第十五章 社会福祉
第十六章 国保・年金
第十七章 保健・衛生
本文> <章>福祉施策の遅れに世論が注目するところとなり始めたのは、昭和四〇年代も半ば以降であった。そして四八年に「福祉元年」といわれ社会福祉施策が次々に整備される段階に入ったが、その秋には第一次石油危機にみまわれ経済の不況期に入った。さらに、五〇年になると福祉のばらまき、あるいは福祉の見直しがいわれるようになったのは、経済不況による地方財政の危機がその原因であったといえよう。
そこで、本区の民生費支出額の推移から本区の福祉施策の変遷をおってみる。昭和三五年度の一般会計の歳出額は一五億六八二七万円であった。その内、厚生事業費として一一九三万円が支出され、全体の〇・七六%の割合であった。四〇年度の一般会計の歳出額は四八億六七二六万円で、民生費支出額九億九一九四万円となり、その割合も二〇・三%となった。この年度の民生費支出額は教育費支出額、土木費支出額についで三番目の割合であった。そして民生費支出額が、教育費支出額についで二番になるのは四七年度以降であり、五〇年度になると歳出額四六九億〇六九三万円のうち、教育費が一七六億二五五三万円で最高支出額である。これについで民生費支出額は一一〇億五三二五万円で二三・五%の割合であった。しかし、五三年度になると歳出額六六二億四六七四万円のうち民生費支出額は一九七億四九三一万円で二九・八%の割合をしめ、教育費支出額の一五八億七〇六二万円(二三・九%)を抜き最高額となったのである。
さらに五五年度の予算案をみると、一般会計・歳出予算額六八一億三九一八万円のなかで、民生費はその三五・三%にあたる二四〇億七二八八万円をしめ、二位の教育費一四二億二七二三万円(二〇・九%)を大幅にうわまわる予算案がまとま
っている。この民生費の支出額の推移、さらに五五年度の予算案からも、本区の民生費支出額の増加は高く評価されるであろう。しかも、経済不況による地方自治体の財政再建で、福祉施策の後退がいわれはじめた五〇年度以降も一般会計の歳出額のなかで民生費支出額の割合が大きくのびている。しかし一方、一人一人の老人、心身障害者、低所得者、児童、母子世帯にとって、現行の福祉施策が決して充分な役割を果たしているとはいえないのであり、まして、経済の不況期にこそ、なお一層の福祉制度の拡充が望まれるところである。
本文> <節>昭和二六年三月の社会福祉事業法の制定により、都は地区ごとに福祉に関する事務所をおいた。これにより、二二年八月に設置された中新井民生館、練馬北民生事務所、練馬南民生事務所、上練馬民生事務所、石神井民生事務所、大泉民生事務所の六か所の民生事務所を廃止して、二六年一〇月に、練馬福祉事務所が開設されることとなった。しかし、本区では上程年月日・昭和二八年一一月三〇日の「福祉事務所区移管についての請願書(
そして、三九年の地方自治法等関係法律の改正に基づき、四〇年四月に福祉事務所が区へ移管され、本区では練馬福祉事務所(
福祉事務所は、福祉の総合窓口として福祉六法(
昭和二二年一二月に児童福祉法が制定され、その第一条第二項に「すべて児童は、ひとしくその生活を保障され、愛護されなければならない」と、児童の生存権保障を規定した。さらに、「国及び地方公共団体は、児童の保護者とともに、児童を心身ともに健やかに育成する責任を負う」(
わが国の場合、児童福祉法が制定された当時は、敗戦後の混乱した社会のなかで戦災孤児が巷にあふれ、浮浪児となっていく悲惨な状況にあった。しかし、その後三〇年余の歳月を経た現在は児童の生活は一変し、豊富な物資にとりまかれている。けれども一見、豊かな現代社会も遊び場不足、交通事故の犠牲者の増加、非行年齢の年少化と、環境の悪化による深刻な児童問題が山積している。
本区の五三年一月現在の児童人口は約一五万人で、その内訳は乳児(
児童手当法は、昭和四六年五月に制定、翌四七年一月から実施された。同法の制度化は長年の懸案法案の実現であることはいうまでもないが、これで大半の窮乏家庭が給付対象となり、わが国の社会保障制度の体系が整備・確立されることになった点でも意義深い。児童手当法の目的は「家庭における生活の安定に寄与すること」「次代の社会をになう児童の健全な育成及び資質の向上に資する」とあり、児童の健全な育成のための養育費を社会的にも分担することは、児童福祉法の基本理念にかなうものである。
対象は一八歳未満の児童を三人以上扶養し、さらに、年齢順に数えて三人目以降の児童が義務教育終了前の児童の保護者に支給される。ただし、保護者の所得制限がある。この制度は、昭和四四年一二月から東京都児童手当に関する条例で実施され、本区でも四四年一二月に練馬区児童手当条例が制定された。四六年に国が制度化したが、四七年一月の発足当時から四七年度末までは、三人目以降の児童対象年齢が五歳未満で、四八年度は一〇歳未満、四九年度以降から義務教育終了前と三段階で整備された。この四九年四月に国の制度が完全実施されるまで、国の対象児童を除いた義務教育終了前までの三人目以降の児童すべてを都区の制度で補完した。また、支給額も四七年一月から四九年九月までは児童一人につき月額三〇〇〇円、四九年一〇月から五〇年九月まで四〇〇〇円となり、五〇年一〇月以後五〇〇〇円に改正され、年三回に分けて支給される。本区の支給延児童数の状況は、四九年一〇月から五〇年九月まで八万一八八八人、五二年度九万〇四〇二人、五三年度八万八四八三人である。
わが国で最初の児童給付立法として成立したのが昭和三六年一一月の児童扶養手当法であり、翌三七年一月より実施された。対象児童は父と生計をともにしていない(
支給額はほぼ毎年改定され、五三年は児童一人に月額二万一五〇〇円、二人に二万三五〇〇円、三人以上は一人につき四〇〇円加算、五四年一〇月から一人に二万六〇〇〇円、二人に二万八〇〇〇円、三人以上は一人につき四〇〇円加算と改正された。本区の受給者数は五二年一〇月一四四二名、五三年一〇月一六五〇名、五四年一〇月一八五五名である。
特別児童扶養手当法は昭和三九年九月から実施された。発足当初は重度精神薄弱児扶養手当法として、重度の精神薄弱児を対象としていた。四一年から重度の身体障害児にも対象範囲が拡大され、その名称も特別児童扶養手当法と改称されることになった。
対象は二〇歳未満で心身に中度・重度の障害のある児童(
昭和四四年一二月から東京都児童手当に関する条例で実施され、手当の種類は一般手当、遺児手当、障害児手当があった。四四年一二月には練馬区児童手当条例が制定され、都と区の制度として設置された。しかし、国の児童手当が四九年四月に完備されたのに伴い、四九年一〇月より都の児童手当は児童育成手当と名称が変更され、本区も四六年一〇月に練馬区児童育成条例を制定、四七年一月から施行した。
手当の種類も育成手当(
昭和四九年四月に練馬区愛育手当条例が施行された。他区に先がけて実施された本区独自の事業の一つで、児童福祉施設、幼稚園などに在籍せず、家庭で保育されている児童の健やかな育成を図ることを目的としている。対象は五歳または六歳になる児童と、心身障害で就学猶予・免除をうけている学齢児童である。児童一人につき五三年は、年額一万二〇〇〇円、五四年度は二万四〇〇〇円に改正され、所得制限はない。受給児童数は、五二年度二九九名、五三年度三一八名、五四年度二三九名である。
福祉事務所では毎週月・木曜日の午前中、児童福祉司が児童相談をうけている。また、月曜から土曜まで保育園、母子寮、入院助産の相談をおこなう。
保育所の目的は、両親が共稼ぎや疾病その他の理由で、保育に欠ける乳児または幼児を、日日保護者の委託をうけて保育する児童福祉施設であると、児童福祉法第三九条で規定している。
わが国の保育園史の
一方、東京都の場合は太平洋戦争で一面の焼野原と化した。加えて戦後の混乱期には、国民の大多数が失業状態にあり、その生活は窮乏を極め、戦争未亡人はいうに及ばず働かなければならない母親は多く、保育施設への要望は強かった。
「都は終戦後間もなく保育事業の再建に乗り出し、一九四六年三月に都立保育所二〇か所の開設を断行するが、四六年四月
には二六か所、四八年四月には三四か所、四九年四月には四〇か所、五〇年四月には四九か所、同年十二月には五五か所と増加するが、需要はこれをはるかにこえる」(この頃の本区の保育施設は、昭和二四年度は公立では都立中新井保育園(
三六年三月に練馬区保育所設置条例が公布、同年四月から施行された。これに伴い豊玉保育園が都から区へ移管された。七月に豊玉第二保育園、一一月に新設の北町保育園が開園した。続いて三八年五月、下石神井保育園、一〇月に東大泉保育園と続いて開園した。
画像を表示 画像を表示戦後の経済復興は目覚ましく三四年には輸出量が戦前水準に到達した。さらに、三五年以降一〇年間は高度経済成長期といわれ、既婚婦人の職場への進出は増加の一途をたどった。こうした働く既婚婦人の要望は保育施設の増加と充実にあった。しかし、本区の場合には四〇年で公立保育園は八か所、「保育園在籍児童数の推移」(
また、五一年一月に特別区が共同で「特別区保育問題審議会」を設置し、三九年以降据え置かれたままの保育料の再検討がなされた。保育料は原則として受益者負担であり、併せて応能負担の考え方がとられている。保護者の住民税、所得税、固定資産税の課税額により世帯の階層区分があり、保育料が決定される。
審議会会長の岡田正章氏は、平均二・五倍の保育料の引き上げを、同年八月二日に特別区長会会長の加部明三郎氏に答申し、五二年一月から答申にそって、二三区同一基準で保育料が改正(
五四年四月現在、本区の公立保育園は三七か所で措置児童数三四七三人、私立保育園は一五か所で公・私立の措置児童数五〇七四人になり、三六年以来一九年目で公立の保育園は三四か所増設となり、措置児童数は三三三六人もの増員となった。
公立保育園はこの一〇年間、年平均二園を新設してきたが、それでも保育需要を満たすにはほど遠い状況にある。そこで保育園不足を補う制度として次のようなものがある。
無認可保育園に助成金をだし保育室として認定している。五四年一〇月現在一〇か所の保育室で約二〇〇人の児童が保育されている。家庭福祉員(
幼児教育の普及を図るために、幼稚園などに通う四歳、五歳児の保護者に補助金を交付している。幼稚園就園奨励費補助金は区民税額に応じ、年額八万円から五〇〇〇円までの補助があり、私立幼稚園等保護者補助金は四歳児が月額二八〇〇円、五歳児は月額三〇〇〇円の補助がある。
児童福祉法第三六条により保健上入院助産が必要であるにもかかわらず、経済的理由で入院できない妊産婦に指定の助産施設へ入院してもらい、低所得の人には費用の援助をしている。
配偶者のない女子、またはこれに準ずる事情にある女子とその児童が福祉に欠けるときに入所し、保護する施設が母子寮である。同施設は母親の経済的および精神的な自立を図るように処遇するところに特色がある。母子寮は昭和一二年に制定された母子保護法に規定され、貧困が入所要件の一つとなっていた。その後二二年に制定さ
れた児童福祉法で児童福祉施設の一つとなった。練馬母子寮は昭和二八年八月に開設され、四〇年四月に都から区へ移管された。四四年一〇月に木造平家建を改築し、鉄筋コンクリート三階建の建物となり、定員は一八世帯六六人である。四〇年以降の年平均で四世帯の入・退寮者がある。
家庭環境に恵まれない児童を一般家庭に宿泊させ、家庭生活の体験を養う制度である。
学童クラブは、小学校一年から三年生までの留守家庭の児童を対象に、放課後から午後五時まで、良い環境で心身の健全な発達を図るために開設している事業である。
昭和四〇年二月に区内で最初の学童クラブが北町西小学校に開設され、同年に練馬第二小学校、石神井東小学校にも学童クラブが設けられた。その後も着実に増え四四年には九か所が設置される状況で、四五年七月一一日には「学童保育指導員の正規職員化促進に関する意見書」を都知事、都議会議長に提出している。その結果、現在では約三〇人前後の児童に二人の児童厚生職員が配置されている。そして五三年一〇月にはクラブ数四〇か所に一〇三七人の学童が在籍し、五五年四月現在は五〇か所のクラブに一三一五人が在籍している。
児童館は児童に健全な遊びを与えて健康で情操を豊かにする児童厚生施設である。幼児・小学生を対象に図書室、工作室、音楽室、遊戯室などがある。
昭和四五年三月に練馬区立児童館条例が制定され、同年六月に区内で最初の平和台児童館が開設し、四六年の年間利用者数は二万三六五一人であった。四七年に二館、四八年に六館、四九年に二館が開設され、同年の一一館の年間利用者は三四万五三二五人であった。五一年には一四館となり年間利用者四一万八一三二人、五二年は一六館で四四万一九九七人に利用されている。五三年は二〇館で五三万一九三〇人、五四年は二三館で六一万八八三九人の利用者がある。さらに、五五年には四館が開設される。なお、春日町、南田中児童館は身障児を対象にした遊戯室がある。
本文> 節> <節>昭和三九年七月に母子福祉法が成立し、その理念は「すべて母子家庭には、児童が、そのおかれている環境にかかわらず、心身ともに健やかに育成されるために必要な諸条件とその母の健康で文化的な生活とが保障されるものとする」と、うたっている。そして同法の福祉措置が、資金の貸付を主にしている点が他の福祉各法に比してめだっている。
ところで、わが国の母子世帯数を厚生省の「母子世帯等実態調査」でみると、昭和四二年の調査で五一万五三〇〇世帯、そのうち母子世帯となった原因は死別六八・一%、離別二三・七%の割合であった。四八年調査では六二万六二〇〇世帯で、そのうち六一・九%が死別、二六・四%が離別、五三年調査によると六三万三七〇〇世帯で死別四九・九%、離別三七・九%の割合で推移している。この調査から、四二年以降、わが国の母子世帯は増加傾向にあり、その原因は依然、死別が一番多いものの、二位の離別の割合が増えている。母子世帯の母親は生計を維持しながら、育児、家事と、その負担は重いものがあり、なかでも経済的な自立が最も必要である。しかし、わが国の雇用制度は高齢者の就職になるほど不利な状態にあって、一般的に母子世帯の年間所得は、一般世帯に比して半分以下という低所得層が多い。さらに、近年増加傾向にある生別母子世帯は、母子年金や遺族年金なども適用されず、社会保障の面では死別母子世帯より深刻である。一方、昭和五〇年の国際婦人年、その後の一〇年間を「国連婦人の一〇年」と決定され、母子福祉施策も母親の要望にそって、漸次改善されてきた。しかし、母子世帯の窮状を根本的に打破するためには、母親の安定した職場の確保を促進する施策が最も必要であろう。
昭和二八年から東京都母子福祉資金の貸付が実施された。その後、三九年に制定された母子福祉法にひきつがれ、母子福祉対策のなかで最も注目される事業である。
画像を表示二〇歳未満の児童を扶養する配偶者のいない女子を対象に、その世帯の経済的自立をはかるとともに児童の福祉を増進することを目的としている。貸付金の種類は事業開始資金、事業継続資金、就職支度資金、技能習得資金、療養資金、生活資金、住宅資金、転宅資金、修学資金、修業資金、就学支度資金の一一種がある。なかでも修学資金の貸付件数の上昇がめだち、五二年度は全体の約六五%をしめている。さらに、「母子福祉資金貸付件数と貸付金額の推移」(
福祉事務所には母子福祉法に基づく母子相談員が、母子家庭の相談に応じている。面接件数は五〇年度五八四件、五一年度四八一件、五二年度四四七件、五三年度五八三件、五四年度五一四件であった。
母子家庭および低所得家庭の母親を行楽や観劇に招待している。都では三七年四月に東京都母の休養事業が定められて五月から実施された。本区の事業
としては四四年六月に第一回の「ママの休日」を開始した。その後、毎年実施され、対象人員は七〇〇名である。 本文> 節> <節>昭和三一年五月に売春防止法が制定され、三三年四月に施行された。これに基づき要保護女子の保護更生や転落のおそれのある女子を発見して未然防止し、社会復帰をめざして指導することとなった。しかし近年、転落のおそれのある女子の発見は、人権問題もからみ困難なことが多く、さらに社会の多様化にともない転落女子が潜在化し、巧妙な営業方法がとられているのが実態である。
