練馬区史 歴史編

<通史本文> <編 type="body"> <部 type="body">

第七部 歴史資料編

<本文>

上練馬村明細帳

土支田村明細帳

関村明細帳

江古田村村鑑帳

小榑村村柄様子明細書

地誌調書上帳

新編武蔵風土記稿(抄)

四神地名録(抄)

江戸名所図会(抄)

遊歴雑記(抄)

嘉陵紀行(抄)

東京府志料(抄)

武蔵国新座郡村誌(抄)

東京府北豊島郡誌(抄)

文献目録

<章> <節>

上練馬村明細帳
<項>
一、村方明細書上帳写 文政四年六月
<本文>

大岡源右衛門様御役所<外字 alt="え">〓己六月差出ス

村方明細書上帳

豊嶋郡

上練馬村

文化十一戌年ゟ大岡源右衛門 文政三辰年迄

文政四巳年ゟ平岩右膳御代官所

延宝元丑年 竹村与兵衛

検地

宝暦十一巳年 伊奈半左衛門

大岡源右衛門御代官所

武州豊嶋郡

高弐千六百弐拾六石壱斗七升六合 上練馬村

田方反別三拾五町八反弐畝拾三歩 石盛 上 十二 中 十下 八ツ 下々 六ツ

内六反弐畝廿壱歩 畑成永取

同弐反弐畝廿弐歩 連々引

残反別三拾四町九反七畝拾歩

此取米百五拾弐石九斗三升六合 本途

畑方反別四百九拾九町四反五畝廿七歩半

此取永弐百九拾四貫四百四拾七文弐歩 同断

石盛 上八ツ 中六ツ 下四ツ

下々弐ツ 屋敷十 上萱二五

中萱弐ツ 下萱一五 下々萱壱ツ

林畑壱ツ

小以高 築百五拾弐石九斗三升六合

永弐百九拾四貫四百四拾七文弐歩

壱一、文化元子年田柄谷旱損ニ付御手当として被下置申候

永弐拾壱貫七百五拾文

四一、文化十四丑年右同断

永弐拾五貫文

五一、文政三辰年水損ニ付御手当被下置申候

永弐拾貫六百七文壱歩

弐一、文化六巳年七月御手当金

永八拾八貫五百六拾文 本途

三一、文化八未年麦作不作ニ付右同断

永九拾七貫七百五拾文 同

一、私領入会無御座候

一、新田并見附畑反取畑無御座候

一、御林無御座候

一、百姓林合三拾五町九反三畝廿四歩

一、隣村 東ノ方 同郡下練馬村 西ノ方 同郡谷原村

南ノ方 同郡中 村 北ノ方 同郡赤塚村

一、最寄中仙道下板橋宿<外字 alt="え">〓道法凡弐里余同宿<外字 alt="え">〓御伝馬相勤申候

一、当村市場ニ而者無御座候尤村内平地ニ而至而悪地之場土地柄不宜田畑屋敷入交り畑並真木等植付置一躰野方領土生赤土野田ニ御座候

一、用水本田之儀者同郡石神井村溜井ゟ流末ニ而せきあけ候而百姓普請仕用水ニ相用ひ水元ゟ当村まて凡道法壱里半余有之右流末之儀者戸田川<外字 alt="え">〓落込尤川巾弐間位ゟ三間位水元ゟ戸田川迄川路里数相分リ兼申候

一、天水田字田柄谷之場所当村ニ者溜井等無御座候上郷谷合ゟ畑合ゟ落込仕申候場所ニ御座候

一、畑入作之義 畑壱反ニ付銭五百文ゟ壱貫文迄

一、村内渡船作場渡等無御座候

一、悪水之義外村ゟ落込無之流末ハ石神井川<外字 alt="え">〓落込堀巾上ハ弐間位末ニ至り候而者三尺位ニ御座候

一、当村川附村方ニ而者無御座候御普請所等無御座候

一、米津出し之儀戸田川筋隣村西台河岸<外字 alt="え">〓津出し仕船積ニ而江戸御蔵納仕候尤当村ゟ河岸迄凡弐里程も御座候

一、当村之儀大麦小麦粟稗并大根等米ハ少くなく御座候中稲晩稲斗ニ御座候村内衣食之助ニ相成候品何ニ而茂無御座候平年共無大根幷野田有之候摘草等仕糧ニ相用ひ申候

一、肥之儀者下肥灰を田畑共ニ相用申候

一、田畑山林<外字 alt="え">〓有来候杉真木ゟ外相応之品無御座候

一、農業之間男ハ縄ヲなひ莚ヲ織申候尤畑多く御座候故年中地拵等ニ相懸リ男女共ニ農業斗仕候

一、分限高之者無御座候

一、郷蔵壱ケ所 但百姓普請ニ御座候

一、貯穀 御加籾五石 稗百八拾五石六斗六升

一、永弐拾九貫五百三拾三文四歩 去辰村入用

但寺院高名主高相除割合申候米入用并人別割家数割無御座候

辰貸所元

一、金六百四拾六両壱匁 永弐百四拾七文六歩

此利金六拾四両弐匁 永百四拾九文八歩 但壱割

辰利金八分通リ同年不作ニ付 御手当ニ被下置 頂戴仕申候

右者上下練馬村土支田両組三ケ村申合明和年中

伊奈備前守様御支配之節作徳取集穀払代金利請御貸附ニ相願置依之去辰水損ニ付御利金願下仕 御年貢御上納仕申候

一、当村儀者極貧窮者多く御座候

一、家数四百八拾軒 但馬七拾五疋

一、惣人別千九百五拾弐人 但 千三拾弐人 男 九百廿人 女

一、御鷹場野廻リ役人無御座候

一、医師 本道 仙亭

一、瞽女併神子浪人座頭獅子舞大和楽無御座候

一、酒造人無御座候

一、油絞稼無御座候

一、水車 壱ケ所 利左衛門 佐五右衛門

一、酒酢醤油銭質物石物紙類八小物諸敷商仕候 百姓兼藤助

一、右同断 同断平十郎

一、右同断 伊助

一、右同断 長兵衛

一、木綿類八紙并小物諸色商仕候 太左衛門

一、酒酢醤油たはこ 孫兵衛

一、右同断 善四郎

一、右同断 次郎右衛門

一、油賃乄商売 三十郎

一、右同断 三太郎

一、穀物紙小物諸色 銀右衛門

一、酒醤油たはこ諸色 平三郎

一、右同断 彦右衛門

一、右同断 伝四郎

一、酒蕎麦醤油たはこ諸色 惣七

一、右同断 職右衛門

一、かな物商売 平右衛門

一、刻たはこ其外材木商仕候 三太郎

一、右同断 七郎兵衛

一、穀物紙たはこ其外諸色 武助

一、醤油刻たはこ其外諸色 七兵衛

一、穀物質物商仕候 小市

一、材木醤油紙其外諸色 宇右衛門

一、材木商仕候 五左衛門

一、そうりわらしたはこ 半右衛門

一、右同断 与兵衛

一、荒物其外諸色商仕候 藤助

一、紙すき職仕候 佐五兵衛

一、菓子商仕候 佐五衛門

一、豆腐商仕候 平兵衛

一、小間物くわし商仕候 惣兵衛

一、家根屋商売仕其外小間物諸色 四郎兵衛

一、右同断 惣兵衛

一、材木商仕候 庄蔵

一、右同断 清蔵

一、桶職仕候 金左衛門

一、古着酒醤油其他諸色 音松

一、右同断 仁兵衛

一、酒醤油たはこ其他諸色 嘉右衛門

一、くわし其外諸色 友右衛門

一、質物 長左衛門

一、桶屋職仕候 惣左衛門

一、大工職 定右衛門

一、右同断 長八

一、右同断 吉兵衛

一、右同断 三太郎

一、右同断 善兵衛

一、右同断 平左衛門

一、右同断 茂右衛門

一、髪結 伝右衛門

一、右同断 平七

一、同 平四郎

一、木伐 文左衛門

一、同 覚左衛門

一、同 甚右衛門

一、同 新左衛門

一、同 半兵衛

一、同 五郎兵衛

一、同 惣右衛門

一、同 市三郎

一、家作職 太右衛門

一、同 清兵衛

一、同 安兵衛

一、同 喜兵衛

御朱印高廿石壱斗余 御室御所末

一、本尊愛染明王 練月寺観音寺 愛染院

但開山尊智開基相分リ不申候 古器書画碑銘等無御座候 

右同断高八石但別当愛染院廿石之内 別当

一、鎮守八幡宮 同寺

但天照春日相殿拝殿相付申候

御除地三反八畝拾五歩 右愛染院末

一、本尊不動明王 南池山貫井寺 円光院

但開山開基相分不申候 

右同断六畝弐歩 右愛染院門徒

一、本尊薬師如来 大林院最勝院 寿福寺

但開山開基相分リ不申候 古器珍書等無御座候

御除地壱反七畝拾八歩 右愛染院門徒

一、本尊薬師如来 双林山 高松寺

但開基相分リ不申候 古器珍書等無御座候

右同断壱反三畝廿四歩 右愛染院門徒

一、本尊阿弥陀如来 宝樹山知光院 養福寺

但開基相分兼申候 古器珍書等無御座候

右同断壱反六畝拾弐歩 右愛染院門徒

一、本尊阿弥陀如来 長松山地蔵院 泉蔵寺

但開基相分不申候 古器珍書等無御座候

右同断壱反四畝五歩 右愛染院門徒

一、本尊不動明王 山号寺号無御座候 成就院

但開基相分不申候

御除地壱町八反七畝壱歩

一、観音堂壱宇 円光院持

但同寺境内ニ有之申候

右同断中田五畝拾壱歩

一、天神宮 同寺持

但小社ニ而同寺境内ニ有之申候

右同断三反五畝拾弐歩

一、稲荷社地 同寺持

弐拾坪程御縄外

一、子権現社地 同寺持

下畑四畝六歩

一、第六天宮 愛染院

廿坪程右同断

一、第六天宮 同寺持

拾坪程右同断

一、稲荷宮 同寺持

御除地社地壱町壱反壱畝拾八歩

一、鎮守十羅刹宮 寿福寺

但拝殿付

拾坪程御縄外

一、六所権現宮 同寺持

廿坪程御縄外

一、稲荷宮 高松寺

御除地八反三畝廿三歩

一、飯綱権現宮 養福寺

廿坪程御縄外

一、稲荷社 同寺持

御除地壱反五畝歩

一、神明宮 泉蔵寺持

拾坪程御縄外

一、稲荷宮 成就院

廿坪程右同断

一、稲荷宮 同寺持

御除地

一、愛宕大権現 別当京都愛宕支配人 市郎右衛門

社地 屋敷 弐反九畝拾弐歩

中畑 壱反六畝拾四歩

下畑 三町弐(ママ)畝六歩

六坪程御縄外

一、金山大権現 支配人 彦兵衛

廿坪程右同断

一、神明宮 同 喜兵衛

稲荷宮

右之通リ明細書上候通リ相違無御座候 以上

文政四年巳六月 上練馬村

名主 利左衛門

年寄 孫右衛門

百姓代 次右衛門

<項>
二、村方銘細書上帳 天保三年正月
<本文>

天保三年

村方銘細書上帳

豊嶋郡

辰正月 上練馬村

延宝元丑年 竹村与兵衛

検地

宝暦十一巳年 伊奈半左衛門

当御代官所

武州豊嶋郡

上練馬村

高弐千六百弐拾六石壱斗七升六合

惣反別五百三拾五町弐反八畝拾歩半

石盛 上十二 中十 下八 下々六 田方

同 上八ツ 中六ツ 下四ツ 下々弐ツ 屋敷十 上萱弐五 中萱弐ツ 下萱壱五 下々萱壱ツ 林畑壱ツ 畑方

一 私領入会無御座候

一 新田并見附畑無御座候

一 御林無御座候

一 隣村 東ノ方 同郡下練馬村 西ノ方 同郡谷原村

南ノ方 同郡中村 北ノ方 同郡赤塚村

一 最寄中山道下板橋宿<外字 alt="え">〓道法弐里余同宿<外字 alt="え">〓御伝馬相勤申候

一 当村市場ニ而者無御座候尤村内平地ニ而至而悪地之場

土地柄不宜田畑屋敷入交リ畑並槙木植付置一躰

野方領土生赤土野田ニ御座候

一 用水本田之儀者同郡石神井村溜井ゟ流末ニ而せきあけ候而百姓普請仕用水ニ相用ひ水元ゟ当村迄道法壱里半余有之右流末之儀者戸田<外字 alt="え">〓落込尤川巾弐間位ゟ三間位水元ゟ戸田川迄川路里数相分リ兼申候

一 天水田字田柄谷之場所当村ニ者溜井等無御座候

上郷谷合ゟ畑合ゟ茂落込仕附申候場所ニ御座候

一 畑入作之儀 畑壱反ニ付銭五百文ゟ壱貫文位迄

一 村内渡船作場渡等無御座候

一 悪水之儀外村ゟ落込無之流末者石神井川<外字 alt="え">〓落込申候

一 当村川附村ニ而者無御座候御普請所等無御座候

一 御廻米津出し之儀戸田川筋隣村西台河岸<外字 alt="え">〓津出し仕船積ニ而江戸御蔵納仕候尤当村ゟ河岸迄凡弐里程も御座候

一 当村之儀大麦小麦粟稗并大根等米ハすくなく御座候中稲晩稲斗リニ御座候村内衣食之助ニ相成候品何と而も無御座候平年とも蕪大根并ニ野田ニ有之候摘草等仕糧ニ相用ひ申候

一 肥之儀者下肥灰を田畑共ニ相用申候

一 田畑山林<外字 alt="え">〓有来候杉真木ゟ外相応之品無御座候

一 農業之間男女縄をなひ莚を織申候尤畑多く御座候故年中地拵等ニ相懸リ男女共ニ農業斗仕候

一 分限高之者無御座候

一 郷蔵壱ケ所

一 貯穀稗蔵壱ケ所 但 御加籾五石五升四合 貯稗弐百九石七斗八升

一 村入用高割ニ仕名主高寺院高相除割合申候 家数割人別割等無御座候

一 当村之儀者貧窮者多く御座候

一 惣家数四百八拾軒

一 御鷹場野廻リ役人無御座候

一 医師無御座候

一 瞽女壱人有之并神子浪人座頭獅子舞大神楽等無御座候

一 酒造人并油絞等無御座候

一 水車壱ケ所 但御運上奉差出候 名主 利左衛門 百姓 佐五右衛門

一 穀物井元質物 名主 利左衛門

一 酒酢醤油銭質物石物諸色材木商ひ仕候 百姓 藤助

一 右同断 同 平十郎

一 右同断 同 伊助

一 右同断 同 長兵衛

一 右同断 髪結職仕候 同 孫兵衛

一 木綿類紙并小物諸色商ひ仕候 同 太左衛門

一 右同断 同 善四郎

一 右同断 同 伝四郎

一 穀物小物諸色商ひ仕候 同 銀右衛門

一 酒醤油たはこ諸色 同 平三郎

一 右同断 同 彦右衛門

一 刻たはこ其外材木商ひ仕候 同 三太郎

一 右同断 紙小物商ひ仕候 同 勘兵衛

一 銭質紙たはこ諸色商ひ仕候 同 市兵衛

一 荒物其外諸色商ひ仕候 同 藤助

一 豆腐商ひ并銭質仕候 同 次兵衛

一 右同断 同 平兵衛

一 たくわひ商ひ仕候 年寄 太左衛門

一 右同断 百姓 惣兵衛

一 右同断 同 磯八

一 銭質物并紙たはこ小物諸色商ひ仕候 同 与七

一 家根葺渡世仕候 同 四郎兵衛

一 右同断 同 太右衛門

一 右同断 同 由右衛門

一 右同断 同 清兵衛

一 銭質物たはこ商ひ仕候 同 久左衛門

一 同 同 藤助

一 同 同 彦兵衛

一 同 同 音松

一 桶屋職仕候 同 亀次郎

一 同 同 源七

一 同 同 仁左衛門

一 同 同 吉兵衛

一 大工職仕候 同 久太郎

一 同 同 惣兵衛

一 同 同 政次郎

一 酒酢醤油銭質物仕候 同 平次郎

一 右同断 同 紋三郎

一 髪結職仕候 同 粂吉

一 木伐 同 源右衛門

一 同 同 佐五兵衛

一 同 同 利右衛門

一 同 同 覚左衛門

一 木挽渡世 同 角左衛門

一 糸うち職渡世 年寄 孫右衛門

御朱印高弐拾石壱斗余 御室御所末

一 本尊愛染明王 練月山観音寺 愛染院(黒印)

但尊智開基相分リ不申碑銘等無御座候

右同断高八石 但別当愛染院廿石之内

一 鎮守八幡宮 同寺(黒印)

但天照春日相殿 拝殿相付申候

御除地三反八畝拾五歩 右愛染院末

一 本尊不動明王 南池山貫井寺 円光院(黒印)

但開山開基相分リ不申候

右同断六畝弐歩 右愛染院門徒

一 本尊薬師如来 大林院最勝院 寿福寺(黒印)

但開山開基相分リ不申候

右同断壱反七畝拾八歩 右愛染院門徒

一 本尊薬師如来 双林山 高松寺(黒印)

但開基相分リ不申候

右同断壱反三畝廿四歩 右愛染院門徒

一 本尊阿弥陀如来 宝樹山智光院 養福寺(黒印)

但開基相分リ不申候

右同断壱反六畝拾弐歩 右愛染院門徒

一 本尊阿弥陀如来 長松山地蔵院 泉蔵寺(黒印)

但開基相分リ不申候

右同断壱反四畝五歩 右愛染院門徒

一 本尊不動明王 山号等無御座候 成就院(黒印)

御除地壱町八反七畝壱歩

一 観音堂 壱宇 円光寺持(黒印)

但同寺境内ニ有之申候

高八斗三升六合五夕

右同断中田五畝拾壱歩

一 天神宮 同寺持(黒印)

但小社ニ而同寺境内ニ有之申候

右同断三反五畝拾弐歩

一 稲荷社地 同寺持(黒印)

弐拾坪程御縄外

一 子権現社地 同寺持(黒印)

下畑四畝六歩右同断

一 第六天宮 同寺持(黒印)

弐拾坪程右同断 愛染院

一 第六天宮 同寺持(黒印)

拾坪程右同断

一 稲荷宮 同寺持(黒印)

御除地社地壱町壱反壱畝拾八歩 別当

一 鎮守十羅刹宮 寿福寺(黒印)

但拝殿付

拾坪程御縄外

一 六所権現宮 同寺持(黒印)

弐拾坪程右同断

一 稲荷宮 高松寺持(黒印)

御除地社地八反三畝廿三歩

一 飯綱権現宮 養福寺(黒印)

弐拾坪程御縄外

一 稲荷宮 同寺持(黒印)

御除地壱反五畝歩

一 神明宮 泉蔵寺(黒印)

拾坪程御縄外

一 稲荷宮 成就院(黒印)

一 稲荷宮 同寺持(黒印)

御除地 別当京都愛宕

一 愛宕大権現 市郎右衛門(黒印)

社地 屋敷 弐反九畝拾弐歩

中畑 壱反六畝拾四歩

下畑 三町二畝六歩

六坪程 御縄外

一 金山権現宮 支配人 彦兵衛(黒印)

弐拾坪程右同断

一 神明宮 稚荷宮 支配人 喜兵衛(黒印)

右之通村方明細書上候通相違無御座候 以上

天保三辰年

武州豊嶋郡

上練馬村

名主 利左衛門(黒印)

年寄 伊兵衛(黒印)

百姓代 清次郎(黒印)

田口五郎左衛門様

<項>
三、村方明細書上帳(抄) 嘉永三年八月
<本文>

嘉永三年

村方明細書上帳

豊嶋郡

戌八月 上練馬村

延宝元丑年 竹村与兵衛

検地

宝暦十一巳年 伊奈半左衛門

当御代官所

武州豊嶋郡

高弐千六百廿六石壱斗七升六合 上練馬村

惣反別五百三拾五町弐反八畝拾歩半

石盛 上十二 中十 下八 下々六 田方

同 上八ツ 中六 下四 下々弐ツ 屋敷十 上萱弐五 中萱弐ツ 下萱壱五 下々萱壱 林畑壱 畑方

一 私領入会無御座候

一 新田并見附畑無御座候

一 御林無御座候

一 隣村 東ノ方 同郡下練馬村 西ノ方 同郡谷原村

南ノ方 同郡中 村 北ノ方 同郡下赤塚村

一 最寄中山道下板橋宿<外字 alt="え">〓道法弐里余同宿<外字 alt="え">〓御伝馬相勤申候

一 当村市場ニ而者無御座候尤村内平地ニ而至而悪地之場土地柄不宜田畑屋敷入交リ畑並槙木植付置一躰野方領土生赤士野田ニ御座候

一 用水本田之儀者同郡石神井村溜井ゟ流末ニ而せきあけ候而百姓普請仕用水ニ相用ひ水元より当村迄道法壱里半余有之右流末之儀者戸田<外字 alt="え">〓落込尤川巾弐間位ゟ三間位水元ゟ戸田川迄川路里数相分リ兼申候

一 天水田字田柄谷之場所当村ニ者溜井等無御座候上郷谷合畑合ゟ落込仕申候場所ニ御座候

一 畑入作之儀者畑壱反ニ付銭五百文ゟ壱貫文位迄

一 村内渡船作場渡等無御座候

一 悪水之儀外村ゟ落迄無之流末者石神井川江落込申候

一 当村川附村ニ而者無御座候御普請所等無御座候

一 御廻米津出し之儀者戸田川筋隣村西台河岸<外字 alt="え">〓津出し仕船積ニ而江戸御蔵納仕候尤当村ゟ河岸迄凡弐里程も御座候

一 当村之儀大麦小麦粟稗并大根等米ハすくなく御座候中稲晩稲斗ニ御座候村内衣食之助ニ相成候品何と而も無御座候平年とも蕪大根并ニ野田ニ有之候摘草仕糧ニ仕候

一 肥之儀者下肥灰を田畑ともニ相用申候

一 田畑山林<外字 alt="え">〓有来候杉真木ゟ外相応之品無御座候

一 農業之間男女縄をなひ莚を織申候尤畑多く御座候故年中地拵ニ相懸リ男女ともニ農業斗仕候

一 分限高之者無御座候

一 郷蔵 壱ケ所 但 御加籾 五石五升四合 貯稗穀 七百拾七石

内五百七石弐斗弐升者新規囲穀増分

一 村入用高割ニ仕名主高寺院高相除割合申候 家数割人別割等無御座候

一 当村之儀者貧窮者多く御座候

一 惣家数四百八拾軒

一 御鷹場野廻リ役人無御座候

一 医師壱人ニ御座候

一 瞽女壱人有之并神子浪人座頭獅子舞大神楽等無御座候

一 酒造人并油絞等無御座候

一 水車并質物渡世仕候 名主 又蔵

一 醤油造并質物穀物酢其外諸色商ひ仕候 百姓代 藤助

一 酒酢醤油其外諸色小物商ひ仕候 百姓 伊助

一 同断 〃 彦右衛門

一 同断 〃 孫兵衛

一 同断 〃 惣兵衛

一 同断 〃 平蔵

一 荒物并諸色小物商ひ仕候 〃 伝四郎

一 同断 〃 長兵衛

一 同断 〃 平三郎

一 刻煙草并諸色小物商ひ仕候 〃 勘兵衛

一 同断 〃 吉兵衛

一 同断并材木商ひ仕候 〃 三太郎

一 酒酢醤油并諸色小物商ひ仕候 〃 庄三郎

一 質物渡世仕候 年寄 長左衛門

一 同断 百姓 清兵衛

一 菓子商ひ仕候 〃 弥兵衛

一 同断 〃 磯八

一 紺屋渡世仕候 年寄 孫右衛門

一 屋根葺渡世仕候 百姓 太右衛門

一 同断 〃 庄八

一 同断 〃 勘右衛門

一 同断 〃 清兵衛

一 同断 〃 安右衛門

一 同断 〃 三十郎

一 同断 〃 権十郎

一 桶屋職渡世仕候 〃 源七

一 同断 〃 仁左衛門

一 大工職渡世仕候 〃 惣兵衛

一 同断 〃 八右衛門

一 同断 〃 佐兵衛

一 同断 〃 勘左衛門

一 木挽職渡世仕候 〃 源太郎

一 木伐職渡世仕候 〃 覚左衛門

一 同断 〃 清右衛門

一 同断 〃 藤四郎

一 同断 〃 平右衛門

一 同断 〃 庄右衛門

御朱印高弐拾石壱斗余 御室御所末

一 本尊愛染明王 練月山観音寺 愛染院

但開山尊智開基相分リ不申碑銘等無御座候

右同断高八石 但別当愛染院廿石之内 別当

一 鎮守八幡宮 同寺

但天照春日相殿 拝殿相附申候

御除地三反八畝拾五歩 右愛染院末

一 本尊不動明王 南池山貫井寺 円光院

但開山開基相分リ不申候

右同断六畝弐歩 右同断

一 本尊薬師如来 大林山最勝院 寿福寺

但開山開基相分リ不申候

右同断壱反七畝拾八歩 右愛染院門徒

一 本尊薬師如来 双林寺 高松寺

但開基相分リ不申候

右同断壱反三畝廿四歩 右同断

一 本尊阿弥陀如来 宝樹山智光院 養福寺

但開基相分リ不申候

右同断壱反六畝拾弐歩 右同断

一 本尊阿弥陀如来 長松山地蔵院 泉蔵寺

但開基相分リ不申候

右同断壱反四畝五歩 右同断

一 本尊不動明王 山号等無御座候 成就院

右同断壱町八反七畝壱歩

一 観音堂 壱宇 円光寺持

但同寺境内ニ有之候

右同断中田五畝壱歩

一 天神宮 同寺持

但小社ニ而同寺境内ニ有之候

右同断三反五畝拾弐歩

一 稚荷社地 同寺持

弐拾坪程御繩外

一 子権現社地 同寺持

下畑四畝六歩右同断

一 第六天宮 同寺持

弐拾坪程右同断

一 第六天宮 愛染院持

拾坪程右同断

一 稲荷宮 同寺持

御除地社地壱町壱反壱畝拾八歩 別当

一 鎮守十羅刹宮 寿福寺

但拝殿付

拾坪程御繩外

一 六所権現宮 同寺持

弐拾坪程右同断

一 稲荷宮 高松寺持

御除地社地八反三畝廿三歩

一 飯綱権現宮 養福寺持

弐拾坪程御繩外

一 稲荷宮 同寺持

御除地壱反五畝歩

一 神明宮 泉蔵寺持

拾坪程御繩外

一 稲荷宮 成就院持

一 稲荷宮 同寺持

御除地 別当京都愛宕

一 愛宕大権現 支配人 市郎右衛門

社地 屋敷 弐反九畝拾弐歩

中畑 壱反六畝拾四歩

下畑 三町弐畝六歩

六坪程 御繩外

一 金山権現宮 支配人 彦兵衛

弐拾坪程右同断

一 神明宮 稲荷宮 支配人 喜兵衛

右者村方明細奉書上候通相違無御座候

以上

武州豊嶋郡

上練馬村

嘉永三戍年八月 名主 又蔵(黒印)

年寄 五左衛門(黒印)

百姓代 藤助(黒印)

勝田次郎様

御役所

<項>
四、明細書上帳下書 安政二年三月
<本文>

関東

御取締筋御沙汰ニ付

明細書上帳 下書

上練馬村

小林藤之助御代官所

武州豊島郡

高弐千六百廿六石壱斗七升六合 上練馬村

但給々入会等無御座候 江戸日本橋迄 道法三里半余

家数四百九拾四軒

人数 男九百六拾三人 馬八拾壱疋

女八百弐人 牛無御座候

京都御室御所末

一 御朱印高 弐拾石壱斗余 新義真言宗 愛染院

一 御除地 三反八畝拾五歩 〃 愛染院末 円光寺

高附ケ者無御座候

一 御除地 六畝弐歩 〃 同末 寿福寺

同断

一 御除地 壱反七畝拾八歩 〃 愛染院門徒 高松寺

同断

一 御除地 壱反三畝廿四歩 〃〃 養福寺

同断

一 御除地 壱反六畝拾弐歩 〃〃 泉蔵寺

同断

一 御除地 壱反四畝五歩 〃〃 成就院

同断

一 御除地 壱町八反七畝壱歩 円光院持 観音堂

同断

一 御除地 中田五畝壱歩 〃 天神宮

同断

一 御除地 三反五畝拾弐歩 〃 稲荷社地

同断

一 御縄外 弐拾坪程 〃 子権現社地

同断

一 御縄外 下畑四畝六歩 〃 第六天宮

同断

一 御縄外 弐拾坪程 愛染院持 第六天宮

同断

一 御縄外 拾坪程 〃 稲荷宮

同断

一 御除地 壱町壱反壱畝拾八歩 寿福寺持 十羅刹宮

同断

一 御縄外 拾坪程 〃 六所権現宮

同断

一 御縄外 弐拾坪程 高松寺持 稲荷宮

同断

一 御除地 八反三畝廿四歩 養福寺持 飯岡権現宮

同断

一 御縄外 弐拾坪程 〃 稲荷宮

同断

一 御除地 壱反五畝歩 泉蔵寺持 神明宮

同断

一 御縄外同 拾坪程 成就院持 稲荷宮

同断

一 御除地 社寺 屋敷弐反九畝拾弐歩 別当京都愛宕

同断 中畑壱反六畝拾四歩 愛宕大権現

下畑三町弐畝六歩 支配人百姓 市郎右衛門

一 御繩外 六坪程 金山権現宮

同断 支配人百姓 彦兵衛

一 御繩外 弐拾坪程 神明宮

同断 稲荷宮

支配人百姓 喜兵衛

一 名高堂宮神社仏閣無御座候

一 市場并渡船場河岸場等ニ者無御座候

一 男女共農間別段取立候稼方無御座候

一 産物者大根ニ御座候

一 茶屋旅籠等一切無御座候

一 高四拾六石四斗九升壱合 名主 又蔵 卯五拾五才

農間水車質物渡世仕候

但水車之義者 寛政八辰年ゟ

質物之義者 文政七申年ゟ相始申候

一 高九拾三石弐斗弐升五合 百姓 藤助 卯四十弐才

農間醤油造質物諸色商ひ仕候

但醤油造之義者 天保十亥年ゟ

質物之義者往古ゟニ而年暦不相分候

一 高九拾壱石四斗六升四合 年寄 長左衛門 卯四十七才

農間質物渡世仕候

但宝暦元未年ゟ相始申候

一 高三拾石六斗九升壱合 百姓 清兵衛 卯三十六才

農間質物渡世仕候

但天保九戌年ゟ相始申候

右之通相違無御座候 以上

右村

安政二卯年三月 名主 又蔵

大小惣代

衆中

<項>
五、村方銘細書上帳 安政七年二月
<本文>

安政七申年

村方銘細書上帳

武州豊嶋郡

野方領

二月 上練馬村

延宝元丑年 竹村与兵衛

検地

宝暦十一巳年 伊奈半左衛門

武州豊嶋郡

野方領

一 高弐千六百廿六石壱斗七升六合 上練馬村

一 惣家数四百八拾軒

一 御朱印高 弐拾石壱斗余 新義真言宗 愛染院

一 同八石 別当愛染院持 八幡宮

但愛染院弐拾石余之内

一 御除地 三反八畝拾五歩 愛染院末 円光院

一 同 六畝二歩 〃 寿福寺

一 同 壱反七畝拾八歩 愛染院門徒 高松寺

一 同 壱反三畝廿四歩 〃 養福寺

一 同 壱反六畝拾弐歩 〃 泉蔵寺

一 同 壱反四畝五歩 〃 成就院

一 同 壱町八反七畝壱歩 円光院持 観音堂 壱宇

但円光院境内ニ有之

一 同 中田 五畝壱歩 〃 天神宮

同断

一 同 三反五畝拾弐歩 〃 稲荷社

一 御縄外 弐拾坪程 〃 子権現社

一 同 四畝六歩 〃 第六天宮

一 同 弐拾坪程 愛染院持 第六天宮

一 同 拾坪程 〃 稲荷宮

一 御除地 壱町壱反壱畝拾八歩 別当寿福寺持 十羅刹宮

一 御縄外 拾坪程 〃 六所権現宮

一 同 弐拾坪程 高松寺持 稲荷宮

一 御除地 八反三畝廿三歩 養福寺持 飯綱権現宮

一 御縄外 弐拾坪程 〃 稲荷宮

一 御除地 壱反五畝歩 泉蔵寺持 神明宮

一 御縄外 拾坪程 成就院持 稲荷宮

一 御除地 屋敷 弐反九畝拾弐歩 京都愛宕持

中畑 壱反六畝拾弐歩 愛宕大権現

下畑 三町弐畝六歩

一 御縄外 六坪程 支配人彦兵衛 金山権現宮

一 同 弐拾坪程 支配人喜兵衛 神明宮 稲荷宮

一 御蔵壱ケ所

一 水車壱ケ所

一 私領入会無御座候

一 御林無御座候

一 隣村 東ノ方 同郡下練馬村 西ノ方 同郡谷原村

南ノ方 同郡中村 北ノ方 同郡下赤塚村

一 最寄中山道下板橋宿<外字 alt="え">〓道法弐里余

一 当村市場ニ而者無御座候尤村内平地ニ而田畑屋敷入交リ居候

一 田方用水之義者同郡石神井村溜井ゟ流末ニ而偃上ケ相用ひ申候水元ゟ当村迄道法壱里半余有之 流末之儀者戸田川<外字 alt="え">〓落込申候尤川巾弐間位ゟ三間位水元ゟ戸田川迄川路里数相分リ不申候

一 村内渡船作場渡等 無御座候

一 当村川附村ニ者而 無御座候御普請所等無御座候

右者村方銘細奉書上候通 相違無御座候

以上

竹垣三右衛門御代官所

武州豊嶋郡野方領

上練馬村

安政七申年二月 名主 又蔵

御掛リ

御鳥見衆中様

<項>
六、村方明細書上帳下書 元治二年
<本文>

村方明細書上帳下書

武州国豊嶋郡

上練馬村

当御代官所

武州豊嶋郡

上練馬村

一 水車并質物渡世仕候尤水車之儀者挽臼弐枚舂臼捨柄御座候 名主 又蔵

一 醤油造并質物穀物酒酢其外諸商ひ仕候 百姓代 藤助

但質物之義ハ御冥加永

一 酒醤油并質物穀物商ひ仕候 百姓 清兵衛

一 酒醤油并刻煙草質物荒物渡世仕候 〃 勘兵衛

一 升売酒并菓子小売商ひ仕候 〃 善四郎

一 酒醤油并荒物渡世仕候 〃 惣兵衛

一 酒并菓子荒物渡世仕候 〃 栄治郎

一 小間物出稼并荒物渡世仕候 〃 久太郎

一 菓子卸渡世仕候 〃 孫兵衛

一 小間物出稼并酒醤油小売仕候 〃 伊助

一 麹類并荒物商ひ仕候 〃 長兵衛

一 酒醤油商ひ仕候 〃 彦右衛門

一 質物渡世仕候 年寄 長左衛門

一 質物并古着屋渡世仕候 百姓 紋四郎

一 糀酒草履草鞋并古足袋商仕候 〃 山三郎

一 草履草鞋并水菓子商ひ仕候 〃 九兵衛

一 小間物出稼仕候 〃 五兵衛

一 草履草鞋并麹類商ひ仕候 〃 伝四郎

一 豆腐屋稼仕候 〃 甚兵衛

一 古着屋浮世仕候 〃 弥三郎

一 小間物出稼仕候 〃 伊左衛門

一 月三日并子ノ日御造酒其外喰物商ひ仕候 百姓 安兵衛

一 酒醤油并髪結職仕候 〃 太郎右衛門

一 麹類并酒商ひ仕候 〃 吉兵衛

一 草履艸鞋菓子商ひ仕候 〃 治郎右衛門

一 小間物商出稼仕候 〃 惣兵衛

一 餅屋渡世尤近辺市場祭場等<外字 alt="え">〓出稼ニ御座候 〃 磯八

一 飴商ひ 右同断 〃 利右衛門

一 すし商ひ 右同断 〃 五右衛門

一 水菓子商ひ 右同断 長兵衛厄介 角治郎

一 右同断 百姓 弥平治

一 餅商ひ 右同断 〃 三郎右衛門

一 飴商ひ 右同断 〃 太兵衛兄 太吉

一 飴商ひ 右同断 百姓 嘉右衛門

一 麹類商ひ 右同断 〃 弥兵衛

一 甘酒売 右同断 〃 伝右衛門

一 煮乄物商ひ 右同断 〃 居左衛門

一 右同断 〃 藤助

一 大工職渡世仕候 〃 佐兵衛

一 同断 〃 甚五兵衛

一 同断 〃 惣兵衛

一 同断 〃 勘右衛門

一 同断 〃 忠兵衛

一 同断 〃 市三郎

一 同断

一 同断 〃 三郎兵衛

一 同断 〃 平蔵弟 常五郎

一 草屋根葺職渡世仕候 伝右衛門伜 菊治郎

一 同断 百姓 勘右衛門

一 同断 〃 新平

一 同断 〃 庄八

一 同断 〃 八太郎伜 宇之吉

一 同断 百姓 安右衛門

一 同断 〃 権七

一 同断 〃 仁兵衛

一 桶職渡世仕候 〃 忠左衛門

一 同断 〃 七郎右衛門

一 同断 〃 八右衛門

一 同職 〃 喜三郎

一 木挽職渡世仕候 〃 源太郎

一 木伐職渡世仕候 〃 平右衛門

一 同断 〃 萬治郎

一 紺屋職渡世仕候 〃 半右衛門伜 又兵衛

一 綿打職渡世仕候 〃 清左衛門

一 木伐職渡世仕候 〃 権右衛門

一 鋳懸職渡世仕候 〃 吉三郎

一 箸屋渡世仕候 〃 久三郎

一 畳屋職渡世仕候 〃 喜兵衛

一 髪結職渡世仕候 居四郎借家 幸治郎

右者農間都而余業稼方之もの共書面之通相違無御座候并四木菓木類是迄運上 永納来候分一切無御座候 以上

武州豊島郡

上練馬村

名主 又蔵

年寄 五左衛門

百姓代 藤助

松村忠四郎様

御役所

<項>
七、村方明細書上 下書 慶応三年九月
<本文>

慶応三卯年

村方明細書上 下書

武蔵国豊嶋郡

九月 上練馬村

当御代官所

武州豊嶋郡

上練馬村

一 水車并質屋稼穀物渡世仕候 名主 又蔵

但水車之儀者臼捨柄御冥加永壱貫文上納

質稼之儀者永弐百文上納其外御運上無御座候

一 質屋稼并醤油造酒酢穀物商仕候 百姓代 藤助

但醤油造之儀者御冥加永弐百六拾文上納

質稼之儀者同永弐百文上納其外御運上無御座候

一 質屋稼并酒醤油穀物商仕候 百姓 清兵衛

但質稼之儀者御冥加永弐百文上納其外御運上無御座候

一 質屋稼并古着屋渡世仕候 同 紋四郎

但右同断

一 質屋稼仕候 年寄 長左衛門

但右同断

一 酒醤油小売 刻煙草質物荒物商仕候 百姓 勘兵衛

但御運上無御座候

一 小売酒并菓子小売仕候 同 善四郎

但前同断

一 居酒并醤油荒物商仕候 同 惣兵衛

但前同断

一 居酒并菓子小売荒物商仕候 同 栄治郎

但前同断

一 小間物出稼并荒物商仕候 同 久太郎

但前同断

一 麹類并荒物商仕候 同 長兵衛

但前同断

一 菓子卸渡世仕候 同 弥兵衛

但前同断

一 舛酒醤油商仕候 同 彦右衛門

但前同断

一 小間物出稼酒醤油小売仕候 同 伊助

但前同断

一 粕酒草履草鞋并古足袋商仕候 同 山三郎

但前同断

一 草履艸鞋并水菓子商仕候 同 九兵衛

但前同断

一 小間物出稼仕候 同 五兵衛

但前同断

一 居酒并穀物小売荒物商仕候 同 平兵衛

但前同断

一 草履草鞋并麹類商仕候 同 伝四郎

但前同断

一 古着屋渡世仕候 同 弥三郎

但前同断

一 豆腐屋稼仕候 同 甚兵衛

但前同断

一 小間物出稼仕候 同 伊左衛門

但前同断

一 縁日喰物商仕候 同 安兵衛

但前同断

一 酒醤油小売併髪結職仕候 同 太郎右衛門

但前同断

一 麹類併酒小売仕候 同 吉兵衛

但前同断

一 草履草鞋菓子小売仕候 同 治郎右衛門

但前同断

一 小間物出稼仕候 同 惣兵衛

但前同断

一 縁日餅商仕候 同 磯八

但前同断

一 同飴商仕候 同 利右衛門

但前同断

一 同寿し商仕候 同 五右衛門

但前同断

一 同水菓子商仕候 同 角治郎

但前同断

一 同水菓子商仕候 同 弥兵治

但前同断

一 縁日餅商仕候 同 三郎右衛門

但前同断

一 同飴商仕候 同 太兵衛兄太吉

但前同断

一 同飴商仕候 百姓 嘉右衛門

但前同断

一 同甘酒商仕候 同 伝左衛門

但前同断

一 同煮乄物商仕候 同 善右衛門

但前同断

一 同右同断 同 藤助

但前同断

一 同喰物商仕候 同 孫兵衛

但前同断

一 大工職渡世仕候 同 佐兵衛

但前同断

一 右同断 同 甚五兵衛

但前同断

一 右同断 同 惣兵衛

但前同断

一 右同断 勘兵衛

一 右同断 忠兵衛

一 右同断 市三郎

一 右同断 五郎右衛門

一 右同断 常五郎

一 草家根葺職渡世仕候 菊治郎

一 右同断 勘右衛門

一 右同断 新平

一 右同断 庄八

一 右同断 宇之吉

一 右同断 安右衛門

一 右同断 権七

一 右同断 仁兵衛

一 桶職渡世仕候 忠左衛門

一 右同断 七郎右衛門

一 右同断 八右衛門

一 右同断 喜三郎

一 木挽職渡世仕候 源太郎

一 右同断 平右衛門

一 木挽職渡世仕候 源太郎

一 木伐職渡世仕候 平右衛門

一 右同断 萬治郎

一 右同断 権右衛門

一 紺屋職渡世仕候 同 半右衛門伜 又兵衛

一 綿打職渡世仕候 清左衛門

一 箸屋職渡世仕候 久三郎

一 鋳懸屋職渡世仕候 吉三郎

一 畳屋職渡世仕候 喜兵衛

一 髪結職渡世仕候 幸治郎

右者農間都而余業稼方之もの共前書之通相違無御座候 右之外四木菓木温泉薬湯一切無御座候 以上

慶応三卯年九月 上練馬村

名主 又蔵(黒印)

年寄 五左衛門(黒印)

百姓代 藤助(黒印)

枩村忠四郎様

御役所

<項>
八、明細書上帳 明治二年十二月
<本文>

明細書上帳

上練馬村

武州豊嶋郡

高弐千六百廿六石壱斗七升六合 上練馬村

家数四百弐拾軒

人数千八百六拾四人 内 男九百七拾六人 馬九拾弐疋 女八百八拾四人 牛無御座候 僧四人 

朱印高弐拾石壱斗余之内 京都御室御所末

一 高拾弐石壱斗 愛染院

此反別弐町壱反九畝弐歩

同断

一 高八石 八幡宮

此反別壱町六反五畝十五歩

一 除地三反八畝拾五歩 愛染院末 円光寺

一 除地六畝弐歩 〃 寿福寺

一 除地壱反七畝拾八歩 〃 高松寺

一 除地壱反三畝廿四歩 〃 養福寺

一 除地壱反六畝拾弐歩 〃 泉蔵寺

一 除地壱反四畝五歩 〃 成就院

一 除地壱町八反七畝壱歩 円光院持 観音堂

一 除地壱町壱反壱畝拾八歩 春日社 天満宮 合殿

屋敷 弐反九畝拾弐歩

一 除地 中畑 壱反六畝拾四歩 愛宕社

下畑 三町弐畝六歩

一 除地八反三畝廿四歩 八幡宮 天満宮 合殿

一 除地壱反五畝歩 神明宮

一 除地中田五畝拾壱歩 天満宮

一 除地三反五畝拾弐歩 稲荷社

一 繩外下畑四畝六歩 第六天

一 同 弐拾坪程 第六天

一 同 弐拾坪程 子ノ神

一 同 拾坪程 稲荷社

一 同 拾坪程 六所ノ社

一 同 弐拾坪程 稲荷社

一 同 弐拾坪程 稲荷社

一 同 拾坪程 稲荷社

一 同 弐拾坪程 神明宮

一 同 六坪程 金山彦命

一 市場併渡船場河岸等ニ者無御座候

一 男女共農間別段御廉立候稼方無御座候

一 産物ハ大根ニ御座候

一 茶屋旅籠屋等一切無御座候

右之通リ相違無御座候 以上

明治二巳年十二月 上練馬村

年寄 吉左衛門

〃 五右衛門

百姓代 又六

品川県

御役所

上練馬村明細帳

原蔵者は長谷川武範氏(春日町三丁目二七番)。文政四年、天保三年、嘉永三年、安政二年、同七年、元治二年、慶応三年、明治二年の八冊が現存する。

<節>

土支田村明細帳
<項>
一、明細書上ケ帳写 宝暦六年十月
<本文>

宝暦六年

明細書上ヶ帳

子十月

武蔵国豊嶋郡

亥御検見取 土支田村下組

一 高五百七拾八石八斗弐合

此反別 百七拾壱町六畝壱(ママ)畝廿八歩

内 田方五町四反八畝廿四歩 畑方百六拾六町壱反三畝四歩

森拾壱

上田弐町弐反五畝廿三歩 反ニ四斗

森九ツ

中田六反九畝拾七歩 内 五反弐畝廿弐歩水不作引 六畝歩 当亥仕付□

残壱反廿五歩 反ニ三斗五升

森七ツ

下田壱町九反六畝拾壱歩 内 壱町七反壱歩水不作引 壱反五畝弐歩 当亥仕付□

残壱反壱畝八歩 反ニ三斗

森五ツ

下々田五反七畝三歩 内五反弐歩水不作引

残七畝壱歩 反ニ弐斗五升

森六ツ

上畑拾三町弐反壱畝拾壱歩 内三畝歩前々川欠引

残拾三町壱反八畝拾壱歩

此己け

拾三町壱(反五)歩 反ニ七拾文

丑起返り

壱畝拾八歩 反ニ七拾文

丑ゟ林畑立返り

六畝拾八歩 反ニ拾五文

森四ツ半

中畑拾六町六反九せ廿壱歩

此訳

拾六町八畝廿壱歩 反ニ六拾文

萱畑

三反壱畝拾歩 反ニ□文

芝畑

弐反九畝廿歩 反ニ拾□文

森三ツ

下畑百四町七畝五歩

此訳

八拾九町壱反三畝廿六歩 反ニ四拾五文

萱畑

六町八反八せ壱歩 反ニ拾五文

林畑

弐反歩 反ニ拾□文

芝畑

七町八反五□歩 □拾壱文

(下々)畑三拾町弐反(三畝)廿四歩

此訳

弐拾三町九反壱畝廿六歩 反ニ□文

萱畑

弐町壱反壱畝拾八歩 反ニ拾文

林畑

壱町六反壱畝歩 反ニ拾文

芝畑

弐町五反九畝拾歩 □文

森拾

屋敷壱町九反壱畝三(歩□ニ候迄納被□)

小以 米九石九斗弐□ 永七拾貫四百五拾文 □

上野壱町九反四畝歩 反ニ三拾文

中野拾七町壱反□畝□歩 反ニ弐拾四文

(下)野九町五反歩 反ニ拾五文

一 □四升七合 御伝馬宿□

一 石壱斗五升八合 御六尺給米

一 □六斗壱升弐合 荏代納

一 壱石弐斗弐升三合 大豆代納

(一) 永壱貫四百四拾七文 御蔵前入用

一 ふけ米 去ル戍年ゟ□ □

一 御除地八反壱畝廿歩 屋敷 法花宗 妙安寺

(一) 御免地五町六反六畝廿歩 下野 同寺

一 同 八畝歩 下野 稲荷免 同寺

一 御除地五畝歩 屋敷 同宗 本覚寺

一 御免地五反八畝八歩 下野 稲荷免真言宗 万福寺

(一) 同 弐反六畝廿歩 下野 天神免 同寺

一 □ 六反六畝廿歩 下野 □ 同寺

(一) □反三畝拾歩 □ 神明免 同寺

(一) 御除地御免地合 □町五反六畝八歩

一 天神 壱社 別当 本覚寺

一 稲荷 壱社 別当 同寺

一 権現 壱社 百姓寺

(一) 稲荷 壱社 同断

家数百□軒 □(家四人)

人数四百七拾五人 内出□

男弐(百五十人)

女弐百十八人

道心三人

壱町歩ニ付永拾四文宛 名主給

家壱軒ニ付鐚百文宛 定使給

一 せんさい物茄子牛房大根

一 (耕カ)作仕付ケ(間カ)男ハうないおこし仕女ハ薪木取り候

一 御伝馬之義ハ川越通リ白子村定介ヶ仕候

一 江戸日本橋迄道法リ四里半

(指)出シ被遊 仰付候村中之内吟味仕 御(旨カ)之通□銘々書上仕候此通少も相違無御座候 以上

宝暦六年子十月 名主 八郎右衛門

〃 政右衛門

組頭 杢御門

〃 勘左衛門

〃 又兵衛

〃 角左衛門

〃 定衛門

百姓代 喜兵衛

〃 彦八

〃 吉三郎

<項>

二、村方之儀明細書上帳下書 享和四年二月
<本文>

享和四年

村方之儀明細書上帳 下書

武蔵国豊嶋郡

子二月 土支田村

寛文三卯年 稲葉美濃守様御検地

寛文六午年 伊奈半十郎様御検地

大貫次右衛門御代官所

武蔵国豊嶋郡野方領

一 高千三百三拾七石四斗八升三合 土支田村

高百九石弐斗四升 江戸日本橋迄道法五里余

田拾壱町九反五畝拾七歩 上石森拾壱下森七ツ 中石森(九ツ)

但両毛作一切無御座候 下々石(森五ツ)

内 壱畝弐拾壱歩 午砂入引 四町九反三畝拾弐歩 前々不作場永取

残七町拾弐歩

此取米三拾五石八斗三合

高千弐百弐拾八石弐斗四升三合

畑三百六拾五町弐反六畝弐拾五歩 石森 上六ツ 中四ツ半 下三ツ 下々壱ツ半

内壱反九歩 午石砂入引

残畑三百六拾五町壱反六畝拾六歩

此取永百六拾四貫三百八拾八文五分

高千三百三拾七石四斗八升三合

小以田反別拾壱町九反五畝拾壱歩

畑反別三百六拾五町弐反六畝弐拾五歩

一 野三拾九町八反弐拾七歩

此取永九貫百五文八分

一 領分知行寺社領社領 無御座候

一 新田見取畑秣場 無御座候

(一) 御林 無御座候

一 百姓林合反別九町八反七畝拾歩 松杉壱ケ所

但南部大膳大夫様御抱地

一 村内御料私領入合新座郡白子村 東西□ 南北凡□

一 御城米津出し西台岸ニ而舟積

□岸ゟ江戸御蔵□

東方(練馬村 赤塚村 (西方)

一 隣村

南方(練馬村 谷原村 田中村 此、方(小榑村 橋戸村 白子村

一 最寄町場川越往還白子村 道法弐拾四町□

一 当村之義 東西凡壱里半 南北凡 五町

一 当村市場宿場 (無)御座候

一 村内土怔之義野方ニ而黒(土野上赤土交り等ニ御座)候 (一躰)畑居屋敷入込ミ有之竹木(有之候而)打開之広場無御座候

(一) (用)水之儀田反別七町歩余之処 新座郡小榑村土支田村境ニ字いがしらと申所三反歩程之(溜井)御座候而用水引申候干照之節者用水無(之候)らひ之儀ハ□

一 当村之儀米麦粟稗少□作出□無之米者至而晩稲場所(ニ)御座候 其外村内ゟ出(衣)食之助ニ成又ハ薬種ニ可相成草木鳥獣□(無)御座候 飢饉之節者菜大根ひばはんこ摘草等多糧ニ相用申候

(一) 肥之義田方者下肥荏油絞リ糟刈草等□畑方者下肥糠灰下水等(相用申候)

(一) 畑山林江植殖し可然品□無御座候

(一) 農業之間男ハ繩をなひ薪木ヲ(取)女者少々宛綿を江戸ニ而買調木綿取着類織申候 右之外(男女共耕)作之外手業無御座候

(一) 分限高之者無御座候

(一) (御)伝馬川越往還□(勤申)

(一) (郷)蔵壱ケ所□

御加籾壱石七斗九升三合四夕

(一) (貯)穀 六拾三石弐斗九升四合四夕 但天明八申年午年迄之□

七拾九石七斗六升八合

但寛政十一未年麦作実不申ニ付夫食ニ差支申□御下ケ穀願上願之通リ被仰付小前へ割□五ケ年□戻シ被仰付候□通リ御座候

(一) 去亥年村入用九貫六百□

内永□貫弐百拾七文永五貫四百拾壱(文)

一 去ル寅ゟ去亥年迄拾ケ年之内破免無御座候

(一) □孝奇独并勝レ□之者無御座候

一 □

(一) 長寿之者□

(一) 家数弐百弐拾三軒人別 男四百七拾七人 女四百拾七人 但シ馬弐拾八疋

男 四百七拾七人

女 四百三拾七人

出家 弐人

山伏 壱人

(右)之外出家神子医師并(浪)人瞽女座頭(無御座)

(一) 桶工 百姓 次郎八

(一) 屋根葺 〃 平七

一 同 〃 平八

一 同 〃 □

(一) 油酢醤油紙蝋燭 □

(一) □ □

一 同 同断 〃 □

一 □草鞋飴菓子 小商 □

□線香蝋燭之類

(一) 同 同断 (源左衛門)

(一) 同 同断 □

一 同 同断 (善左□□)

(一) □ 小商 百姓 五右衛門

右之外農業之間小商仕候者職人共無御座候

(一) 穢多非人 無御座候

(一) 御除地五町六反六畝弐拾歩 日蓮宗 妙安寺

(一) 同 八反壱畝□ □

(一) 御除地八畝□ □

(一) 稲荷社 長弐間 横八尺 □

一 番神壱所 弐間半 弐間 □

一 御除地五畝歩 本(覚)

御除地六反六畝廿歩 一 八幡宮 別当 万福寺

〃四反三畝拾歩 一 神明社 〃 同寺

〃弐反六畝廿歩 一 天神社 〃 同寺

〃五反八畝八歩 一 稲荷社 〃 同寺

(一) 御除地壱反歩 妙延寺

(御除)地壱反弐畝拾五歩

(一) 神社 長弐間 横九尺 氏子持別当 妙延寺

□ 一 稲荷社 六尺四方 同断 同寺

〃弐反三畝拾歩 一 稲荷社 長□尺 横七尺五寸 同断 同寺

〃弐反歩 一 稲荷社 長壱間 横四尺 同断 同寺

〃壱反弐畝拾歩 一 白山権現社 四尺四面 別当持 同寺

〃七畝六歩 一 稲荷社 四尺四方 〃 同寺

右之外御除地無御座候

一 当村古城之跡名□田申伝候所□古□名所等無御座候

右者相改書上候通少も相違無御座候

武蔵国豊嶋郡野方領

土支田村

享和四子年二月 名主 八郎右衛門

年寄 岩次郎

百姓代 吉三郎

御□地壱反弐畝歩

天神 長三門 横二門 別当持 本覚寺

但小社ニ付縁起等無御座候

一 稲荷 九尺 五尺

右同断

一 鬼子母神 弐間 壱間

一 権現 九尺 六尺 八郎右衛門持

<項>
三、明細書上帳写 文化十一年四月
<本文>

文化十一年

明細書上帳

戌四月 武州豊嶋郡

土支田村

下組

武蔵国豊嶋郡土支田村下組

但 江戸日本橋迄道法五里余

寛文三卯年 稲葉美濃守様御検地

御水帳所持仕候

寛文六午年 伊奈半十郎様御検地

定免 村高五百七拾八石八斗弐合

此反別百七拾壱町六反壱畝廿八歩

内田方弐町四反六畝歩 畑方百六拾九町壱反五畝廿八歩

此訳

上田弐町壱反七畝七歩 但石森拾壱 反ニ五斗弐合 □

下田壱反六畝七歩 但石森七 反ニ三斗五升壱合

下々田七畝壱歩 但石森五 反ニ三斗壱合

内壱畝廿壱歩 午石砂入引

残五畝拾歩

内壱畝歩 辰起返取下

上田畑成八畝拾六歩 永取 石森拾壱 反永拾八文

中田畑成六反九畝拾七歩 永取 石森九

内訳

弐反六畝三歩 前々不作場 反ニ拾八文

壱反五畝歩 同断 反ニ拾三文

壱反壱畝拾九歩 同断 反永四拾五文

壱反六畝廿五歩 同断 反永弐拾文

下田畑成壱町八反四歩 永取 石森七

内訳

弐反九畝拾弐歩 前々不作場 反永拾八文

壱町五反廿弐歩 同断 反永拾三文

下々田畑成五反弐歩 永取 石森五

内訳

壱畝拾弐歩 前々不作場 反永拾八文

弐畝八歩 同断 反永四拾三文

四反六畝拾弐歩 同断 反永拾五文

上畑拾三町九畝歩

内壱反九歩 午石砂入引

残拾弐町九反八畝廿壱歩 石森六

内壱反壱畝六歩 取下 反永拾五文

中畑拾六町六反四畝廿八歩 石森四半

内訳

拾五町九反壱畝歩

七反三畝廿八歩 取下 反永拾五文

下畑百四町弐畝廿五歩 石森三

内訳

八拾九町九畝拾六歩

六町八反八畝壱歩 前々不作場 反永拾八文

弐反歩 同断 反永拾弐文

七町八反五畝八歩 同断 反永拾五文

下々畑三拾町弐反壱畝廿四歩 石森壱半

内訳

弐拾三町八反九畝廿六歩

壱町六反壱畝歩 前々不作場 反永拾五文

弐町壱反壱畝拾八歩 同断 反永拾三文

弐町五反九畝拾歩 同断 拾四文

上畑屋敷成 壱反弐畝拾壱歩 六

中畑屋敷成 四畝廿三歩 四半

下畑屋敷成 四畝拾歩 三

下々畑屋敷成 弐畝歩 壱半

屋敷壱町九反壱畝三歩 拾

外ニ

上野壱町九反四畝歩 反永三拾文

中野拾七町壱反九畝四歩 反永廿四文

下野九町五反壱畝廿弐歩 反永拾五文

御伝馬宿入用上納仕候

六尺給米上納仕候

御蔵前入用上納仕候

大豆上納仕候

菜種上納仕候

一 家数百三軒 但馬拾壱疋

一 御除地八反壱畝廿歩 屋敷日蓮宗 妙安寺

一 御除地五町六反六畝廿歩 明神免 同寺

一 同断八畝歩 稲荷免 同寺持

一 同断五畝歩 屋敷 本覚寺

一 同断五反八畝八歩 稲荷免 万福寺持

一 同断弐反六畝廿歩 天神免 同寺持

一 同断六反六畝廿歩 八幡免 同寺持

一 同断四反三畝拾歩 神明免 同寺持

一 中山道板橋宿定助合并脇往還川越道白子村江助合

右ハ村差出銘細帳書面之通少も相違

右書上候通少も相違無御座候 以上

武州豊嶋郡

土支田村下組

文化十一戍年四月 名主 八郎右衛門

年寄 三郎兵衛

〃 平左衛門

〃 徳左衛門

百姓代 吉三郎

<項>
四、明細帳写 天保二年正月
<本文>

天保二年

明細帳

武州豊嶋郡

卯二月 土支田村

寛文(ママ)三夘年 稲葉美濃守様御検地

寛文六午年 伊奈半十郎様御検地

一 高千三百三拾七石四斗八升三合 武州豊嶋郡

土支田村

江戸日本橋迄道法五里余

高七拾四石五斗九升八合 上石森成十一 中同九ツ

田七町四反弐畝廿二歩 下森成七 下同五ツ

□し一切無御座候

内壱畝廿壱歩 □

残七町四反壱畝壱歩

此取米三拾四石九斗三升六合

高千弐百六拾弐石八斗八升五合

畑三百六拾九町七反九畝弐拾歩

内壱反九歩 連々引

残三百六拾九町六反九畝拾壱歩

此取永百五拾弐貫弐百七拾二文六分

外ニ

一 三拾九町八反六畝九歩 上中下野

此取永九貫百五文八分

一 米八斗弐合 御伝馬宿□

一 米弐石壱斗六升八合 六尺給米

永弐貫 □ □

領分□寺□社領□

一 新田見取秣場 無御座候

一 御林 無御座候

一 村内御料私領入会新座郡白子村 南北凡三丁 東西凡弐丁

一 御城米津出し新座郡下新倉□積仕候右河岸迄道法凡壱里半

一 隣村南 練馬村 谷原村 北ノ方 小榑村 橋戸村 白子村 東ノ方 西ノ方 練馬村 赤塚村 (小榑村) 石神井村

一 最寄町場川越往還白子宿道法廿四五町余

一 当村(之義) (東西壱里半) (南北九五六町)

