1 |
練馬区独立十周年記念「練馬区史」(昭和32年刊行)
| 目次(17頁) | 石神井城址一二八三愛宕山砦址一二八六練馬城址一二八七 長命寺奥院境域一二八八石神井川の櫻一二九〇三宝寺池と石神井公園一二九...
|
2 |
練馬区独立十周年記念「練馬区史」(昭和32年刊行)
| 第一章 自然環境(6頁) | こに石神井城(都指定史跡)を築いた。池の南方三宝寺はこの池の命名の由緒にもなつているが、厚い...
|
3 |
練馬区独立十周年記念「練馬区史」(昭和32年刊行)
| 第二節 鎌倉末期の練馬(110頁) | ...むような在地土豪がいなかつたことはたしかである。伝える所によれば、前記豊島泰景が石神井城主で、元弘年間(一三三一~一三三三)弟の景村が在城するようになつたというが(『新...
|
4 |
練馬区独立十周年記念「練馬区史」(昭和32年刊行)
| 第一節 練馬地方と豊島氏(115頁) | ...八年間ばかりの時行の行方について、一つの伝えがある。それは、時行は武蔵に潜行して石神井城主豊島景村館に隠れていたというのである。そしてこの間時行は一子を生んだ。この景村...
|
5 |
練馬区独立十周年記念「練馬区史」(昭和32年刊行)
| 第一節 練馬地方と豊島氏(117頁) | ...する両人が同時に同一地域に居住したとは思われない。そして暦応ころからは既に宗朝が石神井城主であつたのではないかと思われる。前述の三宝寺蔵の板碑の中に、北朝年号の康永三年...
|
6 |
練馬区独立十周年記念「練馬区史」(昭和32年刊行)
| 第二節 争乱時代の豊島氏の動向(120頁) | なお石神井城といい練馬城といい、これらの城の規模は後世の城郭建築にみられるような壮大な石垣や建築を伴うも...
|
7 |
練馬区独立十周年記念「練馬区史」(昭和32年刊行)
| 第二節 太田・長尾両氏の動静と豊島氏の没落(138頁) | ...の評定衆はこれをきかず、却つて景春誅罸すべしの声が高くなつた(『鎌倉大草紙』)。石神井城土囲練馬城址その後、扇谷の縁者駿河の今川家に騒乱起り、解決のため太田道灌が江戸を留守にした...
|
8 |
練馬区独立十周年記念「練馬区史」(昭和32年刊行)
| 第二節 太田・長尾両氏の動静と豊島氏の没落(139頁) | ...来、豊島氏では練馬石神井両城の整備に力をいれるようになつたことも想像に難くない。石神井城土囲文明九年(一四七七)正月十九日、長尾景春は遂いに行動を起し、五十子にある上杉...
|
9 |
練馬区独立十周年記念「練馬区史」(昭和32年刊行)
| 第二節 太田・長尾両氏の動静と豊島氏の没落(140頁) | 之れに対し景春は追撃戦に移らず、味方の城固めをすることにした。豊島氏では石神井城、練馬城を取立てて(『鎌倉大草紙』)、平塚城とともに東西に三城をつらね、江戸河越の連絡を...
|
10 |
練馬区独立十周年記念「練馬区史」(昭和32年刊行)
| 第二節 太田・長尾両氏の動静と豊島氏の没落(141頁) | ...は十三日、豊島氏攻撃の火ぶたを切つた。攻撃は平塚城攻から始まる。城将泰明は救援を石神井城の兄泰経に求め、泰経は直ちに石神井練馬両城の兵をひつさげて東進した。そしてその途...
|
11 |
練馬区独立十周年記念「練馬区史」(昭和32年刊行)
| 第二節 太田・長尾両氏の動静と豊島氏の没落(142頁) | ...日の戦いで、弟をはじめ百五十人を討たれた豊島泰経は、残兵をひきつれてその日の中に石神井城に逃れ帰つた。その江古田沼袋の戦場にある多数の古墳を、里人は豊島塚と云い伝えたと...
|
12 |
練馬区独立十周年記念「練馬区史」(昭和32年刊行)
| 中世年表(213頁) | ...・24任 北条守時 元弘3・5・18退 1331~1333 元弘年間 豊島景村が石神井城に在城する。(新編武蔵風土記稿) 1333 元弘三年 5 鎌倉幕府の滅亡
133...
|
13 |
練馬区独立十周年記念「練馬区史」(昭和32年刊行)
| 中世年表(217頁) | ...明18・7・19退 4・13 太田道潅が豊島左衛門尉泰明の拠る平家城を攻める。 石神井城主豊島勘解由左衛門尉泰経(泰明の兄)は弟泰明を援けようとし途中江古田沼袋で太田道...