その一方で働く婦人は、年々増加の一途をたどり、昭和五四年の女子就業者は二一一七万人を記録している。なかでも女子被雇用者の平均年齢は三四・八歳で、その五六・七%が既婚婦人でしめられ、婦人の社会進出はかつてになくめざましいものがある。それだけに婦人をとりまく問題も多様になっており、売春防止法を越えた一般婦人の保護、相談もおこなっている。
昭和三三年一月に東京都婦人更生資金貸付条例が制定され、売春防止法に基づく要保護女子の自立更生を援助する資金の貸付が開始された。同資金は三九年三月に婦人福祉資金と改称し、対象を要保護女子に限定しないことにした。さらに、四五年四月からは従来の資金貸付制度を解消し、要保護女子と寡婦、未婚などで配偶者のいない婦人を対象に一一種の資金を貸付ける新しい婦人福祉資金制度が発足した。
さらに五〇年四月からは練馬区婦人福祉資金貸付条例が施行され、五三年四月からは一部の金額の改正や償還期限が延長されるなど改善されている。資金の種類は、事業開始資金、事業継続資金、技能修得資金、就職支度資金、住宅資金、転宅資金、療養資金、生活資金、結婚資金、修学資金、就学支度資金で、利子は貸付資金によって無利子と年三%の二種があ
る。貸付件数は五〇年度四一件、五一年度五四件、五二年度五九件、五三年度三九件、五四年度三九件である。婦人相談員は売春防止法に基づき、婦人保護の第一線機関として相談・指導にあたっている。また、家庭相談員は練馬区家庭相談員設置に関する規則による本区独自の制度であり、家庭内の諸問題の相談に応じている。練馬・石神井福祉事務所による面接相談件数は、婦人相談は五一年度二四九件、五二年度三五一件、五三年度三二四件、五四年度二七二件。他方の家庭相談は五一年度一三九件、五二年度一二四件、五三年度一四二件、五四年度一一〇件で、その内容も人間関係、法律、就業、経済など多岐にわたっている。
本文> 節> <節>昭和三八年四月に制定された老人福祉法で「老人は、多年にわたり社会の進展に寄与してきたものとして敬愛され、かつ、健全で安らかな生活を保障されるものとする」(
それがようやく昭和四〇年頃から老人問題が世論の関心を惹き、論議されるようになったのは、単に旧民法廃止にともなう「家」制度の崩壊に起因するものではない。高度経済成長期の昭和三〇年代に入ると、わが国企業の設備投資の増大は次のような状態であった。
「わが国の総固定投資は二十八年―三十年度頃の約一兆五〇〇〇億円から、三十四年度の三兆二〇〇〇億円近くへと倍加した」(
本区の総人口に占める六〇歳以上の老齢人口の割合は、昭和三五年に六・〇%、四〇年六・二%、四五年六・八%、五〇年八・〇%、五三年は四万九八〇三人の老齢人口で、割合は八・九%にあたり年々増加傾向にある。さらに、六〇年代には約一〇%に達すると推計されている。このような社会状況のなかで本区は、昭和四八年一二月に老人福祉課を創設した。しかも同年から“老人三事業”といわれる友愛訪問、老人家庭家事援助者雇用費助成、老人福祉電話設置を実施し、従来の施設福祉とともに在宅福祉施策があいついで実施されている。
また、五〇年一〇月に本区在住の満六〇歳以上の老人一〇〇〇人を対象にした「練馬区老人福祉に関する意向調査報告書」によると、世帯類型では配偶者、既婚子・孫とすべてが同居する標準世帯は、全体の一〇・九%であった。そして老人(
<項番>(1)項番>保健医療
老人保健医療対策は老人福祉法制定以来、年々、拡充されてきた。しかし、ひとたび老人が疾病にかかると慢性化の傾向がある。それ故、健康な老人には健康の増進と維持対策を、病弱な老人には疾病の予防対策、疾病のある老人には治療対策が実施されている。
昭和三八年の老人福祉法施行に基づき、有病率の高い老人の疾病の予防、早期発見のため定期的に健康診査を実施する事業である。対象は六五歳以上の老人で年一回おこない、診査には一般診査と精密診査がある。四四年度からは、寝たきりの低所得老人を対象に往診による健康診査を実施している。昭和五二年の実施状況は一般の老人健康診査で、一般診査の受診者数一万一二二二人、精密診査の受診者数六一九七人であった。また寝たきり老人の一般診査は一五八人、精密診査は四人である。
画像を表示昭和四四年一二月から都の条例により開始され、対象は七〇歳以上の老齢福祉年金の受給者とした。四七年七月には扶養義務者の所得制限を廃止、続いて四八年七月から適用年齢を六五歳以上、所得制限の緩和など対象範囲を広げた。他方、四八年一月から老人福祉法の改正に基づき、国の老人医療費支給制度が開始された。さらに同年一〇月から六五歳以
上の寝たきり老人にも拡大された。昭和四八年度からの老人医療費助成対象者数の推移(その他に、都の看護料の差額助成制度があり、老人医療費助成制度の看護料の給付をうけた場合、給付額と慣行料金の差額を助成している。
昭和四五年から実施され、老人性白内障の手術を受けた場合に保険の自己負担分を支給する制度である。対象は六五歳以上で所得税非課税世帯である。また、手術後の特殊メガネ代の助成制度も設けている。
昭和五三年七月から訪問看護指導員が、家庭での機能回復訓練や看護の指導を実施している。
<項番>(2)項番>寝たきり老人対策
老人対策のなかでも最も援護を必要とするのは寝たきり老人であり、この問題が重要視されるようになったのは昭和四〇年代後半である。
本区でも四九年一二月に「寝たきり老人実態調査」を、年齢は六五歳以上で六か月以上寝たきりの七二五人を対象に実施した。その結果、寝たきりになってからの期間が二〇年以上の人が一・六%、一一~二〇年になる人が九・八%、五~一〇年の人が二五・〇%、五年未満の人が五三・九%であった。その上、食事・排便ともに不自由の全くの寝たきり老人が二六・七%、助けをかりて食事排便のできる老人が三三・七%と、六〇・四%の老人が日常生活を営む上で常時介護人を必要と
していた。しかし、その家族人数をみると、一人暮らしが三・三%、二人暮らし一八・五%、三人暮らし一四・一%と、三五・九%が三人以下の家族であった。この深刻な実態は寝たきり老人はもちろん、介護人の苦しみや負担も大きく、その対策があいついで講じられることとなった。そして要望の強い施策から年々、改善、拡充されている現状である。寝たきり老人の経済的、身体的、精神的負担の軽減を目的に、昭和四七年一〇月から実施された。対象は心身機能の減退で六か月以上寝たきり状態にある六五歳以上の老人であり、所得制限はない。昭和五〇年度の延支給人員は九九二九人、五一年度九九九四人、五二年度は一万〇六〇〇人、五三年度一万一六六八人、五四年度一万一七五一人である。
また、支給額も四九年は月額七五〇〇円、五〇年一〇月から八五〇〇円、五一年一〇月から九五〇〇円、五三年から一万一五〇〇円が支給される。
老衰などで日常生活に支障のある六五歳以上の人で、家庭で世話をする人がいない場合に老人家庭奉仕員を派遣し、身の回りの世話をおこなう制度である。対象者は低所得の寝たきり老人で、週二回程派遣される。この制度は、昭和三七年一月に都の事業として発足し、当時は生活保護世帯の老人を対象にしたものであった。翌三八年に制定された老人福祉法第一二条により法定化され、四〇年四月に都から区に移管、四四年以降、対象範囲が低所得の寝たきり老人にも拡大された。
さらに老人家庭奉仕員派遣世帯数では、近年は保護世帯よりもその他の世帯の派遣回数が増加傾向にある。派遣実世帯数は五〇年度以降、一〇〇世帯余りで大きく変動していない。
昭和四八年一二月から実施された事業で、家政婦紹介所に依頼し家事援助者のサービスを受けることのできる介護券を交付する。対象は日常生活に支障のある寝たきり状態で、おおむね六五歳以上の老人がいる家庭である。ただし所得制限があり、老人家庭奉仕員の派遣家庭は除かれる。介護券
には定期的助成(六五歳以上の寝たきり状態にある老人で、低所得の人を対象に、次のようなものを給付および貸与して福祉の増進をはかっている。①特殊ベッドの貸与、②エアーパット、マットレス、浴槽、湯沸器、便器の給付、③浴場便所の改造費の給付。
昭和四九年八月から実施され、家庭で入浴できない寝たきり老人に巡回入浴車で入浴サービスをおこなう。対象はおおむね六五歳以上の寝たきり老人である。利用状況は四九年度(
出張調髪は練馬区理容組合加入店の協力で理容師が老人の自宅に訪問して無料で調髪をおこなう。対象は六五歳以上の寝たきり老人で、老人福祉手当受給者及び受給資格に準ずる人であり、実施回数は一人につき一年に二回である。この事業は昭和四九年度から開始された。利用状況は四九年度九二件、五〇年度一五三件、五一年度一五八件、五二年度一三九件、五三年度一八〇件、五四年度二〇七件である。
寝たきり老人布団乾燥は、おおむね六五歳以上の寝たきり、一人暮らし、老人世帯を対象に布団などの乾燥消毒をおこなう。昭和四九年六月より開始され、利用状況は初年度(
寝たきり老人の寝具クリーニングの奉仕は昭和五二年度からの新規事業である。六五歳以上の寝たきり老人のうち老人福祉手当受給者を対象に、「東京都クリーニング環境衛生同業組合練馬東・西支部」の協力をえて、月一回、寝具の無料クリ
ーニングをおこない、対象者には利用券を交付している。五二年度の利用件数は延三一〇七件、五三年度は延三四八八件、五四年度延三六七六件である。
<項番>(3)項番>一人暮らし老人対策
本区では昭和四七年一一月に「一人暮らし老人実態調査」を、六五歳以上の一人暮らしの六三一名を対象に実施した。それによると、日常生活での不自由度で人手をかりずにできる人が全体の八〇・八%である。また、一人暮らしの現状に満足している人が四九・〇%、仕方がないと思っている人が四〇・九%、耐えがたい人が五・七%の割合であった。その生計状態も自分で働いている人が二六・三%、仕送り一八・九%、生活保護一七・九%、地代・家賃一六・八%、恩給年金二二・五%、貯金・株の配当収入四・四%で、すべての一人暮らし老人が援護を必要としているわけではない。
しかし、一人暮らし老人は、全体の老人のなかでは種々のハンディを負っているし、援助を必要としている人も多い。そして五〇年一〇月の「練馬区老人福祉に関する意向調査報告書」の結果に基づいて、本区の一人暮らし老人の人口は二九二八人と推計されている。これらの人達の中には社会的に孤立しやすく、突発的な事故、病気で倒れても隣人に連絡できない悲劇が起こり得る可能性がある。さらに、一人暮らしで病弱な老人は、健康な老人に比べて話し相手、電話などのコミュニケーションを要望する傾向が強い。区ではこれらの事故を未然に防止し、日々の生活の安定を図ることを目的に、次に述べるような一人暮らし老人の福祉施策を実施している。
この事業は昭和四八年一〇月から開始され、無料で福祉電話を設置し、電話料の助成をおこない、またすでに電話のある世帯には電話料の助成をおこなう。対象は近隣に身寄りのない六五歳以上の一人暮らし老人、老人のみの世帯で、定期的に安否の確認が必要な低所得者である。事業発足から五四年度末までの貸与電話台数は三〇〇台、電話料の助成台数一五〇台である。さらに五二年度からは、これらの貸与電話のなかから高齢・病弱者の緊
急連絡用に安心電話(一方、この老人福祉電話制度の利用者に週二回以上の電話をし、安否の確認や孤独感をやわらげる電話訪問員制度がある。電話訪問員数は五四年度で一五〇名である。
火災報知器を周囲の環境や健康状態から、危険度の高い世帯に消防署と協力して設置している。おおむね六五歳以上の一人暮らしおよび老人世帯を対象にしている。五〇年度から発足し、五四年度末に六六台を設置し、保安点検も実施している。非常ベルの設置は、緊急事態の連絡用に一人暮らしで、おおむね六五歳以上の老人世帯を対象に実施している。五二年度に開始し、五四年度末現在二九七台を設置した。
友愛訪問員制度は一人暮らしや老人世帯宅を訪問し話相手となることで、孤独をいやし安否の確認をおこなう。対象は六五歳以上の一人暮らしや老人世帯で、友愛訪問員は一世帯につき週三日以上の家庭訪問をおこなっている。昭和四八年一〇月から開始され、四八年度二二組、四九年度三七組、五〇年度五〇組、五一年度四二組、五二年度は四七組、五三年度六六組、五四年度六〇組の実績である。友愛通信は、一人暮らしや寝たきり老人と毎月一回の文通をおこない、孤独感を解消することを目的としている。区では地域ボランティアの「ねりま友愛通信の会」に毎年、葉書を助成している。一日一声訪問は、京北ヤクルト販売(
老人慰安旅行は六五歳以上の一人暮らし老人を団体旅行に招待し、老人相互の話し合いの場を作り、老人の親睦と孤独感の解消をはかり、生きがい対策の一つとして実施している。年に春・秋の二回、区立網代荘に一泊二日の無料のバス旅行を実施している。昭和四九年から開始され、五二年度は春・秋ともそれぞれ九〇名ずつ、五三年度は各九三名、五四年度八八名であった。
老人入浴券の交付は浴場組合発行の共通入浴券を、一人につき年一〇〇枚交付し健康の保持を目的としている。対象は満六五歳以上の一人暮らし老人である。
五四年度から実施した新規事業である。住宅に困っている満六五歳以上の一人暮らしの低所得者に、民間から借りあげた住居を提供し、生活の安定を図ることを目的にしている。昭和五四年度の提供居室数は八室である。
<項番>(4)項番>一般老人対策
老人福祉は単に生活保障にとどまらず、生きがい対策にも重点がおかれている。しかし、老人の生きがいといっても、個々人、性別により種々である。そこで五〇年一〇月の「練馬区老人福祉に関する意向調査報告書」で生きがいの対象をみると、子供や孫の成長が三〇・五%と最高で、二位が仕事一四・六%であり、多くの老人が家族関係に生きがいを感じている。さらに区への老人生きがい対策の要望では、老人趣味の教室の拡充や観劇会への招待が一番多く、続いて小グループ旅行へのマイクロバス貸与、老人クラブ農園の拡充、老人サークル助成の拡充、寿大学の充実の順位であった。これは同時に、これらの施策に老人の関心が集まっていることをしめすものであり、老人が相互の親睦を深め、教養の向上をめざすことを希望している結果である。区ではこれらの事業の他にも、老人の社会参加活動を促すために種々の対策を実施している。そして、将来は老齢人口の増加にともなって、より幅広い種類の生きがい対策と、その内容の充実が求められるであろう。
九月一五日の「敬老の日」に敬老金、敬老バッジ、敬老祝品の贈呈をおこない、敬老の意を表している。敬老金は都で昭和三三年から開始し、本区では五〇年四月から練馬区敬老金支給に関する条例が施行され、八五歳以上八〇〇〇円、七五歳以上は五〇〇〇円を贈呈する。そして、新たに七五歳になり敬老金の贈呈対
象者になった人に敬老バッジが贈られる。敬老金の四九年度の対象者七九二二名、五〇年度八四八一名、五一年度九二五七名、五二年度九九九一名、五三年度一万〇六四一名、五四年度一万一四二五人であった。さらに、本区の最高年齢者、一〇〇歳以上の人、白寿、米寿になる人にそれぞれ敬老祝品を贈呈している。五四年度の最高年齢者は一〇〇歳が一名、米寿の贈呈対象者は一七三名であった。敬老入浴券と高齢者の調髪券は、敬老金贈呈対象者に交付し贈られる。敬老入浴券交付は昭和五二年度から、また調髪券交付は四五年からそれぞれ実施された。交付券を九月中に利用すると、二回の入浴と一回の調髪が無料になる。敬老入浴券は五二年三九一七件、五三年三九九〇件、五四年四八七八件の交付。調髪券は五二年四〇一九名、五三年四〇九七名、五四年三七五八名に交付した。
九月一五日に続く老人福祉週間中に開催する。対象年齢は六〇歳以上で、式典、演芸などを披露し、老人相互の親睦を深める。参加人員は四九年から五二年まで各年一〇〇〇人で、五三年は九五〇人、五四年度約一〇〇〇人であった。
老人クラブは昭和二〇年代頃から自発的に結成されていたようであるが、老人の自主的活動であるため必ずしも明らかではない。しかし東京都が昭和三二年四月に老人クラブの助成を規定した。その後、三八年に制定された老人福祉法で老人クラブ助成が規定されるにおよんで、益々、そのクラブ数は増加した。助成の対象となるクラブは常時参加者が五〇人以上の団体で、助成額は月額一万三〇〇〇円に、人数割の増額がある。そして、クラブ育成指導のため指導者研修を実施している。四九年度はクラブ数一一九、会員一万一六五五人、五〇年度は一二六クラブ、一万二四七八人、五一年度一二八クラブ、一万三五一五人、五二年度一三五クラブ、一万四三〇三人、五三年度一四二クラブ、一万四九一八人、五四年度一四三クラブ、一万五二二三人と年々盛況になっている。
