練馬区史 歴史編

<通史本文> <編 type="body"> <部 type="body">

第六部 社寺・民俗

<本文>

第一章 信仰と石仏

第二章 神社・仏寺

第三章 練馬の民俗

<章>

第一章 信仰と石仏

<本文>

はじめに

日本の民間信仰は、その多様性、複雑性において、世界に類がないとされている。そもそもは原始宗教といわれる山・水・木・石などを崇拝する自然信仰と、雨・風・雷・火などを崇拝する精霊信仰から成立っていた。この原始宗教に、古代神道、仏教、道教が渡来し、神仏混淆という形で広まった。さらにそれへ地方のなりわいが加わり、いろいろな民間信仰が形つくられたのである。人間はいつの時代でも、みずからの幸福を願う現世利益型である。練馬の村々の人たちもこの願いは同じで、やがてそれが嵩じて農村特有の信仰を生みだした。その形態は村の年中行事のなかにも見受けられる。農民にとっては農耕の関係から、年毎に繰り返される行事をもって生活の区切りとしているが、そのなかに含まれている神事や仏事は、数少ない休日に相当するものであった。

正月三が日の休みはともかくとして、一月には山の仕事を休む〝山の神〟の日がある。いわゆる守護神に対して感謝するのだが、これは自然信仰に結びつけて考えることができる。二月の初午は、農の神稲荷社のおまつりである。農家では稲荷を〝地の神〟にみたてて屋敷神にしているのも多い。これは江戸時代に稲荷社と八幡社のほかは建立がうるさかったというためもあるが、まつりの日には、いまも「おびしや」の行事が行なわれている。四月九日は氷川台氷川神社の春まつりである。この日は旧地おはま井戸への里帰り行事が行なわれる。ここで代表者二人による鶴の舞を奉納、このあと神社に戻ってから、かつては田遊びが行なわれたがいまは途絶えている。これは予祝行事といって、五穀豊饒を前祝いする神事なのである。七月の七夕まつりには、牡牝のチガヤ馬をつくり笹竹につるした。この馬は〝田の神〟が田圃を見廻るための乗馬にす

るものと信じられていた。しかし、神の乗り物なら、牡牝を分ける必要がないはずだが、二頭向きあわせたのは、生産力を霊視した結果によるもので、性と民俗信仰を結びつけ、子孫繁栄と五穀豊饒を併せ祈願したものと考えたいのである。一〇月三〇日の荒神さまお発ちの日と一一月三〇日のお帰りの日は、だんごを作ったり、小豆飯などを用意してたいへん気をつかう。普通一般には火伏せの神として、カマドのおかれるカマヤに棚をつり、小さい木宮のなかに火難除けのお札とともにまつるのが、農の神としても重要なのである。その年とれた初穂を供えたり、注連縄も当年収穫の新藁を選ばなければいけない。もしもこれをおこたったり、まつりの仕方が粗末だったりすると、文字通り荒れ神となっていろいろと崇りを及ぼすので、丁重な扱いがなされたのである。

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以上、年中行事のなかから、組織的な諸宗教活動によらない民間信仰の一部を抜き出したが、その多様性をこのわずかな例からでもうかがい知ることができる。とくに農村における生活圏は、村そのものを一つの単位として考えていた。したがって他村との境は、異郷との対峙する場として、かつては特別に注意を払っていたのである。村境を通って他村や山へ仕事に行く人、あるいは代参講などで山詣りや伊勢詣りをする人たちを送り迎えし、仕事や旅の安全を願って庚申塔、馬頭観音、地蔵、そのほか塞の神などが建てられた。このうち塞の神は異郷から入ってくる悪病・流行病を防ぐ神として崇められていた。練馬にはこの塞の神すなわち道祖神こそ見当らぬが(八坂神社の中里富士に、マル吉講が建てた道祖神が一基あるが、明治初年に築造したときの記念碑的な性格が強い)区内に現存する石仏のかずかずは、これらを十分に物語ってくれるのである。

<節>

第一節 板碑とその信仰
<本文>
板碑造立の趣旨

板碑という名称は、江戸時代の末頃から用いられるようになった。このため『新編武蔵風土記稿』にはこの名称が使われているが、産地の別、石の形状により板仏、平仏、青石塔婆、板石塔婆などとも呼ばれてきた。

その分布は、関東一円に限らず近接する甲斐、信濃、伊豆、駿河はもとより、北は東北地方から南は九州にまで及んでいる。呼び方については、各地域の特色ある型に因んでいるわけであるが、板碑分布の密度は関東地方が最も高い。この関東の板碑はいわゆる青石塔婆が多く、使用した石材は秩父青石で知られる緑泥片岩である。ときには雲母片岩も使われているが、ともに古生層に属し、板状にげ易い性質があり、塔婆作りに最も適したものであった。しかもその産出地は手近かな三波川系の地である荒川、槻川、都幾川などの流域や、群馬県との境を画する神流川の上流に認められる。とくに荒川流域はその産出量も多く、このため埼玉県を中心に関東一円に広がった。青石塔婆とは、石材そのものが青色を呈していることから呼ばれた名称である。

板碑のはじまりは、仏教信仰による塔婆の造立である。しかし平安時代は主として貴族的であったため、形式としては多宝塔、宝篋印塔、多層塔、五輪塔などが造立された。時代が下って鎌倉時代になると、浄土宗が一般民衆を対象に、阿弥陀の慈悲にすがって極楽往生をしようとする浄土信仰を広めた。その結果、五輪塔の小型のものの造立が目立って多くなった。ただこれでは造立者としては物足らず、これに偈文、願文、趣意、法名、紀年銘などを刻むことを考えた。五輪塔を扁平にし、上部に五輪をあらわし、下部を長くした板塔婆、すなわち石塔婆が造り出された。この意味からすると、板碑という名称は妥当でないことがわかるが、すでに古くから用いられているので、ここでは板碑としておく。

塔婆としての板碑造立の目的は、順修、逆修および作善の三つに分けられる。順修塔は先亡者の追善を祈るためのもので、多くは墓所または寺地に建立されている。逆修塔は生前に自己の後生を願うために造立するもので、順修塔とほぼ同じ場所に建立する。作善塔は多人数が結衆して講中をつくり、その人たちから集めた浄財で建立する。これは修善のためにつくられるのであるが、逆修の意味も含まれている。だが前二者の塔とは趣を異にし、造立する場所は道端かあるいは人の多く集まる景勝の地を選んでいるのが特徴である。

板碑における本尊表現の方法は、図像・種子しゆじ・尊号の三種であるが、たまには三者を複合したものも見受けられる。図像とは実際に仏像を刻んだもので、弥陀では一尊、三尊、来迎三尊、善光寺式三尊があり、他の仏では、釈迦、大日、薬師、観音、地蔵などがある。種子しゆじは、図像に代えて、梵字で示したものである。図像よりは簡単に刻めるため、板碑の大半はこの種子で表わされている。尊号には、南無阿弥陀仏の六字名号と、南無妙法蓮華経の七字題目がある。

武蔵国の地域では弥陀種子を表示したものが全体の九〇%を占めているといっても、これをただちに浄土信仰によるものだとはいいきれない。数ある板碑の中には弥陀種子と同一系統とはとうてい考えられない種子が一緒に並列されている場合があるからである。これは板碑の造立者が、己の宗派的な考慮をなさず、きわめて融通性をもった立場でなされており、当時の仏教信仰の一面を物語るものである。

板碑の形式とその変せん

板碑の形状は、時期によって多少の変化はあるが、おおむね一定している。上部を山型にしており、根部を尖らすのは、地上に立てるのに便利にしたためである。また別に孔をあけた台石を造り、これに指し込んで立てたものもある。背面には彫刻を施すことはなく、もっぱら表面のみである。上部の二条線もそうだが、鎌倉時代の板碑は種子の梵字は鋭く、しかも縦長で端正な彫りを示している。蓮台も中房に丸味があり、蓮弁も雄渾な美しさがある。この時期のものはだいたい大型のものであるので、製作もかなり丁重に扱ったものと思われる。南北朝時代を経て室町時代になると、製作も大分粗雑になり彫りは浅く、線も弱い。蓮台も底辺が広くなり横に押しつぶしたよ

うな円形である。さらに天蓋、花瓶(けびょう)、三具足(みつぐそく)などは、板碑が石材なるが故に半永久的なものという考えで、先霊に香華をたむけるための荘厳具として刻み込んだものであろう。

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今日まで発見されている最も古い板碑は、埼玉県大里郡江南村須賀広で出土し、いま同地大沼公園の弁天島に保存されている嘉禄三年(一二二七)銘の図像板碑である。これが発見されるまでは、最も古いものとして貞永二年(一二三三)三月七日のものがあげられていた。(最近、江南村樋春字上樋口の観音寺墓地で安貞二年〔一二二八〕一二月一五日銘の板碑が発見された。)所在地は埼玉県北本市石戸宿の東光寺である。無住寺のため現在は収蔵庫に収められ、北本市教育委員会が管理しているが、かつては蒲冠者源範頼ゆかりの樹令七〇〇年という蒲桜(かばさくら)の樹下にあった。

江戸末期、滝沢馬琴が『玄同放言』の中で、これを紹介してから範頼の供養塔として知られていた。ただ板碑というにはあまりにも形式が異っている。幅七〇㎝と広い割に、高さは一七〇㎝、厚さもあって重厚味はあるが、上部は平で山形はない。このためやや寸づまりの感じがする。多分頭部には笠石が置かれていたものと思われるが、この板碑こそ、初期石塔婆からの変せんを語る唯一のものといえよう。

区内の板碑とその特徴

板碑信仰の頂点は、一三六〇年代といわれている。それ以後、室町時代の一三九〇年から一四四〇年頃には一時衰退した。しかし、一五二〇年までは衰退したとはいえ、一定の数を保っていたが、一六〇〇年代に至ってまったく終滅したとみられている。

これを区内に伝わる板碑の年代にあてはめると、最も古いものでは、道場寺付近で発見されたという文応元年(一二六〇)のものがある。区内の板碑はこれによって、鎌倉時代中期からはじまったとみてよいであろう。南北朝時代になると非常に

多くなり、この時代全般的な風潮にならって、板碑の造立が盛んになったことを示している。このうち主な出土地は、石神井地区と豊島園をとりまく周辺で、南朝年号の正平七年(一三五二)銘の一枚のほかは、すべて北朝年号であることに注目したい。この間に大泉地区でも題目板碑がボツボツ現われはじめているが、これらもみな北朝年号であるところをみると、この地方は当時、北朝の制下であったことがわかる。もちろんこの時代、すでに豊島氏が当地方を掌握していたし、動乱にあたっては、足利氏に従っているので、これはそのまま北朝支持に通じるものであることは、史実によっても明らかである。ただこの中で、南朝の年号が、石神井城に近い三宝寺の裏から発見されたというのは、北朝を支持することの強い勢力の中にあって、なお、南朝を奉ずる人々が存在したことを、これは立派に証明したものである。

南北朝末期から室町時代初期にかけては数が少なくなるが、一四五〇年代に再び増加し、以後は減退の一途をたどり、善行院にある天正一一年(一五八三)銘の題目板碑をもって終っている。全国的にみても、最新は慶長元年(一五九六)というから、本区における状況は、日本の板碑史とほぼ同様な歩みであったことがわかる。

これを信仰の面からみた場合、区内における板碑の分布は、石神井川流域と白子川流域の二つに分けられる。前者ではごく僅かの大日や釈迦を除いて、ほとんどが弥陀種子であるのに対して、後者は教学院の弥陀以外は全部題目板碑である。これによって妙福寺を中心とした日蓮宗が、この地ではいかに盛んであったかが窺われる。一方の石神井流域の弥陀種子は浄土信仰によるものかというと、そうではないようである。前項で述べた通り、宗派的な考慮をせず、融通性がなしたわざと思われる節があるからだ。なぜなら、石神井川流域の寺院は真言宗が多い。本来なら大日の種子がもっとあってよい筈である。にもかかわらず弥陀種子の多いことと、他に類をみない程、題目板碑の多いことが、本区における板碑造立の一つの特徴であるといえよう。

以下、区内の板碑で特筆すべきものをつぎに紹介する。

1、本区最古の板碑 文応元年(一二六〇)一一月日銘の弥陀一尊である。頂部の右側が破損している。道場寺付近で発掘

されたので道場寺が所蔵している。

2、南朝年号の板碑 正平七年(一三五二)二月二〇日銘の弥陀三尊である。上部は破損しているが、北朝制下の地に南朝年号のあることは、栄故盛衰の激しい時代にあって、地方小豪族の生態を物語るものとみてよいであろう。三宝寺蔵。

3、弥陀三尊来迎図像板碑 文明四年(一四七二)七月一五日銘の月待供養図像である。本区の板碑中最も大きなもので、高さは一四〇㎝である。しかも彫刻芸術の素晴らしさは他に類がないといわれる。上部に天蓋を付け、本尊弥陀を陽刻に、両脇侍を陰刻にして雲に乗って降る来迎図は、仏画と全く変らぬ精巧美である。仏像の下に机が据えられ、その上に香炉を中心に、左右に花瓶と燭台が置かれている。しかも香炉からは香煙が立ちのぼっているところなど、細かい点に注意が払われているのは、仏壇や寺の本堂を思わせるに十分である。三宝寺蔵。

4、長享の申待供養板碑 長享二年(一四八八)一〇月二九日銘の板碑で、春日町の稲荷社に立っていたものである。申待供養の板碑として、川口市領家の実相寺から文明二年(一四七〇)のものが発見されるまでは、最古といわれた重要な板碑である。昭和三三年、小花波平六氏がこの板碑を発表して以来注目されている。とくに碑面に彫られた種子をめぐって、不動明王か文殊菩薩かの二つの解釈で論争があったことは有名である。ただこの論争のように単に種子の究明だけでなく、民間信仰の中にひそむ問題としてもっと広く考えたいものである。

5、六地蔵異(私)年号板碑 福徳元年辛亥三月二三日銘の月侍供養結集板碑で、南田中から出土し、いま妙福寺に納められている。福徳という年号は正規のものではない。当時、何か不吉なことが連続して起きたりしたとき、国で定めた年号を使わず、縁起のよい年号を私的に作って用いることが行なわれた。これを私年号、異年号といっている。福徳元年は、延徳三年(一四九一)にあたるとされている。

6、八臂はつぴ弁財天板碑 文亀元年(一五〇一)巳月良辰と刻まれた板碑で、錦町円明院の所蔵である。弁財天の絵像を毛彫りしたもので、珍らしいうえに彫刻がたいへん優美である。長さ三六㎝の断碑のため、全貌はわからない。大正初期に、本堂

裏の崖土を採取したとき、偶然にあらわれた洞窟の奥から発見された。寺にも記録がなく、祀られていることも知らなかったし、この洞窟が板碑を祀るために作られたものか、あるいは横穴古墳を利用したものかは不明である。大正四年三月二一日、村民相はかって寺の背後にある土窟を発掘したところ、周囲の壁には蓮花が彫刻され、一番奥に弁財天の板碑が祀ってあった。そこで村人たちは、毎月三日、二一日を祭日と定め、当日は遠近からの参詣者で賑わったという。昭和五年発行の『大東京の史蹟と名所』(佐藤太平著)にも名所穴守弁財天として紹介されている。

区内所在板碑一覧            注=題目板碑はⒶⒷⒸで分類した。Ⓐ一塔両尊式 Ⓑ曼陀羅式 Ⓒ一遍首題式
年号西暦種子解説所在地目録
番号
文応元年十一月 日 一二六〇 弥陀一尊 種子、紀年号のみ、本区最古の板碑 道場寺 一五八
文永八年 日 一二七一 種子不明 上下部欠損 教学院 二五八
弘安三年八月 一二八〇 弥陀一尊 種子、紀年号のみ 阿弥陀寺
弘安(?)六年正月一日 一二八三 題目板碑 Ⓐ 題目及び法名妙法位 加藤義久 一八八
正応四年 月 日 一二九一 弥陀一尊 種子、蓮台のみ、他は魔滅 長命寺 七六
永仁四年六月 日 一二九六 弥陀三尊 種子、蓮台、下部欠損 爪生 清 二五九
永仁六年四月 日 一二九八 釈迦一尊 種子、蓮台のみ 道場寺 一五九
徳治二年十月 日 一三〇七 釈迦一尊 種子、蓮台、紀年号のみ、上下部少欠損 虚空蔵堂 四五
徳治二年十一月 日  〞  〞 種子、花瓶、全体的に欠損 阿弥陀堂 五五
正和元年壬子十二月十六日 一三一二 大日一尊 種子、蓮台 道場寺 一六〇
正和二年六月 日 一三一三 弥陀一尊 種子、蓮台のみ 笠松墓地 八二
正和二年八月 日  〞  〞 種子、蓮台のみ 道場寺 一六一
正和三年八月 日 一三一四  〞 種子、蓮台のみ 三宝寺 一〇四
元応元年壬七 一三一九  〞 種子、蓮台、下部欠損 長命寺 七七
元享元年 一三二一  〞 種子、蓮台、下部欠損 荘俊子 二五一
正中  三月二十四日 一三二四~五  〞 種子、蓮台、法名妙法禅門、紀年号 虚空蔵堂 四九
嘉暦三年十一月 日 一三二八  〞 種子、蓮台、紀年号のみ 開進一中 二八
元徳元年己巳九月十一日 一三二九  〞 種子、蓮台、法名、右上部下部欠損 爪生 清 二六〇
元徳元年己巳十月 日  〞 弥陀三尊 三尊とも月輪、蓮台、偈句、逆修供養、法名戒音禅尼 長命寺 七八

元弘□□ 一三三一~三 題目板碑 Ⓐ 題目部分のみ 妙福寺 一九六
建武三年十一月 日 一三三六  〞 Ⓒ 上半部欠損題目のみで法名なし  〞 一九七
康永三年二月 一三四四 弥陀一尊 板降、蓮台のみ(北朝年号) 荘俊子 二五二
康永三年十一月 日  〞  〞 種子、蓮台、花瓶のみ、上下部少欠損 三宝寺 一〇五
貞和六年六月 日 一三五〇  〞 種子、蓮台、花瓶(北朝年号) 道場寺 一六二
正平七年二月二十日 一三五二 弥陀三尊 上部弥陀題目部分欠損(南朝年号) 三宝寺 一〇六
文和二年二月十六日 一三五三  〞 弥陀蓮台、花瓶、紀年号のみ(北朝年号) 開進一中 二九
文和二年二月吉  〞 弥陀一尊 梵字を彫る(溜淵遺跡出土) 郷土資料室
文和二年十一月  〞  〞 種子、蓮台、花瓶のみ 光伝寺 二二
文和三年六月 日  〞 種子不明 三宝寺 一四二
文和四年三月二十日 一三五五 題目板碑 Ⓐ 題目及び供養者南高橋新右衛門(追刻か) 高橋伊佐吉 一九〇
延文元年丙申十二月十四日 一三五六 弥陀三尊 上部弥陀欠損、三尊共蓮台、花瓶二 阿弥陀寺
延文三年戊戌四月二十日 一三五八 題目板碑 Ⓒ 上部欠損、題目のみで法名なし 妙福寺 一九八
延文六年四月 一三六一 種子不明 花瓶部分のみで他は不鮮明、上半分欠損 虚空蔵堂 四八
康安元年  〞 金剛大日 種子、蓮台、法名、以下摩滅 荘厳寺 二〇
康安二年八月 日 一三六二 釈迦三尊 釈迦のみ蓮台あり 道場寺 一六三
貞治二年十月 日 一三六三 弥陀一尊 種子、蓮台、花瓶のみ 小島勝五郎 五九
貞治二年十月  〞 種子不明 紀年号部分の破片 三宝寺 一〇七
貞治三年二月 日 一三六四 弥陀一尊 種子、蓮台、花瓶のみ 小島勝五郎 六〇
貞治三年十年 日  〞  〞 種子、蓮台、花瓶のみ 荘厳寺 一九
貞治三年十一月 日  〞  〞 種子、蓮台、花瓶のみ 小島勝五郎 六一
貞治三年  〞 題目板碑 Ⓒ 下部欠績 妙福寺 一九九
貞治四年十月 日 一三六五 弥陀一尊 種子、蓮台、花瓶のみ 小島勝五郎 六二
貞治七年戊申二月一日 一三六八 弥陀三尊 弥陀部分欠損、花瓶、法名妙仏 三宝寺 一〇八
貞治七年三月二十四日  〞 種子不明 花瓶、紀年号の他は欠損 芹沢酉右衛門 三六
貞治七年  〞  〞 種子、蓮台、紀年号と法名は摩滅 本橋権左衛門 五七
応安元年戊申五月十六日  〞 題目板碑 Ⓐ 題目及び法名応安妙浄□尼、供養者南高橋新右衛門(追刻か) 高橋伊佐吉 一九一
応安元年五月二十日  〞 弥陀一尊 種子、蓮台、光明真言 道場寺 一六四
応安元年十一月 日  〞  〞 種子、蓮台、紀年号のみ、下部少欠損 開進一中 三〇
応安二年 一三六九 題目板碑 Ⓐ 題目、供養者南高橋 高橋伊佐吉 一九二
応安三年四月二十二日 一三七〇 種子不明 紀年号部分を残し他は欠損 禅定院 八四

応安四年十月 日 一三七一 弥陀一尊 種子、蓮台、花瓶のみ 小島勝五郎 六三
応安五年十一月六日 一三七二 題目板碑 Ⓒ 題自のみで法名なし 妙福寺 二〇〇
応安七年八月十日 一三七四 弥陀一尊 種子、蓮ムロのみ 三宝寺 一〇九
応安 年八月四日か 一三六八~七四  〞 種子、蓮台、花瓶二、下部欠損 光伝寺 二三
応安□年十一月 日  〞  〞 種子、蓮台、花瓶のみ 小島勝五郎 六四
永和二年六月 日 一三七六  〞 種子。月輪、蓮台、偈句、道法 長命寺 七九
永和二年十一月二十四日  〞  〞 種子、蓮台、花瓶のみ 小島勝五郎 六五
康暦元年四月二十一日 一三七九 題目板祥 Ⓐ 題目のみで法名なし、紀年号は摩滅甚し 妙福寺 二〇一
康暦二年六月十九日 一三八〇 弥陀一尊 種子、蓮台のみ、法名明善 禅定院 八六
康暦二年八月十七日  〞  〞 種子、蓮台のみ 小島勝五郎 六六
康暦二年十月二十九  〞  〞 種子、蓮台のみ、一部摩滅  〞 六七
康麿二年□  〞  〞 種子、蓮台、花瓶二 三宝寺 一二五
康暦二年  〞  〞 種子、蓮台、花瓶  〞 一二七
永徳二年十一月 日 一三八二 題目板碑 Ⓐ 題目及び法名妙法尼宗養位、供養者南高橋七左衛門(追刻か) 高橋伊佐吉 一九三
永徳□年三月二十日 一三八一~三  〞 Ⓐ 下部欠損 妙福寺 二〇二
至徳二年二月 一三八五 弥陀一尊 種子、蓮台、花瓶 数学院 二五三
至徳二年九月九日  〞  〞 種子、連台、紀年号、花瓶の他は欠損 寿福寺 四〇
至徳三年三月二十二日 一三八六  〞 種子、法名鏡通禅尼 禅定院 八五
至徳  三月 日 一三八四~六 題目板碑 Ⓐ 摩滅のため題目、紀年号共不鮮明 妙福寺 二〇三
康応二年四月二十五日 一三九〇  〞 Ⓐ 題目のみ  〞 二〇四
明徳二年六月八日 一三九一  〞 Ⓐ 法名の部分摩滅  〞 二〇五
明徳五年十月十六日 一三九四  〞 Ⓐ 題目及び法名妙光  〞 二〇六
明徳か(?) 一三九〇~四  〞 Ⓐ 題目、逆修、下部欠損  〞 二〇七
応永二年六月二十六日 一三九五  〞 Ⓐ 題目及び法名、上部の一部欠損  〞 二〇八
応永二年九月十七日  〞 種子不明 花瓶 三宝寺
応永二年九月十八日  〞  〞 花瓶のみ  〞 一四三
応永二年□  〞 弥陀一尊 種子、蓮台のみ、摩滅甚だし 郷土資料室 九五
応永五年十一月八日 一三九八 題目板碑 Ⓐ 上半部欠損、法名法妙 妙福寺 二〇九
応永五年十一月 日  〞  〞 Ⓐ 上半部欠損、逆修板碑  〞 二一〇
応永五年(?)  〞 弥陀一尊 種子、蓮台、花瓶二 禅定院 八七
応永七年□月二十日 一四〇〇  〞 種子、蓮台、花瓶一 寿福寺 四一

応永八年二月二十二日 一四〇一 陀弥一尊 種子、蓮台、花瓶二 阿弥陀寺
応永八年辛巳十月二十七日  〞 題目板碑 Ⓐ 題目及び法名妙心尼位 妙福寺 二一一
応永八年十月  〞 弥陀三尊 種子、蓮台のみ 長命寺 八〇
応永九年三月二十八日 一四〇二 題目板碑 Ⓐ 上半部欠損、法名妙祐比丘尼  〞 二一二
応永十一年四月二日 一四〇四 弥陀一尊 種子、蓮台、花瓶、逆修、上下部欠損 円明院 一三
応永十六年己丑十一月十五日 一四〇九 題目板碑 Ⓐ 題目及び法名比丘尼□□ 妙福寺 二一三
応永十七年六月一日 一四一〇 弥陀一尊 種子、蓮台のみ、法名部分摩滅 郷土資料室 九六
応永十八年十月十八日か 一四一一 題目板碑 Ⓐ 題目及び法名妙□尼 妙福寺 二一四
応永十八年十月二十八日  〞 弥陀一尊 種子、蓮台、花瓶、法名 光伝寺 二四
応永二十 六月四日 一四一三  〞 妙道、下部折損 貫井地蔵堂
応永二十年十  〞 題目板碑 Ⓐ 題目及び法名、上下部一部欠損 妙福寺 二一五
応永二十三年八月 日 一四一六  〞 種子、蓮台、花瓶、法名道空 三宝寺 一一〇
応永二十六年 一四一九 種子不明  〞 一四四
応永二十七年十一月一日 一四二〇 弥陀一尊 種子、蓮台、花瓶、下部少欠損 郷土資料室 九七
応永二十九年七月十四日 一四二二  〞 種子、蓮台、花瓶、上下部少欠損、法名妙善  〞 九八
応永三十二年十一月二十日 一四二五  〞 弥陀上半部欠損、法名道明 三宝寺 一一一
応永三十三年六月九日 一四二六 弥陀三尊 上部弥陀部分欠損、光明真言あり 光伝寺 二五
応永三十四年二月四日 一四二七 種子不明 上部欠損、法名道阿弥禅尼 三宝寺 一一二
応永三十四年六月  〞 弥陀一尊 種子、蓮台の他は摩滅  〞 一一三
正長元年十月二十四日 一四二八 題目板碑 Ⓐ 題目及び法名妙前 妙福寺 二一六
正長元年□月三十日  〞  〞 破片、法名道宣  〞 二一七
正長□年□月 一四二八~九 弥陀三尊 三尊共日輪、蓮台、光明真言、逆修 三宝寺 一二八
正長二年九月二十二日 一四二九 種子不明 紀年号、法名のみ蓮台より上部欠損 郷土資料室 九二
永享二年十月二十九日 一四三〇 釈迦一尊 種子、蓮台、花瓶、他は摩滅 笠松墓地 八三
永享五年十一月十四日 一四三三 題目板碑 Ⓒ 題目及び法名妙忍、下部欠損 大乗院 一七六
永享六年甲寅正月二十七日 一四三四  〞 Ⓑ 上部欠損で華経の文字のみ、法名妙法比丘尼 妙福寺 二一八
永享六年十月 日  〞  〞 多宝如来、釈迦如来、逆修 天田辰之助
永享七年十一月 日 一四三五  〞 Ⓐ 題目及び法名妙光尼、逆修板碑 妙福寺 二一九
永享八年八月 日 一四三六  〞 Ⓐ 題目及び法名妙源、下部欠損  〞 二二〇
永享八年丙辰八月  〞 種子不明 蓮台より上部欠損、光明真言、念仏供養結集逆修板碑 三宝寺 一一四
永享八年十月 日  〞 題目板碑 Ⓐ 題目及び法名妙法比丘尼、逆修板碑 妙福寺 二二一

永享十一年己未二月二日 一四三九 弥陀一尊 種子、月輪、蓮台、法名浄香禅門 同明院 一四
永事十二年五月六日 一四四〇  〞 上部欠損、蓮台の一部 加藤儀平 一七五
永享十(?)三年 一四四一 題目板碑か 上半部欠損 妙福寺 二二二
嘉吉二年 一四四二 弥陀三尊 三尊共月輪、蓮台、光明真言、法名正光禅尼 三宝寺 一一五
文安元年三(?)月五日 一四四四 種子不明 上下部欠損、蓮台、紀年号、法名道心禅尼 阿弥陀寺
文安二年四月 一四四五 弥陀三尊 三尊共月輪、弥陀のみ蓮台あり、法名道□禅門 三宝寺 一一六
文安二年十月  〞 題目板碑 Ⓐ 下部欠損のため法名不明 妙福寺 二二三
文安三年九月五日 一四四六 弥陀一尊 道性禅門 貫井地蔵堂
文安四年四月二十一日 一四四七 題目板碑 Ⓐ 題目及び法名妙日位 妙福寺 二二四
文安五年九月七日 一四四八 弥陀三尊 弥陀部分欠損、三尊と恩われる、月輪、蓮台、法名教道禅門 教覚院 二五四
宝徳二年三月二十一日 一四五〇 弥陀一尊 種子、蓮台、法名道明禅門 三宝寺 一二六
宝徳三年八月二十八日 一四五一  〞 妙法禅尼 貫井地蔵堂
享徳二年十月十二日 一四五三  〞 種子、蓮台、月輪、法名鏡清禅尼 萩原正次
享徳三年二月十四日 一四五四 題目板碑 Ⓐ 題目及び法名妙浄 大乗院 一七七
康正元年六月十五日 一四五五 弥陀一尊 種子、月輪、蓮台、法名性阿弥禅門 小島兵八郎 五八
康正二年五月二十三日 一四五六 弥陀一尊 種子、蓮台、法名妙心禅尼 加藤儀平 一七二
康正二年丙子九月四日  〞 題目板碑 Ⓐ 題目及び法名妙道位、上部小欠損 妙福寺 二二五
康正子十月二十九日  〞 弥陀一尊 種子、蓮台 小島勝五郎
康正三年正月十日 一四五七 題目板碑 Ⓐ 題目及び法名道明位 大乗院 一七八
康正(下欠) 一四五五~七 弥陀三尊 月待供養、弥陀部分欠損、月輪、蓮台、光明真言、供養者あり 教学院 二五五
長禄三年己卯九月三日 一四五九 題目板碑 Ⓐ 題目及び法名妙道位 大乗院 一七九
長禄三年十二月二十九日  〞 弥陀三尊 上部弥陀部分欠損、三尊と息われる、法名妙道禅門 阿弥陀寺
寛正四年癸未二月二十一日 一四六三 題目板碑 Ⓐ 上部欠損で蓮華経の文字のみ、法名妙宝尼 妙福寺 二二六
寛正五年九月二十七日 一四六四 弥陀三尊 蓮台弥陀のみ、三尊とも月輪、法名妙念禅尼 光伝寺 二六
文正元年十月吉日 一四六六 種子不明 法名、光明真言、逆修の部分を残し欠損 三宝寺 一二一
応仁元年三月二十日 一四六七 弥陀一尊 種子、蓮台、法名妙仏禅門  〞 一二〇
応仁元年丁亥八月十八日  〞 弥陀三尊 三尊共月輪、蓮台、光明真言、逆修祐秀禅尼 荘厳寺 二一
応仁三年八月時正 一四六九 題目板碑 Ⓑ 題目及び法名悲母妙祐比丘尼、逆修板碑 大乗院 一八〇
文明二年八月八日 一四七〇 題目板碑 Ⓑ 題目及び法名、上下部欠損 妙福寺 二二七
文明二年八月十五日  〞 弥陀一尊 種子、蓮台、法名妙秀□□、下部欠損 三宝寺 一一九
文明四年壬辰五月六日 一四七二 弥陀三尊 弥陀のみ蓮台あり 道場寺 一六五

文明四年七月十五日 一四七二 弥陀三尊 来迎図像、夜念仏修養逆修、三尊来迎図像は本区唯一のもの 三宝寺 一一八
文明(?)四年七月二十三日  〞 題目板碑 Ⓑ 上部欠損、法名妙比丘尼 妙福寺 二二八
文明五年巳 三月二十七日 一四七三 種子不明 種子、月輪、蓮台、法名妙忍禅尼、上下部欠損 光伝寺 二七
文明六年七月十六日 一四七四 弥陀一尊 種子、蓮台、月輪、法名道明禅尼 田中万吉 五六
文明九年戊戌 一四七七 種子不明 断片、尾崎遺跡出土、戊戌は文明十年 郷土資料室 二六二
文明十三年四月二十一日 一四八一 題目板碑 Ⓐ 題目及び法名妙心位 妙福寺 二二九
文明十三年七年 日  〞  〞 Ⓐ 題目及び法名妙全位 大乗院 一八一
文明十七年五月二十四日  〞 弥陀三尊 妙祐禅尼 貫井地蔵堂
文明十七年乙巳十月三十日 一四八五 弥陀一尊 種子、蓮台、法名妙慶禅尼 教学院 二五六
文明十七年十月  〞 題目板碑 Ⓐ 題目及び法名妙経尼、下部欠損 加藤儀平 一七三
文明十七年乙巳十一月二十三日  〞 弥陀三尊 月待供養、上部日月、三尊共月輪、蓮台、念仏衆五名記、法名妙□尼 円明院 一五
文明(下欠) 一四六九~八六 弥陀三尊 下半部欠損 三宝寺 一三五
長享二(?)年四月十九日 一四八七~八 題目板碑 Ⓐ 題目及び法名妙忍尼、摩滅のための一部不鮮明 妙福寺 二三〇
長享二年十月二十九日 一四八八 胎蔵界文殊 申待供養、種子、天蓋、月輪、蓮台、本区唯一の庚申板碑 郷土資料室 九九
延徳  六月 一四八九~九一 弥陀三尊 種子、(折損)道性禅 光伝寺
福徳元年辛亥三月二十三日 一四九一 六地蔵像 月待供養結衆名、私年号の福徳は延徳三年にあたる 妙福寺 二三一
明応元年壬子四月二十九日 一四九二 題目板碑 Ⓐ 題目及び法名妙持尼 善行院 一八五
明応四年八月九日 一四九五  〞 Ⓐ 題目及び法名妙信尼位 加藤義久 一八九
明応六年□巳六月二十五日 一四九七  〞 Ⓐ 題目及び法名妙経霊尼 善行院 一八六
明応六年了巳八月十二(?)日  〞 弥陀一尊 道智禅門 本橋源四郎
明応七年戊午十一月八日 一四九八 弥陀三尊 弥陀のみ月輪、蓮台、逆修供養 三宝寺 一一七
文亀元年辛酉六月二十五日 一五〇一 題目板碑 Ⓐ 題目及び法名妙□尼位 大乗院 一八二
文亀元年十一月□二日  〞 種子不明 上下部欠損、月待供養結衆 円明院 一六
文亀元年巳 月良辰  〞 弁才天種子 八臂弁財天図像部分的に欠損、図像として貴重  〞 一七
永正三年丙寅三月十三日 一五〇六 弥陀三尊 三尊とも月輪、弥陀のみ蓮台、法名長順権少僧都 三宝寺 一二二
永正十七年八月二十八日 一五二〇  〞 弥陀のみ月輪、蓮台、法名法静禅門  〞 一二三
永正十八年辛巳三月二十五日 一五二一 題目板碑 Ⓐ 題目及び法名目伝霊位 妙福寺 二三二
天文元年壬辰十二月十七日 一五三二 弥陀三尊 弥陀のみ月輪、蓮台、法名妙心機尼 三宝寺 一二四
天文七年戊戌十月二十二日 一五三八 題目板碑 Ⓐ 上部欠損で華経の文字のみ、法名妙祐尼 妙福寺 二三三
天文十五 五月 一五四六 弥陀三尊 弥陀のみ月輪、蓮台、紀年号、法名妙性禅(尼) 虚空蔵堂 四六
天文十六年二月二十九日 一五四七  〞 弥陀のみ月輪、蓮台、法名道円禅□、下部少欠損 教学院 二五七

天文二十年辛亥七月二十日 一五五一 弥陀三尊 弥陀部分より上部欠損、法名道円禅門 虚空蔵堂 四七
永禄十三年庚午□月二十七日 一五七〇  〞 弥陀のみ月輪、蓮台、光明真言、法名妙泉禅尼 法融寺 一六九
天正十一年十月二十一日 一五八三 題目板碑 Ⓑ 題目及び法名、上下部欠損 善行院 一八七
以下年号不明四月十四日 弥陀一尊 種子、蓮台、花瓶、以下摩滅 阿弥陀寺
 〞 種子、蓮台のみ、下半部分欠損  〞
 〞 種子、蓮台の他欠損  〞
 〞 種子、蓮台の他欠損  〞 一〇
    十月二十八日 種子欠損 上下部欠損甚だしく種子不明  〞 一一
種子不明 破片、何れの部分か不明  〞 一二
天蓋仏頭 天蓋、図像の一部分のみ 円明院 一八
応□ 五月六(?)日 弥陀一尊 種子、蓮台、花瓶の他は摩滅 開進一中 三一
 〞 上部の種子、蓮台のみで以下欠損  〞 三二
 〞 種子の一部、花瓶、首部上半欠損  〞 三三
  七年□月五日 種子不明 上半部欠損、花瓶のみ  〞 三四
応□  八月 弥陀一尊 破片  〞 三五
    三月七日  〞 種子、蓮台、花瓶、法名教覚、摩滅が甚だしい 正覚院 三七
 明  十二年七日  〞 種子、蓮台、花瓶、摩滅が甚し  〞 三八
    四月 種子不明 蓮台の一部のみ、小片  〞 三九
釈迦三尊 種子、天蓋、月輪、摩滅が甚だし 愛染院 四二
弥陀一尊 種子、蓮台、摩滅が激しい  〞 四三
釈迦三尊 種子、蓮台  〞 四四
弥陀一尊 種子、蓮台、光明真言首部のみ 虚空蔵堂 五〇
 〞 種子、蓮台、上下部欠損  〞 五一
弥陀三尊か 中央部の破片(三尊の勢至部分のみ)法名□妙禅尼  〞 五二
種子不明 破片(下半部)全体に摩滅が甚だし  〞 五三
 〞 破片、全体に摩滅が甚だし  〞 五四
弥陀一尊 種子部分以外摩滅 小島勝五郎 六八
 〞 種子部分の他は欠損  〞 六九
 〞 種子上部を残し他は欠損  〞 七〇
種子不明 上部大半欠損、花瓶部分のみ  〞 七一
七年(?)  〞 上半部欠損  〞 七二

種子不明 下部のみ(摩滅) 小島勝五郎 七三
 〞 下部のみ  〞 七四
 〞 破片  〞 七五
弥陀一尊 種子のみ(摩滅) 長命寺 八一
弥陀一尊 種子、蓮台、その他は摩滅 禅定院 八八
ナ シ 台座  〞 八九
種子不明 二条線の見られる小片  〞 九〇
 〞 二条線の見られる小片  〞 九一
弥陀一尊 種子部分のみ他は欠損 郷土資料室 九三
種子不明 下部の破片  〞 九四
弥陀三尊 三尊とも蓮台あり、上少、下部大欠損  〞 一〇〇
延□ 弥陀一尊 種子、蓮台、花瓶のみ以下欠損  〞 一〇一
題目板碑 Ⓐ 上下部欠損、摩滅により不鮮明  〞 一〇二
種子不明 花瓶部分の破片  〞 一〇三
弥陀三尊 天蓋、三尊月輪、蓮台以下欠損 三宝寺 一二九
弥陀一尊 天蓋、左右日月、種子、月輪、蓮台(首部のみ)  〞 一三〇
画像頭部 画像の光背部分のみ、首部破片  〞 一三一
弥陀三尊 首部のみ、以下欠損  〞 一三二
弥陀一尊 種子、蓮台のみ以下欠損  〞 一三三
 〞 種子、蓮台のみ以下欠損  〞 一三四
 〞 種子、蓮台のみ以下欠損  〞 一三六
 〞 種子部分を残し以下欠損  〞 一三七
    三月二日 種子不明 月日、法名□□禅門部分のみで以下欠損  〞 一三八
     月十六日  〞 月日、法名□入禅尼部分のみで以下欠損  〞 一三九
□明八年□月二十七日  〞 月日、法名□禅尼部分のみで以下欠損  〞 一四〇
弥陀一尊 上下欠損、花瓶痕跡か  〞 一四一
   三年七月 日 種子不明 逆修、月輪の一部、法名妙性  〞 一四五
    年十月 日  〞 逆修、郭線  〞 一四六
     四月十日 弥陀三尊 種子、月輪、法名妙  〞 一四七
 〞 種子、蓮台、月輪  〞 一四八
弥陀一尊 種子、郭線のみで以下欠損  〞 一四九

       十一月二十八日 種子不明 蓮台、郭線のみで以下欠損 三宝寺 一五〇
弥陀一尊 種子、郭線のみで以下欠損  〞 一五一
 〞 種子、蓮台のみで以下欠損  〞 一五二
 〞 種子、蓮台のみで以下欠損  〞 一五三
 〞 種子、蓮台  〞 一五四
種子不明 摩滅が甚だし  〞 一五五
 〞 郭線、小片  〞 一五六
弥陀一尊 種子、月輪、郭線、下部欠損 三宝寺管理墓地 一五七
       八月 大日一尊 種子、蓮台の他は摩滅により不鮮明 道場寺 一六六
    二年 弥陀一尊 種子、花瓶の他は摩滅により不鮮明  〞 一六七
       正月 種子不明 破片のため不明  〞 一六八
 〞 摩滅が甚だし、左側下半分欠損 橋本澄夫 一七〇
 〞 破片  〞 一七一
          十五日  〞 上大半部欠損、法名□仙禅尼 加藤儀平 一七四
題目板碑 Ⓐ 題目部分のみで下部欠損 大乗院 一八三
 〞 Ⓑ 題目、紀年号は摩滅 本照寺 一八四
種子不明 破片(下端部) 高橋伊佐吉 一九四
 〞 破片  〞 一九五
題目板碑 Ⓐ 紀年号部分摩滅 妙福寺 二三四
          十六日  〞 Ⓐ 紀年号部分摩滅  〞 二三五
 〞 Ⓐ 題目部分のみ、下部欠損、多宝の「多」を落とす  〞 二三六
 〞 Ⓐ 題目部分のみ、下部欠損  〞 二三七
       八月  〞 Ⓑ 題目部分のみ、下部欠損  〞 二三八
 〞 Ⓐ 題目部分のみ、下右部欠損  〞 二三九
 〞 Ⓐ 題目部分のみ、下部欠損  〞 二四〇
 〞 Ⓐ 題目部分のみ、下部欠損  〞 二四一
 〞 Ⓐ 題目部分のみ、上部少、下部大欠損  〞 二四二
種子不明 上半部欠損、法名妙法尼位  〞 二四三
     二年二月時正 題目板碑 Ⓑ 題目部分のみ、上部欠損、法名妙喜尼  〞 二四四
          十一日  〞 Ⓐ 破片  〞 二四五
種子不明 蓮台、法名恵眼禅門部分の破片  〞 二四六

題目板碑 Ⓐ 題目板碑と思われる破片 妙福寺 二四七
種子不明 破片のため種子紀年号不明  〞 二四八
□応二年六月十□日 題目板碑 Ⓐ 断片、摩滅が甚だし  〞 二四九
 〞 断片  〞 二五〇
二月 種子不明  〞
七月  〞 上部欠損  〞
弥陀三尊 弥陀の月輸が光明真言(区内唯一)、下部欠損、尾崎遺跡出土 郷土資料室 二六一
丑七月十五日  〞 種子、文字アリ 石神井氷川神社
宝□  十 弥陀一尊 種子、下部折損 金乗院
七年乙午  十日 種子不明 折損 貫井地蔵堂
<節>
第二節 庚申信仰と庚申塔
<本文>
庚申信仰のおこり

庚申信仰は練馬区でも比較的多く、現存する庚申塔の数から察しても、その信仰の根強さが窺われる。庚申とは「かのえさる」で、エトの上からの言葉である。エトは暦法にもとづいて十干と十二支を組み合せたもので、六〇年で一巡し、日に当てはめると六〇日で一巡する。庚申信仰は、この六〇日ごとにめぐって来る庚申の日の行事である。この日は特殊な禁忌を要することと、長く生きたいことを願う信仰で、しかも夜を徹して行なうため、なかなか一人ではできにくいものであった。

その思想は中国から渡来したもので、富貴長命を祈る現実信仰の道教による。その説によると「人間の身体の中には三尸さんし虫(頭にいるのを上尸、腹にいるのは中尸、足にいるのを下尸という)と称する霊物が潜在していて、日夜絶え間なくその人のいうこと、なすことを監視している。そして庚申の夜には、人間の眠っている間に、身体から抜け出して天に昇り、天帝にその人の罪禍を報告する。天帝はこれを聞いてその罪状によって、重い場合は命を取り、または寿命を縮める」というのであ

る。

人間は誰れでも、すねに傷を持つ身であるから、天帝に報告されて寿命を短くされる危険にさらされている。これを防ぐには、三尸が報告に抜け出せないよう、庚申の日は眠らなければよいのである。しかもその日は六一日目に廻ってくるだけで、一年にしてみればわずか六回、多い年でも七回である。この晩だけ眠らないでいれば、長生き間違いなしというならこんなありがたいことはないと、大勢集まって夜を明かしたのである。つぎにいう守庚申というのは、このような発想からはじまったといってよいであろう。

守庚申と申待供養

この行事は、庚申の夜を徹夜で謹慎するとして、平安時代以後、宮中行事の一つとして続けられた。これを庚申の御遊びと称して、天皇も出席するほど盛大に行なわれた。とくにこの夜は内蔵寮くらりよう酒饌しゆせんをととのえ、一同に賜わったというから、公の儀式に似たものとなっていた。ただこの席では宗教的な祭祀はなく、適当に揃ったところで菓子を食べ、酒を酌み交しながら談笑したり、歌舞音曲にふけるなど、それぞれが勝手に振舞って夜明けに退出したとある。結局のところ、この行事は貴族たちによる社交のための一夜であるが、三尸の天上を防ぐための一手段でもあったのである。

鎌倉時代に入り、三代実朝の時代になって、鎌倉御所でも守庚申の行事がしばしば行なわれたという。これは実朝自身が飾り物の将軍であるという悶々たる日々から、寸時でも逃れようとすべて京風のしきたりをまね、その生活はきらびやかなものであった。この守庚申も宮中における庚申の御遊びにならったものと伝えられている。

何れにしろ守庚申を口実に、遊楽で一夜を過ごしたことに変りはないが、この信仰は室町時代に入ると一般庶民にまで広まった。このころから守庚申のことを庚申マツリと称していたらしい。それがいつかちぢまって、庚申マチとなったものだと一般には解釈されている。また、六一日目毎にめぐって来る庚申を「待つ」からきたという説もある。とにかく平安時代から多少の変化はあったが、一千年近い後の明治期に至るまで続いたことは、これらの庶民によって支えられた根強さがあ

ったからである。

その分布は都会ばかりでなく農村行事としても多く広まった。それも単に徹夜して、茶菓を喫して楽しむだけでなく、信仰の形式がこの中に盛り込まれ、各種の神や仏を庚申の夜に拝したりした。中世のころは、それが阿弥陀如来であっても、また山王権現、不動明王であろうと、本尊はどれでもよかった。つまり行事を行なうことに意味があったのである。

降って江戸時代には、三尸の害を防ぐことを青面金剛に祈るという形をとっている。これも信仰上の象徴にすぎない。といってしまえばそれまでだが、僧侶などの先達が青面金剛を主尊としての価値を見出し、都会からはるか離れた農村まで結衆を成立させた意義は大きい。

申待結衆板碑の種子論争

農村の庶民は、南北朝動乱の明け暮れのなかで、かろうじて生きながらえた人たちである。生きることへの執着は計り知れないものがあり、生きることを祈る庚申の日を、いかに待ちこがれていたかということである。その庚申待が申待と呼ばれるようになったのを文献の上では『親俊日記』天文七年(一五三八)六月一八日の条に「申待」と見えるのが最初であろうという(窪徳忠氏)。申待は庚申待の省略形であろうとか、こうした呼び名の変化については、多くの先学らによって種々論じられているが、主客を誤って猿を主神としたことでないことはいうまでもない。

このように初見といわれた天文七年より、五〇年も早い長享二年(一四八八)に、申待と刻んだ板碑が武蔵国上練馬村に存在したことは、関東の農村における庚申信仰の状況をより明らかにしたものであった。

この板碑は高さ九五㎝、幅三一㎝の大きさで、瓔珞ようらくをつけた天蓋、中央に大きく刻まれた種子「マン」が蓮台に乗っている。その下には、奉申待供養結衆、左右に結衆者の名が連なっているが、人名の筆頭に融秀阿闍梨とあることに注意したい。

平野実氏は、その著書『庚申信仰』の中で、「おそらくこの人は学問のある僧侶で、村人に守庚申の功徳を説いて結衆をつくり、その供養にこの板碑を建てさせたものと思われる。」と述べているように、先達による布教力は至るところに根を

下しているのである。

この板碑について山中笑氏が著書『共古随筆』(昭和三年刊)の「三猿塔」の章で、板碑に見えたる庚申信仰の年代はとして、幾つか並べた中に「長<圏点 style="sesame">亨長享の誤植か)二年上練馬村」と見える。しかしこれは、単に記録にとどめられた形となったにすぎなかったが、昭和三三年に小花波こばなわ平六氏が再発見し、これを学界に発表したので、にわかに注目を浴びることになった。そして碑面にある種子をめぐって問題がまき起った。それはこの種子を「不動」とみるか、または「文殊」とみるかという見解の相違で、当時この論争は大きな話題を呼んだのである。練馬郷土史研究会ではこの問題を、同会発行の研究ノート二八号に詳しく記録しているが、すでにこの本は入手不能だし、一般の眼にふれることもないので、以下にその大要を述べておこう。

<資料文>

小花波氏が練馬区春日町の稲荷の小祠で、長享二年の申待板碑を発見し、窪徳忠氏に話したがなかなか信じて貰えなかった。その当時、古いものの一つとして知られていた庚申待板碑は、豊島区巣鴨とげぬき地蔵(高岩寺)に大永八年(一五二八)のものがある。それを一気に四〇年も遡及したのだから、疑って当然であった。つまり実物を見ないことには、納得しかねるということであった。そこで三輪善之助氏にお願いした。同氏は早速現地に出向き、詳細に調べた結果、真物と断定した。その後、窪氏も再度の調査に同行、一字一句を丹念に調査し、三輪氏の意見も考え合せ、まちがいないものと漸く認めてくれた。そこで同三三年八月刊行の『練馬の庚申塔』(練馬郷土史研究会研究ノート二、横田甲一・小花波平六著・平野実編)に、口絵写真入りで、しかも三輪氏の趣旨にしたがい「不動明王種子」として発表した。さらに引続き各機関誌や著書に、窪、三輪両氏のほか、清水長輝氏らも「不動明王の種子マン」としてそれぞれ紹介した。

ところがこの不動明王説に対して、永江維章氏から異論が出た。その言うところは「不動様は蓮華の上には坐らない。岩の上ときまっている。第二に、不動様は火焔をしょっている。天蓋の下にいては一一九番に電話をかけなければ」という調子であった。

これに対し三輪氏は、「マンは文殊菩薩にも使用せられるが、この場合には不動であると私は信じる。僧侶が板碑を造立する場合は大体に於て、第一級の如来、即ち阿弥陀、釈迦、大日等の如来を首尊とするのである。不動は大日如来の教令転身であるから、大

日と同体である。大日を首尊とする例は、豊島区椎名町駅前金剛院の、永享十二年(一四四〇)板碑で、胎蔵界大日を首尊とし、地蔵観音を脇侍としている。」と述べて反論した。

その後昭和三七年になって、京都の川勝政太郎氏から、つぎのような文殊説が寄せられ、種子論争は再び燃え上った。同氏のそれは、決定版というわけには行かないが、文殊菩薩と考えている。と前置きし、「一、一般に古来マンは文殊だからです。二、マンを不動とする例は知らず、そんなにヒネて考える必要はない。三、文殊信仰が関東に流行しなかったとしても、この板碑の庚申待の人たちが、文殊を本尊とすることは差支えないと考える。」というものであった。

三輪氏はこの文殊説に対し、再び筆をとり「長享板碑の種子マンを決定するときに、沙門澄禅著『種子集』(寛文十年刊)の説によってこれを不動と決定し、且つ庚申信仰の歴史からもこれを妥当と認めたのであった。マンは澄禅の説によると、文殊菩薩と不動明王の二尊に共通するから種子が使用せられる場合によって何尊であるかを判定せねばならぬ。これは種子キリクは普通には阿弥陀であるが、千手観音、如意輪観音にも共通するのと同じ例である。右のマンが文殊か不動かを決するときに、関東の庚申信仰の古今の例から考えて元来文殊菩薩を庚申待の首尊とした例はない。のみならず庚申待の板碑の首尊は皆高級の如来である。」とし、

豊島区巣鴨とげぬき地蔵大永八年申待板碑の首尊は阿弥陀如来である。

葛飾区本田立石町南蔵院の天文四年申待板碑の首尊は釈迦如来である。

と例をあげ、よって「長享二年庚申待板碑の首尊マンは大日如来の教令転身(化身)たる不動明王であるべきと考えたのであった。文殊菩薩は一級下の次官級になるので、これは不適当と思われる。」と結んでいる。

この一文を読んだ川勝氏は、三輪氏がどうして不動明王とされたかの意義は理解しながらも「私としては常識的に、マンを確実に不動明王種子としている例を知るまでは、文殊説をとります。古い庚申塔では、首尊は固定していなくていいし、関東に文殊を信仰した事があってもいいと考えています。」と、再度不動説を否定し、二つの解釈はこうして対立したまま終っている。

五百年も前の民間信仰の実情は、板碑造立にどれを首尊にしたかは、宗教的にあまりこだわらなかった時代である。無病息災で長生きすることが望めるなら、やおよろずの神をまとめて祈願もしようという、日本人の宗教観が根底にあるため、当時の信仰者たちは首尊はどうあれ、先達の説く功徳に真髄したものと解したい。したがって不動説、文殊説とも、それぞれに理由はあるが、これと

いった定説がないいま、これを解決する道は、今後さらに多くの板碑や庚申塔や文献を探すことにある。として、一応の終止符が打たれたのである。

長享二年の申待供養板碑が、当時日本最古のものということで注目された結果、以上のような問題が提起されたわけであるが、その後、川口市領家の実相寺から、文明二年(一四七〇)申待供養板碑が発見され、ついに最古の座をゆずったのである。しかしこれはあくまで板碑であって、江戸期における庚申塔とはいささか趣を異にしたものとして考えたいが、中世における申待供養結衆は、庚申信仰上重要なポイントとなっているのである。

庚申塔と青面金剛像

江戸時代の庚申信仰の特徴は庚申塔の造立である。さきの長享二年の結衆板碑と同じように講を組織したとき、あるいは結衆以来、何年目かの目標を達成したときに庚申塔を建てた。これを「供養」ということばで表現しているのは庚申縁起によるものである。したがって板碑のように逆修は、この塔に限ってまずみられない。