一 当村(市場宿場町場) (無御座候)

一 村内土怔之儀野方ニ而(里土野上赤土交リ等ニ御座)候 一躰畑居家数入込有之竹木有之候而□開キ広場無御座候

一 当村用水之儀田反別七町歩余之処(新倉)郡小榑村土支田村両村境ニ白子いかしらと申所三反歩程溜井御座候而用水引申(候)旱照之節(有)用水無之候一躰天水場ニ御座候

一 当村之儀米者少々麦稗粟(之外格別多く作出)候物無之米者至而晩稲之場(所)ニ御座候而村(内)より出衣食之助ニ成候者無御座候(飢)饉之節ハ菜大根ひばはんこ摘草等ヲ糧ニ相用申候

一 肥之儀田方者下荏油絞糟シボリカス刈草を畑方下糠灰下水等相用申候

一 (畑山林江植殖し可然品無御座候是迄有来り)(松杉雑木之外無御座候)

(一) (農業之間男ハ縄ヲなひ薪井ヲ取女ハ少々宛)(江戸表ニ而綿買調木綿取着類織申候右之外)男女共ニ耕作之外(手)業無御座候

一 御伝馬中山道板橋宿定助ニ而川越往還白子宿江相勤申候

一 浪人瞽女座頭穢多非人無御座候分限高之者無御座候

一 御除地五町六反弐畝廿歩 日蓮宗 妙安寺

一 同 八反壱畝弐拾歩 同寺

稲荷社

一 同 八畝歩 同寺

一 同 五畝歩 日蓮宗 本覚寺

八幡社

一 同 六反(六)畝廿歩 別当 万福寺

神明社

一 同 四反三畝拾歩 〃 同寺

天神社

一 同 弐反六畝廿歩 同寺

(稲荷社)

一 同 五反八畝八歩 同寺

一 御除地壱反歩 妙延寺

三十番

一 同 壱反弐畝拾五歩 氏子持 別当 同寺

稲荷社

一同 壱反四畝廿歩 右同断 同寺

右同断

一同 弐反三畝拾歩 右同断 同寺

稲荷社

一同 弐反歩 右同断 同寺

右同断

一同 七畝六歩 右同断 同寺

白山権現社

一同 壱反廿歩 右同断 同寺

右之外御除地無御座候

外ニ

一 天神社 壱所

一 同社 壱所

一 稲荷社 壱所

一 弁天社 壱所

右者相改書上候通相違無御座候以上

天保二卯年正月

武蔵国豊嶋郡野方領

土支田村

名主 金次郎

〃 八郎右衛門

組頭 彦右衛門

〃 三郎兵衛

百姓代 吉三郎

<項>
五、村差出書上帳 天保九年三月
<本文>

天保九戌年三月

村差出書上帳

武蔵国豊嶋郡

土支田村下組

山本大膳御代官所

武州豊嶋郡土支田村下組

江戸江四里半

一 高五百七拾八石八斗弐合

此反別百七拾壱町六反壱畝廿八歩

田高弐拾五石三斗八升三合 石盛 上田 壱石壱斗 中田 九斗壱合壱夕 下田 七斗

此反別弐町四反拾五歩

高八升五合 前々砂入引

内壱畝廿壱歩

残而弐町三反八畝廿四歩

此取米拾壱石六斗六升(張紙)㊞八合

内米三合定免切替午増

畑高五百五拾三石四斗壱升九合

此反別百六拾九町弐反壱畝拾三歩

内高六斗壱升八合 前々砂入引

此反別壱反九歩

残高五百五拾弐石八斗壱合 石盛 上畑 六斗 中畑 四斗五升 下畑 三斗 下々畑 壱斗五升

此反別百六拾九町壱反壱畝四歩

田畑荒地御取下場

高八拾石五斗四升三合

此反別廿五町壱反七畝廿三歩

一 当村広サ 東西拾八丁余 南北五丁余

一 家数百八軒人別五百三拾七人

内男弐百六拾六人 女弐百七拾壱人

僧 弐人

山伏壱人

外 馬拾弐疋

一 掛樋 無御座候

一 溜井 百五拾坪程 但し御普請所無御座候 壱所

一 土橋 右同断 壱所

一 石橋 右同断 四所

一 当村鎮守 天神 二所

稲荷 壱所

八幡 壱所

一 社地 熊野山社 壱所

稲荷社 壱所

一 八反九畝廿歩 別当 妙安寺

一 寺院 三所

一 高四拾石五斗弐升七合 日蓮宗 妙安寺

一 御除地五町六反弐畝廿歩

一 高弐石九斗七升九合 日蓮宗 本覚寺

一 御除地五畝歩

一 社地 八幡 神明 天神 稲荷 別当 真言宗 万福寺

一 御除地壱町九反四畝廿八歩

一 御見捨地壱反五畝歩程

一 農業之間男女之業無御座候

右之通帳面奉差上候処相違無御座候以上

天保九戍年三月

右村

名主見習 午之助(在判)

組頭 三郎(張紙)兵衛(在判)

百姓代 茂兵衛(在判)

<項>

六、村差出明細帳写 嘉永三年九月
<本文>

嘉永三戌年九月

村差出明細帳

武蔵国豊嶋郡

土支田村下組

寛文三夘年 稲葉美濃守様御検地

寛文六午年 伊奈半十郎様御検地

一 高五百七拾八石八斗弐合

此反別百七拾壱町六反壱畝廿八歩

内田高弐拾五石三斗八升三合 此反別弐町四反拾五歩 石盛 上田十一 〃 下田七 〃 下々田五

内高八升五合 前々砂入引

此反別壱畝廿壱歩

残高廿五石弐斗九升八合

此反別弐町三反八畝廿四歩

畑高五百五拾三石四斗壱升九合

此反別百六拾九町弐反壱畝拾三歩

内高六斗壱升八合 前々砂入引

此反別壱反九歩

残高五百五拾弐石八斗壱合

此反別百六拾九町壱反壱畝四歩

畑森 上六 中四半 下三 下々壱半

内弐拾八町六反壱畝歩 上野

此永六貫百三拾六文 中野 下野

一 永弐百八拾弐文 水車運上

一 米三斗四升七合 御伝馬宿入用

一 米九斗三升八合 六尺給米

一 永壱貫百七拾弐文八歩 御蔵前入用

一 御除地八反壱畝廿歩 屋敷 妙安寺持

明神免

一 同 五町六反六畝廿歩 同寺持

稲荷社

一 同 八畝廿(ママ)歩 同寺持

一 同 五畝歩 本覚寺

八幡社

一 〃 六反六畝廿歩 万福寺持

神明社

一 〃 四反三畝拾歩 同寺持

一 〃 弐反六畝廿歩 同寺

一 〃 五反八畝八歩 同寺

右之外除地無御座候

一 天神社 弐所

一 稲荷社 壱所

一 弁天社 壱所

一 領分知行寺社領私領 無御座候

一 新田見取場秣場 無御座候

一 御林 無御座候

一 村内御料私領入会新座郡 南北凡三丁

白子宿 東西弐丁

一 御城米者当村之義者至而悪米ニ付年々買納被仰付候

一 隣村南 練馬村 谷原村 北ノ方 小榑村 橋戸村 白戸村 東ノ方 西ノ方 練馬村 赤塚村 小榑村 石神井村

一 最寄町場川越往還白子宿道法 廿四五町余

一 当村之義 東西壱里半 南北凡五六町

一 当村市場宿場町場 無御座候

一 村内土怔之儀野方ニ而黒土野土赤土交リ等ニ御座候 一躰畑居家敷入込有之竹木有之候而打開キ広場無御座候

一 当村用水之儀田反別七町歩余之処 新座郡小榑村土支田村両村境ニ字いがらし(ママ)ゟ申所三反歩程溜井御座候而用水引申候 旱照之節者用水無之候一躰天水場ニ御座候

一 当村之義者(米)ハ少々麦稗粟之外格別多く作出候物無之 米者至而晩稲之場所ニ御座候間 村内ゟ出衣食之助ニ成候者無御座 飢饉之節者菜大根ひばはんご摘草等ヲカテニ相用申候

一 肥之義田方ハ下糞荏油シボカス刈草等畑方下糞糠灰下水等相用申候

一 畑山林江植殖し可然品無御座候 是迄有来リ松杉雑木之外無御座候

一 農業之間男ハ繩ヲなひ薪木ヲ取女ハ少々宛江戸表ニ而綿買調木綿取着類織申候 右之外男女共耕作之外手家業無御座候

一 御伝馬中山道板橋宿定助合并脇往還川越道白子村江助合仕候

一 浪人瞽女座頭穢多非人無御座候

一 分限高之者無御座候

一 当村ゟ江戸日本橋迄道法五里

一 当村田方仕付時節八十八やゟ苗間蒔付尤過半津み田ニ仕 残リ候分者植田ニ仕惣而中稲晩稲作リ付申候

一 御拳場ニ御座候 御成之節者差出申候 御用人足

一 御鷹野御役所江諸上物者桃之(ママ)は葉杉之は 螻虫海老蔓虫袋蜘其外虫類相納申候

一 寛政七夘年下総国小金原 御鹿狩リ之節当村ゟも御用人足差出申候

一 嘉永二酉年右御場所ニ而御鹿狩之節ハ江戸馬喰町ニ而御用相<外字 alt="菫+皮">〓(ママ)申候

一 当村貯稗穀

一 家数百拾軒

内 寺三所 社人無御座候

一 人数五百六拾弐人 内 男弐百九拾三人 女弐百六拾九人

一 馬 拾弐疋

一 牛 無御座候

右者村中明細取調奉書上候通相違無御座候以上

武蔵国豊嶋郡野方領

土支田村下組

嘉永戌三年 名主 八郎右衛門

九月 年寄 利左衛門

〃 勘左衛門

〃 三郎兵衛

〃 平左衛門

〃 徳左衛門

百姓代 茂兵衛

勝田次郎様

御役所

此帳面嘉永三戌年

八月

納ニ相成大切ニ可致者也

<項>
七、明細書上帳 明治九年
<本文>

明細書上帳

第八大区八小区

下土支田村

豊嶋郡

第八大区八小区

下土支田村

古ハ豊嶋郡 郷ト称ス

幅員

東西二十六町四十間 南北拾丁

消し 凡壱里半

管轄沿革

慶長年中ヨリ慶応年末迄旧政府徳川氏官所

里程

府庁迄己ノ方ヘ四里廿丁 日本橋迄辰己ノ方ヘ四里廿五丁 隣村東ノ方(赤塚村上練馬村南ノ方(谷原村上練馬村西ノ方(上土支田村小榑村北ノ方(上赤塚村白子村近傍宿町ハ北ノ方川越往還崎玉県下新座郡白子駅へ十八丁

地勢

該村ハ山無シ大凡平地ナリ 川流ハ土支田川と唱へ西ゟ東へ流レ舟筏ノ便利無之薪炭ハ無之候

地味

赤黒ニテ軽土也其性悪し 然レ共少シク大小麦適し水利不便時々旱ニ苦シム

税地

田弐町三反八畝廿四歩

畑百七拾壱町弐反五畝七歩

宅地弐町壱反四畝拾七歩

原野 ○

山 ○

林 ○

飛地 ○

野廿八町六反四畝廿六歩

宅地

戸数百拾三戸

張紙

貢租

米拾弐石六斗九升八合

金百九十二円六十四銭三厘

雑税

金四拾壱円五十銭

賦金

金廿弐円五十銭

酒取売税 一ヶ年分五円 煙草鑑札税 〃五円 □ 上納

人力車税 〃壱円

小車四十一輌分 二十円五十銭

外ニ質屋鑑札税 五円 二軒分 十円 一ヶ年切

本籍 華族 士族 平民百拾三戸 寄留弐戸

人数六百九拾八人

外ニ本籍男三百四十五人 同女三百五拾三人

入寄留男弐人 同女壱人

出寄留男弐人 同女三人

牛馬

牛 ○ 馬牡拾三頭

舟車

蒸気船 ○

西洋形帆走船 ○

日本形船 ○

馬車 ○

人力車 壱輌

大八車 ○

小車 四拾壱輌

山 ○

丘 ○

林 村内数ヶ所ニ星散致シ候ニ付東西南北幾町歩書載シガタシ

森 ○

原 ○

消し

野 ○ 弐拾八町六反四畝廿六歩

牧 ○

玉川分水溝 玉川上水多摩郡砂川村地内ゟ分水小川新田ゟ支流 夫ゟ田無村ニテ二流ニ分水豊嶋郡区内関消し村上石神井村下石神井消し村田中村ヲ通過シ本村ニ入リ下流上練馬村下練馬村ヲ経テ石神井川ニ入ル 本村ニカヽル処ノ長三十二町五十間幅三尺 此溝亦分水シテ田五反歩ノ用水ニ供ス

土支田川 等名無之広サ六尺水流緩ナリ 清水舟且淡筏ノ通無之 養水上土支田村溜井ヨリ出水ニテ橋戸村ゟ当村入ル下流熊谷県下白子村ニ至ル 此町数四丁三十間幅六尺此溝亦分水シテ僅ニ田弐町四反歩ノ用水ニ供ス

池沼

於玉が池 東西十一間南北廿二間周囲六十六間村ノ東北ノ方ニアリ村ノ用水トナリ終ニ土支田川に入ル

滝 ○

堤 ○

渡 ○

街道 ○

消し

掲示所 本村南境ヨリ四丁拾間□十一間

社寺

北野神社

消し

稲荷社 除地東西三十八間南北三十四間面積千弐百九十二坪

八幡社 合社

神明社 村ノ北ノ方ニアリ 二応神天皇ヲ 一天賀久山命ヲ 四倉稲魂命ヲ祭ル祭日三月廿五日 十月廿五日

稲荷社 三皇太神ヲ境内少数大樹有之

小嶋八郎右ヱ門

北野神社小祠社地税地東西三十一間南北十一間面積三百四十一坪 村ノ中

央ニアリ菅原道実命ヲ祭ル祭日三月廿五日 十月廿五日 境内大樹有之

北野神社小祠社地関口勘左衛門税地東西十四間南北十二間面積百六十八坪村ノ南ノ方ニアリ菅原道実命ヲ祭ル祭日十月廿五日境内大樹無

稲荷社小祠社除地東西二十七間南北十九間面積五百十三坪 村ノ此方ニアリ字後安倉稲魂命ヲ祭ル祭日二月初午日境内大樹無

稲荷社小祠社地加藤三郎兵衛税地東西九間半南北十八間面積百七十一坪村東南ノ方アリ字原と中倉稲魂命ヲ祭ル祭日二月初午日境内大樹無

妙安寺東西三十八間南北三十五間面積千三百三十坪日蓮宗 駿州有静岡県下戸郡沓之谷村貞松蓬永寺未流ナリ村ノ北方ニアリ 天正四酉子年中開山日雄聖自得院人雑司ケ谷法妙寺九世之住職当地来り 天文廿年ゟ二十六年迄開起当□五世日達聖人之砌、綱吉公様御狩野場所其節板倉四郎右衛門勝重任官四品伊賀守開基也当時ニテ住僧廿九世ナリ

本覚寺東西三十間南北九間面積二百七十坪日蓮宗法妙寺雑司ケ谷末流ナリ 村ノ中央ニアリ寛永年中ノ頃開基ス以降当時ニテ住僧十九世ナリ 開山本覚寺円永と申

法花庵東西二十四間南北六間面積百四十四坪日蓮宗ニ而村ノ中央ニアリ万治元戍年中造立無住之義間々有之当時拾八世ナリ開基安祥院常運と申

病院

官立病院 ○

人民共立病院 ○

後ニ記

飲食 麦稗黍芋米拾分一 不足

物産

動物無し

植物茶質中等該村ノ用ニ供ス製茶ニテ四百七十五斤・富残之分東京江売却ス

消し

飯食 米質下等出来高二十八石八斗租税并食料供ス此処飯食

畑米九拾五石食料」

男農業之間縄ヲなひ冬月ニ至薪木伐出市中江運搬ス

女農業之間少々宛綿買調木綿取着類織申候

米質下等出来高二十八石八斗租税并食料供ス

畑米質下等出来高九十五石食料ス

大麦質ハ中等該村ノ食物也他ヘ輸出無之

五百六十八石

小麦質ハ上等出来高ハ弐百四十八石五斗 輸出ハ近村各所水車或ハ諸醸造家等江売却し然シテ市中江運輸ス

大豆質中等ニ位ス出来高百八十八石 近村各所醸造家売却然シテ市中へ販売ス

小豆質中等出来高四石五斗悉皆食料ニ費消ス

粟 質下等拾三石五斗悉皆食料ニ供ス

蕎麦質最モ上等ナリ収穫高百八十弐石五斗東京江運搬ス

稗 質中等出来高百七十五石悉皆食料ニ供ス

黍 質中等出来高ハ七十三石八斗食料ノ余市中へ運搬ス

園蔬類質概ね中等ニ位ス出来高大凡千弐百五拾荷 自用食料ノ残余東京市中ヘ運搬ス

沢庵漬質最も上等ニ位ス出来高三百樽食料残東京

市中ヘ売却ス

柑類質下等出来高弐十五荷悉皆市中へ売却ス

栗柿弐種

第八大区八小区下土支田村

牧蓄

樹芸

豊嶋郡下土支田村当今第八大区八小区ノ地 明治元年ニ桑凡弐百拾六本ヲ植ヒ同二年ニ三百六十本ヲ植ヒ同三年ニ七百二十本ヲ植ヒ同四年ニ八百本ヲ植ヒ同五年ニ六百四十本植ヒ同六年ニ千六百四十本植ヒ同七年ニ三百六十本植ヒ同八年ニ弐百本植ヒ本年ニ至ル迄四千九百八十本

豊嶋郡下土支田村該村ニテ明治元年始テ茶種五斗ヲ下シ同二年ニ六斗ヲ蒔同三年ニ壱石ヲ蒔同四年ニ壱石壱斗同五年ニ壱石八斗ヲ蒔同六年ニ弐石ヲ蒔同七年ニ壱石八斗ヲ蒔同八年ニ壱石ヲ蒔本年ニ至リ終ニ三丁弐反六畝歩ノ地ニ茶生立 明治五年ニ百斤ヲ製シ同六年ニ百八十斤ヲ製シ同七年ニ三百斤ヲ製シ同八年ニ七百五十斤ヲ製シ同九年ニ六百三拾斤ヲ製シ概子東京市中へ販売ス

消し

但製茶所本村

製造

世人ノ見聞智識ニ供ヘキ者一切無之

土支田村明細帳

現蔵者は小島兵八郎氏(旭町一丁目二九番)。宝暦六年、享和四年、文化一一年、天保二年、同九年、嘉永三年、明治九年の七冊が現存する。

<節>

関村明細帳
<本文>

一、明細控帳 享保五年

享保五年 組頭 井口忠右衛門㕝㊞

武蔵国豊嶌郡関村㊞明細控帳

会田伊右衛門様 上ル控

御拳場 定

一 高五百弐拾七石四斗八合 高辻

此反別

百三拾八町四反九歩

但シ高百石ニ付弐拾六町弐反四畝六歩余当ル

内田方四町三反四畝拾弐歩 此高三拾壱石三升四合 畑方百三拾四町五畝廿七歩 此高四百九十七石三斗

七升四合

此訳ケ

石盛九ツ

中田八反十壱歩

分米七石弐斗三升三合

石盛七ツ

下田弐町七反九歩 内七畝廿八歩 前々ゟ間違引

分米拾八石九斗弐升壱合 此高五斗五升五合弐勺也

石盛五ツ

下々田八反三畝廿弐歩

分米四石壱斗八升六合

石盛十ヲ

上々畑六反四畝四歩

分米六石四斗壱升三合

石盛八ツ

上畑八町九畝十五歩

分米六拾四石七斗六升

石盛六ツ

中畑廿町五畝拾九歩

分米百廿石三斗三升八合

石盛四ツ

下畑五拾町六反十九歩

分米弐百弐石四斗弐升六合

石盛二ツ

下々畑弐拾(ママ)六反拾九歩

分米四拾弐石六斗九升五合

石盛十ヲ

屋敷壱町六反廿七歩

分米拾六石九升

石盛一ツ

林畑弐町五反六畝廿五歩

分米弐石五斗六升八合

石盛二五

上萱野壱町壱反壱畝壱歩

分米弐石七斗七升六合

石盛二ツ

中萱野五町七反八畝九歩

分米拾壱石五斗六升六合

石盛一ツ五

下萱野拾町三反八セ廿四歩

分米拾五石五斗八升弐合

石盛一ツ

下々萱野拾壱町八反五セ十壱歩

分米拾壱石八斗五升四合

小以分米合五百廿七石四斗八合

一 畑壱町壱反六畝十二歩 見取場

一 御林 弐ケ所

内 長三百拾間 遅野井山 横百三拾六間 御林壱ケ所

消し

一 松平九郎左衛門様御改椚

此木数 但シ長壱間ゟ弐間迄

千五百廿五本 目通リ壱弐寸ゟ八九寸迄

是ハ当廿三年巳前 上木御炭御用ニ罷成伐払上とり(ママ)木ひ者(ママ)く御座候

長三百拾間 消し

横百六拾間 関山御林壱ケ所

此反別 拾六丁五反三畝拾歩

松平九郎左衛門様御改椚

此木数七千五百本 但シ長壱間ゟ弐間迄目通壱弐寸ゟ八九寸迄

是ハ当廿三年前午年 御炭御用ニ罷成伐払候上ハ 苗木ひかへニ御座候

小左衛門様江上候時手入 右弐ケ所共ニ村中百姓地かり共家数番に仕候

一 御水帳三冊 名主政右衛門所持仕候 中川八郎左衛門様

是ハ五十壱年已前延宝二寅ノ年 関口作左衛門様御縄ニ而御座候

一 大豆 年々高下ニ御座候百石弐斗掛り

代り代米ニ而被下候

一 荏 同断百石壱斗掛り

代 代米ニ而被下候

一 六尺給米 同断百石米弐斗掛り

一 御伝馬宿入用米 同断百石七升掛り

一 高掛リ金 百石金壱分つ、

一 御城米 三斗七升入

但シ俵拵ハ五ツ所結立縄拾ヶ処ニ掛ケ口ハ茶カ々りニ仕候関村ゟ浅草御蔵江馬付ニ而御座候

一 御口米 三斗七升入

但シ壱俵ニ付御口米壱升つヽ

一 御口取永壱貫文ニ付 三拾壱文弐分五リン

一 田方御年貢之儀者悪地場ニて御座候 都悪米之節ハ御願上候 金納仕

候儀も御座候

一 関村田場之儀少照申候而も日損仕候 少々洪水ニ悪水押掛ケ水損場ニ仕候 当拾八年已前千川御上水小用水ニ分ヶ取申候ニ付 水口日損水損之年も田壱反ニ付米四升つヽ出申候 日損不仕候得共水損者度々仕候 依之堀浚江田普請仕田作仕付申候

一 右千川用水分取候ニ付 川際ニ有之候畑田ニ発可申旨池田喜八様御(郎脱力)支配所之節御注進ヲ申上候 田罷成上ハ御訴申相応之御年貢上納可仕候

一 牢人弐人内

壱人加藤源五郎左衛門父 是ハ加藤善次郎西ノ御丸御納戸役相勤 四拾弐年已前亥年小普請彦坂壱岐守組ニ入 廿五年已前辰之年病死仕而兄善次郎儀者御本丸御勘定役相勤メ申候 右源五左衛門儀者次男ニ而何方所も相勤ニ不申候ニ付 当三十七年已前関邨権三郎従兄弟ニ御座候ニ付 当村<外字 alt="え">〓引越畑屋敷作一生浪人ニ而御座候 此段去拾三年已前戍年浪人御改之節江川太郎左衛門様御支配之節書上申候

壱人 若林藤兵衛

是ハ父若林市郎左衛門久世古三四郎組大久保百人組同心相勤 四拾三年已前戍年引込 弐拾七年已前寅年病死仕候 弟市郎右衛門ニ跡敷相譲拙者儀三拾七年已前関村金右衛門従弟ニ御座候ニ付 同村へ引越金右衛門地之内借家作仕罷在候 此段去々戍年浪人御改ニ付書上申候

一 追放者弐人

是者去ル寅七月 当村百姓伝右衛門平四郎与申者所払無□□候

一 寺弐ケ所 本立寺武蔵国新座郡小榑邨

内 妙福寺末

本立寺

法花宗

一 御除地五反九畝拾弐歩 畑屋敷

開基日誉と申出家延文五子年ゟ当子年迄三百六拾年余当り

一 真言宗 本寺

武蔵国上石神井村

三宝寺

末 最勝寺

御基弘印与申出家寛永二丑年ゟ当子年迄九拾九年当

一 宮 弐所

鎮神番神 壱所 別当 本立寺

稲荷明神 壱所 別当 最勝寺

一 大工二人

商売人四人内 二人者 清酒商売仕候

二人者 小間物商売仕候

太夫壱人

山伏弐人

比丘尼二人

一 橋 九所

内 二所 竪弐間 横壱間 板橋

是者千川御上水当弐拾九年已前御上水出来 其節ゟ遅野井山御林ニ而橋木之下吉祥寺新田へ弐所ニ而掛リ来リ候

去戍年ゟ千川徳兵衛方ニ而懸申候

三所者 竪弐間 横壱間 板橋

四所者 竪弐間 横壱間 土橋

内弐所者分水堀之橋迄石神井上下関村三村満て掛リ申候

一 御高札 切支丹高札壱枚 火付高札壱枚

四枚内 鉄炮高札壱枚 御鳥番屋御止壱枚

右御高札之儀板代并

矢来共ニ百姓

入用ニ而仕来申候

一 当村川幅弐間半所ニヨリ違御座候

一 当邨川之儀関村ニ溜井在之水本ニ而西ゟ東江流申候 水下上石神井村へ流申候

一 馬草之儀所々道端畑之畦ニ而芝々ニ而苅候へ共 不足分ハ他村へ参相応ニ金子出し苅来申候

一 薪者百姓自分四壁ニ而林下草等仕たき申候

一 名主給百姓壱軒ニ而銭百文つヽ出し申候

一 定使給百姓壱軒ニ付銭六拾六文つヽ

麦壱升稗壱升出シ可申候

一 当村ゟ江戸者東ニ当り道法日本橋満て五里半余 道筋者遅野井村荻久保村天沼村馬橋村高円寺村中野村成子宿御通り内藤新宿へ出申候

一 当村ゟ川越江七里八王子江七里

一 田畑古屋敷之儀江戸ゟ下こひ炭附(ママ灰)上ケ萱草馬やこひニ満セ用申候

一 田壱反ニ<外字 alt="禾+董">〓壱斗二升 四月津ミ付申候

一 畑壱反ニ麦壱斗二升 蒔申候

一 稲作之跡ニ者麦作仕付不申候

下こひ七駄弐貫百文

一 田壱反 炭壱(灰力)駄 四百文馬やこひ五駄壱貫文 乄銭三貫五百文

一 畑壱反稗蒔申候ニ下こい五駄

銭壱貫五百文入用掛り申候

一 畑壱反ニ下こひ四駄銭壱貫弐百文

はい 壱駄四百文 乄銭弐貫六百文

入用掛り申候

馬やこい五駄壱貫文

一 中田壱反質物ニ壱ケ年ニ金弐分程 下田下々田共ニ夫ニ応リ申候 上田無御座候

一 上々畑質物ニ取入無御座候

一 上々畑壱反質物壱ヶ年ニ金壱分程 中下候得共ニ夫応シ申候

一 名主御用ニ而江戸<外字 alt="え">〓罷越候節 逼留一日一夜銭弐百文も雑用入用ニ而御座候

一 高四石 入部 上石神井村

百姓 太郎兵衛又兵衛

一 百姓林無御座候

一 漆〃一 絹〃一 紬〃一 綿〃

一 名高人城跡屋敷無御座候

一 紙役〃一 紙漉役〃一 紙舟〃一 川運上〃一 海運上〃一 山銭〃

一 野銭〃一 鳥運上〃一 入合野〃一 圦樋〃一 堤〃一 蚕〃一 猟師無之

一 鉄炮〃一 切無当村高〃一 定助大助ニも無

一 御関所〃一 田畑共野土ニ而も一船之類一切一与頭給一造リ酒無

一 男女共ニ耕作之間ニ稼無御座候

一 御連印無

一 免田畑 御城米斗立候節者

一 郷蔵 名主一方ニ而取立申候

一 牢屋 先年者郷蔵御座候所

一、医者 田畑御年貢米金納候節

一、切支丹類族 御検地入郷蔵屋敷も御高ニ相成申候

定助ニ而も無御座候 然ル所ニ申年日光御伝馬相勤申候

一 座頭一 神主一 木挽一 馬医一 馬喰一 名寄帳一 紺や一 手猿廻一 ゑびすおろし

一 家数合九拾八軒

内 七拾七軒 弐拾壱軒 本百姓水呑

惣乄人別合

四百八拾四人

内 男弐百五拾八人

女弐百廿人

僧 弐人

太夫 壱人

山伏 弐人

比丘尼 弐人

一 馬数五拾弐疋

右者今度郷邨御改ニ付明細書上候通り相違無御座候 此外小物成等者不納申何ニても残ル義無御座候 若隠置後日ニ露顕仕候ハヽ何様也曲㕝ニも可被仰付候

仍而如件

享保五年子九月

名主 政右衛門

年寄 久兵衛

〃 金右衛門

〃 伊右衛門

〃 市郎右衛門

〃 徳右衛門

〃 金五郎

〃 弥兵衛

〃 八郎兵衛

〃 七右衛門

〃 小兵衛

御代官様

一 関邨道筋之儀者青梅道保谷道清戸道小榑道 右大道外作付道之寸九尺道与定置候 且大道筋之寸弐間三尺小榑道九尺 右道筋之儀関村拾弐筋道ニ書上仕候 松平九郎左衛門様出役之節申上置候

名主 政右衛門

年寄 久兵衛

二、村差出帳 享保十五年

享保十五年

武蔵国豊嶋郡関村村差出帳

日野小左ヱ門様へ上候扣

享保十五戍二月十二日 日野小左衛門様御手代内藤嘉七様被遣御改書上候

ひかへ 椚四千八百十本

関山七千六百十五本 内 壱間ゟ弐間半迄 目通四五寸ゟ壱尺八寸迄

楢弐千五百五本

壱間ゟ弐尺迄

目通四五寸ゟ壱尺八寸迄

遅野井山千五百五十本 椚千三十本 長壱間ゟ弐間迄 目通四五寸ゟ壱尺六寸迄

楢五百廿本 長壱間ゟ弐間迄 目通四寸ゟ壱尺五寸迄

右絵図組かへ反別ハ前々之通リ上ル

御拳場

一 高五百弐拾七石四斗八合 高辻

此反別百三拾八町四反九歩 但百石ニ弐拾六丁弐反四せ六歩余当

内 田方四町三反四畝拾弐歩 高三拾石三斗四合

畑方百三拾四町五畝廿七歩 高四百九拾七石三斗七升四合

此訳

石盛九ツ

中田八反拾壱歩

分米七石弐斗三升三合

石盛七ツ

下田弐町七反九歩 内七畝廿八歩前々間違引

高五斗五升五合弐勺

分米拾八石九斗弐升壱合

石盛五ツ

下々田八反三畝廿弐歩

分米四石壱斗八升六合

石盛拾ヲ

上々畑六反四畝四歩

分米六石四斗壱升三合

石盛八ツ

上畑八町九畝拾五歩

分米六拾四石七斗六升

石盛六ツ

中畑弐拾町五畝拾九歩

分米百廿石三斗三升八合

石盛四ツ

下畑五拾町六反拾九歩

分米弐百弐石四斗弐升六合

石盛二ツ

下々畑弐拾壱町三反四畝廿九歩

分米四拾弐石六斗九升五合

石盛拾ヲ

屋敷壱町六反廿七歩

分米拾六石九升

石盛壱ツ

林畑弐町五反六畝廿五歩

分米弐石五斗六升八合

石盛弐五

上萱野壱町壱反壱畝壱歩

分米弐石七斗七升六合

石盛二ツ

中萱野五町七反八畝九歩

分米拾壱石五斗六升六合

石盛壱ツ五

下かや野拾町三反八畝廿四歩

分米拾五石五斗八升弐合

石盛壱ツ

下々かや野拾壱町八反五畝拾壱歩

分米拾壱石八斗五升四合

小以分米合五百廿七石四斗八合

一 畑壱町壱反六畝拾弐歩 見取場

一 御林 弐ケ所

池田喜八郎様御改

木数千五百廿五本但壱間ゟ壱間半迄

雑木 長三百拾間 横百三拾六間 遅野井山御林壱ケ所

此反別拾四町五畝廿五歩

是ハ廿九年以前午ノ年 上木御炭御用ニ罷成伐払只今者小木ニて御座候

同断

雑木 木数七千五百本 尤壱間ゟ弐間迄

長三百拾間 横百六十間 関山御林壱ケ所

此反別拾六町五反三畝拾歩

是ハ廿九年以前午ノ年 上木御炭御用ニ罷成伐払只今者小木ニて御座候

右二ヶ所共村中百姓地借共家数ニて番山仕候

一 御水帳三冊 名主政右衛門所持仕候

是ハ五拾七年以前延宝二寅年 中川八郎左衛門様関口作左衛門様御繩ニ而御座候

一 大豆 年々高下御座候百石弐斗懸リ

代リハ代米ニ而被下候

一 荏 百石壱斗懸リ

代リハ代米ニ而被下候

一 六尺給米 百石米弐斗懸リ

御伝馬

一 宿入用米 百石米七斗懸リ

一 高掛リ金 百石ニ付金壱分ッヽ

一 御城米 三斗七升入

但俵拵ハ五所結立繩十文字ニ懸ケ口ハ茶がかりニ仕候 関村ゟ竹橋御蔵江馬付ニ而御座候

一 御口米 三斗七升入

但壱俵ニ付御口米壱升ツヽ

一 御口永壱貫文ニ付 三拾壱文弐分五リン

一 田御年貢米之儀悪地場ニ而御座候 故悪米之節者御願申上金納仕候儀も御座候

一 関村田場之義少照申候得而も日損仕 又少之雨ニ而も悪水押掛ケ水損仕候 弐拾八年以前千川御上水ヲ用水ニ分ヶ取申候ニ付水口料日損水損之年も田壱反ニ付米三升宛出申候

日損ハ不仕候へ共水損者度々仕候 依之堀さらい田普請仕田作仕付申候 右千川用水分ヶ取候ニ付川淵ニ有之候畑田ニ発可申旨池田喜八郎様御支配之節御注進申上 田罷成候ハヽ御訴申相応之御年貢上納可仕候

一 牢人弐人

壱人 加藤源五左衛門

是ハ父加藤善次郎西ノ丸御納戸役相勤 五十年以前亥年小普請彦坂壱

岐守組ニ入 三十五年已前辰ノ年病死仕候 兄善次郎義ハ御本丸御勘定役相勤申候 右源五左衛門義者次男ニて何方へも相勤不申候ニ付当四十七年以前関村権三郎従弟ニ御座候ニ付当村へ引越 畑屋敷作一生浪人ニ而御座候 此段十三年已前戍ノ年浪人御改に付江川太郎左衛門様御支配之節書上申候

壱人 若林藤兵衛

是ハ父若林市郎兵衛久世古三四郎組大久保百人組同心相勤 四十九年已前戍年引込 三十七年以前戍年病死仕候 弟市郎右衛門ニ跡式相譲拙者義四拾七年已前関村金右衛門従弟ニ御座候ニ付当村へ引越 金右衛門地之内借リ家作仕罷在候 此段拾三年以前戍年江川太郎左衛門様御支配之節浪人御改ニ付書上申候

一 寺弐ケ所

本寺武蔵国新座郡小榑村妙福寺末

法花宗 本立寺

御除地五反九畝拾弐歩畑屋敷

開基日誉と申出家延文五子年ゟ当戍年迄三百七十九年当ル

本寺武蔵国豊嶋郡上石神井村三宝寺末

真言宗 最勝寺

御除地八畝拾六歩 屋敷

開基弘印と申出家寛永二丑ノ年ゟ当戍年迄百九年ニ当ル

一 宮 弐ケ所

鎮守番神 壱ケ所

別当本立寺

稲荷明神 壱ケ所

別当最勝寺

大工弐人

桶屋壱人

商売人九人 内 清酒屋 二軒 油屋 二軒 木綿屋 二軒 菓子屋 壱軒 小間物屋 二軒

大夫弐人

山臥三人

行人弐人

一 橋 九ケ所

弐ケ所ハ 竪弐間 横壱間 板橋

是ハ千川御上水当三十九年已前御上水出来 其節ゟ遅野井山御林ニ而橋木被下 吉祥寺新田と弐ケ村ニ而懸来候十三年已前戍年ゟ千川徳兵衛方ニ而掛ケ申候

三ケ所ハ 竪弐間 横壱間 板橋

四ケ所ハ 竪弐間 横壱間 土橋

内二ケ所分水堀之橋ニ而石神井上下関村三ケ村ニて懸申候

一 御高札四枚

内 切支丹高札 壱枚 火付高札 壱枚 鉄炮高札 壱枚 御鳥番屋御止 壱枚

右御高札之儀板代并矢来共ニ百姓入用ニ而仕来申候

三笠附博奕御停止高札五枚

一 当村川幅弐間半所与リ相違御座候

当村川之義関村ニ溜井有之水本ニ而西ゟ東へ流申候 水下ハ上石神井村へ流申候

一 秣之義所之道端畑之畦ニ而苅候共 不足之分ハ他村へ参相応ニ金子ヲ出苅来申候

一 薪ハ百姓自分四壁ニて下苅等仕たき申候

一 名主給百姓壱軒ニ而銭百文ツヽ出申候

一 定使給百姓壱軒ニ付六拾六文ツヽ麦壱升稗壱升出申候

一 当村ゟ江戸ハ東ニ当リ道法日本橋迄五里半余 道筋者遅野井村荻窪村天沼村馬橋高円寺村中野村成子宿ヲ通内藤宿へ出申候

一 当村ゟ川越ヘ七里八王子江七里

一 田畑こ屋しの義江戸ゟ下こい炭附(ママ)上芝草馬やニひこませ申候

一 田壱反ニ<外字 alt="禾+董">〓壱斗弐升 四月津々付申候

一 畑壱反ニ麦壱斗弐升蒔申候

一 稲作之跡ニハ麦仕付不申候

一 畑壱反ニ稗蒔申候ニ下こい五駄 壱貫五百文入用懸申候

一 田壱反ニ 下こい(ママ)馬やこい 七駄壱駄五駄 弐貫百文四百文壱貫文程

一 畑麦壱反ニ 下こいはい馬やこい 四駄壱駄五駄 壱貫弐百文四百文壱貫文程

一 中田壱反質物ニ壱年ニ金弐分程

下田下々田共ニ夫々ニ応申候上田無御座候

一 上々畑質物ニ取引無御座候

一 上畑壱反質物壱年ニ金壱分程

中下下々共夫応申候

一 名主御用ニ而江戸罷越候節 逗留一日一夜銭弐百文ツヽ雑用入用ニ而御座候

一 高四石 入部 上石神井村 百姓 太郎兵衛 又兵衛

一 漆無御座候

一 絹無御座候

一 紬無御座候

一 綿無御座候

一 名高人城跡屋敷跡無御座候

一 紙役無御座候

一 紙漉役無御座候

一 紙舟無御座候

一 川運上無御座候

一 海運上無御座候

一 山銭無御座候

一 野銭無御座候

一 鳥運上無御座候

一 入合野無御座候

一 圦樋無御座候 然共先年ハ御座候ヘ共土水押破申候

一 堤無御座候

一 かいこ一切無御座候

一 猟師無御座候

一 鉄炮一切無御座候

一 当村市日無御座候

一 定助大助ニ而も無御座候 然共去々申年日光御伝馬相勤申候

一 御関所無御座候

一 田畑共ニ野土ニ而御座候

一 船之類一切無御座候

一 組頭給無御座候

一 造酒屋無御座候

一 男女共耕作之間かせき無御座候

一 御朱印無御座候

一 免田無御座候

一 郷蔵無御座候 御城米斗立候節ハ名主方ニて取立申候 先年ハ郷蔵御座候所ニ田方御年貢米金納仕候節 御検地入郷蔵屋敷も御高ニ罷成候

一 牢屋無御座候

一 医者無御座候

一 切支丹類族無御座候

一 座頭無御座候

一 神子無御座候

一 木挽無御座候

一 馬医無御座候

一 馬喰無御座候

一 紺屋無御座候

一 牛無御座候

一 猿廻無御座候

一 ゑびすおろし無御座候

一 非人頭無御座候

一 穢多無御座候

家数合百六軒

内 八拾五軒廿壱軒 本百姓水呑百姓

惣人別合五百四拾壱人

内 男三百拾人女弐百三拾壱人僧弐人山伏三人

三、明細帳 享保十七年

享保十七年

武蔵国豊嶋郡関村明細帳

子十一月 鈴木平十郎様上候扣

御拳場 武蔵国野方領豊嶋郡

関村

一、高五百弐拾七石四斗八合 高辻

此反別百三拾八町四反九歩 但高百石弐拾六町弐反四畝六歩

壱町八反五セ十五歩

内 田方四町三反四畝拾弐歩 高三拾石三升四合 畑方百三拾四町五畝廿七歩 高四百九拾七石三斗七升四合

此わけ

石盛九

中田八反拾壱歩

分米(七石弐斗三)(三)

(右盛七)

下田(弐)町七反九歩 内七畝廿八歩前より間違永(引)

分米拾八石九斗弐升壱合 高五斗五升五合弐夕

石盛五

下々田八反三畝廿弐歩

分米四石壱斗八升六合

石盛十

上々畑六反四畝四歩

分米六石四斗壱升三合

石盛八

上畑八町九畝拾五歩

分米六拾四石七斗六升

石盛六

中畑弐拾町五畝拾九歩

分米百弐拾石三斗三升八合

石盛四

下畑五拾町六反拾九歩

分米弐百弐石四斗弐升六合

石盛弐

下々畑弐拾壱町三反四畝廿九歩

分米四拾弐石六斗九升五合

石盛十

屋敷壱町六反廿七歩

分米(拾六石九升)

石盛壱

林畑弐町五反六畝廿五歩

分米弐石五斗六升八合

石盛弐五

上萱野壱町壱反壱畝壱歩

分米弐石七斗七升六合

石盛弐

中萱野五町七反八畝九歩

分米拾壱石五斗六升六合

石盛壱五

下萱野拾町三反八畝廿四歩

分米拾五石五斗八升弐合

石盛壱

下々萱野拾壱町八反五畝拾壱歩

(見取場カ)

□三石六斗三升四合

此反別壱町壱反五畝拾五歩

此わけ

石盛三

見付畑壱町拾弐歩

分米三石壱升弐合

石盛弐

林畑壱反壱畝三歩

分米弐斗弐升弐合

石盛十

屋敷四畝歩

分米四斗

分米拾壱石八斗五升四合

小以分米合五百弐拾七石四斗八合

<外字 alt="○外">〓 惣分米合五百三十一石四升弐合

消し

一 畑壱町壱反六畝拾弐歩 見地場

一 御林 弐ケ所

遅野井山壱ヶ所 但長三百拾間横百三拾六間 雑木林

此反別拾四町五畝弐拾五歩

此上木数千五百五拾本 日野小左衛門様御改

内 千三拾本椚 但長壱間より弐間迄目通四五寸より壱尺六寸迄

五百弐拾本楢 但長右同断目通右同断

是ハ三拾五年以前午ノ年 上木御炭御用木ニ罷成伐払、只今者小木ニ而御座候

右弐ヶ所御林之義去未より亥中御薪御伐払故作付上木之分一切無御座候

関山壱ヶ所 但長三百拾間横百六拾間 雑木林

此反別拾六町五反三畝拾歩

此上木数七千六百拾五本 日野小左衛門様御改

弐十九本引

四千七百八拾一本 内四千八百拾本椚 但長壱間より弐間迄目通四五寸より壱尺八寸迄

弐千七百九十四本 内弐千八百五本楢 但長右同断目通右同断

十壱本引

是ハ三拾五壱年以前午ノ年 上木御炭御用木ニ相成伐払只今者小木ニ而御座候

右弐ヶ所御林村中百姓并地借共ニ家数(ニ而番山仕候)

欄外

一、御水帳一冊名主右衛門所持仕候

是ハ十一年巳前元文元年(是ハ去ル卯年)粕谷重太夫様松彦

兵衛様御繩ニ而御座候

一 水帳 三冊 名主政右衛門所持仕候

是ハ五拾九年以前(六十七年)延宝二(七十三)寅年 中川八郎左衛門様関口作左衛門様御(繩)ニ而御座候

検地

一 大豆 年々高下ニて御座候 百石ニ弐斗懸リ

代リハ代米ニ而被下候

一 荏 右同断 百石ニ壱斗懸リ

代リ右同断

一 六尺給米 百石米弐斗懸リ

一 宿入用米 百石米七升懸リ

一 高懸リ金 百石ニ付金壱分

一 御城米 三斗七升入

是ハ俵拵ハ五所結立繩十文字ニ懸ニ懸ケロハ茶かヽりニ仕候 関村より竹橋ニ御蔵迄道法四里馬付ニ而御座候

一 御口米 三斗七升入

是ハ(但)壱俵ニ付御口米壱升ツヽ

一 御口永壱貫ニ付 三拾壱文弐分五リン

一 田方御年貢米之儀悪地場ニ而御座(候) 悪米之節ハ御願申上金納仕候儀

も御座(候)

一 関村田場之儀少照申候得而も日損仕候又少々雨ニ而も悪水押掛ケ水損仕候 当三拾年以前千川(御上水)用水ニ分ヶ取申候ニ付水口料日損水損之年も田壱反ニ付米三升ツヽ出申候、日損ハ不仕候得共水損ハ度々仕候依之堀浚田普請仕、田作仕付申候 右千川用水分ケ取候ニ付川淵ニ有之候畑田ニ発可申旨先(御)支配様方江ハ右之段申上 田(支応)候ハヽ御注進申上相応之御年貢上納可仕候

一 牢人弐人

壱人 加藤源五左衛門

是ハ父加藤源次郎西ノ丸御納戸役相勤(五拾弐)年以前亥年小普請彦坂壱岐守組ニ入(三拾七)年已前辰ノ年病死仕候 兄源次郎義ハ御本丸御勘定役相勤申候 右源五左衛門義者次男ニ而何方へも相勤不申候ニ付当四拾九年以前関村権三郎従弟ニ御座候ニ付当村ヘ引越 畑屋敷作一生浪人ニ而御座候 此段拾五年以前戍ノ年浪人御改ニ付江川太郎左衛門様御支配之節書上申候

壱人 若林藤兵衛

是ハ父若林市郎兵衛久世古三四郎組大久保組□ 五拾壱年以前戍年引込三拾九年已前戍年病死□弟市郎左衛門跡式相譲拙者義四拾九年已前関村金右衛門従弟ニ御座候ニ付当村ヘ引越 金右衛門地之内借リ家作仕罷在候 此段十五年已前戍年江川太郎左衛門様御支配之節浪人御改ニ付書上申候

一 寺弐ケ所

内 本寺武蔵国新座郡小榑村妙福寺末寺

法花宗 本立寺

御除地五反九畝拾弐歩畑屋敷

開基日誉と申出家延文五子年より当子年迄三百六拾弐年当り

本寺武蔵国豊嶋郡上石神井村三宝寺末

真言宗 最勝寺

御除地八畝拾六歩 屋敷

開基弘印と申出家寛永二己年より当子(寅)迄百拾(四)年ニ当リ

一 宮 弐ケ所

社地壱町歩□□御検地之節御除地

鎮神番神 壱ケ所

別当本立寺

御除地四畝八歩 壱ケ所

稲荷明神 別当最勝寺

御検地之節御除地

一 (祓)病所 道々三軒

一 大夫 弐軒

一 山臥 弐軒

申除

一 (行人) (壱軒)

一 大工 (三軒)申壱人

一 (桶屋) (壱軒)

(挽) 壱(人)

一 清酒屋 (四軒)

一 (油屋) (壱軒)

一 木綿屋 壱軒

一 菓子屋 壱軒

一 小間物屋 弐軒

一 橋 九所

弐所ハ 竪弐間横壱間 板橋

是ハ千川御上水当四拾壱年以前御上水出来 其節ゟ遅野井山御林ニ而橋木被下吉祥寺村々弐村ニ而懸来候 十五年已前戍年ゟ千川水方之者掛ヶ申候

三所ハ 竪弐間横壱間 板橋

四所ハ 竪弐間横壱間 土橋

内弐所ニ分水堀之橋石神井上下関(村三ケ村ニ而懸申候)

一 御高札四枚

内 切支丹高札 壱枚 火付高札 壱枚 鉄炮高札 壱枚 鳥類高札 壱枚

右御高札之義板代并矢来共ニ百姓入用ニ而仕来申候

三笠附博奕御止高札五枚

一 当村川幅弐間半所より相違御座候

右川之義関村ニ溜井有之水本ニ而西ゟ東へ流申候 水下ハ上石神井村ヘ流申候

一 秣之義所之道端畑之畦ニ而苅候得共 不足之分ハ他村へ参相応ニ金子出苅来申候

一 薪ハ百姓自分之四壁ニ而下苅等仕焼申候

一 名主給百姓壱軒ニ而銭百文ツ、出申候 高壱石ニ付廿四文差出之

一 定使給百姓壱軒ニ而麦弐升粟弐升 高壱石銭拾弐文ツヽ出之申候并夫食ともに仕候

一 当村ゟ江戸ハ東ニ当リ道法日本橋迄五里半余 道筋ハ遅野井村天沼馬橋高円寺中野村ヲ通リ成子宿内藤新宿出申候

一 当村ゟ川越江六里八王子江六里

一 田畑仕付之肥之義江戸下肥附上ケ芝草馬やこひニませ申候

一 田壱反ニ<外字 alt="禾+董">〓(種)斗弐升四月植申候

一 畑壱反ニ麦壱斗弐升蒔申候

一 稲作之跡ニハ麦仕付不申候

一 畑壱反ニ稗蒔申候ニ下肥五駄壱貫五百文入用懸リ申候

一 田壱反ニ下肥七駄弐貫百文炭壱(ママ)駄四百文馬屋肥五駄壱貫文程

一 畑壱反ニ下肥四駄壱貫弐百文炭(ママ)壱駄四百文馬屋肥壱貫文程□□蒔申候

一 中田壱反質物壱ヶ年ニ金弐分程

下田下々田共ニ夫々ニ応ニ申候上田無御座候

一 上々畑質物ニ取引無御座候

一 上畑壱反質物壱ヶ年金壱分程

中下下々共ニ夫々ニ応申候

一 名主御用ニ而罷出候節者 江戸ニ而宿泊逗留一日一夜ニ銭弐百文ツヽ雑用入用ニ而御座候

一 組頭給無御座候 然共御用ニ而罷出候節(者)雑用之分ハ村入用ニ御座候百姓之義者公事出入等出来候者名主組頭共御召出被遊候程之義当人入用御座候 地借リ百姓共地主五人組之入用

一 高四石 入部 上石神井村 百姓 太郎兵衛(又兵衛)

一 漆無御座候

一 絹無御座候

一 紬無御座候

一 綿無御座候

一 名高人之城跡屋敷跡無御座候

一 紙役無御座候

一 紙漉役無御座候

一 紙舟無御座候

一 川運上無御座候

一 海運上無御座候

一 山銭無御座候

一 野銭無御座候

一 鳥運上無御座候

一 入合野無御座候

一 圦樋只今ハ無御座候先年ハ御座候得共大水ニ而押破申候

一 圦樋壱ケ所 御入用御座請所

長八間 横四尺竪三尺

此圦樋去ル子ノ壱年井沢弥惣兵衛様御掛リニ而御伏替被仰付候

一 堤無御座候然共村方溜井之小堤水除方御座候

一 かいこ無御座候

一 猟師無御座候

一 鉄炮一切無御座候

一 当村市日無御座候

一 定助大助ニ而も無御座候 然共前々ゟ高井戸宿ヘ助人馬差出申候去申年日光御伝馬勤

一 御関所無御座候

一 船之類一切無御座候

一 溜井堤押切申候

御入用御座候

下欄 此堤去子ノ壱年

井沢弥惣兵衛様御掛リニ而

押切許御座請被仰付

上欄 高井戸宿江助(郷)

丑年迄被仰(付)

一 造酒屋無御座候先年ハ御座候

一 男女共耕作之間稼無御座候

一 御朱印無御座候

一 免田無御座候

一 郷蔵無御座候 依之御城米斗立候節ハ名主方取集置申候 先年ハ郷蔵御座候所ニ田方御年貢米小分義御座候穀付悪地場ニ而金納之度多御座候御検地入候畑郷蔵屋敷も御高ニ御詰被成候

一 牢屋無御座候

一 切支丹類族無御座候 然者去亥年当村百姓与兵衛と申者三島流宗門之道心隠置 右与兵衛并ニ文次郎と申者両人道心亥了と申坊主之勘請ニ而右三島流之宗門ニ罷成旦那寺并五人組名主組頭惣百姓仲間江も相隠罷在候所 消し六年以前岩□藤左衛門様御吟味相(顕)御評定所ニおゐて右道心亥了遠嶋与兵衛義ハ替宗之上田畑御取上被遊所払 文次郎も替宗之上所払与兵衛文次郎共□財妻子被下候名主組頭共己迄あり申候

一 神子無御座候

一 木挽無御座候 壱人

一 桶屋無御座候

一 馬医無御座候

一 馬喰無御座候

一 紺屋無御座候

一 牛無御座候

一 猿廻シ無御座候

一 ゑびすおろし無御座候

一 非人無御座候

一 穢多無御座候

一 家数百八軒 百十四軒九十軒廿四軒

内九拾軒拾八軒 地持百姓地借リ百姓

惣人別五百五拾弐人 此在村六百廿人

三百六人 男

弐百廿九人 女

内五人 僧

三人 山伏

弐人 大夫

壱人 座当

六人 こせ

四十七疋 上宿

五十六 関村

一 馬五拾弐疋

右者此度御支配替成候ニ付村方明細書指上候様ニ被仰付無相違書上申候 右何ニ而も隠置後より露顕仕候者何如之曲事ニも可被仰付候仍如件

関村元文元辰年七月 豊嶋郡関村

享保十七年子十一月 名主 政右衛門

元文五年申六月上坂 組頭 太兵衛

㊞ 弥兵衛

金右衛門

鈴木平十郎様

御役所

八郎兵衛

佐五左衛門

小兵衛

(以下略)

