となった。とくに食糧不足は深刻で、沿線各地の広い畑に野菜を栽培し、六月には食料を供給する食糧増産株式会社の設立をみている。戦時下の東京において、食糧危機に次いでもう一つの悩みがあった。人手不足とガソリン等輸送用燃料節約による清掃事業である。都内の糞尿処理は主にトラック輸送に委ねられ河岸に運び、船に積んで東京湾に捨てていたが、ガソリンの統制によりトラックも糞尿船もままにならなかった。東京都大達長官のたっての懇請で、武蔵野鉄道と旧西武鉄道と食糧

増産会社の三社が一体となり、糞尿輸送にあたることになった。いわゆる「黄金電車」の運行である。一九年九月一〇日夜、糞尿輸送の専用タンクの完成を見ないうちに普通貨車による臨時運転がはじめられた。当時都内から出る一日の糞尿は約三万八千石、うち二万石の輸送能力があった。この糞尿貯溜槽は旧西武鉄道・武蔵野鉄道沿線の数十か所に約四三〇〇個も設置され、全容積百万石分であったという。それは六月に創立された食糧増産株式会社との相乗効果をねらったものといえる。その輸送は乗客のいない深夜を利用した。糞尿輸送の帰りはタンク車の上に特別の台をつけて都内向けの野菜を運搬している。こうした糞尿輸送は終戦後もつづき昭和二八年三月三〇日までつづいた。

昭和二〇年九月二二日、東京都の清掃事業に貢献した武蔵野鉄道・旧西武鉄道・食糧増産会社の三社は、これを契機に合併して西武農業鉄道と社名を改めた。翌二一年一一月一五日には、さらに社名を西武鉄道株式会社と変更し、現在に至っている。今日の西武鉄道については『現勢編』一五五三ページを参照されたい。

<節>
第二節 沿線地域の開発
<本文>

私鉄における土地開発事業の歴史は古い。むしろ鉄道事業の創業時から不可分の関係で発展してきているといってもよい。とくに東京周辺の私鉄の大部分はそうであり、いまでも主要な兼業部門の一つになっている。それは自社の路線や駅と結びつけての開発事業であり、これは他の開発企業よりはるかに優位にあったといえよう。沿線に住宅地を開発して沿線居住者の定着をはかるとともに、行楽地や遊園地等行楽施設をつくり利用者の増加を見込むものであった。だが西武鉄道の場合、運輸事業と開発事業との関係をみると当初は必ずしもそうした図式ではなく、むしろ路線建設より土地開発が先行している。

土地開発事業と目白文化村

大正九年三月、資本金二千万円をもって箱根土地株式会社が設立され、箱根や軽井沢の土地開発事業に乗り出したのがはじまりである。この箱根土地株式会社は、後年国土計画株式会

社と改称され西武企業の中心的存在になっている。現在では不動産・観光部門に著しい発展をつづけている。

会社創立の当初から箱根開発と同時に東京近郊の開発も積極的に進められた。

「目白文化村」建設が、まずその手はじめである。聖母病院の坂と落合第一小学校の間にはさまれた旧徳川邸を含む三角地帯、一般に落合丘陵で知られる一帯に宅地を造成し、目白文化村と銘打って大正一一年六月に第一回の分譲が行なわれた。第二回は翌一二年五月、第三回は震災後の翌年、大正一三年九月にそれぞれ目白第一、第二、第三文化村と名付けて分譲している。

造成面積は合計八・五ha(約二万六〇〇〇坪)の二三一区画、一区画平均三七三㎡(一一三坪)の広い土地であった。坪当りの平均単価は大正一二年ころで五〇円~七〇円、昭和初期には八五円~九五円だったという。造成も立派で、上下水道はもとより電柱も地下配線をするなど、欧米の住宅地にならう画期的な住宅地であった。

図表を表示
人口拡散と郊外地の市街化

大正の初めから、とくに第一次世界大戦を境にわが国の資本主義の発展は大都市に産業と人口の集中をもたらした。東京の人口はこの時点ですでに飽和段階にあったといえる。したがって大正一二年の関東大震災前から人口拡散ははじまっており、郊外の町村は毎年累進的な人口増加が続いていた。震災が起らなかったとしても郊外地域の発展は必然的なものであり、郊外地域の市域編入の必要性はすでに作り出されていたとみるむきもある。

しかし、こうした郊外の発展に拍車をかけその趨勢を決定的にしたのが震災であることは論をまたぬところである。それを震災以降の現練馬区に包含される旧町村の人口の変動によってみることにしよう。

表<数2>51は、本区に包含される北豊島郡下の旧町村の「国勢調査にみる人口の動き」である。

大正九年における各町村の人口(指数一〇〇)に対して震災後二年を過ぎた大正一四年には、市内部に比較的近い地域の人口急増が目立った。中新井村は二・一倍、練馬町は一・八倍となり、さらに昭和五年には、一〇年間の増加率が中新井村三・六倍、練馬町二・四倍にふくれあがっている。東京市内人口が減少ないしは増加率の低下を示すのに対して、著しい対照をみせている。

それは市内部に遠近する地理的位置によって差異がみられ、市内部に比較的遠い上練馬・石神井・大泉各村は大正年代ではほとんど変化がみられず、昭和に入ってようやく動きはじめている。人口の増加傾向から年を追い外延的に、市街地化の波が移行しつつあることがわかろう。市街化は私鉄沿線の地域、とくに各駅に近い至便な位置に著しく進行している。

大泉学園の建設

さて東京市内人口の郊外拡散にともない、関東大震災を契機に、大学の郊外移転もはじまった。東京商科大学(一橋大学)、蔵前高等工業(東京工業大学)、慶応義塾大学、日本医科大学、青山師範学校(東京学芸大学)、法政大学予科、多摩美術学校など、私鉄資本が郊外住宅地開発と並行して大学移転に努め、用地の寄付や各種の便宜を提供して積極的な誘致を図っている。学校を中心に輸送需要を増大させ、さらに学生街・商店街の形成など学園都市化の色彩が強まった。いわゆる学校を中心とする新都市構想である。

こうした学園の移転を機に土地の開発・分譲を行なったのが、大正一三年武蔵野鉄道沿線における大泉学園都市の建設であった。前記の箱根土地株式会社(国土計画株式会社)は、練馬区から埼玉県にかけて三三〇万㎡(百万坪)におよぶ土地を買収した。

東西に貫通する武蔵野鉄道はすでに池袋―所沢間が電化され、乗客数は一日平均四〇〇〇人程度であったが、震災後の大正一三年には一挙に二倍以上に増加している。ここに着眼した箱根土地株式会社は大泉学園造成に踏み切り、道路と上下水道、電灯を敷いた。この大泉学園は石神井と保谷の中間にあるため、利便をはかる上で新駅の設置がせまられたが実現され

ず、箱根土地は自費で大泉学園駅を建設し、武蔵野鉄道に寄付している。

ついで同じ構想で北多摩郡に小平学園都市を建設しており、さらに国立の学園都市にとりかかった。この三学園都市はいずれも三三〇万㎡前後の用地買収ですすめられている。

東京商大は震災により神田一つ橋から本区内旧石神井村にあった運動場に仮校舎を建設してしばらく授業を続けていたが、昭和二年に石神井から北多摩郡小平村(小平市)へ専門部が移転し、五年には同所に大学部の移転を終えている。東京商大本部の国立学園都市への移転はこれより先の大正一四年であるが、移転が決定すると、いち早く箱根土地株式会社が学園都市計画を立て、中央線から南の土地を買収し区画整理をして分譲を行なっている。

まず国鉄に申請して駅を設置し、その駅前広場から二四間(四三m)幅の直線道路と六間(一一m)幅の放射線道路を造った。この主要道路に対して、いくつかの側線道路が設けられており、当時の都市計画としては最も画期的なものであった。それは後の満州国首都「新京」(長春)の都市建設のモデルケースとなっている。

国分寺と立川の中間駅として、国分寺の国と立川の立をとって国立と名づけ、ここに東京商大移転の他、国立音大など数多い教育機関の設置をみたわけである。

大正一二年関東大震災後、練馬地域の市街化がようやくはじまり、昭和初年には鉄道沿線周辺には住宅地が広がった。

 

箱根土地会社による大泉学園宅地をはじめ、砲兵工廠住宅(桜台)、城南住宅(向山)、同潤会住宅(小竹)など土地開発業者によって部分的な住宅地開発が行なわれているが、地元の積極的な姿勢も見逃せない。つぎに地元における耕地整理と区画整理について触れてみることにする。

<節>

第三節 耕地整理と区画整理
<本文>
水田の畑地化

明治初年、田柄用水の掘さく等新田開発に力を入れた各村も、水田では大雨による洪水、日照りによる干害がつづき、必ずしも所期の収穫をあげることはできなかった。

石神井川の低地は南北から交互にせまる台地の中を蛇行しながら流下するが、練馬の地名の起源の一説である「根沼」のような水たまり(湿地帯)がその途中にいくつもあったといわれる通り、排水と灌漑はどうしても必要なものであった。三宝寺池の水は豊富でもその水を水田にひくためには、各所に堰と用水をつくらねばならなかったし、大雨の時には氾濫して水を被ってしまう。

とくに自由に蛇行して流れる川では、排水が十分とはいえないので、河川改修によって急速な流下を促し、併せて水田の交換分合を行なって、碁盤の目のような水田をつくる必要から耕地整理が行なわれた。その際、近郊農業として特に野菜産地にするため、水田を畑地とする(島地とする)ことの有利さを考え、昭和五年一〇月、反収一石二斗内外の低収獲田から耕地整理に着手することになった。練馬第一耕地整理組合の設立である。地域は豊島園の下流にあたる中之橋から上板橋村境の栗原堰まで、石神井川を改修して、河川の直線化、掘り下げ、両岸の水田の畑地化、湿地畑の改良、農道の整備を行なったのである。

その結果石神井川のまがりまがった古川と、南の台地下を流れていた新川はなくなり、新道もでき、南北の連絡もよくなったが、低地のため冬期・雨期における「ぬかるみ道」は長くつづいた。

工事は二年ばかりで終っているが、換地処分登記が完了したのは昭和一六年であったという。この事業計画の概要は次のとおりである。

 事業着手時の公簿面積 整理後

民有地  六六町八反五畝五歩六七  六七町一反三畝

国公有地 一二町〇反九畝八歩八五  一七町五反四畝一〇歩三七

組合長は当時の練馬町長大木金兵衛。二代目は、助役・副組合長風祭甚作が昇任。副組合長 新井源三郎、一五名の評議員、一二名の組合会議員から構成されている。

昭和七年、石神井川流域の事業を見て、田柄川流域にも耕地整理の動きが出てきた。田柄川は水源なしの川であるが、明治に入り田柄用水の完成によって水源を確保することができたが、長年の荒れはてた田地は排水も悪く、とくに下流地域にあたるこの地方は洪水時の冠水、田植時の水不足等により水田耕作の不可能な年が多かった。それに東京市に合併されると、宅地化を目的とする区画整理でなければ認可されないとのうわさも伝わってきた。

昭和六年の都市計画法改正に伴い都市計画区域内では耕地整理事業ができなくなった。都市に必要な公共施設の整備が制度化されていなかったからである。そこでこの地区の農民は大木金兵衛宅に集り、組合設立の相談をして、その設立準備を急いだ。

昭和七年九月二一日、設立と地区内国有地編入の件が認可され、練馬第二耕地整理組合が設立された。一二月入札も終り、工事開始となつた。区域は田柄川の大正橋から上板橋境まで、田柄川の河川の直線化、底の掘り下げ、川幅二間半への拡張、土あげを両岸にとる護岸工事を含む延べ一三〇〇mである。こうして昭和一八年工事は完成したが、戦争もはげしくなり、竣工式を行なうこともなく解散となった。この組合の組合長は大木金兵衛、つづいて矢作貞衡、大木幸造であった。

評議員一五、組合会議員八、組合員総数一四八名であった。これが練馬第二耕地整理組合である。

この時の対象の土地は次のようである。

地目地積地目地積
五九三
ほかに四二
三・一二
九・一〇
道路 三六 二・二四
九二 三・一五 水路 一八 九・一二
宅地 一・二九 土あげ 一二 一・一三
山林 四一 二・一三 六七 三・一九
原野 三・〇五 総計 八三九 七・二〇
雑地 〇・〇七
七七二 四・〇一
(『練馬農業協同組合史』)

しかしこの工事期間中に時勢はかわり、野菜栽培の利益よりも工場誘致や住宅地への転換を求めるようになり、その目的は大いに変って行った。

石泉地区の開発と宅地化

同じ頃、大泉学園の北部大泉風致地区にも開発の声がおこり、妙福寺山林約五反歩を借り受けた大泉風致協会、東京市農会が中心となって、野遊地及市民農園の建設に着手、これを中心として不在地主の荒地、空閑地を開発、将来住宅地へ移行すべき準備をしたのであるが、交通不便のため時期尚早で今日の隆盛を見るにはなお三〇年近くの時を必要とした。

これより先、大正一三年(一九二四)九月、箱根土地会社の開発が始っている。東大泉駅の駅名を大泉学園駅と改め、駅より北へ一六町余、七間幅の道路をつくり、その北部に五〇万坪の雑木林を買収して区画整理を始めたのである。買収価格は畑反当り七五〇円、山林五〇〇円、上木は別で桑の木一本五〇銭であったという。当時としては相当の高値であったが、

土地を手放すことのできない農家もあって、大地主が代地を出して協力したという。当初一ツ橋の商科大学を誘致する目的があったが、中央線の国立に移ったためしばらく開発がおくれ、戦時中の食糧増産で約半分は開墾され、戦後小作農に解放されることになった(『大泉今昔物語』)。

このように目的の違う耕地整理も区画整理も結果的には住宅地開発の起点となるものであった。石神井川の豊島園より上流の旧上練馬村分の耕地整理は、石神井川第一工区として昭和二一年一月組合結成、三月一三日に起工された。組合長は加藤隆太郎である。この計画は当初白子川流域農民の願望として生れたというが、昭和一八年予算獲得に成功したのに大地主の反対にあい、急拠同じ必要を感じていた高松町分にむけられたと『大泉今昔物語』に記している。

この地区の工事は谷原境(球型ガスタンク)より石川橋に至る間で、石神井川を直線化し、川底を掘り下げ、両岸に土もり、堰をつくって、灌漑用水のとり入れ口をつくり耕地の区画を整然とし、水田としての価値を高めるものであった。昭和三〇年三月末にこの工事は完成するが、水田面積二五町七反八畝一三歩、持主一七五名であった。この結果水田の反収は増加したが、昭和三六年大雨のため堰が破損、灌漑が不能となった。修理費に一〇〇万円もかかるため、ついに水田を放棄して畑地化をはかることになったという。上流の住宅地化により灌漑水は汚濁して下水道化し、米の産出量も少なく、食味も悪いためである。放射七号線の完成により、畑地はさらに市街地化した。

白子川沿岸の河川改修耕地整理は昭和三一年開始されている。組合員三二四名、国費の補助金五四二四万円を受けての土地改良事業である。耕地整理法は昭和二四年に廃止され、土地改良法が成立して、この事業となったわけである。

しかしその途中からも埋立てが行なわれて住宅地になってしまった実情は、郊外へ伸びる巨大都市の影響としてやむを得ないことである。

石神井川耕地整理第一工区の上流は、やはり土地改良事業で行なうことになり、次の工区に分け、事業は昭和三五年九月にかかり約二か年で終了している。この工事では、石神井川を直線化し、川床を掘り下げ、地下鉄工事の残土による低地の

埋立等を行なったため、灌漑施設がなく、日照りの時には土が固まり、鍬さえ通らない状態となって一気に宅地化が進められてしまった。

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一区 西武池袋線鉄橋より山下橋まで(東京都

二区 山下橋より根ケ原橋まで(土地業者)―(昭和三四年

三区 根ケ原橋より上御成橋まで(住宅公団

四区 上御成橋より愛宕橋まで(労働省

五区 愛宕橋より関富士見池まで(東京都

豊島園の東北方早宮地区の土地改良は昭和三二年認定を受け、二年間ばかりで終っている。ここもこの完了を待って住宅地化が急激に進んでいる。

以上は農地としての必要からなされたものであるが、結果的には住宅地化を早めることになったのである。次の区画整理は当初より宅地化を目的としたものであるが、諸種の事情から住宅地としない土地も相当残っている。

区内における区画整理が、地主を中心とする組合によってなされたのは、昭和三年に始った石神井区画整理組合(関地区)である。二〇万坪、八〇万円の費用をかけて行なわれ、西武新宿線武蔵関駅南の宅地開発が促進された。つづいて上練馬村の北部白子川沿岸を含めた一帯の区画整理が行なわれている。一七万坪で約一二年の年月を費して完成した。その記念碑は妙安寺入口にある。以上は地域的に小規模なもので未整理地との連絡等頗る不便な点も残っているが、昭和八年から開発された中新井、中村地区の区画整理はそれぞれの村全村にわたる規模であり、これは画期的なことであった。ここまでにこぎつけた主唱者の努力は大変なものであったであろう。前述のとおり震災後、区南東部の市街化はその速度を早めてきた。まず貫井町の一部水田と中新井、中村町の水田では東京市の塵芥による埋立てが始った。そして次の目的をもって森田文隆を中心とする中新井第一区画整理事業が昭和八年八月行なわれる事になった。その主旨は

一、都市計画によって決められた計画路線の実現を促進すること。

二、区画街跡を新設して健全な市街地を造成すること。

三、排水計画をたて、小公園等を設置して環境を整え、公共の福祉を増進し、快適なる住宅地を育成すること。

四、複雑な町名番地を整理すること。

となっている。つづいて中新井第二・第三、中村町第一、中村町中鷺第一・第二組合が発足し、旧中新井、中村の全区域に整理が行なわれることになった。詳細は表によって示すが、放射第七号、環状第七号の主道を中心とする道路が網の目のようにつくられ、自動車の入らない道路はなくなった。また共有墓地一か所、私有墓地三五か所を全部寺院に改葬し、公園敷地として第一組合に四、第二組合に三、第三組合に一か所確保され、次ぎつぎと公園に模様替えし開園された。町名と地番の整理も行なわれ、明治九年に定った地番をかえて、新町名、新番地となった。この費用積立や交付金受領のために共栄信用組合が生れ、会計経理の面で寄与する所大であったと共栄信用金庫刊行の『創立二五周年記念誌』に記してある。

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練馬仲町(氷川台・平和台)の区画整理は浅見久左衛門ほか一五名が設立認可申請者となり東京府に申請、昭和一四年三月六日練馬第一区画整理組合の設立が認可された。六月二日組合会議員二五名を選出し工事を開始、戦時下では資材不足、人手不足や諸物価の値上り等により工事は大幅に遅れ、戦後になってようやく昭和二〇年頃に完了する。なお解散は二七年までできず、その不足費用捻出のため幅一五mに造成した道路の両側を一mずつけずり、それぞれ付近の地主に買い取ってもらうという苦肉の策がとられた。第二組合は一年おくれて発足、組合長は篠久左衛門で、事務所は旧仲町駐在所の北隣(平和台三丁目三〇)であった。

