練馬区史 現勢編

<通史本文> <編 type="body"> <部 type="body">

第一部

<本文>

第一章 練馬区独立小史

第二章 区長公選への道

第三章 基本構想

第四章 区の紋章・花・木

<章>

第一章 練馬区独立小史

<節>
近郊を含む大東京の成立
<本文>

明治維新によって急速に近代化の道を歩んできたわが国であるが、その首都と定めた東京を、旧態の江戸からどのように改造し、欧米各国の首都にくらべて形態上、機能上劣らぬものにするかは、むずかしい課題であった。維新後、旧藩の占有していた多くの土地が開放され一部は軍施設として転用され、又都心部では新興財閥によって買収されたものなどもあった。しかし一般の住民の居所については、新構想による都市計画もないまま旧態依然としたものであった。(旧大名屋敷跡地の転用の例は本区の近くでは加賀藩邸の軍施設化が目立ち、その今日に至る推移には歴史的事実として興味深いものがある)。

これについての論議は深刻になされていたが、いずれも大綱をつかむものではなく、なかなか決し難い状態であった。明治二九年の第九議会、三四年の第一六議会、四一年の第二五議会でそれがとり上げられたがまだ機は熟さなかった。大正七年になって東京市会は特別市制調査委員を置き、周辺五郡についての実態調査を行ない東京市改造の実質的準備を進めた。

翌大正八年四月「都市計画法」が公布され、同一一年四月には、内閣から「東京都市計画区域」が発表され、東京市とそれに隣接する八四か町村を大東京の範囲とすることになった。当時の人口三三六万弱が三〇年後には七〇〇万人に達するものとの推算であった。ところが突如襲った大正一二年九月一日の関東大震災は、東京の下町の大半を灰燼に帰せしめ、この計画も一時停とんする状態に立ちいたった。そして、焼跡のここかしこに帝都復興のたくましい槌音が高く鳴り響くころ、東京の人口分布は著しく変貌していた。それは、焼け出された住民のかなりのものが避難先の山の手から近郊各地にわたっ

て定住の気配を見せたためである。この勢いはことに西郊に大きく見られたが、本区地域でも人口の増加をみ、ことに南部地区では市街地化が著しくなってきた。こうして東京の新構想は旧区と近郊地域を一体化して構想を急ぐことに拍車がかかったのであった。

昭和四年五月、市会に「特別市制に関する調査委員会」がおかれ、「都制に関する実行委員会」が近郊五郡の合併を具体的に検討した。いっぽう合併を受ける近郊町村側でも六年六月には、隣接町村合併促進同盟を発会させ、併合に関する議決書、意見書が各町村で議決され、合併の気運は熟してきた。

こうした経緯があって、市案ができたが、それによると、旧一五区の人口を平均すると一区一四万になるので、これを目安として近郊を分割して新区をおくことにしている。

六年一二月一八日、市会は「市域拡張に関する意見書」を決議し、翌七年一月一四日、五郡も「東京市郡併合期成同盟会」を構成出発させた。四月七日の内務省、東京府、東京市の三者会談を経て、府から市郡併合の許可申請書が内務大臣に提出され、内務省はこれを受けて五月二四日、許可すると東京府に対して回答した。

ところで、東京市長から府知事に提出された東京市案では <資料文>

板橋町、上板橋村、志村、練馬町、上練馬村、中新井村、赤塚村、石神井村及大泉村の二町七村を以て板橋区を編成す。

此の地方の東部は徳川時代における中仙道交通の枢要地として往来繁かりし地なり。近来工業の発達と共に東部に岩淵、王子等の工業地帯を控え、北部に工業地域内甲種特別区域たる志村を有し、板橋町及上板橋村は漸次住宅地として進展を示しつつあり、本地の西部は古くより川越街道によりて育まれ土地概して平坦一望の武蔵野平野にして未だ農業地たるの域を脱せざれども、練馬町、中新井村、石神井村等の都市化は頗る顕著なるものなり。

板橋町は郡役所の所在地たりしのみならず往昔より宿駅として繁栄し、現在に於ても当地方の社会的中心たり、其地位は南足立郡における千住町の如く北豊島郡西半地方の中心たり。

交通機関には東部に東北線あるのみなるも将来、東京郊外鉄道、大東京鉄道、東武鉄道、東京西北鉄道、未成線完成後は板橋を中心とする交通の便極めて多かるべし、又東上線は川越街道に沿ひ本区の中央を横断し又南部には武蔵野鉄道及西武鉄道の横断するありて区内交通の幹線をなす。

区内における乗合自動車の発達は極めて著しく板橋を中心に、王子、巣鴨、池袋、赤塚村、志村、豊島園等に到るものあるのみならず、区内各地を連絡するもの相当多し。

都市計画路線の修築着々として進捗を見、中仙道川越街道環状第六号等の竣成利用を見つつあり、如斯本地方は古来中仙道及川越街道沿線として気脈相通じ、其発達過程を一にし来れる地方にして、又交通関係においてもよく統合せられ、現在に於ては板橋町を中心とする有機的一体を構成するを以て、地域広大なりと雖も当分の内、特に合して一区となすを適当なりとす。

とある。練馬の属する当時の北豊島郡は、人口から割出すと、旧一五区人口平均一四万人に対して六・二倍になるので六区が新しく誕生してよい訳であったが、人口が東南部に多く西部に少なかったので、次のように五区にした市案ができた。 この結果、旧一五区に匹敵する面積を一区として統轄する無理を押して「板橋区」が成立したのである。こうして昭和七年一〇月一日、三五区の東京市が発足した。それは既に「地域広大なりと雖も当分の内特に合して一区となす」の市案に示されるように、住民の希望を十分に反映したものでないことが明白であった。新区設置に当って、農村部を主にした次の六か町村長から出た陳情書は当時の実情を物語るものとして貴重である。

<資料文>

   陳情書

東京市域拡張ノタメ八十二ケ町村併合ニ伴フ新行政区劃ノ編成ニ就テハ既ニ当局ニ於テ十分慎重ナル考究ヲ重ネラレ最モ妥当ナル措置ニ出デラルルコトトハ相信ジ候ヘ共、従来本郡内ニ於テ志村、上板橋村、練馬町、赤塚村、上練馬村、中新井村、石神井村、大泉村、以上八ケ町村ハ土地ノ情况殆ト相酷似セルモノアリ、従ツテ自治行政ニ於テモ渾然融和同一歩調ノ下ニ相提携シテ今日ニ至リタルモノニ有之候。故ニ今回市域ノ拡張ト共ニ新行政区劃ノ編成ニ当リテハ一面従来ノ歴史ニ鑑ミ、一面将来ノ円満ナル自治発展上ヨリ考察シテ以上ノ八ケ町村ヲ以テ一行政区劃ヲ編成スルハ最モ賢明ニシテ且ツ正当ナル措置ト相信ジ申候。依テ此際板橋町ヲ断然他区ニ編入シ、以テ吾人ガ正当ナリト信ズル方針ニ変更セラレ、其実現ノタメ邁進セラレンコトヲ懇願仕候。

更ニ事由ヲ附記スレバ

<項番>(一)以上八ケ町村ハ現在大部分農業地帯ニ属シ其ノ生業殆ト同一ノ情態ニ有之候。此ノ未ダ農村タルノ域ヲ脱セザル地域ヲ一行政区劃トナスハ之ヲ行政上及ビ将来ノ施策上ヨリ観察シテ最モ便宜且ツ妥当ノ処置ト相信ジ申候。

<項番>(二)現在ノ農業地帯モ近時交通機関ノ整備ト共ニ住宅地帯トシテノ発展目ザマシキモノ有之候。然シ現在ニ於テハ面積ノ広汎ニ比シ人口稀薄ノ感有之候モ将来ノ包容力ニ於テハ既ニ発展ノ余地ナキ近接町村ト比較スベクモアラズ、将来ニ於テハ戸口ニ於テ他区ヲ凌駕スルニ至ルヤ一目瞭然タルモノ有之、実ニ前途洋々ノ感有之候。

依テ此ノ八ケ町村ヲ一行政区劃ノ編成地域タラシムルハ理ノ当然ト相信ジ申候。以上ノ意見ニ就テハ直接当面セル問題トシテ八ケ町村ハ夫レゾレ緊急町村会ヲ開会シ、同一歩調ノ下ニ意志表示ノ決議ヲ経タル次第ニ有之候。何卒吾人ノ意ノ存スル点ヲ諒セラレ更ニ慎重審議ノ上其ノ実現貫徹ヲ期セラレ度、茲ニ連署ヲ以テ事情ヲ具シ、謹デ及陳情候也

    昭和七年五月十一日

                                             中新井村長 内田喜太郎㊞

                                             石神井村長 栗原 謙三㊞

                                             赤塚村長  鈴木 義顕㊞

                                             志村長   大野作次郎㊞

                                             大泉村長  加藤銀右衛門㊞

                                             練馬町長  大木金兵衛㊞

こうして、不満や不安を内包しながらも、昭和七年一〇月一日、練馬地区を含む板橋区が大東京三五区の一区として成立した。

<節>
練馬・石神井両派出所設置
<本文>

このかなりの無理を押しての区成立は、たちまち先ず区役所の位置問題で紛糾した。これは結局、原案を通して旧北豊島郡役所をそれに充てることになるが、西部各地区の住民の不便は明らかであり、七月には石神井、大泉地区での村民大会が開かれ反対の決議をしている。その一例を大泉村にとって述べる。

同村では七月八日、大泉小学校で、渡辺徳右衛門氏を会長として村民大会を開催、次の決議案を可決した。 <資料文>

   決議案

我ガ五百万市民ガ多年ノ要望タリシ大東京モ、愈々今秋十月一日ヲ期シ、ソノ実現ヲ見ントスルハ、都市百年ノ大計ニシテ、誠ニ欣幸ニ堪ヘザル所ナリ、然シ、合併ニ伴フ行政区域ノ決定ト同時ニ、設置セラルベキ新区役所位置ノ適否ハ、全住民ノ利害休戚ノ岐ルル処ニシテ、実ニ一大関心事タルハ、論ヲマタザル処ナリ。

ソモソモ区役所ハ、区域内ノ実状ヲ精察シ、居住民利便ノタメ、交通至便ノ地点ニ設置スベキモノト信ズ。

若シ夫レ併合新二十区中最大ノ面積ヲ有スル我ガ板橋区ガ、東端僻偶ノ板橋町内ニ、区役所ヲ設定セントスルカ、西部地帯ノ全住民ノ蒙ル不便、不利コレヨリ甚シキハナイ。

依テ吾人ハ板橋町ニ区役所ノ設定ハ断固トシテ承服シ難ク、改メテ左記要項ニヨリ、選定セラレンコトヲ切望スル次第ナリ。茲ニ本村民大会ハ本会ノ決議ヲ尊重シ、之レヲ堅持シ、ソノ目的ノ貫徹ヲ期ス。

      記

  1. 一、東西五里ノ広漠タル新板橋区ハ、区役所ヲ交通至便ノ中央地ニ設置セラレンコトヲ望ム。
  2. 二、同時ニ区役所出張所ヲ、大泉村、石神井村ノ境界地点(石神井村大字下石神井一九〇一番地附近)ニ設置セラレンコトヲ望ム。
  3.    昭和七年七月八日                                      大泉村村民大会
こうした反対については、他の新区にも同様の例のあることから、市は七年九月三〇日、告示をもって「新設区役所との交通に特に不便なる地に暫定的に」派出所を設置することにした。板橋区には練馬派出所(中新井村、練馬町、上練馬村、赤塚村各一円所管)と石神井派出所(石神井村、大泉村各一円所管)を置くことにし一〇月一日開所した。

しかし、この派出所はその取扱う業務も十分とはいえず、住民の不便は依然として残り不満は絶えない状態であった。そこで、板橋区会内の練馬地区出身の議員は、区の基本姿勢から改めさせなければならぬという観点から引きつづいて強力な運動を展開することを申し合せた。昭和八年二月二五日の板橋区会で加藤隆太郎氏が事務取扱上の十項目を掲げて派出所事務について区長に質している。これについて当時の区長上田房吉氏は、質問の趣旨に同感である旨を冒頭にして答弁したが、進展をみぬまま区長を退いてしまった。

そこで、翌九年二月二六日の区会で、加藤氏は再び新区長に質問をしており。それを同氏が後日『練馬独立史』に採録している。

<資料文>

     昭和九年二月二十六日開議

〇十三番 加藤隆太郎氏

○番外一番 区長中野浩氏

当時の事情として、板橋区成立までは、西部地区(練馬・石泉地区)では、住民はそれぞれ九か所の役場で用を足していたのが、東京市編入と共に二か所の派出所、しかも「その実際の取扱事務を見ると、微々たる事でも、区役所に来なければ用事を弁ずる事ができない様な状態で、西部方面から板橋の役所へくるには、二回も電車に乗換えて、往復五十八銭も交通費

がかかる有様、時間と経費に余りにも負担が多い」(加藤氏質問中より摘記)という実情であった。

こうした切実な問題があっての質疑応答であるが、この件を離れて今日この経緯を読んでいると、当時の練馬の実態が言葉の端に見られることにも注目しておきたい。そこには近郊農村地帯としての住民の生活がにじみ出ている。今日では失なわれようとしている田園の良さが、当時の練馬であった。何故その良さを守りながら生活の改善向上がなされなかったのであろうか。

いっぽうこのころからわが国は、急速に戦争に向って突進していった。事変からやがて戦争へと事態は急迫をつげた。このため住民の意向も生活もこの制約の下におかれ、戦争遂行にすべてが向きを変える体制が整えられてきた。それとは別の意味で、東京市は、他の都市と同様、すぐ上級の東京府とさらに国との二重の監督の下におかれているので何かにつけて不合理、不自由が目立っていた。そのため都制を施き行政の円滑化を計るべきであるとの意見が出ていたが、全く偶然、戦時体制をとるための東条内閣の国策として、地方制度の改正が決定し、一八年七月一日、東京都制が施行され、府と市が一体となることになった。しかし、都長官は官選であり、戦時都制であるため、現実の区行政は全く形骸化し、都によって強く拘束されることになってしまった。この体験が後に区の自治独立を唱える運動の萌芽になったともいえるであろう。

しかし、派出所問題は、その後も全く解決の方途を見出し得ないでいた。一九年一月の都議会で、当時都議会議員に選出されていた加藤隆太郎氏は、板橋区が旧一五区に匹敵する広大な面積で一区をつくり、区成立後人口も激増しているのであるし、しかも派出所で取扱う事務は、頗る少範囲であり、加えて交通網も整備されていないので、住民の立場からすれば不自由極まる実情である。こうした諸点を併せ考え「区役所の派出所管轄区域内に独立区を設置する考えがあるか」ということを強く指摘し、区独立の決意を都に促す意を含めて質問している。

これに対し、都長官大達茂雄氏は、板橋区にそのような深刻な問題があることは詳しくは知らなかったので早速調査し処置したいと答えている。それに従って長官から桜井民生局長に調査の指示が下され、民生局長も誠意をもって早速活動を開

始したのである。

<節>
区設置期成会の結成
<本文>

そこで、この大勢を有効に生かす方向に進めるべく、加藤氏は、都議会閉会後直ちに具体的活動に移り、地元有志と一堂に会して策を練り、地区内の世論を喚起すると共に推進母体を結成する目的で、有志者に連絡をとり集合するように回状を発した。予定の日、一九年二月一七日、会場を練馬警察署に借り、各町会長、区会議員、団体代表者の有志が集り、加藤氏の経緯報告を聞き、元陸軍少将の中村四郎太氏を会長とした「練馬区設置期成会」を結成し、区設立の促進方法につき積極的に活動することを約した。

画像を表示

期成会は直ちに都に対する運動を開始し、大達都長官を訪れ善処方を要望している。このとき都側の応対にはかなり好意的なものが感じられたという。しかし、戦局は憂慮すべき状態に陥りつつある非常の相を示し、内務省は都に対して、境界等の廃置分合を一年間停止する旨を通達した。このため区独立の懸案はその最終段階に近づいたまま惜しくも停止せざるを得なかったのであった。

これにつき、都はこの事態に応じ新しい展開を求めるため、一九年四月二七日、訓令「東京都区役所支所規程」を発し、第一条に「区長ノ事務ヲ分掌セシムル為、区役所支所ヲ設クルコトヲ得、其ノ位置、名称及管轄区域ハ別ニ之ヲ定ム」とし、練馬地区では、練馬派出所が支所に改められ、五月一日、開進第三国民学校講堂を使用して発足した。さらに「区役所・支所出張所規程」により石神井出張所が都区内の他の六出張所と共に同じ五月一日執務を開始した。石神井派出所が改められたものである。こうして、区独立

は戦時下非常の態勢の中で実現できなかったが、独立へ数歩の前進をみせて、支所・出張所時代に移ったのであった。

<節>
練馬区設置の意見書
<本文>

戦争は悲惨な姿を地上に残して終結した。敗戦後、占領軍の中心であるアメリカは、日本の民主化を根本課題としてきびしい指令を相ついで発してきた。その中に地方自治の確立の問題があり、日本政府は、二一年九月地方制度改革に踏切り、その後、それをさらに修正するなど、自治権の拡充に力を注ぐことになった。

昭和二一年七月二日「東京都制の一部を改正する法律案」「市制の一部を改正する法律案」「町村制の一部を改正する法律案」「府県制の一部を改正する法律案」など地方制度改革の法律案が第九〇帝国議会に提出、可決され、九月二七日公布された。

この根本主旨は、明治以降の急速なわが国の発展が、裏がえせば、中央集権的行政によって民衆の意志を拘束し、国策優先の没人間的施策を実行し、財閥と結託して超国家主義的傾向を鼓吹し、軍国主義への道を歩かせたのであると規定したことにある。従って、新法の主旨は、地方公共団体の自主自律性を高めるために、住民の意志を尊重する形に改める。そのため選挙権を拡充し、二〇歳以上の男女住民でその地区内に六か月以上居住するものとし、被選挙権は二五歳以上のものに認める。又、直接請求制度を新設し、一定数の選挙人に対して条例・規則の制定細則、市町村長の解職請求、地方議会の解散請求と事務監査の請求する権利を認める。さらに、地方自治行政を公正、能率化するために、選挙管理委員会、監査委員会を新たに設け、都制の改正では、区の権限を拡充し、区長を住民の直接選挙によって選出すること、などである。

二一年七月二九日、住民を代表する形で、町会長、区会議員、各種団体長が全員協議の上、練馬区設置の決議をしている。

これを受けて、八月七日、板橋区会で、練馬地域に関する分離独立の動議が提出され成立した。これは上野徳次郎、林信助、小口政雄、梅内正雄氏らが中心になって力を尽したもので、ことに上野、小口、梅内三氏は練馬地区出身の各派区会議

員の間を東奔西走して説得に努めた。区会は分離独立の件を自治振興委員会に審議を委託した。採択議決された意見書は次のものである。

<資料文>

 意見書

東京都板橋区の区域中現行板橋区役所練馬支所の管轄する行政区域(別表)を以てその区域とし、東京都制第百四十条以下の所定する規定により、法人たる練馬区を速かに設置せられたし。

理由(省略

右本区会の議決を経、東京都制第六十三条並同施行令第七十八条に依り意見書提出候也

 昭和二十一年八月七日

                                           板橋区会議長 篠 統一郎

内務大臣閣下

東京都長官閣下

別表(昭和二十一年六月一日現在

現行 板橋区

 人口 二六〇、五五一人    面積 八〇・六七八平方粁

新板橋区新練馬区
区域人口・面積
旧板橋町
旧志村
旧赤塚村
旧上板橋村
人口 十六万一千余人
面積 三十四平方粁余
区域人口・面積
旧中新井村
旧練馬町
旧上練馬村
旧石神井村
旧大泉村
旧上板橋村ノ一部
人口 九万九千余人
面積 四十六平方粁余

