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練馬区独立十周年記念「練馬区史」(昭和32年刊行)
| 目次(10頁) | 五企業整備七一九六戦時農園七二〇第二節疎開対策七二〇一建物疎開七二〇二人員疎開七二二三学童疎開七二二第三節戦災七三〇第三編現勢第一章終戦と戦後...
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練馬区独立十周年記念「練馬区史」(昭和32年刊行)
| 第二節 大震災後から板橋区時代の人口増加(562頁) | ...昭和十六年十二月の日米開戦以後、戦時態勢が強化されるにつれて応召徴用相つぎ、更に疎開の問題がおきたりして区内の人口は次第に下り坂となり、ことに十九年十月末からはじま...
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練馬区独立十周年記念「練馬区史」(昭和32年刊行)
| 第一節 区民生活の低下 五 企業整備(719頁) | ...庭の責任者は全くその命令に従う生活がつづけられ、寸暇もないありさまとなつた。建物疎開や防空濠堀りなど次第に労働使役に出動する量も多くなり、十九年末ごろからは文字通り...
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練馬区独立十周年記念「練馬区史」(昭和32年刊行)
| 第一節 区民生活の低下 六 戦時農園(720頁) | ...れ」というパンフレットが軒なみ配られて、かぼちやの作り方がおしえられた。第二節 疎開対策一、建物疎開 |
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練馬区独立十周年記念「練馬区史」(昭和32年刊行)
| 第二節 疎開対策 一 建物疎開(721頁) | ...破壊消防といつた非常手段をつかつて空地を増加することが考えられるようになり、建物疎開が強制的に行われることになつた。疎開事業所が都内各方面に設けられ、疎開空地帯、重要工場附近などの...
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練馬区独立十周年記念「練馬区史」(昭和32年刊行)
| 第二節 疎開対策 二 人員疎開 三 学童疎開(722頁) | 二、人員疎開日米開戦後しばらくは東京は市民の手で守るという考え方が強く、疎開という問題はそれ程必要なこととは考えなかつたのであるが、次第に状勢が悪化し、東京...
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練馬区独立十周年記念「練馬区史」(昭和32年刊行)
| 第二節 疎開対策 三 学童疎開(723頁) | ではむしろ学童を地方の旅館や寺などに集団疎開させた方がよいと考えるに至つた。都の教育局は昭和十八年頃からすでにこの問題を考え...
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練馬区独立十周年記念「練馬区史」(昭和32年刊行)
| 第二節 疎開対策 三 学童疎開(724頁) | (答)お話のように戦局は重大となりました。それに対して学童の疎開は着々と進んでいますが、何しろ何十万という数から見ると既に疎開した児童はその一部に過ぎません。そこで今度は地方に親戚...
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練馬区独立十周年記念「練馬区史」(昭和32年刊行)
| 第二節 疎開対策 三 学童疎開(725頁) | ...にいたします。〔どんなものをもたせてやるか〕(略)〔児童の健康については〕(問)疎開先で病気などした場合はどうしていただけるでしようか。それから病気をしないまでも相...
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練馬区独立十周年記念「練馬区史」(昭和32年刊行)
| 第二節 疎開対策 三 学童疎開(726頁) | る。区内学童の疎開先きは次の通りである。旭丘 | 群馬県北甘楽郡妙義町大和田豊玉 |...
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練馬区独立十周年記念「練馬区史」(昭和32年刊行)
| 第二節 疎開対策 三 学童疎開(727頁) | 磯部温泉磯部別館配属の寮母であつた竹山かほる氏の疎開当時の日記を抜萃してみよう。区内の児童達の疎開生活が大体推察できよう。○夏 昭和十九年八月 時局増々急をつげ都の空いつ敵機来...
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練馬区独立十周年記念「練馬区史」(昭和32年刊行)
| 第二節 疎開対策 三 学童疎開(728頁) | ...いこと、今まで女子許りで静かで何事にもやさしさの有つた寮がにぎやかになる。やがて疎開地で初めての新春を迎え様と師走の月は日毎きざまれてゆく。 正月三ケ日、土地の御...
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練馬区独立十周年記念「練馬区史」(昭和32年刊行)
| 第二節 疎開対策 三 学童疎開(729頁) | 干芋等かかへて、ただ今とかけこんでくる。疎開地の学童たち(群馬県) お土産ね、これこれと見せて差出す。一度には体のため悪い...
