更新日 : 2024/03/19 

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検索条件   大分類(聯合・同盟配信写真) and 掲載年(1932年 - 1932年)
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聯合・同盟配信写真(1932) 1932年7月1日1932年【1932】◎植田將軍退京|植田第九師團長は三十日午後八時五十分上野驛發金澤へ歸任した。驛頭には田代參謀長、鹽澤司令官、島田參謀長等上海派遣陸海軍首腦部を始め官民數百名の見送りで盛大を極めた 寫眞は 上野驛にて|新聞聯合寫眞部ニュース 昭和七年七月一日發行|(複製轉載不許)||【注記】中央が植田謙吉第9師団長、その右奥メガネの陸軍服は田代皖一郎参謀長、海軍服の中央寄りは嶋田繁太郎参謀長▼人名=塩沢幸一
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聯合・同盟配信写真(1932) 1932年7月1日1932年【1932】◎植田將軍退京|植田第九師團長は三十日午後八時五十分上野驛發金澤へ歸任した。驛頭には田代參謀長、鹽澤司令官、島田參謀長等上海派遣陸海軍首腦部を始め官民數百名の見送りで盛大を極めた 寫眞は 上野驛にて|新聞聯合寫眞部ニュース 昭和七年七月一日發行|(複製轉載不許)||【注記】中央が植田謙吉第9師団長、その右奥メガネの陸軍服は田代皖一郎参謀長、海軍服の中央寄りは嶋田繁太郎参謀長▼人名=塩沢幸一
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聯合・同盟配信写真(1932) 1932年7月1日1932年【1932】◎滿洲國使節一行入京|滿洲國特派訪日代表交通總長丁鑑脩氏は一日午前八時半東京驛著列車で入京一行十六名は東京驛より直ちに二重橋前に到り宮城を遥拜。明治神宮、靖國神社に參拜した後帝國ホテルに入り午餐。休憩後首相官邸を訪問し閣議散會後齊藤首相以下各閣僚に訪日の挨拶をなし午後六時より陸相官邸における荒木陸相招待の晚餐會に出席第一日の日程を終つた 寫眞は 二重橋前に遥拜する一行|新聞聯合寫眞部ニュース 昭和七年七月一日發行|(複製轉載不許)||【注記】人名=斎藤実、荒木貞夫
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聯合・同盟配信写真(1932) 1932年7月1日1932年【1932】◎滿洲國使節一行入京|滿洲國特派訪日代表交通總長丁鑑脩氏は一日午前八時半東京驛著列車で入京一行十六名は東京驛より直ちに二重橋前に到り宮城を遥拜。明治神宮、靖國神社に參拜した後帝國ホテルに入り午餐。休憩後首相官邸を訪問し閣議散會後齊藤首相以下各閣僚に訪日の挨拶をなし午後六時より陸相官邸における荒木陸相招待の晚餐會に出席第一日の日程を終つた 寫眞は 二重橋前に遥拜する一行|新聞聯合寫眞部ニュース 昭和七年七月一日發行|(複製轉載不許)||【注記】人名=斎藤実、荒木貞夫
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聯合・同盟配信写真(1932) 1932年7月2日1932年【1932】◎英國皇帝陛下天長節祝賀の大觀兵式|(ロンドン)發聯合 去る六月四日英國皇帝ジョーヂ五世陛下第六十七回天長節祝賀の大觀兵式はロンドンのホース・ガーヅパレードに於いて莊嚴に行はれた(當時の外電參照) 寫眞は 一、御閲兵のジョーヂ五世陛下(先頭)|新聞聯合寫眞部ニュース 昭和七年七月二日發行|(複製轉載不許)||
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聯合・同盟配信写真(1932) 1932年7月2日1932年【1932】◎英國皇帝陛下天長節祝賀の大觀兵式|(ロンドン)發聯合 去る六月四日英國皇帝ジョーヂ五世陛下第六十七回天長節祝賀の大觀兵式はロンドンのホース・ガーヅパレードに於いて莊嚴に行はれた(當時の外電參照) 寫眞は 一、御閲兵のジョーヂ五世陛下(先頭)|新聞聯合寫眞部ニュース 昭和七年七月二日發行|(複製轉載不許)||