関村明細帳

現蔵者、享保五年明細帳は井口信治氏(関町四丁目六三八番地)、享保一五年、同一七年明細帳は小平市立図書館(小川愛次郎家文書)。

<節>

江古田村村鑑帳
<本文>

村鑑帳

武州多摩郡 江古田村同新田 両組

天正十九卯年 {沼上伊与 伊藤小右衛門 池上作蔵 冠四郎右衛門 検地

寛文四辰年 {野村彦太夫 千賀太郎右衛門 平田七左衛門 検地

元禄九子年 {細井九左衛門 松木弥五郎 鈴木与平次 検地

武蔵国多摩郡江戸日本橋迄道法三里余

高百弐拾弐石四斗三升六合九夕四才 江古田村

内 私領入会

消し 拾石壱斗七升七合九夕四才私領より上ケ知 同新田両組

百拾弐石弐斗五升 弐合 新田畑

九合

田五反九畝三歩 両毛作無御座候 石盛 上田九ツ中田七ツ下田五ツ

畑三拾八町三反四畝弐拾五歩 石盛 上畑六ツ中畑四ツ下畑弐ツ下々畑弐ツ下々畑弐ツ林畑壱ツ半屋敷十ヲ

一 此村用水ハ豊嶋郡中荒井村溜池より落水引申候得共旱損仕候

一 小物成芝銭上納仕候

一 運上物 無御座候

一 家数四拾壱軒 人数合百八拾七人

内九拾七人 男九拾人女

一 此村中仙道下板橋宿江定助江馬八疋御伝馬相勤申候

一 農業之間男者薪を取繩をなひ莚を織 女ハ木綿を織申候

一 此村町場市場 無御座候

一 草苅場外村江出苅不申候尤当村之内草苅場無御座候 畑間之草を秣に用申候

一 御林 無御座候

一 百姓林 無御座候

消し

一 川無御座候但シ用水堀一筋上ハ中荒井村より下ハ落合川江流申候

江戸迄添付

一 米津出し何川江も出シ不申候小高之米ニ御座候得ハ年々石代金納仕候

一 此村魚猟場 無御座候

一 村中に御普請場 無御座候

一 圦樋堰 無御座候

一 此村野方ニ而土地悪敷旱損場困窮村ニ御座候

一 城跡 無御座候

一 御巣鷹山 無御座候

右之通相改書上仕候通ニ何茂相違無御座候

明和八年卯三月 多摩郡江古田村

伊奈半左衛門様

御役所

名主 太左衛門㊞

年番年寄 杢左衛門㊞

年寄 治右衛門㊞

同 市左衛門㊞

百姓代 宇兵衛㊞

同 権右衛門㊞

江古田村村鑑帳

現蔵者は中野区郷土資料室(堀野良之助家文書)。享保一〇年、明和八年の二冊が現存。江古田新田(現小竹町・旭丘地区)考究の資料として重要。

<節>

小榑村村柄様子明細書
<本文>

(村柄)様子明細書 武蔵国新座郡小榑村

村柄様子明細書

武蔵国新座郡小榑村

(千四)百四拾八石壱斗五升弐合

(寛文元)丑年稲葉美濃守様御知行所ニ相渡リ 同三卯年御検地御入被成反別御打立帳面ニ位附者有之候得共 無盛永銭反別ニ掛ヶ御取箇同四辰年上知

(石)黒小右衛門様御代官所ニ相成リ右御検地帳面を以盛付

(千四)百四拾六石九斗四升弐合九夕七才

内弐斗六升八合三夕八才高不足

(一)高七百三拾壱石壱斗弐升六合九夕七才

内壱斗三升四合壱夕九才高不足

(去)元禄十六未年江川太郎左衛門様御代官所之節(米)津監物様御知行所ニ分ケ郷壱枚究ニ相渡リ

(七百)拾五石八斗壱升六合 御料所

内壱斗三升四合壱夕九才高不足

(七石)九斗壱升六合 同断

(宝)永四亥年江川太郎左衛門様小長谷勘左衛門様御検地之節(唐沢原)村分此村百姓越石ニ所持仕候処ニ此村高ニ奉願一村ニ相成候

(六)石四斗八升六合 同断

享保十七子年日野小左衛門様御代官所之節筧幡摩守様御検地

高三斗四升八合 別紙御水帳私領百姓所持名主覚左衛門

□酉迄五ヶ年定免

(一高)七百三拾石弐斗壱升八合

内壱斗三升四合壱夕九才無地高

内弐町三反壱畝拾四歩 田方百九拾六町九反七畝廿七歩 畑方

此訳

盛十一 上田壱町四畝弐拾四歩 反米四斗八升取

(九) 中田六反三畝三歩内壱反壱セ十八歩永荒 反四斗弐升取

(七) 下田六反三畝拾七歩内三セ拾九歩永荒 反米三斗弐升取

(七) 上畑弐拾四町六反八畝廿歩 反永百五文取

(五) 中畑三拾弐町七反廿四歩 反永八拾五文取

(三) 下畑九拾町四反四セ歩 反永六拾文取

(一)五 下々畑三拾九町四反三畝七歩 反永四拾壱文七分七厘六毛取

□ 下々畑三町九反五畝廿四歩 反永同断

□ 下ノ下畑八反五畝廿四歩 反永弐拾文取

□ 見付畑壱町九反五畝拾九歩 反永拾文取

(盛)十 屋敷弐町五反四畝拾四歩 反永百文取

(盛)七 同八畝六歩上畑より屋敷ニ成ル 反永百文取

(盛)五 同壱反弐畝拾四歩中畑より屋敷ニ成ル 反永百文取

(盛)三 同壱反八畝廿六歩下畑より屋敷ニ成ル 反永百文取

上野三町八畝七歩 定納 反永三十文取

中野六町五畝拾九歩 定納 反永廿四文取

下野拾九町三反弐セ拾三歩 定納 反永拾五文取

□七ケ村入会之内

秣場弐拾八町三反六畝拾五歩 反永拾文取

一 小物成荏大豆御六尺給米御伝馬宿入用米御蔵前入用 出シ来申候

一 運上物 無御座候

米津越中守様百姓所持私領

唐沢原新田 御料分

一 高三斗四升八合 名主覚左衛門

此反別見付畑壱反壱セ拾八歩 反廿文取

同断

一 秣場弐拾九町四反六セ歩 反拾文取 同断 同人

筧幡摩守様御検地別紙帳面覚左衛門方ヘ相渡ル

米津越中守様御知行所分ヶ郷田畑壱枚究

高七百三拾壱石壱斗弐升六合九夕七才 私領所

内壱斗三升四合壱夕九才無地高

内弐町三反六セ廿七歩 田方百九拾六町弐反壱セ八歩 畑方

此訳

十一上田壱町七畝三歩 反米四斗九升取

九中田六反四畝拾六歩 反ニ米四斗弐升取

盛七下田六反五畝八歩 反米三斗七升取

盛七上畑弐拾五町壱反四畝廿六歩 反永八拾九文取

盛五中畑三拾三町五反壱畝拾五歩 反永六十七文取

盛三下畑九拾弐町五反五セ歩 反永四十七文取

盛一五下々畑四拾町三反拾五歩 反永廿七文取

盛十屋敷弐町五反八セ歩 反永百文取

盛七同八畝拾弐歩上畑より屋敷ニ成ル 反永百文取

盛五同壱反弐セ廿壱歩中畑より屋敷ニ成ル 反永百文取

(盛)三同壱反九畝九歩下畑より屋敷ニ成ル 反永百文取

(無)高上野三町壱反五畝拾歩 定納 反永三十文取

(無)高中野六町壱反七畝廿壱歩 定納 反永廿四文取

無高下野拾五町九反七セ廿壱歩 定納 反永拾五文取

一 小物成 荏大豆仲間給金三両宛出し申候

一 御水帳 寛文三卯年稲葉美濃守様御知行所之節御検地 反歩位附者有之候得共石盛ハ無御座候

一 同 元禄十六未年江川太郎左衛門様御代官所之節 米津監物様江壱枚究ニ相渡リ残リ帳

一 同 宝永四亥年江川太郎左衛門様御検地帳

一 同 享保十七子年日野小左衛門様御代官所之節筧幡摩守様御検地

帳 唐沢原役人伊兵衛所持

□種をろし三月中旬五月中旬より六月中頃迄植附九月より十月節迄苅取申候

□こやし下肥遣申候但シ壱反ニ付下肥五駄より七駄まて(壱)駄ニ付代三百文程宛

一 田方壱反ニ付籾種壱斗程 但シ両毛仕着候田場 無御座候

一 田方小作ニ入候儀 無御座候

一 畑方小作ニ入候儀壱反ニ付 上畑 永百五拾文程宛中畑 永百廿四文程宛下下々畑 永六七十文程宛

一 畑方大麦小麦粟稗いも仕付申候

一 田方質入直段壱反ニ付金弐分より壱分弐朱迄

一 畑方質入直段壱反ニ付金壱分弐朱より壱分迄

一 農業之間男女共ニ薪ひろい申候他村江稼ニ不罷出候

一 最寄市場 無御座候

(一田)畑御料私領入会ニ而壱枚究ニ 御座候

□麦粟稗いも (仕付)申候

(一 百姓)壱町歩以上所持之者 七拾弐人 但し越石共

一 百姓八反歩より壱町歩迄所持之者 三拾四人 但し越石共

一 百姓六反歩より八反歩迄所持之者 十八人 但し越石共

一 百姓四反歩より六反歩迄所持之者 弐拾八人 但し越石共

一 百姓弐反歩より四反歩迄所持之者 弐拾人 但し越石共

一 百姓壱反歩以下所持之者 拾六人

社地御水帳ニ載候

一 村内鎮守三十番神御免地中畑下野合九反五歩 弥右衛門覚左衛門所持

毎年三月廿八日 法楽祭礼

社地御水帳ニ載候

一 洞稲荷八ヶ所 御免地 下畑下々畑下野合弐町弐拾九歩 御料私領入会

一 天王 御免地 下野合壱町弐反拾九歩 覚左衛門茂兵衛所持忠右衛門

一 御朱印弐拾壱石五斗 下総国中山法花寺末法花宗 法種山 妙福寺

反別拝見不仕候

□御免地九畝拾八歩 妙福寺末法花宗 法光山 本応寺安等坊

一 御年貢地

下総国法花寺末法花宗 了光山 本照寺

私領分一 御年貢地 妙福寺末法花宗 洗井山 円福寺大宣坊

私領分一 御年貢地 同寺末法花宗 慈頭山 大覚寺東陽坊

一 御年貢地 同寺末法花宗 加藤山 実成寺法性坊

一 御年貢地 同寺末法花宗 法興山 妙典寺善行坊

一 百姓林 三拾弐町歩程

是ハ小作人無之場所小作ニ入候而も御年貢済不申候ニ付地主無是非苗木等植置 連々荒地同前ニ而高免之御年貢地主弁納仕迷惑仕候

一 平地芝間空地 無御座候

一 用水之外自普請等之節入用出し不申候

一 (大)立候川 無御座候

□ 壱ケ所

是ハ土支田村両村境御普請等之節 杭木其外入用人足扶持方等前々より被下置候

一 御年貢未進無御座候飢人御座候而も袖乞ニも不罷出候

一 夫食拝借金 無御座候

一 秣場入会無御座候田畑之畦ニ而苅取申候

一 山続村ニ而 無御座候

一 四季打鉄砲 無御座候

一 魚猟師 無御座候

一 尾州様御鷹場ニ而 御座候

一 米津出し根岸川岸迄壱里弐拾町一日二夜ニ御蔵前ニ舟相越候

一 御年貢米前々より米ニ而上納仕候 然共米悪敷節ハ金納ニ奉願御張紙ニ三両増之直段ニ而納候節も御座候

□大豆出し来候義 無御座候

(一田)畑猪鹿鷹等荒シ候而仕着候而も実取不申場所も御座候得共無是非百姓御年貢弁納仕候

一 土地之儀者田方黒土畑方ハ赤土ニ而土目不宜村方ニ而御座候

一 此村より江戸日本橋迄道法五里 但し辰巳ノ方当

一 村内溜井之外圦樋之類 無御座候

一 道心 入会墓守 壱人

一 山伏座頭祢宜神主行人 無御座候

一 穢多 無御座候

一 吉利支丹類族 無御座候

一 名所旧跡 無御座候

一 村境定杭 無御座候

(一脇)ニ而高持百姓 無御座候

一 家数 百弐拾弐軒

人数五百七拾九人 内 壱人 道心弐人 出家 三百七人 男弐百六十九人 女

一 大工 弐人

一 造リ酒屋 壱人

一 大立候日損水損場ニ而 無御座候

一 御炭焼出し申者 無御座候

一 御茶御肴其外差上候者 無御座候

一 名主給定夫給共ニ金五両弐分家別高四段割ニ集申候

一 名主三人御用順番

一 名主御用ニ而江戸ヘ罷出候節雑用小遣共ニ一日泊リ銭弐百文宛

一 他村より質地取流シ所持之者 五人

一 同村私領江質入流シ置入作致候者 九人

一 郷御蔵 無御座候

一 公事出入 当時無御座候

一 死罪遠嶋闕所等ニ相成候者 無御座候

一 商売屋 無御座候

一 米 此村売買 無御座候

一 御用金致拝借候者 無御座候

一 御関所留番所等 無御座候

一 大木 無御座候

一 組分ヶ之村方ニ而 無御座候

一 大困窮之村方ニ而 御座候

一 近村江之道法 土支田村江五丁程 辰ノ方当

上白子村江十丁程 卯ノ方ニ当

下保谷村江三十五丁程 酉ノ方当

片山村江三十丁程 戍ノ方当

一 川越御城江六里

一 御伝馬 定助 白子宿江壱里 卯ノ方当大助 下板橋宿江三里半 寅卯方当大助 中野宿ヘ三里 午ノ方ニ当

一 近国名山 無御座候

一 温泉 無御座候

右村柄様子相違無御座候以上

武蔵国新座郡

小榑村

宝暦四年戍十月 名主 又左衛門㊞

同 助右衛門㊞

同 太郎右衛門㊞

百姓代 弥右衛門㊞

同 伊兵衛㊞

同 吉左衛門㊞

伊奈半左衛門様

御役所

小榑村村柄様子明細書

現蔵者は小美濃英男氏(大泉学園町二二六〇番地)。数少ない小榑村関係文書として江戸中期の村柄を知る上で極めて貴重な史料。

<節>

地誌調書上帳
<項>
地誌調書上帳
上練馬村
<本文>

上練馬村

寛永拾六卯年 永田八兵衛宇野八郎兵衛高橋与左衛門 検地

延宝元丑年 竹村与兵衛中川八郎左ヱ門 検地

宝暦十一巳年 伊奈半左衛門

右御検地御改

平岩右膳御代官所

武刕豊島郡

野方領

一 高弐千六百弐拾六石壱斗七升六合 上練馬村

此反別 三拾四町九反七畝拾歩 田方四百九拾九町四反五畝廿七歩半 畑方

一 村名之起リ開発之年代 其段相分リ不申候ニ付下ケ札ヲ以申上候

一 江戸日本橋迄凡道法 四里

一 村内字名 中之宮組 貫井組 高松組 田柄組 中ノ宮組ニ高札場

一 惣家数 四百八拾軒 但 家数八拾軒潰居申候 壱

一 隣村 東ノ方 同郡下練馬村 西ノ方 同郡谷原村南ノ方 同中村 北ノ方 同赤塚村

一 東西南北之町数 但 弐拾五町四方ニ御座候

一 水旱之有無

此段用水之田場并天水之田場有之候ニ付水旱とも無仕付并水腐等有之両様ニ而難義仕申候尤畑勝ニ有之候ニ付旱魃之節田畑とも無仕付皆無御座候

一 原 古跡 寺跡 塚 古塚 穢多 旧家 系図 古書物 古器等無御座候

一 土地伝来之古図 前々ゟ及承不申候

一 村内いわれ有伝 市場 川附等ニ而は無御座候

一 農間之稼 無御座候尤当村之義ハ畑多く御座候ニ付年中地拵等ニ相懸リ男女共ニ農業斗仕候尤村内平地ニ而至而悪地野田ニ而土姓(マヽ)赤土ニ御座候

一 土地ニ応セし産物 蕪大根其外ニ無御座候

一 悪水之義 外村ゟ落込無御座候用水之義は同郡石神井村溜井ゟ流末ニ而せきあけ候而百姓普請仕用水ニ相用ひ申候水元ゟ当村まて道法三里半余有之申候流末は戸田川に落込申候川巾弐間位ゟ三間位水元ゟ川路里数相分リ不申候堤等無御座候

一 孝行寄特者 百姓 吉十郎

当歳弐拾何才

一 新田并持添新田飛地等無御座候 山池沼等無御座候

一 古水帳 無御座候

一 寺社領之事 此義相分不申候

一 郷蔵 壱ケ所 稗郷蔵 壱ケ所

一 城迹陣屋跡無御座候

一 往還 壱筋 上ノ方 多摩郡青梅八王子通り道 下ノ方 江戸雑司ケ谷道

一 古街道 壱筋 上ノ方 同郡 相州大山不動尊江道 下ノ方 江戸本郷下板橋宿道

大猷院様

御朱印弐拾石壱斗余慶安二年

十一月十七日

一 本尊愛染明王 京御室御所末練月山観音寺真言宗 愛染院

是ハ神体作仏無之縁起古鰐口北条家様之御朱印并棟札神宝等一切無御座候開山尊智正保三戍三月廿四日示寂堂中安置不動尊壱体

右弘法大師作

一 鐘楼堂 壱ケ所

是ハ元禄十四年霜月十五日先住良盛代新造古鰐口棟札寺伝縁起并堂庵之内古仏作仏宝器等無御座候

右御朱印弐拾石壱斗余之内八石一 鎮守八幡宮

別当 同寺

但シ天照春日相殿(カ)殿 相除申候神体作縁起古鰐□末社

北条家之御朱印物棟札神宝等一切無御座候

御除地三反八畝拾五歩一 本尊不動明王

愛染院末 南池山貫井寺 真言宗 円光院

但不作知開山開基相分不申候

御除地壱町八反七畝壱歩一 観世音

同院

但シ古仏不作知 開山円長天正十三酉年六月十一日寂

寺伝器物珍書等一切無御座候

右同断六畝弐歩一 本尊薬師如来 右愛染院門徒大林山最勝院同宗寿福寺

但古仏不作知縁起古鰐口古器珍書等無御座候開山(カ)

万治二年亥十二月寂開基等無御座候

御除地社地壱町(六)反壱畝拾八歩一 鎮守十羅刹女宮 同寺

但拝殿附古キ寺伝器物珍書開基等無御座候

同断壱反八畝拾八歩一 本尊薬師如来 右同院門徒双林山 高松寺

但古仏不作知 開山栄俊延宝三卯年(カ)月十九日寂

寺伝宝器珍書開基等一切無御座候

右同断壱反三畝廿四歩一 本尊石仏阿弥陀如来 右愛染院門徒 宝樹山知光院 同宗養福寺

但作仏ニ無御座候開山長空万治三子年三月廿二日寂開基不相分古鰐口棟札寺伝宝物珍書等一切無御座候

右同断壱反六セ拾弐歩一 本尊阿弥陀如来 右愛染院門徒 長松山地蔵院 同宗泉蔵寺

但作仏無御座候開山宥海慶安五年四月十六日寂開基無御座候珍書宝物等無御座候

右同断壱反四セ五歩一 本尊不動明王 右愛染院門徒 山寺号無御座候 同宗成就院

但開山開基相分不申候

右同断中田五畝拾壱歩一 天神宮 円光院持

但小社ニ而同寺境内有之申候

右同断三反五セ拾弐歩一 稲荷社地 同寺持

弐拾坪程御繩外一 子権現社地 同寺持

下畑四畝六歩右同断一 第六天宮 愛染院持

弐拾坪程右同断一 同第六天宮 同寺持

拾坪程右同断一 稲荷宮 同寺持

拾坪程右同断一 六所権現宮 寿福寺持

弐拾坪程右同断一 稲荷宮 高松寺持

御除地社地八反三畝廿三歩一 飯繩権現宮 養福寺持

弐拾坪程御繩外一 稲荷宮 同寺持

御除地壱反五セ歩一 神明宮 泉蔵院持

拾坪程御繩外一 稲荷宮 成就院持

弐拾坪程右同断一 稲荷宮 同寺持

一 愛宕大権現 別当京都愛宕山支配人 市郎右エ門

屋敷弐反九畝弐歩

社地 中畑壱反六セ拾四歩下畑三町二セ六歩

六坪程御繩外一 金山権現社 支配人百姓 彦兵衛

弐拾坪程右同断一 神明社稲荷宮 同百姓 喜兵衛

<項>
関村 竹下新田 上石神井 下石神井
土支田 田中 谷原 中村
中荒井

地誌調写置
<本文>

〔関村〕

一 野方領石神井郷牛込之庄

一 寛永拾六卯年 御検地御役人姓名不知

一 寛文四辰年 野村彦太夫様代 鈴木久兵衛様井田猪右衛門様 御改

一 延宝二寅年四月 関口作左衛門様中川八郎(左カ)衛門様 御繩

一 江戸日本橋江五里

一 家数九拾三軒

一 東上石神井村竹下新田 西竹下新田保谷村 南吉祥寺村西久保村 北小榑村上石神井村

一 東西南北江拾三町四方

一 田少し畑多し

一 元ゟ御代官所当御代官平岩右膳様

一 青海海道 保谷道 長十三町巾五間 村中を貫く

青梅海道傍ニ有リ

一 新田 御代官 鈴木平十郎様

御勘定 松沢右衛門様

粕谷金太夫様

一 高札場 青梅海道関村中程

一 小名字 小関 三ツ家新田 小額 札野 関原 葛原 本村 銕炮塚

一 溜井 村ノ西北之間 五六十間ゟ百間程ニ至る

先年御普請当時自普請組合上下石神村(マヽ)

田中谷原五ケ村ニ而普請仕候

一 用水悪水 東 上石神井村江流シ申候

一 鎮守三十番神 御除地 別当 本立寺

一 稲荷明神 同 同 最勝寺

一 法花宗 小榑明福寺(マヽ)末法耀山 本立寺

一 本尊三宝祖師日蓮大菩薩

但 開基日誉与申出家 寛永二丑年元名主政右衛門

開基 右政右衛門当時

一 真言宗 上石神井村三宝寺末関星山 最勝寺

一 本尊観世音菩薩

但 開基法印与申出家 寛永二丑年

一 寮 三ケ所 本尊 祖師 銀右衛門持

同 同 小兵衛持

同 薬師 権右衛門持

分家清五郎預リ

一 毘沙門天

弁財天

大黒天

但 御勘定武嶋管右衛門様ゟ頂戴 溜井江勧請仕候神躰座像木躰

文政六未年九月 豊嶌郡名主 (弥)兵衛

同 銀右衛門

〔竹下新田〕

平岩右膳御代官所武州豊嶌郡

野方領 竹下新田

一 家数合拾九軒 江戸日本橋迄道法五里

一 隣村 西 関村 北 上下石神井村南東今川刑部様御知行所遅井村

一 東西江十町 南北三町程 字 上久保下久保北久保千川付前野 淵崎

一 畑山当分 江戸四ツ谷ゟ青梅秩父江往来

一 天明四辰年八月開発

御検地御水帳御代官飯塚伊兵衛様

御手代 秋山茂八郎

〃 長谷部秀助

〃 内藤忠蔵

出役 里村忠助

〃 石川栄助

一 江戸ゟ参ル案内開発浪人 竹下忠左衛門子孫なし

一 飛地壱ケ所 関村を越て有之

一 東西江(四カ)町 南北江弐町 字 中通リ 宮西山中 宮北西久保 宮付

一 飛地隣村 西 平岩様御支配新座郡 上保谷村南東北同同関村

一 高札場村中ニ有之

谷原長命(マヽ)

一 鎮守弁才天 壱社 村持稲荷 壱社

鳳閣寺末寺なし

一 当山修験本尊不(マヽ) 大(マヽ)院 山号なし

一 板橋 壱ケ所 石橋 壱ケ所 田用水

竹下新田

名主政五郎

〔上石神井村〕

一 野方領石神井郷牛込庄 江戸日本橋迄道法五里

一 家数弐百拾壱軒 但寺寮共 東 下石神井村西 関村 南 竹下新田遅井北 土支田

一 東西拾八町南北拾六町 田少々畑方多し

一 水旱両難場 青梅往還 村之南之端ニ有之

一 元ゟ御代官所 平岩右膳様

一 寛永十六卯年八月御検地 御役人 姓名不知

一 延宝二寅年四月 中川八郎左衛門関口作左衛門 御検地

一 飛地 字札之原 高札場 字沼部 田耕地淵

一 郷蔵 同所 小名字 池淵 大門 沼辺 西村 出店 小関 観音山 立野

一 池壱ケ所 東西 六十間余 南北 五十間余

一 用水悪水関村ゟ下石神井村江流

一 豊嶌勘解由左衛門城跡 上下石神井村境入合

凡東西 六七丁 鎮守御検地

南北 三丁 当寺之外御年貢地

後ニ池有西ニ空堀之跡有

御除地

一 鎮守氷川明神 但豊嶌之城跡 上下石神井村 関村 田中村 谷原右五ケ村鎮守 三宝寺持

但末社 天満宮 大六天 午頭天皇 水天狗 弁才天稲荷 祭礼九月十九日廿日 上下石神井ニ而相勤申候

一 愛宕権現 但御除地

御除地

一 稲荷明神 但火消稲荷之子

朱印地

一 無本寺亀頂山 法流祖願行上人永仁三己未四月十七日寂 真義真言宗三宝寺

応永元甲戌年

寂年応永五寅三月九日

中興開山法印権大僧都幸尊

一 愛宕山 開山開基不相分 右三宝寺門徒正学院

境内 本尊不動観音堂

一 寮 八軒 本尊 観音 仲右エ門持 閻魔 正学寺(マヽ)

祖師 半六持 観音 清右エ門持

観音 金五郎持 同 平五郎持

同 勝右エ門持 同 武八持

一 稲荷社 半六持 雷斧を神体とす

但長弐尺五寸斗

上石神井村

名主 平兵衛

〃 仲右エ門

〔下石神井村〕

一 野方領石神井郷牛込庄 江戸日本橋法道(マヽ)五里

一 家数百六拾弐軒 東 田中村西 上石神井村 南 遅井村北 土支田村 西 東拾丁南北拾八丁

一 田少々畑多し 水旱両難場 江戸通路道村中ニ有之

一 元ゟ御代官所 平岩右膳様 寛永十六卯八月御検地延宝二寅四月御検地 御役人様名不知中川八郎左エ門関口作左エ門

一 飛地 字遅井久保 三在 何村ニ有之候哉

一 高札場 字坂下ニ有之 郷蔵 壱ケ所同所

一 小名字 伊保ケ谷戸。根河原。上久保。和田。坂下。北原下窪池淵

一 用水悪水 上石神井村田中村江流し申候

一 豊嶌勘解由左エ門城跡 上石神井村ゟ当村江少々相掛り入会申候北ニカヽル

御除地一 神明宮 別当三宝寺 御除地石神宮 百姓定右エ門持

同一 稲荷宮 同道場寺 同諏訪明神 禅定院

同一 同 半左エ門持 同稲荷宮 禅定院

一 寺弐ケ所 武州世田ケ谷領勝光院末豊嶋山無量院

一 本尊阿弥陀如来 道場寺

但応長六辛丑年五月廿六日開山観堂寮大和尚

上石神井三宝寺末照光山

一 本尊不動 本堂ニヱンマおく 真言宗 禅定院

但境内 八幡 鐘楼 元禄十六年 開山開基とも不知

一 寮五軒 本尊 阿弥陀如来 道場寺持

〃 観音 同寺持

〃 阿弥陀如来 禅定院持

〃 観音 伝五郎持

〃 阿弥陀如来 三宝寺持

下石神井村

名主 久右エ門

組頭 治兵衛

〔土支田村〕

一 野方領 郷庄之儀ハ相知レ不申候村名之起開発之年代相知不申候

一 江戸日本橋迄五里 土地伝来之古図無御座候

一 家数弐百拾九軒 西東 三十弐丁北南十壱丁

一 隣村 東 赤塚練馬 西 小榑南田中 石神井 北白子

一 田畑多少 拾壱丁九反五セ歩 田方三百六十五町弐反余畑方 水旱之場所水冠場所五(町歩カ)旱損同 弐百□十六町

一 土地ニ応セし産物 粟芋 大こん 稗牛房 飼葉類 往来并古海道無御座候

一 農間之稼 男ハ繩をなひ女は木綿を□る 市場町場無御座候

一 古キ大官(マヽ) 細井九右エ(郎脱カ)門 清野与右エ門 池田喜八郎

一万年 長十郎 小宮山 杢之進 松平九郎左エ門

野田三郎左エ門 鈴木平十郎 芝村藤エ(右脱カ)

小坂(上カ)安左エ門 日野小左エ門 伊奈半左エ門

大貫次エ(右脱カ)門 大岡源右エ門 平岩右膳

雑司ケ谷法明寺法光山本覚寺

一 本尊釈迦

開山日円上人元和三年十月寂

開基法光院常連慶長元年八月十一日小嶋兵庫

村鎮守

一 三拾番神 御除地 壱反弐セ拾五歩

一 天神社 同 弐反六セ廿歩 明安(マヽ)寺持

寛文三卯年 寛文六午年

一 稲葉美濃守様 御検地 伊奈半十郎様 御検地御水帳有

一 新田并持添新田飛地等無御座候

一 高札場 村中字甫村 小名字 上組 甫村 下屋敷 藤原下組 俵久保 八丁堀 土橋

一 山地沼原城跡陣屋跡 無御座候 川 元なし清水也

下総国中山法花経寺末妙延寺

一 本尊釈迦仏

但開山日冝上人慶長三戍年七月寂星性院日安俗名作左エ門寛永十(九)年二月名主右先祖之子

駿刕松山蓮永寺末日蓮宗(妙)

一 本尊釈迦如来 明安寺

但日雄上人元和元年九月寂開基は板倉四郎兵衛法号

一 堂庵修験古城之跡等無御座候

土支田

名主 弥四郎

年寄 長次郎

百姓代 孫市

〔田中村〕

一 五畝歩郷蔵 家数 七拾弐軒 九拾弐丁三反三セ歩 畑方八十弐反五セ廿九歩 田方

一 村之四隣 南北江六十間西ゟ東江七十間 南井草北東谷原西石神井 江戸日本橋迄四里

一 延宝二寅年 中川八郎左エ門関口作左エ門 御検地 谷原境ゟ十四間越字田中村と申新田□飛地

一 高札場 名主宅ニ有リ

三宝寺末慈雲山

一 本尊不動 寛蔵院

外ニ薬師堂 稲荷宮

一 稲荷宮 村鎮守 寛蔵院持

一 供養塚 塚越 上久保 薬師堂

田中村

名主 安左エ門

年寄 林蔵

百姓代 滝エ門

〔谷原村〕

一 野方領 石神井郷 谷原村

一 村名起開発之年代相分不申候 江戸日本橋迄道法五里

一 土地伝来之古図 無御座候 家数百拾軒

一 東 上練馬西 石神井 南 田中村北 土支田 東西 拾弐丁田方少し南北 拾丁 畑方多し

一 水旱両難場 土地応せし産物 大こん蕪其外無御座候

一 往還壱筋 但 江戸目白 字田無道 壱筋

農間稼 市場 古水帳 新田 持添等無御座候

一 御朱印九石五斗余 長命寺

一 高札場 村中名主宅前ニ御座候 字 三のわ中通西原蕪ケ谷戸北原七子竹

一 用水之儀は関村溜井上石神井村池水隣村田中村ニ而落合

当村流末田方用水ニ用ひ申候 悪水壱筋 用水弐筋

一 城跡 陣屋跡 屋敷跡 飛地 古跡 寺跡 塚 古碑 穢多 旧家 系図 古書物 古器 孝行 奇特者 等無御座候

一 鎮守氷川明神 別当 長命寺

一 延宝二甲寅年 中川八郎左エ門関口作左エ門 御検地御水帳五冊

一 千川用水当村地内江凡六十間程 但村方 西田中村ゟ東の方辰巳方 鷺宮村流申候

一 寛永拾六卯年 御検地水帳六冊 案内 名主 新左エ門

新右エ門

三郎左エ門

将監

三郎右エ門

一 高野山奥之院 弘法大師御自作之霊像 慶長十八年丑年

木食阿闍梨讃刕多度郡弥谷寺ゟ移し蓮中菴算道人

俗名増嶋新右エ門 元和二丙辰三月十二日遷化

一 長命寺開基寛永十七庚辰九月十八日増嶋新右エ門ゟ享後

法名心月道伝居士寛文壬寅年正月十八日死去

開山和刕小池坊権僧正秀算寛永十八辛巳年十月(十六日)遷化

御朱印 慶安元戊子十月廿四日

一 本尊 古来薬師今不動明王 和州小池坊末谷原山妙楽院長命寺

一 寺内金堂 本尊 立像長三寸十一面観世音両脇立天照大神春日明神 但行基作

一 大猷院殿御宝塔 奥二王院(マヽ)ニ安置

一 寺 東光院 観照院 坊跡斗有之

一 鐘楼 慶安三庚寅九月廿一日造之

一 碑 宝暦年中金堂前ニ造之仁王門金堂正面ニ古来ゟ造之

一 氷川明神 御除地村鎮守 別当 長命寺

一 国広正一位稲荷明神 金山稲荷明神 稲荷明神

右長命末(マヽ)天神山南光院菅原寺

一 本尊阿弥陀如来

但寺内天神社慶安辛卯年建之開山不知

谷原村

名主 覚右エ門

年寄 杢左エ門

百姓代 伊右エ門

〔中村〕

一 永井庄野方領

一 村名之起リ 先年上鷺中鷺下鷺と古人之申伝ニ而中村と申初候は年来相知不申候

一 江戸日本橋迄道法三里 家数 六拾軒

一 隣村 東 中荒井 南 上鷺 東西江拾丁 西 田中 北 上練馬 南北八丁

一 田三分畑七分

一 紫雲山阿弥陀 上練馬愛染院持 西光寺

御除地一 鎮守八幡宮 境内六百坪 南蔵院持

同一 稲荷宮 同弐百坪 同院持

一 高札場 名主方ニ預リ置申候 土地産物 大こん いも 独活 なす

一 井上河内守様御領分之由 当村は御高家衆今川

刑部大輔知行所ニ御座候井上様ゟ六祓(マヽ)之名寄帳面之由に而御検地御役人様方御姓名一切相知不申候

一 千川用水分水ニ而田方仕付申候

一 良弁塚と申伝少分成ハ古碑御座候 良弁僧都

中村

名主 茂右エ門

年寄 権右エ門

百姓代 三左エ門

〔中荒井村〕

一 江戸日本橋迄道法三里 家数 百六拾弐軒

一 隣村 東 上板橋 西 中村 東西 拾六町 南 江古田 北 下練馬 北南 八町

一 田方少々畑方多し 往還江戸海道

一 古へゟ代々御代官当時 平岩右膳御代官所

御検地一 寛永八辛未年四月 浅田忠右エ門松井半兵衛 牧野四郎右エ門

同一 同寛文六丙午年三月 稲垣与九郎高野貞右エ門

一 字明神ケ谷戸 高札場有之候 字 本村 北荒井徳田 中通リ 原

一 溜池 東西 三十間南北 百五十間 用水 千川堀分水

一 鎮守氷川大明神 祭礼九月十八日

一 牛頭天王 祭礼六月十五日 天神宮 稲荷宮 右本社末社共別当

多摩郡中野村宝仙寺末天満山観音寺真言 正覚院

一 本尊不動明王

但開山法印契衷宝暦元辛未年十月廿五日寂

一 観音堂 但境内 同院持

一 同 字北荒井 同院持

一 弁財天 同所 同院持

一 同 字徳田 百姓 平四郎持同人地内

一 焔魔堂 字北荒井 年寄 平エ門地内

一 稲荷大明神 同 年寄 平エ門地内

一 稲荷宮 字中通 百姓 喜平次地内

一 同 字原 年寄 佐五エ門地内

一 同 字神明ケ谷戸 百姓 三左エ門地内

中荒井村

名主 伝内

年寄 甚三郎

百姓代 文三郎

<項>
文政六年癸未拾月
地誌調御改書上帳
平岩右膳御代官所
武州豊島郡 土支田村
<本文>

一 野方領郷庄之儀は相知レ不申候

一 村名之起リ開発之年代相知レ不申候

一 江戸日本橋迄里数五里余

一 土地伝来之古図

一 家数弐百拾九軒

一 東西南北町数 西東 三拾弐町余 南北 拾壱町余

一 村四隣 東方 練馬赤塚 西方 小榑

南方 石神井谷原田中 北方 小榑橋戸白子

一 田畑之多少 田拾壱町九反五畝歩余

畑三百六拾五町弐反歩余

一 水旱之場所 窪地水冠之場所五町歩余

旱損之場所三百拾五町弐反歩余

一 土地ニ応セシ産物

粟稗芋牛房大こん

飼葉之類

一 往還并古海道 無御座候

一 農間之稼 男ハ繩をなひ 薪木ヲ取

女ハ木綿より

一 村内いわれ有伝 無御座候

一 市場町場 無御座候

一 古ゟ古キ代官 細井九郎左衛門 清野与右衛門 池田喜八郎

万年長十郎 小宮山杢之進 松平九郎左衛門 野田三郎左衛門

鈴木平十郎 芝村藤右衛門 上坂安左衛門 日野小左衛門

伊那半左衛門 大貫治右衛門 大岡源右衛門 平岩右膳

(田口五郎左衛門 山本大膳)

一 村鎮守 三拾番神 御除地 壱反弐畝拾五歩

天神宮 御除地 弐反六畝廿歩

一 寛文三卯年 稲葉美濃守様御検地

寛文六午年 伊奈半十郎様御検地

一 古水帳 焼失仕無御座候

一 新田并持添新田 無御座候

一 飛地 無御座候

一 高札場在所 村中字甫村

一 小名字 井頭 甫村 下屋敷

南原 三丁目 俵久保

八丁堀 土橋

一 山 無御座候

一 川 土支田村小榑村境ニ

三反歩程溜并御座候 此

流川幅六尺余

一 小橋三ケ所長サ壱間半 堤無御座候

一 用水 溜井流ニ而用水仕候

悪水

一 城迹陣屋跡 無御座候

一 屋敷跡九ケ所

一 郷蔵 壱ケ所 但百姓普請ニ御座候

一 古跡寺跡 無御座候

一 塚古碑 無御座候

一 旧家 無御座候

一 穢多 無御座候

一 孝行奇特者 無御座候

一 神社 祭神神躰 作リ縁記 古鰐口 合殿之神 末社 御朱印年月 無御座候

一 古キ北条家抔之朱印物 棟札 神宝 無御座候

一 鎮守三拾番神 妙延寺

一 寺院 下総国中山法花経寺末

武州豊島郡土支田村

日蓮宗信光山妙延寺

本尊釈迦如来 慶長三戌七月十一日開山日宜上人

開基

寛永十九年午二月七日

豈性院殿 日安

俗名 加藤作右衛門

駿河国 貞松山 蓮永寺末

武州豊島郡土支田村

長久山妙安寺

本尊釈迦如来

開山 日雄上人

元和元年卯九月九日

山源英居士

俗名 板倉四郎兵衛勝久

寛永二年八月八日

一 堂宮 無御座候

一 修験 武州豊島郡雑司ケ谷法明寺末

法光山 本覚寺

元和三年十月寂

一 本尊釈迦如来 開山日円上人

慶長元年八月十五日寂

法号 法光院常蓮

開基 俗名

小島兵庫

豊島郡上石神井村三宝寺末

真言宗

八幡山 万福寺

一 本尊大日如来 開山開基相知レ不申候

(裏表紙)

何方江参リ候共関口勘左衛門方江御返シ可被下候

地誌調書上帳

文政六年幕府は『新編武蔵風土記稿』編纂に際し村の概要を報告させた。それが地誌調書上である。現蔵者は上練馬村が長谷川武範氏(春日町三丁目二七番)、土支田村が関口文吉郎氏(土支田三丁目一番)。「書上帳」は実際に報告した自村の控、「写置」は他村の分を参考に写し置いたもの。

<節>

新編武蔵風土記稿(抄)
<項>
新編武蔵風土記稿巻之十三(抄)
<本文>

○中荒井村 中荒井村は日本橋より三里許、民戸百六十二、【小田原役帳】に、森新三郎買得十四貫五百文江戸廻中新居元吉原知行と載す、正保の改には板倉周防守知行中新井村と記せり、今は御料所なり、東は上板橋村、西は中村、北は下練馬村、南は多磨郡江古田村なり、東西十六丁南北八丁余、北の方練馬村堺に河越道中掛れり、用水は仙川上水の分水を引用ゆ、検地は寛永八年浅田忠右衛門、松井半兵衛、牧野四郎右衛門、寛文六年稲垣与九郎高野貞右衛門糺せり、

高札場小名神明ケ谷戸にあり

小名 本村 徳田 神明ケ谷戸 原 北荒井 中通

氷川社 村の鎮守なり例祭九月十八日正覚院持 末社 午頭天王 天神 稲荷○弁天社二一は正覚院一は村民の持○稲荷社四何れも村民持

正覚院 新義真言宗多磨郡中野宝仙寺末、天満山観音寺と称す、本尊不動中興開山契衷宝暦元年十月二十五日寂観音堂○焔魔堂村民持観音堂正覚院持

○中村 中村は、永井庄と唱ふ、当村古は多磨郡に属し、中鷺宮村と唱へ、同郡上下鷺宮村と並たりしか、後いつの頃か下略して今の名となり当郡に入しと、土人云伝ふ、されと【正保国図】等も既に当郡に属して中村と記し、其接界も上下鷺宮の中央にも当らされは、土人の伝る処誤れるに似たり、日本橋の行程、用水は前村に同し、民戸六十、東は中荒井村、西は田中村、北は上練馬村、南は多磨郡上鷺の宮村也、東西十丁余南北八丁程、御入国の後は井上河内守の領地にて、正保年中は今川刑部の知る所にして、今其子孫今川刑部大輔に至る、

高札場村の中にあり

八幡社 村の鎮守なり南蔵院持下持同し ○稲荷社○大神社○弁天社○水神社○三峯社○金

(丸竜白)毘羅社 南蔵院 新義真言宗上練馬村愛染院末、瑠璃山医王寺と称す、慶安二年薬師堂領十二石八斗の御朱印を賜へり、縁起を閲するに、永正年中僧良弁〔良弁僧正とは異なり〕諸国の霊場へ法華妙典を納め、志願畢りて後当寺に錫をとゝめ、妙経を埋て一箇の塚とす、今村の中程に良弁塚と称するもの是なり、然してより此寺にありて修法怠らさりしかは、其功空しからさるにや、或日薬師の像を感得せり、よりて堂宇を興隆し其像を安置すと云、今の本尊是なり、秘仏とし三十三年に一度龕を開て拝せしむ、又当寺より白竜丸と云薬を出せり、曾て良弁か夢中感得せる霊法の薬丸なり、諸病に験ありと云、鐘楼門正徳五年の鐘をかく稲荷社閻魔堂○西光寺紫雲山阿弥陀院と号す本尊阿弥陀○大日堂 南蔵院持

○良弁塚 前に云経典を埋めし塚なり、古碑一基たてり、もとより其頃立しものとは思はれす、年月も彫らす

○谷原村 谷原村は石神井郷に属す、【北条役帳】に、太田新六郎知行寄子衆配当一貫七百文石神井内谷原在家岸分と載す、是に拠れは古は石神井村に属せし地ならん、日本橋より五里、民家百十、東は上練馬、村西は下石神井村、南は田中村、北は土支田村、東西十二丁南北十丁許、用水は石神井川を沃けり、検地は寛永十六年興津角左衛門、曾根与五左衛門、浅田次左衛門、豊田甚右衛門、延宝二年中川八郎左衛門、関口作左衛門糺せり、御打入り後増島左内に賜り、慶長年中収公せられて後御料所となり今に然、高札場村の北にあり

小名 箕輪 西原 北原 中通り 蕪ケ谷戸 七子竹

石神井川 村の北を流る幅二間半○千川上水堀村の巽の方にあり幅二間許

氷川社 村の鎮守なり長命寺の持下同○稲荷社三一は国広稲荷一は金山稲荷と称す

(野高新)長命寺 新義真言宗大和国初瀬小池坊末、谷原山妙楽院と称す、本尊不動古は薬師を安すと云、境内大師堂の縁起に拠に、増島勘解由重明なるもの当村に住し、仏心深く兄重国か第四子重俊に家を譲り、剃髪染衣して慶算と号し紀伊国高野山に登り木食勤行すること年あり、或日大師の夢想に因て讃岐国弥谷寺に至り、師自作の木像を感得し速に当村に帰り、高野山に擬して一院を営む、かの像を安置す今の大師堂是也、又云、慶算元和二年六月十二日寂し、重俊其志を継、諸堂

及大猷院殿御石塔等を建立す、其規制一に高野山に効ふ、因て東高野山と呼、又新高野とも云、寛永十七年小池坊住僧正秀推挙して長命寺と名つけ一寺となせり、是より仏燈弥興隆す、因て正秀を請て開山とす、正秀は同き十八年十月十六日寂せり、其後慶安元年境内観音堂領九石五斗の御朱印を賜はれり 金堂十一面観音を安す、立像長三寸許行基の作なり、両脇に大神宮春日明神を安す、此堂は重俊大和国初瀬に効て建立する所と云大師堂奥の院と称す、弘法大師は木の坐像長二尺余、建立の意趣は既に上に弁せり三社宮大神宮八幡春日三神を安す 鐘楼慶安三年の鐘をかく 大猷院殿御宝塔此御代当時御朱印を賜し故重俊造立し奉る所なり長命寺碑宝暦年中立る所なり当時の来由を記せり増島氏碑金峨井純卿か製文也開基増島氏の事歴備れり仁王門随身も置り寺中東光院、観照院二院共中古廃して未再興ならす、坊蹟のみ残れり○南光院長命寺末、天神山菅原寺と号す、本尊弥陀 天神社慶安四年起立なり

旧家者 伝左衛門 氏を増島と称す、家系一巻を蔵せり、其略に先祖重国俗称左内小田原北条の族士たりしか、天正十八年没落の後東照宮に謁し奉り、当村及田中の両邑を賜ひ、後又加恩ありて六百石を領し、慶長年中近江国御代官たりし時贓に坐して改易せらる、寛永十七年九月二十三日〔異本系図慶長十六年三月廿一日に作る〕江州に於て死す、歳六十九、時に其子重俊未た幼年なりしかは其弟勘解由重明〔長命寺増島氏の碑名には重国の兄とす〕当村に住して重俊を扶養し、成人の後家を譲りて遂に僧となり、長命寺を開基す、重俊八郎右衛門と称し、再ひ長命寺を修営し、後出て江戸に住し、寛文二年正月十八日死す、法名心月道伝、重俊の子を平太夫重光〔増島氏の碑には重辰に作る〕と称す、寛文十年館林御館へ召出され、延宝八年御勘定となり、天和二年五月九日死す、其子六右衛門小十人組に召出され、子孫今御儒者金之丞是なり、六右衛門の弟を伝左衛門と称す、村内に住し専ら耕作を事とし、五代を経て今の伝左衛門に至る、長命寺増島氏碑の名に拠に、増島重胤は北条氏の支族にて重興を生めり、重興重明重国等を生とあり

画像を表示

○田中村 田中村は江戸より四里、民家七十二、西は下石神井村、東北は谷原村、南は多磨郡井草村なり、東西一丁余南北一丁許の小村なり、御打入の後前村と同く増島左内に賜はり、慶長以後御料所となり今に然り、用水及ひ延宝の検地も前村に同し、谷原村の北に飛地あり田中新田と云、高札場 村の西にあり

小名 薬師堂昔し堂ありし所と云 供養塚 塚越 上久保

石神井川 村の北を流る幅二間半

稲荷社 村の鎮守なり宝蔵院持

宝蔵院 新義真言宗上石神井村三宝寺門徒慈雲山と号す本尊不動 稲荷社 薬師堂

○上石神井村 上石神井村は石神井郷牛込庄に属す、元は下石神井村と一村なりしと云、正保の改には既に二村に出せり、往古村内三宝寺池より石剣出しかは、里人一社を営みそれを神体とし石神井社と崇め祀れるより、神号をもて村名とせしと云、社は今下石神井村にあり、【鎌倉大草紙】及村内三宝寺の縁起等に拠に、当所は豊島氏累世居住の地なりしか、文明年中太田道灌の為に亡ひ上杉氏の領地に属せり、其後太田新六郎の所領となれり、【小田原役帳】に、太田新六郎知行十七貫五百文江戸石神井と見ゆ、其後此辺戦争の衢となり、田宅荒廃せしを御入国の頃、高橋加賀守、同主水、尾崎出羽守、田中外記、桜井伊織、元橋主水等来て開墾せりと云、是より御料所となり今に然り、加賀守は名主平蔵か先祖にて、外五人も今に子孫存せり、用水及検地は前の谷原村に同し、日本橋より五里、民戸二百十、東は下石神井村、西は関村、北は土支田村、南は竹下新田及多磨郡遅野井村なり、東西十八丁余南北十六丁許、青梅道村の南方を貫けり、

高札場小名沼辺にあり

小名 城山説城跡の下に弁す 大門 沼辺 西村 小関 立野 観音山 池淵 出店

石神井川 水元は村内三宝寺池より流出して一条の川となり下石神井に達す幅二間

池 三宝寺の側にあるをもて三宝寺池と称す、石神井川の水元なり、古は大さ方四五丁余もありしか漸く狭まりて今は東西六十間余南北五十間余となれり、水面清冷にしていかなる久旱にも水減することなし、多磨郡遅野井村善福寺池と水脈通せりと云、池中多く蓴菜を生す、生する所の魚は頭に鳥居の形ありと伝へ、捕ものは必崇を蒙るとて釣網することを禁す

氷川社 上下石神井、関、田中、谷原五ケ村の鎮守なり、例祭九月二十日三宝寺の持下三社同し 末社 天神 弁天 天王 第六天 稲荷○弁天社三宝寺池の中島にあり 神楽堂○水天宮池ノ側にあり ○愛宕社小名城山にあり、略縁起に拠に、文明中太田道灌豊島氏を攻るの時、当社を勧請して勝利を祈しと云 ○稲荷社二 一は火消稲荷と称す、当社の霊験により三宝寺火難を遁れし事あり故に名つく、同寺持、一は村民の持にて雷斧を神体とす長二尺五寸許

三宝寺 新義真言宗亀頂山密乗院と号す、無本寺なり、古は鎌倉大楽寺の末なりしと云、本尊不動傍に聖徳太子の作の正観音を安す、又将軍地蔵を置り、是は村内愛宕社の本地にして世に希なる古仏なり、年を追て朽損せしかは慶長十一年檀越尾崎出羽守資忠住僧頼融と謀り修理を加へしと云、其後賊にあひて全体は失へり、寺伝を閲するに当時は応永元年権大僧都幸尊下石神井村に草創する所にして、同き五年三月九日寂す、後屡戦争の災に罹て頗衰たりしに、文明九年太田道灌豊島氏を滅せし後、その城跡へ当寺を移せりと云、かゝる旧刹なりしかは天文十六年元の如く勅願所たるへきの免状を賜ひ、永禄十年現住尊海を大僧正に任せらる、又北条氏よりも寺田を寄附し、制札等を与へて帰依浅からさりしかは、御当代に至りても先規に任せられ、天正十九年寺領十石の御朱印を賜はれり、寛永二年正保元年大猷院殿御放鷹の序当寺へ御立寄あり、例歳二月十五日三月二十一日の二度に常楽会を執行す、近郷の末寺配役して是を勤むと云 寺宝古文書九通

武州三宝寺事従往古為御祈願所上者弥専法流宜奉行国土安全宝祚延長者天気如此悉之以状

天文十六年八月十五日 右中弁 花押

当寺衆徒中

上卿 源中納言

永禄拾年七月廿七日 宜旨

法印尊海 宜転任大僧正

蔵人右少弁□宣教奉

上卿 勧修寺大納言

天正四年六月四日 宣旨

法印賢珍 宜任権僧正

蔵人頭右大弁藤原光宣奉

賢珍は第八世の僧なり、此年当寺の住持職となれり、其時の宣旨及移転以前永禄七年四月権大僧都に任し、同年六月法印に移り、同九年八月権律師に転せし等の宣旨状あれとこゝに略す

画像を表示

石神井三宝寺御遠行に付而彼地御相続之儀先師□□□旨落着申候衆中并御門葉不可有相違候如此上弥々寺中御衆僧肝要に存候仍如件

上杉三郎景虎初名ナリ

天正弐年申戌二月廿六日 氏秀花押

三宝寺 御同宿中

三宝寺内法度事

一 殺生禁断之事

一 竹木剪取事

一 狼藉之事

右三ケ条背者有之者注校名急度可蒙仰候就中郷中百姓等無々沙汰可走廻者也如件

天正弐年六月七日 氏秀花押

石神井三宝寺

禁制

一 於寺内剪取竹木成横合非分企殺生事

已上

右於違犯之輩者搦捕可承候若又権門之者思慮之儀至于有之者記其交名可有披露候仍如件

天正十二年甲申十月十三日 乙松印

石神井三宝寺

禁制

右於当寺横合非分狼藉等堅令停止畢若違犯之輩有之者可有披露旨被仰

出者也仍如件 小田原北条氏印アリ 天正十五年丁亥

十月廿日 江雪奉之

三宝寺

一 六百四拾文 自前々為年貢被納辻但者未年以来以横合田地共領主相押由糺明事

一 八百文 無年貢之田畠

已上都合壱貫四百四拾文田畠

右於当寺久被抅来由候条改而寄進候此内自前々領主納所之六百四拾文者毎年可有進納候仍状如件

天正十五年ナリ

丁亥十月廿一日 糺明之使江雪海保

三宝寺

画像を表示

任蒙仰大途御証文申調遣候就中年来早川相押候御寺領田畠之事咋廿一於御隠居様終日御裁許被任道理如前々件之地御証文を以改而付被遣候条早々被召返可有御手作候委曲御使僧泉福寺可被申述候由可得尊意候恐々謹言

追啓先御証文此度返遣申候 以上

板部岡入道

十月廿二日 江雪花押

三宝寺御同宿中

八幡社 稲荷社 地蔵堂千体地蔵を安す 経堂正観音を安す 鐘楼延宝三年の鐘をかく、江戸増上寺の大鐘を鋳し余銅を以て作れりと云○正覚院三宝寺の門徒愛宕と号す、本尊不動を安す 観音堂○閻魔堂正覚院持 観音堂六共に村民の持○祖師堂是も村民の持なり

照日塚 三宝寺池の北丘上にあり、同寺第六世定宥故ありて京都に上り、中秋の夜雲客の雅筵に侍することを得て、月はなし照日のまゝの今宵かな、といへる発句を献せしかは、事叡聞に達し照日上人と勅号を賜ひしと云、遷化の後こゝに葬れり、よりてかく名付、塚上に松一株立り、

石神井城跡 村の東の方氷川社及三宝寺境内の辺是なり、広さ東西六七丁南北三丁許、太田豊島両系譜及三宝寺縁起等を閲するに、豊島権守清光か子を右馬允朝経と云、朝経か四代の孫を三郎兵衛泰景と称す、是当城の主たり、泰景卒し其子朝泰幼なりしかは、泰景の弟左近太夫景村元弘年中遺跡を継、在城して朝泰を守立、成長の後所領を返し当城を譲れり、朝泰か八代の孫を勘解由左衛門泰経と称す、文明九年四月泰経弟平左衛門泰明と長尾景春に一味し、管領上杉修理太夫定正に背き、江戸河越の通路を塞きけるにより、太田道灌江戸より打て出平左衛門か平塚の城を取巻、城外を放火し手痛く攻けるゆへ、泰経平塚を救はん為当城を出て、多磨郡江古田原沼袋に於て、道灌と接戦し、泰経泰明敗績して一族みな戦死し、残兵力つきて同十八日城遂に陥れり、【鎌倉大草紙】には、文明九年正月豊島勘解由左衛門同弟平左衛門景春に一味し、当城及ひ練馬城を取立、四月十三日道灌と合戦し、泰明は敗死し、泰経は当城を去て平塚城に籠りし由を載せ、又【天正中年代記】には文明八年四月二十二日石神井城陥ると記せり、前に載る所と年月たかへり、且【大草紙】に拠れは此時始て当城を築しにや、文明落去の後当城終に廃跡となりしなるへし、今城地の様を見るに山城と云程にはあらされと、自然地高にて前はかの三宝寺池に臨み、廻りに堀ありてこの池水を引沃かんには堅固の城郭となるへし、櫓のありし跡にや所々に築山残れり、此より北の方に城山と唱ふる地あり、道灌当城を攻し時こゝに砦を築き軍卒を置し所と云、尚平塚城跡豊島村等併せ考へし

○下石神井村 下石神井村は、郷庄及日本橋の里数、用水、検地の年代等前村に同し、民戸百六十二、東は田中村、西は上石神井村、北は土支田村、南は多磨郡遅野井村なり、東西十丁余南北十八丁余、古より御料なり、高札場小名坂下にあり

小名 伊保ケ谷戸 上久保 根川原 坂下 下久保 和田 北原 池淵

石神井川 村の南を流れ巽の方にて関村溜井の余流と合す、川幅二間余

石神井社 是村名の由て起りし社なり、神体は則上石神井村三宝寺池より出現せし石剣なり、事は同村に弁す三宝寺持○神明社持前に同し村の鎮守なり○諏訪社禅定院持○稲荷社三一は道場寺一は禅定院一は村民の持

道場寺 禅宗曹洞派荏原郡世田ケ谷村勝光寺末、豊島山無量院と称す、本尊阿弥陀又行基の作の薬師を安す、元は別堂にありしものなり、当寺は石神井城主豊島左近太夫景村の養子、豊島兵部大輔輝時応安五年四月十日此地におひて菩提寺を起立し、豊島山道場寺と号し、僧大岳を延て開山とし、練馬郷の内六十二貫五百文の地を寄付す、其頃は済家なりと云、輝時は北条高時の子相模次郎時行の長子なり、其家滅亡の後景村養ひて豊島の家を継しめしとなり、事は過去帳に詳なり、輝時永和元年七月七日卒す、勇明院正道一心と謚す、中興開山観堂、慶長六年五月二十六日寂す、此時今の派に改む、時の開基徳翁宗隣は小田原北条氏に仕へし石塚某の子にて、幼より仏心深く遂に剃髪して僧となり、観堂と力を戮せ堂宇を再建せり、慶長十年八月朔日寂す 白山社○禅定院新義真言宗上石神井村三宝寺の末、照光山と号す、願行上人の開きし寺にて、本寺よりは古跡なりと云、本尊不動側に閻魔を安す、是は元は別堂にあり、境内に明応四年二月八日妙慶禅尼と彫る古碑あり

鐘楼元禄十六の年鐘を掛 八幡社○阿弥陀堂三一は道場寺一は禅定院一は三宝寺の持○観音堂二一は道場寺一は村民の持

○関村 関村は、郷庄及ひ日本橋よりの行程前村に同し、当所は多磨新座両郡の接界にて、古へ京都より奥州筋への街道掛り、豊島氏石神井に在城せし頃関を構へし所なり、今も大関小関等の小名あるは其遺跡なりと云、古道は定かならす、青梅道村内を貫けり、民家九十三、東は上石神井村及竹下新田、西も竹下新田及新座郡保谷村、北は同郡小榑村、南は多磨郡吉祥寺西久保の両村なり、東西南北各十二丁余、用水は村内の溜井より引沃けり、古へより御料にして今も替らす、検地は寛永十六年寛文四年糺し、其余享保二十年鈴木平十郎杉庄右衛門粕屋金太夫か改めし新田あり、高札場村の中程にあり

小名 大関 小関 本村 関原 葛原 銕炮塚 三ツ家新田 札野 二ツ塚 小額

溜井 村の西北の方にあり、広さ六十問もしくは百間程の処あり、上下石神井田中谷原及当村合五ケ村組合て修理を加へ用水とす、是を石神井用水と云、余流下石神井村にて石神井川に合す

三十番神社 村の鎮守なり本立寺持○稲荷社最勝寺持○弁天社当村多年水災に困めり、近き頃御勘定武島菅右衛門巡見の頃深く是を憐み、己か尊崇せし弁天の木像を与へけるにより、かの溜井の側に安置し水難を祈りけれは、其擁護にやよりけん今は其患にかゝること希なり

本立寺 法華宗新座郡小榑村妙福寺末、法耀山と号す、本尊三宝祖師を安す、開山日誉寛永二年寂す、当時名主を勤めし政右衛門と云ひしもの開基せりと云、○最勝寺新義真言宗上石神井村三宝寺末、関星山と号す、本尊観音、開山弘印寛永二年寂す、寮三二は日蓮の像を安し、一は薬師を安す、共に

村民の持○石地蔵像坐像長六尺青梅道の北側に立り、関の地蔵と云、祈願をなすもの石にて打は、かねの音あるをもてかん〳〵地蔵とも云、傍に囲三尺許なる柳一株たてり

旧家者 弥兵衛 名主を勤む、井口を氏とす、先祖某は伊豆国伊東より出、鎌倉没落の後子孫当所に住し、遥の後伊藤八右衛門某の時松平越後守光長に仕へ、元和九年越後国にて三百石を領せしか、後又浪士となりて当村に帰り住、武藤野新田開発の頃は野守のことを奉れりと云、其後故ありて今の氏に改む、元和中越後守光長か与へし知行書出しの文左の如し

宛行領知之事

一 三拾石弐斗 魚沼妻有黒島鮖清水村内

一 四拾七石五斗四升七合 魚沼妻有水口沢之内小禰岸村

一 七拾弐石六斗七升 夷守北代石新田本田村

一 四拾八石八斗五升三合 苅羽長嶺村之内

一 三拾一石八斗四升 山五十六信濃坂村

一 六拾八石八斗九升 武士大口村之内

高合三百石也 右全可令知行者也依如件

元和九癸亥年六月 日印

伊藤八右衛門とのへ

○竹下新田 竹下新田は、関上下石神井三村の秣場なりしを、天明四年竹下忠左衛門と云浪士来り、願ひ上て新墾せし地なれはかく名付くと云、同年飯塚伊兵衛検地して貢数を定む、日本橋よりの行程前村に同し、民戸十九、西は関村、北は上下石神井村、東南は多磨郡遅野井村なり、東西十丁南北三丁許、此余関村を越て新座郡の堺に東西四丁南北二丁の飛地あり、青梅道村内を貫けり、新墾以来御料所なり、

高札場村の中程にあり

小名 久保 千川付 前野 淵崎

仙川上水堀 村の中程を通す幅二間許

弁天社 村の鎮守なり谷原村長明寺の持 稲荷社村民持

大学院 当山修験江戸青山鳳閣寺配下本尊不動

○土支田村 土支田村は日本橋より五里余【小田原役帳】に太田新六郎知行寄子衆配当の内六貫五百文江戸土支田源七郎分と載す、民家二百十九、東西三十二丁南北十一丁余、東は上練馬上下赤塚の三村、南は田中上下石神井の三村、西北は白子川を隔新座郡小榑村及白子村なり、古より御料所にて、寛文三年稲葉美濃守同六年伊奈半十郎検地す、土人私に村内を二区に分ち上組下組と唱ふ、

高札場村の中程にあり

小名 井ノ頭 甫村 下屋敷 前原以上上組にあり 三丁目 俵久保 八丁堀 土橋以上下組にあり

白子川 新座郡の堺を流る川幅二間許

三十番神 村の鎮守なり妙延寺持○天神社妙安寺持

妙延寺 法華宗下総国中山法華経寺の末、信光山と号す、本尊釈迦、開山日宜慶長三年七月寂す、開基豈性院日安は今の名主弥四郎か本家の祖にて、加藤作右衛門と称し寛永十五年二月終る大鐘年号を彫らす客殿の簷にかく○妙安寺同宗駿河国蓮永寺末、長久山と号す、本尊釈迦、開山日雄は元和元年九月寂す、当寺は板倉阿波守の先祖四郎兵衛と云ものゝ開基なり、此人寛永二年八月卒し法名決山源英と号すと云、按に【板倉家譜】に、伊賀守勝重少名四郎左衛門と称す、寛永元年四月二十九日卒し、法名慈光院傑三源英と見ゆ、是年月法号とも異同あれと略年代等相似たれは、若くは勝重かことにして寺伝たま々々誤れるにや○本覚寺同宗雑司ケ谷村法明寺末、法光山と号す、開山日円元和三年十月化す、開基法光院常蓮俗称を小島兵庫と云、慶長元年八月十一日死す、本尊釈迦

○上練馬村 上練馬村は松川庄と唱ふ、相伝ふ往昔此地原野なりし頃篠某と云浪士来り住み、近国の牧場の馬を盗み来り、こゝにて調練し他に鬻く事を業とし、後浪游の士を呼集め此地を開墾す、よりて練馬の名起れりと云、其馬を調練せし地は今の下練馬村金乗院門前並木のあたりなりと云伝ふ、【北条役帳】に、中村平次左衛門三十八貫六百八十文江戸練馬豊前方、