<節>

都、二二区案でまとめる
<本文>

審議を委託された自治振興委員会は、六回にわたって慎重にこれを議したが、折から都側に各区の配置分合の意志があり、その審議が各区の利害にも関する重要な事項を含むので議論百出、難行し、その解決が先になり議が進まず、漸く翌年三月結論が出て二二区案が施行されることになった。そこで区の委員会としては、すでに練馬区独立の機が熟しているので、全会一致でこれを決定し、都長官から諮問があり次第直ちに区会に提案、議決して貰うよう申しあわせた。その委員長報告の要点は次のようなものである。

都に三五区連盟の自治振興委員会があって、地方制度の改正案中都制に関する条項につき「甚だ当時の政治立法の域を離れないので区の行政区分について幾多の陳情を致し、画期的に区の権限の拡大を計るべく数回に亘って衆議院の地方制度改正委員長中島守利氏に要請し」(中島代議士は練馬に深い理解を示したお一人であり、独立推進側の区議は再三再四、同氏を訪れ善処方を願っていた)「全条四十八ヶ条の修正を以て今まで東京都の行政区であったところの区も、立派な完全に近い程の自治区となった」。そこで、区の財政経済上からも区を独立させるためには、区の廃置分合が必然的に生ずるが、これのため各区で選出した都会議員、学識経験者、復興委員などを網羅して都庁内で分合配置について検討し、その結果、都の三五区を結局二二区に統合するとの結論が出た。

しかし、これには各区に強い異論があった。区はそれぞれ長い伝統をもっているので、それを棄てて他の区と合併することには耐えられないものがある。都長官も自治振興委員会に数回見えて、この際是非小異をすてて大同につき、二二区案にまとめて貰いたいとのことであったが、それでも議論は果てることなく続き、年内にまとめようというのが、翌年三月になって漸く決定したというのである。

そこで二二区案がこのように難行したため、練馬側の熱烈な要求を十分承知しながら、それを審議することができず、三

月五日という都の告示になったのであって、これが近く実施されることになったら急ぎ区独立を実現させなければならないと申合せ決定したのである。

<節>
独立区民大会の宣言
<本文>

一方、二一年八月七日の板橋区会での動議成立を待って、翌八月八日、区民有志は練馬開進第三小学校で独立区民大会を開催した。その宣言及び決議文は次のようなものである。

<資料文>

   宣言

 今や我が国は誤まれる軍国主義を絶滅して平和に輝く新日本建設のために、民主政治を断行する事は極めて当然であり、更に之が根底をなす地方政治に対し、地方制度を改正して相当大幅の権能を拡張する事は是又当然の帰結である。東京都に於ては此の地方制度の改正を機として区の整理統合を実行する趣なるも、他に比類なき尨大なる地域に生活する吾等練馬十万区民がその福祉増進の為に、多年に渉り翹望する独立自治区たる練馬の設置は当局に於て未だ考慮せられぬやに仄聞するも斯くの如きは全く当地の実情を無視し、大衆の熱望を蹂躪するものにして、吾等の断じて承服する能わざる所である。吾等は練馬区設置の為に蹶然起って如何なる障碍も難関をも突破し所期の目的貫徹を期するものである。

 昭和二十一年八月八日

                                               練馬区独立区民大会

   決議文

吾等練馬十万民衆の福祉の為、現板橋区役所練馬支所の管轄区域を以て独立自治区として速に練馬区を設置すべし

 右決議す

 昭和二十一年八月八日

                                               練馬区独立区民大会

前述の都配置分合の動きは、東京三五区を再整理し、自治区にふさわしい単位にする構想である。東京の区は他地域にある行政区ではなく、区長、収入役の権限もかなりの幅を持ち、区会は独立した議決機関として活動し、学事、兵事、戸籍、租税、衛生、土木等を委任業務として処理していた。それが、戦後の地方自治改革によって、さらに拡充され簡素な自治権を持つ行政区から特別区といわれる市に相当する権能をもつ自治体に成長した。そこで、この民主的区政を実施するための三五区の統合を戦後の復興計画に合せて実行する構想が現われたのである。二一年九月二三日、都長官の諮問機関として「東京都区域整理委員会」が設置された。一〇月三日、第一回会議席上発表されたその内容は「人口は都市計画の見地から一応都の人口を四百万と仮定し、一区の人口を二十万前後、面積は一区十平方キロ以上が適当」とすることであった。これを基礎にした議案は次のようなものである。

新区名統合区
港区 芝区、麻布区、赤坂区
新宿区 四谷区、牛込区、淀橋区
千代田区 麴町区、神田区
中央区 日本橋区、京橋区
文京区 小石川区、本郷区
新区名統合区
台東区 下谷区、浅草区
墨田区 本所区、向島区
江東区 深川区、城東区
品川区 品川区、荏原区
大田区 大森区、蒲田区
新区名統合区
北区 滝野川区、王子区
世田谷区 玉川支所
板橋区 練馬支所

   目黒、渋谷、中野、杉並、豊島、荒川、足立、葛飾、江戸川の九区は単独区とする

この案では、整理統合に主眼がおかれているためか、練馬に対する配慮は全くなく、依然として旧態のままであった。

<節>

区設置期成会の活躍
<本文>

練馬区設置期成会長加藤隆太郎氏と練馬支所町会連合会長上野徳次郎両氏は、都に区域整理委員会が設置され委員が決定するのを待って委員五八氏に九月二〇日「(前略)練馬区の新設は、当地住民多年の要望にこれあり、かねてより内務大臣、都長官その他関係当局に陳情致しおり候につき、御参考までに、関係書類御送付申上候間、何卒当練馬十万区民の願意御汲取りの上、是非これが実現に格別の御高配を賜り度……」との懇請状を送っている。設置期成会としては、都の原案に、練馬が何ら考慮されていないので、さらに激しい運動を展開してこの難関を克服しなければならないことを改めて認識し、幹部は「息詰る興奮の内に議を練った」(加藤隆太郎『風雪八十年』)。そして管内二万三千世帯の連判書を揃え、一〇月九日安井都長官を訪れ、小委員会(都区域整理委員会には一九名からなる小委員会ができ、これに議事が附託されていた)、区会議長会、内務省さらにGHQまで「間断なく歴訪」した。このGHQ訪問は、民意尊重の方針を唱える占領軍に、練馬地区における長年の板橋区からの分離独立運動の実情を説明し、これが地区住民の総意であり悲願であることを理解して貰い、場合によっては、司令部から頑迷な都当局に助言して貰おうという含みをもったものであった。

ところが、GHQ側は、実情を全く知らず、かつ言葉の中にしばしば「独立」と出てくるので、被占領状態に対する地域の独立とも受けとれることから、神経過敏になっている係官らが何か事態の容易ならざることと判断し、しつこく質問を浴びせる。それに答え彼らの誤解をとき訪問の目的を達しなければならないこちら側、一同苦闘した一幕もあった。GHQ側は翌日わざわざ練馬支所まで取調べに現われたほど慎重であったという。

こうした挿話もあったが、区独立運動は、繰返し繰返し続けられた。一〇月二三日には加藤設置期成会長と練馬支所町会連合会上野徳次郎氏連名で区域整理特別委員に練馬地区の実情調査をされるようにとの招請状を送っている。こうした中で翌一一月四日、もりあがる練馬独立の気運に、板橋区は、自治振興委員会を開き、陳情書を可決し、都の決断を促すことに

した。

<資料文>

   陳情書

当板橋区は、市郡併合により、九ヶ町村を以て設置せられましたが、区域は実に八十平方粁、旧十五区の全域に匹敵するものであります。然るに交通機関に欠けて、行政の浸透が不充分で、区政の運営に支障を来しますので、さきに練馬支所及び石神井派出所を設置し、これに独立の区と同等の権能を与えられてきましたが、支所管内のみで尚四十六平方粁に達し、他区に比し極めて広大な地域を占めております。加うるに産業、経済その他人文地理的な様相も、本区管内とは頗る異なり、人口増加の趨勢、産業勃興の状況等凡ゆる見地より、練馬支所管内をして、独立の法人区たらしめる必要を痛感する次第であります。

茲に板橋区の区域中、現行板橋区役所練馬支所の管轄する行政区域を以て、東京都の規程により、法人たる練馬区を速かに設置せられますよう、特別の御詮議をお願い申度陳情致します。

 昭和二十一年十一月五日

                                         板橋区会議長   篠 統一郎

                                         同自治振興委員長 粕谷 万平

この板橋区での陳情書議決は、区独立運動を推進する一同にとっては百万の味方を得たようなもので心より感謝したものであった。

<節>
区独立の決定
<本文>

都案の二二区配置分合に対しての練馬分離独立運動はこうして板橋区側としても好意をもって、その成功を願う意志を示したのであるが、同様の分離案が玉川地区からも提案されるなど、支障を来す事態に立ち至った。都としては併合する区の間だけでも非常に困難な論議がたたかわされているのにその上に輪をかけ事態を紛糾させるおそれがあると観たのは無理か

らぬことであった。こうして、かなりの曲折を経ながら二二区制実施につき解決の形をとり、二二年三月五日、都は内務大臣の承認を得て即日告示し、三月一五日施行としたのである。

そこで、都は三月一二日、都長官から板橋区長宛次の文書を送付した。

<資料文>

 昭和二十二年三月十二日

                                              東京都長官 安井 誠一郎

 板橋区長 牛田 正憲 殿

板橋区役所練馬支所管轄の区新設に関する区会提案指示について

貴区練馬支所管轄区域を以て、区を分離新設することについて、予てから関係方面の切なる要望もあり、左記理由によって必要と認められるから、都制第百四十一条により貴職より区に提案附議せられたい。

     記

  1. 一、板橋区は、区域極めて広大にして然も交通機関不備なため、区民の日常生活と密接不離な関係にある区政の浸透徹底に遺憾な点が多いから、これを分離する要がある。
  2. 二、人口面積並に担税力において、独立の資格を有する。
  3. 三、文化、公共的施設において、独立の資格を有する。
  4. 四、区役所管轄区域と次の諸点につき脈絡関連性がなく、又共通的利害関係薄く、従って区民の福祉増進のため、独自の施策によって開発を図るを適当とする。
    1. 1 人的構成の特性
    2. 2 交通上の特性
    3. 3 都市計画上の特性
    4. 4 生活共栄圏の独立

さらに同日付、都から練馬区独立についての審議要求があった。

<資料文>

    板橋区役所練馬支所管轄区域の区分離新設並びにこれに伴ふ財産処分について

  1. 一、板橋区練馬支所管轄区域をもつて区を分離新設し、区名を練馬区とする。
  2. 二、板橋区の左記区有財産は、新設の日現在の人口割を以て練馬区に帰属せしめる。

      記

    板橋区救済基金

     昭和二十二年三月十二日

                                              東京都長官 安井 誠一郎

これらにつき、牛田板橋区長は、翌三月一三日、区会を招集し、これらを附議した。区長の挨拶も「練馬支所管轄区域の分離独立につきましては、かねて関係各位の御要望によりまして、都も慎重検討しておったのでありますが、この度その必要を認め、本職に対して、区会に提案指示が参ったのであります。都の意向もございますので、何卒御審議の上、急ぎ決をお願いいたします」と極めて好意的なものであった。これについで自治振興委員会委員長粕谷万平氏が立って「昨年八月七日の区会に練馬区独立の提案がありまして以来、自治振興委員会は審議を重ねる事六回、去る三月七日の委員会は、独立の機熟したものと認めまして全会一致その独立を決定いたしたのであります(前述の報告参照)。委員会が何故にかく遷延しておったかということは、二二区案の統合に難行している処へ、こちらは一区を二区にするのだから誰れからみても無理な注文で時期でないので、私共が御満足な行動をとることができなかったことを御諒解願いたいのであります」と述べた。

栗原佐吉氏は「……昭和七年以来、板橋区民として親しい兄弟が分れることは、誠に涙の出る思いであります。この問題が起きてから、練馬の諸君が熱心に運動を続けられたことは、全く感服の外ありません。この熱意あってこそ独立後は何ら心配なく処理されることと考えまして、本案の通過を強く要望いたします」と述べた。

こうして、本案は可決された。これで多年の念願がかなった訳であり、独立に執念に近い情熱を持ったかたがたも一応安堵したのであるが、なお、手続き上の問題があり、殊に新二二区の実施が三月一五日と発表されている時期でもあり不安を残していた。このやりとりの中心になった安井都長官、牛田区長、ともに練馬区独立に強い関心を持ち、すべてを好意的に運んで呉れたいわば区独立の功労者でもあった。

<節>
新自治法施行により中断
<本文>

都側としても、安井長官はじめ、かなりの人たちが二二区成立と同時に練馬区の独立を計りたいという意見を潜在的に持っていたと考えることができる。しかし、全般の勢いから時間的に無理になっていた。すでに新憲法の施行も五月三日に決定していたし、その前、四月五日には新二二区の区長公選が決っていた。

区独立は、こうして最終の手続きの段階で時間切れになり、新二二区は三月一五日発足した。板橋区もそのままで練馬地域を含めて再発足した。四月五日、区長選挙が行なわれ、牛田正憲氏が公選され、引きつづき区長としてとどまった。三〇日、区会議員選挙も行われ四五名の定員中、練馬区域からの当選者は一九名であった。八日の都知事選では元長官の安井誠一郎氏が当選した(安井氏は都知事選出馬のため三月一〇日辞任していた)。四月二五日、衆議院議員選挙、三〇日、都議会議員選挙とこの月は、GHQ指令による新体制に基づく選挙が相次ぎ、一方、四月一日には、旧体制下の町会、隣組が廃止されていた。

この一連の動きは、日本の政治を過去から切り離す重要なものであったが、このため区独立問題は、誰もがそれを認めながら、直接にはしばらく具体化することができなかった。練馬区にとっては歯がゆいことであったが致し方なかった(一部に独立によるマイナス面について強調する意見が出ていた)。

<節>

区議会での議決
<本文>

新自治法による特別区になった新板橋区にとって練馬独立問題は、従来経過した手続きを白紙に戻し、再出発する要があった。五月三〇日定例区議会が開会され、議席の決定、議長・副議長の選挙がおこなわれた。臨時議長篠崎晸氏が「本日、新制度初めての板橋区会が成立いたしまして開会すること」になった旨を述べ、議長に練馬地区出身の林信助氏が選ばれた。これは練馬にとっては非常に有利なことであった。

二二年七月一日、いよいよ「練馬支所、石神井支所管轄区域の区新設促進に関する緊急動議」のかかる区議会が開かれた。これにつき上野徳次郎氏が「……本件に対しましては、すでに議員各位におきまして、ご了承いただいておることと存じ上げておりますが、この練馬区民の待望しておりました区の独立問題は、昨年の七月以来、区挙げてこれが運動に邁進しておったのであります。幸いにいたしまして、本年五月、都長官より指示せられるところとなりまして、同年十二日付をもちまして、板橋区会に諮問が発せられたのであります」と述べ、それを受けて翌一三日、旧区会が満場一致決議したが、その後保留されている。今回、新区会が成立したので提出したとの経緯を述べ賛成を求めた。これにつき、栗原佐吉氏から「練馬区成立の時、板橋区に(区議の)改選がないと考えるので、本案に賛成」との発言があり、議長採決の結果、賛成多数で可決確定した。

しかし、ここに至るまでの道のりは容易ではないものがあった。板橋区としても練馬が分離独立することは既定の事実としてとっていたのだし、都側もその時期をどうするかということで新しい政治体制下での手続きを待つ形であった。それでも敗戦による新時代へのおもわくが随所に頭をもち上げている。いつどのような反対が起らないとも限らない、という危惧は、練馬独立支持側にはあった。

事実、練馬は独立すれば税負担が重くなる、というような論をなすものさえ現われた。生活に直接関係するこうした問題

が公然と述べられたことは、独立派にとっては大きな衝撃になる。それが事実になって現われるのかどうかは、結果が出れば明らかなことであったが、独立派はいっそう慎重に事を運ばなければならなかった。

練馬区新設の促進動議が可決されたあと、一部議員(一六名)から議長不信任案が提出された。それは、林議長が、動議の採決に当って不公平な措置をとったというのが理由であった。これについて議員の間でいろいろ折衝が行なわれ、臨時区議会開催のさい、不信任案提案者である矢野清氏から釈明があり、案は撤回され、落着した。

こうした激しい動きの中で、区設置期成会は、区独立への流れをいっそう確固たるものにするため七月一〇日、開進第三小学校で、独立促進大会を開き、内務省及び都に対して決議文を携え代表者が「反復陳情」した。七月二二日、待ちに待った次の通知が区に届いた。

<資料文>

 昭和二十二年七月二十二日

                                                    内務次官

東京都板橋区議会議長 殿

  特別区設置に関する件

東京都板橋区の中、練馬及石神井両支所の所管区域を分け、その区域を以て練馬区を置くことと致したいから区会の意見を提出されたい。

 右命により通知する。

<節>
仕上げの区議会
<本文>

これを受けて、七月三〇日、板橋区議会が開かれた。先ず林信助議長から提案理由が説明された。これについて、各派・中立の議員から、それぞれの立場での発言がつづき、総員起立をもって賛成、決定した。これについで上野徳次郎氏から次

の謝辞を含めた発言があった。 <資料文>

歴史的の練馬区独立の議案を、満場一致認められまして、決議決定いたしていただきましたことによりまして、練馬十一万区民を代表しまして衷心より感謝の辞を申し上げさしていただきます。(中略)昨年以来ことに猛烈な運動を続けてまいったのでありますが、いかんといたしましても、これは関係板橋区会の決議を必要とするのであります。(中略

わたしども十一万区民は、全く感激の極みであります。しかしながら、このよろこびのうちよりも、不日、手を携え合った板橋区会とお別れすることになりますことは、一抹のさびしさを感ずるのでありますが、いかに別れたりといえども、この板橋、練馬の両区は、真に兄弟区であります。ここにわれわれ兄の区として崇拝していくべきものと心得ております。(中略

どうぞ、板橋区のみなさん方におかれましても、将来練馬区発展のために、大いにご指導とご協力を切にお願いいたしまして、十一万区民を代表いたしまして、衷心から感謝のことばを述べさせていただきます。

なお、この区議会では、各派・中立の議員の代表者が賛成の中に、いくらか注目しておかなければならないものがある。以下要点を記しておく。第一に宮地貞彦氏。 <資料文>

前略)もし、この独立によって、練馬区民において、経済的負担が増大するようなことがあっては、区民全体に対して不幸でないかという意向もありましたので、中立声明の議員といたしまして意志表示しなかったのでありますが、本日、議長並びにその他の方からのご説明によりますと、かりに独立いたしましてもなんら区民の負担に増減を来たさないというご説明がありましたので、区民の要望に答えまして、一日も早く独立せられんことを希望いたす次第であります。(下略

盛栄治氏は、独立の空名のために、高価な代償を支払わなければならない。各区とも経費の増大と負担の重圧に苦しんでいるが、それに数倍するような負担を練馬区民が負うのではないか。それに、練馬は、いんしん地帯ではない。担税力は低い。さらに、現板橋区は二二区中でも商、工、農の三地帯をかね備えている。現区は有機的に共同生活圏として運営し文化区としてゆこうと牛田区長もいう。われわれはそれを期待していた。であるからいま区をわざわざ分離することは、納得できなかったのである。そこで、梅内議員の話によって、若干納得できたが、しかし、まだ時機尚早と思う。民主党、自由党