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聯合・同盟配信写真(1932) 1932年7月2日1932年【1932】◎着々準備が涉めらるゝオリムピツク スタヂウム|(ロスアンゼルス)發聯合――(本社版權所有) 南カリフオルニヤの新聞記者團一行は過般オリムピツク・オルガナイジング委員會のザツク・フアーマー氏の案内でオリムピツク・スタヂユームに特にニユース報導の爲設備された諸設備の下見聞を行つた入口中央に新設された桿上にはやがて君ケ代の奏樂裡に日の丸の國旗が輝かしく飜へることであらう。|新聞聯合寫眞部ニュース 昭和七年七月二日發行|(複製轉載不許)||【注記】君が代
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聯合・同盟配信写真(1932) 1932年7月2日1932年【1932】◎着々準備が涉めらるゝオリムピツク スタヂウム|(ロスアンゼルス)發聯合――(本社版權所有) 南カリフオルニヤの新聞記者團一行は過般オリムピツク・オルガナイジング委員會のザツク・フアーマー氏の案内でオリムピツク・スタヂユームに特にニユース報導の爲設備された諸設備の下見聞を行つた入口中央に新設された桿上にはやがて君ケ代の奏樂裡に日の丸の國旗が輝かしく飜へることであらう。|新聞聯合寫眞部ニュース 昭和七年七月二日發行|(複製轉載不許)||【注記】君が代
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聯合・同盟配信写真(1932) 1932年7月3日1932年【1932】◎青訓開設の六周年記念大會|青年訓練所が開説されて滿六周年に當るので三日午前八時三十分より東京市主催の下に市内及府下青訓生六千名は宮城前に參集萬歳三唱の後隊伍を整へ市中行進し日比谷公園に至り君ケ代吹奏.國旗の揭揚式に次いで永田市長の訓辭あり十一時散會した 寫眞は日比谷公園に於ける國旗揭揚式|新聞聯合寫眞部ニュース 昭和七年七月三日發行|(複製轉載不許)||【注記】人名=永田秀次郎
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聯合・同盟配信写真(1932) 1932年7月3日1932年【1932】◎青訓開設の六周年記念大會|青年訓練所が開説されて滿六周年に當るので三日午前八時三十分より東京市主催の下に市内及府下青訓生六千名は宮城前に參集萬歳三唱の後隊伍を整へ市中行進し日比谷公園に至り君ケ代吹奏.國旗の揭揚式に次いで永田市長の訓辭あり十一時散會した 寫眞は日比谷公園に於ける國旗揭揚式|新聞聯合寫眞部ニュース 昭和七年七月三日發行|(複製轉載不許)||【注記】人名=永田秀次郎
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聯合・同盟配信写真(1932) 1932年7月3日1932年【1932】◎滿洲國使節を紅葉館に招待|東京商工會議所及び實業團體では目下來朝中の滿洲國使節丁鑑脩以下十數名を二日夕丸の内工業クラブに招待種々懇談を重ね更に晚餐會を芝公園紅葉館に開いた。席上同館名物の名妓連の紅葉踊りに興を遣り純日本風の食事を滿喫し夏の夜の更くるまで歡を盡して散會した。 寫眞は紅葉館に招待された滿洲國使節一行|新聞聯合寫眞部ニュース 昭和七年七月三日發行|(複製轉載不許)||
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聯合・同盟配信写真(1932) 1932年7月3日1932年【1932】◎滿洲國使節を紅葉館に招待|東京商工會議所及び實業團體では目下來朝中の滿洲國使節丁鑑脩以下十數名を二日夕丸の内工業クラブに招待種々懇談を重ね更に晚餐會を芝公園紅葉館に開いた。席上同館名物の名妓連の紅葉踊りに興を遣り純日本風の食事を滿喫し夏の夜の更くるまで歡を盡して散會した。 寫眞は紅葉館に招待された滿洲國使節一行|新聞聯合寫眞部ニュース 昭和七年七月三日發行|(複製轉載不許)||
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聯合・同盟配信写真(1932) 1932年7月4日1932年【1932】◎都下農民の大デモ=東京市農會の實現へ=|大東京制の實現に伴ひ新らたに東京市に包含される農家約十萬戸の指導機關たる町村農會は當然解散を餘儀なくされるので唯さへドン底に喘えぐ農家の前途は頗る憂慮すべきものあるに鑑み東京市農會を設置せよとの叫びを揚げて代表約五百名は四日午后一時帝國農會に集合具體案を審議終つて警視廳市役所等各方面を訪問陳情した 寫眞は市役所へ陳情 菊地助役と會見|新聞聯合寫眞部ニュース 昭和七年七月四日發行|(複製轉載不許)||【注記】人名=菊池慎三