及ひ金曽木百貫文江戸練間島津孫四郎十四貫文豊島之内清光寺分練間にも有之志村にも有之と見ゆ、正保の改には上下二村とす、日本橋より四里、戸数四百八十軒、東は下練馬村、西は下谷原村、南は中村、北は上下赤塚の二村なり、東西南北各二十五丁許、用水は石神井川を引沃けり、此地蕪蘿蔔を名産とす、当村に多磨郡青梅への間道係れり、御入国以来御料所なり、検地は寛永十六年永田八兵衛、宇野八郎兵衛、高橋与左衛門、延宝元年中川八郎左衛門、竹村与兵衛糺せり、其後宝暦十一年伊奈半左衛門新田を改む、

高札場村の東にあり

小名 海老ケ谷説城跡の下に弁す 中ノ宮 高松 貫井田抦

石神井川 村の南を流る川幅二三間

八幡社 村の鎮守なり、社領八石の御朱印は慶安二年十一月十七日付せらる、神明春日を合殿とす愛染院持○稲荷社六一は円光院、一は愛染院、一は高松寺、一は養福寺二は成就院の持 ○愛宕社○金山権現社○神明稲荷合社巳上村民の持

○子権現社円光院持○第六天社二共に愛染院持○六所権現社寿福寺持○飯綱権現社養福寺持○神明社泉蔵寺持

愛染院 新義真言宗京都御室仁和寺末、練月山観音寺と号す、本尊愛染を安す、中興尊智正保三年三月二十四日寂す、寺領十二石一斗の御朱印は慶安二年十一月十七日賜はれり 鐘楼元禄十四年の鋳造なり○円光院愛染院末南池山貫井寺と号す、本尊不動開山円長天正十三年六月十一日寂す

天神社 観音堂○寿福寺同院門徒下四ケ寺並に同し、大林山寂勝院と号す、薬師を本尊とす開山秀信万治二年十二月寂す

十羅刹女社○高松寺雙林山と号す、本尊薬師を安す、開山栄俊延宝三年十一月十九日寂す○養福寺宝樹山知光院と号す、本尊弥陀の石像を安す、開山長空万治二年三月二十二日寂す ○泉蔵寺 長松山地蔵院と号す、本尊阿弥陀開山宥海慶安五年四月十六日寂す○成就院不動を本尊とす

練馬城趾 村の南にあり、土人或は矢の山と云【鎌倉大草紙】に文明九年正月長尾景春一味には武州豊島郡の住人豊島勘解由左衛門〔按に泰経〕同弟平左衛門〔按に泰明〕石神城練馬城を取立、江戸川越の通路を取切、四月十三日太田道灌江戸より打て出て平左衛門か平塚城を取巻、城外を放火し帰る所に、勘解由左衛門石神城練馬城より攻来り、道灌と江古田原沼袋と云所にて合戦し、平左衛門を始として一族百五十人打死すと載たり、又或説に海老名左近と云者の居城なりと、こは豊島氏落去の後又こゝに居りしにや、是より北の方三丁許に海老谷と唱る地は、則左近の居跡なりと云、寛永年中開墾して平地となれり、故に其広狭等今より計るへからす

○下練馬村 下練馬村は庄名及用水等前村に同し、日本橋より三里許、民戸四百二十六、東は上板橋村、西は上練馬村、南は中荒井村、北は徳丸本村及脇村なり、東西二十八丁南北一里程、こゝも蘿蔔を名産とす、当所は河越道中の馬次にして、上板橋村へ二十六丁、新座郡下白子村へ一里十丁を継送れり、道幅五間、此道より北に分るゝ道は下板橋宿へ達し、南へ折るれは相州大山道への往来なり、御打入以来御料所にて今も然り、検地は延宝元年十一月竹村与兵衛中川八郎左衛門改め、其後開きし新田は宝暦十一年伊奈半左衛門改む、高札場河越道の傍にあり

小名 今神 湿化味 三軒在家 早淵 田抦 宮ケ谷戸 宿 本村

石神井川 村南を流る幅五間石橋を架す、正久保橋と呼、河越往来なり長五間

神明社 清性寺持 末社 稲荷○白山社

金乗院 新義真言宗大和国初瀬小池坊末、如意山万徳寺と号す、本尊愛染を安す、又不動を置り、こは古の本尊と云、寺領十八石九斗余の御朱印は慶安二年十一月十七日賜へり、開山行栄元和三年五月廿七日寂す、開基を木下大炊介と云、慶長十七年八月二十四日死し、法名光明院台法道厳と号す、子孫世々当村の農民なりしか後年廃家となり、今其分家作左衛門と云者残れり 八幡社 牛頭天王社 閻魔堂 鐘楼元禄十一年七月鋳造の鐘をかく、側に椎木あり三囲許 ○清性寺金乗院末下三ケ寺並に同し、神明山観音院と号す、本尊不動は弘法の作長一尺二寸立像なり、法流開山快遍宝暦八年二月廿七日化す 天神社○円明院恵日山西光寺と号す本尊不動開山行真と云 稲荷社 弁才天社 鐘楼寛延二年十二月鋳造の鐘をかく○荘厳寺医天山不動院と号す、本尊不動開山良仁天正二年二月三日寂神明社牛頭天王社 鐘楼天和二年二月鋳造の鐘なり○光伝寺大明山無量院と号す、本尊不動法流開山教恵宝暦十年十二月十二日化す天神社 閻魔堂 地蔵堂 鐘楼享保十一年鋳造の鐘なり○威徳院同寺の門徒なり下三ケ寺並に同し、西光山と号す本尊弥陀 天神社○松林寺明王山と号す本尊不動 氷川社村の鎮守なり 稲荷社 疱瘡神社

○高徳寺瑠璃山と号す本尊薬師 天神社○東林寺 薬王山と号す本尊薬師 弁天社 神体は秘仏にして、天長七年七月七日弘法大師江島弁才天へ参籠し、一万座の護摩を修し其灰燼をもて作と云 観音堂 坂東札所の写にて三十三体を安す光伝寺持 ○阿弥陀堂二 一は金乗院持、一は清性寺持にて弥陀は春日の作なり ○地蔵堂 金乗院持

屋鋪跡 村の南にあり、右馬頭と称せるもの住といふ、其姓氏及何人たる事を伝へす、今陸田となり御殿表門裏門等の小名あり、礎石なと堀出す事まゝありと云

<項>
新編武蔵風土記稿巻之百三十四(抄)
<本文>

○橋戸村 橋戸村は新倉郷広沢庄に属す、この地は天正十九年伊賀組へ賜りしより、今も伊賀組の給地なり、江戸を隔ること四里半、上白子村の内にあり、人家三十軒、其居住の地及神社仏寺等の散在する処のみ此村にて、其余は皆上白子村の地なり、其地はもと橋戸村なりしか、後世白子の地広まりしまゝに、自ら橋戸も其中へ入し故、別に上白子村の名も出来しならん、已に土人は上白子村の一名を橋戸村とも心得たり、されと村民庄忠右衛門か所蔵の慶長元年の文書にも、橋戸の名をは載せたり、又正保元禄等の図にも、橋戸白子は別村なること其証明なるは、既に白子村に弁せり、

神社 天王社 除地一町、小名中里の耕地にあり、三間四方の社村の鎮守なり、鎮座の年歴知らす、当村忠右衛門か小榑村角左衛門のもち

氷川社 村民庄忠右衛門か宅地の内にあり、小祠、祭神は在五中将なり、其家にては中将東国下向の時、庄春日江古田と云三人のもの慕ひ来りて、此地に祭りしと相伝れとも、信すべからす

弁天社 一間に二間、村内真福寺の側にあり、村民の持

天神社 東辺にあり、前に鳥居建つ

寺院 教学院 境内除地一町四方、村内にあり、新義真言宗、豊島郡石神井村三宝寺の末、西円山と号す、文永五年長全法印開山す、中興開山は良賢法印と云へしも、其時代は詳ならす、本堂八間に五間、本尊観世音を安置す、古碑五基境内にあり、その内二基は文字滅して見わけがたし、三基に刻する文字は、文永八年、文和五年二月、嘉吉三年八月逆修祐厳とあり

真福寺 境内四段、村の西にあり、是も新義真言宗、三宝寺の末、愛宕山と号す、本堂三間に四間、開山栄長法印承応三年十二月寂すと云、教学院所蔵の過去帳には、この寺の開山宗識と見えたり、この栄長のことにや

薬師堂 除地四畝余、教学院の南にあり、堂は三間四方、本尊薬師如来を安す、行基菩薩の作なり

旧家 忠右衛門 庄氏なり、先祖和泉守藤原秀永、足立郡新曾村観音寺に隠居し、しかも彼寺を中興開基し、寛永十七年に死せり、これより前のことは伝へされは知るへからす、按に庄氏は武蔵国七党の内児玉党にて、庄太夫家弘より出つ、家弘か子を庄権守弘高と云、その子庄太郎家長なり、家長は【保元物語】【東鑑】等に事跡もあらはれ、当国の住人にてはことに類属を広かりしなり、此庄氏もそれか子孫なるへけれと、今その詳なることを知す、和泉守秀永と云は、北条家臣庄式部少輔の一族なとにや、同家太郎右衛門は今も新曾村に居住す、忠右衛門の家はいつの頃かこゝに移り、それより累世この村にをれり、古文書四通を蔵せり、其文左のことし

定白子郷段銭棟別納様之事

一 四乄五百文 反銭請取奉行良知河内守吉原新兵衛

此内

一 九百文 八月廿四日ゟ同晦日迄切而可納

一 □八百文 九月朔日ゟ同十五日迄切而可納

一 □八百文 九月十六日ゟ同晦日迄切而可納

以上

五百文 江戸へ可納候

一 九百廿二文 棟別

請取奉行吉田平右衛門西沢三右衛門

此内

一 □四百廿二文 八月晦日迄切而可納

一 □五百文 九月晦日迄切而可納

以上□九百廿二文 小田原へ可納之

一 如御定両地持寄米穀を以百文に榛原升一斗五升目積に御蔵奉行に

可斗渡若日限一日延に付而は一俵に一升五日相延に付而は三升十日五升過□可被仰付候十日を立延候由奉行人申上ならは名主百姓召寄可被処罪科事、

一 斗手者近年如御定百姓斗可納升之上過上蔵奉行申付候者則認目安可申上事

一 段銭棟別員数御蔵納日限毎年可為如此万一有替儀者毎年七月御配符可出不然者此度如御定毎年可出之事

右定所致妄付而は当郷小代官名主百姓頭永可被為遠島到□重科之可切頸者也仍如件

辛未八月十九日

白子小代官百姓中

白子上郷之百姓衆貴所頼入日損風損之侘言申候自最精候無御差置候へ者其方御越御侘言に付而百姓宿如申候九春七之介五人之年貢所給右之御給御扶持銭を以ゆるし申候扨又修理大炊助両人之者巳年之年貢過分に引を以而内々利足致算用さいそく可申候へ共貴所様へ侘言被成候間是をもゆるし申候雖然後日与三郎大炊助両人之者は我等に少も無沙汰申付候而ハ自是算用次第に取可申候無沙汰無之候はゝ郷中走廻候付而者如申是相違有間敷候為後日証文一札進候者也仍如件

猶よき時分に成地移御越候間同三人申候以上二月十七日

小河出雲守花押

高麗丹波守殿

改被仰出条々

一 当郷田畑指置他郷寸歩之処不可出作事

一 不作之田畠甲乙之所見届五年荒野七年荒野に代官一札を以可相聞事

一 当郷儀者自先代不入之儀至当代猶不入御証文従 御公儀可申請間新宿見立毎度六度楽市可取立事

一 白子郷百姓何方に令居住共任御国法代官百姓に申理急度可召返事

一 御大途御証文幷此方証文無之誰人用所申付共不走廻事

右条々違犯之輩有之付而者注交名可遂披露者也仍如件

天正十五年丁亥年四月三日代官

白子郷百姓中

書付

右清戸郷士小兵衛未之年かけおち服部石見守殿へ御知行はしとの内居申被仰付返可被下候以上

慶長元年丙申壬七月七日

東三 五花押

中島 □花押

同 □花押

御奉行様

右之分御書付上り申候返答書被成御寄合へ可有御出候以上

壬七月十七日

本 佐印

大十兵印

長 彦印

彦小刑印

伊熊印

服部石見守殿

○小榑村 小榑村は広沢庄と称し、郷名は伝へす、郡の東南の隅にありて、江戸を隔ること五里余、東は上白子村及白子川を隔て豊島郡土支田村に隣り、西は本郡下保谷村、南は豊島郡関村及郡内上保谷村に堺ひ、北は中沢・辻両村に接し、上白子村の西方より土支田村の境白子川の流にそひ、斜に西の方へかけ入り、其形半月の如し、故に北によりたる所は東西一里余、南の方は纔に十丁許、南より北へは五丁もあるへし、人家三百二十軒、川越街道の内白子の宿へ人夫の定助をつとむ、此あたり用水の便あしけれは、水田少し畑多く、米穀は一里許隔てたる黒目川の河岸へ津出しをなし、荒川を経江戸まて川路十六里余、この村の飛地隣郡土支田村に二ケ所、本郡中沢村に一ケ所あり【北条分限帳】に小榑染屋九十八貫八百六十文、太田大膳亮知行とあり、染屋は多磨郡染屋村にて、小榑はこの村なれは、北条家の時代まては太田氏の知行なりしか、御打入の後板倉四郎左衛門勝重の領地となりしことは、上新倉村に見えたり、板倉氏この地を領せしは勝重より子息伊賀守に及ひ、寛永三年の頃まてなりと、村人の伝ふる処なり、されと板倉家系に勝重の子は、周防守重宗とあれは、伊賀守といへるは誤にや、正保の頃御代官野村彦太夫為重か支配し、それより前にも伊奈半十郎の支配せしことあり、後寛文年中に至り、稲葉美濃守正則の領知となり、同き三年同人検地せり、其子丹後守正通貞享二年越後の国高田へ所替あり、後又御代官所となり、元禄十六年江川太郎左衛門支配の時、米津出羽守田盛へ賜はり、それより累世今も米津氏の領知なり、

小名 堤村 村の西北の方を云、此所の辻に高さ三尺八寸、幅一尺四寸三分、厚さ一尺一寸二分、正面に題目を刻み、側に享保元年に建たるよしを彫る四面の塔あり、故に土人此所の小名を四面塔ともいへり 榎戸 榎の古樹残て在故に名つく 水溜 村の南にあり 小作 村の西にあり 中島土支田村の境にあり

山川 白子川この村と土支田村との境を北に流る、川幅二間許

井頭池この村及ひ土支田村の境内によりてあり、白子川の源なり

原野 秣場村の東北隅にあり

神社 三十番神社村の鎮守なり、小名中嶋にあり、本照寺の背後にあたれり

稲荷社小名堤村にあり、鎮座の初詳ならす、九尺に一間許の小祠、前に鳥居あり、村内円福寺の持なり

寺院 妙福寺 村の東豊島郡土支田村より入口にあり、法華宗、下総国葛飾郡山中山法華経寺の末、法種山と号す、弘安五年法華経寺第二世日高聖人草創の地なれとも、後住める僧もなかりしを、又かの寺の三祖日祐聖人再建し、一七日の説法ありしに、村内天台宗修験大覚寺の住持、日延聖人も此法筵に至り、深く其宗意を帰依し、遂に改めてこの宗となれり、日祐も日延聖人の知識、よのつ子ならさるを知り、当寺をこの聖人に譲れり、今は日祐聖人を開山とし、日延聖人を帰伏開山と称す、日延は永和二年十一月十一日に寂す、後天正年中御朱印地二十一石余を賜りしか、後回禄に罹り寺も衰へしに、二十一世明了院日教聖人堂宇を再造せしゆへ、是を中興開基とす、この聖人は享保十一年十一月十三日寂せり、本尊三宝を本堂に安す、往古大覚寺の本尊は嘉祥三年創建の時、開眼の釈迦(金仏坐像)今もこの寺に収め置たりといふ 仁王門 境内入口にあり、四間に二間東向なり、こゝに安する金剛は、近き頃塗直し、古色を失ふに似たれとも、容貌よの常の像に非す、旧きものと見へたり 裏門二間半、仁王門の並ひにあり、これも東に向ふ 祖師堂七間に七間半、仁王門の正面に当る、堂の左右に石燈籠二基を建つ 三十番神堂二間半四間半、祖師堂に向て左にあり 七面妙見相堂二間半に四間半、祖師堂の背後山上雑木茂りたる間にあり、堂の前山下に鳥居を建つ 天神社 七面堂に向へは左なり、九尺に二間、前に鳥居あり 鬼子母神堂 祖師堂の丑寅にあり、三間四面、この鬼子母神は法華経寺に安せる像の本体なり、往古日蓮聖人平日の看経仏なりしを、日祐聖人へ伝はり、ついに当寺へ納めたり、本寺には却て墓刻の像を安せり、嘗て賜はる処の御朱印も、この鬼子母神へ寄附せしと云 本堂 九間に八間、祖師堂の北にあり 鐘楼 祖師堂に向て右にあり、鐘は径り二尺五寸、高さ三尺五寸許、寛文年中の銘を彫る、其文は後にのす、是によれは古鐘を此時あらため鋳しと見ゆ、文の終に慈東山大覚寺の文字隠然とあれと、是は後うちけしたりと見ゆれは模糊として正しくは読かたし、又其故も伝へねは詳ならす

武州新倉郡広沢庄小榑村、法種山妙福時者、一乗護持之霊舎、祖教歴伝之旧基也、稟<漢文>二祖承于中<漢文>一、而流伝潔、仰<漢文>二教風于直道<漢文>一、而弘通不<漢文>レ倚、然自<漢文>二三代<漢文>一以前而来。随<漢文>二異流<漢文>一以背源固執滞而塞<漢文>レ流、于時

公命有在堅執師従、既及<漢文>二追却<漢文>一、因<漢文>レ此歴<漢文>二嘱什物<漢文>一、行業資具、多紛散矣、遺毀損矣、特大鳴鐘者、法林号令、道場要器也、然今已破廃、不足勤其用矣、粤予因衆懇招、仮承毀跡見而不忍之事儀、持而難弭之器物、寔雖<漢文>二数科<漢文>一、可<漢文>レ加修俌之為<漢文>二先要<漢文>一者、法令警覚之県鐘歟、於<漢文>レ茲不<漢文>レ得<漢文>二黙止<漢文>一、乃命<漢文>二冶工<漢文>一、鋳<漢文>二補旧毀<漢文>一複成<漢文>二新鏞且又有<漢文>レ旨改号慈東山大覚寺也、仍伸<漢文>二其由<漢文>一以勒期<漢文>二銘云<漢文>一耳、

銘曰

源徴流潔 器完用成 旧鐘仍改

新鋳竭精 警覚暁夕 晌達縦横

其幽其顕 脱苦寧禎 徳用叵議

利益恢宏 一乗自芭 万世明明

寛文第四甲辰天仲秋朔日

鋳工江戸住 田中大和守藤原重正

当山中興十五世

一雲院日興謹言花押

画像を表示

塔頭 大乗院新井山円福寺と云、村の西にあり 本応院村の西の方南によりてあり 法性院 寛政年中別に一寺となる後に詳なり 善行院山号寺号等なし、法性院の側にあり 本立院福寿坊と云、豊島郡関村にあり、この五ケ寺何れも境内にはなく、処々に散在せり

大覚寺妙福寺の西北にあり、慈東山東陽院と云、嘉祥三年慈覚大師の造立にて、天台宗なりしか、往昔この寺の住持妙福寺に帰伏せしより、今は其寺の奥の院と称せり、されと今も別に一寺なり

本照寺境内八畝九歩、小名中島にあり、本堂五間に七間半、了光山と号す、開山日勇上人文禄二年三月廿日に寂せり

宝成寺村内東の方にあり、加賀阿闍梨日正聖人、天正年中創建なり、加藤山宝成寺と号す、この寺は往古より村内妙福寺の末寺にて、法性坊と唱へしか、寛政五年十七世日慈聖人の時、妙福寺の本山法華経寺の末となり、院号を免許せられ、今は法性院と云ふ

旧蹟 弁天社蹟 井頭池の中島に建り、里人云昔し村の童この池の魚を捕りしに、忽ち其崇りありしかは、この村及土支田村の人と共に、村内妙福

寺の住持日忠聖人に請ひ、弁天の祠をこの処へ勧請しける、時に貞享年中のことなりと、されと正保の頃の絵図、既にこの祠を載せたれはいつの頃よりか廃祠となりしを、この時再建せしなるへし、それも亦廃祠となり、今は名のみをのこせり

新編武蔵風土記稿

大学頭林述斉の建議により地誌編纂所が編輯した武蔵国の官撰地誌。文化七年(一八一〇)に着手、文政一一年(一八二八)全二六五巻完成。江戸時代の地誌中もっとも完備したもので史料的価値も高い。

<節>

四神地名録(抄)
<本文> 画像を表示 <資料文>

(略)

 

 

 

 

 上石神シヤクシ井村

亀頂山三宝寺。新儀真言宗にて、守護不入

の標木を建たり。御朱印拾石。古跡所と

聞て立寄りしに、焼亡によりて宝物なしと

画像を表示 <資料文>

答ふ。外村にてきけは、小田原北条氏康

氏政の書簡有りと云。住持いかゝ心得しにや、

なしといふて見せす。いかんともなしかたし

 

 

 同村

三宝寺池と称せる有。凡図のことし

三宝寺池とハいへとも、三宝寺の池にハあらす

地名也。此池は井の頭の池より小なりと

いへとも 池の面きれひにて水清し。いか成

旱にも水少も減せす、是より下流の

村々用水として益有る池なり。水鳥・

鯉・鮒も多く、中にも卯月のころよりは

大鷭来るといへり。大鷭は平生の鷭よりハ

甚大ひにて味ひ佳なり。上方にてハ至て賞翫

せる夏鳥也。井の頭より遅野井村の善福寺

池、此三宝寺池水脈通せりとみへて関村

画像を表示 <資料文>

豊嶋郡上石神井村

三宝寺池之略図

此下流数村用水ト

ナリ下板橋江落テ

滝ノ川王子川ト

称夫ヨリ豊嶋村ニ

入荒川ニ落ル也

三宝寺

 

 

 

 

 

 

                                豊嶋氏之

                                古城之跡今ハ

                                畑

                弁天

                              カラ堀

            池ノ東西六十余町

            南北五十余間狭キ所

            四十間東江流レ百

            六七十間池中ニ弁天ノ小社有風景ヨシ

画像を表示 <資料文>

土支田村の出水も水道ならんか。何も水満々

とし、いかなる旱魃にも減せる事なし、且井の

頭の池と此三宝寺池ハ、中に至て深き所有りて

底知れすといふ。按に虬いるにや有へし。虬ハ形

粗龍に似て深き水にすむものと云。土人池とハ

称すれとも、堤もなく自然と其地窪くして

水の涌出る所なれは、小といへとも湖といふへし。

此地つゝきに古城跡有。豊嶋左衛門何かしと

いひし人の居城なりしに、太田道灌の為に

討亡されて家滅亡せりと云々。此古城跡分内

平にして広く、北に深き池を帯、大手ハ沼田

にて左右から堀深くほり廻し、なか〳〵よき

平城也。今も其形をうしなはす。ところ〳〵に

櫓にても建し所も見へて、築山の小山も有。

豊嶋氏故有りし人にや。詳ならす。

画像を表示 <資料文>

 関村

此所ハ新座郡豊嶋郡多摩郡の界にて

大ひなる村なり。云伝ふ、上古ハ上方より奥羽へ

の街道筋にて、関の有し所にて関村と称し

来りしと云。未詳。

 

 

 同村

水の涌所二百間余の池有り。一面にあし・かや

生して池とも見へす。しかれとも水の出る事

おひたゝしく、五月入梅のせつ、是より下の

村々水損せる事にて、川もなき所にて水に

難儀せる事不思議といふへし。さて三年已前

此池のうちにうなる声有。其おと怪しき

声にして、しかも高き事其あたりにひひく

程なり、数日の事にて、昼ハうならすして

夜の九つ過よりうなり出す事故、近郷の者是を

聞んとて、後にハおひたゝしき聞人にて、大勢

画像を表示 <資料文>

にて声をあけ、石をなけうちて、うなるかたへ

四方より何に寄らす投けしかは、大ひなる鳥

飛出てたち去りしと云。何鳥といふをしらす、或人

の云、蘆切鳥といふものゝよし。されとも古しへ

より蘆切鳥と称せる大鳥未聞。怪しといふ

へし。虚説にハあらす。

 

 下石神井村 土人の方言にしやくし村といふなり

此村に石神の神社と号せるワツカなる小社

あり。神躰ハ石にて、神代より以前の石劔也。

図のことし。

 

      (図)

 

  石劔之長サ二尺余 丸サ大キ所ニテ一尺

  色ウス青ク質至テカタク 重キ事鉄ノ如シ

世に云、日本の開闢は天神七代を神とす

夫より巳前も人なきにハあらす。今の台湾・呂

画像を表示 <資料文>

宋・蝦夷なとのことく仁義五常といふを知らす。

たた禽獣のことくなりしを、国常たちの尊

勇智有りて、終に海内の略し玉ひしかと劒刀類ハさらに

なく遥の後素盞鳴の尊山田の大蛇を退治

ありて初て天の村雲の劔を得玉ひしとやらにて

夫迄の闘諍の具ハ木石以て製せしものにて

今の世に思ひ察せるとハ大ひに異なる風俗也。

曲玉の類ひにても神代の昔察し玉ふへし。爰に

図せる器ハ神代已前の石劔にまきれなき物にて

天下の珍器といふへし。僕近江の石亭が現蔵

せるを見、其由来も聞し事也。土人の云伝ふハ

井をほりし時地中より出しと也。村名を石

神井村と称せるも、古しへよりの事といへば、

定て故有りし事なるへし。事長く爰に略之。

 

 谷原ヤハラ

画像を表示 <資料文>

谷原山妙楽院長命寺と称す真言地有り。

土人ひかし高野山といふ。遠からぬ世に、此村に

増嶋某と云し人、仏心を発し紀州高野山

に登りて年久敷木食の僧となる。或夜弘法

大師の夢想を蒙りて、霊仏を得てひかし

高野山を建立す。尤大槩よき寺院なり。縁記には

さま〳〵の夢物語の不思儀を記せり。仏家の虚

言は夢にかたらす事にて、重宝といふへし

 

 中村

瑠璃光山南蔵院医王寺、真言宗にてよき

寺なり。御朱印拾弐石八斗余。由緒もあらんと、

住持に対面して開山なとを聞しに、ちかき

年よりの住職にて、何も不存〳〵と云。かゝる

出家の世に多きも世の流行といふへし。

 

(略)

画像を表示 <資料文>

(略)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 下練馬村

如意山金乗院満徳寺。真言地にて、御朱印

拾九石九斗余。宝物焼亡と云。御朱印も頂戴

せる事、其初所謂もなくては不叶事なれとも、

何れの寺にても知らざる事ハ不思義とも云へし。

画像を表示 <資料文>

 同所

此村中に小手さし原の旧地有といへとも実跡に

あらす。小手さし原の真跡ハ粂川の辺に有りときゝぬ。

上練馬村

練月山愛染院観音寺。真言宗にて御朱印拾弐石。

若宮八幡宮の社領八石。愛染院別当寺なる故に

都合弐拾石の御朱印地なり。本尊愛染明王にて

運慶の作仏と云々。観音は春日といひし仏師の

此川三宝寺

池の流なり

里人城山とも矢ノ山とも云

海老名左近といひし人の

古城跡也時代詳ならす高サ

僅にて頂き平にて今たも

くる〳〵と塘を築し

形有り石神井川北に流

左右ハ深田にて以て要害と

すしかし城とハ称しかたし

岡をしてかきあけの屋敷

とせしもの也少し風景

ある故に爰に図せり

西

画像を表示 <資料文>

作なり。宝物ハ焼亡して一品もなし。此寺の火災は

度々の事のよし、土人もなへて物語る事にて、焼亡し

侍るといふも虚言なし

練馬村といふハ上下にてハ高五千弐百余石。地面は

高よりも広大にて、東西三四。落字、南北一里或ハ一里

三丁、五丁の所もあり。されとも畑在所にして田方一

分はかり可考、風土すくれす。広きといふのみ也。産物

大根を以上品とす。僕按に、世に尾張大根を称誉す。

しかれとも大ひなるといふのみにて味ひ佳ならず。此

地の大根は味ひ至てよく、且大ひなり。大根におゐては

日本第一といふへし。さて此村名を練馬といふ事

所謂詳ならす。土人の云伝ふにハ、むかしハ此辺も

むさしのゝうちにて、草木生ひ茂り住む人も

なき原野なりしに、篠何かしと云強勇の浪士

来りて、穴をほり、伏屋を作かりて住居とし、近国の

牧場に行て馬を盗奪ふ事を業とす。其頃又

画像を表示 <資料文>

鎌倉討もらされの入道武者壱人、はたせ馬に乗

て爰に来り、彼伏屋住居の篠か所に止り、宿縁

にや有けん、同気相求メ馬を商ふ事を食分とし

互に勇才も有りしものにて、そろ〳〵土地をひらき

所々の浪人風来の者を呼集め、一村の開祖と

なる。今も其子孫ありて此地の庄官也。むかしの

方言に、馬の癖をなをす事をねるといひしよし

古言にや、解せす。右二人の浪士馬を他方へ売に

出る前日にハ、数疋の馬を野原へ出し、馬をねると

いふて乗廻し〳〵馬の癖を直せし事によつて

いつとなく練馬を以て村名とす。此一件尤らしく

聞へ信しかたし里人の物語を爰にしるすのみ也。

 

 

 

(略)

 四神地名録

 寛政六年(一七九四)幕命により江戸府外の地理・寺社・名所旧跡を実地踏査した古河古松軒が誌したもの。上下石神井村、関村、谷原村、中村、上下練馬村について記し、三宝寺池付近と練馬城跡の挿絵がある(早稲田大学図書館所蔵本)。

<節>

江戸名所図会(抄)
<本文>

谷原山こくげんさん長命密寺 妙楽院と号す、上練馬谷原邑にあり。〈永禄二年小田原北条家の所領役帳に、石神井の内谷原在家岸分の地を太田新六郎知行の中に加へたり。〉真言宗にして、本尊に薬師如来の像を安置す、慈覚大師の作なり。慶安四年辛卯慶算阿闍梨けいさんあじやりといへる木食の沙門当寺を開基す。〈阿闍梨ハ伊豆国の産、北条早雲長氏曾孫にして増島氏なり、俗称ハ勘解由重明かげゆしげあさらといふ。天正中北条氏規に属して豆州韮山の城に籠居す、北条家滅亡の後此地に退居して農民となる。後其弟左内重国の子新七郎重俊に家を譲り、入道染衣せんえの身となりて慶算と改め、しつを儲けて蓮中庵と号す、元和二年三月十二日に遷化す、時に年八十余歳なり。〉

観音堂 〈本堂の西にあり、本尊十一面観音の像ハ行基ぎようき菩薩の作なり。和州初瀬寺はせでらにならいたりとて、天照、春日、八幡の三神をあがめまつりて当寺の鎮護廟ちごのびようとす。寛永十七年の九月長谷の小池坊秀算僧正当寺を長命寺となづけらる、慶安元年の冬、台命ありて観音供養の料として若干そくばくの田園を附し玉ひしとなり。〉鐘〈同所にあり、銘文ハ当寺定昌師じようしようし撰す。〉大師堂 〈本堂の西北数百歩にあり、是を奥の院と称す。今本堂より大師堂までの間に廻廊をまうく、其廊中五百羅漢の小像を安置せり。此奥の院はすべて紀州高野山大師入定の地勢を模擬する故に、堂前に万燈堂あり、又御廟橋、蛇柳ハ同じ前庭にありて、左右に七観音六地蔵等の石像、其余石燈籠、五輪の石塔婆、並増島氏累世の墳墓等並び建り、又御堂の四隅にハ五重の宝塔立、十三仏十王の石像等の類ひ累々として野山の規制にならふ。三鈷さんこの松と称するものありしが今ハ枯失たり。樹林鬱蒼として閑寂玄蔭の地なり。〉弘法大師の御影は当寺開山慶算阿闍梨感得の霊像なり。

寺記云、開山慶算阿闍梨紀州高野山に入てより、五穀を断木実を食ひ、阿観禅念をこらす事こゝに年あり。一夜大師夢に告て曰く、我昔諸国化度の時、讃岐国にありて自像みずからを作りたり、其像ハ今同国多渡郡たとごおり劔の山といへる地の人家に存せり、汝が本国我山に遠し、急ぎ行て彼像を得汝が旧里に安置し、此山を摸してこゝに参詣なりがたき婦女子等の為に結縁けちえんすべし、然時は吾山に登るに等しかるべしと云々。遂に阿闍梨其地に至りて霊像を感得し、旧里に一宇いちうを営て是を安置し奉る。〈当寺是也。〉阿闍梨化寂の後も志を継、其子重俊新に荷土かとを催し、工商をうながし、諸堂を営み、紀州高野山大師入定の地勢を摸擬して、永く衆生化縁しゆうしようけえむの仏場となせり。しかありしより世に東高野山、又新高野とも唱へはべり。〈重俊の嗣平太夫重辰しへいたいふしげときにいたり、重ねて諸堂舎を修復す。其季子すゑのこ幼より三宝を尊信し、九歳の時みづから剃髪得度して、法を定昌に嗣、名を信有といふ。後初瀬の小池坊に住職して正僧正に任ず、学業ことに勝れたり。〉

当寺昔ハ、東光観照等の子院ありて、すべて諸堂舎輪煥として甍を並べ、実に野山のおもかげをなせしも、いつの年にや火災に罹りて経営ことごと鳥有うゆうとなれり。依元禄中再建ありしかども、旧観に復する事あたはず、今ハ其十が一を存するのみ。

亀頂山三宝寺 密乗院と号す、上石神井村にあり。真言宗の道場にして頗大刹なり。法印権大僧都幸尊応永元年甲戌の創建たり。往古ハ勅願の地なりし故勅書数通を蔵すといふ。慶長十一年丙午、当寺第十世頼融上人、檀主尾崎出羽守資忠すけただといへる人と共に力をあハせ、寺院修復の功を全

ふす、当寺ハ則尾崎氏第宅ていたくの旧趾なりといへり。

画像を表示

本堂 本尊勝軍地蔵菩薩 〈僧形にして馬に乗したまふ御影なり。伝へ云、往古此本尊盗賊の為に盗とらる、其夜本尊住持の夢中に告て曰く、我願くハ化を垂れ六趣の衆生を救ハんとす、されど乗する所の馬ハ猶こゝに止むと云々。住持暁に至り堂中に入て拝するに、はたして本尊いまさず、故に其後新に今の本尊を彫造し奉り、旧古の馬上に安しまゐらすといへり。〉稲荷祠 〈堂前左の岡にあり、里老相伝ふ、上代当寺の住持某灌頂修行の日老狐鳴て寺院を廻る事二三回、其禍福をしらするに似たり、然るに其夜火起る事再三、その火遂ひに物ならずして即ち消たり、故に火消稲荷と称するといへり。〉千体地蔵堂 〈表門の左にあり。〉八幡宮 〈同じ右にあり〉寺宝 後奈良院勅書一通。正親町院勅宣一通。小田原北条家氏秀証文。当寺第七世尊海法印大僧正官勅許之証状。同八世賢珍法印権僧正官勅許之証状。同当寺住職勅許之倫旨。北条氏秀制札。同乙松制札。同岡入道江雪老制札。

仏舎利ぶつしやり 〈寺僧いふ、往古の記録には十一粒とあり、又中古目録にハ十七粒とあり、年月を歴て分したりとおぼしと云々。〉

愛宕権現宮 同所西南の林岡にあり、三宝寺本尊の垂跡とす。其地東西百五十歩南北百余歩。相伝、太田道灌の城跡なりと、土人とじんあざなして城山と唱ふ、前に関川を懐き、後に遅井おそのいを負ふ、北に小阜ありて冨士峰を望む、南の方数百歩を過て直塘つつみあり、道灌塘どうかんつつみと号く。土人云、江城に至るの直路ちかみちとすと云云。

氷川明神祠 上下石神井二村及び田中、関、谷原等、以上五箇村の鎮守とす。例祭九月十九日なり。江戸芝の神明宮より社人巫女しやにんふじよ等来りて神楽を奏す、是旧例なり。又同じ廿日にも神事修行せり。

三宝寺池 同所にあり。回帯凡めぐることおよそ五百三十余歩中に一小嶼こしまあり、則池霊すなわちちれい弁財

天のほこらを建つ。此池水冬温に夏冷ひややかなり、洪水に溢れず旱魃かんばつに涸ず湯々汗々として数十村の耕田を浸漑し、下流ハ板橋王子の辺を廻り、荒川に落合へり。〈古老云く、此池数魚の中鳥井の印文あるものあり、古来これを猟りてたたりを受るといへり。〉

画像を表示

照日塚 〈同所にあり。嗜老きろう相伝ふ、当寺開山曾在かつて京の頃、八月十五夜雲上座外にして発句ほつくを奉る、月はなし照日のまゝの今夜かな、公卿雲客賞歎くげうんきやくしようたんして叡覧に備ふ、御感ありて照日上人の号を賜ふと云々。此塚うたがふらくハ照日上人の墓ならんといへどもつまびらかならず。〉

石神井城址 三宝寺の池の傍にあり、其地北に池水を帯びたり、大手と称する辺は水田にして、左右に空塹からほりの形今猶存せり。文明中豊島氏此城に住むといへり。〈或人云、豊島家譜に豊島三郎兵衛泰友が子三郎兵衛入道泰景此城にあり、泰景卒するの後、其子幼けれバ舎弟左近太夫しやていきこんたゆう景村兄の跡を継て、武蔵国、足立、多摩、新倉、豊島五郡を領し、石神井の城に住する由ありと、依て考ふるに景村より勘解由左衛門かげゆざえもん迄、相続いて此地に居城たりしかども、次の練馬の城の条下に載たりし如く、文明九年四月十八日太田道灌の為に攻落されしより、廃城となりしなるべし。永禄の頃ハ小田原北条家のしん太田新六郎、石神井の地を領したる事ハ、北条家の分限帳に載せたり。〉

あんずるに石神井の地に豊島山道成寺といへる寺あり。土人とじん伝へて是も古城趾なりといふ、これによれバ、もしくは豊島氏の城ならんかと思ハる、山号又ちなみあるに似たり、猶考ふべし。〉

石神井明神祠 石神井村にあり。三宝院奉祀す、神体ハ一顆の霊石にして、往昔そのかみ井を穿うがつとて其土中に是を得たりとなり。〈石質堅強にしててつの如く、すこしく青みを帯たり、ながさ二尺あまり周囲めぐり太き所にて一尺ばかり、世に云所の石剣にして、上代の古器雷槌抔らいついなどいへるたぐひなり。〉依石神井

の地名こゝに起るといへり。

画像を表示

練馬城跡 上練馬村愛染院の側にあり、豊島氏それがしが居城の地なりしといひ伝ふ。〈先の石神井の城跡の条下と合せミるべし。永禄の頃ハ小田原北条家のしん中村平次左衛門、江戸練馬にて豊前ぶぜん方の地を所領の中に加へ、又金曾木某かなそぎそれがしも練馬を領する由、北条家の分限帳にみえたり。同書に嶋津孫四郎といへる人の所領のうちに豊島清光寺分練馬にも有之と注せり。〉鎌倉大草紙曰、文明九年正月十九日の夜、顕定、憲房のりふさ、定正三人小勢にてはかなうましとて、上杉方申合、上野へ打越大勢を催し、景春を退治すべしとて、太田道真どうしん殿しんがりにて利根川を渡り、那波の荘へ引退ひきしりぞく景春一味のやからには、武州ぶしゆう豊島郡住人勘解由左衛門尉、同弟平左衛門尉、石神井の城、練馬の城を取立、江戸河越の通路を取切云々。又同書曰、文明九年四月十三日、道灌江戸より打て出、豊島平右衛門尉が平塚の城を取巻、城外を放火して帰りける所に、豊島が兄の勘解由左衛門を頼ける間、石神井の城、練馬の両城より出攻来けれバ、太田道灌、上杉刑部少輔、千葉自胤以下よりたねいげ、江古田原沼袋と云所にはせ向ひ合戦して、敵ハ豊島平左衛門尉を初として、板橋、赤塚以下百五十人討死す。同十四日石神井の城へ押寄責けれバ、降参して同月十八日に罷出まかりいで、対面して要害破却すべき由申ながら、又敵対の様子に見えけれバ攻落す云々。

江戸名所図会

江戸神田の町名主斉藤幸雄(長秋)、幸孝(莞斉)、幸成(月岑)三代に亘り踏査した江戸府内近郊の名所案内記。挿絵は長谷川雪旦、雪提父子。全七巻二〇冊。前半一〇冊は天保五年(一八三四)、後半は同七年の刊行。なお本稿は早稲田大学図書館所蔵本を稿本とし、割注部は〈 〉で示した。

<節>

遊歴雑記(抄)
<項>
谷原村東高野山
<本文>

一、武州豊島郡谷原村長命寺真言は、寺領拾石とかや、辻々の建石には東高野山と刻めり、是は西に紀州の金剛峯寺あるに依りて東の一字を加へし事と見ゆ、元来高野山を摸せし寺なればとて、新高野とも称す、爰にいたる路すじは、目白台通椎名町より、西の方二十余町陌より左へ入て、中荒井村通西南の方又二十余町にして、貫井村といふより又左へ入て十八九町、江戸より行程凡三里半といへり、既に東の裏門より入、境内広しといへども、田舎の殊更片土の無人なれば、掃除行届かで、寺中荒廃せるが如し、本堂庫裏僧房を一棟に作りて萱葺にせり、但し南面にして軒下に、谷原山の竪額を上たり、表門は本堂より南の方凡一町正面に建て、門の左右に仁王を安置す、是よりなを西南の方二十余町にして、石神井村三宝寺にいたるとなん、されば此地甚閑寂として、花に富鳥に富、秋の頃はよろづの菌を採に興ありて、又もみぢによし、左はいへ此道路甚俗地のくだ〳〵しく、退屈を生じて殆ど倦たりき。

一、本堂の西に観音堂あり、此の堂内に明暦、萬治、寛文、延宝年間に奉納せし絵馬若干見ゆ、久しき蘭若と見えたり、同処に六角堂あり、地蔵菩薩を安置す、此六角堂の外に又板囲ひにせし家根を造りて雨露風霜を厭ひたり、由緒ある堂にてやあるらめ、前に鐘楼あり、鈎鐘尤小さし、鐘の銘は慶安三年と見ゆ、長くくだ〳〵しきまゝ写さで止ぬ、同処西の方に庵室あり、爰西へ折曲り北の方壱町余にして大師堂にいたる、左右の諸木繁茂し更に日影を見ず、夏の頃は蚊虻肌を螫て暫らくも忍びがたし。

一、無明の橋といふものは、石にて作り欄干ありて長さ弐間ばかり、梵字を悉く鍛付たり、但し樹の雫雨露の湿りに依て、苔を生じ聢とは見わけがたし、又虵柳と号せしは、件の橋を渡り越て左右にあり、半枯朽て名に呼ぶには似も付ず、是より大師堂までの両側には、密宗相伝燈の祖師高僧を悉く石にて作り、おの〳〵座僧の皆三四尺なるもの也、その間に石燈籠を幾等となくすえて、竿石にみな大方は慶安五年と刻せり、扨大師堂といふも、格子戸の辻堂にひとしく作り、間口三間に奥行六間半ありて、音に聞しに劣りし麁末そまつさ、内陣荘厳向も仮成の事に見ゆ、但し此尊像は大師直作のよしにて、平日には寺へ弐百銭を投ずれば開帳せしめ、毎月廿一日のみ終日開扉して、諸人に拝礼なさしむ、別して三月廿一日は都鄙の男女群参せり、しかれども繁昌にいたりては、目黒、白銀、高野寺の両大師又は川崎平間寺の大師、扨は西荒井村の大師等には中々およぶべからず、是土地の片鄙によるものか、しかし霊験に於ては、何れも同じかるべし、堂宇の抜群大きく、又境内広く、耕地等を眺望するに至つては、西荒井村を巻頭とし、約かに堂宇善尽して綺麗に、人の絶間なきによらば白銀高野寺と大師河原を以て巻頭とすべし、されど平間寺は取分狭し、雑樹近辺又繁茂し、境内よりの更に眺望なければ逍遊する甲斐なし、又長命寺は無明の橋及び虵柳などありといへども、汚穢して更に道心を生ずる事なし、何れをか是とせんや、後人それ〳〵へ遊歴して能観見し知るべし、されば紀州高野山は大師の遺命により山法として、女人堂より内は老少ともに、一切穢悪の婦女を堅く禁じたまひしにより、むかしいつの頃にや、高野山の山の土を荷ひ来りて、爰に埋め女人の為に、虵柳と及び無明の橋等を設けて、大師へ結縁せしものなり、又此大師堂のうらなる奥の院の路傍には、十王

及び五道の冥官等を石にて作れり、おの〳〵高さ三四尺づゝ取分三途川の奪衣婆と称するものふたつ迄ありて冷凄が如し、又奥の院の真中に石燈籠壱基あり、高さ一丈三四尺もあらん、是は大猷君御寄進ありし趣竿石に刻みて慶安三年と見へたり、是等みな紀州高野山の面影を百分一に摸したるものとぞ、例年三月廿一日は法要あれば行て見るべし。

一、大師堂より本堂までの間、高廊下に作り、此廊下の間に五百羅漢を安置せり、丈おの〳〵漸く八寸ばかり金箔置たるあり、いまだ木地のまゝなるありて、人形をならべたるが如く外よりも見ゆ、凡此境内東西三四町にして広しといへども、田舎寺の垣も構えも約やからぬも又やわらかにして面白し、日本堂にて大師の夢想とて、積聚めぐすりを売れり功能しるべからず。

一、東の裏門の左右には、酒屋、蕎麦屋の類、又はあらもの商ふ家、纔に四五軒もあれば、漸く飢渇を補ふに至る、参詣の者行くれたるは、此酒店あるひは長命寺にても止宿することゝなん、是より南の小路を行こと四里にして、四ツ谷、高井戸へいたり、又北横町より入西北の方壱里にして、白子の駅にいたり、同じく二里にして引股の町にいたる、境内及び近辺寂寥として、小松の平山多く、取分弥生の頃は門外の花王の咲し様など一品ありて清閑の土地といふべし。

<項>
石神井村三宝寺の池水
<本文>

一、武州豊島郡上石神井村三宝寺真言は、谷原村長命寺より西南の方二十余町にあり、当宗の中五十三ケ寺の檀林の内の一ケ寺とかや、寺領わつかに十石余といへども、領内広き事二百余石にも増るよし、此村高三千石ありて莫大広ければ、上村下村とふたつにわかれて、一郷の内にそれ〴〵の小名あり、家数三百八十余軒ありとなん、扨又一村水の潤沢に、三宝寺、禅定院等の前通り中路に清流横はり、西より東へ漲り流れて、実にいさきよし、されど此辺打晴たる景地にあらで道路くだ〳〵敷、江戸より四里には遠からんかし、されば三宝寺は南面して表門通用門のふたつ路傍にならび建たり、而も表門は四ツ足に彫ものゝ巧みなる門の箱棟には、横井桁の中に三の字の紋は、滅金の照よく目だちて見ゆ、既に門を入て右に鐘楼あり、此鐘楼は門の如くに作り、上に四方勾欄を拵へ鐘を釣たり、鐘の大さ三尺余、銅色又うるわし、誰咎めねば鐘楼へ登りて撞鐘を見るに、その銘にいはく、

延宝三乙卯四月五日武州豊島郡石神井郷、亀頂山三宝寺住持法印範宥、於武城鋳物御大工椎名伊予守藤原吉寛製、

一、鐘楼の左に大銀杏の樹あり、高さ数丈悉く乳房のごときもの垂て実夥しく枝にあり、予長坡と共に爰にあそぶ事八月十八日、折しも銀杏の実地上に堕て散在せしまゝ、両人これを拾ふといへども更に叱咤の声なし、扨本堂はといへば表門の花美なるに似も付ず、萱葺の客殿庫裏を一棟に作りたれば、家の棟東西に長くして寺院の如くならず、されど境内又狭からで僧房の前に、円座松とも称すべき方二三間に垂茂する一木の松あり、爰に南へ向つて四方面の碑を建てたり、左の如し、

 守護使不入 三宝寺

一、此寺近在八十八ケ寺みな弘法大師の影を安置し、当宗のものゝ巡礼参詣の礼所のよし、則ち本堂の軒下に大師似影の額を懸、詠歌をしるして巡拝の大旨をしらしめたり、又僧房の北うしろの路傍に、むかし鎌倉の右幕しば〳〵忍ましませしといふ平山あり、真偽の程覚束なし、追て由来をた

づぬべし。

一、僧房の表の北門を出左へそひ、西北の方凡二三町にして弁才天の池にいたる、是世上に聞ふる三宝寺の池水たり、此路すがら寂々寥々として人家なし、路傍の右の氷川明神の古祠は、朱の玉垣物さびて殊勝に見ゆ、既にして弁才天の池辺にいたる、此処北に向ふて弐丈も坂をくだりて低きにあり、左右の山は松杉樅柏の雑樹繁茂して重々たり、池の大さ東西凡三四町南北弐町余もあるべし、水面清涼として汀には蓮藻生じ、河骨の花の咲後れたる、又は泛草うきくさの花の水に映せし風情得もいはれず、南西北の三方をば平山にて囲ひ、東の方のみ水の落口にして、下は五十八ケ村の用水となり、猶末は豊島の荒川へ流れ入、千住へ出墨水と会流せりとなん、此池の中央に島あり広さ凡十間四方ばかり、反橋をわたりて出島にいたる、弁天堂は三間四面にして、むかし飛騨のたくみの作り置しとなん、いか様にも惣体の作事古雅に見ゆ、堂内の弁才天は弘法大師の作のよし、絵馬及び鰐口など最古物に見請たり、爰に菴主ありて道心壱人住めり、しばし室内を貸くれてやといへば、こゝろよく領掌せしまゝ、両人とも菴室に平座し、用意のたゝみ昆炉取出し、担側に仕懸て池水を汲取、一煎し菓子ともに菴主へすゝめ、予も又啜しこゝろみるに、清潔とはいへど水に少し匂ひあり、是全く池水爰に淀みて流れざる故ならんかし、菴主は、常に此池水を用るとなん、凡煎茶は長流の水にしかず、綾瀬川、小岩田川、墨田川又板橋の駅の裏手氷川下の冷水これに継べし、斯て長坡も愚老も共に弁当取ひろげ、誰に気を置人なければこゝろよく飲宴せり、良時しめし移るまで煎茶を啜し風光をなぐさむ、雅趣その中にあり、斯て菴主は長坡を伴ひ、くさびらの類を探し賜はんやとて、今来し路を過山中へ分入しばらくありて、笹子と湿茸しめじとを五六十採帰りぬ、総て此辺初茸榎茸しめじなど夥しといへども、土地の者あさ疾く起てみな探し採ゆへに昼は少なしと申しき、此地閑寂として人家に遠ざかる事三四町にして、只此菴室にのみ道心壱人住り、予いえらくかゝる人倫たへて寂寥たる勝地に住身は、常に天造の山水になぐさみ、元より繁花の俗事を離れ、世の善悪を聞ず、人の譏を請ず、平生風色を眺望して、気分を保養すれば、定て天元の数を増て長寿をや得ん、羨しさよといへば、菴主答ていやとよ、かゝる片山陰の地辺に住ば、冬は日のくるゝ事早く寒さ又一入なり、夏日涼しといへども蚊多く殊更便利あしければ、万のしな江戸だよりにあつらへ調へ侍れど、その日の用には達がたし、その上此地孤狸多く棲ば、野拙はじめて爰に移り住し当分は、夜ごとに戸をたゝき石打などして、更に夢もむすばず、今とても此橋の上にして夜な々々躍り狂ひ、堂の担側来り吠仡ほえそばへかしましけれど、居馴ぬればとぎとなりて彼等が来らざる夜は、いよ〳〵淋しと物がたりき、又汀に家根舟のありしまゝ、何れの人や来りて乗れる、又何の為の舟にやと問ふに、菴主こたえて此弁才天に江戸講中ありて、その連々の徒折々来りて、池中を漕あるきて慰めり、猶又巳待には賑かにして芝居なども侍れば、必ず来よかし、日暮るとも三宝寺へ止宿しまゐらせんなど最念頃なりき、されば爰にいたる道路小日向より弐筋あり、一には四ツ谷町椎名通り中荒井村、貫井ぬくい村より谷原村新高野かけて一筋あり、二には中荒井村の西の出はなれより左の小路へ入、中村鷺の宮村田中村と次第し、四辻より右へ〳〵と行こと凡拾余町にして三宝寺にいたる途あり、路長く俗地とはいひなから春秋には逍遥して可也、かゝる辺鄙にも古雅にしてところ〳〵風色の景望なきにしもあらず、しかれども此道路往還ながく更に憩ふべき茶店なく、たまたま酒食の店と覚しきは馬奴体まごていの野夫幾人ともなく、庭も狭しと居ならびぬれば、曾て休息する家なし、左はいへ春は行路の満花をながめ、秋は又陌頭の茶花に慰み、菌を採落栗を拾ふ亦一興ならずや、猶又暮秋にいたりて遠近のもみちする頃は、風景嘸かしと思ひやられぬ、只恨らくに行程の四里には遠き事を、

斯て笹子を土産にし長坡と共に已待を兼約し、豊島左衛門清光が城趾など見めぐりて立いでぬ。

<項>
善乗院の異紋の撞鐘の銘
<本文>

一、同村禅定院は、三宝寺の東二三町にして路傍にあり、門内の右に鐘楼ありて銘及び施主の名号月日悉くみな平仮名にて鍛付置たり、此鐘形は尋常なれど撞座の上に蓮花一本と、又少し上に丸鏡の中に古銭にひとしき梵字数多鋳付たり、中古作りし撞鐘なれど、世に鍛し鐘なれば爰に図し置もの也、銘は三宝寺先代の住僧の作にして、照光山禅定院と誌せり、左のごとし、(図略)

 又隣に道場寺禅という寺あり、本堂の左には小堂ありて薬師如来を安置せり、以上三ケ寺とも田舎といひ掃除行届ず、汚穢むさくして甚荒廃に及び、元より片鄙の参詣する人とてもなければわびしき体たり、扨又此寺の門前にして見渡す処一面に深田のみ、此節稲こゝろよくみのりたるは由縁なき目にも富貴ぞかし、既に中路に東流する川あり、清潔にして甚こゝろよし、頓て携し土瓶の蔓に牽繩ゆひ付て汲々途中に一煎せばやと手に携て、四里に向とする長途を旅行するも一興たり、扨帰路は途ちがえなんと田中村、鉢鳴はちなく村、井草村、鷺の宮村、中村と次第し、恵古えご多村の近隣に聞ゆる醤油造れる山崎屋嘉兵衛が門を過て、葛がや村より椎名町の追分通り、鼠山筋をかゝりて黄昏過る頃帰宅しけり、長坡は元より上戸なれば、路々渋みある菎蒻の田楽に、苦みある鬼殺しの燗酒をつぶやきながら立飲して、英気を養ふも可笑かりき。

<項>
練馬の号将監嘉明が宅地
<本文>

一、武州豊島郡練馬村は、広き事方一里もあるべし、故に一村を上中下と三つに裂て、練馬一村の中に又それ〳〵の村名あり、高は六千余石とかや、此地を練馬とよぶ事はむかし人皇九十九代後光厳院ごこうげんいんの御宇貞治年間、練馬将監善明よしあきといふもの、古来より一円に此辺を領せり。善明がむかし居館の地を、今は矢野やしきと称して、上練馬の中野宮村の持とはなれり、その地処の広さ凡四五町四方もあらんか、城山とは称すれども山といふ程の高きにあらず、総て田舎の方言に樹木の繁茂して、林に似たるを山といえるは是なるべし、されば西北の方は深田東南は畠につゞき松柏の類繁茂し、秋の頃は菌数くさびら品を採て慰むとて、東武より逍遥するものありとなん、(中略)又下田柄村より東南弐拾町ありとぞ、此将監善明が居館の近辺をみな今練馬村といえり、凡小日向よりは西の方矢野やしきへ弐里半あるべし、さればむかし練馬将監善明は代々此地に居住せしが、康安貞治年間下野国宇都宮の城主芳賀入道禅可は、板橋筋滝野川村王子の森等にて、鎌倉勢と度々戦ひし砌、将監に鎌倉勢に追詰られ、その身只一騎馬に鞭打欠出むちうちかけいだし、石神井村の山中に遁入しか、程もあらせず敵軍潮の湧がごとく、破竹の勢ひにて取巻しかば、善明は深田の中へ馬を乗入気を苛喋くといへども、馬足次第に泥中に陥、さらに進退を失ふ、兵卒又取囲んで矢を射事雨のごとくなれば馬は、射噤められその身は矢を脊負事簔毛の如く、善明無念なりといへども詮方なく。忿怒顔面にあらはれ、馬上にして自殺しけるとかや、しかるに月日たち年を積で、彼将監が死せし処忽焉として水湧出し、土砂を押流し自然と深き池となり、彼射噤められし馬の鞍は朽もせず、その池の主となれり、今上石神井村三宝寺の池これ也、しかしより彼

鞍は今も池中の主となりて、折としては水上に浮み見ゆる事もありとなん、奇怪ながら利釼の淵の主となりたるあり、又鈎鐘の川に沈みて主となりし例もあれば、強てなき事とはいふべからず、以上土人古老の説をしるす、なを三宝寺の一件いちまきは此編の上巻に述たるが如し、双方照し合せて推見すべし、貞治元壬寅年より今文化十二亥年まで四百五十四年の星霜を経たりき、

<項>
練馬下田柄村の池
<本文>

一、武州豊島郡練馬下田柄村といふ処は、椎名町通り小日向より弐里には遠からんかし、その途筋閑寂として上板橋筋練馬通の如くにあらず、されば此下田柄村に池あり、元来は近郷の用水にとて堀設けしとの也、広さ凡壱町四方余、東北の二方は土手を築て行樹を列し、西の方は百姓助右衛門が前よりも壱町余四方空然として芝原つたひに池にいたる、芝野の中に溝川溶流れて池中に入、是南の方貫井村の彼方より爰に流入ものか、此芝野平坦にして仲春の末より蓮花草一面に咲頃は、ものゝ見事に毛氈を敷たるが如く又一品也、今年乙亥年南呂下旬朋友四五輩を誘引、秋の野の風色に慰まばや菌落くさびら栗の類拾んものと児童交りに御膳籠ごぜんかごとやらんに万のしな取揃えつゝ、椎名町通り中村湿化しつけみ味村を過、正久保橋を越弐拾余町にして此池辺に逍遥し来れり、その途大還といへども往来の人邂逅たまさかなれば、鄙のひとしほ寂寥として彼西行が、おとろかす声こそ秋の小山田は、音せぬよりも淋しかりけり、とよみしも思ひあたりぬ、斯て池辺北側の土手に平らかなる処を見立、助右衛門より莞莚壱弐枚を無心し敷ならべ、上下これに座し頓て茶を煎じ、小鍋に菜を烹酒を煖し用意の品〳〵取広げて遊宴しける、此土手の北東は打晴て耕地連なり、遥北には氷川明神の森をながめ、西南の方は谷原よりの都邑を遠望し、風景天造にして目に見もの一々みな面白し、頓で人々は釣するあり、又は丘山に菌を採し落栗を拾ひ草花を採、己がさま〳〵慰む内に、魚弐拾余尾を釣大さおの〳〵三四寸、鮒鱮魦鯎たなごはやうぐいの類にして、内鯉魚の子二尾を得しが、最早未の刻も過ぬれば路替て帰りなんと、後縁を助右衛門が嬢に兼約しつゝ、此家の前より北をさして閑道をゆく事、凡六七町にして下練馬の街道にぞ出たり、是より西の方白子の駅へ弐拾八町、小日向へ弐里余あるべし、此日の宴遊又あるべしとは思はざりき、予性質繁華の俗事にあそぶを好まず、唯閑寂の勝景を慕ひ又は古跡の雅趣をたのしむ、友に又庸愚の俗客なく、酒に飲るゝの上戸なければ、平和にして常に則を超ず、只うとましくは酒狂にこそ、