|
14 |
練馬区独立十周年記念「練馬区史」(昭和32年刊行)
| 第一節 近世村落の成立(281頁) | ...神井郷の存在が明らかにされている。(豊島宮城文書・米良文書)豊島氏中興の祖景村が石神井城主になつたのは鎌倉末期であり、豊島・多摩・新倉・足立・児玉等の南武蔵一円を支配し...
|
15 |
練馬区独立十周年記念「練馬区史」(昭和32年刊行)
| 第二節 村の状態 上石神井村(291頁) | ...」(米良文書)記されている。鎌倉時代末期に豊嶋氏は石神井川をさかのぼつてこの地に石神井城を築いて累世居住の地とした。豊嶋氏滅亡後、管領上杉氏の領地となり、上杉氏滅びるや...
|
16 |
練馬区独立十周年記念「練馬区史」(昭和32年刊行)
| 第二節 村の状態 上石神井村(295頁) | ...・西村・小関・立野・覧音山・池淵・出店などに分れていた。当村は名刹三宝寺を有し、石神井城址等の古蹟に富む所であるが、それらの詳細については第四編を参照せられたい。区内を...
|
17 |
練馬区独立十周年記念「練馬区史」(昭和32年刊行)
| 第二節 村の状態 上練馬村(320頁) | 上練馬村南武蔵に覇を唱えた豊島氏が、石神井城・練馬城を築いて、石神井川上流の練馬地方に勢力を拡張したのは、鎌倉時代の末頃であるが、練...
|
18 |
練馬区独立十周年記念「練馬区史」(昭和32年刊行)
| 第六節 板橋区時代 五 板橋区と練馬派出所(526頁) | ...を加へた街の様子だ。此地方は元来は農村地帯の中心であるべき筈であるが、大正十五年練馬城跡が藤田好三郎氏の手で遊園地豊島園とされてからは来遊の都人士相手の商家は年と共に...
|
19 |
練馬区独立十周年記念「練馬区史」(昭和32年刊行)
| 第三節 村の文化的漸進 一 娯楽施設(707頁) | ...つた。近代的な子供むきの遊園地をどこかにつくろうという案があつて豊島氏の築城した練馬城の跡が選ばれた。そこには昔、豊島氏がいたというので豊島の名をとつて、豊島園とよば...
|
20 |
練馬区独立十周年記念「練馬区史」(昭和32年刊行)
| 第三節 村の文化的漸進 一 娯楽施設(708頁) | ...を忘れてはならない。石神井公園その他農村で遊ぶ処といつて別にない区内では、昔から石神井城趾附近一帯は史蹟として、また市民のリクリエーシヨンの地として知られていた。またそ...
|
21 |
練馬区独立十周年記念「練馬区史」(昭和32年刊行)
| 第一章 神社仏閣(1241頁) | ...天児屋根命ヨリ出タルト、(中略)而シテ中世乱世ヲ経テ文明年間ニ至リ長尾景春ノ部将練馬城主豊島勘解由左衛門泰経同弟平左衛門泰明等深ク当神社ヲ崇敬シ、一族ノ守護神トシテ奉...
|
22 |
練馬区独立十周年記念「練馬区史」(昭和32年刊行)
| 第一章 神社仏閣(1271頁) | ...無量院と称す、本尊阿彌陀又行基の作の薬師を安す、元は別堂にありしものなり、当寺は石神井城主豊島左近大夫景村の養子、豊島兵部大輔輝時応安五年四月十日此地において菩提寺を起...
|
23 |
練馬区独立十周年記念「練馬区史」(昭和32年刊行)
| 第二章 練馬の史跡名勝 石神井城址(1283頁) | 第二章 練馬の史跡名勝石神井城址石神井城址は、上石神井町二丁目にある。北は三宝寺池の谷、南は石神井川の低地、その間にはさ...
|
24 |
練馬区独立十周年記念「練馬区史」(昭和32年刊行)
| 第二章 練馬の史跡名勝 石神井城址(1284頁) | ...、南北線の中間に、一つの屈曲を持つていることは、築城の技術上注目すべき点である。石神井城址略図なお、氷川神社表参道の西側にも、空濠があつたというが、これが果して城濠であ...
|
25 |
練馬区独立十周年記念「練馬区史」(昭和32年刊行)
| 第二章 練馬の史跡名勝 石神井城址(1285頁) | ...治初年の見取図にも、空濠は画かれていないので、これも一つの推察に止るものである。石神井城付近この城は、鎌倉時代の末期に築いたものと思われる。豊嶋氏の本拠は古くは石神井川...
