更新日 : 2024/03/19 

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聯合・同盟配信写真(1935) 1935年1月1日1935年【1935】十年一月一日|◎「元旦初詣に賑ふ明治神宮」||新聞聯合寫眞ニユース||第一號
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聯合・同盟配信写真(1935) 1935年1月1日1935年【1935】十年一月一日|◎「元旦初詣に賑ふ明治神宮」||新聞聯合寫眞ニユース||第一號
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聯合・同盟配信写真(1935) 1935年1月1日1935年【1935】十年一月一日|◎「お正月で賑ふ淺草六區」||新聞聯合寫眞ニユース||第二號
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聯合・同盟配信写真(1935) 1935年1月1日1935年【1935】十年一月一日|◎「お正月で賑ふ淺草六區」||新聞聯合寫眞ニユース||第二號
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聯合・同盟配信写真(1935) 1935年1月2日1935年【1935】一月二日||(東京)一九三五年の初荷|新聞聯合寫眞ニユース||第二號
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聯合・同盟配信写真(1935) 1935年1月2日1935年【1935】一月二日||(東京)一九三五年の初荷|新聞聯合寫眞ニユース||第二號
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聯合・同盟配信写真(1935) 1935年1月3日1935年【1935】十年一月三日|◎おらが春|(東京)十年一月三日上野動物園で人氣者の子猪|新聞聯合寫眞ニユース||新聞聯合スケツチ寫眞ニユース
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聯合・同盟配信写真(1935) 1935年1月3日1935年【1935】十年一月三日|◎おらが春|(東京)十年一月三日上野動物園で人氣者の子猪|新聞聯合寫眞ニユース||新聞聯合スケツチ寫眞ニユース
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聯合・同盟配信写真(1935) 1935年1月3日1935年【1935】|◎ゴルフに興じつつ三國代表等が軍縮豫備交涉會談|(ロンドン十二月十五日發)今回の日本の米國政府に對し華府條約廢棄通告によりロンドンに於ける軍縮豫備會議再開は全く絶望となりつつあるが去月十四日の打合せにより松平代表デヴイス及びスタンドレー兩米國代表、イギリス外相サイモン氏は十五日午前九時相携へてロンドン出發ウオルトン・ヒースのゴルフ場に向ひ四代表打連れて雨中をゴルフ試合に興じつつ重大岐路に立つにいたつた當時の豫備交涉問題について打解けたる懇談をなした、寫眞は(雨中傘下の左よりサイモン氏、ノーマンデビス氏、スタンドレ提督、松平大使(二)サイモン氏の打電を見守る日米代表(1)松平日本代表(2)ノーマンデビス氏(3)スタンドレー提督|新聞聯合寫眞ニユース||新聞聯合海外寫眞ニユース第一號
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聯合・同盟配信写真(1935) 1935年1月3日1935年【1935】|||||
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聯合・同盟配信写真(1935) 1935年1月3日1935年【1935】十年一月三日|◎けふ元始祭|(東京)十年一月三日宮中三日の元始祭は午前十時から宮中賢所、皇靈殿、神殿の三殿において嚴かに行はせられ皇族方を始め岡田首相以下文武官參列、天皇陛下の御代拜を三條掌典長、皇后陛下の御代拜を津輕女官が御勤め申上げついで皇族方御拜禮、諸員の拜禮あつて御祭典を終へさせられた寫眞は參内する岡田首相|新聞聯合寫眞ニユース||第一號