の各位もどうか同志であるという観点から相談されて……と切に希望を述べ、本案には賛成する。という意を述べた。

これにつき、栗原佐吉氏は、担税力の問題については自分も憂慮したが、区長の説明を聞くと、交付金が全歳入の六二・四%であり、配付税一七%、合せて八〇%に近い。これが都からくるので、区の負担は二〇%であるという。であるなら担税力の問題は杞憂ともいえるので安心した。と心の経過を説明した。なお、都民税の負担力については、板橋区より練馬支所、石神井支所の方が大きいと聞いていっそう、この憂慮は解消するものと思う。そこで、この案について全面的に賛成であるが、附帯決議として「区の境界については、将来適当に補正せられたし」とつけておいて貰いたい、と。

この附帯決議は、決定に当っての要件になって残った。こうして「大勢はすでに決していたものの多少の混乱を予期していたが、案外和やかな雰囲気の中に議事は進行して、各派代表者の賛成演説も等しく感傷に満ちた表情であった」(加藤隆太郎氏)というのが事実であったろう。

八月二日、最後の区議会が開かれ、条例上の手続きも了り、板橋区は一九名の補欠選挙を、練馬区は、区長、区議会議員三六名の選挙を行なうことになった。

八月一日、練馬区は、都二三番目の区として成立したのである。その独立記念祝賀会は、八月一三日午前一〇時より、開進第三小学校で盛大に挙行された。

思えば、長い道のりであった。練馬は、激しい運動の賜ものとして、ここに東京の一区として独立し、新しい道を歩み出したのである。戦争、敗戦そして戦後の日常生活にもこと欠く時代を通し、運動は展開されていた。それの実りが、東京二三区の中で一足おくれたが昭和二二年八月一日、一一万区民のよろこびの中で達成されたのである。

画像を表示

練馬区成立による新区議会議員(昭和二二・九・二〇選挙

昭和二五年一一月一〇日補欠選挙にて選出

<節>

練馬区独立に関する年表
<本文>
明治<数2>22 町村合併の実施
  1. ○下練馬村(一村独立、昭4町制施行)
  2. ○上練馬村(下土支田村と合併)
  3. ○石神井村(上、下石神井村・関村・上土支田村・谷原村・田中村の合併)
  4. ○中新井村(中村と合併)
  5. ○大泉村(明<数2>22、埼玉県橋戸村と小榑村を合せて榑橋村とし、<数2>24・6埼玉県の新倉村の長久保を加えて東京府に編入されたのを機に、榑橋村と長久保と上土支田を合して大泉村とした)
5・1 市制・町村制の実施
  • 郡区町村編制法・府県会規則・地方税規則の三新法(明<数2>11・7・<数2>22)公布。これにより東京府は<数2>15区6郡に分けられた(<数2>11・<数2>11・2)。<数2>15区をもって東京市とし、府下町村の廃置分合を行った。<数2>22年3月<数2>23日には、東京、京都、大阪に市制特例が認められたが、これは府知事が市長を兼ねる形であったので、市民の強い要望により<数2>31年<数2>10月1日改められ、東京市役所が開庁。6日初代市長に松田秀雄が就任、かなり制限されたものであったが市の自治が認められた
大正<数2>12 東京市近郊へ避難する者多く、この為、近隣町村は急速に市街地化した。本地区では南部にそれが著しかった 9・1 関東大震災
東京下町の被害は甚大で地震後の火災により壊滅状態に陥った
昭和4年 5・  市会で特別市制に関する調査委員会及び都制に関する実行委員会設置の建議が可決された
5年 <数2>12・<数2>18 市会「市域拡張に関する意見書」可決
6年 6・<数2>23 都市計画区域全町村選出の府会議員・町村会議員により「隣接町村併合促進同盟」結成 6・<数2>30 隣接町村合併に関する建議、合併促進に関する建議の二案、市会で可決

7年

4・<数2>26 市案によれば、練馬地区は「板橋区」に含まれている。その理由書の中に「地域広大なりと雖も当分の内特に合して一区となす」とある
1・<数2>14 5郡<数2>82か町村による「東京市郡併合期成同盟」結成
4・<数2>26 東京市案、永田市長より府知事に提出
5・<数2>11 練馬町長はじめ六町村長(練馬、中新井、石神井、赤塚、志、大泉)による一行政区編成の陳情書提出 5・5 府知事、隣接五郡<数2>82か町村の東京市編入につき声明書発表
(5・<数2>15 五・一五事件)
5・<数2>24 内務大臣鈴木喜三郎より東京府知事宛、5月<数2>23日申請の新<数2>20区設置につき許可あり
<数2>10・1 板橋区成立(区長上田房吉)練馬派出所、石神井派出所設置
  • 区役所の位置が旧郡役所跡に決定したため、練馬地区からは遠く、両派出所の取扱事務も幅狭く、不便であるとの声が次第に高まってきた
<数2>10・1 東京市、隣接地区を<数2>20区に分けこれを併合し、<数2>35区になる
<数2>12 1・<数2>26 都制促進市民大会
(7・7 日華事変)
<数2>16 (<数2>12・8 日米開戦)
<数2>18 2・<数2>27 衆議院、都制案を修正可決
3・<数2>10 都制案可決
7・1 東京都制施行
<数2>19 1・<数2>12 都議会で練馬地区独立の意見(加藤隆太郎議員)述べらる
2・<数2>17 練馬区設置期成会結成
4・<数2>27 「東京都区役所支所規程」制定

5・1 練馬派出所を支所に、石神井派出所を出張所に改める
<数2>20 8・<数2>15 太平洋戦争終結
<数2>21
8・7 板橋区会で練馬区設置に関する意見書可決
8・8 練馬区独立区民大会開催
7・2 「東京都制の一部を改正する法律案」など地方行政制度改正の四法案国会に上提可決、7月<数2>27日公布
8・<数2>15 練馬消防署、板橋消防署より分離して設置、練馬地区独立の第一歩として歓迎された 9・<数2>16 戦後の復興計画として「東京都区域整理委員会規程」発表
  • <数2>23日、同委員会に対し、安井都長官より<数2>35区の整理統合につき諮問
<数2>10・<数2>13 都案では板橋区はそのまま練馬地区を包含する
  • <数2>10月<数2>13日の第二回委員会で都の意向は<数2>35区を<数2>22区にすることであり練馬地区は板橋区に包含することと判明。小委員会をつくり審議を託すことで閉会
<数2>11・5 板橋区会議長、区自治振興委員長連名で練馬区設置に関する陳情書を都区域整理委員会に提出
  • これに先だち、練馬区設置期成会長は練馬支所町会連合会長と連名で都区域整理委員、GHQなどに陳情している
<数2>12・9 都区域整理委員会は、小委員会の審議に基づき、<数2>22区案を適当と認めるという答申を都長官に提出
  • 各区に異論多く難行した。殊に練馬区独立については、同時に玉川地区独立の運動があり両者共に<数2>22区成立後に考慮することになった
<数2>22 3・5 都、<数2>22区案、告示
3・<数2>12 都長官より板橋区長に宛、練馬区独立についての審議の要求がある

3・<数2>13 板橋区議会開催、練馬区独立につき可決
3・<数2>15 東京都<数2>22区制実施
4・5 区長公選による選挙(板橋区長牛田正憲公選) (4・5 都道長官、府県知事、市区町村長選挙)
4・<数2>30 都・区議会議員選挙 (4・<数2>25 衆議院議員選挙)
(5・3 新憲法実施)
5・<数2>30 板橋区議会開会、練馬地区選出の林信助議長に指名される 5・3 新「地方自治法」施行
7・1 板橋区議会に「練馬支所、石神井支所管轄区域の区新設促進に関する緊急動議」提出、可決
7・<数2>10 練馬区独立促進大会開催(開進三小)
7・<数2>22 内務次官より練馬区独立につき、板橋区議会議長宛、区会の意見提出を求められる
7・<数2>30 板橋区議会開会、練馬区新設を満場一致で可決
8・1 練馬区独立
8・<数2>13 記念祝賀会(開進三小)
9・<数2>20 練馬区議会議員選挙区議<数2>36名選出、区長選挙により臼井五十三選出就任
<節>
付 独立当時を回顧する座談会
<本文>

区独立のころの激しい動きも時の経つのに従って歴史の中に埋没してゆく。当時先頭に立って活躍されたかたがたの中にも今日の練馬の隆栄を見ることなく他界されたかたもいる。人の世の常とはいえ、哀惜に耐えないものがあり、謹んでご冥

福を祈るものである。

座談会は、「練馬区独立記念回顧座談会」として昭和五〇年七月一二日、区長応接室でおこなわれたもので、独立時協力者一四名(文末名簿参照)を中心に、正副議長、区長、助役、収入役、教育長、企画・総務両部長、区議会事務局長、区長室長、広報課長が出席し、三浦助役が司会をしたものである。その補足の意を含めて、区史編さん上の必要から、梅内正雄、小口政雄、桜井米蔵、林亮海の諸氏を煩わし、昭和五五年五月九日、区長応接室で座談会を、区長、助役、収入役、教育長、総務部長、総務課長、広報課長の諸氏に区史側から何人かが参加して開催した。以上二回の記録のうちから要点を抜き書きし、第一回目を中心に本書に採録するものである。全文掲載でなく出席各位に失礼のことがあるかと思うが、責は区史編さん者にある。

<資料文 type="2-29">

<資料名>座談会

 

助役 さっそくですが、区長から挨拶をいただきます。

区長 本日はお忙しい中をお集まり戴きましてありがとうございます。十年一昔と申しますが、練馬区独立はもう三〇年も前のことになりますが、練馬の歴史にとりましても最も大きな問題でございます。梅内先生の着想もございましたけれど、私どもとしましても当然このような機会をもち、その当時から今日に至りご健在でご活躍していらっしゃるかたがたにお話しを戴き、十分記録にとらせていただくことは非常に有意義と存じております。

助役 お話しを進めるお手伝いをさせて戴きます。ご案内申し上げましたかたがたのうち、沢枝先生、塚田先生がご都合でお見えでございませんが、またのちほどお話しをうかがうことにいたします。早速はじめることにいたしますが、いずれにしましても、今日の練馬は、特別区としてなお多くの課題をかかえておりますが、ご列席の皆さまをはじめ多くの先人の努力と業績を受けついで、また区民のかたがたのご協力を基に今日に至りました。今後の展望に立って区政を推進することが強く要請されている今日、やはり原点にたちかえって、その歴史の流れをとらえるということは、これからの練馬の課題に対処していくためにも大変有意義であろうかと考えます。こういう心構えを基に私どもとして企画した訳でございますので、何とぞよろしくお願いいたしま

す。

梅内 独立当時の話を、というのですが、まず第一に感謝しなければならない方がお二人いらっしゃいます。もっとたくさんのかたがたがいらっしゃるが、もう物故された加藤隆太郎先生、このかたが独立運動の主催者で、事実上の推進者です。それから最も力を注いだ上野徳次郎先生が残念ながら亡くなられたわけです。まずこのお二方に、こういう機会にまず感謝申し上げることが良いのではないかと思います。

助役 わかりました。それでは今お話しのように、加藤、上野両先生の遺徳をしのんで、御冥福を祈り黙禱をささげたいと思います。ご起立願います。

全員黙禱)ありがとうございます。では篠田さんいかがでしょうか、当時の練馬について。

 

    昔の練馬

 

篠田 この辺りはほとんど農家で、いまの姿とは全く違う状態でして、隣りの家が大きい声をだしても聞こえないくらい離れていました。しかも道路のほとんどは砂利道で、牛車や馬車が通っている状態でした。区役所(板橋)に行くには、武蔵野線(いまの西武池袋線)に乗り、池袋で乗り換えて板橋の駅まで行くということでした。あまり不便だというので練馬に支所ができました。大泉や石神井はもっと不便でした。

小林 私がこちらにやっかいになりましたのは、昭和二二年三月一五日に板橋区練馬支所長としてです。来てみて驚いたのは、一望千里畑ばかりだったことです。家はない。人口は約九万人。私の家の庭から富士山が良く見えました。いまの豊玉北六丁目です。いまの公民館から中村にかけて畑ばかりでした。

加藤( 大泉というと大根畑が多かったと思います。いまは税法が変わっていますが、当時直接国税を納めていたものが大半で三三軒だけなんです。そういう所で、板橋区全体からみると畑ばかりの<圏点 style="sesame">へき地地区でした。

内田 支所ができて簡単なことは支所で取扱ってくれましたが、一例をあげますと、私ども木材業者の弱者は、木材の運搬方法についてはやはり板橋まで行かないと許可が取れないという不便がありました。

小口 私は農村が好きで、こちらに移転してきたのですが、農村に対する住宅、こういう姿で、これが独立運動の骨子でもあるわけですね、それが住宅といったら今の小竹町、旭丘をとおして文化住宅というのは一棟、南町二丁目、今の桜台一丁目あたりに豊渓住宅というのが並んでいた程度で全般に静かな田園でした。

小峰 一番困ったのは税金納めに行くのに税金より交通費の方が余計かかったこと、でも、ホタルが飛んできてカヤの中にまで

入ってくるのどかな田園で良いところでした。

桜井 私は古い人間だからかも知れないのですが、板橋区役所まで自転車で行き来しました。電車だと西武新宿線なので午後いっぱい使うことになるので、自転車で行ったものです。

林( 困ったのは、武蔵野鉄道が二時間おきだったんですね。一時間も待っていたら池袋の終電が八時というのでどうにもならないということもありました。

浅見 私は羽沢に住んでいましたが、どこへ行くにも江古田駅へ出るわけです。その駅までは家のあるところより農地の方が多かったという状態でした。

 

    独立への議決

 

助役 独立前後の練馬の姿を浮きぼりにするようなお話、ありがとうございます。次に地区内各地から選出されて板橋区議会に籍を置かれた方々から、どのような経緯で運動が推進されたか、その実際と背景についてお話をお願いいたします。

梅内 私は小竹へ来たのが十六、七年頃、十九年に町会長になりました。独立運動はその前からありましたが、その中で特に印象に残ったのは、昭和二二年に新しい自治法が施行された。独立問題は既に安井知事の承認を得ていましたが、法によって板橋区議会の議決を経なければならない。そこで多数の賛成を得るために、町会長で出られる人にはこの際一人でも多く出て議席をもって貰わなければという訳で、ただ議員さんになって戴くというよりは、練馬区の独立によって練馬の格差是正にお骨折戴くということでした。ここには当時の議長林信助さんもいらっしゃるのですが、議決をする審議というものは瞬間的なもので、いま思い出しても実にゾーッとするようなものでした。居住者のかたがたが、日常の生活に不便を強いられている実情を打破するためにはどうしても練馬は独立しなければならない、いつまでもこのままの状態ではいけないという気持ちで必死でした。

小口 何故練馬は独立しなければならなかったかということが根本なのですが、当時甚だ失礼な言い方になるかも知れませんが、戦争中、配給制度になっていて、その配給のもとを握っているのが町会長でしたから、その力は、良し悪しは別にして、大きなものでした。町会長会議が毎月開かれましたが、練馬の独立のためには皆良く結束しました。板橋は工業が主であり練馬は農業を中心として、それに適正に住宅を配した田園都市にしようというのが目標ですから根本が違うのです。

梅内 そのころの町会連合会の会長が上野徳次郎さん、副会長が大村仁道さんです。

桜井 前に申し上げたように、私は自転車で板橋に通いましたが、そうしているうちに、やはり練馬と板橋の行き方は違うのだ

ということを痛感しました。

林( 練馬の独立緊急動議が出たときに議長(板橋区議会)をしておりましたが、あの議会には日程に収入役人事の問題がありまして多少こみいっていましたので一日延長をしました。緊急動議を出す前日は、十分案を練って、当日動議は上野徳次郎さんが発言し、栗原佐吉さんが賛成意見を述べることに段どりがまとまりました。それが反対派のAさんに洩れていて、議場は騒然となりかけました。そのときBさんから関連事項があるということで発言を求められたので、議場に静粛を求めたのですが、なかなか発言がない。とこうしているうちに、上野さんが、やっと発言した訳です。それを機に反対派の議員諸氏がぞろぞろ退場しました。それから間もなく賛成の声がかかり、動議が成立しました。そこで採決になるのですが、反対派が皆退場しているので、満場一致で採決したわけです。そのあとの取扱いですが、内務大臣の諮問がないと議会が開けないので、当時は片山内閣だったのですが、加藤先生が代議士に当選された時でしたから、紹介を願って、板橋区の議長として内務大臣に事情を説明しお願いしました。こうして諮問が出て本会議を開くのですが、私に議長不信任案の議会の請求が成立していてそれの取扱い方につき思案しました。もっともこれもまもなく撤回ということで解決したのですが、議事運営は大切なことですので、私は真剣に考えながら議事を進めたのです。

桜井 あのときの議場の有様は、いまでも頭にはっきり残っています。野党が飛び出し、議長の席をどんどん叩いたが、林さんは全く動ぜず「静粛に願います」といったあの落ちつき払った態度は立派なものでした。

林( 林()さんのお話しの通りで、いまでも良くおぼえておりますが、あれだけ騒がしい所を良く平然としておられたと感心しております。当時の都の考えは、三五区を改めて二二区にまとめるということですから、逆に一区増やすことには大きな困難があったと思います。それを乗りこえてきたのは、みなさんの強い熱意だったと思います。それが今の練馬の基を作った訳です。

須田 基を作ったということに関連がありますが、当時世田谷の人口が三六万、板橋は二六万でした。世田谷でも二区に分離するよう申請したのですが、分離する方の人口がわずか六万で残りの三〇万はそのままというのでした。こちらは二六万を一六万と練馬の一〇万に分け、地域も板橋区分より練馬区分の方を大きくして申請したのです。この点からも当時の板橋は当を得た分離方法を申請した訳です。

本橋 世田谷の運動もずいぶん激しいものでした。でも、練馬のほうがまとまっていましたし、理由づけの一つでも現実に区民

にとって不便が大きかった、例えば石神井から板橋区役所まで一〇時の集合というと、朝食を早くしないと間に合わない有様でした。

梅内 議会の議決をとるということが非常に困難でした。良く小口さんのダットサンを借りて小口さん、上野さんと議員さんの所を回りました。一人一人と十分話合って理解して貰うのです。とにかく議会の同意を得るために半年ぐらいもかかりました。栗原佐吉さんが非常に好意的で、林さんを議長に推そうというときも同意を得ました。それに最初の教育委員長が練馬で調整して小口政雄さんでした。皆が気持ちよく納得するということは容易なことではありません。こうしたこともそれこそ議員さんが束になってやった訳です。それからもう一つ非常に理解して戴いたのが安井都知事、この人が居たからこそです。

小口 実はあのダットサンは歩いた方が早いくらいのしろものでした。それでも区内の机や椅子を全部運んだという功績がありました。

梅内 車といっても、そのダットサンと役所にある同じような小さい車と合せて二台だけでした。それが専ら活動力でした。

大村 安井さんは別にして、そのそばにいたIさんという人は箸にも棒にもかからない人でした。百姓共何しに来たというような風で話しを全然受けつけなかった。そんな事はお前たちで勝手にやれという態度で、皆心の中では怒って帰ってきたことがあります。

 

    町会長の立場から

 

助役 町会の会長さんを兼ねていた方が多いのですが、地域の中からどのような運動が起ったとか、町会長さんとしてのお立場で独立運動のころ如何でしたでしょうか。

小口 町会連合会の中に独立運動推進協議会というのがありました。例えば、運動経費など、各地域で自発的に集めた金が使われていました。それだけ下から盛りあがったのでしょうね。