区内に現存する庚申塔は、前記長享二年のものを除いて最も古いのは、江戸期の寛文三年(一六六三)である。こうしてみると、長享二年以後一七〇年間も空白なのは、たとえ結衆はあったとしても、戦国の世では造塔する気風さえ起きなかったものと思われる。ともかく寛文年間に至って造塔の風潮が芽生えたのは、徳川幕府も四代家綱のころで、世の中も安定した結果である。このお陰で、一般庶民も落ちついて信仰行事ができ、広く農村にまで庚申塔の造立を盛んにしたものである。一方、かつての庚申板碑は、これを契機に次第に姿を消してゆき、主尊も阿弥陀如来、地蔵菩薩、さらには薬師、大日などに替って、新しく青面金剛が主尊としてのし上ってくるのである。

ここで新しくとって替った青面金剛の姿はどんなものかというと、『陀羅尼集経だらにじゆうきよう』巻九「大青面金剛呪法」のいう仏説(儀軌)によると、

<資料文>

一身四手()、左上手は三股叉さんこさを、下手は棒を把り、右上手の掌は一輪をつまみ、下手は羂索けんさくを把る。身体は青色、面は大きく、口

を張り牙を出し、眼は赤く血のごとし、面に三眼あり、頂に髑髏を戴き、頭髪はそびち、火焔のごとき色をなす……。

という形態である。なんとも馴染みにくい姿であるが、天上へ報告に昇天しようとする三尸を、あの忿怒の相で睨みをきかせていただこうというわけである。また、仏説では一身四手とあるが、庚申塔に刻まれた像のほとんでは六手であるのはなぜであろうか。多分庚申さんは万能的な威力を表現するには、四手ではもの足りない感じがしたのかも知れない。だいいち、四手では三尸のうち二尸までは押えられても、一尸は天上へ逃げられる恐れがある。それにはどうしてもあと二手はほしい、六手なら完全と考えたと思われるふしもある。

いま現存する庚申塔のすべてといってよいほど仏説通りに刻んであるのは見当らない。千手観音のように多手の仏像もあるほどだから、当時の石工もそうかたくなな人ばかりでなく、依頼者の注文に応じるという、おおらかさもあったものと考えられるのである。

区内の庚申塔とその特徴

1、道しるべ庚申塔 区内にみえる庚申塔の数は、別掲の通り一三六基の多きに達している。これは他区に較べてもたいへん多く、農村信仰の中心をなしていたことがうかがえる。ただ、この数ある庚申塔が道端に多く建てられているのは、講中など信仰上の結衆を誇示する意味もあったと思われる。また、路上にあることによって、ついでに道中の安全も願っているのは、道祖神との混交した結果によるものとみられている。これは区内に道祖神が見当らないことからも考えられるのである。その結果として、辻などに建立されたものは道しるべをも兼ねたものが多い。とくに区内庚申塔で道しるべ兼用は一七基ほどみられるが、この中には道しるべの方が主目的で、庚申は付け加えられた感じのものもみられるのである。

<資料文>

錦二―二三にあるものは

右側面)右 ふじ大山道

正面)庚申塔(文字

左側面)文政四年辛巳四月吉辰

武州豊嶋郡下練馬上宿

庚申待講中

平和台一―二八にあるものは

右側面)北

禰りむま宿

とたわたし道

正面

天保五年

庚申塔(文字

午四月吉日

屋戸江

台石

中講東村当

左側面

南 ぞうしがや

たかたみち

裏面)西

ふじ山

大山ミち

これはわずかの例であるが、庚申塔というより道しるべに重点が置かれたと思われる塔である。とくに区内にはふじ・大山道のほか東高野山(長命寺)道、あるいは子の権現(貫井円光院)への道もあり、江戸市民が信仰を兼ね物見遊山として歩くことも多くなったためのものであろう。もちろん練馬には馬頭観音の道しるべなどもあるが、庚申塔のものが最も多く、その関係の深さを意味しているのである。

2、三の橋庚申の由来 豊玉中三―一六にある文字塔三の橋庚申は二代目のものである。庚申堂内にある板額に記された由来によると、

<資料文>

享保八年一一月、当地居住の田中半左衛門が、祭神猿田彦の尊を祀れる本庚申塔を設立したという。

その後、大正三年、道路補修に出動した地元民三〇人が頭のみ露出した庚申塔を発見したので一同協議し、同年四月お宮を建てて祀った。それから三〇年後の昭和二〇年、戦災によりお宮は焼失、塔石も破損したが、同二四年二月、地元有志によってお宮を再興した。

そして昭和四一年、破損した塔石に替えて新しい塔を建立、お宮も三度目の作り直しを行い、九月四日盛大に大祭を挙行した。

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ここに記されている最初の塔、享保八年(一七二三)癸卯一一月初一日の塔は、戦災で三つに折れた。このため昭和四一年に新しく造立した塔に三の橋庚申の名称をゆずり、その身は豊玉南正覚院の境内にお預けとなった。その後、正覚院が本堂を改築した際、場所を移動した。そのときに頂点の部分を紛失したのか、現在は三つに折れたうちの下部二つしか残っていない。一応台石に三猿がついているので、かろうじて庚申塔と認められるが原形を失ったことは残念である。

なお、庚申の名称三の橋というのは、いまの練馬郵便局あたりがかつては湿源地で、ここを水源地とした小川が庚申塔の前の道に沿って流れていた。丁度ここに水源地から三つ目の橋がかかっていたので、こう呼ばれるようになったのである。

3、霊験あらたかな中新井庚申 昭和三一年建立という新しいものであるが、区役所前、いわば官庁街に近い豊玉北五―二九にある自然石の庚申塔である。

むかしこの辺一帯は田圃であった。埋立て工事をしたとき、この地にあった庚申塔が行方不明になってしまった。それからというものは病人が出たり、不慮の災害が起ったりした。これはきっと庚申さまのたたりであろうと、付近の住民が集まって、新しい塔を建てて祈った。するとたちまち霊験があらわれ、それぞれの家運は隆盛になったということである。

4、宮田橋庚申塔と敷石供養 高松二―三、正徳五年(一七一五)の庚申塔は方形笠付で、「日月、青面金剛、邪鬼、二鶏、三猿」を刻み、区内でも見事な塔の一つである。かつては宮田橋際にあったのでかく呼ばれているが、はじめは道楽橋際にあったものだといわれている。

このあたりはたいへんな湿地帯で、道も悪く通行人は難渋した。このため橋を修理したときも日数がかかりすぎ、通行人から道楽で仕事をしているのかと、なじられたのが因で橋の名になったほどの場所である。したがって敷石をしいて歩きやすくするための工事も大事業であったらしい。隣りに立つ敷石供養塔は、この工事完成を記念したものである。

5、女名前のある庚申塔 平安朝以来、庚申信仰は比較的男中心のものであったが、江戸時代に至って庶民の行事として広まるにつれて、女人も講中に加わるようになった。しかしまだまだ男尊女卑の時代である。願主または施主として刻まれている名はたいがい男名前で、それが当り前とされていた。ところが区内にある庚申塔のうちに、講中施主として男の中に女がいることや、女名前が並記されているのがつぎのようにみられる。

<資料文>

<項番>(一)向山一―三にある宝永六年(一七〇九)の塔に「施主男十六人、女二十八人」とあり、この結衆は女の方が多くなっている。

<項番>(二)下石神井五―四にあった延宝二年(一六七四)の文字塔には、講中施主として男名前を二六人並記したあとに「おたん女、おたつ女、おたね女、おすす女、おまさ女」と五人の女名前がしるされている。この庚申塔、現在は向い側の天祖神社境内(下石神井六―一)へ移った。

<項番>(三)中村三―一一、良弁塚にある寛文七年(一六六七)の三猿文字塔には「おたみ、おひの、おせん」と女名前がかろうじて読める。以下の名前はわからないが、はじめから女名前で記されているのをみると、これは女ばかりで建てたものと推測できるのである。

以上の三例をみると、まず<項番>(一)では、女衆が多い講中で、これは珍らしい。この塔では男女の人数を分けているが、その他にある「講中十四人」とか、「結衆十二人」などと刻まれた塔もある。前の例から察すると、この中にも女が含まれているとみてよいのである。

つぎの<項番>(二)では女名前が出ているし、<項番>(三)に至っては女ばかりである。塔の造立にはそれなりの費用が必要となり、講中全員から浄財を集める。当然この中の女衆からも何がしかの鳥目が出されている。ましてや<項番>(三)のように女だけとなればなおのことの出費である。ということは、練馬周辺の村々の女たちは、それだけ自由に使えるお金を持っていたか、あるいは小金のある後家ともいえる。江戸という大都市を控えた近郊農村の特徴が、こんなところに現われているのである。

以上は庚申塔に見る信仰の姿であるが、現在庚申の日にはどういう事を行なっているか、練馬区内ではどこで行なっているかを見ると、時代の推移と共に段々と衰えているが、昭和三三年の小花波平六氏の調査ではつぎの一一か所をあげている。

<資料文>

「練馬の庚申待」より

庚申塔 所在地 戸数 掛軸 時間 勤行 会食状況 備考

無 北町二丁目(上宿) 一七 青面金剛 一二時まで なし 一〇円菓子 六日(庚申及申の日

〃 北町五丁目(七軒町) 九 〃 〃 〃 宿持茶菓子 嘉永七年より

〃 北町五・六丁目(大松) 一一 〃 〃 〃 米四合、会食

〃 北町七・八丁目 一三 〃 〃 〃 一〇円菓子、 無尽をする

有 錦一丁目 二一 〃(木像付) 〃 〃 米二合夕食

〃 氷川台三丁目 一〇 〃 宿だけ 〃

〃 平和台二・四丁目 二二 〃(木像付) 一二時まで 〃 一〇円、夕食米二合 初庚申納庚申を行なう

〃 高松二・三丁目 一六 〃 一一時まで 〃 三〇円、菓子

〃 下石神井一丁目 六 〃 一二時まで 〃 宿持 うどん

有 上石神井一丁目 一六 帝釈天 一二時まで なし 一〇〇円(酒、お菓子代) 大正時代 庚申貯金

〃 上石神井二丁目 一〇 青面金剛 〃 〃 米五合

この夜はほとんど夕食後集合なら菓子を食べながら、夕食前なら御神酒を飲みながら世間話や、農事の話をして最後に夕食が出る。長い夜なので、昔はバクチをする者も出てきたという。

祭壇には軸をかけ、団子、お神酒、お灯明、お花、お線香を上げて般若心経をあげたという今神(錦一丁目)の講や、庚申真言「コウシン、マイタリ、マイタリ、ソワカ」を三べん唱える高松講もあり、終ってお神酒を頂くわけである。

庚申の夜は、そうした意味でつつしむ事が大切であるが、次のような禁忌が伝えられており、これを守る申し合せになっている。

◎庚申バラはあげない。

◎庚申さまはお産が大きらいだから、女の人は出ないが、やむを得ない時でも月経の人はいけない。勿論その夜の同衾はいけない。

◎その夜に出来た子は泥棒になるか手くせが悪いので、金へんの名をつける。また庚申の日に生れた子も手が早い。

◎途中で地震や火事があったら、次の晩にやりなおしをする。それで火事がなかったふりをして過してしまう(外に出ない。だまっている。掛軸をまいて、しまっておく等)。

◎春の申の日の種まきは「じか」と言っていけない(下石神井一丁目付近)。

◎庚申さまに底ぬけ柄杓を上げて耳だれ、目の病のお礼とする。

◎庚申さまは手が六本あるから、えらい働きをする。

庚申塔一覧
年号西暦形状解説所在地目録
番号
寛文三年十一月吉日 一六六三 板碑形 文字、三猿 高松一―二二 六六
寛文五乙巳天二月十五日 一六六五 方形笠付  〃 早宮三―九 六〇
寛文七丁未年十一月吉日 一六六七 板碑形  〃 中村三―一一     良弁塚 二七
寛文八年戊申十月五日 一六六八 舟 形 如意輪観音像、三猿 旭町一―二〇     仲台寺 九三
寛文九年 一六六九 板駒形 文字、三猿 春日町三―二七   長谷川家 七四
寛文十三年癸丑年八月十四日 一六七三 板碑形 文字、三猿 小竹町一―一五
延宝二甲寅年十一月吉日 一六七四 方形笠付 文字(梵字)、三猿 下石神井六―一   天祖神社 一二九
延宝三乙卯年十月吉日 一六七五 舟 形 青面金剛像 春日町三―二―二二  寿福寺 六八
延宝(四年)丙辰十一年吉日 一六七六  〃 地蔵立像 旭丘二―一五―五   熊満寺
延宝七己未年十月二十五日 一六七九 方形笠付 文字、三猿 豊玉南二―一五    正覚院 一六
延宝 八年 庚申八月吉日 一六八〇 舟 形 地蔵立像 小竹町一―一五
貞享二天乙丑九月吉日 一六八五 板駒形 青面金剛像 平和台一―四 五七
元禄元年戊辰十一月十七日 一六八八 方形笠付  〃 上石神井一―二〇四二 一二五
元禄二天己巳二月十七日 一六八九 板駒形  〃 桜台五―三一 三七
元禄四辛未八月十五日 一六九一 方形笠付  〃 石神井台七―一〇 一一七
元禄四辛未歳十月十六日  〃  〃  〃 石神井町五―一五 一一四
元禄五壬申十一月十五日 一六九二 駒 形  〃 石神井台五―二三 一一六
元禄五壬甲天十一月十五日  〃 方形笠付  〃 石神井台四―三 一一五
元禄五壬申天霜月吉日  〃 板駒形  〃 貫井四―三〇 四六
元禄五壬申年十二月吉日  〃 方形笠付  〃 高松四―九 七九
元禄癸酉天十月十四日 一六九三  〃  〃 貫井五―七      同光院 四九
元禄七甲戌十一月七日 一六九四  〃  〃 石神井町三―九   笠松墓地 一〇九
元禄八乙亥歳九月朔日 一六九五 板碑形 文字 中村三―一一     良弁塚 三一
元禄八乙亥年十月七日  〃 駒 形 青面金剛像 高野台一―二三 一〇六
元禄九年丙子年十一月二十一日 一六九六 板駒形  〃 石神井台一―一五   三宝寺 一一八
元禄九丙子年十一月二十六日  〃  〃  〃 下石神井一―八 一三〇
元禄九丙子天霜月二十七日  〃 方形笠付  〃 旭町二―九 九四

元禄九丙子天十二月十日 一六九六 方形笠付 青面金剛像 春日町二―一八 六五
元禄 十年 二月吉日 一六九七 舟 形 地蔵立像 旭丘二―一五―五   熊満寺
元禄十丁丑稔九月吉日  〃 駒 形 文字、三猿 中村三―一一     良弁塚 二八
元禄十一戊寅天十一月朔日 一六九八 方形笠付 青面金剛像 高松三―一二 七七
元禄十一戊寅天十一月二十三日  〃  〃 文字 小竹町一―一五
元禄十一年寅十一月二十六日  〃 板駒形 青面金剛像 田柄五―二三 九〇
元禄十一戊寅年十一月吉日  〃  〃  〃 石神井町七―四 一一三
元禄十二己卯年一月二十八日 一六九九  〃  〃 田柄四―三四 九一
元禄十三天庚辰十月二十八日 一七〇〇 舟 形  〃 下石神井一―九 一三一
元禄十三庚辰十二月吉日  〃 板駒形  〃 石神井台一―一五   三宝寺 一一九
元禄十五壬午年十一月吉祥日 一七〇二 方形笠付  〃 貫井四―四〇 五〇
元禄十六癸未年十一月十八日 一七〇三 駒 形  〃    道しるべ 石神井台一―一六 郷土資料室 一二一
宝永元年十一月二十四日 一七〇四 方形笠付  〃 貫井四―三〇 四五
宝永元甲申年十一月二十四日  〃 板駒形  〃 上石神井一―四〇九 一二七
宝永元甲申年十一月吉日  〃 方形笠付 文字、三猿 南田中四―一五    観蔵院 九八
宝永二乙酉天二月二十五日 一七〇五 板駒形 青面金剛像 氷川台四―四六 五二
宝永二乙酉十月吉日  〃 方 形 文字、三猿 南田中四―一五    観蔵院 九九
宝永第二乙酉天十月吉日  〃 駒 形 青面金剛像 上石神井一―三四七 一二六
宝永四丁亥天十一月吉日 一七〇七 舟 形  〃 春日町三―二―二二  寿福寺 六九
宝永四丁亥稔十一月吉祥日  〃 方形笠付  〃 貫井二―四 四八
宝永五戊子夫二月吉祥日 一七〇八 板駒形  〃 早宮三―四二一六 六一
宝永五戊子年八月十五日  〃 方形笠付  〃 氷川台三―二四    光伝寺 五三
宝永六己丑年六月吉日 一七〇九  〃  〃 向山一―三 四三
宝永六年己丑十月二十三日  〃 板駒形  〃 春日町四―一七    愛染院 七二
宝永六年己丑天十月吉祥日  〃 方形笠付  〃 富士見台四―三六 九六
宝永六己丑天霜月吉日  〃 駒 形  〃 春日町三―二    春日神社 七〇
正徳元年辛卯稔十月二十九日 一七一一 方形笠付 文字 豊玉南二―一五   氷川神社 一九
正徳元辛卯年十一月吉日  〃  〃 青面金剛像 高松五―一〇 八二
正徳二壬辰二月七日 一七一二 舟 形  〃 高野台三―一〇    長命寺 一〇三
正徳四甲午天八月十九日 一七一四 方形笠付  〃 北町二―三八     石観音 八六
正徳五歳乙未年十一月二十八日 一七一五  〃  〃 大泉町五―六 一三五

正徳五乙未天十一月二十八日 一七一五 方形笠付 青面金剛像 豊玉南二―一五   氷川神社 一八
正徳五乙未年□□□  〃  〃  〃 高松二―三 八〇
享保二丁酉霜月十日 一七一七 舟 形  〃 春日町三―三三 七一
享保二丁酉天十一月吉日  〃 駒 形  〃 小竹町一―一五
享保四己亥年三月十五日 一七一九 方形笠付  〃 道しるべ 早宮一―四四 六四
亭保五庚子十一月吉日 一七二〇 舟 形  〃 図柄四―三五 九二
享保七壬寅年八月十九日 一七二二 駒 形  〃 道しるべ 氷川台二―七 五四
亭保八発卯天八月十三日 一七二三 方形笠付  〃 豊玉中一―六 一三
(享保八年)癸卯十一月初一日  〃 方 形 文字、道しるべ、現在は上部破損し紀年号不明、
初代「三の橋庚申」
豊玉南二―一五    正覚院 一五
享保九甲辰年 一七二四 板駒形 青面金剛像 氷川台二―六 七六
享保十乙巳三月吉日 一七二五 駒 形  〃 旭丘二―一五―五   能満寺
享保十二丁未天六月吉日 一七二七 丸 彫  〃 下石神井五―七 一二八
享保十二丁未年十月吉日  〃 方形笠付  〃 石神井町八―四二―五 一一二
享保十三戊申霜月十四日 一七二八 駒 形  〃 旭丘二―一五―五   能満寺
享保十四己酉十一月大吉日 一七二九  〃 文字、三猿 豊玉北四―九 二三
享保十五年戊十一月十九日 一七三〇 舟 形 青面金剛像 富士見台二―一四 九七
享保十六辛亥天十一月朔日 一七三一 方形笠付  〃 春日町四―一七    愛染院 七三
享保十六辛亥天十一月十三日  〃 板駒形 文字、三猿 氷川台三―一四    荘厳寺 五六
享保十七壬子霜月吉日 一七三二 方形笠付 青面金剛像 氷川台三―一四 〃
享保十八年癸丑天十月二十八日 一七三三  〃  〃 高松三―九 八一
享保二十己卯天二月吉祥日 一七三五 駒 形  〃 早宮四―一九 七三
元文三戊午天十月二十四日 一七三八 方 形 文字、三猿 豊玉北一―七 二一
元文五庚申十月吉日 一七四〇 方形笠付 青面金剛像、道しるべ 中村三―一一     良弁塚 三〇
寛保二壬戊十一月吉日 一七四二  〃  〃 春日町四―一七    愛染院
延享元甲子年十一月吉日 一七四四  〃  〃 豊玉北四―二一 二四
延享(二年)乙丑天九月吉日 一七四五 板駒形  〃 図柄一―一 八七
延享二乙丑天九月吉日  〃  〃  〃 桜台五―二 四〇
延享三歳龍次丙寅十一月吉日 一七四六 方形笠付  〃 石神井町七―一 一〇八
寛延三庚午十一月吉日 一七五〇  〃  〃 北町二―三八     石観音 八五
宝暦二壬申天十一月吉日 一七五二 駒 形  〃 貫井一―六 四七

宝暦三癸酉天八月吉祥日 一七五三 方形笠付 青面金剛像 練馬一―三一―八 四二
宝暦五乙亥天七月吉祥日 一七五五 駒 形  〃 氷川台三―一四    荘厳寺 五五
宝暦十一年辛巳八月吉日 一七六一 方 形 文字 高野台三―一〇    長命寺 一〇四
宝暦十一辛巳九月  〃 舟 形 青面金剛像 三原台一―二八 一〇七
宝暦十二壬午年十一月十五日 一七六二 方 形 文字(梵字) 南田中四―一五    観蔵院 一〇〇
宝暦十三癸未九月吉祥日 一七六三  〃 文字、三猿 豊玉北二―一七    弁天社 二二
宝暦十三未九月吉日  〃  〃 文字 桜台五―二五
宝暦十四申天二月吉日 一七六四 駒 形 青面金剛像 田柄二―一三 八九
明和元庚申年十月□日  〃  〃  〃 道しるべ 中村三―一一     良弁塚 二九
明和二乙酉歳十月十八日 一七六五  〃  〃 栄町四六 一〇
明和二歳酉十一月二十四日  〃 舟 形  〃 石神井台一―一六 郷土資料室 一二二
明和三丙戌年□□□ 一七六六 駒 形  〃 道しるべ 春日町一―三二 六七
明和四亥年閏九日吉日 一七六七  〃  〃 羽沢三―三〇 一一
明和九壬辰年十月吉日 一七七二 方形笠付  〃 小竹町一―一五
安永二癸巳十月吉日 一七七三  〃  〃 春日町三―二七   長谷川家 七五
安永五丙申年十月吉日 一七七六 方形笠付  〃 道しるべ 富士見台一―一九 九五
安永六年七月吉日 一七七七 駒 形  〃 〃 中村南一―二四―八 二五
安永七戊戌天十一月吉祥日 一七七八 方 形 文字、道しるべ 北町八―五 八四
安永九年庚子二月吉日 一七八〇  〃 文字三猿、道しるべ 田柄三―一三     不動堂 八八
安永九庚子歳十二月吉祥日  〃 駒 形 青面金剛像 桜台五―三九―八 三八
寛政九丁巳年十月吉日 一七九七  〃  〃 道しるべ 桜台五―二 四一
寛政十午年四月吉日 一七九八 方 形  〃 〃 貫井四―二三 四四
寛政十二庚申年十一月吉日 一八〇〇 方形笠付  〃 〃 中村北二―一九 三四
享和元辛酉五月吉日 一八〇一 舟 形  〃 〃 高野台三―一〇    長命寺 一〇二
文化元甲子七月吉日 一八〇四  〃  〃 〃 豊玉南二―一五    正覚院 一七
文政元戊寅年九月吉日 一八一八 駒 形 文字 石神井台一―一六 郷土資料室 一二〇
文政四辛巳四月吉辰 一八二一  〃 文字、道しるべ、ふじ大山道庚申塔 錦町二―二三 五一
天保四癸巳年二月吉日 一八三三 方 形 文字 南田中四―一五    観蔵院 一〇一
天保五年午四月吉日 一八三四 駒 形 文字、道しるべ 平和台一―二八 五八
天保十二丑年三月吉日 一八四一  〃 文字 石神井一―一六  郷土資料室 一二三
嘉永三庚戌歳十二月吉日 一八五〇 板駒形 青面金剛像 大泉町二―五九 一三六

文久三□□十□廿□ 一八六三 方 形 文字、三猿、道しるべ 平和台四―二 五九
明治十四年二月 一八八一 自然石 文字、道しるべ 北町八―三七 八三
明治十四年第九月吉日  〃 方 形 文字 高野台三―一〇    長命寺 一〇五
明治十五年四月 一八八二  〃 文字 石神井町三―九   笠松墓地 一一〇
明治二十五年正月吉日 一八九二 駒 形 青面金剛像 高松三―二一 七八
大正九年十一月 一九二〇  〃  〃 東大泉町九二三    妙延寺 一三四
昭和十二年十月二十八日 一九三七 舟 形  〃 関町北四―一六―三  本立寺 一三二
昭和三十一年四月二十三日 一九五六 自然石 文字 豊玉北五―二九 二〇
昭和四十一年九月吉日 一九六六 方 形 〃 二代目「三の橋庚申」 豊玉中三―一六 一二
昭和四十九年十一月吉日 一九七四  〃 中村北四―一二  九頭竜弁天 三五
不明 駒 形 文字、道しるべ(明治期) 中村三―一一     良弁塚 三二
不明 板駒形 青面金剛像 上石神井一―五二五  智福寺
不明 自然石 文字(昭和一二年頃) 早宮三―四三 六二
<節>

第三節 観音信仰と馬頭観音
<本文>
観世音菩薩とその信仰

観世音菩薩は、古代印度において現世利益の神として仏教に取り入れられ、中国でさらに発達し、その後朝鮮を経由して日本に伝来したと考えられる。

観世音とは、衆生の願いごとを聞いてくれるので、かく呼ばれたものである。また、別のいい方では、観自在菩薩ともいう。つまり観音は、願いごとに応じて、いつどんなときでも自在に期待される姿になって救けに来てくれる、ありがたい神なのである。これを経典の上でいうと、七種の異なる観音を生じ、なおまた、三十三身に化現することが説かれている。これによって七観音や三十三観音信仰が生じてきたのである。

七観音というのは、聖、十一面、千手、如意輪、馬頭、准胝じゆんてい不空羂索ふくうけんじやくの七種の観音をさしていうのだが、平安中期に

は、准胝かまたは不空羂索のどちらかを除いて六観音信仰と称していた。これは六道を配した地蔵信仰とも深いかかわりのあるものと考えられるが、しよう観音を除いたほかの観音はいわゆる変化観音で、聖は正にも通じ、聖観音が基本の形であるといわれている。

一方、三十三化身に由来する霊場は、はじめ紀州那智山を観音の浄土補陀洛山の霊場に当て、山岳信仰として発達した。これがのちに西国三十三所観音霊場巡礼の信仰となっていったのである。その後、坂東・秩父の札所(秩父はのちに三十四となる)が成立し、百観音巡拝として江戸時代には庶民の間に広まり、わが国独自の宗教風俗となった。

このようにしてできた百観音札所を見渡すと、その主尊は聖観音、十一面、千手の三観音がほとんど占めており、馬頭観音を主尊とするものは、西国二十九番の松尾寺と秩父二十八番橋立寺のわずか二か所にしかすぎない。これは他の観音が慈悲相であるのに対して、馬頭観音は忿怒ふんぬ形相ぎようそうをした変化へんげ像であるため、七観音や六観音の中に数えられていながら、主尊にしにくかったのではないかと考えられる。ただこの観音の頭上に戴く馬は、転輪聖王の宝馬が四方を一気に馳せ巡って威伏するように、さまざまの障害を喰いつくすさまを象徴しているので、その姿から馬の菩提を弔い、馬の安全や旅の平穏を祈願する民俗信仰の対象となったものである。

馬頭信仰と馬かけ行事

馬頭観音は、牛馬に関係ある職業の人たちの講や個人に信仰されるようになると、独尊として各地に石仏が造立された。

この傾向は江戸時代中期になってから盛んになったものだが、一般的にみて、講中による建立は型も大きく刻像塔が多い。これに対して個人による造立は、自分たちが飼っていた馬の菩提を弔う墓標的なもので、おおむね小型である。そして造立する場所はというと、死馬の捨て場に墓標としたものや、あるいは村はずれの追分けに、旅の無事を祈ってのものなどである。とくに練馬の村々は、中山道板橋宿と甲州街道高井戸宿の助郷村で、その出役にあたっては並々ならぬ苦労をともなった。このため村人たちは馬をきわめて大切にしたことを、区内に残る馬頭観音の数によって窺い知ることができる。そ

の数は庚申塔より少ないが、それでも一〇〇余基ある。馬とともに生きた村人たちだけに、馬に関する行事もかつては幾つかあった。その一つ、貫井の円光院では毎年一月一六日に「牛馬参詣護摩修行」が行なわれ、日頃苦労をかけている馬の安全を馬頭観音に祈願し、この日を「馬かけ」の日としていた。しかし、円光院は戦災で寺の一切が焼失したため、この「馬かけ」に関する資料はなにもない。そこでここでは、明治の作家大町桂月が、その著書『東京遊行記』の中で、三宝寺の馬かけ行事のことをつぎのように書いているので、これを紹介し、当時の状景を想像することにしよう。

<資料文>

物売る露店あり、可成りの人出ありて、成る程お祭りなり。寺内には楽隊の音す、馬頭観世音の石像の周囲に、竹柵をめぐらし、入れかはり入れかはり、馬を三つも四つも入れて、ぐるぐる走らんとするもあり。ふざけて小天狗の面をかぶれるものも見受けたり。平生は、しをしをと肥料車を引くになれたる馬も、今日はうるはしく飾られ、鈴をぢゃらぢゃら鳴らし、威勢よく春風にいななく。馬と馬と相接せむとして接せず、後を気づかいて、後脚、時に空しく砂を蹴上ぐ。みるもの柵外に満ち、岡の上に溢る。近村の馬こぞって、馬頭観世音に参詣するつもりなるべし。

この叙述によって、近郷近在の馬持衆が、馬とともにこの日一日をいかに楽しくすごしたかが、わかるのである。

区内にある馬頭観音塔

区内に現存する馬頭観音塔は、江戸時代から明治、大正にかけてのものである。この内容をみると、江戸時代の中頃までは刻像塔が大半を占めているが、幕末から明治になると、そのほとんどが文字塔になっている。これは庚申塔やその他の石造物にもいえることだが、古い彫刻塔は大勢の講中で建立したものが多い。後期の文字塔は個人で建立したものが多く、造塔にかかる費用の負担がこのような結果になったものと考えられるのである。以下、区内にある馬頭観音塔のいろいろをみてみよう。

1、本区最古の塔 長命寺奥の院に向って左側にある七観音の一つである。明暦元年銘の高さ一・五mに及ぶ立派なものである。ただこの塔、もとは七観音として建立されたものである。この中から馬頭観音だけを抜き出すのは不自然な気もするが、本区最古のものとして記録されている。七観音から抜き出したついでとしては申し訳ないが、石神井台七丁目の閻魔

堂にも七観音がある。馬頭はその中の一体で、貞享四年(一六八七)「卯十一月十九日」の銘がある。この七観音は貞享四年から元禄二年まで約三年間に亘る紀年銘が見られ、それぞれの塔に「念仏道行六十六人小関村」と刻んである。なお、この塔は本区二番目に古いものである。

2、大勢で建立した塔 元禄六年(一六九三)の馬頭観音像で道場寺にある。船形光背型の浮彫立像で代表的な塔といえる。またこの塔は二六三人という驚くほどの大勢の人たちによる建立で、区内の江戸期石仏に見られる講の中で、最多数の人員を示している。記録では本区三番目の塔とされているが、独尊では最古のものである。

3、馬頭観音坐像 北町二丁目石観音の中にある坐像の馬頭観音は、紀年号は不明だが、彫りの美しさは素晴らしい。建立にあたってはかなりの費用をかけたものとみられている。また円明院の寛政六年(一七九四)の浮彫坐像は、三面八臂で、天をつく怒髪など細部にわたって丁寧な彫りである。しかも忿怒の形相はなかなか迫力がある。

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4、衣を着た馬の坐像 本寿院に馬が衣を着、じゅずを持った文政六年(一八二三)の坐像がある。これはたいへん珍しいもので、馬頭観音というより供養塔といってよい。「駄善孩子がいし」と彫ってあるのは馬の子の戒名であろう。日頃可愛がっていた子馬の菩提を弔うため、馬の姿を刻んだものであるが、馬を菩薩に見立てていることに注目したい。

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5、道しるべ文字塔 区内で最も古い文字塔は上石神井一―四二九安永九年(一七八〇)の塔である。二番目の教学院寛政九年(一七九七)塔は道しるべをかねており一九名の講中で建てたものである。「左権現道」と子の権現への道を教えている

のは子の権現が馬の守り本尊であったからである。また平和台四丁目にある文字塔は、紀年号不明ながら所沢五里、川越七里、田な志三里、府中、八王子などへの里程を刻んでいる。その中には富士、大山、新高野、新井薬師、雑司が谷、堀之内などの信仰道を示す地名もみられ、農村練馬を物語る数少ない塔である。

6、駒画像文字塔 本覚寺に明治一三年(一八八〇)と比較的新しい紀年銘ながら、馬頭観世音と陰刻した下に、駒画像を浮彫りにした珍しい塔がある。近くに法光稲荷があるためか、狐を彫った馬頭観音という説もあるが、馬の供養塔または墓標として固定化した明治時代のものとなれば、何んとも疑わしい。顔の部分はいかにも狐だが、足は馬の蹄であることが明らかなので、これはやっぱり駒画像とみたい。

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7、力持惣兵衛の馬頭観音 大泉学園町にある天保一一年(一八四〇)銘の自然石に刻まれた馬頭観音は、力持惣兵衛の伝説として旧版『練馬区史』に紹介された。これによると、力持惣兵衛はほうびに貰った重い石を愛馬の背につけて、江戸牛込から四里余もある小榑村まで運ばせた。わが家の森が見えるところまで来ると、老馬は石を背負ったまま、ぱったりと倒れてしまった。そこで泣く泣く葬って、力石をその上に置き、愛馬の冥福を祈ったのが、この馬頭観世音だという。

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ところがこの話には裏があった。むかしの百姓は馬も家族の一員と考え、大切に育てていた。力自慢をした行きがかりとはいえ、重い石を背中にくくりつけることなど考えられない。話の内容を面白くするための脚色であるとして、大泉学園町の加藤惣一郎氏は、自著『大泉今昔物語』の中で、その真相をつぎ

のように記している。

馬で江戸町家の人糞を運んでいた作男が、いつも休憩場所となっている目白坂の茶屋で昼食を食べているとき、誰いうとなく力石の話が持ち上った。この作男は力にはかなりの自信があった。そこでその力石に挑戦したのである。もろ肌をぬぎ、額にあぶら汗をかきながら、見事に何十貫もあろうかというその石を持ち上げてしまった。

その石をごほうびに貰った男は、馬の背に乗せて、意気ようようと持ち帰ったのである。この有様を見た作男の主人である惣兵衛は、日頃大切にしている馬に何をするんだ、とばかり、どえらく叱った。そしてやにわに傍にあった鎌をとると、馬の背中に石をしばりつけていた紐を切ったからたまらない。びっくりした馬は重い石に重心を失って、どっとばかり倒れてしまった。その上に、大きな石が、どすんところげ落ちたので、とうとう馬は死んでしまった。大切な馬を失った彼は悲しみのあまり、泣く泣く馬を葬り、馬頭観世音の碑を建てたという。

短気は損気、人使いが荒かったため、「ざん斬り惣兵衛」などと悪口をいわれていた惣兵衛は、これにこりて改心し心のやさしい、いい人になったと伝えられる。

馬頭観音一覧
年号西暦形状解説所在地目録
番号
明暦元年七月一日 一六五五 舟形 馬頭観音像 高野台三―一〇    長命寺 六三
貞享四年卯十一月十九日 一六八七 石神井台七―一八   閻魔堂 一〇三
元禄六癸酉年十一月九日 一六九三 石神井台一―一六   道場寺 七八
宝永三丙戌天六月三日 一七〇六 氷川台三―一四―二六 荘厳寺 三八
宝永三丙戌天十一月二十五日 下石神井一―九―三 八二
宝永四丁亥年七月朔日 一七〇七 練馬二―一〇    共同墓地 二一
宝暦四年甲戌八月十八日 一七五四 文字 石神井台一―一五   三宝寺 七二
宝暦五乙亥霜月吉祥日 一七五五 板駒形 馬頭観音像 氷川台二―六 三四
安永四乙未正月十八日 一七七五 舟形 練馬台四―一 二〇

安永七戊年霜月吉日 一七七八 板駒形 馬頭観音像、道しるべ 練馬四―一八 二二
安永九庚子年三月吉日 一七八〇 方形 文字 上石神井一―四二九 八一
天明六丙午五月吉日 一七八六 舟形 馬頭観音像、道しるべ 富士見台四―三〇 六一
寛政六甲寅天九月吉日 一七九四 光背形 〃〃 錦一―一九      円明院 三二
寛政九丁巳年十月吉日 一七九七 板駒形 文字、道しるべ 大泉町六―二四―二五 教学院 九三
寛政十戊午年十一月吉祥日 一七九八 方形 馬頭観音像 三原台二―一八 七〇
寛政十一年 一七九九 駒形 文字 大泉学園町五二七四 九九
享和癸亥年二月大吉祥日 一八〇三 方形 文字、道しるべ 田柄四―三五 五八
文化元甲子年十月吉日 一八〇四 〃〃 氷川台二―六 三五
文化元年 春日町三―五 四八
文化四卯龍集三月二十九日 一八〇七 〃道しるべ 氷川台二―六 三六
文化四卯年五月吉日 馬頭観音台座 大泉学園町五二七四 一〇〇
文化六己巳年□月吉日 一八〇九 舟形 馬頭観音像、道しるべ 高松四―一九 五一
文化六己巳龍集 方形 文字、道しるべ 東大泉町九二六    妙延寺 八七
文化七庚午年四月吉日 一八一〇 〃〃 土支田四―二八―一土支田八幡 六〇
文化八年未歳九月吉辰日 一八一一 駒形 馬頭観音像 高野台三―一〇    長命寺 六四
文化十癸酉年二月吉祥日 一八一三 方形 文字、道しるべ 石神井台一―一六 郷土資料室 七九
文化十二年〓〓〓吉日 一八一五 駒形 馬頭観音像、道しるべ 北町一―四四 五二
文化(十三)丙子年四月吉良日 一八一六 高野台三―一〇    長命寺 六五
文政六年六月二十日 一八二三 舟形 馬の座像 早宮二―二六―一一  本寿院 四四
文政癸未年十月 駒形 馬頭観音像、道しるべ 南田中三―二八
天保三辰年三月吉日 一八三二 舟形 馬頭観音像 豊玉北一―四 九五
天保三壬辰六日吉日 方形 文字 大泉学園町五三一三 一〇一
天保十一庚子天九月 日 一八四〇 自然石 文字(力持惣兵衛の伝説) 大泉学園町二三五三
天保十五辰年四月吉日 一八四四 駒形 馬頭観音像 貫井二―一 二六
弘化二巳年十月十二日 一八四五 桜台一―三三 一〇四
弘化三丙午年一月吉日 一八四六 方形 東大泉町九二六    妙延寺 一〇五
嘉永三庚戌年八月吉日 一八五〇 文字、道しるべ 石神井台一―一六 郷土資料室 八〇
嘉永六年 一八五三 駒形 文字 南田中二―一
安政二卯年三月吉日 一八五五 文字 南大泉町一―一七―二九
安政四丁巳年十月八日 一八五七 方形 文字 氷川台二―六 三七

安政五午年 一八五八 方形 ひらかな文字 石神井台一―一五   三宝寺 七三
安政六未年二月十五日 一八五九 駒形 馬頭観音像 中村南二―一八―三 一四
安政六未年三月 板駒形 豊玉中一―六
安政六年未十月 方形 文字 関町北三―三七 八五
文久二壬戌年四月 一八六二 駒形 馬頭観音像 春日町三―二    春日大社
慶応三卯十一月十六日 一八六七 馬の頭、文字 東大泉町九二六    妙延寺
明治元戊辰年十一月吉日 一八六八 方形 文字 関町北三―三七 八六
明治三庚午年二月 一八七〇 春日町一―三九 四五
明治五申年九月吉日 一八七二 駒形 下石神井一―一八―九 八三
明治六酉年九月十三日 一八七三 方形 貫井二―二 二七
明治十一年寅年二月 一八七八 豊玉南二―一五    正覚院
明治十一年四月吉日 自然石 石神井台一―一五   三宝寺 七七
明治十一寅年七月吉日 方形 〃道しるべ 西大泉町九八五    大乗院 九〇
明治十一年九月 貫井四―四 二八
明治十三年辰五月吉日 一八八〇 駒形 〃駒画像 旭町一―二六―五   本覚寺 一〇二
明治十四巳年四月 一八八一 旭町二―九 五九
明治十七申年十月十七日 一八八四 馬の頭、文字 石神井町四―一九 七一
明治十八酉年八月吉日 一八八五 文字 大泉学園町二四二九
明治十九年 一八八六 駒形 豊玉北一―七
明治二十三年八月十日 一八九〇 方形 平和台四―一五―二四 四二
明治二十四年六月十四日 一八九一 南田中四―一五―二四 観蔵院 六二
明治二十九年 一八九六 錦一―二六 三三
明治三十年三月十三日 一八九七 北町二―三八     石観音 五四
明治三十年八月二十八日 一八九七 駒形 高野台三―一〇    長命寺 六六
明治三十三年十二月十五日 一九〇〇 方形 桜台五―二―九 一八
明治三十四年四月吉辰 一九〇一 自然石 石神井台一―一五   三宝寺 七四
明治三十四年丑年十一月 方形 貫井五―七      円光院 二九
明治三十五年九月 一九〇二 駒形 中村南二―一七―四 一三
明治三十八年五月十七日 一九〇五 方形 西大泉町一一六一 九一
明治三十八年八月 駒形 高野台三―一〇    長命寺 六七
明治三十八年九月 方形 練馬四―二四―一三 二五

明治三十九年三月吉日 一九〇六 方形 文字 春日町一―三六 四六
明治三十九年八月十八日 石神井台一―一五   三宝寺 七五
明治四十年四月吉日 一九〇七 高野台三―一〇    長命寺 六八
明治四十一年六月二日 一九〇八 石神井台一―一五   三宝寺 七六
明治四十一年九月十二日 大泉学園町二九〇七 九八
明治四十一年九月 駒形 高野台一―一七
明治四十三年六月吉日 一九一〇 自然石 練馬四―一九 二三
明治四十四年一月十一日 一九一一 東大泉町二―七 八九
大正二年十一月十八日 一九一三 方形 氷川台四―五八 四〇
大正四卯年三月 一九一五 春日町二―三〇 四七
大正四年九月初旬 氷川台三―一四―二六 荘厳寺
大正五年四月 一九一六 春日町四―一七―一  愛染院
大正九年十月五日 一九二〇 氷川台二―一四―二六 荘厳寺 三九
大正九年十月 中村北二―二〇―一八 一六
大正十年三月三日 一九二一 西大泉町一九六〇
大正十年 栄町一〇   武蔵野稲荷神社
大正十一年一月 一九二二 中村南二―一八―三 九四
大正十一年七月二十三日 大泉学園町二二九三 一五
大正十二年四月 一九二三 高野台三―一〇    長命寺 六九
大正十二年十二月二十六日 一九二三 方形 貫井五―七      円光院 三〇
大正十三年三月 一九二四 〃道しるべ 大泉学園町二六七二 六九
大正十三年四月 高松三―一三 五〇
大正十三年六月 自然石 〃道しるべ 大泉学園町二六七二 九七
大正十三年十一月 方形 豊玉南二―一五    正覚院
昭和二年六月二十九日 一九二七 貫井五―七      円光院
昭和二年 練馬四―一九 二四
昭和三年三月 一九二八 西大泉町二〇三四   本照寺 九二
昭和六年九月 日 一九三一 北町七―一〇 五七
昭和十二年八月 一九三七 石神井台七―一八   閻魔堂
昭和十三年二月六日 一九三八 春日町三―三一―四 四九
昭和十四年四月二十六日 一九三九 北町二―四一   観音堂教会

昭和十四年六月三日 一九三九 方形 文字 平和台四―一四―一〇 四一
昭和十四年十一月吉日 貫井五―七      円光院 三一
昭和三十年 一九五五 上石神井一―五三三
昭和三十五年十二月二十五日 一九六〇 自然石 豊玉南二―一五    正覚院
昭和四十年十月 一九六五 方形 〃道しるべ 東大泉町九二六    妙延寺 八八
(年号不明、大正頃) 羽沢三―一
(年号不明) 豊玉南二―一五    正覚院
(〃) 板駒形 馬頭観音像 豊玉北一―七
(〃) 方形 文字 一〇
(〃) 一一
(〃) 中村三―二六―一一 一二
(〃)十一月 板駒形 馬頭観音像 桜台一―一二 一七
(〃) 練馬二―八―二 一九
(〃) 方形 文字、道しるべ 平和台四―二六 四三
(〃) 文字、道しるべ 北町一―四四 五三
(〃) 光背形 馬頭観音像 北町二―三八     石観音 五五
(〃) 方形 関町四―六八〇 八四
(〃) 駒形 文字 南田中二―一
<節>
第四節 地蔵信仰と地蔵菩薩
<本文>
地蔵信仰のおこり

地蔵信仰はインドから中国を経て、平安以前にわが国に伝わって来た。釈迦入滅後、弥勒菩薩があらわれて、この世を再び救済してくれるまでの、五十六億七千万年という長い間が無仏の世界である。この間、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上に至る衆生を教化してくれるのが地蔵である。ところが、その地蔵は閻魔王の本地仏であるので、死後の世界にまで救済の手を伸ばしてくれると信じられ、平安末期には六地蔵として成立したのである。

しかし地蔵が民間信仰に結びついて、庶民の間に広まったのは近世になってからである。地蔵は、あらゆる願いをかなえ

てくれるということから、講などが中心となって独尊として造立することが盛んになった。とくに西()の河原に石積む童子を邪魔する鬼どもを追い払う地蔵尊の物語り「西院河原地蔵和讃」によって、子どもの守り本尊として考えられるようになった。子育地蔵、子安地蔵の名で信仰されたり、子どもの遊び相手として親しまれたのは、頭をまるめて、衣をまとった法師の姿だからともいわれている。この姿を声聞形と称している。地蔵は菩薩であるから、普通なら宝冠を戴き瓔珞ようらくなどで身を飾る菩薩形でなくてはならないが、あまりいかめしくては、衆生が近づきにくいであろうという地蔵の大慈悲からの発想によるもので、これを外現声聞、内秘菩薩の大行願というのである。

地蔵信仰が、いかに庶民と密着していたかを物語る例が静岡県にある。榛原郡中川根町には「子安地蔵」と呼ばれる地蔵があるが、子どもたちがその上に乗ったり転がしたりして遊んでいるので、罰を恐れた有志が堂を建て、その中に地蔵を安置した。ところが、子どもたちと楽しく遊んでいたのに、堂の中へとじこめられて不自由であるという地蔵のお告げがあったため、堂は壊され再び路傍に安置されるようになったといわれる(日本石仏事典)。また、むかしから地蔵信仰の盛んだった京都を中心とした近畿地方では、最近になって各地に地蔵会が復活したという。子どもたちのための夏の行事として急速に広まつてきたのは、地蔵信仰に新しい息吹きを示したものと注目されているが、民間信仰の根強さをまざまざと見せられる思いがする。

区内地蔵菩薩の名称と伝承

江戸時代に稲荷の多いことを揶揄して「伊勢屋・稲荷に犬の糞」といった。この諺以上に地蔵もまた多いのである。とくに地蔵の多くには、親しみぶかい名がつけられているが、これは願主または施主が、その建立した趣旨によってつけたり、あるいはその土地の名を付すかしている。またこのほかでは、信仰者の祈願が成就したこと、ご利益があったことなどが一般に喧伝され、誰れいうとなく呼ぶようになったという名の地蔵も沢山ある。この種の地蔵は、本区内だけで数えても三〇基はあろう。そしてその建立場所はというと、地蔵菩薩は現実界と冥界の境に立ってわれわれを守ってくれるといわれているため、境の守護と、村の安全、併せて村人たちの安全をも願

って、村境や路傍の辻々に建てられた。

一方、寺院の門前や境内にも地蔵は数多く見られる。墓地にあるいわゆる個人建立の墓標石仏は別として、門前に建つ地蔵は、地域の民衆と何んらかのかかわりを持ち、それなりの理由があってのものである。一般的にどこの寺社でも、境内にはいくつかの小堂祠が建てられている。これは歴代の住職が自分の信仰する神仏、出身地の神仏を現住の寺院へ移したりしたとか、あるいは信者が自分に得たご利益を、他の人たちにも分けてあげたいという発願から、寺社に願い出て勧請したものだといわれている。寺社にしてみれば、これによって参詣者が増せば、これに越したことはないというのがほんとうのようである。

したがって、門前や境内に建つ地蔵は、いわば後者に属するもので、ご利益の意味の名称がだいたい付けられていることに注意したいのである。これらの地蔵の名称で最も多いとされているものに延命地蔵、子育(子安)地蔵、みがわり地蔵などがある。本区内でもやっぱり延命、子育が一番多いし、この二種類の地蔵に限って路傍にあるのが特徴である。後生安楽、厄除、罪業消滅、健康(子育を含む)などを願う心のこもったものだけに、庶民の信仰対象として生活に密着した存在となっているのである。

1、延命地蔵 この地蔵は路傍といっても人通りの多い主要道に建立されている。区内の場合、ふじ大山道、清戸道に集中しているのは、より大勢の人たちに参詣して貰うことを功徳としているからであろう。

元文六(一七四一)酉天二月吉日 丸彫 羽沢三―三〇

安永三(一七七四)甲午歳三月 舟形 春日町六―一二

享和二年(一八〇二)壬戌七月二十八日 舟形 高松三―九

明和四(一七六七)丁亥年二月二十六日 丸彫 高松三―一三―五

安永四(一七七五)未年十月吉辰 丸彫 谷原一―一七

宝永三(一七〇六)丙戌歳十一月二十八日 丸彫 石神井台六―一四

区内の延命地蔵は以上の通りであるが、このうち、羽沢の地蔵以外は何れも街道筋に面している。まずふじ大山道で、春日町六丁目のものは、安永三年に西円という人の建立である。つぎの谷原一丁目、橋戸道と田無道の分岐点で、立派な堂の中に納まる安永四年のものは、谷原村念仏講の人たち二〇人によって建立したものである。左田無道・大山道、右はしど、と道しるべを兼ねている。

清戸道で代表的なのは、高松三丁目、清戸道と橋戸道の分岐点に建つ明和四年のものである。女延命地蔵と呼ばれている通り、願主は高山伝四郎女とある。練馬には女ばかりで建てた庚申塔もあるが、地蔵に女が願主となっているのは珍しい。しかも五六人の念仏講の人たちが賛同しているところをみると、この講、たいへん規模が大きいようで、その盛大さが窺われる。

2、子育地蔵 子どもが無事息災でありますようにと願うのは、いつの世も変りはない。子育地蔵の存在は、この願いをかなえてくれるよりどころであるのだが、なぜかふじ大山道に集中している。

寛政八(一七九六)辰十月十五日 舟形 氷川台三―二四―四 光伝寺

享保三年(一七一八)十一月十五日 丸彫 早宮三―四二

年号不明 丸彫 春日町二―九 一里塚

安永二年(一七七三) 丸彫 春日町四―一七―一 愛染院

天明四(一七八四)甲辰歳九月吉日 丸彫 北町一―一一―一五

元文二(一七三七)巳天十月十八日 丸彫 石神井町七―四

ふじ大山道、棚橋の先にある天明四年のものは、安楽子育地蔵と呼ばれている。大山道の道標を建てた下練馬村名主内田久右衛門を願主として、講中二五人によって建立したものである。

そして春日町の一里塚と呼ばれる年号不明の地蔵と、そこからほぼ一里先きの石神井町にある元文二年の地蔵、これらがともに子育地蔵というのは、街道すじだけに意味があると考えたい。というのは、ふじ大山道を人生街道と見立て、約一里間隔に建つ子育地蔵はさしずめ一歩ずつ段階を経て踏みしめる状況を思わせる。これはわずかに区内だけの一例にすぎないが、人生行路を教え導く道程と考えるのはうがちすぎだろうか。また、光伝寺や愛染院の地蔵は、前述したようにご利益を分ちたいという意味から建立されたものと考えたい。なお、街道すじから離れているが、早宮三丁目、享保三年の地蔵は、子どもの夜泣きに霊験があると、かつてはお詣りする人がたいへん多かったという。

3、かんかん地蔵丸彫 関町二―七三) 『新編武蔵風土記稿』豊島郡関村の項に「石地蔵像 坐像長六尺青梅道の北側に立り、関の地蔵と云、祈願をなすものは石にて打は、かねの音あるをもてかんかん地蔵とも云」とあり、古くから知られている地蔵である。子どもたちから長い間石で叩かれどうしであったため、いまはすっかり下半身が細くなってしまった。この地蔵の造立者については、最近まで不明とされていたが、昭和五二年、関町北の井口敏氏の調査によってわかった。同氏の報告によると、関村に土着した茅御用役の木下権左衛門なる人物が、職を辞した後の寛永・正保(一六二四~四八)のころ、願主となって造立したとのことである。

4、首つぎ地蔵丸彫 中村南三―二) 小石川護国寺地蔵講の守屋某に、ある夜地蔵尊が夢枕にあらわれた。そして見ているうちにころりと首が落ちてしまった。この夢の話を正木不如丘美術院長夫人に話したところ、正木院長も同じ夢をみたという。不思議に思って守屋氏を招き、どこかに首のない地蔵はなかろうかと話し合った。守屋氏は、中村町に首のない地蔵のあったことを思い出したのでさっそく二人でそこへ行って見ると、何と、二人が夢でみた地蔵尊とそっくり同じ地蔵の石像が立っていた。この時ふと正木院長の思い当ったのは、以前出入りしていた画家が、酒代を借りに来て置いていった包の中に、地蔵尊の首があったことである。それを保管したまま忘れていたのだが、あの首を地蔵尊につけたらと思いつき、その首を持って行き、胴の上に乗せてみるとぴったりとあてはまった。さっそく南蔵院に相談し、石工に命じて首を継ぎ、

昭和七年一一月二九日に盛大な供養の式があげられた。以来、誰いうとなく首つぎ地蔵と呼ばれ、信心する人が多くなった。その後、正木氏はこの首つぎ地蔵の由来を、絵巻物にして南蔵院に献納した。