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聯合・同盟配信写真(1935) 1935年1月3日1935年【1935】十年一月三日|◎けふ元始祭|(東京)十年一月三日宮中三日の元始祭は午前十時から宮中賢所、皇靈殿、神殿の三殿において嚴かに行はせられ皇族方を始め岡田首相以下文武官參列、天皇陛下の御代拜を三條掌典長、皇后陛下の御代拜を津輕女官が御勤め申上げついで皇族方御拜禮、諸員の拜禮あつて御祭典を終へさせられた寫眞は參内する岡田首相|新聞聯合寫眞ニユース||第一號
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聯合・同盟配信写真(1935) 1935年1月4日1935年【1935】十年一月四日|◎大體の骨組みは出來てゐる-木村日蘭會商顧問歸る-|(東京)十年一月四日誠意と根氣の七ケ月をよく奮鬭して日蘭會商を危く決裂から救つた長岡代表をはじめ帝國代表部一行は少數の事務官を殘して報告のため一旦引きあげる事に決定したが代表顧問としてバタヴイアにあつた前全權公使木村鋭市氏は一行より一足先きに四日午前八時東京驛着列車で神戸迄出迎への來栖外務通商局長、小寺日蘭會商特別委員を同伴歸京した寫眞は一、東京驛ホームで(後方出迎へのきよ子夫人)|新聞聯合寫眞ニユース||第一號
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聯合・同盟配信写真(1935) 1935年1月4日1935年【1935】十年一月四日|◎大體の骨組みは出來てゐる-木村日蘭會商顧問歸る-|(東京)十年一月四日誠意と根氣の七ケ月をよく奮鬭して日蘭會商を危く決裂から救つた長岡代表をはじめ帝國代表部一行は少數の事務官を殘して報告のため一旦引きあげる事に決定したが代表顧問としてバタヴイアにあつた前全權公使木村鋭市氏は一行より一足先きに四日午前八時東京驛着列車で神戸迄出迎への來栖外務通商局長、小寺日蘭會商特別委員を同伴歸京した寫眞は一、東京驛ホームで(後方出迎へのきよ子夫人)|新聞聯合寫眞ニユース||第一號
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聯合・同盟配信写真(1935) 1935年1月4日1935年【1935】十年一月四日|◎聊か物足らぬ各市場初立會|(東京)十年一月四日株式、期米、綿絲、人絹の各市場は恆例に依つて四日午前九時から本年初頭の取引を開始したが株式短期新東百三十八圓臺を崩れ日産は九十八圓臺の安値をつけ目前に買換へを控へた期米も軟調に終り初取引にしては聊か物足らぬ感があつた寫眞は東株の初立會|新聞聯合寫眞ニユース||第二號
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聯合・同盟配信写真(1935) 1935年1月4日1935年【1935】十年一月四日|◎聊か物足らぬ各市場初立會|(東京)十年一月四日株式、期米、綿絲、人絹の各市場は恆例に依つて四日午前九時から本年初頭の取引を開始したが株式短期新東百三十八圓臺を崩れ日産は九十八圓臺の安値をつけ目前に買換へを控へた期米も軟調に終り初取引にしては聊か物足らぬ感があつた寫眞は東株の初立會|新聞聯合寫眞ニユース||第二號
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聯合・同盟配信写真(1935) 1935年1月4日1935年【1935】|◎梅の春||新聞聯合寫眞ニユース||第二號
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聯合・同盟配信写真(1935) 1935年1月4日1935年【1935】|◎梅の春||新聞聯合寫眞ニユース||第二號
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聯合・同盟配信写真(1935) 1935年1月5日1935年【1935】十年一月五日|◎本居氏半歳の精進-御製御歌百曲集完成-|(東京)十年一月五日作曲家本居長豫氏が畢生の努力を傾注してゐた明治大帝、昭憲皇太后の「御製御歌百曲集」は七ケ月を要して目出度く完成、來る十日午前十時明治神宮神前に嚴かな「完成奉告式」を擧げることとなつた、二月には「天地人」の三卷として出版、三月には第一回公開演奏會の開催と云ふまでに進行、關係者何れも新春を壽いでゐる寫眞は一、百曲集完成の本居氏|新聞聯合寫眞ニユース||第一號