林( 石神井の駅の大鳥神社の小さな社殿の中で、町会長さん方にお集まり願ったというように各地域で会議をなさいましたね。

加藤( 私も町会長でしたが、大泉地区では、南大泉に千代松さんという連合会長がいました。

大村 千代松さんで思い出すのは「大村さん、そんなに一所懸命やってはたいへんだから少しは加減しなさいよ」といわれました。どういうことだったのでしょうか。運動がそれだけ深刻だったわけでしょう。

篠田 町会長や住民全体の盛りあがりで、区議のみなさんがやって独立したわけです。私は、区独立最初の議員でしたが、こう

なった以上、板橋に負けないよう整備していこうと心に誓ったのです。整備をするといっても何といっても金が必要ですから、とにかく区の財政を確立しなければいけない。収入は区民税ですから区の人口を増やさなければならないというので、都営住宅をたくさん造って、税収を安泰させようと考えたのです。

本橋 私も上石神井二丁目の町会長をしていましたが、家の前に事務所を建て、そこで配給やなんかを先頭に立って始末しました。町会長兼議員ということでかなりつらい思いもしました。

大村 私は都議会にだされましたが、この仕事に慣れてないので、本職のお経を読むようには参りません。練馬の方の選出区議のかたがたからは、区で議決したものは早く都で決定して貰わなければならぬ。それが地区から出た都会議員のつとめだと責められました。それにもうお話しも出ましたが、区役所に配給だなんだと呼ばれますと一日仕事になります。それも区独立に結集した根本だと思っております。

梅内 町会長の集まりにしても、いつも林さんの家で、奥さんがとても良い人で夕食などまで用意してくれるという人でした。

 

    区役所の位置

 

浅見 昭和七年、都併合で板橋区が生れたとき、庁舎をどこにするかでいろいろ議論があって結局しばらくは旧郡役所を使うということになったのですが、それが練馬地域からは如何にも不便不自由だということなのです。そこで練馬独立のあかつきは、区役所をどうするかの問題になります。私が開進第三小学校の後援会長のとき、毎月三〇銭と五〇銭の会費で血の出るような金を集めて生徒のために講堂を建てたのですが、そのころ練馬支所管内で講堂のあるのは、豊玉小、石神井小とこの開進三小だけでした。その中で一番便利であり適当だということで、開進三小に支所を持ってきたのです。ところが、支所として使われては子供の教育の場なのですし、せっかく大事な金を使って建てたものなので地元としてはいちおう断ったのですが、時期が時期なので緊急の場合でもあり皆で耐え忍ぼうということになったことを今でも忘れられないのです。

梅内 開進三小の講堂が区役所になったとき、議会も教室を議場に使ったのです。

篠田 あのころとしては立派なものでした。

小口 その後、区役所をどこに建てるかで又ひと苦労でした。練馬の中心は中の宮であるからそこにもってくるのがよいという意見がかなり強かった。しかしわれわれとしてはいま支所があり、慣れているのでここを中心に付近に決めようという考えでした。それに十三間道路があるので、こういうメーンストリートに面して役所を置かないと長い将来にわたって問題が出てくるとい

うようなことで、ここが候補地に選ばれたのです。それから森田文雄さんに交渉するのが、これまた一苦労、毎日毎日何日も通いつめてやっと決まったのです。

林( 改築するときに位置の変更が問題になりました。練馬の将来の発展を考えるとやはり区役所が練馬の中心になければならないということで、今の谷原の五叉路あたりに総合庁舎をもって行く考えでした。交通機関も発達するだろうし、当時は田んぼでしたから、いくらでも面積はとれるということで強力に主張したのですが、負けました。

 

    新制中学のこと

 

林( 独立した当時の教育で六・三制、それで中学をどのようにしたら良いか、みなさん非常に苦しんだ問題です。あの当時は開進の方は都立四商を借りたり、小学校を借りたりして発足したのです。あのころの教育の面での苦労話しも話し出すと、みなさんお持ちで長ばなしになりましょう。

助役 結局、教育基本法とか学校教育法とか、それから六・三制、それに社会科の復活、それらはみな昭和二二年ですね。それぞれの変遷と共に練馬が独立した訳ですね。

小口 私が教育委員長をしていたころですが、GHQからデッペルという人がきて、永田町小学校にわれわれを二週間カン詰にして午前九時から午後五時まで再教育を受けさせられました。それで新制中学を造るということですが、校舎があるわけではなし小学校に併設ということになりました。既設の小学校の校長さんを呼んで新制中学についてもっと理解するよう話したりしました。当時の板橋を含めて三六校全部を皆で回り歩きましたが、家庭科って何を教えたらよいのかというような先生からの質問、まあそんな状態の中で六・三制が出発したのです。

大村 話しがちょっと戻りますが、練馬が独立するんだということで、加藤先生のお供をしてGHQに行ったのですが、それが大変なことでして、私共がでて参りますと米兵がとりまいているんです。ピストルをもって異様な振舞をしていました。練馬が日本から独立するということで‥‥。そんなこともありました。

―― 占領軍もさぞびっくりしたでしょうね。独立という言葉をそのまま訳したのでおどろいたのですね。分離といえば良かったのでしょうが、そのころの運動は分離なんて生やさしいものではないほど真剣だったのですね。

 

    練馬の望む姿

 

助役 だいぶ長くなりましたが、もう少し時間を戴いて、当時こういうような練馬になって貰いたかったとか、こうしたかったというお話しを短くして戴いて終わりにします。

大村 私は練馬の姿として、もう小口さんのお話しにもありましたが、工業、農業、それに住宅地、そして区を通じて豊かな緑、こう理想像を画いていました。でも現実はすっかり違って歩いてきました。何んとか区議会のみなさんで考え、指導して戴きたいものです。

梅内 私が一番残念に思ったことは、区画整理ができなかったことです。当時の区整の基準の減歩率が三八%と非常に高かった。これでできなかったのです。せめて耕地整理だけでも許せば良かった。そうすれば六~八mの道路ができたわけです。

桜井 区画整理はどんなことをしてもできる状態ではありませんでした。できないというのは、地域により価格差がなく損をすることは誰も承知できなかったからということです。

篠田 豊島園からの道路ですが、戦争前に区画整理の許可をとって始めたのです。測量も全部おわり、さて工事にかかろうというときに戦争が激しくなり、区画整理どころではなく食糧生活の方が大事になっていっさいだめになりました。

小口 私たちが独立運動をあれだけ一所懸命にやりましたのは要するに緑の多い田園都市にしたいというのです。そのためには耕地整理や区画整理ができなければ無理だったんですが、今のお話しのように減歩率の問題でどうにもならなかったことが、今のような形になってしまったので、考えても残念なことです。

本橋 私が一番良かったと思っているのは石神井川の開発です。農業組合長が先頭に立ってやったのですが、今になって考えると、あれくらい発展に役立ったものはなかったと思います。

助役 練馬区の特性は、大都市の中の一つの区として、都心で欠けてしまってもう見ることのできない自然と人の生活との調和を、しかも都会の特質の中で生かしつづけることだと思っております。緑を生かすことはもちろん、道路、交通網の問題、経済流通、福祉、さらに地味でも基本的には教育の問題など、山積する区政の案件を、みなさんの考える練馬の理想像の中で一つ一つ解決し生かしていかなければなりません。お集まりの先輩の先生方、そして広く区民のかたがたのご支援の下に強力に押し進めて参りたいと思っておりますのでよろしくお願いいたします。

今日はいろいろありがとうございました。

 

    補遺

 

林( 区独立の際、板橋区議会での意見に分離した際の両区の境界について附帯決議があり、川越街道を境にするようにとのことでした。それが実現していたら随分変ったものになっていたでしょう。

須田 やはり分離の境界で、江古田(旭丘)小竹町を板橋の方にとりたいという意見がありました。ここは元の下板橋の一部で

すが、加藤隆太郎さんの命によって、何とかこちらへ付けるということにすることになりました。小竹は梅内さんが前に町会長さんだったので強いお力があったものと思います。

梅内 三〇年も経つとすべてが忘れられて行きます。書いたものだけをみると、区の独立の区議会の議決でも、全会一致になっていますが、実際はお話しにあったように、かなり難渋したもので、反対派が全員退場をしましたから、残りの多数の全員一致になったわけです。決してスムーズに議決ができたのではなかったのです。

出席者名簿(五〇・七・一二日

 浅見 平蔵羽沢二ノ三

 内田建三郎練馬一ノ三ノ一

 梅内 正雄小竹町二ノ五三

 小口 政雄中村北二ノ二一

 大村 仁道石神井台一ノ一六

 加藤弥平次東大泉町六三四

 小林 四郎豊玉北六ノ五

 小峰 頼典石神井台一ノ一五ノ六

 桜井 米蔵関町六ノ三〇五

 篠田 鎮雄春日町一ノ七ノ一六

 須田  操豊玉中二ノ五

 林  信助旭丘一ノ六〇

 林  亮海高野台三ノ一〇ノ三

 本橋 芳次石神井台六ノ一九ノ五

               (敬称略五十音順

<章>

第二章 区長公選への道

<節>
東京の区の変遷と地方自治
<本文>

明治二年の戸籍編成法につづき、四年の戸籍法により、東京府に大区、小区の名が使われたが、これは行政上の区画の意味であった。(明治二年の呼称では、現在の旭丘、小竹が大宮県上板橋宿、他の本区区域は品川県であった)明治一一年、郡区町村編制法、府県会規則、地方税規則の三法が公布された。東京府は、これによって一五区六郡に分けられたが、一五区は麴町・日本橋・京橋・神田・芝・麻布・赤坂・四谷・牛込・本郷・小石川・下谷・浅草・本所・深川で、江戸府内、六郡は、東多摩・南豊島・北豊島・南足立・南葛飾・荏原の周辺地区であった。なお、豊多摩郡は、明治二九年、南豊島と東多摩の二郡を合併してつくった郡であり、練馬の地はその後ながく北豊島郡の一部になっていた。

この明治一一年一一月の区・郡制は、江戸時代の殻を破った地方自治の第一歩といってよいであろう。練馬地区でいえば、下練馬村、上練馬村、下石神井村がそれぞれ単独に、中新井・中両村、谷原・田中両村、上土支田・下土支田両村それに上石神井・関・竹下新田が合して連合村制の形をとり各戸長役場を置き行政事務を執行した。

明治二一年四月の市制町村制の公布により、東京府は翌二二年五月一日、一五区をもって東京市としたが、市長は単独には置かず、府知事がこれを兼務することにした。いっぽう町村の単位は地租一〇万円の範囲を標準にするので、小村は連合せざるを得なかった。本地域では、下練馬村だけが単独で、他は統合の形をとることになった。この町村制の理由書の中に「現今の制は府県の下郡区町村あり、区町村は稍自治の体を存すと雖も未だ完全なる自治の制あるを見ず……」とあり、また「本制に制定する市町村は共に最下級の自治体にして市といい都鄙の別に依て其名を異にするに過ぎず……」ともある。

地方自治への志向が今日とはくらべものにならない低いものであるが、一応自治への出発の形を見ることができよう。その後、東京の区は、明治四四年九月、市制改正により自治区になった。

昭和七年一〇月、東京市三五区の形成に当って、本区地域は板橋区の一部として編成された。この東京市は、府と国の二重の監督下におかれているので、早くから都制施行の声が出ていたが実現には至らなかった。それが、戦時下の緊急体制の中で上意下達の円滑化のために、昭和一八年七月一日、府と市を一つにする都制が急ぎ施行されることになった。このため、東京の区は従来自治区とは称したが権限も弱く一般都市の行政区(行政上の単位として便宜上区割りをした区)と殆んど変りのない程度であったのが、その区の事務に関する都の権限を代議決定することができるなど自治権の多少の拡張がみられることになった。しかし、現実には、戦時下であり、国の方針を徹底実施させる挙国体制に貫かれていたのも事実である。

敗戦は、一切を空にした。国は飢え、人はその日をすべて乏しさの中に生きなければならなかった。それでも占領軍の絶対権の中で、わずかに残った日本の良識が力強く動き出してきた。民主主義の基調は、個の尊厳の認識にある。新しい日本の出発がここにおかれた。

昭和二二年五月、新憲法が施行された日、地方自治法が施行され、東京の区は「特別区」といわれる内容を持つことになった。その二二年八月一日、練馬区はかねての念願であった独立を果して誕生、二二区の特別区に加わり、都は二三の特別区をもつことになった。特別区は、市と同等の権限のある基礎的地方公共団体で、財政権、条例制定権などをもち、その事務も公共事務、委任事務、行政事務を執行するもので、区長は公選制をとったのである。しかし、東京の各区は相互に境を接し利害を共通にするものであり、二三区相寄って東京の主体部を形成するものであるから、課税権など人事権を併せ特別区独自で処理できない部面を持っている。そこで、東京の各区は、行政の均衡を保つため、二三区を合せて一つの市としての機能がある。従って、特別区はそのうちの一部をうけもつ「内部的地方公共団体」として考えるのが至当であるとの意見が出てきた。これに対しては、特別区側から強い反撥も出たが、一般都市のように地理的に独立したものでなく相互に強い

連関があり、各区の連帯したまとまりの上で都市機能を発揮することができることも事実で、区の自治権を尊重し、都の多くの事務事項を区に委譲すると共に、交通、河川、水道などの各区にわたる事業については都の直接処理をすることがよいという統一主義が次第に主張されるようになってきた。

こうして、二六年九月、地方行政調査会は第二次勧告を出し、二七年九月に地方自治法の一部改正が行なわれ、都と区の権限事項が明示され、都の条例による委任事項を処理する制限自治区と規定されることになった。この特別区の処理する主な事項は <項番>(1) 学校の設置、管理及び教育に関する事務の管理、執行 <項番>(2) 公園、緑地の設置及び管理 <項番>(3) 区の住民を主とする社会教育 <項番>(4) 特別区道の設置及び管理 <項番>(5) 公益質屋、診療所などの設置及び管理 <項番>(6) 戸籍・転出入、各種証明に関する事務、その他、公共溝渠、小売市場、国民健康保険などの事務で、すべて国及び都の事項に属さないもの、または条例の制定、起債、使用料、手数料の賦課徴収など、さらに都が条例で区に委任する事項の処理などである。

ところで、この改正により、後に問題になってくる最大のものに、特別区の区長は、区議会が、都知事の同意を得て選任するということと、特別区の執行機関である委員会又は委員についても、都知事の同意を得なければならないという人事事項で、区長を区民が直接選挙により選任する方式がここで打切られた。

<節>
区長不信任、区議会解散
<本文>

昭和二六年九月八日、サンフランシスコ講和条約が調印された(その発効は二七年四月二八日である)。その一〇日後、九月一八日、第二回の区長・区議会議員選挙があり、区長には初代の臼井五十三に代って須田操が就任した。この前年二六年六月二五日、朝鮮動乱が勃発し、その影響は日本に直接に及び、ことに経済活動をいちじるしく刺激活発にした。

昭和三〇年秋は、区長選任、区議会議員選挙の年に当るので、九月一六日区議会議員選挙が行なわれ、一一月八日、区議会で須田操が選任された(就任は一一月九日)。

須田区長の四選(三八年一二月二六日就任)された後、助役選任の件を中心に混迷がつづき(これは、三九年五月二七日、星義文、助役就任で収まった)さらに四〇年秋には区職員の水道工事費不正問題などが起り、区政は渋滞した。四一年一〇月、区議会は、これらの為、区長進退問題を先議するべきであるとの要求を出した派と、一般議事進行を当然とする派にわかれて意見が衝突し、議場は混乱して収拾がつかず不幸にも警官導入による一般議案の採決をおこなうという事態に立ちいたった。

四二年五月二日、臨時区議会が開催され、区長に対する不信任案が上提、可決された。須田区長は、すでに前回の議場の混乱につき、区長としての立場から深く意を決するところがあった。その考えのいくつかについて極く近くの者との意見の交換をしていたことが死後明らかになったが、中でも不信任案可決の際にとるべきものの一つとして、不信任に応じて単に辞任するということではなく、区議会の一つの懸案として、議員の任期の始期を都の他区と合せ、統一地方選挙の四月にすること(練馬の分離独立が八月であったため、選挙の時期が他区にくらべずれている。このため都の各種委員の選出などがすべて遅れてしまうこと、統一地方選挙で大きな波が去った後に練馬だけが選挙をすることの不調和=区民の選挙に対する熱意にも影響する、など)その他の諸条件を併せ考え、打診すべき個所には打診して、熟慮の上、最悪の事態について採るべき態度をすでに決していた。こうして、区長は議会を解散した。その三〇日、新区議会議員五二名(定員四名増)の選挙がおこなわれ、須田区長は六月二日辞表を提出した(退任は六月二一日)。選挙の結果では、解散時にくらべて、自民党が三人減の二四人、社会党は六人増の一一人と増減数が目立ち、公明七、共産四、民社三、無所属三計五二名と多党化現象があらわれた。

六月三〇日、新区議会が開催されたが、議長選任について意見が全く一致せず混迷した。その結果、議長を自民第一クラブから、副議長を社会党から選ぶことで漸く収拾がついた。しかし、これは、新区長選任に通ずる道ではなかった。地方自治法二八一条三項による「区長は区議会が都知事の同意を得て選任する」の条項に対する批判が区議会内にあり、この際、区長公選の形に戻すべきであるとの考えがからんで区長選任の議事は全く停頓ていとんしてしまった。

<節>

練馬方式=準公選方式
<本文>

この区長選任方式について、民間組織である「練馬自治体問題研究会」は、弊害として次の四点をあげている。この制度によって区長が選任されれば、<項番>(1)区長は、区議会と都知事に顔を向けるのみで、区民の立場に立っての区政を行なうという自治体の長としての基本姿勢に欠ける。<項番>(2)現行選任制度のもとでは、区議会の談合いかんでは、区長不在という空白期間がどうしても生ずる。<項番>(3)区長が「区議会選任」であるために、区長と区議会との間に明確な責任の所在がボケ、区行政の腐敗が生まれる危険が大きい。<項番>(4)区長と区民のあいだに直接的な連帯感と責任感が欠如し、住民の自治体意識が低下する。などである。

この「練馬自治研」は、練馬における生活環境や教育、文化施設のたちおくれ、殊にガス・水道・下水道などの施設が二三区中最低であるなどを憂え、区政が区民の立場から自主的、具体的に展開することを望むということによって結成されたものである。会長に大島太郎氏を推し各方面の区民を集めたもので、区議としては社会党の有志が参加していた。七月三〇日発足したこの会は、八月一九日、区労協、母親連絡会議、婦人有権者同盟、練馬学者文化人会議の四団体を招いて「区長問題を考える区民シンポジウム」を開き「条例制定方式」を「公式に提起」した。

この席では、区議会内で反自民の野党連合によって区長を選任するということではなく、広く区民の意志の表明をおこなう選挙を経て、その結果を踏まえて区議会で区長を都知事に推薦することがより公平妥当である、そのためには、区条例を制定してその方法を確立することが民主的方法であるとして、この「条例制定による区民の直接投票方式=準公選方式」を区民運動として強調することに意見が固まった。これが、いわゆる練馬方式である。

そこで、九月二日、練馬福祉会館で「区民の会」結成大会を開き、大島太郎を代表委員にする組織をつくり代表、幹事三〇名を選出した。この運動は、のちに各区に影響を及ぼしたものなので以下「区長を選ぶ練馬区民の会、記録刊行委員会

」編集による『練馬準公選運動の記録』を参考とし、他の記録・記事を総合して記述しておきたい。

ただし、本書に採録する意味は、区史の中の一つの事象として書き留める要があるからであって、多少であっても、対立する両者の意見のいずれに重点をおくものではなく、公正に史実として書き、資料を掲げて後世に伝える役割を果したいと思う立場であることを明らかにしておきたい。