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聯合・同盟配信写真(1932) 1932年7月4日1932年【1932】◎都下農民の大デモ=東京市農會の實現へ=|大東京制の實現に伴ひ新らたに東京市に包含される農家約十萬戸の指導機關たる町村農會は當然解散を餘儀なくされるので唯さへドン底に喘えぐ農家の前途は頗る憂慮すべきものあるに鑑み東京市農會を設置せよとの叫びを揚げて代表約五百名は四日午后一時帝國農會に集合具體案を審議終つて警視廳市役所等各方面を訪問陳情した 寫眞は市役所へ陳情 菊地助役と會見|新聞聯合寫眞部ニュース 昭和七年七月四日發行|(複製轉載不許)||【注記】人名=菊池慎三
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聯合・同盟配信写真(1932) 1932年7月4日1932年【1932】◎美しい夫人連をも交へて聯盟調査團一行再入京|支那事變實地調査の旅を續けたリツトン卿等聯盟調査團一行は四日午前八時東京驛着の特別列車で聯盟への最後的報告書作成の重大使命を帶びて四ヶ月振りで再入京した.ホームから驛前廣場.帝國ホテルにかけて百餘の正私服警官を配し物々しい嚴戒振りであつた 寫眞は入京の聯盟團(×印リツトン卿)|新聞聯合寫眞部ニュース 昭和七年七月四日發行||(複製轉載不許)|
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聯合・同盟配信写真(1932) 1932年7月4日1932年【1932】◎美しい夫人連をも交へて聯盟調査團一行再入京|支那事變實地調査の旅を續けたリツトン卿等聯盟調査團一行は四日午前八時東京驛着の特別列車で聯盟への最後的報告書作成の重大使命を帶びて四ヶ月振りで再入京した.ホームから驛前廣場.帝國ホテルにかけて百餘の正私服警官を配し物々しい嚴戒振りであつた 寫眞は入京の聯盟團(×印リツトン卿)|新聞聯合寫眞部ニュース 昭和七年七月四日發行||(複製轉載不許)|
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聯合・同盟配信写真(1932) 1932年7月5日1932年【1932】◎世界の視聽をあつめた ローザンヌ會議議場|(ローザンヌ)發聯合 去る六月十六日開會以來全世界の視聽を集めて約二旬に亘り紆餘曲折を重ねて來たローザンヌ賠償會議も愈々大團圓に近づき日・英・佛・伊・白五ヶ國幹部委員會の起草した賠償問題解決方式を基礎にさすが懸絶の獨・佛兩國の見解も調和の見込が立つたので七日を以て會議を閉づることゝなつた|新聞聯合寫眞部ニュース 昭和七年七月五日發行|(複製轉載不許)||【注記】ベルギー
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聯合・同盟配信写真(1932) 1932年7月5日1932年【1932】◎世界の視聽をあつめた ローザンヌ會議議場|(ローザンヌ)發聯合 去る六月十六日開會以來全世界の視聽を集めて約二旬に亘り紆餘曲折を重ねて來たローザンヌ賠償會議も愈々大團圓に近づき日・英・佛・伊・白五ヶ國幹部委員會の起草した賠償問題解決方式を基礎にさすが懸絶の獨・佛兩國の見解も調和の見込が立つたので七日を以て會議を閉づることゝなつた|新聞聯合寫眞部ニュース 昭和七年七月五日發行|(複製轉載不許)||【注記】ベルギー
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聯合・同盟配信写真(1932) 1932年7月5日1932年【1932】◎けふ共産黨に求刑|佐野學等二百名に係る日本共産黨の公判は今五日午前九時から東京地方裁判所二號陪審法廷に開かれたが檢事の論告求刑は午前と午后に分け、午前中は戸澤檢事が擔當して九十五名を求刑し午后は平田檢事が擔當して佐野學、鍋山貞親、三田村四郞等首腦部以下百五名の求刑をなす筈である 寫眞は 午前の求刑に押寄せた傍聽人|新聞聯合寫眞部ニュース 昭和七年七月五日發行|(複製轉載不許)||【注記】人名=戸沢重雄、平田勲