<項>
下練馬の迂石塚仁王尊
<本文>

一、武州豊島郡下練馬右側赤塚村へわかるゝ街の出張たる衽形の尾先に、花表石燈籠などありて向ふに東面して小祠あり、施無畏せむいの額を懸たり、此方に石像の仁王尊ならび建、脊中に天和二年壬戌と刻付ぬ、御丈漸く三尺余細工は麁悪といへども、顔面の逞しく両肩の怒りて手足筋骨の馴合たる、当世の鑿法とは大に異にして名誉といふべし、彼田畑村往来の路傍に建立し仁王尊の格好に能似たり、替はれるものは唯大小の形のみ、此仁王尊は天竺国の内中天竺象頭山の守護神にして印度西天にては金毘羅神と称す、日本にては仁王尊と金毘羅神とはその形甚異にして別種とし、取分金毘羅神の形を書くを見るに、山州鞍馬山にして牛若御曹子に見えたる僧正坊といえりし、天狗の首領に髣髴たり、中天竺象頭山の金毘羅神はしからずして、日本の仁王尊を金毘羅と称す、今讃岐国に金毘羅を崇るがみへに、西天に習ひて象頭山と呼と見えたり、されば彼下練馬の石像の仁王天

和二年より文化十二乙亥年にいたりて最早百三拾四年におよぶ、彼忿怒の形像見てしるべし、

<項>
高松村服部半蔵の墳墓
<本文>

一、武州豊島郡上練馬高松寺禅は、谷原村の北六町にして椎名町通、中荒井村の出はづれ陌より右へ入て弐拾参町といふ、凡予が寓居より三里あるべし、聢と聞糺さずして雑司谷御鷹部屋を左に見捨、池袋村金ケ窪村通りの大通りを過、子易こやす明神の脇より左へ入、上板橋の街道へ出て数町を過、六地蔵の建し巷陌より左へ入、くだくだしき僻地の村々凡弐里余も杖を笻て高松寺に至る、此道四里には遠く廻り路也となん、されば高松寺へ尋ね訪ひしかど、住僧他行し本堂障子引立たてゝ空房なれば、たづぬべき人なく隣家とてもあらねば、境内そこ〳〵に見めぐり、由緒も聞ざるは残多し、去ば常寺往来の路傍にありて、大門凡壱町ばかり門の左右に石の仁王尊あり高さ五尺ばかり、顔面たくましく手足筋骨の勢ひ又類ひなし、衣服の模様に雲を鍛付たり、此仁王尊の背中に、寛永三丙戌年十二月三日、大垣氏服部半蔵藤原幸隆と刻付ぬ、文政四辛巳年に至て百拾六年に及ぶ、扨門を入て左に六地蔵の石仏をすゑたり、爰に石に作る五重の塔ありて、服部半蔵の院号等を鍛付たり、但し前の方鍛付たるものあれど、苔を生じ石面ざら〳〵として字性わからず、左脇に大垣氏服部半蔵幸隆等の字漸に見え後の方茎護院とは見ゆれど、夫より下は苔を生じ右の脇のみ寛永三丙戌年九月十日と明白に見えたり、門外の仁王の石像よりは三ケ月早く出来せしと見ゆ、五重目の火袋に光明遍照十方等の経文を鍛付たり、是存生に院号戒名など鍛付て建置しや、但しは此処に葬いたるものにや、往持他行して呉々も残多し、半蔵は名だゝる武士にて、今麹町壱丁目より入見付を半蔵御門といふも、むかし服部氏が組屋敷ありし故の名也、彼碑上図の如し、(図略)

右は遠山瀾閣翁没故の秋、予に噂して同道して一見せばやなどいひし儘、今年三月十八日独行して尋件の碑を見たり、いかゝして冠山子三飡一覧には漏されたるにや、武州一国隈々の広き事斯の如し、鳴呼瀾閣故人と成てより遠足は勿論、月に花に思ひ出す事ぞ多かりけり、今朋友五六輩あれどみな酒家のみにして、寄るとさはると先飲事を楽て、更に風景の地をたづね古跡を穿て遊ぶ人なし、友ありて友なしといふは是也、惜むべきは瀾閣にこそ。

<項>
新座郡小榑村妙福寺の市
<本文>

一、武州新座郡小榑村法種山妙福寺日蓮は、土支田村の北西に隣りて、小日向より行程凡六里半もあるべし、然るに土支田村農夫平右衛門といふもの、予が本宅へ出這入する事年あり、自語て曰、小榑の妙福寺の市は、吹上の観音の市に倍して群集する事夥しく、則十月九日十日の両日は近郷皆耕作を休み、男女交々会式の場へ参詣するのみを事とし遊べり、若両日の内駕を命じ玉はゞ、餅や搗ん何々が好物ぞ蕎麦切や振舞ん、麦飯をや炊かん、両三輩同道し泊がけに必来よかしといふ事年々なれども、折悪敷雨天又は障りなど出来て行ざりしが、去文政五壬午年十月九日十日共に雨ふりしかど、市は日送り也と聞し儘に、同じき十一日未明茶友両三人を同道し、目白台通り四つ家町鼠山椎名町中荒井中村と次第し、貫井より谷原を左に見捨て、右へそびくだ〳〵敷俗地の中路を行事凡壱里半斗にして、土支田村に至る、斯て平右門が居宅を尋れば、江戸へ自身馬を追来る体には似も付ず、生垣の細に苅込し構へ広く、門こそなけれど棟高く、家の大さ

拾弐間別に物置あり厩あり、灰屋木部屋に至るまで家作し、爺という者年七十の内外に見えながら壮健に見ゆ、当平右衛門四十五にや成ぬらん、世伜といふは弐十二三才にや、各三夫婦を始兄弟孫子、召仕ふ者まで十二三人豊にくらすと見ゆ、予兼て推量せしは農家なれば、いかやうの垣生の小屋にてあらん、友を同道し立寄も心苦しく思ひしに、左はなくして十畳の座敷を請し、彼是と取はやす間に餅や搗たりけん、神在餅しんざいもちなど振舞間もなく蕎麦切の饗応にあひ、交々立出で強る事甚しかりし、是も以て倩思ふに、江戸へ成立し者は我家だにも作るべき力なければ、借宅に住み万端質朴に暮す、其日過の者までも自然と驕奢の事を見傚ふが故に、面々身の程を忘れ他行ごとに男女とも美服を着し肩を井るといへど、居宅の容体或は暮し方の貧は多ぞかし、然るに田舎の人は名聞薄く我慢勝他の心なきに依て、高持たかもちに百姓といへども温袍を着し、江戸通行の度々自身馬を追、調しものみな馬に負せて往返すれば馬士まごと心得て賎むといへども、今日爰に来りて在郷の人の身を卑下しへりくだりて万質素なる事を感ぜり、去ばとり〳〵の馳走も済し後、あるじ平右衛門案内しつゝ小榑村の妙福寺へ伴えり、実も彼等が兼々噂せし如く門外の此方彼方大道へ莚敷て、種々の出商人又集ふ人多きは、彼吹上の観音の一年五度の市の賑ひより壱倍ならんか、総て此辺の寺々には所々市あり、多摩郡野方領上練馬中の宮村寿福寺日蓮は、十羅刹女じうらせつによを安置して、毎年十月の十一日十二日或は十五日十六日市立て、境内は勿論門前界限出商人夥敷、近郷の男女群集して山をなせり、

又豊島郡関村法耀山本覚寺日蓮は、上にいふ小榑村妙福寺の末にて、毎年十月廿八日廿九日市立て諸商人来り集ふ事、寿福寺の市に髣髴たり、是皆会式の祭と聞ゆ、斯て妙福寺前板橋のあたりより、諸の出商人往来に居流れ、行人帰る人栄当〳〵と込合つゝ、既にして仁王門を入れば、右に撞楼あり、正面には祖師堂ありて、日蓮を釈尊と并へすえたり、此祖師堂の後小高き岡には中央に妙見尊、右に七面、左に三十番神の三社をすえたり、又中の門を潜りて右には本堂僧房を建つらね、又表門の正面には鬼子母神の社あり、僧房の北後には代々の廟処あり、唯さへ田舎寺は境内ゆるやかなるに、就中当院の屋敷広く夫と際立構もなく、流石に広き隈々迄、居流てひさく品々には立臼、杵、手杵、籠、諸の笊類、鋤、鍬、鎌、万の銅もの丸打敷まるてしき、膳椀皿、砂鉢、莞莚、葉莨、煎茶、塩肴、古着、木綿、簑笠足袋、雪絵、砂糖類まで万なき物なく、猶蕎麦餅団子等の食類尺地もなく居ならび、猶又香具店の類には火を喰女、蛇に見込れしといふ少婦むすめ、男女の首弐ツある児輩、猿の軽業、覗、からくりの類数を尽して境内に居流るれば、爰に群れ彼処に集ひ、寺中人ならざる処なし、但し十月九日十日雨天なれば日送りに市立事となん、斯て隈々迄逍遥するに時は、未の刻にも過ぬべし、平右衛門は是非一泊し賜へととゞむれど、名染薄き家へ止宿し世話かけんは心苦敷、短日とはいへど道直ぐ平か也、急は椎名町までは暮ざるに行ぬべし、殊に我輩四人淋しきにあらず、よし暮たりとも十一日の月影を眺望しつゝ、田舎路の夜行心穏に面白しと、心あふたる友だち、よしなに断辞ことわりして暇乞せしかは、平右衛門がいえらく、毎年待々し本意には叶はねど強て止んは御不興ならん、左あらば江戸道まで案内し侍らんと、路数十町見送れつゝ別れけり、是より四人心儘にふらめき貫井村へ来し頃は、申の半刻も過ぬらん、あやしの茶店にしばし憩ひて、道法を聞に目白坂まで三里半あるべしといふにぞ、そこ〳〵に身拵して立出つゝ、路拾町も来ぬらんと思ふ頃、日は暮しかど噂せし月光の玲瓏たるに乗じて、野外の景望面白く、腰折よむ人詩を賦しざれ歌に興じ発句口ずさみ、己がさま〴〵歩行となく椎名町へ来し頃は、酉の中刻も近からん、是より謡河東義太夫小唄節己が得手〳〵に興じ、各足は弱れど口のみは達者に、四つ家町も過目白坂を杖にすがりて、戍の刻過る頃それ〴〵の舎りへ帰宅しけり。

以上此編四十三話終

形見ともなるへしわきて永き日や、雨のつれ〴〵伽となるらん

市隠舎 大浄

文政六癸未年林鍾二日於竹島寓居全部四編拾弐冊草稿畢

東武赤北小陽鮮僧前廓然尽十方菴大浄宗知老納書

<項>
小榑村の市戻帰路の逍遥
<本文>

一、武州新座郡小榑村妙福寺日蓮会式の市の事は、四編の第四拾三の条下に著し置きしが、又候や文政七甲申の年十月九日快晴なれば罷らんと、卯の下刻小原通斎を同道しつゝ、目白台より四家町、ねづみ山通、椎名町、中あらい、貫中ぬくなか、高松、谷原やわらと次第して、土支田村宮の前平右衛門方へ落付ぬ、爺忠兵衛申の七十七才、つれ合の嫗七十壱才、亭主平右衛門男女の児輩四人、みな成人して惣領直次郎に三才の女子ありて、三夫婦各堅固に親子の中むつましきは最めづらし、予て用意やしたりけん、間もなく小豆飯振舞終りて平右衛門案内しけり、是より小榑村妙福寺まで五町ありとかや、斯て彼がやしきを出凡弐三町も西北の方へ来ぬらんと思ふ竹林の両側より、あめおこし燗酒蒟蒻の田楽蕎麦きり砂糖餅様のものを初めとして、一切の食類必至と路傍に居ならびしは、片鄙の風儀とておかしく又めづらし、既に石橋を越大門のまへに至れば、一際賑はしく左右の畷すしは、もろ〳〵の笊籠箱の類より、都て竹細工はあらざるなく、又此方をかえり見れば、棒惣擔井戸車麺棒杖めんぼうじようをはじめ一切の桶盥鉤瓶井戸側居風呂味噌樽立臼杵をはじめ、一切の農具あらざる物なく、数町の間積ならべしは仰山にも目覚しくめづらしく、扨大門の入口両側より万鉄物、苧繩、馬道具、鋤、鍬、犁、碓、鍋釜をはじめ、小道具小間もの椀折敷一切の瀬戸もの、紙筆墨手本屏風衝立ついたて戸障子万の箱類まで、壱町余の間尺地もなく居ならびて、買人手を拍者立集ふ男そめて女櫛の歯を挽がごとし、頓て仁王門にいたる大さ五間左右の仁王尊長壱丈五六尺、顔容といひ筋骨たくましく、平右衛門へ作は誰にやと問にしらずと答しが、何れにも古作と見えたり、此寺弐拾七石の御朱印地となん、斯て仁王門を過て境内に入はなを一際賑はしく、万の市人は五行六行に居ながれ群集する事大かたならず、正面は祖師堂にして凡壱町ほど右に撞楼堂、左に三十番神の社あり、先祖師堂へ上り見るに、釈尊日蓮を連座にすえて当寺の住職なるや浅黄の衣を着し高座に登り、真向にして説法最中なりしが、声細く田舎訛にて甚下手なり、故に聴衆も少なかりき、又祖師堂の後山に七面明神と妙見尊のふたつの小社あり、同処右の方の山下は惣墓にして、妙福寺代々の石碑は中央に建ならべ、その外は由緒ある檀頭と見えて、左右に石碑列せり、古きに至りては文禄慶長寛永正保慶安等の年号鍛付しも数本見えたり、又平右衛門案内して鐘楼に上り撞鐘を見るに、恰好常に異ねど銅色うるはしく、寛文四甲辰と鍛付たれば、此鐘鋳出来てより文政七年迄百六十壱ケ年におよぶ、是より塀重門を越て本堂にいたる。此辺古鉄古道具古着類両側に必至と居ながれ、本堂の軒下は夜着蒲団抜手綿類夥しく取広げたるは江戸にめづらし、惣て境内商人三行四行に居ながれ、呉服反物小切類小間もの類より万なきものなし、則ち平右衛門明細に案内して隈々まで幾遍となくふらめき、頓て土支田村へ帰りし頃は、申の半刻も過ぬらん、据風呂も今に沸侍らん、一宿し賜へといふにぞ、道しらぬ白子の駅をたづねて途中に日暮なばいかゞせんと、是より一泊と思ひさだめ農家の止宿も一興ならんと、両人とも枕かりて足踏延し休息する間に、手打蕎麦出来て膳部とり揃え運び出せし儘、両人起上り馳走にあふに、正真の生蕎麦にして、したじの加減も能といへども、今少し先に小豆飯一椀づゝ食したれば、美けれど食しがたきを

交々強る事頻なれば、やう〳〵に断り高盛弐椀づゝを食しけるが、良程過て家内のものゝ打寄て食するを見れば、男女とも親椀に盛上たるを六七椀づゝ終に喰尽せり、斯て風呂の湯加減もよしといふにぞ、外へ出て軒下に星月夜を見ながら、浴するも気散しにぞ又一風といふべし、左はいへ厠遠く便処の擔先つゞきにあらざるは、農家の傚ながら老人には難渋なりし、されば入湯の暖身ある内に寝なやと座敷へ入て夜着引かふるに、酒飲ざれば臥といへと寝がたきとて、小原は夜半まで幾度かたばこを吸、便所へ通ひしは可笑くも又気のどくなりし、頓て翌十日快晴なれば、朝餉過ちさがれいてより帰宅せんと思ひ定め、但しきのふ来し目白台通りは往還にして近きにせよ、淋しく憩ふべき家なし、遠くとも此処より白子の駅へ出て、河越街道を帰らばやといふに、しからば小榑村を過両側楢欅栗柏えじおしころし抔いふ雑樹の生茂りし閑道を過、弐軒新田とかやいふ処は松山のみにて西の方は、片山野火留まで一円松原にして広さ弐里もあるよし、松原に細路ところ〳〵幾筋もあれど、不案内にては中々路を得がたし、此松山秋の頃は初茸松露湿葺しめたけ笹子をはじめ、もろ〳〵の菌類おびたゞしく生じ、広き松山なれば朝な〳〵採といへども尽ず、誰叱ものあらねば秋は必ず来よかし案内せんといひしが、土支田村より凡拾八九町もあらん、されば此松山の間落敷し枯松葉の綺麗にうつくしき、茶室の露地に敷たるより一入見事にして、天然なるはいとゞ面白く片鄙の一品といふべし、斯沢山に塵芥のまじらざる色能き松葉あるをしらずして、爰や彼処より買求るはしらざる故也、実にも折々松葉御用とて御城内へ召呼賜ふは理とはじめて知りしかれば、一切の事その処に至りて自身に見聞せざれば、何事も諦言難からん、その上程よき小松の作られずして自然に屈曲したるもの若干ありて、若林泉に移し植なば可ならんと思ふ松のみなりけリ、斯て此松山を北へ〳〵と行ほどに、東西に糸引し如くの往還に出たり、是や片山通りの往来となん、是より東の方壱里半にして上練馬の駅へ出るとかや、されど此路も人影稀に又憩ふべき舎なく、湯茶を啜るに不自由なれば、遠くともこゝろざせし白子の駅へ出んと、弐三町にして左の閑道を入て白子へ六七町あり、則ち此処に平右衛門へ暇乞して立別れ、諏訪の森を見当に北へ行事凡三四町ばかり、諏訪明神の林前を過痩地の貧村を行抜て、白子の坂上庚申塔のちまたに出たりけり、爰は川越の街道とて往来繁く路広し、頓て坂をくだり、白子の駅中程亀屋清七が酒楼に憩て、きのふより鄙の俗服をやしなひぬ、小原通斎は昨日昼前椎名町の手前に酒飲し儘なれば、壱銚子の勢ひに元気を生じ川越まで飛ても行ぬべく、勇敷いさましくは上戸の一徳ぞかし、是より板橋へ弐里半、いたばしより日本橋へ弐里といえり、かゝれば故郷まで行程三里半余、時は巳の半刻にもおよびなん、しらこ台より赤塚上練馬と次第し、落葉の途中敷詰が如きも又一品にて、ところ〴〵木立の中に遅きもみぢの燃るがごときは、又なきながめなれば、右に躊躇し左に蹲踞し、街道の眺望逍遥更に窮なく、鼻唄になくさみ滑稽しやれに頤をはずし歩むともなく、上板橋より金が久保池袋堀の内御鷹部や護国寺と次第して、未の下刻己々が弊蘆にこぞは立帰りぬ、されば片鄙の市は、種々あらぬものまで持出し商ふはめづらしく面白けれども、食事に乏しく男女尊卑山をなして賑ふに至ては、東武に過たるはなし、左はいへ小榑村妙福寺の市も、むかしは博奕諸事を構はざりし節は、九日十日の両日を千両市と号して、界隈にての大市にてありしと、古老の入巷談にいひ伝ふ、実も吹上観音の市よりは境内も広ければ、むかしは左もあらんかし、小日向より目白台通り土支田村まで凡四里半余あるべけれど、路すがら更に眺望なくいかにも俗地にして殆退屈を生じ面白からず、但し花王さくら咲頃はいかゞあらん、片山宝台寺ほうだいじは観智国師の住職せし増上寺の隠居寺なれば、平林寺かけて春は逍遥せんものと、こゝろに枝折しおりするも、人にそげたるノ乁へつぼうにして一興といふべし、

<項>

諸国産好悪の判談(抄)五編巻之下第二十六
<本文>

前略蘿蔔だいこんも又しかり、尾張のみやしげは格別、武州には練馬の産を最上すれど至てみじかく、大きに柔かにして、風味よきは千住掃部宿に出る蘿蔔にならぶはあらじ(後略)

遊歴雑記

江戸小日向廓然寺の僧十方庵敬順が江戸付近の名勝旧跡を探訪した紀行文。五編一五巻一五冊から成る大著。文化一一年(一八一四)に初編刊行、文政一二年(一八二九)完成。

<節>

嘉陵紀行(抄)
<項>
谷原の道草
<本文>

  谷原村                    東高野山行程略図

画像を表示

土人いふ、曹司谷より上板橋へ一里、上板橋より中荒井村通り一里、子権現より長命寺に至る十八町、行程凡右の如しといへども、靖思ふに一里の丁数五十丁を以てすべし、三十六丁を以て一里とする常例にては、里数や

ゝ遠し、

文化乙亥九月八日遊 正やす

武州豊島郡谷原村長命寺境内東高野山の碑

応化如来者、祀而不<漢文>レ談、伝法菩薩者置而不<漢文>レ論、独竜猛菩薩、従<漢文>三如来懸記入<漢文>二南天竺鉄塔中<漢文>一、金剛薩埵ヨリ灌頂ヲ受ケ、両部ノ秘蔵ヲ授リテ後、竜智菩薩ニ授ケ、竜智金剛智三蔵、不空三蔵ニ瀉瓶シ、不空大唐長安ノ青竜寺恵果和尚ニ授ケ、恵果弘法大師ニ伝へテヨリ、日本ニ盛ンニ流布スト云トモ、大唐国ハ秘密ノ機根ナキ故ニ、早ク絶エタリ、是ヲ如来語密ト云ト、摩訶摩聖経楞伽経ノ説也ト、宝篋陀密尼経ニアリ、此説正徳二年壬辰刻河内小西見村薬樹山延命寺蔵版ニ載ス、己丑初秋掲書(朱書)

長命寺                        金峩井純郷製文

画像を表示

銕塔既開。竜猛菩薩受<漢文>二之金剛薩埵<漢文>一。金剛薩埵受<漢文>二之大日如来<漢文>一。自<漢文>レ是厥流竜智、金剛智、不空、恵果以及<漢文>二我邦弘法大師<漢文>一、漸曁<漢文>二広被<漢文>一、是密乗所<漢文>二以伝<漢文>一也。慶算阿闍梨。聞<漢文>二其風<漢文>一悦<漢文>レ之云、武州豊島郡谷原村谷原山長命密寺阿闍梨之所<漢文>レ開也、東距<漢文>二都城<漢文>一四十里所、南抵<漢文>二四谷<漢文>一三十里、西限<漢文>二秩父諸山<漢文>一。近<漢文>レ之雨降、遠<漢文>レ之富岳。屹<漢文>二立雲間<漢文>一、練馬、河越在<漢文>二於其北<漢文>一、繞以<漢文>二石神水<漢文>一此其勝槩也、阿闍梨俗姓平増島氏、其先出<漢文>二於相北条氏公<漢文>一、子重胤生<漢文>二重興<漢文>一、重胤卒、重興卒、子重明嗣、重明即阿闍梨也、以<漢文>二公孫<漢文>一仕<漢文>二于氏政氏直<漢文>一、及<漢文>二北条氏亡<漢文>一、潜隠<漢文>二干武之野<漢文>一、以<漢文>レ農為<漢文>レ業、因家焉、重明無<漢文>レ子、以<漢文>二其弟重国之子重俊<漢文>一為<漢文>レ嗣、後崇<漢文>二三宝<漢文>一、最信<漢文>二密教<漢文>一、乃属<漢文>二重俊家政<漢文>一、薙髪為<漢文>レ僧改<漢文>二名慶算<漢文>一、構<漢文>二禅誦之室<漢文>一、自号<漢文>二連中菴<漢文>一、後入<漢文>二紀高野山<漢文>一、断<漢文>二百穀<漢文>一食<漢文>二木実<漢文>一、学<漢文>レ法数年、業行淳修。夜夢<漢文>二弘法大師<漢文>一語<漢文>レ之云、吾甞在<漢文>二于讃<漢文>一、自刻<漢文>二吾形像<漢文>一、今在<漢文>二剣山人家<漢文>一、汝速往取<漢文>レ之、奉<漢文>二置之汝里<漢文>一、武距<漢文>二吾山<漢文>一千有余里、雖<漢文>レ有<漢文>二信者<漢文>一不<漢文>レ能<漢文>レ曠<漢文>レ日、廃<漢文>レ事数来拝<漢文>レ之、苟礼<漢文>二斯像<漢文>一乎、則亦猶<漢文>レ登<漢文>二吾<漢文>一山也、庶幾足<漢文>二以慰<漢文>二渇仰之心<漢文>一哉、汝克成<漢文>レ之、汝之子孫亦必有<漢文>下嗣<漢文>二法燈<漢文>一而興者<漢文>上、阿闍梨大喜。即至<漢文>二剣山<漢文>一索而得<漢文>レ之。帰立<漢文>二方丈<漢文>一。茅茨以安<漢文>二置之<漢文>一、阿闍梨滅後、重俊益修<漢文>二其業<漢文>一、家充殷盛、慨然嘆曰、若考作<漢文>レ室、既底法、厥子乃弗<漢文>レ肯<漢文>レ堂、矧肯<漢文>レ構、吾無<漢文>レ謂也、先志未<漢文>レ遂、徒保<漢文>レ不<漢文>レ失、是蔵<漢文>二糞土<漢文>一也、乃捐<漢文>二万金<漢文>一建<漢文>二諸堂院<漢文>一、歴<漢文>二数年<漢文>一然後竣工、其規制一遵<漢文>二高野<漢文>一、唯具<漢文>レ体而微耳、土俗称為<漢文>二東高野山<漢文>一、又效<漢文>二和泊瀬<漢文>一立<漢文>二金堂<漢文>一、安<漢文>二十一面観世音、及我天孫春日四神<漢文>一、於<漢文>レ是阿闍梨之志願始全矣、然未<漢文>下与<漢文>二海内諸院<漢文>一歯<漢文>上、猶為<漢文>二増島氏奉仏之所<漢文>一、阿闍梨以<漢文>二元和二年三月十二日<漢文>一、示<漢文>二寂于谷原<漢文>一、時年八十有余、後歴<漢文>二廿五年<漢文>一、寛永十七年九月十八日、小池坊僧正秀算、命為<漢文>二長命寺<漢文>一、然後儼然為<漢文>二一大名刹<漢文>一、慶安元年、東都為<漢文>二観世音<漢文>一置<漢文>レ田供養、東高野之称由<漢文>レ是翕然起矣、至<漢文>二重俊之子重辰<漢文>一、起<漢文>レ家為<漢文>二計吏胥<漢文>一、重修<漢文>二金堂<漢文>一

其季子九歳剃度、嗣<漢文>二法於長命定昌<漢文>一、後住<漢文>二小池坊<漢文>一、以<漢文>二学徳<漢文>一著称、為<漢文>三時所<漢文>二帰仰<漢文>一、実阿闍梨曾孫、世所<漢文>レ謂正僧正信有者也、蓋重俊所<漢文>レ創諸堂悉皆罹<漢文>レ災、元禄中再新作<漢文>レ之、今僅存<漢文>二大半<漢文>一、而観照東光二子院、則終廃焉、重辰之子重信、〻〻之子信包、〻〻之子信都、〻〻之子信道、世仕<漢文>レ 朝有<漢文>レ禄、信道字子篤 少好<漢文>レ学、与<漢文>二吾党岡子寧<漢文>一游感<漢文>二二世経営<漢文>一与<漢文>二信有大徳<漢文>一出<漢文>二於其家<漢文>一、皆合<漢文>二於阿闍<外字 alt="利+大">〓夢中之言<漢文>一、且慨<漢文>下其頽廃不<漢文>上レ如<漢文>二昔日之盛<漢文>一、亦興復之志<漢文>一、乃与<漢文>二長命前住法印源葉<漢文>一謀、因<漢文>二岡子寧<漢文>一。請<漢文>二井純郷文<漢文>一。固辞不<漢文>レ可、按<漢文>二其家系及本寺旧記地図<漢文>一、叙<漢文>二其所<漢文>一レ録、使<漢文>二之刻<漢文>一レ石、其辞曰、

日東古仏、記誕汨<漢文>レ真、青竜大師、久時苦<漢文>レ之、四魔夙降、五剣空飛、乃睠<漢文>二西顧<漢文>一、既得<漢文>二東帰<漢文>一。不生不滅、乃妙及<漢文>レ微。□羅相字、七里結界、以期<漢文>二無窮<漢文>一。以伝<漢文>二永世<漢文>一、惟斯算公、吉夢維明、冝<漢文>二爾子孫<漢文>一、克<漢文>二爾経営<漢文>一、維以維続、維昌維盛、於赫神区、香刹終成、東接<漢文>二城邑<漢文>一、西眺<漢文>二平田<漢文>一、阿字下<漢文>レ刀、月輪入<漢文>レ観、真言加持、金剛胎蔵、其儀孔蔵、道也不<漢文>レ同、吾将何言、苟応<漢文>二固請<漢文>一、聊叙<漢文>二所聞<漢文>一、長命之寺、谷原之巓、片石不<漢文>レ朽、千載可<漢文>レ伝、

画像を表示 <項>
上高田村、氷川の社
<本文>

文化十二亥の年九月八日四時頃、清水を出て小久保清右衛門が宅に過る、清右衛門昼の主もうけす、畑の芋を堀て飯のあたゝか成を供す、いなみがたくてそれくひて、しばしすれば、九の鐘鳴、相伴ふは須藤新右衛門、稲葉利助、中川富之進、清右衛門嚮導たり、四宗町を行はてゝ東北をかへり見れば、森の中に大行院のいらか見ゆ、今日眺望爰にとゝまる、西北に望めば、安藤対馬侯のやしき也、其左側は鼠山也、径より登りて見れは、南面打開きて、落合の樹梢を見るのみ、南西の隅に木立見ゆ、落合薬王院の森也と、行ての翁といふ、椎名町の入口一豪家あり、慶徳屋と名づく、こ

の地に久しきもの也とぞ、穀物をあきなふ、この外椎名町商人の家に貧しきは見へず、鼠山の西南、なは手路の左りに径あり、七曲りへ行と云、高田落合村へ七曲りして行故に名づくしばらく行て、小名五郎窪と云処あり、猶行て左に行道あり、恵古田村に行と云。恵古田村より醤油を出す<外字 alt="イラスト2">〓上樽にかくの如く印有、爰に孫右衛門と云ものあり、世々の郷土にて榊原家に由緒あり、別にしるし置ぬ猶ゆけば岐路あり、左に行ばこれも恵古田に出る、右に行ば東高野山道と石橋あり、用水道を横ぎりて東に流る、爰より下板橋平尾に出で、末は滝の川に成といへり、水源は中荒井より八木沢府中を過て、玉川より落るといふ、猶しばし行ば、又西にゆく路と直に北に行みちあり、こゝより北へ直にゆけば、上板橋、西へ横折てゆけば、中荒井村、入口に石橋あり、用水路の右をながる、中荒井村を行事半里計、道の左りは練馬領、六千石、左りは中荒井村の内にて、今川丹後守、知行五百石の地也と云、爰にて用水路の左りを流る、道に石橋あり、石の左に引入て商家あり、土人いふ、練馬六千石と、今川の知行五百石と、収納甲乙なしとぞ、思ふに陰に今川のために、神祖神恵をめぐらし賜ふ事あるに似たり、此道西望すれば、僅かに秩父山の北岬をみる、畑は蕎麦花咲て雪の如し、椎名町の半より、此辺及谷原までの際、路傍栗なら多し、しばし落栗を拾ふ、興有、貫井村の路の左りに、子の権現の社あり、林木の間に竹を架して、商人の物売跡あり、問へば定れる日ありて、古き衣及ものくふ器など、すべて古きものを江戸よりもて来りて土人にひさぐと云、社は東に向ひて小祠也、少し行ば岐路あり、右にゆけば所沢秩父、左りは東高野なり、爰に石碑あり、東野某が銘文作りて彫付、前にしるし置ぬ、爰を過て屈曲盤回すること、五六丁にして高野山裏門に出る、凡そ碑文を読てしるべし、大猷院殿の御宝塔を建し所以聞ずしてかへりしは、恨み不レ少、御塔の面に、

大猷院殿贈従一位大相国

慶安四卯年四月廿四日敬白

と有、十一面の堂前に、井金峩が文の碑あり、高サ一丈計、三面に字を刻む、古は寺内大木生しげりて、昼も小ぐらくしめ〳〵しき迄也しを、住持の僧いつの頃にや、皆伐てうりしより、そはさせる大木なしといへり、此山の北のかた林あり、初茸を生ずといへども、公の人の外とることをゆるさず、番人ありてもし犯すものは捕るといふ、貫井谷原とも林木の間、しめし茸生すと云とも、此頃雨ふることたへてなければ、なへて茸類生ぜず、表門を出て西南を望めば、打ひらけたるまでにて、七八丁が間の樹梢を見る、西に富士諸山ありといへども、陰りて見えず、爰より石神井の池三宝院まで半里ありといへど、やゝ遠しといふ、

長命寺、三月七日より廿一日迄、年々開帳して、大士の像を拝せしむ、又乞にまかせて人を一宿せしむと云、

立とまりおくるゝ人を待つけて、くぬ木かもとにしはしやすらふ

吹風にかた山はたの落栗を、ふたつみつよつひろいてそゆく

○鳶からすすゞめ抔、すべて鳥の声も影もなし、たゞ百舌の鳴をきく、又くつ〳〵ほうしの、いまだ鳴声をあやしと聞のみ、

秋風の寒くも吹か入日さす、もりの木たちに百舌の鳴声

三社の広前にぬかつく

やはらくる光はよゝに高野山、天降ります三つの瑞籬

ふたつなき心にあふてたかの山、東も紀路も河へたつへき

うつすとはおもはさるらし高野山、法のなかれは同したま川

十一面は大和の泊瀬をうつすといへは

秋はやゝはつせといへと松にはふ、つたの紅葉は猶盛り也

またいつか此山さとにふりはへて、落葉かくれの茸摘なむ

さかつきをうかふ計の此水も、流れて末はたきの河なみ

これは椎名町を横切りて東へながる水の末は、皇子村の滝の川といへばなり

夕くれにかへる男かひく馬の、くつ〳〵ほうし声よはるなり

重考、滝の川の水源は、石神井池也、この処の水は全く用水にて、石神井川へ落合まで也

<項>
石神井の道くさ
<本文>

文政五のとし長月の十一日計、石神井村の弁財天にまふではやと、朝とく出たつ、あけぼのは少し雲たちて、降なん心もとなさに、しばしためらふうちに晴にけり、椎名町慶徳屋が少し先に岐路有、北に行ば、上板橋に出、こゝより西にゆけば、道の左右皆楢を植並べ、ゆくも〳〵同じやう成る馬之地を過て少し坂を下る、椎名町よりこのあたりまで、半里計、道の左右皆畑也、人家二三戸あり、ゆきゝは皆馬ひく、糞桶かたにするものゝみ、こゝに田少し計あり、少し行てまたのぼる、道の左右皆畑眺望なしやゝ行て又小坂を下る、又田あり、

恵古田村といふ、田中の道のかたへに、豆腐あきなふ家あり、爰より先には休ふべき処も、所々ありやなしや、おぼつかなければ、しばし腰かけて、もたらせし飯なんど取出てしたゝむ、あるじの姥茶もて来り、童近成をこなたへ抔きこゆ、家居つぎ〳〵しくすみなし、調度なんどきたなげにもなし、おのれの揶子の水のむ器を見て、こは何といふ物ぞと問、しか〴〵といへば、たれもこよこれを見よとて、かなたこなたとりつたへ、やがて酒あたゝめてもて出、この器にておのれかたぶけたるあとを、たびてよと請ふ、もとよりおのれは酒のまねど、吟行には少し酔なんもつかれ休むるわざなんめりと、心さゝめにかたぶけて、さしつるを、いと〳〵よろこびて、其姪にぞ、けふなん遠方より来りしをさへ呼出て、酒のませつ、畑の芋うまく調じつるを、清げにうつはに盛て進む、このあたり山〳〵にしめじ初だけ抔、沢に生ずるを、今は時過はべり、来秋には、葉月の中にこよかし、一夜の宿りして、そこら案内し参らせてんなどきこゆ、いともやさしく朴なる姥也けり、家の名をとへば田中屋長助といふ

わするなよ茸つみにとて又もこん、あるしかもとの露を尋ねてこゝより田の面を隔てゝ、南に木立見ゆるは、上高田村也といふ、たゞ林木のみの重々たるを見る、させる咏めなし、爰に孫右衛門といふ農家あり、天正十八年八月、江戸に御駕を居へさせられし砌、いか成所縁にや、榊原康勝の朝臣康政の子遠江守、孫右衛門が家におはして、こゝより江戸には伺候せられしと云、夫より今に至迄、榊原殿歳首には、必孫右衛門が宅に過られ、白かね三枚をたまふ、是を恒例とす、榊原殿より孫右衛門へ、代々十五口之月俸を与ふと云、此事もと稲葉新助が語りしを思ひ出て、土人に問ふに、しか也と答ふ、猶田中の道を行はてゝ少し上る処に、くろかねもてたゝみ造れる様なる庫三四見ゆ、山崎喜兵衛と云、醤油作り商ふ者の家也けり、其向ひにも同しごとくの庫有、家あり、是は喜兵衛が家分れにて七兵衛といふ、燈油を絞り、其外何くれあき物品々あるを見る、山崎が造り出す醤油の樽のしるしには、<外字 alt="イラスト2">〓かくの如く記す、八樽をもて一駄とす、一樽の価四百八十銭也、江戸に出すには、駄賃一樽に十六銭をわりかけて、価合わせて五百銭にあたる、江戸の内所々に積出すといへり、それより行先〳〵も、来しかたの道に同し、左右畑にて、楢の並木の中を行、岐路あり、右に行ば中村道、左りに行ば上鷺の宮村道と、石にほりて建たり、猶ゆけば

鷺宮村。上下あり 此辺まれ〳〵に民家二三戸あり、まひるにも道の辺の、草むらに虫の声す、

風ふけは峰におとなふ琴のねの、しらへにかよふ松虫の声

猶少し行ば、

伊藤村、前に同し、ここの道を行はてゝ少し計北に下れば、打開きたる田有、畔の馬道を行ば、田中に石橋あり、橋の上に立て西を見さぐれば、水

こなたに流れそゝぐ、源は関村の溜りより分ると云、此の眺望やゝ佳成を覚ふ、北へ渡りこせば、

画像を表示 画像を表示

石神井村上下あり此辺一人の往来を見ず、物問ふべきよすがもなし、路の行あたる処寺あり、禅定寺といふ、其前を西へ山へそふて田のふちをゆけば、民家一戸有、其先に又寺あり、道常寺といふ、其西に隣れるが三宝寺也、茅ふける大門いかめしく作りなしたれば、閉て人を通さず、其続き坊の門ゟ寺内に入、門の左に鐘楼有、右に庫あり、石の宝篋印塔あり、本堂は十二間に六間計、坊も庫裡もいとひろけれど、寂として人なし、堂の前を横ぎりに、西へ寺の構を出て、畑の細道に氷川の社あり、鳥居の脇を猶西へ行ば、道の左、林の中に小社あり、天満天神を崇め奉る、そこより少し北に行ば、小坂有、下れば向ひに弁財天のやしろあり、社をめぐり、皆池也、芦荻生茂り、雁鴨あまた下居て、かなたこなた水の面をゆきかへ

る、いくらといふ数をしるべからず、池の大さ七八十間計、四面は東の一方のみ明て、余は皆高からぬ山也、水の子丑の方に赤松のみ生並たる山見ゆ、池の姿井の頭と相似たり、此池の水はいか成旱にも枯たることなし、時として水水底ゟわき上ることありと言、社は已の方に向て鎮もります、げに此神に相応すといふべし、三宝寺のうしろの山は、古へ豊島権次といへる人の棲し処にて、今も其跡ありて、城山と呼、山の上に豊島の霊社ありしも、今はなしと云、是らのこと里の子に銭とらせて聞く処也尋ね来て見るに、掻上の堀切ともいふべき所なり、其堀の内より、山に上りて見るに、処せく松の若木植並て、行先に道なければ、もとの道に下る、掻上のうしろの方は、三宝寺の池の流の末をとり廻して、後堅固に取なし、西は山の尾先を堀切て境とす、東の方はなだらかに平なる処あるに、今は民家一二戸あり、其うしろは山畑なり、民家の前三宝寺の後の間に径あり、そこを東にゆけば、三宝寺の庫裡のうしろの門に至る、門の続き垣の内に、少さき山有、これも其かみの遺構か、考ふるに三宝寺は、太田道灌の建立にて、当時百石の寺領をよせしと云、是は豊島氏遺跡に就て、寺をたてし成べし、その三宝寺の堂の辺、其居宅の跡にやあらん、寺のうしろ城山とよぶ処は居宅の外層にて、棲し所地にはあらざるべし、地勢を考ふるに、かならず然るべし、こゝより井の頭へ二里、新高野へと半里と言、午時過る頃、こゝを出て、かへさに赴く、もとこし道を伊藤までかへりに、あまりに同じ道をかへりなんがくるしければ、土人に問ふて、伊藤より南に横折て行ば、打ひらきたる田有、其畔の細道を少し立戻りて、向ひへ越ゆけば、一条の馬道にいたる、路の左右皆畑楢の並木多し少し行ば、

天野沼村、民家二三戸、東に行廿丁計にて四辻あり、南は中野道、北は東高野道、東は高田馬場下へ行よし、石にほりて建たり、中野へ出て、かへりは遠しといへば、高田へと東に向てゆく、やゝ行ば、沼袋村、猶右にふる道をおなじやう成一筋の馬道を行きゆけば川あり、三間計の橋をかく、此川上中野の淀橋の川也下は面影橋へ落るといふ此辺人家六七戸有、猶行ば日すでにくる、高田の馬場の西のつめに至れば、いづこの鐘にや、六ツを報す、夫より熟路なれば記さず、五鼓になりかへる、

椎名町より、其道すがら三宝寺辺に至る略図也、(前ページ)

嘉陵紀行

著者は御三卿の一人、清水家の用人村尾伯恭、嘉陵と号した。別名「四方の道草」とも言う。文化・文政頃の江戸近郊を逍遥した紀行文。

<節>

東京府志料(抄)
<項>
第八大区七小区志
<本文>

総記

大区ノ北ニアリ 皇城ヲ距ルコト ニ至ル 区域東ハ片山村中新井下練馬ヲ以テ三小区及第九大区四小区ニ接シ西ハ田中上鷺宮二村ヲ以テ八小区及六小区ニ隣リ南ハ下鷺宮及江古田村ヲ以テ又六小区ニ界シ北ハ上下練馬及谷原村ヲ以テ八小区及第九大区五小区ニ界ス 東西一里十八町南北一里二十八町 村落十ケ村之ニ属ス 其六村ハ豊島郡野方領其四村ハ多摩郡野方領ノ地ナリ 区衙中新井村ニ在リ 郵便局下練馬村ニアリ 区内田少シテ畑多ク其状景五小区ト異ナルコトナシ 土地最モ莱菔ニ善シ 練馬大根ノ名都下ニ高シ 運輸不便

村落

中新井村 小田原役帳及正保ノ改ニ其名ミヘタリ 日本橋ヨリ行程三里村ノ四境東ハ上板橋村西ハ中村南ハ多摩郡江古田村北ハ下練馬村ナリ此地小名六ケ所 本村徳田神明ケ谷戸原北新井中通ト云用水ハ千川用水ヲ引キ用フ

〔土地〕形勢 高燥ニシテ平坦ナリ 広袤 東西十五町南北十町十間

〔戸口〕戸数 百三十七戸 内僧侶一戸 人口 七百七十八人 内男三百八十七人女三百九十一人

〔車馬〕車 農車三十三輛 馬 二十六匹

〔神社〕氷川神社 村ノ鎮守ナリ 創建詳ナラス 明治五年十一月村社トナル 摂社一社 末社三宇境内六百八十八坪租税地

〔仏寺〕正覚院 天満山ト号ス 真言宗中野村宝仙寺末 境内七百四十八坪租税地

〔田野〕田 十七町五反二畝十五歩 畑 七十一町七反七畝十八歩 土性色黒ク野土ナリ

〔歳額〕正租 米八十五石二斗四升二合金百円七十五銭五厘二毛 雑税 米五石八斗八升八合金七円七十五銭三毛

〔物産〕米 百八十五石二斗五升価金七百四十一円 沢庵漬 千三百六十樽価金六百八十円 莱菔 三百四十駄価金八十五円 干莱菔 六百八十駄価金百七十円 茄子 六百八十駄価金三百三十六円六十六銭 菜種 六石八斗価金五十六円五十銭 藍 五百四十四貫目価金百三十六円 胡蘿蔔 二百七十二駄価金百三十六円 栗 一石三斗六升価金十円八十八 銭薪 六百八十駄価金三百四十円 柿 十四駄価金四十二円 牛蒡 百三十六駄価金五十一円 大麦 八百十六石五斗価金千二十円六十二銭 小麦 百二十二石価金三百五円 大豆 四十石八斗価金百二円 小豆 二十四石五斗価金六十一円二十五銭 蕎麦 五十四石五斗価金三十六円二十五銭 黍 四十七石六斗価金七十九円三十三銭 濁酒 製造高三石価金十五円九銭六厘

〔道路〕青梅間道 第九大区四小区上板橋ヨリ来リ当村及中村上鷺宮谷原村田中村ヲ経テ八小区下石神井村へ入ル 此区へ係ル所長サ一里十八町五十五間幅五間ヨリ三間

中村 永井庄ト唱フ 此村古ハ多摩郡ニ属シ中鷺宮村ト唱へ多摩郡上下鷺宮村ト並タリシカ後イツノ時カ中略シテ今ノ名トナリ豊島郡ニ属セシト云伝フ サレト正保ノ国図等モ既ニ豊島ニ属シテ中村ト記シ其接界

モ説ク所ト齟齬スレハ伝フ所ノ説信シカタシ 日本橋ヨリ行程三里半四境東ハ中新井村北ハ上練馬村南ヨリ西ハ多摩郡上鷺宮村ナリ用水ハ千川用水ヲ引キ用フ

〔土地〕 形勢 高燥ニシテ平坦ナリ 広袤 東西八町南北十町二十間

〔戸口〕 戸数 七十六戸 内僧侶一戸 人口 四百四十七人 内男二百三十八人女二百九人

〔車馬〕 車 農車二十六輛 馬 二十匹

〔神社〕 八幡神社 村ノ鎮守ナリ 本社四間ニ四間半 社地四百四十坪

稲荷神社 社地二百坪

〔仏寺〕 南蔵院 瑠璃光山ト号ス 真言宗上練馬村愛染院末 永正年中良弁僧都中興ス 寺地三千六百七十九坪

〔田野〕 田 十町二反一畝十七歩 畑 八十三町四反四畝一歩三厘 土性色黒ク野土ナリ

〔歳額〕 正租 米三十三石三斗金八十二円十一銭八毛 雑税 米九斗五升一合金二円四十六銭三厘四毛

〔物産〕 米 五十九石八斗価金二百三十九円二十銭 圃米 六十五石価金二百六十円 大麦 三百六十五石八斗価金四百五十七円二十五銭 小麦百二十六石一斗価金三百十五円二十五銭 大豆 十八石五斗価金四十六円二十五銭 小豆 十二石五斗二升価金三十一円三十銭 蕎麦 三十二石五斗価金八十一円 黍 十九石価金三十一円 稗 百三十石価金百三十円 莱菔 二百駄価金五十円 干莱菔 三百五十駄価金八十七円五十銭 沢庵漬 七百樽価金三百五十円 茹子 三百六十駄価金百八十円 藍 二百六十五貫目価金六十六円二十五銭 胡蘿蔔 百七十二駄価金八十六円 菜種 十石価金八十三円三十三銭 薪 四百駄価金二百円 栗六斗価金四円八十銭 牛蒡 七十駄価金二十六円二十五銭 濁酒 製造高三石価金十五円九銭六厘

谷原村 石神井郷ニ属ス 北条役帳ニ石神井ノ内谷原トアリ コレニヨレハ此村古ハ石神井村ニ属セシ地ナルヘシ 四境東ハ上練馬村西ハ下石神井村南ハ田中村北ハ下土支田村ナリ 此地ノ小名六ケ所 箕輪西原北原中通リ蕪ケ谷戸七子竹ト云 用水ハ中央ニ石神井川南辺ニ千川アリ

〔土地〕 形勢 高燥ノ地七分ニ居リ卑地ハ三分ナリ 広袤 東西十町三間南北十二町二十間

〔戸口〕 戸数 百七戸 内僧侶一戸 人口 六百四十七人 内男三百二十九人女三百十八人

〔車馬〕 車 農車十四輌 馬 二十五匹

〔神社〕 氷川神社 村ノ鎮守ナリ 社地五百八十坪

〔仏寺〕 長命寺 谷原山ト号ス 真言宗大和国長谷小池坊末 慶長十八年創立 開山ヲ慶算ト云 山号ヲ東高野山ト云 紀州高野山ノ景ヲ写シ堂塔仏閣皆同シ 寺地二千二百五十坪 菅原寺 紅梅山ト号ス 本村長命 寺末 寺地六十坪

〔田野〕 田 十三町七反三畝十四歩 畑 百六十三町五反七畝六歩 土性 色黒ク野土ナリ

〔歳額〕 正租 米五十七石九斗六升五合金百九十六円七十七銭二厘四毛 雑税 米一石六斗五升六合金六円三十三銭五厘八毛

〔物産〕 米 百十八石斗価金四百七十四円 大麦 六百十五石価金七百六十八円七十五銭 小麦 百石三斗価金二百五十円七十五銭 黍 三十石価金五十円 大豆 五十石五斗価金百二十六円二十五銭 蕎麦 五十石三斗価金百二十五円七十五銭 莱菔 百駄価金二十五円 干莱菔 百二十駄価金十五円 沢庵漬 百五十樽価金七十五円 茄子 三十駄価金十五円 藍 六百貫目価金百五十円 炭 八十五駄価金百七十円 菜種油

製造高三十八石価金二百四十六円 荏油 十六石六斗二升五合価金六十八円六十銭

田中村 日本橋ヨリ行程四里 四境西ハ下石神井村東北ハ谷原村南ハ多摩郡下井草村ナリ 又北ノ方下石神井村ヲ隔テ飛地新田アリ 東ハ谷原南ハ下石神井西ヨリ北ハ上下土支田村ナリ 此地ノ小名四ケ所 薬師堂供養塚塚越上久保ト云 千川用水ヲ引キ田ニ漑ク

〔土地〕 形勢 高燥平坦ナリ 広袤 東西七町半南北十町三十間 飛地新田東西六町南北五町十間

〔戸口〕 戸数 七十三戸 人口 三百八十五人 内男二百人女百八十五人

〔車馬〕 車 農車三十八輌 馬 九疋

〔神社〕 天祖神社 村ノ鎮守ナリ 社地三百十六坪 稲荷神社 社地八十坪

〔田野〕 田 八町二反五畝二十九歩 畑 九十二町三反三畝 土性 色黒ク野土ナリ

〔歳額〕 正租 米四十一石二斗二合金百三円九十七銭四厘四毛 雑税 米一石一斗七升八合金三円三十三銭九厘五毛

〔物産〕 米 八十七石四斗価金三百五十二円 大麦 四十三石二斗価金五十四円 小麦 七十五石価金百八十七円五十銭 大豆 三十五石価金八十七円五十銭 蕎麦 三十五石価金八十七円五十銭 沢庵漬 百二十樽価金六十円 茄子 十五駄価金七円五十銭 干莱菔 七十二駄価金十八円 莱菔 十五駄価金三円七十五銭 濁酒 製造高八石価金四十二円五十六銭

上練馬村 松川ノ庄ト唱フ 往昔此地原野ナリ 篠某ト云フ浪人来リ往ミ近国ノ馬ヲ集メ茲ニテ調練シ他ニ鬻クコトヲ業トシ後浪遊ノ士ヲ集メ此地ヲ開墾ス ヨリテ練馬村ノ名起レリ 其馬ヲ調練セシ地ハ今ノ下練馬村金乗院前樹林ノ辺ナリト云フ 日本橋ヨリ行程三里二十五町 四境東ハ下練馬村西ハ谷原村南ハ中村北ハ上赤塚下土支田村ナリ 此地ノ小名五ケ所 海老谷中ノ宮高松貫井田柄ト云 用水石神井川玉川分水新川ヲ引キ用フ

〔土地〕 形勢 高燥八分卑下ハ二分 広袤 東西十六町四十間南北二十八町二十間

〔戸口〕 戸数 四百十七戸 内僧侶七戸 人口 二千四百六十二人 内男千二百十人女千二百五十二人

〔車馬〕 車 農車百五十九輌 馬 九十九疋

〔神社〕 八幡神社 字高松ノ鎮守ナリ 創建不詳 明治五年十一月村社トナル 本社三間ニ二間半 末社三宇 社地二千七十坪 春日北野合社字中ノ宮鎮座 本社二間ニ二間半 社地二千五百九十八坪 愛宕神社 社地九百四十八坪 八幡北野合社 社地二百九十二坪

〔仏寺〕 愛染院 練月山ト号ス 真言宗京都仁和寺末 中興開山尊智正保年間ノ人ナリ 寺地四千百七十坪 円光院 南北山ト号ス 愛染院末 天正年間ノ開創ナリ 寺地千百五十五坪 寿福寺 大林山ト号ス 愛染院末 寺地百八十二坪 高松寺 隻林山ト号ス 愛染院末 寺地五百二十八坪 養福寺 宝樹山ト号ス 愛染院末 寺地四百十四坪 泉蔵寺 長松山ト号ス 愛染院末 寺地三百四十二坪 成就院 帰命山ト号ス 愛染院末 寺地四百二十五坪

〔田野〕 田 三十五町三反二畝二十二歩 畑 三十五町四畝五歩 土性 色黒ク野土ナリ

〔歳額〕 正租 米百四十九石四斗九升八合金六百三十二円六十六銭六厘八毛 雑税 米四石二斗七升一合金二十一円三十一銭九毛

〔物産〕 米 三百三石五斗価金千二百二十二円三十一銭 大麦 三千二百

五十石価金四千六十二円五十銭 小麦 五百三十五石価金千三百三十七円五十銭 大豆 百七十五石価金四百三十七円五十銭 小豆 二十四石五斗価金六十一円二十五銭 蕎麦 百五十石価金三百七十五円 黍 二百十五石価金三百五十八円三十三銭 稗 六百石価金六百円 沢庵漬 千五百樽価金七百五十円 干莱菔 二千駄価金五百円 莱菔 五百駄価金百二十五円 菜種 二十石価金百六十六円六十六銭 莱菔種 五石五斗価金三十六円六十六銭 茄子 八百五十駄価金四百二十五円 牛蒡 五百駄価金百八十七円五十銭 胡蘿蔔 百五十駄価金七十五円 芋 二千駄価金千円 藍 九百九十貫目価金二百三十七円五十銭 栗 三石五斗価金二十八円 柿 三十駄価金九十円 薪 五百駄価金二百五十円 濁酒 製造高九石価金四十五円二十五銭

〔古蹟〕 豊島氏城趾 村南土人矢野山ト云所ニ在リ 文明九年豊島勘解由弟平左衛門ト石神井練馬ノ両城ヲ築キ江戸河越ノ通路ヲ絶ト 即チ是ナリ 村ノ北三町許海老谷ニ海老谷左近ノ城趾アリ 寛永年間開墾シテ平地トナレリ(矢野山絵図略)

下練馬村 村ノ名義上練馬ノ条ニ詳ナリ 日本橋ヨリ行程三里半 東ハ上板橋西ハ上練馬南ハ中新井北ハ徳丸村ニ接シ 此地ノ小名八ケ所 今神湿化味三軒在家早淵田柄宮ケ谷戸宿本村ト云 用水石神井川ヲ引キ用フ

〔土地〕 形勢 高燥ニシテ平坦ナリ 広袤 東西十九町三十間南北二十七町三十間

〔戸口〕 戸数 五百五十戸 内僧侶一戸 人口 三千百四十七人 内男千五百八十四人女千五百六十三人

〔車馬〕 車 農車百十一輌 水車一ケ所 馬 九十八疋

〔神社〕 氷川神社 村ノ鎮守ナリ 創建詳ナラス 明治五年十月郷社トナル 末社七宇 社地三百三十六坪 氷川神社 字田柄組鎮座 本社三間ニ二間 社地三百三十六坪 稲荷神社八宇 一ハ社地七十六坪 一ハ社地三十坪 一ハ社地九十坪 一ハ社地二百四十坪 一ハ社地百四十坪 一ハ社地七十三坪 一ハ社地九十六坪 一ハ社地九十坪 諏訪神社 社地百坪 熊野神社 社地七十五坪 太神宮 社地二百十坪 白山神社 祭神伊弉冉尊 社地百三十二坪

〔仏寺〕 金乗院 如意山ト号ス 中本寺新義真言宗大和国初瀬小池坊末 元禄年中慧弁中興ス 寺地千四百四十坪 庄巌寺 医王山ト号ス 寺地九百五十坪 以下八寺皆金乗院末 光伝寺 大明山ト号ス 享保年中教慧中興ス 寺地七百七十二坪 円明院 恵日山ト号ス 延享年中秀堅中興ス 寺地二百五十八坪 青性寺 神明山ト号ス 寺地九百四十一坪 東林寺 薬王山ト号ス 寺地六十坪 威徳院 西光山ト号ス 寺地四百四十一坪 松林寺 普明山ト号ス 境内七百七十坪租税未定 高徳寺 瑠璃山ト号ス 寺地百六十八坪

〔田野〕 田 四十四町二反四畝二十三歩 畑 五百十六町四反六畝二十八歩 土性 色黒ク野土ナリ

〔歳額〕 正租 米二百八石八斗五升四合金六百四十八円十二銭七厘八毛 雑税 米五石九斗五升七合金二十円八十五銭八厘一毛

〔物産〕 米 五百三十石六斗二升価金二千百二十六円四十八銭 大麦 三千三百石価金四千百二十五円 小麦 五百三十六石価金千三百四十円 大豆 百七十八石価金四百四十五円 小豆 二十六石価金六十五円 蕎麦 百六十石価金四百円 圃米 四十八石価金百九十二円 黍 二百十八石価金三百六十三円三十三銭 稗 六百十五石価金六百十五円 沢庵漬 千八百樽価金九百円 干莱菔 二千五百駄価金六百二十五円 莱菔 六百駄価金百五十円 茄子 九百五十駄価金四百五十二円 牛蒡 五百

駄価金百八十七円五十銭 胡蘿蔔 百六十五駄価金八十二円五十銭 芋千五百駄価金七百五十円 藍 千五百貫目価金三百七十五円 栗 四石二斗価金三十三円六十銭 莱菔種 六石五斗価金三十九円 柿 三十八駄価金百十四円 薪 五百五十駄価金二百七十五円 製茶 六十貫目価金二百二十五円 濁酒 製造高六石価金三円十九銭五厘

〔道路〕 川越道 九大区四小区上板橋ヨリ来リ此村へ係リ五小区下赤塚村ニ入ル 此村へ係ル所長サ二十町幅五間 道者街道 此道村内川越道ヨリ分レ東ヨリ西ニ連リ上練馬村及谷原村ヲ経テ八小区下石神井村ヘ入ル此区へ係ル所長サ四十四町三十間幅二間 土人ノ伝説ニ此道古ハ鎌倉ヨリ奥州ヘノ街道ナリト 今里俗道者街道ト云フ者ハ富士山大山ヘ参詣ノ者多ク通行スル故斯ク名付ルナリ

<項>
第八大区八小区志
<本文>

総記

大区ノ西北ニ在リ 皇城ヲ距ルコト 区域東ハ下土支田村斗出シテ上練馬上赤塚及熊谷懸下ノ白子村ニ夾マル 又下石神井ヲ以テ七小区谷原田中二村ニ接シ南ハ下石神井竹下新田ヲ以テ六小区上下井草ニ接ス 西ハ関村ヲ以テ神奈川県下吉祥寺村及熊谷県下新座郡上保谷村ニ界シ北ハ上土支田村ヲ以テ熊谷県下新座郡小榑村及上白子橋戸村ニ接ス 東西三十七町半南北三十二町半 村落六ケ村之ニ属ス 区衙下石神井村ニアリ 豊島郡野方領ノ地ナリ 区内田少ク畑多シ 其状景七小区ト異ナルコトナシ唯其雑穀蔬菜等ハ大抵下板橋及内藤新宿両駅へ運出ス

村落

上石神井村 此村ハ石神井郷牛込庄ニ属ス 元ハ下石神井村ト一村ナリシト云 正保ノ改メニ既ニ二村ニ出セリ 往古村内三宝寺ノ池ヨリ石剣出シヲ里人一社ヲ営ミソレヲ神体トシ石神井社ト崇祀セシヨリ神号ヲ以テ村名トナセシト云 日本橋ヨリ行程五里 四境東ハ下石神井村西ハ関村南ハ竹下新田北ハ上土支田村ナリ 此地ノ小名九ケ所 城山大門沼辺西村小関立野観音山池淵出店ト云 城山ハ即チ豊島氏城趾ナリ 用水ハ関村溜井ノ流レ及村内三宝寺池ノ流レ又千川用水ヲモ引漑ク 猶又辛未ノ春玉川分水新川一条ヲ開鑿シテ村内ヲ通シ用水トナル