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練馬区独立十周年記念「練馬区史」(昭和32年刊行)
| 第三節 戦災(730頁) | ...一人の子供に思い出があり、愛情がわく。 二十年十月二十一日磯部発帰京。こうして疎開学童は無事に父母のもとに復帰したが、焼野原東京の姿をみた児童達はどんなに苦しくて...
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練馬区独立十周年記念「練馬区史」(昭和32年刊行)
| 第二節 戦後の社会変動(740頁) | ...道徳秩序の破壊は大都会である東京に最も大きく影響を与えた。復員者、引上げ者の外、疎開か |
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練馬区独立十周年記念「練馬区史」(昭和32年刊行)
| 第一節 戦前戦後の変化(865頁) | ...まん中に大穴があいたり、連日ドカドカッと爆弾を見舞われたりしたので、次第に地方に疎開転出がはげしくなり、さきに行われた学童疎開による児童の減少とともに区内人口はめつきり減少していつ...
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練馬区独立十周年記念「練馬区史」(昭和32年刊行)
| 第二節 人口動態 二 転入転出その他(878頁) | ...、同時にわずかではあるが市内区部や郡部、他府県への転出も行われていつた。戦時中、疎開その他で一層この傾向は強まつたが、戦後、区内の戦災が他区に比して軽度であつたため...
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練馬区独立十周年記念「練馬区史」(昭和32年刊行)
| 第二節 配給機構の変遷 一 主食(914頁) | ...状況では止むを得なかつた。都では人口の膨張をおさえるため転入抑制強化を図つたり再疎開の奨励をしたが形式だけ近くの町村に配給籍をおく人などが続出しこれが却つて幽霊人口...
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練馬区独立十周年記念「練馬区史」(昭和32年刊行)
| 第四節 商業 一 商店街の発達(947頁) | ...れもが予想している所である。第四節 商業一、商店街の発達戦災をまぬかれた郊外には疎開者が多く入りこんで、一つの家屋に幾世帯も同居しているため、郊外住宅地の人口は著し...
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練馬区独立十周年記念「練馬区史」(昭和32年刊行)
| 第一節 概説(973頁) | 第六章 建築第一節 住宅地区としての発展第二次世界大戦の結果、建物の強制疎開、または焼失により、その損害は甚だしく、都においては、戦前七百三十万の人口に対し...
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練馬区独立十周年記念「練馬区史」(昭和32年刊行)
| 第二節 区内小中学校の現況(1082頁) | ...な改善ぶりであるといつてよい。空襲また空襲でその日その日を送り、一部の児童は学童疎開の疎開地で食糧に苦労するといつた苦しい日の連続から、漸く終戦を迎えたとはいえ、そこにま...
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練馬区独立三十周年記念「練馬区史(歴史編)」(昭和57年刊行)
| 目次(9頁) | ...の小学校748第九節青年学校の歩み750第十節昭和十年代の教育758第十一節学童疎開769第十二節疎開生活773第五章鉄道の敷設と都市化778第一節私鉄の敷設778第二節沿線地域の開...
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練馬区独立三十周年記念「練馬区史(歴史編)」(昭和57年刊行)
| 第三節 幕府の終焉(431頁) | ...よけと鉄砲玉に当らない護符を出し大あたりした」と武江年表に記している。当然市民の疎開騒ぎもあって、江戸近郊の農家の座敷を借りるものが出て、座敷代が急に上ったというが...
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練馬区独立三十周年記念「練馬区史(歴史編)」(昭和57年刊行)
| 第九節 練馬の商工業(685頁) | ...災以後、昭和になってからである。この中にはタムラ製作所のように第二次大戦下に工場疎開の形で移って来たものもある。当時淀橋区柏木に本社を置いていたタムラ製作所は昭和一...
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練馬区独立三十周年記念「練馬区史(歴史編)」(昭和57年刊行)
| 第十節 昭和十年代の教育(765頁) | ...は充分とはいえなくとも一応の形式を整えて開始された学校給食は、まもなく始まる学童疎開を経て戦後に受け継がれていった。中等学校の誕生太平洋戦争前夜の昭和一六年前後、練...