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聯合・同盟配信写真(1932) 1932年7月5日1932年【1932】◎けふ共産黨に求刑|佐野學等二百名に係る日本共産黨の公判は今五日午前九時から東京地方裁判所二號陪審法廷に開かれたが檢事の論告求刑は午前と午后に分け、午前中は戸澤檢事が擔當して九十五名を求刑し午后は平田檢事が擔當して佐野學、鍋山貞親、三田村四郞等首腦部以下百五名の求刑をなす筈である 寫眞は 午前の求刑に押寄せた傍聽人|新聞聯合寫眞部ニュース 昭和七年七月五日發行|(複製轉載不許)||【注記】人名=戸沢重雄、平田勲
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聯合・同盟配信写真(1932) 1932年7月6日1932年【1932】◎世界早廻機昨夕壯途に上る|(ニユーヨーク五日發聯合)六日間で世界一週の大飛行計畫を發表したテキサス州フオート・ワースのゼームス・マターン氏及びオクラホマ州のベネツト・グリフイン氏はいよいよ五日午前四時一分(日本時間五日午後六時一分)當地を出發最初の目的地たるニユーフアンドランドのハーヴアーグレースに向つた因に兩氏は昨年七月一日ポスト、ゲツテイ兩氏が樹立した八日十五時五十一分の記錄打破を目ざして居るものである 寫眞は 準備中の兩氏 左グリフイン氏、右マタン氏|新聞聯合寫眞部ニュース|昭和七年七月六日發行|(複製轉載不許)|【注記】地名=ハーバーグレース▼人名=ジェームズ・マターン、ベネット・グリフィン、ウィリー・ポスト、ハロルド・ゲッティ
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聯合・同盟配信写真(1932) 1932年7月6日1932年【1932】◎世界早廻機昨夕壯途に上る|(ニユーヨーク五日發聯合)六日間で世界一週の大飛行計畫を發表したテキサス州フオート・ワースのゼームス・マターン氏及びオクラホマ州のベネツト・グリフイン氏はいよいよ五日午前四時一分(日本時間五日午後六時一分)當地を出發最初の目的地たるニユーフアンドランドのハーヴアーグレースに向つた因に兩氏は昨年七月一日ポスト、ゲツテイ兩氏が樹立した八日十五時五十一分の記錄打破を目ざして居るものである 寫眞は 準備中の兩氏 左グリフイン氏、右マタン氏|新聞聯合寫眞部ニュース|昭和七年七月六日發行|(複製轉載不許)|【注記】地名=ハーバーグレース▼人名=ジェームズ・マターン、ベネット・グリフィン、ウィリー・ポスト、ハロルド・ゲッティ
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聯合・同盟配信写真(1932) 1932年7月6日1932年【1932】◎内田外相事務引繼ぎ|内田外相は親任式終了後午前十一時十五分齊藤首相と共に外務省に至り大臣室で事務引繼を行ひ同四十分階下大食堂に高等官一同を集めて齊藤前外相より内田新外相を紹介し次いで内田伯より就任の挨拶があつた 寫眞は 事務引繼の兩相|新聞聯合寫眞部ニュース|昭和七年七月六日發行|(複製轉載不許)|【注記】人名=内田康哉、斎藤実
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聯合・同盟配信写真(1932) 1932年7月6日1932年【1932】◎内田外相事務引繼ぎ|内田外相は親任式終了後午前十一時十五分齊藤首相と共に外務省に至り大臣室で事務引繼を行ひ同四十分階下大食堂に高等官一同を集めて齊藤前外相より内田新外相を紹介し次いで内田伯より就任の挨拶があつた 寫眞は 事務引繼の兩相|新聞聯合寫眞部ニュース|昭和七年七月六日發行|(複製轉載不許)|【注記】人名=内田康哉、斎藤実
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聯合・同盟配信写真(1932) 1932年7月7日1932年【1932】◎組閣披露の晚餐會 樞府顧問官を首相が招待|齊藤首相は七日午后六時から首相官邸において倉富、平沼正副議長以下各樞府顧問官、二上書記官長以下各書記官を招待組閣披露の晚餐會を催し政府側より各閣僚、柴田書記官長、堀切法制局長官、金森、黑崎兩法制局參事官其他出席した 寫眞は首相の樞府招待會(向つて右から)平沼、齊藤、倉富、金子の諸氏|新聞聯合寫眞部ニュース|昭和七年七月七日發行|(複製轉載不許)|【注記】人名=斎藤実、倉富勇三郎、平沼騏一郎、二上兵治、柴田善三郎、堀切善次郎、金森徳次郎、黑崎定三、金子堅太郎