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聯合・同盟配信写真(1935) 1935年1月5日1935年【1935】十年一月五日|◎本居氏半歳の精進-御製御歌百曲集完成-|(東京)十年一月五日作曲家本居長豫氏が畢生の努力を傾注してゐた明治大帝、昭憲皇太后の「御製御歌百曲集」は七ケ月を要して目出度く完成、來る十日午前十時明治神宮神前に嚴かな「完成奉告式」を擧げることとなつた、二月には「天地人」の三卷として出版、三月には第一回公開演奏會の開催と云ふまでに進行、關係者何れも新春を壽いでゐる寫眞は一、百曲集完成の本居氏|新聞聯合寫眞ニユース||第一號
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聯合・同盟配信写真(1935) 1935年1月6日1935年【1935】十年一月六日|◎昭和十年の非常時出初め式|(東京)十年一月六日初春年中行事の一つ消防出初め式は一月六日午前十時より二重橋前廣場で梨本宮殿下御臺臨のもとに擧行されたが今年は吉例の梯子乘り、模擬火災もなく全く淋しい式であつた寫眞は一、宮城前廣場の出初め式|新聞聯合寫眞ニユース||第一號
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聯合・同盟配信写真(1935) 1935年1月6日1935年【1935】十年一月六日|◎昭和十年の非常時出初め式|(東京)十年一月六日初春年中行事の一つ消防出初め式は一月六日午前十時より二重橋前廣場で梨本宮殿下御臺臨のもとに擧行されたが今年は吉例の梯子乘り、模擬火災もなく全く淋しい式であつた寫眞は一、宮城前廣場の出初め式|新聞聯合寫眞ニユース||第一號
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聯合・同盟配信写真(1935) 1935年1月6日1935年【1935】十年一月六日|◎春場所大相撲番付發表|(東京)春場所新番付は六日朝發表された前場所九勝二敗の勵綱玉錦は依然動かず、清水川が東へ廻り九勝二敗だつた武藏山が西へ廻され五勝六敗の不成績だつた男女の川が張出大關となつてゐる、躍組では新關脇の綾川、新小結の雙葉山を始め番神山、富の山、玉の海、出羽湊、大八洲等があり十兩では二十一枚飛躍した靑葉山、十七枚飛躍した鯱の里などがある、新入幕は出羽湊、富の山、大八洲、玉の海の四力士、新十兩は富士ケ嶽、鯱の里、源氏山靑葉山、國光の五力士である寫眞は一、新小結の雙葉山關、一、躍進組(一、綾川二、雙葉山三、出羽湊四、富の山五、大八洲六、玉の海七、鯱の里八、青葉山)|新聞聯合寫眞ニユース||
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聯合・同盟配信写真(1935) 1935年1月6日1935年【1935】十年一月六日|◎春場所大相撲番付發表|(東京)春場所新番付は六日朝發表された前場所九勝二敗の勵綱玉錦は依然動かず、清水川が東へ廻り九勝二敗だつた武藏山が西へ廻され五勝六敗の不成績だつた男女の川が張出大關となつてゐる、躍組では新關脇の綾川、新小結の雙葉山を始め番神山、富の山、玉の海、出羽湊、大八洲等があり十兩では二十一枚飛躍した靑葉山、十七枚飛躍した鯱の里などがある、新入幕は出羽湊、富の山、大八洲、玉の海の四力士、新十兩は富士ケ嶽、鯱の里、源氏山靑葉山、國光の五力士である寫眞は一、新小結の雙葉山關、一、躍進組(一、綾川二、雙葉山三、出羽湊四、富の山五、大八洲六、玉の海七、鯱の里八、青葉山)|新聞聯合寫眞ニユース||
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聯合・同盟配信写真(1935) 1935年1月7日1935年【1935】十年一月七日|◎北白川姫宮御歸嫁-めでたく東園基文子に|(東京)十年一月七日 新春七日の御吉日、かねて御婚約中であつた北白川宮永久王殿下御妹宮佐和子女王殿下(御廿三歳)と子爵東園基文氏(廿五歳)との御婚儀は初春の空和やかなうちに大井林町二四八の子爵邸にて晴やかに執り行はせられた、殿下には午前十時三十分女王旗を先頭に公式鹵簿で御住みなれの高輪の宮邸を御出門、十時五十分東園子邸に御到着御小憩の後大禮服の新郞東園基文子と共に御座に御着小笠原流の古式に則つて嚴かに三々九度の御杯事ありめでたく千代の契りを交はさせられた寫眞は一、おめでたき新郞新婦|新聞聯合寫眞ニユース||第一號