昭和四八年四月から老人クラブ農園が開園された。農園クラブには年額三万円の助成をおこない、各農園に一名の指導者
がいる。五〇年度には三九クラブ、五一年度四一クラブ、五二年度三〇クラブ、五三年度三五クラブ、五四年度は四五クラブが利用している。老人サークル活動の助成は、本区で実施した老人趣味の会、老人慰安旅行などの参加者が、自主的に組織したサークル活動を促進するために助成する。一サークル三〇名程度の団体で、月額四〇〇〇円を助成している。五〇年度から開始され、同年度七サークル、五一年度九サークル、五二年度一〇サークル、五三年度一〇サークル、五四年度一〇サークルが活動している。
老人趣味の教室は六〇歳以上を対象に、手工芸、文芸の種目を昭和四九年度から開催している。寿大学は昭和四二年四月から開催し、春、秋の二期に講演、俳画、民謡などを開講している。
シルバーパスは、満七〇歳以上の老人に交付する都営交通機関と民営バスの無料乗車証である。昭和四七年九月に都議会で都営交通機関の七〇歳以上の老人は無料乗車が決定され、敬老乗車証として利用されることになった。続いて四九年一一月に民営バス(
三八年に制定された老人福祉法に基づき、老人福祉指導主事が各福祉事務所に配置されて、老人の生活に関する種々な問題の相談をうけている。五四年度の相談件数は一四五〇件で、その内訳は表<数2>15数2>―2であった。
図表を表示一方、厚生部老人福祉課に老人相談コーナーを昭和四九年四月から設け、生活全般の相談をうけている。
高齢者の就職相談を練馬区高年齢者職業相談室でうけている。また板橋高年齢者無料職業紹介所から担当員が出張して相談にあたっている。五三年度の相談件数は職業相談室が一〇八三件、五四年度一四三三件、板橋職業紹介所は五三年度一八〇件、五四年度三四八件であった。
高齢者事業団は、健康な高齢者が経験や能力をいかし、相互に協力しあって働く機会を得て生活の充実を図ることを目的としている。昭和五二年に発足した民間の自主的団体であり、区では事業団に助成し老人福祉の増進を図っている。なお、五五年度内に、社団法人シルバー人材センター練馬区高齢者事業団と改称するとともに法人格を取得する予定である。練馬区高齢者事業団事務所の所在地は、練馬区桜台二―一九、電話九九三―七一六八である。
本文> 項> <項>わが国の老人対策は、古くから身寄りのない生活困窮者などを施設に収容し、救済する方法が主流であった。その施設として老人福祉法制定以前に養老院があったが、生活困窮者の救済という面が強く、その内容も十分なものとはいえなかった。しかし、三八年の老人福祉法制定により、福祉施設体系が整備され、そのなかで老人ホームの収容対象者も拡大された。
心身上その他の理由で、居宅生活が難しい老人や、居宅で介護をうけられない老人の収容施設として老人ホームがある。
老人ホームには①養護老人ホーム(
ただし、福祉事務所では表<数2>15数2>―3のように養護老人ホームと特別養護老人ホームの収容委託を実施している。さらに、練馬区に居住していた老人で、養護老人ホーム、特別養護老人ホームの入所者に夏期・冬期の見舞金(
昭和四七年七月二五日に東京都すずしろ園は、軽費老人ホーム(
同園は四六年度「東京都中期計画」の一環として、所在地・練馬区貫井二丁目一六番一二号に設置されたものであり、敷地面積一六〇二・七六㎡で鉄筋コンクリート三階建の建物(
そして、五四年八月一日から区に移管され、練馬区厚生部老人福祉課事業係で入居者の公開抽選をおこなっている。
敬老館および敬老室は、地域の老人が総合的な福祉活動の場に利用するための施設である。本区では、昭和五四年度末現在、一一館の敬老館が開設されている。さらに厚生文化会館、豊玉、桜台、下石神井、北町、貫井、高松の各地区区民館に敬老室が併設されている。昭和四五年一二月に大泉北敬老館が開設されて以来、四六年一二月に関敬老館、四七年一月栄町敬老館、同年八月に石神井敬老館、四八年一二月春日町敬老館、四九年七月中村敬老館、同年一一月南田中敬老館、五一年二月東大泉敬老館、五二年四月石神井台敬老館、同年五月西大泉敬老館、五三年四月三原台敬老館とあいついで開設をみた。一方、敬老館の利用者数も表<数2>15数2>―4によると、昭和四六年(
また、五〇年一〇月の「練馬区老人福祉に関する意向調査報告書」の「敬老館の周知度と利用度」によると、敬老館を知っている老人は六八・八%で、敬老館を知らない老人が三一・二%も存在している。さらに、知っている老人の中で敬老館を利用している老人は一二・四%で、知らない老人を含めた全体の老人のなかでは八・五%が利用している。そして、新設の敬老館にたいする要望は、「集会室三つぐらいの小規模なものでよいから、近くに」が三七・三%と最も多く、二位の「遠くにあっても、風呂や舞台つき大広間のある大規模なもの」九・一%とは大差がついた。多くの老人が住居に近い敬老館の新設を望んでいる。今後、老人を対象にした福祉施設の設置の際、より広範囲の老人の利用をはかるために重要な課題である。
なお、敬老館は浴場を設置して老人の利用に備えており、練馬区浴場組合と練馬区公衆浴場の経営に影響をおよぼすため浴場組合の助成をおこなっている。五三年度の助成額は福利厚生事業と浴場設備改善費を加算して一一五〇万円、五四年度一二一〇万円であった。
図表を表示在宅の寝たきり老人を看護する場合、家庭では限界があり、一時的な保護やリハビリ
テーションを実施する福祉施設が必要とされていた。この区立富士見台ケアセンターは、このような在宅の寝たきり老人などを対象に援護する施設として画期的な事業内容を備えている。すなわち、在宅の寝たきり老人の介護者が病気、冠婚葬祭で介護できない場合は短期入所サービスがある。これは五泊六日以内、一日一五〇〇円で寝たきり老人を一時的に介護する。家庭で入浴困難な寝たきり老人には、特殊浴槽の入浴サービスを無料でおこない、身体に障害のある老人は、専門の療法士による機能回復訓練を無料で通所してうけられる。それに、一人暮らし老人で食事の用意ができない場合は、ケアセンターの食堂で食事サービス(
このケアセンターは昭和五五年五月三〇日に開所式、事業は六月二日に開始され、中野区と練馬区の共同設置である。管理は両区とも社会福祉法人武蔵野療園に委託し、円滑な運営のため中野区・練馬区富士見台ケアセンター運営審議会を設置している。所在地は中野区上鷺宮三丁目一七番四号で、構造規模は鉄筋コンクリート造り三階建のうち一階南側(
敗戦直後、傷痍軍人や戦災による身体障害者が多く、その生活も著しく困窮していた。このような社会的背景のなかで、昭和二四年に身体障害者福祉法が制定された。その後、三五年四月には精神薄弱者福祉法の制定、四五年五月に心身障害者対策基本法を制定し、心身障害者対策の全般的な理念が打ちだされた。しかし、心身障害者のなかでも、とりわけ援護を必要とする重度の障害者対策が最も遅れ、四〇年代以降まで俟たねばならなかった。
わが国の障害者対策をふりかえると、明治七年の
その一方で、老齢の親が、障害のある子の将来を悲観して死をえらぶ悲惨な事件が後を断たない現実があり、その対策が急務である。障害者とその家族が安心して暮すためには生活の保障、訓練を含めた医療の無料化、介護人の派遣制度は言うに及ばず、生きがいとなる仕事の開拓が最も重要である。そのために、企業の雇用制度の拡大、授産場や福祉工場などの施設の拡充が今後の課題であろう。
昭和五五年三月末現在の本区の身体障害者
各福祉事務所では、昭和二四年に制定された身体障害者福祉法、三五年の精神薄弱者福祉法に基づき、身体障害者福祉司
および精神薄弱者福祉司がおかれ、職業、施設入所、日常生活などの相談・指導に応じている。また、本区の心身障害者の施設入所者は、五五年三月末現在、国・公立の施設に三五名、私立の施設に一〇七名が入所している。そして、法律による種々の援護を受ける際に必要な身体障害者手帳、精神薄弱者には愛の手帳の交付をおこなっている。五五年三月末現在、本区の身体障害者手帳交付件数は六二〇八件、愛の手帳所持状況一一一三名である。その他に身体障害者を対象にした援護事業として、更生医療の給付、補装具の交付と修理、盲導犬の貸与、交通料金の無料化や割引、物品税の減免、テレビの受信料免除、自動車改造費助成、運転免許取得費助成、公共施設内の売店設置の便宜をおこなっている。一方、精神薄弱者を対象にした福祉事務所における援護事業では、精神薄弱の就職希望者を事業経営者に一定期間預かってもらい、職業の技能習得訓練や指導をしてもらう職親の委託、職業相談、日常生活用具の給付、交通料金の無料化や割引、物品税の減免、テレビの受信料免除などを実施している。そのほかに都では心身障害者の都営住宅の優先入居、増築資金融資の斡旋、都立公園やプールの無料化もおこなっている。また、本区厚生部では精神衛生法に基づき、本区の単身、後見人のいない精神障害者が入院する場合に、区長が保護義務者となり入院の同意をおこなっている。
昭和四二年一二月に身体障害者相談員制度、翌四三年一〇月から精神薄弱者相談員制度が発足した。東京都知事が民間の人に委嘱し、任期は二年間である。地域の心身障害者の相談をうけ、関係行政機関とも連絡をとりながら適切な指導を行なっている。
本文> <項>昭和四七年四月に本区独自で開始したが、四九年一〇月から都と区の共同事業として施行することになった。発足当時の支給対象は、身体障害者手帳一~二級、愛の手帳一~三度の心身障害、脳性
マヒ、進行性筋萎縮症、特殊疾病八種の人であった。五三年四月には支給対象を、身体障害者手帳三級と愛の手帳四度、特殊疾病が八種から三〇種に拡充された。支給額は四九年の発足時は、月額五〇〇〇円であった。その後、ほぼ毎年のように改正されているが、五四年一〇月から、身体障害者手帳三級と愛の手帳四度の人は月額三五〇〇円、それ以外の人は月額七〇〇〇円である。資格認定者の推移は、四九年度一〇五二名、五〇年度一二五九名、五一年度一四一四名、五二年度一五八三名、五三年度は二六七三名で、五三年度からの対象範囲の拡大により認定者が急に増加している。五四年度末の受給者は三〇二九名で、五四年度の支給実績一億九九〇九万一〇〇〇円である。
昭和四八年一〇月から発足し、重度または重症の在宅心身障害者の経済的負担を軽減することを目的としている。対象者の障害程度の認定は、東京都心身障害者福祉センターでおこなわれている。手当の月額は五三年一〇月より二万六〇〇〇円である。四九年度は申請者が二四五名で一七七名が認定された。五〇年度の認定者は二二九名、五一年度二六〇名、五二年度二三三名、五三年度二六六名、五四年度二三三名である。
昭和五〇年一〇月から、特別児童扶養手当などの支給に関する法律に基づいて発足した。対象は重度の身体障害者で身体障害者手帳一級程度、愛の手帳一度程度の精神薄弱者である。ただし、所得制限がもうけられている。支給月額は五三年八月より六二五〇円に、五四年八月から八〇〇〇円に改正された。本区の認定者は、五〇年度三〇九名、五一年度五〇一名、五二年度五四四名、五三年度六一四名、五四年度七九六名である。
昭和四四年四月から実施され、心身障害者を扶養する保護者が、将来の障害者に抱く不安を軽減するために設けられた年金制度である。この年金制度は、障害者の保護者が死亡したり重度の障害状態になった場合に障害者に年金給付をおこなう。加入者は心身障害者の保護者で、掛金は加入時の年齢に応じるが、免除、減額もある。三五歳未満は月額一七〇〇円、三五歳以上四五歳未満は月額二五〇〇円、四五歳以上は月額三〇〇〇円を
掛ける。年金給付は加入者の死亡(本区の場合、五一年度の加入者九〇〇名、年金給付者六九名、五二年度は加入者八〇三名、年金給付者七八名、五三年度加入者八五六名、年金給付者七九名、五四年度加入者八九三名、年金給付者九〇名である。
昭和四九年七月から都の条例に基づき施行された。保険の自己負担分の医療費が助成されるので、保険のきく医療は無料になる。対象は国民健康保険の加入者、社会保険の被扶養者で、愛の手帳一~二度、身体障害者手帳一~二級で、三級の内部障害者は昭和五二年九月から対象範囲となった。ただし、所得制限がある。また、付添看護人の看護をうけた場合は、保険の基準料金と慣行料金の差額を助成している。この制度は五二年一〇月から実施した。本区の受給者証の交付件数は五〇年四月七九一件、五一年四月八四一件、五二年四月八八七件、五三年四月一〇一四件、五四年四月一〇五六件、五五年四月一一二六件で、支給範囲の拡大にともない五三年から増えている。
本文> 項> <項>昭和五〇年五月から、二〇歳以上の身体障害者手帳一級の脳性マヒ者を対象に、屋外への同行などに介護人の派遣を開始した。また同時に一人暮らしの一八歳以上の身体障害手帳を所持する障害者に介護人派遣を実施した。発足当時の昭和五一年三月末は重度脳性マヒ者の登録者一九名、介護人一九名であり、五四年三月末は登録者二九名、介護人二九名である。一方、一人暮らし障害者については五一年三月末の登録者三名、介護人五名で、五四年三月末は登録者二名、介護人二名となっている。
昭和五二年七月に練馬区在宅心身障害者
家庭奉仕員が心身障害者
重度身体障害者の日常生活が円滑に営まれるように貸与および給付されるもので、所得に応じて自己負担がある。給付は浴そう、湯沸器、便器、特殊マット、訓練いす、特殊便器、電動タイプライター、テープレコーダー、時計、タイムスイッチ、カナタイプライター、サウンドマスター、目覚時計、屋内信号燈、酸素吸入装置、浴場改善、便所改善で、貸与は特殊寝台である。
身体障害者用自動車改造費の助成と運転免許教習費用の助成については、昭和四九年四月から、下肢・体幹障害一~二級で歩行の困難な人に自動車改造費の助成を開始をした。ただし、所得税非課税世帯で補助額は一〇万円以内である。一般の交通機関が利用できない身体障害者に運転免許教習費用を、五二年一〇月から助成している。
福祉タクシー券交付と車椅子の貸与については、昭和五二年五月から、障害者
身体障害者福祉電話の貸与と電話料の助成は昭和五〇年一〇月から実施された。電話のない世帯に電話を設置し、基本料金と度数料六〇通話を補助し、障害者のコミュニケーションや緊急連絡に利用してもらう事業である。対象は下肢・体幹、内部障害で一~二級の身体障害者手帳の人で、所得税非課税世帯となっている。五四年四月から視覚障害一~二級の人にも対象が拡大された。五四年度末に二二台が設置された。
区では、心身障害者福祉団体の育成に寄与するために福祉団体に助成している。五四年度は一一団体に一五万から四〇万円を助成した。また、在宅心身障害児
福祉デーは、心身障害者
心身障害者福祉の基本的方向は、憲法に保障された基本的人権の尊重にある。すなわち障害者が社会構成員の一人として地域社会で活動し、生活するための総合的な更生を援護することにある。したがって、心身障害者の福祉施策は障害の予防や治癒はいうまでもなく、社会生活や日常生活を営む上での障害の機能回復(
かつての障害者福祉施策が、施設保護か在宅かの二者択一であったことを顧みるとき、昭和五四年八月に開館した練馬区立心身障害者福祉センターは、心身障害者福祉にとって画期的な領域をきりひらく施設といえよう。それは在宅の障害者が障害を克服し、その能力を開発するために必要な専門的な相談、判定、検査、訓練や指導がうけられる体系的なリハビリテーションの場である。さらに、障害者相互の娯楽や集会にも利用できる。
次に、本センターの設立までの経緯と施設の概要を略記しておく。まず昭和五〇年四月付で、厚生部心身障害者福祉セン
ター等建設準備室が創設された。五二年度の厚生部の「事務事業概要」によると、建設場所は、ニチバン工場跡地で貫井一丁目二六一番地(業務内容は、一般相談と専門相談があり、医学、心理学、社会学などの専門職員が、相談、評価、判定にあたる。この結果、障害の程度に応じ、学齢前の心身障害児に生活習慣の指導、機能回復訓練をおこなっている。その方法として心理的療法、運動療法、作業療法、言語療法などがある。また成人の訓練指導として、精神薄弱者にはカウンセリング、作業を中心とした訓練および日常生活動作訓練がある。身体障害者には運動療法、作業療法や日常生活動作訓練をおこなっている。ほかにも会議室や休養室、浴室、グループ活動室や機器室(