5、蕎麦喰地蔵丸彫 練馬四―二五 九品院) 誓願寺がまだ江戸浅草田島町(台東区)にあった時代のことである。浅草広小路に尾張屋という蕎麦屋があった。ある晩、夜更けた頃になって姿の端麗な一人の僧が来たので、仏心の深い主人は自ら一椀の蕎麦を供養した。僧はその蕎麦をうまそうに食べ、厚く礼をいって帰っていった。その次の晩も、また同じ時刻になると、きのうと同じ僧が来て蕎麦を乞うた。主人はまた快く蕎麦を与えた。その翌日も、またその翌日も同じ僧はやって来た。はじめのうちは誰も気にしなかったが、それが一か月も続くと、店のものは一体あの坊さんはどこの寺の人だろうと不思議に思うようになった。そこである晩主人は、その僧にお寺はどこですかと尋ねてみた。するとその僧はもじもじして答えようとしなかったが、重ねて聞くと、困ったような顔をしていたが、やっと田島町の寺といっただけで逃げるように帰っていった。「あの坊さんはどうもあやしい、狐か狸の化けたのではあるまいか」店のものはこんなことをいって、こんど来たらつかまえて、化けの皮をひんむいてやろうといきまいた。主人は「まあ待て、間違えて本当の坊さんに失礼なことをしては大変だから」と、若い者を押えておいた。その次の晩もまた例の僧は来た。何くわぬ顔をして、いつものように一椀の蕎麦を供養した。僧は帰っていく。その後を主人はそっと見えがくれについていった。それを知るや知らずや、僧は山門をくぐり、塔頭西慶院の境内に行く。主人は、ああやはり本当の坊さんだったのかと思いながらなお見送っていると、不思議や、その坊さんは地蔵堂の前に立ったかと見ると、扉も開けずにそのままお堂の中へ消えてしまった。あっと主人は驚いたが、そのまま一散に家へかけ戻った。その夜主人が寝ていると、夢ともうつつとも知れぬ境に一人の気高い僧が現われて「われは西慶院地蔵である。日頃汝から受けた蕎麦の供養に報いて、一家の諸難を退散し、とくに悪疫を免れしめよう」といったかと思うとその姿は消えてしまった。それ以来蕎麦屋の主人は、毎日西慶院の地蔵の前に蕎麦を供えて祈願を怠らなかった。ある年、江戸に悪病が流行して倒れるものその数を知らぬ有様であったが、この蕎麦屋の一家はみな無事息災であ

った。そこでその由来を伝え聞いて、日毎に参詣者が増し門前市をなす有様であった。そして願望の成就した人は、御礼として蕎麦を奉納したので、いつか蕎麦喰地蔵と呼ばれるようになった。西慶院は明治維新後、同じ誓願寺の塔頭九品院に合併し、その九品院は十一ケ寺の一つとしていま練馬四丁目に移転したので、蕎麦喰地蔵も同院の境内に安置されている。

6、愛称のあるその他の地蔵

<項番>(イ)千川地蔵(丸彫 享保十一年〔一七二六〕旭丘二―一五―五 能満寺) 大正一四年に千川上水の川ざらいをしたとき、首のない地蔵をみつけた。首をつけて千川堤に安置したので、千川地蔵と呼ばれて親しまれた。昭和二七年千川上水暗渠工事のため、能満寺の境内へ移された。

<項番>(ロ)道しるべ地蔵(丸彫 享保元年〔一七一六〕丙申九月吉祥日 能満寺) この地蔵も千川堤沿いの清戸道にあったが、千川地蔵とともに移された。道標を兼ねた地蔵だが、教え導いてくれることを併せ願っての愛称としてかく呼ばれいまも参詣者が非常に多い。

<項番>(ハ)身替地蔵(丸彫 昭和三十三年十二月四日 栄町一〇 武蔵野稲荷神社) 命びろいをした人が、感謝して建立したもの。

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<項番>(ニ)八子地蔵(丸彫 昭和十三年十二月二十四日 豊玉南二―一五 正覚院) 里子にあずかった赤ん坊を殺し、養育料をだまし取っていた悪人のために、幼い命を絶った八人の子どもの菩提を弔って建立した。

<項番>(ホ)北向地蔵(丸彫 元禄九〔一六九六〕 丙子五月二十四日 中村一―一五南蔵院) 普通石仏は、東、西、南向きに建てられているものだが、この地蔵のように北向きなのは珍しいので、土地の人はそう呼んでいる。

<項番>(ヘ)ひきり地蔵(丸彫 享保十四年〔一七二九〕 練馬一―四四―一〇 阿弥陀寺) 眼病など、日を限って(自分の来られる日をきめてもよい)願をか

けると霊験ありと参詣者が多い。この地蔵、むかしは左側にあって西の道路に向いていたが、本尊の阿弥陀と向い合うよう東向きにしたという。

<項番>(ト)血之通地蔵(方形浮彫 明治二十五年三月 錦一―一九―二五 円明院) 女性の更年期障害のことを血之通の病気という。この病気に対し霊験あらたかであるので、かく呼ばれたものだが、別名をいぼ地蔵ともいう。この地蔵に祈れば、たちどころにいぼがとれるといわれている。

<項番>(チ)亀乗地蔵(丸彫 寛政三〔一七九一〕辛亥年七月 石神井台一―一五―六 三宝寺) もともとは子育地蔵として信仰された地蔵だが、亀を彫った台座の上に立つので、いつか亀乗地蔵と呼ばれ親しまれた。

<項番>(リ)いぼ地蔵(丸彫 石神井町五―一九―一〇 禅定院) いぼとりに霊験あらたかと信仰者が多い。頭に施毛がありいぼいぼのある感じの地蔵からこう信じられるようになった。頭の様子、種子、南無阿弥陀仏の刻字坐像であることから、阿弥陀地蔵であろうという。

<項番>(ヌ)塩上げ地蔵(丸彫 上石神井一―五二五 智福寺) 昭和四〇年に港区芝田町(札の辻)から現在地へ移った。この地蔵は、寺の歴史とともにあるから四〇〇年にはなろうという。祈願成就の時、地蔵の頭に塩を盛るので塩と雨風で風化してしまったものである。練馬に移った今日でも、誰から聞くのか塩上げ地蔵として参詣者が多い。

以上、主な地蔵だけを抜き出したが、何んでもかなえてくれるといっても、それぞれ得意の専門分野があるものと思える。こんなところが地蔵をいっそう親しみ深いものにしているのかも知れない。

7、六地蔵 地蔵が六道を輪廻転生りんねてんしようする衆生を救済するというところから、六つの分身を考えて、六地蔵として信仰されるようになったのは、平安時代末期にはじまったといわれている。いま現在の六地蔵は、寺院の門前、墓地入口に多く見られるが、信仰の対象として考えるより、寺院の格式を誇示する露払い的存在と化した感がないでもない。いま区内で最も古いのは、妙福寺所蔵で六地蔵が刻まれた異年号福徳元年板碑がある(第一節「板碑とその信仰」参照)。しかしこれは、板碑信

仰の分野として考えたいのでここでは除くが、六地蔵は区内の主な寺院にだいたい建っている。正覚院、南蔵院、愛染院、観蔵院、禅定院、三宝寺など割合いに古い時代のものであるが、それぞれの地蔵についてあまり特徴はない。しいて言えば長命寺の丸彫座像で、奥の院灯籠堂参道の両脇に三体ずつ置かれていることで目立った存在である。また、観蔵院と禅定院門前にある地蔵は、それぞれ中央に親地蔵があって、その左右に三体ずつ並んでいる。中央のものは他より大きく造られて、一層の功徳を願ったものであるから、七地蔵というわけでなくあくまで六地蔵なのである。

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<項番>(イ)円光院の三体六地蔵(丸彫 安永六〔一七七七〕丁酉年八月吉日 貫井五―七―三)門前にあり三体ずつ二つの石に浮彫りしてある。講中十五人で建てたもので、小さいが一体ずつ蓮座の上に立った見事な地蔵である。

<項番>(ロ)金乗院の日待塔(舟形 明暦二年〔一六五六〕 錦二―四―二八) 舟形光背に六地蔵立像が浮彫りされ、蓮座の上に立っている。上部に雲上の日月があり、中央につぎの銘文がある。

<資料文>

  武州豊島郡下練馬村御日待衆

種子(地蔵)奉新造六地蔵大菩薩二世安楽所

  干時明暦二年丙申九月十五日

その下部右から横につぎの造立者の名が刻まれている。

<資料文>

真鏡坊 門真房 長四良 半三郎 清三郎 次良作 久五郎 長五郎 源次郎 長三郎 半四郎 善四郎 清四郎 久三郎 弥吉 庄次郎

<節>

第五節 絵馬とその信仰
<本文>
絵馬信仰の変せん

絵馬は、馬の絵が画かれているためにかく呼ばれていたし、祈願する目的もはじめは五穀豊饒、国土安全など国家的のものであった。しかし、桃山時代以後、すべてが派手になるにつれて、絵馬信仰にも変化をきたし、大金を掛けた額絵馬(大絵馬)が流行り出した。ただこれには、信仰のためによる本来の絵馬もあるが、多くは社会的に利用することを目的として、次第に大型化したとみられるのである。

江戸時代になると、大絵馬にも筆者の落款が入り、美術的な技倆を競うものもあらわれ、財力にものを言わせるようになっては、一般庶民にとってほど遠いものとなった。とくに算額に至っては、社頭を借りて自己の優越感をほしいままにする感がありありとみえ、絵馬信仰を冒涜する外道のなす業と手きびしく指摘もされた。絵馬愛好家にとっては垂涎の算額も、信仰の面からみたら形無しだが、区内には残念ながら算額はない。

こうした傾向を寺社側は歓迎した。額を奉納するにつけて、願主からそれ相当のお布施が入るし、もしこれが話題となれば、さらに参詣者も増そうというものである。わざわざ絵馬堂まで増築して掲げることの意味も、十分にあったわけである。

一方、祈願を目的とした小絵馬は、大絵馬の陰にかくれながらも隆盛を続けていたが、自己中心的なものが多くなった。誰にも相談できない悩みごとを神仏だけに打明け、都合よく願いを聞いていただこう。それを絵筆によって、他人に願いごとの内容を知られず、しかも匿名でというそつのなさである。こうなってくると、絵馬という言葉そのものまで考え直さなければならないほど、多種多様のものが現われた。馬以外のものでは一般に「拝み」と称し、どこの寺社にも共通するものもあるかと思うと、体の一部、目、手、婦人の下半身などを示し、病気平癒を祈願している図も多い。その反面、気の弱い人間は断ちものといって、酒、女、ばくち断ちを自分の意志ではかなわぬため、神頼みという身勝手さもある。とくに女、

男断ちについて、向う一年間あるいは三年間に限ると言うに至っては、何をか言わんやである。しかし、自分の決心を神仏に示すことによって、自己暗示する点では効果を表わしていると思えるのである。そういう面からみていくと、区内に現存する絵馬は比較的正統派に属しているといえそうである。練馬郷土史研究会が、昭和五一年から約一年半かけて調査したことが機縁となって、石神井図書館郷土資料室が『練馬の絵馬』としてまとめた。この中に記録された三〇㎝以上の大中絵馬二八三枚から、練馬における絵馬信仰の実態を窺い知ることができるのである。

区内絵馬信仰の実態

絵馬信仰の実態を考えるにはまず、小絵馬を重視する必要がある。現在ある小絵馬は大量生産されるため、図柄も一定しているが、江戸時代には他人に相談できない性病などの平癒祈願に、かなり露骨に画かれた絵馬が奉納されたという。このため明治五年三月、太政官令によって「風俗に害あるをもって自今早く取り捨て踏潰すべし」という命令が出された。この政令で廃棄させられた中に、多分小絵馬の数々もあったであろう。その中にこそ俗心といわれる本来の姿がみられたと思えるのである。たとえ廃棄させられなかったとしても、小絵馬の奉納はおびただしい量である。しかも奉納する方もいわば祀りっぱなしというわけで、これでは寺院も困るので一年毎に整理焼却するところもあった。江戸時代悪病神を祀って、悪病そのものを封じ込め、最後は川に流したり焼いたりする祀り棄て行事を絵馬に託したようなものである。したがって小絵馬に関しては、古いものを見出すのは至難である。いま区内で小絵馬を奉納するのは、荒神の日か初午行事くらいで、それもほとんどが経木絵馬になっている。

むかしの練馬には、初午行事の前日からおびしゃ組の子どもたちはオコモリをする。太鼓をたたき、氏子を廻ってはお賽銭を貰い、そこでご馳走などを食べる習慣があった。栄町武蔵野稲荷にある大正一四年の絵馬に、五人の子どもが太鼓をたたき、のぼりや絵馬を持ち、狐の面をかぶって踊っている図柄がある。この頃の初午行事はこの絵が示すように、子どもたちにとってはまことに楽しいまつりであったことが知られる。また、この日第六天に鷹の絵馬、八幡に鳩の絵馬をあげる習わしもあった。なお、第六天については平和台にいまも講があり、年毎に代参が埼玉県岩槻市の第六天に参詣し、天狗の絵

馬を受けて来て配っている。この絵馬を一年間、家の入口、裏口、畑などにかかげておくと、盗難除けになると信じられているのである。

ことにこの頃目立って多くなったのは、東大泉町北野神社にみられる合格祈願の絵馬である。これも一つの流行で、他人が合格祈願の絵馬を掛けるから、自分も遅れをとってはならじという心境からである。しかも受験する学校名を列記し、自分の名を堂々と大書して、祭神によく覚えていただこうという魂胆である。苦しいときの神頼みとはいえ、世相の一端を窺わせるものである。

この『練馬の絵馬』に収載された大中絵馬の図をみると、小絵馬による信仰とは幾分趣を異にしていることがわかる。まずいちばん多いのはやっぱり拝み図である。区内の絵馬信仰は比較的正統派に属していると前述したのは、民間信仰の面からみて最も多い拝み図を指して言ったものである。この拝み図は、願い事の内容にかかわらず、どこの寺社へでも奉納できるのが都合よく、一般に流布したのである。図には男一人、女一人、夫婦、親子、家族、兵士などがある。この中で祈願の目的がはっきりしているのは兵士で、入営(出征)、あるいは除隊(帰還)の無事を祈ったり、そのお礼である。夫婦、親子、家族の図は夫婦和合、小児成長、家内安全、家業隆盛につながる祈願とみられるし、男、女ともに一人は病気治癒祈願のほか、祈願者自身の姿とみなし、神仏に誓うことをより強調したものと解せるのである。

同じく祈願ものとして、南蔵院には「向い目」の絵馬があり、これは眼病治癒の祈願である。つぎに多いのは動物の絵馬で鷹、鳩、虎の三種がある。鷹は祈願成就のお礼に多く奉納される。鳩は豆を好むところから手足のマメが早く治るようにとか、腫物の治癒祈願である。この鳩、二羽が向い合っている場合は夫婦和合の祈願でもある。虎は千里行って千里帰るという諺から、家出人さがし、旅行の無事安全を祈る。などといわれる絵馬である。

これが大絵馬になってくると、図柄はかわり物語と武者絵が多くなる。内容は神代から源平物語、南北朝期のもの、戦国時代の武将、中国の孝子忠臣など多彩であるが、何れも諸祈願成就のお礼であろうが、物語にある勇ましさや、誠実さを祈

願者は求めていたと思われる。一方、中国の物語のうち、二十四孝などは、孝行(する側もされる側も)の手本に習った祈願とみられるのである。練馬四丁目白山神社には「子供世話人」という名で奉納された武者絵が数枚ある。これは一八歳になって子ども会を抜け、大人の仲間入りする記念のものだといわれており、練馬の村々の習慣を知る一つの手がかりである。

とくに高野台長命寺の、都指定有形文化財「板絵着色役者絵」(文化一一年・鳥居清長筆)は、文化一一年(一八一四)六月、江戸堺町の中村座で興行された芝居「双蝶々曲輪日記ふたつちようちようくるわにつき」の放駒長吉と濡髪長五郎を描いたものである。これは多分興行が大当りしたことのお礼として、中村座の板元村山源兵衛が鳥居清長に依頼し、観音堂に奉納したもので、当時の芸能界に信仰の厚いことが、これによって知れるのである。

このように著名な絵師の筆になる大絵馬はともかく、大半は絵馬屋頼みであるため、図柄はどうしても類型的になりやすいが、練馬だけに限られた絵馬が三枚ほどみられる。その一つに氷川台氷川神社に「お浜江戸(井戸)御例祭」図がある。年代は不明だが明治期のもので、お里帰りの行列の様子や廻りの人物、警官の服装などの風俗がよく画かれている。二つ目は、西大泉諏訪神社の境内社、稲荷社にある「狐の大根取入」図である(口絵参照)。狐が数匹印はんてんを着て大根を取り入れている図柄で、豊作祈願と思われる。三つ目は、小竹町浅間神社にある嘉永元年(一八四八)の「雨乞い」図である。水の少ない練馬は雨乞いも年中行事で、これも練馬の特殊性をあらわしたものといえよう。

美術品としての絵馬を考える

練馬という地名と、馬頭観音の多い割りに馬の絵馬はまことに少ない。馬喰うなど生業のものか、祈願成就のお礼のもの数種しかないことについて、石神井図書館郷土資料室編の『練馬の絵馬』では、「練馬の絵馬奉納の風習が江戸時代の後期からのようで、既に図柄も多種多様になってきた頃のせいかもしれない。」としているが、練馬の場合、絵馬奉納は神社に多いことに注意すべきである。神社は遷宮といって、一定の時期を経ると社を新しく造り直し、みたまをうつす儀式がある。その際古いものはすべて処分する習わしがある。大泉町五丁目の氷川神社は、社殿を昭和五〇年に新築した。神社はこの習わしに従って古いものを処分したため、絵馬堂がありなが

ら額は一枚も残っていない。これはその一例である。したがって神社にいま現存する絵馬で、最も古い年代がその神社の遷宮した年とみて差し支えないのである。現に武蔵野稲荷が社を新しくする際、絵馬は焼却するといっていたものを、貴重な文化財であることを説得した。そのお陰で残されたほどである。

反面寺院の方は、火災に逢わないかぎり移ることはないので、長命寺と南蔵院には区内で最も古い絵馬が現存しているのである。長命寺には、有名な鳥居清長筆の芝居絵があるため、これも芸能に関係ありとみられる寛文年間(一六六一~七三)の牛若丸、弁慶の大絵馬のあることも忘れがちである。この絵馬は長命寺が万治元年(一六五八)に火災で焼失後、再建した金堂落慶の際に奉納された絵馬である。これから考えると、焼失以前にも絵馬奉納はあった筈である。南蔵院の場合は、江戸後期の文化二年(一八〇五)以降のものだが、神社と比べるととび抜けて古い。しかも奉納された薬師堂も場所は狭く、多分置き場もない程に絵馬で埋まったと思われる。寺では当然古いものから処分していったと考えることも必要である。こうみてくると、練馬における絵馬信仰の風習が江戸後期からと、いちがいにいえない気もするのである。

ところで名の知れた絵師が、絵馬にも筆を染めるようになったのは桃山時代からであるが、江戸期に入ると著名な浮世絵師などもこぞって画いているし、絵馬師なる職人の輩出もみたのである。絵師が手がけた絵馬には落款を入れているので、奉納された絵馬堂は即画廊的役割を果し、芸術の大衆に及ぼした影響は大きなものであった。これに習ってか、区内にある絵馬にも、絵馬師の落款入りが幾つかある。それだけ自信作であるので、絵柄もしっかりしたものが多く、単に絵馬として見ずに、美術作品としてとらえることも重要なのである。最後にいま一度長命寺の絵馬に触れるが、芝居絵は当時の舞台風俗の片鱗が知れるし、江戸時代の絵画、演劇資料の価値も高い。しかも清長晩年の筆であることが、日本の美術史でも貴重とされている。また、牛若丸、弁慶はよく見かけるが、長命寺のは彩色の絵具が剥げ落ちて下絵が残っている。下絵だけで見る限りでは、漫画風の面白味があって、筆勢がすぐれており絵画の参考品として珍しく、このような画風はたいへん稀であるといわれているものである。以下、区内で落款のある絵馬をつぎに掲げておく。(『練馬の絵馬』より

備 員?  寛文年代   牛若丸(長命寺)弁慶も同筆の筈である。

鳥居清長  文化一一年  芝居絵(長命寺)鳥居派の浮世絵師(四代目

□  友  天保 五年  富士の巻き狩り(春日神社)巣鴨住

寿  僢  天保一一年  鞍馬山の牛若丸(春日神社

提 等川  安政 六年  八岐大蛇(高野台氷川神社)巣鴨の絵師(巣鴨亭

提 等川  嘉永 五年  馬上の武者(土支田八幡宮)巣鴨の絵師(巣鴨亭

芳  進  嘉永 元年  雨乞(小竹町浅間神社

<補記>(立)田舎佐一 慶応 元年  富士の巻き狩り(高野台氷川神社

立田舎右川 慶応 元年  加藤清正(高松八幡神社

柴左一   明治一六年  弘法大師千五十年遠忌(長命寺)板橋住

蒼  穹  明治二〇年  韓信の股くぐり(高松八幡神社

蒼  穹  不   明  韓信の股くぐり(旭町北野神社

鎌田東渓  明治二二年  神功皇后(石神井神社) 中野の絵馬師

鎌田東渓  明治二二年  天の岩戸(妙福寺) 中野の絵馬師

鎌田東渓  明治二五年  楠公桜井の別れ(石神井神社) 中野の絵馬師

秀  善  明治二六年  曾我の夜討ち(石神井神社

小嶺 鉄  明治二七年  神武天皇(土支田八幡宮

小嶺 鉄  明治二七年  中大兄皇子と中臣鎌足(土支田八幡宮

小嶺 鉄  明治二七年  楠公桜井の別れ(土支田八幡宮

歌川国春  明治年代   御嶽山(富士見台稲荷神社

正  亭  大正一〇年  熊襲退治(西大泉諏訪神社

菊川兵信  不   明  熊谷直実と平敦盛(富士見台稲荷神社

昇  雲  大正一四年  初午まつり(武蔵野稲荷神社

山田香風  不   明  弓道(寿福寺

香  林  不   明  龍(妙福寺

<節>
第六節 その他の信仰と石仏
<本文>
伊勢信仰

伊勢神宮は、天照大神を祭る皇室の氏神で、天皇の祖神廟と特別な地位にあった。このため王臣以下の私幣、参詣を禁断する制度が設けられ、一般庶民は近づくこともできなかった。しかし平安時代の後期に入ると、皇室の財政的な事情から神宮の維持が困難になった。このため庶民の信仰を受け入れなければ、経営の建直しはできないと考えた。それには熊野信仰と同じように、御師による活動が最もよい方法だと気がついたのである。

御師の活動は、その頃抬頭してきた関東武士団との接触を試みたことが適中し、成立した鎌倉幕府の御家人まで拡めることができたが、庶民のための信仰としては、まだほど遠いものであった。民間信仰として定着したのは、それから数百年を経た江戸時代になってからである。

これまでになるには長い期間、伊勢御師の並々ならぬ努力があった。彼らが旦那として募る階層は、村役人などを経験した上層部に限られていた。ということは、村政の担い手を旦那にすることによって、村民全員を掌握し得るというための手段でもあった。

年二回、村の総代(代参)が伊勢におもむいた。それに要する費用は参宮掛銭として、村役人、本家、分家の家単位にそれぞれの額が割り当てられる。御師はその都度村を訪問して祈祷を行なったり、護符を配布したりするが、伊勢信仰に限っては村の公の行事に属するまで浸透していった。それがやがて、伊勢講、神明講として発達し、遠い伊勢に替って常時参詣できる神明社を祭祀するようにもなったのである。

区内に現在ある天祖神社のうち、田柄四丁目と下石神井六丁目の両社は、『新編武蔵風土記稿』に神明社として記載されている社である。ところが明治六年、東京府によって天祖神社と改称させられた。これは神明社の神体が、虚空蔵菩薩をまもる「雨宝童子」で、神仏いずれともまぎらわしいという理由からであった。

とくに下石神井の神明社(下石神井六丁目現天祖神社)は、同地にある延宝二年(一六七四)造立の庚申塔に石神井郷神明村とあり、伊勢信仰と深いかかわりのあることを示している。これをもっと深く推察してみると、神明村と名乗るからには、下石神井村に包含される以前は、伊勢の神領地でなかったかとも考えられるのである。しかし何れにしても村単位の伊勢信仰は、明治以降、伊勢神宮が国家神道の中心として位置づけられていくための、大きな力となったことはたしかである。

熊野信仰

熊野三山(本宮、新宮、那智)は、古来から観音霊場の中心とされていた。『今昔物語集』巻第一三「天王寺の僧道公、法華を誦して道祖を救いたる語」の中で道祖神が「所謂補陀洛山に生れて、観音の眷属となりて菩薩の位に昇らむ」と、僧道公に告げ、柴船に乗り南を指して走り去った。という説話のように、南海に臨む熊野那智は、補陀洛浄土に通じるところと信じられていた。

このように観音の山岳信仰性は、実に巧みに日本の古代信仰と結びつき、院政期の頃の熊野那智は、西方浄土に擬せられるに至った。とくに院の崇敬は厚く、鳥羽法皇、後白河法皇、後鳥羽上皇の御幸があり、これに続いて貴族や上級武士らもこぞって熊野詣に精を出したという。

熊野信仰を成立させたのは、この貴人方の熊野詣によったものであるが、その一方では修験道による観音信仰が三十三所

西国としたのは、のちに坂東や秩父三十三所ができたので、区別するためである)を成立させたのもこの時期である。この方は貴賤の別なく信仰を集めたが、その霊場の中に熊野那智如意輪堂を加えた。そしてこれが今日まで固定して続いたのは、坂東、秩父と拡大されたことによって、一般民衆の参加を容易にした結果であるとされている。

この熊野信仰が、本区にまで伝わったことについては、通史で述べられているように、元享年間(一三二一~二四)に豊島氏が王子権現社(北区王子一丁目)を創建したことによるとされている。だがその前に志村熊野神社(板橋区志村三丁目)がすでに存在していたという。この神社の社伝によると長久三年(一〇四三)、この地方の豪族志村将監が、紀州熊野権現の分霊をここに奉祀したというから、熊野信仰の下地は古くからあったといえるのである。

また、練馬に最も近い白子にも熊野神社はある。ただこの神社の発祥は不明とされているが、成増、土支田、大泉、新倉あたりを拠点としたことが伝えられている。しかし、熊野信仰の栄えたのは江戸時代の初期あたりまでのため、現時点では区内にその遺産を探るのは困難である。わずかに境内未社として熊野の名を止めているにすぎない。

したがって江戸中期以後は、伊勢信仰が抬頭したわけだが、御師、先達の制度はもともとは熊野の専売であった。伊勢はこの制度をまねた後発でありながら、皇室の氏神に一般庶民も参詣できるとあれば、遠くてしかも険しい山坂を越えて熊野へ行くより、はるかに近い伊勢へ傾くのは当然であった。しかも熊野が、午王宝印の護符程度を配るのに対し、伊勢は神宮の大麻(御祓)のほか、帯、杉原紙、櫛、布、海苔、茶、伊勢白粉、物さし、扇、暦などの土産物を檀家の出す初穂料に応じて配った。とくに伊勢暦は、農作業に関係ある記事が多く、農家にとっては貴重品として喜ばれたもので、御師、先達の抜け目のなさは、まさに勝負あったというところである。こうして熊野信仰は衰頽したが、山岳信仰がこれで絶えたわけではない。江戸およびその近郊では、熊野に変って、富士、大山、御嶽信仰が伸展してゆくのである。

富士信仰

富士信仰は先達らによる布教の力もあったが、江戸から見える霊峰の魅力もあって、熊野に替る山岳信仰として流行した。

これは江戸も中期となって世の中も安定した頃、丁度盛んになって来た庚申信仰と結びつけたのが成功したといってよい。富士信仰は、青面金剛を信仰の対象としたものではなく、富士山にはれっきとした石尊大権現がある。ただ富士山は孝安天皇(前三九二―二九一)の庚申年に湧き出たという古伝承によったもので、庚申に当る年を庚申縁年といい、特に盛大な開帳を行なう習わしとしたものである。富士講が築いた富士塚に、石尊大権現碑のあるのはもちろんだが、神猿のあるのはこのためである。また大天狗や小天狗、鳥天狗の石像のほかに題目碑が建っていることもある。江戸時代の富士信仰には神道と修験道、それに仏教の天台、真言の両宗教が混在し、その上に天狗崇拝などの民間宗教が加わって複雑なものになっている。しかも富士講先達は、山伏修験の風俗を取り入れているので、いつかそれが信徒にも大きな影響を与えた。そのためであろうか、富士街道を別名行者街道とも呼ばれたほどである。

一般的に富士講といえばその元祖をすぐ、食行身禄じきぎようみろく一六七一~一七三三)と思われるが、この人はいわゆる身禄派の元祖であって、富士講の開祖は角行藤仏かくぎようとうぶつ一五四一~一六四六)で、身禄はその五代目に当るのである。

身禄は寛文一一年(一六七一)一月一七日伊勢に生まれ俗名を伊藤伊兵衛という。一三歳のときに叔父を頼って江戸に出、行商で金を溜め薬種問屋を開いた。富士行者としては、富士講四代の月行<外字 alt="曽+月">〓<外字 alt="巾+中">〓そうちゆうに一七歳ごろから弟子入りしていた。以来、富士信仰に深く傾倒するあまり、ついに家業を番頭に譲り家を出た。そして油の行商などをしながら富士信仰と、その布教に専念した。身禄が六三歳になった享保一八年(一七三三)、日頃から念願であった富士山での入定を、七合五勺の烏帽子岩の洞穴で実行し、同年七月一三日、その一生を閉じた。

その後遺体はミイラ化し、そのまま安置されていたが、バラバラになったため身禄十三回忌の延享三年(一七四六)、身禄派の先達が石櫃を作り、これに遺骨を納め元の場所に祀った。その折分骨して埋葬した墓所が文京区の海蔵寺(向丘二―二五―一〇)で、高さ約三mの富士形の頂上に墓碑がある。

練馬区内には行者街道といわれるふじ大山道が、東西に縦貫しているし、五つの富士塚もあるほどだから、富士信仰の隆

盛は江戸市内におとらぬものがあったと思われる。

富士塚の流行は、身禄の弟子で江戸高田村の住人青山藤四郎という先達が最初に築造したことにはじまる。彼は富士講発展のためと日頃富士山を崇拝していても、じつさいの富士山に登り、浅間社を直接拝むことのできない人たちのことを考えた。たとえ人造の富士山であっても、これに登り浅間社の分霊に参拝すれば、精神的に少しでも信仰欲を満たすことができる。という目的から穴八幡に近い水稲荷神社(現在、新宿区西早稲田三―五、甘泉園隣地に移転)境内に、同行総がかりで安永八年(一七七九)二月に工事を起し、翌九年五月に完成した。これ以後、各地に富士塚の築造がはじまったのであるが、区内の富士塚をみると、古くても天保六年(一八三五)頃であるから、富士塚築造はかなり後であるといえよう。

<項番>(イ) 江古田富士塚(小竹町一―五九、浅間神社

昭和五四年五月二一日付で、重要有形民俗文化財として国指定になった。

この富士塚は、富士講の一派小竹祓講によって天保一〇年(一八三九)に築造されたとしているが、一説には文化年間(一八〇四~一七)築造ともいう。高さ八m、直径約三〇mで、関東大震災の時に損壊したがその後復旧した。もちろん塚全体は、富士の熔岩(黒朴)で覆われている。

頂上の唐破風屋根のついた石祠には、天保一〇年の銘が刻まれている。ほかに経ケ嶽、太郎坊、小御嶽神社の石碑や、大天狗、小天狗、神猿などの石像もあり、元治二年(一八六五)の講碑、大正一二年震災時の御神体修築の碑などが建っている。現在の社殿前には、文化四年(一八〇七)の石灯籠や文化九年(一八一二)の手水鉢なども残っており、このことから文化年間築造説も無視できないところがある。

なお、社殿の中には、弘化二年(一八四五)のおたきあげの灰炉など、富士講の祭具も残っている。それと立派な厨子に納まった身禄像があるが、これはかつて小仏峠の身禄茶屋に安置されていたものを、昭和八年にここへ運ばれたということである。ただし国指定になったのは、富士塚(実測一二〇三㎡)の地域だけで拝殿は含んでいない。

<項番>(ロ) 浅間神社富士塚(北町二―四一―二、下練馬富士ともいう

山頂の祠と鳥居に明治五年再建とある。したがってはじめの築造は江戸期だが、いつの頃か不明である。その後、昭和二年になって現在地に移築した。この時の工費や人員を誌した「マル吉同行三建記念」という碑が建っている。つまり三回目の建設である。これによると、総工費は一三四七円八〇銭、氏子総出場人員六〇〇人、諸職人一五〇人、昭和二年六月一日上宿中と刻まれており、講も盛んだったが、たいへんな工事であったことがわかる。塚の周辺には、角行像のほか、江古田富士と同様に、二猿、天狗などの石像が建っている。

<項番>(ハ) 八坂神社富士塚(大泉町一―一九、中里富士ともいう

崖の斜面を利用して築かれたもので、高さは八mといわれているが、正面から見ると相当な高さに見える富士塚である。この富士塚、他とは異って猿や天狗の像はない。ただし碑の多いことでは他に類がない。講員を中心に他の講からも応援して貰い、長い月日かけて完成したので、その喜びをそれぞれの碑によって表現したものであろう。一合目から頂上まで、亀磐、鳥帽子磐、馬脊山、剣峰、駒嶽、薬師嶽、経ケ嶽、不士森稲荷、関連大黒天、日乃御子、秋葉神社、御室浅間神社、聖徳太子とこれまではよいのだが、一つだけ場違いのような感じのする道祖神碑があった。しかしこれも同行によるもので、碑面の上部は富士の山がたが刻まれ、その下中央に大きく道祖神とある。右に明治七甲戌歳四月、左にマル吉同行とある。下段には施主、永久保星野八五郎、橋戸松本子十二、小俣助八、田中金右衛門、小俣岩蔵の五名の名が連記されている。この他に嘉永七年銘の「三十三度登山大願成就」をはじめに、三三度以上登山したという碑も二基ほどあったが、全山にある碑の状況からみてゆくと、この富士塚が築造されたのは明治七年ということになる。現在はこの周辺の田圃は全部つぶされ宅地化してしまったが、かつては頂上からの眺めはよく、白子川流域を一望に納めることができたのである。いまはわずかに越後山方面の畠が見えるだけだが、頂上に立つことによって、はじめてその名残りを知ることができよう。

<項番>(ニ) 氷川神社富士塚(北町八―二二―一

塚としては低く、マル吉講の「三国第一山大願成就」の碑があるので、やっと富士塚であることがわかる。頂上の祠に天保六年(一八三五)とあり、この頃の築造であろう。講中の範囲は割合いに広く、大正一一年の碑に「巣鴨二名、大塚一名、赤塚八名、上宿三名、当村(下練馬)二十四名、板橋二名、世話人九名、講長、副先達、先達」と総計五二名の名が刻まれている。

<項番>(ホ) 丸山講富士塚(春日町三―一九―一九、篠田敏一氏宅

個人の家に富士塚があるのは珍しい。篠田家の祖父友吉氏が丸山講の先達をされていた関係から、昭和六年、当時の金額で五〇〇円の費用を掛けて築造したものだという。正面には鳥居もあり、塚の高さは約四mくらいだが、講中総がかりで黒朴を積み上げ、頂上には祠もまつってある。また、左側に中復を廻り込む径があるが、これは胎内くぐりができるようにしてあったものである。いまは子どもが入ると危険だからというので入口は塞がれている。富士講そのものは、友吉氏が亡くなられたため自然消滅したかっこうだが、富士塚はよく手入れして保存されている。なお、庭の一隅には、木花開耶姫を祀った丸山講祈祷所もむかしのままで残されている。

以上の五か所だが、たとえ富士塚はなくとも講の結衆は高松にもあった。富士街道に面した高松四―二先に建つ「明治十九年戌十二月、三国第一山」の記念碑がそれである。高松地区と谷原村のマル吉講で、建立当時の初代に引続き、後になって彫り込んだと思われる四代目までの講元名もあって、この講中も盛んであったことが知れる。このあたり、まだ江戸を出はずれたばかりなのに、ここから富士まで三六里と、道程がしるされているのは愉快である。

三原台、大泉街道の北、稲荷神社の境内にも富士山浅間神社の碑がある。明治九年六月朔日、田中村北原講中によって建てられたものである。

大山信仰

富士信仰が、遠いむかしの原始信仰から来たものであることは前に述べたが、大山信仰も山岳崇拝からはじまっており、もとをただせば同様なのである。ただ大山は阿夫利山、あるいは雨降山とも称し、雨乞いの山

として農村には縁の深い山であった。

阿夫利山本来の信仰の中心は、石尊という自然石であったが、いまは大山祇命を祀っている。平安時代の頃から、この石尊を仏教や修験が管理していたので、以後は大山不動の名で通っていた。それが明治維新後、神仏分離を行ない山の中心は阿夫利神社となり、別に不動尊を安置した大山寺が建立され、いまに至っている。したがって江戸時代の大山信仰は不動信仰でもあったのである。川越街道の下練馬宿に「是より大山道」の道標が建っているが、この道標の上に不動尊の石像が載っているのを見ればわかるであろう。

また沿道の村々にも大山講のあったことを知る手だてとして、不動尊の石像をみかける。早宮三丁目、石神井川にかかる大橋の袂で、川に面して建つ文政四年(一八二一)の水垢離不動がある。大山への登山者はまずこの不動に詣り、そばを流れる石神井川で身を清めてから出発したのであろう(ここは精進場と言われ、大山不動がまつられている)。もう一つ、高松一丁目の八幡神社にある享和三年(一八〇三)の大山大聖不動も同様で、ここでも精進潔斉したといわれている。

これらの講中が盛んに作られるようになったのは、江戸を中心に活躍した御師、先達らの努力もあったが、なんといっても大山は、関東各地から望まれる近さにあって、民衆を引きつける格好の山体であった。中天にそびえてみえる大山を男根とみたて、美しい富士山は山頂が噴火口でへこんでいるところから女陰にみたてられた。一方だけの信心ではご利益がないといわれ、次第に富士山まで足を伸ばした。しかし江戸の人びとにとっては、富士山はやや遠すぎた。このため江ノ島明神の弁財天が女神なのに目をつけ、大山の帰りは江ノ島詣りとなったのである。そのついでに藤沢宿で命の洗濯という輩も出たのである。これを男の特権といってしまえばそれまでだが、大山は出世祈願も併せて行なうので、埼玉県下では「男の初山」と称して、少年を代参に連れて行く場合もあったという。多分これは近代になってからであろうが、大山信仰は富士信仰と異った点が多く見られる。つまり大山詣りを理由に息苦しい江戸を抜け出す手だてとしただけに、半分は游山気分も漂っていたのである。

石神井あたりの子どもたちが、白衣の道者を先頭にした講中の一団が通るのをみかけると、駈けよって銭をまくように唄った言葉がある。

 びっちょ投げろ おん導師

 まかぬ種子は えねえよ

びっちょとは鐚銭びたせんのことである。大山へ参ってその夜は勝負事にふけようとする。その下心を見破るように、まかぬ種子は生えないと、子どもの智恵とはいえ、これを見事に素っ破抜いているのである。(平野実著『練馬の昔の道』練馬郷土史研究会

維新後、各地の山岳信仰は著しく衰退し、或るものは帰農し、或るものは旅館などに転向していったが、大山だけは例外であった。御師は明治以後先導師と改め、神社を中心にそれを盛り立て、参詣人の便宜を計ったり、宿泊を引き受けるなど現在も広く活躍している。大山の参道には、昔ながらの先導師の家が軒を連ね、いまもって門前町の体制を維持しているのはこのためである。

このような状況のなかにあって、区内における大山講の数はどのくらいあるものかと、わざわざ阿夫利神社まで訪ねて調査した人がいる。向山四丁目の金本勝三郎氏である。同氏の調べたところでは、四人の先導師(御師)のもとに総計二七の講が登録されてあった。このうち現在まで一応継続して動いている講は一六あるということまで判明した。八百万やをよろずの神仏をまとめて信仰する国民性の中にあって、この一例は信仰の深さ、根強さを知るよすがとなるものである。

御嶽信仰

区内に御嶽神社は、高松三丁目、中村三丁目、下石神井四丁目の三か所にある。これが境内末社となるとたいへん多く、実に一〇社を数えることができる。

御嶽は、信州木曾と武州の両方にあるが、ともに御嶽信仰と称している。このうち武州御嶽は、江戸(東京)に近い関係と、農の神として農家の信仰が厚い。毎年正月三日には、農作物の豊凶を占うまつりがある。代参者は当日、狼を大口真神

おおぐちのまがみ)と称しているお札を受け、村へ帰って講中に配る。個々の家では、このお札を泥棒除け、虫除けのお守りとして戸口や畑に立てる。これはいまも続けられており、大泉学園町の加藤惣一郎氏が調べたところによると、大泉地区だけでもつぎの講中があった。

寿講(西大泉)、水入久保講(西大泉)、一心講(南大泉)、辛酉講(学園町)、泉心講(東大泉)のほか大泉町にも講があった。一時は村全域の農家が加入したほどの盛儀であったが、宅地化の急増で転業や、都市生活への移行で講員は減少、純農家を中心にした親睦的団体に変化したものの、いまも続けられているということである。

木曾御嶽の信仰は、御嶽神社(高松三丁目)、稲荷神社(富士見台三丁目)、稲荷神社(南田中五丁目)、石神井神社(石神井町四丁目)、稲荷神社(三原台三丁目)などに、御嶽山を描いた額絵馬が奉納されているので、これらの神社を中心に講中があったことがわかる。

富士見台の稲荷神社は、御嶽神社としての方が知られている。これは増島大伝を開祖先達とした一山講が、この境内地に社殿を建て御嶽神社として祀り、一山様と呼んで信仰した。講はその後、二代目田中八右衛門の努力によって隆盛時には八〇〇戸に及んだという。こうした先達を顕彰した碑が建ち、御嶽信仰のかくありしことを残しているのである。

これと同じ大伝の碑が、中村三丁目の御嶽神社にも建立されている。この碑によると、大伝は石神井村大字谷原の産で、当宮の開山者ということになっている。この神社の最盛期は、大正の頃であったらしいことが境内に建つ数々の碑からうかがえる。いまでも毎年五月一八日の大祭には、修験道の修行によって、火渡り、おたきあげ、刀渡、探湯の儀が行なわれている。

下石神井の御嶽神社には、一山忠明教会の大きな碑が建っている。これは天保一四年に生まれ、大正一〇年七九歳で没した石塚忠明(一八四三~一九二一)が先達を務め一山講を組識、登山すること五十余回、講員も一八〇〇名を擁した。その後忠明は中座の地位を与えられ、教会を創立した時の記念碑で、明治末期に建てられたものである。また境内には一山神社も

祀られているし、岩を積んだ小丘の上には三体の石像も建てられ、御嶽信仰らしい雰囲気を醸し出している。

第六天信仰

第五節「絵馬とその信仰」の中で、絵馬による第六天信仰が続けられていることを記したが、第六天そのものは、むかしから崇り神として恐れられていた。祭神は神道と仏教では異なり、神道では神格化されているが、一般にいう崇り神は仏説によるものである。すなわち第六天とは、欲界六天(四天王・三十三天・夜摩やま天・兜率とそつ天・楽変化らくへんげ天・他化自在たけじざい)の最高天である他化自在天をいい、この神が第六天の魔王であるという。

そしてこの魔王は、仏道を修業し成道せんとするものに障害をなすものと説かれている。これをもっとやさしくいうと、他人のたのしみを自由に自分のものにしてしまう法力をもっている恐しい天魔なのである。そのため、この神様に自由に出歩かれ、いろいろと妨害されてはたまらないと、封じ込めの手段として祀り上げてしまったのである。

区内に第六天のあることを『新編武蔵風土記稿』でみると、三社あったことになっている。その一つ、上石神井村では、氷川社の末社に第六天とある。つぎの上練馬村では、第六天二、ともに愛染院持とある。

はじめの氷川神社(石神井台一―一八)の境内末社として、現在は北野、須賀、稲荷のほか、御嶽、八幡、三嶋、榛名、浅間、三峯、阿夫利まではあるが、第六天はついに認められなかった。上練馬村については、愛染院の隠居寺、寿福寺に第六天が明治のはじめまであったといわれているが、春日神社に分離したときにはすでに無くなっていたという。いま一つの方は、残念ながらその所在をつきとめることはできなかった。ただ『風土記稿』にはないが、第六天信仰があったと思われるものとして、自然石に大六天と刻まれたものが土支田八幡(土支田四―二八―一)にあった。これは高さ二五㎝位の小さな丸石で、境内末社の社殿の脇に、これも小さな台石に載せられてあるため、よほど気をつけねばみつからない。

さて、区内で唯一つ、第六天の小祠が高稲荷神社(桜台六―二五―七)の境内にある。これは川の北、北三軒の地にあった第六天があれはててしまっていたものを、同地の中村氏が戦後、稲荷のそばに移し、その守護をしているのであるが、この地にまつわる意味あり気な伝説が一つある。

<資料文>

高稲荷は眼下に石神井川の流れを望み、見晴らしのよい台地にある。そのがけ下に大きな沼があって、主の大蛇が住んでいたそうである。練馬村のある若者が、この大蛇に見込まれて、ついに沼の中に引き入れられてしまった。この若者は篠氏一族の者だというが、その霊をなぐさめるために祭ったのがこの高稲荷だともいわれている。

このような伝説から、貴重な断片を見出し、史実をほりおこしていった歴史家がいる。金沢大学教授だった故井上鋭夫氏で、その著書『山の民・川の民』(平凡社選書)の中で述べている発想法によって類推すると、この伝説は第六天と結びつけて考えることができる。大蛇はつまり第六天で、若者は神を粗末にしたため、崇り神に見込まれたというものである。したがってこの伝説の出自は、信仰に対するいましめも含んでいると同時に、祠をつくって魔王を封じ込めた理由としている。ただここで、第六天を名指していないところは、やっぱり崇り神の恐さを反映しているのである。そしてその後はこの高稲荷周辺を除地とし、蛇はもちろんのこと、生きものを殺さないよう注意した。と、ここまで考えて来たのはよいが、この伝説は高稲荷も第六天もまだ無い頃を舞台にした話である。そうなると、この推定はご破算かというとそうでもない。下練馬村の寛政及明治初年の地図にはこの地に、東本村に一、東湿化味に一の大六天山が記入されているが、今、その所在はわからない。しかし、これらの地は共に高稲荷の地とはそう離れた場所ではない。したがってこのあたりでも第六天信仰が全然無かったとは思えない。この伝説を生んだのは、それなりの下地がこの地にあったと考えて差し支えないであろう。

<項>
おわりに――付・練馬区版『願掛重宝記』
<本文>

文化遺産として区内に残っている石仏や石造物、また絵馬などの事物にかかわる民間信仰をたどって来たが、そこには農村という生活環境に合ったそれぞれの習俗を生んでいたことがわかる。

すべてを自然に頼る農作業は、天の恵みを得るしかない。五穀豊饒を願うとともに、これを成しとげるためには、家内安全、無病息災でなくてはならない。そこに信仰という心が生じていくのである。農耕を中心とした年中行事は、〝はじめに〟

の項でも述べたように、すべてが信仰とのかかわりを持っていることである。これを称して人は俗信というが、この俗信こそほんとうの民間人による民間信仰で、その対象は際限がない。

たとえば、宮田橋庚申塔と並んで建つ敷石供養塔や、豊玉北五丁目東神社の橋供養正観音など、橋や敷石がなんで信仰の対象になるのかと思われよう。これは、労力に対する感謝の意を表わしたものだが、このような大事業を完成したのも、すべてが信仰という力の助けによって得られたものと信じているからである。

このように信仰の対象はどこにもあって、しかもありとあらゆるご利益に預かろうというのが、人間の欲望である。ところが信仰される側の神仏にも、それぞれの都合からいろいろの分野にわかれたものもある。子育地蔵とか延命地蔵といえば、願いごとの範囲が限られる。このような例をわかりやすく、願いごと別に分類した案内書が江戸時代にあった。文化年間(一八〇四~一七)に、江戸市民を対象に版行した『願懸重宝記』というたいへん重宝な本で、これはなかなかの評判だったといわれている。(『江戸時代の民間信仰』所収「願掛重宝記をめぐって」宮本袈裟雄・雄山閣

この案内書の内容は、重病人とか雨乞い祈願といったように、家中の者や村中の者が集まって祈願する大がかりのものは含まず、個人的な願掛に主眼が置かれている。つまり、とげには〝とげぬき地蔵〟へ、子どもの百日咳はどこの地蔵へというように、地蔵とか小祠などへの願掛が多いということである。そこでこれに倣って、これまで述べて来た信仰の中から、あるいは伝承として伝えられているものもこれに加え、練馬区版「願掛重宝記』が出来ないかと考え、拾い出してみたところ結構あることがわかった。以下に列記するが、ここに登場した稲荷、地蔵、庚申塔、寺院など、それぞれ信仰上特徴を十分に備えているのである。(上から順に、ご利益、祈願の対象、所在地、祈願法

  1. ○夜泣き 千川子育稲荷 旭丘一―三七
  2. ○夜泣き 北新井弁天 豊玉北二―一七 市杵島神社 境内のひばの木の葉を枕の下に入れて寝かす。直ったらお礼にひばの木を植えること。
  3. ○夜泣き 子育地蔵 早宮三―四二
  4. ○せき 身替焔魔 高野台三―一〇―三 長命寺 子どものせきが治るよう身替りになってくれる。
  5. ○熱病・小児のせき 火燃る墓 桜台六―二〇一六 広徳寺 江戸時代、参詣者が多く、線香の火で墓標が燃えたという。現在は門前に墓の断片があり、伝承として残っている。
  6. ○いぼ いぼ地蔵 石神井町五―一九―一〇 禅定院 土団子を上げて拝み、治ったら米団子を上げる。
  7. ○眼病 石薬師(病眼やんめの神) 豊玉北五―一八 練馬大鳥神社
  8. ○眼病 ひきり地蔵 練馬一―四四―一〇阿弥陀寺 都合のよい日をきめて祈願する。
  9. ○眼病 薬師如来 中村一―一五 南蔵院
  10. ○眼病 薬師如来 高松三―三―一九 御嶽神社
  11. ○耳の悪い人 今神庚申塔 氷川台二―七 だんごを供えてお参りするとよい。
  12. ○耳の悪い人 庚申塔(享保四年) 早宮一―四四
  13. ○耳の悪い人 耳塚(円浄法師) 春日町五―三五
  14. ○更年期障害 血之通地蔵 錦一―一九―二五 円明院
  15. ○しもやけ 善海和尚の墓 貫井五―二〇 関口勇作氏宅 墓前にだんごを供え、その串を焼いてその灰を酒で練り、患部に塗る。
  16. ○脚・腰の病気 子ノ聖大権現 貫井五―七―三 円光院
  17. ○サラリーマン 首つぎ地蔵 中村南三―二
  18. ○出世祈願 出世稲荷神社 旭町三―一七―四
  19. ○災難除け 白狐稲荷 北町二―四一―一
  20. ○災難除け 身替地蔵 栄町一〇 武蔵野稲荷神社
  21. ○災難除け 薬師如来 春日町三―二―二二 寿福寺
  22. ○そばや(商売繁昌)そば喰地蔵 練馬四―二五―一 九品院
  23. ○商売繁昌 穴守稲荷 旭丘一―二〇
  24. ○商売繁昌 武蔵野稲荷神社 前出
  25. ○雨乞い 愛宕神社 田柄二―一七―一一
  26. ○雨乞い 厳島神社 石神井台一―二六―一
  27. ○合格祈願 北野神社 東大泉町六九六 志望校を書いた絵馬を奉納。
  28. ○合格祈願 氷川神社 石神井台一―一八―二四 〃
  29. ○合格祈願 北野神社 旭町一―二六―五 〃
  30. ○開運祈願 開運地蔵(石橋供養) 関町一―一
  31. ○迷いごと一般 道しるべ地蔵 旭丘二―一五―五 能満寺
  32. ○願掛一般 塩上げ地蔵 上石神井一五二五智福寺 祈願成就の時、塩を上げる。

<章>

第二章 神社・仏寺

<節>
第一節 神社
<本文>
八雲神社

小竹町二―二四―一 祭神は素盞鳴尊すさのおのみこと、鎮座の年代は不詳であるが、「八雲神社設立申請書」によると、「江戸時代ノ初期、北豊島郡上板橋村字小竹二六二七番地宝蔵院境内ニ町内守護神トシテ、氏神氷川神社ヨリ御分霊ヲ拝受し小祠ヲ建立シ、小竹在住ノ農民二十八戸ニヨッテ崇敬サレタリ。爾来本神社ハ悪疫除ケ神トシテ信仰厚ク今日ニ至レリ、明治十年六月上板橋村小竹二七〇一ニ移リ、明治四十年十月社殿並ニ社務所ヲ改築」したと記している。社殿の左前の水屋には「破邪顕正」と刻した盥漱かんそう石がある。大祭の九月一五日には神輿が出、神楽が今でも奉納されている。

浅間神社

小竹町一―五九 祭神は木花開耶姫命このはなさくやひめのみこと、かつては能満寺(旭丘二丁目)を別当とした富士浅間神社で、境内には富士山の熔岩で天保一〇年(一八三九)丸祓講(江古田・中荒井・下練馬)が築いた江古田富士がある。もとこの辺一帯が「果てもなき武蔵野の茅原に富士ばかりこそ山ぞ見えけり」(境内の碑)とあるような有様から、また茅原浅間神社とも呼ばれ、清戸道沿いだった。のち武蔵野鉄道(今の西武池袋線)が大正四年開通するに際し線路によって参道の中断されたのが現状。境内には寛政・文化・天保・嘉永頃の石造物があるが、今では嘗ての千川堤の桜楓を物語る遺物となってしまった「千川堤植桜楓碑」(大正四年大正天皇御大典記念の植樹、千川堤両岸七キロにわたって千数百株)がある。

武蔵野稲荷神社

栄町一〇 祭神は宇迦之御魂命、創建の時期は不詳。ただ奥院のある塚は円墳の遺跡と考えられている。拝殿への参道の両側には採色の燈籠が並び、大きな白御影石や檜が並ぶ中に、白御影石の鳥居三基が順次立つのはいかにも

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稲荷神社らしい佇まいである。一般に稲荷信仰は「稲なり」を司る農業神信仰であったが、農村の都会化につれ商家にも信仰が広まったものである。

市杵島いつくしま神社

豊玉北二―一七 祭神は市杵島姫命、もと広島県(安芸)の厳島にいつく主神市杵島姫は海路守護の女神であったところから、水に因んで雨の、ひいては農業の神として信仰されたのが、練馬地区に勧請されるようになった経緯は不明だが、豊玉南の氷川神社の摂社となり、同じ水に関係のある今では弁才天としても信仰されている。境内には宝永五年(一七〇八)の地蔵があり、ひば(あすなろ)の多いのは、夜泣きを治すまじないにここのひばの葉を寝る時枕の下に敷くとよく、治るとそのお礼にひばの種を境内に播く、との俗信による。

天祖神社

豊玉北六―一 祭神は天照皇大神、明治二三年頃の創建

氷川神社

豊玉―二―一五 祭神は素盞鳴尊、『新編武蔵風土記稿』によるともと村の鎮守で正覚院持、祭神は大宮の氷川神社(式内社で武蔵一宮)の分霊という。創建の時期は不明、以前の須賀神社の社殿は文化八年(一八一一)九月一七日再建の棟札を持ち氷川神社の神楽殿となっていて、釘を使っていない珍しい建築である。かつては九月の六、七日の祭礼には練る神輿(文化一〇年造)が暴れ廻るので有名。

練馬大鳥神社

豊玉北五―一八 祭神は天日鷲命、由緒記によると、祭神は正保二年(一六四五)鶴が三羽飛来したのを機に、和泉国一宮大鳥神社の分神を勧請したものの由、本殿はその頃の建築と口碑はいう。一一月のお酉さまの日は開運熊手や提灯、万灯で賑わう。境内にはもと豊玉五―二三の往来にあった石薬師の座像(安永五年矢島源八造)がある。

稲荷神社

中村南二―七―二 祭神は宇気母知うけもち命、もと南蔵院が別当の農民尊崇の神社、その他は不明。

八幡神社

中村南三―二―八 祭神は応神天皇、『新編武蔵風土記稿』によると、もと村で鎮守の南蔵院持であった。創建の日時は明らかでないが、かつては『北豊島郡誌』が記しているような盟神探湯くがたちの神事に類する湯立ゆだちが行なわれていたとすれば、かなり古い神社とも考えられる。境内には氏子が「文化十三庚寅年十一月吉日」奉納した卍刻の盥漱石があり、若者