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聯合・同盟配信写真(1935) 1935年1月7日1935年【1935】十年一月七日|◎北白川姫宮御歸嫁-めでたく東園基文子に|(東京)十年一月七日 新春七日の御吉日、かねて御婚約中であつた北白川宮永久王殿下御妹宮佐和子女王殿下(御廿三歳)と子爵東園基文氏(廿五歳)との御婚儀は初春の空和やかなうちに大井林町二四八の子爵邸にて晴やかに執り行はせられた、殿下には午前十時三十分女王旗を先頭に公式鹵簿で御住みなれの高輪の宮邸を御出門、十時五十分東園子邸に御到着御小憩の後大禮服の新郞東園基文子と共に御座に御着小笠原流の古式に則つて嚴かに三々九度の御杯事ありめでたく千代の契りを交はさせられた寫眞は一、おめでたき新郞新婦|新聞聯合寫眞ニユース||第一號
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聯合・同盟配信写真(1935) 1935年1月7日1935年【1935】十年一月七日|◎菱刈凱旋將軍一行晴れの參内奏上|(東京)十年一月七日前關東軍司令官菱刈大將は七日午前十時十分東京驛着晴れの凱旋をした、この日畏くも天皇陛下には中島侍從武官を東京驛頭に差遣はされたが光榮に感激した菱刈將軍は今岡副官を從へて宮内省差廻しの馬車におさまり前關東軍事參謀副長岡村少將は次ぎの馬車にて續き前後には近衞騎兵一ケ小隊が儀仗、沿道市民の歡呼に答へつゝ堂々二重橋正門から參内かくて天皇陛下には陸軍御通常禮裝を召され鈴木侍從長、本庄武官長等を從へさせられて午前十一時表御座所に出御、閑院參謀總長宮殿下、林陸相侍立の上菱刈大將に拜謁仰付られた寫眞は一、入京の菱刈大將(驛頭の所、驛前にて)|新聞聯合寫眞ニユース||第二號
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聯合・同盟配信写真(1935) 1935年1月7日1935年【1935】十年一月七日|◎菱刈凱旋將軍一行晴れの參内奏上|(東京)十年一月七日前關東軍司令官菱刈大將は七日午前十時十分東京驛着晴れの凱旋をした、この日畏くも天皇陛下には中島侍從武官を東京驛頭に差遣はされたが光榮に感激した菱刈將軍は今岡副官を從へて宮内省差廻しの馬車におさまり前關東軍事參謀副長岡村少將は次ぎの馬車にて續き前後には近衞騎兵一ケ小隊が儀仗、沿道市民の歡呼に答へつゝ堂々二重橋正門から參内かくて天皇陛下には陸軍御通常禮裝を召され鈴木侍從長、本庄武官長等を從へさせられて午前十一時表御座所に出御、閑院參謀總長宮殿下、林陸相侍立の上菱刈大將に拜謁仰付られた寫眞は一、入京の菱刈大將(驛頭の所、驛前にて)|新聞聯合寫眞ニユース||第二號
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聯合・同盟配信写真(1935) 1935年1月8日1935年【1935】十年一月八日|◎成城の校歌に送られ長岡初代總長赴任|(東京)十年一月八日初代の關東局總長長岡隆一郞氏が八日午前九時東京驛發超特急燕號の展望車のデツキにその圓く巨きい身體を黑のソフトに包んでニコニコと立つてゐる、ホームに身動きならぬ程の見送り人のかたまり、その中に昨日凱旋した許りの菱刈大將の顏も見える、内田鐵相後藤内相湯淺宮相の顏も竝ぶ、大任を帶びて赴任する人の鹿島立ちを祝福するにふさはしい情景だ、長岡氏の關係する成城學園の生徒や卒業生はさつきから旺んに校歌のコーラスが出發景氣を煽つてゐる、ものの五六百人もゐるその人混に卯江夫人が憾激にうるんだ瞳をあげてデツキの長岡氏を見上げたまま動かない寫眞は一、赴任の長岡總長|新聞聯合寫眞ニユース||新聞聯合社寫眞ニユース第二號
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聯合・同盟配信写真(1935) 1935年1月8日1935年【1935】十年一月八日|◎成城の校歌に送られ長岡初代總長赴任|(東京)十年一月八日初代の關東局總長長岡隆一郞氏が八日午前九時東京驛發超特急燕號の展望車のデツキにその圓く巨きい身體を黑のソフトに包んでニコニコと立つてゐる、ホームに身動きならぬ程の見送り人のかたまり、その中に昨日凱旋した許りの菱刈大將の顏も見える、内田鐵相後藤内相湯淺宮相の顏も竝ぶ、大任を帶びて赴任する人の鹿島立ちを祝福するにふさはしい情景だ、長岡氏の關係する成城學園の生徒や卒業生はさつきから旺んに校歌のコーラスが出發景氣を煽つてゐる、ものの五六百人もゐるその人混に卯江夫人が憾激にうるんだ瞳をあげてデツキの長岡氏を見上げたまま動かない寫眞は一、赴任の長岡總長|新聞聯合寫眞ニユース||新聞聯合社寫眞ニユース第二號