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聯合・同盟配信写真(1932) 1932年7月7日1932年【1932】◎組閣披露の晚餐會 樞府顧問官を首相が招待|齊藤首相は七日午后六時から首相官邸において倉富、平沼正副議長以下各樞府顧問官、二上書記官長以下各書記官を招待組閣披露の晚餐會を催し政府側より各閣僚、柴田書記官長、堀切法制局長官、金森、黑崎兩法制局參事官其他出席した 寫眞は首相の樞府招待會(向つて右から)平沼、齊藤、倉富、金子の諸氏|新聞聯合寫眞部ニュース|昭和七年七月七日發行|(複製轉載不許)|【注記】人名=斎藤実、倉富勇三郎、平沼騏一郎、二上兵治、柴田善三郎、堀切善次郎、金森徳次郎、黑崎定三、金子堅太郎
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聯合・同盟配信写真(1932) 1932年7月7日1932年【1932】◎聯盟調査團外相と會見|聯盟調査團のマツコイ將軍一行(リツトン卿病氣のため不參)は七日午前十一時外務省を訪問、内田新外相と會見再來の挨拶竝に外相就任の祝辭を述べリツトン卿と外相との會見日取り等についても種々懇談同十一時半辭去した 寫眞は 外相と會見の聯盟委員 向つて左から マレスコツテイ伯、マコイ將軍、内田外相、シユネー博士、クローデル將軍|新聞聯合寫眞部ニュース 昭和七年七月七日發行|(複製轉載不許)||【注記】人名=マッコイ将軍、内田康哉
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聯合・同盟配信写真(1932) 1932年7月7日1932年【1932】◎聯盟調査團外相と會見|聯盟調査團のマツコイ將軍一行(リツトン卿病氣のため不參)は七日午前十一時外務省を訪問、内田新外相と會見再來の挨拶竝に外相就任の祝辭を述べリツトン卿と外相との會見日取り等についても種々懇談同十一時半辭去した 寫眞は 外相と會見の聯盟委員 向つて左から マレスコツテイ伯、マコイ將軍、内田外相、シユネー博士、クローデル將軍|新聞聯合寫眞部ニュース 昭和七年七月七日發行|(複製轉載不許)||【注記】人名=マッコイ将軍、内田康哉
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聯合・同盟配信写真(1932) 1932年7月8日1932年【1932】◎トーキーの世界的發明=理究渡邊工學士の硏究完成=|理化學硏究所大河内硏究室の工學士渡邊俊平及助手白石襄兩氏は最近發聲映畫製作上世界的に誇るべき貴重な發明を完成した 兩氏は陰極線が金屬に當ればモツク線に變る性質を有することを利用しその變化されたエツクス線に依つてマイクロフオンから電流の變化をフイルムに燒付けることに成功し遂に今回特許を受けるに至つたものである 寫眞は硏究室に於ける渡邊(左)白石(右)兩氏|新聞聯合寫眞部ニュース 昭和七年七月八日發行|(複製轉載不許)||【注記】組織名=理化学研究所=理研
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聯合・同盟配信写真(1932) 1932年7月8日1932年【1932】◎トーキーの世界的發明=理究渡邊工學士の硏究完成=|理化學硏究所大河内硏究室の工學士渡邊俊平及助手白石襄兩氏は最近發聲映畫製作上世界的に誇るべき貴重な發明を完成した 兩氏は陰極線が金屬に當ればモツク線に變る性質を有することを利用しその變化されたエツクス線に依つてマイクロフオンから電流の變化をフイルムに燒付けることに成功し遂に今回特許を受けるに至つたものである 寫眞は硏究室に於ける渡邊(左)白石(右)兩氏|新聞聯合寫眞部ニュース 昭和七年七月八日發行|(複製轉載不許)||【注記】組織名=理化学研究所=理研
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聯合・同盟配信写真(1932) 1932年7月8日1932年【1932】◎遊就館に御物御下賜|小型三八指揮步兵銃 一 大正三年九月より同五年三月迄御使用 輕三八式步兵銃 一 大正五年四月より同八年三月迄御使用 三八式步兵銃(銃劍彈藥盒共)一大正八年四月より同十年二月迄御使用 外に背嚢、木刀 各一 右は今般特別の御思召を以て今上陛下御物を遊就館に御下賜相成り松田館長は宮内省に出頭鈴木侍從長より傳達せらる|新聞聯合寫眞部ニュース 昭和七年七月八日發行|(複製轉載不許)||【注記】人名=松田常太、鈴木貫太郎