例えば、こうした動きについて、区執行部側でも区民の意志を尊重するたてまえから、一つの見解としてこれを好意をもって扱いたいという考えはたしかにあったことを知ることができる。しかし、現行制度下で、他区にも影響のあることであるので、慎重に扱うという意味で都なり自治省の意向を打診する、ということがある。以下つとめて事実に則して記述するが、この意向打診をとれば、それが一つの根拠になって運動が進められるといった姿もありのまま述べておきたいと思っている。

<節>
直接請求の申請と拒否
<本文>

四二年八月一九日のシンポジウム、そして「区長を選ぶ練馬区民の会」準備会発足により、基本構想として「準公選方式」が提起された後、前掲書『運動の記録』によれば「八月中旬に区条例制定について社会党議員から非公式に(準公選方式を)提示された時、練馬区議会事務局長は、早速手廻しよく「条例の制定について」の照会を自治省におこなった……」とある。

これは、八月二四日、西貝恒夫区議会事務局長から日向美幸都総務局行政部長宛次の件につき照会、それを都日向部長から自治省に照会し、それについての回答が、九月八日、自治省行政課長から都部長に、さらに九月一二日、都部長から区事務局長に回答してきたものを指している。その要旨は次のようなものである。

<資料文>

特別区の区長選任については、地方自治法に規定されているが、選考の手続きについては規定していないので、議会に区長候補者

公募運営委員会を設けて事務を管理し、公職選挙法を準用した住民投票を実施して候補者選考の準備行為とする、という事項を規定した区条例を制定することが法的に可能であろうか。という問に対して、「設問のような事項を規定する条例を制定することはできないものと解する」という内容の回答が、自治省からかえってきた。

九月一三日「区民の会」は「練馬区長候補者決定に関する条例」の制定を要求する請願書を区議会に提出した。これにつき、九月二七日、総務委員会では、すでに自治省見解を承知しているので、これを議論の余地がないものとして五対二で不採択とした。これは一〇月九日の本会議で承認された。これについて「区民の会」側では「区民から提出された請願書にたいして、民主的な討議を重ねることなく、区議会は抜打ち審議で一気に否決を強行した」としている。

さらに「区民の会」では、この提起した方式の法的検討をするため、区内在住の法学者、弁護士などとの合同研究会を開き、次の結論に達した。

その第一は、この準公選の練馬方式は、区長選任規定に反するものではなく、むしろ法の空白を埋める意味をもつ。第二に、行政庁の反論又は行政指導が予想されるが、これは法的には拘束力がない。第三に、区議会のもつ区長選任権は条例によって侵されるものではなく、むしろ自治体立法機関が独自の判断によって条例を制定することは、その権利の所在を明らかにするものである。また、この条例方式は、憲法、地方自治法に定められたあらゆる規定からみても、区長公選要求として現実性がある。として「区長候補者決定に関する条例案」の作成にとりかかったのであった。

九月二六日「条例制定請求代表者証明書交付」申請が「区民の会」代表大島太郎名で区に提出された。これにつき即日、寺本静雄区長職務代理者は日向都行政部長宛照会し、都行政部長事務取扱横田総務局長は、同日自治省行政課長に照会、その回答は順を逆にして、自治省行政課長から横田都局長へ(九月三〇日付)、都から寺本区長代理に一〇月六日付で発せられている。自治省見解は次の通りである。

<資料文>

                                                  自治省行政課長

 東京都総務局長

    横田政次殿

   条例制定に関する直接請求について(回答)

昭和四二年九月二六日付四二総行政第一九三号をもって照会のあった標記の件について下記のとおり回答する

   記

(問)地方自治法第七四条第一項に基づく条例制定の請求をするにつき、同法施行令第九一条第一項の規定に基づいて請求代表者証明書の交付を求められたが、その条例の内容が法令上条例制定事項でない場合は、その交付を拒否できるか

(回答)法令上条例制定事項でないことが明瞭な場合は地方自治法施行第九一条第一項の交付申請書を受理すべき限りでない

以上の経緯があって、寺本区長代理は、一〇月七日、大島太郎氏に申請書を返付したがその理由の中で次のように記している。

<資料文>

本件は、特別区の区長選任に関して、画期的な手段を規定した条例の制定を請求しようとするものであり、ひとり本区のみならず、他区に与える影響もきわめて大きく、更に地方自治法の当該規定の解釈についても、従来の国の見解等に鑑み、その適否の判断については、充分に慎重な検討を要するものと考えました。

従って、本職は、その適正を期するため東京都の指導を求めたのでありますが、東京都においても、ことの重要性を考慮して、国にその見解をただしたのであります。

そして、国の回答に基づき、今般、東京都の見解が総務局行政部長事務取扱総務局長名で本職あてになされたのであります。

以上、今日までの経過のあらましを申しあげました。

さて、本職は、本件が条例で規定すべき事項ではないとの趣旨の東京都の回答については、妥当なものと判断し、従って遺憾ながら貴意にそいがたい結果となった次第であります。

すなわち、特別区の区長選任に関する地方自治法第二八一条の三第一項ならびに同法施行令第二〇九条の七の規定は、区長は、「区民の意思の代表者、代弁者である区議会が直接選任する」という趣旨であって、たとえ、その候補者決定の段階といえども、区議会の意思決定については、他のいかなる外的拘束ないし制約を受けるべきではないと理解いたします。

このことは、過去における区長選任制度の変革における地方自治法の改正の経緯からも明らかなところであります。

以上が本件に対する国および東京都の見解をもとにした本職の判断の概要であります。

なお、ご参考までに、関係各照復文書写を添付いたしますのでご高覧ください。

(注)

「区民の会」が準備した条例案は、次のもので、これをタブロイド版四頁にまとめ、アピールならびに研究会に参加した専門家二名(池田政章立大教授・高柳信一東大教授)の論文と共に載せ、五万部を作成して区内に配布した。

<資料文>

      練馬区長候補者決定に関する条例(案)

  (目的)

  1. 第一条 この条例は地方自治法第二百八十一条の三第一項の規定に基づき、区議会が区長を選任するに当り、全区民の自由な意思が正確に反映されるよう、民主的な手続を確保し、もって地方自治の健全な発達を期することを目的とする。

 (区長候補者の決定)

  1. 第二条 前条の目的を達成するため、区議会が地方自治法施行令第二百九条の七第一項に規定する区長の候補者(以下「区長候補者」という)を定めるに当っては、区が実施する区民の投票(以下「区民投票」という)の結果に基づいて、これを行なうものとする。

 (区民投票)

  1. 第三条 区民投票は特別区の議員の選挙権を有する年令満二十五年以上の者で、区長候補者となろうとする旨を区議会に届け出た者について行なうものとする。

 (区民投票の期日)

 (立候補の届出)

  1. 第五条 区長候補者となろうとする者は、区民投票の期日の告示があった日から四日以内に、郵便によることなく、文書でその旨を、第九条に定める「区長候補者決定に関する特別委員会」の委員長に届け出なければならない。

 (投票権)

  1. 第六条 区民投票の期日の告示のあった日において、区の選挙人名簿に登録されていない者は、投票することができない。

 (運用の公正)

  1. 第七条 区民投票に関する事務並びに区長候補者になろうとするために行なわれる運動は本条例及び本条例施行に関する規則に定める場合を除く外、公職選挙法及び同法施行令に定める規定に準拠して、公正に行なわれなければならない。
  2. 第八条 区民投票の結果は区民に対してすみやかに公表されなければならない。

 (特別委員会の設置)

 (施行に関する規則)

  1. 第十条 この条例の実施のための手続その他その執行に関し、必要な規定は、そのつど、規則でこれを定める。

    付 則

  1. 1 この条例は公布の日から施行する。
  2. 2 第四条第二項の規定にかかわらず、第六期区長の選任に関する区民投票は、この条例施行の日から二十日以内に行なうものとする。
<節>
自治省の行政指導
<本文>

こうして直接請求の申請は拒否されたのであるが、これについては予めその事態が起り得ると判断できたので、それに対するいくつかの意見が出ていた。その一つ、高柳信一東大教授の意見には「地方団体の事務処理(例えば条例制定、公金支出、区民投票の実施など)が憲法・法律に適合しているかどうかを監視・監督する権限は、政府(具体的には自治省)にあるのではなく住民にあり、最終的には裁判所にあるということである」とあり、これを基調にして論を展開している。そして「区民の会」の運動はここに一つの転機を迎え、行政訴訟の準備に進んでいったのである。

一方、区議会は一〇月一六日、区長候補者の公募公聴方式を決め、一九日に公募をはじめた。しかし二四日の締切日までにこれに応じたのは亨 仁氏一人であり、それも区議会内で過半数を得る見込が立たず立候補をとり下げ、再び白紙に戻ってしまった。

区議会の公募公聴方式に対抗するように「区民の会」は、一〇月一四日、抗議集会を開いた。これには「区長公選実現・民主都区政確立都民懇談会」(都民懇)が全面的に支援態勢をとった。二七年の地方自治法改正により区長公選制が廃止されて以来、区長公選への要望は絶えず続いていたが、練馬区のこの事態により、運動は一つの転機を迎え、それを刺戟剤として活発化したのであった。

一〇月一九日、参議院地方行政委員会、一一月一三日、衆議院地方行政委員会で、練馬区長問題がとり上げられている。『運動の記録』によれば、野党の社会党に属する地方行政委員会の委員メンバーに大島代表、高宗幹事が申し入れた成果であるという。衆議院の質疑で、林自治省行政課長が、区議会が自主的に決めた条例について、区長代理は再議に付すことがで

きるだけで、国が権力的に介入する方法はない、との答えを得ている。これは、自治省の行政指導が、あくまでも法解釈の一つにすぎない、ということを明らかにしたことになる。

こうしたことから、「区民の会」は、都・区が自治省の行政指導を至上のものと受けとっていることを改めることができると判断して「再び条例制定を区議会に要望する」(パンフレット)を各議員に送付した。

<節>
提訴と判決
<本文>

「区民の会」は、一二月一〇日、臨時総会を開き、翌一一日、東京地裁民事第三部に訴訟を提出した。

<資料文>

  訴状

東京都練馬区貫井四ノ六ノ三

  原告              大島 太郎

東京都港区芝琴平町三〇番地 土橋ビル

 虎の門法律事務所(電話五〇一局二八一一~二番)

 右代理人弁護士          大野 正男

 同                大橋 堅固

 同                山川洋一郎

東京都練馬区豊玉北六ノ一二 練馬区役所内

  被告      東京都練馬区長職務代理者

           東京都事務吏員

                  寺本 静雄

行政処分取消請求等事件

訴  額 金五万円也

貼用印紙 金五百円也

     請求の趣旨

 原告が昭和四二年九月二五日付でなした練馬区長候補者決定に関する条例制定請求代表者証明書の交付申請について、被告が昭和四二年一〇月七日練総総収第一九七六号をもってなした右証明書交付拒否処分は取消す。

 訴訟費用は被告の負担とする。

との判決を求める。

     請求の原因

  1. 一、行政処分の存在
    1. <項番>(一) 原告は練馬区に居住し、同区選挙人名簿に記載されているものであるが、同区の住民として地方自治法二八三条一項、七四条一項の規定により、練馬区長候補者決定に関する条例の制定を請求すべく、地方自治法施行令九一条一項により、その代表者として、被告に対し、昭和四二年九月二五日別紙文書を以て、条例制定請求代表者証明書の交付を申請した。
    2. <項番>(二) 然るに被告は同年一〇月七日付練総総収第一九七六号を以て、原告が条例で規定しようとする事項は、地方自治法で許された条例制定事項ではない、特別区の区長選任に関する地方自治法二八一条の三、一項ならびに同法施行令第二〇九条の七の規定は、区長は「区民の意思の代表者、代弁者である区議会が直接選任する」という趣旨であって、たとえその候補者決定の段階といえども、区議会の意思決定については他のいかなる外的拘束ないし、制約を受けるべきではない。との理由のもとに右証明書の交付を拒否した。
  2. 二、本件処分の違法性
    •  然しながら被告の右処分は以下の理由から違法である。
    1. <項番>(一) 地方自治法施行令九一条二項の定めるところによれば、条例制定請求代表者証明書の交付申請があったときは、区長は区選挙管理委員会に対し、条例制定請求者が選挙人名簿に記載されたものであるかどうかの確認を求め、その確認があったときは、こ

      れに右証明書を交付しなければならない。

    •  即ち、区長のなすべき又なしうることは、条例制定請求者が選挙人名簿に記載された者であるかどうかの確認を求めることのみであって、その確認があったときは、何等の裁量の余地なく、証明書を交付しなければならないのである。
    •  被告は請求にかかる条例案の内容が地方自治法二八一条の三、一項に違反するというが、その然らざるところは、後述のとおりであるけれども、本来、被告にはその内容の適否を判断する権限はない。
    •  本件証明書の交付は、これから区住民が条例制定の直接請求をすべく署名を求める前提手続としてなされるものである。
    •  もし、右証明書の交付が拒否されれば、条例制定請求代表者は以後の一切の行動ができなくなり、区住民が地方自治法に定める直接請求制度を利用することは不可能になる。
    •  そもそも条例制定の直接請求は住民に地方自治に直接関与させることを目的としているのであり、区の代表者の見解と異なる所以をもって未然に区の代表者の判断や権限によってその手続を不可能ならしめることは制度の趣旨に根本的に背馳する。
    •  請求にかかる条例案の内容についてはそれは未だ「案」なのであり、所要の署名が得られた場合には議会において十分に審議が行なわれるべきものである。その際も区長は議会が議決した条例が違法だと思えばこれを再議に付することができ、更に再度の議決があれば、区長は都知事に審査を申立てうるのである(地方自治法一七六条)。
    •  このように区長はその条例の内容の判断については後に十分その権限と機会が保障されているのである。
    •  然るに条例制定のための直接請求の最初の手続段階において、その条例「案」の内容を区長が実質的に審査して、区長の判断によって、住民の地方自治直接関与の方途を全く失わせる如きことは到底法の許容するところではない。
    •  地方自治法施行令九一条二項の文言よりしても、何ら区長の審査権、裁量権を認めていないのである。
    1. <項番>(二) 原告が制定を請求しようとする条例の内容は区長選任に、区民の意思をできるだけ反映させようというものであって、これを条例の非制定事項とする何等の規定はないし、(地方自治法一四条一項、二条二、三、九項参照)、むしろ「地方公共団体の長、その議会の議員及び法律の定めるその他の吏員は、その地方公共団体の住民が直接これを選任する」との憲法九三条二項及び地方自治の本旨にもかなうものである。

    •  住民の意思をできる限り、区議会に反映しようとする右条例の内容を、区議会の意思を制約するものとする被告の見解こそ基本的に地方自治の本旨を正解しないものといわねばならない。
    •  右の如く、原告の請求にかかる条例の内容は、何ら法令に反するものでもないから、被告は他に裁量的配慮をなすことなく、速かに証明書を交付すべき義務を有するのである。
  3. 三、以上、被告が前記の如き理由にもとづいて原告が申請した証明書の交付申請を却下したのは地方自治法施行令九一条二項に違反するものであることは明らかである。

    よってその取消を求め、本訴に及んだ次第である。

           証拠方法

   口頭弁論において提出する。

           添付書類

   訴訟委任状 一通

    昭和四二年一二月一一日

                                      右代理人弁護士 大野正男

                                      同       大橋堅固

                                      同       山川洋一郎

   東京地方裁判所 御中

この第一回公判は、四三年一月一八日開かれ、第二回は三月七日、そして四月一一日の第三回で結審になった。この間、区側の答弁書が二月二七日に裁判長に提出されている。地裁の判決は、六月六日であった。その内容は次の通りであり「区民の会」の主張を容れた勝訴であった。原告(大島太郎)、被告(寺本静雄)代理人等の氏名を略し、主文、理由の全文を次に掲載しておく。

<資料文 type="2-33">

   判  決

主文

原告が昭和四二年九月二五日付でした練馬区長候補者決定に関する条例制定請求代表者証明書の交付申請に対し、被告が同年一〇月七日付練総総収第一九七六号をもってした右証明書交付拒否処分を取り消す。

訴訟費用は被告の負担とする。

理由

  1. 一 東京都練馬区の選挙人名簿に記載されている原告が、法第二八一条三第一項、第七四条第一項の規定により練馬区長候補者決定に関する条例の制定を請求しようとする代表者として昭和四二年九月二五日、令第九一条第一項の規定にもとづき別紙文書をもって、練馬区長の職務を行なう被告に対し、条例制定請求代表者証明書の交付を申請したところ、被告は、同条例で規定しようとする事項が法の認める条例制定事項でないとの理由により、同年一〇月七日練総総収第一九七六号をもって右代表者証明書の交付を拒否したことは、当事者間に争いがない。
  2. 二 被告は、請求代表者が制定(改廃)を請求しようとする条例の内容が明らかに条例で規定しえない事項に関する場合には、その代表者証明書の交付申請を受けた地方公共団体の長がその交付を拒否しても、当該請求代表者の権利義務になんら影響を及ぼさないから、長の右拒否行為は抗告訴訟の対象たる処分に当らず、また、請求代表者がその取消しを求める訴えの利益もないと主張する。
  3.   しかし、令第九一条は、法第七四条第一項の規定により条例の制定(改廃)の請求をしようとする代表者は、当該地方公共団体の長に対し、代表者証明書の交付を申請しなければならないとするとともに(第一項)、右申請を受けた長は、直ちに選挙管理委員会に対し、当該請求代表者が選挙人名簿に記載された者であるかどうかの確認を求め、その確認があったときはこれに代表者証明書を交付しなければならないと定めており(第二項)、また令第九二条以下の規定によると請求代表者が右代表者証明書の交付を受けることが、条例の制定(改廃)請求に必要な署名を収集するための前提要件とされている。これらの規定によれば、右令第九一条の規定は法第七四条第一項所定の条例について同項により、その制定(改廃)の請求をしようとする代表者に対して長に対する代表者証明書の交付申請権を認めたものと解すべきであり、この令の規定にもとづく交付申請が拒否されると以後の署名収集ができなくなるのであるから、長のなすその拒否行為は、たとえ申請者が有資格者でないとか、制定(改廃)を請求しようとする条例の内容が明らかに条例事項でないことを理由とする場合であっても申請者である当該請求代表者の法律上の地位に影響を及ぼすものとして、抗告訴訟の対象たる処分に当り、請求代表者はその違法を主張して取消しを求める法律上の利益を有するというべきである。よって被告の主張は採用できない。なお、法第二八三条第一項、第二五五条の三、第二五六条の規定からすると右のような代表者証明書交付拒否処分についても、知事に審決の申請をし、その審決を経た後でなければ、取消しの訴えを提起できないものと解されるが成立に争いのない甲第二号証によれば、被告が本件代表者証明書の交付を拒否するについては、東京都及び自治省当局からその旨の具体

    的指導を受けていることが明らかであり、改めて東京都知事の審決を経由させることはほとんど無意味であると認められるので、本訴の提起は、行政事件訴訟法第八条第二項第三号の「裁決を経ないことにつき正当な理由があるとき」に該当するというべきである。