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聯合・同盟配信写真(1935) 1935年1月8日1935年【1935】十年一月八日|◎照宮樣御歸還|(東京)十年一月八日葉山御用邸附屬邸に御滯在中の照宮樣には御風氣も全く御恢復遊ばされたので八日午前十時十九分逗子驛御發車、同十一時十八分東京驛御着、呉竹寮に御歸還遊はされた寫眞は一、御歸京の照宮樣|新聞聯合寫眞ニユース||第三號
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聯合・同盟配信写真(1935) 1935年1月8日1935年【1935】十年一月八日|◎照宮樣御歸還|(東京)十年一月八日葉山御用邸附屬邸に御滯在中の照宮樣には御風氣も全く御恢復遊ばされたので八日午前十時十九分逗子驛御發車、同十一時十八分東京驛御着、呉竹寮に御歸還遊はされた寫眞は一、御歸京の照宮樣|新聞聯合寫眞ニユース||第三號
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聯合・同盟配信写真(1935) 1935年1月9日1935年【1935】一月九日|◎けふは犬の洗濯日和|(マイアミ)發聯合これはリンチ(私刑)事件ではありません、米國マイアミのアイリーン・ストーヴアさんがけふの好きお天氣にこれは犬のお洗濯日和と許り、ゴシ々々ヂヤブ々々々、流石のボストン・ブルもこのヤンチヤお孃さんに掛つちやアー寫眞は一、犬のお洗濯|新聞聯合寫眞ニユース||新聞聯合海外寫眞ニユース
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聯合・同盟配信写真(1935) 1935年1月9日1935年【1935】一月九日|◎けふは犬の洗濯日和|(マイアミ)發聯合これはリンチ(私刑)事件ではありません、米國マイアミのアイリーン・ストーヴアさんがけふの好きお天氣にこれは犬のお洗濯日和と許り、ゴシ々々ヂヤブ々々々、流石のボストン・ブルもこのヤンチヤお孃さんに掛つちやアー寫眞は一、犬のお洗濯|新聞聯合寫眞ニユース||新聞聯合海外寫眞ニユース
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聯合・同盟配信写真(1935) 1935年1月9日1935年【1935】十年一月九日|◎兩陛下葉山に行幸啓-皇太子殿下兩内親王樣も-|(東京)十年一月九日天皇陛下には御風氣全く御快復遊ばされ、天機麗はしく涉らせ給ふが、嚴寒の折柄當分葉山御用邸に御靜養あらせられるため九日皇后陛下御同伴皇太子殿下竝に孝宮、順宮兩内親王殿下と御揃ひにて同御用邸に行幸あらせられた、この日天皇陛下には陸軍御通常禮裝を召され、鈴木侍從長御陪乘、德大寺侍從御劍を、久松侍從御璽を捧じ皇后陛下には御洋裝また皇太子殿下は伊地知御養育掛が御抱き參らせ御同列の略式自動車御鹵簿にて午前十時半宮城御出門、諸員奉送裡に午前十時四十分御發車あらせられた寫眞は|新聞聯合寫眞ニユース||第一號
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聯合・同盟配信写真(1935) 1935年1月9日1935年【1935】十年一月九日|◎兩陛下葉山に行幸啓-皇太子殿下兩内親王樣も-|(東京)十年一月九日天皇陛下には御風氣全く御快復遊ばされ、天機麗はしく涉らせ給ふが、嚴寒の折柄當分葉山御用邸に御靜養あらせられるため九日皇后陛下御同伴皇太子殿下竝に孝宮、順宮兩内親王殿下と御揃ひにて同御用邸に行幸あらせられた、この日天皇陛下には陸軍御通常禮裝を召され、鈴木侍從長御陪乘、德大寺侍從御劍を、久松侍從御璽を捧じ皇后陛下には御洋裝また皇太子殿下は伊地知御養育掛が御抱き參らせ御同列の略式自動車御鹵簿にて午前十時半宮城御出門、諸員奉送裡に午前十時四十分御發車あらせられた寫眞は|新聞聯合寫眞ニユース||第一號
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聯合・同盟配信写真(1935) 1935年1月10日1935年【1935】十年一月十日|◎東北振興會初總會|(東京)十年一月十日東北振興調査會第一回總會は十日午前十時十五分より永田町首相官邸に於て開會、岡田會長始め後藤、山崎兩副會長、吉田書記官長以下各委員二十七名臨時委員半井宮城、伊藤福島、石黑岩手、小林青森、金森山形、武部秋田各縣知事、橫溝幹事以下各幹事等出席、劈頭岡田會長より一場の挨拶を述べたる後審議順序及び規則を決定した後諮問第一號を附議吉田委員より詳細に説明の後東北六縣知事より東北凶作災害の實情につき縷々説明をなし之に對し二、三委員との間に質問應答がありたる後正午散會、直に岡田首相招待の午餐に臨んだ寫眞は一、首相の挨拶|新聞聯合寫眞ニユース||第二號