|
26 |
練馬区独立十周年記念「練馬区史」(昭和32年刊行)
| 第二章 練馬の史跡名勝 愛宕山砦址(1286頁) | ...大正八年に、東京府の史跡に指定され、石神井風致地区の一部となつている。愛宕山砦址石神井城址から南方七〇〇メートル程の距離で、石神井川の谷を距てた崖上(上石神井町一丁目)...
|
27 |
練馬区独立十周年記念「練馬区史」(昭和32年刊行)
| 第二章 練馬の史跡名勝 練馬城址(1287頁) | ...。北に小阜ありて、富士峰を望む。南方数百歩を過ぎて直塘つつみあり、道灌塘と号く。練馬城址練馬城址は、豊嶋城址ともいい、向山町(向山ケ谷戸)にあつて、石神井川右岸丘陵の上で、東...
|
28 |
練馬区独立十周年記念「練馬区史」(昭和32年刊行)
| 第二章 練馬の史跡名勝 長命寺奥院境域(1288頁) | ...しての様子を、しのべる程度に保存されているのは幸いである。この城は、鎌倉末期に、石神井城とほぼ同時代に、豊嶋景村によつて築かれたものと伝えられている。景村の嗣が絶えた後...
|
29 |
練馬区独立十周年記念「練馬区史」(昭和32年刊行)
| 第二章 練馬の史跡名勝 豊島園(1295頁) | ...都下随一の隆盛を誇るようになつた。総面積十万余坪あり近代的大総合遊園で、園内には練馬城址、ボート池、トラツク、小鳥園、動物舎、温室、劇場、ウォーターシュート、空飛ぶ電...
|
30 |
練馬区独立十周年記念「練馬区史」(昭和32年刊行)
| 第三章 名墓(1317頁) | ...子一族合葬墓となつている。道場寺 曹洞宗(下石神井町二丁目)豊嶋泰経豊嶋泰経は、石神井城の最後の城主で、文明九年四月廿八日、太田道灌に攻められて、戦死したと伝え、ここに...
|
31 |
練馬区独立十周年記念「練馬区史」(昭和32年刊行)
| 第一節 伝説(1427頁) | ...泰明をはじめ、板橋、赤塚等、宗徒の面々枕を並べて討死し、泰経は辛じて血路を開き、石神井城に逃げ籠つた。しかし、ここもまた道灌に追撃されて、城の命脈も今はこれまでと見えた...
|
32 |
練馬区独立十周年記念「練馬区史」(昭和32年刊行)
| 第一節 伝説(1428頁) | ...あるという。もとは、しるしの老松が植えられてあつたが、戦後伐られてしまつた。姫塚石神井城の落城した時、城主泰経の娘照姫は、父母の最期を見て、悲歎のあまり、その |
33 |
練馬区独立十周年記念「練馬区史」(昭和32年刊行)
| 第一節 伝説(1432頁) | ...草むらには、幾多の鳥獣も安穏に生活していたのである。火消稻荷三宝寺境内の北西隅、石神井城址の土囲と思われる上に、小さな稲荷の祠があつて、これを火消稲荷と呼んでいる。むか...
|
34 |
練馬区独立十周年記念「練馬区史」(昭和32年刊行)
| 練馬の道(1560頁) | ...南東側を通り、南西へ下り、石神井川を渡り(現在は豊島園東脇中之橋が架つている)、練馬城址の東側を通り(豊島園駅西側)、清戸道と交又し(この交叉する処には現在でも大きな...
|
35 |
練馬区独立三十周年記念「練馬区史(歴史編)」(昭和57年刊行)
| 第一章 環境と人の営み(31頁) | ...といえる(「豊島・板橋および練馬の景観」)。三宝寺池の南の台地には豊島氏によって石神井城が築かれたが、文明九年(一四七七)太田道灌に攻められて落城した。城の土塁・空濠が...
|
36 |
練馬区独立三十周年記念「練馬区史(歴史編)」(昭和57年刊行)
| 石神井川流域の遺跡と遺物(76頁) | ...に挟まれた細長く東西に延びる台地の付根付近に展開する遺跡群である。遺跡地の中心は石神井城跡であり、現在(昭55)は氷川神社・三宝寺になっている。他の地域は住宅地であるが...
|
37 |
練馬区独立三十周年記念「練馬区史(歴史編)」(昭和57年刊行)
| 石神井川流域の遺跡と遺物(77頁) | 図25 石神井城跡を中心としたNo.52~55遺跡全体図図26 No.50~55遺跡の一部(植木...
|
38 |
練馬区独立三十周年記念「練馬区史(歴史編)」(昭和57年刊行)
| 石神井川流域の遺跡と遺物(78頁) | ...後述の縄文時代中期(加曽利E式)の竪穴式住居跡一軒が発見されている。№53地点は石神井城跡であり、『東京都遺跡地図』での地籍は石神井台一丁目二四をあげているが、中心は氷...