心身障害者に設備と仕事を提供し、自立への援助をはかる施設である。この施設は、昭和三六年四月に東京都管轄の大泉授産場として発足し、その後、心身障害者対策の一環として四二年四月に東京都立大泉福祉作業所と改められた。そして五三年三月から、特別区の自治権拡充の観点により区へ移管された。敷地面積は六八三・九三㎡で、建物は鉄骨ブロック造り二階建、延面積三四一・六八㎡であり、東大泉町四一八―五に所在する。利用者の対象は一五歳以上の心身障害者で一人で通所ができ、作業能力のある人または期待できる人である。定員が四〇名となっている。
画像を表示事業内容は、簡易作業の指導、クラブ活動、社会見学などを通じて、作業と生活の指導をおこなっている。仕事は紙器組立てや角砂糖詰合せ、本の封入などで、作業能力に応じて一か月に二万五〇〇〇円から五〇〇〇円までの工賃が支払われている。
昭和三七年四月に東京都練馬児童学園として開設され、当時精神薄弱児の通園施設であった。そして五二年四月に練馬児童学園の施設を共用して、東京都練馬生活実習所が開設され、心身障害者の福祉施設となった。その後、五五年三月に生活実習所が都から区へ移管されるのにともない、五五年二月で練馬児童学園は廃止された。施設の敷地面積は二〇五六・一九㎡で、建物はコンクリート・ブロック造り平家建、延面積が六四五・三六㎡で、所在地は氷川台二―一六―二である。ここでは、心身障害者が社会生活に必要な能力を開発するために、基本的な生活習慣、集団生活を学ぶ生活訓練と、紙工や農園芸などの作業訓練を行っている。利用できる人は義務教育を修了した一五歳以上の障害程度の重い心身障害者で、現在二六名の在籍者がいる。
昭和四四年七月に開設、一〇月に仕事が開始された同施設は、練馬区社会福祉協議会が運営しているが、施設の提供および運営費の補助は練馬区も分担している。施設は敷地面積四一三㎡、建物は木造平家建で、建物面積一二八㎡、所在地は石神井町五―一三―一〇である。事業目的は精神薄弱者の社会的自立を助長することにあり、入所資格は義務教育を修了した精神薄弱者で、通所できる人である。定員は二〇名で、紙工、古新聞の再生などの技術指導とともに生活指導もおこなっている。
東京都立練馬更生園(
東京都立練馬高等保育学院(
東京都立石神井学園(
社会福祉法人立錦華学院(
社会福祉法人立旭出生産福祉園(
敗戦後の未曾有の混乱は、国民を極度の生活苦と不安に陥れた。この社会情勢のなかで昭和二五年に生活保護法が施行され、二四年創設の東京都生業資金貸付制度は、二九年から練馬区生業資金貸付制度となった。さらに都営の公益質屋も、二七年から区に移管されて低所得層を対象にした援護施策が次々と打ち出された。この結果、二〇年代はこれらの各制度の利用者も多く、国民生活も次第に落ち着き始めた。続く三〇年代以降の高度経済成長は、国民生活に活気を与えるとともに豊富な物資文化をもたらした。しかし、その一方で生活様式や経済構造の変化に適応できない階層が、三〇年代以降は新たな低所得層を産みだすことになった。しかも四八年秋以降の経済不況で、企業倒産による失業者数は戦後最高を記録した。その上、物価の上昇が続くなかにあって、高齢、障害、母子などの稼働力のない世帯が低所得層に属していきつつある。
本区では区総人口の約一%にあたる区民が生活保護世帯、母子世帯である。そのほかに数多くの生活保護基準に近い低所得層の潜在が考えられる。これらの区民の生活保護と経済的自立をはかる目的で種々の施策を実施している。
憲法二五条の「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という生存権保障の理念を目的として、昭和二五年五月に生活保護法が公布された。同法は無差別平等の理念のもとに最低生活の保障、自立助長、保護の請求権、保護の補足性などの原則をかかげ、国民の最低限度の生活を国の責任において保障した。
当時の社会は敗戦直後の未曾有の混乱状態にあり、単に戦災者や失業者に限らずすべての国民が窮乏に喘ぐ生活困窮者で
あり、その数は一三〇〇万人を超えると推定された。そこで、とりあえず政府は二〇年一二月に「生活困窮者緊急生活援護要綱」を発表。続く二一年九月には、昭和四年に公布された救護法、一二年の軍事扶助法及び母子保護法、一六年公布の医療保護法、戦災保護法を撤廃するとともに、総括的な公的扶助法である旧・生活保護法を制定した。その後、旧法を改正した新生活保護法を制定した。新法は従来の諸法にみられなかった最低限度の生活を、国民の権利として保障する画期的内容をもつものであった。保護の種類には、生活扶助、教育扶助、住宅扶助、医療扶助、出産扶助、生業扶助、葬祭扶助の七種があり、要保護者の申請により単給及び併給が実施される。また生活保護は原則として居宅保護であるが、救護施設、更生施設、医療保護施設、授産施設、宿所提供施設で保護する収容保護もある。
これらの保護の実施機関は国の委任をうけた福祉事務所であり、要保護者の自立更生に向けて適切な保護、指導をおこなう。さらに社会福祉主事が補助機関、民生委員が協力機関としておかれている。保護基準は、要保護者の年齢別、性別、世帯構成別、所在地域別、その他必要な事項を考慮し厚生大臣が定める。そして基準設定は昭和二二年四月以降、一般国民の生活向上に均衡を図るように改善されている。五四年四月の保護基準は、標準四人世帯の最低生活費の概算として、生活費一一万四三四〇円(
わが国の社会保障制度、すなわち年金及び健康保険制度は実施されて日が浅く、加えて年金給付のみで生活が保障されない現在、世帯主の労働不能は即、生活困窮層への転落となる。この生活困窮者の最後の拠り所となっているのが生活保護法である。それだけに社会保障制度が今後さらに拡充することが望まれる。
本区の生活保護実世帯数の推移(
一方、本区の保護率(
また、本区の生活保護の種別世帯数の推移は図<数2>15数2>―6のように、二六年度から四六年度まで、生活扶助が常時、最高件数をしめていた。しかし、四七年度から生活扶助一八三一件を抜いて医療扶助の一九九六件が一位になり現在まで続いている。図<数2>15数2>―7に示すように、三七年次は教育扶助が全体の二二・〇%の割合であったが、四七年次になると一〇%に激減し、医療扶助の三四・八%の大幅な増加が注目される。これを生活保護費支出額の推移でみると、三九年度まで生活扶助費が最高額の一億三四八六万円をしめ、二位に住宅扶助費、三位教育扶助費で、四位の医療扶助費は一六〇万二〇〇〇円であった。しかし翌四〇年度は、医療扶助支出額が二億九〇三九万七〇〇〇円と一位になり(
次に生活保護世帯数の種別割合と保護費支出の種別割合で医療扶助をみよう。一例に五二年度をとると、図<数2>15数2>―8に示すように、被保護世帯全体の三五・七%が医療扶助被保護世帯である。これを保護費支出割合でみると医療扶助支出額は五六・五%をしめている。これは生活扶助額の低さにもよるが、また近年の医療費高騰が、低所得者層にいかに大きな負担になっているかを証明している。そして生活保護の開始理由(
ゆえに医療保障制度、とりわけ国民健康保険の給付率七割を今後さらに拡充すると、生活保護の被保護者数は減少すると思われる。また、高齢、母子、障害などの理由で稼働力のない世帯には年金制度の充実が望まれる。これらの社会保障制度の完全な整備こそ、生活保護被保護者の保護に限らず、国民すべての生活の安定を保障するものと考えられる。
公益質屋法が昭和二年に発布され、生活に必要な資金を低利で融資する庶民の金融機関として設置された。その後、東京都直轄の公益質屋が二七年三月末をもって、所在する特別区に移管された。これにともない本区石神井町二丁目一二一二にあった石神井公益質屋が、同年四月一日から本区の直営となった。現在の住所は石神井町六丁目一三番一〇号で、敷地面積一九八・三四㎡である。そして構造面積九二・五七㎡に木造一部と鉄筋コンクリート造りの二階建の建物である。昭和三〇年当時の貸出し限度額は八〇〇〇円であった。限度額はその後も漸次改正されたが、三六年三月には一口について二万円以内、一世帯について五万円以内と改められた。四九年二月から貸付限度額が一世帯一〇万円以内で利子は月三%、流質期限は四か月である。
画像を表示公益質屋の貸付口数の推移(
労働能力の低い人を対象に仕事の技能指導や斡旋、作業場を提供して、低所得世帯の収入増加をはかる。作業には場内作業と居宅作業があり、授産場に通えない人の便宜をはかっている。
本区には左の二つの授産場がある。
画像を表示練馬授産場 練馬授産場は、昭和二四年八月一日に練馬区南町四丁目六〇八二に開設された。この当時トタン葺屋根の平家木造建物で五九・四㎡の構造面積であり、職員は技師補、傭員の計二名であった。翌二五年四月には建物の増改築をし八九・一㎡と広くなった。また発足当時の仕事は、輸出向毛糸手袋の
しかし、練馬区授産場設置条例が公布されたのは三六年三月であり、同条例のなかに付則として「この条例は、昭和三十六年四月一日から施行する。ただし、この条例施行の際、現に存する授産場および連絡所については、この条例により設置されたものとみなす」とある。さらに三八年二月には練馬授産場の住所が改正され、練馬区練馬一丁目一九番七号になり現在にいたっている。三六年七月一日には練馬授産場の石神井分場(
近年の利用人員は五〇年度七〇九人、五一年度七八六人、五二年度七七九人、五三年度七〇六人、五四年度六五七人と推移している。工賃支払総額も五二年度九二七万四五六〇円、一人平均一万一九〇六円、五三年度は八九一万九二七八円で一人平均は一万二六三円、五四年度九五六万四三七七円で一人平均一万四五五八円であり、仕事の種類は製本、箱詰、袋詰、縫製などである。また利用する大多数は練馬、豊玉、貫井地区の居住者でしめている現状である。
平和台授産場 昭和三三年一二月一〇日に都の練馬仲町授産場として設置された。その後、四九年七月には施設の改築がおこなわれ、五五年三月一日から区に移管された。対象は原則として六〇歳以上で、高齢者の生活の自立をはかることを
目的にしている。場内作業者の定員は五〇名弱で、家庭用品の組立などの仕事をおこなっている。一般の金融機関から融資を受けるのが困難な区民を対象にして、独立の生計を営むために小口資金を貸しつけている。昭和二四年九月に都が東京都生業資金貸付制度を創設し、二四年度は一世帯、五万円を限度として日歩二銭五厘で貸付けた。償還方法は据置期間一年を含む五年の割賦返済であった。都内の貸付件数は九一六五名で、本区の利用世帯は二五年一月現在、二四三件で返還率三八・六%であった。翌二五年度は一世帯三万円までを据置期間一年を含む四年の償還方法で貸付け、本区の利用世帯二八四件、二九年一月現在の返還率三五・九%となっている。
その後、二九年六月には練馬区生業資金貸付条例が公布された。この条例により、区長の付属機関として一二名の生業資金貸付審査委員会を設け、生業資金の適正かつ円滑な運営をはかっている。
これに基づき、本区では一世帯につき、一口、五万円を限度として据置期間六か月を含む五年の償還方法、利率は日歩二銭五厘で発足した。この結果、二九年度の貸付件数は三九件で貸付額一七六万円であり、翌三〇年度は三二件、一四三万円であった。その後、三四年一〇月から利率が日歩一銭に改正され、三四年度は貸付件数が五三件に増えた。さらに四〇年度は三四件の貸付件数であったが、四一年度は六二件、四二年度八六件と急速に増加し、四五年度には一〇一件となりこの年以降一〇〇件を突破した。また、四八年度は一一八件であったが、四九年度は二〇〇件にのぼり、四八年秋の石油ショックの影響がうかがえる。
貸付金額は漸次、改正され、五三年四月からは新規開業八〇万円、事業の継続・拡張の場合は六〇万円で、利率は年に三・六五%になった。これにより五三年度より貸付額が初めて一億円を超え、一億一一七八万円となり、貸付件数一七五件となった。翌五四年度は貸付件数一五〇件、貸付金額九六一〇万円である。
被災、傷病、生活困難などで応急に必要とする費用が調達困難な低所得者を対象に、小口資金を貸し付ける。応急小口資金貸付条例は昭和四六年三月に制定、四月から施行された。同時に四〇年四月に発足した
母子福祉応急小口資金が廃止された。貸付限度額は一万円で発足。四七年七月から二万円となり、四九年二月には五万円に改正された。五二年度から一般貸付限度額五万円、特別貸付限度額一五万円、翌五三年度は一般貸付一〇万円、特別貸付三〇万円、五五年度から一般貸付一二万円、特別貸付三五万円となった。利率は無利子で、償還方法は貸付けのあった月の翌々月から、一般貸付は二〇か月、特別貸付は四〇か月の均等月賦返済である。貸付状況は四六年度一一七件、四九年度四二九件、貸付金額二〇九五万五〇〇〇円、五〇年度三九四件、一九四七万円、五一年度二九三件、一四四九万五〇〇〇円、五二年度三六四件、二五五五万円、五三年度五三七件、六六五一万九〇〇〇円、五四年度四七四件、六九五〇万円と推移している。なかでも四九年度と五三年度の貸付件数の増加がめだっている。
本区では生活保護世帯の生活内容の充実と、自立更生をはかるため、法に基づく以外は次の各種援護を実施している。
<資料文><項番>(1)項番>夏および冬に被保護世帯に対して見舞金の支給
<項番>(2)項番>被保護世帯の学童、生徒に対して学童服および運動衣の購入費を支給
<項番>(3)項番>夏期休暇中の学童、生徒に夏期健全育成費支給
<項番>(4)項番>高等学校進学準備資金の貸付
<項番>(5)項番>生活保護世帯出産祝品支給
資料文>そのほか、低所得者の援護として、生活保護を受けるまでにいたらない児童扶養手当受給世帯の小、中学生に対して、それぞれ栄養補給品、現金(
社会福祉事業法の隣保事業に基づき、区民の生活の向上と福祉増進を目的に昭和四二年八月から開館した。この会館は、練馬区高野台二丁目二五番一号に所在し、建設費二億八四九二万二八三五円をかけて、昭和四一年九月に着工、四二年五月に完成した。鉄筋コンクリート地下一階、地上四階建、別棟コンクリート一階建の建物で、建物延面積は二七五八・六三㎡であり、敷地面積四一一八・三二㎡となっている。
施設は集会室・懇話室や教養娯楽室、さらに結婚式場、披露宴室、読書室、サロンがある。また心身障害者を対象にした心身障害者クラブ室、視聴覚室。それに老人娯楽室には浴室、日本庭園もあり、区内の六〇歳以上の老人を対象にしている。事業には結婚相談、老人娯楽室の利用者には老人健康相談、地域の福祉活動推進を目的に、一年に二回の社会福祉講座を開講している。さらに四五年六月から老人理髪無料奉仕を、区内理髪業者の無料奉仕で月一回実施している。
画像を表示この会館は同和対策事業特別措置法の趣旨にのっとり、地域住民の福祉増進とともに同和対策事業の円滑な運営の推進をはかることを目的として設立された。所在地は練馬区練馬四丁目二番三号で、敷地面積一〇二二・九四㎡に建物延面積一五四一・九五九㎡の鉄筋三階建の施設である。ここには昭和一二年六月に練馬隣保館が設立され、保育所や診療などの事業をおこなっていた。そして昭和四八年四月一日に建設費一億六〇一八万円をかけて建て替えたものである。同館には同和対策生活指導員がいて、同和問題に関する相談・助言を受付けている。施設としては集会室をはじめ、学
童クラブ室、図書室、工作室、音楽室、遊戯室、それに敬老室などがあり、そのほかに練馬保育園が併設されている。太平洋戦争などの戦没者、戦傷病者及び戦没遺族に各種の援護が実施され、区ではその受付・伝達・交付をおこなっている。
戦没者叙位叙勲の伝達 昭和三九年一月七日付の閣議決定に基づき、太平洋戦争の戦没軍人・軍属者の叙位叙勲業務が再開され、また昭和一七年九月からの定例未伝達者(
戦没者の叙位叙勲伝達者数は、四六年一五九名、四七年六八名、四八年六七名、四九年一六名、五〇年三二名、五一年二三名、五二年一四名、五三年二八名、五四年一一名である。