以上主な地区における土地開発の概要にふれたが、「練馬区土地区画整理事業施行予定区域の市街地整備のあり方に関する調査概要書」(昭和五五年三月、練馬区都市環境部都市整備課)に区内区画整理事業の現状を述べているのでそれを掲げておく。

練馬区内で行なわれた区画整理事業は、すべて耕地整理法準用による旧法区画整理によるものである。昭和一〇年

代に個人・組合施行として行なわれ、その面積は六六〇・八haで、区面積の一四・一%にあたる。現在良好な基盤条件を有している豊玉地区・関町地区・氷川台地区・平和台地区・旭町地区がそれにあたる。現在、区の西部のほとんどが「土地区画整理事業を施行すべき区域」として昭和四四年五月に都市計画決定されており、その面積は二一一五・八haで練馬区の四五%をも占めている。しかしまだ一件も施行するに至っていない。

現在実施の方向にある宅地並課税はこうした情勢の中でどんな効果を表すであろうか。

また、農地の利用増進を目的とした耕地整理および土地改良事業については、石神井川・田柄川・白子川沿いの谷底平野と大泉学園で行なわれた。

なお、練馬区における市街地整備の状況は、図3および表<数2>52に示すとおりである。

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参考資料

 

     練馬第一耕地整理組合規約

 

 第一条   本組合ハ設計書及本規約ノ定ムル所ニ依リ左ノ事項ヲ行フ

 

 第二条   本組合ハ練馬第一耕地整理組合ト称ス

 第三条   本組合ノ事務所ハ之ヲ北豊島郡練馬町字宮宿ニ置ク

 第四条   本組合ニ組合長壱名組合副長弐名評議員拾七名及相談役若干名ヲ置ク

       前項相談役ハ本町土木委員ヲ組合長是レヲ推薦ス

 第五条   組合長組合副長評議員ハ耕地整理法施行規則第四十五条ノ場合ヲ除クノ外組合会に於テ之ヲ選挙ス

 第六条   組合長組合副長及評議員ノ任期ハ四ケ年トス

       但シ再選ヲ妨ゲズ

       補闕選挙ニ依リ就任シタル組合長組合副長及評議員ハ前任者ノ任期ヲ継承ス組合長組合副長及評議員ハ任期満了後ト雖モ後任者就職スル迄其ノ職務ヲ行フモノトス

 第七条   本組合ニ組合会ヲ置ク

       組合会議員ハ弐拾七名トス

 第八条   組合会議員ノ任期ハ四ケ年トス

       第六条第一項但書及第二項ノ規定ハ組合会議員ニ之ヲ準用ス

 第九条   組合会議員ノ選挙ヲ行フニハ組合長ハ選挙ノ日ヨリ五日前ニ選挙スベキ議員ノ数選挙ノ日時及場所ヲ記載シテ各組合員ニ通知

ヲ発スベシ

 第十条   組合会議員ノ選挙ハ組合長又ハ組合副長之ヲ管理シ評議員弐名以上ノ立会ヲ以テ行フ

       但シ耕地整理法施行規則第四十五条ノ場合ニ於テハ議長之ヲ管理シ管理者ノ指名シタル立会人弐名以上ノ立会ヲ以テ之ヲ行フ

 第十一条  組合会議員ノ選挙ハ連記記名投票ニ依リ之ヲ互選ス其ノ得票同数ナルトキハ年長順ニ依リ同年ナルトキハ抽籤ヲ以テ之ヲ定ム第十三条ノ規定ハ前項ノ場合ニ之ヲ準用ス

 第十二条  組合員ハ代理人ヲ以テ前条ノ選挙ヲ行フコトヲ得

       代理人ハ代理権ヲ証スル書面ヲ選挙管理者ニ提出スベシ

 第十三条  総会ニ於テ組合員ノ有スル表決権ハ各一個ノ外其ノ所有スル土地ノ面積五反歩ヲ超過スル毎ニ一個ヲ加フルモノトス

       但シ一人ノ有スル表決権ノ数ハ表決権総数ノ五分ノ一ヲ超ユルコトヲ得ズ

 第十四条  練馬町若クハ其ノ隣接町村ニ住所若クハ居所ヲ有セザル組合員耕地整理ニ関スル通知若クハ書類ノ送附ヲ受クル為假住所ヲ選定シ又は耕地整理ニ関スル一切ノ行為ヲ為サシムル為代表者ヲ選定シタルトキハ遅滞ナク之ヲ組合ニ届出ヅベシ

       前項ノ仮住所又ハ代表者ノ住所ハ成ベク練馬町若クハ其ノ隣接町村ニ於テ選定スベシ

 第十五条  組合長ハ総会若クハ組合会ニ提出スル議案若クハ報告書ハ予メ評議員会に諮詢スベシ

 第十六条  総会ノ表決ヲ経ベキ事項中耕地整理法第六十一条第三号第六号第八号乃至第十号ノ事項及軽徴ナル設計変更ハ評議員会ノ議決ヲ以テ総会ノ表決ニ代フルモノトス

 第十七条  本組合ニ工事会計及庶務ノ三係ヲ置ク

       工事係ニ於テハ設計書ニ定メタル工事及設備竝ニ工作物其ノ他ノ設備ノ維持管理ニ関スル事務ヲ掌ル

       会計係ニ於テハ予算決算金銭及物品ノ出納ニ関スル事務ヲ掌ル

       庶務係ニ於テハ文書ノ調製往復及他ノ係ニ属セザル事務ヲ掌ル

       第十八条 組合長ハ予算ノ範囲内ニ於テ技術員書記其ノ他ノ事務員ヲ任用スルコトヲ得

 第十九条  本組合ノ工事ハ直営トス

       但シ評議員会ノ議決ヲ経テ請負ニ付スルコトヲ得

       前項ノ場合ニ於テハ組合長組合副長評議員又ハ組合会議員ハ工事ノ請負ヲナスコトヲ得ズ

 第二十条  工事ノ請負又ハ物品ノ購入ハ競争入札ノ方法ニ依ルベシ

       但シ評議員会ノ議決ヲ経テ随意契約ニ依ルコトヲ得

 第二十一条 金銭ハ評議員会ニ於テ定メタル銀行ニ預ケ入ルモノトス

 第二十二条 耕地整理法第二十七条ニ依ル補償金ハ被害者ヨリ損害見積書ヲ提出セシメ評議員会ノ議決ヲ経テ組合長之ヲ定ム

 第二十三条 工事施行ノ為メ道路溝渠堤塘其ノ他ノ工作物ノ敷地トナシタル土地又ハ工事用材料置場ニ充テタル土地ニ対シテハ其ノ借賃ヲ見積リ評議員会ノ議決ヲ経テ補償ヲナスモノトス

       但シ第二十五条第二項ニ依リ仮換地ノ指定ヲ為シタル時ハ此ノ限ニ非ズ

 第二十四条 耕地整理法第三十条第四項ノ告示前ニ於テハ工事ニ妨ゲナキ限リ組合員ハ其ノ所有地ヲ使用スルコトヲ得

       但シ従前ノ地域ニ依リ之ヲ使用スルコト能ハザル時ハ組合長ハ使用地域ヲ指定スルコトヲ得前項ノ地域内ニ家屋其ノ他工作物ヲ設置セムトスルトキハ予メ組合長ノ承認ヲ得ベシ若シ承認ヲ受ケズシテ設置シタル物件ニ対シテハ組合長必要ト認ムルトキハ移転又ハ除却ヲ命ジ其ノ損害ハ補償セズ

 第二十五条 本組合ノ費用ハ予算ノ定ムル処ニヨリ整理施行前ノ土地ノ面積ヲ標準トシテ分賦スル外左ノ収入ヲ之ニ充ツ

       第二十八条第三項ニ依ル残余地処分金並ニ雑収入及寄附金補助金換地交付後整理施行ノ結果生ジタル工作物其ノ他ノ設備ノ維持管理ニ要スル費用ハ反別割ヲ以テ之ヲ分賦ス

 第二十六条 組合費及清算徴収金納付ノ期日及場所ハ評議員会ノ諮詢ヲ経テ組合長之ヲ定メ五日以前ニ組合員ニ通知スルモノトス

 第二十七条 組合員前条ノ費用ノ納付ヲ怠リタルトキハ延滞日数ニ応ジ日歩四銭ノ延滞料ヲ徴収スルノ外督促一回毎ニ金弐拾銭ノ手数料ヲ徴収ス

       耕地整理法第七十九条ノ規定二拠リ市町村ニ於テ滞納処分ヲ依託スル場合ニ於テハ別ニ其ノ徴収金ノ百分ノ四ニ相当スル過怠金ヲ徴収ス

 第二十八条 換地ヲ交付スルニハ従前ノ土地ノ地目面積等位ヲ標準トス

       但シ各組合員ニ交付スル換地ノ総評定価格ハ成ベク其ノ従前ノ土地ノ総評定価格ニ比例セシムルモノトス

       換地ハ其ノ交付ヲ受クルモノニ利益ナリト認ムル位置ニ於テ成ベク取纒テ之ヲ交付スルモノトス

       前項ニ依リ適当ニ換地交付ヲナシタル結果残存地ヲ生ジタル場合ハ評議員会ニ於テ売渡価格ヲ定メ其ノ価格以上ノ最高譲受者ニ売却シ組合費ニ充当ルモノトス

       本条第一項ニ依ル従前ノ面積ハ昭和弐年九月七日現在税務署土地台帳記載ノ面積トス

 第二十九条 換地交付ニ関シ清算徴収又ハ交付スベキ金額ハ従前ノ土地ノ評定価格ト換地ノ評定価格トノ差額トス

       前項ニ依リ清算ノ結果剰余金ヲ生ジタル時ハ整理前ノ土地ノ反別割ヲ以テ割戻スモノトス

       若シ不足ヲ生ジタル場合ハ組合費ヲ以テ補足スルモノトス

 第三十条  従前ノ土地各筆ノ評定価格ハ工事着手前ノ評議員会ニ諮詢シテ組合長之ヲ評定シ耕地整理法施行規則第五十三条ノ条件ヲ具備スル組合会ノ議決ヲ経ベシ

       換地トシテ交付スベキ土地ノ評定価格ハ工事完了後遅滞ナク評議員会ニ諮詢シテ組合長之ヲ評定シ耕地整理法第三十条ノ規定ニ依ル処分ニ付キ表決ヲ為ス総会ノ議決ヲ経ベシ

 第三十一条 組合長ハ工作物其ノ他ノ維持管理ニ関スル随時適当ノ処置ヲ為スコトヲ得

       但シ金弐百円以上ノ費用ヲ要スル修繕又ハ改良ニ付テハ評議員会ノ議決ヲ経ベシ

 第三十二条 組合長組合副長及評議員ニハ予算ノ定ムル所ニ依リ組合会ノ

議決ヲ経テ報酬ヲ支給スルコトヲ得

 第三十三条 組合長必要アリト認メタルトキハ評議員会ノ議決ヲ経テ工事会計庶務又ハ維持管理ニ関スル細則ヲ設クルコトヲ得

 

 

 参照 耕地整理法

 

 第十一条  耕地整理ヲ施行スル為国有ニ属スル道路、堤塘、溝渠、溜池等ノ全部又ハ一部ヲ廃止シタルニ依リ不用ニ帰シタル土地ハ無償ニテ之ヲ整理施行地ノ所有者ニ交付ス

       耕地整理ノ施行ニ依リ開設シタル道路、堤塘、溝渠、溜池等ニシテ前項廃止シタルモノニ代ルヘキモノハ無償ニテ之ヲ国有地ニ編入ス

 第二十七条 整理施行者ハ耕地整理施行ノ為必要アル時ハ整理施行地区内ノ工作物又ハ木石等ヲ移転シ除却シ又は破毀スルコトヲ得

       但シ之レニ依リ生ジタル損害ハ之レヲ補償スベシ

 第三十条  換地ハ従前ノ土地ノ地目、面積等位等ヲ標準トシテ之レヲ交付スベシ但シ地目、面積、等位等ヲ以テ相殺ヲ為スコト能ハザル部分ニ関シテハ金銭ヲ以テ之ヲ清算スベシ

       特別ノ事情ノ為前項ノ規定ニ依ルコト能ハザルモノヽ処分ニ関シテハ規約ノ定ムル所ニ依ル

       前二項ノ規定ニ依ル処分ハ地方長官ノ認可ヲ受クベシ地方長官前項ノ認可ヲ与ヘタルトキハ之ヲ告示シ直ニ其ノ旨ヲ管轄登記所ニ通知スベシ

 第五十四条 組合ニ於テ設計書若ハ規約ノ変更、組合ノ解散、合併、地区ノ変更又ハ事業ノ停止ヲ為サムトスルトキハ之ニ関スル必要ノ事項ヲ定メ総会ノ議決ヲ経テ地方長官ノ認可ヲ受クベシ但シ組合債ヲ負担スルトキハ債権者ノ同意ヲ得ルに非ザレバ組合ノ解散、合併、地区ノ減少又ハ債務分担ニ関スル規約ノ変更ヲ為スコトヲ得ズ

       地方長官前項ノ認可ヲ与ヘタルトキは其ノ旨ヲ告示スベシ

 第六十一条 別ニ規定アルモノヽ外左ニ掲ゲル事項ハ総会ノ表決ヲ経ベシ

 

 第七十二条 総会ニ関スル規定ハ命令ニ別段ノ規定アル場合ヲ除クノ外前二条ノ規定ニ依ル組合員ノ総会議又ハ組合会ニ之ヲ準用ス

       但シ組合会ニ於テハ組合ノ解散又ハ合併ノ議決ヲ為スコトヲ得ス

 第七十九条 組合ニシテ組合費第三十条第一項第二項ノ規定ニ依リ支払フベキ金銭又ハ延滞利息若ハ過怠金ヲ滞納スル時ハ市町村ハ組合長ノ請求ニ依リ市町村税則ニ依リ之ヲ処分ス

       前項ノ場合ニ於テ組合ハ其ノ徴収金額中百分ノ四ヲ市町村ニ交付スベシ第一項ノ徴収金ハ組合区内ノ土地ニ関シ市町村水利組合其ノ他之ニ準スベキモノヽ徴収金ニ次テ先取特権ヲ有ス

       前三項ノ規定ハ組合員ガ夫役現品ニ代ルベキ金銭ヲ滞納スル場合ニ之ヲ準用ス

       耕地整理並施行規則

 第四十五条 組合設立ノ認可アリタルトキハ申請者ハ遅滞ナク総会ヲ招集スベシ前項ノ総会ニ於テハ組合長組合副長評議員ヲ置ク組合ニ在リテハ評議員ノ選挙並ニ組合設立ニ関スル費用其ノ他必要ナル事項ニ付表決ヲ為スベシ

 第五十三条 組合会ニ於テ耕地整理法第五十四条第一項又ハ第六十一条第二号若ハ第五号ノ事項ノ表決ヲ為スニハ組合会議員総数ノ過半数ノ同意アルコトヲ要ス

       但シ特別ノ事情アルトキハ規約ヲ以テ別段ノ規定ヲ為スコトヲ得

<章>

第六章 近代文化の諸相

<節>
第一節 練馬の神仏分離と廃仏毀釈
<本文>

江戸時代の寺請制度は仏教寺院の安定につながったが、一面葬式仏教に陥り僧侶の質の低下をもたらした。すでに僧侶寺院に対する批判は江戸時代から高まっていた。こうしたこともその後の儒学者、国学者らをはじめとする一連の敬神廃仏的な運動を支えたひとつの要素として捉えられよう。やがて明治政府をして祭政一致政策へと発展させていったこととも無関係ではない。

五か条の御誓文を先祖の神々に誓うことから始った維新の新政は、伊勢神宮を天皇の先祖神とし、その崇拝を強めることが、天皇中心の日本帝国を確立するものとして取上げられた。天皇の先祖をまつる伊勢神宮は練馬の村々では「神明さま」の名称によって崇拝されていたが、各村に全部あったわけでもなかったので、神宮崇拝の方法は各村に必ずある鎮守を通して行ない、明治四年の各寺社に対する上知令にも、村の鎮守だけには「諸国の鎮守は由緒の有無にかかわらず、朱印地、除地等は従前の通り下しおかれる事」として適用されず、その代りその神社の祭神如何にかかわらず、伊勢神宮の末社的な性格を付し、神宮崇拝の出先としている。明治五年七月二日、ある県では神宮の大麻を氏神を通して配り、初穂料の取りまとめをさせている。また毎年九月一七日には伊勢の内宮、外宮の祭典が行なわれるが、鎮守・氏神においても遥拝式を行ない、各村の僧侶、神主、農民、町人等の全員が参加することになった。神武天皇祭典もそうした意味で各村に強制されていった。勿論、幕末に起った「おかげまいり」や、その後突如として起った全国的な「ええじゃないか」の騒動に「天照皇大神宮」「太神宮」の神札を降らして、王政復古の波を高からしめたことにも関連があろうし、依然実施されているキリシタ

ン禁圧のためにも中心となる神が必要であったのであろう。

こうした時勢の中で仏教に対して、強行されたのが廃仏毀釈であった。

神仏分離

慶応四年(一八六八)三月二一日付神祇官の加藤能登守への指示からその推移を見よう。その中に、

<資料文>

従来相伝之神祇道者固有之大道ニテ、一日モ不可廃弛候処、中古以来外教宇内ニ遍布シ盛大ニ成立候ヨリ、終ニ一種之小道ト斉ク神道ト唱へ候事偏ニ外教ニ対シ候ヨリ起ル俗称ニテ、就中応仁大乱之後者萬民塗炭ニ堕、古道尽ク欲煙減之勢ニテ因テ一時之権道ヲ以テ頽壊之人ヲ堅持、(しかしやがて天下の耳目も一変したので)愈国体堅牢、皇道之基礎相立

とあり、祭政一致に励むように、との認識の下でさらに同年同月の二八日には

<資料文>

一、中古以来某権現或ハ牛頭天王之類、其外仏語ヲ以神号ニ相称神社不少候、何レモ其神社之由緒委細ニ書付、早々可申出候事

 但勅祭之神社御宸翰勅額等有之候向ハ是又可伺出、其上ニテ御沙汰可有之候、其余之社ハ裁判鎮台領主支配頭等へ可申出候事

一、仏像ヲ以テ神体ト致候神社ハ以来相改可申候事

 附本地杯ト唱へ、仏像ヲ社前ニ掛、或ハ鰐口梵鐘仏具等之類差置候分ハ早々取除キ可申事

と一段仏教色の払拭度を強化している。そして四月一〇日の、さらには閏四月四日の太政官第二八〇号達に至って別当社僧の還俗を令するところとなった。明治四年にはなおも徹底し、正月五日の第四号太政官布告を以て「今般社寺領現在ノ境内ヲ除ク外、一般上知被仰付」ということとなった。この事は版籍奉還の例に準じたとはいえ、寺院の打撃は神社の比でなく甚大で致命的でさえあった。