たちの力くらべに用いた貫目を刻した力石が数個存在している。境内末社の須賀神社、御嶽神社、北野神社、秋葉神社の前には文化一三年在銘の狛犬が一対立っている。

羽根沢稲荷神社

羽沢二―二二 祭神は保食うけもち神、創建の年月は不明だが、昭和四五年新築の本殿に安置の石造の祠には「嘉永七甲寅年一月吉日」の銘文が見られる。

毎年二月の初午には「お奉謝びしや」の祭りが、稲荷神に感謝のためおびしや組によって今も行なわれているようである。

稲荷神社

桜台三―一六 祭神は倉稲魂うがのみたま命、沿革は不詳、毎年二月の初午には、おびしやが執行されることは羽根沢のそれと同様である。

稲荷神社

平和台四―二―一六 祭神は倉稲魂命、沿革は不詳、すべては昭和三〇年以後に建造したもの、ここでも二月初午の日におびしやの祭りを前晩から徹夜で行なっている。前夜子供たちが太皷をたたきながら氏子をまわる風習がある。

高稲荷神社

桜台六―二五―七 祭神は保食神、沿革は不詳、ただ石造の鳥居に「嘉永六丑年(一八五三)二月初午」とあることから、嘉永の頃には既に存在し、初午の行事が行なわれていたようである。

氷川神社

氷川台四―四七―三 祭神は須佐之男尊、社伝では当社はもと石神井川辺桜台六丁目にあるおはま井戸のところにあったのが、いつの頃か今の地に移ったという。「郷社氷川神社明細帳」によると長禄元年(一四五七)の創立とするがいかがか。延享四丁卯天(一七四七)卯月吉日奉納の手洗鉢、安永四乙未年(一七七五)五月大吉日建立の鳥居、天明七丁未(一七八七)一二月奉納の狛犬、文久年中(一八六一~六三)奉納の力石等の石造物がある。かつては毎年四月九日の例祭には、神輿が旧地のおはま井戸まで神幸渡御、俗にいう「お里帰り」の行列を行ない、お浜井戸では祭典執行後獅子舞鶴の舞が演ぜられ、夜間社頭では田遊びの行事も行なわれていた。

諏訪神社

氷川台二―三―一二 祭神は建御名方たけみなかた命、沿革は不詳、石造の神明鳥居(大正一一年)をくぐると、狛犬(明治三〇年)、水屋手水鉢(大正一一年)、燈籠(大正一二年)、神殿(大正一一年改築)の順に配置され、右手奥には木造の明神鳥居

があって稲荷社が祀られている。境内の左手には石造の小祠があって、その中にかつては武州御嶽神社、群馬の棒名神社、相模の大山神社のお札が納められていた。祭礼は九月一五日、大祭は一年おき、神輿は戦後新造されて大小一組が奉納されている。

白山神社

練馬四―二 祭神は伊邪奈美命、創建を『北豊島郡神社誌』は弘安四年以前として、発掘したという石碑二基を挙げている。がこの石碑は恐らく阿弥陀寺の所蔵する弘安三年の弥陀一尊板碑であろう。境内には国の天然記念物指定(昭和一五年)の大欅二本(樹令七、八百年、高さ約二五m、目どおり一〇m、七m)があって、古社であることを暗黙裡に物語っているようである。稲荷、三峯の二社が境内末社としてある。

春日神社

春日町三―二―四 祭神は天児屋根あめのこやね命・面足おもたり之命・菅原道真公、創祀沿革不詳、『北豊島郡神社誌』には工藤祐宗と祭神との関係から彼の創立説を挙げているが、信憑性に乏しい。然し「文明年間ニ至リ長尾景春ノ部将練馬城主豊島勘解由左衛門泰経同弟平右衛門泰明等深ク当社ヲ崇敬シ、一族ノ守護神トシテ奉仕セリト云フ……豊島没落ノ後練馬城海老名左近ノ居トナリ、又厚ク崇敬セリト云フ」との条はやや信ずべきか。いずれにしても練馬城との関係は位置からも考えられよう。『新編武蔵風土記稿』の寿福寺持十羅刹女社・六所権現社にあたる。

境内末社には稲荷・三峯の二社がある。

八幡神社

高松一―一六―二 祭神は誉田別ほんだわけ命、春日明神を相殿に、愛染院を別当とし、慶安二年(一六四九)一一月一七日付の社領八石の朱印状を下付された由緒ある神社である。この朱印地八石相当の四三九〇坪が明治五年払下げられている。

境内末社には熊野・稲荷・高木・須賀・春日・御嶽の六社があり、一の鳥居の傍には、享和三年(一八〇三)の「大山大聖不動明王」像ほか四基の石造物がある。

浅間神社

北町二―四一―二 祭神は木之花開耶姫命、富士大山道筋にあって、「お富士さん」の信仰を中心に富士講が結ばれ、昭和二年頃には同行紀念碑に「氏子総出場人員六百人、諸職人壱百五拾人」とある程盛大であった。この人造富士

は明治以前に築造され何回か再建されているという。天祖・神明の二社が境内末社となっている。

氷川神社

北町八―二二―一 祭神は建速たてはや須佐之男命、由緒は不詳、御嶽・稲荷、富士・白山の四境内末社があり、「伊勢神宮大御神楽奉奏紀念碑 練馬講」、「登山記念、内外御八湖御中道修行紀念碑」等からも今になお練馬講・富士講・御嶽講等による信仰活動の盛んなことがうかがえよう。人造富士は小型であるが、天保六年(一八三五)の再建碑があり、古い富士である。

八幡神社

田柄五―二七―二七 祭神は応神天皇、菅原道真公、創建不詳、口碑では永承年間(一〇四六―五三)という、境内末社には御嶽神社がある。鳥居にかかる「八幡神社・北野神社」は祭神が二柱であるからである。養福寺持飯綱権現社にあたる。

愛宕神社

田柄二―一七―一一 祭神は迦具突智かぐつち尊、『新編武蔵風土記稿』の上練馬村の項に「愛宕社」村持とあるのは当社のこと、文政四年(一八二一)六月差出の「上練馬村 村方明細書上帳写」(長谷川武範家蔵)によると

とあるように別当は京都嵯峨愛宕山上に鎮座する愛宕神社で、慶長以来吉田家の支配する所となっている。

境内末社には須賀・稲荷・市杵島の三社がある。ここで毎年七月二四日に開かれる金魚市は有名。

天祖神社

田柄四―二七―五 祭神は天照皇大神、明治五年改称前は神明社と呼ばれていたという。神明社は『新編武蔵風土記稿』に記す神明社か、慶長三年上野伝五右衛門等が伊勢神宮に参拝し、請けて帰って屋敷内に祀ったと伝える社か、文政四年六月の「上練馬村 村方明細書上帳写」に「廿坪程右同断(御縄外)同(支配人)喜兵衛」とある神明宮が、同じ村で書上帳にある泉蔵寺持のそれか、俄かには決し難いが、喜兵衛持の方が屋敷神から大きく発展した社としてはふさわしいようである。境内末社としては御嶽・稲荷の二社がある。因みにこの天祖神社の境内には明治二六年一一月建設の「上練馬村玉川上水分水記念碑」があって、この分水の田柄川がどのような努力で開さくされて新井筋田無町外八村が潤おったかを

物語る貴重な資料となっている。また「羽村より目ぐりてきたる田無口、石川ながれ田柄水神」の歌碑から水神が祀られていたことも知られる。

出世稲荷神社

旭町三―一七―四 祭神は宇迦之御魂命(倉稲魂命)、旧土支田村には稲荷社が数社村方の明細書上帳に記載され、数寺がそれぞれ持っているような小祠、そのどれがこの川越城主の祈願した今の出世稲荷に当るかは判らないが、この地番の社の鳥居の右手には明治一〇年の「出世稲荷大明神」の碑が立っている。

土支田八幡宮

土支田四―二八―一 祭神はもとの相殿神誉田別(応神)天皇を主神、主神の菅原道真公を相殿神と昭和一〇年社名(もと北野神社)を土支田八幡宮と改めた時変更している。嘉永三年(一八五〇)の明細帳に「天神社 二ヶ所」とある中で一二九二坪の除地を持つ方に当るか。境内末社には稲荷・八雲・御嶽の三社がある。俵久保の天神さまと言われた。

稲荷神社

富士見台三―四二―一一 祭神は宇気母知命・大穴牟遅おおなむち神・少名毘古那すくなひこな神、昭和初期に次項の氷川神社より別立したもの、須賀・御嶽の二社が合祀されている。御嶽神社が一山講で支えられていたので、ここは稲荷神社より御嶽神社の名で知られている。一山講が一時八〇〇戸からの講員を擁する程隆盛だった事もあって、大小の神輿が五台もある。

氷川神社

高野台一―一六―七 祭神は須佐之男命、『新編武蔵風土記稿』に「村ノ鎮守ナリ長命寺持」とあったもの。またここには境内末社としての「三社宮」があって「大神宮、八幡、春日三神ヲ安ン」じている。石造物として一番古いものは文政一二年、拝殿には安政六年、万延年間の絵馬や絵額が懸っている。

稲荷神社

南田中五―一四―一二 祭神は宇気母知命、大日霎貴おおひるめの命。由緒は『新編武蔵風土記稿』に「村ノ鎮守ナリ宝蔵院持」とある以外は不詳、宝蔵院は今の観蔵院。ここの社殿の額に稲荷大神、天照皇大神・榛名大神とあるのは、天祖神社がのち合祀されたからで、境内の石造物に大六天の小祠もある。

稲荷神社

石神井町一―二一―一五 祭神は倉稲魂命。社記によると京都伏見稲荷の分社で、昭和七年一〇月の社標は渡辺伝五郎翁が勧請したのだという。俗に伝五郎稲荷とも、小字名から和田稲荷とも称せられ、渡辺家が代々神主を勤めたよ

うであるが、明治以後は石神井神社が祀掌している。

大鳥神社

石神井町三―二五―二六 祭神は日本武尊、大鳥連祖命おおとりのむらじみおやのみこと。当社の歴史は浅く、昭和の初め当地の人が駅前に社を建てて、甲府地域で射とめた大鷲の剥製を祀ってからで、昭和四年には大黒天の分霊を大宮の黒塚山から請けて合祀した。その後間もなく現在地に同七年移転している。社標には大鷲神社とある。

石神井神社

石神井町四―一四―三 祭神は少彦名すくなひこな尊。ご神体は古俗「石神さま」と称して来た石剣ならざる石棒で、性器信仰を秘めたものである。『新編武蔵風土記稿』に「是村名ノ由テ起りし社ナリ」として神体を石剣と記している。『江戸名所図会』で松濤軒長秋は「一顆の霊石にして……世に云ふ所の石劔」とし山口豊川は『夢跡集』で別に「神武より以前の石剣なり……石剣の長さ二尺余、丸さ大なる所にて一尺まわり」ありとし、普通の石剣とは違うことには気づいていたようである。明治七年氷川神社の祀掌する所となる。境内に稲荷神社があり、その御手洗鉢には「天保十四年二月初午」と刻まれている。なお社殿がなくて土盛だけの榛名神社のようなのもある。例祭は九月二七日から二九日まで行なわれる。

氷川神社

石神井台一―一八―二四 祭神は須佐之男命で、稲田姫命・大己貴おおなむち命を相殿とする。『新編武蔵風土記稿』には「上下石神井・関・田中・谷原五ヶ村ノ鎮守なり、例祭九月二十日、三宝寺持」とあるような大社で、かつては石神井城主豊島氏が大宮の氷川神社の分霊を城内に勧請して鎮守としたのがはじまり。境内現存の享保一二年(一七二七)在銘の御手洗鉢に「石神井郷鎮守社」とあり、また本殿脇の石燈籠にある「元禄十二己卯歳十二月吉祥日、主願豊嶋七郎兵衛尉泰盈白敬石神井郷(裏面)」の銘からも、この城と豊島家、そして三宝寺、氷川神社との関係がわかろう。

稲荷諏訪合神社

石神井町五―二三―二 祭神は倉稲魂うがのみたま命・建御名方たけみなかた尊。『新編武蔵風土記稿』によると、「諏訪社禅定院持、稲荷社三一は道場寺、禅定院、一は村民の持」の合併社、だが祭例は一〇月一日と分社(根川原地域)の七月二七日とに分かれて行なっている。

厳島神社

石神井台一―二六―一 祭神は主神が狭依姫さよりひめ命、相殿は香具槌かぐつち命・倉稲魂うがのみたま命・国常立くにとこたち命。由緒不詳、『新編武蔵風土記稿』に「三宝寺池ノ中島ニア」る弁才天と「池ノ側ニア」る水天宮とが神仏分離後この厳島神社となる。今も池の中

島に在る弁天が江戸時代いかに多くの信者を持っていたかは、文政一〇年(一八二七)三月の「弁財天巳待万人講列名簿」によって明らかで、共に水に関係ある社で、特に雨乞いに験ありとされている。例祭は四月八日。

天祖神社

下石神井六―一―六 祭神は大日霎貴尊おおひるめのみこと・須佐之男尊。社前にある延宝二年(一六七四)の庚申塔に石神井郷神明村とあったり、『新編武蔵風土記稿』に「神明社、持前ニ同し村ノ鎮守ナリ」とあるように、天照皇大神(別称大日霎貴命)を祀った神社であること明らか。境内には八幡・稲荷の二社がある。例祭は九月二八日。

御嶽神社

下石神井四―三四―九 祭神は国常立尊・大己貴おおなむち命・少彦名尊。古来の山岳信仰のうち、木曾の御嶽山に対する信仰に基いて江戸末期の天明五年(一七八五)山を重潔斎から軽潔斎に解放し、御嶽講を木曾谷に開いた覚明(一七一八~八六)につづき普寛(一七三一~一八〇一)は主として江戸を中心に信者を弘めた。ここの御嶽神社を支える一山講は石塚忠明によって組織された普寛系で、講員は一八〇〇余にも達し普寛を主神にした一山神社が境内に祀られている。現在の御嶽神社の社殿は震災後の大正一三年再建したものである。

天祖神社

関町北三―三四 祭神は大日霎貴尊。もと享保五年(一七二〇)九月の「武蔵国豊島郡関村明細控帳」にある「鎮神番神壱ヶ所 別当本立寺」の三十番神社であって、維新の神仏分離によって天祖神社と改称、大日霎貴尊を祭神として奉斎し、村の鎮守となった。大正二年旧竹下新田の厳島神社を合併して狭依姫さよりひめ命・倉稲魂命うがのみたまを合祀する。境内社に若宮八幡宮がある。現在の社殿は天保一四年のものを最近修復、神楽殿は新築された。なお拝殿の前には「安政四丁巳正月」の銘を持つ燈籠二基がある。

八坂神社

大泉町一―四四 祭神は須佐之男命。由緒不詳、口碑では「いんきょさま」と呼ぶ祠が元神であった由。『新編武蔵風土記稿』の橋戸村の項に「除地一町、小名中里ノ耕地ニアリ、三間四方ノ社、村ノ鎮守ナリ、鎮座ノ年歴知ラズ」とある天王社がこの社。境内末社には稲荷・浅間・御嶽の三社があり、登山参詣碑の多いのは浅間・御嶽の神社があるためである。高さ八mにも及ぶ大型の人造富士は明治六年、大泉丸吉講によって築かれたものである。

稲荷神社

西大泉町五―一―一 祭神は倉稲魂命。俗に「四面塔稲荷」と呼ばれるのは、『新編武蔵風土記稿』の小榑村の項に「此所(小名堤村)ノ辻ニ高サ三尺八寸、幅一尺四寸三分、厚サ一尺一寸二分、正面ニ題目ヲ刻ミ、側ニ享保元年ニ建タルヨシヲ彫ル四面ノ塔アリ、故ニ土人此所ノ小名ヲ四面塔トモ」言ったからで、その他は不詳の小社で円福寺持(大乗院)であった。現社殿は大正八年から同一四年にかけて改築されたものである。

稲荷神社

大泉町二―六―四 祭神は倉稲魂命。境内はもと広大であったが、近年道路公団の行なった関越自動車道の工事のため大部分が削り取られ、僅かに残った所に造営したのが現在の社殿である。境内末社には御嶽神社がある。

氷川神社

大泉町五―一五―五 祭神は素盞鳴尊、相殿に香具槌命、倉稲魂命、木花関耶姫命。『新編武蔵風土記稿』には「村民庄忠右衛門ヵ宅地ノ内ニアリ、小祠。祭神ハ在五中将ナリ、其家ニテハ中将東国下向ノ時、庄、春日、江古田ト云三人ノモノ慕ヒ来リテ、此地ニ祭リシト相伝レドモ、信ズベカラズ」とあり、荘氏はこの地の旧家で古文書も所蔵してはいるが、在五中将業平との関係は立証すべくもない。旧橋戸村の全部が氏子であった。境内末社には稲荷・白山・弁天の三社がある。この稲荷神社の社前にある手洗石には江戸時代この地を領した伊賀者衆百八人が嘉永二年(一八四九)に社殿を再建寄進した旨が刻されている。

北野神社

東大泉四―二五―四 祭神は菅原道真公、相殿に倉稲魂命を祀る。『新編武蔵風土記稿』に「三十番神社、村ノ鎮守ナリ」とあるものは、小島家文書の「天保二年卯正月武州豊嶋郡土支田村明細帳写」に「三十番神社、一同(御除地)壱反弐畝拾五歩 氏子持別当 同寺(妙延寺)」とあるものとは同じで、また加藤加右衛門の祖先が家の鎮守として祀ったと伝え、その子孫の家を宮脇と称した。同家(加藤儀平氏宅)に伝わる宝永二年(一七〇五)の文書中に「御社地之内三十番神社有之同所加右衛門と申者久敷見守仕、宮之鍵をも加右衛門預り罷在候」とあることから江戸の初期には既に存在したようである。祭神と社名を変えたのは神仏分離の時である。社殿は典型的な流造で、一の鳥居は木造の両部鳥居、二の鳥居は石造の三輪鳥居。神楽殿、神輿庫がある。境内神社には瑞穂稲荷社、末社には疱瘡・稲荷の二社がある。

諏訪神社

西大泉三―一三―三 祭神は建御名方命。神仏分離の際従来の称呼三十番神社を諏訪神社、祭神を建御名方命と改める。然し土地の人は依然三十番神と呼び、そのまま三〇体の神像を社殿に安置している。境内本殿の左側に稲荷神社があり、神仏分離の時、近在の稲荷六社を合祀している。数ある奉納絵馬の中で「狐の大根取り入れ」の絵馬は有名である。

以上主なものを記し、小社は省いたが、末社、小社の中には三十番神社等があるがその中で明神社、権現社よりも斎祀頻度の高い三十番神社について次に触れてみたい。

三十番神を祀る神社は関、土支田、小榑の各村に見られ、神仏分離後はそれぞれ天祖神社、北野神社、諏訪神社となっているが、分離前は勿論三十番神社として、それぞれ本立寺持、妙延寺持、村持であったし、その他妙福寺別当ともなっていた。この事はこの地域では、すべて日蓮宗と関係していたことになる。

本来番神信仰は一か月三〇日の間、毎日結番交替して法華経を守護せられると信ぜられた著名な日本の天神地祇三十神を本地仏に配して信仰することをいい、法華経を拠りどころとする天台、日蓮両宗で法華経を守護するという結番の三十神を大切にするのは当然である。従って日蓮宗諸寺院に三十番神社があっても不思議ではない。端的にいえば、日ごとに三十神の本地仏が配されているのであるから、例えば二二日ならば稲荷社で如意輪を、二三日ならば住吉社で虚空蔵を、二四日ならば祇園社で薬師を拝するに等しいご利益を期待できることになり、祀る寺院にも一般庶民にも極めて融通の利く本地垂迹神であっただけに、特に江戸時代からは、奉祀、参拝する人が多かったようである(第五部第六章第一節参照)。

<節>
第二節 寺院
<本文>
能満寺

夏雪山広原院、本山長谷寺、本尊は不動明王。『新編武蔵風土記稿』の野方領上板橋村の項に「同宗西新井村総持寺末、夏雪山広原院ト号ス、本尊不動、開山源心、承応二年三月二十一日寂ス」とあり、また寺の縁起には、この源

心が夏に雪が降って美しい景色のあるという武蔵野に来て仏道を説き、村民に信望を得たので、寺を建て、不動明王を安置して夏雪山能満寺と名付けたとしている。がこの縁起譚は創建説話としてはお粗末に過ぎる。とはいっても立証すべき記録類は、焼失して他にないので、天明六年(一七八六)一一月、一一世克龍再建、大日堂建立の段は信ずるの外なかろう。墓碑銘には宝永五年(一七〇八)が一番古く、過去帳には宝暦年間(一七五一~六三)からの記載がある。なお参道の入口には、明治末年千川上水から拾い上げた地蔵を千川地蔵(延命地蔵)と呼んで参拝している。

正覚院

天満山観音寺、本山長谷寺、本尊は不動明王。山号の天満山は、太田道灌が江戸城築城の時、外濠に当る地の一農家を立退かしめて道灌尊崇の天満宮の別当にし、当院を創建させたことによると口碑は伝えているが、確からしいのでは古い寛永年間から始る過去帳の五年(一六二八)に開山宥慶とあり、また『新編武蔵風土記稿』に「中興開山契衷宝暦元年寂ス」とある以外にはなかろう。

その後明治の廃仏毀釈、無住、火災と続いたため寺の什宝も烏有に帰してしまったが、明治六年中新井村の酒井度右衛門は当寺に留守居をしながら家塾を開き、漸く地域との結び付きも厚く、一〇年頃篤信者たちによって復興され、成田不動尊を勧請し、不動講を組織して目下寺運隆盛である。

南蔵院

瑠璃光山医王寺、本山長谷寺、本尊は薬師如来。『新編武蔵風土記稿』によると「慶安二年薬師堂領十二石八斗ノ御朱印ヲ賜ヘリ、縁起ヲ閲スルニ、永正年中僧良弁(東大寺の良弁僧正トハ別人)諸国ノ霊場へ法華妙典ヲ納メ、志願畢リテ後当寺ニ錫ヲトヽメ、妙経ヲ埋テ一箇ノ塚トス、今村ノ中程ニ良弁塚ト称スルモノ是ナリ、然シテヨリ此寺ニアリテ修法怠ラザリシカバ、其功空シカラサルニヤ、或日薬師ノ像ヲ感得セリ、ヨリテ堂宇ヲ興隆シ其像ヲ安置スト云、今ノ本尊是ナリ、秘仏トシ三十三年ニ一度龕ヲ開テ拝セシム、又当寺ヨリ白龍丸ト云薬ヲ出セリ、曾テ良弁カ夢中感得セル霊法ノ丸薬ナリ、諸ニ験アリト云」と記され、そのうち良弁が「六十六部(廻国)聖」であった事は良弁塚から出土の経筒表面の文に違わず、また「良弁僧都本尊薬師如来ヨリ感得瘡毒之妙薬」(木版の文)の白竜丸を広く巷間に売出していた事も、現にその

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<資料文 type="947">

①能満寺  真言宗豊山派   旭丘二―一五―五

②正覚院  真言宗豊山派   豊玉南二―一五

③南蔵院  真言宗豊山派   中村一―一五

④広徳寺  臨済宗大徳寺派  桜台六―二〇―一八

⑤了見寺  浄土真宗大谷派  練馬一―一八―二一

⑥阿弥陀寺 時宗       練馬一―四四―一〇

⑦信行寺  浄土真宗本願寺派 練馬二―一二―一一

⑧快楽院  浄土宗      練馬四―二六―一五

⑧仁寿院  浄土宗      練馬四―二五―九

⑧宗周院  浄土宗      練馬四―二六―一七

⑧迎接院  浄土宗      練馬四―二五―六

⑧仮宿院  浄土宗      練馬四―二六―一七

⑧本性院  浄土宗      練馬四―二五―五

⑧受用院  浄土宗      練馬四―二六―一九

⑧得生院  浄土宗      練馬四―二五―三

⑧称名院  浄土宗      練馬四―二六―二一

⑧九品院  浄土宗      練馬四―二五―一

⑧林宗院  浄土宗      練馬四―二六―二二

⑨光伝寺  真言宗豊山派   永川台三―二四―四

⑩荘厳寺  真言宗豊山派   氷川台三―一四―二六

⑪円明院  真言宗豊山派   錦一―一九―二五

⑫金乗院  真言宗豊山派   錦二―四―二八

⑬本寿院  日蓮宗      早宮二―二六―一一

⑭南松寺  真言宗高田派   春日町四―二五―一三

⑮愛染院  真言宗豊山派   春日町四―一七―一

⑯寿福寺  真言宗豊山派   春日町三―二―二二

⑰円光院  真言宗豊山派   貫井五―七―三

⑱仲台寺  浄土宗      旭町一―二〇―一

⑲本覚寺  日蓮宗      旭町一―二六―五

⑳妙安寺  日蓮宗      旭町三―一〇―一一

㉑長命寺  真言宗豊山派   高野台三―一〇―三

㉒真龍寺  浄土宗本願寺派  谷原六―七―九

㉓宝林寺  浄土宗本願寺派  谷原六―八―二五

㉔敬覚寺  浄土宗本願寺派  谷原六―八―一二

㉕観蔵院  真言宗智山派   南田中四―一五―二四

㉖十善戒寺 真言宗東寺派   南田中五―二〇―二

㉗順正寺  浄土真宗大谷海  石神井町三―一七―四

㉘禅定院  真言宗智山派   石神井町五―一九―一〇

㉙道場寺  曹洞宗      石神井台一―一六―七

㉚三宝寺  真言宗智山派   石神井台一―一五―六

㉛釈迦本寺 日蓮宗      石神井台二―八―三六

㉜智福寺  浄土宗      上石神井一―五二五

㉝法融寺  真宗大谷派    関町二―二七

㉞本立寺  日蓮宗      関町北四―一六

㉟教学院  真言宗智山派   大泉町六―二四―二五

㊱妙延寺  日蓮宗      東大泉三―一六―五

㊲法性院  日蓮宗      大泉学園町二二八五

㊳善行院  日蓮宗      大泉学園町二三一五

㊴本照寺  日蓮宗      西大泉三―一一―三

㊵妙福寺  日蓮宗      南大泉五―六―五六

㊶大乗院  日蓮宗      西大泉五―一七―五

これらのほかに新に建立され、或は当区に最近移転して歴史の浅いものは省略したことをおことわりしてておく。

ための広告に用いた版木六枚が寺に蔵せられていて明白で、石神井の道場寺が出していた膏薬の梅黄丸同様、社会奉仕的にも寺院経済的にも寄与する所は大きかった。

なお明治開学に際しては、上知分一反四畝一五歩を学校敷地とし、本堂を舎屋として同九年には豊玉小学校を開いている。

境内には天文元年(一五三二)八月二一日造立の石造聖観世音像や元禄七年、九年、一六年その他三基の有銘地蔵の石仏、享保一三年以下四基の供養塔、文政一一年ほか四基の道標、寛延元年の水盤等の石造物多数が存在している。

広徳寺

円満山円照院、本山大徳寺、本尊は釈迦如来。もと下谷にあって加賀百万石前田家以下多くの大名、旗本の菩提寺として知られ、塔頭だけでも一五からあった江戸屈指の名刹で、川柳に「広徳寺下におかれぬ百旦那」と詠まれる程であった。最初箱根湯本にあった北条氏の菩提所早雲寺の一支院として、元亀天正頃小田原に岩槻の城主北条氏房が義父太田氏資の菩提を弔うため当寺を建立し、氏房の慕う希叟を招じて開山に推したが、希叟は自分の師明叟を開祖とし、己は二世となった。天正一八年小田原城が落ちて北条氏が滅亡するや、家康は直に江戸に入り、この希叟を招く。時に神田に寺域を与えられて一寺を建立した和尚は北条氏の恩顧を忘れ得ず広徳寺とこれを称した。下谷に移ったのは寛永一二年(一六三五)の事である。この時以来幕府から御蔵米五〇俵を給された。

然し明治の廃仏毀釈に遭っては、忽ち広徳寺一山も火が消えたように崩れて四院だけが残ったものの、関東大震災によって堂宇悉く灰燼に帰するに至った。そこで広徳寺の復興を図る一方、練馬区内の現在地に約一万坪を購入、墓地と塔頭円照院を移して別院とした。正門にあたる「寸タラズの門」は有名である。

この円照院はもともと小笠原忠真が兄の室円照院の菩提のために建て、説叟和尚を請じて開祖とした寺で、そのため爾来小笠原家の宿院となって今日に及んでいる。が昭和五三年下谷の本院広徳寺が当地に移転して来たので、最近円照院は別院の任を果して秩父の両神村に移転した。

なお墓地には剣術指南番柳生但馬守宗矩、同十兵衛三厳・同飛騨守宗冬、茶道家小堀遠州・同宗慶、儒者菊地耕斉・同半隠・同五山・同秋峰、同大内熊耳、同末包玉山、伝浄瑠璃作者小野お通の娘等の墓がある。

桂徳院

広徳寺の塔頭、滝川壱岐守正利が雄利(二万石、常陸片野藩主)の菩提所として慶長七年(一六〇二)に建立。寛永一二年(一六三五)蒲岩和尚が再興したが、安永六年(一七七七)に焼失、明治になって塔頭泰樹院、梅雲院を合併、大正一二年大震災のためまたも焼失、現在地のものは昭和三〇年再興。

了見寺

栄照山、本山東本願寺、本尊は阿弥陀如来。開山は井口得雄。得雄は富山県新川郡大谷派栄照寺の生れ。志を立てて昭和元年上京、仮屋を建て故郷の人たちを中心に布教に専念した。そのうち信徒の増加につれ布教の根拠地の必要に迫られ、真宗未開拓の当練馬地区に着目、練馬説教所をまず設け、更に要望に従い、山梨県岡部村の了見寺移建という形で昭和一五年三月設立の認可を得、同一七年一一月には七四坪の本堂の落慶を見た。が寺域が狭小なので納骨所の付設にとどめ、墓地には昭和九年来保谷市ひばりが丘に所有の千百坪の地を以て充てている。

阿弥陀寺

慈光山、本山遊行寺(時宗)本尊は阿弥陀如来。開山は保科忍善、開基は品川長徳寺の一蔵上人。寺伝によると、康暦の頃(一三七九~八〇)、品川長徳寺の境外仏堂として現在地辺に信徒を集めていたといわれている。当寺の明治二四年改定『村内古今過去帳』によると、元禄四年からの記載があるので、一応古寺であるには違いあるまい。

本尊は阿弥陀如来で、その脇仏として、明治の神仏分離以来安置されるようになった元白山神社の観音菩薩銅像の外に、古くから眼病治癒に霊験あらたかとして信仰のある「ひきり地蔵」がある。寺宝である弘安三年(一二八〇)八月在銘の弥陀一尊種子、延文元年(一三五六)の弥陀三尊種子等十数基の板碑は他寺のそれと同様寺の歴史との関連がないようである。

寺紋「すみきり三」は時宗共通のもので、時宗の開祖一遍智真上人がもともと伊予河野家の出身であることから、河野家の家紋を用いたものである。

信行寺

龍王山、本山西本願寺、本尊は阿弥陀如来。大正九年荒川最勝師が高雄山不動堂として在った豊島区西巣鴨

池袋不動堂を売収、高雄山説教所の名で開教、昭和三年当練馬の現在地に移転し、名実共に浄土真宗の信行寺となったのは終戦後である。現鉄筋九〇坪の本堂は築地東本願寺を模して昭和三二年竣工したもので、境内の胸像(銅製)は開基荒川最勝師(昭和四三年没)である。

十一ヶ寺(俗称

もと浄土宗誓願寺塔頭十一ヶ寺(快楽院、宗周院、仮宿院、受用院、称名院、林宗院、仁寿院、迎接院、本性院、得生院、九品院)の俗称。いずれももと誓願寺の坊中で関東大震災後現在地に移転して来たものである。

本坊の誓願寺は文政八年の『浅草寺社書上』によると田嶋山快楽院誓願寺と称し、もと相州小田原に見誉善悦によって起立せられた、妙香山誓願寺の住職東誉魯水(善悦の弟子)を、天正一八年(一五九〇)江戸に家康が招き、文禄元年(一五九二)神田白銀町に田嶋山を建てさせたので、開山は東誉となっている。ところが慶長元年(一五九二)神田須田町に寺地・公資を得て造建して移ったが、明暦三年(一六五七)いわゆる振袖火事で全焼、一一世誓誉は浅草に寺地一万〇五五六坪を拝領して移転、元禄九年(一六九六)四月には安養寺が新規に別院として建立され単誉が開山となり、別院が快楽院とで二つとなる。その後一六世用誉は桂昌院の帰依を受け、元禄一一年またも本堂、方丈等を類焼して同一六年再建、享保年間には次表に示すように大名や徳川家十人衆の各々宿坊となって外護を得たが、明和九年(一七七二)行人坂の大火、安政の震災に続く明治維新の廃仏毀釈、上知令に遭って大打撃を受けたので、遂に本坊塔頭の絆を絶って各々独立し、従来の宿坊制度の各取次檀家は各院所属の直接檀家となった。この頽勢に追打をかけたのは大正一二年の大震災であった。このため誓願寺は多摩墓地に、他の各院は揃って練馬の現在地に移転して今日に至っている。

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享保年間の宿坊別

快楽院(別院、桂昌院殿)別当

仮宿院 土井家、三浦家、刈谷家、宿坊

西慶院 本多家宿坊

受用院(徳川家十人衆の一人)札差      青地家

宝照院(同        )金座御用    後藤家

長安院(同        )呉服御用    後藤家

本性院(同        )米御用     飯山家

徳寿院(同        )味噌醤油御用  国府家

得生院(同        )砂糖御用    三沢家

宗周院(同        )染物御用達   山田家

仁寿院(同        )御装飾師    松井家

林宗院(同        )御料理仕出御用 大膳亭

迎接院(同        )薪炭御用    辻 家

称名院(同        )材木御用達   舟橋家

九品院(同        )菓子御用達   井上家

(昭和一一刊行『得生院誌』)

 別院・坊中    起立年   開山

快楽院 知恩院末 文禄元年   翁誉文公和尚

宗周院 同    寛永年間   仰蓮社求誉古閑和尚

仮宿院 同    慶長四年   音誉春察和尚

図表を表示

受用院 同    慶長四年   清誉円授和尚

本性院 同    不  明   台誉蓮体和尚

得生院 同    寛永年間   龍誉王阿雲跡和尚

称名院 同    慶長四年   方誉称西和尚

林宗院 同    不  明   葉誉林宗和尚

仁寿院 同    慶長二年以前 心誉祖源和尚

迎接院 同    寛文元年   久誉浄可比丘

九品院 同    慶長四年   正誉秀覚和尚

二千余坪の墓地内は十一ヶ寺に持分が均分され、それぞれ所属の檀家の墓碑が林立する中で、迎接院の小野蘭山、受用院の池永道雲、沢村宗十郎等は有名である。

小野蘭山(一七二九~一八一〇)は江戸中・後期の本草家、名は職博、字は以文、蘭山のほか衆芳軒、朽匏子を号し、通称は喜内。京都に生れ、一三歳で松岡怒庵について本草学を修め、寛政一一年江戸に出て幕府医学館で本草学を講ず。翌年幕命により諸国に植物採集の旅を行ない、その成果を享和二年(一八〇二)孫職孝の協力を得て『本草綱目啓蒙』四八巻に纒め、そのほか本草薬学に関する著書多数。門下生中杉田玄白は有名である。文化七年一月二七日歿、年八二、救法院顕現道意居士、昭和四年五月東京都旧跡に指定。

池永道雲(一六七六~一七三七)は江戸中期の篆刻家、名は栄春、一峯と号し、通称が道雲、著書に『篆髄附録』一巻、『一刀万象』七巻がある。元文二年七月一九日歿、年六二、蓮邦道雲居士、昭和七年七月都旧跡に指定。

澤村宗十郎(一六八五~一七五六)歌舞伎俳優、初代、沢村長十郎の門下生、享保年間以後の東西劇団に活躍、元禄歌舞伎の整頓をした功績は大きい。書、俳諧、茶の湯にも通じた。宝暦六年正月三日歿、年七二、高龍院一徳月助居士。

隣接して二代、三代、沢村宗十郎、二代、三代、四代沢村田之助、の墓碑が並んでいる。

光伝寺

大明山無量院、本山長谷寺、本尊は不動明王。『新編武蔵風土記稿』によると開山は宝暦一〇年(一七六〇)一二月一二日に没した教恵とあり、寺伝によると、この六世教恵の時頼瑜の中性院流を金乗院慧能から受け、浄土宗から真言宗に転じたと言われている。一八世教海は利世の念深く私財を投じ、施主となって正久保橋を木橋から石橋に架け替えている。その時の橋柱石は境内に現存する。

荘厳寺

医王山不動院、金乗院末、本尊は不動明王、『新編武蔵風土記稿』には「開山良仁、天正二年二月三日寂」ともあり、もと安祥寺流の法流を受けた寺であった。かの新安祥寺流の祖で湯島に霊雲寺を開いた浄厳律師が、過去帳によると一時止住されたことにもなっている。この寺には本尊の外に無量寿仏が一体あって、その胎内から最近「大日本国武刕ネリマノ郷シツケ村荘厳寺住持比丘、茲時寛文十庚戌年欲彫刻無量寿仏尊像、新造志気有之者、信心檀越令閑話処、各成歓喜思」して助成した賛助者の法名を住職雪峻が書き連ねた一巻が発見されている。なおこの寺は江戸時代には金乗院の触頭となり、変ったことに檀家では女寺光伝寺を男寺といわれて葬ったとしているが、光伝寺や長源寺との間に女寺男寺の関係はあったが、その詳細はわからない。五種ある過去帳には概ねそのように両檀家となっている(詳細は第四部第五章「江戸時代の信仰」を参照)。

円明院

恵日山西光寺、金乗院末、本尊は不動明王。『新編武蔵風土記稿』に「開山行真ト云」とある以外は不明、寺伝に開基を賢学阿闇梨とするのは、境内から発掘された文亀元年(一五〇一)一一月の板碑に刻する「資栄阿闇梨」の誤読

によるのではなかろうか。別に同じ紀年銘を持つ線刻の弁財天板碑が一基あり、田柄川流域の弁財天信仰を思わせる。がそれにしても「文亀元年巳月良辰」の紀年法はおかしい。なお応永、永享、文明のものもあり、最近開山の宝篋印塔下から発見された珍しい永楽通宝の銀銭も所蔵されている。背後の崖に弁財天がまつられている。

金乗院

如意山万徳寺、本山長谷寺、本尊は愛染明王。『新編武蔵風土記稿』には「新義真言宗大和国初瀬小池坊末、如意山万徳寺ト号ス、本尊愛染ヲ安ス、又不動ヲ置リ、コハ古ノ本尊ト云、寺領十八石九斗余ノ御朱印ハ慶安二年十一月十七日賜ヘリ、開山行栄元和三年五月二十七日寂ス、開基ヲ木下大炊介ト云、慶長十七年八月二十四日死シ、法名光明院台法道厳ト号ス、子孫世世当村農民ナリシカ、後年廃家トナリ、今其分家作左衛門ト云者残レリ」とあるが、それ以外は文久元年火災に遭い、瓦葺朱塗の山門(家光使用と伝わる)と寺宝中僅かに慶安二年以下九点の朱印状(高一八石九斗)を残すだけ。その後は末寺松林寺の本堂を移して仮本堂とし、昭和三二年鉄筋コンクリートに改築する。境内には「明暦二年丙申九月十五日」造立の総高一・九八m舟形光背の浮彫月待六地蔵立像が、墓地には下練馬村名主木下作左衛門代々及同村名主内田家代々の墓碑がある。

本寿院

久遠山 身延山久遠寺末、本尊は釈迦牟尼仏、日蓮大聖人、開山日宜上人。

縁起によると、開山日宜上人は生国伊豆より宗祖の尊像を背負って諸国巡錫の途、中仙道板橋の農家に宿り、たまたま近火に出遭い混雑の中に尊像を失う。水垢離祈願一七日、ようやく近くの林中に尊像を見出し、捧持しようとしたが動かず、よって此処に一宇を建立安置したのが正保元年(一六四四)で、二祖日秀上人は開山の法諱に因んで寺号を「本寿院」とし、三祖日意上人また丹精の功により延宝八年(一六八〇)身延山より「久遠山」の山号と「永代門末」の允許を与えられている。

その後次第に寺門の興隆をみ、中でも在銘文明一五年(一四八三)、玉眼乾漆の日蓮聖人の像は開運出世の祖師として尊信せられ、約三五〇年を板橋町に過したが、昭和一二年中仙道改修工事のため、浄域を求めて現在地に移転、寺域の整備につとめた。特に昭和四七年には宗祖降誕七五〇年慶讃記念として新本堂を再建、更に同五五年宗祖第七〇〇遠忌報恩記念とし

て大書院、外廓等の構築を完備する。

境内には大題目供養塔をはじめ幾つも記念碑があるが、中でも文政六年の僧形馬頭観音像は珍しい。

南松寺

臥龍山、真宗高田派、本尊は木造の阿弥陀如来立像。もと下谷南稲荷町(松ガ谷)に在ったが、大震災後昭和三年一二月現在地に移転した。寺伝によると、元和年間房総の大守里見家の臣作内義政男某、法名宗雲が江戸下谷沼付近に松寿庵を創めたのが当寺の開基ということになっている。現在の寺号を称するようになったのは、九世淳実(讃岐高松藩士千葉氏)の時からである。がその後明暦、安政、大正と続く地震や火災にあって悉く焼失。墓地には、かつての庵号の松寿庵を刻んだ石や千葉氏の墓碑などが遺っていて往事を偲ばせる。

愛染院

練月山観音寺、本山長谷寺、本尊愛染明王。『新編武蔵風土記稿』には「中興尊智、正保三年三月二十四日寂ス、寺領十二石一斗ノ御朱印ハ慶安二年十一月十七日賜ハレリ、鐘楼元禄十四年ノ鋳造ナリ」とあり、御朱印地は「武蔵国豊嶋郡上練馬村若宮八幡領同所内八石、別当愛染院領於同村拾弐石壱斗余、合弐拾石壱斗余」で、この家光のものに続いて貞享二年綱吉、享保三年吉宗、延享四年家重、宝暦一二年家治、天明八年・天保二年家斉、天保一〇年家慶、安政二年家定、万延元年家茂がそれぞれ同様安堵している。天保五年(一八三四)一四世慶存の記す「練月山縁起」によると永享九年開山の「能円坊住僧数代の後、権大僧都尊智は寛永年間に寺域を北中宮に移し、大伽藍を建造して練月山中興第一世と仰がれた。中興第六世盛長は当山開壇の始祖、京都御室仁和寺直末、準談林所となった。同第一〇世長慶の代、寛政年間火災に罹り、元禄一〇年の造営に係る現在の山門唯一棟を残して其他の建造物は悉く焼失した」といい、更に中興第一四世慶存は寺格を進めて本談所とし、地域における伝法、弘教の中心となっていた。このことは印信、宗門人別改帳からよくうかがえる。

然るに明治の廃仏毀釈の波には抗し難く、第一五世隆阿は、遂に末寺のうち向山の成就院、高松の高松寺、上田柄の養福寺、中田柄の泉蔵院を廃合し、中村の南蔵院、貫井の円光院・当春日町の寿福寺、板橋中台の延命寺をそのまま残した。第一八世亮通の時仁和寺から離れて長谷寺の直末となり、本堂、庫裏、山門、鐘楼、長屋門を手入れしたが、またも近年大修

理を加え、今では堂々輪奐の美を呈している。

寺宝は寛政の大火で大半を失ったが、慶長三年から享保四年まで記載のものをはじめ六冊の過去帳、前記朱印状写、嘉永七年の人別帳、若干の記録文書のほか、鉄眼版大般若経六〇〇帖等がある。石造物として参道に立つ「豊嶋八十八ヶ所第廿六番愛染院弘法大師霊場」碑、練馬大根の歴史を記す練馬大根碑、鹿島安太郎翁顕彰碑、正徳二年の大乗妙典六十六部供養塔、墓地内の名主長谷川家累代の墓石をはじめ慶長一八年(一六一三)の墓石や高松寺合併についてしるした明治二五年の宝篋印塔などがある。なお昭和五六年にはこの寺の故地とされる尾崎遺跡の発掘が行なわれた。

寿福寺

大松山最勝院、本山長谷寺、本尊は薬師如来、『新編武蔵風土記稿』には「大林山寂勝院ト号ス、薬師ヲ本尊トス、開山秀信、萬治二年十二月寂ス」とあって山号院号ともに違っているのは松と林、最と寂との写し誤りからか。過去帳(慶安二年、宝暦四年、安政四年書き出しの三冊)に「隠居□□」とあるのは本寺愛染院の隠居寺であったからだと思われる。現在の本堂は明治二五年の火災により四三年再建したもの。

境内には延宝三年、宝永四年の庚申塔、至徳二年、応永七年の板碑があり、河野鎮平の筆塚(天保六年造立)がある。

円光院

南池山貫井寺 本山長谷寺 本尊は不動明王、『新編武蔵風土記稿』によると開山は「円長、天正十二年六月十一日寂ス 天神社 観音堂」と記されている。円長の寂年は過去帳によったもの、観音堂は境内に現存し、安置の十一面観世音は子ノ聖観音とも称して、以前役畜に馬が重要な役割を担っていた頃、この観音は馬頭観世音としても村民から信仰されていた。今門前にある文化七年に建てた「子ノ聖観世音」の標石はその頃の子の年子の月、子の日に行なう「馬かけ」の「馬頭の祭り」の盛行していた様を偲ばせるものである。もと境外にあった子権現は本堂に安置されている。開山円長法師と関連して南池伝説がある。

仲台寺

称念山一心院 本山増上寺 本尊阿弥陀三尊、開山は天文二年江戸に天徳寺、同一七年京都に一心院等を開いた縁誉称念(天文二三年寂)。もと千石町に大鳥神社の別当寺であったが、瀧野川田端に移ってからは巣鴨青果市場関係者が

檀家に多くなり、戦災後の復興も早かったが、一層の整備のため現在地に移転して来た。時に昭和三六年であった。

本覚寺

法光山、雑司ケ谷法明寺末。本尊は釈迦牟尼仏、日蓮聖人。『新編武蔵風土記稿』によると開山は「日円元和三年十月化ス、開基法光院常蓮、俗称ヲ小島兵庫ト云、慶長元年八月十一日死ス、本尊釈迦」とあり、もと品川長徳寺の境外仏堂から独立して一寺となったというが、時宗から日蓮宗に転じたのは恐らくこの時ではなかろうか。現在地に移転したのは江戸中期の震災によるものと思われる。もと下町浅草方面に信者の多かったことは、山門脇に立つ日蓮上人五百年遠忌碑に「京橋題目講中」の銘から明らかである。

なお境内には北野神社、法光稲荷神社が祀られ、参道入口の鳥居額に「本覚寺天満宮北野神社」とある通り、この神仏混淆の状態はこの地の旧名主小島家蔵「宝暦六年子十月明細書上ヶ帳」に「一天神 壱社 別当本覚寺、一稲荷 壱社 別当同寺」と見え、同じ享和四子年二月のものに「御<補記>(除)地壱反弐畝歩 天神 長三間横二間 別当持 本覚寺 但小社ニ付縁起等無御座候 一稲荷 九尺五尺 右同断」とあるように、宝暦六年(一七五六)以前からであった。明治九年には東西三〇間南北九間で面積二七〇坪の寺域になっている。

妙安寺

長久山 本山は静岡蓮永寺、本尊は釈迦牟尼仏、日蓮聖人。開山日雄。『新編武蔵風土記稿』によると「駿河国蓮永寺末長久山ト号ス、本尊釈迦、開山日雄ハ元和元年九月寂ス、当寺ハ板倉阿波守ノ先祖四郎兵衛ト云モノノ開基ナリ、此人寛永二年八月卒シ、法名決山源英ト号スト云 按ニ板倉家譜ニ伊賀守勝重少名四郎左衛門ト称ス、寛永元年四月二十九日卒シ法名慈光院傑三源英ト見ユ、是 年月法号トモ異同アレト略年代相似タレハ、若クハ勝重カコトニシテ寺伝タマ々々誤レルニヤ」と、また明治九年の明細書上帳には「東西三十八間南北三十五間面積千三百三十坪日蓮宗、駿州有戸郡沓之谷村貞松蓬永寺末流ナリ、村ノ北方ニアリ、天正四酉子年中開山自得院日雄聖人雑司ヶ谷法妙寺九世之住職当地来リ天文廿年ゟ二十六年迄開起、当□五世日達聖人之砌、綱吉公様御狩野場所其節板倉四郎右衛門勝重任官四品伊賀守開基也」とあるが、後者の所伝は寺域の数字以外は不審が多く信ずるに足りない。

長命寺

東高野山妙楽院、本山長谷寺、本尊は不動明王、十一面観世音菩薩、開山慶算、『新編武蔵風土記稿』によると「境内大師堂ノ縁起ニ拠ニ増嶋勘解由重明ナルモノ当村ニ住シ仏心深ク、兄重国カ第四子重俊ニ家ヲ譲リ剃髪染衣シテ慶算ト号シ、紀伊国高野山ニ登リ木食勤行スルコト年アリ、或日大師ノ夢想ニ因テ讃岐国弥谷寺ニ至リ師自作ノ木像ヲ感得シ、速ニ当村ニ帰リ高野山ニ擬シテ一院ヲ営ム、カノ像ヲ安ス、今ノ大師堂是也、又云慶算元和二年六月十二日寂シ、重俊其志ヲ継、諸堂及大猷院殿石塔等ヲ建立ス、其規制一ニ高野山ニ傚フ、因テ東高野山ト呼、又新高野トモ云、寛永十七年小池坊住僧正秀推挙シテ長命ト名ツケ一寺トス、是ヨリ仏燈弥興隆ス、因テ正秀ヲ請テ開山トス、正秀ハ同キ十八年十月十六日寂セリ。其後慶安元年境内観音堂領九石五斗ノ御朱印ヲ賜ハレリ」とあり、別に寺記があって寛永一七年増嶋重明の志を継いだ重俊が観音堂を建て、谷原山妙楽院長命寺と号し一寺としたのは秀算だとするが、『江戸名所図会』も、井上金義(一七三二―八四、江戸中期の儒学者)もまた「長命寺碑」において「慶算阿闍梨……之所開所也」とするように、開山は正秀でも秀算でもなくて元和二年(一六一六)寂した慶算とすべきである。住僧<圏点 style="opne dot">正秀は住<圏点 style="opne dot">僧正秀算の読み違えであるから、一寺に整備したのは秀算である。かくて、一時は本堂・観音堂、大師堂(俗称奥の院)、その三堂を結ぶ廻廊があって結構を極めた。(本編第七部内『新編武蔵風土記稿』及び『嘉陵紀行』の挿絵参照)。然し万治元年(一六五八)火災のため全焼し、それを重俊の子重辰が寛文から元禄にかけて再建したが、再度明治三〇年罹災、本堂、庫裏、長屋門は焼けたが、廻廊、観音堂、大師堂と廻廊の木像五百羅漢は幸い残った。今の諸堂は明治三七年再建、昭和四五年大改築を加えたもの、観音堂、大師堂も五四年大改築を施し、廻廊は撤去された。

当寺がいかに多くの信仰を庶民から得ていたかは、諸道に「東高野山道」、「左長命寺」、「右長命寺」を刻した長命寺への「道しるべ」の多い事で知られる。中でも寛政一一年(一七九九)四月の「東野孝保選并書」のものは有名。特に当寺が有名になった理由のひとつは、紀州高野山が女人禁制なのに対し、当時はその制限がなかったからだともいわれている。

境内には有銘石仏が群立し、中でも奥の院地域には承応三年(一六五四)八月一五日三界万霊有縁無縁菩提のために修した

供養日に造立した地蔵、十王、十三仏のほか慶安五年四月二〇日の大猷院殿(家光)台霊供養塔等同年のもの一四基、正徳のもの一二基、板碑六基、明暦元年の馬頭観音をはじめ新旧七基、正徳二年ほか三基の庚申塔がある。これらのほか芝居関係者からの信仰も厚かったとみえ、文化年間に中村座主奉納の鳥居清長の画く放駒長吉と濡髪長五郎の芝居絵(双蝶々曲輪日記)や歌右衛門石像があるし、また毎年四月二一日のご開帳の日には境内に市が立ち、新しく嫁いで来た嫁が花嫁姿で参詣したので「花嫁市」ともいわれて賑わった。

墓地には開山慶算の実家増嶋家累代の墓や、甲冑師明珍家累代の墓もある。

真龍寺

白雲山本願寺派西本願寺末、本尊阿弥陀如来、開山は願浄、隣りあう宝林寺、敬覚寺とで俗に三軒寺と呼ばれている。もと築地西本願寺の地中にあったが、大震災後の区画整理で、三軒揃って当谷原に新築移転して来た。

開山は織田氏の一族出の願浄で、文明年間(一四六九~一四八七)に一寺を金杉に起立、明暦三年全焼して築地に移転、関東大震災に際しては本尊や過去帳を川に浮べて杭につないでおいたので、繋ぎの紐が焼けて流されはしたが、本尊は人に拾われて無事、過去帳は水びたしで用をなさず、新に墓地の番号順に整理している。

現墓地には江戸末期の儒者三縄桂林の墓石がある。彼の名は維直、字は縄郷、通称準蔵安達清河の門人で『桂林詩集』六巻(享和元刊)、『桂林遺稿』五巻(文政六刊)、『縄子常陽紀行』一冊(寛政九)その他がある。文化五年一月二八日歿、時に年六五。

宝林寺

山号不明、西本願寺末、開山は林西、もと日本橋浜町で明暦の大火にあい、八丁堀築地に移転した。その後元禄八年(一六九五)一二月、天明四年(一七八四)一二月の大火で焼失、最近では大正一二年の大震災に遭って現在地に移転、昭和一二年本堂完成、昭和四四年には庫裏の増改築、境内の整備等を行ない、宗祖親鸞聖人七百回大遠忌法要を修行している。

本堂には、本尊阿弥陀如来を中心に右に宗祖親鸞聖人、聖徳太子を、左に良如上人、七高僧の絵像が掲げられ、一一月一〇日の報恩講には「大谷本願親鸞上人之縁起」が掲げられて信者を随喜させている。

第九世の住職雲堂は能筆家、第一〇世子雲は南画をよくし、『子雲画集』がある。大正七年歿、父子一族合葬墓となっている。本堂の格天井には子雲の門弟の手になる花鳥図三四点が描かれている。墓地内墓碑の多くが明治以来のもので、墓石に大和屋、近江屋、越後屋、鷲善といった屋号の多いのは檀家に商家が多かったからである。

敬覚寺

宝華山、西本願寺末、本尊は阿弥陀如来、はじめ江戸青山に寛永一八年七月吉川内蔵之助玄武が起立して専照寺と号した。玄武はのち本願寺一三世門主良如上人の弟子となり了玄と称した。明暦の大火後築地本願寺の地中に移り敬覚寺と改称、寺運隆盛の一途を示していたが、宝林寺ら同様再三の大火、震災に遭遇して全焼したので、昭和三年三か寺揃って谷原の現在地に移転再建した。その後本堂を鉄筋コンクリート造りに改造し、昭和四四年四月その落慶法要と宗祖親鸞聖人七百忌大遠忌とを併修している。