恩給法によるもの 大正一二年の恩給法(
戦傷病者戦没者援護法によるもの 昭和二七年に制定された戦傷病者戦没者援護法により、恩給法の適用をうけられない戦傷病者、戦没者の遺族の援護を実施している。同法は二七年以降、数次にわたって改正され次第に拡充されている。
旧軍人・軍属の遺族に遺族年金、遺族給与金の支給、また満州事変間に公務上の死没者で、公務扶助料や遺族年金の受給権利のない遺族には特別弔慰金が支給される。そして満州事変以降に公務上で障害をうけた旧軍人・軍属などの妻に戦傷病者等の妻に対する特別給付金が支給される。
原爆被爆者への見舞金 練馬区原爆被爆者見舞金支給実施要綱に基づき、昭和五二年度から原子爆弾被爆者健康手帳所持者に見舞金を支給している。五二年度は一人一回二〇〇〇円を二一八名に、五三年度から五〇〇〇円になり三〇一名、五四年度三三三名である。
行旅死亡人の取扱い 明治三二年行旅病人及び行旅死亡人取扱法が制定された。死亡人の身元が判明しない場合や身元
引取人のない場合に、区で埋火葬、納骨などもおこなっている。行旅死亡人の取扱件数は、昭和四八年度六件、四九年度二件、五〇年度六件、五一年度四件、五二年度六件、五三年度一件、五四年度二件である。区民葬儀 標準的な葬儀を低額で利用できる制度で、区民の経済的な軽減をはかり、生活改善を目的とする。区では区民葬儀券の発行をしている。利用状況は昭和四八年度四七件、四九年度三六件、五〇年度二四件、五一年度三〇件、五二年度二四件、五三年度三八件、五四年度三六件である。
普及活動 「練馬区心身障害者のしおり」を区内の心身障害者に配布し、日常生活の福祉向上をはかっている。また点字教室を毎年九月から一二月の期間(
民生委員の基本精神は「社会奉仕の精神をもって、保護指導にあたり、社会福祉の増進に努める」(
一方、わが国独自の民生委員制度の歴史をみると、大正六年に岡山県で組織された済世顧問制度がその端緒であり、済世顧問の主な職務は防貧事業の遂行であった。翌七年に成立した大阪方面委員制度は、その後横浜市、長崎市などに同様の制度が設置され、各地へ普及していくモデルケースとなり、現在の民生委員制度の源流になった。東京では、大正七年五月に東京府善協会が救済委員制度を設けた。続いて大正九年一二月に東京市方面委員制度が設置され、下谷、深川両区に四三名
の方面委員が誕生した。その後、方面委員制度が発展、拡大するに従い、救済委員制度は解消することとなった。更に昭和一一年には東京府下全域に配置されるまでに普及した。 図表を表示そして全国各地で任意の制度として発達してきた方面委員制度が、昭和四年四月の救護法の公布により補助機関となった。六年には全日本方面委員連盟が結成され、救護委員として救護法の推進に参加した。さらに一一年一一月の方面委員令の制定にともなって、従来の民間奉仕制度が法制化されることとなった。戦後、昭和二一年の民生委員令により、方面委員は民生委員と改称し、その職務も救貧から社会福祉の増進へと変容した。翌二二年に児童福祉法が制定され、民生委員は児童委員をも兼務することとなった。二三年の民生委員法の制定で民生委員が行政機関の協力機関になり、現在にまでいたっている。
本区では昭和五二年一二月に委嘱した民生委員の定数は三七八名である。本区は一〇地域の協議会地区(
昭和一三年三月に社会事業の範囲を規定した社会事業法が制定された。同法に代わるものとして、二六年三月に社会福祉事業法が制定され、社会福祉事業の基本事項を定めた。これにともない全国都道府県に社会福祉協議会が結成された。その後、市区町村に活動の拠点が移った。現在は都道府県並びに市区町村で組織されている。さらに三七年に社会福祉協議会は基本要領を決め「住民の福祉を増進することを目的とする民間の自主的な組織である」と、その位置づけをした。
本区の社会福祉協議会は昭和二七年七月に設立、三七年九月に社会福祉法人に認可された。その性格は「地域社会において、住民が主体となり社会福祉その他に住みよい明るい町づくりに関係者と協力している自主的団体」である。
事業内容は、児童福祉事業として青少年健全育成行事に協力、交通遺児激励援助など、老人福祉事業は老人福祉週間の各種行事、ねたきり・一人ぐらし老人の見舞、老人クラブの育成などである。そして心身障害者への激励慰安や福祉団体等への行事の援助などの心身障害者福祉事業、母子、婦人団体等の行事への援助を実施している。更生援護事業としては、世帯更生資金や療養資金の貸付、小口緊急生活費の貸付、災害者の援護などである。その他の援助に、戦没者遺家族の激励、災害世帯の見舞、共同募金、歳末たすけあい運動の実施をしている。なかでも本区独自の活動として、保護世帯の児童に対しての学用品プレゼントがあげられる。また民生委員が地域住民の心配事の相談や、その解決をはかる活動をしている。
一方、地域社会の問題の実態調査もおこなっている。昭和四四年度に一人ぐらし老人、四九年度はねたきり老人、五五年度は交通遺児家庭の実態調査をおこない、関係機関へ連絡するとともに、その解決を行政に働きかける。また、精薄者授産施設の白百合福祉作業所を運営している。
本区には現在、表<数2>15数2>―6のように一四の福祉団体がそれぞれの目的にそって活動している。区では、これらの福祉団体に事業分担金を一部負担している。
図表を表示 本文> 節> 章> <章>国民健康保険制度は相互共済の精神にのっとり被用者以外の一般住民、すなわち農・工・商の自営業者、小零細企業の従業員およびそれらの被扶養家族を対象にした医療保険制度である。
わが国の医療保険制度は大正一一年四月に公布制定された健康保険法を初めとして、船員保険、日雇労働者健康保険、各種共済組合などの被用者保険が整備されている。
一方、被用者以外の一般住民を対象にした国民健康保険法が創設されたのは昭和一三年のことであった。昭和四年にニューヨークのウォール街でおきた株価の大暴落は、やがて四年間余りにおよぶ世界大恐慌に波及していった。恐慌の直撃をうけたわが国の農村では昭和五年から生糸価格、米価の暴落がはじまり未曾有の窮乏状態に陥った。また都会でも二〇〇万から三〇〇万人の失業者が巷に溢れ、それらのなかで帰郷する人もいて、更に農村の疲弊に拍車をかけることとなった。
その上、昭和六年の満州事変の勃発、七年の上海事変と続く戦時体制の拡大は、必然的に兵力、労働力の供給源であった農、漁村の一般住民の体力低下を浮かびあがらせた。このような社会的背景のなかで、医療の普及と保健の向上をはかり、そして医療費負担を軽減する目的で国民健康保険法が制定された。
しかし、同法が財政の貧困な市町村や同一業種を単位にした任意の国保組合であり、任意加入制でしかも給付内容が低額であったこと、それに医療機関が地域的に偏在していることなどが相まって、国民総数の五割以上をしめる一般住民の社会
保険制度として拡充しなかった。その後も同法は何度か改正されたが、昭和二三年には市町村の公営になり一般住民の強制加入が実施された。しかし、「三一年二月現在の普及率は約五〇%にすぎなかった」(
新法の特色は、特別区、市町村が経営主体となった強制設立で、被用者保険等の加入者以外の一般住民の強制加入制となり、保険の給付水準を法定したことなどであった。また、三五年三月末までに国民健康保険の実施義務を法定し、三六年四月一日から全国的に実施されるにいたった。ここにわが国初の国民皆保険の実現をみた。
しかし、国民総ての医療保障の機会均等を図る目的の医療保険制度が、一〇割給付の被用者保険制度が七つと、七割給付の国民健康保険が並立している現状は、わが国医療保険の大きな問題点といわなければならない。
本区では、昭和三二年一二月の新国民健康保険法の法制化にともない、厚生課に国民健康保険準備係を設置した。そして三四年四月一日に国民健康保険課を創設し事業の開始に備えた。同年一〇月に特別区国民健康保険事業調整条例を制定し、特別区の給付水準や保険料率を統一した。さらに一一月には練馬区国民健康保険条例を制定し、一二月一日から特別区国民健康保険事業が一斉に開始された。そして三五年一〇月に五大都市に先がけて全国では一九番目に東京都民皆保険の達成をみた。
三四年一二月末現在の本区世帯数七万三五四七のうち、国民健康保険の対象世帯数は二万一六一六で加入率二九・四%であった。これを被保険者数でみると本区総人口二八万一〇七七人のうち、被保険者数は六万八七三四人(加入率二四・五%)であった。発足後、満一年を経た三五年一二月一日の国民健康保険の被保険者の状況は、七万四三〇六人で本区全人口の二四・一%をしめている。これを二三区の中で比較すると、台東区の三九・四%を筆頭に墨田区三七・七%、荒川区三七・〇
%と続き、二二位の杉並区が二〇・九%、二三位の大田区二〇・五%の加入率で本区は一七位の順位にある。また二三区の平均加入率が二五・五%で本区はこれを下まわっている。しかしこの数字を前年同期の被保険者数と比べると、江戸川区、板橋区に続く本区の四九七四人の被保険者の増加は、二三区のなかでも際立った特徴である。 図表を表示さらに三五年度から五年おきの年間平均加入世帯数と被保険者数の推移(
この原因の一つは、三〇年代以降、本区の人口が急増したことである。三五年度以降の一〇年間に世帯数で約九万余り、人口は約二二万人の増加をみた。しかし四〇年頃からは本区の地価高騰が人口増加にも影をおとし始め、四五年度から五〇年度の五年間に約三万人余りの人口増加にとどまっている。
原因の二番目は、本区の商工業の特色が中小企業主体であるところに拠る。たとえば三八年七月では、本区全体の企業のうち九人以下の企業が、全体の八九・九%を占めている。四一年七月においても九人以下の企業は、全体の八八・二%、五三年六月には八八・四%である。このように三五年以降は、本区特有の人口増加と中小企業主体の商工業が相まって、本区の国民健康保険加入者も急激に増加したと考えられる。
次に、近年の加入率の推移(
一方、年齢別の加入状況(
しかし、本区の国民健康保険事業が三四年に発足して以来、一九年目にあたる五三年度末において、加入世帯数で五万四九二五人、被保険者数が一三万二三九〇人とそれぞれ増加し、三四年度末より世帯数で三・四七倍、被保険者数では二・八八倍もの大きな伸びと
なっている。これは国民健康保険が地域医療保険として本区に着実に発展、拡大している証拠であろう。 画像を表示国民健康保険事業は、被保険者の負担する保険料、国庫支出金および都支出金を三大財源としている。本区の五三年度の歳入総額一一〇億五〇七一万九〇〇〇円のうち、国庫支出金五四・六%、保険料三〇・一%、都支出金一三・六%となっている。一方、五三年度の歳出総額一〇八億七六〇〇万円のうち、保険給付費が一〇四億五五〇〇万円で全額の九六・一%、総務費が四億〇一八七万円で三・七%である。
また、保険料は世帯単位で計算し、前年度住民税に所得割料率を乗じた所得割額に、被保険者均等割額の合算額と定められている。三四年当時は均等割額(
四一年度の保険料からは、所得割額の算定基礎が前年度区民税額から住民税額(
そして五一年四月には均等割額を六〇〇円から二四〇〇円に、賦課限度額を昨年度に続いて八万円から一二万円に引き上げた。一世帯あたりの保険料も五〇年度二万一〇三五円、五一年度は二万九八〇七円となっている。さらに、五三年四月には均等割額を二四〇〇円から四八〇〇円に、賦課限度額は一二万円から一七万円に、五五年度からは、均等割額が六〇〇〇円、賦課限度額は二二万円に改正された。また五五年度の所得割料率は一〇〇分の一二二に改定され、一世帯の保険料が五二年度三万二六五〇円、五三年度は四万五八三八円と上昇している。
一方、低所得者世帯を対象に保険料均等割額を減額する減額賦課の制度が、三八年四月から施行された。三九年一二月には保険料減額措置の基準所得額が改正されて引き上げられ、四〇年度から対象世帯の範囲が拡大された。更に四二年、四三年、四四年の三年間、減額措置対象世帯の範囲拡大の条例改正がなされた。
四九年一〇月から保険料の所得割額の特別減免制度を実施し、五一年三月には均等割額の特別減免制度を新設した。また五五年度の保険料特別減免の減額割合は、一号世帯が保険料均等割額から三六〇〇円、二号世帯が二四〇〇円の減額となっている。五三年度の本区特別減額措置世帯は五七四五件、免除世帯三五件で、合計二九九二万八二二〇円の減免となっている。
保険給付の種類には、療養の給付、高額療養費、助産費の支給、葬祭費の支給、育児手当金の支給がある。療養の給付は現物給付を原則としているが現金給付も実施している。現物給付は療養取扱機関に被保険者証
を提出し医療給付をうけ、医療費の三割を自己負担する。現金給付は都の国民健康保険が使用できない医療機関で治療を受けた場合等に、被保険者が全額を一時自己負担した後、保険者がその負担すべき金額を払いもどす形態をとっている。国民健康保険発足当時、給付割合は世帯主七割、家族五割であった。三八年四月から結核予防法第三四条、第三五条、精神衛生法第二九条対象医療は一〇割給付が施行された。四〇年一月から家族も七割給付になった。更に四四年八月から精神衛生法第三二条の対象医療も一〇割給付が施行された。
さらに長期入院や疾病によっては医療費が高額になり、往々にして被保険者に過重な負担を強いる結果となった。それ故、療養費の軽減をはかり被保険者の受療機会を確保するために、高額療養費が四八年一二月から任意給付として施行された。当時は被保険者の負担すべき額が三万円を超えた場合にその超過額が支給された。五一年二月には任意給付から法定給付になり、同年八月から被保険者の負担すべき額の限度額が三万九〇〇〇円に改正された。
その他の給付として、被保険者が出産したときには助産費の支給、また死亡の場合には葬祭費の支給がある。三四年の事業開始当時は助産費一五〇〇円、葬祭費二五〇〇円の支給額であった。その後、助産費支給額は三七年一二月、三九年四月に改正され三〇〇〇円に引き上げられ、葬祭費も三九年四月に三〇〇〇円に改正された。
四三年四月には育児手当金(二〇〇〇円)が任意給付として新設された。四四年九月に助産費が三〇〇〇円から一万円に、四五年四月に葬祭費三〇〇〇円が五〇〇〇円に改正施行。続いて四九年四月に助産費及び葬祭費が、それぞれ二万円、一万円に引き上げられた。五三年四月には助産費が六万円、葬祭費が二万円になり、五五年四月から助産費八万円、葬祭費三万円に改正施行された。
なお、最近の支給状況は助産費、育児手当金ともに、五〇年度には三〇〇〇件台を割り、助産費二九一〇件、育児手当金二八四九件で以後毎年減少している。五三年度は助産費が二二五三件、育児手当金二一七一件で出生数の低下にともなって最少支給件数となっている。葬祭費は五一年度七六三件、五二年度七七二件、五三年度九三〇件である。
さらに、四八年一月から老人医療費支給制度が実施された。七〇歳以上の被保険者の一部負担金を公費で支払い、老人の医療費を無料にすることによって、健康の保持、促進を図る制度である。また同年一〇月に、対象を六五歳から七〇歳までのねたきり老人にまで拡げた。
四七年度において一万〇九六五件であった「寿」老人受療が、四八年度五万九五五四件、五〇年度八万二八六二件、五三年度一一万八一九七件と年毎に増加している。また総医療費に占める「寿」老人医療費の割合では、四八年度一二%、五〇年度一五%、五二年度一八%、五三年度は二〇%弱である。
高額療養費支給制度は療養取扱機関で診療をうけた場合に、被保険者の負担する額が三万九〇〇〇円を超えると、その超過額を後日被保険者に高額療養費として償還する。しかし、償還事務に時間を要し、医療費が多額の場合にはその支払いが負担になる場合が多かった。
このため、本区では被保険者の生活の安定と療養を確保する目的で、昭和五三年四月から高額療養費資金貸付事業を開始した。この事業は、実際に高額療養費が支給されるまでの「つなぎ資金」として貸付けるものである。貸付金は高額療養費支給見込額の九割を限度に無利子となっている。五三年度の貸付件数は二四九件、金額三一五六万円であった。
国民健康保険事業に対する被保険者のよりよい理解と協力を得るため、本区では左記のようなPR活動を実施している。