一方神社は同年五月一四日社格を定めて、官社は官幣大社、中社、小社、諸社は府社、藩社、県社、郷社、村社と格付けし、神官は社格に応じて種類、員数を定めている。

氏子札交付

こうした相次ぐ改革の中で、最も注目すべきものの一は明治四年七月四日定められた出生、移転、死亡の際必要とした木製守札を神官が扱うとしたことで、即ち出生の届けを受けた戸長が神官にその事実を記した

証書を示すと、神官はこれを氏子帳に記し、次のような木札の交付をする。神社は毎年一一月府県庁に出生及氏子人数名前を提出、一二月太政官に差出すように命ぜられた。なお、一区千戸単位の氏子を郷社の担当基準とした。死亡すれば戸長の手を経て神官に戻す規定であった。このことについて『東京市史稿』に次の記録がのせてある。

<資料文 type="2-33">

是月○明治四年(西暦一八七一年)七月。各神社ニ命ジテ氏子ニ守札ヲ出サシメ、出生及ビ氏子人数名前ヲ毎年十一月府県庁ニ提出、十二月太政官ニ差出スベキヲ命ジ、一区千戸単位ノ氏子ヲ以テ郷社ノ担当基準トス。○順立帳

氏子守札 旧幕府ニオケル寺院ト人別帳ノ関連ヲ神社ニフリカエントセルモノノ如シ。

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生児社参之日限ハ従前之通相心得ヘシ。尤病気等ハ此限ニ非ス。

即今守札所持セザル者ハ、其戸長ゟ生国及ヒ姓名住所出生之年月日父之名ヲ記シ、名札差出ス時は守札ヲ渡シ氏子帳ニ其名前ヲ記シ置ベシ。

他之管轄ニ移転スルモノニハ、其移転セシ土地神社之守札ヲ別ニ渡スベシ。死亡之者ハ其守札ヲ戻スベキニ付、其由ヲ氏子帳ニ記スベシ。

一、守札焼失又ハ紛失セシモノアリテ、其実ヲ証スル時ハ、其由ヲ記シ別ニ渡シ、氏子帳ニ其由ヲ記シ置ベシ。

一、自今六ケ年目毎戸籍改之節守札ヲ出シ戸長之検査ヲ受クベシ。

一、守札ヲ受ルニゟ其神社え納ル初穂ハ其者之心ニ任せ多少ニ限ラザルベシ。

一、出生之児及ヒ氏子人之数其名前ヲ録シ、毎年十一月中其管庁え差出十二月中太政官え差出スベシ。

  右之通管内大小神社え可<漢文>二相達<漢文>一事。

   辛未○明治四年。七月                   太 政 官

  先般被<漢文>二仰出<漢文>一候神社御改正、郷社之儀ハ別紙定則之通取調可<漢文>レ致候事。

   辛未○明治四年。七月                   太 政 官

     定則

一、郷社ハ凡戸籍一区ニ一社ヲ定額トス。仮令ハ廿ケ村ニ千戸許アル一郷ニ社五ケ所アリ。一所各三ケ村五ケ村ヲ氏子場トス。此五社之中式内カ或ハ従前之社格アルカ、又ハ自然信仰之帰スル所歟、凡而最首トナルベキ社ヲ以而郷社ト定ムベシ。余之四社ハ郷社之附属トシテ是ヲ村社トス。其村々社之氏子ハ従前之通、社職モ又従前之通ニ而是ヲ祠掌トス。総而郷社ニ附ス。郷社ニ付スト雖モ、村社之氏子ヲ郷社之氏子ニ改ルニハ非ズ。村社氏子ハ元之儘ニ而郷社ニ附スル而巳。郷社之社職ハ祠官タリ、村社之祠掌ヲ合セテ郷社ニ祠官祠掌アル事布告面之如シ。但シ祠掌ハ村社之数ニヨレバ、幾人モ有ベシ。

一、従前一社ニテ五ケ村七ケ村之氏子場、其数千戸内外ニシテ粗戸籍之一区ニ合スル者ハ、乃自然之郷社タリ。祠官一人ナレバ更ニ祠掌ヲ加フルモ許スベシ。

一、三府以下都会之地、従来産生神一社ニテ氏子場数千戸ナルモノ、戸籍之数区ニ亘ルト雖モ、更ニ郷社ヲ立テ区別スルニ及バズ。

一、官社又府藩県社ニテ乃郷社ヲ兼ルモアリ。仮令バ東京日吉神社京都八坂神社之如キ、氏子場数万戸ニ亘ルトいへども更ニ郷社ヲ建テズ。固ゟ区別ニ及バザル事上件之如シ。

                 ――順立帳明治四年ノ四十

              (東京市史稿』市街篇第五十二

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教則

第一条 敬神愛国ノ旨ヲ体スベキ事

第二条 天理人道ヲ明ニスヘキ事

第三条 皇上ヲ奉戴シ朝旨ヲ遵守セシムヘキ事

右之三条兼テ之ヲ奉体シ説教等ノ節ハ尚能注意致シ御趣意ニ不<漢文>レ悖様厚相心得可<漢文>レ申候事

壬申四月

                    輔

                    卿

             (明治五年四月の三条の教則

しかも六年目ごとの戸籍改めにはこの守札を出して戸長の検査を受くべきものとした。結局この制度は徳川時代に僧侶の行なった人別改め、檀那帳の仕事を神官が扱うという寺檀関係を氏子関係に変えるものであった。が、六年五月二九日太政官第一八〇号を以てこの「氏子調ノ儀ハ追テ御沙汰候迄不及施行」となっている。ただこの定めは中止されたとはいえ出生の時神社に参詣する事は、今に「お宮参り」として習俗化して続いている。なお前記明治四年(一八七一)の際定められた氏子取調の規則中死亡の項に「神葬祭ヲ行フ時ハ其守札ノ裏ニ死亡ノ年月日ト其霊位トヲ記シ、更ニ神官ヨリ是ヲ受ケテ神霊位トナスヘ

シ」とあるように、神葬祭をも認めたようで、翌五年六月の第一九三号で「従来神官葬儀ニ関係不致候処、自今氏子等神葬祭相頼候節ハ喪主ヲ助ケ諸事可取扱候事」と布告し、かつて葬式といえば寺僧専門の任務であったものを神職の領域にまで拡大し、八月以降は「自今神官ノ輩総テ可被補教導職」き事となって愈々神官の任務は開けて行った。のち僧侶も教導職の仲間には加わったが、神官の勢力伸長には以上のように誠に驚くべきものがあった。とはいってもこのような廃仏毀釈で「――持」程度の無格社の多くはその維持がむずかしく、村社内に合祀統合されて行った。昭和八年七月刊行『北豊島郡神社誌』によると次のような状況である。

社名社格所在地合祀社字名合祀時期 社名社格所在地合祀社字名合祀時期
天祖神社 明七・四
村 社
関 町 厳島神社 溜 淵 明治四一・一二・一七 諏訪神社 村 社 西大泉 稲荷神社 大前新田 明治四四・五・六
 〃  〃 竹 下 大正 二・ 三・ 四  〃  〃  〃  〃 中島後  〃
北野神社 明七・四
村 社
東大泉 稲荷神社 下屋敷 明治四二・ 六・一五  〃  〃  〃  〃 水入久保上  〃
 〃  〃  〃 井 頭  〃    六・一〇  〃  〃  〃  〃 西新田  〃
氷川神社 明七・
村 社
北大泉 愛宕神社 愛宕下 明治四〇・一一・ 七 厳島神社 無格社 上石神井 稲荷神社 観音山 明治四一・一二・一六
 〃  〃 稲荷神社 中 村  〃  〃  〃  〃 愛宕神社  〃  〃   一二・二六
 〃  〃  〃 浅間神社 富士下  〃  〃  〃  〃 稲荷神社 立 野  〃       〃
諏訪神社 村 社 西大泉 稲荷神社 経 塚 明治四四・ 五・ 六  〃  〃  〃 御嶽神社 西 村  〃   一二・一六
 〃  〃  〃  〃 榎 戸  〃  〃  〃  〃 稲荷神社 沼 辺  〃四二・ 九・二九
 〃  〃  〃  〃 西中前新田  〃  〃  〃  〃  〃 小 関 大正 五・ 四・一八
 〃  〃  〃  〃 前新田  〃

その後大戦を経てなお残った神社は昭和二六年制定の宗教法人法による宗教団体として登記の上今日に及んでいる。次にこうした政策が仏寺側に対してどう行なわれたのであろうか、一瞥しておこう。

まず明治元年一〇月法華宗諸本寺に下された沙汰の中に「王政復古更始維新之折柄、神仏混淆之儀御廃止被仰出候処、於其宗ハ従来三十番神ト称シ皇祖大神ヲ奉始其他之神祇ヲ配祀シ、且曼陀羅ト唱ヘ候内エ天照皇大神八幡大神等之御神号ヲ書加エ、剰ヘ死体ニ相着セ候経帷子等ニモ神号ヲ相認候事実ニ不謂次第ニ付向後禁止被仰出」とあり、次いで四年正月「諸国社寺由緒ノ有無ニ不拘、朱印地除地等従前之通被下置候処、各藩版籍奉還之末寺社ノミ土地人民私有ノ姿ニ相成不相当ノ事ニ付、今般社寺領現在ノ境内ヲ除ク外一般上知被仰付」とあるが、この通達は神社側よりも寺院側にとっては一大変革であった。財政的基盤であった寺領等を否応なしに取り上げられ、別の通達を以てその代りに「現収納取調ノ上御定ノ禄制ヲ以夫々廩米御渡可相成、調方御都合ノ次第モ有之、当未年ノ分ハ元社寺領収納物成凡五分通ヲ目的ニ致シ、各地方官ヨリ相渡置、追テ廩米ノ割合被仰出候節過不足精算可致」事とはなったが、その打撃は言語に絶するものがあった。その上一〇月三日には大蔵省よりの布達により「先般戸籍法改正ニ付、従前ノ宗門人別帳被廃候条自今不及差出」となってしまい、江戸初期から長く寺側を支えて来た檀家制度は遂に法的根拠を失い、これまた重大な問題を寺院側に抱えさせてしまった。

ここまで追いつめられては、もはや僧侶も以前のように体制に寄りかかってばかりはいられなくなり、学問や教育の畑に進出せざるを得なくなり、図らずも禍を転じて福となす結果とはなった。特に浄土真宗等の一部宗教は仏教の立て直しをはかり学林設置、大教院設置の建白をつづけ、成功したが、反って増上寺に設置された大教院が神道中心となり本堂の仏像をとりはらい天御中主神をはじめとする諸神をまつり神鏡をおき、しめなわをはり、大鳥居をたてる有様となった。中央の大寺院でさえもこうであったから地方寺院はなおさらでもちろん気力に乏しい弱小寺院は併合、あるいは廃寺するの道を選んでいる。その上大正一二年の大震災や今次の戦災に遭って廃滅した寺院も多かった。にも拘わらず今日に存続して来た寺院もまた少なくない。そうした各寺の沿革は本編第六部第二章中に詳しいが、左に主な寺の所在地等を掲げておく。

<資料文 type="2-33">

 〈練馬地区〉(○印は明治以前より本区にある寺院

○能満寺  真言宗豊山派   旭丘二―一五―五

○正覚院  真言宗豊山派   豊玉南二―一五

○南蔵院  真言宗豊山派   中村一―一五

 広徳寺  臨済宗大徳寺派  桜台六―二〇―一八

 了見寺  浄土真宗大谷派  練馬一―一八―二一

○阿弥陀寺 時宗       〃 一―四四―一〇

 信行寺  浄土真宗本願寺派 〃二―一二―一一

 十一ヶ寺 浄土宗      〃 四―二五・二六

○円光院  真言宗豊山派   貫井五―七―三

○円明院  〃        錦一―一九―二五

○金乗院  〃        〃二―四―二八

○光伝寺  真言宗豊山派   氷川台三―二四―四

○荘厳寺  〃        〃 三―一四―二六

 本寿院  日蓮宗      早宮二―二六―一一

 南松寺  浄土真宗高田派  春日町四―二五―一五

○愛染院  真言宗豊山派   〃 四―一七―一

○寿福寺  〃        〃 三―二―二二

 仲台寺  浄土宗      旭町一―二〇―一

○本覚寺  日蓮宗      〃 一―二六―五

○妙安寺  〃        〃 三―一〇―一一

 〈石神井地区〉

○観蔵院  真言宗智山派   南田中四―一五―二四

 十善戒寺 〃 東寺派    〃 五―二〇―二

○長命寺  〃 豊山派    高野台三―一〇―三

 三軒寺  浄土真宗本願寺派 谷原六―七―八

  (真竜寺・宝林寺・敬覚寺

順正寺 浄土真宗大谷派    石神井町三―一七―四

○禅定院  真言宗智山派   〃 五―一九―一〇

 

○道場寺  曹洞宗      石神井台一―一六―七

○三宝寺  真言宗智山派   〃 一―一五―六

 釈迦本寺 日蓮宗      〃 二―八―三六

 智福寺  浄土宗      上石神井一―五二五

 法融寺  浄土真宗大谷派  関町二―二七

○本立寺  日蓮宗      関町北四―一六

 〈大泉地区〉

○妙延寺  日蓮宗      東大泉町三―一六―五

○本照寺  日蓮宗      西大泉三―一一―三

○大乗院  日蓮宗      西大泉五―一七―五

○妙福寺  〃        南大泉五―六―四七

○教学院  真言宗智山派   大泉町六―二四―二五

○法性院  日蓮宗      大泉学園町二二八五

○善行院  〃        〃 二三一五

これらのほかに新たに建立されたり、最近移転して来た寺等は省略したことをおことわりしておく。

こうした廃仏毀釈は練馬の寺社にどのような影響を与えたか。まず第一に今までの寺院に対する守護神が独立し、仏教色の強い名称を改め、三十番神、天王さま、十羅刹、弁天等を神社名に改めて届け出ている。

三十番神とは一か月三〇日の間、毎日交代で仏法と国と人々を守る神とされる。その守護する対象によっても種別があるが普通には各日毎に次のような神々が分担守護に当る。

<資料文>

朔日 熱田大明神 二日 諏訪大明神 三日 広田大明神 四日 気比大明神 五日 気多大明神 六日 鹿島大明神 七日 北野天神 八日 江文大明神 九日 貴船大明神 一〇日 天照皇大神 一一日 八幡大明神 一二日 賀茂大明神 一三日 松尾大明神 一四日 大原大明神 一五日 春日大明神 一六日 平野大明神 一七日 大比叡権現 一八日 小比叡権現 一九日 聖真子権現(比叡) 二〇日 客人子権現(比叡) 二一日 八王子権現(比叡) 二二日 稲荷大明神 二三日 住吉大明神 二四日 祇園大明神 二五日 赤山大明神 二六日 建部大明神 二七日 三上大明神 二八日 兵主大明神 二九日 苗鹿大明神 三〇日 吉備大明神

この三十番神を天照皇大神をまつる天祖神社として届出ているのが多いが、相殿の神名を主とした大泉の諏訪神社等もあった。十羅刹女というのは、藍婆らんば東方阿悶仏化身)、藍婆(南方華開如来化身)、曲歯きよくし西方阿弥陀仏)、華歯かし北方不空成就如来)、黒歯(不動)、多髪たはつ普賢)、無圧足むえんそく無能)、持瓔珞じようらく観音)、皐諦そうてい文殊)、奪一切衆生精気(宇賀神)であり、江戸時代十羅刹女社と称していた中の宮の神社には、春日神社の神号を与えている。

練馬区内の廃仏毀釈の紛争はどのようであったかと言うと、土支田の本覚寺と北野神社のごとく、隣り合せで境いもなく

鳥居の傍に題目碑が立っているといったところではほとんど影響もなかったが、社格の上位をねらう神社では、仏像等を徹底的に排除している。氷川台の氷川神社では、観音像を土中に埋めて無縁のごとく装い(現在光伝寺にあり)係官の歓心を買い、豊玉の氷川神社では、その神官であり総名主でもある岩堀氏が「寺の坊さんを戸板にのせて川に流した」と伝え、中村には「首つぎ地蔵」という名の一時首が胴体からはなされた地蔵等、その様子をうかがうことの出来るものもある。しかし寺にとっては無住の寺や小祠小堂の整理が重要な問題で、残された寺院の維持は確立されたのである。

なお明治五年の左記「氏子町名人員調べ」は前記のように五月一四日に定めた社格によって報告されたものの一部である。

<資料文 type="2-33">

  氏子町名人員調 (明治五年

二二区 (氏子数

下練馬村鎮座 郷社 氷川神社 三五七戸、二二一六人

 仝 村田柄〃 氷川神社 一五五戸、九九四人

 仝 村谷戸〃 白山神社 八三戸、四四三人

        宿湿化味稲荷社、羽沢稲荷社、下宿稲荷社、重現稲荷社、今神諏訪社、宿湿化味熊野社、早淵稲荷社、本村稲荷社、三軒在家稲荷社、上宿大神宮

中新井村鎮座 村社 氷川神社 一三六戸、七八六人

          摂社 市杵島神社

中村 鎮座     八幡神社 七五戸、四四七人

          摂社 稲荷神社

以上 合計 八〇六戸、四八八六人

上練馬村鎮座 村社 八幡神社 一九六戸、一一八三人

         (下練馬氷川ニ属ス

 上田柄八幡天満社 貫井天満稲荷社、神明ケ谷戸神明社、中田柄愛宕社

 仝 村中ノ宮鎮座 春日神社天満天神合殿 一二五戸、七七六人

 谷原村鎮座     氷川神社     一〇六戸、六五九人

           (中新井氷川ニ属ス

田中村〃        伊勢神社    七二戸、三八四人

           (中新井ニ属ス

       摂社 稲荷社

 以上 合計 四九九戸、三〇〇二人

一八区

上石神井村鎮座 村社 氷川神社 一七二戸、九八一人

       (下練馬氷川ニ属ス

        摂社、愛宕神社、稲荷神社、天満天神社

竹下新田鎮座 厳島神社 一八戸、一二四人

       稲荷社

下石神井村鎮座 石神井神社 六九戸、四一四人

       八雲神明、淡島合社、稲荷社、八雲稲荷、榛名合社、諏訪社

仝   村鎮座 神明神社 七五戸、四六一人

関村鎮座    天照皇大神 八五戸、五三〇人

        稲荷社

上土支田村鎮座 天神社 一〇六戸、六四〇人

        白山社、稲荷社

下土支田村鎮座 天神社 一〇六戸、六九五人

 合計 六三一戸、人口三八四五人

 総計              氏子一九三六戸

一区千戸単位の氏子を郷社の担当基準としているが、練馬の場合には、下練馬、中新井、中村、上練馬、谷原、田中、上石神井、竹下新田、下石神井、関、上土支田、下土支田の一二か村に、氏子数一九三六戸で郷社一、村社七としている。やがて二〇〇〇戸に近い実情から、石神井の氷川神社も郷社に昇格(明治七年四月)している。昭和八年『北豊島郡神社誌』に載せられた神社は表<数2>53のようであるが、村社以上については明治七年の格付けで終了している。その後明治四〇~四二年の頃東京府ではさらに神社整理を行なっている。