  4.   そこで、以下被告の本件代表者証明書交付拒否処分の適否について判断する。
  5. 三 被告は、本件処分の理由として、「代表者証明書の交付は条例の制定(改廃)を請求しようとする条例の内容を審査し明らかに条例で規定しえない事項と認めた場合には、代表者証明書を交付しないことができると解すべきところ、本件において原告が制定請求をしようとする条例の内容は条例事項でないことが明らかであったので、被告は代表者証明書の交付を拒否したものである」と主張するのに対し、原告は、「代表者証明書交付の段階では、制定(改廃)を請求しようとする条例の内容を長が実質的に審査する権限はなく、少くとも外形的・形式的審査により、当該条例の内容とする事項が地方公共団体の事務に属さないものであること又は法令によりとくに制定(改廃)請求事項から除外されているものであることが通常人にとって一見明白で、その瑕疵を補正することが不可能である場合以外は、長はすべからく令第九一条二項の確認手続を経て、代表者証明書を交付すべき義務がある。」と反論する。
  6. <項番>(一) いうまでもなく、法は、憲法の保障する地方自治の根本要素である住民自治の要請に応ずるため原則として、住民が当該地方公共団体の議会の議員や長の選挙を通して間接に地方行政に参与するいわゆる代表民主制(間接民主制)の方式を採用している。しかし、これらの代表機関による地方行政の運営が時に住民の意思から遊離し又はこれを裏切り、住民の福祉に反する結果をもたらすこともありえないのではないので、かような場合に備えて住民に直接自己の意思を表明する機会を与え、これによって民意に反する施政を是正し、代表民主制にともなう弊害を除去する方途を講ずることは、真の住民自治を実現するうえに極めて必要である。法が、代表民主制を地方自治運営の通常の方式としながら、広く直接参政(直接民主制)の方法を併せとりいれ、その一として、法第一二条第一項により、住民に対し条例(地方税の賦課徴収並びに分担金、使用料及び手数料の徴収にかんするものを除く。)の制定又は改廃を請求する権利を認めたのは右の趣旨によるものである。
  7. <項番>(二) ところで、法の採用した条例制定(改廃)請求の制度は、住民が直接地方公共団体の議会に対して条例の制定(改廃)を請求するものではなく、当該地方公共団体の長に対し条例案を添えてその(制定)改廃を請求し、長がこれを議会に付議するという手続になっており(法第七四条第一項第三項条例案を添付することについては後記参照)これを条例として可決するかどうかはもっぱら議会の自主的判断に委ねられている。したがって、この場合議会への提案者は形式的には長であるが、右の請求を受けた長は、戦後昭和二一年一〇月から法制定までの間施行された東京都制第九四条ノ二、府県制第七九条、市制第八七条ノ二、町村制第七二条ノ二が、「長ハ原案ノ趣旨ニ反セズト認ムル範囲内ニ於テ之ヲ修正シ原案ヲ添ヘテ議会ニ付議スルコトヲ得」と規定していたのと異なり、住民から提出された条例案に修正を加えて

    議会に付議することを許されないので、実質的には住民に条例の発案権を認めた制度であるということができる。そして、この制度は議会が条例案を否決した場合に、一部の法制にみられるように住民の一般投票によってこれを成立させることを認めていないなどの点で、なお徹底した直接参政の方法ではないけれども、立法機関たる議会の権限を尊重しつつ、条例の本来の発案権者である議会の議員及び長(法第一一二条第一項、第一四条第一号)がその権限を適切に行使しない場合におけるいわば第三の発案権の行使として、住民が自ら条例案を作成して議会にその審議を請求する途を開いたものであり、これがわが国の地方自治の民主的運営上有する意義を考えるならば、その正当な活用は十分尊重されなければならない。

  8. <項番>(三) もとより、条例制定(改廃)請求は、条例の制定(改廃)を目的とするものであるから、その条例の内容が当該地方公共団体の条例で規定しうるものたるを要することは当然であり、条例で規定しえない事項を内容とする条例の制定(改廃)請求をすることはできない(法第七四条第一項は、このことを当然の前提とし、条例事項のうちでもとくに同項かっこ書に掲げる地方税の賦課徴収並びに分担金、使用料及び手数料の徴収に関するものについては、法制定直後にその改廃請求が頻繁に行なわれ、地方公共団体の財政的基礎を危くするおそれかあったことにかんがみ、これを請求の対象事項から除外したものである)しかし、条例で規定しえない事項に関する条例の制定(改廃)請求ができないということと、具体的な請求がそのような事項を内容とするものであるかどうかの認定権、審査権が制度上何人に帰属しているかということは、本来別個の問題であって、前者が制度の適用範囲に関するいわば実体法的問題であるのに対し、後者は、いわば手続法的観点から制度を動態的に観察してきめられるべき問題である。ことに、ある事項が条例で規定しうる範囲(法第一四条)に属するか、あるいは法律又は規則によって規定すべき事項であるかについては、法令に明確な定めのある場合は格別、そうでない場合には、地方行政の分野が広汎かつ複雑多岐にわたるにつれて、これを的確に判定することが実際上すこぶる困難となり、裁判例や学説においても見解の帰一しない具体的事例が少くないことは周知のとおりであるし、また他方、条例制定(改廃)請求の手続をみると、その請求をするには、まず令第九一条によって長から代表者証明書の交付を受けたうえ、令第九二条以下の定めるところにより、選挙権を有する住民の五〇分の一以上の者の賛成署名を収集しなければならず、また、この署名を得て制定(改廃)請求をしても、当該条例案について議会の審議が行なわれ、違法と判断されれば否決されることになり、更に、もし議会が条例案の違法を看過してこれを可決したときは、長がこれを再議に付し、なお違法があれば自治大臣又は知事に審査の申立てをし、その裁定に対して出訴することもできる(法第一七六条)。このように条例事項かどうかの判定自体極めて微妙困難な場合があるうえに、住民の請求に係る条例及び確定までにはいくつかの段階を経由しなければならないことを考えると、条例で規定しえない事項に関する請求はできないといっても、それを右一連の手続過程のどの段階で何人が審査認定して違法な条例の出現を防止するかという前記の問題が当然に解決

    されるわけではなく、この点は、結局、前述した制度の趣旨と各手続段階の意義ないし機能等を総合的に考慮して決定するほかはない。

  9. 四 そこで、代表者証明書交付の段階で長が条例の内容を審査し、それが条例事項でないと認めたときは代表者証明書の交付を拒否する権限を有するかどうかを検討する。
  10. <項番>(一) まえに述べたとおり、条例制定(改廃)請求制度は、住民の条例の発案権を認めたものであるが令第九一条は、その権利行使の前提手続として、まず請求代表者が長に対し代表者証明書の交付を申請すべきものとし(第一項)、右申請を受けた長において、当該請求代表者が選挙人名簿に記載されていることの確認を選挙管理委員会から得たときは、これに代表者証明書を交付しなければならないと定めている(第二項)。そして法第七四条第一項により制定(改廃)請求をするのに必要とされる住民の署名をもとめるには、条例制定(改廃)請求者署名簿に右代表者証明書又はその写を付さなければならないとされ(令第九二条第一項。これを付さない署名簿による署名は無効とされるばかりでなく、その署名簿を用いて署名を求めた者は法第七四条の四第三項により罰則の適用を受ける)したがって、代表者証明書の交付がなければ、以後一切の活動をなしえないものであることに徴すると、令第九一条が条例制定(改廃)請求の最初の手続として長による代表者証明書の交付を必要としたのは、当該地方公共団体の議会の議員及び長の選挙権を有する者でなければ制定(改廃)請求をなしえない(法第七四条第一項、第四項)ところから、請求手続の開始にあたり請求代表者が右の資格すなわち選挙権を有する者であることを公に確認しておくことによって、爾後の手続の明確を期し、後日にいたり請求代表者の資格の有無をめぐり無用の紛争が生ずるのを避ける趣旨に出たものと解するのが相当である。もっとも、令第九一条第一項は、代表者証明書の交付申請をするにはその申請の要旨その他必要事項を記載した条例制定(改廃)請求書を添えるべきものとし、また令第九八条の三にもとづく施行規則第九条の別記様式によれば、右の制定(改廃)請求書には制定(改廃)を請求しようとする条例案を添付することとされているので、もし代表者証明書の交付が請求代表者の選挙権の有無を確認するだけの手続であるならば、長に対して条例案を提出させる必要はない、ともいえるかのごとくである。しかし、さきに述べた条例制定(改廃)請求の手続によると、請求代表者は代表者証明書の交付を受けた後、住民から法定数の署名を得たうえで制定(改廃)請求をすることとなるのであるから、いかなる内容の条例の制定(改廃)について住民に対し賛否の意見表明を求めるのかを、その前段階たる長に対する代表者証明書の交付申請の際に条例案によって具体的に明らかにし、その内容を確定しておく必要があることはむしろ当然であって(それゆえ長が代表者証明書を交付したときは、いかなる条例の制定(改廃)について何人に代表者証明書を交付したかを広く一般住民に対し告示することになっており(令第九二条第二項)、署名簿には条例案を付した条例制定(改廃)請求書又はその写を添付すべきことが要求されているし(令第九二条第一項、規則第九条)、また条例案の内容を途中で変更することも許されないと解される)、そのうえ更に条例案の内容に対する長の審査権を認めるのでな

    ければ、代表者証明書交付の段階で条例案を提出させることが無意味であるというようなものではない。規定の形式からみても、代表者証明書の交付は、条例制定(改廃)請求手続の第一歩であり、その交付を拒否するということは、以後の一切の手続の進行を不可能ならしめ、当面の問題につき住民が議会に対して自己の発案の審議を求めることを阻止するという重大な効果をもつ行為であるに拘らず、その交付手続について定めた令第九一条は、右の段階で長が条例案の内容を審査して代表者証明書の交付を拒否することができるということについてはなんら規定せず、かえって前記のように、請求代表者の選挙権が確認されたときはこれに代表者証明書を交付すべきことを長に対して義務づけているにすぎない。また、条例事項かどうかの審査権が長に与えられているのであればいったん代表者証明書を交付した場合でも、その後の制定(改廃)請求書が提出された段階において条例事項でないと判断するにいたったときの処置が当然問題となるわけであるが、令第九七条は制定(改廃)請求があった場合の長として、署名簿の有効署名総数が法定数に達していないとき、又は当該請求が決定の請求期間を徒過しているときは、その請求を却下しなければならないこと(第一項)並びにその請求が適法な方式を欠くときは、五日又は三日の期限を付けてこれを補正させなければならないこと(第二項)を定めているのみであって、右のような形式的事項のほかに、条例案の内容の適否をも長が審査し、これを違法と判断した場合に、長が当該制定(改廃)請求を却下できるということはなにも規定していないのである。これらの点からみると、代表者証明書の交付申請書に条例案の添付が必要とされることをもって、その申請を受けた長が条例案の内容の適否を審査する権限を有することの根拠とはなしがたいといわなければならない。

  11. <項番>(二) 実質的に考えても、もし右の段階で長が条例案の内容を審査して代表者証明書の交付を拒否しうるとするならば、ある事柄を規律することが条例事項かどうかについて住民と長との間に見解の相違がある場合には、住民の発案権の行使が、まさにその見解の相違のゆえに手続の最初の段階において阻止され、長の見解のみが正当として適用し、住民側の見解の当否について議会の審議を受ける機会は失われることとならざるをえないがもともと、ある条例の発案につき、その内容の当、不当のみならず、法律的に条例で規定しうる事項であるかどうかの点についても十分審議をつくして、これを条例として成立させるかどうかを決定することは、立法機関たる議会の固有の作用であり議会制度を設けて立法作用を行なわしめる以上、この議会の権限を尊重すべきことはいうまでもない。法が地方公共団体の長と議会の関係につき、相互の抑制と調和を図りながらも、長と議員との兼職を禁止し(第一四一条第二項)、長は当然には議会に出席しないものとして(第一二一条)長が議会の活動に関与しない建前をとり、議会の活動については自主性・自律性を認め委員会制度を採用し(第一〇九条、第一一〇条)、調査権、図書室の設置等を定め(第一〇〇条)、独立の事務機構を整備する(第一三八条)など、議会が長から独立して自主的な運営を行なうことを保障する一方、長が議会の議決すべき事件を処分しうる場合を厳格に制限し(第一七九条、第一八〇条)議会の違法不

    当な議決に対しては長が事務的に是正手段(第一七六条)をとることを許すにとどめているのは、このゆえである。また条例の本来の発案者である議員及び長の発案権行使についてはこれらの者も非条例事項を内容とする違法な条例を発案すべからざる一般的義務を負っているわけであるが、その発案の内容の適否について事前に他の機関の審査に服し、議会への提案を阻止されるというようなことは現行法上全くありえないことであって、これもまた議会制度の本質からくるものにほかならない。しかるに、これらの発案権の行使に代わるいわば第三の発案の行使ともいうべき住民の条例制定(改廃)請求についてのみ、非条例事項に関する請求ができないとの理由により、行政機関たる長が事前にその内容を審査して議会への提案を阻止しうることを当然であるかのように考えるのは、右のような請求ができないということと、その認定権の帰属の問題とを混同するものであるばかりでなく、住民の条例制定(改廃)請求制度の意義を不当に軽視し、立法機関たる議会の権能をも犯すものであるとの批判を免れない(この点は後にもふれる)。

  12. <項番>(三) 更に、代表者証明書が交付されたからといって、その条例案が条例として成立するかどうかは全く未定であり、その成立及び確定までに長以外にもいくつかの段階で批判審査を受けることはさきに述べたとおりである。
  13.   すなわち、まず、請求代表者は、代表者証明書の交付を受けた後、条例案の内容を明らかにして選挙権を有する住民の五〇分の一以上の者の署名を得なければならないから、当該条例案は、第一にこの署名収集の段階で地方自治の主体たる一般住民の批判にさらされることになる。そもそも住民に発案権等を認める直接参政の制度は、その権利を行使する者たると、これらの者の働きかけを受ける者たるとを問わず、およそ住民自身の良識と自覚に対する信頼なくしては存立しえないのであり、ことに政治的、経済的、社会的利害の対立が激しく、かつ、言論の自由が保障されている現代においては、一般住民に対する署名収集運動の過程で条例の内容に対する厳しい批判や反対運動がおこり、ついに法定数の賛成署名を獲得しえない場合もありうるのである。もちろん、条例案のうちには、その内容が条例で規定しうる事項であるかどうかが極めて微妙で、その判定に高度の法律的知識を要するものがありうるから、署名収集の段階での一般住民による違法是正の機能には限界があることは認めなければならないが、その点は長とても本質的に同様であり、むしろそのような問題については、立法機関として当該条例案を審議する議会の判断に委ね、更に最終的には裁判所において判断すべきものである。
  14.   第二に、かようにして住民の批判を経て所要の署名を得た条例案は、長が意見を付けて議会に付議し(法第七四条第三項)、議会において十分な審議を受け、違法であると判断されれば否決されることになる。議会のこのような作用が条例の立法機関として本質的な権限であることはすでに述べたところであるがこの審議にあたっては、長の付した意見が参考とされることはもちろん、必要があれば公聴会を開いて学識経験者から意見を聴き(法第一〇九条第四項)、あるいは請求代表者ら関係人の出頭を求めて証言を聴くなど自主的な調査研究が

    行なわれ(法第一〇〇条)、これによって、法律上の問題についても議会の判断の適正を期すことができるのである。議会制度の下において、このような議会の判断力ないし違法排除の機能を信頼かつ尊重するのでなければ、ひとり住民の条例制定(改廃)請求の場合だけに限らずおよそ議会の議決一般について長その他の機関による事前規制を認めざるをえず、かくては議会制度そのものの否定となるであろう。

  15.   のみならず、右のような議会の審議と関連して、条例案は議会において修正される場合があることを考えなければならない。すなわち、議会は、議会に付議された議案について、当該議案の目的又は性格を全く変更するものではない限り、独自の立場から必要と認める修正を加えることができるのであり(法第一一五条の二参照)、このことは住民の制定(改廃)請求に係る条例案についてもなんら異なるところはない。この意味において、条例案の内容は、請求者の側から任意変更することが許されないとはいえ、決して確定不動のものではないし、また請求者(住民)の立場からみても、当然条例案がそのままでは違法であると判断されて否決されるよりは、その趣旨、目的に反しない限度で議会が適法と認める内容に修正のうえ可決されることを利益とするのが通常である(ただし、修正をするかどうかは議会の専権であり、修正可能な議案を修正しないで否決することも自由である)。したがって、かような修正可能性をもつ条例案の内容を、代表者証明書の交付という議会審議以前の段階で長が確定的なものとして審査し、自己の判断で違法と断定して、以後の手続を阻止してしまうことは、議会の審議対象の流動的、可変的性格を無視し、修正について住民の有する右の利益を不当に失わせるものであるといわなければならない(条例の成否が住民投票によるのではなく、議会の自主的採否に委ねられている法制の下においては、署名収集の際に住民が賛否の意見表明の基礎とした条例案が議会で修正されることに意義を認めたからといって、これを住民を軽視した非民主的な見解であると非難するのは当らない。)
  16.   第三に、条例可決後の手続ではあるが、最終的な違法是正の手段として、議会の条例案の内容の適否に関する判断を誤り、非条例事項を内容とする条例を可決した場合には、前記のとおり、長はこれを議会の再議に付し、なお違法が是正されないときは、自治大臣又は知事に審査の申立てをして議決を取り消す旨の裁定を求め、更にその裁定に対して裁判所に出訴することも認められており、これによって違法な条例を排除することが可能である。
  17.   このように、住民の請求による条例の制定過程においては、行政機関たる長に条例案の内容に対する事前審査権を認めなければ違法な条例の出現を阻止しえないというような仕組にはなっておらず、むしろこれを認めないことが地方自治運営の建前に適合するものといえるのである。
  18. <項番>(四) これに対し、被告は、長が条例案の内容を条例事項でないと認めた場合でも、代表者証明書の交付を拒否することができずはじめから条例として制定しえないと判りきっている条例案について署名の収集を許し、更に署名を得たうえでの請求があると、わざわざ議会を招集

    し、提案、審議、そして否決という過程を経なければならないとするならば、もともと無駄なことについて署名運動の働きかけを受ける多数の住民の迷惑は計りしれず、公務員の徒労や税金の濫費以外にはなんら得るところがなく、長として住民や議会を愚弄する結果となる旨を強調する。

  19.   たしかに、住民の運動にも拘らず、条例案が違法として議会において否決された場合には、結果からみればそれまでの運動や手続がいわば無駄であったことになるし(ただし、この場合でもその運動の政治的効果は無視できない)、また、当該条例がいったん可決された後に違法としてその効力を否定されるようなことになれば、事態に混乱をきたすこともありえよう。しかし、繰り返して述べるように、問題は、当該条例案が果して違法であるかどうかにつきいまだ何人の権威ある判断もない手続の最初の段階において、長が自己の見解のみを正当として一方的に手続を終息させ、一般住民や議会による判断の機会を奪うことが、議会制度の下において住民の発案権を認めた条例制定(改廃)請求制度の趣旨に適合するかどうかの点にあるのであり、換言すれば、以後の手続を進めることが無駄であるということをなにゆえに長が事前に決定できるかということなのである。被告はこれを長に決定せしめても、その決定すなわち代表者証明書の交付拒否行為に誤りがあるならば訴訟によってその取消しを求めればよいから、なんら正当な発案権の行使を妨ることにはならないというけれども、現代における立法過程がその時々の政治、経済、社会の動きに応じて複雑多様かつ流動的であるため、訴訟により右拒否行為の取消しを得ても、ひとたび挫折せしめられた立法運動がついに所期の目的を達しえなくなる場合があることは原告所論のとおりであり誤りある長の判断がもたらす結果は重大であるといわなければならない。のみならず、現行法の認める条例制定(改廃)請求の制度は、議会が民意を十分に反映しない場合を予想しながら住民の発案の採否を議会の専権に委ねているのであるから、たとえ長が適法と認めて代表者証明書を交付した条例案であっても、議会において否決される案件が多くならざるをえないことは過去の実例の示すところであり、その限りではやはり無駄の生ずることを避けられないのであり、更にいうならば、直接参政の制度そのものがある程度の無駄や混乱を敢てしても民主的な地方行政の実現のためには忍ぶべきであるとするところに存立の基礎を有する制度であるとすらいえるのである。したがって、長の判断が結果的に正当であった場合の手続の無駄や混乱のみを強調して、条例案の内容に対する長の事前審査権を認めるのは十分な根拠がないというべきである。
  20.   また、被告は、住民との間に不一致のある議会に条例案の採否を委ねることを認める以上、同じく住民と見解の対立する長に条例案の内容に対する審査権を認めても不当とするにはあたらないと主張するが、かかる議論は、法の認める条例制定(改廃)請求制度が議会の権限の尊重を前提とするものであることを忘れ、条例の立法過程における議会と長との役割ないし権能の本質的相違を無視した見解であり、とうてい採用することができない。
  21. <項番>(五) 以上にみてきたような条例の制定(改廃)請求手続の構造や、この