|
39 |
練馬区独立三十周年記念「練馬区史(歴史編)」(昭和57年刊行)
| 石神井川流域の遺跡と遺物(79頁) | ...昭和五五年六月には基礎工事で地下数メートルまで掘削されていた。また、発掘地点から石神井城に関連する遺構は何一つ検出されなかったとする結論は、一次調査と全く矛盾するものと...
|
40 |
練馬区独立三十周年記念「練馬区史(歴史編)」(昭和57年刊行)
| 石神井川流域の遺跡と遺物(80頁) | ...之内Ⅰ式などであり、住居跡の時期はこれらの土器の示す時期に相当すると考えられた。石神井城跡第二次調査では、住居跡にともなう遺物の外に、土器・石器があり、Aトレンチの北方...
|
41 |
練馬区独立三十周年記念「練馬区史(歴史編)」(昭和57年刊行)
| 石神井川流域の遺跡と遺物(99頁) | ...質の小皿・カワラケ片、瓦器片等がある。濠状遺構によって方形区画されたこの地域は、石神井城中心から数百m東の地点にあたり、また同じ舌状台地に位置し、両者に何らかの関係を推...
|
42 |
練馬区独立三十周年記念「練馬区史(歴史編)」(昭和57年刊行)
| 石神井川流域の遺跡と遺物(103頁) | 剥片四点、他に頁岩の剥片二点であった。№67遺跡石神井城跡・池淵遺跡の所在する東西に長くのびる舌状台地先端部に位置する遺跡である。池淵遺...
|
43 |
練馬区独立三十周年記念「練馬区史(歴史編)」(昭和57年刊行)
| 石神井川流域の遺跡と遺物(106頁) | ...た遺跡である。遺跡は石神井川右岸台地にあり、石神井川をはさんで西北方に池淵遺跡や石神井城跡が位置する。旧南田中町六七〇他で、字名は上薬師堂である。薬師堂には上・下・北と...
|
44 |
練馬区独立三十周年記念「練馬区史(歴史編)」(昭和57年刊行)
| 第二節 石神井郷の相伝と豊島氏の進出(180頁) | ...家系と所領を維持してきた事情を示すものとして、たいへん興味深い史料といえる。さて石神井城であるが、築城の時期や規模・内容について今後の研究をまたねばならないが、東京都教...
|
45 |
練馬区独立三十周年記念「練馬区史(歴史編)」(昭和57年刊行)
| 第二節 石神井郷の相伝と豊島氏の進出(181頁) | ...居館程度のものであったのであろう。『新編武蔵風土記稿』によると、はじめ豊島泰景が石神井城主となり、ついで弟の景村が元弘年間(一三三一~三)に在城したことを伝えるが、すで...
|
46 |
練馬区独立三十周年記念「練馬区史(歴史編)」(昭和57年刊行)
| 第二節 石神井郷の相伝と豊島氏の進出(182頁) | 城郭とは比べようもない。現在も石神井城址は、わずかに往時の土塁・空濠の遺構をとどめている。また練馬城(豊島園内)も、石神井城と同じ時期に景村によって築かれたと伝えられるが、史料を欠...
|
47 |
練馬区独立三十周年記念「練馬区史(歴史編)」(昭和57年刊行)
| 第一節 南北朝動乱と豊島氏の動向(184頁) | ...北条時行について豊島氏にまつわる伝えがある。それは足利尊氏に敗れた時行が、逃れて石神井城主の豊島景村に身を寄せ、在宿の間に一子を生んだ。それがのちの輝時であり、景村に子...
|
48 |
練馬区独立三十周年記念「練馬区史(歴史編)」(昭和57年刊行)
| 第一節 南北朝動乱と豊島氏の動向(187頁) | ...伝系図」で明らかなように、豊島・宮城両氏の所領を併有しており、暦応元年にはすでに石神井城主であったと思われるから、宗朝後の石神井地域における南朝支持者の居住を示す意味で...
|
49 |
練馬区独立三十周年記念「練馬区史(歴史編)」(昭和57年刊行)
| 第三節 豊島氏の滅亡(196頁) | ...、いったん兵を引きあげて江戸城へ帰る途中、泰明の要請で平塚城救援に馳けつける兄の石神井城主豊島勘解由左衛門尉(泰経)が石神井・練馬両城の兵を率いて出発したのを知って、こ...
|
50 |
練馬区独立三十周年記念「練馬区史(歴史編)」(昭和57年刊行)
| 第四節 豊島庶流と練馬の村落(197頁) | 石神井城の落城道灌はさらにこれを追撃し、翌一四日には愛宕山(練馬区上石神井一丁目・早大高...
|