なお下練馬村寺社・小祠の変遷一覧(表<数2>54)は江戸中期以後各寺院、守護神、小祠、小堂の変遷を各年次資料と現状調査によって、一覧表とし、変遷の状況を明らかにしようとしたものである。下練馬村をとり上げたのは、こうした資料が揃っていた事と筆者の近辺で調査がやりやすかったためである。

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<節>

第二節 新しい宗教
<本文>

病、災、貧、争、死という苦しみから即時脱却したい、より幸福になりたいという願いは人類誰も持つのであるが、その願いをかなえてくれるものはなかなか見つからない。即席利益の信仰もあるが、神仏雑多で永続性がなく、霊験も個別的・機械的な匂いがする。

江戸時代の社寺はそうした苦しみに対しては宗教的な救いを与えてくれなかった。新しい信仰は幕府の宗教統制の厳しさの中で、かくれ信仰となり、流行神ともなったが、これは根強くとも発展性はなく、多分に一時的なものであった。

こうした中に生まれ、根強く広がって来たものに、新興宗教がある。そしてそれは幕府や官憲の強い圧迫、体制宗教の中傷等による信仰および布教の苦しみをなめながら、救いを求める人々の間に広まって来たのである。文化年間の黒住教、天保年間の天理教・禊教、安政年間の金光教に始まったこの運動は、明治初年の国家神道、廃仏毀釈の嵐の中にゆれ動き、便乗、忍従等それぞれの道をとりながら、新しい方法や考え方を展開し、または新たな神々の誕生という形で、発生、発展し時に消滅して行った。明治初年から誕生する実行教、扶桑教、御嶽教、如来教、本門仏立宗等もこれにつづくものであった。

明治四二年の東京市統計(宗教統計)には東京市内(旧一五区)における新しい宗教の進出状況が記されている(表<数2>55参照)。

練馬における新しい宗教の状況を見ると、天理教、丸山教、御嶽教の進出が著しいので、これらを中心にその伝播の様子を次に概観してみよう。

天理教

天理教の東京進出は明治一八年九月上原佐助による東京真明講社の設立からである。天保九年(一八三八)の立教から「貧に落ち切れ」という教祖の到達した理想社会は、この世を極楽にするのだと説き、死を出直し

として徹底した現世中心主義と人間の平等観とに立脚したものである。もう祖霊も身分も財産も特に意味を持たない。谷底の救済を第一とする教義は幕末の世直しの願いと一致するものであったが、明治維新政府の皇室中心、皇祖崇拝の理念に相反するものがあったため、官憲の干渉が毎日つづく。次いで教部省の設置をみた政府の国民教化運動の推進にあたっても、他宗派または民間の夥しい批判と共に政府の弾圧がつづいたが、不服従運動の形でさらに信徒をふやしていた。東京へ進出の明治二〇年頃はコレラ大流行による多数の死者を出した前後であるから東京人への呼びかけは効果的であった。そしてその頃から合法化の動きを見せていた天理教は国家神道の体制下に入り、明治二一年(一八八八)神道本局の所属教会即ち天理教会として許され、日露戦役後の明治四一年(一九〇八)独立が承認された。練馬に教会が出来たのは大正に入ってからであるが、既に独立承認以前の明治二二年の頃より東上野に東大教会の発足を見て市内及郊外への布教活動はつづけられていたのである。もちろんよろず助けの宗教としての雨乞い等も行なっていた(「天理教牛込大教会年譜表」)。

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天理教牛込大教会の年譜には、後に牛込大教会を開いた古

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田栄五郎氏が明治二二年の春、土支田へお救けの帰り夜中であったのでとがめられ、練馬警察に三日の拘留と五十銭の科料に処せられたと記している。深夜怪しい者として訊問を受けた結果であろうと思われるが、農家の者でも野菜を積んで夜道を行くと同様の訊問は受けたとの事で、当時の様子を物語ることにもなろう。区内に教会が設立されたのは大正七年の北町分教会に始まり、昭和二五年の『練馬区政要覧』には区内の教会数二四となっているが、現五五年一月には六四となっている。

<資料文 type="">

昭和二五年の『練馬区政要覧』にはその時点での教会一覧表があるが、それによれば天理教は次のようである。

 名 称   所 在         創    立       名 称   所 在         創立(*印、現在区外にうつる

練馬分教会 北町二丁目       大正七・一・二三許可   都練分教会 栄町          昭和三・七・二五

神橋〃   小竹町二丁目      大正一三・七・二三    明竹〃   練馬一丁目       昭和三・一〇・二四

東豊端〃  豊玉上二丁目      大正一三・七・二三    紀豊崎〃  豊玉中一丁目      昭和三・九・八

中新井〃  豊玉北六―三(旧所在) 大正一三・七・二三    本善〃   旭町三丁目       昭和三・七・二二

本京〃   栄町          大正一二・二・一三    城道〃   中村一丁目       昭和七・三・一九

豊淵〃   早宮二丁目       大正一三・七・二四    本川崎〃  *豊玉南一丁目     (不詳

本草〃   旭丘(旧所在) 大正一四・一一・五        本兼〃   *錦          (不詳

豊喜〃   豊玉北         大正一四・四・二一    徳京〃   *桜台         (不詳

豊真〃   桜台五丁目       大正一四・一〇・三一   江古田〃  *旭丘         (不詳

崎新道〃  旭丘一丁目       大正一四・五・五     石神井〃  *下石神井       (現在高井戸) (不詳

中練馬〃  練馬一丁目       大正一四・一・二四    本日栄〃  旭丘一丁目       昭和一二・七・二五

本麻〃   豊玉中二丁目      昭和三・一一・二五    東富士〃  栄町          明治三五・五・三〇(昭和二三、長野より転入

丸山教

富士信仰の丸山講を本として明治六年登戸の生神行者と言われた伊藤六郎兵衛によって開かれた一派で、真の神をたずねる修行によって、大元の神を見出し民衆を救い、天下泰平・五穀成就の世を実現しようとした。

しかし政府はこの新しい宗教にも禁圧を加え、無資格で布教と病気治療をしたとして検挙されたりした。明治七年(一八七四)、富士一山講と合同して扶桑教会をつくり、合法団体となった。中下層農民の生活に根ざし、世直しの宗教とされ、明治一八年(一八八五)の西ヶ谷騒動には、静岡県のみ組事務所所属三千人を中心に自由民権運動の影響を受け、納税拒否、徴兵忌避、小作地返還等の農民運動に入ったため、取締りが強化されて、扶桑教とも袂を別ち、明治一八年七月神道本局(神道大教)に属し、丸山教会本院となる。それ以降昭和二一年の独立まで六二年間を費している。従ってこの時信徒一同に通知した中に「主神を敬ふべし、国体を重んずべし、人道を修むべし」等の規約がある。

練馬における布教状況は、昭和三〇年発行の『丸山教祖伝』によれば中野の西天教務所(明治二五年一一月八日開所、四七〇〇人)となっていて鴨下某の布教によって急激に発展、春日町から田柄、宮ヶ谷戸、湿化味方面へ広がっていった。今その跡を尋ねるに、春日町の篠田方に神道丸山練馬教会があり、それは篠田友吉氏により大正七年に始められたもので、そこには昭和六年につくられた富士のお山と、恵比寿大黒の石像、富士登山満了紀念碑(大正六年・昭和六年先達以下六五人)等があり、寿福寺には信徒の神葬祭の墓もある。その後の教勢は一時衰えたが、唱え言葉である「天明海天」から天明教と言われていた。

その他教会の数は少なかったが、扶桑教二、神道大教一、神習教一、練真道一となっている。

扶桑教は宍野半によって明治八年(一八七五)に開かれ、富士一山講より独立した富士信仰の一派である。

<資料文>

  教会名     所在地      教会主     創立その他

扶桑教弁天教会  北町一―三九   新井新吉  江戸中期より弁天祠 明治三七年より扶桑教

〃 東富士教会  豊玉北―五一八  斎藤阿久里 東神社内

神道大教旭中教会心道きよめ園 練馬四―一一   岡田サワ 昭和六年設立、七年認可 大国主命をまつる模擬妙義山あり

練真道教団旭稲荷神社    練馬四―二二  田中治五平 練真中学校設立 昭和一七年小石川より移転

神習教分教会   東大泉町九三三  綱谷クニ  現在なし

キリスト教

明治初年信仰の許されたキリスト教も練馬における信教はずっとおくれ、農民の間に広がる素地はなかった。苦しい農民にとっても都市近郊という地の利から江戸時代のような苦難はなかったのである。

練馬におけるキリスト教会の進出は緑の多い広い武蔵野に修道の府を建てる事から始ったようである。昭和二五年度の『練馬区政要覧』には、次の教会が記載されている。

<資料文>

 名 称         所  在         教会主

カルメル会修道院   上石神井一―七二一    マリルイズ・サバチエ

この修道院は昭和四年に番町から移ったカトリック大神学院内に昭和一〇年に創立され、信者の教化と育成に努めていたが、三四年九月八日「イエズス会黙想の家」にゆずって、調布市深大寺町に移転し、現在上智大学神学研究室となっている。

その他では練馬神の教会(当時の南町一―三五一〇)大正の中頃から集会をもっていたが、大正一五年頃教会が建てられている板橋(現、練馬)聖公会は小竹町一―三二にあり、昭和一〇年一一月三日に開かれた英国国教会の教会である。

以上明治初年における宗教の変革は目まぐるしいものがあるので、その状況を次の表にまとめておくこととした。参照されたい。

宗教制度改革の変遷                      (歴史新書『神仏分離』・『東京百年史』より作成)
年月日政府の命令処置神社・神道側寺院側の対応
慶応 四・ 三・一一 神武天皇祭を行なう 慶応三・津和野藩、さとし書
   四・ 三・一三 王政復古、全国の神社・神主を神祗官の下のおく 慶応三・六神道興起三ケ条
   四・ 三・一四 五ケ条の御誓文 寺院整理
   四・ 三・一七 神勤の僧侶に還俗を命じる 慶応四・四・一比叡山に廃仏毀釈、その先頭となる
   四・ 三・二八 神仏分離令、切支丹禁止
   四・ 四・一〇 太政官布達(神仏分離の行過ぎ警告)
   四・ 四・二一 神祗官をおく 四・四・一三 奈良興福寺一山すべて還俗願い出、本寺を廃す
   四・閏四・ 四 太政官達(神主となった者は仏教を捨てること)

   四・閏四・一九 神祗事務局達(神職及その家族は神葬のこと)
   四・ 五・一六 太政官達(仏教的神号の禁止)
明治 元・ 九・一八 太政官布告(神仏分離は仏教破却が目的でない) 明治元 於京都諸宗道徳会盟開催
   元・一一・ 二 神仏混淆禁止 明二・三 天皇伊勢行幸を期し神領内の廃仏毀釈運動盛ん 元・九・一八 政府神仏分離の精神説明
   三・ 一・ 三 大教宣布の詔書発布(神道国教化)
   三・ 三・一一 宮中において神武天皇祭を行なう 二・五 学林設置請願(許可)
   三・ 八 宣教使の地方巡行(神道による国民教化) 松本藩廃仏毀釈の伺書を出し徹底した運動に着手 三・八 政府に寺院寮設置陳情
   三・ 九 天皇列席、伊勢神宮遥拝式を行なう 〃 僧侶の講習会開催を願い出る
   三・一〇 民部省に寺院寮設置 三・一〇・二七 神社取調実施 〃 住職の後継決定は地方官に届ける
   三・一一 神社取調べ(太政官布告) 三・一二 富山藩内寺院より藩内寺院整理の件につき上訴
   四・ 三・一一 全国内に神武天皇陵の遥拝式を行なわせる(場所・氏神) 四・三 各宗僧侶の教義学習許可
   四・ 五・一七 富山藩領の寺院整理につき政府の方針説明 富山藩寺院整理     (明治仏教再興の気運)
   四・ 七・ 一 神社の格式・神官職制をおく        (九九・六%) 四・三・八 三河国大浜騒動(菊間藩の寺院廃合政策反対から)
   四・ 七・ 四 指令(宣教使へ御沙汰)
   四・ 七 廃藩置県 四・四・三 松本藩領内の浄土真宗、浄土宗の四か寺、浅草本願寺別院増上寺に上訴、他宗これにならう(四・一一 松本藩知事引責辞任)
   四・ 七 氏子調べの布告
   四・ 九・二二 神祗官を改め神祗省とする
   四・一〇・ 三 宗門人別帳の廃止 四・一〇・二七 富山県寺院再興許可
   四・一一・三〇 普化宗廃止 四・一一・三〇 普化宗廃止
   五・ 氏子町名同人員調帳
   五・ 三・一四 氏子調査実施
神祗省廃止、教部省設置
   五・ 四・二五 教導職を任命教化運動に着手
   五・ 四・二八 三条の教則を定め遵守せしむ
   五・ 五・ 九 教導職の説教はじまる
   五・ 八・ 二 神官の葬儀取扱許可 五・五・一三 大教院設置建白
   六・ 二・ 五 大教院を芝増上寺に移す 六・ 御嶽教 開教         (教導職の養成機関)
 (神社を中心とした神仏合体) 〃 神道修成派成立 五・九・七 仮教院設置
中教院、小経院を各地におく 五・一二 真宗、三条の教則批判
 (三条の教則の説教始まる) 六・二・五 大教院を増上寺におく

   六・ 二・一四 神社氏子守礼の実施指令
   六・ 二・二四 キリスト教の禁制をとく
   六・ 四・二五 教導職の階級をつくる。大中少教正
   六・ 九 東京に初めてキリスト教教会(新栄教会)が出来る  七・九 丸山教・扶桑教会創立許可 六・八・一 真宗四派大教院脱退
   八・ 四・三〇 大教院解散 八・四・三〇 大教院解散
   八・ 九・ 一 教務省廃止、内務省に合併  八・ 神道扶桑教成立
   八・一一・二七 信教の自由を令す
  一〇・ 一・一一 内務省社寺局設置 一二・ 大成教開宗 一一・ 蓮門教創立
  一五・ 一・二四 神官の葬儀関与禁止(除府県社以下) 一四・ 神習教認可
  一五・ 三・一〇 不受不施・講門派の布教許可 一五・三 不受不施講門派許可
  一五・ 五・ 一 町村分合による氏神氏子区域変更届出に付通達 一五・ 実行教認可
  一五・ 七・一〇 神官僧侶の禁厭、祈祷を病人の治療に使うことの禁止(民俗信仰の禁止)小柯の廃止、統合 一五・ 禊教認可
  一七・ 八・一一 神仏教導職廃止、各宗管長となる
一八・ 金光教承認
一九・ 神道本派創立
二一・ 天理教会認可
<節>
第三節 生活と文化
<本文>
村の医療

幕末から明治初年にかけて練馬地域の医師はわずかに中新井村の森田家と下練馬村今神の伊藤家の二軒であったという。江戸時代には天保六年(一八三五)に没した三ヶ島村(所沢市)の医師石井玄碩げんせきの墓石に「小榑村丸山にて死去」の旨記されているところから、その頃小榑村に寄寓して他郷の医術に殉じた医師のいたこともまた事実である(寺田富男「石井玄碩のこと」練馬郷土史研究会会報一二四号)。

明治に入ると下練馬村の山瀬(北町)・小松(栗山)、中新井村の舟波、石神井村の山下、上土支田村の林のほか、白子村に

は大石、新倉村には田中などの医者が地域の医療に当るようになった。

明治一〇年薬事法が制定されると、それまで近在の農民に愛用されていた中村南蔵院の白竜丸や、谷原長命寺の積聚目薬などが販売禁止となり医者への依存度は高まった。とはいえ、昔の農民は我慢強いというのか、衛生思想が幼稚というのか、余程悪くならぬと医者にはかからず、大抵の病気は越中富山や奈良の置薬で済ます場合が多かった。

このような医療状況や衛生思想の中で明治一九年コレラが大流行した。全国の死者約一一万人、東京での死者は九八七八人に達した。東京府は緊急の場合にのみ開院していた駒込の避病院を駒込病院と改称、伝染病対策の病院とした。明治二五年頃になると遅まきながら各地に衛生組合が結成され始め、下水・厠・掃溜はきだめなどの改良、伝染病予防、種痘接種等を行なうようになった。

明治三〇年伝染病予防法が公布され「市町村ハ地方長官ノ指示ニ従ヒ伝染病院、隔離病舎、隔離所又ハ消毒所ヲ設置スベシ」という達しが出た。これを受けて北豊島郡では板橋・巣鴨・西巣鴨・滝野川・王子・岩淵・上板橋の七町と志村・赤塚・下練馬・中新井・長崎・高田の六村が合同で組合組織による伝染病病院を持つことになり、三一年一〇月板橋町に二七二八円余を費やして「十三ヶ町村組合病院」を設けた。

上練馬村・石神井村・大泉村の三か村ではこれとは別に連合隔離病舎建設の計画が進められた。上練馬村四二七円、石神井村五四六円、大泉村三二七円合計一三〇〇円の拠出金を以って、三〇〇坪の敷地(買上代一五〇円)に、建坪八四坪余(建築費一〇一八円余)の隔離病舎を建て、諸医療器具(購入費五〇円、他に予備費など八〇余円)を整備するものである(「石神井村外二ケ村聯合伝染病隔離舎設置予算表」小島兵八郎家文書)。この三か村連合隔離病舎は三一年二月に一五二七円の経費を要して上土支田村に設立を見た(昭和三二年刊『練馬区史』)のであるが、約一〇年後の明治四二年九月には先の板橋町外一二か町村組合病院に合併することになるのである。

こうして大正時代に入ると加入町村の人口も増加し、右一六か町村の伝染病患者を収容することとなり、旧建物は老朽化

すると共に患者収容の余地もなくなって、大正七年五月板橋町大字下板橋字山中の旧地の近くに敷地一八〇〇余坪をトして新病舎を建設した。

この組合伝染病院は翌大正八年に北豊島郡立豊島病院、昭和七年市域拡張後は市立病院となり、現在の本区や板橋・豊島・北区の伝染病患者の予防・治療などに活躍し、都制施行後は都立豊島病院となって現在に至っている(昭和七年刊『豊島病院組合史』)。

大正七年刊行の『東京府北豊島郡誌』によると上練馬村にはトラホーム患者が多く、毎年四、五百円の予防費を計上しているし、石神井村では五つの衛生組合を設けて種痘・消毒・衛生思想の普及に努めている様子が報告されている。

下練馬村衛生組合の場合も部落ごとに衛生委員が選ばれ、予防接種、大掃除の検査、井戸水の消毒などが警官立合いのもとに行なわれていた。

郵便局のあゆみ

明治以前一般の書状は飛脚によって運ばれ全国の主な都市には飛脚屋が置かれていた。明治元年九月駅逓規則をもうけ駅逓司を置いたが、草創期のことなので私信は従来通り飛脚屋に任していた。

郵便切手の最初は明治三年に書状賃金切手として五百文、二百文、百文、四八文の四種を発行したのがはじめであり、同四年郵便制度の実施と共に郵便切手と改められ、同五年貨幣制度の改正に伴い五銭、二銭、一銭、半銭の四種となった。郵便葉書は明治六年に創始され市内半銭、市外一銭であった(昭和五年一〇月刊『逓信六十年史』)。