    手続に関与する住民及び議会の役割、とくに立法機関たる後者の地位ないし権限、長と議会との関係等を、前述した条例制定(改廃)請求制度の本旨に照らして総合的に考察すると、法は、住民の条例制定(改廃)請求権を議会の議員及び長の条例発案権に代わるべきものとみる立場から、その権利の行使につき、これを行使する者の良識と自覚を期待するとともに、違法な内容の条例が出現するのを防止する手段として、一方において、地方自治の主体たる一般住民及び立法機関たる議会の自主的な判断を信頼かつ尊重し、他方、行政の責任者たる長に対しては、議会の権限に対する事前干渉を避けるため、議会の議決以前には条例案を議会に付議する際に意見を付することを認めるにとどめ、もし違法な内容の条例が可決された場合には、瑕疵ある議決に対して長が拒否権を行使する一般の場合と同様、再議その他の法的手続により事後的にこれを排除しうる途を開くことによって、議決制度の下における住民の自治権の伸張と行政権の執行との調和を図っているものと解するのが相当であり、要するに、住民による条例の制定(改廃)請求を手続的にも議員及び長の発案権の行使に準ずるものとして取扱う趣旨であると解される(したがって、長が地方公共団体の事務を管理執行する権限と職責を有することから、条例案の内容に対する長の事前審査権を認めるのは正当でない)。

  22.   このように考えてくると、代表者証明書交付の手続においては、当該条例案の内容が、たとえば被告のあげる憲法改正手続を定めるものであるとか、あるいは法第七四条第一項かっこ書に掲げる地方税の賦課徴収並びに分担金、使用料および手数料の徴収に関するものであるとかのように、条例で規定しえない事項又は条例の制定(改廃)請求をなしえない事項に関するものであることが一見極めて明白で、条例としての同一性を失わせない範囲で修正を加える可能性がなく、条例制定(改廃)請求制度を利用させるに値いしないと認められるような場合は格別、そうでない場合には代表者証明書の交付申請を受けた長は当該条例案の内容の適否を審査する権限を有せず、その判断によれば条例事項でないと認めるときでも、それを理由として代表者証明書の交付を拒否することは許されないというべきであり、これに反する被告の主張は採用することができない。
  23. 五 進んで、以上の見地から本件をみるのに、原告の制定請求をしようとする条例の内容が別紙「練馬区長候補者決定に関する条例(案)」のとおりであることは当事者間に争いがなく、その要点は練馬区長の選任に区民の意思を反映させるため、区議会が令第二〇九条の七第一項の規定により区長候補者を定めるにあたっては、区が実施する区民投票の結果にもとづいてこれを行なうものとし(第二条)、その区民投票は、区議会議員の選挙を有する年令満二五年以上の者で区長候補者になろうとする旨を区議会に届け出た者について区の選挙人名簿に登録されている者が行なう(第三条ないし第六条)というものである。ところで、法第二八一条の三第一項は、「特別区の区長は、特別区の議会の議員の選挙権を有する者で年令満二五年以上のものの中から、特別区の議会が都知事の同意を得てこれを選任する。」と定め、また、令第二〇九条の七第一項は、「法第二八一条の三第一項の規定により特別区の議会が当該特別区の区長を選任しようとするときは、特別区の議会は予め特別区の区長の候補

    者を定め、文書を以て都知事の同意を得なければならない。」と規定して、区長候補者の決定を区議会の権限としているから、この区長候補者の決定について区民投票の結果が区議会の意思を法的に拘束するような内容の条例は違法といわざるをえないであろう。そこで、本件条例案の内容をみるとその第二条の規定は、一面、区議会が区民投票の結果に法的に拘束されることを定めたもののようにもみられないでもないが、他面において、「もとづき」なる用語が常に法的拘束を意味するとのみ解しなければならない理由はなく、発案の趣旨等からして、区民投票により選出された者以外の者を区議会において区長候補者に決定することを絶対に許さないとしたものであることが一義的に明白であるとまで断定することはできない。のみならず、区議会が区民の意向を参酌して適当な区長候補を選ぶために、自己の意思決定の自主性をそこなわないようにして区民投票の結果を適宜利用するということは必ずしも不可能又は無意味なこととは考えられずまた、これをすべて違法として禁ずべき理由もないのであって、弁論の全趣旨を勘案すれば、区議会においてこのような観点から本件条例案の内容を修正し、区議会の決定権を不当に拘束しないような形の区民投票制度にすることが、原告らの発案の趣旨・目的を全く失わせることになるとも認めがたいところである。それゆえ、本件条例案は、その内容が前記区長選任手続に関する法令の規定に違反するかどうかの最終的判断はともかく、その違法であることが疑いを容れる余地のないほどに明白で、しかも、修正不能なものであるということはできない。

  24.   してみると、本件において、被告が原告の代表者証明書交付申請に対し、条例案の内容が右法令の規定に違反することを理由として、代表者証明書の交付を拒否したことは、本来審査すべからざる事項を審査し、令第九一条に違反したものとして、違法であるといわなければならない。
  25. 六 以上の理由により被告の本件代表者証明書交付拒否処分は違法であるから、右処分を取り消すこととし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条を適用して、主文のとおり判決する。

               東京地方裁判所民事第三部

                     裁判長裁判官  緒方節郎

                        裁判官  小木曾競

                        裁判官  佐藤 繁

<節>
片区長の就任
<本文>

この判決に対して区側は翌六月七日控訴した。この間、区議会での動きは、現行地方自治法による慣行である区議会での区長候補者指名に努力を払う派とこれに対抗して「区民の会」寄りに収拾しようという派などにわかれ結論を出し得ないでいた。自民党議員から元都民生局長の北見幸太郎氏を推す動きはその一つの現われであったが、結果的にはまとまらなかっ

た。

こうした中で、七月一一日、二〇代区議会議長に、二三区では初めての婦人議長小柳信子氏が就任した。このころ区長候補者選考が進み、自民、公明、民社の賛意によって、片 健治氏が選任され、七月二九日、区長に就任した。ここに至るまで区長の空白四〇三日という各区を通じて空前の事態に一応形の上での終結を得たのである。

いっぽう、高裁への控訴人は、片区長に移ったが、区長としては、事態の速時解決を望み、高裁側も一一月二八日「控訴棄却」とし、一二月一二日、片区長は上訴しないことを決した。判決の内容は次の通りである。

<資料文 type="2-33">

      判  決(東京高裁)

  (控訴人など省略)

右当事者間の昭和四三年行コ第三二号行政処分取消請求控訴事件について、当裁判所は次のとおり判決する。

主文

本件控訴を棄却する。

控訴費用は控訴人の負担とする。

事実

控訴代理人は、「原判決を取消す。被控訴人の控訴人に対する請求を棄却する。訴訟費用は第一審第二審とも被控訴人の負担とする。」との判決を求め、被控訴代理人は控訴棄却の判決を求めた。

当事者双方の事実上、法律上の主張及び証拠の関係は、原判決の事実の部に記載されたとおりであるから、これをここに引用する。(但し原判決二四枚目裏三行目に「なけば」とあるのを「なれば」と、二六枚目裏六行目に『「請求の要旨」とが』とあるのを『「請求の要旨」と条例案とが』と、三四枚目表三行目に「あることは」とあるのを「あるとは」と、三五枚目裏五行目に「抵い」とあるのを「低い」と、三七枚目表五行目に「許れる」とあるのを「許される」と、原判別紙中「練馬区長候補者決定に関する条例制定請求書」一、条例制定請求の要旨の一行目及び三行目にそれぞれ「わたしたち」とあるのをいずれも「わたくしたち」と、練馬区長候補者決定に関する条例(案)第九条第三項に「区議に」とあるのを「区議会に」と、十条「施行」とあるのを「執行」と各訂正し、右条例制定請求書末尾の年月日中「九月」を削る。

理由

当裁判所も控訴人のした本件代表者証明書交付拒否処分は、違法であって取消を免れないものと判断する。その理由は、原判決の理由の部の記載のうち五、を次のように改めるほかは右記載と同じであるから、ここにこれを引用する。

  1. 五、ところで地方自治法(以下法という)第二八一条の三第一項は「特別区の区長は、特別区の議会の議員の選挙権を有する者で年令満二十五年以上のものの中から、特別区の議会が都知事の同意を得てこれを選任す

    ると定め、また同法施行令(以下令という)第二〇九条の七第一項は、「地方自治法第二八一条の三第一項の規定により特別区の議会が当該特別区の区長を選任しようとするときは、特別区の議会は、予め特別区の区長の候補者を定め、文書を以て都知事の同意を得なければならない。」と定め、特別区においては、区長候補者の決定及び区長の選任が区議会の権限とされている。従って、右法及び令の下位規範である特別区の条例はこれらの規定に違反するような内容の事項を制定し得ないことは明らかである。

  2.   被控訴人が制定請求をしようとする別紙「練馬区長候補者決定に関する条例(案)」をみると、その骨子とするところは、練馬区議会が区長を選任するに当り、全区民の自由な意思が正確に反映されるよう、民主的な手続を確保する目的で(第一条)、区議会が令第二〇九条の七第一項に規定する区長の候補者を定めるに当っては区が実施する区民の投票の結果に基づいてこれを行うものとし(第二条)その区民投票は、区議会議員の選挙権を有する年令満二五年以上の者で区長候補者になろうとする旨を区議会に届け出た者について(第三条)区の選挙人名簿に登録されている者が行なう(第六条)というのである。この内容は、区議会が行なう区長候補者の決定を区民投票の結果にかからしめることによって区議会の区長候補者の決定の自由を拘束し、区議会の有する区長候補者決定の権限ひいて区長選任の権限の実を奪い、いわゆる区長公選制と同様の結果を得ようとするもので、強行法たる前記法(及び令)の規定するところを潜脱しようとするものではないかともみられるのであって、控訴人がこれを条例で制定し得ない事項であるとしたのは、かなり理由があるようにも考えられる。
  3.   しかし、別紙「練馬区長候補者決定に関する条例制定請求書」の一、条例制定請求の要旨によれば、立案者としては、右条例案は現行の法及び令の規定によっても許される範囲内で立案しようとしたものであることがうかがわれないではないこと、条例案第二条に「区民投票の結果に基づいて」という「基づいて」の文言は、通常「根拠として」「基礎として」の意であり「尊重して」「参考として」の意に用いられることもあり、右条例案がこれを区議会の候補者決定の拘束を意味する用法に従って使用したものとばかりは断定しがたく、被控訴人も指針ないし重要な参考意見にするとの趣旨であると主張していること、もともと区長候補者決定権をもつ区議会は、その候補者選出の方法について自律的に決定する権限をもつものというべく自ら決定したその選出方法に拘束されるのは当然であり、その場合前記のような区長公選制と同様の結果となる方法をとることは許されないが、仮にこの条例案が所定の署名を得たうえ、区議会に付議されることとなった場合においても議会はなおこれが採択を拘束されるものでなく、議決の要なしとして全面的にこれを否決することができるばかりでなく、案が違法であるとして否決することができ、このような違法な方法であるとの疑がないように原案を修正することがいちがいに不可能であるとはいえず、またこの修正によって必らずしも議案の同一性が失われるとも考えられないこと等を勘案すると、右条例案が法及び令の規定に違反するものと即断するのも早計であるといわなければならない。
  4.   結局本件条例案は、条例で規定し得ない事項または条例の制定請求を

    なし得ない事項を内容とするものであることが一見極めて明白であるとまではいえないというほかない。

  5.   従って、控訴人が被控訴人に対し代表者証明書の交付を拒否したのは、拒否すべきでないものを拒否したこととなり、令第九一条に違反した違法があるというべきである。
  6.   よって本件控訴はこれを棄却することとし、控訴費用の負担につき民事訴訟法第九五条第八九条を適用して、主文のとおり判決する。

                   東京高等裁判所第四民事部

                     裁判長裁判官  小川善吉

                        裁判官  小林信次

                        裁判官  川口富男

いずれにせよ、片区長の就任により、区政は正常の形に戻ることができたのであった。しかし、この空前の区長不在の異常事態を重大な教訓として今後に処さなければならなかったが、練馬の場合は、区議会における従来の形である区長選任により新区長が誕生したことによって終結したので、論争と実行はあとに残されたまま区本来の姿に戻ったのであった。これに対して「区民の会」も率直に次のように述べている。 <資料文>

われわれは、準公選方式を練馬区の区長選任で実現できなかった点で、当初の目的を達成できなかったことを率直に認めなければならない。しかし、われわれはその敗北感に襲われてはいない。なぜだろうか。それは「区民の会」が提起し、裁判闘争を通じて区長公選の原理にかなった準公選方式の合法性を獲得し、新しい市民運動の貴重な経験、蓄積を残したからである。そして、それらの成果を、次回の練馬区の区長選任時だけでなく、広く二三区の区長選任時に適用できると確信するからである。……

と。

区議会における多党化現象による意思決定の統一が容易でないこと、地方自治獲得の運動が広く市民運動の形に進み、現行法の欠陥を指摘して「懸案の自治法改正をめざす区長公選運動にたいして最大の貢献ができる」と判断して根強い運動を展開したこと、その運動が一時は「学者専門家の遊び」とも批判されながら、あくまで広く市民の意思を吸収する努力を怠らず公正を期して進めたこと、などを見ることができる。

四七年七月二八日、片区長は多くの業績を残して任期満了により退任した。後任区長の件については意見がまとまらぬままその一〇月二七日、区議会は「区長公選制の早期実現に関する意見書」を可決し、内閣総理大臣・自治大臣・都知事に提出している。その全文は『現勢資料編』にあるが、その要旨は、①地方自治体の長を選ぶには住民の直接選挙によるのがよい。②本区では七月以来区長空席のままであるが、他の四区でも同様空席である。③都議会でも四六年一〇月、区長公選制実現促進の意見書が可決されている。よって「特に区長公選制の実現は、区政に対する住民参加の不可欠の要件である」とする。練馬区の投げた区長準公選方式は、やがて「区長公選」方式の確立へと向って激しい渦をまき起した。

区内では、区長問題は曲折を経て、四八年一〇月一六日、準公選方式により田畑健介が区長に就任した。この間、区長空席四四四日に及んだのであった。翌四九年六月一日、地方自治法が改正公布され、区長公選制が復活、五〇年四月の統一地方選挙の中で、区長選挙がおこなわれ、田畑健介が当選した。

<章>

第三章 基本構想

<本文>

戦後の日本経済は、民衆の生活ともども敗戦による打撃に壊滅的状態を呈していた。ことにそれは大都市において著しく、少数この事態の中で功利に走る一部の者を除いて、都民の生活は混迷のなかにあったといえる。練馬地区も同様であった。東京のなかでは周辺地区として多少の余裕があったとはいうものの、占領政策の明日をも知らされぬいらだたしさに、わずかにその日の食料を求め得る貧しい生活をつづけていた、といっても過言ではなかった。

こうした中で、区は独立した。練馬・石神井・大泉の地区が一本になって、その地理的条件を生かし、新しい発展を期したのである。幸い、この地はまだ十分みどりを残す環境に恵まれ、交通網は十分とはいえないが、東京の周辺区として快適な居住区を形成する期待を持つことができた。しかし一方、都内各区と比較すると、道路、上下水道そのほか戦前のままとりのこされている部分も多く、加えて、人口の都市集中という急激な波が此の地の田園を蚕食し、場合によっては「原則のない乱開発」による荒廃の事態に立ちいたるおそれも切実に感ぜられる有様になってきた。ことに高度成長政策がとられ、日本の経済が表面上急激な発展をみせてきたころから、練馬区の恒久的な立つべき位置を確立することが緊要な課題となってきた。大都会の中で被害者的立場で区の表面上の発展を画くことは、区民の生活を破壊することになりかねない。

区独立に示した情熱と区民の誠意は、それが達成され、自治の精神に徹することによって表明された。その現われの一つが区長公選問題になったといえよう。長い空白を経て片区長が就任した。その施策の一つが、区の長期計画の発意になって、昭和四七年五月二日、委員会の設置となり、策定への道を急ぐことになったのである。

長期計画準備委員会

委員会のまず取り組むべき仕事は、基本構想の立案であり、昭和四九年度を初年度とする長期計画・実施計画の策定であった。四七年五月九日、準備委員会を開催、協議の上、次の四つのミニプロジェクト・チームを設置することになった。

  1. <項番>(1) コミュニティ計画小委員会
  2. <項番>(2) 住民意識意向調査小委員会
  3. <項番>(3) 生活環境小委員会
  4. <項番>(4) 都市構造小委員会

こうして、五月一六日には資料収集を開始した。その区分は①地域構造 ②産業経済構造 ③生活環境 ④公共施設 ⑤行財政制度 ⑥地域社会活動・住民意識の六項目である。委員会は勢力的に活動し、七月上旬までに、各小委員会共に担当事項について検討を急いだ。この間に、長期計画策定のための管理職研修(「長期計画の意義と目的」=石原舜介、「長期計画と財政」=桓松制治、「長期計画と行政」=佐藤竺、「首都圏における練馬区の位置づけと長期計画のあり方」=石川允)を実施し、さらに実務担当者研修を次によって実施した。

七月八日、第三回準備委員会で、①基礎調査項目 ②住民意識意向調査項目 ③委託先費用などについて検討し、委員会の意志を定め、七月一八日庁議で、調査方針、項目を決定し、三一日、首都圏総合計画協会と委託契約を締結した。これによって第一段階を了えることができた。この七月二八日、片区長は四年の任期を満了して退職した。

四七年九月に入って、住民の意識意向を調査する運びになった。先ず一六日の区報でこの調査に関する趣旨、方法などを広く理解して貰い、併せて調査対象者にはハガキで挨拶状を送り協力方のお願いをした。この方法は家庭を訪問する形でアンケートを求めた。一方、要保育児童についての実態調査も調査票を郵送して実施した。これらの結果は、教育委員会、区民部、厚生部、土木部などで検討し、一一月一六日の総務委員会で経過が報告されている。このとき、長期計画についての論文を募集することに決り、一月二二日応募論文を審査、次の入賞者について一月二九日、表彰式を挙行した。

四七年の一二月から翌四八年一月にかけては、策定準備の経過説明に併せて協力を依頼するため、次のように、政党・団体・関係者との話合いを開いている。

二月に入って一九日、庁議に経過報告をし、準備委員会は任務を了え、長期計画策定委員会が設置されることになり、その第一回が三月一〇日開かれた(委員会要綱は四八年二月二二日施行)。委員会は、助役を委員長、企画部長を副委員長とし、収入役、教育長、総務、区民、厚生、児童、環境、土木、建築の各部長に教委事務局次長、区議会事務局長、区長室長、企画、広報、総務、予算の各課長を委員とした。その所掌する事項は、基本構想、長期計画、実施計画の諸案の作成に関することである。