寺宝には、親鸞聖人御絵伝、七高祖御絵伝(ともに寛永一八年作)、聖徳太子御絵伝(元禄一四年作)、築地本願寺上宮太子略縁起(元禄一五年作)等がある。

観蔵院

慈雲山、開山等は不詳、本尊不動明王『新編武蔵風土記稿』に「宝蔵院、新義真言宗上石神井村三宝寺門徒慈雲山ト号ス、本尊不動明王」「稲荷社村ノ鎮守ナリ宝蔵院持」とあって、風土記稿の此の項の編さんされた文政九年(一八二六)までは依然寺名は宝蔵院であったと考えられる寺を、旧区史で「今は寺名を観蔵院とする」とした根拠は諒解できない、というのは享保一六年一二月付末寺延命寺等の「御尋之上申上候事」の中で、三宝寺四か寺の一に既に観蔵院の名があるからである。かりに観蔵院に宝蔵院が文政九年以後の或時期に併合されたとするならば問題はないが、古くは三宝寺塔中であったことは明瞭で、その上享保一四年四月。となっている「三宝寺末寺名薄」には「<圏点 style="opne dot">田中村観蔵院」の名はあっても宝蔵院の名は見えず、而も三宝寺が現在地へ移転の文明一〇年(一四七八)この田中に宝蔵院が移ったと旧区史に記しているのはこの田中村にあった観蔵院の事であった。それはともかく、田中へ移って元文五年(一七四〇)八月まで健在していたのは宝蔵院ならざる観蔵院だったのである。

本堂に続いて薬師堂があり、安置の薬師は日出薬師と呼ばれている、広い墓地には元和年間の五輪塔、正保期の典型的な夫婦墓、宝永元年、二年、宝暦一二年、天保四年の庚申塔、宝暦一二年、文化五年の筆子寄進供養塔等がある。なおこの寺で明治二年より同五年まで寺小屋が開かれている。

十善戒寺

雲照山、真言宗東寺派、本尊不動明王、開山は雲照律師。

律師は徳島の人、近衛篤麿等の要請によって京都より上京、高田老松町に目白僧園を創設、空海の綜芸種智院にならって庶民学校を造って十善徳教学校とする予定であったが、外地布教や明治三〇年の雲照律寺(西那須野)起立などに追われて学校創立の初志を果し得ずに終っている。

二世松田密信は目白僧園を改め吉祥院と登録して昭和一八年現在地に移転した。この時の本堂は元鴨下家の主屋で藁葺、昭和二七年今の十善戒寺と寺名を改め、同三四年歿。金銅造りの観音像は奈良朝以前の作かとも見られるが確かではない。

順正寺

本山東本願寺 本尊は阿弥陀如来、昭和三三年宗教法人として成立した新しい寺。開基は本多正丸師、開山は翌三四年師の遠縁に当る現住職江口貫照師、師が京都から招かれて晋山、開教して今日に至る。現檀徒の大部分は全く師の熱意の現われで、世田谷方面の外は遠隔地であるのも、地盤を持たなかった新建寺院のせいであろう。

禅定院

照光山無量寺、本山は智山派智積院、本尊は阿弥陀如来。『新編武蔵風土記稿』によると「新義真言宗上石神井三宝寺末照光山ト号ス、願行上人ノ開キシ寺ニテ本寺ヨリハ古跡ナリと云、本尊不動、側ニ閻魔ヲ安ス。是ハ元ハ別堂ニアリ、境内ニ明応四年二月八日妙慶禅尼ト彫ル古碑アリ。鐘楼 元禄十六年ノ鐘ヲ掛」とあり、開山願行上人の事績は未詳であるが、明応四年(一四九五)よりは古いとすれば本寺三宝寺よりは創建が古いか。文政年間の火災で諸堂悉く烏有に帰し、僅かに大梵鐘だけを残したが、それも今回の大戦の際供出して現存しない、が幸い銘文が記録され、「石神井村之衆民十人講之衆銭并道俗男女以奉加之助成」造立した元禄一六年九月時の住持法印隆俊外数百名に及ぶ願主の協賛状態がよくわかり、鋳鐘其物は十方庵の『遊歴雑記』に詳記されている。(現在の本堂は昭和五三年改修したものである)。

本堂前の宝篋印大塔は光明真言講中が安政四年造立したもの、明応の古碑は現存せず、又戦争まで境内にあった「寛文十三年癸丑天十月朔日」の紀年を持つキリシタン灯籠は戦後調布市のサレジオ神学院正門脇に保存されていたが、昭和五三年本堂改築の際、返還されている。なお明治七年五月には寺域内に現石神井小学校の前身公立学校豊島学校(敷地一三〇坪、建坪三一坪~九坪の三教室、四坪の教員控室)が設置されている。

道場寺

豊島山無量院 本山永平寺、本尊は釈迦、開山は大岳。『新編武蔵風土記稿』によると「曹洞派、荏原郡世田ケ谷村勝光寺末豊嶋山無量院ト称ス、本尊阿弥陀又行基ノ作ノ薬師ヲ安ス、元ハ別堂ニアリシモノナリ、当寺ハ石神井城主豊嶋左近太夫景村ノ養子豊島兵部大輔輝時応安五年四月十日此地ニオヒテ菩提寺ヲ起立シ、豊嶋山道場寺ト号シ僧大岳ヲ延テ開山トシ練馬郷ノ内六十二貫五百文ノ地ヲ寄附ス、其頃ハ済家ナリと云、輝時ハ北条高時ノ子相模次郎時行ノ長子ナリ、其家滅亡後景村養ヒテ豊嶋ノ家ヲ継シメントナリ、事ハ過去帳ニ詳ナリ、輝時永和元年七月七日卒ス、勇明院正道一心ト諡ス、中興開山観堂、慶長六年五月二十六日寂ス、此時今ノ派ニ改ム、時ノ開基徳翁宗隣ハ小田原北条氏ニ仕ヘシ石塚某ノ子ニテ、幼ヨリ仏心深ク遂ニ剃髪シテ僧トナリ観堂トカヲ戮セ堂宇ヲ再建セリ、慶長十年八月朔日寂ス」とある。本堂裏に文明九年石神井城と運命を共にした城主豊島泰経一族の墓と称する石塔があるほか練馬区関係現存文書で区内唯一の中世文書として稀少価値の高い永禄五年四月二一日禅居庵宛北条氏康印判物一通があり、中村の南蔵院が江戸末期白龍丸を売出していたように、当寺でも梅黄丸を売出していたことは、現存する版木によって知られる。現在の堂宇は山門、三重塔、鐘楼、本堂と四五年より五〇年にかけて新装のものである。なお明治六年には当寺住職徳山関禅は家塾を開業している。この地にあった石神井小学校の玄関が移築保存されている。

三宝寺

亀頂山密乗院、本尊は不動明王。開山は幸尊。本山智積院、『新編武蔵風土記稿』によると「無本寺ナリ、古ハ鎌倉大楽寺ノ末ナリシト、本尊不動傍ニ聖徳太子ノ作ノ正観音ヲ安ス、又将軍地蔵ヲ置リ、是ハ村内愛宕社ノ本地ニシテ世ニ希ナル古仏ナリ、年ヲ追テ朽損セシカハ慶長十一年檀越尾崎出羽守資忠住僧頼融ト謀リ修理ヲ加ヘント云、其後賊ニ

アヒテ全体ハ失ヘリ、寺仏ヲ閲スルニ当寺ハ応永元年大僧都幸尊下石神井村ニ草創スル所ニシテ、同キ五年三月九日寂ス、後屡戦争ノ災ニ罹テ頗哀ヘタリシニ、文明九年太田道灌豊島氏ヲ滅セシ後、ソノ城跡へ当寺ヲ移セリト云、カカル旧刹ナリシカハ天文十六年元の如ク勅願所タルヘキノ免状ヲ賜ヒ、永禄十年現住尊海ヲ大僧正ニ任セラル、又北条氏ナリモ寺田ヲ寄附シ、制札等ヲ与ヘテ帰依浅カラサリシカハ、御当代ニ至リテモ先規ニ任セラレ、天正十九年寺領十石ノ御朱印ヲ賜ハレリ、寛永二年正保元年大猷院殿御放鷹ノ序当寺へ御立寄アリ、例歳二月十五日三月二十一日の二度に常楽会ヲ執行ス、近郷ノ末寺配役シテ是ヲ勤ムト云」とあり、これを当寺旧蔵文書一六通や三宝寺縁起、諸記録に照してみるに、応永元年鎌倉大楽院の流れをくむ幸尊によって開かれた事は縁起に、天文一六年八月元のように勅願所たるべきことは後奈良天皇論旨により、賢珍の権大僧都、尊海の大僧正補任は口宣案等により寺伝は概ね信用し得るようである。当寺が法談所としても、塔中末寺六〇余の本寺としても重要な存在が理解されよう。文明四年の弥陀三尊来光図像の板碑は折れ目はあるが、極めて重要な文化財である。梵鐘は延宝三年の鋳造で、区内では長命寺のものに次いで古い。その他旧勝海舟家の長屋門、参道入口近くに立つ「守護使不入」の標石等は注目すべき遺物である。

釈迦本寺

開妙山、本山身延山久遠寺、本尊釈迦牟尼仏、昭和二二年九月身延山麓の坊において湯川日淳上人と木立随寛上人が発願創設した霊山会を中心に各地で信行布教を展開し、遂に三三年三月会勢拡張のため当石神井台の地に道場を新設、釈尊教会と称したが、四三年六月一七日、教会設立十周年を機に、開妙山釈迦本寺と改めて活発な布教活動を続け、宗門の新しい存在として内外から注目を浴びている。

智福寺

海見山紫雲院 本尊阿弥陀如来。本山は知恩院、文政一〇年(一八二七)一一月の「芝寺社書上」によると、この寺は寛永二年(一六二五)春桜田元町に先誉上人日誓一空が開山、受楽源喜大居士が開基となって建立したが、御用地となったので芝田町に移転した。そして明治四四年以後二回も崖くずれにあい、墓地その他が土中に埋没する災害を受けた上、今次の戦災でまたもや大被害を蒙ったので、昭和四〇年七月現在地に耐震耐火の近代的建築で新築移転した。

墓地の入口には諸願成就の「塩上げ地蔵」が安置されている。

法融寺

真願山 本山東本願寺、本尊阿弥陀如来、開基は旗本近藤政信の三男で本願寺一三代宣如法主に帰依の上入道となった玄正が正保三年(一六四六)江戸本町に起立したのがこの法融寺。

明暦三年(一六五七)の振袖火事にあい、浅草本願寺境内に移る。のち関東大震災で焼失後本堂・庫裏は復興したが、またも昭和二〇年三月の大空襲に遭遇して全焼、現在地に其後移転再興して現在に至っている。

檀家は従って各地に散在し、練馬近在には新規のものが多い。寺全体はよく調和がとれているのは住職が詩人肌であったからで、会津八一(昭和三一年一一月没、法名渾斉秋艸道人)が友人として此処に眠っている理由が首肯されよう。歌碑もある。

本立寺

法耀山 本山身延山久遠寺、本尊は日蓮聖人像(立像、嘉永六年大仏師三上萬吉作)。開山は文政八年六月の「寺附明細改帳」では「開祖真如院日與上人、法種山十一祖 慶安二己子四月十八日寂」とあり、続いて開基人として「清光院法耀 贈大徳 俗名井口忠兵衛 年月日未詳」と記している。「明細改帳」に日與、法種山十一祖としたり『新編武蔵風土記稿』に寛永二年寂としているのは、妙福寺内墓地の墓碑によって「第十祖日誉聖人、慶安二己丑歴四月十八日」と改むべきである。

その後の状態は明らかではないが、住職のおよその世代は辿れるし、開基井口忠兵衛の跡も今に連綿として関の地に繁栄している。

今の本堂は昭和四三年一二月落成の近代建築となって、往年の檀中「惣数乄廿六軒」の藁葺本堂を想起するものは何もない。境内にあった番神は本堂内に祀られている。

毎年一二月九日のお会式は特に賑わい、当日と翌一〇日の市には昔から近郷近在の人出が多く、「ボロ市」と呼ばれ、今に親しまれている。

教学院

西円山、本山智積院、本尊十一面観世音菩薩、開山は『新編武蔵風土記稿』に「文永五年長全法印」とあ

り、中興開山は同書に「良賢法印ト云ヘドモ、其時代は詳ナラズ」としている。寺記では、正平九年(一三五四)児玉郡の本荘城主荘左右衛尉弘泰、弘朝父子ガ武蔵野合戦後当所で帰農し、当寺を檀那寺としたが、その後衰えていたのを永禄三年(一五六〇)復興させたのは良賢だとしている。開山当初は永福寺と称していたが、宝暦五年(一七五五)三宝寺の末寺となり、西円山教学院と改称した、としているが、享保一四年(一七二九)の三宝寺末寺名簿には「同村(橋戸村)教学院㊞」とあり享保一四年で既に三宝寺末となって、寺号も教学院であったことが明確である以上、永福寺良賢時代は果してあったかどうか疑問である。昭和一六年に三宝寺末を解消して独立、建築物も昭和以後改築したもので、境内には開基荘家累代の墓石、寛永一一年の道円禅定供養塔、五輪塔の外珍しい人頭石塔がある。

なお当院では明治七年七月より同一七年四月に至る間橋戸小学校が開設されていた。

妙延寺

倍光山 身延山久遠寺末、本尊は釈迦牟尼仏、開山は日宜、開基は日安。『新編武蔵風土記稿』によると「信光山ト号ス、本尊釈迦、開山日宣慶長三年七月寂ス、開基豈性院日安ハ今ノ名主弥四郎カ本家ノ祖ニテ、加藤作右衛門ト称シ寛永十五年二月終ル」と、文政六年の「地誌調御改書上帳」には寛永一九年としている。別に「三十番神 村ノ鎮守ナリ妙延寺持」があった。享和四年二月の土支田村「村方之儀明細書上帳」に長式間横九尺の大きさで除地壱反弐畝拾五歩を有していた。

境内では、元文三年(一七三八)二月土支田村加藤利□門母敬心院浄日性禅尼が一千か寺往詣成就の供養に建てた高さ一・五m大の尖頭角柱塔がある。

なお当寺には、住職家田日遂により明治七年私立明倫学校が開かれ、同九年七月からは公立学校豊西小学校として同二二年三月まで開設されていた。

法性院

加藤山実成寺、本山身延山久遠寺、『新編武蔵風土記稿』には「実成寺、村内東ノ方ニアリ、加賀阿閻梨日唱聖人天正年中創建ナリ、加藤山実成寺ト号ス、コノ寺ハ往古ヨリ村内妙福寺ノ末寺ニテ法性坊ト唱ヘシガ寛政五年十七世

日慈聖人ノ時妙福寺ノ本山法華経寺ノ末トナリ、院号ヲ免許セラレ、今ハ法性院ト云フ」とあり、文政八年六月の「寺附明細帳」には「寺草創者天正二乙酉年阿閻梨日唱受加藤氏施開発ス、開祖加賀阿閻梨日唱上人天正丙戍十月十三日寂」とあり、天正丙戍とは一四年(一五八六)のことであるから、この地には古い寺である。昭和四一年一一月老朽化していた本堂や庫裏を改築して鉄筋に近代様式化している。

善行院

法光山 本尊は釈迦牟尼仏、『新編武蔵風土記稿』には「山号寺等ナシ、法性院ノ側ニアリ」といった程のもと塔頭の小院であった。当寺の慶讃史(日蓮宗宗務総長日幹大僧正筆)によると、本山第六祖善行院日応上人閑居の地也、延徳二年庚戍年(一四九〇)九月八日没」とあり、開基についても木牌に開山と併記して加藤巧之亮の名があるのみで、他は一切明らかでない。

本堂安置の三宝尊は、安永年間(一七七二~八〇)に喜見院日明上人が再興と寺伝ではいっている。本堂は昭和四五年一一月再建の鉄筋鉄骨三階建、八間四面で一階は駐車場、二階は書院で三階が本堂という近代建築となっている。

本照院

了光山、大本山法華経寺、開山日勇上人本尊は宗祖曼陀羅

『新編武蔵風土記稿』には「境内八畝九歩、小名中嶋ニアリ、本堂五間に七間半、了光山ト号ス、開山日勇上人、文禄二年三月廿日ニ寂セリ」と、従て寺伝では開山開基は日勇上人、天正一八年としている。

当寺は昔から中山法華経寺の隠居寺と称せられ、現住職の境野慈妙氏の姓境野は当山の系図によると田安家家老境野氏の出となっていて武士との関係が深い。本堂は昭和二八年の改築、寺蔵天正一〇年の日蓮題目板碑は区内最新の一つである。

妙福寺

西中山(法種山)本尊は一尊四士(日瑞の発願)。開山は日高聖人・日延聖人は帰依開山。『新編武蔵風土記稿』によるに「下総国葛飾郡中山法華経寺ノ末、法種山ト号ス、弘安五年法華経寺第二世日高聖人草創ノ地ナレドモ、後住メル僧モナカリシヲ、又カノ寺、三祖日祐聖人再建シ、一七日ノ説法アリシニ、村内天台宗修験大覚寺ノ住持日延聖人モ此法筵ニ至リ、深ク其宗意ニ帰依シ、遂ニ改メテコノ宗トナレリ、日佑モ日延聖人ノ知識、ヨノツネナラザルヲ知リ、当寺ヲコノ

聖人ニ譲レリ、今ハ日祐聖人ヲ開山トシ、日延聖人ヲ帰伏開山ト称ス、日延ハ永和二年十一月十一日ニ寂ス、後天正年中御朱印地二十一石余ヲ賜リシガ、後回禄ニ罹リ、寺モ哀ヘシニ、二十一世明了院日教聖人堂宇ヲ再造セシユヘ、是ヲ中興開基トス、コノ聖人ハ享保十一年十一月十一日ニ寂セリ、本尊三宝ヲ本堂に安ス、往古大覚寺ノ本尊ハ嘉祥三年創建ノ時、開眼ノ釈迦(金仏坐像)今モコノ寺ニ収メ置タリトイフ」と全般を記し、続けて仁王門についてはその「金剛ハ近キ頃塗直シ、古色ヲ失フニ似タレドモ、容貌ヨノ常ノ像に非ズ、舊キモノト見ヘタリ」とし、裏門、祖師堂、三十番神堂、七面妙見祖堂、天神社、鬼子母神堂、本堂、鐘楼と順次記している。

以上『風土記稿』や「寺附明細改帳」の記載は複雑で要を得ないので、次のように整理する。即ち初め嘉祥三年(八五〇)頃此地に慈覚大師に関係の慈東山大覚寺があった。その後弘安五年(一二八二)中山法華経寺二祖日高上人が、先に高橋某の建立していた小庵に止錫し、法種山妙福寺と称して開山となった。元享二年(一三二二)中山三祖日祐上人来山、この時大覚寺日延上人と交わって日祐上人に折伏されて大覚寺を改宗、両寺を併せて法下種山妙福田寺と改称、日延上人に寺を譲り二祖三祖となり、今の妙福寺となる。

現在の堂宇は、庫裏を除くほとんどが享保期の中興明了院日教上人の再造と考えられるが、本堂で、慶応二年(一八六六)のものに補修を加えて昭和四六年七月竣工し祖師堂も改築中である。庫裏は昭和四九年同じく改築した「からかさ造」の珍しい元禄年間建築の俤を残す区内最古の建造物である。祖師堂には天正一三年(一五八五)九月一九日日回の署名のある木造の祖師像が、又同じ境内にある三間四面の鬼子母神堂には、日蓮聖人が平日看経の時の鬼子母神が安置されている。

以上のほか寛永一九年(一六四二)二月の山制写を始め家光以下代々の将軍の御朱印状(高二一石余)等多くの古文書古記録が所蔵されている。が前にも記したように元弘以下六〇基近くの題目板碑が収蔵され、中でも福徳(私年号、延徳二年に該当)元年(一四九〇)辛亥三月三日の銘を持つ月待供養結衆一四人の六地蔵板碑のあることも注目すべきである。

大乗院

新井山円福寺、法華経寺末、本尊は宗祖曼陀羅、開山は大宣院日讃聖人、もと円福寺と称していたが、大乗

院日進上人が当寺の一三世になってから大乗院の名称を用いるようになった。開山の日讃上人は永徳二年(一三八二)に寂しているので、かなり古い創建で、妙福寺の塔頭主席役を勤め、また久世大和守の祈願所でもあった。当院所蔵の永享五年(一四三三)以降の計八基の題目板碑は当院の地域影響と考えてもよいのではなかろうか。

境内には帝釈天を祀る堂宇があり、柴又題経寺の帝釈天の分身としての信仰が厚く、庚申の日には鬼子母神講、神力講のほか特に庚申講が中心になって賑っている。現在の山門は宝暦八年(一七五八)の建立で、火災を免れた寺中唯一建築である。

なお当院には明治六年から同一七年四月までの間小榑小学校を開設している。

<節>
第三節 名墓
<本文>

練馬区内における墓地は、各寺院に付属する墓地と、各家や各部落に付属する墓地即ち個人墓地、寄合墓地の三つに分けられる。

もともとその寺院創立にかかわりのある一族の墓所は、その寺院内にあるのが当然と言えるが、他の草分け百姓の墓地は各自の所有畑や山林の一隅にあり、何軒かの墓地である寄合墓地も各所に見られた。また明治初期に統合された小寺院の旧地にも、いくつかの墓が残存している。地域の住宅地化が進められ、耕地整理や区画整理が行なわれると、狭い墓地は移転の対象となって、壇那寺の墓地へ移される。

ただ寄合墓地(乱塔場ともいう)の場合、既に移転・絶家等のため住所不明の者があると、登記不能のため墓地の抹消はしばらく出来ない。そのため若干の石塔を残している所もある。全体として個人墓地、寄合墓地で残っている数は郷土資料室の瓜生調査員の調べ(昭五七・三)によれば約三〇か所を数える。

練馬を開拓して来た人々の墓地は多くこうした所に残されているが、下土支田の小島家、下石神井の渡辺家、上石神井の

高橋家、等の名主階級の墓地もこうした寄合や個人の墓地にある。

付近の都市化につれて、各菩提寺に移された墓地は非常に多く、正覚院の岩堀家、金乗院の木下、内田家、愛染院の長谷川家、本立寺の井口家、教学院の荘家等、各村の名主家もそれぞれ各寺に墓所をもっている。そうした歴代にわたって村政にあずかった人々の墓を名墓というべきか。墓碑の中でも立派な戦死者の墓を名墓というべきか等解明しにくい問題も多いが、前区史の解釈に従って、日本の歴史、文化史上著名な人々の墓碑をあげることにする。

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○広徳寺墓地

桜台六―二〇―一八

元亀・天正の頃、小田原に創立されたこの寺は天正一八年(一五九〇)、家康の江戸入府と共に江戸に移され、神田、下谷と移ったが、その間各大名家や旗本等の帰依をうけ、香華所、宿院として一五の塔頭も開かれた。明治新政府の神仏分離政策と文久二年(一八六二)の火災、更に大正一二年の関東大震災と打つづく異変によって、復興の道を練馬の地に求めることになって、大正一四年三月寺の一部建物の移転を開始し、広徳寺別院として完成したのは昭和五年である。第二次世界大戦の空襲がはげしくなると、下谷区役所周辺の建物の強制疎開が行なわれ、塔頭桂徳院、宋雲院も疎開した。かくして現在では広徳寺全山は練馬に移転していると言ってよい。

墓地は関東大震災後移転しているが、これを機会に国もとに移した百万石の前田家や阿波徳島の蜂須賀家などを除き、ほとんどが練馬に移っている。ただ震災のため墓碑の破損が著しく、それに墓地も狭くなったので、何々家の墓という合併墓が多い。それも、墓地の中で破損しなかった一基や二基を刻み直して建てたのが多く、墓石からでは、菩提を弔うべき人物を探すことはできにくいので、寛政重修諸家譜によって、その葬地を探したが、広徳寺墓地に多い各大名の奥方の葬地が記

入されていないため、確実なものとは言えなかった。大名の多くは国元のお寺に葬り、奥方や二、三男の分家筋(千石以上が多い)、即ち江戸在住者の墓地になっていたようで、その意味では江戸の寺は皆女寺ということも出来る。次に主な墓地をあげると、

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○柳生家の墓 菅原道真の子孫で、大和国柳生の荘を本拠地とした。但馬守宗厳(石舟斎)の時豊臣秀吉によってその領地を奪われたが、その子宗矩に至って将軍家剣道御指南役となり柳生一万二五〇〇石を領したのに始まる。墓石は柳生家之墓とした他に、柳生宗矩(文右衛門、但馬守、法名 西江院殿前但州大守贈従四位大道宗活大居士殿、正保三年三月二六日没七六才)、二代三厳(十兵衛、長巌院殿金甫大居士、慶安三年三月二一日没、四四才)、三代宗冬(三厳弟、又十郎、飛弾守、常林院殿前飛州大守法岩勝公居士、延宝三年九月二九日没六三才、一万石となる。)の墓石がそそり立っている。

○立花家の墓 立花宗茂は高橋紹運の子、始め統虎と言い立花鑑連(道雪)の養子となる。筑後、立花山城主、島津家久と戦って豊臣秀吉に認められ、天正一五年(一五八七)筑後柳川の城主として一三万二〇〇〇石を与えられた。天正一八年の小田原攻め、文禄朝鮮の役には小早川隆景と共に碧蹄館の戦に明の大軍を討ちやぶり、慶長の役には蔚山の加藤清正、浅野幸長を救った。関ケ原の戦には石田三成に味方して、伏見、大津両城を占領したが、戦敗れると聞き九州に下り、鍋島軍と戦った。やがて加藤清正等にすすめられ降伏、奥州棚倉一万石におとされたが、大阪の陣の功により、旧領柳川一〇万九六〇〇石に復帰した。仁政をしき領民にしたわれたが、寛永一九年一一月二五日没。七四才、大円院殿松隠宗茂大居士(従四位前飛州太守)と記された宝筐印塔が立っている。他の二つは夫人木雲院殿花嶽紹春大姉慶長一六年四月二七日没の塔と、合葬の墓塔がある。その他の墓碑は見当らないが重修寛政諸家譜(以下寛政系図という)には五代貞よし延享元年五月二七日)その室、七代鑑

通の子鑑門(父に先立って死す)、その弟鑑一等広徳寺に葬ったと記されているが墓碑は見えない。震災によって各個の墓碑は焼けて破損が甚だしいのを整理して、一個の墓塔にまとめてしまったようである。

筑後三池藩一万石の立花種次一門の墓所もある。

立花分家の常陸筑波五〇〇〇石でも二代直次、五代貫長、九代種周の子種徳(一九歳)、等も広徳寺に葬られたとされている。○前田家の墓 台東区にあった時は加賀百万石の前田家の墓地もあったが、金沢にうつされ、今は越中富山藩(一〇万石)、加賀大聖寺藩(一〇万石)の墓所のみである。子爵前田家之墓、と記されている。

○会津松平家の墓 寛永二〇年(一六四三)会津二三万石に封ぜられた三代将軍家光の弟保科正之の末である。大名となった者はほとんど会津土津神社に神葬をもって葬られていて、法号等を調べても該当者がいない。大きな宝筐印塔が立っているが、そこに彫ってある法号も後にまとめられたものである。法号を寛政系図で調べると、真照院殿(三代正容の子、正邦、五代将軍綱吉の女竹姫降下の婚約が整っていたが一三才で痘疹のため死)宣明院殿(六代容のぶ・松平容章の子、五代容頌の養子となり家をつぐ。天明五年三九歳で急死)良徳院殿(のぶ・七代容おきの弟)等の法号がきざまれている。その他にも多くの大居士、大姉の法号があるが、系図では探し出せなかった。

○織田家の墓 織田信長の二子信雄の三男信友(高長)は大和松山五万石をついだが、その三男長政は分家して三〇〇〇石を領し、その子信明から高家衆となっている。長政の二男信清も三百石を得た。この長政の一門が広徳寺を菩提寺としているが、大正九年七月に織田家之墓として、合葬墓にしたため詳細はわからない。

○小出家の墓 岸和田三万石の小出吉政の二男吉親は分家して伊勢守、但馬出石二万九七〇〇石を領した。寛文八年(一六六八)三月一一日没して下谷広徳寺に葬るとあり、法号を福源院殿松渓玄秀大居士とする。その後広徳寺は大名の奥方や分家の菩提寺となったようで寛政系図には次の一族の葬地となっている。吉親の養子百助吉忠(一柳直次の二男、二〇〇〇石)の一族、吉親の嫡孫伊勢守英利の四子、主殿英治(一〇〇〇石)の一族等がそれである。墓地は二か所にあって、小出家之墓と、

小出家累世之墓とある。後者には梅渓院殿、南江院殿等居士四、大姉三とあるが、徳雲院殿庭柏宗意大姉(慶長一二丁未歳五月二三日)の五輪塔は墓碑中では古い方である。

○小堀家の墓 笠付丸柱塔という大名の墓としては変った墓石である。有名な茶道遠州流の祖である小堀遠江守政一(近江、小室藩主、一万〇六三〇石)長照院殿信誉道喜居士(慶長八癸卯載二月廿九日)の墓塔であり、その他一族の葬地であることが寛政系図には記されている。四代の孫政峯は伏見奉行、若年寄となり、その子政方は伏見奉行となったが放縦さがたたり財政難を来し、悪政を重ねたことから、天明八年(一七八八)領地没収となっている。

○細川家の墓 子爵細川家代々の墓とあり、常陸谷田部藩一万六〇〇〇石、藩祖興元は熊本藩主細川忠興の弟で各合戦に功があった。室が立花宗茂の養女である関係から、広徳寺を菩提寺としたのであろう。

○小笠原家の墓 円照院殿華陽宗月大姉・登覚院殿心源紹観大居士(文化十癸酉年七月二九日)の墓標もあるが中心は先祖代代の墓である。寛政系図には、小笠原忠真(筑前小倉)の子、大和守長宣(父に先立って死す。三三歳 広徳寺に葬る)と記している。一門の奥方の墓地であろう。

○小倉家の墓 天外宗中居士(小倉忠右衛門正次)が始祖で、始め中村一氏に仕え、後幕臣となって五〇〇石を与えられ、寛永八年五月一二日に没している。寛政系図にも広徳寺に葬るとある。その後正守、正仲、正矩、正房、正英、正真、正良とつづく。正仲の娘が真田内蔵助信紀の妻となっている。墓末日光奉行となった全功院殿義山宗信居士の墓標もある。

○関家の墓 小松内府平重盛の末孫、北条時政の臣となり、一族から執権北条氏の執事である長崎氏が出ている。関長門守一政、伊勢亀山五万石を与えられたが、家臣の争があって没収。その子氏盛、五〇〇〇石を与えられ、兵部大夫となり、安宅丸や各所の普請奉行をつとめている。老中本多正純の養女を妻としている。墓石は雲峰院殿自閑紹由居士、俗名関兵部大輔平氏盛(慶応元乙丑歳十月卅日)大清院殿前越州刺史<外字 alt="羪">〓道義賢大居士、従五位下関越前守平盛章(慶応元乙丑歳十月卅日)となっている。先祖にあたる平重盛の碑が、広徳寺入口右に建っている。小松内府追福碑と記し、裏面にその由緒が記されて

いる。後関家は元禄一〇年(一六九七)、備中新見藩主一万八〇〇〇石となっている。

○近衛家の墓 一番北側に広い地域を占めているが、墓標は三である。悲劇の宰相と言われた近衛文麿家の墓地であるが、その弟である作曲家近衛秀麿。夭逝した秀俊、雅楽にすぐれた直麿の三兄弟の墓がある。

○子爵曽我家の墓 曽我祐準。筑前柳河・立花藩の出。明治政府に仕え、海軍参謀として東北及五稜郭の戦に功を立てた。その後士官学校長、陸軍中将、熊本、大阪、仙台の鎮台司令官。監軍部長歴任。その間西南戦役には、旅団司令長官として武功をあげている。明治一七年子爵、一九年休職、その後明宮養育主任、東宮大夫、宮中顧問官、貴族院議員(勅選)、枢密顧問官を歴任、日本鉄道株式会社社長、岩倉鉄道学校長にもなる。昭和一〇年一一月三〇日没、九三歳、従一位勲一等。この一族の墓地である。

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広徳寺の
 〝火燃る墓〟

参道の右側に、上部だけだが屋根型の墓石がある。文字は「前法」の二字しか見えないが、これが〝火燃る墓〟の伝説を伝える墓石である。

文化年間(一八〇四~一四)に未刊本だが『埋木花うもれぎのはな』(抄写本は『東都古墳志』という)としてまとめられた中に〝火燃る墓〟という見出しで二基の墓石が模写されている。墓石には、慶長七寅年(一六〇二)四月六日 前法印如雪宗関とある。小さい方には「焼けてはげたるあとか、総体にくすぶりたる如し」とあり、火燃る墓とはこれを指して言ったものであろう。

広徳寺が下谷に移ったのは、寛永一二年(一六三五)だから、それよりも三〇年前にすでにあった墓である。これはここ下谷に住んでいた山伏夫妻を葬った墓で、この山伏は、火伏の術(火渡り術)を得意とし、そのほかにもいろいろ霊感をやっていたらしい。そのため山伏の死後、弟子や信者が参詣に来ているうち、いつとはなしに、熱病や小児の咳にご利益ありと伝えられ、参詣者は引きもきらなかった。多分その時の線香の火で、小さい方の墓石が燃えたということから〝火燃る墓〟の伝説を生んだものである。

関東大震災で「前法印」の下部と、小さい墓は、猛火の熱気でほんとうに燃えてしまったようである。

                          (伊藤記

その他には入口の横山氏歴世之墓(金沢藩出身、横山一平。日露戦の頃衆議院議員となり実業界に活躍、東洋捕鯨始め多くの会社を経営した)、南総里見家の子孫の墓(豊後竹田中川藩士)。江戸の薬屋伊勢屋吉兵衛・島原家之墓(明国より来日、長崎で医を営む。島

原城主龍造寺隆信と所縁あり)等の墓地がある。

つづいて中央部の塔頭桂徳院墓地に入るとそこにも大名家の墓地や学者文人の墓がある。

○松浦家の墓 九州平戸の松浦家は頼光四天王の一渡辺綱の末で松浦隆信、秀吉に仕え、子鎮信家康に仕え、六万三二〇〇石を領した。寛文四年(一六六四)従弟猪右衛門信貞に今福一五〇〇石を分け、更に元禄二年弟昌に平戸新田藩として一万石を分封している。広徳寺墓地には、今福松浦家の芳性院殿(元禄七年)、修教院殿(寛文三年)。伝心院殿(享保九年)、大淵院殿(天保二年、松浦忠、前勢州刺史、幕命を以て京師にあり死すと)等の墓碑がある。また別の墓地に松浦家累世墓があり置安宗察居士・松浦信長・寛永一五戌年九月二日と記した塔もある。松浦久信の三男半左衛門で(一三〇〇石)その子孫の墓地であろう。

○水野家の墓 水野家累世塚と記した合葬塚で水野十郎左衛門の子孫の墓と言われているが、寛政系図で水野家中広徳寺に墓地をもつ人物を探して見ると、徳川家康の家臣で、長崎奉行、大目付を歴任した五〇〇〇石の旗本水野半左衛門守信の養子半左衛門守政(正徳五年一二月一六日没、九三歳、法名義浄、広徳寺に葬る)から始まる一門であろう。

○金森家の墓 飛騨高山六万一〇〇〇石の藩主金森長近の孫、左兵衛重義は分家して二〇〇〇石の旗本となり、寄合にすすむ。号雲雪、法名紹雪、寛文一二年一一月二二日没、広徳寺に葬るとあり、その一門も同様である。本家の高山藩は元禄五年(一六九二)までつづき頼ときの時出羽上山に移された。その後は飛騨は天領となるが、幕府が豊富な山林と、鉱山に目をつけたためと言われる。その時農民が留任運動をしたことで有名である。そして五年後美濃郡上八幡に帰るのであるが、子頼錦の時、改易となり、その子頼興越前白崎に三〇〇〇石を賜っている。

○滝川家の墓 桂徳院は滝川壹岐守正利が滝川下総守雄親の菩提所として慶長七年(一六〇二)建立されたのであるが、その滝川家の墓所がある。滝川家は村上源氏北畠家の末にあたり、木造を名のっていたが、織田信長に仕えて、その勇将滝川一

益の姓をもらって、滝川下総守雄利(三郎兵衛雄親ともいう)と称した。秀吉に仕え神戸三万石を領したが、関ケ原の戦に西軍につき、僅か二〇〇〇石となったが、子壹岐守正利常陸片野一万石に復活した。しかしその没後一万石は収公され、養子長門守利貞は二〇〇〇石となったという。桂徳院殿前法印三真周保庵主(滝川雄利、慶安一五年三月二六日没)護法院殿前備州刺史道雄大居士(正徳二壬辰年一一月一八日)の墓碑がある。

○森家の墓 森家は源義家の六男義隆の末で森三左衛門可成織田信長に仕え、二子蘭丸長定、三子坊丸長隆、四子力丸長氏は本能寺の変に信長に殉じたのは有名である。末弟忠政、長兄武蔵守長可の養子となり、秀吉、家康に仕え美作津山一八万六〇〇〇石となる。四代長成の時中野犬小屋を始め普請手伝を命ぜられ、巨費を投じたため財政難となり元禄年間に没収、長直に赤穂二万石が与えられた。忠政の子右近太夫忠広は元和一〇年(一六二四)八月二二日死、三〇歳。光甫本顕徳院葬地広徳寺と寛政系図には記している。

○真田家の墓 真田幸村の兄伊豆守信幸は徳川家康について本領を安堵されたが、その子大内記信政の長男勘解由信就分家して二〇〇〇俵を賜わり、寄合となる。生母は二代目小野お通であると別稿で滝善成氏は論じている。子、主膳(勘解由)、孫信清の時改易となっているが、主膳の弟蔵人信弘は、本家真田幸道の養子となり享保一二年(一七二七)より松代藩主となり、治績の見るべきものが多い。墓地には信就及その生母お伏(二代目お通)、その奥方と思われる三基の墓があるが、寛政系図にはその他の墓があるとは記されていない。

○子爵市橋家の墓 美濃土岐氏の臣であったが、土岐没落後斉藤、織田、豊臣に仕え、更に徳川家康に仕え関ケ原、大阪の陣に功あり、越後三条四万石に封ぜられたのは下総寺長勝である。嗣子なく没収されたが養子長政、近江西大路二万石に封ぜられた。以後明治までつづくが、寛政系図には広徳寺・桂徳院の名は見えない。墓地には、清泉院殿鑑月妙昭大姉の墓碑があり、立花宗茂の養女である。

○桑山家の墓 結城宗広の三男親治、桑山を名のってからという。修理大夫重晴、羽柴秀長に属して功あり、ついで関ケ原

の戦にも功あって、大和郡山四万石に封ぜられたが、その二男伊賀守元晴分家して大和御所二万六〇〇〇石に封ぜられた。大阪の陣に功あり、元和六年(一六二〇)七月二〇日死去、五八歳、広徳寺に葬り三釈紹玄禅渓院という。その子加賀守貞晴寛永六年(一六二九)九月二九日死去、二六歳、大源紹用法性院、広徳寺に葬る。しかし子なく除封、その弟栄晴一〇〇〇石を受け、その子内蔵助主殿(火事場目付、広徳寺梅雪院に葬る)に伝えている。

○秋月家の墓 日向高鍋藩主秋月家(二万七〇〇〇石)は阿智使主の末、刀伊の入冠の時活躍した大蔵種材の末である。秋月長門寺種長に至って秀吉に降り、後家康の臣となって日向高鍋三万石を領した。その養子種春(古巌宗帆大洋院と言い、広徳寺に葬る)、またその子種恒、曾孫種弘、その叔父式部種邦(分家、三〇〇〇石)等広徳寺に葬るとある。応瑞院殿と記した燈籠二基がある。

○渡辺家の墓 渡辺綱の後裔と言われ、筑後守勝は三〇〇〇石を領し、寛永三年(一六二六)六月七日没、広徳寺に葬る。その孫忠兵衛祐(分家四〇〇石)弟半左衛門貞(分家三〇〇石)も広徳寺に葬り、以下もつづいている。徳川十六将の一人渡辺半蔵の一族であろう。

○加加爪忠澄(合葬墓)上杉中務大輔満定の子加々爪修理亮政定、今川範政の猶子となり今川氏に仕えたが、四代の孫政豊家康に仕えた。その子甚十郎政尚、備後守三〇〇〇石、文禄四年七月一二日、大地震で伏見に死した。その子が忠澄で、甚十郎、民部少輔となり九五〇〇石を領した。大目付となって、寛永一七年六月二日、ヤソ教徒一〇〇〇人を長崎で斬った。翌年五六歳で死し、広徳寺に葬るとある。墓地がないので、その他のことはわからないが、その子甲斐守直澄、一万石を領し寺社奉行となったが、所領の紛争を起し、没収され、その子信濃守直輔、直澄の弟宇右衛門信澄(一〇〇〇石)その弟杢之助定隆(五〇〇石)等の一族、皆広徳寺に葬ると寛政系図には記している。

この合葬墓にはこの他に次の氏名が刻まれている。

菊地耕斉 天和二年一二月八日歿、六五歳、儒学者、医者として名あり。名東均 久留米・島津侯に仕えたが、多くは京

都、江戸で子弟を教えた。「耕斉全集」二〇巻がある。

菊地景月 貞享四年八月一〇日歿

菊地半隠 享保五年七月二七日歿、六二歳、耕斉の三男名は武雅 林春斉に学び昌平黌の学頭、後讃岐高松藩主に仕える。遺集に「義穂義人録」十七巻がある。

末包マツボウ金陵 明和七年七月三日歿

末包玉山 文久二年一二月一一日歿、儒学者、文郁と号す

県宗知 享保六年六月二七日歿、六六歳、遠州流茶人お庭番、梅雪院に葬る

常木丹 天明七年一月一六日歿、五七歳、谷素外の門、江戸の俳人

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    小野お通の墓

広徳寺の塔頭桂徳院の墓地に

  圓徳院殿天室宗鑑大姉 延寶七己未歳十二月十八日

の銘を刻した一基がある。これが嘗て信州松代藩主真田内記信政の長男勘解由信就の母であったお犬(お伏)こと二世お通の墓である。寛政重修諸家譜では信就母は某氏と記している。

世に言う『浄瑠璃十二段草子』の作者としての小野お通の素性については、古来諸説紛々たるものがあるが、混沌としていた戦国末期、武人、芸人の流浪するものの多かった中で、西に出雲傀儡子クグツ出の「阿国歌舞伎」の創始者お国が、東に三河を根城にしていた旅芸人にお通が現われた。お通は才色兼備の女性であったので、その子お伏もまた母に劣らず諸般にすぐれ、親子ともども諸国を流し歩いた。たまたま京都に滞留中、上京した真田内記信政とお伏が酒宴を機縁に結ばれ、信就(禅機院殿)が誕生するに至った。いわばお伏は玉の輿に乗ったということにもなろうか。

うじなき者が真田家と関係を持てば、社会的な表称としてうじが要請されたのは当然である。かくてお通は小野を称することになった。「浄瑠璃十二段草子」の作者に擬せられたお通の名は、ふしつけ、三味線を得て京都の芸壇に地歩を次第に占めるようになったらしい。三木就氏の推論によると、母に似て美麗だったお伏が内記と結ばれたのは寛永三年(一六二六)お通五八歳。お伏が内記信就を京都で生んだのは寛永一一年六月のことである。(真田勘解由系譜)『桂徳院過去帳』に「禅機院殿一現葉身居士 元禄八亥霜月廿六日」とあるのは真田勘解由信就でそれを真田内記信政公とするのは誤り内記はお伏の夫である。なお同系譜によると「俗名小野ノ於通<漢1>ト號、延宝七己未十二月十八日卒、法名圓徳院殿天室宗鑑大姉、寺下谷廣徳寺内梅雲院葬、此人世ニ名ヲ振シ、三代将軍ニ遣、萬事に達タル人世ノ人祥ル也、右<補記>(お図)おづう殿之母、矢張於通俗名祥ス、法名双林院殿圓室大姉、寛永八辛未年十月六日卒、右双林院殿大内記信政公御奥方の御實母と有リ」とあるように、信政の妻であり信就の母であるお伏は俗に「小野ノ於通」を号し、信政の奥方であるお伏の実母も同様於通と称した事が明らかになる。

このような間柄で江戸の真田家邸に住い、延宝六年(一六七八)歿して桂徳院に葬られた。親子ともにお通を称したので、伝浄瑠璃十二段草子の作者の方を初代お通、その娘で真田信政の妻で桂徳院在墓の方を二世お通とする。(三木就『小野阿通出生地考』徳島大学学芸学部紀要人文科学第一巻を参考

なおこの墓とならんで左側に禅機院殿(勘解由信就)の墓があり、更にその隠りに上記二基よりも立派な宝永元年の祥福院殿瑞嶽妙寿大姉の刻名をもつ一基がある、信就の室のものである。

        (滝記

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学者にはこの他、次の墓碑がある。

○菊地五山の墓 讃岐高松の生れ、南朝の忠臣菊地氏の末と言い慷慨の詩人として知られる。名桐孫、字東君、号五山、または娯庵、小釣舎とも言った。通称左大夫、後藤芝山、市河寛斉、柴野栗山に学び、昌平黌においても師の代講をした。江戸本郷に住み、五山堂と言った。当時の漢詩

の流行たる明朝風に抗して大窪詩仏等と宋詩の風韻を尊びその普及につとめた。画の文兆、書の鵬斉と共に芸苑の三絶と言われ、更に芸のお松、料理の八百善を加えもてはやされた。また書もよくした。後讃岐高松藩の儒官となり、「五山堂詩存」、「五山堂詩話」等の著書がある。嘉永六年(一八五三)六月二七日没、五山菊地無弦居士、年八一。

○菊地秋峯の墓 五山の子晋。武広、秋峯、秋浦と号し、字は漢之である。通称新三郎、明治一九年四月一九日没、年七四歳、法証院秋峯日乗信士。

○大内熊耳の墓 奥州三春の人、名承裕、字子綽、通称忠太夫、百済国余璋の太子琳聖から出たので姓を余とした。秋元子帥、後荻生徂徠に師事した。肥前唐津藩の儒者となり、文名が上った。「熊耳文集」、「熊耳遺稿」等の著がある。安永五年(一七七六)四月二八日没、八十歳、敬心斎義紹勇居士。

○十一ヶ寺墓地

練馬四―二五―二六

浄土宗誓願寺は江戸初期に小田原から江戸神田に移り、明暦三年(一六五七)の大火後は浅草田島町に移った。朱印三〇〇石を与えられた大寺で一時は塔頭一六を数えた。大

正一二年の大震災後誓願寺は多摩霊園に移り、塔頭の内一三院が合併して一一が練馬にうつった。綱吉の生母桂昌院の別殿もあり、土井、三浦、刈谷家の宿坊もあり、徳川家十人衆の菩提寺でもあって、江戸の知名人の墓もまた多い。次に各墓地別に触れてみたい。

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迎接こうじよう院墓地

○小野蘭山一族の墓 蘭山は京都人職茂の子、名は職博もりひろ、字は以文、通称喜内、号蘭山、衆芳軒、朽匏子等と言った。幼い時「秘伝花鐘」を見て志を立て、一三歳松岡恕庵の門に入ったが、二年で師を失い、以後独力で本草学を研鑽、二五歳から弟子を教えた。名声四方に聞え入門者も多く、講義録「大和本草会議」、「秘伝花鏡記聞」を著し、明の「本草綱目」、宋の「通史昆虫草木略」を校訂、寛政一一年、年七一歳で幕府の召により江戸に来り、幕府の躋寿館の医官となる。ここで本草学を講ずるかたわら弟子と共に植物を採集して歩き、多くの「採薬記」を幕府に提出している。数多の著書の中で、「本草綱目啓蒙」四八巻は最も有名で享和二年(一八〇二)出版された。本草学の最高権威書である。孫の安部子徳もこの筆記編集を行ない、家業をついで本草学の大家

となる。文化七年(一八一〇)一月二七日歿年八二歳、明治四二年、従四位がおくられている。救法院顕現道意居士。昭和四年五月都旧蹟指定。

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○植村淇園の墓 名は正直、字は希波、太宰春台の門人、儒学者として有名、寛政元年(一七八九)一二月二九日歿。

植村正路、荻屋主人といい国学者、文政五壬午年(一八二二)一一月二三日歿、淇園、正路の他、四名の合葬墓である。

○岡部覚弥の墓 筑前那珂郡春吉村の人、射山と号す。明治二八年、東京美術学校(現芸術大学)金工科の助教授となる。三六年ワシントン美術館員となり「日本鐔泰西論」(英文)を著した。大正五年衆議院より大礼記念献上品として献上された彫金「菊児童」はその代表作。大正七年九月九日歿四六歳、智徳院泰山射石居士。

○辻家の墓 幕府の薪炭御用商人、震災で改葬した事を記した大きな墓碑である。

○本目家の墓 弘化三丙午年七月一六日、朝散太夫従五位下隼人正源朝臣親直之墓があり、二つの戒名も彫られている。本目家は三河武士で、大給松平の出、本目権十郎義正から始まる。二〇〇石ばかりを食んでいる旗本である。子孫は一六代徳川家達の家宰をしていたという。

仁寿院墓地

○松井家の墓 幕府の御装飾師松井家の墓所がある筈だが、この松井家は、代々源水といい越中国戸波から出て、霊薬反魂丹を売出して有名となった玄長から始まる。二代道之は富山に帰る。江戸に再び出て来たのは延宝天和(一六七三―八四)の頃といわれる。浅草観音の境内で客よせのため曲独楽を行ったのが有名となり、全国中に喧伝された。享保一一年(一七二六)一一月、将軍吉宗がおしのびで来て、独楽と枕の曲とを見物し、御成御用の符を与えたのでますます有名となる。売薬より後には芸の方が本業のようになり代々継承して、明治初年のパリ万国博覧会には西洋人に

これを見せている。宗家先祖代々松井源水之墓。昭和一四年八月一三日、一七代書としている。現在は歯科医院であるという。

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○千葉家の墓 北辰一刀流千葉周作の墓もあったが今は巣鴨妙法寺に移されている。現墓碑は養子千葉栄次郎成之(文久二年正月八日歿)を筆頭とする合葬墓である。

快楽けらく院墓地

誓願寺別院として桂昌院殿別殿があったが、震災にあい現在残されたものがない。桂昌院は家光の妾であるが、五代綱吉の生母として有名となり、その兄本荘宮内少輔道芳は美濃高富に一万石の領地を与えられ、弟宗資は因幡守侍従となって五万石を与えられ、丹後宮津七万石のもとをつくっている。

○小沢卜尺の墓 江戸本船町の名主。通称太郎兵衛、俳諧を好み北村季吟に学ぶ、寛文一二年(一六七二)、始めて江戸に下った芭蕉が草鞋をぬいだのが卜尺の家であった。以後芭蕉の友となり補佐としてつくした。延宝二十歌仙に選ばれている。寛延四年(一七五一)九月三〇日歿。 春ごとに松は飯くふて年ふるや(虚栄集から

○林 碁所の墓 井上、安井と共に幕府の碁所代々門入と称す。本因坊一七世秀栄はここから出る。

宗周院墓地

周囲を塀で囲んだ墓地、幕府の染物御用達山田屋総本家之墓、初代山田喜惣兵衛直員(忍藩士山田一太夫政則・正徳六丙申年四月四日、六十歳)等がある。

仮宿院墓地

土井・三浦・刈谷家の宿坊となっていて、少いけれども大名家の墓地がある。この三家ともそれぞれ姻戚関係にある。

井関家墓とある宝篋印塔のそばに寂静院殿前信州白雄英誉玄海居士、延宝五丁丑天三月一五日土井利直を始め、合祀塔には十余人の法名が刻まれている。大老土井利勝の一門は誓願寺の方にあり、ここには利勝五男信濃守利直(一万石)の墓碑

を始めその子孫のである。その養子豊前守利良(妻三浦安次の女)等もある。

北条氏に亡された三浦一族の末五左衛門正重は土井利勝の妹をめとり、その子は土井甚太郎と称したが、後三浦志摩守正次と改め、下野壬生二万五〇〇〇石を領し、少老となる。寛永一八年(一六四一)一〇月二七日四三歳で歿。誓願寺に葬るとある、次子越中守共次は分家して安房に五〇〇〇石を与えられて元禄三年六月九日、五六歳で歿している。法名は通玄院殿前越州峯誉善順居士で、心光院殿粲誉瓊室元瑤大姉(三浦安次の妻、土浦城主朽木従五位下民部少輔種綱の女)の墓石もある。

○馬場家累代之墓 側に有無庵存義無一居士(天明二年壬寅一〇月晦日行年八十歳)と刻んだ石柱がある。存義は始め三浦氏に仕えたが、泰里といい、季井庵、古来庵、有無庵等と号した。服部南郭の門に入り、儒学を学んだが、後俳諧に転じ、春来泰室の所をたたき、大家となった。「間をおいて また聞ゆるや雪の鐘」と刻まれている。

○千金斎春芳 狂歌師、本名千野半兵衛と言い万屋と言った。弘化四年(一八四七)四月一一日歿、八六歳。専願浄生信士。合葬墓である。

受用院墓地

墓地の中央部に近く、蔵前の札差青地家の大きな墓地があって、宝篋印塔が林立している。

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○池永道雲の墓 名は栄春、号一峯、江戸の商人の出ながら書を学び、ついに一家をなす、また我国における篆刻の祖と言われ、その名人である。元文二年(一七三七)七月一九日歿、六二歳。蓮邦道雲居士。昭和七年七月一日都旧跡指定。

○沢村宗十郎一門の墓 初代宗十郎は俳名を訥子、高実といい本名藤吉郎、京都の出である。沢村長十郎の弟子となり染山喜十郎として舞台をふむ。その後惣十郎、三世長十郎、宝暦三年(一七五三)には助高屋高助と改め、二代市川団十郎、初代瀬川菊之丞と共に、歌舞伎の名声を高めた。特に宗十郎はどんな役でも見事にこなしていた。宝暦六年

一七五六)一月三日歿、七二歳という、高龍院一徳月助信士。

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二代沢村宗十郎、俳名を亀音、曙山、訥子といい、家号を紀伊国屋という、始め歌川四郎五郎と言ったが初代宗十郎に認められその養子となった。初めは和事をよくしたが後には悪事を得意とした。明和七年(一七七〇)八月晦日歿、五八歳、宝林院得誉宗空居士。

三代沢村宗十郎、俳名、遮莫、曙山、訥子、紀伊国屋という。二代宗十郎の二男で二代助高屋高助の弟、沢村田之助といった。明和八年(一七七一)三代宗十郎となり、立役となる。和事、悪事、所作いずれもすぐれ、その演ずる大星由良之助は古今無双と言われた。享和元年(一八〇一)三月二九日歿、四九歳、遊心院頓誉西天居士。

二代助高屋高助、俳名中車、初代の孫、三代宗十郎の兄、幼名沢村金平、後瀬川雄次郎と改めた。明和八年三代市川八百蔵をつぐ。文政元年(一八一八)一二月六日、福島での興行中倒れた。嶺松院高誉凌寒居士。

三代沢村源之助、俳名清子、家号は清滝屋後に紀伊国屋といった。五代宗十郎の弟で、市川団十郎の門に入り、市川右団次と言った。文久三年(一八六三)九月一五日歿、五七歳、沢誉暹月沢村信士。