五三年度は、新規加入者用の手引きとして「国保のしおり」、給付改善等の周知のための「国保のお知らせ」、事業概要を掲載する「ねりまの国保」、更に国保事業のPR用ポスターを発行した。
一方、保健施設活動の一環として、歯の無料健康相談を実施し、五二年度は一六五〇件、五三年度一六七四件の利用者があった。また、被保険者の健康増進のために保養施設がある。夏季施設には海の家、山の家を年間を通して利用できる保養所には近効温泉地の指定旅館を低額料金で斡旋している。
本文> 節> <節>国民年金法は、昭和三四年四月に制定、同年一一月から施行された。この立法は国民皆年金体制が敷設されたという点で、わが国社会保険史上、画期的意義をもつものであった。
わが国の公的年金制度は八つの制度に分立している。昭和一六年に労働者年金法として制定され、一九年に改名された厚生年金保険は、零細企業を除く一般被用者を対象にした制度である。それに昭和一四年に制定された船員保険、および国家公務員共済組合、地方公務員等共済組合、公共企業体職員等共済組合、私立学校教職員共済組合、農林漁業団体職員共済組合などの各種共済組合がある。これらの特定の職域を対象にした被用者年金制度は、比較的早く整備されていた。
しかし、被用者年金制度に加入できない自営業者、農林漁業の従事者、五人未満の零細企業の被用者は、国民の就業人口の大半をしめていながら年金制度と無縁の状態であった。
国民年金制度の構想が緒についたのは、昭和二一年に創設された社会保険制度調査会であった。そして三〇年になると、厚生省で将来の国民年金制度の検討がはじまり、同年一一月に社会保障五か年計画試案を作成するにいたった。
一方、三〇年代以降の高度経済成長にともなう産業構造の急激な変貌の影響が、従来の社会構造や生活様式の変化にまでおよんだ。すなわち労働者人口の増大と核家族の増加は、老後問題を顕在化させ、さらに医療技術の進歩と生活水準の向上があいまって平均寿命が著しくのびた。にもかかわらず早すぎる定年制と不安定な基盤の自営業は、老後の生活不安をより一層深刻にさせている。ここに至り、高齢者の社会的扶養制度創設に関する気運は盛りあがりをみせた。
さらに戦後、わが国の老齢人口は甚だしく増加する一途であった。六五歳以上の老齢人口は昭和二五年には四一〇万八〇〇〇人で総人口の四・九四%、三〇年四七六万五〇〇〇人で五・三四%、そして三五年は五三五万三〇〇〇人、五・七〇%
と推移した。これが将来はさらに激しく急増することが予想され、その対策が早急に必要とされた。これらの社会的要請のもとに、老齢および傷病になったときの生活の安定をはかる目的で社会保険形式の国民年金法が誕生した。同法のしくみは、二〇歳以上六〇歳未満で他の年金制度に加入していない人を対象にした拠出年金を主体にしている。それに過渡的措置として身体障害者、母子世帯等を対象にした無拠出の福祉年金が組みあわされた。
拠出年金は昭和三五年一〇月から加入者の事務事業を開始し、三六年四月より保険料の徴収が実施された。そして拠出年金の障害年金、母子年金、準母子年金の保険給付は、三七年四月以来開始をみた。さらに福祉年金は三四年一一月から給付が始まった。
また、各種の年金制度が並立している現状では、職種を変更した人はそれぞれの年金制度に加入しながら、年金の受給権を得られなかった。この不利を解消するために通算年金通則法を昭和三六年一一月に制定、同年四月にさかのぼり施行された。これにより各年金制度間の被保険者期間を合算し、二五年以上を満たす場合は通算老齢年金が給付されることになった。
しかし、通算制度が実現したとはいえ、各年金制度間には依然として、給付水準や保険料の負担額に格差があり、その統合は今後の課題として残されている。
さらに国民年金の給付開始年齢が六五歳で、しかも昭和五四年七月現在、二五年間拠出の老齢年金の給付が、年額四七万円であり、生活できる給付水準とはいえない。そして積立方式の国民年金は、インフレーションの進行にともなう積立金の目減りが不可避である。また近い将来、高齢化社会の到来を控え、年金受給者層の増加と労働世代の減少から生じる社会的扶養の過重な負担など、さまざまな問題が検討される必要がある。
国民年金は政府が管掌し、社会保険庁が実施機関となり、一部の事務は市区町村が担当している。そして国民年金の被保険者には、加入を法律で義務づけている強制加入被保険者と、すでに被用者年金制度
に加入している人の配偶者のように任意加入被保険者とがある。そして被保険者には国民年金手帳が交付される。また、国民年金事業の費用は、保険料と国庫で負担している。保険料には被保険者が一律に負担する定額保険料と、老齢年金および通算老齢年金が加算給付される付加保険料とがある。
定額保険料は二〇歳から三四歳まで月額一〇〇円、三五歳以上が月額一五〇円で、三六年四月一日から発足した。四二年一月一日からはそれぞれ二〇〇円、二五〇円になり、さらに四四年一月一日には二五〇円、三〇〇円と引き上げられた。最近では五三年四月から月額二七三〇円、五四年四月には三三〇〇円、五五年四月から三七七〇円と漸次改正された。
また、付加年金は四五年一月から制度化され同年一〇月より施行された所得比例年金である。この付加保険料は被保険者の任意納付制であり月額三六〇円で発足した。その後四九年一月以降四〇〇円に引き上げられた。
ただし、保険料には二種類の免除規定があり、生活保護法などの適用をうけている場合は法定免除を、無収入の場合などは申請免除制度が設けられている。
国民年金の給付種類には表<数2>16数2>―2があり、国民年金創設以来、制度の改善がおこなわれ年金額も引き上げられた。なかでも四八年九月は、物価スライド制の採用にともなう給付額の引き上げの法改正で、四九年九月から実施された。しかし、給 図表を表示
図表を表示 付水準が改善されているとはいえ、年金額は老後の生活を保障するには、まだ充分な額とはいえない。国民年金法が三四年四月に制定されると、本区では同年九月に国民年金事業発足のための事務事業を開始し、同年一一月の施行に備えた。翌三五年五月には国民年金係が創設され、一〇月から加入受付事務が開始されるにおよび、ようやく年金事業が緒についた。同年一二月には業務の強化と利便を期すため国民年金課を設置した。
しかし、翌三六年一月一日現在、本区の加入者は僅か一六六七人であった。この原因は区民に国民年金制度が周知徹底していなかったこと、それに年金制度が二〇年以上の保険料の納付義務をともなうため、保険料のかけ捨てなどの制度事態への不安、危惧が区民にあったことなどが考えられた。
そのため三六年四月から保険料の徴収が開始される一方、本区では国民年金制度のP・R活動を活発に展開した。広報や新聞、そして広報車で年金制度の説明や加入促進を呼びかけるかたわら、職員による該当者の戸別訪問も実施した。さらに三六年一〇月には給付年齢繰上げなど部分的に同法も改正された。また当初、保険料の納付手続きは、被保険者が区役所や出張所に出向き国民年金印紙を購入して国民年金手帳にはりつけ、スタンプで検認する方法であったが、この不便を解消するため三六年七月から出張検認をとりいれた。
これらの職員の努力の結果、三七年二月には被保険者数三万八六七五人、検認金額(
続く三七年六月から一一月の半年間は、加入勧奨状の郵送とともに戸別訪問を実施し、積極的な加入者の拡大に努めた。更に同年四月から国が出張検認制度を制度化したのが奏効し、三七年三月に被保険者数三万九三二六人であったのが、一年後の三八年三月には四万六二七〇人を数えた。一方、保険料の納付状況も、検認金額三三一六万〇二一〇円、検認率七六・二%と飛躍的な成果となった。これを「練馬区人口に対する拠出年金の加入率の推移」(
しかし、翌三九年は加入者数(
ちなみに当時の本区の人口状況をみると、「昭和三八年四月一日現在の人口は三六万二八六九人で人口密度は一平方キロ当り七六六七人である。これでも東京都区部平均の人口密度一万五一八四人とくらべると五割に達したにすぎない。練馬区の人口密度はまだ区部の最低なのである」(
次に本区農業経営耕地面積の動きをみる。三〇年二月一日に一八万六五七八
a、四〇年同期は一二万一五三七a、四五年九万二二二六a、五〇年七万〇三五四aと減少してきた。一方、本区宅地面積は三〇年一月一日に一〇万四三四一a、四〇年一六万一四七〇a、四五年一九万三〇九三a、五〇年には二三万四九三五aと増加した。この数値からもかつて農業地帯であった本区が、都心のベッドタウンとして急速に住宅地に変貌したことがわかる。 画像を表示その結果は本区の人口増加となって顕われた。三九年一〇月、本区総人口三九万八六〇一人で、前年同期より二万六三三八人が増え、増加率七・〇八%、続く四〇年は四二万六一六五人で、六・九二%の増加率であった。この四〇年を境に四一年は五・六九%、四三年四・六七%、四五年二・〇一%、四七年一・三二%と本区の人口増加率は減少し、人口の定着化が顕われている。
さらに国民年金への加入は本人の届出で資
格を取得するため、三九年、四〇年当時は、このような本区特有の激しい人口流入に適応、対処するだけの加入促進活動が困難であった。その後の四一年以降は、人口の増加率は激減していくにもかかわらず人口の定着化がすすみ、加入者数(また、本区の総人口に対する拠出年金被保険者数の割合を東京二三区で比べると、四五年一二月末現在の本区の加入率一八・五%は、二三区中二二位に位置している。その後、五〇年度は本区の加入率は二三・一%と上昇し都区では一九位になったが、東京都の平均が二四・五%であり、本区は依然平均値におよんでいない。
そして近年の本区の傾向として任意加入者の増加があげられる。五〇年度以降五三年度の四年間、強制加入者は約一〇万人前後の横ばい状態であり、増加数も二四四九人である。これに対し、任意加入者は五〇年度二万七九四六人から五三年度は三万七五七九人と、九六三三人の増加となっている(
また、付加年金の加入者数は、五〇年度七七九八人、五一年度は八七二〇人、五二年度一万〇七七三人となり、五三年度一万〇四〇八人と推移した。
一方、保険料の法定免除者は、五〇年度二二六八人、五一年度は二五〇三人、五二年度二六七七人、五三年度は二八五二人であった。申請免除者は五〇年度七二一人、五一年度は一四〇九人、五二年度二一四二人、五三年度三二六四人と増加している。
年金給付は三七年四月から障害、母子、準母子年金が開始された。老齢年金は、一〇年年金といわれる明治三九年四月二日から明治四四年四月一日までに生まれた人の年金給付が昭和四六年四月から始まった。更に十年年金と同期間に生まれ、保険料納付期間が五年の人には、五〇年一月から五年年金の給付開始が実施された。この結果、表<数2>16数2>―3によると老齢年金と通算老齢年金の受給者数が、四八年度一〇六九人、四九年度一五九〇人であったが、五〇年度は四九二五人と増加してい
る。 図表を表示五一年四月から強制加入者の本来の老齢年金の支給が開始された。これにより五一年度の老齢・通算老齢年金受給者(
しかし、国民年金は被保険者になっても、保険料の未納期間は無資格となる。このため窓口国民年金相談を開き被保険者の保護、救済にあたっている。月例年金相談は毎月第四木曜日に石神井庁舎で開催される。それに石神井庁舎では年金相談員が毎週月、火、木曜日に国民年金の相談をうけている。一方、出張年金相談も、五三年度は二二回開催した。
また、無年金者救済対策として五三年七月一日から五五年六月三日の二年間に限定して、特例納付を受付けている。
無拠出の福祉年金には、老齢福祉年金、障害福祉年金、母子福祉年金、準
母子福祉年金がある(このため福祉年金は給付財源の全額が国庫負担であり、その受給にあたっては各種の支給制限がある。他の公的年金受給者や一定以上の所得者には支給停止の措置がある。このため給付額の引き上げ、給付対象者の拡大や制限緩和などの改正もおこなわれたが、年金額はきわめて低いといわなければならない。
三四年九月から福祉年金の請求を受付け、同年一一月一日から給付が開始された。発足当時、老齢福祉年金は支給開始年齢七〇歳で月額一〇〇〇円であった。障害福祉年金は一級の障害で二〇歳以上の対象者で月額一五〇〇円。そして母子福祉年金は月額一〇〇〇円で第二子以降は一人につき二〇〇円が加算される。さらに支給制限は公的年金受給者、年一三万円以上の所得者や所得税納付者の配偶者、世帯所得五〇万円以上である。
本区の福祉年金の年度別受給権者数の推移(
しかし、障害年金は三五年度の一五五人から年度ごとに増加し、四六年度五〇〇人、五二年度から一〇五六人、五四年度は一二一二人となった。母子年金をみると、三八年度の三〇二人を最高に以後は減少していき、五三年度二人、五四年度は三人になった。
近年の福祉年金受給者数では、四八年度から一万二五三四人で一万人台に入り、五〇年度の一万三三六〇人を最高にわずかずつ減少している。
また、福祉年金は何回もの給付額の改善とともに、四九年一月から老齢特別給付金を創設した。この新制度は明治三七年四月二日から明治三九年四月一日までに生まれた人に、給付月額四〇〇〇円を七〇歳まで支給し、満七〇歳にたっすると老齢福祉年金の受給者となる。ただしこの制度にも福祉年金と同じ支給制限がある。四八年度の支給件数一八七四件、四九年度は一四六四件になっている。更に四九年四月一日から障害福祉年金の障害程度二級にも給付範囲が拡大された。
本文> 節> 章> <章>わが国の衛生行政は明治初頭に始まる。明治三年(
国民の健康と疾病の問題が、公衆衛生行政として国や地方自治体によってとりあげられるようになったのは、産業革命をきっかけとする各国の近代化の過程においてであった。それまでの道具に代って機械が登場し、工場制生産が始まったことによって、経済は飛躍的な発展を遂げたが、それは、身一つをたよりに働く多くの工場労働者に支えられたものであった。したがって、その労働者の生活状態、特に疾病の問題は重要な社会問題となってきたのである。
日本でも、日清・日露戦争以後の工業化の進展に伴い、同様の問題を抱えることになるが、公衆衛生の当初の課題は、むしろ、開国に伴って諸外国から侵入してくるコレラ・ペスト・痘そうなどの急性伝染病をいかにして防ぐかという点にあった。
その後、日本においても他の近代国家と同様の社会問題が続発するようになり、公衆衛生の面では、ハンセン病・性病・結核などの慢性伝染病対策が重要な課題となってきた。なかでも結核は、明治三五年の全国調査によれば、死亡者数は男が三万二二二九人、女が三万三七六四人、計六万五九九三人で、最も死亡率が高く、人口一万対一五・七に達している。
こうした慢性伝染病を克服するために、政府は、内務大臣の監督下に保健衛生調査会を設置し(
またこの頃より、衛生教育(
大正初年、医学教育の研究調査のため渡米した医学教育家三浦謹之助等は、ロックフェラー財団に対し、公衆衛生技術官の教育機関を寄付してくれるよう申し入れていたが、大正一二年の関東大震災後これが実現することになり、この財源をもとに昭和一〇年に公衆衛生院とその実習機関である都市保健館(
「保健所法」が制定されたのは昭和一二年四月五日である。翌一三年一月一一日には厚生省が発足し、保健所も愛知県一宮保健所をはじめ四九か所でその業務を開始した。
当時は、満州事変(
昭和一七年には、種々の医療法規が「国民医療法」にまとめられた。また、地方官制の改正に伴い衛生事務が警察部から内政部に移され、衛生行政が警察的取締行政から指導行政へ質的な発展を遂げた。これを契機として、各種の官公営保健指導施設が保健所に統合され、これによって発足当時四九か所であった保健所は、一九年には七七〇か所となり、その業務内容も体力管理・母子衛生・結核予防・優生・栄養・勤労衛生にと大幅に拡充された。
昭和二〇年八月一五日をもって太平洋戦争に敗戦したわが国は、以後連合国の統治下にあって、GHQ(