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練馬区独立三十周年記念「練馬区史(歴史編)」(昭和57年刊行)
| 第十節 昭和十年代の教育(767頁) | ...れず。(井草高等学校日誌)空襲下の国民学校一九年八月から開始された練馬の学童集団疎開には、後述のようなさまざまなドラマを生んだ。だがいろいろな事情で東京に残留する児...
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練馬区独立三十周年記念「練馬区史(歴史編)」(昭和57年刊行)
| 第十節 昭和十年代の教育(768頁) | ...てから、高等科一年男子が中山工場へ、女子が中野精機、沖電気工場へと出勤した。縁故疎開にも集団疎開にも行かれなかった児童は、中新井村方面館に集めて、一、二時間学習をした。高等科の...
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練馬区独立三十周年記念「練馬区史(歴史編)」(昭和57年刊行)
| 第十一節 学童疎開(769頁) | ...弾十数発が落とされ全焼した。練馬区では練馬第二国民学校と二校であった。親を離れて疎開した子。親もとに残留をした子。どちらもが必死に生きねばならない時代であった。第十...
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練馬区独立三十周年記念「練馬区史(歴史編)」(昭和57年刊行)
| 第十一節 学童疎開(770頁) | ...』)追いたてられるようにして実施された第二次(三月実施)、第三次(四、五月実施)疎開には、従来除外されていた初等科の一、二年生も含められた。寝具や荷物の発送もそこそ...
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練馬区独立三十周年記念「練馬区史(歴史編)」(昭和57年刊行)
| 第十一節 学童疎開(771頁) | どこも事態は大同小異であった。豊玉国民学校の疎開先の一つ、増国寺に宿泊した学童たちの場合も、下駄ばきの子はいい方で何もはかない子...
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練馬区独立三十周年記念「練馬区史(歴史編)」(昭和57年刊行)
| 第十一節 学童疎開(772頁) | 繁桂寺 〃東横野村西光寺勢多郡南橘村善光寺 〃下川淵村極楽寺 〃覚動寺 〃開進第二旭館碓氷郡磯部町(八、六)一〇五(三、二三)六六小島屋 〃松坂屋 〃(料亭...
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練馬区独立三十周年記念「練馬区史(歴史編)」(昭和57年刊行)
| 第十二節 疎開生活(773頁) | ...八)四一大泉師範附属善竜寺勢多郡新里村(一、―)『練馬区教育史』第一巻第十二節 疎開生活母と空腹いたいけな一〇歳位の子どもが親元をはなれて送る集団生活、そこにはいろ...
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練馬区独立三十周年記念「練馬区史(歴史編)」(昭和57年刊行)
| 第十二節 疎開生活(774頁) | ...くなかった。学童たちは口に入るものを求めて次のような知恵も絞った。石神井国民学校疎開先の一つ陽雲寺の寮母日誌近くの碓氷川に小さな目高位の魚が沢山いました。飢えている...
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練馬区独立三十周年記念「練馬区史(歴史編)」(昭和57年刊行)
| 第十二節 疎開生活(775頁) | ...(二〇・五・十一、大泉第二国民学校の大蒼院学寮々母日誌<鈴木ひろ子の記録>)面会疎開学童たちが最も楽しみにしていたことは親との面会である。親との再会と土産にもってく...
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練馬区独立三十周年記念「練馬区史(歴史編)」(昭和57年刊行)
| 第十二節 疎開生活(776頁) | ...するとともに、面会の回数も大部へらしたりしました。(佐藤氏談)受入れ側と教師集団疎開した学童、教師たちの苦しみは、そのまま地元受け入れ側の苦しみでもあった。都会より...
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練馬区独立三十周年記念「練馬区史(歴史編)」(昭和57年刊行)
| 第十二節 疎開生活(777頁) | ...のくやしさ、そして将来への不安が交錯する中で人々はそれまでの行動の意味を見失い、疎開の必要性もまた失われたのである。わが子を求めて親たちは疎開地に押しかけた。もはや国家の権威はなく...
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練馬区独立三十周年記念「練馬区史(歴史編)」(昭和57年刊行)
| 第一節 戦時体制の下で(843頁) | 疎開東京が過大都市として問題化されはじめたのは昭和一〇年代に入ってからであり、日中戦...