〔土地〕 形勢 高燥ニシテ平坦ナリ 広袤 東西十七町三十間南北十九町

〔戸口〕 戸数 百七十五戸 内僧侶二戸平民百七十三戸 人口 千二人 内男四百九十八人女五百四人

〔車馬〕 車 水車一ケ所 馬 十疋 牛 二頭

〔神社〕 氷川神社 創建応永年間 明治五年十一月村社トナル 末社五宇社地千五坪 上下石神井村関田中谷原五ケ村ノ鎮守ナリ 厳島神社 三宝寺池ノ中ニアリ 社地六十坪 稲荷神社二 一ハ俚俗火消稲荷ト称ス往時霊験ニヨリ三宝寺火災ヲ免レシコトアリ故ニ名ク 社地三十四分 一ハ村民ノ持ニテ雷斧ヲ神体トス 長サ一尺五寸許 社地百二十坪 愛宕社 社地百五十坪 北野神社 社地四百五十坪

〔仏寺〕 三宝寺 亀項山ト号ス 新義真言宗 古ハ鎌倉大楽寺ノ末ナリシト云 今ハ本寺ナシ 寺年ヲ経テ荒廃ス 慶長年間修理ヲ加ヘ旧観ニ復ス 又寺伝ニ当寺ハ応永ノ頃僧幸尊下石神井村ニ再造ス 文明九年太田道灌豊島氏ヲ滅シ其城跡へ寺ヲ移ス 即今ノ処ナリト云 寺地二千六百十七坪 正覚院 愛宕山ト号ス 三宝寺末 寺地六百六十六坪

〔田野〕 田 十八町七反七畝十八歩 畑 二百三十町一反九畝二十九歩 土性 色黒ク野土ナリ

〔歳額〕 正租 米五十三石三斗六升九合金二百三十六円七十二銭七厘 雑

税 米一石四斗九升四合金八円十一銭五厘三毛

〔物産〕 米 百九十石価金七百六十円 圃米 六十石価金二百十四円 大麦 九百六十石価金三百七十一円 小麦 三百石価金八百五十七円 大豆 百五十五石価金三百二十四円五十銭 小豆 七石三斗価金二十四円五十銭 粟 五十石価金八十三円五十銭 稗 三百六十石価金三百円 黍 九十石価金百八十円 菜種 三石価金十八円 荏 十五石価金八十三円 蕎麦 百石価金二百八十六円 莱菔 三百二十駄価金四十円 牛蒡 二十駄価二十円 茄子 四十駄価金二十円 芋 四十駄価金二十円 甘藷 三十四駄価金十七円 独活 十駄価金十円 沢庵漬 二百樽価金百円 柿 二十五駄価金二十五円 栗 八斗五升価金三円 繭 十石価金百四十四円 生絲 六貫目価二百円 製茶 二十五貫目価金六十円 藍 二千貫目価金四百円 薪 二千五百束価金百二十五円 竹熊手 百本価金二円 竹 五十駄価金二十五円 杉丸太 百車価金百円 松 五十本価金二十五円 栗 十本価金五円 槻 二十五本価金五十円 清酒 製造高二百石価金千百八十八円 醤油 三百石価金千八百五十一円

〔沢池〕 三宝寺池 池周廻凡五百間余直径南北六十間東西百六十間深キ所凡三丈浅キ所一丈二尺 池水清冷西南ノ角ニ当テ湧沸スル所多シ 池中鯉鰻鱺鯰鮒ノ類並ニ蓴菜藻草等ヲ生ス 池水東下石神井村ニ至リ関村溜井出水ト合流シ諸村ノ用水トナル

〔古跡〕 豊島氏城趾 豊島氏累世ノ居城ナリ 勘解由左衛門泰経ナル者ニ至リ文明九年其弟泰明ト共ニ長尾景春ニ一味シ管領上杉定正ニ背キ江戸川越ノ通路ヲ絶シ故定正ノ将太田道灌江戸ヨリ打テ出泰明居城平塚ヲ囲ミ手痛ク攻ケルニ泰経之ヲ救ハントテ其城ヲ出テ江古田原沼袋ニ於テ道灌ト接戦シ泰経泰明敗績シ一族ミナ戦死シ残兵力ツキテ城亦陥ルト云今ニ城砦ノ跡残レリ 山城ト云ホトニハアラサレトモ自然地高ニテ前ハ三宝寺池ニ臨ミ廻リニ堀アリ コノ池水ヲ引沃カンニハ堅固ノ城郭トナルヘシ櫓ノアリシ跡ニヤ所々築山残レリ 此ヨリ北ノ方ニ城山ト唱ル地アリ 道灌当城ヲ攻シ時コ、ニ砦ヲ築キ軍卒ヲ置レシト云 豊島城址ヨリ四町許リ隔リ平地ヨリ少シク高シ 図面下ニ出セリ(図略)

下石神井村 村ノ名義上石神井村ノ条下ニ詳ナリ 日本橋ヨリ行程四里半 四境東ハ田中谷原二村西ハ上石神井村南ハ多摩郡上下井草村北ハ上土支田村也 此地ノ小名八ケ所 伊保ケ谷戸上久保根河原坂下下久保和田北原池淵ト云 用水ハ石神井川玉川分水新川ヲ用フ

〔土地〕 形勢 同上 広袤 東西十一町半南北二十二町半

〔戸口〕 戸数 百四十七戸 内僧侶二戸平民百四十五戸 人口 八百七十五人 内男四百三十三人女四百四十二人

〔車馬〕 車 人力車一輛 荷車一輛 農車百十九輌 水車一ケ所 馬 二十五疋

〔神社〕 石神井神社 上石神井村条下ニ記スル所ノ神社ナリ 八雲稲荷ノ二神ヲ合祀ス 社地三百六十坪 天祖神社 八雲淡島ノ二神ヲ合祀ス 社地二百四十九坪 諏訪神社 社地三百三十坪本社一尺五寸ニ三尺 稲荷神社三 一ハ社地六十坪 本社六尺ニ四尺也 一ハ社地百八十坪 一ハ榛名八雲ノ二神ヲ合祀ス 社地百八十坪

〔仏寺〕 道場寺 豊島山ト号ス 曹洞宗荏原郡世田谷村勝光寺末 寺伝ニ云フ石神井ノ城主豊島輝時応安五年此地ニ菩提寺ヲ起立シ道場寺ト号ス僧大岳ヲ延テ開山トナス 中興ヲ観堂ト云フ 寺地七百八十坪 禅定院 照光山ト号ス 新義真言宗三宝寺末 昔時願行ナル者アリ此寺ヲ創立ス但本寺ヨリ年代古キ寺也ト云 寺地三百四十二坪

〔田野〕 田 十六町一反九畝四歩 畑 百八十五町六反九畝二十二歩 土性 黒土ニシテ瘠地ナリ

〔歳額〕 正租 米八十一石六斗一升五合金二百二十七円六十七銭六厘四毛 雑税 米二石三斗三升二合金七円十三銭八厘一毛

〔物産〕 米 百七十石価金六百八十円 圃米 五十五石二斗価金二百二十円 大麦 八百五十石価金千円 小麦 二百四十石価金七百五十円 大豆 百二十石価金四百円 小豆 六石価金二十円 粟 十石価金二十円 稗 四百石価金三百三十円 黍 八十石価金百六十円 蕎麦 百石価金三百三十円 荏 十石価金四十円 菜種 二十石価金八十円 莱菔 四百駄価金五十円 牛蒡 百十駄価金五十円 芋 五十駄価金五十円 茄子 百駄価金五十円 甘藷 百二十駄価金六十円 沢庵漬 二百樽価金百円 繭 十石価金百十円 製茶 五十貫目価金百三十円 藍 千貫目価金二百円 桑 五十駄価金二十五円 薪 三千束価金百五十円 炭 三十駄価金六十円 柿 二十五駄価金二十五円 栗 三石価金十円五十九銭 杉丸太 二百車価金二百円 松 百本価金四十円 樫 五本価金二十円 槻 十本価金二十五円 椹 十本価金三十五円 醤油 製造高四百七十石価金二千七百十五円 種油 二百五十樽価金二千二百五十円

〔道路〕 青梅間道 七小区田中村ヨリ来リ此区下石神井村ヲ経テ上石神井竹下新田二村ノ間ニテ青梅本道へ合ス 其間長サ二十四町幅三間 道者街道 七小区谷原村ヨリ来リ此区下石神井村上石神井村関村ノ三村ヲ過キ熊谷県下へ至リ青梅街道へ合ス 此区へ係ル所長サ三十五町半 此道古鎌倉ヨリ奥羽ヘノ街道ナリト云

関村 豊島氏石神井村ニ在城セシ頃関ヲ置シ所ナリ 今モ猶大関小関等ノ名残レリ 日本橋ヨリ行程五里 四境東ハ上石神井村及竹下新田西ハ新座郡上保谷村南ハ多摩郡吉祥寺村北ハ新座郡小榑村ナリ 此地ノ小名十ケ所 大関小関本村関原葛原鉄炮塚三ツ家新田札野二ツ塚小額ト云用水ハ石神井川千川新川ヲ引キ用フ

〔土地〕 形勢 同上 広袤 東西十二町南北十六町半

〔戸口〕 戸数 八十五戸 内僧侶二戸 人口 五百四十人 内男二百七十人女二百七十人

〔車馬〕 車 農車三十三輌 牛車一輛 牛 一頭

〔神社〕 天祖神社 村ノ鎮守ナリ 社地三千坪 稲荷神社 社地百二十坪

〔仏寺〕 本立寺 日蓮宗下総中山法華経寺末 開基詳ナラス 日蓮堂十二間ニ八間 寺地千六百二坪 最勝寺 関皇山ト号ス 新義真言宗上石神井村三宝寺末 開山ヲ弘印ト云フ 寺地二百五十三坪

〔田野〕 田 四町六反二十四歩 畑 百三十四反三畝二歩 土性 黒土ニシテ乾燥ナリ

〔歳額〕 正租 米十三石六斗四升八合金百三十五円六十四銭四厘二毛 雑税 米三斗八升七合金四円六銭九厘三毛

〔物産〕 米 百三石七斗価金四百円十四銭 大麦 四百十石価金五百十二円 小麦 百二十八石価金四百円 大豆 七十二石三斗価金二百四十一円 小豆 四石価金十三円 稗 七十五石価金六十二円 粟 六十石価金百円 黍 三十八石価金七十六円 蕎麦 九十石価金三百円 荏 六石五斗価金七円 菜種 一石二斗価金六円 莱菔 八十駄価金十円 芋 十四駄価金七円 甘藷 十六駄価金八円 独活 十七駄価金三十五円 柿 八駄価金十円 藍 二千貫目価金四百円 桑 十駄価金五円 繭 三石二斗価金三十五円 生茶 四十貫目価金十三円 箒 十三駄価金二十二円 薪 四千束価金二十二円 杉丸太 二百五十車価金二百五十円 松 百本価金四十円 栗 二十本価金十円 槻 二十本価金五十円 椹 二十本価金五十円

竹下新田 此村往古ハ関及上下石神井三ケ村ノ秣場ナリシヲ天明四年竹下某ナル者官ニ願ヒ開墾セシ地ナレハカク名付クト云フ 日本橋ヨリ行

程五里 四境西ハ関村北ハ上石神井村東南ハ上井草村ナリ此地ノ小名四ケ所 久保千川付前野淵崎ト云此村畠ノミニシテ水田ナキナリ

〔土地〕 形勢 同上 広袤 東西十一町南北四町半

〔戸口〕 戸数 十八戸 人口 百二十四人 内男五十八人女六十六人

〔車馬〕 車 農車十輛 馬 二疋

〔神社〕 厳島神社 社地二百八十二坪 稲荷神社 社地三百四十八坪

〔田野〕 畑 四十二町三反二畝二十四歩 土性 黒赤土ニシテ瘠地ナリ

〔歳額〕 正租 金四十三円三十三銭六厘四毛 雑税 金一円七十五銭二厘五毛

〔物産〕 圃米 十八石価金六十四円 大麦 百三十四石価金百八十一円 小麦 四十石価金百二十五円 大豆 二十二石八斗価金六十五円 蕎麦 二十七石五斗価金八十円 稗 三十石価金三十円 黍 十石価金十四円粟 六石価金十四円 荏 三石価金十円 甘藷 二十五駄価金十三円 莱菔 四十駄価金五円 芋 十駄価金五円 独活 十駄価金十円 繭 一石五斗価金十五円 桑 十二駄価金六円 箒 一駄価金三円 薪 五百束価金二十円 杉丸太 二十車価金二十円 炭 五駄価金六円

〔道路〕 青梅街道 六小区上井草村ヨリ来リ此区竹下新田上石神井村関村ノ三村ヲ過キ熊谷県下田無村へ入ル 此区へ係ル所長サ二十四町幅五間

上土支田村 小田原役帳ニ太田某ノ知行配当ノ内六貫五百文江戸土志田某ノ分ト載スレハ古キ村ナルコト知ルヘシ 昔シハ一村ナリ 中古分チテ二村トナス 日本橋ヨリ行程四里半 四境東ハ下土支田及田中村新田南ハ上下石神井ノ二村西北熊谷県下小榑村及上白子村ナリ 土人私ニ村内ヲ分チ上組下組ト唱フ 此地ノ小名八ケ所 井ノ頭甫村下屋鋪前原ハ上組ニアリ三町目俵久保八丁堀土橋ハ下組ニアリ 用水ハ村内字井頭溜井ヨリ流出タル水ヲ用フ 此水所々ノ出水ト合シ大略二間ヨリ三間ノ川ヲナセリ 土支田川ト云 吉祥寺村井頭池トハ別ナリ

〔土地〕 形勢 同上 但上白子村境ニ砂利山所々ニアリ土支田川西ヨリ北へ廻リ流ル 広袤 東西二十五町南北十町

〔戸口〕 戸数 百七戸 内僧侶一戸 人口 六百十人 内男二百九十八人女三百十二人

〔車馬〕 車 農車四十七輌 馬 十疋

〔神社〕 北野神社 社地三百七十五坪 稲荷社四 一ハ六百坪久保上稲荷ト称ス 一ハ社地七百坪 一ハ社地四百四十坪石塚稲荷ト称ス 一ハ境内二百十六坪租税地ナリ 白山神社 社地三百二十坪

〔仏寺〕 妙延寺 信光山ト号ス 永禄十一年創立 法華宗下総国中山法華経寺末 開山日宜 開基ヲ日安ト云 境内三百坪租税地

〔田野〕 田 五町二畝七歩 畑 二百町五反八畝七歩 土性 黒赤土ニシテ痩地ナリ 萱野 十一町一反四畝十二歩

〔歳額〕 正租 米二十五石七斗一升五合金二百六円三十銭五厘二毛 雑税米七斗三升五合金九円六十九銭三厘九毛

〔物産〕 米 六十五石二斗六升価金二百六十円 圃米 三十五石価金百四十円 大麦 七百五十石価金八百十二円 小麦 三百五十石価金千円 大豆 百五十石価金四百五十五円 粟 十五石価金二十五円 稗 二百石価金百六十六円 黍 四十石価金八十円 蕎麦 百二十石価金三百四十円 荏 三十石価金百二十円 胡麻 五石価金三十一円 菜種 十六石価金六十五円 沢庵漬 三百駄価金百五十円 牛蒡 十五駄価金十五円 芋 十駄価金五円 茄子 二十六駄価金十三円 莱菔 百六十駄価金二十円 甘藷 二百四十駄価金百二十円 繭 五石価金五十円 生茶 三十五貫目価金十円 藍 二千二百貫目価金三百五十円 杉丸太 百四

十車価金百四十円 松 百五十本価金六十円 槻 十本価金二十円 椹 十本価金二十円 薪 五千六百束価金百五十円 炭 三百駄価金百五十円

下土支田村 名義ハ上土支田村条下ニ詳ナリ 日本橋ヨリ行程四間半 四境東ハ赤塚上練馬南モ又上練馬西ハ上土支田北ハ白子村ナリ 用水ハ玉川分水新川及土支田川ヲ引キ用フ

〔土地〕 形勢 同上 砂利山モ前ニ同シ 広袤 東西二十町南北五町

〔戸口〕 戸数 百十一戸 内僧侶一戸 人口 七百三人 内男三百四十八人女三百五十五人

〔車馬〕 車 農車四十輛 水車 一ケ所 馬 十二疋

〔神社〕 北野神社 社地四百四十坪 天祖八幡合社 社地二千四百坪 稲荷神社二 一ハ社地千七百四十八坪 一ハ社地二百四十坪

〔仏寺〕 本覚寺 法光山ト号ス 日蓮宗雑司ケ谷村法明寺末 創立寛永十年 開山日円 開基ヲ常蓮ト云フ 寺地百五十坪 妙安寺 長久山ト号ス 日蓮宗駿河国蓮永寺末 創立天正四年 開山日雄 開基板倉源英ト云フ 寺地六千九百五十坪

〔田野〕 田 二町四反十五歩 畑 百七十三町五反三歩 林 二十八町六反一畝 土性 色黒ク野土ナリ

〔歳額〕 正租 米十二石三斗四升五合金百八十八円四十銭六毛 雑税 米三斗五升三合金十三円七銭三厘八毛

〔物産〕 米 二十五石一斗価金百一円 圃米 四十三石価金五十五円 大麦 五百七十八石一斗価金七百二十三円 小麦 二百二十八石価金六百五十一円 大豆 七十八石三斗価金二百二十四円 小豆 六石四斗価金二十一円 粟 二石四斗価金四円 稗 二百十八石価金百八十一円 黍 八十五石八斗価金百七十二円 胡麻 六斗八升価金四円 荏 八石三斗七升価金三十五円 蕎麦 五十八石八斗価金百六十八円 菜種 二石六斗六升価金十一円 莱菔 五百駄価金六十五円 牛蒡 百五十駄価金二百円 茄子 百駄価金五十円 芋 百駄価金五十円 甘藷 百駄価金五十八円 沢庵漬 二百樽価金百円 栗 五斗価金二円 柿 三駄価金三円 繭 二石三斗価金二十六円 製茶 製造高十六貫目価金四十円 藍 五百五十貫目価金百十円 松 五十本価金十円 杉丸(太)百車価金百十円 樫 十本価金十五円 槻 十本価金三十円 薪 五百駄価金七十円 椹 十本価金二十五円

〔沢池〕 御玉ケ池 周廻凡六十間許 此池小ナレトモ水涌沸シテ土支田川ニ合流シ荒川ニ入ル

東京府志料

明治七年(一八七四)東京府により刊行。大区・小区別に村落を分ち、各村毎に土地・戸口・神社・仏寺・田野・物産を記す。明治初期の基本史料。

<節>

武蔵国新座郡村誌(抄)
<項>
橋戸村
<本文>

本村古時新倉郷広沢庄野方領に層す今古上白子村橋戸村の両村なりしが明治七年八月合せて一村となる伊賀組給地を上白子村と唱へて今の白子村の内同給の地を指して下白子村と対称し代官の支配せる地をは橋戸村と称せしと里胥云へり其両村の称を用ひし年暦を詳にせず正保元禄の図に白子村とあるは蓋し今の白子村の方を指すならん

彊域

東は豊島郡下土支田村と小路或は用水を以て界し南は同郡上土支田村と用水を隔て西は本郡小榑村に接し北は本郡下新倉白子の二村に連る

幅員

東字八ケ谷戸より西字影山に至る拾町南字外山より北字広沢原に至る二十五町

管轄沿革

天正十八年度庚寅徳川氏の有に帰し明年辛卯十一月伊賀組或は伊賀者衆と称し与力同心の一種にして江戸四ツ谷伊賀町に居住せりに賜ひ後新たに開きし地を代官の支配となす田園簿に高百五十石伊賀衆知行外に永壱貫三百八十六文野銭野村彦太夫御代官所とあり今古村高二百八十七石九斗七升壱夕四才ありて其弐拾七石一升四合は代官の支配にして弐百六拾石九斗五升六合壱夕四才は伊賀組の給地なり徳川氏の末に至り直轄の地は代官松村忠四郎支配し維新の際共に武蔵知県事に属し明治二年巳己二月品川県となり同四年辛未十一月入間県に転し同六年六月熊谷県の所轄となる

里程

熊谷県庁より南少東拾四里

四隣本郡白子村元標へ三十町二十五間小榑村元標へ二十町下新倉村元標へ壱里五町豊島郡上土支田村元標へ十五町○村の中央中耕中丸影山の三字地に跨る道路の三又を元標の位置と定む

地勢

東南林丘を負ひ西北平地運輸に便且薪に富み炭に乏しからす

地味

色赤黒其質悪く稲梁に稍適すれとも水利不便にして時々旱に苦しむ

税地

田二十五町六反一畝十九歩畑六十八町五反五畝六歩総計九十四町一反六畝二十五歩○村吏の録申を採る

字地

広沢原ひろさわはら村の北隅にあり東西二町四十間南北五町五間北原きたはら広沢原の南に連る東西六町二十間南北二町五十間越後山えちごやま北原の東に連る東西六町十間南北三町五十間中里なかさと越後山の南に連る東西八町二十間南北三町二十間八ツ谷戸はつがやと中里の南に連る東西三町四十間南北五町二十間中耕なかがう八ケ谷戸の西に連る東西三町二十五間南北五町四十間影山かげやま中耕の西に連る東西四町南北四町四十間宮久保みやくぼ影山の南に連る東西二町二十間南北四町二十間中丸なかまる宮久保の東に連る東西三町十五間南北五町十間愛宕下あたごした中丸の東に連る東西三町二十間南北三町四十間愛宕下の南に連る東西二町二十五間南北三町十間前田まへた谷の西に連る東西三町四十間南北三町五間打越うちこし前田の西に連る東西二町二十五間南北四町五間外山とやま打越の南隅に連る東西一町三十五間南北一町五十五間

貢租

地租米九十一石八斗七升五合金五十二円七十八銭一厘賦金金二十二円五十銭総計米九十一石八斗七升五合金七十五円二十八銭一厘○村吏録申に拠る

戸数

本籍五十五戸平民社二戸村社一坐平社一坐寺一戸新義真言宗総計五十八戸

人口

男百八十四口平民女百七十六口平民総計三百六十口

牛馬

牡馬壱頭

舟車

荷車二十八輌小車

山川

小井戸川風土記に白子川と載す村の西南の方豊島郡上土支田村より来り東の方本郡白子村に入る其間三十二町四十三間巾概ね三間別荘橋村の東の方小井戸川下流に架す巾二間長二間半土造橋村の東北の方字北原中耕中里の境を会する小井戸川の中流に架す巾七尺長九尺石造橋村の東南字谷愛宕下の境をなす小井戸川上流に架す巾六尺長六尺石造

森林

広沢原林民有に属す反別十四町二反二畝二十五歩村の北方にあり楢栗或は痩松の類を生す此の外四方に散在す今悉く載せす

道路

村路四条あり一は村の西の方小榑村界より来り豊島郡上土支田村に達し一は小榑村界より来り村の中央に至り両岐して土支田上下の両村に通す一は村の北の方下新倉村界より来り下土支田村に入る尤もさせる路にあらざれは一々載せず掲示場村の東の方字中里にあり

神社

氷川社村社々地丁字形をなし四室の間数取り難し面積五百三十二坪村の西南にあり素盞鳴尊を祭る祭日一月十七日愛宕社平社々地東西三十二間半南北十九間半面積六百三十三坪村の東南字愛宕下にあり創建祭神未詳祭日七月廿四日

仏寺

教学院東西三十間南北二十五間面積三百九十八坪新義真言宗豊島郡上石神井村三宝寺の末派なり村の西南にあり開基創建詳ならす○風土記に文永五年長全法印開山す中興開山は良賢法印といへども其時代は詳ならずと載せり

学校

公立小学校村の西南の方教学院を仮用す生徒男廿五人女十五人

村事務所

当時戸長の宅舎を仮用す

物産

米百四十三石五斗大麦二百石余小麦二百四十一石六斗 ○米麦余贏ありて他所に輸出し大豆及木炭等も亦東京辺に販く

民業

男女農耕を専らにす

<項>
小榑村
<本文>

本村古時広沢庄野方領に属す

彊域

東は豊島郡上土支田村と小井戸川を界し斜めに北へ本郡橋戸村に接し南は豊島郡上石神井村関村及本郡上保谷村と界するに野径を以てし西は本郡下保谷村北は本郡片山膝折根岸台上新倉の数村に連る

幅員

東字経塚橋戸村界より西字広沢原片山村界に至る拾七町南字前新田上石神井村界より北字広沢原片山村界に至る壱里拾弐町

管轄沿革

天正十八年庚寅徳山氏の有に帰し其年八月板倉四郎左衛門勝重後伊賀守に賜ひ正保の頃は直轄にして代官之を支配し後ち寛文年中に至り稲葉美濃守正則の領する所となり其嗣子丙後守正通貞享二年乙巳十二月越後国高田に移封の時代官の支配に復す大成武鑑に勝重五代の孫周防守重冬の時元禄十一年戊寅三月武蔵国新座豊島両郡之地千石被移勢国三重郡之内とあり是に由り之を観れは稲葉氏の提封となる事いぶかしされど田園簿に見へざれは今茲に取らずして全く風土記に拠る 元禄十六年癸未村高の半を割き米津出羽守の領知となし子孫世襲し維新の初其高

は七百三拾壱石六斗五升五合なり又直轄の地七百三十石五斗六升六合は武蔵知県事に隷し明治二年己巳二月品川県に属し米津氏の提封は竜ケ藩と改め同四年辛未七月県と称し其年十一月共に入間県の管轄となる同六年六月熊谷県の所轄する所となる

里程

熊谷県庁より南少東十三里

四隣豊島郡上土支田村中央へ拾町同郡関村中央三十町本郡下保谷村中央へ二十町片山村中央へ弐拾七町橋戸村元標へ二十町

地勢

南より斜めに長く東西に短し北は林丘高燥にして東南に小井戸川を帯ひ田野闢け運輸の便薪炭も亦之しからす

地味

色淡赤其質悪しく菽麦桑茶に適し西の一方は水利に乏しと雖も肥地少からす

税地

田四町七反六畝十四歩畑五百十九町七反四畝二十歩総計五百二十四町五反一畝四歩

飛地

本村の東方下土支田村の内畑六町七反二十五歩林七町六反三畝廿八歩萱生地一反七畝二歩東方橋戸村の内畑九町四反五畝七歩林一町四反九畝歩宅地三反七畝歩社地一反十歩東方上土支田村の内林二町三反七畝九歩

字地

前新田まへしんでん村の南方にあり東西四十間南北八町四十間四面塔しめうとう前新田の北に連る東西八町二十間南北八町経塚きようづか四面塔の東に連る東西九町四十間南北十四町広沢ひろさわ経塚の北に連る東西廿四町南北十二町二間○此四字地の内に小字あり一々掲げず

貢租

地租米二十二石六斗一升一合金五百十一円八十五銭二厘賦金金百六拾八円五十二銭総計米二十二石六斗一升一合金六百八十円三十七銭二厘

戸数

本籍二百三十八戸平民社十二戸村社一坐平社十一坐寺五戸日蓮宗総計二百五十五戸

人口

男六百九十六口平民女六百九十五口平民総計千三百九十一口

牛馬

牡馬四頭

舟車

荷車百拾輌

山川

小井戸川源を本村の井頭の池より発し永清く耕田を灌流して東北の方橋戸村に入る長七町五十間

森林

広沢林民有に属し東西二十一町南北十一町反別二百十四町四反歩村の東北にあり櫟類多く所々に痩松を生す大樹なし達出林民有に属し東西五町南北七町反別十町五反村の中央にあり櫟類多く大樹なし西小作林民有に属し東西七町南北二町三十間反別八町一反五畝十五歩村の西北にあり櫟類多く大樹なし

池沼

井頭の池東西二十間南北二町周回五町村の東南にあり

道路

村路村の西方下保谷村界より東方上土支田村界に至る長二十二町巾三間里俗東京道と云ふ

神社

諏訪社村社々地東西十二間南北三間面積五百二十七坪村の北方にあり建御名方命を祭る祭日四月四日社地中松の老樹あり八坂社平社々地東西十六間南北十九間面積三百十坪村の東方飛地にあり素盞鳴尊を祭る祭日六月十五日社地中松老樹あり稲荷社平社々地東西十五間南北十八間面積二百四十

四坪村の東北にあり宇賀御魂命を祭る祭日二月初午稲荷社平社々地東西二十二間南北十九間面積二百八十五坪村の北方にあり宇賀御魂命を祭る祭日二月初午社地中樅の壱樹あり稲荷社平社々地東西十八間南北十間面積百六十九坪村の北方にあり宇賀御魂命を祭る祭日二月初午稲荷社平社々地東西四間半南北四十一間面積百七十三坪村の北方にあり宇賀御魂命を祭る祭日二月初午稲荷社平社々地東西十九間半南北十間面積百九十三坪村の南方にあり宇賀御魂命を祭る祭日二月初午稲荷社平社々地東西八間南北七間面積五十一坪村の西南にあり字賀御魂命を祭る祭日二月初午稲荷社平社々地東西十五間南北八間半面積百二十二坪村の西南にあり宇賀御魂命を祭る祭日二月初午稲荷社平社々地東西十八間南北十一間面積百九十三坪村の南方にあり宇賀御魂命を祭る祭日二月初午稲荷社平社々地東西八間南北七間面積五十一坪村の西南にあり宇賀御魂命を祭る祭日二月初午

仏寺

妙福寺東西六十間南北五十間面積二千五百五十九坪村の東隅にあり日蓮宗下総国中山村法華経寺の末派なり慶長元年日高聖人開基す元と大覚寺と称し嘉詳二年天台宗茲覚大師の創建と云本応院東西十二間南北十三間面積百七十坪妙福寺の隠室なるを以て該寺の傍にあり本照寺東西十七間南北二十六間面積四百七十六坪の東北にあり日蓮宗下総国中山村法華経寺の末派なり大乗院東西三十間南北三十八間面積八百四十三坪村の西隅にあり日蓮宗妙福寺の末派なり慶長年間より久世氏の祈願所となり其遺物今尚ほ存す法性院東西十五間南北十一間面積二百一坪村の東北にあり日蓮宗妙福寺の末派なり

学校

公立小学校村の西方大乗院を仮用す生徒男六十五人女三十五人

村事務所

当時戸長宅舎を仮用す

古跡

経塚村の中央にあり応長年間天台宗大覚寺改宗の時経を埋めし所なりと云ふ

物産

米百六十石大麦五百六十石小麦七百七十石大豆三百二十石○○小麦大豆等は余贏ありて他所に販く

民業

男女農耕を専とす

武蔵国新座郡村誌

明治八年(一八七五)熊谷県の調査に係る。郡内各村の管轄沿革・地勢・字地・戸数・人口・神社・仏寺・学校・物産などを記す。明治初期大泉地域の基本史料。

<節>

東京府北豊島郡誌(抄)
<項>
上練馬村
<本文>

地理

上練馬村は、郡の西部に位置す、郡内第四位の大村にて、東西二十六町強、南北三十町強、殆んど半円球形を画き、地質は下練馬村と等しく肥沃にして、陸田多し。四境東は下練馬村、西は石神井、大泉の両村、南は中新井村、野方村、北は赤塚、白子の両村に隣る。其地域は上練馬、下土支田及び白子の三大字より成り、総面積八百九十八町歩強、戸数六百七十余、人口四千六百八十余なり。水田は石神井川、田柄川の沿岸にあり。村内の小字は左の如し。

大字上練馬 東向山、西向山、東貫井、向貫井、南貫井、西貫井、田島、東田島、中貫井、本貫井、北貫井、向山、向山ケ谷戸、北向山、海老ケ谷戸、南中ノ宮、中ノ宮、東中ノ宮、下久保、東原、中原、北中ノ宮、新場、西中ノ宮、尾崎、宮本、南高松、前高松、西高松、若宮、中高松、東高松、高松、平松、中ノ台、西ノ台、大門、稲荷山、大門附、大門山、北高松、西田柄、菅原、上田柄、田柄久保、前神明、中田柄、前田柄、東田柄、田柄谷、愛宕原、神明原、神明ケ谷戸、北神明、神明久保、北田柄

大字下土支田 八町原、八町堀、庚塚、後安、西八町堀、俵久保、小三丁目、塚前、三町目

大字白子後安

村内中央に富士街道あり、北部なる青梅道、南端なる関道みな村を東西に通ず、其間を連絡するを埼玉道といひ板橋西道といひ、埼玉支道といひ、杉並道といひ、午蒡道といふ、是等はみな府道なり、外に補助道白子道、同浦和道、同川越支道、同午蒡支道、同小石川西道、同鷺宮道、同高野道、同青梅支道等あり、細小の里道その間を縫ふて部落相互間の交通に便す。

鉄道は村の南端に武蔵野線かゝると雖も、停車場の設け無きを以て、汽車の便を仮らんとするときは、遠く下練馬村内なる練馬駅又は石神井内なる石神井駅に出でざるべからず、不便少しとせず。

水利は村南部は石神井川、北部は田柄川による、外に白子川あり、村の西北端を東下す。

沿革

元弘年中鎌倉幕府の頃、豊島三郎兵衛泰景、石神井城に在城し、弟左近太夫景村をして練馬城に拠守せしむ、練馬城は、練馬の矢の山に建設さる、此地往古武蔵野の一高地にて、月の出て入る果も知らじとある古歌の意も偲ばるゝ計にてありたり、景村は出丸を栗山に築造し、旗下の長臣志野某をして留守せしむ、然るに志野氏馬術に精し、日ゝ諸士をして、之を操練せしめ、専ら調馬の事を努む、今下練馬村、金乗院門前の並木附近は、其旧跡なりと云ふ、適々新田義貞兵を起し、鎌倉を攻むるに際し、両軍武蔵野に戦ふや、豊島氏の一族、新田氏を援け、軍馬の用に功を奏せり、是より練馬の名、大に挙り、遂に付近の地名となれりと云ふ、後徳川氏、江戸に府を開くや、来往するもの、年々多きを加へ、近郊の部落、戸口亦大に増加せるを以て、之を上下二村に分割せりと云ふ、此地は東京区

裁判所の出張所あり、西部の中枢地点にして、其名、夙に近郊に聞えたり、新篇武蔵風土記稿に曰。

【上練馬村】松川庄と唱ふ、往昔此地原野なりし頃、何某と云ふ浪士来り住み、近国の馬を盗み来りここにて調練し、他に嚮く事を業とし、後、浪遊の士を呼集め、此地を開墾す、よりて練馬の名起れりと云ふ、其馬を調練せし地は、今の下練馬村金乗院門前の並木のあたりなりと云ひ伝ふ、北条役帳に、中村平治左衛門、三十八貫六百八十文、江戸練馬、豊前方及び金曾木百貫文、江戸練馬、島津孫四郎十四貫文、豊島の内、清光寺分、練馬にも有之、志村にも有之と見ゆ、正保の改には、上下二村とす、日本橋より四里、戸数四百八十軒、東は下練馬、西は下谷原村、南は中村、北は上下赤塚の二村なり、東西南北、各二十五町許、用水は、石神井川を、引沃げり、此地蕪蘿蔔を名産とす当村に多摩郡、青梅への間道掛れり、御入国以来、御料所なり、検地は、寛永十六年、永田八兵衛、宇野八郎兵衛、高橋与左衛門、延宝元年、中川八郎左衛門、竹村与兵衛糺せり。其後、宝暦十一年、伊奈半左衛門、新田を改む云々。

【下土支田村】町村制施行の際、始て上練馬と合併して、上練馬村を作り、之れが大字に加へられたる土地なるが、民情、風俗及び産出物に至るまで、上練馬に異るなしと云々、新篇武蔵風土記稿に曰

土支田村は、日本橋より五里余、小田原役帳に、太田新六郎知行寄子衆配当の内六貫五百文、江戸土支田源七郎分と載す、民家二百十九、東西三十二丁、南北十一丁余、東は上練馬、上下赤塚の三村、南は田中、上下石神井の三村、西北は白子川を隔て、新座郡小榑村及白子村なり、古より御料所にて、寛文三年稲葉美濃守、同六年伊奈半十郎検地す、土人私に村内を二区に分ち、上組下組と唱ふ云々。

王政維新以後の沿革は郡内各町村略相同じ、明治十一年以後各村に戸長を置の時、上練馬村は長谷川留七、増田藤助相次で之に任じ、下土支田村は小島善太郎之に当れり。

大字白子に至りては、町村制施行当時に於て町村区域制定上、埼玉県北足立郡白子村の一小部を分合したるに過ぎす、事の記すべきなしとす。当村明治五年度の戸口数左の如し。

上練馬村 四百十七戸 二千四百六十二人 男千二百十人女千二百五十二人

下土支田村 百十一戸 七百三人 男三百四十八人女三百五十五人

計 五百二十八戸 三千百六十五人 男千五百五十八人女千六百七人

又租税の総額は左の如し。

上練馬村 正租 米百四十九石四斗九升八合金六百三十二円六十六銭六厘 雑税 米四石二斗七升一合金二十一円三十一銭

下土支田村正租 米十二石三斗四升五合金百八十八円四十銭 雑税 米三斗五升三合金十三円七銭三厘

計 正租 米百六十一石八斗四升三合金八百二十一円六銭六厘 雑税 米四石六斗二升四合金三十四円三十八銭三厘

村治

【村長】明治二十二年町村制施行と同時に増田藤助推されて開村第一次の村長となる、其後篠田藤八、上野伝五右衛門、保戸塚岩蔵、小島俊嗣、上野伝五右衛門、小島善太郎等継承して村長となり、明治四十一年一月二十一日宮本広太郎就職、数次の改選に重任して今日に至る。

【村役場】上練馬村役場は大字上練馬二千六十四番地にあり、明治三十年度に移転したるものなり

【村会】村会議員は町村制施行以来定員十二名なり。

【財政】村財政の膨脹率左の如し

年次 金額 増加率

明治二十五年 決算 一、二五六、六二二 一・〇

同三十二年 同 三、五五九、八六二 三・〇

同四十年 同 六、三四九、三六〇 五・〇

同四十四年 同 九、二二七、九〇〇 七・三

大正七年度予算 一三、〇四一、三二〇 一〇・〇

【産業】本村は下練馬村と共に、天下に著れたる大根の産地にして、全村殆ど之が耕作に従事す、其の細数は既に総記に記したる処なり。また村内水田少きを以て水稲の産額多からざるも、陸田の作物は品種も多く結果も佳良なり、但帝都を距ることやゝ遠きを以て蔬菜の搬出容易ならず、農家の努力実に意想の外に在り。下練馬村と同じく下駄表の製産また尠からず。

【教育】本村の教育機関は練馬小学校及び豊渓小学校の二にして、別に附設の補習学校あり、

練馬尋常高等小学校 明治十年五月創立、二十二年十一月校舎新築二十六年六月補習科を廃し修業年限二ケ年の高等科を併置す三十年十二月敷地払下許可三十一年九月高等科修業年限を四ケ年に改む三十五年農業科を加設し三十六年四月校地校舎の位置を変更す、大正四年六月二教室及便所を増築す、現在校地二、二四三坪、校舎建坪総計二四六坪あり、以て十四学級六百名の児童を収容す。

豊渓尋常小学校 明治九年五月創立豊渓小学校と名附け民家を仮用す、十三年校舎を新築す僅に三十坪なり、二十五年増築、三十一年全部改築す、即ち現在の校舎にして敷地五百六十八坪、建物百一坪余あり、以て三学級、二百名の児童を収容す。

練馬実業補習学校 練馬尋常高等小学校に附設す、本校には明治三十七年以来女子補習科の設けありしが、四十四年九月之を廃して更に青年男女の為めに実業補習学校を設け、冬期農閑期に於て補習教育を為す。

豊渓実業補習学校 豊渓尋常小学校に附設す、明治二十四年九月の開設にして、冬期農閑期に於て補習教育を為すこと前者に同じ。

練馬尋常高等小学校は校舎狭隘を告ぐるに至りしを以て、大正七年度に於て二教室の増築を企て、予算金四千余円を追加するの見込なりと云ふ。

【衛生】本村は地形高燥にして四周に樹林あり、健康上最も適良の地たるに拘らず、トラホーム疾患多く、小学校の児童の如き、従来時として半数の該患者を見るの状態に在り、村理事者深く之を憾みとし、毎年四百円乃至五百円のトラホーム予防費を計上し、村医を督励して之が撲滅に全力を傾注しつゝあり、近来やゝ成績の見るべきものありと称せらる。

衛生組合は各部落に置く、其数二十一、由来単純なる農村にして、隣保互助の風厚きを以て、各部の組合は衛生事項の実行に便にして効果多しと云ふ。

【帝国在郷軍人会上練馬村分会】明治四十四年組織す、会員百二十名、会長は歩兵特務曹長鹿島貞之助なり、本会は毎年壮丁入営前約三週間予備教育を実施し可良の成績を収む。

【消防】上練馬村消防組と称す、組頭橋本栄蔵、組は五部に分たる、第一部乃至第四部は字高松に在り、第五部は下土支田三丁目に在り、外に字中ノ宮に部落組織の一部あり、喞筒は各組に備ふ。

神社及宗教

【村社 八幡神社】大字上練馬字宮本にあり、旧来上練馬村の鎮守にて、徳川幕府の頃は社領八石の御朱印あり、由緒ある神社なり、境内幽邃にして風致あり、御朱印は慶安二年十一月十七日寄せらる当時は神明、春日両社を合祀せるが、今は誉田別神一座を祭神とす。

例祭毎年四月十五日、九月十五日。境内に日露戦役記念碑屹立す。因に記す当所春日神社境内にも同じ碑を立つ。

【村社 北野神社】大字下土支田字俵久保に在り、下土支田村の鎮守にして菅公を奉祀す。社地は小丘にあり、社殿は草葺の小社なり、社背遠く水田を望むべし、境内に日露戦役紀念碑あり、例祭十月八日。

【愛染院】大字上練馬字北中宮にある古刹にて、練月山観音寺と号す、新義真言宗、京都御室の仁和寺末なり、愛染明王を其本尊とす、開山並に創設の時代は詳かならざるも、中興の智識を尊智法師と云ふ、旧幕府時代寺領十二石一斗の御朱印を有せり、因に字北貫井の円光院は、南池山、貫井寺と号し、不動明王を其本尊とし、開山は円長法師なるが、実に此愛染院末なりと。四神地名録に曰く。

練月山愛染院観音寺真言にて御朱印十二石若宮八幡宮の社領八石愛染院別当寺なる故に都合二十石の御朱印地也本尊愛染明王にて運慶の作仏といふ観音は春日乃といゝし仏師の作也実物は焼亡し一品もなし此寺の火災は度々の事のよし土人もなへて物語る事にて焼亡し侍るといふことは虚説なし云々。

【寿福寺】大字下練馬字中宮にあり、真言宗、大林山最勝院と号す、薬師如来を本尊とす、開山秀信和尚は万治二年十二月寂す。

【円光院】大字上練馬字北貫井に在り、真言宗愛染院末、開山は円長和尚と云ひ、天正十三年六月十一日寂す、其墓今墓域に存するよし、本堂は明治初年改築す。

【妙安寺】大字下土支田字後安にあり、長久山と号す、駿河国の蓮永寺末なり、本尊釈迦牟尼仏、開山日雄法師は元和元年九月寂す、当寺は板倉阿波守の先祖四郎兵衛と云ふものゝ開基なりと云ふ、四郎兵衛は寛永二年八月中に卒し、法名を決山源英と云ふ、板倉家譜に依るときは、伊賀守勝重少名四郎左衛門と称す、寛文元年四月二十九日卒し、法名慈光院傑三源英と見ゆ、是年月日法号とも異同あるも、略年代等相似たれば、若くは勝重がことにして、寺伝誤れるにはあらざるべきかと、新篇武蔵風土記稿に見ゆ。

【本覚寺】大字下土支田字西八丁堀に在り、法光山と号す、雑司ケ谷村法明寺末にて、開山日円、和尚、元和三年十月寂す、開基は法光院常蓮、俗称を小島兵庫と云ふ、本尊は釈迦如来なり。

名勝及旧蹟

【練馬城趾】大字上練馬字北中宮、矢の山にあり、城郭の趾か也、此地石神井城主豊島三郎兵衛泰景の弟、豊島左近太夫景村の居城なりしが、景村は更に出丸を栗山に構へて、此所には重臣志野某を居らしめ、盛むに勢力を張りたるも、文明年中、太田道灌の攻挙に逢ひ、当城は石神井城と共に落城したり。

新篇武蔵風土記稿に曰『練馬城址は村の南にあり、土人或は矢の山と云、鎌倉大草紙に、文明九年正月長尾景春一味には武州豊島郡の住人、豊島勘解由左衛門、弟平左衛門、石神井城、練馬城を取立、江戸川越の通路を取切、四月十三日、太田道灌江戸より打て出て、平左衛門が平塚城を取巻、城外を放火し帰る所に、勘解由左衛門、石神井城、練馬城より攻来り、道灌と江古田原沼袋と云所にて合戦し、平左衛門を始として、一族百五十人打死す云々と載せたり、又或説に、海老名左近と云者の居城なりと、こは豊島氏落去の後、こゝに居りしにや、是より北の方三丁許に海老谷と唱ふる地は、即ち左近の居城なりと云ふ、寛永年中開墾して平地となれり、故に其広狭等、今より計るべからず云々』と。(図略)

鎌倉大草紙曰 文明九年正月十九日の夜顕定憲房定正三人小勢にては叶まじとて上杉方申合上野へ打越大勢を催し景春を退治すべしとて太田資真を殿にて利根川を渡り那波の荘へ引退景春一味の族には武州豊島郡住人豊島勘解由左衛門尉同弟平左衛門尉石神井の城練馬の城を取立江戸河越の通路を取切云々

又同書曰 文明九年四月十三日道灌江戸より打て出豊島平左衛門尉が平塚の城を取巻城外を放火して帰りける所に豊島が兄の勘解由左衛門を頼ける間石神井の城練馬の両城より出攻来りければ太田道灌上杉刑部少輔千葉自胤以下江古田原沼袋と云所に馳向ひ合戦して敵は豊島平左衛門尉を初として板橋赤塚以下百五十人討死す同十四日石神井の城へ押寄責ければ降参して同月十八日に罷出対面して要害破却すべき由申ながら又敵対の様子に見えければ攻落す云々。

東京府誌に曰く 『豊島氏城趾は村南土人矢野山と云所に在り文明九年豊島勘解由弟平左衛門と石神井練馬の両城を築き江戸河越の通路を絶と即ち是なり村の北三町許海老谷に海老谷左近の城趾あり寛永年間開墾して平地となれり、云々」

【貫井の池】上練馬字向貫井にあり、面積七町歩、但現今は全部開墾して、池の中心出頭と称する個所を存するのみなり、出頭は昔村民の旱魃に泣けるを見て、弘法大師の持てる杖にて穿ちたる泉なりと伝ふ、貫井の地名もまた此より起れるよし里人は語れり、此辺古跡あるにや土器石器の発掘さるゝもの多し。

【姫ケ淵】石神井川の練馬城址の西にあたる辺、一段深くして淵を成す、之を姫ケ淵と俗称す、練馬落城の日姫の入水したる処など言伝ふ。

風俗

本村は東京を距ること、稍遠きを以て都門華美の風襲ひ来ること遅く、村内農馬を飼ふもの三十二戸、関村今も旧農民の分に安んじ綿服麁食、天を楽むの美風あり、従て人情淳厚、勤勉力に富む。日常米食するものは全村の三割以下、肉食の風少く、洋服着用者は教師と警官のみ、食卓を用ふるもの全村の一割のみ、畳は縁なきものを分とす、其数八割なるべし。小学校の児童は女児は多く袴を穿つ、雨天に蝙蝠傘を携ふるもの少くして是また全数の一割以下なるべし、燈火は全村石油燈を用ふ。

【年中行事】暦は月送りを用ふ、正月の諸行事すべて近村と相同じ、秋季大根のころ各戸多く沢庵漬を作り、市に出すこと盛にして、村内金融よろし、酒は多く行はれず、暮の餅は多く搗き貯ふ、其他特に記さんほどのもの無し。

北豊島郡には延喜式内の神社が一つも無い……物部氏は饒速日命の後裔で、天孫に附随をなした所の昔の軍団である。此の軍団が武蔵野に多いことは注意すべきことであります。それから『延喜式』の神社を調べて見ると、物部天神の社といふものが、近頃丸木舟が出て有名になつた東村山村にあります。今では天満宮を祭つて居るけれども、本は物部氏の祖先を祀つたので、『延喜式』の式内神社として入間郡の五社の一であります。これは慥かに物部氏の祖先の神に違ひない。今は此の東京附近が発達して参つたけれども、当時の考から見ると、どうも山の手方面に政治上の中心があつたやうに思ふ。例へば我々の考古学上から見ると、豊島郡の如きは大変好い所のやうに思はれるのみならず、海岸に沿ふて石器時代の遺蹟もあり、古墳なども彼処此処に非常に多い。けれども豊島郡には、延喜式の神社は一社も無い。これは当時藤原氏の勢力の干渉があつた為めでもあらうが、兎に角豊島郡には延喜式の神社は一社も無い。却つて今日武蔵の北の隅つこに行つた方が、延喜式の神社が多い。

(鳥居龍蔵氏)

<項>
下練馬村
<本文>

地理

下練馬村は、北豊島郡の中央やゝ西部に位置を占め、東は上板橋村、南

は上練馬村、北は赤塚村、南は中新井村と境域を接す、地形平坦土地肥沃にして陸田に富み、石神井川田柄川沿岸狭小の低地に水田あり、村の広袤南北約三十町、東西二十二町許にて総面積六百三十四町強、戸数は八百九十余、人口は五千五百三十余あり、村内大字を設けず、小字を掲ぐれば、即ち左の如し。

下宿、中宿、上宿、伊勢原、桜台、庚申塚、池ノ上、馬喰ケ谷戸、大松、久保、池ノ端、田柄谷、中ノ台、大山、富士山、田柄前、丸久保、西本村、重現、東本村、御殿、渡戸、今神、今神前、宮久保、西湿化味、東湿化味、羽木、北羽沢、南羽沢羽沢前、出崎、宿湿化味、西羽沢、正久保台、熊ノ山、町田、丸山、宮前、宮宿、北三軒、細神、東早淵、中原、北早淵、早淵、北宮、中宮、西早淵、早淵前、糀屋、向早淵、南三軒、出古谷、宿化味、西原、西原前、栗山大門、栗山、栗山下、南宮、谷戸山、谷戸、出頭、

地形は一帯に岡丘に属し、唯村中央の石神井川附近と村北辺の田柄川近傍に低地を見るのみ、川越街道は、村の北端にありて東西に通ず、村内字宿に於て一線を東南に分派し、村中央を横断して上練馬村に通ず、此道路を富士街道と唱ふ、幅員四間あり、別に清戸道ありて本村と中新井村との境界線を進み上練馬村に去る、其他下練馬道、埼玉道、田中道、大谷道及び其他里道板橋西道以下十数条の道路ありて以上三幹道の間を縦横に連絡せり、鉄道は村の南北両端にかゝる、轔轆の音常に絶えず、其の北にあるを東上線南にあるを武蔵野線とす、武蔵野線は其停車場を字中通に置く、之れを練馬駅と云ふ、実に本村交通の関門なり。

田柄川は、村の北端を迂回して東方に注ぎ、石神井川は、南端を貫流す、其流域幅員四五間、何れも水田灌漑の便あり、千川用水は、村内の最南端にあり。而して石神井川に架せる橋梁を正久保橋と云ふ、長五間、石橋なり。

沿革

練馬村古は松川庄と唱ふ、上下の分なし、されば練馬村に関する古記録は、総じて上下練馬村を包括す、此地往古にありては所謂武蔵野の中部にて、茅茨繁茂する野地なりしが、鎌倉幕府の頃、豊島三郎兵衛泰景、威勢を近隣に示し、石神井城に在城するに及び、弟左近太夫景村をして、矢の山の練馬城に居らしむ、時に元弘年中なり景村益々防備を固ふし遂に出丸を栗山に築き、重臣志野某をして之れに拠守せしむ、志野氏馬術に精しかりしかば、臣下をして盛に調馬に勉めしむ、故に調馬は遂に豊島氏の事業となれり、建武年間、新田義貞義兵を揚げて鎌倉に打入るに当り、豊島氏は款を新田氏に通じ、盛に軍馬充用の功を致せしより、調馬の名世に聞え、遂に地名となすに至れりと、新篇武蔵風土記稿に曰。

【下練馬村】下練馬村は元練馬村を分ちて、二村となしたる一村なり、庄名、及び用水等上練馬村に同じ、日本橋より三里許、民戸四百二十六、東は上板橋村、西は上練馬村、南は中荒井村、北は徳丸本村及び脇村なり、東西二十八丁、南北一里程、ここも蘿蔔を名産とす、当所は河越道中の馬次にして、上板橋村へ二十六丁、新座郡、下白子村へ一里十町を継送れり、道幅五間、此道より北に分るる道は、下板橋宿へ達し、南へ折るれば相州大山道への往来なり、御打入以来、御料所にて今も然り検地は、延宝元年十一月、竹村与兵衛、中川八郎左衛門改め、其後開きし新田は、宝暦十一年、伊奈半左衛門改む。云々、

四神地名録に曰、

練馬村といふは上下にては高五千二百余地面は高よりも広大にて東西三里余南北一里或は一里三丁五丁の所もありされば畑在所にして田方一分計且風土すぐれず広きといふのみにて産物大根をもつて上品とす僕あんずるに世に尾張大根と号して称誉

すしかれ共大ひなる事は余程なれども味ひ佳ならず此地の大根は味至てよく且大ひなり大根に於ては日本一といふべしさて此村を練馬と云事は所謂詳ならず土人のいひ伝ふるにはむかしは此辺も武蔵野のつゞきにて艸木生ひしげりて住む人もまれなりし原野なりしに何某と云強勇の浪士来りて穴を堀り伏屋を作りて住家となし近国の牧場に行て馬をぬすみ奪ふ事を業とす其頃又鎌倉討もらされの入道武者一人はだか馬にうちのりて爰に来たり彼の伏屋の篠が所に止り宿縁にやありけん同気相求めて馬を商ふ事を職分としたがひに勇才もありし者にてそろ〳〵土地を開き所々の浪士浪人風来の者を呼集め一村の開祖となる今も其子孫有りて此地の庄官也むかしの方言に馬の癖をなをす事を練といゝし由古言のことにて解せず右二人の浪士馬を他方に売り出る前日は数疋の馬を野原え追出し馬を練るといふてのり廻し〳〵馬を癖直しせし事によつていつとなく練馬と村名出来せしか此一件尤らしく聞ゆれど信じ難し里人の物語を爰にしるす云々。

徳川家康、幕府を江戸に開きてより漸次本村地方の開発を見るに至れり、而して練馬の上下の両村に分割されたる年所は、詳かならざるも、徳川幕府の中世時にあるが如しとなり。

旧幕府時代には村高二千六百二十七石三升六合と称す、全村将軍直領地たり、旧名主は木下作左衛門、内田久右衛門、内田長五郎、旧村年寄は柄本伊右衛門、内田孫右衛門、内田四郎兵衛、加藤惣右衛門、加藤兵三郎、田中三郎兵衛等なり、以上の中内田孫右衛門を除くの外其家みな現存す。

明治維新以後の沿革は郡記に記せる所に同じ、明治三年十一月加藤清左衛門名主役となり、同六年四月大小区制の時加藤清左衛門、内田治郎兵衛及び大木金右衛門の三名同時に副戸長となる、当時村内三組に分れ居たるに因る、明治八年六月大木金兵衛、金右衛門に代りて副戸長となる、大小区制廃止の際明治十一年十二月加藤清左衛門戸長となり、同十二年四月加藤兵三郎之に代り、同十八年四月大木泰孝之に代る。

序に記す明治五年度の本村戸数人口及び租税額等次の如し。

五百五十戸、三千百四十七人男千五百八十四人女千五百六十三人 正租米二百八石八斗五升四金六百四十八円十二銭合八厘 雑租米五石九斗五升七合金二十円八十五銭八厘

村治

【沿革】町村制施行に際し旧下練馬村は斯に一村として自治の団体となる、即ち旧戸長大木泰孝を、推して第一次の村長とす、以降明治二十六年六月新井七三郎、同三十六年六月矢作久松、同三十二年十二月阿部広吉、同三十四年十一月大木金兵衛、同三十七年二月島野栄次郎之に代る、明治四十一年九月大木金兵衛再び推されて村長となり、以て今日に至る。

【財政】本村財政の膨脹率は左の如し。

明治二十二年 一〇 同 三十年 一四

同 四十年 四六 大正 六年 一〇〇

【産業】本村総面積六百三十四町歩余の中耕地は五百十一町歩に達す、即ち全土の約八割なり、また農作に従事するものは全村八百九十戸中につき七百戸以上を算す、実に農業は本村の主要生業なりとす、但地勢水田に乏しく、耕地の九分は畑地なるを以て米麦の如き主要農産に重きを置く能はず、主として帝都の需用に応ずべく蔬菜栽培に全力を傾倒するに至れるまた自然の勢なりとす、蔬菜中本村の特色にして天下に著聞せる練馬大根に関しては、既に記載せり、其他の細目また既記の如し。

【教育】本村の教育機関は尋常高等小学校一、分教場一、実業補習学校一なり、而して教育に関しては、前既に詳説を終へたるを以て、茲には村校の沿革を記すに止めんとす。

開進 尋常高等小学校 明治十五年四月開校、十八年一月焼失、光伝寺を以て仮校舎に充つ、十九年四月尋常小学校となり、補習科を置く、同年字宿湿化味に分教室を置く、二十三年一月字北三軒農島野方に移す、二十六年四

月再び光伝寺を仮用し、中原に地をトして二十七年校舎を新築す、三十四年四月補習科を廃し、修業年限二ケ年の高等科を併置し、三十八年四月四ケ年に改む、四十年五月校舎狭隘の為谷戸に分教場(校地一〇〇坪建物二四坪)を置く。

其後四十四年六月大正七年九月の二回増築す、現在校地千四百六十四坪、建物総坪数三百四坪、以て十一学級六百八十の児童を収容す。

同分教場 字谷戸にあり、明治四十年五月設立、目下三学級百六十の児童を収容す。

【帝国在郷軍人会下練馬村分会】明治四十四年組織す、会員約百五十名、会長は内田久当なり。

神社及宗教

【郷社 氷川神社】村内字宮宿に在り、祭神速須佐之男神、旧来下練馬村の鎮守なり。社は小丘に倚りて南面す、入口に石の鳥居あり、安永四乙未五月と鐫れり、東に社務所あり、榜して曰く「社務所敷地一百坪は明治四十四年中篠三郎右衛門寄附」と。西は見渡す限り一面の茶畑にして梅樹を交へ植う気清爽なり。鳥居の正面に石階九級あり、左右に杉槻等の大樹列なる、石階の上、左に老杉樹あり囲一丈許。一条の甃洛社頭に通ず、左右に石狛、石燈を列ぬ、正面拝殿は二間に三間、神明流造り大正七年三月の改築にて檜の香高く森厳なる神域に漂へり、渡殿、幣殿之に続く本殿は石造、鉄板葺、棟に千木を掲げたり。拝殿の前東に舞殿、西に額殿あり、額殿には納額多くかけ連ねらる、就中張子房、山姥、巴、猩々、年祭、獅子舞等の額何れも面白し、額殿裏にも巨杉一株あり。本殿の東に末社四宇を駢べ置けり。疱瘡神などいへるもあり、この神新風土記稿にも載せられて由緒あるらし、をかしき事と思ふ。末社の前に征清記念碑あり、碑背に当村の出征軍人陸軍歩兵上等兵勲八等田中鎮之助外十九名の名を刻む、この碑に並びて日露戦役記念碑屹立す、山県公の題字にて長一丈余もあらん、裏面に出征軍人石橋金之助外百六名の名を載せたり、碑の前は広き神庭に苔にほへり、鶏卵形の巨石四五転がり点ず、三十六貫、三十五貫、大なるものにて六十貫など彫りて当村新蔵、下島喜三郎などの名も残れり、旧時壮年の力技を試みたるを想ふて腕を撫せり。附近に大槻樹二株あり、一株は昨年の暴風に幹より折れて今根幹を曝せり。