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聯合・同盟配信写真(1932) 1932年7月8日1932年【1932】◎遊就館に御物御下賜|小型三八指揮步兵銃 一 大正三年九月より同五年三月迄御使用 輕三八式步兵銃 一 大正五年四月より同八年三月迄御使用 三八式步兵銃(銃劍彈藥盒共)一大正八年四月より同十年二月迄御使用 外に背嚢、木刀 各一 右は今般特別の御思召を以て今上陛下御物を遊就館に御下賜相成り松田館長は宮内省に出頭鈴木侍從長より傳達せらる|新聞聯合寫眞部ニュース 昭和七年七月八日發行|(複製轉載不許)||【注記】人名=松田常太、鈴木貫太郎
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聯合・同盟配信写真(1932) 1932年7月8日1932年【1932】◎愈愈日本選手一行を迎へて高塔高く旭日に輝くロサンゼルス スダヂウム|(ロスアンゼルス)發聯合 六日桑港に上陸米大陸へ第一步を印した我代表選手第一班は桑港に於る盛んな歡迎と充分な練習を了へて愈々ロサンゼルスへ堂々と乘り込むこととなつたが晴れのスタヂウムには歡迎の辭と共に日章旗高く旭日輝き我等が代表の必勝を壽ふが如くいとも莊嚴な氣分が漂つてゐる|新聞聯合寫眞部ニュース 昭和七年七月八日發行|(複製轉載不許)||
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聯合・同盟配信写真(1932) 1932年7月8日1932年【1932】◎愈愈日本選手一行を迎へて高塔高く旭日に輝くロサンゼルス スダヂウム|(ロスアンゼルス)發聯合 六日桑港に上陸米大陸へ第一步を印した我代表選手第一班は桑港に於る盛んな歡迎と充分な練習を了へて愈々ロサンゼルスへ堂々と乘り込むこととなつたが晴れのスタヂウムには歡迎の辭と共に日章旗高く旭日輝き我等が代表の必勝を壽ふが如くいとも莊嚴な氣分が漂つてゐる|新聞聯合寫眞部ニュース 昭和七年七月八日發行|(複製轉載不許)||
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聯合・同盟配信写真(1932) 1932年7月8日1932年【1932】◎ワイトマン杯に米國優勝|(ロンドン)發聯合 每年英米の庭球界を賑すワイトマン杯庭球戰は過般ウインブルドンに於て開會され米國のヘレン・ウイルス・ムーデイ夫人の健鬭に依つて米國が優勝した 寫眞は英國のドロシー・ラウンド孃(右)を六―二 六―三のスコーアで敗つて米國を優勝に導いた米國のヘレン・ウイルス・ムーデイ夫人(左)|新聞聯合寫眞部ニュース 昭和七年七月八日發行|(複製轉載不許)||
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聯合・同盟配信写真(1932) 1932年7月8日1932年【1932】◎ワイトマン杯に米國優勝|(ロンドン)發聯合 每年英米の庭球界を賑すワイトマン杯庭球戰は過般ウインブルドンに於て開會され米國のヘレン・ウイルス・ムーデイ夫人の健鬭に依つて米國が優勝した 寫眞は英國のドロシー・ラウンド孃(右)を六―二 六―三のスコーアで敗つて米國を優勝に導いた米國のヘレン・ウイルス・ムーデイ夫人(左)|新聞聯合寫眞部ニュース 昭和七年七月八日發行|(複製轉載不許)||
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聯合・同盟配信写真(1932) 1932年7月8日1932年【1932】◎ローザンヌは涼しいが賠償は暑苦しい|(ローザンヌ)發聯合 ベルサイユ體制の一部破壞に依つてのみ具體的成功的な效果を得られるらしいローザンヌ賠償會議の會期も早や終末に近づいた昨今如何なる效果的決議をなすか會場地ローザンヌは涼しい所だが會議は暑苦しい事だらう 寫眞は英國全權團の宿舍ボウリバージユホテルに於ける會議を終つて庭園に涼を求める各國全權團|新聞聯合寫眞部ニュース 昭和七年七月八日發行|(複製轉載不許)||【注記】施設名=ボー・リバージュBeau-Rivage