二〇年九月、GHQから「公衆衛生に関する件」という覚書が出され、伝染病患者の把握、医療技術者の把握、医薬品の確保などについての指示があった。ことに性病予防対策に強い関心が向けられており、政府はその意向を受けて二〇年一一月にはとりあえず「花柳病予防法特例」を制定し、性病患者を診断した医師は地方長官に届け出ること、地方長官は必要に応じて患者に治療を命ずることができることなどが規定された。しかし届出患者数の増加の割に治療の普及は思わしくなかったため、二二年二月には、保健所においても性病届出患者の治療を行なうよう強い要請があった。しかし当時の保健所の組織は設備人員とも貧弱で、性病の治療にあたる余裕はなかった。そこで日本の保健所当局者は、性病治療を引き受ける条件として保健所の拡充整備を要求し、これが契機となって、二二年四月、GHQより「保健所の拡充強化に関する覚書」が発表され、この趣旨に沿って「保健所法」の大幅な改正が同年五月に行なわれた。
これより先、昭和二一年五月には、GHQより示された「厚生行政機構の改正に関する覚書」に基づき、厚生省に衛生行政を担当する公衆保健・医務・予防の三局が(
新制保健所は二三年一月一日をもって発足したが、GHQは保健所の正しい運営を普及させるために、モデル保健所の構想を示した。東京都内に理想的に整備されかつ運営される保健所を一か所設
置し、そこにおいて全国の衛生部長の講習会を開き、保健所の設備や運営方法を体得させ、これに倣って各府県にもモデル保健所を設置してゆくという構想であった。この指令を受けた政府は、早速、杉並保健所をモデル保健所として整備し、二三年四月より講習会を開始した。ここにおいて示された新制保健所(
しかし、全国の保健所を一挙にモデル保健所並に整備することは財政上不可能であるため、その後、モデル保健所をA級保健所(
練馬保健所は、以上のような医療制度拡充の経緯の下に、二三年一〇月に開設された。
本文> 節> <節>練馬保健所は昭和二三年一〇月一日に開設されたが、当時の庁舎は開進第三小学校前の民間家屋(
○総工費 五〇〇万円 東京都予算
○協賛会寄附金 六〇万三六三七円
○建物概況
母屋 二五二坪三合 木造瓦葺きモルタル塗り
展示室 一一坪二合五勺 同
作業員控室 一〇坪 木造瓦葺き、下見板
自転車小屋 四坪五合 同
計 二七八坪五勺
資料文>また、その頃の保健所の組織は、総務課・予防課・奉仕課の三課から成り、石神井地区には区役所の支所内に石神井保健課が設けられていた。
その後、「精神衛生法」(
なお、練馬保健所は四六年五月一〇日に清掃事務所と合同の鉄筋コンクリート造り二階建の庁舎に改築され、石神井保健所も五三年一二月に石神井町七―三―二八の現在地に鉄筋コンクリート造りで地下一階地上二階の新庁舎が建設され、移転している。
その後の本区の発展は目覚ましく、四〇年までの一〇年間におよそ二四万人の人口増をみ、総人口は四二万六一六五人にふくれあがった。しかし、保健所の体制はその人口増に追いつけず、サービスの徹底を欠く心配がでてきた。例えば、保健婦の数は、この間に三五年の一七人から四〇年の二二人へと増員されたが、それにもかかわらず保健婦一人の受持人口(
こうした状況を解消するために、区は早くから保健所増設を訴えていたが(
五五年末までの中期総合計画では、上記二保健相談所の他に関町地区にもあと一施設保健相談所が建設されることになっており、その早期完成が待たれている。
ところで、こうした人口の急増に伴い、保健衛生事業が一層重要性を増すと、地域の実情に即した、よりきめ細かなサービスが要望されるようになった。そこで都は、四〇年四月以降、事業の一部を特別区に移管する方針をとることになったが、都の直轄事業であることからくる限界は解消できず、地域の現状に即したサービスを徹底するためには、住民と最も密接な関係にある区を事業の主体とする、制度面の改善が求められるようになった。そうした地域社会の要請に応えるべく、四九年六月一日に「地方自治法」の一部を改正し、翌五〇年四月一日、保健所組織の特別区への移管が実現することになった。これに伴い、本区では、練馬・石神井の二保健所を統括し、保健衛生事業を総合的に推進する機関として、二課四係からなる衛生部が新設され、衛生部長が練馬保健所長を兼務することになった。表<数2>17数2>―1・2及び図<数2>17数2>―1は衛生部・保健所の組織職掌とその管轄区域を示したものである。
また、この移管を契機として区内の保健医療体制のありかたに関する論議が高まり、五三年には、区民(
区民にとって、特に子育て期にある母親や高齢者にとって、最も関心の高い問題は、地域の医療施設の問題である。四七年九月に実施された「長期計画策定のための区民意識意向調査」では公立病院の設立を要望する声が公共施設に対する要望の一位になっている。
画像を表示本区のこれまでの医療施設の実態をふりかえってみると、昭和二七年二月一日編の「練馬保健所概要」によれば、当時の医療関係施設数は、病院が三か所、診療所が九二か所、歯科診療所が四五か所、助産所が五七か所、薬局が二四か所となっている。その病院の内容を、二六年版の『東京都統計年鑑』によってみると、普通病院・結核病院・精神病院が各一か所ずつで、病床数は精神病床の六七八床、結核病床の一三〇床に対して、区民が日常最も必要とする普通病床が一〇〇床で最も少ない状況
にあった。 画像を表示その後病院数は図<数2>17数2>―2に示したとおり徐々に増え、五四年末時点では二四か所(
患者収容能力が二〇人未満の診療所についてみると、施設数は二六年には九二か所にすぎなかったが、五四年末までには四倍以上の三九六か所となっている(
地域で必要とする病床数の規準については、人口一万人につき普通病床七〇床、精神病床二五床、結核病床二三床という医療審議会の答申が出されている。これにより、本区で必要とされる病床数を算出すると、五四年末現在で、普通病床が三九〇〇床、精神病床が一三九三床、結核病床が一二八二床となる。しかし、この規準を満足しているのは精神病床のみで、普通病床にいたっては、診療所の病床数を加えても規準の五〇%にしかならない。「練馬区基本構想」にもうたわれているように、現在、グラント・ハイツ跡地に公立病院を誘致する運動が続けられているが、その早期実現が望まれるところである。
次に、以上の本区の普通病院と診療所数の状況が東京都の中でどのような位置にあるかみてみよう。
図<数2>17数2>―3は、普通病院・診療所の一所あたり面積及び人口(
また、五三年度の二三区別の状況を示した表<数2>17数2>―3によると、医院一所あたり面積と人口はともに周辺区が多く、本区は江戸川区・足立区・江東区についで第四位にある。二三区内における本区の医療環境の地位は、かなり低い位置にあるといえよう。
五四年一二月末の本区の医療施設状況は表<数2>17数2>―4~6のごとくである。
五四年度の「練馬区民意識意向調査」によれば、五四年末に至る一年間に病気で医療機関(
二〇年代の本区の医療施設は、一所あたり面積が広い上に一所あたり人口も多いという二重の意味で貧弱であった。これは、土地柄が農村地帯であったことに起因するのであるが、同様の状況におかれていた周辺地域の不充分な医療環境をいくぶんなりとも解消するために、都は戦前から都内各所に都立の診療所を設けていた。練馬区域内においては豊玉五丁目の現区民相談所の地に開設されていたが、二六年には区に移管されることになった。この都(
――練馬区立練馬診療所設置条例――
第一条 練馬区立練馬診療所を次の通り設置する。
記
一、名 称 練馬区立練馬診療所
二、所 在 地 練馬区豊玉北五ノ一八番地
三、設置年月日 昭和二十六年十月一日
四、開始年月日 昭和二十六年十月一日
五、規 模 内科・外科・眼科・レントゲン科・歯科
附 則
この条例は公布の日より施行し昭和二十六年十月一日よりこれを適用する。
資料文> <資料文>――練馬区立練馬診療所使用条例――
第一条 練馬区立練馬診療所は本条例の定めるところにより練馬区居住者の診療を行う。但し練馬区内居住者でないものであっても区長が特別の事由があると認めたときはこれが診療を行うことができる。
第二条 診療を受けるものからは左の範囲内において使用料及び手数料を徴収する。但し生活保護、健康保険法及びその他の法令等により診療を受けるものの使用料及び手数料の額については、区長はこの規定によらないことができる。
一、使用料
1 初診料
昭和十八年三月厚生省告示第六十六号「健康保険及び船員保険法の規定による療養に要する費用の額の算定方法」
(以下社会保険算定方法という)により算定した額。
2 往診料
社会保険算定方法により算定した額
3 薬治料・検査料・注射料・処置料・理学的療法及び手術料
社会保険算定方法により算定した額。
4 歯科技工及び補填料(補填修理及び脱離装着を含む)
社会保険算定方法により算定した額。
5 X線写真診断料
社会保険算定方法により算定した額。但し間接撮影装置によるもの…………一葉 五十円以内
6 薬剤容器料
一個三十円以内。使用料の計算については五円を単位としてその端数は二捨三入する。
二、手数料
診断書・証明書及び処方箋…………一通九十円以内
第三条 区長は特別の事由があると認めたものに対しては前条の使用料及び手数料はこれを減免することができる。
第四条 使用料及び手数料はその都度これを納付せしめる。但し区長は特別の事由があると認めたときは後納又は分納せしめることができる。
第五条 この条例の施行について必要な事項は区長がこれを定める。
附 則
この条例は公布の日から施行し昭和二十六年十月一日よりこれを適用する。
資料文>設置条例にも見られるように、当初、診療所の科目は、内科・外科・眼科・レントゲン科・歯科の五科からなっていたが、その後、三〇年代に入ると、民間の医療施設も増えてきたため、三三年には比較的利用者の少ない外科が廃止された。
他の区市に設置されていた診療所については、三五年頃までにはその大半が廃止されており、本区においても、そのころ診療所自体の廃止が検討されていた。しかし、表<数2>17数2>―7に見られるように三四年に国民健康保険が実施されて以来利用者の数はむしろ増加の傾向にあったため、その後も存続されることになり、三九年五月には、老朽化した建物も鉄筋コンクリー
ト三階造りへ改築された。 図表を表示しかし、その後医師の確保が困難になるなどの事情により、四一年には歯科が廃止され、さらに四三年一二月には診療所自体の閉鎖が決定された。
一定地域内における普通病院と診療所の数が一応都の平均以上に増えた現在、医療に対する区民の要望は、量から質へ変化してきている。ことに休日・夜間診療に対する関心が最も強い。五四年度の「練馬区民意識意向調査」によれば、「区内に一番必要と思う医療機関は何か」という質問に対して、図<数2>17数2>―4に見られるように「休日や夜間でも診療してくれる診療所・医院」と答えた人が最も多く、全体(
休日・夜間診療制度の充実を望む声は、既に四九年七月の「練馬区民意識意向調査」でも第一位となっており、近年における恒常的で最も関心度の高い問題となっていることがうかがわれる。災害の発生に休日も夜間もないように、病気もいつ起きるかわからないのが当然であるが、ほとんどの医療機関(
こうした問題に対処するために、都が指定した救急医療機関の他に、区としても四八年から区医師会の協力を得て練馬区民相談所二階と石神井庁舎四階に休日急患診療所を設置することになった。その後五三年七月には石神井休日急患診療所が単独施設(
表<数2>17数2>―8は診療所の利用状況であるが、一五歳以下の小児・乳幼児の利用者が七〇%以上を占めている。
本文> 節> <節>わが国の死因の順位は、表<数2>17数2>―9に見られるように、昭和二五年までは結核が第一位であったが、二六年以後脳卒中が第一位となり、第二位には二八年ごろより悪性新生物(
本区における死因別死亡率の傾向も全国の平均とほぼ同様で、三〇年以後の統計によれば(
このような死亡率の高い成人病を克復するために、国は、厚生大臣の諮問機関として成人病予防対策協議連絡会を設置し、その対策に取り組むことになった。
まず、三三年、三五年、三八年に全国的ながんの実態調査が行なわれ、三七年には治療と研究機関を兼ねた国立がんセンターが設立された。さらに四一年にはがん予防対策実施要綱が定められ、診療施設の整備、検診車の整備補助、専門技術者の養成が精力的に推進されることになった。ちなみに国のがん対策費は、四一年度は約二〇億円であったが、一〇年後の五三年度は約一四二億円となっている。
また、脳卒中をはじめとする循環器疾患に対しては、三六、三七年に脳卒中の主因となる高血圧を中心とする成人病基礎調査が実施され、これにもとづき、脳卒中死亡率が全国平均の二倍を超える市町村を中心に、脳卒中予防特別対策が実施された。その結果、表<数2>17数2>―9に見られるように、脳卒中の全国平均の死亡率は四八年頃を境として漸く下降するようになった。
画像を表示これらの成人病の予防としては、原因に不明な点が多いため的確な方法がなく、現時点では、早期に発見し、早期に治療
図表を表示 図表を表示 図表を表示 を施す以外に対策はないとされている。そのため近年定期的な検診の必要性が特に指摘されるようになった。本区においても、三九年に成人病相談室が保健所内に開設され、高血圧・心臓病・糖尿病などの検診が行なわれるようになった。また四一年からは成人病出張相談と血圧集団検診(
これに伴い、四七年から成人病教室が開設され、循環器検診の結果、要注意者・要経過観察者となった人々を対象とし
て、生活指導や食事指導を実施している。また、五二年度から成人病登録制度が始まり、管理カードによる図<数2>17数2>―5のような計画的な定期検査システムが整うようになった。五四年度の循環器集団検診・成人病相談室・成人病教室の実施状況は、表<数2>17数2>―<数2>11数2>~<数2>13数2>のごとくである。
がん対策としては、がんの中で最も死亡率の高い胃がんの集団検診が四〇歳以上を対象として四二年二月から始まった。当初は都の胃集団検診車による巡回検診であったため希望者全員の検診をすることはできなかったが、四七年以後は新たに 図表を表示
図表を表示 図表を表示 発足した財団法人東京都がん検診センターに希望者を紹介する方式も導入し、また対象者年齢も四〇歳以上から三五歳以上に枠が拡げられた。胃がんについで死亡率の高い子宮がんについても、東母方式(
練馬区の六五歳以上の高齢者人口は、五四年一月一日現在三万四三二六人(
このような高齢者人口の増大は、まさに医療制度や技術の進歩に依るところが大きい訳であるが、反面、住宅難と核家族化の進行に伴い、ひとり暮らし老人をはじめ多くの老人世帯を生み出すことになり、高齢者が健康を害した場合、充分な看護を受けられないまま放置されるという現象、いわゆるねたきり老人問題が、医療行政の新たな問題として表面化してきた。
この問題は、社会の高齢化を迎え、今後ますます深刻な社会問題に発展してゆくことは必至であり、これに対処すべく、本区では五三年度から寝たきり老人(
わが国における近代的な伝染病対策は、明治の開国とともに始まる。江戸末期から始まった海外交流の結果、しばしばコレラ・ペスト・痘そうなどの外来伝染病が大流行を繰り返すようになった。たとえばコレラは、明治三五年ごろまでに、年間発生数一万人をこえる大流行が九回もあったと言われている(
そうした外来伝染病の流行に対処するため、明治七年には、天然痘・コレラ・腸チフス・麻しんの四つの伝染病について医師に届出を義務づけ、流行の動態を監視することになった。その後、明治一三年には、「伝染病予防規則」、さらに三〇年には「伝染病予防法」が制定され、具体的な防疫対策が講じられることになった。
戦後、再びコレラ・痘そうなどの外来伝染病の流行に見舞われたが、昭和二三年に「予防接種法」が制定され、検疫体制の整備が進み、定期および臨時の予防接種が実施されるようになると、これら外来伝染病の流行は二六年頃までにほとんど
消滅した。また天然痘の予防接種である種痘も、わが国では江戸時代末から用いられてきたが、天然痘はすでに撲滅されたとの判断のもとに、昭和五一年以降実施されていない。なお五五年には、世界保健機関(WHO)も天然痘の根絶を宣言しており、このことは、人類の英智が病気を克復した記念すべき偉業の一つとして記憶されるべきである。外来伝染病が終息した後の伝染病対策は、依然として流行の止まない赤痢や、深刻な後遺症をもたらす日本脳炎・急性灰白髄炎(