大祭は毎年四月九日、十月五日の両度執行す秋の大祭には奉幣の式を修む、此日郡長祭服して登殿し、厳かなる神詞を捧げ且神饌を薦む。春の祭典には古風なる田楽の神事あり、此神事は住昔は正月十六日と定めありしが、其後春の祭典に行ふことに改めたりといふ。当日神輿御浜井戸に渡御す、字宮本なる氏子一同は夫々の役に依りて供奉に当り、還御後田楽の神事ある順序なり。

又六月三十日には大祓の式ありて、神楽を奏す。

【無格社 白山神社】字谷戸 山に在り、伊弉冉尊を祀る、例祭十月九日、当日神輿渡御あり、境内に村芝居の催あるを例とせり。

【金乗院】字本村に在り新義真言宗豊山派に属し、始は真堂と称する一小庵室なり、文禄年中僧行栄郷士木下大炊之輔と謀り堂宇を建て、如意山満徳寺金乗院と号す、慶安二年三代将軍徳川家光此地に放鷹せらる、偶驟雨あり憩ふに家なし、即ち此寺に入る、寺僧款待甚だ懇切なり、家光大に喜び、帰城に際し与ふるに金品を以てし、又希望を問はしむ、寺僧依りて村内の各寺を総て真言宗とし、其本寺たるの寺格を賜はらんことを望む、家光直に之れを容れ、和州初瀬小池坊の直末に列し、尚寺領十八石九斗余の朱印地を賜はり、後延宝年中徳川綱吉本村に住し賜ふや、時の住僧和漢の学に通ずるを以て、常に殿中に伺候し、能く其徒然を慰む、綱吉大に之れ

を喜び、後将軍に任ずるや其邸宅を以て住僧に与ふ、住僧其材を以て本寺を改築す、後文久元年六月十日火あり、堂宇記録悉く烏有に帰す、御朱印箱僅に灰燼を免るを得たりと云ふ、今域内に御朱印地の碑あり。

【円明院】字今神にあり、真言宗恵日山西光寺と号す、田柄川の沿岸にありて風景佳なり、開山は行真和尚と云本尊に不動明王を安置せり。

【荘厳寺】字湿化味にあり、真言宗、開山良仁法師は天正二年二月三日遷化す、本尊不動明王を安置す、医王山不動院と号す。

【光伝寺】村内字湿化味にあり、真言宗、大明山無量院と号す、本尊不動明王を安置す、開山は教恵和尚と云ふ、宝暦十年十二月十二日化す、この僧道徳堅固の沙門なりしかば、帰依するもの尠からず、徳川幕府の頃には堂塔夥しく、山門の賑ひ一方ならざりしと云ふ、鐘楼は享保年間のものにて、閻魔堂、地蔵堂も何れ古きものなり、但本堂は近ごろ改築す、境内に改築碑を立つ。

名勝及旧蹟

【御殿跡】村内字御殿にあり、徳川五代の将軍源綱吉公未だ右馬頭たりし時、脚症に難み、医療を加ふるも容易に治すべき模様見えざりしかば、陰陽頭をして之をトせしむ、曰く宜く馬の字を附する地に転養するに如かずと、依て延宝五年此地に殿舎を建て、練馬御殿と称し、居ること数年病漸く癒え、延宝八年四代将軍家綱薨ずるに及び、江戸城に帰る、之れより御殿の名あり、此殿舎は後に村内金乗院住職に賜ると云ふ、新篇武蔵風土記稿の曰『屋鋪跡は村の南にあり、右馬頭と称せるもの住すと云ふ、其姓氏及何人たる事を伝へず、今陸田となり御殿、表門、裏門等の小名あり、礎石なと掘出す事まゝあり云々』と。此地今平蕪に帰し、名物練馬蘿蔔の油々たるを見るのみ。

【観音堂】字宿にあり、川越街道に面して建てり、阪東札所の写にして、三十三体の観世音菩薩を安置す、塞者多し。

【阿弥陀堂】字宿にあり仏師春日の作仏を安置す。

【穴守弁天社】字今神にあり、毎月三日、二十一日を祭日と定む、常日は礼拝する者諸所より集り、燈明社壇に耀き境内は殆むど立錐の余地もなき有様なり、聞説去る大正四年春三月二十一日、村民相謀つて、田間の土窟を発掘しけるが、頓がて弁財天の尊像を発見し、且文亀元年四月三日云々と鏤刻したる石片、並に賢栄阿闍梨云々と彫記したる石片等をも発見したりしかば、村民等相謀りて村内各寺院の住職等を招待して、供養を行ひ爰に安置したるものなりと。

【氷川遊園】武蔵野鉄道練馬駅を距る十数丁、郷社氷川神社の神苑より附近一帯の土地は、俗に之を氷川公園と唱ふ、名に著れたる勝区にて、春夏秋冬遊杖を曳く者絶えず。

【谷戸山の大欅】上下練馬村を通じて最一位の大木にて、昔より白山の大欅と呼ばれ、近国に名高き老樹なり。

【桜名所と石碑】村の南端なる千川用水の流域に沿ふて、両岸の堤側に桜樹数百株あり、青陽駘蕩和風坤輿を掃ひ、浮塵全く収まるの時、雲か、雪か、雲にあらず、雪にあらず、即ち之れ花なる風物は彼の小金井の桜所にも強ち劣るべしとも覚えず。丈余の石碑は種桜記を銘刻して不朽に伝ふ、花盛る頃には掛茶屋など出来て賑ふ。

【蛍狩】富士街道の正久保橋附近は蛍の名所と聞えたり、皐月暗の季節に入れば蛍狩にとて態々来遊する者も尠からず、総じて石神井川の沿岸は蛍多く飛交ふさまえも云はれずとなん。

【高島秋帆の砲丸】天保十二年、高島秋帆が徳丸ケ原に於て洋式操練の際、用ひたる砲丸一個、今開進小学校に存す、円形にして径五寸五分許あ

り当時附近の畑より拾ひ得しものとぞ。

風俗

【衣食住】平時は綿服を用ふ、洋服着用者十五人許あり、学校の女生徒は過半は袴を穿てり、村立小学校の児童中雨天に蝙蝠傘を携ふるもの七十五人、紙傘を携ふるもの七百人許なり。村内上流者と雖も平素は麦飯を用ふ、但混用麦の量、上は二三割、中は五割、下は七八割の区別あるのみ、副食物は野菜類を主とし豆腐油揚の類を多く用ふ、一般に朝夕二回味噌汁を取る、食時には家族各自に食膳を擁するもの多く其数五百戸にも及ばんか、卓を囲み団欒して喫食するは二百六十戸位なるべし。家屋は漸次改築せられて瓦葺のもの年と共に増加するの勢あり、燈火は多く石油燈にして村内四百六十戸を算すべし。

【冠婚葬祭】(七五三)七五三の祝の内にて長子女の七才祝を鄭重にし他は略式にすること一般の風とす、祝日は概して十五日或は二十八日とす、其前に親族知巳より服装品を贈る、児の家 ては餅を搗きて之れに返礼す、当日は親族知巳を招き祝児は母の実家より贈られたる祝衣を第一に着し盛装して親族に擁せられて、氏神に参詣す其際酒肴を携へ行き社地に集まれる者一同に饗し、又餅蜜柑等を撒きて一同に与ふるを例とす、次て帰宅後祝宴を開く。

【結婚】見合は種々の方法に依て行はる、媒妁は新郎方に一人新婦方に一人を通例とす、新婦を迎ふるの式に於て先づ新郎は近親と共に媒妁の案内に依りて新婦の家に到り、其近親に紹介せられ饗応を受く之れを聟入りと称す、新郎帰宅の後新婦盛装して近親媒妁と共に新郎の家に到り、茲に結婚の式を挙げ、次で双方の親族列席して宴を開く、服装は新婦は白襟の襦袢紅白の下衣模様の上衣を着し頭に帽子を被る、男子は紋付羽織袴とす。

【葬歛】近親者先づ屍に湯灌を行ひて之を納棺し、寺僧を招して読経焼香等を了り、墓地に送る、会葬者には酒食を饗す、葬列の先頭に炬火を持し、会葬者異口同音に真言を唱ふるを例とす。

郷社氷川神社の祭礼に関しては、前に同神社の条に記せり、男女児十三十六の祝事は行はれず。

【年中行事】年中行事は追儺、彼岸等を除くの外凡て月送りの暦に従ふ。十一月、中新井村との地境なる往還の両側に酉の市を開く、附近よりの人出夥しく夜を徹して雑踏するを例とす、年の暮に餅を搗くこと一般の習俗ながら、本村の如きは殊に盛にして普通二三石多きは四五石を搗く、細民と雖も尚ほ一石内外を費すの例なり、寒詣、初庚申、梅見、二十六夜待、お会式、紅葉狩、柚子湯、聖誕祭、年の市等殆ど無し、其の余一般の俗に同じきを以て略す。

<項>
大泉村
<本文>

地理

大泉村は東京市の西北五里、郡の西端に在り、村の東より東北方は上練馬村及石神井に連なり、北より西にかけて一帯に埼玉県北足立郡白子新倉片山の各村及び北多摩郡保谷村と相接す。

村の広さ東西一里南北は一里十町許あり、面積は一千百二町歩に余れり。村内を三大字に分つ、みな旧時独立の一村なり、各大字に属する小字は左の如し。

橋戸 打越、前田、谷、愛宕下、中丸、宮久保、影山、北原、中耕、八ケ谷戸、中里、富士下、越後山、広沢原、

小榑 西原、片町、大前新田、東原、前新田、南溜上、中前新田、水溜、西中前新田、経塚、東中前新田、北溜上(南上手、東上手、唐沢前榎本、中島前、西上手)榎戸、荒井前、荒井(後原、西小作野寺上、小作)小作、久保前、久保新田(久保後少納言久保西)達出シ、北堤、西堤、東堤、登戸、丸山、下道、水入久保上、(中島後中島)前田、東本村、西本村、南荒屋敷、荒屋敷、北荒屋敷、大田町、立ノ山、東新田(西仲置東仲置)栗林、影山、東笹久保、西笹久保、少納言久保、下経塚、御朱印前、山守山、西上、檜並(長久保前、影山後、北台)北台、雨沼久保、西長久保、南雨沼久保、少納言久保後、小榑新田、越後山、三町目、東長久保、長沼、久保原、南長久保、

上土支田 井ノ頭、前原、中村、宮本、久保、下屋敷、三丁目、元橋戸、外山

本村は郡内最高の地形を占め、海抜百七十尺を超ゆる地点あること前に述べたり、全体の地形は西南に高くして東北に低降すること、郡一般の形勢に相同じと雖も、本村を縦走する岡脈は白子川以南に連亘して上土支田台地となるものと、北の方埼玉県界に横たはりて小榑の台地を形成するものとあり、村の中央部また高台を成し、南北両岡脈と腹背相対してその中間に各若干の低野を表はす、即ち白子川沿岸を初め其他各所に散見する水田これなり、但村内最低位の水田と雖も、尚ほ海海百四十尺以上の高度を有し、之を東京市内の最高地なる牛込区若松町の百二十七尺に比し、十三尺以内の高処に在りとす。

水利は白子川にこれ頼る、この川に関しては既に総説に記せり。道路は村の中央を東西に通ずる清戸道を最とし、各部落を連絡する支道大に開けてまた些の不便なし。

武蔵野鉄道線路は村の南方に通ずるも、村内に停車場の設けなし、汽車の便を仮らんとするものは、石神井駅又は保谷駅よりせざるべからず、不便少しとせず。

沿革

明治二十四年九月埼玉県新座郡榑橋村今の大字小榑橋戸にて元両村なりしを明治二十二年町村制施行の際合して榑橋村と称せり幷に新倉村の一部字長久保の地、東京府の管轄に移り、北豊島郡に編入せられ、石神井村に属せし、大字上土支田と合して一村となり、大泉村と称せり。

上下土支田は、元は土支田村と称し一村なり、明治二十二年町村制実施の際、分れて、下土支田は、上練馬に入り、上土支田は、石神井村に合せしが、茲に於て、大字上土支田は石神井村より分離して、大泉村を組織するに至れり。大泉村の名称は、村内に井頭と称する小池あり、泉水四時滾々として、湧出するを以て、名づけしと云ふ。

【土支田村】は、日本橋より五里余、小田原役帳に、太田新六郎知行、寄子衆配当の内六貫五百文、江戸土支田源七郎分と載す、民家二百十九、東西三十二町、南北十一町余、東は上練馬、上下赤塚の三村、南は田中、上下石神井の三村、西北は白子川を隔てゝ新座郡小榑村及び白子村なり、古より御料所にて、寛文三年稲葉美濃守、同六年伊奈半十郎検地す、土人私に村内を二区に分ち、上組下組と唱ふ。

小名 井ノ頭、甫村、下屋敷、前原、以上、上組にあり三丁目、俵久保、八丁堀、土橋以上、下組にあり 新篇武蔵風土記稿

【橋戸村】は、新倉郷、広沢庄に属す、此地は天正十九年、伊賀組へ賜はりしより、今も伊賀組の給地なり、江戸を隔ること四里半、上白子村の内にあり、人家三十軒、其居住の地、及び神社仏寺等の散在する所のみ此村にて、其余は皆上白子村の地なり、其地は元橋戸村なりしか、後白子の地広まりしままに自ら橋戸も其中に入しり故、別に上白子村の名も出来しならん、已に土人は上白子村の一名を橋戸村とも心得たり、されど村民庄、

忠右衛門が所蔵の慶長元年の文書にも、橋戸の名を載せたり、又正保元禄等の図にも、橋戸白子は別村なること、其証明なるは、既に白子村に弁ぜり。同上

【小榑村】は広沢庄と称し、郷名は伝へず、郡の東南の隅に在り、江戸を隔ること五里余、東は上白子村及び白子川を隔て、豊島郡土支田村に隣り、西は本郡下保谷村、南は豊島郡関村及び郡内新座郡上保谷村に界し、北は中沢、辻の両村に接し上白子村の西方より土支田村の境、白子川の流に添ひ、斜に西へかけて入りて、半月形の如し、故に北によりたる故は東西一里余、南の方は幾に十町許、南より北へは五丁もあるべし、人家三百二十軒、川越街道の内、白子の宿へ人夫の定助をつとむ、此あたり用水の便あしければ水田少く畑多し、米穀は一里許隔てたる黒目川の河岸へ津出をなし荒川を経て、川路十六里余、この村の飛畑、隣郡土支田村に二ケ所、本郡中沢村に一ケ所あり、北条分限帳に、小榑深屋九十八貫八百六十文、太田大膳亮知行とあり、染屋村は多摩郡染屋村にして小榑はこの村なれば、北条家の時代までは太田氏の知行なりしが、打入の後、板倉四郎左衛門勝重の領地となりしことは、上新倉村に見えたり、板倉氏この地を領せしは、勝重より子息伊賀守に及び、寛永三年の頃までなりと、村人の伝ふる所なり、されば板倉家系に勝重の子は、周防守重宗とあれば、伊賀守と云へるは誤にや、正保の頃、御代官野村彦太夫為重が支配し、それより前にも伊奈半十郎の支配せしことあり、後寛文年中に至り、稲葉美濃守正則の領地となり、同じき三年同人検地せり、其子丹後守正通、貞享二年越後国高田へ所替あり、後又御代官所となり、元禄十六年江川太郎左衛門支配の時、米津出羽守田盛へ賜はり、それより累世今も米津氏の領地なり。

小名 堤村、榎戸、水溜、小作、中島同上

【上新倉村】も郷庄の唱ひ前村台村広沢庄に異ならず、江戸より行程四里半、当郡新座郡東北の隅にあり、此村古は新坐村と記せり、もと郡郷の根本にて、正保及び元禄絵図にも新坐村と記せり、此頃までは公の簿書等には、古の字を用ひしこと知るべし、されど土地にては、新倉としるすものも多し、されば今の如くおしなべて、倉の字にて行はるゝは、元禄よりも後のことなるべし、郡名も中古は倉の字を用ひしを、古の文字にかへりて、元禄中、古きにかへり、改めて新坐の字を用ひ、郡名と分てることは総説の内に弁ずる如し。風土記総説略又村の上下に分ちし年代も知るべからず、北条分限帳にも、上下に分ちしやうには見えざれど、当村の東明寺に蔵する元亀年中の鰐口には、下村とあらば、土地にて上下に分ち称せしも古き事と見ゆ、民家二百軒許、南は広沢原新田に界し、南西の隅は岡村に錯はり、西は総て根岸村に隣り、北は荒川を限りとし、対岸は足立郡佐々目村なり、東西へは長くして一里余、南北は纔に五丁許あり、畑多く水田少し、此地昔時鎌倉将軍家の頃は墨田某の領地にや、文保の頃に至り吉良氏の領せしなり、その後小田原北条家の家人、太田大膳亮、川村某及び千葉氏の所領なりし由、かの家の分限帳に云へり、御打入の後は、板倉四郎左衛門勝重の領地となれり、勝重は八右衛門好重の次男にして、始め渋川と称し、後板倉と改む、慶長八年二月十二日従五位下、伊賀守に任じ、元和九年十二月十五日、従四位下侍従に転じ、寛永元年四月二十九日卒す、時歳八十。東照宮関東八州を領したまひし頃、江戸町奉行をも勤めしなど、家譜に見えたり、板倉氏のこの地を領せしは、何れの頃までにや詳ならず、猶郡内小榑村の条を見るべし、板倉氏移封の後、何人の領地になりしや亦詳ならず、今は御代官川崎平右衛門支配なり。

小名 原新田、上ノ郷、峯、坂下、漆代、田畑、小イト、タメ池、弁財、雑談袋新田同上

維新前橋戸村は村高二百八十石余、名主は萩野弥左衛門家現存荘忠右衛門、荘善兵衛以上家現存せずの三名にして、組頭は見留藤兵衛家現存荘富右衛門家現存なり。

小榑村は村高千四百六十三石余名主は高橋良三郎、高橋又左衛門以上家現存せず加藤銀右衛門、加藤孫右衛門、家現存なり、又組頭は鈴木源五右衛門、田中祐治郎、滝島万吉、内堀仙治郎、高橋勝右衛門、小美濃文吉、加藤半治郎、小美濃文次郎、以上家現存高橋喜平治家不明なり。

土支田村は旧村高八百石余上下合、石高名主は加藤平八、町田綱五郎、加藤源治郎の四名にして其家皆存続す。

小榑村の旧書類に明治三年十月品川県庁、明治六年六月入間県庁、明治八年十二月熊谷県庁など記せるものあり、屡々変遷したることゝ思はる、大小区制廃されて以後、小榑、橋戸、下保谷、上保谷、上保谷新田の五ケ村連合の戸長役場を置きたり、明治二十二年町村制施行に際し橋戸小榑両村を令して榑橋村と称し、後同二十四年東京府管轄に移れること前に述べたる所なり。

維新以降町村制施行前の村役人左の如し。

橋戸村 荘惟美、見留平次郎、

小榑村 高橋良三郎、高橋義三郎、加藤孫右衛門、以上三名罷めて後、鈴木源五右衛門

上土支田村 加藤源治郎、榎本常三郎。

村治

【村長】明治二十四年九月村の組織定まるや鈴木政和村長たり、次て之を榎本常三郎、加藤実、今村清太郎、町田治助に伝へ、見留勝其後を承けて現に村長たり。

【役場】大泉村役場は大字小榑千二百三十四番地に在り、村制以来隣接せる本照寺に置きたるが、明治四十四年中現処へ移転したる也。

【議会】村会議員は定員十二名とす、村内選挙有権者数大正六年十二月左の如し。

村会議員選挙有権者数三五二 府会議員同上二四五 衆議院議員同上一一一

【財政】本村財政の膨脹事情如左。

年次 金額 増加歩合

明治二十五年度決算 九九〇、八二〇 一・〇

同三十年度同 一、七四四、九七〇 一・八

同四十年度同 四、一八六、一六八 四・二

大正七年度予算 三一、六二七、八四〇 三二・〇

【産業】村内二三の小売営業を除きて、他はみな農業に従事し、少許の宅地と山林と官用地等を除きては、全土みな耕地にして、実に七百五十町歩に達せり、従て米麦蔬菜の収穫多く、郡内屈指の大農村なりとす、事の詳細は郡記に表示せり。

【大泉村農会】事務所を村役場に置き、会長には村長を推す、大正七年度経費予算三百四十三円四十銭、以て農産の奨励指導、作品の改良等に貢献しつゝあり。

大泉村生産購買販売組合 大字上土支田佐藤信太郎方に置く、全村を通じて加盟者八十二名、主として農産品の販売、肥料の共同購入等を目的とす。

【教育】本村の教育機関は尋常高等小学校一、分教場二、農業補習学校一あり、之に関する細説もまた既に了りたれば、茲には学校の沿革を記すに止む。

大泉尋常高等小学校 明治二十五年一月榑橋豊西両小学校を合併し泉尋常小

学校と称す、三十年十一月分教場を橋戸に設け三十一年六月高等科を併置し三十三年十月校地を拡げ校舎の大修繕及増築をなす、大正元年十月大字小榑字前田に第二分教場を設置し、同二年本校に一教室を増築す、四年十二月四日校名を現称に改む、同六年四月農業実習地一反五畝歩を借入る、同七年四月一日校舎敷地二百四十四歩を取拡ぐ、現在校地二千二百六十坪、校舎建坪二百五十三坪なり。

大泉農業補習学校 大泉尋常高等小学校に附設す、大正四年十月九日の設けにして、男女両部に分る、冬期農閑を利用して農業補習教育に努む。

【帝国在郷軍人会大泉村分会】明治四十四年度の組織にかゝる、現在会員九十名許あり、分会長は佐藤喜平なり。

【消防】大泉村消防組と称す、全村に跨りて組員五百六十名、之を六部に分つこと左の如し。

第一部 上土支田、第二部 上小榑、第三部 中小榑

第四部 下小榑、第五部 橋戸、第六部 字中里長久保其他

消防組員は全部無給与とす、蓋自衛消防を統一したるものなり、喞筒は四台を備ふ、組頭は見米繁次郎なり。

【自治功労者】榎本常三郎に対する村の表彰状左の如し。

感謝状

吾人公共心理の発動は自治に進展し民力を充実して国家を磐石の安きに置くの要道なり君や資性剛毅公共心に富み不屈不撓の性能は近代稀に見るの士なり去る明治二十四年大泉村を創設するに当り奮然起つて斯の事に任じ日夜寝食を忘れて東奔西走遂に之を完成して偉功を奏し又同年中泉小学校改築の如き亦越えて明治三十年大泉外ニケ村組合伝染病隔離病舎設立の如き他に卒先して之れが計画竣成に黽め深謀遠慮常に其目的を達せざること無く其他教育に衛生に土木に勧業に事大小となく公共的施設は誓つて君が努力を惜まざる所其の偉勲功績は本村民の心刻肝銘以て永く忘るべからざるものなり此間実に二十有余年恰も一日の如く本村名誉職に任じ村長たると議員たるとの別なく村治に尽痒せられ一村施治の中枢は全く君が心身此れが根源たりしと云ふも過言に非らざるを信ず而して尚ほ将来に於ける本村の発展は君の手腕に俟つべきもの多々あるの秋に際し今回病の故を以て勇退せらる寔に遺憾に堪へざる所なり本村は茲に多年君が貢献せられたる功績の大なるを感激し別封目録を添へ謹んで感謝の意を表す

大正五年三月十三日 大泉村長 町田治助

神社及宗教

【村社 諏訪神社】大字小榑二千三十番地に在り、旧来小榑の鎮守神社にして、健御名方命を奉祀す、社は清戸道の北にあり一抹の緑樹小丘に掩ふて立つところ、南向に木の鳥居あり、正面に額殿ありて、拝殿幣殿その後方に連なる、これ明治四十一年改築せるところにて、額堂の南に改築記念碑を置けり、社殿の前に一幹の老松雲を突て聳ゆるあり、風致爽かなり、大祭三月二十八日。

【村社 北野神社】大字上土支田六百九十一番地に在り、土支田村の産土神社にして、祭神菅原道真命、社は大泉小学校の隣地に在りて南に面す、賽路の右に菅公一千年祭記念碑を立つ、境内杉樹多く、囲二抱半のものあり、神木として注連を加ふ、境内二反七畝二十二歩、大祭四月二十五日なり。

【村社 氷川神社】大字橋戸五百二番地に在り、旧橋戸村の鎮守神社にして素盞鳴尊を祀る、社地五百三十二坪、一帯の松林にして、表口に石の鳥居あり、其奥石階二十数級、正面社殿は小丘の頂に立てり、社殿の右に社務所、左に合祀愛宕祀あり、地高く風清く神域たるに適せり。大祭は毎年九月三日に行ふ。

【妙福寺】大字小榑にあり、法種山と号す、日蓮宗一致派なり、嘉祥三庚

午年慈覚大師の開基にして千葉県東中山法華経寺の末なり、別に西中山の称あり、当寺初は天台宗にして慈覚山大覚寺と称せしが法印日延住職の頃日蓮の法孫日高日祐両僧の法徳を慕ふて宗派を改め寺号をも今の如くに変へたりと伝ふるも、往来二度の回禄あり寺伝を失ふて詳ならず、即今御朱印二十一石寄興の写を伝ふるのみ。

寺は武蔵野鉄道保谷駅を東に距る五丁許に在り、入口に四足門を立つ、仁王門その奥に在り、魁偉なる仁王像を置く、門を入て右手に鬼子母神堂と大黒天社とあり、正面は祖師堂にして本堂庫裡其の右に見ゆ、庫裡は元禄年間の建築にして火災を免れたるものなりとぞ、境内二千五百五十九坪一帯に老杉林立し、丈に余れるもの三幹を数ふまた朴樹の巨幹の既に枯死せるものあり、伝へいふ境内古来桜樹多く、春三月の霞の色一入なりと、堂前の鐘楼には寛文四甲辰年の鐘を吊り、堂後墓域には元禄以前の墳墓多し。

当寺は例年十一月十九、二十日の両日会式を行ふ附近よりの賽者夥しく門前賑ふこと盛なり。

【教学院】大字橋戸五十二番地に在り、真言宗なり、当寺境内に文久八年及び文和五年二月の板碑を存す。

【妙延寺】大字上土支田九百二十六番地に在り、法華宗、下総中山法華経寺末、信光山と号す、開山日宜和尚は慶長三年七月寂す、当寺は上土支田村の名主弥四郎といへる者の本家の祖先加藤作右衛門法名豈性院日安寛永十五年二月終るの開基にかゝると云伝ふ。

旧蹟附伝説 附伝説

【お富士山】大字橋戸字富士下に無格社浅間神社あり、その処は山の形ち富士に似たりとてお富士山と俗称す、高さ三十間面積三百十坪、古墳なるべしとその道の学者は云へり。

【伝説】大字小榑無格社八坂神社の木を折取るときは熱病にかゝるよし昔より言伝へ、今に一枝を窃むものなし、また同社の氏子は胡瓜を作らず、八坂の神は瓜を嫌ひたまふ、之を食へば神罰を受くるよし言ひ伝へ、是また今に行はる。

風俗

質素勤勉古ながうの農地なる、本村には都会の風も未だ吹き荒まず、諏訪の宮垣長へに高く厳か也。綿服を着け、麦飯を食ふ、上下みな然り、洋服を着るものは教員と巡査のみ、昔の組合今も存して、吉凶相訪ひ、相助く、客膳を共同使用する字三十に及ぶ、以て一班を知るべし。暦は月送りを用ふ、毎年一月一日村内有志等相集まりて年賀会を開くの例あり、十五夜には団子の外に豆腐を供ふ、十月十九日西中山妙福寺のお会式賑ふ。

<項>
石神井村
<本文>

地理

石神井村は東京(起点日本橋)より西に距ること五里余、板橋より同三里二十町にして、郡の西南端に位し、郡内屈指の大村なり、其の境域東は上練馬村、西は北多摩郡保谷村と境し、南は豊多摩郡井荻村、北は大泉村に相接す、村内東西の距離大凡二里半、南北約一里許、面積千百十一町一畝二十三歩あり。

各大字及大字に属する小字名左の如し。

大字谷原 東原、千川、西原、西中通、東中通、堀北、南耕地、北耕地、中

原、本村、本脇、南郷、東郷、中郷(以上十四)

大字田中原、下久保、本村、塚越、上薬師堂、下薬師堂、北薬師堂、下長光寺、上長光寺、東韮久保、上久保(以上十一)

大字下石神井 向三谷、上久保、原久保、伊保ケ谷戸、坂下、小中原、和田前、池淵、和田、北原(以上十)

大字上石神井 観音山、立野、小関、西村、沼辺、大門(以上六)

大字関 甲地蔵裏、川北、溜淵、葛原、三つ塚、須崎、下竹、上竹(以上八)

以上各大字とも一般に高燥なる平原にて、中央に、南側は急斜にして北側に緩斜面を有する凹処あり、東西に走りて水田遠く板橋滝野川諸町に連なる、即ち石神井川沿岸の低地なり。低地を挟みて南北に丘岡あり、北は大字関の北部より起り、小関池淵和田の高地をなして大字谷原の北部に及ぶ、南は大字関の南より起り伊保ケ谷戸観音丘陵をなし、大字田中及谷原を経て東に走る。此の丘陵は更に三宝寺池畔より分れて石神井の中央を走り亀状丘をなし根河原にて終る、之れ古の豊島城趾なり、各丘陵には松杉檜或は雑樹林ありて人家之れを点綴せり。

村内の水路三あり石神井川多摩川分水及び千川水道となす、石神井川は水源三宝寺池より発す支流大字関の溜井より発するものと大字田中下にて合し練馬を横切り東流して王子に至り荒川に注ぐ、村内の流程は二里十四町なり、多摩川分水は富士街道の南に沿ひて流れ沿岸の水車業者に便益を与へ下石神井和田より田中新田に向ひ、北流して上練馬村に出づ、千川水道は小金井にて玉川上水より分れ村の南部を東流す、此の水力を利用し水車業を営む者屈指するに余あり。

三宝寺池に関しては後に詳記すべし、別に大字関に溜井あり石神井支流の水源たり、池は大ならざれども、汀辺蘆萩多し。

村内の道路は四通八達して水田に丘陵に達せざる所なし、其の中主要なる幹道に就ては既に総記に之を説述したり、茲には其他稍重要なる道路の梗概を掲げんとす。

中野道(府費支弁道) 大泉村より大字下石神井禅定院前に於て所沢道に合す。

所沢道(同上) 大字上石神井富士道より下石神井を過ぎ田中境を過ぎて井荻村に通ず。

田無間道(同上) 大字関富士道より関中部を過ぎ青梅街道に通ず。

吉祥寺道(同上) 大字関青梅街道より武蔵野村大字吉祥寺地内八王子道に至る。

関道(同上) 大字谷原九頭竜橋より大字田中町は道に通じ他は補助道にして上石神井下石神井の南部を過ぎ関に至りて青梅街道に合す。

井荻道(同上) 大字下石神井清戸道より中野道を横ぎり上下石神井の境を過ぎ江古田道に通ず。

江古田道(同上) 青梅街道より千川水道に沿ひて所沢道に至る。

新宿道(補助道) 大字上石神井富士道より上石神井の中部を過ぎ青梅街道に合す。

高野道(同上) 大字下石神井中野道より大字谷原長命寺前を過ぎ上練馬村に通ず。

谷原橋戸道(同上) 大字谷原富士道より大字谷原の北部を過ぎ大泉村に通ず。

志木道(同上) 大字石神井富士道より田無道に至る。

三宝寺道(同上) 大字下石神井高野道より分れ田用水に沿ふて井荻道所沢道に合し更に石神井川支流に沿て志木道に至る。

石神井道(同上) 豊多摩郡井荻村より所沢道を横断し大字田中関道に合す。

小石道(同上) 大字上石神井北新宿道より所沢道富士道を過ぎて大泉村に至る。

四ツ谷道(同上) 大字田中所沢道より田無間道石神井川高野道清戸道富士道を横切り上練馬村に通ず。

此の外白子道、小金井道、御成道、江戸道、淀橋道等ありみな里道な

り。

村内の橋梁及其所在地左の如し。

石神井筋 若宮橋大字関田無間道、小谷ケ戸橋大字上石神井新宿道、御成橋大字上石神井御成道、(昔時将軍三宝寺に御成の時通過せる橋なるを以て名あり)、松の木橋大字下石神井上石神井境所沢道、豊島橋大字下石神井所沢道、池田橋大字下石神井中野道、長光寺橋大字田中四ツ谷道、高野橋大字谷原高野道

千川水道筋 八成橋大字田中大字下石神井境所沢道、筋違橋大字上石神井江古田道、立野橋大字上石神井新宿道、伊勢橋大字関青梅街道

沿革

大古は邈乎として今攷ふべからずと雖も、本村大字関字葛原、大字上石神井俗称扇山並に三宝寺池畔大字下石神井字小中原の台地及び大字谷原御嶽社附近に於て、近年武蔵野特有の風致を伝ふる楢樹林の開墾に際し、コロボツクル時代の石鏃、石器及び土器の発掘せらるゝもの多く、その破片は今尚ほ田圃の間に点々散見するに徴するに、本村地方に於て数千年巳前人類の棲息せる状況を想察するに足れり。

有史以降に於ても本村の事詳ならざるもの多し、其やゝ正確に知られて以後本村は石神井郷と称し、豊島氏累世居住の地たり、文明九年豊島氏亡びて後管領上杉氏の領に移りしが、両上杉氏相次で亡ぶるや小田原北条氏の領地となり豊臣氏天下を統一して以来徳川氏の領有する所となる、以来将軍家直領として野方領石神井郷と称し勘定奉行及び関東代官によりて支配せらる、当時旗下の士高橋加賀守、同主水、尾崎出羽守、田中外記、桜井伊織、元橋主水等本村地方の開拓に事蹟観るべきものあり是等の諸士皆帰農して末裔今に村内にありといふ。

【名称起原】石神井の名は往昔井を穿つ時土中に石剣一個を得たり、里人尊敬して一社を営み石神社と称す、これ村名の起因なるよし伝へらる。

関の名は往昔豊島氏石神井に在城せし頃関を構へし所なるより起れり、当所は昔時多摩新座両郡の接界にて京都より奥州街道への街道筋に当れりといふ。

竹下新田は関、上下石神井二村の秣場なりしを天明四年竹下忠左衛門と云う浪士来り官許を得て開墾せし地なるが故に名づく。

其他の地名は今考へ難し。

【上石神井村】は石神井郷牛込庄に属す、元は下石神井村と一村なりしと云ふ、正保の改には既に二村に出せり、往古村内三宝寺池より石剣出せしかば、里人一社を営みそれを神体として石神井社と崇め祀れる神号を以て村名とせしと云ふ、社は今下石神井にあり、鎌倉大草紙及び村内三宝寺の縁起等に拠れば、当村は豊島氏累世居住の地なりしが文明年中太田道灌のために亡び上杉氏の領地に属し、其後太田新六郎の所領となれり、小田原役帳に太田新六郎知行十七貫五百文、江戸石神井と見ゆ其後此辺戦争の衢となり田宅荒廃せしを御入国の頃、高橋加賀守、同主水、尾崎出羽守、田中外記、桜井伊織、元橋主水等来て開墾せりと云ふ、是より御料所となり今に然り、加賀守は名主平蔵が先祖にて外五人も今に子孫存せり、用水及び検地は前の谷原村に同じ、日本橋より五里、民戸二百十、東は下石神井村、西は関村、北は土支田村、南は竹下新田及び多摩郡遅野井村なり、東西十八丁余、南北十六丁許青梅道村の南方を貫けり。

小名 城山、大門、沼辺、西村、小関、立野、観音山、池淵、出店新篇武蔵風土記稿

【下石神井村】は郷庄及び日本橋の里数、用水、検地の年代等前村に同じ、民家百六十二、東は田中村、西は上石神井村、北は土支田村、南は多摩郡遅野井村なり、東西十丁余、南北十八丁余、古より御料なり。

小名 伊保ケ谷戸、上久保、根川原、坂下、下久保、和田、北原、池

淵同上

【谷原村】は石神井郷に属す、北条役帳に太田新六郎知行寄子衆配当一貫七百文石神井内、谷原在家、岸分と載す、是に拠れば古は石神井村に属せし地ならん、日本橋より五里、民家百十、東は上練馬村、西は下石神井村、南は田中村、北は土支田村、東西十二丁、南北十丁許用水は石神井川を沃げり、検地は寛永十六年興津角左衛門、曾根与五左衛門、浅田次郎衛門、豊田甚右衛門、延宝二年中川八郎左衛門、関口作左衛門糺せり、御打入後増島左内に賜はり慶長年中収公せられて後御料所となり今に然り。

小名 箕輪、西原、北原、中通り、蕪ケ谷戸、七子竹同上

【関村】は郷庄及び日本橋よりの行程前村に同じ、当所は多摩新座両郡の接界にて古へ京都より奥州筋への街道掛り、豊島氏石神井に在域せし頃関を構へし所なり、今も大関小関等の小名あるは其遺跡なりと云ふ、古道は定かならず、青梅道村内を貫けり、民家九十三、東は上石神井村及び竹下新田、西も竹下新田及び新座郡保谷村、北は同郡小榑村、南は多摩郡吉祥寺西久保の両村なり、東西南北各十二丁余、用水は村内の溜井より引沃げり、古より御料にして今も替らず、検地は寛永十六年、寛文四年糺し其余享保二十年鈴木平十郎、杉庄右衛門、粗谷金太夫が改めし新田あり。

小名 大関、小関、本村、関原、葛原、鉄炮塚、三ツ家新田、札野、二ツ塚、小額同上

【竹下新田】は関、上下石神井三村の秣場なりしを天明四年竹下忠左衛門と云う浪士来り、願ひ上て新墾せし地なればかく名附くと云ふ、同年飯塚伊兵衛検地して貢数を定む、日本橋よりの行程前村に同じ、民戸十九、西は関村、北は上下石神井村、東南は多摩郡遅野井村なり、東西十丁、南北三丁許、此余関村越えて新座郡の境に、東西四丁南北二丁の飛地あり、青梅道村内を貫けり、新墾以来御料所なり。

小名 久保、千川付、前野、淵崎同上

【田中村】江戸より四里、民家七十二、西は下石神井、東北は谷原村、南は多摩郡井草村なり、東西一丁余、南北一丁許の小村なり、御打入の後、前村谷原村と同じく増島左内に賜り慶長以後御料所となり今に然り、用水及び延宝の検地も前村に同じ、谷原村の北に飛地あり田中新田と云ふ。

小名 薬師堂、供養塚、堂越、上久保同上

旧石神井郷は文禄年間を以て各村に分立したるを以て、以後の本村は各名主によりて統べられ以て維所の後に迨べり、名主及び組頭等の氏名明かなるもの左の如し。

谷原村 名主 横山勝内 現今 横山敬司

田中村 同 榎本安左衛門 同 榎本重之丞

下石神井村 名主 渡辺弥一 同渡辺弥一郎

組頭 本橋次郎吉 同 本橋菊太郎

同 豊田勝五郎 同 豊田利右衛門

上石神井村 名主 高橋平蔵

同 栗原仲右衛門 同 栗原釧三

関村 同 井口富次郎 同 井口角次郎

同 田中円蔵 同 田中文五郎

竹下 同 橋本奥松 同 橋本忠三郎

大小区制当時にありては本村は分れて第八大区七、八小区に属せしが明治十一年十一月区制廃止、戸長役場新設の際、上下石神井村関村竹下新田三ケ村の戸長役場は戸長関村田中円蔵宅と定め、下石神井村の戸長役場は戸長豊田勝五郎宅と定む、谷原村田中村の戸長役場は戸長横山富右衛門宅と定め、上土支田村下土支田村は戸長加藤源次郎宅を以て戸長役場と定む。

明治五年度の戸口及び租税額左の如し。

戸数 人口 正租 雑税

上石神井村 一七五 一、〇〇二 {石米五三・三六九円金二三六・七二七 石一・四九四円八・一一五

下石神井村 一四七 八七五 {米八一・六一五金二二七・六七六 二・三三二七・一三八

関村 八五 五四〇 {米一三・六四八金一三五・六四四 〇・三八七四・〇六九

谷原村 一〇七 六四七 {米五七・九六五金一九六・七七二 一・六五六六・三三五

田中村 七三 三八五 {米四一・二〇二金一〇三・九七四 一・一七八三・三三九

計 五八七 三、四四九 {米二四七・七九九金九〇〇・七九三 七・〇四七二八・九九五

村治

【沿革】明治二十二年市町村制実施の際旧戸長は村長と称せらるゝに及び、従来分立したりし各村を統一し、上土支田村を加へて石神井村と名称す、同村六月豊田勝五郎は推されて第一次の村長となる、其後村長の進退左の如し。

就職年月日 退職年月日 村長

明治 廿二年六月 明治廿四年六月九日 豊田勝五郎

同 廿四年八月廿五日 同廿八年八月廿五日 高橋平蔵

同 廿八年八月廿八日 同三十二年八月廿八日 豊田勝五郎

同 三十二年九月八日 同三十六年九月八日 田中文五郎

同 三十六年九月十六日 同三十八年四月廿六日 田中文五郎

同三十八年五月廿二日 同四十年三月七日 山下仙蔵

同四十年四月二日 同四十三年四月九日 加部清三郎

同四十三年六月二日 大正五年十一月四日 田中文五郎

大正五年十一月二十一日 現在 栗原釧三

村役場は大字下石神井千五十二番地に在り、小丘に倚りて水田に瞰み景勝の位置を占む、明治三十四年度の建築にかゝり、二階建総建坪三十八坪五合あり。

【村会】村会は議員定数十八名なり。

【土地】本村の有租地総反別一千二百三十七町三反八畝十五歩あり、其の所有者を分別するときは左表の如し。

当村人の当村内に於ける所有地 当村人の他市町村に於ける所有地 当村人所有計 他市町村人の所有する当村内の土地

田 町反畝歩七二、一、三、一二 町反畝歩二、六、七、二五 町反畝歩七四、八、〇、〇七 町反畝歩一一、七、八、〇九

畑 八〇二、八、九、一五坪 二六、〇、三、一九坪 八二九、九、三、〇四 九〇、三、三、一〇坪

宅地 二三〇、一四〇―段別七六町九段 二三五一六段別二町七段二畝 ― 八、九八一段別二町九段六畝二坪

山林雑種地} 一六九、三、九、二二 一五、九、三、〇五 一八五、三、二、一〇 一一、一、八、〇一

計 町歩一一二一一、三、一六 町五六一、六、一九 五七七、六、九、〇一 町一一六二、五、二一

以上の中本村に属する所有者は百七十九人あり之を細別するときは五反未満八〇人、一町未満三二人、五町未満三一人、十町未満六人、二十町未満三人

【財政】本村大正六年度の租税総額は金二万七千三百六十四円にして其内訳左の如し。

国税 六、七五一円(地租五、四八六円、所得税六四五円、営業税六一八円)

府税 七、九二二円(地租割二、八六六円、営業税九八円、雑種税八一六円、戸数割二、四一四円営業税附加税一、七〇〇円、所得税附加税二五円)

村税 一二、六九一円(地租附加税一、二五六円、国税営業税附加税四五円、戸数割附加税一〇、四九一円、府税営業税附加税一九九円、府税雑種税附加税六一一円)

更に之を負担者の側より一戸当りに算出するときは左の如し。

国税 一戸当り円七・一〇七 一人当り円一・一二四

府税 八・三三九 一・三二〇

付税 一戸当り円一三・三六〇 一人当り円二・一一三

計 二八・八〇六 四・五五七

本村の諸経費合計金二万五百五十八円三十一銭三厘にして其内訳左の如し。

村費 円二、四九四、四四〇

役場費 三、三三〇、六〇〇

衛生費 二七二、五〇〇

教育費 円一三、三三二、〇二三

土木費 一、一三〇、七五〇

【教育】本村には石神井尋常高等小学校石神井東尋常小学校石神井西尋常小学校の三校あり。

石神井尋常高等小学校 明治七年五月創立せられたる豊島小学校と明治十一年十一月創立せられたる豊石小学校とを明治三十五年三月合併して高等科を新設せるものにして爾来久しく旧校舎及民屋を使用し新築の運に至らざりしが有志者の熱心なる尽力により寄附金七千九百十四円二十銭と村費の補助金とにより明治四十三年十二月現今の新校舎を造営せり校地千三百十四坪校舎建物二百二十六坪五合にして其建築費八千八百六十四円五十五銭を算せり。

石神井東尋常小学校 明治十一年組合変更の結果豊玉小学校より分離し長命寺の一部を借りて校舎に充て谷田小学校と称す、明治十七年五月現校の東北隅に校舎を建設す、明治三十五年四月一日石神井東尋常小学校と改称す、明治四十年十一月学区内有志者の熱心なる尽力により寄附金四千余円を醵出して現校舎を増築せり。

石神井西尋常小学校は明治九年七月元関村最勝寺に開設したる豊関小学校に濫觴す、明治十三年九月今の校地の一角に増築移転す、明治二十一年四月及び同二十八年十一月改増築す、明治三十五年三月同校廃止せられ直ちに同敷地に於て本校を設置す、校地八百二十三坪校舎及附属建物九十八坪七合五勺なり。

補習教育の機関には村内三個の学校に各実業補習学校を置き冬期農閑の季を利用して農村子弟に須要なる補習教育を施しつゝあり、其の校名及び所在左の如し。

石神井第一実業補習学校(石神井東尋常小学校内)

石神井第二実業補習学校(石神井尋常高等小学校内)

石神井第三実業補習学校(石神井西尋常小学校内)

石神井村教育会 本会は明治三十六年十一月村内有志者の賛助に依りて興り、村教育に関して其成績の見るべきもの鮮からず、現今会員百十八人あり。

【産業】本村は地味膏膄にして農業に適す、畑作は大麦、小麦、陸稲、蘿蔔を主とし、是に次ぐに黍、稗、芋、甘藷、牛蒡、胡瓜、茄子、胡蘿蔔、豆類、菜類、馬鈴薯等の産額を挙ぐべし、就中蔬菜類は東京市中に販出さるゝを以て年々作附反別を増加するの勢あり、又た大根は沢庵漬として売出すもの多し、近年蔬菜類に亜て養蚕、製茶等の副業著く発達し来れるは注目すべき現象なりとす、

左に最近の調査にかゝる農産物年産額を掲げん。

種類 作付段別 収穫高 価格

粳 町反歩五八、一、四 斗一〇四六五 円一三、〇八一

糯 二四、九、一 三七三六 四、九八〇

大麦 三二一、七、四 六四三四五 二一、三七五

小麦 二七六、七、〇 三〇四三七 三〇、四三七

陸稲粳 一五七、〇、二 七八五一 七、八五一

陸稲糯 六〇、一、四 二四〇五 二、八二八

大根 一〇九、〇、〇 貫一六三五〇〇〇 二九、四三〇

黍 五五、〇、〇 斗四六七〇 四、〇六四

里芋 七〇、〇、〇 貫一〇五〇〇〇 一〇、五〇〇

甘藷 六八、〇、〇 一七〇〇〇〇 一一、九〇〇

牛蒡 五八、〇、〇 一三三四〇〇 一三、三四〇

稗 四〇、〇、〇 斗一四〇〇〇 五、六〇〇

茄子 一五、〇、〇 貫四七〇〇〇〇 五、八七五

胡蘿蔔 四五、〇、〇 六六〇七五 六、〇七五

馬鈴薯 四〇、〇、〇 一三三四〇〇 一三、三四〇

藍 戸八四七 斗一二九七七 四〇、四四六

茶 四五一 貫二八一五 五、〇六〇

石神井村農会は明治三十年五月二十日設立せられ農事の改良進歩を計るを以て目的とす、目下会員七百八十五名あり。

商工業は従来交通機関の恩恵に浴する能はざりし為め進歩遅々たりしも武蔵野鉄道開通以来やゝ其の面目を新にするの形勢あり、殊に水利の便多きを以て工業地として有望なる未来を有するも、現今に於ては僅に以下の数者を挙ぐべきのみ。

製粉業 大字田中鴨下栄蔵一家の経営になれる玉川製粉鴨下合資会社ありて盛に小麦粉を製造す、其他水車業者にして亦之れを営むもの多し

醤油製造業 鴨下栄蔵金子良三郎等あり。

製糸業 八方久次郎経営の製糸場あり。

其の他撚糸染色業を営むものあり。

【衛生】明治三十三年七月以来、各大字を一区域として五個の衛生組合を設け、救急に応ずる薬品器械器具等を備へ置き、毎年春期全村に互りて種痘をなし、春秋二期には完全なる清潔法を施行し時々衛生に関する講話会を開催し、衛生の智識普及を図り悪疫予防に遺憾なきを期せり。

【兵事】本村には帝国在郷軍人会石神井村分会あり、分会長田中平左衛門之れが任に当り毎年出兵者の為めに役員幹部となりて予備教育を行ひ、年々例会を開催し名士を招聘して講演を聴き、軍人精神を鼓舞し或は戦病歿者の招魂祭を行ひ出兵者及戦病歿者の遺族の優遇等をなし、本村青年の中堅となりて活動せり、現在会員の数は正会員百十一名特別会員三十名あり。

【青年団】本村には石神井青年会、谷田青年会及び石神井村西部青年相生会の三団体あり、何れも十五歳以上の会員によりて組織せらる。

石神井青年会 大正四年一月元豊島同窓会豊石同窓会青年同志会及び同志会青年貯金団の合併したるものにして教育部勧業部地方改良部貯蓄部に分たる、貯蓄部は大正四年一月より開始し現今貯金五千余円(大正七年九月現在)に達せり。

石神井村西部青年相生会 元豊関小学校同窓会と称し明治二十二年創立せらる、同三十五年三月現名に改む、現在会員百二十三名あり、教育に農事に風教改善に一致協力して着々実績を挙げ屡次各府県の賞状を受けたり、明治四十四年十二月東京府農会長より選奨せらる。現在貯金千余円を有す。

【村治功労者】多年本村名誉職として、村自治の為め恪勤怠らず其功績偉大なるものあり、依て其功労を表彰せられたるもの左の如し。

豊田勝五郎 横山彦太郎

神社及宗教

【郷社 氷川神社】大字上石神井字大門千九百四番地に在り、須佐之男命を主神とし大已貴命及び稲田姫命を配祀す、地は石神井古城の跡にして三宝寺を右に三宝寺池を左に袖の如くに連ね、前に石神井川の清流を瞰み、一帯の高地遠く愛宕山と呼応して形勝の地を占む。社殿は総亜鉛葺、南面して建つ、境内入口に改築紀念碑屹立す、東に社務所あり、石の鳥居は目

下建造中なり。新編武蔵風土記稿に曰『上下石神井関田中谷原五ケ村の鎮守なり例祭九月二十日三宝寺の持』と、別当三宝寺往年炎上して記録は凡て焼失し、縁起を伝へざるは惜むべし。但現今社殿の後方に旧石燈籠の断片ありて、豊島左衛門尉云々の文字明に判すべし、当社が豊島氏当年の古社なることは明か也。

江戸名所図絵に曰『氷川明神祠、上下石神井二村及び田中関谷原等以上五箇村の鎮守とす例祭九月十九日なり江戸芝の神明宮より社人巫女等来りて神楽を奏す是旧例なり又同じ二十日にも神事修行せり』と、芝神明宮より社人巫女来りて神楽を奏するの例、今廃せり。例祭は十月十九日に改めらる。

【村社 氷川神社】大字谷原字東郷二千四百八十八番地に鎮座す、祭神素盞雄尊、谷原村の鎮守神なり境内は一抹の森林にして、神風颯々、人をして襟を正さしむるに足れり、旧別当は長命寺なり。

【村社 天祖神社】大字関六百番地に在り、祭神大日霊貴尊、旧来関村の鎮守にして三月二十八日例祭を執行す、近年社殿の改築成りて神威一層の崇きを加へたり。

【無格社 石神井神社】大字下石神井村和田千五百五十九番地武蔵野鉄道石神井駅を距る三丁許の地に在り、一個の石剣を神体とす、夢跡集に曰。

下石神井村、この村に石神の神社と号せる僅なる小社あり神体は神代より以前の石剣なり図の如し(図略す)石剣の長さ二尺余、丸さ大なる所にて一尺まはり、色うす青く質至つて堅く重きこと鉄のごとし。

相伝ふこの石剣を堀り得たるものは豊田某といふ家系今に連綿す、里人呼ぶに石神を以てすとぞ。

【無格社 稲荷神社】大字田中字塚越六百六十四番地に在り、祭神倉稲魂尊、旧来田中村の鎮守にして田中稲荷の称あり。

【無格社 厳島神社】大字上石神井字大門に在り、即ち三宝寺池畔の弁財天なり、石神井案内に曰く。

池畔の洞窟、奥深き所には池霊の弁財天像を安置し里人相伝へて尊敬してゐる、冒険の士は一把の松明を携へて暗黒裡陰風凄愴なる辺りに、池霊と相語るも亦快きことではないか。

【三宝寺】大字上石神井に在り、新義真言宗密乗院と号す、当寺は歴史上著名の古刹にして人皇第九十代後小松天皇の御宇応永元年法印権大僧都幸尊の創建に属せり、境域は屡兵燹に罹り、頗る頽廃に傾きしが、天文十六年元の如く勅願所たるべきの免状を賜ひ住僧亦僧正の宣下る蒙るに至れり、江戸名所図絵に曰く。

亀頂三宝寺 密乗院と号す上石神井村にあり真言宗の道場にして頗大刹なり法印権大僧都幸尊応永元年甲戍の創建たり往古は勅願の地なりし故勅書数通を蔵すといふ慶長十一丙午年当寺第十世頼融上人檀主尾崎出羽守資忠といへる人と共に力を劉せ寺院修復の功を全うす当寺は即尾崎氏第宅の旧趾なりといへり

斯くの如くなれば武家の信仰も浅からず勅状証文等多く之を蔵せしが、明治の初年迄に二回の火災あり宝什多く烏有に帰し今は山門のみ当年の態を存す、同書に当寺の旧時の宝物を掲げたり。

寺宝 後奈良院勅書一通、正親町院勅宣一通、小田原北条家氏秀証文、当寺第七世尊海法印大僧正官勅許之証状、同八世賢珍法印権僧正官勅許之証状、同当寺住職勅許え倫旨、北条氏秀制札、同乙松制札、同岡入道江雪老制札、仏舎利、寺僧いふ往古の記録には十一粒とあり又中古目録には十七粒とあり年月を歴て失ひたりとおぼしと云々。

今みな亡し可惜也、同書又記して曰く。

本堂 本尊勝軍地蔵菩薩、僧形にして馬に乗したまふ御影なり伝へ云往古此本尊盗賊の為に盗とらる其夜本尊住持の夢中に告て曰く我願くは化を垂れ六趣の衆生を救はんとすされど乗する所の馬は猶こゝに止むと云々住持暁に至り堂中に入て拝する

にはたして本尊いまさず故に其後新に今の本尊を彫造し奉り旧古の馬上に安しまゐらすといへり。

文化年中当寺に遊びし人の手記に左の記事見ゆ。

武州豊島郡上石神井村三宝寺真言は、谷原村長命寺より西南の方二十余町にあり、当宗五十三ケ寺の檀林の一ケ寺とかや寺領わづかに十石余といへども領内広き事二百余石にも増るよし(中略)三宝寺は南面して表門通用門のふたつ路傍にならび建たり而も表門は四ツ足に彫ものゝ巧みなる門の箱棟には横井桁の中に三の字の紋は滅金の照よく目だちて見ゆ、既に門を入て右に鐘楼あり此鐘楼は門の如くに作り上に四方勾欄を拵へ鐘を釣たり鐘の大さ三尺余銅色又艶し誰咎めねば鐘楼へ登りて撞鐘を見るにその銘にいはく。

延宝三乙卯四月五日武州豊島郡石神井郷

亀頂三宝寺住持法印範宥

於武城鋳物御大工椎名伊予守藤原吉寛製

扨本堂はといへば表門の花美なるに似も付ず萱葺の客殿庫裏を一棟に作りたれば家の棟東西に長くして寺院の如くならずされど境内又挟からで僧房の前に圓座松とも称すべき方二三間に垂茂する一本の松あり茲に南へ向つて四方面の碑を建てたり左の如し。

守護使不人 三宝寺

村に伝ふる説によれば当寺もとは石神井郷根河原に在り、豊島氏の亡ぶるや太田持資当寺を移して豊島氏の城趾に置けり、当時門侶の末寺六十四院あり、塔中に禅定院、教学院、最勝寺、正覚院、観蔵院及び長光寺の六ケ寺ありたるが、移転に際して四隣に分立す、但正覚院は明治初年廃寺となり、長光寺もまた何の頃か廃寺となれり、現今境内に古堂宇あり、経堂に充つ、建築年次不詳、以前再度の火災を免れしもの也、寺域に板碑数基あり。

寺に弘法大師の像を安置す、府内八十八ケ所第十六番の札所なり。

【禅定院】大字下石神井千三十四番地に在り、新義真言宗、三宝寺末、照光寺と号す、本尊阿弥陀如来を安ず、新編武蔵風土記稿に曰『願行上人の開きし寺にて本寺よりは古跡なりと云本尊不動側に閻魔を安ず是は元は別堂にあり境内に明応四年二月八日妙慶禅尼と彫る石碑あり』と、此碑今に存せり、鐘楼ありて元禄十六年の鐘を掛く、遊歴雑記に曰く、『禅定院は三宝寺の東二三町にして路傍にあり門内の右に鐘楼ありて銘及び施主の名号月日悉くみな平仮名にて鍛付置たり此鐘形は尋常なれど撞座の上に蓮花一本と又少し上に丸鏡の中に古銭にひとしき梵字数多鋳付たり中古作りし撞楼なれど世に鍛し鐘なれば爰に図し置もの也(図略)銘は三宝寺先代の住僧の作にして照光山禅定院と誌せり、云々』此鐘今に存せり。

当寺は府内八十八ケ所の札所にして四時巡拝者絶ゆることなし。

【長命寺】当寺は東高野山又新高野山と称す、大字谷原に在り、新義真言宗、慶長十八年慶算阿闍梨の開基したるものなり、阿闍梨は伊豆国の住人平姓増島氏より出づ、北条早雲長氏の曾孫にして俗名重明と云ふ、天正年中氏政の弟北条氏規に属し豆州菲山の城に籠りしが、北条氏滅亡の後豊島郡谷原に退居し後剃髪して僧となり、名を慶算と改め紀州高野山に登りて木食勤行すること年久し、宗祖弘法大師の霊夢に因りて高野山の型を東国に移すことゝなり、爾来高野山霊場として当村に創開したるものにして全般の規模高野山に範り寺格及信仰共に遠近に聞へたる寺院なり、江戸名所図会に記す所左の如し。

谷原山長命密寺 妙楽院と号す上練馬谷原邑にあり、永禄二年小田原北条家の所領役帳に石神井の内谷原在家岸分の地を太田新六郎知行の中に加へたり。

真言宗にして本尊に薬師如来の像を安置す慈覚大師の作なり慶安四年辛卯慶算阿闍梨といへる木食の沙門当寺を開基す、阿闍梨は伊豆国の産北条早雲長氏の曾孫にし

て増島氏なり俗称は勘解由重明といふ天正中北条氏規に属して豆州韮山の城に籠居す北条家滅亡の後此地に退居して農民となる後其弟左内重国の子新七郎重俊に家を譲り入道染衣の身となりて慶算と改め室を儲けて蓮中庵と号す元和二年三月十一日に遷化す時に年八十余歳なり。

観音堂 本堂の西にあり本尊十一面観音の像は行基菩薩の作なり和州初瀬寺にならひたりとて天照春日八幡の三神あがめまつりて当寺の鎮護廟とす寛永十七年の九月長谷の小池坊秀算僧正当寺を長命寺と号けらる慶安元年の冬台命ありて観音供養の料として若干の田園を降したまひしとなり。

鐘 同所にあり銘文は当寺定昌師撰す。(慶安三年)

大師堂 本堂の西北数百歩にあり是を奥の院と称す今本堂より大師堂までの間に廻廊をまうく其廊中五百羅漢の小像を安置せり此奥の院はすべて紀州髙野山大師入定の地勢を模擬すか故に堂前に万燈堂あり又御廟橋蛇柳は同し前庭にありて左右に七観音六地蔵等の石像其余石燈籠五輪の石塔婆井増島氏累世の墳墓等並び建り又御堂の四隅には五重の宝塔並十三仏十王の石像等の類ひ累々として野山の規制にならふ三鈷の松と称するものありしが今は枯失たり樹林鬱蒼として閑寂玄蔭の地なり弘法大師の御影は当寺開山慶算阿闍梨感得の霊像なり。