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聯合・同盟配信写真(1932) 1932年7月8日1932年【1932】◎ローザンヌは涼しいが賠償は暑苦しい|(ローザンヌ)發聯合 ベルサイユ體制の一部破壞に依つてのみ具體的成功的な效果を得られるらしいローザンヌ賠償會議の會期も早や終末に近づいた昨今如何なる效果的決議をなすか會場地ローザンヌは涼しい所だが會議は暑苦しい事だらう 寫眞は英國全權團の宿舍ボウリバージユホテルに於ける會議を終つて庭園に涼を求める各國全權團|新聞聯合寫眞部ニュース 昭和七年七月八日發行|(複製轉載不許)||【注記】施設名=ボー・リバージュBeau-Rivage
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聯合・同盟配信写真(1932) 1932年7月9日1932年【1932】◎聯盟調査團陸相と會見|聯盟調査團のリツトン鄕を除くアルドロヴアンヂ伯 マコイ將軍 クローデル、シユネー四氏はアース書記長外三名の隨員を隨へ渡大佐の案内で九日午前十時陸相官邸に荒木陸相を訪問し小礒次官 山岡軍務局長 山下軍事課長列席會見を行つた 寫眞は陸相と聯盟國の會見(向つて左から)シユネー博士 アルドロヴアンヂ伯 陸相(一人おいて)クロデル軍將(後列左端)マコイ將軍|新聞聯合寫眞部ニュース 昭和七年七月九日發行|(複製轉載不許)||【注記】本文1行目「リットン鄕」は「リットン卿」▼人名=ルイージ・アルドロバンディ・マレスコッティ伯、マッコイ将軍、クローデル将軍、シュネー博士、渡久雄、荒木貞夫、小磯国昭、山岡重厚、山下奉文
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聯合・同盟配信写真(1932) 1932年7月9日1932年【1932】◎聯盟調査團陸相と會見|聯盟調査團のリツトン鄕を除くアルドロヴアンヂ伯 マコイ將軍 クローデル、シユネー四氏はアース書記長外三名の隨員を隨へ渡大佐の案内で九日午前十時陸相官邸に荒木陸相を訪問し小礒次官 山岡軍務局長 山下軍事課長列席會見を行つた 寫眞は陸相と聯盟國の會見(向つて左から)シユネー博士 アルドロヴアンヂ伯 陸相(一人おいて)クロデル軍將(後列左端)マコイ將軍|新聞聯合寫眞部ニュース 昭和七年七月九日發行|(複製轉載不許)||【注記】本文1行目「リットン鄕」は「リットン卿」▼人名=ルイージ・アルドロバンディ・マレスコッティ伯、マッコイ将軍、クローデル将軍、シュネー博士、渡久雄、荒木貞夫、小磯国昭、山岡重厚、山下奉文
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聯合・同盟配信写真(1932) 1932年7月11日1932年【1932】◎蒋支那公使歸任|賜暇歸國中であつた駐日中華民國公使蒋作賓氏は夫人同伴十一日午前十一時半、郵船平安丸で橫濱に歸着 公使館差し廻しの自動車で一路入京民國公使館に入つた。寫眞は 公使館に落付いた蒋公使夫妻|新聞聯合寫眞部ニュース 昭和七年七月十一日發行|(複製轉載不許)||
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聯合・同盟配信写真(1932) 1932年7月11日1932年【1932】◎蒋支那公使歸任|賜暇歸國中であつた駐日中華民國公使蒋作賓氏は夫人同伴十一日午前十一時半、郵船平安丸で橫濱に歸着 公使館差し廻しの自動車で一路入京民國公使館に入つた。寫眞は 公使館に落付いた蒋公使夫妻|新聞聯合寫眞部ニュース 昭和七年七月十一日發行|(複製轉載不許)||
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聯合・同盟配信写真(1932) 1932年7月11日1932年【1932】◎老首相のおめかし=華族會館で散髮|ウイーク・エンドを葉山の別莊で送つた齋藤老首相は十一日早朝自動車を驅つて歸京。官邸で諸般の政務を執つてホットしたのが恰度お晝時輕るいお食事の後華族會館の理髮部へ赴いて散髮。童顏首相に相應しく一段と若々しくなつた首相は同所より徒步でのびのびとして官邸に入つた 寫眞は散髮中の齊藤首相|新聞聯合寫眞部ニュース 昭和七年七月十一日發行|(複製轉載不許)||【注記】人名=斎藤実
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聯合・同盟配信写真(1932) 1932年7月11日1932年【1932】◎老首相のおめかし=華族會館で散髮|ウイーク・エンドを葉山の別莊で送つた齋藤老首相は十一日早朝自動車を驅つて歸京。官邸で諸般の政務を執つてホットしたのが恰度お晝時輕るいお食事の後華族會館の理髮部へ赴いて散髮。童顏首相に相應しく一段と若々しくなつた首相は同所より徒步でのびのびとして官邸に入つた 寫眞は散髮中の齊藤首相|新聞聯合寫眞部ニュース 昭和七年七月十一日發行|(複製轉載不許)||【注記】人名=斎藤実