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聯合・同盟配信写真(1935) 1935年1月10日1935年【1935】十年一月十日|◎東北振興會初總會|(東京)十年一月十日東北振興調査會第一回總會は十日午前十時十五分より永田町首相官邸に於て開會、岡田會長始め後藤、山崎兩副會長、吉田書記官長以下各委員二十七名臨時委員半井宮城、伊藤福島、石黑岩手、小林青森、金森山形、武部秋田各縣知事、橫溝幹事以下各幹事等出席、劈頭岡田會長より一場の挨拶を述べたる後審議順序及び規則を決定した後諮問第一號を附議吉田委員より詳細に説明の後東北六縣知事より東北凶作災害の實情につき縷々説明をなし之に對し二、三委員との間に質問應答がありたる後正午散會、直に岡田首相招待の午餐に臨んだ寫眞は一、首相の挨拶|新聞聯合寫眞ニユース||第二號
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聯合・同盟配信写真(1935) 1935年1月10日1935年【1935】十年一月十日|◎林陸相視察|(東京)十年一月十日林陸相は十日午前十一時省内各局長を帶同、深川糧秣本廠に到り新たに硏究された糧秣竝に製造狀態につき視察した寫眞は一、視察の林陸相|新聞聯合寫眞ニユース||第四號
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聯合・同盟配信写真(1935) 1935年1月10日1935年【1935】十年一月十日|◎林陸相視察|(東京)十年一月十日林陸相は十日午前十一時省内各局長を帶同、深川糧秣本廠に到り新たに硏究された糧秣竝に製造狀態につき視察した寫眞は一、視察の林陸相|新聞聯合寫眞ニユース||第四號
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聯合・同盟配信写真(1935) 1935年1月11日1935年【1935】十年一月十一日|◎臧民政相歷訪|(東京)十年一月十一日十日入京した滿州國民政部大臣臧式毅氏は清水總務司長外一名を伴ひ十一日午前九時半岡田首相訪問の後陸軍、海軍、拓務各省を歷訪來朝の挨拶をなし、更に同十時半參謀本部を訪問、閑院參謀總長宮殿下より謁見を賜はり午后は對滿事務局、教育總監部等視察した寫眞は一、陸相と會見の臧氏|新聞聯合寫眞ニユース||第三號
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聯合・同盟配信写真(1935) 1935年1月11日1935年【1935】十年一月十一日|◎臧民政相歷訪|(東京)十年一月十一日十日入京した滿州國民政部大臣臧式毅氏は清水總務司長外一名を伴ひ十一日午前九時半岡田首相訪問の後陸軍、海軍、拓務各省を歷訪來朝の挨拶をなし、更に同十時半參謀本部を訪問、閑院參謀總長宮殿下より謁見を賜はり午后は對滿事務局、教育總監部等視察した寫眞は一、陸相と會見の臧氏|新聞聯合寫眞ニユース||第三號
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聯合・同盟配信写真(1935) 1935年1月11日1935年【1935】十年一月十一日|◎富士見小學校の兒玉拓相就任祝賀會|(東京)十年一月十一日麴町富士見小學校及び同校同窓會では十一日午后二時から同校出身の兒玉拓相就任祝賀會を開催した、數十年前の同窓生、何れも白髮を交へた人や兒玉拓相の如く光頭輝くものなど數名、其他教員兒童など校庭を埋め、校長、同窓生等の祝辭に對し兒玉拓相は諧謔交りの謝辭を述べ萬歳三唱の後散會した寫眞は一、中央兒玉拓相|新聞聯合寫眞ニユース||第四號
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聯合・同盟配信写真(1935) 1935年1月11日1935年【1935】十年一月十一日|◎富士見小學校の兒玉拓相就任祝賀會|(東京)十年一月十一日麴町富士見小學校及び同校同窓會では十一日午后二時から同校出身の兒玉拓相就任祝賀會を開催した、數十年前の同窓生、何れも白髮を交へた人や兒玉拓相の如く光頭輝くものなど數名、其他教員兒童など校庭を埋め、校長、同窓生等の祝辭に對し兒玉拓相は諧謔交りの謝辭を述べ萬歳三唱の後散會した寫眞は一、中央兒玉拓相|新聞聯合寫眞ニユース||第四號