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称名院墓地

材木御用達舟橋家の菩提所。佐脇一族の墓所は中井金之助墓所に合葬されている。

○佐脇嵩之の墓 初名を道賢、字を子嶽、一水と言う、その他にも東宿、果々観、中岳堂、一翠斉、幽篁亭

等と別号があり、甚内、甚蔵とも言う、英一蝶について絵を学び、狩野派より浮世絵に近いと言われた。浅草観音堂に奉納した二四孝の老人と子供と虎の絵額は世人の絶大な賞賛を得たという。明和九年(一七七二)七月三日歿、六六歳、果々観嵩中子岳念的居士、

○佐脇英之の墓 嵩谷の娘、父に画を学んで一家をなす。寛政三年(一七九一)六月三日没、松月英之信女。

○佐脇嵩雪の墓 嵩之の子、通称倉治、字は貴多、伃止楼、中岳斉と号す。父に学び、父に劣らぬ名声を得た。文化元年(一八〇四)一一月二二日歿、六五歳、群山嵩雪居士、

林宗院墓地

御料理仕出し御用大膳亮家の菩提所とあるが不明。

○大膳亮家多紀・松本氏と共に幕府の奥医師・好庵と号す。

○奈良安親の墓 本名土屋五八、東雨と号する。神田竜閑町に住した。奈良辰政の弟子となり第一の彫金師となった。延享元年(一七四四)九月二七日歿、七五歳、国瑞元家信士、六世土屋安親と刻してある。

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○燕栗園万寿の墓 本名山田屋佐助、狂歌師として名高い、安政五年(一八五八)八月一七日歿、五五歳。合葬墓、

○岸本由豆流の墓 通称大隅権之進、鎌倉<外字 alt="木+在">〓園、棣堂、尚古考証園、露園とも言う、伊勢国朝田村に生れ、朝田氏であったが、江戸に出て幕府の弓弦師岸本讃岐の家をつぐ。村田春海の門人となり、国文の研究に努め、博覧強記、蔵書三万に及んだという。家業を子に譲った後は古典の註解に努力をし、数々の考証を行った。弘化三年(一八四六)五月一七日歿、五八歳、遊林院弦誉覚於<外字 alt="木+在">〓園居士、

○菊岡沾凉の墓 伊賀菊岡の人、「世諺一統」の著者として有名な国学者如幻の養孫、初めの名は房行、芳賀一晶の門人となり南仙叟、雀下庵とも言った。内藤露沾の門に入り沾凉と改めた。余米山南仙の号も用いたが、通称藤左衛門、和漢の学に通じ、また談林派の俳人として知られた。その著書「江戸砂子」は有名である。延享四年(一七四七)一〇月二四日歿、六十歳、米山翁沾凉居士、この墓碑は現在不明である。

○菊岡光朝の墓 沾凉の子、通称利藤次、彫金で一家をなす。文化一〇年(一八一三)四月二二日歿、三八歳、常光明摂信士。この墓碑もないが、昭和三六年四月、日本刀剣学会の建てた菊岡光行之墓がある。

○石田未得の墓 求得、通称又左衛門、乾堂とも号した。江戸神田鍋町にすみ、後両替町に移る。松永貞徳の門に入り、江戸俳諧宗匠五哲の一人に数えられた。狂歌もよくし「吾吟我集」という狂歌集も著した。寛文九年(一六六九)七月一八日歿、八三歳、自性院未得、その子未琢、艮堂と号し、狂歌で世に知られる。天和二年(一六八二)三月二〇日歿、年七〇、隆法院未琢。現在墓碑が不明である。

九品院墓地

菓子御用達井上家の菩提所
○前田夏蔭の墓 通称健助、鶯園と号する。清水浜臣の門に入り、国学者として著書も多い。元治元年(一八六四)八月二六日歿、七二歳、古槐院清涼夏蔭居士。前田・早川両家の合葬墓である。

○大久保忠光の墓 天正一八年(一五九〇)井の頭池の水をひいて江戸の水道をつくった大久保忠行の五代目にあたる。代々

主水もんとの称号を許されている。忠光の時から浄土宗になったので、以下ここに合葬されている。西慶院であったが、明治維新後九品院に合併された。享保四年(一七一九)四月二日歿、持名院殿実蓮社真誉忠証皓然居士。

本多家の宿坊にもなっていたが今はない。

得生院墓地

砂糖御用三沢家の菩提所で、墓碑もある。

本性院墓地

米御用飯山家の菩提所であるが墓碑がない。長寿院を合併している。

○真竜院墓地

谷原六―七―九

文明年間(一四六九~八七)江戸金杉に創建されたが、明暦三年(一六五七)全焼して築地にうつり、本願寺の寺内にあったが、関東大震災後の区画整理で昭和三年ここに移ったもので、江戸の学者三縄桂林の墓がある。名は維直、字は縄郷、通称準蔵という。儒家として名高く、多くの著書がある。文化五年(一八〇八)一月二八日歿、六五歳。

○宝林寺墓地

谷原六―八―二五

最初日本橋浜町にあったが、明暦三年(一六五七)の振袖火事で類焼にあい、築地に移転、何回かの火災にあったが遂に関東大震災後は現在地に移転、昭和一二年に本堂が落成している。第九世住職羽田雲堂は能書家で諸侯のため奉仕した。慶応元年(一八六五)五月一一日歿、五三歳、釈専暁。

羽田子雲は雲堂の子、第一〇世の住職である。幼少より画をよくし、南画を岡本秋暉について学び大成した。殊に孔雀の絵では他に追随を許さなかったという。明治六年、召出されて宮内省出仕絵所詰となり、多くの弟子を教え、「子雲画集」を残している。大正七年一月二二日歿、釈専譲。

○敬覚寺墓地

谷原六―八―一二

寛永一二年(一六三五)江戸青山に創立、始めは専照寺と言った。明暦の大火に類焼して築地にうつり、敬覚寺と改称したが、その後も火災にあい遂に関東大震災後谷原に移転した。昭和三年のことである。

墓地には、雑誌「女の世界」の編集者青柳有美の墓がある。昭和二〇年七月一〇日の歿である、

○長命寺墓地

高野台三―一〇―三

天正一八年(一五九〇)小田原城落城の際、北条早雲の孫重徹の孫増島勘解由重明は練馬にかくれた。やがて出家して高野山に登り、弘法大師の仏像を感得して帰り谷原の地に一院を建てたのが始まりという。慶長一八年(一六一三)のことである。その後重明のあとをついだ八郎右衛門重俊は慶安五年(一六五二)奥之院を高野山に模してつくったが、灯籠及宝篋印塔各一〇を奉納している。

奥の院への参道の左途中に真諦院殿従五位下朝参之大夫、前之近江守徹信忠翁大居士(慶応四戊辰星正月二旬春六月)の墓標があり、当家六代目佐久間近江守信久葬地と記してある。佐久間氏は三浦氏の末と言うが盛政賤ケ岳の戦に敗死、その弟大膳亮勝之一万八〇〇〇石の大名となったが、四代で改易となっている。しかし旗本として再興されているのでその中の一家であろう。

墓地には幕府に召出され、旗本となった増島家の墓がある。心月道傳居士(増島重俊 寛文二年一月一八日)。清岳道雲居士(増島平太夫重辰 天和二年五月九日)及その妻の墓碑が古いものである。

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○明珍家の墓 最近まで大沢家の個人墓地にあったものを長命寺の墓地に移して整備している。中世以来の甲冑師明珍家の墓碑がある。明珍家は墓碑によれば武内宿弥の子孫と言われ、以来連綿として七八代つづいている。碑文によれば鎌倉の始め、宗介、近衛院より明珍号の名を賜わり、鎌倉又は京都に住んでいる。宗教は後醍醐天皇の御鎧をつくり、五七の桐の紋を賜う。それより八代信家は武田信玄から信の名を賜って、信家としている。孫宗家は安土に住み、家康より御書をうけている。その子宗信大隅守に任ぜられ大阪・江戸に住む。幕府及び諸大名の註文が殺到して繁昌したが、明治維新後練馬に帰

農して姓も大沢と改めていたのである。

○阿弥陀堂墓地

北町二―一八

千川上水の開さくをした功労者、千川徳兵衛の三代後、丁度北町の漆原家から養子に入った関係から、屋敷も北町に移ったので、墓地もここに新たに設けられたのであろう。墓石の主なものは、次のようである。

真喜院顕明道儒信士、明和四年一二月四日(三代源蔵

真照院覚阿道賢信士、天保五年四月四日(四代善蔵重信

真光院千山真光道喜信士、天保八年四月二〇日(五代仙蔵

真冷院秋観浄知信士、天保一一年八月九日(六代民蔵

真建院寿松速善居士、明治二七年四月九日(七代祐保

○道場寺墓地

石神井台一―一六―七

石神井城主豊島左近太夫景村の養子兵部大輔輝時が応安五年(一三七二)四月一〇日、豊島氏の菩提寺として起立したことに始まるという。輝時は永和元年(一三七五)七月七日歿し、勇明院正道一心と謚されたが、その墓地はわからない。豊島氏滅亡の時即ち文明九年(一四七七)四月一八日、太田道灌によって石神井城は落城するが、最後の城主豊島泰経及その娘照姫は三宝寺池に入水したと伝えられ、その墓という五輪塔、宝篋印塔が三基残されている。

○柴田常恵の墓 愛知県の人、東京大学において日本の人類学、考古学の基礎を築いた功労者。内務省に入って国宝、重要文化財の指定保存に盡力し、文部省では文化財専門審議会専門委員をつとめた。明治二九年一一月一日歿、七七歳、復古院常恵居士、

○法融寺墓地

関町二―二七

正保三年(一六四六)旗本近藤政信の三男、出家玄正が豊島郡江戸本町に創立した寺で、明暦三年(一六五七)の大火に類焼、

浅草本願寺内に移ったが、大正一二年の関東大震災に焼失、再建したが昭和二〇年三月、米軍の空襲により焼失、現在地に移って来たものである。

○歌人会津八一の墓 明治一四年八月一日新潟県に生れ、新潟中学をへて早稲田大学に入り、英文科を卒業、明治四三年九月より早稲田中学に教鞭をとり、以後早稲田大学講師、教授となって昭和二〇年辞任している。その間美術、英文と広範囲の講義を行ない、東洋美術の研究は注目された。その資料は、大学内に会津博士記念東洋美術陳列室に収められている。書家、歌人としても著名で秋艸道人の歌集は奈良古寺に遊ぶ者の必読の書となっている。昭和二三年早大名誉教授、二六年新潟市名誉市民となった。昭和三一年一一月二一日、新潟で歿、戒名は渾斎秋艸道人と自ら名づけている。

○三代桜田治助の墓 江戸末期の狂言作者、初名葛飾晋助、松島半二、狂言堂左交とも称した。家号山城屋。二代目桜田治助の門弟。文政七年(一八二四)中村座へ。九年市村座の松島半二をつぎ、天保四年(一八三三)中村座で三代治助をつぎ、天保六年立作者となって、一時江戸劇壇を一人で背負う程であった。文久二年(一八六二)森田座で立作者の役を弟子の四代治助にゆずり、故老として重んじられた。明治一〇年八月七日七六歳で歿した。脚本は独創に乏しいが、軽妙で浄瑠璃長唄には佳作が多いと言われる。

<章>

第三章 練馬の民俗

<本文>

農村の伝統は長い期間に、その地域の成因である氏族の伝統と、その土地のもつ自然的条件や、移住して来た事情や、時代時代の為政者のとった施策や、支配的であった宗教の考え方等が、社会集団の存続と発展を求めて実施された結果の集積であるとも言える。そしてそれは現在衣食住や、日常生活の慣習や年中行事等に残され、その精神が生かされあるいはその形のみが継承されている。

ただ練馬区の場合、徳川時代には一三ばかりの村にわかれ、別々の発達をして来たものが、明治の中頃村の統合が行なわれ、急速に統一化の方向に動いて来た。

特に膨脹する大都市東京の近郊として、都市生活の影響を最もうけやすい地区の一つとして、古いものと新しいものとの混乱がおこり、それが年々歳々変化してゆく状態を続けて来たのであるが、近年、郷土文化の見直しが叫ばれ、昔の中に心の安定を求める気持も多くなって来た。

しかし、村の統一、迷信打破、新体制、戦時体制の試練を経、更に終戦により、今までを一切過去として葬り去ろうという動き等の結果、その多くが、新しい家の建築と、職業の変化、家族構成によって消滅して来たと考えられ、今これを探るのに困難はあるが、幸い実践経験ある老人と、伝統に愛着をもち、維持して来た人々の何人かを通して、知り得たものを記して、その源流に近づいて行きたいと思う。

<節>

第一節 農民の結合と信仰
<本文>

人類が住居をかまえ、食料を得て生活を始める時、共同で働くことが必要とされた。勿論家族労働の延長でもあったが、協力のあり方については、どんな時に協力するか、協力が出来ない時はどうするかなどの問題が長い人類の歴史の中で考えられ、今日みられるさまざまな慣習となって定着したのである。

手間がり

農作業を行なうにあたって、ある時までに必要な作業を終了する必要があったとしても、労働力が不足して間に合わないことがある。このとき、臨時に人をたのむ方法や、夜も寝ないで長時間労働する方法もあるが、応々にして経費や身体状態から不可能ともなる。そこで親戚同志、同業者同志、あるいは近くの者同志で助け合う事が行なわれた。互助協定である。これは日本全国にわたってみられ、古くから「ゆひ()」とか「手結たゆい」とか言われている。農村における一つの労働協力組織である。生産以外でも屋根葺、普請、冠婚葬祭等にもその力を発揮していた。初めは血族の協力であったであろうが、次第に拡大され分家、雇傭、近隣等によって構成される集団となって来た。本家、おもて、分家、別家、新家しんや新宅しんたく隠居いんきよ等の名称によってその関係を見ることができる。従属身分の者が分家家格としてその仲間に入ることも行なわれて来た。分家に出た一族は総称して「一家いつけ」、「身内みうち」、「かいと」等と呼び、特別の事情の他は本家の前やかみに家をつくらないことになっていた。またこの集団の結束をかためるためにも共通の神を信仰し、必要とあればお互いの行動を神に誓って実行する事にもなった。この集団を講または組と呼び、仲間を講中、講の衆、結衆組合等と呼び、本家はその信仰する神の祭祀の中心となって頭屋となった。こうして始った互助組織はやがて幕府の政治的支配の一組織に生かされ、次第に村落を単位とする地域的な連帯に基づく協同主義的な労働組織になり、村の政治規約や申し合せによって互助の協定がつくられた。五人組帳等もその一つと考えることができる。特に幕府の連帯性をもった五人組の相互扶助はいろいろな面

でその結合を強化していたが、よく言われる「村八分」と言う私的制裁も、共同体成員の重要な付合いである元服、婚礼、葬式、普請、病気、水害、旅行、出産、追善、火事のうち葬儀と消火の二つ以外は助けないといわれているのを見ても、その性格が察せられるが、それに労働の手助けという仕事も加わっていたわけである。唯労働力は男女の別、年令の違い等によって差が大きいものであるし、同じ手助けとはならない。しかし麦こきなら、こき手、分け手、くそっとり、まるき手、運び手等仕事もいろいろあったので、それぞれに適した仕事をやればそれで一人前とされ、手間借りの役目は果したことになった。

一座と宮座

血縁を中心とする一団は、その一族である事を示す方法として「苗字」を用いた。勿論一般農民に許されるものではなかったので、密かに「隠し苗字」を用いていた。江戸時代に社寺に奉納された石造物、路傍に建てられた石仏・供養塔や墓塔等に彫まれている苗字はほとんど「隠し苗字」であるが、今日、それがそのまま使われているのが多い。村の「草分け」と言われる農家は、一族の本家で、信仰の中心でもある。いくつかの草分けをもつ村では、氏神の祭祀に際してその役割りが家柄によってきめられ、その座席も決定している。これを宮座と言っているが、神に対する一族の順序という事もできる。

東大泉の加藤儀平氏宅に伝わる「元禄三年四月、土支田村居座敷証文」には

<資料文>

一、我等六人之者、村始之百姓ニ御座候ニ付居座敷之儀 従先規段々極り居来り申候得共、互ニ証文無之故、此度六人之者致相談、互ニ証文取引仕候、在居之次第ハ右之上座加右衛門三右衛門ハ各年ニ御座候、六兵衛三番座敷ニ御座候、左之上座次郎左衛門二番座敷八兵衛三番座敷金左衛門、如此在居候儀相極り申候間、子々孫々迄互ニ無相違居可申候。若六人之座敷様申者御座候ハバ六人の者一同急度申合少も不足等申間敷候。但し六人之内相違儀も於有之は鎮守之御罰可蒙者也。祭礼等一所ニ可仕候、為其証文仍如件

 元禄三年庚午四月四日

                                      山口 三右衛門㊞

                                      見米治良左衛門㊞

                                      加藤 八兵衛 ㊞

                                      関口 金左衛門㊞

                                      山口 六兵衛 ㊞

   加蔵加右衛門殿

     右上座二番座敷加右衛門、三右衛門㊞

     両人各年ニ居可申候

とあり、苗字が記されているが、何れも「隠し苗字」で村の旧家である。中でも加藤加右衛門は「宮脇みやわきの家」と呼ばれ、特に勢力をもっていた。文面によってもこの六人の鎮守は同じで、これを中心に結束していたのである。

宮座の神事の時の座席は非常に厳重で、家の格式によってきめられた座席の順がかたく守られていた。これも村の秩序の一つである。

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前記の宮座証文をもとにして座席を示すと上のようになる。おびしやの時の模様である。

この席で、部落の相談(まつり、労働等)を行ない、団結を固めていた。その経費は共同の田畑から収穫した穀物等で負担したが、それがなくなってからはお互いに講金を集めたり、品物の持よりという方法がとられた。

この組合の中で、何軒かは「もやい」と言って共同

の用具を共同で買って使用することがあった。農器具である脱穀機やもみすり・精米機、もちつきの臼、杵、せいろ、冠婚葬祭に使うお膳、お椀の類等である。

こうした血縁と職業あるいは生活が結びついた組織は、どんな行政の改革にも変ることなくつづいていて、戦時中の隣組が解散になつても、つづけられていたのであるが、近年はその必要性がなくなり、僅かに冠婚葬祭にその名残を見る程度になっている。

農業推進という共通の目的から組織された農業協同組合は今なおつづいているが、支部によってはこれに共通の氏神である稲荷講や、信仰集団である不動講、榛名講、成田講等が加わり、その祭礼、代参等一切を行なっている場合が多い。講と職業の結合による組織は、職業上の必要から生れ毎月の集会も行なわれ、信仰も継続されている。

信仰だけを対象とした講はその時代性、あるいは先達や主唱者の方針によって変化を来し、盛衰をくりかえしている。

<節>
第二節 衣・食・住
<本文>

古代に生活した人々の衣食住がどのようなものであったかは、遺跡の発掘によって、多少なりともわかってきてはいる。本区内遺跡発掘の状況は本編第二部で触れた通りである。食と住についてはその遺物や遺跡に見ることはできるが、衣については埴輪の姿や、魏志倭人伝の記述によるより仕方がない。そこでここではもっぱら近世以降について述べることにする。また練馬に住んだ人々はほとんど農民であったから農民の衣食住を中心にみておくこととした。

衣(きもの)

近世の農民の衣は、労働着、外出着、式服の三つに区別することができる。

労働着はふだん着であって、働くことのみに集中せざるを得なかった農民にとっては、暑さ、寒さ、農作の種類によっての違いがあったのみである。しかし伝統的な筒袖、細袴の上下二部からなるものであることは違いはない。

男女とも上衣は裾の長さが膝丈位に短い筒袖の「はんてん」「こしきり」「しりきり」「みじか」等と呼ばれているもので、男は下肢に「股引」女子は下部に「こしぬの」「たつつけ」「まえだれ」等と名づける袴のようなものをつけた。

外出着や礼服は上下のない長衣で、季節によって単衣ひとえあわせ、綿入れ、刺子に区別して着用した。丈は着尺で、おくみがあり、袖も長くして「たもと」にする。特に女子の礼服である振袖は「たもと」を長くして地に引きずる程であった。

その下着としては男は肌着下着を重ね、その上に長衣を着て帯をしめ羽織を着た。女子は更に念入りに襦袢、胴着、下着を重ねた上に長衣を着て、巾広の帯をしめ、後結うしろむすびにした。結び方はいろいろあったが、一般には「おたいこ結び」とした。

礼服は下着の上に黒木綿の紋付を着て、羽織、袴をつけたが、中には麻裃をつける時もあった。女子は家の格式、境遇、年令等によって、布地、紋様、色柄など違っていた。嫁入衣裳は最高の晴着で、緋縮緬の長襦袢の上に白無垢を重ね、その上に花鳥文様を染めた美しい色縮緬振袖の長着を着て、金襴緞子の丸帯を「立矢」や「末広」に結んだ。凶事には女子は喪服として白無垢、黒紋付、帯は黒の丸帯を縫目を下にしてしめる。

衣服の材料はこうした数少い晴着(これも恐らく借着が多かった)を除いては綿や麻をつくって綿糸、麻糸をつむぎ、それをこれも自家製の藍で染めて(藍を藍屋に持って行き紺屋こうやで染料とした)農業の余暇に機織りをして着物に仕立てた。全くの自給自足である。こうした農民の衣服に対する考えは、徳川幕府の徹底的な規制により固められていた。

たとえば、寛永五年(一六二八)二月九日には、「百姓の着物之事、百姓分之者ハ布木綿たるべし。但し名主其外百姓之女房ハ袖之着物迄は不苦。其上之衣裳を着候之者、可レ為ニ曲事一者也。」と布令を出し、寛永一九年(一六四二)五月の倹約令(郷村諸法度)では「男女衣類之事、此己前より如ニ御法度一。庄屋は絹紬布木綿を着すべし。脇百姓は布もめんたるべし。右之外はゑり帯にても仕間敷事」とある。

また、慶安二年(一六四九)二月二六日の倹約令に「百姓ハ衣類之儀 布木綿ヨリ外は帯衣裳ニモ仕間敷事」とあり、寛文六年(一六六六)一一月一一日の関東御領所下知状には「衣類等も従ニ公儀一、御法度之通相ニ守之一。名主ハ妻子共ニ紬絹木綿、

百姓ハ布木綿可レ着。染色紫紅梅可レ為ニ停止一此外ハ何ニ而モ可レ為ニ心次第一事」とある。

これは百姓のみでなく町民にも及んでいることは、天和二年(一六八二)二月の御触書に<項番>(一)「百姓町人之衣服絹紬木綿麻布、以ニ此内一応ニ分限一妻子共ニ可ニ着用一之事」 <項番>(二)「総而下女はしたハ布木綿可レ着之、帯同前事」とうたわれていることからも知られる。

開幕以来武士に対しても質素検約を旨としていたが、元禄の頃ともなると、泰平になれて、漸く豪華となり、特に町人はその富裕にまかせてすべてに善美をつくした。当然この影響は江戸の近郊農村にも浸透しつつあり、そこで幕府は町人百姓に対する衣類の制限を厳しくする必要があった。単に衣類のみでなく草履、下駄、日傘にまで規制は及んだ。

文政一〇年(一八二七)一〇月一日、旅人宿に対して、百石以上、また苗字帯刀を許された者以外の絹使用を禁じているが、もし使用している者が立ち寄れば江戸宿への宿泊をことわり、その事を広告するように、と令している。

天保一三年(一八四二)九月には「村々風俗其外之儀ニ付」という御触書を出して、百姓は粗服を着、髪を藁で束ね、雨具は簑笠のみ用いるのが古来からの風俗であるが、近来おごって身分不相応となり、髪には油元結を使い、雨具にも傘、合羽を用いる等、万事派手になって無益の費をしている。先祖より所有している田畑も人手にわたる様になる」と戒めている。

五人組帳にもその事が明記されている。

天保一二年五月の平和台内田喜作家所蔵文書によれば、「質素倹約相守小前のものは木綿麻布等を着し、村役人共も小前の手本ニ相成候様成丈廉服着用慎身いたし新製之着物相用候義は勿論、初物不作出」云々と書したものがあり、練馬の村々に対してもきびしい命令のあった事を物語っている。

練馬の農民のふだん着、労働着(野良着という)としては男子は、下に襦袢、六尺ふんどしをつけ木綿の文字半てん、紺染木綿の股引、石底の地下足袋をはき、手に手甲てつこうをつけた。頭には普通ねじり鉢巻をした。文字半てんは背中に各家のしるしを染めぬき、前襟に苗字や家号を染めぬいた紺染木綿の半てんで、「しるし半てん」とも言った。

女子の野良着は、木綿の紺絣か遠州縞と言われる布でつくった丈の短い筒袖の着物。時には丈の長いのも使った。年若い女子は紺絣の野良衣に、下は白又は淡色の腰巻をつけ、半幅帯をしめ、赤たすき、腕には紺木綿のうでぬき、手甲、脚には脚絆はばき、地下足袋、頭に手拭をかぶる。中年以上は色をもっと地味にし、縞や小柄の絣を多くした。長衣の時は裾をはしょって、丈の短い野良着と同様にして使った。

雨天の時は男子は簑笠、女子はしよいた(着莫蓙に雨合羽をつけたもの)に菅笠をかぶった。笠は雨のときばかりでなく、炎天の時にも日除けに用いた。勿論はげしい労働と、雨汗にぬれた野良着は、洗濯をくりかえすこととなり、ほころび、すりきれも多かった。主婦の夜の仕事としてつくろい物があり、何回も何回も継いでいわゆる千枚つぎの着物を着ていた。古着市から買って来たものはそうして使われ、最後のぼろ切れは、野菜をくるむ布となり、雑巾や赤児のおしめになっていったのである。特に寒い時は男女とも古布で縫った綿入れの袖無し(ちゃんちゃんこ)を着、男子は腹掛けをつける時もあったが、腹がけ、紺もも引き、印半てんは男子の正装とも言えた。

この野良着は仕事によって若干違いがあり田仕事等には女も股引をはく事があり、足ははだしであった。夏の畑仕事の中にははだしになる事が必要な時もあった(あしこみや、にんじんの種まき)。地下足袋の前にはもっぱら草鞋わらじが使われていた。

足袋は礼装用の白足袋以外は寒い時のみ色足袋を用いたが、これもつぎはぎをして、長持ちさせた。足袋も型紙を使って家で縫っていたが、やがて足袋屋という専門店があらわれた。

明治大正の頃になると、外出用と礼服に絹を用いる家が出て来た。婚礼式服としては男は羽二重の黒紋付の着物と羽織、袴を着用し、女は花鳥文様縮緬の振袖に金襴錦糸の帯をしめさせた。結婚披露には花嫁は何度かお色直しと言って式服以外の着物を見せる事が行なわれた。そこで花嫁方でも衣裳を多く持参させた。分限に応じてであるが、振袖、留袖、ひっかえし、訪問着、つけ下げ、重ね等、生地も季節や必要に応じて羽二重、友禅、錦紗、縮緬、綸子、小紋、銘仙、八端、大島、お召、木綿、セル、メリンス、浴衣ゆかた等の単衣、袷、綿入れと、その種類も多い。

子供の着物としては、まず麻の葉模様の胴着を着せた。男は青、女は赤色、裏地にはうこん染の木綿(しょんべんぎもの)。その上に犬張子の文様をつけた誕生着物を着せる。帯あげには男児は黒羽二重、熨斗目文様の晴着、女児は友禅熨斗目花鳥文様の晴着を着せた。これは赤児の礼服であるが、赤児の着物は肩と腰に縫い上げをし、帯の高さの所につけ紐をつけた。そして背中には必ず紅白の糸や、五色の糸で飾り縫をした(背守縫という)。寒くなると「ちゃんちゃんこ」という綿入れの袖無羽織を着せた。

仕事の関係で赤児を寝かしておく事がむずかしかったので、大抵、子供か老人が背負って子守りをした。寒い時は子守り半てんを着せたが、袖無の半てん(亀の甲)を使うこともあった。広袖のものはねんねこ半てんという。

帯とき(女児七歳)の時は晴衣に亀甲文様の帯を「ふくら雀」に結んだ。この位の子供の着物は平常は木綿で、男は絣か縞織、女は色柄木綿でやはり肩上げ、腰上げ、つけ紐である。冬は綿入れの袖無や羽織を着て、女の子は前掛をすることもあった。

着物に関する禁忌、俗言には次のようなものがある。生衣うぶぎに麻の葉模様の着物を着せるのは、麻は強靱であるから丈夫に育つようにとの願いがあり、裏にうこんの綿を使うのは赤児の生肌によいと言われる。犬張子の着物を着せるのは、犬張子が魔よけになるといい、赤児が弱い時には三三軒の家から小布をもらって、それを縫い合せて下着をつくり着せると、「三三とく着物」と言って丈夫に育つという。子供の着物を洗濯して、夜干しをすると子供が夜泣きをすると言って禁止された。それはお産で死んだ女が化けて「うぶめ」という怪鳥となって、夜とんで来る。そしてその着物を血でぬらし、疳を患うからだという。着物を干す時北に向けてはいけない。死人の出た時にする風習だからである。また洗濯物をほす時は物干棹のもとから通してもとにぬく。行ききりにならないようにとのことである。

申の日に着物を裁つと焼焦げをする。の日に裁てば身を切る。片袖だけつけてやめると「そでない事をする」ときらわれ、外出の際ほころびを縫うと、「出先で恥をかく」と言われ、新しいはき物は夜おろしてはいけない等なかなかやかましい。『東京府北豊島郡誌』(大正七年発行)の衣に関する項を拾って見ると、下練馬村では「平時綿服を用う、洋服着用者は一

五人許り、学校の女生徒は過半袴を穿てり。児童中蝙蝠傘を携ふるもの七五人。紙傘を携ふるもの七百人ばかりなり」大泉村の所では「綿服をつけ、麦飯を食う。上下みなしかり。洋服を着るものは教員と巡査のみ」しかも背広は校長先生だけで他の男の先生はつめえり(詰襟)の服、女の先生は髪をハイカラに結い、和服でえび茶や青の袴をはいていた。小学校の大半の児童が洋服を着るようになったのは昭和一〇年頃からである。それまでは運動会でも着物で走ったのである。

そうした時に満州事変、日華事変、第二次世界大戦と軍事色が濃くなるにつれ、男子は国民服、女子は筒袖、もんぺと変って行った。帽子は中折、鳥打、戦闘帽とかわり女子の髪も日本髪でなく、後で結んでまくだけのものになった。女子の洋服姿の多くなったのは戦後である。

食物

「日本人と米の飯はつきもの」というが、これは一つの願いであって、すべての日本人がそうであったわけではない。昭和九年の農林省の調べでは農家一〇〇〇戸のうち米を主食とする農家は僅かに一五〇戸で、残りは全部混合食か雑穀が主食であった。米の生産地帯でも農民の多くは米を主食としていなかったという。弥生時代より始った米作も米を主食とする程収穫があったわけではなく、米作のできる土地も限られていた。和名類聚抄にも「稲類、米類、粟類、豆類、麻類」の名があげてあり、当時の農民食と見る事ができる。五穀というのは普通、米、麦、粟、きび、豆を言うと言い、米はその一部分に過ぎないわけである。勿論穀物だけに頼るわけにはいかないから、獣肉、魚、野草、木の実、野菜などの助けが必要だったのである。中世に入って、農業技術が進歩して、田の二毛作、畑の三毛作も行なわれるようになったが、農民の常食は雑穀に豆類、そば等を加えるにすぎなかったようである。江戸時代に入ってからも、そう変ったものでもなく、雑炊やまぜ飯、そば、芋などを常食としていた。

江戸時代も元禄の頃となれば、武士、町人の生活が華美となり、美食を好み、その傾向は一部の富裕農民の間に広がったが、年貢米の供出になやんでいた農民にとって、主食はやはり雑穀であり、雑炊、まぜ飯、そば、芋等であった。そしてこれは明治大正の頃でもそう変化しなかったことは、一年のうち何回かある晴の日の食事に「朝まんじゅうに昼うどん、夜は

たんぼの白い飯」と言われたことからもわかる。朝昼はやはり麦であり、夜のみ白い飯が食べられるというよろこびを唄っているのである。練馬のように田の少なかった農村では到底一年中の主食を米でまかなうことはできず、たとえ畑に陸稲を作ってもそれらは生活のために多くは売らなければならないものとなった。

日本の一日の食事の回数は現在朝、昼、晩の三食であるが、古くは朝夕の二食であった。喜多村節信の「瓦礫雑考」にも「いにしえよりあさげ、ゆうげといひて、ひるげという事を聞かず」とあり、また太田南畝の蜀山人も「一話一言」の中で、「さだまれる食事は上一人より下方民まで一日に二度」と言っているが、農民はその他に臨時に食事をしたとも言っている。農民の労働がはげしい所から始ったと考えられ、そしてそれは必ずしも飯でなくともよかったわけである。

節句その他年中行事の時は、食事はまず神や仏に供え、家長を中心とした家族一同が共に食べる。そしてお客にもすすめる。これは神と人との共食であり、人と人との共食である。遠く旅立った人への蔭膳、死者の霊に対し食物を捧げる風習があり、冠婚葬祭にも共に食することが行なわれる。古代よりつづくこの風習はお互いの魂の交流とも考えられる。

食事の座席は常に家長が上座をしめ、その左に主婦の座があり家長の右には老人(隠居)か長男が座る。そのあと家族の者が座る。主婦は食事の実権をにぎり、「しゃもじの権利」と言い「へら渡し」がすむまでは嫁は食事一切をつかさどることができなかった。

農民は一日三度の食事の他、午前午後に一回ずつ(一〇時と三時)「お茶」という時間がある。ここでは餅、あられ、さつま芋、時ににぎり飯等が使われた。夜なべをする時は一〇時頃おやつが出る。すいとんとかお焼き等が使われた。

農民の食事については、「百姓は生かさぬよう。殺さぬよう」とか「胡麻油と百姓はしぼればしぼる程出るものなり」という酷しいもので寛永一九年(一六四二)五月の郷村諸法度にも「在々百姓食物之事、雑穀を用い米多くたべ候はぬ様ニ可レ被ニ申付一候事」という布令を出し、翌寛永二〇年三月には「在々御仕置之儀ニ付御書付」を出し、農民にめん類、豆腐、まんじゅう、酒などを禁止している。つづいて慶安二年(一六四九)二月二六日「各国郷村え被仰出」にも、寛文六年(一六六六

一一月一一日「関東御領所下知状」にも「百姓食物之儀常に雑穀を用ゆべし、米みだりに不<漢文>レ食<漢文>レ之。仏事祭礼等に至迄不<漢文>レ応<漢文>二其身<漢文>一不<漢文>レ可<漢文>レ致<漢文>二結構<漢文>一事」という事を強く述べている。

明治大正の頃になると食事は割合自由になったが、農村では経済恐慌の時村々で申合せ事項をつくり、麦飯、芋飯、混食が奨励された。

昭和一四年には戦争のため食糧問題が深刻化してきたので、政府は米類の供出制度を設け、一五年には「小麦粉、米穀配給統制規則」を公布し、魚、野菜等も統制、配給となった。

江戸時代各村の名主文書に、貯穀書上帳があるが、幕府は飢饉に備えて村々に貯穀を命じ、また自発的に各村や各部落は、稗の貯蔵を始めている。この事については幕末の救荒貯蓄について記したので省略するが、当時の食生活を知る事ができる。『古老聞書』によれば「大泉方面は、練馬の方より食物が粗末でまず海の魚などは食べることはなかった。せいぜい白子川で捕れるうなぎやなまず位であった。明治の頃主食は粟めしか稗めし、そして押麦、挽き割りめしという状態で、白米だけの御飯は正月とお盆位であったから、米は一年に一俵か一俵半あればよかった。おかずは漬け物に味噌程度、ぜいたくな醤油は年間半樽で間に合った」と語っている。

この味噌はやはり自家製で、麦と大豆も畑でつくるから、買うのは塩だけである。稗をひき臼で粉にして、それにさつま芋を混ぜた稗かゆや、立臼で二度つきした麦に稗をふりかけ蒸したもの、粟と麦をまぜた麦飯、或は麦に大根、菜葉等を混ぜて煮た麦雑炊等を常食していた。

『東京府北豊島郡誌』の下練馬村の項に「村内上流者と雖も平素は麦飯を用う。但混用麦の量は上は二~三割、中は五割、下は七~八割の区別があるのみ、副食物は野菜類を主とし、豆腐油揚の類を多く用う。一般に朝夕二回味噌汁。食時は家族各自に食膳を擁する者多く其数五百戸にも及ばんか。卓を囲み団らんして食事するは二六〇戸位なるべし」とあり、各村の状況もほとんど同様である。

お膳は個人用で、普通箱膳を使う。茶椀、お椀、小皿が箱の中に入っていて、それを出し、蓋をさかさにして置くと食膳になる。個人用なので使用後はそれぞれ自分でお湯やお茶で茶椀、汁椀をすすぎ、そのまましまって、夕食後まで洗わない。恐らく食事後すぐに又仕事をしなければならない主婦の手間を省く意からであろう。

晴の日の食事は、年中行事の項で述べるので省略する。

食物の禁忌については、まず「食合せ」がある。鰻と梅干、かにと氷水、そばとたにし、焼酎と奴豆腐などであるが実際の害はなさそうである。食事作法ではまわし箸・つかみ箸・はさみあい・左膳・立ち食いがきらわれた。

「初物を食べると百日生きのびる」と言われ、天王さまの信者はきゅうりを作らないし、食わないと言い、理由は輪切りにしたきゅうりの切口が天王さまの神紋と似ているからという。餅をついた日は決して餅を焼かない。ついたり焼いたりすると餅が泣くというのである。十八粥を食べると蜂にさされない。冬至の日にとうなすを食べれば中気にならない。結婚式に「いつまでも幸福が長くつづくように」と、うどんを食べた。引越では細く長くとそばを配る。瞼に物貰いが出来たら、窓から食物をもらって食べると治ると言われる。「食べてすぐ横になると牛になる」と注意された。

パンは戦争中代用食と言われたが、戦後は米食にかわる程になった。学校給食による普及と、生野菜、牛乳、それに米食は胃に負担を強いるという風潮などが大きく関わっているようである。又、料理の簡易さもある。戦時中のふかしパン(芋等をきざみこんで)、焼きびん等によって粉食になれてきていた事も関係あろう。しかし自家製となるとやはり飯より厄介である。

住居

江戸時代のある老農の記録である「百姓伝記」に「土民タルモノ、我ヒカエ日ノ田地ノ近処ニ屋敷取ヲシテ、永代子々孫々マデ次第ニ世ヲツガセ、繁昌スルコトヲ願フベシ。我々がヒカヘタル田地ヨリ屋敷ノ程遠クシテハ、耕作ノ見マイノオコタリ多ク、牛馬ノ通ヒニ費多シ。屋敷ノ悪水我々が村里ノ田地へ流レカカルヲ第一其村里ノカマヘヨキ田畠ノフシ処トイフナリ。土民ノ家ハカヤブキニシテ徳有権屋ハ損多シ。

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屋敷マハリ植込ヲスルニハ、西北ニワタリテハ冬木ノ類クルシカラズ。風ヲフセグタヨリトナル、冬アタタカナリ。東南ニハ冬木類植ベカラズ、日カゲ多クナル、藪も西北ハ高ク東南ハ地ヒクキスベシ。屋敷ニ日ノアタラムハ費多シ、居住ノサムクシテマヅアシキナリ(『練馬区史』昭和三二年刊)」とある。武蔵野は冬西北の季節風が吹きまくるので、それに備えて、北から西にかけてよく枝葉のしげるかし、なら、けやきの類や竹等による屋敷林を廻らし、住居はそれを背にして南向きにし、住居の南東を空地にして、それを物干場とする。東に井戸と肥間こいま、西に物置。南は小さい植木位にしてその南の畑には日常使う四季の野菜を栽培する。この屋敷地から左右前後の隣家に行く小径があり、又往来に通ずる「じょう口」という入口がある。小径の両側は一条の茶畑で畑と境する。屋敷林にはけやき、ならの落葉樹とかしのような常緑樹をまぜ、杉、松、竹も一部に見える。これは落葉も入れて薪炭の材料となり、家屋修理、新築の材料にもなる。落葉はまた農家にとって大切な堆肥の原料となる。春から夏にかけて強い季節風をうける所は家屋の前に何本かのかしの木を植え、その目的を達するため、刈込みをしてかしの枝や葉によって家屋の屋根を守る壁のような樹形をつくる家もある。水の便のよい小川を前に台地をうしろにした初期の聚落とくらべ原の開墾をして移って来た多くの農家はそうした点では共通の特徴をもっている。

江戸時代農家の家つくりについては幾度か御布令が出ているが、衣食と同じ趣旨の壮麗華美を禁ずる内容のものである。

寛永一九年五月の郷村諸法度には、「不似合家作自今已後仕間敷事」と、享保七年(一七二二)一一月には「諸国在々百姓有来家居之外ニ自今新規ニ家作致スペカラズ、一家之内ニ子孫兄弟多或ハ病身之者ニ小屋ヲ作り或者差懸ケニ致ス儀ハ格別タルベキ事」と規定、農民の家造についてきびしい制限を加えている。もしこれに背けば財産没収、居住追放の闕所処分をうけることになっていた。家を立派にすると費も多くかかり、年貢も納められなくなってしまう。生活は最低限にして年貢の収納に常に支障のないようにしなければならないとしたのである。

しかし農民の住居は本居は簡素であっても農事に必要な小屋、物置作業場等は完備しなければならない。そうした意味では相当な広さを必要としている。主屋(本屋)の中にも、広い土間が必要であり、そこは農作場の場でもあるわけで、夜、雨の日の作業場となっていた。

ゆかは本来寝間として安眠休息の場としてつくられていたが、最初は土間にそのまま藁やむしろを敷いたものであったろうが、中世の頃から都の建築様式がとり入れられ、まず豪農の家から始って、一般に広がったと思われる。そして家の構造上必要な中心柱(大黒柱)を境として板の間と土間とに区分される。板の間は更に家族構成、使用目的その他によって分けられるが、そこは間仕切りだけで、必要な時は大広間となるように考えられている。特に養蚕や餅つき等では一時的であるが、寝る場所もない程になってしまう。

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田の字型間取りはそうした必要性を最大限にみたすものとして生れ、育って来たもので、農民住居の普遍的な型式であり、武蔵野の農家の間取りもこれが中心である。これを一つの基準として、その時代、家族、作業の必要性等により家屋の整備が行なわれて来、変型も生まれたが、東武蔵型と西武蔵型の二つに大別することができる。しかし関西系の建築に比較すると、木割も太く、屋根が大きく、勾配も急で、全体の構造は丈夫、重厚粗野な感がある。これは今迄何回か経験した事のある震災、暴風雨等の被害を最少限に防ぎ、それに耐えるように工夫された

ものであろう。

区内の農家は東武蔵型に入り、屋根は多くは萱や麦藁で厚くふいた四注造か入母屋造で切妻型はほとんどない。入母屋の破風はふうも西武蔵の「かぶと造」と言われる屋根に見られる壮大雄大なものではない。棟の部分は簡単な簀の子巻にしたり、瓦を伏せたり、トタン巻、箱棟等にしているが、中には棟の中央に小屋根をつくって煙出しにしている所もある。屋根の骨組は小屋組と言い、異った所もあるが多くは梁を渡した上に一つ宛合掌丸太を組み梁毎にそれを立て、棟にする水平の丸太でこれを連結する。そして左右から丸太をかけた隅合掌と共にこれをおさえ、それを補強するため、その間に細かに丸竹を入れ、縄で結えて留めている。屋根の材料は従来萱が使われていたが、共有の萱刈場がなくなると、他から買わなければならない。そのため代用として自給自足のできる麦藁が使われるようになったが、麦わらの丈夫な丈の長い坊主という小麦でも、萱にくらべ腐食がずっと早く、補強のため杉皮や若干の萱(古いものでも再度使うことがある)檜皮等をまぜて使う。そして南側には板葺かトタン、瓦の廂がつけられる。

萱は三〇年保つと言われているが麦わらでは四・五年がせいぜいで、そのため毎年、北、西、東、南と葺きかえをしなければならない。屋根葺きは大きな負担であり、準備のかかる仕事であった。現在材料がほとんど皆無となり、農間渡世として農閑期に仕事をした屋根屋もいなくなって、萱ぶきの家はほぼなくなってしまった。新築の度に瓦葺となっている。

家の周囲は強い風雨に耐えるよう、太い材を使い、壁の部分を多くして、下見板を張りつめ頑丈にしている。特に北側にはほとんど窓を設けないので薄暗い。

住居の内部は広い土間と床間ゆかまに分けられ、南北の入口を入ると土間である。ここを台所(<圏点 style="sesame">だいどことも)とよぶ。床間は四つに分けられ、「でい」、「ざしき」、「へや」、「かって」と言われる。その境には「おび戸」という板戸か、格子戸、唐紙などが用いられ、外に面する南西の部分は明り障子で採光をする。そしてその外側に、雨戸をつける。廊下のある時は廊下の外側につける家もある。

「かって」を除く三つの部屋には畳がしかれ「でい」は「おく」とも言われ客間である。家によっては「へや」との境に床の間、押入れをつくり、特別な客のもてなしに使うが、平常は主人夫婦の寝室である。「ざしき」は一般に子どもたちの寝室であり、普通の客の接待の場でもある。ここには神棚と仏壇が設けられる。場所は「へや」との境いか、「でい」との境いの鴨居の上に、又は「かって」との境、仏壇の上の鴨居の所の東の方に置かれる。大神宮、氏神のお宮や、恵比寿大黒が置かれ、その横にはお札板が掲げられる。

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「へや」(ヘーヤともいう)はいろいろな調度類や衣類、夜具、ぼろ布等を始末しておく所で、俗に「ぼろかくし」という。ここにはほとんど窓がなく、東の「かって」への入口と、西、便所の方への入口があるだけで、板床の上にござやむしろを敷いただけの家も以前にはあった。息子が嫁を貰ってからの寝室に畳を敷いて使っている所が多い。

「かって」は大抵、板床に

「ござ」「むしろ」であるが、畳を一部に敷いている所もある。土間につづく部分が板の間としてはり出している家が多い。ここが土足の時の食事の場となる。片隅と言っても大黒柱の北側に大きな囲炉裏が切ってあって、(ほぼ一畳分、小さくも三尺四方)ここが家族団らんの場となり、親しい客への接待場、休息、食事の場ともなって、大黒柱が構造上の中心なら、家族生活の中心はこの囲炉裏という事ができる。囲炉裏の周囲の座席については古来の家長制度を示すものとして、その席がはっきりときめられていた。特に家長の席は厳然としていた。それを図示すると図8のようになる。「よこざ」は家長の不在の時だけ長男がその席にすわることができ、「かかざ」は家長が家長の座を息子にゆずった時、息子の嫁にゆずることになる。それまでは主婦が一切の身上しんしよう所帯)のきりまわしをして、息子の嫁はその命令に従うだけであった。「きじり」の役は常に火が消えないようにまきを補給してゆくのである。他の家族は、客のいない時の客座や、よこざ、かかざの隅に入れてもらうのが常であった。もっとも幼児などは、家長や主婦の膝にだかれることもあり、これはいわば幼さの特権である。

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囲炉裏の中央には天井の梁から自在鉤が吊り下げられ、鍋がかけられる。汁を煮、おかずを煮たのであるが、おかゆやお

じや以外の御飯はたいてい土間に粘土でつくられたかまど(へっつい)にかけられた釜で炊かれる。煙は屋根の小屋根か両端から出てゆく。燃料は時によって異なるが、一般に藁、麦わら、きびがら、いものつる、落葉、笹等で、作物最後の御奉公であり、灰は又畑に還元される。火をつつしむため、火の用心の札がはられ棚の上にはかまどの神、荒神様がまつられる。

ながしは勝手の東北側に土間を入りこませてつくられる。土足でも上からでも利用できるようにしてある。その北側には明りとりの小窓があけられよろい戸になっている。その上にふだんの食器や、食物、余りもの等を入れるつり戸棚をつくり、右手には水がめがおかれ、井戸からたえず水を手桶で補給しておく。すぐ横に三尺の裏口があって、外との出入が便利である。勝手の北はあけて北からの明りと空気が入るようにしてあるが、この横に置戸棚をおいて食事用の用具一切がおかれる。鍋、釜等炊事用具は土間のかまどの周囲にかけたり、置かれたりする。さらに大きな家ではこの東にみそべや・米蔵等と言う土間を出し、日常使用するものの置場所としている。

天井は始めはつけなかった。煙を屋外に出す換気通風のためであるが、小屋組や二階の床組等をかくす意味で部屋の部分にはつけられるようになった。しかしここは又、屋根裏として藁や薪の貯蔵場所となり、養蚕等にも使えるように、竹や木の枝、割板等を十文字に幾枚も桁の上に渡し、その上にむしろを敷く簡単なもので、そこに上るにははしごが使われた。「でい」や「ざしき」の天井は板ばりにした。鼠が入らぬよう栗のいがをしきつめた家もあったという。

土間は接客の場であると共に農業生産に重要な役割をもっているが、その東側に馬小屋を作った家も多い。昭和のはじめから馬を飼わなくなると、改造して、物置にしたり風呂場にしたり、子供べや等にしている家もあった。風呂場はだいたい据風呂で、厩を改造するまでは土間の片隅(東南のすみ)に置かれ、このうすぐらい所で入浴が行なわれた。大戸を入った右、風呂の近くには竹が渡され、野良着がかけられ、天井には夜間野放しの鶏のやすむ箱がつり下げられていた。

廊下については室の孤立化が行なわれていないから中廊下の必要はないが、居間や座敷の周囲、特に南側の廊下は必要であった。もしない時は軒下のそこにむしろを敷き、縁台を出してその役目を果させている。ここは日あたりもよく、家や庭

の監視にも適し、風通しもよいので、簡単な接客、子供の遊び場、三時の休憩、冬には老婆の隠居仕事に針仕事、糸くり、糸まき等も行なわれた所である。そうした関係もあって最初は外廊下であったが、後にはその外側に雨戸が移され、便所も増築されて、そこへの通路ともなって行った。

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井戸はどこでも前庭の隅、ほとんど南東の方角にあった。これも鬼門、裏鬼門をさけている。井戸にはたいてい井戸屋形をかけ、井戸の上に大きな土管やコンクリートでつくった井戸枠をおき、井戸蓋で密閉して、ポンプをとりつけてあった。以前は小屋もない車井戸で手桶に水を汲んだのである。大正の初めにはつるべ井戸も見られた。

井戸は単に水を汲む場所でなく野菜の水洗い等にも使われるようになると、井戸の近くにそれぞれ仕事場がある方が便利なので、井戸を中心として大きな小屋をつくり、その中で荷ごしらえ、漬物等もできるようになると、土間の役目も終るようになって、単なるお客応対の場所になって来る。しかし、電気で水を揚げ、配管してどこへでも蛇口がつくられればまた別であるが、費用をできるだけかけたくないのが農家の常であったから、そうした工夫がなされたわけである。

便所は厠とか「せっちん」とか言われ住居の前庭の東側につくられた。小さな建物で以前は肥間(下屋)の片隅につくられた事が多い。やはり鬼門の方角はさけていた。内便所は夜間及客用として必要であるが、普通の家でつけるようになったのはほとんど戦後である。場所は多くは西北隅となるが、少しでも鬼門をよけようと苦心している。

農業生産を維持する施設として主屋以外に重要なものは物置、穀倉、しも屋(肥間)、養蚕小屋、家畜舎(トリ小屋、牛小屋)、ほいろ場、木小屋、その他の小屋が必要である。更に物干場として日あたりがよく、広い前庭が必要であった。

物置は前庭の南か、西に建てられる事が多く、穀類、農器具、その他農耕生産に必要なものを格納しておく所で、普通の

農家ではこれを穀倉にも使っていた。たいてい板の間と土間の二つに仕切ってあって、何れも一間の頑丈な板戸が入口にあって。厳重な戸じまりができるようになっている。またほとんど周囲は板張で窓がなく、わずかに高窓にしたあかりとりがあり鼠の入らぬよう金網等でふさいである。周囲には広い廂をつけ、わら、むぎわら、丸太、大きな農具、むしろ、こも、樽、桶、等が収容され、前面、南面の廂は農作業のため大きい空間をつくっている。床のある方は穀倉に利用したり、冠婚葬祭用の食膳、食器やもちつき、穀物調製用の器具等が収容されたりしている。

「下の物置」と言われる土間の方は、四斗樽や、農具等、収獲物であるじゃがいも、以前は俵詰めをする前の穀物や西瓜、南瓜等を俵詰め出荷するまで貯蔵する場所にもなっていた。天井は丈夫な踏み天井で屋根裏も平常使わない農具や材料が置かれていた。穀物や家具、タンス・長持等を収納していた「ぬりや」と「土蔵」は構造が違っていて、「ぬりや」は壁の外側に柱が出ているもので、「土蔵」は柱まで壁中にぬりこみ、屋根も二重にし、入口に頑丈な板戸の外側に厚い壁の扉を二重につけている。「土蔵」の方は大地主や昔金貸しをやった家等に多く、火災にも焼けない構造になっていた。

「ぬりや」、「土蔵」はそうした意味で主屋のそばに、たいてい、西南か西北に多く建てられていた。昭和五五年調査による区内の土蔵は一七、塗屋は五である(区文化財総合目録)。

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「小屋」は物置におけない少し古くなったむしろ、俵やかます、それに運搬具・耕作用農具、その他の雑物をおく所で、周囲は簡単な囲いで出入口に扉もない。「下屋しもや」は「肥間こいま」とも言い、堆肥、灰、糠の類や、「たたき」が二つあって新しい下肥と腐熟した下肥を分けて入れたり、肥桶等を収容したりする。「まねぎ屋根」の小さな掘立小屋の所もある。「養蚕小屋」は養蚕がすたれてからは物置に使ったり、こわしたりした。

「家畜小屋」にはいろいろあるが厩は主屋の一部に、その他は肥間の近くにつけてつくる。そしてその厩肥や鶏糞は肥料として重要なのである。「木小屋」は農閑期等につくっておいた薪を何年分も積んでおく所である。

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由緒ある農家には門のある家がある。そして名主、頭級の家では長屋門や棟門が建てられている。長屋門は武家に用いられた門で、名主のように苗字帯刀を許された家でも造ってよいとされた。明治以後にはその他の物持ちの家にも建てられて、一村で数軒にもなったが、江戸時代許可された長屋門は実際には武家のものとは少し形を変えている。左右両翼の大きさが違うとか、入口の扉がないとか、くぐり戸がないとか、更に家格から言って無理な家では物置を二つ建て屋根をつなぐという事で言訳のできるようにしたという。全く最初から扉を設けず真中の屋根のある空間を農作業に使う等、農民の知恵と考える事ができる。

玄関を特別につくった敷台のある家は総名主や本陣であった家で、春日町の長谷川家にも残っていたが、改築のため取り壊してしまった。

練馬中学校の蚊野教諭の研究は幕府の法度によって最少限に規制されていた農家の天井裏や床下にもぐって、その後の増築、改造の様子をさぐり、それを規制の変化や時代の要求、家庭の経済状況等にその原因をさぐろうとしたユニークなものである。そうした事があって、家屋の変遷があり、百年以上もつづいた農家が多かったのであるが、昭和三〇年代から買換