練馬地域に郵便局が初めて出来るのは明治三八年になってからであるが、それまでは板橋宿か大和田宿(新座市)の郵便局を利用した。以下『逓信六十年史』によって練馬地域郵便局の創設とその概況を追ってみることとする。

練馬上宿局 明治三八年四月一日開設、はじめ練馬局と称したが、大正一三年一一月下練馬局と改称し、従来取扱っていた集配事務を廃止した。昭和四年一月練馬上宿局と改め同年六月電信電話通話事務を開始した。

開設以来の局長大木金右衛門以下、事務員五名、電信配達夫一名の無集配局であったが、電報に限り赤塚村、志村の各半

数を配達担当していた。当時の受付普通郵便は年間一三〇〇通程度、預り郵便貯金額は約三五万円、管轄区域の電話加入者は三二軒であった。

練馬局 大正一〇年一一月一六日開設、はじめ練馬駅前局と称したが、同一三年一一月練馬局に改め集配事務を開始した。集配区域はそれまで練馬上宿局が担当していた下練馬村、赤塚村、中新井村、上練馬村の四か村であった。

創立当時の局長は池田長次郎であったが、大正一五年六月二日前村会議員横山勇太郎に代った。局員は事務員一四名、集配手一三名で、年間の受付郵便物は一〇〇万通を超え、貯金額六〇万円余、電話加入者も一四五軒と、北豊島郡下の郵便局としては規模の大きい方であった。

石神井局 大正一一年一一月一一日開設、同一三年一一月より集配業務を開始し、昭和二年五月電信業務、同年九月電話交換業務を開始した。

創立当時の局長は栗原鉚三であったが、大正一四年八月一〇日塚田公治に代った。局員は事務員九名、集配手五名で石神井村、大泉村を集配区域としていた。受付普通郵便は五五万通余、貯金額二五万円余、電話加入者一〇七軒であった。

その後区内の郵便局は、昭和五、六年から一九年にかけて武蔵野線の江古田、桜台、中村橋、大泉学園の各駅付近と、西武線の上石神井駅、武蔵関駅近くにつぎつぎと開局された。

ランプから電灯ヘ

明治一一年三月電信中央局の開業祝賀会が当時虎の門にあった工部大学校で開催された。このときグローブ電池五〇個を使って弧光灯の点灯実験に成功したのが我国における電灯の嚆矢であるといわれている。

明治一五年工部大学生藤岡市助はその電気事業の有利性を説き、東京貯蓄銀行の矢島作郎や大倉喜八郎らの助力を得て東京市内に電灯会社の設立を計画した。その宣伝を兼ねて銀座大倉組の店頭に二千燭光の弧光灯を点灯したとき、「其光明数十町ノ遠キニ達シ、恰モ白昼ノ如ク」であったといい、東京市民は余りの珍しさに毎夜見物に集った。

東京電灯会社は同年一一月設立許可となり翌年開業、二〇年には株式会社へと発展した。電気事業の初期は電灯の供給が主であったが、日露戦争から第一次大戦にかけ、重工業の発達に伴い電動力の需要は急激に増加し、大正六年には動力需要は電灯需要を上回り、昭和初期に全電力の九〇%を占めるようになった(『日本発送電社史』)。

練馬地域に電灯が入ったのは大正二、三年頃後安ごあん旭町)と下練馬村に点いたのが最初といわれ、同九年には大日本紡織練馬工場(後の鐘紡練馬工場)が建設されたのを契機に、その頃中新井村に電気が引かれた。

上練馬村に電灯が入ったのは同九年四月練馬小学校に一八個の電灯が敷設されたのが早い方(同校沿革誌)で、同年八月頃から土支田方面への二、三期工事として打合せが行なわれ始めた。その後電灯会社と村側の間で再三折衝が重ねられた結果次のような取決めがなされた。

<資料文>

本村電灯架設ニ関シ去ル拾四日練馬小学校ニ於テ御協議ニ依リ、東京電灯会社ト交渉ノ結果漸クニシテ、第三期線ヲ架設致スコトニ相成候間、左記ヲ御承知置キ相成度候様及御通知候也

一、電球一灯金壱円取付補助(前例

一、電球一灯ニ付キ金五銭値上ノコト(村一般

一、戸別金弐円寄附ノコト(二期三期該当者

 大正九年十月二十日

                                  上練馬村長 宮本広太郎

実行委員 小島兵庫殿

                                                (小島兵八郎家文書

すなわち従前の一灯に付き一円の契約金に対し上練馬村は若干遠隔地に当るので五銭の値上げをし、戸別ごとに二円の寄付をするというものである。同年一二月には寄付金が集められ、翌一〇年三月から架設工事が開始された。工事は三月から

四月へかけて三九名、延べ一四二人の村民が労力の提供を行なっている(「電灯ニ関スル人足ノ控」同家文書)。五月には電灯会社に一灯一円の契約金を支払い、電灯笠の受取りを済ましているので、この頃工事が完了し、点灯がなされたのであろう。

電灯料には定額とメートルの二種があって、メートルの場合は五燭以上で一燭に付二八銭、メートル料四五銭、計一円八五銭であった。

その頃ほとんどの家では一軒に二灯程度で、電灯のコードを長くして移動できるようにしておいた。電球が切れたら無料で交換してくれた。昼間は送電がなかったが、夜は縄ないなどの夜なべも明るい電灯の下でできるようになり、コードを延ばせば庭先で、大根牛蒡などの荷ごしらえも行なえた。しかし仕事以外には、もったいないといって電灯は点けないようにしていた。

その後精粉・撚糸等の工業用動力として電動機が使用されるようになって、石神井・大泉方面に電灯が点じられた。大正一五年佐久間勘右衛門・宮本由五郎・宮本広太郎は精粉用動力として各一〇馬力を、宮本幸蔵・小沢小十郎は撚糸用動力として各五馬力の電動機設置を条件として東京電灯株式会社と交渉、電灯電力送電線が敷設された。

大泉地区には京王電気が入ったが料金が東京電灯より高く、値下げの運動がしばらく続いた。

豊島園と兎月園

大正一五年、上練馬村の一角に旧市内の公園とは趣きの異なった近代的な子供向遊園地が出現した。ここは中世の豪族豊島氏ゆかりの練馬城趾であったので豊島園と名付けられた。

開設当初のパンフレット「練馬城址豊島園」にはその設立趣旨を次のように述べている。

<資料文>

健全なる精神は健全なる身体に宿る。経済的にも学術的にも欧米一流国に対して、未だ著しき遜色ある我が国民は、せめて健全なる身体と剛健なる精神とを涵養し、溌溂たる英気を以て大に奮闘せねばならぬと信じます。然るに事実は之れと反対で国民の体力は漸次低下し、国民の精神は荒敗し思想は動揺しつつあります。而して此弊の都会生活者に於て殊更甚しきを見るのは之れ一に青年の英気を涵養助長せしむる場所と設備とが無い為めであらうと思はれます。(中略

吾人は東京市民の為めに体育の奨励と園芸趣味の普及とを目的とし数年間の辛苦と研究を重ね茲に帝都手近の郊外、而も風光明媚にして武蔵野の史実に深き関係ある勝地をトし、従来曾て見ざる一大遊園地を公開する機会を得たのは衷心より欣幸とする所であります。

豊島園は当初、資本金一〇〇万円の株式組織で発足した。社長藤田好三郎が早くより所有していた広大な土地の一部、練馬城趾を中心とする約五万坪の地に運動と園芸の施設が作られた。設計には戸野琢磨が当った。戸野は帝大卒業後米国コーネル大学に教鞭を執って帰国したばかりの当時我が国における造園学の権威者であった。藤田は当時最も憂慮されていた児童の健康増進のために、運動と園芸の場を東京市民に提供することを第一とし、単に営利を目的とするいわゆる興行的経営を排した。

豊島園には次の三つの部門があった。

運動部門 トラック(野球場・フットボール・バレーボール・バスケットボール・ホッケイ)、テニスコート、プール(一〇〇m)、

     遊船池(ボート・ウォーターシュート)、児童遊戯場など

園芸場 温室、温床、花壇、いちご狩、葡萄狩、園芸倶楽部など

営業部門 飲食店、喫茶店、百貨店、野外劇場、音楽堂、園遊会など

池袋が震災後ようやく発展して来るにつれて、武蔵野線でわずか十数分というこの遊園地に、練馬駅から電車が乗入れられるようになると、多くの学童たちの遊び場としての名声は次第に高まって行った。

しかし、藤田が創業当初に掲げた「営利ニ走ラズ、俗悪ニ陥ラズ、風致ヲ害セズ」というモットーが、皮肉にも経営に行詰りを見せ、後に西武鉄道へ経営の手が移ることとなるのである。

同じ頃、下土支田村の一角、白子川に流れ込む一支流の小川を抱えるようにして、遊園地兎月園とげつえんが東武鉄道社長根津嘉一郎の手によって開園した。トラックでは運動会、草競馬、自転車競技などが行なわれ、池ではボート遊びが楽しめた。池に

臨む茶店は桜、つつじ、藤などの花見客で賑わった。

練馬地域や近傍の小学校の遠足にもよく利用されたが、戦時色が濃くなってからは農地や住宅に変わっていった。今も成増駅を出て川越街道の南側に「兎月園通り」の名として残っている。

しかし、豊島園も兎月園も練馬に出来た遊園地に違いないが、練馬の農家にとっては、子供にせがまれてようやく行く程度で、娯楽としてはあまり意味のあるものではなかったというのが実情のようである。

小説『デカ長一代』の世界

明治以後練馬地域を舞台とした文芸作品は管見にして多くを知らない。古くは明治の作家大町桂月がその著『東京遊行記』に三宝寺の馬かけの模様を語っている。馬かけは近代の農家が持馬の無病息災を馬頭観世音に祈願し、持馬を鈴や紅白の手綱で飾って参詣する行事であった。この辺では旧暦の一月に貫井の円光院で、四月に石神井の三宝寺で行なわれていた。

昭和八年板橋警察署巡査に奉職した和田義之助は練馬管内駐在所勤務を振出しに練馬警察署部長刑事を歴職、二二年間にわたる警察官生活を送った。そのうち昭和九年から一四年にかけての練馬を舞台とした自伝小説が『デカ長一代』(昭和三六年光風社刊)である。練馬が中心となる小説の少ない中で、これは昭和初期から戦前の練馬の人情風俗を知る上で貴重な作品であるといっても過言でない。以下その概要を記しておこう。

練馬は元来博奕ばくちの盛んな所であった。月遅れの正月ともなれば子供達の中でも凧上げや独楽こま遊びに興じるのは極く幼い方で、四、五人寄れば<圏点 style="sesame">ナメカタと称する賭博に熱中する。この博奕は一銭銅貨を縦に回して急に手で伏せ、裏か表かに金を賭ける単純な博奕の一種である。これで正月の小遣銭をかせぐ子供もあれば、年始客からもらったお年玉をすってんてんに巻上げられてしまう子供もできるのである。

練馬地域の博徒は千川を境にして北側は土支田一家(土支田一家については沼田寅松・土屋幸三共著『国士侠客列伝』に詳しい)、南側は目白の幸平一家がしまと呼んで支配していた。その先の多摩郡は小金井一家の勢力範囲であった。そうした専門家達は

小料理屋の二階や農家の木小屋を舞台に、近在の博奕好きの農民を相手として、丁半賭博を開帳するのである。練馬特産の沢庵漬一樽(四斗樽)が二円五〇銭か三円の時代に汗水流して稼いだ何十円、何百円の金が一夜のうちに霧消してしまうのである。昭和一〇年正月貫井町における土支田一家の大開帳は逮捕者四〇名という大がかりなものであった。

昭和一一年二月二六日未明、雪の首相官邸を襲撃した反乱軍に同調する国粋主義者たちが、東京周辺の各変電所を襲い、帝都を暗黒化させるという情報がもたらされた。貫井変電所は近隣駐在所巡査が昼夜一時間交代で警邏に当った。幸い練馬に被害はなく反乱軍は鎮圧された。

昭和一二年一二月一五日練馬警察署が開署した。現在の練馬区全域を管轄区域として板橋警察署から分離独立したのである。初代署長は警部前原泰次郎、それに警部補四名、巡査部長一一名、巡査七五名計九一名からなる陣容であった。木造二階建、階下は奥が署長室それに衛生・工場・営業・交通の各係が机を並べ、刑事部屋は北向きの留置場と連なっていた。二階は高等・特高・保安・防犯の各係と訓授場になっていた。

この年七月日支事変が勃発したが、翌年になると農村練馬にも戦禍の波が押寄せ、応召兵士が相次ぎ、戦死者の数も増えて行った。その頃東京に天然痘が流行した。練馬の各町会の予算は河川修理費とか道路費などに多くを費やし、衛生費は微々たるものであった。谷原と南田中の町会では二〇円の特別予算を計上して目黒の伝染病研究所から二五〇人分の痘苗を分けてもらい警官立会いのもとに種痘を施行した。当時の駐在所巡査は戸口査察(戸籍調べ)は勿論のこと料理飲食店・理髪店の衛生臨検をはじめ大掃除の立会検査からこうした予防注射の立会いまでやっていた。また災害予防対策に関する工場の臨検、食品衛生の対象であった漬物業者の臨検も職務の一つであった。丁度現今の保健所の衛生管理から、建築行政や消防に関する災害予防、火災に対する防火対策に至るまで末端の駐在所巡査が一人でやっていたのである。

大正三、四年頃、大正天皇の御大典を記念して中新井村、下練馬村、上板橋村、長崎村など千川上水沿いの有志は両岸の堤に桜や楓の木を植樹することとした。当時東京の桜の名所は隅田河畔、飛鳥山、小金井堤などであった。地元ではその小

金井桜にあやかろうと「新小金井の桜」と銘打って千数百株の桜と楓の苗木を植樹したのである。その距離は延々二里にも及んだ。木々の育成は在郷軍人会、青年団、消防団の人びとが当った。

そして数年、遂にその丹精が実り、陽春には見事な桜の花のトンネルが千川の水面に映える日がやってきた。小金井の桜を優に凌駕する景観であった。地元の人びとは大正七年、江古田の上水沿いに「千川堤植桜楓碑」を建立した。さて、ここで『デカ長一代』の一節を引用しよう。昭和一二、三年のことである。

<資料文>

花の咲く頃ともなれば、市中からの観桜客が、毎日のように武蔵野線を利用して押しよせて来るのだった。掛茶屋は紅白の幔幕を張り、紅だすきの姉さんが忙しく立働き、縁台では酒に酔った客のかっぽれ踊りも見られるというものだった。

こぶしの真白な花から吉野桜となり、八重桜まで市中の客を呼んだとしても精々二十日位で花は終りをつげる。ところが面白いのは江戸の人、一ヵ月も過ぎないのに葉桜見物としゃれて来るから妙だ。この人達は千川堤が恋しいのと、年中の喧噪さをのがれ、安易に心の慰安が出来る千川堤を求めて来るのであった。さてそうなって見ると堤の掛茶屋では問に合わなくなる。必然的に定住し、常時客のサービスをする小料理屋がそこに生れる素因があったのだというべきである。

小料理屋が出来ればそこには常時三人や四人の小女がいる。となれば近所の百姓の小忰共が朝に市場へ運んだ胡瓜の銭を、晩には親父を誤魔化して、トンボの眼玉のように油で頭を光らせ、通ったからとて怒ることもなるまいではないか。当時浅草の新吉原が若い男達の熱気を発散させる為に必要欠くべからざる存在であったように、何時か安直にたかぶる官能を満足させることが出来たとしたら、千川堤もあながち捨てたものでもあるまい。

保安係の名簿に登録されておった小料理屋つまり密淫売屋と目されるものは四十数軒の多きにのぼっていた。一軒に三人の女中が雇われているとして百二十人となる。まさか三人とは限るまい。四人五人とおる家もあろうから、其の実数は二百を越していたであろうことは、誰しも推察出来ることである。

保安係に登録されていた小料理屋を密淫売屋と即断するのは早計と思われるし、そうした店が四十数軒雇女が二〇〇名を超したという記述には若干小説的粉飾があるかもしれぬ。料理屋としては常盤屋・幸楽・越後屋・花見亭・小泉屋・中村屋・橋本屋などの名が知られていた。

こうした昔なつかしい千川堤の風情を知る人も数少なくなり、暗渠化工事で江古田浅間神社に移された「千川堤植桜楓碑」のみが往時の模様を物語っている。

<章>

第七章 第二次大戦下の練馬

<節>
第一節 戦時体制の下で
<本文>
第二次大戦に向けて

関東大震災を契機として、純農村地域であった練馬方面にもようやく都市化のきざしがあらわれ、特に東南部での人口の増加は顕著なものとなった。このことはとりもなおさず、それまでの近郊農村としての位置がさらに都市に近づいたことを意味していた。戦後の練馬区の進展からすれば、農業経営にとってはすでにこの頃から大きな問題を抱えたことになるが、都市が近づくことによるメリットが当面の関心事として浮かび上がってきたことも事実であった。

交通網の未整備な当時では、都市で消費する蔬菜類の遠隔輸送はなお困難で、その供給源はもっぱら近郊農村に一存されていた。練馬区域内の諸村もこうした条件下におかれていたとはいえ、より市域に近い村々と比べればまだ遠い存在であったことに違いはなかった。しかし市街地化の西進につれて東部に隣接する村は次々と大規模な農業経営の地盤を失った結果、練馬地域がより近郊の農村としての位置を占めることとなった。以後明治頃から盛んに行なわれていた桑や茶、藍などのいわゆる換金作物類は急速に衰え、蔬菜類中心の農業形態に切りかえられてゆく。

とはいえ、すでに本編「近代練馬の産業」中で触れたように刻々と交通も整備され、次第に遠隔地からの出荷が可能となり、必ずしも近郊農村としての優位性にのみ依存している訳にもいかなくなっている。農業の近代化は必至であり、当時の農会の指導もあって一部に機械が導入されるなど徐々に近代化への努力が成されつつあった。また品種改良にも力が注が

れ、新たな時代への対応に取り組もうとする動きもあった。この反面すでに広く利用されはじめていた化学肥料の弊害が一部に現われており将来の農業への課題が山積みされていた。

こうした折から昭和四年には世界恐慌が起り、米や蔬菜類の価格暴落をも招き、以降不況の中での農業経営が強いられる一方、八年には大凶作に襲われるなど不安定な材料が重なっていた。

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    「皇軍慰問」の手紙

昭和一二年にはじまった日中戦争に従軍している兵士に送られた開進第一尋常高等小学校児童の手紙。同校および開進第一青年学校ではこれらの中から採録し、一三年一月に文集「皇軍慰問号」としてまとめ、郷土出身者に贈っている。

 