寺記云開山慶算阿闍梨紀洲高野山に入てより五穀を断木実を食ひ阿観禅念をこらす事こゝに年あり一夜大師夢に告て曰く我昔諸国化度の時讃岐国にありて自像を作りたり其像は今同国多渡郡劔の山といへる地の人家に存せり汝か本国我山に遠し急ぎ行て彼像を得汝が旧里に安置し此山を模してこゝに参詣なりかたき孝女子等の為に結縁すべし然時は吾山に登るに等しかるべしと云々遂に阿闍梨其地に至りて霊像を感得し旧里に一字を営て是を安置し奉る(当寺是也)阿闍梨化寂の後も志を継其子重俊新に荷土を催し工問をうながし諸堂を営み紀州高野山大師入定の地勢を摸擬して永く衆生化縁の仏場となせりしかありしより世に東高野山又新高野山とも唱へはべり。

重俊の嗣平太夫重辰にいたり重ねて諸堂舎を修復す其季子幼より三宝を尊信し九歳の時みづから剃髪得度して法を定昌に嗣名を信有といふ後初瀬の小池坊に住職して正僧正に任す学業ことに勝れたり。

当寺昔は東光観照等の子院ありてすべて諸堂舎輪煥として甍を並べ実に野山の俤をなせしもいつの年にや火災に罹りて経営悉く烏有となり依元禄中再建ありしかども旧観に復する事あたはず今は其十が一を存するのみ。

近来境内の整理堂塔の修繕に力め面目を新にせり。

【道場寺】大字下石神井に在り、禅宗曹洞派にして豊島山と号し、石神井城主豊島左近太夫景村の養子兵部大輔輝時の創建する所に係る、新編武蔵風土記稿に曰『道場寺、禅宗曹洞派荏原郡世田ケ谷村勝光寺末豊島山無量院と称す、本尊阿弥陀又行基作の薬師を安す元は別堂にあるものなり当寺は石神井城主豊島左近太夫景村の養子豊島兵部大輔輝時応安五年四月十日此地に於て菩提寺を起立し豊島山道場寺と号し僧大岳を延て開山として練馬郡の内六十二貫五百文の地を寄附す其頃は済家なりと云輝時は北条高時の子相模次郎時行の長子なり其家滅亡の後景村養ひて豊島の家を継しめしとなり事は過去帳に詳なり輝時永和元年七月七日卒す勇明院正道一心と謚す中興開山観堂慶長六年五月二十六日寂す此の時今の派に改む時の開基徳翁宗隣は小田原北条氏に仕へし石塚某の子にて幼より仏心深く遂に剃髪して僧となり観堂と力を戮せ堂宇を再建せり慶長十年八月朔日寂す』と、豊島氏の過去帳今に存す、もと境内に薬師堂ありて本尊薬師瑠璃光如来座像を安置せしも、明治十五年焼失したり。

【本立寺】大字関甲三百六十九番地に在り、日蓮宗法耀山と号す、小榑村妙福寺末、本尊旭日蓮大菩薩を安置す、新編武蔵風土記稿に曰『開山日誉寛永二年寂す当時名主を勤めし政右衛門と云ひしもの開基せりと云』とされど寺の云伝ふるところは之に異なり、日誉上人応安二丑年の開山となせり。また当寺本尊は井口弾正といふもの祖師鎌倉御難所の袈裟掛松を以て彫造せるものなりと伝へらる。毎年十二月九日、十日境内に農具市を開く、遠近の男女麕集し附近に稀なる雑沓を呈す。

名勝及旧蹟

【石神井の懐古】文化頃の紀行によりて当年の俤を偲ばん、即ち一二左に転録す。

此村高三千石ありて莫大広ければ上村下村とふたつにわかれて一郷の内にそれ〳〵の小名あり家数三百八十余軒ありとなん扨又一村水の潤沢に三宝寺禅成院等の前通り中路に清流横はり西より東へ漲り流れて実に潔しされど此辺打晴たる景地にあらで道路くだ〳〵敷江戸より四里には遠からんかし云々。

石神井村上下あり此辺一人の往来を見ず物問ふべきよすがもなし路の行あたる処寺あり禅定寺といふ其前を西へ山へそふて田のふちをゆけば民家一戸有其先に又寺あり道常寺といふ其西に隣れるが三宝寺也茅ふける大門いかめしく作りなしたれば閉て人を通さず其続き坊の門より寺内に入門の左に鐘楼有右に庫裡あり石の宝篋印塔あり本堂は十二間に六間許坊も庫裡もいとひろければ寂として人なし堂の前を横ぎりに西へ寺の構を出て畑の細道に氷川の社あり鳥居の脇を猶西へ行ば道の左林の中に小社あり天満天神を崇め奉るそこより少し北に行ば小坂有下れば向ひに弁財天のやしろあり社をめぐり皆池也芦荻生茂り雁鴨あまた下居てかなたこなた水の面をゆきかへるいくらという数をしるべからず池の大さ七八十間計四面は東の一方のみ明て余は皆高からぬ山也水の子丑の方に赤松のみ生並たる山見ゆ池の姿井の頭と相似たり此池の水はいか成旱にも枯たることなし時として水水底よりわき上ることありと言社は巳の方に向て鎮もりますげに此神に相応すといふべし三宝寺のうしろの山は古へ豊島権次といへる人の棲し処にて今も其跡ありて城山と呼山の上に豊島の霊社ありしも今はなしと云是らのこと里の子に銭とらせて聞く処也尋ね来て見るに掻上の堀切ともいふべき所なり其堀の内より山に上りて見るに処せく松の若木植並て行先に道なければもとの道に下る掻上のうしろの方は三宝寺の池の流の末をとり廻して後堅固に取なし西は山の尾先を堀切て境とす東の方はなだらかに平なる処あるに今は民家一二戸あり其うしろは山畑なり民家の前三宝寺の後の間に径ありそこを東にゆけば三宝寺の庫裡のうしろの門に至る門の続さ垣の内に少さき山有これも其かみの遺構か考ふるに三宝寺は太田道灌の建立にて当時百石の寺領をよせしと云是は豊島氏遺跡に就て寺をたてし成べしその三宝寺の堂の辺其居宅の跡にやあらん寺のうしろ城山とよぶ処は居宅の外層にて棲し所地にはあらざるべし地勢を考ふるにかならず然るべし。

【石神井城趾】大字上石神井の東方三宝寺池辺より境内一帯の地是なり、本城は鎌倉時代の末葉にあたり、豊島三郎兵衛泰景の在城せし所にして豊島足立多摩児玉及び新座の五郡を領して威武を四隣に振ひし所なり、新篇武蔵風土記稿に曰く。

石神井城趾 村の東の方氷川神社及び三宝寺境内の辺是なり、広さ東西六七町、南北三町許、太田豊島両系譜及び三宝寺縁記等を閲するに豊島権守清光が子を有馬允朝経と云、朝経が四代の孫を三郎兵衛泰景と称す是豊島城の主たり、泰景卒し其子朝泰幼なりしかば、泰景の弟左近太夫景村元弘年中遺跡を継、在城して朝泰を守立、成長の後所領を返し当城を譲れり、朝泰が八代の孫を勘解由左衛門泰経と称す、文明九年四月泰経、弟平左衛門泰明と長尾景春に一味し管領上杉修理太夫定正に背き江戸河越の通路を塞ぎけるにより、太田道灌江戸より打て出、平左衛門が平塚の城を取巻城外を放火し手痛く攻めけるゆゑ、泰経平塚を救はん為当城を出で多摩郡江古田原、沼袋に於て道灌と接戦し泰経、泰明敗戦して一族みな戦死し残兵力つきて同十八日城遂に陥れり、鎌倉大草紙には文明九年正月豊島勘解由左衛門、同弟平左衛門景春に一味し当城及び練馬城を取立、四月十三日道灌と合戦し泰明は敗死し泰経は当城を去て平塚城に籠りし由を載せ、又天正年中年代記には文明八年四月二十二日石神井陥ると記せり、前に載る所と年月たがへり、且大草紙に拠れば此時始て当城を築きしにや、文明落去の後当城遂に廃跡となりしなるべし。

今城地の様を見るに、山城と云程にはあらざれども自然地高にて前はかの三宝寺池に臨み、廻りに堀ありてこの池水を引注がんには堅固の城廓となるべし、櫓のありし跡にや所々に築山残れり、此より北の方に城山と唱ふる地あり道灌当城を攻し時こゝに砦を築き軍卒を置きしと云、尚平塚城跡豊島村等併せ見るべし。

江戸名所図絵に曰く。 (図略)

石神井城趾 三宝寺の池の傍に在り其地北に池水を帯たり大手と称する辺は水田にして左右に空塹の形今猶存せり文明中豊島氏此城に住といへり云々。

按に石神井の地に豊島山道成寺といへる寺あり土人伝へて是も古城趾なりといふ、これによればもし豊島氏の城ならんかと思はる山号又因あるに似たり猶考ふべし。

【三宝寺池】大字上石神井三宝寺の傍にあり、よりて三宝寺池と号す、池の広さ東西二百間許南北七十間許あり、池汀蒹葭生ひ茂り、水底には水蓮蓴菜等多く生へり、池中小嶼ありて弁財天祠を置く、この池は石神井の水源にして池水清冽、水量最も多く旱魃にも涸渇することなし、加ふるに池畔一帯風色画の如く、自ら一小仙寰を形成す、されば之を天下に解放して一大遊園となさんとの計画あり、幸にその実現を見んか彼の井の頭公園に勝るもの多くして風光を趁ふの都人士を迎ふるに足るべく、石神井村は帝都郊外の楽園たるに至らんこと蓋し期して待つべしと云ふ。左に徳川氏中葉頃に於ける池畔の状況を掲げて参考に資せん。

既にして弁財天の池辺にいたる此処北に向ふて二丈も坂をくだりて低きにあり左右の山は松杉樅柏の雑機繁茂して重々たり池の大さ東西凡三四町南北二町余もあるべし水面清凉として汀には蓮藻生じ河骨の花の咲後れたる又は泛草の花の水に映せし風情得もいはれず南西北の三方をば平山にて囲ひ東の方のみ水の落口にして下は五十八ケ村の用水となり猶末は豊島の荒川へ流れ千住へ出墨水と会流せりとなん此池の中央に島あり広さ凡十間四方ばかり反橋をわたりて出島にいたる弁天堂は三間四面にしてむかし飛弾の工の作り置しとなんいか様にも惣体の作事古雅に見ゆ堂内の弁財天は弘法大師の作のよし練馬及び鰐口など最古物に見請たり茲に菴主ありて道心一人住めり云々。

新篇武蔵風土記に記す所は左の如し。

三宝寺池 池は三宝寺の側にあるを以て三宝寺池と称す、石神井川の水元なり、古は大さ方四五丁余もありしが、漸く狭りて今東西六十間余南北五十間余となれり、水面清冷にしていかなる久旱にも水減ずること無し、多摩郡遅野井村善福寺池と水脈通せりと云ふ、地中多く蓴菜を生ず。生ずる所の魚は頭に鳥居の形ありと伝へ、捕る者は必ず崇を蒙るとて釣網することを禁ず。

江戸名所図絵は記して曰く。

三宝寺池 同所にあり回帯凡五百三十余歩中に一小嶼あり則池霊弁財天の祠を建つ此池水冬温に夏冷なり洪水に溢れず旱魃に涸ず湯々汗々として敷十村の耕田を浸漑し下流は板橋王子の辺を廻り荒川に落会へり。

古老云く此池数魚の中鳥井の印文あるものあり古来これを獲りて崇を受るといへり。

夢跡集には池の広さ東西六十余間、南北五十余間狭き所四十間、東への流れ百六七十間とあり。諸書記す所一ならず、其変遷今考へ難し。

近ごろ刊行せし石神井案内と題する冊子には池に関する伝説を載す、即ち。

文明九年四月、太田道灌の為めに、哀れや豊島家九代の名将泰経も武運拙なく滅ぼされて、雲霞の如く城内に乱れ入る太田勢を眺めながら、愛馬に鞭打つてこの三宝寺池の水底深く身を沈めたと、今に云ひ伝へられる池である、現村長栗原氏邸の背後に照日松と呼ばれる周囲四尺に余る老松がある、晴天雲なきの日にこの松の梢に登攀して池底を望めば金の乗鞍が見えるとの伝説がある。

池は七千余円の予算を以て、目下浚渫中なり。

【照日塚】三宝寺池畔松林の中に古墳一基存せり、之を照日塚一名姫塚と呼び、其東方十余間に殿塚あり、碑面に「月はなし照日のまゝの今夜かな」の句を鐫る、江戸名所図絵に曰く。

照日塚 同所三宝寺にあり耆老相伝ふ当寺開山会在京の頃八月十五夜雲上座外に侍して発句を奉る月はなし照日のまゝの今夜かな、公卿雲客賞歎して叡覧に備ふ御感ありて照日上人の号を賜ふと云々、此塚うたがふらくは照日上人の墓ならんといへども詳ならず。

【古碑多し】村内には古碑多し、三宝寺、禅定院、道場等の境域を初め、大字田中の墓地にも数基現存す、その年代は正和、嘉吉、応永、文明等のものなり、就中三宝寺に存する文明の月待の板碑は名高きものなり。

【愛宕山】大字上石神井にあり、広濶なる岡圃にして水田を挟んで石神井城趾と相対す、伝へいふ文明の昔太田道灌石神井城攻の時此処は砦を置きたる趾なりと、名所図絵に記す所左の如し

愛宕権現宮 同所西南の林岡にあり三宝寺本尊の垂跡とす其地東西百五十歩南北百余歩相伝太田道灌の城跡なりと土人は字して城山と唱ふ前に関川を懐き後に遅井を負ふ北に小阜ありて富士峯を望む南の方数百歩を過て直塘あり道灌塘と号く土人云江城に至るの直路とすと云云。

権現宮今合祀されて郷社氷川神社に入る。

【豊田園】村の素封家豊田氏の私園にして石神井停車場を東南に距る約二町にあり、俗に豊田公園と呼ぶ、園は四時常に公開す、其地丘陵に倚り緑野を望み風光絶佳なり、殊に五月頃躑躅満開の期はこの丘に一異彩を放てり、都人の杖を曳くもの漸く多し。尚ほ同所を距る南一町余に新に一園を開く、園内に泉池を穿つに際し、大古の遺跡を発見したるも、心なき土工等の為めに没却せられ、今池中三所に鼎足形に存する凹みあり、此辺貝塚ありし処と云ふ。

【明珍家の遺裔】往古甲冑製作に名ありし明珍家の末商大字谷原に現存せり。旧幕府時代には武具の製作を依頼し来るもの多く、家運隆昌せしも、今や普通の農民となれり。但武具に関する古文書等多く什蔵せるよし。

風俗

此地都門を距ること最も遠きを以て、都会浮華の風に染むもの少く、一般に淳朴にして農耕に勤勉す、村内農馬を飼ふもの五十戸許あり、以て一般を窺ふに足る。

【衣食住】衣は綿服を常とす、平素は勿論外出にも絹衣するものは少数上流者のみ、小学校の児童は男女とも筒袖にして多くは袴を穿てり、雨日蝙蝠傘を携ふるもの少くして全数の二割位なるべし。村内にて洋服を着用するものは教員を主とし其数凡四十名許あり。食は日常米のみを取るもの全数の一割以下とす、多くは麦米混用を喫す、混合歩合上中下各相違あり、副食物は蔬菜豆腐等を第一とす、肉食の風未だ盛ならず、食時には全村の殆ど九割までは各自に食膳を用ふ、食卓に着くの風行はれず、燈火は全村洋燈を用ふ、家屋は旧時の茅屋多し、畳は縁無のもの十中の六七に居る。

【年中行事】暦は多くは月送りに従ふ、正月には節会と称して親戚故旧を招き簡単なる宴を開くもの多し、七草粥は行はれず、七夕祭行はる、春秋とも彼岸には各戸必ず墓参りを為す、十月村内法華宗本立寺にて盛なる御会式を行ふ、夷講とて親戚知人を招じて小宴を張るもの多し、毎年酉の市に出でゝ熊手を購ひ来ること村内普通なり、十一月十五日女子七歳の祝を為す、俚俗之を帯解と称し、盛装して氏神へ参詣す、当日祝餅を搗く、年の市は村内本立寺に開く、年賀状は大抵暮の中に出す、其数村内を通じて八千位なるべし。暮の餅は多量に搗き貯ふるを例とす、普通毎戸二石位なるべし。

【冠婚葬祭】女子十三歳、男子十一歳に達するも別段に祝式等の習はし無し。婚姻の式は之を重んずるの風今も古に異ならず、新夫は紋付羽織に袴、新婦は綿帽子を着く。葬斂は殆ど全部埋葬にして、野送には会葬者声高に真言を唱へつゝ進む。村祭には各戸赤飯を拵へ、境内にて芝居を見るを喜ぶ。

<項>

中新井村
<本文>

地理

中新井村は郡の南部に位置し、東の方一部分上板橋村に接し、東より南西は一帯に豊多摩郡野方村に連なり、北は下練馬村及び上練馬村と境を分つ。地形は東西に長くして約一里に達し、南北に窄うして十三町に過ぎず、面積三百壱町六反歩あり。

全村高燥なる岡地にして、甚しき高低なしと雖、概して之を曰へば、西部最も高くして、東に到るに従ひ漸次低きに就くの勢ありとす。

旧時代に於ては、本村の全土は中新井村及び中村の二に分れ居たり、町村制によりて合して中新井村となり、旧各村は今や其の大字を成す、大字に属する小字名は左の如し。

大字中新井 北於林、南於林、北新井、弁夫、中通、弁天前、東本村、本村、宮北、下新街、上新街、西本村、池下(以上十三)

大字中 籠原、精進、南、西原、北原、中内、新屋敷、原、寺原(以上九)

道路は清戸道村の北端にかゝり、清戸道に沿ふて武蔵野鉄道東西に走る、村内停車場の設けなしと雖、練馬駅は村の中部に近きを以て、他地方との交通は一に是による。村内道路の主要なるものは次の如し。

埼玉道 豊多摩郡中野町にて青梅街道より分岐し、鉄道を踏切り馬場下道を経過し、落合村野方村、郡内中新井村上下練馬村を経て赤塚村川越街道を横切り、早瀬渡船場に至る 延長五三五九間、幅二間三

関道 郡内中新井村清戸道より分岐し、石神井村にて野沢道に合す 長一八一六間、巾三間五

清戸道 郡内高田村小石川区境より、豊多摩郡落合村、郡内長崎村中新井村上下練馬村を経て富士街道と交叉し、石神井村大泉村を過ぎ埼玉県に入る

杉並道 郡内上練馬村清戸道より分岐し、間道を横切り豊多摩郡野方村にて小石川道を横切り、杉並村に至り所沢道に接す本郡内の延長八四〇間、平均幅員一間一

以上みな府費支弁道なり、外に補助道以下二条あり。

千川用水は清戸道及び武蔵野鉄道線と殆ど併行して村の北端を流る、村内田野の灌漑一に之による、

沿革

中新井或は中新居に作る、沿革詳かならず、小田原役帳に、江戸延中、中新居、元吉原知行とあり、其正保の改に、板倉周防守知行新井村と記せり、後天保頃迄中荒井村と作りしこと今村内に存する墳墓に見ゆ、蓋混用せしものか。

【中新井】は日本橋より三里許、民戸百六十二、小田原役帳に、森新三郎買得十四貫五百文、江戸廻、中新居、元吉原地行と載す、正保の改には、板倉周防守知行、中新井村と記せり、今は御料所なり、東は上板橋村、西は中村、北は下練馬村、南は多摩郡江古田村なり、東西十六丁、南北八丁余、北の方、練馬村境に河越道中掛れり、用水は仙川上水の分水を引用ふ、検地は寛永八年、浅田忠右衛門、松井半兵衛、牧野四郎右衛門、寛文六年、稲垣与九郎、高野貞右衛門糺せり。

小名 本村、徳田、神明ケ谷戸、原、北荒井、中通新篇武蔵風土記稿

【中村】は永井庄と唱う、当村古は多摩郡に属し、中鷺宮村と唱へ、同郡上下鷺宮村と並たりしが、後いつの頃か下略して、今の名となり、当郡に

入しと、土人云ひ伝ふ、されど正保国図等も、既に当郡に属して中村と記し、其接界も上下鷺宮の中央にも当らざれば、土人の伝ふる処誤れるに似たり、日本橋への行程用水は前村に同じ、民戸六十、東は中荒井村、西は田中村、北は上練馬村、南は多摩郡上鷺宮村なり、東西十丁余、南北八丁程、御入国の後は井上河内守の領地にて、正保年中は今川刑部の知る所にして、今其子孫今川刑部大輔に至る。同上

旧新井村は石高五百石、板倉周防守所領なり、名主其他の分明せるもの左の如し。

名主兼年寄 甚三郎 自文政至天保 年寄 喜右衛門 甚三郎 市左衛門 文次郎 以上天保九年頃

名主兼年寄 喜右衛門 自天保十年至慶応二年

以上みな生存せず、其家多く現存す、

旧中村は石高二百石、井上河内守の所領なり、村役人の分明せるもの左の如し。

名主 内田権右衛門

維新以後の沿革は総記述べたる所の如し、明治七年一月大小区制を改正するや、中新井村に第七大区第七小区の区務所を置き、岩堀満房戸長となる、同十一年十一月大小区制を廃止し各村に戸長を置の際、岩堀修照戸長となり、同十八年六月に至り森田文超戸長となる。

因に明治五年度の戸口及税額左の如し。

中新井 一三七人 七七八人 男 三八七人 女 三九一 正租 米 八五石 二四二合 金一八〇円七五五厘 雑税 〇石五八八合 七円七五〇厘

中 七六 四四七 男 二三八 女 二〇九 正租 米三三、三〇〇 金八二、一一一 雑税 〇、九五一 二、四六〇

計 二四九 一、二二五 男 六二五 女 六〇〇 正租 米一一八、五四七金二六二、八六六 雑税 一、五三九 一〇、三一〇

村治

【沿革】明治二十二年四月中新井村戸長森田文超戸長在職中町村制執行せられ、即ち森田文超を推して第一次の村長となす、其明後治二十八年四月一杉平五郎代りて村長となり、勤続二十四ケ年以て現今に及べり。

【役場】大字中新井千八百十四番地に在り、木造瓦葺平家造りにして建坪二十一坪あり、明治四十二年六月十八日改築せるところ也。

【財政】本村大正七年度の予算は金六千二百七十七円余に達せり町村制以来の膨脹歩合は左の如し

年次 金額 歩合

町村制施行当時 一千九十円余 一〇

明治三十年頃 一千五百八円余 一四

同四十年頃 二千六百六十四円余 二四

大正七年度 六千二百七十七円余 五七

【教育】本村の教育機関は村立豊玉尋常高等小学校あり、現時六学級、三百五十名許の児童を収容す、之が教育費予算は金三千九円を計上せり、其他本校に附設せる実業補習学校あり、凡て郡記に説述したるところなり。

豊玉尋常高等小学校 明治九年十一月創立、十七年一月校舎を新築す、二十二年三月教室二十四坪七合五勺増設、三十一年八月教室十六坪増設す、三十四年六月修業年限二ケ年の高等科を併置し、同七月校舎三十一坪を増設す、四十一年五月既設教室二十四坪七合五勺を取毀ち、更に四十九坪六合の校舎を改築す、在現校地六六〇坪、建物一六二坪九四なり、校庭の記念樹及び石門は大正四年十月成れり。

【帝国在郷軍人会中新井村分会】明治四十三年十一月三日の組織にして現在会員七十名、会長は西貝八十次郎なり。

【自治功労者】元本村助役内田権右衛門の表彰事蹟左の如し。

褒状

元中新井村助役 勲八等 内田権右衛門

君ハ資性温厚ニシテ思慮周密ナリ明治廿八年四月本村助役ニ挙ゲラレ収入役ヲ兼掌セラル爾来十有九年其間数回ノ改選期ニ遭遇スルモ村民ノ輿望亦君ヲシテ閑地ニ居ルヲ許サズ以テ今日ニ至レリ其職ニ在ルヤ誠実事務ニ従事シ特ニ教育ノ施設ニ道路ノ改修ニ力ヲ尽ス等鋭意村政ノ発達ニ努メ其功労顕著ナリトス仍テ村会ノ決議ヲ経テ金参拾円ヲ贈リ以テ之ヲ表彰ス

年月日

中新井村長 一杉平五郎

神社及宗教

【村社 氷川神社】大字中新井千五百七十六番地に在り、旧中新井村の鎮守にして、素盞命尊を祀る、大祭十月七日、氏子約百八十戸、境内に三峯神社、須賀神社、賽路は三ケ所に岐れ各石の鳥居を立つ、境内老樹林立し風光佳なり、日露戦役従軍紀念碑は鳥居の内左手に屹立す、山県公爵の題字なり、当社の神木老杉は附近に有名なる大木にて包三囲に余れり、外に大杉樹二株社殿の後にあり。

【村社 八幡神社】大字中五百十四番地に在り、祭神は応神天皇、本社は旧来中村の鎮守にして、大祭は九月十一日に執行す、氏子百二十戸許、境内に日露戦役紀念碑あり。

【南蔵院】当寺は大字中村に在り、新義真言宗豊山派なり、永正年中僧良弁なる者あり、諸国を行脚し霊場へ法華妙典を納め、志願終りて錫を此地に駐め、一部妙典を埋めて塚となす、今の良弁塚之なり、後薬師の像を感得し一宇を建立す、慶安二年十二石八斗の朱印地を賜ふ、故三遊亭円朝が『怪談乳房榎』と題して当寺格天井の由来を口演して、以来俗間に多く其名と知らるといふ、境内に忠魂碑屹立す。新篇武蔵風土記稿に曰『新義真言宗上練馬村愛染院末瑠璃山医王寺と称す慶安二年薬師堂領十二石八斗の御朱印を賜へり縁起を閲するに永正年中僧良弁(良弁僧正とは異なり)諸国の霊場へ法華妙典を納め志願畢りて後当寺に錫をとゞめ妙経を埋めて一箇の塚とす今村の中程に良弁塚と称するもの是なり然してより此寺にありて修法怠らざりしかば其功空しからざるにや或日薬師の像を感得せりよりて堂宇を興隆し其像を安置すと云今の本尊是なり秘仏として三十三年に一度龕を開て拝せしむ又当寺より白竜丸と云薬を出せり曾て良弁が夢中感得せる霊法の丸薬なり諸病に顕ありと云』と。

当寺に伝ふる創立由来は左の如し。

該寺設置年暦は文禄年間伽藍災変に罹り悉く灰燼となり往古の記録等焼失せしを以て其以前は不明後永正年間に良弁僧都来り住す之を中興第一世の開山と称す云々

【正覚院】大字中新井千五百七十一番地に在り、新義真言宗中野宝泉寺末、天満山観音寺と号す、本尊不動を安置す、中興の開山は契衷和尚と云ひ、宝暦元年十月二十五日寂す、当寺昔は氷川神社の別当職たり、今境内に観音堂及び閻魔堂あり。

名勝及旧蹟

【良弁塚】南蔵院の条下新篇武蔵風土記稿の文中にいへるもの是なり、経典を埋めし塚なりといふ、古碑一基立てり、年月も彫らず、時代明ならず。

【弁天に雨乞】大字中新井字弁天にあり、小池の中にある古き祠なりしが大正七年中改築せり、伝へいふ旱天の時この池を浚へば即ち雨ふるよし、今も農民等の雨を祈るために此池を浚ふことありと。

風俗

【衣食住】衣は一般に綿服を用ふ、殊に村内風紀厳にして細民の婚礼に綿服を着るものさえあり、食は平素白米飯を喫するものは上流四十五戸に過ぎず、中下流は麦その他の穀類を交へ用ふ、家族各自に旧来の食膳に就くもの二百二十五戸、卓を同ふして食するもの四十五戸なり、家屋は街道沿の商業は瓦葺多く、農家は今も萱葺のもの多し、畳は縁無のもの多く縁付畳を用ふるもの百分の四五に過ぎず、洋燈を使用するもの二百三十戸許、即ち全村の三分の二に当る。

【冠婚葬祭】冠婚葬祭の事あるや、平素の質素に似ず、儀礼を重んじ、式を鄭重にするの風あり、就中旧時の五人組の制今も全く廃されず、隣侶相助くるを例とす、村祭日には戸々赤飯を作り酒を呼び、神楽、村芝居、煙火等にて賑ひ合ふ。

【年中行事】著しき特風なし、暦は月送りを用ふ、本村は日蓮宗の信者少き土地柄なるを以てお会式に集ふもの等是なし、十一月の酉の市は村内大鳥神社に開く、農具植木などの露店も出て盛に賑ふ、年賀郵便物は少き方にて、着発を合して一村三四千枚に過ぎざるべし。

【其他】村立小学校の生徒中蝙蝠傘を携ふるもの百三十人、紙傘を携ふるもの二百人許なり、洋服着用者は全村十五人許あるのみ。

<項>
北豊島郡老樹名木一覧
<本文>

上練馬村

【柏】大字上練馬宮本村社八幡神社境内に在り、地上五尺の周囲一丈二尺、樹高十間、樹齢二百年。

【杉】大字上練馬字南中の宮無格社春日神社境内に在り、周囲一丈五尺、樹高十五間、樹齢二百年。

下練馬村

【杉】大字下練馬字大松無格社氷川神社境内に在り、地上五尺の周囲一丈一尺、樹高十七間、樹齢不詳。

【杉(六本)】同社境内に在り、周囲各一丈、樹高十五間、樹齢不詳。

【楓】同社境内に在り、周囲六尺、樹高十間、樹齢不詳。

【杉(三本)】大字下練馬上宿無格社浅間神社境内に在り、周囲各一丈二尺、樹高十六間、樹齢不詳。

【杉】同社境内に在り、周囲一丈、樹高十五間、樹齢不詳。

【欅】大字下練馬字谷戸山無格社白山神社境内に在り、周囲二丈七尺、樹高八間、樹齢不詳。

【欅】同社境内に在り、周囲二丈五尺、樹高八間、樹齢不詳。

【桜】大字下練馬字西湿化味光伝寺境内に在り、周囲五尺二寸、樹高五間、樹齢不詳。

【槙】同寺境内に在り、周囲六尺二寸、樹高十間、樹齢不詳。

【銀杏】大字下練馬字東本村金乗院境内に在り、周囲一丈五尺、樹高十六

間、樹齢不詳。

【欅】大字下練馬字宮宿郷社氷川神社境内に在り、周囲一丈三尺、樹高十五間、樹齢不詳。

石神井村

【三鈷松】大字谷原字南郷長命寺境内に在り、地上五尺の周囲九尺、樹高十三間、樹齢三百年。

当寺開山慶算阿闍梨、高野に於て木食修業の際、高野山三鈷松の実を得て持帰り、之を蒔きて生ぜるものと伝ふ。

【菩提樹】同寺境内に在り、地上九尺直ちに二股となり目通り四五尺、樹高十間、樹齢三百年。

当時開山記念の為め植栽せしものにて、古来著名の樹なり、信徒等其実を以て珠数となし、宗祖を礼拝すれば利益広大なりと云伝ふ。

【照日松】大字上石神井栗原氏邸内に在りたる名木にて、周囲四尺許、樹齢不詳、今亡し。

中新井村

【杉】大字中新井字本組村社氷川神社境内に在り、地上五尺の周囲一丈四尺、樹高十間、樹齢三百五十年。

【杉】同社境内に在り、周囲一丈三尺三寸、樹高十間、樹齢三百五十年。

【杉】同地菅原神社境内に在り、周囲一丈九尺二寸、樹高九間、樹齢五百年。

【杉】大字中字寺原南蔵院境内に在り、周囲八尺五寸、樹高五間、樹齢二百五十年。

【杉】同院境内に在り、周囲九尺五寸、樹高六間、樹齢二百五十年。

【薬師の松】同院境内に在り、周囲一丈二尺八寸、樹高六間、樹齢三百五十年。

【樅】同院境内に在り、周囲一丈一尺五寸、樹高五間、樹齢二百五十年。

東京府北豊島郡誌

大正七年東京府豊島郡農会に拠つて刊行。郡誌篇、町村誌篇から成る。郡誌篇は郡の地理・沿革・郡治の概況を、町村誌篇は各町村の地理・沿革・村治から社寺・旧蹟・風俗等を詳述。明治・大正期における貴重な郷土史料。

<節>

文献目録
<本文>
書名・論文名編・著者名発行年発行所
1 総 記
上石神井村付近年表 郷土研究クラブ 昭<数2>50 練馬区立上石神井中学校郷土研究クラブ
郷土練馬 練馬区立中学校教育研究会 昭<数2>26・<数2>29 茜書房
郷土練馬 練馬区教育委員会 練馬区教育委員会
郷土史研究ノ一ト 練馬郷土史研究会
1練馬の古い地名(平野実)昭<数2>33、2練馬の庚申塔(平野実)昭<数2>333練馬の庚申待(小花波平六)昭<数2>34、4豊島氏と清光寺(平野実)昭<数2>34、5田遊歌詞(永江維章・平野実)昭<数2>35、6月待供養の信仰(三輪善之助)昭<数2>35、7豊島氏の遺跡を訪ねて(平野実)昭<数2>35、8練馬区地名集(平野実)昭<数2>36、9明治時代の農村生活(石山乾二・平野実)昭<数2>36、<数2>10練馬の昔の道(平野実)昭<数2>36、<数2>11増訂練馬の庚申塔、<数2>12寅年閑話二題(石山乾二・小野信二)昭<数2>37、<数2>13練馬区のお地蔵(三吉朋十)昭<数2>38、<数2>14卯言兎耳(石山乾二)昭<数2>38、<数2>15練馬史話(平野実)昭<数2>38、<数2>16遊歴雑記に見える練馬(平野実)昭<数2>38、<数2>17練馬の民間信仰(三輪善之助)昭<数2>38、<数2>18竜のおとし子(石山乾二)昭<数2>39、<数2>19江西三十八勝詩歌(平野実)昭<数2>39、<数2>20武蔵野点描(平野実)昭<数2>39、<数2>21嘉陵紀行に見える練馬(平野実)昭<数2>39、<数2>22志村覚書(木村博)昭<数2>39、<数2>23巳から出たさび(石山乾二)昭<数2>40、<数2>24江戸時代の年貢(平野実)昭<数2>40、<数2>25巳年に因む蛇の話(三吉朋十・山中襄)昭<数2>40、<数2>26竹の実異変のこと(木村博)昭<数2>40、<数2>27武蔵野雑筆(平野実)昭<数2>40、<数2>28最古の申待板碑(平野実)昭<数2>40、<数2>29練馬のドンドン橋(杉山博)昭<数2>42、<数2>30関東における真言密教の弘通とその伝承(木村博)昭<数2>42、<数2>31五百羅漢の信仰(木村博)昭<数2>43、<数2>32中新井川の今と昔(須藤亮作)昭<数2>43、<数2>33東福寺の御膳所(須藤亮作)昭<数2>45
郷土史展・史跡説明板文史料 練馬区・社会教育課 昭<数2>43 練馬区教育委員会

郷土の歴史に親しむ(区内史跡めぐり資料) 長嶋安男 昭<数2>51 練馬区立石神井東中学校PTA教育委員会
資料もくろく<数3>'80 練馬区・広報課 昭<数2>55 練馬区役所
大東京史跡案内 一高史談会 昭7 育英書院
大東京の史跡と名所 佐藤太平 昭<数2>52 博友社
大東京総覧 中村舜二 大<数2>14 大東京総覧刊行会
大東京概観 東京市役所 昭7 東京市役所
大東京物語 東京市地理教育研究会 昭7 東洋図書
帝都と近郊 小田内通敏 大7 大倉研究所
東京都の文化財1・2 東京都 昭<数2>46 東京都教育委員会
東京都の歴史 児玉幸多・杉山博 昭<数2>44 山川出版
東京近郊史跡案内 一高史談会 昭2 古今書院
特別展リーフレット1(1~<数2>16 練馬区・郷土資料室 昭<数2>45 練馬区教育委員会
練馬の記念碑 郷土史シリーズ6  〃 ・文化財保護係 昭<数2>49   〃
練馬の史跡案内(図)    〃   〃
練馬の史跡案内    〃 昭<数2>50   〃
練馬郷土史研究1~<数2>68 練馬郷土史研究会 昭<数2>31~<数2>41 練馬郷土史研究会
練馬区史 練馬区史編さん委員会 昭<数2>32 練馬区役所
練馬区史年表 小西英 昭<数2>43 小西英
ねりま区勢要覧 練馬区・広報課 昭<数2>43 練馬区役所
練馬区統計書  〃 ・調査統計課 昭<数2>45   〃
練馬区文化財総合目録  〃 ・文化財保護係 昭<数2>51・<数2>55   〃
練馬区の歴史 練馬郷土史研究会 昭<数2>52 名著出版
練馬区文化財説明板文集 練馬区・社会教育課 練馬区教育委員会
練馬区の文化財    〃 昭<数2>41・<数2>43   〃
練馬区十年の歩み 練馬区・文書係 昭<数2>32 練馬区役所
練馬区二十年の歩み    〃 昭<数2>44   〃
練馬区独立三十周年記念写真集 練馬区・広報課 昭<数2>52   〃
練馬区経済要覧    〃 昭<数2>36   〃
練馬郷土史研究会会報<数2>69 練馬郷土史研究会 昭<数2>42 練馬郷土史研究会
北西区部文化財総合調査報告、東京都文化財調査報告書<数2>25 東京都・文化課 昭<数2>47 練馬区教育委員会
武蔵野(1~<数2>30 武蔵野会 昭<数2>46~<数2>48 原書房

2 宗教・寺社・信仰
板碑一覧表 昭<数2>32 練馬区役所
同光院小史 西谷隆喜 昭<数2>41 南池山貫井寺円光院
旱ぼとけ(北町あみだ堂) 津川白提 昭<数2>52 津川白提
北豊島郡神社誌 朝日重康・八木豊 昭8 北豊島神職会
庚申塔□練馬の民間信仰の中から、祖先の足跡1 練馬区・郷土資料室 昭<数2>48 練馬区教育委員会
古寺名刹辞典 金岡秀友 昭<数2>49 東京堂出版
広徳寺誌 福富以清 昭<数2>31 広徳会
三宝寺誌 平野実 昭<数2>35 亀頂山三宝寺
正長二年の板碑発見について 郷土研究クラブ 昭<数2>50 練馬区立上石神井中学校郷土研究クラプ
東京都板碑所在目録(<数2>23区分) 東京都・文化課 昭<数2>54 東京都教育委員会
道場寺由緒 豊島山道場寺
豊島八十八箇所霊場めぐり 宝田朝一 昭<数2>49 宝田朝一
長命寺 林亮海 昭<数2>42 東高野山長命寺
長命寺見学資料 郷土研究クラブ 昭<数2>50 練馬区立石神井中学校郷土研究クラブ
練馬の寺院1・2、郷土史シリーズ3・4 練馬区・社会教育課 昭<数2>46・<数2>47 練馬区教育委員会
練馬区の板碑 踏査部板碑研究班 昭<数2>42 東京都立第四商業高等学校踏査部板碑研究班
練馬区の板碑 祖先の足跡3 練馬区・郷土資料室 昭<数2>50 練馬区教育委員会
練馬の石仏 山下立 昭<数2>52 山下立
ねりま散歩 路傍のほほえみ 小橋川久美子 昭<数2>56 こぶし出版
練馬の道しるべ 練馬区小中学校教育会 昭<数2>36 練馬区教育委員会
練馬の神社 郷土史シリーズ5 練馬区・文化財保護係 昭<数2>48   〃
妙延寺史 山田海潮 昭<数2>40 倍光山妙延寺
武蔵野観音 三十三の霊場 札所研究会 昭<数2>50 金羊社
武蔵野 古寺と古城と泉 桜井正信 昭<数2>48 有峰書店
武蔵野の地蔵尊 都内編 三吉朋十 昭<数2>50   〃
3 遺跡・古文書・伝記
井口氏研究1・2 井口浩一 昭<数2>52・<数2>53 武州井口氏研究協議会
今川氏古文書目録 須藤亮作
遺跡参考文献一覧表

遺跡一覧表 昭<数2>49 東京都教育委員会
遺跡台帳   〃
池淵遺跡調査中間報告 石神井町池淵遺跡調査団 石神井町池淵遺跡調査団
池淵遺跡調査略報   〃   〃
池淵遺跡第二次調査略報 石神井町池淵遺跡第二次調査団 石神井町池淵遺跡第二次調査団
江古田村名主文書 高野進芳 昭<数2>43 堀野家
江古田原・沼袋合戦 須藤亮作 須藤亮作
江古田原沼袋合戦について   〃 昭<数2>50   〃
江戸氏の研究 関東武士研叢書1 萩原竜夫 昭<数2>52 名著出版
太田道灌の石神井城攻略について 長嶋安男 昭<数2>48 練馬区立上石神井中学校
太田安房守資武状 郷土研究史料8 練馬郷土史研究会 昭<数2>33 練馬郷土史研究会
太田氏関係文書集1~6、郷土研究史料<数2>13~<数2>18   〃 昭<数2>38~<数2>49   〃
太田氏の研究 関東武士研究叢書3 前島康彦 昭<数2>50 名著出版
大泉学園町・北大泉町遺跡調査略報 大泉学園町北大泉町遺跡調査会 昭<数2>46 大泉学園町・北大泉町遺跡調査会
大泉学園町・北大泉町・比丘尼橋遺跡報告   〃   〃
石神井川流域の無土器文化遺跡 オセド1・2 大沢鷹邇・芝崎孝 昭<数2>34 オセド研究会
葛原遺跡発掘調査報告 帯川要 昭<数2>31 杉並区立天沼中学校
上石神井村五人組帳前書 郷土研究クラブ 昭<数2>46 練馬区立上石神井中学校郷土研究クラブ
加藤隆太郎翁 昭<数2>34 加藤隆太郎翁頒徳会
関東長尾氏関係文書集1、郷土研究史料<数2>22 練馬郷土史研究会 昭<数2>43 練馬郷土史研究会
上石神井扇山の平地住居遺跡 矢島清作・村主誠二郎
鎌倉大草紙
近世練馬史料目録 練馬区史編さん委員会 昭<数2>32 練馬区役所
近世練馬諸家文書抄 練馬区 昭<数2>36   〃
北大泉比丘尼橋遺跡調査概報 安孫子昭二 東京都教育委員会
北大泉丸山遺跡 滝口宏
旧高旧領取調帳 関東編 木村礎 昭<数2>44 近藤出版
栗原 セントポ一ル・グリーンハイツ内遺跡発掘調査報告 中川成夫・川村喜一 昭<数2>32 立教大学文学部
古代神田川流域に於ける農業集村の位置 萩原弘道
考古学手帳 <数2>14 渡辺兼庸 昭<数2>37 塚田光
公用分例留記 下回富宅 昭<数2>41 東京書房社

三宝寺史料集 練馬郷土史研究会 昭<数2>31 練馬郷土史研究会
三宝寺・所蔵文書     (武州古文書上) 萩原竜夫・杉山博 昭<数2>50 角川書店
石神井城跡の第一次調査 榊原松司・青木一美 昭<数2>31 西郊文化研究会
石神井城跡 石神井城跡発掘調査団 昭<数2>42
石神井城について発掘調査の記録 郷土研究クラブ 昭<数2>50 練馬区立上石神井中学校郷土研究クラブ
石神弁公園の縄文式遺跡 萩原弘道・若月直 昭<数2>31 西郊文化研究会
石神井台一丁目遺跡調査略報 石神井台一丁目遺跡調査団 石神井台一丁目遺跡調査団
石神井台一丁目遺跡第三次調査略報   〃 昭<数2>56   〃
城山無土器文化遺跡 榎本金之丞 日本大学
十三ケ年の歩み 加藤教育振興会 昭<数2>48 東洋出版
関村・井口弥兵衛所蔵文書     (武州古文書上) 萩原竜夫・杉山博 昭<数2>50 角川書店
溜淵遺跡 榎本金之亟
田中氏の研究報告(西大泉地区) 加藤惣一郎 昭<数2>48
地誌調書上帳 郷土研究史料<数2>11 練馬郷土史研究会 昭<数2>34 練馬郷土史研究会
東京都古文書(村明細帳)調査報告 目録編 東京都・文化課 昭<数2>56 東京都教育委員会
土支田村明細帳 郷土研究史料2 練馬郷土史研究会 昭<数2>31 練馬郷土史研究会
豊島・宮城文書 練馬郷土史料1   〃 昭<数2>31   〃
徳丸本村名主 安井家文書1~3 文化財シリーズ<数2>18・<数2>20・<数2>23 板橋区・社会教育課 昭<数2>50~<数2>52 板橋区教育委員会
豊島氏之研究 東京史談<数2>25 平野実 昭<数2>32 東京史談会
豊島氏の研究 関東武士研究叢書5 杉山博 昭<数2>49 名著出版
豊島氏の興亡 平野実 昭<数2>27 練馬区教育委員会
豊島氏の興亡 郷土史シリーズ<数2>10 練馬区・文化財保護係 昭<数2>53   〃
豊島氏系図 豊島美王麿 昭<数2>34 豊島美王麿
豊島氏系図 練馬郷土史料5 練馬郷土史研究会 昭<数2>32 練馬郷土史研究会
豊島刑部少輔明重 江戸城刃傷の嚆矢 豊島美王麿 昭<数2>33 豊島美王麿
中村南町発見のマイクロ・コア 山田静夫 昭<数2>37
中村橋遺跡の中期 繩文土器 大沢鷹邇・芝崎孝 昭<数2>37
日本史教室 二―4 練馬池淵文化 北島政太郎 昭<数2>55 北島政太郎
貫井町三菱レイヨン遺跡 早稲田大学考古学研究室 早稲田大学
練馬城祉資料
乗瀦駅所在考 菊池山哉

乗瀦駅の所在について 坂本太郎 杉並区役所
墓を訪ねて 故林武太郎校長のことども 金子楽 昭<数2>39
風雪八十年 加藤隆太郎 昭<数2>44 高陵社
富士見池畔発見の配礫遺跡 中沢保
平和祈念碑協賛録 加藤惣一郎 昭<数2>46 大泉平和祈念碑建立之会
埋蔵文化財匂蔵地調査カ一ド
武蔵国豊島郡上練馬村明細帳 郷土研究史料9 練馬郷土史研究会 昭<数2>35 練馬郷土史研究会
武蔵国豊島郡関村明細帳 郷土研究史料<数2>10   〃 昭<数2>35   〃
武蔵野台地の繩文式文化以前の遺跡 吉田格 昭<数2>29 武蔵野文化協会
武蔵野の石器時代 武蔵野郷土館叢書7   〃 昭<数2>30   〃
武蔵武士 八代国治・渡辺世祐 昭<数2>46 有峰書店
物語・豊島氏 須藤亮作 昭<数2>45 郷土史話の会
矢島家の歴史 平野実 矢島孝一・矢島清二
力行会七十年物語 永田稠 昭<数2>41 日本力行会七十年記念委員会
わが家の今昔物語 加藤八十八・加藤ふゆ 昭<数2>47 葛生勘一
4 地誌・郡誌・村誌
江古田駅考 須藤亮作 昭<数2>52 須藤亮作
江戸時代の関村 井口浩一 昭<数2>53 練馬郷土史研究会
江戸時代の練馬1 平野実 昭<数2>30 練馬区教育委員会
江戸名所図会 斎藤幸成編・塚本哲三校訂 昭4 有朋堂書店
江戸時代の練馬 郷土史シリーズ9 練馬区・文化財保護係 昭<数2>51 練馬区教育委員会
江戸砂子 小池章太郎 昭<数2>51 東京堂出版
大泉今昔物語(旧三ケ村風土記) 加藤惣一郎 昭<数2>51 加藤惣一郎
大泉村誌
神奈川県管下三十一ケ村 東京府 明5 東京府
嘉陵紀行     (江戸叢書1) 江戸叢書刊行会 昭<数2>39 名著刊行会
北大泉四方山話(旧橋戸村風土記) 加藤惣一郎 昭<数2>45 加藤惣一郎
北豊島郡誌 北豊島郡農会 大7 北豊島郡農会
北豊島郡総覧 最終編 大正毎日新聞社 昭7 北豊島総覧社
北豊島郡各町村現状調査(上板橋・練馬・上練馬・中新井・石神井・ 東京市臨時市域拡張部 昭6 東京市役所

大泉各町村)
砂子の残月     (江戸叢書9) 昭<数2>39 名著刊行会
四神地名録・四神社閣記     (江戸地誌叢書4)
石神井城と太田道灌 長嶋安男 昭<数2>49 練馬区立上石神井中学校
下小榑村夜話 加藤惣一郎 昭<数2>42 加藤惣一郎
下練馬村郷土誌 大6
石神井村誌 石神井村役場 大4 石神井村役場
新編武蔵風土記稿1(豊島郡)7(新座郡) 廬田伊人 昭<数2>47 雄山閣
関町の歴史 練馬区・郷土資料室 昭<数2>54 練馬区・郷土資料室
田無宿風土記 下田富宅 昭<数2>50 下田富宅
東京案内上・下 東京市 明<数2>40 裳華房
東京府志料(抄)明治5年 東京府 東京府
豊島史 豊島郷土史研究会 大4 磊々堂書店
土地の発展史・土地区画整理事業の概要 記念誌編さん委員会 昭<数2>34 共栄信用金庫
中新井村誌(市郡合併記念) 内田喜太郎 昭8 中新井村役場
中むらの昔1・2 菅原シゲ子 昭<数2>51・<数2>52 菅原シゲ子
成増飛行場と飛行第<数2>47戦隊 神原敬文・山田剛久 昭<数2>55 練馬区立石神井中学校文化祭三年有志
日本地名大辞典<数2>13 東京都 日本地名大辞典編さん委員会 昭<数2>53 角川書店
練馬区内の地名の変遷 社会科研究会 昭<数2>46 練馬区教育委員会
練馬の小字名
東大泉野史(旧上土支田風土記) 加藤惣一郎 昭<数2>47 見米留治郎
光ケ丘前史 今井忠男 昭<数2>54 練馬区立上石神井中学校
武蔵野話 斎藤鶴磯 昭<数2>48 有峰書店
武蔵野歴史地理 高橋源一郎 昭<数2>46   〃
武蔵演路2 豊島郡
遊歴雑記     (江戸叢書3~7) 江戸叢書刊行会 昭<数2>39 名著刊行会
5 教育・民俗・伝説
一本杉物語(ある家系の風景) 加藤惣一郎 昭<数2>54 加藤惣一郎
上石神井 身近かな地域の調査・研究レポート集 練馬区立上石神井中学校 昭<数2>49~<数2>50 練馬区立石神井中学校
郷土の観察とその実践 石崎庸 昭<数2>18 帝国出版協会

研究集録 社会科の部 練馬区立中学校教育研究会 昭<数2>37 練馬区立中学校教育研究会
古老聞書1・2 練馬区・文化財保護係 昭<数2>54・<数2>55 練馬区教育委員会
小学校社会科資料集 練馬区小学校教育課 昭<数2>33 練馬区小学校委員会
社会科資料集(3年)   〃 昭<数2>36・<数2>42   〃
鎮魂録 加藤惣一郎 昭<数2>46 平和祈念碑建立会
東京都民俗地図 東京都緊急民俗文化財分布調査団 昭<数2>55 東京都教育委員会
練馬の民具1・2 祖先の足跡7・8 練馬区・郷土資料室 昭<数2>55・<数2>56 練馬区教育委員会
練馬の民俗1 郷土史シリーズ<数2>13  〃 ・文化財保護係 昭<数2>56   〃
練馬区における年中行事について 練馬区小中学校教育会   〃
ねりまのお蝶子 練馬区・郷土資料室 昭<数2>55 練馬区・郷土資料室
練馬のわらべ唄 島野伝五郎 昭<数2>52 島野伝五郎
練馬の絵馬(記録台帳) 練馬区・郷土資料室 昭<数2>53 練馬区・郷土資料室
練馬の絵馬 祖先の足跡6    〃 昭<数2>53 練馬区教育委員会
練馬区教育史1~6 教育史編さん委員会 昭<数2>48~<数2>50   〃
練馬の伝説 祖先の足跡5 練馬区・郷土資料室 昭<数2>52   〃
練馬の自然と生活 練馬区中学校教育研究会社会科(日本史合同)研究部 昭<数2>35~<数2>53   〃
練馬区の歴史と伝説 平野実 昭<数2>30   〃
練馬郷土研究資料 杉山博 昭<数2>30   〃
八丁堀三吉囃子
富士講と富士塚 日本常民文化研究所 昭<数2>53 日本常民文化研究所
道を軸とした歴史教材の研究――練馬区付近の鎌倉道を中心に―― 長嶋安男 昭<数2>51 長嶋安男
身近な地域学習資料集 副読本編集委員会 昭<数2>54 練馬区教育委員会中学校社会科部会
武蔵野の民話と伝説 原田重久 昭<数2>49 有峰書官
我が家の百華譜 平野実 昭<数2>43 平野実先生を偲ぶ会
わたしたちの練馬区 練馬区小学校教育研究会社会科研究部 昭<数2>55・<数2>56 練馬区教育委員会
わたしたちの練馬   〃 昭<数2>35~<数2>54   〃
私たちの練馬 練馬区中学校教育研究会社会科部 昭<数2>54   〃
6 自然・環境
大泉風致協会定款 大泉風致協会 昭8 大泉風致協会
大泉風致協会事業報告及同収支決算書   〃 昭9   〃

駅勢圏要覧 西武鉄道 昭<数2>42 西武鉄道
学習資料(野草の実態をふまえた) 練馬区教育委員会 練馬区教育委員会
清戸道 郷土史シリーズ2 練馬区・社会教育課 昭<数2>45   〃
清水山憩いの森 森田和好 昭<数2>52 森田和好
住居表示旧新対照表(各地区) 練馬区 昭<数2>38 練馬区役所
新区町名地番表(北豊島郡) 臨時市域拡張部調査課 昭7 東京市役所
自然環境保全に関する基礎調査報告書1~3 東京都公害局自然環境保護部 昭<数2>49 東京都
集落(ねりま)の発達 社会科研究部会 昭<数2>39 練馬区教育委員会
石神井川渓流の史跡をたずねて 芦田正次郎 名著出版
石神井公園の概要 昭<数2>55 石神井公園管理事務所
石神井公園の史跡をたずねて 練馬区立上石神井中学校 練馬区立上石神井中学校
石神井公園付近史跡説明 練馬区・郷土資料室 昭<数2>56 練馬区・郷土資料室
石神井城祉 板橋区郷土史研究会 板橋区郷土史研究会
石神井名所案内 篠原幸治 昭8 武蔵野郷土向上会
石神井付近(長命寺) 史跡研究会 昭<数2>53 史跡研究会
史跡の栞(練馬駐とん地近傍の) 昭<数2>48 練馬駐とん地司令
祖先の足跡を探る路すじ 練馬区・郷土資料室 昭<数2>46 練馬区・郷土資料室
台風<数2>17号の記録  〃 ・防災課 昭<数2>51 練馬区役所
東京都産鳥類目録 昭和<数2>49年度 東京都公害局自然環境保護部 昭<数2>50 東京都
練馬区内の野鳥について 昭<数2>36 練馬区教育委員会
練馬区の昆虫について 昭<数2>38   〃
練馬区の動物について(野鳥・昆虫を除く) 昭<数2>37   〃
練馬の古木と屋敷森 郷土史シリーズ8 練馬区・文化財保護係 昭<数2>51   〃
練馬の道 祖先の足跡2  〃 ・郷土資料室 昭<数2>49   〃
練馬の自然と文化 練馬区教育委員会 昭<数2>38   〃
練馬区緑の現況調査報告書 練馬区・公園緑地課 昭<数2>50 練馬区役所
練馬区の湿地植物について 練馬区教育委員会 昭<数2>36 練馬区教育委員会
練馬区の樹木について   〃 昭<数2>38   〃
練馬の野草   〃 昭<数2>37   〃
武蔵野鉄道沿線名所案内 横田雅三 昭3 大沢儀平
武蔵野の植物 東京府土木部 昭<数2>12 東京府

ふじ大山道 郷土史シリーズ1 練馬区・社会教育課 昭<数2>44(<数2>56改訂版) 練馬区教育委員会
野草カタクリ観察の記 森田和好 昭<数2>51 森田和好
夜間採集昆虫の実態 豊島園昆虫館 昭<数2>36
7 産業・農業・水利
江戸を中心とした水車稼ぎの発展 渡辺猛 昭<数2>48
江戸上水史(千川上水の灌漑利用) 吉野俊 昭<数2>30 吉野俊
川の昔と今 失われてゆく練馬の自然 練馬区教育委員会 昭<数2>47 練馬区教育委員会
共同墓地墓碑調査統計 郷土研究クラブ 昭<数2>50 練馬区立上石神井中学校郷土研究クラブ
北豊島郡の園芸 河田武治 昭4 北豊島郡園芸研究会
北豊島郡農具一式
石神井川について 長島安男 昭<数2>53 練馬区立石神井東中学校
水車(加藤八十八氏文書及び加藤家の水車稼について)
水車に関する書類 明<数2>27
水車文書(武蔵野地方)
西武鉄道 資料 西武鉄道 西武鉄道
西武鉄道 <数3>'76会社要覧  〃 昭<数2>51  〃
千川上水 石川乾二 昭<数2>16 武蔵高等学校報国団民族文化部門
千川上水関係史料
千川上水書類
千川上水の沿草 東京都 昭<数2>27
創立二十五周年記念誌 記念誌編さん委員会 昭<数2>34 共栄信用金庫
田柄用水 小島兵八郎
田無用水 保谷象一郎 昭<数2>51 保谷象一郎
玉川上水分水資料 保谷市議会事務局 昭<数2>52 保谷市議会事務局
東京市史稿 上水篇1 東京市役所 昭<数2>50 臨川書店
練馬区産業の発展(農家の生活) 昭<数2>43 練馬区教育委員会
練馬農業協同組合史1・2 練馬農業協同組合 昭<数2>45・<数2>55 練馬農業協同組合
練馬の水系 祖先の足跡4 練馬区・郷土資料室 昭<数2>51 練馬区教育委員会
練馬地方の「農家のつくりと生活」 社会科研究部会 昭<数2>48 練馬区教育委員会
練馬の民家 郷土史シリーズ7 練馬区・文化財保護係 昭<数2>50   〃

練馬大根 福井功 昭<数2>47
練馬大根とその病害虫1 馴松市郎兵衛 昭<数2>54 東京都植物防疫雑草防除協会
練馬大根よどこへ行く 地理研究部 昭<数2>35 板橋高等学校
練馬区産業の発展(農産物の変遷) 昭<数2>42 練馬区教育委員会
練馬の農業 練馬の農業編集委員会 昭<数2>33 練馬青年農業振興会
農事要覧(東京府下) 都政史料館 昭<数2>39 東京都
長谷川名主役宅
武蔵野地方水車年表
明治時代の農村生活 平松喜昭 昭<数2>42 練馬区立谷原小学校
明治中期産業運動資料 712 大橋博 昭<数2>54 日本経済評論社
8 文学・随筆・紀行
想い出の武蔵野 師岡宏次 昭<数2>51 講談社
画証録     (日本随筆大成 第2期 4) 日本随筆大成編集部 昭<数2>49 吉川弘文館
三宝寺池 小橋川英男 昭<数2>54 小橋川久美子
東京昔と今 思い出の写真集 松島栄一 昭<数2>47 ベストセラーズ
東京風土図 産経新聞社会部 昭<数2>36 社会思想研究会
野乃舎随筆     (日本随筆大成 第1期 <数2>12 日本随筆大成編集部 昭<数2>50 吉川弘文館
半日閑話     (  〃    第1期 8)   〃 昭<数2>50   〃
滅びゆく武蔵野1 桜井正信 昭<数2>51 有峰書店
南向茶話     (日本随筆大成 第3期 6) 日本随筆大成編集部 昭<数2>52 古川弘文館
武蔵野 桜井正信 昭<数2>50 社会思想社
武蔵野の記録 織田一麿 昭<数2>19 洸林堂書店
武蔵野探勝 高浜虚子 昭<数2>47 有峰書店
武蔵野 田村剛・本田正次 昭<数2>16 科学主義工業社
武蔵野雑記 上林白草居 昭<数2>27 白草会
武蔵野巡礼 白石実三 大6 大同館書店
武蔵野随筆 松村英一 昭<数2>17 文林堂双魚房
武蔵野との語らい 小池基 昭<数2>53 小池基
理斉随筆     (日本随筆大成 第3期 1) 日本随筆大成編集部 昭<数2>51 吉川弘文館