財産の税措置によって、一気に改築が行なわれ、従来の農家の様式を残す家、特に草葺屋根の家はごく少い存在となった。改築しなくとも、屋根にトタンをかぶせたり、「小屋どっかい」と言って材料が手に入らない草葺をよして、瓦葺に直したり土間を分割して玄関、子供部屋、物入れ、風呂場にしたり、台所はすべて板の間にして、キッチンセットを置き、裏玄関をつける。まだ北側をあけて縁側をつけ、ガラス戸、雨戸をつける等、文化的な家構えに改造している。しかし日本古来の住宅のよさが見直され、こたつやいろり、畳や障子、軽い屋根に視点がむけられ、住宅と仕事場のミックスされた間取り等検討すべき余地が多い。

農民が家を建てる事は大へんなことである。それ故に日取りや間取り、方角等にも慎重で古来いろいろな禁忌や俗信をもっている。

まず間取りであるが、鬼門、裏鬼門の方角に出入口、井戸、風呂場、便所、土蔵等を設けない。またこの方向に突出部をつくらない(不運や災厄にあう)等。

建前、柱立て、棟上げ等の普請の日取りも暦の上で犯土はんど、三隣亡、鬼、虚、厄の日は凶日とされた。また土用の期間も除外された。地まつりは天赦日、天一天上、室、たつ、さだく等の吉日がえらばれ、敷地の中央に正方形の地を画し、四隅に青竹を立て、しめなわをめぐらし、荒ごもをしき神座とし、神籠ひもろぎを立て、供物をし、お祓い、祝詞のりとを奏し、玉串をあげる。修験道では、木火土金水の五行をかたどった五色の御幣が立てられ、四隅には、榊の代りに二本ずつの御幣が使われた。この時砂まきも行なう。

地まつりがすむと、やり方になる。家の正確な位置と高低を出して、それを地面に印つけ、高低を示すぬきで囲う。地形じぎよう地搗じで)は玉石等を土台の下となる所につきこむ仕事である。水田あと等では松丸太を打ちこんでいたが、赤土では沈む心配もないので、石をつきこんで固める。つき固め方は初めのうちは、亀の子地形と言って、玉石のまわりに六本位縄をつけて、それをひきあげて一斉に落す。そのうちにやぐら地形と言ってやぐらを組立て、たこという六角のかたい木材を上から

落す勢いで石をうちこんで固める。一〇人位の手伝いが行なうが、「よいとまけ。どっこいしょ」等いっしょに唄でも歌いながら仕事をしてゆく。簡単な土台の所は「手たこ」と言って重しの上に出ている四本の腕木をもち上げて勢よく落す仕事をくり返す。

地形が終ると大石を基礎とし土台を敷いて棟上げの順となるが大工の仕事始めとして「ちょうな始め」を行ないお祝いをする所もある。

棟上げ(上棟式)の日も吉日がえらばれ、土台、柱立てのあと、棟上げをする。棟にはみづ木(ぱっぱっこ)の小枝を奉書につつんで紅白の水引きでしばりつける(火事に水は強いから)。その棟木に、紅白の布でよった忌綱いみづな二条を棟木の本と末とに結び、棟梁がその本綱をとり、副棟梁が末綱をとって威勢のよい木やり音頭で手伝いの者とともに棟木を上げる。終ると棟上と主柱の根もとに祭壇をつくり、矢を鬼門の方角にむけて、青竹でつくった大弓につがえ、幣束とヒグシという柱を三本建てる。これは三、四寸角、長さ一丈三尺位の柱で、これに祝と書き五色の布をつけ鏡、櫛、女のかもじ、扇子等を紅白の水引きで結びつける。これを三本立ててその前に神酒、もりもの(海のもの、野のもの、畑のもの)を供え、棟梁は中央に墨指し、右に手斧、左に曲尺カネジヤクを水の字のようにおき槌で棟木の本末中の三か所を一回ずつ打つ。その時「息災延命千歳とう、家運長久万歳棟、福徳円満永々講」と唱える。三本のヒグシは屋船やぶねの大神、木工たくみ御祖みずき大神、産土うぶすなの大神をさすと言う。ヒグシの上部に女の人が使う鏡、櫛、かもじ、扇子をつける理由として次の話があるという。

昔、ある棟梁が、柱を短く切ってしまった。困りぬいていた所、その女房がそれなら不足の所に肘木を多く入れてのばせばよいと言ったので、その通りにしたら大変形よくでき上り、ほめられたが、ある者は、その成功をねたんで注文通りに仕事をした訳ではなく、それも女の入知恵で仕上げたものではないかとなじった。そこで遂に女房を殺してしまったことから、その霊をなぐさめるためであると言っている。式が終ると鬼門に向って三三円とか三三三円とかの銭をおひねりにしてまき、また四方に向って餅やみかんや手拭をまく。これが伝わると、拾い手がぞくぞくと集って来て、競って拾っていた。

お神酒を頂き祝宴が終ると、棟梁送りがある。職人たちは木遣歌をうたいながら棟梁の家まで送りとどける。三本のヒグシは直柱が頭梁に他は頭と材木屋に贈られるという。

火災を恐れる人間の心理は、家つくりにもあらわれて、棟の両側に草書の水の字を入れたり、龍の字を入れたりしている。

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屋根ふきは二、三年に一度はやらねばいけないが、昔は共同作業で<圏点 style="sesame">もやいや手間がりで行なっていた。が、段々職人を頼むようになった。それでも近所の人が手伝わねば順調に行かなかった。屋根をむく仕事、かやを束ねて屋根にあげる仕事、むいた古かやを始末したりもやしたりする仕事。すすけてあつくて仕方ない仕事であるが、皆いっしょに仲よくやったものである。

練馬農業協同組合史(昭和四五年刊)には住居関係についての俗信が次のようにのせられている。

  1. <項番>(1) 表鬼門に出口をつけると泥棒の入口になる。
  2. <項番>(2) たつみ(東南)の方向の入口は人の出入りが多い。
  3. <項番>(3) 三隣亡の日に屋根をふかない(火事になる)。
  4. <項番>(4) シュロの木が屋根より高くなってはいけない。
  5. <項番>(5) 門の所にナンテンを植えると厄よけとなる。
  6. <項番>(6) 枯木を宅地内に立てておいてはいけない。
  7. <項番>(7) 家敷内に植えてはいけない木、ブドウ、ビワ(病人)、フジ(左まき)、サルスベリ(寺の木)、イチョウ(胃腸病)、胡瓜、ラカンマキ、ツバキ、ナシ、ホオズキ(ウナリ声がする)、柳(家が亡びる)。
  8. <項番>(8) ゼニゴケが庭に生えると銭がこけるのでいけない。
  9. <項番>(9) 入口の敷居に腰かけてはいけない、敷居をふんで出入りしてはいけない(主人の頭をふむのと同じ)。
  10. <項番>(10) 玄関の土台に栗は使わない(人あしがとまる)。
  11. <項番>(11) 便所でつばをしてはいけない、便所の神様にかかるから。

火事にならない禁忌は前に記したが、土支田に火伏講という講がある。それは一二月八日に番神様の小屋(なくなってからは当番の家)に一四軒の者が集って、薪をもやしながら、家の中でお経を唱える。そして持って来たそだを入れてもう一回お経を唱え、そのもえてるそだを二本とり出し、火をこすりつけて消し、持ち帰って神棚にそなえ、火伏せの願をする(古老聞書Ⅱ)。家のまわりに植えられる樫も火防の樫と言われている。

<節>
第三節 年中行事
<本文>

年中行事とは、一年の間に、きまった月日に必ず行なう習慣のある行事ということになるが、これは国家的行事と民間的行事に分れる。国家的行事はその時代によって変化するが、為政者の考えが反映する場でもある点が特徴ともいえる。加えて古くからの公家、武家、民間のしきたりが時代が下るにつれて徐々に姿をかえつつあり、そこへ各地方の民間行事も入るなどいよいよ複雑になって来た。特に外国との交際の始った近代以後では、クリスマスを代表的なものとして、聖バレンタインデー、エイプリル・フール、メーデー等も行事化し、戦前の国家的行事であったものが、国民の祝日となるものもあって、国民各層がその考えによって自由に取捨選択をしているという状況でそのとり上げ方も非常にむずかしい。その上各地域にはそこの社寺を中心として、宗教的行事も各家庭には「もの日」「休み」という形で同様に入って来ており、農村においては農事作業との関係から、月おくれ、旧暦等、一定しない期日もあって、現状は非常に固定できない状態であるが、昭和三七年一一月、練馬区教育委員会では、区内小中学校の生徒の家庭で比較的古くから練馬区に住んでいる方一〇〇〇軒を

えらんで、年中行事についての実施状況を記入して頂く調査をした。既に二〇年以前の状況で、その後の変化も著しいと思われるが、その当時の状況を語るものとして貴重なものと考え掲載しておく。なおこの調査のまとめは「三七年度共同研究・練馬区における年中行事について」として区教育委員会より発表されている。

年中行事に関する実施状況調査                              日を〇で囲んだのは実施数三〇〇以上行事に△をつけたのは調査対象外で特に余白に記入されていたもの。
行事名食物すること・つくること実施している数
正月(三ケ日) 雑煮 正月の神に供える 三八八
△書初め
大番(おせち) すだこ、かまぼこ、だてまき、魚の切身、きんとん 親戚の人が年始に来る 八二
七草 七草かゆ 健康を祈る 三三四
かがみ聞き(蔵開き) お供餅の雑煮 財がたまるよう 三二四
<数2>14 まゆ玉 生産をいのる 二四
<数2>15 小正月 小豆がゆ(だんごを入れる) 二八三
<数2>16 △墓まいり
△やぶ入り 小豆めし 一二
<数2>20 二十日正月、えびす講 頭付魚、青味汁、そば(うどん) 財産がふえる 二七六
下旬 △餅つき(寒もち) じざい、からみ
④③ じろうの一日
節分 目ざし、米飯、大豆 鬼をはらい福は内 三九八
初牛 おこと始め(針供養) 仕事始め 六八
<数2>28 稲荷まつり(おびしや) おこわ(小豆飯)、甘酒 農産の豊さ 二八〇
△荒神様
△だるま市
<数2>15 桃の節句、ひなまつり 菱餅、まめいりあられ、重詰料理、白酒 女の子の健康 三六四
△村祈禱
△弁天まつり

彼岸の入り まんじゅう、団子、おはぎ、あベかわ餅 先祖の供養 三四七
春分、彼岸の中日 うどん、まんじゅう等 三五一
<数2>24 彼岸のあけ ごもく飯、団子 二九八
初申 浅間神社の掃除
花まつり 草だんご 二一九
氏神まつり(氷川台氷川神社) 赤飯 七九
<数2>15 △弁天様
△榛名正月
△花まつり
<数2>21 △御岳正月
大師さま (朝)草だんご(昼)うどん 八三
<数2>29 △獅子祭 田柄の愛宕さま
<数2>31 △荒神様
△御岳正月
端午(しょうぶの節句) かしわ餅、だんど、赤飯 男児の健康 三八一
<数2>14、<数2>15 だいもく
<数2>31 △荒神様
下旬 △麦のかり上げ ぼたもち 一息つく
△植田まつり
<数2>15 △天王様
<数2>24 あたごさま まんじゅう、うどん 金魚市 九五
綜合じまい 一息つく
△お釜の口あけ
七夕 まんじゅう、うどん、米飯 農業と恋愛 三三六
<数2>13 たま迎(お精霊さま) 米飯、とうなす 先祖供養 二六八
お盆 うどん、ぼたもち、米飯  〃 三三六
<数2>15 たま送り(やぶ入り) まんじゅう、うどん  〃 二八四
<数2>16 やぶ入り ごもく飯  〃 一七五

<数2>24 うら盆 変りものをつくる 先祖供養 二四三
△八朔 うどん 一休み
△無難正月
<数2>15 △風まつり
⑮旧 十五夜 まんじゅう、だんご、おはぎ 農産感謝 三二八
彼岸の入り おはぎ 先祖供養 三三三
(秋分)彼岸の中日 まんじゅう、うどん 三五二
<数2>26 彼岸あけ ごもく飯 二九五
<数2>28 △氏神まつり 一五
<数2>10 氏神秋まつり(氷川台氷川社) 赤飯、ごもく 一四二
おかぼ刈上げ (タ)ぼた餅又はかわりもの 感謝 六五
<数2>12 △御難 ごまのぼたもち
<数2>13 △十三夜 (十五夜と同じ) 一八
<数2>13 △穂掛
<数2>20 えびす講 頭付魚、うどん 開運 二一一
<数2>31 荒神さまのおたち だんご、小豆かゆ 二一九
△亥子 ぼたもち
<数2>11 <数2>10 麦まき上げ うどん、おはぎ 九五
<数2>15 七五三 餅、おこわ 二六七
△荒神さまの中かえり
<数2>20 △えびす講 二二
<数2>30 荒神さまのお帰り 小豆がゆ、だんご 二一〇
酉の日 △酉の市(おかめ市) 財産集め
<数2>12 △おことじまい 悪霊退散
△お会式 一〇
<数2>14 △大師まつり
冬至 かぼちゃ 三一三
大晦日 そは 三七六
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正月(三が日)

一月一日~三日。月おくれもあった。

年神を迎え一年の安泰を願う、三が日の間は三度の神饌を一家の主人・あと取りが供える(年男という)。まず元旦には、大掃除で清め、しめかざりをはった神棚(大神宮さま、えびす大黒さま、荒神さま)にお礼を納め、榊、御燈明をあげお供え餅、お神酒、お雑煮を供え一家一同揃って礼拝をする。門松にも雑煮を千切って供える。一部では年神様、正月様という年神を臨時に床の間や座敷内に設置して、しめ縄、小松等でかざる所もある。その他、家の出入口、仏壇、井戸水、かまど、風呂、便所、物置、倉、肥間等、すべて生活で使う所の神や農具に、輪かざりをかざることを行なっていたが今はそうした風習も少い。神に捧げる若水を汲み、火も「火口ほぐち箱」という道具で、火を起して使う風習があった。マッチでなく、火打石で火花をとばし、それを杉の葉の炭にとって、火をおこす方法で、区内にはまだこの方法を行なっている家がある。火打石で供物を清め、燈明も燈明皿に種油を充して燈芯とうしんとうすみ)に火をつけて供えたのである。雑煮は各家によって違うが、焼餅を椀に入れ青菜、里芋等の汁をかけるのが、この辺の農家のやり方のようである。氏神や恵方まいり等に行く者もあり、子どもたちは羽子板やかるた・双六等をして遊ぶ。

大番

「おせち」と言い四日頃から始まる。各家とも日どりがきまっていて、親戚、近隣の者が年賀に来るので朝から御馳走の仕度をする。家に伝わる塗膳に、口取り、煮魚、甘煮、酢だこ、数の子の五品にすまし汁を加え、酒を出して御馳走をする。終って手づくりのうどんを塗椀に盛って出す。特にその前年に嫁いで来た親戚の花嫁さんを迎える風がある。お年賀と書いた半紙に「志らが」を添え、菓子折等を持参するのが例である。子どもたちはこの時親しいお客からお年玉をもらう、「おひねり」である。

大番とは鎌倉時代武家が、節句、節日に饗応することを「垸飯おうばん」と言ったことから生れたという。

七草

七日の朝、門松を片づけ、松の枝先をそのあとにさし、そこへ七草がゆをのせて供える。神棚のお供え餅もさげる。七草がゆは早朝年男が「春の七草」を

とはやしながら、まな板の上できざんで、それを餅入りのおかゆに入れてつくったが、今はその風習もない。にわとこの木でつくった粟ぼ、稗ぼ(あぼひぼ)を「粥かき棒」と共に歳神棚に供える所もある。七草とはせり、なずな(ペンペン草)、ごぎょう、はこべら(はこべ)、ほとけの座、すずな(かぶ)、すずしろ(大根)で、春一番に芽を出し花が咲く縁起のよい植物であるから、邪気をはらう意があると言われる。そうした意味で七草の汁にひたして爪を切ると一年中手に傷がつかない。(豊玉付近)七草がゆは食べ残してはいけない。ペンペン草のように根強い草も食べつくすように丈夫にという意味があるという(大泉学園町)。

鏡開き(蔵開き

一月一一日、お供え餅をわって、それで雑煮をつくり、神に供えて一家もいただく。神に供えた餅を頂くことによって生命力を更新させ、健康を祈るわけである。蔵を開き俵の神にもお神酒と共に供えて、「今年も倉に沢山ものが入るように」と願ったのである。

まゆ玉

一月一四日、この日朝からまゆ玉をつくり始める。米の粉で団子(中にはみかんや、里芋、茄子、きゅうり、さつま芋の形につくる所もある)をつくり、これをかし、なら、けやき等の枝につけて大黒柱にかざり、小枝のものを別につくって神棚にも供える。古来の餅花の一種が養蚕に結びついて、養蚕の増産を祈ったもので、やがて繭玉だけでなく成物なりものの増産を祈るようになったのである。

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小正月

一月一五日、古代の暦で「月のみちかけ」により日をきめる場合満月の夜を一年の境にする風習があって、この日を一年の始めとする考えが残っていて、儀礼的な正月より農作にとっては最も大切な正月であったと思われる。この日「小豆がゆ」を塩味でつくって神棚に供える。なべにまゆ玉団子を三個入れて、かゆを食べる時、それにあたるとその年は運がよいという所がある(豊玉)。しかしもっと多く入れる所もある。

また桜台の方ではあつい小豆がゆをフーフーふいて食べてはいけない。その年に大風が吹くからと言っている。

この時やはり「粥かき棒」をつくり、まゆ玉の木から落ちた団子(きおちの団子)をはさんで入れてかきまわし、あとでこの棒は水口みなくちに立てる所もある。「さいの神」と言う悪疫よけの火祭りは行なっていないが、この日、七草の日にとりはらった門松や乄かざり、古いお札を燃やす風習はその名残りであろう。

賽日さいにち

一月一六日、藪入り。作男や女中が支給された「おしきせ」を着て実家に帰る日であるが小豆飯を炊いて神に供え、「まゆ玉」をこの日にとりはらい、石神井方面では、正月行事も無事に終ったお礼に先祖のお墓まいりをする所がある。子供たちにとっては正月の最後の遊び日である。

十八がゆ

一月一八日、全区にわたる風習ではないが、この日「たなさがし」と言って、神に供え、とっておいたものを一五日の小豆がゆの残りと共に煮て食べると、「蜂にさされない」という言い伝えがある。

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二十日正月(えびす講)

一月二〇日、この日でいよいよ正月も終り、えびす様も働きに出る日だという。昔は日頃親しい人をまねいて御馳走する日であったが、神棚にまつってある「えびす、大黒」を特に設けた祭壇に安置して、その門出を祝う日と言われる。そのため「出べす講」という。祭壇にはおあかり、神酒をあげ、頭つきの魚(できれば鯛)、お高もり(うどん、そば又は赤飯)を供え、一家中の財布や一升ますをあげて、

お金がふえることを願う風習である。しかし地域によっては、歳末に出かけたえびす様がお金をもって帰って来るから、それをお迎えするのだともいっている。

餅つき(寒もち)

一月下旬。歳末につく餅は正月用で、一年中の餅は寒の頃につく風習があった。寒餅は長持ちすると言われ、一石・二石とついたものである。この時つくのはもち米(陸稲が多い)ばかりでなく粟、きび、もろこしで、時には大豆、とうもろこし等も入れて量をふやし、さつまいもや小麦粉の団子も入れる事もあった。この日は朝から米とぎが始まる。きびやもろこしは二、三日前からといで、やわらかくするため水をはっておく。台所の大釜に水をはって火をつけ、角せいろをのせる。たきぎは木の根っ子等なかなか小さいまきにならないのを使う。大臼を物置から出し、大杵一本、小杵六本位をそろえる。人数はこねとり一人、つき手六人、もし手一人(こね手が兼ねる時もある)、のし手一人、その他お勝手一人は必要となると、一〇人位(男八人、女二人)になる。当然家族では間に合わないので、「もやい」とか「組合」とか言ってお互いに助けあうことが行なわれていた。夕方三時か四時になると手助けの人が来て、夕飯を食べてから始める。場所は広い台所である。まずもろこしのようなかたく、まとまりにくいものからつき始める。二人が大杵、小杵でねり始め、ある程度まとまると、五人位(四人の時もある)が小杵でつき始める。その時もちつき唄がうたわれる。トントントントントンと杵の音で調子をとりながら唄うわけである。こねとりが直して二回位つくと、まとめとして大杵で上げつきというのが行なわれる。つき終るとのし板にのせて、のし手によってのされる。かたい雑穀の餅はめん棒でのばす。普通ののし餅の他に<圏点 style="sesame">なまこにする。米をつき始めるとからみ餅やじざい餅(あんころ餅)をつくり、大釜への水の補給の時に中休みをして、皆でおやつとする。あんころ餅は重箱に入れて近所に配ってあたたかいうちに賞味してもらう。多くつく家では朝がたまでつづく。早くつき終ると若い者の中には威勢よく他の餅つきをしている家に杵をもって出かけ飛入りをする。年頃の娘さんでもいたら方々からやって来る。終ったら杵、臼、せいろ、のし板(のしこみ)等を洗って、こたつで一休みする。朝食を食べて又お昼頃まで休んで(家に帰って休みもする)解散という事になり、その晩にそなえる。餅つきがすむ

とそれから女や子供は大へんで、その夕方から餅切りが始まる。多くは切餅(<数2>10㎝×<数2>12㎝位)にするが、切れはしや雑穀の餅は多く短冊形や、小はで型にして、乾燥させて保存食とする。よく乾燥すると一年や二年は長もちする。乾燥にはむしろに広げてかげ干しをするので座敷一ぱいになってしまう。普通の切餅は寒のうちに四斗樽に入れ水をはって水餅にする。これは大体土用まで保存がきき、農家の重要な主食ともなり、お茶うけ、御馳走となったわけである。

次郎の一日

二月一日、月おくれなら三月一日(大泉地区にあった)。神棚に御飯と御神酒を供え、半日位仕事を休むのが普通であるが、野菜農家では、一月二日の初荷を始め、まだ仕事が忙しいので、この日に始めて正月休みとする所もあった。

年越(節分)

二月三、四日頃。立春の前の日を節分と言い、またここで新しい年を迎え邪気をはらう行事である。「鬼やらい」、「追難ついな」ど古来言っていたが、普通は「豆まき」という。

等唱え、そのたびに目ざしの頭にはつばをかける。神だなに灯明、お神酒を供え、ひいらぎの枝と目刺しの枝さし(やつかがしという)を神棚始め、仏壇、かまど、風呂場、便所、出入口、井戸、物置や肥間の入口等にさして、炒豆を一升桝に入れて各所で豆をまきながら、「福は内、鬼は外」と大声で三回唱え、最後に表の大戸の所で豆まきをして、急いで戸をしめる。すむと自分の年より一つ多くいり豆を食べて年取りを確認し、幸をいのる。福茶と言ってこの豆を入れたお茶をのむと丈夫になると言い、「厄おとし」と言って、厄年の人は、道に自分の身につけている物を落す習慣もあり、二回豆まきをして、厄年は終り次の年を迎えたことにする習慣もある。

いわしの頭はくさく、豆の枝やひいらぎはパリパリ音を立てて燃え、とげもあり、煙と臭気は悪霊を追いはらうのに役立つと言われている。

おこと始め、針供養 二月八日。現在はほとんど行なわれていないが、この日は軒先きに目かごをかかげて、鬼(一つ目小僧)が入らないようたくさんな目でにらんでいるのだという。なぜこの日にそういう事を行なうのか。江戸時代ではこの日を正月事納めとしている(読中備要)ので正月が終ったことを示す地域も当然ある事と思うが、「事」とは正月行事か、農業の仕事か、解釈によって違うが、何れにせよ時期である。この時悪霊をよける事が行なわれたのであろう。陸中地方では女房を追出す日だと言っているが、これは冗談でこの日嫁を実家に帰して、次の日から始まる労働に精出させるのだという。そうした意味ではこの日行なわれる針供養も何となく同じ意味があるようで、この日(一二月も同様)針を使うのを一日休み、豆腐に針を刺して川に流す風習がある(上石神井)。この日おこと汁と言ってけんちん汁(芋、ごぼう、大根、小豆、豆腐、くわいの実を入れた油入りの味噌汁)を食べる。

初午(おびしや)

二月一の午。前夜から部落の稲荷神社では太鼓の音がひびき、「宵宮よみや」が行なわれる。本村(平和台四丁目)の稲荷神社は子供たちが太鼓をたたきながら、部落をまわり油銭を集めて歩く。それを講元が受け取って稲荷の社前に供え、子どもたちに分けている。夜が明ければ近隣の人々が、のぼりや、狐の絵馬に赤飯・油あげをもっておまいりに来る。氏子たちは参拝者に甘酒等を出す。これが普通の初午であるが、各家では部落の稲荷の他に屋敷内にまつられている小祠の稲荷にもおまいりをする。所によっては、赤い幟がたくさん立てられ、地口が書いてある行灯あんどんがささげられている。稲荷の神は正一位大明神伏見稲荷で、保食神うけもちのが祭られている。名の通り食物の神であり、農業の神である。稲荷いなりとは稲生いななり稲荷いなにから転化したものだと言われ、初午は和銅四年(七一一)に帰化人秦公が伏見稲荷をまつった日であるとされ、一月、一二月の一の午の日には長寿、息災、栄進、子孫繁昌等の祈願が行なわれたので、初午が重視され、この日そうした祈願の人々の参詣が多かったことからの習俗であるという。豊川稲荷は仏教の茶枳尼だきに天と習合して、その狐にの

る姿をもとにして稲荷は狐を眷族としている。江戸時代田沼意次が稲荷を邸内にまつって、異常の出世をしたために、開運の神として、関東に大流行したという。しかしそれより農業の神として、馬との関連をつける地方もある。稲荷が豊産の神として崇められた事は、大泉の「大根収穫の狐絵馬」によっても明らかである。

ふせぎ

日は一定していないが、初春から初夏にかけての行事である。

1、道合いのまつり(かど札、辻札)北町の地区で戦時中まで行なわれていた悪病はらいの行事である。年番の者が鎮守の氷川さまに行ってお札をもらって来て、竹の先にはさんで辻々に立てる。部落に悪病がはやらぬよう、一家安穏であるよう祈るのである。

2、道切り 悪い虫が入らぬよう、その道を塞ぐ行事で、同じ北町では、お盆前の頃、家や、物置、井戸のまわりに麦こがしをまいて、「蛇もむかでもどーけどけ、おいらは昔の侍だ」と唱えて歩く。麦こがしを御馳走して入らぬように祈ったのであろう。京都で六月~一二月の吉日に京都の四隅で、八衢比古やすまたひこ、八衢比売ひめ久那土くなどの三神をまつり、食物を供えて都に入らぬよう祈ったという道饗みちあえの祭から来ているのであろう。練馬農協史によれば一月二〇日に麦粉をまく所もあるという。

桃の節句、雛まつり

三月三日。五節句の一で、女の子のお祝い日である。女児が生れると、その次の年の二月始めには、親元、媒酌人、親戚から人形が贈られる。親元から内裏様、その他では三人官女、左右大臣、五人ばやしや道具類等が贈られる。人形は二月の始めから雛壇にかざられて、三月を迎え、白酒、あられ、菱餅が供えられる。お返しには白酒、菱餅等が使われる。三日が過ぎるとなるべく早く片づけるのがよいとされる。おそくなるとお嫁にゆくのがおそくなると言われるのである。

この人形は元来、手作りで、節句が終ると川や海へけがれと一しょに流すものであったから「流しびな」であったわけである。

春の彼岸

三月一八日~二四日彼岸会の略で、春分の日をはさんだ一週間をいう。先祖や近親者の死者の冥福を祈り、自分も骨休みをする意味がある。この頃から麦の手入れ、さつま芋の床ふせ、じゃが芋の植付け、ごぼうの種まき等が始まり忙しくなる。そうした時の息ぬきの日でもある。一八日前には墓の掃除をする。「迎え団子」をつくって仏壇に供える。この日から親戚の仏壇におまいりをする。中日は春分で家族が墓まいりをする事が多い。仏壇には「入り」「中日」「あけ」の間に、ぼたもち、まんじゅう、五目飯、うどん、そば、草餅、いなりずし等をつくって供え、二四日の「あけ」には「送り団子」をつくってお送りする。「あけ」にはお墓まいりはするものではないと言われ、その前にしてしまうようにする。

道ぶしん

三月二二日(彼岸の中日)村の道ぶしんはたいてい年よりの仕事であったが、部落全体で行なうのだから、手がなければ女、子供でも出てゆくのが常識である。彼岸の頃ともなれば霜も降らず土も落ちついて丁度よい時期、これから忙しくなるので、ここで行なっておく。馬車や手車が通るので轍の跡に水たまりができ、凸凹にもなるので、地ならしをする。金如連かなじよれんがはやった。石神井川や荒川の川底から赤い砂利をとったり、土運び等も行なった。しばらくは土が軟弱で厄介であったが、やがてつゆあけと共にかたまって行った。

道ぶしんは部落毎の割当があって、これによって大体村中の道路の整備が行なわれるのであるが、同じやり方で雪かきが実施される。最近は雪も少くなったが、以前は大雪の時が多かったので、まだ長靴さえあまりなく、高下駄では歯に雪がつまって、ころびそうになり、どこかへぶっつけて雪を落そうとして歯を欠いた事等もよくあった事であるが、そうした時、朝早く集って、そのきめられた区域の道路の雪かきを分担して行なった。その前に自分の家から道路に出る(じょう口と言った)所は既にすませておくのであるが、学校へ行く子供たちや市場へ行く農家の人たちの感謝のことばを背中に大体一〇時頃には終るのである。

代参講

三月末から四月中。各部落では、稲荷の他に、農事に関係する神におまいりをして、祈願をするのであるが、何か所も多勢で行くことはむずかしいので、順番をきめて、番にあたったものが、代参に行き、帰って

神札を分けあい、お神酒をあげ、御馳走を食べ農事について意見の交換を行なう日である。

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宿は講元の家にしたり、順番にしたりする。部落によってまいるお宮が違うが、御嶽、大山、榛名、三峯、成田、第六天が主な所である。御嶽は火難、盗難除け、豊作祈願、大山は雨降り、榛名は雹よけ、風よけ、成田は家内安全、泥棒よけに第六天とそれぞれ幸運をもたらしてくれると言われる。

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花まつり

四月八日。この日はお釈迦様の誕生日で、寺では花御堂をつくって誕生仏をまつり、甘茶を注いだ。これは灌仏会、仏生会と言い、仏生誕の際甘露の雨が降ったのに因んだという。そうした関係でこの日各地の寺やお堂へ薬師さまや不動さまのおまいりに行く信者も多かった。時にはお稚児行列が行なわれる所もある。長命寺では奥之院弘法大師御開帳法会のある二一日に実施され

る。なおこの日は花嫁市と言われ、前年から谷原に嫁いで来た花嫁が花嫁姿でおまいりする慣習があった。それを見ようと若い娘がまた集って来る。そこで次の新しい花嫁候補が見つかるというのでつけられた名であろう。農具市、植木市も同時に行なわれる。

この頃各神社で春祭りが開催されるが、氷川台氷川神社のお里帰りは有名である。また田遊びの行事も行なわれていた。

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花見

四月一五日。西大泉や関町では、以前、近隣の家人をさそい、家族そろって一日野山に清遊することがあった。この日草餅、まんじゅう等をつくって清酒と共に持参する。一月おくれでは八十八夜の日に行なうことが多かった。

お獅子さま

四月一九・二〇日。埼玉県上尾市平方の八枝神社は須佐之男命を祀る神社であるが、四月二〇日、七月一四日が祭りの日である。四月二〇日には練馬の地区へ狛狗大神(獅子頭)がふせぎ即ち悪疫退散の祈りをこめて巡行して来る。高松、貫井、向山、春日町、田柄一帯ではこのお獅子様を迎えに行き、神官を先導として太鼓をたたきながら部落をまわる。昔は上尾まで歩いて迎えに行き、郡境で迎える一番迎え、村境で迎える二番迎え等が用意されたという。

現在は代参の者がお獅子の像を手でなでてお札をもち帰り、一同に分ける方法である。

端午の節句

五月五日。男の節句とも言われ、四月の中頃になると、親元、仲人、親せきから贈られた冑や武者人形をかざり、鯉のぼりを立てる。昭和のはじめから外のぼりでなく、内のぼりとなってきた。屋外に立てるのぼりは大変だったのである。縦のぼり三本で真中は鍾餅様、両側は長のぼりで両家の定紋と、武者絵がかかれる。丸太

の先には杉の葉を束ねてつける。毎日、丸太を倒してのぼりをつけて立てるので大へんであった。最近は鯉のぼりだけで、滑車であげるから簡単である。初祝の時はお祝して頂いた家々に柏餅、干鱈(するめの時もある)を贈る。その他軒先にしょうぶ(かや)、よもぎをさしたり、屋根に上げたりする。災厄をさけるため、丈夫に育つためしょうぶを使うと言われる。しょうぶ湯にする所もある。御馳走(かわり物)としては柏餅、うどん、しょうぶ酒、五目飯、赤飯、竹の子飯である。柏餅も自家製であった。

お題目

五月一四、五日。日蓮宗の壇家では宗祖の命日である一二日に講中が集って、お題目をあげる十二日講がある。お曼陀羅、十戒、御本尊をかけ太鼓をたたいてお経を上げ、終ってときを食する。

麦刈り上げ、粉初こなばつ

六月下旬。六月初旬から麦刈りが始まる、梅雨の間をぬって刈り、ぼっちにしたり、麦こなしも始める。大変忙しい時であるが、麦刈りが終るとまた忙しくなるので、一息ついた時に、新しい小麦粉をもって嫁は実家へ帰る。そしてそれで何か変りものをつくって土産として帰るのを粉初と言っている。

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七夕

七月七日(月おくれの所もあった)。六日の暑い昼頃から色紙を短冊に切ってそれに「七夕」「星祭り」「天の川」「牽牛、織女」等と書き、吹流し等をつくって用意する。翌七日の朝早く、用意しておいた竹の枝に短冊や吹流しをつけて(かんぜこよりで結ぶ)庭に立て、前日につくっておいた雌雄のちやが馬を向い合せにし、背負い籠をふせて、その上にお神酒、まんじゅう、とうもろこし、瓜、南瓜等をのせたお膳をおく。形はそれだけであるが、いろいろな意味がある。一年に一度天の川を渡って牽牛、織女が会うことができるよう、好天を祈るのと、短冊に字を書くこと、ことに芋の葉の露を集めて書けば字が上手になるという話も伝わり、子供たちの習字の上達を願い、雌雄の馬と、収穫物によって、農産物のみのりが多

いことを願う。更に八日の朝は短冊をつけた竹はきび畑にさしてかかし(鳥よけ)とし、ちやが馬は二匹まとめて屋根の上にあげる。川の近くでは川に流す所もあった。農事と大変深い関係をもつものだと言われている。埼玉の北部では雨乞い行事で、晴れを願う普通の考えと対立する。食事は「朝まんじゅう。昼うどん、夜はたんぼの白い飯」で、一番の御馳走であった。

雨乞いとおしめり正月

八月上、中旬。梅雨明けから、ま夏のかんかん照りがつづく。畑作地帯では陸稲おかぼがしおれ、にんじんも大根も種まきができない。何とか降ってほしいと願うわけである。雨乞いは部落によっていろいろであるが、弁天さまの池の「池さらえ」をしたり、井の頭や御嶽山、大山、榛名山から竹の筒に水を入れて帰り、それを笹竹の先につけ、大勢の農民は蓑笠をつけて鉦・太鼓を打ちながら「ホホーイ・ダンボエー、ホホイダンボエー」(かけ念仏)と唱えながら村中を歩く。

石神井ではそのあと池の主の龍の掛け軸を三宝寺の住職に拝んでもらい、竹筒の水を池にまく。若者たちは水中に入り水をかけ合う。大泉では、井の頭で妙福寺の住職が題目を唱え祈願する。氷川台の氷川神社では、お浜井戸の水を竹筒に入れ村中ねり歩き、夜神社で参籠する。田柄では水神様に祈願する。こうしたいろいろの方法で雨乞いを何日もつづけるのであるから、雨がふれば正月と称して仕事を休み、お礼とお祝をする。祈願した神にお神酒をあげ、直会となる。集った子供たちにお菓子を買って配る。最近は祈願はしないが、この頃雨が降るとおしめり正月と称して集り、お神酒を頂く風習がつづいている。

綜合じまい

七月二四日頃。麦の刈入れが終り、間作(陸稲)の除草、一番耕いちばんご、二番耕、にんじんまき、じゃが芋の収穫等が終るとしばらくひと休み。二四日は田柄の愛宕神社の金魚市の日でもあるが、これに事よせて半日休みをする。まんじゅう、ぼた餅、うどん等をつくって夏祭りに出かける。一応今までの農事が片づいたとの意味で綜合じまいとしたのであろう。

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愛宕さまの金魚市

七月二四日。田柄の愛宕神社は、京都の愛宕さまを勧請したと言われるが、地蔵菩薩の変身である勝軍地蔵が愛宕権現の本地で、火防ひぶせの神として信仰されている。金魚市で大変にぎわう日である。現早稲田大学高等学院の愛宕山の地も愛宕神社のあった所であるが、今三宝寺にはそこの勝軍地蔵が安置されている。

お釜の口あけ

八月一日(七月の所もある)。この日朝早く起きると地獄の釜のふたが開く音がすると言われるが、「釜ぶた朔日ついたち」ともいう。お盆に死者を送り出すので地獄の釜の蓋があけられると言い、お盆行事の始まりと考えられる。粉ばつと同じように新粉を嫁は実家にもってゆき、まんじゅうをつくって帰るという事が行なわれる。

お盆、孟蘭盆

七月一三日~一六日(月おくれの所もある)。

一三日には盆棚をまずつくる。現在は組立式も用意するが以前は座敷の端に四斗樽を伏せ、その上に三尺四方の板をおき、その四方に葉付きの青竹を立てる。青竹の途中に清浄なちがやでなった縄をめぐらす。台の上に花ござをしいて、正面に仏壇から位牌を移してならべ、正面の縄には十三仏やお題目等の巻物をかかげる。前の机には鉦、線香立てを置き、鉢に水を入れたものと、茄子を賽の目に切ったものを蓮の葉にのせて、鉢に入れたものを置き水萩みぞはぎを束ねたものを用意する。位牌の前には茄子と胡瓜で雌雄の馬をつくってかざる(脚は麻幹おがらをさして)。また右方に蓮の花の造花を茄子の台にさしたものを置く。夕方、提灯にあかりを入れて「精霊しようろさま」のお迎えに行く。門口で松火・麻幹をもやして目印とすることもある。墓地につくと「どうもお待ちどう様でした。どうぞこのおあかりでお出で下さい」と言って帰って来る。家につくと、迎えの者は縁側から上って「どうぞお上り下さい」と言って盆棚に案内する。早速お茶を出し、夕食を供える。角膳に白い御飯とかぼちゃ等の煮付(車麩、茄子、いんげん、糸こぶを使うこともある)、お新香、箸は麻幹を二〇㎝位に切って四膳そ

える。棚の下には無縁様の分として一人前の食事を用意する。

翌一四日早朝、閼伽あか水と賽の目の茄子をとりかえ、畑や山林から栗、柿、小豆、隠元、里芋、さつま芋、陸稲、粟、きび等のまだ未熟な実や、枝をとって来て、笹竹のまわりにはった縄にはさむ。仏前には西瓜、瓜、とうもろこし、南瓜等を供える。花や団子も供える。朝飯はぼた餅を上げる。昼はうどん、夜は白い飯。うどんをつくる時巾広のをつくって茄子胡瓜の馬の背中にかける習慣がある。

一五日の朝はまんじゅう、昼は五目、夜は白い飯、仏にあげるためでもあるが、おまいりに来るお客に出すためでもある。とにかくまる二日間は何か変りものをつくって、仏前に供えるので主婦の仕事は大変である。この三日間のうちに菩提寺から棚経をあげに来るので、いくらかの気持を袋に入れて出す。これは宗門人別帳の実情調の名残りだという。また一四・一五日中に親戚近所の家のお盆さまに供物をもっておまいりに行く。

一五日の夜は、できるだけおそく仏さまをお送りする。お茶をあげて家族一同お線香をあげ、提灯を点けて「どうぞ、このおあかりでお帰り下さい」と挨拶して墓地まで送る。帰りにはすぐ灯を消し、うしろを見ないで帰ると言う。墓地の遠い所では「送り火」を焚く所もある。

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新盆の家ではこの期間、講中の者が集って念仏を唱える所がある。

一六日は位牌を仏壇にもどし盆棚を片づけ、使ったものは山に捨て、また川に流していた。そしてかねてお寺に頼んでおいたお塔婆や、花、線香等をもってお墓まいりに行く。この日は藪入りと言って、奉公人は家に帰らせる。正月の十六日と同じである。以前は半年分の給料とお仕着せの反物や衣類、はきものを持って家に帰った。嫁さんも大体同様である。

寺ではこの頃施餓鬼の行事を行なう。寺によって日をかえているが、盆に家に帰れなかった精霊のため寺で供養するためだという。何処の家にもそうした霊がある所から、その霊をなぐさめるため盆供ぼんこと言って、小麦や大麦を袋に入れてお寺に納めたが、今はお金になっている。盆行事に、茄子や胡瓜の雄雌馬を供えるのは雌馬を牛と考える所もあって、お盆様を迎えに行く馬とも、送る馬と荷物をつけてやる牛だとも言うが、雄雌と考えている所ではやはり生産の豊かさを祈った農事祈願となる。

うら盆

七月二四日(月おくれの所もある)、地蔵盆は行なわれていないが、しまい盆とも言えるこの日、供養できなかった死者の供養をする。小豆飯とかうどん、おすし等をつくり仏壇に供える。また半日位は休めるので子供たちにとってはうれしい日であるが、大人はお盆中に行けなかった家などに線香をあげに行く。

土用

七月下旬、土用とは立春、立夏、立秋、立冬の前の各一八日間を言い、この土気の働きで四季が始まると言われる。普通は立秋前の土用を言い、大暑の節ともいっしょになるので暑さが最も甚だしい。この三日間を「土用三郎」と言い、梅雨つゆ太郎(中太郎)、八専二郎、寒四郎と共に農家の四厄日と言われ、この日の天候で豊凶を占うが、雨だと夏は雨が多いという。土用の丑の日は悪疫(しもの病)をよけるため「あじさい」の葉を三枚、赤糸で結んで朝のうちに天井か入口につるすと言われている。また少しでもうなぎやどじょうを食べてスタミナをつけるように言われる。また「土用三六」と言ってこの日豆をまくと「えぞ虫」がつかないと言い畑に豆をまいた。土用灸もこの日に行なっている。虫がつかないと言えば土用の虫干しと言って、衣類を出して影干しにすると、虫がつかないと言われ、戦前には必ず行なわれたものである。三日三晩の土用干しと言って梅干つくりに大切な時でもある。

八朔の節句

九月一日、旧の八月一日の行事で、徳川家康が江戸に入った日であるので、関東一円にそれを祝う行事が発達した。しかし農家にとっては二百十日の時期にあたり、穂ばらみの時でもあるので、稲の成熟を祈って、一応刈初め、穂掛けの神事を行なう所もある。「頼みの節句」という意味もそこにあろう。既にこの頃になると昼寝が出来

なくなり、夜なべが始まるので、「むこの泣き節句」とか「鬼節句」とか言い、これから忙しい時を迎える事になる。嫁さんもそうした前の一時として赤飯・あじの干物等をもって実家に帰る風習で、女の休養日とも言える。震災記念日は経験者にとっては忘れがたいものである。

十五夜

中秋の名月、九月の望日。旧の八月十五日、満月の夜、縁側に机を出して、御神酒、柿、栗、里芋、さつま芋等のなりもの、十五個の団子や豆腐を供え、五本のすすきの穂をかざる。この夜は家人の知らぬ間に供えものを盗んでよいことになっていて、天下晴れて泥棒の出来る夜である。大風がなかった時は「風祭」と言って皆集ってお祝いをする(石神井)。

秋の彼岸

九月二〇日より一週間。秋分の日を中心に前後一週間の間をいう。始めの日を彼岸の入りと言い、仏壇に迎え団子をあげ、御馳走を供える。仏様におまいりするため行ったり、来たり、春の彼岸と同様である。「暑さ寒さも彼岸まで」という言葉があって本格的な秋となる。

氏神の秋まつり

一〇月の始め頃。氏神の秋まつりは、収穫感謝の祭りである、秋の刈上げが一応終って、村中よろこびにあふれ、鎮守の森には幟が立ち、太鼓の音が聞えて来る。菓子や玩具の店がならび、舞台では神楽が奉納される。各家では赤飯をたき、親戚に配る。御招待ということになるが、特に嫁に行った娘が実家に来られる様との親心でもある。お神輿をかつぎまわる地区も多い。

おかぼの刈り上げ

一〇月上旬。おかぼを刈り終った時、鎌を洗って、台上におき御神酒にぼた餅を供え鎌に感謝する。おすし、五目、赤飯にする事もある。

十三夜

旧九月一三夜、新一〇月一三日。後中秋の名月。片見月はいけないとされ、十五夜をしたら必ず十三夜も行なうことになっている。やはり秋の収穫物に団子を一三個又はぼた餅のように丸いものを三個供える。すすきは三本、その他は十五夜と同じである。

御難のぼた餅

一〇月一七日、日蓮宗の信徒の間で行なわれる行事で、宗祖日蓮上人が、龍の口で斬られようとした時、路傍の老婆が胡麻のぼた餅を供養した故事から、この日仏前に供える。実は文永八年(一二七一)九月一二日の事である。やはり刈り上げ感謝の意味で一〇月に行なうようになったのではなかろうか。

えびす講

一〇月二〇日、月おくれでは一一月二〇日。一月二〇日のえびす講に対して、働きから帰ったえびす、大黒をねぎらう日であるとも、年の暮から正月に向って働きに出る日であるとも言われ、一月と同じようにする。朝は小豆飯、昼はうどん、夜は白い飯と三度上げ、豊玉では太夫が供え用として切紙の魚型等を配って歩いたという。

荒神さまのお立ち

一〇月三一日(三〇日の所もある)。台所とかまどの上にまつってある荒神様は神聖視された火を管理する神として、家の神、家を管理する神として重視されている。この日荒神さまは三六人の子どもをつれて、出雲の国へ出かけるので、三六個の団子を上げる。灯明をあげ他にお神酒、うどん、白い飯等を供え、馬の絵馬を上げ、松と黄菊を供える。馬の絵馬を上げるのは馬で出かけるようにとの事と言うが、鶏の絵馬を上げて鶏に乗って急いで行き、嫁さんをさがして来るようにとの願いをもっている、という所もある。しかし中には荒神さまは子どもが多いのでうるさいから来るなと言われて留守をすることになったので神無月の名の通り、全部出雲に集るので、留守の間の御苦労に感謝する日だとも言われている。

亥の子、十日夜とうかんや

一一月一〇日、亥の子のぼた餅と言ってこの日、秋大根の収穫を祈って、大根を神に捧げ、ぼた餅を供える風習がある。十日夜と言って秋の収穫祭であり、田の神が山へかえる日だと言う所もある。

七五三

一一月一五日。七歳、五歳、三歳の子どもたちが晴着を着て、家人につれられて氏神に参詣する日である。子どもにとって、三、五、七歳は変り目で、この時期に災害にあうことが多いので、その災害にならないよう儀式を行なう。三歳を帯の祝い、男五歳を袴の祝い、女子七歳を帯解き等と言い、その都度お宮まいりを行なう。特に七歳になると一人前と認められる神社の「氏子入り」の儀式とも言える。この日紅白の餅をついて親戚に配り、御馳走もした。

親元から届いた晴着を着て、若い衆の肩車にのった祝い子は行列の先頭に立って氏神に向いそこで拝んで貰って、持参した餅やみかんをまいて、集った人たちに拾わせる。喜びを他人に分ける事により更に幸福になる事を願ったのであろう。お祝を頂いたお返しには、紅白の丸餅、するめ、みかん、七五三の飴、等を使っている。

荒神様のおかえり

一一月三〇日。出雲に出かけていた荒神さまが帰るというので又、おみき、三六個の団子、松に菊を供え、鶏の絵馬を供えて、無事に鶏にのって帰るよう祈る。一一月一五日に中帰りをするのでその時鶏の絵馬を上げる所もある。

酉の市

一一月の酉の日。区内では豊玉の大鳥神社、石神井の大鳥神社の祭り。もとは武運の神であったが、今は開運の神、として客商売の信仰があつい。一の酉、二の酉、とあるが、三の酉の年もある。この年は火事が多いと言われる。酉の市には無虚何百という店が出て人々でにぎあう。かつこめといい熊手を買って家のなげしにかざる風習があり、財物が集るのを願っている。熊手市と称して年末まで市に出す所もある。

おことじまい

一二月八日。二月八日のおこと始めと同じ。竿の先に目籠をかかげ、一目小僧の入らぬようよくにらみ、けんちん汁を食べる。石神井には「火伏せのお経」という風習があって薪をもやしながらお祈りし、半分位燃えたのを家にもって帰って荒神さまにかざるという所もある。

関の夜町、関のボロ市

一二月九、一〇日頃。関の本立寺のお会式で人出があるのでお店も出て関のぼろ市と言われている。赤飯をふかし、けんちん汁や煮物をにる。雑司ケ谷の鬼子母神や大泉各地の日蓮宗の題目講等から、万灯の行列がくり出されたが、近年、本立寺では行なわれず妙福寺では盛んに実施されている。ぼろ市とは農家で必要な古着や農具の店が出たからである。

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冬至

一二月二二日頃。太陽が最も南の方に移る日で、昼が一番短く夜が一番長い日である。これから寒さが一段ときびしくなるが、これから少しずつ日が長くなる所から花咲き、鳥歌う春の季節が近づいて来るという太陽の誕生日とも考えられている。冬至の食物にはかぼちゃを食べ(中風よけ)ゆず湯に入りみそぎとする。小豆がゆをつくり、またうどん、そば等を食べる。ゆずはぬかみそにも入れ、正月に食べると風邪をひかないという。

餅つき

一二月二五日頃。神に供える鏡餅をつくり、じざい餅やからみ餅もつくって、近所に配ったりする。

正月用の雑煮餅もこの時につくが、水餅、かき餅用は寒餅としてつく。少いので家族だけでつくのが普通である。

大掃除

一二月二五日頃。すす払いとも言い、一年間の汚れや蜘蛛の巣をとる。以前には畳を上げて日にあてる事も行なわれ、夕方には畳をたたく音が聞えたものである。ふすま、障子もはずし、家具を片づけたがらんとした家の中で笹竹のほうきをつくって、すすやくものす、ほこりを払う。すす払いの人は頬かぶりをしてやるが、いろりやかまどでもやすため、すすが多く、まっくろになってしまう。普段片付けない所も清掃をする。神棚のものも整理して、氏神にもって行き、大みそかにおはらいをしてもやしてもらう。

神飾り

一二月三〇日以前。三一日では一夜かざりと言っていやがるので、三〇日より前にかざる。氏神からしめ縄、しめ、お札等を分けてもらい、大掃除で清掃された神棚にかざる。門松を立てる家もまだ多い。氏神からうけて来た「人型」に名と年令を書いて自分の身体のわるい所をさすり病気をうつして神前で焼却してもらうことも行なう。

大みそか

一二月三一日。正月の用意に、餅や焚きつけの豆の枝を用意し、正月の料理もつくって重箱につめておく。年越しそばと言ってそばまたはうどんをつくり、神棚にも供える。「みそか祓い」で家族の頭を一人一人祓って悪霊や病気を追いはらってそれを門口にさしておく。除夜の鐘を聞くまで、その年を惜んで起きて居る。そして除夜の鐘を聞きながら宮まいりに出かける。

<節>

第四節 冠婚葬祭
<本文>

人が生れてから死ぬまでの間に、出生、お宮まいり、七五三、結婚式、還暦、隠居、死去、葬式等、いくつかの儀式があって、そこを通りぬけて行く。これを総称して冠婚葬祭というが、この風習も所によりずいぶん変った点があってまとまったものではないが、一応、前区史や、古老聞書によってその概要を記しておく。

出生

妊娠して三か月目、つわりも無事納まって五か月に入ると、戍の日に腹帯を締める。腹帯は紅黄白(三色さんしき)の綿布を腹部にまくが、長さは半反(一丈四尺)で寿とか、犬とか書いてたいてい実家から送られたものである。紅・黄の布は一つ身や半てんの裏に使った。水天宮のうろこの守り紐を腹帯にぬいつけることもあったという。水天宮は海の神即ち「生み」の神、安産祈願なのである。腹帯は産婆か母親にしめて貰う。この日小豆飯(赤飯)をたいて里の親や産婆に御馳走をする。

予定日が近づくと今は入院の準備であるが、以前は産室に藁を敷き、産婦の両脇と背にお産蒲団を置いて身を支え、安産祈願のため桝の隅に飯粒をつけて庚申に供え、それと一しょに粥をつくり産婦の食事にした所もある。妊娠中妊婦が気をつけることはいろいろあって、一種の迷信のようなものであるが、やはり生れる子が心配で気をつけてしまう。

四足を食べると一二か月胎内に子をかかえるとか、兎の肉を食べると三つ口の子ができる。鳥肉を食べると、三本指やトサカッ子ができる。火事や死人を見てはいけない。その時はっとして身体に手をあてると、子供のそこにあざができる。そこで妊婦は腹帯の頃から懐に鏡を入れておくと照りかえしてくれるという。

産気がきたらまず髪を洗い、麻でゆわえ、干葉ひばを入れた腰湯につかって、出産を待つ事になる。昭和の始め頃までは、産婆も少く、とり上げ婆さんと言われる近所の熟練者が産婆の役をした。藁を二一把まるめてそれに寄りかかり、産後一日に

一把ずつはずして二一日に終る。

出産は取り上げ婆さんや産婆に助けてもらう。臍の緒は麻でしばってその下を切る。切った臍の緒は半紙にくるみ神棚や鏡台の引出し等にしまっておく。はしかになった時、それをけずって飲ませれば軽くすむと言われる。エナはエナ屋に渡すか、以前は産米、かつおぶし、ごま、麦、あずきの五品を添え、トンボロに埋める。そして先ず父親が犬等にほられないようにかたくふみつけておく。産湯をつかわせ、用意の下着、着物を着せる。実家からは早速力米(三升)とかつおぶし、味噌漬が届けられ、近所や親戚の人も見舞に来る。これをお産見舞という。

産婆(又はとり上げ婆さん)はお七夜まで毎日お湯に入れに来る。三日目には「三つ目の牡丹餅」をつくる。親は甘いものを食べてはいけないので、きな粉か胡麻のぼた餅にした。七五日間は食物で気をつけるものが多く、鮭は血をあらすから食べてはいけないとされていたが、鰹節といわしはよかった。しかし七五日間は味噌漬一方と言われている。二一日立つと、二一日おびやと言われ、妊婦は起きてよい事になっていた(ふとん上げ)。

生後七日目をお七夜と言い、実家、とり上げ婆さん(産婆)や近所の人を招き御馳走をした。

この頃名前をつける。村の有名人や仲人につけてもらう。幾通りか候補の名を書いたこよりを神棚に上げ、父親がくじをひく、幼な子にひかせる事もある。名がきまったら半紙に書いて帯あけまで神棚にはっておく。

産婦が難産で命を落す時がある。その時は成仏するように、川の橋のたもとに戒名を書いた旗を一本と塔婆を立て、そばに手桶をおき、そこを通る人に杓で水をかけて供養してもらっていた。かんじん流れと言い、西大泉の唐沢橋、北大泉の比丘尼橋等で行なっていた。