              小暮睦重

月が蒼く澄み紅葉した木の葉がカサカサざはめいて居ります。

兵隊さん今何をなさつていらつしやる事でせう。懐しい故郷のお父さんお母さんの事御兄妹のことそして春に秋に住みなれた山や河の思出の頁を繰つてお出でではないでせうか。

この手紙を書いてゐる私の目には兵隊さんの思出にふけつていらつしやるであらうお姿が幻のやうにぽつかり浮んで見えます。

日支事変が起つて以来どんな時でも兵隊さんのお姿を胸にえがいて絶へず感謝してゐる私です。

暑い内地より二倍も三倍も暑いのを我慢して母国日本の為に働いて下さつてゐる兵隊さんの事を思ひ、寒い厳寒の支那の土地で私達九千万の民衆の為に身を切られる様な寒さを物ともせず抗日を叫ぶ蒋介石の軍を相手として戦ってお出でになる兵隊さんの事を思へば此の位の寒さが何だと思ひ自分で自分の心をはげましてゐるわけです。

兵隊さんどうぞ故国のことは御心配なく、私の分もどうぞしっかり働いて下さいませ。

私達も大和撫子、いざといふ時には兵隊さんのやうに勇ましく心の銃を取り一心一体になつて正義の日本に尽し何処の国にも負けない覚悟ですから――

兵隊さんお身体を呉々もお大切に

さよなら

             (高等科第二学年

一般社会情勢は刻々と緊迫の度を強め、ファッショ化への動きが活発となった。六年九月には満州事変が勃発し、軍部の台頭は日を追って抑圧がきかないものとなり、七年のいわゆる五・一五事件、一一年の二・二六事件などを通じ軍備強化がさらに進められ、一二年の日中戦争、ついには一六年の太平洋戦争を引き起すこととなった。

練馬区域内からも徴兵されて出征してゆく兵士が増え、町会、婦人会、在郷軍人会などが中心となって兵士の歓送迎会が活発に行なわれている。こうした兵士の出征や、後の徴用による人材の提供は次第に農業経営面に大きな影響となって表われた。農家では人手不足が顕著となり、計画的な農業推進の上に支障を来しはじめたのである。加えて一三年の国家総同員法制

定以後には農業経営の独自性さえ失なわれ、主食に類する作物への転換が行なわれてゆく。もともと水田の少なかった本区域内では特に麦類の増産に力が注がれ、後にはさつまいも、カボチャなどが積極的に作られた。配給下では各農家に供出の割当てが行なわれ、人手不足の現実と食糧増産への義務との間で農民の努力は重ねられていた。

人力に変る機械の使用、朝鮮牛の導入などが盛んに行なわれる一方、青年団あるいはその他の奉仕団の協力も大きな力となった。こうした食糧増産への任務とは別に、一般国民として負わなければならない役割が時代の急迫とともに課せられていったのはいずれも変るところはない。

日中戦争以来国際情勢は急速に悪化し、政府は産業統制を進める一方、国民の挙国一致体制の発揚に努めた。いわゆる国民精神総動員運動を展開する中で一三年四月には国家総動員法を制定し、あらゆる面からの国家統制を推進することとなった。事実日中戦争が開始されてからは、本土から中国への空襲が可能となったように中国からもいつ空襲を受けるかも知れないといういわば非常事態下に置かれたのである。こうした推移の中で国家統制は進み、政府の指導による民間団体、あるいは半官半民的な団体が誕生し、整備統合されていった。

一五年九月に大幅な整備が成された町会・隣組は民間団体の代表的なものであるが、これに婦人会、青年団、あるいは明治四三年以降結成をみた帝国在郷軍人会などへの期待も高まり、一四年四月に結成された警防団はその後の空襲に際して常に地域での警戒・被害防御の任に当っている。警防団の前身は関東大震災以後、天災に備えて昭和七年に結成された防護団である。空襲が激しくなってからは一七歳から二〇歳の学生を動員した学徒消防隊の活躍もあった。

一方戦時体制下において重要な役割を果した軍事工業を主体とする産業内には産業報国会が結成され、労使間の調和を図ってゆこうとする動きがあった。一五年一一月の大日本産業報国会本部創立にともない、東京ではそれまでの東京工場協会を合せた東京産業報国会の設立をみた。当初から労使それぞれの立場を捨象したこの産報運動には常に矛盾がつきまとっていた。このため政府は重労働を必要とする幾つかの業種に働く者に対して加配米の支給を行なうこととした。東京産業報国会では一五年一〇月一日以降五回にわたる作業衣等の労務加配を実施している。

本区域内の住民もこれらいくつかの諸団体に属し、それぞれの任務遂行に追われることとなった。

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   産業報国会のことども

現練馬区域(当時の練馬警察署管内)は滝野川・板橋各警察署管内とともに滝野川支部に属していた。昭和一七年版『産報年鑑』によれば一六年末の東京産業報国会の参加者は一万七八八五団体、七八万八八三九名であり、滝野川支部では次のような数値があげられている。

 地域   会数   人 員    青年隊  人 員

滝野川  一六三  一万一一九二    六    一一五四

板橋   七〇五  三万三一一八   二八  五万五七〇八

練馬    八八    二六四四    九     七五七

なお同書の名簿中には小田原製紙、新興東京撮影所、鐘ケ淵紡績練馬工場、渋谷レントゲン製作所などが練馬区域内の報国会として掲載されている。

報国会は、工場協会の事業を引き継ぐとともに産報精神にのっとった工場指導を行ない、勤労組織の確立・強化、勤労秩序の整備、生産増強などを目的としてさまざまな活動を展開した。

報国会に参加している工場等には労務加配米、労務者用必需物資(ズボン、シャツ、モンペ、スカート、作業衣、印半てん、ゴム靴等)の配給が行なわれたが、このため産報運動そのものよりも物資確保を目的として入会した企業もあったといわれる。

  大日本産業報国会綱領

 一、我等ハ団体ノ本義ニ徴シ、全産業一体報国ノ実ヲ挙ケ以テ皇運ヲ扶翼シ奉ラムコトヲ期ス

 一、我等ハ産業ノ使命ヲ体シ、事業一家職分奉公ノ誠ヲ致シ、以テ皇国産業ノ興隆ニ総力ヲ竭サムコトヲ期ス

 一、我等ハ勤労ノ真義ニ生キ、剛健明朗ナル生活ヲ建設シ、以テ国力ノ根底ニ培ハムコトヲ期ス

町会と隣組

明治以後の中央集権を目ざす行政改革が進められる中で、各町村は次第に独自の自治能力を失い、行政の末端機関としての性格のみが強調されることとなった。古くからあった五人組制度はすたれ、これに代わるものとしてさまざまな行政補助機関的な組合や団体が存在したが、明治末期には自治組織としての部落会・町会が結成されはじめた。特に第一次大戦後に至って行政事務が増大するにつれ同会

は増えていった。また関東大震災時に組織された自警団がそのまま町会として改組された場合もある。

練馬区域内では昭和七年の板橋区編入がきっかけとなり、翌八年頃から旧来の部落会が改組されるなどして新たに町会を結成する動きがみられた。一〇年には後に掲げるように四九の町会が誕生している。

とはいえ、この当時なお本区域内の大半は農業地帯であり、一部の人口の流入地域はともかく、一般的には旧部落内でのつながりを重視しており、必ずしも町会に参加しなかった人々や地域もある。北三軒同志会と呼ばれるグループもその一例であった。北三軒の地域は昭和七年の板橋区編入により当時の仲町二、三、四、五丁目に属し、それぞれの丁目ごとに町会が結成されたが、古くからあった北三軒一七戸組と称する組合の構成員はこれに参加せず、町会に捉われない独自の組織として新たに有志を加え、九年四月一日に同志会を結成した。その目的は会員相互の親睦と在郷軍人会および青年団への援助とされた。

しかしこうした独自の組織も、一五年九月の「部落会町内会等整備要領」の公布をみるなど時局の急迫が叫ばれる中で次第に町会に吸収されていった。ちなみに右の同志会は町会に組み入れられてからもなお継続的に活動し、農業従事者は北三軒実行組合にも所属して農業推進につとめている。

さて、この間の町会の動向はどうであったか。本区内に町会が結成されはじめた昭和八年頃の実状は、右の例でも明らかなように参加も強制的なものとはいえず、活動も自主的な面が重視されていた。また区域の広さもまちまちであった。これは一般的な傾向で、このため戦時体制が強化されるにつれて町会の整備統合が問題となり、一三年四月の国家総動員法制定にともないより画一的な組織編成への教化指導が成された。東京市では四月一七日町会規準を告示し、以後の町会の性格を規定している。同規準はその目的と事業内容について次のように記す。

<資料文>

第一 町会ハ隣保団結シ旧来ノ相扶連帯ノ醇風ニ則リ自治ニ協力シ公益ノ増進ニ寄与シ市民生活ノ充実ヲ図ルヲ以テ目的トスル地域団体トス

第二 町会ハ其ノ目的ヲ達スル為旧来ノ慣行ニ従ヒ概ネ左ノ事業ヲ行フモノトス

 一 敬神及祭祀ニ関スル事項

 二 隣保団結及相互扶助ニ関スル事項

 三 自治協力及振興ニ関スル事項

 四 銃後援護ノ強化ニ関スル事項

 五 警防、衛生及土木ニ関スル事項

 六 敬老、慶弔、勧善及奨学ニ関スル事項

 七 矯風、修養及慰安ニ関スル事項

 八 其ノ他共同福利ノ増進ニ関スル事項

              (東京市告示第一九三号

また町会の下部組織としての隣組制度もその後急速に拡充されていった。

正式に隣組組織が結成されてゆくのは一三年五月からであるが、一五年九月になって「部落会町内会等整備要領」が出され、これによって町会は新たに改組され、上意下達、下意上達を目的とする行政機構の末端に画一化されることになり、隣組の役割も日を追って増大してゆくこととなった。

隣組は近接する一〇戸内外を単位とし月に一度常会を開き隣保相互の親睦をはかり、生活の拡充を目ざす場とされたが、事実は上意下達による伝達の場として利用されていた。一般家庭への情報提供には主に回覧板が使われ、配給業務をはじめとする生活上のあらゆる面に隣組は関与していた。また出征・帰郷兵士の送迎、戦災証明、防空活動その他さまざまな奉仕活動に至るまでの役割を負っていたのである。

一七年八月には大政翼賛会の指導を受けることとなり、一八年五月には町会、隣組制度はさらに整備強化されることとなった。町会に対しては新たに東京市町会規程が設けられ、国策の徹底を期することを目的とする上から、名称の統一、会員

の正確な把握、区域の統合・分割等詳細にわたる内容が盛り込まれている。練馬地域内ではこのとき後掲するように四三の町会に整備統合されている。また隣組に対しては「隣組は前線に通ず」という意気ごみをもって戦時下に対処するよう指導され、隣組長以外に副組長、当番などが置かれた。

以後戦況の悪化とともに町会、隣組の活動はさらに活発さを加えていった。当時の本区域内における町会は次のとおりである。

昭和一〇年一〇月現在                            昭和一八年六月改正
町会名町会事務所町会長町会名町会長
中新井町一丁目町会 中新井町一―七一 矢 島 幸太郎 小竹町々会 篠   猪之松
同   二丁目町会 同   二―七八五 一 杉 金太郎 江古田町々会 林   真 雄
同   三丁目町会 同   三―一八三五 高 野 兵 蔵 豊玉第一町会 矢 島 高一郎
同   四丁目町会 同   三―一七九五 榎 本 喜久治 同 第二町会 八 木 茂 樹
中村町 一丁目町会 中村町一―一〇五 山 本 紋次郎 同 第三町会 市 川 鶴 男
同   二丁目町会 中村町二―三一 神 田 新之丞 同 第四町会 今 井 時 郎
同   三丁目町会 中村町三―六五八 竹 内 松次郎 中村町第一町会 山 本 紋次郎
練馬南町一丁目町会 練馬南町一―三五五七 増 田 具 治 同  第二町会 佐々木   享
同   南 湿 会 同   二―五九一八 風 祭 憲 作 練馬仲町東町会 塚 田 洪 憲
同   二丁目町会 同   二―三七五六 安 井 義之助 同   西町会 生田目 正 重
同   三丁目町会 同   三―五八二二 市 川 廷 寿 練馬北町一丁目町会 内 田 久 富
同    栗山町会 同   四―六〇八二 小 松 為 吉 同   二丁目町会 大 木 万太郎
同   五丁目町会 同   五―六八四一 渡 辺 寅五郎 同   三丁目町会 小野寺 菊 夫
同 北町一丁目町会 練馬北町一―一二九 内 田 久 富 練馬南町一丁目町会 平 林   武
同   二丁目町会 同   二―三〇四 大 木 万太郎 同    羽沢町会 小 口 政 雄
同   三丁目町会 同   三―一三一九 田 中 久 吉 同  二丁目南町会 鈴 木 清 蔵
同 仲町一丁目町会 練馬仲町一―二四七六 加 藤 源四郎 同  二丁目北町会 桑 原 允 長
同   二丁目町会 同   二―二八六〇 浅見 久左衛門 同  三丁目町会 中 村 四朗太
同   三丁目町会 同   三―一九三三 内 田 戌 吉 同  四丁目町会 奥 田 俊 三
同   四丁目町会 同   四丁目 小 泉 重 治 同  五丁目町会 藤 木 隨 教

同   五丁目町会 同   五―一七八三 漆原 六郎兵衛 練馬向山町々会 木 下 道 雄
同   六丁目町会 同   六丁目 芹沢 酉右衛門 練馬貫井町々会 西 谷 隆 英
向山町会 練馬向山町一四八七 保戸塚藤左衛門 練馬春日町々会 篠 田 鎮 雄
貫井町会 同 貫井町三一七 関 口 理三郎 練馬田柄町々会 上 野 徳次郎
春日町会 同 春日町二―二一〇一 鹿 島 万 嗣 練馬高松町々会 小 沢 小十郎
田柄町会 同 田柄町一―五一〇一 鳥海 惣左衛門 練馬土支田町々会 五十嵐 源三郎
高松町会 同 高松町一―一三八六八 宮 本 由五郎 同    旭町会 亀 川 徳 一
土支田町会 同 土支田町二―八二〇 加 藤 八十八 谷原一丁目町会 大 沢 藤 吉
石神井松原一丁目町会 石神井松原町一―一八九 大 沢 藤 吉 同   中町会 小 林 辰五郎
同    二丁目町会 同     二―一七四二 小 林 辰五郎 南田中町会 島 崎 福太郎
南田中町会 石神井南田中町四八九 島 崎 福太郎 下石神井一丁目町会 本 橋 篤 三
北田中町会 同  北田中町一二八〇 大 山 兼 吉 同   二丁目町会 豊 田 吉五郎
下石神井一丁目町会 下石神井一―三二九 本 橋 菊太郎 上石神井一丁目町会 尾 崎 丑 松
同   二丁目町会 同   二丁目 竹 内 義 夫 同   二丁目町会 田中 半左衛門
上石神井一丁目町会 上石神井一―六七四 尾 崎 丑 松 関町南町会 尾 崎 宇 一
同   二丁目町会 同   二―一九〇〇 栗 原 鉚 三 同 東町会 田 中 長 蔵
石神井関町一丁目町会 石神井関町一―乙ノ一六六 館 野 茂 松 同 北町会 桜 井 半 蔵
同 二丁目第一町会 同    二―四九 田 中 貞之丞 同 西町会 井 口 弥兵衛
同    第二町会 同    二―一〇三 田 中 長 蔵 大泉学園町々会 加藤 与左衛門
同    第三町会 同    二―三〇五 桜 井 半 蔵 東大泉町々会 島崎 富右衛門
同    第四町会 同    二―六五三 橋 本 仙次郎 西大泉町々会 加 藤 八十八
同 三丁目町会 同    三―乙ノ一六六 橋 本 忠三郎 南大泉町々会 加 藤 千代松
石神井立野町会 石神井立野町二〇七九 田 中 文五郎 北大泉町々会 小 俣 正 夫
大泉学園北町会 大泉学園町三一七一 鈴 木 乙 免
同   南町会 同    二―五一五 加 藤 泰 蔵
東大泉町会 東大泉町六〇 町 田 甲 彦
西大泉町会 西大泉町九九八 田 中 数 馬
南大泉町会 南大泉町四〇四 加 藤 千代松
北大泉町会 北大泉町四四五 荘   市 蔵
(『練馬区史』昭和三二年刊)

疎開

東京が過大都市として問題化されはじめたのは昭和一〇年代に入ってからであり、日中戦争以来急速に進展する戦時体勢とも深い関り合いをもっていた。東京への人口および経済機能の集中化は折から軍需工業を中心とする重工業の発展などによりさらに強まる傾向にあった。しかし時局は太平洋戦争を頂点とする軍事体勢下にあって、国防の上からも工場設備の地方分散が望ましいとする考えが早くからあった。

太平洋戦争突入以降は空襲による都市機能の破壊が可能性として特に強まり、事実一七年四月にはドウリットルの東京空襲が行なわれている。同年六月政府は東京をはじめとする主要工業地帯に対し、工場の建築制限および禁止を告示し、工場分散を図ることとした。以後東京では多摩地域などへの工場疎開が活発に行なわれている。当時なお主要な近郊農村として位置づけられていた本区域内にもいくつかの工場が移転してきたといわれる。タムラ製作所もそうした工場のひとつであった。

一方政府は一八年三月、東京と大阪に対して建築規制区域を設け、空地地区設定を行なった。指定された地区は密集市街地内の防空空地とその周辺を環状あるいは放射状に結ぶ空地帯とに区分されている。このとき本区域内に関わるものとして、江古田空地帯、上石神井および下石神井空地帯が指定を受けている。各空地帯上には建築物の構築が許されず、これを契機に一般の建物疎開がみられるところとなった。一九年一月には一部に強制疎開が行なわれはじめ、建てものの取り壊しが進められている。本区域内ではこれとは別にいわゆる成増飛行場建設にともなう同地域(旧グラント・ハイツ、現光が丘)からの強制(有償)立ち退きが行なわれている(『現勢編』参照)。

また人員疎開については、はじめ建物疎開にともなう者を対象とする程度であったが、空襲が避けられない事実となる一方で食糧事情の悪化も進み、次第に老人や児童あるいは病者など要保護者に対しては疎開も止むをえないとする方向に転換されていった。一八年一二月には「都市疎開実施要綱」が閣議決定され、人員疎開の範囲が具体化された。さらに一九年三月の「一般疎開促進要綱」の閣議決定をみてからは、人員疎開の促進が図られ、いわゆる学童疎開の内縁故疎開に対する便宜も講じられることとなった。また集団疎開についても計画中であることが伝えられた。学童集団疎開は一九年六月三〇日

に「学童疎開促進要綱」が閣議決定され、急速に実施されていったが、詳細については本編第五部中の「練馬の教育」を参照願いたい。

一九年後半はすでに日本の敗色は濃厚なものとなっており、東京においては一一月以降しきりに空襲警報が発令されはじめた。同月二四日に至ってB<数2>29八八機の来襲をみ、以後終戦を迎えるまで度重なる空襲下にさらされることとなった。この間人的・物的被害はあい次ぎ、疎開してゆく人々の数も増えた。練馬区域内でも西武線の駅に疎開の荷物が集積され、容易に運搬されないまま数日の間風雨の中に置かれていたなどの話が伝えられている。また青梅街道その他主要道路にはリヤカーなどに荷を積んで引いてゆく人々の姿もあった。