表<数2>17数2>―<数2>18数2>に見られるように、本区の三〇年代は、伝染病が著しく蔓延した時期である。その原因は、急激な人口増に対し、上水道などの生活環境施設が充分でなかったことに求められる。図<数2>17数2>―6は、赤痢罹患率と上水道の普及率との相関関係を示したものであるが、ここに表われているように、四三年以降上水道による給水が普及したことに伴い、赤痢罹患率は著しく低減されることになった。
画像を表示ジフテリア・日本脳炎・流行性脳脊髄膜炎・急性灰白髄炎の流行も四〇年代に入って鎮静に向かっている。これは、予防接種の効果によるものであり、ことに急性灰白髄炎は三四、三五年の両年に大量発生をみたが、三五年六月に指定伝染病に認定され、三六年以降経口生ポリワクチンが導入されたこと
図表を表示 によって、現在ほぼ完全に制圧された状態にある。ワクチンの輸入に対しては、本区議会も三五年一二月に、厚生大臣に対し輸入促進の意見書を提出している(明治以来、結核は国民病といわれ、永い間的確な予防や治療法がみつからず不治の病とされていたが、戦後二〇年代の末よりようやく蔓延状況が改善されるようになった。結核による死亡率も、二二年には人口一〇万対一八七・二という高率であったが、三〇年には五二・三に、さらに五二年には七・八に低下した。また、二〇歳代の青年層で見られた死亡率四〇〇(
本区内における結核の死亡率も、表<数2>17数2>―<数2>10数2>に示したごとく、三三年以降著しく低下しており、五二年の死亡率は人口一〇万対五・九で、全国平均の七・八を下まわっている。しかし、表<数2>17数2>―<数2>19数2>に見られるように、なお毎年三〇〇人程度の新登録患者が発見されており、決して楽観できる状態ではない。
わが国の母子保護事業は、日清・日露戦争後、民間の慈善事業として発足したが、昭和一二年の「保健所法」の制定に伴い、ようやく行政の手による妊産婦と乳幼児の健康指導が軌道にのることになった。その後、一三年の「社会事業法」や「国民体力法」の制定によって母子保護の姿勢が一層明確にうち出されたのに続き、一七年には妊産婦手帳規程が公布され、妊娠したものには届出をさせ、妊産婦手帳を交付するとともに、妊産婦に保健婦や医師の保健指導を受けるよう奨励することになった。妊産婦手帳は、保健指導を受ける場合や、出産・育児に必要な物資の配給を受ける際に使用された。
戦後は、二二年に厚生省の児童局に母子衛生課が設置され、ここを中心に母子衛生事業が推進されることになった。二三年には、「児童福祉法」とこれにもとづく「母子健康対策要綱」及び「優生保護法」がその基本法として制定されたが、こ
れらの法規にもとづく児童および妊産婦の保健指導に関する業務は、二六年以降保健所が行なうことになった。さらに、三三年には未熟児対策が、三六年には新生児に対する訪問指導が始まった。このような諸施策の進展に伴い、わが国の新生児死亡(四〇年には「母子保健法」が制定された。これまでの「児童福祉法」に基づく母子保健が主として児童中心であったのに対し、この法律は母性の保護、尊重を重視して制定されたもので、これによって、妊婦の保健指導、新生児訪問指導、三歳児健康診査、妊産婦・乳幼児健康診査、低所得階層の妊産婦や栄養欠陥のある乳児に対する牛乳・粉乳などの支給、母子健康手帳の交付など広範囲にわたる母子保健事業が推進されるようになった。
本区においても、国の法制度の充実に伴い、保健所を中心に上記した種々の母子保健事業が展開されており、それによって、図<数2>17数2>―7に見られるように新生児死亡率は、三〇
年に出生一〇〇〇対一六・七であったものが五四年には四・三に、乳児死亡率は三〇年の二八・四から五四年の五・六へ、それぞれ大きく改善されている。三〇年代の本区における都市化の速度は目覚ましいものであったが、反面、これに伴う多くの環境衛生上の問題が表面化してきた。
本区は、もともと農村地帯であった都合上、どうしても新興住宅地域と農家との隣接混在は避けられない現象であった。そのため、農家にとってはそれほど問題とならなかった畜舎の臭気やハエ・カなどの農村独特の諸現象も、新興住宅地の住人にとっては一種の公害現象として受け止められざるを得なかった。さらに、上・下水道などの基本的な都市施設の建設が急激な人口増に対応できなかったため、生活排水による河川のドブ化が進み、そこに発生し生息するカ・ハエ・ネズミ等を媒介として赤痢・発疹チフスなどの伝染病の流行を招来することになり、大きな社会問題となった。こうした状況は、本区に限らず、急激な市街化の波に襲われた東京の周辺区・市の共通の悩みとなっていた。これに対して、政府は三〇年に制定された「伝染病予防法」に、鼠族・昆虫の駆除に関する次のような規定を明記するとともに、「蚊とハエのいない生活実践運動」(
こうした政府の方針に基づく市町村と地区住民の自主的な衛生活動によって、以後きめ細かな駆除事業が展開されることになった。
その対象害虫としては、コレラ・腸チフス・赤痢・ポリオ等を媒介するハエやゴキブリ、日本脳炎を感染させるコガタアカイエカ、ペストを伝播するねずみ(
本区における鼠族昆虫駆除事業の実施状況を、予算執行額で追ってみると、表<数2>17数2>―<数2>20数2>に見られるように年々増額され五〇年には四〇〇〇万円を超え、また五一年以後は減少傾向にあるものの、それでも三〇〇〇万円以上もの費用が投入されている。
なお、カ・ハエなどの発生源の一つである畜舎数は、三〇年代の末頃は一〇〇か所以上在ったが、その後年々減少し、五三年度現在では、牛舎が九、豚舎が七、家きん舎が一〇、その他七となっている。
カ・ハエ・ネズミなどの駆除と並んで環境衛生上のもう一つの重要な事業は、食品衛生事業である。
わが国の食品衛生行政は明治から始まるが、食品衛生の専門的な監視員制度が設けられたのは戦後になってからである。戦後の混乱した社会において、公衆衛生を一日も早く改善することは行政の緊急の課題であったが、その方策として昭和二一年には飲食物衛生・乳肉衛生・上下水道・清掃などの環境衛生の指導監視を行なう公衆衛生監視員制度が発足した。続いて翌二二年には食品衛生に関する総括的な法律である「食品衛生法」が制定され、ここにおいて、飲食物の営業が許可制となり、食品衛生監視員制度も法制化された。以後、保健所ごとに、食品衛生監視員が管内の食品取扱施設を巡回し、監視と指導に当たっている。
本区における五四年度現在の食品衛生監視対象施設数は、表<数2>17数2>―<数2>21数2>に示したとおりであるが、「食品衛生法」に基づく許可を要する営業についてみると、施設数は八一三四で、これは三〇年のおよそ三~四倍にあたる。なかでも飲食店や食肉販売業は三〇年の八倍に増えている。
この数値は近年食生活が多様化し、食品も豊富になり、区民の食生活が豊かになってきたことを物語っているが、その反面、食品の中に含まれる防腐剤・着色剤・人工甘味料等の添加物の人体に及ぼす影響も大きく、深刻な問題を投げかけている。
図表を表示 本文> 節> <節>昭和三〇年代後半に始まった経済の高度成長は、わたしたちの生活に物質的な豊かさをもたらしたが、同時に、これに伴う人口と産業の都市への過剰集中や、消費は美徳なりとする社会の風潮を生み、その結果、廃棄物の急激な増大を招くことになった。図<数2>17数2>―8は、東京都二三区内のゴミ収集量の推移を示したものであるが、ここに見られるように、昭和五四年の総収集量は六二六万七八一〇tで、二二年のおよそ四二倍に達しており、この間の年平均増加量は約一九万tとなる。ことに、高度経済成長期に入った三二年~四六年の増量は大きく、年平均三三万tとなっている。
このような飛躍的なゴミ増量に加え、排出されるゴミの内容も、テレビ・冷蔵庫・クーラー・自動車などの電化製品や粗大ゴミ、燃焼によって有毒ガスを発生するプラスチック製品、六価クロムなどの有毒物質を含む産業廃棄物等々と、極めて多種多様になり、その処理事業は一層困難を極めることになった。
こうしたゴミ排出量の急増と多様化に対処し現状を打開するため、四六年九月、当時の美濃部亮吉都知事は「ゴミ戦争」を宣言し、都政の重要課題として清掃事業に取り組む決意を次のように表明した。
画像を表示 本文> <本文> <資料文>ゴミ戦争宣言(所信表明から要旨)
東京のゴミは最近十年間、経済の高度成長をそのまま反映して急速にふえ、区部だけで二~三倍に増大した。ゴミの質もプラスチック類の急増で大きな変化をもたらした。プラスチックは焼いても熱と有毒ガスで炉がこわされ、埋立てても一般のゴミのように腐って自然に還元することがない。危険な産業廃棄物の増大もひどく、いまや都市の生活環境保全、ひいては人類の生存にかかわっている。
これは、廃棄物の処理方法を開発しないまま生産を拡大した結果で、高度成長政策のもたらしたひずみであることははっきりしている。政府が廃棄物の処理技術の開発と、処理方法のない生産物に対する生産制限、生産者の廃品回収義務を確立することを強く訴える。
迫りくるゴミの危機は都民の生活を脅かし、対策が一日遅れることは将来取返しのつかない結果を招くことになるだろう。いまゴミ戦争を宣言し、徹底的にゴミ対策を進めたい(「毎日新聞」四六年九月二九日)。
資料文>従来、ゴミ処理の方法は主として海面埋め立てに依存してきたのであるが、近年、その埋立場の確保が、物理的にも費用面においても著しく困難になってきている。
昭和二年から始められていた深川の八号地は三六年には埋め尽くされ、三二年には一四号地(
埋め立て処分量を軽減し衛生的な処理を行なう上で、焼却処理施設の増設が緊急の課題となってきたのである。
可燃ゴミを焼却処理する方法も早くから実施されている。その経緯を簡単にふりかえってみると、埋立地における露天焼却処分の他に、特別の焼却処理工場がつくられ焼却処分が始められたのは、関東大震災の翌年、大正一三年からである。大崎塵芥焼却場がそれである。その後、大井(
本区内の石神井清掃工場は、戦後五番目の工場として三三年に開設された。
その後首都圏整備事業の一環として、四五年までに一〇か所の清掃工場を新設する計画が立てられ、板橋(
本区内にある石神井清掃工場においても、一時間あたり塩化水素が三一ppm、窒素酸化物が二〇七ppmという、一般環
図表を表示 境基準を著しく超える排出事実が判明したため、区は都に対し以下の四項目にわたる意見書を提出し、その規制を求めた。 画像を表示 <資料文>
また、杉並区に建設される清掃工場に関しても練馬区民の関心は強く、四八年に上井草地区が建設候補地の一つに選定されると、区はこれに対し強く反対の意思を表明することとなった
(以上の清掃工場に対する区民の拒絶感情は、当時光化学スモッグの発生に苦しみ不安を抱いていた区民にとっては当然の反応であった。しかし、それにもかかわらず焼却場の建設を推進しなければならないところに、都民の置かれている状況の深刻さがある。
表<数2>17数2>―<数2>22数2>に記されているように、五五年三月現在、本区内の光が丘をはじめ、新宿、目黒、渋谷の四か所の清掃工場が計画中となっているが、そのうち本区内の光が丘清掃工場については、五四年一月に都市計画決定が告示され、五八年九月を完成の目処に建設が進められている。
図表を表示本区におけるゴミ収集量の状況は、図<数2>17数2>―9に見られるごとく四二年頃まではほぼ人口増加率に対応する伸びであったが、四三年以降は人口増加率を大幅に超える増加傾向を示している。五四年度現在、収集総量は二三万五二八五tに達しているが、これを三八年の収集量と比較すると、およそ三倍、実量にして一五万八六八一t増となっており、年平均九九一八tずつ増えたことになる。また、この間の平均増加率は七・七%であるが、増量の最も激しかった四三~四七年度の平均増加率は一六・八四%に達している。しかし、四八年の石油ショック以後は、四九年と五三年が減少となって
おり、五四年までの七年間の平均増加率は二・八%程度に落着いている。区部における直営のゴミ収集方法は、現在容器収集によっている。各世帯が四〇~四五l入り程度のゴミ専用容器を用意し、収集日に所定の集積所に出す方法である。この方式は、本区内では三八年八月より漸次実施されるようになったもので、それ以前は、道路の一隅に一定の間隔をおいてゴミ箱が設置されていた。しかし、これでは非衛生的であるとして、東京オリンピックの開催を直前にして、容器収集方式にきり換えられたものである。
また、四八年には、プラスチック類の焼却に伴う有毒ガスの排出を防止し、処理事業を効果的且つ能率的に行なうために、燃えるゴミと燃えないゴミを分別して収集することになった。
四八年の石油ショックは、それまでの消費は美徳なりとする生活様式を反省する契機となった。区民の間に資源の再利用を通じゴミの減量化と環境の美化を図る自主的な運動が起こってきたのはその好例である。区は、そうした区民の再利用活動の協力を得て、積極的に再生資源の回収事業を推進してゆく方針をとっている。
図表を表示五三年度現在の再生資源集団回収実施団体数は表<数2>17数2>―<数2>23数2>に示した三六団体にのぼる。また、五〇年以降の事業成績は、表
<数2>17数2>―<数2>24数2>に見られるごとく、団体数は一七団体から三六団体へ、回収量は六三一tから一六三三tへ、売払代金は二四一万円から七八六万円へと順調に伸びている。大量生産・大量消費を基本構造とする経済の高度成長は、人々の公衆衛生に対する意識を著しく低下させた。空罐などのゴミがいたる所に不法投棄されている現実が、そのことをよく物語っている。
練馬区には、およそ三〇〇〇か所のあき地があるが、そこに棄てられるゴミや雑草の処理は大変な仕事である。四八年の石油ショック以後は減少傾向にあるものの、表<数2>17数2>―<数2>25数2>に示したように年間の苦情受付件数は一〇〇件を超えている。
また公共施設の美化としては、駅周辺やバス停などに、五四年現在大型屑物入れ七〇箇、たばこの吸がら入れ二〇〇箇、小型屑物入れ一〇〇箇を設置している。
その他に、区は「きれいな環境づくりをすすめる地区」を選定し、地域住民の自主的な環境美化運動の推進を図っている。五三年一〇月現在の実践地区は表<数2>17数2>―<数2>26数2>に示した一一か所である。
図表を表示 図表を表示し尿を迅速かつ衛生的に処理することは、ゴミ処理と同様重要な課題である。現在、都が実施しているし尿処理は、公共下水道に直結した水洗便所を通じて下水道終末処理場で処理する方法、し尿浄化槽の設置によって生化学的に処理する方法、汲取便所から汲み取ったし尿を所定の施設で処理する方法の三つの方式がとられている。五二年度現在、区部では一日平均一万一〇〇〇<数2>kl数2>のし尿が排出され、そのうち約七五%が下水道及び浄化槽で処理されたものと推計されている(
汲み取り分の処理は、三〇年頃までは主に肥料として農村に還元されていた。図<数2>17数2>―<数2>10数2>に見られるように、二二年時点では、清掃局収集分は三三%程
度にすぎず、それもほとんどが農村に還元されたため、農民汲み取り分を含めた農村還元総量は全処分量の九八%に達していた。その後、二四年に下水道投入方式が、二五年に海洋投入方式が、二七年に消化処分方式がそれぞれ採用されたことに伴い、局収集(
農村還元による処理量は、化学肥料の普及、都市化による近郊農地の減少、衛生思想の普及に伴い年々減少し、加えて、四一年を最後に農民による汲み取りが廃止されたため、その五四年度現在の処理量は四三二<数2>kl数2>、全処理量の〇・〇三%にすぎない。近年は主として海洋投入と消化処理によっており、五二年度の汲み取り分の処理は、海洋投入が八一万九六〇一<数2>kl数2>(
図<数2>17数2>―<数2>11数2>は、本区のし尿収集量の推移を示したものである。見られるように、東京都の区部では三九年以降減少に転じているが、本区の場合は四四年まで人口増に伴って増え続けている。これは、本区における下水道建設の遅れによるものである。四二年度より本格的な下水道化が図られるようになると四五年以後収集量は減少に転ずることになった。
本文> 節> 章> 部> 編> 通史本文>