策定経過の概要

長期計画策定委員会は、その第一回委員会において、基本方針として①策定については、主体的に取り組むこと(手づくり) ②長期計画、実施計画は同時作業で行なうこと ③職員参加による計画策定にすること、の三つをあげている。

これ以後、四八年末第一回委員会を開催して基本構想第二次案を報告するまで関係者の努力はなみたいていのものではなかった。それらのうち主な経過について以下記述しておきたい。

五月の第三回委員会で七つの小委員会を作り、小委員会毎に活動を開始したが、小委員会開催は延五三回にも及んでいる。その担当区分は、策定委員会運営要綱では次のように定めている。

  1. 一、基本小委員会 区がめざす将来の都市像、人口などの計画指標、住民参加、コミュニティ、シビル・ミニマム等基本的事項
  2. 二、教育、文化小委員会 幼児教育、学校教育、社会体育、校外施設、文化史跡等教育、文化に関する事項
  3. 三、社会福祉小委員会 児童福祉、老人福祉、心身障害者()対策等社会福祉に関する事項
  4. 四、区民サービス小委員会 保健、医療、商業、農業、工業、住民サービス消費者対策等区民サービスに関する事項
  5. 五、生活環境小委員会 公園、緑化、河川、上下水道、生活道路、緑道、ガス、公害対策、災害対策、同和対策等生活環境に関する事項
  6. 六、都市基盤小委員会 土地利用計画、地域開発、再開発、幹線道路、鉄道、バス等都市基盤に関する事項
  7. 七、行財政小委員会 財政計画、組織、事務管理等行財政に関する事項

七月には、基礎調査、区民意識・意向調査に併せて要保育児童の実態調査を行なったが、これは五月の長期計画策定合同委員会で決定したものであり、区の基本構想には区民の意志が基盤になるという認識に立つからである。このため八月には区政モニター諸氏と、住民参加のあり方についての話合いももっている。

素案は、八月の第七回委員会以降、各小委員会から報告の形で提出し、それらを検討して、一〇月八日、企画室で編集作業を開始した。

この一〇月一六日、四百数十日に及ぶ区長不在の事態が一応解決し、田畑健介区長が就任している。素案は四九年一月から六月に至る総合計画特別委員会で延一〇回に亘って内容の審議をし、七月三〇日の第二回定例区議会に報告された。

ここに至るまでに、委員会は前準備委員会のあとを受けて、政党、党派、団体さらに青年層との話合いを続けると共に研究会を開いて専門家の意見を聞きまたは質疑を行なうなどを繰返し積重ねてきた。四九年一〇月の素案の中の一部を引用しておきたい。

<資料文>

「とくに緑、空気や池、川など自然の保全回復は、人間の生命に直接かかわる緊急課題であり、他の生活環境施設整備と併せ最重点政策として取り組む。そのさい地域の特質を十分生かしながら環境の四原則と言われる安全、保健、利便(能率)、快適が最大限保障されるよう生活優先の原理にもとづくまちづくりを基本とする。(生活環境整備構想)」

基本構想の議決

構想素案については、区民の理解を求めるため、区内一五地区で住民説明会を開催するなど成案作成に向けての努力が行なわれてきた。しかし、たまたま昭和四八年秋のオイル・ショックによる国内経済への強い影響がインフレ現象を起し、加えて地方自治法改正へ向けての機運が高まってくるなど、客観情勢の変化がはげしくなったため、成案化への作業は中断せざるを得なくなった。

そして、一年おいた五一年二月、改めて、基本構想成案化への道を再開することになったが、以下「練馬区基本構想策定経過の概要」によって経緯を略記(転載)する。

この基本構想は、区議会議決後、直ちに印刷の上広く配布された。その書物の冒頭で、田畑健介区長は、次のように述べている。

<資料文>

前略)この基本構想は、きわめて困難な都市問題に直面する練馬区の位置づけを正確に認識し、なおかつ明るく住みよい町づくりをすすめようとする練馬五六万区民の宣言であります。

それは、練馬区の独自性に立脚し、残された貴重な緑を守り、自然と調和した人間優先の立場を貫き、連帯感あふれる地域社会を区民が主体となって創り出していくことを基本としています。

もちろん、この構想を実現するためには、多くの困難が予想されます。しかし、わたくしをはじめ、区職員が総力をあげて一歩一歩着実に努力してまいりたいと思いますので、区民の方々の積極的な参加とご協力をお願いいたします。

基本構想の理念

練馬区の当面する課題は、都内他区との格差を是正することである。この区史現勢編の各章で述べている通り、区民に身近な上下水道、道路交通網ばかりでなく公民館・図書館・体育館・児童館などの文化施設も最近ようやく整備されつつある状況で、二三区中では低位にあるといえる有様である。

それに加えて人口の激増は、本区の最も特色とする緑を荒らす乱開発の形を導き出し、行政の対応する限度を越えるものがある。いわば準備の整っていない緑の田園に覆いかぶせるように都会をのせてしまったようなもので、基盤になる平和な田園は荒れ、その上に組立てられる街の住人は都市生活の良さを味わう条件のないまま居住しなければならない。というといささか大げさに過ぎるであろうが、人口の増加がその土地の発展を示す指標になるのではなく、逆に転入する新しい区民に対しても不十分な実態でこれを迎えることにもなり、在来の居住者にとっては環境の悪化をなげかせるもとになる。そう

した区民にとって少しでも希望を失わせるような状態から速やかに脱却し、より高い理想像を掲げてそれに邁進する努力が払われなければならない。

それが、「緑に囲まれた静かで市民意識の高いまち」=新しい練馬の姿、である。五つの目標は

である。「基本構想」の説明資料の中で次のように説かれている。 <資料文>

基本理念策定の理念

地域開発が、住民の利便、幸福につながるといわれた時代はすでに過ぎ去った。また、住民の日常生活に密接に関連する区政の計画を、行政当局が一方的に策定し、住民に決定されたものとして、ただそれを受容するだけという時代も過ぎた。

今日、行政に求められている基本的なものは、つぎの三点であると考える。

 

(まちづくりの方向)

その第一は、無秩序な地域開発や、幹線道路を中心とした経済優先のまちづくりではなく、自然や文化遺産を守り、人間にふさわしい生活が保障されるような、生活環境優先のまちづくりである。

 

(区民と行政との関係)

第二点は、区政の主人公である区民が、自覚した市民として、主体的、積極的に区政に参画し、また、それを可能とするために区が

積極的に努力することである。これは民主主義の原則に照らして当然のことであり、地方自治発展の基本をなすものである。

区のあるべき姿を求めた基本構想と、それを実現するための長期計画の策定は、まさに区民が主権者として、現状を知り、自分達の考えをまとめ、それを区に行わせるに最もふさわしいことであり、機会である。

いわゆる「計画への参加」や区政運営のあらゆる面で、住民参加による区政を、行政側も積極的に推進しなければならない。

(人間性の回復)

第三点は、練馬を単に夜帰って寝るまちでなく、人々が互いに隣人として、ともに生活し、考え、議論し、協力しあう生き生きとした地域社会とし、高度化する機械文明の大都会にあって、ますます失なわれいく人間性をとりもどす場とすることである。

さらに、説明資料は、その「社会的経済的背景」の中で、区の面積の八〇%以上が、都市計画上の住居専用地域であり、近隣商業地域を含めると九五%にも達すると述べている。かつて農耕地を主体に地域構成が成立していたものが、すでに練馬大根は遠い過去に押しやられたが、一方大工場群はこの地にはない。敗戦後占領軍の指導によって実施された所有における平等観から農地改革が多くの創設農家を生んだが、その大部分は、既に農業から離れ、土地を手放している。東京都の人口集中が周辺に向ってここ二〇年間急速に利用し得るあらゆる種目の土地を宅地化してきた。都が三〇万人の居住地として多摩ニュータウンの計画をたてればたちまちにその周辺は大小の建設業者によって開発される有様で、近県を含めた首都圏内は自治体の計画的開発だけでは間に合わず、随所に宅地化する状勢であった。その勢いは条例規正を越えた速度で怒濤のように農地、山林を飲みこんで市街地化していった。本区区域もその例に洩れるものではなかった。

本書第八章「人口」で述べているように、区の人口は、独立当時約一一万人、それが三〇年間で約五倍になり、六〇年には六〇万を超すであろうと推計されている。そのうち昼間他地区に出るものは一〇万人に及んでいるが、現在のこの五〇数万人の区民が、より幸福に快適な環境のなかで生活していて貰いたいというのは区役職者だけでなく区民相互の願いである。あとから来る者に対して排他的でなく、区内の適正な規制による=区民一般の了解に基づくルールが確立し、区の特色

をもつべきときに立ち至ったのである。

 

最近の新しい用語に「シビル・ミニマム」「コミュニティ」という言葉がある。シビル・ミニマムは「人の生活にとって必要最低限度の水準」を意味するものであり、憲法でいう「健康で文化的な最低限度の生活」と同じ意味である。これを保障することは自治体運営上当然役職者に課せられたものである。資料でも次のように述べている。

<資料文>

シビル・ミニマムは、道路、上下水道、病院、学校、公園などの社会資本だけではなく、社会保障(年金、生活保護など)、社会保健(公害対策、公衆衛生など)その他の分野で、区民の生活権を保障することを目標として設定されるものである。シビル・ミニマムの実現をめざした行政が行われることによって区民の生活権は具体的に保障されることになる。

シビル・ミニマムの充足された生活を享受することは、区民の権利であり、それを保障することは行政の責任である。

コミュニティについては、その言葉を使用する者によって多少のズレがある。練馬コミュニティを提唱する区としての用い方は「住民が日常生活の場において、良好な生活環境の整備と豊かな人間性の回復をめざして、自主的に地域の活動に参画し、主体的に運営する連帯感のある一定の地域社会」と規定している。

この隣人相和の思想は、古くから気付かれたものであったが、かつてはそれが為政者側に利用され又は利用するために奨励された苦い歴史がある。江戸時代の五人組制度や戦前の隣組には基本にはコミュニティに通うものがあるが、行政者のための制度であったか、行政者に便である上意下達が趣旨にあったので、新しいコミュニティ理念とは出発点から違うといってもよい。そう考えなければ、かつての隣組の中で個人が無視され、そのプライバシーさえ棄てさせられた場合もあったので思い出としては極めて印象のわるいものになる。

名称は同じでも現在の町会、自治会は、基本理念に、個の尊重がはいっているので戦前のものと同一視はできない。これらの近隣集団は、今のところ親睦、連絡を主としながらも、隣人相和の中から環境防衛さらに新しい地域社会の形成へと向

って進んでいく気運がみられる。資料でも、第一に生活環境の防衛、第二に新しいまちづくり、第三に豊かな生活をめざす活動、第四に民主的な地方自治の発展のための活動を列挙し、 <資料文>

これは、第一から第三までの役割を総合したものであるが、地域住民の要求を調整、総合し、地域の人々が連帯して行政に参加し、また住民と行政が情報や意見の交換を密にする場としての練馬区のコミュニティの中心となるであろう。

公害対策や地域問題の解決には、行政全体の体質や、区の権限を考慮すると、地域住民の声や運動を背景に、住民と区が一体となって都や国に求めることがより効果的であり、また民主的な地方自治を進める基礎になる。

と述べている。新しい共同体を練馬に打ち立てようというのである。

中期総合計画

基本構想によって、区の在るべき本然の姿を示すことができたが、これを基礎にして区民、区議会の討議を重ねて長期総合計画の策定へと前進することになる。そこで、当面する課題としては、そこへ到着するまでに現在を踏まえた短期の施策を樹立し、現実との間の調和を計る要がある。そこで「中期総合計画」として五三年六月に、五三~五五年度分として、又五五年七月に、五五~五七年度分を、発表することになった。その五三年版で田畑区長は「まえがき」で次のように述べている。

<資料文>

区民は、住みよい環境のなかで人間性豊かな生活ができるよう、区政に対し、さまざまな期待を寄せております。そして、その期待は、明るい見通しさえも見い出し得ない最近の厳しい社会・経済情勢のもとで、より一層大きなものとなっています。

このような状況の中で、練馬区は、区民にもっとも身近な自治体として、区民の生活と福祉を守ることを基本にした区民生活優先の区政を、さらに積極的に推進していかなければなりません。また同時に、シビル・ミニマムの実現と立ち遅れている当区の公共施設水準の向上をはかるために、一層の努力を払っていく必要があります。(下略

五五年版の記載で、新たに計画化した事業には、勤労福祉会館の建設(地域経済生活の向上)、練馬公民館の改築(教育と文化の充実)、第三庁舎の建設(地域社会づくりの推進)などがあり、既定計画または施設基準等の充実した事業には次の六つが

あげられている。

<資料文>

緑道等の整備(生活環境の整備

防災井戸の指定(生活環境の整備

自主防災組織の育成(生活環境の整備

交差点・路肩等の整備(生活環境の整備

産業資金の融資(地域経済生活の向上

学校体育館の開放(教育と文化の充実

右を含めて、五三、五五年版とも区企画部企画課を担当個所として作成している。そこに貫かれているものは「基本構想」に述べられた理念を現実に生かし、練馬区を健全に生長発展させるための短期間(三か年)の計画である。なお「基本計画」の全文は『現勢資料編』に掲載してある。

<章>

第四章 区の紋章・花・木

<節>
区の紋章
<本文> 画像を表示

練馬区は、昭和二二年八月一日、区独立以来、独自の風格のある地域づくりに専念してきた。二六年九月の講和条約調印のころから戦後の混迷もようやく収束に向い、国内一般に鮮新の気をもって、国際社会に復帰する気がみられるようになったのに応じ、区の状勢もおいおい整備されはじめた。他区にくらべてあまりにも多い課題に当面していたが、地域共同体としての区の躍進が計られ、区民の期待も大きく、新区創造の果実を実らせようとしている。

そこで、区を表徴する紋章を制定することになり、慎重に協議し、その図案を広く一般から募集し、応募作品について専門家をまじえて選考の上、決するという公募方式を採ることになった。その募集要項は次のものであって、各新聞紙上およびポスター等によって発表された。

<資料文>

   練馬区紋章図案募集要項

  1. 一 趣旨
    • 新しい歴史の上に輝かしい躍進をたどる練馬区の今後に平和で、健全な伸展を期して、次の如く「練馬区紋章」の図案を懸賞募集し、選考のうえ、これを制定するものとする

    画像を表示

  2. 二 応募図案に対する希望
    • 簡明にして、品位を保ち、平和で明るく住みよい練馬区を象徴するもの
  3. 三 応募資格
    • 広く一般
  4. 四 応募方法
    1. <項番>(イ)はがき又は半紙大までの用紙に図案と、其の説明をかき、住所、氏名、年齢、職業を明記すること
    2. <項番>(ロ)同一人の応募数は限定せず
    3. <項番>(ハ)応募作品は一切返却しない
    4. <項番>(ニ)入選作品の版権は練馬区に属する
  5. 五 送付先
    • 練馬区役所総務課内練馬区紋章懸賞募集係
  6. 六 募集締切
    • 昭和二十八年八月二十日限り(郵送のときは締切日の消印あるものは有効とする
  7. 七 審査員
    • 区議会議員代表者    若干名
    • 民間選出芸術家     若干名
  8. 八 入選作品に対しては左の区分により賞金を授与する
    • 入選   一点     壱万円
    • 佳作   三点    各二千円
  9. 九 入選発表………………九月上旬
    • ポスター
    • 各新聞社都内版
    • 練馬新聞
    • 東京広報

応募数は、実に九百数十点にも達し、二三区はもとより、東京近県、遠方では九州の長崎県からも応募があり、大きな反響を呼んだのであった。

審査員中の民間選出芸術家若干名は、練馬区美術家協会に依頼して選出を願った。その審査員は、日展の審査員を兼ねたその道の権威者のかたがたで、次の八名が選ばれた。田崎広助、森白甫、丸谷端堂、新道繁、早川嵬一郎、はんにゃ侑弘、古賀忠雄、大島隆一(芸術評論家)。

審査の結果については、第一段階で約三〇点にしぼり、さらに厳正な審査により、入選一名、佳作三名の四点が選ばれ、入選者に佐藤杏二氏(東大泉町)が決まった。入選作の紋章は、ネリマの「ネ」の字と「馬のひづめ」を組み合せ図案化したものである。

この選ばれた紋章は昭和二八年九月の練馬区議会定例会に提案決定され、昭和二八年一二月三日、練馬区告示第十九号により、公布された。

<節>
区の「花」と「木」
<本文>

「町の緑化」すなわち、みどりを「まもり」「そだて」「つくる」ということでその推進には、各自治体でも一段と力をいれている現状である。たしかにあわただしい騒音や排気ガスなどさまざまな公害にあけくれる日々を送っている都市生活者であるわれわれは、緑に囲まれ、そして快適で健康な町をと求め願っている。

花は、四季を色どり、生活にうるおいを与えてくれる。わが国のように四季がはっきりしている風土には、鉢植、樹木にその美しさが見られ誰もが愛情を持っている。木も、われわれの生活に有益な働きをしてくれる。<項番>(1)夏は、爽快な緑陰をつくり、冬に防風の役目を果し、<項番>(2)騒音をしゃ断し、<項番>(3)葉の緑は、人の目をやすめ、心をなごやかにし、<項番>(4)小鳥や昆虫のすみ家となりひとびとを楽しませている。このようなことを考え合せ区民の心の象徴とするため、本区では、区の「花」と「木」を選定することになり、その方法としては、広く一般区民のかたがたから品種と図案を募集することにした。

応募要領は、次の通りであった。

<資料文>

  区の“花と木”を募集します。

  1. ▽趣旨……自然を愛し、区民の心の象徴とし、将来は、町に緑と花をいっぱいにして、生活にうるおいを持つため“花と木”を選定する。
  2. ▽応募資格……区民ならだれでも結構です。
  3. ▽応募方法……官製はがきに住所、氏名、年齢、職業を明記し、○○の木(区にふさわしい木)○○の花(一般の草花類か花木で観賞価値のあるもの)とそれぞれ一点ずつを書いて下さい。
  4. ▽送り先……練馬区広報室(豊玉北六―一二
  5. ▽応募〆切……昭和四六年四月一五日
  6. ▽賞……応募者の中から抽せんで、花と木、五名ずつに三千円相当の記念品を差し上げます。
  7. ▽発表……五月一五日に発行の当区報

以上により区のシンボルとなる花と木を募集したが、締切までには、実に四二六種もの応募があった。

区では、さっそく四月二七日、区の花と木選定会議を開き選考を行なった。花の応募は、つつじ等八二種であった。そのうちから区民の意見をとりいれ、応募数一位のつつじが選ばれたが、練馬に因んで大根の花がかなり多く二位であった。以下、バラ、すみれ、菊の順に上位に応募されていた。

木は、圧倒的にけやきが多く、応募数の二五%を占め、以下、桜、いちょう、梅、こぶしの順であった。それらについて選考委員の熱心な協議の結果、けやきは、大きくなり過ぎる等の理由もあり、その点、普及性を持ち、春に先きがけて白い花を咲かせ春を告げ、庭木としても、公共の場に植樹する木としても適当であるということで、こぶしが選ばれた。以上の選考経過により、区では、正式な手続を得て、区の花は「つつじ」、木は「こぶし」と、ここに決定したのであった。この選定会議にあたっての委員のメンバーは、次の通りである。

また、厳正な抽選により、入賞者には、次の方々が決定した。

画像を表示

また、区の花の図案については、応募作品は、「つつじ」五〇点、「こぶし」一九点にのぼり、七月二一日に美術専門家を含めた選考委員会を開いた結果、次の作品を最優秀作に決定した。

なお、木「こぶし」の図案については、木としてとらえた作品が少なかったため、今回は、見送りになり決定をみていない。