罹災者については運ぶべき荷物もなく、疎開するにも定った目的がないという状況におかれた人も少くなかった。東京都では無縁故者の疎開促進のため二〇年三月罹災者集団疎開を実施している。

以後空襲の激化に加えて食料不足は深刻なものとなり、疎開施策はさらに強められていった。しかし一方では防衛・生産両体制上必要とする人員の確保は必至とされ、必然的に疎開者の範囲は限定されたものとなっている。

食糧事情

後節の「配給制度」の中で再び触れることとなるが、昭和一〇年代は当初より、徴兵などによる農業労働力不足をはじめとして、食糧危機につながる要素が多分に横たわっていた。一六年四月からは主食の配給制が実施され、以後太平洋戦争突入から終戦に至るまで食糧事情は刻々と悪化の方向をたどっており、終戦を迎える頃には豆類やいも類あるいはカボチャなどが米の代用として用いられることとなった。

空襲が予想されはじめた一九年三月、「決戦非常措置要綱」が閣議決定され、これに基づき食糧営団は非常用の備蓄米確保に努める一方、一般家庭への米の特配を実施した。また配給食糧の不足が深刻なものとなったことから、それを補うための雑炊食堂が開設されてはいるが、その内容は極めて貧弱なものであり、こうした措置も絶対量不足という現実の前には何ら根本的な解決策となりえなかった。そこで一部に食糧の買い出しが行なわれはじめた。

当時練馬区域内はなお近郊農村としての位置にあり、一般農家には供出の割当てが課されていたが、供出を済ませてもなお多少の余裕のある家も多かったといわれる。そのような農家に買い出し人が訪れ、着衣などによる物々交換あるいは現金で適当な食糧を求めたと伝えられる。

この頃にはさつまいもの増産奨励が行なわれ、次いでカボチャの増産計画が大々的に押し進められることとなった。カボチャの増産については折からの空地利用計画とも結びつき、一般家庭菜園はもちろん、公園、遊園地その他空地を有するあらゆる地域を利用し農園化すると共にカボチャ栽培が奨励されたのである。本区域内でも豊島園をはじめとする公園や寺社地あるいは学校敷地内などが農園化されていた。

こうした背後にはたとえば東京都による糞尿汲み取り事業の停滞が、結果的に菜園拡大をうながすことになったという、食糧事情とは別の切実な問題が一方にあったといわれる。

<節>
第二節 東京空襲
<本文>

昭和一九年七月、マリアナ群島中のサイパン島が米軍の手に陥ち、本土は米空軍の行動圏内に置かれることとなった。米側では日本の工業力を封殺することが戦略的な意味からも重要であるとし、対日侵攻作戦の手始めとして都市工業地区への攻撃が計画された。特に航空機生産工場を有する地域は重点目標とされ、東京近郊では中島飛行機武蔵野製作所、同じく多摩製作所などがリスト・アップされている。練馬区域内には直接航空機を製造する工場は無かったとはいえ、北町の造兵廠練馬倉庫をはじめとして高松には無線電信講習所、上石神井には電波兵器学校、関町には中島飛行機の宿舎等があり、現在の光が丘一帯は成増飛行場となっていた。それに練馬駅北側には当時の鐘紡練馬工場もあって、軍需工業の一翼を担っていた。また隣接する板橋方面はすでに重要な工業地域を抱え、重点目標のひとつとされた中島飛行機にしても練馬の近隣に位

置している。こうした関係からも練馬区域内での被害は避けられなかったもののようである。

<コラム page="846" position="right-bottom">

 壕の中の恐怖(抜粋)

             板橋区練馬向山町一三〇〇番地

                         芝原幸子

(前略)

三月半ばすぎ、ひんぴんと続く空襲に中等学校の入試はなくなり、異例の無試験入学と決まった。私は暇ができたので、うぐいす色の新しい毛糸で、弟のセーターを編み始めた。

卒業式、それは六年間の生活に一応のピリオドを打つ日であるのに、何とそそくさと行なわれたことか。薄っぺらい卒業証書のごとく、異常時にほんろうされていた帝都の六年生だった。

そのころ、我が家では福島に学童疎開した弟が病気になったという報告を受け、続いて東京中の国民学校が休校になったので、上の弟の看病と、二年に進級する弟の学校のため、母は同地に疎開することになった。知らぬ土地での病人をかかえた生活のため、生活必需品のほか、食糧品にかえられそうな品物を数多く荷造りした。何日かたち弟のセーターは身頃が編みあがった。ふわっとしたやさしいうぐいす色のセーターを一針一針編む私に、母は「早く編みあがると疎開荷物に入れられるわね」と言った。私はそんなに早くはできないから出発の時、汎ちゃんに着て行ってもらうわと言った。ところがセーターは案外はかどって、一番最後のミシンを荷造りしている時、できあがった。母は「ありがとう」と言って、ミシンの足の間につっこんだ。荷物は練馬駅に集積された。たくさんの疎開荷物は駅の構内広場に野積みされた。荷物が届かなければ福島での生活はできないので、父は毎日練馬駅に見に行った。たまたま所用で池袋に行く時、私も電車の窓に顔をこすりつけて、我が家の梱包の数々を見つめて、「早く出て行って」と祈った。しかしこのごろ、鉄道も空襲にあったり、東京からの疎開者激増のため、荷物は一向に発送されなかった。

ある夜半、気がつくと雨だった。母に言うと、母は「知ってるわ。おとうさんは荷物がぬれると困るから、テント状の物をかけに行ったわ」と言った。疎開地での生活を支える荷物の大事さを痛感して父の帰りを待っていた。いったん鉄道にゆだねてさえ、自分で守らなければならない時代だった。

「おかあさん、荷物が出たよ。さあ、出発」と父が勢いこんで帰って来たのは四月一二日だった。いよいよ我が家も疎開だと思った。そして翌日の夜、田端、池袋方面は大空襲だった。三月の下町大空襲より近かったせいか、飛行機その他でざわめきも一通りでなく、壕にはいっていてもこわかった。森の向うの東の空は前回よりいちだんと低い地点から、いっそう赤かった。敵機の去ったころ、高台の畑まで母と一緒に空を見に行った。母は「たぶん荷物はだめだわ」と言った。

「アメリカの飛行機にやられるなんて」と、憎しみがこみあげて来た。母に、「もし、今空襲があったら何持って逃げる」と聞くと、母は、「もちろん純子のおむつ」と言った。私は、「タンスの中の着物は」と、母のよそゆきのあれこれを思い出して聞くと、赤ちゃんにとって、おむつがどんなに大切か教えてくれた。

次の日の朝、薄ねずみ色の灰状のものや布きれの焼けはしが、あとからあとから舞い降りてきて、一家はいっそう不安になった。二、三日して山手線が通ると父はすぐ出かけ、池袋や田端で、貨車はおろか、見わたす限り焼け野原になったのを見て来た。「シンガーミシンの鉄の足も大分あった」と父は残念そうに語った。父母にとっては、現実にこれからどうするという問題があったろうが、子どもの私が一番に思ったのは、あのうぐいす色のセーターだった。あの時、弟はもう眠っていたので、寸法はよいか、似合うかなどと試着する暇さえなくミシンの梱包につっこんだあのセーター。あの寒い福島で新しいセーターを着れるなあと弟のその姿を想像していたのに。

後略

                      (『東京大空襲・戦災誌』

一九年一一月に至って、米軍機はしばしば飛来するところとなり、二四日になって本格的な空襲が開始された。当日の状況をみれば、午前一一時五〇分に警戒警報が発令され、一一時五八分に空襲警報にかわり、一二時一五分以後空襲となった。空襲警報が解除されたのは午後三時である。この間来襲した米軍機はB<数2>29八八機で、まず武蔵野町の中島飛行機製作所に向かい、同所上空高々度から集中爆撃を行なった後、幾組かの小編隊に分れ、荏原・品川・杉並および東京港などを襲った。投下弾は高性能爆弾四〇・八トン、焼夷弾一七トンといわれ、被害状況は死者二二二、傷者三二八、行方不明一、被害家屋三三二戸(警視庁調べ、一二月一六日)であった。

練馬区域内では大泉・石神井方面に焼夷弾三、爆弾八(当日の板橋消防署報告)の投弾をみたが死傷被害はなかったようである。畑地や空間が広く残されていた点も幸いしていたといわれる。

しかしその後の一二月三日午後一時三〇分に来襲したB<数2>29七九機による空襲のときには、練馬警察署管内で三〇名が「埋

没」被害を受け、警察、警防団、町会、隣組等の手で発掘救助に当ったがいずれも死亡していたとの報告が行なわれている(後掲の被害状況参照)。

以後翌二〇年八月一五日の終戦を迎えるまで東京空襲は幾度となくくり返され、特に三月九日から一〇日にかけて行なわれた大空襲以降はさらに熾烈なものとなった。この間の被害人員総計は昭和二四年四月の経済安定本部「太平洋戦争による我国の被害総合報告書」によれば東京全域で死者九万七〇三一、重傷五万六六二九、軽傷五万二九三八、行方不明六〇三四であり、練馬区域では死者七七、重傷一六、軽傷五となっている。

以下昭和四八年に財団法人東京空襲を記録する会の刊行に成る『東京大空襲・戦災誌』第三巻から練馬区域に関する被害状況を拾い上げておくこととする。この書はその凡例にあるように「東京空襲と戦災に関する軍・政府の日米公式記録を編集」したものであるが、資料は正に当時の非常事態下で作成された性格上、おのずから完全さは要求しえない点を同書でも断ってある。たとえば町名についても多少の誤りがあるが、あえて原文のまま抄録させていただいた。また当章執筆にあたって同書を参考とした部分が少なからずあった点も合せて断っておきた

い(練馬区域内の戦災については本編収録の「年表稿」も参照願いたい)。

<資料文>

   空襲被害状況(現練馬区域

昭和<数2>19年<数2>11月<数2>24

  1. 一、東大泉町六〇六番地 石井安次邸裏油脂焼夷弾一箇
  2. 一、東大泉町六一九番地 加藤泰治方前畑ニ百瓩爆弾一ケ投下セラレ直径十一米深二米二十ノ漏斗口ヲ開ケタルノミニテ被害ナシ
  3. 一、南大泉町妙福寺前武蔵野鉄道沿線ニ百瓩爆弾一ケ投下セラレ電線切断セラレタリ
  4. 一、東大泉町一四五番地東京都大泉女子拓務訓練所ニ百瓩爆弾四ケ投下セラレ玄関及事務室約五坪破壊セラレタリ
  5. 一、東大泉町一六九番地東大教授岡田要前畑ニ油脂(五瓩)二ケ爆弾一ケ投下セラレタルモ被害ナシ
  6. 一、石神井南田中町九八番地ニ百瓩不発爆弾投下セラレタルヲ以テ附近警戒通行止ナリ
  7.   投下弾合計
  8.   油脂焼夷弾五瓩 三
  9.   百瓩爆弾 八ケ 内一個不発
  10. 消防活動状況
  11. 一、午後〇時四十五分 石神井局ヨリノ火災報知電話ニ依リ東大泉町大泉国民学校ニ焼夷弾落下火災トナリタル旨受報ス
  12. 一、同四十六分 石神井小隊ヨリ一隊出動セシム
  13. 一、同四十七分 石神井望楼報ニ依リ大泉国民学校火災延焼中ノ報告アリ
  14. 一、同四十八分 他ニ発火無キヲ認メタルヲ以テ石神井小隊ヨリ更ニ一隊出動セシム
  15. 一、同一時四十分 大泉国民学校出火ハ誤報ニシテ東大泉町六〇六番地ニ油脂四ケ投下セラレタルモ被害ナシ
  16. 一、午後一時三十五分 右誤報火災ニ出動セル石神井小隊二隊異状ナク帰隊ス
  17.             (空襲時被害状況ニ関スル件報告・板橋消防署

<数2>19年<数2>12月3日

  1. 一、板橋区豊玉北町三ノ三〇先道路ニ二五〇瓩級爆弾一個落達シ直径二十五米深サ五米ノ漏斗孔ヲ生ジタルモ四日復旧ス
  2. 一、西武鉄道武蔵関駅附近(練馬署管内
  3. 十五時〇分頃西武電車線路ニ爆弾落下 線路破壊ニ依リ不通トナリタルモ二十二時復旧完了セリ
  4. 一、武蔵野鉄道練馬駅附近(練馬署管内
  5. 十四時〇分頃練馬駅東方約百米ノ地点ノ下リ線外側ニ爆弾一個落下鉄道敷欠壊下リ線約十米埋没シ不通トナリタル為メ江古田駅石神井駅ニテ折返シ運転ヲ為シタルガ武蔵野鉄道復旧工作隊ノ出動ニ依リ二十三時復旧完了セリ
  6.             (警視庁警備総第三一六号)一九年一二月二五日
  7. ○学校
  8. 一、向南中学校及ビ石神井中学校(練馬署管内
  9. イ 十四時〇分頃板橋区練馬向山町一番地向南中学校ニ焼夷弾一個落下 校舎(木造平家建) 一棟百十五坪ヲ全焼セリ
  10. ロ 十四時〇分頃同区石神井関町二ノ四一四番地石神井中学校ニ焼夷弾二個落下 講堂(木造平家建) 一棟二百坪ヲ全焼 軽傷者五名ヲ出セリ
  11. ○救護並ニ屍体処理状況
  12. 一、練馬警察署管内ニ於ケル埋没者三十名ハ警察署員 警防団員 隣組

    防空群 町会役員等一致協力発掘シタルモ何レモ死亡シ居り屍体ハ縁故者ニ引渡シ或ハ附近寺院ニ収容シ傷者ハ夫レ夫レ管内高岡 宮地 小松豊島 山下各医院及板橋署管内日大医院ニ分散収容セリ

  13.            (警視庁警備総第二九三号)一九年一二月四日

<数2>19年<数2>12月<数2>27

  1. 十二月二十七日ノ空襲ニ関シ現在迄ニ判明セル被害状況及之ガ応急対策ノ処理状況左ノ如シ
  2. 一、十二時四十五分 板橋区練馬南町四丁目六一一二岡本方焼夷弾落下延焼中
  3. 一、十二時四十五分 板橋区豊玉町四ノ一四焼夷弾落下 被害調査中ナリ
  4. 一、十二時五十分 板橋区練馬高松町一丁目上原長太郎方焼夷弾落下延焼中
  5. 一、十二時五十分 板橋区練馬高松町電信学校ニ焼夷弾落下延焼中
  6.            (帝都防空本部情報第四二号)一二時三〇分
  7. ○学校関係
  8. 一、都立石神井中学校
  9. 校庭ニ爆弾一個 焼夷弾八個落達セルモ在校職員及一学年 五学年生徒ニヨリ初期防火ニ成功ス 傷者一名(職員)ヲ生ジタル他被害ナシ
  10.            (警視庁警備総第二九号)二〇年一月二六日

<数2>20年1月9日

  1. 一、大泉学園町ノ畠中ニ爆弾九個落下セルモ人畜ニ被害ナシ
  2. 一、練馬仲町三ノ四三八一番地ニ高射砲弾ニ因リ物置一棟半壊ス
  3. 一、関町一ノ一五七番地ニ爆弾落下死者一名生ズ
  4. 一、仲町二三四九番地畠中ニ飛行機部品落下セルモ人畜ニ被害ナシ
  5.            (帝都防空本部情報第七五号ノ二)一六時三〇分現在
  6. 一、練馬警察署管内石神井関町一ノ一五七尾崎宇一ハ家族ヲ待避所ニ待避セシメタルモ本人ハ自宅裏ニ於テ監視シ居リタル為メ至近弾ノ爆風ニ依リ死亡セリ
  7.            (警視庁警備総第五〇号)二〇年二月八日
  8. <数2>20年2月<数2>16
  9. 一、仲町開進第一国民学校機銃掃射ヲ受ケタルモ硝子破損程度ニテ被害ナシ
  10.            (帝都防空本部情報第一一七号)一五時五〇分現在
  11. 一、十六時十五分 板橋区石神井上原町二五〇四火災発生セルモ直チニ鎮火ス
  12.            (帝都防空本部情報第一一九号)二〇時三〇分現在
  13. <数2>20年2月<数2>19
  14. 一、練馬支所 十六時三十分 () 上石神井一ノ七九電波兵器学校ニ於テ生徒一名高射砲ノ破片ニヨリ負傷
  15.            (帝都防空本部情報第一二四号ノ二)一八時現在
  16. <数2>20年2月<数2>25
  17. 一、練馬支所 () 練馬仲町三ノ四一六七斉藤秀雄方焼夷弾落下焼失尚附近ニ爆弾落下 被害ナシ
  18.            (帝都防空本部情報第一三二号)二三時現在

<数2>20年3月<数2>10

  1. 一、板橋区
  2.  被害状況 焼夷弾五〇〇個(油脂
  3.  人的被害 死者三、負傷者一(武蔵野病院ニ収容
  4.  家屋被害 全焼三棟、内一棟ハ整肢療護園一六〇〇坪、内一棟ハ寺院少破
  5.  罹災者  八一一名
  6.  整肢病院患者ハ日大附属病院ニ三四名収容
  7.  罹災者ニハ十日朝食ヨリ炊出セリ
  8.            (帝都防空本部情報第一四一号)一五時現在
  9.            ()練馬方面では練馬田柄町二丁目被災

<数2>20年4月2日

所轄署災害発生場所時刻投下弾 高射機関砲弾死者傷者 行方不明被害家屋罹災者摘要
爆弾焼夷弾不発弾 重傷軽傷 全壊半壊全焼半焼
練馬 板橋区 南大泉町 自二・二〇至三・三〇 一三 横穴式防空壕二三〇名待避中ノ処至近弾ニ依リ埋没ス
 〃  西大泉町  〃 四八 一二
 〃  東大泉町  〃 二六
 〃  北大泉町  〃 二六
 〃 石神井関町一丁目、二丁目  〃 二八〇 一八 六〇 一五 二三
〃  下石神井一丁目二丁目上石神井一丁目  〃 一五九
五五二 二四 六三 一二 二六 一二 三九 二五三
(空襲災害状況調)二〇年四月二日一七時現在