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聯合・同盟配信写真(1935) 1935年1月12日1935年【1935】十年一月十二日|◎吉例大内山消防出初式|(東京)十年一月十二日宮内省皇宮警察部では新年の吉例に依り新春十二日午前十時から宮城内主馬寮廣場で消防出初式を擧行した、十時消防手、同關係員等參集、自動車ポンプも整列の上白井部長及大谷宮内次官の訓辭があつて放水演習、梯子乘り、交通演習等の演技が行はれ十一時四十分頃芽出度く終了した寫眞は一、梯子乘り|新聞聯合寫眞ニユース||第二號
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聯合・同盟配信写真(1935) 1935年1月12日1935年【1935】十年一月十二日|◎吉例大内山消防出初式|(東京)十年一月十二日宮内省皇宮警察部では新年の吉例に依り新春十二日午前十時から宮城内主馬寮廣場で消防出初式を擧行した、十時消防手、同關係員等參集、自動車ポンプも整列の上白井部長及大谷宮内次官の訓辭があつて放水演習、梯子乘り、交通演習等の演技が行はれ十一時四十分頃芽出度く終了した寫眞は一、梯子乘り|新聞聯合寫眞ニユース||第二號
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聯合・同盟配信写真(1935) 1935年1月12日1935年【1935】十年一月十二日|◎青年學校案諮詢の文政審議會|(東京)十年一月十二日青年學校案を諮詢された文政審議會は十二日午前十時から永田町首相官邸に於て開かれ岡田、阪谷正副總裁以下各委員及幹事、松田文相、添田、三邊兩次官、山桝參事官、河原社會、菊地實業等各局長竝關係官出席、先づ岡田總裁から一場の挨拶あつて松田文相諮詢案の大綱を説明し更らに三邊次官之れを補足、詳細に亘る説明を加へたる後ち各委員と文部當局との間に質問應答を重ね九名乃至十一名の特別委員を擧げ更らに愼重審議を續行する事になった寫眞は一、首相の挨拶|新聞聯合寫眞ニユース||第三號
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聯合・同盟配信写真(1935) 1935年1月12日1935年【1935】十年一月十二日|◎青年學校案諮詢の文政審議會|(東京)十年一月十二日青年學校案を諮詢された文政審議會は十二日午前十時から永田町首相官邸に於て開かれ岡田、阪谷正副總裁以下各委員及幹事、松田文相、添田、三邊兩次官、山桝參事官、河原社會、菊地實業等各局長竝關係官出席、先づ岡田總裁から一場の挨拶あつて松田文相諮詢案の大綱を説明し更らに三邊次官之れを補足、詳細に亘る説明を加へたる後ち各委員と文部當局との間に質問應答を重ね九名乃至十一名の特別委員を擧げ更らに愼重審議を續行する事になった寫眞は一、首相の挨拶|新聞聯合寫眞ニユース||第三號
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聯合・同盟配信写真(1935) 1935年1月13日1935年【1935】十年一月十三日|◎講道館鏡開式-昇段者五一九〇名|(東京)十年一月十三日講道館の年中行事鏡開式は十三日午前九時より小石川區小石川町道場に擧行、女子部有段者の型亂取及男子部青少年組の無段者を始め指南役八段三船久藏氏の亂取稽古及高段者の各型の實演あり終つて此日吉例に依つて昇段したる有段者の給仕役で一同汁粉に舌鼓を打つたが來賓中には谷口大將、早川消防部長等の顏も見えた寫眞は女子部有段者の亂取|新聞聯合寫眞ニユース||新聞聯合寫眞 第二號
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聯合・同盟配信写真(1935) 1935年1月13日1935年【1935】十年一月十三日|◎講道館鏡開式-昇段者五一九〇名|(東京)十年一月十三日講道館の年中行事鏡開式は十三日午前九時より小石川區小石川町道場に擧行、女子部有段者の型亂取及男子部青少年組の無段者を始め指南役八段三船久藏氏の亂取稽古及高段者の各型の實演あり終つて此日吉例に依つて昇段したる有段者の給仕役で一同汁粉に舌鼓を打つたが來賓中には谷口大將、早川消防部長等の顏も見えた寫眞は女子部有段者の亂取|新聞聯合寫眞ニユース||新聞聯合寫眞 第二號