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練馬区独立三十周年記念「練馬区史(歴史編)」(昭和57年刊行)
| 第一節 戦時体制の下で(844頁) | に「学童疎開促進要綱」が閣議決定され、急速に実施されていったが、詳細については本編第五部中の...
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練馬区独立三十周年記念「練馬区史(歴史編)」(昭和57年刊行)
| 第二節 東京空襲(846頁) | ...く、異常時にほんろうされていた帝都の六年生だった。そのころ、我が家では福島に学童疎開した弟が病気になったという報告を受け、続いて東京中の国民学校が休校になったので、...
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練馬区独立三十周年記念「練馬区史(歴史編)」(昭和57年刊行)
| 第三節 配給制度(857頁) | ...か仲間に拾わせる方法もとったという。都では人口の増加を抑えるため、転入の抑制、再疎開の奨励を行なったが、形式だけ近くの県に配給籍をおき幽霊人口として入り、配給された...
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練馬区独立三十周年記念「練馬区史(歴史編)」(昭和57年刊行)
| 第三節 名墓(968頁) | ...昭和五年である。第二次世界大戦の空襲がはげしくなると、下谷区役所周辺の建物の強制疎開が行なわれ、塔頭桂徳院、宋雲院も疎開した。かくして現在では広徳寺全山は練馬に移転していると言って...
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練馬区独立三十周年記念「練馬区史(歴史編)」(昭和57年刊行)
| 第八部 年表稿(1293頁) | ...実施 11・13 東京都、帝都重要地帯疎開計画を発表 ○ この年陸軍成増飛行場完成 ...
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練馬区独立三十周年記念「練馬区史(歴史編)」(昭和57年刊行)
| 第八部 年表稿(1294頁) | ...、豊玉南一丁目の一部が中野区に編入 6・ 学童疎開促進要項決定、練馬は群馬県に指定 6・19 マリアナ沖海戦 ...
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練馬区独立三十周年記念「練馬区史(歴史編)」(昭和57年刊行)
| 第八部 年表稿(1295頁) | ...戸、罹災者六六一〇名を数える) 4・ 集団学童疎開の第三陣出発 5・ 大泉高校の校庭に一トン爆弾...
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練馬区独立三十周年記念「練馬区史(現勢編)」(昭和56年刊行)
| 第五節 グラント・ハイツ(120頁) | ... 六六軒であった。しかし、実際に移転したのは「八〇カマド(世帯)」といって、疎開者や、同居の世帯も含まれていた。土地はすべて国の買上げで行なわれ、価格は登記の面...
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練馬区独立三十周年記念「練馬区史(現勢編)」(昭和56年刊行)
| 第二節 地区別町の変遷(367頁) | ...かな栄町本通り商店街昭和一九年、戦局の進展にともない、江古田駅周辺にも建物の強制疎開が命ぜられ、生徒や隣組の奉仕による家こわしが行なわれた。しかし終戦後は復興がはや...
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練馬区独立三十周年記念「練馬区史(現勢編)」(昭和56年刊行)
| 第二節 地区別町の変遷(391頁) | ...(昭和35年頃)神社の東北は、ひばりが丘住宅といわれる団地で昭和一九年、旧市内の疎開、戦災対策として、また軍需工場の従業員住宅として建設されたもので、三〇〇戸にもお...
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練馬区独立三十周年記念「練馬区史(現勢編)」(昭和56年刊行)
| 第二節 地区別町の変遷(416頁) | ...されていた。都内最初の養護学校と言ってよい。しかし戦争の激化と共に、食糧不足や、疎開の関係で、児童数もへり、遂に神田区に寄付され、神田区の健児養成所となったが、戦後...
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練馬区独立三十周年記念「練馬区史(現勢編)」(昭和56年刊行)
| 第一節 新教育のはじまり(963頁) | ...井地区に三校、大泉地区に五校である(次頁参照)。しかし、そのほとんどの児童は学童疎開あるいは縁故疎開のため東京にはいなかったので、国民学校教育の再開は児童の復帰を待ってはじまった。...
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練馬区独立三十周年記念「練馬区史(現勢編)」(昭和56年刊行)
| 第一節 新教育のはじまり(964頁) | ...れ、都内の各学校は形式的には授業の再開にふみきった。しかしながら多くの学童はなお疎開中であった。九月一五日、文部省は、「新日本建設ノ教育方針」を公布し、一一項目にわ...
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