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聯合・同盟配信写真(1932) 1932年7月12日1932年【1932】◎愈々完成 就航した・空のオイロパア號|(ベルリン)發聯合 既報の獨逸のヂアイアント・旅客機「G三八D二五〇〇」號機に終は完成し去る六月廿三日「空のオイロパア號」として堂々三十人の旅客を同乘ベルリン―ハノーバー―アムステルダム―ロンドン間の處女飛行をなしたが今後は同航空路專屬の旅客機として活躍することとなった。寫眞は 處女航路についた「D二五〇〇」號機|新聞聯合寫眞部ニュース 昭和七年七月十二日發行|(複製轉載不許)||【注記】写真なし
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聯合・同盟配信写真(1932) 1932年7月12日1932年【1932】◎必勝の意氣物凄く猛練習の西選手|(ロスアンゼルス)發聯合 曩に我社外電は我馬術選手の猛練習を共に西竹一中尉がハリウツドの美しい女優連に持てはやされてゐる事を報じてゐるが其憧れの西中尉の練習中の鮮やかなフオーム寫眞が到着した。場所は會場リベラカンツリークラブの馬場である。|新聞聯合寫眞部ニュース 昭和七年七月十二日發行|(複製轉載不許)||【注記】施設名=リビエラカントリークラブ
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聯合・同盟配信写真(1932) 1932年7月12日1932年【1932】◎必勝の意氣物凄く猛練習の西選手|(ロスアンゼルス)發聯合 曩に我社外電は我馬術選手の猛練習を共に西竹一中尉がハリウツドの美しい女優連に持てはやされてゐる事を報じてゐるが其憧れの西中尉の練習中の鮮やかなフオーム寫眞が到着した。場所は會場リベラカンツリークラブの馬場である。|新聞聯合寫眞部ニュース 昭和七年七月十二日發行|(複製轉載不許)||【注記】施設名=リビエラカントリークラブ
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聯合・同盟配信写真(1932) 1932年7月13日1932年【1932】◎殊勳の裝甲自動車海軍省へ|上海戰線で幾多の戰功を樹てた海軍陸戰隊の裝甲自動車はこの程橫須賀に凱旋したがその中で植松隊長を乘せて前線を馳驅した第九號車は十三日晴れの都入りをした 海軍省に到着した裝甲車は伏見軍令部長宮 岡田海相以下海軍省首腦部の閲覽を受けた後帝都を練つて兩國々技館の滿蒙展會場へ向つた寫眞は伏見宮 岡田海相以下の閲覽を受ける裝甲車|新聞聯合寫眞部ニュース 昭和七年七月十三日發行|(複製轉載不許)||【注記】人名=植松練磨、岡田啓介
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聯合・同盟配信写真(1932) 1932年7月13日1932年【1932】◎殊勳の裝甲自動車海軍省へ|上海戰線で幾多の戰功を樹てた海軍陸戰隊の裝甲自動車はこの程橫須賀に凱旋したがその中で植松隊長を乘せて前線を馳驅した第九號車は十三日晴れの都入りをした 海軍省に到着した裝甲車は伏見軍令部長宮 岡田海相以下海軍省首腦部の閲覽を受けた後帝都を練つて兩國々技館の滿蒙展會場へ向つた寫眞は伏見宮 岡田海相以下の閲覽を受ける裝甲車|新聞聯合寫眞部ニュース 昭和七年七月十三日發行|(複製轉載不許)||【注記】人名=植松練磨、岡田啓介
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聯合・同盟配信写真(1932) 1932年7月13日1932年【1932】◎我オリムピック代表選手一行勇躍してハワイへ到着|(ホノルル)發聯合 我オリムピック代表選手一行第一班は去月廿三日龍田丸に乘船一路羅府へ向つたが途中平穩裡に去る七月一日ホノルルへ入港 一行は盛れなる歡迎を受けつゝ上陸し久し振に大地を踏みしめて猛練習を行つた 寫眞は ハワイ到着の際龍田丸船上で寫した陸上選手一行|新聞聯合寫眞部ニュース 昭和七年七月十三日發行|(複製轉載不許)||