妊娠の食事は白米のおかゆ、塩、梅干、みそ漬で干ぴょうをやわらかく煮たものを、三日目頃からお乳が出るようにと、いわしのみそ汁を飲ませた。井戸水も一一日目までは汲めず、一一日目に米、塩を井戸に供えてから始めて自分で汲むことができた(旭丘、小竹)。男親は厄年に子どもが生まれると、お七夜前に箕の中に入れて四辻に捨て、近所の人に拾って貰う

風習があった。初孫の分娩は実家でして、お七夜に姑が孫を見に行く事が行なわれてもいた。これを孫だきと言って「孫だき唄」(初うせ)を唄っていた。

お宮まいり

男児三一日、女児は三三日に始めて氏神に詣でる。男児ならこの日のため実家からもらった熨斗目(羽二重の紋付)を着て、姑か里の親に抱かれて行く。女の子は錦紗の重ねである。これを「帯あけ」ともいう。実家、仲人をよんで御馳走をする。嫁はその日は実家の母親と一しょに帰り、一晩泊ってもよかった。この日から産婦も同じ飯を食べるようになった。火を使う事も出来るようになる。この日か前の晩に、うぶ毛をそる事もあった。

百日の食初め

生れて百日目、小豆飯、尾頭つきのお膳で、一粒でも口にふくませる。茶碗、箸、膳等一揃が実家から贈られる。この日赤児に石を拾ってきて洗ってなめさせた所もある。かたい人間になれとの願いから。

誕生後始めての正月には親類、親元から、弓破魔(男児)羽子板(女児)がおくられた。それを床の間にかざり、関係者を招待した。この日孫だきをする所もある。(小竹旭丘

初節句には、親元、親類、仲人、友人等から、女なら三月に雛人形、男児なら五月に五月人形が贈られ、それをかざって雛あられ、菱餅、白酒を供え、又柏餅、ちまきを供える。またそうした品物をそれぞれ内祝としてお返しをする風習である。外のぼりを立てる場合も多い。

初誕生・七五三

誕生前に歩き出した子には一升餅を背負わせ、倒れない時はわざと倒した。早く歩き出すのは「親を倒す」というので子の方をころがすわけである。

七五三は一一月一五日に、その年七、五、三才になった子が氏神に参拝する儀式である。普通女児が七才男児が五才になると、本裁ちの着物にあげをして、袋帯を結んで(おはさみ、ふくら雀)盛装して、手をひかれたり、印半てん、はちまきの若衆の肩車で、神社に行き、報告と祈願をする。男児は羽織袴であったが現在は洋服の場合も多い。その時、餅、みかん等をごぜん籠で持参し、餅まきをする。小榑の諏訪神社では、本殿のまわりを祝児は三回まわって、成長と無事を祈っている。

群衆が子どもの衣裳を見に、あるいは餅、みかんを拾いに来る。勿論長男、長女の時はお祝いを頂くので配り物として丸餅と酒、千歳飴、みかん等を親せきに前日あたりに配っておく。

七五三について『北豊島郡誌』の下練馬村の項に次の記述がある。

七五三の祝の内にて長子女の七歳祝を鄭重にし他は略式にすること一般の風習とす。当日は親族知己を招き祝児は母の実家より贈られたる祝衣を第一に着し盛装して親族に擁せられて、氏神に参詣す。其際酒肴を携へ行き社地に集まれる者一同に饗し、又餅密柑等を撒きて一同に与ふるを例とす。次で帰宅後祝宴を開く。

一人前

一五歳とか一七歳になると、男児は紋付、兵児帯、女は腰巻、お歯黒をつけたというが、かなり以前の事である。しかし中には一人前の仕事ができなければ一人前と認めない所もあった。

厄年は男が一五、二五、四二、女は一三、一九、三三歳で男四二歳、女三三歳は大厄である。「厄はあとさき三年」と言って、前後三年間結婚、旅立などもさし控え、身を慎しむようになっていた。厄おとしには川崎大師や成田不動様、西新井大師等におまいりをした。

婚礼

男子一八歳、女子一五歳位になるとそろそろ婚姻の話が出て来る。明治の頃たいてい十三歳が小学校卒業であるから、それから二、三年家業の見習、家事裁縫の練習等をして適齢期となる。男は徴兵があったので兵隊から帰ってからというのが、普通であった。しかし結婚にはいろいろな条件があって、あまり本人同志の意志が尊重されない。とかくむずかしいもので、まず家の格式、職業等がつりあわなくてはいけないし、年齢の問題もあった。年まわりについては、一つ、三つ年上の女は「鉦太鼓でさがせ」と言われる程望まれたが、ヨメトメ(四歳、十歳違い)はきらわれた。また二ならび(二二歳)もさけられた。年のまわりが悪いから来年にしようと言うことになる。丙午ひのえうま生まれの女は縁が遠く、夫に先立たれると言い、寅年生まれは「千里行って千里帰る」と言われてよろこばれない。酉年は「嫁とり」に通ずると言って歓迎される。世間のせまい昔では、いとこ同志の縁組も結構多かった。そこで各種のお祭りや年中行事の中で男が女を見

つけ、女が男を見つける花嫁市のようなものが必要だったのであるが、正式には「はし渡し」ということで、両家の間である程度話をすすめる人がいて、次に両家よりそれぞれ媒酌人がきめられて、正式の話になって来る。媒酌人もやはり格式やつり合いがあるので「はし渡し」の人が必ずなるとは言えない。媒酌人は仲人なかうどと言い「仲人の草履へらし」と言われ、Aの仲人は直接Bに話をしないでBの仲人へ、Bの仲人はB家へ、B家からBの仲人へ、そしてAの仲人を通してA家と言うようにそのくりかえしをする。両家の完全な了解がなければ、この手続を省略するわけに行かず、もし破談にでもなればそうした手続を省いたためとも考えられてしまう。結局来てほしい、行ってもよいの気持はあとまわしにして、遠慮と心配と合議とが仲人の行き来を頻繁にしたと言ってよい。一しょに話をすれば簡単なことも婚約が整うまでは両家の間に大きな壁があったわけである。仲人の話はそのまま信用しないでと言うことで、親が直接近所に様子を聞きに行く事も必ずと言ってよい程行なわれた。

いよいよ話がにつまって来れば吉日をえらんで「見合い」となる。しかしそれは形式的でその時はもうきまっていると言ってよい。両家の仲人が両家の親、親せき、むこ、よめとなる人を紹介するが、顔等全然見られず、畳の目ばかり見ていたという話は多く残っている。中には、最初から嫁になる人があらわれずあとでお茶を出しに出て来るという事もあって、嫁さん候補を間違えてしまったという話さえ残っている。こうして見合いが終っても、すぐ結構ですにはならず、男の仲人の方から何回も足を運んで承諾してもらう場合が多かった。嫁にやれば完全に他の家の人となる。人手も足りなくなる。婚家や夫婦仲のことも心配であるという事になるとそう簡単ではなかったのである。話がきまれば「口がため」が行なわれる。仲人が酒をもって相手方に行き約束の成立を祝することになる。そして結納、荷物送り、結婚式等のことについて又仲人の行き来が始まる。結納は吉日をえらび、家内喜樽といって酒を入れた樽と、米を風呂敷に入れた「かます」「なまぐさ」(するめ又はかつおぶし)を「ごぜん籠」に入れ、印半てん、つっかけ草履の「もちぶ」という若い衆に天びん棒でかつがせて婿の仲人は嫁の家に行く。嫁の仲人がそこで待って居て「仕度金」(帯代という)と共に荷物を受ける。そして「もてなし」をして

祝儀を出す。嫁の家が遠いと大変であった。練馬あたりから川越の近くまで四里~五里位の所もあったから、その苦労は大変であった。そこで後には今日のように「目録」ですますようなことになり「ふところで用をすます」というようになった。

婚礼の日は仏滅、申の日をさけ、大安、戍の日などがえらばれた。最近は婚礼は式場で行なう関係もあって、荷送りは式日より早く、又婿入りは行なわないが、以前は荷送りも当日済ませることが多かった。当日の順序を昭和三二年刊『練馬区史』や『古老聞書』には次のように記している。

当日、午前中村の若者衆が印半てんを着て、箪笥、長持等を運んだ。嫁方の気のきいた親戚の者が「荷宰領」となって、五人とか七人の奇数の者が荷物を運んだ。長持(二人でかつぐ)、御膳籠(一人で天秤棒でかつぐ)、挟箱はさみ一人)釣台(板の台の両端に竹をまげてつけ、これに棒を通して二人でかつぐ)に荷物を入れて、静かに進んだ。荷物の中には、親兄弟におくるお土産も入っている(反物、はき物など)。婿の家ではやはり若い者が村境まで出迎え荷物を受け取る「肩がわり」をする所もあったが、そのまま案内して婿の家まで来てもらう方が多かった。この行列の時「こもすけ唄」という祝儀唄や長持唄を歌った。掛声は最後に「こらほい」であったが、婿方の村に入ると「こらこい」とかけていた。道具の中に三三九度の時花むこ、花よめの間に敷くかますが入っている所もあった。荷をおろし飾つけが終ると「御苦労様」という事で酒肴が出る。もう広間では「婿入り」の仕度が進んでいる。荷宰領の人が帰るのに前後して「婿入り」が行なわれる。

婿むこ入り」は本家や、おじ、おば等近親者が七人とか九人の人数で嫁の家に行き、嫁の親戚と顔合せをした。当然婿方の仲人が案内をし、嫁方の仲人が迎えた。座につくと桜湯が出される。その際婿は末席にすわり名を書いた半紙一帖を土産として持参し贈った。祝宴があって、一時間か二時間後帰ると、いよいよ花嫁の出発用意となる。専門の髪結いさんに高島田に髪をゆってもらい振袖姿になって、立ち振舞の酒宴の席に出て挨拶をする。日が暮れると嫁は仲人に伴なわれ、親兄弟、親せき、村人に送られて村境まで定紋の入った提灯をつけ仲人を先頭に両親もつきそい、嫁は着物の裾ははしょって歩いてゆく。そこから婿方の案内人に迎えられ、奇数の人数が婿の家に向う。この時小榑(西大泉町)あたりでは、字の境まで、各部

落の若い衆に酒などを出してわたりをつけておかないと、その区域内でどんな邪魔をされるかわからなかったと、「古老聞書」に記してある。勿論唄を歌うことも出来ないし、肥だめにひたした縄を道路の真中にはられること等もあった。大泉の「お松っつぁん」の伝説や九頭竜橋、道楽橋、しやかい等、部落や村の境の伝説の中には、そうした意味のこめられたものが多かったに違いない。若い娘が他の村へ行ってしまうさびしさが、そうした風習を生んだのかも知れない。また方角の悪い方向や、期日があると、邪魔の入る所をさけたり、方角をかえて、途中中宿に寄って別の方角から来たり、時間も変えたりした。雨が降るのは困ることであるが「降って固まる」とか「降りこめられる」と言ってよろこんだりした。

婚家の御馳走の用意はすべてその組合の者がつくった。前日あるいは当日の朝から、男女二人ずつ手伝いを出し、餅をつく、赤飯をたく、うどん(細く長くの意、そばは切れるからいけない)をつくる。甘煮を煮る。鯛の頭つきを焼き、口取り、さしみ、すのものをつくる。食器類もすべて、もやいで用意されていた。

花嫁行列が歌を歌いながら、迎えの案内によって婚家に到着すると、玄関前でたいまつを焚き、花嫁は蛇の目傘をさして裏口(とんぼ口)から入った。嫁以外は直接縁側から上る事が多かった。婿(養子)取りの時婿は縁側から入った。

花嫁は仲人婆さんに手をとられて、床の間の前に座る。婿はその前に相対する。その間にかますを置く所もある。一対の燭台に百日蝋燭がつけられる。電気は消してある。仲人の差図によって、雄蝶、雌蝶の子供二人が御神酒を注ぎ、三三九度の盃となる。その時仲人の一人が「高砂」をうたう。その前に「おちつき」と言って、雑煮が嫁に出される所も北町の方にあったという。その時仲人が「お毒味をさせて頂きます」と言って酒を改めてから三三九度に入る所もあった。夫婦ちぎりの盃がすむと親子、兄弟との盃があり、本膳が出る。本膳には「お高もり」と言ってお椀にご飯を高くもったのが出てそれを嫁と婿で食べる、もち論箸をつけるだけ、今日のウエディング・ケーキを切るのと同じであろう。お土産の披露があって、式は終る。仲人が一同にその次第をつげ、一同「おめでとうございます」で結ぶ。

それから披露となるのであるが、普通その準備の間に、花嫁は仲人につきそわれて隣近所に挨拶にゆく。「近所まわり」

とか「顔見せ」とか言う上石神井では「留守番をもらいましたから遊びに来て下さい」と言って歩くという。この顔見世を翌日などにする家もあったが、花嫁を見たいと言って集って来た群衆が庭一ぱいにいて、障子に穴をあけたりしてのぞく始末だから、その時に外に出て歩いた方がサービスであって、気のきいた扱いと言われた。

披露の宴では正面に花嫁、花婿、仲人がならび上席に花嫁について来た新客がならぶ。下座に相伴人しようばんとが二、三人(本家や分家)並び、相伴人の司会で宴は進む。特に仲人の挨拶もないが、嫁および嫁方の紹介をかねてやることもある。まず冷酒がまわる。近づきとも言う。これも相伴人の進行で飲み、次に燗酒がまわる。そのあと嫁は「着物披露」として、自分が縫って来た振袖、とめ袖、ひっかえし、訪問着、お召し等と次々と着がえる。その度に吸物が次々とかえられる。時間的には、あくる朝までよいのだから、着物の披露も行なわれるが、全部無理な時は衣桁にかけて披露する事もあった。そうした事が一通り終るとお目出たい唄が次々ととび出して来る。何時間かたって新客の方から、相伴人に「夜もふけて来たので、おつもりにして下さい」という声がかかるが、まだまだととめられ、最後に、主人が酒を何本かもって現われ、お礼を言って、これだけは是非と挨拶をする。花嫁が酒をついでまわる事もある。そのあと「おしのぎ」が出る。長く細くと言うことで、手づくりのうどんが普通である。引出物は昔は、竹籠に笹の葉をしいて鯖三匹、蛤三個であったが、現在はいろいろなものが考えられている。最後に花嫁がお茶を出してお開きとなるが、夜が白々とあける頃になる事も多かったと言う。なおかついで来た竹の棒を庭先でくだいて、花嫁が帰らないしるしにする所もある。そのあと後座敷と言って手伝いの人に御馳走するのであるが、おそくなるので同時の時も多い。

翌日は、少しやすんで昨晩挨拶に行かれなかった組合の家へ婚家の母()や小姑につれられて挨拶にゆく。

夕方から「目出たもうし」の客を招いて披露をする。客は「志らが」半紙とお祝儀をもって来る。再び冷酒から祝宴が始まるが、衣裳の披露は大体衣桁にかけて見せるだけで、早くにぎやかになる。多い時は二、三日つづく事もあり、午後と夜の二回にする事もある。

三日目か五日目に花嫁は姑か小姑にともなわれて里帰りをする。「姑入り」と言いお土産をもって挨拶にゆく。嫁は実家にとまって翌日、嫁の両親が送って来る事もあったが、とまらないで帰るしきたりの所もあった。それから約七〇日間は嫁は「髪洗い」を実家でするようになっていたから、四、五回は実家に帰り時には泊る事も出来た。

こうして式は終るが、新婚旅行もなく里帰りあたりがそれにあたるわけである。

農家で働き手が一人増える事は大変なよろこびであるが、猫の手も借りたい忙しい時には、式は無理なので、農閑期になった秋から冬の間にしなければならない。しかし折角迎える嫁であれば早く来て手伝ってほしい。そうした希望が入れられれば「足入れ」という事が行なわれる。血縁のごく近い人につきそわれてふとんや普段着をもって婿方へ行き、本家、兄弟などの立会いで杯事をすませ、それからは両家の都合に合わせて話合いの上手伝い、暇になった秋に本祝言をあげるのである。

花嫁はその後氏神やお寺の祭りに婚礼衣裳を着ておまいりをし、正月には親戚のおせちに招待された。「新客」として姑や小姑につれられて訪問することが風習になっている所も多い。練馬区は広いためいろいろな風習もあったが、現在は簡略化され式場で行なうのが普通になっている。

葬儀

病人が危くなった時、井戸に頭をつっこんで、その人の名を呼ぶと魂が引き返すといわれ、「魂よばい」の風習が残っている所もあるが、今は井戸もないので、病人を勇気づけるより仕方がない。死人が出るとまず組合の人に通知する。普通男女一人ずつお悔みに来て、スケ(手伝い)となる。葬儀について本家と打合せ、男は通知や寺、役所へ手続きにゆく。通知は二人一組で、親類縁者に知らせに行く。余り急な時は重態と言って行き、そのあとですぐ死去を知らせる事もあった。使いが帰ると、酒と飯を出し、親戚がかけつけた時も「おしのぎ」を出した。たいてい、白飯かぼた餅、汁に漬物、野菜、豆腐類の煮物である。米が二斗位必要になるので、臼で米つきを頼まれる人もいた。

遺体は北向きにして、顔に白布をかけ、魔よけの刃物を上におく。親しい者は死水と言って水で唇をぬらしてやる。枕団

子や枕めし(箸を立てる)を供える。枕団子の数は二個、四個、六個、一三個といろいろ意味があって違っている。四九個とか三六童子にちなんだ三六個の所もあるという。納棺はまず畳をはがして、近親者の手で湯灌を行なう。男衆は褌一つ、女衆は襦袢姿でなわ帯、なわたすきで行なっていたという。たらいを逆さにして死者をその上にすわらせ、あととりが支えて、親族の者がふく。お湯は逆さ水で、水の中へお湯を入れて加減をとる。その場には酒一升ととうふを出して、清めとする。

それが終ると着がえをさせ、経帳子かたびらを左前に着せる。経帳子は白いさらしで、はさみ、物さしを使わず、ひきさいて大勢の手で縫い糸もとめない。白足袋を左右逆にはかせ、草鞋、白さらしの手甲、脚袢、帯をつけ頭陀袋をかける。袋には六文銭や、四九個の団子(みやげ団子)を入れる。これは死出の道中、毎日一個ずつ犬にやってゆくのだといわれる。仕度が終ると「入って下さい」の声で納棺される。棺は戦前までは座棺が多かった。棺の中には、身のまわり品や杖等も入れた。湯灌がすむと祭壇にかざり、通夜の準備に入る。また葬式当日に使うわらじ、ぞうり、旗、七本塔婆も手造りの時があった。

墓穴を掘る人は組合の中から順番できめられ、葬儀の日の朝早くから墓に掘りに行った(床番という)。床番には酒一升と豆腐一丁が用意され、それを飲み食いしながら掘った。深さは一・八m位である。

僧侶のお経が終ると、蓮台に棺をのせ床番がかついで行列を組んで墓地に向う。棺かつぎは格式、貧富によって四人、二人等、また輿こしを使うことがあった。葬列の先頭に炬火を持ち、念仏やお題目を唱えながら墓地に向う。棺は旗のまわりを三回まわって、その中をくぐって門出をする。墓地につくと棺を縄でしばって、穴の中におろし親族が土を二、三個ずつかける。あとは床番がうめて土もりにし、提灯、七本塔婆や花立をたて供えものをする。その間お経を唱えつづける。

埋葬がすむと、その日の床番を正面にすわらせて清めとなる。おとぎと言って本膳が出る。その晩、念仏講中が集って十三仏の掛軸をかざり、ふせがねをたたき、珠数をまわしながら、百万遍という念仏をする。「不動釈迦……」の十三仏と、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏を唱える。題目講ではお題目を唱える。

埋葬の日の翌日(初七日の時もある)、おさんご、水、線香をもって、墓まいりをし、七本塔婆を一本はずし、墓の形を直した。以後七日目ごとに墓まいりをし、塔婆を一本ずつはがしてゆく。三五日か四九日に大きい塔婆をあげて一同で墓まいりをして、仏壇に位牌をうつす。これを「忌明け」と言い住職にお経をあげてもらう。

若い者は極楽へゆく足も速いから三五日、老人は足が遅いから四九日と言われ、だいたい年齢に合せてきめている。それまで線香を一本立てるのは、一本道を迷わずに行くようにとの事である。またその時まで水を飲みに来るからと、生前着ていた着物を北向きにしてかけ、毎日すそに水をかけてやる風習のある所もあった。

四九日のあと、百か日の墓まいりがあり、一周忌、三回忌、七回忌、一三回忌、一七回忌、二三回忌、二七回忌、三三回忌、三七回忌、五〇回忌、百回忌の年忌があって、法事が行なわれる。

喪中については、どの位の期間とするか。神事に参加出来ないのはいつまでか。例えば親の死にあった後、七五三の祝やお宮まいりの必要が生じた時どうするかの問題がある。一年のばす方法もあるが、だいたい四九日の仏事が終ればよいとの考えから、二か月位おくらせてする方法も考えられた。

<節>
第五節 練馬の民間芸能
<本文>

練馬に発生、発達した芸能にどういうものがあるか。その多くが宗教的な信仰行事として生れ、農作業用として使われているものが多いので祭りや行事の様式や祈願事項がかわり、農業の労働条件がかわるとその必要性がなくなり、特に戦中戦後の空白時代をへて復活の機運をつかめぬまま、新しい都市的な芸能が広がり全国各地の民謡や舞踊、伝統的な芸能の収得等に努力しているのが現状である。しかし過去の郷土芸能を保存し、伝えて行こうとする努力も進められている。こうした状況の一部を練馬区教育委員会は「八丁堀三吉囃子」(一九八二発行)の付表に、「区内の主な囃子」として掲出している。

名称保持団体及世話人員数摘要
中村囃子 中村囃子連中
 上原 茂男
中村北二一二〇―一八
一五 中村八幡神社祭礼(九月一一日)に奉納、餅つき唄等も保存、伝承している。江戸時代の末より。
大太鼓、小太鼓二、鉦一。
春日町囃子 春日町囃子連
 加藤  藤
春日町三―三三―一九
一〇 春日神社祭礼(九月一四日・一五日)に奉納、獅子舞、馬鹿面踊なども演ずる。
大太鼓、小太鼓、かね、仮面
田柄囃子 田柄囃子連
 橋本 光由
田柄四―三四―五
一〇 愛宕神社祭礼(七月二四日)に奉納、天祖、八幡神社にも奉納、家々をまわり獅子舞も演ずる。
獅子頭、笛、鉦。
白山神社囃子 白山神社囃子保存会
 椎名幸雄、峯尾 茂
練馬一―七―四
一〇 白山神社祭礼(九月九日)に奉納、獅子舞も演ずる。昭和五〇年頃より豊玉篠田権六氏指導。
八丁堀三吉囃子 八丁堀三吉囃子保存会
 小島多喜蔵
土支田二―一九―二六
一五 天満宮(北野神社)一二月二〇目、氏子からなり、神社に奉納するほか、区民祭等に出演、獅子舞、仁羽舞等も演ずる。
太鼓一組、その他一揃 文政の頃から
中里囃子 中里囃子連中
 樋沼 文治
大泉町二―四八一一六
二一 八坂神社祭礼(六月一五日・九月一五日)及正月三ケ日に奉納、獅子舞も演ずる。東大泉北野神社にも奉納。
関町囃子 関町囃子連中
 田中常次郎
関町二―八六五
三〇 天祖若宮八幡宮祭礼(九月二三日)に奉納。獅子舞、馬鹿面踊を伴う。
石神井の囃子
(早問)
石神井町囃子連
 八方春市、渡辺雍重
石神井町七―二七―二〇他
二三 北原、和田、池淵、根河原、石神井神社、氷川神社、和田稲荷、池淵諏訪稲荷の各祭礼、商店街の祭りに出演。獅子舞、馬鹿面おどり等も演ずる。
上石神井一丁目囃子連
 松本 孝治
一五 立野観音山方面。

石神井台囃子連
 本橋新一、栗原菊一
二〇
(宮元)
大門、沼辺、西村、小関方面
下石神井囃子連
 小川 五郎
一一 旧下石神井町一丁目

豊玉囃子
(現在休止中)
豊玉囃子連
 篠田 権六
豊玉南三―九
二~三 氷川神社の祭礼に行った。
大太鼓、小太鼓二、鉦一、獅子頭。

下練馬宮元囃子
宮元囃子連
 風祭長五郎
氷川台三―二六
三~四 氷川台氷川神社のお浜井戸渡御の時。
 
大太鼓、小太鼓二、鉦、仮面、獅子頭。

下田柄きり囃子
北町囃子保存会
 田中長次郎
北町五―三―一八
二〇 北町氷川神社祭礼(九月一五日頃)区。老人会、農協、町会、学校等の各種行事に参加。昭和の始より田柄より
大太鼓、しらベ二、鉦、獅子頭。

むつみ太鼓
下石神井天祖神社氏子連
 本橋 岩蔵
二五 昭和四〇年頃より、神社へ奉納、慰問、周年行事等参加。
註 *印は執筆者が補充したものである。

囃子は、笛(とんび)一、大太鼓(おかどう)一、小太鼓(しらべ)二、かねよすけ、ちゃんちき)一の五人囃子で、早間はやま中間ちゆうま大間おおまの流儀があるが石神井は早間、高野台は中間、富士見台は大間の調子である。下田柄はきりと言って威勢よくきりをよくする流儀という。囃子の順序は「打込ぶつこみ→屋台、鎌倉→国固め→丁目。打込み→屋台、しめ」とつづき「一つばやし」である。

太鼓は呪具で霊をよぶもの、神につかせるもの、これによって悪霊を鎮め、願いをかなえてもらうわけである。であるから雨乞いや宵宮、初午にたたかれる。

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   練馬の神田囃子

板橋区弥生町七丁目に補陀羅山萬福寺という寺があり、その墓地に、明治三四年一二月六日、囃子連中によって建てられた実相彌照信士の墓石がある。神田囃子の師匠石田滝蔵の筆子塚とも言うべきものであろう。板橋区弥生町の栗原宣玄のぶはる氏のお話によると、この方は神田で建具職と囃子を習い、板橋に帰って付近農村の人たちに本職のかたわら囃子を教えたものという。囃子連の名称が一一刻んであり、練馬区関係では江古田新田(現旭丘)、田中村、中村にその教えを受けた者がいたことを証している。現在も中村の囃子はつづいている。

神楽は里神楽で、各神社の神楽殿で舞われる。神楽師によって番組がいろいろあるが、石神井の氷川神社や西大泉の諏訪神社の祭礼に奉納する新座市野火止の石山太夫一統は大蛇退治や天孫降臨、日本武尊等多く神話からとった二二ばかりである。氷川台の氷川神社や豊玉の大鳥神社、小竹町の浅間神社では江古田の萩原彦太郎社中が奉納している。仮面で笛や太鼓に合せて、無言で所作し、劇的な舞踊をおかめ、ひょっとこの滑稽さを交えて演ずるもので中間に狂言にもあたる神田種蒔等も行なわれる。『練馬の民俗一』によれば明治一二年の前記石山太夫家の「集神楽元締記」の中に東京、埼玉、神奈川辺の里神楽師の集会記録として「豊島郡第八大区七小区、中荒井村三番地 関口幣本」の名がのせられており、その系統として終戦後もしばらく神楽をしていた関口陣太夫がいたと言われる。何の慰安もなかった明治大正から昭和の初めにかけて、何かお祝やお礼すべきことがあると個人でも神楽の小屋をかけて感謝の奉納をし、近所の人たちに見せたものである。早宮の「せきばあさん」に祈って「百日咳」が直ったとこれを奉納した人がいた位である。笛、太鼓も農閑期に練習をして正月には町場にたのまれて助人にゆく者も出て来て、中には農業の忙しい春、秋の頃にも頼まれてしまう者もあったと伝えられている。

八丁堀三吉囃子は文政年間(一八一八―一八三〇)板橋区本町付近で米つきをしていた三吉という人が、米つきをしながら

水車のまわる音、杵の音、水の音等の自然の音にヒントを得て考え出したと言われ、折からはなやかな化政時代に盛んであった囃子の中でも名をなして来た。土支田村の戸長小島八郎右衛門は村の若い衆の楽しみを、賭け事や勝負事から切りかえさせようと、道具をそろえて習わせたと伝えられている。戦後三年間中断したが、関係者の熱意によって再出発したもので、年寄によって支えられている多くの連に対し、後継者も生まれて、将来性をもっている。舞も神楽と違って、狂言的なものが多く、親しみやすい。獅子舞につづき、五穀豊穣子孫繁栄を願う仁羽の舞や金拾い、り通し、金貸し金兵衛、宝蔵倉、車引き、大根蒔き、お亀の舞台などの曲目がある。(「八丁堀三吉囃子」による

練馬であるから練馬的と思われる「大根蒔き」の一部を紹介する。

仁羽一人出てくる。

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  1. 1、鍬・縄をもって中央まで出る。位置をきめその位置を示す。
  2. 2、手ぬぐいで仁羽の型を入れる
  3. 3、鍬で、十二鍬の方法で畑を耕す
  4. 4、汗をふき、中腰で煙草をふかす
  5. 5、縄ずりをする。一人だからまっすぐならないで考える
  6. 6、やり方がわかって始める、うれしくてひたいをたたく
  7. 7、肥料をおく
  8. 8、種をまく
  9. 9、鍬で土をかける
  10. <数2>10、足こみをする
  11. <数2>11、腰をのばし額の汗をふく
  12. <数2>12、鍬をかつぎ畑を一廻りして、手を振り振り帰る
  13.                                     (昭和五一・九、小島忠次郎手記、三吉囃子由来

獅子舞も悪魔祓いで、神事の始め以外にも「こけら落し」とか、開場祝いにも演ぜられるが、大獅子一頭の場合、雄、雌、子獅子三頭の場合がある。氷川台氷川神社お浜井戸の獅子舞は頭をかかげる前足のもの、後足となる者の二人一組である。中里囃子の獅子は正月三か日には氏子中をまわってその家の健康と繁栄を祈っているという。四月二〇日、下中田柄から高松貫井小園井(上井草)にかけて巡行して来るひら方のお獅子さまは舞がなく、芸能と言えないが、獅子頭を台にのせて村中を巡り、悪魔の退散、厄病や稲虫を駆除する役目を果たしている。この日は草餅の御馳走が出た。

東大泉の笠間稲荷(久保上稲荷)は、江戸初期の創建と推定されているが、いつの頃からか初午祭に祝歌を唄う行事が昭和五四年まで行なわれていた。(練馬の民俗一による)。旧当番が「高砂」を、新当番が「四海波」の最初をうたい、一同でそのあとにつづく。直会なおらいに入り、最初に「都」をうたいあとは自由にうたって、「千秋楽」で終り、うどんを食べてお開きとなる。同書により野謡と同じ「四海波」と「高砂」を示すと次のようである。

<資料文>

四海波 四海波静かにて国も治むる時津風枝もならさぬ御代なれや

    あいに相生の松こそ 目出たかりけり げにや 仰ぎても事もおろかや

    かかる世に住める民とて 豊かなる 君の恵みぞ ありがたき 君の恵みぞ ありがたき

高 砂 所は高砂の 尾上の松も、年ふりて 老いの波えも 寄り来るや

    木の下蔭の落葉かくなるまで 命永らえて なおいつまでか 生きの松 それも久しき名勝かな それも久しき名勝かな

「都」から「住吉」までつづき「千秋楽」がまた野謡と同じになるが、同書によれば奥日光の栗橋村では一月一五日の元服祝いにうたっていると記している。

相生の松風颯々の声ぞ楽しむ 颯々の声ぞ楽しむ

<資料文>

都   都から物良き(お祝の)鶴が一つがえ 此の稲荷()の松へと心かけえ

    松はよせじとを枝をよる 鶴はかけじと羽根をのす 末には鶴の住家なる 末には鶴の住家なり

松高き 松高き枝もつらなるはとの峰 曇らぬみよはひさかきの月のをかずらの男山

    げにもさかけき影にきて 君ばんざいと祈るなり 神には弓をあよむなり 神には弓をあよむなり

松 金 松金の岩間をつとうこけむしろ 今敷島の道迄も げに粋ありや此の山の 雨ぎる雪の降しをに尚おしまるる花盛

    手をりやするとのおう梅の花 植いさやかこわんう梅の花をかこわんう

長 世 長世の家こそ おいせの門も有りたるや 此れも年ふる山すみの 千代のおためしの松かけの

    祝の水は薬にて おいをのべたる心こそ 尚行く末も久しけり

金銀草 金銀草と云う草は 一年に 花か四季に咲き 春こうこうと 夏白く 秋むらさきに 冬赤く

    げにやこの花を一枝たおりて手に持たば こかねの花を積むとかあや 玉のこがねを積むとかあや

この家の景色 この家の景色は見事なり 左に水泉 右見れば 七つの蔵を立てならべ君が代はたれにかみせん

    梅の花色をも香もしる人ぞ知るう 君のめぐみぞ有難き 君のめぐみぞ有難き

住 吉 住吉やよえのことふきは七つ八つになる子が しゃくに出て女ちょう 男ちょうのあえをいに

    手にとるちょう子の口に松を立て 松の小枝にたかとめて このおたかをお肴にのせましょう 積り重ねて長者也

千秋楽 ありがたの影向や ありがたの影向や 月住吉の神遊び 御影を拝むあらたさよ

    けに様々の舞姫の 声も澄むなり住の江の 松松影も映るなる 青海波とはこれやらん

    神と君との道すぐに 都々の春に行くべくは これぞ遠城楽の舞 さて万歳の小忌衣

    さす腕には悪魔を払い をさる手には寿福を抱き 千秋楽は民を撫で 万歳楽には命を延ぶ

    相生の松風颯々の声ぞ楽しむ 颯々の声ぞ楽しむ

同じ神事の唄でも氷川台の氷川神社の「お浜井戸渡御」には道中歌が歌われている。四月九日(現在はその頃の日曜)御神体が上ったというお浜井戸と言われる泉(現在埋立てて公園)に神輿のお里帰りがあり、その行きかえりに行列の者が唄う歌

である。行列の順は紋付羽織袴、白足袋、白鼻緒の草履をはいた総代を先頭に、神職、幟、太鼓、獅子頭、鶴、鉾、饌櫃を囲んで赤白青黄紫の五色の幟、神燈、神旗、神官、神輿、梵天傘、宮司、宮元、総代、氏子参列者が列を整えて進む。宮元、総代は白地に赤の巴の扇子を開いて口にあて春の情景を述べた道中歌をくりかえしくりかえし歌いながら正久保橋をへて石神井の岸辺を鎌田橋まで、川を渡ってお浜井戸につく。途中の道中歌は次の通りである。

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  1. 一、さかきばんや まつかあや なみの 追風さほい風 やよがりよそんよー正久保まで
  2. 一、住吉のたちばがそでの 追風さほい風 やよかりよそんよ ―正久保橋付近
  3. 一、あれを見んの としまが沖で この舟は ゆけとうが漕がね ああそびとつくるけし やよがりよそんよ ―湿化味橋付近
  4. 一、とつとふんみ かまだんが橋の下 およぐんわ 鯉かや鮒か ああやのこどもか やよがりよそんよ ―鎌田橋付近
  5. 一、かわぎしんのめじろのやなぎ ああわれにけり やよがりよそんよ ―お浜井戸まで

以上のように途中で歌をかえながら、つくのであるが、この唄も非常に唄がくずれて意味はよくわからない。萩原龍夫「武蔵野の祭」では、次のような考えを述べている。それは「とつとふんみ かまだんが橋の下……」の所であるが、これは中世舞楽の伝書「体源抄」の中の風俗歌の一つに

と言うのがあり、これは東国の処々の田遊に歌われていると。なお、遠江の藤守(大井川町)の田遊詞章太田良本には次のような詞がのっている。

この詞から「かまだが橋」は「浜名の橋」であったということになり、遠江の国からどうしてこの練馬にこの歌が伝わったのかは、わからないが、宮元風祭の一族が小田原の出となれば、何かがつかめそうである。

帰途は道をかえ、行列は逆順に帰るのであるが、お浜井戸では、宮元の風祭氏によって「鶴の舞」が奉納される。非常に簡単な仮装で、紋付羽織袴の宮元が竹であんだ長い帽子を和紙を細く切った羽毛で覆い、竹の嘴をつけた冠をかぶって鶴の首とし、羽織の袖を翼とし、太鼓の音に合せて、雌雄の鶴は首をふり、やがて翼を広げて大きく飛びかい八の字型に飛んだあと、寄りそって、首と首をつけあって、交合をあらわす。氷川の神と水神の化身の鶴の動作によって子孫繁栄、家内安全、五穀豊饒を祈ったとされる。簡単なしぐさの中に素朴な願いと祈りをあらわしている。

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田遊びはその夜、拝殿において柄本家が主となって行なう。以前は社殿の外で行なわれたが、天候の関係とか、神事なら神前の方がよかろうと拝殿内になったという。

拝殿の中央に太鼓をたてて置き主人と作大、鍬取り四人が周囲にすわる。主人と作大は羽織袴で、鍬取りは和服のふだん着で、扇子を右手に持ち太鼓の上で立てたり倒したりしながら、節をつけて歌う。そして又動作をする。一年間の田の農作業の動作をおもしろおかしく現出して迎えた地の神を楽しませ、農民自身の農作に対する努力を誓い神の加護によって、その年の五穀豊饒を達成しようと祈ったわけである。

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ぢいこう ざあこう ぢいのやな すうぶと おもえばやな いいをとーて こうそやな すうぶと おもえばやな

と始まる一同の唄である。その後町歩調べ、田打ち、田うない、代掻き、田踏み、種子蒔き、鳥追い、水掛け、苗間の代掻き、本田の代掻き、春おこし、田掻き、苗取り、米の精霊よねぼうの出現、田植え、稲刈り、倉入れで終了、延々三時間もつづくのである。「武

蔵野の祭り」によれば鳥追いの項で、出てくる身分が一二種あって、他の地方のとよく似ている。

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あれは たんが鳥追い トン あれはたんが鳥追い トン(太鼓) トン 大名うぢ(大明神)の鳥追いトン 大名うじの鳥追い トン いなんづ(稲蔵か)の鳥追いトン よなんづ(米蔵か)の鳥追い あのおとなたち(長老)の鳥追い 百姓たちの鳥追い(主人、作大) ホーイ、ホーイ 鳥こそ追って参って候

その他の項に じいつとの(地頭殿)、まどころどの(政所殿)、わがきみ、としより、にょうぼうたち、じょうずかい(定使)、わらんべ

等中世的な言葉が使われ、この行事の古さを物語っている。

信仰に関するものとしては妙福寺お会式の万燈行列があるが、同好会のような講に発展、打ち振るまといを先頭にうちわ太鼓が行列を組んで、規律正しく前進後退をくりかえして前進する一つのショウである。

労働唄、作業唄は農村における重要な歌曲で、一人で作業する時、集団で作業する時、調子を合わせる時、つかれをいやす時をはじめ酒宴の場でも、どこでも歌われてきた。そして現在こうした仕事がなくなっても、郷土色ゆたかな芸能となっている。

餅搗き唄

餅つきは農家にとって大切な仕事で、わずか一日ではあるが、これから半年間の重要な保存食の作製であり、新しい年を迎える心のはずむ行事である。近所の助っとの人たちと一晩中働く協力の姿である。

そこでまず、目出た目出たという祝い唄から始まる。何しろ長い時間であるから種切れになる。すると誰かが歌い出す。またその次をうけてというように。唄の内容はいろいろで、他の唄の歌詞も入ってくる。こねながら歌う。千本杵でつきながら歌う。ねり唄も歌われた。

<資料文>

目出た〳〵が三つ重なれば

庭にゃ鶴亀 五葉の松

枝も栄える 木の葉もしげる            (上練馬

   ×    ×

五葉は目出たの 若松様よ

枝も栄える 根も葉もしげる            (下練馬

   ×    ×

今年や世がよい 豊作年よ

稲に穂が咲き 穂に穂が咲いた           (中新井

   ×    ×

ここのおかみさん いつ来て見ても

銭のたすきでかね計る               (中新井

   ×    ×

桝じゃまだるい 箕で計る

箕ではまだるい たるだめし            (中新井

   ×    ×

松になりたや 有馬の松に

上り下りの 富士の松               (下練馬

   ×    ×

これの これの館は 目出たい館

奥じゃ三味弾き 茶の間じゃ語る

お台所じゃ 餅搗いて騒ぐ

   ×    ×

娘したがる 其の親たちは

させてみたがる 針仕事

   ×    ×

娘島田と 新しい舟は

人も見たがる 乗りたがる

   ×    ×

富士の白雪 朝日でとける

溶けて流れて 三島におちる

三島女郎衆の 化粧の水

女郎が化粧して 客をひく

客がなければ お茶をひく

   ×    ×

お江戸今朝出て 板橋着いて

戸田とだの渡を 朝舟で越して

わらび昼食 桶川泊り

同じはたごなら 桶川およし

駒を進めて 鴻巣泊り               (中新井

   ×    ×

お江戸今朝出て 板橋越えて

蕨昼食 桶川泊り

同じ泊るなら 桶川よしな

駒を早めて 鴻巣泊り               (上練馬

   ×    ×

えびす柱が 産をすりゃ

大黒柱が そばで腰だく

出来た その子が 床柱

   ×    ×

娘十七 おはぐろつけて

笹にふる雪 はをかくす              (土支田

   ×    ×

山谷土手から 仲町を見れば

高尾 花魁 将棋の駒よ

金銀飛車角 桂馬の横飛び香車

あの歩がたたぬ あの歩がたたぬ

   ×    ×

これがこの家の おさめの臼よ

臼も御苦労 杵もろともに

それに続いて 板前さんも

御縁ござれば また来年も おめでとう       (中新井

   ×    ×

これがこの家の 納めの臼よ

臼も御苦労 杵もろともに

それに続いて 皆さんも御苦労

御縁あったら また来暮も

宿へ戻って 宜しく頼む              (下練馬

茶もみ唄

練馬でお茶を盛んにつくるようになったのは明治以後で、昭和の始め頃までは方々に茶畑があり、茶つみ唄もあったと思うが、よくわからない。お茶はほいろ場で手づくりでつくったので、茶もみ唄がある。ほいろ場のある家ではそこの男衆がたいていもんでいたが、茶師をたのんだ家もある。そうした関係で練馬特有のものではない。製茶工場に頼んで製茶してもらうようになると、手づくりの唄もなくなってしまった。

<資料文>

八十八夜も事なく済んで

あかね襷の ねえさんが

 

お茶の茶の茶の 茶の木の下で

お茶も摘まずに おのろけ話

 

もめよもめ〳〵 もまなきゃよれぬ

もめば古葉も お茶となる

 

もめよもめ〳〵 とまして置いて

後であげ師が 楽をする

お茶師するせいか 新造がほれる

これじゃお茶師も やめられぬ

宇治の銘茶と 狭山のこ茶と

出合いましたよ 横浜で              (土支田

   ×    ×

お茶を摘むなら 下から摘みな

上の棒芽は 誰も摘む

もめよもめ〳〵 もまなきゃよれぬ

もめばもむ程 こ茶となる

お茶師でんぐりもめ 小腕の毒よ

もませたくない うちの人             (上練馬

穂打ほうち唄

七月刈取った麦を、かなごきや足踏脱穀機で穂を落し、庭に乾してクルリ棒で打つ。炎天下クルリ棒を使うのは重労働で汗は流れる、のげがこびりつく、かゆさと暑さに閉口するものであるが、向いあった人々は調子を合わせて交互に棒をうちおろし、段々うってゆく。勿論即興的なものが多い。脱穀がモーター付の脱穀機になっては唄の必要もなくなっている。

<資料文>

唄上げなされ どなたでも

上げたら 後をば 共につけましょ

目出たや この麦うちは

天気よく 風出で

のげを立てたい

十七八の 麦うちは

くるり棒が 折れるか

のげが折れるか

大山先の雲立ちは

あの雲がくれば

雨か 嵐か

今鳴くせみは 何処でなく

奥山の枯木の枝の根でなく

お江戸は名所 花が咲く

浅ましや田舎じゃ 松の葉が散る

お江戸に妻は持たねども

御江戸から吹きくる風のなつかしや

新宿よいと誰がほめた

良い筈よ 昼間にや蕾夜咲く

新宿町が海になれば

釣竿へ文つけ女郎を吊り出す

お前さんとならば どこまでも

親を捨て この世が 闇になるとも (下練馬

お江戸名所 金がふる

あさましや 田舎にゃ楢の実がふる

お江戸にはやる 紅しぼり

おれも欲しや 田植のたすきに (上練馬

若いしよ よりやれ かすうちに

若いしよ おらなきゃ かすが打てない

臼ひき唄(粉ひき唄

物置きの軒下で石臼をまわす。多くは二人むきあって、片手で石臼の穴の中に少しづつ入れながら歌う唄である。廻転の速度に合わせてゆっくり歌う。米団子の粉、もろこしの粉、小麦粉、そば粉等毎日つづく事もあった。

<資料文>

臼ひくたびに 思い出す

甥と姑や姉御は 江戸の粉屋に

男は高き峰の松

あさましや 女は谷の生藤はえふじ

目出たきものは 芋で候

芽さに良きゃ 橋ろくのあまたに

お前さんとならば何処までも

親を捨て此の世が闇になるとも

お前とわたしは樽の酒

仲良いも悪いも人は知るまい

兄弟連れで花売りに

姉は菊 妹はぼたんしゃくやく

青梅の宿はしゃれた宿

宿中の水さえしゃれて流れる

青梅の宿で機織れば

面白や ひで八つおさで九つ

お前いくつ何の年

十六でささげの年になり頃

あなたに心かけた上

まつ代の殿の手を切る

声さに立てば歌います

わしの声 春日の山の鹿の声

十七は川の糸やなぎ

引けば寄る 引かなきゃ浮いて流れる

鶯鳥は ほけきょ読む

吉原の女郎衆は客の文よむ

この他に田植唄や茶つみ唄、もみすり唄、じんがらでの米つき、地形じぎようや井戸かえのよいとまけ等それぞれ唄で仕事は進んでいった。

野謡

野謡、はつうせ、荷担ぎ唄等は主に冠婚等めでたい行事に歌われる祝い唄である。

野謡は、結婚式の祝言が終った時や、めでたい席上で歌われる。高砂や、四海波、鶴亀、千秋楽等がある。

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高砂 高砂や この浦船に 帆を上げて 月もろ共に 出でしよの 波の淡路の島かげや

   遠くなるおの沖過ぎて 早や住江に着きにけり 早や住江に着きにけり (上練馬

   ×    ×

鶴亀 如何に奏聞申すべき事の候 毎年の嘉例の如く鶴亀を舞わせられ その後月宮殿にて

    舞楽を奏せられうずるにて ももかくも計い候 亀は万年の齢を経 鶴も千年をや 重ぬらん 千代のためしの数々に千代のためしの数々に 何を引かまし 姫小松の

    緑の亀も 舞い遊べば 丹頂の鶴も 一千年の齢を君に 授け奉り 庭上に参向申しければ 君の御感のあまりにや舞楽を奏して舞い給う。 (小竹

はつうせ

初瀬とも書き、孫抱き唄とも言う、菊地山哉氏の「玉川布晒唄」によれば府中付近で玉川糸晒しの女子によって古くからうたわれていたものだが、将軍家の御台所と関係のある恋歌でかなり広く流行したと言う。しかし、最初の意義はなくなって、初孫が生れた時、姑が嫁の実家へ行って初めて孫を抱く時歌う唄。また雛の節供等にもめでたい唄として歌われた。

<資料文>

これさまは 初にあがりて 七重の御馳走にあずかりて お肴は たいに ひらめに すずきに ほうぼうに かながしら 吸物は こいの筒切り お酒は 江戸の銘し酒 お酒はお江戸の銘し酒

   ×    ×

十七の もちたる手ぬい 紺屋へやりて なか染めて よすまには 紫竹の篠竹 中には殿御と寝たところ 中には殿御と寝たところ (下練馬

   ×    ×

十七が 初の身もちで 何やらかやら 食べたがる

六月の雪か氷か 霜月師走の竹の子か

   ×    ×

これ様の初にあがりて

歌短冊を ぬす()まれた

われ〳〵は 田舎そだちで

歌の様子も 知らないが

左様なれば うたいましょう

お笑いなさるな 御座の衆

さしのお笑いなさるな 御座の衆

   ×    ×

天竺の 火事の娘が

月に九反の 機を織る

織り上げて 練りて晒して

紺屋へやりて 染めました

紺屋なれば 染めも染めます

お型はなんと 付けますか

背中に獅子に おみこし

兎のはねたる そのところ

帯の地には 瀬田の唐橋

むかぜ(百足)の 捲いたるそのところ 両袖には ぼたん

しゃくやく 植えてぞ よむくそのところ

うわんまえ(上前)には 竹に短冊結びさるそのところ

したんまえ(下前)には わしと殿さと しのびかくねる(

そのところ しさしのものぞ かけるそのところ(土支田

   ×    ×

鎌倉御所の前で 十三の小女郎が 酌をとる

酒より肴よりも 十三の小女郎が 目についた

目につかば 連れて御座れや 江戸 芝 品川の果てまでも

江戸 芝 品川の果てまでも (下練馬

荷担ぎ唄

嫁の荷物を婚家へ運ぶ時の唄、長持唄もこの一つである。長い道中を歩いて運ぶ唄なのでこの他に「めでためでたの若松様よ」や「箱根八里は馬でも越すが」等の唄が中に入って、「可愛いい此の子はよう」が最後になるのが普通だという。近年ほとんどトラックで運ぶので、こうした唄も歌われなくなった。

<資料文>

ちょいと乗り出す 若姫様が          (家を出る時

さきで殿御が 待つなえし

こうらほい

こうらほい 〳〵

こうらほい 〳〵               (先方についた時

可愛いこの娘はよう

あの森の蔭さよう

森が見えます あの家へ            (あの千代森は

行けばよう 石の土台の腐るまで

こうらほい 〳〵               (石神井

    * ついた時は こうらこい〳〵

      という地域もあったという。

童謡(わらべ唄)

遊びは子どもの生きるしるしである。唄は遊びの合図であり、発露でもあり、まとめでもある。遊びは唄で集まり、唄で終り、唄で散ってゆく。遊びの進行係と言ってよい。だから唄は子どもにとって切っても切れないものである。このわらべ唄は子どものよびかけであり、ひとりごとであり、絶叫であり、率直な感想でもある。だからいつ誰れがうたい出したというものでもなく、いつまでつづくかもわからない。

今そうした練馬のわらべ唄を集めるのはむずかしい。練馬特有のものはほとんどないからである。そこでかえ唄でもよい練馬の固有名詞が入っている唄、練馬にふさわしい唄等を若干のせておく事にする。

<資料文>

貧々寒々道場寺

白水流しの三宝寺

あってもくれない禅定院

ちょろ〳〵かけ出す長命寺

いつも不吉な福蔵院

なんでもあるのが南蔵院 (石神井

<資料文>

第一句は「貧たり寒たり道場寺」第四句は「小僧逃げだす長命寺」(住職の男色と解した人がいる)ともうたった。

子供のうたう唄のようであるが、そこにうたわれた道場寺は下石神井、三宝寺は上石神井、禅定院は下石神井、長命寺は谷原、福蔵院は南田中、南蔵院は中村というように、寺の所在地の範囲が、村の子供の生活にしては、大分広過ぎるので、或いは最初は大人によって作られたものではないかとも考えられる。何かによって、寺を巡って歩く人が寺から受ける印象を端的にうたったものではあるまいか。これによって、昔の寺々の性格なり、経済なりが、その一端を示しているようで興味がある。

昭和三二年刊『練馬区史』

<資料文>

大寒む小寒む 山から小僧が泣てきた

何とて泣いて来た 寒いとて泣いてきた

寒けりゃあたれ あたればけむいや

けむけりゃ 向うへ行け

向うへ行きゃ 寒いよ

子守唄 ―おんぶして片手で背をたたきながら唄う

ねんねんよう おころりよう

ぼうやはよい子だ ねんねしなー

ねんねんよう おころりよう

ぼうやは よいこだ ねんねしなー

ぼうやのおもりは どこへいたー

あの山こえて 里へいた

さとのみやげに なにもろた

でん〳〵太鼓に 笙の笛

おきゃがりこぼしに 犬はりこ

お月さんいくつ 十三七つ

まだ年若いね あの子を生んで

この子を生んで 誰に抱かしょ

お万にだかしょ お万どこへ行った

油買いに茶買いに 油屋の前で

すべってころんで 油一升こぼした

その油どうした 太郎どんの犬と

次郎どんの犬と みんななめてしまった

その犬どうした うちころしてしもうた

その皮どうした 太鼓にはって

つつみにはって あっちむいちゃドンドコドン

こっちむいちゃ ドンドコドン

たたきつぶしてしまった

てるてる坊主 てる坊主

あした天気にしておくれ

手まり唄(まりつき唄

あんたがたどこさ 肥後さ

肥後どこさ 熊本さ

熊本どこさ せんばさ

せんば山には 狸がおってさ

それを猟師が 鉄砲で打ってさ

煮てさ焼いてさ喰ってさ それを木の葉で

ちょっと おっかぶせ

高い山から谷底見れば 猫は嫁とる

いたちは媒人 はつかねずみは

五升だるさげて 裏の細道チョコチョコまいる

一番はじめは 一の宮

二はまた 日光東照宮

三は佐倉の 宗五郎

四はまた 信濃の善光寺

五つは 出雲の大やしろ

六つ 村村 鎮守さま

七つは 成田の不動さま

八つ 谷原の長命寺

九つ 高野の弘法さま

とおで 東京 招魂社

お手玉渡しせっせせっせにも使う

あの山に 光るものは

月か星か ほおたる()か

月なれば 拝みましょ

ほおたるなれば 手に取りて

手に取りて 袋に入れて

裏のお稲荷さんに

納めましょ 納めましょ (小榑)(前区史より

せっせっせ

みこしどこへ行く 上総の山へ

高い山から 谷底見れば

小さな子どもが 小石を拾って

紙につつんで こうやへなげた

こうやの番頭さんは 金かと思って

あけて見たらば 小石でござる

「せっせせっせ」で始まる唄は、まりつき唄と同じように、茶つみ、川中島、水師営の会見、四条畷等の小学校唱歌等も自由にとり入れていた。時局をあらわすものに次のようなものもある

<資料文>

一列談判はれつして 日露戦争始って

サッサとにげるはロシアの兵 死んでもつくすは日本の兵

五万の兵をひきつれて 六人残して皆ごろし

七月八日の戦いに ハルピンまでも攻め入って

クロバトキンの首をとり 東郷大将万々歳

羽子つき唄

一人きな 二人きな 三人きたら よってきな

いつ来て見ても ななこの帯を

やのじにしめて しゃれかけ一かんよ

おはじき唄

いちじくにんじん 山しよで椎たけ

ごぼうで むかごで 七草 山芋

九年母で とんがらしでホイ

関所遊び

通りゃんせ 通りゃんせ

ここはどこの細道じゃ

天神さまの細道じゃ

ちょっと通して下しやんせ

ご用のないもの通しゃせぬ

この子の七つのお祝いに

お札を納めにまいります

行きはよい〳〵かえりはこわい

こわいながらも通りやんせ〳〵

ねだり唄 何かほしい。一人では言えない

みんなで言おう それで一斉に

大人は子どもにほどこすことで神仏の保護を願うので

びっちょ投げろ 御道士

播かぬ 種子は はえねえよ (石神井

大山街道(富士街道)を、大山や富士へ参詣にいく人々が、行者に導かれて、群をなして通った時代に、沿道の村々の子供たちは、口々にこんな唄のようなものをうたいかけて、銭をまいてくれるようにせびったのである。吹上観音の市にゆく人々にも「いちんぼ、いちんぼ」とよびかけている。