  1. 一、西武鉄道
  2. 上石神井駅――武蔵関駅間 線路約百米土砂埋没
  3. 東伏見駅――武蔵関駅間 線路約百米切断破壊
  4.            (警視庁警備総第一一〇号)二〇年四月二日
  5. 一、石神井関町中島飛行機製作所寄宿舎ニ時限爆弾落下爆発火災ヲ発生セルモ間モナク鎮火セリ
  6. 一、石神井谷原町一丁目一六三番地ニ爆弾落下セルモ人畜ニ被害ナシ
  7. 一、上石神井二丁目元橋文作方附近道路ニ爆弾落下シ防空壕内ニ於テ三名重傷直ニ豊島病院ニ収容セリ
  8. 一、南大泉二二八番地大塚岩次郎方ニ爆弾落下シ一名即死 尚附近爆弾落下セルモ被害不詳ナリ
  9. 一、東大泉六九五附近畑中ニ爆弾落下セルモ人畜ニ被害ナシ
  10.            (帝都防空本部情報第一五四号)五時現在
  11. 一、石神井関町二ノ二九七井口産婆方 爆弾落下防空壕内ニ約三〇名埋没目下救出作業中
  12. 一、石神井関町一ノ六九四時限爆弾落下シ約一〇分後ニ爆発シタルモ被害ナシ
  13. 一、石神井一ノ一七六八西村与右衛門方ニ不発照明弾落下被害ナシ
  14. 一、上石神井一丁目番地不詳爆弾一個落下 重傷六名
  15. 一、東大泉四九七畑中ニ照明弾落下 被害ナシ
  16. 一、東大泉九七五豊橋繁蔵方 畑中ニ爆弾及焼夷弾落下シタルモ人畜ニ被害ナシ
  17. 一、東大泉一〇〇九庄次金蔵方裏ニ不発弾落下被害ナシ
  18. 一、東大泉一二〇畑中ニ照明不発弾落下セルモ被害ナシ
  19. 一、南大泉二八八大野岩次郎方 爆弾一個落下即死一名(六十歳)アリ
  20. 一、東大泉九六三畑中ニ爆弾落下被害ナシ
  21. 一、南大泉二二三番地 畑中ニ爆弾一個落下 被害ナシ
  22. 一、北大泉一〇四不発弾落下被害ナシ
  23. 一、西大泉九九一田中三造方 爆弾落下物置一半壊
  24. 一、西大泉九九五田中竹三郎方爆弾落下 家屋一棟全壊即死一名埋没二名アリシモ救出セリ
  25.            (帝都防空本部情報第一五五号)六時三〇分現在
  26. 一、板橋区練馬支所 石神井関町、上石神井町、東大泉町、西大泉町、南大泉町、北大泉町等三八ケ所ニ爆弾一〇〇以上 焼夷弾一三個(内不発一二個)落下 死者五四名 重傷七名 全壊一七棟(内物置四棟半壊一棟 全焼一棟 罹災者三三〇名以上ヲ生ズ
  27.            (帝都防空本部情報第一五六号)一四時現在

<数2>20年4月7日

  1. 一、南大泉四六三保谷鉄道附近畑中爆弾三箇落下被害ナシ
  2. 一、上石神井二ノ一一七六爆弾五乃至六ケ落下被害目下調査中
  3. 一、東大泉四一六榎本重春方爆弾一ケ落下 家屋一戸全壊人畜被害ナシ
  4. 一、東大泉九五六畑中不発爆弾五ケ落下家屋一戸破壊人畜ノ被害調査中
  5. 一、東大泉四一二山本重次方裏道路ニ爆弾一ケ落下被害ナシ
  6.            (帝都防空本部情報第一六一号)一二時現在

<数2>20年4月<数2>12

所轄署災害発生場所時刻投下弾 高射機関砲弾死者負傷者 行方不明被害家屋摘要
爆弾焼夷弾不発弾重傷軽傷 全壊半壊全焼半焼
練馬 下石神井二ノ一一〇八清水グランド附近 一一・二〇 五〇〇肫級二 □□□□□□□□□□一一六〇部隊搭乗員中野某死亡、落下傘降下一名名前不詳死亡
時限爆弾ト認メラル
上石神井二ノ一七〇〇石神井学院附近  〃 二〇以上
下石神井二ノ一一三二千葉三蔵方附近  〃
北田中町一〇七九山本留蔵方前  〃
北大泉一三五〇畑中  〃
南大泉東大泉畑中  〃
上石神井二ノ一五〇〇木下勘三方附近  〃
上石神井二ノ一五四七本橋鉄太郎方  〃
上石神井関町一ノ四四上石神井一丁目附近  〃 一一
上石神井二ノ四六 〃  二ノ四七附近  〃 一八 一五
上石神井二ノ一九一神学校    三丁目  附 近  〃 一五 一一
 〃 七八以上 一〇 三〇 二〇 一七 三七
(警視庁警備総第一二〇号)二〇年四月一二日

<数2>20年4月<数2>13

  1. 一、被害地域 豊玉上町一丁目、豊玉北町三~六丁目、練馬北町一・二丁目、練馬南町五丁目、江古田町、田柄町一、全焼戸数約五六一戸
  2. 一、罹災者約二八一四名
  3.            (帝都防空本部情報第一六五号ノ二)三時現在

<数2>20年5月<数2>24

  1. 一、練馬貫井町 火災発生延焼中
  2.            (帝都防空本部情報第一七九号ノ一)九時現在
  3. <数2>20年6月<数2>10
  4. 一、練馬署 練馬南町一丁目 練馬仲町六丁目
  5.            (警視庁空襲災害状況一覧表

<数2>20年7月8日

  1. 一、練馬署 土支田町
  2.            (警視庁空襲災害状況一覧表
  3. <数2>20年7月<数2>10
  4. 一、六時五十分頃板橋区練馬高松町二ノ四七七一番地本橋四方蔵方住家及納屋ニ二〇瓩級爆弾二ケ(一ケハ不発)落達シ就寝中ノ長女ミヨ当二十三年即死ス 尚納屋ハ全壊セリ
  5. 一、六時五十分頃板橋区練馬土支田町一ノ六六〇番地本橋健次方台所ニ二〇瓩級爆弾一個及ビ同家裏畑中ニ二〇瓩級爆弾三個落達アリタルモ台所ノ一部ヲ破壊シタルノミニテ人畜ニ被害ナシ
  6. 一、六時五十分頃板橋区練馬土支田町及練馬田柄町附近ニ機銃掃射(含焼夷実包)ヲ受ケタルモ被害ナシ
  7. 一、六時三十分頃ヨリ同七時頃ノ間成増 立川 調布各飛行場ニ銃爆撃受ケタルモ被害軽微ナル模様ナリ
  8.            (警視庁警備総第二三五号)二〇年七月一〇日
  9. 一、板橋区練馬支所 イ、練馬三丁目四七七一本橋方ニ小型爆弾落下シ長女ミヨ死亡 ロ、練馬高松町一ノ四一一五番地及練馬土支田町一ノ六六
  10. 一、番地内民家ニ小型不発爆弾落下スルモ何レモ人畜ニ被害ナシ
  11.            (帝都防空本部情報第一九八号)七月一一日八時五〇分現在

<数2>20年8月8日

  1. 一、練馬署 下石神井 上石神井
  2.            (警視庁空襲災害状況一覧表
  3. 一、練馬支所 下石神井二丁目一七八七番地栗原軒作方裏ニ一トン爆弾一個落下、下石神井二丁目一八七七番地富岡文吉方一トン爆弾一個落下、下石神井二丁目一三〇九番地陸軍補給所一トン爆弾四個落下何レモ不発目下調査中
  4.            (帝都防空本部情報第二〇七号)一九日一〇時現在
  5. <数2>20年8月<数2>10
  6. 一、練馬南町二ノ三三七榎本達之助方ニ爆弾一個落下、死者一名、重傷二名、倒壊家屋約五戸ヲ生ズ
  7. 一、小竹町、爆弾数個落下、重軽傷八名、埋没者数名アル見込、家屋倒壊四戸、全焼一戸ヲ生ズ
  8.            (帝都防空本部情報第二〇八号)一三時現在
  9. 資料:『東京大空襲・戦災誌』

<節>

第三節 配給制度
<本文>
戦時下の配給制度

昭和一二年七月、全面的な日中戦争に突入したが、以後収束の見通しもたたないままに長期化の様相を呈しはじめた。こうした状況下で経済統制は次第に強められ、消費生活の上にも大きな影響をおよぼすところとなった。消費節約、貯蓄奨励、生活改善等のかけ声とともに生活必需品の消費抑制が進められ、一五年以降の諸物資の配給制実施へとつながってゆく。

配給制が推進されてゆくにつれて、一部には国民生活の最低保障をめぐる議論がさまざまに闘わされていたが、一般の世論は正に「ぜいたくは敵だ」とする風潮に傾いており、可能な限り生活を切りつめてゆこうとする構えがみられた。また事実太平洋戦争突入以後には好むと好まざるとに関わらず極度な消費制限を強いられるところとなった。

最初の配給制は一五年六月に砂糖とマッチを対象に行なわれた。同年八月東京市では経済局内に消費経済部を設け、この中に配給課を置いて以後の配給に関する業務を推進させている。砂糖・マッチに続いて特免綿製品、地下足袋、牛乳あるいは育児用乳製品、正月用糯米、家庭用綿などが次々に配給制下におかれ、この間木炭や煉炭など家庭用燃料も配給制となっている。

一方かんじんな主食については、すでに一四年の大凶作を迎える以前から徴兵や動員による農業労働力の減退あるいは農機具や肥料の不足を来し、決して楽観しえたものではなかった。これに凶作が追い打ちをかけ、米相場の暴騰をみ、政府は米価の抑制や外米の買い付けに奔走するところとなった。しかし米の絶対量は補いきれず、売り惜しみあるいは買いだめ等の弊害を招くに至った。

東京市では早くから割当配給制への移行が検討されていたが、一六年一月になって卸商業組合と小売商業組合とを併合さ

せた東京府米穀商業組合の成立をみて、四月一日から通帳割当配給制の実施に踏み切った。このときそれまでの米穀商が大巾に整理され、練馬区域内では三五軒が配給所として残されている。米の割当量は大人一日二合三勺(三三〇g)であった。

その後、太平洋戦争突入という事態をみて、主要食糧の国家管理はさらに強められ、一七年二月二一日には食糧管理法が公布された。これに基づき、食糧の配給・加工製造・および貯蔵を主要任務とする中央食糧営団が九月一日に設立され、その下部組識として東京府食糧営団が一〇月一〇日に誕生している。当時の板橋区練馬支所管内にも同営団の支所がおかれ、配給所はさらに統合されて一四軒の店舗がこれに当ったといわれる。

やがて戦局が拡大されるにつれて米の入手はますます困難なものとなり、一七年八月には乾麺が一部代用食に当てられ、以後小麦、とうもろこし等の雑穀類やいも類が登場することとなった。一九年以降には外米輸入の道もほとんど閉され、もっぱら国内産の米麦やいも類が主体となり、これに満州・朝鮮からの雑穀あるいは豆類が加わる程度であった。二〇年に至ってからは天候不順による凶作が予想されはじめ、合せて満州などからの輸送も絶望となり、食糧問題は極限に達した。配給内容も代用食の比率が高められ、東京都では六月まで八割程度は確保されていた米も七月以降には五割ほどに落ち込んでいる。配給基準も七月三日には一割削減が決定された。

こうした主要食糧の統制が推進される一方で、先にも触れた諸物資や副食物等の統制や配給制もそれぞれ進捗し、一七年二月からは衣料品に対する点数切符制の配給も実施されている。次に主要物資のいくつかについてあらましをみておきたい。

○魚と野菜 戦争末期には一人当り野菜一〇匁から五匁の配給で隔日配給、二〇年一一月には一世帯数日分として玉ねぎ一個にさえなったといわれる。農民の自由出荷を認めて出荷量増加をはかる目的から一一月統制撤廃をしたが、この結果入荷は非常にふえたが値段が上り、およそ公定価格の一〇倍にもなった。そこで二一年一月限界価格制度をつくって、取締りを

強化したが、効果はあまり上らなかった。このため魚は三月から、野菜は四月から再び統制されるようになったが、正規ルートが少く物資はヤミ市にばかり流れて行った。

二三年よりようやく生産の向上と交通の便がよくなり、二、三倍の量が入るようになったことから二四年四月には野菜が、二五年四月からは水産物が統制撤廃され、従前通り中央市場の手を通して行なわれるようになった。

その間練馬の農家としては市場への出荷はもちろん、野菜づくりの指導、買出しの人々への応待等に追われた。

○味噌・醤油 昭和一七年の統制で月一人当り味噌一八〇匁、醤油三合七勺。戦況の激化につれて原料不足となり、大豆の代用に芋を使い、アミノ酸を使う等して配給した。二〇年末醤油は一人当り月一合五勺になったため、闇市に代用醤油があらわれ、農家でも味噌をしぼったり、野菜のスープに塩を入れて、ごぼうで色をつけて使う等した。二五年七月統制廃止。

○砂糖 昭和一五年六月、東京では自主的に統制を行ない、一人ひと月〇・六斤としたが、一九年八月から家庭用の配給はなくなり、国民は砂糖なしの生活に入り、果糖とかサッカリン、ズルチン等が盛んに使われた。二三年末にやっと月一人当り〇・五斤の配給が行なわれ、主にキューバ糖が使われた。その後台湾等からも輸入されるようになり、二七年三月統制解除。

○食用油 一五年より配給制。はじめ月九〇gであったが、一八年六〇g、一九年三〇g、二〇年二〇gと減量が続いた。終戦後の二一年には一二gまでになったが、ラード、椰子油、落花生油等により漸く月二〇gまで、二三年には鯨油や大豆油で六〇gまでふえた。その後菜種油も増加して、昭和二五年一〇月統制廃止。

○牛乳・乳製品 乳幼児の食餌確保のため、一五年一〇月から統制に入り、人工栄養児は一日最高三合、一才から二才幼児で牛乳を必要とする者一合、病弱者も対象となっていたが、医師の証明を必要とした。二〇年の頃は空襲もはげしく、牛乳の入荷は必要量の半分にも達せず乳児を抱える者にとって深刻な状態であった。二一年頃より進駐軍の放出乳製品が手に入るようになり、また飼料の放出もあって乳牛もふえ、二五年三月より配給廃止、自由販売となる。

○食肉 昭和一六年より統制、二人まで三〇匁、五人まで五〇匁、八人まで八〇匁、一〇人まで一〇〇匁。隣組で輪番制で配給された。二〇年一二月統制撤廃。

○酒・たばこ 昭和一六年一月、酒の配給制開始。一人二合から四合、一人増すごとに一合ずつ増量した。一九年五月より料理・飲食店の酒類販売をやめ、国民酒場で酒一合、ビール一本まで用意されたが、量に制限があったため長蛇の列がつくられた。配給の酒では足らないので、カストリとかバクダンという焼酎や、アルコールの水わり等が飲まれていた。

たばこも不足して、行列がつづき、情実買いも行なわれたことから一九年一一月より大人男一人一日六本の割合で配給された。戦後も引きつづきたばこの粉と巻紙が配給され、自分で巻いて吸うことも多く、煙草巻器等が出回った。松葉やトウモロコシの毛、カボチャの葉が代用品として吸われた。

○衣料品 昭和一七年二月から衣料切符制となり、普通切符は一人当り百点(実際は五点何枚、二点何枚として百点になるようになっており、手拭、足袋、ネル布、晒布等は制限小切符になっていた。一八年末から現品が不足して、切符があっても使えない状態となり発行停止、二一年から現物配給となり、隣組などで分けあったが、一年にシャツ一枚位であった。二二年に再び切符制をとり、何でも買っておく程であった。次第に衣料品が出廻り、二七年統制解除。

○薪炭・石炭 昭和一五年から統制、配給制となった。一九年には輸送が悪くなり、年間一世帯六・二俵、二〇年には三・八俵と少くなった。燃料が不足すると、庭樹や不要の残物まで燃料とした。二四年八月薪、二五年木炭が解除された。ガス、電気の供給もよくなったからである。

こうして二〇年の末になるのであるが、各所に行列が出来、何の行列かも知れず並ぶと言う状態も漸く終ったわけである。

炭焼きが練馬でも行なわれ、庭樹や植木も切られて燃料になった。農地開発と薪炭確保のために山林がなくなっていったのである。

戦後の配給生活

昭和二〇年の終戦の年は、天候不順、肥料不足、台風等の悪条件が重なり、米の収穫が少なく、明治四三年以来の大凶作と言われ遅配は続くばかりであった。地方米の出荷を頼む以外政府に打つ手はなく、闇物資が横行して、社会不安は高まる一方であった。

幸い、総司令部に懇請しておいた外国食糧三百万tのうち、マニラから小麦一千tが入り、三月には米麦一五万石が輸入されて切りぬける事ができた。連合軍の余剰物資やトウモロコシ粉等が配給され、米ぬか、ふすま、どんぐり粉、いも類の乾燥粉等を小麦粉と共にねって代用食ともした。個人的な買出しもこうした状態では行なわれるのが当然で、官庁や会社でも遂に買出休暇を認めるほどであったが、食管法違反として取締りは厳重で都と県の境の検問所を通過するのは大変であったという。区の北、川越街道の東埼橋はそれで一躍有名になった。列車内でも検査が行なわれ、線路際に袋を落して検査を逃れ、あとでとりに行くとか仲間に拾わせる方法もとったという。

都では人口の増加を抑えるため、転入の抑制、再疎開の奨励を行なったが、形式だけ近くの県に配給籍をおき幽霊人口として入り、配給された食糧を運搬して生活する者も多かった。

練馬の農村はそうした点では余剰の食糧の放出、闇売りもある程度行なったようである。東上線や西武線はそうした意味で買出しの人々によって盛んに利用されていたと言える。

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主食の配給は米穀通帳が使われ、基準に従って、家族の年令、性別、職業等により配給量がきまり、登録してある米穀配給所から配給米を受けるのであるが、農家は生産も行なっているので、配給停止期間があって、その期間は通帳は配給事務を取扱っていた区役所に預けておかなければならなかった。生産量、供出量(割当がある)によって停

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止期間や対象物資が決められたが、自家用に生産したものについての扱いは自由であった。

昭和二五年の『練馬区政要覧』に一年間の主食として配給する食物とその割合がある(表<数2>56)。精米が中心であるが、不足なので麦類、いも類、雑穀(トウモロコシや大豆、大豆粕もあった)等も用いられ、年令別、職業別によっても配給量はきまっていた。キューバからの輸入砂糖を主食代替として配給して不評を買ったことがある。

その状態を昭和三二年発行の『練馬区史』から拾って見る。

 昭和二〇年 八月より 業務米配給停止一割削減 二合一勺

 〃 二一年一一月より 二合五勺(基準にもどす

 〃 二二年 五月   平均二〇日の遅配

 〃 二三年 七月   キューバ糖を主食代替とする

 〃 二三年一一月より 二合七勺基準に

 〃 三〇年一〇月   業務米配給再開(外米使用

 〃 三一年一〇月   外食券の必要なし(基本配給一〇日分、希望配給一〇日分、外米一人当り月五㎏

外食券とは食事場所が一定しない職業の者の内、弁当持参のできない者に、米穀等に代って配られた食券で、外食券食堂で食事をすることになっていた。二四年一二月の調べでは、食堂数四で、五三七人が外食券を使っていたとある。昭和三〇年からは外食券なしに食堂で食事ができるようになったが、食糧の配給制、特に米の配給制は形だけのものとなり、米穀通帳がなくとも自由に購入できるようになっているが、今日なお通帳が廃止になったわけでもなく申し出れば支給される。米屋は都の食糧事務所を通して配給米と自主流通米を仕入れているとのことである。食管制度として政府買入れ値段、渡し値段(売り値段)が決定されている以上当然の事であろうが、前時代の名残とも言える。